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最前線の子育て論byはやし浩司
(2010年1月1日〜3月2日))

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最前線の子育て論byはやし浩司(100101)


●『ただの人』(ハイデッガー)

++++++++++++++++++

つい先日、12月になったと思っていたら、
もう今月もおしまい。
つい先日、2009年になったと思っていたら、
もう今年もおしまい。
つい先日、21世紀(2001年)になったと思っていたら、
もう2010年。

こうして日々は、容赦なく過ぎていく・・・。
過去へ過去へと、失われていく・・・。
・・・と、だれしも考える。
・・・と、だれしも考えやすい。

が、そういう考え方は、あまりにも通俗的。
長い歴史の中で、人は、そのように考えるように、
なってしまった。
つまり「数字」と「人生」を重ね合わせるようになってしまった。
が、そう考えてはいけない。
つまり「過ぎていく」と考えてはいけない。
「失っていく」と考えてはいけない。
何も過ぎていかない。
何も失っていかない。

そこにあるのは、今という「現実」。
現実があるだけ。
数字に惑わされてはいけない。
2009年だろうが、2010年だろうが、
そんなことは、私たちには関係ない。
私たちは、今という「現実」を懸命に生きる。
それだけを考えて生きる。

つまりこういうばあい、「数字」というのは、あくまでも
便宜上のものでしかない。

それがわからなければ、野に遊ぶ鳥や動物を見ればよい。
人間以外に、年や年齢を気にして生きている鳥や動物が
いるだろうか。
年齢にしても、そうだ。
気にならないと言えば、ウソになる。
しかし年や年齢という「数字」など気にしてはいけない。
気にする必要もない。
私たちは、今の今も、そこにある「現実」に向かって、
まっしぐらに進んでいく。
その上で、こう考えればよい。

「ああ、もうすぐ2010年なのか」と。

(2009年12月28日記)

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●年齢

 一度できあがってしまった(常識)を打ち破るのは、容易なことではない。
その地域全体の人が、同じように考えている。
そういうところでは、なおさら容易なことではない。

たとえばG県の田舎へ行くと、今でも年長風を吹かしている人は多い。
家父長風を吹かしている人も多い
たった数歳年上というだけで、威張っている。
父親というだけで、威張っている。

 こうした意識の根底にあるのが、「数字」。
年齢という数字。
言うなれば、「金持ちほど偉い」という、金権教の信者と同じ。
本来意味のないものにしがみつきながら、意味があるものと思い込んでいる。
それが意味がないものと、気がつくこともない。
またそれを認めることは、自己否定につながる。
そういう生き方そのものが、その人の哲学になっている。
だからよけいに、しがみつく。

●年齢という数字

 何歳であっても、私は私。
あなたはあなた。
今年が何年であっても、今年は今年。
今は今。
大切なのは、今、何歳かということではなく、今まで生きてきた蓄積が、私やあなたの中に、ど
れだけあるかどうかということ。
それがあればよし。
が、それがないなら、あなたが何歳であっても、あなたは、「ただの人」(ハイデッガー)。
数字という年齢をとることだけなら、だれにだってできる。
つまり、繰り返しになるが、「数字」には、意味がない。
まったく意味がない。
まず、私たちは、それを知る。
しっかりと肝に刻み込む。

●幻想

 ・・・こう書くと、「老人の強がり」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分がこの年齢になってみて気がついたことがある。
老人ほど、人生の経験者」というのは、ウソ。
「人格者」というのは、さらにウソ。
まさに幻想。
地位や肩書きなどというのは、その人を飾るカラスの羽のようなもの。
イソップ物語に出てくる、あの話である。
一羽のカラスが、自分を美しく見せようと、自分の体を、いろいろな鳥の羽で飾ろうとする。
それと同じ。
自分では美しくなったつもりでいるかもしれないが、まわりの人たちは、それを見て、「バカ」と
思う。
笑う。

 老人になればなるほど、愚劣になっていく人は、いくらでもいる。
またそういう人のほうが、多い。
だから私は、あえて言う。
「年齢」という「数字」には、意味はない、と。

●中身

 大切なのは、今という「現実」を、どう生きるているかということ。
今という「現実」の中で、自分がすべきことを、しっかりとしているかどうかということ。
そのために、今という「現実」を、しっかりと見据えているかどうかということ。
それには、若いも老いもない。
いくら若くても、死んだも同然。
そんな人は、いくらでもいる。
いくら年を取っていても、前向きに生きている人は、いくらでもいる。
大切なのは、中身。
中身で決まる。
その中身の追求こそが、「生きる」ということになる。

 ・・・とは言いつつ、「数字」はたしかに節目にはなる。
そのつど今の自分を、反省することはできる。
もし年数という「数字」、年齢という「数字」がなければ、生活に対する緊張感も半減する。
「数字」があるから、そこから緊張感が生まれてくる。
(もちろん何ら緊張感をもたないで生きている人も、多いが・・・。)
言うなれば、ウォーキング・マシンでいうタイマーのようなもの。
タイマーがあるから、「がんばろう」という気持ちがわいてくる。
「2010年も、がんばるぞ!」と。

●今という「現実」

 ともあれ、節目としての2009年は、もうすぐ終わる。
で、振り返ってみれば、あっという間に終わった。
・・・というより、「数字」がどうであれ、私は今までどおり、前に向かって懸命に生きていく。
今という「現実」は、(今まで生きてきたこと)の結果であり、同時に、(これから生きる人生)の
出発点でもある。
生物学的に言うなら、私たちは常に死に、常に生き返る。
だったら今そこにある「現実」に向かって、まっすぐに生きていく。
「過去」とか「未来」とかいう言葉に、惑わされてはいけない。
過去など、どこにも、ない。
未来など、さらにどこにも、ない。

 だから・・・。
今、できることは、今、する。
今、すべきことは、今、する。
懸命にする。

【補記】

 「数字」にこだわる人は多い。
先に書いたように、たった数歳年上というだけで、年長風を吹かしたりする。
このタイプの人は、当然のことながら、年号や年数にこだわる。
たとえばある宗教団体では、入信年月日によって、信者の上下関係が決まるという。
年齢ではない。
信仰していた年数で決まる。
だから、50歳、60歳の人が、30歳、40歳の人に、頭をさげたりする。
「信心歴が長ければ長いほど、その人は、上」というわけである。

 バカげた考え方だが、信仰の世界に入ってしまうと、それがわからない。
同じように、年長風を吹かす人もそうだ。
言うなれば、『年齢教』というカルトの信者。
「年上」というだけで、威張っている。
「年下」というだけで、「下」にみる。
偉そうに説教をしたりする。
それがおもしろいほど、極端なので、思わず笑ってしまう。
 
 このタイプの人は、当然のことながら、「長生きすればするほど、人生の勝利者」というふうに
考える。
「数字」が、価値判断の基準となる。
だから幸福感も、「数字」による。
しかも相対的。
隣の人よりも、金持ちであれば、幸福。
隣の人よりも、貧乏であれば、不幸、と。
ふつうはケチで、小銭にうるさい。
そういう点では、一貫性(?)がある。

が、誤解してはいけない。 
長生きすることが無駄というのではない。
金を稼ぐことが無駄というのではない。
しかしどちらであるにせよ、「数字」に毒されると、「人生」そのものを無駄にする。
それに気がつけば、まだよい。
ふつうはそれにすら気づかないまま、無駄にする。
そういう人は、どこまでもあわれで、かわいそうな人ということになる。
ハイデッガーの説いた、「ただの人」というのは、そういう人をいう。

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「ただの人」については、
たびたび書いてきた。
つぎのは2008年4月に
書いたもの。

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【ただの人(das Mann)】
Along with getting old, most people is to become just a "man", so-called "das Mann". But 
nobody agree that this is the goal of our lives. We have what we should have to do toward 
the of the lives. Then how can we find it?

●生きているだけもありがたい

若いときの20歳。
壮年期の終わりにやってくる60歳。
これら2つの年齢は、人生にとって、大きな節目となる年齢である。

20歳という年齢を、人生への入り口とするなら、
60歳という年齢は、人生からの出口ということになる。
民間企業では、50歳を過ぎるころからリストラが始まり、60歳になると、ほとんどの人は退
職、ということになる。
役所の人たちも、60歳を境に、それぞれの天下り先へと転職していく。

もっとも60歳まで、無事生きてこられたというだけでも、ありがたい。
御の字。
感謝しなければならない。
すでにこの世を去った人も多い。
ざっと見ても、約5%の人が、亡くなっているのではないか。
健康や精神を病み、生きていくだけで精一杯という人も多い。
経済的に行きづまった人となると、もっと多い。

さらにこの年齢になると、それまで隠しもってきた持病が、どんと前に出てくる。
持病だけではない。
人間性そのものも、そのまま前に出てくる。
わかりやすく言えば、化けの皮が、はがれる。

が、それだけではない。
そのころになると、それまでの人生観を変えることなど、夢のまた夢。
小ズルイ人は、死ぬまで小ズルイ。
守銭奴は、死ぬまで守銭奴。

●老後の人間性

よく誤解されるが、そしてほとんどの若い人たちは、そう思っているかもしれないが、歳をとれ
ば、人間性が豊かになるというのは、ウソ。
むしろ、人間性は、後退する。

その年齢になった私が言うのだから、まちがいない。
ただ人づきあいが、見た感じ、丸くなるということはある。
しかしそれとて、進歩してそうなるのではなく、生命力そのものが弱体化して、そうなる。
よい例が、老人ホームにいる老人たちである。
みな、穏やか過ぎるほど、穏やかな顔をしている。
だからといって、そういう老人たちが人格者などとは、だれも思わない。

が、それだけではない。
さらに恐ろしいことがある。

●老化する脳

そのころになると、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、知識がどんどんと消えて行く。
年齢に比例して、その量は多くなる。
しかしそうなりながらも、その人自身は、それに気がつかない。
脳のCPU(中央演算装置)のクロック数そのものが低下するから、脳の働きが鈍くなったこと
すらわからない。

先日も、どこか(?)な女性(65歳くらい)に会った。
話している内容に、一貫性がなかった。
そこで私が、「私はあなたが思っているほど、バカではないと思いますが……」と言ったときの
こと。
その女性は、何を思ったか、こう叫んだ。
「私だって、バカではありません!」と。

このように脳の機能全体が低下してくると、低下していること自体、わからなくなる。
そしてあとは加速度的に、老化だけが、どんどんと進んでいく。
脳の病気にかかれば、なおさらである。

が、それで終わるわけではない。
最後の最後に、とどめの一発がある。

生きがいの喪失である。

●統合性と生きがい

この日本では、「庭いじりと孫の世話をすること」を、理想の老後生活と考える人は多い。
そういう理想像(?)が、いつしかできあがってしまった。
しかしそれはとんでもない、まちがい!
少なくとも、世界の常識ではない。

では、どうあるべきか?

老後を迎えたら、(すべきこと)を見つけ、それに向かって、前に進む。
(したいこと)ではない。
(すべきこと)に向かって、前に進む。
それをエリクソンという学者は、「統合性の確立」と呼んだ。

この統合性の確立に失敗すると、老後は、あわれでみじめなものになる。
それこそ「死の待合室」に放り込まれたような状態になる。
もっとも、この段階で、それに気づく人は、まだよいほう。
救われる。
大半の人は、死の待合室にいることさえ気づかないまま、ささいな夢や希望に、自分をつなぐ。
自分をなぐさめる。
あきらめる。

つまらない人生を送りながら、それをつまらないとも思わない。
というのもこの問題は、あくまでも相対的なもの。

●統合性の内容

統合性といっても、程度の差がある。
それこそマザーテレサのように、崇高な統合性を確立した人もいる。
私のように、HPの更新程度のことに、生きがいを求める人もいる。

程度……、つまり統合性の次元は、より自分の次元が高くなってはじめて、より低い人の次元
がわかるようになる。
わかりやすく言えば、次元の高い人からは、低い人がよくわかる。
しかし次元の低い人からは、次元の高い人は、わからない。
恐らく、理解もできないのではないか?
中には、「そんなことは、むだ」と否定してしまう人もいる。
先日会った、O氏(65歳)もその1人。
O氏は、こう言った。

「あのね、林さん、総理大臣をやったような人でも、死ねばおしまいだよ。10年もすれば、みな
に忘れられてしまう。残るのは、印刷された名前だけだよ」と。

「だから、人生というのは、したいことをして楽しむにかぎる」と。

しかしO氏のような生き方では、さらに何も残らない。
「生きた」という実感すら、もてないのではないか?

真理の探求を例にあげてみる。

●感動のある人生

こんな私でも、ものを書いていて、何か新しいことを発見したときには、ゾクゾクするほど、感動
する。
その感動こそが、私の生きがい。
生きがいとなって、私を支えてくれる。
研究者や芸術家なら、なおさらであろう。

しかもそうすることによって、自分の(命)を、つぎの世代に伝えることができる。
わかりやすく言えば、自分を超えて、さらにつぎの世代の中で、生きることができる。
だから私は、O氏には悪いが、こう思った。

「かわいそうな人だ」「たったひとつしかない人生を、無駄にしている」と。

さて、60歳。
この年齢になると、闘わなければならないものが、いくつかある。

肉体の健康もそうだが、脳の健康も、維持しなければならない。
しかし何よりも大切なのは、統合性を確立し、その統合性に、自分を一致させていくこと。
その努力を怠ると、それこそ、そこらのオジチャン、オバチャン(失礼!)と同じ運命をたどるこ
とになる。

繰りかえすが、ハイデガーは、軽蔑の念をこめて、そういう人たちを、「ただの人(das Mann)」と
呼んだ。

「ただの人」になることだけは、何としても避けなければならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 ハイデッガー ただの人 das Mann 統合性)


林 浩司++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●教師と女生徒

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数日前、どこかの高校教師が教え子と
性的関係をもったとかで、逮捕された。
高校教師の年齢は、36歳。
たびたびホテルで密会を重ねていたという。
で、それについて当の高校教師は、「まじめな恋愛
だった」と主張(=弁解?)しているという。
つまり(遊び)ではなく、(真剣)だった、と。

その男性教師に妻子がいたかどうかは、報道の
記事だけではわからない。
勤め先の高校を懲戒免職になったということは、
書いてあった。
懲戒免職は当然としても、しかしひょっとしたら、
その高校教師が主張しているように、その関係は
真剣なものであったかもしれない。
「女生徒のほうから、抱きついてきたりした」と
いうようなことも、書いてあった。

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●(女の子)が、「女」になるとき

 私は若いころから、幼稚園の年中児から、高校3年生まで、一日というサイクルの中で教え
ている。
最近は、生徒の数も減り、以前ほど密度は濃くはいが、それでも基本的には、今も同じ。
そういう教え方をしていると、子どもの変化が、やはり1日というサイクルの中で、わかるように
なる。

 そうしたサイクルの中で、それまで(女の子)だった子どもが、「女」になっていく様子を、たび
たび経験している。
何でもない女の子でも、性的な経験をしたとたん、「女」になる。
男の子については、わかりにくい。
しかし女の子は、それがよくわかる。
おもしろいほど(失礼!)、よくわかる。
艶(なまめ)かしくなるというか、強烈な(性)を外に向かって発するようになる。
「ウフ〜ン」とか言って、体をよじらせたりする。

●積極的な女の子

 早い子どもで、中学2、3年生ごろからではないか。
最近は、携帯電話を介しての男女交際も活発になってきた。
もう少し低年齢化している。

 で、私も、若いころは、それなりに「男」に見られた時期もある。
何かを教えている最中に、足先で私の足を、ものほしそうに、こすりつけてきた女の子(中2)も
いた。
電話で私を外へ呼び出した女の子(高2)も、いた。
いろいろあった。

 しかしいつもそれ以上に発展しなかったのは、相手の女の子のためというよりは、私自身に
原因があった。
私は学生のころから、女性に対して、まったくと言ってよいほど、自信がなかった。
失恋したのも、大きな痛手となった。
加えて、私の世界では、ほんの小さな(うわさ)ですら、命取りになる。
いつも気がつかないフリをして、その場をやり過ごしてきた。

●油断

 で、私は何とか無事(?)、40数年を過ごしてきた。
「何とか」と書いたのは、そういった誘惑(?)と闘うというのは、簡単なことではない。
人間がもつ欲望というのは、それほどまでに強力。
あとは油断の問題。

 ただひとつ、事件になった教師と私のちがいと言えば、学校の教師にとっては、生徒と問うの
は、向こうから来るもの。
私にとって生徒というのは、こちらから頭をさげて、来てもらうもの。
この(ちがい)が、そのまま(きびしさのちがい)となる。
それだけ。
だから今でも、「もしあのとき・・・」と考えるときがある。
言い換えると、私と先に書いた教師は、どこもちがわない。
この文章を読んでいるあなたとも、ちがわない。
あなたの夫とも、ちがわない。

 だからこういう記事を読んだりすると、その教師を責める前に、「自分でなくてよかった」と、ほ
っと胸をなでおろす。

●理性の力

 ただ誤解しないでほしいのは、だからといって、そういう教師を擁護しているのではない。
逮捕され、懲戒免職になったところで、だれも同情しない。

が、その一方で、「だれがそういう教師を、石をもって打てるか」という問題もある。
マスコミは、鬼の首でも取ったかのように騒ぐが、ではそのマスコミに、それをする資格がある
かといえば、それは疑わしい。
彼らがそういう事件とは無関係でいられるのは、そういう立場にいないから。
政治家とワイロの関係を考えてみれば、それがわかる。

先にも書いたように、人間の欲望というのは、それほどまでに強力。
理性の力でコントロールできるような、代物ではない。
ましてや、「女性との方から抱きついてきたりした」という状態であれば、防ぎようがない。

 ……では、どうするか?

 何度も繰り返すが、(1)厳罰主義を貫く。
(2)教師と生徒の個人的な接触の場を、なくす。

 この2点を徹底するしかない。
こうした対処法は、すでに欧米では、常識化している。
日本も早急に、欧米を見習うべきではないのか。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●12月30日

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ここ数日間は、パソコンの引っ越しに時間を
取られた。
たいへんだった。
いちばん手間取ったのは、ハードディスクの
付け替え。
ついでにWINDOW7に、内臓ハードディスクを
取りつけようとした。
しかし肝心の端子が、巨大なグラフィックボードの
下に隠れて見えない。
手鏡とライトを使って、端子にコネクターを
取り付ける。
以前、ビスタ・マシーンで同じことをして、
端子を折ってしまった。
こういうばあい、マザーボード全体を交換する
しかないそうだ。
で、数万円の追加出費。

今回は慎重にした。
無事、すんだ。

・・・とまあ、いろいろある。
いろいろあって、2日もかかった。
この文章は、WINDOW7のワードで書いている。
今のところ快調!

で、その使い勝手。
文章を書くだけなら、ビスタもWINDOW7も、
それほど変わらない。
ホームページの編集に、ホームページを開いたり
保存したりするとき、「ウ〜ン、かなり速いな」という
印象をもつ。
しかしこれはOSによるのではない。
私のパソコンは、「i7の64ビットマシン」。
ハードディスクも、高速タイプに付け替えた。
それで速い。

明日から本格的に、WINDOW7に乗り換えるつもり。
あといくつか作業が残っている。

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●信頼感

 パソコンという道具は、完璧に作動しないと、どうも落ち着かない。
先ほども、WINDOW7(以下、W7)に、外付けハードディスクを付けてみた。
反応はあるが、エクスプローラーのほうで表示されない。
フォーマットもしてある。
ほかのパソコン(ビスタなど)では、ちゃんと表示される。

 そのときこんなことを考えた。
このところ(信頼性)を考えて、パソコンの周辺装置は、「日本製」を使っている。
C国製は、価格は安いが、どうも・・・?
外付けのハードディスクは、日立製の1テラバイト。
「日本製なら、だいじょうぶ」と。

 つまり日本製だと、「故障しているはずがない」という前提で、ものを考える。
あちこちをいじる。
が、これがC国製だったりすると、「ひょっとしたら、ハードディスクのほうが壊れているのかな」
と心配になる。
不安になる。
そういう点では、パソコンの世界でも、信頼関係が大切。

どこか教育の世界と同じだな、と。
パソコンの周辺機器は、多少価格が高くても、日本製にかぎる。

 で、ここからが私の性分。
今すぐ外付けハードディスクを使うわけではない。
ないが、完璧に作動しないと、どうも落ち着かない。
なぜか?

 ひとつには、パソコンという機械は、中身を見ても、何がなんだか、さっぱりわからないという
ことがある。
何かの不調があったりすると、とたんに不安になるのは、そのため。
だからいろいろな機器を取り付けたり、はずしたりして、完璧さを確かめる。
パソコンの世界では、完璧であることが、何よりも大切。
ほかの機械のように、「一か所くらいなら、壊れていてもいいや」というわけにはいかない。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●心の温かさvs冷たさ

+++++++++++++++++

今日になって、どっと忙しくなった。
朝から、動きっぱなし。
で、やっと今、……時刻は午後4時37分、
一息ついた。
疲れた。

残るは部屋の掃除だけ。
それは明日にしよう(12月30日)。

+++++++++++++++++

●「心」をもたない生物

 かなりSF的な話になる。
あくまでも、SFとして読んでもらったほうがよい。
こんな話である。

 つまり、あの爬虫類には、「心」が、あるかないということ。
トカゲとか、ヘビを頭に思い浮かべてみればよい。

 たとえば鳥類のばあい、雛をほかの動物が襲ったりすると、親鳥はその敵に向かって、猛然
と立ち向かっていく。
哺乳類では、さらにはげしく立ち向かっていく。
つまり鳥類や哺乳類には、「心」がある。

 では、爬虫類はどうか。
たとえばトカゲの親の目の前から、トカゲの子どもをさらってみる。
そのときトカゲの親は、自分の子どもを守ろうと、何らかの行動に出るだろうか。
が、私が知るかぎり、トカゲが、そうした行動に出たるという話を聞いたことがない。
ヘビにしても、そうだ。

 では、魚はどうか?

 ウ〜ン!

 ……魚も、そうした行動に出るという話を聞いたことがない。
さらに昆虫類にいたっては、そうした行動に出るという話を聞いたことがない。
言い換えると、爬虫類や魚類、昆虫類には、悲しみを理解する「心」がないということになる。

 だからといって、感情がないと言っているのではない。
喜びや怒りについては、わからない。
餌を見つけたときの攻撃心、餌を取りあうときの闘争心、餌にありついたときの喜びや満足感
などは、あるかもしれない。

が、私たち人間がもっているような(感情)は、爬虫類や魚、虫にはないと考えてよいのでは?
あるとしても、きわめて原始的なもの。
人間がもっているような感情とは、異質のものと考えるのが正しい。

●心の冷たい人

 人格の完成度は、他者との共鳴性で決まる(EQ論)。
ほかにもあるが、共鳴性が、もっとも重要。
他人の苦しみや悲しみを、いかに共有できるか。
共有できる幅の広い人を、人格の完成度の高い人という。
そうでない人をそうでないという。

 そこでこれは極端なケースだが、自分の子どもが危機的な状況になったばあいを考えてみよ
う。
どこかの国の独裁者に誘拐されたようなケースでもよい。
そのとき平然と構えていることができるとしたら、共鳴性は、かなり低いということになる。
(そんな人は、いないが・・・。)

 誘拐でなくても、他人の子どもが、目の前で危機的な状況になったばあいを考えてみよう。
そのとき平然と構えていることができるとしたら、共鳴性は、かなり低いということになる。

 トカゲやヘビを基準にするのも、おかしな話だが、そういう人の「心」は、トカゲやヘビと同じ、
ということになる。

●グレイ

 で、ここからが、SF的。
もし遺伝子操作か何かで、人間の知的能力をもったトカゲのような生物を作ったとしたら、その
生物は、どんな生物になるだろうか。
つまり知的能力は、人間並み。
「心」は、爬虫類並み。

 実は私はこのことを、映画『フォース・カインド』(The Fourth Kind)を観ているとき、考えた。
あの映画の中では、「ふくろう」に似た宇宙人が、つぎつぎと人間をさらっていく。
そのやり方というか、やり口が、実に荒っぽい。
乱暴。
子どもだって、平気でさらっていく。
人間だって、ほかの動物を捕獲するときは、麻酔銃などを使ったりする。
しかしあの映画の中に出てくる宇宙人は、そういうことはしない。
泣き叫んで抵抗する人間を、平気で(?)、さらっていく。

 で、「ふくろう」に似た宇宙人といえば、グレイがいる。
目だけがやたらと大きく、体や、それにつづく腕や足は、異常に細い。
身長もそれほど大きくないとされる。
夜中にそこに、その生物(?)を見たら、ふつうの人だったら、ふくろうと思うかもしれない。
一説によれば、あくまでも一説だが、そのグレイは、爬虫類を改造した生物ロボットと言われて
いる。
「信ずるか信じないかは、あなた次第」(「フォース・カインド」)ということになるが、もしグレイ
が、爬虫類の「心」をもっているとするなら、ありえない話ではない。

 子どもをさらわれる親の気持ちなど、理解できない。

●扁桃核
 
 そこで私たち自身について、考えてみたい。
人間だから、平等に、人間らしい「心」をもっているというのは、ウソ。
・・・というより幻想と考えてよい。
心の温かい人もいれば、そうでない人もいる。
自分が温かいからといって、ほかの人もそうであると考えてはいけない。
自分が冷たいからといって、ほかの人もそうであると考えてはいけない。
そしてここが重要だが、一度壊れた心、つまり冷たくなった心は、簡単には元に戻らない。
「話せばわかる」式の発想で、説教したくらいで、冷たくなった心を溶かすことはできない。

 で、最近の研究によれば、その鍵を握るのが、辺縁系の中にある扁桃核(扁桃体)とい言わ
れている。
何かよいことをすると、大脳のほうから信号が送られ、扁桃核が、モルヒネに似たホルモンを
分泌する。
そのホルモンが、脳内を甘い陶酔感で満たす。
こうして人間は、(よいことをする)ことが、(気持ちのよいこと)と知る。

 が、この段階で、扁桃核が大脳からの刺激に反応しなくなったとしたら……。
仮によいことをしても、甘い陶酔感で満たされることはない。
感情的に、無反応の状態になる。
それだけではないだろうが、「心」というのは、脳の中で、複雑なメカニズムを通して作られる。
「一度壊れた心は、簡単には元に戻らない」というのは、そういう意味である。

●心のすれちがい

 平たく言えば、人間には心の温かい人もいれば、そうでない人もいるということ。
心の温かい人からは、心の冷たい人がよくわかる。
しかし心の冷たい人からは、温かい人が理解できない。
親切にしてもらっても、相手の人が、「お人好し」か、「バカ」にしか見えない。

が、その一方で、心の温かい人にも、それがわからない。
「相手は喜んでいるはず」「うれしがっているはず」と考える。
が、実際には、そうでない。
そこで「?」となる。
心がすれちがう。

 ……といっても、心が温かい、冷たいといっても、相対的なもの。
より温かい人からみれば、あなただって、冷たい人になる。
心の温かい人は、どこまでも心が温かい。
冷たい人は、どこまでも冷たい。
それこそ道端で人が倒れていても、平気でそばを通り過ぎることだってできる。
さらに冷たくなれば……。
それこそトカゲやヘビのような心の持ち主に、なってしまうかもしれない。

●では、どうすればよいか

 ここから先は、教育の問題ということになる。
たとえば幼児でも、ぬいぐるみを見せたとき、うっとりするような目つきで見る子どももいる。
反対に、そうでない子どももいる。
大きなぬいぐるみを与えたりすると、「かわいい」と言って抱く子どももいれば、反対に足で蹴る
子どももいる。

 それだけで心の温かさを判断することはできないが、幼児ですら、心の温かさを感ずる子ど
ももいれば、そうでない子どももいる。

 結論から先に言えば、乳幼児期に、親の温かい愛情に恵まれた子どもは、心の温かい子ど
もになる。
この時期に、育児拒否や親の冷淡、無視、さらには虐待を経験すれば、子どもは、心の冷た
い子どもになる。

 このことは育児の常識といってもよい。
で、問題は、そのつぎ……というか、私たち自身のこと。
まず私たちは、(1)どうすれば、自分の心の温かさを知ることができるかということ。
つぎに、(2)「冷たい人間」とわかったとき、どうすれば、それを克服することができるかというこ
と。

 順に考えてみたい。

(1)どうすれば、自分の心を知ることができるか。
(2)自分が心の冷たい人間と知ったとき、どうすればよいか。

●自分の心を知る

 自分の心を知るというのは、実は、たいへんむずかしい。
どんな人も、自分の心を基準にして、「心」を考える。
だからどんな人も、「私はふつう」と考える。
心の温かい人は、温かい人なりに、「私はふつう」と考える。
心の冷たい人は、冷たい人なりに、「私はふつう」と考える。
だから他人の心がわからない。
自分の心も、わからない。

 が、ときどき、ゾッとするほど心の冷たい人に出会うときがある。
そういう人を知って、自分の心の温かさを知る。
反対に心の温かい人に出会うときがある。
そういう人を知って、自分の心の冷たさを知る。

 ただおかしなことに、心の冷たい人ほど、それを隠すためか、それとも自己嫌悪のためか、
人前では、ことさら自分のやさしさを強調することが多い。
「私、近所の独居老人のために、ボランティア活動をしてますの」と。
どこかおかしい。
どこか不自然。

一方、本当に心の温かい人は、静か。
そうした演技そのものを、必要としない。
だから心の動きも、自然。
これもその人が、本当に心の温かい人かどうかを知るための、ひとつの基準になるかもしれな
い。

●克服

 方法としては、(1)文化性を高める。
(2)人間性を高める。
こうした努力を、日々の中で実践していくしかない。

 文化性を高めるというのは、日々に人の心のすばらしさに感動するということ。
そのために芸術がある。
絵画でも音楽でもよい。
文学や映画でもよい。
そういうものに接して、自分の文化性を高める。

 また人間性を高めるということは、ずばり言えば、苦労をすること。
私も母の介護・・・というよりは、(母の介護そのものは何でもなかったので)、兄弟や親類との
確執を経験して、介護の苦しみを味わった。
その分だけ、それを理解するだけの心のポケットができた。
こうしたポケットを、できるだけ幅広く、かつ多く経験する。
経験するというより、乗り越える。

 そのときは苦しいかもしれない。
しかし乗り越えるたびに、自分がもつ人間性が、広く、かつ深くなっていくのを、実感として知る
ことができる。

 私自身は、もともと、心の冷たい人間だった。
今も、冷たい。
どうしてこうなったかということについては、いろいろ思い当るところがある。
が、それはそれとして、つまり過去を悔んでも、しかたない。
心の温かい人間をめざして、前向きにがんばるしかない。

 ただ、だからといって、私に聖人のような人間を求めてもらっても困る。
常に私は、(この程度の人間)でしかない。
だから私は、ひとつ心に決めていることがある。
簡単なことである。

(1)心の壊れた人とは、つきあわない。
(2)心の温かい人は、大切にする。

 私のように心の壊れた人間は、同じように壊れた人間と接すると、自分で自分がガタガタと崩
れていくのがよくわかる。
それがこわい。
だから、つきあわない。

●心の壊れた独裁者

 ところで話は、ぐんと現実的になる。
つい先日、韓国系のアメリカ人が、あのK国へ単独で不法入国していったという。
どこかのキリスト教団体に属する信者だという。
気持ちはわかるが、どこか狂信的(?)。
あまりにも現実離れしすぎている。
活動の仕方はいろいろあるだろう。
しかし・・・?
朝鮮N報は、つぎのように伝える。

 『・・・パクさんがK国の弱点である人権問題を取り上げ、金xx総書記を批判する手紙を所持
していたという点から、容易に解放できないとの分析もある。韓国政府当局者は「現在米朝関
係が悪いわけではないため、円満に解決されることを期待する」と語った。
一方、ロバート・パクさんが代表として活動するK国人権団体「北の同胞のための自由と生命2
009」は30日、ソウル汝矣島にある文化放送前で集会を開き、パクさんがK国に入境する前
に作成したメッセージを発表する。これには金xx政権の糾弾、K国にある政治犯収容所の閉
鎖、K国人権問題に対する全世界人の関心呼びかけなどの内容が含まれている』(朝鮮N報
(12・29)より)。

 こんな方法で、あのK国のあの金xxが、心を開くはずはない。
ないことは、K国情勢が少しでも理解している人なら、わかるはず。
なぜなら、理由は、簡単。
あの独裁者の心は、すでに壊れている。
壊れた人間に(善)を説いても、通じない。

 たまたまこの原稿を書いているとき、そんなニュースが飛び込んできたので、ついでに書いて
みた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 心の温かさ 冷たさ 壊れた心)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●2009年12月31日夜(大晦日)

●ちょうど1年前、こんなことを書いていた。

+++++++++++++++++

Death is the great leveller.
(死ねば、みな、同じ。)

+++++++++++++++++

「leveller」というのは、(皆を平等にするもの)という意味。
「ジーニアス英和辞典」には、「だれにでも平等に影響するもの」とある。
つまりどんな人でも、死ねば同じ、イコール、平等、ということ。
わかりきったことだが、それを受け入れるのは難しい。
「私だけは……」と思いたい気持ちもわかるが、例外はない。

で、金持ちも貧乏人も、地位のある人もない人も、名誉のある人もない人も、死ねば同じ。
つまり「Death makes us all equal(死は皆を平等にする)」。

ところで最近、私はこんなことを強く思う。
「死んだ人の時計は止まる」と。

たとえば私の隣人にR氏という人がいた。
亡くなって、もう5年以上になるが、その間、R氏についての時計は止まったまま。
ときどき「もう5年になるのか」と驚くときがある。

そう、私の記憶の中にあるR氏は、5年前のまま。
R氏との思い出にしても、ガラスの箱の中に閉じ込められたようになっている。
外から見えるには見えるが、断片的にしか見えない。
そこでじっとしているだけ。
外には出てこない。
言い換えると、私が死んだら、そのとき、私についての時計は止まる。
あなたが死んだら、そのとき、あなたについての時計は止まる。

こうして人はどこからともなくやってきて、またどこかへと去っていく。
この不思議さ。
この切なさ。

しかし元気なときには、それがわからない。
あえて(死)に背を向けて生きる。
(死)を蹴飛ばしながら生きる。
「金持ちになりたい」「地位や名誉がほしい」と。

しかしその果てに(死)が待っているとしたら、人は何のために生きているのか。
・・・そんなことを考えるのも、年末だからかもしれない。

で、少し前、郵便局でこんな会話を耳にした。
どこかの女性(90歳くらい)が、年金をおろした。
手には100万円ほどの札束を握っていた。
それについて、局員の男性が、大きな声でこう言っていた。

「あのね、おばあちゃん、ここでは1000万円までしか貯金はできないの。
国債も、1000万円までしか、買えないの」と。

それを理解できたのかどうかは知らないが、その女性は金を手さげに入れて、
郵便局を、ヨタヨタと歩きながら出て行った。
足は大きく外側へわん曲し、腰も曲がっていた。
歩くのもままならないといったふうだった。

それを見てワイフは、「だいじょうぶかしら?」と言った。
私は、「何のために?」と言った。

金がないのも困るが、しかし金というのは、元気なときに使ってこそ、生きる。
「どうせ皆、平等になる」というのなら、なおさらである。
地位や名誉にしてもそうだ。

私も最近、こんな経験をした。
私が発行しているメルマガ(電子マガジン)が、2008年度の「マガジン・オブ・
ザ・イヤー」に選ばれた。
6万3000誌もあるということだから、名誉なことにはちがいない。
しかしその喜びというのが、ほとんどといってよいほど、わいてこなかった。
10年前、あるいは20年前の私なら、飛び上がって喜んだことだろう。
あるいは出版の世界だったら、どさっと大金が舞い込んできたことだろう。
しかしそこはインターネットの世界。
何も変わらない。
何も起こらない。
もちろん金は入ってこない。
「HPのどこかで、宣伝してみよう」とは考えたが、「家族で祝賀会」というところ
までは考えなかった。

(死)という限界をそこに感ずるようになると、そういうことはどうでもよくなる。
私は私。
書きたいから書いているだけ。
それを他人がどう評価しようが、私の知ったことではない。
言い換えると、人は死に近づくにつれて、一次曲線的に、平等になっていく。
死がやってきたからといって、そのときストンと、平等になるわけではない。
すでに今、この瞬間、少しずつ平等に向かって、進んでいく。

だからこの格言をもう少し正確に書き換えると、こうなる。

「加齢は、人をより平等にする」と。
英語になおすと、「Aging makes man more equal」。

そしてこうも言える。

「死は、時計を止める」と。
英語になおすと、「Death stops each man's clock」。

ホント!
死んだ人は、本当に静かだ。
何も語らない。
何も動かない。
私も、あなたも、やがてすぐそうなる。
これには、先に書いたように、例外はない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●反省

 昨年の終わりは、かなり沈んでいた。
それでこういう文章を書いた。
(私はここ数年、年末になると決まって、インフルエンザにかかる。
インフルエンザにかかると、ものの考え方が、どうしても悲観的になる。)

で、何のために生きているかって?
いろいろ考える。
しかしいつも答は堂々巡り。
で、結論は、同じ。
「たまたま生きているから、生きていくしかない」と。
簡単に言えば、そういうことになる。
生きている以上、前に向かって生きていくしかない。
その先のこと・・・?

どう考えたところで、なるようにしかならない。
だったら今、精一杯、前向きに生きていくしかない。

 悪いことばかりではない。
いや、ここに生きているということ自体が、奇跡。
あのアインシュタインも、そう言っている。
まず、それを喜ぶ。

ものが見える。
音が聞こえる。
歩くことができる。
話ができる。
だれに対してというわけではないが、生きていることを感謝する。

 そこでもう一度、『死ねば、みな、同じ』という言葉について、考えなおしてみる。
この言葉を反対側から読むと、『生きている人は、みな、ちがう』という意味になる。
つまり、こう考えてみたらどうだろうか。

 『死ねば、みな、同じ』。
それはそのとおり。
が、だからといって、「生きていることには意味はない」と、とらえてはいけない。
『生きている人は、みな、ちがう』というところが、大切。
そこに、生きる意味があると考える。
つまりその(ちがい)を作るところに、生きる意味がある。

 そう言えば、以前、私にこう言った友人がいた。
「林君、総理大臣だってね、10年もすれば、みなの記憶から消えていくよ。
20年もすれば、覚えている人もいない。
だからね、苦労して総理大臣になっても、意味はない。
人生はね、楽しむことだよ」と。

 もちろん私たちは、名誉や地位のために生きているのではない。
名誉や地位というものがあるにしても、それはあとからついてくるもの。
ついてこなくても、構わない。
しかしそこに至るプロセスが大切。
プロセスの中から、無数のドラマが生まれる。
そのドラマに、生きる価値がある。

 友人は、結論として、「楽しむこと」と言った。
それはそのとおりだが、では、どうやって、何を楽しむか。
さらに言えば、真の楽しみとは何か。
家の中でゴロゴロしながら、バラエティ番組を見ることが、その(楽しみ)とは、だれも思わな
い。

 で、1年たった今、私はこう思う。

 『死ねば、みな、同じ』と言った人は、何もできなかった自分を正当化するために、そう言った
のではないか、と。
みなと同じように生きてきただけ。
だからそれを居直るために、『死ねば、みな、同じ』と。
つまりつまらない人生を送った自分を、そういう言葉で慰めているだけ。


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司※

●民主党・小沢一郎幹事長(陸山会は、マネーロンダリング・トンネル)(追記、改2)

++++++++++++++++++

それにしてもわかりにくいのが、金(=マネー)の流れ。
さらっと読んだだけでは、何がなんだか、よくわからない。
しかし「?」とは、思う。
思うが、そこまで。

私の脳みその活動が鈍ってきたためか?

