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最前線の子育て論byはやし浩司
(2010年 3月3日〜 )

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最前線の子育て論byはやし浩司(2010年3月4日)

●負け戦

++++++++++++++++

負け戦ということは、よくわかっている。
英語で言えば、「loser(負け犬)」。

その私が精一杯、虚勢を張って生きている。
虚勢だ。
ありもしない名声を、あたかもあるかの
ように見せかけ、それにしがみついて
生きている。
ありもしない名誉を、あたかもあるかの
ように見せかけ、それにしがみついて
生きている。

できれば、何かの肩書きがほしい。
しかしそんなものは、どこにもない。
どこをさがしても、ない。

加えて自分の人生を振り返っても、
充実感などどこにもない。
やったことと言えば、自分の名誉と
財産づくりのため。
それだけ。
そのために、人を利用しただけ。

そういう私を知っている人は、私のような
人間など、相手にしない。
むしろ陰でこう言っている。
「あの林(=私)は、偉そうなことを
書いているが、中身は何もない」と。
弟子もいない。

恩師のTK先生にしても、そうだ。
私のほうで勝手に、「恩師」「恩師」と
言っているが、肝心のTK先生のほうは、
私のことなど、何とも思っていない。
「弟子」の中にも入っていない。
TK先生の文章のどこを読んでも、
「はやし浩司」の名前など、どこにも
出てこない。
出てくるはずもない。

ひがんでいるのではない。
私は、つまりは、その程度の人間でしかない。

「私は偉い」「私は立派だ」「私はすばらしい」と、
いくら人に訴えても、だれも見向きもして
くれない。
返ってくるのは、寒々とした孤独感だけ。
孤立感だけ。

そう言えば、昔、こんなバカがいた。
いつも私の家(=実家)にやってきて、
金儲けの自慢話ばかりしていた。
「今月は、いくら儲けた」
「来月は、いくら儲ける」と。
何でもだれかと、現金で1億円づくりを
競ったそうだ。
で、その競争に勝ったとか。
賞金の100万円を手にしたとか。
そんな話も聞かされた。

本人は、それで楽しいかもしれない。
おもしろいかもしれない。
しかしそれを聞かされるほうは、
たまったものではない。
当時、私の家は、貧しかった。
貧乏のどん底を這うような生活をしていた。
母は、その男が帰るたびに、玄関に
塩をまいていた。
よほど悔しかったのだろう。

が、そのバカのしたことと同じことを、
今、私がしている。
何のことはない。
この私が、だ。
私が同じことをしている。

いっぱしの教育者づらをして、いっぱしの
ことを書いて、威張っている。
ときに哲学者らしい文章を書くこともある。
しかしそれがどうしたというのだ。
何になるというのだ。
その答を聞くのが恐ろしいから、
あえて目をそむけ、生きているだけ。

今さら引き返そうにも、引き返すことも
できない。
人生をやり直そうにも、やり直すことも
できない。
「まちがっていた」と敗北を認めることも
できない。
認めたとたん、そこは自己否定の世界。
無間地獄。

だからまたまた虚勢を張って、生きる。
虚勢にしがみついて、生きる。
そこに何もないことを知っている。
明日に、何もないことも、知っている。
しかしここで虚勢を棄てることもできない。
ひょっとしたら、何かあるかもしれない。
明日になれば、何か変わるかもしれない。
そんな思いに希望を託して、今日も
がんばる。
がんばるしかない。

裸の体に、赤や青の鳥の羽をつけて、
それらしく体裁を整えて生きていく。
「講演会の感想が届きました」
「HPやBLOGへのアクセス数が、
月間30万件を超えました」と。

だからといって、それがどうしたというのか。
だからといって、だれが私を、それで認めて
くれるというのか。
それで周囲の人たちの心が、少しは
変わるとでもいうのか。

答はわかっている。
わかっているが、そこまで。
あえて自分の耳をふさぐ。
ふさいで、知らぬ顔をする。 

今日も始まった。
今日も虚勢を張って生きる。
虚勢を張って生きる。
虚勢にしがみついて生きるしかない。
それしかない。

+++++++++++++++++

●モーフィング

 昨日は、数時間、ひまがあったので、モーフィングに挑戦してみた。
以前からやってみたかったが、きっかけがなかった。
だから昨日、やってみた。

 モーフィングというのは、ひとつの顔から、別の顔に変身させる技術をいう。
よくSF映画などに、それが出てくる。
映画『ターミネーター』の中にも、出てきた。

 で、処女作は、まあまあのでき。
2作目は、うまくできた。
「ここが最前線の子育て論」の中に、収録しておいた。
6歳の時の顔から、60歳のときの顔にモーフィングさせてみた。

 で、夜になって、ワイフが、「映画に行かない?」と、私を誘った。
時計を見ると、8時を回っていた。
で、映画を観に行ってきた。
映画は、『パーシー・ジャクソンと、オリンポスの神々』。
日本語吹き替え版。
ちょうどよい時間帯のものは、それしかなかった。

 映画そのものは、星2つ前後の、★★(マイナス)。
10日もすれば、題名すら忘れてしまうような映画だった。
ただ地獄のシーンは、圧巻だった。

 その映画を観ながら、あちこちで、モーフィング技術が使われているのを知った。
「あちこち」というより、「いたるところ」。
「映画は、こんなふうにして作るのだ」と、感心しながら映画を観た。
あとは、時間の問題。
つまり時間さえかけれれば、私にだって、同じような映画ができる。

 映画が終わって家に帰ってみると、深夜0時を回っていた。
が、寝る前に、もう1作、モーフィングを使って、映像を作ってみた。
コアラが私の顔に変身するものだった。
しかしこれは失敗。
時間こそ、10分足らずでできたが、コアラと私では、あまりにも違いすぎた。
それを見て、ワイフとゲラゲラ笑った。

 我ら、不良老人!

 ついでに、先週は、『恋するベイカリー』(メリル・ストリープ主演)という映画と、『インビクタス』
(モーガン・フリーマン主演)の2本の映画を観てきた。

 メリル・ストリープの映画は、『マジソン郡の橋』以来、すべて、観ている。
評価は、星は2つか3つの、★★。
『インビクタス』は、星3つか4つの、★★★★(−)。
印象に残る映画だった。

 週末から、新しい映画が、つぎつぎと封切りになる。
楽しみ。
全部、観る!


●手続き記憶

 パソコンを使って、映像を加工する。
いろいろな方法がある。
いろいろな映像に、加工できる。

 今はモーフィングだが、少し前、こんな経験をした。
似たような技術に、「FLASH」というのがある。
ホームページなどを開くと、パッパツと映像が、勝手に変わっていくのがある。
あれが「FLASH」である。

 数年前は、それを自由に使いこなすことができた。
で、先月、再び、それを使ってみた。
が、使い始めて、がっかり。
何度やっても、うまくいかない。
「そんなはずはない」と思ってやってみたが、うまくいかない。

 方法はビデオ編集と似ている。
要領はわかっているはず。

 ……ということで、またまた「脳みその底の穴」を、経験した。
たった数年だが、その間に、脳みその底の穴から、知識や記憶が、流れ落ちてしまった。
老後の恐ろしいところは、ここにある。
若いときには、こんなことはなかった。
しかし今は、ちがう。
新しい技術を覚えても、しばらく使わないでいると、どんどんと忘れてしまう。

 で、今は、モーフィング。
簡単な技術だから、忘れることはないかもしれない。
しかしその可能性は、ないとも言えない。
心のどこかで、そんなことを心配しながら、モーフィングを楽しんだ。

 要するに大切なことは、忘れることを恐れないこと。
その分だけ、新しいことを、どんどんと覚えていけばよい。
たとえて言うなら、川の流れのようなもの。
水を涸(か)らさないようにすること。
水の流れを止めないようにすること。


●中国の大干ばつ

 中国の南部で、大干ばつが起きているらしい。
1500万人近くの人たちが、水不足で、苦しんでいるという。
つい先週には、「数百万人……」と報道していたから、干ばつが深刻化している(?)。

CRI−online(3月2日)は、つぎのように伝えている。

『…… 中国国家洪水干ばつ対策総指揮部の最新統計によりますと、3月2日現在、全国で干
ばつの被害を受けた農作物の面積は430万ヘクタール余りに達し、1501万人の飲用水が
不足しています。
 
 そのうち、雲南と貴州、広西、重慶、四川の5つの地域が総被災面積の8割を占め、被害状
況も極めて深刻です。3月に入ってからも、降雨量は例年を下回り、干ばつによる被害は、引
き続き広がると見られています。
 
 これを受けて、中国国家洪水干ばつ対策総指揮部は2日、緊急対策会議を開き、住民の飲
用水を優先した上で、工業用水と農業用水を確保し、現地の状況に応じた措置を講じるよう各
地方政府に求めました』と。

 中国というところは、なにごとにつけ、スケールが日本より1桁、大きい。
「430万ヘクタール」「1501万人」!
地域によっては、今年に入ってから、雨量ゼロのところもあるという。
(しかしどうして、「1500万人」ではなく、「1501万人」なのだろう?)

 都会に住んでいると、それがわからないかもしれない。
しかし「水不足」ほど、恐ろしいものはない。
このあたりでも、水田に水を引く時期になると、あちこちで騒動が起きる。
水がじゅうぶんあっても、騒動が起きる。
水不足ともなれば、なおさら。
村の人たちの様子も、殺気だってくる。

 私の山荘のほうでも、1〜2月の渇水期に、ときどき水が涸れることがある。
「不便」などというものではない。
長くつづけば、山荘を放棄しなければならない。
そんなことも考えなくてはならない。

 「水は、生活の命」。
それを忘れてはいけない。
電気やガスは、なくても、何とかなる。
しかし水がなければ、生活そのものができない。

 今ごろ、中国のそのあたりでは、私たちの想像もつかないようなドラマが展開されているにち
がいない。
どうか、中国のみなさん、心安らかに!


●ビデオカメラ

 この1年以上、V社のビデオカメラを、よく使った。
YOUTUBEへの動画だけでも、1500本(1本、10分)近く、それを使って撮った。
使い方が荒っぽいせいか、今では傷だらけ。
あちこちにガタが出てきた。
モニター画面を開くと、自動的に録画スタンバイになるはずなのに、ときどき電源が入らなくな
る、など。
保証期間は、延長保証をつけてもらったから、4年。
近く修理に出すつもり。

 が、修理に出している間、どうするか?
……ということで、数日前、近くの大型店へ足を運んでみた。
新しいビデオカメラを物色してみた。

 で、そこへ行ってみて、驚いた。
この1年で、ビデオカメラが、またまた進歩した。
今では、フル・ハイビジョンは、常識。
手ぶれ防止付きも、常識。
S社のビデオカメラなどは、手のひらのすっぽりと収まるほど、小さくなっていた。
さらにビデオカメラをDVDライターに直接つなげて、そのまま動画を保存することもできるとい
う。
(従来は、一度、パソコンを経由しなければならなかった。)

 「ヘエ〜」と驚きながら、カメラをいじらせてもらった。

 ……ところで、テレビのほうでは、すでに3D放送が始まっている。
特殊なメガネをかけて観る。
この世界は、いったい、どこまで進むのか?
おもしろい……というより、恐ろしい。

 「だから、それがどうしたの?」という部分だけが、置き去りになったまま、技術だけがどんど
んと進歩していく。
だから恐ろしい。


●悪あがき

 さて、冒頭に書いた話に戻る。

 定年退職したあとも、過去の地位や肩書きにこだわる人は多い。
さらに最後の最後まで、地位や肩書きを、追い求める人も多い。
しかしそんなものにこだわっているかぎり、安穏とした日々は、ぜったいにやってこない。
こないが、そういう人たちは、その(こだわり)を棄てることができない。
棄てたとたん、自己否定の世界に陥ってしまう。
だから、こ・だ・わ・る。

「オレは、偉いんだぞ!」と。

 しかしこれだけは言える。

 統合性の確立(やるべきことと、現実にしていることの一致)を目指すなら、過去の地位や肩
書きは、早く棄てた方がよい。
忘れたほうがよい。
一度、「無」の状態で、裸になる。
そこから老後の第二の人生を、設計する。
でないと、ますます人に相手にされなくなる。
言い替えると、「悪あがき」だけは、やめたほうがよい。
言うなれば、それは麻薬のようなもの。
それに溺れれば溺れるほど、後遺症は、深くなる。

 そこにあるのは、底なしの孤独という、無間地獄。
何が恐ろしいかといって、「孤独」ほど、恐ろしいものはない。
あのイエス・キリストだって、「渇き」、つまり「孤独」に苦しんだ。

 今の私がそうだが、「負け犬」を認めることは、たしかにつらい。
しかし人生は、ここから始まる。
始めるしかない。

 さあ、今日もがんばろう!
2010年3月4日。
外では、冷たい小雨が降っている。


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

●幼児教室(BW幼児教室)(年長児クラス、形、箱の学習)byはやし浩司
 Hamamatsu Japan

************************************************

http://www.youtube.com/watch?v=1oYVvctIGjk

http://www.youtube.com/watch?v=1RNY2aMPJec

http://www.youtube.com/watch?v=jKsbBIluBNo

http://www.youtube.com/watch?v=Pqd73at25xY

http://www.youtube.com/watch?v=T-nMB6W_G74

*********************************************

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●はやし浩司へのHPへは、

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

より、おいでください。


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

●老後の統合性

+++++++++++++++++++

緊張感を失った老後ほど、みじめで
あわれなものはない。
毎日がだらだらと過ぎていくだけ。

明日も今日と同じ。
来年も今年と同じ、と。

+++++++++++++++++++

●自己否定

 定年退職をしたあとも、過去の経歴や肩書き、名誉にしがみついて生きている人は、多い。
その気持ちは、よくわかる。
痛いほど、よくわかる。
そういう人が、まちがっているというのではない。
人それぞれ
それぞれの人は、みな、何かにしがみついて生きている。

 もしここでその空しさを認めたら、それはそのまま自己否定につながってしまう。
「私は何だったのか?」と。
何が恐ろしいかといって、自己否定ほど、恐ろしいものはない。
もっとも、若いときは、まだよい。
人生も、やり直しがきく。
しかし定年退職後ともなると、やり直そうにも、やり直しようがない。
「これから一旗あげてやろう……」ということができない。

 そこで重要なのが、「統合性の確立」。
わかりやすい言葉で言えば、「第二の人生の設計図づくり」。
(人間としてやるべきこと)を見つけ、(現実にそれをする)。
「統合性」をわかりやすく説明すれば、そういうことになる。
その確立に失敗すると、老後も、みじめで、あわれなものになる。
またそういう老後を送っている人は、ゴマンといる。」

●虚勢

 しかしなぜ、人は虚勢を張るのか?
「私はなぜ虚勢を張るのか?」と、言い換えてもよい。
この問題を裏から考えると、こういうことにもなる。
「虚勢を張ることで、何を求めているのか?」
「何が、目的で、虚勢を張るのか?」と。

 私ほど、虚勢の塊(かたまり)のような人間は、そうはいない。
インターネットという、(無の世界)を相手にしていると、よけいにそれがよくわかる。
そこにあるのは、大きなモニターだけ。
無数に集まった光の点だけ。

 それはちょうど子どものする、電子ゲームのようなもの。
子どもは電子ゲームをしながら、点数が、ふえた、へったと、喜んだり、悲しんだりしている。
私も、そうだ。

 朝起きると、軽い運動をする。
そのあと書斎へ入って、パソコンを立ち上げる。
そのとき最初にチェックするのは、前日のアクセス数。
HPやBLOGへのアクセス数。

 その数字を見て、喜んだり、さみしく思ったりする。
書籍とちがい、そこに読者がいるという実感など、まったくない。
にもかかわらず、虚勢を張る。
いかにも私は大物ですという、フリをする。

●私を意識する

 そこでふと、考える。
「私はいったい、だれを意識しているのだろう?」と。
「だれを意識して、虚勢を張っているのだろう?」と。

 そこでおもしろいことに気づく。
私のばあい、実のところ、対象となる相手が、いない!
同窓生でもないし、仲間でもない。
親類の人たちでもない。
家族でもないし、またそういった仲間でもない。
むしろそういう人たちには、私のHPにせよ、BLOGにせよ、見てほしくない。

 私のばあい、私を相手にしている。
私の中の、「私」を強く、意識している。
たいへん奇妙なことだが、私は私に対して、虚勢を張っている。

●緊張感

 一方の私は、「生きているという実感がほしい」と、いつも願っている。
そのために、生きている。
そういう「私」のために、同じ「私」が、虚勢を張っている。
今ここで、今していることの空しさを認めたら、そのあとに待っているのは、底なしの敗北感。
自分を支えようにも、支えようがない。
そこで私は私に虚勢を張る。
「私のしていることは、すばらしいこと」と。

 が、実のところ、その先に何があるか、私にもわからない。
わからないまま、虚勢を張る。
言い方を替えると、虚勢を張ることによって、そこにある種の緊張感が生まれる。
その緊張感がなくなったら、それこそ心がだらけてしまう。

●ある夫婦

 運動をしながら、体を鍛える。
しかしそれにも、ある種の緊張感が必要。
たとえば私のばあい、大きな講演会をひかえたりすると、その1週間ほど前から、体の調整に
入る。
その緊張感が、私を運動へと引っ張っていく。

 同じように、生きていくためには、ある種の緊張感が必要。
夢や希望、目的があれば、さらによい。
その緊張感があるからこそ、明日に向かって生きていくことができる。
が、その緊張感が消えたら……。

 今日も、昼食のとき、地下の食堂で、こんな夫婦を見かけた。
ともに、何をするでもなし、しないでもなしといったふうに、テーブルをはさんで、黙って座ってい
た。
夫のほうは、見るからに血栓性の脳梗塞を起こしているといったふう。
表情もなく、動作ものろかった。
妻のほうは、異様なまでの厚化粧をしていた。
夫は65歳くらい。
妻は50歳くらいだった。

 私はその夫婦を見ながら、「この人たちは、何のために生きているのだろう」と思った。
まるで伸びきったゴムのよう。
冷めた、うどんか、そばのよう。
雰囲気そのものが弛緩していて、緊張感が、どこにもなかった。

 が、それはそのまま、私自身の姿。
ここ2、3年はだいじょうぶでも、5年は無理。
5年は何とかもちこたえても、10年は、ぜったいに無理。
私も確実に、ああなる。

●結論

 虚勢を張ることを、まちがっていると、どうして言えるのか。
それとも、これは居直りなのか。
しかしだれしも、何らかの虚勢を張って生きている。
またそうでもしないと、生きていけない。

 ……ここまで書いて、思い出すのが、セルバンテスが書いた、『ドン・キホーテ』。
ドン・キホーテについては、何度も書いてきた。
つまり虚勢を張ることが悪いことではなく、大切なのは、虚勢の張り方ということになる。
ときにその虚勢が、私たちに緊張感を添えてくれる。
生きる目的を与え、生きる喜びを与えてくれる。

 つまり人間が生きながらも、もともと、たいしたことはできない。
そういう宿命を背負っている。
「たいしたことをしたい」と思いつつ、いつもその限界状況の中で、右往左往している。
それに気がつけば、仮にそれが虚勢であっても、それはそれでよいではないか。
……ということになる。

 で、ここまでの結論。

 私は私で、虚勢にしがみついて生きていく。
その先に何があるかわからないが、私からその虚勢を奪ったら、私はそれこそ「生きる屍(し
かばね)」になってしまう。
どのみち、たいしたことはできない。
要するに高望みはしない。
ほどほどのところで満足しながら、日々に(やるべきこと)をやる。
そのあとの運命は、(時の流れ)に、任せればよい。


Hiroshi Hayashi+++++++March 2010++++++はやし浩司

【錯覚】

●ただの人

私も短い間だったが、サラリーマンを経験
したことがある。

そのあとも、どこかサラリーマン的な仕事を
したこともある。
しかし不思議なことに、サラリーマンという
職業は、あとに何も残さない。

もともと利潤追求のための、組織的団体に
すぎない。
一方、そういうサラリーマンとつきあう相手の
人にしても、その人個人とつきあうのでは
ない。
その人のもつ、名刺とつきあう。
だから「金の切れ目が、縁の切れ目」となる。
どんな立派な肩書きをもつ人も、まず、それに
気がついたらよい。

「会社を離れれば、ただの人」と。
……というのは、言いすぎということは、
よくわかっている。
今、サラリーマン社会の中で、懸命にがんばって
いる人たちに対して、失礼なことも、よく
知っている。

しかしそういう(現実)を知って、サラリーマン
をつづけるのと、そうでないのとでは、
あとあとの生き様が大きく変わってくる。

「あとあと」というのは、(人生の結論)を自ら
引き出すときのことをいう。
だれしも、そういうときを必ず迎える。

●同窓会

 先日、大学時代の同窓会に出てきた。
有意義なひとときだった。
そういうところで、友人に会うというのは、
何か不思議な雰囲気に包まれる。
みな、一様に年齢を取っているはずなのに、
その(老い)をまったく感じない。
「昔のまま」というほうが、正しい。

 大学の卒業を「社会への入り口」とするなら、
今はみな、「出口」に立ったことになる。
ところが、入ったはずの「社会という部屋」が、
どこにもない。

 社会という部屋に入ったはずなのに、入った
とたん、出口に出た感じ。
「タイムスリップ」という言葉があるが、
それとはちがう。
人生を「帯」にたとえるなら、その帯の途中を
切り取って、残った最初の部分と、終わりの
部分をつないだよう。
そんな感じ。

 そう、若いころ、「60歳の人」というと、
とんでもないほど老人に見えた。
私たちには無縁の、遠い未来のことのように
思えた。

 が、人生の出口に立ってみると、その逆の
実感がない。
まったくない。
同じように、若いころは、「遠い過去」の
はずなのに、それがすぐそこに見える。
同時に、みなは、「とんでもない老人」のはず
なのに、その実感がまったくない。
あのときのまま。
まったく、あのときのまま!

 私だけではないと思う。
自分のことを「老人」と思っている友人は、
ひとりもいないだろう。

●「社会という部屋」

 が、ひとつだけ、大きな変化に気づいた。
つまり、私たちには、過去はあっても、未来は
ないということ。

 みな、それぞれに、「社会という部屋」の中では、
それなりの仕事をし、名もあげ、業績も残した。
ほとんどが、「長」の名がつく役職を経験した。
が、それも終わった。

 リストラ、退職を経て、子会社へ回ったり、
天下り先へ回ったりしている。
つまりこれから先、もう一度、別の「社会という
部屋」へ入るということはない。
「入ったところで、それがどうした」という
ことになる。
さらにその先に待っているのは、「今と同じ
状態」ということになる。

●私たちの時代

 となると、「社会という部屋」は、いったい、
何だったのかということになる。

 友人のことを書くわけにはいかない。
私のことを書く。

 私たちが大学を卒業するころは、今と、
状況がかなり違っていた。
だれしも就職を考えたし、就職といえば、
大企業を考えた。
公務員になった友人も多いが、私は公務員は
考えなかった。
私は、それが私に与えられた道と考えた。
またそういう道を進むことに、何ら、
疑問を覚えなかった。

 私は商社を選んだ。
M物産という会社と、伊藤C商事という会社に
入社が内定したが、私は大きいほうがよいと、
M物産という会社を選んだ。

 しかし私はやめた。
やめたあとは、好き勝手なことをした。
しかし先にも書いたように、サラリーマン的な
仕事もしたことがある。

 いくつかの会社の社内報を書いたりした。
貿易の手伝いもいた。
そういう仕事を通して、先に書いたようなことを
知った。

「会社を離れれば、ただの人」と。

●当時の世相

 が、そのときはわからない。
たまたま日本が高度成長期に入っていた
こともある。
みな、「企業戦士」とか、「モーレツ社員」
とか言って、もてはやされた。
終戦まで、「お国のため」だったのが、
戦後は、「会社のため」となった。
その土壌は、じゅうぶん根付いていた。

 このことは、反対にオーストラリア
へ行ってみると、わかる。
オーストラリアでは、大企業を育たない
と言われている。
オーストラリア人というのは、独立精神が
旺盛すぎる。
そのため、企業のもつ「組織」になじめない。

 そういうオーストラリア人と比べてみると、
日本人が民族的にもつ(性質)というのが、
よくわかる。

 そういう点では、日本人は、「自由」という
ものを、本質的な意味で、理解していない。
……いなかった。
少なくとも私がオーストラリアへ渡って
知った「自由」は、日本人が考えていた
「自由」とは、まったく異質のもの
だった。
(今でも、そうかもしれないが……。)
わかりやすく言えば、私たちは、「仕事」
という名のもとで、それが人生の重要事と
錯覚してしまった。

 こうして「一社懸命」型の企業人間が
生まれた。

●お金論

 が、お金に(名前)がついているわけではない。
犯罪で稼いだお金は別として、正社員として
稼いだお金にも、アルバイトで稼いだお金にも、
ちがいはない。
同じ。

 にもかかわらず、正社員にみながこだわるのは、
意識の問題というよりは、制度の問題。
この日本では、正社員と非正社員とでは、
待遇の面において、天と地ほどの差がある。
つまり非正社員は、ぜったいに、損!

 一方、欧米では、そうした(差)は、
ほとんどない。
年功序列制度もない。
労働者たちは、ユニオンという組織でつながっている。
そのため企業に対する貢献心も、希薄。
日本風に言えば、「朝日新聞社の印刷工も、
町工場の印刷工も、印刷工という立場は同じ」。
「印刷工」という立場で、たがいを守り合っている。
それが「ユニオン」ということになる。

 が、日本では、江戸時代からの身分制度も
あって、「よい仕事」と、「よくない仕事」の
色分けをしっかりとする。
私が幼稚園の講師になったときも、すでに
M物産の社員よりも多くのお金を稼いで
いたにもかかわらず、母は、電話口の向こうで
泣き崩れてしまった。

「浩ちゃん(=私)、あんたは、道を誤ったア」と。

 どうしてM物産という会社をやめて、
幼稚園の講師になることが、道を誤った
ことになるのか。
しかしそれが当時の常識だった。
一般世間では、私のような生き方は、
理解されなかった。
それが、この国、日本の姿だった。

●錯覚

 要するに、私たちは、その時代々々の中で
作られた(常識)に、引きずり回されているだけ。
本来価値のないものを、価値あるものと
思いこまされる。
価値のあるものを、価値のないものと思い
こまされる。

 それが60歳という定年退職を過ぎてみると、
よくわかる。
「私たちは、何だったのか」と。

 しかしこと友人たちをみていると、だれも、
それを口にしない。
心のどこかで、それを思っているのかもしれないが、
だれも話題にしない。
話したところで、どうにもならない。
私も聞かない。
聞いたところで、どうにもならない。

 自由が何であるかを知っていると言う私でも、
それで幸福だったのかどうかということになると、
今でも、よくわからない。
この日本で、自由に生きることは、たいへん。
ほんとうに、たいへん。
何も好き好んで、自由の世界に生きることはない。
むしろサラリーマンの世界で、錯覚しながら
生きた方が、楽。
日本の制度そのものが、そうなっている。

 それを知っているから、よけいに口が重くなる。
私も含めて、みな、ただの人。
そうそう同窓会で、1人、私にこう言った
友人がいた。
そのときは気づかなかったが、あとでビデオ
(YOUTUBE )を観たら、入っていた。

「お前は、学生時代から変わっていたが、
今も変わらないなあ」と。
向こうの世界にいる人たちからみれば、
そうみえるらしい。
が、だからといって、やはり、人は人。
みな、錯覚の世界に生きながら、錯覚
しているとも気づかない。

かく言う私とて、錯覚しているだけ。
「私は本物の自由を知っている」と。
だからといって、それがどうしたというのか。

 どうであるにせよ、残りの人生は、少ない。
今さら、ああでもない、こうでもないと
論じたところで、意味はない。
 
 「みんな、懸命に生きてきたのだなあ」と
思いつつ、S君という同級生と、歩いて
ホテルまで帰った。


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司※

●公開BW教室(2010年3月5日)

いよいよ私の人生も、秒読み段階。
……というのは、少し大げさに
聞こえるかもしれない。
しかし時間の長い、短いなどというものほど、
あてにならないものはない。
何をもって、「長い」といい、何をもって、
「短い」というのか。

一方、私の教室に対する、偏見も、根強い。
「幼児向けの受験塾」というのが、おおかたの
見方である。
しかし私は、自分の指導の中で、「受験」を
意識したことは、一度もない。
「くだらない」とさえ、思っている。
「受験に合わせて、子どもを作る」という
ことが、「くだらない」と。

で、長い間、私は、口コミだけで、教室を
経営してきた。
ほとんどの生徒は、口コミでだけで、私の
教室へやってきた。
それで何とか、40年近く、生き延びて
きた。

が、先にも書いたように、いよいよ「秒読み
段階」。
仮にあと5年、つづけられるとしても、
私には、たったの5年。
そのことは、自分の過去を振り返ってみれば、
わかる。

現在、私は、62歳。
5年前というと、57歳。
この間の5年間は、あっという間の5年間
だった。
だらかこの先、5年間も、あっという間に
過ぎ去っていくだろう。
「秒読み段階」と書いても、けっして
おおげさな感じがしない。

そのこともあって、つまりこれが私の
本音だが、こうして私の教室の一部を、
こうして公開することにした。

もともとは、アメリカに住む孫たちのため
と考えて、ビデオに収めた。
しかし肝心の孫たちは、ほとんど見ていない(?)。
「見ている」という連絡は、まったく聞いて
いない。
(残念!)

ということで、いつの間にか、「公開教室」と
いうことになってしまった。

役にたつかどうかは知らないが、親たちが
自分の子育てで利用してくれれば、うれしい。
たぶん、それを見る子どもたちも、
喜んでくれるだろう。
そして同時に、あの誤解も、解けるはず。
「受験塾」という誤解である。
私は受験に合わせて、生徒を指導して
いるのではない。
自分の指導の中で、子どもたちに向かって、
「受験」という言葉を使ったことは、
この40年間で、一度もない。
またそういう指導ではない。

……とまあ、かっこづけは、これくらいにして、
昨日のレッスンを、そのまま紹介する。
さらに興味をもってくださる方は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より、(BW公開教室)へと進んでほしい。
この1年間をかけて、幼児教室のほうを、
ほとんどすべてを収録した。

(あるいは検索エンジンを使って、
「はやし浩司」を検索してほしい。
たいていのページの最上段に、「TOPへ」と
いうナビゲーション・ボタンが用意してある。
そこから私のメイン・HPへ、来てもらえる。)

で、数日前、YZさんという方から、
小学1年以上のクラスも公開してほしいと
いう、メールをもらった。

しかし小学1年生以上は、むずかしい。
「学習性」が強く、(でき・ふでき)が、
そのままわかってしまう。
つまりプライバシーの問題がからんでくる。
だから一部しか、公開できない。
(ごめんなさい、YZさん!)

●形・箱

今週(2010年、3月の1週目)は、
形と箱というテーマで学習をした。
現在、年少児から年長児までを、
指導させてもらっている。
基本的には、同じ教材を使ったが、
できるだけ毎回、子どもたちの様子、
能力に合わせて、切り口を変えている。

お子さんの年齢、能力に合わせて、
YOUTUBEを選んで、見てほしい。

とくにこの3月期は、この1年間、
私の教室で学んできた子どもたちである。
その「成果?」を、見てほしい。
当初は、引っ込み思案で、モジモジ
していた子どもでも、1年後には、
しっかりと自己主張できるようになる。
またそういう子どもにするのが、
私の目的でもある。

まず言いたいことを言い、したいことを
する。
それが子どもの基本。
その子どもの中から、子どもの方向性を
導いていく。
それが私の教え方。
「教育」ということを考えるなら、ほんの
一部かもしれないが、方向性を作ることで、
子どもの将来に、大きな影響を与える。

何度も繰り返すが、(できる・できない)
ではない。
(楽しんだか・どうか)である。

英語の格言にも、
「Happy Learners learn Best」というのがある。
「楽しく学ぶ子は、よく学ぶ」と訳している。
それが大切。
重要。
あとは子ども自身がもつ力で、伸びてくれる。

++++++++++++++++++

●3月1週目(年長児・満6歳児)のレッスン風景より。

小学校への入学が近いため、たぶんにそれを意識した
レッスンになっています。
(1〜5に分けてあります。)

【1】

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/-zJYNzf2q8o&hl=ja_JP&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true"><
/param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/-zJYNzf2q8o&hl=ja_JP&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>

【2】

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/27lqqHHv1N8&hl=ja_JP&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true">
</param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/27lqqHHv1N8&hl=ja_JP&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>

【3】

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/akCxGJ3836E&hl=ja_JP&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true">
</param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/akCxGJ3836E&hl=ja_JP&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash
" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>

【4】

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/eP2-G43tKDM&hl=ja_JP&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true"
></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http:/
/www.youtube.com/v/eP2-G43tKDM&hl=ja_JP&fs=1&" type="application/x-shockwave-
flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></
embed></object>

【5】

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/VL3UiOmvnoM&hl=ja_JP&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true"
></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http:/
/www.youtube.com/v/VL3UiOmvnoM&hl=ja_JP&fs=1&" type="application/x-shockwave-
flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></
embed></object>


【1〜5・HP版】

http://www.youtube.com/watch?v=-zJYNzf2q8o

http://www.youtube.com/watch?v=27lqqHHv1N8

http://www.youtube.com/watch?v=akCxGJ3836E

http://www.youtube.com/watch?v=eP2-G43tKDM

http://www.youtube.com/watch?v=VL3UiOmvnoM


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●FLASH・実験

 
(うまく載せることができれば、上の写真が、モーフィングするはずです。)

 昨夜、簡単なFLASHを作成してみた。
うまくBLOGに載せることができるか、どうか、実験してみたい。
(BLOGによって、機能がみな、ちがう。
それでこうした実験が必要になる。)

さあ、どうか?

(私の似顔絵が動けば、成功!)


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

●3月5日

 今朝は、偏頭痛で目が覚めた。
時計を見ると、午前5時。
昨夜、遅くまでテレビを見ていたのが、悪かった。
そのときすでに軽い頭痛が始まっていた。
軽い風邪と誤解した。
市販の頭痛薬と葛根湯をのんで、そのまま寝た。
が、偏頭痛だった。

 で、偏頭痛の薬をのんで、再び、床の中に。
2度目に目を覚ましたら、午前11時!
偏頭痛は消えていたが、どうも気分がすっきりしない。
軽いが、花粉症も始まったようだ。
目を覚ますと同時に、はげしいくしゃみが、たてつづけに、
5、6回。

 このところやや体重オーバー。
朝食はとらなかった。
今日は、自宅から教室まで、約7キロを歩くことにした。

 偏頭痛のいやなところは、眠っていても、痛いこと。
(これに対して、風邪の頭痛は、眠っているときは、忘れる。)
何かの夢を見ながら、その一方で、ズキンズキンと痛んだ。


●ボットン便所

 昨日、小5、6の子どもたちに、ボットン便所の話をした。
が、9人のうち、「ボットン便所」という名前を知っていたのは、たったの1人だけ。
残りの8人は、「知らない」「聞いたことがない」と。
中に1人、どこかの催し物会場によく設置してある、ボックス便所と誤解していた子どもがい
た。
「あれとはちがう」と、私は話した。

 で、ボットン便所を知っていた1人の子どもは、こう言った。
「友だちの家のトイレが、そうだった。臭くて、ぼくは鼻をつまんで、小便をした」と。

 が、私たちの世代には、水洗トイレは、夢の利器だった。
小さなアパートだったが、そこへ入ったとき、私は生まれてはじめて、水洗トイレなるものを自
分のものとして、使うことができた。
うれしかった。
どううれしかったかは忘れたが、とにかく、うれしかった。
 
私「ボットン便所というのはね、うんちをすると、それが下へ落ちて、ボットンという音がするんだ
よ。だからボットン便所って言うんだよ」
子「……」と。

 かく言う私も、今では、ボットン便所を使うことができなくなった。
今でも、田舎のほうへ行くと、ときどき、ボットン便所のところがある。
そういうところでは、苦労する。
気分が悪くなることもある。
食欲がなくなることもある。
しかし……。

 山登りは、登っていくときも楽しいが、下っていくときも楽しい。
しかし文化というのは、下っていくときが苦しい。
つらい。
仮に明日からボットン便所に……ということにでもなったら……。
ギョッ!
パソコンにしても、明日から使えなくなるということにでもなったら、
仕事が手につかなくなるだろう。
代わりの方法をさがせと言われても、おそらく、私には、何もできない。


●宇宙人?

 昨日、突然、1人の男が、教室へやってきた。
年齢は30歳くらいか。
「ハヤシ・ヒロシさんですね?」と。

 この時期、教室の見学にやってくる人は多い。
私はその1人だと思った。
「どちらさんですか?」と聞くと、いきなり、「あなたは、ロズウェル事件をどう思いますか? そ
の返事を聞いて、うちの子を(この教室に)入れるかどうか、決めたい」と。

 ロズウェル事件というのは、1947年にニューメキシコ州で起きた、UFO墜落事件をいう。
「さあ、知りません」と答えると、その男は、ふたたび、こう言った。
「あなたは、ハヤシ・ヒロシさんですね。あなたは宇宙人ですか?」と。

 しかしいきなり、「あなたは宇宙人ですか?」は、ない。
返答に困りながら、私は、「あなたはどちらさんですか?」を繰り返した。
が、私の様子を見て、その男は、「思ったより小さいな(=私のこと)」と言って、その場を去って
いった。

 これ以上のことを、ここに書くのは、差し控えたい。
その男は、本当に自分の子どものことを考えて、やってきたのかもしれない。
親には、それぞれの価値観がある。
その価値観に応じて、子どもを育てる。
それについてとやかく言うのは、この世界では、タブー。


●中国の常識(?)

 ところでこんな話も聞いた。

 中国のどこからか、一組の夫婦がその町にやってきた。
駅前の商店街の一角に、中華料理店を開いた。
開いたというより、閉店状態にあった中華料理店を引き継いだ。
当人たちは、「北京からやってきた」と言ったという。

 で、開店までに、いろいろあったらしい。
が、ともかくも、開店した。
しかしそれが近所とのトラブルの始まりだった。

 数日もすると、まず隣の洋品店へ、中華料理店の店主が、怒鳴り込んできた。
「お宅は、店のシャッターをおろすことが多いが、ちゃんと開けておいてほしい」と。
そのあたりは、駅前商店街だったが、大半の店は、シャッターをおろしたままになっていた。
その洋品店も、週に何日しか、店を開かなかった。
中華料理店の店主は、それが気に入らなかったらしい。

さらにその中華料理店の店主は、数軒おいた、理髪店(床屋)にもやってきた。
こう言った。

「お宅へ来る客を、うちの店(=中華料理店)へ回してほしい」と。
閑散とした通りだったが、その理髪店だけは、はやっていた。

 これには理髪店の店主も驚いた。
そのとき客も、何人かいた。
それらの人の前で、中華料理店の店主はいきなり土下座したという。
「ここには、たくさんの客が来る。その客をうちの店に回してほしい」と。

 中国には中国の常識(?)というものが、あるらしい。
しかしそれは日本の常識ではない。
ときとして、異なった常識が、真正面からぶつかることがある。
私はその話を聞きながら、それを考えた。


●常識

 世の中には、いろいろな人がいて、いろいろな常識(?)をもっている。
だからといって、私やあなたがもつ常識が、正しいと考えてはいけない。
私などは、郷里の地元では、非常識な男ということになっている。
親類の四九日の法要や、一周忌に、顔を出さないからだそうだ。
一度は、その中の1人に、こう言われた。

「義理を欠くようなヤツは、人間のクズ」と。

 私はその人間のクズということになる。

 それが国際的になると、さらに常識の間に、大きな山や谷ができる。
言い換えると、国際的にみると、日本人がもつ常識ほど、あやしげなものはない。
少なくとも、世界の人たちは、そうみている。 

 これについては、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。


Hiroshi Hayashi+++++++March.2010+++++++++はやし浩司

【基本的不信関係】

+++++++++++++++++++++++

私は子どものころから、心の開けない人間だった。
今も、そうだ。

+++++++++++++++++++++++

●基本的信頼関係

 0歳期に、母親との信頼関係の構築に失敗すると、
子どもは、いわゆる(心の開けない子ども)になる。
こうした状態を、「基本的不信関係」と呼ぶ。
が、基本的不信関係の恐ろしさは、これにとどまらない。
一度、基本的信頼関係の構築に失敗すると、その後遺症は、
一生にわたってつづく。
修復するのは不可能とまでは言い切れないが、自然の状態で、
修復されることは、まずない。

●絶対的なさらけ出し

 (絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)。
この2つの上に、基本的信頼関係は、構築される。
「絶対的」というのは、「疑うこともない」という意味。

 「私は親の前で、どんなことでもできる」というのが、
絶対的なさらけ出し。
「子どもがどんなことをしても許す」というのが、
絶対的な受け入れ。
それは、親側に子どもを全幅に包み込む愛情があって、
はじめて可能。

●不幸にして・・・

 が、不幸にして、不幸な家庭に育った子どもは、
少なくない。
家庭不和、育児拒否、家庭騒動、経済問題、無視、冷淡など。
親にしても、「子育てどころではない」となる。
こういう環境で育つと、子どもは、基本的信頼関係の
構築をすることができなくなる。
一見、愛想はよくなるが、それは子ども本来の姿ではない。
中に、「うちの子は、人見知りも、後追いもしませんでした」と
言う親がいる。
どこか自慢げに言う人もいるが、それは自慢すべきような
話ではない。

 良好な家庭環境で育てば、子どもは1歳7か月前後まで、
他人には警戒し、自分の親が見えなくなると、後を追いかけたり
する。

●孤独という無間地獄

 「人を信じられない」というのは、たいへん不幸なことである。
「信じられない」だけでは、すまない。
それと引き換えに、「孤独」を背負う。
その孤独が、こわい。
どうこわいかは、仏教でも、「無間の孤独地獄」と表現している
ことからも、わかる。
キリスト教でも、「愛」を横軸とするなら、「魂の解放」、つまり、
「渇き(=孤独)」からの解放を縦軸としている。
(これは私の勝手な解釈によるものだから、まちがっていたら、
ごめん。)

 実のところ、この私がそうである。

●父と母

 私は不幸にして、不幸な家庭に育った。
家庭教育の「か」の字もないような、家庭だった。
戦後直後のドサクサ期ということもあった。
父は、傷痍軍人として帰国。
やがて酒に溺れるようになった。
母は、虚栄心が強く、わがままで自分勝手だった。
その上、みな、食べていくだけで、精一杯という
時代だった。

 基本的信頼関係など、もとから望むべくもない。
私が生来的にもつ不安感、焦燥感は、すでにそのころから
始まっていたとみるべき。

●シッポ

 子どものころの私を知る人たちは、みな、こう言う。
「浩司は、明るくて、朗らかな子だった」と。
しかしそう言われるたびに、私は大きな違和感を覚える。
私はだれにでもシッポを振るような子どもだった。
相手に合わせて、おじょうずを言ったり、うまく取り入ったり
した。

 が、けっして相手を信用しなかった。
いつも私の心の中には、別の目があって、その目で相手を
ながめていた。
「この人の目的は何か」
「この人は、私をどう利用しようとしているのか」
「私は、この人をどう利用したらいいのか」
「あるいは、利用価値はあるのか」と。

●4つのパターン
 
 基本的信頼関係の構築に失敗すると、ふつう、つぎの
4つのタイプの子ども(人間)になると言われている。

(1)攻撃型(ツッパル)
(2)服従型(親分肌の子どもに徹底的に服従する)
(3)依存型(ベタベタと甘える)
(4)同情型(わざと弱々しさを演じて同情を集める)

 が、何も子どもにかぎらない。
一度、こうした傾向が子ども時代(思春期前夜から思春期)に
現れると、その症状は、一生、つづく。
それがその人の、性格的ベースになる。

●不安と焦燥感

 私が基本的に、淋しがり屋なのは、基本的不信関係に起因
している。
が、それだけではない。
先にも書いたように、常に襲いくる不安と焦燥感。
この2つの間で、いまだに苦しんでいる。

 わかっていても、どうすることもできない。
「だれかを信じたい」という思いは強いが、信ずるほど、
心を開くことができない。
いつも一歩、その手前で、相手を疑ってしまう。
そして裏切られることを恐れ、裏切られる前に、相手を
裏切ってしまう。
裏切ることはないにしても、裏切られることに、強い
警戒心をいだく。

●シッポを振る

 そのため、基本的不信関係の人は、心がもろく、傷つき
やすい。
「私は私」と、デンと構えることができない。
わかりやすく言えば、ガタガタ。
「シッポを振る」というのは、そういうことをいう。

 孤独でさみしいから、人の中に入っていく。
しかし自分をさらけ出すことができない。
だから疲れる。
精神疲労を、起こしやすい。
で、家に帰ってきて、「もう、いやだ〜ア」と、声をはりあげる。

 ショーペンハウエルという学者は、それを『2匹のヤマアラシ』
という言葉を使って説明した。

●2匹のヤマアラシ

 ある寒い夜のこと。
2匹のヤマアラシが、たがいによりそって、暖をとることにした。
しかし近づきすぎると、たがいの針が痛い。
離れると、寒い。
そこで2匹のヤマアラシは、一晩中、近づいたり、離れたりを
繰り返していた。

 基本的不信関係にある人の、心理状態を、たくみに説明している。
このタイプの人は、(孤独)と(精神疲労)の間を、行ったり、
来たりする。
が、それだけではない。

●孤独の世界

 「人を信じたい」と思う。
しかし信じられない。
信じられそうになると、それがこわくて、自ら逃げてしまう。
自分のほうから、ぶち壊してしまうこともある。
「本当の私を知ったら、みんな逃げていく」と。

 愛についてもそうだ。
「人を愛したい」と思う。
しかし愛せない。
愛されそうになると、それがこわくて、自ら逃げてしまう。
自分のほうから、ぶち壊してしまうこともある。
「本当の私を知ったら、みんな逃げていく」と。

 こうして自らを、ますます孤独の世界へと追いやっていく。

●基底不安

 もうひとつの特徴は、いつ果てるともなくつづく、悶々と
した不安感。
「基底不安」ともいう。

 もっともその不安感を強く覚えたのは、子どものころ。
おとなになるにつれて、原発的な不安感は消え、姿を
変えた。

 たとえば長い休暇を手にしたとする。
長いといっても、1〜2週間である。
そういうとき私は、遊ぶことに対して、おかしな罪悪感を
覚える。
「遊んでいてはいけないのだ」という罪悪感である。
人は、そういう私を批評して、「貧乏性」という。

 だから私のばあい、利益があるとかないとか、
そういうことには関係なく、働いていたほうが、気が楽。
何かをしていないと、落ち着かない。

●悪夢

 もうひとつは、悪夢。
悪夢といっても、怪獣が出てくるとか、悪魔が出てくる
とかいうものではない。
何かに乗り遅れるという夢である。

 たとえばどこかの旅行地に行っている。
飛行機に乗る時刻が迫っている。
空港まで行くリムジンは、ホテルの前で待っている。
しかし部屋の中は、散らかったまま……。
急いで片付けているのだが、すでにバスはそこにいない。

 内容はさまざまだが、基本的な部分は同じ。
こうした夢を、ほとんど毎朝のように見る。

●世代連鎖

 話を戻す。 
さらに言えば、その人が基本的不信関係の人であっても、
それはその人の範囲での問題ということになる。
不幸な過去について、その人に責任があるわけではない。
しかしあくまでも、その人、個人の問題。

 それに私の世代でいうなら、みな、そうだった。
「戦争」というのは、そういうもの。
人心そのものを荒廃させる。
あの時代、まともな家庭環境で育った人のほうが、少ない。

 が、この基本的不信関係は、きわめて世代連鎖しやすい。
親から子へと伝わりやすい。
親が心を閉じていて、どうして子が、心を開ける子どもに
なるだろうか。
夫婦関係についても、同じ。
夫が心を閉じていて、どうして妻が、心を開ける妻に
なるだろうか。
友人関係や、近隣関係、さらには親類関係にしても同じ。
この問題には、そういう深刻な側面が含まれる。

●私たちの子育て

 私のばあいも、結婚はしたものの、妻にさえ、心を
開くことができなかった。
妻も、4歳くらいのときに、母親をなくしている。
ともにいびつな家庭環境で、生まれ育った。

 だから今にして思えば、私たちのした子育ては、どこか
いびつだった。
子育ての情報そのものが、脳の中に、インプットされて
いなかった。
おまけに、私たちを指導してくれる人さえ、近くにいなかった。
暗闇の中を、手探りで、子育てをしているようなものだった。

 私は(仕事の虫)となって、夢中で仕事をした。
家庭を顧みなかった。
ワイフのほうはどうかは知らないが、全体としてもみても、
平均的な母親よりは、愛情が希薄だったと思う。
3人の子どもたちは、日常的に愛情飢餓の状態に置かれた。

●母自身も犠牲者(?)

 先ほど、世代連鎖のことを書いた。
実のところ、私が基本的不信関係に陥ったのは、私の母との
関係だけ、というふうに考えるには、無理がある。

 このことは最近になって、いとこたちと話すことで知った。
当人たちは、それに気づいているかどうかは知らないが、いとこの
中には、私と同じような症状で苦しんでいる人が多い。
つまり私の母自身も、心の開けない人だった。
虚栄心が強かったのも、そのひとつということになる。

 同じように、いとこたちの中にも、心の開けない人がいる。
そういう人を知ることによって、私の母自身も、その前の
世代から、世代連鎖を経て、あのような母になったことがわかる。
こんなことがあった。

●あるいとこ

 あるいとこと、いっしょに食事をしたときのこと。
当時私は、入眠導入剤というのを、のんでいた。
いわゆる「眠り薬」である。
ときどき眠り損ねると、夜中の2時、3時まで、眠られない
ことがある。
それでそういう薬を、医師に処方してもらった。

 で、その話をして、ふと薬を見せると、そのいとこは、
その薬名を、さっとメモに書き写していた。
イヤ〜ナ気分だった。
何かを調べられているような気分だった。

 実のところ、そのいとこも、愛想はよいが、だれにも
心を許さないタイプの男だった。
ただ私とのちがいは、私にはそれがわかったが、その
知人には、それがわからなかったということ。
もちろん「基本的不信関係」という言葉すら、知らないだろう。

●オーストラリア

 私が「心を開く」ということを知ったのは、オーストラリアへ
渡ってからのこと。
オーストラリア人というのは、総じて、心がオープン。
戦勝国として、戦後、きわめて恵まれた国で、みな生まれ育った。
当時は、世界でも1、2を争うほど、豊かな国だった。

 たとえば映画館などでも、静かに映画を観ているような客は
いない。
画面に反応して、声を張り上げたり、手を叩いたりして観ていた。
海辺へ行けば、みな、素っ裸で、泳いだ。
男も、女もない。
そういうオーストラリア人と接するうちに、私は、心を開くことが
どういうことかを知った。
そのせいか、今でも、個人的な悩みや苦しみは、相手がオーストラリア
人だと、話せる。
日本人だと、話せない。

 あるいは今でも、相手がオーストラリア人とわかったとたん、
10年来、20年来の友人のように、話しかけていくことが
できる。

●私の教室では・・・

 今、多くの幼児を教えさせてもらっている。
で、あのピアジェも、人間は、2度、作りかえるチャンスが
あるというようなことを説いている。
一回目は、1・5歳〜2歳前後※。
しかしこれは私の専門外。

 もう1度は、4〜5歳※にかけての時期。
(※年齢は、記憶によるものなので、不正確。)
これについては、私も納得する。

この時期に適切な指導をすれば、心の開けない子どもでも、心を
開くことができるようになる。
子ども自身が、大きく変化する。

 もちろんそんなことは親には言わない。
言っても理解されないだろう。
しかし私はそういう子どもを知ると、猛烈な指導意欲が
わいてくる。
それは自分自身との闘いのようなもの。
そしてこう思う。
「ぼくが直して(治して)やろう!」と。

 不幸にして不幸な家庭に生まれ育ち、(けっして
見た目の裕福さにだまされてはいけない)、心が
開けなくなった子どもは、多い。
そういう子どもを見かけると、とても他人ごとのように
思えなくなる。

●知っているのは、私だけ

 もちろん子ども自身も、それに気がつくことはない。
仮に開けるようになったとしても、私のおかげで
そうなったとは、思わない。
ただ自分が味わった不幸、現在進行形でつづいている
不幸だけは、経験させたくない。
そういう思いが、強く働く。

 方法は、簡単。
大声でゲラゲラと笑わせる。
言いたいことを言わせる。
心の状態と表情を一致させる。

 が、この時期を逃したら・・・。
この問題にも臨界期のようなものがあって、それ以後、
心を開くようになるのは、たいへんむずかしい。

●終わりに・・・

 ほとんどの人は、「私は私」と思っている。
しかしその「私」は、けっして私ではない。
繰り返しになるが、私のばあいも、日々に襲いくる不安感と
焦燥感。
いまだにそれに苦しんでいる。
人を信じられない孤独感を、どうしようもないでいる。

 が、それが本当の「私」かというと、そうは思いたくない。
そういう「私」は、環境の中で、作られた「私」でしかない。
私は、作られた「私」にあやつられているだけ。

 ……ということで、ここでの結論。

●結論

 まず、そういう「私」であることを知ること。
そういう「私」で知った上で、そういう「私」と、うまくつきあうこと。
直そうとおもって、直るものではない。
直そうともがけばもがくほど、深みにはまってしまう。

この問題は、本能に近い部分にまで、刻み込まれている。
また前頭連合野の理性で、コントロールできるような問題もない。
だから、あとは、うまくつきあっていくしかない。
つまり居直る。
「私は、こういう私」と居直る。

 だれしもこの程度の十字架の、1本や2本を背負っている。
十字架を背負っていない人はいない。
まずいのは、そういう「私」がいることに気づかず、それに振り回される
こと。
同じ失敗を繰り返すこと。

このエッセーが、あなたの中の「私」を発見するための手がかりになれば、
うれしい。

(補足)

 この問題だけは、実際、そうでない人には、理解できない。
たとえば私がこうした心の問題を訴えたとしても、理解できない人には、
理解できない。
たいてい「気のせい」とか、「そんな赤ん坊のころの話は、関係ない」と
片付けられてしまう。

 私のワイフにしても、40年近く、いっしょに住んでいるが、
いまだに私を理解できないらしい。
先に書いた「基底不安(仕事をしていないと不安)」という部分についても、
不満を述べることはあっても、そういう私を認めてくれることはない。
何かあると、「あなたは仕事ばかりしている」とか、など。
だから私のほうが、ワイフに合わせるしかない。
不安感を抑えこまなければならない。
しかしこれには、相当な苦しみを伴う。

 だから半ば冗談まじりに、私は、ときどき、こう言う。

「ぼくは、死ぬことはこわくない。
死ねば、今の苦痛から解放される」と。
基本的不信関係というのは、そういうもの。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 基本的信頼関係 基本的不信関係 ショーペンハウエル 2匹のヤマアラシ 私
探し はやし浩司 私とは 心を開く 幼児教育 解放 心の解放 はやし浩司)

+++++++++++++++++

以前書いた原稿を、1作、
添付します。
内容がダブりますが、お許しください。

+++++++++++++++++

【基本的信頼関係】



信頼関係は、母子の間で、はぐくまれる。



絶対的な(さらけ出し)と、絶対的な(受け入れ)。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」と
いう意味である。こうした相互の関係が、その子ども(人)の、信頼関係の基本となる。



 つまり子ども(人)は、母親との間でつくりあげた信頼関係を基本に、その関係を、先生、友
人、さらには夫(妻)、子どもへと応用していくことができる。だから母親との間で構築される信
頼関係を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。



 が、母子との間で、信頼関係を結ぶことに失敗した子どもは、その反対に、「基本的不信関
係」に陥(おちい)る。いわゆる「不安」を基底とした、生きザマになる。そしてこうして生まれた
不安を、「基底不安」という。



 こういう状態になると、その子ども(人)は、何をしても不安だという状態になる。遊んでいて
も、仕事をしていても、その不安感から逃れることができない。その不安感は、生活のあらゆる
部分に、およぶ。おとなになり、結婚してからも、消えることはない。夫婦関係はもちろんのこ
と、親子関係においても、である。



 こうして、たとえば母親について言うなら、いわゆる不安先行型、心配先行型の子育てをしや
すくなる。



●基底不安



 親が子育てをしてい不安になるのは、親の勝手だが、ほとんどのばあい、親は、その不安や
心配を、そのまま子どもにぶつけてしまう。



 しかし問題は、そのぶつけることというより、親にその自覚がないことである。ほとんどの親
は、不安であることや、心配していることを、「ふつうのこと」と思い、そして不安や心配になって
も、「それは子どものため」と思いこむ。



 が、本当の問題は、そのつぎに起こる。



 こうした母子との間で、基本的信頼関係の構築に失敗した子どももまた、不安を基底とした
生きザマをするようになるということ。



 こうして親から子どもへと、生きザマが連鎖するが、こうした連鎖を、「世代連鎖」、あるいは
「世代伝播(でんぱ)」という。



 ある中学生(女子)は、夏休み前に、夏休み後の、実力テストの心配をしていた。私は、「そん
な先のことは心配しなくていい」と言ったが、もちろんそう言ったところで、その中学生には、説
得力はない。その中学生にしてみれば、そうして心配するのは、ごく自然なことなのである。

(はやし浩司 基本的信頼関係 基底不安)





●人間関係を結べない子ども(人)



人間関係をうまく結ぶことができない子どもは、自分の孤独を解消し、自分にとって居心地の
よい世界をつくろうとする。その結果、大きく分けて、つぎの四つのタイプに分かれる。



(1)攻撃型……威圧や暴力によって、相手を威嚇(いかく)したりして、自分にとって、居心地
のよい環境をつくろうとする。

(2)依存型……ベタベタと甘えることによって、自分にとって居心地のよい環境をつくろうとす
る。

(3)服従型……だれかに徹底的に服従することによって、自分にとって居心地のよい環境を
つくろうとする。

(4)同情型……か弱い自分を演ずることにより、みなから「どうしたの?」「だいじょうぶ?」と同
情してもらうことにより、自分にとって、居心地のよい世界をつくろうとする。



それぞれに(プラス型)と、(マイナス型)がある。たとえば攻撃型の子どもも、プラス型(他人に
対して攻撃的になる)と、マイナス型(自虐的に勉強したり、運動をしたりするなど、自分に対し
て攻撃的になる)に分けられる。



 スポーツ選手の中にも、子どものころ、自虐的な練習をして、有名になった人は多い。このタ
イプの人は、「スポーツを楽しむ」というより、メチャメチャな練習をすることで、自分にとって、
居心地のよい世界をつくろうとしたと考えられる。



●子どもの仮面



 人間関係をうまく結べない子ども(人)は、(孤立)と、(密着)を繰りかえすようになる。



 孤独だから、集団の中に入っていく。しかしその集団の中では、キズつきやすく、また相手を
キズつけるのではないかと、不安になる。自分をさらけ出すことが、できない。できないから、相
手が、自分をさらけ出してくると、それを受入れることができない。



 たとえば自分にとって、いやなことがあっても、はっきりと、「イヤ!」と言うことができない。一
方、だれかが冗談で、その子ども(人)に、「バカ!」と言ったとする。しかしそういう言葉を、冗
談と、割り切ることができない。



 そこでこのタイプの子どもは、集団の中で、仮面をかぶるようになる。いわゆる、いい子ぶる
ようになる。これを心理学では、「防衛機制」という。自分の心がキズつくのを防衛するために、
独特の心理状態になったり、独特の行動を繰りかえすことをいう。



 子ども(人)は、一度、こういう仮面をかぶるようになると、「何を考えているかわからない子ど
も」という印象を与えるようになる。さらに進行すると、心の状態と、表情が、遊離するようにな
る。うれしいはずなのに、むずかしい顔をしてみせたり、悲しいはずなのに、ニンマリと笑って
みせるなど。



 この状態になると、一人の子ども(人)の中に、二重人格性が見られるようになることもある。
さらに何か、大きなショックが加わると、人格障害に進むこともある。



●すなおな子ども論



 従順で、おとなしく、親や先生の言うことを、ハイハイと聞く子どものことを、「すなおな子ども」
とは、言わない。すなおな子どもというときには、二つの意味がある。



一つは情意(心)と表情が一致しているということ。うれしいときには、うれしそうな顔をする。い
やなときはいやな顔をする。



たとえば先生が、プリントを一枚渡したとする。そのとき、「またプリント! いやだな」と言う子
どもがいる。一見教えにくい子どもに見えるかもしれないが、このタイプの子どものほうが「裏」
がなく、実際には教えやすい。



いやなのに、ニッコリ笑って、黙って従う子どもは、その分、どこかで心をゆがめやすく、またそ
の分、心がつかみにくい。つまり教えにくい。



 もう一つの意味は、「ゆがみ」がないということ。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさ
む、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。



ゆがみというのは、その子どもであって、その子どもでない部分をいう。たとえば分離不安の子
どもがいる。親の姿が見えるときには、静かに落ちついているが、親の姿が見えなくなったとた
ん、ギャーとものすごい声をはりあげて、親のあとを追いかけたりする。その追いかけている様
子を観察すると、その子どもは子ども自身の意思というよりは、もっと別の作用によって動かさ
れているのがわかる。それがここでいう「その子どもであって、その子どもでない部分」というこ
とになる。



 仮面をかぶる子どもは、ここでいうすなおな子どもの、反対側の位置にいる子どもと考えると
わかりやすい。



●仮面をかぶる子どもたち



 たとえばここでいう服従型の子どもは、相手に取り入ることで、自分にとって、居心地のよい
世界をつくろうとする。



 先生が、「スリッパを並べてください」と声をかけると、静かにそれに従ったりする。あるいは、
いつも、どうすれば、自分がいい子に見られるかを、気にする。行動も、また先生との受け答え
のしかたも、優等生的、あるいは模範的であることが多い。



先生「道路に、サイフが落ちていました。どうしますか?」

子ども「警察に届けます」

先生「ブランコを取りあって、二人の子どもがけんかをしています。どうしますか?」

子ども「そういうことをしては、ダメと言ってあげます」と。



 こうした仮面は、服従型のみならず、攻撃型の子どもにも見られる。



先生「君、今度のスポーツ大会に選手で、出てみないか?」

子ども「うっセーナア。オレは、そんなのに、興味ネーヨ」

先生「しかし、君は、そのスポーツが得意なんだろ?」

子ども「やったこと、ネーヨ」と。



 こうした仮面性は、依存型、同情型にも見られる。



●心の葛藤



 基本的信頼関係の構築に失敗した子ども(人)は、集団の中で、(孤立)と(密着)を繰りかえ
すようになる。



 それをうまく説明したのが、「二匹のヤマアラシ」(ショーペンハウエル)である。



 「寒い夜だった。二匹のヤマアラシは、たがいに寄り添って、体を温めようとした。しかしくっつ
きすぎると、たがいのハリで相手の体を傷つけてしまう。しかし離れすぎると、体が温まらない。
そこで二匹のヤマアラシは、一晩中、つかず離れずを繰りかえしながら、ほどよいところで、体
を温めあった」と。



 しかし孤立するにせよ、密着するにせよ、それから発生するストレス(生理的ひずみ)は、相
当なものである。それ自体が、子ども(人)の心を、ゆがめることがある。



一時的には、多くは精神的、肉体的な緊張が引き金になることが多い。たとえば急激に緊張す
ると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まり、その結果心臓がドキドキし、さらにその結
果、脳や筋肉に大量の酸素が送り込まれ、脳や筋肉の活動が活発になる。



が、そのストレスが慢性的につづくと、副腎機能が亢進するばかりではなく、「食欲不振や性機
能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などの種々の反応が引き起こされる」(新井康
允氏)という。



こうしたストレスが日常的に重なると、脳の機能そのものが変調するというのだ。たとえば子ど
ものおねしょがある。このおねしょについても、最近では、大脳生理学の分野で、脳の機能変
調説が常識になっている。つまり子どもの意思ではどうにもならない問題という前提で考える。



 こうした一連の心理的、身体的反応を、神経症と呼ぶ。慢性的なストレス状態は、さまざまな
神経症による症状を、引き起こす。



●神経症から、心の問題



ここにも書いたように、心理的反応が、心身の状態に影響し、それが身体的な反応として現れ
た状態を、「神経症」という。



子どもの神経症、つまり、心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害)
は、まさに千差万別。「どこかおかしい」と感じたら、この神経症を疑ってみる。



(1)精神面の神経症…恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状(周囲の者には理解できないも
のに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩む)など。 

(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、
頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発
熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面で
の神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号とと
らえて警戒する。 

(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面
に現れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無
関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。 

●たとえば不登校



こうした子どもの心理的過反応の中で、とくに問題となっているのが、不登校の問題である。



しかし同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひどい
花粉症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。



が、その中でも恐怖症の症状を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を
「怠学(truancy)」といって区別している。これらの不登校は、症状と経過から、三つの段階に
分けて考える(A・M・ジョンソン)。心気的時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。こ
れに回復期を加え、もう少しわかりやすくしたのが、つぎである。 

(1)前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、
吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜にな
ると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。
学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除
すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつ
ど移動するのが特徴。 

(3)パニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂っ
たように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、
一転、症状が消滅する。



ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで歌っていました」と。たい
ていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」と思うことが多い。 

(4)自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃的
態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピリピ
リした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりすること
はある(感情障害)。



この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不安感をもつ。おのの
く)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子どもといった感じが
するため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わからなくなってしまうこ
とが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。 

(4)回復期(この回復期は、筆者が加筆した)……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ
友人との交際を始めたり、外へ遊びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなこと
を、断続的に繰り返したあと、やがて登校できるようになる。日に一〜二時間、週に一日〜二
日、月に一週〜二週登校できるようになり、序々にその期間が長くなる。



●前兆をいかにとらえるか 

 この不登校について言えば、要はいかに(1)の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をと
るかということ。たいていの親はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理
をする。この無理が症状を悪化させ、(2)のパニック期を招く。



この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校へ行きたくないときもあるわよ」と
言えば、その後の症状は軽くすむ。一般にこの恐怖症も含めて、子どもの心の問題は、今の
状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすればするほど、症状はこじれる。悪
化する。 


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

●信仰のもつ愚鈍性(Blindness of Religion)

++++++++++++++++++

1人の韓国系アメリカ人が、神への
信仰を信じ(?)、単独で豆満江(中国と
K国の国境を流れる川)を渡った。
「話せばわかるはず」式の手紙をもって、
である。

そのアメリカ人が、43日目に解放された。
で、解放直後には、「北朝鮮は人権を守った。
信仰の自由が保障された」などと発言していた。
K国の朝鮮中央通信の報道なので、そのまま
信ずるわけにはいかない。
……と考えていたら、韓国の朝鮮N報が、
こんな記事を配信した。

それをそのまま紹介させてもらう。
この記事を読んで、いろいろ考えさせられた。

*************以下、朝鮮N報より***************

北朝鮮による43日間の抑留から解放された韓国系米国人の人権運動家、ロバート・パクさん
(韓国名パク・ドンフン)が、北朝鮮で受けた拷問の後遺症で精神病院に入院した。
 
 パクさんが師としているジョン・ベンソン牧師は4日、ボイス・オブ・アメリカ(VOA)放送のイン
タビューに対し、「(パクさんは)恐怖に直面したような不安症状を見せており、会話時にも呼吸
が乱れるほど落ち着かない状況だ。両親や知人が先月27日にカリフォルニア州内の病院に
入院させた」と語った。

 韓国でパクさんと共に北朝鮮の人権運動を繰り広げてきた市民団体「パックス・コリアナ」の
チョ・ソンレ代表も入院の事実を認めた上で、「平壌に護送された後、口に出せないような性的
な拷問を受けた。パクさんは北朝鮮について、ナチスドイツよりも悪らつな政権だと話している」
と語った。

 パクさんは昨年12月25日、金正日(キム・ジョンイル)総書記に人権問題の改善を求めるた
めに、中朝国境の豆満江を渡り逮捕され、先月6日に解放された。

 パクさんは釈放直前、北朝鮮の朝鮮中央通信とのインタビューで、「北朝鮮は人権を守っ
た。信仰の自由が保障された」と答えている。北朝鮮消息筋は「パクさんは北朝鮮入りした後、
北朝鮮の警備兵に『半殺し』状態にされたと聞いている」と語った。

 ベンソン牧師はVOA放送に対し、パクさんは心的外傷後ストレス障害(PTSD)による不安症
状で意思疎通が容易にできない状況だ説明した。(朝鮮N報・3月6日)

*************以上、朝鮮N報より***************

●「?」

 当初、いさましいいでたちで、豆満江を渡るパク氏の姿を、写真で見たとき、
そこにどこか狂信的なものすら、私は感じた。
パク氏は、金xxと直談判で、人権問題を話し合うというようなことを口に
していた。
だから私は、「?」マークを、何十個も並べたあと、「そんな甘い政権では
ないのだがなあ」と思った。

 アメリカから見るK国と、日本のように、近くの国から見るK国は、かなり
ちがう。
その(ちがい)は、豆満江を渡る前のパク氏と、解放されてからのパク氏を
見ればわかる。

 豆満江を渡る前のパク氏は、やる気満々の、はつらつとして好青年といった
感じだった。
が、解放されたニュースサイトに載ったパク氏は、どれも目を閉じたまま。
明らかに心が壊れているといった感じだった。

●神の教え

 おそらくパク氏は、「話せばわかる」式の希望をもっていたにちがいない。
ホワイトハウスへ、手紙をもって乗り込むような心境ではなかったか。
それにどこかのサイトに書いてあったが、パク氏は、「私は神に守られている
からだいじょうぶ」というようなことまで言っていた。
「だから、心配ない」と。

 しかし結果は、朝鮮N報が報道しているとおり。
「平壌に護送された後、口に出せないような性的な拷問を受けた。パクさんは北朝鮮につい
て、ナチスドイツよりも悪らつな政権だと話している」と。

 それがどういう拷問であったかは、私にはわからない。
しかし1人の青年が、たった43日間で、まったく別人になってしまったのだから、
相当な拷問だったらしい。
しかしそうした拷問は、あの国を考えるときには、常識。
言い替えると、そういう常識もないまま、パク氏は、K国に渡ったということになる。
私は、この朝鮮N報の記事を読みながら、アメリカの国務次官補のC・ヒル氏や、
現在、対北特使を務めているボズワース氏を、即座に思い浮かべた。
彼らもまた、「話せばわかる式」の幻想にしがみついていた。

 が、K国は、そういう国ではない。
そういう甘い国ではない。
そんなことは、ほんの少しでもカルトをかじった人なら、わかるはず。
心理学でもよい。

●勇気ある行動?

 もう一度、『金xx総書記に人権問題の改善を求めるために、中朝国境の豆満江を渡り逮捕さ
れ、先月6日に解放された』という部分を読んでみてほしい。

 結果が最悪だったから、こういう書き方は、パク氏の親族の人たちには、失礼な言い方
になるかもしれない。
しかしこの現実認識の甘さは、いったいどこから生まれるのか。
もっと端的に言えば、「思い上がりも、はなはだしい」。

 熱心な信仰者であることは、私も認める。
しかしそれでもって、つまり自分が神か何かになったつもりで、こうした軽率な行動
に出ること自体、ふつうではない。
ふつうでない部分に、パク氏の勇気ある行動をたたえる前に、そこに狂信性を覚えて
しまう。
ときとして、人は、狂信に走るあまり、ロジカル(論理的)な思考を放棄してしまう。
それが恐ろしい。

 たとえば私の家にも、毎月のようにどこかの宗教団体の信者が布教にやってくる。
断っても断っても、やってくる。
そしてたいてい、こう言う。
「私たちはぜったい、正しい」と。

 この言葉を裏から読むと、「あなたがたは、まちがっている」となる。
しかしこれほど、失敬な言葉はそうはない。
その失敬さに、彼らは気づいていない。
パク氏にしても、しかり。

●問題はつづく

 ともかくもこの事件を通して、改めて、K国という国が、どういう国かがわかった。
ふつうの国ではない。
人心そのものが、すでに破壊されている。
そして一度破壊された「心」というのは、簡単には、もとにはもどらない。
仮に6か国協議が成功し、K国が核兵器を放棄したとする。
そのあと、天文学的数字の援助が、K国になだれこんだとする。

 で、それで問題が解決するわけではない。
日本という国にしても、そのあと、そういうK国を相手に、外交を進めなければ
ならない。
しかしそれは想像するだけでも、ぞっとする。
その一端は、現在進行中の、もろもろの南北会議の内容をみてもわかる。
議論そのものが、かみ合わない。
価値観の相違というよりは、その価値観を支える、常識そものが、ちがう。
そしてその常識は、私たち日本人が想像もつかないほど、かけ離れている。
日本は、そういう国を相手に、これから先、どうやってつきあっていけばよいのか。
想像すればするほど、ぞっとする。

●パク氏

 パク氏もさることながら、パク氏を送り込んだ、市民団体「パックス・コリアナ」
にも、責任がないとは言わせない。
さらにパク氏が師とあおぐ、ジョン・ベンソン牧師にしてもそうだ。
詳しい関係はわからないので、それ以上のことは書けないが、みな、認識が甘すぎる。
いつだったか、アメリカの政府高官が、K国を評して、「狂った犬」と言ったが、
狂った犬を相手に、人権を説いても、意味はない。
しかもたった、1人で!

 この記事を読んだとき、K国の問題もさることながら、一方で、信仰のもつ愚鈍性も
問題とされるべき。
そこらの個人が、熱心に祈ったくらいで、世界が変わるわけがない。
また変わってもらっても、困る。
病気すら、治すことはできないだろう。
 
 こんな話を思い出した。
ポケモンブームが全盛期のころのこと。
1999年ごろのことだった。
1人の中学生が、窓から外に向かって、あやしげな呪文を唱えて祈っていた。
で、私が「何をしているのだ?」と聞くと、その中学生は、こう言った。
「超能力で、あのビルを破壊してみたい」と。

 そこで私はこう言った。
「破壊してみたいと思うのは君の勝手だが、破壊されるほうの人たちは、困るよ。
死人だって出るかもしれない」と。
ここでいう「信仰のもつ愚鈍性」というのは、それをいう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 信仰 信仰のもつ愚鈍性 信仰と盲信性 妄信性)

++++++++++++++++

10年近く前に書いた原稿ですが、
そのまま再掲載します。

++++++++++++++++

●寛大と寛容

 先日、「愛と寛大」というテーマで、エッセーを書いた。それについて、「林君、それは
寛大ではなく、寛容だよ。寛容という言葉のほうが、適切だよ」と言ってくれた人がいた。

 感謝!

 なるほど、そのとおり。寛容の結果として、その人は、寛大になる。寛大になるかどう
かは、あくまでもその結果でしかない。

 ところで昔、私が子どものこと、私の父は、M会という、ある倫理研究団体に属してい
た。どこか宗教的な倫理団体で、父は、床の間に「天照大神」という掛け軸をかけ、いつ
も何やら、祈っていた。

 その掛け軸の横に、もう一つ、やや小ぶりな掛け軸があり、それに、「慈悲寛大」という
言葉が書いてあった。

 そのときは、意味がわからなかったが、それで私は、「寛大」という言葉を覚えた。しか
し今から思い出してみると、なかなか的(まと)をついた言葉のように思う。

 慈悲と寛大は、たしかにペアになっている。私がいう、「愛と寛容」と、どこもちがわな
い。慈悲は、他者に対する同調性をいう。寛大というのは、他者を自分の中に受けいれる
ことをいう。まさに精神の柱として、何ら、遜色のない言葉である。

 ……ということは、私は、意識こそしなかったが、父が信じていた言葉を、心のどこか
に残していたということになる。その可能性が、ないとは言えない。私自身は、M会のメ
ンバーになったことはない。会合といっても、私がときどき行ったのは、小学生のころで
ある。ただついて行ったというだけである。

 が、心のどこかに残っていた!

 「寛容かあ……」と思ったとき、ふと、子どものころ毎日見ていた掛け軸を思い出した。
それでこの原稿を書いた。

 慈悲にせよ、愛にせよ、寛大であるにせよ、寛容であるにせよ、すばらしい言葉である
ことには、ちがいない。

 もう一つ、その人は、「寛容も、愛の中に含まれるのではないか。分けて考える必要はな
いのではないか」と言った。

 私も、実は、そう思う。愛と寛容を並べて考えるか。あるいは寛容も愛に含めて考える
かは、ただ単なる、言葉の遊びのようなもの。ただ、愛と寛容を分けて考えると、より、
その意味がわかりやすくなるということ。そういう意味では、この二つを、分けて考える
ことは、ムダではないように思う。
 

●信ずることのむずかしさ

 「信ずる」という言葉は、相手を疑っているから、口から出てくる言葉。本当に相手を
信じていたら、「信ずる」という言葉など、出てこない。

 よい例が、若い恋人どうしの会話。

男「オレを、信じろ」
女「あなたを、信じているわ」と。

 たがいに疑っているから、そういう言葉が出てくる。

 同じように、今度は、「裏切る」という言葉がある。「信じていたのに、裏切られる」と
いうふうに使う。

 しかし本当に信じていたら、裏切るということもないし、裏切られるということもない。
「信じていない」からこそ、裏切られる。もう少しわかりやすい例で、説明してみよう。

 たとえばあなたが、夫を信じていたとしよう。あなたは、「私は夫を信じている」と言う。

 しかしそのとき、あなたは、本当に、あなたの夫を信じているだろうか。そのとき、あ
なたに多少の迷いや不安があるようなら、あなたは、あなたの夫を信じていないというこ
とになる。

 信ずるというこは、そもそもそういう迷いや疑いをもつことなく、全幅に、相手に自分
の心をゆだねることをいう。心の一体性をいう。見かえりを求めない、無償の一体性をい
う。

 たとえばあなたの夫の帰宅時刻が、不自然に遅かったとする。このところ何かにつけて、
あなたの夫の行動には、どこかおかしなところがある。

 そのとき、心の一体性があれば、あなたは、そもそも、何も疑わない。しかしそこに迷
いや不安が入りこむと、その一体性は、崩れる。そして一気に、「裏切る」という言葉が、
口から出てくる。

 しかし無償の一体性があると、そもそも疑うということはない。迷いや不安が入りこむ
ということもない。ひょっとしたら、「浮気をしたければすればいいじゃない。どうせ、熱
病よ。公衆トイレで、小便をするようなものよ」と、夫をのみこむことができるかもしれ
ない。

 「信ずる」ということは、そういうことをいう。

 またそういう状態では、「裏切る」という言葉など、口から出てこない。

 仮に事実として裏切られても、相手を責める前に、自分を責める。

 そういう意味でも、「信ずる」ということは、むずかしい。本当にむずかしい。

 ……という説明でもわからなければ、もっと、わかりやすい例で、説明してみよう。

 ある人は、熱心なクリスチャンだった。本当に熱心なクリスチャンだった。日曜日には、
必ず教会へでかけ、そこで礼拝していた。あるいは仏教徒でもよい。法事という法事は、
かかさずすべて、ていねいに実行していた。

 が、その人の子どもが、病気になった。そこでその人は、毎日、熱心に神や仏に、祈っ
た。が、その祈りもむなしく、その子どもは、死んでしまった。

 本来なら、その人は、その宗教をやめてもよいはず。神や仏に裏切られたということに
なる。しかしその人は、それからもずっと、熱心なクリスチャンのままだった。熱心な、
仏教徒のままだった。

 もともと疑っていないから、つまり、信ずることによって、見かえりを求めていなかっ
たから、たとえ子どもが死んでも、(凡人の常識で考えれば、裏切られたということになる
のだが……)、その人は裏切られたとは思わない。つまり、「信ずる」ということは、そう
いうことをいう。

 これで「信ずる」ことのむずかしさを、わかってもらえただろうか。「親ずる」ことのも
つ、深い意味を、わかってもらえただろうか。

 さて、あなたは夫(妻)を信じているか。あなたの子どもを信じているか。もう一度、
自問してみてほしい。

 「信ずる」と、口では簡単に言うことはできる。しかし、その中身は、かぎりなく濃く、
かぎりなく深い。


●何を「信ずる」か?

 信ずるといっても、イワシの頭では、困る。

 信ずるといっても、その中身が、大切。中身のないものを信じろと言われても、それは
できない。

 人間関係も、同じ。

 あなたが、妻(夫)に向って、「私を、信じなさい」と言ったとする。しかし言うのは簡
単。が、言われたほうは、困る。いったい、あなたの何を信じればよいのかということに
なる。

 信ずるにしても、信じられるにしても、中身がなければならない。人間について言うな
ら、信じるに足りる、人間的な中身がなければならない。その中身のないものどうしが、「信
じて」「信じているよ」と言いあうのは、マンガでしかない。

 そこで問題は、あなたには、その中身があるかということ。私には、その中身があるか
ということ。

 さらに、どうすれば、その中身ができるかということ。どうすれば、その中身を作るこ
とができるかということ。

 実は、これたいへんな作業である。気が遠くなるほど、たいへんな作業である。だから、
ますます、口が重くなる。「信ずる」という言葉が、口から出てこなくなる。

 信ずるというのは、その相手との、見かえりを求めない、無償の一体性をいう。もとも
と見かえりを求めていないから、裏切られても、裏切られたという意識すら、生まれない。
「自分がバカだった」で、すますことができる。

 しかしそこまで相手を信ずるのは、むずかしい。反対に、そこまで相手に信じられるよ
うになるのも、これまたむずかしい。

 だいたいにおいて、あなたは、あなた自身を信じているか。私自身を、信じているか。
自分すらも、信じられないあなたが、「私を信じなさい」と言うのは、おかしい。

 友人のR氏(60歳)の話。

 30歳くらいのとき、R氏は、当時の価格でも、50万円にも満たないような山林を、
500万円で買わされた。貯金を、すべて、はたいた。

 長野県にある美林ということだった。長年、世話になった男ということもあった。間に、
親類の一人が入ったということもある。それでR氏は、その男から、山林を買った。

 その山林だが、30年近くたった今も、(木そのものも、30年分、成長したが……)、
売っても、150万円にもならないという。当時の500万円といえば、家が、一軒、建
てられるほどの金額である。

 今、150万円というと、駐車場が作れるほどの金額でしかない。R氏は、買って20
年ほどしてから、「だまされた」と知った。

 R氏は、当時、つまり山林を買ったとき、その男には、数人の愛人がいることを知って
いた。いつもキンキラキンのローレックス(時計)を腕に巻き、トヨタのC車に乗ってい
たのも、知っていた。

 が、どういうわけだか、R氏は、その男を信用してしまった。「Rさん、いつか、この山
の木で、総ヒノキづくりの豪邸を建てなさい」と言われたのを、真に受けてしまった。

 しかし自分の妻ですら、平気で裏切るような男である。見栄やメンツだけにこだわるよ
うな男である。一片の哲学もなければ、倫理観もない。今になって思うと、「どうして、あ
んな男を信用したのか」ということになる。

 本来なら、R氏は、詐欺罪で訴えてもよいのかもしれないが、山林のばあいは、価格な
ど、あって、ないようなもの。相場を調べないで買った、R氏が、バカだったということ
になる。

 R氏は、私にこう言った。

 「そう言えば、あの男も、記憶のどこかで、私に、こう言ったことがある。『Rさん、私
を信じて、この山をもっていなさい』と」と。

 さて、あなたの夫(妻)は、あなたが信ずるに足りるような人物だろうか。あるいは反
対に、あなたの妻(夫)に信じられるに足りるような人物だろうか。

 こうして考えていくと、「信ずる」ということが、ますますむずかしいということがわか
ってくる。


●常識を信ずる

 ある宗教を信仰すると、さまざまな特徴が現れてくる。

 神秘化、誇大化、妄信化、美化正当化、非現実化、社会逃避性など。さらにカルトとな
ると、組織化、隷属化、上位下達化、信者の愚鈍化、固執化、排他性、閉鎖性などの現象
も現れてくる。

 もともとはその人内部の、依存性の問題と考えてよい。しかし本人自身は、決して、そ
うは思っていない。「私は正しい宗教を信仰している」と、思いこんでいる。この思いこみ
こそが、カルトの最大の特徴と考えてよい。

 ただ誤解してはいけないのは、宗教があるから、(それがカルトであるにせよ)、信者が
いるのではない。それを求める信者がいるから、宗教があるということ。だからその宗教
がおかしいからといって、その宗教を攻撃しても意味はない。

 かえって、それを信じている人たちを、不安にしてしまう。この世界の言葉では、それ
を、「ハシゴをはずす」という。「あなたたちは、まちがっている」と言う以上、そういう
人たちの受け皿を用意しておいてあげねばならない。かわりの思想を、用意しておいてあ
げなければならない。

 その受け皿もないまま、「まちがっている」と言うのは、たいへん危険なことでもある。
そういう人たちは、そういう人たちなりに、ハッピーなのである。そっとしておいてあげ
るのも、その外にいる人たちの役目ということになる。

 へたにハシゴをはずしてしまうと、その人は、情緒不安から精神不安へと陥ってしまう。

 ただその宗教が組織化され、たとえば政治や経済の分野まで影響をおよぼすようなとき
は、話は別である。たとえば政治とからんだ宗教ほど、その宗教が正しいとか正しくない
とかいう判断は別にして、危険なものはない。

 それに対しては私たちの良識をフルに働かせて、警戒しなければならない。「政教分離」
という民主政治の大原則も、そこから生まれた。当然のことである。

 大切なことは、自分で考える習慣と力を、身につけること。おかしいものは、「おかしい」
と言う勇気をもつこと。そして何よりも大切なことは、自分の常識をみがくこと。きたえ
ること。

 ごく自然な人間として、野や山に親しみ、音楽を聞き、絵画を鑑賞しながら、自分の常
識をみがく。ごくふつうの人として、ごくふつうの人とかかわりあいながら、ふつうの生
活をしながら、自分の常識をみがく。

 その常識に従って、人間は、過去、数10万年もの間、生きてきた。これからも生きて
いく。それがまちがっていると言うなら、それを言う人がまちがっている。

 みんなで、その常識を信じよう。守り、育てよう。

 ……ということで、少し話が脱線したので、この話はここまで。

【ワイフとの会話】

 これについて、ワイフと、こんな会話をした。

私「お前は、ぼくを信じているか?」
ワイフ「考えたことないわ」
私「ぼくなんて、信じちゃ、だめだよ」
ワイフ「それも考えたことはないわ」

私「ぼくが浮気しないと思っているのか?」
ワイフ「あんたと浮気する女性なんて、いないわよ」
私「わからないぞ」
ワイフ「まあ、だれかに相手をしてもらえるなら、してもらいなよ。私は、かまわないわ」

私「やきもちを焼かないのか?」
ワイフ「遊びなら、かまわないわ」
私「本気だったら?」
ワイフ「あのね、相手にも、男を選ぶ権利というものがあるのよ。いくらあなたが本気で
も、相手が本気にならなければ、浮気はできないのよ。それでおしまいよ。どうして、あ
なたは、それがわからないの? 本気で相手にしてもらえると、思っているの?」

私「どうして、ぼくは本気で、相手にしてもらえないの?」
ワイフ「三枚目だからよ。やること、なすこと、日本のミスター・ビーンみたい」
私「ミスター・ビーンだって、もてるぞ」
ワイフ「あなたには、ぜんせん、そのムードがないわ。本当に、あなたは、おめでたい人
よ」と。

 いつもワイフと会話をしていると、そういう話になってしまう。高尚な理念も、ワイフ
の頭の中では、ただの雑談。

 それにしても、ミスター・ビーンとは……! せめて、チャップリンくらいに考えてほ
しかった。チャップリンは、女性にもてたという話だ。

【補記】

神秘化……過去の人物にかこつけ、その宗教に神秘性をもたせる
誇大化……その宗教が、すべてと信者に思いこませる。
妄信化……絶対的な善であると、信者に妄信させる。
美化正当化……命をかけるに足りる宗教であると、信じこませる。
非現実化……現実遊離、現実逃避の思想を注入する。
社会逃避性……社会的なもの、人間的なもの、ついでに金銭は無意味と教える。
組織化……信仰が個人というワクをはずれ、組織化する。
隷属化……組織の中では、上下関係を明確にし、下位信者は、上位信者に隷属する。
上位下達化……思想、思想は、常に、上層部から、下層部へと一方的に伝えられる。
信者の愚鈍化……その信仰以外のことは考えさせない。
固執化……その信仰を離れたら、バチが当たるとか、不幸になるとか教える。
排他性……自分たちの信仰以外のものは、まちがっていると排斥する。
閉鎖性……外部との接触を、禁止する。

 これらの項目にあてはまれば、その宗教は、カルトと考えてよい。信仰といっても、「教
え」によってするもの。しかしその基盤は、人間が人間としてもっている常識である。ど
んな信仰をするにしても、その常識の目を曇らせてはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司※

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタイト
ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" height="250" alt="●BL
OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>

●幼児教室(年中・5歳児)byはやし浩司(カレンダー・漢字)

+++++++++++++++++++++++

昨日(2010年3月8日)は、
「カレンダー・漢字」というテーマで
学習を進めました。
最初は、「カレンダー・引き算」という
テーマで教えるつもりでした。

が、途中で、子どもたちが、「漢字を教えろ」
と騒いだので、急きょ、テーマを漢字に
変更。

大切なことは、(教える)ということではなく、
(楽しませる)こと。
「漢字は楽しい」という思いが、やがて
子どもを漢字の学習へと、自ら引っ張って
いきます。

そうした子どもとのやりとり、子ども自らが
伸びようとする力を、このビデオを通して
見ていただければ、うれしいです。

なおこの日は、2人の年少児(4歳児)が
見学に来ていました。
そのため、(遊び)がやや多くなりました。
ご承知おきください。

++++++++++++++++++++++++

【HTML版】
(Blogによっては、HTMLタグのみで、
動画が載せられないところもあります。
そういうばあいは、以下、【HP版】のほうを、
クリックしてみてください。)

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【HP版】
(1)
http://www.youtube.com/watch?v=GpmCUBfiMMo

(2)
http://www.youtube.com/watch?v=pIuqLdkMW44

(3)
http://www.youtube.com/watch?v=1FFrKMZFBmo

(4)
http://www.youtube.com/watch?v=vsouJmPVuO4

(5)
http://www.youtube.com/watch?v=mnBfZbG7jaE


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幼児教室 実践版 年中児の学習 5歳児)


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

●『ハート・ロッカー』+夫婦げんか

++++++++++++++++

先週の金曜日の朝、ワイフとけんかした。
土日と、最悪の週末を迎え、昨日、
月曜日の朝になって、やっと仲直りした。
(今回は、3日も、つづいた!
新記録!)

その間、ひとりで、映画を観てきた。
もちろん、あの映画。
『ハート・ロッカー』。
星は、2つか3つの、★★★(−)。
2つでもじゅうぶん。

なんでもその映画が、アカデミー賞を受賞
したとか。
ああいう駄作が、アカデミー賞を受賞する
ということ自体、アメリカというより、
アメリカ人の心が病んでいることを示す。

数年前の、『アナザー・カントリー』(同じく、
アカデミー賞受賞)のときもそうだった。
二度と見たくない映画。

そう、たしかにアメリカ人の心は病んでいる。
アメリカは、軍国主義化している。
狂っている。
その象徴が、『ハート・ロッカー』ということになる。
そういう点では、『アバター』は、あまりにも
反戦的だった。
言うなれば、『アバター』がもつ、理想主義が、
アメリカによって、拒否された。

さあ、みなさんも、勇気を出して言おう。
「ハート・ロッカーは、駄作!」と。

どうしてあんな映画が、アカデミー賞受賞?
題名すら、今朝には、忘れていた。

そうそう日本のアカデミー賞も、???。
『沈まぬ太陽』が、アカデミー賞受賞?
ああいう映画しかないのだから、しかたない。
それにしても、あんな意味のない映画が、
アカデミー賞受賞?
「日本の映画産業もこの程度?」と、
心底、がっかりした。

++++++++++++++++++

●老年期の夫婦げんか

 私たちのばあい、ちょっとした批判が、そのまま夫婦げんかになってしまう。
大声を張り上げて……というけんかではない。
たがいにヘソを曲げて、たがいに口をきかなくなる。
「離婚してやる!」「離婚しましょう!」となる。

 で、私は、家出。
家を出て、好き勝手なことをする。
映画を見たり、事務所で昼寝をしたり……。
が、やがてさみしくなって、仲直り。
「もういいかげん、こんなバカげた祭りはやめたらいい」と、自分でもそれが
よくわかっている。
わかっているが、どうしても定期的に、繰り返してしまう。

●老年期

 若い人が、「私探し」をするように、老人も、「私探し」をする。
とくに退職後においては、そうである。
が、深刻さという点においては、老人の「私探し」は、比較にならない。
絶壁の縁(ふち)に立たされた状態になる。
あとがない。

 一方、若い人の「私探し」には、未来がある。
どう転んでも、やり直しがきく。
しかし老人の「私探し」には、やり直しがきかない。
しかもすべてが、不可逆的に悪くなる。

 いつも自問する。
「私は何をなすべきか」と。
「何をしたいか」ではない。
「何をなすべきか」と。
それが見つかればよし。
そうでないときは、心が悶々とした霧に包まれる。

 が、迷っていても、しかたない。
とりあえず、今日も始まった。
まず、やるべきことをやる。
やるべきことをやりながら、「自分探し」をする。

おはようございます!
2010年3月9日


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司 

●幼児教室(BW幼児教室byはやし浩司)

+++++++++++++++++

教えるのでは、刺激を与える。
それが私の(指導法)です。
つまり刺激を与えて、子どもの脳を
熱くします。

4歳児でも、引き算の指導は可能
です。
そんな例を、このビデオを通して
理解していただければ、うれしい
です。

はやし浩司

+++++++++++++++++

【YOUTUBE版】


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v/xz5lrnmeGks&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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(HTML版)

http://www.youtube.com/watch?v=l9Qy8TvUMG0

http://www.youtube.com/watch?v=keBXyUqJF5g

http://www.youtube.com/watch?v=xz5lrnmeGks

http://www.youtube.com/watch?v=R23iH2U3o2A

http://www.youtube.com/watch?v=qzw_1ng9amg


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

●自分探し

++++++++++++++++++++++

若い人は(自分探し)に苦労する。
同じように、老いた人も、(自分探し)に苦労する。
同じ(自分探し)だが、老いた人が(自分探し)を
するのは、たいへん。
どちらがたいへんかといえば、老いた人の
ほうが、はるかにたいへん。
若い人には、どう転んだところで、未来がある。
しかし老いた人には、未来がない。
その(未来がない)という部分と、闘わねば
ならない。
まさに「負け戦」。
「消耗戦」。
そういう中での(自分探し)ということになる。

+++++++++++++++++++++++

●どうやって死ぬか

 どうやって生きるかではない。
どうやって「死」を迎えるか、である。
悲観的な見方だが、そういう問題が、(老い)を考えるときは、
いつもついて回る。
そういう中で、自分なりの生きがいを見出さなければならない。
ただじっと、死を待つわけではない。
またそんなことは、不可能。
そんな日々がつづいたら、それこそ、気が変になってしまう。

●死の待合室

 が、いつか「死の待合室」に入る。
それはしかたのないこと。
そこでひとつの方法として、その待合室に入る時期を、できるだけ遅くする。
そのためには、健康を維持し、仕事をつづける。
「生涯、現役」をめざす。
が、それができる人は、きわめて恵まれた人。
それに稀。
たいていの人は、職場を追われ、職を失う。
運が悪ければ、ボケ症状も出てくる。
体も動かなくなる。

●積み重ね

 そういう状況の中で、いかに(自分探し)をするか。
「第二の人生設計」という言葉もあるが、そんな甘いものではない。
また「定年退職をしました。明日から、ゴビの砂漠で、植林でもしてきます」
というわけにもいかない。
そんな取ってつけたようなことをしても、空しいだけ。
長つづきしない。

 (すべきこと)には、哲学的な裏づけがなければならない。
わかりやすく言えば、主義、主張。
長い時間をかけた、(積み重ね)。
(やるべきこと)イコール、(人生の結論)と考えてよい。

●会社人間

 ところで先日、義兄に会ったら、こう断言した。
「サラリーマン社会では、友情は育たない」と。
義兄は、日本でも最大手の楽器メーカーに勤め、付属の音楽学校の
校長まで努めている。
その義兄が、そう言った。

 「会社には、役職退職というのもあってね……。首切りや、リストラ
という段階で、それまでの友情などあっても、粉々に破壊されるよ」と。

 友情すら、育たないという。
いわんや、生きがいをや、ということか。

●無私、無欲

 仕事にもよるが、要するに、(稼ぎのためにした仕事)というのは、
老後の(生きがい)には、つながらないということ。
そう断言するのは危険なことかもしれないが、幻想をもつことは禁物。
わかりやすく言えば、(生きがい)は、個人として、長い時間をかけて、
作りあげていくもの。
しかも無私、無欲でなければならない。
功利、打算が入ったとたん、(生きがい)は霧散する。

 もちろん地位や名誉のためであってはいけない。。
仮にそれがあるとしても、地位や名誉は、あとからついてくるもの。

●偽善

 偽善で身を飾る人は、少なくない。
たいていどこかのボランティア団体に属し、肩書きを並べる。
そしてことあるごとに、それを他人に吹聴する。
「今度、○×NPOの、理事になりましてね」と。

 しかし本気でボランティア活動をしている人は、静か。
私財を投げ打ちながらも、それを人に語ることもない。
私は生涯において、そういう人に、何人か出会っている。
一方、こんな女性(当時、60歳くらい)もいた。

●インチキ

 その女性は、こう言った。
「近所に独居老人がいて、私、見るに見かねて、そういう老人たちを
週に1度、家庭訪問しています」と。
ときには、そういった老人のために、終日、車を走らせることも
あるという。

 私は、感心した。
しかしその女性が、自分の実母の介護をすることになった。
そのとたん、化けの皮がはがれた。
どうはがれたかは、今さらここに書くまでもない。
よくあるケースである。

●悪人

 ボランティア活動に生きがいを見出す人は、多い。
しかしそういう人には、歴史というものがある。
そこにいたる、実績というものがある。
ホームレスの世話をしたとか、孤児のめんどうをみたとか。
そういう実績もないまま、いきなり王手をかけてくる。
そういう人は、偽善者とみてよい。

 中に、「何もしない人より、まし」と思う人がいるかもしれない。
しかし偽善者は、何もしない人より、悪人。
タチが悪い。
弱者を食い物にするという点で、タチが悪い。

●とにかく……!

 話が脱線したが、老いた人が、(自分探し)をするのは、
本当にたいへん。
今、それを実感しつつある。
こんなにたいへんなものだとは、予想さえしていなかった。
毎日、どう生きるか、それを考えるだけで精一杯。
「何かをしなければならない」というところまではわかるが、
その先が見えてこない。
だから結局、毎日が、毎日の繰り返しになってしまう。

 今、ふと、若いころ、シドニーのキングスクロスで見た、
ミュージカル『ヘアー』を思い出した。
それについて書いた原稿を、ここに載せる。
それを載せて、この話は、おしまい。
とにかく、私は、がんばるしかない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どもに生きざまを教える法(懸命に生きてみせろ!)

子どもに生きる意味を教えるとき 

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからすれば
よい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。

 たとえば高校野球。私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの
懸命さを感ずるからではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがして
いる「仕事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲーム
とは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想的なミュ
ージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはなぜ生まれ、な
ぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。

 それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわ
けではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、人生の
目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエー
ル。そのピエールはこう言う。

 『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛するこ
と。信ずること』(第五編四節)と。つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言え
ば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の
中でも、フォレストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみる
まで、(その味は)わからないのよ』と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、
それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。
命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが
宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、
そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあっ
て、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言うなら、懸命
に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。

 言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘志もな
い。毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわ
からない。さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われ
たとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざまでし
かない。

 あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をしていた
ら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら
繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。そういう人生からは、結局は何も生まれな
い。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 キングスクロス ヘアー ミュージカル) 


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

●南下軍の歌(北の都)(旧第四高等学校、応援歌、寮歌)金沢大学、応援歌

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●第18回、法文学部法学科卒業生、同窓会
2010年2月


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http://www.youtube.com/watch?v=jS3Yp0To-l8

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Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

●業(カルマ)(The Deepest Sin in Ourselves) 

+++++++++++++++++++

仏教では、意識を、大きく、
(1)末那識(まなしき)と、
(2)阿頼那識(あらやしき)の2つに
わける。

末那識というのは、意識の総称。
阿頼那識というのは、現代心理学でいう、
「無意識」、あるいはさらにその奥深くに
ある、深層無意識と考えてよい。

その仏教では、末那識(「私である」という
自我)が、阿頼那識におりてきて、そこで
蓄積されると教える。
そして阿頼那識で蓄積された意識は、
今度は反対に、末那識の世界まであがってき、
末那識に影響を与えると、教える。

これについては、何度も書いてきたので、
ここではその先を考えてみたい。
いわゆる「業(ごう)」の問題である。

++++++++++++++++++++

●意識と無意識

 意識の世界のできごとは、常に、無意識の世界に蓄積される。
パソコンにたとえるなら、自動バックアップのようなもの。

(WINDOW7には、自動バックアップ機能というのがついている。
それを使うと、ファイルの変更などをすると、自動的に、別のディスクに
バックアップをコピーしてくれる。)

 仏教では、意識される意識を「唯識(ゆいしき)」とし、眼識、耳識、鼻識、
舌識、身識、意識の6つに分ける。
現代でいう、五感とも、ややちがう。
その唯識が、「私」を形成する。
それが「末那識」ということになる。

●末那識は一部

 この末那識は、先にも書いたように、常に阿頼那識の世界に影響を与え、
そこで業(カルマ)として、蓄積される。
が、現代の大脳生理学でも証明されているように、無意識の世界の広大さは、
意識の世界の広さとは、比較にならない。
20万倍とか、それ以上と言われている。

(数字で表現するのは、正しくない。
要するに、意識として使われている脳は、脳の中でもほんの一部に過ぎない
ということ。)

 よく「業が深い人」という言葉を耳にするが、つまりそれだけ阿頼那識に
蓄積された業は、大きく、反対に、末那識に与える影響も大きいということ。
言い替えると、私たち人間は、意識の世界だけで生きているのではないということ。
実際には、無意識の世界の命令に応じて、生きているということ。

●無意識の世界

 たとえばここに、場面かん黙児の子どもがいるとする。
入園など、はじめて集団に接したようなとき、発症することが多い。
家の中では、ごくふつうに会話ができる。
しかし集団の中に入ったとたん、貝殻を閉じたかのように、かん黙してしまう。

 そういう子どもと接していると、無意識の世界を操作するのが、いかに
むずかしいかがわかる。
あるいは子どもの、その向こうにある、無意識の世界の広さに、驚くことがある。
場面かん黙児の子どもは、その無意識の世界の命令によって行動する。
そのため意識の世界から、いくら話しかけたり、説教したりしても、意味がない。
効果もない。

●業(ごう)

 業(ごう)というのは、そういうもの。
人間がもつ本能とも直結している。
そのためそれが何であれ、またどういうものであれ、意識の世界でコントロールしよと
しても、ビクともしない。
仮にあなたが、きわめて知性的な人であっても、その知性で、コントロール
できるようなものではない。

 たとえば手鏡をもって、女性のスカートの下をのぞいていた大学の教授がいた。
超一流大学を出て、当時は、毎週のようにテレビに出演していた。
地位と名声、それに富を、順に自分のものにした。
にもかかわらず、自らの業を、コントロールすることができなかった。
今度は、電車の中で痴漢行為を働いて、逮捕された。

●ではどうするか

 仏教では、……といっても、釈迦仏教というよりは、釈迦滅後、500〜600
年を経てからだが、「八正道」を説かれるようになり、さらに実践的な、「六波羅密」
が説かれるようになった。

 八正道についても、たびたび書いてきたが、こと、阿頼那識ということになると、
六波羅密のほうが重要ということになる。

 布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目を、「六波羅密」という。
これは私も最近知ったのだが、「波羅密(ハラミツ)」というのは、「徹底」を意味する
サンスクリット語の当て字だそうだ。
漢字の「波羅密」を見て意味を考えても、答は何も出てこない。

(ついでに、日蓮宗の『南無妙法蓮華経』という題目にしても、

南無(ナム)……サンスクリット語の「帰依する」を意味する語の当て字。
しかし実際には、「hello」の意で、現在でもインドでは、あいさつ言葉として、
広く使われている、

妙法(ミョウホウ)……サンスクリット語の、「因果な」を意味する、当て字、

蓮華(レンゲ)……サンスクリット語の、「物語」を意味する、当て字、

「経」の漢字は、中国に入ってから、学者たちによって、付加された。)

 「末那識」「阿頼那識」という言葉についても、無著(むじゃく)、世親(せしん)
あたりから、世に出てきたから、サンスクリット語の当て字と考えるのが妥当。
今風に言えば、「意識」「無意識」ということになる。
(不勉強で、申し訳ない。)

●六波羅密

 ここにも書いたように、布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目を、
「六波羅密」という。
これを実践することにより、人は涅槃(ねはん)の境地に達することができると
言われている。

 もっとも私のような凡人には、それは無理としても、しかしこの中でも「精進」の
重要さだけは、よく理解できる。
「日々に、私たちは前に向かって、邁進(まいしん)努力する」。
それは健康論と同じで、立ち止まって休んだ瞬間から、私たちは不健康に向かって、
まっしぐらに落ちていく。

 よく「私は、修行によって、悟りの境地に達した」とか、「法を取得しました」とか
言う人がいる。
しかしそういうことは、ありえない。
ありえないことは、あなた自身の健康法とからめて考えてみれば、それがわかるはず。

 で、私は、日常生活の中で、つぎのように解釈している。

布施……ボランティア活動をいうが、いつも弱者の立場でものを考えることをいう。

持戒……仏教的な「戒め」を堅持することをいうが、簡単に言えば、ウソをつかない、
ルールを守ることをいう。

忍辱……「忍辱」については、そういう場面に自分を追い込まないようにする。
「忍辱」は、ストレサーとなりやすく、心の健康によくない。
あえて言うなら、『許して、忘れる』。

精進……常に前に向かって、努力することをいう。
とくに老後は、脳みその底に穴が開いたような状態になる。
私はとくに精進を、日常の生活の中で大切にしている。

善定……善を、より確かなものすることをいう。
口先だけではなく、実行する。

知恵……「無知は罪悪」と考えることをいう。

 が、何も「6つの教え」に、縛られることはない。
そういう点で、私はこうした教条的なものの考え方は、好きではない。
まちがってはいないが、どうしてもそれだけに限定されてしまう。
その分だけ、視野が狭くなってしまう。

 要は修行あるのみ……ということになる。

●修行

 ……といっても、私は、仏教的な、どこか自虐的な修行の価値を認めない。
(釈迦だって、そうだったぞ!)
「修行」というのは、ごくふつうの人間として、ふつうの生活を、日常的に
しながら、その中で実践していくもの。
(釈迦が説いた、「中道」というのは、そういう意味だぞ!)
もし、そこに問題があるなら、真正面からぶつかっていく。

 燃えさかる炭の上を歩くとか、雪の中で滝に打たれるとか、そういうことを
したからといって、「修行」になるとは、私は思わない。
少なくとも、私は、ごめん!
またそういうことをしたからといって、「私」の中にある「業」が、消えるわけ
ではない。

●結論

 で、私なりの結論は、こうだ。

 まず業に気がつくこと。
あとはそれとうまく、つきあっていく。
業があっても、なくても、それが「私」。
個性をもった「私」。
それが「私」と認めた上で、(それが弱点であっても、また欠陥であっても)、
前向きに生きていく。

 まずいのは、そういう業があることに気づかず、それに振り回され、同じ
失敗を繰り返すこと。
そのために「知恵」があるということになるが、それについては、また別の機会に
考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 末那識 阿頼那識 正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定、は
やし浩司 八正道 六波羅密、布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵、6つの徳目 修行論)

(付記)

●宿業

 「宿業(しゅくごう)」という言葉もある。
業の中でも、とくに大きく、そして自分の心の奥に潜んでいて、自分を操る業をいう。

 この宿業というのは、若いときにはわからない。
人はその宿業に操られるまま、それを「私」と思いこむ。
が、加齢とともに、それが少しずつ、姿を現してくる。
現像液につけられた写真のように、姿を現してくる。

 それが「私」ということになるが、ときにその醜さに、驚くかもしれない。
「これが私の顔か!」と。
そしてそれまでの「私」が、いかに業に振り回されていたかを知る。
つまり私であって、私でない部分に振り回されていたかを知る。

 言うなれば、若いときというのは、「煩悩(ぼんのう)」のかたまり。
大脳生理学的にいうなら、ドーパミンに操られるまま。
それが「生的エネルギー」(ユング)ということになるが、しかしそれは「私」ではない。
ほんとうの「私」は、深層心理の奥深くにあって、なかなか姿を現さない。
しかもその「私」の大部分は、0歳期〜からの、乳幼児期に作られる。

 もちろん宿業がすべて悪いわけではない。
(ふつうは、宿業イコール、悪という前提で考えるが……。)
人間のもつ多様性は、煩悩によって作り出される。
またそれから生まれるドラマが人間の世界を、うるおい豊かで、楽しいものにする。
もちろんその反対もある。
憎しみや悲しみが、暗くて重い歴史を作ることもある。
が、もしなぜ私たち人間が、今、こうして生きているかと問われれば、そうした
ドラマの中で、懸命に生きるためということになる。

 そう、懸命に生きるところに、私たちの生きる意味がある。
追い詰められても、追い詰められても、土俵間際でふんばってがんばる。
それが「生きる」ということになる。

 だれにも宿業はある。
宿業のない人は、いない。
またあることを、恨んではいけない。
大切なことは、そうした宿業と仲良くすること。
どんなに醜い顔をしていても、結局は、それが「私」なのだから……


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司※

●知恵

++++++++++++++++++++++

布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目を、
「六波羅密(ハラミツ)」という。
このうちの「布施、持戒、忍辱、精進、善定」については、
たびたび書いてきた。
が、「知恵」については、あまりにも当たり前のことと
思い、書いたことがない。

++++++++++++++++++++++

●知恵の重要性

 教育の世界では、「無知は罪」と考えてよい。
親の無知が、子どもの心をゆがめるというケースは少なくない。
相手がいないばあいなら、無知であることも許される。
しかし相手がいて、その相手に影響を及ぼすなら、「無知は罪」となる。
しかもその相手というのが、無抵抗な子どもというのなら、なおさらである。
そういう意味では、総じて言えば、愚鈍は恥ずべきことであって、けっして誇るべきことではな
い。

 で、六波羅密においては、「知恵」を6番目の徳目としてあげた。
もちろんこれは私の勝手な解釈によるもので、仏教学者の人たちなら、顔を真っ赤にして怒る
かもしれない。
六波羅密は、大乗仏教(北伝仏教)の修行法の根幹をなすものである。
「はやし(=私)ごときに、何がわかるか!」と。

●善と悪

 そこで私の善悪論の根幹をなす考え方について。
私はいつもこう書いている。

「悪いことをしないからといって、善人というわけではない」
「よいことをするから、善人というわけでもない」
「人は、悪と積極的に戦ってこそ、善人である」※と。

 「悪と戦う」というのは、(外部の悪)はもちろんのこと、(自分自身の内部に潜む悪)もいう。
このことも、子どもの世界を観察してみると、よくわかる。

 何もしないで、静かにおとなしくしている子どもを、よい子どもとは言わない。
あいさつをきちんとし、先生の言うことをハイハイと、従順に従う子どもを、よい子どもとは言わ
ない。
身近でだれかが悪いことをしたとき、それを制したり、戒める子どもを、よい子どもという。

 実際、よいこともしなければ、悪いこともしないという人は、少なくない。
万事、ことなかれ主義。
小さな世界で、丸く、こじんまりと生きる。
しかしそういう人を、善人とは言わない。
「つまらない人」という。
ハイデッガー風に言えば、「ただの人(das Mann)」。

 で、私たちは、積極的に悪と戦っていく。
そのとき最大の武器となるのが、「知恵」ということになる。
知恵なくして、人は、悪と戦うことはできない。
「悪」のもつ愚鈍性を見抜いたとき、善は悪に打ち勝ったことになる。
これには、(外部の悪)、(内部の悪)もない。

●知恵を磨く

 愚鈍の反対側にあるものが、「知恵」ということになる。
そう考えると、知恵が何であるかが、わかる。
言い替えると、「考える力」、その結果として得られるのが、「知恵」ということになる。

 誤解してはいけないのは、知識イコール、知恵ではないということ。
いくら知識があっても、それを反芻し、消化しなければ、知恵にはならない。
その「反芻し、消化する力」が、「考える力」ということになる。

 このことは反対に、老人の世界を観察してみると、よくわかる。
認知症か何かになって、考える力そのものを喪失したような老人である。
口にすることと言えば、過去の愚痴ばかり。
そういう老人には、ここでいう「悪と戦う力」は、もうない。
もちろん善人ではない。
善人とは、言いがたい。

 が、だからといって、善人になるのは、難しいことではない。
自分で考えて、おかしいと思うことについては、「おかしい」と声をあげるだけでよい。
たったそれだけのことだが、その人をして、善人にする。

+++++++++++++++++

(注※)3年前に書いた原稿を添付します。
日付は、2007年9月26日(水)と
なっていますが、この原稿自体、
さらにその6、7年前の2000年ごろ
書いたものです。

+++++++++++++++++

●善と悪

●神の右手と左手
 
 昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であるという。善が
あるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえないということら
しい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いているの
がわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反キリス
ト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるものすべて
が、悪であるというわけである。

●悪と戦う

 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。それを
必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。

トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が
必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。もっと言えば、善人のフリをするのは簡単だ
が、しかし悪人であることをやめようとするのは、至難のワザということになる。もともと善と悪
は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道徳を考える上で、たいへん重要な意味をも
つ。

 子どもに、「〜〜しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさい」「クツ
を並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。人が見ていると
か、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして自分の中の邪悪さと戦
うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえばどこか会館の通路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、まわりにはだれも
いない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういうとき、自分の中の
邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそが道徳ということになる。

●近づかない、相手にしない、無視する

 が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのように自分
の行動パターンを決めている。

たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思い、でき
るだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そういったルールに
は、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。

駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差点へ
きたら、信号を守る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもないことかもし
れないが、そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もともと考えなければならないよ
うな問題ではない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。とき
として、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、結局は、近づ
かない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。

それは自分の時間を大切にするという意味で、重要なことである。考えるエネルギーにしても、
決して無限にあるわけではない。かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと
前向きなことで使いたい。だから、近づかない。相手にしない。無視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニーチェ)こと
にはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、それから逃げて
いるだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くなったのでもない。そこ
で改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるのか。あるいはまたその「力」を
得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、その謎(なぞ)を解くカギがあるように思
う。

●子どもの世界

 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。ここに書い
たが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子どものばあい、悪
への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の子(小3)に、こんな子
どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで私が、
「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「いいです。私、こ
れから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が食べられない」とも言
った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのものだ
ろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がかたいからだろう
か。ノー! では、何か?

●考える力

 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買ってあげ
ようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判断して、「飲ん
ではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれないが、こうしたケースで
は、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思ならわかるが、「飲みたくな
い」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかったはずである。あるとすれば、自分
の判断に従って行動しようとする意思ということになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自ら考える力」
こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』という言葉を使って、それ
を説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人にはなりえない。よく誤解さ
れるが、よいことをするから善人というわけではない。悪いことをしないから善人というわけでも
ない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじめて、善人になれる。

 が、ここで「考える力」といっても、2つに分かれることがわかる。

1つは、「考え」そのものを、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理ということ
になる。子どものばあい、しつけも、それに含まれる。

もう1つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間になる方法。
一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。どちらを選ぶかは、そ
の人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問題がからんでくる。それに
ついては、また別のところで書くとして、こうして考えていくと、人間が人間であるのは、その「考
える力」があるからということになる。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく行動できる
というわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも収拾できなくなって
しまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、その考える力、あるいは
考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える力」こそが、善と悪を分ける、
「神の力」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 善と悪 善人と悪人 考える力 知恵 智慧 知性 知識)


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

●仏教でいう「あの世」論

++++++++++++++++++

仏教では、「あの世(=来世)」思想を、
信仰の根幹にしている。
しかし釈迦自身は、「あの世」という
言葉も、また概念も一度も、口にしていない。
ウソだと思うなら、原始仏教典である、
『法句経』を、端から端まで読んでみる
ことだ。

仏教に「あの世」思想が混入したのは、
インドにもともとあった生天(しょうてん)
思想を、後の仏教学者たちが取り入れた
ためと考えてよい。

「生前に行いにより、人は死後、天上界
という理想郷で、生まれ変わることが
できる」というのが、生天思想である。

++++++++++++++++++

●釈迦

 釈迦自身は、きわめて現実主義的な、つまり現代の実存主義に通ずるものの考え方をして
いた。
いろいろな説話が残っている。

たとえば1人の男が釈迦のところへやってきて、こう言う。
「釈迦よ、私は明日、死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればいいか」と。
すると釈迦は、こう言って、その男を諭す。
「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

 ここでは記憶によるものなので、内容は不正確。
またこの説話は、私のエッセーの中でも、たびたび取りあげてきた。
しかしこの説話の中でも、釈迦は、「あの世」という言葉を、まったく使っていない。
もしそのとき釈迦が「あの世」を信じていたのなら、その男に、こう言っただろう。
「心配しなくてもいい。あの世でちゃんと生まれ変わるから」と。

●あの世論

 一方、キリスト教やイスラム教では、「天国」を、しっかりと説く。
仏教で言う「天上の理想郷」ということになる。
どちらが正しいとか、正しくないとか、そんなことを論じても意味はない。
また釈迦自身はどう考えていたかを論じても、意味はない。

 現実に私たちは、今、こうしてここに生きている。
そしてやがていつか、近い将来、この肉体は分子レベルまで、バラバラになる。
こうした(現実)の中で、いかに有意義に、心豊かな人生を送るか。
それが重要。
そのために宗教というものがある。
そのひとつに、「あの世」に希望を託して生きるという方法もある。
「天国」でも構わない。

 しかし私自身は、「ない」という前提で生きている。
何度も書くが、それは宝くじと同じ。
当たるか当たらないか、それがわからないまま、当たることを予想して、家を買ったり、
車を買ったりする人はいない。
同じように、あるか、ないか、それがわからないまま、「あの世」に、希望を託して
生きることはできない。

 死んでみて、「あの世」があれば、もうけもの。
そのときは、そのときで、考えればよい。
宝くじにしても、当たってから、賞金の使い道を考えればよい。

●珍問答

 話はぐんと脱線する。
こんな珍問答がある。
(私が考えた珍問答だが……。)

 平均寿命が、40年とか50年とかいう時代には、こうした問題は起こらなかった。
その前に、人は死んだ。
しかしその平均寿命が、70年とか80年になった。
とたん、ボケ問題が、大きくクローズアップされるようになった。

 そこで「あの世」へ行く老人たちは、どういう状態で、「あの世」へ行くのかという問題。
私の印象に残っている老人に、こんな老人がいた。
特養にいた老人(女性、85歳くらい)だが、一日中、顔をひきつらせ、こう言って
叫んでいた。
「メシ(飯)は、まだかア!」「メシは、まだかア!」と。

 細面の美しい顔立ちを、そのまま残した女性だった。
だからよけいに、印象に残った。
そこで珍問答というのは、これ。

そういった女性が「あの世」へ入ったら、どうなるか?、と。
「あの世」でも、やはり同じように、「メシはまだかア!」と叫びつづけるのだろうか。
それとも、一度、若くて美しい女性にもどって、「あの世」へ入るのだろうか。

 インドの生天思想によれば、「生まれ変わる」ということだから、赤ん坊になって
生まれ変わるということになる。
すると、ここで最大の矛盾が生じてくる。

●矛盾

 善人と悪人のちがいは、0歳期〜の環境によって決まる。
その人個人の責任というよりは、その人を縛りつけている「運命」による。
私たちの身体には、無数の「糸」がからみついている。
その「糸」が、ときとして、私たちをして、望まぬ方向に導くことがある。
それを私は、「運命」という。

 言い替えると、どんな赤ん坊でも、理想郷で生まれ育てば、善人になる。
だとするなら、その入り口で、人間を差別する方が、おかしい。
「あなたは悪人だったから、理想郷には入れません」と、どうして言うことが
できるのか。
だれが言うことができるのか。

●「この世」が「あの世」

 ……とまあ、こういう意味のない問答は、しても、時間の無駄。
もし「あの世」がほんとうにあるのなら、私がすでに何度も書いているように、
今、わたしたちが住んでいる「この世」のほうが、「あの世」と考えるのが正しい。
私たちは、理想郷である「あの世」に住んでいて、ときどき「この世」、つまり
「あの世」から見れば、「あの世」へやってきて、「この世」で生きている。

 「この世」には、地獄もあれば、極楽もある。
国単位で、地獄もあれば、極楽もある。
さしずめ、餓死者が続出しているK国は、地獄ということになる。
イラクでも、アフガニスタンでもよい。
一方、北欧の国々は、極楽ということになる。
そういう理屈なら、私にもわかる。
納得する。

●希望

 では、生きがいとは、何かということになる。
死んだら、何もかもおしまいというのは、あまりにもさみしい。
それについては、以前、こんな原稿を書いたことがある(中日新聞発表済み)。
「努力によって、神のような人間になることもできる。
それが希望」と。

それをそのまま紹介して、このエッセーをしめくくりたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


【子どもに善と悪を教えるとき】

●四割の善と四割の悪 

 社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさない
で、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、
「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

 つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をす
る者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマり
やすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生
徒を、プールの中に放り投げていた。

 その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対しては
どうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強して
いる親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動
物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界にな
ってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の
世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書
についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

 もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希
望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それ
がわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世
界だけをどうこうしようとしても意味がない。

 たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう
環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの
仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそ
れと闘っているだろうか。

 私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校
生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際を
していたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

 「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手
の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それ
が問題なのだ。


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

●雑感・あれこれ

 ここ数日、猛烈な北風が吹き荒れている。
そんな中、空模様をながめながら、畑づくり。
植えたばかりのレタスやイチゴに、風よけを立てる。
全部で、15、6苗。
いろいろな野菜の苗を植えたが、そのうちいくつかは、付け根のところで葉が折れてしまった。
ネギの苗も、一度は背を伸ばしたが、また畑に身を横たえてしまった。
それにしても、強い風。
台風並み。


●検索

 書いた原稿は、500〜600枚(40字x36行)ごとに、「原稿集」としてまとめている。
その原稿集が、現在、計3万枚を超えた。
(3万枚だぞ!)
ふつう単行本1冊分が、120〜150枚。
3万枚ということは、単行本にすれば、200冊以上!