++++++++++++++++++

●産経新聞

 産経新聞(09年1月1日)の記事をまず読んでみよう。
そのまま紹介させてもらう。

『・・・民主党の小沢一郎幹事長の資金管理団体「陸山会」が購入した土地をめぐる疑惑で、陸
山会会計事務担当だった民主党の石川知裕衆院議員(36)=北海道11区=が、独断で資金
移動できる状況になかったことが31日、関係者への取材で分かった。東京地検特捜部は小
沢氏が土地取引に絡む複雑な資金移動を認識していた疑いがあるとみて捜査。実態解明の
ため、小沢氏本人に任意で事情聴取することを検討するもようだ。

 特捜部は石川氏を政治資金規正法違反容疑で立件する方針で、通常国会開会前の1月中
旬までに刑事処分を決めるとみられる。

 関係者によると、陸山会は平成16年10月、東京都世田谷区の土地を約3億4千万円で購
入。複数の関連政治団体を経由するなどして、その直前に約4億円が陸山会に入り、直後に
約1億8千万円が入金された。その直後には4億円の定期預金が組まれ、小沢氏名義で4億
円を借り入れた。石川氏は任意聴取に「運転資金が足りず、小沢氏の個人資金約4億円を土
地代金に充てた」と説明している。

 石川氏は陸山会や関連政治団体の資金管理担当だったが、小沢氏か、小沢氏の意向を受
けた元会計責任者で公設第1秘書の大久保隆規被告(48)=政治資金規正法違反罪で公判
中=の指示がないと資金を動かすことができず、こうした複雑な資金移動を独断でできる状況
になかったという。

 特捜部は、(1)不記載とされる土地代金の原資は小沢氏の資金、(2)小沢氏名義で4億円
の融資を受けている、(3)19年に小沢氏本人に4億円が返済されているーことなどから、小沢
氏が資金移動を認識していた疑いもあるとみているもようだ』(以上、産経新聞)と。

●整理

 この記事に出てくる(数字)を整理してみる。

(1)平成16年10月、陸山会は、世田谷区の土地を、3億4000万円で購入した。
(2)その直前に、複数の関連政治団体を経由して、約4億円が陸山会に入った。
(3)「直後に※」1億8000万円が、「入金された※」。
(4)「直後には※」4億円の定期預金が組まれた。
(5)小沢氏名義で、4億円を借り入れた。(=小沢氏が、4億円の融資を受けた。)
(6)その(?)4億円を、3億6000万円の土地代金にあてた。

 この記事でわかりにくいところは、上記(※)の部分。
「直後」といっても、どの行為に対しての直後なのか?
また「入金された」というのは、どこへ入金されたことをいうのか?

 また産経新聞によれば、平成19年に、小沢氏本人に、4億円が返済されているという。
ざっと読んだだけでは、どこに事件性があるのか、私には、よくわからない。
(やはり、ボケたのか?)

●12月30日の産経新聞

 そこでこの事件(?)を、もう少し深く掘り下げてみる。
その前日の12月30日付けの産経新聞には、つぎのようにある。

『・・・問題となっているのは、東京都世田谷区にある小沢氏の自宅から約700メートルの土地
476平方メートル。現在は小沢氏の秘書寮が2棟建つ。陸山会は16年10月5日、都内の不
動産会社と約3億4千万円で売買契約を締結。手付金1千万円を支払い、同月29日に残金を
支払うことで合意した。

 残金は29日に支払われたが、登記は石川氏の要望で年明けの1月7日に行われた。この
支出を16年分の収支報告書に記載せず、17年分に記載したなどとして、石川氏らが政治資
金規正法違反罪で告発された。

 小沢氏は会見で「事務方の単純ミス。売買と登記の時間がずれることはある」と釈明したが、
不動産関係者は「手続き上、所有権の移転登記が1日遅れることは多々ある。しかし数カ月も
遅れることはまれだ。特別な意図があるとしか考えられない」といぶかしむ』(以上、産経新
聞)。

●再び整理

 再び数字を整理してみる。

(1)平成16年10月5日、陸山会は、3億4000万円で土地売買の契約をする。
(2)同月(10月)29日に、残金を支払うことで合意。
(3)残金は約束どおり、29日に支払われたが、登記は、翌年の平成17年の1月7日
に行われた。
(4)この支出を、16年度分の収支報告書には記載せず、17年度分に記載した。
(5)このため、石川氏らが、政治資金規正法違反罪で、告発された。

●登記の遅れ

 産経新聞の記事によれば、実際の売買は、平成16年10月29日に完了していることにな
る。
が、実際の登記は、約2か月と1週間後の、平成17年1月7日になされている。

 ふつう土地の売買をするときは、買い手の立場を保護するため、代金の支払いと同時に、所
有権移転の登記手続きを開始する。
悪意をもった所有者なら、二重売買、さらには三重売買をする可能性もある。
それを避けるために、売買手続きと同時に、即、登記手続きを開始する。

 が、なぜか、登記は、約2か月と1週間後の、平成17年1月7日になされている。
どうしてそういう操作が必要だったのか。
なぜ陸山会側は、平成16年ではなく、平成17年に、所有権の移転登記をしたのか。

●金の流れ

 ここまで読んで、先の疑問のいくつかは、解消した。

(1)「その直前」にというのは、土地代金を支払う、直前にという意味である。
(2)「直後に」というのは、4億円が陸山会に入金された直後にという意味である。

 ということは、小沢氏が土地を購入する直前には、陸山会には、4億円+1億8000万円=
計5億8000万円の資金が流入したことになる。

 その5億8000万円のうち、4億円で、定期預金が組まれた。
(だれの名義で組まれたかということは、書いてない。)
その定期預金を担保に、小沢氏は、小沢氏名義で、4億円を、銀行から借り入れた。
俗に言う、「預金担保」という方法である。

 たとえば1億円借りるとき、現金をもっている人は、まず1億円を銀行に預ける。
ふつう定期預金にする。
その1億円の定期預金を担保に、別枠で、1億円を借りる。
「銀行から借りた」という形をつくれば、原資の出所をあいまいにすることができる。
借り入れ利息も相殺され、より少額で済む。

●なぜ平成17年に?

 実際の売買は、平成16年になされた。
それが登記簿上では、平成17年に、移転登記がなされた。

 これには何か、特別な理由があるらしい。
単純に考えれば、「平成16年度の収支報告書には記載したくなかったから」ということらしい。
では、なぜ、平成16年度の収支報告書に記載したら、まずかったのか?

 ここで注目すべき点は、「陸山会」という政治団体の資金を担保にして、小沢氏自身が4億円
を借り、それを土地購入の原資としたということ。
わかりやすく言えば、小沢氏が、土地を買い、小沢氏名義にしたということ。
「陸山会」という法人名義ではない。
「小沢」という個人名義である。

 簡単に言えば、小沢氏は、陸山会という組織の資金を流用して、自分名義の土地を買った。
が、小沢氏にまつわる疑惑は、それだけではない。

●計10億円?

 産経新聞(12月30日)は、つぎのようにも伝えている。

 『民主党の小沢一郎幹事長の資金管理団体「陸山会」をめぐり、政治団体間の不可解な資
金移動や政治資金収支報告書の不記載の疑いが相次いで発覚している。告発されている平
成16年の土地取引だけでなく、19年にも小沢氏本人に4億円を支出しながら収支報告書に
記載していなかった疑惑も浮上。合わせて約10億円もの政治資金が不記載となっている可能
性がある。東京地検特捜部は年明けに、会計事務担当だった民主党の石川知裕衆院議員(3
6)を政治資金規正法違反容疑で立件する方向で実態解明を進めている』(以上、産経新聞)
と。

 世田谷の土地購入だけではなく、平成19年にも、同じような手口で、小沢氏は、陸山会から
4億円を引き出し、それを自分のものにしているという。
使途については不明だが、それがどうであれ、陸山会の政治資金として使うなら、わざわざこ
んな手の込んだ引き出し方をする必要はない。
陸山会から、直接、現金を持ち出せばよい。

 が、小沢氏は、そのつど、陸山会から金を引き出し、それを一度、(自分のもの)として、使っ
ている!
もっとも小沢氏に言わせれば、「民主党は、オレのもの」「陸山会の金は、オレのもの」というこ
とになる。
「だから陸山会の金を自由に、どう使おうと、オレの勝手」・・・とまで言っているかどうかは、知
らない。
しかしこれらの金の流れを順に追ってみると、小沢氏が、そう考えているとしか思えない。

●謎の平成17年

 が、最大の謎は、やはり平成17年1月7日である。
なぜ小沢氏は、実際の売買を、前年の10月29日にしておきながら、所有権の移転登記を、
平成17年1月7日にしたか?

 何かしらの理由があったとみるべきだが、残年ながら、私にはわからない。
単純に考えれば、平成16年の収支報告書に書くと、まずいことになると判断したためというこ
とになる。
が、こう考えたらどうだろうか。

平成16年に、5億8000万円の政治資金が陸山会に入った。
その年に、小沢氏がそれを担保に、4億円を借りた。
実際、その直前に、4億円の定期預金が組まれている。
その「陸山会の定期預金?」を担保に、小沢氏が、小沢氏名義で、4億円を借りている。
そしてその金で、小沢氏名義の土地を買った。

 やはり、これはまずい!

 そこで小沢氏は、知恵を働かせた。
登記を1年ずらせば、収支報告書は、別年度のものになる。
「隠す」ことはできないが、しかし「金の流れをわかりにくくする」ことはできる。
それで所有権の移転登記を、翌年の平成17年にずらした?

 こうした一連の金の流れは、小沢氏の視点で考えると理解できる。

●小沢氏の視点

 「民主党も陸山会も、オレのもの」
「だからそこへ入ってくる金は、オレのもの」
「オレがその金を自由に使って、何が悪い」と。
しかし法律がいろいろあって、自由に使うことはできない。
そこでどうするか?
・・・というより、あなたなら、どうするか?

 もっとも簡単な方法は、たとえば陸山会へ入ってくる政治資金を、銀行に預ける。
定期預金にしたあと、それを担保に、金を借りる。
ほかの役職の人間にはそれはできないが、幹事長になら、それができる。
その借りた金で、自分名義の土地を買う。
便宜上、つまり私利私欲のために土地を購入したと疑われないようにするため、その土地の
上には、秘書たちの寮を作る。
見かけ上は、民主党の土地、建物ということになる。

 こういうのを小細工という。
小沢氏は、その小細工を重ねた。

●東京地検特捜部

 正月早々、東京地検特捜部が動き出すという。
名目は、「複雑な資金の流れの究明」ということらしい。
しかしそれはあくまでも名目。
東京地検特捜部が、収支報告書の記載漏れ程度で動くはずがない。
言い換えると、私たちは、それだけでは納得しない。

 問題は、政治資金の流れそのもの。
「計5億8000万円(平成16年)という巨額の政治資金は、どこからどのようにして入ってきた
か」ということ。
つまり陸山会が、ひょっとしたら、闇献金(=ワイロ)のトンネルとして使われた可能性がある。
またそう考えると、一連の金の流れにまつわる疑問が、氷解する。

 もしそうなら、小沢氏は、陸山会の資金を私的に流用したのではない。
もともと小沢氏は、陸山会に入ってくる金を、自分の金と認識していた。
つまり小沢氏は、自分のところに集まる闇献金を、一度陸山会にプールした。
政治資金と見せかけるために、である。
そのプールした金を、ほとぼりが冷めるのを待ちながら、少しずつ自分のために使った。
言うなれば、陸山会は、汚い金を洗う、マネーロンダリング機関として、利用された。
だから小沢氏は、平気で(?)、陸山会の金を、私的に利用することができた。

 ・・・というところまで、メスが入るか、どうか。
またそこまでメスが入らないと、私たちは納得しない。
正月早々、たいへん気になる!

(2010年1月1日記)

【付記】

 同じく産経新聞(12・28)には、つぎのようにある。

『・・・陸山会は2004年10月、東京世田谷区の土地を約3億4000万円で購入した。だが、0
4年の収支報告書には記載せず、05年分に支出計上したとして、石川氏のほか、陸山会の
会計責任者だった公設秘書の大久保隆規被告=西松建設違法献金事件で公判中=らが、
政治資金規正法違反(虚偽記載)容疑で刑事告発されている。

 小沢氏側は土地購入の原資について、「4億円の定期預金を担保に金融機関から借りた4
億円を充てた」と説明していたが、融資を受ける前に土地代金の支払いは済んでいたことが判
明。陸山会の口座には土地購入の直前、収支報告書に記載されていない4億円以上の資金
が小沢氏関連の複数の政治団体から入金にされていたとされ、この簿外資金が土地代金など
に充てられていた可能性がある』(以上、産経新聞)と。

 この記事によれば、4億円の定期預金を担保に、金融機関から4億円を借りる前に、土地代
金の支払いは済んでいたことになる。

 産経新聞は、「収支報告書に記載されていない4億円以上の資金が小沢氏関連の複数の政
治団体から入金にされていたとされ、この簿外資金が土地代金などに充てられていた可能性
がある」と書いている。

 まともに記事を読めば、4億円を定期預金にしたのは、簿外資金を隠すためだったということ
になる。
つまり簿外資金で土地を買った。
しかしそれでは、簿外資金があったことが、バレてしまう。
そこであわてて、つまりそれをカモフラージュするために、新たに4億円を定期預金にして、そ
れを担保にお金を借りる。
つまり土地は、簿外資金ではなく、担保で借りたお金で買ったことにする。

 もしそうだとするなら、小細工に小細工を重ねたことになる。
東京地検特捜部は、「こうした巨額の資金を自由に操作できたのは、ただ1人だけ」と読んでい
る。
もちろん一介の事務担当者ができるようなワザではない。

【追記】(2)

●秘書が認める

 読売新聞(10・01・01)は、つぎのように伝える。
一部抜粋して、転載する。

『民主党の小沢一郎幹事長の資金管理団体「陸山会」が2004年に購入した土地の代金を政
治資金収支報告書に記載しなかった問題で、土地代金に充てられた現金4億円について、同
会の事務担当者だった石川知裕衆院議員(36)(民主)が東京地検特捜部の事情聴取に、
「小沢先生に資金繰りを相談し、現金で受け取った」と供述していることが、関係者の話でわか
った』と。

 このほかにも、石川議員が翌05年にも、別の現金4億円を同会の口座に入金しながら、収
支報告書への記載がないことも新たに判明している。特捜部は、この4億円も小沢氏から受け
取った可能性が高いとみて調べているという(同新聞)。

 土地取引を巡る資金移動で小沢氏本人の関与が明らかになるのは、今回が初めて。今後、
資金移動の経緯について、特捜部が小沢氏から任意で事情聴取するかどうかが焦点となりそ
うだという(同新聞)。

 『同会は04年10月29日、東京都世田谷区深沢の476平方メートルの土地を約3億4000
万円で購入した際、現金で用意した簿外の資金4億円を同会の口座に入金し、代金の支払い
に充てたことが判明している。

 関係者によると、石川議員は特捜部の事情聴取に、「当時の陸山会には土地を購入する資
金がなく、小沢先生に相談し、4億円を受け取った」と供述。4億円は小沢氏の個人資産で貸
付金として出してもらったと説明しているが、小沢氏が05年4月に衆議院に提出した資産等補
充報告書に、該当する貸付金の記載はない。

 石川議員が小沢氏から土地代金に充てる現金を受け取ったのは04年10月上旬とみられ
る。同月中旬以降、石川議員が同会の複数の口座に1000万〜5000万円程度に小分けに
して入金し、その後、同会の一つの口座に集めて、同月29日、土地の売り主の口座に送金す
るなどした。

(中略)

 一方、石川議員は05年3月にも、04年分とは別の現金4億円を受け取り、陸山会や小沢氏
の関連政治団体などの口座に分散して入金していた。同議員はこの4億円をいったん陸山会
の口座に集めた後、05年5月に一度に引き出していた。同会の05年分の収支報告書には、
この4億円の入出金に該当する記載はない。

 特捜部は、05年の4億円についても、小沢氏から受け取った資金だった可能性が高いとみ
て、政治資金規正法違反(不記載)に当たらないか調べる。

 小沢氏はこれまでの記者会見で、04年の土地購入を巡る問題について、「資金のことは聞
いていない」などと述べていた』(以上、読売新聞)。

●問題は、金の出所

 まともな金なら、こんな複雑な経緯を経て、外に出るはずがない。
まず、そこに注目しなければならない。
まともな金でないから、こういう複雑な操作が必要となる。
「石川議員が同会の複数の口座に1000万〜5000万円程度に小分けにして入金した」という
部分にも、それが表れている。

「4億円」という大金が、つぎつぎと登場し、闇から闇へと消えている。
いったい、これらの金は、どこからどのようにして、陸山会へ入ったのか?
一部は、小沢一郎名義の土地に化けたが、そのほかの金は、どこへ消えたのか?

 読売新聞は、最後の部分でこう書いている。

「小沢氏はこれまでの記者会見で、04年の土地購入を巡る問題について、『資金のことは聞
いていない』などと述べていた」と。
ここを読んで、がくりと肩を落としたのは、私だけではないだろう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 B
W はやし浩司 小沢一郎 民主党 陸山会 4億円)

●私見

 「民主党だから、自民党とはちがう」とだれしも考えた。
私もそう考えた。
が、フタをあけてみたら、中身は同じ・・・。
こうした現象は、ユングの「シャドウ論」を使って説明できる。

 民主党は自民党を反面教師として、あるときは自民党を攻撃し、いろいろ学んできたはず。
ところが自分で政権を取ってみると、当初こそ、いろいろと(ちがい)を強調してみせたが、時間
がたつにつれて、同じになってきた。
それもそのはず。
民主党は、自民党しか知らない。
自民党という「教師」しか知らない。
あるいは日本の政治を覆う、巨大な暗雲は、民主党くらいでは、どうしようもないのかもしれな
い。
むしろ自民党よりも、さらに邪悪な部分を引き継いでしまった。

 鳩山首相は、母親から、36億円という援助を受けながら、みじんも恥じていない。
ほかの人には何でもない話かもしれないが、私にとっては、そうでない。
私は結婚する前から、収入の約半分を、実家へ送り届けていた。
母親にだまされても、だまされても、送り届けていた。
その金銭的負担感というより、社会的負担感には、相当なものがあった。
40代のころには、経文を唱えないで、実家のあるM町には入ることができなかった。
それくらい、苦しんだ。
だからこそよけいに、鳩山首相の36億円が気になる。

 民主党は小沢氏が作りあげた政党かもしれない。
しかし今、その政党が、国盗物語よろしく、小沢一郎という個人の野心達成のために利用され
ようとしている。

 今、問われているのは、民主党の政権能力そのものよりも、民主党そのものがもつ自浄能
力である。
自浄能力を失ったとき、その政党は早晩、崩壊する。


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

【子育て・ワンポイント】

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●友を責めるな、行為を責めよ
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●あなたの子どもが、あなたからみて好ましくない友だちと交際を始めたら、鉄則はただ一つ。

友を責めるな、行為を責めよ、です。

つまりその行為のどこがどう悪いかだけを責めても、決して、相手の子どもの名前を出しては
いけません。

「あの子は、悪い子だから、つきあってはダメ」というのは、子どもに、友を取るか、親を取るか
の、択一を迫るようなもの。

子どもがあなたを取ればよし。そうでなければ、あなたとの間に、深刻なキレツを入れることに
なります。 

●一芸は聖域
________________________________________

●子どもの一芸は、聖域と考えます。よくある失敗例は、「成績がさがったから、(好きな)サッ
カーをやめなさい」と子どもに迫ること。

子どもから一芸をうばうと、子どもは、糸の切れた凧のようになってしまいます。

もちろん成績もさがります。

子ども一芸は、聖域と考えて、決して、侵してはいけません。 

________________________________________

●日本人は、あと片づけには、うるさいですね。しかしそれより大切なのは、あと始末です。

ジュースを飲んだら、そのコップを洗う。風呂から出るときは、アワを流すなど。

あと始末のしっかりできる子どもにするということは、責任感の強い子どもを育てることを意味
します。

ちなみに日本以外の国では、ものが散らかっていても、親は、子どもにほとんど、何も言いま
せん。
しかしあと始末には、うるさいです。
食後の皿洗いなど、家族全員でするのが彼らの習慣にもなっています。 

●親子の三角関係
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心理学の世界にも、「三角関係」という言葉がある。父親が母親の悪口を言ったり、批判したり
すると、夫婦の間に、キレツが入る。そして父親と母親、母親と子ども、子どもと父親の間に、
三角関係ができる。子どもが幼いうちはまだしも、一度、この三角関係ができると、子どもは、
親の指示に従わなくなる。つまりこの時点で、家庭教育は、崩壊する

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●逃げ場を大切に
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どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。子どもも、またしかり。子どもは、その逃げ場
に逃げ込むことによって、身の安全をはかり、心をいやす。たいていは自分の部屋ということに
なる。その逃げ場を荒らすようになると、子どもの心は、一挙に不安定になる。だから子どもが
逃げ場に逃げたら、その逃げ場を荒らすようなことはしてはいけない。 

●心はぬいぐるみで
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年長児にぬいぐるみを見せると、「かわいい」と言って、やさしそうな表情を見せる子どもが、約
80%。しかし残りの20%は、ほとんど、反応を示さない。示さないばかりか、中には、キックし
てくる子どもがいる。小学校の高学年児でも、日常的にぬいぐるみをもっている子どもは、約8
0%。男女の区別はない。子どもの中に、親像が育っているかどうかは、ぬいぐるみを抱かせ
てみるとわかる。 

●国語教育は、言葉から
________________________________________

子どもの国語力は、母親の会話能力によって決まる。たとえば幼稚園バスがやってきたとき、
「ほらほら、バス。ハンカチは? 帽子は? 急いで」というような言い方を、母親がしていて、ど
うして子どもの中に、国語力が育つというのか。そういうときは、めんどうでも、「バスがきます。
あなたは急いで、外に行きます。ハンカチをもっていますか。帽子をかぶっていますか」と話
す。そういう母親の会話力が、子どもの国語力の基本になる。 

●計算力は、早数えで
________________________________________

「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」と数えられるようになったら、早数えの練習をする。「イチ、ニ、サン
……」から、さらに、「イ、ニ、サ、シ、ゴ、ロ、シ、ハ、ク、ジュウ」と。さらに手をパンパンとたた
いてみせ、それを数えさせる。なれてくると、子どもは、数を信号化する。たとえば「2足す3」
も、「ピ、ピ、と、ピ、ピ、ピで、5」と。これを数の信号化という。この力が、計算力の基礎とな
る。 

●使えば使うほど、いい子
________________________________________

使えば、使うほど、子どもは、いい子になる。生活力も身につくが、忍耐力も、そこから生まれ
る。その忍耐力というのは、(いやなことをする能力)のことをいう。ためしに、あなたの子ども
に、台所のシンクにたまった生ゴミを始末させてみてほしい。「ハ〜イ」と言って、喜んで片づけ
るようなら、あなたの子どもは、その忍耐力のある子どもということになる。このタイプの子ども
は、学習面でも伸びる。 

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●やさしさは苦労から
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ためしにあなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうな表情をして歩いてみてほしい。
そのとき、「ママ(パパ)、助けてあげる!」と言って走り寄ってくればよし。そうでなく、テレビや
ゲームに夢中になっているようなら、かなりのドラ息子(娘)とみてよい。今は、(かわいい子)か
もしれないが、やがて手に負えなくなる。子どもは(おとなも)、自分で苦労をしてみてはじめて、
他人の苦労がわかるようになる。やさしさも、そこから生まれる。 

●釣りザオを買ってやるより……
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イギリスの教育格言に、「釣りザオを買ってやるより、いっしょに、釣りに行け」というのがある。
子どもの心をつかみたかったら、そして親子のキズナを太くしたかったら、いっしょに釣りに行
け、と。多くの人は、子どものほしがるものを与えて、それで子どもは喜んでいるはず。感謝し
ているはず。親子のキズナも、それで太くなったはずと考える。しかしこれは幻想。むしろ逆効
果。

●100倍論
________________________________________

子ども、とくに幼児に買い与えるものは、100倍して考える。たとえば100円のものでも、100
倍して、1万円と考える。安易に、お金で、子どもの欲望を満足させてはいけない。一度、お金
で、満足させることを覚えてしまうと、年齢とともに、その額は、10倍、100倍とエスカレートし
ていく。高校生や大学生になるころには、1000円や1万円では、満足しなくなる。子どもが幼
児のときから、慎重に! 

●子どもは、信じて伸ばす
________________________________________

心理学の世界にも、「好意の返報性」という言葉がある。イギリスの格言にも、「相手は、あな
たが相手を思うように、あなたのことを思う」というのがある。あなたがその人を、いい人だと思
っていると、その相手も、あなたをいい人だと思っている。しかしそうでなければそうでない。子
どものばあいは、さらにそれがはっきりと現れる。だから子どもを伸ばしたいと思うなら、まず
自分の子どもをいい子どもだと思うこと。子どもを伸ばす、大鉄則である。 

●強化の原理
________________________________________

前向きに伸びているという実感が、子どもを伸ばす。そのため、「あなたはどんどんよくなる」
「すばらしくなる」という暗示を、そのつど、子どもにかけていく。まずいのは、未来に不安をいだ
かせること。仮に子どもを叱っても、そのあと何らかの方法でそれをカバーして、「ほら、やっぱ
り、できるじゃない」と、ほめて仕上げる。 

●叱るときの原則
________________________________________

子どもを叱るときは、自分の姿勢を低く落とし、子どもの目線の高さに自分の目目線の高さを
あわせる。つぎに子どもの両肩を、やや力を入れて両手でつかみ、子どもの目をしっかりと見
つめて叱る。大声を出して、威圧したり、怒鳴ってはいけない。恐怖心をもたせても意味はな
い。中に叱られじょうずな子どもがいて、いかにも反省していますというような様子を見せる子
どもがいる。しかしそういう姿に、だまされてはいけない。

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●仮面に注意
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絶対的なさらけ出しと、絶対的な受け入れ。この基盤の上に、親子の信頼関係が築かれる。
「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味。あなたの子どもが、あなたの前で、そう
であればよし。しかしあなたの前で、いい子ぶったり、仮面をかぶったりしているようであれば、
親子の関係は、かなり危機的な状況にあると考えてよい。あなたから見て、「何を考えているか
わからない」というのであれば、さらに要注意。

●根性・がんこ・わがまま
________________________________________

子どもの根性、がんこ、わがままは、分けて考える。がんばって何か一つのことをやりとげると
いうのは、根性。何かのことにこだわりをもち、それに固執することを、がんこ。理由もなく、自
分の望むように相手を誘導しようとするのが、わがままということになる。その根性は、励まし
て伸ばす。がんこについては、子どもの世界では望ましいことではないので、その理由と原因
をさぐる。わがままについては、一般的には、無視して対処する。 

●アルバムを大切に
________________________________________

おとなは過去をなつかしんで、アルバムを見る。しかし子どもは、自分の未来を見るために、ア
ルバムを見る。が、それだけではない。アルバムには、心をいやす作用がある。それもそのは
ず。悲しいときやつらいときを、写真にとって残す人は、少ない。つまりアルバムには、楽しい
思い出がぎっしり。そんなわけで、親子の絆(きずな)を太くするためにも、アルバムを、部屋の
中央に置いてみるとよい。

●名前を大切に
________________________________________

子どもの名前は大切にする。「あなたの名前は、すばらしい」「いい名前だ」とことあるごとに言
う。子どもは、自分の名前を大切にすることをとおして、自尊心を学ぶ。そしてその自尊心が、
何かのことでつまずいたようなとき、子どもの進路を、自動修正する。たとえば子どもの名前
が、新聞や雑誌に載ったようなときは、それを切り抜いて、高いところに張ったりする。そういう
親の姿勢を見て、子どもは、名前のもつ意味を知る。

●子どもの体で考える
________________________________________

体重10キロの子どもに缶ジュースを一本与えるということは、体重50キロのおとなが、5本、
飲む量に等しい。そんな量を子どもに与えておきながら、「どうしてうちの子は、小食なのかし
ら」は、ない。子どもに与える量は、子どもの体で考える。

●カルシウムは、紳士をつくる
________________________________________

イギリスでは、「カルシウムは、紳士をつくる」と言う。静かで落ちついた子どもにしたかったら、
CA(カルシウム)、MG(マグネシウム)の多い食生活、つまり海産物を中心とした献立にする。
こわいのは、ジャンクフード。さらにリン酸添加物の多い、食べもの。いわゆるレトルト食品、イ
ンスタント食品類である。リン酸は、CAの大敵。CAと化合して、リン酸カルシウムとして、CA
は、対外へ排出されてしまう。

●すばらしいと言え、親の仕事
________________________________________

親が生き生きと仕事をしている姿ほど、子どもに安心感を与えるものは、ない。が、それだけで
はない。中に、自分の子どもに、親の仕事を引き継がせたいと考えている人もいるはず。そう
いうときは、常日ごろから、「仕事は楽しい」「おもしろい」を口ぐせにする。あるいは「私の仕事
はすばらしい」「お父さんの仕事は、すばらしい」を口ぐせにする。まちがっても、暗い印象をも
たせてはいけない。 

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●敏捷性は、はだしで
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将来、運動能力のある子どもにしたかったら、子どもは、はだしにして育てる。子どもは、足の
裏からの刺激を受けて、敏捷性(びんしょうせい)のある子どもになる。この敏捷性は、あらゆ
る運動能力の基本となる。分厚い靴下と、分厚い底の靴をはかせて、どうしてそれで敏捷性の
ある子どもになるのか。今、坂や階段を、リズミカルにのぼりおりできない子どもがふえてい
る。川原の石の上に立つと、「こわい」と言って動けなくなる子どもも多い。どうか、ご注意! 

●ジコチューは、精神の未熟性の証拠
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相手の心の中に、一度入って、相手の立場で考える。これを心理学の世界でも、「共鳴性」(サ
ロヴェイ「EQ論」)という。それができる人を、人格の完成度の高い人という。そうでない人を、
低い人という。学歴や地位とは、関係ない。ないばかりか、かえってそういう人ほど、人格の完
成度が低いことが多い。そのためにも、まず親のあなたが、自分の自己中心性と戦い、子ども
に、その見本を見せるようにする。

●役割形成を大切に
________________________________________

子どもが「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「すてきね」と言ってあげる。「いっしょ
に、お花を育ててみましょうね」「今度、図書館で、お花なの図鑑をみましょうね」と言ってあげ
る。こうすることで、子どもは、自分の身のまわりに、自分らしさをつくっていく。これを「個性化」
という。この個性化が、やがて、子どもの役割となり、夢、希望、そして生きる目的へとつながっ
ていく

●暖かい無視を大切に
________________________________________

自然動物保護団体の人たちが使う言葉に、『暖かい無視』という言葉がある。親の過干渉、過
関心、過保護、でき愛ほど、子どもに悪影響を与えるものは、ない。もしそういう傾向を感じた
ら、暖かい無視にこころがける。が、無視、冷淡、拒否がよいわけではない。同時に『ほどよい
親』にこころがける。「求めてきたときが、与えどき」と覚えておくとよい。とくに子どもがスキンシ
ップを求めてきたときは、こまめにそれに応じてあげる。

●父親の二大役割
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母子関係は重要であり、絶対的なものである。しかしその母子関係が濃密過ぎるのも、また子
どもが大きくなったとき、そのままの状態でも、よくない。その母子関係に、くさびを打ち込み、
是正していくのが、父親の役割ということになる。ほかに、社会性を教えるのも、重要な役割。
昔で言えば、子どもを外の世界に連れ出し、狩の仕方を教えるのが、父親の役割ということに
なる。

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●欠点はほめる
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子どもに何か、欠点を見つけたら、ほめる。たとえば参観授業で、ほとんど手をあげなかったと
しても、「手をもっと、あげなさい」ではなく、「この前より、手がよくあがるようになったわね」と言
うなど。子どもが皆の前で発表したようなときも、そうだ。「大きな声で言えるようになったわね」
と。押してだめなら、思い切って引いてみる。子どもを伸ばすときに、よく使う手である。 

●負けるが、勝ち
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ほかの世界でのことは、別として、間に子どもをはさんでいるときは、『負けるが勝ち』。これは
父母どうしのつきあい、先生とのつきあいの、大鉄則である。悔しいこともあるだろう。言いた
いこともあるだろう。しかしそこはぐっとがまんして、「負ける」。大切なことは、子どもが、楽し
く、園や学校へ行けること。あなたのほうから負けを認めれば、そのときから人間関係は、スム
ーズに流れる。あなたががんばればがんばるほど、事態はこじれる。 

●ベッドタイム・ゲームを大切に!
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子どもは(おとなも)、寝る前には、ある決まった行動を繰りかえすことが知られている。これを
ベッドタイム・ゲームという、日本語では、就眠儀式という。このしつけに失敗すると、子どもは
眠ることに恐怖心をいだいたり、さらにそれが悪化すると、情緒が不安定になったりする。いき
なりふとんの中に子どもを押しこみ、電気を消すような乱暴なことをしてはいけない。子どもの
側からみて、やすらかな眠りをもてるようにする。

●エビでタイを釣る
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「名前を書いてごらん」と声をかけると、体をこわばらせる子どもが、多い。年長児でも、10人
のうち、3、4人はいるのでは。中には、涙ぐんでしまう子どももいる。文字に対して恐怖心をも
っているからである。原因は、親の神経質で、強圧的な指導。この時期、一度、文字嫌いにし
てしまうと、あとがない。この時期は、子どもがどんな文字を書いても、それをほめる。読んであ
げる。そういう努力が、子どもを文字好きにする。まさに『エビでタイを釣る』の要領である。

●子どもは、人の父
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空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
私が子どものころも、そうだった。
人となった今も、そうだ。
願わくは、私は歳をとっても、
そうでありたい。
子どもは、人の父。
自然の恵みを受けて、
それぞれの日々が、そうであることを、
私は願う。

(ワーズワース・イギリスの詩人) 

●冷蔵庫をカラにする
________________________________________

子どもの小食で悩んだら、冷蔵庫をカラにする。ついでに食べ物の入った棚をカラにする。そ
のとき、食べ物を、袋か何かに入れて、思い切って捨てるのがコツ。「もったいない」と思った
ら、なおさら、そうする。「もったいない」という思いが、つぎからの買い物グセをなおす。子ども
の小食で悩んでいる家庭ほど、家の中に食べ物がゴロゴロしているもの。そういう買い物グセ
が、習慣になっている。それを改める。

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●正しい発音で
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世界広しといえども、幼児期に、子どもに発音教育をしないのは、恐らく日本くらいなものでは
ないか。日本人だから、ほうっておいても、日本語を話せるようになると考えるのは、甘い。子
どもには、正しい発音で、息をふきかけながら話すとよい。なお文字学習に先立って、音の分
離を教えておくとよい。たとえば、「昨日」は、「き・の・う」と。そのとき、手をパンパンと叩きなが
ら、一音ずつ、子どもの前で、分離してやるとよい。

●よい先生は、1、2歳年上の子ども
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子どもにとって、最高の先生は、1、2歳年上で、めんどうみがよく、やさしい子ども。そういう子
どもが、身近にいたら、無理をしてでも、そういう子どもと遊んでもらえるようにするとよい。「無
理をして」というのは、親どうしが友だちになるつもりで、という意味。あなたの子どもは、その
子どもの影響を受けて、すばらしく伸びる。 

●ぬり絵のすすめ
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手の運筆能力は、丸を描かせてみるとわかる。運筆能力のある子どもは、スムーズで、きれい
な丸を描く。そうでない子どもは、ぎこちない、多角形に近い丸をかく。もしあなたの子どもが、
多角形に近い丸を描くようなら、文字学習の前に、塗り絵をしてくとよい。小さなマスなどを、縦
線、横線、曲線などをまぜて、たくみに塗れるようになればよし

●ガムをかませる
________________________________________

もう15年ほど前のことだが、アメリカの「サイエンス」と雑誌に、「ガムをかむと、頭がよくなる」
という研究論文が発表された。で、その話を、年中児をもっていた母親に話すと、「では」と言っ
て、自分の子どもにガムをかませるようになった。で、それから4、5年後。その子どもは、本当
に頭がよくなってしまった。それからも、私は、何度も、ガムの効用を確認している。この方法
は、どこかボーッとして、生彩のない子どもに、とくに効果的である。 

●マンネリは、知能の大敵
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変化は、子どもの知的能力を刺激する。その変化を用意するのは、親の役目。たとえばある
母親は、一日とて、同じ弁当をつくらなかった。その子どもは、やがて日本を代表する、教育評
論家になった。こわいのは、マンネリ化した生活。なお一般論として、よく「転勤族の子どもは、
頭がいい」という。それは転勤という変化が、子どもの知能によい刺激になっているからと考え
られる。 

●本は、抱きながら読む
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子どもに本を読んであげるときは、子どもを抱き、暖かい息をふきかけながら、読んであげると
よい。子どもは、そういうぬくもりを通して、本の意味や文字のすばらしさを学ぶ。こうした積み
重ねがあってはじめて、子どもは、本好きになる。なお、「読書」は、あらゆる学習の基本とな
る。アメリカには、「ライブラリー」という時間があって、読書指導を、学校教育の基本にすえて
いる。 

●何でも握らせる
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子どもには、何でも握らせるとよい。手指の感覚は、そのまま、脳細胞に直結している。その感
触が、さらに子どもの知的能力を発達させる。今、ものを与えても、手に取らない子どもがふえ
ている。(あくまでも、私の印象だが……。)反面、好奇心が旺盛で、頭のよい子どもほど、もの
を手にとって調べる傾向が強い

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●才能は見つけるもの
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子どもの才能は、つくるものではなく、見つけるもの。ある女の子は、2歳くらいのときには、風
呂にもぐって遊んでいた。そこで母親が水泳教室に入れてみると、水を得た魚のように泳ぎ出
した。そのあとその女の子は、高校生のときには、総体に出るまでに成長した。また別の男の
子(年長児)は、スイッチに興味をもっていた。そこで父親がパソコンを買ってあげると、小学3
年生のときには、自分でプログラムを組んでゲームをつくるようにまでなった。子どもの才能を
見つけたら、時間とお金を惜しみなく注ぐのがコツ。

●してくれ言葉に注意
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日本語の特徴かもしれない。しかし日本人は、何かを食べたいときも、「食べたい」とは言わな
い。「おなかが、すいたア。(だから何とかしてくれ)」というような言い方をする。ほかに、「たいく
つウ〜(だから何とかしてくれ)」「つまらないイ〜(だから何とかしてくれ)」など。老人でも、若い
人に向って、「私も歳をとったからねエ〜(だから大切にしてほしい)」というような言い方をす
る。日本人が、依存性の強い民族だと言われる理由の一つは、こんなところにもある。 

●人格の完成度は、共鳴性でみる
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他人の立場で、その他人の心の中に入って、その人の悲しみや苦しみを共有できる人のこと
を、人格の完成度の高い人という。それを共鳴性という(サロヴェイ・「EQ論」)。その反対側に
いる人を、ジコチューという。つまり自己中心的であればあるほど、その人の人格の完成度
は、低いとみる。ためしにあなたの子どもの前で、重い荷物をもって歩いてみてほしい。そのと
きあなたの子どもが、さっと助けにくればよし。そうでなく、知らぬフリをしているようなら、人格
の完成度は、低いとみる。

●平等は、不平等
________________________________________

下の子が生まれると、そのときまで、100%あった、親の愛情が、半減する。親からみれば、
「平等」ということになるが、上の子からみれば、50%になったことになる。上の子は、欲求不
満から、嫉妬したり、さらには、心をゆがめる。赤ちゃんがえりを起こすこともある。それまでし
なかった、おもらしをしたり、ネチネチ甘えたりするなど。下の子に対して攻撃的になることもあ
る。嫉妬がからんでいるだけに、下の子を殺す寸前までのことをする。平等は、不平等と覚え
ておくとよい。

●イライラゲームは、避ける
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ゲームにもいろいろあるが、イライラが蓄積されるようなゲームは、幼児には、避ける。動きが
速いだけの、意味のないゲームも避ける。とくに、夕食後から、就眠するまでの間は、禁物。以
前だが、夜中に飛び起きてまで、ゲームをしていた子ども(小5)がいた。そうなれば、すでに
(ビョーキ)と言ってもよい。子どもには、さまざまな弊害が現れる。「ゲーム機器は、パパのも
の。パパの許可をもらってから遊ぶ」という前提をつくるのもよい。遊ばせるにしても、時間と場
所を、きちんと決める

●おもちゃは、一つ
________________________________________

あと片づけに悩んでいる親は、多い。そういうときは、『おもちゃは、一つ』と決めておくとよい。
「つぎのおもちゃで遊びたかったら、前のおもちゃを片づける」という習慣を大切にする。子ども
は、つぎのおもちゃで遊びたいがため、前のおもちゃを片づけるようになる。

●何でも半分
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子どもに自立を促すコツがこれ。『何でも半分』。たとえば靴下でも、片方だけをはかせて、もう
片方は、子どもにはかせる。あるいは途中まではかせて、あとは、子どもにさせる。これは子ど
もを指導するときにも、応用できる。最後の完成は、子どもにさせ、「じょうずにできるようにな
ったわね」と言って、ほめてしあげる。手のかけすぎは、子どものためにならない。 

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●(核)攻撃はしない
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子どもの人格そのものに触れるような、攻撃はしない。たとえば「あなたは、やっぱりダメ人間
よ」「あんたなんか、人間のクズよ」「あんたさえいなければ」と言うなど。こうした(核)攻撃が日
常化すると、子どもの精神の発達に、さまざまな弊害が現われてくる。子どもを責めるとして
も、子ども自身が、自分の力で解決できる範囲にする。子ども自身の力では、どうにもならない
ことで責めてはいけない。それが、ここでいう(核)攻撃ということになる。 

●引き金は引かない
________________________________________

仮に心の問題の「根」が、生まれながらにあるとしても、その引き金を引くのは、親ということに
なる。またその「根」というのは、だれにでもある。またそういう前提で、子どもを指導する。たと
えば恐怖症にしても、心身症にしても、そういった状況におかれれば、だれでも、そうなる。たっ
た一度、はげしく母親に叱られたため、その日を境に、一人二役の、ひとり言をいうようになっ
てしまった女の子(2歳児)がいた。乳幼児の子どもほど、穏やかで、心静かな環境を大切にす
る。 

●二番底、三番底に注意
________________________________________

子どもに何か問題が起きると、親は、そのときの状態を最悪と思い、子どもをなおそうとする。
しかしその下には、二番底、さらには三番底があることを忘れてはいけない。たとえば門限を
破った子どもを叱ったとする。しかしそのとき叱り方をまちがえると、外泊(二番底)、さらには
家出(三番底)へと進んでいく。さらに四番底もある。こうした問題が起きたら、それ以上、状況
を悪くしないことだけを考えて、半年、1年単位で様子をみる。 

●あきらめは、悟りの境地
________________________________________

押してもダメ、引いても、ダメ。そういうときは、思い切ってあきらめる。が、子どもというのは、
不思議なもの。あきらめたとたん、伸び始める。親が、「まだ何とかなる」「こんなはずはない」と
がんばっている間は、伸びない。が、あきらめたとたん、伸び始める。そこは、おおらかで、実
にゆったりとした世界。子育てには、行きづまりは、つきもの。そういうときは、思い切って、あ
きらめる。そのいさぎのよさが、子どもの心に風穴をあける。

●許して、忘れる
________________________________________

英語では、『FOR・GIVE(許す)& FOR・GET(忘れる)』という。この単語をよく見ると、(何か
を与えるために、許し、何かを得るために、忘れる)とも読める。何を、か? 言うまでもなく、
「愛」である。親は子育てをしながら、幾多の山を越え、谷を越える。それはまさしく、「許して忘
れる」の連続。その度量の深さによって、親の愛の深さが決まる。カベにぶつかったら、この言
葉を思い出してみてほしい。あなたも、その先に、一筋の光明を見るはずである。

●子育て、自由論
________________________________________

子育ての要(かなめ)は、「自由」。「自らに由らせる」。だから自由というのは、自分で考えさせ
る。自分で行動させる。そして自分で責任を取らせることを意味する。好き勝手なことを、子ど
もにさせることではない。親の過干渉は、子どもから考える力をうばう。親の過保護は、子ども
から、行動力をうばう。そして親のでき愛は、子どもから責任感をうばう。子育ての目標は、子
どもを自立させること。それを忘れてはいけない。

●旅は、歩く
________________________________________

便利であることが、よいわけではない。便利さに甘えてしまうと、それこそ生活が、地に足がつ
かない状態になる。……というだけではないが、たとえば旅に出たら、歩くように心がけるとよ
い。車の中から、流れるようにして見る景色よりも、一歩、一歩、歩きながら、見る景色のほう
が、印象に強く残る。しかし、これは人生そのものに通ずる、大鉄則でもある。いかにして、そ
のときどきにおいて、地に足をつけて生きるか。そういうことも考えながら、旅に出たら、ゆっく
りと歩いてみるとよい。 

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●指示は具体的に
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「友だちと仲よくするのですよ」「先生の話をしっかりと聞くのですよ」と子どもに言っても、ほとん
ど、意味がない。具体性がないからである。そういうときは、「これを○君にもっていってあげて
ね。○君、きっと喜ぶわよ」「学校から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話
してね」と言う。子どもに与える指示には、具体性をもたせるとよい。

●休息を求めて疲れる
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イギリスの格言に、『休息を求めて疲れる』というのがある。愚かな生き方の代名詞にもなって
いる格言である。幼稚園教育は小学校へ入学するため。小学校教育は、中学校へ入学する
ため。中学校や高校教育は、大学へ入学するため……、というのが、その愚かな生き方にな
る。やっと楽になったと思ったら、人生が終わっていたということにもなりかねない。

●子どもの横を歩く
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親には、三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを
歩く。そして友として、子どもの横を歩く。日本人は、概して言えば、ガイドと保護者は得意。し
かし友として、子どもの横を歩くのが苦手。もしあなたがいつも、子どもの手を引きながら、「早
く」「早く」と言っているようなら、一度、子どもの歩調に合わせて、ゆっくりと歩いてみるとよい。
それまで見えなかった、子どもの心が、あなたにも、見えてくるはず。

●先生の悪口は言わない
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学校から帰ってきて子どもが先生の悪口を言ったり、批評したりしても、決して、相づちを打っ
たり、同意したりしてはいけない。「あなたが悪いからでしょう」「あの先生は、すばらしい人よ」
と、それをはねかえす。親が先生の悪口を言ったりすると、子どもはその先生に従わなくなる。
これは学校教育という場では、決定的にまずい。もし先生に問題があるなら、子どもは関係の
ない世界で、処理する。 

●子育ては、自分で楽しむ
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子どもを伸ばすコツは、子どものことは、あまり意識せず、親が楽しむつもりで、楽しむ。その
楽しみの中に、子どもを巻き込むようにする。つまり自分が楽しめばよい。子どもの機嫌をとっ
たり、歓心を買うようなことは、しない。コビを売る必要もない。親が楽しむ。私も幼児にものを
教えるときは、自分がそれを楽しむようにしている。

●ウソは、ていねいにつぶす
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子どもの虚言にも、いろいろある。頭の中で架空の世界をつくりあげてしまう空想的虚言、あり
もしないことを信じてしまう妄想など。イギリスの教育格言にも、『子どもが空中の楼閣に住まわ
せてはならない』というのがある。過関心、過干渉などが原因で、子どもは、こうした妄想をもち
やすくなる。子どもがウソをついたら、叱っても意味はない。ますますウソがうまくなる。子ども
がウソをついたら、あれこれ問いかけながら、静かに、ていねいに、それをつぶす。そして言う
べきことは言っても、あとは、無視する

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/++++++++++++++++はやし浩司

●本物を与える
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子どもに見せたり、聞かせたり、与えたりするものは、いつも、本物にこころがける。絵でも、音
楽でも、食べ物でも、である。今、絵といえば、たいはんの子どもたちは、アニメの主人公のキ
ャラクターを描く。歌といっても、わざと、どこか音のずれた歌を歌う。食べ物にしても、母親が
作った料理より、ファミリーレストランの料理のほうが、おいしいと言う。こういう環境で育つと、
人間性まで、ニセモノになってしまう(?)。今、外からの見栄えばかり気にする子どもがふえて
いるので、ご注意!

●ほめるのは、努力とやさしさ
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子どもは、ほめて伸ばす。それはそのとおりだが、ほめるのは、子どもが努力したときと、子ど
もがやさしさを見せたとき。顔やスタイルは、ほめないほうがよい。幼いときから、そればかりを
ほめると、関心が、そちらに向いてしまう。また「頭」については、慎重に。「頭がいい」とほめす
ぎるのも、またまったくほめないのも、よくない。ときと場所をよく考えて、慎重に! 

●親が前向きに生きる
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親自身に、生きる目的、方向性、夢、希望があれば、よし。そういう姿を見て、子どももまた、
前向きに伸びていく。親が、生きる目的もない。毎日、ただ何となく生きているという状態では、
子どももまた、その目標を見失う。それだけではない。進むべき目的をもたない子どもは、悪
の誘惑に対して抵抗力を失う。子育てをするということは、生きる見本を、親が見せることをい
う。生きザマの見本を、親が見せることをいう。 

●機嫌はとらない
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子どもに嫌われるのを恐れる親は、多い。依存性の強い、つまりは精神的に未熟な親とみる。
そして(子どもにいい思いをさせること)イコール、(子どもをかわいがること)と誤解する。子ど
もがほしがりそうなものを買い与え、それで親子のキズナは太くなったはずと考えたりする。
が、実際には、逆効果。親は親として……というより、一人の人間として、き然と生きる。子ども
は、そういう親の姿を見て、親を尊敬する。親子のキズナも、それで太くなる。 

●うしろ姿の押し売りはしない
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生活で苦労している姿……それを日本では、「親のうしろ姿」という。そのうしろ姿を、親は見せ
たくなくても、見せてしまうものだが、しかしそのうしろ姿を、子どもに押し売りしてはいけない。
つまり恩着せがましい子育てはしない。「産んでやった」「育ててやった」「お前を大きくするため
に、私は犠牲になった」と。うしろ姿の押し売りは、やがて親子関係を、破壊する。

●親孝行は美徳にあらず
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日本では、親孝行を当然の美徳とするが、本当にそうか? 「お前の人生は、お前のもの。私
たちのことは心配しなくていいから、思う存分、この世界をはばたいてみろ」と、一度は、子ども
の背中をたたいてあげてこそ、親は、親としての責任を果たしたことになる。もちろんそのあ
と、子どもが自分で考えて、親孝行するというのであれば、それはそれ。しかし親孝行は美徳
でも何でもない。子どもにそれを強要したり、求めたりしてはいけない

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●「偉い」を廃語に!
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「偉い」という言葉を、廃語にしよう。日本では、地位の高い人や、何かの賞をとった人を、「偉
い人」という。しかし英語国では、日本人が、「偉い人」と言いそうなとき、「リスペクティド・マン」
という。「尊敬される人」という意味である。リスペクティド・マンというときは、地位や、名誉には
関係ない。その人自身の中身を見て、そう判断する。あなたの子どもには、「偉い人になれ」と
言うのではなく、「尊敬される人になれ」と言おう。 

●家族を大切に
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『オズの魔法使い』という、小説がある。あの中で、ドロシーという女の子は、幸福を求めて、虹
の向こうにあるというエメラルドタウンを冒険する。しかし何のことはない。やがてドロシーは、
真の幸福は、すぐそばの家庭の中にあることを知る。今、「家族が一番大切」と考える人が、8
0〜90%になっている。99年の文部省の調査では、40%前後でしかなかったから、これはま
さにサイレント革命というにふさわしい。あなたも自信をもって、子どもには、こう言おう。「この
世界で、一番大切なものは、家族です」と。 

●迷信を否定しよう
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子どもたちの世界では、今、占い、まじない、予言、超能力などが、大流行。努力して、自ら立
ちあがるという姿勢が、ますます薄らいできている。中には、その日の運勢に合わせて行動
し、あとで、「運勢が当たった」と言う子どもさえいる。(自分で、そうしただけなのだが……。)子
どもが迷信らしいことを口にしたら、すかさず、「そんなのはウソ」と言ってやろう。迷信は、まさ
に合理の敵。迷信を信ずるようになればなるほど、子どもは、ものごとを合理的に考える力を
失う。 

●死は厳粛に
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ペットでも何でも、死んだら、その死は厳粛にあつかう。そういう姿を見て、子どもは、「死」を学
び、ついで、「生」を学ぶ。まずいのは、紙か何かに包んで、ゴミ箱に捨てるような行為。決して
遊んだり、茶化したりしてはいけない。子どもはやがて、生きることそのものを、粗末にするよう
になるかもしれない。なぜ、ほとんどの宗教で、葬儀を重要な儀式と位置づけているかと言え
ば、それは死を弔(とむら)うことで、生きることを大切にするためである。生き物の死は、厳粛
に。どこまでも厳粛に。 

●悪玉親意識
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「私は親だ」というのが、親意識。この親意識にも、二種類をある。善玉親意識と、悪玉親意識
である。「私は親らしく、子どもの見本になろう」「子どもをしっかりと育てて、親の責任をはたそ
う」というのが、善玉親意識。一方、「親に向かって何よ!」と、子どもに対して怒鳴り散らすの
が、悪玉親意識。いわゆる『親風を吹かす』ことをいう。なお親は絶対と考えるのを、「親・絶対
教」という。

●達成感が子どもを伸ばす
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「ヤッター!」という達成感が、子どもを伸ばす。そんなわけで子どもが幼児のうちは、(できる・
できない)という視点ではなく、(がんばってやった・やらない)という視点で子どもを見る。たとえ
まちがっていても、あるいは不十分であっても、子どもががんばってしたようなら、「よくやった
わね」とほめて終わる。こまごまとした神経質な指導は、子どもをつぶす。 

●子どもは、下から見る
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子育てで行きづまったら、子どもは、下から見る。「下を見ろ」ではない。「下から見る」。今、こ
こに生きているという原点から見る。そうすると、すべての問題が解決する。昔の人は、こう言
った。『上見て、キリなし。下見て、キリなし』と。つまり上ばかり見ていると、人間の欲望には、
際限がなく、いつまでたっても、安穏とした世界はやってこない。しかし生きているという原点か
ら見ると、とたんに、すべての世界が平和になる。子育ても、また同じ

●失敗にめげず、前に進む
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「宝島」という本を書いたのが、スティーブンソン。そのスティーブンソンがこんな言葉を残してい
る。『我らが目的は、成功することではない。我らが目的は、失敗にめげず、前に進むことであ
る』と。もしあなたの子どもが何かのことでつまずいて、苦しんでいたら、そっとそう言ってみて
ほしい。「あなたの目的は、成功することではない。失敗にめげず、前に進むことですよ」と。

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●すばらしいと言え、親の仕事
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親の仕事は、すばらしいと言う。それを口ぐせにする。どんな仕事でも、だ。仕事に上下はな
い。あるはずもない。しかしこの日本には、封建時代の身分制度の名残というか、いまだに、
職業によって相手を判断するという風潮が、根強く残っている。が、それだけではない。生き生
きと仕事をしている親の姿は、子どもに、大きな安心感を与える。その安心感が、子どもの心
を豊かに育てる。

●逃げ場を大切に
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どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。その逃げ場に逃げこむことによって、身の安
全をはかり、心をいやす。子どもも、またしかり。子どもがその逃げ場へ入ったら、親は、そこ
を神聖不可侵の場と心得て、そこを荒らすようなことをしてはいけない。たいていは子ども部屋
ということになるが、その子ども部屋を踏み荒らすようなことをすると、今度は、「家出」というこ
とにもなりかねない

●代償的過保護に注意
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過保護というときは、その背景に、親の濃密な愛情がある。しかし代償的過保護には、それが
ない。子どもを親の支配下において、親の思いどおりにしたいというのを代償的過保護という。
いわば親自身の心のスキマを埋めるための、親の身勝手な過保護をいう。子どもの受験競争
に狂奔している親が、それにあたる。「子どものため」と言いながら、子どものことなど、まったく
考えていない。ストーカーが、好きな相手を追いかけまわすようなもの。私は「ストーカー的愛」
と呼んでいる。 

●同居は、出産前から
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夫(妻)の両親との同居を考えるなら、子どもの出産前からするとよい。私の調査でも、出産前
からの同居は、たいていうまくいく(90%)。しかしある程度、子どもが大きくなってからの同居
は、たいてい失敗する。同居するとき、母親が苦情の一番にあげるのが、「祖父母が、子ども
の教育に介入する」。同居するにしても、祖父母は、孫の子育てについては、控えめに。それ
が同居を成功させる、秘訣のようである。

●無能な親ほど規則を好む
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イギリスの教育格言に、『無能な教師ほど、規則を好む』というのがある。家庭でも、同じ。『無
能な親ほど、規則を好む』。ある程度の約束ごとは、必要かもしれない。しかし最小限に。また
規則というのは、破られるためにある。そのつど、臨機応変に考えるのが、コツ。たとえば門限
にしても、子どもが破ったら、そのつど、現状に合わせて調整していく。「規則を破ったから、お
前はダメ人間だ」式の、人格攻撃をしてはいけない。

●プレゼントは、買ったものは、ダメ
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できれば……、今さら、手遅れかもしれないが、誕生日にせよ、クリスマスにせよ、「家族どうし
のプレゼントは、買ったものはダメ」というハウス・ルールを作っておくとよい。戦後の高度成長
期の悪弊というか、この日本でも、より高価であればあるほど、いいプレゼントということになっ
ている。しかしそれは誤解。誤解というより、逆効果。家族のキズナを深めたかったら、心のこ
もったプレゼントを交換する。そのためにも、「買ったものは、ダメ」と。 

●子育ては、質素に
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子育ての基本は、「質素」。ときに親は、ぜいたくをすることがあるかもしれない。しかし、そうい
うぜいたくは、子どもの見えない世界ですること。一度、ぜいたくになれてしまうと、子どもは、あ
ともどりができなくなってしまう。そのままの生活が、おとなになってからも維持できればよし。そ
うでなければ、苦しむのは、結局は子ども自身ということになる。 

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●ズル休みも、ゆとりのうち
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子どもが不登校を起こしたりすると、たいていの親は、狂乱状態になる。そのときのためという
わけでもないが、自分の中に潜む、学歴信仰や学校神話とは、今から戦っていく。その一つの
方法が、「ズル休み」。ときには、園や学校をズル休みさせて、親子で、旅行に行く。平日に行
けば、動物園でも遊園地でも、ガラガラ。あなたは、言いようのない解放感を味わうはず。「そ
んなことできない!」と思っている人ほど、一度、試してみるとよい。 

●ふつうこそ、最善
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ふつうであることには、すばらしい価値がある。しかし、親たちには、それがわからない。「もっ
と……」「もう少し……」と思っている間に、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。よい例
が、過干渉であり、過関心である。さらに親の過剰期待や、子どもへの過負担もある。賢い親
は、そのふつうの価値に、それをなくす前に気づき、そうでない親は、それをなくしてから気づ
く。

●限界を知る
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子育てには、限界はつきもの。いつも、それとの戦いであると言ってもよい。子どもというのは
不思議なもので、親が、「まだ、何とかなる」「こんなはずではない」「うちの子は、やればできる
はず」と思っている間は、伸びない。しかし親が、「まあ、うちの子は、こんなもの」「よくがんばっ
ている」と、その限界を認めたとたん、伸び始める。皮肉なことに、親がそばにいるだけで、萎
縮してしまう子どもも、少なくない。 

●ほどよい親
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子どもには、いつも、ほどよい親であること。あるいは「求めてきたときが、与えどき」と覚えて
おくとよい。とくに、子どもが何らかの(愛の確認行為)をしてきたときは、すかさず、いとわず。
ていねいに、それに応じてあげる。ベタベタの親子関係がよくないことは、言うまでもない。 

●子どもの世界は、社会の縮図
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子どもの世界だけを見て、子どもの世界だけを何とかしようと考えても、意味はない。子どもの
世界は、まさに社会の縮図。社会に4割の善があり、4割の悪があるなら、子どもの世界にも、
4割の善があり、4割の悪がある。つまり私たちは子育てをしながらも、同時に、社会にも目を
向けなければならない。子どもがはじめて覚えたカタカナが、「ホテル」であったり、「セックス」
であったりする。そういう社会をまず、改める。子どもの教育は、そこから始まる。 

●よき家庭人
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日本では、「立派な社会人」「社会に役立つ人」が、教育の柱になっていた。しかし欧米では、
伝統的に、「よき家庭人(Good family man )」を育てるのが、教育の柱になっている。そのため
学習内容も、実用的なものが多い。たとえば中学校で、小切手の切り方(アメリカ)などを教え
る。ところで隣の中国では、「立派な国民」という言葉がもてはやされている。どこか戦後直後
の日本を思い出させる言葉である。

●読書が教育の要
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アメリカには、「ライブラリー」という時間がある。週1回は、たいていどこの学校にもある。つま
り、読書指導の時間である。ふつうの教科は、学士資格で教壇に立つことができるが、ライブ
ラリーの教師だけは、修士号以上の資格が必要である。ライブラリーの教師は、毎週、その子
どもにあった本を選び、指導する。日本でも、最近、読書の重要性が見なおされてきている。
読書は、教育の要である。 

●教師言葉に注意
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教師というのは、子どもをほめるときは、本音でほめる。だから学校の先生に、ほめられたら、
額面どおり受け取ってよい。しかしその反対に、何か問題のある子どもには、教師言葉を使
う。たとえば学習面で問題のある子どもに対しては、「運動面では問題ないですが……」「私の
指導力が足りないようです」「この子には、可能性があるのですが、今は、まだその力を出し切
っていませんね」というような言い方をする。

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●先取り教育は、幼児教育にあらず
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幼児教育というと、小学校でする勉強を先取りしてする教育だとか、あるいは小学校の入学準
備のための教育と考えている人は多い。そのため漢字を教えたり、掛け算の九九を教えたり
するのが、幼児教育と思っている人も多い。しかしこれは、まったくの誤解。幼児期には幼児期
で、しておくべきことが、山のようにある。子どもの方向性も、このころ決まる。その方向性を決
めるのが、幼児教育である。

●でき愛は愛にあらず
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でき愛を、「愛」と誤解している人は多い。しかしでき愛は、愛ではない。親の心のスキマをうめ
るための、親の身勝手な愛。それをでき愛という。いわばストーカーがよく見せる「愛?」とよく
似ている。たとえば子どもの受験勉強に狂奔している親も、それにあたる。「子どものことを心
配している」とは言うが、本当は、自分の不安や心配を解消するための道具として、子どもを利
用しているだけ。そしてベタベタの親子関係をつづけながら、かえって子どもの自立をzちゃまし
てしまう。

●悪玉家族意識
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家族のもつの重要性は、いまさら説明するまでもない。しかしその家族が、反対に、独特の束
縛性(家族自我群)をもつことがある。そしてその家族に束縛されて、かえってその家族が、自
立できなくなってしまうことがある。あるいは反対に、「親を捨てた」という自責の念から、自己
否定してしまう人も少なくない。家族は大切なものだが、しかし安易な論理で、子どもをしばって
はいけない。

●伸びたバネは縮む
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受験期にさしかかると、猛烈な受験勉強を強いる親がいる。塾に、家庭教師に、日曜特訓な
ど。毎週、近くの公園で、運動の特訓をしていた父親さえいた。しかしこうした(無理)は、一事
的な効果はあっても、そのあと、その反動で、かえって子どもの成績はさがる。「伸びたバネは
ちぢむ」と覚えておくとよい。イギリスの教育格言にも、『馬を水場に連れていくことはできても、
水を飲ませることはできない』というのがある。その格言の意味を、もう一度、考えてみてほし
い。

●利他度でわかる人格の完成度
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あなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうに歩いてみてほしい。そのとき、「ママ、も
ってあげる!」と走りよってくればよし。反対に、知らぬ顔をして、テレビゲームなどに夢中にな
ってれば、あなたの子どもは、かなりのどら息子と考えてよい。子どもの人格(おとなも!)、い
かに利他的であるかによって、知ることができる。つまりドラ息子は、それだけ人格の完成度
の低い子どもとみる。勉強のできるできないは、関係ない。

●見栄、体裁、世間体
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私らしく生きるその生き方の反対にあるのが、世間体意識。この世間体に毒されると、子ども
の姿はもちろんのこと、自分の姿さえも、見失ってしまう。そしてその幸福感も、「となりの人よ
り、いい生活をしているから、私は幸福」「となりの人より悪い生活をしているから、私は不幸」
と、総体的なものになりやすい。もちろん子育ても、大きな影響を受ける。子どもの学歴につい
て、ブランド志向の強い親は、ここで一度、反省してみてほしい。あなたは自分の人生を、自分
のものとして、生きているか、と。 

●私を知る
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子育ては、本能ではなく、学習である。つまり今、あなたがしている子育ては、あなたが親から
学習したものである。だから、ほとんどの親は、こう言う。「頭の中ではわかっているんどえす
が、ついその場になると、カッとして……」と。そこで大切なことは、あなた自身の中の「私」を知
ること。一見簡単そうだが、これがむずかしい。スパルタのキロンもこう言っている。「汝自身
を、知れ」と。哲学の究極の目標にも、なっている。

●知識はメッキ
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知識と思考力は、はっきりと区別する。もの知りな子どもイコール、賢い子どもということではな
い。もちろん人格的に高邁(こうまい)ということにもならない。脳みその中でも、使う部分そのも
のがちがう。大切なのは、思考力。自分で考える力である。それをみて、その子どもの能力を
判断する。 

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●作文の前に速書きを
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計算力は、算数の力の基礎である。計算力があるからといって、算数の力があるということに
はならない。しかし計算力がないと、算数の力を下へ引っ張ってしまう。同じように、速書きは、
作文力(表現力)の基礎である。速く書くことができるからといって、作文力があるということに
はならない。しかし速く書くことができないと、作文力を発揮できない。小1〜2レベルで、15分
間に、100〜150文字を筆写できるようにするのを目標とする。 

●国語力が学力の基礎
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理科は、理科的な国語、社会は、社会的な国語と考える。国語力(読解力、理解力、表現力)
のあるなしは、すべての科目に大きな影響を与える。「本を読む」、つまり読書の重要性は、今
さら説明するまでもない。方法としては、大きな図書館で、子どもを自由に遊ばせてみるとよ
い。それを定期的な習慣にする。 

●会話は正しい日本語で
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「ほら、バス、バス、バスよ」ではなく、「もうすぐ、バスが来ます。あなたは外に立って、バスを待
ちます」と言う。こうした正しい言い方が、子どもの国語力の基礎となる。子どもの国語力は、
親、とくに母親が決める。なおこうした語りかけは、生後直後から始める。赤ちゃん言葉(ウマ
ウマ、ブーブーなど)、幼稚語(ワンワン、ニャーゴなど)は、避ける。 

●思考は作文力で
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これだけ視覚情報(テレビやゲーム)が多い中、さらにその上、右脳教育をあえてする必要は
ないのではないか。それよりも大切なのは、分析力、論理的な思考力。こうした能力は左脳が
司っていると言われている。その分析力、思考力は、左脳が司る。分析力、思考力を養うに
は、作文が第一。作文に始まって、作文に終わる。ものを書くという習慣を大切に。 

●思考と情報は分ける
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もの知りだからといって、その子どもに思考力があるということにはならない。かけ算の九九を
ペラペラと口にしたからといって、その子どもに算数の力があるということにはならない。思考と
情報は、いつも分けて考える。思考力のある子どもの目つきは、いつも深く、静かに落ち着い
ている。 

●「文化」は心の精神力
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その人(子ども)の精神的な深みは、日ごろの文化性で決まる。何かの事件に遭遇したとき、
あわてふためいて、ボロを出す人もいれば、そうでない人もいる。そのためにも、子どもには、
日ごろから、本物を見せておく。絵画でも音楽でも、さらに子どもが読む絵本にしても、本物を
見せておく。そういう日ごろの姿勢が、子どもの中の文化性を高める。それが精神的な深みと
なって、その人(子ども)を側面から支える。

●反面教師のゴーストに注意
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あなたの周囲にも、反面教師と呼んでよいような人がいるかもしれない。ひょっとしたら、あな
たの親が、そうであるかもしれない。人は(子どもも)、反面教師を教師として、自分を高めるこ
とができるが、対処のし方を誤ると、あなた自身が、いつかその反面教師そっくりの人間になる
こともある。これを「ゴースト」という。反面教師がいても、批判のための批判だけに終わっては
いけない。どこかでその人を乗り越える努力を忘れてはいけない。

●子供の叱り方
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日本人は、親子の密着度、とくに母子の密着度が、高い。そのため母親は、自分の子供を客
観的に見ることができない。できない分だけ、叱るとき、とまどう。つまり自分の子供のできの
悪いのは、自分のせいと考えてしまう。とくに他人に自分の子供の批判を許さない。自分自身
がけなされたかのように思ってしまう。子供の叱り方で悩んだら、母子関係の密着度が高すぎ
ないかも反省してみる。 

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○受験は、淡々と
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子ども(幼児)の受験は、淡々と。合格することを考えて準備するのではなく、不合格になったと
きのことを考えて、準備する。この時期、一度、それをトラウマにすると、子どもは生涯にわた
って、自ら「ダメ人間」のレッテルを張ってしまう。そうなれば、大失敗というもの。だから受験
は、不合格のときを考えながら、準備する。 

○比較は、要注意
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情報交換はある程度までは必要だが、しかしそれ以上の、深い親どうしの交際は、避ける。で
きれば、必要な情報だけを集めて、交際するとしても、子どもの受験とは関係ない人とする。
「受験」の魔力には、想像以上のものがある。一度、この魔力にとりつかれると、かなり精神的
にタフな人でも、自分を自分を見失ってしまう。気がついたときには、狂乱状態に……というこ
とにも、なりかねない。 

○すべる、落ちるは禁句
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子どもの前では、「受験」「入試」「合格」「不合格」「落ちる」「すべる」などの用語を口にするの
は、タブーと思うこと。入試に向かうとしても、子どもに楽しませるようなお膳立ては、必要であ
る。「今度、お母さんがお弁当つくってあげるから、いっしょに行きましょうね」とか。またそういう
雰囲気のほうが、子どもも伸び伸びとできる。また結果も、よい。

○入試内容に迎合しない
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たまに難しい問題が出ると、親は、それにすぐ迎合しようとする。たとえば前年度で、球根の名
前を聞かれるような問題が出たとする。するとすぐ、親は、「では……」と。しかし大切なことは、
物知りな子どもにすることではなく、深く考える子どもにすることである。わからなかったら、す
なおに「わかりません」と言えばよい。試験官にしても、そういうすなおさを、試しているのであ
る。

○子どもらしい子どもに
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子どもは子どもらしい子どもにする。すなおで、明るく、伸びやかで、好奇心が旺盛で、生活力
があって……。すなおというのは、心の状態と、表情が一致している子どもをいう。ねたむ、い
じける、すねる、ひねくれるなどの症状のない子どもをいう。そういう子どもを目指し、それでダ
メだというのなら、そんな学校は、こちらから蹴とばせばよい。それくらいの気構えは、親には
必要である。 

○デマにご用心
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受験期になると、とんでもないデマが飛びかう。「今年は、受験者数が多い」「教員と親しくなっ
ておかねば不利」「裏金が必要」などなど。親たちの不安心理が、さらにそうしたデマを増幅さ
せる。さらに口から口へと伝わっていく間に、デマ自身も大きくなる。こういうのを心理学の世界
でも、「記憶錯誤」という。子どもよりも、おとなのほうが、しかも不安状態であればあるほど、そ
の錯誤が大きくなることが知られている。 

○成功率(達成率)は、50%
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子どもが、2回トライして、1回は、うまくいくようにしむける。毎回、成功していたのでは、子ども
も楽しくない。しかし毎回失敗していたのでは、やる気をなくす。だから、その目安は、50%。
その50%を、うまく用意しながら、子どもを誘導していく。そしていつも、何かのレッスンの終わ
りには、「ほら、ちゃんとできるじゃ、ない」「すばらしい」と言って、ほめて仕あげる。

○無理、強制
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無理(能力を超えた負担)や強制(強引な指導)は、一時的な効果はあっても、それ以上の効
果はない。そればかりか、そのあと、その反動として、子どもは、やる気をなくす。ばあいによっ
ては、燃え尽きてしまったり、無気力になったりすることもある。そんなわけで、『伸びたバネ
は、必ず縮む』と覚えておくとよい。無理をしても、全体としてみれば、プラスマイナス・ゼロにな
るということ

○条件、比較
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「100点取ったら、お小遣いをあげる」「1時間勉強したら、お菓子をあげる」というのが条件。
「A君は、もうカタカナが読めるのよ」「お兄ちゃんが、あんたのときは、学校で一番だったのよ」
というのが、比較ということになる。条件や比較は、子どもからやる気を奪うだけではなく、子ど
もの心を卑屈にする。日常化すれば、「私は私」という生き方すらできなくなってしまう。子ども
の問題というよりは、親自身の問題として、考えたらよい。(内発的動機づけ) 

○方向性は、図書館で
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どんな子どもにも、方向性がある。その方向性を知りたかったら、子どもを図書館へ連れてい
き、一日、そこで遊ばせてみるとよい。やがて子どもが好んで読む本が、わかってくる。それが
その子どもの方向性である。たとえばスポーツの本なら、その子どもは、スポーツに強い関心
をもっていることを示す。その方向性がわかったら、その方向性にそって、子どもを指導し、伸
ばす。(役割形成)

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○神経症(心身症)に注意
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心が変調してくると、子どもの行動や心に、その前兆症状として、変化が見られるようになる。
「何か、おかしい?」と感じたら、神経症もしくは、心身症を疑ってみる。よく知られた例として
は、チック、吃音(どもり)、指しゃぶり、爪かみ、ものいじり、夜尿などがある。日常的に、抑圧
感や欲求不満を覚えると、子どもは、これらの症状を示す。こうした症状が見られたら、(親
は、子どもをなおそうとするが)、まず親自身の育児姿勢と、子育てのあり方を猛省する。

○負担は、少しずつ減らす
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子どもが無気力症状を示すと、たいていの親は、あわてる。そしていきなり、負担を、すべて取
り払ってしまう。「おけいこごとは、すべてやめましょう」と。しかしこうした極端な変化は、かえっ
て症状を悪化させてしまう。負担は、少しずつ減らす。数週間から、1、2か月をかけて減らす
のがよい。そしてその間に、子どもの心のケアに務める。そうすることによって、あとあと、子ど
もの立ちなおりが、用意になる

○荷おろし症候群
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何かの目標を達成したとたん、目標を喪失し、無気力状態になることを言う。有名高校や大学
に進学したあとになることが多い。燃え尽き症候群と症状は似ている。一日中、ボーッとしてい
るだけ。感情的な反応も少なくなる。地元のS進学高校のばあい、1年生で、10〜15%の子
どもに、そういう症状が見られる(S高校教師談)とのこと。「友人が少なく、人に言われていや
いや勉強した子どもに多い」(渋谷昌三氏)

○回復は1年単位
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一度、無気力状態に襲われると、回復には、1年単位の時間がかかる。(1年でも、短いほうだ
が……。)たいていのばあい、少し回復し始めると、その段階で、親は無理をする。その無理
が、かえって症状を悪化させる。だから、1年単位。「先月とくらべて、症状はどうか?」「去年と
くらべて、症状はどうか?」という視点でみる。日々の変化や、週単位の変化に、決して、一喜
一憂しないこと。心の病気というのは、そういうもの。

○前向きの暗示を大切に
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子どもには、いつも前向きの暗示を加えていく。「あなたは、明日は、もっとすばらしくなる」「来
年は、もっとすばらしい年になる」と。こうした前向きな暗示が、子どものやる気を引き起こす。
ある家庭には、4人の子どもがいた。しかしどの子も、表情が明るい。その秘訣は、母親にあ
った。母親はいつも、こうような言い方をしていた。「ほら、あんたも、お兄ちゃんの服が着られ
るようになったわね」と。「明日は、もっといいことがある」という思いが、子どもを前にひっぱっ
ていく。