 ほとんどの原稿は、そのままネット上で公開している。
そのこともあって、自分の書いた原稿をさがすときは、このところネット上でさがすことが、多く
なった。
たとえば「はやし浩司」+(書いた文章の一部)で検索して、自分の書いた原稿をさがす。
先ほども、グーグルの検索エンジンを使って、「はやし浩司 善人というわけではない」というよ
うにして、原稿をさがした。
そのほうが便利だし、早い。
これもネット、つまりインターネットの別の利用法の1つと考えてよいのでは……。


●「早い」と「速い」

 そのインターネットで、「はやい」と書くとき、「早い」と書くべきなのか、「速い」と書くべきなの
か、よく迷う。
たった今も、迷った。

 スピードが急なときは、「速い」と書く。
時間が短くてすむときは、「早い」と書く。
インターネットでは、「速度」が問題になることが多い。
ファイルをUPLOADするときも、DOWNLOADするときも、「速度」という言葉を使う。
検索するときも、「検索速度」という言葉を使う。
だから検索に要する時間が短いときは、「速い」と書くべきなのか、「早い」と書くべきなのか、
わからなくなる。
 
 理屈で考えれば、「早い」が、正しいということになる。
しかし英語では、「fast」と表記している。
となると、「速い」が正しいということになる。
どちらが正しいのだろう?


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

●老齢期の思考傾向

+++++++++++++++++++++++

老齢期になると、独特の考え方をするようになる。
おおまかに言えば、(1)極端性、(2)狭小性、
(3)退行性、(4)偏屈性が見られるようになる。
順に考えてみたい。

+++++++++++++++++++++++

(1)極端性

 その人の一部だけを見て、それを極端化し、それでもって、その人のすべてを判断
するようになる。
たとえば、「あの林(=私)は、叔母の葬儀に顔も出さなかった。
だからあいつは、人間のクズだ」というような言い方をする。

 自分の価値基準を極端化する。
全体を見て、考えることができなくなる。
あるいは全体を見て、その人を判断できなくなる。
「オール、オア、ナッシング(すべてか、ゼロか)」という言い方が多くなる。

(2)狭小性

 ものの考え方が、より自己中心的になる。
その地方でしか通用しない価値基準を、相手に求めるようになる。
相手の価値観を認めないばかりか、否定するようになる。

 たとえば、こういう言い方をする。
「浜松(=私が住んでいる町)では、どうか知らないが、お前も生まれは
G県なのだから、G県のしきたりに従ってもらわねば困る」とか。
ものの考え方が硬直化し、融通がきかなくなる。

(3)退行性

 ここでいう退行性というのは、40代、50代〜で、新しくインストール
された情報が消え、20代、10代のころに得たものの考え方に、逆行して
いくことをいう。

 「林君(=私)、あんたも男だろがア!」というような言い方が、それ。

 ものの考え方に、男も女もない。
その人が子どものころにどこかで聞き覚えた、古典的なものの考え方が、
亡霊のように復活してくる。

(4)偏屈性

 要するに、がんこになるということ。
新しい考え方を、受け入れなくなるばかりか、新しい考え方を否定するようになる。
「昔からのしきたりでは……」とか、「世間では、こうだ」というような言い方が
多くなる。

 こまかいことにこだわり、それを針小棒大に考える。
(1)で書いた、「極端性」にも通ずる。
よくよく考えれば何でもないことなのに、いつまでもそれにこだわる。
あるいはそれを自己正当化の方便にする。
「あの林(=私)は、オレの家に遊びに来たとき、みやげひとつ、もってこなかった。
だから断交した」というような言い方が、それ。

●脳みそ

 こうした老齢期特有の考え方は、老齢期になればなるほど、顕著に現れてくる。
基本的には、(1)脳みその性能が低下する、(2)脳みその硬直性が進む。

 子どもの世界でも、伸びる子どもは、頭がやわらかい。
ひとりで遊ばせても、身のまわりから、つぎつぎと新しい遊びを発明していく。
そうでない子どもは、そうでない。
趣味も遊びも、かぎられたものになりやすい。

 こうした傾向が、老齢期には、さらにはっきりとしてくる。
新しいことに興味をもたなくなる。
新しいことをしても、身につかない。
すぐ忘れる。
新しいことをしたいという気力そのものが、弱くなる。
大脳生理学的には、新しいニューロンの形成が、鈍くなるということか。
あるいは欲望と欲求を司る、ドーパミンの分泌が、減少するということか。

 一度こうなると、あとは加速度的に、老人に向かって、まっしぐら。

●では、どうするか?
 
 「健康」には、3種類ある。
(1)肉体の健康、(2)精神の健康、それに(3)脳みその健康。

 肉体の健康と精神の健康は、わかりやすい。
しかし脳みその健康は、外からはわかりにくい。
脳のCPU(中央演算装置)がからんでいるだけに、本人も気づきにくい。
脳梗塞や認知症か何かになれば、なおさらである。

 そこで、こと(3)脳みその健康ということになれば、適切な刺激を与えつづける
しかない。
毎日のジョギングが肉体の健康を維持するように、それに似た方法で、脳みその
健康を維持する。

 参考になるかどうかわからないが、私たちの夫婦のばあいは、こうしている。

(1)週に2度は、劇場で映画を観る。
(2)週に1度は、近くの温泉で保養する。
(3)月に2、3度は、軽い旅行をする。
(4)本代、雑誌代は、けちらない。

 家でDVDを観るという方法もあるが、何といっても、迫力がちがう。
だから劇場で映画を観る。
(ワイフは、家でDVDを観ているときは、いつも居眠りをしているぞ!)
それに昼寝は、ボケ防止には、たいへん効果があるとか。
たがいに励ましあって(?)、昼食前後に、30〜40分の昼寝をするように
心がけている、など。

 が、それでも脳みその性能の低下は、いかんともしがたい。
気力を維持するだけでも、たいへん。
どうかすると、すぐ眠くなる。
実感として、それがわかる。

 あとはストレスを避ける。
うつ状態になると、どうしても(こだわり)が強くなる。
(こだわり)が強ければ強いほど、脳のほかの部分の活動が低下する。


Hiroshi Hayashi+++++++March 2010++++++はやし浩司

●似顔絵

++++++++++++++++++

幼稚園児が、私の似顔絵を書いてくれた。
それを加工して、似顔絵から声が出るようにしたい。
そのセリフを、考える。

++++++++++++++++++

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Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

●羞恥心(しゅうちしん)(生の文化論)

++++++++++++++++++++++

週に1度は、近くの温泉へ行って、気分転換を図る。
夜遅く行くことが多い。
そこでのこと。
こんなことに気がついた。

最近の若い男たちは、タオルで前を隠さない。
平気というか、あれをブラブラさせて、浴場内を
歩いている。

そのことをワイフに話すと、ワイフも、同じような
ことを言った。

女湯の一部に、大理石を敷き詰めたようなところがあるらしい。

「先日もね、若い女の子が3人、大の字になって、
寝ころんで、話をしていたわ。
もちろんどこも隠さないで……」と。

私たちが子どものころには、どこの街角にも
銭湯というものがあった。
それなりにマナーが確立していた。
しかし今は、そのマナーも消えた。

私「前を隠す女の子はいないのか?」
ワ「そんな女の子はいないわよ」
私「平気なのか?」
ワ「平気みたい」と。

++++++++++++++++++++

●文化

 学生時代……といっても、40年も前のことだが、オーストラリアでは、
みな、素っ裸で泳いでいた。
男も、女も、ない。
(もちろん公設の海水浴場では、みな、水着をつけていたが……。)

 あるいはメルボルン市内のスーパーマーケットが、「裸の客は、50%引き」
という広告を出したこともある。
(数字は、記憶によるものなので、不正確。)
経営者は裸になる客はだれもいない……あるいは少ないと思っていた(?)。
客寄せの宣伝のつもりだった(?)。
しかし店を開いてみると、裸の客が、どっと押し寄せた。
みな、素っ裸。
素っ裸で、買い物をし始めた。
女性の客のほうが多かったという話も聞いている。

 また当時、大学の構内でも、ブラジャーをつけている女子学生は、ほとんど
いなかった。
中には、下の下着すら身につけていない女子学生もいた。
そういう女子学生が、男子学生の前で、平気であぐらを組んで座る。

 さらにこんなこともあった。
私がある女子学生の部屋でお茶を飲んでいたら、その女子学生が
私の目の前で、衣服を着替え始めた。
私のガールフレンドでも、何でもなかった。
その女子学生が、上半身、裸で、である。

あるいは大学では、ストリーキングというのが、流行(はや)った。
紙袋で顔だけを隠し、素っ裸で、大学構内を走り回るという遊びだった。
それを見かけると、学生たちはみな、歓声をあげて喜んだ。

 そのとき私が受けたショックがどんなものか……。
今の若い人には理解できないかもしれない。
「裸」に対する考え方が、日本人の私とは、まったくちがっていた。
が、40年前に青春時代を送った人なら、私が受けたショックを理解できる
はず。

●生の文化

 羞恥心のある者からは、羞恥心のない者が、理解できない。
羞恥心のない者からは、羞恥心のある者も、これまた理解できない。
たとえばイスラム教国の中には、女性のばあい、顔すら隠しているところがある。
日本人の私たちにすれば、奇異な風習に見えるが、彼らは、けっして
そうは思っていない。
そういう国の人が、この日本へやってきたら、どうなるか。
それはちょうど、40年前の私と、逆の立場ということになる。

 つまり羞恥心というのは、その国の文化と深く結びついている。
そしてそれがその国の人たちの常識になっている。
となると、「文化とは何か」ということになるが、言うなれば、「約束の
集合体」ということになる。
それが如実に表れるのが、裸文化。
言うなれば、「生の文化」。
「生」は、「ナマ」と読んでもよいし、「セイ」と読んでもよい。
「衣服」などというものは、それが着物であれ、ドレスであれ、
裸文化を包む、包装紙のようなもの。
「裸」をどう考えるか。
少し大げさな感じがしないでもないが、それが文化の基本と考えてよい。

 その文化の基本が、このところ、大きく変化し始めている。
そのひとつとして、日本人から、羞恥心が、急速に消え始めている。
肉体の羞恥心だけではない。
心の羞恥心も、それに含まれる。
みなが、自分の心を赤裸々に語り始めている。
おもしろい現象である。

 ちなみに私は、この年齢になっても、そういった場所では、きちんと
タオルであそこを隠して歩いている。


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

●不安の原点(Where does Anxiety come from?)

+++++++++++++++++

私たちの日常生活は、「不安」との
闘いと言っても過言ではない。
個人差はあるが、「不安」のない人は、
いない。
金持ちも貧乏人も、健康な人も、
病気の人も、そして若い人も、
老いた人も……。
みなが、共通に「不安」をかかえている。

その原因のひとつが、「現代社会」が、
構造的にもつ欠陥と考えてよい。
つまり私たちは、「欲望」を解き放った
ことによって、便利で、未来志向型の
生活習慣を手に入れた。
つまり飽くことを知らない、未来への
欲望が、「不安」の原点になっている。

「現代社会」では、「後れること」イコール、
「敗者」を意味する。

そのことをキリスト教の世界では、アダムと
イブの説話を通して、説明する。
アダムとイブは、「知識の実」を食べ、
神を裏切る※。
知識の実と引き替えに、人間は、それ以後、
常に「不安」と同居することになる。
つまり自分で考えて行動する自由は手に
入れた。
しかし同時に、神の教えには背くことに
なった。
キリスト教でいう「原罪」というのは、
それをいう。

悶々と晴れることのない不安。
ひとつの不安を克服すると、その向こうに
もうひとつの不安が現れる。
毎日が、この繰り返し。

++++++++++++++++++

●スズメと山鳩

 朝、起きると、最初に庭に、鳥の餌をまく。
その直後、数秒を待たないうちに、スズメや山鳩がおりてきて、その餌を食べる。
こんな習慣が、もう20年近く、つづいている。

 そんなとき、ふと、こう思う。
私という人間は、かなりいいかげんな人間である。
「毎朝」といっても、(ここ数年は、たしかに毎朝だが……)、時に、忘れることもある。
そんな人間を、スズメや山鳩は、その時刻になると、屋根の端に列をなして、待っている。
「スズメや山鳩は、不安に思うことは、ないのだろうか」と。
つまり「私という人間に、不信感をもつことはないのだろうか」と。

私がスズメや山鳩なら、私という人間を信用しない。
「あの林(=私)は、いいかげんな男だ。
信用してはいけない」と。
が、信用しない分だけ、スズメや山鳩は、不安になるはず。
「今朝は、ちゃんと、餌をまいてくれるだろうか」と。

●後れる

 ほんの10年前まで、幼稚園の教師は「後れる」という言葉を、よく使った。
今でも年配の教師は、よく使う。
子どもが幼稚園を休んだりすると、「後れますから、幼稚園へ子どもをよこしてください」と。
私も、子育ての最中には、よく言われた。
 
 しかし何から、後れるのか?
さらに言えば、どうして後れてはいけないのか?
もう少しわかりやすい例で説明しよう。

 新しいゲームソフトが発売になるたびに、子どもたちの世界がザワつく。
多くの子どもたちは、発売と同時に、そのゲームソフトを買う。
親や祖父母に頼んで、買ってもらう子どももいる。
「売り切れになるといけないから、(学校へ行っている間に)、買っておいてよ」と。

 で、私はその中の1人に、こう聞いたことがある。
「ゲームの中身を確かめてから、買ってはどう?」と。
すると、その子どもは、こう答えた。
「そんなことしてたら、後れてしまう」と。

 多くの子どもたちは、そのゲームがほしいから買うのではない。
1日でも早く、それを手に入れ、ほかの子どもたちに先んずるために買う。
つまり自分のステータスを守るために、買う。

●「不安」との闘い

 こうした現象を、だれが笑うことができるだろうか。
これは子どもの世界の話だが、おとなたちも、まったく同じことをしている。
子どもの受験を例にあげるまでもない。

 今どき、「受験」を謳(うた)い文句にしていない幼児教室は、私が知るかぎり、私の教室(=B
W教室)以外に、ない。
親のもつ不安を利用すれば、生徒は集まる。
しかしそれは邪道。

 親たちは、心のどこかで強い不安を覚え、子どもの受験競争に狂奔する。
つまりこうした構図は、現代社会全体に、共通している。

 今朝も新聞の折り込み広告が、20枚近く、入っていた。
私は大型電気ショップの広告には、必ず目を通す。
見ているだけで楽しい。

 言うまでもなく、そこは新製品の世界。
今、ねらっているのは、ビデオカメラ。
ハイビジョン撮影は、常識。
小型化も著しい。

こういう世界では、1年でも進歩を止めたら、そのまま敗者の世界に追い出されてしまう。
店どうしの競争も、熾(し)烈になってきている。
私はその広告を見ながら、「この世界も、たいへんだなあ」と思った。
製造会社も、販売会社も、まさに「不安」との闘い。

●では、どうすればよいのか

 先ほど、おもしろいことが起きた。
私がパソコンで、「現代」と打つつもりで、「gendai」とキーを叩いたら、「原罪」という言葉が出
てきた。
入力ミスである。

 そう、まさに「原罪」。
アダムとイブは、神の教えに逆らって、「善悪の知識の実」を食べる。
つまり欲望を解き放つ。
それが「原罪」となって、私たちの身を焦がす。
そのひとつが、「不安の原点」ということになる。

 ……かといって、私たちはこの「世界」と無縁でいることはできない。
わかりやすく言えば、「競争」と無縁でいることはできない。
その「競争」が、絶え間なく、「不安」を生み出す。

 そこで考えられる方法は、2つ。
「おごれる人も久しからず」と、平家物語を書いた兼好法師のように、厭世するという方法。
競争社会から、身をはずしてしまう。

もうひとつは、原罪は原罪として、それを理解した上で、仲よくつきあうという方法。
理解しないまま、つきあうのはよくない。
へたをすれば、欲望の奴隷となってしまう。

さらにもうひとつ、宗教の世界に救いを見出すという方法もあるが、これは私のやり方ではな
い。

 やはり仲よくつきあうしかない。
良質で、適度なストレスは、私たちをむしろ前向きに引っ張ってくれる。
それがまたどこかで「生きがい」につながる。
無数のドラマも、そこから生まれる。
悪いことばかりではない。

(注※)『失楽園は創世記第三章の挿話である。 蛇に唆されたイヴとアダムが、神の禁を破っ
て「善悪の知識の実」を食べ、 最終的にエデンの園を追放されるというもの』(Yahoo 知恵袋
より)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 不安 不安の原点 失楽園 アダムとイブ エデンの東)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司※

●暴走する民主党・小沢一郎独裁政党

+++++++++++++++++

民主党が、暴走し始めた。
検察への報復?
読売新聞(3・13)は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、読売新聞より++++++++++++

 枝野行政刷新相は13日、神戸市で講演し、民主党の小沢幹事長の資金管理団体をめぐる
政治資金規正法違反事件に関し、「検察の捜査手法には、最近問題がある」と述べた。

 また、郵便不正事件に絡み、厚生労働省元局長が、虚偽有印公文書作成などの罪で起訴さ
れた事件について、「検察の間違いではないかという疑いが濃厚になっている」と指摘。「捜査
のあり方をきちっと検証し、刑事訴訟法をはじめ、間違いがない制度にしなければならない」と
語った。

++++++++++以上、読売新聞より++++++++++++

●枝野発言

 報道の要点をまとめてみる。
 
枝野行政刷新相は13日、神戸市で講演し、民主党の小沢幹事長の資金管理団体をめぐる政
治資金規正法違反事件に関し、

(1)「検察の捜査手法には、最近問題がある」
(2)「検察の間違いではないかという疑いが濃厚になっている」
(3)「捜査のあり方をきちっと検証しなければならない」と。

 この発言自体が、日本の三権分立制度を、その根底から否定している。

●三権分立制度

 立法、行政、司法権の3つを、独立させ、分類した機能をもたせることを、三権分立制度とい
う。
相互に監視しあう機能も、併せもつ。
「ならば平等ではないか」と考える人も多いかもしれない。
が、法の立法権をもつ立法府、つまり政府による、他の行政、司法権への介入には、とくに警
戒しなければならない。
行政権が拡大すれば、行政国家となり、同時に、民主主義制度は、その根底からくつがえされ
ることになる。
つまり三権分立とは言いながら、実際には、行政、司法権を、法の立法権をもつ政府から、守
るということを、「三権分立」という。

●司法への圧力

 で、自分たちの親分が、不愉快な思いをしたからといって、内閣を司る一大臣が、このような
発言をすること自体、許されない。
というより、信じられない。
明らかに枝野行政刷新相は、大臣という立場を利用し、「司法」に圧力を加えている。
のみならず、「刑事訴訟法をはじめ・・・」と、法制度のあり方にまで言及している。
まさに越権行為。
「大臣にして、脳みそはこの程度?」と言いたくなるほど、お粗末。

 いうなれば、枝野行政刷新相の発言は、小沢一郎氏への捜査に対する、報復攻撃ということ
になる。
あるいは、つぎなる捜査への、布石的な妨害工作とも考えられる。
そう疑われてもしかたのない状況にある。
現在の今、検察審議会※における審議結果を待ちながら、東京地検は、小沢一郎氏を、贈収
賄罪で立件、起訴をするための、その準備段階に入っている。

●民主主義の崩壊

 こんな発言を容認したら、日本の民主主義制度は、その根底において総崩れとなってしまう。
ぜったいに許してはならない。
そんなことは、ぜったいにあってはならない。
もし「検察の捜査手法には、最近問題がある」というなら、小沢一郎氏への捜査が、腰砕けに
終わってしまったこと。
裏で何があったのか。
腰砕けになったのには、何か、理由があるのか。
むしろ、そちらのほうに重大な関心を寄せるべき。

 さらに言えば、捜査権もない一大臣が、憶測だけで、「検察の間違いではないかという疑いが
濃厚になっている」と。
「疑う」のは司法の仕事。
行政刷新相の仕事ではない。
だいたい、「疑いが濃厚になっている」というのは、どういうことか。
どういう根拠に基づいて、どういう責任ある立場の人物が、そう言っているのか。
まさか仲間の法務大臣が、そう言っているのではあるまい?

枝野行政刷新相は、「検証する」と言っているが、大臣にはその権限もないし、検証能力もな
い。
時代錯誤の、とんでもない発言と断言してよい。

●おごれる民主党

 政権の座についてからというもの、民主党周辺から、信じられないような事件や発言がつづ
く。
「民主党」とは名ばかり。
「小沢党」と言われても仕方ないほど、やることなすこと、独裁的。

が、それ以上におかしいことは、民主党内部から、批判の声があがってこないこと。
自浄作用そのものが、機能していない。
皮肉なことに、派閥政治と言われた、自民党前政権時代のほうが、まだ自浄作用が機能して
いた。
派閥同士が、たがいをけん制しあっていた。
(だからといって、派閥政治を容認しているわけではない。誤解のないように!)

 小沢一郎氏に議員にしてもらった(恩義)はわかる。
若手の議員たちほど、そうだろう。
へたに親分にたてつけば、つぎの選挙のときに、候補者として、立たせてもらえなくなる。
しかしそれこそまさに、平成の忠臣蔵。
正義より、忠義が、優先される。

●封建主義時代の亡霊

 今さら悔やんでも仕方ないが、江戸時代というあの封建主義時代を、しっかりと清算してこな
かったから、こういうことが起こる。
日本人は、いまだかって一度たりとも、封建主義時代を、精算どころか、反省したことがない。
ないばかりか、いまだに美化してやまない。
あの江戸時代という時代が、世界でも類を見ないほど、暗黒かつ、恐怖政治の時代であったこ
とを、忘れてはいけない。
その責任は、もちろんこの私たち自身にある。
いまだに武士道だの、大河ドラマだのと言っているから、こういうことが許されてしまう。

 最後に・・・。
枝野行政刷新相は、親分への忠誠心を示したかったのかもしれない。
あるいはリップサービスをしたかったのかもしれない。
どうであれ、この発言は、日本の民主主義へのあからさまな挑戦ということになる。
けっして容認してはいけない。
けっしてこのまますませてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 民主主義への挑戦 枝野発言 検察批判 三権分立 小沢一郎 民主党)

(注※)検察審議会(Weblioより転載)

●検察官の不起訴処分の妥当性をチェックする機関
検察官が不起訴処分をして刑事裁判にかけられなかった事件について、国民の目線から検察
官の判断を検討するために全国各地に設置されている。

検察審査会制度は、民意を反映させることによって、起訴・不起訴に関する検察官の判断が
ひとりよがりに陥ることを防ぐ役目がある。そのため、地方裁判所の管轄地域ごとに設けられ
た検察審議会につき、司法の専門家ではない一般の国民の中から11人の審査員をくじで選び
出すことになっている。

事件の被害者やその遺族が検察審査会に申し立てることによって、審査が開始される。不起
訴処分にされた事件について、検察官の捜査が不十分だと考えられ、もっと捜査するよう求め
るとき、検察審査会は「不起訴不当」の議決をする。さらに強く踏み込んで、この事件は起訴す
べきだと判断したときは「起訴相当」となる。逆に、検察官の不起訴処分が妥当だと思えば、
「不起訴相当」の議決をすることになっている。

ただし、検察審査会の議決には法的拘束力がなく、検察官がそれでも不起訴のほうがよいと
思えば議決を無視することができる。ところが、ひき逃げ事件を起こし、いったんは不起訴処
分とされた容疑者について、「不起訴不当」の議決を受けた結果、改めて起訴に踏み切り、有
罪の実刑判決となった例もある(以上、『Weblio』より転載)。


Hiroshi Hayashi+++++++March.2010+++++++++はやし浩司

●映画『シャーロック・ホームズ』(Sherlock Holmes)

++++++++++++++++++

数日前、ディズニー映画の『プリンセスと魔法のキス』
を観た。
「観てきた」ではなく、「観た」。
が、ワイフも私も、途中でギブアップ。
私は居眠り。
ふと目を覚まして横を見ると、ワイフも居眠り。
「帰ろうか」と声をかけると、「帰ろう」と。

観客は私たち2人を含めて、3人だけ。
ディズニー作品にしては、星のつけようもないほど、
超ダ作。
観たのは、最初の30分くらいまで。
いまどき王子だの、何だのと、バカげている。

で、その仇討ちというわけでもないが、昨夜、
ロバート・ダウニー・Jr、ジュード・ロウ主演の、
『シャーロックホームズ』を観てきた。
こちらは星3つの、★★★。

が、私は最初の10〜20分で、トリックを見破って
しまった。
そのため、おもしろさは、半減。
見終わったあと、ワイフに聞くと、ワイフは、
最後までトリックを見破れなかったとのこと。
ハハハと笑って、優越感を覚えた。

+++++++++++++++++++

●皮膚ガン(Skin Cancer)

 映画『シャーロックホームズ』を観ていて、ひとつ気になったことがある。
ホームズの意中の恋人役として、レイチェル・マクアダムスが出演していた。
小柄の、細身の身体の女優である。

 映画を観ていて、その女優の左頬上の、シミが気になった。
かなり大きなシミで、10円玉ほどの大きさがあった。
最初、「女優にも、こんな大きなシミがあるのかな?」と思った。
で、そのシミが、映画の終わりごろには、イボのように、飛び出ていた。
厚い化粧をしていたが、それ以上に、大画面。
レイチェル・マクアダムスが画面に大写しになるたびに、私はそこを見た。
(映画の後半部では、右から写すシーンばかりになったのも、?)

たまたまオーストラリアの友人が、皮膚ガンになったという話を聞いたばかりだったので、私は
そのシミやイボが、たいへん気になった。
もちろんだからといって、レイチェル・マクアダムスが、そうだと言うのではない。
ただ、気になったというだけの話。

●オーストラリア人の皮膚ガン

 友人に何度かメールを送ったが、返事では、いつも「だいじょうぶ」と。
「平気」という印象を受けた。
「オーストラリア人には多い病気」とか、「これからは日光を避け、つばの大きな帽子をかぶる」
とか。
が、皮膚ガンといっても、軽く考えてはいけない。
「切れば治る」という病気でもないらしい。

 古い原稿だが、オーストラリア人の皮膚ガンにからんで、こんな原稿を書いたことがある(中
日新聞掲載済み)。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●疑わしきは罰する

 今、子どもたちの間で珍現象が起きている。
四歳を過ぎても、オムツがはずせない。幼稚園や保育園で、排尿、排便ができず、紙オムツを
あててあげると、排尿、排便ができる。

六歳になっても、大便のあとお尻がふけない。
あるいは幼稚園や保育園では、大便をがまんしてしまう。
反対に、その意識がないまま、あたりかまわず排尿してしまう。
原因は、紙オムツ。
最近の紙オムツは、性能がよすぎる(?)ため、使用しても不快感がない。
子どもというのは、排尿後の不快感を体で覚えて、排尿、排便の習慣を身につける。

 このことをある雑誌で発表しようとしたら、その部分だけ削除されてしまった(M誌88年)。
「根拠があいまい」というのが表向きの理由だったが、実はスポンサーに遠慮したためだ。
根拠があるもないもない。
こんなことは幼稚園や保育園では常識で、それを疑う人はいない。
紙オムツをあててあげると排尿できるというのが、その証拠である。

 ……というような問題は、現場にはゴロゴロしている。
疑わしいが、はっきりとは言えないというようなことである。その一つが住環境。
高層住宅に住んでいる子どもは、情緒が不安定になりやすい…? 実際、高層住宅が人間の
心理に与える影響は無視できない。こんな調査結果がある。

たとえば妊婦の流産率は、6階以上では24%、10階以上では39%(1〜5階は5〜7%)。
流・死産率でも6階以上では21%(全体8%)(東海大学医学部逢坂氏)。
マンションなど集合住宅に住む妊婦で、マタニティーブルー(うつ病)になる妊婦は、一戸建て
の居住者の四倍(国立精神神経センター北村俊則氏)など。

母親ですら、これだけの影響を受ける。いわんや子どもをや。
さらに深刻な話もある。

 今どき野外活動か何かで、真っ黒に日焼けするなどということは、自殺的行為と言ってもよ
い。
私の周辺でも、何らかの対策を講じている学校は、1校もない。
無頓(とん)着といえば無頓着。無頓着過ぎる。
オゾン層のオゾンが1%減少すると、有害な紫外線が2%増加し、皮膚がんの発生率は4〜
6%も増加するという(岐阜県保健環境研究所)。
実際、オーストラリアでは,1992年までの7年間だけをみても、皮膚がんによる死亡件数が、
毎年10%ずつふえている。日光性角皮症や白内障も急増している。

そこでオーストラリアでは、その季節になると、紫外線情報を流し、子どもたちに紫外線防止用
の帽子とサングラスの着用を義務づけている。が、この日本では野放し。
オーストラリアの友人は、こう言った。
「何も対策をとっていない? 信じられない」と。
ちなみにこの北半球でも、オゾン層は、すでに10〜40%(日本上空で10%)も減少している
(NHK「地球法廷」)。

 法律の世界では「疑わしきは罰せず」という。
しかし教育の世界では「疑わしきは罰する」。
子どもの世界は、先手先手で守ってこそ、はじめて、守れる。
害が具体的に出るようになってからでは、手遅れ。
たとえば紫外線の問題にしても、過度な日焼けはさせない。紫外線防止用の帽子を着用させ
る、など。あなたが親としてすべきことは多い。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●紫外線対策

 白人は、皮膚ガンになりやすいという話は、よく聞く。
またオーストラリアでは、南極に近いこともあって、オゾンホールが深刻な問題になっている。
日本とはやや事情がちがうようだが、私たち日本人も、警戒するにこしたことはない。

 たまたま今日(日曜日)も、私とワイフは、近くの公園へ、ハイキングに行くことになっている。
紫外線の予防対策だけは、しっかりとして行きたい。
話を戻す。

●映画の予想

 今回、私は『シャーロック・ホームズ』を観て、先にも書いたように、かなり最初の段階で、トリ
ックを見破ってしまった。
学生のころ、アーサー・コナン・ドイルの作品は、ほとんど読んだ。
それもあるかもしれない。
ほかの映画とちがって、シャーロック・ホームズの映画に、超自然現象的な事件(映画の中で
は、黒魔術)が登場するわけがない。
つまりそういう冷めた目があったからこそ、トリックを見破ることができた。

 もちろんここでそのトリックの内容を書くことはできない。
これから映画を観る人に、申し訳ない。
が、まだ公開されていない映画について、トリックを予想するのは許される。
それを予想するのは、楽しい。

●レオナルド・ディカプリオ主演『シャッター・アイランド』

 最初に断っておく。
この映画は、2010年の4月に、劇場で公開される。
この原稿を書いている今は、2010年3月14日。
ここに書くことは、あくまでも、私の推理。
トリックの予想。
というのも、劇場でもらってきた、映画案内には、こうある。

「謎解きに参加せよ」
「巧妙に仕組まれた映像全てがヒント」
「全ての謎が解けた時、衝撃の事実に誰もが言葉を失うだろう」と。

 そこであえてその謎解きに、映画を観る前に、挑戦してみることにした。
映画『マトリックス』、『シクス・センス』、『ミラーズ』……。
どれもおもしろかった。
どれも私の予想の範囲を超えていた。
で、今回は、『シャッター・アイランド」。

●私の推理

 映画『シャッター・アイランド』の映画案内を読んでみよう。
こうある。

「精神を病んだ犯罪者だけを収容する島から、1人の女が消えた……」
「四方を海に囲まれた厳戒な監視体制の閉ざされた島から、1人の女が煙のように消えた。
そこには暗号が残されていた。
解けば解くほど、謎は深まっていく。
この島は、いったい、何をたくらんでいるのか」(以上、映画案内より)と。

 この映画の予告編は、何度か見た。
断片的な映像だが、どこかオカルト的なシーンもいくつかあった。
以上のことを総合すると、私の推理は、こうだ。
(もし私の推理が的中していても、どうか怒らないでほしい。)

 トリックは、簡単。

 正常な捜査官(?)のディカプリオが、その島に乗り込む。
出だしは、ごくふつうの映画。
が、そこは精神を病んだ犯罪者だけを収容している島。
が、捜査が進むうちに、ディカプリオ自身が、少しずつだが、精神を病んでいく。
同時に、精神を病んでいたと思われた囚人たちが、反比例的に正常になっていく。
一方、ディカプリオが島に乗り込んだとき、正常だったはずの(?)看守たちが、最後の場面で
は、精神を病んだ人間に見えてくる……。

 つまり精神を病んだ1人の囚人が消えたのではなく、異常な看守たちによって、正常な1人の
囚人が消された、と。

 正常であるかないかということは、相対的な見方でしかない。
正常な人たちの世界から見れば異常な人たちでも、異常な人たちの世界から見れば、正常に
見える。
反対に、異常な人たちの世界から見れば、正常な世界の人たちが、異常に見える。
正常・異常というのは、あくまでも相対的な見方でしかない。
 
 似たような映画に、(といっても、ここに書いた私の推理が正しいというわけではないが)、古
い映画だが、若いころ、こんな映画を観たことがある。

●兵隊と精神病院

 映画の題名は忘れた。
こんな映画だった。

 ある村に、ドイツ軍が進駐してくる。
が、村は、精神病院に入院していた患者たちをのぞいて、からっぽ。
ほかの村人たちは、みな、逃亡していた。

 で、若い兵隊が、精神病院の患者たちとしばらく、いっしょに過ごす。
最初は、兵隊たちのほうが正常に見え、精神病院の患者たちのほうが、異常に見える。
いかめしい顔つきの兵隊。
一方、どこか間が抜けた患者たち。
兵隊たちが何をしても、ニコニコと笑っているだけ。

が、そのうち、つまり映画が進むうちに、人を殺し合う兵隊たちのほうが、異常に見えてくる。
反対に精神病院の患者たちのほうが、正常に見えてくるようになる。

 最後には、その兵隊が、「頭がおかしくなった」という理由で、その精神病院に、患者として残
る。
ほかの兵隊たちは、村へ進駐してきたときと同じように、今度は別の村に向かって去っていく。
そういう映画だった。
記憶によるものなので、内容は不正確。
しかし印象に残る、たいへんおもしろい映画だった。

 今度の『シャッター・アイランド』も、基本的には、この映画と同じではないか。
私の勝手な推理によるものなので、まちがっているかもしれない。
しかし映画を観る前に、こうして推理を立てるというのも、映画の楽しみ方のひとつ。
私はいつも、そうしている。

 さあ、どうか?
このつづきは、『シャッター・アイランド』を観てから、書いてみたい。
(2010年3月14日、日曜日朝、記)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 シャッターアイランド シャッター・アイランド ディカプリオ シャーロックホームズ 
シャーロック・ホームズ Sherlock Holmes 映画の予想)

(付記)

 あくまでも結果論だが、私の人生においても、同じようなことが起きた。

 私がM物産という商社をやめ、幼稚園の講師になったときのこと。
私の周囲にいた知人たちは、「あの林(=私)は、頭がおかしくなった」と言った。
母ですら、「あんたは、道を誤ったア!」と、電話口の向こうで泣き崩れてしまった。
私が、M物産をやめて、幼稚園の講師になったことを、告げたときのことだった。
しかし当時、すでに私には、企業戦士とか何とかおだてられて、一社懸命でがんばっている知
人たちのほうが、おかしく見えた。

 つまり一方の側から見れば、私は、異常ということになる。
しかしその私は、私のことを異常とは思っていなかった。
いなかったばかりか、会社のためと称して、早朝から深夜まで働いている会社人間(失礼!)
のほうが、異常に見えた。

 どちらがどうというのではない。
そんな失礼なことを書いているのではない。
私が書きたいのは、正常・異常というのは、あくまでも相対的な見方でしかないということ。
言い替えると、「正常」の定義など、ないということになる。
また「正常」の定義など、してはいけない。

 ……というようなことを、映画『シャッター・アイランド』の映画案内を読みながら、考えた。
さて、どんな映画だろう。
公開日に、かならず観に行くぞ!


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●東京大学教授、姜尚中氏

+++++++++++++++++++++

東京大学に、姜尚中氏という教授がいる。
その教授が、韓国で、好き勝手な発言を
繰り返している。
以前から、「?」な発言がつづいている。
日本に住み、日本の最高学府の教授をしながら、
まことにもって、反日的。

朝鮮N報の記事を、まず読んでほしい。

++++++++++++++++++++

●日本は韓国を恐れている?

++++++以下、朝鮮N報(2010年3月10日)++++++

(写真提供=国際交流財団)

 在日韓国人2世の姜尚中(カン・サンジュン)東京大学教授(59)は9日、ソウル・プラザ・ホテ
ル(ソウル市中区)で、「新韓日関係」をテーマに講演した。 

 韓国国際交流財団の招きで講演を行った姜教授は、「今、日本ではキム・ヨナ・シンドローム
がものすごい。日本は韓国に追い越されるのではないかという話も盛んに出ているほどだ」と
述べた。バンクーバー冬季五輪以降、韓国に対する認識が確実に変わったということだ。

そして、「日本の家電メーカーすべてを合わせた売り上げよりも、サムスン電子の売り上げの
方が高く、韓国製自動車に対する評価も急速によくなっていることから、危機感が高まってい
る」と語った。

 姜教授は、中国と日本に挟まれている韓国の存在を「イルカ」に例え、「イルカはとても活発
に動きながら関係を形成していく」と語った。独島(日本名:竹島)問題については、韓国に冷静
な対応を求めた。「一部の(日本の)政治家が妄言を発しても、韓国が感情的に反応する必要
はない。独島はすでに韓国が実効支配しており、これを覆すことは不可能だからだ」と述べた。

 日本のメディアに「東京大学のヨン様」とも呼ばれている姜教授は、「(日本)国籍を取得し、
東京都知事選挙に出てみろ、とも言われた。わたしは日本のオバマ(米大統領)になれるかも
知れないと思う」と笑いながら、「そうした話が出てくること自体、日本が変わってきているという
証拠」と評した。

 姜教授は、日本の新聞・放送・出版界で「クールな論客」と評価されている。学問の垣根を超
えた斬新な文体と共に、「言葉巧みでハンサムな東大教授」というイメージも人気に一役買って
いる。

++++++以上、朝鮮N報(2010年3月10日)++++++

 記事の中から、気になる部分を書き出してみた。

●今、日本ではキム・ヨナ・シンドロームがものすごい。
●日本は韓国に追い越されるのではないかという話も盛んに出ている。
●日本の家電メーカーすべてを合わせた売り上げよりも、サムスン電子の売り上げの方が高
い。
●独島(日本名:竹島)問題については、韓国に冷静な対応を求めた。「一部の(日本の)政治
家が妄言を発しても、韓国が感情的に反応する必要はない。独島はすでに韓国が実効支配し
ており、これを覆すことは不可能だからだ」。
●日本のメディアに「東京大学のヨン様」とも呼ばれている。
●「(日本)国籍を取得し、東京都知事選挙に出てみろ」とも言われた。
●「わたしは日本のオバマ(米大統領)になれるかも知れないと思う」。
●姜教授は、日本の新聞・放送・出版界で「クールな論客」と評価されている。
●「言葉巧みでハンサムな東大教授」というイメージも人気に一役買っている。

 日本人にとって、いちばんカチンと来るのが、「……独島はすでに韓国が実効支配しており、
これを覆すことは不可能だからだ」と発言している部分。
実効支配すれば、それでよいのか。
これこそまさに植民地主義者の論理。

また「一部の政治家の妄言」とは、何だ。
どうしてこんな人物が、東京大学の教授なのか。
またこんな人物を、どうして日本のマスコミは、もてはやすのか。

「(日本)国籍を取得し、東京都知事選挙に出てみろとも言われた」という部分については、いく
ら母国での自慢話とはいえ、言語道断。
その上で、「わたしは日本のオバマ(米大統領)になれるかも知れないと思う」と。
つまり日本の総理大臣になる可能性もある、と。

 こうした発言を、東京大学の教授理事会は、把握しているのか。
どう考えているのか。

●日韓経済戦争

 私は数年前まで、日韓経済戦争というタイトルで、ずっと記事を書いてきた。
しかし2009年のはじめごろ、それもやめた。
やめた理由には、いくつかある。
その第一、日本人の私が、日本人のノー天気ぶりに、あきれた。
「ヨン様、ヨン様」と、いい歳をした女性が、韓国詣でを繰り返していた。
正直言って、「もう、どうにでもなれ」という心境になった。
その結果が、今である。

 が、日韓経済戦争は終わったわけではない。
韓国側からの熾烈な攻撃は、今の今も、つづいている。
つい先日も、朝鮮N報は、こう書いていた。
トヨタのリコール問題に関し、「トヨタ危機がいつまでもつづくと考えるのは、危険である」と。

 わかるか?
この記事の裏に見え隠れする、燃えるような反日感情!
韓国という国は、1960年当時も、そして今も、ほとんど変わっていない。
日本は間近に、そういう国と対峙している。
今の今も、経済戦争はつづいている。

 が、何が「ヨン様」だ!
「東京大学のヨン様」だ!
男性の「顔」のことはよくわからないが、あの顔を見て好感を抱く日本人は、本当にいるのだろ
うか。

 それにしても、好き勝手なことを言っている。
日本というより、日本が完全に、ナメられている。
反対に、ソウル大学に籍を置いている日本人教授が、日本へ戻ってきて、「竹島は、日本の領
土」と発言したら、韓国人は、どのように反応するだろうか。
そういうことも少しは考えながら、「東京大学教授、姜尚中氏」の発言を、もう一度、読み返して
みてほしい。

 私のような割とリベラルな(?)男でも、久々にカチンときた。
何が、東京都知事だ。
バカも休み休み、言え!


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

【天国論】

●ガーデンパーク

++++++++++++++++++

今日の午後、ワイフと2人で、近くの
ガーデンパークへ行ってきた。
浜名湖の北にある、入場無料の公園である。
そこで弁当を食べた。
マガジン用の写真を撮った。
モニターを見ると、空には水色の空が、
広がっていた。
それを見て、私は何度もワイフに
こう言った。

「ここは天国みたいだね」と。

そう、天国のようだった。
何組かの親子連れが通り過ぎた。
犬を連れた人もいた。
車いすに乗った老人も、何組か見た。
のどかで、心温まる光景だった。

++++++++++++++++++

●映画『フィールド・オブ・ドリームズ』

 ケビン・コスナー主演の映画に、『フィールド・オブ・ドリームズ』というのがあった。名作中の名
作である。
その中で、主人公のレイ・キンセラ(ケビン・コスナー)が、父親とキャッチ・ボールをするシーン
がある。
レイ・キンセラは、若いころ父親と口論し、家を飛び出している。
以後、一度も、父親とは会っていない。

 そのレイ・キンセラが、父親とキャッチ・ボールをする。
(映画を観ていない人は、ぜひ、そちらのほうで内容を知ってほしい。)
そのとき、父親がボールを返しながら、レイ・キンセラにこう聞く。
「ここは天国か?」と。
するとレイ・キンセラが、ふと我が家のほうを振り返り、こう答える。
ベランダには妻がいて、子どもがいる。
「Almost Yes(ほとんどそうだ)」と。
見事なほどまでに、感動的なシーンである。

 もし天国というものがあるなら、私はこの世にあると思う。
今日見た、ガーデンパークも、そのひとつかもしれない。
のどかで、平和な光景だった。
どこを歩いても、ほのかな花の香りがした。

●帰りに……

 ガーデンパークからの帰り道、ショッピングセンターで、芝生を買ってきた。
一束、400円弱。
それを5束、買った。
それにネギの苗。
ガーデンパークで、芝の上を歩いているとき、私も、それがほしくなった。
「今年は、芝生に挑戦しよう」と言うと、ワイフはあっさりと同意してくれた。
ガーデンパークのような「天国」というわけにはいかないが、気分だけは、味わえる。
そう思いながら、芝生を買った。

 で、家へ帰って、さっそく作業。
地面を三角鋤(すき)でならし、芝生を並べる。
間を土で埋め、最後に水をたっぷりとかける。
1時間ほどで、作業はすんだ。

 天国……私のような人間は、天国に入れるはずがない。
だいたい、私は、無神論者。
極楽も、無理。
葬儀も戒名も不要と、いつも言っている。
しかし「今」が、「Almost Heaven(ほとんど天国)」なら、私には「今」で、じゅうぶん。
ぜいたくは言わない。
天国がどんなすばらしいところかは知らないが、知らないなら、知らないでよい。
私は、「今」に満足している。

 ……ほんのりとした充実感を覚えながら、書斎に入った。
入って、この原稿を書き始めた。
時刻は午後5時、少し前。


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●雑感

 この1週間、いろいろあった。
少し前、ある玩具メーカーから、仕事の依頼があった。
「玩具に、推薦文を書いてほしい」と。
ついでに新しい企画も、申し込まれた。
が、話が少し進んだところで、先方から、キャンセルしてきた。
私の思想に、問題があるということらしい。
「この世界も、微妙ですから」と、先方の担当者は言った。

 そうかもしれない。
私は一応、幼児教育評論家となっている。
しかし幼児教育の評論だけをしているわけではない。
ご存知のように、宗教評論から、政治評論までしている。
要するに、毎日、書きたいことを、自由に書いている。
それがまずい、らしい。

 「どうぞ、ご勝手に」と思いつつ、そのメールを削除した。

●「色」

 この日本では、政治的な「色」をもった教師は、嫌われる。
左翼系であろうが、右翼系であろうが、事情は同じ。
無色透明であればよいということらしいが、そんな芸当は、私にはできない。
もしそういうことで私から去っていくというのなら、一向に、構わない。
それに私も、もうすぐ63歳。
平均寿命まで、あと15年。
何に遠慮しなければならないのか。
私は私。
その「私」で貫いてやる。
このまま生きてやる。

 しかしその一方で、私のHPやBLOGへのアクセス数が、ぐんぐんとふえている。
現在、2か所の有料HPサービスと、18か所の無料HPサービスを利用している。
平均して、どこも毎日、500〜1000件近い、アクセスがある。
ほかにBLOGもある。

現在、8か所から、BLOGを発行している。
こちらも毎日、300〜1000件近い、アクセスがある。
HPとBLOGだけでも、合計すれば、1日、2万件。

ほかに定期発行の電子マガジンがある。
読者数こそ頭打ちだが、それでも毎週、延べ、1万2000人の人が、読んでくれている。
月になおせば、延べ、4万8000人。

 「色」など気にしていたら、何も書けなくなる。
だから「どうぞ、ご勝手に」と思った。

(注:アクセス数が2万件といっても、2万人ということではない。
1人の人が、複数回アクセスしてくることもある。
が、その一方で、ハイパーリンクといって、カウンターの設置していないページへ直接アクセス
してくる人もいる。
そういう人は、カウント数に入らない。
だから実際には、2万人より、はるかに多いとみるのが常識。)

●私の世界

 そんなわけで……。

 私は自分の書斎に入り、パソコンを立ち上げたとたん、言いようのない開放感を覚える。
「解放感」でもよい。
「ここは私の世界」と思うことも、多い。

 が、何よりもうれしいのは、朝目を覚ましたとたんから、(やりたいこと)があること。
時刻に関係ない。
どこかうつ病気質だから、早朝に目を覚ますこともある。
ときに午前4時ごろ、目を覚ますこともある。
が、そういうときは、思い切って起きてしまう。
「1日や2日、人間は眠らなくても死なない」と、自分に、そう言って聞かせる。

 一応、毎朝、ウォーキングマシンの上で、10〜20分間、運動することにしている。
しかしその運動も、もどかしい。
早く書斎に入りたいという衝動が、繰り返し私を襲う。
もっともそのころになると、頭の中がモヤモヤとしてくる。
書きたいことが、脳みその奥から、煙のように出てくる。

 が、もしその(やりたいこと)がなくなったら、それこそ私は、生きる屍(しかばね)。
自分でもそれがよくわかっている。
あとは、そのモヤモヤを文章にするだけ。
それが楽しい。
私の生きがい。

 そう、そのモヤモヤをはき出したときの爽快感は、なにものにも、代えがたい。
……というような話は前にも書いたので、ここまで。
夕食後は、ワイフとDVDを見ることになっている。
DVDの選択は、ワイフに任せている。
楽しみ!


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司※

【3月15日】

●畑作

昨夜遅く、床につく前、畑を見回った。
冬の冷気を残した、やさしい風が、頬をこすった。
無数に立てた棒の間で、風よけにつくったポリ袋が、ゆるやかに揺れる。
土のにおい。
肥料のにおい。
昨日、ショッピングセンターで、ネギの苗を買い足してきた。
それに併せて、畝(うね)を、一列、細く延ばした。
これからは畑作の季節。

部屋に入って、暖めたミルクに、ハチミツを溶かして飲む。
ミルクが9で、ハチミツが1。
それにココア、もしくはチョコレート、あるいはシナモンがあれば、少し。
これが私の好物。
床につく前には、欠かさない。


●DVD『リトル・ランナー』(英語名は、『Saint Ralph』)

夕食後、DVD『リトルランナー』を観る。
星は5つの、★★★★★。
2004年のカナダ映画。
終わりごろ、ボロボロと涙がこぼれた。
バックにやわらかく流れる、「Hallelujah」の音楽もすばらしかった。

劇場で公開されるから、よい映画とはかぎらない。
劇場で公開されないから、悪い映画とはかぎらない。
配給に乗らない映画の中にも、すばらしい作品はいくらでもある。
『リトルランナー』も、そのひとつ。

DVDを見終わってから、YOUTUBEで「Hallelujah」の曲を
探した。
何度も聴いた。

主役の少年の、飾らない、自然な演技がすばらしかった!


●ウォーキングマシン

 今朝も、書斎に入る前に、ウォーキングマシンで軽く運動をした。
このところ、朝は、20分と決めている。
その20分がすむころには、背中から頭まで、ジワーッと身体が温まってくる。
寒い朝は、これがいちばん。
今朝は、寒かった。
ふとんから出るのがつらかった。


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

【援助論】

++++++++++++++++

意識のズレというのは、恐ろしい。
ズレていても、それに気づくことはない。
脳のCPU(中央演算装置)そのものが、
ズレる。
が、それにとどまらない。
さらに恐ろしいことが、起きる。
ズレたまま、それを基準に、世界を見る。

たちえばこんな話がある。

A氏とB氏は、兄弟。
A氏は、ビジネスに成功して、かなりの余裕が
ある。
一方、B氏は、何をしても失敗。
B氏には、これといった定職もない。
暴力団に属しているといううわさもあるが、
下っ端。
貧乏のドン底を這うような生活をしている。
毎日の食事すら、ままならない。

そこでA氏は、B氏を何とか援助してやろうと、
ときどき庭仕事を頼むことにした。
最初は土日だけの、アルバイト的な仕事だった。
たいしか金額ではなかったが、そのつどA氏は
B氏に、現金で日当を払った。

が、B氏がA氏に感謝したのは、最初だけ。
B氏の仕事は、月を追うごとに雑になって
いった。
一度は、飼い主の犬がほえたことに腹を立て、
棒でたたいてけがをさせたこともある。
B氏は、短気だった。
それに気分屋で、言うことがクルクルと変わった。

で、A氏は、土日の仕事を断わることにした。
が、これにB氏のほうが、激怒した。
「仕事をよこさないなら、たいへんなことになる」と。
「暴力団の、元仲間を呼び寄せて、報復する」とまで、
言った。

意識のズレというのは、そういうもの。
A氏はB氏を、見るに見かねて、助けの手を伸ばした。
B氏は、それに感謝した。
しかし援助もしばらくつづくと、やがて当たり前になる。
さらにしばらくつづくと、援助される側が、それを
要求するようになる。
援助してもらっているという意識が、消える。
そしてB氏のように、それまでの恩義を忘れ、
逆に、「援助しなければ報復する」と、A氏を脅す。

ソウル発、聯合ニュースは、つぎのように
伝える。

++++++++++以下、聯合ニュースより++++++++++++++

【ソウル2010年3月14日聯合ニュース】

 北朝鮮の朝鮮アジア太平洋平和委員会が4日の報道官談話で金剛山・開城観光事業の破
棄を警告したことについて、週刊新聞「統一新報」は13日付で、「南朝鮮(韓国)当局に与えら
れた最後の機会であり警告」だと報じた。

 北朝鮮ウェブサイトの「わが民族同士」が14日に伝えた。統一新報は、韓国当局が本当に
金剛山・開城地区観光の再開を考え、南北関係がさらに取り返しのつかない対決局面に駆け
上がることを望まないなら、ア太平和委員会報道官談話に慎重に対処しなければならないと主
張している。

 この報道官談話発表後の韓国側当局者らの発言についても言及し、「事態の厳重性にまっ
たく気付かない愚鈍な行為にほかならない」と非難した。

 また、韓国当局は、機会はいつでも訪れるものではなく、時間は常に彼らだけのために流れ
るのではないということを知るべきだと指摘。「彼らの固執的でふそんな態度が観光再開はも
ちろん北南(南北)関係に及ぼすことになる厳重な結果を正しく知り、分別をもって身を処すと
よい」と威嚇した。

++++++++++以上、聯合ニュースより++++++++++++++

●何も韓国の肩をもつわけではないが……

 この記事は、読めば読むほど、「?」マークが並ぶ。
援助してもらう側が、逆に、援助してくれる側を、脅迫している。
要するに韓国は、観光事業を再開して、金(マネー)をよこせと言っている。
別のニュースでは、「観光事業を再開しないなら、(韓国側が建てた設備すべてを)、
没収する」と、韓国側を脅している。
しかしこの論法すべてが、おかしい。
私たちのもつ常識(意識)と、大きくかけ離れている。
が、何も韓国の肩をもつわけではない。

 今から25〜30年ほど前、これとまったく同じことを、韓国は日本に対して
繰り返していた。
そのためにストにつぐ、スト。
嫌気がさした日本企業は、韓国からつぎつぎと撤退した。
が、韓国人は、日本国内まで追いかけてきて、「金よこせ!」を繰り返した。
もちろん設備は、「補償」と称して、そのまま韓国側が、没収。

●独裁国家

 話は少し脱線するが、発達心理学の世界には、「自己愛」という言葉がある。
自己中心性が極端に肥大化した状態を、「自己愛」という。
つまり自己中心性のかたまりのような人を、「自己愛者」と呼ぶ。
やることなすこと、自分勝手。
自分のことしか考えない。
「自分だけがよければ、それでいい」と。
自分の失敗すら、他人のせいにする。
軽蔑してさしつかえない人ということになる。

 現在のK国を見ていると、まさにその感じがする。
とくにK国のように、きわめて独裁色の濃い国では、独裁者の心情がそのまま、
国の姿勢となって外に現れる。
K国のおかしさイコール、あの独裁者のおかしさと考えてよい。
が、それにしても、常識をはずれている。
問題は、しかし、そのことではなく、どうしてこうまで意識がたがいにズレて
しまうかということ。
似たようなことを、私たちも、日常生活の中で経験する。
冒頭に書いたような話は、いくらでもある。

●援助

 話を戻す。

 日本は戦後、毎年数兆円規模の海外援助を繰り返してきた。
国連への供出金も、相当な額になる。
しかしその分だけ、外国の国々が日本に感謝しているかというと、それはない。
日本のバブル経済がはじけたとき、それを笑った国はあるが、日本を助けて
くれた国は、ゼロ。
韓国や中国にいたっては、「援助を止めるな」「もっと金をよこせ」と要求してきた。
おおざっぱな言い方だが、大筋では、まちがっていない。

 つまりここに「援助」の落とし穴がある。
援助される側は、(感謝)→(当然)→(要求)→(脅迫)というプロセスを経て、
「援助の意味」そのものを空洞化させてしまう。
だからというわけでもないが、知人、友人関係、さらには親子関係においても、
「援助」するときは、慎重にしたらよい。
一度、(保護)(依存)の関係ができてしまうと、保護する側は、一方的に保護し、
依存する側は、一方的に依存するようになる。
それを断ち切ることもできなくなる。
意識そのものが、ズレてくる。
話を戻すが、現在の韓国とK国との関係が、その一例ということになる。

●『いっしょに釣りに行け』

 私たちは、常に自分の意識をもとに行動する。
それが私たちにとっては、「常識」ということになる。
しかし同時に、そうした意識を、絶対的なものと思ってはいけない。
たとえば援助してやるばあいも、援助するすることによって、相手は感謝している
はずと、考えやすい。
が、そういう意識ほど、アテにならないものはない。
さらに厳密に言えば、金銭的な援助には、意味がない。
あっても、きわめて小さい。
これには、先にも書いたように、知人、友人関係、さらには親子関係においても、
同じ。
もちろん国際関係においても、同じ。

 だからイギリスでは、こう言う。
『(子どもの心をつかみたかったら)、釣り竿を買ってやるより、いっしょに釣りに行け』
と。
つまり『金でモノを買ってやるより、いっしょに苦楽を共にせよ』と。

この格言は、あらゆる場面に通用する。
またそれによってのみ、たがいの意識のズレを防ぐことができる。
国際的な「援助」を考えるときの一助になればうれしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 援助論 自己愛者 援助 意識のズレ 常識のズレ)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●アメリカ人の友人たちへ
(To my friends in USA as to TOYOTA recall problem)
You have almost lost the last friend in Asia!
We, the Japanese, have disappointed very much with Americans.

++++++++++++++++++++++

今度のTOYOTA問題を通して、君たちは、
アジアにおける最後の友人を失いつつある。
それを私たちは、とても残念なことに思う。

You have almost lost the last friend that had remained to be so in Asia through the 
TOYOTA problems, for which we feel very sorry.

より多くの日本人が、反米的になりつつある。
新米的であった私でさえ、アメリカに、大きく失望した。
そして今では、こう言うようになってしまった。
「くたばれ、アメリカ!」と。

More and more Japanese are becoming anti-American and even I, whom I supposed myself 
to be a pro-American, do not hesitate to say, "Down with USA".

再現性のない、インチキ実験?
報道映像の捏造?
さらには保険金目当ての、にせ事故?。などなど。
日本では、急加速は、一例も報告されていない。
それもそのはず。
この日本で、両足を、ブレーキとアクセルの両方にのせて運転する人はいない。
「事故の95%は、運転手によるもの。
車によるものは2%にすぎない」(アメリカ国家ハイウェイ安全局(NHTSA)会長)。

リコール後も、600万台のプリウスについて、60件の苦情があったとか。
(600万台につき、60件だぞ!
GM車やフォード車については、どうなのか?)

それについて、「NHTSAは、さらなる改善策をTOYOTAに命じた」とか。
アメリカよ、少しは、冷静になれ。
これを「日本叩き」と言わずして、何という?

A very doubtful experiment, which was proved to be a fake,
A fabricated report on TV,
False accidents reported in the Congress...,
and more over it is strange that none of these sorts of accidents are reported in Japan.
No stupid men put both feet on each a brake pedal and accelerator pedal at the same time 
in Japan.
Be calm!
NHTSA has ordered Toyota to provide a different solution, since 60 complains are reported 
among 6 million TOYOTA cars. 
Isn't this "Japan Bashing" or what else?

+++++++++++++++++++++

●TOYOTA問題

 今回の一連のTOYOTAの、この騒ぎは、何のか。
よくわからないが、ことの発端は、急加速による事故。
それに1教授のインチキ実験が火をつけた。
その教授は、コードの絶縁体を意図的にはがし、それでもって、急加速を再現してみせた。
しかし「(絶縁体がはがれるなどいうことは)、通常の状態では起こらない」。
そんなことは、一般的な常識。
そこで今度は、同教授は、引っ込みがつかなくなってしまったのだろう。
5ボルトの電圧をかけ、「同じようなことが起こる」と実験してみせた。

 しかし急加速問題は、何もTOYOTAで始まったわけではない。
それ以前からも、いろいろなメーカーの車で、同じようなことは起きていた。
また同じような実験をすれば、ほかのメーカーの車でも、同じような反応を起こすことがわかっ
た。
つまりこれは、TOYOTA車の問題というよりは、アメリカ人の車の乗り方に問題ということにな
る。

 当初、「アクセルとブレーキを同時に踏むと……」という報道が流れたとき、私には、その意
味がよくわからなかった。
「アクセルとブレーキを同時に踏むとは、どういうことなのか」と。
そのまま解釈すれば、アメリカ人というのは、両足を、アクセルとブレーキの両方に、足を載せ
て運転しているということになる。
しかし日本人は、そういう乗り方をしない。
そのためにアクセルもブレーキも右側(アメリカでは左側)に、寄せて並べてある。
 
●性急な結論は危険

 つぎつぎと新事実が、明るみになってきている。
が、今は私もまだよくわからない。
今、ここで結論を出すのは、性急というより、危険。
ただ言えることは、多くの日本人は、アメリカという国に、大きな失望感を覚えつつあるというこ
と。

報道された記事だけを集めておく。
後日、もう少し事実が明らかになった段階で、このつづきを書いてみたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)疑問だらけのデービッド・ギルバート教授の実験

トヨタ自動車は1日付の米議会あて書簡で、南イリノイ大学のデービッド・ギルバート教授が先
週の公聴会で示した見解に反論した。同教授は、2月23日の下院エネルギー・商業委員会の
公聴会で、自ら行った実験でトヨタ車に発生したとされる急加速の状況を再現できたと証言、ト
ヨタの電子系統に問題があるとの見解を示していた。 

ASSOCIATED PRESS 

南イリノイ大学のデービッド・ギルバート教授(2月23日の公聴会で)

 この証言に対し、トヨタは書簡で、独自の調査と同社が調査を委託した技術コンサルティング
会社エクスポネント(米カリフォルニア州)の調査結果に基づいて反論を展開した。トヨタはトヨ
タ側の実験でもギルバート教授と同じ結果が得られたが、他のメーカーの車でも同じ状況が生
じたと主張し、同教授の証言は誤解を招くと批判した。 

  エクスポネントは43ページに及ぶ報告書で、 ギルバート教授の実験を他のメーカーの5車
種で行ったところ、すべて同じ状況が発生したことを明らかにし、実験のような状況は「きわめ
て可能性の低い欠陥が重なった場合にしか生じない」と結論づけた。 

 ギルバート教授は23日の証言で、「トヨタ・アバロン」のアクセル回路に5ボルトを加えてショ
ートさせた状態で走行テストを行ったところ、車載コンピューターがエラーコードを発することな
く、急加速現象がみられた、とした。トヨタは書簡で、ギルバート教授が指摘した状況を再現す
るには、2本のワイヤーの絶縁状態を破壊する必要があった、としている。 

 ギルバート教授から、トヨタとエクスポネントの実験結果に対するコメントは得られなかった。 

 トヨタの広報担当マイク・マイケルズ氏は、ギルバード教授の調査を「誤解を招く不適切なも
の」とし、「システムをいじりまわしている」と批判した(以上「ウォール・ストリート・ジャーナル日
本語版より)。 

★以上の原文

Toyota Motor Corp. rebutted the findings of a study presented at a congressional hearing 
last week that claimed to replicate undetected sudden acceleration in its vehicles and called 
into question the company's electronics. 

TOYOTAは、反証をあげた。

Based on its own study and one undertaken by the Menlo Park, Calif., engineering research 
firm Exponent, which has been hired by Toyota, the car maker said it was able to duplicate 
the result in Toyota vehicles found by David W. Gilbert, a professor at Southern Illinois 
University-Carbondale who testified at a House hearing. But Toyota said it also created the 
same response in vehicles made by competitors, which it said rendered Mr. Gilbert's findings 
misleading. 

ギルバート教授がしたようなことをすれば、ほかのメーカーの車でも、同じようなことが起きる。

"We have reproduced the engine revving and engine speed increase in Toyota's vehicles," 
Toyota said in a statement dated March 1 and sent to congressional committees. "At the 
same time, we have also confirmed that a substantially similar kind of engine speed increase 
phenomenon occurs with the other manufacturers' vehicles." 
Toyota said the tests Mr. Gilbert performed would not happen "in the actual market." To 
achieve Mr. Gilbert's results, Toyota said it had to cut and breach the insulation on two 
wires. 

TOYOTAは、このような急加速は、TOYOTA車だけにかぎったことではなく、ギルバートの行
ったようなテスト(=2本の線の絶縁体をはがし、接触させるようなこと)は、通常の状態では起
きないと言った。

Mr. Gilbert said he will provide an official response but declined to comment on the findings 
by Exponent and Toyota. He said he may travel to California to meet with the research 
concern. 

In the last week, Toyota has endured three bruising congressional hearings questioning its 
belated response to reports of sudden acceleration in its vehicles. While Toyota executives 
acknowledged the company failed to quickly respond to safety issues in the past, the 
company has maintained that faults in its electronics are not behind incidents of unwanted 
acceleration. 

TOYOTAは、安全問題に迅速に答えなかったことは認めるものの、電子部品には欠陥はない
と主張した。

Consumer safety advocates continue to challenge Toyota on that point, charging that the 
rise in acceleration reports-which have been linked to 52 deaths-is correlated to the 
installation of an electronic throttle control system in Toyota and Lexus models beginning in 
2002. 

消費者安全協会は、52人の死亡について、TOYOTA車との関連を追究する。

Mr. Gilbert, who testified before the House Commerce and Energy Committee Feb. 23, said 
he was able to replicate sudden acceleration without creating an error code in the vehicle's 
onboard computer by introducing five volts into the gas-pedal circuitry of a Toyota Avalon. 
In his report, Mr. Gilbert said his findings "question the integrity and consistency" of Toyota'
s computers to detect malfunctions.

5ボルトの電圧をかけたら、急加速現象が起きた。

In a 43-page report, Exponent, the research firm hired by Toyota to investigate its vehicles 
electronics, applied Mr. Gilbert's test to five models including a Honda Accord and a BMW 
325i and found all five reacted similarly. Toyota added that it tested three competitor 
vehicles and found they experienced the same engine revving and speed increase when 
their electronics were similarly altered. 

同じような急加速現象は、ほかのメーカーの車でも報告されている。

"For such an event to happen in the real world requires a sequence of faults that is 
extraordinarily unlikely," Exponent said in its report. 

Toyota spokesman Mike Michels described Mr. Gilbert's research as "misleading and 
irrelevant." Mr. Gilbert was "gaming the system," Mr. Michels said. 

ギルバートの報告は、誤解を招くもの。
また車をもてあそんでいるだけ。

Separately, the National Highway Traffic Safety Administration said Thursday it has 
received more than 60 complaints from Toyota owners who report they are still 
experiencing sudden unintended acceleration despite having their vehicle repaired by a 
Toyota dealer under the car maker's recalls. 

TOYOTA のリコール後も、60件の苦情が、国家ハイウェイ安全局(NHTSA)に届いてい
る。

"Officials are contacting each and every consumer to learn more about what they say is 
happening," the agency said. 

現在、調査中。

If it appears that the remedy provided by Toyota isn't addressing the problem, NHTSA said 
it has the authority to order Toyota to provide a different solution. 
"We are determined to get to the bottom of this," said David Strickland, administrator of 
the auto-safety agency. 

国家ハイウェイ安全局(NHTSA)は、TOYOTAに、ほかの解決策を用意するよう、命じている
(以上、ウォールストリート・ジャーナルより)。  
 
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)【ニューヨーク時事】米ABCテレビは12日までに、2月22日に放映したトヨタ車の急加速
原因が電子制御装置の欠陥であることを立証したとするギルバート南イリノイ大学教授の実験
報道について、映像を操作したものであることを認めた。米メディアがABC広報担当者の話と
して伝えた。

 トヨタ自動車は今月8日、ABCが電子回路を人為的にショートさせるなどした同教授の実験を
一方的に脚色して伝え、トヨタ車の電子制御装置の安全性に疑問を投げ掛ける番組を放送し
たとして、非難する声明を発表していた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)
【ニューヨーク時事・3月16日】トヨタ自動車は15日、米カリフォルニア州サンディエゴ近郊の
高速道路で急加速を引き起こしたとされるハイブリッド車「プリウス」について、技術者らが関連
部品の徹底的な検査のほか、走行テストなど多岐にわたる検証を行ったものの、車両に急加
速を引き起こすような異常は見られなかったとの暫定調査報告をまとめた。

 調査は米道路交通安全局(NHTSA)関係者と米議員らの立ち会いの下、10、11の両日実施
された。トヨタは暫定報告で(1)アクセルペダルは正常に機能した(2)前輪ブレーキは著しく摩耗
していたが、後輪ブレーキとハンドブレーキは良好な状態だった(3)正規品のフロアマットは留
め金には固定されていなかったが、アクセルペダルを妨害もしくは接触するような状態は確認
されなかった(4)エンジン点火装置は正常だった(5)変速レバーも正常だった(6)アクセルペダル
とブレーキペダルを同時に踏んだ場合、エンジン出力が減退する機能も正常に作動した−な
どと説明した(以上、時事通信より)。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)
【ワシントン】米下院エネルギー・商業委員会が23日開いたトヨタ自動車の大量リコール(回収・
無償修理)問題をめぐる公聴会で、急加速を経験したとして証言したロンダ・スミスさんのトヨタ
の「レクサスES350セダン」が、現在も使用されており、何のトラブルも起こしていないことが分
かった。米高速道路交通安全局(NHTSA)の広報担当者が24日明らかにした。 

●公聴会で証言したロンダ・スミスさん
 
同スポークスマンによれば、NHTSAが先週、同車の新しいオーナーに聞いたところ、「走行距
離3000マイル弱のところで購入し、何のトラブルも経験せずに走行距離は2万7000マイルにな
った」と答えたという。スミスさんは証言で、2006年にテネシー州のハイウェーで制御不能の急
加速に見舞われ、時速100マイル(約160キロ)になった恐怖の経験を涙ながらに語った。その
後、スミスさん夫妻は同車を売却した。 

 報告を受けたNHTSAの検査官は、フロアーマットがアクセルペダルに引っかかったことが原
因と判断した。しかしスミスさん夫妻は、フロアーマットのせいではないと主張。スミス夫人は、
車が速度を上げる前にクルーズ・コントロール・ライトが点滅したことから、電子制御系の問題
と考えている(以上、ウォール・ストリート・ジャーナル)。 

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)
 ただ、2005年のNHTSA調査によると、自動車事故の約95%は運転者のミスによるもの
で、自動車の問題で起こるのは約2%にすぎない。米自動車工業会のマッカーディ会長は同公
聴会で、この報告を引用する予定だ。同会長はまた、車の衝突データを集めるのにNHTSA
がもっと多くの資金を必要としていることを訴える方針だ(以上、ウォールストリート・ジャーナ
ル)。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(注※)
 先週、米カリフォルニア州のハイウェーで起きたトヨタのハイブリッド車プリウスの急加速事件
で、連邦当局の調査によってブレーキに特殊な損耗パターンが見つかり、運転者の説明に疑
問が浮かび上がっている。関係している3人が語った。

 先週8日、サンディエゴ近くのインターステート8号線で青の2008年型プリウスを運転していた
ジェームズ・サイクス氏(61)は緊急電話をかけて、何もしないのにスピードが時速90マイル
(144キロメートル)まで上がったとオペレーターに伝えた。最終的にはカリフォルニア・ハイウェ
ー・パトロールのパトカーが同車に横付けし、止めることができた。 

 サイクス氏は走行中およびその後に、高速走行中に力いっぱいブレーキを踏み込んだと話し
た。

 しかし、関係者によれば、米運輸省道路交通安全局(NHTSA)とトヨタの専門家が共同でこ
の車を調査したが、高速走行中に一定時間力いっぱいブレーキが踏み込まれた痕跡は見つ
からなかった。

 ブレーキは変色し、損耗が見られたが、その摩擦パターンは運転者が断続的に普通程度の
力でブレーキを踏んだことを示唆しており、サイクスさんが言うような踏み込みはうかがえなか
ったという。

 これ以上の詳細は明らかではない。NHTSA当局者は12日、調査に関するコメントを拒否し
た(以上、ウォールストリート・ジャーナルより)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 TOYOTA問題 急加速問題 トヨタのリコール リコール問題 南イリノイ大学 
デービッド・ギルバート教授


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●性的暴行

+++++++++++++++++++++++++

福岡県内で英会話学校を経営する米国人の男(69)が、
教え子の小学生女児に性的暴行をしたとして、
婦女暴行容疑で福岡県警に逮捕されていたという。

確たる証拠はないが、私の近辺でも、似たような事件が、
起きている。

その男(アメリカ人、現在50歳と少し)の手口は、こうだ。

「個人レッスン」とか、「夕食に……」とか言って、
子ども(女子高校生が多い)や、母親を自宅へ呼び出す。
そしてそのとき、アメリカ式に、軽く抱き、頬に接吻する。
そのときの反応を見て、そのアメリカ人は、その後の行動を
決める。

何をどう決めるかは、みなさんが勝手に想像したらよい。

日本人にはそういう習慣はないから、アメリカ人に
そうされただけで、我を忘れてしまう女性は多い。
うっとりとして、身体の力を抜いてしまう。

++++++++++++++++++++++++++

+++++++++++++以下、ヤフー・ニュースより+++++++++++++

福岡県内で英会話学校を経営する米国人の男(69)が、教え子の小学生女児に性的暴行を
したとして、婦女暴行容疑で福岡県警に逮捕されていたことが、捜査関係者への取材でわかっ
た。

 男は別の女児の裸を撮影したとして、児童買春・児童ポルノ禁止法違反(製造)容疑ですで
に逮捕、起訴されている。県警は、男が十数年前から、児童を中心に40人以上に性的暴行を
繰り返していたとの疑いを強め、余罪を追及している。

 捜査関係者によると、男は数年前、福岡県内の自宅で、小学生女児に乱暴したとして、今月
上旬に逮捕された。容疑を認め、「女児にせがまれたのでやった」と供述しているという。

 男は1月、別の女児にわいせつな行為をしたとして、児童福祉法違反(淫行(いんこう))容疑
で逮捕されたが、処分保留となった。

 その際の捜査で、自宅から数百本のビデオテープなどが見つかり、県警が押収して映像を
分析した結果、十数年前から、少なくとも40人の女性に暴行していた疑いが強まった。被害者
の多くが小学生だった。

 県警は2月、女児をビデオカメラで撮影したなどとして、男を児童買春・児童ポルノ禁止法違
反(製造)容疑で再逮捕。男は今月上旬、同法違反(製造)で起訴された。男は「撮影は子供が
大人になった時、成長記録として見せてやるつもりだった」などと話しているという。

 男はわいせつな行為をする際、「勉強会をする」と言って、女児らを自宅に誘い込んでいた。
「親も先生も逮捕されてしまうから、内緒にしていてね」と口止めをしていたという。

+++++++++++++以上、ヤフー・ニュースより+++++++++++++

●ある女性(母親)

 ある母親(夫もいて、2児の母親。当時40歳くらい)が、アメリカ人の英会話講師に夢中にな
ってしまった。
ことの発端は、娘(小学生)といっしょに、そのアメリカ人講師のマンションに招かれたこと。
いっしょに夕食を楽しんだ。

 甘いムードと、あやしげな雰囲気。
あいさつがわりの軽い接吻。
ソファに座ると、アメリカ人講師は、身体をぴったりとつけて、その母親に横に座る。
その瞬間から、ほとんどの女性は、そのアメリカ人講師に夢中になってしまう。

 その母親もそうだった。
アメリカ人講師がアメリカへ帰ることになったときのこと。
その母親は半狂乱になり、夫との離婚まで考えたという。
が、「女」は、その母親1人ではなかった。
10人近くもいた!
(これは本当の話だぞ!)

 よくある話である。

 もっとも私が知っているのは、ここまで。
それに(おとな)と(おとな)の関係。
「?」とは思った。
が、この問題だけは、どうしようもない。

 だから以前から何度も、書いてきた。
「個人レッスンで、自分の子どもを外国人の自宅へやることだけは、やめたほうがいい」と。
とくに相手の講師が独身のときは、タブーと考えてよい。

 私は、白人の手口(?)をよく知っている。
また日本人の女性が、白人の誘惑(?)に、いかに弱いかも知っている。
彼らは日本人の私たちとちがって、子どものときから、そういう(くどきの訓練)を重ねている。
 言い替えると、日本の女性たちは、あまりにも無防備すぎる。
日本の男性(夫)たちは、あまりにも無知すぎる。

 こうした私の見方を、「偏見」と、どうか誤解しないでほしい。
彼らのもつ常識と、私たち日本人がもつ常識の間には、明らかなズレがある。
それなりの男と女が、一対一で、独立した部屋に入れば、彼らはそれを「チャンス」と
とらえる。
が、けっしてそういった思惑は、顔には出さない。
そういう作法が、実に、うまい。
感心するほど、うまい。
私はそういう光景を、留学時代、何度も見てきた。

 だからあえて言う。

「外国人講師の自宅へ、けっしてひとりで行ってはいけない」と。
これには母親も女性もない。
男児も女児もない。
私は今度のニュースのような事件は、まさに氷山の、そのまた氷山の一角にすぎないと断言す
る。


Hiroshi Hayashi++++++March.2010++++++はやし浩司

●親戚づきあい

++++++++++++++++++

親戚づきあいに苦しんでいる人は、多い。
K県に住んでいる、S氏(63歳、男性)も、
その1人。
実家は、群馬県のO市。
大学を卒業すると、そのままY市(大都会)に
就職。
現在は、Y市の建設会社で、設計の仕事をして
いる。

群馬県のO市には、4歳年上の姉がいる。
行き来は、ほとんどない。
たいへん不誠実な人らしく、「本当のことは、
10に1つもない」(S氏)とのこと。

一方、群馬県のO市は、昔から女性が強い
ところとして知られている。
年上ということもあって、S氏は、いつも
姉に怒鳴られてばかりいるという。

「あんたも男だから、父親のめんどうをみろ」とか、
「家を出たんだから、実家を建て直すくらいの
ことは、しろ」とか、など。
S氏が一軒家を購入したときも、「親よりいい家に
住むとは許せない」と言われたこともある。

こうしてS氏は、Y市に住むようになってから
というもの、心の休まる日は、ほとんど
なかった。
このあたりの事情は、私の過去に似ている。
S氏の心情が、痛いほど、よく理解できる。

が、昨年、ずっとひとりで住んでいた父親が、
他界した。
最後の1年あまりは、姉がめんどうをみた。
それもあって、現在、相続問題で、S氏と
S氏の姉は、断絶状態。
遺産といっても、父親が残したのは、30坪
あまりの宅地と、築30年の古家だけ。
今、売っても、500万円にもならない。
S氏は、こう言う。

「葬儀費用だけで、300万円近くもかかり
ました。
全額、私が払いました。
それを無視して、姉は、地元で父のめんどうを
みたのは私だからという理由で、宅地の
所有権を主張しています」と。

が、問題は、これだけではない。
そこへ叔父、叔母がからんできた。
さらに姉の娘婿がからんできた。
「私たちにも、取り分がある」と。

「姉は地元にいるため、ひんぱんに連絡を
取り合いながら、私を悪者にしています。
こういうときは、どうしたらいいでしょうか」と。

++++++++++++++++++

●血縁という幻想

 財産といっても、数百万円。
1年間、何とかがんばれば、取り返せる金額である。
そんな財産を取りあって、兄弟、姉妹、親戚がたがいに騒動を繰り返す。
さらにそこへ本来なら、相続権のない、甥夫婦や姪夫婦がからんでくる。
そういうケースは、多い。

 もっとも、こうした問題には地域性もある。
親戚づきあいが濃密な地域もあれば、希薄な地域もある。
個人差もある。
だから一概には言えないが、「血縁に、幻想をもってはいけない」ということ。
『兄弟は、他人の始まり』ともいう。
関係が近いだけに、一度こじれると、とことんこじれる。

●50歳を過ぎたら・・・

 私も50歳を過ぎるころから、親戚に対する考え方が、少しずつ
変化してきた。
それまでは、親戚づきあいは、ほかの人間関係に優先させてきた。
「何かあったとき、助けてくれるのは、親戚」と。

 しかし世の中には、甥や姪を平気でだます人もいる。
だまして、金を取る。
それを知ってから、私は一歩、退いて親戚をみるようになった。
そしてこう考えるようになった。

 「この人は、本当に親戚の一員と考えていいのだろうか」と。

 ほとんどの人はよい人だが、中には、私の失敗(?)を、
心待ちにしている人もいる。
心のゆがんだ人もいる。
私はそういう人とのつきあいについては、一線を引くようにした。
表面的なつきあいはしても、そこまで。
とくに陰で、私の悪口を言っているというような人とは、たとえ近い親戚でもつきあわない。

 そういう人とつきあうのは、疲れる。
誤解を解こうとすると、もっと疲れる。
だから離れる。

●親族関係

 日本人は、儒教文明圏に属するから、血縁関係を重要視する。
江戸時代からの「家制度」もある。
「家制度」というよりは、「墓制度」というべきか。
「墓」を中心とした、親族関係を築く。
だから欧米人と比較しても、日本人は、かなり独特の考え方を
する。 

 その(独特さ)は、わからない人には、わからない。
骨のズイまで、和式の親族関係がしみ込んでいる。
それがその人にとっては、世界の常識ということになる。
またそれ以外の常識が理解できない。

 私のよく知っている人(女性、80歳くらい)に、こんな女性がいた。

 息子(50歳くらい)から預かっていた土地の権利書と印鑑を
勝手に使って、息子名義の土地を、売り渡してしまった。
それについて息子が抗議すると、その女性はこう言ったという。

「親が、先祖を守るために、息子の財産を使って、何が悪い!」と。

 こういう話を聞いて、ほとんどの人は、その女性のしたことは
まちがっていると思う。
しかしその一方で、「当然だ」とか、「親は親だから」とか、
さらに「親がまちがったことをしても、子どもには責める権利は
ない」と言う人がいる。
2010年になった、現代でも、いる。

●『2人の人には、いい顔はできない』

 S氏のケースでも、一般論や常識論を、そのまま当てはめる
わけにはいかない。
家族の関係は、外からは計り知ることができないほど、複雑。
親戚関係となると、さらに複雑。
いくら想像力を働かせても、そこには限界がある。

 だからこういうケースのばあい、私自身の経験からしても、
何ともアドバイスのしようが、ない。
あえて言うなら、親戚関係は、「水」のようなもの。
水が高いところから低いところを求めて、自然に流れていくように、
時間がたてば、自然と解決していく。
淡々と事務的に、ことを運べばよい。
多少の波風は立つだろうが、それも時間が解決してくれる。
さらに言えば、「言いたい人には、言わせておけばいい」となる。

 イギリスの格言にも、『2人の人には、いい顔はできない』という
のがある。
つまりそこまで割り切らないと、こうした問題は解決しない。
またそれで兄弟関係、親戚関係がおかしくなったとしても、だ。

 このつづきは、また来週にでも書いてみたい。
久しぶりに、今度の日曜日に、そのS氏が、浜松へやってくる。
その後、どうなったか、じかに会って話を聞いてみたい。

●抑圧

 S氏は、急用ができたとかで、静岡まで来て、そのまま群馬へ
向かってしまった。
そのため予定していた話は、聞けなかった。
私のほうも、聞かなかった。

 S氏から今までに聞いた範囲で、話を進めてみたい。

 で、S氏の姉だが、かなり口のうまい人らしい。
そのため、S氏の悪口を言いふらすのも、うまい。
ときに涙声で、自分の正当性を訴えることもあるという。
地元を離れているため、S氏にしてみれば、反論のしようがない。
ないばかりか、地元へ帰るたびに、親戚中から、冷たい視線で見られるという。
群馬県のO市あたりでは、一度、「親捨て」というレッテルを張られると、
近所づきあいもできなくなるという。

 S氏はいつだったか、こう言った。
「ほら、K国のミサイルが日本上空を飛ぶという事件がありましたね。
あのとき、私はあのミサイルが、O市の上へ落ちればいいと思っていました」と。
抑圧された心理状態が、S氏の心をそこまでゆがめた。

●いい子ぶらない

 私のばあいもそうだったが、こうした問題は、「時の流れに任す」。
ジタバタしてはいけない。
ジタバタすればするほど、深みにはまってしまう。
精神上の健康にも、よくない。

 それにこうした問題は、どこの家庭にもある。
今は平和に見える家庭でも、やがてそのときになると、火山の噴火のように、
噴き出す。

 それに悪口を言われたからといって、気にしてはいけない。
多くのばあい、悪口を言った人のほうが、評判を落とす。
私のばあいも、昨年、実家の旧家を売却した。
それについて、あれこれと騒いだ人がいた。
しかし私にも言い分はある。

 過去30年近く、税金のみならず、生活費を負担してきた。
そのときまで4年間、空き家になっていた。
台風が来るたびに、屋根瓦が落ちたりして、近所に迷惑をかけた。
そういう旧家を維持するというのも、実際問題、不可能。

 要するに、『口を出すなら、金を出せ』と。
言い方は汚いが、そこまで割り切らないと、こうした問題は解決しない。
つまり相手にしない。
それで相手が去っていくなら、去らせておけばよい。
どうせその程度の関係。
言い方はきついが、そこまで言い切らないと、こうした問題は解決しない。
簡単に言えば、「いい子ぶらない」。

 最後に、『時の流れに任す』には、もうひとつ重要な意味が含まれる。
やがてみな、年を取っていく。
人間に寿命があるのと同じように、この種の問題にも、寿命がある。
相手がどうがんばったところで、10年はつづかない。
20年は、ぜったいにつづかない。
それよりも重要なことは、あなたはあなたで、私は私で、残り少ない
人生を、前向きに生きていくということ。

 こうした話は、私たちの世界では、「痴話(ちわ)話」という。
そこらのオジチャン、オバチャンが酒を飲みながら話すような話。
いくら論じても、そこからは何も生まれない。

Hiroshi Hayashi++++++March.2010++++++はやし浩司

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタイト
ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" height="250" alt="●BL
OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>

●真剣勝負

+++++++++++++++++

今日(2010年3月16日)、
年中児クラスで、3歳児を相手に
真剣勝負をした。
「真剣勝負」だ。

たまたまS君(年中児)の妹(3歳児)が、
母親といっしょに、参観に来ていた。
で、最初は、「いっしょにやらせてみませんか」と、
私が軽く声をかけた。
3歳児にしては、鋭い目つきをしていた。
孫の芽衣を思い出した。
親近感が、ググーッとわいてきた。

で、みなと一緒にレッスンを始めた。
ほかの子どもたちは、4歳児(3人)と、
5歳児(3人)。
その女の子を入れて、計7人。

が、そこは3歳児。
ニコニコと、そのつど笑ってはくれるが、声は
出さない。
そこでいつもの私の真剣勝負が始まった。
そういう子どもを見ると、がぜん、……
というより猛烈な闘志がわいてくる。
「何とか声を出させてやる!」と。

で、真剣勝負!
まさに真剣勝負!

50分のレッスンである。
刻々と時間が過ぎていった。
「今日はだめか……」と思った、その瞬間、
その女の子が声を出した!
あと数分でレッスンが終わるという、そのとき
だった。

「1、2、3、4、5」と。
声を出して、数えた!

うれしかった。
内心で、「ヤッター」と歓声をあげた。
そのときの様子を、ビデオに収めた。
興味のある人は、ぜひ、見てほしい。

【年少・年中児(引き算の学習)】BW幼児教室byはやし浩司

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Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司※

●父子関係(Father-Children Relationship)

+++++++++++++++++++++

たとえば今、「父親を尊敬していない」と
考えている中高校生は55%もいる。
「父親のようになりたくない」と思っている
中高校生は79%もいる(『青少年白書』平成10年)。

少し古い調査だが、それ以後改善したという
話は聞いていない。
現在、この数値は、さらに高くなっていると思われる。

++++++++++++++++++++++

●幻想

 こういう調査結果を見ても、「うちはだいじょうぶ」とか、「私と子どもの関係はぜったい」とか思
う父親は、多い。
しかし残念ながら、そういう父親ほど、あぶない。
それにはちゃんとした理由がある。

 つまり「うちはあぶない」と思っている父親ほど、家族や子どもに対して謙虚。
家族や子どもの心に耳を傾ける。
「だいじょうぶ」と思っている父親ほど、権威主義的。
その分だけ、家族の心がバラバラになりやすい。
しかも「79%」という数字は、「ほとんど」という数字。
が、なぜほとんどなのか。

●価値観の相違

 一世代ちがうと、価値観、ものの考え方、見方が大きく変わる。
音楽にしても、私たちの世代は、「舟木和夫」。
それがつぎの世代には、「尾崎豊」になり、さらにつぎの世代には、「アリス・ナイン」となる。
遊び方もちがう。

言い替えると、こと父と子の関係について言えば、断絶して当然。
またそういう前提で考える。
つまり幻想は、もたない。
さらに言い替えると、父親は、父親としてできるだけ早い時期に、子離れをすます。
自分で自分の生き様を確立する。
いつまでも子どもにベタベタしている父親のほうが、おかしい。
さらに言えば、子どもというのは、父親を踏み台にしておとなになっていく。
踏み台にされることを、恐れてはいけない。

 私も多くの子どもたちを教えさせてもらっている。
が、子どもというのは、小学3〜4年生を境に、急速に(先生離れ)を始める。
へたに「教えてやろうか」と助け船を出すと、「いらない!」とか、「うるさい!」とか言って、それ
を拒絶する。

 一見、生意気に見えるが、子どもの成長(=独立)ということを考えるなら、そのほうが望まし
い。
また子ども自身がそうできるように、うまく、しむける。
 
●父親像

 不幸にして不幸な家庭に育った父親ほど、しっかりとした父親像が脳にインプットされていな
い。
そのため、どうしても気負い先行型の子育てになりやすい。
いつも「これでいいのか」という迷いをもちやすい。
あるいは権威主義的になり、子どもの反抗を許さない。
こうした(気負い)が、子離れの時期を見失わせる。

 まずいのは、「私はぜったい正しい」と、カラにこもること。
子育てで何がこわいかといって、風通しの悪い子育てほど、こわいものはない。
独善と独断。
これがつづくと、親子関係どころか、家族関係もおかしくなる。

 だからもしあなたが、不幸にして不幸な家庭に育ったとするなら、風通しのよい子育てに心が
ける。
近隣の人や、親戚の人などの意見に、すなおに耳を傾ける。
いろいろな親子と交流を繰り返す。
こうして自分の父親像を修正していく。

 要するに、父親というのは、子どもに嫌われて当然。
嫌われたからといって、カリカリしないこと。
ガタガタしないこと。
あなたはあなたで、勝手に、前に向かって進んでいけばよい。


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●思想の偏向(Inclines Thoughts)

少し前、「あなたの思想には問題がある」と
言ってきた人がいた。
「教育者」というのは、思想的に、無色、
透明でなければならないのだそうだ。

そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
しかし思想のない教育者ほど、こわいものは
ない。
進学受験塾の若い講師を頭に思い浮かべてみれば、
それがわかる。

もし点数や成績だけで、子どもという(人間)を
判断するようになったら、どうなる。
どうする。
そういう人を、「教育者」と呼ぶ人は、いない。

もちろん「教育者」にはふさわしくない思想もある。
たとえば、超自然現象を信奉している人。
極端な思想にかぶれている人。
良好な対人関係が結べない人。
一般的な常識から、はずれている人などなど。

恐ろしいといえば、ハリーポッターが学んでいる
いるような魔法の学校。
あれほど、恐ろしい学校はない。
数学の問題を、杖を使って解いたり、
化学の実験で、水から金塊を作ったりするように
なったら、どうなる?
すべての(合理)が、吹き飛んでしまう。
文学も、地理学も、歴史学も不要。
航空力学も不要。
箒(ほうき)があれば、自由に空を飛べる。

ハリーポッターが籍を置くような学校は、学校ではない。
少なくとも「教育の場」ではない。
またその学校にいる教師たちは、教師ではない。
もちろん教育者でもない。
頭の狂った、ただの魔法使い。

もちろん私は、そういう(非合理)とは無縁の
世界にいる。
が、だからといって、何も考えていないわけではない。
毎日、何かを考えている。
その(考えている部分)で、いろいろなことを書く。
それが(思想)ということになる。
が、それがだめというのなら、私は進学塾の講師に
なるしかない。

 ……と書きながらも、実は、こうしたものの
考え方自体が、偏向しているのかもしれない。
そういう心配は、ある。
たとえばアメリカの南部の学校では、いまだに
ダーウィンの進化論を否定しているところがある。
そういうところで、「進化論は正しい」などと
主張しようものなら、私など即、「偏向教師」の
ラベルを張られててしまうだろう。

 つまりこれも相対的な問題ということになる。
偏向している人から見れば、私は偏向している。
が、自分が偏向していたら、自分の偏向に
気づくことはない。

 だから今は、こう思う。
「私の思想には問題があるのかなあ」と。
ここは謙虚にその人の意見に耳を傾けてみる必要がある。
……というより、さらに自分を疑ってみる必要がある。
「私は偏向しているかもしれない」と。

 毎日が、その繰り返し……。
それとの闘い。
偏向すればするほど、真理は私から遠ざかる。


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

【静かな夜に……】

●夜行便

 夕食後、ワイフに、「山荘へ行こうか?」と声をかける。
すかさず「いいわ」と。
「9時に行こうか?」と言うと、「早ければ早いほうがいいわ」と。
それで8時半になった。

 一度DVDショップへ寄る。
借りたビデオを返し、新しいビデオを借りる。
ワイフは、山荘ではいつも、DVDを見る。
で、そのまま山荘へ。

 たった今、時刻は10時20分。
あれこれルーティンをこなし、やっと落ち着く。
ワイフは横で、『アザーマン』というDVDを見ている。
私は、半分横目で見ながら、こうしてパソコンのキーボードをたたいている。
妻の不倫の映画らしい。

妻ががんで死亡する。
携帯電話を残していく。
その携帯電話に、別の男(アザーマン)からの伝言が残っている。
夫は、その内容から、妻が不倫を重ねていたことを知る。

●不倫

 非公式な調査によれば、(非公式に決まっているが)、約30%の既婚者に、
不倫の経験があるという。
現在進行中の人も多いはず。
が、私の持論は、ただひとつ。
「不倫をするなら、命がけでせよ。
その覚悟がなければ、不倫などするな」。

 ……とまあ、わかったようなことを書くが、本当のところ、私には何もわかって
いない。
で、その私だが、「不倫したことがあるか?」と聞かれたら、「YES」とも「NO」とも、
何とも答えようがない。
「ないなら、NOと言えばいい」と思う人もいるかもしれない。
しかし「NO」と書いたところで、どうせウソと思われる。
もちろん「YES」とも書けない。

 それに「浮気」ということになれば、毎日のようにしている。
意識の中で、している。
「意識」と「行為」の間に、一線を引くのは難しい。
引いても意味はない。
美しい女性を見たとき、頭の中で不倫を想像する。
意識的な不倫ということになる。

一方、行為的な不倫を重ねながら、ただの「排泄行為」ととらえる人もいる。
このばあいは、不倫ということには、ならないのではないか。

これはワイフの持論。
私のワイフは、いつもこう言っている。
「本気でなければ、いつでも浮気してもいいわよ」と。

 私のワイフは、少しふつうの女性とはちがう。
だから「YES」とも、「NO」とも、私には答えられない。

●A子さんの不登校問題

 ここへ来る前、コンビニに立ち寄った。
何冊かの週刊誌に目を通した。
皇室に関する記事が、目にとまった。
A子さんの不登校問題。
読んだ。
読んだが、ここまで。

 私に立場などあるわけないが、立場上、何も書けない。
非難を恐れているわけではない。
この種の問題は、「too private」。
英語ではそう言う。
「あまりにもプライベート」。

 皇室の問題だから、というわけではない。
私の生徒の問題であっても、その相手とわかるときには、私は何も書かない。
何も書いては、いけない。
そんなことは、この世界では、常識。

ただ言えることは、こうまでプライベートなことを、おおげさにしてよいものか
ということ。
皇室にも、プライバシーというものがある。
子どもはまだ、小学生。
女の子。
そっと静かにしておいてやることこそ、大切。
仮にそうであっても、記事にしてはいけない
どうしてこの日本では、そういう常識が働かないのか。

●『アザーマン』

 この原稿を書きながら、ずっとDVDを見ていた。
実話以上の実話というか、どこまで掘り下げても、矛盾がない。
奥が深い。
ありきたりの想像力では、ついていけない。
「なるほどな」とか、「そういうものだろうな」とか、映画を見ながら、
そういう言葉がつづく。

 最後は、夫は、不倫相手といっしょに、追悼パーティをもつ。
構成は、映画『マジソン郡の橋』に似ている。
妻は、不倫を重ねていた。
しかし本気だった。
だから(?)、がんの治療もこばんだ。
自ら「死」を選んだ。
夫への罪の意識からか。

 妻は、赤い靴を、ある湖に捨ててほしいという遺言を残して死ぬ。
男との思い出の靴。
男との思い出の湖。

久々に、男と女の、深い愛についての映画を見た。
(わかったようなことを書いて、ごめん。)
星は3つの、★★★。
『マジソン郡の橋』を見て感動した人には、お奨め。

●原稿

 今夜は、山荘で10枚以上、原稿を書くつもりだった。
しかし今のところ、たったの3枚。
映画に気をとられてしまった。

 私は意志が弱い。
誘惑に弱い。
ああでもない、こうでもないと言いあいながら、映画を見た。
で、終わったのが、午前0時ごろ。
「映画が終わったら、原稿を書こう」と思っていたが、その前に眠くなってしまった。
だから今夜は、ここまで。

 みなさん、おやすみなさい。

Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

【表現の自由とは】

++++++++++++++++++++

一度、子どもたちが隠れて回し読みしている
コミック雑誌に目を通してみるとよい。
そこには、かなりの人でもドキッとするような
絵が、ズラズラと並んでいる。
「かなりの人」というのは、かなりそういう世界を
よく知っている人でも、という意味。

私が先日見たのは、10歳前後と思われる女の子が、
裸で椅子にしばられているというものだった。
その女の子の背後と両側から、悪魔(?)の黒い影が、
ニョキニョキとのびてていた。

女の子は恐怖と恥ずかしさで、泣き叫ぶ……。

こうした行きすぎた「表現」には、規制は当然としても、
しかし今さら、それをしたところで、どうにもならない。
つまり手遅れ!

++++++++++++++++++++

●性暴力

薄汚い商業主義をカモフラージュするために、「表現の自由」が利用されている。
しかしそれは表現の自由ではない。
表現の自由の濫用という。
またどうしてそれが、「守られなければならない権利」なのか。

 かいま見る最近の雑誌には、ものすごいものがある。
先に書いたような例は、まだ序の口。
まだあどけなさを残す少女が、あらゆる体位で、性行為を繰り返す。
輪姦、強姦、緊縛、乱交パーティ……なんでもござれ。
生殖器そのものは描かれていないが、そんなものは鉛筆一本で、描き足せる。
わざとそうなっている。
 
 そういう雑誌を、これまた小学生や中学生が読む。
隠れて読む。
判断力のまだ未成熟な子どもに与える悪影響となると、計り知れない。

 一方、欧米では、性描写と暴力描写については、きびしい規制がかけられている。
雑誌だけではない。
私の記憶に残っているのが、『風林火山』という映画があった。
1970年のことだった。
(40年も前の話だぞ!)

●暴力シーン

 メルボルンの日本領事主催の映画会が開かれた。
在住の日本人や、親日的な団体の人たちが招待された。
上映されたのは『風林火山』。
で、その映画の中で、ひとりの侍が、目に矢を受けるシーンがあった。
とたん劇場内にはギャーという叫び声。
子どもと一緒に来ていた親たちは、いっせいに、子どもの顔を手でおおった。

 が、日本では、あの映画は、まったく問題にならなかった。
当時も、またその後も、テレビでそのまま放映されている。

世界を歩いてみて、こんなバカげた「表現の自由」が野放しになっているのは、
この日本だけ。
その延長線上に、援助交際という「少女売春」がある。
飛躍した考え方に思う人もいるかもしれないが、世界の人は、そう見ている。

●ゆがむ性意識

 何も大脳生理学をもちだすまでもなく、思春期前夜、思春期にゆがんだ性意識をもつ
ことは好ましくない。
それがそのままその子ども(人)の性意識の基本になる。
線条体に受容体ができると、そのまま条件反射になってしまう危険性すらある。
女性の下着を見ただけで、興奮状態になる、など。
反対にそれがないと、性的満足感を得られなくなることもある。
マゾ、サド、小児性愛などを例にあげるまでもない。

 大学の教授職という立場にありながら、手鏡をもって歩いていた人もいた。
手鏡で、女性のスカートの下をのぞくことによって、快感を覚えていたらしい。
「ゆがんだ性意識」というのは、そういうことをいう。
 
 が、ゆがんだ性意識をもっている人には、それがわからない。
脳のCPU(中央演算装置)がゆがんでいるから、自分がゆがんでいることさえ
わからない。
わからないばかりか、自分の基準でもって、「他人もそうである」と誤解しやすい。
さらにそれを他人に押しつける人もいる。
彼らが説くところの「表現の自由」という言葉の裏には、そういう傲慢性すら、
見え隠れする。 

 仮にゆがんでいるとしても、何も子どもたちをまでその世界に引き込むことはない。

●非実在青少年

時事通信(2010ー3ー18)は、つぎのように伝える。

『……漫画などでの子供に関する性表現を規制対象とする東京都の青少年健全育成条例改
正案について、都議会最大会派の民主党は18日までに、継続審査の動議を提案する方針を
固めた。共産党、生活者ネットワーク・みらいも同調する方向。これにより、同改正案は開会中
の今都議会では成立せず、継続審査の見通しとなった。

 改正案は、漫画やアニメの中の18歳未満と類推される人物を「非実在青少年」と規定。非実
在青少年への性暴力などを肯定的に描く図書類を、青少年への販売・閲覧規制の対象に加え
る内容だが、漫画家有志や出版業界が「表現の自由を奪う」などと反対している』(以上、時事
通信)と。

●自由と濫用

 「自由」という言葉には、甘美な響きがある。
「表現の自由」と言えば、さらにそうである。
しかし「自由」と「自由の濫用」は、ちがう。 
「自由」に名を借りた「濫用」には、警戒したらよい。

 先にも書いたように、最近の雑誌には、(ものすごいもの)がある。
道徳も哲学もない。
文化もない。
歯止めもない。
子どもたちの読む雑誌の中には、そのものズバリの描写シーンが載っている。

そういうのを総合して、「表現の自由」とは、言わない。
言うまでもなく、「自由」には、「責任」がともなう。
言うなれば、自転車の前輪と後輪。
「責任」がともなわない「自由」は、自由とは言わない。
無責任という。
もっと言えば、商業主義に踊らされた、権利の濫用。
さらに言えば、「権利」とは、常に弱者から強者に向けられるもの。
弱者の権利を保護するために、「権利」という言葉がある。

 子どもの世界を自由に操ることができる強者が、子どもという弱者を操るために、
「権利」を利用するのは、許されない。

●実際には、「非実在的少女」

 繰り返す。
明らかに小学生ぽい女の子(=非実在青少年)が、裸で四つんばいになる。
そういう女の子に対して、性的行為を繰り返す。
強要する。
そういう描写が、「表現の自由」なのか。
もしそれが「表現の自由」なら、(もし、娘がいればの話だが……)、同じことを
自分の娘にさせてみたらよい。
裸の写真を、雑誌で公表したらよい。
「責任」というのは、それをいう。

 この問題は、漫画家たちの良識と常識にゆだねるしかない。
が、その良識と常識があやしいから、「規制」という問題が出てくる。
こんなことがあった。

●陰毛ヌード

 ちょうど22年ほど前のこと。
東京に、「Y書房新社」という出版社があった。
「H&N」という雑誌を出していた。
が、月を重ねるごとに赤字。
そこで社長が、かけに打って出た。
ちょうどそのころ、ヌード写真の(陰毛)に対する、警察に取り締まりが緩くなった。
それをその出版社の社長は、いち早く察知した。
社長は、逮捕覚悟で、陰毛ヌード写真を載せた。
「H&N」という雑誌は、その月、爆発的に売れた。

 もちろんその社長に、「表現の自由の追求」などという高邁な精神があったわけではない。
窮地の一策として、陰毛ヌード写真を載せた。
私は当時、その雑誌に、コラムを連載させてもらっていた。
このあたりのいきさつを、私は間近で見聞きしていた。
「表現の自由」と言えば、耳ざわりはよいが、その底流では、薄汚い商業主義が
うごめいている。
出版社にしても、まず「売れる本」を考える。
わかりやすく言えば、金儲けが第一。
本音を言えば、そういうことになる。

●薄汚い商業主義

薄汚い商業主義をカモフラージュするための「表現の自由」。
もしそうなら、どうしてそれが、表現の自由なのか。
またどうしてそれが、「追求しなければならない権利」なのか。
もっと言えば、それによって守られる法益は、何か。
またそれを規制することによって侵害される法益は、何か。

 この問題は、そこまで踏み込んで考えてみる必要がある。
「法益」というのは、「法によって守られる利益」をいうが、同時にそれには、
「法がなければ被(こうむ)る不利益」も含まれる。
子どもに与える不利益を考えるなら、「法」による規制もまた、法益ということになる。

 仮に百歩譲っても、判断力の未成熟な子どもという読者に、これまた未成熟な
子どもを題材にした性描写をする。
どうしてそれが、「表現の自由」なのか。
「表現の自由」と、どうして言えるのか。

●欲望の追求

 この問題は、「もしあなたの娘が・・・」、あるいは「もしあなたの息子が・・・」
という前提で考えてみたらよい。

 今の日本に宗教性がないのは、しかたないとしても、それに代わる倫理観や道徳観、
さらには哲学観がないのは、どうしてか。
またそれでよいのか。
欲望のおもむくまま行動し、欲望の追求ばかりしたら、どうなるか。
それこそこの日本という社会は、バラバラになってしまう。
(すでにバラバラだが・・・。)
それに歯止めをかけるのは、当然のことではないのか。

 交通規制をしたからといって、「行動の自由」を規制することにはならない。
資格や許可を強化したからといって、「職業選択の自由」を侵害したことにはならない。
それと同じように、「表現の自由」に、ある一定のブレーキをかけることは、
表現の自由を侵害することにはならない。
「性表現」と「暴力表現」ということに的をしぼるのも、一案。

 むしろ現実は逆で、「表現の自由」をよいことに、その類(たぐい)の人たちが
好き勝手なことをしている。
写真は、使えない。
実物の子どもは使えない。
だから「絵」を使う?

 もし本気で表現の自由を考えているなら、写真を使えばよい。
実物の子どもを使えばよい。
それほどまでに表現しなければならないことなら、そうしたらよい。

●表現の自由

 最近、話題になったことで、「表現の自由」が問題になるとしたら、K選手
の服装問題がある。
「だらしないかっこうをしていた」という理由で、冬季オリンピックの開会式への
入場が、処分として停止された。
結局、あの問題は、K選手の謝罪という形で決着した。
が、どうしてあの問題は、「表現の自由」として、問題にならなかったのか。
「表現の自由」とやらを説く人たちは、どうして問題にしなかったのか。

 先に書いた、法益という観点からしても、おかしい。
露骨な性描写というのは、私たちが法益として守らなければならない自由なのか。
それを表現したからといって、私たちはどんな利益を受けるのか。
それを規制したからといって、私たちはどんな不利益を受けるのか。

 もっとわかりやすい例に、「立て看板」がある。
外国では、道路やビルのまわりに立てる看板を、規制しているところが多い。
けばけばしい看板は、美観をそこねる。
が、これもやはり、日本では野放し。
その結果が、今。
国道、県道は、どこも看板だらけ。
つぎからつぎへと、目に飛び込んでくる。
そうした看板が、いかに周囲の景観をそこねていることか。
あれも、「表現の自由」なのか?

●表現とは

 となると、「表現」とは何か、それをもう一度、冷静に見つめなおしてみる必要がある。

 端的に言えば、思ったこと、考えたことを、第三者にわかるような形で、外に
向かって表わすことを、「表現」という。
美術、音楽、文学、演劇、服飾、造形などがある。
そこには、内在的に、真・善・美に向かうエネルギーが必要である。
それを外の世界に向かって、表現していく。
それなら私もわかる。
そういうものに規制がかけられるなら、私も反対する。

 それが逆に、不正、悪、醜に向かうものであれば、当然、規制がかけられる。
子どもの目に触れるものなら、なおさらである。
もちろんその判断をどうするかという問題もある。
拡大解釈には、当然、警戒しなければならない。
戦時中の日本が、そうだった。
が、『羮(あつもの)に懲りて、膾(なます)を吹く』というのもどうか。
拡大解釈も悪いが、野放しも、これまた悪い。

●言論の自由

 対比しやすい例として、「言論の自由」がある。
「言論の自由があるから、何を書いてもいい」ということではない。
いくら相手に非があるからといって、「殺してしまえ」式の、悪の誘発に
結びつくようなことは、許されない。
当然、規制される。

 また言論の自由といっても、先にも書いたが、それは弱者が強者に向かうべきもの。
強者が弱者に向かうものは、言論の自由とは言わない。
弱者が強者に規制されたとき、私たちは「言論の自由」という伝家の宝刀を抜く。

 ちなみに言論の自由度では、日本は、欧米先進国の中でも毎年、最下位。
愚劣なことをギャーギャーと騒ぐことは自由だが、そこまで。
それ以上のことは、書けない。

 同じように表現の自由も、弱者が強者に向かって主張するもの。
強大な資本力をもつ出版社が、子どもに向かって表現の自由とは、何か!
能力、知力でまさるおとなたちが、子どもに向かって表現の自由とは、何か!

●ある種の無政府主義
 
 ああした性描写をもって、「表現の自由」を唱える人たちがいる。
またそういうものを規制しようとする動きに対して、ここぞとばかり、反対する人たちが
いる。
そうした人たちは、ある種の無政府主義者と断言してよい。
「ある種」というのは、ニーチェの言葉を借りるなら、「逆ニヒリズム」。
破滅的な破壊主義を、ニヒリズムとするなら、「形ある社会」で、破滅的に
甘えることを、「逆ニヒリズム」という。
(これは私の造語。)

 いうなれば家庭内暴力。
家庭(=民主主義)というワクの中で、無政府主義を唱える。
政府そのものを破壊するほどの度胸はない。
家庭(=民主主義)を破壊するほどの度胸はない。
家(=民主主義)というワクに守られながら、その中で暴れる。
が、考えてみれば、これほど身勝手な論法はない。
つまり「表現の自由」なるものを、利用しているだけ。
アメリカの銃規制問題と比較してみると、それがよくわかる。

●アメリカの銃規制問題

 銃規制に反対している人たちもまた、(表現)と(銃)のちがいはあるが、
同じようなことを言っている。
人間には自己防衛の権利があるとか、ないとか。
つまり(銃をもちたい)ということを、カモフラージュするために、「権利」を
主張している。
もちろんその背後では、同じく薄汚い銃器メーカーが暗躍している。

 が、日本のように銃の保持を徹底的に規制されている国から見ると、
規制する・しないが、どうしてそれほどまでに重要なのか、よくわからない。
言い換えると、どうしてこの日本では、「銃の規制」について、だれも異議を
唱えないのかということにもなる。

 反対に、性描写を徹底的に規制している国もあるはず。
どうしてそういう国に対して、日本は、異議を唱えないのかということにもなる。
手始めに、イスラム教国に対して、自己の正当性を訴えてみればよい。
それほどまでに重要な基本的な権利であるとするなら、国連の人権委員会に
提訴するという方法もある。

 「どうか少女の裸体を、自由に描かせてください」、
少女が輪姦される場面を、描かせてください」と。
つまりこうした漫画家たちは、低劣な自分たちの商業主義を守るために、「表現の自由」
という言葉を利用しているだけ。

●結論

 が、実際には、この問題は、規制するとか、しないとか、すでにそのレベルを超えて
しまっている。
つまり手遅れ。
というのも、現実には、雑誌どころか、中学生や高校生は、成人向けのDVDを
回し見している。
「雑誌の規制」という発想そのものが、今では、陳腐。
(国会で、少女向け雑誌が問題になったのは、私が37、8歳のころ。
A出版社から出ていた「P」という少女向け雑誌が、問題になった。
つまり今から25年近くも前の話。)

雑誌だけが、情報媒体ではない。
さらに今では、インターネットもある。
パンドラの箱ではないが、一度、空に解き放った欲望という鳥は、二度とカゴには
戻らない。
つまり規制したところで、(一応の規制は必要だろうが)、意味はないということ。

 要するに私たちおとなが、それだけの良識と常識をわきまえるしかない。
またそういう良識と常識を作り上げていく。
つまるところ、この問題は、そこへ行き着く。

●最後に……

 今回のこの問題は、「表現」とは何か。
「自由」とは何か。
それについて、おおいに考えさせられた。

 ただこういうことは言える。
こうした問題に対する感じ方には、東京という(都会)と、私たちの住む浜松(地方)
との間には、「温度差」があるということ。
東京の人たちが東京という範囲で、何をしようが、それは東京の人の勝手。
しかしそういう低劣文化を、地方のほうまで、垂れ流さないでほしい。
この浜松で、あんな絵を描いて、金儲けにつなげている人はいない。
私が知るかぎり、いない。
それが「東京」というだけで、許されてしまう。
この浜松という地方にまで、流れてきてしまう。

 ついでに一言!

 どこかおかしいぞ、日本の文化!
何が表現の自由だ!
この問題を考えると、どうしてもそこまで考えてしまう。

 以上、一気に殴り書きをしてみた。
文のもつ荒っぽさを、どうか許してほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 言論の自由 表現の自由 非実在青少年 薄汚い商業主義 権利の濫用 コミ
ックの規制)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

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【合わせて、10の数】

年長児クラス
(BW子どもクラブ)指導風景BYはやし浩司、浜松、JAPAN


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Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●バカになる日本人(?)

++++++++++++++++++++

書店で「S」という月刊雑誌を立ち読みした。
以前は毎月のように買っていたが、どこか右翼的。
で、今は、立ち読みONLY。

その雑誌が「バカになる日本人」(仮称)という
大見出しで、特集を組んでいた。
小学6年生で、「4+2x5の計算ができないのが、
60%もいる」とか。
(数字は記憶によるものなので、不正確。)

「そんなものだろうな」と思ってみたり、
「実際には、もっとひどいのでは?」と思ってみたり……。

「大学生でも、英検4級が合格できない」という
記事も目にとまった。
しかしこうした現象は、何も今、始まったわけで
はない。
すでに20年以上も前から始まっていた。
「中学1年生で、かけ算の九九ができない子どもが
20%いる」というのが、当時、すでに常識だった。

(九九を暗記していても、九九ができるという
ことにはならない。
「七・三(シチ・サン)?」と、ランダムに聞かれて、
即座に「21」と言えることを、「九九ができる」という。)

++++++++++++++++++++

●考えない日本人

 日本人は、考えなくなった。
たしかに考えなくなった。
直感的にものをパッパッと言うのは得意。
しかし論理的に、筋道を立てて考えるのが苦手。
きちんとした話し方すらできない日本人も多い。

 子どもたちとて、例外ではない。
10年単位で、子どもたちの「質」が、どんどんと変化している。
それが私にも、よくわかる。
いわゆる思考力の低下である。

 誤解していけない。
(1)知識があるから、思考力があるということにはならない。
(2)専門知識があるから、思考力があるということにもならない。

 ほとんどの親は、「知識が豊富な子ども」イコール、「賢い子ども」と思っている。
……思いこんでいる。
が、これは誤解。
知識は経験や暗記で身につく。
が、(賢さ)は、(考える習慣)で身につく。
その習慣が、子どもたちの生活の中から消えつつある。

 雑誌の中には、世界の子どもたちの比較データが載っていた。
それによれば日本の子どもたちは、テレビを見る時間が長く、家で学習する時間が
短いそうだ。
100か国中、下から7、8番目くらい。
(記憶によるものなので、不正確。)

●考える習慣

 考えるためには、前提として、(1)静かな環境と、(2)自由な時間が必要である。
そういう環境と時間の中で、ものごとを分析し、つぎに論理として、それを組み立てて
いく。
そのためのひとつの手段として、「書く」という方法がある。
書くことによって、頭の中を整理する。
矛盾に気づいたり、さらに新しい事実に気がついたりする。

 書かないで考えるという方法もあるが、私のばあい、すぐ堂々巡りをしてしまう。
同じことを何度も考えるというのは、それ自体が、時間の無駄。
その無駄を省くために、書きながら、ひとつずつに結論をくだしていく。
一度結論をくだしたことについては、2度目は考えない。
つまりこうして前へ、前へと進んでいく。
これには2つの意味が含まれる。

(1)未開の分野に足を踏み入れるという意味。
(2)もう一つは、思索を深くするという意味。

 だれもそれまで考えたことのない世界へ、足を踏み入れるというのは、スリリングな
ことでもある。
めったにないことだが、その先にキラリと光る石のようなものを見つけることがある。
私はそれを「宝石」と呼んでいる。
それがあるから、書くことがやめられない。

 また当然のことながら、考えれば考えるほど、思索が深くなる。
深いからどうということはないが、深ければ深いほど、視野が広くなる。
といっても、それを自分で実感できるわけではない。
思索の浅い人を見たとき、相対的に、それがよくわかる。
ときには、相手が、サルかそれに近い動物に見えることもある。
それは優越感というよりは、高い山に登ったような爽快感に似ている。
視野が広いから、相手の考えていることが、手に取るようによくわかる。
が、それだけではない。

●思索

 思索を深くすることによって、同時に、人生の密度を濃くすることができる。
与えられた時間は同じでも、使い方によって、それを2倍、3倍にすることができる。
もちろん、反対に、使い方によっては、2分の1、3分の1にしてしまうこともある。

 仮に私の寿命が、あと16年(平均寿命まで16年!)であるとしても、その
16年を、2倍の32年にすることも、3倍の48年にすることもできる。
たった一度しかない(命)なら、できるだけ長く生きた方が得!
みなの知らない世界を見たり知ったりすることができる。
それは実に楽しいことでもある。
楽しいことではあるが、同時に、恐ろしいこともでもある。

 ときに、眼前に無限につづく荒野を見たようなとき、思わず身震いすることもある。
当然のことながら、この世界は、私の知っていることより、知らないことのほうが、
はるかに多い。
話は少しちがうかもしれないが、いつだったか、恩師のTK先生が、こう話してくれたの
を覚えている。

「自然界では、何十万という分子量をもった物質が、いとも簡単に、複製、合成されて
います。
どうしてそういうことができるか、不思議でなりません」と。
光合成の話になったときのことである。

 TK先生はTK先生の立場で、身震いするような場面を、多く経験したにちがいない。
ここでいう「恐ろしいこと」というのは、それをいう。
知れば知るほど、自分が無力であることを、思い知らされる。

●考える人間に……

 基本的には、日本の教育は、システムとして、考える子どもを育てるようにはなって
いない。
冒頭にも書いたように、直感的にものを言う子どもは多い。
知識の豊富な子どもも多い。
もの知りで、ペラペラとよくしゃべる。
しかし中身が、ない。
薄っぺらい。

 私はよく冗談まじりに、「今の学校は、Y本興業の、タレント養成学校のよう」と言う。
お笑いタレントを専門に育てる、あの学校である。
もちろん冗談だが、できあがってくる子どもたちを見ると、そんな感じがする。
またそういう子どもほど、この日本では、(よくできる子)と評される。

 そこでたとえば欧米では、「ライブラリー」の時間を、たいへん重要視している。
ほかの教科は、学士号をもっていれば、教壇に立てる。
しかしライブラリーの授業だけは、修士号をもっていないと、立てない。
週1回の指導だが、教師がその子どもに合った本を選び、読ませ、レポートを書かせる。
私の息子の嫁の母親が、その仕事をしている。

 社会科の授業にしても、教師がテーマだけを与え、それぞれの子どもに、ちがった
研究をさせる。
「あなたは1年をかけて、トラファルガーの戦いについて調べなさい」と。

 こうした教育のちがいというか、土壌のちがいが、そののち、ちがった人間を作る。
日本の教育も、このあたりで本腰を入れて考えなおさないと、それこそほんとうに
大変なことになる。
日本は、ほんとうにこのままダメなってしまう。
TK先生も、いつもそう言っている。

(補記)

「まなぶ」は、「まねぶ」が転じた意味で、「まねる」の意味からきている。
また「学ぶ」は、「學」という文字からきていて、(かんむり)の部分は、両手で
音符を包んでいることを示す。
そのことからもわかるように、「しぐさをまねる」ことを、「学ぶ」という
(以上、参考「心理学とはなんだろうか」(新曜社))。

日本の教育は、総本山における小僧教育にルーツを置く。
その「まねる」から脱却する。
自分で考える子どもを育てる。
それがこれからの日本の教育の目指す方向とういうことになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 日本の教育 バカになる子どもたち 考える子ども 思索 知識と思考)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●「あと1年」vs「1年もある!」

+++++++++++++++++

昨夜、『愛のそよ風(Breeze)』という
DVDを見た。
クリント・イーストウッドが監督した、
第一作目の映画ということだった。
が、私は最初の20分程度で、ギブアップ。
そのまま書斎へ。
星は、1つの★。
が、ワイフは、最後まで見た。

内容は、70歳近い男性と、10代後半の
若い女性の恋愛映画。
あとでワイフがそう話してくれた。

その中で、男のほうがこう言った。
「(結婚生活といっても)、1年くらいしか、
もたない」と。
それに答えて、若い女性は、「1年も!」と。
そう言って、驚く。

同じ「1年」を、老人のほうは、「1年しかない」と
考える。
若い女性は、「1年も」と考える。
ワイフから聞いた話なので、こまかい点では
まちがっているかもしれない。
しかしその話を聞いて、私はドキッとした。
私はいつも、こう言っている。
「平均寿命まで、あと16年しかない」と。

しかしこの発想そのものが、うしろ向き。
ジジ臭い。
それに気づいた!

+++++++++++++++++++

●同じ「16年」

 小学生たちに、「16年」という年数を言うと、たぶん彼らは、「長い」と
感ずるだろう。
そうした感覚を、私は知ることはできないが、自分の過去をさぐることによって、
推察することはできる。

 私も20代のころ、50歳とか60歳とかいう人たちが、自分にはありえない、
遠い未来の人間に見えた。
小学生のころは、20代の先生ですら、自分たちとは無縁の(おとな)に見えた。
だからたとえば私が今、小学生たちに、「ぼくの残りの人生は16年」とでも言ったら、
彼らはこう答えるにちがいない。

「16年も!」と。

 私には「16年しかない」16年だが、子どもたちには、「16年もある」16年
ということになる。
こうしたものの見方のちがいは、どこから生まれるのか。

●死の影

 ひとつには、「死の影」がある。
「平均寿命まで16年」といっても、運がよければという前提条件がつく。
運が悪ければ、明日にでも大病を言い渡されるかもしれない。
言うなれば、これからの16年は、ハラハラしながら過ごす16年ということになる。

 一方、子どもたちの16年には、それがない。
「死ぬ」ということとは、無縁の世界で生きている。
子どもたちにとっての「16年」は、丸々「16年」ということになる。

 が、もうひとつ、おおきな理由がある。

●クロック数(クロック周波数)

 このことは前にも書いたが、コンピュータの世界には、「クロック数」という
言葉がある。
1秒あたり、何回演算を繰り返すかというのが、クロック数ということになる。
現在私が使っているパソコンは、3GHz前後。
1秒間に、1MHzで、100万回。
その3000倍だから……、30億回……?
(「ギガ」は、もともとはギリシャ語で、「巨人」を表す。
10億倍のことを、「ギガ」とう。)

 1秒間に30億回!
改めて驚く。

 そのクロック数だが、子どものもつクロック数と、おとなのもつクロック数は、
明らかにちがう。
もちろん子どものほうが、速い。
たとえば年長児(5〜6歳児)にしても、私たちおとなより、数倍は、速い。
言い替えると、おとなにとっての1年は、子どもたちにとっては、数年ということになる。

●密度

 結局は、「密度」の問題ということになる。
その密度がちがう。
だから同じ1年でも、老人のほうは、「1年しかない」と考える。
若い女性は、「1年も」と考える。

 そこで私は考え方を改めることにした。
すぐ改められるかどうかについては、自信がない。
ないが、しかしジジ臭い考え方はやめた。
これからは「16年しかない」という言い方はやめる。
「16年もある」という言い方にする。
前向きに生きるというのは、そういうことをいう。

 そう、16年もあれば、かなりのことができる。
私という人間を、一度、20歳前後に置いてみればよい。
あのころの10年は、今よりはるかに長かった。
それを思い出せばよい。

 ……というようなことを、ワイフの話を聞いて、考えた。
さらに……。

 運がよければ、その16年で終わるわけではない。
20年かもしれないし、30年かもしれない。
いや、「運がよければ」という言い方そのものも、ジジ臭い。
うしろ向き。

 健康にしても、向こうからやってくるものではない。
自分で作るもの。
人生を長くするかどうかは、努力によって決まる。
「運」で決まるものではない。

 ハハハ。
……ということで、今朝は、新しい人生観をひとつ、ゲット!
気分は、よい。

 そうそう今朝、恩師のTK先生からメールが入っていた。
奥さんの命日供養のため、となりの磐田市まで来るとか。
午後に、会いにいってくる。
ほぼ1年ぶり。
「これが最後かもしれない」と、先生は言っている。
が、そういう発想そのものが、ジジ臭い。


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●心の傷(トラウマ・Trauma)

++++++++++++++++++

よく親から、「心の傷は消えるものでしょうか」
という質問を受ける。

親自身の傷のこともあるし、子どもの傷のことも
ある。
そういうとき私は、率直に、こう答えるように
している。

「顔についた切り傷のようなもので、消えません。
一生、それこそ死ぬまで残ります。
だから消そうと思わないこと。
仲よくつきあうことだけを考えてください」と。

+++++++++++++++++++

●程度と内容

 心の傷といっても、程度の問題がある。
内容の問題もある。
それに年齢的な問題もある。
当然のことながら、程度が大きければ大きいほど、また内容が深ければ深いほど、心の傷は
大きくなる。
また乳幼児期ほど、心の傷は大きくなる。

 原因としては、家庭騒動、育児拒否、冷淡、無視、暴力、虐待、離婚騒動、夫婦げんかなど。
大きな事件が、原因となることもある。

 10年ほど前のことだが、近くの佐鳴湖で、水死体があがった。
女性だったというが、それがどうその小学校の子どもたちに伝わったかは知らない。
しかししばらくの間、その小学校の子どもたちはパニック状態になってしまったという。
佐鳴湖の話をしただけで震えたり、学校へ行けなくなってしまったりした。

 ほかに、地震や災害など。
戦争もそのひとつ。
両親が目の前で殺されるのを見たあと、失語症になってしまった女性の話も聞いたことがあ
る。
殺されるのを見たのは、10歳前後のこと。
その女性(20歳くらい)は、固く口を閉ざしたまま、一言もしゃべらなくなってしまったという(NH
Kテレビの報道番組の中で)。

●症状

 心の傷による症状は、千差万別。
しかもその直後に出ることもあれば、思春期以後、おとなになってから出ることもある。
直接的な因果関係がわからないケースも多い。
ある女性(30歳くらい)は、体の震えに悩まされていた。
毎晩、寝る前になると、それが出た。
原因はよくわからないが、幼児期の離婚騒動が原因ではないかと、何かのBLOGに書いてい
た。

 私にも似たような症状があった。
私のばあいも、長い間、原因はわからなかったが、ある夜のこと。
そのとき私はふとんの中で、ワイフに私の子どものころの話をしていた。
私の父は酒癖が悪く、2、3日に一度の割で、酒を飲んで、家の中で暴れた。
その中でも、父がとくに暴れた夜があった。
私が6歳くらいのときのことだった。

その夜の話をしていたときのこと、同じ症状が私に現れた。
言いようのない不安感に襲われ、体がガタガタと震えだした。
「こわいよう」「こわいよう」と言って、私はワイフに抱きついていった。
それで原因がわかった。

 子どものばあい、症状は、まさに千差万別。
神経症、不安神経症、拒否症、恐怖症、夜尿症、夜驚症などなど。
原因を特定するのは、たいへんむずかしい。
深刻なケースとなると、多重人格性をもつこともある。

 ある女の子(2歳児)は、母親に強く叱られたあと、1人2役の、独り言を言うようになってしま
った(ある母親からの相談より)。
あるいは祖父にはげしく叱られたのが原因で、その直後から、ニヤニヤと意味のわからない笑
いを繰り返すようになってしまった子ども(5歳男児)もいる。

●仲よくつきあう

 だれしも心の傷のひとつやふたつはもっている。
心の傷のない人はいない。
そういう前提で、この問題は考える。

 「消そう」と考えて、消えるものではない。
過去をうらんだところで、これまたしかたない。
だからあとは、うまくつきあう。

 まずいのは、そういう心の傷があることに気づかず、同じ失敗を繰り返すこと。
心の傷に振り回されること。

ただ重篤なばあいは、心の病気となることもある。
最近の研究によれば、うつ病の「種」も、そのほとんどが、幼児期の不適切な家庭環境の中で
作られるということまでわかってきた(九州大学)。

 そこで大切なことは、まず「私」を知ること。
どういう環境で、どのように育てられたかを知る。
直接的にわからなければ、親類や兄弟の話を聞くのもよい。
あるいは自分の生活習慣やクセから、類推するのもよい。

 私のばあい、小学生のころ、学校からまっすぐ家に帰ったことがなかった。
そういうことから、私は自分が、帰宅拒否児であったことを知った。
そういうふうにして、自分を探っていく。

 心の傷というのは、正体がわかれば、あとは時間が解決してくれる。
10年とか20年とか、時間はかかるが、時間が解決してくれる。
あとはできるだけその問題には触れないようにし、忘れる。
遠ざかる。

●付記

 私たち日本人は、いまだに(子ども)を、(モノ)ととらえる傾向が強い。
未熟で未完成な人間である、と。
そのため子どもの心を安易に考える人が多い。
中には、「子どもの心など、どうにでもなる」、つまり「おとなになってから、いくらでも作り替えら
れる」などと、乱暴な考え方をする人もいる。

 しかしこうした考え方は、明らかにまちがっている。
つまりそういう原点から、もう一度、この問題を考えなおしてみる。
結論を言えば、乳幼児期の子育ては、それほどまでに慎重でなければならないということ。
心の傷など、なければないで、ないほうがよいに決まっている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 心の傷 トラウマ 子どもの心の傷 子供の心の傷 トラウマ論)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●マターナル・デプリベイション(Maternal Deprivation)(母性愛欠乏)

+++++++++++++++++++

乳幼児期の母子関係の不全。
それが後々、さまざまな症状の遠因となることがある。
とくに母子関係の欠如を、「マターナル・デプリベイション」
という。

子どもというのは、心豊かな家庭環境、とくに心豊かな母子関係の
中で、心をはぐくむ。
が、母親側に何かの問題があり、本来あるべき母子関係が
築けなくなることがある。
育児拒否、ネグレクト、育児放棄、母性愛の欠落、虐待、暴行など。
また自分の子どもであっても、子どもを愛せない母親は、
8〜10%いる。
こうした母親側の育児姿勢が日常化すると、子どもには独特の
症状が現れるようになる。
ホスピタリズム(施設病)に似た症状を示すと説く学者もいる(後述)。

その第一が、他者との共鳴性の欠落。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるについれて、自分より弱い者をいじめたり、
自分より弱い立場にある動物を、虐待したりするようになる。

さらに成人してから、心の病気となって発現することもある。
ネットを使って、そうではないかと思われる症状をもった人を、
参考までに拾ってみた(2チャンネルより)。

もちろんここにあげた人たちの症例が、マターナル・デプリベイション
が原因というわけではない。
その疑いがあると、私が思うだけの話である。

++++++++++++++++++

●心の葛藤

 母子関係に悩み、葛藤している人は多い。
「親子だから……」「母親だから……」という『ダカラ論』ほど、あてにならないものはない。
またそういう前提で、この問題を考えてはいけない。
現在、人知れず、母親との関係に苦しんでいる人は多い。

++++++以下、2チャンネル投稿記事より転載+++++++

●症状(1)

【主訴、症状】自分が無価値、無意味だと思う。 
漠然と怖い。 
超泣く。所構わず突発的に。 
睡眠障害(眠剤入れても3時間で目覚める) 
母親が死ぬほど怖いし憎い(毒親で現在距離置き中) 

【その他質問、追加事項】 
抑うつ(っぽいと言われましたが病名はまだ)、過食嘔吐です。 
大学に入るまでずっと抑圧された優等生でいざるをえなくて、それでも母親に否定され続け
た。 

反抗期も持てなく、完璧でないと思っている。 
結婚したいヒトがいると言ったら、「これ以上親を不幸にするな」と言われ、 
そこらへんくらいから将来を考えると不安になる(ネガティブな未来ばかりを想像して)ようにな
り 年末に仕事を失敗してから、仕事を拠り所にしていたことだろうことから(カウンセラーの言
葉)自分の存在が0になったと思い全く身動きが取れなくなりました。

●症状(2)

【主訴、症状】引き篭もり。対人恐怖症。大声や物音に敏感で、緊張・恐怖・混乱・不安等を感
じます。電話に出たり一人で外出できません。 

母親からのモラハラと肉体的暴力、学校での虐め、母親の再婚先での連れ子虐待等から立ち
直れません。フラッシュバックがよく起きます。 

常に焦燥感があります。落ち着きや集中力や記憶力がなく頻繁に苛々しやすい。無心で喋り
続ける妙な癖のようなものがある。 

「死にたい」というよりも、寧ろ母親が憎くて殺したいと思っています。母親が死ねば解放される
と信じていたりして自分でもマズイと思ってます。 

普通の悪夢もありますが、憎い人間を殺す夢を見ることが多いです。 
中学生の頃より酷くはないですが、フラッシュバックで気持ちが悪くなり、泣き喚いたりヒスっぽ
い奇声を発することもあります。これはごく稀です。

++++++以上、2チャンネル投稿記事より転載(原文のまま)+++++++

●母子関係の重要性

 乳幼児期における母子関係の重要性については、何度も書いてきた。
その子どもの基本は、この時期に構築される。
基本的信頼関係もそのひとつ。

 基本的信頼関係は、その後の、その人の人間関係に大きな影響を与える。
わかりやすく言えば、基本的信頼関係がしっかりと構築できた子ども(人)は、他人に対して、
心が開くことができる。
そうでない子ども(人)は、心が開けなくなる。
(詳しくは、「はやし浩司 基本的信頼関係」で検索。)

 が、それだけではない。この時期をのがすと、人間性そのものが欠落した子どもになる。
インドで見つかった、タマラ、アマラの2人のオオカミ少女を、例にあげるまでもない。
これについても、何度も書いてきた。
(詳しくは、「はやし浩司 野生児」で検索。)

 さらに最近の研究によれば、人間にも鳥類に似た、刷り込みがあることがわかってきた。
卵からふ化したあと、すぐ二足歩行する鳥類は、最初に見たもの、耳にしたものを、親と思いこ
む習性がある。
それを刷り込み(インプリンティング)という。
人間にも、同じような刷り込みがあるという。
0歳から生後7か月くらいまでの間の期間をいう。
この期間を、発達心理学の世界では、「敏感期」と呼んでいる。

 が、不幸にして不幸な家庭に育った子どもは、こうした一連の母子関係の構築に失敗する。

●ホスピタリズム(施設病)

 生後直後から、何らかの理由で母親の手元を離れ、施設などで育てられた子どもには、独特
の症状が現れることは、よく知られている。
こうした一連の症候群をまとめて、「ホスピタリズム(施設病)」という。

(ただしこの言葉は、私が幼児教育の世界に入った、40年前にはすでにあった。
施設、たとえば保育園などに入ったからといって、みながみな、施設病になるわけではない。
当時と現在とでは、保育に対する考え方も大きく変わり、また乳児への接し方も、変わってき
た。
ホスピタリズムについても、そういうことがないよう、細心の注意が払われるようになってい
る。)

 ホスピタリズムの具体的な症状としては、「感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の
発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつきやすい」(長畑正道氏)など。
ほかにも、動作がのろい(緩慢行動)、感情表出が不安定、表情が乏しいなどの症状を示す。
これについては、以前、どこかの学校でもたれたシンポジウム用に書いた原稿があるので、そ
れを末尾に添付しておく。
 
 マターナル・デプリベイションでも、似たような症状を示す。
が、もっとも警戒すべき症状としては、人間性の喪失。
冒頭にも書いたように、他者との共鳴性の欠落が第一にあげられる。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるについれて、他人をいじめたり、自分より弱い立場にある人や動物を、
虐待したりするようになる。

 さらに最近の研究によれば、こうした人間性の獲得にも、「臨界期」があることがわかってき
た。
先のオオカミ少女にしても、その後インド政府によって、手厚く保護され、教育をほどこされた
が、最後まで、人間らしい心を取り戻すことはなかったという
つまり臨界期を過ぎてしまうと、それ以後、(取り返し)が、たいへん難しいということ。
このことからも乳幼児期における母子関係が、いかに重要なものであるかがわかる。

●いじめの問題

 このマターナル・デプリベイションとは、直接関係ないかもしれないが、(いじめ)について、少
し書いてみる。

 先に、「年齢を重ねるについれて、他人をいじめたり、自分より弱い立場にある人や動物を、
虐待したりするようになる」と書いた。
このことは、たとえば年中児〜年長児(4〜6歳児)に、ぬいぐるみを見せてみるとわかる。
心の温もりがじゅうぶん育っている子どもは、そうしたぬいぐるみを見せると、どこかうっとりとし
た表情を示す。
全体の7〜8割が、そうである。
が、その一方で、ぬいぐるみを見せても反応しないか、反対にキックを入れたりする子どももい
る。
(キックするからといって、心の冷たい子どもということには、ならない。誤解のないように!)
しかしこの時期までに、基本的な母性愛、父性愛の基本形は決まると考えてよい。
この時期に、おだやかでやさしい心をもった子どもは、その後も、そうした温もりを維持すること
ができる。

 もちろんこれだけで、(いじめの問題)がすべて説明できるわけではない。
またこの問題を解決すれば、(いじめの問題)がなくなるわけではない。
しかし(いじめの問題)を考えるときには、こうした問題もあるということを、頭に入れておく必要
がある。
その子どもにすべての責任をかぶせるのは、かえって危険なことでもある。

 反対に、たとえば極端なケースかもしれないが、溺愛児とか過保護児と呼ばれている子ども
がいる。
このタイプの子どもは、よい意味において、母親の愛情をたっぷりと受けているから、いつも満
足げでおっとりした様子を示す。
人格の核(コア)形成が遅れるというマイナス面はあるが、こと(いじめ)ということに関していえ
ば、いじめの対象になることはあっても、いじめる側に回ることはまず、ない。

●「私」はどうか?

 こうした問題を考えていると、いつも「では、私はどうなのか?」という問題がついて回る。
 「マターナル・デプリベイションという問題があるのは、わかった。では、私はどうなのか?」
と。

 この文章を読んでいる人の中にも、心の温かい人もいる。
一方、心の冷たい人もいる。
が、この問題は、脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、自分でそれを自覚するのは難し
い。
心のやさしい人は、みなもそうだと思いやすい。
反対に心の冷たい人は、みなもそうだと思いやすい。
人は、いつも(自分の心)を基準として、他人をみる。

 言い換えると、とくに心の冷たい人は、自分の心の冷たさに気づくことはない。
うすうす感ずることはあっても、いつもどこかでブレーキが働いてしまう。
あるいは上辺だけは、心の温かい人を演ずることもある。
だれかの不幸話を聞いたようなとき、さも同情したかのようなフリをしてみせる。
しかしそれ以上に、相手の心の中に踏み込んでいくことができない……。

 そこで「私」を知る。
つまり「私自身は、どうなのか?」と。
私という人間は、心の温かい人間なのか。
それとも心の冷たい人間なのか、と。

 そのひとつの基準が、(いじめ)ということになる。
今、善人ぶっているあなただって、ひょっとしたら学生時代、いじめを繰り返していたかもしれな
い。
そこにいじめられている人がいても、見て見ぬフリをして、通り過ぎてきたかもしれない。
あるいは、あなたが自身が先頭に立って、いじめを繰り返していたかもしれない。

 そういうあなたは、じつはあなたの意思というよりは、あなたの育てられ方に原因があって、
そうしていただけにすぎないということになる。

 ……と、短絡的に結びつけて考えることはできないが、その可能性も高いという意味で、この
「マターナル・デプリベイション」の問題を考えてみたらよい。

 そこでもう一度、あなた自身に問いただしてみる。

「あなたという人間は、子どものころいつも、(いじめ)とは無縁の世界にいただろうか」、
それとも「いつも(いじめ)の中心にいただろうか」と。

 もし(いじめ)の中心にいたとするなら、あなたはかなり心の冷たい人間である可能性が高
い。
さらに言えば、乳幼児期に、不幸にして不幸な家庭環境に育った可能性が高い。
で、その(冷たさ)ゆえに、失っているものも多いはず。
孤独で、みじめで、さみしい毎日を送っているはず。
損か得かということになれば、損に決まっている。

●では、どうするか

 心の冷たい人が、温かい人になるということは、ありえるのだろうか。
乳幼児期にできあがった(心)を、おとなになってから、作り替えることは可能なのだろうか。

私は、それはたいへんむずかしいと思う。
人格の核(コア)というのは、そういうもの。
本能に近い部分にまで刻み込まれるため、それを訂正したり、修正したりするのは、容易なこ
とではない。
そうした変化を自分のものにする前に、人生そのものが先に終わってしまってしまうということ
もある。
自分を作り変えるとしても、時間がかかる。
10年単位、20年単位の時間がかかる。
が、何よりも難しいのは、そうした自分に気がつくこと。

 この問題は、先にも書いたように、脳のCPUの問題がからんでいる。
さらに加齢とともに、(心)は、あなた自身の性格や性質として、定着してしまう。
これを「性格の固定化」と、私は呼んでいる。
そうなると、自分を変えるのは、ますます難しくなる。

 では、どうすればよいか。
ひとつの方法として、これは前にも書いたが、「感動する」という方法がある。
「感動する」ことによって、「他者との共鳴性」を育てる。
わかりやすく言えば、相手の心と波長を合わせる。
絵画、音楽、文学、演劇、映画、ドラマ・・・。
何でもよい。
そこに感動するものがあれば、それに感動する。
そういう場を自ら、求めていく。
つまり感動しながら、自分の心のワクを広げていく。

 さらに最近の大脳生理学によれば、脳の中の辺縁系にある扁桃核(扁桃体)が、心の温もり
に関しているという説もある。
心のやさしい人は、大脳皮質部からの信号を受けると、扁桃核が、モルヒネ様のホルモン(エ
ンドロフィン、エンケファリン系)の分泌を促す。
それが心地よい陶酔感を引き起こす。
心の冷たい人は、そういう脳内のメカニズムそのものが、機能しないのかもしれない。
(これは私の推察。)

●まず「私」を知る

 が、それとて、まずその前に「私」を知らなければならない。
「私は冷たい人間」ということを、自覚しなければならない。
繰り返すが、この問題は脳のCPUの問題だから、自分でそれに気づくだけでもたいへん。
特別な経験をしないかぎり、不可能とさえ言える。
そのひとつの基準として、先に、(いじめ)を取り上げてみた。
ほかにも、いろいろある。

 たとえばホームレスの人が路上で寝ていたする。
冷たい冬の風が、吹き荒れている。
そういう人を見て、心を痛める人がいる。
反対に街のゴミのように思う人もいる。

 たとえば近親の中で、事業に失敗した人がいたとする。
そういうとき、何とか援助する方法はないものかと、あれこれ気をもむ人もいる。
反対に、「ザマーミロ」と笑ってすます人もいる。

 いろいろな場面を通して、「私」を評価してみたらよい。
「私という人間は、どういう人間なのか」と。
それが好ましい人間性であれば、それでよし。
もしそうでなければ、つぎに「どうしてそういう私になったか」を、考えてみればよい。

 「マターナル・デプリベイション」というと、子どもの問題と考えがちである。
しかしこの問題は、その子どもがおとなになってからも、つづく。
つまり(あなた)自身の問題ということになる。
(あなた)も、かつてはその(子ども)だった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

日付は、2008年7月となっています。
古い原稿ですが、そのまま掲載します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(参考原稿)【自立と自律】(分科会、レジュメ)

●自立と依存

++++++++++++++++

自立と依存は、相克(そうこく)関係にある。
「相克」というのは、「相対立した」という意味。
自立性の強い子どもは、依存性が弱い。
自立性の弱い子どもは、依存性が強い。

一方依存性には、相互作用がある。
たとえば子どもの依存性と、親の依存性の間には、
相互作用がある。

一方的に子どもが依存性をもつようになるわけではない。
子どもの依存性に甘い環境が、子どもの依存性を強くする。
わかりやすく言えば、子どもの依存性は、親で決まるということ。

たとえばよく「うちの子は、甘えん坊で……」とこぼす親がいる。
が、実は、そういうふうに甘えさせているのは、親自身ということになる。
たいていのばあい、親自身も、依存性が強い。

++++++++++++++++

たとえばM氏夫婦を見てみよう。
M氏が、ある日、こんな話をしてくれた。

「私の妻は、病気になったりすると、自分でさっさと病院へ行き、診察を受けたりしています。
私に病気のことを、相談することは、めったにありません。
しかし私は、病院が好きではありません。
かなり症状が悪くならないと、病院へは行きません。
だから病気へ行くときは、妻にせかされて行きます。
そんなわけで、たいていいつも妻がついてきてくれます」と。

ひとりで病院へ行く、M氏の妻。
たいへん自立心の強い女性ということになる。
一方、ひとりでは病院へ行けない夫。
たいへん自立心が弱い男性ということになる。

M氏は、こうも言った。
「妻は、6人兄弟の真ん中くらいでした。
子どものころから、何でも自分でしていたのですね。
が、私はひとり息子。
祖父母、両親に溺愛されて育ちました」と。

が、ここで誤解してはいけないのは、だからといって、M氏が依存性の強い男性と考えてはい
けない。
(えてして、「自立心が弱い」というと、どこかナヨナヨして、ハキのない人を想像しがちだが…
…。)
M氏は、現在、小さいながらも、コンピュータを使ったデザイン事務所を経営している。

これは夫婦のばあいだが、親子となると、少し事情が変わってくる。

親子のばあい、依存性というのは相互的なもので、親の依存性が強いと、子どももまた依存性
が強くなる。
たとえば「うちの子は、甘えん坊で困ります」とこぼす母親がいる。
しかしそういうふうに甘えん坊にしているのは、実は、母親自身ということになる。
母親自身も、依存性が強く、その分だけ、どうしても子どもの依存性に甘くなる。

「うちの子は、甘えん坊で困ります」と一方でこぼしながら、実は、子どもが「ママ、ママ」と自分
に甘えてくるのを、その母親は喜んでいる。

あるいは(家庭の基準)そのものが、ちがうときがある。

ある家庭では、子ども(幼稚園児)に、生活のほとんどを任せている。
そればかりか、父親がサラリーマン、母親が商店を経営しているため、スーパーでの買い物な
ど、雑務のほとんどは、その子どもの仕事ということになっている。
が、母親はいつも、こうこぼしている。
「うちの子は、何もしてくれないのですよ」と。

一方、ベタベタの親子関係を作りながら、それが「ふつう」と思っている親もいる。
T君は、現在小学6年生だが、母親といっしょに床で寝ている。
一度父親のほうから、「(そういう関係は)おかしいから、先生のほうから何とか言ってください」
という相談を受けたことがある。
が、母親は、そういう関係を、(理想的な親子関係)と思っている。

だから子どもの自立を考えるときは、その基準がどこにあるかを、まず知らなければならない。
さらに言えば、こと依存性の強い子どものばあい、子どもだけを問題にしても、意味はない。
ほとんどのばあい、親自身も、依存性が強い。

そんなわけで、子どもの自立を考えたら、まず、親自身がその手本を見せるという意味で、親
自身が自立する。
その結果として、子どもは、自立心の旺盛な子どもになる。

さらに言えば、この自立と依存性の問題には、民族性がからんでくることがある。
一般的には、日本人のように農耕文化圏の民族は相互依存性が強く、欧米人のように牧畜文
化圏の民族は、自立心が旺盛と考えてよい。

ただ誤解していけないのは、自立心は旺盛であればあるほどよいかというと、そうでもないよう
だ。

オーストラリアの友人(M大教授)が、こんな話をしてくれた。

「オーストラリアの学校では、子どもの自立を第一に考えて教育する。
それはそれでよいのかもしれないが、それがオーストラリアでは、大企業が育たない理由のひ
とつになっている」と。

●自立と自律

自立は常に、依存性と対比して考えられるのに対して、自律は、あくまでもその人個人の、セ
ルフ・コントロールの問題ということになる。

さらに自律心は、人格の完成度(ピーター・サロベイ、「EQ論」)を知るための、ひとつの大切な
バロメーターにもなっている。

自律心の強い子どもは、それだけ人格の完成度が高いということになる。
そうでない子どもは、それだけ人格の完成度が低いということになる。
ものの考え方が、享楽的で、刹那的。
誘惑にも弱い。

その自律をコントロールするのが、脳の中でも、前頭前野ということが、最近の研究でわかって
きた。
自分の思考や行動を律するための、高度な知的判断は、この前頭前野でなされる。
(反対に、この部分が、何らかの損傷を受けたりすると、人は自分を律することができなくなる
と言われている。)

さらに言えば、この自律心は、0歳から始まる乳児期に決定されると考えてよい。
私はこのことを、2匹の犬を飼ってみて、知った。

++++++++++++++++

それについて書いた原稿が
ありますので、紹介します。
2002年11月に書いた原稿です。

++++++++++++++++

●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、私の家
には二匹の犬がいる。一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。これ
をA犬とする。もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後二か月くらいしてからも
らってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、一二年
にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、
決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしま
う。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入
ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま
寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木
鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠
実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたた
ましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったら
よいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤解を生ずるの
で、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わ
らないということ。A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。心に
大きなキズを負っている。

一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心を許すこ
とを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。つまり人間を信
頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。人間
の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども

 たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをい
う。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。感情の
動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつ
きやすい(長畑正道氏)など。

が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。相手にへつらう、相手に合わせて
自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。一見、表情は明るく快活だが、そ
のくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。あるいは「いい人」という仮面をか
ぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どう
もそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、自分をごまか
す。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言
えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。…
…と書いて、ここに教育のおもしろさがある。他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見え
てくる。「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、それがわかってくる。私が私
であって、私でない部分だ。私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問
題であることに気づいた。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家庭
不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが問題で
はない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。
たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。そ
して同じ失敗を繰り返す。それだけではない。同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへ
と伝えてしまう。心のキズというのはそういうもので、世代から世代へと伝播しやすい。

が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私のばあいも、ゆがんだ
自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることができるように
なった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」「仮面をかぶって
いるぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、
結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおもしろさがある。あなたも一度自分の心の中
を旅してみるとよい。
(02−11−7)

● いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、自分の
過去をのぞいてみよう。何かがあるはずである。問題はそういう過去があるということではな
く、そういう過去があることに気づかないまま、それに引き回されることである。またこの問題
は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。あとは時間の問題。

++++++++++++++++

心理学の世界には、「基本的信頼関係」という言葉がある。
この「基本的信頼関係」の中には、「基本的自律心」という意味も含まれる。

心豊かで、愛情をたっぷりと受けて育てられた子どもは、それだけ自律心が、強いということに
なる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 自立 自律 子どもの自立
子供の自律 (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 
林浩司 BW はやし浩司 マターナルデプリベイション マターナル・デプリベイション 母子関
係 母性愛の欠落 ホスピタリズム 長畑 施設病 人間性の欠落 臨界期 敏感期 刷り込
み 保護と依存 子どもの依存性 幼児期前期 自律期 幼児期後期 自立期Maternal 
Deprivation 母性欠落 母性欠損 はやし浩司 マターナル・デプリベーション)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司※

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタイト
ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" height="250" alt="●BL
OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>

●感情転移

+++++++++++++++++

その相手に、別の人に抱いている
感情を転移する。
そしてその相手を嫌ったり、反対に、
慕ったりする。
これを「感情転移」という。

+++++++++++++++++

●揺り戻し現象

教師と生徒。
ときどき私は教師にとって、「知識ある先輩」なのか、
それとも「親代わり」なのか、わからなくなるときがある。
生徒のほうが、私に(感情転移)をしてくる。

こうした現象が顕著に現われてくるのが、小学3〜4年生。
思春期前夜の反抗期にさしかかるときである。
この時期子どもは、(幼児)と(おとな)の間を
行ったり来たりしながら、少しずつ、幼児性を自分の中から
削り落としていく。
私はこれを「揺り戻し現象」と呼んでいる。
「振り子現象」でもよい。

●D君

そのころ、子どもの中には、ちょうど父親に対するのと
同じような反抗的態度を示す子どもがいる。
さらに自分自身の父親に対する不満や不平を、私に
ぶつけてくる子どももいる。
5、6年前に、D君(当時小4)という子どもがいた。
そのときD君の両親は、別居状態にあった。
母親はこの浜松市に残り、祖父母と同居していた。
父親は、「行方不明」ということだった。

そのD君は、あからさまに私を嫌い、ときに暴力的な
態度で臨んできた。
私と、自分自身の父親とを、明らかに同一視していた。
それがよくわかったから、私は、D君が殴りかかって
きても、(たいした暴力ではなかったこともあるが)、
だまってそれを受け止めていた。

●奇妙な現象

そのD君だが、ある日、奇妙な現象が起きた。
レッスンが終わって、さあ帰るという時間になったとき
のこと。
あたかも私の寛容度を試すかのように、教室の備品を
壊し始めたのである。
鋭い目つきをしていた。
が、これは黙って見過ごすわけにはいかない。
私はD君をうしろから、抱きかかえた。
前から抱きかかえると、足蹴りをされる。
いくら小学4年生でも、前から足蹴りをされたら、たまらない。

D君は、それでも何とか私を足蹴りにしようともがいた。
しばらく格闘がつづいた。
が、こういうケースのばあい、ある時点で、きっちりと、
けじめを見せる必要がある。
教師というよりは、人間としてのけじめといってもよい。

しばらくはげしい足蹴りがつづいたのを見計らって、
今度は、私が反撃に出た。
うしろからD君を抱きかかえながら、私はD君の足を、
バシッ、バシッと、思いっきり蹴った。
本人も痛かったと思う。
私も痛かった。
が、D君は、私がまさかそういう行動に出るとは思って
いなかったらしい。
とたん、ウェーンと、子どもらしい泣き声をあげた。
見ると顔中を涙で濡らしながら、「痛いじゃないかア」と。

D君は私の腕の中で暴れるのをやめた。
おとなしくなった。
先に書いた「奇妙な現象」というのは、そのあと起きた。
私はそのままD君が、私の教室を去っていくものと
ばかり思っていた。
が、D君は、それまで見せたことのない、親愛の目で
私を見るようになった。

●陰性転移から陽性転移へ

それ以後、みなより早く教室へやってきては、学校での
できごとや、友だちとのやりとりを話してくれるようになった。
テストの話や、点数の話もしてくれるようになった。
「今度は(点数が)悪かったけど、つぎではがんばるから」とも。

それが望ましいことなのかどうかは、いまだによくわからない。
が、D君は、私に感情転移し、私を自分の父親と見立てていた。
それが私にもよくわかった。
この状態は、D君が教室を去る、小学6年の終わりまでつづいた。

あとで母親から聞いた話では、D君は、どんなときでも、
私の教室だけは休みたがらなかったという。
また学校では乱暴者と嫌われていたこともあり、私の教室だけが、
自分の居場所と考えていた、とも。

心理学的に説明すれば、最初D君は、私に対して、「陰性転移」
を繰り返していた。
憎悪、嫌悪、軽蔑、忌避、嫉妬、恨み、否定など。
自分自身の父親に対する感情を、そのまま私にぶつけていた。
が、足蹴り事件を境に、それが「陽性転移」へと変化した。
親愛、情愛、尊敬、親近、信頼、感謝、敬愛など。

わかりやすく言えば、それまでは私を「父親」と見立て、
自分や家族を棄てた父親を嫌っていた。
が、足蹴り事件のあとは、逆に、私を父親と見立て、
親愛の情をもつようになった。

似たような経験はいくつかしているが、……というより、
日常茶飯事的に起こるが、D君のケースのような顕著な
例は少ない。

これも教師と生徒ととの、ひとつの関係ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 教師と生徒 感情転移 陽性転移 陰性転移 足蹴り事件)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●船頭は1人(三角関係)

子どもを指導するときの鉄則のひとつが、これ。
『船頭は、1人』。

たとえば子どもを相手にして、父親と母親が
意見の対立を見せるのは、たいへんまずい。
発達心理学の世界にも、「三角関係」という
言葉がある。
これは(父親)、(母親)、(子ども)を
頂点として、三角の関係ができることをいう。

一度、この三角関係ができると、子ども自身が
混乱する。
そのため、子どもはどちらの指示に従ってよいか、
わからなくなる。
そればかりか、その時点で、家庭教育は崩壊する。

子どもが小さいうちはまだしも、やがて大きくなると、
父親の指示にも、また母親の指示にも、従わなくなる。
まずいのは、悪口、批判。
子どもの前では、あなたが母親なら、父親の批判は
してはいけない。
あなたが父親なら、母親の批判はしてはいけない。

ともかくも、家庭教育の場においては、『船頭は、1人』と
決めておく。
たとえば父親と母親が、教育的な問題で対立
したようなときは、子どものいないところで
先に調整しておく。
「あなたはこう言ったけど、私はこう思う」と。

そして子どもの前では、「お父さんの意見に
従いなさい」と指示する。
(反対に、父親であれば、「お母さんの指示に
従いなさい」と指示する。)

が、それだけではない。

父親と母親が対立すると、そこに「二重拘束」
(宮崎圭子氏)が生まれる。
二重拘束(ダブル・バインド)が生まれると、
子どもは、どちらの指示に従ってよいか、
わからなくなる。

父親は、「親は絶対」と子どもに迫る。
母親は、「親子は平等」と、子どもに教える、など。
子どもは父親の前では、親の権威に同調する。
しかし母親の前では、親の権威を否定する。

そのため「子どもは、ものごとを論理的に判断する
能力を麻痺させてしまう」(宮崎圭子)。

わかりやすく言えば、自分で考えることができなく
なってしまう。
そのため、優柔不断になったり、相手に対して
いつもシッポを振るような行動に出たりするようになる。

私も、「塾」という立場で、子どもたちと接している。
そのため学校の教師の教え方と、私の教え方が
異なる場面に、ときどき出会う。
そういうときは、すかさずこう言うようにしている。

「学校の先生に合わせなさい」と。

教育面においても、船頭は1人。
これは家庭教育のみならず、子どもを指導する
ときの鉄則のひとつということになる。

●付記

 私は子どものころ、優柔不断なところがあった。
Aのグループへ入れば、Aのグループに合わせて、自分の意見を作った。
Bのグループへ入れば、Bのグループに合わせて、自分の意見を作った。
また相手から何かを申し込まれると、「いや」と言うことができなかった。
相手の機嫌を損ねるのを、何よりも恐れていた。

 原因のひとつとして、私の父と母が、いつも対立状態にあったことが考えられる。
実際には、母はわがままな人で、父の意見には耳を傾けなかった。
そういう家庭環境の中で、私は「私」を定めることができなかった。
もう少し掘り下げて言えば、私は自分の考えていることに、自信がもてなかった。
その結果として、だれにでもシッポを振るような、優柔不断な人間になった(?)。

 もしあなたが今、優柔不断で、ものごとを論理的に考えることができないというのであれば、
あなた自身が生まれ育った家庭環境を、一度、思い起こしてみるとよい。
まず「環境」を知る。
そのあと「私」の姿が、少しずつ、浮かびあがってくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 三角関係 ダブルバインド ダブル・バインド 二重拘束)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●ブッシュ・ソング(Bush Songs in Australia)


++++++++++++++++++


南オーストラリア州からビクトリア州に
かけて、大きく蛇行しながら流れる川がある。
マレー川である。


私がはじめてマレー川を見たのは、ある村に
立ち寄ったときのこと。
バロッサ・バリーという名前の村だった。
昔からワインの産地として、よく知られている。
そのバロッサ・バリーの丘の上に展望台があって、
眼下にマレー川がよく見えた。


よく晴れた寒い朝だったが、川の色は、大地と
同じ、赤茶けた色をしていた。
「何だ、こんな川か」と思った。
うわさには聞いていたが、そこからは、私には
ただの細い川にしか見えなかった。
が、そのあたりを起点に、川下りの船が運航して
いるという。
その話は、ずっとあとになってから聞いた。


船といってもホテルのような船で、1週間から
10日間ほどをかけて、川をくだる。
実にオーストラリア的な、ゆったりとした旅である。


で、そのあとも、何度かマレー川を見たことがある。
ときどきそれらしい船を見かけたこともある。
そのこともあって、私はいつしか、こう思うように
なった。
「いつか、その船に乗って、旅をしてみよう」と。
そう心に決めた。
で、そのことを、友人のB君に話した。
……と思う。


今でもそのことをB君は覚えていて、「ヒロシ、
いっしょに夢を実現しよう」と、メールをくれる。
「そのためには、最低でも3か月の休暇が必要」と。


しかし今の私には、3か月の休暇など、夢のまた夢。
(現実)に、体をがんじがらめに縛られている。
そのB君から、今朝も、メールが届いていた。


++++++++++++++++++++++


【Bより、ヒロシへ】


Hi Hiroshi,


The equinox has come & gone. The weather is glorious.
The drought affected outback areas in Queensland & New South Wales are 
having lots of rain & floods.
That means at least 2 good years for farming.
There is lots of water coming down the Darling river, which is expected 
to flow strongly into the Murray river in June.
Maybe the South Australian section of the Murray will get some water at 
last, in July/ August


So everybody in the bush is feeling much happier.


春分も終わり、すばらしい季節だ。
クィーンズランドやNSWのアウトバック(荒野)の影響を受けた干ばつ地帯も、
今は、雨と洪水。
この先2年間は、農業にはよい影響をもたらすだろう。
ダーウィン川をたくさんの水が流れ、6月には、マレー川にも強い水流が戻って
くるだろう。
南オーストラリアのマレー川側にも、7月から8月にかけて、いくらかの水が
やってくるはず。
こちらでは、みな、それを喜んでいる。


+++++++++++++++++++++


あのオーストラリア大陸を、「水」が流れている。
(クィーンズランド州の北部の大洪水)→(ダーウィン川)→(マレー川)と。
日本の20倍以上もある国土を、水が、何か月もかけて、ゆっくりと流れている。
想像するだけでも、気が遠くなる。


さっそくYOUTUBEで、オーストラリアのブッシュ・ソングをさがして聞く。
(はやし浩司のHPの「音楽と私」にも収録。)


あの大波がうねるようにつづく、オーストラリアの大地が、まぶたに浮かぶ。
行けども、行けども、農地、また農地。
私の心の原点は、いつもそこにある。
1日だって、あのころの私を忘れたことはない。


しばらくブッシュ・ソングを聞く。
それが私の青春時代。


【オーストラリアのFOLK SONGs】
(注:オーストラリアでは、フォークソングのことを「ブッシュ・ソング」といいます。)


"Pub with no beer"
http://www.youtube.com/watch?v=hxpxU6H2WYA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=GJW19nlzb3Q


"Australian Bush Songs "
http://www.youtube.com/watch?v=0eXQHi_BGf8


"Botany Bay"
http://www.youtube.com/watch?v=cmpW3rHLewQ


"Waltzing Matilda"
http://www.youtube.com/watch?v=CwvazMc5EfE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=iY4RhyD1ReY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=RqRCwG1pp1I&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=c1VLUgTvqc4&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=CwvazMc5EfE&feature=related


"Australia Home"
http://www.youtube.com/watch?v=hbGuqmaDgLA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=pS7oJNozQZM&feature=related


"I am Australian"
http://www.youtube.com/watch?v=jD3SkTyXzcE&feature=related


"Journey to Australia"
http://www.youtube.com/watch?v=-eD4Zi1ENiU&feature=related


"Australian Bush Fire Song"
http://www.youtube.com/watch?v=_UvcJUFnN9Y&feature=PlayList&p=4ED8E6483C482FF3&
playnext=1&playnext_from=PL&index=9


"Whiskey in the Jar"
http://www.youtube.com/watch?v=46EXY4oP1Do&feature=related


"Bound for South Australia"
http://www.youtube.com/watch?v=84kMnkUqimM&feature=related


"It's my Home"
http://www.youtube.com/watch?v=fX1vfJny1rk&feature=related


"Sprit of Australia"
http://www.youtube.com/watch?v=W9Bhv2Jo4jI&feature=related


●オーストラリア・ブッシュ・ソング集
http://folkstream.com/songs.html
(Midiでメロディを聞くことができます。)


●マレー川(船の旅)
http://www.youtube.com/watch?v=2Tz7F6yDJv0&feature=related


【ヒロシからBへ】

やあ、ボブ、
君が何と思うとも、またどう思おうとも、
ぼくは本物のオーストラリア人より、オーストラリアが好きだ。
これは本当だ。
オーストラリアは、ぼくにとっては、ずっと灯台だった。
ぼくが人生を歩くとき、いつもぼくの足下を照らしつづけてくれた。
オーストラリアが懐かしい。
カレッジ時代のぼくが、懐かしい。


ときどき、しかしいつも、ぼくはすべての仕事をやめ、お金をすべてもって
オーストラリアへ渡ることを考える。
しかしぼくには、その勇気がない。


オーストラリアの大きな話をしてくれてありがとう。


ヒロシ


Hi  Bob


Whatever and however you may think,
I love Australia more than the real Australians do.
This is true.
Australia has been my light house which has shone my feet when I walk my life in the past.
And I have always miss Australia and the life there at IH.


Sometimes often I try to abandon all my jobs and go to Australia with whole money with
me.
But I am coward every time and then I come back to the routine.


Thank you for telling me about a big story about Australia.


Hiroshi  


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

【幼児教室・数のまとめ(年少・年中児クラス)byはやし浩司(BW子どもクラブ)

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタイト
ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" height="250" alt="●BL
OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>

【1】

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【2】

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【3】

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【4】

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【5】

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Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司


●K国・人権事情

+++++++++++++++++++++++

脱北者たちが語る、K国の恐るべき内情。
あまりにもおぞましく、あまりにも悲惨。
朝鮮N報(2010年3月23日)は、
つぎのように伝える。
(一部を抜粋。)

++++++++++以下、朝鮮N報より++++++++++++

 ……キムさんは、監獄に到着した初日から、ブタも食べないような水っぽい大根葉の粥を与
えられ、1日12時間の労役を強いられた。キムさんは「体重が50キロから30キロに落ちて、
これ以上は動けないという限界まで至ったとき、幸いにも大赦令を受けて釈放された」と語っ
た。

 数百人の脱北女性のうち70%が栄養失調になり、毎日2〜3人ずつ死んでいったが、遺体
を納める棺はなく、ビニールで包み、共同埋葬地に埋めたという。04年に甑山へ連行された
ある脱北女性は、そのときのショックで今も苦しんでいる。

 その女性は、「埋葬地に到着すると、犬が集まり遺体を掘り返して食べている姿に驚愕した」
と語った。人の手足があちこちに散らばっていたほか、人骨が積み上げられた光景に、一度
埋葬地に行った囚人は、精神異常の症状を呈するという。

 人民保安省出身の脱北者は、「甑山が全国的にうわさになったのは、囚人に課される短期
的な過度の労働と栄養欠乏によって、政治犯収容所より死亡者が急増したからだ」と主張し
た。

 政治犯収容所より軽い刑を受けて甑山に連行されるのなら、むしろ耀徳に3年間収容される
方がましだ−と言われるほどに、人々は甑山教化所を恐れているという。甑山教化所は10課
に分かれており、一つの課は7から10の班で構成されている。

 1班は通常40〜50人程度で、囚人の中から丈夫そうな者を選んで班長に選出し、班長が
保安員の指揮を受けて囚人を管理、監督している。

 逃走者や監獄内で罪を犯した者に対しては、政治犯収容所とは異なり公開処刑は行わず、
内部で処刑、あるいは監獄内の別の拘禁施設で特別な拷問を加え、死に至るまで加重な苦痛
を与えるという方法で処罰するのが特徴だ。
(以上、「朝鮮N報・2010年3月23日」より)

++++++++++以上、朝鮮N報より++++++++++++

 末尾にある「内部で処刑、あるいは監獄内の別の拘禁施設で特別な拷問を加え、死に至る
まで加重な苦痛を与えるという方法で処罰するのが特徴」。

 何が「教化所」だ。
日本から拉致された人たちが、最初に監禁された場所も、「招待所」だった。
何が「招待所」だ。

 こんな折も折、アメリカのジミー・カーター元大統領が韓国へやってきて、講演を行った※。
「K国のほしがるものは、何でも与えたらよい。……私が金日成に会ったとき、K国との最高の
絆(きずな)ができた。話し合いで失うものは、何もない」(要旨)と。
ジミー・カーターは、10年1律のごとく、同じことをしか言わない。
K国の現実が、まるでわかっていない。

●現実離れ

 もう一つ、記事を紹介する。
これは中国ニュース通信社が、3月22日に配信したもの。
中国人のK国ツアーに対する注意書きである。

+++++++++++以下、中国ニュース通信社+++++++++++++

2008年9月17日、「中国新聞周刊」は、来春解禁予定の中国からの北朝鮮ツアーについ
て、ツアー客が守らなければならない数々の禁止事項を紹介。 

今年9月、国家旅遊局は中国政府が朝鮮民主主義人民共和国を中国人団体の観光旅行目
的地に指定したと発表。09年は中朝国交成立60周年にあたり「中朝友好年」とされた。これ
を機に両国の観光事業を発展させる計画が進められている。

国内旅行業界の関係者は、北朝鮮ツアーに関する詳しい取り決めについて話し合いが続いて
いる状況下で、両国間で正式な文書はいまだ交わされていないと話す。だが、遼寧省瀋陽市
で北朝鮮国際旅行社が事務所の開設に向けて動き出したとの報道も今月10日にあり、早け
れば来年春にも北朝鮮ツアーは解禁になるとのこと。 

各旅行社では北朝鮮ツアー参加希望者に向けて、北朝鮮におけるさまざまな禁止事項を紹介
している。その例として、北朝鮮入国の際には観光客のデジタルカメラは抜き打ちでチェックさ
れ、保存されている画像の中にわいせつな画像などいかがわしいものがあれば、その場で削
除され罰金が科せられるほか、携帯電話の持ち込みは禁止。軍事施設の撮影も禁止。韓国
や米国の国旗がついた品物の持ち込み禁止などがあげられる。 

最も重要なのは以下に掲げる「3つの軍規」である。 
国家指導者の物まねをしてはならず、座って国家指導者の像を撮影してはならない。国家指
導者や北朝鮮の経済状況などを批判してはならない。必ず北朝鮮が手配した随行員と行動し
なければならない。この3つは絶対に守らなければならないと警告している。

中国ニュース通信社(3−22)

+++++++++++以上、中国ニュース通信社+++++++++++++

 とくに注目してほしいのは、やはり末尾の4か条。

(1)国家指導者の物まねをしてはならない。
(2)座って国家指導者の像を撮影してはならない。
(3)国家指導者や北朝鮮の経済状況などを批判してはならない。
(4)必ず北朝鮮が手配した随行員と行動しなければならない。

 日本人も、三つ葉葵の紋章を見せつけられると、ハハア〜と言って頭をさげる。
(実際には、江戸時代においては、町民は武士と目を合わせることは許されなかった。)
似たようなものだが、しかしK国という国は、そういう国。

 ジミー・カーター元大統領は、「K国がいちばん恐れているのは、アメリカによる先制攻撃。
が、アメリカにはその意思はない。
それを伝えることが大切」(同)と述べている。

 平和主義者ということはよくわかる。
わかるが、どこかピントがズレている。
金xxが恐れているのは、アメリカではない。
自国民である。
どうしてそんな簡単なことがわからないのか。
もしそうでないというのなら、なぜ金xxが、ごく最近、「脱北者は射殺しろ」という命令を、出した
のかということになる。

つまりアメリカの脅威は、独裁制維持のための口実にすぎない。
そのための最大の権威付けが、核兵器ということになる。
金xxが、核兵器を手放すわけがない。
「本尊」という観念は、アメリカ人には理解できないかもしれない。
アジア人は、「モノ」に魂をこめることによって、信仰する。
核兵器は、その本尊。
「力の象徴」。

●6か国協議

 「K国は(崩壊に向けての)秒読み段階に入った」という文字が並ぶ(韓国各紙)。
中国はそれを恐れている。
表向きは、難民の大量流入。
しかし本音は、利権の喪失。

 そんな中、近々、6か国協議が開かれるという。
韓国政府は、「これ以上時間稼ぎをさせてはいけない」と焦っている。
そのため「一時、拉致問題を棚にあげろ」と日本に迫っている。

 しかし日本にとって最善の道は、K国が内部から自然崩壊すること。
K国の人たちにとっても、それがいちばんよい。
よいことは、冒頭に転載した記事を読めばわかるはず。

 今、K国内部では、人類の歴史上においても、想像を絶するような恐ろしいことが、起きてい
る!

(補記)

 このところ私のウェブサイトやBLOGに、あやしげな団体がさかんに検索をかけている。
「金xx」という表記が、何度も繰り返し検索されている。
そのため私のワイフは、「あなたも拉致されるんじゃない……」と心配している。
で、もし私がある日突然、いなくなったら、まずそのあたりを疑ってみてほしい。
ひょっとしたら、ワイフともども、この世から消されるかもしれない。

(注※)(ヤフー・ニュースより)

『……ーター氏「韓米が先に北朝鮮に手を差し出すべき」
2010年3月23日(聯合ニュース)

【ソウル23日聯合ニュース】韓国を訪問中のカーター米元大統領は23日、高麗大学で「核保
有の北朝鮮と朝鮮半島の平和」をテーマに講演を行い、韓国と米国は実践が難しくても北朝鮮
との直接的な対話を行う必要があるとの考えを示した。

 カーター元大統領は、北朝鮮側が示す最後の答えを誰も予測することはできないが、直接的
な対話を含む多くの努力を注ぐことは何の害にもならないため、朝鮮半島の緊張を緩和する
ためには米国と韓国が先に手を差し伸べ、北朝鮮に対し関係正常化の努力を提案すべきだと
強調した。

 韓米が制限のない対話を先に行ってこそ北朝鮮が反応を示すとし、北朝鮮と疎遠な関係を
維持し続けることはできないだけに、政治的勇気が必要だとの点も力説した。

 カーター元大統領は、北朝鮮が国際原子力機関(IAEA)を脱退した1994年に北朝鮮を訪れ、
故金日成(キム・イルソン)主席と会談し、南北首脳会談開催の約束などを取り付けた状況を
紹介しながら「朝鮮半島との縁は深いが、このとき最も深い縁を結んだ」と振り返った。

 当時、金主席は朝鮮半島全体が核から自由でなければならないというカーター元大統領の
考えに同意し、金泳三(キム・ヨンサム)元大統領が南北首脳会談を提案したことをうれしく思
い、会談は無条件で即刻実現されなければならないと話していたと伝えた。

 カーター元大統領は、「実際に北朝鮮を訪問してみると、北朝鮮は過去に対する根強い反感
と先制攻撃に対する不安感を感じていた。今の状況では北朝鮮が後退する可能性は低い」と
の見通しを示した。

 その上で、「金主席が提案したことを守らなければ、(状況改善は)難しくなる。米国は北朝鮮
に敵対の意志がないことを明示し、北朝鮮は周辺国との関係をうまく維持するため、核視察を
受けてこそ米国との外交正常化が可能だ」と提案した』と。


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●組織vs個人

++++++++++++++++++

私の教室の横に、巨大なビルが建設された。
9階建てというが、1階ごとの天上が高い。
豪華!
目下、内装中ということで、外からでは、
その様子はわからない。
浜松医師会館である。
「なるほどな」と思ってみたり、「そういう
ものかな」と思ってみたりする。

「組織」には、その構成員を超えた力がある。
つまり1+1が、2ではなく、3になったり、
4になったりする。
要するに「金(=マネー)」の力だが、日本の
ばあい、「組織」は、何かにつけて、国からの
恩恵を受ける。
税金の使われ方、そのものが、ちがう。

たとえば地方公共団体から交付される補助金
についても、(個人)に支払われることは、めったに
ない。
(組織)に支払われる。

ひとつの例だが、アメリカでは、子どもを
もつ親に、直接補助金が支払われる。
その補助金を手にして、親は幼稚園や、学校を
選ぶ。
一方、この日本では、幼稚園や学校という
組織に、補助金が支払われる。
その補助金を手にして、幼稚園や学校は、
豪華な園舎や校舎を建てる。

……ということで、私の教室の横に、巨大な
ビルが建った。
その前を通るたびに、「すごいな」と思う。
ビルがすごいというよりは、医師会、さらには
医師たちのもつ力が、すごいと思う。
ある医師は、こう話してくれた。

「そのため毎月、1万円負担している」と。

もちろん1万円だけで、そんなビルは建たない。
国からの、莫大な補助金が、その裏で支払われて
いる。
医師会という(組織)に支払われている。

+++++++++++++++++++++

●個人は損!

 この日本では、(個人)で生きるのは、ぜったいに、損!
よい例が通りに店を並べる、個人の商店。
世間に大風が吹くたびに、あっちへなびき、こっちへなびく。
収入といっても、客の流れしだい。
保障など、何もない。

 郊外に大型店ができれば、それでおしまい。
今は、ネット時代。
個人の商店でものを買う人は、もういない。

 一方、この日本で要領よく生きようと思ったら、
(組織)に属したほうが、ぜったいに、得!
そういうしくみが、できあがっている。
組織の中で、地位や肩書きを得ていく。
階段を上りつめていく。
「金(=マネー)」は、向こうからやってくる。

●フリーター

 フリーターというのは、「不利〜ター」のこと。
この日本では、自由に生きることさえできない。
できなくはないが、生きていくのは、むずかしい。
私も今のようにして生きるようになって、すでに
40年になる。
その間、受けた補助金は、ゼロ!
まったくの、ゼロ!
ワイフが子どもを出産したとき、そのつど10万円
前後の、「祝い金」を、市からもらったことはある。
あっても、その程度。

 つまり税金など、一方的に支払うだけ。
少なくとも、私には、そうだった。
だからこの日本では、どんな職種であるにせよ、
組織のしっかりした職種を選んだほうが、得!
いちばんよいのは、公務員。
2〜3年くらいなら、病気で休んだからといって、クビに
なることはない。
私の知人の中には、10年近く、ほとんど出勤
していないが、給料だけは、ちゃんともらっている
人がいる。

●個人と野生臭

 もちろんデメリットもある。
つまり日本人から、野生臭が消えた。
公務員も、会社員も、みな、飼い慣らされた家畜のよう。
まじめで、おとなしく、そして静か。
またそうでないと、組織の中では生きていかれない。

 しかし「人間」という立場で考えるなら、
それでよいのか。
それが本来あるべき、人間の姿なのだろうか。
もっと言えば、社会の歯車のひとつになって、
その中で、カタカタと回っているだけ。
回っている当人には、それはわからないかもしれない。
外の世界、つまり私のような人間から見ると、
それがよくわかる。

 ただ誤解していけないのは、だからといって、
私の生き方が正しいとか、そういうことを書いて
いるのではない。

 大切なのは、心の持ち方。
(個人)をしっかりともって(組織)にいるのと、
そうでないのとでは、生き方も大きく違ってくる。

●組織

 だからといって、(組織)を否定しているのではない。
(組織)は必要である。
その頂点に、(国)という概念がある。
(私は無政府主義者ではないぞ!)

 が、この日本では、(組織)を保護しすぎている。
それと並行して、(個人)のもつ(自由)が、
あまりにも犠牲になりすぎている。

 もっと(個人)を認め、(個人)を育てるような
施策があってもよいのではないか。
言うまでもなく(個人)があって、(自由)が生まれる。
それだけではない。
社会の活力も、その(個人)から生まれる。
それぞれの(個人)がもつ活力が集合されて、生まれる。

 よい例が、「祭り」。
この浜松にも、「民衆の祭り」と、「官製の祭り」がある。
民衆の祭りというのは、「凧祭り」(5月3、4、5日)をいう。
官製の祭りというのは、駅前の中心部の振興策の
ひとつとしてなされる祭りである。
いくつかある。
が、どれも年を追うごとに、色あせていく。

●代用

 私たちは組織の1員である前に、個人である。
個人として生きるために、収入を得る。
そのために仕事をする。
組織に属するかどうかは、そのあとの問題。
組織は、あとからついてくる。

 が、この日本では、まず組織あり。
組織に属さなければ、何もできない。
私はそれがおかしいと言っている。
たとえば、退職者を考えてみよう。

私の同級生たちは、定年退職を迎え、ほとんどが
退職した。
が、(組織)、それも巨大な(組織)の中で
仕事をしてきた人ほど、退職後、何も残っていない。
地位や肩書きはあった。
しかし「私は、これをしてきました」というときの、
(これ)がない。
ないばかりか、その人が退職したあとも、(組織)は、
以前のまま。
その人がいなくても、そのまま動いている。
あたかも何ごともなかったかのように動いている。

わかりやすく言えば、(組織)の中では、(あなたという
個人)には、価値はない。
代用となる人は、いくらでもいる。
が、それで本当によいのだろうか。
それでもって、「これが私の人生」と、ほんとうに胸を
張って言えるのだろうか。

●生き様

 いくら(組織)の中の人間になっても、「私」という
(個人)を忘れてはいけない。
(個人)を前提として生きるか、(組織)を前提として
生きるか。
仮に(組織)を前提にして生きるにしても、(個人)を
忘れてはいけない。
「私」は「私」なのだ。
もっと言えば、丸裸にしたとき、そこに残っているものが、
「私」なのだ。

 つまりどんなに小さくてもよい。
いつか老後を迎え、自分の過去を振り返ったとき、
「私はこういう生き方をしてきました」というものが、
あればそれでよい。
「生き様」が残っていればよい。

 それが私がここでいう「個人」ということになる。

+++++++++++++++++

ここまで書いて、映画『生きる』を
思い出した。
「自己の統合性」について書いた
原稿である。

+++++++++++++++++

●自己の統合性(The integration of ourselves)
When we get old, we should integrate ourselves to what we should do.

+++++++++++++++

どうすれば、(自分のすべきこと)と、
(していること)を一致させることが
できるか。

それが統合性の問題ということになる。

が、それを一言で言い表した人がいた。

マルチン・ルーサー・キングである。

+++++++++++++++

 マルチン・ルーサー・キング・Jrは、こう述べた。

If a man hasn't discovered something that he will die for, he isn't fit to live. ー Martin Luther 
King Jr.
死ぬための何かを発見することに失敗した人は、生きるのに適していないということ。(マーティ
ン・ルーサー・キング・Jr)

わかりぬくい言い回しだが、キング博士はこう言っている。

「私は何をすべきか、それをつかむのに失敗した人は、生きている価値はない」と。

 そこで自問してみる。私には今、命がけでしなければならないようなことがあるか、と。併せ
て、私は今、命がけでしていることがあるか、と。

 老後の問題とは、まさに、その(命がけ)の問題と言いかえてもよい。のんべんだらりと、毎
日、釣りばかりをしている人生など、とんでもない人生で、そういった人生からは、何も生まれ
ない。残らない。ハイデッガーの言葉を借りるなら、そういう人は、「ただの人」。ハイデッガー
は、軽蔑の念をこめて、そう言った。「DAS MANN(ただの人)」と。(わかったか、『釣りバカ
日誌』の浜ちゃん!)

 しかし老後の統合性というのは、実は、たいへんな問題と考えてよい。何度も書くが、一朝一
夕に確立できるような代物(しろもの)ではない。それこそ10年単位、20年単位の熟成期間が
必要である。その熟成期間を経て、始めて、そこに根をおろす。芽を出す。花を咲かせるかど
うかは、これまた別問題。

 命がけでしても、花を咲かせないまま終える人となると、ゴマンといる。いや、たいはんが、そ
うではないか?

 「私はただの凡人」と居直る前に、みなさんも、ぜひ、自分に一度、問うてみてほしい。「私に
は、命がけでしなければならない仕事があるか」と。

 ここまで書いて、昔見た映画、『生きる』を思い出した。第7回毎日映画コンクール(日本映画
大賞)受賞した作品である。毎日映画コンクールのblogより、内容を抜粋して、そのままここに
紹介させてもらう。

「……市役所の市民課長である渡邊勘治(志村喬)は30年間、無欠勤だったが、その日、初
めて欠勤した。病院で胃ガンと診察され、あと4か月の命だと宣告されたからである。勘治は
親を思わない息子・光男(金子信雄)夫婦にも絶望し、預金を下ろして街に出る。

 勘治は屋台の飲み屋で知り合った小説家(伊藤雄之助)と意気投合、小説家は、勘治に最
期の快楽を味わってもらおうとパチンコ屋、キャバレー、ストリップと渡り歩く。だが、勘治の心
は満たされない。朝帰りした勘治は、市民課の女事務員小田切とよ(小田切みき)と出会う。彼
女は退職届を出すところだった。

 「あんな退屈なところでは死んでしまう」との、とよの言葉に、勘治は事なかれ主義の自分の
仕事を反省。目の色を変えて仕事を再開する。その勘治の目に止まったのが、下町の悪疫の
原因となっていた陳述書だった……」と。

 この映画は、黒澤明監督の傑作として、1953年、ベルリン映画祭で、銀熊賞を受賞してい
る。

そのあと渡邊勘治は、残された人生を、町の人のためと、小さな公園作りに、生きがいを求め
る。最後に、公園のブランコに乗りながら、「生きることの意味を悟って死んでいく」(「きれい塾
hp」)と。

 今でもあの歌、「ゴンドラの歌」が、私の耳に、しみじみと残っている。

+++++++++++

●ゴンドラの歌(吉井勇作詞、中山晋平作曲)

1 いのち短し 恋せよ乙女
  朱き唇 褪せぬ間に
  熱き血潮の 冷えぬ間に
  明日の月日は ないものを


2 いのち短し 恋せよ乙女
  いざ手をとりて 彼(か)の舟に
  いざ燃ゆる頬を 君が頬に
  ここには誰れも 来ぬものを


3 いのち短し 恋せよ乙女
  黒髪の色 褪せぬ間に
  心のほのお 消えぬ間に
  今日はふたたび 来ぬものを

++++++++++++

●自己否定

 (個人)として生きることの難しさは、映画『生きる』を
みてもわかる。
まさに命がけ。
命をかけなければ、できない。
だから……というわけでもないが、ほとんどの人は、
(若い人は)、就職といえば、(組織)を考える。

 資格をとって、それなりに形を整える。
あとは就職試験。
それが悪いというのではない。
ただ私は、つぎの3つのことに、注意してほしいと思う。

(1)「私」という個人を忘れてはいけない。
(2)(組織)の中に、「私」を埋没させてはいけない。
(3)(組織)の中にいても、(個人)で生きる人を否定してはいけない。

 とくに(3)は、私のために書いた。
(組織)の中にいる人たちは、容赦なく、私を攻撃する。
攻撃するというよりは、価値そのものを否定する。

たとえばこうした同じ原稿でも、「〜〜大学教授」という肩書きが
あれば、「ハハア」と言って頭をさげて、読む。
「はやし浩司」の原稿だと、読む前に、無視する。
(無視されてもしかたない内容だが……。)

 しかしある女性(C新聞社の記者)は、かつてこう言った。

「はやしさん(=私)の言っていることはよくわかります。
しかしね、はやしさん。
私たちは、あなたのような人に、成功してもらっては
困るのです。
あなたのような人が成功するとね、『では、私たちの
人生は何だったのか?』という、自己否定の世界に
陥ってしまうからです」と。

 ここでその女性がいう「私たちの人生」というのは、
会社人間として、歯車のひとつとして働いている
人たちの人生をいう。

 が、それでもあえて言う。
この日本は、あまりにも(組織)優先型社会になりすぎている!
(個人)が犠牲になりすぎている!

 そのひとつの象徴が、あの「浜松医師会ビル」という
ことになる。
私はあのビルを見ながら、改めて、(組織)のもつ力の
ものすごさに驚いている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 組織vs個人 映画『生きる』 老後の統合性 個人として生きる
はやし浩司 ゴンドラの歌 個人で生きる難しさ フリーター 不利ダー)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●The Howie Brothers(ホウイ・ブラザーズ)


++++++++++++++++


When I started living in the International House,
Melbourne Univ., Australia, I asked some of my
friends to teach me how to sing "Waltzing Matilda",
a second ntional anthem of Australia.
My friends introduced me two twin brothers, 
John and Graeme Howie.
They taught me in the music room which is inn the
basement of the house.
I then can sing the song even now as they sing in
Australia.
They are now country bush singers in Austrakia.
John's webiste is:


http://www.musictours.com.au/john_howie_bio.html


Here is his website in which John writes like this:


メルボルン大学で学生になったとき、最初に
覚えたかった歌が、「ウォルチング・マチルダ」。
オーストラリアの第2国歌とも呼ばれていた。


その歌を教えてほしいと何人かの友だちに頼むと、
友だちは、2人の双子の兄弟を紹介してくれた。
それがジョンとグレアムの2人の兄弟だった。
2人は、何時間もかけて、その歌の歌い方を
教えてくれた。


彼らは現在、オーストラリアでも、代表的な
カントリー・ミュージシャンとして活躍
している。
世界中をツアーを組んで、歌を歌って
いる。
ウェブサイトによれば、アルバムも20枚を
超えたという。


【ジョンとグレアムのサイトより】


John Howie is an Australian musician who lives in Melbourne. He and his identical twin 
brother, Graeme, perform together as The Howie Brothers, a well-known country/easy 
listening vocal harmony recording act. 
ジョンと双子の兄弟のグレアムは、「The Howie Brothers」という名前でよく知られた、音楽家で
ある。


John and Graeme were previously members of country band 1901 which, in the early '80s, 
won three Golden Guitars (including two Group of the Year awards) at the Australasian 
Country Music Awards in Tamworth.
2人の兄弟は、数々のゴールデン・ギター賞を受賞している。


 The Howie Brothers has released approximately 20 albums. John plays various instruments, 
including piano, drums, accordion, guitar, & ukulele. He is also a keen songwriter, and 
sometimes writes songs inspired by his Music Tours (e.g., Out in the Outback, I'd Never Been 
to Birdsville, and We're Travellin' Around New Zealand).
ホウイ・ブラザーズは、20枚近いアルバムを出している。
ジョンは、いくつかの楽器を演奏することができる。


John has a music degree from the University of Melbourne, where he studied classical music 
and music education. He taught music in secondary schools for over 20 years, including 
Camberwell High School (Melbourne), where he taught Kylie Minogue.
ジョンは、メルボルン大学で、音楽の学位を得ている。
彼はシンガーとして活躍するようになる前、20年間、高校の教師をしていた。


+++++++++++++++++++++++


 
(左右が、The Howie Brothers、1970年、IHカレッジにて)
<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/39/img685a87eazikczj.
jpeg" width="600" height="480" alt="The Howie Brothers Australia">


●古い写真


 一枚の写真がある。
ホウイ兄弟が、ハウス(メルボルン大学・カレッジ)の大食堂の中で、歌を歌っている写真であ
る。
左右がホウイ兄弟。
(どちらがJohnで、どちらがGraemeか、わからない。)
中央が、現在、作家兼ジャーナリストとして活躍している、アラン・オースティンである。


食堂は、シニアの学生や教授たちが座る、ハイテーブルと、ジュニア(在校生)が座る、ローテ
ーブルに分かれていた。
そのハイテーブルに立って、たしか第九の合唱曲を歌ったと思う。
その日は、ルードリッヒ・フォン・ベートベンの誕生日だった。
壁に、ベートーベンの絵が飾られている。


 ちょうど昼食時で、みな、手を休めて、彼らの合唱曲に聴き入った。


 ……それから40年。
今でも私は、あのときホウイ兄弟が教えてくれたように、「ウォルチング・マチルダ」を、Aussie、
つまりオーストラリアのカントリー英語なまりで、歌うことができる。
日本風に言えば、「正調」ということになる。
その写真を見ながら、40年の年月を感ずる。
同時に、それぞれに生きてきたことの重みを感ずる。


 
(現在の、Jhon Howie、2010年、彼のWebsiteより)
<IMG SRC="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/40/imgd6ec31e1zik7zj.
jpeg" width="660" height="250" alt="The Howie Brothers in 2010, Great Singers in Australia
">


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 John Howie Australian musician Graeme Howie The Howie Brothers, a well-
known country singers in Australia) 


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


●40年


 当時のIHカレッジには、200人の学生がいた。
約半数は、外国からの留学生。
残りの半数は、オーストラリア人という構成だった。
外国からの留学生は、私1人をのぞいて、各国の皇太子や王子ばかりだった。
その国の大臣の息子もいたし、中にはマフィアの親分の息子もいた。
当時のIHカレッジは、男子専用のカレッジだった。


 私は同じ留学生だったが、そのうち桁外れの(ちがい)を感じ、留学生グループから離れ、オ
ーストラリア人グループとつきあうようになった。
ジョンとグレアム兄弟も、その中にいた。
今でも古い写真を見ると、スーッとあの時代に、自分が戻っていくのがわかる。
が、同時に、それは過ぎ去りし過去。
ホウイ兄弟にしても、当時は、写真のとおりビートルズのように細く、スマートだった。
が、今は、すっかりオーストラリア人ぽくなった。
しかしどちらが本当のホウイ兄弟なのかというと、私にはよくわからない。
(現在)という、過去から見れば、ありえない空間。
(過去)という、現在から見れば、しっかりと心に残っている空間。
その2つの間を、私の魂は、ゆらゆらと、行ったり来たりする。


 留学生組の活躍ぶりは、ときどきテレビなどにも紹介される。
今はその国の国王になった人も多い。
が、どういうわけか、そういう友人たちよりも、ここにあげたホウイ兄弟のように活躍している友
人のほうが、親しみを覚える。
あの時代を起点として、いっしょに歩いてきたという親しみである。
もっとも私は、この40年間、彼らと交信したことはない。
が、これだけは、言える。


 「彼らも、私のことを、しっかりと覚えていてくれるはず」と。
昨夜、ホウイ兄弟のサイトから、メールを送った。
ワイフは、「あなたのことを覚えているかしら?」と、どこか心配そうだった。
が、心配は無用。
「100%、覚えているよ。返事もくれるよ」と。


 私たちは、1年間、寝食を共にした。
その(重み)は、だれにも消せない。
あの時代の(重み)は、だれにも消せない。


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

【時間とは何か?】

+++++++++++++++

「時間」のとらえ方は、物理学と哲学
の世界では、まるでちがう。
ちがうが、そこには相互性がある。
それについて、考えてみたい。

2002年に書いた原稿(フェムト秒について)と、
2009年に書いた原稿(クロック周波数について)の
2作を、まずここに再掲載する。

+++++++++++++++

●今朝・あれこれ(4月13日)

●「無」の世界(The World of "Nothing")
This universe was born from nothing, or the smallest dot or line. Whatever it is, if so, our 
exisitance stands on this "Nothing". Then we ask ourselves, what we are. Some people say, 
there is another world beyond this world. But from that another world, this world where we 
live is another world itself. Is there another world beyond this world?

+++++++++++++++++

昨夜、こんなことを書いた。

「ひょっとしたら、あの世というのは、
あるのかもしれない」と。

私にとっては、生まれてはじめて書いた
言葉である。

理由がある。

私たちは今、大宇宙と呼ばれる、この宇宙の
中で生きている。
空の星々を見れば、それがわかる。

しかしこの大宇宙は、一説によると、
ビッグバンと呼ばれる、大爆発によって
生まれたものだという。

この説を疑う学者はいないが、問題は、
それ以前の宇宙は、どうであったかということ。

これについては、いろいろな説がある。
あるが、共通している点は、最初は、
「無」もしくは、それに近い状態であったということ。
それが爆発して、現在のような大宇宙になった?

何とも不可思議な世界だが、言いかえると、
私たちの存在そのものも、その不可思議な世界を基盤と
しているということになる。

逆に、こんなふうに考えてみてもよい。

よく「宇宙には果てがない」という。
しかし宇宙の向こうに、別の宇宙があるというわけでも
ないらしい。
ホーキング博士によれば、私たちが住んでいるような
大宇宙は、ここにも、そこにも、どこにでもあるという。
しかも、それが無数にあって、まるで泡(バブル)の
ようになっているという。

そこに見えないからといって、簡単に否定してはいけない。

そもそもこの宇宙では、時間も、空間も、アテにならない。
「時間」といっても、それは人間にとっての時間であって、
絶対的な時間ではない。

人間がいう「1秒」の間に、誕生から死まで繰りかえす
生物だっているかもしれない。
もし人間が、フェムト秒単位で生きることができるとするなら、
私たちは、その「1秒」を使って、3100万年分も
生きることができる※。

(3100・万・年だぞ!)

空間にいたっては、さらにアテにならない。

私たちが見ている、この世界にしても、
「見ている」と思っているだけで、
実は、何も見ていないのかもしれない。
わかりやすく言えば、「見ている」と思っているのは、
脳の後頭部にある視覚野に映し出された
電気的信号を、大脳が知覚しているにすぎない。

「見えないから何もない」と言うのは、
幼児のたわごとにも、ならない。

が、ホーキング博士が言う、別の宇宙を、
私たちは、知ることも、見ることもできない。
私たちの宇宙から見れば、そこは「無」の
世界ということなる。

(この宇宙にしても、もともと「無」であった
ものが、2つに分かれて、今の大宇宙を作った
という説もある。)

が、このことを反対に言えば、向こうの宇宙から見れば、
私たちの宇宙のほうが、無の世界という
ことになるのでは?

どちらが「無」なのかと論じても、意味はない。
それはたとえて言うなら、日本人とアルゼンチン人の、
どちらが逆さまに立っているかを論じるようなもの。

日本人から見れば、アルゼンチン人は、逆さまに
立っていることになる。
アルゼンチン人から見れば、日本人のほうが、
逆さまに立っていることになる。

もう少しわかりやすく言えば、こうだ。

日本からアルゼンチンを見れば、アルゼンチンは
外国(=あの世)ということになる。

しかしアルゼンチンから見れば、日本は外国(=あの世)
ということになる。

しかし、現実には、私はここにいる。
あなたは、そこにいる。
この世であろうが、あの世であろうが、
私は、ここにいる。
あなたは、そこにいる。

……と考えていくと、何がなんだか、わけが
わからなくなってくる。

もっと言えば、私たちの存在すらも、わけの
わからないものになってくる。

私たちが住むこの宇宙が無であるとするなら、
私という存在も、無ということになってしまう。

が、現実に、私は、この世に住んでいる。
「無」ではない。
だとするなら、私があの世にいても、何も、おかしくない。

(ゾーッ!)

つまりあの世がこの世かもしれない。
この世があの世かもしれない。

もっとはっきり言えば、この世があるなら、
あの世があっても、何もおかしくないということになる。

ただ誤解しないでほしいのは、ここでいう(あの世)
といっても、どこかのカルト教団の人たちが
好んで使う(あの世)ではないということ。
天国とか、極楽とかいう概念とも、ちがう。

さらに仮に死んだあと、あの世へ行くにしても、
今、私たちがもっている意識が、そのまま
連続性をもって、つながっていくとはかぎらない。

「意識」といっても、脳の中をかけめぐる
電気的信号に過ぎない。
死ねば同時に、こうした信号は、光となって空中に霧散する。
その時点で、「私」という意識は、消滅する。

私がここでいう「あの世」というのは、
そこにある「無」の世界の中の、別の大宇宙ということ。

するとまた、謎が振り出しに戻ってしまう。

あの世がこの世かもしれない。
この世があの世かもしれない。

今住んでいる、この世界が、すでにあの世かも
しれない。
となると、私たちは、かつてこの世に住んでいたことになる?

????????????????

わけがわからなくなってきたので、この話は、ここまで。

アインシュタインは、「問いつづけることこそが
大切」と言った。

私も、この先、この問題については、問いつづけて
みたい。

この世はあの世なのか。
あの世はこの世なのか、と。

+++++++++++

※「フェムト秒」という言葉を
最初に教えてくれたのは、
田丸謙二先生です。

それについて書いた原稿です。

+++++++++++

●フェムト秒

 ある科学の研究者(田丸謙二先生のこと)から、こんなメールが届いた(02年9月)。いわく…


「今週(今日ですと先週と言うのでしょうか)は葉山の山の上にある国際村センターで日独のジョ
イントセミナーがありました。私の昔からの親しい友人(前にジャパンプライズを受けたノーベル
賞級の人)が来ると言うので、近くでもあるし、出させてもらいました。 今は固体表面に吸着し
た分子一個一個を直接見ながら、それにエネルギーを加えて反応を起こさせたり、フェムト秒
単位(一秒を10で15回繰り返して割った短い時間)でその挙動を追っかけたり、大変な技術
が発達してきました」と。

 このメールによれば、(1)固体表面に吸着した分子を直接見ることができる。(2)フェムト秒
単位で、その分子の動きを観察できる、ということらしい。それにしても、驚いた。

ただ、(1)の分子を見ることについては、もう二〇年前から技術的に可能という話は、その研
究者から聞いていたので、「へえ」という驚きでしかなかった。しかし「フェムト秒単位の観察」と
いうのには驚いた。

わかりやすく言うと、つまり計算上では、1フェムト秒というのは、10の15乗倍して、やっと1秒
になるという時間である。反対に言えば、1000兆分の1秒ということになる。さらにかみくだい
て言えば、1000兆秒というのは、この地球上の3100万年分に相当する。計算するだけで
も、わけがわからなくなるが、1フェムト秒というのは、そういう時間をいう。

こういう時間があるということ自体驚きである。もっともこれは理論上の時間で、人間が観察で
きる時間ではない。しかしこういう話を聞くと、「では、時間とは何か」という問題を、考えざるを
えなくなってしまう。もし人間が、1フェムト秒を、1秒にして生きることができたら、そのたった1
秒で、3100万年分の人生を生きることになる! ギョッ!

 昔、こんなSF小説を読んだことがある。だれの作品かは忘れたが、こういう内容だった。

 ある惑星の知的生物は、珪素(けいそ)主体の生物だった。わかりやすく言えば、体中がガ
チガチの岩石でできた生物である。だからその生物が、自分の指を少し動かすだけでも、地球
の人間の時間で、数千年から数万年もかかる。一歩歩くだけでも、数十万年から数百万年も
かかる。

しかし動きというのは相対的なもので、その珪素主体の生物にしてみれば、自分たちがゆっく
りと動いている感覚はない。地球上の人間が動いているように、自分たちも、ごく自然に動いて
いると思っている。

 ただ、もしその珪素主体の生物が、反対に人間の世界を望遠鏡か何かで観察したとしても、
あまりに動きが速すぎて、何も見えないだろうということ。彼らが一回咳払いする間に、地球上
の人間は、数万年の時を経て、発生、進化の過程を経て、すでに絶滅しているかもしれない!

 ……こう考えてくると、ますます「時間とは何か」わからなくなってくる。たとえば私は今、カチカ
チカチと、時計の秒針に合わせて、声を出すことができる。私にとっては短い時間だが、もしフ
ェムト秒単位で生きている生物がいるとしたら、そのカチからカチまでの間に、3100万年を過
ごしたことになる。となると、また問題。このカチからカチまでを一秒と、だれが、いつ、どのよう
にして決めたか。

 アインシュタインの相対性理論から始まって、今では第11次元の世界まで存在することがわ
かっているという。(直線の世界が一次元、平面の世界が二次元、立体の世界が三次元、そし
てそれに時間が加わって、四次元。残念ながら、私にはここまでしか理解できない。)ここでい
う時間という概念も、そうした次元論と結びついているのだろう。

たとえば空間にしても、宇宙の辺縁に向かえば向かうほど、相対的に時間が長くなれば、(反
対に、カチからカチまで、速くなる。)宇宙は、永遠に無限ということになる。たとえばロケットに
乗って、宇宙の果てに向かって進んだとする。

しかしその宇宙の果てに近づけば近づくほど、時間が長くなる。そうなると、そのロケットに乗っ
ている人の動きは、(たとえば地球から望遠鏡で見ていたとすると)、ますますめまぐるしくな
る。地球の人間が、一回咳払いする間に、ロケットの中の人間は、数百回も世代を繰り返す…
…、あるいは数千回も世代を繰り返す……、つまりいつまでたっても、ロケットの中の人間は、
地球から見れば、ほんのすぐそばまで来ていながら、宇宙の果てにはたどりつけないというこ
とになる。

 こういう話を、まったくの素人の私が論じても意味はない。しかし私はその科学者からメール
を受け取って、しばらく考え込んでしまった。「時間とは何か」と。

私のような素人でもわかることは、時間といえども、絶対的な尺度はないということ。これを人
間にあてはめてみると、よくわかる。たとえばたった数秒を、ふつうの人が数年分過ごすのと同
じくらい、密度の濃い人生にすることができる人がいる。

反対に一〇年生きても、ただただ無益に過ごす人もいる。もう少しわかりやすく言うと、不治の
病で、「余命、残りあと一年」と宣告されたからといって、その一年を、ほかの人の三〇年分、
四〇年分に生きることも可能だということ。反対に、「平均寿命まで、あと三〇年。あと三〇年
は生きられる」と言われながらも、その三〇年を、ほかの人の数日分にしか生きられない人も
いるということ。どうも時間というのは、そういうものらしい。

いや、願わくば、私も1フェムト秒単位で生きて、1秒、1秒で、それぞれ3100万年分の人生を
送ることができたらと思う。もちろんそれは不可能だが、しかし1秒、1秒を長くすることはでき
る。仮にもしこの1秒を、たったの2倍だけ長く生きることができたとしたら、私は自分の人生
を、(平均寿命まであと30年と計算して)、あと60年、生きることができることになる。

 ……とまあ、何とも理屈っぽいエッセーになってしまったが、しかしこれだけは言える。幼児が
過ごす時間を観察してみると、幼児のもつ時間の単位と、40歳代、50歳代の人がもつ時間の
単位とはちがうということ。

当然のことながら、幼児のもつ時間帯のほうが長い。彼らが感ずる1秒は、私たちの感ずる1
秒の数倍以上はあるとみてよい。もっとわかりやすく言えば、私たちにとっては、たった1日で
も、幼児は、その1日で、私たちの数日分は生きているということ。あるいはもっとかもしれな
い。

つまり幼児は、日常的にフェムト秒単位で生活している! これは幼児の世界をよりよく理解
するためには、とても大切なことだと思う。あくまでも参考までに。
(02−9−17)※


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●1秒は、1秒なのか?(One second for mice is equivalent to 100 seconds for men)

●クロック数(クロック周波数)について(2009年6月の原稿より)

++++++++++++++++++++

今日の夕刊(4月30日、中日新聞)に、
こんな興味ある記事が、載っていた。
『人とマウス、行動似てる』というタイトルの
ものだった。
『(人とマウスに関して)、活動時間
や休息時間について、長いものや短いものが、
どんな頻度で現れるかを分析すると、
パターンはまったく同じで、人の動きを100倍
の速さで早回しすれば、マウスと同じになることが
わかった』と。
大阪バイオサイエンス研究所(大阪府吹田市)と
東京大学の研究チームによる、研究結果である。
記事には、『生物の行動の背後に、種を超えた基本法則
が存在する可能性を示すもの』(同)ともあった。

+++++++++++++++++++++

●庭のスズメ

たとえば庭に遊ぶスズメたちを見てみよう。
小枝から小枝へと、小刻みなリズムで、飛び回っている。
少し前、私は、それを見ながら、こんなことを考えた。
「もし人間が、同じ行動をしようとしたら、
スズメの何倍の時間がかかるだろうか?」と。
スズメたちは、数秒単位で、枝から枝へと、
ピョンピョンと飛び回る。

で、同じような枝を、パイプが何かでつくり、
人間に同じ行動をさせたら、どうだろう?
オリンピックに出るような体操選手ですら、
その10倍の時間は、かかるかもしれない。
またつぎにこんなことを考えたこともある。
一匹の蚊を頭の中で、想像してみてほしい。

その蚊が、人間の足の高さから、頭の高さまで
あがるのに、何秒くらいかかるか、と。
正確に計測したことはないのでわからないが、
ブーンと飛べば、3〜4秒もかからないのでは
ないか?

そこで蚊の体長を、5ミリとして計算すると、人間の
170センチの身長は、蚊の体長の340倍の高さという
ことになる。

そこで身長が1・7メートルの人間の高さに換算すると、
1・7メートルx340=578で、約580メートル
の高さということになる。

つまり蚊は、人間にしてみれば約580メートルの
山を、3〜4秒で登ったり、おりたりすることが
できるということになる。
3〜4秒である。
が、これで驚いてはいけない。

●ハエは、音速の3倍以上!

ときどき家の中を、体長1センチ前後の、大きな
ハエが飛び回ることがある。
私たちが「クソバエ」と呼んでいる、黒いハエである。
あのハエは、7〜8メートル四方の部屋を、
ビュンビュンと飛び回る。

そのハエについても、正確に計測したことがないので
わからないが、やはりブ〜ンと飛べば、7〜8メートルの
部屋を横切るのに、1秒もかからないのではないか。
そこでこれらの数字をもとにして、ハエの速度を計算してみると、
秒速7メートルとして、同じように170倍すると、
秒速1190メートルということになる。
さらにこの数字を、60x60=3600倍すると、
時速になる。

その時速は、何と、4284万000メートル。
キロメートルになおすると、4284キロメートル。
つまりあのハエは、人間の大きさで考えると、
時速4000キロ以上のスピードで、部屋の中を飛び回って
いることになる!
時速4000キロだぞ!

この数字を疑う人は、一度、自分で計算してみるとよい。
つまり音速の約3倍!
こうして考えてみると、スズメにせよ、蚊にせよ、
はたまたあのハエにせよ、私たちとはちがった(時間)を
もっているのがわかる。

前にも書いたが、もしハエが今のまま進化し、
時計を作ったとしたら、秒針のほかに、1秒で1周する
もう一本の針を考えるかもしれない。
つまりスズメにせよ、蚊にせよ、はたまたハエにせよ、
私たち人間がいうところの「1秒」を、10秒とか、
100秒で生きていることになる。

●マウスは、人間の100倍!

・・・というようなことを、今回、大阪バイオサイエンス
研究所というところが、はからずも証明した?
もう一度、新聞記事を読みなおしてみよう。
そこには、こうある。

『(人とマウスに関して)、活動時間
や休息時間について、長いものや短いものが、
どんな頻度で現れるかを分析すると、
パターンはまったく同じで、人の動きを100倍
の速さで早回しすれば、マウスと同じになることが
わかった』と。

もう少し専門的に言えば、「体内のリズムをつくる
時計遺伝子の働きは、マウスのばあい、人間の
それより100倍も速い」ということになる。
だから単純に、「マウスは人間の100倍の
速さで生きている」というふうに考えることは
できないとしても、「少なくともマウスは、
人間とはちがった時間の尺度をもっている」ということだけは
確かである。

同じ1秒を、人間は、それを1秒として生きている。
が、マウスにしてみれば、100秒にして生きている
かもしれない。

だからたとえば、マウスの寿命を仮に1年としても、
それを「短い」と思ってはいけない。
マウス自身が感ずる1年は、ひょっとしたら人間の
100年分に相当するかもしれない。

●幼児の世界でも

実は、私は、このことは幼児を指導している
ときにも、よく感ずる。
私の教室では、常にテンポの速いレッスンに心がけて
いる。
そうでもしないと、子どものほうが、飽きてしまう。
レッスンに乗ってこない。

で、そういうとき、私はよくこう思う。
幼児のもつ体内時計は、おとなのもつ体内時計より、
数倍は速い、と。
わかりやすく言えば、幼児にとっての1分は、
おとなに3〜4分に相当する。
おとなが3〜4分ですることを、幼児は、1分でする、と
言いかえてもよい。

「アウ〜、それでエ〜、エ〜ト・・・」などというような、
どこか間の抜けたようなレッスンをしていたら、
それだけで教室はザワついてしまう。
収拾がつかなくなってしまう。

反対に、老人ホームにいる老人たちを見てみると、
このことがさらによくわかる。
そこにいる老人たちは、1日中、何かをするでもなし、
しないでもなしといった状態で、その日、その日を
過ごしている。

そこにいる老人たちは、明らかに私たちとは、ちがった
体内時計をもっている。
ひょっとしたら、1日を、私たちがいう、1時間、
あるいはそれよりも短く感じながら生きている
かもしれない。

長い前置きになってしまったが、結論を急ぐと、こういう
ことになる。
私たちが感じている1秒、1分、1時間は、
けっして絶対的なものではないということ。
過ごし方によっては、1秒を1時間にして生きることもできる。
反対に、1日を、1分のようにして過ごしてしまう
かもしれない。

つまり(時の長さ)というのは、時計的にはみな、同じでも、
過ごし方によっては、何倍もにして生きることもできる。
反対に、数分の1にして生きることもあるということ。
もっと言えば(時の長さ)には、絶対的な尺度はないということ。
要は、その人の過ごし方、ということになる。
それにしても、『人の動きを100倍の速さで早回しすれば、
マウスと同じになることがわかった』とは!
100倍だぞ!

この「100倍」という数字を読んだとき、私は
改めて、(時間とは何か)、さらには、(生きるとは何か)、
それを考えさせられた。

余計なことかもしれないが、日々を、野球中継だけを見ながら過ごすのも
人生かもしれない。が、それでは、あまりにももったいない。
日々を、パチンコだけをしながら過ごすのも、
人生かもしれない。が、それでは、あまりにももったいない。
あるいは日々を、魚釣りだけをしながら過ごすのも、
これまた人生かもしれない。が、それではあまりにももったいない。
・・・というのが、このエッセーの結論ということになる。

●脳みそのクロック数

ついでに……。
宇宙には、私たちがいう「1秒」の間に、人間の世界でいう数100年、
あるいは数1000年分の人生を生きる生物がいるかもしれない。
あるいは反対に、私たちがいう「1万年」が、寿命という生物も
いるかもしれない。

そういう生物(?)は、指を1本、動かすのに、20年とか、
30年もかかる。
岩石のようなものでできた生物を想像してみればよい。
・・・という話は、どこか荒唐無稽な感じがしないでもない。
しかしこんなことは言える。

脳みそにも、コンピュータでいうところの「クロック数」の
ようなものがあるのではないか、ということ。
たとえばワイフは、8年前に買ったパソコンを使っている。
私は、昨年(07年)に買ったパソコンを使っている。
ワープロとして使っている間は、それほどの(差)を
感じない。

が、画像を表示したり、ゲームをしたりするときには、
はっきりとした(差)となって、ちがいが出てくる。
情報を処理するための基本的な速度、つまりクロック数そのものが
ちがう。

俗な言い方をすれば、(頭の回転の速さ)ということになる。
子どもにしても、頭の回転の速い子どもは、速い。
そうでない子どもは、そうでない。
反応も鈍い。
仮に脳みそのクロック数が、2倍ちがうとすると、クロック数が
2倍速い子どもは、そうでない子どもの、2倍長く時間を使う
ことができるということになる。

全体に、クロック数が速いから、当然、計算するのも速い。
文章を書くのも、速い。
思考する力も、速い。
だからクロック数が2倍速い子どもにとっては、同じ「1秒」でも、
そうでない子どもの、「2秒分」の時間に相当する。
同じ「1年」でも、「2年分」の時間に相当する。
ただし誤解しないでほしいのは、クロック数が速いからといって、
時間を有効に使っているということにはならないということ。
(時間を長く使う)ということと、(時間を有効に使う)という
ことは、まったく別のことである。

そのことは、冒頭に書いたスズメの話を思い出してもらえば、わかる。
庭に遊ぶスズメたちは、目まぐるしく、活動している。
しかし、それだけのこと。
わかりやすく言えば、(中身のない人生)を、忙しそうに
繰りかえしているだけ。

恩師の田丸謙二先生は、いつも口癖のように、こう言っている。
「せっかく、いい頭をお持ちなのですから・・・」と。
私に対して、そう言っているのではない。

東大という大学に入ってくる学生たちに、いつもそう言っている。
先生がいう、「・・・なのですから・・・」というのは、
「もっと自分の頭で考えなさい」という意味だが、
先生の言葉をもう少し、自分なりに解釈すると、こうなる。
「せっかく速いクロック数の頭をもっているのだから、
脳みそを有効に使いなさい」と。

●最後に・・・

脳梗塞のようなダメージを受けないかぎり、実際には、
脳みそのクロック数などというものは、みな、それほどちがわない。
ちがっても、2倍とか3倍とかいうものではなく、
1・1倍とか、1・2倍とかいう範囲の、わずかなものかもしれない。
しかもそのクロック数というのは、訓練によって、速くすることができる。
このことも、子どもの世界を見れば、よくわかる。

言いかえると、同じ人生でも、それを長くして生きるか、
それとも、短くして生きるかは、その人、個人の問題ということ。
そのためにも、頭は使って使って、使いまくる。
そうでなくても、脳みそのクロック数は、加齢とともに、落ちてくる。
老人ホームにいる老人たちにしても、ある日、突然、ああなったのではない。
ある時期から、徐々に、そして少しずつ、長い時間をかけて、
ああなった。

今の私やあなたがそうかもしれない。
クロック数というのは、そういうもの。
全体に脳みその機能が低下していくため、その人自身が、それに気づくと
いうことは、まずない。

知らぬ間に、クロック数は低下し、また低下しながらも、低下したこともわからない。
だから歳をとったら、なおさら、頭は使う。
使って使って、使いまくる。

それがとりもなおさず、私たちの人生を、より長くすることになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 クロック数 クロック周波数 人間のクロック数 クロック周波数 生きる密度)


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●時間とは……

 改めて書くまでもなく、時間とは生き方の問題ということになる。
「そこに時間がある」ということではなく、「どう生きるか」。
それが時間ということになる。
もし「時間」という概念があるなら、「その時間を、どう使うか」。
それがここでいう「生き方の問題」ということになる。

 怠惰に過ごすのも1年なら、懸命に生きるのも、これまた1年。
「長さ」は、その「密度」によって決まる。
言い替えると、生き様の追求は、密度の追求ということになる。
いかに無駄を省き、密度を濃くしていくか。
それによって1年を10年にすることもできる。
1年を100年にすることもできる。

 もちろん回り道をすることも、よくない。
私たちも「生命」の一部でしかない。
その「生命」という部分には、限界がある。
ちょうど鉄がさび、やがて朽ちていくように、私たちの細胞も、さび、
やがて朽ちていく。
「急ぐ」という言い方は好きではないが、少なくとも、
無駄にする時間はない。
物理的な時間をいうなら、100年でも足りない。
1000年でも足りない。
真理の探究というのは、それほどまでに深淵で、道は遠い。

 「時間とは何か?」。
それを考えていくと、その先に、どう生きるべきかが見えてくる。
そういう意味で、物理学でいう(時間)と、哲学でいう(時間)には、
相互性がある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 時間とは何か)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●映画『NINE』

++++++++++++++++

昨夜遅く、映画『NINE』を劇場で
観てきた。
ほかに観たい映画がなかった。
しかたないので、『NINE』にした。
(失礼!)
もう少し若いころなら、「おとなっぽい映画
だな」と思ったかもしれない。
しかし今は、ちがう。
映画の観方が変わった。
いうなれば、「ドーパミン映画」。
そんな映画だった。

快楽追求行動を調整している神経伝達物質※がある。
それがドーパミン。
視床下部からの指令を受けて、その
ホルモンが分泌される。
そのドーパミン漬けのような映画。
タバコと酒、それに踊りと音楽。
どこか薄汚く、どこか退廃的。
「おとなの映画というのは、こういうもの」
という、監督の意図、見え見え。
それで星は2つの、★★。

若い人なら、監督の隠された意図を
見抜けないかもしれない。
「これぞ、おとなの映画」と賞賛する
かもしれない。
が、私にはできない。
それには、もうひとつ理由がある。

私は50歳を少し過ぎたころ、「男の
更年期?」なるものを経験した。
そのときのこと。
私は性欲からの解放を味わった。
それは実に軽快な気分だった。
と、同時に、それまでの私が、いかに
「性的エネルギー」(フロイト)の奴隷で
あったかを知った。

もろもろの人間の活動は、どこかでその
性的エネルギーの指令を受けている。
男は女を意識し、女は男を意識する。
つまりそういう意識から解放された。

幸か不幸か(?)、そのあとしばらくして、
再び私の中に「男」が戻ってきた。
女性が再び、「女」に見えてきた。
が、それでも、元に戻ったわけではない。
60歳を過ぎた今は、「男」も、ぐんと
薄くなってきた。
それが自分でもよくわかる。

そういう現在の「私」から見ると、ドーパミン
というホルモンが、どういうものか、よくわかる。
それに操られた人間が、どういうものか、
よくわかる。

映画『NINE』は、そういう映画だった。
中身があるようで、まったく、ない。
ウソとインチキとゴマカシ。
人生を知り尽くしたようなセリフ。
「これが人生」と言わんばかりの高飛車なセリフ。
それをあえて、けばけばしい音楽と踊りで飾る。
私はああいう世界が、あるべき(おとなの世界)とは
思わない。
あるべき(おとなの世界)というのは、
どこかに童心を残した、純粋な世界をいう。
またそういう世界を恥じることはない。
パブロ・ピカソの絵画を例にあげるまでもない。

あのピカソも若いころは、精一杯、背伸びした
ような絵を描いていた。
が、晩年のピカソは、幼児の描くような絵に
戻っている。
残念ながら、ピカソの絵画が幼児の描く絵より
すぐれていると言っているのではない。
ピカソの絵画よりすぐれた絵を描く子どもは、
いくらでもいる。
が、そういう子どもでも、やがて俗化し、
薄汚いおとなの世界に、紛れ込んでいく。
子どものころの純粋さを見失っていく。
その結果が、映画『NINE』ということになる。

二度目は、ぜったいに見たくない映画。
いくら「賞」で飾っても、一度でこりごり。
途中で眠くなったほど。

(注※)
ドーパミン……快楽追求行動を調整している神経伝達物質
条件づけ反応……報酬と喜びに関連する脳の刺激に対する反応。これによって
       条件づけ反応が生じ、その環境に身を置いただけで、反応が起こる
       ようになる(以上、日経「サイエンス」07−12、p54) 

+++++++++++++++++

●The Howie Brothers(ホウイ兄弟)

今朝起きてすぐ、「The Howie Brothers」のことを書いた。
オーストラリアの音楽家である。
大学の同窓生でもある。
1970年のときの写真と、2010年の写真を並べて、BLOGに掲載した。
その2つの写真を見比べなら、こう思った。

 たいていの人は、(私のワイフもそうだが)、現在の写真を見て、「こんな人たちにも、若いと
きがあった」と思う。
この見方は、まちがってはいない。
しかし空白の40年を縮めてみると、見方が逆になる。
「こんな青年にも、やがてくる老年期があった」と。

 もちろん青年期には、それはわからない。
老齢期という未来は、まだ存在しない未知の世界。
しかし実際には、どんな青年にも、すでに老齢期はある。
あって、どこかに潜んでいる。

 このことは、幼児たちを見ているとわかる。
年中児(4歳児)から、高校3年生まで。
そういった子どもを毎年繰り返し見ていると、やがて幼児を見ただけで、その子どもがそのあと
どうなっていくか、おおかたの輪郭がわかるようになる。
幼児の中に、中学生になったときの様子、高校生になったときの様子がわかるようになる。
同じように・・・というわけでもないが、1970年のホウイ兄弟の写真を見ていると、見た目には
青年かもしれないが、その中に、現在のホウイ兄弟を見てしまう。

 どちらが先で、どちらが後ということではない。
その人たちの中で、人生がひとかたまりになっている。
だから私は、1970年の写真を見ながら、こう思う。

「この人たちにも、今のような老齢期があったのだ」と。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●春休み

 私にも春休みがある。
10日間ほどある。
いろいろ計画している。
が、こうした計画というのは、浅瀬にわく、泡のようなもの。
ポッポッと現れては、その一方で、ポッポッと消えていく。
若いころなら、「本を1冊、書いてやる」などと思ったもの。
しかし今の私は、「本を書くこと」には、まったく興味がない。
書いたものを本にしたいという意欲さえ、わいてこない。
今は、インターネットの時代。
これからはインターネットの時代。

 ひとつの例だが、10年ほど前までは、パソコン関連のソフトが、たくさん店に並んでいた。
ゲームソフトはもちろん、画像編集ソフト、ビデオ編集ソフト、宛名書きソフト、家計簿ソフトなど
など。
20年前には、もっとたくさんあった。
しかし今は、そのほとんどが、無料ソフトに置き換わった。
画像加工ソフトにしても、無料加工ソフトのほうが、内容が濃い。
使い勝手もよい。

 同じように、(情報)にしても、少し前までは、「安かろう、悪かろう」という思いが、まだ残って
いた。
ニュースにしてもそうだ。
今ではインターネットで配信される(情報)のほうが、はるかに質が高い。
(もちろん低いものもあるが・・・。しかしこれは選択の問題。)
何よりも瞬時、瞬時・・・というところがすごい。
朝に記事を配信すれば、昼を待たずして、反応が入ってくる。
(実際には、BLOGに書き込むと同時に、検索されるようになる。)

 どうしてこういう時代に、「本」なのか?
収入にはならないかもしれないが、私には、そのほうが楽しい。
つまりインターネットを利用して、好き勝手なことを書いているほうが、楽しい。
ということで、新年度からの新しい企画に挑戦したい。
(2009−2010年度は、「BW公開教室」に力を入れた。)


●同性愛

++++++++++++++++++

数日前、浜松市の男性教師が、児童買春で
逮捕された。
東京で、逮捕された。
相手は女の子かと思ったが、男の子だった。
つまりその教師は、同性愛者であった。
別の同性愛者に段取りをつけてもらい、
東京まで出かけていって、売春行為を
していたらしい。

+++++++++++++++++++

●「濃い男」

 「濃い男」「薄い男」という言葉は、私が最初に考えた。
今では広く、あちこちで使われている。
「肉食系」「草食系」と同じような意味で使われているが、私が使い
はじめたときには、すこし違った。
まったく女性にしか興味を示さない男を、「濃い男」という。
同性でもか構わないという男を、「薄い男」という。
私は、その中でも、「たいへん濃い男」。
同性の男に、肌をさわれただけで、ゾッとする。
一方、女性なら、だれでも構わない。
歯医者などに行って、女性の看護士に肌をさわられただけで、うっとりする。

 だから、こういうニュースを聞くたびに、「ヘエ〜〜?」と思ってしまう。
そんなに同性に興味があるなら、温泉か、大浴場へ行けばよい、と。
(あるいはそういうところは、飽きてしまったのか?)

●同性愛

 同性愛がどうこう言うのではない。
好ましくないとか、そういうことを言っているのでもない。
そういうことを言うと、今では「偏見」と考えられ、評論すること自体、許されない。
(今まで、一度もしたことはないが・・・。)
しかし「東京まで行って・・・」というところに、私は別の何かを感じてしまう。
当人も何かしらの(うしろめたさ)を感じていたのだろう。

 それについてワイフは、「地元じゃあ、バレるからじゃない」と。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
年齢は53歳というから、あちこちの学校で教壇に立っていたはず。
現在の学校に移る前は、市内のN中学校で、教壇に立っていたという。
顔も広く知られている。
「だから東京で・・・」ということになった(?)。

 しかし考えてみれば、不思議な世界と思う。
人間の世界にも、(男)と(女)がいて、さまざまな人間模様を繰り広げている。
ときにそれが(男)と(男)になり、(女)と(女)になったりする。
どうでもよい世界だが、そこに子どもを巻き込む。
それはいけない。

この浜松市でも、毎年教師によるハレンチ事件が、1〜2件はある。
親レベル、学校レベルでもみ消される事件まで入れたら、もっと多い。
当人どうしだけの秘密のままですまされるケースを含めると、さらに多い。
つまりこうした事件は、氷山の、そのまた氷山の一角。

 バレたら、教師生命どころか、世俗的な名誉、地位すべてを失う。
それほどまでの危険を感じたら、ふつうの良識のある人は手を引く。
「教職」という立場にあるなら、なおさらである。
そう言えば、どこかの小学校の校長が、校長室で、児童の母親と密会を重ねていたという事件
もあった。
これもつい先日のできごとである。
が、人間のもつ欲望のパワーは、それをはるかにしのふほど、強い。
逮捕された教師も、こう言ったという。
「自分を抑えきれませんでした」と。

 ・・・こういう事件は、モグラ叩きのモグラのようなもの。
人間がそこにいるかぎり、なくなることはない。
これからも頻繁に起こるだろう。
止めようとして、止められるものではない。
が、一言。

 私には、同性愛者の気持ちが、どうしても理解できない。
頭の中を、180度ひっくり返してみるのだが、それでも理解できない。
「どうして男が、男に、性的な関心をもつのだろう」と考えたところで、思考が停止してしまう。
だからこそ、不思議な世界と思う。
同じ人間であり、同じ男なのに、これだけは、私の理解の範囲を超えている。


Hiroshi Hayashi++++++MARCH.2010++++++はやし浩司

●今日、あれこれ(3月27日)

●経済問題

 ひとつだけはっきりしていること。
このまま進めば、日本経済は、やがてにっちもさっちもいかなくなるということ。
国の借金は、雪だるま式にふえつづける。
その一方で、大量の円を市中にばらまきつづける。
へたをすれば、デフレ状態のまま、ハイパーインフレを迎える。
そうなれば円の大暴落。
札も国債も、紙くずと化す。
(もともと「紙」だから、私は驚かないが・・・。)

●中国の干ばつ
 
 中国南部と、ベトナム北部が、大干ばつに見舞われている。
原因は、地球の温暖化。
が、本当の問題は、これから。
この先、世界各地で、「水戦争」が起きるようになる。
1960年代に始まった、インド・パキスタン紛争(印パ紛争)も、
もとはと言えば、水の奪い合いだった。
そうした「火種」ならぬ、「水種」は、世界各地に散らばっている。
すでに中国とベトナムの関係が、ぎくしゃくし始めている。

農耕地が被害を受ければ、そのまま食料不足につながる。
そうなれば影響は、この日本にも及ぶ。
遠い海の向こうの話では、すまされなくなる。

●民主党政権

 「日本は左傾化し、中国に接近しつつある」と。
私はそうは思っていないが、アメリカ人も、オーストラリア人も、
そう思っている。
今の民主党政権になって、日本は、かなり誤解されているようだ。
前回の衆議院議員選挙では、多くの日本人は、反麻生、反自民に
傾いた。
しかしだれも民主党が、左派政権とは、思っていなかった。
左派政権を求めて、民主党に一票を入れたわけではない。
社民党などと連携がわかってはじめて、「?」と思い始めた。
(これはあとの祭り!)