○未来をおどさない
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今、赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起こす子どもがふえている。おとなになることに、ある
種の恐怖感を覚えているためである。兄や姉のはげしい受験勉強を見て、恐怖感を覚えるこ
ともある。幼児のときにもっていた、本や雑誌、おもちゃを取り出して、大切そうにそれをもって
いるなど。話し方そのものが、幼稚ぽくなることもある。子どもの未来を脅さない。 

○子どもを伸ばす、三種の神器
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子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学
生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を
終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3
226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心
得る。

○上下意識は禁物
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 兄(姉)が上で、弟(妹)が下という、上下意識をもたない。……といっても、日本人からこの意
識を抜くのは、容易なことではない。伝統的に、そういう意識をたたきこまれている。今でも、長
子相続を本気で考えている人は多い。もしあなたがどこか権威主義的なものの考え方をしてい
るようなら、まず、それを改める。

○兄弟は、名前で呼ぶ
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 「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」ではなく、兄でも、姉でも、子ども自身の名前で、子どもを呼ぶ。
たとえば子どもの名前が太郎だったら、「太郎」と呼ぶ。一般的に、たがいに名前で呼びあう兄
弟(姉妹)は、仲がよいと言われている。

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○兄弟は差別しない
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 長男、長女は、下の子が生まれたときから、恒常的な愛情不足、欲求不満の状態に置かれ
る。親は「平等」というが、長男、長女にしてみれば、平等ということが、不平等なのである。そ
ういう前提で、長男(長女)の心理を理解する。つまり長男(長女)のほうが、不平等に対して、
きわめて敏感に反応しやすい。

○兄弟の嫉妬はタブー
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 兄弟(姉妹)の間で、嫉妬感情をもたせない。これは子育ての鉄則と考えてよい。嫉妬は、確
実に子どもの心をゆがめる。原始的な感情であるがゆえに、扱い方もむずかしい。この嫉妬
がゆがむと、相手を殺すところまでする。兄弟(姉妹)を別々に扱うときも、たがいに嫉妬させな
いようにする。 

○たがいを喜ばせる
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 兄弟を仲よくさせる方法として、「たがいを喜ばせる」がある。たとえばうち1人を買い物に連
れていったときでも、「これがあると○○君、喜ぶわね」「△△ちゃん、喜ぶわね」というような買
い与え方をする。いつも相手を喜ばすようにしむける。これはたがいの思いやりの心を育てる
ためにも、重要である

○たがいを批判しない
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 子どもどうしの悪口を、決して言わない。聞かない。聞いても、判断しない。たとえば兄に何か
問題があっても、それを絶対に(絶対に)、弟に告げ口してはいけない。告げ口した段階で、あ
なたと兄の関係は、壊れる。反対に兄が弟のことで、何か告げ口をしても、あなたは聞くだけ。
決して相づちを打ったり、いっしょになって、兄を批判してはいけない。

○得意面をさらに伸ばす
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子どもを伸ばすコツは、得意面をさらに伸ばし、不得意面については、目を閉じること。たとえ
ば受験生でも、得意な英語を伸ばしていると、不得意だった数学も、つられるように伸び始め
るということがよくある。「うちの子は、運動が苦手だから、体操教室へ……」という発想は、そ
もそも、その原点からまちがっている。子どもは(いやがる)→(ますます不得意になる)の悪循
環を繰りかえすようになる。 

○悪循環を感じたら、手を引く
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子育てをしていて、どこかで悪循環を感じたら、すかさず、その問題から、手を引く。あきらめ
て、忘れる。あるいはほかの面に、関心を移す。「まだ、何とかなる」「そんなハズはない」と親
ががんばればがんばるほど、話が、おかしくなる。深みにはまる。が、それだけではない。一
度、この悪循環に入ると。それまで得意であった分野にまで、悪影響をおよぼすようになる。自
信喪失から、自己否定に走ることもある。

○子どもはほめて伸ばす
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『叱るときは、陰で。ほめるときは、みなの前で』は、幼児教育の大鉄則。もっとはっきり言え
ば、子どもは、ほめて伸ばす。仮にたどたどしい、読みにくい文字を書いたとしても、「ほほう、
字がじょうずになったね」と。こうした前向きの強化が、子どもを伸ばす。この時期、子どもは、
ややうぬぼれ気味のほうが、あとあと、よく伸びる。「ぼくはできる」「私はすばらしい」という自
信が、子どもを伸ばす原動力になる。 

○孤立感と劣等感に注意
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家族からの孤立、友だちからの孤立など。子どもが孤立する様子を見せたら、要注意。「ぼく
はダメだ」式の劣等感を見せたときも、要注意。この二つがからむと、子どものものの考え方
は、急速に暗く、ゆがんでくる。外から見ると、「何を考えているかわからない」というようになれ
ば、子どもの心は、かなり危険な状態に入ったとみてよい。家庭教育のあり方を、猛省する。

○すなおな子ども
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従順で、親の言うことをハイハイと聞く子どもを、すなおな子どもというのではない。幼児教育の
世界で、「すなおな子ども」というときは、心(情意)と、表情が一致している子どもをいう。感情
表出がすなおにできる。うれしいときは、顔満面にその喜びをたたえるなど。反対にその子ども
にやさしくしてあげると、そのやさしさが、スーッと子どもの心の中に、しみこんでいく感じがす
る。そういう子どもを、すなおな子どもという。 

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○自己意識を育てる
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乳幼児期に、何らかの問題があったとする。しかしそうした問題に直面したとき、大切なこと
は、そうした問題にどう対処するかではなく、どうしたら、こじらせないか、である。たとえばAD
HD児にしても、その症状が現れてくると、たいていの親は、混乱状態になる。しかし子どもの
自己意識が育ってくると、子どもは、自らをコントロールするようになる。そして見た目には、症
状はわからなくなる。無理をすれば、症状はこじれる。そして一度、こじれると、その分だけ、立
ちなおりが遅れる。 

○まず自分を疑う
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子どもに問題があるとわかると、親は、子どもをなおそうとする。しかしそういう視点では、子ど
もは、なおらない。たとえばよくある例は、親の過干渉、過関心で、子どもが萎縮してしまったよ
うなばあい。親は「どうしてうちの子は、ハキハキしないのでしょう」と言う。そして子どもに向か
っては、「どうしてあなたは、大きな声で返事ができないの!」と叱る。しかし原因は、親自身に
ある。それに気づかないかぎり、子どもは、なおらない。

○「やればできるはず」は、禁句
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たいていの親は、「うちの子は、やればできるはず」と思う。しかしそう思ったら、すかさず、「や
ってここまで」と思いなおす。何がそうかといって、親の過関心、過負担、過剰期待ほど、子ども
を苦しめるものはない。それだけではない。かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。そこで
子どもには、こう言う。「あなたは、よくがんばっているわよ。TAKE IT EASY!(気を楽にし
てね)」と。 

○子育ては本能ではなく学習
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 だれしも、「頭の中では、わかっているのですが、ついその場になると……」と言います。子育
てというのは、もともと、そういうものです。そこでいつも同じようなパターンで、同じような失敗を
するときは、(1)あなた自身の過去を冷静に見つめてみる。(2)何か(わだかまり)や(こだわ
り)があれば、まず、それに気づくことです。あとは時間が解決してくれます。 

○子育ては世代連鎖する
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 子育ては、世代を超えて、親から子へと、よいことも、悪いことも、そのまま連鎖します。また
そういう部分が、ほとんどだということです。そういう意味で、「子育ては本能ではなく、学習によ
るもの」と考えます。つまり親は子育てをしながら、実は、自分が受けた子育てを、無意識のう
ちに繰りかえしているだけだということです。そこで重要なことは、悪い子育ては、つぎの世代
に、残さないということ。 

○子育ては見本を見せる
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 子育ての重要な点は、子どもを育てるのではなく、子育てのし方の見本を、子どもに見せると
いうことです。見せるだけでは、足りません。包みます。幸福な家庭というのは、こういうもの
だ。夫婦というのは、こういうものだ。家族というのは、こういうものだ、とです。そういう(学習)
があって、子どもは、親になったとき、はじめて、自分で子育てが自然な形でできるようになりま
す。 

○子どもに優位性を見せつけない
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 子どもに、勝とうと思わないこと。つまり親の優位性を見せつけないこと。どうせ相手にしても
しかたないし、本気で相手にしてはいけません。ときに親は、わざと負けて見せたり、バカなフ
リをして、子どもに自信をもたせます。適当なところで、親のほうが、手を引きます。「こんなバ
カな親など、アテにならないぞ」と子どもが思えば、しめたものです。

○子育ては重労働
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 子育ては、もともと重労働です。そういう前提で、します。自分だけが苦しんでいるとか、おか
しいとか、子どもに問題があるなどと、考えてはいけません。しかしここが重要ですが、そういう
(苦しみ)をとおして、親は、ただの親から、真の親へと成長するのですよ。そのことは、子育て
が終わってみると、よくわかります。子育ての苦労が、それまで見えなかった、新しい世界を親
に見せてくれます。どうか、お楽しみに! 

○子育ての前に生きザマを
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 子育てをしながらも、親は、親で、自分の生きザマを確立します。「あなたはあなたで、勝手に
生きなさい。私は私で、勝手に生きます」と。そういう一歩退いた目が、ともすればギクシャクと
しがちな、親子関係に、風を通します。子どもだけを見て、子どもだけが視野にしか入らないと
いうのは、それだけあなたの生きザマが、小さいということです。あなたはあなたで、したいこと
を、すればいいのです。 

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○問題のない子育てはない
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子育てをしていると、子育てや子どもにまつわる問題は、つぎからつぎへと、起きてくる。それ
は岸辺に打ち寄せる波のようなもの。問題のない子どもはいないし、したがって、問題のない
子育ては、ない。できのよい子ども(?)をもった親でも、その親なりに、いろいろな問題に、そ
のつど、直面する。できが悪ければ(?)、もっと直面する。子育てというのは、もともとそういう
ものであるという前提で、子育てを考える。 

○解決プロセスを用意する
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英文を読んでいて、意味のわからない単語にぶつかったら、辞書をひく。同じように、子育てで
何かの問題にぶつかったら、どのように解決するか、そのプロセスを、まず、つくっておく。兄弟
や親類に相談するのもよい。親に相談するのも、よい。何かのサークルに属するのもよい。自
分の身にまわりに、そういう相談相手を用意する。が、一番よいのは、自分の子どもより、2、
3歳年上の子どもをもつ、親と緊密になること。「うちもこうでしたよ」というアドバイスをもらっ
て、たいていの問題は、その場で解決する。

○動揺しない
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株取引のガイドブックを読んでいたら、こんなことが書いてあった。「プロとアマのちがいは、プ
ロは、株価の上下に動揺しないが、アマは、動揺する。だからそのたびに、アマは、大損をす
る」と。子育ても、それに似ている。子育てで失敗しやすい親というのは、それだけ動揺しやす
い。子どもを、月単位、半年単位で見ることができない。そのつど、動揺し、あわてふためく。こ
の親の動揺が、子どもの問題を、こじらせる。 

○自分なら……?
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賢い親は、いつも子育てをしながら、「自分ならどうか?」と、自問する。そうでない親は親意識
だけが強く、「〜〜あるべき」「〜〜であるべきでない」という視点で、子どもをみる。そして自分
の理想や価値観を、子どもに押しつけよとする。そこで子どもに何か問題が起きたら、「私なら
どうするか?」「私はどうだったか?」という視点で考える。たとえば子どもに向かって「ウソをつ
いてはダメ」と言ったら、「私ならどうか?」と。 

○時間をおく
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言葉というのは、耳に入ってから、脳に届くまで、かなりの時間がかかる。相手が子どもなら、
なおさらである。だから言うべきことは言いながらも、効果はすぐには、求めない。また言った
からといって、それですぐ、問題が解決するわけでもない。コツは、言うべきことは、淡々と言い
ながらも、あとは、時間を待つ。短気な親ほど、ガンガンと子どもを叱ったりするが、子どもはこ
わいから、おとなしくしているだけ。反省などしていない。 

○叱られじょうずにしない
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親や先生に叱られると、頭をうなだれて、いかにも叱られていますといった、様子を見せる子ど
もがいる。一見、すなおに反省しているかのように見えるが、反省などしていない。こわいから
そうしているだけ。もっと言えば、「嵐が通りすぎるのを待っているだけ」。中には、親に叱られ
ながら、心の中で歌を歌っていた子どももいた。だから同じ失敗をまた繰りかえす。

○人格攻撃はタブー
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先生に叱られたりすると、パッとその場で、土下座をしてみせる子どもがいる。いわゆる(叱ら
れじょうずな子ども)とみる。しかしだからといって、反省など、していない。そういう形で、自分
に降りかかってくる、火の粉を最小限にしようとする。子どもを叱ることもあるだろうが、しかし
どんなばあいも、最後のところでは、子どもの人権だけは守る。「あなたはダメな子」式の、人
格の「核」攻撃は、してはいけない。 

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○「核」攻撃は、タブー
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子どもを叱っても、子どもの心の「核」にふれるようなことは、言ってはいけない。「やっぱり、あ
なたはダメな子ね」「あんたなんか、生まれてこなければよかったのよ」などというのが、それ。
叱るときは、行為のどこがどのように悪かったかだけを、言う。具体的に、こまかく言う。が、子
どもの人格にかかわるようなことは言わない。

○子どもは、親のまねをする
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たいへん口がうまく、うそばかり言っている子どもがいた。しかしやがてその理由がわかった。
母親自身もそうだった。教師の世界には、「口のうまい親ほど、要注意」という、大鉄則があ
る。そういう親ほど、一度、敵(?)にまわると、今度は、その数百倍も、教師の悪口を言い出
す。子どもに誠実になってほしかったら、親自身が、誠実な様子を、日常生活の中で見せてお
く。 

○一事が万事論
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あなたは交通信号を、しっかりと守っているだろうか。もしそうなら、それでよし。しかし赤信号
でも、平気で、アクセルを踏むようなら、注意したほうがよい。あなたの子どもも、あなたに劣ら
ず、小ズルイ人間になるだけ。つまり親が、小ズルイことをしておきながら、子どもに向かって、
「約束を守りなさい」は、ない。ウソはつかない。約束は守る。ルールには従う。そういう親の姿
勢を見ながら、子どもは、(まじめさ)を身につける。

○代償的過保護は、愛情にあらず
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「子どもはかわいい」「私は子どもを愛している」と、豪語する親ほど、本当のところ、愛が何で
あるか、わかっていない。子どもを愛するということは、それほどまでに、重く、深いもの。中に
は、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいと考えている親もいる。これを
代償的過保護という。一見、過保護に見えるが、その基盤に愛情がない。つまりは、愛もどき
の愛を、愛と錯覚しているだけ。 

○子どもどうしのトラブルは、子どもに任す
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子どもの世界で、子どもどうしのトラブルが起きたら、子どもに任す。親の介入は、最小限に。
そういうトラブルをとおして、子どもは、子どもなりの問題解決の技法を身につけていく。親とし
てはつらいところだが、1にがまん、2にがまん。親が口を出すのは、そのあとでよい。もちろん
子どものほうから、何かの助けを求めてきたら、そのときは、相談にのってやる。ほどよい親で
あることが、よい親の条件。 

○許して忘れ、あとはあきらめる
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子どもの問題は、許して、忘れる。そしてあとはあきらめる。「うちの子にかぎって……」「そんな
はずはない」「まだ何とかなる」と、親が考えている間は、親に安穏たる日々はやってこない。そ
こで「あきらめる」。あきらめると、その先にトンネルの出口を見ることができる。子どもの心に
も風が通るようになる。しかしヘタにがんばればがんばるほど、親は、袋小路に入る。子どもも
苦しむ。 

●強化の原理
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子どもが、何かの行動をしたとする。そのとき、その行動について、何か、よいことが起きたと
する。ほめられるとか、ほうびがもらえるとか。あるいは心地よい感覚に包まれるとか。そういう
何かよいことが起こるたびに、その行動は、ますます強化される。これを「強化の原理」という。
子どもの能力をのばすための大鉄則ということになる。 

●弱化の原理
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強化の原理に対して、弱化の原理がある。何か、行動をしたとき、つまずいたり、失敗したり、
叱られたりすると、子どもは、やる気をなくしたり、今度は、その行動を避けるようになる。これ
を弱化の原理という。子どもにもよるし、ケースにもよるが、一度弱化の原理が働くようになる
と、学習効果が、著しく落ちるようになる。

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●内面化
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子どもは成長とともに、身長がのび、体重が増加する。これを外面化というのに対して、心の
発達を、内面化という。その内面化は、(1)他者との共鳴性(自己中心性からの脱却)、(2)自
己管理能力、(3)良好な人間関係をみるとよい(EQ論)。ほかに道徳規範や倫理観の発達、
社会規範や、善悪の判断力などを、ふくめる。心理学の世界では、こうした発達を総称して、
「しつけ」という。 

●子どもの意欲
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子どもは、親、とくに母親の意欲を見ながら、自分の意欲を育てる。一般論として、意欲的な母
親の子どもは、意欲的になる。そうでない母親の子どもは、そうでない。ただし、母親が意欲的
過ぎるのも、よくない。昔から、『ハリキリママのションボリ息子』と言われる。とくに子どもに対し
ては、ほどよい親であることが望ましい。任すところは子どもに任せ、一歩退きながら、暖かい
無視を繰りかえす。それが子育てのコツということになる。 

●ほどよい目標
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過負担、過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。そればかりではない。自信喪失から、
やる気をなくしてしまうこともある。仮に一時的にうまくいっても、オーバーヒート現象(燃え尽き
症候群、荷卸し症候群)に襲われることもある。子どもにとって重要なことは、達成感。ある程
度がんばったところで、「できた!」という喜びが、子どもを伸ばす。子どもには、ほどよい目標
をもたせるようにする。 

●子どもの恐怖症
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恐怖症といっても、内容は、さまざま。対人恐怖症、赤面恐怖症、視線恐怖症、体臭恐怖症、
醜形恐怖症、吃音恐怖症、動物恐怖症、広場恐怖症、不潔恐怖症、高所恐怖症、暗所恐怖
症、閉所恐怖症、仮面恐怖症、先端恐怖症、水恐怖症、火恐怖症、被毒恐怖症、食事恐怖症
などがある。子どもの立場になって、子どもの視線で考えること。「気のせいだ」式の強引な押
しつけは、かえって症状を悪くするので注意。 

●子どもの肥満度
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児童期の肥満度は、(実測体重Kg)÷(実測身長cmの3乗)×10の7乗で計算する。この計
算式で、値が160以上を、肥満児という(ローレル指数計算法)。もっと簡単に見る方法として
は、手の甲を上にして、指先を、ぐいと上にそらせてみる。そのとき、指のつけねに腱が現れる
が、この腱の部分にくぼみが現れるようになったら、肥満の初期症状とみる。この方法は、満5
歳児〜の肥満度をみるには、たいへん便利。

●チック
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欲求不満など、慢性的にストレスが蓄積すると、子どもは、さまざまな神経症的症状を示す。た
とえば爪かみ、指しゃぶり、夜尿、潔癖症、手洗いグセなど。チックもその一つ。こうした症状を
総称して、神経性習癖という。このチックは、首から上に出ることが多く、「おかしな行動をす
る」と感じたら、このチックをうたがってみる。原因の多くは、神経質で、気が抜けない家庭環境
にあるとみて、猛省する。 

●子どもの姿は正確に
________________________________________

あなたの子どもに、あなたはどのようなイメージをもっているだろうか。中には、問題があるの
に、「問題はない」と思いこんでいる親がいる。反対に、問題がないのに、「問題がある」と思い
こんでいる親もいる。子どもの姿を正確にとらえるのは、たいへんむずかしい。子どもの概念
と、現実の子どもの間のギャップが大きければ大きいほど、親子の関係はギクシャクしたもの
になりやすい。 

●聞きじょうずになる
________________________________________

子どもの姿を正確にとらえるためには、聞きじょうずになること。自分の子どもでも、他人の子
どもと思い、一歩退いて見るようにする。教師でも話しにくい親というのは、子どものことになる
と、すぐカリカリするタイプ。何か言おうとすると、「うちでは問題はありません」「塾では、しかkり
とやっています」と反論する。しかしそう反論されると、「どうぞ、ご勝手に」となる。 

●自己愛者は、注意
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自己中心性が肥大化すると、自己愛者になる。完ぺき主義で、他人の批判を許さない。すべて
を自分(あるいは自分の子ども)中心に考えるようになる。こうなると、子育ては、独善化する。
他人の批評に耳を傾けなくなるからである。子育てじょうずな親というのは、ものごとに謙虚で
ある。その謙虚さが、心に風穴をあける。まずいのは、「自分は正しい」と思いこんで、他人の
意見を聞かないこと。 

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●非行を防ぐ鉄則
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(したいこと)と(していること)が一致しているとき、子どもの心は、安定する。しかし(したいこ
と)と(していること)が一致していないと、子どもの心は、急速に不安定化する。非行の多くは、
こうして始まる。そこで重要なことは、いつも、(子どものしたいこと)に静かに耳を傾けて、それ
を(していること)に結びつけていく。これを心理学の世界でも、自我の同一性(アイデンテンテ
ィ)と呼ぶ。 

●善行は日常から
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あなたの子どもを善人にしたいなら、日常的な、ごくささいなことから、約束やルールを守る姿
を、子どもに見せておく。そういう積み重ねが、あなたの子どもを善人にする。つまり日々の積
み重ねが、月々の積み重ねとなり、それが年々、積もって、その人の人格となる。あなたが、
平気で空き缶をポイ捨てしていおいて、あなたの子どもに「いい子になれ」は、ない。 

●シャドウをつくらない
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あなたが仮面をかぶればかぶるほど、あなたの背後に、その正反対のシャドウ(影)ができる。
子どもというのは、そのシャドウをそのまま受けついでしまう。よく例に出されるのが、佐木隆三
の『復讐するは、我にあり』である。敬虔な牧師の息子が、殺人鬼になるという小説である。緒
方拳の主演で、映画にもなった。父親は牧師をしながら、息子の嫁と不倫関係になる。そうし
たシャドウが、その息子を殺人鬼にしたとも考えられなくはない。 

●子どもには、ウソをつかない
________________________________________

子どもには、ウソをつかない。これは親子関係を守るための、最後の砦(とりで)と考えてよい。
もしウソをつきたくなかったら、だまっていればよい。飾ったり、見栄をはったりしてもいけない。
ありのままを、すなおに見せておく。あとの判断は、子どもに任せればよい。 

●ウソはていねいにつぶす
________________________________________

子どもは、よくウソをつく。いろいろなウソがあるが、その中でも、空想したことを、あたかも本
当のことのように話す子どもがいる。空想的虚言(妄想的虚言)というのが、それ。はげしい親
の過干渉が日常化すると、子どもは、この空想的虚言を口にするようになる。そういうとき親
は、子どもをはげしく叱ったりするが、反省すべきは、むしろ親のほうである。こうしたウソは、
ていねいに、つぶす。言うべきことは言いながら、あとは時間を待つ。 

○計算力と「数」の力
________________________________________

子どもにとって、計算力と、「数」の力は、別のものと考えてよい。たとえば(3+4=7)は、計算
力があればできる。しかし「7は、5と□」という問題は、計算力だけでは、カバーできない。ほ
かに「3と□で、6」「□は、3と4」など。小学1年生の問題だが、それができる子どもは、スラス
ラとできる。しかしできない子どもは、何度説明しても、できない。それがここでいう「数」の力と
いうことになる。 

○「遊び」を大切に
________________________________________

自動車のハンドルでも、「遊び」があるから、運転できる。その「遊び」がなく、ギスギスだった
ら、運転できない。子どもの勉強も、その運転に似ている。多くの親たちは、「勉強」というと、
机に向かって黙々とするものだという偏見と誤解をもっている。しかしそれは大学の研究者の
ような人がする勉強であって、少なくとも、子どもの勉強ではない。小学校の低学年児だった
ら、30分机に向かって座って、10分、勉強らしきことをすれば、よしとする。 

○リズムをつかむ
________________________________________

子ども自身がもつ、学習のリズムは、みな、ちがう。数分きざみに、騒いだり、しゃべったりする
子どももいれば、5分くらい静かに作業したあと、1〜2分、休んだりする。勉強にとりかかるま
でに、10分以上かかる子どももいれば、すぐ、勉強に入れる子どもいる。大切なことは、それ
ぞれのリズムに合わせて、指導するということ。とくに子どもが小さいうちは、そうする。

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○ミスは、大目に
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たとえば20問、計算問題をする。そのとき、1、2問くらいなら、まちがっていても、何も言わな
い。「よくがんばったね」と、ねぎらう。そして大きな丸を描いてすます。とくに子どもが、懸命にし
たときは、そうする。正解よりも、この時期大切なのは、達成感。その達成感が、子どもを伸ば
す。こまごまとした神経質な指導は、一見、親切に見えるが、かえって子どもの伸びる芽をつん
でしまうこともあるので注意する。 

○テーマは、ひとつ
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子どもに何かを教えようとするときは、いつも、テーマは、一つにする。あれこれ、同時に指示
を与えても、意味がないばかりか、かえって、「二兎を追うもの、一兎……」ということになりか
ねない。たとえば作文練習のときは、作文の内容だけを見て、文字のまちがいなどは、無視す
る。作文の内容だけを見て、判断する。 

○子どもを伸ばすのは、子ども
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子どもを伸ばすのは、子ども。しかしその子どもをつぶすのも、これまた子ども。とても残念な
ことだが、「質」のよい子どももいれば、そうでない子どももいる。質がよいというのは、おだや
かで、知性的。自己管理能力もしっかりしていて、もの静か。そういう子どもは、そういう子ども
どうし集まる傾向がある。で、もしあなたの子どもが、そういう子どもであれば、努力して、そう
いう子どもどうしが集まれるような環境をつくってやるとよい。あなたの子どもは、さらに伸び
る。

○サエをのばす
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子どもが、「アレッ」と思うようなヒラメキを示したときは、すかさず、それをほめて、伸ばす。こ
の時期、あとあと子どもほど、思考が柔軟で、臨機応変に、ものごとに対処できる。趣味も多
く、多芸多才。興味の範囲は広く、何か新しいことを見せると、「やる!」「やりたい!」と食いつ
いてくる。この時期、することと言えば、テレビゲームだけ。友だちも少ないというのは、子ども
にとっては、望ましいことではない。 

○一歩手前で、やめる
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子どもが30分ほど、勉強しそうだったら、20分くらいのところで、やめる。ワークを10ページく
らいしそうだったら、7〜8ページくらいのところで、やめる。子どもを伸ばすコツは、無理をしな
い。強制をしない。もしあなたが、「子どもというのは、しぼればしぼるほど伸びる」とか、「子ど
もの勉強には、きびしさが必要」と考えているなら、それは、とんでもない誤解。どこかの総本
山での、小僧教育ならともかくも、今は、そういう時代ではない。 

○バカなフリをして伸ばす
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おとなは、決して、おとなの優位性を子どもに、見せつけてはいけない。押しつけてはいけな
い。子どもにとって、最大の喜びは、父親や、母親を、何かのことで、負かすことである。親の
立場でいえば、子どもに負けることを、恥じることはない。反対に、ときには、バカな親のフリを
して、子どもに自信をもたせる。「こんな親では、アテにできない」と子どもが思うようになった
ら、しめたもの。 

○集中力も力のうち
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よく、「うちの子は、集中力がありません。集中力をつけるには、どうしたらいいでしょうか」とい
う質問をもらう。しかし集中力も、「力」のうち。頭をよくする方法が、そんなにないように、集中
力をつける方法というのも、それほど、ない。あれば、私が知りたいくらいである。ただ指導の
し方によって、子どもを、ぐいぐいとこちらのペースに引きこんでいくことはできる。しかし集中力
のある・なしは、子どもの問題ではなく、指導する側の問題ということになる。 

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/++++++++++++++++はやし浩司

○一貫性
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内容がどうであれ、よき親と、そうでない親のちがいといえば、一貫性のある、なしで、決まる。
権威主義的なら権威主義的でもかまわない。(本当は、そうでないほうがよいが……。)親にそ
の一貫性があれば、やがて子どものほうが、それに合わせる。私の叔父の中には、権威主義
のかたまりのような人がいた。しかし私は、その叔父は叔父として、認めることで、良好な人間
関係をつくることができた。それなりに尊敬もしている。子どもの前では、いつも、同じ親である
こと。それが子どもの心に、大きな安定感を与える。 

☆上下意識は、親子にキレツを入れる
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「親が上、子ガ下」という上下意識は、親子の間に、キレツを入れる。「上」の者にとっては、居
心地のよい世界かもしれないが、「下」の者にとっては、そうでない。言いたいことも言えない、
したいこともできないというのは、親子の間では、あってはならないこと。親はいつも子どもの友
として、横に立つ。そういう姿勢が、良好な親子関係を育てる。 

☆「ダカラ論」は、論理にあらず
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「親だから……」「子だから……」「長男だから……」「夫だから……」というのを、『ダカラ論』と
いう。このダカラ論は、論理ではない。えてして、問答無用式に相手をしばる道具として、利用
される。使い方をまちがえると、相手を苦しめる道具にもなりかねない。先日もテレビを見てい
たら、妻が、夫に、「あなたは一家の大黒柱なんだからね」と言っているのを見かけた。それを
見ていて、そういうふうに言われる夫は、つらいだろうなと、私は、ふと、そう思った。

☆親の恩着せ、子どもの足かせ
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「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と親が、子どもに恩を着せれば着せる
ほど、子どもの心は親から遠ざかる。そればかりか、子どもが伸びる芽を摘んでしまうこともあ
る。たとえ親がそう思ったとしても、それを口にしたら、おしまい。親に恩を押しつけられ、苦し
んでいる子どもは、いくらでもいる。

☆家族主義は、親の手本から
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まず子どもを幸福な家庭で包んでやる。「幸福な家庭というのは、こういうものですよ」と。それ
が家族主義の原点。見せるだけでは足りない。子どもの体の中にしみこませておく。その(しみ
こみ)があってはじめて、子どもは、今度は、自分が親になったとき、自然な形で、幸福な家庭
を築くことができる。夫婦が助けあい、いたわりあい、励ましあう姿は、遠慮なく、子どもに見せ
ておく。

☆離婚は淡々と、さわやかに
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親が離婚するとき、離婚そのものは、大きな問題ではない。離婚にいたる家庭内騒動が、子ど
もの心に暗い影を落とす。ばあいによっては、それがトラウマになることもある。だから離婚す
るにしても、子どもの前では淡々と。子どものいない世界で、問題を解決する。子どもを巻きこ
んでの離婚劇、それにいたる激しい夫婦げんかは、タブー中のタブー。夫婦げんかは、子ども
への「間接虐待」と心得ること。 

☆よい聞き役が、子どもの思考力を育てる
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親は、子どもの前では、よき聞き役であること。ある人は、『沈黙の価値を知るものだけが、し
ゃべれ』というが、この格言をもじると、『沈黙の価値を知る親だけが、しゃべれ』となる。子ども
の意見だから、不完全で未熟であるのは、当たり前。決して頭ごなしに、「お前の考え方はお
かしい」とか、「まちがっている」とかは、言ってはいけない。「それはおもしろい考え方だ」と言っ
て、いつも前向きに、子どもの意見を引き出す。そういう姿勢が、子どもの思考力を育てる。 

☆子どもの前では、いつも天下国家を論じる
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子どもに話すテーマは、いつも大きいほうがよい。できれば、天下国家を論ずる。宇宙の話で
も、歴史の話でもよい。親が小さくなればなるほど、子どもは小さくなる。隣や近所の人たちの
悪口や批判は、タブー。見栄、体裁、世間体は、気にしない。こうした生き様は、子どものもの
の考え方を卑屈にする。「日本はねえ……」「世界はねえ……」という語りかけが、子どもを大
きくする。 

☆仮面をはずし、子どもには本音で生きる
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あなたが悪人なら、悪人でもかまわない。大切なことは、子どもの前では、仮面をはずし、本音
で生きること。あるがままのあなたを、正直にさらけ出しながら生きる。かっこつけたり、飾った
りする必要はない。そういうあなたの中に、子どもは、いつか(一人の人間)を見る。ただし一
言。子育てといっても、あなたはいつも一人の人間として、自分を伸ばしていかねばならない。
それが結局は、真の子育て法ということになる。

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☆優越感の押しつけは、子どもをつぶす
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おとなや親の優越性を、子どもに押しつけてはいけない。賢い親は、(教師もそうだが……)、
バカなフリをしながら、子どもに自信をもたせ、そして子どもを伸ばす。相手は子ども。本気で
相手にしてはいけない。ゲームをしても、運動をしても、ときにはわざと子どもに負けてみる。子
どもが、「うちの父(母)は、アテにならない」と思うようなったら、しめたもの。勉強について言う
なら、「こんな先生に習うくらいなら、自分でしたほうがマシ」と思うようになったら、しめたもの。

☆親の動揺、子どもを不安にする
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たとえば子どもが不登校的な拒否症状を示すと、たいていの親は、狂乱状態になる。そして親
が感ずる不安や心配を、そのまま子どもにぶつけてしまう。が、この一撃が、さらに子どもの心
に、大きなキズをつける。数か月ですんだはずの不登校が、1年、2年とのびてしまう。子ども
の心の問題を感じたら、一喜一憂は、厳禁。半年単位でものを考える。「半年前はどうだった
か?」「1年前はどうだったか?」と。 

☆言うべきことは言っても、あとは時を待つ
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親は言うべきことは言っても、そこで一歩引き下がる。すぐわからせようとか、実行させようと考
えてはいけない。子どもの耳は、そういう意味で長い。脳に届いてから、それを理解するまで
に、時間がかかる。実行するまでには、さらに時間がかかる。まずいのは、その場で、とことん
子どもを追いつめてしまうような行為。子どもはかえってそれに反発し、その反対のことをする
ようになる。 

☆質素が子どもの心を豊かにする
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子どもには、質素な生活は、どんどん見せる。しかしぜいたくは、するとしても、子どものいない
ところで、また子どもの見えないところでする。子どもというのは、一度、ぜいたくを覚えると、あ
ともどりできない。だから、子どもにはぜいたくを、経験させない。
なお質素とケチは、よく誤解される。質素であることイコール、貧乏ということでもない。質素と
いうのは、つつましく生活をすることをいう。身のまわりにあるものを大切に使いながら、ムダを
できるだけはぶく。要するに、こまやかな心が通いあう生活を、質素な生活という。

☆うしろ姿を押し売りは、子どもを卑屈にする
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 生活のためや、子育てのために苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では、うしろ
姿を子どもに見せることを美徳のように考えている人がいるが、これは美徳でも何でもない。
子どもというのは、親が見せるつもりはなくても、親のうしろ姿を見てしまうかもしれないが、し
かしそれでも、親は親として、子どもの前では、毅然(きぜん)として生きる。そういう前向きの
姿が、子どもに安心感を与え、子どもを伸ばす。

☆生きる力は、死を厳粛に扱うことから
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 死があるから、生の大切さがわかる。死の恐怖があるから、生きる喜びがわかる。人の死の
悲しみがあるから、人が生きていることを喜ぶ。どんな宗教でも、死を教えの柱におく。その反
射的効果として、「生」を大切にするためである。子どもの教育においても、またそうで、子ども
に生きることの大切さを教えたかったら、それがたとえペットの死であっても、死は厳粛にあつ
かう。

☆度量の大きさは、立方体で計算する
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子育ての度量の大きさは、(たて)X(横)X(高さ)で決まる。(たて)というのは、その人の住む
世界の大きさ。(横)というのは、人間的なハバ。(高さ)というのは、どこまで子どもを許し、忘
れるかという、その深さのこと。もちろんだからといって、子どもに好き勝手なことをさせろという
ことではない。要するに、あるがままの子どもを、どこまで受け入れることができるかというこ
と。 

☆「今」を大切に、「今」を懸命に生きる
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 過去なんてものは、どこにもない。未来なんてものも、どこにもない。あるのは、「今」という現
実。だからいつまでも過去を引きずるのも、また未来のために、「今」を犠牲にするのも、正しく
ない。「今」を大切に、「今」という時の中で、最大限、自分のできることを、懸命にがんばる。明
日は、その結果として、必ずやってくる。だからといって、過去を否定するものではない。また何
かの目標に向かって努力することを否定するものでもない。しかし大切なのは、「今」という現
実の中で、自分を光り輝かせて生きていくこと。 

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☆『休息を求めて疲れる』は、愚かな生き方
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 イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞のようにもなっている格言である。つまり「い
つか楽になろう、楽になろうとがんばっているうちに、疲れてしまい、結局は何もできなくなる」と
いうこと。しかしほんの少し考え方を変えれば、あなたの生活はみちがえるほど、豊かになる。
方法は簡単。あなたも1呼吸だけ、今までのリズムを遅くすればよい。

☆行きづまったら、生きる源流に視点を
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 「子どもがここに生きている」という源流に視点をおくと、そのとたん、子育てにまつわるあら
ゆる問題は、解決する。「この子は生きているだけでいい」と思いなおすことで、すべての問題
は解決する。あなたももし、子育てをしていて、行きづまりを感じたら、この源流から、子どもを
見てみるとよい。それですべての問題は解決する。 

☆モノより思い出
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 イギリスの格言に、『子どもには、釣りザオを買ってあげるより、いっしょに魚釣りに行け』とい
うのがある。子どもの心をつかみたかったら、そうする。親は、よく、「高価なものを買い与えた
から、子どもは感謝しているはず」とか、「子どもがほしいものを買い与えたから、親子のパイ
プは太くなったはず」と考える。しかしこれはまったくの誤解。あるいは逆効果。子どもは一時
的には、親に感謝するかもしれないが、あくまでも一時的。物欲をモノで満たすことになれた子
どもは、さらにその物欲をエスカレートさせる。 

☆子育てじょうずは、よき先輩をもつことから
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あなたの近くに、あなたの子どもより、1〜3歳年上の子どもをもつ人がいたら、多少、無理を
してでも、その人と仲よくする。その人に相談することで、たいてい「うちも、こんなことがありま
したよ」というような話で、あなたの悩みは、解消する。「無理をしてでも」というのは、「月謝を払
うつもりで」ということ。相手にとっては、あまりメリットはないのだから、これは当然といえば、当
然。が、それだけではない。あなたの子どもも、その人の子どもの影響を受けて、伸びる。

☆子どもの先生は、子ども
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あなたの近くに、あなたの子どもより1〜3歳年上の子どもをもつ人がいたら、その人と仲よくし
たらよい。あなたの子どもは、その子どもと遊ぶことにより、すばらしく伸びる。この世界には、
『子どもの先生は、子ども』という、大鉄則がある。子ども自身も、同じ仲間という意識で見るた
め、抵抗がない。また、こと「勉強」ということになると、1、2年、先を見ながら、勉強するという
ことは、それなりに重要である。 