 が、何よりも失望したのは、小沢一郎幹事長。
小沢一郎幹事長が臭わす醜悪さは、麻生前総理大臣の比ではない。
そればかりか、やがてマスコミ各誌は、民主党をさして、「小沢独裁政権」
と揶揄(やゆ)するようになった。
まさに独裁政権。
派閥政治にもいろいろと問題はあるが、自民党の派閥政治のほうが、民主的(?)。
そんな印象をもってしまった。

 が、小沢一郎幹事長は、この場に及んでも、まだ強気。
夏の参議院議員選挙では、民主党の選挙参謀を務めるとか。
その姿勢は、麻生前総理と、同じ。
まるで自分の姿が見えていない。
「どうぞ、ご勝手に!」。

Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●「私」さがし

+++++++++++++++++++++

だれでも、「私のことは、私がいちばんよく
知っている」と思っている。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
しかし、「私」を知ることは、むずかしい。
本当にむずかしい。
あのソクラテスも、そう言っている。
「私は私のことを、何も知らなかった」と。
『無知の知』というあのよく知られた言葉も、
そこから生まれた。

++++++++++++++++++++++

 「私」をさがす。
それはつまりところ、「自分の乳幼児期」を見ること。
「私」という人間の「核(コア)」は、そのほとんどが、乳幼児期に作られる。

 たとえばあなたが、さみしがり屋で、心の開けない人だったとしよう。
たとえばあなたが、冷たく、嫉妬深い人だったとしよう。
あるいはたとえばあなたが、ものごとにこだわりやすく、うつ的であったとしよう。
しかしそれは(あなた)の責任ではない。
あなたが求めて、そういう(あなた)になったのではない。
(あなた)という人は、乳幼児期の環境の中で、そういう(あなた)になっていった。

(1) たとえば発達心理学の世界には、「基本的信頼関係」という言葉がある。
わかりやすく言えば、「心を開いて、相手を信じること」をいう。
その基本的信頼関係は、豊かな母子関係の中で、はぐくまれる。
(絶対的なさらけ出し)と(絶対的な受け入れ)。
「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。
その上に、基本的信頼関係が築かれる。
が、たとえば親の育児拒否、家庭内騒動、無視、冷淡、虐待などがあると、子どもはその基本
的信頼関係を築けなくなる。
そのため他人に対して、心を開けなくなる。
「基底不安」もそこから生まれる。
「いつ、どこで、何をしていても、不安」と。

(2) また子どもの発育には段階があることがわかっている。
そしてその段階ごとに「臨界期」があることもわかっている。
その臨界期をのがすと、脳細胞そのものが発達を停止してしまう。
こうして人間性そのものも、乳幼児期に決まる。
「決まる」と断言してよい。
そのよい例が、1920年代にインドで見つかった野生児。
「オオカミ姉妹」ともいう。
発見されたあと、2人の姉妹は、インド政府によって手厚く保護され、教育
を受けたが、最後まで人間性を取り戻すことはなかったという。
その人間性についても、最近では、「マターナル・デプリベイション(母性欠落)」という
言葉を使って、説明される。
乳幼児期に心豊かな母子関係に恵まれた人は、大きくなったときも、心の温かい、やさしい人
になる。
そうでなければ、そうでない。
他人との共鳴性を失い、心の冷たい人になる。
仲間をいじめても、心が痛まなくなる。

(3)さらに最近の研究によれば、うつ病の「種」も、乳幼児期にできることがわかってきた。

++++++++++++++++++++++

●うつ病の原因
 
引きこもりも含めて、うつ病の原因は、その子どもの乳幼児期にあると考える学者がふえてい
る。
 
たとえば九州大学の吉田敬子氏は、母子の間の基本的信頼関係の構築に失敗すると、子ど
もは、「母親から保護される価値のない、自信のない自己像」(九州大学・吉田敬子・母子保健
情報54・06年11月)を形成すると説く。

さらに、心の病気、たとえば慢性的な抑うつ感、強迫性障害、不安障害の(種)になることもあ
るという。それが成人してから、うつ病につながっていく、と。
 
++++++++++++++++++++++

 こうして(あなた)という人は、できあがった。
その結果が(今のあなた)ということになる。
つまり「私」をさがすということは、自分の過去、かなんずく、自分の乳幼児期の環境を
知るということになる。
あなたは、乳幼児期に、心豊かで、両親の暖かい愛情に恵まれ、穏やかな環境の中で
育っただろうか。
もしそうなら、それでよし。
が、もしそうでないなら、まず、それに気づくこと。

 というのも、恵まれた環境の中で、何一つ問題なく育った人など、ほとんどいない。
多かれ少なかれ、みな、何かの問題をもった家庭に生まれ育っている。
言い換えると、心に問題をもっていない人は、いない。
心に傷をもった人だって多い。
ただまずいのは、そういう過去があることに気づかず、私の中の「私」に振り間ウェアされるこ
と。
同じ失敗を繰り返すこと。
さらにこの種の問題は、親から子へと、世代連鎖しやすい。
もしあなたの過去に問題があったとしても、またその結果、現在の(あなた)に問題が
あったとしても、それをつぎの世代に伝えてはいけない。
あなたの代で、それを断ち切る。
そのための努力はしなければいけない。
そのためにも、まず「私」を知る。

 あとは、時間が解決してくれる。
10年とか20年はかかるかもしれない。
しかし時間が解決してくれる。
それもまた人生。
(あなた)の人生。
そう思って、そういう(あなた)自身と、仲よくつきあう。

 つまるところ、生きるということは、最後の最後まで、「自分探し」ということに
なる。
それくらい「私」を知ることは、むずかしい。
私はなぜ「私」なのか。
私がなぜ「私」なのか。
それを知ることは、本当にむずかしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 私探し 私さがし 私とは 私の中の私 自分探し 自分さがし 乳幼児期 うつ
病の原因 九州大学 吉田 母子保健情報)


Hiroshi Hayashi++++++March .2010++++++はやし浩司※

●「ファミリス」原稿

5・6月号相談事例
相談(1)小学3年生の母から
 小学3年生になると、友達関係でいろいろあるとは先生から聞いていたのですが、早速わが
子のカラーペンが一式なくなってしまい、とても心配しました。
 悪意からではなく、いたずらかもしれませんが、こういうときは、ただ見守るしかないのでしょ
うか? それとも、担任の先生に相談した方がいいのでしょうか?
(焼津市・A)

A:鉄則はただひとつ。『友を責めるな、行為を責めよ』(イギリスの教育格言)です。担任の先
生にこうした事案は、遠慮なく報告したらよいでしょう。しかしそのとき、事実だけを客観的に話
し、特定の子どもの名前を出したり、批判したりしてはいけません。自分の判断を加えていけま
せん。「事実」だけを話します。あとの判断、対処の仕方はプロの先生に任せます。
 もし相手の子どもの名前がわかっていたら、逆にその子どもをほめてみます。「あの子はい
い子ね」と。あなたの家に招待するのもよいでしょう。あなたがその子どもと友だちになるつもり
で、間に入ります。子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、よい子を演じようとしま
す。逆にそうした性質を利用して、その子どもを、よい友だちに作り変えてしまいます。
 日本でも昔から『魚心あれば、水心』といいますね。英語にも、『相手は、あなたの思うよう
に、あなたのことを思う』というのがあります。心理学の世界では、これを「好意の返報性」とい
います。あなたがその子どもをよい子と思っていると、そうした心は、あなたの子どもを介して
かならず、相手の子どもに伝わります。
 大切なことは、あなたの子どもが気持ちよく、楽しく通学することです。負けるところは負け、
妥協するところは妥協します。けっしてカリカリしてはいけません。


(20x30行)

Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

相談(2)小学5年生の母から
 わが子のクラスで「いじめがある」とか「騒ぐ子がいて担任の先生が困っている」などという話
を子どもから聞き、親として心配がふくらんでいます。子どもの話だけで判断するよりは、懇談
会などで直接聞く方がいいと思うのですが、聞き方が難しそうです。
親の心配を伝え、なおかつ先生批判にとられない聞き方は、どうすればいいでしょうか?
(藤枝市・Y)

A:この程度の問題で、動揺しないこと。いじめのない学級はありません。困っていない先生な
ど、い・ま・せ・ん。もし心配なら、1、2年、年上の子どもをもつ父母に相談してみることです。で
きれば、別の学校の父母に、相談します。たいてい「うちもそうでしたよ」というような回答をもら
って、その場で問題は解決するはずです。
 が、鉄則があります。どんなばあいも、子どもの前で、学校や先生の批判をしたり、悪口を言
ってはいけません。子どもの前では、「あなたの学校はすばらしい」「あの先生は、最高!」と言
います。
 もしあなたが学校や先生を批判したり、さらに悪口を言ったりすると、あなたの子どもは先生
の指示に従わなくなります。これを心理学の世界では、「三角関係」といいます。わかりやすく
言えば、子どもが「二重拘束」の状態に置かれるということです。子ども自身が、糸の切れた凧
のようになってしまいます。
 教育で何が大切かといって、先生との信頼関係ほど、大切なものはありません。信頼関係が
なければ、教育そのものが、崩壊します。その信頼関係は、向こうからやってくるものではあり
ません。親であるあなた自身が、努力で作るものです。
 なお相談といっても、同じクラスの父母に相談するのは、避けてください。あなたの話しが曲
解され、たまにおおげさになることがあります。


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Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

相談(3)小学4年生と小学1年生の母から
 長男への接し方で悩んでいます。長男にはどうしても小言を言う機会が多く、下の子は女の
子で要領がよく、注意された長男をからかって長男を怒らせます。それを見て私が怒る……の
悪循環で、ときどきそんな雰囲気で日々を過ごしている長男がかわいそうになります。
長男への接し方を変えるアドバイスはないでしょうか?
(静岡市・K)

A:心配先行型、不信先行型の子育てがリズムになっています。何をしても、否定的にとらえて
しまう。それに(下の子)との比較も、日常化しているようですね。これは、ま・ず・い!
 子育てをしていて、「悪循環」を感じたら、思い切って、引きます。つまりあきらめます。子育て
の世界では、『あきらめは、悟りの境地』といいます。(私が考えた格言ですが…。)「どうにでも
なれ!」と、一歩退きますが、だからといって、無視したり、冷淡になれということではありませ
ん。
 愛情でくるんだ、「暖かい無視」です。で、ここが重要ですが、「求めてきたときが与えどき」と
心がけます。長男が助けを求めてきたときは、すかさず、(すかさずです)、それに応じてあげ
ます。そしてあとは、最初はうそでもいいですから、「あなたはいい子」を口ぐせにします。
 何か月も言いつづけていると、やがてあなたの子どもは、あなたの口ぐせどおりの子どもにな
ります。つまりこうしてあなた自身の子育てのリズムを作りかえます。
 また(条件)(比較)(無理)は、子育ての3悪です。「勉強したら、〜〜を買ってあげる」(条
件)、「妹は〜〜なのに…」(比較)、それに能力を超えた期待をかける(無理)は、タブーです。
 長男は長男、妹は妹。ともに長所だけを見て、それですませます。


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Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司※

●「Nothing(無)」論

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今朝、パソコンを開くと、TK先生から
メールが届いていた。
先生について書いたときには、かならず、
その原稿を、先生に届けるようにしている。
これは暗黙の、つまり紳士協定のような
もの。
で、TK先生からの、その返事。

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林様: 大変に長い文書をよく書けますね。何か分かったような分からないような
nothing の問題について。それだけでも感心しています。

毎日英国のケンブリッジのSir John Thomas さんが書いてくれるという私の話はと
ても楽しみになっている一方で、Berlin の Haber Institute の創立百年祭が来年に
大きくあるというのでH子も一緒に行こうよと言ってくれていますが。亡父が創立時
の研究職員に抜擢されているだけに、向こうでも今更ながら私を大事に注目していま
すので、思いがけない親孝行でした。当時新設でも世界一の研究所でしたから。アイ
ンシュタインの他ノーベル賞が幾人もいましたし。昔の輝かしい歴史を大幅に宣伝す
るらしいです。「空気からパンを作って」人類の危機を救ったハーバーの偉業に亡父
が大変に貢献したというので。 私のホームページにあるハ―バーの話を書いてくれ
という依頼も国内できています。もう消えていい時期なのですが。長生きしていると
思いがけないことがあります。貴方も貴重な人生ですからくれぐれもご自愛の上お
元気に過ごして下さい。素晴らしい奥さんによろしく。

TK

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●科学vs哲学

 科学は「命」を救い、哲学は「魂」を救う。
科学と哲学のちがいを一言で言えば、そういうことになる。
が、どちらが優位性をもつかと言えば、当然、哲学ということになる。
(たぶん、TK先生は、猛反発するだろうが……。)

 人間は、そしてあらゆる動物は、科学なしで、数億年という長い年月を生き延びてきた。
哲学という「形」があったわけではないが、(生きるための常識)が、生命を支えた。
鳥は水にもぐらない。
魚は陸にあがらない。
そんなことをすれば、死んでしまうことを、知っていたからだ。

哲学は、その(生きるための常識)が、昇華したもの。
言い替えると、人間は、そしてあらゆる動物は、科学なしでも生きていかれる。
しかし哲学なしでは、生きていかれない。
が、相互に補完関係がないわけではない。

 哲学のない科学は、ときに人間の生存に脅威をもたらす。
原子爆弾や化学兵器にその例をみる。
一方、科学性のない哲学は、ときとして、人間を誤った方向に導く。
狂信的なカルト教団にその例をみる。

●「だからどうなの?」

 私たちは、常に、「だからどうなの?」を問いかけながら、生きる。
それが哲学ということになる。

 一方、科学は、「なぜ?」を繰り返す。
あのアインシュタインも、「問いつづけることが重要」と書き残している。
が、そこに落とし穴がある。
TK先生もいつか言っていたが、そのためどうしても視野が狭くなる。
「中には、こんな研究をして、何になるのかと思われるようなのもある」と。
ひとつの例として、中国南部の民族楽器の研究をあげてくれた。
ときとして科学者は、細分の、そのまた細分化された世界で、自分の立場を権威づけようとす
る。

 つまり視野が狭くなる分だけ、外の世界が見えなくなる。
先生が書いた、ハーバー博士にしても、空中窒素固定法で、「空気からパン」を作った。
が、その一方で、第一次大戦中は、毒ガスの研究にも手を染め、毒ガス戦の一線に立ってし
まった。
もしそのときハーバーが、「だからどうなの?」と一言でも、自分に問いかけていたら、毒ガスの
研究には、手を染めなかっただろう。

 やがてハーバーは、ユダヤ人であることにより、ドイツを追われる。
しかしアウシュビッツで使用されたチクロンBは、そのハーバーによって開発されたものであ
る。

●「Nothing」論

 仏教でも、「一切皆空」(後述)を、その根本理念としている。
それから約2000年を経て、実存主義を私たちに教えた、あのサルトルも、最後は「無の概
念」という言葉を使って、「無」を説いた。

 TK先生が言う、「Nothing」というのは、「ナンセンス」という意味である。
つまり私を痛烈に批判している。
一読すると、私をほめているようにも見えるが、本当は、心底、私をバカにしている。
が、ちょっと待ってほしい。
私には、そういうTK先生が、ありがたい。
今の私に、そこまで面と向かってものを言ってくれる人は、いない。
言われた私は、何も怒っていない。
こういう言い方を、たがいにしあいながら、すでに40年になる。
(40年だぞ!)

 反対にTK先生の周囲には、私のように、TK先生を批判する人はいない。
……できない。
だからこのところ、TK先生を、いつも怒らせてばかりいる。

 話を戻す。

 この「Nothing」という言葉だが、むしろそこに、真理のすべてが凝縮されている。
「だからどうしたの?」と問いつづけると、そのいきつくところが、「Nothing」ということになる。
私が言っているのではない。
あの老荘思想に始まり、西田幾多郎へとつづく。
西田幾多郎は、東洋的な無の概念から、「絶対無」という言葉を使って、「無」を論理化、体系
化させている。

●死の克服

 人は裸で生まれて、裸で生きて、そして裸で死ぬ。
その間のプロセスは、「無」。
いかに無であるかによって、魂の解放が完成される。
あのサルトルも、「死は不条理なり」という言葉を、一度は、使った。
「自由刑」という言葉も使った。
そして「いくらがんばっても、死がある以上、人間には真の自由はない」と、一度は、説いた。
(このあたりは、学生時代に学んだ記憶なので、不正確。)

 しかし最後は、「無の概念」という言葉を使って、サルトルは、死を克服する。
私には、それが何であるか、今のところまだよくわからない。
あえて言えば、仏教的な「空」の概念に通ずるものではないか。
「一切皆空」……「色即是空(しきそくぜくう)」ともいう。
仏教では、すべてのもの、それは自己、他者、万物を問わず、すべてのものは、実体のない空
であると説く。

 私たちがなぜ「死」を恐れるかと言えば、そこに「私」があるからである。
私の財産、私の家族、私の名誉、私の地位などなど。
しかしその「私」から、「私」を取り去ってしまう。
残るのは、「裸の私」ということになる。
が、こうなってしまうと、もうこわいものはない。
失うものがないのだから、何も恐れる必要はない。
あとはただひたすら、自分を燃焼させて生きていく。
(その日)が来たら、「ああそうですか」と言って、この世を去っていけばよい。
それが結局は、「真の自由」ということになる。

 久々に、「Nothing」について考えてみた。
このつづきは、またの機会にしたい。
今朝は、昼からの仕事の説明会の準備をしなければならない。
私とTK先生の、おおきなちがいは、ここにある。

 ともかくも、私は死ぬまで、金銭を稼がねばならない。
年金など、まったくアテにしていない。……ならない。
がんばろう!
がんばります!

2010年3月27日

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Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●もしあのとき……(子どもの道徳教育について)

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子どもに道徳を教えることはできるのか。
現在、教育の世界では、「子どもに論語を」という
声が高まりつつある。
しかしどうして今、論語なのか。
またそれでもって、そうして道徳教育なのか。

論語についてはたびたび書いてきたので、
ここでは「道徳とは何か」について、
その基本的な部分を書いてみたい。
ひとつの例として、たまたま今夜、ワイフと
あの阪神・淡路大震災が話題になったので、
そのあたりから、書き出してみる。
少し回りくどいエッセーになると思うが、
許してほしい。

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●阪神・淡路大震災

1995年1月17日、午前5時46分、
あの「阪神・淡路大地震」が起きた。
死者6400人あまり。
負傷者4万4000人弱の、大惨事となった。

一説によると、自衛隊がもっと早く出動
していれば、これほどの大惨事にはならなかった
とも言われている。
というより、実際には、法整備の不備もあり、
自衛隊は、出動できなかった。

(一部の、近くの自衛隊は、「近傍派遣」という
ことで、地震直後に、活動を開始している。
他の部隊は、知事の要請を待ちながら、待機
状態にあったという。
現在は、知事レベルだけではなく、市町村長または、
警察署長などからも要請が行えるようになっている。)

加えていくつかの連絡ミスが重なった。
当時の兵庫県知事のK氏は、「情報が正しく伝えられ
てこなかった」というようなことを、あとになって
述べている。

結局、自衛隊の派遣要請は、4時間後になされた。
それも偶然電話がつながった、兵庫県消防交通安全課
課長補佐(当時)の機転によるものだったという。
(以上参考、ウィキペディア百科事典)

●道徳論

 ここであの大地震について書くつもりはない。
しかしもし、あのとき、私が所轄地域の自衛隊司令官だったら、どうしただろうか。
私でなく、あなたでもよい。
当時は、知事の要請がなければ、自衛隊は、救援活動に出動できなかった(自衛隊法第83
条1項)。

【想定】
(1)あなたは、自衛隊の司令官である。
(2)ある地域で大地震が起き、かなりの被害が出ているという内部報告を受けた。
(3)ただちに出動したいが、知事とは連絡が取れない。
(4)首相と連絡を取ろうとしたが、それも取れない。
(5)ジリジリと時間だけが過ぎていく。
(6)被害の模様は刻一刻と、テレビなどで報道されている。

 こういうとき、あなただったら、どうするだろうか。

●エスの人vs超自我の人(フロイト)

 ここでいくつかの意見に分かれる。
まず頭に浮かんだのが、フロイト。
フロイトの「パーソナリティ論」。

(1)法律は法律だから、いくら大惨事であっても、司令官は法を守るべき。
(2)国家的な大惨事だから、自衛隊は独自の判断で行動すべき。
ほかにもいろいろな意見が考えられる。

 以前、「エスの人vs超自我の人」というタイトルで、こんな原稿を書いたことがある。
人間の「パーソナリティ」を考える、ひとつの見方について書いてみた。
少し話が脱線するが、許してほしい。

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●ショッピングセンターのカート

 たとえばショッピングセンター。1人の女性が、カートに荷物を載せて自分の車のところにやっ
てきた。そして荷物を、車に載せ終わると、カートを、駐車場の壁に押しつけるようにして、そこ
に残した。残したまま、自分の車で、立ち去った。

 本来なら、カートは、カート置き場に戻さなければならない。またそんなところにカートを置い
たら、つぎに駐車した人が困るはず。

 そういう情景を見たりすると、私は、ふと、こう思う。「こういう女性なら、チャンスがあれば、浮
気でも不倫でも、何でもするだろうな」と。
理由がある。

 人間の脳みそというのは、それほど器用にはできていない。『一事が万事』と考えてよい。A
ならAという場面では、小ズルく振る舞い、BならBという場面では、誠実に振る舞うということは
できない。小ズルイ人は、万事に小ズルく、誠実な人は、万事に誠実である。

 つまりショッピングセンターのカートを、そのように平気で、そのあたりに置くことができる人と
いうのは、そのレベルの人と考えてよい。フロイトという学者は、そのレベルに応じて、「自我の
人」「超自我の人」「エスの人」と、人を分けて考えたが、超自我の人は、どこまでいっても超自
我の人であり、エスの人は、どこまでいっても、エスの人である。

●エスの人

 フロイトは、人格、つまりその人のパーソナリティを、(1)自我の人、(2)超自我の人、(3)エ
スの人に分けた。

 たとえば(1)自我の人は、つぎのように行動する。

 目の前に裸の美しい女性がいる。まんざらあなたのことを、嫌いでもなさそうだ。あなたとの
セックスを求めている。一夜の浮気なら、妻にバレることもないだろう。男にとっては、セックス
は、まさに排泄行為。トイレで小便を排出するのと同じ。あなたは、そう割り切って、その場を楽
しむ。その女性と、セックスをする。

 これに対して(2)超自我の人は、つぎのように考えて行動する。

 いくら妻にバレなくても、心で妻を裏切ることになる。それにそうした行為は、自分の人生をけ
がすことになる。性欲はじゅうぶんあり、その女性とセックスをしたい気持ちもないわけではな
い。しかしその場を、自分の信念に従って、立ち去る。

 また(3)エスの人は、つぎのように行動する。

 妻の存在など、頭にない。バレたときは、バレたとき。気にしない。平気。今までも、何度か浮
気をしている。妻にバレたこともある。「チャンスがあれば、したいことをするのが男」と考えて、
その女性とのセックスを楽しむ。あとで後悔することは、ない。

●一事が万事

 これら三つの要素は、それぞれ一人の人の中に、ある程度のハバをもって、同居する。完全
に超自我の人はいない。いつもいつもエスの人もいない。しかしそのハバが、ちがう。超自我
の人でも、ハメをはずことはあっても、その範囲で、ハメをはずす。しかしエスの人は、いくらが
んばっても、超自我の状態を長くつづけることはできない。

 だから「超自我の人」「エスの人」と断定的に区別するのではなく、「超自我の強い人」「エスの
強い人」と区別するのが正しい。

 それはともかくも、これについて、京都府にお住まいの、Fさんから、こんな質問をもらった。

 Fさんには、10歳年上の兄がいるのだが、その兄の行動が、だらしなくて困るという。

 「今年、40歳になるのですが、たとえばお歳暮などでもらったものでも、無断であけて食べて
しまうのです。先日は、私の夫が、同窓会用に用意した洋酒を、フタをあけて飲んでしまいまし
た」と。

 その兄は、独身。Fさん夫婦と同居しているという。Fさんは、「うちの兄は、していいことと悪
いことの判断ができません」と書いていた。すべての面において、享楽的で、衝動的。その場だ
けを楽しめばよいといったふうだという。仕事も定食につかず、アルバイト人生を送っていると
いう。

●原因は幼児期

 そのFさんの兄に、フロイトの理論を当てはめれば、Fさんの兄は、まさに「エスの人」というこ
とになる。乳幼児期から少年期にかけて、子どもは自我を確立するが、その自我の確立が遅
れた人とみてよい。親の溺愛、過干渉、過関心などが、その原因と考えてよい。もう少し専門
的には、精神の内面化が遅れた。

 こうしたパーソナリティは、あくまでも本人の問題。本人がそれをどう自覚するかに、かかって
いる。つまり自分のだらしなさに自分で気づいて、それを自分でコントロールするしかない。外
の人たちがとやかく言っても、ほとんど、効果がない。とくに成人した人にとっては、そうだ。

 だからといって、超自我の人が、よいというわけではない。日本語では、このタイプの人を、
「カタブツ人間」という。

 超自我が強すぎると、社会に対する適応性がなくなってしまうこともある。だから、大切なの
は、バランスの問題。ときには、ハメをはずしてバカ騒ぎをすることもある。冗談も言いあう。し
かし守るべき道徳や倫理は守る。

 そういうバランスをたくみに操りながら、自分をコントロールしていく。残念ながら、Fさんの相
談には、私としては、答えようがない。「手遅れ」という言い方は失礼かもしれないが、私には、
どうしてよいか、わからない。

●話を戻して……

 自分の中の(超自我)(エス)を知るためには、こんなテストをしてみればよい。

(1) 横断歩道でも、左右に車がいなければ、赤信号でも、平気で渡る。
(2) 駐車場に駐車する場所がないときは、駐車場以外でも平気で駐車できる。
(3) 電車のシルバーシートなど、あいていれば、平気で座ることができる。
(4) ゴミ、空き缶など、そのあたりに、平気で捨てることができる。
(5) サイフなど、拾ったとき、そのまま自分のものにすることができる。

 (1)〜(5)までのようなことが、日常的に平気でできる人というのは、フロイトがいうところの
「エスの強い人」と考えてよい。倫理観、道徳観、そのものが、すでに崩れている人とみる。つ
まりそういう人に、正義を求めても、無駄(むだ)。仮にその人が、あなたの夫か、妻なら、そも
そも(信頼関係)など、求めても無駄ということになる。もしそれがあなたなら、あなたがこれか
ら進むべき道は、険(けわ)しく、遠い。

 反対に、そうでなければ、そうでない。

++++++++++++++++++++

話を戻す。
「県知事の派遣要請があるまで待つ」のがよいのか、それとも、
「県知事の派遣要請を無視して、出動する」のがよいのか。
あなたなら、どうするだろうか。

が、フロイトのパーソナリティ論だけでは、判断できない。
「派遣要請がないから待つ」というのは、どこかカタブツ的。
だからといって、超自我の人、つまり人格が高邁とは、言えない。

反対に「派遣要請がなくても出動する」からといって、その人がエスの人、つまり欲望に支配さ
れた人とは私は思わない。
この問題を考えるときは、もうひとつ別の尺度が必要ではないか。

そこでコールバーグ。

++++++++++++++++++++

●コールバーグの道徳論

 コールバーグもフロイトの影響を強く受けた人と考えてよい。
(心理学者で、影響を受けなかった人はいないが……。)
で、話を戻す。
こうした問題、つまり「人間としての選択」の問題を考えるときに、まっさきに思い浮かぶのが、
コールバーグということになる。
彼の「道徳論」については、たびたび取り上げてきた。

 選択の仕方によって、コールバーグは、

(1)結果主義者(賞罰によって、判断する。)
(2)相対主義者(そのつど相手の立場で考える。)
(3)動機主義者(動機のよしあしで決める。)
(4)社会秩序派(社会秩序を重んじる。)
(5)超法律主義者(法よりも、正義を重んじる。)
(6)普遍的価値派(普遍的な価値を基準にしてものを考える。)
の6段階に分けた。
(参考:無藤隆著、「心理学とは何だろうか」)

 大震災を前にしたあなたの判断を、この6段階に当てはめてみる。

(1)結果主義者(あとで罰せられるから、出動しない。)
(2)相対主義者(直接的な自分への被害でないから、様子を見て判断する。)
(3)動機主義者(自衛隊は、国防のためのもの。災害救助は、消防庁がすべき。)
(4)社会秩序派(知事もしくは首相の判断に任せる。)
(5)超法律主義者(知事からの要請がなくても、出動する。)
(6)普遍的価値派(人を救うという観点から出動する。責任はすべて自分で取る。)

 かなり荒っぽく当てはめてみたから、細部では無理があるかもしれない。
しかしコールバーグは、(1)いかに公正であるか、(2)いかに自分を超えたものであるか、そ
の2点で、その人の道徳的な完成度を計る目安にしている。
それによれば、少なくとも(1)よりは、(6)のように判断した人のほうが、道徳的な完成度が高
いということになる。

●私なら……

 さてあなたの判断は、どうだっただろうか。
「ケースバイケースで考える」という人もいるかもしれない。
あるいは「あのときは、あれでしかたなかった」と考える人もいるかもしれない。
「連絡不通」という、いくつかの不運が重なった。

 で、私はこう考える。

 ……といっても、それをここに書いても意味はない。
(あなたは(あなた)。
(私)は(私)。

 ただ今でもときどきワイフと、この問題が会話のテーマになることがある。
今夜もそうだった。
「お前ならどうする?」「あなたならどうする?」と。

 私のばあいは、かなりふつうの人とは、ちがった生き方をしてきた。
そのため、法を守ることは重要と考えるが、必要であれば、法を破ることも、これまた許される
と考える。
また破ったところで、ほとんど罪悪感はない。
それで責任を取らされて、司令官をクビになったところで、一向にかまわない。
地位や肩書きには、ほとんど興味がない。
ないから、一向にかまわない。
が、ここにも書いたように、これは私が、かなりふつうの人とは、ちがった生き方をしてきたこと
による。
つまりこうした問題には、その人の生き様が集約される。

 たぶん自衛隊員として長年、そういう職業をしてきた人なら、私とはちがった考え方をするだ
ろう。
またしたところで、その司令官を責めることはできない。
「知事からの出動要請がないから、待機する」と、がんばるかもしれない。

++++++++++++++++++

どうもよくわからない。
今夜は、思考がうまくまとまらない。
道徳とは何か?
頭の中で同じテーマがクルクルと回ってしまう。

そこで「善と悪」。
それについて書いてみたいが、しかいこのテーマも、
それこそ腐るほど、書いてきた。

その中の1つを、再掲載してみる。

++++++++++++++++++

善と悪

●神の右手と左手
 
昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であるという。善が
あるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえないということら
しい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いているの
がわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反キリス
ト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるものすべて
が、悪であるというわけである。

●悪と戦う

 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。それを
必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。

トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が
必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。もっと言えば、善人のフリをするのは簡単だ
が、しかし悪人であることをやめようとするのは、至難のワザということになる。もともと善と悪
は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道徳を考える上で、たいへん重要な意味をも
つ。

 子どもに、「〜〜しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさい」「クツ
を並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。人が見ていると
か、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして自分の中の邪悪さと戦
うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえばどこか会館の通路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、まわりにはだれも
いない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういうとき、自分の中の
邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそが道徳なのだ。

●近づかない、相手にしない、無視する

 が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのように自分
の行動パターンを決めている。

たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思い、でき
るだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そういったルールに
は、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐
車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差点へきたら、信号を守る。黄色になったら、止
まり、青になったら、動き出す。何でもないことかもしれないが、そういうとき、いちいち、あれこ
れ神経を使わない。もともと考えなければならないような問題ではない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。とき
として、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、結局は、近づ
かない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。それは自分の時間を大切にすると
いう意味で、重要なことである。考えるエネルギーにしても、決して無限にあるわけではない。
かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと前向きなことで使いたい。だか
ら、近づかない。相手にしない。無視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニーチェ)こと
にはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、それから逃げて
いるだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くなったのでもない。そこ
で改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるのか。あるいはまたその「力」を
得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、その謎(なぞ)を解くカギがあるように思
う。

●子どもの世界

 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。ここに書い
たが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子どものばあい、悪
への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の子(小三)に、こんな子
どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで私が、
「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「いいです。私、こ
れから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が食べられない」とも言
った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのものだ
ろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がかたいからだろう
か。ノー! では、何か?

●考える力

 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買ってあげ
ようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判断して、「飲ん
ではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれないが、こうしたケースで
は、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思ならわかるが、「飲みたくな
い」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかったはずである。あるとすれば、自分
の判断に従って行動しようとする意思ということになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自ら考える力」
こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』という言葉を使って、それ
を説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人にはなりえない。よく誤解さ
れるが、よいことをするから善人というわけではない。悪いことをしないから善人というわけでも
ない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじめて、善人になれる。

 が、ここで「考える力」といっても、二つに分かれることがわかる。

一つは、「考え」そのものを、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理ということ
になる。子どものばあい、しつけも、それに含まれる。

もう一つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間になる方
法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。どちらを選ぶか
は、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問題がからんでくる。そ
れについては、また別のところで書くとして、こうして考えていくと、人間が人間であるのは、そ
の「考える力」があるからということになる。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく行動できる
というわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも収拾できなくなって
しまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、その考える力、あるいは
考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える力」こそが、善と悪を分ける、
「神の力」ということになる。

++++++++++++++++++

フ〜〜ン、まだよくわからない。
道徳、つまりそれぞれの人がもつ倫理規範とは、
何なのか。
またそれは教育になじむものなのか。

++++++++++++++++++

●道徳論

 こうして考えてみると、「道徳」というのも、つまるところその人の日々の生活の中で、作られ
ていくものということがわかる。
つまり明らかに個性をもっている。
それぞれによって、基準も異なる。
(絶対的に正しい)とか、(絶対的にまちがっている)とか、そういうふうに決めつけて考えること
はできない。
またそういうものではない。

 で、コールバーグは、(1)いかに公正であるか、(2)いかに自分を超えたものであるかによっ
て、道徳の完成度をみるが、それとて相対的な見方にすぎない。
だから子どもに道徳を教えるとしても、「正解・不正解」という判断は、基本的な部分で、おかし
いということになる。
それぞれがそれぞれの道徳観をもち、それぞれの考え方をする。

 もし(教える)ということになれば、より、公正な見方、より普遍的な見方を、子どもに示してい
くことでしかない。
教えて教えられるものではない。
いわんや(きれいごと)だけを並べる子どもを育てるためでもない。
もちろん「善」を教えたからといって、その子どもが善人になるわけではない。

●道徳教育

 これが私の結論ということではないが、こと教育ということになれば、私は道徳教育は不要と
いうことになる。
道徳教育によって(教えられる部分)よりも、道徳教育によって(人間性が統制される部分)の
ほうが大きいばあいには、なおさらである。
たとえば戦前には、「修身」という科目があった。
明鏡国語辞典には、こうある。

「(1)身をおさめて正しい行いをするように努めること。
(2)旧学制下の小・中学校で、教育勅語をよりどころに道徳教育を授けた教科名。
◇昭和20(1945)年廃止。現在の「道徳」に当たる」と。

 そういう危険な側面もある。

 と、同時に、「道徳」というのは、先にも書いたように、「個性」がある。
一元的な道徳を押しつけることによって、その個性をつぶしてしまうことにもなりかねない。

 どうもうまく原稿をまとめられない。
このつづきは、また明日にでも考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 道徳 道徳教育 コールバーグ エスの人 超自我の人 道徳の完成論 道徳完
成度 はやし浩司 道徳の完成度 修身 教育勅語 倫理規範)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

【心の部屋論】(道徳完成論)2009年6月の原稿より

++++++++++++++++++

人間の心には、いくつかの部屋がある。
言うなれば、どこかの大学のようなもの。
事務室もあれば、講義室もある。
講義室にしても、大講堂もあれば、研究室もある。
研究室といっても、ひとつではない。
哲学を研究する研究室もあれば、化学を研究する
化学室もある。
もちろん教会もあれば、博物館もある。
サッカー場もあれば、パチンコ店もある。
それぞれが有機的につながりながら、独自の
活動をしている。

たとえば今、私は、私の心の中の心理学の
研究室にいる。
「脳みそ」を大学に例えるなら、その総合的な
機能を研究するのが、心理学の研究室である。
この研究室からは、大学全体を見渡せる。
近くには政治学部があり、その向こうには
美術学部がある。

こうした大学は、人によって大きさも、構成の
しかたも、みなちがう。
中には、コンピュータ研究室が特異に大きな
大学に住んでいる人もいるだろう。
あるいは音楽学部が特異に大きな大学に住んでいる
人もいるだろう。
私はそれぞれの学部や研究室で、ときに教授に
なりながら、またときに、学生になりながら、
そのときどきを過ごす。

が、こわいのは、つまり私たちがもっとも警戒
しなければならないのは、心の闇の部分に相当
する、地下室である。
外からは見えないが、そこには、ありとあらゆる
ゴミがたまっている。
ゴミといっても、邪悪なゴミだ。
ウソ、インチキ、ごまかし、嫉妬、怒り、不満、
ウラミ、などなど。

私たちは日常的にゴミを出しながら、それを
捨てた段階で、そのゴミのことを忘れる。
(……意図的に忘れる。)
しかしゴミは確実にたまり、やがて大学の運営
そのものに、影響を与えるようになる。

あのユングという学者は、それを「シャドウ」と
いう言葉を使って説明した。

大切なことは、ゴミを作るとしても、最小限に!
できればゴミを出さない。
日々に、明るく、朗らかに、かつさわやかに……、
ということになる。
さあ、今日も一日、始まった。
今朝はたっぷり熟睡して、今は、午前7時35分。
今の私は大学の学長だ。
まずいくつかの学部を訪れてみる。
とりあえずすぐ隣の心理学部では、「心の広さ」に
ついて研究しているようだ。
そこをのぞいてみる。
みなさん、おはようございます!
5月21日、木曜日!

+++++++++++++++++++++

●心の広さ

「心の広さ」を知るときは、反対に心の狭い人をみればよい。
俗にいう、「心に余裕のない人」である。
私はこのことを、母の介護をしているときに、知った。
同じ親の介護をしながら、明るく、ほがらかに、かつさわやかに
介護している人もいれば、反対に、暗く、つらそうに、かつ
グチばかり並べてしている人もいる。

「老人臭がする」
「町内会に出られなくなった」
「内職の仕事ができなくなった」
「コンロの火がつけっぱなしだった」
「廊下で、母が便をした」などなど。

このタイプの人のグチには、「では、どうればいいのか?」という部分がない。
ないまま、いつまでも同じグチを繰り返す。
ネチネチとグチを繰り返す。
私なら、……実際、そうしてきたが、老人臭が気になれば、換気扇をつければよい。
町内会など、出なければならないものではない。
みな、事情を話せば、わかってくれる。
内職の仕事にしても(やりくり)の問題。

老人が家にいるからといって、できなくなるということはない。
コンロの火が心配なら、自動消火装置つきのコンロにすればよい。
廊下で便など、子どもの便と思えばよい。
私の息子たちはみな、こたつの中で便をしていたぞ!
要は、心の広さの問題ということになる。

●道徳の完成度

心の広さを、お金(マネー)にたとえるのも、少し気が引ける。
しかし似ている。
たとえばふところに、10万円もあれば、どこのレストランへ行っても、安心して
料理を楽しむことができる。
が、それが1000円とか2000円だったりすると、とたんに不安になる。
では、心の広さのばあいは、どうか。
どうすれば、心の余裕を作ることができるか。
心を広くすることができるか。

ひとつのヒントとして、コールバーグが説いた「道徳の完成度」というのがある。
つまり、道徳の完成度は、(1)いかに公正であるか、(2)いかに自分を超えたもの
であるか、その2点で判断される、と。

(1)いかに公正であるか……相手が知人であるとか友人であるとか、あるいは自分が
その立場にいるとかいないとか、そういうことに関係なく、公正に判断して行動
できるかどうかで、その人の道徳的完成度は決まる。
(2)いかに自分を超えたものであるか……乳幼児が見せる原始的な自己中心性を原点と
するなら、いかにその人の視点が、地球的であり、宇宙的であるかによって、
その人の道徳的完成度は決まる。

心が広い人イコール、道徳の完成度の高い人ということにはならない。
しかし道徳の完成度の高い人イコール、心の広い人と考えてよいのでは?
異論、反論もあろうかと思うが、その分だけ、そのときどきの(縁)に翻弄(ほんろう)
されるというこが少なくなる。

心理学的には、自己管理能力の高い人ということになる。
大脳生理学的には、前頭連合野の活動が、すぐれている人ということになる。
そういうものが総合されて、その人の心の広さを決定する。
が、何よりも大切なことは、運命を受け入れて生きるということ。

●運命論

どんな人にも、まただれにも、無数の糸がからんでいる。
生い立ちの糸、家族の糸、社会の糸、能力の糸、人間関係の糸、健康の糸、
性質の糸、、性格の糸、環境の糸などなど……。
そういった糸が無数にからんできて、ときとして私やあなたは、自分の意図する
のとは別の方向に、足を踏み入れてしまうことがある。
いや、そのときはそれに気がつかない。
あとで振り返り、そのうしろの足跡を見て、それに気づく。
運命というのがあるとすれば、運命というのは、そういうもの。
その運命を心のどこかで感じ、そしてそれが抵抗しても意味のないものと
知ったら、運命は受け入れる。
すなおに受け入れる。
そのわかりやすさが、私やあなたの心を広くする。
私も母の介護をするようになって、はじめてその運命のもつ力というか、
ものすごさを知った。

ふつうの母と子の関係なら、それほど苦しまなかったかもしれない。
しかし私のばあい、そうではなかった。
だからこそ、苦しんだ。
が、母が、私の家にやってきたとき、それは一変した。
下痢で汚れた母の尻を拭いてやっているとき、それまでのわだかまりや、こだわりが、
ウソのように消えた。
そこに立っているのは、どこまでもか弱い、そしてどこまでもあわれな、1人の
老婆にすぎなかった。
体の大きさも、小学生ほどになっていた。
それを知った、その瞬間、私は運命を受け入れた。
そう、運命というのは、そういうもの。
それに逆らえば、運命は、キバをむいて、私やあなたに襲いかかってくる。
しかし一度それを受け入れてしまえば、運命は、シッポを巻いて、向こうから逃げていく。

●生きる醍醐味

「生きる醍醐味は何か?」と問われれば、この心の部屋論にたどりつく。
大豪邸に住み、ぜいたくな生活をするのが、醍醐味ということではない。
(もちろんそういう人の心は、狭いということではない。誤解のないように!)
しかしいくらボロ家に住んで、つつましやかな生活をしていても、
心の部屋まで狭くしてしまってはいけない。
こんな例が参考になるかどうかは、わからないが、最近も、こんなことがあった。

私たち夫婦は、今年、H社のハイブリッド・カーを購入するつもりでいた。
何度もショールームに足を運んだ。
T社のハイブリッド・カーも魅力的だった。
何でも燃費が、リッターあたり、38キロ!
驚異的な数字である。
迷ったが、地元の会社であるT車のハイブリッド・カーに決めた。……決めていた。
で、その時期をねらっていたら、三男が結婚して、車がほしいと言い出した。
給料はかなり安いらしい。
しかも電車を乗り継いで通勤できるようなところではないらしい。
そこで私たちは、ギブアップ。
そのお金を三男に回した。

今しばらく、T社のビッツに乗りつづけることにした。
T社の車の中では、最安値の車である。
が、ビッツに乗っていても、卑下感は、まったくない。
大型高級車を見たりすると、ホ〜〜ッとため息をつくことはあるが、そこまで。
けっして負け惜しみではない。

私たち夫婦は、いつもこう言っている。
「車はビッツでも、肉体はベンツ」と。
そういうこともあって、このところ毎日、2人で、10キロは歩くようにしている。
プラス、ワイフは、週2回のテニスクラブ。
私は週4〜5単位のサイクリング。
(1単位=40分の運動量をいう。)
つまりこれが心の余裕ということになる。

さて、ここで究極の選択。
「肉体はビッツで車はベンツ、あるいは肉体はベンツで車はビッツ。
あなたはどちらを選ぶか?」

あるいは、
「豪華な生活をしながら心は4畳半、あるいは4畳半に住みながら、心は
大豪邸。あなたはどちらを選ぶか?」でもよい。

もっとも私のばあい、本音を言えば、大豪邸に住んで、心も大豪邸。
できれば超大型のベンツにも乗りたい。
そういう人も、知人の中には、いないわけではない。
まっ、がんばろう。
ここはがんばるしかない。
隣の心理学部を出て……。
その横には銭湯がある。
これから朝風呂を浴びてくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
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はやし浩司 心の部屋論 運命論 無数の糸)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司※ 

●掛川へ

++++++++++++++++++++++

今、掛川へ向っている。
電車の中。
今日は、YAMAHAリゾート・センター、「つま恋」で一泊するつもり。
軽く運動をし、温泉につかる。
そう、今日から春休み。

で、今日のお供は、TOSHIBAのダイナブック(MX33)。
純白のパソコン。
それにワイフと長男。

++++++++++++++++++++++

●日本破綻

 相向かいの席の男が、週刊誌を読んでいる。
「週刊現代」。
その表紙に、「日本破綻……2012」と並んで、「人生は60歳から」とある。
それを見て、「ありえるなあ」「何言ってるんだ」と思う。

 日本破綻については、たいへん(ありえる)。
へたをすれば、2012年度ではない。
2011年度の国家予算すら、あやうい。
組めなくなる。
しかし日本破綻は、日本だけの問題にとどまらない。
世界を巻き込む。
日本破綻イコール、世界破綻と考えてよい。
正確には、「日本発、世界破綻」。

もっともそれ以前に、世界にばらまいた(円)が、日本へ逆流し始める。
そうなったとたん、ハイパーインフレが、日本を襲う。
が、これはきわめて短期間のうちに起こる。
たとえば逆流が土曜日に始まったとする。
その2日後の月曜日には、日本の経済は破綻する。
リーマンショック、ドバイショックのときもそうだった。
「あぶないぞ」とうわさが出ている段階では、まだだいじょうぶ。
「まだ、だいじょうぶかな?」と思っているときが、あぶない。

「逆流」という言葉で思い出したが、私はときどき逆流性食道炎になる。
今朝、知り合いの漢方医(薬剤師)に、たまたま電話でそれについて相談したところ。
「水気(すいき)逆上だから、半夏(ハンゲ)……半夏写心湯かな?」と。
漢方医の彼は、そう言った。
半夏厚朴湯(ハンゲコウボウトウ)なら、毎晩、眠る前にのんでいる。
これはもともとは、胃腸薬。
女性の精神安定剤としても、効く。
量を多くして、しばらく半夏厚朴湯をのんでみることにした。

 つまり、言うなれば、日本経済が、逆流性食道炎状態になる。
あまりよいたとえではないかもしれないが、そういった状態になる。
が、ほんとうに心配なのは、中国経済。
バブル経済はバブル経済だが、そのバブル経済が狂乱じみてきた。
つい先週末も公定歩合(貸し出し金利)をあげたが、まさに焼け石に水。
猛烈な勢いで、元が、市中に流れ込んでいる。
ドドーッ、ドドーッ、と。
近く、何か恐ろしいことが起きるような気がする。

●人生は60歳から
 
 「人生は60歳から……」という言い方には、大きな違和感を覚える。
お世辞?
励まし?
慰め?

何も「60歳」という数字にこだわる必要はない。
あえて「60歳」にする必要もない。
「30歳」でもよい。
「40歳」でもよい。
「60歳」としたところに、意図的なイヤミを感ずる。
裏を返して言うと、つまり裏から解釈すると、「人生は60歳で終わる」となる。

また記事の内容など、読まなくても、おおよその推察がつく。
いろいろな人の老後の設計図を示しながら、60歳を過ぎても、こうして
がんばっている人もいるという内容。

 しかし実際には、私の年齢の人は、だれも「人生は60歳から……」とは思っていない。
この年齢になると、自分を支えるだけで、精一杯。
私も「人生は60歳から」と思いたいが、それ以上に強いパワーで、
容赦なく、押し戻されてしまう。

 ただこういうことは言える。
「人生の結論は、60歳で出る。
あとはその結論を、どう生かして生きるか」と。
その結論が、60歳以後の人生の内容を決める。

●論理

 論理学を使って、もう一度、「人生は60歳から……」を考えてみよう。
つぎのような問題がある。
あなたは、どう考えるだろうか。

【問】

 ここに4枚のカードがある。
表には、(△)か(□)が描いてある。
表が(△)のときは、裏には赤の(●)が、かならず描いてある。
このことが正しいことを証明するために、あなたはつぎの4枚のカードのうち、
どれをめくってみるか。

1枚目……(△) 
2枚目……(□) 
3枚目……赤の(●) 
4枚目……青の(●)

 単純に考えれば、1枚目と3枚目をめくればよいということになる。
1枚目をめくってみて、赤の(●)。
3枚目をめくってみて、(△)。

 しかしこれでは先の命題を、正しいと証明したことにはならない。
1枚目をめくったとき、裏に赤の(●)があれば、命題の条件に合致する。
3枚目の赤の(●)をめくってみたときも、そうだ。
表に(△)があれば、命題の条件に合致する。
が、これでは十分ではない。
だからといって、「(△)のカードの裏は、赤の(●)」ということが、証明された
わけではない。
つまり先の命題が、正しいことを証明したことにはならない。

 この命題が正しいと証明するためには、この命題はまちがっていない
ことを明らかにしなければならない。
が、その前に書いておかねばならない。
3枚目は、めくっても意味はない。 
仮に3枚目をめくったとき、表に(△)が描いてなくても、(つまり(□)で
あったとしても)、この命題の証明には、影響を与えない。

 では、どれをめくればよいのか。

 1枚目をめくって、赤の(●)が出てくることは、命題の証明には必要。
しかし十分ではない。
そこでこの命題はまちがっていないことを証明しなければならない。
それを決定するのは、4枚目のカードということになる。
4枚目は青の(●)。
もしこのカードをめくってみて、(△)が出てこなければ、この命題はまちがって
いることになる。
そこで4枚目をめくってみる。
表に(△)が出てくる。
この段階ではじめて、命題は、まちがっていないということになる。

 これが「論理」である。

●言葉の遊び

 話を戻す。
「人生は60歳から」というのは、一応正しいと仮定しよう。
「一応正しい」というのは、一応必要な条件を満たしているということ。
しかしこの命題が正しいというためには、「ほかの年齢からは人生は始まらない」という
ことを証明しなければならない。

「人生は、30歳からではない」
「人生は、40歳からではない」
「人生は、50歳からではない」と。
 それを証明しなければ、十分とは言えない。

 しかし人生は何も、60歳だけから始まるわけではない。
さらに言えば、「人生は70歳から」と言っても、何もおかしくない。
「人生は80歳から」と言っても、何もおかしくない。

 つまり「人生は60歳から」というのは、論理学的には、きわめて非論理的な
言い方ということになる。
わかりやすく言えば、ただの言葉の遊び。
人目を引くための、ただのキャッチフレーズ。

●掛川駅

 あっという間に、電車は掛川駅に着いた。
私のばあい、こうしてパソコンのキーボードを叩いていると、あっという間に時間が
過ぎていく。
電車に乗っているときは、とくにそうだ。
そういう意味では、退屈しのぎには、よい。

 そうそう、あえて言われなくても、60歳台の人たちは、みながんばっている。
「人生はこれからだ」と、自分をだましながら、がんばっている。
が、実際には、どうにもならない。
あっちを見ても、壁。
こっちを見ても、壁。
壁、壁、壁……。
それだけではない。

電話番号を聞いても、「覚えておられるだろうか?」という不安が、頭の中を、
ふと横切る。
「本当は人生は、終わっている」と、だれもが心のどこかで、感じている。
が、それを認めるのは、敗北。
だから、「まだまだ……」と。

 最後に、私はこう思った。
「あの原稿を書いた人は、本当に60歳なのだろうか」と。
本当に60歳なら、ラッキーな人だと思う。
私も、もうすぐ63歳になるが、とてもおこがましくて、そういう言葉は出てこない。
私がラッキーであるとするなら、よけいに、そうでない人たちに申し訳なくて、
そういう言葉は出てこない。
それはたまたま健康な人が、病気の人たちを前に、「健康は大切ですよ」と言うに
似ている。
励まされているというよりは、先にも書いたように、どこかイヤミに感ずる。

 もうひとつの「日本破綻……2012」というほうの記事は読んでみたい。
が、「人生は60歳から」という記事のほうは、読みたくない。
読む前から内容がわかる。
そんなことを考えながら、そそくさと電車を下りた。

++++++++++++++++

●つま恋

 敷地面積、55万坪!
約170万平方メートル。
総合健康スポーツ施設。
環境は最高。
ちょうど桜が満開のころで、感激!

 YAMAHA製品というと、高級ブランドイメージが強い。
それもあってか、施設内は、全体になにもかも、豪華+高額。
私たちは古いほうのホテル(サウス・ウィング)に泊まった。
それでも料金は、1人1泊、1万2000円(夕食なし、朝食のみ)。
部屋は都市のビジネスホテルの、約2倍ほど。
高いね!

 しかし本来なら、公共団体が開発、運営してもおかしくない施設。
それを一企業が、ここまで成し遂げたというところが、すごい!
さすがYAMAHA!

 ただし温泉(つま恋温泉・森林之湯)は、星が2つの、★★。
料金を考えると、星は1つの、★。
脱衣用のロッカーは、数がたいへん多い割に、化粧室は、たったの4席しかない。
脱衣用のロッカーは、200〜250個。
化粧室は、6畳間くらいの部屋に、4席だけ。
たまたま春休みの日曜日ということで、入浴客で、中はごったがえしていた。
子どもが10〜15人前後、走り回っていた。
ゆっくり、静かに……というわけにはいかなかった。

 食事は、中央棟(SMC)のレストランで。
スパゲッティ、カレーライスが、1800円前後。
おいしかった!

 ……今、ワイフと長男は、DVDを観ている。
私は背中を向けて、エッセーを書いている。


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2010++++++はやし浩司

【Active Learning & 考える教育(Positive Education】

●春休み

 春休みになって、ひとつ心がけていることがある。
「遊ぶ」こと。
思い立ったら、即、実行!

 ……ということで、昨日は、掛川にある「つま恋・リゾートセンター」で一泊した。
が、寝苦しかった。
夜中に何度も、目が覚めた。
このままだと、今日の昼までもたない。
家に帰ったら、そのまま昼寝。

●近況

 ……おととい、「ファミリス」(静岡県教育委員会発行雑誌)の原稿を書かせてもらった。
子育て相談に関する原稿。
そのあと、TK先生から、Active Learningについての資料がないか、
問い合わせのメールが入った。
Active Learning(アクティブ・ラーニング)。
はじめて聞く言葉だが、意味は、すぐわかった。
要するに「実体験を伴った教育」をいう。

YOUTUBEにひとつ、こんなパロディが載っていた。
子どもに「火」を教える。
そのとき子どもは、マッチを使い、何かを爆発させる。
子どもは火傷(やけど)を負う。
子どもは火(fire)の意味を知る。
「これがActive Learning」と。

 もちろんパロディである。
もちろん実際に、こんな教え方をしてはいけない。
が、これからの教育のひとつの方向性を示している。
具体的に、実体験をさせながら、ものごとを教えていく。
わかりやすく言えば、子どもを教室に閉じこめておくのではなく、教室から
子どもを外の世界へ連れ出し、そこでものを教えていく。

●考える教育

 ついでに、「考える教育」について。

 子どもによって、何か新しい問題を出したとき、大きく2つに分かれる。
ひとつは、自分の学習経験に照らし合わせて、「まだ習ってない」「できない」と逃げて
しまう子ども。
もうひとつは、「やってやる」「やらせて」と、食いついてくる子ども。
この(食いつき)を、私はそのまま「食いつき」と呼んでいる。

 「食いつき」のある子どもは、すばらしい。
「食いつきのない」子どもは、教えていても、つまらない。
学習態度が、万事、受動的。
つまりpassive(パッシブ)。
言われたことはやるが、そこまで。
発展性がない。
どこか自分勝手。
私は、そういう子どもを、「満腹児」と呼んでいる。
何もかも満たされているため、ガッツ(=野生味)がない。

 そこで重要なことは、いかにすれば、その「食いつきのある子ども」に
することができるかということ。
以前、「満腹児」について書いた原稿をさがしてみた。

++++++++++++++++

2006年の原稿より。

++++++++++++++++

●満腹児

 「こうであってほしい」と思う描く自分。しかしそこには、現実の自分がいる。この両
者のギャップが大きいとき、そこから「渇望感」が生まれる。

 この「渇望感」のでわかりやすいのが、性欲。フロイトも、リビドーという言葉を使っ
て、それを説明している。「性欲こそが、生きるためのすべてのエネルギーの根源である」
と。

 性欲が、ムラムラと起きてきたとき、そこに性のはけ口としての、相手がいれば、その
時点で、性欲は解消される。しかし相手がいないとき、相手をもとめられそうにないとき、
渇望感は、さらに強くなる。

 渇望感は、性欲だけには、かぎらない。しかしこの渇望感が、姿を変えて、外の世界に
向っては、「欲」となって現れる。

 名誉欲、金銭欲、支配欲、独占欲などなど。

 そういう意味で、「欲」があるからこそ、人は自分らしさを保つことができるのかもしれ
ない。食欲にたとえていうなら、空腹感という渇望感を満たす、食物のようなもの。欲が
あるから、人は生きられる。

 しかしこの渇望感を、悪と考えてはいけない。渇望感は、性欲にかぎらず、その人を動
かす原動力となる。子どもの世界にも、「満腹児」(この名称は、私がつけた)と呼ばれる
子どもがいる。

 あらゆる面で満たされているため、渇望感がない。そのため、いつも満足げで、おっと
しりしている。欲がないというというだけではなく、生活力もない。ハキもない。

 子どもをじょうずに伸ばすためには、子どものどこかに、この渇望感を用意するとよい。
実際、伸びる子どもというのは、あらゆる方向に触覚がのびていて、好奇心が旺盛である。

(はやし浩司 渇望感 欲 欲望 欲望 満腹児 Active Learning 食いつき 子どもの積極性
 考える子ども 独立して考える) 

+++++++++++++++

●この日本では……

 この日本では、子どもを批判的に評価する方法は、一般化している。
つまり後ろ向き。
たとえばやる気を示さない子どもについては、「燃え尽き症候群」「荷下ろし症候群」
「無気力児」などなど。
そういったいわゆる診断名らしきものをつけたあと、教育を考える。

 一方欧米では、ものの考え方が前向き。
言うなれば(できる子ども)を、さらに伸ばすには、どうしたらよいかという観点で
教育を組み立てる。
つまり「勉強ができない子どもがいてもよいではないか。
そういった子どもは、別の方面で、別の才能を伸ばせばよい。
それよりも、できる子どもを、さらに伸ばしてやろう」と。
そういう発想が強い。

 一方、この日本では、伝統的に、「落ちこぼれ」を嫌う。
たとえば子どもがズルをして、学校を休んだとする。
すると学校(幼稚園)の先生は、「後(おく)れる」という言葉を平気で使う。
後れる?
つまり一定のワクの中に、子どもを押し込もうとする。
(もちろん、出る釘も叩くが……。)

 で、こうしたちがいが、大きく現われているのが、Active Learning
ということになる。
「能動指導」とでも訳すのか。

 私もTK先生に教えてもらったばかりだから、中身はよくわからない。
これからしばらく、この問題について考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 アクティブ教育 能動教育 能動指導 active learning active education)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司
 
●IAP教育

+++++++++++++++++++++++++++

できない子どもを問題視してはいけない。
できる子どもは、さらにできるようにすればよい。
できない子どもについては、何かよい面を見つけ、それを伸
ばせばよい。
それがこれからの教育ということになる。

+++++++++++++++++++++++++++

 日本では、何かにつけて、(できない子ども)を問題視する。
しかしその一方で、(できる子ども)を伸ばすシステムもない。
むしろ「出る釘は叩く」式の教育が、平気でなされている。
これには日本人特有の、「型ワク意識」が、影響している。
明治以来の「もの言わぬ従順な民づくり」の亡霊と言ってもよい。

 一方、欧米では、できる子どもは、さらにできるようにする。
できない子どもについては、その子どもの才能を見つけ、それを伸ばすように
している。
私の想像ではない。

 メルボルンの郊外に、ジーロン・グラマー・スクールがある。
小学1年生から高校3年生までの一貫教育を施している。
(実際には、幼稚部も含まれている。)
あのチャールズ皇太子も1年間学んだことがある。
その学校では、子どもの能力と、方向性に応じて、自由にカリキュラムを
組んでいる。
自由にだぞ!
たとえば水泳の才能のある子どもは、毎日水泳の授業が受けられる。
木工が好きな子どもは、毎日木工の授業が受けられる。
何も、主要5教科(日本)だけが、教育ではない!
人間が学ばなければならない、知識と経験ではない!

 どうしてこの日本では、そういう教育を目指さないのか。
つまりそれが日本と欧米の、教育の基本的な姿勢のちがいということになる。

●自分で考える子ども
 
 TK先生は、かねてから、「Independent Thinker」という言葉をよく使う。
「自分で考える子ども」という意味である。
「これからは知識の時代ではない。
知識など、インターネットを使えば、その場で手に入る」と。

 そこでTK先生は、自身が東京R大の理学部長をしていたとき、独自の
入試方法を実施した。
それが今に見る、AO入試の原型となった。
で、今度はさらにそれを一歩進め、「Active Learning」という言葉を私に
教えてくれた。
意味はよくわからないが、直訳すれば、「行動的な学習」ということになる。
「教室の中だけではなく、外の世界に飛び出し、そこで能動的にものを
教え、学ぶ」ということか。
これから先、いろいろな情報が入ってくることと思う。

 で、「Active」があれば、当然、「Positive」もあるということになる。
つまり「積極的な学習」。
何でも前向きに、「やる!」「やりたい!」と、積極的に食いついてくる子どもを
育てる。

 で、これら3つを並べると、「Independent」「Active」「Positive」となり、
それらの3つの頭文字を取ると、「IAP」となる。
つまり「IAP教育」!

 「IPA教育」は、これからの日本の教育の(柱)とすべき理念ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 IAP教育 Independent Thinker Active Learning Positive Learning Active 
Education Positive Student)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

【雑感・あれこれ】

●55年目の夢実現

+++++++++++++++++

当時すでにヘリコプターという乗り物は、
よく知られていた。
私が小学2年生のときのことである。
私はそのヘリコプターのおもちゃが
ほしかった。

で、ある朝のこと。
その光景はよく覚えている。
みなでぞろぞろと、学校に向かっている
ときのこと。
私はおもちゃのヘリコプターと
いっしょに歩いている自分を想像した。
たいへんよくできたおもちゃで、
私の操縦どおりに、空を飛んだ。
おもちゃのヘリコプターが、
私のあとをかけてくる・・・。
どういうわけか、そのときの光景や、
私が思ったことを、よく覚えている。

が、その当時すでに、おもちゃで、
空を飛ぶというのは、あるにはあった。
手元にハンドルを回す箱があって、そのハンドルを回すと、
その動力が、ヘリコプターの本体へ伝えらる。
その力で空を飛ぶというものだった。

私は手のどこかに、そのハンドルを回した
記憶がある。
買ってもらったのか、それともおもちゃ屋で
遊ばせてもらったのかは、覚えていない。
しかし、まったくと言ってよいほど、
飛ばなかった。
それはよく覚えている。

飛び上がると同時に、墜落した。
それであの朝、学校へ行く途中、頭の中で、
そんなヘリコプターを想像したのだろう。

以来、55年。
その間、ラジコンの飛行機は、10機以上、
飛ばしてみた。
「みた」というのは、一応、「どれもあっと
いう間に墜落した」という意味。
ヘリコプターも、3機ほど、飛ばしてみた。
エンジン付の、かなり大きなものだった。
が、どれも長つづきしなかった。

が、10年ほど前から室内用のヘリコプターという
のが、売りに出されるようになった。
小型のおもちゃだったので、ミニ・ヘリコプター
ともいう。
当初は、本体だけで、3〜4万円もした。
それが数年前から、5000円前後で買える
ようになった。

全部で、10〜15機は買っただろうか。
当初は、ただ上昇するだけという簡単な
ものだった。
それがすぐ、2チャンネル、つまり(上昇・
下降)と、(左右・回転)のものになった。
何とか操縦はできたが、思うようには
飛ばなかった。

が、最近、3チャンネル仕様の、しかも
ジャイロスコープ付のものが売りに出された。
今までのミニ・ヘリコプターとちがい、
ボディは、金属製。
格段の進歩だった。
さっそく、購入。
イマイチという感じはあるが、それでも
10〜15年前の、ラジコンヘリに匹敵
するほどの性能をもちわせている。
驚いた!

私はこのところ毎日のように、それを飛ばして
遊んでいる。
回を重ねるごとに、操縦もうまくなってきた。
まだ子どものころ想像したようには、
飛ばせないが、しかしほぼ満足。
ミニ・ヘリコプターを飛ばしながら、
別の心で、夢がかなった!、と、
まあ、そんなふうに思っている。

+++++++++++++++++

●夢

 「夢」には、2つの意味がある。
ひとつは、眠っているときに見る「夢」。
もうひとつは、将来に向かって描く希望的な像。
しかし考えてみれば、この2つはまったく異質のもの。
どうして日本語では、この2つをまとめて「夢」と言うのだろう。
しかし考えてみれば、これはおかしい。

 で、英語ではどうだろう。
英語でも「dream」というときは、2つの意味を兼ねる。
しかし悪夢は、「ナイト・メア」という。
眠っているときに見る夢も、「dream」と言うときがある。
が、あまり、そういう使い方をしない。

だから「dream」というときは、将来に向かって描く希望的な像ということになる。
だれかが「I had a dream last night.(ぼくは昨夜、
夢をもった)」と言えば、眠っているときに見る夢ではなく、「昨夜、将来に向かって
こんな希望をもった」というふうに解釈する。

 その夢だが、みなが同じ夢をもてば、やがてそれは集合され、実現される。
(眠っているときに見る「夢」ではなく、将来に向かって描く希望的な「夢」のこと。)
おもちゃのヘリコプターも、そのひとつということになる。
言い換えると、夢をもつことの大切さは、ここにある。
夢が、みなを、前向きに引っ張っていく。
そしてそれがいつか、大きな力となって、実現する。

 だからみなさん、夢をもとう。
みなで頭の中で、理想像を描こう。
みながいっしょにその理想像を描けば、やがてそれが集合され、大きな力となる。
人間の心を変え、社会そのものを変えていく。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 夢論 夢について dream)

+++++++++++++++

以前、「day dreamer」について書いた。
あのエジソンも、その1人。
以上の原稿とは関係ないが、
ここに拾ってみる。

+++++++++++++++

●ボンヤリは心の掃除

 日中、ときどきもの思いにふけってぼんやりすることがある。これを英語では「デイ・ドリーム」
という。日本語に訳すと、「白昼夢」となるが、その言葉から受ける印象ほどおおげさに考える
必要はない。

むしろ最近の研究では、このデイ・ドリームは、心のバランスをとるためには必要なものとわか
ってきた。それだけではない。すばらしい創造性や独創的なアイディアは、そのデイ・ドリームを
している間に生まれるとされる。たとえばエジソンやニュートンは、「デイ・ドリーマー(夢見る
人)」というニックネームがつけられていた。

 幼児のばあい、ふとしたきっかけで、このデイ・ドリームの状態になる。時間的には数分程度
から、長くても5分程度だが、ぽかっと魂が抜けてしまったかのようになる。時と場所に関係な
く、運動場で体操をしているようなときにでも、そうなることがある。車の中やソファの上だった
りすると、そのまま眠ってしまうこともある。そういうとき親は、「気がゆるんでいるからだ」とか、
「学習に集中できないからだ」と考えるが、そのデイ・ドリームを無理に妨げると、子どもの情緒
はかえって不安定になる。

私の印象では、子どもは(おとなもそうだが)、デイ・ドリームを見ることにより、心の緊張感をほ
ぐすのではないかと思う。その証拠に、デイ・ドリームから戻った子どもは、実におだやかな表
情を見せる。

 もちろんデイ・ドリームと集中力、あるいはデイ・ドリームと昼寝グセや睡眠不足は区別しなけ
ればならない。同じぼんやりといっても、それが日常的につづくようであれば、今度は別の問題
を疑ってみなければならない。それはともかくも、そういった問題もなく、子どもがふとしたきっ
かけで、どこかぼんやりとするような様子を見せたら、できるだけそっとしておくのがよい。

(付記)私もときどき仕事の合間にぼんやりとすることがある。半覚半眠の状態になるのだが、
そういうとき電話がかかってきたりすると、それだけで心臓の鼓動が変化するのがわかる。あ
るいは授業と授業の間の休み時間に、別の仕事が入ったりすると、そのあとの授業で強い疲
れを感ずることがある。私のばあいも、ぼんやりとすることで、心を調整しているのだと思う。
 

Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●ブーメラン効果

 子どもを説教しているとき、かえって逆効果に感ずることがある。ときに、子ども自身
が、こちら側の下心を読んでしまうときがある。そうなると、いくら説教しても、効果が
ないばかりか、かえって子どもの反発心をかってしまう。

 たとえば時間つぶしをしている子どもがいる。時計ばかり気にして、少しも勉強しない。
私の前では、まじめに勉強しているフリをしているだけ。

 そういうとき、私が、ふと、「では、まじめに勉強して人から順に、採点して、今日のレ
ッスンは、終わります」と言ったとする。そう言えば、たいていのばあい、子どもたちは、
自らに拍車をかけて、勉強し始める。

 が、そういうとき、時間つぶしをしている子どもは、先に、私の下心を読んでしまう。「ぼ
くに、勉強させたいために、先生は、そう言っている」と。

 とたん、それまでのフリをやめ、堂々と、勉強をサボり始める。「どうせ、ぼくが最後に
なるんだろ!」とか言ったりする。

 こういうのを、(ブーメラン効果)という。こちらの意図したことが、逆効果となって、
返ってきてしまう。

 子どもと接するときは、いつも本音で接するようにする。下心はもたない。子どもとの
信頼関係を守るためにも、そうする。
(はやし浩司 ブーメラン効果 (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て
 Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 逆効果 教師の下心)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●ほめることの重要性

+++++++++++++++++

ほめることの重要性については、
繰り返し書いてきた。
『子どもはほめて伸ばせ』が、私の
持論にもなっている。
あちこちの本の中でも、そう書いた。

このほどその効果が、アカデミック
な立場で、証明された。

その記事を、そのままここに、
記録用として、保存させてもらう。

+++++++++++++++++

++++++++以下、ヤフー・ニュース(2010年3月)より++++++++

 親にほめられたり、やさしい言葉をかけられた乳幼児ほど、主体性や思いやりなど社会適応
力の高い子に育つことが、3年以上に及ぶ科学技術振興機構の調査で分かった。父親の育児
参加も同様の効果があった。「ほめる育児」の利点が長期調査で示されたのは初という。東京
都で27日午後に開かれる応用脳科学研究会で発表する。

 調査は、大阪府と三重県の親子約400組を対象に、生後4カ月の赤ちゃんが3歳半になる0
9年まで追跡。親については、子とのかかわり方などをアンケートと行動観察で調べた。子に
対しては、親に自分から働きかける「主体性」、親にほほ笑み返す「共感性」など5分野30項
目で評価した。

 その結果、1歳半以降の行動観察で、親によくほめられた乳幼児は、ほめられない乳幼児に
比べ、3歳半まで社会適応力が高い状態を保つ子が約2倍いることが分かった。また、ほめる
以外に、目をしっかり見つめる▽一緒に歌ったり、リズムに合わせて体を揺らす▽たたかない
▽生活習慣を整える▽一緒に本を読んだり出かける−−などが社会適応力を高める傾向が
あった。

 一方、父親が1歳半から2歳半に継続して育児参加すると、そうでない親子に比べ、2歳半の
時点で社会適応力が1.8倍高いことも判明した。母親の育児負担感が低かったり、育児の相
談相手がいる場合も子の社会適応力が高くなった。

 調査を主導した安梅勅江(あんめときえ)・筑波大教授(発達心理学)は「経験として知られて
いたことを、科学的に明らかにできた。成果を親と子双方の支援に生かしたい」と話す。【須田
桃子】

++++++++以上、ヤフー・ニュース(2010年3月)より++++++++

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 ほめる ほめる効用 子どもをほめる ほめることの大切さ はやし浩司 子ども
はほめて伸ばす 伸ばせ 子供はほめて伸ばせ)

++++++++++++++++++++

●2007年4月の原稿より

【子どもを伸ばす】

●やる気論

 人にやる気を起こさせるものに、二つある。一つは、自我の追求。もう一つは、絶壁(ぜ
っぺき)性。

 大脳生理学の分野では、人のやる気は、大脳辺縁系の中にある、帯状回という組織が、
重要なカギを握っているとされている(伊藤正男氏)。が、問題は、何がその帯状回を刺激
するか、だ。そこで私は、ここで(1)自我の追求と、(2)絶壁性をあげる。

 自我の追求というのは、自己的利益の追求ということになる。ビジネスマンがビジネス
をとおして利潤を追求するというのが、もっともわかりやすい例ということになる。科学
者にとっては、名誉、政治家にとっては、地位、あるいは芸術家にとっては、評価という
ことになるのか。こう決めてかかることは危険なことかもしれないが、わかりやすく言え
ば、そういうことになる。こうした自己的利益の追求が、原動力となって、その人の帯状
回(あくまでも伊藤氏の説に従えばということだが)を刺激する。

 しかしこれだけでは足りない。人間は追いつめられてはじめて、やる気を発揮する。こ
れを私は「絶壁性」と呼んでいる。つまり崖っぷちに立たされるという危機感があって、
人ははじめてやる気を出す。たとえば生活が安定し、来月の生活も、さらに来年の生活も
変わりなく保障されるというような状態では、やる気は生まれない。「明日はどうなるかわ
からない」「来月はどうなるかわからない」という、切羽つまった思いがあるから、人はが
んばる。が、それがなければ、そうでない。

 さて私のこと。私がなぜ、こうして毎日、文を書いているかといえば、結局は、この二
つに集約される。「その先に何があるかを知りたい」というのは、立派な我欲である。ただ
私のばあい、名誉や地位はほとんど関係ない。とくにインターネットに原稿を載せても、
利益はほとんど、ない。ふつうの人の我欲とは、少し内容が違うが、ともかくも、その自
我が原動力になっていることはまちがいない。

 つぎに絶壁性だが、これはもうはっきりしている。私のように、まったく保障のワクの
外で生きている人間にとっては、病気や事故が一番、恐ろしい。明日、病気か事故で倒れ
れば、それでおしまい。そういう危機感があるから、健康や安全に最大限の注意を払う。
毎日、自転車で体を鍛えているのも、そのひとつということになる。あるいは必要最低限
の生活をしながら、余力をいつも未来のためにとっておく。そういう生活態度も、そうい
う危機感の中から生まれた。もしこの絶壁性がなかったら、私はこうまでがんばらないだ
ろうと思う。

 そこで子どものこと。子どものやる気がよく話題になるが、要は、いかにすれば、その
我欲の追求性を子どもに自覚させ、ほどよい危機感をもたせるか、ということ。順に考え
てみよう。

(自我の追求)

 教育の世界では、(1)動機づけ、(2)忍耐性(努力)、(3)達成感という、三つの段
階に分けて、子どもを導く。幼児期にとくに大切なのは、動機づけである。この動機づけ
がうまくいけば、あとは子ども自身が、自らの力で伸びる。英語流の言い方をすれば、『種
をまいて、引き出す』の要領である。

 忍耐力は、いやなことをする力のことをいう。そのためには、『子どもは使えば使うほど
いい子』と覚えておくとよい。多くの日本人は、「子どもにいい思いをさせること」「子ど
もに楽をさせること」が、「子どもをかわいがること」「親子のキズナ(きずな)を太くす
るコツ」と考えている。しかしこれは誤解。まったくの誤解。

 3つ目に、達成感。「やりとげた」という思いが、子どもをつぎに前向きに引っぱってい
く原動力となる。もっとも効果的な方法は、それを前向きに評価し、ほめること。

(絶壁性)

 酸素もエサも自動的に与えられ、水温も調整されたような水槽のような世界では、子ど
もは伸びない。子どもを伸ばすためには、ある程度の危機感をもたせる。(しかし危機感を
もたせすぎると、今度は失敗する。)日本では、受験勉強がそれにあたるが、しかし問題も
多い。

 そこでどうすれば、子どもがその危機感を自覚するか、だ。しかし残念ながら、ここま
で飽食とぜいたくが蔓延(まんえん)すると、その危機感をもたせること自体、むずかし
い。仮に生活の質を落としたりすると、子どもは、それを不満に転化させてしまう。子ど
もの心をコントロールするのは、そういう意味でもむずかしい。

 とこかくも、子どものみならず、人は追いつめられてはじめて自分の力を奮い立たせる。
E君という子どもだが、こんなことがあった。

 小学六年のとき、何かの会で、スピーチをすることになった。そのときのE君は、はた
から見ても、かわいそうなくらい緊張したという。数日前から不眠症になり、当日は朝食
もとらず、会場へでかけていった。で、結果は、結構、自分でも満足するようなできだっ
たらしい。それ以後、度胸がついたというか、自信をもったというか、児童会長(小学校)
や、生徒会長(中学校)、文化祭実行委員長(高校)を、総ナメにしながら、大きくなって
いった。そのときどきは、親としてつらいときもあるが、子どもをある程度、その絶壁に
立たせるというのは、子どもを伸ばすためには大切なことではないか。

 つきつめれば、子どもを伸ばすということは、いかにしてやる気を引き出すかというこ
と。その一言につきる。この問題は、これから先、もう少し煮つめてみたい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●生きがいを決めるのは、帯状回?

 脳の中に、辺縁系と呼ばれる古い脳がある。脳のこの部分は、人間が原始動物であった
ときからあるものらしい。イヌやネコにも、たいへんよく似た脳がある。

その辺縁系の中に、帯状回とか扁桃体と呼ばれるところがある。最近の研究によれば、
どうやら人間の「やる気」に、これらの帯状回や扁桃体が関係していることがわかって
きた(伊藤正男氏)。

 たとえば人にほめられたりとすると、人は快感を覚える。反対にみなの前でけなされた
りすると、不快感を覚える。その快感や不快感を覚えるのが、扁桃体だそうだ。その快感
や不快感を受けて、大脳連合野の新皮質部が、満足したり、満足しなかったりする。

一方、その扁桃体の感覚を受けて、「やる気」を命令するのが、帯状回だそうだ(同氏)。
やる気があれば、ものごとは前に進み、それに楽しい。しかしいやいやにしていれば、
何をするのも苦痛になる。

 これは脳のメカニズムの話だが、現象的にも、この説には合理性がある。たとえば他人
にやさしくしたり、親切にしたりすると、心地よい響きがする。しかし反対に、他人をい
じめたり、意地悪したりすると、後味が悪い。この感覚は、きわめて原始的なもので、つ
まりは理屈では説明できないような感覚である。しかしそういう感覚を、人間がまだ原始
動物のときからもっていたと考えるのは、進化論から考えても正しい。もし人間が、もと
もと邪悪な感覚をもっていたら、たとえば仲間を殺しても、平気でいられるような感覚を
もっていたら、とっくの昔に絶滅していたはずである。

 こうした快感や不快感を受けて、つぎに大脳連合野の新皮質部が判断をくだす。新皮質
部というのは、いわゆる知的な活動をする部分である。たとえば正直に生きたとする。す
ると、そのあとすがすがしい気分になる。このすがすがしい気分は、扁桃体によるものだ
が、それを受けて、新皮質部が、「もっと正直に生きよう」「どうすれば正直に生きられる
か」とか考える。そしてそれをもとに、自分を律したり、行動の中身を決めたりする。

 そしていよいよ帯状回の出番である。帯状回は、こうした扁桃体の感覚や、新皮質部の
判断を受けて、やる気を引き起こす。「もっとやろう」とか、「やってやろう」とか、そう
いう前向きな姿勢を生み出す。そしてそういう感覚が、反対にまた新皮質部に働きかけ、
思考や行動を活発にしたりする。

●私のばあい

 さて私のこと。こうしてマガジンを発行することによって、読者の数がふえるというこ
とは、ひょっとしたら、それだけ役にたっているということになる。(中には、「コノヤロ
ー」と怒っている人もいるかもしれないが……。)

さらに読者の方や、講演に来てくれた人から、礼状などが届いたりすると、どういうわ
けだか、それがうれしい。そのうれしさが、私の脳(新皮質部)を刺激し、脳細胞を活
発化する。そしてそれが私のやる気を引き起こす。そしてそのやる気が、ますますこう
してマガジンを発行しようという意欲に結びついてくる。が、読者が減ったり、ふえな
かったりすると、扁桃体が活動せず、つづいて新皮質部の機能が低下する。そしてそれ
が帯状回の機能を低下させる。

 何とも理屈っぽい話になってしまったが、こうして考えることによって、同時に、子ど
ものやる気を考えることができる。よく「子どもにはプラスの暗示をかけろ」「子どもはほ
めて伸ばせ」「子どもは前向きに伸ばせ」というが、なぜそうなのかということは、脳の機
能そのものが、そうなっているからである。

 さてさて私のマガジンのこと。私のばあい、「やる気」というレベルを超えて、「やらな
ければならない」という気持ちが強い。では、その気持ちは、どこから生まれてくるのか。
ここでいう「やる気論」だけでは説明できない。どこか絶壁に立たされたかのような緊張
感がある。では、その緊張感はどこから生まれるのか。

●ほどよいストレスが、その人を伸ばす

 ある種のストレスが加えられると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まる。このア
ドレナリンが、心拍を高め、脳や筋肉の活動を高める。そして脳や筋肉により多くの酸素
を送りこみ、危急の行動を可能にする。こうしたストレス反応が過剰になることは、決し
て好ましいことではない。そうした状態が長く続くと、副腎機能が亢進し、免疫機能の低
下や低体温などの、さまざまの弊害が現れてくる。しかし一方で、ほどよいストレスが、
全体の機能を高めることも事実で、要は、そのストレスの内容と量ということになる。

 たとえば同じ「追われる」といっても、借金取りに借金の催促をされながら、毎月5万
円を返済するのと、家を建てるため、毎月5万円ずつ貯金するのとでは、気持ちはまるで
違う。子どもの成績でいうなら、いつも100点を取っていた子どもが80点を取るのと、
いつも50点しか取れなかった子どもが、80点を取るのとでは、同じ80点でも、子ど
ものよって、感じ方はまったく違う。

私のばあい、マガジンの読者の数が、やっと100人を超えたときのうれしさを忘れる
ことができない一方、450人から445人に減ったときのさみしさも忘れることがで
きない。100人を超えたときには、モリモリとやる気が起きてきた。しかし445人
に減ったときは、そのやる気を支えるだけで精一杯だった。

●子どものやる気

 子どものやる気も同じに考えてよい。そのやる気を引き出すためには、子どもにある程
度の緊張感を与える。しかしその緊張感は、子ども自身が、その内部から沸き起こるよう
な緊張感でなければならない。私のばあい、「自分の時間が、どんどん短くなってきている
ように感ずる。ひょっとしたら、明日にでも死の宣告を受けるかもしれない。あるいは交
通事故にあうかもしれない」というのが、ほどよく自分に作用しているのではないかと思
う。

 人は、何らかの使命を自分に課し、そしてその使命感で、自分で自分にムチを打って、
前に進むものか。そうした努力も一方でしないと、結局はやる気もしぼんでしまう。ただ
パンと水だけを与えられ、「がんばれ」と言われても、がんばれるものではない。今、こう
して自分のマガジンを発行しながら、私はそんなことを考えている。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私とは何か

 「私」とは何かと考える。どこからどこまでが私で、どこからどこまでが私ではないか
と。よく「私の手」とか、「私の顔」とか言うが、その手にしても、顔にしても、本当に「私」
なのか。手に生える一本の毛にしても、私には、それを自分でつくったという覚え(意識)
がない。あるはずもない。

ただ顔については、長い間の生き様が、そこに反映されることはある。だから、「私の顔」
と言えなくもない。しかしほかの部分はどうなのか。あるいは心は。あるいは思想は。

 たとえば私は今、こうしてものを書いている。しかしなぜ書くかといえば、それがわか
らない。多分私の中にひそむ、貪欲さや闘争心が、そうさせているのかもしれない。それ
はサッカー選手が、サッカーの試合をするのに似ている。本人は自分の意思で動いている
と思っているかもしれないが、実際には、その選手は「私」であって「私」でないものに、
動かされているだけ? 

同じように私も、こうしてものを書いているが、私であって私でないものに動かされて
いるだけかもしれない。となると、ますますわからなくなる。私とは何か。

 もう少しわかりやすい例で考えてみよう。映画『タイタニック』に出てくる、ジャック
とローズを思い浮かべてみよう。彼らは電撃に打たれるような恋をして、そして結ばれる。
そして数日のうちに、あの運命の日を迎える。

 その事件が、あの映画の柱になっていて、それによって起こる悲劇が、多くの観客の心
をとらえた。それはわかるが、あのジャックとローズにしても、もとはといえば、本能に
翻弄(ほんろう)されただけかもしれない。電撃的な恋そのものにしても、本人たちの意
思というよりは、その意思すらも支配する、本能によって引き起こされたと考えられる。

いや、だいたい男と女の関係は、すべてそうであると考えてよい。つまりジャックにし
てもローズにしても、「私は私」と思ってそうしたかもしれないが、実はそうではなく、
もっと別の力によって、そのように動かされただけということになる。このことは、子
どもたちを観察してみると、わかる。

 幼児期、だいたい満四歳半から五歳半にかけて、子どもは、大きく変化する。この時期
は、乳幼児から少年、少女期への移行期と考えるとわかりやすい。この時期をすぎると、
子どもは急に生意気になる。人格の「核」形成がすすみ、教える側からみても、「この子は
こういう子だ」という、とらえどころができてくる。そのころから自意識による記憶も残
るようになる。(それ以前の子どもには、自意識による記憶は残らないとされる。これは脳
の中の、辺縁系にある海馬という組織が、まだ未発達のためと言われている。)

 で、その時期にあわせて、もちろん個人差や、程度の差はあるが、もろもろの、いわゆ
るふつうの人間がもっている感情や、行動パターンができてくる。ここに書いた、貪欲さ
や闘争心も、それに含まれる。嫉妬心(しっとしん)や猜疑心(さいぎしん)も含まれる。

子ども、一人ひとりは、「私は私だ」と思って、そうしているかもしれないが、もう少し
高い視点から見ると、どの子どもも、それほど変わらない。ある一定のワクの中で動い
ている。もちろん方向性が違うということはある。ある子どもは、作文で、あるいは別
の子どもは、運動で、というように、そうした貪欲さや闘争心を、昇華させていく。反
対に中には、昇華できないで、くじけたり、いじけたり、さらには心をゆがめる子ども
もいる。しかし全体としてみれば、やはり人間というハバの中で、そうしているにすぎ
ない。

 となると、私は、どうなのか。私は今、こうしてものを書いているが、それとて、結局
はそのハバの中で踊らされているだけなのか。もっと言えば、私は私だと思っているが、
本当に私は私なのか。もしそうだとするなら、どこからどこまでが私で、どこから先が私
ではないのか。

 ……実のところ、この問題は、すでに今朝から数時間も考えている。ムダにした原稿も、
もう一〇枚(1600字x10枚)以上になる。どうやら、私はたいへんな問題にぶつか
ってしまったようだ。手ごわいというか、そう簡単には結論が出ないような気がする。こ
れから先、ゆっくりと時間をかけて、この問題と取り組んでみたい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私とは何か

 たとえば腹が減る。すると私は立ちあがり、台所へでかけ、何かの食べ物をさがす。カ
ップヌードルか、パンか。

 そのとき、私は自分の意思で動いていると思うが、実際には、空腹という本能に命じら
れて、そうしているだけ。つまり、それは、「私」ではない。

 さらに台所へ行って、何もなければどうする? サイフからいくらかのお金を取り出し
て、近くのコンビニへ向かう。そしてそこで何かの食物を買う。これも、私であって、「私」
ではない。だれでも多少形は違うだろうが、そういう状況に置かれた同じような行動をす
る。

 が、そのとき、お金がなかったどうする? 私は何かの仕事をして、そのお金を手に入
れる。となると、働くという行為も、これまた必然であって、やはり「私」でないという
ことになる。

 こうして考えていくと、「私」と思っている大部分のものは、実は、「私」ではないこと
になる。そのことは、野山を飛びかうスズメを見ればわかる。

 北海道のスズメも、九州のスズメも、それほど姿や形は違わない。そしてどこでどう連
絡しあっているのか、行動パターンもよく似ている。違いを見だすほうが、むずかしい。
しかしどのスズメも、それぞれが別の行動をし、別の生活をしている。スズメにはそうい
う意識はないだろうが、恐らくスズメも、もし言葉をもっているなら、こう考えるだろう。
「私は私よ」と。

 ……と考えて、もう一度、人間に戻る。そしてこう考える。私たちは、何をもって、「私」
というのか、と。

 街を歩きながら、若い人たちの会話に耳を傾ける。たまたま今日は日曜日で、広場には
楽器をもった人たちが集まっている。ふと、「場違いなところへきたな」と思うほど、まわ
りは若さで華やいでいる。

「Aさん、今、どうしてる?」
「ああ、多分、今日、来てくれるわ」
「ああ、そう……」と。

 楽器とアンプをつなぎながら、そんな会話をしている。しかしそれは言葉という道具を
使って、コミュニケーションしているにすぎない。もっと言えば、スズメがチッチッと鳴
きあうのと、それほど、違わない。本人たちは、「私は私」と思っているかもしれないが、
「私」ではない。

 私が私であるためには、私を動かす、その裏にあるものを超えなければならない。その
裏にあるものを、超えたとき、私は私となる。

 ここまで書いて、私はワイフに相談した。「その裏になるものというのを、どう表現した
らいいのかね」と。本能ではおかしい。潜在意識では、もっとおかしい。私たちを、その
裏から基本的に操っているもの。それは何か。ワイフは、「さあねエ……。何か、新しい言
葉をつくらないといけないね」と。

 ひとつのヒントが、コンピュータにあった。コンピュータには、OSと呼ばれる部分が
ある。「オペレーティングシステム」のことだが、日本語では、「基本ソフト」という。い
わばコンピュータのハードウエアと、その上で動くソフトウエアを総合的に管理するプロ
グラムと考えるとわかりやすい。コンピュータというのは、いわば、スイッチのかたまり
にすぎない。そのスイッチを機能的に動かすのが、OSということになる。人間の脳にあ
る神経細胞からのびる無数のシナプスも、このスイッチにたいへんよく似ている。

 そこで人間の脳にも、そのスイッチを統合するようなシステムがあるとするなら、「脳の
OS」と表現できる。つまり私たちは、意識するとしないにかかわらず、その脳のOSに
支配され、その範囲で行動している。つまりその範囲で行動している間は、「私」ではない。

 では、どうすれば、私は、自分自身の脳のOSを超えることができるか。その前に、そ
れは可能なのか。可能だとするなら、方法はあるのか。

 たまたま私は、「私」という問題にぶつかってしまったが、この問題は、本当に大きい。
のんびりと山の散歩道を歩いていたら、突然、道をふさぐ、巨大な岩石に行き当たったよ
うな感じだ。とても今日だけでは、考えられそうもない。このつづきは、一度、頭を冷や
してから考える。
(02−10−27)※

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私とは何か

 「私」というのは、昔から、哲学の世界では、大きなテーマだった。スパルタの七賢人
の一人のキロンも、『汝自身を知れ』と言っている。自分を知ることが、哲学の究極の目的
というわけだ。ほかに調べてみると、たとえばパスカル(フランスの哲学者、1623〜
62)も、『パンセ』の中で、こう書いている。

 「人間は不断に学ぶ、唯一の存在である」と。別のところでは、「思考が人間の偉大さを
なす」ともある。

 この言葉を裏から読むと、「不断に学ぶからこそ、人間」ということになる。この言葉は、
釈迦が説いた、「精進」という言葉に共通する。精進というのは、「一心に仏道に修行する
こと。ひたすら努力すること」(講談社「日本語大辞典」)という意味である。釈迦は「死
ぬまで精進しろ。それが仏の道だ」(「ダンマパダ」)というようなことを言い残している。

となると、答は出たようなものか。つまり「私」というのは、その「考える部分」とい
うことになる。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 あなたが今、政治家であったとする。そんなある日、一人の事業家がやってきて、あな
たの目の前に大金を積んで、こう言ったとする。「今度の工事のことで、私に便宜(べんぎ)
をはかってほしい」と。

 このとき、考えない人間は、エサに飛びつく魚のように、その大金を手にしながら、こ
う言うにちがいない。「わかりました。私にまかせておきなさい」と。

 しかしこれでは、脳のOS(基本ソフト)の範囲内での行動である。そこであなたとい
う政治家が、人間であるためには、考えなければならない。考えて、脳のOSの外に出な
くてはいけない。そしてあれこれ考えながら、「私はそういうまちがったことはできない」
と言って、そのお金をつき返したら、そのとき、その部分が「私」ということになる。

 これはほんの一例だが、こうした場面は、私たちの日常生活の中では、茶飯事的に起こ
る。そのとき、何も考えないで、同じようなことをしていれば、その人には、「私」はない
ことになる。しかしそのつど考え、そしてその考えに従って行動すれば、その人には「私」
があることになる。

 そこで私にとって「私」は何かということになる。考えるといっても、あまりにも漠然
(ばくぜん)としている。つかみどころがない。考えというのは、方法をまちがえると、
ループ状態に入ってしまう。同じことを繰り返し考えたりする。いくら考えても、同じこ
とを繰り返し考えるというのであれば、それは何も考えていないのと同じである。

 そこで私は、「考えることは、書くことである」という、一つの方法を導いた。そのヒン
トとなったのが、モンテーニュ(フランスの哲学者、1533−92)の『随想録』であ
る。彼は、こう書いている。

 「私は『考える』という言葉を聞くが、私は何かを書いているときのほか、考えたこと
がない」と。

 思想は言葉によるものだから、それを考えるには、言葉しかない。そのために「書く」
ということか。私はいつしか、こうしてものを書くことで、「考える」ようになった。もち
ろんこれは私の方法であり、それぞれの人には、それぞれの方法があって、少しもおかし
くない。しかしあえて言うなら、書くことによって、人ははじめてものごとを論理的に考
えることができる。書くことイコール、考えることと言ってもよい。

 「私」が私であるためには、考えること。そしてその考えるためには、書くこと。今の
ところ、それが私の結論ということになるが、昨年(〇一年)、こんなエッセーを書いた。
中日新聞で掲載してもらった、『子どもの世界』(タイトル)で、最後を飾った記事である。
書いたのは、ちょうど一年前だが、ここに書いた気持ちは、今も、まったく変わっていな
い。

++++++++++++++++++++

〜02年終わりまでだけでも、これだけの
原稿が集まった。

それ以後も、現在に至るまで、たびたび、
私は辺縁系について書いてきた。

最後に、こんな興味ある研究結果が公表されたので、
ここに紹介する。

「いじめは、立派な傷害罪」という内容の
記事である。

++++++++++++++++++++

 東北大学名誉教授の松沢大樹(80)氏によれば、「すべての精神疾患は、脳内の扁桃核
に生ずる傷によって起きる」と結論づけている。

 松沢氏によれば、「深刻ないじめによっても、子どもたちの扁桃核に傷は生じている」と
いうのである。

 傷といっても、本物の傷。最近は、脳の奥深くを、MRI(磁気共鳴断層撮影)や、P
ET(ポジトロン断層撮影)などで、映像化して調べることができる。実際、その(傷)
が、こうした機器を使って、撮影されている。

 中日新聞の記事をそのまま紹介する(07年3月18日)。

 『扁桃核に傷がつくと、愛が憎しみに変わる。さらに記憶認識系、意志行動系など、お
よそ心身のあらゆることに影響を与える。……松沢氏は、念を押すように繰りかえした。『い
じめは、脳を壊す。だからいじめは犯罪行為、れっきとした傷害罪なんです』と。

 今、(心)そのものが、大脳生理学の分野で解明されようよしている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
扁桃体 辺縁系 扁桃核 心 心の傷)


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●27キロ、走破!

++++++++++++++++++

昨夜遅く、自宅から山荘までを、
自転車で走ってみた。
片道、27キロ。
寒かった。
手が痛いほど、空気が冷たかった。
夜10時ごろ出発して、着いたのは、午前
1時半。

3時間半もかかったことになる。
その間、いろいろなドラマがあったが、
忘れた。
よく覚えているのは、コンビニのありがたさが、
改めてよくわかったということ。
「セブンiさん、ありがとう!」

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●静かな朝

 起きて、雨戸をみな、開けた。
とたん緑の山々と、水色の空がどっと視界に入ってきた。
手前のほうでは、枯れ木がやさしく揺れている。
冬の景色だが、どこか春めいてきた。

 ところでなぜ、昨夜、自転車で走ったか?
それにはいろいろな理由がある。
その第一。
家族のことをあれこれと考えていたら、
そのうち収拾がつかなくなった。
ほかのテーマなら、文章にして、モヤモヤを
はき出すということもできる。
しかし「家族」では、それができない。

●自責型人間

 ときどき自分がいやになるときがある。
このところめったに、他者という(個人)に対しては、(怒り)を
覚えることはない。
家族であれ、近隣の人たちであれ、あるいは親類の人たちであれ、
(怒り)を覚えることはない。
(怒り)を覚えても、どういうわけか、それがすぐ自分にはね返って
きてしまう。

 私は典型的な自責型人間。
外見的には、他責型人間に見えるかもしれないが、自責型。
何があっても、自分を責めてしまう。
そういう(怒り)が、自分に向かった。
それが頂点に達した。
だから自転車で家を飛び出した。

●徘徊

 言うなればボケ老人の徘徊(はいかい)のようなもの。
反対に、徘徊するボケ老人の気持ちが、私にはよくわかる。
体を動かしていれば、身のまわりのわずらわしいことを、
すべて忘れられる。
遠ざかれば遠ざかるほど、自分を忘れられる。
が、それだけではない。

 昨夜の私がそうだったが、孤独感すらどこかへ消える。
おかしな現象に思う人がいるかもしれない。
孤独な世界に自ら飛び込みながら、孤独感が消える?

 そこに(孤独)があるなら、思い切って、飛び込んでみる。
「こわい、こわい」と言って逃げ回っている間は、孤独の
ほうが、どんどんと追いかけてくる。
だから飛び込んでいく。
こちらから飛び込んでいく。
それは、子どもの喧嘩と同じ。

●暴力団の男

 私は子どものころから、気が小さいくせに、喧嘩ばやかった。
悶々と悩むことが苦手だった。
だからそこに相手がいるなら、その場で解決する。
パンパンと喧嘩して、それですます。
それが私のやり方だった。

 浜松へ来たころも、こんなことがあった。

 たまたま知り合った男が、アパートを探していた。
で、私の知り合いの人が、アパートを経営していので、
たがいに紹介してやった。
で、男は、その人のアパートに住むようになった。
が、数か月もすると、アパートの経営者から苦情が入るようになった。
「部屋代を払ってくれない」
「おかしな人たちが、出入りしている」と。

 で、私は即座に、アパートを借りた男に電話を入れた。
知り合ったときとは、声の調子がまったく変わっていた。
「貴様、命が惜しくなければ、○○町のxxという喫茶店へ来い。
部屋代は、そこで払ってやる」と。

 私は即刻、そこへ出かけた。
喫茶店へ入ると、一番奥のソファに、その男がいた。
両脇を、別の2人の男が囲んでいた。
見るからに暴力団の組員とわかる様子だった。

 私は自分の体が震えていることを隠しながら、ツカツカとその男の
前まで行った。
そして「部屋代を払って、今月中にアパートを出てくれ」と言った。
とたんその人の顔は、和らいだ。

 「お前って、度胸、あるな。気に入った」と。

●途中で

 以後、この私の行動パターンは、変わっていない。
昨夜も家を出るとき、「だいじょうぶかな?」と思った。
思ったが、そのときは、すでにペダルをこぎ始めていた。
最後の3分の1は、山の上り坂。
気温も、さらに下がる。
ここ数日、強力な寒気団が太平洋岸までおりてきて、最低気温は、
3〜4度。
昨夜も、その程度だった。
山荘へ着いてストーブにスイッチを入れると、部屋の中で、3度を
示していた。

 が、私は来てしまった。
かかった時間は、先にも書いたように、3時間半!
途中で、何度か歩いて自転車を引いたが、そのつど、左足がこむら返しを
起こした。
痛かった。
床に入ったときも、こむら返しを起こした。
痛かった。

●今朝

 で、今朝は気分は悪くない。
何かをやり遂げたような充実感がある。
孤独感はそのままだが、どこかでその孤独感を楽しんでいる。
そんな自分が、別のところにいる。
時刻は現在、午前11時ちょうど。
もうすぐワイフも車で、ここへ来るはず。
ポットの湯もわいた。
これからカップヌードルを作って、食べる。
それと庭に除草剤をまく。
春草があちこちで、背丈をかなり伸ばしている。

●1+1=0 

 話を戻す。

 孤独といえば、みな、孤独。
孤独でない人はいない。
その孤独を見つめるのがこわいから、自分をごまかして生きている。
家族や、友だちや、仕事の輪に入って、自分をごまかして生きている。
しかし孤独は、ちゃんとそこにいる。
しっかりとそこに、いる。

 が、ここで不思議な足し算が成り立つ。
たとえばここに孤独な2人がいたとする。
その2人が寄り添えば、1+1=2になるはず。
が、こと孤独について言えば、1+1=0になる。
1+1+1も、0。
1+1+1+1も、0。

 が、それには条件がある。
たがいに無私無欲でなければならないということ。
たがいに相手を思い、たがいの孤独感を共鳴しあうこと。

●体重

 ・・・という話はここまでにして、ひとつだけがっかりしたこと。
このところ体重オーバーの日々がつづいている。
で、起きてすぐ、体重計に乗ってみた。
が、ぜんぜん、減っていなかった!
27キロもがんばったのだから、1〜2キロは減っていると期待していた。
が、前日と同じ。

 これはどういう理由によるものなのか。
かなりのエネルギー(カロリー)を消耗したのだから、その分、体重が
減っていてもおかしくない。
が、同じ?

 ただおかしいなと思ったのは、昨夜、あれほど寒いのに、途中で、2度も
尿意をもよおしたということ。
それと山荘に着いてから、のどが渇いたので、お茶を数杯飲んだということ。
汗の替わりに、小便になった。
これはわかる。
その分だけ、お茶を飲んだ。
スポーツ医学については、まったく門外漢。
いちど、それについて調べてみたい。

 たった今、ワイフが来たので、この話はここまで。
あとは楽しむ。
せっかくの春休み。

●サガンの「悲しみよ、こんにちは」

 数日前、ワイフがDVDを借りてきた。
サガン原作の、「悲しみよ、こんにちは」というタイトルだった。
サガンの名前も、小説の名前もよく知っている。
が、本を読んだことはない。
映画化されていることも、知らなかった。
それについて、ワイフが、横に座って、内容を説明してくれた。

 その一部に、こんな話があった。

 何かのことで、母親と息子が絶交する。
以来、母親と息子は、何10年もたがいに会わない。
が、母親が臨終のときを迎える。
見るに見かねて、母親の近くにいた人が、息子を呼び寄せる。
息子は連絡を受けて、やってくる。
しかし母親は、息子に、会わない。
会わないまま、死んでいく。
(以上、ワイフの話なので、不正確。)

 それについてワイフは、「どうして会わなかったのかしら」と。
で、私はこう言った。
「ぼくだって、会わないよ」と。

ワ「どうして?」
私「母親のほうは、毎日のように自分と闘って生きてきた。
息子への恋慕を否定しながらね・・・。
いくら最後でも、会えば、そういう自分を否定することになる」
ワ「息子の方だって、さみしい思いをしたはずよ」
私「ちがうよ。息子は、母親を恨んだだけだよ。
しかし母親のほうは、そのつどはげしく自分を責めた。
(怒り)の向きがちがう。
愛する人どうしが離反したときは、その向きは、母親と息子とでは、ちがう。
母親は自分を責める。
息子は母親を責める。
だから会わなかった・・・」

ワ「映画『エデンの東』とは、逆ね」
私「あのときは、息子は父親から離反していない。
父親もそれをよく知っていた。
だから父親は、息子を許すことができた」
ワ「サガンのほうは、どうだったの?」
私「ぼくは小説は読んでないけど、母親の気持ちがよくわかるよ。
母親は、息子を恨んだり、息子を怒っているのではない。
そういう息子にした、自分に対して怒っている。
それは絶望感との闘いと言ってもいい。
最後の最後で、『お母さん!』『息子よ!』と抱き合うわけにはいかない。
日本映画なら、そういう終わり方をするだろうけどね・・・」と。

 『許して忘れる』は、子育ての基本。
相手が他者なら、許すことができる。
しかし相手が自分では、許すことができない。
サガンは、最後の最後まで、自分を許すことができなかった。
私はワイフの話を聞いて、そう解釈した。

●3月30日

 たった今、庭に除草剤をまいてきた。
焚き火をしようかと思ったが、風が強いのでやめた。
今年は30年に1度という寒い春という。
たしかに寒い。
風も強い。
(風が強いのは、毎年のことだが・・・。
このあたりでは、「遠州の空っ風」という。)

 こういう寒い日は、体の動きも鈍くなる。
何かをしたいという意欲も半減する。
「このまま山荘で午後を過ごそうか」という怠けた心もある。
「どうしよう?」と思ったところで、おしまい。

 やはりこういうときは、行動を開始するのが、いちばん!
悶々としていると、うつ状態になってしまう。
では、みなさん、今朝はここまで。
3月30日は、いつもとちがって始まった。

(補記)

フランソワーズ・サガン
『悲しみよこんにちは』
ウィキペディア百科事典より、転載。

『……ヒロインのセシルと鰥夫(やもめ)である父のレエモンはコート・ダジュールの別荘で夏を
過ごしていた。セシルは近くの別荘に滞在している大学生のシリルと恋仲になる。そんな彼ら
の別荘に亡き母の友人のアンヌがやってくる。アンヌは聡明で美しく、セシルもアンヌを慕う。だ
が、アンヌと父が再婚する気配を見せ始めると、アンヌは母親然としてセシルに勉強のことや
シリルのことについて厳しく接し始める。セシルは今までの父との気楽な生活が変わってしまっ
たり、父をアンヌに取られるのではないかという懸念に駆られ、アンヌに対して反感の気持ちを
抱くようになる。やがて、セシルは父とアンヌの再婚を阻止する計画を思いつき、シリルと父の
愛人だったエルザを巻き込んで実行に移すが…』(以上、ウィキペディア百科事典より)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●TOYOTA車は、宇宙船ではない!
Toyota Cars are not Spacecrafts!
Be ashamed, NHTSA!
Why NASA now?

++++++++++++++++++++

交通事故の95%は、運転手の操作ミスに
よるもの。
そのうちの何割かは、アクセルとブレーキの
不適切な操作によるもの。

ところで、こんな仰天ニュースが、読売
新聞に載っていた。
そのまま紹介させてもらう。

+++++++++++以下、読売新聞、2010−3−30日++++++++++

【ワシントン=岡田章裕】トヨタ自動車の車の急加速問題で、米航空宇宙局(NASA)と全米科
学アカデミー(NAS)が、米高速道路交通安全局(NHTSA)の要請を受けて事故原因の調査
に乗り出すことが30日、明らかになった。

 米ワシントン・ポスト紙が報じた。

 トヨタ車の急加速問題では、ラフード米運輸長官が2月に電子制御系の調査を数か月かけて
行う方針を表明したが、事故原因は特定されていない。放射線などが電子制御系に影響を与
えているとの見方もあり、NHTSAは両機関の協力を得てより科学的な調査を行う考えだ。

+++++++++++以上、読売新聞、2010−3−30日++++++++++

●悪玉づくり

 米高速道路交通安全局(NHTSA)は、何としても、TOYOTA車を、悪玉に仕立てあげたいら
しい。
つまり引くに引けなくなった。
そこで今度は、NASAに事故調査依頼をいたという。
「放射線などが電子制御系に影響を与えているとの見方もある」とか?

 ハア〜〜〜?

 電子制御装置を使用していない車など、いまどき、ない。
何らかの形で、使用している。
TOYOTA車だけが、電子制御装置を使用しているわけではない。
仮に放射線が電子制御装置に影響を与えるとするなら、すべての車に影響を与えるはず。
また与えるとしたら、平均して、すべての車に影響を与えるはず。
すべてのTOYOTA車に影響を与えるはず、でもよい。

 つまりすべてのTOYOTA車が、急加速現象を起こすはず。
そこでまたまた論理学の話。

●疑問

(1)「放射線が影響を与える」というのなら、(仮にそれがわかったとしても)、では、その放射
線とやらは、どこから発せられたのか。
そこまで解明しなければならない。
仮に宇宙からの放射線ということであれば、すべての車にまんべんなく、影響を与えるはず。
アメリカを走るTOYOTA車全体が、急加速現象を起こしてもおかしくない。

(2)この発想は、絶縁体をはがして、電線をショートさせてみた、どこかのアホ教授のそれと、
どこもちがわない。
「通常では起こりえない状態を人為的に作り、それでもって、急加速の原因」と。
もしこんな手法がまかり通るなら、あちこちの電線を切ってつないでみればよい。
それでおかしくならない車など、ない!
つまりバカげている。

(3)米航空宇宙局(NASA)と全米科学アカデミー(NAS)に、調査を依頼したとか?
TOYOTA車は、宇宙船ではない。
地上を走る車である。
素人の私でも、放射線が、(強弱の程度にもよるのだろうが)、電子制御装置に影響を与える
かもしれないという程度のことは、おおかた予想がつく。
もしそうなら、さらに宇宙線の影響を受けやすい、航空機はどうなのかという問題がある。
もし「YES」という結果が出たら、車の心配より、飛行機やミサイルの心配をしたほうがよい。

(4)仮に「YES」という調査結果が出たとしても、それでもって、急加速現象の証拠とはならな
い。
もしこんな論法がまかりとおるなら、この先、運転の操作ミスで事故を起こした人は、こぞって、
放射線影響説を唱えるようになるだろう。
「運転ミスではない」と。

●振り上げた拳(こぶし)

 調査が進むにつれて、話がおかしくなってきた。
米高速道路交通安全局(NHTSA)は、ふりあげた拳(こぶし)を、おろすにおろせなくなってし
まった。
そこで言うに事欠いて、今度は、NASAに調査依頼?

 バカげているというか、常軌を逸している。
もし米高速道路交通安全局(NHTSA)が調査すべきことがあるとするなら、両足を、アクセル
とブレーキにかけて走っているドライバーが、アメリカには、何%いるか、だ。
飲酒運転をしているドライバーの数や、携帯電話をかけながら走っているドライバーの数でも
よい。

 最後に、現在、TOYOTAのハイブリッド車は、全世界で、600万台以上も走っている。
そのうちの数百台に急加速現象が起きたという。
が、全体からみれば、1万分の1。
0・01%!
事故の95%は運転手の運転操作ミスという数字は、いったい、どうなるのか。
先にも書いたように、その大部分は、アクセルとブレーキの踏みまちがいによるもの。
アクセルとブレーキを踏みまちがえれば、どんな車だって、急加速する。

●放射線?

 それにしても、今度は、「放射線」というところがすごい!
先日も、TOYOTAのディーラーの人と話したが、この日本では、急加速問題は起きていないと
いう。
つまり放射線なるものは、どうして日本には降り注がないのか、そのあたりもきちんと証明しな
ければならない。
(あるいは大病院の放射線照射ルームの近くで、そういう事故が多発したというデータでもあれ
ば、話は別だが……。)

 また論理学の世界で考えるなら、「放射線が、電子制御装置に影響を与える」というだけで
は、十分ではない。
「ほかの車の電子制御装置が、なぜ影響を受けないか」ということまで証明して、はじめて十分
となる。
これ、称して、「必要十分条件」という。

●だいじょうぶか、アメリカ!

 私は、今度ほど、アメリカ人の脳みその程度を疑ったことはない。
また調査依頼を受けたNASAもNASA。
そのあたりの情報は、すでにもっているはず。
改めて調査するまでもなく、その情報を公開したらよい。

 なお私なら放射線より先に、たとえば静電気とか、稲妻とか、あるいは走行中の振動が与え
る影響について調べる。
ついでに肉食人種たちが出す、あの臭いおならでもよい。
さらに悪霊のたたりでもよい。
一度、そのあたりも、調査してみてほしい。

 NASAに調査依頼するよりは、スカリーとモウルダーに依頼したほうがよいのでは?
これぞまさしく、X−File!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 トヨタ車の急加速問題 米高速道路交通安全局(NHTSA) NASA 放射線の
影響 放射線と電子制御装置 宇宙線と電子制御装置 影響 TOYOTA ハイブリッド車)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

【児童心理・思いつくまま】(わんぱく少年+子どもの服従的態度)

●おとなしくなった男児

++++++++++++++++++

最近の子どもたち、とくに男児が、
おとなしすぎる。
柔和で、やさしく、覇気がない。
小学1〜2年生でも、いじめられて泣くのは
男児。
いじめるのは女児と決まっている。
こうした逆転現象(?)は、すでに15〜20
年以上も前から始まっている。
そうした傾向が、このところ、少子化の進行とともに、
さらに加速している。
今では、小学3、4年生でも、いじめられて
泣くのは男児。
いじめるのは女児と決まっている。

++++++++++++++++++

●わんぱく少年

私たちが子どものころには、わんぱく少年は
どこにでもいた。
私も、その1人だった。
乱暴で、喧嘩ばやかった。
しかしその半面、学校の「教室」という場では、
おとなしかった。

当時、近くの山をはさんで、山の反対側に住む
子どもたちと、戦争ごっこをよくした。
「ごっこ」というレベルを超えていたかもしれない。
はげしかった。
山の中で相手を見つけると、リンチをした。
私たちも、リンチされた。
私も一度、つかまってしまい、チxチxの先に、
かぶれの木の樹液を塗られたことがある。
あれをやられると、そのあと1週間ほど、
痛くて排尿がうまくできなくなる。

しかし学校という場では、おとなしかった。
私たちは「敵」と呼んでいたが、学校で
敵を見つけても、あいさつこそしなかったが、
たがいに知らぬ顔をして、その場をやり過ごした。

●荒れる教室

 つまり私たちが子どものころは、子どもが本来もつ
エネルギーを発散する場所を、別にもっていた。
私のばあい、「山」だった。
が、最近の子どもには、それがない。
家の中に閉じこもったまま。

 数年前のこと。
浜松の郊外、郊外といっても、山奥に近いが、そこで
講演をさせてもらったときのこと。
校長から、こんな話を聞いた。
「このあたりの子どもも、外で遊ばなくなりました」と。

 いろいろな調査結果を見ても、農村や山村地域の子どもの
ほうが、都会に住む子どもよりも、家の中にいる時間が長い。
理由は言わずと知れた、テレビゲーム、ゲーム機器。
つまりそれでは、エネルギーを発散できない。
そこでそのエネルギーを学校の教室という場で、
発散するようになった(?)。
つまり子どもたちを取り巻く環境が、質的に変化してきた。
それに並行して、少子化。
それぞれの子どもが、必要以上に、ていねいに(?)、
育てられるようになった。
とくに男児。

 言葉は悪いが、母親に(飼い殺されてしまっている)。
「飼いつぶされてしまっている」のほうが、よいかも
しれない。
過関心と過干渉。
それに溺愛と過保護。
今では昔風のわんぱくな男児というと、10人に
2〜3人程度しかいない(年長児)。
これとて多めにみた数字。

 こうして「荒れる教室」が生まれ、「女児化した
男児」が生まれた。
もっとも、ほかにもいろいろな見方があるだろうが、
ひとつの見方として、参考にしてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 わんぱく少年 男児の女児化 環境の質的な変化)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●服従的態度

+++++++++++++++++

だれかに服従して生きるというのは、
一見すると、「たいへんだな」と思う
人もいるかもしれない。
しかし実際には、楽。
何も考えなくてよい。

+++++++++++++++++

●リーダー不在

 良好な人間関係が結べない子どもは、(1)攻撃的態度、(2)依存的態度、(3)同情
的態度、それに(4)服従的態度のうちの、どれかをとることが知られている。
これらについては何度も書いてきたので、ここでは(4)の服従的態度について、考えて
みたい。

 つまりだれかに徹底的に服従することによって、自分の立場を確保しようとする。
よくあるケースが、親分・子分の関係。
思春期の子どもによく見られる現象である。

 ところで少し話が脱線するが、私たちが子どものころは、子どもたちが集まる場所では、
すぐこの親分・子分関係が生まれた。
私もずっと子分だったときがあり、それが終わると、今度は親分になった。
が、今は、それがない。

 すでに15年ほど前に書いた本の中で、私はこの問題を指摘した。
たとえば幼稚園の砂場でも、珍現象が起きていた。
40年前には、砂場でも、すぐ親分・子分関係が生まれ、リーダー格の子どもの指示に
従って、みなが動いた。
みなが力を合わせて、大きな山を作ったりした。
が、最近は砂場でも、子どもたちが互いに背を向けあいながら、それぞれがチマチマと、
勝手に遊んでいる。
こうした傾向は、さらに最近、強くなってきている。
「ぼくがリーダーだ」と声をあげる子どもが、いない。
その雰囲気さえ、ない。

 それはそれとして、服従的態度にも、さまざまな問題がある。

●カルト教団

 話は一足飛びに飛躍するが、世の中には、「カルト教団」と呼ばれる宗教団体が、数
多くある。
そういう教団の中では、信者たちは、それを意識することもなく、人間ロボットとして、
幹部の指導者の意のままに動いている。
一度、そういう信者の1人と、個人的に話したことがある。
(詳しくは私の書いた『ポケモンカルト』の中に収録。)

 私が「あなたは、だれかに操られていると思いませんか」と聞いたときのこと。
その信者は、こう答えた。
「私は自分の意思で動いています。
それに教祖様(=指導者)は、万巻の本を読んでおられます。
まちがっていません」と。
こうした盲目性が、カルト教団の信者の特徴のひとつということになる。

 が、同時に、そこは甘美な世界でもある。
教団を中心に、信者どうしが、兄弟以上の兄弟、親子以上の親子になったりする。
一瞬にして、孤独感が消える。
その魅力があるからこそ、信者は、その教団から離れることができない。
またそういう力を利用して、教団は、自らの勢力を拡大していく。
つまり信者は徹底した服従を誓うことによって、自らの立場を確保していく。

 私の知っているK教団では、信仰年数によって、序列が決まる。
当然「信仰年数」が長い信者ほど、立場が上。
だから50歳くらいの信者が、30歳くらいの信者に頭をさげたりする。
そういう光景をよく目撃する。

 しかし子どもの世界では、この服従的態度は、心理的な発育ということを考えると、
好ましくない。

●自己の同一性(アイデンティティ)

 「自分はこうありたい」「こうしたい」という(自己概念)。
「私は、今、こうだ」「現実に、こうしている」という(現実自己)。
この2つが一致した状態を、「自己の同一性」という。

 思春期前夜から思春期にかけて、子どもは、この自己の同一性を確立する。
またそれができるよう、周囲の者(教師や親)は、子どもを声援し、見守らなければ
ならない。
が、そうした確立が軟弱なまま、思春期を過ごしてしまう子どもも多い。
その原因のひとつとして、服従的態度がある。

 もっとも服従することが、すべてまちがっているわけではない。
それによって、そのノウハウが蓄積され、今度はそれが親分(リーダー)としての素質に
つながっていくこともある。
先に、私は子分時代を経て、親分になったと書いた。
具体的には、幼稚園へ通っているころは、ずっと子分だった。
小学2、3年生になって、親分になった。
現在、そのころの経験が、自分の仕事(=幼児教室)で、役に立っている。

 が、一方的に服従する。
言われたまま行動する……というよりは、自分でものを考えない。
自分がどうあるべきかも、考えない。
こうした姿勢が一度身につくと、ここに書いた、自己の同一性の確立がおぼつかなくなる。
自分が何をしたいのか、何をすべきなのかも、わからなくなる。
ついで、何をしてはいけないのかもわからなくなる。
これはよくない。
「危険な態度」と断言してもよい。

 そのため思春期の服従的態度は、えてして非行、犯罪行為につながりやすい。
またそういう集団を組みやすくなる。
それを避けるためには、どうするか。

 要するに、(自分で考え)、(自分で行動し)、(自分で責任を取る)という、「自由の
3原則」を、子育てに生かす。
これについては、たびたび書いてきたので、ここに、その原稿をさがして添付する。

+++++++++++++

子育て自由論。

+++++++++++++

●自由

 自由のもともとの意味は、「自らに由(よ)る」、あるいは、「自らに由らせる」という意味であ
る。

 この自由には、3つの柱がある。(1)まず自分で考えさせること。(2)自分で行動させること。
(3)自分で責任を取らせること。

(1)まず自分で考えさせること……日本人は、どうしても子どもを「下」に見る傾向が強いの
で、「〜〜しなさい」「〜〜してはダメ」式の命令口調が多くなる。しかしこういう言い方は、子ど
もを手っ取り早く指導するには、たいへん効果的だが、しかしその一方で、子どもから考える力
を奪う。そういうときは、こう言いかえる。「あなたはどう思うの?」「あなたは何をしたいの?」
「あなたは何をしてほしいの?」「あなたは今、どうすべきなの?」と。時間は、ずっとかかるよう
になるが、子どもが何かを言うまでじっと待つ。その姿勢が、子どもを考える子どもにする。

(2)自分で行動させること……行動させない親の典型が、過保護ママということになる。しかし
過保護といっても、いろいろある。食事面で過保護になるケース。運動面で過保護になるケー
スなど。親はそれぞれの思い(心配)があって、子どもを過保護にする。しかし何が悪いかとい
って、子どもを精神面で過保護にするケース。子どもは俗にいう「温室育ち」になり、「外の世界
へ出すと、すぐ風邪をひく」。たとえばブランコを横取りされても、メソメソするだけで、それに対
処できないなど。

(3)自分で責任を取らせること……もしあなたの子どもが、寝る直前になって、「ママ、明日の
宿題をやっていない……」と言い出したとしたら、あなたはどうするだろうか。子どもを起こし、
いっしょに宿題を片づけてやるだろうか。それとも、「あなたが悪い。さっさと寝て、明日先生に
叱られてきなさい」と言うだろうか。もちろんその中間のケースもあり、宿題といっても、いろい
ろな宿題がある。しかし子どもに責任を取らせるという意味では、後者の母親のほうが、望まし
い。日本人は、元来、責任ということに甘い民族である。ことを荒だてるより、ものごとをナーナ
ーですまそうとする。こうした民族性が、子育てにも反映されている。

 子育ての目標は、「よき家庭人として、子どもを自立させる」こと。すべてはこの一点に集中す
る。そのためには、子どもを自由にする。よく「自由」というと、子どもに好き勝手なことをさせる
ことと誤解する人もいるが、それは誤解。誤解であることがわかってもらえれば、それでよい。
(01−11−7)

● 子どもは自由にして育てよう。
● 子育ての目標は、子どもをよき家庭人として、自立させること。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子育て自由論 自由 自らに由る 自らに由らせる。)

+++++++++++++++++

が、過関心、過干渉が日常化すると、
子どもは自立できなくなってしまう。
もちろん人格の核(コア)形成も遅れる。
それについて、つぎのような原稿を
書いたことがある。

+++++++++++++++++

【子どもの人格】

●幼児性の残った子ども

++++++++++++++++

人格の核形成が遅れ、その年齢に
ふさわしい人格の発達が見られない。

全体として、しぐさ、動作が、
幼稚ぽい。子どもぽい。

そういう子どもは、少なくない。

++++++++++++++++

 「幼稚」という言い方には、語弊がある。たとえば幼稚園児イコール、幼稚ぽいという
ことではない。幼稚園児でも、人格の完成度が高く、はっと驚くような子どもは、いくら
でもいる。

 が、その一方で、そうでない子どもも、少なくない。こうした(差)は、小学1、2年
生ごろになると、はっきりとしてくる。その年齢のほかの子どもに比べて、人格の核形成
が遅れ、乳幼児期の幼児性をそのまま持続してしまう。特徴としては、つぎのようなもの
がある。

(1) 独特の幼児ぽい動作や言動。
(2) 無責任で無秩序な行動や言動。
(3) しまりのない生活態度。
(4) 自己管理能力の欠落。
(5) 現実検証能力の欠落。

 わかりやすく言えば、(すべきこと)と、(してはいけないこと)の判断が、そのつど、
できない。自分の行動を律することができず、状況に応じて、安易に周囲に迎合してしま
う。

 原因の多くは、家庭での親の育児姿勢にあると考えてよい。でき愛と過干渉、過保護と
過関心など。そのときどきにおいて変化する、一貫性のない親の育児姿勢が、子どもの人
格の核形成を遅らせる。

 「人格の核形成」という言葉は、私が使い始めた言葉である。「この子は、こういう子ど
も」という(つかみどころ)を「核」と呼んでいる。人格の核形成の進んでいる子どもは、
YES・NOがはっきりしている。そうでない子どもは、優柔不断。そのときどきの雰囲
気に流されて、周囲に迎合しやすくなる。

 そこであなたの子どもは、どうか?

【人格の完成度の高い子ども】

○同年齢の子どもにくらべて、年上に見える。
○自己管理能力にすぐれ、自分の行動を正しく律することができる。
○YES・NOをはっきりと言い、それに従って行動できる。
○ハキハキとしていて、いつも目的をもって行動できる。

【人格の完成度の低い子ども】

○同年齢の子どもにくらべて、幼児性が強く残っている。
○自己管理能力が弱く、その場の雰囲気に流されて行動しやすい。
○優柔不断で、何を考えているかわからないところがある。
○グズグズすることが多く、ダラダラと時間を過ごすことが多い。

 では、どうするか?

 子どもの人格の核形成をうながすためには、つぎの3つの方法がある。

(1) まず子どもを、子どもではなく、1人の人間として、その人格を認める。
(2) 親の育児姿勢に一貫性をもたせる。
(3) 『自らに由(よ)らせる』という意味での、子育て自由論を大切にする。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 以上、子どもの服従的態度について考えてみた。
古来より日本では、「親や先生の指示に、ハイハイと従う子どもほど、いい子」と
考える。
またそれを教育の目標にしてきた。
しかしそういう子どもほど、あとあと心配。
子ども自身も、「私探し」に苦労する。

 要するに、おとなしく覇気がないというのは、子ども本来のあるべき姿ではない。
アメリカでは、このタイプの子どもを、「問題児」として位置づけている。
そういうことも考えながら、子どもの服従的態度を、改めて見なおしてみてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 服従的態度 自由の3原則 三原則 問題児 育児姿勢)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●TOYOTA車は、宇宙船ではない!(Re-written on April 1st)
(改作・10−04−01)
Toyota Cars are not Spacecrafts!
Be ashamed, NHTSA!
Why NASA now?

(2日前の3月30日に書いた、「TOYOTA車は、宇宙線ではない」の
原稿が、あちこちのサイトで紹介され、今までにない波紋を広げている。
その原稿を補足してみる。)
2010年4月1日。

++++++++++++++++++++

交通事故の95%は、運転手の操作ミスに
よるもの。
そのうちの何割かは、アクセルとブレーキの
不適切な操作によるもの。

ところで、こんな仰天ニュースが、読売
新聞に載っていた。
そのまま紹介させてもらう。

+++++++++++以下、読売新聞、2010−3−30日++++++++++

【ワシントン=岡田章裕】トヨタ自動車の車の急加速問題で、米航空宇宙局(NASA)と全米科
学アカデミー(NAS)が、米高速道路交通安全局(NHTSA)の要請を受けて事故原因の調査
に乗り出すことが30日、明らかになった。

 米ワシントン・ポスト紙が報じた。

 トヨタ車の急加速問題では、ラフード米運輸長官が2月に電子制御系の調査を数か月かけて
行う方針を表明したが、事故原因は特定されていない。放射線などが電子制御系に影響を与
えているとの見方もあり、NHTSAは両機関の協力を得てより科学的な調査を行う考えだ。

+++++++++++以上、読売新聞、2010−3−30日++++++++++

●悪玉づくり

 米高速道路交通安全局(NHTSA)は、何としても、TOYOTA車を、悪玉に仕立てあげたいら
しい。
つまり引くに引けなくなった。
そこで今度は、NASAに事故調査依頼をいたという。
「放射線などが電子制御系に影響を与えているとの見方もある」とか?

 ハア〜〜〜?

 電子制御装置を使用していない車など、いまどき、ない。
何らかの形で、使用している。
TOYOTA車だけが、電子制御装置を使用しているわけではない。
仮に放射線が電子制御装置に影響を与えるとするなら、すべての車に影響を与えるはず。
また与えるとしたら、平均して、すべての車に影響を与えるはず。
すべてのTOYOTA車に影響を与えるはず、でもよい。

 つまりすべてのTOYOTA車が、急加速現象を起こすはず。
そこでまたまた論理学の話。

●疑問

(1)「放射線が影響を与える」というのなら、(仮にそれがわかったとしても)、では、その放射
線とやらは、どこから発せられたのか。
そこまで解明しなければならない。
仮に宇宙からの放射線ということであれば、すべての車にまんべんなく、影響を与えるはず。
アメリカを走るTOYOTA車全体が、急加速現象を起こしてもおかしくない。

(2)この発想は、絶縁体をはがして、電線をショートさせてみた、どこかのアホ教授のそれと、
どこもちがわない。
「通常では起こりえない状態を人為的に作り、それでもって、急加速の原因」と。
もしこんな手法がまかり通るなら、あちこちの電線を切ってつないでみればよい。
それでおかしくならない車など、ない!
つまりバカげている。

(3)米航空宇宙局(NASA)と全米科学アカデミー(NAS)に、調査を依頼したとか?
TOYOTA車は、宇宙船ではない。
地上を走る車である。
素人の私でも、放射線が、(強弱の程度にもよるのだろうが)、電子制御装置に影響を与える
かもしれないという程度のことは、おおかた予想がつく。
もしそうなら、さらに宇宙線の影響を受けやすい、航空機はどうなのかという問題がある。
もし「YES」という結果が出たら、車の心配より、飛行機やミサイルの心配をしたほうがよい。

(4)仮に「YES」という調査結果が出たとしても、それでもって、急加速現象の証拠とはならな
い。
もしこんな論法がまかりとおるなら、この先、運転の操作ミスで事故を起こした人は、こぞって、
放射線影響説を唱えるようになるだろう。
「運転ミスではない」と。

●論理学(必要・十分条件)

 もう一度、論理学の世界で、この問題を考えてみたい。
つぎの問題を考えてみてほしい。

【問】

 ここに4枚のカードがある。
表には、(△)か(□)が描いてある。
『表が(△)のときは、裏には赤の(●)が、かならず描いてある』。
このことが正しいことを証明するために、あなたはつぎの4枚のカードのうち、
どれをめくってみるか。

1枚目……(△) 
2枚目……(□) 
3枚目……赤の(●) 
4枚目……青の(●)

 単純に考えれば、1枚目と3枚目をめくればよいということになる。
1枚目をめくってみて、赤の(●)。
3枚目をめくってみて、(△)。

 しかしこれでは先の命題を、正しいと証明したことにはならない。
1枚目をめくったとき、裏に赤の(●)があれば、命題の条件に合致する。
3枚目の赤の(●)をめくってみたときも、そうだ。
表に(△)があれば、命題の条件に合致する。
が、これでは十分ではない。
だからといって、「(△)のカードの裏は、赤の(●)」ということが、証明された
わけではない。
つまり先の命題が、正しいことを証明したことにはならない。

 この命題が正しいと証明するためには、この命題はまちがっていない
ことを明らかにしなければならない。
が、その前に書いておかねばならない。
3枚目は、めくっても意味はない。 
仮に3枚目をめくったとき、表に(△)が描いてなくても、(つまり(□)で
あったとしても)、この命題の証明には、影響を与えない。

 では、どれをめくればよいのか。

 1枚目をめくって、赤の(●)が出てくることは、命題の証明には必要。
しかし十分ではない。
そこでこの命題はまちがっていないことを証明しなければならない。
それを決定するのは、4枚目のカードということになる。
4枚目は青の(●)。
もしこのカードをめくってみて、(△)が出てこなければ、この命題はまちがって
いることになる。
そこで4枚目をめくってみる。
表に(△)が出てくる。
この段階ではじめて、命題は、まちがっていないということになる。

 これが「論理」である。

●必要・十分

 話を戻す。

 「放射線が、TOYOTAの車の電子機器に影響を与える」ことを証明するためには、
TOYOTAの車に、放射線を照射して、不具合を起こすだけでは足りない。
「必要な実験」かもしれないが、「十分」ではない。
ほかのメーカーの車にも、照射してみなければならない。
つまり「ほかの車では、何ともなかった」ということを証明しなければならない。
(いまどき何らかの形で、電子機器を搭載していない車は、ない。)

さらに、もし放射線が原因であるとするなら、(放射線というのは、すべてのTOYOTA
車に、まんべんなく降り注いでいるものだから)、「なぜ特定の車だけに、影響が出たのか」
も証明しなければならない。
まだある。
「どうしてアメリカのTOYOTA車だけに、集中的に影響を与えたか」についても、
証明しなければならない。
そこまで証明して、はじめて、「十分」となる。

 また仮に放射線が原因であったとしても、そこまで予測可能であったかという問題も残る。
私もコンピュータを使うようになって、すでに35年になる。
コモドール社のPETの時代から、使っている。
が、今にいたるまで、一度だって、「放射線の影響」など、考えたこともない。
パソコン雑誌を書かさず読んでいるが、それが話題になった記事を見たこともない。

 「放射線」という言葉は、いったい、どこから出てきたのか?

●振り上げた拳(こぶし)

 調査が進むにつれて、話がおかしくなってきた。
米高速道路交通安全局(NHTSA)は、ふりあげた拳(こぶし)を、おろすにおろせなくなってし
まった。
そこで言うに事欠いて、今度は、NASAに調査依頼?

 バカげているというか、常軌を逸している。
もし米高速道路交通安全局(NHTSA)が調査すべきことがあるとするなら、両足を、アクセル
とブレーキにかけて走っているドライバーが、アメリカには、何%いるか、だ。
飲酒運転をしているドライバーの数や、携帯電話をかけながら走っているドライバーの数でも
よい。

 最後に、現在、TOYOTAのハイブリッド車は、アメリカだけで、600万台以上も走っている。
そのうちの数百台に急加速現象が起きたという。
が、全体からみれば、1万分の1。
0・01%!

事故の95%は運転手の運転操作ミスという数字は、いったい、どうなるのか。
先にも書いたように、その大部分は、アクセルとブレーキの踏みまちがいによるもの。
アクセルとブレーキを踏みまちがえれば、どんな車だって、急加速する。

●統計的調査(補足)

 ここで私は、冗談ぽく、「両足を、アクセルとブレーキにかけて走っているドライバーが、アメリ
カには、何%いるか」を調べたらよいと書いた。
しかしこれは冗談ではない。

 たまたま昨日も、近くのTOYOTAの販売会社のディーラーの人と話した。
その人(50歳くらい)も、こう言っていた。
「アクセルとブレーキを同時に踏んで運転するなどということは、日本では考えられない」と。
つまり車の運転の仕方が、日本とアメリカとでは、ちがうらしい、と。

 そこでこんなことを調査してみたらどうだろう。

(1)両足を乗せて運転する人の割合(%)と、急加速問題が起きた割合(%)。

 たとえばA国では、両足を乗せて運転する人が、10%いたとする。
そしてそのA国では、TOYOTA車につき、100件の急加速現象が起きたとする。
割合が、全体の、0・01%だったとする。

これが基礎データ。

 つぎにB国について調べる。
B国では、両足を乗せて運転する人が、5%いたとする(A国の10%の半分)。
同じようにB国でも急加速現象が起きたとする。
そのときその割合が、0・01÷2(半分)=0・005%と同じか、かぎりなくその数値に近けれ
ば、急加速現象は、TOYOTA車の欠陥ではなく、運転の仕方に原因があるということになる。

 同じように、(2)TOYOTA車における、運転操作ミスによる交通事故の割合(%)と、ほかの
メーカーにおける、運転操作ミスによる交通事故の割合(%)でもよい。

●車の欠陥

 交通事故の95%は、ドライバーの運転操作ミスによるものだという(米高速道路交通安全局
(NHTSA))。
残りの5%が、車の欠陥によるものということになる。

 そこで改めて数字を拾ってみる。

 現在、アメリカでは、600万台のTOYOTAのハイブリッド車が走っている。
うち数百台が急加速現象を起こし、事故につながった可能性があるという(米高速道路交通安
全局(NHTSA))。
仮に600台としても、0・01%。

 もし私が米高速道路交通安全局(NHTSA)の幹部なら、TOYOTAの車を問題にする前に、
車の車検制度を考える。
私の二男もアメリカで学生をしているころ、車を買った。
が、ドアを満足に開けることさえできなかった。
そういう日本では考えられないような車が、アメリカでは、平気で走っている。
どうしてそういうことを、問題にしないのか。

 さらにドライバーの教育問題もある。
アメリカでは、高校生のとき、授業のひとつとして、運転教習を受け、免許を手にしている。
どういう教習をしているのかは知らないが、そのあたりにまで一度、メスを入れてみる必要があ
るのでは?

●放射線?

 それにしても、今度は、「放射線」というところがすごい!
その少し前にも、TOYOTAのディーラーの人と話したが、この日本では、急加速問題は起きて
いないという。
(このところ車の買い換えもあって、たびたびTOYOTAの販売会社に、足を運んでいる。)

つまり放射線なるものは、どうして日本には降り注がないのか、そのあたりもきちんと証明しな
ければならない。
(あるいは大病院の放射線照射ルームの近くで、そういう事故が多発したというデータでもあれ
ば、話は別だが……。)

 また論理学の世界で考えるなら、先にも書いたように、「放射線が、電子制御装置に影響を
与える」というだけでは、十分ではない。
「ほかの車の電子制御装置が、なぜ影響を受けないか」ということまで証明して、はじめて十分
となる。
これ、称して、「必要・十分条件」という。
(私たちが子どものころは、こんなことは、中学校で学んだぞ!)

●だいじょうぶか、アメリカ!

 私は、今度ほど、アメリカ人の脳みその程度を疑ったことはない。
また調査依頼を受けたNASAもNASA。
そのあたりの情報は、すでにもっているはず。
改めて調査するまでもなく、その情報を公開したらよい。

 なお私なら放射線より先に、たとえば静電気とか、稲妻とか、あるいは走行中の振動が与え
る影響について調べる。
ついでに肉食人種たちが出す、あの臭いおならでもよい。
さらに悪霊のたたりでもよい。
一度、そのあたりも、調査してみてほしい。

 NASAに調査依頼するよりは、スカリーとモウルダーに依頼したほうがよいのでは?
これぞまさしく、X−File!

 ……というのは、少し書き過ぎということはわかっている。
先に「どこかのアホ教授」とも書いた。
しかしアホはアホ。
そういう常識では考えられないような実験を真に受け、それでもって、「急加速現象が証明でき
た」とした、米高速道路交通安全局(NHTSA)も、アホ。
まともに相手にするのもバカバカしいほど、常識をはずれている。
だから「アホ」と書いてしまう。
言葉は汚いが、私はそれ以外の言葉を思いつかない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 トヨタ車の急加速問題 米高速道路交通安全局(NHTSA) NASA 放射線の
影響 放射線と電子制御装置 宇宙線と電子制御装置 影響 TOYOTA ハイブリッド車)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●『許して忘れる』と、その限界
Beyond the words, "Forgive and Forget"
++++++++++++++++

『許して忘れる』は、生きる原則。
しかしその『許して忘れる』にも、限界がある。
他者に向かう(怒り)は、これは許して、
忘れることができる。
For・give&For・get。
「相手に愛を与えるために許し、相手から愛を
得るために忘れる」。

しかし自分に向かう(怒り)はどうか。
許して忘れることは可能なのか。
いくつかのケースを並べて、考えて
みたい。

++++++++++++++++

【ケース1】

 何かの失敗をして、自分の人生をメチャメチャにしてしまうということは、よくある。
私のことではない。
マスコミをにぎわす事件として、よくある。
どこかの学者は、手鏡で若い女性のスカートの中をのぞいて、自分の人生をメチャメチャにし
てしまった。
地位も名誉も失った。

 仮に私がその学者なら、(怒り)は、まっさきに自分に向かう。
「何というバカなことをしてしまったのだろう」と。
(あるいは「何と運が悪かったのだろう」と思うかもしれないが……。)

 しかしこのばあい、(怒り)そのものも、それほど強くないはず。
その学者は、自分でしたいことをしただけ。
欲望の奴隷となり、欲望を抑えることができなかっただけ。
言うなれば債権投資で、大金を失ったようなもの。
だから逮捕され、職を追われたとしても、「損をした」と後悔することはあるだろう。
しかし(怒り)が、自分に向かうことはない。
だから(自分を許す)ということ自体、ないとは言わないが、その衝撃は小さい。

【ケース2】

 ある宗教教団では、輸血そのものを禁止している。
「禁止」という言葉は使っていないが、私が電話で問い合わせると、こう教えてくれた。
「禁止はしていません。しかし熱心な信者なら、自ら、輸血を拒否するでしょう」と。
実に巧妙な言い方である。

 で、その結果、交通事故にあった、自分の子どもが死んでしまったとする。
私の子どもでもよいし、あなたの子どもでもよい。
輸血を適切にしていれば、助かったかもしれない。
で、それから何年かたった。
その人は、信仰をやめ、その宗教団体から抜けた。
そのとき、その人は、(私やあなたでもよいが)、どう考えるだろうか。
自分の愚かさを恥じ、悩み苦しむだろうか。

 あくまでもこれは私の想像だが、その人は、自分に向かう(怒り)に苦しむことになる。
「何と、バカなことをしてしまったのだろう」と。

 このばあい、果たして、『許して忘れる』ことは、可能だろうか。
「私もだまされていました」と、忘れることはできるだろうか。
もちろん教団に責任を求めることはできない。
教団は、輸血を禁止していたわけではない。

 私がその人なら、生涯にわたって、もがき苦しむことになるだろう。
つまり自分を、許して忘れることはできない。

(実際には、こういうケースのばあい、そういう信者は、ますます信仰にのめり込んでいく。
まちがいを認めることは、そのまま自己否定につながる。
「自分の子どもを殺してしまった」という苦しみに耐えられる親は、いない。)

【ケース3】

 過保護や過干渉、過関心で、子どもをダメに(?)にしていく親は多い。
過負担、過剰期待でもよい。

 ある子どもは猛烈な受験競争の結果、何とか、市内でもいちばんという、進学高校に入学し
た。
それまで毎晩のように、母親とその子どもの間で、「勉強しなさい」「うるさい」の大げんかがつ
づいた。
しかし入学したとたん、バーントアウト。
燃え尽きてしまった。
無気力から怠学となり、前期も終わるころには、不登校を繰り返すようになってしまった。
病院で診察を受けると、うつ病と診断された。

 こういうケースのばあい、その母親が、自分に対して(怒り)を覚えることは、まずない。
それ以前の問題として、罪の意識そのものがない。
「私はまちがったことをした」という自覚そのものがない。
むしろこう考える。
「私は子どものために、必要なことをしただけ」と。

 その母親が自責の念にかられるためには、(まちがったことをした)という、客観的な自覚が
なければならない。
それを知るためには、母親自身が賢くなり、自分の過ちに気がつかなければならない。
しかしほとんどのばあい、それは期待できない。
へたをすれば、「なぜあなたはそうなってしまったの!」と、子どもを責めつづけるかもしれな
い。
つまり(怒り)が、自分に向かうということはない。

【ケース4】
 
 つまらない結婚、つまらない子育てをし、その結果、自分の人生を棒に振ってしまったと感じ
たときは、どうだろうか。
数日前も、どこかのBLOGに、こんな書き込みがしてあった。
記憶によるものなので、内容は正確ではないが、こういう内容だった。

 つまりその女性(50歳くらい)は、毎日のように夫に向かって、「人生を返せ!」「青春を返
せ!」と、怒鳴り散らしているという。
はげしい文句が並べてあった。

 こういうケースは少なくない。
私も身近の人で、妻が夫にそう言っているという話を聞いたことがある。

こういうケースのばあい、自分に対する(怒り)を、相手である夫にぶつけているというふうに解
釈できる。
不本意な結婚した自分を責めるあまり、それを夫のせいにして、夫を責める。

結婚したことを後悔しているというより、気がついてみたら、人生も終わっていた。
鏡に映るのは、すでに老人顔。
息子や娘たちからは、「バーさん」と言われ、相手にされない。
「私の人生は何だったの!」と叫んだとたん、(怒り)がこだまのように、はね返ってくる。
その(怒り)が、そこにいる夫に向かう。

 で、『許して忘れる』ということになる。
が、それは果たして可能なのか。
まただれを許し、だれを忘れればよいのか。

 このばあいでも、(怒り)が自分に向かっている間は、『許して忘れる』は、できないということ
になる。
夫にしても、手のほどこしようがない。

【ケース5】

 こうして考えてみると、他者を『許して忘れる』ことはできても、(それも難しいことだが)、自分
を『許して忘れる』ということは、ほぼ不可能と断言してよい。
私も、数年前、こういうことがあった。

 私は1人の知人にだまされて、ほとんど価値のない山林を買ってしまった。
俗に言う「山師」だった。
で、それから30年以上。
いつまでももっていても仕方ないということで、その山林を売りに出そうとした。
しかし住宅地とちがって、山林には、そうした土地を売買するしくみそのものがない。
そこで私は新聞に、折り込み広告を入れた。
反応がまったくなかったので、私はそれを6回、つづけて出した。

 が、それがその知人の逆鱗に触れた。
「オレに恥をかかせた」ということになったらしい。
で、結局、その山林は、買ったときの値段の10分の1程度で、地元の別の人が買ってくれた。
が、以来、私の方が悪者になってしまった。
(しかし、どうしてこの私が悪者なのか?)

 こういうケースのばあい、(怒り)は、私のばあいは、自分に向かう。
私は完全な、自責型人間。
私をだました知人に、(怒り)が向かうのではなく、「愚かだった」ということで、自分に向かった。
「もっと調べて買うべきだった」とか、「親しいからといって、信用した私がバカだった」と。
 
 で、やはりここでも、『許して忘れる』という問題がたちはだかる。
自分を許し、忘れることはできるのか、と。
が、答は「NO!」。
今でも心のどこかに、悶々とした燃えかすのようなものが、くすぶりつづけている。
それがその答ということになる。

●結論

 『許して忘れる』……、つまり、それによって「愛」の深さが決まる。
その度量の深さが、愛の深さということになる。

 しかしそれにはいくつかの条件がある。

 その第一は、ここにも書いてきたように、「他者」が、そこにいること。
相手が(自分)では、どうしようもない。
とくにそこに自分の愚かさがからむときは、そうである。
ここにも書いたように、いつ晴れるともなく、悶々とした燃えかすのようなものが残る。

 さらに言えば、「他者」といっても、それにふさわしい他者でなければならないということ。
相手が「山師」のような人間では、そもそも「許す」という対象にならない。
「相手にした私が愚かだった」ということになる。

 ……ということで、(ケース1)から(ケース5)まで、いろいろな場面を想定して、『許して忘れ
る』の限界について、考えてみた。
この言葉を宗教的に解釈する人たちは、たぶん、こう言うだろう。
「それでも、許して忘れなさい。その向こうに愛があり、真理が隠されています」と。

 しかし私には、その度量はない。
ごくふつうの、平凡な男である。
だからその限界を乗り越えることはできない。
それがここでいう「許して忘れるの限界」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 許して忘れる 許して忘れろ 許して忘れるの限界 愛の限界 はやし浩司 愛
の限界論 自責 他者を許す 自分を許す)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

【心のメカニズム】(脳内ホルモン支配説)

●扁桃核(扁桃体) 

+++++++++++++++++

脳の辺縁系の中に、扁桃核(扁桃体)
という組織がある。
調べれば調べるほど、(私のばあい、
「聞けば聞くほど」ということになるが)、
不思議な組織である。

私たちが「人間性」と呼んでいる部分は、
どうやらこの扁桃核が司っているらしい。
「人間性」イコール、「心」と考えてもよい。
そんなことが、近年、少しずつわかってきた。

+++++++++++++++++

●扁桃核

 扁桃核(扁桃体ともいう)については、たびたび書いてきた。
たった今、グーグルの検索エンジンを使って、「はやし浩司 
扁桃核」で検索してみたら、504件、
「はやし浩司 扁桃体」で、602件、ヒットした。

 その扁桃核について、こんな記事が載っていた。
2007年に中日新聞に載っていた記事である。
当時書いた原稿の一部を、そのまま紹介する。

++++++++++++++++++++

こんな興味ある研究結果が公表されたので、
ここに紹介する。

「いじめは、立派な傷害罪」という内容の
記事である。

++++++++++++++++++++

 東北大学名誉教授の松沢大樹(80)氏によれば、「すべての精神疾患は、脳内の扁桃核
に生ずる傷によって起きる」と結論づけている。

 松沢氏によれば、「深刻ないじめによっても、子どもたちの扁桃核に傷は生じている」と。

 傷といっても、本物の傷。最近は、脳の奥深くを、MRI(磁気共鳴断層撮影)や、P
ET(ポジトロン断層撮影)などで、映像化して調べることができる。実際、その(傷)
が、こうした機器を使って、撮影されている。

 中日新聞の記事をそのまま紹介する(07年3月18日)。

 『扁桃核に傷がつくと、愛が憎しみに変わる。さらに記憶認識系、意志行動系など、お
よそ心身のあらゆることに影響を与える。……松沢氏は、念を押すように繰りかえした。『い
じめは、脳を壊す。だからいじめは犯罪行為、れっきとした傷害罪なんです』と。

 今、(心)そのものが、大脳生理学の分野で解明されようよしている。

+++++++++++++++++++++++

 これだけでも扁桃核が、重大な組織であることがわかる。
この扁桃核が、大脳皮質部からの信号を受けて、エンドロフィン系、エンケファリン系のモルヒ
ネ様のホルモンを分泌する。
それが脳内を甘い陶酔感で満たす。
何かよいことをすると、気持ちがよくなる。
そういった現象は、この扁桃核の機能によって、引き起こされる。

 が、その扁桃核は、かなりデリケートな組織らしい。
もろく、傷つきやすい。
それを東北大学名誉教授の松沢氏が、科学的に証明した。

 言い換えると、子育てをする上において、扁桃核に悪影響を与えるような環境や
行為は、タブー中のタブーということになる。
万が一、扁桃核に傷をつけるようなことがあると、その子どもの人間性そのものに大きな影響
を与えることになる。

●心の傷

 では、「心の傷」とは何かということになる。
それについては、まさに千差万別。
定型がない。
つまり症状には、定型がない。
どこに傷がついたかによっても、ちがう。
ひがみやすい、ひねくれやすい、いじけやすい……などの性格的症状に始まって、
さまざまな身体的症状や精神的となって現れることもある。
最近の研究によれば、うつ病の「種」すらも、乳幼児期に作られるということまで
わかってきた。

 ともかくも、扁桃核に傷がついたばあい、「心」、つまり、「人間性」に影響を与える
ことになる。
「あの人は、心の温かい人だ」「冷たい人だ」というときの、(温もり)を決定する。

++++++++++++++++++++

九州大学の吉田敬子氏は、つぎのように説く。
母子の間の基本的信頼関係の構築に失敗すると、
子どもは、『母親から保護される価値のない、
自信のない自己像』(九州大学・吉田敬子・
母子保健情報54・06年11月)と。

さらに、心の病気、たとえば慢性的な抑うつ感、
強迫性障害、不安障害の(種)になることもあるという。
それが成人してから、うつ病につながっていく、と。

++++++++++++++++++++

●子どもの世界

 ほかにもいろいろある。
そのことは、子どもたちの世界を見ていると、よくわかる。
というのも、子どもはおとなとちがい、ありのままの姿を、外に表現する。
隠すということをしない。
だからよくわかる。

 言い換えると、子どもにとって望ましい環境で、心安らかに育てられた子どもは、
共通した性格、性質を示す。
穏やかで、やさしく、表情も豊かで、心が静かに落ち着いている。
もちろんそれ以前の問題として、何らかの障害をもった子どもは別だが、ともかくも、
ほっとした温もりを感ずる。
が、そうでない子どもは、そうでない。

親にようる虐待、無視、冷淡、拒否的態度、暴力など。
こうした衝撃が日常的に繰り返されたりすると、子どもの心には大きな影響を与える。
たった一度でも、それが強烈だと、子どもの心をゆがめることがある。
どこかに不自然さや、違和感を覚えたりする。

 何かあると、つっぱってしまう。
ひがみやすく、いじけやすい。
嫉妬深く、根に持ちやすく、いつまでもこだわる。
ちょっとしたことで、別人格になってしまう、など。それが「心の傷」ということになる。
私が直接経験した例を、いくつか、あげてみる。

●症例

 ある女の子(当時2歳)は、何かのことで母親に強く叱られた。
あとで母親は、こう言った。
「それまではほとんど叱ったことのない子でした。
しかしその日だけは、私のほうがおかしかったかもしれません」と。
ともかくもその日を境に、その女の子は、1人2役の、(ときには、3役、4役の)、
独り言を言うようになってしまった。
「まったく別人のように、たがいに会話をするので、不気味です」と。

 また別の男の子は、4歳くらいのときに、風呂に水を入れて遊んでいた。
(風呂は2階にあった。)
その水があふれて、2階から1階を、水びたしにしてしまった。
それを見た祖父が激怒。
その子どもを激しく叱った。
以後、その子どもは、ニタニタと意味のわからない笑みを浮かべるようになって
しまった。
病院へ連れていくと、「自閉症」と診断された(当時)。

 先にも書いたように、心の傷というのは、症状は多岐に渡る。

(1)性格的症状(性格から、(すなおさ)が消える)。
(2)身体的症状(さまざまな身体的変調が現われる)。
(3)精神的症状(精神不安、恐怖症、神経症、パニック障害など)。

 傷という(損傷)が、脳のどこにつくかによって、異なる。
扁桃核のばあい、その子ども(人)の人間性にまで、影響を与える。
他者との共鳴性の欠落、自己中心性、無表情、無感動、無反応など。
わかりやすく言えば、心の温もりが消える。
 
●私たちの問題

 が、この問題は、即、私たち自身の問題として、はね返ってくる。
私はどうなのか?
あなたはどうなのか?、と。
というのも、心の傷のない人のほうが、少ない。
程度の差こそあれ、みな、もっている。
それが扁桃核によるものなら、なおさらで、心というのは、そういう意味では、
たいへんもろい。
薄いガラス箱のようなもの。
ちょっとしたことで、すぐ壊れる。

 そこで重要なことは、心の傷があるという前提で、私自身、あなた自身をながめて
みるということ。
まずいのは、そういう傷があることに気づかず、同じ失敗を繰り返すこと。
そしてそれでもって、「これが私」と思い込むこと。
「他人もそうだ」と思いこむこと。

●心の冷たい人

 心理学的には、心の冷たい人は、それだけ人格の完成度が低いということになる。
その人格の完成度は、(1)他者との共鳴性、(2)いかに自己中心的でないか、の2点で
判断される(EQ論)。
心の冷たい人というのは、その反対側に位置するということになる。
目の前でだれかが悲しんでいても、平気。
考えることは、自分のことだけ、と。
(だからといって、心の冷たい人が、すべて扁桃核に傷をもっているということにはならない。誤
解のないように!)

 そこで重要なことは、まずそういう自分自身に気がつく。
つぎに、そういう自分を改造していく。
「心理療法」というのもある。
が、これは簡単なことではない。
それこそ10年単位の時間がかかる。
「一生かかる」とだれかが言っても、私は同意する。

この問題だけは、本能に近い部分にまで根ざしているため、それを変えることは、
容易ではない。
それこそ『三つ子の魂、百まで』ということになる。
基本的には、つまりよほどのことがないかぎり、心の温かい人は、一生温かい。
心の冷たい人は、一生、冷たい。

●心の温もりとは

 心の温もりについて、大脳生理学では、つぎのように説明する。

 何かよいことをしたとする。
弱い人を助けたり、だれかを手伝ったとする。
その意識は信号となって、扁桃核に伝えられる。
扁桃核はその信号を受けて、エンケファリン系、エンドロフィン系のホルモンで、脳内を満た
す。
モルヒネ様のホルモンである。
それが心地よい感覚をもたらす。
「よいことをすると、気持ちがいい」という感覚は、こうして生まれる。
音楽や絵画、そのほかの芸術に感動したり、他人の不幸や悲しみに共鳴するというのも、
それに含まれる。

 反対に何か悪いことをしたときは、どうか?
これについては私の不勉強かもしれないが、まだ明確な解答はない。
ただ考えられることは、あくまでも私の推察だが、何らかのホルモンが分泌され、脳内を不快
感で満たすのではないか。

 わかりやすく言えば、よいことをすれば、気持ちよくなる。
悪いことをすれば、不快感を覚えるようになる。

●性善説

 少し回り道をするが、この点からも、私は「性善説」を支持する。
よいことをすれば、気持ちよくなる。
楽しくなる。
それが免疫機能を高め、病気に対する抵抗力を高める。
つまりより長生きできる。

 反対に悪いことをすれば、それがストレッサーとなり、免疫機能を低める。
つまり命を縮める。

 ……とまあ、脳の機能がこうまで単純とは言えないが、おおまかに言えば、それほど
まちがっていないと思う。
つまり人間が、過去20数万年も生き延びてこられたのは、性善説に基づいているからと
考えてよい。
もし性悪説に基づくものであれば、人間は、とっくの昔に滅びていたことになる。

●「心」

 人間には知恵がある。
それを司るのが、大脳皮質部であるとしても、知恵だけでは人間は人間たりえない。
コンピューターにたとえるまでもない。
「心」があってはじめて、人間は人間たりえる。
それを「人間性」という。

たとえば喜怒哀楽の判断は、大脳皮質部でもできる。
しかしその信号を受けて、「心」として反応するのは、辺縁系という組織ということになる。
その組織が、さまざまな「心的反応」を示す。
つまり「心」も、脳の機能の一部ということになる。
言うまでもなく、その人の人間性は、その「心」で決まる。
最近では、心の原点は、脳内の化学物質、つまり脳内ホルモンであるという説が、
半ば常識化している。
その鍵を握るのが、扁桃核ということになる。

●終わりに……

 いろいろと話が脱線したが、「心」も、脳の機能のひとつということになる。
その鍵を握るのが、脳の中心部にある辺縁系ということになる。
この部分には、ほかに、やる気を司る帯状回とか、記憶を司る海馬などと呼ばれる
組織もある。
私たちが学生のころは、このあたりを「原始脳」と呼び、「すでに機能を失った脳」として学ん
だ。
が、それがとんでもない誤解であったことは、ここに書いたことからでも、わかる。

 「心」……この不可思議にして、得体がつかめない「内的現象」は、いつの時代にも
人間を悩ませる。
できれば心の傷など、なければないほうがよいに決まっている。
しかし時として、その傷が、人間のさまざまなドラマを生み出す。
1億人、人がいれば、1億種類のドラマを生み出す。
「おもしろい」と言えば語弊があるが、それが人間社会の豊かさということになる。

(ほかの動物たちと比べてみると、それがよくわかる。
北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメ。
それぞれ個性的な動きをしていても、スズメはスズメ。
その範囲を超えることはない。)

つまり「心の傷」を、「悪いもの」と決めてかかるのではなく、「それが人間」と考える。
あとは、それと仲よくつきあう。
自分の傷ならなおさら、他人の傷であっても、仲よくつきあう。
扁桃核に焦点をあて、「心」と「心の傷」について、考えてみた。
(2010−4−2)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 扁桃核 扁桃体 心の正体 心のメカニズム 心はどこに 人間性と心 心と人
間性)

●補記

 「心」も脳の機能的活動のひとつということになる。
そういう意味では、けっして霊的(スピリチュアル)な存在ではない。
またそう考えてはいけない。

 すこし話が突飛もない方向に進むが、以前、特養に母を見舞ったときのこと。
私とワイフは、こんな会話をしたことがある。
「この人たちもみな、やがてすぐ、あの世へ行くことになる。
しかしどの段階で、あの世へ行くのだろうか」と。

 「どの段階」というのは、20代のころの段階をいうのか、30代のころの
段階をいうのか、と。
もし死ぬ直前の状態のままあの世へ行くとしたら、死んだ人たちは、ほとんど思考能力を失っ
たままあの世へ行くことになる。
特養の中には、一日中、「飯(めし)はまだか!」と、怒鳴り散らしている女性もいた。
そんな状態のままあの世へ行くというのも、おかしな話ではないか。

 で、ワイフが言うには、「いちばんよい段階のときに、行くんじゃない?」と。
つまり一番美しく、輝いていた(段階)で、あの世へ行く、と。
またそう考えないと、矛盾が生じてくる。

 たとえば死ぬとき、眠るようにして死ぬ人もいる。
しかしほとんどは、長く病気を患い、苦しんで死ぬ。
交通事故にしても、そうだ。
そんな状態のまま、あの世へ行ったら、あの世は、そういう人たちばかりになる。
となると、あの世というところは、病院のようなところかということになってしまう。
特別養護老人ホームのようなところを想像してもよい。
ここに「あの世」と書いたが、「天国」でもよい。

 そこで人間は、肉体と霊(心)を分けた。
そうすれば、この矛盾を解消できる。
が、「心も脳の機能的活動のひとつ」ということになると、心的現象としての「霊」
の存在も、否定されることになる。
昔は、「心は心臓にある」と考えられていたが、今では「脳にある」と考える。
が、その脳にも「ない」ということになる。
「ある」とか、「ない」とか、考えるほうが、おかしい。
「ない」のである。

 たとえば恋愛感情にしても、今ではホルモン説で説明される。
以前、「恋の寿命」※という原稿を書いたことがある。
性欲、食欲については、脳の視床下部が司っている。
そうしたものが、こん然一体となって、人間の「心」をつくりあげている。

 が、誤解しないでほしい。
だからといって、「人間の心はつまらない」と書いているのではない。
またそういうふうに思ってもらっては困る。
私が書きたいのは、その逆。
「だから、おもしろい」である。
というのも、「心」の奥は深い。
かぎりなく深い。
ひとつの例をあげて、それを説明してみたい。

 たとえば夫婦の間の性行為がある。
女性のばあいはどうなのか、本当のところはよくわからない。
しかし男性のばあい、射S前と、射S後では、「女性の体」に対する感覚は、180度
変化する。
(「S」にしたのは、BLOGによっては、禁止語になっているから。「精」のことである。)

それが瞬間に、おもしろいほど、変化する。
射S後は、そこにあるのは、ただの肉塊。
射S前には、あれほどまでに狂おしく見えた肉体でも、そう見える。

 が、ここからが人間のすばらしいところ。
ワイフの肉体ですら、ただの「肉塊」になるが、そのとたん、そこに(いとおしさ)を
覚える。
しわもふえ、肌には、つやもない。
弾力性もないばかりか、シミが出ている。
が、そこに(いとおしさ)を覚える。
もし人間の心が機能だけで動くとしたら、こうした(いとおしさ)を説明することは
できない。

 いつだったか、「人間の脳のニューロンの数は、DNAの数より多い」ということを
書いた。
つまり人間がもつ創造性は、DNAの限界を超えて、無限性と多様性を秘めている。
心もまた同じ。
つまり人間の脳の機能を、すべて科学で説明することはできない。
それが「奥が深い」という意味になる。 
もっとわかりやすく言えば、脳の機能は、1+1=2であっても、それがときには、
1+1=∞になったりする。
 
 私は、それが「おもしろい」と言う。
蛇足だが、私は心の否定論者ではないことをわかってもらいため、この補記部分を書いた。


Hiroshi Hayashi+++++++April.2010++++++はやし浩司

(参考)【心の原点(心のメカニズム)】(2009年5月24日作)

++++++++++++++++

脳の活動は、「ニューロン」と呼ばれる
神経細胞が司っている。
それは常識だが、しかしでは、その
神経細胞が、「心」を司っているかというと、
そうではない。

最近では、心の原点は、脳内の化学物質、
つまり脳内ホルモンであるという説が、
半ば常識化している。
私たちの心は、常に、この脳内ホルモンに
よって、影響を受け、コントロールされて
いる。

その例としてわかりやすいのが、
フェニルエチルアミンというホルモン
ということになる。
そのフェニルエチルアミンについて書いた
原稿がつぎのものである。

+++++++++++++++++

●恋愛の寿命

+++++++++++++++++

心ときめかす、恋心。しかしその恋心
にも、寿命がある。

+++++++++++++++++

 その人のことを思うと、心がときめく。すべてが華やいで見える。体まで宙に浮いたよ
うになる……。恋をすると、人は、そうなる。

 こうした現象は、脳内で分泌される、フェニルエチルアミンという物質の作用によるも
のだということが、最近の研究で、わかってきた。恋をしたときに感ずる、あの身を焦が
すような甘い陶酔感は、そのフェニルエチルアミンの作用によるもの、というわけである。

その陶酔感は、麻薬を得たときの陶酔感に似ているという人もいる。(私自身は、もちろ
ん、麻薬の作用がどういうものか、知らない。)しかしこのフェニルエチルアミン効果の
寿命は、それほど長くない。短い。

 ふつう脳内で何らかの物質が分泌されると、フィードバックといって、しばらくすると
今度は、それを打ち消す物質によって、その効果は、打ち消される。この打ち消す物質が
分泌されるからこそ、脳の中は、しばらくすると、再び、カラの状態、つまり平常の状態
が保たれる。体が、その物質に慣れてしまったら、つぎから、その物質が分泌されても、
その効果が、なくなってしまう。

しかしフェニルエチルアミンは、それが分泌されても、それを打ち消す物質は、分泌さ
れない。脳内に残ったままの状態になる。こうしてフェニルエチルアミン効果は、比較
的長くつづくことになる。が、いつまでも、つづくというわけではない。やがて脳のほ
うが、それに慣れてしまう。

 つまりフェニルエチルアミン効果は、「比較的長くつづく」といっても、限度がある。も
って、3年とか4年。あるいはそれ以下。当初の恋愛の度合にもよる。「死んでも悔いはな
い」というような、猛烈な恋愛であれば、4年くらい(?)。適当に、好きになったという
ような恋愛であれば、半年くらい(?)。(これらの年数は、私自身の経験によるもの。)

 その3年から4年が、恋愛の寿命ということにもなる。言いかえると、どんな熱烈な恋
愛をしても、3年から4年もすると、心のときめきも消え、あれほど華やいで見えた世界
も、やがて色あせて見えるようになる。もちろん、ウキウキした気分も消える。

 ……と考えると、では、結婚生活も、4年程度が限度かというと、それは正しくない。
恋愛と、結婚生活は、別。その4年の間に、その2人は、熱烈な恋愛を繰りかえし、つぎ
のステップへ進むための、心の準備を始める。

 それが出産であり、育児ということになる。一連のこうした変化をとおして、今度は、
別の新しい人間関係をつくりあげていく。それが結婚生活へとつながっていく。

 が、中には、そのフェニルエチルアミン効果による、甘い陶酔感が忘れられず、繰りか
えし、恋愛関係を結ぶ人もいる。たとえばそれが原因かどうかは別にして、よく4〜5年
ごとに、離婚、再婚を繰りかえす人がいる。

 そういう人は、相手をかえることによって、そのつど甘い陶酔感を楽しんでいるのかも
しれない。

 ただここで注意しなければならないのは、このフェニルエチルアミンには、先にも書い
たように麻薬性があるということ。繰りかえせば繰りかえすほど、その効果は鈍麻し、ま
すますはげしい刺激を求めるようになる。

 男と女の関係について言うなら、ますますはげしい恋愛をもとめて、さ迷い歩くという
ことにもなりかねない。あるいは、体がそれに慣れるまでの期間が、より短くなる。はじ
めての恋のときは、フェニルエチルアミン効果が、4年間、つづいたとしても、2度目の
恋のときは、1年間。3度目の恋のときは、数か月……というようになる(?)。

 まあ、そんなわけで、恋愛は、ふつうは、若いときの一時期だけで、じゅうぶん。しか
も、はげしければはげしいほど、よい。二度も、三度も、恋愛を経験する必要はない。回
を重ねれ重ねるほど、恋も色あせてくる。

が、中には、「死ぬまで恋を繰りかえしたい」と言う人もいるが、そういう人は、このフ
ェニルエチルアミン中毒にかかっている人とも考えられる。あるいはフェニルエチルア
ミンという麻薬様の物質の虜(とりこ)になっているだけ。

 このことを私のワイフに説明すると、ワイフは、こう言った。

 「私なんか、半年くらいで、フェニルエチルアミン効果は消えたわ」と。私はそれを横
で聞きながら、「フ〜ン、そんなものか」と思った。さて、みなさんは、どうか?

(はやし浩司 恋愛 恋愛の寿命 フェニルエチルアミン ドーパミン効果 麻薬性 は
やし浩司 恋の寿命 恋の命 恋愛の命 脳内ホルモン フィードバック (はやし浩司 
家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 恋のホルモン)

+++++++++++++++++++++

話を戻す。
ここで「フィードバック」について、もう一度、説明してみたい。

脳というのは、それ自体がいつもカラの状態を保とうとする。
たとえば驚いたようなとき、脳は直接、副腎に作用して、アドレナリンを分泌させる。
ドキドキしたり、ハラハラしたりするのは、そのためである。
発汗を促すこともある。

が、同時に脳の中では別の反応が起こる。
視床下部にある脳下垂体が、それを感知して、副腎に対して、副腎皮質刺激ホルモン
を分泌するようにと、言うなれば、指令ホルモンを分泌する。
このホルモンによって、副腎が刺激を受け、副腎は、副腎皮質ホルモンを分泌する。
わかりやすく言えば、脳内に分泌されたアドレナリンを、副腎皮質ホルモンが
今度は中和しようとする。

こうして脳内はいつもカラの状態、つまり平常な状態を保とうとする。
それをフィードバック(作用)という。

●生殖

(私が男性ということもあって)、私は、男性のことはよく知っている。
女性も、それほどちがわないと思うが、男女の行為の前と後とでは、異性の肉体の見方が、
まったくちがう。

男性のばあいは、180度、変化することも珍しくない。
あれほど狂おしく求めた相手でも、行為が終わったとたん、スーッと興味が
しぼんでいく。
消えていく。
それは満腹感ともちがう。
心そのものが、変化してしまう。
男性のばあい、それがおもしろいほど急激な変化となって現れる。

こうした現象をどう考えたらよいのか。

先に副腎の話を書いたが、脳からの指令を受けてホルモンを分泌する器官は、
ほかにもたとえば、甲状腺や生殖腺などがある。
さらにごく最近の研究によれば、胃や、大腿筋でも、ある種のホルモンが
分泌されることもわかってきた。
肉体、すべてがホルモンの分泌器官と考えてよい。

では、生殖腺でも、副腎と同じような化学変化が起きているとみてよいのか。
というのも、男女の(心)を説くとき、(行為の変化)ほど、顕著に現れる変化は、
ほかにそうはない。

(行為……最近、BLOGでは、使用禁止用語を設定しているところが多いので、
こういう言葉を使う。つまりSxxのことをいう。)

さらに言えば、「私は私」と思っているしている思いや行動といったものも、
実は、脳内ホルモンによってコントロールされているということになる。

その証拠に、先ほども書いたように、(男性のばあい)、行為の前と後とでは、
心の状態が、180度変わってしまう。

●知性と心

たとえばここに難解な数学の問題があるとする。
「1から5ずつふえていく数列がある。この数列の数を、5番目から、20番目まで
を合計すると、いくつになるか」と。

高校で習う公式を使えば、簡単に解ける。
公式を知らない人でも、電卓を片手に、足し算を繰り返せば解ける。
こうした作業を受け持つのは、大脳連合野の中でも、比較的外側にある、皮質部という
ことになる。

一方、(心)というのは、そういう知的な活動とは、異質のものである。
どこかモヤモヤとしていて、つかみどころがない。
ときに理性のコントロールからはずれるときがある。
つまりそれが脳内ホルモンの作用によるものということになる。

たとえば何かよいことをしたとする。
人助けでもよい。
そういうときそういう情報は、辺縁系の中にある扁桃核(扁桃体)に信号として
送られる。
それに応じて、扁桃核は、モルヒネに似たホルモンである、エンケファリン系、
エンドロフィン系のホルモンを分泌する。
それが脳内を甘い陶酔感で満たす。
それが(人助けをした)→(気持ちよい)という感覚へとつながっていく。

こうして考えていくと、(あくまでも私という素人の考えだが)、知的活動は、
ニューロンと呼ばれる神経細胞が司るとしても、心のほとんどは、脳内ホルモンの
作用によるものと考えてよいのではということになる。
またそういうふうに分けることによって、心のメカにズムが理解できる。
しかしこの考え方は、両刃の剣。

●「私は私」

心のメカニズムはそれで説明できる。
それはそれでよい。
が、心が脳内ホルモンによるもの、あるいは脳内ホルモンに大きく影響を受けるものと
すると、(1)「心なんて、ずいぶんといいかげなんなもの」と思う人が出てくる
かもしれない。
さらに(2)「では、私とは何か、それがわからなくなってしまう」と考える人も
出てくるかもしれない。

心をときめかすあの恋にしても、フェニルエチルアミン効果によるものということに
なれば、それにまつわる求愛、デートなどの行動のすべてが、結局は脳内ホルモンに
よって操られているということになってしまう。
(実際に、そうなのだが……。)

となると、つまり(心)を自分から取り除いてしまうと、では、いったい、私は何か
ということになってしまう。
さらにつきつめていくと、私という私がなくなってしまう。
その一例として、先に、男女の行為のあとの、あの変化をあげた。
そこに妻の(あるいは夫の)肉体を見ながら、「行為の前の私は何だったのか?」と。

が、男女の行為だけに終わらない。
実は人間が織りなす行為のほとんどが、またそのほとんどの部分において、こうした
脳内ホルモンの作用に影響を受けているということになる。
どの人も、「私は私」と思って、それぞれの行動をしている。
が、その「私」など、どこにもないということになる。
「私たちの心は、脳内ホルモンに操られているだけ」と。
しかもいいように操られているだけ、と。

……と書くのは、危険かもしれないが、反対に、「どこからどこまでが私で、どこから
先が私でないか」と考えてみると、それがわかる。

「私は私」と思っている部分など、きわめて少ないのがわかる。
さらに言いかえると、人間もそこらに遊ぶ動物と、どこもちがわないということ。
あるいは、そこらの動物と同じということ。
ちがわないというより、ちがいを見つけることのほうが、むずかしい。

●「私」論

たいへん悲観的というか、絶望的なことを書いてしまったが、自分を知るためには、
脳内ホルモンの問題は、避けては通れない。
たとえば今、私は空腹感を覚えている。
この4〜5日、ダイエットをつづけている。
胃袋が小さくなったような感じがする。
それでも空腹感を覚える。
ワイフがまな板をたたく音を聞いただけで、ググーッと、食欲がわいてくる。
条件反射反応が起きている。

恐らく脳内の視床下部にあるセンサーが、血糖値を感知し、ドーパミンンを
放出しているのだろう。
それが線条体にある受容体を刺激し始めている(?)。

その私は、「私は私」と思いながら、これからさまざまな行動を起こすはず。
庭へ出て、畑から、サラダ菜を採ってくる。
それにドレッシングをかける。
食卓に並べる……。

こうした一連の行為にしても、ドーパミンという脳間伝達物質に操られているだけ
ということになる。
もしそこに「私」がいるとするなら、空腹感を抑えながら、サラダ菜だけで、今朝の
食事をすますこと。
体重が適正体重に減るまで、それをつづけること。
つまり「私」というのは、ここでの結論を言えば、脳内ホルモンと闘うところに、ある。
けっして、脳内ホルモンに操られるまま、操られてはいけない。
その意思が、「私」ということになる。

(新しい思想、ゲット!)

……かなり乱暴な結論だが、今の私は、そう考える。

今朝(09年5月24日)も、こうして始まった。
今日はこのことをテーマに、自分の行動を静かに観察してみたい。
つづきは、また今夜!

みなさん、おはようございます!
Hiroshi Hayashi+++++++April. 2010++++++はやし浩司

●(注※)サイトカイン

++++++++++++++以下、「ウィキペディア百科事典」より+++++++++

サイトカインは細胞表面の膜上にある受容体(それ自体がチロシンキナーゼまたはチロシンキ
ナーゼと共役するものが多い)に結合して働き、それぞれに特有の細胞内シグナル伝達経路
の引き金を引き、結果的には細胞に生化学的あるいは形態的な変化をもたらす。

サイトカインは多機能的、つまり単一のサイトカインが標的細胞の状態によって異なる効果を
もたらす。例えば免疫応答に対して促進と抑制の両作用をもつサイトカインがいくつか知られ
ている。

またサイトカインは他のサイトカインの発現を調節する働きをもち、連鎖的反応(サイトカインカ
スケード)を起こすことが多い。このカスケードに含まれるサイトカインとそれを産生する細胞は
相互作用して複雑なサイトカインネットワークを作る。

たとえば炎症応答では白血球がサイトカインを放出しそれがリンパ球を誘引して血管壁を透過
させ炎症部位に誘導する。またサイトカインの遊離により、創傷治癒カスケードの引き金が引
かれる。

サイトカインはまた脳卒中における血液の再還流による組織へのダメージにも関与する。さら
に臨床的にはサイトカインの精神症状への影響(抑鬱)も指摘されている。

サイトカインの過剰産生(サイトカイン・ストームと呼ばれる)は致死的であり、スペイン風邪やト
リインフルエンザによる死亡原因と考えられている。この場合サイトカインは免疫系による感染
症への防御反応として産生されるのだが、それが過剰なレベルになると気道閉塞や多臓器不
全を引き起こす(アレルギー反応と似ている)。

これらの疾患では免疫系の活発な反応がサイトカインの過剰産生につながるため、若くて健康
な人がかえって罹患しやすいと考えられる。


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

【不安について】(What is the Anxiety?)

●不安の構造

+++++++++++++++++++++++++

(こうしたい)(こうでありたい)という欲望や欲求。
その欲望や欲求に対して、障壁(障害)が現われたとき、
欲望や欲求は、不安へと変異する。
つまり障壁(障害)の一方にあるのが、欲望や欲求。
もう一方にあるのが、不安ということになる。

私たちは、日常的に、この不安にさらされている。
欲望や欲求が強ければ強いほど、不安は増大する。

そこで問題は、こうした不安を克服する方法は
あるかということ。
私のばあいを中心に、この問題について考えてみたい。

++++++++++++++++++++++++++

●不安の分析

 大村政男氏は、不安の(因子)を、つぎの24項目に分けている(心理学、ナツメ社)。
この表は、そのまま、自己診断のひとつの方法として、応用できる(P157)。

〔身体的症候群〕

(  )皮膚にできものができることが多い。
(  )しばしば尿意をもよおす。
(  )食欲不振なことが多い。
(  )緊張すると汗が出がちである。

〔集中力欠乏〕

(  )興味があれこれと変わりやすい。
(  )じっとしておられないほど、落ちつきを失うことがしばしばある。
(  )1つのことに気持ちを集中できないほうである。
(  )待たされるといらいらしてしまう。

〔自信欠乏〕

(  )一度決めたことでも、他人の意見ですぐ変わってしまう。
(  )人生にいつも重荷を感じている。
(  )自信がないために、ものをあきらめてしまうことがよくある。
(  )自分はまったく役に立たない人間と思うことが多い。

〔赤面恐怖〕

(  )なにかあると、顔がほてってくる。
(  )人に会うのがおっくうなほうである。
(  )大勢の人の前に立つと、赤面しがちである。
(  )恥ずかしがり屋である。

〔睡眠障害〕

(  )睡眠薬をのまないと、眠れないこともある。
(  )うなされて目を覚ますことが、ときどきある。
(  )よく寝言を言うと、言われる。
(  )眠りがいつも浅いうような感じがする。

〔取り越し苦労〕

(  )いつも緊張して生活している。
(  )なにかにつけて心配しがちである。
(  )他の人よりも神経過敏である。
(  )不幸なことが起こりはしないかとしばしば心配する。

(以上、大村政男氏による、診断項目。)

●自己診断 

 大村政男氏の因子論(前述)を使って、自己診断をしてみる。
で、これは私のばあいだが、自分では基底不安型の人間と思っていたが、意外と該当項目が
少ないのに、驚いた。

〔身体的症候群〕〔集中力欠乏〕〔自信欠乏〕〔赤面恐怖〕の4項目まで、該当なし。
〔睡眠障害〕については、慢性化しているというか、昼寝が習慣化しているため、さほど気にな
らない。
が、最後の〔取り越し苦労〕については、4項目中、ほぼ4項目とも、私に当てはまる。

 私は日常的に緊張している(?)。
それに心配性(しょう)。
神経過敏なところもあるし、将来についてよく心配する。
大村政男氏の診断方法によれば、典型的な〔取り越し苦労〕型タイプの人間ということになる。
実際、よく取り越し苦労をする。
ひとつのことを心配し始めると、それが勝手にどんどんとふくらんでいってしまう。
が、あとになって、それが取り越し苦労だったことを知る。
そういうことは、よくある。

●では、どうすればよいのか

 これは私のばあいだが、私はそういう弱点を、自分でもよく知っている。
そのためそういう状態になり始めたら、つぎのことに心がけるようにしている。

(1)重大な判断はくださない。
(2)ワイフに、自分の状態を聞く。
(3)ものを書いて、不安の中身を文章にして、たたき出す。

 もちろん気分転換も重要。
趣味に没頭する。
現在は、畑づくりと、ミニ・ヘリコプター、それに映画。
週に1度は、近くの温泉旅館で、温泉につかるようにしている。
しかし何よりも重要なことをは、「今の私は正常ではない」と、自分に言って聞かせること。
不安が勝手にふくらみ始めたら、「正常ではない」と、何度も心の中で繰り返す。
その場を静かにやり過ごす。

 というのも、脳のCPU(中央演算装置)がおかしくなってくるから、正常でないことに気づくの
は、たいへんむずかしい。
おかしくなりながら、「これが本当の私」と思ったり、「他人が不安でないほうがおかしい」と思っ
たりする。

 ただ誤解しないでほしいことが、ひとつある。
私はいつもこうしてものを考え、パソコンを相手に文章を書いている。
それについて、「不安だから書いているのでは」と思う人がいるかもしれない。
が、これは楽しいから、そうしている。
不安だからしているのではない。
心の緊張感があるから、しているのでもない。
楽しい。
見知らぬ原野を散歩しているような楽しさである。

 そう言えば、ワイフもときどき、こう言う。
「よくもまあ、毎日ものを書いていて、タネ切れにならないわね」とか、「毎日考えてばかりいて、
頭がおかしくならない?」とか。

 タネ切れになることはない。
今でもそうだが、ひとつのことを書いていると、別のところからつぎつぎと、書きたいことがわい
てくる。
それに「頭がおかしくならない?」については、たぶん、そうはならないと思う。
むしろ逆で、頭の中をモヤモヤした状態のままにしておくと、かえってイライラしてくる。
「便秘のときの腹のよう」と、私はワイフによく言うが、それに似たような状態になる。

 が、だからといって、私は不安に強いわけではない。
弱い。
だから若いころから、先手主義。
後手に回ったとたん、調子がおかしくなる。
その分だけ、よけいに不安になる。
つまり自分を、不安になるような状況に追い込まないようにしている。

 ……ということで、みなさんの参考になるかどうかはわからないが、私のことについて書いて
みた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 不安の構造 不安の診断 不安神経症 強迫観念 不安とは)

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不安を考えるとき、同時に思いつくのが、
強迫神経症と不安神経症。
それについて書いた原稿をさがしてみる。

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●強迫性障害

 一つのことに執着すると、そのことばかりが気になって、悶々と悩む。悩むだけならまだしも、
それが原因となって、日常生活に支障が出るようになることがある。これを「強迫性障害」とい
う。

 ある女性(36歳)は、マンションの上の階の足音が気になってしかたなかった。夫は、「聞こ
えない」「たいしたこない」と言ったが、その女性には、聞こえた(?)。たまたま上の階の部屋と
自分の部屋の間取りが同じということもあった。その女性には、音だけではなく、上の階の住
人の生活ぶりまでが、すべて手に取るようにわかった。

 が、そのうち、その女性は、「(上の階の人が使う)掃除機の出す音がうるさい」と言いだすよ
うになった。「掃除といっても、1日、1回程度なら、がまんできる。しかし1日、5回は多すぎる、
と。

 その女性は、毎日、上の階の人がどのような騒音(?)を出すか、その内容と回数をノートに
記入するようになった。が、それだけではない。自分が買い物などで、家をあけるときには、小
学2年生になった息子に、その回数を数えさせた。

 息子は、その女性(母親)が帰ってくると、「今夜は、掃除機が1回で、洗濯機が1回……」と
いうように、報告していたという。

 そしてある日、その女性はそれらの記録をもって、上の階の住人のところへ怒鳴りこんでい
った……。

 そのあとどうなったかは、容易に想像がつくことと思う。

●ある学校で

 実は、こうした強迫性障害は、教育の世界でも、よく経験する。数年前のことだが、ある小学
校へ講演に行ったら、その学校の教師が、こんな話をしてくれた。

 その学級で、「よい子は、みんな、仲よし。友だちも、多い」というような内容の、学級通信を
出した。

 が、1人の母親が、これに猛反発した。たまたまその母親の子ども(小2女児)が、学校でい
じめにあい、仲間はずれにされていた。そのことを、その母親は、悩んでいた。

 その母親は、校長に、「うちの子は、よい子ではないのか!」と。「よい子とは何だ!」「仲よし
って何だ!」「どうしてそれが学級の方針なのか!」と、くいさがった。

 拡大解釈と被害妄想。一言で言えば、そういうことになるが、その母親の怒りは、それで収ま
らなかった。「子どもの人権問題だ」「名誉毀損だ」と。さらには「校長不適格」などとも言い出し
たという。つまりその母親は、その問題に固執するあまり、自分の姿を見失ってしまった。

 こうした強迫性障害の延長に、買い物依存症(女性に多い)や、パチンコ依存症、賭博(とば
く)依存症(男性に多い)がある。これらの依存症の人も、一つのことにこだわり始めると、それ
が頭から離れなくなる。

●満足感を満たすため

 たとえば買い物依存症の女性にしても、「それがほしい」と一度思いこむと、あとは、明けても
暮れても、考えることは、そのことばかりという状態になる。そして一度、それを買うと、その満
足感と同時に、解放感を味わう。あとは、この繰りかえし。

 が、こうした強迫性障害の人に、悩みや苦しみがないかといえば、そうではない。

 悶々と、そのことに執着している間は、ふつうの人以上に、悩んだり苦しんだりする。「気にな
ってしかたない」というのは、苦しみである。

 またその問題が解決したからといって、実は、その苦しみから解放されるというわけではな
い。たとえば買い物依存症の女性にしても、そのあと、今度は、強い自責の念にかられる。「ど
うして買ってしまったんだろう」と。

 さらに病的になると、借金をしてまで、自分のほしいものを手に入れるようになる。こうなる
と、あとは、奈落の底! こうして破産していく人は、少なくない。

 先の「掃除機の音がうるさい」と怒鳴りこんでいった女性のケースでは、当然のことながら、そ
のあと、上の階の住人とは、険悪な関係になってしまった。当然である。が、運の悪いことに、
上の階の住人は、そのマンションの中でも、指導的な立場にあった。以後、その女性が、マン
ションの住民たちの間で、どのような扱いを受けたかについても、容易に想像がつくことと思
う。

 で、そのあとのことだが、その女性と夫は、何度も、上の階の住人に謝罪に行ったが、受け
つけてもらえなかったという。

 ただ一度、こうした強迫性障害になった人は、そのつど、テーマを変えて、同じ障害になりや
すいと言われている。

 そのときは、上の階の住人の出す騒音であっても、それが解決すると、今度は、外を走る車
の騒音になったり、ここにあげた、学校通信の文面になったりする。さらにそれが子どもの教
育におよぶようになると、ことは、深刻になる。

 明けても暮れても、考えることは、子どもの成績ばかり……というようであれば、あなたも、そ
の強迫性障害を疑ってみたらよい。

(はやし浩司 強迫性障害 買い物依存症 依存症 育児ノイローゼ 強迫神経症 強迫観念
 強迫症)

【あなたの心診断―女性用】

 つぎの項目のうち、いくつか当てはまるようなら、強迫性障害を疑い、子育ての場で、子ども
の心に影響を与えないように、注意する。

(  )かつて、買い物依存症など、何かの依存症になったことがある。
(  )ひとつのことが気になると、そのことばかり考えることがよくある。
(  )子どもに問題が起きると、先生や、子どもの友人に、原因を求める。
(  )かっとなると、見境なく行動してしまうことがあり、あとで後悔しやすい。
(  )被害妄想をもちやすく、ものごとを何でも悪いほうに解釈してしまう。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どもの神経不安症

●情緒が不安定な子ども

 子どもの成長は、次の四つをみる。(1)精神の完成度、(2)情緒の安定度、(3)知育
の発達度、それに(4)運動能力。

このうち情緒の安定度は、子どもが肉体的に疲れていると思われるときをみて、判断す
る。運動会や遠足のあと、など。そういうときでも、ぐずり、ふさぎ込み、不機嫌、無
口(以上、マイナス型)、あるいは、暴言、暴力、イライラ、激怒(以上、プラス型)が
なければ、情緒が安定した子どもとみる。

子どもは、肉体的に疲れたときは、「疲れた」とは言わない。「眠い」と言う。子どもが
「疲れた」というときは、神経的な疲れを疑う。子どもはこの神経的な疲れにたいへん
弱い。それこそ日中、5〜10分、神経をつかっただけで、ヘトヘトに疲れてしまう。

●情緒不安とは……?

 外部の刺激に左右され、そのたびに精神的に動揺することを情緒不安という。2〜4歳
の第一反抗期、思春期の第二反抗期に、とくに子どもは動揺しやすくなる。

 その情緒が不安定な子どもは、神経がたえず緊張状態にあることが知られている。気を
許さない、気を抜かない、周囲に気をつかう、他人の目を気にする、よい子ぶるなど。そ
の緊張状態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、
情緒が不安定になる。

症状が進むと、周囲に溶け込めず、引きこもったり、怠学、不登校を起こしたり(マイ
ナス型)、反対に攻撃的、暴力的になり、突発的に興奮して暴れたりする(プラス型)。
表情にだまされてはいけない。柔和な表情をしながら、不安定な子どもはいくらでもい
る。このタイプの子どもは、ささいなことがきっかけで、激変する。

母親が、「ピアノのレッスンをしようね」と言っただけで、激怒し、母親に包丁を投げつ
けた子ども(年長女児)がいた。また集団的な非行行動をとったり、慢性的な下痢、腹
痛、体の不調を訴えることもある。

●原因の多くは異常な体験

 原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体験が引き金になることが多い。たとえば親
自身の情緒不安のほか、親の放任的態度、無教養で無責任な子育て、神経質な子育て、家
庭騒動、家庭不和、何らかの恐怖体験など。

ある子ども(五歳男児)は、たった一度だが、祖父にはげしく叱られたのが原因で、自
閉傾向(人と心が通い合わない状態)を示すようになった。また別の子ども(三歳男児)
は、母親が入院している間、祖母に預けられたことが原因で、分離不安(親の姿が見え
ないと混乱状態になる)になってしまった。

 ふつう子どもの情緒不安は、神経症による症状をともなうことが多い。ここにあげた体
の不調のほか、たとえば夜驚、夢中遊行、かん黙、自閉、吃音(どもり)、髪いじり、指し
ゃぶり、チック、爪かみ、物かみ、疑惑症(臭いかぎ、手洗いぐせ)、かみつき、歯ぎしり、
強迫傾向、潔癖症、嫌悪症、対人恐怖症、虚言、収集癖、無関心、無感動、緩慢行動、夜
尿症、頻尿症など。

●原因は、家庭に!

 子どもの情緒が不安定になると、たいていの親は原因さがしを、外の世界に求める。し
かしまず反省すべきは、家庭である。

強度の過干渉(子どもにガミガミと押しつける)、過関心(子どもの側からみて神経質で、
気が抜けない環境)、家庭不和(不安定な家庭環境、愛情不足、家庭崩壊、暴力、虐待)、
威圧的な家庭環境など。夫婦喧嘩もある一定のワク内でなされているなら、子どもには
それほど大きな影響を与えない。が、そのワクを越えると、大きな影響を与える。子ど
もは愛情の変化には、とくに敏感に反応する。

 子どもが小学生になったら、家庭は、「体を休め、疲れた心をいやす、いこいの場」でな
ければならない。アメリカの随筆家のソロー(1817〜62)も、『ビロードのクッショ
ンの上より、カボチャの頭』と書いている。

人というのは、高価なビロードのクッションの上に座るよりも、カボチャの頭の上に座
ったほうが気が休まるという意味だが、多くの母親にはそれがわからない。わからない
まま、家庭を「しつけの場」と位置づける。学校という「しごきの場」で、いいかげん
疲れてきた子どもに対して、家の中でも「勉強しなさい」と子どもを追いまくる。「宿題
は終わったの」「テストは何点だったの」「こんなことでは、いい高校へ入れない」と。
これでは子どもの心は休まらない。

●子どもの情緒を安定させるために

 子どもの情緒が不安定になったら、スキンシップをより濃厚にし、温かい語りかけを大
切にする。叱ったり、冷たく突き放すのは、かえって情緒を不安定にする。一番よい方法
は、子どもがひとりで誰にも干渉されず、のんびりとくつろげるような時間と場所をもて
るようにすること。親があれこれ気をつかうのは、かえって逆効果。

 ほかにカルシウムやマグネシウム分の多い食生活に心がける。とくにカルシウムは天然
の精神安定剤と呼ばれている。戦前までは、日本では精神安定剤として使われていた。錠
剤で与えるという方法もあるが、牛乳や煮干など、食品として与えるほうがよいことは言
うまでもない。

なお情緒というのは一度不安定になると、その症状は数か月から数年単位で推移する。
親があせって何とかしようと思えば思うほど、ふつう子どもの情緒は不安定になる。ま
た一度不安定になった心は、そんなに簡単にはなおらない。今の状態をより悪くしない
ことだけを考えながら、子どものリズムに合わせた生活に心がける。

 (参考)

●子どもの神経症について

心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症という。子ど
もの神経症は、精神面、身体面、行動面の三つの分野に分けて考える。

(1)精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫
症状(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理
由もなく悩む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを言
ってグズグズしたり、反対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすること
もある。

(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿
症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、
下痢、便秘、発熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)
など。一般的には精神面での神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが
多く、身体面での神経症を黄信号ととらえて警戒する。


(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって
行動面に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、
無気力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こ
るようになる。パンツ一枚で出歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子供の情緒 情緒不安定 情緒が不安定な子供 子ども 情緒不安 強迫観念 心配性 不
安神経症)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

【高齢者の不安】

●60歳以上、7割が不安(内閣府)

++++++++++++++++++

内閣府は4月2日(2010)、60歳
以上を対象に、「高齢者の日常生活に
関する意識調査」を実施し、その結果を
公表した。

それに対して、「将来の生活に不安を
感じるか」という問に対して、
71・9%が、「不安を感ずる」と回答。
5年前の前回調査より、4・0%もふえた。

++++++++++++++++++

●調査結果

 調査結果を並べてみる。

(1)自分や配偶者の健康や病気……77・8%
(2)介護          ……52・8%
(3)生活のための収入    ……33・2%

さらに、
(4)不安をとても強く感ずる ……15・6%
(5)多少は感ずる      ……56・3%、とつづく。

 「60歳以上」といっても、前期高齢者と、後期高齢者(75歳以上)とでは、
不安に対する感じ方も、大きくちがうはず。
私ももうすぐ満63歳になるが、今のところまだ現役で働いていることもあって、
それほど強くは、不安を感じていない。
私なら、上述、(1)(2)(5)に、(レ)を入れる。
しかし今のような状態が、70歳以上になっても維持できるとは、思っていない。
つまりこの調査を、70歳以上の人にしぼって行えば、もっときびしい結果が出てくる
はず。

 なお全体としてみると、(収入)が、ひとつのポイントになっているのがわかる。
収入のない人ほど、不安を強く感じている。
「家計が苦しいと感じている人の、90%以上が、将来の不安を訴えた」(中日新聞)と
ある。

●親子の断絶

 義兄は、こう言った。
「親子で断絶している家庭は多いよ。
子どもの方は、親を負担に思っているから、ささいな理由をこじつけて、子どもは親から
去っていくよ」と。
「つまりね、親のめんどうをみたくないから、何か理由をさがして、親を棄てるというわ
け」と。

 こんな例を話してくれた。

 その家には、2人の息子がいる。
で、現在、父親は、独り暮らし。
宅地と農地(いつでも宅地化できる)の両方で、500坪の土地をもっている。
そこでその父親は、自分の死後、息子たちが言い争いをしないようにと、土地を均等に
2つに分け、その旨、2人の息子に伝えた。
が、これに長男が猛反発。
「均等は、おかしい!」「あんたのめんどうを近くでみてきたのは、オレだ」と。

 そこで父親は、預金通帳や株券を見せ、「これはお前にやるから」と、長男をなだめた。
が、以後、長男は、家に寄りつかなくなってしまった。
二男も、家に寄りつかなくなってしまった。
長男と二男は、会ってもたがいに口をきくこともない。
つまり家族が、バラバラになってしまった。

●家族の耐性

 「家族の耐性」が、弱くなった。
ちょっとしたことで、親子がバラバラになってしまう。
親の方はともかくも、子どものほうが、去っていく。
そして理由にもならないような理由を並び立てて、「私はあんな親のめんどうはみない」と。
ある男性(40歳くらい)は、親類の人にこう言ったという。
「もう何年も、電話一本もくれない」「親なら息子のことを心配して、『元気か』くらいの
電話くらい、してくれてもいい」と。

 その男性の父親(75歳くらい)も、田舎で独り暮らしをしていた。
が、一度ころんで骨折してからは、寝たきりの状態になった。
そこで見るに見かねて、親類の人が、その男性に電話を入れた。
その返事が、これ!

 つまり父親が息子に電話を入れなかった。
それを理由に、「私は、父親のめんどうをみる義務はない」と。

 さらにひどい(?)話となると、こんなものもある。

 息子が結婚するとき、親は、息子に土地と家を買い与えた。
息子は、1時間ほど離れたところにある都会に移り住んだ。
で、しばらくしてからのこと。
その息子の嫁から電話が入った。
「固定資産税の請求が来たが、どうすればいいか」と。

 さらにひどい話(!)。

 両親は年齢も年齢ということで、有料の老人ホームに入った。
もともと住んでいた家は、長男に明け渡した。
が、その長男。
毎月のようにその老人ホームへやってきて、生活費をせびっているという。
(これは、ほんとうの話!)

しかし今、そういう家庭がふえている。
ほとんどがそうでないかと思われるほど、多い。

 こうした問題を考えるときの、キーワードが「依存性」。
一度、(保護)(依存)の関係ができると、保護する側は、ずっと保護する。
依存する側は、依存する。
依存性というのは、そういうもの。
が、それで終わらない。
依存する側は、「依存して当然」と考える。
つまり今では、最後の最後まで、「親は、死ぬまで、子どものめんどうをみるべき」と、
考える。
(親のめんどうではない。
子どものめんどうを、だ!)

そういう子どもが、ふえている。
そういう家庭が、ふえている。

++++++++++++++++

これについても、何度も書いてきた。
以前書いた原稿を、さがしてみる。

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【親バカ論】

●就職率50%

 大不況。
目下、進行中。
大卒の就職率も、50〜60%とか。
事務所の隣人は、個人でリクルートの会社を経営している。
その隣人が、こう言った。
「実感としては、50%前後ではないですかね?」と。
つまり大卒のうち、2人に1人しか、就職できない。
きびしい!

 浜松市といえば、昔から工業都市として知られている。
HONDA、SUZUKI、YAMAHAなどの各社は、この浜松市で生まれた。
その浜松市でも、「50%」!

●親、貧乏盛り

 『子ども大学生、親、貧乏盛り』という。
私が考えた諺(ことわざ)である。
それについては、何度も書いてきた。

 で、子どもを大学へ送ることは、得か損かという計算をしてみる。
・・・といっても、学部によって、大きく、異なる。
医学部のばあい、勤務医になれば、勤務後2〜3年目には、年収は2000万円を超える。
開業医になれば、月収は500万円を超える。
(月収だぞ!)

 一方、文科系の学部のばあい、学費も安いが、その分、学歴も、ティシュペーパーのように軽
い。
英文学部にしても、高校の教科書より簡単なテキストで勉強している大学は、いくらでもある。
先日の新聞には、「英検4級(中学2、3年生レベル)の学力もない大学生が、急増している」と
あった。
そんな学部を出ても、実際には、何ら、役に立たない。

 全体としてみると、それなりの資格のともなった学歴であれば、得。
資格をともなわない、ただの学歴であれば、損。
その結果、就職率50%ということになれば、何のための苦労だったのかということになる。

●3人に1人が、高齢者

 3人に1人が、高齢者。
そんな時代が、すぐそこまでやってきている。
現在、40歳以上の人は、老後になっても、満足な介護は受けられないと知るべし。
実際には、不可能。

 となると、自分の老後は、自分でみるしかない。
つまりそれだけの蓄(たくわ)えを用意するしかない。
で、たいていの人は、「自分の子どもがめんどうをみてくれる」と考えている。
が、今、あなたが高齢になった親のめんどうをみていないように、あなたの子どもも、またあな
たのめんどうをみない。
60%近い若者たちは、「経済的に余裕があれば・・・」という条件をつけている。
「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と。
(この数字とて、ほぼ10年前の数字。)
実際には、みな、目一杯の生活をしている。
経済的に余裕のある人など、いない。
若い世代では、さらにいない。

●親バカ

 こうして順に考えていくと、子どもに学費をかけることが、いかに無駄かがわかってくる。
あえて言うなら、子どもを遊ばせるために、その遊興費を提供するようなもの。
が、何よりも悲劇なのは、そのためにする親の苦労など、今時の大学生にじゃ通じない。
当たり前。
「電話をかけてくるのは、お金がほしいときだけ」というのは、親たちの共通した認識である。
むしろ逆に、(してくれないこと)を、怒る。
「みなは、毎月20万円、送金してもらっている」
「どうして結婚の支度金を出してくれないのか」と。

保護、依存の関係も行き過ぎると、そうなる。
保護される側(子ども)は、保護されて当然と考える。
一方、保護するほうは、一度、そういう関係ができてしまうと、簡単には、それを崩すわけには
いかない。
罪の意識(?)が先に立ってしまう。

 どこか一方的な、つまり否定的な意見に聞こえるかもしれないが、こうして世の親たちは、み
な、つぎつぎと親バカになっていく。

●老後の用意

 しかし私たちの老後は、さみしい。
蓄(たくわ)えも乏しい。
社会保障制度も、立派なのは、一部の施設だけ。
3人のうちの1人が老人という世界で、手厚い介護など、期待する方がおかしい。
となると、自分の息子や娘たちに、となる。
しかし肝心の息子や娘たちには、その意識はまるでない。

 ある友人は、こう言った。
「うちの息子夫婦なんか、結婚して3年目になるが、嫁さんなど、来ても、家事はいっさい手伝
わない。いつもお客様だよ」と。
別の友人もこう言った。
その友人の趣味は魚釣り。
そこで釣ってきた魚を、嫁に料理をさせようとしたら、こう言ったという。
「キモ〜イ、こんなこと、私にさせるのオ?」と。

 この話をワイフにすると、ワイフもこう言った。
「私の友だちのSさんなんかね、長男は、歩いて数分のところに住んでいるだけどね、毎週、実
家へ子どもたちを連れて夕食を食べに来るんだってエ」と。

 で、私が、「食費はだれが出すの?」と聞くと、「もちろん友だちのSさんよ。長男たちは、それ
で食費を浮かせようとしているのね」と。
さらに「料理は、だれがするの?」と聞くと、「Sさんよ。嫁さんは、デンと座っているだけだそう
よ。たまに食器は洗ってくれるそうよ。でもそれだけ」と。

 私が「ヘエ〜〜」と驚いていると、さらにワイフは、驚くべきことを口にした。
「それでいて、長男は、親のめんどうをみているのは自分と、思いこんでいるみたいね」と。

私「親のめんどう・・・?」
ワ「そうよ。弟夫婦たちが実家へ来ると、兄貴風を吹かして、弟夫婦に、『お前たちも、ときに
は、親のめんどうをみろ』って言ってるんだってエ」
私「あきれるね」
ワ「そうね。孫の顔を見せるだけでも、ありがたく思えというところかしら」と。

●何かおかしい?

 何か、おかしい。
何か、まちがっている。
しかし今は、そういう時代と思って、その上でものを考えるしかない。
子どもたちというより、その上の親たちが、そういう世代になっている。
その親たちに向かって、「子育てとは・・・」と説いても、意味はない。
言うなれば、ドラ息子、ドラ娘になりきった親たちに向かって、ドラ息子論、ドラ娘論を説くような
もの。
意味はない。

 言い換えると、私たち自身が、「甘えの構造」から脱却するしかない。
「子どもたちに依存したい」「依存できるかもしれない」「子どもたちが世話をしてくれるかもしれ
ない」と。
そういう(甘え)から、脱却するしかない。
さらに言えば、「私たちの老後には、息子や娘はいない」。
そういう前提で、自分たちの老後を考える。

●私のケース

 私の息子たちが特殊というわけではない。
見た目には、ごく平均的な息子たちである。
中身も、ごく平均的な息子たちである。
だからこう書くといって、息子たちを責めているわけではない。
しかしときどき会話をしながら、その中に、「老後の親たちのめんどうをみる」という発想が、ま
ったくないのには、驚く。
まったく、ない。
むしろ逆。
こう言う。

「相手の親(=嫁の親)は、〜〜してくれた」「どうしてパパ(=私)は、してくれないのか?」と。

 息子夫婦にしても、「家族」というのは、自分と自分たちの子どもを中心とした(親子関係)を
いう。
目が下ばかり向いている。
が、それはそれでしかたのないこと。
息子たちは息子たちで、自分たちの生活を支えるだけで、精一杯。
私たち夫婦だって、そうだった。
が、それでも、お・か・し・い。

●満62歳にして完成

 ・・・こうして親は、子離れを成しとげる。
(甘え)を、自分の心の中から、断ち切る。
そして一個の独立した人間として、自分の老後を考える。

 というのも、私たちの世代は、まさに「両取られの世代」。
親にむしり取られ、子どもたちにむしり取られる。
最近の若い人たちに、「ぼくたちは、収入の半分を実家に送っていた」と話しても、理解できな
いだろう。
それが当たり前だった時代に、私たちは、生まれ育った。

 が、今は、それが逆転した。
今では子どもの、その子ども(つまり孫)の養育費まで、親(つまり祖父母)が援助する。
それが親(つまり祖父母)ということになっている。

 が、そこまでしてはいけない。
このあたりでブレーキをかける。
かけなければ、この日本は、本当に狂ってしまう。
(すでに狂いぱなし、狂っているが・・・。)

 少し前も、私は「車がほしい」というから、息子に、現金を渡してしまった。
それで私たちは、H社のハイブリッドカーを買うつもりだった。
それについて、まずオーストラリアの友人が、「渡してはだめだ」と忠告してくれた。
義兄も、「ぜったいに、そんなことをしてはだめだ」と言った。
「息子のほうが、今までのお礼にと、新車を買ってくれるという話ならわかるが、逆だ」と。

 私も親バカだった。
息子たちに怒れるというよりは、自分に怒れた。
心底、自分に怒れた。
何日か眠れない日がつづいた。
が、それが終わると、私の心はさっぱりとしていた。
息子たちの姿が、心の中から消えていた。
はやし浩司、満62歳にして、子離れ完成、と。

 それをワイフに話すと、ワイフは、こう言って笑った。
「あなたも、やっと気がついたのね」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 子離れ 親離れ 依存性 甘えの構造 甘え 子どもへの依存性 老後 はやし
浩司 親バカ論)

●親バカにならないための10か条

(1)必要なことはしろ。しかしやり過ぎるな。
(2)求めてきたら、与えろ。先回りして与えるな。
(3)一度は、頭をさげさせろ。「お願いします」と言わせろ。
(4)子どもに期待するな。甘えるな。
(5)親は親で、自分の人生を生きろ。子どもに依存するな。
(6)社会人になったら、現金は、1円も渡すな。
(7)嫁や婿の機嫌を取るな。嫌われて当然と思え。
(8)自分の老後を冷静にみろ。無駄な出費をするな。
(9)遺産は残すな。自分たちで使ってしまえ。
(10)少なくとも子どもが高校生になるころには、子離れを完成させろ。

 何を隠そう、私も、その親バカだった。
「超」をつけてもよいほどの、親バカだった。
ハハハ……と笑って、ここはごまかす。

(参考)(内閣府調査)(共同通信より)

●60歳以上、43%が、孤独死を心配

『内閣府が2日発表した「高齢者の地域におけるライフスタイルに関する調査」によると、誰に
もみとられず亡くなった後に発見される「孤独死」について、60歳以上の高齢者の43%が「身
近な問題」と感じていることが分かった。

 世帯類型別では、独り暮らしの65%が身近と回答、夫婦2人暮らしでも44%が身近だとし
た。大都市に住んでいる人ほど孤独死を心配する傾向が強く、東京23区と政令指定都市に
住む人で47%に上った。人口10万人未満の市では39%だった。

 調査は昨年10〜11月、高齢者と地域社会とのつながりを把握する目的で初めて実施。60
歳以上の男女5千人が対象で有効回答率は70%だった。

 孤独死を身近に感じる理由は「独り暮らし」(30%)が最も多く、「近所付き合いが少ない」(2
6%)、「家族、親せきと付き合いがない」(11%)と続いた。

 また、内閣府が併せて発表した「高齢者の日常生活に関する意識調査」では、将来の日常
生活に不安を感じる人が72%と、5年前の前回調査より4ポイント上昇』(以上、共同通信)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 孤独死 独居老人 老人問題 将来の不安 高齢者問題 老後の心配  はやし
浩司 内閣府調査 高齢者の意識調査 依存性)

  
Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司※

【これからの日本の教育】

●伸びたゴム

++++++++++++++++++

「ゆとり教育」を見直し、今年の4月から、
教科書の厚さが、3割、ふえるという。
しかし一度伸びたゴムは、簡単には、
もどらない。
あるいはどうやって、もどすのか。

フィンランド・メソドと言われる「5つの
柱」を参考に、ここでは具体的に考えて
みたい。

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●フィンランド・メソド

 以前、TK先生より、「フィンランド・メソド」に関する資料を送ってもらったことがある(文科省
資料)。
それによれば、フィンランド・メソドは、つぎの5つに分析される。

(1)発想力
(2)表現力
(3)コミュニケーション力
(4)批判的思考力
(5)論理力

 順に考えてみる。

(1)発想力

 発想力、つまりクリエイティブな考え方について、TK先生から先月、「どうすればいいか」とい
うような質問をもらった。
で、ここでフィンランド・メソドをまねたのでは、パラドックスに陥ってしまう。
「発想力をどうすればよいか」と言いながら、フィンランド・メソドをまねる。
これでは「張り紙をするな」という張り紙を張るようなもの。

 そこで自分なりに、具体的に子どもに与える(設問)として、考えてみる。

+++++++++++++++++

(問1)「食料が不足することで、どんな問題が起きるか、深刻な問題から順に、5つ書きなさ
い」

(問2)「それぞれの問題について、どんな解決方法があるか、3つずつ書きなさい」

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(問1)「科学の進歩は人間にどのような恩恵を与えたか。重大な事実から順に、5つ書きなさ
い」

(問2)「科学の進歩は人間にどのような脅威と恐怖を与えたか。重大な事実から順に、5つ書
きなさい」

(問3)「(問2)について、それぞれの問題を、ではどうすればよいか、3つずつ書きなさい」

+++++++++++++++++

(問1)「インターネットによってもたらされたメリットを、大きなメリットから、順に5つあげなさい」

(問2)「インターネットによってもたらされる、デメリットについて、深刻な問題から5つ、書きなさ
い」

(問3)「それぞれの問題について、解決策を3つずつ書きなさい」

+++++++++++++++++

 以上、思いつくまま、オリジナルの問題を考えてみた。
つまりこれらの問題では、(基本的な常識)の中で、(推論)と(分析)を重ねながら、(論理的な
解答)を考えていくことを、ねらいとしている。
言うまでもなく、発想力が何よりも、モノを言う。

(2)表現力

 ここでいう表現力というのは、作文力ということになる。
頭の中に浮かんだ(抽象的概念)を、いかに(言葉として表現し)、他者に(適切に伝達できる
か)によって、決まる。

 そこでその(抽象的概念)の部分を、「絵」にしたり、「動画」にしたりする。
それを言葉として表現させる。

 たとえば、

(問)「小鳥が死んで悲しんでいる子どもと、それをうしろから、心配そうにのぞきこんでいる友
だちの絵」を見せる。

 「この2人の子どもの気持ちは、どのようですか。このあと、2人はどんな会話をするでしょう
か。またどんな会話をすれば、悲しんでいる友だちの心を、和らげることができるでしょうか。そ
れを400字の作文にして、まとめなさい」

(3)コミュニケーション力

 TK先生は、先日、アクティブ・ラーニング(能動的な学習)という言葉を使った。
英会話教室などでは、以前から使われている言葉である。
教室から出て、実際の現場での会話を通して、英会話を学ぶという方法である。
TK先生が言った意味とは少しちがうかもしれないが、日本の教育では、そういう意味でのアク
ティブ・ラーニングは、たいへん貧弱。

 たとえばオーストラリアの小学校では、教師はつねに子どもたちを戸外へ連れ出し、そこで教
育をしている。
日本ではそういう光景を、めったに目にしない。

 そこでコミュニケーション力ということになる。
わかりやすく言えば、「共鳴性の養成」ということ。
常に相手の立場に立って、ものを考える。
そのためには、ドラマ(演技)性のある教育が望ましい。

 言うまでもなく、欧米では、「ドラマ」という科目が、芸術のひとつとして独立している。
ドラマを通して、そのドラマの中の役者の(心)になりきる。

(問)「あなたは今、京都に向かって急いでいる坂本龍馬です。どんな気持ちで、どんなことをし
ようとしているか、わかりやすく400字で表現しなさい」

(注:欧米では、たとえばシェークスピア劇に登場する人物について、どういう気持ちなのかを、
子どもたちに表現させている。)

(4)批判的思考力

 (批判)はつねに(相対立した概念)から、相互に生まれる。
そこでたとえば、つぎのような問題が考えられる。

(問1)「あなたは死刑廃止論者です。目の前に死刑肯定論者がいることを想定して、相手を説
得するには、どういうふうに言えばよいか、意見をまとめなさい」

(問2)「あなたは今度は、死刑肯定論者です。目の前に死刑廃止論者がいることを想定して、
相手を説得するには、どういうふうに言えばよいか、意見をまとめなさい」

(5)論理力

 (論理)は、(証明された事実)を組み合わせながら、段階を追って、目的とされた(結論)に帰
結することをいう。
「三段論法」という言葉もある。
A=B、B=C、よって、A=C、と。
(証明された事実)というのは、科学性、普遍性、常識性をともなった事実をいう。

(問)「運動をすると、汗をかく。しかし寒い日には、汗をかかない。そこで寒い日に運動をする
と、燃焼された体内脂肪は、どう体内で処理されていくと考えられるか。あなたの経験をふまえ
て、論理的にそれを説明しなさい」

++++++++++++++++

 以上、5つの観点から、フィンランド・メソドを、私なりに考えてみた。
「私なり」というのは、日本の教育ではおろそかになっている部分という意味である。
つまり日本の教育は、「教え育てる」という部分は重要視する(TK先生、指摘)。
しかし「自分で独立して考える」という部分については、システムそのものが、まだ確立していな
い。
「学ぶ」=「まねる」が主体になっている(TK先生、指摘)。

 が、これでは、日本の教育には未来はない。
(日本の教育)=(日本の未来)ということになる。
ゴールドマン・サックス経済調査部の予想によれば、2050年には、日本のGDPは、世界第8
位に転落する。

(中国→アメリカ→インド→ブラジル→メキシコ→ロシア→インドネシアにつづく。
日本のGDP規模は、中国の10分の1程度。)

 そういう近未来を前にして、日本が生き残る道は、ただひとつ。
「教育」しかない。
これは、本腰を入れて、私たちひとりひとりが、真剣に考え、取り組まねばならない問題なので
ある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 日本の教育 フィンランド・メソド 日本の将来 新しい教育 2050年の日本)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司
 
●学力低下(Learning Ability of Japanese students)(2008年1月発表の原稿より)

+++++++++++++++

OECD(経済協力開発機構)が、06年度に、
15か国、15歳、約40万人を対象にした、
「生徒の学習到達度調査」結果が、このほど、
公表された。

それによると、日本の高校1年生(15歳)は、
前回2003年度にくらべ、読解力が、14位から、
15位。数学応用力が、6位から10位になった。

科学応用力も、2位から6位に後退した。

実施3分野すべてで、順位が低下。前回につづき、
高校生の学力低下傾向が、数字で示された形と
なった。(中日新聞07−12−5、要約)

The result of "student's ability of learning", which made 15 countries, 15 years old and 
about 400thousand students done by OECD is announced on Dec. 5th 2007.
According to the result, Japanese the 1st grade (15 years old) in the high school was 
compared with 2003 last time, and reading comprehension ability was downed from the 
15th from the 14th.

The mathematical application ability was the 10th from the sixth prize.
The science application ability was downed in the sixth from the second prize, too.
All decreases in the execution in 3 fields .
It became clearer that the learning abiluity of Japanese students have been downed in 
three fields.

++++++++++++++

●世界の子どもたちの学力(learning Ability of the youth of the wrorld)

(読解力)(Reading Ability)

1位  韓国(Korea)
2位  フィンランド(Finland)
3位  香港(Hong-Kong)
……
15位 日本(Japan)

(数学的応用力)(Math Application)

1位  台湾(Twaiwan)
2位  フィンランド(Finland)
3位  香港(Hong-Kong)
……
10位 日本

(科学的応用力)(Science Application)

1位  フィンランド(Finland)
2位  香港(Hong-Kong)
3位  カナダ(Canada)
……
6位  日本(Japan)

++++++++++++++

 この結果を、小学5年生の子どもたち(6人)に話してみた。子どもたちは、読書につ
いて話し始めた。

I talked about this result to some six kids of Grade 5th of school. They started talking 
about themselves.

 驚いたことに、その中の2人が、1年に、300冊近くも本を読んでいることを知った。
300冊といえば、1日に、ほぼ1冊ということになる。

With my surprise I know two of them are reading 300 books per year. Almost one book a 
day!

 「どうしてそんなにたくさん読むの?」と聞いたら、「学校で、読書競争があるから」と。
中に1人、親から、読書時間を制限されている子どもがいることもわかった。その子ども
は、1日に、1時間までと決められているそうだ。

I asked them why you read so many books a year and one of them told me that there is a 
class-competition of reading. Moreover I was surprised to know that one of them is 
limitied to read books less than an hour a day!

 読書は、あらゆる学力の基本である。社会科にしても、理科にしても、読書が基本。と
くに小学生のばあい、社会科は、社会科的な国語、理科は、理科的な国語と理解するとよ
い。

Reading is essential and we say in Japanese "reading is the pillar of education". As for 
socioloy and scienace, they are only parts of reading.

 が、それだけではない。

But it is not all.

 読書を日常的にしている子どもには、ある種、独特の(深み)がある。沈思黙考タイプ
というか、目つきが、いつも静かに落ち着いている。理知的というか、じっと周囲の様子
を観察しているといった雰囲気がある。

Those kids who read books in their daily life look different from those who do not. Those 
kids who read more books have a kind of a very special mood and they give us an 
impression of deep-thinking. They are more logical and even when we do our 
conversation, they always try to observe things around them.

 読書がいかに大切かは、今さら言うまでもない。欧米では、読書(reading)を、教育の
柱にしている。学校教育は、読書に始まり、読書に終わると言っても過言ではない。

It is no use to say that reading is so important. In western world, reading is one of the 
most important subject to learn. School education starts from reading and it is 
everything.

 一方、読書をまったくと言ってよいほど、しない子どももいる。このタイプの子どもは、
どこか、軽い。中身がない。バラエティ番組の中のタレント風といった感じ。ものの考え
方が、表面的。直感的。よくしゃべる。小学5、6年生になると、その差がはっきりとし
てくる。

On the contrary there are some who do not read books at all. This type of kids also have 
a kind of special mood. They are "light" in thinking and we feel no deepness in their 
thoughts just like TV talents of cheap varaiety programs. They talk a lot. The difference 
comes clear when they are about the age of thre grade 5th.

 さらに日常的に作文をしている子どもは、ものの考え方が論理的。言葉の使い方そのも
のが、ちがう。読書、作文は、子どもの教育の(要=かなめ)と考える。

And also there are some who write things in their daily life. They are more logical and 
when they talk they use more proper words to express themselves. Reading and writing 
are the "pillar" of education, I am quite sure.

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist reading writing learning 
ability of the Japanese students)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●わかりすぎるほど、わかっているが……

+++++++++++++++++

わかりすぎるほどわかっているが、あまりにも
わかりすぎているため、慎重に
ならざるをえない。
こういう場面に出会うことは、よくある。

+++++++++++++++++

●X氏(60歳)のケース

 穏やかでない事件が、起きた。
X氏(60歳)の塀のコンクリート壁が、放火されたという。
見ると、塀の一部が、黒くこげていた。
その下には、枯れ草が燃えた痕跡が残っていた。
X氏はそれを見て、即座に、道路をはさんだ、
隣のY氏のしわざとわかった。

 放火というのは、ふつうのいたずらとは、ちがう。
一線を画す。
そこでX氏は警察に連絡をした。
パトカーがやってきた。
しかしコンクリート壁ということで、そのまま警察官は
帰ってしまった。

 Y氏によるX氏への、(いやがらせ)は、毎年のようにあった。
が、「証拠がない」という理由だけで、X氏は、何もできなかった。
言い忘れたが、Y氏は、何かの痴呆症にかかっていた。
言動がおかしくなって、すでに10年以上になる。

●子どもの世界でも……

 盗癖のある子どもというのは、いる。
盗むのがうまいというよりは、人目を盗むのがうまい。
ちょっと油断したスキに、サッと盗んでいく。
加えて、ウソもうまい。

 が、何年もつきあっていると、同じパターンでそれが起こるため、
その子どもの(しわざ)ということがわかる。
しかし証拠がないため、何も言えない。
いじめの世界でも、似たようなことがある。
もう15年になるだろうか。
いじめについて、こんな原稿を書いたことがある。

+++++++++++++++++++++++

●いじめの陰に嫉妬(中日新聞にて発表済み)

Jealousy often drive man and woman crazy and it is the same in the world of children.

 陰湿かつ執拗ないじめには、たいていその裏で嫉妬がからんでいる。この嫉妬というのは、
恐らく人間が下等動物の時代からもっていた、いわば原始的な感情の一つと言える。それだけ
に扱いかたをまちがえると、とんでもない結果を招く。

 市内のある幼稚園でこんなことがあった。その母親は、その幼稚園でPTAの役員をしてい
た。その立場をよいことに、いつもその幼稚園に出入りしていたのだが、ライバルの母親の娘
(年中児)を見つけると、その子どもに執拗ないじめを繰り返していた。手口はこうだ。

その子どもの横を通り過ぎながら、わざとその子どもを足蹴りにして倒す。そして「ごめんなさい
ね」と作り笑いをしながら、その子どもを抱きかかえて起こす。起こしながら、その勢いで、また
その子どもを放り投げて倒す。

以後、その子どもはその母親の姿を見かけただけで、顔を真っ青にしておびえるようになった
という。ことのいきさつを子どもから聞いた母親は、相手の母親に、それとなく話をしてみたが、
その母親は最後までとぼけて、取りあわなかったという。父親同士が、同じ病院に勤める医師
だったということもあった。被害にあった母親はそれ以上に強く、問いただすことができなかっ
た。

似たようなケースだが、ほかにマンションのエレベータの中で、隣人の子ども(三歳男児)を、や
はり足蹴りにしていた母親もいた。この話を、八〇歳を過ぎた私の母にすると、母は、こう言っ
て笑った。「昔は、田舎のほうでは、子殺しというものまであったからね」と。

 子どものいじめとて例外ではない。Tさん(小三女児)は、陰湿なもの隠しで悩んでいた。体操
着やカバン、スリッパは言うに及ばず、成績表まで隠されてしまった。しかもそれが一年以上も
続いた。Tさんは転校まで考えていたが、もの隠しをしていたのは、Tさんの親友と思われてい
たUという女の子だった。

それがわかったとき、Tさんの母親は言葉を失ってしまった。「いつも最後まで学校に残って、
なくなったものを一緒にさがしていてくれたのはUさんでした」と。Tさんは、クラスの人気者。背
が高くて、スポーツマンだった。一方、Uは、ずんぐりした体格の、どうみてもできがよい子ども
には見えなかった。Uは、親友のふりをしながら、いつもTさんのスキをねらっていた。そして最
近でも、こんなことがあった。

 ある母親から、「うちの娘(中二)が、陰湿なもの隠しに悩んでいます。どうしたらいいでしょう
か」と。先のTさんの事件のときもそうだったが、こうしたもの隠しが長期にわたって続くときは、
身近にいる子どもをまず疑ってみる。

そこで私が、「今一番、身近にいる友人は誰か」と聞くと、その母親は、「そういえば、毎朝、迎
えにきてくれる子がいます」と。そこで私は、こうアドバイスした。「朝、その子どもが迎えにきた
ら、じっとその子どもの目をみつめて、『おばさんは、何でも知っていますからね』とだけ言いな
さい」と。その母親は、私のアドバイス通りに、その子どもにそう言った。以後、その日を境に、
もの隠しはウソのように消えた。

+++++++++++++++++

●韓国の駆逐艦

 韓国の駆逐艦が爆発、沈没してから、もう10日以上が過ぎた。
が、いまだに原因がつかめず、ああでもない、こうでもないと、
議論がつづいている。

 しかしこれなども、だれがやったか、わかりすぎるほど、わかっている。
どんな方法を使ったかも、わかっている。
わかっているが、証拠がないため、だれも何も言えない。
『悪人は、自ら悪あがきをする』というのは、私が考えた格言だが、たまたま
今朝、こんなニュースが、ニュースサイトに載っていた。

 何でも韓国が、K国に対して、砲撃をしかけたというのだ。
肝心の韓国側は、「そんな事実はない」と否定している。
「古い地雷が爆発した可能性はある」とも。

「?」

 もうすぐ駆逐艦が引き上げられる。
爆発、沈没した原因が、わかる。
それを恐れてか、K国は、先手を打った。
つまり悪あがきを始めた。
わかりすぎるほど、わかりきったことなのだが、このばあいも、
証拠がないため、話はここまで。

●口にフタはできない

 わかりすぎるほど、わかっている。
が、証拠がない。
どこかの政党の幹事長の、汚職事件もそうだ。
結局、立件が難しいということで、不起訴処分になってしまった。
が、それでその幹事長がシロというわけではない。
見る人は見ている。

 似たような事件に、昔、アメリカで、ある男性の妻が射殺されるというのがあった。
あの事件のときも、犯人がだれか、わかりすぎるほど、わかっていた。
が、同じように、証拠不十分で、その男性は逃げ切ってしまった。

 しかし世論(=有権者)は、それほどバカではない。
こうした事件を外からながめながら、だれが犯人なのか、しっかりと見抜いている。
それから生まれる(怒り)を、しっかりと心の中にためている。
一見、静かなのは、「証拠がないから」。
理性というブレーキが働くから。
が、行動に出るときは、出る。

 今朝の中日新聞によれば、どこかの政党の支持率は、低下の一途。
33%前後を低迷し、不支持率は、53%を超えた(共同通信社)。
(比例代表投票先では、支持率は、たったの26%!)
どこかの政党の幹事長に対しては、「やめるべき」と答えた人が、81%にも達している。

 ここでいう「どこかの政党」というのは、どこの政党をさすか、
わかりすぎるほど、わかっている。
わかっているが、それを口に出すことはできない。
が、こうして数字には出てくる。

 ……というようなことは、この世の中には、多い。


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

【国家破綻】(Default of Japan)

●国家公務員制度改革

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公務員(職員)の天下り制度にメスを
入れるために、内閣府に、「官民人材
交流センター」がもうけられた(07年
6月)。
それについて当時の渡辺行政改革担当相は、
「細部で骨抜きにされないようにする」と
言っていた。
が、実際は、どうか?
3年たった現実は、どうか?

天下りは、何も中央省庁の公務員(職員)
だけの問題ではない。
こうした天下りは、全国市町村の「村」
レベルでも、慣習的に行われている。
根が深いというか、深すぎる。

つい先日も日本郵政の天下りが、問題に
なった。
「株式会社」になったというのは、あく
までも表向き(?)。
実際には、日本郵政と、天下り先の
癒着(ゆちゃく)ぶりは、以前のまま。
日本郵政は、天下り先となっている外郭団体に
仕事を丸投げ。
本体の日本郵政は赤字でも、外郭団体は、黒字。
我が世の春を謳歌している。

++++++++++++++++++

●ショック!

 ゴールドマン・サックス経済調査部の予測によれば、2050年には、日本はGDPにおいて、
世界第8位に転落する。
中国の10分の1。
アメリカ、インドの5分の1。

 この数字を見てまっさきに思い出いだしたのが、2008年の8月に書いた原稿。
それをそのまま転載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●無給の国家公務員?

そんな国家公務員がいることなど、
私は、今まで知らなかった!

私は、今まで、国家公務員の給料というのは、
(総人件費)÷(国家公務員数)で計算する
ものばかりと思っていた。

しかし無給の国家公務員がいるとなれば、
この算出方法は、役に立たなくなる!

つまり国家公務員の給料は、無休の国家公務員をふやすこと(=分母を大きくすること)
で、ごまかされている?

++++++++++++++++++

 保護司という役職(?)は、「無給の国家公務員」だそうだ。「法務大臣から委嘱(いし
ょく)されたボランティアで、保護監察官と協力して、環境調整と、保護観察の仕事に当
たっています」(保護観察所配布パンフ)とある。

 そしてここが重要だが、別のパンフには、こうある。「保護司は、非常勤で一般職の国家
公務員とされています。給料は、至急されません」と。

 全国のみなさん、わかるか? この不透明感。

 現在、国家公務員や地方公務員が、いったい、いくらの給料を手にしているか、それを
正確に知っている人は、ほとんどいない。公表している団体も、自治体もない。しかし計
算方法がないわけではない。

 そこで国家公務員の給料を知るための、もっとも簡単な方法は、(総人件費)を(公務員
数)で割るというもの。産経新聞は、この方法で、国家公務員(行政職国家公務員)の給
料を算出している。それによれば、全国の行政職国家公務員約33万2000人の人件費
の総額は、4兆6571億円だそうだ(産経新聞・05・06)。

 この数字から計算すると、国家公務員1人当たりの人件費は、何と、年間1403万円
(!)ということになる。(1403万円だぞ! 4兆6500億円÷33・2万人で計算)
そして社会保障費だけで、国家税収、約43兆円の約半分を、使っていることになる(ギ
ョッ!)。

 ちなみに、平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、
つぎのようになっている。

 1人当たりの人件費

    (国家公務員)          ……1403万円(上記算出方法)
     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 みなさん、おわかりか?

 企業規模100人以上の、いわゆる民間の中でも、めぐまれた企業に働く労働者の平均
人件費は、448万円! しかし国家公務員は、1400万円以上! ナ、何と、3倍近
いもの給料(人件費)を手にしていることになる。

 しかし保護司のような、無給の国家公務員までいるとは知らなかった。ということは、(総
人件費)÷(国家公務員数)で、国家公務員の給料を算出しても、意味がないということ
になる。

 その保護司だけでも、全国に、5万2500人(保護司法、第2条第2項、定数)もい
る。この無給の国家公務員、5万2500人を国家公務員に加えて、総人件費を割れば、
当然のことながら、みかけ上、国家公務員の給料は、低く算出される。

 言いかえると、その分だけ、さらに国家公務員は、手厚く保護されることになる。つま
りもし保護司のような無給の国家公務員を、国家公務員としてその数に算入すれば、国家
公務員の給料は、さらにあがることになる! わかりやすく言えば、1403万円という
数字そのものが、あやしくなる! 保護司のほか、無給の国家公務員は、いったい、何人
いるのか? 無給ではなくても、非常勤で、安い給料に甘んじながら、身分だけは国家公
務員という人もいるだろう。そういう人たちは、何人いるのか?

 知らなかった!

 しかしまあ、いろいろなところに、カラクリがあるものだ。日本は官僚主義国家という
ことになっているが、ここまでやっているとは、夢にも思わなかった。全国には、まじめ
な気持ちで保護司というボランティア活動をしている人も多いはず。

 が、その仕事そのものが、別のところで、官僚たちの利益に利用されていると知ったら、
保護司の人たちは、どう思うだろうか。考えれば考えるほど、頭にくる話ではないか!

+++++++++++++++++

昨年(05)書いた原稿を、ここに
そのまま添付します。

+++++++++++++++++

●国家公務員の給料

 このほど、はじめて、国家公務員の人件費が、公表された(産経新聞・05・06月)。

 それによると、全国の行政職国家公務員約33万2000人の人件費の総額は、4兆6
571億円だそうだ※。

 人件費については、たとえば、社会保障費の場合、総額は20兆3808億円と公表さ
れているが、これには335億円の人件費が含まれている。公共事業費など他の項目にも
紛れ込んでいる人件費を抜き出すと、一般歳出総額の9・8%にのぼる(同)。

 つまり、これらの数字から計算すると、国家公務員1人当たりの人件費は、何と、年間
1403万円(!)ということになる。(1403万円だぞ! 4兆6500億円÷33・
2万人で計算。)そして社会保障費だけで、国家税収、約43兆円の約半分を、使っている
ことになる(ギョッ!)。

 この数字を見て、驚かない人はいないだろうと思う。もうメチャメチャな数字と言って
よい。

 その上、天下り、インチキ、ごまかし、諸手当……。もう、何でもござれ!

 が、人件費削減など、どこ吹く風。一方で、人件費削減をにおわせながら、その一方で、
たとえば「地域手当」を、新設。「都市部を中心に、基本給の3〜18%を上積みし、地方
の出先機関に出向した職員も、基本給の3〜6%に当たる(広域異動手当)、最大3年間受
給できる」(同)という。

 道理で、みなさん、3年以内ごとに、人事異動するわけ(?)。これではじめて、そのカ
ラクリがわかったぞ!

 ちなみに、平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、
つぎのようになっている。

 1人当たりの人件費

     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※
(国家公務員)          ……1403万円

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 みなさん、おわかりか?

 企業規模100人以上の、いわゆる民間の中でも、めぐまれた企業に働く労働者の平均
人件費は、448万円! しかし国家公務員は、1400万円以上! ナ、何と、3倍近
いもの給料を手にしていることになる。

 それぞれの国家公務員の人に責任があるわけではないが、こんなところにも、日本が、
官僚主義国家と呼ばれる理由がある。「新社会主義国家」と呼んでいる、社会学者もいる。

 そしてこうした国家、地方の公務員の人件費だけで、38兆円。国家税収の、実に89%
を使っている! (国家税収を、43兆円で計算。)

 私も、同じ日本人だが、こんなメチャメチャな、財政運営をしている国を、ほかに知ら
ない。おまけに、「箱物行政」と言われることからもわかるように、公共の建物だけは、全
国津々浦々、どこへ行っても、超立派! 超豪華!

 それらはすべて、国民からの借金。お金が足りなくなると、(当然、足りなくなる)、赤
字国債(=借金)をどんどんと発行。その額、もうすぐ1000兆円! 国家税収の約4
0倍! それでも足りないから、増税、また増税! が、それでも足りなくなると、介護
保険制度に例をみるまでもなく、直接、強制徴収!

 年収の約25倍の借金をかかえたら、どうなる? ほんの少しだけ、あなたの給料をも
とに、計算してみるとよい。たとえば年収500万円の人なら、2億円の借金ということ
になる!

 あなたなら、どうやって、その借金を、返す?

 まあ、しかし私も、驚いた。本当に、驚いた。もう、知〜らない。ハハハ。ハハハ。

(注※) 平成17年度予算に占める国家公務員の人件費が、一般歳出総額四17兆28
29億円のうち4兆6571億円と約一割に上り、文教・科学振興費に次ぐ多額の支出に
なることが6月15日、財務省などの調べでわかった。公表ベースの歳出項目ごとの人件
費はこれまで明らかにされておらず、それぞれの人件費が「隠れみの」(首相官邸筋)にな
って予算を圧迫してきた形だ。政府は人件費削減によって財政再建を加速させたい考えだ
が、省庁側の抵抗は激しさを増しそうだ(産経新聞)。

(はやし浩司 公務員の給料 人件費 国家公務員の給料 人件費)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●行政改革

 話を戻す。

 「官民人材交流センター」と並んで、国家公務員制度改革では、(1)幹部人事の一元化、
(2)キャリア制度の廃止、(3)政治家と官僚の接触の規制が盛り込まれた。

 幹部人事の一元化というのは、それまでは各省庁の幹部人事については、それぞれの省庁
で決定できたものを、内閣人事局が一元管理するというもの。
それまでは各閣僚が、追認の形で判を押していた。(……だけ。)

 キャリア制度の廃止というのは、それまでは国家公務員T種の合格者のみが、幹部に抜擢
されていたのを、廃止するという制度。
これによって全職員に、幹部登用の機会が与えられるようになった。

 また政治家と官僚の規制というのは、それまでは自由に行き来できたものを、「接触の記録
を文書にして、公開する」というもの。

 これらの行政改革は、目下進行中。
実際に運用されるのは、2013年から。
しかしすでにあちこちで「骨抜き」にされつつある。
「官民人材センター」の骨抜きについては、たびたび書いてきた。
また内閣人事局についても、官僚から抜擢(ばってき)された職員が勤務するのでは、意味が
ない。

●衰退する日本

 肥大化した日本の官僚制度。
このスタグフレーション(物価上昇と景気後退が同時に起こること)すら危惧される中、公務員
たちだけは、どこ吹く風。
我が世の春を謳歌している。
が、こんなことをつづけていれば、日本経済は、ほんとうに破綻してしまう。
ゴールドマン・サックス経済調査部の予想は、まだよいほう。
へたをすれば、さらに日本経済は転落する。
8位の日本以下には、イギリス、ドイツ、ナイジェリア……とつづく。
総人口が日本の3分の1程度しかない韓国が、そのあとにつづく!

 そこで日本が取るべき道は、知的財産の育成と保有。
つまり「教育」。
しかし現在の予算配分では、その充実など望むべくもない。
「どこにそんな金(=マネー)があるのだ!」となる。

 国家税収のほとんどが、公務員の人件費に消える。
足りない分は、国債という借金でまかなう。
しかもそのうちの20〜30%が、土木建設費。
こんなバカげた経済運営をしている国が、ほかに、どこにある!
日本よ、日本人よ、少しは目を覚ませ!

(1)公務員による過剰サービスは、不要!
(2)公務員の職務能率にメスを入れてこそ、「行政改革」。

 私は、それあえず、この2点をあげる。

●国家破綻

 公務員の世界がいかに非効率、非能率であるかは、公務員自身がいちばんよく知っている。
私の知人(元公務員、地方公共団体の元部長)ですら、こう言っている。
「林さん(=私)、公務員の数は2分の1でもいいですよ。3分の1でもいいかな」と。

 そこで「公務員の削減」が叫ばれるたびに、公務員たちは「行政サービスの低下」を口にす
る。
つまり、私たちを脅す。

 もちろん私たち自身にも、問題がある。
「国」に依存心をもちすぎてしまった。

 たとえば私がこの町に住み始めたころには、近くの川沿いの草刈りは、私たち住民の仕事だ
った。
年に2回、みなで草を刈った。
が、今では、それを市の外郭団体が、まとめて請け負っている。
道路に街路樹の落ち葉が落ちても、このあたりの住民は市役所に電話を入れ、苦情を申し立
てている。
こういう私たちの生活習慣が悪循環となり、公務員社会をますます肥大化させている。
公務員に言わせれば、「いくら税金をもらっても、足りない」となる。

 そこで「公務員の削減」となる。
仮に10%減らせば、3・8兆円が浮く。
3・8兆円を、全国600万人の小学生で割れば、1人あたり、600万円強。
3・8兆円という金額は、そういう金額である。

 本来なら40年後を見据えて、日本は国家的な戦略を立てなければならない。
どうあるべきかを考えなければならない。
しかしそういう重要なときに、日本は現在、身動きが取れない状態にある。
よく(公務員の数)を、列車にたとえる人がいる。
日本の国力を(機関車)とするなら、公務員の数は(列車)ということになる。
列車が多ければ多いほど、機関車への負担は重くなる。
動きが鈍くなる。
今はその機関車が動きを止めた状態から、坂の下に向かって後退し始めている。
多くの経済専門家は、異口同音に、こう言う。

 「来年度(2011年)は、国家予算が組めなくなるかもしれない」と。
つまり「国家破綻」!
中国のバブル経済が崩壊したら、その時期はもっと早まるかもしれない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 国家破綻 公務員の人件費 行政改革)

(参考)

●国家公務員の人件費、1403万円!(05年に書いた原稿より)

 このほど、はじめて、(はじめてだぞ!)、国家公務員の人件費が、公表された(産経新聞・0
5年・06月)。

 それによると、全国の行政職国家公務員約33万2000人の人件費の総額は、4兆6571億
円でだそうだ※。

 人件費については、たとえば、社会保障費の場合、総額は20兆3808億円と公表されてい
るが、これには335億円の人件費が含まれている。公共事業費など他の項目にも紛れ込んで
いる人件費を抜き出すと、一般歳出総額の9・8%にのぼる(同)。

 つまり、これらの数字から計算すると、国家公務員1人当たりの人件費は、何と、年間1403
万円(!)ということになる。(1403万円だぞ! 4兆6500億円÷33・2万人で計算。)そして
社会保障費だけで、国家税収、約43兆円の約半分を、使っていることになる(ギョッ!)。

 この数字を見て、驚かない人はいないだろうと思う。もうメチャメチャな数字と言ってよい。

 その上、天下り、インチキ、ごまかし、諸手当……。もう、何でもござれ!

 が、人件費削減など、どこ吹く風。一方で、人件費削減をにおわせながら、その一方で、たと
えば「地域手当」を、新設。「都市部を中心に、基本給の3〜18%を上積みし、地方の出先機
関に出向した職員も、基本給の3〜6%に当たる(広域異動手当)、最大3年間受給できる」
(同)という。

 道理で、みなさん、3年以内ごとに、人事異動するわけ(?)。これではじめて、そのカラクリが
わかったぞ!