☆指示は具体的に
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子どもに与える指示は、具体的に。たとえば「あと片づけしなさい」と言っても、子どもには、あ
まり意味がない。そういうときは、「おもちゃは、一つですよ」と言う。「友だちと仲よくするのです
よ」というのも、そうだ。そういうときは、「これを、○○君に渡してね。きっと、○○君は喜ぶわ
よ」と言う。学校で先生の話をよく聞いてほしいときは、「先生の話をよく聞くのですよ」ではな
く、「学校から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話してね」と言う。

●汝自身を知れ
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古代ギリシアの7賢人の1人のターレスは、『汝自身を知れ』という言葉を残した。その言葉
が、アポロン神殿の柱に書かれているのを見て、ソクラテスが、『無知の知』という言葉を導い
た。「私たちは、自分のことを知っているようで、実は何も知らない」と。この言葉を子育てにあ
てはめてみると、こうなる。「自分の子どものことは、自分がいちばんよく知っていると思いこん
でいる親ほど、自分の子どものことがわかっていない」と。

●約束(ルール)を守る,
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日々の積み重ねが月となり、その月が積み重なって、年となる。その年が、10年、20年と積
み重なって、その人の人格となる。その日々の積み重ねは、身の回りのほんのささいなことか
ら始まる。子どもが見ているとか、見ていないとか、そういうことには関係なく、約束(ルール)を
守る。ウソをつかない。そういう親の姿を、子どもは、うしろから見る。自分の人格とする。

●子どもは使う
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子どもは使えば使うほど、よい子になる。忍耐力(=いやなことをする力)も、それで身につく。
社会性も身につく。が、それ以上に、他人の苦しみや悲しみを理解できるようになる。言うまで
もなく、子どもにかぎらず人は、自分で苦労をしてみてはじめて、他人の苦労が理解できるよう
になる。その心のポケットができる。あなたが重い荷物をもって歩いているとき、「もってあげ
る!」と子どもが助けてくれれば、それでよし。そうでなければ、家庭教育のあり方を、猛省す
る。

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●夢と希望、そして目的
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目的(目標)をもった子どもは、強い。多少の誘惑くらいなら、自らはねのけてしまう。心の抵抗
力ができていると考える。その心の抵抗力をつける第一。それが夢と希望。その先に目標(目
的)ができる。そのため、子どもの夢や希望は、大切にする。親の価値観を、けっして、押しつ
けてはいけない。子どもが「花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「そうね、それはすてき
ね」と言い返してやる。そういう親の姿勢が、子どもの夢や希望を育てる。 

●子どもの横に立つ
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子育てには、3つの役目がある。ガイドとして、子どもの前に立つ。保護者として、子どものうし
ろに立つ。そして友として、子どもの横に立つ。日本人は、伝統的に、子どもの前やうしろに立
つのは得意だが、横に立つのが苦手。そのため多くのばあい、子どもが親離れを始めるころ
から、親子の間にキレツが入るようになり、さらに多くのばあい、そのキレツは、断絶へとつな
がっていく。 

●忍耐力は、いやなことをする力
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試しに、台所のシンクにたまった生ごみを、始末させてみればよい。あるいは風呂場の排水口
にたまった毛玉でもよい。そのとき、「ハ〜イ」と言って、あなたの子どもがそれを始末したとし
たら、あなたの子どもは、すばらしい子どもとみてよい。またこのタイプの子どもは、学習面で
も、伸びる。なぜなら、勉強というのは、もともと(イヤなもの)。そのイヤなことを乗り切る力が、
ここでいう忍耐力ということになる。その忍耐力を育てるためには、子どもは、使う。 

●思考回路というレール
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夢や希望をもち、さらには目標(目的)をもち、その目標に向かって努力する。その道筋を、思
考回路という。大切なのは、その思考回路。というのも、夢や希望というのは、そのつど変化す
る。変化して当然。幼児のころは、「お花屋さんになりたい」と言っていた子どもでも、小学生に
なると、「パン屋さんになりたい」「ケーキ屋さんになりたい」と言うかもしれない。中身は何であ
れ、思考回路にできている子どもは、その思考回路の上に夢や希望を乗せて、前向きに進ん
でいくことができる。 ※

●子どもに育てられる
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親は、子育てをしながら、子どもに否応(いやおう)なしに育てられる。はじめて子どもを幼稚園
へ連れてきたような母親は、たしかに若くて美しいが、中身がない。そんな母親でも、子育てで
苦労をするうち、やがて姿勢が低くなる。幼稚園を卒園するころになると、みなに、深々と頭を
さげるようになる。中身ができてくる。つまり親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育て
る。子どもに育てられることを、恐れてはいけない。

●熟成される「善」
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西洋では、「善と悪は、神の左手と右手である」という。しかし善と悪は、決して、平等ではな
い。善人ぶることは簡単なこと。しかし自分の体の中から、悪を抜くのは、容易なことではな
い。しかもその善と悪は、長い時間をかけて、心の中で熟成される。とくに善は、10年とか、2
0年とか、長い年月を経て熟成される。いつか、あなたも、親ではなく、1人の人間として、子ど
もに評価されるときがやってくる。その評価に耐えうる人間になれるかどうか。それは子育てに
おける、大きなテーマのひとつと考えてよい。 

●すなおな子ども
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親や教師の言うことに従順で、それに静かに従う子どもを、すなおな子どもというのではない。
すなおな子どもというときは、(1)心の状態(=情意)が、そのまま表情となって表れる子ども、
(2)心のゆがみ(いじける、つっぱる、ひねくれるなど)のない子どもをいう。イヤだったら、「イ
ヤ!」と言う。何でもないことかもしれないが、それが自然な形でできる子どもを、すなおな子ど
もという。 

●至上の愛
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ある母親は、自分の子どもが死ぬか、生きるかの大病を繰りかえしたとき、天に向かって、こう
言って祈ったという。「私の命は、どうなってもいい。私の命と交換してでもいいから、子どもの
命を救ってエ!」と。こうした(自分の命すら惜しくない)という、まさに至上の愛は、人は、子ど
もをもってはじめて知る。子どもを、ただの子どもと思ってはいけない。あなたの子どもは、あな
たに何かを教えるために、そこにいる。 

●シャドウに警戒する
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人は善人ぶることによって、自分の中に潜む(邪悪な部分)を、どこかへ押し込める。これをユ
ングという学者は、「シャドウ」と呼んだ。そのシャドウを、子どもはうしろから見ていて、そっくり
そのまま、引き継いでしまう。ときとして、牧師や僧侶など、聖職者と呼ばれる人の子どもが、
凶悪犯罪人になるプロセスは、こうして説明される。善人ぶるとしても、それを仮面(ペルソナ)
として、意識すること。仮面を脱ぎ忘れてはいけない。

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●自立したよき家庭人
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アメリカでもオーストラリアでも、そしてドイツでもフランスでも、親や教師たちはみな、こう言う。
「子育ての目標は、よき家庭人として、子どもを自立させること」と。が、一方、この日本では、
いまだに、出世主義、名誉主義、さらには権威主義が、大手を振って、まかり通っている。封建
時代の亡霊たちが、いまだに、のさばっている。そしてそれが教育について言えば、諸悪の根
源になっている。 

●「偉い」という言葉を、廃語にしよう
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日本では、地位や肩書のある人を、「偉い人」という。一方、英語には、「偉い人」にあたる言葉
すらない。あえて言うなら、「respected man」ということになる。「尊敬される人」という意味であ
る。地位や肩書は、関係ない。だから子どもには、「偉い人になれ」ではなく、「尊敬される人に
なれ」と言う。それが子どもの心をまっすぐ伸ばす。 

●「家族」という重圧
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家族は、それ自体、美徳であり、個々の人の心をいやす、心のより所である。が、その家族
も、ひとたびリズムが狂うと、今度は、重圧感となって、その人を苦しめることもある。事実、そ
の重圧感(=家族自我群)の中で、もがき苦しんでいる人も多い。反対に、自分の子どもを、安
易な親意識で、縛りつける親も少なくない。「産んでやった」「育ててやった」と。こうした言葉
は、親子の間では、使うとしても、心して最小限にする。

●恩の押し売り
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日本の親たちは、無意識のうちにも、子どもに対して、恩の押し売りをする。「産んでやった」
「育ててやった」と。その代表的なものが、窪田聡という人が作詞した、『かあさんの歌』。「♪せ
っせと手袋編んでやった」「♪おとうは土間で、藁打ち仕事」と。あれほどまでに恩着せがましい
歌はない。言うとしたら、「♪春になれば、温泉へ行ってくるよ」「♪家のことは心配しなくていい
からね」だ。 

●悪玉親意識
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親意識にも、2種類ある。善玉親意識(=私は親としての責任を果たすという親意識)と、悪玉
親意識(=親風を吹かし、自分の子どもを自分の支配下に置こうとする親意識)。悪玉親意識
が強い親は、「産んでいやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と、そのつど、親の恩
を子どもに押しつける。そしてあげくの果てには、「大学まで出してやったのに、何だ、その態
度は!」と言うようになる。悪玉親意識に、注意! 

●親の統合性
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子どもは、自分のしたいこと(=自己概念)を、現実にすること(=現実自己)によって、自分を
確立することができる。これを「自己の同一性」という。一方、親は、それでは満足できない。親
は、自分がすべきことを、現実にすることによって、自分を確立する。これを「自己の統合性」と
いう。その(すべきこと)には、多くのばあい、苦労や苦痛がともなう。親は子育てをしながらも、
自己の統合性をめざす。 ※

●人生の正午
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満40歳前後を、「人生の正午」と呼ぶ。このころから、人は、老後の準備を始める。つまり
「死」という限界状況の中で、自分のすべきことを模索するようになる。(したいこと)ではない。
(すべきこと)を、だ。その準備を怠ると、その人の老後は、あわれで、みじめなものになる。孫
の世話、庭木の手入れ、旅行ざんまいの生活が、けっしてあるべき(老後の生活)ではない。 

●「だから、それがどうしたの?」
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(したいこと)と、(すべきこと)の間には、大きな距離がある。それがわからなければ、自分にこ
う問うてみればよい。何か、おいしいものを食べた……だから、それがどうしたの?、と。ある
いは何か、ぜいたくなものを買った……だから、それがどうしたの?、と。(したいこと)をして
も、その答は返ってこない。(すべきこと)をしたときのみ、その答が返ってくる。 

●子育ては、子離れ
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心のどこかで子育てを意識したら、すかさず、子離れを考える。もっと言えば、いかに子どもの
親離れをじょうずにさせるかを、考える。でないと、未熟な親のまま、いつまでも子離れできなく
なってしまう。そのよい例が、野口英世の母である。外国で懸命に研究生活をしている自分の
息子に向かって、「帰ってきておくれ」は、ない。言うとしたら、「私のことは心配しなくていい」
「研究が終わるまで、帰ってくるな」である。未熟な親を、けっして美化してはいけない。

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●「釣りバカ日誌」論
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浜ちゃんとスーさんは、いつもいっしょに釣りに行く。しかし自分の妻は連れていかない。日本
人には何でもない光景だが、欧米では、考えられない。会社の同僚たちとの飲み食い(=パー
ティ)するときでも、夫婦同伴が原則。もし欧米で、男どうしが、2人でいそいそと旅行に行こうも
のなら、同性愛者とまちがえられる。見なれた光景だが、日本の常識は、けっして世界の常識
ではない。 

■子はかすがい論
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たしかに子どもがいることで、夫婦が力を合わせるということはよくある。夫婦のきずなも、そ
れで太くなる。しかしその前提として、夫婦は夫婦でなくてはならない。夫婦関係がこわれかか
っているか、あるいはすでにこわれてしまったようなばあいには、子はまさに「足かせ」でしかな
い。日本には「子は三界の足かせ」という格言もある。 

■親のうしろ姿
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生活や子育てで苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では「子は親のうしろ姿を見て
育つ」というが、中には、そのうしろ姿を子どもに見せつける親がいる。「親のうしろ姿は見せ
ろ」と説く評論家もいる。しかしうしろ姿など見せるものではない。(見せたくなくても、子どもは
見てしまうかもしれないが、それでもできるだけ見せてはいけない。)恩着せがましい子育て、
お涙ちょうだい式の子育てをする人ほど、このうしろ姿を見せようとする。 

■親の威厳
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「親は威厳があることこそ大切」と説く人は多い。たしかに「上」の立場にいるものには、居心地
のよい世界かもしれないが、「下」の立場にいるものは、そうではない。その分だけ上のものの
前では仮面をかぶる。かぶった分だけ、心を閉じる。威厳などというものは、百害あって一利な
し。心をたがいに全幅に開きあってはじめて、「家族」という。「親の権威」などというのは、封建
時代の遺物と考えてよい。 

■育自論
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よく、「育児は育自」と説く人がいる。「自分を育てることが育児だ」と。まちがってはいないが、
子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越え、谷を越えてい
る間に、いやおうなしに育てられる。育自などしているヒマなどない。もちろん人間として、外の
世界に大きく伸びていくことは大切なことだが、それは本来、子育てとは関係のないこと。子育
てにかこつける必要はない。 

■親孝行論
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安易な孝行論で、子どもをしばってはいけない。いわんや犠牲的、献身的な「孝行」を子どもに
求めてはいけない。強要してはいけない。孝行するかどうかは、あくまでも子どもの問題。子ど
もの勝手。親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。たがいにやさしい、思
いやりのある言葉をかけあうことこそ、大切。親が子どものために犠牲になるのも、子どもが
親のために犠牲になるのも、決して美徳ではない。親子は、あくまでも「尊敬する」「尊敬され
る」という関係をめざす。 

■「産んでいただきました」論
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● よく、「私は親に産んでいただきました」「育てていただきました」「言葉を教えていただきまし
た」と言う人がいる。それはその人自身の責任というより、そういうふうに思わせてしまったその
人の周囲の、親たちの責任である。日本人は昔から、こうして恩着せがましい子育てをしなが
ら、無意識のうちにも、子どもにそう思わせてしまう。いわゆる依存型子育てというのが、そ
れ。 

■水戸黄門論
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日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっているかといっても、
身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度(=巨悪)にどっぷりとつ
かりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」がわからないほどまで、こ
の権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひれ伏せさせる前に、そ
の矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪いことをしようとしたら、ど
んなことでもできる。ご注意! 

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■「釣りバカ日誌」論
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男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。その背景にあるのが、「男は
仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」と。しかしこれこそまさに、世
界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食い(パーティ)をするときは、妻
の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすということは、ありえない。そんな
ことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、ゆがんだ男性観が、その基本
にあるとみる。

■「かあさんの歌」論
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K田聡氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(三行目と四行目)は、かっこ(「」)つきになって
いる。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」「♪おとうは土間で藁打ち仕
事。お前もがんばれよ」「♪と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。
親が子どもに手紙を書くとしたら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに似合
うと思ったから、買っておいたよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「♪
だ。 

■内助の功論
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封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用いられた。しかしこの言葉
ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう論ずるまでもない。しかし問題
は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いということ。約二三%の女性が、「それで
いい」と答えている※。決して男性だけの問題ではないようだ。
※……全国家庭動向調査(厚生省九八)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」
という考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。

●同一性の危機
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万引き、自転車盗、薬物濫用、暴走、家庭内暴力、校内暴力、性非行、無断外泊、いじめを、
非行という(会津若松警察書)。子どもは、(自分のしたいこと)と、(現実にしていること)の間に
遊離感を覚えたとき、無意識のうちにも、その距離を、縮めようとする。子どもの耐性にもよる
が、それが一定の限界(個人差は当然ある)を超えたとき、子どもの自我の同一性は、危機に
立たされる。 

●夢・希望・目的
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夢・希望・目的は、子どもを伸ばす、三種の神器。これら夢・希望・目的は、(自分のしたいこ
と)と、(現実にしていること)が一致しているとき、あるいは、そこに一体感があるとき、そこか
ら生まれる。「ぼくはサッカー選手になる」「私はケーキ屋さんになる」と。そしてサッカーの練習
をしたり、ケーキを自分で焼いてみたりする。「プロの選手になる」とか、「パン屋さんになる」と
かいう目的は、そこから生まれる。

●子どもの忍耐力
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同一性が危機に立たされると、子どもは、それを修復しようとする。(自分のしたいこと)を、別
のものに置きかえたり、(現実にしていること)を、修正しようとしたりする。あるいは「したくない
が、がんばってやってみよう」と考えたりする。ここで登場するのが、忍耐力ということになる。
子どもにとって、忍耐力とは、(いやなことをする力)をいう。この忍耐力は、幼児期までに、ほ
ぼ完成される。

●同一性の崩壊
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同一性を支えきれなくなると、そこで同一性の崩壊が始まる。子ども自身、自分が何をしたい
か、わからなくなってしまう。また何をしてよいのか、わからなくなってしまう。「私は何だ」「私は
だれだ」と。「私はどこへ行けばよいのか」「何をすればよいのか」と。それは「混乱」というよう
な、なまやさしいものではない。まさに「自己の崩壊」とも言うべきもの。当然、子どもは、目的
を見失う。 

●顔のない自分
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同一性が崩壊すると、いわゆる(顔のない自分)になる。で、このとき、子どもは、大きく分け
て、二つの道へと進む。(1)自分の顔をつくるため、攻撃的かつ暴力的になる(攻撃型)。(2)
顔のない自分のまま、引きこもったり、カラに閉じこもったりする(逃避型)。ほかに、同情型、
依存型、服従型をとる子どももいる。顔のない自分は、最悪のケースでは、そのまま自己否定
(=自殺)へとつながってしまう。 

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●校内暴力
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暴力的な子どもに向かって、「そんなことをすれば、君がみなに嫌われるだけだよ」と諭(さと)
しても、意味はない。その子どもは、みなに嫌われ、怖れられることで、(自分の顔)をつくろうと
する。(顔のない自分)よりは、(顔のある自分)を選ぶ、。だからみなが、恐れれば、怖れるほ
ど、その子どもにとっては、居心地のよい世界となる。攻撃型の子どもの心理的のメカニズム
は、こうして説明される。 

●子どもの自殺
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おとなは、生きるのがいやになって、その結果として、自殺を選ぶ。しかし子どものばあいは、
(顔のない自分)に耐えきれず、自殺を選ぶ。自殺することによって、(自分の顔)を主張する。
近年ふえているリストカットも、同じように説明できる。リストカットすることで、自分を主張し、他
人からの注目(同情、あわれみなど)を得ようとする。「贖罪(しょくざい)のために、リストカット
する」と説く学者もいる(稲富正治氏ほか)。 

●自虐的攻撃性
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攻撃型といっても、2つのタイプがある。外に向って攻撃的になる(校内暴力)と、内に向って攻
撃的になる(ガリ勉、猛練習)タイプ。「勉強しかしない」「勉強しかできない」「朝から寝るまで勉
強」というタイプは、後者ということになる。決して、勉強を楽しんでいるのではない。「勉強」とい
う場で、(自分の顔)をつくろうとしていると考えるとわかりやすい。近年、有名になったスポーツ
選手の中には、このタイプの人は少なくない。 

●自我の同一性
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(子どもがしたがっている)ことに、静かに耳を傾ける。そしてそれができるように、子どもの環
境を整えていく。そうすることで、子どもは、(自分のしたいこと)と、(自分がしていること)を一
致させることができる。これを「自我の同一性」という。この両者が一致している子どもは、夢や
希望もあり、当然、目的もあるから、見た目にも、落ちついていて、どっしりとしている。抵抗力
もあるから、誘惑にも強い。 

●心の抵抗力
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「私は〜〜をしたい」「ぼくは〜〜する」と、目的と方向性をしっかりともっている子どもは、心の
抵抗力も強い。外部からの誘惑があっても、それをはねのける。小学校の高学年から中学校
にかけては、その誘惑が、激増する。そうした誘惑をはね返していく。が、同一性が崩壊してい
る子どもは、生きザマが、せつな的、享楽的になるため、悪からの誘いがあると、スーッとその
世界に入ってしまう。 

●夢や希望を育てる
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たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき重要なことは、親は、それ
に答えて、「そうね、花屋さんはすてきね」「明日、球根を買ってきて、育ててみましょうか」「お花
の図鑑を買ってきましょうか」と、子どもの夢や希望を、育ててやること。が、たいていの親は、
この段階で、子どもの夢や希望を、つぶしてしまう。そしてこう言う。「花屋さんも、いいけど、ち
ゃんと漢字も覚えてね」と。 

●子どもを伸ばす三種の神器
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子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学
生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を
終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3
226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心
得る。

●役割混乱
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子どもは、成長するにつれて、心の充実をはかる。これを内面化というが、そのとき同時に、
「自分らしさ」を形成していく。「花屋さんになりたい」と言った子どもは、いつの間にか、自分の
周囲に、それらしさを作っていく。これを「役割形成」という。子どもを伸ばすコツは、その役割
形成を、じょうずに育てていく。それを破壊すると、子どもは、「役割混乱」を起こし、精神的に
も、情緒的にも、たいへん不安定になり、混乱する。 

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●思考プロセス(回路)
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しかし重要なのは、「思考プロセス」。幼いときは、「花屋さんになりたい」と思ってがんばってい
た子どもが、年齢とともに、今度は、「看護婦さんになりたい」と言うかもしれない。しかし幼いと
きに、花屋さんになりたいと思ってがんばっていた道筋、あるいは思考プロセスは、そのまま残
る。その道筋に、花屋さんにかわって、今度は、看護婦が、そこへ入る。中身はかわるかもし
れないが、今度は、子どもは、看護婦さんになるために、がんばり始める。 

●進学校と受験勉強
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たいへんよく誤解されるが、「いい高校」「いい大学」へ入ることは、一昔前までは、目的になり
えたが、今は、そういう時代ではない。学歴の権威を支える、権威主義社会そのものが崩壊し
てしまった。親は、旧態依然の考え方で、「いい大学へ入ることが目的」と考えやすいが、子ど
もにとっては、それは、ここでいう目的ではない。「受験が近いから、(好きな)サッカーをやめ
て、受験塾へ行きなさい」と子どもを追うことで、親は子どもの夢をつぶす。「つぶしている」とい
う意識すらないまま……。 

●これからはプロの時代
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これからはプロが生き残る時代。オールマイティなジェネラリストより、一芸にひいでたプロの
ほうが、尊重される。大手のT自動車の面接試験でも、学歴不問。そのかわり、「君は何ができ
るか?」と聞かれる時代になってきている。大切なことは、子どもが、生き生きと、自分の人生
を歩んでいくこと。そのためにも、子どもの一芸を大切にする。「これだけは、だれにも負けな
い」というものを、子どもの中につくる。それが将来、子どもを伸ばす

●大学生の問題
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現在、ほとんどの高校生は、入れる大学の入れる学部という視点で、大学や学部を選んでい
る。もともと、勉強する目的すらもっていない。そのため、入学すると同時に、無気力になってし
まったり、遊びに夢中になってしまう大学生が多い。燃え尽きてしまったり、荷おろし症候群と
いって、いわゆる心が宙ぶらりんになってしまう子どもも多い。当然、誘惑にも弱くなる。 

●自我の同一性と役割形成
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子どもをまっすぐ伸ばすためには、(子どもがしたがっていること)を、(現在していること)に一
致させていく。そしてそれを励まし、伸ばす。親の価値観だけで、「それはつまらない仕事」「そ
んなことは意味がない」などと、言ってはいけない。繰りかえすが、子どもが、「お花屋さんにな
りたい」と言ったら、すかさず、「それはすてきね」と言ってあげる。こういう育児姿勢が、子ども
を、まっすぐ伸ばす基礎をつくる。 

●結果はあとからついてくるよ!
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大切なことは、今できることを、懸命にすることだよ。結果は、あとからついてくる。またその結
果がたとえ悪くても、気にしてはいけないよ。ぼくたちの目的は、失敗にめげず、前に進むこと
だよ。あの「宝島」を書いたスティーブンソンは、そう言っているよ。 

●子育ては工夫
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 子育ては工夫に始まって、工夫に終わる。わかりやすく言えば、知恵比べ。この知恵比べに
よって、子どもは、伸びる。が、それだけではない。何か問題が起きたときも、同じ。家庭環境
は千差万別。状態も状況も、みなちがう。子どもについて言うなら、性格も性質も、みなちがう。
能力もちがう。そんなわけで、「子育ては知恵くらべ」と心得る。この知恵比べが、前向きにでき
る人を、賢い親という。 

●内政不干渉
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たとえ親類でも、兄弟でも、内政については、干渉しない。相手が相談をもちかけてきたときは
別として、こちらからあれこれアドバイスしたり、口を出したりしてはいけない。相手を説教する
などということは、タブー中のタブー。ばあいによっては、それだけで、人間関係は、破壊され
る。それぞれの家庭には、人には言うに言われぬ事情というものがある。その事情も知らない
で、つまり自分の頭の中だけで考えてものを言うのは、たいへん危険なことである。 

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●受験家族は病人家族
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 「受験家族は、病人家族」と心得るべし。受験生をもつ親に向かって、「どこを受験するの?」
「合格したの?」と聞くことは、病人に向かって、「病名は何?」「寿命はどれくらい?」と聞くのと
同じくらい、失礼なこと。相手のほうから話題にするばあいは、べつとして、そうでなければ、そ
れについて触れるのは、タブー。出身校、学歴についても、同じ

●乳幼児にも記憶がある
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乳幼児にも記憶が残る! ワシントン大学のメルツオフは、それを証明した。しかもその記憶
は、おとなの私たちとは比較にならないほど、まさに怒涛のように脳の中に記憶される。まわり
の空気、匂い、音、母親の肌のぬくもり、息づかいなどなど。そしてそれがやがてその子供の
心の基礎となる。目を閉じてやすらかに眠る乳児。けっして、軽く考えてはいけない。 

■アインシュタイン
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★The important thing is not to stop questioning. - Albert Einstein
「重要なことは、問いつづけることだ」(A・アインスタイン) 

■アリストテレス
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★Those who educate children well are more to be honored than parents, for these gave 
only life, those the art of living well. - Aristotle 
「子どもをよく教育するものは、両親より、称えられる。なぜなら、両親は、命を与えるだけだ
が、子どもをよく教育するものは、生きる技術を与えるから」

■Ayn Rand
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★「彼らは、物理学と哲学のふたつを専攻していた。その選択は、私をのぞいて、みなを驚か

た。しかし近代の思想家は、現実を認知することを、不必要と考えた。そして近代の物理学者
は、思索することを、不必要と考えた。しかし私は、私を驚かせたことは、これらの子どもたち
も、それを知っていたということを、よりよく知っていた」 

■C・S・ルイス
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★"Most of all, perhaps, we need an intimate knowledge of the past. Not that the past has 
anything magical about it, but we cannot study the future." - C.S. Lewis
「私たちのほとんどは、たぶん、過去をよくしる必要がある。それは、過去が何か神秘的である
からということではなく、過去を知らなければ未来を学ぶことができないからである」(C・S・ル
イス) 

■C・サガン
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★Frederick Douglass taught that literacy is the path from slavery to freedom. There are 
many kinds of slavery and many kinds of freedom. But reading is still the path. - Carl Sagan
「フレドリック・ダグラスは、読み書きの能力は、奴隷を解放する道だと教えた。いろいろな種類
の奴隷制度があり、いろいろな種類の自由があるが、読書は、まさにその道である」(C・サガ
ン) 

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■孔子
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★I hear and I forget. I see and I remember. I do and I understand. - Confucius
「私は聞いて、そして忘れる。私は見て、そして覚える。私は行動して、そして理解する」(孔
子) 

■E・A・ポー
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★The true genius shudders at incompleteness - and usually prefers silence to saying 
something which is not everything it should be. - Edgar Allen Poe
「真の天才は、未完成さに、身震いする。つまり真の天才は、それがすべてでない何かを語る
よりも、沈黙をふつう、好む」(E・A・ポー) 

■F・L・ライト
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★To know what to leave out and what to put in; just where and just how, ah, THAT is to 
have been educated in the knowledge of simplicity. - Frank Lloyd Wright
「どこにどのように、何を捨て、何を取り入れるか……つまりそれが、単純な知識として、教育さ
れるべきことである」(F・L・ライト)

■G・ガリレイ
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★You cannot teach a man anything; you can only help him find it within himself. - Galileo 
Galilei
「あなたは人に教えることなどできない。あなたはただ、人が彼の中にそれを見つけるのを、助
けることができるだけである」(G・ガリレイ) 

■H・Martineau
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★What office is there which involves more responsibility, which requires more qualifications, 
and which ought, therefore, to be more honourable, than that of teaching? - Harriet 
Martineau 
「教育の仕事以上に、責任があり、資格を必要とし、それゆえに、名誉ある仕事が、ほかのど
こにあるだろうか」(H・Martineau) 

■ユダヤの格言
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★A child's wisdom is also wisdom - Jewish Proverb
「子どもの智慧も、これまた智慧である」(ユダヤの格言) 

■K・ギブラン
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★The teacher, if indeed wise, does not bid you to enter the house of their wisdom, but 
leads you to the threshold of your own mind. - Kahlil Gibran
「本当に賢い教師というのは、あなたを決して彼らの智慧の家に入れとは命令しないもの。しか
し本当に賢い教師というのは、彼ら自身の心の入り口にあなたを導く」(K・ギブラン) 

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■K・Vonnegut
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★We have to continually be jumping off cliffs and developing our wings on the way down. - 
Kurt Vonnegut
「私たちはいつも、崖(がけ)から飛び降りる。飛び降りながら、その途中で、翼を開発する」
(K・Vonnegut) 

■L・ダビンチ
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★Just as iron rusts from disuse, even so does inaction spoil the intellect. - Leonardo Da 
Vinci
「鉄がさびて使い物にならなくなるように、何もしなければ、才能をつぶす」(L・ダビンチ) 

■M・L'Engle
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★Truth is eternal. Knowledge is changeable. It is disastrous to confuse them. - Madeleine L'
Engle
「真実は永遠である。知識は、変化しうるもの。それらを混同するのは、たいへん危険なことで
ある」(M・L'Engle) 

■M・トウェイン
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★Never let school interfere with your education. - Mark Twain
「学校を、決して、あなたの教育に介在させてはならない」(M・トウェイン

■O・ワイルド
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★Education is an admirable thing, but it is well to remember from time to time that nothing 
that is worth knowing can be taught. - Oscar Wilde
「教育は、賞賛されるべきものだが、しかしときには、価値ある知識は教えられないということ
も、よく覚えておくべきである」(O・ワイルド) 

■プラト
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★You must train the children to their studies in a playful manner, and without any air of 
constraint, with the further object of discerning more readily the natural bent of their 
respective characters. - Plato
「あなたは子どもを、遊びを中心とした方法で指導しなければならない。強制的な雰囲気ではな
く、彼らの好ましい性格の自然な適正を、さらに認める目的をもって、そうしなければならない」
(プラト) 

■R・W・エマーソン
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★In every man there is something wherein I may learn of him, and in that I am his pupil. - 
Ralph Waldo Emerson
「どんな人にも、彼らの中に、私が学ぶべき何かがある。そういう点では、私は生徒である」
(R・W・エマーソン) 

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■R・W・エマーソン
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「読書することによって、私たちは、ギリシア人にも、ローマ人にも、トルコ人にも、王にも、殉教
者にも、死刑執行人にも、なることができる。つまり読書によって、こうした人たちのイメージ
を、私たちの密かな経験として、現実味をもたせることができる。読書をしなけば、何も見るこ
とはないだろうし、何も学ぶことはないだろうし、何も保持することはないだろう」(R・W・エマー
ソン) 

■T・ブラシェ
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★Education is a sexual disease, IT makes you unsuitable for a lot of jobs and then you have 
the urge to pass it on. - Terry Pratchett
「教育は、性病だ。つまり教育によって、ジョークがわからなくなり、そのためそれをつぎつぎ
と、人にうつしてしまう」(T・プラシェ) 

■V・V・ゴッフォ
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★I am always doing what I cannot do yet, in order to learn how to do it - Vincent Van Gogh 
「私はいつも、まだ私ができないことをする。それをいかにすべきかを学ぶために」(V・V・ゴッ
フォ)
(030720) 

■あなたが蒔いたように……
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As you sow, so we shall you reap. 「あなたが種を蒔いたように、あなたはそれを刈らねばなら
ない」。イギリスの教育格言。つまり因果応報ということか。子育てについて言えば、ほとんどの
親は、子どもに何か問題が起きると、「子どもをなおそう」とする。しかしなおすべきは、子ども
のほうではなく、親のほうである。そういう視点から、子どもの問題を見つめなおしてみる。

■引いて、発(はな)たず
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孟子(紀元前3世紀ごろの、中国の思想家。著書『孟子』は、儒学の経典のひとつとされる)が
残した言葉である。子どもに矢の射り方を教えるときは、矢の引き方までは教える。しかし、そ
の矢を放つところまでは見せてはいけないという意味。教育といっても、やりすぎはよくない。た
とえば手取り、足取り教える教育法がある。一見、親切な指導法に見えるかもしれないが、か
えって子どものためにならない。 

■子どもは人の父
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The Child is Father of the Man. 「子どもは人の父」、イギリスのワーズワースの詩の一節であ
る。子どもが成長し、やがておとなになっていくのを見ていると、この感を強くする。つまり、子ど
もは、人の父、と。子育てというのは、子どもを育てることではない。子どもに、子育ての仕方を
見せておく。見本を見せておく。「あなたが親になったら、こういうふうに、子どもを育てるのです
よ」と。それが子育て。 

■食欲のないときに……
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『食欲がないときに食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶をそこ
ない、また記憶されない』。Studying without an inquiring desire will be not retained in ones' 
memory. レオナルド・ダ・ビンチ(1452〜1519)の言葉である。子どもの学習指導の常識と
言ってもよい。日本では教育というと、「教え育てる」が基本になっているが、それは昔の話。子
どもから意欲を引き出し、それをじょうずに育てる。あとは子ども自身がもつ「力」に任せればよ
い。

■忠告は密かに……
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Give advice secretly, and praise children openly. 「忠告は密かに、賞賛はおおやけに」。古代
ローマの劇作家、シルスの言葉である。子どもを叱ったり、子どもの名誉をキズつけるような行
為は、だれもいないところでせよ。しかし子どもをほめるときは、みなの前でせよ、という意味で
ある。子育ての行動規範のひとつとして覚えておくとよい。

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■教育の秘法
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あのエマーソン(アメリカの詩人、思想家、1803〜1882)は、こう書いている。『教育に秘法
があるとするなら、それは生活を尊重することである』と。欧米では、「自立したよき家庭人」を
育てるのが、教育の柱になっている。とくにアメリカでは、デューイの時代から、より実用的なこ
とを教えるのが、教育の柱になっている。生活に根ざさない教育は、そも役に立たない。生活
を尊重してこそ、そこに真の教育があるというわけである。 

■かわいくば……
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『かわいくば、五つ数えて三つほめ、二つ叱って良き人となせ』(二宮尊徳、江戸時代後期の農
政家、1787〜1856)と。「子どもがかわいいと思ったら、叱るときでも、一呼吸おいて、まず
よいところを三つみつけて、それをほめる。そしてそのあと、二つくらいの割合で、叱れ」という
意味。子どもをほめる、子どもを叱る……。それは家庭教育の要(かなめ)と言ってもよい。 

■最初に受けた印象が……
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First impressions are most lasting. イギリスの教育格言。つまりものごとは、第一印象が大切
ということ。とくに子どもの教育では、そうである。その第一印象で、すべてが決まるといって
も、過言ではない。だから子育てをしていて、「はじめの一歩」を感じたときは、とくに慎重に! 
コツは、叱らない、おどさない。「小学校はきびしいのよ」「先生はこわいわよ」と教えたため、学
校へ行きたがらなくなる子どもは少なくない。 

■玉、磨かざれば……
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『玉、磨かざれば、器(うつわ)ならず。人、学ばざれば、道知らず』(礼記、中国五経の一つ)。
脳の健康は、肉体の健康と似ている。究極の健康法などというものはない。同じように、究極
の思想などというものはない。運動を怠ったら、その日から、健康はくだり坂に向かう。同じよう
に考えることを怠ったら、その日から、脳は老化する。人は、日々に研鑽(けんさん)してこそ、
人でありえる。学ばない人、考えない人は、それだけで、大切な人生を無駄にしていると言え
る。

■馬を水場に……
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A man may lead a horse to the water, but he cannot make it drink. 「馬を水場に連れて行くこ
とはできても、その馬に水を飲ませることはできない」。イギリスの教育格言である。子どもを伸
ばす最大の秘訣は、まず楽しませること。楽しむことによって、自発的行動(オペラント)が生ま
れ、それが強化の原理となって、子どもを伸ばす(スキナー)。しかし無理は禁物。無理をして
も、意味がない。それがこの格言の意味ということになる。 

■ビロードのクッションより……
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It is better to sit on a pumpkin in the field rather than to sit on the soft velvet cushion of 
the palace. 『ビロードのクッションより、カボチャの上に座っているほうがよい』(ソロー、アメリカ
の随筆家、1812〜1862)。子どもにとって家庭とは、すべからく、カボチャのようでなくてはな
らない。子どももある程度の年齢になったら、家庭は、しつけの場から、心を癒す、憩いの場と
なる。またそうでなくては、いけない。 

■教育は母のひざに始まり……
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●教育は、母のひざに始まり……

I・バロー(17世紀のイギリスの数学者)は、こう言っている。「Education starts in mother's lap 
and what children hear in those days will form their character.(教育は母のひざに始まり、幼
年時代に伝え聞くすべての言葉が、性格を形成する)」と。この時期、母親の子どもへの影響
は、絶対的なものであり、絶大である。母親が、子どもの方向性のすべてを決定づけると言っ
ても過言ではない。子どもの教育は、子どもをひざに抱いたときから始まると、バローは言って
いる

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※さがしものができない子ども
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 さがしものができない子どもがいる。何かをさがさせると、すぐパニック状態になってしまう。
かんしゃく発作を引き起こすこともある。……というより、かんしゃく発作を引き起こしやすい子
どもは、さがしものが苦手。頭の中が混乱状態になったとたん、イライラが増幅する。そんなわ
けで、静かにものをさがすことができない。

※整理ができない子ども
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カバンなど、持ち物の中を見れば、わかる。いくら注意しても、カバンの中は、ゴチャゴチャ。大
切なものの、そうでないものもない。古いテスト用紙の間に、学校からの連絡表がはさまってい
たりする。見た感じ、まるでゴミ箱のよう。ときどきいっしょにカバンの中を整理するが、効果は
一時的。 