 ちなみに、平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、つぎ
のようになっている。

 1人当たりの人件費

     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 みなさん、おわかりか?

 企業規模100人以上の、いわゆる民間の中でも、めぐまれた企業に働く労働者の平均人件
費は、448万円! しかし国家公務員は、1400万円以上! (公務員の平均で、1018万
円!) ナ、何と、3倍近いもの給料を手にしていることになる。

 それぞれの国家公務員の人に責任があるわけではないが、こんなところにも、日本が、官僚
主義国家と呼ばれる理由がある。「新社会主義国家」と呼んでいる、社会学者もいる。

 そしてこうした国家、地方の公務員の人件費だけで、38兆円。国家税収の、実に89%を使
っている! (国家税収を、43兆円で計算。)

 私も、同じ日本人だが、こんなメチャメチャな、財政運営をしている国を、ほかに知らない。お
まけに、「箱物行政」と言われることからもわかるように、公共の建物だけは、全国津々浦々、
どこへ行っても、超立派! 超豪華!

 それらはすべて、国民からの借金。お金が足りなくなると、(当然、足りなくなる)、赤字国債
(=借金)をどんどんと発行。その額、もうすぐ1000兆円! 国家税収の約40倍! それでも
足りないから、増税、また増税! が、それでも足りなくなると、介護保険制度に例をみるまで
もなく、直接、強制徴収!

 年収の約25倍の借金をかかえたら、どうなる? ほんの少しだけ、あなたの給料をもとに、
計算してみるとよい。たとえば年収500万円の人なら、2億円の借金ということになる!

 あなたなら、どうやって、その借金を、返す?

 まあ、しかし私も、驚いた。本当に、驚いた。もう、知〜らない。ハハハ。ハハハ。

(注※) 平成17年度予算に占める国家公務員の人件費が、一般歳出総額417兆2829億
円のうち4兆6571億円と約一割に上り、文教・科学振興費に次ぐ多額の支出になることが6
月15日、財務省などの調べでわかった。

公表ベースの歳出項目ごとの人件費はこれまで明らかにされておらず、それぞれの人件費が
「隠れみの」(首相官邸筋)になって予算を圧迫してきた形だ。政府は人件費削減によって財政
再建を加速させたい考えだが、「省庁側の抵抗は激しさを増しそう」(産経新聞)とのこと。
(はやし浩司 公務員の給料 人件費 国家公務員の給料 人件費)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●固定観念

++++++++++++++++

固定観念。
その固定観念というのは、一度できると
それを打ち破るのは、容易なことではない。
その人の「常識」となって、脳の中で
固定化してしまう。
(だから、「固定観念」という。)
固定化してしまうのみならず、新しい観念の流入を
阻止してしまう。

「私はだいじょうぶ」と思っている人も
いるかもしれない。
「私はいつもものごとをフレキシブルに
考えている」と。

しかし私たちは、無意識のまま、その
固定観念に縛られている。
そしてそれが当たり前と思うあまり、
もっと大切なことを、置き去りにしてしまう。
たとえば……。

+++++++++++++++++

●寸又峡へ

 今日は寸又峡(すまたきょう)という温泉地へ、
やってきた。
静岡県ではよく知られた温泉地である。
JR東海の金谷(かなや)駅から千頭(せんず)へ。
大井川鉄道に乗り換え、そこから寸又峡へ。
(金谷から千頭まで、1時間30分。)

 その寸又峡へは、今回で3度目。
今回は、『翠紅苑(すいこうえん)』という旅館に、一泊することにした。
5つ星の、★★★★★。
寸又峡イチ……というか、「これだけの旅館は、静岡県にも、そうはない」と
言われるほど、評価の高い旅館。
以前からうわさには聞いていたが、そのとおりだった。
玄関を入ったとたん、それがわかった。

都会にある大きな洗練された旅館とは、ちがう。
田舎の小さな旅館である。
が、ズシリとした重みが伝わってきた。
慣れ親しんだ田舎の家を訪れたような、そんななつかしささえ、私は感じた。
 
 で、その途中でのこと。
ここからが「固定観念」の話。

千頭から寸又峡温泉までバスに乗った。
その車内で、またまたあのガイド。
日本独特の、あのガイド。
録音テープによる、あのガイド。

「当地は、江戸時代は○○藩のxxの領地で……何とか何とか」
「中部電力が……何とか何とか」
「発電電力は、十数万キロワット……何とか何とか」
「右手奥に見ます山が……何とか何とか」
「前方に見えてきます山が……何とか何とか」
「ここが峠で、右下の谷は……何とか何とか」と。

 うるさいのなんのと言ったらない。
そういうのが旅のサービスと、バス会社は思い込んでいる。
聞いても、すぐ忘れる。
意味のない情報。
それがなんと40分もつづいた。
こういうのを「固定観念」という。
わかるかな?

 では、外国ではどうか?
……というより、旅には旅の、もっとふさわしいガイドというのがあるはず。
たとえば「このあたりには、ニホンザルやニホンカモシカが出没します。
運がよければ、山の肌にそれを見ることができます。
また木の種類も多く、数百種が生育しています。
春には、20種類以上の野鳥が観察されます。
珍しい鳥にxxがいます」とか、など。

 私たちは静かな旅を楽しむためにやってきた。
自然を楽しむためにやってきた。
社会科の勉強にやってきたのではない。
が、話すほうも、聞くほうも、何も疑問をもたない。
車内ガイドというのは、そういうものと、それぞれが勝手に思い込んでいる。
それが固定観念ということになる。

(ついでに言うと、この時期、ふだんは観光客も少なく、静かな旅になるはずだった。
しかしたまたまどこかの歩く会の人たち、15、6人と乗り合わせた。
その人たちのおしゃべりの、うるさいことといったらなかった。
車内ガイドなど、何も聞いていない。
音声に負けじと、みながさらに大声で話し合っていた。)

●流転

 で、少しまじめな話。

 ますます世の中の動きが速くなってきた。
こうまで動きが速くなってくると、ついていくだけでたいへん。
昨日の常識が、今日は、非常識となる。
が、もっともそれに気づいている間はよい。
動きに合わせて、自分を変えていくことができる。
しかし時として、固定観念にしばられ、世の中の動きを見失うことがある。

 たとえば私たちが子どものころは、「出世」という言葉が、もてはやされた。
「末は博士か、大臣か」と。
そんな言葉もあった。
しかし今は、時代も変わった。
権威主義そのものが、崩壊した。
価値観も変った。
出世主義に替わって、家族主義が台頭した。
ちょうど2000年ごろを境に、この2つが逆転した。

それまでは「仕事のためなら、家族は犠牲になって当然」と、みなが
考えていた。
しかし2000年を境に、仕事より家族を優先する人のほうが、多くなった。
「家族主義」を唱える人も現れた。
(この私のことだが……。)

 が、固定観念というのは、恐ろしい。
60代になっても、70代になっても、さらに80代になっても、
出世主義に毒されている人は多い。
毒されるならまだしも、「私は正しい」と、自分の価値観を他人に押しつけてくる。
言葉に出して言うことはないが、雰囲気でそれがわかる。
そういう人に出会うと、どう話を合わせてよいか、困ってしまう。
またどう話したところで、理解してもらえないだろう。
こんなことがあった。

●ある男性
 
 その人(男性・75歳)はある都市銀行の部長職を最後に、銀行を退職した。
そのあとしばらく子会社の金融調査会社に籍を置いた。
現役時代は、それこそ名刺一枚で、どこの会社でも社長室まで、素通りできた。
輝かしいキャリアである。 
が、退職と同時に悲劇が始まった。

「オレは偉い」といくら叫んでも、だれも相手にしない。
しないばかりか、「あいつはつきあいにくい」と、みながその人を敬遠し始めた。
本来ならここで世の流れの変化に気づき、それに自分を合わせるべきだった。
退職と同時に、自分を変えるべきだった。
しかしそれを認めることは、その人にとっては、自己否定につながってしまう。
出世だけを目標に、家族を犠牲にしてきた。
友人を犠牲にしてきた。
「一社懸命」でがんばってきた。
その結果が「今」ということになる。
まわりの人にしても、「あなたは、もっと大切なものを犠牲にしてきましたね」とは、
とても言えない。

 だからその人は、75歳になった今でも、過去の亡霊にしがみついている。
20歳になった孫娘が2人いるが、そのうちの1人が、工場勤務の工員と結婚することに
なったときのこと。
その人は、孫娘に、こう言って反対したという。
「まともな仕事をしている男と結婚しなさい!」と。

●偏見

 まともな仕事?

 私も・・・と書くのは、今でも気が引けるが、私もこうした偏見に、かなり
苦しんだ。
仕事にまともな仕事も、まともでない仕事もない。
もちろん犯罪がらみの仕事は別だが、稼ぐ金(=マネー)に、名前はつかない。

が、40年前の日本には、「まともな仕事論」というのがあった。
今でも、残っている。
どこかの企業(大きければ大きいほどよい)に勤めて、その年齢にふさわしい地位
で仕事をするのが、「まともな仕事」と考えられていた。
が、それこそまさに士農工商時代の亡霊!

 で、今は私のような仕事をしている人を、「フリーター」という。

フリーターねえ……?
この言葉を考えた人は、相当のセンスの持ち主と考えてよい。
「フリーマン(自由人)」でもない。
「フリー」に「ター」をつけて、ややバカにしたニュアンスを加味した。

が、当時は、風来坊とか無頼(ぶらい)とか、無宿者とか呼ばれた。
そういうレッテルを張られて、社会のワクの外に置かれた。
私もそうだった。
たとえば大手の銀行で、カードを発行してもらおうとしたことがある。
カードがやっと流通し始めたころのこと。
が、「審査の結果・・・」というような返事が来て、拒否されてしまった。
銀行の預金残高を示すコピーをつけて申し込んだが、だめだった。

(念のため申し添えるなら、フリーターが不利なのは、職業的に問題があるからではない。
社会制度上、不利になるようにできている。
日本という国は、どこかの組織に属する労働者については、手厚く保護する。
組織に属さない個人は、保護しない。
公務員とフリーターの(差)を見れば、それがわかる。

しかしこれだけは忘れてはいけない。
むしろ社会の活力、エネルギー、それにダイナミズムは、フリーターと呼ばれる
人たちの間から生まれる。
豊田佐吉も本田宗一郎も、日本を背負って立った人は、みんなフリーターだった!)

 こうした偏見もまた、それぞれの人の固定観念によって生まれる。
その固定観念が集合されて、その時代の社会通念となっていく。
が、それは同時に社会を硬直化させる原因となる。

●これからの日本
 
 話が大上段になるが、これからの日本が、これからの未来を生き残るには、
こうした固定観念を、ひとつひとつ、ていねいに打ち砕いていく以外に、道はない。
何度も書くが、2050年には、このままでは、日本はアジアの中だけでも、
ごくふつうの小さな国になってしまう。
2050年というと、40年後である。
現在の小学生たちが、50歳前後になるころである。

 が、さらに心配されるのは、そこで日本の衰退が止まるわけではないということ。
60年後・・・、80年後・・・。
それを思うと、ぞっとする。
そのときのことを考えて、日本がどうあるべきかを考える。

一説によれば、「アジアもEUのように連合化される」と説く人もいる。
それもそのひとつの選択肢かもしれない。
あるいはアジア大陸を飛び越えて、日本がEUの一員になることも考えられる。
しかし今の日本を思うと、中国や韓国と、連合するということは、ありえない。
その間に横たわる民族的な溝(みぞ)は、あまりにも深い。

 で、固定観念を破る。
たとえば現在、アジアの経済の中心地は、シンガポールである。
東京でもないし、北京でもない。
シンガポールである。
たとえばアジアの経済ニュースは、一度シンガポールに集約され、そこから世界に
発信される。
そのシンガポールは、ありとあらゆる制度を、世界に向けて自由化してきた。
アメリカ人の医師だって、シンガポールでは、自由に開業できる。
アメリカやオーストラリアで取得した資格を、そのまま生かして仕事ができる。
もちろん使用する第一言語は、英語。

 今からでも遅くない。
日本も40年後を見据えながら、これからの日本がどうあるべきかを考える。
そのために私たち1人ひとりがもっている固定観念を、打ち破る。
シンガポールは、40年をかけて、ここまでの地位を築いた。
日本だって、その気になれば、つぎの40年で、現在の地位を取り返すことが
できる。

●具体的に・・・

 言うまでもなく、日本の資産は、「人」。
その人を育てる。
その要(かなめ)となるのが、「教育」。
そこで教育の世界では、こうする。

(1)主要教科以外のクラブ化。
  主要教科は、学校での単位制にする。
  そのほかの科目(語学、絵画、音楽、体育、技術など)は、クラブ制にする。
 「民活」を導入する。

(2)教科書検定制度の廃止と教科書の廃止
 「教科書」ではなく、「テキスト」という感覚にする。
  テキストの選択は、学校単位、教師単位の自由裁量に任せる。
  学力は、各種の検定制度を使って、学外で判断する。

(3)無学年制の採用とカリキュラムの多様化
 「単位制」というのは、無学年制を意味する。
  同時に、カリキュラムはその子どもの能力、才能、やる気に応じて、多様化
  する。
  数学の得意な子どもは、毎日数学の授業を受けられるようにする。
  さらに「電子テキスト」ができれば、学校の外でも、授業は可能になる。
「学校」というワクの中の教育に、こだわらなければならない理由はない。
  これからはそういう時代になる。

 「電子テキスト」というのは、最近アップル社から発売になった、i−Pad
  のようなものをいう。
  それ1台をもっていれば、1台の中に、数百冊分の教科書を保存できる。
  もちろん毎年、更新することもできる。

 少し乱暴な書き方をしたが、ショックを感じてほしかったから、そうした。
ともかくも今の日本の教育に欠けるのは、「活力」。
「教育の活力」ではない。
「子どもたちの活力」。
教師も生徒も、固定観念にしばられ、身動きができないでいる。
子どもたちが窒息してしまっている。
これでは日本の未来は、お先真っ暗!
たとえばここに書いた電子テキストにしても、韓国では2011年から、
すべての学校で採用するという。
が、この日本では、そういう話すら、出てこない。

「予算がない」(つまり、予算的な余裕がない。)
「教科書会社がYESと言わない」(文科省の天下り先になっている。)と。

考え方のひとつとして、参考にしてほしい。

●再び、固定観念

 ただ誤解しないでほしい。
固定観念がすべて悪いというのではない。
それがあるからこそ、日々の生活はスムーズに流れる。
たとえば冒頭に書いた、車内ガイド。
あのガイドにしてもそうだ。
バス会社も、またそのバスに乗る客も、それがガイドというのは、そういうものと
思っている。
だからこそ、問題なく、……というより、それほど深く考えることなく、ガイドを流し、
また客も安心して、それを聞く。
「無難」という言葉は、そういうときのためにある。

 そういうこともあるが、一方で、私たちがもつ固定観念を一度、疑ってみる。
それによって、ひょっとしたら、そこに潜む「真理」に、一歩近づくことができる
かもしれない。
たとえば先のガイドも、20年後には、こう変わるかもしれない。

「……このあたりの開発は、自然保護のため、きびしく規制されています。
野生のニホンザル、ニホンカモシカの保護のため、保護区も制定されました。
保護区の制定のために、地元の人たちが闘ってきた様子は、映画にもなり、
みなさんご存知の通りです……」と。

(はやし浩司 固定観念 固定観念論 こだわり 教育のこだわり 常識 硬直した教育行政 
教育のクラブ化 (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 固定観念 常識論)

++++++++++++++++++++++++++

(補記)

●子どもの活力

 先日、こんなことがあった。
ある生徒の母親から、その生徒にパソコンを選んでやってほしいという依頼を受けた。
こういう依頼は、楽しい。
私は自分のパソコンを選ぶようなつもりで、1台を選んでやった。
同時に、私もそれがほしくなり、同じものを買った。

 で、そのパソコンをその生徒に渡した。
そのときのこと。
ふだんから明るい子どもだった。
活発な子どもで、頭もよい。
そんな子どもだったが、パソコンを渡したとき、さらに別人のようにその子どもの顔が、
輝いた。

 私はその顔を見て、驚いた。
私はその子どもがそんなふうに輝いたのを見たことがない。
すでに6年近くつきあっていたのだが、はじめて見る顔だった。

 「ああ、子どもって、こんなふうに輝くのか!」と。
言い換えると、今の教育には、子どもを輝かせる「力」がない。
もともと子ども本来の立場になって、組み立てられていない。

 どこかのエラーイ先生が、「教育とはこういうもの」と勝手に決め込み、
それを子どもたちに押しつけているだけ。
これでは子どもたちの力を引き出す(=educe)ことはできない。
ばあいによっては、子ども本来がもつ活力を、押し殺してしまうことにもなりかねない。

 日本の教育が、基本的な部分でもつ欠陥は、こんなところに隠されている。
だからこそ私は、声高に訴える。
「教育を自由化しろ!」と。

(はやし浩司 教科書の自由化 教育の自由化 子どもたちの活力 子供の活力 教育の活
力。)

●電子テキスト

 最近、アップル社から、i−padなるものが、発売になった。
値段は、4万円前後とか。

 そこで計算してみる。
それ1台あれば、本体だけで、数百冊分のテキストを収納することができる。
100冊分だけでもよい。
1冊、300〜400円前後として、それだけで、3〜4万円分ということになる。
もちろん必要に応じて、メモリーの内容を更新することもできる。
さらに通信機能をつければ、もっとビジュアルな表示も可能。
テキストを音声で読みあげたり、図形の変化を、動画にして示すなど。
 
 「紙」という資源の節約にもなるだろうが、それについては、おそらく教科書会社
が、猛烈な反対運動をしかけてくるにちがいない。

「電子テキスト(教科書)になったら、私たちは生きてはいかれない」とか何とか。
文科省と教科書会社の癒着については、過去、たびたび問題になっている。
中央官僚たちの天下り先にもなっている。
一筋縄ではいかないだろうが、それがここでいう「硬直性」ということになる。

 しかし長い目で見て、こうした流れは、もうだれにも止められない。
紙製のテキスト(教科書)はなくなり、やがてすぐ電子化される。
参考書や辞書などは、必要に応じて、それぞれの子どもがダウンロードして使う。
そういう時代は、すぐそこまできている。
また日本には、その技術がある。
なのに、どうして日本は韓国のあとばかり、追いかけなければならないのか。

(はやし浩司 電子ブック 電子教科書 教科書の電子化 電子ブック化 (はやし浩司 家庭
教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 電子
教科書)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2010++++++はやし浩司

【寸又峡温泉、「翠紅苑(すいこうえん)」にて】

●『逢わせ屋』

 旅館も、ネットで調べ、ネットで申し込む時代になった。
またそのほうが、料金も安い。
私はいつも、そうしている。

 で、夕食後、2度目の入浴。
湯が体にあたると、ヌルッとした感じになる。
「美人作りの湯」だ、そうだ。

 で、今は、ワイフはテレビを見ている。
番組名は、『逢わせ屋』とかいうもの。
生き別れになった人を、会いたい人の側に立って、探し出すという番組。
今夜見たのは3例だったが、3例とも、生き別れになった親をさがすというものだった。
当初、「他人の不幸を、もてあそんでいる!」と、かなり強い反発を覚えたが、3例とも、
最後には、もらい泣きをしてしまった。
テレビ局の意図はどうであれ、その向こうにある人間ドラマに感動した。
親を探す子ども。
子どもを思う親。
それぞれに複雑な事情があり、それぞれがそれぞれの思いの中で、懸命に生きている。
それに感動した。

●紙一重

 で、その番組に、1人の女性が出てきた。
年齢は35歳という。
女性がいちばん美しく輝く年齢だが、その女性はどこか疲れて見えた。
それもそのはず。
父親がみなちがう、5人の子どもをかかえていた。
しかもシングルマザー。

 話を聞くと、自分を捨てていった父親に一度会って、父親の本心を聞いてみたい、と。
父親が家を出て行ったあと、その女性は、継父に育てられていた。
いろいろあったらしい。
少女のころから、非行グループに入り、荒れるに荒れた。
で、その番組を見ながら、その女性について、当初は、「ずいぶんと勝手な母親だなあ」と
思った。
ここにも書いたように、父親がみなちがう5人の子どもをかかえている。
(5人だぞ!)

 もしそういう子どもたちがおとなになり、同じように、「父親に会いたい」と言ったら、
どうなるのか、と。
その母親は、それぞれの子どもの父親探しを手伝うのだろうか、と。

 が、幸福な人も、不幸な人も、(その女性が不幸と言っているのではない。誤解のない
ように!)、紙一重。
見た目には大きく違っても、紙一重。
不幸な人は、何をやっても裏目、裏目と出て、不幸になっていく。
自分の意思とは無関係に、不幸になっていく。
どうしようもない(糸)に引きずられるうちに、そうなっていく。

 画面を通して話を聞いているうちに、目頭が熱くなってしまった。

●「刷り込み」

 人間にも鳥類に似た、「刷り込み(インプリンティング)」があることがわかって
いる。
生後まもなくから、7か月くらいまでの間が、その時期。
この時期を通して、親子関係(とくに母子関係)は、本能に近い部分にまで、脳の
中に、深く刻み込まれる。
この時期を「敏感期」という。

 で、こういう書き方は、それ自体が、たいへん不謹慎なこととは思う。
思うが、もし番組に出てきた人たちが、敏感期を経験していなかったら、こうまで
涙ながらに親をさがすことはしなかっただろう、と。
たとえば先の女性には、5人の子どもがいる。
みな、父親がちがうという。
ほとんどが妻子もちの、年上の男性という。
話の雰囲気からすると、5人の子どもたちは、生まれながらにして、父親には
会っていないということになる。
ということは、「刷り込み」はなされていないということになる。
つまり将来的に、「お父さんに会いたい」と、涙ながらに訴えることはない。

 不謹慎な書き方になるが、そういう心配はない。
発達心理学的に考えると、そうなる。
言い換えると、その女性がああまで父親に会いたがっていたのは、そこに
「刷り込み」があったからと考えられる。
さらに言い換えると、「刷り込み」による「力」には、それほどまでに強力な
パワーがあるということになる。

 ともかくも、番組の中で、その女性は父親と再会する。
抱き合って再開を喜ぶ。
泣きあう。
それを見て、私も、思わずもらい泣きをしてしまった。
「よかった」と思った。

●残酷な番組

 ……しかし、一言。
 それにしても残酷な番組である。
一見、不幸な人を助けるような番組に思えるが、その実、不幸な人を、食い物に
している。

 本来なら、つまり本当に人助けが目的なら、そうした(人探し)は、人知れず、
それがだれともわからないまま、したらよい。
番組にするにしても、ショー化(=見世ものに)するのは、最小限にしたらよい。
が、見た人ならわかると思うが、最初から最後まで、ただの「ショー」。
「お父さんは……!」と言って、ボックスになった部屋の取っ手に手をかける。
そこでコマーシャル。

 説得に応じて父親が来ていれば、親はそのボックスの中にいる。
そうでなければ、一通の手紙が置いてある。
「さあ、どうかな?」と視聴者に思わせながら、コマーシャル。
これを「ショー」と言わずして、何と言う?

 だいたいテレビ局が、人探しをすること自体、基本的な部分で、おかしい!
テレビ局が、そうした人探しをしているNPO団体なり、探偵社を取材と
いう形で報道するなら、まだ話もわかる。
どうしてテレビ局が、人探しなのか?
どこでどうつながるというのか?

 ……という回りくどい言い方は、やめよう。
こうした番組は、まずプロダクションが企画を出してくる。
「こういう番組なら、視聴率を稼げますよ」とか、何とか言って、出してくる。
それに応じてテレビ局側は、企画会議を開く。
その場でOKが出れば、プロダクション側は、番組の制作に取りかかる。
私はその間のやり取りを、番組の向こうに感じた。
ある種の(薄汚さ)を感じた。
だから、ここに「不幸な人を、食いものにしている」と書いた。

 ついもらい泣きしてしまった私だが、だからといって、こういう番組を支持
しているわけではない。
すばらしい番組だったと言っているのでもない。
低劣番組であることには、ちがいない。
それも、どうか誤解しないでほしい。

●翠紅苑(すいこうえん)

 実名を書いた以上、悪口は書けない。
書く必要もない。
これからその翠紅苑を出て、岐路につく。
料金を少しケチったので、料理はまあまあといったところ。
しかし旅館のもつ雰囲気は、最高!
食堂には、昭和30年代のテレビが並べてあるところかもわかるように、
われら団塊の世代には、グッとくる。

 そう、団塊の世代、お勧め旅館。
風呂もきれいで、清潔だった。
湯質もよい。
先にも書いたが、都会の一流旅館のような洗練された旅館とはちがうが、
一級旅館であることには、ちがいない。
寸又峡という山奥にあることを勘案するなら、「超」をつけてもよい。
私はじゅうぶん満足した。
ワイフと2人で、「よかったね」と言い合って、この部屋を出る。

(交通)
JR金谷駅から大井川鉄道。
1時間30分。
千頭(せんず)で下車、寸又峡温泉行きのバスで、約40分。

では……。


Hiroshi Hayashi+++++++April 2010++++++はやし浩司

●帰りの電車

++++++++++++++++

千頭(せんず)からJR金谷まで。
電車の中で、ほとんど眠っていた。
ワイフも眠っていた。
「昨夜は、よく眠れなかった」と、
一言、つぶやいた。
「旅館のふとんって、寝にくいわ」とも。

JR金谷で、東海道線に乗り換える。
いつだったか昔、オーストラリア人と
同じ行程を旅したとき、そのオースト
ラリア人が、こう言ったのを覚えている。
「電車を乗り換えるたびに、電車が
大きくなっていく」と。

(トロッコ列車)→(大井川鉄道)→
(東海道線)→(新幹線)と。

そのときは、「おもしろいことを言うな」と、
私は思った。

++++++++++++++++

●3人の女性

 目の前の席に、3人の女性が座っている。
民主党の小沢幹事長を、そのまま女性にしたような感じ。
たいへん失礼な言い方とは思うが、顔を見たとたん、そう思った。

3人とも、欲求不満のかたまりといった感じ。
鋭い視線と、それ以上に、不満そうな顔。
「女」であることを、とっくの昔に捨てきっている。
そのオバタリアンたちが、小声だが、間断なくしゃべりつづけている。

 その向かって左隣には、4歳くらいの女の子を連れた南米人。
窓の外の景色を、楽しそうにながめている。

今、その3人の女性たちが、大きなバッグからスルメを出して食べ始めた。
少し前まで、3人そろって、ガムをかんでいた。
恐ろしいほどの迫力。
傍若無人(ぼうじゃくぶじん)。
年齢は65歳前後か。
顔の上半部よりも、下半部のほうが、大きい。
かみつかれたら、痛そう。

 そう言えば、うち1人は、どこか、見覚えがある。
浜松の女性かもしれない。
もしそうだとすると、この原稿は、ヤバイ!
だからこの話は、ここまで。

●女を捨てる

 「人は女に生まれない、女になるのだ」と書いたのは、ボーボワール。
その言葉をもじると、こうなる。
「女は女を捨てるのではなく、女として相手にされなくなる」と。

 ところで60歳という人生の峠(とうげ)に立つと、こんなことが
わかる。
60歳というそのときを見ると、その人は80歳を過ぎて生きるか、
70歳までに死ぬか、おおよその見当がつく。
80歳を過ぎて生きる人は、健康に留意し、それなりの努力をしている。
70歳までに死ぬ人は、酒を飲み、タバコを吸い、運動もほとんど
していない。
もちろん何かの大病をすれば話はちがってくるが、ひとつの目安としては
正しい。

 人間性も、またしかり。
60歳というそのときを見ると、その人がやがてオバタリアン(オジタリアン
でもよいが)になっていくか、それなりの人間性を保持していくか、おおよその
見当がつく。
(その3人の女性のことを書いているのではない。誤解のないように!)

 人間性を保持していく人は、それなりの努力をしている。
そうでない人は、そうでない。
日々を怠惰に過ごしながら、怠惰に過ごしているという意識すらない。
また「そうであってはいけない」と、自分にムチを打つこともない。
むしろ、「私は完成された人間」と、居直ってしまう。
そのとたん、その人がもつ人間性は、かぎりなく後退していく。

●温泉で……

 今朝は、5時ごろ起きて、温泉につかった。
出て脱衣所のところで、72歳という男性と知り合いになった。
長く造船所で、造船技師をしていたという。
退職後は、パイプに内側に、塩ビを張りつける……というような特殊な
仕事をしていたという。
健康的な肉体。
シャキシャキとした、話し方。

 私はその男性を知ってうれしくなった。
「健康の秘訣は何ですか?」と聞くと、こう話してくれた。
「朝と夕に、毎日2回、45分間ずつ、散歩をしています」
「それと食事には、たいへん気をつかっています」と。

 私はその男性を見ながら、「ぼくも、まだまだがんばれる」と実感した。
私より10歳、年上ということになる。
あとでワイフに、「ぼくはまだ、10年はだいじょうぶだよ」と告げた。
その男性の話をした。

 健康でがんばっている男性と話をするのは、楽しい。
生きる力そものを、もらうことができる。
それに生きる目標になる。
 
 電車はあと数分で、JR浜松駅に到着する。
では……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 ボーボワール 人は女に生まれない。女になる 女は女に作られる 健康 寸又
峡温泉 シモーヌ・リュシ=エルネスティーヌ=マリ=ベルトラン・ド・ボーヴォワール )


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2010++++++はやし浩司

●「20年したら灰になってる……」(老人問題)(改)

●老人よ、若者たちの世界で、もっと意見を言おう!

+++++++++++++++++

最近、……ここ10年のことだが、
若者たちの老人観が、急速に変わりつつある。
あるチャット・サイトでの議論の1つを
紹介する。
この中で、若者たちは、こう言っている。

(1)老人の医療費は無駄……どうせ20年もしたら、灰になって死ぬから。
(2)寿命を半年短くすればよい……医療費の半分は、死亡前の6か月に使われる。
(3)老人の延命は、税金の無駄遣い以外のなにものでもない、と。

 誤解があるといけないので、そのまま紹介させてもらう。
これはほんの一部で、こうした議論が、延々とつづく。
ここに紹介するのは、その議論の結論的な部分。

++++++++++以下、転載+++++++++++

……生活保護受給者は死ねとか、低年収の者は生かさず殺さずとかってならわかるけどな。 
道徳的には別として。 

136 名前:名無しさん@十S年 

国家予算の大半が、老人の、介護、年金、医療費に費やされて破綻寸前なわけだが。 
老人にいくら金使っても、20年したら灰になってるんだから、完全な無駄だ。 

137 名前:名無しさん@十S年

お前も老人になるんだよ 
まさか自分は年を取らないとでも思ってるの? 

138 名前:名無しさん@十S年

医療費の半分は、患者の死亡前6ヶ月以内に使われている。 
平均寿命をたった半年短くするだけで、医療費は半減できる。 

139 名前:名無しさん@十S年 

元気で長生きするのは良いが、病気なら無駄な抵抗は止めて、さっさと死なせるべき。 
老人の延命など、医療資源の無駄遣い以外のなにものでもない……。 

++++++++++以上、転載+++++++++++

●「20年したら灰」

 「20年したら灰」?
平均寿命(約80歳)から逆算すると、私たちの年代ということになる。
80−20=60。
つまり私たち60代の人間をさして、「20年したら灰」と。
この言葉には、少なからず、ショックを受けた。
本音と言えば、本音。
若者たちが抱いている本音。
しかしこんな本音が、今、少しずつだが、表の世界に出始めている。

●医療費の半分

 医療費の半分は、患者の死亡前6か月以内に使われているとか。
私もこの事実を、(これが事実であるとするならばの話だが)、知らなかった。
だからその若者は、「平均寿命を半年短くすれば、医療費は半減できる」と。

 人間の命を、「数字」に置き換えているところが、恐ろしい。
私たちにも青春時代があったが、そういう視点で老人や医療費を考えたことはない。
平均寿命が年を追うごとに延びていくことを、率直に喜んだ。
「世界一の長寿国」と言われることを、誇りに思ったこともある。

●無駄な抵抗

 「病気なら無駄な抵抗は止めて、さっさと死なせるべき」と。
このセリフは、私たちが使うなら、問題ない。
私自身も内々では、そう言っている。
が、あくまでもそれは、(私個人)についての話。
「家族に迷惑をかけるくらいなら、さっさと死にたい」と。
しかし一般論として、若者たちに言われると、驚くというより、ぞっとする。

●40年後の心配

 私はこの年齢になっても、40年後の心配をしている。
2050年には、日本はアジアの中でも小国になってしまう(G・S経済調査部)。
が、それにとどまらない。
資源がないから、「所得」はとどまることなく、「流出」する。
日本は世界第一の、所得流出国。
わかりやすく言えば、50万円稼いでも、そのうちの何割かは、
そのまま外国へと流出していく。
ほんのちょっとつまずいただけで、貧乏国へと、そのまま転落してしまう。
日本の経済構造は、基本的に、そうなっている。

この数日間、それについてエッセーを書いてきた。
しかしこのチャットを読んだとき、空虚感を伴った、バカらしさを覚えた。
「どうしてこの私が、40年後の日本を心配しなければならないのか!」と。

●幻の繁栄

 「今に見る経済的な繁栄は、私たちが作った」などとは、言わない。
若者たちに恩を着せる意図は、みじんもない。
が、私たちはがむしゃらに生きてきた。
私たち自身のために、がむしゃらに生きてきた。
「ひもじさ」の恐ろしさを知っている。
その「ひもじさ」から逃れるため、がむしゃらに働いてきた。
その結果として、現在の繁栄がもたらされた。

 しかし今の若者たちは、(ボットン便所)から(水洗便所)になったときの、
あの喜びを知らない。
車を運転し、アメリカのジュースを飲むときの、あの喜びを知らない。
その気になれば、毎日だって寿司を食べられる、あの喜びを知らない。
が、私たちは知っている。
私たちはそのつど、「ぼくたちはすごいことをしている」と、それを喜んだ。

 が、若者たちよ、これだけは忘れないでほしい。

 現在のこの繁栄は、薄い氷の上に、かろうじて乗っている幻のようなもの。
壊れるときには、あっという間にこわれる。

●今の若者たちへ

 もちろんこうした意見は、若者たちの中でも、一部のひとたちのものである。
みながみな、そう考えているわけではない。(……と信じたい。)
ただこのことも、どうか忘れないでほしい。

 私たちにも、今の若者たちと同じような青春時代があった。
そのときも、今と同じような青い空があり、緑の山々があった。
その色は、この年齢になっても、まったくあせていない。
つまり私が言いたいのはこのこと。
肉体という「箱」は、ボロボロになっても、中身は同じ。
若いときも、老いた今も、同じ。

 若者たちから見れば、用なしの役立たずに見えるかもしれないが、私たち自身は
そうは思っていない。
何かしたいと願っているし、だれかの役に立ちたいと思っている。

 が、ひとつだけ大きくちがう点がある。
それは私たちには、未来がないということ。
どこをさがしても、ない。
「20年たったら、灰」というのは、あまりにも明白な事実。
あまりにも明白であるがゆえに、そんな残酷なことを、わざわざ口にしないでほしい。
私たちを、さらなる悲しみへと、追い込まないでほしい。

 私たちだって、懸命に生きてきた。
今も、懸命に生きている。
老人の仲間になったからといって、心に刺さる矢の痛さが、軽くなるということはない。
今の若者たちと同じように、痛い。

●では、どうすればよいか

 ともかくも否定的なことばかりを考えてはいけない。
若者たちを批判しても、意味はない。
私たち老人にも、いろいろと問題はある。
それは認める。
では、どうすればよいのか。
それを前向きに考える。

 これには2つの方向性がある。

(1)私たち老人は、どうあるべきか。
(2)若者たちに、どう「命」を教えていくべきか。

 この2つを考える。

●老人は、どうあるべきか

 老人は人生の先輩である。
よりよく生きるための知恵やノウハウをもっている。
それをもっと生かしながら、老人は老人としての存在感を高める。
肉体で勝負できなければ、精神で勝負する。
決して老人という(隠居の世界)に、安住してはいけない。

 私たちにも、(やるべきこと)がある。
その(やるべきこと)を見つけ、それを現実化していく。
若者たちの目から見たとき、「老人がいなければ、困る」というような状況を、
老人たち自らが作っていく。

 たとえば私は以前、「60歳からの徴兵制度」について書いた。
満60歳になったら、2年間、不定期でもよいから、軍事教練を受ける。
軍事教練が無理なら、せめて銃や大砲の使い方くらいは、覚える。
いざとなったら、予備兵として、日本の防衛に立ちあがる。

 ……というようなことを、老人の立場で、もっともっと主張してもよいのでは
ないか。
さがせば、やるべきことは、いくらでもあるはず。

●命の教育

 しかし、それにしても……。
教育の立場で、一言。

こういうことを平気で書き、論ずる若者たちがいること自体、教育の敗北と
とらえてよい。
もちろん政治も悪い。
正義を示せないばかりか、政治そのものが、利権・欲得の追求の場になっている。
で、「教育だけは……」と思いたいが、その教育までもが、受験を目的とした
予備校化している。

 先のチャットサイトの少し前では、こんな議論もなされている。

++++++++++以下、転載+++++++++++

110 名前:名無しさん@十S年 

少なくとも、年収200万以下の税収のたしにもならん低所得者に医療を与える必要はないだ
ろ。 
所得比例で健康保険料取ってるんだから、使える医療費も、所得比例で上限を作ればいい。 
上限を超えたら、治療中断して諦めてもらう。 
年収200万の低所得者を、何千万も掛けて治療するのは無駄だよ。 
50万の価値しかない車を、100万使って修理するようなもの。 
111 名前:名無しさん@十S年 

貧乏人は早く死ぬ方が経済にはプラス。 
患者を治療するかどうかは、治療してまた働かせる方が得か、死なせる方が得かで判断する
べき。 
社会復帰すれば年収1000万の患者と、社会復帰してもせいぜい年収300万の患者じゃ、治療
の経済価値が違う。 
年金を食いつぶすだけの高齢者なんか、治療の経済価値はマイナスでしかない。 
今でも、家畜を対象としてる獣医はそうやってる。 
患畜を治して太らせてから出荷する方が得か、さっさと殺す方が得かの判断で、治療するかど
うか決める。 

え?人の命は地球より重いだって? 
平和ボケ乙 

112 名前:名無しさん@十S年

余命幾日なんて、厳密に予言できるものではないけどなー 
割と適当よ 

++++++++++以上、転載+++++++++++

 つまり「命の教育」といっても、学校という場でなされる教育をいうのではない。
私たちがそのつど、若者たちと接する場で、直接的になされる教育をいう。
そういう場で、それを示すことができればそれでよし。
そうでなければ、それこそ私たちは、いったい何のために生きてきたのかということに
なる。
何のためにがんばってきたのかということになる。
私が今、感じている敗北感は、それに近い。

 ちなみに、私もこれからは、こうしたチャットサイトにどんどんと参加して、
自分の意見を書いてやる。
私たちの生き様を示してやる。

●終わりに……

 こうした若者は一部と思いたいが、しかし先にも書いたように、こういう意見が
(表の世界)に出てくるようになった。
そのこと自体が、問題。
またこういう(力)が、現実に世の中を、そういう方向に動かし始めている。
そこに私は近未来的な恐怖を感ずる。

 ……というより、これはもう「覚悟」の問題かもしれない。
現在、がんを患い、闘病生活を送っている義兄(75歳)もこう言った。

「浩司君(=私のこと)、治療にも暗黙の申し合わせ事項のようなものがあってね、
満75歳以上のがん患者については、どうも手術はしないことになっているらしい」と。

 その「75歳」が、やがて「70歳」になり、さらに「65歳」になる。
そういう時代が、すぐそこまで来ている。
私たちはそれを覚悟するしかない。
覚悟して、その上で、これからの老後を考えるしかない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●老人よ、パソコン片手に、もっと若者たちの世界に切り込んで行こう!
●老人よ、携帯端末機を片手に、もっと若者たちの世界で、意見を言おう。


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●さあ、今日も始まった!(4月9日)

●畑作

+++++++++++++++++++++

1週間ほど前、畑に苗を植え足した。
キュウリやシシトウの苗など。
そのうちの数本が、枯れ始めた。
トマトも寝ころんだまま。
「風のせいだろう……」と思っていた。
しかし葉先から枯れ始めているところをみると、
肥料の与えすぎ(?)。
昔からこう言う。
『肥料のやりすぎは、根を枯らす』と。
教育の世界でも、よく使われる格言である。

で、昨日、近くのショッピングセンターで、
新たに10本あまりを、買い足してきた。
ところが、である。
店で見たときは、生き生きとしていた苗だが、
もって帰って家で見ると、みな、横に倒れて
しまっていた。

店で並んでいるときは、密集した状態。
おまけに屋根の下。
つまり「温室」。
苗がみな、ヒョロヒョロになっていた。
気がつかなかった。
で、分けたとたん、自分では体を
支えきれなくなってしまった。

『温室育ち、外の世界で、すぐ風邪をひく』
という。
これも教育の世界で、よく使われる格言である。
昨日買ってきた苗は、まさにそれ。
「大きく育っているから、安いな」と思った。
背丈は、15〜20センチくらいになっていた。

しかたないので、ビニールで囲った上、細い
棒で茎を支えてやった。
ワイフは「たぶん、だめね」と言う。
私もそう思うが、しかしだからといって、
見捨てるわけにはいかない。

あとは、その苗のもつ生命力に期待するしかない。
育つものは、育つ。
育たないものは、育たない。

ところで、教訓。
あの苗というのは、「大きいから安い」と
考えてはいけない。
小さくても、茎が太くて、しっかりしたものを買う。
こんなことはこの世界では常識で、私もよく知っていた。
畑作をするようになって、もう25年以上になる。
が、今回、失敗した。
なぜだろう?
「ショッピングセンターで売っている苗だから、
だいじょうぶだろう」と思ったのが、まちがいだった。
そそくさと、あわてて買ったのもいけなかった。

これから先、こういうミスが多くなりそう。
気をつけよう。
つまり油断というより、注意力が散漫になる。
それが失敗につながる。
なにごとも慎重に!

+++++++++++++++++++++++

●作曲(リズム音)ソフト

 オーストラリアの友人が、おもしろいソフトを届けてくれた。
「aM Laboratory」というのが、それ。
称して、「作曲ソフト」。
正確には、「リズム作成ソフト」と書くべきか。
日本ではまだ紹介されていない。(……と思う。)
製品版では、YAMAHAが似たようなものを出している。
しかしこの「作曲ソフト」は、無料。

 昨夜、私も一通り遊んでみた。
結構、楽しかった。
おもしろかった。
方法は簡単。

 ブロックになったマスが現われるので、適当にあちこちを左クリック
する。
たとえば漢字の「林」となるように、クリックしてみるなど。
それで自動的に音楽(リズム)が始まる。
消去するときは、(スペース・バー)を押せばよい。

興味のある人は、(↓)から。

http://lab.andre-michelle.com/tonematrix

 リズムに合わせて、何か適当な歌を口ずさんでみるとよい。
説明書きによれば、i−phoneの着メロとして、張りつけることが
できるとか。
(残念ながら、私は、i−phoneを使っていない。)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【貪欲とは】

●自分を「縛(しば)る」もの

 私たちの体は、無数の「糸」によって、縛られている。
社会の糸、家族の糸、過去の糸、生い立ちの糸、能力の糸、年齢の糸、健康の糸
……などなど。
そうした「糸」が、ときとして私たちの進むべき道を決めてしまう。
それを「運命」というなら、人間には、「運命」がある。

 ただ誤解してはいけないのは、私はスピリチュアル(霊的)な、運命というものは
認めない。
ここでいう「運命」というのは、無数の「糸(ファクター)」が集合したもの。
「結果として、そうなる」というだけ。

 もちろんそうした「糸」と、闘うことはできる。
進むべき道は決まっているとは言いながら、糸は糸。
進むべき道を、自分の力で変えることもできる。
だから運命というのは、それを通り過ぎたとき、はじめてそこにあったことを知る。
先に、「私たちの進むべき道を決めてしまう」と書いたが、それは決定的なものではない。
またそう考えてはいけない。
運命を感じたとしても、それに身を任せてはいけない。

 で、もちろんその「糸」には、強弱がある。
強い「糸」もあれば、弱い「糸」もある。

●強い「糸」

 強い「糸」は、当然のことながら、私たちの体を縛りつけてくる。
たとえば親の介護がある。
現在、私の友人のNG氏は、その介護をしている。
数日前に届いたメールには、こうあった。

 「母は目が見えないため、2時間おきに介護しなければなりません」と。

 介護がいかにたいへんなものであるかは、私にもよくわかる。
1日とて、……というより、1時間とて、気が休まるときがない。
私の母のばあいも、1年目は、私の家にいて、2年目は、特養に入居した。
特養に入居したからといって、それで気が楽になったわけではない。
電話のベルが鳴るたびに、「もしや……」と思った。
何かのことで外泊するときもそうだった。

 まず特養へ電話を入れて、様子を聞く。
外泊先からも、電話を入れて、様子を聞く。
心の壁に、何か、重い鉛が張りついたような感じになる。
私がいう「糸」というのは、それをいう。

●あきらめて、受け入れる

 こうした「糸」を考えるときには、ひとつのコツがある。
(自分の力では、どうしようもない糸)と(自分の力で、何とかなる糸)。
まず、この2つを分ける。
(自分の力では、どうしようもない糸)については、あきらめて、受け入れるしかない。
親の介護も、そのひとつということになる。
いくら「いやだ」と思っていても、あきらめて、受け入れるしかない。
へたにあがいたり、もがいたりすれば、運命はキバをむいて、私たちに襲いかかってくる。
が、ひとたびあきらめ、受け入れてしまえば、運命は、向こうからシッポを巻いて、
逃げていく。

 私のばあいがそうだった。
それまで姉から、さんざん苦情を聞かされていたから、母の介護をすることについて、
少なからず、私はおびえていた。
しかしひとたびそれが始まってみると、私は、こう思った。
「子どもの世話より、はるかに楽」と。
「少なくとも、孫の世話より、はるかに楽」と。

 私の家に来た直後……というより、車で浜松へ来る途中から、母は下痢を繰り返した。
いろいろあった。
母との間には、いろいろあった。
しかし母の汚れた体を拭いてやったその瞬間、それまでのわだかまりが、ウソのように
消えた。

 たいへんは、たいへんだったが、その直後から、母の介護を日課のひとつとして、
こなすことができるようになった。

●貪欲な人

 同じ「糸」でも、今度は(外面的な糸)と(内面的な糸)に分けることができる。
ここに書いた母の介護は、言うなれば(外面的な糸)ということになる。
これに対して、(内面的な糸)がある。
(心の糸)と言い替えてもよい。
仏教的に表現すれば、「貪欲の糸」「執着の糸」「ねたみの糸」などが、それに含まれる。

 本当に恐ろしいのは、こうした(内面的な糸)ということになる。
「私」自身が、操り人形のように、その「糸」に操られてしまう。
操られながら、操られていることにすら、気づかない。
私が私でなくなってしまう。
それこそ運命の中に、埋没してしまう。
だから、恐ろしい!

 ある男性は、まさに金(マネー)の亡者だった。
明けても暮れても、考えるのは、金のことばかり。
自分の妻ですら、家政婦、あるいは従業員くらいにしか考えていなかった。
もちろん家族への思いなど、ゼロ。
「仕事のためなら、家族は犠牲になって当然」と考えていた。

 もちろんケチ。
法事のお返しに、100円ショップで買った商品を包んだというから、ふつうではない。
すべての価値を、金に置き換えていた。
人間関係も、損得計算をしてから決めていた。
貪欲な人というのは、そういう男性のことをいう。

 で、問題は私たち自身。
そういう男性を身近に見ると、だれしも、「私はちがう」と思う。
「私は、あいつとはちがう」と。
しかしその実、それほどちがわない。
程度の差こそあれ、みな、同じ。
というのも、貪欲かどうかは、あくまでも相対的なもの。
マザーテレサのような女性から見れば、この日本には、貪欲でない人はいない。
またどんな貪欲な人でも、どこかの国の、あの独裁者と比べたら、聖人のようなもの。

 「執着」「ねたみ」についても、また同じ。

●魂のかいほう

 「自由」とは、こうした「糸」からの解放をいう。
とくに(内面的な糸)からの解放をいう。
一言で言えば、「魂の解放」をいう。
好き勝手なことをするのを、「自由」とは言わない。

 で、キリスト教というと、「愛の宗教」と考えている人は多い。
しかしキリスト教には、もう一本の柱がある。
それが「自由」。

 つまり横軸を「愛」とするなら、縦軸が「自由」ということになる。
これは私の勝手な解釈によるものだが、この両者があいまって、私たちは「渇き」、
つまり「孤独」から解放される。
言うまでもなく、「孤独」ほど、恐ろしい「罪(sin)」はない。
仏教でも、「無間地獄」と位置づけている。

 簡単に図示してみると、こうなる。
          
          自由
          |
          | 
  愛ーーーーーーーーーーーーー愛
          |
          |
          自由

 「愛」については、何度も書いてきたように、「許して、忘れる」。
英語では「Forgive & Forget」。
「どこまで相手に愛を与えるために許し、どこまで相手から愛を得るために忘れる」か、
その度量の深さで決まる。

 「自由」については、ここに書いたように、「魂の解放」をいう。

●さあ、今日も始まった

 ともかくも、私たちの体は、無数の糸によって、がんじがらめになっている。
私たちは日々に、その糸の中で、もがき、苦しむ。
「それが人間」と言えば、相手によっては、たいへん失礼な言い方になることは
よく知っている。
しかし私たちがなぜ、ここにいて、なぜ生きているかと聞かれれば、それから生まれる
無数のドラマに価値があるからということになる。

 平凡は美徳だが、その平凡からは何も生まれない。
ヘタをすれば、ただ息(いき)ているだけという状態になる。
これには老いも若きもない。

年老いても、(生きている)人は、いくらでもいる。
若くても、ただ、(息ている)人は、いくらでもいる。
前にも書いたが、「老い」は、肉体という(入れ物)では決まらない。
年齢という(数字)でも決まらない。
中身。
中身で決まる。
今、どう生きているかで、決まる。

 また人間が生きる美しさは、運命と闘う、そのドラマの中から生まれる。
またそのドラマに価値がある。
それが真の幸福につながる。
あのトルストイもこう言っている。

『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛
すること。信ずること』(第五編四節)と。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。
一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、
最終的には幸福になるピエール。
そのピエールの言葉である。

 ……ということで、今朝も始まった。
4月9日。
昨日は長男の誕生日だった。
みなで温泉へ行き、レストランでパーティを開いた。
楽しかった。

+++++++++++++++

(付記)貪欲さについて

●あらゆる動物において、もっともはげしい欲望は、肉欲と飢餓である。(アディソン「スペクテ
ーター」)

●われわれをいちばん強く支配する欲望は、淫欲のそれである。
この種の欲望は、これで足りるということがない。
満足させればさせるほど、ますます増長する。(トルストイ「読書の輪」)

●貪欲は、偶像礼拝にほかならず。(新約聖書・コロサイ人への手紙)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 自由論 運命論 糸論 貪欲論 生きる意味 愛と自由)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

【教育のダイナミズム】

●教育の自由化論byはやし浩司

++++++++++++++++++

読売新聞の調査結果が、韓国の東亜B報に
掲載された。

(日本)→(韓国)→(日本)と迂回した
ことになる。
興味深い調査結果だったので、ここに
収録させてもらう。

++++++++++++++++++

●居眠りする高校生

++++++++++++++以下、東亜N報より++++++++++++++

「韓国人生徒は居眠りし、日本人生徒はぼうっと座っていて、米国人生徒は食べたり、私語が
やまない…」 
日本の文部科学省傘下の教育機関が、韓国や米国、中国、日本の4カ国の高校生を対象
に、授業に臨む態度について調査した結果、国ごとにこのような傾向を見せたと、読売新聞が
8日付で報じた。今回の調査は、4ヵ国の高校生6200人を対象に、昨年夏から秋にかけて実
施された。 
この調査の結果によると、韓国人生徒らの32.3%が授業時間に居眠りするのを、「普通の
行動」、または「たびたびおこなっている行動」だと答え、日本(45.1%)に次き2位だった。一
方、米国や中国人生徒らはそれぞれ20.8%と4.7%に止まった。韓国人生徒らはまた、「授
業内容をノートにこまめに書いている」と回答した比率は68.1%と、日本(93.1%)や中国
(90.1%)、米国(89.1%)より低かった。「授業時間に積極的に発表する」という回答も、韓
国人生徒らは16.3%に止まり、米国(51.5%)や中国(46.2%)より一段と低かった。 
一方、日本人生徒らは、「(授業時間に)ぼうっと座っている」という回答が45.8%と、米国(5
9.4%)と同様高い割合を示した。また、米国人生徒らは、「隣の友人と私語をする」や、「授
業中におやつを食べる」という回答もそれぞれ64.2%と46.9%と、4カ国の生徒のうちもっ
とも高かった。また、「メールを送ったり、授業内容とは関係のない本を読む」という生徒も、3
8.9%ともっとも多かった。 
一方、中国人生徒らは、授業への参加度が高く、授業態度も全般的に良好であり、韓米日の
生徒らとは対照的な姿を見せた。

++++++++++++++以上、東亜N報より++++++++++++++

●データの整理

(授業中、居眠りをしている)

居眠りについて、「普通の行動」、または「たびたびおこなっている行動」

    日本人    45.1%    
    韓国人    32.3%
    アメリカ   20.8%
    中国      4.7%

(授業内容をノートにこまめに書いている)

    日本人    93.1% 
    中国     90.1%
    アメリカ   89.1%
    韓国人    68.1%

(授業時間に積極的に発表する)

    アメリカ   51.5%
    中国     46.2%
    韓国     16.3%

(授業時間に、ぼうっと座っている)

    アメリカ   59.4%
    日本     45.8%
    
 結論として、「中国人生徒らは、授業への参加度が高く、授業態度も全般的に良好であり、韓
米日の生徒らとは対照的な姿を見せた」とのこと。

●「必須科目」という幻想

 この数字を見ただけで、日本の子どもたちが今、学校でどのような様子なのか、よくわかる。
参観日に見せる様子を、(すべて)と思ってはいけない。
あれはあくまでも、「ショー」。
ショーということは、あなた自身が、いちばんよく知っているはず。

 では、どうすればよいのか?

 私はいまだに「必須科目」という科目の意味がよくわからない。
たとえば私は毎年暮れに発売になる、「IMIDAS」という総合用語辞典がある。
私は毎年、その本を買っている。
で、一度、「必須科目」と言われる科目に相当する部分が、どの程度の分野なのか、こまめに
調べたことがある。
そのとき、私は、「学校で習う分野(内容ではなく、分野)は、20分の1から、30分の1であるこ
とを知った。

(たったの20分の1だぞ!)

 その20分の1のことのために、それを「人格形成に必要不可欠な知識、教養」と思いこまさ
れ、日夜学校でしごかれている子どもが、あわれ。

 ちなみにオーストラリアでは、「キャンピング」という科目が、必須科目(コンパルサリィ)になっ
ている。
理由を聞くと、「荒れ地で独りになっても、生きていかれるように」と。
また語学にしても、フランス語、ドイツ語に並んで、中国語、日本語、インドネシア語から選択で
きる(中1レベル)。
インドネシア語が選択できるのは、「隣国だから」と。

以前書いたエッセーを、ここに紹介する。
日付は、2007年の9月になっている。

++++++以下、2007年9月、発表のエッセーより++++++++

●実用的なことを教える

++++++++++++++

この日本では、実用的なことを
教えるのは、邪道であるというふうに
考えている教師は多い。

統計的な数字があるわけではないが、
そういう風潮は、たしかにある。

このことは、アメリカの中学校で
使う教科書と比較してみると、
よくわかる。

アメリカの中学校では、「中古車の
買い方」(代数)というテーマから
数学の学習に入る(プレンティス版、
「代数」)。

金利計算(=小数の計算)、さらには
小切手の切り方などまで、その(流れ)
の中で教えている。

どうして教育が実用的であっては
いけないのか。アカデミックな部分も
必要かもしれないが、みながみな、
その道の学者になるわけではない。

+++++++++++++++

 「勉強は役に立たない」と考えている子どもは、多い。このほどベネッセが発表した「学習基
本調査」によると、「役に立つ」と答えた小学生の割合は、東京、ソウル、北京、ロンドン、ワシ
ントンDC、ヘルシンキの中で、最低だったという。

 希望の進学段階も、北京の小学生の65・2%が、「大学院まで」と答えているが、東京の小
学生は、「高校まで」という回答が、相対的に多かったという。

 さらに学習時間数についても、東京では1時間以下が、49・3%いる一方で、3時間半以上
が、18・1%いるそうだ。

 全体の平均も、

 東京 ……101・1分
 ソウル……145・8分
 北京 ……131・6分、とか。
(以上、「学習基本調査の国際比較」、ベネッセ、東京、ソウル、北京、ロンドン、ワシントン、ヘ
ルシンキの、小学5年生(10〜11歳、公立校)で調査。06年6月〜07年1月、産経新聞より)
 
 私が住むこのあたりでも、「高校は部活動を一生懸命やって、推薦で高校へ入る」という中学
生が多い。北区にある、ある中学校の校長は、「そういう子どもが、全体の60%はいる」と話し
てくれたのを覚えている。

 最近の子どもたちは、勉強をしなくなった。……というより、勉強する子どもと、しない子ども
の二極化が、ますます進んでいる。その一方で、進学を目的とした受験競争は、はげしくなって
いる。それが「東京では1時間以下が、49・3%いる一方で、3時間半以上が、18・1%」という
数字になって、表れている。

 なぜ学校の勉強はおもしろくないか? それについては、今まで繰りかえし書いてきた。

+++++++++++

【日本の教育が遅れるとき】 

●英語教育はムダ?

 D氏(65歳・私立小学校理事長)はこう言った。「まだ日本語もよくわからない子どもに、英語
を教える必要はない」と。つまり小学校での英語教育は、ムダ、と。

しかしこの論法がまかり通るなら、こうも言える。「日本もまだよく旅行していないのに、外国旅
行をするのはムダ」「地球のこともよくわかっていないのに、火星に探査機を送るのはムダ」
と。私がそう言うと、D氏は、「国語の時間をさいてまで英語を教える必要はない。しっかりとし
た日本語が身についてから、英語の勉強をしても遅くはない」と。

●多様な未来に順応できるようにするのが教育

 これについて議論をする前に、こんな事実がある。アメリカの中南部の各州の小学校では、
公立小学校ですら、カリキュラムを教師と親が相談しながら決めている(※1)。

たとえばルイサ・E・ペリット公立小学校(アーカンソー州・アーカデルフィア)では、4歳児から子
どもを預かり、コンピュータの授業をしている。近くのヘンダーソン州立大学で講師をしている
知人にそのことについて聞くと、こう教えてくれた。

「アメリカでは、多様な社会にフレキシブル(柔軟)に対応できる子どもを育てるのが、教育の目
標だ」と。

事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使館のS・ジャック氏も次のように述べている。「(教
育の目的は)多様な未来に対応できる子どもたちを育てること(※2)」(長野県経営者協会会
合の席)と。オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達していて、子どもたち
は学校が終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通っている。こういう時代に、「英語を教え
る必要はない」とは!

●文法学者が作った体系

 ただ英語教育と言っても、問題がないわけではない。日本の英語教育は、将来英語の文法
学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も国語もそうだ。将来その道の学者になる
には、すぐれた体系をもっている。理由は簡単。もともとその道の学者が作った体系だから
だ。だからおもしろくない。だから役に立たない。

こういう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。子どもたちはもっとかわい
そうだ。

たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使って、いかにして自分の意思
を相手に正確に伝えるか、だ。それを動詞だの、3人称単数だの、そんなことばかりにこだわ
っているから、子どもたちはますます英語嫌いになる。ちなみに中学1年の入学時には、ほと
んどの子どもが「英語、好き」と答える。が、1年の終わりには、ほとんどの子どもが、「英語、
嫌い」と答える。

●数学だって、無罪ではない 

 数学だって、無罪ではない。あの一次方程式や二次方程式にしても、それほど大切なものな
のか。さらに進んで、三角形の合同、さらには二次関数や円の性質が、それほど大切なものな
のか。仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つというのか。

こうした教育を正当化する人は、「基礎学力」という言葉を使って、弁護する。「社会生活を営
む上で必要な基礎学力だ」と。

もしそうならそうで、一度子どもたちに、「それがどう必要なのか」、それを説明してほしい。「な
ぜ中学一年で一次方程式を学び、三年で二次方程式を学ぶのか。また学ばねばならないの
か」と、それを説明してほしい。その説明がないまま、問答無用式に上から押しつけても、子ど
もたちは納得しないだろう。

現に今、中学生の56・5%が、この数学も含めて、「どうしてこんなことを勉強しなければいけ
ないのかと思う」と、疑問に感じているというではないか(ベネッセコーポレーション・「第三回学
習基本調査」2001年)。

●教育を自由化せよ

 さて冒頭の話。英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がない。こうい
う議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。早くから英語を教えたい
親がいる。早くから教えたくない親もいる。早くから英語を学びたい子どもがいる。早くから学び
たくない子どももいる。早くから英語を教えるべきだという人がいる。早くから教える必要はない
という人もいる。

要は、それぞれの自由にすればよい。そのためにはオーストラリアやドイツ、カナダのようにク
ラブ制にすればよい。またそれができる環境をつくればよい。「はじめに学校ありき」ではなく、
「はじめに子どもありき」という発想で考える。それがこれからの教育のあるべき姿ではないの
か。それでほとんどの問題は解決する。

※1……州政府は学習内容を六つの領域に分け、一応のガイダンスを各学校に提示している
が、「それはたいへんゆるやかなもの」(同小学校、オクーイン校長)とのこと。各学校はそのガ
イダンスの範囲内で、自由にカリキュラムを編成することができる。

※2……ブレア首相は、教育改革を最優先事項として、選挙に当選した。それについて在日イ
ギリス大使館のS・ジャック公使は、次のように述べている。「イギリスでは、一九九〇年代半
ば、教育水準がほかの国の水準に達しておらず、その結果、国家の誇りが失われた認識があ
った。このことが教育改革への挑戦の原動力となった」「さらに、現代社会はIT(情報技術)革
命、産業再編成、地球的規模の相互関連性の促進、社会的価値の変化に直面しているが、こ
れも教育改革への挑戦的動機の一つとなった。つまり子どもたちが急激に変化する世界で生
活し、仕事に取り組むうえで求められる要求に対応できる教育制度が必要と考えたからであ
る」(長野県経営者協会会合の席で)と。そして「当初は教師や教職員組合の抵抗にあった
が、国民からの支持を得て、少しずつ理解を得ることができた」とも。イギリスでの教育改革
は、サッチャー首相の時代から、もう丸4年になろうとしている(2001年11月)。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【実用的な教育】

● すべての国民は、国の教育機関で、平等な教育を受ける権利がある。……ということで、学
校教育は発達した。しかしそれが達成されたあとは、「教育」そのものに対する考え方は変わ
ってくる。変わって当然である。それはちょうど、食事に似ている。貧しい時代には、腹がふくれ
れば、それでよかった。しかし人々の意識が、ある一定のレベルを超えると、それは必要なこ
とかもしれないが、それでは足りない。料理が発達し、人々が食生活に楽しみを求めるように
なったのと同じように、親や子どもたちは、教育に、「中身」を求めるようになった。

+++++++++++++++

●何のための歴史教育

 生きた歴史教育は、「今」という時点で考えて、はじめて可能である。それはたとえて言うな
ら、料理の教育に似ている。料理にしても、自分で作ってみて、はじめてそれがわかる。

 昨夜も高校受験をひかえた中学生と話しあってみた。彼はこのあたりでも一番と呼ばれる進
学校を受験することになっている。たまたまアヘン戦争の話をしたが、こう言った。

「道光帝が、林則徐を広州に派遣した。で、アヘンを没収し、イギリス貿易を中止したんだ。そ
れで一八四〇年に、イギリス議会が、清に対して宣戦を布告した……」と。

 そんな彼でも、私が「では、どうして今の北朝鮮が日本を目の仇(かたき)にしているのか」と
聞いても、「知らない」「わからない」と言う。「あんな国は、あっという間にやっつけてやる」とも
言う。「しかし向こうは、100万人の兵隊をもっているよ。日本は20万人だよ」と、私が言うと、
「アメリカが、核兵器で始末してくれるさ」と。

●実用的でないのが教育?

 こうした例は、英語にも、国語にもある。恩師のT教授も、理科もそうだという。(私には理科
教育はよくわからないが……。)日本の教育は、伝統的に、どこかおかしい? 本当におかし
い? 教えるべきことを教えないで、教えなくてもよいようなことばかり、教えている? 何かしら
役にたたないようなことを教えるのが教育と、誤解しているような面すらある。反対に、実用的
なことは教えてはいけないというような風潮すら、ある。

 アメリカでは、中学校での上級数学(Advance Math)では、中古車の買い方から教え始め、
小切手の切り方まで教える。高校で車の運転のし方を教えるところも多い。もちろん免許も学
校で取れる(地方の高校など)。

●学者になるには、すぐれた体系
 
が、この日本では、その道のエラーイ先生がたが、教科書をつくる。だから日本の教科書は、
将来、数学者や歴史学者、英語の文法学者になるには、きわめてすぐれた体系をもっている。
しかしみながみな、数学者や歴史学者、さらには、英語の文法学者になるわけではない。そう
いう道に進むのは、全体の1%もいないのでは? 

 歴史教育にしても、なぜ私たちが歴史を学ぶかといえば、過去を学び、未来にその経験や失
敗を生かすためである。頭でっかちのモノ知りを育てるためではない。少し前だが、こんなこと
を暗記している中学3年生がいた。

 「富山のチューリップ、長野の高原野菜、浜名湖のウナギ……」と。

そこで私が、「高原野菜って何?」と聞くと、「知らない……」と。さらに「浜名湖でウナギの養殖
なんか、もうしてないよ。みんな台湾や中国から輸入しているよ」と言うと、「いいの、そんなこと
は!」と。こういう教育の現実を、いったい、どれほどの人が知っているだろうか。

英語にしても、学校で習う英語は、まったく役にたたない。そんなことは、40年も前から言われ
つづけてきた。50年かもしれない。しかしやっと重い腰をあげたのは、ほんの数年前。その成
果が出てくるのは、これから先、さらに20年後?

●教育の自由化を

 みなさん、もっと教育を自由化しよう。もっと教育を自由に考えよう。もっと教育を自由の流れ
の中に置こう。ドイツやイタリアのように。カナダやオーストラリアのように。今の日本の教育
は、いまだに戦前のあの軍国主義時代の亡霊を引きずっている。学校万能主義。第一主義。
絶対主義などなど。私たちは、あの北朝鮮の教育体制を見て笑うが、どこがどう違うのか。私
には、その「違い」がわからない。

 たとえばドイツでは、子どもたち(中学生)は、たいてい午前中で授業を終え、そのあと、好き
なクラブに通っている。いろいろなクラブがある。月謝は1000円程度。費用はチャイルドマネ
ーによって、国によって補助されている。イタリアもそうだ。

大学についても、ヨーロッパは、全体として、すでに完全に共通化された。こういう時代が、もう
世界の常識だというのに、いまだに、学歴社会だのなんのと、バカみたい。いい学校だの、い
い大学だのと、バカみたい。学生たちは、その道のプロになるために大学へ行く。大学院へ行
く。しかも、だ。欧米では、奨学金を手にした学生たちは、自由に大学間を渡りあるいている。

●人間選別の弊害

 今ごろ教育改革しても、遅い。遅過ぎる。この日本では、せっかくすぐれた才能をもっていて
も、進学という関門を通りすぎるたびに、ふるい落されていく。つい先日も、O君というマレにみ
る、優秀な子ども(小学生)がいた。小学3年生のときには、中学3年生でもできないような難解
な数学を、自分で考えた方法で解いていた。

しかしこういう子どもを伸ばす機関が、日本にはない。理解もない。そこで東京の私立中学を
受験したが、残念ながら、どこも不合格。「社会ができなかったから……」と、O君は言った。

 こういうO君のような例は、本当に多い。が、これからは、もうそういう時代ではない。貧しい
時代の学校教育から、豊かな時代の学校教育へと変身しなければならない。その豊かな時代
とは何かといえば、それぞれの人が、自分の個性を光らせて生きる時代をいう。

これに対して、「全教科、まんべんなくできる子どものほうが、望ましい」という意見もある。しか
しその「全教科」にしても、本当に全教科なのか。私は以前、毎年、冬に刊行される「時事辞
典」※を調べてみたが、学校で習う勉強など、その辞典の20分の1から30分の1にもならな
い。「全教科」「基礎学力」といいながら、何をもって全教科というのか。何をもって、基礎学力と
いうのか。

 たとえばオーストラリアのグラマースクールでは、中学1年レベルで、外国語にしても、ドイツ
語、フランス語、中国語、インドネシア語、日本語から選択できる。芸術にしても、美術、音楽、
演劇などが、それぞれ独立している。ほかに宗教もあれば、読書、キャンピング、コンピュータ
などもある。全体に広く浅く教えながら、子どもの多様性を認める教育システムになっている。
そして学外クラブも発達していて、それ以上に学びたい子どもは、それぞれのクラブに通ってい
る。

●自由度で決まる、国の力

 国家の力は、いかに民衆が自由であるかによって決まる。教育とて例外ではない。すぐれた
教育というのは、いかに多くの、将来への選択肢を子どもに与えることができるかで決まる。

 話がぐんぐんと脱線してしまったが、なぜ私たちが子どもを教育するかといえば、子どもたち
が将来、多様性のある社会の中で、柔軟(フレキシブル)に、力強く生きていくことができるよう
にするためである。

とくに歴史教育は、先にも書いたように、過去を学び、未来にその経験や失敗を生かすためで
ある。しかしその歴史教育一つとっても、子どもたちの世界では、まったく役にたっていない。
日本よ、日本の親たちよ、本当にこんなことでよいのか?

注※「イミダス」の索引の中から、学校の授業(英数国社理)で扱うような項目と、そうでない項
目を分けてみた。その結果、ここでいう20分の1から30分の1という数字を算出した。

++++++以上、2007年9月、発表のエッセーより++++++++

●教育の自由化を!

 今となっては手遅れ。
なぜ日本の教育が、こうまで硬直してしまったのか?
ダイナミズムを失ってしまったのか?
その理由の一つとして、私は「ぬるま湯」論をあげる。

 たとえば幼稚園教育。
幼稚園そのものが、学校法人の名のもと、国から手厚い保護を受けている。
そこそこの指導(教育ではなく、指導)をしていれば、経営は安定する。
そういう中で、「これが幼児教育です」という「形」を作ってしまった。
もちろん「そうであってはいけない」と、がんばっている幼稚園も多い。
が、そういう幼稚園は、少数派。
たいはんの幼稚園が、ぬるま湯につかったまま、そこに安住してしまっている。

 では、どうするか?

 英語の格言に、『空の飛び方は、崖から飛び降りてから考えろ』というのがある。
つまりそれくらいまで追いつめられないと、だめという意味。
人は自分のもつ力を、引き出すことはできない。
そのためには、教育を自由化する。
ひとつの例として、郵便局と宅配会社の関係を、私はあげる。

 当初、宅配会社が全国規模で宅配を開始すると言ったとき、時の郵政省は、それに猛烈に
反対した。
無数の理由をこじつけた。
が、結果は、どうか?
今ではネットを使って、宅配物はどこにあるか、何時ころ配達されるか、リアルタイムにそれが
わかるようになった。
しかも配達時間まで、指定できる。
これが「自由化」である。
自由化の恩恵である。

 文科省は、サラミ戦術(少しずつ切り出しする方式)で、改革なるもの(?)を進めている。
が、こんな方法では、日本の教育は何も変わらない。
変わらないばかりか、ますます世界の潮流から、取り残されてしまう。

●夢

 私は夢見る。
子どもたちが、毎日の授業を楽しみにし、生き生きと学ぶ姿を!
 私は夢見る。
子どもたちが、自分の目標をもち、その目標に向かって進んでいく姿を!
 私は夢見る。
子どもたちが、自分たちの力で、自分たちの未来を作っていく姿を!

 ……キング牧師の演説風に書いてみた。

 具体的には、何度も書くが、(1)単位制の導入、(2)クラブ制の導入ということになる。
(3)教師の雑務からの解放も重要。
それについては、10年以上も前から、繰り返し書いてきたので、ここではここまで。

 結論として、もう一度、冒頭にあげたデータをながめてみてほしい。
あなた自身の学生時代を思い出してみてほしい。
あなたは、それでよいと思っているのか?
これでよいと思っているのか?

もし「NO!」なら、私がここに書いたようなことを、あなたも一言、口にしてみてほしい。
そういう声が集合されたとき、日本の教育は変わる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 居眠りする子ども 教育の自由化 イミダス はやし浩司 教科書論 実用的な
教育 おもしろくない教育)
2010年4月9日記

【NG先生からのコメント】

はやし浩司 様
 
専門学校で感じていることです。
資格をとって仕事に就くという目的をもって入学してきているはずなのに、何という体たらく、学
ぶ意欲はあるのだろうか?
送っていただいた原稿にあったように、多くの学生が寝ているのです。勿論、授業の仕方に一
因があることは認めるのですが、それにしてもと思います。
 
先生の原稿にあった「私は夢を見る 生き生きと学ぶ姿・・」、小生もこのことを期待し、それな
りに工夫をしているのです。最近では小学生ですら、話の聞けない子が目立つようになり、放
課後子ども教室における課題の一つとなっています。
 
学ぶことは、本来、楽しいもの(苦痛は当然伴います)であると思います。学ぶ意欲はどこから
生まれ、どのように高まっていくか、解決したい課題の一つです。
学校現場は目先のことに追われ、教育の全体像を見失いがちですし、政策としての教育にも
欠けている部分があります。どのような日本人の育成を目指すのかが分かりづらいことです。
教基法には書かれているものの、国民に浸透してはいません。ブレアのように「1に教育、2に
教育・・」と力強く政策を展開することは今の政治に期待できそうもありません。
 
不勉強な小生ですらこの先に不安を感じます。どうしたらいいのか悩む日々です。


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●偏頭痛(映画『シャッター・アイランド』)

++++++++++++++++

朝方、偏頭痛で目が覚めた。
理由は、すぐわかった。
昨夜、映画『シャッター・アイランド』を見てきた。
深夜劇場だった。

激しい光の点滅。
めまぐるしい動き。
それに「超字幕」という字幕。
「超字幕」というのは、ふだんの字幕より、
字数が多いということか?
(ところで字幕の翻訳は、めちゃめちゃ。
字幕英語というのがあるのはわかるが、それにしても……?)

それがよくなかった。
おかげで今朝は、偏頭痛。
評価は、星2つの、★★。
実に思わせぶりの、不親切な映画。
『シックス・センス』『ミラーズ』『ビジター』『マトリックス』
などとは、比較にならない。
意外性を期待していたが、がっかり。

「謎解き」とか、「あなたにはこの謎が解けるか」とか、
映画案内に書いてあった。
しかし謎でないものを、おおげさに謎らしくしただけ。
謎でくるんだだけ。
簡単に言えば、「テディ・ダニエルズ(保安官、ブラッド・ピット)は、
ただのxxの1人」だった。
それですむ話。
(「映画のはじめに、結末を他人に話さないでくれ」と、
おかしな注意書きもあったので、「xx」にした。)

久しぶりに偏頭痛薬をのんで、ふたたび眠りなおす。
それにしても、不親切な映画だった。
観客をもてあそんだだけ。
つまり、もてあそばされただけ。
だから星は2つ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●不忘念(ふもうねん)

++++++++++++++++++

『一念岩をも通す』。
そうした強い意志(=念)を、「不忘念(ふもうねん)」という。
この言葉を頭のどこかに置きながら、自分の過去を
振り返ってみる。

たいしたことはできなかったが、それでも、
私はそのつど、何かをしてきた。
そのひとつが、ある宗教団体を相手に、5冊の本を
書いたこと。
命がけだった。
が、結果として、東洋第一と言われるほど豪華な
正本堂を、私は解体に追い込むことができた。

もうひとつは、山荘。
6年かけて土地作りをし、そこに山荘を建てた。
一度はトラックごと、崖下に落ちて死にかけたこともある。
そういう過去を振り返ってみると、その裏に、私なりの
「不忘念」があったことがわかる。

まず(したい)という思いをもつ。
そのほとんどは、そのまま消えてなくなってしまう。
そこでさらに強く(したい)と思う。
するとその先に道が見えてくる。
が、道が見えたからといって、願いがかなうという
わけではない。
やはりそのほとんどは、そのまま消えてなくなってしまう。
しかしこれだけは言える。

「〜〜をしたい」という思いがなければ、
何ごとも始まらないということ。
たとえ無駄に終わることがわかっていても、まず、「したい」と
思う。
まず、動く。
機関車にたとえるなら、石炭をくべて、車輪を回す。
人生はそこから始まる。

++++++++++++++++++

●70歳まで現役

 私は決めた。
「70歳まで現役」と。
そのための準備作りも始めた。
とりあえずは、(1)体力作りと、(2)ボケ防止。
健康第一だが、それは当然。

 で、60歳になる少し前、私は、仕事を縮小することばかりを考えていた。
「あと、2〜3年働ければ、それでいい」と。
それにどこかの男が、「老齢期を迎えたら、生活をコンパクトにしなさい」と言った。
私は一時、その言葉を、真に受けた。
土地を切り売りしたり、人づきあいを制限したりしようとした。
が、どうしてコンパクトにしなければならないのか。
また、何のために?

 私はまちがっていた。
おかしな寄り道をしてしまった。
そこで一念発起。
「70歳まで現役」と。
心に誓った。
とたん、(やるべきこと)が、ズラズラと並んだ。
その第一が、(1)体力作りと、(2)ボケ防止。

●体力作り

 先月、恩師のTK先生に会った。
その前会ったときは、杖をついて歩いていた。
が、今回は、杖なし。
右足の人工関節の調子も悪くなさそうだった。
万歩計を見せながら、「毎日1万歩、歩いています」と。
横にいた、お嬢さん(立教大学教授)は、こう言った。
「どうしてこうまでがんばるのでしょうね」と。

 それを聞いて、私は心底うれしくなった。
TK先生はいつも、「健康は不可逆的に悪くなる」と。
が、その反対のことが起きた。
健康だって、がんばれば、取り戻せる。
TK先生は、それ教えてくれた。

 で、このところ自転車で、20〜30キロ、走破することがある。
暇さえあれば、歩行器の上で歩く。
汗をかく。
70歳まで現役をつづけるためには、それなりの準備が必要。
「かろうじて今日はだいじょうぶ」という程度では、70歳まではがんばれない。
70歳までがんばるためには、50歳の体力を作り上げなければならない。
それではじめて、60歳から70歳までの10年間を、現役を通すことができる。

●ボケ防止

 こわいのは、「ボケ」。
それに「気力の弱化」。
……というわけでもないが、今は、携帯端末に興味をもっている。
現在はE−mobileの携帯端末を使っている。
すでに3年目になる。
が、どうも使い勝手がよくない。

 そこで今度発売になった、DOCOMOの「XPeria」。
それに目をつけた。
超小型のパソコンのようなもの。
昨日もドコモショップへ行って、あれこれと相談してみた。
デザインというか、その洗練された機能に驚いた。
「すごい!」の一言。

 「電話機能だけあればいい」という、怠けた声も聞こえないわけではないが、
それではいけない。
「いけない」と思って、自分の体にムチを打つ。
今度高校生の前で、サッサと、XPeriaを披露してやろう。
高校生たち、びっくりするだろう。
が、それが楽しみ。

 ヒヒヒヒ……。

 つまりボケ防止のためには、どんどんと新しい分野に切り込んでいく。
またそれにまさる方法はない。

●不忘念

 さて、不忘念。
体力と気力は、密接に連動している。
東洋医学でも、そう教える。
というより、体力イコール、気力と教える。
区別していない。

 そんなわけで体力が弱くなると、気力も弱くなる。
気力が弱くなると、何をするにも、おっくうになる。
だからこそ不忘念。
あえて不忘念。
いくつか「念」を立ててみる。

(1)どんなことがあっても、電子マガジンの発行をやめない。

 現在、週に3回、電子マガジンを発行している。
1回で、原稿20枚以上(40字x36行)と決めている。
それを守る。

(2)自転車通勤をふやす。

 現在、週に3〜4単位(1単位=40分)にまで少なくなっている。
それをこの4月から、再び、5〜6単位にもどす。

 ただし、「結果」は求めない。
やるべきことはやる。
しかしあとは、「なるようになれ!」。

また30〜40代のころは、有名になりたいと思ったこともある。
が、今は、もうない。
ないというより、望んでも意味はない。
どうでもよい。

 「結果」として収入があれば、それでハイブリッド車を買う。
老後用の、終の棲家(ついのすみか)を建てる。
終の棲家は、私が死んだあとのワイフのため。

 「不忘念」というほどおおげさなものではないかもしれないが、
そのつもりでがんばる。

 2010年4月10日。
書斎まで朝食のにおいが、あがってきた。
もうすぐワイフが、「できたわよ」と声をかけてくれるはず。
みなさん、今日もがんばりましょう!
「不忘念」で、がんばりましょう!


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●なし崩し的既成事実化

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「独島(日本名、竹島)と、K国の核兵器と
かけて、何と、説く?」。

答……「なし崩し的、既成事実化」。
共に、ものごとをなし崩し的に、既成事実化しよう
としている。

+++++++++++++++++++++

●矛盾する論理

 韓国の人たちは、「オレたちは、K国とはちがう」と思っているかもしれない。
とくに、K国の核開発問題については、そうであろう。
K国は事実上、核兵器を所有し、核保有国であることを、既成事実化しようとしている。
韓国政府も、「それは認めない」とがんばっている。

が、同じように韓国は、K国と同じことをしている。
竹島(独島)への実効的支配を強化し(中央N報)、竹島は韓国領土であることを、
既成事実化しようとしている。
同じ民族。
発想が、よく似ている。
……というより、K国は、韓国のあとを、懸命に追いかけている。

今日(4月10日)の韓国・中央N報は、つぎのように伝えている。

 「…… 鄭総理は日本の独島(ドクト、日本名・竹島)領有権の主張に関し、『日本がこの問題
を持続的に取り上げるのは、韓日間の未来の発展に決して役立たない。すでに韓国の国民が
居住しているが、独島に対する実効的支配をさらに強化していく必要がある』と強調した」と。

 つまり事実上、支配しているから、竹島は、韓国の領土だ、と。
しかしこんな論理がまかりとおるなら、K国の核兵器開発問題は、どうなる?
K国も同じ論理をふりかざして、「自分たちの国を核保有国として認めろ」と騒いでいる。

●シャドウ論

 韓国とK国を並べてながめていると、ユングのシャドウ論が、頭の中を横切った。
韓国のもつシャドウを、K国が受け継いでいる。
そんな感じがした。
そんな感じがしたので、韓国とK国、それにシャドウ論をからめて考えてみたい。
うまくまとめられるかどうか自信はないが、一度、書いてみる。

 シャドウ論……「シャドウ(影)」として、心の裏に閉じこめられた人間性は、その近くにいる人
に伝染しやすい。その一例として、佐木隆三の『復讐するは我にあり』がある。

 昨年(09年3月)に書いた原稿を、もう一度、ここでとりあげてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【シャドウ論】

●仮面(ペルソナ)

++++++++++++++++++++

ペルソナ(仮面)そのものを、職業にしている人たちがいる。
いわゆる「俳優」という人たちが、それである。

で、あくまでも一説だが、あの渥美清という俳優は、本当は気難し屋で、
人と会うのをあまり好まなかったという(某週刊誌)。
自宅のある場所すら、人には教えなかったという(同誌)。
が、その渥美清が、あの『寅さん』を演じていた。
寅さんを演じていた渥美清は、ペルソナ(仮面)をかぶっていたことになる。

といっても、ペルソナ(仮面)が悪いというのではない。
私たちは、例外なく、みな、仮面をかぶって生きている。
私もそうだし、あなたもそうだ。

++++++++++++++++++++

●みな、かぶっている

 たとえばショッピングセンターで、深々と頭をさげる女子店員を見て、
「人間的にすばらしい人」と思う人は、まずいない。
顔には美しい笑みを浮かべている。
何か苦情を言ったりしても、おだやかな口調で、「すみません。ただ今、
お調べいたします」などと答えたりする。
彼女たちは、営業用のペルソナ(仮面)をかぶって、それをしている。
同じように、教師だって、医師だって、みな、ペルソナ(仮面)を
かぶっている。

最近では、さらにそれが進化(?)した。
インターネットの登場である。

 今、あなたは、私が書いたこの文章を読んでいる。
で、あなたはそれを読みながら、「はやし浩司」のイメージを頭の中で
作りあげている。
心理学の世界では、これを「結晶」と呼んでいる。
そのあなたが作りあげているイメージは、どんなものだろうか。

私にはわからない。
それに結晶といっても、その中身は、みなちがう。
ある人は、「林って、理屈っぽい、気難しい男だな」と思うかもしれない。
また別のある人は、「わかりやすい、単純な男だな」と思うかもしれない。
文章を読む人の、そのときの気分によっても、左右される。

 映画なら、まだそこに「像」を見ながら、相手のイメージを頭の中で
作りあげることができる。
しかし文章だけだと、それがさらに極端化する。
それがこわい。

●相手の見えない世界

 以前にも書いたが、たとえばメールで、「お前はバカだなあ」と書いたとする。
書いた人は、半ば冗談のつもりで、つまり軽い気持ちでそう書いた。
しかし受け取る側は、そうではない。
そのときの気分で、読む。
たとえば何かのことで、その人の心が緊張状態にあったとする。
だから、それを読んで激怒する。
「何だ、バカとは!」となる。

 もっとも小説家といわれる人たちは、こうした結晶を逆手に利用しながら、
読者の心を誘導する。
よい例が、スリラー小説ということになる。
恋愛小説でもよい。

たとえば「A子は、みながうらやむほどの、色白の美人であった」と書いてあったとする。
それぞれの人は、それぞれの美人を空想する。
その美人の姿は、それぞれの人によって、みなちがう。

●現実

 が、ここで重要なことは、ペルソナ(仮面)は、ペルソナ(仮面)として、
(現実)とは、しっかりと切り離すこと。

たとえば学生時代、私にとっては、「ベン・ハー」イコール、
「チャールトン・ヘストン」であり、「チャールトン・ヘストン」イコール、
「ベン・ハー」であった。
私には区別がつかなかった。

 しかしこうした現象は、何も私だけに起きた特殊なものではない。
映画ドラマの中の主人公を、(現実の人)と思いこんでしまう現象は、
よく見られる。
しかも若い人たちだけではない。
40歳前後の女性ですら、それが区別できなくて、韓国の俳優を追いかけたり
する。

 が、相手を見るときはもちろんのこと、自分自身に対してもである。
ペルソナ(仮面)と(現実)は切り離す。
とくに、自分がかぶっているペルソナ(仮面)には、警戒したほうがよい。
この操作を誤ると、自分で自分がわからなくなってしまう。
欧米では、牧師に、そのタイプの人が多いと言われている。
みなの前で、神の言葉を語っているうちに、自分自身が(現実)から遊離してしまい、
自分のことを(神)と思いこんでしまう。

が、それだけではすまない。

●シャドウ

 このとき同時に、自分の中にある(邪悪な部分)を、心の中に別室に閉じこめて
しまう。
閉じこめながら、自分を善人と思いこんでしまう。
こうした現象を、あのユングは「シャドウ(影)」という言葉を使って説明した。
このシャドウが、別のところで、別人格となって、その人を裏から操る。
大教会の神々しいほどまでの牧師が、その裏で、少年や少女を相手に、性犯罪を
繰り返していたという例は、欧米では、たいへん多い。

が、さらに恐ろしいことが起きる。

 このシャドウは、ときとして、そっくりそのまま子どもに伝わることがある。
心理学の教科書に出てくる例として、あの映画『復讐するは、我にあり』がある。
それについては以前にも書いたので、このあとに、そのとき書いた原稿を添付
しておく。

こういう例は極端な例であるとしても、親子の間でも、こうした現象はよく
観察される。

●シャドウを受けつぐ子ども

 ある母親は、世間では「仏様」と呼ばれていた。
しかし2人の息子は、高校時代、ともに犯罪行為を犯し、退学。
周囲の人たちは、「どうしてあんないい母親なのに、息子さんたちは……?」と
言っていた。
が、こうした現象も、シャドウ論をあてはめてみると、説明がつく。
母親は、邪悪な部分、たとえば嫉妬、ねたみ、恨み、不満などを、心の中の別室に
閉じことによって、善人を演じていただけである。

そのシャドウを、いつも近くで見ていた息子たちが、受けついでしまった。

では、どうするか。

 私たちはいつもペルソナ(仮面)をかぶっている。
それはそれでしかたのないこと。
ショッピングセンターの女子店員が、客に向って、「オイ、テメエ、そこの客、
泥靴なんかで、この店に来るなよ!」と叫べば、その女子店員は、そのまま解雇。
職を失うことになる。

この私だって、そうだ。

 で、大切なことは、それをペルソナ(仮面)と、はっきりと自覚すること。
そして脱ぐときは、脱ぐ。
脱いで、自分に戻る。
ありのままの自分に戻る。
それをしないでいると、それこそ人格そのものが、バラバラになってしまう。
これはたいへん危険なことと考えてよい。

+++++++++++++++++

シャドウについて書いた原稿を
添付します。

+++++++++++++++++

【シャドウ論】

++++++++++++++++

仮面をかぶっても、仮面をぬぐことも
忘れないこと。

その仮面をぬぎ忘れると、たいへんな
ことになりますよ!

++++++++++++++++

●自分の中の、もう1人の自分

 もともと邪悪な人がいる。そういう人が仮面をかぶって、善人ぶって生きていたとする。すると
やがて、その人は、仮面をかぶっていることすら、忘れてしまうことがある。自分で、自分は善
人だと思いこんでしまう。

 このタイプの人は、どこか言動が不自然。そのため簡単に見分けることができる。さも私は
善人……というように、相手に同情して見せたり、妙に不自然な言い方をする。全体に演技ぽ
い。ウソっぽい。大げさ。

 こういう話は、以前にも書いた。

 そこでこのタイプの人は、長い時間をかけて、自分の中に、もう1人の自分をつくる。それが
シャドウである。ユングが説いたシャドウとは、少し意味がちがうかもしれないが、まあ、それに
近い。

 このシャドウのこわいところは、シャドウそのものよりも、そのシャドウを、時に、身近にいる
人が、そっくりそのまま受けついでしまうこと。よくあるのは、子どもが、親の醜いところをそっく
りそのまま、受けついでしまうケース。

●仮面(ペルソナ)をかぶる女性

 ある母親は、近所の人たちの間では、親切でやさしい女性で通っていた。言い方も、おだや
かで、だれかに何かを頼まれると、それにていねいに応じていたりした。

 しかし素性は、それほど、よくなかった。嫉妬深く、計算高く、その心の奥底では、醜い欲望
が、いつもウズを巻いていた。そのため、他人の不幸話を聞くのが、何よりも、好きだった。

 こうしてその女性には、その女性のシャドウができた。その女性は、自分の醜い部分を、そ
のシャドウの中に、押しこめることによって、一応は、人前では、善人ぶることができた。

 が、問題は、やがて、その娘に現れた。……といっても、この話は、20年や30年単位の話
ではない。世代単位の話である。

 その母親は、10数年前に他界。その娘も、今年、70歳を超えた。

●子に世代連鎖するシャドウ

 その娘について、近所の人は、「あんな恐ろしい人はいない」と言う。一度その娘にねたまれ
ると、とことん、意地悪をされるという。人をだますのは、平気。親類の人たちのみならず、自分
の夫や、子どもまで、だますという。

 その娘について、その娘の弟(現在67歳)は、こう教えてくれた。

 「姉を見ていると、昔の母そっくりなので、驚きます」と。

 話を聞くと、こうだ。

 「私の母は、他人の前では、善人ぶっていましたが、母が善人でないことは、よく知っていまし
た。家へ帰ってくると、別人のように、大声をあげて、『あのヤロウ!』と、口汚く、その人をのの
しっていたのを、よく見かけました。ほとんど、毎日が、そうではなかったかと思います。母に
は、そういう2面性がありました。私の姉は、その悪いほうの一面を、そっくりそのまま受け継い
でしまったのです」と。

 この弟氏の話してくれたことは、まさに、シャドウ論で説明がつく。つまり、これがシャドウのも
つ、本当のおそろしさである。

●こわい仮面

 そこで重要なことは、こうしたシャドウをつくらないこと。その前に、仮面をかぶらないこと。と
いっても、私たちは、いつも、その仮面をかぶって生きている。教師としての仮面。店員として
の仮面。営業マンとしての仮面。

 そういう仮面をかぶるならかぶるで、かぶっていることを忘れてはいけない。家に帰って家族
を前にしたら、そういう仮面は、はずす。はずして、もとの自分にもどる。

 仮面をとりはずすのを忘れると、自分がだれであるかがわからなくなってしまう。が、それだ
けではない。こうしてできたシャドウは、そのままそっくり、あなたの子どもに受けつがれてしま
う。
(はやし浩司 仮面 ペルソナ シャドウ (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育
 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 ユング 仮面 ペルソナ シャドウ論)

++++++++++++++++++

少し前に書いた、「シャドウ論」を、
もう一度、ここに添付しておきます。
内容を少し手なおしして、お届けします。

++++++++++++++++++

●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、夫として
の仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。商売では、いくら客に怒鳴られても、にこ
やかな顔をして、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。これを
「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよい。ねたみ、うら
み、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事件を起
こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないことがわか
る。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

●凶悪事件の裏に

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンションに
住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育にも熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに(仮面とシャドウの問題)が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言ったとする。
「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思って、そ
う言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウがつきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断して
いる人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところがある。「あ
の人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですってねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。身分制度が、そのまま
学歴制度になり、さらにそれが、出身高校へと結びついていった(?)。街道筋の宿場町であっ
たがために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。その人を判断する基準が、出
身高校へと結びついていった(?)。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

●ドロドロとした人間関係

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きついでしま
う。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れようとしている」
と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる基盤となってしまう。

 よくシャドウ論で話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』である。
佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みごとな演技をし
ている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさることなが
ら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、榎津鎮雄と
の、葛藤(かっとう)である。榎津厳自身が、「あいつ(妻)は、おやじにほれとるけん」と言う。そ
んなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た人
なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印象を与
える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握らせる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャン。それを仮面とするなら、息子の嫁と不倫関
係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、そっくりその
まま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげる原動力になっ
た。

●いつのありのままの自分で

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、その仮面
を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。見抜くだけならまだしも、そ
のシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言える。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのままの自分
を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、まし。もっと言
えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子どもにとっては、好ましい
ということになる。

(はやし浩司 ペルソナ 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし
浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 結晶 はやし浩司 復讐するは我にあり シャドウ論 参考文
献 河出書房新社「精神分析がわかる本」)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●韓国とK国

 K国は韓国に対して、甘ったれている。
「好き勝手なことをしても、韓国は、何もしてこないだろう」と。
一方、韓国は日本に対して、甘ったれている。
「好き勝手なことをしても、日本は、何もしてこないだろう」と。

 そしてK国は、韓国に対して、言いたい放題のことを言い、やりたい放題のことをしている。
韓国は、日本に対して、言いたい放題のことを言い、やりたい放題のことをしている。
ともにその根底にあるのは、被害妄想と「甘えの構造」。

 たしかに韓国はK国に対して、何もしないだろう。
本音を言えば、「相手にしたくもない」。
南北統一についても、今、統一したら、それこそたいへんなことになる。
南北統一を望んでいないのは、当の韓国ということになる。

 一方日本は韓国に対して、何もしないだろう。
本音を言えば、「相手にしたくもない」。
竹島の実効的支配を進めれば進めるほど、世界に向かって、「竹島は韓国の領土ではない」
と、宣言しているようなもの。
どうしてあんな島に、ヘリポートを作り、一般人を住まわせるのか?
その(無理)が、不自然!
不自然だから、無理をする!
世界の人は、だれしも、そう思う。
本当に自分の領土なら、もっと堂々としていればよい。
姑息なことをするから、かえって疑われる。

●で、シャドウ論

 K国は、韓国のシャドウを受け継いでいるだけ。
わかるか?
表では正論をぶっているが、仮面の下では、姑息なことを繰り返している。
自動車にしても、「前から見れば、TOYOTA車、うしろから見れば、NISSAN車」。そんな車
を、平気で作っていた。
ほんの10年前の話である。

 日本中の、それこそ津々浦々にまで産業スパイをはびこらせ、日本から奪えるものは、何で
も奪っていった。
その結果が今である。
ウソだと思うなら、韓国の現在の産業構造を見ればよい。
20〜40年前の日本の産業構造そのもの。
自動車、鉄鋼、電子産業などなど。
反対に韓国が独自に発展させた産業は、ひとつもない!
 
 それをK国は、横から見ている。
そして韓国が生来的にもっていた(姑息さ)を、K国がそっくりそのまま引き継いでいる。
先に「K国は、韓国のあとを追いかけている」と書いたのは、そういう意味。

 ……と書くのは、書き過ぎ。
かなり過激。
私もそれをよくわかっている。
しかしこれだけは言える。

 韓国の人よ、K国の人よ、なし崩し的に、ものごとを既成事実化するのは、やめよう。
「竹島」にしても、韓国の人よ、日本人がおとなしいからといって、それをよいことに、言いたい
放題のことを言い、やりたい放題のことをやるのは、やめよう。
いいか、韓国の人よ、K国が崩壊したら、竹島どころではなくなるぞ。
へたをすれば、38度線以北は、中国の領土となる。
「渤海国」になる。
わかっているのか。
そのとき日本に泣きついてきても、遅いぞ。

 ここは冷静に!
この極東アジアで、だれが友人で、だれが友人でないか、少しは頭を冷やして考えろ。
謙虚になれ。

 「自分たちの領土でない」ということを、心の奥で自覚しているからこそ、日本政府の発言に、
そのつどビクつく。
大騒ぎする。
それがいやなら、もっと正々堂々と、国際裁判所という「場」で、たがいに証拠をあげて闘おうで
はないか。
どうしてそれがまずいのか?
何かまずいことでもあるのか?

 以上、「竹島(独島)」問題を、シャドウ論をからめて、考えてみた。
どこか「木に竹を接ぐ」ようなエッセーになってしまったが、許してほしい。
竹島問題の記事を読んだとき、ふと「シャドウ論」が頭の中を横切った。
「K国は、韓国のシャドウを受け継いでいるだけ」と。
それでこんなエッセーになってしまった。

 「?」と思われる人がいるなら、このエッセイを、「朝鮮問題」と、「シャドウ論」の2つに、頭の
中で分けて読んでほしい。
勝手な願いで、ごめん!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 竹島問題 独島問題 シャドウ論 はやし浩司 ユング シャドウ論 実効的支配
 なし崩し的支配)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

【井上ひさし氏と、死生論】

●明日から仕事!

+++++++++++++++++

長い春休みも、終わった。
楽しかった。
で、今日は、5キロ近く、ランニングした。
ほかに30〜40分ほどの散歩。
明日からの仕事に、備えた。

体調、OK!
脳みそ、OK!
新年度も、この調子で乗り切るぞ!

+++++++++++++++++

●井上ひさし氏

+++++++++++++++++

井上ひさし氏という作家が、死んだ。
面識はないが、何度か、近くに感じたことはある。
「この喫茶店に、よく来ますよ」と、
そんな話を、ある雑誌社の編集部の人がしてくれたのを
覚えている。
喫茶店というのは、G出版社(大手出版社、大田区)
の本社前にある、喫茶店をいう。

「いつも座る席が決まっていましてね。
ほら、あそこですよ」と。

当時は毎週のようにG社に足を運んでいた。
以来、その喫茶店へ入るたびに、井上ひさし氏を
探した。
が、一度も、見たことはない。
ないが、井上ひさし氏がいつも座るという
席に、ときどきすわってみたことはある。
それで「近くに感じた」。

私は井上ひさし氏の書く文章が好きだった。
あるときは、10冊くらい、本をまとめて買い
したことがある。
ワイフが何かの手術で、3〜4日、入院した
ときのことだった。
「井上ひさしの本が読みたい」と言ったので、
そうした。

++++++++++++++++++

●死

 「死」は人生、最大のテーマ。
賢人たちの言葉を拾ってみる。

I live now on borrowed time, waiting in the anteroom for the summons that will inevitably 
come. And then ーI go on to the next thing, whatever it is. One doesn't luckily have to 
bother about that. 
ーAgatha Christie, "An Autobiography" (アガサ・クリスティ、自叙伝)

私は、かならずやってくる召還を、待合室で待ちながら、今は、借りた時間の上で生きている。
どうであれ、私はつぎの世界へ行く。
人は、幸運なことに、それについて心を煩わす必要はない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

I shall tell you a great secret my friend. Do not wait for the last judgement, it takes place 
every day. 
ーAlbert Camus

友よ、最大の秘密を話してやろう。
最後の審判を待ってはいけない。
それは毎日、なされている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

To the wellーorganised mind, death is but the next great adventure. 
ー Albus Dumbledore

たいへんよく組織された心には、死は、ただのつぎの大きな冒険にすぎない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

A Lizard continues it's life into the wilderness like a human into heaven. Our fate is entirely 
dependent on our life 
ーAndrew Cornish

とかげは、人間が天国で生きるように、野生の中でまた生きる。
我々の運命は、我々の生命次第ということ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

Even in the desolate wilderness, stars can still shine. 
ー Aoi Jiyuu Shiroi Nozomi 

どんな荒野にいても、星は輝き続ける。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

This existence of ours is as transient as autumn clouds.To watch the birth and death of 
beings is like looking at the movements of a dance. A lifetime is a flash of lightning in the sky. 
Rushing by,like a torrent down a steep mountain. 
ー Buddha (c.563-c.483 B.C.)(釈迦)

我々の存在は、秋の雲のように、移りやすいもの。
人の生死を見るのは、踊りの動きを見るようなもの。
人生は、稲妻の閃光のようなもの。
険しい山から流れ落ちる、急流のようなもの。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

100 per cent of us die, and the percentage cannot be increased. 
ー C.S. Lewis, "The Weight of Glory" 

100%、我々は死ぬ。
そしてそのパーセンテイジは、それ以上増えることはない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●希望

 この中で、私はつぎの言葉に、希望をいだく。

To the wellーorganised mind, death is but the next great adventure. 
ー Albus Dumbledore

たいへんよく組織された心には、死は、つぎの大きな冒険にすぎない。

 わかりやすく言えば、しっかりと、スキがないほどまでに、心を準備すれば、死がやってきて
も、冒険に出かけるように、自分を取り乱すこともなく、死を迎えることができるということ。

 ただほとんどの人は、「死はやってくるもの」と思っている。
しかしこれは誤解。
自分自身が内部から崩壊すること。
それが死。
「やってくるもの」ではない。
つまりDNAには、あらかじめ自己崩壊が、プログラムされている。
思春期になって、ひげが生え、初潮を迎えるように、死もまた、プログラムされている。

 が、死を恐れる必要はない。
「死」があるから、今、私やあなたは、ここに存在する。
もし死がなければ、この地球は、生き物だらけになってしまう。
平安時代以後の人間だけを積分しても、たいへんな数になる。
毎年100万人ずつ生まれたとしても、1000年で、20億人!
毎年1000万人ずつ生まれたとしても、1000年で、200億人!

 先人たちが死んでくれたおかげで、そこに「空き」ができ、私たちは、その「空き」の中で生ま
れることができた。
言い替えると、私たちが死ななければ、つぎの世代の人たちは、生まれてくることができない。
つまり私たちは死ぬことで、席を、つぎの世代の人たちに譲る。
私たちはこうして、常に新しい生命と、入れ替わる。

●wellーorganised mind

 で、「死」について。
どう考えたらよいのか。
が、それにはいくつか、ポイントがある。

 その第一は、「生命を自分だけのものと考えてはいけない」ということ。
私たちの生命は、私たち個人のものではない。
そうでないと思うなら、一度、自分の手先をじっくりとながめて見たらよい。
あなたは、指一本、自分で作ったわけではない。
爪ひとつ、自分で作ったわけではない。
「生命」という大きな流れを、あなたは受け継いだにすぎない。
その「生命」を、自分のものと思うこと自体、バカげている。

 その第二は、自分の「生命」を、つぎの「生命」に伝えていくこと。
自分のところだけに、とどめてはいけない。
「自分の命は、わたしのもの」と、そう考えてはいけない。
私的所有物か何かのように考えてはいけない。
あなたは、自分の中の(あなた)を、つぎの世代に伝えていく。
方法はいろいろあるだろう。
教育も、そのひとつ。
が、大切なことは、つぎの世代の人たちが、より有意義に、より真・善・美に
近づけるように、その踏み台となること。

 その第三は、今あなたが受け継いだ「生命」を完全燃焼させること。
中途半端はいけない。
完全燃焼。
それは「今」を生きる人間の義務と考えてよい。
つまりこの世の中には、生きたくても生きられない人は、いくらでもいる。
そういう人たちの分まで、生きる。
その一語に尽きる。

これは私の勝手な解釈だが、それが「wellーorganised mind」、つまり、それが
「じゅうぶん組織化された心」ということになる。
言い替えると、それこそが死を克服するための、ゆいいつの方法ということになる。

 ところで、ここでひとつ気になったことがある。

 老齢期をさして、「死の待合室」という。
よくそういう言葉が出てくる。
私も何度か使ったことがある。
その「死の待合室」というのは、アガサ・クリスティの「in the anteroom for the summons
(召喚状を待つ控え室)」という言葉から、出てきたのでは?
「anteroom」というのは、「待合室」を意味する。
少なくとも日本人の発想ではない。
余計なことだが……。

 なお「wellーorganised mind」という言葉を使った、アルバス・ダンブルドアという
人が、どんな人か、私は知らない。
「ハリーポッター」の中に、出てくる老人に、同姓同名の人がいる。
その人のことか?

 さようなら、井上ひさし。
ご冥福をお祈り申し上げます。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 死 死について 賢者の言葉 死の待合室 アガサ・クリスティ 井上ひさし)

Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

【声を出そう!】(新年長児クラス)4月12日(2010年)

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【小2・かけ算の基礎】BW教室byはやし浩司

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*********************

以下、

【URL】

●「声を出そう!」(年長児)

http://www.youtube.com/watch?v=fjADTUwoA8A

http://www.youtube.com/watch?v=To00SRd0XIs

http://www.youtube.com/watch?v=L175iuUGYEo

http://www.youtube.com/watch?v=0qnYabH-eX8

http://www.youtube.com/watch?v=ySC_IWtJWaU

http://www.youtube.com/watch?v=1dkZd2O54X0

●「かけ算の基礎」(小2児)

http://www.youtube.com/watch?v=58eG2Q_iZv4

http://www.youtube.com/watch?v=YiE4rHd-gdw

http://www.youtube.com/watch?v=YJgMTRt0RsA

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 BW教室 BW子どもクラブ BW子ども教室)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●老後の資金

++++++++++++++++

年金機構のHPに
こんな記事が載っていた。
そのまま紹介させてもらう。
(HOKEN MALLのHPより)

++++++++++++++++

●老後資金の確保

【ポイント】
保険以外の資産状況や公的年金を検討し、月に10,000円から20,000円程度積み立てのつもり
で老後資金を準備しましょう。

【必要な保険】
年金保険
養老保険

【ゆとりある老後を送るための生活費はいくら?】
平均的な老後生活費= 21万円
※世帯主60歳以上の日常生活の生活費 <総務省統計局 「平成20年家計調査年報」より

最低の日常生活費平均= 23.2万円
ゆとりある老後生活費= 38.3万円

※夫婦二人の場合 <生命保険文化センター 「生活保障に関する調査」/平成19年 アンケ
ートより>

公的年金の上乗せとして、月に10,000円から20,000円程度を年金保険や養老保険で準備しま
しょう。

また、下記の条件を満たす個人年金保険は「個人年金保険料控除」として、所得税と住民税
の負担が軽減されます。退職まで10年以上ある方は、まだ現役で資金的に余裕のあるうちに
老後資金を準備できますね。

年金受取人が契約者またはその配偶者のいずれかであること。
年金受取人は被保険者と同一人であること。

保険料払込期間が10年以上であること(一時払は対象外)。
年金の種類が確定年金や有期年金の場合、年金受取開始が60歳以降で、かつ年金受取期
間が10年以上であること。
 
+++++++++++以上、(HOKEN MALLのHPより)+++++++++++
 
●私のばあい

 私は現在、62歳と6か月。
60歳は、とっくの昔に過ぎている。
が、これによれば、最低の日常生活費として、平均、 23・2万円、必要とか。
23・2万円!

 が、まだ年金らしいものは、1円も手にしていない。
あと3、4年で、国民年金がもらえるそうだが、夫婦2人で、合わせて13万円前後。
今はまだ仕事をつづけているからなんとかなるが、仕事をやめたら、あとは財産を切り売りして
生きていくしかない。

 もっともその一方で、先日経営破綻したJALのOBのように、月額40〜50万円の年金を手
にしている人もいる。
企業や最終の役職によっては、もっと多い人もいる。

 しかしそれにしても、「最低」という言葉が恐ろしい。
最低以下だったら、どうなるのか。
どうすればよいのか。
まさか餓死?

 もうすぐこの日本に、ハイパーインフレの大波が押し寄せてくる。
そのうち13万円では、月々のガソリン代にもならない(?)。
38・3万円(ゆとりある老後生活費)でも、きびしい。

 この問題は、データだけを記録し、また別の機会に考えてみたい。
(考えたところで、どうにもならないが……。)

(付記)

仮に30万円(月)必要として、13万円を引くと、私のばあい、17万円の不足。
その分を貯蓄で補うとすると、平均寿命までの20年間で、4080万円!
(17x12x20=4080万円。)
4080万円の貯蓄が必要ということになる。


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●『たちあがれ日本』

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


自民党に離党届を提出した与謝野馨元財務相や無所属の平沼赳夫元経済産業相らが10日
に結成する新党の党名は 「たちあがれ日本」 となる事が7日、決まった。与謝野氏らは5日か
ら党名や基本政策の協議を進めてきた。新党関係者は 「党名はほぼ合意が出来た」 と語っ
た。(読売新聞・4月7日・2010)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●Ambitious Japan(立て、日本!)

 『たちあがれ日本』という言葉を聞いて、10年ほど前に書いた原稿を、思い出した。
「Ambitious Japan」という言葉について書いた原稿である。
それをそのままここに紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 今、東海道新幹線(JR)の車両の横に、「Ambitious Japan」と書いてある。

 「Ambitious」と言えば、W・クラーク博士。明治10年、札幌農学校(現在の北海道大学)を
退任するときに、クラーク博士は、「Boys, be ambitious!」と言ったという。

 日本では、「少年よ、大志を抱け」と翻訳されている。

 その後、この翻訳は、正しくないという議論が、あちこちから起きた。実は、私も、そう思う。つ
まり、正しくないと思う。「ambitious」というと、「野心的な」という意味。反対に、小さな世界で、
こじんまりと生きている人のことを、「ambitious」とは、言わない。

 そういう意味での、「ambitious」である。「大志」というと、どこか出世主義のにおいが、プン
プンとする。明治という時代は、そういう時代だったかもしれないが、しかしアメリカ人のクラー
ク博士に、そういう意識があったかどうかは、疑問である。

 あえて訳すなら、「生徒たちよ、こじんまり生きないで、もっと元気を出せ」という意味ではない
のか。英語で、「ambitious」というと、どこか「他人を蹴落としてでも、前に進め」というニュアン
スを感ずる。どこか荒々しく、乱暴。

 たとえば会話でも、「He is an ambitious man.」と言ったときは、その彼をほめるとい
うよりは、「彼はやり手」という意味で使う。

 私のpoorな英語力で、こういう解釈を加えるのは、危険なことかもしれないが、少なくとも、
「大志を抱け」という意味ではない。

 で、その新幹線。私は、「Ambitious Japan」という言葉が好きである。この不況下。みん
な、どこか元気をなくしている。自信をなくしている。

 しかしあの新幹線が、轟音とともに走りすぎるのを見るたびに、「日本も、まだまだがんばって
いるな」と思う。「捨てたものではないな」と思う。

先日も、オーストラリアの友人が、日本へ来て、新幹線が走っていることよりも、すでにその新
幹線が、35年以上も前から走っていることに、驚いていた。

 韓国の新幹線は、やっと今年になってから走った。中国は、これからである。が、日本では、
35年以上!

 「さあ、日本よ、元気だそう。まだ俺たちには、パワーがある」という意味での、「Ambitious 
Japan」である。

 多分、JRのことだから、その道の英語の達人を、アドバイザーにしながら、この言葉を考え
たのだろう。けだし、正解である!

 で、一つだけ心配するのは、あの「Ambitious Japan」という英語を見て、中には、「日本
よ、大志を抱け」と翻訳する人も、いるのではないかということ。それについては、ここで、「その
訳は、まちがっている」ということを、改めて、確認しておきたい。

 さあ、みんな、元気を出して、前に進もう! Let's be ambitious!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ひらがな?

 この原稿を書くとき、本当に「たちあがれ日本」でよいのか、不安に思った。
「立ち上がれ」あるいは、「立ちあがれ」ではないのか、と。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

「2010年4月7日に新党の名称を「たちあがれ日本」にすることが固まった。命名したのは新党
を後押しする石原慎太郎東京都知事。「すすめ日本」「がんばろう日本」「まもれ日本」「新党ち
から」「よあけ」「れいめい」または「れいめいの会」なども候補にあがったが、平沼は「今の時代
に合っているのは、ひらがながいいんじゃないか」と述べている。翌8日には平沼が「代表」、与
謝野が「共同代表」に就任することが合意された」(ウィキペディア百科事典より)と。

 やはり「たちあがれ日本」が正しいということになる。
しかし私なら、「立て日本」とする。
そのほうが短くて、わかりやすい。
「たちあがれ日本」とすると、党名を覚えるとき、まちがえやすい。
私もすぐには、思い出せなかった。
「たちあがろう日本」?
「たとう日本」?
いろいろ迷った。

●虚しさ

 が、「たちあがれ日本」という新党が生まれたとき、私はそこにある種の虚しさを覚えた。
「またか?」という思い。
それには2つの意味がある。
ひとつは、そのつどこうした調子のよい言葉(失礼!)が生まれる。
しかしいつも空振り。
先に載せた「Ambitious Japan」にしても、そうだ。
もう10年近くも前に書いた原稿である。

 もうひとつは、民主党。
民主党が私たち(浮動票層)に与えた失望感には、相当なものがある。
国民の80%以上が、「やめろ・コール」を出しているのに、小沢幹事長は、いまだにその立場
にしがみついている。
その見苦しさ。
その醜悪さ。
浮動票層は、民主党や小沢幹事長を選んだのではない。
反麻生勢力が、たまたま民主党に向かっただけ。

 たしかに浮動票層は、今、行き場をなくし、右往左往している。
が、小沢幹事長はそれをそれ見越してか、「民主党しかない」と、勝手なことを言っている。
まるで国民の気持ちがわかっていない。
またそういう人物が、国政の頂点にいることを、とても残念に思う。

●立て、日本!

 党名はともかくも、今の日本には、この言葉しかない。
ただし私なら、先にも書いたように、こう言う。
「立て、日本!」。
「たちあがろう日本」では、どこか弱々しい。
「Let's be ambitous」よりは、「Be ambitious」のほうが、よい。
だから、「立て、日本!」。
英語に訳すなら、「Ambitious Japan」となる。

 自民党もだめ。
民主党もだめ。
だったら、私たち浮動票層はどこへ向かえばよいのか……という意味で、「たちあがろう日本」
に、おおいに期待したい。
期待したいが、どうも道筋がはっきりと見えてこない。
悪く見れば、自民党残党の「生き残り政党」ということになる。
となると、おいそれと支持できない。
民主党に一度、裏切られているから、そこはどうしても慎重になってしまう。
「はい、では、たちあがろう日本にします」というわけいには、いかない。

 もう少し様子をみよう。

 ただすでに結果が出始めている。
各地でなされる首長選挙では、民主党の連敗がつづいている。
当然のことである。


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●老人性無気力症候群

++++++++++++++++++

気力が弱くなると、何をするにも、
おっくうになる。
何か冒険をする前に、
不便であることを、がまんしてしまう。
新しいことを学ぼうとする前に、
自分の知っている古いやり方に、戻ってしまう。
無難な道を選んでしまう。
そのため自分の住む世界を小さくしてしまう。

だれかれのことではない。
私自身のことである。
加齢とともに、気力が徐々に弱く
なっていく。
それが、自分でもよくわかる。
称して、「老人性無気力症候群」。
これは私がつけた名称。

++++++++++++++++++

●無難

 そこに新しい何かがあっても、わざと顔をそむけて、通り過ぎてしまう。
たとえば「方法」。
新しい方法に手を出すよりも先に、自分が慣れ親しんだ方法を優先する。
「より便利になるかもしれない」。
そんな淡い期待をもつことはあるが、あえてそれを心の中で避けてしまう。
近くに、こんな人がいる。

 今では、あらゆるものを、ネットで買うことができる。
大型店で買うよりも、2〜3割は安い。
その上、翌日配達。
代引きで商品を受け取るので、安心。

 そのことを教えてやっても、その人は、「店で買うほうがいい」と。
返す刀で、「ネットはめんどうだから」とか、「直接、商品を見て、
自分で確かめてから買いたい」などと言う。
あるいはインターネットそのもを、毛嫌いする。
「あそこの嫁さんは、インターネットばかりしていて……」と。
「つまり、悪い嫁」と。

●私自身も

 かく言う私も、若い人たちから見ると、その人とそれほど変わらない。
それが自分でも、よくわかる。
立場は逆でも、また中身はちがっても、その人と同じようなことをしている。
ときに若い人たちがしていることを、「つまらない」とか、「バカくさい」とか
言って、はねのけてしまう。

 たまたま昨日も、中学生の女の子は、私の服装を見て、「ダサイ」と言った。
そこで私が「どんな服装が似合うか、絵に描いてよ」と言った。
その女の子は、しばらくすると、一枚の絵を見せてくれた。
それを見て、思わず、私は笑ってしまった。

「服は緑。ズボンは、足下までふくらんだ、とび職風。色は茶色……」。
が、それではいけない。
私は、「来週は、このかっこうで来るから、笑うなよ」と言った。
その女の子は、「笑わない」と約束した。

 つまり若い人たちを笑ってはいけない。
それを繰り返していると、自分が住む世界が、どんどんと小さくなってしまう。
小さくなるだけではない。
冒頭に書いたように、へたをすれば、老人性無気力症候群に陥ってしまう。
が、こうなると、「進歩」など、もう望むべくもない。

●自己診断

 そこで自分なりに、自己診断テストを考えてみた。
これは「老人性無気力症候群」の初期症状を知るためのテストということになる。

( )若いときの知り覚えた歌や、音楽を聴くことが多い。
( )「冒険」よりも、「無難」を選ぶことのほうが、多い。
( )融通がきかず、ときに無理をしてでも、伝統的なやり方を押し通す。
( )若い人たちのしていることに、興味がない。
( )過去をなつかしむことが多くなった。

 ひとつの目安として、携帯電話やインターネットがある。
たぶんに手前味噌的ではあるが、60歳で、インターネットをしているかどうかを
みるとよい。
インターネットをするにも、段階的な進歩がある。
まずキーボードが叩き方を覚えなければならない。
メールの送受信ができなければならない。
ネットでものを売買できるようになるのは、そのつぎの段階ということになる。
怠けた心では、インターネットはできるようにはならない。

 つまり60歳を過ぎて、インターネットを楽しんでいる人は、それだけでも
進歩的な人と判断してよい。

●ワイフの生き方

 この老人性無気力症候群の恐ろしいところは、それだけではない。
一度、そこへ陥ると、あとは悪循環となって、どんどんと深みに
はまってしまう。
そうでなくても、体力の低下とともに、気力が弱くなる。
そこにある壁を乗り越える力が弱くなる。
そこで「闘う」という姿勢が、どうしても必要ということになる。
「待ち」の姿勢では、いけない。
「闘う」。
闘いながら、壁をそのつど、乗り越える。
けっして安楽な道を選んではいけない。

 が、これはたいへんなこと。
私も、今、その老人性無気力症候群と闘っている。
もともと私は鬱(うつ)気質だから、鬱症状のひとつとして、無気力になりやすい。
だからそうでない人よりも、2倍とか、3倍の努力をしなければならない。
たとえばそこに何か新しいことがあれば、あえて、それに向かって進んでいく。
何でもやってみなければ、わからない。
そういうふうに、自分を奮い立たせる。

 その点、私のワイフは、ありがたい。
見た目には、静かでおとなしい女性。
しかし内に秘めたエネルギーには、ものすごいものがある。
精神が安定している分だけ、行動力もある。
私を、ぐんぐんと別の世界へ引き込んでくれる。

 で、最初はしぶしぶながら、私はついていく。
が、そのあと、いつもこう言う。
「してよかった」「来てよかった」と。

●では、どうするか

 いくつかコツがある。
これは私自身の努力目標ということになる。

(1)過去を回顧しない。
(2)新しいことは、何でもやってみる。
(3)若い人たちの世界を、いつものぞく。
(4)不平不満、愚痴(ぐち)は言わない。
(5)いつも大きな話題について考える。

 老齢期を迎えたからといって、何も生活をコンパクトにする必要はない。
明日は今日の結果として、かならずやってくる。
健康にせよ、気力にせよ、今日がんばれば、明日もだいじょうぶ。
あとはそれを繰り返す。

●子どもの世界でも・・・

 ついでながら、子どもの世界でも似たようなことがある。
たとえば何かむずかしい問題を出したとする。
そのとき、「やりたい!」と言って、食いついてくる子どももいれば、
そうでない子どももいる。
問題を見る前に、逃げてしまう。
「どうせできないから・・・」と。

 が「やりたい!」と言って食いついてくる子どもにしても、能力を
はるかに超えた問題だと、やはり逃げてしまう。
一度、こんなことをしてみたことがある。

 その子ども(小4男児)は、かなり鼻っぱしの強い子どもだった。
生意気な子どもだった。
「どんな漢字でも書ける」と言った。
そこで私は漢字検定試験1級(小6レベル)のテスト問題をもってきて、
その子どもにさせてみた。

 数学とちがって、漢字のばあい、(書ける・書けない)がはっきりしている。
いくら考えても、習い覚えたことのない漢字は書けない。
5分もすると、プライドが傷つけられたと感じたのか、ふてくされてしまった。
テスト用紙を払いのけてしまった。

 で、つぎの漢字点綴試験3級(小4レベル)のテスト問題をやらせようと
した。
が、その子どもは、それに対して、拒否反応を示した。
同じようにテスト用紙を、手で払いのけてしまった。

●教訓

 このことからもわかるように、「気力」というのは、じょうずに
引き出さなければならない。
これには、子どもも、(自分)もない。
やり方をまちがえると、気力そのものを失ってしまう。
「段階的に追っていくもの」と書くほうが、正確。
いきなり「ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」は、無理。
やっても挫折感が大きいと、そこで頓挫(とんざ)してしまう。

まず自分のできる範囲で、それに挑戦してみる。
それができたら、徐々に、段階を経て、レベルアップしていく。
「身の丈にあった世界」で、自分を生かす。
あとはこれを繰り返す。

 老人性無気力症候群・・・こわいぞ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 老人性無気力 無気力症候群 老人の気力)


Hiroshi Hayashi+++++++April 2010++++++はやし浩司

●一個人の自己宣伝について

++++++++++++++++

 つい先日、私はある「人名辞典」サイトに、
自己紹介記事を書いた。
軽い気持ちで、そうした。
それについて、「はやし浩司は、一個人に過ぎない」
「自己宣伝にすぎない」ということで、そのまま
削除されてしまった。
少なからず、カチンときた。

若いころ、クリジットカードを申し込んだとき、
拒否されたことがある。
「審査の結果・・・なんとかなんとか」と。
久しぶりに、そのとき感じたような不快感を覚えた。

 で、審査をしたという人の、ペンネームが
載っていた。
そこでその人物を検索しながら、素性を調べてみた。
が、その人自身も、名もない個人。
「教育関係の仕事をしている」などと書いてあった。

 が、どうしてそんな程度の人物に、「私」が
評価されなければならないのか。

自己主張を「利益」につなげれば、
それは自己宣伝。
それはわかる。
しかし私の場合は、少し違う。
「違う」というのではない。
「少し違う」。
「少し」というのは、利益を求めない
心が、まったくないわけではないということ。
お金は嫌いではないし、何らかの形で
収入につながれば、それはそれでうれしい。
しかしこの世の中で、収入を考えないで、
何かをしている人など、いるのか。
さらに言えば、仮にそれが自己宣伝で
あったところで、それがどうして
悪いことなのか。

たとえば会社の広告。
あれなどは、自己宣伝そのもの。
「組織」と「個人」はちがうと思う人も
いるかもしれない。
ならば聞くが、どうして組織だと問題がなく、
個人だと問題があるのか。

さらに言えば、作家や画家など、個人で
プレーしている人は、どうなのか。
俳優でもよい。
「個人」も「商品」と同じで、まず「売りに出す」。
その売りに出すという段階で、どうしても
宣伝をしなければならない。
それが自己宣伝。

が、こんなことがある。

++++++++++++++++++

●マンション建設反対運動

 10年近く前、近所に、10階建てのマンションが建設される
ことになった。
とたん、近隣の人たちの間から、猛烈な反対運動が起きた。
もっともこうした反対運動は、珍しくない。
が、そのマンションのばあいは、少し、ちがった。
建設予定地周辺の民家に、つぎつぎと新しい看板が並んだ。
「地獄の3丁目」とか、「のぞき見、反対」とか。
「ここは元墓地」とか、「マンション住民にも責任を取ってもらいます」
というのもあった。
中には、ほとんど隙間なく、まるで塀のように、看板を並べている家もあった。
過激といえば、過激。
ふつうの反対運動とは、かなり内容が違っていた。

●パラドックス

 が、それからほぼ10年。
マンションは建設され、販売も始まった。
すでに何割かの部屋には、新しい住民が住んでいる。
が、立て看板は、そのまま。
そこはまさにパラドックスの世界。

「看板を立てるな」という、看板を立てる。
「張り紙をするな」という、張り紙をする。
それと同じ。
「美観をそこねるマンション建設、反対」という看板を無数に立てて、
美観を損ねている(?)。

が、それが悪いと言うのではない。
それぞれの住民には、それぞれの思いというものがある。
私たちの知らない、(いきさつ)もあるだろう。
どこかで話し合いが、こじれてしまった。
その可能性もある。
それに建設会社は、大手。
反対する人は、個人。
最初から力関係がちがう。
反対する人たちは、それぞれの思いの中で、自分の意思を外に向かって示す。
個人が、大手を相手に向かって、闘っている。

 が、今、どうして反対運動なのか?
マンションは、先にも書いたように、すでに完成している。
しかも当初予想されたような、日照問題も、電波障害も起きていない。
マンション業者は、きちんと法律にのっとって、マンションを建設した。

●匿名

 そこで私は、「反対反対の反対運動」というのを考えた。
「見苦しい看板を、撤去しましょう」というチラシを配ってあることを
考えた。
考えただけで、もちろん実行していない。
理由がある。

 仮に私が、「見苦しい立て看板を、撤去しましょう」というチラシを配って
歩いたとする。
しかし「見苦しい」と思うのは、ひょっと私だけかもしれない。
周辺の人たちは、それ以上に(怒り)を覚えているのかもしれない。

それに私は、こうしたチラシを書くにしても、匿名では書きたくない。
しっかりと「はやし浩司」という実名をつけて書きたい。
匿名で、何かを書くというのは、私のやり方ではない。
そういうやり方は、卑怯者のすること。
陰に隠れて、コソコソ書くことなら、だれにだってできる。

●無私無欲

 が、私のばあいは、実名を使う。
こうしてささいなエッセーを書くときも、実名を使う。
実名を使って、「私」を前に出す。
それを「自己宣伝」とは?

また書く以上、できるだけ多くの人に読んでもらいたい。
そのために、HPを開き、BLOGを書く。
もちろん実名入りで、書く。
書く以上、すべての責任は、私が負う。
が、どうしてそれが「自己宣伝」なのか?
自己宣伝と判断されるのか?

 さらに言えば、私はこうしてものを書くのが、自分の墓づくりと
位置づけている。
「墓イコール、本」と考えたこともある。
しかし金儲けのために文章を書くのは、10年ほど前にやめた。
それまでの私は、稼ぐために、文章を書いた。
ものを書くことイコール、金儲けと考えていた。
(その逆でもよいが・・・。)
ちょうど不景気になりかけていたころで、出版社と印税のことでもめた
こともある。
それで嫌気がさした。
出版の世界から遠ざかった。

 で、今は、フリーもフリー、まったくフリー(無料)で、文章を
書いている。
こうして書いている文章にしても、「どこかで金儲けにつながるかも
しれない」という思いは、微塵(みじん)もない。
もとから「無」の状態。
(金儲けにつながるような文章でもないが……。) 

 それ以上に、私は私の中から、つぎつぎと湧いてくる(思い)を、
文章にしておきたい。
だれのためでもない。
自分のためである。
またそうでないと、よい文章は書けない。

●よい文章

 「よい文章」という言葉を書いたので、一言。

 よい文章というのは、あとで読み返したとき、「これは私だ」と思える
ような文章をいう。
私の、心の足跡がしっかりと残っているような文章をいう。
そういう意味で、ありのままの自分を書く。
飾ったり、偽ったりしない。
そういう文章は、あとで読み返してみても、後味が悪い。
読みやすく、内容がしっかりしていれば、なおよい。
しかしそれは、他人の判断すること。
私は第一義的には、私のために書く。
私にとって、よい文章かどうかというのは、あくまでも内容。
文のじょうず、へたではない。

 またよい文章というのは、たとえ内容を忘れてしまっていても、
目を通した瞬間、自分の文章とわかる。
その文章と共鳴する、「私」が、そこに残っている。
文章と「私」が共鳴する。
だから自分の文章とわかる。

●読者

 そんなわけで、今の私にとって最大の励みは、読者ということになる。
読者がふえるというのは、本当にうれしい。
昨年(2009年)の5月、HPとBLOGへのアクセス数が、
累計だが、月間30万件を超えた。

 それぞれのHPでは、アクセス数がカウントされる。
その累計が、「30万件」という数字である。
もちろん1人で、何回もアクセスしてくれる人も多い。
だから30万件イコール、30万人ということではない。
しかしその一方で、ハイパーリンクといって、トップページを介さないで
アクセスしてくる人もいる。
(アクセス数がカウントされるのは、それぞれのHPのトップページ
だけ。)
だから実際には、もっと多いかもしれない。

 近くまた累計してみようと考えているが、昨年より減っているという
ことはない。
ちなみに、ヤフーで、「はやし浩司」を検索してみると、昨年は、12万件程度
だったが、最近(2010年4月)になって、20万件を超えた。
毎月その数は、数1000件ずつ、ふえている。

 つまりこれが私の「地位?」ということになる。
私の「立場?」ということになる。

●一個人の自己宣伝

 言うまでもなく世の中には、私のような個人のほうが多い。
99・99%が、そうだ。
ただ誤解していけないのは、有名人イコール、人格者ではないということ。
金持ちイコール、成功者ではないということ。
もちろん「個人」と言われる人の中には、あやしげな人も多い。
が、そういう人たちとともに、まじめに生きている「個人」までもが、
いっしょくたに、闇へと葬られてしまう。
つまりこういう形で、個人が、封殺されてしまう。
しかも悲劇的なのは、同じ個人が、同類の個人を封殺する。
言うなれば、個人の共食い。

 その一方で、組織で肩書きや地位のある人を、ヨイショする。
テレビなどのマスコミで騒ぐ人を、ヨイショする。
その悲しさ。
その心の薄さ。
日本という、どうしようもないほど小さな国で、互いに足を引っ張り
あっている。
「一個人の自己宣伝」という言葉には、そういうニュアンスが隠されている。
そういう形で、つまり自分はジャッジになったつもりで、その個人を
見下す。

 「どうぞ、ご勝手に!」と言って、この問題は、おしまい。
改めて自分の力のなさを思い知らされた形になったが、まだまだ時間はある。
平均寿命まで、あと16年。
まだ何かできる。
まだがんばれる。
そこに何があるかわからないが、私は私で、前に進むだけ。

『我らが目的は成功することではない。
失敗にめげず、前に進むことである』(スティーブンソン)。
改めて、この言葉を、自分の胸に刻む。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 自己宣伝 自己主張 無私無欲 文章を書く)


Hiroshi Hayashi++++++April.2010++++++はやし浩司

●「戦争」という悪魔

+++++++++++++++++++++++

戦争は、悪魔をつくる。
想像もつかないような悪魔をつくる。
今、「私はだいじょうぶ」と言っている
あなただって、戦争にばれば、わからない。
私だって、わからない。
自信がない。

先日、ある記録を読んでいたら、こんなことを
告白した女性がいた。
あの戦時下のサラエボで起きた事件である。

あるときクロアチア軍が、そこへやってきた。
そして女性ばかりを、何十名も捕虜にした。
クロアチア軍は、若い女性については、繰り返し
性的暴行を繰り返した。
年配の女性については、膣の中に銃口をつっこみ、
つぎつぎと射殺していった。

どんな光景だったか。
想像するだけで、背筋が冷たくなる。

が、そんなことをしたクロアチア軍の兵士にしても、
戦争前は、ごくふつうの兵士だったにちがいない。
そして今も、もし生きているなら、何食わぬ顔して、
平然と日々の生活を過ごしているにちがいない。

戦争の、本当の恐ろしさは、ここにある。

+++++++++++++++++++++


<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタイト
ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" height="250" alt="●BL
OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>


●今日から、レッスン(年少児+年中児クラス)BW教室byはやし浩司(浜松市)

テーマ「声を出そう!」
「あ」の音

+++++++++++++++++++++++++++

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【URL版】

http://www.youtube.com/watch?v=grQpUYfQ200

http://www.youtube.com/watch?v=CNsWrzyPPr4

http://www.youtube.com/watch?v=-HsOWJpRCfY

http://www.youtube.com/watch?v=XCyijmXxdKU

http://www.youtube.com/watch?v=DS1W8zGuXt4


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

【夫婦喧嘩】

++++++++++++++++

C県のXさん(妻)より、夫婦喧嘩
についての相談をもらった。

メールの転載については、「不許可」という
ことなので、一般論として、それについて
書いた原稿をさがしてみた。

++++++++++++++++

●DV(ドメステック・バイロレンス)

【ドメスティック・バイオレンス】

++++++++++++++++++++

家庭内暴力、称して、「ドメスティック・バイオレンス」。
略して、「DV」。

「配偶者(たいていは夫)、もしくは、恋人からの暴力」
をいう。

++++++++++++++++++++

●夫婦喧嘩のリズム

 周期的に夫婦喧嘩を繰りかえす人がいる。(私たち夫婦も、そうだが……。)その夫婦喧嘩に
は、一定のリズムがあることがわかる。【安定期】→【緊張期】→【爆発期】→【反省期】というパ
ターンで、繰りかえされる。

【安定期】

 夫婦として、何ごともなく、淡々とすぎていく。朝起きると、夫がそこにいて、妻がそこにいる。
それぞれが自分の持ち場で、自分勝手なことをしている。日々は平穏に過ぎ、昨日のまま、今
日となり、今日のまま、明日となる。

【緊張期】

 たがいの間に、おかしな、不協和音が流れ始める。夫は妻に不満を覚える。妻も、夫に不満
を覚える。忍耐と寛容。それが交互にたがいを襲う。何か物足りない。何かぎこちない。会話を
していても、どこかトゲトゲしい……。ピリピリとした雰囲気になる。

【爆発期】

 ささいなことがきっかけで、どちらか一方が、爆発する。相手の言葉尻をつかまえて、口論に
なったり、言い争いになったりする。それが一気に加速し、爆発する。それまでの鬱積(うっせ
き)した不満が、口をついて出てくる。はげしい口答え。もしくは無視、無言。

【反省期】

 爆発が一巡すると、やがて、反省期を迎える。自分の愚かさを、たがいにわびたり、謝ったり
する。が、それも終わると、今度は反対に、相手に、いとおしさを覚えたりする。たがいに安定
期より、深い愛情を感ずることもある。心はどこか落ち着かないが、「これでいいのだ」と、たが
いに納得する。

 これが夫婦喧嘩のリズムだが、そのうちの【爆発期】に、どのような様相を示すかで、それが
ただ単なる夫婦喧嘩で終わるのか、DV(ドメスティック・バイオレンス)になるかが、決まる。

●ドメスティック・バイオレンス

 東京都生活文化局の調査によれば、

   精神的暴力を(夫から)受けたことがある人……55・9%
   身体的暴力を(夫から)受けたことがある人……33%、ということだそうだ。
 (1997年、女性からの有効回答者数、1553人の調査結果)

 DVの特徴は、大きくわけて、つぎの2つがあるとされる(渋谷昌三・心理学用語)。

(1)非挑発性……ふつうならば攻撃性を誘発することのないことに対して、攻撃性を感ずるこ
と(同書)。
(2)非機能性……攻撃しても、何の問題解決にもならないこと(同書)と。

 わかりやすく言うと、DVが、ふつうの夫婦喧嘩と異なる点は、攻撃される側にしてみれば、夫
が、どうして急に激怒するか、その理由さえわからないということ。またそうして夫が激怒したか
らといって、問題は何も解決しないということ。もともと、何か具体的な問題があって、夫が激怒
するわけではないからである。

 ではなぜ、夫は、理由もなく(?)、急激に暴力行為におよぶのか。

 私は、その根底に、夫側に自己嫌悪感があるからではないかとみている。つまり妻側に何か
問題があるから、夫が暴力をふるうというよりは、夫側が、はげしい自己嫌悪におちいり、その
自己嫌悪感を攻撃的に解消しようとして、夫は、妻に対して、暴力行為におよぶ。(もちろんそ
の逆、つまり妻が夫に暴力をふるうケースもあるが……。)

 ただ暴力といっても、身体的暴力にかぎらない。心理的暴力、経済的暴力、性的暴力、子ど
もを利用した暴力、強要・脅迫・威嚇、否認、責任転嫁、社会的隔離などもある(かながわ女性
センター)。

 アメリカの臨床心理学者のウォーカーは、妻に暴力をふるう夫の特徴として、つぎの4つをあ
げている(同書)。

(1)自己評価が低い
(2)男性至上主義者である
(3)病的なほど嫉妬深い
(4)自分のストレス解消のため、妻を虐待する、と。

 これら4つを総合すると、(夫の自己嫌悪)→(自己管理能力の欠落)→(暴力)という構図が
浮かびあがってくる。

 実は私も、ときどき、はげしい自己嫌悪におちいるときがある。自分がいやになる。自分のし
ていることが、たまらなくつまらなく思えてくる。ウォーカーがいうところの、「自己評価」が、限り
なく低くなる。

 そういうとき、その嫌悪感を代償的に解消しようとする力が、働く。俗にいう『八つ当たり』であ
る。その八つ当たりが、一番身近にいる、妻に向く。それがDVということになる。

 が、それだけではない。その瞬間、自分自身の問題をタナにあげて、妻側に完ぺき性を求め
ることもある。自分に対する、絶対的な忠誠と徹底的な服従性。それを求めきれないと知り、あ
るいはそれを求めるため、妻に対して暴力をふるう。

 こうした暴力行為は、本来なら、その夫自身がもつ自己管理能力によってコントロールされる
ものである。自己管理能力が強い人は、自分を管理しながら、そうした暴力が理不尽なもので
あることを知る。が、それが弱い人や、そうした暴力行為を、日常的な行為として見て育った人
は、そのまま妻に暴力をふるう。

 マザコンタイプの夫ほど妻に暴力をふるいやすいというのは、それだけ、妻に、(女としての
理想像)を求めやすいということがある。

 で、自己管理能力を弱くするものとしては、その人自身の精神的欠陥、情緒的未熟性、ある
いは、慢性化したストレス、精神的疾患などが考えられる。うつ病(もしくはうつ病タイプ)の夫
が、突発的にキレた状態になり、妻に暴力をふるうというケースは、よく知られている。

●対処方法

 妻側の対処方法としては、(あくまでも通常の夫婦喧嘩のワクを超えているばあいだが)、そ
の雰囲気を事前に察したら、

(1)逆らわない
(2)口答えしない
(3)「すみません」「ごめんなさい」と言って逃げる、に尽きる。

 決して口答えしたり、反論したり、言い訳をしてはいけない。夫が心の病気におかされている
と考え、ただひたすら、「すみません」「ごめんなさい」を繰りかえす。この段階で、反論したりす
ると、それが瞬時に、夫側を激怒させ、暴力につながる。

 で、DVも、冒頭に書いたように、4つのパターンを繰りかえしながら起きるとされている。(学
者によっては、【緊張期】→【爆発期】→【反省期】の3相に分けて考える人もいる。)つまりその
緊張期に、どうそれを知り、どう夫をコントロールするかが重要ということ。

 方法としては、気分転換ということになる。要するに、「内」にこもらないということ。サークル
活動をするのもよし、旅行をするのもよし。とくにこのタイプの夫婦は、たがいに見つめあって
はいけない。たがいに前だけを見て、前に進む。

 ただこの世界には、「共依存」(注※)というのもある。暴力を繰りかえす夫。それに耐える
妻。その両者の間に、おかしな共依存関係ができることもある。

 ここでいう【反省期】に、夫が、ふだん以上に妻にやさしくする。一方、やさしくされる妻は、「そ
れが夫の本当の姿」と思いこんでしまう。こうしてますますたがいに、依存しあうようになる。夫
の暴力を、許容してしまうようになる。

 DVは、夫婦という、本来は、何人も割って入れない世界の問題であるだけに、対処のしかた
がむずかしい。今では、DVに対する理解も進み、また各地に、相談窓口もふえてきた。

 この問題だけは、決してひとりでは悩んではいけない。もし夫の暴力が、耐え難いものであれ
ば、そういう相談窓口に相談してみるのもよい。

なおこの日本では、『配偶者からの暴力の防止および被害者の保護に関する法律』も、2001
年度から施行されている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 DV 
ドメスティック・バイオレンス 家庭内暴力 夫の暴力 暴力行為 ドメスティックバイオレンス 
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 夫婦喧嘩 共依存 共依存関係 自己嫌悪 夫婦喧嘩サイクル論)


++++++++++++++++

共依存について書いた原稿を
添付します。

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注※……共依存

依存症にも、いろいろある。よく知られているのが、アルコール依存症や、パチンコ依存症な
ど。

もちろん、人間が人間に依存することもある。さしずめ、私などは、「ワイフ依存症」(?)。

しかしその依存関係が、ふつうでなくなるときがある。それを「共依存」という。典型的な例とし
ては、つぎのようなものがある。

夫は、酒グセが悪く、妻に暴力を振るう。仕事はしない。何かいやなことがあると、妻に怒鳴り
散らす。しかし決定的なところまでは、しない。妻の寛容度の限界をよく知っていて、その寸前
でやめる。(それ以上すれば、本当に、妻は家を出ていってしまう。)

それに、いつも、暴力を振るっているのではない。日ごろは、やさしい夫といった感じ。サービス
精神も旺盛。ときに、「オレも、悪い男だ。お前のようないい女房をもちながら、苦労ばかりかけ
ている」と、謝ったりする。

一方妻は、妻で、「この人は、私なしでは生きていかれない。私は、この人には必要なのだ。だ
からこの人のめんどうをみるのは、私の努め」と、夫の世話をする。

こうして夫は、妻にめんどうをかけることで、依存し、妻は、そういう夫のめんどうをみることで、
依存する。

ある妻は、夫が働かないから、朝早くに家を出る。そして夜、遅く帰ってくる。子どもはいない。
その妻が、毎朝、夫の昼食まで用意して家を出かけるという。そして仕事から帰ってくるとき
は、必ず、夕食の材料を買って帰るという。

それを知った知人が、「そこまでする必要はないわよ」「ほっておきなさいよ」とアドバイスした。
しかしその妻には、聞く耳がなかった。そうすることが、妻の努めと思いこんでいるようなところ
があった。

つまり、その妻は、自分の苦労を、自分でつくっていたことになる。本来なら、夫に、依存性をも
たせないように、少しずつ手を抜くとか、自分でできることは、夫にさせるといったことが必要だ
った。当然、離婚し、独立を考えてもよいような状態だった。

が、もし、夫が、自分で何でもするようになってしまったら……。夫は、自分から離れていってし
まうかもしれない。そんな不安感があった。だから無意識のうちにも、妻は、夫に、依存心をも
たせ、自分の立場を守っていた。

ところで一般論として、乳幼児期に、はげしい夫婦げんかを見て育った子どもは、心に大きな
キズを負うことが知られている。「子どもらしい子ども時代を過ごせなかったということで、アダ
ルト・チェルドレンになる可能性が高くなるという」(松原達哉「臨床心理学」ナツメ社)。

「(夫婦げんかの多い家庭で育った子どもは)、子どもの人格形成に大きな影響を与えます。こ
のような家庭環境で育った子どもは、自分の評価が著しく低い上、見捨てられるのではないか
という不安感が強く、強迫行動や、親と同じような依存症に陥るという特徴があります。

子ども時代の自由を、じゅうぶんに味わえずに成長し、早くおとなのようなものわかりのよさを
見につけてしまい、自分の存在を他者の評価の中に見いだそうとする人を、『アダルト・チェル
ドレン』と呼んでいます」(稲富正治「臨床心理学」日本文芸社)と。

ここでいう共依存の基本には、たがいにおとなになりきれない、アダルト・チェルドレン依存症と
も考えられなくはない。もちろん夫婦喧嘩だけで、アダルト・チェルドレンになるわけではない。
ほかにも、育児拒否、家庭崩壊、親の冷淡、無視、育児放棄などによっても、ここでいうような
症状は現れる。

で、「見捨てられるのではないかという不安感」が強い夫が、なぜ妻に暴力を振るうのか……と
いう疑問をもつ人がいるかもしれない。

理由は、簡単。このタイプの夫は、妻に暴力を振るいながら、妻の自分への忠誠心、犠牲心、
貢献心、服従性を、そのつど、確認しているのである。

一方、妻は妻で、自分が頼られることによって、自分の存在感を、作り出そうとしている。世間
的にも、献身的なすばらしい妻と評価されることが多い。だからますます、夫に依存するように
なる。

こうして、人間どうしが、たがいに依存しあうという関係が生まれる。これが「共依存」であるが、
しかしもちろん、この関係は、夫婦だけにはかぎらない。

親子、兄弟の間でも、生まれやすい。他人との関係においても、生まれやすい。

生活力もなく、遊びつづける親。それを心配して、めんどうをみつづける子ども(娘、息子)。親
子のケースでは、親側が、たくみに子どもの心をあやつるということが多い。わざと、弱々しい
母親を演じてみせるなど。

娘が心配して、実家の母に電話をすると、「心配しなくてもいい。お母さん(=私)は、先週買っ
てきた、イモを食べているから……」と。

その母親は、「心配するな」と言いつつ、その一方で、娘に心配をかけることで、娘に依存して
いたことになる。こういう例は多い。

息子や娘のいる前では、わざとヨロヨロと歩いてみせたり、元気なさそうに、伏せってみせたり
するなど。前にも書いたが、ある女性は、ある日、駅の構内で、友人たちとスタスタと歩いてい
る自分の母親を見て、自分の目を疑ってしまったという。
その前日、実家で母親を訪れると、その女性の母親は、壁につくられた手すりにつかまりなが
ら、今にも倒れそうな様子で歩いていたからである。その同じ母親が、その翌日には、友人た
ちとスタスタと歩いていた!

その女性は、つぎのようなメールをくれた。

「母は、わざと、私に心配をかけさせるために、そういうふうに、歩いていたのですね」と。

いわゆる自立できない親は、そこまでする。「自立」の問題は、何も、子どもだけの問題ではな
い。言いかえると、今の今でも、精神的にも、自立できていない親は、ゴマンといる。決して珍し
くない。

で、その先は……。

今度は息子や娘側の問題ということになるが、依存性の強い親をもつと、たいていは、子ども
自身も、依存性の強い子どもになる。マザコンと呼ばれる子どもが、その一例である。

そのマザコンという言葉を聞くと、たいていの人は、男児、もしくは男性のマザコンを想像する
が、実際には、女児、女性のマザコンもすくなくない。むしろ、女児、女性のマザコンのほうが、
男性のそれより、強烈であることが知られている。

女性どうしであるため、目立たないだけ、ということになる。母と成人した息子がいっしょに風呂
に入れば、話題になるが、母と成人した娘がいっしょに風呂に入っても、それほど、話題には
ならない。

こうして親子の間にも、「共依存」が生まれる。

このつづきは、また別の機会に考えてみたい。

(はやし浩司 共依存 アダルトチェルドレン アダルト チェルドレン 依存性 マザコン 女性
のマザコン 自立 自立できない子供 相互依存 はやし浩司 DV 夫の暴力 ドメスティック
バイオレンス 家庭内暴力 夫の暴力行為 ドメスチック バイオレンス)

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DVとは関係ありませんが、
人間関係の複雑さを教えてくれるのが、
つぎの人からのメールです。

参考までに……。

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【親子の確執】

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現在、東京都F市にお住まいの、NEさんという
方から、親子の問題についてのメールをいただき
ました。

転載を許可していただけましたので、みなさんに
紹介します。

このメールの中でのポイントは、2つあります。

子離れできない、未熟な母親。
家族自我群の束縛に苦しむ娘、です。

旧来型の親意識をもつ、親と、人間的な解放を
求める娘。この両者が、真正面からぶつかって
いるのがわかります。

NEさんの事例は、私たちが、子どもに対して、
どういう親であるべきか、それを示唆しているように
思います。

みなさんといっしょに、NEさんの問題を
考えてみましょう。

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【NEより、はやし浩司へ】

はやし浩司さま

突然のメールで、失礼します。
暑いですが、いかがお過ごしですか?

今回のメールは、悩み相談の形をとってはいますが、ただ単に自分の気持ちを整理するため
に書いているものです。返信を求めているものではないので、どうかご安心ください。

結婚後、三重県S市で生活していた私たち夫婦は、主人が東京都の環境保護検査師採用試
験に合格したこともあり、今春から東京で生活することになりました。実は、そのことをめぐって
私の両親と大衝突しています。

嫁姑問題ならまだしも、実の親子関係でこじれて悩んでいるなんて、当事者以外にはなかなか
理解できない話かもしれません。このような身内の恥は、あまり誰にも相談もできません。人生
経験の浅い同年代の友人ではわからない部分も多いと感じ、人生の先輩である方のご意見を
聞かせていただけたら…(今すぐにということではなく、やはり問題解決に至らなくて、どうにも
ならなくなったときに、いつか…)と思い、メールを出させていただきました。

まずはざっと話させていただきます。

事の発端は、私たち夫婦が東京に住むことになったことです。
表面上は…。

私の実家は、和歌山市にあります。夫の実家は、東京都のH市にあります。東京へ移る前は、
三重県のS市に住んでいました。

けれども、日頃積もり積もった不満が、たまたま今回爆発してしまったというほうが正確なのか
もしれません。

母は、私たちが三重県のS市を離れるとき、こう言いました。

「結婚後しばらくは三重県勤務だが、(私の実家のある)和歌山県の採用試験を受験しなおす
と言っていたではないか。都道府県どうしの検査師の交換制度に申し込んで、三重県から和歌
山県に移るとかして、いつかは和歌山市にくるチャンスがあれば…と、待っていた。それがだ
めでも、三重県なら隣の県で、まあまあ近いからとあきらめて結婚を許した。それが突然、東
京に行くと聞いて驚いた。同居できなくてもいいが、できれば、親元近くにいてほしかった。あな
たに見棄てられたという気分だ」と。

親の不安と孤独を、あらためて痛感させられた一件でした。「いつか和歌山市にくるかもしれな
い」というのは、あくまで両親の希望的観測であり、私たちが約束したことではありません。母も
体が丈夫なほうではないので、確かにその思いは強かったかも知れませんが…。

ですので、いちいち明言化しなくても、娘なら両親の気持ちを察して、親元近くに住むのが当然
だろう、という思いが、母には強かったようです。

しかし、最初からどんな条件をクリアしようと、結婚に賛成だったかといえば疑問です。昔風の
理想像を、娘の私に押しつけるきらいがありました。

たとえ社会的地位や財産のある(彼らの基準でみて)申し分ない結婚相手であっても、相手を
自分たちの理想像に押し込めようとするのをやめない限り、いつかは結局、同様の問題が噴
き出していたと思うのです。

配偶者(夫)に対して、貧乏ゆすりが気に入らないだとか、食べ物の好き嫌いがあるのがイヤ
だなどと…。配偶者(夫)と結婚したのか、親と結婚したのかわからないほど、結婚当初は、親
の顔色をうかがってばかりいました。両親の言い分を尊重しすぎて、つまらぬ夫婦喧嘩に発展
したこともしばしばありました。

いつまでも頑固に、私の夫を「気に入らない!」と、わだかまりを抱えているようでは、近くに住
んでもうまくいくとは思えません。両親にとって、娘という私の結婚は、越えられないハードルだ
ったのかもしれませんね。

結婚後、実家を離れ、三重県で生活していても、「そんな田舎なんかに住んで」とバカにして電
話の一本もくれませんでした。私が妊娠しても「誰が喜ぶと思ってるんだ」という調子。結局、流
産してしまったときも「私が言った(暴言)せいじゃない(←それはそうかもしれませんが、ひどい
ことを言ってしまって謝るという気持ちがみられない)」と。

出産後も頼れるのは、夫の母親、つまり義母だけでした。実の母は「バカなあんたの子どもだ
から、バカにきまってる」「いまは紙おむつなんかあるからバカでも子育てできていいね」などな
ど。なんでそんなことまでいわれなければならないのかと、夢にまでうなされ夜中に叫んで目が
さめたこともしばしば…

そんな調子ですから、結婚後、実家にかえったことも、数えるほどしかありません。行くたびに
面とむかってさらに罵詈雑言を浴びせられ、必要以上に緊張してしまうことの繰り返しです。

このまま三重県生活を続けていてもいいと考えたのですが、子どもが生まれると近くに親兄弟
の誰もいない土地での生活は大変な苦労の連続。私の実家のある和歌山市と、旦那の実家
のある東京のそれぞれに帰省するのも負担で、盆正月からずらして休みをとってやっと帰る…
などをくりかえしていました。そのためお彼岸のお墓参りのときには、何もせずに家にいるだけ
というふうでした。

さらに子どもの将来の進路・進学の選択肢の多さ少なさを比較すると、このまま三重県で暮ら
していていいのだろうかと思い、それで夫婦ではなしあった結果、今回思いきって旦那が東京
を受験しました。ただでさえ少子化の今の時代ですから、近くに義父母や親戚、兄弟が住んで
いる街で、多くの目や手に支えられた環境の中で子育てしていこう!、との結論にいたったの
でした。

このことについて実の母に相談をしませんでした。事後報告だったので、(といっても相談なん
てできるような関係ではなかったですし)、和歌山市の両親を激怒させたことは悪かったとは思
います。しかし、これが発端となり、母や父からも猛攻撃が始まりました。

「親孝行だなんて、東京に遠く離れて、一体何ができるっていうの? 調子いいこと言わない
で!」
「孫は無条件にかわいいだろうなんて、馬鹿にしないで! もう孫の写真なんか送ってこなくて
いいから」
「偽善者ぶって母の日に花なんかよこさないで!」
「言っとくけど東京人なんて世間の嫌われ者だからね」云々…。

電話は怖くて鳴っただけで体のふるえがとまらなくなり、いつ三重までおしかけてこられるかと
恐怖でカーテンをしめきったまま、部屋にとじこもる日々でした。それでも子どもをつれて散歩
にいかなければならないと外出すれば、路上で和歌山の両親の車と同じ車種の車とでくわした
りすると、足がすくんでうごけなくなってしまい、職場にいる主人に助けをもとめて電話する…そ
んな日々がしばらく続きました。

いつしか『親棄て』などと感情的な言葉をあびせかけられ、話が大上段で感情的な応酬になっ
てしまっています。親の気持ちも決して理解できないわけではないのですが…。

ふりかえると、両親も、夫婦仲が悪く、弟も進学・就職で家を離れ、私がまるで一人っ娘状態と
なり、過剰な期待に圧迫されて共依存関係が強まり、「一卵性母娘」関係になりかけた時期が
ありました。

もしかするとその頃から、親子関係にほころびが生じてしまったのかもしれません。こちらの言
い分があっても、パラサイト生活の状態だったので、最後には「上げ膳据え膳の身で、何を生
意気言ってるの!」とピシャリ! 何も反論できませんでした。

親が憎いとか、断絶するとか、そんな気持ちはこちらにはないのです。実の親子なのですか
ら、ケンカしても、必ず関係修復できることはわかっています。でも、うまく距離がとれず、ちょっ
と苦しくなってしまったというだけ。

「おまえは楽なほうに逃げるためにあんな男つれてきて、仕事もやめて田舎にひっこんで結婚
しようとしてるんだ」
「連中はこっちが金持ちだとおもってウハウハしてるんだ」
「人間はいつのまにか染まっていくもの。あんたもあんな汚らしい長家に住んでる人間たちと一
緒になりたければ、出て行けばいい」などなどと、吐かれた暴言は、心にくいとなってつきささ
り、ひどく傷つきました。

結婚に反対され、家をとびだし一人暮らしを始めたのも、「このままの関係ではまずい」と思っ
たことがきっかけでした。ついに一人ではそんな暴言の嵐を消化しきれず、旦那や義父母に泣
いてすがると、私の両親は「お前が何も言わなければ、そんなことあっちには伝わらなかった
のに。余計なことしゃべりやがって。あっちの親ばっかりたてて、自分の親は責めてこきおろし
て…。よくもそんなに人バカにしてくれたね。もう私達の立場はないじゃないか。親が地獄のよ
うな日々おくっているのに、自分だけが幸せになれるなんて思うなよ」と。

そんな我が家の場合、もう一度、適切な親子の距離をとり直すために、もめるだけもめて、こ
れまでの膿を全部出し切っていくという、痛みをともなうプロセスを、避けて通れないようです。

本や雑誌で、家族や親子の問題を扱った記事を目にすると、子ども側だけが一方的に悪いわ
けではないようだと知り安心するものの、それは所詮こじつけではないか?、と堂々巡りに迷
いこみ、訳がわからなくなってしまいます。

娘の幸せに嫉妬してしまう母、愛情が抑圧に転じてしまう親、アダルトチルドレン、心理学用語
でいう「癒着」、育ててもらった恩に縛られすぎて、自分の意思で生きていけない子ども…など
など。そんな事例もあるのだなーと飽くまで参考にする程度ですが、どこかしらあてはまる話に
は、共感させられることも多いです。

世間一般には、「スープの冷めない距離」に住むことが親孝行だとされています。私の母は、
「近所のだれそれさんはちゃんと親近くに住んでいる。いい子だね」という調子で、それにあて
はまらない子は、「ヘンな子ね、いやだわ」で終わり。スープの冷めない距離に住めなかった私
は「親不孝者だ…」と己を責め、自分そのものを肯定できなくなることもあります。

こんな親不孝者には、子育ても人間関係も仕事もうまくいくわけがないのだ。親を棄てて、幸せ
だなんて自己満足で、いつか必ずしっぺ返しをくらって当然だ。父母の理想から外れた人生を
選び、それによってますます彼らを傷つけている私に、存在価値なんてあるのだろうか…など
と。

子どもは24時間待ったなしで愛情もとめてすりよってきますが、東大に入れて外交官にして、お
まけにプロのピアニスト&バイオリニストなどにでもしなければ、子育てを認めないような、かた
よった価値観の両親のものさしを前に、無気力感でいっぱいになってしまいます。よってくる我
が子をたきしめることもできずに、ただただ涙…そんな日々もあります。

実はこの親子関係がらみの問題は、私の弟の問題でもあります。

彼は転職する際、両親と大衝突し、罵詈雑言の矛先が選択そのものにではなく、人格にまで
向けられたことに対して、相当トラウマを感じているようです。(事実、1年近く、実家との一切の
関わりを断ち切った時期もあったほどです)。

結局、転職先は両親の許容範囲におさまり、表層は解決したように見えるのですが、本質的な
信頼の回復には至っていません。子の人生を受け入れることができない両親の狭量さを、彼
はいまだに許していません。

弟は「親は親の人生、子は子の人生。親の期待に子が応えるという、狭い了見から脱して、成
人した子どもとの関係を築こうとしない限り、両親が子どもの生き方にストレスをためる悪循環
からは抜け出せないよ」と、両親を諭そうとした経験があります(もちろん人間そう簡単には変
わりませんが…)。

今回の私の件も、問題の根本は同じであると受け止め、(今後、彼の人生にもあれこれ影響が
出てくるのは必至なので)、「他人事ではない」と味方についてくれました。

まだ人生経験が浅い私には、親が遠距離にいるという事実が、将来的に、今は予想もつかな
いどんな事態を覚悟しておかねばならないのか、具体的なシミュレーションすらできていませ
ん。(せめて今後の参考に…と思い、ある方が書いた、「親と離れて暮らす長男長女のための
本」を借りてきて、眺めたりしています。)

親の不安と孤独を軽減するには、一にも二にも顔を見せることですね。夫の実家に子どもを預
けて、和歌山市にどんどん帰省しようと思います。そういう面では、親戚など誰も頼る人のいな
い三重県S市在住の今よりも、ずっと帰省しやすくなるはずです。あとはお互いの気持ちの問
題です。そう前向きに思うようにはしたいのですが…

人は誰にも遠慮することなく、幸せをつかむ権利があり、そうした自己完結的な充足の中に、
ある面では躊躇を感じる気質も持ち合わせていて、そこに人間の心の美しさがあるのかもしれ
ない…そんなことを言っている人がいました。

私はこれまで両親から受けた恩に限りない感謝を覚えていますし、折に触れてその感謝を形
に表していきたいと思っています。が、今はそんな思いは看過ごされ、けんかばかり。「親棄て」
の感情論のみ先行してしまっていることが残念です。

我が家の親子関係再構築の闘いは、まだまだ続きそうです。でも性急さは何の解決も生み出
しません。まずは悲観的にならず、感情的にならず、静かに思慮深く、自分の子どもにしっかり
愛情注いで過ごしていくしかないと思います。

そして、原因を親にばかりなすりつけるのではなく、これまで育ててもらった愛情に限りない感
謝の気持ちを忘れずに、折々に言葉や態度で示しつつ、前進していかなければ…と思ってい
ます。

理想の親子関係って何でしょうね?
親孝行って何でしょうね?

勝手なおしゃべりで失礼しました。
誰かの助言ですぐに好転する問題ではないので、急ぎの回答など気にしないでください!こう
して打ち明けることで、もう既にカウンセリング効果を得たようなものですから。(と、言っている
間にも、状況はどんどん変わりつつあり、解決しているといいのですが…)

ただ、私が最近思うことは、私の両親の意識改革も必要なのではないかということです。彼ら
の親戚も、数少ない友人もほとんどつきあいのない隣り近所も誰も、彼らのかたよった親意識
にメスを入れることのできる人はいない状況です。

先日は父の還暦祝いに…と、弟と二人でだしあって送った旅行券もうけとってもらえず、ふだん
ご無沙汰している弟が、母の日や父の日にひとことだけ電話をいれたときにも話したくなさそう
に、さも、めんどくさそうに、短く応答してすぐブツリときられてしまったそうです。

彼らはパソコン世代ではありません。親の心に染入るような書物を紹介する読書案内のダイレ
クトメールですとか、講演会のお知らせなどを、(私がしむけているなどとは決してわからないよ
うに)、ある日突然郵送で何度か、繰り返し送っていただくことはできませんでしょうか?

そのハガキに目がとまるかどうかが、彼らが意識を改革できるかどうかの最後のきっかけであ
るような気がしてならないのです。

そういうふうに、相手にかわってくれ!、と望んでいる私の姿勢も無駄なんですよね。

はやしさんのHPにあった親離れの事例などは、うちよりもさらに深刻な実の母親のストーカー
の話でしたから、最近の世の中には増えてきていることなのだろうと思いました。

友達に相談しても、早くから親元はなれてそういう衝突したことのない人からみれば、まったく
わからない話ですし、「あなたを今まで育ててくれたご両親に対する、そういう態度みてあきれ
た」と、去っていった友人もいました。また、あまり親しくない人たちのまえでは、実の親子なん
ですからもちろんうまくいっているかのようにとりつくろわなければならず、非常に疲れます。

時間はかかるでしょうが、両親があきらめてくれるかもしれないきっかけとしては、いろいろや
るべきことがあるようです。たとえば両親の家は、新築したばかりの家ですので、和歌山市に
帰って年老いた両親のかわりに、家の掃除や手入れなどをひきうけること。私が仕事(検査助
手)に復帰し、英検・通検などを取得すること。小さい頃から習い続けてきて途中で放棄された
ままのピアノも、もういちど始めること(和歌山市の実家に置き去りになっているアップライトの
ピアノがある)。母の着物一式をゆずりうけるために気付など着物の知識をしっかり勉強するこ
と。同じく母の花器をつかって玄関先に生けてもはずかしくないくらいのいけばなができるよう
になること。梅干やおせち料理、郷土料理など母から(TVや雑誌などでは学べない)母の味を
しっかり受け継ぐこと…などなどが考えられます。

東京で勤務し続ける弟とは、両親に何かあればひきとる考えでいることを話し合っています(実
際にはかなり難しいでしょうが…)。弟も私が和歌山市に戻り、ここまでこじれても一言子どもの
立場から折れて謝罪すれば、ずいぶん状況が違うだろうといってくれてはいるのですが、ほん
とうに謝る気もないのにくちさきだけ謝ったとしても、いつかは親の枕もとに包丁をもって立って
いた…なんてことにもなりかねません。謝ってしまうと親のねじまがった価値観を認めることに
なりそうでそれは絶対にできません。

万一のときには実家に駆けつけるつもりですが、正直、今の気持ちとしては何があろうと親の
顔も見たくありません。

すみません。長くなりました。

急ぎではありませんので、多くの事例をご覧になってきたはやしさんの立場から何かご意見が
ございましたら、いつかお時間に余裕ができましたときにお聞かせいただければと思いました。

HPでは現在ご多忙中につき、相談おことわり…とありましたのに、それを承知でお便りしてしま
いまして、勢いでまとまらない文章におつきあいくださいましてありがとうございました。

暑さはこれからが本番です。
どうぞお体ご自愛なさってお過ごしください。

現在は東京都F市に住んでいます。 NEより

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 親子の確執 親子問題 口をきかない親子 家庭問題)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

【親の失望論】(以下、2010年4月17日記)

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「失望」という言葉がある。
「希望を失う」という意味だが、ときに
それが「絶望感」をともなうことがある。

親とて、ときにはその絶望感を覚える
ときがある。
いきさつはともかくも、ここにあげた、NEさんの
親は、NEさんの気がつかないところで、
絶望感を覚えたのかもしれない。

(ここに書いてあるのは、NEさんの一方的な
意見なので、注意!)

それにNEさんは、気がついていない。
気がつかないまま、親を責め、自分を責めている。
しかし親の立場から、一言。

親子であるがゆえに、(たがいに許せない)
ということもある。
相手が他人なら、「はい、さようなら」と言って
別れることができる。
しかし肉親だとそれができない。
強力な呪縛感の中で、たがいに悶絶する。
それはふつうの苦しみではない。
本能を切り裂くような苦しみと言ってもよい。

が、親子でも、その関係が壊れるときには、
壊れる。
親のほうから、関係を断つこともある。
子どものほうから、関係を断つこともある。
しかしそれで心が晴れるわけではない。
たがいに傷つけあい、悶々とした日々を過ごす。

「だったら、仲直りすればいい」と、だれしも思う。
が、親子であるがゆえに、その溝も深い。
「こんにちは!」というわけにはいかない。

そこで重要なことは、こうした亀裂を感じたら、
即、対応すること。

数日置いたら、その関係は決定的に破壊される。
日本には、「ほとぼりを冷ます」という言い方がある。
しかしこと、親子関係について言えば、1か月も
間を置いたら、それでおしまい。
猛烈な勢いで、関係が崩れる。
修復不能のレベルまで、崩れる。

こんな例がある。

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●実家に寄りつかない、K氏(40歳)

 K氏の実家は、M村(現在は浜松市に編入)にある。
近くに、いとこたちが、数人、住んでいる。
そのK氏だが、何かにつけて、実家のあるM村にはよく帰る。
が、M村に行っても、いとこたちに会うだけで、実家には立ち寄らない。
立ち寄らないまま、そのまままたこの浜松市に帰ってくる。

 理由は、「親父(=K氏の父親)と、顔を合わせたくない」。

 それを知った、父親の弟(叔父)が、K氏にこう言って諭した。
「父親に会いたくない気持ちはわかるが、お前の母さん(=K氏の実母)は、さみしい思いをし
ている。親父に会いたくなくても、母さんには、会ってやれ」と。

 しかしK氏は、母親にも会わない。
またそういう状態になって、すでに20年近くになる。

●確執

 こういう話は、合理的に判断するのは、むずかしい。
「確執」というのは、そういうもの。
いろいろな(思い)が、複雑に交錯し、それが糸のようにからんでいる。
その叔父にすれば、「親子ではないか!」ということになる。
「父親と母親は別」と。

 しかし親を捨てる子どもは、同時に、父親と母親を捨てる。
つまりそれほどまでに、確執が深い。
またそこまでしないと、自分の心を割り切ることができない。

 子どもを捨てる親にしてもそうだ。
子どもを捨てるときには、子どもの配偶者(義理の息子、嫁)、さらには、孫まで捨てる。
またそこまでしないと、自分の心を割り切ることができない。
「孫はかわいいが、息子とは顔を合わせたくない」というわけいにはいかない。

 ……という例は多い。

 そこで私はこう考える。

●親子でるという幻想

 幻想は幻想。
「親子という幻想に、しがみつくな」と。
つまり壊れるものは、壊れる。
こんな例もある。

 Y氏(60歳)の息子は、ウソつきだった。
ウソをウソとも思わない。
口がうまく、女性を口説くのもうまかった。
そこで毎年のように、新しい女性を連れて、Y氏のところにやってきた。
ときに1週間前後、いっしょに泊まることもあったという。

 が、それでもY氏は、息子を信じていた。
「私という親だけは、だまさない」と。

 しかし息子は、就職してからも、Y氏をだましつづけた。
「何かの資格試験に必要だ。給料だけでは、払えない」とか言って、そのつど、Y氏から30万
円、20万円という金をせびった。
車を買うときもそうだった。

●親をだます子

 が、その息子が、Y氏をだました。
息子は、嫁の両親を連れて、温泉旅行に行った。
そのとき息子は、Y氏に、「仕事で、北海道へ行くから、法事(Y氏の母親の3周忌)には、帰れ
ない」と言った。
他人から見れば、ささいなウソだったかもしれない。
しかしY氏にしてみれば、ちがった。
ショックは強烈だった。
はげしい絶望感を覚えた。
それまでのいきさつが、そこで一気に爆発した。

 が、相手は実の子。
で、Y氏は、はげしい自己嫌悪に陥り、ついで自分を責めた。
Y氏は、息子と絶縁した。
やがて孫(女児)が生まれた。
しかしY氏は、会いに行かなかった。
会いたくもなかった。

 この話を、先に掲載した、NEさんの話と重ね合わせてみる。
もちろんここに書いたY氏というのは、NEさんの親のことではない。
ないが、「一方的な意見を聞いて、判断するのはむずかしい」という意味が、これでわかっても
らえたと思う。

●理想論

 「親だから、子どもの幸福を願っているはず」「子どもが幸福になるのだから、親は、文句が
ないはず」と子どもの側は、考えやすい。
しかし親には、親の立場がある。
それまでの(思い)が累積されている。
そういう(思い)を、ときとして子どもは、理想論だけで、片づけやすい。
しかし親とて、生身の人間。
それこそ学費を作るために、爪に火をともしながら、苦労する。
苦労に苦労を重ねる。
自分の食費すら、削る。
が、子どものほうは、大学を卒業すると同時に、「はい、さようなら!」。
いくら理解のある親でも、これでは浮かばれない。
「子どもが幸せになればそれでいい」と、割り切ることはできない。

●無私の愛?

 「無私の愛」「無条件の愛」は、子育ての基本だが、だからといって、それを逆手に取って、
「あなたという親もそうであれ」「そうでなければあなたという親、失格」と言われると、「待て!」
と言いたくもなる。
それが親子の確執につながる。
そしてそれから生まれる絶望感が大きければ大きいほど、たがいの間の溝も深くなる。

 10年前に私だったら、NEさんの話を聞いたら、NEさんの親を責めただろう。
しかし今は、ちがう。
私はNEさんの親の気持ちも、よく理解できる。
NEさんの親は、NEさんにこう言っている。

「孫は無条件にかわいいだろうなんて、馬鹿にしないで! もう孫の写真なんか送ってこなくて
いいから」
「偽善者ぶって母の日に花なんかよこさないで!」と。

 私には、そう言った、NEさんの親の気持ちも、親という立場で、よく理解できる。
つまりこの問題だけは、一筋縄ではいかない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 親子の確執 溝 断絶 亀裂 親子の断絶 断絶する親子 憎み合う親子 親子
の憎しみ 嫉妬 絶縁 親と縁を切る 子どもと縁を切る)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

(4月17日)(日記)

●携帯電話

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今日、W社の携帯端末機から、A社の
携帯電話に、機種を変更した。
かなりの「後退」ということになる。
世は携帯端末機時代。
つい最近も、D社から、「XPERIA」
なるものが、発売になったばかり。
ものすごい人気だそうだ。
が、私はあえて、それに背を向けた。
背を向けて、携帯端末機をやめ、携帯電話にした。
それには理由がある。

(1)携帯電話は携帯電話だけに使う。
つまり電話機として、特化する。
(2)ネット用には、無線モデムを
使用し、携帯電話としては、使用しない。

++++++++++++++++++

●分厚い説明書

 A社の携帯電話にした。
カメラ機能がついただけの(?)、簡単な機種である。
それでもマニュアルは、1センチ強の厚さがある。
ズシリと重量感がある。
この2年で、またまたこの世界は、大きく進歩した。
それはそれでよいのだが、その分だけ、使い勝手が悪くなった。
複雑になった。
つまりわかりにくくなった。

 A社の携帯電話のばあい、初期メニュー画面だけでも、3種類ある。
カラーバリが3種類あって、それぞれにメニュー画面がちがう。
そこまでの説明は、マニュアルに書いてある。
(機種の色によって、初期メニュー画面がちがう!)
が、それぞれの初期メニュー画面への変更方法が書いてない!
どうすればよいのだ!、と、あちこちをいじってみた。
携帯電話といっても、バカにしてはいけない。
……というような操作を繰り返した。
が、こういうときが、いちばん楽しい。

●「白」

 ところで今、私にはおもしろい現象が起きている。
理由はわからないが、何を買うにも、「白いもの」を選ぶ。
昨日は、白い旅行用バッグを買った。
今日は白い携帯電話を買った。
近く車を買い換える。
その車も、今度は、白にするつもり。
どうしてだろう?

 パソコンのみならず、関連機器も、みな、そうである。
キーボードも白、スピーカーも白……。
「カメラ類は、赤」と決めていたが、たぶん、つぎに買うのは、白。
店でながめる機種は、どれも白。
どうしてこうなったのか。
何か心理的な影響が作用しているのか。

 ひとつには、「白」と決めておけば、こと色については、迷わずにすむ。
それに白ほど、飽きない色はない。
もともと「色」でないこともある。
(白や黒は、明暗を示す。色ではない。)
だから飽きない。

 心理的には、純粋なものを求める志向性が強くなったためとも考えられる。
無駄なものをどんどんと省いていくと、形にしても、シンプルなものになる。
思想や文章にしても、そうだ。
色もそうだ。
無駄な色をどんどんと省いていくと、残るのは白。
ここしばらくは、「白もの」が、私の周辺では多くなるはず。
そうそうシャツも、このところ白を着ることが多くなった。
白が、いちばん、落ち着く。

●時事問題

 韓国の哨戒艇が、爆破された。
魚雷によって、爆破された。
で、やったのは、あの国。
わかりすぎるほど、わかっている。
が、当のあの国は、こう言っている。
「K国のしわざに見せかけた、アメリカと韓国の陰謀」と。
そして昨日は、5億円もかけて、P市で花火大会を開いたとか(韓国紙)。
そう言えば、昔、似たようなシーンを、映画で見たことがある。
『ゴッド・ファーザー』という映画だった。

 一方で大量殺戮をしておきながら、それをカモフラージュするために、自分は盛大なパーティ
を開いて見せる。
「私は関係ありません」と。
身近な事件では、毒入りカレーを作ったHMという女性がいた。
あの女性も、その夜、家族とともに、近くのスナックで、カラオケを楽しんでいた。

 心に余裕がないから、わざとその(余裕)を演出して見せる。
ワルの考えることには、どこか共通性がある。

●韓国の経済バブル

 韓国の経済バブルが、臨界点に達しつつある。
「好景気」「好景気」とはしゃいでいるが、それはどうか?
ソウルの土地にしても、この数年で、価格が7〜8倍になったという。
さらに日本でも有名な映画俳優が、33億円近い邸宅を購入したという話も伝わってきている。
これをバブルと言わずして、何と言う?
08年末のリーマンショックで、一時、冷や水をかぶせられたが、ここにきて、またまたバブルが
過熱してきた。

 どうなるか?

●金バブル

 「バブル」と言えば、金(ゴールド)バブルもある。
先週は、1グラムが、3600円以上(田中貴金属)になった。
中、長期的に見れば、金価格は上昇する。
これだけ世界が、市中に札をばらまけば、上昇するに決まっている。
しかし短期的にはどうか?

 一度、この金バブルは、はじける。
私の予想では、(あくまでも私の予想だが……)、一般庶民がババを引く形で、一度、はじけ
る。
一般論として、そこらのオバチャンやオジチャン(失礼!)が、血相を変えて動くようになったと
きが、あぶない。
今が、そのとき。
「国家破綻」というタイトルの本が、売れに売れている。
要旨は明快。
要するに、「金に投資せよ」というもの。
今、日本中が、そのかけ声に踊らされている。
だからあぶない。

 その本がそうというわけではないが、金を動かすトレーダーたちにしてみれば、そこらのオバ
チャンやオジチャンを動かすことなど、朝飯前。
本や雑誌に、それらしい記事を載せればよい。
金をもらって、つごうのよいことを書くライターは、いくらでもいる。
つまりこうして一般庶民にババを引かせたあと、自分たちは市場から逃げる。

 私の古い友人がそういう仕事をしていたから、私はその手口をよく知っている。
みなさん、気をつけろ!

●外出せず

 今日、4月17日(土曜日)は、ほとんど家の中にいた。
朝から、頭痛。
ときどき薬をのんで、昼寝を繰り返した。
夕方、買い物に行ったついでに、携帯電話を買った。
これはかなりの衝動買い。
それだけ。
今も少し頭が重い。
偏頭痛のようでもあるが、偏頭痛とも様子がちがう。

 やりたいことは、いっぱいある。
が、どれから手をつけたらよいのか、わからない。
借金に追われる多重債務者のよう。

 明日は、気分一新。
朝からダッシュするつもり。
だらけた今日の分を、明日、取り返す。
そんなわけで、今日の成果は、ほとんどゼロ。
新しい発見もなし。
ということで、今日の日記は、ここまで。
おやすみなさい!

2010年4月17日(土曜日)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司※

●早期教育効果は小学生で消える(?)「AERAの記事に、疑問あり!」(改訂版)

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こんな記事が、AERAという雑誌に載っていた。
いわく「早期教育効果は、小学生で消える」と。

つづいて、
「……小学校入学前に読み書きを習得する子どもは多い。その風潮に警鐘を
鳴らす研究が報告されている。本質的な学力を決めるのは親子関係だという」と。

しかしこの原稿には、いくつかの言葉のトリックがある。
その第一、「早期教育」を、「読み書き」にすり替えている。

たしかに「読み書き」については、その効果は「小学校で消える」。
たとえば計算力にしても、幼児期に速くできるようになったからといって、
それがそのまま「数の力」に結びつくとはかぎらない。

よい例が、幼稚園によっては、かけ算の九九を暗唱させているところがある。
が、九九が言えるようになったからといって、「算数の力」が身についた
ということには、ならない。

が、こんなことは常識。
その常識を、逆手に取って、「小学生で消える」とは?

さらに言えば、消えたところで、無駄とは言い切れない。
その上に、さらに新しい知識を組みあげていく子どももいる。
(そうでない子どもも、もちろんいるが……。)

あえて言えば、「早期教育」と言っても、「知識教育」から離れ、最近では「考える子ども」
にするのが、ひとつのテーマになってきている。
ごく最近では、「Active Learning」という言葉も使われるようになった。
「ものごとに積極的に取り組む子どもにするための指導」という意味である。

「文字の読み書き」ではない!

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●読み書き

 「読み書き」をもって、早期教育と位置づける。
「だから、早い時期から学んでも、意味がない」と。
この原稿の最大のミスは、ここにある。
つまりこの原稿を書いた人は、「幼児教育」というのが、何であるか、よくわかっていない。
「早期教育」、さらには「先取り教育」の意味もよくわかっていない。
さらに最近話題になっている、「臨界期」という言葉も、知らない?

 たとえば、こんなことも書いてある。

「また、別の研究でも、漢字の習得では、早期教育を受けなかった子どもとの差は小学校2年
生ごろに消滅し、むしろ国語嫌いは早期教育を受けた子に多かったということもわかっている
(黒田実郎、「保育研究」)」(AERA)と。

(しかしこの資料も、調べてみたところ、1969年「日本保育学会」「就学前の幼児の恐怖」の中
に収録されているものとわかった。
1969年といえば、40年以上も前!
大阪万博の前の年の資料!)

 それはさておき、それはその通り。
無理な文字指導が、子どもを文字嫌いにするという例は、多い。
その(文字嫌い)が悪循環となって、子どもを(国語)から、遠ざける。
たとえば年中児でも、「名前を書いてごらん」と声をかけただけで、体をこわばらせる子どもは、
いくらでもいる。
中には涙ぐむ子どもさえいる。
文字に対して恐怖心をもっているためである。

 こんなことは、少し幼児に接してみれば、だれにでもわかること。
また幼児に接した経験のある人なら、だれでも知っている。
それを、ことさら学者名まで出して強調するところが、わざとらしい。

 逆に、世界広しといえども、幼児期の幼稚園教育で、文字の読み書きを教えないのは、この
日本だけ。
そういう事実をさておいて、あたかも「幼児期に、文字教育は必要なし」というような印象を与え
るのは、どうか。
誤解というより、偏見。

 そして「文字教育」を例にあげながら、「幼児期には何もしないほうがいい」というような印象を
読者に与える。

こうした論法には、「?」マークを10個くらい、並べたい。
大切なことは、「教える」ではなく、「文字の読み書きは楽しい」ということを教えること。
それが幼児教育。
またそれが重要!

●偏見

 さらに……。

「……早期教育熱はやがて中学受験熱に変わる。Aさんの長女は、過酷な競争を勝ち抜き都
内の難関の中高一貫進学校への入学を果たしたが、その後勉強熱が急速に冷めてしまった。
競争の激しい進学校で成績は伸びず、大学受験は苦労した。

 有名中学に合格し、張り詰めていた緊張の糸がプツンと切れてしまったかのように、その後
の成績が伸び悩む例は多い。子どものストレスは早期教育で終わらない。小学校に入れば塾
通い、中学受験、それが終わっても大学受験と、常に急き立てられていく」(AERA)と。

 これを読んだときには、ア然とした。
このライターは、「燃え尽き症候群」「荷下ろし症候群」という言葉さえ、知らない?
そんな印象すらもった。

 たしかにこのタイプの子どもは、多い。
浜松市内の進学高校でも、高校入学と同時に、約20%の子どもが、燃え尽きる。
そのため無気力になったり、怠学に陥ったりする。
それはそれだが、だからといって、みながみな、そうなるわけではない。
何も受験競争の肩をもつわけではないが、「だから教育は無駄」式の論法には、首をかしげ
る。

 つまりここでも、「受験競争」と「早期教育」を、言葉のトリックを使ってすりかえ、読者を煙に
巻いている。

●親子のかかわり

 幼児教育の第一は、「親子のかかわり」で始まる。
またそれで終わる。
その重要性は、基本的信頼関係に始まって、心の育成などなど、今さらあえて説くまでもない。
が、ここでも、このライターは、言葉のトリックを使っている。
つぎの文章を、よく読んでほしい。

 「……長男は文字をほとんど書けないまま小学校に入学した。入学後、近所の5歳の女の子
が持っていた「お勉強ノート」を見て圧倒された。画数の多い小学校中学年向けの漢字がびっ
しりとノートのマスを埋めていた。入学後も、わが子がカタカナに四苦八苦する傍らで「5年生の
漢字が書けるよ」「九九できるよ」と豪語する級友の存在を知り、長男が勉強についていけるか
心配になった。

 しかし、お茶の水女子大学の内田伸子教授(発達心理学)は、文字の読み書きなどの早期
教育に批判的だ。内田教授は昨年秋の東アジア学術交流会議で「幼児のリテラシー習得に及
ぼす社会文化的要因の影響」調査を発表した」(AERAより)と。

 ある親は、ほかの子どもが、スラスラと漢字を書いている子どもを見て、ショックを受けたとい
う。

(5〜6歳の子どもが、5年生の漢字を書く?
しかし私は幼児教育を40年もしているが、そんな子どもを見たことがない!
本をスラスラと読む子どもはいたが、漢字を書いた子どもは知らない。
もし本当にいるとするなら、心に何らかの障害をもった子どもということになる。
その子どもがそうというわけではないが、たとえば自閉症の子どもは、ある特定のことがらに、
ふつうでない(こだわり)を示すことがある。
全国の駅名を暗記する、どんな音楽でも一小節を聞いただけで、曲名を当てる、など。
5歳児が、5年生の漢字を書くというのは、おおげさというか、きわめてマレなケース。)

 つまりそういうトンデモナイ例を引きながら、その一方で自分の原稿に権威付けをするため、
大学の教授名を並べる。
いわく、「……すでに内田教授は20年以上前に実施した調査で、3、4歳で文字を習得してい
る子と、習得していない子との差は、小学校入学後に急速に縮まり、1年生の9月には両者の
差は消えてしまうということを指摘してきた」と。

 (この資料も、20年前の資料!)

●過熱する幼児教育?

 早期教育というと、文字教育と考える。
早計というか、無知。
無知というか、誤解。
あるいは偏見。
私も「文字」をテーマに、レッスンを進めることは多い。
しかし「文字を教えよう」という気持ちは、さらさらない。
先にも書いたように、「文字は楽しい」ということは、教える。
もっと言えば、子どもたちを、楽しませる。
「文字は楽しい」という思いが、良循環となって、その子どもを前向きに引っ張っていく。
それが幼児教育。
その重要性は、ここに改めて書くまでもない。

 それをさておいて、「子どもには、必要な栄養食品だけを与えておけばいい」
「料理は無駄」と。
さらに言えば、こんなことも言える。
「大学へ入っても、無駄。人生の結論は、死ぬときの死に際の様子で決まる」と。
どこかのカルト教団が、信者たちにさかんに説いている言葉である。
このライターの(おかしさ)は、その一点に集約される。

●不適切な指導

 このライターの意見によるまでもなく、不適切な指導で、伸びる芽すら摘まれていく子どもは、
多い。
たとえばここでは「読み書き」がひとつのテーマになっている。
実のところ私の二男もそうだった。

 私の二男は、生まれつき、左利き。
私たち夫婦は、自然の流れに任せた。
が、小学校へ入学して一変した。
学校の先生から、「文字は右手で書かせてください」と。
担任の先生が、書道の先生であったことも、災いした。

 毎晩、二男は泣きながらノートに漢字を書いていた。
鏡文字はもちろんのこと、書き順もめちゃめちゃ。
で、1年もたったころ、私は学校の先生に向かって、こう宣言した。
「息子は、左利きで通します。無理な指導は結構です」と。

 それに対して先生は、こう反論してきた。

「冷蔵庫でも、何でも、右利き用にできています。
不便を感ずるのは、あなたのお子さんですよ」と。

 が、さらに私は反論した。
「そんなことは、慣れれば何でもないことです!」と。

 そういう問題はある。
あるが、一方的に、「消滅するから無駄」という論法には、かなり強い違和感を覚える。

●針小棒大論

 受験塾の受験競争には、私も批判的。
擁護したことは、一度もない。
しかしそれは「学習」という面からではなく、「心の育成」という面から、問題にしてきた。
またそのような趣旨で、原稿を書いてきた。

 それをストレス説と結びつけて、「子どもの教育はストレスにつながる」と一方的に決めつけて
いる。
さらにいつの論文かは知らないが、「脳神経学的に胎児期や乳幼児期の早期教育の有効性を
正当化する科学的根拠はないとしている」(お茶の水女子大学の榊原洋一教授は、著書『子ど
もの脳の発達臨界期・敏感期』)と。

 だったら、「野生児」の問題など、なかったはず!
ある時期、親子のふれあいのなかった子どもが、どうなるか?
野生児と呼ばれた子どもを知っていれば、こんな意見は出てこないはず。
「科学的根拠」というが、その研究は、今、始まったばかり。
「臨界期」という言葉が、再びクローズアップされてきたのは、ここ数年のこと。

 そこでこの本(『子どもの脳の発達臨界期・敏感期』)の発行年月日を調べてみたら、2004
年とわかった。
6年前!
現在は、廃刊になっている。
当時は「科学的に」は、無理だったかもしれない。
が、ここ数年の、脳科学の進歩には、著しいものがある。
脳の中の動きを、リアルタイムで観察することもできるようになった。

●野生児

 野生児については、資料のみを添付する。

+++++++++++++++++++++

●オオカミ姉妹

++++++++++++++++++

オオカミ姉妹(カマラとアマラ)について、
たびたび書いてきた。
「野生児」とも呼ばれる。
1920年10月に、インドで見つかった
2人の姉妹をいう。

この2人の姉妹について、私はあちこちで
ものを書いてきたし、講演会でも、よく
話した。

が、正確でない部分も多々、あった。
いろいろな資料をもとに、もう一度、
オオカミ姉妹について、整理しておきたい。

+++++++++++++++++++

(1)1920年10月、カルカッタの南、ゴダムリという村で見つかった。
(2)オオカミが住んでいた、シロアリの塚の中から、見つかった。
(3)2人の少女は、そのまま孤児院に入れられた。
(4)名前を、カマラ(姉、推定年齢8歳)、アマラ(推定年齢1歳)と名づけられた。
(5)A.L.シング夫妻らによって、養育された。
(6)当初、2人の姉妹は、オオカミのようにひざまづいてものを食べた。
(7)4つ足で走り、オオカミのような叫び声をあげた。
(8)アマラは約1年後に死亡。
(9)カマラは推定年齢17歳まで、生きた。
(10)その過程で、衣食住の生活習慣を身につけた。
(11)6年後には直立して歩行した。(推定年齢、14歳。)
(12)7年後には、45語を話せるようになった。
(13)中枢神経系に、器質的な異常は認められなかった。

(以上、「心理学とは何だろうか」(無藤驕E新曜社)より)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 オオカミ姉妹、アマラ タマラ アマラ はやし浩司 野生児 オオカミ少女)

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●「塾通いは悪」という偏見

 このライターは、世界の潮流というものを、知らないらしい。
EUでは、むしろ逆に、学校教育より、クラブ制のほうに、教育の重点を移動している。
子どもたちがそれぞれ放課後、好き勝手なクラブに通い、好き勝手なことをしている。
たとえばドイツでは、中学校では単位制を導入し、午後はみな、それぞれのクラブに通ってい
る。

 その費用は、チャイルドマネーとして、満27歳になるまで、一律に支給されている。
額は1万5000円前後。
クラブの月謝が、1000円程度だから、その額だけで、約15のクラブに通えることになる。
学校の内部にクラブがあることもある。
日本がこの先めざすべき教育は、むしろ、そちらのほうではないのか。
10年一律というか、AERA(朝日新聞社)のばあいは、30年一律のごとく、「塾、必要悪論」を
展開している。

 そこには、「学校や幼稚園でやることは問題なし」という、ぬぐいがたい偏見すら覚える。
が、事実は逆で、むしろ「民活」、つまり民間の活力を利用したほうが、よい面も多い。
たとえば英会話にしても、民間に任せた方が、ずっとよい教育をする。
実際に、よい教育をしている。

 それに第一、今時、泣きながらいやがっている子どもを、無理に塾へ通わせる親は、い・な・
い!
いったいこの話も、何年前の話かと、聞きたくなる。
(20〜30年前には、こういう話はよく耳にしたが……。)

その部分を、ここに転載させてもらう。

「…… Aさんの長女は、大学入学後に幼い頃の塾通いについて、
「辛かった。お母さんにはいやだとは言えずに我慢していた。幼稚園の友達と、もっと遊びたか
った。中学受験なんて必要なかった」
 と涙を溢れさせながら訴えた」(AERAより)と。

 このライターは、自説の偏見を補強するため、ペタペタとあちこちの悪例を張りつけている。
わかるかな?

●塾で勉強したら……?

 さらにAERAの記事は、つづく。

「日本には飛び級制度はないし、習熟度別クラスも少ない。塾などで勉強したことを学校で「復
習」する状態が常に続くと、学校での勉強がつまらなくなる」(AERAより)と。

 ヘエ〜〜?

 今時、こんなことを書くライターがいること自体、信じられない。
学校第一主義というか、学校神話信仰者というか。
つい先日、韓国で発表された調査結果をもう一度、ここにあげてみる。

●居眠りする高校生たち

(授業中、居眠りをしている高校生)

居眠りについて、「普通の行動」、または「たびたびおこなっている行動」

    日本人    45.1%    
    韓国人    32.3%
    アメリカ   20.8%
    中国      4.7%

 「学校の勉強がつまらない」のは、塾で先取り教育をしているからではない。
構造的な問題。
つまり公教育がかかえる構造的な問題に起因する。
これは高校生についての調査だが、中学校でも似たような現象が起きている。
小学校でも似たような現象が起きている。

また「塾」といっても、今時、このライターが書いているような授業をしていたら、生徒など、1人
も集まらないだろう。
たとえて言うなら、「まずい料理を並べるレストラン」のようなもの。
それを「食べろ!」と押しつけても、今時の子どもは、食べない。
親だって、食べさせない。

●結論

 また動き盛りの子どもを、無理に机にしばりつけ、「読み書き」を教えれば、ストレスがたまる
に決まっている。
体や心が変調をきたすのも、当然。
あえて「尿検査」をするまでもなく、子どもたちの表情を見れば、それがわかる。
「教育」というのは、そういうもの。
子どもの表情と様子を見て、判断する。

それを「……1997年に幼稚園児の尿を採取してストレス値を比較したところ、早期教育を受
けている幼児は、受けていない幼児に比べてストレスが高かった」と。

1997年当時といえば、「早期教育」の定義も、まだあいまいだったはず。
またそのころから、不登校児が急増し、不登校が社会問題化した。
が、その一方で、水泳教室、書道など、おけいこ塾へ通っていない子どもなど、いなかったは
ず。
都会地域では、ほぼ100%。
地方の農村地帯でも、70%。
(この数字は記憶によるものなので、不正確。)

 ここでも「読み書き」と「早期教育」を混同させるという、言葉のトリックを使っている。
さらに言えば、ライターの思いこみを(柱)にし、あちこちから寄せ集め的に、古い資料をペタペ
タと張りつけている。

 で、問題があるとするなら、なぜ親たちが、こうまで過熱するのか。
(過熱しているなら、という前提だが……。)
その中まで、メスを入れる必要がある。
またそういう視点で、この問題を切り込んでほしい。
またメスを入れてこそ、「さずがAERA!」ということになる。
こうした記事を書くことによって、どういう問題が、どう解決するとういうのか?
ハシゴをはずすのは、簡単なこと。
「では、どうすればいいのか?」。

 親たちは、この日本にはびこる不平等性を、いやというほど、毎日見聞きしている。
人生の入り口で幸運に恵まれた人は、生涯、恵まれた生活を楽しむことができる。
そうでない人は、そうでない。
「受験」がその関門になっていることは、だれの目にも明らか。
親たちは日常的に、(あせり)と、(不安)を感じている。
そういう事実をさておいて、「読み書き」を「早期教育」にすりかえて、「早期教育は危険」と警鐘
(?)を鳴らす。

 AERAが書くべきことがあるとすれば、「では、どうすればよいか」ということ。
「幼児をどう楽しく指導すればよいか」ということ。
ものごとは、後ろ向きに考えるのではなく、前向きに考える。
 
●AERAを、そのまま転載

 誤解があるといけないので、インターネット上に配信された、AERAの記事をそのまま転載さ
せてもらう。

++++++++++++以下、AERAよりそのまま+++++++++++

AERAより 2010年4月19日(月) 

 都内に住む30代の母親は最近、4歳の女の子が図書館で読んでいる本を見て驚いた。絵
はなく、漢字まじりの文字ばかり並ぶ小学校中学年用の読み物だ。自分の小学1年生の子ど
もは、入学してようやくひらがなを習ったばかりだというのに。思わず「すごいね」と声をかける
と、女の子は「漢字も書けるよ」と言って、スラスラと漢字を書いた。女の子の母親と話すと、通
っている有名私立幼稚園では珍しくない光景だという。

■所得よりも養育態度

 最近、地方都市から東京に転居してきた40代の母親の長男が通った保育園は、外遊びを重
視し、幼児の読み書きなど早期教育には批判的な方針だった。長男は文字をほとんど書けな
いまま小学校に入学した。入学後、近所の5歳の女の子が持っていた「お勉強ノート」を見て圧
倒された。画数の多い小学校中学年向けの漢字がびっしりとノートのマスを埋めていた。入学
後も、わが子がカタカナに四苦八苦する傍らで「5年生の漢字が書けるよ」「九九できるよ」と豪
語する級友の存在を知り、長男が勉強についていけるか心配になった。
 しかし、お茶の水女子大学の内田伸子教授(発達心理学)は、文字の読み書きなどの早期
教育に批判的だ。内田教授は昨年秋の東アジア学術交流会議で「幼児のリテラシー習得に及
ぼす社会文化的要因の影響」調査を発表した。

 ちょうどその2カ月ほど前、文部科学省は全国学力テストの結果を分析し、親の所得が高い
ほど子どもの学力が高いという調査を発表していた。親の年収が1200万円以上では国語、算
数の正答率が全体の平均より8〜10ポイント高く、200万円未満では逆に10ポイント以上低か
った。

 だが、内田教授の調査では、子どもの学力格差は親の所得格差ではなく、親子のかかわり
方が大きく影響していた。たしかに「読み・書き」能力だけみれば、3歳では親の所得や教育投
資額が多いほど高かった。しかし、その差は子どもの年齢が上がるにつれて縮まり、小学校入
学前に消滅した。文字などの早期教育の効果はわずか、数年しか続かないのだ。

 すでに内田教授は20年以上前に実施した調査で、3、4歳で文字を習得している子と、習得
していない子との差は、小学校入学後に急速に縮まり、1年生の9月には両者の差は消えてし
まうということを指摘してきた。また、別の研究でも、漢字の習得では、早期教育を受けなかっ
た子どもとの差は小学校2年生ごろに消滅し、むしろ国語嫌いは早期教育を受けた子に多か
ったということもわかっている(黒田実郎、「保育研究」)。

■想像力豊かな子は…

 一方、幼児の語彙力については、親の所得や教育投資額が多いほど高かった。しかし、詳
細な分析をした結果、語彙の成績を左右するのは所得や教育投資額ではなく、親の養育態度
であるとわかった。

 内田教授は、こう話す。

「語彙力というのは自律的思考力を支えるものです。所得が低い家庭であっても、子どもとの
ふれあいを大事にして、楽しい経験を共有するような『共有型』の養育スタイルの家庭の子ども
の語彙得点は高いのですが、所得が高くても大人の思いを押しつけ、トップダウンで禁止や命
令、体罰などを多用する場合は子どもの語彙の成績は低いのです。他の子どもとの比較や勝
ち負けの言葉を多用するとか、子ども中心で親が犠牲となる教育も、学力基盤を育むのに効
果はありません」

 つまり親の「人間力」こそ、子どもの語彙力の発達には重要だということだ。しかも、この語彙
力こそ学童期以降の子どもの学力と関連があると話す。

 また内田教授が文字を習得している幼児と習得していない幼児に、それぞれ空想でお話を
つくってもらったところ、文字を習得していない子どもの方が想像力豊かな内容だったという。
こうした研究を通じて、過熱する一方の早期教育に警鐘を鳴らしてきた内田教授は、こう話
す。

「幼児期には五感を使って親子で体験を共有することが大切です。親子のコミュニケーション
や会話のやりとりを通じて、子ども自身が考えて判断し、親子の絆が深まっていく中で子どもの
語彙力は豊かになる。お金をかけなくても子どもは伸びるのです」

■鈍る昼間の活動

 研究者の間では以前から「早期教育」の効果に懐疑的な声は多かった。小児科医でもある、
お茶の水女子大学の榊原洋一教授は、著書『子どもの脳の発達臨界期・敏感期』の中で、脳
神経学的に胎児期や乳幼児期の早期教育の有効性を正当化する科学的根拠はないとしてい
る。

 むしろ、早期教育の弊害として一番心配されるのは、子どものストレスだ。東北生活文化大
学の土井豊教授らが、1997年に幼稚園児の尿を採取してストレス値を比較したところ、早期教
育を受けている幼児は、受けていない幼児に比べてストレスが高かった。さらに早期教育を受
けている幼児は、昼間の幼稚園での活動が鈍くなっていた。幼稚園後の「お勉強」に備え、日
中は活動を休止して子どもなりに心と体のバランスをとっているのだろう。日中の活動の低下
は子どもの発育にとってよくはない。ほかにも早期教育を受けた子どもがストレスで情緒障害
を引き起こしたケースや、親子の愛着関係に悪影響を及ぼした事例も報告されている。

 都内に住むAさんは、長女の妊娠中からクラシック音楽や絵本の読み聞かせで胎教した。乳
児期からは水泳、リトミックのほか、有名幼児教室にも電車で通った。自宅では幼児教室の教
材やパズル、フラッシュカードで毎日1時間以上の早期教育を実践した。友達と自由に遊ぶ時
間は少なかったが、長女に嫌がる様子も見えなかった。どんどん子どもが吸収していくのが嬉
しかったし、何よりも子どものためと信じていた。

 早期教育熱はやがて中学受験熱に変わる。Aさんの長女は、過酷な競争を勝ち抜き都内の
難関の中高一貫進学校への入学を果たしたが、その後勉強熱が急速に冷めてしまった。競争
の激しい進学校で成績は伸びず、大学受験は苦労した。

 有名中学に合格し、張り詰めていた緊張の糸がプツンと切れてしまったかのように、その後
の成績が伸び悩む例は多い。子どものストレスは早期教育で終わらない。小学校に入れば塾
通い、中学受験、それが終わっても大学受験と、常に急き立てられていく。

■のしかかるストレス

 先の榊原教授は、こうした塾や学習教室での先取り学習も逆の効果を生む危険性があると
話す。日本には飛び級制度はないし、習熟度別クラスも少ない。塾などで勉強したことを学校
で「復習」する状態が常に続くと、学校での勉強がつまらなくなる。

 先の40代の母親の長男が通う小学校では「(学校の勉強は)簡単すぎてばからしい」と言う子
どももいる。こうした子どもたちは、結果として学校の勉強に対するモチベーションが低下し、集
中力も低下する。それこそが中学校以降の学力低下につながりかねないのだ。

 だが、榊原教授は早期教育や中学受験に熱心な親たちを一概には非難できないと話す。格
差が広がるばかりの社会で、親が子どもの幸せのためにできることといえば、よりよい教育を
受けさせることと思いつめるのも無理からぬことだからだ。フラッシュカードで天才児が育つか
のような、教育産業のマニュアル化した教材は魅力的に見える。
 榊原教授はこう話す。

「早期教育が子どものストレスにならず『親子のふれあい』に寄与する程度なら使っても良いで
しょう」
 フラッシュカードは、知能開発のためではなく、親子のコミュニケーションのために使えばよ
い。

 Aさんの長女は、大学入学後に幼い頃の塾通いについて、
「辛かった。お母さんにはいやだとは言えずに我慢していた。幼稚園の友達と、もっと遊びたか
った。中学受験なんて必要なかった」
 と涙を溢れさせながら訴えた。

 Aさんは「頭にガツンとパンチをもらった感じ」だった。今まで注ぎ込んだお金と時間と苦労を
思うと「間違いだった」とは認めたくない気持ちも残る。でも、「ごめんね」と、長女に心の底から
詫びた。
 早期教育の効果はわずか数年足らず。だが、子どものストレスは成長した後も心に長く重く
のしかかる。内田教授は、

「子どもはお母さんが大好きだから嫌とは言わない。だからこそ、親は子どものストレスのサイ
ンを見逃してはいけない」
 と話している。
ライター AS
(4月26日号)

++++++++++++以上、AERAよりそのまま+++++++++++

●反響

 ネットを使ってこのAERAの記事の反響を調べてみた。
その結果、「だから早期教育は無駄」と反応している親たちが多いことがわかった。
「さずがAERA!」と思ったのは、そのとき。
つまりそれだけ影響力が大きいから、記事は、もう少し慎重に書いてほしい。

●私の指導法から

 ここに紹介するのは、4月に入って2回目のレッスンの様子である。
このビデオを見て、塾に対する偏見を少しでも解いてもらえば、うれしい。
今時、泣きながら勉強する子どもなど、いない。
親も、そこまでバカではない!

 2回目のテーマは、「声を出す」である。
「あいうえお」という文字を、使って指導してみた。
私の教室で、笑いながら学習する子どもはいるが、泣きながら学習する子どもは、いない。

50分のレッスンを、編集、削除することなく、ありのまますべてを紹介する。

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(つづきは……)

http://www.youtube.com/profile?user=hiroshihayashi#p/u/5/GV0C2CzmAvU

http://www.youtube.com/profile?user=hiroshihayashi#p/u/4/w7tp8xZDbKE

http://www.youtube.com/profile?user=hiroshihayashi#p/u/3/8ChegrNptko

http://www.youtube.com/profile?user=hiroshihayashi#p/u/2/zxcDCe-_PMA

http://www.youtube.com/profile?user=hiroshihayashi#p/u/1/GrKTgr8fsNE

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 AERA AERA 読み書き 早期教育 偏見と誤解 言葉のトリック)

4月20日記

Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●思考の浅薄化

++++++++++++++++++

昨日、バスに乗った。
一日中、雨が降っていた。
そのときのこと。
うしろの席に座った女性2人が、
ペチャペチャとしゃべっていた。
それとなく振り返ってみると、
年齢は、ともに70歳前後。
会話の内容が、そのまま聞こえてきた。

「H男は、1周忌のとき、遅刻してきた」
「帰りはタクシーで、そそくさと帰っていった」
「喪服のかわりに、黒いジーパンをはいてきた」
「仏前に、1万円しか、供えなかった」などなど。

話の内容からすると、その中の1人が、
亡くなった兄の1周忌を、最近、したらしい。
その席に、H男という弟がやってきた。
1人の女性は、さかんにそのH男の批判をしていた。

姉と弟。
その間に、何か、大きな(わだかまり)があるらしい。
その(わだかまり)を、その女性は、(批判)に転化させていた。
簡単に言えば、(腹いせのためのグチ)。

私はその会話を聞きながら、思考の浅薄性について
考えた。

+++++++++++++++++++

●脳の老化

 脳が老化すると、当然のことながら、思考が浅薄化する。
いくつかの特徴がある。

(1)ループ化(同じことを、何度も考える。)
(2)針小棒大化(ささいなことに、こだわる。)
(3)浅薄化(思考力が浅くなる。)

 ひとつの問題を考えながらも、それに切り込んでいくことができない。
脳に飛来した情報を、繰り返し考えたり(ループ化)、どうでもよいことを、おおげさに
考えたりする(針小棒大化)。

●バケツの底の穴

 脳みそというのは、加齢とともに、退化する。
バケツの底に穴があいたような状態になる。
そうでなくても、知識や経験、知恵は、その穴から外へ、どんどんとこぼれ落ちていく。
わかりやすい例が、英語の単語。

 若いときに覚えた単語は、今でもよく覚えている。
しかし40代、50代に覚えた単語は、よほど何かの努力をしないかぎり、そのまま
忘れていく。
60代になるとなおさらで、へたをすれば、数日ももたない。

●「私は昔のまま」

 たとえば40代のとき、100の知識や経験、知恵があったとする。
が、50代になると、それが半減する。
40代のころ身につけた知識や経験、知恵にしても、そうだ。
50代になると、それが半減する。
 
 が、悲劇的なのは、そうして半減していること自体に、当の本人が気がつかないこと。
「私は昔のまま」と思いこむ。
特別な努力をしていない人ほど、そう思いこむ。
「私は若いころと同じように、賢い」と。

●特別な努力

 そういう意味では、「思考力」は、「健康論」に似ている。
健康を保つためには、日々の運動が欠かせない。
それを怠ったとたん、あとは下り坂。
50代になると、1週間も運動をしないでいると、体の調子が悪くなる。
60代になると、さらに悪くなる。

 同じように、思考力についても、日々の鍛錬が欠かせない。
たとえばパソコンに新しいソフトをインストールする。
マニュアルを読む。
そのときは、そこそこに、それを使いこなすことができるようになる。
が、1か月もそれを使わないでいると、操作方法そのものを忘れてしまう。

 それを防ぐためには、数日おきにでもよいから、そのソフトを使ってみる。
これが「日々の鍛錬」ということになる。

●火花

 先にも書いたように、思考力というのは、脳のCPU(中央演算装置)と密接に
関連している。
CPUの能力が低下してくると、脳の機能そのものが低下していることに気づかない。
わかりやすく言えば、自分がバカになっていることにさえ、気づかない。
バカな話をしながら、それがバカな話であるということが、わからない。

 たとえばバスの中の2人の女性の会話が、それである。
もしその2人の女性が、「法事論」、「宗教論」、さらに「地蔵十王経(=日本製のニセ経)」
の話でも始めれば、すばらしい。
が、同じ話を、何度も繰り返す。
中身は、どうでもよいようなことばかり。

 私はその会話を聞きながら、「遅刻ねえ?」「タクシーねえ?」「黒いズボンねえ?」
「仏前ねえ?」と、頭の中で、火花がバチバチと飛ぶのを感じた。

●脳の老化

 脳の老化は、だれにでもやってくる。
避けようがない。
脳細胞にしても、日々に死滅していく。
が、その一方で、脳は鍛錬によって、その活動を維持することができる。
恩師の田丸謙二先生は、50歳を過ぎて中国語を学び始め、中国の科学院総会で、
中国語による講演をしている。
80歳を過ぎて、英語の教育書の翻訳もしている。
今でも、その聡明さはまったく衰えていない。

 最近の脳科学も、こうした鍛錬の有効性を認めている。
脳細胞(ニューロン)は死滅するが、シナプスは、鍛錬によって増加する。
それには年齢制限はない。

 健康にしてもそうだ。

 その田丸謙二先生は、数年前に会ったときには、杖をついて歩いていた。
が、先月会ったときには、駅の階段を杖なしで上り下りしていた。

●まず気づく

 まず、気づく。
それが脳の老化を防ぐ、第一歩。
「私はだいじょうぶ」と、高を括(くく)っている人ほど、あぶない。
努力しない。
だからそういう人にかぎって、脳の老化は一気に進む。

 一方、それに気がついている人は、その恐怖感と闘いながらも、努力する。
その努力が、脳の老化を防ぐ。

 バスはやがて市内へと入り、私はバスを下りた。
下りながら、こう思った。

「あの人たちも、やがて、ボケバーさんになるのだな」と。
というのも、人は階段をおりるように、段階的にボケるのではない。
マイナスの一時曲線的に、徐々に徐々にボケていく。
当人が、気がつかないまま……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 脳の老化 ボケ 浅薄化 脳の浅薄化 ループ性)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタイト
ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" height="250" alt="●BL
OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>

【年中児・あいうえお】(BW教室の風景から)4−20、2010

(1)
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(2)
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(3)
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(4)
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(5)
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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 BW子どもクラブ BW教室 年中児 4歳児 4歳児の知能 4歳児の学習 あい
うえお)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●反響(AERA・アエラの記事への反論)

+++++++++++++++++++++

数日前、雑誌「AERA」の記事に対して、
反論原稿を書いた。
その原稿にたいする反響には、ものすごい
ものがある。
直接的な意見はまだ届いていないが、「アラーム」
という機能を使うと、反響の大きさが、数字でわかる。
私の原稿を取り上げたBLOGやHPの数が、
そのまま、数字として、表示されるしくみになっている。

+++++++++++++++++++++

●「AERA」の記事

 「早期教育効果は小学生で消える」と題した、雑誌「AERA」の記事を要約すると、こうなる。

 早期教育の一例として、「読み書き」をあげ、幼児期に読み書きを教えても、その効果は小学
校で消える。
そればかりか、無理な学習が、子どもを勉強嫌いにしてしまう。
「臨界期」というのは、科学的に証明されたものではない。
むしろ家で、先取り教育をすると、子どもは学校での勉強をつまらなく思ってしまうようになる…
…などなど。

 その一例として、5〜6歳児が、小学5年生で学ぶ漢字を書いた子どもの例、高校へ入ったと
たん、無気力になってしまった子どもの例などが、書いてあった。

 その底流に見え隠れするのは、「塾必要悪論」、もしくは、「家庭教育不要論」。
結論は、「あわてて教育しても、無駄」と。

私はその記事を一読して、「これはいつの原稿か?」と、ライターの常識というよりは、年齢を
疑った。
今から25年ほど前の原稿というのなら、まだ話もわかる。
しかし今、どうしてこの時代に?

●親子のふれあい

 たまたま先月、私は、「ママターナル・デプリベイション(Maternal Deprivation)(母性愛欠乏)」
についての原稿を書いた。

マターナル・デプリベイションというのは、「乳幼児期の母子関係の不全」をいう。
乳幼児期に、母子関係が不全だったりすると、それが後々、さまざまな症状の遠因となること
がある。
その一部を、転載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

子どもというのは、心豊かな家庭環境、とくに心豊かな母子関係の
中で、心をはぐくむ。
が、母親側に何かの問題があり、本来あるべき母子関係が
築けなくなることがある。
育児拒否、ネグレクト、育児放棄、母性愛の欠落、虐待、暴行など。
また自分の子どもであっても、子どもを愛せない母親は、
8〜10%はいる。
こうした母親側の育児姿勢が日常化すると、子どもには独特の
症状が現れるようになる。
ホスピタリズム(施設病)に似た症状を示すと説く学者もいる(後述)。

その第一が、他者との共鳴性の欠落。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるについれて、自分より弱い者をいじめたり、
自分より弱い立場にある動物を、虐待したりするようになる。

さらに成人してから、心の病気となって発現することもある。
ネットを使って、そうではないかと思われる症状をもった人を、
参考までに拾ってみた(2チャンネルより)。

もちろんここにあげた人たちの症例が、マターナル・デプリベイション
が原因というわけではない。
その疑いがあると、私が思うだけの話である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●早期教育

 雑誌「AERA」では、「親子のふれあいこそ大切」と書いている。
しかしそんなことは、今では、常識。
常識中の常識。
が、それはここにも書いたように、「マターナル・デプリベイション」という分野で、考えられるべ
き問題。

が、どうしてそれが、「早期教育」と結びつくのか?
「早期教育不要論」と結びつくのか?

 要するにAERAのライターは、「無理な早期教育の結果、親子のふれあいが犠牲になる」と
言いたいのだろう。
が、ここでライターは、巧みに言葉のトリックを使っている。
(あるいは、「早期教育」の意味さえ、知らないのでは?
「先取り教育」と「早期教育」を混同している?)
何も文字の「読み書き」だけが、早期教育ではない。
また早期教育をしたからといって、親子関係が破壊されるというものでもない。

 AERAでは、無理に進学塾へ通わされた子どもの例や、目的の学校へ入学したとたん、無
気力になってしまった子どもの例などをあげている。
そしてその上で、「臨界期なるものは、科学的に証明されたものではない」と。

 ?????

 ライターは、自説を補強するため、20年前、40年前の資料を、(〜〜教授)などと実名を添
えて、並べている。
こうした手法は、多くのライターが使う。
自説に不安を感じたとき、権威者の名を借りて、それを補強する。
それにしても古すぎる!

 が、「臨界期」はある。
また臨界期をはずすと、人間は人間でなくなってしまうこともある。
その一例が、「野生児」である。
インドで1920年代に見つかったオオカミ姉妹にしても、同じころフランスで見つかった、ビクト
ールという少年にしても、それ以後、人間生活に復帰することはなかった。
言葉すら、覚えなかった。
人間らしい人間の心を取り戻すこともなかった。

 もっと簡単な例で言えば、小学校へ入学してから、音楽教育をほどこしても、そこそこの才能
を見せるようになることはあっても、そこまで。
あえて言うなら、「読み書き」(=国語能力)について言えば、親子のふれあいというよりは、母
親の言語能力が子どもに大きな影響を与える。
母親が、「ホラホラ、バスバス、ハンカチ、もった?」というような話し方を日常的にしていて、ど
うして子どもに国語力がつくというのか。
こういうとき母親は、子どもには、こう言う。

「もうすぐ、お迎えのバスが来ます。あなたはハンカチをもっていますか」と。
つまりこれが、わかりやすく言えば、「早期教育」である。

 AERAは、5〜6歳の子どもが、小学5年生で習う漢字を書いている例をあげている。が、私
は、40年近く幼児と接しているが、そんな子どもを見たことがない!
もしいるとしたら、自閉症(アスペルガー)の子どもということになる。
このタイプの子どもは、ある特定のことがらに、ふつうでない(こだわり)をもつことがある。

●小学校で消失?

 「計算力」と「算数の力」は、別。
計算力は、訓練で身につく。
しかし算数の力は、簡単には身につかない。
生活環境やその子どもの知的能力が、大きく影響する。

 同じように、「読み書き」と「国語の力」は、別。
読み書きは、訓練で身につく。
しかし国語の力は、簡単には身につかない。
生活環境やその子どもの知的能力が、大きく影響する。
ともに「思考力」の問題ということになる。

 その「思考力」を養うのに、早すぎるということはない。
乳幼児期でも、早すぎるということはない。

 が、AERAは、(読み書き)を例にあげ、そうした力は、小学校で消失する、と。
だから「早期教育は不要」と。
バカバカしいというか(失礼!)、反論するのも、疲れる。

●過熱する幼児教育

 少子化の問題もある。
それもあって、たしかに幼児教育が加熱している。
しかし問題は、なぜ加熱しているかということ。
その背景にまで、メスを入れないと、この問題は解決しない。
「早期教育は無駄」と、ハシゴをはずすのは簡単。
しかしハシゴをはずされた親たちは、どうすればよいのか。
どこへ向かえばよいのか。
それを書いてこそ、「さすがAERA!」ということになる。
まことにもって、無責任というか、乱暴なコラムということになる。

 もっとも朝日新聞社(AERAの出版元)の「塾必要悪論」は、今に始まったものではない。
私が37歳前後のことだったから、今から25年ほど前ということになる。
朝日新聞は、連日、「塾必要悪論」を展開していた。
が、そのときすでに、「塾で勉強した子どもは、学校での勉強をつまらなく思う」というような意見
はあった。
教職員の間から、さかんにそういう意見が出てきた。
が、当のライターは、その時代から、一歩も進歩していない。
(使っている資料を見ても、それがよくわかる。)

 しかし、時代は変わった。
教え方も変わった。
親たちの意識も変わった。
今時、泣いていやがる子どもを、(幼児でもよいが)、無理矢理塾通いさせる親はいない。
またそんな教え方をしている塾は、ない。
さらに言えば、学校の勉強をつまらなくさせるように教えている塾は、ない。
ライターは、自分が受けた古い教育(=古傷)を原点に、自説を、自分流に料理しているだけ。
私はAERAの記事を読んだとき、「辛かった。お母さんにはいやだとは言えずに我慢していた。
幼稚園の友達と、もっと遊びたかった。中学受験なんて必要なかった」と言った少女は、ライタ
ー自身のことではないかと疑った。

●反響

 世界の教育は自由化に向けて、まっしぐらに進んでいる。
アメリカのホームスクール、カナダの学校設立自由化、EUのクラブ制(塾制)などなど。
EUでは、大学の単位すら共通化された。
私が学んだオーストラリアのメルボルン大学では、40年も前から、世界の大学と単位交換をし
ていた。

 二男は、アメリカの私立大学で2年学んだあと、州立大学へ移籍。
しばらく民間企業に勤めたあと、現在はI大学(アメリカ)で、CERNのコンピュータ技師として仕
事をしている。
また二男の嫁は、文学部出身だが、主婦業をするかたわら、司法試験に合格。
現在はロースクールに席を置いている。

 これを「自由化」という。
世界の若者たちは、自分の力とやる気に応じて、好き勝手なことをしている。
わかるかな、AERAさん?
そういう環境作りをする。
それを「自由化」という。
私たち日本人も、そういう世界を目指す。

 話が脱線したが、「読み書き」や、極端な例を取り上げ、「早期教育は小学校で消失」という
意見は、まことにもって、暴論。
暴論というよりは、無知。
もしそうだとするなら、幼児教育とは何かということになってしまう。

 で、最後に「早期教育」について。

もちろんまだ未熟で不完全かもしれないが、その重要性は、年々、さらに大きく高まってきてい
る。
脳科学の発達とともに、(近年、急速に発達しているが)、早期教育がどうあるべきか、その道
筋も示されつつある。

繰り返すが、今時、「読み書き」?
日本人に与える影響の大きい雑誌だけに、残念。
これからも、AERAのコラムをテーマに、この問題について、書いてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 AERA アエラ 早期教育は小学校で消失 早期教育無用論)

【補足】

++++++++++++++++++

数日前に書いた原稿を、添付する。

++++++++++++++++++

●早期教育効果は小学生で消える(?)「AERAの記事に、疑問あり!」(改訂版)

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

こんな記事が、AERAという雑誌に載っていた。
いわく「早期教育効果は、小学生で消える」と。

つづいて、
「……小学校入学前に読み書きを習得する子どもは多い。その風潮に警鐘を
鳴らす研究が報告されている。本質的な学力を決めるのは親子関係だという」と。

しかしこの原稿には、いくつかの言葉のトリックがある。
その第一、「早期教育」を、「読み書き」にすり替えている。

たしかに「読み書き」については、その効果は「小学校で消える」。
たとえば計算力にしても、幼児期に速くできるようになったからといって、
それがそのまま「数の力」に結びつくとはかぎらない。

よい例が、幼稚園によっては、かけ算の九九を暗唱させているところがある。
が、九九が言えるようになったからといって、「算数の力」が身についた
ということには、ならない。

が、こんなことは常識。
その常識を、逆手に取って、「小学生で消える」とは?

さらに言えば、消えたところで、無駄とは言い切れない。
その上に、さらに新しい知識を組みあげていく子どももいる。
(そうでない子どもも、もちろんいるが……。)

あえて言えば、「早期教育」と言っても、「知識教育」から離れ、最近では「考える子ども」
にするのが、ひとつのテーマになってきている。
ごく最近では、「Active Learning」という言葉も使われるようになった。
「ものごとに積極的に取り組む子どもにするための指導」という意味である。

「文字の読み書き」ではない!

+++++++++++++++++++++++++++++++++++

●読み書き

 「読み書き」をもって、早期教育と位置づける。
「だから、早い時期から学んでも、意味がない」と。
この原稿の最大のミスは、ここにある。
つまりこの原稿を書いた人は、「幼児教育」というのが、何であるか、よくわかっていない。
「早期教育」、さらには「先取り教育」の意味もよくわかっていない。
さらに最近話題になっている、「臨界期」という言葉も、知らない?

 たとえば、こんなことも書いてある。

「また、別の研究でも、漢字の習得では、早期教育を受けなかった子どもとの差は小学校2年
生ごろに消滅し、むしろ国語嫌いは早期教育を受けた子に多かったということもわかっている
(黒田実郎、「保育研究」)」(AERA)と。

(しかしこの資料も、調べてみたところ、1969年「日本保育学会」「就学前の幼児の恐怖」の中
に収録されているものとわかった。
1969年といえば、40年以上も前!
大阪万博の前の年の資料!)

 それはさておき、それはその通り。
無理な文字指導が、子どもを文字嫌いにするという例は、多い。
その(文字嫌い)が悪循環となって、子どもを(国語)から、遠ざける。
たとえば年中児でも、「名前を書いてごらん」と声をかけただけで、体をこわばらせる子どもは、
いくらでもいる。
中には涙ぐむ子どもさえいる。
文字に対して恐怖心をもっているためである。

 こんなことは、少し幼児に接してみれば、だれにでもわかること。
また幼児に接した経験のある人なら、だれでも知っている。
それを、ことさら学者名まで出して強調するところが、わざとらしい。

 逆に、世界広しといえども、幼児期の幼稚園教育で、文字の読み書きを教えないのは、この
日本だけ。
そういう事実をさておいて、あたかも「幼児期に、文字教育は必要なし」というような印象を与え
るのは、どうか。
誤解というより、偏見。

 そして「文字教育」を例にあげながら、「幼児期には何もしないほうがいい」というような印象を
読者に与える。

こうした論法には、「?」マークを10個くらい、並べたい。
大切なことは、「教える」ではなく、「文字の読み書きは楽しい」ということを教えること。
それが幼児教育。
またそれが重要!

●偏見

 さらに……。

「……早期教育熱はやがて中学受験熱に変わる。Aさんの長女は、過酷な競争を勝ち抜き都
内の難関の中高一貫進学校への入学を果たしたが、その後勉強熱が急速に冷めてしまった。
競争の激しい進学校で成績は伸びず、大学受験は苦労した。

 有名中学に合格し、張り詰めていた緊張の糸がプツンと切れてしまったかのように、その後
の成績が伸び悩む例は多い。子どものストレスは早期教育で終わらない。小学校に入れば塾
通い、中学受験、それが終わっても大学受験と、常に急き立てられていく」(AERA)と。

 これを読んだときには、ア然とした。
このライターは、「燃え尽き症候群」「荷下ろし症候群」という言葉さえ、知らない?
そんな印象すらもった。

 たしかにこのタイプの子どもは、多い。
浜松市内の進学高校でも、高校入学と同時に、約20%の子どもが、燃え尽きる。
そのため無気力になったり、怠学に陥ったりする。
それはそれだが、だからといって、みながみな、そうなるわけではない。
何も受験競争の肩をもつわけではないが、「だから教育は無駄」式の論法には、首をかしげ
る。

 つまりここでも、「受験競争」と「早期教育」を、言葉のトリックを使ってすりかえ、読者を煙に
巻いている。

●親子のかかわり

 幼児教育の第一は、「親子のかかわり」で始まる。
またそれで終わる。
その重要性は、基本的信頼関係に始まって、心の育成などなど、今さらあえて説くまでもない。
が、ここでも、このライターは、言葉のトリックを使っている。
つぎの文章を、よく読んでほしい。

 「……長男は文字をほとんど書けないまま小学校に入学した。入学後、近所の5歳の女の子
が持っていた「お勉強ノート」を見て圧倒された。画数の多い小学校中学年向けの漢字がびっ
しりとノートのマスを埋めていた。入学後も、わが子がカタカナに四苦八苦する傍らで「5年生の
漢字が書けるよ」「九九できるよ」と豪語する級友の存在を知り、長男が勉強についていけるか
心配になった。

 しかし、お茶の水女子大学の内田伸子教授(発達心理学)は、文字の読み書きなどの早期
教育に批判的だ。内田教授は昨年秋の東アジア学術交流会議で「幼児のリテラシー習得に及
ぼす社会文化的要因の影響」調査を発表した」(AERAより)と。

 ある親は、ほかの子どもが、スラスラと漢字を書いている子どもを見て、ショックを受けたとい
う。

(5〜6歳の子どもが、5年生の漢字を書く?
しかし私は幼児教育を40年もしているが、そんな子どもを見たことがない!
本をスラスラと読む子どもはいたが、漢字を書いた子どもは知らない。
もし本当にいるとするなら、心に何らかの障害をもった子どもということになる。
その子どもがそうというわけではないが、たとえば自閉症の子どもは、ある特定のことがらに、
ふつうでない(こだわり)を示すことがある。
全国の駅名を暗記する、どんな音楽でも一小節を聞いただけで、曲名を当てる、など。
5歳児が、5年生の漢字を書くというのは、おおげさというか、きわめてマレなケース。)

 つまりそういうトンデモナイ例を引きながら、その一方で自分の原稿に権威付けをするため、
大学の教授名を並べる。
いわく、「……すでに内田教授は20年以上前に実施した調査で、3、4歳で文字を習得してい
る子と、習得していない子との差は、小学校入学後に急速に縮まり、1年生の9月には両者の
差は消えてしまうということを指摘してきた」と。

 (この資料も、20年前の資料!)

●過熱する幼児教育?

 早期教育というと、文字教育と考える。
早計というか、無知。
無知というか、誤解。
あるいは偏見。
私も「文字」をテーマに、レッスンを進めることは多い。
しかし「文字を教えよう」という気持ちは、さらさらない。
先にも書いたように、「文字は楽しい」ということは、教える。
もっと言えば、子どもたちを、楽しませる。
「文字は楽しい」という思いが、良循環となって、その子どもを前向きに引っ張っていく。
それが幼児教育。
その重要性は、ここに改めて書くまでもない。

 それをさておいて、「子どもには、必要な栄養食品だけを与えておけばいい」
「料理は無駄」と。
さらに言えば、こんなことも言える。
「大学へ入っても、無駄。人生の結論は、死ぬときの死に際の様子で決まる」と。
どこかのカルト教団が、信者たちにさかんに説いている言葉である。
このライターの(おかしさ)は、その一点に集約される。

●不適切な指導

 このライターの意見によるまでもなく、不適切な指導で、伸びる芽すら摘まれていく子どもは、
多い。
たとえばここでは「読み書き」がひとつのテーマになっている。
実のところ私の二男もそうだった。

 私の二男は、生まれつき、左利き。
私たち夫婦は、自然の流れに任せた。
が、小学校へ入学して一変した。
学校の先生から、「文字は右手で書かせてください」と。
担任の先生が、書道の先生であったことも、災いした。

 毎晩、二男は泣きながらノートに漢字を書いていた。
鏡文字はもちろんのこと、書き順もめちゃめちゃ。
で、1年もたったころ、私は学校の先生に向かって、こう宣言した。
「息子は、左利きで通します。無理な指導は結構です」と。

 それに対して先生は、こう反論してきた。

「冷蔵庫でも、何でも、右利き用にできています。
不便を感ずるのは、あなたのお子さんですよ」と。

 が、さらに私は反論した。
「そんなことは、慣れれば何でもないことです!」と。

 そういう問題はある。
あるが、一方的に、「消滅するから無駄」という論法には、かなり強い違和感を覚える。

●針小棒大論

 受験塾の受験競争には、私も批判的。
擁護したことは、一度もない。
しかしそれは「学習」という面からではなく、「心の育成」という面から、問題にしてきた。
またそのような趣旨で、原稿を書いてきた。

 それをストレス説と結びつけて、「子どもの教育はストレスにつながる」と一方的に決めつけて
いる。
さらにいつの論文かは知らないが、「脳神経学的に胎児期や乳幼児期の早期教育の有効性を
正当化する科学的根拠はないとしている」(お茶の水女子大学の榊原洋一教授は、著書『子ど
もの脳の発達臨界期・敏感期』)と。

 だったら、「野生児」の問題など、なかったはず!
ある時期、親子のふれあいのなかった子どもが、どうなるか?
野生児と呼ばれた子どもを知っていれば、こんな意見は出てこないはず。
「科学的根拠」というが、その研究は、今、始まったばかり。
「臨界期」という言葉が、再びクローズアップされてきたのは、ここ数年のこと。

 そこでこの本(『子どもの脳の発達臨界期・敏感期』)の発行年月日を調べてみたら、2004
年とわかった。
6年前!
現在は、廃刊になっている。
当時は「科学的に」は、無理だったかもしれない。
が、ここ数年の、脳科学の進歩には、著しいものがある。
脳の中の動きを、リアルタイムで観察することもできるようになった。

●「塾通いは悪」という偏見

 このライターは、世界の潮流というものを、知らないらしい。
EUでは、むしろ逆に、学校教育より、クラブ制のほうに、教育の重点を移動している。
子どもたちがそれぞれ放課後、好き勝手なクラブに通い、好き勝手なことをしている。
たとえばドイツでは、中学校では単位制を導入し、午後はみな、それぞれのクラブに通ってい
る。

 その費用は、チャイルドマネーとして、満27歳になるまで、一律に支給されている。
額は1万5000円前後。
クラブの月謝が、1000円程度だから、その額だけで、約15のクラブに通えることになる。
学校の内部にクラブがあることもある。
日本がこの先めざすべき教育は、むしろ、そちらのほうではないのか。
10年一律というか、AERA(朝日新聞社)のばあいは、30年一律のごとく、「塾、必要悪論」を
展開している。

 そこには、「学校や幼稚園でやることは問題なし」という、ぬぐいがたい偏見すら覚える。
が、事実は逆で、むしろ「民活」、つまり民間の活力を利用したほうが、よい面も多い。
たとえば英会話にしても、民間に任せた方が、ずっとよい教育をする。
実際に、よい教育をしている。

 それに第一、今時、泣きながらいやがっている子どもを、無理に塾へ通わせる親は、い・な・
い!
いったいこの話も、何年前の話かと、聞きたくなる。
(20〜30年前には、こういう話はよく耳にしたが……。)

その部分を、ここに転載させてもらう。

「…… Aさんの長女は、大学入学後に幼い頃の塾通いについて、
「辛かった。お母さんにはいやだとは言えずに我慢していた。幼稚園の友達と、もっと遊びたか
った。中学受験なんて必要なかった」
 と涙を溢れさせながら訴えた」(AERAより)と。

 このライターは、自説の偏見を補強するため、ペタペタとあちこちの悪例を張りつけている。
わかるかな?

●塾で勉強したら……?

 さらにAERAの記事は、つづく。

「日本には飛び級制度はないし、習熟度別クラスも少ない。塾などで勉強したことを学校で「復
習」する状態が常に続くと、学校での勉強がつまらなくなる」(AERAより)と。

 ヘエ〜〜?