※忘れ物が多い子ども
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集中力、あるいは緊張感そのものが、抜けたように欠けている子どもがいる。学校への提出
物を忘れるなどということは、日常茶飯事。反対に、学校には、いつも忘れ物してくる。その前
日、筆箱を忘れて置いていったから、それを渡しながら、「筆箱をちゃんともって帰ってよ」と声
をかけると、そのときは、「うん、わかった」と返事をする。しかしそのとき今度は、ノートを忘れ
ていく。親や教師がいくら注意しても、効果はその場だけ。 

※騒々しい子ども
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 いつもガサガサしている。静かな落ち着きがなく、始終、何かをしゃべっている。「静かにしな
さい」と言っても、効果はその場だけ。数秒から10秒もすると、またしゃべり始める。話してい
る内容は浅く、テーマもクルクル、目まぐるしく変わる。アメリカではADHD児と考えられてい
る。女児に多い。 

※動作の鈍い子ども
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臨機応変に機敏な行動ができない。何かを言いつけても、ノソノソといった感じになる。緊急時
とわかっていても、動作が、それについていかない。「緩慢行動」「緩慢動作」といって、神経症
による症状のひとつに考えられている。 

※表情のない子ども
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表情がなく、能面のような子どもをいう。喜怒哀楽の情をほとんど、示さない。無表情のまま、
涙だけをスーッと流したりする。全体的に静かで、大声を出して騒いだりするということもない。
集団の中でも、いるかいないかわからないほど、存在感が薄い。 

※字の汚い子ども
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 乱雑な文字で、しかもワクから平気で飛び出したような字を書く。「きれいに書こう」と指示す
ると、そのときだけはきれいな文字を書くが、その分だけ、異常に時間がかかってしまう。が、
しばらくすると、またもとの文字に逆戻り。よく観察すると、手の動きがぎこちなく、なめらかな動
作ができないのがわかる。細かい作業が苦手という症状をあわせもつことが多い。 

★幼児の計算力(2)
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(2) 黙読化……年長児になったら、「頭の中で数えなさい」、あるいは「口を閉じて
数えなさい」と指示する。声を出させない、口をもぐもぐさせない。

(3) 10ずつまとめて数える……(1、2、3,4,5,6,7,8,9,10、
1,2,3,4,5,6,7,8,9,20、1,2,3,4,5,6,7,8,
9,30……)と、(10)(20)(30)と数えさせていく。

方法としては、

(1) 手をパンパンとたたいて、それがいくつかを当てさせる。
(2) 反対に、子どもに、できるだけ早く、10(あるいは30)を、たたかせる。
そのときも、声を出させない、口を閉じてさせる。

数の信号化ができ、それが早くできるようになれば、あとあと計算力のある子どもに
なる。

たとえば(2+3)は、「ピピと、ピピピで、5」と。

(BW方式 計算力) 

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/++++++++++++++++はやし浩司

★幼児の計算力(1)
________________________________________

(BW方式)(早数え)

+++++++++++++++++++++

幼児期においては、計算練習に先立って、早数えの練習をしておくとよい。
(ひとつ、ふたつ、みっつ……)ではなく、(イチ、ニ、サン……)と。
さらに慣れてくると、(イ、ニ、サ、シ……)となり、(ニ、シ、ロ、ハ……)となる。
ここでいくつかのコツがある。

(1) 数の信号化……(イチ、ニ、サン、シ……)ではなく、(ピ、ピ、ピ……)と
頭の中で信号化させる。 

●Absence makes the heart grow fonder.
________________________________________

●Absence makes the heart grow fonder.
そばにいない人への想いは強くなる。

総じて言うと、恋心というのは離れれば離れるほど燃えあがり、
そうでない関係は、疎くなるということか。
子どもが恋をしたら、そっとしておいてやるのが、最善。
無理に引き離そうとすればするほど、たがいに強く求めあうようになる。
が、それだけではすまない。

子どもの側からすると、「親を取るか、恋人を取るか」の択一に迫られる。
親を取ればそれでよし。
そうでなければ、その時点で、親子の関係は切れる。 

●Accidents will happen ...
________________________________________

●Accidents will happen in the best-regulated families.
事故というのは、もっとも管理された家庭で起こる。

子どもへの過干渉が悪いのは、子ども自身が自ら考える力を失ってしまうこと。
子どもを管理すればするほど、子どもは非常識になり、常識はずれの行動を
繰りかえすようになる。
家庭教育には、(いいかげんさ)が大切。
その(いいかげんさ)の中で、「子どもは自ら考え、自ら行動し、自ら責任をとる」
という自由の三原則を身につける。

●Actions speak louder than words.
________________________________________

●Actions speak louder than words.
行動は、言葉よりも、効果がある。

子どもは家庭の緊張感に巻きこまれながら、伸びる。
親が寝そべっていて、「新聞をとってきて!」は、ない。
親もキビキビと行動し、その中に子どもを巻きこんでいく。
「ぼくがそれをしなければ、みなが困るのだ」という雰囲気を、用意する。
そういう力で、子どもを動かす。
よく「しつけ」が話題になるが、しつけというのは、言葉でするものではない。
しつけというのは、行動でするものである。 

●Art is long, life is short
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「Art is long, life is short」は、日本では、人生は短いが、芸術は死んだあとも、長く残ると解釈
されている。しかしこれはまちがい。もともとの意味は、ヒポクラテスが、「医療の技術(art)を手
にするには、人生(life)は短すぎる」と言ったことによる。それが誤訳されて、西洋に伝わった。 

Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●冬休み(報告)My Winter Holidays

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12月29日から、1月6日まで、
冬休みをもらった。
その間、いろいろなことがあった。
いろいろなことを考えた。

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●暇(ひま)

 学生のころ、こんなことがよくあった。
定期テスト期間中になると、いつも、こう考えた。
「定期テストが終わったら、映画を観に行こう」
「定期テストが終わったら、旅行に行こう」と。

 しかし実際、定期テストが終わってみると、そこにあるのは、疲労感。
それがそこにドカッと居座っている。
映画を観に行く気力もなければ、旅行に行く気力もない。
(もちろんそのお金もなかったが・・・。)

 同じように、冬休みになる前から、私はこう考えた。
「思う存分、文章を書いてやろう」
「新しいパソコンを使いこなしてやろう」
「映画をたくさん観てやろう」と。

 しかし実際、冬休みになると、心の中にポカリと穴があいてしまう。
何をしてよいか、わからなくなる。
しかしこの「穴」は、いったい、何なのか?

●自責

 私はワーカホリック(=働き中毒者、workaholic)。
そんな人間に、休みは、つらい。
休みになったとたん、どう自分を調整したらよいか、わからなくなる。
生活の中から緊張感が消える。
消えたとき、邪念、雑念、それに妄想がわいてくる。
「何をしてもいい」と考えれば考えるほど、ぼんやりとした時間だけが過ぎていく。
が、その一方で、「これではいけない」と、別の私がせきたてる。

 それが私をイライラさせる。
ささいなことで、ピリピリとする。
同時に、自分が用なしになってしまったかのような、さみしさを覚える。
だれにも相手にされない。
だれにも気にされない。
私は価値のない人間、と。

●12月31日

 今年の正月は、さみしい正月だった。
ワイフと長男と私だけ。
この3人だけで正月を迎えた。

 二男はアメリカ。
三男は嫁さんの家で年越し。
私の家に嫁さんがあいさつに来るのではなく、息子が嫁さんの家にあいさつ、だぞ!
(こういうことは私の常識では考えられない。)

 が、ワイフは、「あなたは古い」とか、「あなたは期待しすぎるのよ」とか言って、私を責める。
私は古いのか?
私は期待しすぎるのか?
「みんな養子に行ったようなものだなあ」とこぼすと、それを聞いて、長男がキレた。
「俺が、E(三男)に、電話で怒鳴りつけてやる!」と。

 それを2度、3度、私が止めた。
「あんなヤツ、ほっとけ!」と。

 ・・・ということで、12月31日は、我が家は大揺れに揺れた。
その余波もあって、1月1日も、憂うつ。
午後になってやっと、行動する気力が生まれた。
・・・というか、午後まで、寝正月。

●重い天井

 用なしなら、用なしで、構わない。
それ以上にこわいのは、用なしを感じたとたん、その先に老後が見えてくること。
老後といっても、もちろん、ロマンチックな老後ではない。
特別養護老人ホームで過ごすような老後。
ひとり住まいで、ヨボヨボと生活するような老後。
そういう老後に、自分の未来像がダブる。

 暗くて重い天井が、上のほうからズシリとおりてくる。
いや〜な老後。
仕事をしているときは、そういう天井は感じない。
感じても、それを忘れることができる。
が、暇になったとたん、このザマ。

 そんな状態で、休暇を楽しめと言われても困る。
そういう私を横で見ながら、ワイフは何度も、こう言った。

「あなたはあなたで、息子たちのことは忘れて、やりたいことをやればいいのよ」と。

●パソコン

 そんなわけで、正月にしたことと言えば、パソコンをいじっただけ。
新型のパソコンも、順調に動き出した。
あとは、新型のプリンターを備え付けるだけ。
それはもうすぐ届くはず。

 肝心の原稿のほうは、ほとんど書いていない。
書いていないというか、書けなかった。
何かと気分が悪かった。
(今も、晴れ晴れとした気分ではないが・・・。)
そんなわけで、今年はまだ年始のあいさつに、どこへも行っていない。
・・・というか、心はかなり回避性障害に陥っている。
人に会うのがわずらわしい。
めんどう。
苦痛。

 ふだんならこういうときは、生徒たちの声を聞けば治る。
仕事をすれば治る。
が、その声がない。
だからよけいに気が滅入る。

●退職

 定年退職した人は、こういうときどうやって、自分をコントロールしているのだろう。
ふと、そんなことを考える。
冬休みどころか、そのまま死の待合室に入ってしまう。
精神も肉体も、それに脳みそも、不可逆的に悪くなる一方。
鍛えれば多少は改善するようだが、それとて、下り階段の踊り場で、足踏みをするようなもの。
よけいなことだが、退職した友人たちが気になる。
1人、「今年の3月で、仕事をやめる」と年賀状に書いてきた人がいた。
それだけしか書いてなかったから、気持ちはわからない。
彼はそれを喜んでいるのだろうか。
それともさみしく思っているのだろうか。

 どうであるにせよ、私はそれを読んで、こう思った。
「仕事をやめてはいけない!」と。
「仕事をやめたら、今の私のような状態になってしまう!」と。

 もっともそう書いてきた友人は、大手の機械会社に勤めていたから、年金もじゅうぶんある。
生活の不安は、ないらしい。
しかし・・・?

●お金の流れ

 私たちは、(私だけかもしれないが・・・)、仕事がなくなるのがこわいのではない。
(お金の流れ)が止まることがこわい。
額の問題ではない。
お金が動いている間は、そこから活力が生まれる。
仮に今月赤字になっても、「来月、がんばればいい」とか、「来月の支出を減らせばいい」とか、
そんなふうに考えることができる。

 言うなれば、川の水のようなもの。
仕事がなくなれば、川の水が止まる。
止まったとたん、そこでよどむ。
腐る。
それがこわい。

 だから毎月〜〜万円の年金があるから、それでよいという問題ではない。
私たちが望むのは、生きがい。
夢と希望。
それに目的。
 
 生きる目的を失ったら、・・・それこそ、そこは死の待合室!

●プリンター

 で、今日は1月の4日。
先に書いたように、もうすぐ新型のプリンターが届くことになっている。
パソコンとモニターを取り換えたので、ついでにプリンターも取り換えることにした。
エプソンのオート・フィーダー(自動原稿送り装置付き)のにした。
このプリンターを使えば、いままで1枚ずつスキャンしていた原稿を、まとめてスキャンできるよ
うになる。
作業が楽になる。

 私のばあい、プリンターとして使うことよりも、スキャナーとして使うことのほうが多い。
だからそういう機能はありがたい。
本当はカラーのレザープリンターにしようかとも迷ったが、レザープリンターには、スキャナー装
置がついていない。
それで複合プリンターにした。

 またプリンターは、エプソンと決めている。
C社のも、何台か使ったことがあるが、当初、故障がつづいた。
それでいつの間にか、エプソンになった。
使い勝手も一貫性があって、使いやすい。

●温泉

 とにかくやるしかない。
生きていくしかない。
死ぬこともできない。
だから生きていくしかない。
がむしゃらに生きていくしかない。

 ああ、それにしても、休みはいやなもの。
気が滅入る。
調子が狂う。
何を考えても、憂うつになる。

 そう言えば、ワイフが昨夜、こう言った。
「X日に、近くの温泉へ行ってみない?」と。
以前行ったことのある、山の中の温泉である。
「今からでも、予約は取れるだろうか」と話すと、「仕事が始まれば、旅館もすいてくるわよ」と。

 あとで調べてみよう。

●ふまじめの勧め

 要するに、私はまじめすぎる。
それが自分でもよくわかっている。
まじめすぎるから、ものごとを、ガチガチに考えてしまう。
憂うつになる。
だからこう考えた。
決心した。

「もっと、ふまじめになってやろう」と。

 休暇というのは、ふまじめになること。
ふまじめにならなければ、休暇など、過ごせない。
休暇の意味や目的を考えても、どうしようもない。
やりたいことをそのつど見つけ、チャランポランに生きていく。
しかしそう気がつくころには、休暇は終わっている。

 何とまあ、皮肉なことよ!

・・・ということで、冬休みの報告、おしまい。
これから朝食をとり、プリンターが届くのを待つ。

 ところで疑問。
プリンターが3万4000円というのは、わかる。
しかしどうしてインクが6色セットで、6000円弱もするのか?
インクが高すぎる!
何とかならないものか!

(1月4日記)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●大脳新皮質でも、新たな神経細胞(09・12月)

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『高度な脳機能をつかさどる大脳新皮質で、
おとなになっても新たな神経細胞が生み出される
ことがわかった」(中日新聞)という。

発表したのは、藤田保健衛生大(愛知県豊明町)の
研究チーム。

こういう話を聞くと、それがどういうものであれ、
希望がわく。
神経細胞は、数が決まっていて、加齢とともにその
数が減少していくというのが、今までの定説だった。
またそうであるからこそ、私たちの人格、性格、性質は、
生まれてから死ぬまで、一貫性を保つことができる。
が、もし新たなる神経細胞が生み出されるということに
なると、今までの常識が、ここでひっくり返ることになる。

ウ〜〜ン!

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●少しは生まれる?

 新聞記事をそのまま紹介させてもらう。

『・・・脳はいったんできあがると、新たな神経細胞ができにくくなる。記憶の形成にかかわる海
馬(かいば)では、おとなになっても、神経細胞がつくられることが知られているが、意識や思考
をつかさどる大脳新皮質で神経細胞がつくられているかどうかは、議論がつづいていた』と。

 が、今度の発見では、『神経細胞を生み出す神経前駆細胞が、大脳新皮質部にあることが』
見つかったという。
もっともこれだけで、「年をとっても、新たな神経細胞がどんどんと生まれる」ということにはなら
ない。
「少しは生まれる」ということか。

●生まれればよいということでもない

 新しい神経細胞が生まれるということは、よいことばかりではない。
仮にどんどんと新しい神経細胞が生まれたとすると、しばらくするうちに、脳の中は満杯になっ
てしまう。
頭蓋骨の大きさには、限界がある。
ということは、古い神経細胞は、余儀なく、棄て去られるということになる。
もしそうなったら、新しい神経細胞に、新しい記憶や知識が詰め込まれるのはよいとしても、古
い神経細胞が蓄えていた、古い記憶や知識まで、どんどんと棄て去られることになってしまう。

 そうなると、記憶や知識だけではなく、その人の人格、性格、性質まで、変化するということも
ありえる。
たとえばAという犯罪者がいたとする。
人を何人も殺した凶悪犯である。
が、そのAにしても、数年後に、脳みその中が入れ替わってしまったとしたら・・・。
はたして私たちは、そのAを法的に罰することができるだろうか・・・ということになる。

 が、新しい神経細胞は、生まれない。
だからこそ、20年前、30年前に知り合った人と話をするときも、昔のままの状態で、話をする
ことができる。

●毎日、20万個!

 そこでこう考えたら、どうだろう。
神経細胞は、毎日20万個単位で減少しているという。

 『・・・人間の大脳皮質に含まれる神経細胞数は約140億個といわれています。それが、20
歳をすぎると毎日20万個ずつ壊れて、減少していくといわれています。

1年間で約7000万個、10年間で7億個、100年間70億個・・・すなわち、健康でも120歳に
なると大脳の神経細胞数は半分の70億個になるわけです』(こころのクリニック・HPより)と。

だったら、新しい神経細胞で、それを補うことはできないか、と。
さらにアルツハイマー病の患者のように、神経細胞そのものが、極端に減っていくような人の
治療にも、応用できるかもしれない。

●使い方の問題

 ところが、である。
日常生活の中で、実際に使われている神経細胞というのは、少ない。
たとえば今、この文章を読んでいるあなたにしても、(また書いている私にしても)、実際、使っ
ている神経細胞は、何万分の1とか、何十万分の1でしかない。
残りの何十万倍もの神経細胞は、いわゆる休止状態にある。
(「休止」といっても、脳の裏方で活動しているので、まったくの休止状態というわけではない。)

 つまり仮に神経細胞が半分になったとしても、残った神経細胞をうまく使えば、それまでどお
りの生活は、維持できるかもしれない。
このあたりのことを大脳生理学者たちは、どう考えているのか。
つまり「量」ではなく、「使い方」の問題。
興味がどんどんとふくらんでくる。 

●神経細胞の移植

 そこでまたまたふと、こんなことを考える。
もしX氏の神経細胞を、少し切り取って、Y氏に移植したら、どうなるか、と。
そのときX氏の神経細胞が、Y氏の他の神経細胞とうまく融合して、Y氏の神経細胞として機能
すればよし。
しかし理屈で考えるなら、そういうことはありえない。
Y氏の脳の中に入ったX氏の神経細胞は、X氏の記憶や知識、ついでに性格や性質をも保持
したままになるはず。
となると、Y氏は、自分の脳の中に、別の人格をもった別の人間といっしょに暮らすことになる。
移植した量が多ければ多いほど、そうなる。

 ・・・と考えていくと、やはり、神経細胞の移植は、ありえないということになる。
つまり新しい神経細胞を作り出すということには、そういう問題も含まれる。

 ボケたままでも、元の人間のほうがよい・・・ということになる。

 研究チームの大平耕司助教は、こう述べている。
『てんかんや統合失調症などの新治療法の確立にもつながる』と。
まずはそのあたりからスタートということになりそうである。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 B
W はやし浩司 神経細胞 ニューロン 毎日20万個 大脳新皮質 海馬 思考と意識)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●西浦温泉・銀波荘(ぎんぱそう)(2010年1月5日記)

+++++++++++++++++

正月の5日、西浦温泉にやってきた。
愛知県JR蒲郡(がまごうり)から名鉄電車に乗り換えて、10分。
そこから送迎バスで、10分。
家族とともにやってきた。
ワイフと長男、それに私。
泊まった旅館は、「銀波荘」。
「ぎんぱそう」と読む。

3人1部屋で、1人1泊、1万3000円弱。
料金の割には、ちゃんとした旅館。
「ちゃんとした」というのは、一流の旅館という意味。
部屋には、足袋(たび)まで用意してあった。
このあたりりでは、イチオシの旅館とか。
インターネットの某案内コーナーにも、そう書いてあった。
別注料理もあるらしいが、私たちにはどこも、量が多すぎる。
「食べたら損(そこ)ねる」を合言葉に、50〜70%程度食べて、
あとは残す。
だから定額料金のみでの宿泊。
それでじゅうぶん。

++++++++++++++++++

●気分転換

 旅に出ることは、とても大切。
一日中、家の中にこもっていると、ときとして、気がヘンになる。
妄想が妄想を呼び、収拾がつかなくなるときがある。
そういうときというのは、何を書いても、暗くなる。
憂うつになる。
パソコンだけを相手に、部屋に閉じこもっていると、ときどき、そうなる。

●窓の外

 窓の外には渥美半島が横たわっている。
風は強いが、波は静か。
部屋は4階の412号室。
時刻はちょうど夕暮れ時で、西の空に日が沈みかけている。
薄水色の空に、幾重にも重なった紫色の雲が見える。
その下に、低くてなだらかな山が、紺色の影となって連なっている。
長男が、海を行き交う船を見つけた。
「変わった形の船だ」と言った。

 仲居さんの話では、近くにTOYOTAの工場があるという。
その工場から車を運ぶ船らしい。

●展望風呂

 部屋の中は、暑いほど。
こういう日は、ありがたい。
外は身が縮むほど、寒い。
寒いというより、冷たい。
「温泉に入ってこようか」と声をかけると、ワイフが「うん」と言った。

 ・・・ということで、旅行記は、ここでいったん、中断。

(中略)

 たった今、3階にある展望風呂から帰ってきた。
4階の私たちの部屋からは、歩いて30秒もかからない。
和風の、すばらしい展望風呂だった。
(旅館の実名を出して書いているため、悪口は書けない。)
露天風呂も、サウナもあった。
正月ということで、多少混んでいたが、それでものんびりできた。

●サービス

 夕食は、午後6時15分に、お願いした。
この分なら、食事も悪くなさそう。
というのも、一事が万事。
というか、1か所だけ手を抜くということはできない。
雰囲気よし、風呂よし、(今のところ)、サービスよし。
風呂を出たところでは、茶のサービスもあった。
女性がそこに立っていて、「お茶はいかがですか?」と声をかけてくれた。
こういう心遣いがうれしい。

●「来てよかった」

 ワイフと長男は何やらボソボソと話しあいながら、真っ暗になった海を見ている。
遠くに、港の灯りが見える。
目をこらせば、船も見える。
静かな海だが、波の音が聞こえてくる。

「来てよかった」と思った。

 正月3日間は、最悪(?)だった。
原因は、三男。
しかしそれについては、ここには書けない。
書きたくもない。
考えたくもない。
私より長男のほうが、キレた。
「オレが電話で怒鳴りつけてやる!」と、何度も電話機に向かった。

が、ここへ来て、そのいやな気分が吹き飛んだ。
ワイフも、そういう私を見て、うれしそう。

●銀波荘

 手元にマッチがある。
それには、ローマ字で、「Hotel Ginpaso」とある。
反対側には、「三河湾国定公園西浦温泉」とある。
電話は、0533−57−3101。
もっとも今は、電話の時代ではない。
ネットで調べて、ネットで申し込む。
側面に、東京営業所と大阪営業所の電話番号が書いてある。
かなり本気で経営しているらしい。
その本気さが、客の私にも、そうわかる。
伝わってくる。

 正月3が日の間は、年越しそばの振る舞い、おとその振る舞い、奉納太鼓、餅つき、三河万
歳などの、1階ロビーで披露されるという。
(残念! ・・・今日は、1月5日!)

●うつ状態

 うつ状態になると、脳みその中で、いつもとはちがう、別の脳みそが機能し始める。
自分の中に、もう1人、別の自分がいるような感じになる。
それが本来の自分と、たがいに干渉しあうようになる。
本来の自分が、「早く気分をなおせ」と命令する。
が、もう1人の自分が、それに抵抗する。
そういう自分が、たがいに行ったり来たりする。
「悶々とした気分」というのは、そういった状態をいう。

 そしてここが重要だが、うつ状態になると、グーグルマップで、どんどんと地図を拡大していく
かのように、問題が大きく膨らんでくる。
ものごとを悪いほうへ、悪いほうへと考える。
ふだんなら笑ってすませるような話でも、「許せない!」となる。

 だからこうして今日、私たちは温泉はやってきた。

●現実的なものの考え方

 環境を変える・・・それだけのことで、気分は大きく変わる。
前からそういうことはわかっていたが、今回、改めて、それを確認した。
たしかに20年先を考えると、憂うつになる。
しかし20年なんて、遠い未来。
まずつぎの10年を、考える。
さらに今年1年を、考える。
現実を、考える。
ものの考え方を、現実的にする。
気分が変わると、そうなる。
つまりそういう考え方ができるようになる。

●喜び

 で、ものの考え方が現実的になると、今度は反対に、ささいなことの中に、喜びを感ずるよう
になる。
たとえば今朝、私のメインHPのトップ・ページを少し変えた。
そのあとのこと。
今までだと、保存するだけで、2時間弱もかかった。
2、3年前に買った、ビスタ・マシンである。
当時としては、最先端のパソコンだった。
が、今回、WINDOW7(i7、64マシン)で保存してみたら、約半分の1時間で、できた。
そんなことでも、うれしい。
今、それを思い出しながら、ワイフに、「今度のパソコンはすごいよ」と話しかける。

 で、さらに性能をよくするため、今度、高速のハードディスクに取り替えてみようと思う。
もっと速くなるかもしれない・・・。
「現実的に生きる」というのは、そういうことをいう(?)。

●新しい挑戦

 さらに今日、電車に乗る前に、パソコン雑誌を買った。
それには、(1)ファイル転送サービス、(2)ウェブアルバム、(3)オンライン・ストーレッジの記
事が載っていた。
今では、無料で、高機能のサービスを利用することができるようになった。
何でもないことかもしれない。
とくにパソコンと縁のない人には、理由もわからないだろう。
しかしそういうことでも、喜びにつながる。
「家に帰ったら、さっそく試してみよう」と。

 たとえば現在、画像保存サービスとして、「FLickr」と、「フォト蔵」を使っている。
ともに無料サービス。
それを使って、写真などを、そこへ保存している。
HP(ウェブサイト)などの直接写真を張り付けると、あっという間に、HPが重くなってしまう。
そこでHPやBLOGなどでは、一度、こうしたサービスに、写真を保存しておき、そこから呼び出
すようにする。
それぞれのサービスによって、内容が大きく異なる。

が、雑誌によれば、「Zooomr」(画像保存サービス)というのもあるらしい。
なかなかおもしろそう。

●夕食

 仲居さんが入ってきて、夕食の準備にかかり始めた。
私はパソコンをもって、縁側(?)のソファに移動した。
「縁側」?
「縁側」と言うのもおかしいから、仲居さんに、「こういう部屋を何と呼ぶのですか?」と声をかけ
てみた。
「ベランダ?」「テラス?」。
仲居さんも、「エ〜と、何と呼ぶのでしょうね」と言って笑った。
だから私が勝手に、「縁側」とした。

 その縁側からは、遠くに、一直線になった橙色の灯りが見える。
それが波に揺れるかのように、チラチラと細かく揺れる。
目の前の長男は、じっと窓の外に目を凝らしている。
静かなとき。
穏やかなとき。
仲居さんが食器を並べる音、それに私のキーボードを叩く音。
それだけが、部屋の中を行ったり来たりする。

●決意

 2010年になって、ひとつ決意したことがある。
「虚勢を張らない」ということ。
ありのままをさらけ出す。
もちろんありのままを書く。
さみしい正月だったら、「さみしい正月」と書く。
飾ることはない。
偉ぶることもない。
どうであれ、私は私。
その正月。
さみしい正月だった。
だれも来てくれなかった。
電話もなかった。

 年賀状も、例年の3分の1以下。
昨年は喪中で、1枚も書かなかった。
そのこともあって、今年はぐんと減った。
が、年賀状をくれた人には、全員、返事を書いた。
「今年の友は、一生の友」。

●自己開示

 しかしこれは私にとっては、重大な問題。
自己開示の問題と、直接絡んでくる。
「どこまでありのままを書くべきか」と。

 読者というのは、この文章を読んでいる(あなた)を含めて、不特定多数。
大半の人は好意的に読んでくれていると思う。
しかし中には、そうでない人もいるはず。
そういう人に向かって、プライバシーをさらけ出すのは、危険なことでもある。
が、ウソは書きたくない。
自分を飾った文章は書きたくない。
そういう文章は、あとで読み返しても、不愉快。

 そんなわけで、こう決意した。
「すべてを書くわけではない。しかしウソは書かない」と。

●食事

 ・・・ということで、今日になってやっと調子が戻ってきた。
こうして文章が書けるようになった。
思ったことが、そのままパソコンの画面上で、文章になっていく。
よかった・・・。
プラス、それが楽しい。

 旅行記をもう少しつづける。

 夕食は、よかった。
おいしかった。
調理人が本気で作っている・・・。
というより、真剣?
そんな感じがした。

ふつう、寿司は玉子焼きで、会席料理はそば料理で、評価が決まる。
玉子焼きのおいしい寿司屋の寿司は、おいしい。
同じように、会席料理では、そば料理で決まる。

 寿司屋のばあい、調理人の「味」と「腕」が試されるのは、玉子焼き。
一方、会席料理では、一番手抜きになりやすいのが、そば料理。
そのそば(日本そば)が、おいしかった。

●2時間

 夕食に、2時間もかかった。
のんびりと食べた。
で、今は、ワイフと長男は、テーブルの反対側でDVDを観ている。
私は、こうしてパソコンのキーボードを叩いている。
ときどきワイフと長男の笑い声が、フフフと聞こえてくる。
タイトルは、『人生は、奇跡の詩』。
イタリア映画らしい。

 ・・・というか、私は、かなり眠い。
食後はいつも眠くなる。
胃袋のほうに血が回ってしまう。
もともと低血圧ぎみ。
それで眠くなる。
しかしこうしてキーボードを叩いているほうが、私にとっては、楽しい。

●初夢

 ふと今、初夢のことを思い出した。

昔から、(もちろん迷信だが)、1月2日の朝に見る夢を、「初夢」という。
その夢が、その年の運勢を暗示するそうだ。

(しかしどうして1月2日なのだろう?)

で、私はすごい夢を見た。
今となっては、よく覚えていない。
が、すごい夢だったことは、たしか。
目を覚ましたとき、「すごい夢だった」と思った。
で、その直後は、内容を覚えていた。
が、どういうわけか、今は、覚えていない。
うっすらと覚えているのは、ハハハ・・・。
私がハリウッド映画に出てくるような、大富豪になった夢だったということ。

こういうありえない夢を見るから、人生もまた楽しい。
あるいは何かの映画のつづきだったかもしれない。
その映画の中に、私が俳優として、登場した(?)。
しかしどうしてそんな夢を見たのだろう。

●今年(2010年)の予想

 ついでに少し暗い話も。
今年の国際情勢を語るとき、不安な要素が、3つある。

中国のバブルが、再びはじけるのではないかという不安。
中東(イランvsイスラエル)が、火を噴(ふ)くのではないかという不安。
それにもうひとつ。
アメリカの経済の底が抜けるのではないかという不安。

 中国のバブルがはじければ、日本の株価は、大暴落。
中東で戦争が始まっても、同じ。
中国のバブルが再びはじければ、(円)は一気に円高に向かう。
注目すべきは、上海B株。
この半年近く、上海B株は直線的に上昇しつづけている。
しかしこんな上昇がいつまでも、つづくわけがない。

 もうひとつ目が離せないのは、中東情勢。
イラン。
イスラエル、もしくはアメリカが、イランに対して軍事制裁、軍事行動に出たら最後。
原油価格は高騰し、米ドルは暴騰し、(円)は一気に円安に向かう。
こちらのほうは、「直撃」というよりは、ジワジワと日本経済に影響を与える。
「ジワジワ」といっても、1、2か月単位。

 さらにアメリカの経済の底が抜けたら、どうなる?
07年のあのリーマンショック、あるいはそれ以上の大波が、日本を直撃することになる。

 ・・・ということで、朝、パソコンを開いたら、私はまずこの3つの動きを、ニュースで追いかけ
る。
中国→イラン→アメリカ、と。

 現在の状況からすると、これら3つが、同時に起きる可能性すらある。
が、もしそうなったら、2年前のリーマンショックなど、そよ風のようなもの。
想像するのも、恐ろしい。
今は世界中が、薄い氷の上を、恐る恐る歩いているようなもの。

●隕石衝突

 ついでにもうひとつ。
 恐ろしいといえば、こんな恐ろしい話はない。
何と、巨大な隕石が地球をめざして、こちらに向かっているという。
直径は、350メートル前後とか?
地球に激突すれば、フランス1国分の土地が、焦土と化すという。
日本の内陸部に落ちれば、本州は2分、3分されるかもしれない。
そのまま日本全体が、日本海溝の底へと沈んでしまう可能性さえある。

 しかし心配無用。
我らには、ブルース・ウィリスという強い味方がいる。
映画『ハルマゲドン』で活躍したブルース・ウィリス。
彼が、何とかしてくれるはず。
・・・というのは、もちろん冗談。

●さびれた田舎町

 旅の話に戻る。

 今日は、先にも書いたように、蒲郡(がまごうり)で名鉄電車に乗り換えて、この西浦までやっ
てきた。
蒲郡もそうだったが、西浦も、さびれた田舎町(失礼!)。
活気がないというよりは、どの店もシャッターをおろしたまま。
西浦からの送迎バスの中から見たとき、こう思った。
「これはとんでもない所へ来てしまったぞ!」と。

 が、銀波荘へ一歩、足を踏み入れたとたん、様相は変わった。
ビンビンとした活気を感じた。
そこで一考。
どこの温泉街でも、メインの温泉旅館以外は、元気がない。
とくに周辺の商店街は、元気がない。
西浦温泉街のばあいも、ここに書いたように、ほとんどの店が、シャッターをおろしている。
客がいないというよりは、客の趣向が変わった。
歩いて商店街を回る客は、いない。
みやげは、旅館やホテルの中で、買う。
旅館やホテルを抜け出て、遊びに行く人もいない。
まっすぐ目的の旅館やホテルへやってくる。
帰るときも、まっすぐそのまま帰る。

●批評

 しかしほめてばかりいては、いけない。
評論にならない。
いくつか注文というか、要望を書いてみる。

無線LANを使えるようにしてほしい。
持ち込みのDVDを、観られるようにしてほしい。
和式部屋にも、ダブルサイズのふとんを用意してほしい。
 
 今どき、無線LANは常識。・・・と思う。
ちょっとぜいたくかな?

・・・ということで、西浦温泉旅行記はおしまい。 
やっと調子がもどってきた!

(補記)

 寝る前にもう一度、展望風呂に入ってきた。
体重計に乗ったら、何と2キロオーバーの、62・5キロ!
昨日の朝は、60・5キロだったはず。
ギョッ!

 明日の朝は、どうやら食事抜きになりそう。
今夜の食事は、たしかにおいしかった!

 また来ます、銀波荘さん!

(西浦温泉の写真、ビデオは、私のマガジンと、YOUTUBEのほうで紹介しておきます。)

(はやし浩司 育児 子育て 評論 育児論 子育て論 教育 教育論 教育評論 はやし浩司
 最前線の子育て論 子供 子ども 子どもの問題 育児評論 はやし浩司 旅行記 西浦温
泉)

(付記)
 本気かどうかということは、たとえば、(1)浴場の中で、小鳥のさえずるBGMが流れていたと
か、(2)頼んだ夕食や朝食の時間について、1分単位で正確だったことをいう。
その(本気さ)が、旅館のサービスの質を決める。


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010++++++++はやし浩司

【老後の喪失感】

●喪失感

 老後というのは、喪失感との闘いと言ってもよい。
(喪失すること)に敏感になる。
(喪失すること)を恐れる。
健康、時間、金銭など。
同時に人間関係も。
だから喪失感と闘う。

 その喪失感が、ときとして被害妄想につながる。
さらにひどくなると、精神そのものを病む。
これがこわい。
こういうとき人は、何か理由をこじつけて、他人に怒りをぶつけたりする。
「だれだれが、〜〜したから、こうなったア!」と。

 しかし本当の理由は、自分自身の中にある。
自分自身の遺伝子の中にある。
それを、自分以外の人にぶつける。
こういうのを心理学の世界でも、「転移」と呼んでいる。
わかりやすく言えば、「八つ当たり」。

●過去における喪失感

 この喪失感には、2種類、ある。
未来に対する喪失感。
過去に対する喪失感。

 わかりやすい例で、考えてみよう。

 「やがてぼくも、ヨボヨボになるのか」と心配するのが、未来に対する喪失感。
一方、「あのとき、あいつがああいうことをしたから、ぼくは、損をした」と考えるのが、過去に対
する喪失感。

 若いときには、いろいろな取引で、毎月のように、100万円単位で、損をしたり、得をしたりし
ていた。
だから数百万円の損失など、何でもなかった。
が、今は、そうでない。
損をしたことに敏感になる。
そればかりか、それが心の中で、勝手に膨(ふく)らんでくる。
「あいつのおかげで、ぼくは、xxx万円も損した」と。

 もう少しわかりやすい例では、こんなことがある。 
ある女性は、あるとき夫にこう言って、泣き叫んだという。
「私の人生は何だったのよ!」「私の人生を返して!」と。
これもここでいう過去における喪失感ということになる。

●母のばあい

 さらに晩年の母は、温泉へ入るのをいやがったという。
姉からそういう話を聞いたことがある。
理由をたずねると、「自分の体(=肉体)が、みすぼらしいから(=恥ずかしいから)」と。

 また毎週のように、ひざの治療のため、病院に通っていた。
が、一向にひざは、よくならなかった。
それについて母は、「どうして治らない!」と、医者に向かって怒っていたという。

 これは当時80歳を過ぎていた、母の話である。
しかし私たちもすでに同じようなことを、し始めている。
それがここでいう喪失感との闘いということになる。

●敗北感

 この先、私たちは、どんどんと、失っていく。
いやおうなしに、失っていく。
どんどんと失って、最終的には、ゼロになる。
煙となって、この世から消える。
私の母にしても、あれほどまでに、モノとお金に執着した人だったが、死ぬときは、数枚の浴衣
と身の回りの道具しかなかった。
それがすべてだった。

 だれでもそうなる・・・というよりは、私たちはみな、その過程の中にいる。
が、それを認め、納得し、受け入れるのは、たいへんむずかしい。
「負け」を認めることに等しい。
あるいはときにそれは、そのまま自己否定につながる。
「いったい、私は何のために生きてきたのか?」と。
さらには、「私の人生は、無駄だったのか?」と。

●闘い

 だから闘う。
闘うしかない。
それは若い女性が、年齢を気にしながら、化粧に精を出す姿に似ている。
若さを保つとしても、本当のことを言えば、化粧して、ごまかしているだけ。
30歳の人は、25歳に見られることを喜ぶ。
が、同じ人でも、35歳になれば、30歳に見られることを喜ぶ。
「だったらはじめから、30歳らしく、あるいは35歳らしく生きればいい」と私は思う。
むなしい闘いだが、本人は、そうは思っていない。
懸命に(?)、年齢と闘っている。

 かく言う私だって、そうだ。

 もっとも私は、年齢は気にしない。
何歳に見られようが、どうということはない。
しかし健康、気力、脳みそ、などなど。
それは気になる。
が、今さら「増進」ということは無理。
それはよくわかっている。
だから「維持」ということになる。
「できるだけ、今の状態を保ちたい」。
そのための闘いということになる。

●郵便番号
 
 ところで今、恐ろしいこと(?)が起きた。
自宅のある入野町の郵便番号が、即座に頭の中に出てこなかった。
???。
ド忘れ?
それともボケの始まり?
一瞬、ゾーッとした。

 もっともここ数年、頭の中は数字だらけ。
パソコンを相手にしていると、パスワードに始まって、IDナンバーなどなど。
それが20ページもあるファイルに、ぎっしりと書き込まれている。
そこであれこれほかの数字を思い浮かべてみる。
携帯電話の番号、3本の電話番号などなど。
ついでに銀行の口座番号、証券会社のパスワードなどなど。
これらは覚えているが、郵便番号の432−806xの、「x」が、わからない。
「4」だったか?
「2」だったか?
「1」だったか?
これはどうしたことか?