 今時、こんなことを書くライターがいること自体、信じられない。
学校第一主義というか、学校神話信仰者というか。
つい先日、韓国で発表された調査結果をもう一度、ここにあげてみる。

●居眠りする高校生たち

(授業中、居眠りをしている高校生)

居眠りについて、「普通の行動」、または「たびたびおこなっている行動」

    日本人    45.1%    
    韓国人    32.3%
    アメリカ   20.8%
    中国      4.7%

 「学校の勉強がつまらない」のは、塾で先取り教育をしているからではない。
構造的な問題。
つまり公教育がかかえる構造的な問題に起因する。
これは高校生についての調査だが、中学校でも似たような現象が起きている。
小学校でも似たような現象が起きている。

また「塾」といっても、今時、このライターが書いているような授業をしていたら、生徒など、1人
も集まらないだろう。
たとえて言うなら、「まずい料理を並べるレストラン」のようなもの。
それを「食べろ!」と押しつけても、今時の子どもは、食べない。
親だって、食べさせない。

●結論

 また動き盛りの子どもを、無理に机にしばりつけ、「読み書き」を教えれば、ストレスがたまる
に決まっている。
体や心が変調をきたすのも、当然。
あえて「尿検査」をするまでもなく、子どもたちの表情を見れば、それがわかる。
「教育」というのは、そういうもの。
子どもの表情と様子を見て、判断する。

それを「……1997年に幼稚園児の尿を採取してストレス値を比較したところ、早期教育を受
けている幼児は、受けていない幼児に比べてストレスが高かった」と。

1997年当時といえば、「早期教育」の定義も、まだあいまいだったはず。
またそのころから、不登校児が急増し、不登校が社会問題化した。
が、その一方で、水泳教室、書道など、おけいこ塾へ通っていない子どもなど、いなかったは
ず。
都会地域では、ほぼ100%。
地方の農村地帯でも、70%。
(この数字は記憶によるものなので、不正確。)

 ここでも「読み書き」と「早期教育」を混同させるという、言葉のトリックを使っている。
さらに言えば、ライターの思いこみを(柱)にし、あちこちから寄せ集め的に、古い資料をペタペ
タと張りつけている。

 で、問題があるとするなら、なぜ親たちが、こうまで過熱するのか。
(過熱しているなら、という前提だが……。)
その中まで、メスを入れる必要がある。
またそういう視点で、この問題を切り込んでほしい。
またメスを入れてこそ、「さずがAERA!」ということになる。
こうした記事を書くことによって、どういう問題が、どう解決するとういうのか?
ハシゴをはずすのは、簡単なこと。
「では、どうすればいいのか?」。

 親たちは、この日本にはびこる不平等性を、いやというほど、毎日見聞きしている。
人生の入り口で幸運に恵まれた人は、生涯、恵まれた生活を楽しむことができる。
そうでない人は、そうでない。
「受験」がその関門になっていることは、だれの目にも明らか。
親たちは日常的に、(あせり)と、(不安)を感じている。
そういう事実をさておいて、「読み書き」を「早期教育」にすりかえて、「早期教育は危険」と警鐘
(?)を鳴らす。

 AERAが書くべきことがあるとすれば、「では、どうすればよいか」ということ。
「幼児をどう楽しく指導すればよいか」ということ。
ものごとは、後ろ向きに考えるのではなく、前向きに考える。
 
●AERAを、そのまま転載

 誤解があるといけないので、インターネット上に配信された、AERAの記事をそのまま転載さ
せてもらう。

++++++++++++以下、AERAよりそのまま+++++++++++

AERAより 2010年4月19日(月) 

 都内に住む30代の母親は最近、4歳の女の子が図書館で読んでいる本を見て驚いた。絵
はなく、漢字まじりの文字ばかり並ぶ小学校中学年用の読み物だ。自分の小学1年生の子ど
もは、入学してようやくひらがなを習ったばかりだというのに。思わず「すごいね」と声をかける
と、女の子は「漢字も書けるよ」と言って、スラスラと漢字を書いた。女の子の母親と話すと、通
っている有名私立幼稚園では珍しくない光景だという。

■所得よりも養育態度

 最近、地方都市から東京に転居してきた40代の母親の長男が通った保育園は、外遊びを重
視し、幼児の読み書きなど早期教育には批判的な方針だった。長男は文字をほとんど書けな
いまま小学校に入学した。入学後、近所の5歳の女の子が持っていた「お勉強ノート」を見て圧
倒された。画数の多い小学校中学年向けの漢字がびっしりとノートのマスを埋めていた。入学
後も、わが子がカタカナに四苦八苦する傍らで「5年生の漢字が書けるよ」「九九できるよ」と豪
語する級友の存在を知り、長男が勉強についていけるか心配になった。
 しかし、お茶の水女子大学の内田伸子教授(発達心理学)は、文字の読み書きなどの早期
教育に批判的だ。内田教授は昨年秋の東アジア学術交流会議で「幼児のリテラシー習得に及
ぼす社会文化的要因の影響」調査を発表した。

 ちょうどその2カ月ほど前、文部科学省は全国学力テストの結果を分析し、親の所得が高い
ほど子どもの学力が高いという調査を発表していた。親の年収が1200万円以上では国語、算
数の正答率が全体の平均より8〜10ポイント高く、200万円未満では逆に10ポイント以上低か
った。

 だが、内田教授の調査では、子どもの学力格差は親の所得格差ではなく、親子のかかわり
方が大きく影響していた。たしかに「読み・書き」能力だけみれば、3歳では親の所得や教育投
資額が多いほど高かった。しかし、その差は子どもの年齢が上がるにつれて縮まり、小学校入
学前に消滅した。文字などの早期教育の効果はわずか、数年しか続かないのだ。

 すでに内田教授は20年以上前に実施した調査で、3、4歳で文字を習得している子と、習得
していない子との差は、小学校入学後に急速に縮まり、1年生の9月には両者の差は消えてし
まうということを指摘してきた。また、別の研究でも、漢字の習得では、早期教育を受けなかっ
た子どもとの差は小学校2年生ごろに消滅し、むしろ国語嫌いは早期教育を受けた子に多か
ったということもわかっている(黒田実郎、「保育研究」)。

■想像力豊かな子は…

 一方、幼児の語彙力については、親の所得や教育投資額が多いほど高かった。しかし、詳
細な分析をした結果、語彙の成績を左右するのは所得や教育投資額ではなく、親の養育態度
であるとわかった。

 内田教授は、こう話す。

「語彙力というのは自律的思考力を支えるものです。所得が低い家庭であっても、子どもとの
ふれあいを大事にして、楽しい経験を共有するような『共有型』の養育スタイルの家庭の子ども
の語彙得点は高いのですが、所得が高くても大人の思いを押しつけ、トップダウンで禁止や命
令、体罰などを多用する場合は子どもの語彙の成績は低いのです。他の子どもとの比較や勝
ち負けの言葉を多用するとか、子ども中心で親が犠牲となる教育も、学力基盤を育むのに効
果はありません」

 つまり親の「人間力」こそ、子どもの語彙力の発達には重要だということだ。しかも、この語彙
力こそ学童期以降の子どもの学力と関連があると話す。

 また内田教授が文字を習得している幼児と習得していない幼児に、それぞれ空想でお話を
つくってもらったところ、文字を習得していない子どもの方が想像力豊かな内容だったという。
こうした研究を通じて、過熱する一方の早期教育に警鐘を鳴らしてきた内田教授は、こう話
す。

「幼児期には五感を使って親子で体験を共有することが大切です。親子のコミュニケーション
や会話のやりとりを通じて、子ども自身が考えて判断し、親子の絆が深まっていく中で子どもの
語彙力は豊かになる。お金をかけなくても子どもは伸びるのです」

■鈍る昼間の活動

 研究者の間では以前から「早期教育」の効果に懐疑的な声は多かった。小児科医でもある、
お茶の水女子大学の榊原洋一教授は、著書『子どもの脳の発達臨界期・敏感期』の中で、脳
神経学的に胎児期や乳幼児期の早期教育の有効性を正当化する科学的根拠はないとしてい
る。

 むしろ、早期教育の弊害として一番心配されるのは、子どものストレスだ。東北生活文化大
学の土井豊教授らが、1997年に幼稚園児の尿を採取してストレス値を比較したところ、早期教
育を受けている幼児は、受けていない幼児に比べてストレスが高かった。さらに早期教育を受
けている幼児は、昼間の幼稚園での活動が鈍くなっていた。幼稚園後の「お勉強」に備え、日
中は活動を休止して子どもなりに心と体のバランスをとっているのだろう。日中の活動の低下
は子どもの発育にとってよくはない。ほかにも早期教育を受けた子どもがストレスで情緒障害
を引き起こしたケースや、親子の愛着関係に悪影響を及ぼした事例も報告されている。

 都内に住むAさんは、長女の妊娠中からクラシック音楽や絵本の読み聞かせで胎教した。乳
児期からは水泳、リトミックのほか、有名幼児教室にも電車で通った。自宅では幼児教室の教
材やパズル、フラッシュカードで毎日1時間以上の早期教育を実践した。友達と自由に遊ぶ時
間は少なかったが、長女に嫌がる様子も見えなかった。どんどん子どもが吸収していくのが嬉
しかったし、何よりも子どものためと信じていた。

 早期教育熱はやがて中学受験熱に変わる。Aさんの長女は、過酷な競争を勝ち抜き都内の
難関の中高一貫進学校への入学を果たしたが、その後勉強熱が急速に冷めてしまった。競争
の激しい進学校で成績は伸びず、大学受験は苦労した。

 有名中学に合格し、張り詰めていた緊張の糸がプツンと切れてしまったかのように、その後
の成績が伸び悩む例は多い。子どものストレスは早期教育で終わらない。小学校に入れば塾
通い、中学受験、それが終わっても大学受験と、常に急き立てられていく。

■のしかかるストレス

 先の榊原教授は、こうした塾や学習教室での先取り学習も逆の効果を生む危険性があると
話す。日本には飛び級制度はないし、習熟度別クラスも少ない。塾などで勉強したことを学校
で「復習」する状態が常に続くと、学校での勉強がつまらなくなる。

 先の40代の母親の長男が通う小学校では「(学校の勉強は)簡単すぎてばからしい」と言う子
どももいる。こうした子どもたちは、結果として学校の勉強に対するモチベーションが低下し、集
中力も低下する。それこそが中学校以降の学力低下につながりかねないのだ。

 だが、榊原教授は早期教育や中学受験に熱心な親たちを一概には非難できないと話す。格
差が広がるばかりの社会で、親が子どもの幸せのためにできることといえば、よりよい教育を
受けさせることと思いつめるのも無理からぬことだからだ。フラッシュカードで天才児が育つか
のような、教育産業のマニュアル化した教材は魅力的に見える。
 榊原教授はこう話す。

「早期教育が子どものストレスにならず『親子のふれあい』に寄与する程度なら使っても良いで
しょう」
 フラッシュカードは、知能開発のためではなく、親子のコミュニケーションのために使えばよ
い。

 Aさんの長女は、大学入学後に幼い頃の塾通いについて、
「辛かった。お母さんにはいやだとは言えずに我慢していた。幼稚園の友達と、もっと遊びたか
った。中学受験なんて必要なかった」
 と涙を溢れさせながら訴えた。

 Aさんは「頭にガツンとパンチをもらった感じ」だった。今まで注ぎ込んだお金と時間と苦労を
思うと「間違いだった」とは認めたくない気持ちも残る。でも、「ごめんね」と、長女に心の底から
詫びた。
 早期教育の効果はわずか数年足らず。だが、子どものストレスは成長した後も心に長く重く
のしかかる。内田教授は、

「子どもはお母さんが大好きだから嫌とは言わない。だからこそ、親は子どものストレスのサイ
ンを見逃してはいけない」
 と話している。
ライター AS
(4月26日号)

++++++++++++以上、AERAよりそのまま+++++++++++

●反響

 ネットを使ってこのAERAの記事の反響を調べてみた。
その結果、「だから早期教育は無駄」と反応している親たちが多いことがわかった。
「さずがAERA!」と思ったのは、そのとき。
つまりそれだけ影響力が大きいから、記事は、もう少し慎重に書いてほしい。

●私の指導法から

 ここに紹介するのは、4月に入って2回目のレッスンの様子である。
このビデオを見て、塾に対する偏見を少しでも解いてもらえば、うれしい。
今時、泣きながら勉強する子どもなど、いない。
親も、そこまでバカではない!

 2回目のテーマは、「声を出す」である。
「あいうえお」という文字を、使って指導してみた。
私の教室で、笑いながら学習する子どもはいるが、泣きながら学習する子どもは、いない。

50分のレッスンを、編集、削除することなく、ありのまますべてを紹介する。

<object width="480" height="385"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/GV0C2CzmAvU&hl=ja_JP&fs=1&color1=0xe1600f&color2=0xfebd01"></param><param 
name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="
always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/GV0C2CzmAvU&hl=ja_JP&fs=1
&color1=0xe1600f&color2=0xfebd01" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="480" height="385"></embed></
object>

(つづきは……)

http://www.youtube.com/profile?user=hiroshihayashi#p/u/5/GV0C2CzmAvU

http://www.youtube.com/profile?user=hiroshihayashi#p/u/4/w7tp8xZDbKE

http://www.youtube.com/profile?user=hiroshihayashi#p/u/3/8ChegrNptko

http://www.youtube.com/profile?user=hiroshihayashi#p/u/2/zxcDCe-_PMA

http://www.youtube.com/profile?user=hiroshihayashi#p/u/1/GrKTgr8fsNE

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 AERA AERA 読み書き 早期教育 偏見と誤解 言葉のトリック AERA 早期
教育)

4月20日記

Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●田丸謙二先生

 昨日、田丸先生について原稿を書いた。
それを先生に送ると、返事が届いていた。

(私は先生についての原稿を書いたときには、
発表する前に、かならず、先生に前もって
原稿を届けるようにしている。
当然のこととして……。)

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

林様: メール有り難うございました。私のホームページに短く書き足しました。 「八十を過ぎ
て…」の項の最後にです。何時お迎えが来るか、です。 
田丸謙二

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●先生のhpより

 『齢が八十を超えて来ると、何時お迎えが来る
かが気になります。いくら考えても分かる話ではない
のですが、遅かれ早かれ遠からずに何時かは寿命
が来ることは明らかなことです。それだけに自分の死
に対処することも気になりますし、死んだあとに後継
ぎの人たちが困らないように気を配ることにもなりま
す。やらなければいけないことはできるだけ翌日に
伸ばすことは避けなければという意味で気が短くセッ
カチにもなるわけです。自分の身体のどこかが痛ん
だりしても、いよいよ来たかとか、何かの前兆ではな
いかと気にもなるわけです。携帯電話には救急車を
呼ぶ番号、病院やタクシイのも入れておきます。よろ
け易くなっているだけにその注意も肝要です。一日一
日無事に過ぎるだけでも、毎日が感謝で満ちるように
もなるわけです。本当に有難いことです。
(2010年4月18日: 86歳)』

 何度も読んでいると、先生の一言一句が、そのまま私の
人生観の骨になっていく。
私にとって、田丸謙二先生というのは、そういう人である。


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

【孤高論】

●悪口

+++++++++++++++++++

私は、一度でも、その人の悪口を
言ったり、書いたりしたときには、
その人とは、つきあわない。
その人とわからない形で、書いたときも、
つきあわない。
例外はない。

一方、私の悪口を言っていると知った人とは、
つきあわない。
例外はない。
私は、この原則を、しっかりと守っている。
もう少し融通性があってもいいのでは・・・と
思う人もいるかもしれない。
私も、時々、そう思う。
しかしそういう意味では、私は、器用な人間ではない。
この原則を破ると、頭の中が、バラバラになってしまう。
それがこわい。

+++++++++++++++++++

●慎重と確認

 この原則には、付随的な原則が、もうひとつある。
私にとって、「悪口」というのは、そういう意味では重大な意味をもつ。
この原則に従えば、人間関係をそのまま断ち切ることになる。
たとえ兄弟でも、親類でも、例外はない。
そのため、当然のことながら、悪口を言ったり書いたりすることについて、
慎重になる。
また悪口を言われているという情報が耳に入ったときもそうだ。
直接、自分でそれを確認することにしている。
しっかりと確認したあと、人間関係を断ち切る。

 が、ここで誤解していけないのは、悪口と批判は、ちがう。
「悪口」には、その根底に「悪意」がある。
悪意を感ずる。
悪意でもって、私を、貶(おとし)めようする。
中には言葉巧みに、私を悪者にしようとする人もいる。

一方、批判には、その根底に「善意」がある。
私のことを心配し、あれこれ言う。
言われた私のほうも、気にしない。
その判断の基準となるのが、日ごろの、信頼関係ということになる。

●仮面

 が、世の中には、奇妙な人たちがいる。
たがいに悪口を言い合いながら、それでいて、表面的には、うまくつきあっている。
他人ではない。
兄弟、姉妹どうしで、そうしている。
そういうケースもある。

 たとえば3人の兄弟、姉妹がいたとする。
上から長男、長女、二女。
話をわかりやすくするため、上からA男、B女、C女とする。

●奇妙な三角関係

 A男は、どこかノー天気。
口が軽い。
あっちの話を、こっちへもってきて、ペラペラ。
こっちの話を、あっちへもっていき、ペラペラ。

 B女は、そういうA男を、ボロボロに叩く。
その一言でも耳に入ったら、A男は激怒すると同時に、大きく傷つくだろう。
同じように、C女は、B女を、ボロボロに叩く。
その一言でも耳に入ったら、B女は激怒すると同時に、大きく傷つくだろう。
それぞれに多少の温度差はあるが、たがいがたがいをボロボロに叩く。
こうしてその3人の間に、複雑かつ奇妙な三角関係ができる。

 が、ここからが不思議な世界。
そういう関係でありながら、A男はB女とつきあい、C女ともつきあう。
B女とC女がつきあうこともある。
3人がともに行動し、会食することもある。
私がその中の1人なら、頭の中がバラバラになってしまうだろう。
が、本人たちは、生まれながらにそうであるため(?)、それが見た目には平気でできる。
あるいは兄弟姉妹というのは、そういうものか?

●タヌキ

 が、もちろん仲がよいわけではない。
つきあいといっても、表面的なつきあい。
たがいに体裁だけを、とりつくろっているだけ。
が、問題がないわけではない。

こうした仮面を平気でかぶれる人というのは、ほかの世界でも、平気でかぶる。
一方で悪口を言い、その人の前では、善人ぶる。
あるいは相手が自分の悪口を言っているのを知りつつ、ニコニコと笑ってつきあう。
こういう人たちを、私の生まれ育った郷里では、「タヌキ」と呼ぶ。

 そのタヌキと関係あるかどうかは知らないが、日本人には日本人独特の、
奇妙な笑いがある。
たとえば電車に乗り遅れた人が、ニヤニヤ笑う。
デッドボールを食らわせたピッチャーが、ニヤニヤ笑う。
先日も路地から飛び出してきた車が、あやうく私の乗った自転車にぶつかりそうに
なった。
そのときも、その車を運転していた女性は、視線をはずしたまま、ニヤニヤ笑っていた。

 日本人は、心を(表)と(裏)に分け、それをうまく使い分ける。
「本音」と「建前」という言葉も、そこから生まれた。
ここに書いた「照れ笑い」というのは、そういう日本人独特の民族性に起因するものと
考えてよいのでは?
日本以外では、あまり類を見ない。

●こわれた心

 話を戻す。

 こうした人間関係をつづけていると、人間性そのものまで、おかしくなる。
表では同情するフリをしながら、その実、相手の不幸を別の場所で楽しむ、など。
その人が不幸な状態にあると、わざわざその人を、のぞきに行く人すらいる。
理由は、何でもよい。
「ちょっと、こちらのほうへ来ました」とか、「昔、あなたのお母さんには世話になり
ましたから」とか、言う。
そして当人の前では、さも同情したフリをする。
フリをしながら、その人の不幸話を聞き出す。
聞き出して、それをあとで楽しむ。
酒の肴(さかん)にして楽しむ。

 が、演技は演技。
醜い演技。
つまりいつも自分の心を偽っていると、そういうことが、平気でできるようになる。
またそういうことが平気でできる人というのは、相当、心のゆがんだ人とみてよい。
本人は、そうは思っていないだろうが……。

●異質な世界

 かく言う私も、日常的に、それが当たり前の世界で、生まれ育った。
あっちを見ても、タヌキ。
こっちを見ても、タヌキ。
そういう世界だった。

 もっともそれを知ったのは、オーストラリアへ渡ってからのこと。
私はそこで、私が生まれ育った世界が、あまりにも異質、異様な世界だったことを、
知った。
当然のことながら、白人の世界では、ウソは通用しない。
ウソを言ったとたん、その世界から、はじき飛ばされてしまう。
自分の心を偽ったときもそうだ。

 だから日本へ帰ってきてからの私は、努めて、自分に正直に生きるようにした。
心をさらけ出して生きるようにした。
そのひとつが、冒頭に書いた言葉である。

『私は、一度でも、その人の悪口を言ったり、書いたりしたときには、
その人とは、つきあわない。
その人とわからない形で、書いたときも、つきあわない。
例外はない。

一方、私の悪口を言っていると知った人とは、つきあわない。
例外はない』と。

●孤高

 50歳も過ぎると、その人がどういう人なのか、よくわかるようになる。
同時に、今後つきあうべき人なのかどうなのかも、よくわかるようになる。
これは私の言葉ではなく、ワイフの言葉である。

人生にも限りがある。
限りがあるなら、与えられた時間は、無駄にできない。
言うまでもなく、心を偽って生きることは、それ自体が、時間の無駄。
回り道をするだけならまだしも、へたをすれば、おかしな袋小路に入ってしまう。
とくにタヌキと呼ばれている人たちとつきあっていると、何がなんだか、
わけがわからなくなってしまう。
「信頼」という言葉さえ、通用しない。
秘密裏に話したことさえ、しばらくすると、みなに伝わったりする。

 だからタヌキと呼ばれている人たちとは、つきあわない。
同時に、自分自身も、タヌキになってはいけない。
心を偽らない。
ありのままをさらけ出して、生きる。
それで自分の住む世界が小さくなったとしても、それはそれ。
「孤高」というのは、それをいう。
50歳を過ぎたら、孤高、おおいに結構。
あとは前だけを見て、まっすぐ進めばよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 悪口論 孤高論 人間関係論)


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●「幸福合戦」

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昔、「幸福合戦」という言葉を使う人がいた。
どこかの宗教団体に属する人だった。
その言葉を聞いたとき、その団体のことはともかくも、
私は「ナルホド」と思った。
「いい言葉」と思った。

戦闘的な言葉だが、相手が「幸福」なら、悪くない。
どうせ生きるなら、幸福に生きるのがよい。
そのために戦うというのなら、それは悪くない。

ただ、それにはひとつの重要な条件がある。
この言葉の向こうには、どうしても「他人の目」
を感じてしまう。
幸福合戦といっても、他人の目を意識してはいけない。
自分との戦い。
あくまでも自分との戦い。
他人は関係ない。
もちろん他人と比較してもいけない。
他人と比較したとたん、幸福観が、
相対的なものになりやすい。

「他人が不幸なら、自分は幸福」
「他人より幸福なら、自分は幸福」と。

もちろん自分が不幸でも、敗北感を
覚える必要はない。
人生は、常に終わり、その終わったところから、
またつぎが始まる。
幸福にしても、不幸にしても、そのときの状態が、
結論ではない。
結論と考えてはいけない。
仮に今、幸福であっても、
また今、不幸であっても、
今のつぎには、また別の「今」がある。

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●幸福とは何か

 「幸福とは何か?」。
それがわかりにくい。 
あえて言えば、幸福というのは、「不幸」の反対側にあるもの。
病気でなければ、健康。
不安なければ、平和。
心配がなければ、安心。
それらが集合されて、幸福につながっていく。

 が、それでもわかりにくい。
さらにあえて言えば、「幸福」というのは、それを失ったとき、はじめてわかる。
健康にしても、青春時代にしても、それがそこにあるときは、その価値に気づかない。
空気か、さもなければ、そよ風のようなもの。
さわさわと流れて、実感がない。
そういう意味では、幸福というのは、薄いガラス板のようなもの。
ふとしたきっかけで、簡単に割れる。
こわれる。

●幸福になるために

 が、幸福になるには、それだけでは足りない。
言い方を変えると、仮に病気であっても、また不安や心配があっても、幸福に
なることはできる。
反対に、健康で、不安や心配がまったくない人でも、不幸な人はいくらでもいる。

 つまり幸福であるかないかを知るためには、もうひとつの尺度が必要ということに
なる。
尺度といっても、幸福度を知るための尺度ではない。
あくまでも、私やあなた自身が、幸福感を自分のためのものにする尺度ということに
なる。

 その第一の条件が、夢と希望、そしてその先にある、「生きがい」ということになる。

●生きがい

 人生は、生きがいとの闘いといっても過言ではない。
生きがいを創造する。
その生きがいに向かって努力する。
そこから生まれる充実感が、幸福感ということになる。

 よく誤解されるが、欲望を満たすことは、幸福感にはつながらない。
満足感イコール、幸福感ではない。
(満足感に酔いしれ、それでもって、私は幸福と錯覚する人は多いが・・・。)
見分け方は簡単。
そのつど、自分に、「だから、それがどうしたの?」と、自問してみればよい。
欲望には、その答がない。
生きがいには、その答がある。

 もちろん健康であればよい。
心配や不安がなければよい。
しかし健康は、加齢とともに、ますますあやしくなる。
心配や不安については、程度の差もあるが、それがない人はいない。
だから結局は、「生きがい」ということになる。

●賢者の言葉

 幸福とは何か?
世界の賢者の言葉を拾ってみる。

The happiest people don't worry too much about whether life is fair or not, they just get on 
with it. 
Andrew Matthews, "Happiness in a Nutshell" 
幸福な人というのは、人生が公平かどうかということには、あまり悩まない。
幸福な人は、自分の人生を、そのまま受け入れて生きる。

For most of life, nothing wonderful happens. If you don't enjoy getting up and working and 
finishing your work and sitting down to a meal with family or friends, then the chances are 
that you're not going to be very happy. If someone bases his happiness or unhappiness on 
major events like a great new job, huge amounts of money, a flawlessly happy marriage or a 
trip to Paris, that person isn't going to be happy much of the time. If, on the other hand, 
happiness depends on a good breakfast, flowers in the yard, a drink or a nap, then we are 
more likely to live with quite a bit of happiness. 
Andy Rooney

人生のほとんどの部分では、すばらしいことなど起きない。
もしあなたが、起きて、仕事をして、仕事を終えて、家族や友だちと食事をするために座るな
ら、そのとき、あなたはとても幸福だということ。
もし幸福や不幸といったものを、たとえば大きな仕事とか、大金とか、あるいは完璧な結婚生
活とか、パリへの旅行などのような大きなできごとに基礎を置くなら、その人は人生の大半で、
幸福ではないということになる。
一方、幸福というのは、おいしい朝食、庭の花、一杯を飲む、うたた寝によるものとするなら、
あなたはたいへんな幸福とともに、生きることになるだろう。

We all live with the objective of being happy; our lives are all different and yet the same. 
-Anne Frank

私たちはみな、幸福になりたいという目的のために生きている。
人生はみなちがうが、しかしみな、同じ。

Think of all the beauty that still left in and around you and be happy! 
Anne Frank

あなたのまわりに残っている美しいものを考えなさい。
そして幸福に感じなさい。

Happiness is a warm puppy. 
Charles Schulz

幸福は、暖かい子犬。

When I meet people from other cultures I know that they too want happiness and do not 
want suffering, this allows me to see them as brothers and sisters. 
Dalai Lama, Tenzin Gyatso

幸福を望み、苦しむのがいやだという、私が知っている他の文化から来ている人に会うと、私
はその人たちが、兄弟や姉妹のように思う。

There is a very fine line between "hobby" and "mental illness." 
Dave Barry

「趣味」と、「心の病気」の間には、明確な一線がある。

Always do what you want, and say what you feel, because those who mind don't matter, and 
those who matter don't mind 
Dr. Suess

いつもしたいことをせよ。
感じたことを言え。
なぜならそれを気にする人は、何も言わない。
何か言う人は、気にしない。

You get more joy out of the giving to others, and should put a good deal of thought into the 
happiness you are able to give. 
Eleanor Roosevelt

他人に与えることで、あなたはもっと多くの喜びを得る。
そしてあなたが与えることができる幸福の中に、あなたの思いを、多くその人に伝えることがで
きる。

It is not by accident that the happiest people are those who make a conscious effort to live 
useful lives. Their happiness, of course, is not a shallow exhilaration where life is one 
continuos intoxicating party. Rather, their happiness is a deep sense of inner peace that 
comes when they believe their lives have meaning and that they are making a difference for 
good in the world. 
Ernest A. Fitzgerald

幸福な人というのは、有用な人生を送るため、絶え間ない努力をしている人というのは、けっし
て偶然によるものではない。
彼らの幸福は、もちろん華やいだパーティで、浅薄な浮き浮きしたものではない。
むしろ、彼らの幸福というのは、彼らの人生に意味があり、世界のためによいことをしていると
信ずるときに生まれる、内面の平和をともなった、深い感覚である。

We tend to forget that happiness doesn't come as a result of getting something we don't 
have, but rather of recognizing and appreciating what we do have. 
Frederick Koenig

私たちは、幸福というのは、もっていなかったものを、手に入れることの結果としてくるものでな
いことを、忘れがちである。
幸福というのは、今、私たちがもっているものを、認識し、それを味わうことである。

Man is fond of counting his troubles but he does not count his joys. If he counted them up 
as he ought to, he would see that every lot has enough happiness provided for it. 
Fyodor Mikhailovich Dostoyevsky

人というのは、トラブルの数は数えやすいものだが、喜びの数は数えない。
もしその人が、喜びの数を数えるなら、彼は、それぞれの運命には、じゅうぶんな幸福がある
ことを知るだろう。

There is work that is work and there is play that is play; there is play that is work and work 
that is play. And in only one of these lies happiness. 
Gelett Burgess

仕事のための仕事もあり、遊びのための遊びもある。
仕事のための遊びもあり、遊びのための仕事もある。
これらひとつの中にだけ、幸福がある。

If you have nothing else to do, look about you and see if there isn't something close at hand 
that you can improve! It may make you wealthy, though it is more likely that it will make you 
happy. 
George Matthew Adams

何もすることがないなら、あなたのそばにあって、改善できることがないかどうかを知ればよ
い。
それがあなたを、幸福にするようになるかもしれないが、それがあなたを豊かにするかもしれ
ない。

People take different roads seeking fulfillment and happiness. Just because they're not on 
your road doesn't mean they've gotten lost. 
H. Jackson Brown Jr.

人は満足と幸福を求めて、ちがった道をとる。
彼らがあなたと同じ道にいないからといって、彼らは道に迷っているということではないのだか
ら。

Happiness is good health and a bad memory. 
Ingrid Bergman

幸福というのは、健康と、すばらしい思い出。

The fact is always obvious much too late, but the most singular difference between 
happiness and joy is that happiness is a solid and joy a liquid. 
J.D. Salinger

幸福と喜びのちがいは、幸福は固定的なものだが、喜びは、流動的なもの。

Three grand essentials to happiness in this life are something to do, something to love and 
something to hope for. 
Joseph Addison

人生における、幸福の3つ重要な要素。
それは、すべき何かがあること、
愛すべき何かがあること、
希望とすべき何かがあること。

One of the first conditions of happiness is that the link between Man and Nature shall not 
be broken. 
Leo Tolstoy

幸福であるひとつの条件は、人間と自然のつながりを、壊させてはならないということ。

I've learned from experience that the greater part of our happiness or misery depends on 
our dispositions and not on our circumstances. 
Martha Washington

私は学んだ。
幸福の大部分、あるいは不幸の大部分は、その人の性質によるものであって、環境によるも
のではないということ。

Everything exists in limited quantity ー especially happiness. 
Picasso

すべてのものには、限界量がある。
とくに幸福は、そうだ。


It's a funny thing about life; if you refuse to accept anything but the best , you very often 
get it. 
Somerset Maugham

人生について、もしあなたが最高のものだけのみを受け入れるようにしていれば、あなたはし
ばしばそれを手に入れるというのは、おかしなことだ。

Wisdom is the supreme part of happiness. 
Sophocles

智慧は、最高の幸福である。

The supreme happiness in life is the conviction that we are loved ー loved for ourselves, or 
rather, loved in spite of ourselves. 
Victor Hugo

人生における最高の幸福は、あなたが愛され、という確信である。
私たち自身のために愛されるというよりは、私たち自身に関係なく愛されるということ。

●幸福になるために・・・

 世界の賢者の言葉を並べて読んでいると、その向こうに、「幸福とは何か」、それが
見えてくる。
要するに、幸福というのは、私たち自身のすぐそばにあって、私たちに見つけてもらう
のを、静かに待っている。
それを知った人が幸福ということになる。
またそれがこのエッセーの結論ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 幸福 幸福論)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●慣習からの脱却(Beyond the Morals)

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地方の田舎へ行くと、(浜松市内にもあるが)、
慣習の多さに驚かされる。
日々の生活が、慣習によって成り立っているとさえ
言える。

こうした慣習は便利なものだが、(というのも、
そのおかげで、「手続き」として、何も考えなくて
行動できるので)、他方で、人間の自由なる創造性を
阻害する要因ともなる。

そこでコールバーグは、「慣習からの脱却」を、
道徳的完成度の、ひとつの尺度として取り入れた。

(1)前慣習的段階
(2)慣習的段階
(3)脱慣習的段階、と。

(1)前慣習的段階というのは、何も考えず、慣習に
従って行動することをいう。
(2)慣習的段階というのは、臨機応変に、慣習を
自分なりに取捨選択しながら利用することをいう。
(3)脱慣習的段階というのは、慣習にとらわれず、
自分で考えて行動することをいう。

田丸謙二先生が口癖のように言っている、「Independent
Thinker」(独立した思索人)」というのは、そういう人を
いう。

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●冠婚葬祭

 慣習が、直接的、かつ顕著に私たちの生活を支配するのが、冠婚葬祭である。
冠婚葬祭、とくに「葬祭」ほど、慣習のかたまりのようなものはない。
「死んだあとのことは、人に任せばいい」という安易な死生観が、こうした慣習を
そのままのさばらせている(?)。
が、どうして自分なりの葬祭を自分で考えてはいけないのか。
自分で行ってはいけないのか。

 言うなれば慣習というのは、ベルトコンベヤーのようなもの。
その上に乗っていけば、何ごとも、無事、かつ簡単にすむ。
それほど注意を払う必要のないものについては、そのほうが楽。
近所づきあいにせよ、はたまた村や町の祭りについても、そうだ。
が、問題は、そのあと。

 「どうでもいいことは、慣習に従えばいい」と考え、あいた時間を、大切なことに
使うなら、まだよい。
が、中には、慣習漬けになり、自ら思考することを放棄してしまう人もいる。
あるいは思考力そのものを失ってしまう。
それこそ慣習がなければ、何一つ、行動できなくなってしまう。

●喪服

 A氏(60歳)夫婦は、先日、父親の納骨のため、新潟県のN町まで行ってきた。
新幹線とローカル線を乗り継いで行ってきた。
そのこともあって、A氏は、喪服ではなく、黒いブレザーと、黒いズボンを、着用
して行った。
A氏の妻も、似たような服装で行った。

 また駅から寺までは、タクシーで行った。
そのタクシーは、寺での法要がすむまで、寺の外に待たせた。

 寺に同席した参列者は、実の姉夫婦だけ。
読経は20〜30分程度ですみ、A氏はタクシーでそのまま墓へ。
が、これが姉夫婦の逆鱗に触れた?

 以後、ことあるごとに、A氏の姉は、近所や親戚の人たちに、こう言いふらした。
「A男夫婦は、喪服を着てこなかった」
「A男は読経中、トイレに立った」
「A男は、タクシーで墓へ行った」と。

 ほかにもささいなミス(?)をとらえて、A男を責めた。
こういうケースのばあい、A氏の姉は強い。
「慣習」という、強力な「後ろ盾」がある。

 が、どうして法事は、喪服でなければならないのか?
いつ、だれが、そういう慣習を決めたのか?
さらに言えば、タクシーで墓へ行っては、どうしていけないのか?
A氏の姉は、「(遺骨をかかえて)、歩いて行くべきだった」と。

●慣習

 先にも書いたように、慣習は、あれば便利なもの。
どうでもよいことについては、慣習に従えばよい。
さらに言えば、法の世界には、法としての慣習もある。
たとえば「入会権(いりあいけん)」というのがある。
たとえ他人の山林であっても、その山へ入って、薪(たきぎ)類を取ってくるのは、
慣習として認められている。

 さらに進んで、「自動車は左側通行」というのもある。
これは他人の安全を考えての慣習が、法制度化されたものである。
「信号を無視して走ってもいい」ということになったら、それこそ交通がマヒしてしまう。

 が、それでも私たちは、常に慣習を疑い、慣習と闘う。
それが人間生活に不都合なものであれば、臨機応変に考えて対処する。
あるいはそれと闘う。

 よい例が、封建時代の遺物である。
この日本には、江戸時代という封建時代の遺物が、いたるところに残っている。
「家」制度、家督制度、家父長意識、身分制度、職業意識、男女観などなど。
コールバーグの説いた、前慣習的段階の人には、それがわからないかもしれない。
しかし一歩進んで、慣習的段階の人、さらには脱慣習的段階の人には、それがわかる。
それを「道徳の完成度」と結びつけてよいかどうかについては、異論もあろう。
しかしコールバーグは、それを道徳の完成度と結びつけている。

(「道徳」と「Morals」は、かならず一致するものではない。
英語で「Morals」というと、「行動の基準」をいう。
日本語で「道徳」というと、そこにどうしても儒教的なニュアンスを感じてしまう。)

 ともあれ、私たちは常に考え、常に行動する。
自ら考え、自ら行動する。
最後にあのマーク・ツウェィンも、こう書き残している。

『人と同じことをしていると感じたら、自分が変わるとき』と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 道徳 コールバーグ 道徳論 前慣習的段階 慣習的段階論 脱慣習的段階 
はやし浩司 マークツエイン マーク・ツウェイン マークツウエイン)

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2002年10月に書いた原稿を添付します。

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●朝に道を聞かば……

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論語といえば、『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』。

それについて以前書いた原稿を添付します。

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『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』

●密度の濃い人生

 時間はみな、平等に与えられる。しかしその時間をどう、使うかは、個人の問題。使い方によ
っては、濃い人生にも、薄い人生にもなる。

 濃い人生とは、前向きに、いつも新しい分野に挑戦し、ほどよい緊張感のある人生をいう。薄
い人生というのは、毎日無難に、同じことを繰り返しながら、ただその日を生きているだけとい
う人生をいう。人生が濃ければ濃いほど、記憶に残り、そしてその人に充実感を与える。

 そういう意味で、懸命に、無我夢中で生きている人は、それだけで美しい。しかし生きる目的
も希望もなく、自分のささいな過去にぶらさがり、なくすことだけを恐れて悶々と生きている人
は、それだけで見苦しい。こんな人がいる。

 先日、三〇年ぶりに会ったのだが、しばらく話してみると、私は「?」と思ってしまった。同じよ
うに三〇年間を生きてきたはずなのに、私の心を打つものが何もない。話を聞くと、仕事から
帰ってくると、毎日見るのは、テレビの野球中継だけ。休みはたいてい魚釣りかランニング。
「雨の日は?」と聞くと、「パチンコ屋で一日過ごす」と。「静かに考えることはあるの?」と聞く
と、「何、それ?」と。そういう人生からは、何も生まれない。

 一方、八〇歳を過ぎても、乳幼児の医療費の無料化運動をすすめている女性がいる。「あな
たをそこまで動かしているものは何ですか」と聞くと、その女性は恥ずかしそうに笑いながら、こ
う言った。「ずっと、保育士をしていましたから。乳幼児を守るのは、私の役目です」と。そういう
女性は美しい。輝いている。

 前向きに挑戦するということは、いつも新しい分野を開拓するということ。同じことを同じよう
に繰り返し、心のどこかでマンネリを感じたら、そのときは自分を変えるとき。あのマーク・トー
ウェン(「トム・ソーヤ」の著者、1835〜1910)も、こう書いている。「人と同じことをしていると
感じたら、自分が変わるとき」と。

 ここまでの話なら、ひょっとしたら、今では常識のようなもの。そこでここではもう一歩、話を進
める。

●どうすればよいのか

 ここで「前向きに挑戦していく」と書いた。問題は、何に向かって挑戦していくか、だ。私は「無
我夢中で」と書いたが、大切なのは、その中味。私もある時期、無我夢中で、お金儲けに没頭
したときがある。しかしそういう時代というのは、今、思い返しても、何も残っていない。私はたし
かに新しい分野に挑戦しながら、朝から夜まで、仕事をした。しかし何も残っていない。

 それとは対照的に、私は学生時代、奨学金を得て、オーストラリアへ渡った。あの人口300
万人のメルボルン市ですら、日本人の留学生は私1人だけという時代だった。そんなある日、
だれにだったかは忘れたが、私はこんな手紙を書いたことがある。「ここでの一日は、金沢で
学生だったときの一年のように長く感ずる」と。決してオーバーなことを書いたのではない。私
は本当にそう感じたから、そう書いた。そういう時期というのは、今、振り返っても、私にとって
は、たいへん密度の濃い時代だったということになる。

 となると、密度の濃さを決めるのは、何かということになる。これについては、私はまだ結論
出せないが、あくまでもひとつの仮説として、こんなことを考えてみた。

(1)懸命に、目標に向かって生きる。無我夢中で没頭する。これは必要条件。
(2)いかに自分らしく生きるかということ。自分をしっかりとつかみながら生きる。
(3)「考える」こと。自分を離れたところに、価値を見出しても意味がない。自分の中に、広い世
界を求め、自分の中の未開拓の分野に挑戦していく。

 とくに(3)の部分が重要。派手な活動や、パフォーマンスをするからといって、密度が濃いと
いうことにはならない。密度の濃い、薄いはあくまでも「心の中」という内面世界の問題。他人が
認めるとか、認めないとかいうことは、関係ない。認められないからといって、落胆することもな
いし、認められたからといって、ヌカ喜びをしてはいけない。あくまでも「私は私」。そういう生き
方を前向きに貫くことこそ、自分の人生を濃くすることになる。

 ここに書いたように、これはまだ仮説。この問題はテーマとして心の中に残し、これから先、
ゆっくりと考え、自分なりの結論を出してみたい。
(02−10−5)

(追記)

 もしあなたが今の人生の密度を、2倍にすれば、あなたはほかの人より、2倍の人生を生き
ることができる。10倍にすれば、10倍の人生を生きることができる。仮にあと一年の人生と宣
告されても、その密度を100倍にすれば、ほかのひとの100年分を生きることができる。極端
な例だが、論語の中にも、こんな言葉がある。『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可な
り』と。朝に、人生の真髄を把握したならば、その日の夕方に死んでも、悔いはないということ。
私がここに書いた、「人生の密度」という言葉には、そういう意味も含まれる。

++++++++++++++++++++

ついでに、儒教のことも書きましたので、
2008年10月に書いた原稿を
添付します。

++++++++++++++++++++

●孔子の60代(Confucius on 60's)

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60代といえば、孔子の生き様が参考に
なる。

孔子(前551〜前479)は、魯に仕え、
大司寇となったが、権力者と衝突し、56歳
から10年間、魯を去って諸国を歴遊したという
(ブリタニカ国際大百科事典)。

その10年間で、孔子は諸侯に道徳的政治の
実行を説いたが用いられず、晩年は魯で弟子の
教育と著述に専念したという(同)。

『春秋』や他の儒家の経典はそのとき生まれたが、
『論語』は、孔子と弟子の言行録と言われている(同)。

+++++++++++++++++++++

計算すると、孔子は、満73歳前後でこの世を
去ったことになる。
それまでの基礎があったのは当然としても、
今、私たちがいうところの「孔子」は、
ブリタニカ国際大百科事典を参考にすれば、
満66歳前後から73歳前後までに「孔子」に
なったことになる。

ただ釈迦にせよ、キリストにせよ、孔子にせよ、
弟子に恵まれたということ。
弟子たちが、「師」の教えを、後世に残し、伝えた。
もし弟子に恵まれなかったら、釈迦も、キリストも、
孔子も、今に名を残すことはなかった。

それはそれとして、孔子が60歳を過ぎてから
(がんばった)というのは、たいへん興味深い。
言いかえると、「50歳だから……」とか、
「60歳だから……」とか言って、あきらめてはいけない。
……ということを、孔子は私たちに教えている。

が、同じ60歳でも、私と孔子は、どうしてこうまでちがうのか。
ひとつの理由として、中国の春秋時代は、今よりはるかに純粋な時代では
なかったということ。
つまりその分だけ、雑音も少なく、回り道もしなくてすんだ。
それにもうひとつ率直に言えば、当時は、情報量そのものが少なかった。
春秋時代に、人が一生かけて得る情報量は、現代の新聞1日分もなかったのでは
ないか。
言いかえると、私たちは、情報の洪水の中で、何が大切で、何がそうでないか、
それすらも区別できなくなってしまっている。
あるいは大切でないものを大切と思いこみ、大切なものを、大切でないと
思いこむ。

もちろんだからといって、孔子の時代が今よりよかったとは思わない。
釈迦やキリストの時代にしても、そうだ。
しかしここにも書いたように、今よりは、純粋であったことだけは、事実。
たとえて言うなら、子どものような純朴さが、そのまま生きるような時代だった。
このことは、私たちの子ども時代と比べてみても、わかる。

私たちが子どものころには、テレビゲームなど、なかった。
携帯電話もなかった。
しかしだからといって、私たちの子ども時代が、今の子どもたちの時代より
貧弱だったかといえば、だれもそうは思わない。
だから、こと(思想)ということになれば、孔子にはかなわないということになる。

このことは、私たちにもうひとつの教訓を与える。

老後になればなるほど、純朴に生きる。
というのも、私たちは、あまりにも情報、とくに金権教的な情報に毒されすぎている。
人間の命さえも、マネーという尺度で判断してしまう。
そういうものからだけでも解放すれば、ものの見方も、かなり変わってくるはず。

ともあれ、あの時代に、60歳を過ぎてから、「諸侯に道徳的政治の
実行を説いた」というところは、すごい!

さらに「晩年は魯で弟子の教育と著述に専念したという」ところは、
もっとすごい!
だからこそ「孔子は孔子」ということになるのだが、それにしても、すごい!
私たちが頭に描くジジ臭さが、どこにもない。
そういう点で孔子の生き様は、本当に参考になる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
孔子 春秋時代 Confucius 論語 はやし浩司 論語)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

【特集】学習指導困難児


【自己管理能力】


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湖西市の、恩師、NG先生から、講演の依頼が
届いた。


『……小生達子ども教室スタッフが直面しているのは
集団活動が苦手であったり、与えられた活動に取り組めず他の児童に迷惑をかけたりする場
合、どう対応したらいいかということです。ことに障害の存在を感じるような子どもの場合、自分
の子育て以外の教育にはかかわって来なかったスタッフには大きな課題となっています。


実際、高所に登ってしまうような危険な行動をとる子や多動で追いかけるのに苦労するような
子、思うようにならない(その活動が自分ではできない)といじけてしまい、どう声掛けをしても
気分が戻らない子、乱暴になって他児に迷惑をかける子などが見られます。
このような子どもにはスタッフが付き添って他児の活動への影響を最小限に食い止めるよう努
力していますが、そうした場合の声の掛け方や高揚した気持ちの鎮め方にも苦慮しています。
 

少し状況に変化がありまして、我々スタッフのほかに、よい機会だから先生のお話を是非伺い
たいという市内小学校の家庭教育学級の学級生(各学校数人ずつ)も参加させていただくこと
になりました。この学級生にとっての関心事はわが子の子育てでしょうから、子ども教室スタッ
フの思いとは少し異なります。
 

このようにわがままな事を申し上げて恐縮なのですが、御講演の演題を先生のお考えで決め
てお知らせいただきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
 

御講演をご承諾いただいたことを市教委に伝えました。講演料なしでお越しいただけるというこ
とも伝えたところ、それではあまりにも申し訳ないと検討を始め、わずかですが旅費程度をお
支払いできるようになったということです。いずれ、御講演の依頼や口座振替にかかる書類な
どが届くと思います。よろしく御取り計らいください。
 

会場は湖西市民会館です。お分かりになるでしょうか。お迎えが必要なようならおっしゃってく
ださい。


御講演後、時間が許すのであれば昼食をごいっしょしたいと思います。どうしてももう少し先生
とお話したいという人もいますので、ご迷惑でなければ同席させていただければ幸いです。
 

では演題の件、お手間をとらせてしまいますがよろしくお願いします』。


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●学習指導困難児


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学習指導が困難な子どもというのは、いる。
AD・HD児、自閉症児、粗放児(この言葉は、
筆者がつけたもの。家庭崩壊などにより、精神的に
凶暴性をもった子どもをいう)など。


さらにLD児、かん黙児などなど。


恩師のNG先生は、こうした子どもの指導員を
指導している。
「で、どう考え、どう対処したらいいか?」と。


それが今回の講演のテーマということになる。


ポイントは、3つある。


(1)子どもの自己管理能力(メタ認知能力)の育成
(2)「現在の症状を、こじらせない」
(3)薬物療法は、慎重に。


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【自己管理能力】


●人格の完成


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人格の完成度は、どこをどう見て、
判断すべきなのか。


そのヒントとなるのが、「人格論」
である。


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 人格の完成度は、(1)共鳴性、(2)自己管理能力、(3)社会性の三つをみる(EQ論)。
これは常識だが、これら3つには、同時進行性がある。


 共鳴性、つまりいかに利己から脱して、利他になるか。自己管理能力、つまりいかに欲
望と戦い、それをコントロールするか。さらに社会性、つまり、いかに他者と、良好な人
間関係を築くか。


 これら3つが、できる人は、自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。


 自己中心的な人は、それだけ自己管理能力が弱く、他者と、良好な人間関係を、築くこ
とができない。あるいは自己管理能力の弱い人は、長い時間をかけて、ものの考え方が自
己中心的になり、そのため、他人から、孤立しやすい。さらに社会性が欠落してくると、
自分勝手でわがままになる、など。


 これら3つは、相互に、からんでいる。そして全体として、その人の人格の完成度を、
決定する。


 が、やはり、キーワードは、「自己中心性」である。


 その人の人格の完成度を知りたかったら、その人の自己中心性をみればわかる。もしそ
の人が、自分のことしかしない。自分だけよければ、それでよいと考えているなら、その
人の人格の完成度は、きわめて低いとみてよい。


 これには、老若男女は関係ない。地位や名誉、職業には、関係ない。まったく、関係な
い。


 つぎに自己管理能力。わかりやすく言えば、ここにも書いたように、それには、欲望の
管理が含まれる。性欲、食欲、所有欲など。


 こうした欲望に溺れても、よいことは何もない。もちろん心の病気が原因で、溺れる人
もいる。セックス依存症の人にしても、節食障害の人にしても、それぞれ、やむにやまれ
ぬ精神的事情が、その背景にあって、そうなる。


 だから肥満の人が、即、自己管理能力のない人ということにはならない。(一般社会では、
そう見る向きもあるが……。)


 3つ目に、社会性。
 

 人間は、他者とのかかわりをもってはじめて、その人らしさを、つくる。その(その人
らしさ)が、良好であること。それが人格の完成度の、3つ目の要件ということになる。


 いくら高邁でも、他者とのかかわりを否定して生きているようでは、そもそも、人格の
完成度は、問題にならない。

 たとえば小さな部屋にひきこもり、毎日絵ばかり描いている画家がいたとする。すばら
しい才能をもち、すばらしい絵を描いている。が、個展を開いて、それを発表することも
ない。同業の人との、交流もない。


で、そういう人を、人格の完成度の高い人かというと、そうではない。EQ論では、そ
ういう人を、評価しない。(もちろんその人の芸術性の評価は、別問題である。)


 言いかえると、私たちは日々の生活の中で、これら3つを、いかにして鍛錬していくか
ということが、重要だということ。


 いかにすれば、自分の中の自己中心性と戦い、欲望をコントロールし、そして他者と、
良好な人間関係を築いていくか。つまりは、そこに、私たちが、日々に務めるべき、努力
目標がある。


 がんばりましょう! がんばるしかない!


【メタ認知能力】


●メタ認知能力(Metacognitive Ability)とは、何か


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メタ認知能力とは何か。
川島真一郎氏(高知工科大学大学院)の修士学位論文より、
一部を抜粋引用させてもらう。
(出典:メタ認知能力の向上を指向した
高校数学における問題解決方略の体系化
Systematization of Problem Solving Strategy in High
School Mathematics for Improving Metacognitive
Ability(平成19年))


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●メタ認知


メタ認知(metacognition)とは、認知活動についての認知のことである。メタ認知概念
は、ブラウン(A。 Brown)やフラベル(J。 H。 Flavell)によって1970 年代に提唱された。


メタ認知は、まずメタ認知的知識(meta-cognitive knowledge)とメタ認知的活動
(metacognitiveactivity)に分かれ、それぞれがさらに細かく分かれる。メタ認知的知識とは、メ
タ認知の中の知識成分を指す。メタ認知的知識は、人間の認知特性についての知識、課題に
ついての知識、課題解決の方略についての知識の3 つに分けて考えることができる。メタ認知
的活動とは、メタ認知の中の活動成分を指す。メタ認知的活動は、メタ認知的モニタリング、メ
タ認知的コントロールの2 つに分かれる。メタ認知的モニタリングとは、認知状態をモニタする
ことである、認知についての気づき(awareness)、認知についての感覚(feeling)、認知につい
ての予想(prediction)、認知の点検(checking)などが含まれる。メタ認知的コントロールとは、
認知状態をコントロールすることである。認知の目標設定(goal setting)、認知の計画
(planning)、認知の修正(revision)などが含まれる。


困難な場面に遭遇したとき、タ認知はその事態を打開すべく、関係のありそうな経験や
知識を想起する。似たような困難を克服した経験があれば、それは大きな手掛かりとなる。
過去の経験がそのままでは使えないときでも、見方を変えたりすることで使えることもあ
る、直面している問題が極めて困難なときは、条件の一部を解き易い形にした問題をまず解
いてみることが手掛かりになることがある。また、問題の解決に使えそうな法則なども思い出
し、解決に向けた道筋を描く。解決に向けた一番確かそうな方針が決まれば、実行してみる。
間違いを犯しそうな場面では注意深く実行し、時々方針が間違っていないか検討を加える。こ
のようにして、メタ認知はルーティンワークでない困難な問題を解決するときに、力を発揮する
と考えられる。


そして、メタ認知能力は使うことで訓練をしなければ、その能力は向上しないと考えられ
る。訓練するための問題は、メタ認知が働かなくても解決できるような平易過ぎる問題は役に
立たない。適度な難易度の問題を解決することが必要である。従って、パターン暗記に終始す
るような学習では、メタ認知能力は向上しないと考えられる。その意味で、生徒が試行錯誤し
ながら自力で問題の解決を図る問題解決学習は、その狙いが実現できれば、メタ認知能力の
育成に大いに効果を発揮すると考えられる。
(以上、川島真一郎氏の論文より)


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●メタ認知能力(Metacognitive Ability)


 私は「メタ認知能力」なるものについては、すでに10年ほど前から、原稿を書いて
きた。
が、ここ数年、この言葉をあちこちで聞くようになった。
しかし本当のところ、メタ認知能力とは何か、私もよくわかっていない。


 そこでまず私がとった手段は、メタ認知能力、つまりMetacognitive Abilityについて、
できるだけ原文に近い文献をさがすことだった。
最初は、直接アメリカの文献(英文)から調べようとしたが、先に、ひとつの文献を
さがしだすことに成功した。


ここに紹介した川島真一郎氏の修士学位論文が、それである。
わかりやすく書いてあるので、そのまま引用させてもらった。
 つまり私は、(メタ認知能力)とは何か知るために、つまりその壁を打開するため、
今までの経験を総動員して、(おおげさかな?)、あちこちを調べた。
その結果が、先にあげた論文の一部ということになる。


●メタ認知能力


 が、これだけをさっと読んだだけでは、意味がよくわからない。
内容を、もう少し整理してみる。


メタ認知


(1) メタ認知的知識(meta-cognitive knowledge)
メタ認知の中の知識成分を指す。
(1) 人間の認知特性についての知識、
(2) 課題についての知識、
(3) 課題解決の方略についての知識の、33つに分けて考えることができる。

(2) メタ認知的活動(metacognitive activity)
メタ認知的活動とは、メタ認知の中の活動成分を指す。メタ認知的活動は、
(1) メタ認知的モニタリング、
(2) メタ認知的コントロールの2つに分かれる。
 これでだいぶ頭の中がすっきりしてきた。
 さらに、
(1) メタ認知的モニタリングとは、認知状態をモニタすることである。
認知についての気づき(awareness)、認知についての感覚(feeling)、認知についての予想
(prediction)、認知の点検(checking)などが含まれる。
(2) メタ認知的コントロールとは、認知状態をコントロールすることである。
認知の目標設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の修正(revision)などが含まれ
る、と。


●実益


 先にメタ認知能力の実益について、引用させてもらう。
川島真一郎氏は、こう書いている。


『メタ認知はルーティンワークでない困難な問題を解決するときに、力を発揮すると考えられ
る。そして、メタ認知能力は使うことで訓練をしなければ、その能力は向上しないと考えられる』
と。


 日常的な行動を同じように繰り返すようなときには、メタ認知能力は、力を発揮しない。
つまり難解で、より高度な知識と経験を必要とするような問題に直面したとき、メタ認知
能力は力を発揮する、と。


 そしてそのメタ認知能力は、訓練しなければ、向上しない、ともある。


●因数分解


 川島真一郎氏は、因数分解を例にあげて、メタ認知能力がどういうものであるかを
説明している。
そのまま印象させてもらう。


++++++++++以下、川島真一郎氏の論文より+++++++++++++


7。 <題>求めるもの(答え)と、与えられた条件の関係を発見せよ。[関係は直接的に見
えるときもあれば、仲介物を通して初めて見えて来るときもある。例えば、中間的な目標を設
定せよ。(例)(a + b + c)(bc + ca + ab) ? abc を因数分解せよ。]
8。 <眼><針>関係の有りそうな公式は何か。
9。 <経><予>似た問題を思い出せ。
10。 <経><眼><針>似た問題の方法や結論を利用できないか。[(例)x、 y の対称式
はx + y とxy で表せる。]
11。 <眼><針>求めるもの(答え)の形を考え、それを具体的に(例えば式に)できな
いか。[また、その形のどの部分を求めればよいか。それを求めるのに、条件をどのように
使えるか。]
12。 <眼><針>与えられた条件や式を、解答で使い易いように変形できないか。[場合
によっては、結論の式から解答を進めて、後で比較するのが有効なときも有る。]
13。 <助><検>(方針の選択や解答の進め方について)解法の大筋を捉える。[大まか
な見通しを持つことが、解答への着手を促し、右往左往したり、袋小路に入ったりするのを防
ぐ。(例)増減表を書けば解けそう。判別式を利用できそう。等々]
14。 <経><眼><針>前に使った方法が直接使えないとき、補助的な工夫を加えること
で使えるようにならないか。[(例)角度の問題で、補助線を引く事で三角形の問題と捉
える。]
15。 <眼><針>求める結果が得られたと仮定して、逆向きに解けないか。[求める結果
を明確にイメージすることで、必要となる道筋が見えてくることが有る。]
16。 <眼><針>定義に帰ることで、手掛かりが得られることが有る。[2 次関数関連の
問題と判別式の関係。微分係数の定義。等々]
17。 <困><眼><針>問題を言い換えることで、容易になったり、既習の解法が使えた
りしないか。(そのとき、与えられた条件はどう変わるか。)[問題を違った視点から見る。
(例)sin θ+ cos θ の最大値を求めるのに、単位円周上の点P(x、 y) を利用する。]
18。 <困><眼><針>問題を一般化することで、容易になることがある。[(例)具体的
な数値の問題を、一般的な文字に置き換えることで見通しが良くなることが有る。]
19。 <困><眼><針>問題を特殊化することで、解決の糸口がつかめるときがある。
[(例)直方体の対角線の長さを求める問題で、高さが0 の場合を解いてみる。]
20。 <困><分><眼><針>条件の一部からどんなことが分かるか。[条件を幾つかの
部分に分けられないか。全体の解答とどう関係するか。]
21。 <困><眼><針>解き易い類題を考えることが、元の問題の手掛かりになることが
ある。[問題の一部は解けるか。どういう条件が付加されていれば解き易いか。等々]
22。 <補><検><助>条件の使い忘れはないか。
(CP)
23。 <題><検>方針に従い解答を進め、適当な段階で検討を加え、必要に応じて方針を
見直す。
24。 <補>自信の持てるる解き方から試みよ。[大抵の問題は、何通りか解き方がある。
(例)基本的な公式だけを使う。図形を利用する。微分を利用する。等々]
(LB)
25。 <題>結果の検討。[少しの検討が、長い目で見ると大きな効果をもたらす。]
26。 <検><眼>別の解法はないか。得られた答えが別の簡単な解法や、答えの意味を示
しているときが有る。
4。4 体系化された問題解決方略の適用
27。 <検><眼>使った方法や結果を総括する。他の問題に応用できないか。


++++++++++以下、川島真一郎氏の論文より+++++++++++++


●因数分解(例)


 高校生たちに因数分解を教えるとき、私自身は、半ばルーティンワーク的に解いて
みせている。
(因数分解そのものは、解法公式はほぼ確立していて、簡単な問題に属する。)
しかしこのように内容を秩序だてて分析されると、「なるほど、そうだったのか」と、
改めて、驚かされる。


私はそれほど意識せず、メタ認知能力を、応用かつ利用していたことになる。
率直に言えば、「メタ認知能力というのは、こういうものだったのか」と納得する
と同時に、「奥が深いぞ」と驚く部分が、頭の中で交錯する。
 ちなみに、先の(a + b + c)(bc + ca + ab) - abcを、別の紙で、因数分解してみた。
因数分解の問題としては、見慣れない問題である。


(1)見ただけでは、瞬間、頭の中で公式が浮かんでこない。
(2)直感的に、「いつものやり方ではできない」ということがわかる。
 が、こういうときの鉄則は、(3)「ひとつの文字に着目しろ」である。
この問題では、(a)なら(a)に着目し、(a)について式をまとめる。


 しかしこの場合、一度、式をバラバラにしなければならない。
結構、めんどうな作業である。


が、ここで「こんなめんどうな問題を出題者が出すはずがないぞ」というブレーキが働く。
「時間さえかければ、だれでもできる」というような問題は、数学本来の問題ではない。
ただの作業問題ということになる。


 そこで私は、(4)もっと簡単な方法はないかをさがす。
(bc + ca + ab)という部分に着目する。
(a)でくくれば、(b+c)という因数を導くことができる。
(b+c)を、(B)と一度置き換えてから、因数分解できないかを考える。
しかしもう一つの項、(abc)が残る。


つぎの瞬間、「この方法ではだめだ」と直感する……。
 ……というように、認知の目標設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の
修正(revision)を繰り返す。


●高度な知的活動


 小学1年生が訓練するような、足し算の練習のような問題は、ただの訓練。
メタ認知能力など、必要としない。
 そこで昨日(8月21日)、メタ認知能力を確かめるため、私は小学2、3年生クラス
で、ツルカメ算の問題を出してみた。
あらかじめ、「ツルが2羽、カメが4匹で、足は合計で何本?」というような練習
問題を5〜6問、練習させる。


そのとき「できるだけ掛け算を使って、答を出すように」と指示する。
 それが一通りすんだところで、「ツルとカメが、合わせて、10匹います。
足の数は、全部で、28本です。
ツルとカメは、それぞれ何匹ずついますか?」という問題を出す。
 で、このとき子どもたちを観察してみると、いろいろな反応を示すのがわかる。
(私の教室の子供たちは、幼児期から訓練を受けている子どもたちだから、こうした
問題を出すと、みな「やってやる!」「やりたい!」と言って、食いついてくる。)


 絵を描き始める子ども。
足を描き始める子ども。
意味のわからない記号を書き始める子ども。
2+2+2……と、式を書き始める子どもなどなど。
 こうした指導で大切なことは、(解き方)を教えることではない。
(子ども自身に考えさせること)である。
だから私は、待つ。
ただひたすら、静かに待つ。


 が、やがて1人、表を書き始める子どもが出てきた。
私はすかさず、「ほう、表で解くのか。それはすばらしい」と声をかける。
するとみな、いっせいに、表を描き始める。
表の形などは、みな、ちがう。
しかしそれは構わない……。


 (こうした様子は、YOUTUBEのほうに動画として、収録済み。)


●メタ認知能力の応用


 こうして書いたことからもわかるように、メタ認知能力というのは、もともとは、
数学の問題を解法技法のひとつとして、発見された能力ということになる。
しかしその奥は、先にも書いたように、「深い」。
日常的な思考の、あらゆる分野にそのまま応用できる。
ひとつの例で考えてみよう。


●パソコンショップの店員


 こういう書き方ができるようになったのは、私もその年齢に達したから、ということ
になる。
パソコンショップの店員には、たいへん失礼な言い方になるかもしれないが、そういう
店員を見ていると、ときどき、こう考える。
「だから、どうなの?」
「この人たちは、自分の老後をどう考えているんだろ?」
「もったいないな」と。


 つまりパソコンショップの店員の目的は、パソコンを客に売ること。
しかしそんな仕事を、仮に10年つづけていても、身につくものは何もない。
店が大きくなり、支店がふえれば、支店長ぐらいにはなれるが、そこまで。
だから「だから、どうなの?」となる。


 つぎにパソコンショップの店員たちは、よく勉強している。
その道のプロである。
しかしプロといっても、一般ユーザーの目から見てのプロに過ぎない。
パソコンを自由に操ることはできるが、その先、たとえばプログラミングの仕事とか、
さらには、スーパーコンピュータの操作となると、それはできない。


 そこで私はこう考える。
「こうした知識と経験を使って、別の仕事をしたら、すばらしいのに」と。
たとえばデザインのような、クリエイティブな仕事でもよい。
それが「もったにないな」という気持ちに変わる。


 そこでメタ認知能力の登場!
(1) 自分の置かれた職場環境の把握
(2) その職業を長くつづけたときの、メリット、デメリットの計算
(3) 老後が近づいたときの、将来設計
(4) 収入の具体的な使い道などなど。

 
 そうしたことを順に考え、自分の生活の場で、位置づけていく。
中には、「お金を稼いで、高級車を買う」という人もいるかもしれない。
しかしそれについても、メタ認知能力が関係してくる。
「だから、それがどうしたの?」と。
 高級車を乗り回したからといって、一時的な享楽的幸福感を味わうことは
できる。
が、できても、そこまで。
4〜5年もすれば、車は中古化して、当初の喜びも、半減する。


 ……つまりこうしてパソコンショップの店員は、メタ認知能力が少しでもあれば、
「もったいないな」を自覚するようになる。
また自覚すれば、生きざまも変わってくる。
同じ店員をしながらも、ただの店員で終わるか、あるいはつぎのステップに進むか、
そのちがいとなって、現れてくる。


 が、このことは、家庭に主婦(母親)として入った女性についても、言える。


●生きざまの問題に直結


 日常的な作業(=ルーティンワーク)だけをし、またそれだけで終わっていたら、
その女性の知的能力は、(高度)とは、ほど遠いものになってしまう。
電車やバスの中で、たわいもない愚痴話に花を咲かせているオバチャンや、オジチャン
たちを見れば、それがわかる。


 そこで重要なことは、あくまでもメタ認知能力の訓練のためということになるが、
つねに問題意識をもち、(問題)そのものを、身の回りから見つけていくということ。
問題あっての、メタ認知能力である。


 社会問題、政治問題、経済問題、さらには教育問題などなど。
あえてその中に、首をつっこんでいく。
ワーワーと声をあげて、自分で騒いでみる。
私はそのとき、そのつど文章を書くことを提唱するが、これはあまりにも手前みそ過ぎる。
が、(書く)ということは、そのまま(考える)ことに直結する。
ほかによい方法を私は知らないので、やはり書くことを提唱する。


 で、こうして書くことによって、たとえば今、「メタ認知能力」についての理解を
深め、問題点を知ることができる。
同時に、応用分野についても、知ることができる。
こうして自分がもつ知的能力を高めることができる。
そしてそれがその人の生きざまへと直結していく……。


 簡単に言えば、「自分の意識を意識化すること」。
それがメタ認知能力ということになる。

オックスフォード英英辞典によれば、「Meta」は、「higher(より高度の)」「beyond
(超えた)」という意味である。
「より高度の認知能力」とも解釈できるし、「認知能力を超えた認知能力」とも解釈
できる。


 私はこのメタ認知能力の先に、(ヒト)と(動物)を分ける、重大なヒントが隠されて
いるように感ずるが、それは私の思いすごしだろうか?
つまりメタ認知能力をもつことによって、ヒトは、自らをより高いステージへと、自分を
もちあげることができる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 メタ メタ認知能力 metacognitive ability 高度な知的活動)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司


【メタ認知能力】(追記)(Metacognitive Ability)


+++++++++++++++


この数日間、「メタ認知能力」という
言葉に、たいへん興味をもっている。
以前にも何度か、それについて書いた
ことがある。
が、そのときは、それほど
重要視していなかった。
しかしその後、知れば知るほど、
なるほどと思う場面に遭遇した。
「メタ認知能力」……まさに人間だけが
もちうる、最高度の認知能力という
ことになる。


+++++++++++++++++


●食欲とメタ認知能力


 食欲中枢は、脳の中でも視床下部というところにあることがわかっている。
そこにあるセンサーが、血糖値の変動を感知して、食欲を増進させたり、反対に
食欲を減退させたりする。


 しかしこれら2つの働き、つまり(食欲増進)を促す中枢部と、(食欲抑制)を
促す中枢部が、最近の研究によれば、別々のものというところまでわかってきている。
これら2つの中枢部がたがいに連携をとりながら、もう少し具体的には、絶妙なバランス
をとりながら、私たちの(食欲)を、コントロールしている。


●意識を意識する


 もちろん私たちは、こうした知識を、本という(文字)を通して知るしかない。
頭を開いて、その中を見て知るわけではない。
が、想像することはできる。


たとえば空腹感を覚えたようなとき、「血糖値がさがってきたぞ」とか、など。
 血糖値がさがると、胃や腸が収縮し始める。


空腹になると、おなかがグーグーと鳴るのはそのためだが、そうした変化に合わせて、
空腹感がどういうものであるかを知る。


 このとき、「ああ、腹が減ったなあ」だけでは、メタ認知能力はないということに
なる。
が、このとき、自分の脳みその中の変化を、想像してみる。
「ああ、今、食欲増進中枢部が働いているぞ」
「今度は、食欲抑制中枢部が働いているぞ」と。


 こうして自分の意識を、別の意識で客観的に評価する。
それをする能力が「メタ認知能力」ということになる。


●2つの働き


 これもひとつのメタ認知能力ということになるのか。
たとえば講演などをしているとき、自分の脳の中で、2つの働きが同時に起きている
のがわかる。
ひとつは、講演の話の内容そのものを考えること。
「この話には、異説があるので、注意しよう」とか、「この話は、もう少し噛み砕いて
話そう」とか、考える。


 もうひとつは、話しながらも、「残り時間があと20分しかないから、少し結論を
急ごう」とか、「つぎにつづく話は、途中で端折ろう」とか、時間を意識すること。
この両者が、交互というよりは、同時進行の形で働く。


 つまり講演している私を、別の意識が客観的にそれをみて、私にあれこれと命令を
くだす。


●知的能力


 教育の世界の話になると、ぐんと具体性を帯びてくる。
たとえば今、掛け算の九九練習している子ども(小2)を、頭の中で想像してみてほしい。
その子どもは懸命に、「二二が4、二三が6……」と暗記している。
そのとき子どもは、「なぜそれを学習しているのか」「なぜそれを学習しなければならな
いのか」「学習したら、それがどう、どのように役立っていくのか」ということについては、
知る由もない。


 「掛け算は覚えなければならない」という意識もない。
ないから、先生や親に言われるまま、暗記する……。


 これは子どもの世界での話だが、似たような話は、おとなの世界にも、いくらでもある。
またその程度の(差)となると、個人によってみなちがう。
言い換えると、メタ認知能力の(差)こそが、その人の知的能力の(差)ということにな
る。


●自己管理能力とメタ認知能力


 たとえば若い男性の前に、裸の女性が立ったとする。
かなり魅力的な、美しい女性である。
そのとき若い男性が、それを見てどのように反応し、つぎにどのような行動に出るかは、
容易に察しがつく。


 が、そのときその若い男性が、自分の中で起きつつある意識を、客観的にながめる
能力をもっていたとしたら、どうだろうか。


「今、視床下部にある性欲本能が、攻撃的な反応を示し始めた」
「ムラムラと湧き起きてくる反応は、食欲増進反応と同じだ」
「今、ここでその女性と関係をもてば、妻への背信行為となる」など。
いろいろに考えるだろう。


 こうしてメタ認知能力をもつことによって、結果的に、大脳の前頭連合野が分担する、
自己管理能力を、より強固なものにすることができる。


●スーパーバイザー


 「意識を意識する」。
それがメタ認知能力ということになるが、もう少し正確には、「意識を意識化する」という
ことになる。


 もちろんその日、その日を、ただぼんやりと過ごしている人には、(意識)そのものが
ない。
「おなかがすいたら、飯を食べる」
「眠くなったら、横になって寝る」
「性欲を覚えたら、女房を引き寄せる」と。


 が、そうした意識を、一歩退いた視点から、客観的に意識化する。
言うなれば、「私」の上に、スーパーバイザー(監督)としての「私」を、もう1人、置く。
置くことによって、自分をより客観的に判断する。
たとえば……。


 「今日は寒いから、ジョギングに行くのをやめよう」と思う。
そのときそれを上から見ている「私」が、「ジョギングをさぼってはだめだ」
「このところ運動不足で、体重がふえてきている」「ジョギングは必要」と判断する。
そこでジョギングをいやがっている「私」に対して、「行け」という命令をくだす。
言うなれば、会社の部長が、なまけている社員に向かって、はっぱをかけるようなもの。
部長は、社員の心理状態を知り尽くしている。


●うつを知る


 メタ認知能力は、訓練によって、伸ばすことができる。
私なりに、いくつかの訓練法を考えてみた。


(1) そのつど、心(意識)の動きをさぐる。
(2) それが脳の中のどういう反応によるものなのかを知る。
(3) つぎにその反応が、どのように他の部分の影響しているかを想像する。
(4) 心(意識)の動きを、客観的に評価する。
 この方法は、たとえば(うつ病の人)、もしくは(うつ病的な人)には、とくに
効果的と思われる。
(私自身も、その、「うつ病的な人」である。)


 というのも、私のようなタイプの人間は、ひとつのことにこだわり始めると、そのこと
ばかりをずっと考えるようになる。
それが引き金となって、悶々とした気分を引き起こす。


 そのときメタ認知能力が役に立つ。
「ああ、これは本来の私の意識ではないぞ」
「こういうときは結論を出してはいけない」
「気分転換をしよう」と。


 すると不思議なことに、それまで悶々としていた気分が、その瞬間、とてもつまらない
ものに思えてくる。
と、同時に、心をふさいでいた重い気分が、霧散する。


●メタ認知能力


 メタ認知能力を養うことは、要するに「自分で自分を知る」ことにつながる。
ほとんどの人は、「私は私」と思っている。


「私のことは、私がいちばんよく知っている」と思っている。
が、実のところ、そう思い込んでいるだけで、自分のことを知っている人は、ほとんど
いない。


(私が断言しているのではない。
あのソクラテスがそう言っている。)


 が、メタ認知能力を養うことによって、より自分のことを客観的に知ることができる。
「私は私」と思っていた大部分が、実は「私」ではなく、別の「私」に操られていた
ことを知る。
それこそが、まさに『無知の知』ということにもつながる。


 もちろん有益性も高い。
その(有益性が高い)という点で、たいへん関心がある。
応用の仕方によっては、今までの私の考え方に、大変革をもたらすかもしれない。
またその可能性は高い。


 しばらくはこの問題に取り組んでみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 メタ認知能力 Metacognitive Ability)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司


【自己管理能力】


●前頭連合野


+++++++++++++++++++++++++++++++


前頭連合野は、言うなれば、知性と理性のコントロール・センター。
その働きを知るためには、ひとつには、「夢」の内容を知るという方法
がある。
夢を見ているときには、前頭連合野は、働いていない。
そのため、人は、支離滅裂な、前後に脈絡のない夢を見る。
言い換えると、もし前頭連合野の働きが弱くなれば、私たちの思考は、
ちょうど夢を見ているような状態になる。
もしそうなれば、自分でも、何をどう考えているか、さっぱりわからなく
なるだろう。
もちろん自分の考えをまとめることさえできない。
電車に乗り遅れる夢を見るように、ただあわてふためくだけで、それで
終わってしまう。
いつもの私の夢が、そうだ。


+++++++++++++++++++++++++++++++


●前頭連合野


 人間の脳みその、約3分の1は、前頭連合野と呼ばれる部分だそうだ。
人間は、とくにこの部分が発達している。
そのため、猿やチンパンジー、古代人の骨格と比べても、人間の額は大きく、広い。
言うなれば、知性と理性のコントロール・センター。
それがこの前頭連合野ということになる。
が、もしこの前頭連合野の働きが鈍くなったら・・・。


 私たちの思考は、ちょうど夢を見ているときのような状態になると考えられる。
というのも、人間が眠っている間というのは、前頭連合野も、眠った状態になっている。
反対に、そのことから、前頭連合野の働きを、私たちは知ることができる。


●今朝の夢


 実のところ、今朝の夢というのは、よく覚えていない。
夢というのは不思議なもので、半日もたつと、それが今朝の夢だったのか、それとも何日
も前に見た夢だったのか、わからなくなる。
 が、今朝見た夢は、こんなものだった。


 山の中の、どこかの駅に向かっている。
新幹線の中のようだが、窓がなく、貨物室のようになっている。
それが川沿いを走ったり、山の中を走ったりしている。
ところどころ線路が切れているが、新幹線は、そのまま走り続けている。
が、やがて、森のようなところをぐるりと回ったところで、新幹線は止まる。


 中央にプラットフォームがあって、その向こうには、別の電車が待っている。
ローカル線である。
切符を買うために、駅舎へ向かうが、料金がわからない。
長野を通って、仙台へ行く・・・というようなことを、私は話している。
途中、高い山を電車は越えるらしい。
山の途中には、ひなびた温泉街がいくつも並んでいる・・・。


●小鳥の思考


 理屈で考えれば、矛盾だらけの夢である。
夢の内容に連続性がない。
それに非合理。


 そこで私は、ふとこう考えた。
前頭連合野がまだ未発達だったころの人間は、こうした思考方法を、日常的にしていたの
ではないか、と。
 もちろん目の前に見える(現実)に対しては、現実的な行動をする。
餌となる食べ物があれば、それを口にするまでの行動を開始する。
危険が迫れば、それを回避するための行動を開始する。
しかしこと(思考)ということになると、それをまとめあげ、合理的に判断し、前後を論
理的につなげる能力はない。
恐らく、目を閉じたとたん、私たち人間が夢を見ているときのような状態になるのではな
いか。


 ミミズが地面をはっている。
その横に、大きな木の枝がある。
木の枝の中には、おいしそうな種がいっぱいつまっている。
それを高い空を飛びながら、上から見ている、と。
 小鳥なら、きっとそんな光景を思い浮かべるかもしれない。
もちろん言葉もないから、それを的確に、別の鳥に知らせることもできない。


●理性の源泉


 が、人間のばあいは、目を閉じても、それで前頭連合野の活動がそこで停止するわけで
はない。
目を閉じていても、言葉を使って、ものごとを論理的に考え、理性的な判断をくだすこと
ができる。
それがしっかりとできる人のことを、理性的な人といい、そうでない人を、そうでない人
という。
程度の差は、当然、ある。
言うなれば、神に近いほど、理性的な人もいれば、反対に、動物に近いほど、そうでない
人もいる。
その(ちがい)は何によって生まれるかといえば、結局は行きつくところ、(日々の鍛錬)
ということになる。


 このことは幼児期前期の子どもたちを見れば、よくわかる。
エリクソンが、「自律期」と名づけた時期である。


●自律期


 年齢的には、満2歳から4歳前後ということになっている。
実際には、乳幼児期を脱し、少年少女期へ移行する、その前の時期までということになる。
この時期の子どもは、親や先生に言われたことを忠実に守ろうとする。
この時期をとらえて、うまく指導すると、いわゆる(しつけ)がたいへんしやすい。
が、この時期に、(いいかげんなこと)をしてしまうと、子どもはやがて、ドラ息子、ドラ
娘化する。


 ものの考え方が享楽的になり、自己が発する欲望に対して、歯止めがきかなくなる。
わがままで、自分勝手。


感情のコントロールさえ、ままならなくなる。


 つまりこの時期に、前頭連合野の働きが活発になり、ある程度の形がその前後に形成さ
れると考えてよい。
もちろんそれ以後も、前頭連合野の形成は進むだろうが、原型は、その前後に形成される
と考えてよい。


●夢と前頭連合野


 そこでこう考える。
夢の中でも、前頭連合野を機能させることはできないものか、と。
しかしそれでは、睡眠が妨げられることになる。
ただ、ときどき、ほとんど起きがけのころだが、夢と現実が混濁するときがある。
そういうときというのは、かなり理性的な判断(?)ができる。
「これは夢だぞ」と、自分で、それがわかるときさえある。
あるいはこんなこともあった。


 この話は少し前にも書いたが、こんな夢を見たことがある。


 歩いていて、その男女の乗った車に、体をぶつけてしまった。
中から男が出てきて、ワーワーと大声を出して、私に怒鳴った。
で、私は目を覚ましたが、そのときのこと。
私はそれが夢だったと知り、もう一度、夢の中に戻りたい衝動にかられた。
夢の中に戻って、その男女の乗った車を、足で蹴飛ばしてやりたかった。
 が、このとき、脳のほとんどは覚醒状態にあったが、前頭連合野だけは、まだ半眠の状
態であったと考えられる。
前頭連合野が正常に機能していたら、「蹴飛ばしてやる」ということは考えなかったかもし
れない。
それ以前に、「夢は夢」と、自分から切り離すことができたはず。


 ・・・などなど。


前頭連合野の働きをわかりやすく説明してみた。
今度の高校生のクラスで、こんな話を、子どもたちにしてみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 前頭連合野 前頭前野 理性の府 夢と理性)


【薬物療法】(フィードバック現象)(自己管理能力に関して)


【ある中学校での講演での要旨】


++++++++++++++++


先日、中学校での講演のレジュメを
考えた。


で、その一部を、中学生たちにして
みたら、みな、「つまらない」と。


そこでそのレジュメは、ボツ!


そこで改めて、考えなおしてみる。


(荒削りの未完成レジュメなので、
その点を含みおきの上、お読みくだ
さい。)


++++++++++++++++


●初恋


 私は、中学生になるまで、女の子と遊んだ経験がない。当時は、そういう時代だった。女の子
といっしょにいるところを見られただけで、「女たらし」と、みなにからわかわれた。私も、からか
った。


 その私が、中学2年生のときに、初恋をした。相手は、恵子(けいこ)さんという、すてきな人
だった。


 毎日、毎晩、考えるのは、その恵子さんのことばかり。家にいても、恵子さんの家のほうばか
り見て、ときには、ボーッと何時間もそうしていた。恵子さんの家のあたりの空だけが、いつも、
虹色に輝いていた。


 で、ある日、私は思い立った。そして恵子さんに電話をすることにした。


 私は10円玉をもって、電車の駅まで行った。公衆電話はそこにしか、なかった。家にも電話
はあったが、家ですると、親に見つかる。


 私は高まる胸の鼓動を懸命におさえながら、駅まで行った。そして電話をした。それはもう、
死ぬようない思いだった。

 で、電話をすると、恵子さんの母親が出た。私が、「林です。恵子さんはいますか?」と電話を
すると、母親が電話口の向こうで、恵子さんを呼ぶ声がした。「恵子、電話よ!」と。


 心臓の鼓動はさらに、高まるばかり。ドキドキドキ……と。


 そしてその恵子さんが、電話に出た。そしてこう言った。


 「何か、用?」と。


 そのときはじめて、私は気がついた。私には、何も用がなかった。ただ電話をしたかっただ
け。だから、その電話はそれでおしまい。私は何も言えず、電話を切ってしまった。


●フェニルエチルアミン


 その人のことを思うと、心がときめく。すべてが華やいで見える。体まで宙に浮いたようになる
……。恋をすると、人は、そうなる。


 こうした現象は、脳内で分泌される、フェニルエチルアミンという物質の作用によるものだとい
うことが、最近の研究で、わかってきた。恋をしたときに感ずる、あの身を焦がすような甘い陶
酔感は、そのフェニルエチルアミンの作用によるもの、というのだ。


その陶酔感は、麻薬を得たときの陶酔感に似ているという人もいる。(私自身は、もちろん、麻
薬の作用がどういうものか、知らない。)しかしこのフェニルエチルアミン効果の寿命は、それ
ほど長くない。短い。


 ふつう脳内で何らかの物質が分泌されると、フィードバックといって、しばらくすると今度は、
それを打ち消す物質によって、その効果は、打ち消される。この打ち消す物質が分泌されるか
らこそ、脳の中は、しばらくすると、再び、カラの状態になる。体が、その物質に慣れてしまった
ら、つぎから、その物質が分泌されても、その効果が、なくなってしまう。


しかしフェニルエチルアミンは、それが分泌されても、それを打ち消す物質は、分泌されない。
脳内に残ったままの状態になる。こうしてフェニルエチルアミン効果は、比較的長くつづくことに
なる。が、いつまでも、つづくというわけではない。やがて脳のほうが、それに慣れてしまう。


 つまりフェニルエチルアミン効果は、「比較的長くつづく」といっても、限度がある。もって、3年
とか4年。あるいはそれ以下。当初の恋愛の度合にもよる。「死んでも悔いはない」というよう
な、猛烈な恋愛であれば、4年くらい(?)。適当に、好きになったというような恋愛であれば、半
年くらい(?)。


 その3年から4年が、恋愛の寿命ということにもなる。言いかえると、どんな熱烈な恋愛をして
も、3年から4年もすると、心のときめきも消え、あれほど華やいで見えた世界も、やがて色あ
せて見えるようになる。もちろん、ウキウキした気分も消える。


●リピドー(性的エネルギー)


 このフェニルエチルアミン効果と同時進行の形で考えなければならないのが、リピドー、つま
り、「性的エネルギー」である。


 それを最初に言い出したのが、あのジークムント・フロイト(オーストリアの心理学者、1856
〜1939)である。


 「リピドー」という言葉は、精神分析の世界では、常識的な言葉である。「心のエネルギー」(日
本語大辞典)のことをいう。フロイトは、性的エネルギーのことを言い、ユングは、より広く、生
命エネルギーのことを言った。


 人間のあらゆる行動は、このリピドーに基本を置くという。


たとえばフロイトの理論に重ねあわせると、喫煙しながらタバコを口の中でなめまわすのは、口
愛期の固着。自分の中にたまったモヤモヤした気分を吐き出したいという衝動にかられるの
は、肛門期の固着。また自分の力を誇示したり、優位性を示したいと考えるのは、男根期の固
着ということになる。(固着というのは、こだわりと考えると、わかりやすい。)


 つまり、フロイトは、私たちのあらゆる生きる力は、そこに異性を意識していることから生まれ
るというのだ。


 男が何かに燃えて仕事をするのも、女がファッションを追いかけたり、化粧をするのも、その
根底に、性的エネルギーがあるからだ、と。


●性的エネルギー


 このことと、直接関係あるかどうかは知らないが、昔、こんな話を何かの本で読んだことがあ
る。


 あのコカコーラは、最初、売れ行きがあまりよくなかった。そこでビンの形を、それまでのズン
胴から、女体の形に似せたという。胸と尻の丸みを、ビンに表現した。とたん、売れ行きが爆発
的に伸び、今のコカコーラになったという。


 同じように、ビデオも、インターネットも、そして携帯電話も、当初、その爆発の原動力となっ
たのは、「スケベ心」だったという。そう言えば、携帯電話も、電子マガジンも、出会い系とか何
とか、やはりスケベ心が原動力になって、普及した?


 東洋では、そしてこの日本では、スケベであることを、恥じる傾向が強い。仮にそうであって
も、それを隠そうとする。しかし人間というのは、ほかの動物たちと同じように、基本的には、異
性との関係で生きている。つまりスケベだということ。


 人間は、この数一〇万年もの間、哲学や道徳のために生きてきたのではない。種族を後世
へ伝えるために生きてきた。「生き残りたい」という思いが、つまりは、スケベの原点になってい
る。だから、基本的には、人間は、すべてスケベである。スケベでない人間はいないし、もしス
ケベでないなら、その人は、どこかおかしいと考えてよい。


 問題は、そのスケベの中身。


●善なるスケベ心


 ただ単なる肉欲的なスケベも、スケベなら、高邁な精神性をともなった、スケベもある。昔、産
婦人科医をしている友人に、こんなことを聞いたことがある。


 「君は、いつも女性の体をみているわけだから、ふつうの男とは、女性に対して違った感情を
もっているのではないか。たとえばぼくたちは、女性の白い太ももを見たりすると、ゾクゾクと感
じたりするが、君には、そういうことはないだろうな」と。


 すると彼は、こう言った。「そうだろうな。そういう意味での、興味はない。ぼくたちが女性に求
めるのは、体ではなく、心だ」と。


 たぶん、その友人がもつスケベ心は、ここでいう高邁な精神性をともなったスケベかもしれな
い。


 では、私にとっての性的エネルギー(リピドー)は、何かということになる。


 私は、それはひょっとしたら、若いころの、不完全燃焼ではないかと思うようになった。私は若
いころは、勉強ばかりしていた。大学時代は、同級生は、全員、男。まったく女気のない世界だ
った。その前の高校時代は、さらに悲惨だった。私は、まさに欲求不満のかたまりのような人
間だった。


 だから心のどこかで、いつも、チクショーと思っている。その思いは、いまだに消えない。そし
てそれが、回りまわって、今の私の原動力になっている? そう言えばあの今東光氏も、昔、
私にそう話してくれたことがある。彼もまた、若いころは、修行、修行の連続で、青春時代がな
かったと、こぼしていた。


 何はともあれ、私たちは、いつも、異性を意識しながら生きている。男がかっこうを気にした
り、女が化粧をしたりするのも、原点は、そこにある。そしてそういう原点から、それぞれが、つ
ぎのステップへと進む。あらゆる文化は、そうして生まれた。哲学にせよ、道徳にせよ、あくまで
も、その結果として生まれたに過ぎない。


 さあ、世の男性諸君よ。女性諸君よ。それに中学生諸君よ、スケベであることを、恥じること
はない。むしろ、誇るべきことである。もし、心も体も、健康なら、あなたは、当然、スケベであ
る。もしあなたがスケベでないなら、心や体が病んでいるか、さもなければ、死んでいるかのど
ちらかである。


 あとはそのスケベ心を、善なるスケベ心として、うまく昇華すればよい!


●自我構造理論


 が、それがむずかしい。この性的エネルギーというのは、基本的には、快楽原理の支配下に
ある。油断をすれば、その快楽原理に溺れてしまう。


一方、その私はどうかというと、私も、ふつうの人間。いつもそうしたモヤモヤとした快楽原理と
戦わなくてはならない。しかしそれを感じたとたん、「邪悪な思い」と片づけて、それをまた心の
どこかにしまいこんでしまう。


 こうした心の作用は、フロイトの、「イド&自我論」(=自我構造理論)を使うと、うまく説明でき
る。


 私たちの心の奥底には、「イド」と呼ばれる、欲望のかたまりがある。人間の生きるエネルギ
ーの原点にはなっているが、そこはドロドロとした欲望のかたまり。論理もなければ、理性もな
い。衝動的に快楽を求め、そのつど、人間の心をウラから操る。


 そのイドを、コントロールするのが、「自我」ということになる。つまり「私は私」という理性であ
る。その自我が、混沌(こんとん)として、まとまりのない、イドの働きを抑制する。


●イドと自我の戦い
 

しかしあえて言うなら、それはイドに操られた言葉ということになる。もう少し自我の働きが強け
れば、仮にそう思ったとしても、言葉として発することまではしなかったと思われる。


 同じようなことは、EQ論(emotional quotient、心の知能指数)でも、説明できる。


 今回は、みなさんに、そのEQテストなるものをしてみたい。(後述)


 EQ論によれば、人格の完成度は、(1)自己管理能力の有無、(2)脱自己中心性の程度、
(3)他人との良好な人間関係の有無の、3つをみて、判断する。(心理学者のゴールマンは、
(1)自分の情動を知る、(2)感情のコントロール、(3)自己の動機づけ、(4)他人への思いや
り、(5)人間関係の5つをあげた。)


 つまり自己管理能力が弱いということは、それだけ人格の完成度が低いということになる。


●教師という仮面


 ところで、教師という職業は、仮面(ペルソナ)をかぶらないと、できない職業といってもよい。
おおかたの人は、教師というと、それなりに人格の完成度の高い人間であるという前提で、も
のを考える。接する。


 そのため教師自身も、「私は教師である」という仮面をかぶる。かぶって、親たちと接する。し
かしそれは同時に、教師という人間がもつ人間性を、バラバラにしてしまう可能性がある。こん
なことまでフロイトが考えたかどうかは、私は知らないが、自我とイドを、まったく分離してしまう
ということは、危険なことでもある。


 ばあいによっては、私が私でなくなってしまう。


 そこまで深刻ではないにしても、仮面をかぶるということ自体、疲れる。よい人間を演じている
と、それだけでも心は緊張状態に置かれる。人間の心は、そうした緊張状態には、弱い。長く、
つづけることはできない。


●自己管理能力


 人には、(本当にすばらしい人)と、(見かけ上、すばらしい人)がいる。その(ちがい)はどこ
にあるかと言えば、イドに対する自我の管理能力にあるということになる。もっと言えば、自我
のもつ管理能力がすぐれている人を、(本当にすばらしい人)という。そうでない人を、(見かけ
上、すばらしい人)という。


 さて話は、ぐんと現実的になるが、私がここに書いたことを、もっと理解してもらうために、こ
んな話を書きたい。


●思春期に肥大化するイド


 昨夜も、自転車で変える途中、こんなことがあった。


 私が小さな四つ角で信号待ちをしていると、2人乗りの自転車が、私を追い抜いていった。黒
い学生服を着ていた。高校生たちである。しかも無灯火。


 その2人乗りの自転車は、一瞬、信号の前でためらった様子は見せたものの、左右に車が
いないとわかると、そのまま信号を無視して、道路を渡っていった。


 最初、私は、「ああいう子どもにも、幼児期はあったはず」と思った。皮肉なことに、幼児ほ
ど、ルールを守る。一度、教えると、それを忠実に守る。しかし思春期に達すると、子どもは、と
たんにだらしなくなる。行動が衝動的になり、快楽を追い求めるようになる。


 なぜか?


 それもフロイトの自我構造理論を当てはめて考えてみると、理解できる。


 思春期になると、イドが肥大化し、働きが活発になる。先にも書いたように、そこはドロドロと
した欲望のかたまり。そのため自我の働きが、相対的に弱くなる。結果、自我のもつ管理能力
が低下する。


 言うなれば、自転車に2人乗りをして、信号を無視して道路を渡った子どもは、(本当にすば
らしい人)の、反対側にいる人間ということになる。人間というよりは、サルに近い(?)。


●では……


 ではどうすれば、私たちは、(本当にすばらしい人間)になれるか。


 最初に、自分の心の奥深くに居座るイドというものが、どういうものであるかを知らなければ
ならない。これはあくまでも私の感覚だが、それはモヤモヤとしていて、つかみどころがない。ド
ロドロしている。欲望のかたまり。が、イドを否定してはいけない。イドは、私の生きる原動力と
なっている。「ああしたい」「こうしたい」という思いも、そこから生まれる。


 そのイドが、ときとして、四方八方へ、自ら飛び散ろうとする。「お金がほしい」「女を抱きたい」
「名誉がほしい」「地位がほしい」……、と。


 イドはたとえて言うなら、車のエンジンのようなもの。あるいはガソリンとエンジンのようなも
の。


 そのエンジンにシャフトをつけて、車輪に動力を伝える。制御装置をつけて、ハンドルをとりつ
ける。車体を載せて、ボデーを取りつける。この部分、つまりエンジンをコントロールする部分
が、自我ということになる。あまりよいたとえではないかもしれないが、しかしそう考えると、(私)
というもが、何となくわかってくる。つまり(私)というのは、そうしてできあがった、(車)のような
もの、ということになる。


 つまり、その車が、しっかりと作られ、整備されている人が、(本当にすばらしい人)ということ
になるし、そうでない人を、そうでない人という。そうでない人の車は、ボロボロで、故障ばかり
繰りかえす……。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自我
構造理論 イド EQ EQ論 心の知能指数)


●エスの人


 さらに話を進めたい。


フロイトは、人格、つまりその人のパーソナリティを、(1)自我の人、(2)超自我の人、(3)エス
の人に分けた。


 たとえば(1)自我の人は、つぎのように行動する。


 目の前に裸の美しい女性がいる。まんざらあなたのことを、嫌いでもなさそうだ。あなたとの
セックスを求めている。一夜の浮気なら、妻にバレることもないだろう。男にとっては、セックス
は、まさに排泄行為。トイレで小便を排出するのと同じ。あなたは、そう割り切って、その場を楽
しむ。その女性と、セックスをする。


 これに対して(2)超自我の人は、つぎのように考えて行動する。


 いくら妻にバレなくても、心で妻を裏切ることになる。それにそうした行為は、自分の人生をけ
がすことになる。性欲はじゅうぶんあり、その女性とセックスをしたい気持ちもないわけではな
い。しかしその場を、自分の信念に従って、立ち去る。


 また(3)エスの人は、つぎのように行動する。


 妻の存在など、頭にない。バレたときは、バレたとき。気にしない。平気。今までも、何度か浮
気をしている。妻にバレたこともある。「チャンスがあれば、したいことをするのが男」と考えて、
その女性とのセックスを楽しむ。あとで後悔することは、ない。


 これら三つの要素は、それぞれ一人の人の中に同居する。完全に超自我の人はいない。い
つもいつもエスの人もいない。


 これについて、京都府にお住まいの、Fさんから、こんな質問をもらった。


 Fさんには、10歳年上の兄がいるのだが、その兄の行動が、だらしなくて困るという。


 「今年、40歳になるのですが、たとえばお歳暮などでもらったものでも、無断であけて食べて
しまうのです。先日は、私の夫が、同窓会用に用意した洋酒を、フタをあけて飲んでしまいまし
た」と。


 その兄は、独身。Fさん夫婦と同居しているという。Fさんは、「うちの兄は、していいことと悪
いことの判断ができません」と書いていた。すべての面において、享楽的で、衝動的。その場だ
けを楽しめばよいといったふうだという。仕事も定食につかず、アルバイト人生を送っていると
いう。


 そのFさんの兄に、フロイトの理論を当てはめれば、Fさんの兄は、まさに「エスの強い人」と
いうことになる。乳幼児期から少年期にかけて、子どもは自我を確立するが、その自我の確立
が遅れた人とみてよい。親の溺愛、過干渉、過関心などが、その原因と考えてよい。もう少し
専門的には、精神の内面化が遅れた。


 こうしたパーソナリティは、あくまでも本人の問題。本人がそれをどう自覚するかに、かかって
いる。つまり自分のだらしなさに自分で気づいて、それを自分でコントロールするしかない。外
の人たちがとやかく言っても、ほとんど、効果がない。とくに成人した人にとっては、そうだ。


 だからといって、超自我の人が、よいというわけではない。日本語では、このタイプの人を、
「カタブツ人間」という。


 超自我が強すぎると、社会に対する適応性がなくなってしまうこともある。だから、大切なの
は、バランスの問題。ときには、ハメをはずしてバカ騒ぎをすることもある。冗談も言いあう。し
かし守るべき道徳や倫理は守る。


 そういうバランスをたくみに操りながら、自分をコントロールしていく。残念ながら、Fさんの相
談には、私としては、答えようがない。「手遅れ」という言い方は失礼かもしれないが、私には、
どうしてよいか、わからない。(ごめんなさい!)


●話を戻して……


 自分の中の(超自我)(エス)を知るためには、こんなテストをしてみればよい。


(1)横断歩道でも、左右に車がいなければ、赤信号でも、平気で渡る。
(2)駐車場に駐車する場所がないときは、駐車場以外でも平気で駐車できる。
(3)電車のシルバーシートなど、あいていれば、平気で座ることができる。
(4)ゴミ、空き缶など、そのあたりに、平気で捨てることができる。
(5)サイフなど、拾ったとき、そのまま自分のものにすることができる。


 (1)〜(5)までのようなことが、日常的に平気でできる人というのは、フロイトがいうところの
「エスの強い人」と考えてよい。倫理観、道徳観、そのものが、すでに崩れている人とみる。つ
まりそういう人に、正義を求めても、無駄(むだ)。仮にその人が、あなたの夫か、妻なら、そも
そも(信頼関係)など、求めても無駄ということになる。もしそれがあなたなら、あなたがこれか
ら進むべき道は、険(けわ)しく、遠い。


 反対に、そうでなければ、そうでない。


●オーストラリアでの経験


 私のオーストラリアの友人に、B君がいる。そのB君と、昔、こんな会話をしたことがある。南
オーストラリア州からビクトリア州へと、車で横断しようとしていたときのことである。私たちは、
州境にある境界までやってきた。


 境界といっても、簡単な標識があるだけである。私は、そのとき、車の中で、サンドイッチか
何かを食べていた。


B君「ヒロシ、そのパンを、あのボックスの中に捨ててこい」
私 「どうしてだ。まだ、食べている」
B君「州から州へと、食べ物を移してはいけないことになっている」
私 「もうすぐ食べ終わる」
B君「いいから捨ててこい」
私 「だれも見ていない」
B君「それは法律違反(イリーガル)だ」と。


 結局、私はB君の押しに負けて、パンを、ボックスの中に捨てることになったが、この例で言
えば、B君は、超自我の人だったということになる。一方、私は自我の人だったということにな
る。


 で、その結果だが、今では、つまりそれから36年を経た今、B君は、私のもっとも信頼のお
ける友人になっている。一方、私は私で、いつもB君を手本として、自分の生き方を決めてき
た。私は、もともと、小ズルイ人間だった。


●信頼関係は、ささいなことから


 私とB君とのエピソードを例にあげるまでもなく、信頼関係というのは、ごく日常的なところか
ら始まる。しかも、ほんのささいなところから、である。


先にあげた(テスト)の内容を反復するなら、(1)横断歩道でも、左右に車がいなくても、信号が
青になるまで、そこで立って待つ、(2)駐車場に駐車する場所がないときは、空くまで、じっと待
つ、(3)シルバーシートには、絶対、すわらない、(4)ゴミや空き缶などは、決められた場所以
外には、絶対に捨てない、(5)サイフは拾っても、中身を見ないで、交番や、関係者(駅員、店
員)に届ける。そういうところから、始まる。


 そうしたことの積み重ねが、やがてその人の(人格)となって形成されていく。そしてそれが熟
成されたとき、その人は、信頼に足る人となり、また人から信頼されるようになる。


 先のB君のことだが、最近、こんなことがあった。ここ数年、たてつづけに日本へ来ている
が、車を運転するときは、いつもノロノロ運転。「もっと速く走っていい」と私が促すと、B君は、
いつも、こう言う。


 「ヒロシ、ここは40キロ制限だ」「ここは50キロ制限だ」と。


 さらに横断歩道の停止線の前では、10〜20センチの誤差で、ピッタリと車を止める。「日本
では、そこまで厳格に守る人はいない」と私が言うと、B君は、「日本人は、どうして、そうまでロ
ジカルではないのだ」と、逆に反論してきた。


 「ロジカル」というのは、日本では「論理的」と訳すが、正確には「倫理規範的」ということか
(?)。


 しかしこうした経験を通して、私は、あらゆる面で、ますますB君を信頼するようになった。


●友人との信頼関係


 友人の信頼関係も、同じようにして築かれる。そして長い時間をかけて、熟成される。しかし
その(はじまり)は、ごく日常的な、ささいなことで始まる。


 ウソをつかない。約束を守る。相手に心配をかけない。相手を不安にさせない。こうした日々
の積み重ねが、週となり月となる。そしてそれが年を重ねて、やがて、夫婦の信頼関係となっ
て、熟成される。


 もちろんその道は、決して、一本道ではない。


 ときには、わき道にそれることもあるだろう。迷うこともあるだろう。浮気がいけないとか、不
倫がいけないとか、そういうふうに決めてかかってはいけない。大切なことは、仮にそういう関
係をだれかともったとしても、その後味の悪さに、苦しむことだ。


 その苦しみが強ければ強いほど、「一度で、こりごり」ということになる。実際、私の友人の中
には、そうした経験した人が、何人かいる。が、それこそ、(学習)。人は、その学習を通して、
より賢くなっていく。


●超自我の世界


 フロイトの理論によれば、(自我)の向こうに、その(自我)をコントロールする、もう一つの自
我、つまり(超自我)があるという。


 この超自我が、どうやら、シャドウの役目をするらしい(?)。


 たとえば(自我)の世界で、「店に飾ってあるバッグがほしい」と思ったとする。しかしあいにく
と、お金がない。それを手に入れるためには、盗むしかない。


 そこでその人は、そのバッグに手をかけようとするが、そのとき、その人を、もう1人の自分
が、「待った」をかける。「そんなことをすれば、警察につかまるぞ」「刑務所に入れられるぞ」
と。そのブレーキをかける自我が、超自我ということになる。


 このことは、たとえばボケ老人を観察していると、わかる。ボケ方にもいろいろあるようだが、
ボケが進むと、この超自我による働きが鈍くなる。つまりその老人は、気が向くまま、思いつく
まま、行動するようになる。


 ほかにたとえば、子どもの教育に熱心な母親の例で考えてみよう。


●シャドウ


 もしその母親にとって、「教育とは、子どもを、いい学校へ入れること」ということであれば、そ
れが超自我となって、その母親に作用するようになる。母親は無意識のまま、それがよいこと
だと信じて、子どもの勉強に、きびしくなる。


 そのとき、子どもは、教育熱心な母親を見ながら、そのまま従うというケースもないわけでは
ないが、たいていのばあい、その向こうにある母親のもつ超自我まで、見抜いてしまう。そして
それが親のエゴにすぎないと知ったとき、子どもの心は、その母親から、離れていく。「何だ、お
母さんは、ぼくを自分のメンツのために利用しているだけだ」と。


 だからよくあるケースとしては、教育熱心で、きびしいしつけをしている母親の子どもが、かえ
って、学業面でひどい成績をとるようになったり、あるいは行動がかえって粗放化したりするこ
となどがある。非行に走るケースも珍しくない。


 それは子ども自身が、親の下心を見抜いてしまうためと考えられる。が、それだけでは、しか
しではなぜ、子どもが非行化するかというところまでは、説明がつかない。


 そこで考えられるのが、超自我の引きつぎである。


 子どもは親と生活をしながら、その密着性ゆえに、そのまま親のもつ超自我を自分のものに
してしまう。もちろんそれが、道徳や倫理、さらには深い宗教観に根ざしたものであれば問題は
ない。


 子どもは、親の超自我を引きつぎながら、すばらしい子どもになる。しかしたいていのばあ
い、この超自我には、ドロドロとした醜い親のエゴがからんでいる。その醜い部分だけを、子ど
もが引きついでしまう。


 それがシャドウということか。


 話がこみいってきたが、わかりやすく言えば、こういうこと。


つまり、私たち人間には、表の顔となる(私)のほか、その(私)をいつも裏で操っている、もう1
人の(私)がいるということ。簡単に考えれば、そういうことになる。


 そしていくら親が仮面をかぶり、自分をごまかしたとしても、子どもには、それは通用しない。
つまりは親子もつ密着度は、それほどまでに濃密であるということ。


 そんなわけで、よく(子どものしつけ)が問題になるが、実はしつけるべきは、子どもではなく、
親自身の(超自我)ということになる。昔から日本では、『子は親の背中を見て育つ』というが、
それをもじると、こうなる。


 『子は、親のシャドウをみながら、それを自分のものとする』と。親が自分をしつけないで、どう
して子どもをしつけることができるのかということにもなる。


 話が脱線しようになってきたので、この問題は、もう少し、この先、掘りさげて考えてみたい。


●【EQ】


 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emotional Intell
igence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」では、主に、つぎの3点を重視する。


(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性


 ここではP・サロヴェイのEQ論を、少し発展させて考えてみたい。


 自己管理能力には、行動面の管理能力、精神面の管理能力、そして感情面の管理能力が
含まれる。


●行動面の管理能力


 行動も、精神によって左右されるというのであれば、行動面の管理能力は、精神面の管理能
力ということになる。が、精神面だけの管理能力だけでは、行動面の管理能力は、果たせな
い。


 たとえば、「銀行強盗でもして、大金を手に入れてみたい」と思うことと、実際、それを行動に
移すことの間には、大きな距離がある。実際、仲間と組んで、強盗をする段階になっても、その
時点で、これまた迷うかもしれない。


 精神的な決断イコール、行動というわけではない。たとえば行動面の管理能力が崩壊した例
としては、自傷行為がある。突然、高いところから、発作的に飛びおりるなど。その人の生死に
かかわる問題でありながら、そのコントロールができなくなってしまう。広く、自殺行為も、それ
に含まれるかもしれない。


 もう少し日常的な例として、寒い夜、ジョッギングに出かけるという場面を考えてみよう。


そういうときというのは、「寒いからいやだ」という抵抗感と、「健康のためにはしたほうがよい」
という、二つの思いが、心の中で、真正面から対立する。ジョッギングに行くにしても、「いやだ」
という思いと戦わねばならない。


 さらに反対に、悪の道から、自分を遠ざけるというのも、これに含まれる。タバコをすすめら
れて、そのままタバコを吸い始める子どもと、そうでない子どもがいる。悪の道に染まりやすい
子どもは、それだけ行動の管理能力の弱い子どもとみる。


 こうして考えてみると、私たちの行動は、いつも(すべきこと・してはいけないこと)という、行動
面の管理能力によって、管理されているのがわかる。それがしっかりとできるかどうかで、その
人の人格の完成度を知ることができる。


 この点について、フロイトも着目し、行動面の管理能力の高い人を、「超自我の人」、「自我の
人」、そうでない人を、「エスの人」と呼んでいる。


●精神面の管理能力


 私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症にはじまって、スピード恐怖症、
飛行機恐怖症など。


 精神的な欠陥もある。


 私のばあい、いくつか問題が重なって起きたりすると、その大小、軽重が、正確に判できなく
なってしまう。それは書庫で、同時に、いくつかのものをさがすときの心理状態に似ている。
(私は、子どものころから、さがじものが苦手。かんしゃく発作のある子どもだったかもしれな
い。)


 具体的には、パニック状態になってしまう。


 こうした精神作用が、いつも私を取り巻いていて、そのつど、私の精神状態に影響を与える。


 そこで大切なことは、いつもそういう自分の精神状態を客観的に把握して、自分自身をコント
ロールしていくということ。


 たとえば乱暴な運転をするタクシーに乗ったとする。私は、スピード恐怖症だから、そういうと
き、座席に深く頭を沈め、深呼吸を繰りかえす。スピードがこわいというより、そんなわけで、そ
ういうタクシーに乗ると、神経をすり減らす。ときには、タクシーをおりたとたん、ヘナヘナと地面
にすわりこんでしまうこともある。


 そういうとき、私は、精神のコントロールのむずかしさを、あらためて、思い知らされる。「わか
っているけど、どうにもならない」という状態か。つまりこの点については、私の人格の完成度
は、低いということになる。


●感情面の管理能力


 「つい、カーッとなってしまって……」と言う人は、それだけ感情面の管理能力の低い人という
ことになる。


 この感情面の管理能力で問題になるのは、その管理能力というよりは、その能力がないこと
により、良好な人間関係が結べなくなってしまうということ。私の知りあいの中にも、ふだんは、
快活で明るいのだが、ちょっとしたことで、激怒して、怒鳴り散らす人がいる。


 つきあう側としては、そういう人は、不安でならない。だから結果として、遠ざかる。その人は
いつも、私に電話をかけてきて、「遊びにこい」と言う。しかし、私としては、どうしても足が遠の
いてしまう。


 しかし人間は、まさに感情の動物。そのつど、喜怒哀楽の情を表現しながら、無数のドラマを
つくっていく。感情を否定してはいけない。問題は、その感情を、どう管理するかである。


 私のばあい、私のワイフと比較しても、そのつど、感情に流されやすい人間である。(ワイフ
は、感情的には、きわめて完成度の高い女性である。結婚してから30年近くになるが、感情
的に混乱状態になって、ワーワーと泣きわめく姿を見たことがない。大声を出して、相手を罵倒
したのを、見たことがない。)


 一方、私は、いつも、大声を出して、何やら騒いでいる。「つい、カーッとなってしまって……」
ということが、よくある。つまり感情の管理能力が、低い。


 が、こうした欠陥は、簡単には、なおらない。自分でもなおそうと思ったことはあるが、結局
は、だめだった。


 で、つぎに私がしたことは、そういう欠陥が私にはあると認めたこと。認めた上で、そのつど、
自分の感情と戦うようにしたこと。そういう点では、ものをこうして書くというのは。とてもよいこと
だと思う。書きながら、自分を冷静に見つめることができる。


 また感情的になったときは、その場では、判断するのを、ひかえる。たいていは黙って、その
場をやり過ごす。「今のぼくは、本当のぼくではないぞ」と、である。


(2)の「良好な対人関係」と、(3)の「他者との良好な共感性」については、また別の機会に考
えてみたい。
(はやし浩司 管理能力 人格の完成度 サロヴェイ 行動の管理能力 EQ EQ論 人格の
完成)


+++++++++++++++++++++


ついでながら、このEQ論を、
子どもの世界にあてはめて、
それを診断テストにしたのが、
つぎである。


****************

【子どもの心の発達・診断テスト】


****************


【子どもの社会適応性・EQ検査】(参考:P・サロヴェイ)


●社会適応性


 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。


(1)共感性


Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。


○いつも喜んでするようだ。
○ときとばあいによるようだ。
○いやがってしないことが多い。


(2)自己認知力


Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは……


○雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
○しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
○聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)


(3)自己統制力


Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子どもは
……。


○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)


(4)粘り強さ


Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。


○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)


(5)楽観性


Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子どもは…
…。


○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)
 

(6)柔軟性

Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……


○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)


***************************


(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。


 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。
(以上のテストは、いくつかの小中学校の協力を得て、表にしてある。集計結果などは、HPの
ほうに収録。興味のある方は、そちらを見てほしい。当日、会場で、診断テスト実施。)


***************************


●順に考えてみよう。


(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。


 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。


 その反対側に位置するのが、自己中心性である。


 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。


 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世
間体意識へと、変質することもある。


(2)自己認知力


 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。


 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔
不断。


反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多
い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。


(3)自己統制力


 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。


 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。


 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓
子をみな、食べてしまうなど。


 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い
子どもとみる。


 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。


(4)粘り強さ


 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。


 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。


 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも
いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。


 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。


(1)楽観性


 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。


 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること
もある。


 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。


 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。


 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。


 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか
ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。


 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。


(2)柔軟性


 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。


 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。


 一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくなになる、
かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何らかの問題がある
子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。


 朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをしなかっ
た子どもがいた。


 いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚園で
も、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。


 何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまってしまう
子どもがいた。


 先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」と、
最後までがんばった子どもがいた。


 症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができる。
柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。
(はやし浩司 思考 ボケ 認知症 人格の後退 人格論 EQ論 サロベイ)


●終わりに……


 私は私と考えている人は多い。しかし本当のところ、その「私」は、ほとんどの部分で、「私で
あって、私でない部分」によって、動かされている。


 その「私であって私でない部分」を、どうやって知り、どうやってコントロールしていくか。それ
ができる人を、自己管理能力の高い人といい、人格の完成度の高い人という。そうでない人を
そうでないという。


 思春期は、それ自体、すばらしい季節である。しかしその思春期に溺れてしまってはいけな
い。その思春期の中で、いかに「私」をつくりあげていくか。それも、思春期の大切な柱である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 思春
期 自我構造理論 中学生)


●おまけ


 当日の人格完成度テストで、満点もしくは、それに近い点数を取った子どもには、私の本をプ
レゼントする予定。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 自己管理能力 学習指導困難児 フィードバック)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●Joy & Happiness

++++++++++++++++++++++++

英語の文章を読んでいたら、英語国では、「Joy(喜び)」と、
「Happiness(幸福)」を、使い分けて考えて
いることがわかった。
Joy、イコール、Happinessではない。
ある賢人は、こう書いている。

「Joyは、液体的なもの。Happinessは、
固形的なもの」と。

ワイワイと喜ぶのを、Joyというのなら、Happiness
は、静かなもの。
Joyは一時的なものだが、Happinessは、その人の
根底をささえるもの。
Joyは目に見えて、わかりやすいが、Happinessは、
それを失ったときに、それがわかるもの。
それまでは空気のようなもの。
目立たず、あなたの周囲で、ひっそりとたたずんでいる。

……とまあ、いろいろに解釈できる。

+++++++++++++++++++++++++

●大切なのは「今」

 幸福を考えるとき、皮肉なことに、犬の生き方を見ていると、おおいに参考になる。
犬は、その日、その日を懸命に生きている。
そこにあるのは、「今」という現実だけ。

 たとえばうちのハナ(犬、ポインター種)は、今年で、満14歳になる。
7倍すると人間の年齢に相当するそうだ。
だから人間の年齢にすると、98歳ということになる。
が、「死ぬ」ということに、何ら恐れを抱いているようには見えない。
「死ぬ」という概念すら、もっていない(?)。

 長い間、相棒だったもう一匹の犬は、6、7年前に死んだ。
「相棒」というよりは、母親的な存在だった。
さぞかしさみしいだろうなと思って、あれこれと気をつかった。
しかしそれほどショックを受けたようには、見えなかった。

●懸命に生きる

 「死」を考えるから、人生に、閉塞感が生まれる。
だからといって「死」を軽んじろということではない。
しかし生きている間は、「死」のことなど、気にしない。
気にしても、どうしようもない。
仮にあなたが今、健康で、仕事をし、家族がいるなら、「死」のことなど、気にしない。
「今、生きている」。
それだけを考え、あとは前向きに生きていく。

 そのときは、そのとき。
死がやってきたときは、そのとき。
そうでなければ、犬のように生きればよい。
その日、その日を、懸命に生きればよい。

●回顧性

 満55歳前後から、人は、それまでの展望性から回顧性へと、人生観が変化していく。
わかりやすく言えば、生き様が、うしろ向きになる。
過去ばかりを、振り返るようになる。
これには、理由がある。

 脳みそについて言えば、後半期(recent)に蓄えた記憶ほど、先に消失していく。
そのため古い記憶ほど、脳みその中に残る。
だから歳を取れば取るほど、若いころ、さらには子どものころの記憶が、より強く
思い出されるようになる。
あるいは子どものころの記憶だけになる。
それが回顧性へと、つながっていく。

 私の知人の中には、50歳になったばかりというのに、墓参りばかりしている人がいる。
またそうすることが、人として、正しい道と思い込んでいる。
「先祖」「親孝行」という言葉も、よく使う。
回顧性というのは、それをいう。

●日々の生活の中に

 話が脱線したが、幸福に限界を感ずるのは、そこに「死」があるから。
病気になったとき、健康の意味がわかる。
そのとき健康の限界を知る。
同じように、いくら私は幸福と思っても、それは長つづきしない。
長つづきしないものという前提で、それを大切にする。

 ここで誤解してはいけないことがある。
多くの賢者が書き残しているように、幸福というのは、私たちのすぐ身近にある。
身近の、すぐそこにあって、私たちに見つけてもらうのを、じっと待っている。

 朝起きる。
目を覚ます。
朝日が、障子窓の向こうから白い光を投げかけている。
また目を閉じて、とりあえず、やるべきことを考える。
サクランボの木を切る。
空き地に、除草剤をまく。
ビワとレモンの木に、(催促肥料)をまく。
「礼肥料」ではない。
私たちは、「催促肥料」と呼んでいる。
「もっと実をつけろ」と催促しながらまくから、「催促肥料」という。

 それが「幸福」ということになる。

●幸福論

 懸命な人は、その価値を、失う前に気づく。
そうでない人は、それを失ってから気づく。
その第一が、健康。
その第二が、青春時代。
子どもがいれば、その第三は、子どものよさということになる。
が、それにもうひとつつけ加えれば、「幸福」ということになる。

 つまるところ、幸福というのは、その人の賢明さが作り出すもの。
賢明な人は、そこに幸福があることを知る。
そうでない人は、そこに幸福があることも知らず、あたふたと、
幸福をふみにじって生きる。

そう考えてよい。
それがこのエッセーの結論ということになる。
(10−04−25)

(補記)

The fact is always obvious much too late, but the most singular difference between 
happiness and joy is that happiness is a solid and joy a liquid. 
J.D. Salinger


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2010++++++はやし浩司

(はやし浩司のメモ)

●オオカミ姉妹

++++++++++++++++++

オオカミ姉妹(カマラとアマラ)について、
たびたび書いてきた。
「野生児」とも呼ばれる。
1920年10月に、インドで見つかった
2人の姉妹をいう。

この2人の姉妹について、私はあちこちで
ものを書いてきたし、講演会でも、よく
話した。

が、正確でない部分も多々、あった。
いろいろな資料をもとに、もう一度、
オオカミ姉妹について、整理しておきたい。

+++++++++++++++++++

(1)1920年10月、カルカッタの南、ゴダムリという村で見つかった。
(2)オオカミが住んでいた、シロアリの塚の中から、見つかった。
(3)2人の少女は、そのまま孤児院に入れられた。
(4)名前を、カマラ(姉、推定年齢8歳)、アマラ(推定年齢1歳)と名づけられた。
(5)A.L.シング夫妻らによって、養育された。
(6)当初、2人の姉妹は、オオカミのようにひざまづいてものを食べた。
(7)4つ足で走り、オオカミのような叫び声をあげた。
(8)アマラは約1年後に死亡。
(9)カマラは推定年齢17歳まで、生きた。
(10)その過程で、衣食住の生活習慣を身につけた。
(11)6年後には直立して歩行した。(推定年齢、14歳。)
(12)7年後には、45語を話せるようになった。
(13)中枢神経系に、器質的な異常は認められなかった。

(以上、「心理学とは何だろうか」(無藤驕E新曜社)より)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 オオカミ姉妹、アマラ タマラ アマラ はやし浩司 野生児 オオカミ少女)


**************2010年4月25日まで**************



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児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐

阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.

writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ

 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 

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***************2010年3月3日より**************

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