 ・・・というような闘いを、日常的に繰り返すようになる。

●財産

 が、財産については、結論が出ている。
数年前から、ワイフとこう話しあっている。
「死ぬまでに、ぼくらの財産は、ぼくらで使い切ろう」と。

 たとえば土地と家は、それまでに売って、どこかの施設に入るときの資金にする、とかとか。
考えてみれば、私の人生は、一方的に(取られるだけの人生)だった。
親に取られ、親類に取られ、そして息子たちに取られ・・・。

「息子に取られる」という言い方は、適切ではないかもしれない。
しかし私たちの時代に生きた者は、親に貢(みつ)ぐことを当然と考えていた。
が、今の若い人たちには、そういう発想は、みじんもない。
結婚式の費用はもちろん、そのあとの生活費まで、親に援助してもらっている。
中には、子どもの養育費まで、親(=祖父母)に援助してもらっている人さえいる。
だから、つまり一方的なままだから、「取られる」という発想につながる。

 もちろん私の息子たちにしても、そういう発想は、みじんもない。
「老後の親のめんどうをみる」という発想すら、ない。
たがいに会話をしていても、それがよくわかる。

 だからここは私たち自身が、クールになるしかない。
それが先に書いた、「使い切る」という結論に結びついていく。

●脳みその健康

 残るは健康ということになる。
ただ誤解しないでほしいのは、こう書くからといって、「長生きをしたい」ということではない。
死ぬのはこわい。
が、だからといって長生きをしたいわけではない。
またそのために健康を維持するのでもない。

 『ただの人』(ハイデッガー)のまま、老後を生きながらえたとしても、それにどういう意味があ
るというのか?
「生きる」ことは、「息(いき)る」ことではない。
息(いき)ているだけの人生なら、早く死んだほうが、まし。
となると、やはり、脳みそということになる。
脳みその健康ということになる。

 これについては何度も書いてきたが、2つの意味がある。
思考力の維持。
脳みその健康の維持。

 思考力の維持はわかりやすい。
つまり考える力のこと。
ボケるのは、いやだ。
が、本当にこわいのは、「脳みその健康」。

とくに私のばあい、うつ病の心配がある。
今のところまだ、医者の世話にこそなっていないが、それも時間の問題。
どうすれば脳みその健康を維持できるか。
晴れ晴れとした気分で、毎日を楽しく、愉快に過ごすことができるか。
「それが問題」(That is a question)。

●432−8061

 今、思い出した。
郵便番号は、「432−8061」だ。
が、どうして先ほど、その数字が、頭の中に出てこなかったのだろう?
???
その部分を格納していた神経細胞が、たまたま死滅したのかもしれない。
何しろ、毎日20万個前後の神経細胞が、死滅している。
あるいは微細脳梗塞が起きている可能性もある。
ときどき寝ていて、寝返りをうったようなとき、ギリギリとはげしい神経痛が走ることがある。
今朝も一度、あった。
そういうとき、同時に脳の中のこまかい血管が破れているのかもしれない。
(これは私の勝手な憶測。)

 あまりにも当たり前な数字だから、そのようにしか考えていなかった。
ワープロの中では、辞書として登録してある。
「じゅうしょ」と打ち込むと、自動的に、郵便番号+住所が表記される。
一方、携帯電話の番号は、ゴロ合わせを使って覚えている。
だから忘れない。

 しかしそれにしても、ゾッとした。

●認め、納得し、受け入れる

 この先、喪失感との闘いは、ますますはげしくなる。・・・なっていくだろう。
同時に、先にも書いたように、それを認め、納得し、受け入れていく。
そういう心理的操作も必要となってくる。

 当然、自分がキズつくことも多くなってくる。
だまされたり、裏切られたり・・・。
(そういう点では、私は、ボロボロ?)
が、キズつかないように生きる・・・つまりケチな生き方をするというのは、私流ではない。
大切なことは、キズに対して免疫性をもつこと。
もっとはっきり言えば、私のワイフがいつも言っているように、「相手に期待しないこと」。
へたに期待するから、キズつく。

 考えてみれば、老後を生きるということは、そういうことかもしれない。
つまり「認め、納得し、受け入れる」ということは、ボロボロになること。
ボロボロになることを、恐れないということ。

 それが老後の喪失感と闘う、ゆいいつの方法ということになる。

(はやし浩司 育児 子育て 評論 育児論 子育て論 教育 教育論 教育評論 はやし浩司
 最前線の子育て論 子供 子ども 老後の喪失感 はやし浩司 老後論 老後の生き方 ボ
ロボロの人生 西浦温泉 銀波荘にて)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010++++++++はやし浩司

●親のニヒリズム

+++++++++++++++++++

「子どもなんか、産むもんじゃない」と言った人がいた。
実はそう言ったのは、私の母だった。
私が遠く(?)、郷里のM町を離れて住むようになったことについて、
そう言った。
「息子を、浜松の嫁に取られた」とも言った。

++++++++++++++++++

●ニヒリズム

 世の中には、いろいろな親がいる。
それぞれの親は、それぞれにいろいろな思いや考え方をもっている。
たとえば、「息子や息子には、(学)をつけさせない」とがんばっている親もいる。
「へたに(学)をつけさせると、遠くへ行ってしまうから」と。
だからその親は、自分の息子や娘には、勉強をさせない。
「学校は、地元の高校だけでじゅうぶん」と。

 この話は、本当の話。
本当に私が、その親から、そう聞いた。

 また「子どもに学費を出すのは、もったいない」と考えている親もいる。
「大学まで出してやるのは、長男だけ」と。
長男を家の跡取りと考えているから、そう言った。
だから私が、「二男はアメリカに住んでいます」などと言うと、こう言う。
「そんなもったいないこと、よくできますね」と。

●感謝

 私は息子たちを育てているときは、そういうことは、まったく考えていなかった。
息子たちを伸ばすことだけを、懸命に考えていた。
損得の計算をしたことがない。
こと学費については、惜しみなく提供してきた。
「惜しみなく」というのは、「何も言わないで」という意味。

 が、その息子たちが、そういった私に感謝しているかということになると、たいへん疑わしい。
それがあまりにも当たり前の生活だったから、息子たちは、当たり前と考えている。
いつだったか、私が息子の1人に、こう愚痴を言ったことがある。

 「ぼくらが子どものころには、腹いっぱい、飯を食べることさえできなかった」と。
すると息子は、こう言った。
「そんなのは、バカな戦争をしたパパたちの責任」
「ぼくらには、関係ない」と。
つまり自業自得、と。

 大学へ通う学費にしても、そうだ。
へたに「学費を稼ぐのに、苦労した」などと言おうものなら、(言ったことはないが
・・・)、「頼んだ覚えはない」と言われそう。
反対にこう言われたこともある。
「パパは仕事ばかりしていて、ぼくたちのことをかまってくれなかった」と。

●父親という存在

 そういう自分を振り返りながら、「父親というのは、さみしい存在」と感ずる。
私のばあい、貧乏が何よりもこわかった。
だれからの援助も、受けることができなかった。
がむしゃらに働くしかなかった。
戦後のあの時代、それにつづく高度経済成長の時代というのは、そういう時代だった。
が、それについても、息子たちだけではない、今の若い人たちは、「自業自得」という言葉を、
平気で使う。

 そうそうこんなこともあった。

 息子の1人がアメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。
それまでそんなことを考えたこともなかったが、こんな思いが、胸をついた。
「私の父は、台湾でアメリカ兵と接近戦になり、貫通銃創を受けている」と。
つまりアメリカという敵国の、その国の女性と結婚をする(?)。

 今の若い人たちに、こんな話をしても、理解されないだろう。
しかし私には、私なりの思いがあった。
が、息子にしても、そういった話を、「過去の話」と、簡単に片づけてしまう。
あまりにも、簡単に、だ。

 そういう若い人、つまり自分の息子たちを見ていると、あのニヒリズムがムラムラと沸きあが
ってくる。
「私は何のために、苦労をしたのだ」と。

●今はわかる

 だから今は、わかる。
「子どもなんか、産むもんじゃない」「息子を、浜松の嫁に取られた」と言った、母の気持ち。
「息子や息子には、(学)をつけさせない」「学校は、地元の高校だけでじゅうぶん」といった人
の気持ち。
わかるが、そこまで。

 一方で、それを懸命に打ち消そうという心が働く。
「今まで、楽しかったではないか」と。
息子たちがいたからこそ、ここまでがんばることができた。
もしいなかったら、ここまではがんばらなかっただろう。
金銭的な意味で、損か得かということになれば、損に決まっている。
しかし「金銭的な価値」など、「生きることの価値」に比べたら、何でもない。
無価値とまでは言わないが、「生きる」ことを犠牲にするほどの価値はない。

 ニヒリズムと慰め。
この2つが交互に心の中に現れては消える。
これも私という親の、偽らざる心境ということになる。

(はやし浩司 育児 子育て 評論 育児論 子育て論 教育 教育論 教育評論 はやし浩司
 最前線の子育て論 子供 子ども 子どもへのニヒリズム ニヒリズム 子育て損得論)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010++++++++はやし浩司

**************BW教室CM

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bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.static.flickr.com/4054/4249851567_
72c2dcf472_o.jpg" width="536" height="600" alt="img002" /></a>

はやし浩司***************

特集【介護と子どもの意識】

●介護と子どもの意識

+++++++++++++++++

介護問題に隠れて、表に出てこないが、
その裏には、子どもたちの意識の変化
がある。
現在、ほとんどの子どもたちは、「経済的に
余裕があれば、親のめんどうをみる」と
考えている(日本)。
しかし経済的に余裕のある人は、いない。
みな、それぞれが精いっぱいの生活を
している。

つまりこの調査結果を裏から読むと、
「めんどうはみない」となる。
が、ことはさらに深刻である。

(めんどう)どころか、(老人への虐待)が、
深刻化している。

10年ほど前に書いた原稿をさがしてみる。
(10年前ですら、そうだったということを
わかってほしいから。)

++++++++++++++++++

●ジジ・ババ受難の時代

++++++++++++++

年々、ジジ・ババへの風当たりが
強くなってきている(?)。

これから先、私たち高齢者予備軍は、
どのように社会とかかわりあって
いったらよいのか。

++++++++++++++

 私は感じている。ひょっとしたら、あなたも感じている。このところ、年を追うごとに、ジジ・ババ
への風当たりが強くなってきている。

 若者たちが書くBLOGにしても、「ジジイ」とか「ババア」という言葉を使って、年配者をののし
る表現が、最近、目につくようになってきた。ある交通事故の相談を専門に受けつけるBLOG
には、こんな書きこみすらあった。

 「先日、枯れ葉マークのジジイの車に追突された。おかげで、こちらは2週間も入院。そのジ
ジイが、2、3日ごとに見舞いにくるから、たまらねえ。あんなジジイに、何度も見舞いに来られ
て、うるさくてしかたねえ。こっちは、迷惑している」と。

 その若者は、バイクに乗っているところを、車で追突されたらしい。

 つまりこのところ、老齢者が、ますます、「粗大ゴミ」になってきた。そんな感じがする。老人医
療費用、介護費用の増大が、若者の目にも、それが「負担」とわかるようになってきた。加え
て、日本では、世代間における価値観の相違が、ますます顕著になってきた。若者たちは、程
度の差こそあれ、上の世代の犠牲になっているという意識をもっている。

 これに対して、たとえば私たち団塊の世代は、こう反論する。「現在の日本の繁栄を築きあげ
たのは、私たちの世代だ」と。

 しかしこれは、ウソ。団塊の世代の私が、そう言うのだから、まちがいない。

 たしかに結果的には、そうなった。つまりこうした論理は、結果論を正当化するための、身勝
手な論理にすぎない。私も含めて、だれが、「日本のため……」などと思って、がんばってきた
だろうか。私たちは私たちで、今までの時代を、「自分のために」、がんばってきた。結果として
日本は繁栄したが、それはあくまでも結果論。

 そういう私たちを、若い世代は、鋭く見抜いている。

 しかしこれは深刻な問題でもある。

 これから先、高齢者はもっとふえる。やがてすぐ、人口の3分の1以上が、満65歳以上にな
るとも言われている。そうなったとき、若者たちは、私たち老齢者を、どういう目で見るだろう
か。そのヒントが、先のBLOGに隠されているように思う。

 ジジ・ババは、ゴミ。
 ジジ・ババは、臭い。
 ジジ・ババは、ムダな人間、と。

 そういう意識を若者たちが共通してもつようになったら、私たち高齢者にとって、この日本は、
たいへん住みにくい国ということになる。そのうち老人虐待や老人虐殺が、日常的に起こるよう
になるかもしれない。

 では、どうすればよいのか。

 ……というより、高齢者のめんどうを、第一にみなければならないのは、実の子どもということ
になる。が、その子どもが成人になるころには、たいていの親子関係は、破壊されている。親
たちは気がついていないが、「そら、受験だ」「そら、成績だ」「そら、順位だ」などと言っているう
ちに、そうなる。

 中学生になる前に、ゾッとするほど、心が冷たくなってしまう子どもとなると、ゴマンといる。反
対に、できが悪く(?)、受験とは無縁の世界で育った子どもほど、心が暖かく、親思いになる。
ウソだと思うなら、あなたの周囲を見回してみればよい。あるいはあなた自身のことを考えてみ
ればよい。

 「親のめんどうなどみない」と宣言している若者もいる。「親の恩も遺産次第」と考えている若
者は、もっと多い。たいはんの若者は、「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と答え
ている。つまり「余裕がなければ、みない」※と。数年置きに、総理府が調査しているので、そ
のうち、これについての全国的な調査結果も出てくると思うが、これが現状と考えてよい。

 私はこのところ、近くの老人ケア・センターへ行く機会がふえた。そこでは、30〜40人の老
人を相手に、4、5人の若い男女が、忙しそうにあれこれと世話をしている。見た目には、のど
かで、のんびりとした世界だが、こんな世界も、いつまでつづくかわからない。

 すでに各自治体では、予算不足のため、老人介護のハードルをあげ始めている。補助金を
削減し始めている。10年後には、もっと、きびしくなる。20年後には、さらにきびしくなる。単純
に計算しても、今は30〜40人だが、それが90〜120人になる。

 そうなったとき、そのときの若者たちは、私たち高齢者を、どのような目で見るだろうか。また
どのように考えるだろうか。

 老齢になるまま、その老齢に負け、老人になってはいけない。ケア・センターでは、老人たち
が、幼稚園の年長児でもしないような簡単なゲームをしたり、手細工をしたりしている。ああい
うのを見ていると、「本当に、これでいいのか」と思う。

 高齢者は、人生の大先輩なはず。人生経験者のはず。そういう人たちが、手をたたいて、カ
ラオケで童謡を歌っている! つまりこれでは、「粗大ゴミ」と呼ばれても、文句は言えない。ま
た、そうであっては、いけない。

 わかりやすく言えば、高齢者は、高齢者としての(存在感)をつくらねばならない。社会とかか
わりをもちながら、その中で、役に立つ高齢者でなければならない。そういうかかわりあいとい
うか、若者たちとの(かみあい)ができたとき、私たち高齢者は、それなりにの(人間)として認
められるようになる。

 「私たちが、この日本を繁栄させたのだ」とか、「だれのおかげで、日本がここまで繁栄できた
か、それがわかっているか」とか、そういう高慢な気持ちは、さらさらもっていはいけない。

 私たち高齢者(実際には、高齢者予備軍)は、どこまでも、謙虚に! 姿勢を低くして、若者
や社会に対して、自分たちの人生を、還元していく。その努力を今から、怠ってはいけない。

++++++++++++++++

古い原稿を再掲載します。

++++++++++++++++

●本末転倒の世界

 「老人のような役立たずは、はやく死んでしまえばいい」と言った、高校生がいた。そこで私
が、「君だって、老人になるんだよ」と言うと、「ぼくは、人に迷惑をかけない。それにそれまでに
うんと、お金を稼いでおくからいい」と。

そこでさらに私が、「君は、親のめんどうをみないのか」と聞くと、こう言った。「それだけのお金
を残してくれるなら、めんどうをみる」と。親の恩も遺産次第というわけだが、今、こういう若者
がふえている。

 97年、総理府が成人式を迎えた青年を対象に、こんな意識調査をした。「親の老後のめん
どうを、あなたはみるか」と。

それに対して、「どんなことをしてでも、みる」と答えた若者は、たったの19%! この数字がい
かに低いかは、たとえばアメリカ人の若者の、60数%。さらに東南アジアの若者たちの、80
〜90%という数字と比較してみるとわかる。しかもこの数字は、その3年前(94年)の数字よ
り、4ポイントもさがっている。このことからもわかるように、若者たちのドラ息子化は、ますます
進行している。

 一方、日本では少子化の波を受けて、親たちはますます子どもに手をかけるようになった。
金もかける。今、東京などの都会へ大学生を一人、出すと、毎月の仕送り額だけでも、平均2
7万円。この額は、平均的サラリーマンの年収(1005万円)の、3割強。

だからどこの家でも、子どもが大学へ行くようになると、母親はパートに出て働く。それこそ爪に
灯をともすような生活を強いられる。が、肝心の大学生は、大学生とは名ばかり。大学という巨
大な遊園地で、遊びまくっている! 先日も京都に住む自分の息子の生活を、見て驚いた母
親がいた。春先だったというが、一日中、電気ストーブはつけっぱなし。毎月の電話代だけで
も、数万円も使っていたという。

 もちろん子どもたちにも言い分は、ある。「幼児のときから、勉強、勉強と言われてきた。何を
いまさら」ということになる。「親のために、大学へ行ってやる」と豪語する子どもすらいる。今、
行きたい大学で、したい勉強のできる高校生は、10%もいないのではないか。

大半の高校生は、「行ける大学」の「行ける学部」という視点で、大学を選ぶ。あるいはブランド
だけで、大学を選ぶ。だからますます遊ぶ。年に数日、講義に出ただけで卒業できたという学
生もいる(新聞の投書)。

 こういう話を、幼児をもつ親たちに懇談会の席でしたら、ある母親はこう言った。「先生、私た
ち夫婦が、そのドラ息子ドラ娘なんです。どうしたらよいでしょうか」と。

私の話は、すでに一世代前の話、というわけである。私があきれていると、その母親は、さらに
こう言った。「今でも、毎月実家から、生活費の援助を受けています。子どものおけいこ塾の費
用だけでも、月に4万円もかかります」と。しかし……。今、こういう親を、誰が笑うことができる
だろうか。

(親から大学生への支出額は、平均で年、319万円。月平均になおすと、約26・6万円。毎月
の仕送り額が、平均約12万円。そのうち生活費が6万5000円。大学生をかかえる親の平均
年収は1005万円。自宅外通学のばあい、親の27%が借金をし、平均借金額は、182万
円。99年、東京地区私立大学教職員組合連合調査。)

+++++++++++++++

つづいて03年(7年前)に書いた
原稿を添付します。

+++++++++++++++

●高齢者への虐待

+++++++++++++

やはり高齢者への虐待が
ふえているという。

これはこれからの世界を
生きる私たちにとっては、
深刻な問題である。

+++++++++++++

 医療経済研究機構が、厚生省の委託を受けて調査したところ、全国1万6800か所の介護
サービス、病院で、1991事例もの、『高齢者虐待』の実態が、明るみになったという(03年11
月〜04年1月期)。

 わかりやすく言えば、氷山の一角とはいえ、10か所の施設につき、約1例の老人虐待があっ
たということになる。

 この調査によると、虐待された高齢者の平均年齢は、81・6歳。うち76%は、女性。

 虐待する加害者は、息子で、32%。息子の配偶者が、21%。娘、16%とつづく。夫が虐待
するケースもある(12%)。

 息子が虐待する背景には、息子の未婚化、リストラなどによる経済的負担があるという。

 これもわかりやすく言えば、息子が、実の母親を虐待するケースが、突出して多いということ
になる。

 で、その虐待にも、いろいろある。

殴る蹴るなどの、身体的虐待
ののしる、無視するなどの、心理的虐待
食事を与えない、介護や世話をしないなどの、放棄、放任
財産を勝手に使うなどの、経済的虐待など。

 何ともすさまじい親子関係が思い浮かんでくるが、決して、他人ごとではない。こうした虐待
は、これから先、ふえることはあっても、減ることは決してない。最近の若者のうち、「将来親の
めんどうをみる」と考えている人は、5人に1人もいない(総理府、内閣府の調査)。

 しかし考えてみれば、おかしなことではないか。今の若者たちほど、恵まれた環境の中で育っ
ている世代はいない。飽食とぜいたく、まさにそれらをほしいがままにしている。本来なら、親に
感謝して、何らおかしくない世代である。

 が、どこかでその歯車が、狂う。狂って、それがやがて高齢者虐待へと進む。

 私は、その原因の一つとして、子どもの受験競争をあげる。

 話はぐんと生々しくなるが、親は子どもに向かって、「勉強しなさい」「成績はどうだったの」「こ
んなことでは、A高校にはいれないでしょう」と叱る。

 しかしその言葉は、まさに「虐待」以外の何ものでもない。言葉の虐待である。

 親は、子どものためと思ってそう言う。(本当は、自分の不安や心配を解消するためにそう言
うのだが……。)子どもの側で考えてみれば、それがわかる。

 子どもは、学校で苦しんで家へ帰ってくる。しかしその家は、決して安住と、やすらぎの場では
ない。心もいやされない。むしろ、家にいると、不安や心配が、増幅される。これはもう、立派な
虐待と考えてよい。

 しかし親には、その自覚がない。ここにも書いたように、「子どものため」という確信をいだい
ている。それはもう、狂信的とさえ言ってもよい。子どもの心は、その受験期をさかいに、急速
に親から離れていく。しかも決定的と言えるほどまでに、離れていく。

 その結果だが……。

 あなたの身のまわりを、ゆっくりと見回してみてほしい。あなたの周辺には、心の暖かい人も
いれば、そうでない人もいる。概してみれば、子どものころ、受験競争と無縁でいた人ほど、
今、心の暖かい人であることを、あなたは知るはず。

 一方、ガリガリの受験勉強に追われた人ほど、そうでないことを知るはず。

 私も、一時期、約20年に渡って、幼稚園の年中児から大学受験をめざした高校3年生まで、
連続して教えたことがある。そういう子どもたちを通してみたとき、子どもの心がその受験期に
またがって、大きく変化するのを、まさに肌で感じることができた。

 この時期、つまり受験期を迎えると、子どもの心は急速に変化する。ものの考え方が、ドライ
で、合理的になる。はっきり言えば、冷たくなる。まさに「親の恩も、遺産次第」というような考え
方を、平気でするようになる。

 こうした受験競争がすべての原因だとは思わないが、しかし無縁であるとは、もっと言えな
い。つまり高齢者虐待の原因として、じゅうぶん考えてよい原因の一つと考えてよい。

 さて、みなさんは、どうか。それでも、あなたは子どもに向かって、「勉強しなさい」と言うだろう
か。……言うことができるだろうか。あなた自身の老後も念頭に置きながら、もう少し長い目
で、あなたの子育てをみてみてほしい。
(はやし浩司 老人虐待 高齢者虐待)

++++++++++++++++++++++

少し古い原稿ですが、以前、中日新聞に
こんな原稿を載せてもらったことがあり
ます。

++++++++++++++++++++++

●抑圧は悪魔を生む

 イギリスの諺(ことわざ)に、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。

心の抑圧状態が続くと、ものの考え方が悪魔的になることを言ったものだが、この諺ほど、子
どもの心にあてはまる諺はない。きびしい勉強の強要など、子どもの能力をこえた過負担が続
くと、子どものものの考え方は、まさに悪魔的になる。こんな子ども(小4男児)がいた。

 その子どもは静かで、穏やかな子どもだった。人の目をたいへん気にする子どもで、いつも
他人の顔色をうかがっているようなところは、あるにはあった。しかしそれを除けば、ごくふつう
の子どもだった。が、ある日私はその子どものノートを見て、びっくりした。

何とそこには、血が飛び散ってもがき苦しむ人間の姿が、いっぱい描かれていた! 「命」と
か、「殺」とかいう文字もあった。しかも描かれた顔はどれも、口が大きく裂け、そこからは血が
タラタラと流れていた。ほかに首のない死体や爆弾など。原因は父親だった。

神経質な人で、毎日、2時間以上の学習を、その子どもに義務づけていた。そしてその日のノ
ルマになっているワークブックがしていないと、夜中でもその子どもをベッドの中から引きずり
出して、それをさせていた。

 神戸で起きた「淳君殺害事件」は、まだ記憶に新しいが、しかしそれを思わせるような残虐事
件は、現場ではいくらでもある。

その直後のことだが、浜松市内のある小学校で、こんな事件があった。一人の子ども(小二男
児)が、飼っていたウサギを、すべり台の上から落として殺してしまったというのだ。

この事件は時期が時期だけに、先生たちの間ではもちろんのこと、親たちの間でも大きな問題
になった。ほかに先生の湯飲み茶碗に、スプレーの殺虫剤を入れた子ども(中学生)もいた。
牛乳ビンに虫を入れ、それを投げつけて遊んでいた子ども(中学生)もいた。ネコやウサギをお
もしろ半分に殺す子どもとなると、いくらでもいる。ほかに、つかまえた虫の頭をもぎとって遊ん
でいた子ども(幼児)や、飼っていたハトに花火をつけて、殺してしまった子ども(小3男児)もい
た。

 親のきびしい過負担や過干渉が日常的に続くと、子どもは自分で考えるという力をなくし、い
わゆる常識はずれの子どもになりやすい。異常な自尊心や嫉妬心をもつこともある。

そういう症状の子どもが皆、過負担や過干渉でそうなったとは言えない。しかし過負担や過干
渉が原因でないとは、もっと言えない。子どもは自分の中にたまった欲求不満を何らかの形で
発散させようとする。いじめや家庭内暴力の原因も、結局は、これによって説明できる。

一般論として、はげしい受験勉強を通り抜けた子どもほど心が冷たくなることは、よく知られて
いる。合理的で打算的になる。

ウソだと思うなら、あなたの周囲を見回してみればよい。あなたの周囲には、心が温かい人も
いれば、そうでない人もいる。しかし学歴とは無縁の世界に生きている人ほど、心が温かいと
いうことを、あなたは知っている。子どもに「勉強しろ」と怒鳴りつけるのはしかたないとしても、
それから生ずる抑圧感が一方で、子どもの心をゆがめる。それを忘れてはならない。

【追記】

 受験競争は、たしかに子どもの心を破壊する。それは事実だが、破壊された子ども、あるい
はそのままおとなになった(おとな)が、それに気づくことは、まず、ない。

 この問題は、脳のCPU(中央演算装置)にからむ問題だからである。

 が、本当の問題は、実は、受験競争にあるのではない。本当の問題は、「では、なぜ、親たち
は、子どもの受験競争に狂奔するか」にある。

 なぜか? 理由など、もう改めて言うまでもない。

 日本は、明治以後、日本独特の学歴社会をつくりあげた。学歴のある人は、とことん得をし、
そうでない人は、とことん損をした。こうした不公平を、親たちは、自分たちの日常生活を通し
て、いやというほど、思い知らされている。だから親たちは、こう言う。

 「何だ、かんだと言ってもですねえ……(学歴は、必要です)」と。

 つまり子どもの受験競争に狂奔する親とて、その犠牲者にすぎない。

 しかし、こんな愚劣な社会は、もう私たちの世代で、終わりにしよう。意識を変え、制度を変
え、そして子どもたちを包む社会を変えよう。

 決してむずかしいことではない。おかしいものは、おかしいと思う。おかしいことは、「おかし
い」と言う。そういう日常的な常識で、ものを考え、行動していけばよい。それで日本は、変る。

 少し頭が熱くなったので、この話は、また別の機会に考えてみたい。しかしこれだけは言え
る。

 あなたが老人になって、いよいよというとき、あなたの息子や娘に虐待されてからでは、遅い
ということ。そのとき、気づいたのでは、遅いということ。今ここで、心豊かな親子関係とは、ど
んな関係をいうのか、それを改めて、考えなおしてみよう。


Hiroshi Hayashi+++++++++FEB.07+++++++++++はやし浩司

●受験競争の弊害

++++++++++++++++

受験競争の弊害をあげたら、キリがない。

問題は、しかし、受験競争そのものではなく、
それがわかっていても、なお、親たちは
子どもの受験競争に狂奔するか、である。

そのあたりまでメスを入れないと、
この問題がもつ本質的な意味を
理解することはできない。

+++++++++++++++++

 精神の完成度は、内面化の充実度で決まる。わかりやすく言えば、いかに、他人の立場で、
他人の心情でものを考えられるかということ。つまり他人への、協調性、共鳴性、同調性、調
和性などによって決まる。

 言いかえると、「利己」から、「利他」への度合によって決まるということになる。

 そういう意味では、依存性の強い人、自分勝手な人、自己中心的な人というのは、それだけ
精神の完成度が、低いということになる。さらに言いかえると、このあたりを正確に知ることに
より、その人の精神の完成度を知ることができる。

 子どもも、同じに考えてよい。

 子どもは、成長とともに、肉体的な完成を遂げる。これを「外面化」という。しかしこれは遺伝
子と、発育環境の問題。

 それに対して、ここでいう「内面化」というのは、まさに教育の問題ということになる。が、ここ
でいくつかの問題にぶつかる。

 一つは、内面化を阻害する要因。わかりやすく言えば、精神の完成を、かえってはばんでし
まう要因があること。

 二つ目に、この内面化に重要な働きをするのが親ということになるが、その親に、内面化の
自覚がないこと。

 内面化をはばむ要因に、たとえば受験競争がある。この受験競争は、どこまでも個人的なも
のであるという点で、「利己的」なものと考えてよい。子どもにかぎらず、利己的であればあるほ
ど、当然、「利他」から離れる。そしてその結果として、その子どもの内面化が遅れる。ばあい
によっては、「私」から「私」が離れてしまう、非個性化が始まることがある。

 ……と決めてかかるのも、危険なことかもしれないが、子どもの受験競争には、そういう側面
がある。ないとは、絶対に、言えない。たまに、自己開発、自己鍛錬のために、受験競争をす
る子どももいるのはいる。しかしそういう子どもは、例外。

(よく受験塾のパンフなどには、受験競争を美化したり、賛歌したりする言葉が書かれている。
『受験によってみがかれる、君の知性』『栄光への道』『努力こそが、勝利者に、君を導く』など。
それはここでいう例外的な子どもに焦点をあて、受験競争のもつ悪弊を、自己正当化している
だけ。

 その証拠に、それだけのきびしさを求める受験塾の経営者や講師が、それだけ人格的に高
邁な人たちかというと、それは疑わしい。疑わしいことは、あなた自身が一番、よく知っている。
こうした受験競争を賛美する美辞麗句に、決して、だまされてはいけない。)

 実際、受験競争を経験すると、子どもの心は、大きく変化する。

利己的になる。(「自分さえよければ」というふうに、考える。)
打算的になる。(点数だけで、ものを見るようになる。)
功利的、合理的になる。(ものの考え方が、ドライになる。)
独善的になる。(学んだことが、すべて正しく、それ以外は、無価値と考える。)
追従的、迎合的になる。(よい点を取るには、どうすればよいかだけを考える。)
見栄え、外面を気にする。(中身ではなく、ブランドを求めるようになる。)
人間性の喪失。(弱者、敗者を、劣者として位置づける。)

 こうして弊害をあげたら、キリがない。

 が、最大の悲劇は、子どもを受験競争にかりたてながら、親に、その自覚がないこと。親自
身が、子どものころ、受験競争をするとことを、絶対的な善であると、徹底的にたたきこまれて
いる。それ以外の考え方をしたこともなしい、そのため、それ以外の考え方をすることができな
い。

 もっと言えば、親自身が、利己的、打算的、功利的、合理的。さらに独善的、追従的。迎合
的。

 そういう意味では、日本人の精神的骨格は、きわめて未熟で、未完成であるとみてよい。い
や、ひょっとしたら、昔の日本人のほうが、まだ、完成度が高かったのかもしれない。今でも、
農村地域へ行くと、牧歌的なぬくもりを、人の心の中に感ずることができる。

 一方、はげしい受験競争を経験したような、都会に住むエリートと呼ばれる人たちは、どこか
心が冷たい。いつも、他人を利用することだけしか、考えていない? またそうでないと、都会
では、生きていかれない? 

これも、こう決めてかかるのは、危険なことかもしれない。しかしこうした印象をもつのは、私だ
けではない。私のワイフも含め、みな、そう言っている。

 子どもを受験競争にかりたてるのは、この日本では、しかたのないこと。避けてはとおれない
こと。それに今の日本から、受験競争を取りのぞいたら、教育のそのものが、崩壊してしまう。
しかし心のどこかで、こうした弊害を知りながら、かりたてるのと、そうでないとのとでは、大きな
違いが出てくる。

 一度、私がいう「弊害」を、あなた自身の問題として、あなたの心に問いかけてみてほしい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ある母親からの相談(2010年1月7日)

 たまたま今朝、こんな相談が届いていた。
埼玉県K市に住んでいる、MSさんという方からの
相談である。
一部を変えて、そのまま紹介させてもらう。

【MSさんからはやし浩司へ】

はじめまして。
毎日先生のブログを読んでいる者です。私の子供はもう19才と17才になり、子育てという年
齢ではなくなっていますが、それでも、何かと心に思うことがあり、子育てのブログを読ませて
いただいております。

今回、長女の成人式の問題と次女の大学受験のことで、私の気持ちがいっぱいになってしま
い、自分を見失ってしまいそうなので、ご相談しました。
先ず、長女の成人式ですが、着物は娘の好みに合わせレンタルしました。今時のレンタルは
早めの申し込みで、記念写真の撮影は昨年3月に済ませており、夫と私の親にはすでにアル
バムを渡しております。この写真撮影の時、着物を着て帰りましたので、双方の祖父母宅に寄
り、振袖姿を披露しました。

ですが、もうすぐ成人式というのに、長女は成人式には出ないと言い出しました。その時の私
のショックは言葉に出来ません。長女は大学2年で、学費で精一杯の家計ですが、せっかくの
成人式なので好きな着物を選ばせ、トータル20万円もしました。今、思い起こせば、着物を選
ぶ時も、写真撮影の時も、娘はずっと不機嫌でした。私は娘の様子を見ているだけで吐き気が
するほど、気分が悪くなってしまいました。

これも、私がそう育ててしまったのだから・・・ しっかりものの長女のこと、何か出席したくない
よっぽどの理由があるはず、もうすでに振袖姿は見たし、祖父母にも披露し、アルバムも撮影
済み。何が問題なのか? 長女の成人式だもの、本人の好きにすればいい・・・ と自分に言
い聞かせる毎日ですが、なかなか私の気持ちに折り合いが付きません。これも、許して忘れ
る・・・でいいのでしょうか?

加えて、次女の大学受験で彼女のストレスが私に向けられ、毎日眼が回りそうです。不安で不
安で仕方ないようです。
私が高卒で、ずっと学歴にコンプレックスを持ち、子供には大学に行ってもらいたいと、小さい
頃から学歴が大事と間違って育ててしまったのがいけないのでしょうね。
夫はいうと、我関せずとばかりに、遠巻きにしております。

こんなことで・・・と笑われてしまいそうですが、中学生の時に、長女、次女とも本当に大変な時
期があり、頭の固い私が変わらざるを得ない事態となりました。それから、子育てに自身がなく
なり、これは共依存なのか?、と思うようになりました。
何かにつけ、私のしていることに自信がないのです。 

何か良いアドバイスがありましたら、よろしくお願いいたします。

【はやし浩司よりMSさんへ】

 まず先の「介護と子どもの意識」を読んでみてください。
今のあなたの考え方も、少しは変ると思います。

 簡単に言えば、親の私たちは、子どもに対して(幻想)をもちやすいということ。
その幻想を信じ、その幻想にしがみつく。
「私たち親子だけは、だいじょうぶ」と。

 しかし実際には、子どもたちの心は、親の私たちから、とっくの昔に離れてしまっているので
すね。
親は子どもの将来を心配し、「何とか学歴だけは・・・」と思うかもしれない。
しかし当の本人たちにとっては、それが(ありがた迷惑)というわけです。
いまどき、親に感謝しながら大学へ通っている子どもなど、まずいないと考えてよいでしょう。
それよりも今、大切なのは、自分たちの老後の資金を切り崩さないこと。
あなたにかなりの余裕があれば、話は別ですが・・・。

 お嬢さんたちもその年齢ですから、今度は、あなた自身の年齢を振り返ってみてください。
そこにあるのは、(老後)ですよ。
今は、まだ(下)ばかり見ているから、まだ気がついていないかもしれませんが、あと5〜10年
もすると、あなたも老人の仲間入りです。

 では、どうするか。
つい先日、オーストラリアの友人が、メールでこう書いてきました。
「子どもたちには、やりすぎてはいけない。社会人になったら、お(現金)をぜったいに渡しては
いけない」と。

 同感です。
私もずいぶんとバカなことをしましたが、それで私の子どもたちが、私に感謝しているかという
と、まったくそういう(念)はないです。
息子たちを責めているのではありません。
現在、ほとんどの青年、若者たちは、同じような意識をもっています。

 だから私の結論は、こうです。

「よしなさい!」です。

 娘の晴れ着など、娘が着たくないと言ったら、「あら、そう」ですまし、そんなバカげた儀式の
ために20万円も浪費しないこと。
親の見栄、メンツのために、20万円も浪費しないこと。
それよりもそのお金は、自分の老後のためにとっておきなさい。

 子どもというのはおかしな存在で、そうしてめんどう(?)をみればみるほど、子どもの心は離
れていきます。
それを当然と考えます。

 20年ほど前になるでしょうか。
ある父親が事業に失敗し、高校3年生の娘に、「大学への進学をあきらめてくれ」と頼んだとき
のこと。
その娘は、父親にこう言ったそうです。

 「借金でも何でもよいからして、責任を取れ!」と。

 そこで私がその娘さんに直接話したところ、娘さんはこう言いました。
「今まで、さんざん勉強しろ、勉強しろと言っておきながら、今度は、あきらめろ、と。
私の親は、勝手すぎる」と。

 率直に言えば、これは「共依存」の問題ではありません。
あなたはまだ「子離れ」できていない。
つまりは精神的に未熟。
それが問題です。

 あなたは子離れし、自分は自分で、好きなことをしなさい。
自分で自分で、自分の人生を見つけるのです。
つまりあなたはあなたで前向きに生きていく・・・。

 その点、あなたを(遠巻きにして)見ている、あなたの夫のほうが、正解かもしれません。

 ずいぶんときびしいことを書きましたが、そのためにも、前段で書いた部分を、どうか読んで
みてください。
私たち自身の老後をどうするか?
お金の使い方も、そこから考えます。

 二女の方の学費にしても、子どものほうから頭をさげて頼みに来るまで、待ったらよいでしょ
う・・・といっても、今さら、手遅れかもしれませんが。
本人に勉強する気がないなら、放っておきなさい。
今のあなたには、それこそ重大な決意を要することかもしれませんが、そこまで割り切らない
と、あなた自身が苦しむだけです。
どうせ大学へ入っても、勉強など、しませんよ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●介護問題と子どもの意識

 介護保険は、すでにパン状態。
政府は税金をあげることだけを考えている。
しかしそれよりも重要なのは、子どもの・・・というよりは、日本人の意識を変えていくこと。
今のままでは、日本の介護制度は、その根底部分から崩れる。
「心」がない。
心がない介護制度など、またそれによってできる施設など、刑務所のようなもの。
「死の待合室」と表現した人もいる。
そんな施設に入れられて、だれがそれを「快適」と思うだろうか。

 どうして日本人の心は、こうまで冷たくなってしまったのか?
脳のCPUの問題だから、冷たくなったことにすら、気づいていない。
みな、自分は、(ふつう)と思い込んでいる。
またそれが(あるべき本来の姿)と思い込んでいる。

 このおかしさ。
この悲しさ。

 ここに転載させてもらった、MSさんのケースは、けっして他人ごとではない。
私たち自身、あなた自身の問題と考えてよい。

++++++++++++++++

最後にもう一作。
ある母親の嘆きを、掲載します。
10年ほど前、中日新聞に掲載してもらった
原稿です。

++++++++++++++++

●親が子育てで行きづまるとき

●私の子育ては何だったの?

 ある月刊雑誌に、こんな投書が載っていた。

『思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大切
にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました。
庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、読
み書きする姿も見せてきました。リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部
屋も飾ってきました。なのにどうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどう
がり、努力もせず、マイペースなのでしょう。

旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不
精。娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。二人とも『自然』になんて、まるで興
味なし。しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナーは悪くなるばかり。私の子育ては
一体、何だったの? 私はどうしたらいいの? 最近は互いのコミュニケーションもとれない状
態。子どもたちとどう接したらいいの?』(K県・五〇歳の女性)と。

●親のエゴに振り回される子どもたち

 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談
があった。ある母親からのものだが、こう言った。「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプ
リントを三枚学習することにしていますが、二枚までなら何とかやります。が、三枚目になると、
時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。もう少し深刻な例だ
と、こんなのがある。

これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こう言った。「昨日は何とか、二時間だけ授
業を受けました。が、そのまま保健室へ。何とか給食の時間まで皆と一緒に授業を受けさせた
いのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」「二時間だけ授業を受けて、今日
はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。仮にこれらの子
どもが、プリントを三枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「四枚やらせたい」「午後
の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。

「何とか、うちの子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。そしてその子どもがC中学に合
格しそうだとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」と。要するに親のエゴには際限が
ないということ。そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。

●投書の母親へのアドバイス

 冒頭の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬
ドキッとした。しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴ。もっとは
っきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ。そのつど子どもの意思や希望を確か
めた形跡がどこにもない。親の独善と独断だけが目立つ。

「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニ
を飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理
が苦手。息子は出不精」と。この母親のしたことは、何とかプリントを三枚させようとしたあの母
親と、どこも違いはしない。あるいはどこが違うというのか。

●親の役目

 親には三つの役目がある。(1)よきガイドとしての親、(2)よき保護者としての親、そして(3)
よき友としての親の三つの役目である。

この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかもしれないが、(3)の「よき友」としての視
点がどこにもない。とくに気になるのは、「しつけにはきびしい我が家の子育て」というところ。こ
の母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャップ
を感ずる。はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であったの
かどうか。あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。結局はこの一点
に、問題のすべてが集約される。

が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気
づいていないということ。いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 
「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉が、それを表している。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 B
W はやし浩司 介護問題 子どもの意識 子離れ 子離れできない親 私の子育ては何だっ
たの 私の人生は何だったの 私の子育ては、何だったの 親の悔悟 介護問題 はやし浩
司 親のめんどう 親の介護 親の介護問題 内閣府調査)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司※

**************BW教室CM

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4249851567/" title="img002 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.static.flickr.com/4054/4249851567_
72c2dcf472_o.jpg" width="536" height="600" alt="img002" /></a>

はやし浩司***************

Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●2010年1月7日

+++++++++++++++++++

今日は、アメリカに住むデニースさん(嫁)の
誕生日。
時差が11時間ほどあるため、祝いの電話を
かけるタイミングがむずかしい。

Happy Birthday, Denise!
Hiroshi & Akiko Hayashi, Japan
Jan. 7th 2010

++++++++++++++++++++

●2050年には、2・6人に1人が、高齢者(満65歳以上)。

 今日の夕刊に、こんな記事が載っていた(中日新聞)。
それによれば、2050年には、なんと、2・6人に1人が、高齢者(満65歳以上)になるという。
比率でいえば、37・8%(2050年)。

2050年といえば、40年後。
現在、25歳前後の人が、満65歳になるころには、日本中は、老人だらけ・・・という状態にな
る。
(今でも、老人だらけだが・・・。)

 こういう記事を読むと、がぜん、私は闘争心がわいてくる。
団塊の世代は、たくましい。
ちょっとやそっとのことでは、くたばらない。

●平均寿命は、男性79歳前後、女性86歳前後

 現在の統計によっても、男性の平均寿命は79歳前後、女性の平均寿命は86歳前後。
その一方で、「健康寿命」という言葉がある。
健康寿命というのは、「健康でいられる年齢」ということ。
平均して、(平均寿命)−(10年)が、健康寿命ということらしい。
それによれば、男性の健康寿命は、満69歳前後、女性の健康寿命は、満76歳前後。
残りの10年は、病気との闘いということになる。
そういう意味では、ポックリと死ねる人は、まだ幸福(?)ということになる。
私も、できれば、ある日、突然、ポックリと死にたい。

 しかしこの世の中、生きるのもむずかしいが、死ぬのもむずかしい。
生きたいと思いつつ、生きることのできない人も多い。
が、死にたいと思っていても、死ぬことができない人もいる。
ア〜ア。

●うつ状態

 正月明けから、調子が悪かった。
ずっと悪かった。
が、今日(7日)になって、やっと、調子が戻ってきた。
完全にうつ状態。
何を考えても、憂うつ。
何をしても、憂うつ。
気が晴れない。
そんな状態だった。

 が、今日は山荘へ行き、ワイフと日なたぼっこ。
縁側に椅子を出し、日光に当たりながら、ウトウトと眠った。
気持ちよかった。
それがよかった。
目が覚めたとき、周りの世界が一変しているのに、気がついた。
そして私は、こう宣言した。

「これからは、自分の人生を生きてやる!」と。

●子離れ段階論

 人は順に親離れし、子離れしながら、歳を取っていく。
しかし急に親離れし、子離れするのではない。
ちょうど階段を上り下りするように、何かのきっかけで、トントンと、親離れしたり、子離れしたり
する。
トントン・・・、とだ。

 で、最終的には、夫婦であれば、(2人ぼっち)、ひとりであれば、(独居老人)となる。
またそれを恐れる必要はない。
どうせそうなる。
みんなそうなる。
死後、白骨化した状態で、他人に発見されるかもしれない。
しかしそれも、それ。
それでもよい。

●意欲

 悔いのない人生を送る。
結局は、そこへ行き着く。
やりたいことをする。
思う存分、する。

 ・・・ということで、山荘からの帰り道、パソコンショップへ寄って、新しいハードディスクと、ハー
ドディスクの交換ソフトを購入した。
64ビット・パソコンには、64ビット・パソコン対応用のソフトが必要。
つまり新しいパソコンには、新しいソフトが必要。
結構、出費が重なる。
が、そのとき、こう思った。
「こういった意欲も消えたら、おしまい」と。

 「〜〜したい」という意欲は、脳の中のドーパミンというホルモンで決まる。
フロイトは、それを「性的エネルギー」と呼んだ。
ユングは、「生的エネルギー」と呼んだ。
それが線条体の受容体に作用して、いろいろな条件反射反応を引き起こす。
それが「〜〜したい」という意欲につながる。

 が、もしそれもなくなったら・・・。
死んだも、同然。
墓場へ足を、半分、つっこんだも、同然。
だから意欲が消えないうちに、その意欲を満足させる。

 「もう遠慮しないぞ!」と、まあ、そんなふうに、自分で自分に言って聞かせる。

●団塊の世代へ

 だから生きてやる。
死ぬまで生きてやる。
いやなこともある。
つらいこともある。
くやしいこともある。
しかし生きていくしかない。
どうせ生きるなら、燃やして、燃やして、燃やし尽くす。
何が、高齢者だ!
何が、少子化だ!

 団塊の世代が、75歳までがんばれば、少子化の問題は解決する。
今、元気な人たちだけでよい。
そういう人たちが、75歳までがんばれば、まだこの日本は、何とかなる。
だからがんばろう!
みんなで力を合わせて、がんばろう!

 ・・・で、75歳になったら、どうする?
あとは、ポックリと死ねばよい。
どうせ病院も、本気で治療などしてくれない。
すでに今、そうなりつつある。
だから期待しないこと。
甘えないこと。
 
 ・・・とまあ、自分にそう言い聞かせながら、この文章を書いている。

●GOOD NEWS!

 悪いことばかりではない。
今朝、パソコンを開いてみたら、昨日のHPへのアクセス数が、軒並み、1000件を超えてい
た。
私は全部で、20前後のHPを開いている。
単純に計算すれば、20x1000=2万件ということになる。

 たった1日で、2万件!

 中には、1人で何回もアクセスしてくれた人もいる。
だから実際には、2万件イコール2万人、ということではない。
が、同時に、HPのほかのページへ、ハイパージャンプして、アクセスしてきた人も多いはず。
「ハイパージャンプ」というのは、HPのトップページを経由しないで、アクセスしてくることをいう。
ハイパージャンプのばあいは、HPへのアクセス数としてはカウントされない。
だから実際には、2万件どころか、その数倍は、ある。・・・とみる。
あるいはもっと多いかもしれない。

 それに加えて、BLOGへのアクセス数もある。
現在6誌ほど、発行している。
こちらも毎日、1誌につき、500〜1200件ほどのアクセスがある。
それを合計すると・・・。
これはたいへんな数になる。
つまりそれだけ多くの人たちが、私の書いた文章に、目を通してくれている。

 みなさん、ありがとう!
本当に、ありがとう!
みなさんが、私に生きがいをくれる。
私はみなさんに、情報を与える。
ギブ&テイク!

 これからも、がんばります。

 ただ電子マガジンだけは、低迷している。
読者がふえない。
電子マガジンの時代は、終わったのか?
そういう感じがしないでもないが、しかし私にとっては、電子マガジンに載せる原稿が、最終原
稿。
一度BLOGなどで発表したあと、推敲したりして、電子マガジンに載せている。
だからみなさん、どうか電子マガジンを購読してほしい。
今年も、よろしくお願いします。


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタイト
ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" height="250" alt="●BL
OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>

●左右の感覚

++++++++++++++++

時事通信に、一枚の写真が載っていた。
興味ある写真だった。

時事通信の記事は、つぎのように伝える。

『・・・戦車が進む雪原の沿道に「中央高速道路、春川ー釜山、374キロ」と書かれた標識のほ
か、韓国南部の都市「金海」の表示もあった。韓国の高速道路を進撃するのを想定していると
みられる』(以上、時事通信)と。

つまりあのK国が、軍事訓練をしたという。
そのときの写真が公表された。
写真には、どこか時代遅れの小型の戦車(TANK)
と同時に、「中央高速道路、春川ー釜山、374キロ」と
書かれた看板が載っていた。

それについて、時事通信は、「韓国の高速道路を進撃する
のを想定しているとみられる」とコメント書いている。

いつものことだから、記事自体には、興味はない。
興味をひいたのは、写真のほうだった。
戦車は、向かって左側から、右側に走っていた。
またそういう写真だった。
その写真に私はひきつけられた。

+++++++++++++++++

●常識?

 私はその写真を見たとき、一瞬、「あれっ!」と思った。
「向きが逆ではないか?」と。

 つまり報道された写真どおりとするなら、戦車は、北、つまり中国、もしくはロシア側に向かっ
て進んでいることになる。
そういう印象をもった。
K国が、韓国を「進撃する」というのなら、向きは、向かって右側から左側にしなければならな
い。

 が、そのすぐあと、私は私のまちがいに気づいた。
日本から見れば、たしかにおかしい。
しかし一度、K国の首都のP市に視点を置いてみると、そうではない。
この(向き)でよいことがわかる。
P市に住む人たちなら、何もおかしく思わないだろう。

●進撃?

 こんなことはありえないが、そこで私は、こう考えた。
あくまでも想像上での話である。

 仮に私が住む遠州地方と、東北地方が、戦争状態になったとする。
そのとき私が、プロパガンダ(情宣)用の写真を撮ることになったとする。
そのとき私は、東北に向かう戦車を、どちらの向きにするだろうか、と。

 このばあい、私なら、戦車の向きを、向かって左側から右側に走っている写真を載せる。
(もちろんその写真を張る場所にもよるだろうが・・・。)
右側から左側に走っている写真だと、何だか退却しているような感じになる。

 もう少しわかりやすくするために、図示してみる。

(→■→)・・・東北地方に進撃(矢印は戦車が進む方向)
(←■←)・・・東北地方から退却

 こうした感覚には、個人差がある。
だから逆に考える人もいるかもしれない。
あるいは東北地方に住んでいる人なら、どちらの向きにするだろうか。

●老後の親

 こうして考えてみると、私たちがもっている常識的な感覚というのは、ずいぶんといいかげん
なもであることがわかる。
そのとき、自分がどういう立場にいるかだけで、それがいとも簡単に、ひっくり返ったりする。
こういう例は、多い。

 たとえば親と子どもの関係。

 私たちの時代には、子どもが老後の親のめんどうをみるという意識は、当たり前のことだっ
た。
常識以上の常識だった。
が、今は時代が変わった。
子どもたちの意識も変わった。
もう13年も前の調査だが、「老後の親のめんどうをみる」と答えた青年男女は、5人に1人もい
ない(内閣府調査)。

それに対して、「どんなことをしてでも、みる」と答えた若者は、たったの19%! 
この数字がいかに低いかは、たとえばアメリカ人の若者の、60数%。
さらに東南アジアの若者たちの、80〜90%という数字と比較してみるとわかる。
しかもこの数字は、その3年前(94年)の数字より、4ポイントもさがっている(1997年)。

●親子関係

 こう書くからといって、私の息子たちを責めているのではない。
批判しているのでもない。
私の息子たちも、今の若者たちの、ワン・オブ・ゼム。

 その息子たちと会話をしていても、老後の私たちのめんどうをみるという気持ちが、まったく
ないことがわかる。
そういう雰囲気さえ、ない。
「家族を大切にする」とは言うが、今の若者たちにとっての「家族」というのは、自分と配偶者、
そして子どもたちでつくる家族をいう。
そこには親の姿は、どこにもない。
影もない。

 むしろ立場は逆で、子どものほうが、親に援助してもらうのが、当然と考えている?
わかりやすくするために、それを図示してみると、こうなる。

(親←子)・・・私たちの世代の考え方(矢印は援助の方向)
(親→子)・・・今の若者たちの考え方

●私たちの老後

 私たちは、私たちの老後を、そういう前提で考える。
幻想こそ、禁物。
もしあなたが、まだ幼い自分の子どもをみながら、「私はだいじょうぶ」「うちの子にかぎっ
て・・・」と考えているとしたら、幻想以外の、何物でもない。

 実は、私もそう考えていた。
心のどこかでそれを信じていた。
だからこと学費について言えば、身銭を削って、息子たちに与えてきた。
どれだけ苦労しても、「苦労した」という泣き言を、息子たちに言ったことはない。
むしろ余裕があるような顔をして、息子たちには心配をかけないようにしてきた。
が、そんな親の気持ちなど、息子たちというより、今の若者たちには、通じない。  

 だから私はあえて言う。
『必要なことだけはしなさい。その限度をわきまえている親のみが、真の家族の喜びを与えら
れる』(注)(バートランド・ラッセル)と。

(注:イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(1872
〜1970)は、こう書き残している。
『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる』
と。)

●ものの考え方

 遠州地方から東北地方を見る。
反対に東北地方から遠州地方を見る。
それだけで、戦車の向きが逆になる。

 同じように、若者たちの世界から老人を見る。
老人の世界から若者たちを見る。
それだけで、ものの考え方が、180度変わる。

 どちらが正しいとか、正しくないかということを論じても意味はない。
ただ言えることは、私たちも、かつては若者であったということ。
そして今の若者たちにしても、確実に、いつかは老人になるということ。

 が、今の若い人たちに、いくら警告しても意味はない。
若い父親や母親にしても、そうだ。
「それは幻想ですよ」といくら説いても、意味はない。
この問題だけは、自分が老人になってみないとわからない。
まず、苦労に苦労を重ねて、自分の子どもたちを育ててみる。
学費を払ってみる。
その結果として、それぞれが自ら発見していく。
今、言えることは、それだけということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 B
W はやし浩司 内閣府 親のめんどう バートランド・ラッセル)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタイト
ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
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●怒りについて

+++++++++++++++++

仏教では、人間の心は水のようなものと説く。
濁った水になることもあれば、色のついた
水になることもある。
火でわかせば、沸騰することもある。
しかし何よりも大切なのは、澄んだ、濁りのない水。
色のついた水では、真理は見えない。
沸騰した水では、正しく判断することはできない。

+++++++++++++++++

●清らかな心

 3大煩悩に、「貪、瞋、痴」がある。
はげしい怒りのことを、「瞋(しん、じん)」という。

『貪(どん)』というのは、「貪(むさぼ)ること」をいう。
『瞋(しん)』というのは、「激しく怒(いか)ること」をいう。
『痴(ち)』というのは、「無知なこと」をいう。

そのほかにもいろいろあるが、私たちの肉体は、これらの
煩悩に満ち溢れている。
これらの煩悩が、自分の内にある『菩提心』(すべての人々を愛すること)
が目覚めるのを邪魔する。
世親(300〜400年ごろの人、パキスタン、ペシャワール
あたりの人とされる※)が、そう説いている。

だから世親は、菩提心を呼び起こすためには、心(精神)を、
一度、肉体から切り離さなければならないと説いた(『浄土三部経』)。

 とくに気をつけたいのが、「貪、瞋、痴」の「瞋」。
「沸騰」というのは、その「怒り」を意味する。
心が煮えたぎったような状態をいう。

●怒り

 (怒り)といっても、(1)感情的な怒りと、(2)非感情的な怒りがある。
感情的な怒りというのは、どこかの暴力団員が、大声でわめき散らしている姿を想像すればよ
い。
「瞋」とは、それをいう。
それについては異論はない。

 それに対して、非感情的な怒りがある。
拉致被害者のYTさんを思い浮かべてみればよい。
娘のMGさんは、あの金xxの指令によって、K国に拉致されている。
そのため休むことなく、全国を回って、拉致被害者の救済活動をつづけている。
その姿がテレビで報道されるたびに、私たちは、やりようのない、つまりガラス板を爪の先でこ
するような(怒り)を覚える。
これを「非感情的な怒り」と表現してよいかどうかは、知らない。
そう表現すること自体、YTさんに失礼なことかもしれない。

 が、そうした怒りがあるからこそ、私たちはこうして抗議の念をこめて、K国を糾弾する。
金xxを糾弾する。
(名前を「金xx」と表記しているのも、そのため。)

つまり怒りを忘れたら、私たちは、真・善・美の追求すら、ままならなくなる。
(怒り)が、すべて煩悩というわけではない。

●知らぬが仏

 話は変わるが、『知らぬが仏』という諺もある。
何ごとも、「我、関せず」と、距離を置けば、仏のように静かな境地でいられる。
しかし考えてみれば、これほど、無責任な生き方はない。
またそういった無責任な生き方をしている人を、「仏」とは言わない。

 ただしこれには重要な条件がある。
知るにしても、関するにしても、宇宙的、地球的、人間的、生物的・・・。
そういった規模で、知ったり、関したりする。

 身近な痴話話(ちわばなし)は、知らなくてもよい。
関しなくてもよい。
たとえば以前、こんなことを言った知人がいた。
「ぼくは、毎朝、新聞のお悔やみ欄には、かならず目を通している」と。

 私自身は、めったに見たことがない。
見るとしても、ワイフに誘われて、月に、1、2度程度。
どこでだれが死のうと、私には関係ない。
興味もない。
どうせ「つぎは、私」。

●道理

 もっとも感情的な(怒り)をコントロールするのは、むずかしい。
むずかしいというより、(怒り)は常に、何らかの感情的な反応をともなう。
(怒り)と感情は、表裏一体。

が、もしその間に一線を引くとしたら、(道理)ということになる。
(怒り)を覚えたら、どんどんと自分の中に、道理を掘り下げていく。
道理を掘り下げていくことで、(怒り)と感情を分離する。

 が、それで(怒り)が消えるわけではない。
中には、(許しがたい怒り)というのもある。
どう理性で割り切ろうとしても、割り切れない(怒り)というのもある。
自分の力では、乗り越えられない(怒り)というのもある。

が、その(怒り)すらも否定してしまうと、そのあとにやってくるのは、乾いた絶望感。
虚脱感。

●痴話話(ちわばなし)

  たとえば信頼していた人に裏切られたようなケースを、想像してみればよい。
夫(妻)でもよい。
親や兄弟でもよい。
息子や娘でもよい。

卑近な例として、夫(妻)に愛人ができ、その愛人と不倫関係をもったばあいを想像してみれば
よい。
そこはまさに、世親が説く、「瞋」の世界。
そのとき冷静でいられる人は、いったい、どれだけいるだろうか。
道理の世界でもない。
また道理だけでは、乗り越えることはできない。
しかし、これこそが、私が言う「痴話話」ということになる。

●未来に向けた怒り

 そこで(怒り)をさらに掘り下げてみる。
するとその(怒り)にも、2種類あるのが、わかる。
過去に向けた(怒り)と、(2)未来に向けた(怒り)。

 「今は、常に過去の結果」と考えると、(怒り)は、常に過去に向かう。
夫(妻)に愛人ができ、不倫しているのがわかったとき、妻(夫)がどのように反応するか。
それが過去に向けた怒りということになる。
「私の人生は、何だったのよ!」「私の人生を返して!」と。
このばあいは、喪失感がからんでくるため、(怒り)は、どうしても感情的になりやすい。
どんなに悔やんでも過去を取り戻すことはできない。
だから感情的になる。・・・ならざるをえない。

 一方、未来に向かう(怒り)というのもある。
この地球が、やがて火星のようになった状態を想像してみればよい。
このばあいは、(怒り)は常に、道理をともなう。
道理として処理できるから、感情的になることはない。

 つまり(怒り)というのは、過去に向けたものであってはならないということ。
一方、それが、「瞋」であれ、未来に向けたものであれば、許される。
またその(怒り)こそが、私たちが今、なぜここにいて、生きているかという理由にもなる。

●では、どうするか?

 「今が過去の結論」と考えてはいけない。
・・・とっぴもない結論に思う人もいるかもしれない。
しかし(怒り)を分析していくと、そうなる。

 つまりなぜ私たちが(怒り)を覚えたとき、感情的になるかといえば、(思うようにならなかった
過去)を引きずるからである。
が、「今」は、けっして過去の結論ではない。
「今」は、常に未来へのスタート点である。

 そういう視点で、身の回りを見ると、世界が一変する。
今、そこにあるものがなんであれ、それを受け入れてしまう。
そしてそこを原点に、未来に向かって、ものを考える。
とたん感情的な(怒り)、過去に向かった(怒り)が、消える。

 だから「今は過去の結論」と考えてはいけない、・・・ということになる。

●まとめ

 自分でもよくわからない。
わからないまま、この文章を書き始めてしまった。
そのためまとまりのない文章になってしまった。
が、こういうことは言える。

要するに「心」というのは、澄んだ、清らかなほうが、よいということ。
そのためにも、「貪、瞋、痴」は、心の大敵ということ。
それは世親が説いたとおり。

ただ(怒り)については、それを頭から否定してしまってはいけない。
ここにも書いたように、内容は、そのときどきによって、大きく変わる。
ときには、生きる原動力になることもある。

もちろん感情的な怒りや、過去に向かった怒りは、避ける。
心を腐らせる。
それを避けるためには、心は常に、未来に向かって大きく開く。
過去ではなく、未来に向かって、である。
(怒り)を覚えたときには、とくにそうである。
それこそ「私の知ったことか!」と叫んで、前に進めばよい。

 私がここで書きたかったことをまとめると、そういうことになる。
しばらく時期をおいて、再び、この問題につて考えなおしてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 B
W はやし浩司 世親 貪、瞋、痴 怒りについて、菩提心 心について)

+++++++++++++++++

(怒り)について考えているとき、
以前、尾崎豊の「卒業」について書いた
原稿を思い出しました。

それをそのまま転載します。
(中日新聞掲載済み)

+++++++++++++++++

【若者たちが社会に反抗するとき】

●尾崎豊の「卒業」論

学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中で
こう歌った。「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えて
いた」と。「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実にはコース
があり、そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれ
を、「♪幻とリアルな気持ち」と表現した。

宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢をも
てばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。ほん
の一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえること
ができる。大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪放
課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。

●若者たちの声なき反抗

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、
腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張している
だけだ。それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。そういう弱
者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめなんてできや
しなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。

実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が二億円もあるようなニュースキャスター
が、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な衣装を身につけて
いるテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難民への寄金を訴える。こういうのを見せつ
けられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎はそのホコ先を、学
校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。もちろん窓ガラスを壊すという行為
は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思いつかなかったのだろう。いや、そ
の前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。

●CDとシングル盤だけで二〇〇万枚以上!

 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超えた(CB
Sソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたもの
も含めると、さらに多くなります」とのこと。この数字こそが、現代の教育に対する、若者たち
の、まさに声なき抗議とみるべきではないのか。

(付記)
●日本は超管理型社会

 最近の中学生たちは、尾崎豊をもうすでに知らない。そこで私はこの歌を説明したあと、中学
生たちに「夢」を語ってもらった。私が「君たちの夢は何か」と聞くと、まず1人の中学生(中2女
子)がこう言った。「ない」と。「おとなになってからしたいことはないのか」と聞くと、「それもない」
と。「どうして?」と聞くと、「どうせ実現しないから」と。

もう1人の中学生(中2男子)は、「それよりもお金がほしい」と言った。そこで私が、「では、今こ
こに1億円があったとする。それが君のお金になったらどうする?」と聞くと、こう言った。「毎
日、机の上に置いてながめている」と。ほかに5人の中学生がいたが、皆、ほぼ同じ意見だっ
た。今の子どもたちは、自分の将来について、明るい展望をもてなくなっているとみてよい。こ
のことは内閣府の「青少年の生活と意識に関する基本調査」(2001年)でもわかる。

 15〜17歳の若者でみたとき、「日本の将来の見とおしが、よくなっている」と答えたのが、4
1・8%、「悪くなっている」と答えたのが、46・6%だそうだ。

●超の上に「超」がつく管理社会

 日本の社会は、アメリカと比べても、超の上に「超」がつく超管理社会。アメリカのリトルロック
(アーカンソー州の州都)という町の近くでタクシーに乗ったときのこと(2001年4月)。タクシー
にはメーターはついていなかった。料金は乗る前に、運転手と話しあって決める。しかも運転し
てくれたのは、いつも運転手をしている女性の夫だった。「今日は妻は、ほかの予約で来られ
ないから……」と。

 社会は管理されればされるほど、それを管理する側にとっては便利な世界かもしれないが、
一方ですき間をつぶす。そのすき間がなくなった分だけ、息苦しい社会になる。息苦しいだけな
らまだしも、社会から生きる活力そのものを奪う。尾崎豊の「卒業」は、そういう超管理社会に
対する、若者の抗議の歌と考えてよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●補足

 この中で私は、2人のタレントを批判した。
あの人とあの人である。
「・・・年俸が二億円もあるようなニュースキャスターが、『不況で生活がたいへんです』と顔をし
かめて見せる。いつもは豪華な衣装を身につけているテレビタレントが、別のところで、涙なが
らに難民への寄金を訴える」と。

 当時、こう書けば、みな、(あの人)が、だれであるかわかった。
で、この原稿を書いてから、10年。
彼らがいかに偽善者であったかは、この10年だけをみてもわかる。

たとえば難民救済活動をしていた、あの人。
その周辺部分、つまり連続性が、まるで浮かび上がってこない(?)。
その後、別の(あの人)に、活動をバトンタッチしてからは、いっさい、音沙汰なし!

 それほどまでに高徳なボランティア活動をしながら、したのは、(そのときだけ)。
最近でも、また別の(あの人)が同じようなことをしている。

 そこに至る過程の中で、たとえばホームレスの人たちのために、炊き出しをしたとか、貧しい
子どもたちを家で預かったとか、そういう経緯があればよい。
それをいきなり、アフリカの難民救済運動?
一度、ラオスで、そういった活動をしている人に会ったことがある。
当時、50歳くらいの女性だった。
もの静かな女性で、腕を白い包帯で巻いていた。
活動しているときに、けがをし、日本へ一時帰国していた。
もちろん無名の女性である。
そしてその女性がそういう活動をするようになった背景には、10年単位の歴史がある。

 が、これらの(あの人)には、周辺部分もなかれば、連続性もない。
積み重ねもない。
つまりインチキ。
偽善。
もっと言えば、難民の人に対する冒涜!
集められた寄金なるものは、どこにどう消えたことやら?

 つまりこれが私が言う(怒り)である。
この(怒り)を忘れたら、それこそ、この世界は、闇!
・・・と思いつつ、こうして文章を叩いている。


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

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Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●パソコン恐怖

+++++++++++++++

昨夜遅く、こんなトラブルがあった。
そろそろ寝るか・・・と思いながら、
何気なくエクスプローラーを開いてみた。
ギョッ!
何と、私のパソコンが・・・!
どこかのだれかのパソコンと、
ネットワークで接続されているでは
ないか!

ギョギョギョッ!

しかもネットワークとCドライブの
内容が、ミラー(相互連動)になっている。
Cドライブの内容が、そっくりそのまま、
どこかのパソコンとつながっている(?)!

あわてて原因さがし。

ヒタヒタとした恐怖感。
ツンとした緊張感。
高まる動悸。
ドキドキ、ハラハラ・・・。

メーカーに相談しても、「OSの
故障ではないですか?」
「リカバリーしてみてください」と。

ゾーッ!

で、真夜中過ぎになって、やっと原因がわかった。

最近買ったプリンターである。
エプソンの902A。
最新型。
このプリンターが無線LANを通して、
勝手に、私のパソコンに接続していた。

・・・ということで、今は、パソコンも快調。
静か。
「もういじらないぞ!」と心に誓う。

そう、パソコンという機械は、それなりに
順調に動いているときは、へたにいじってはいけない。
素人の知ったかぶりが、いちばん、恐ろしい。
私のような素人がへたにいじると、たいていおかしくなる。

が、寝るとき、ワイフがこう言った。
「どうして、そんなことが楽しいの?」と。
で、私はこう答えた。

「サッカーの試合と同じだよ。
ハラハラするところが、楽しい」と。

+++++++++++++++++

●ご注意

 こんなメールが、届いた。
送信者として、「YOUTUBE」の名前。
件名には、「あなたが制作したxxxxの、広告料をお受け取りください」とある。

xxxxは、私が作ったビデオの中でも、アクセス数が15万件近くになっている。
ふと「15万件近くにもなると、広告料が入るのか?」と思った。
が、YOUTUBEが、広告料を支払ってくれるなどという話は、聞いたことがない。
(YOUTUBE社は現在、赤字だそうだ。
そのため2010年の3月ごろから、本格的に広告料収入を始めるという。
そういう話なら、雑誌で読んで知っていた。)
で、そのまま削除。

 インターネットをしていると、こうしたメールが、つぎつぎと飛び込んでくる。
言い換えると、それなりの知識がないと、この世界は、たいへん、危険!
おいしい話は、100%、疑ってかかるべし。

みなさんも、どうかくれごれもご注意ください。


●老後の不安

 おととい、「介護と若者たちの意識」というテーマで、原稿を書いた。
それについて、愛知県の読者の方より、「うちも同じような問題をかかえています」という内容
の、コメントが寄せられた。

『私も子離れできていないようです。
子供達は私からすっかり離れていると言うのに。
子供のためと言いながら、実は、私の見栄や、メンツ自己満足に過ぎないことを、私もたくさん
しています。

家のローンもまだ残っており、この先二人分の学費を考えると、私たちの老後の資金などある
はずがありません。
子供をあてにするわけにはいきませんので、老後を考えるとぞっとします。
今を生きるのに精一杯です。

私も同じ問題をかかえています。
が、先生の文を読み、気持ちも幾分軽くなり、併せて先生のアドバイスを参考に、私自身の生
き方について、老後も見据えながら、よく考えてみようと思っています。

今日は、中学校時代のクラス会があります。
以前、同じメンバーでクラス会があった時は、長女の高校受験の時で、「夕方から塾で、車で
送ってもらいたいから、5時までに帰ってきてね!」と、威圧的に長女に言われ、何十年ぶりか
で会った旧友と二次会にも行けず、急いで家に帰りました。それが当たり前かのような態度の
娘に愕然としたのを覚えております。

そして、今回は長男の大学受験です。「私の夕飯はどうするの?!」と不機嫌な顔で聞いてき
ます。普段なら「あるもので済ますからいいよ」と言う長男ですが、私が、昨日は職場の新年
会、今日はクラス会と出歩いているのが、気に入らない様子です。

とんだドラ娘、ドラ息子たちに育ててしまいました。
子供のためによかれと思い、不自由のないようにと育てたつもりですが、結果、子供のために
はなっていなかったようです。
やはり、私の自己満足に過ぎなかったのですね。

私も、ここまで来ないと気づかないおろかな母で、悲しいです。
それに気がつきました』と。

【はやし浩司より、読者の方へ】

 あなただけではない。
みな、そうです。
が、子育ての最中というのは、それがわからない。
「私だけは、だいじょうぶ」
「私だけは、ちがう」と。
中には、「私は、私の親とはちがう」
「私は私の親のような親にはならない」と思っている人もいます。
みな幻想をもち、その幻想にしがみついている。
で、結局は、同じ道を歩む・・・。

 おもしろいですね。
そしていつか、それが幻想だったことに気づく。
自分も同じ道を歩んでいることを知る。
子育てというのは、そういうものです。

 で、大切なことは、できるだけ早い時期に、それに気づくということです。
そして親は親で、ひとりの人間として、自分の生きる道をさがす。
生きがいを求める。

 率直に言います。
子育てなど、人生の目標にしてはだめですよ。
生きがいにしてもだめですよ。
そんなことをしても、子どもにはかえって負担になるだけです。
子どもに嫌われるだけです。

 だからやるべきことはやる。
親としての責任は、果たす。
しかしそこまで。
あとは、自分の人生を、人類みなのために、還元していく。
(この「還元」という言葉は、恩師のIK先生(藤沢市在住)が、よく使っている言葉です。)

 子どもに嫌われても、バカにされても、気にしない。
私たちは私たちで、自分の道を進めばよいのです。

 でも、あなたは今、それに気がついた。
よかったですね。
私もうれしいです。

 でもね、不思議なもので、その殻(から)を脱いだとき、つまりそれに気づいたとき、それが
(子育ての結論)ではないということです。
よく「失敗しました」と言う人がいます。
しかし子育てに失敗は、ありません。
そこがいつも、スタートラインです。
そこからいつも、新しい人間関係が始まります。
つまりあなたは失敗など、していない。
これから新しい世界が、始まるのです。
上下意識のある古い親子関係から、一対一の、対等の人間関係へ、とです。

 子どものほうから顔をそらし、あなたはあなたで、前に向かって進めばよいのです。
いっしょに、がんばりましょう!


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

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ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
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OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>


【最後にババを引く人】

●不気味な上昇

 中国の経済指標は、上海B株をみて判断する。
その上海B株。
一本調子に上昇しつづけている。
すでに2年(2008)前のリーマンショック以前の水準に、戻りつつある。
今年(2010)、中国の経済成長率も、10%前後と予想されている。
バブルである。
完全なバブルである。

 つまりその分だけ、アメリカや日本から資金が逃避しつつある。
逃避したお金は、・・・というより危険を察知した投資家たちが、その矛先を「金」に向け始めて
いる。
そのため金価格が、ジワジワと上昇しつづけている。
現在、グラム3600円前後。

その様相は、リーマンショック以前の経済状況と、たいへんよく似ている。
あのときも、まず金価格が、じわじわと上昇し始めた。
半年くらいをかけて、グラム2000円前後から2600円前後にまで上昇した。
「アメリカがあぶない」と感じた投資家たちが、金を買い始めた。
またあのときはアメリカだったが、今度は、中国。
まるで洪水のように、世界中の資金が、中国市場になだれ込みつつある。

 中国経済があぶない・・・というよりは、中国のバブル経済がはじけたとき、世界は、リーマン
ショックをはるかにしのぐ衝撃に襲われる。
ドバイショック(2009)の比ではない。
規模がちがう。
一説によれば、ドバイショックの1000倍の威力があるという(韓国経済誌)。

●同じ失敗

 リーマンショックで、財産を失った人は多い。
私の知人の中には、1億円あった資産(株)を、100万円にしてしまった人もいる。
100分の1である。

加えて円高。
とくに外国債券に手を出した人の被害が、大きかった。
平均して、30〜40%前後の損失を出したと言われている。
が、それからちょうど1年。
今度は、ドバイショック!
外国債券の損失額をみるかぎり、ドバイショックは、リーマンショックの10分の1程度とみてよ
い。

 これらの数字を並べてみると、仮に今度、中国でバブル経済が崩壊すれば、リーマンショック
の約100倍の衝撃が、世界中を襲うことになる。
(100倍だぞ!)
名づけて「上海ショック」。

 そのとき日本経済も崩壊する。
が、何よりも恐ろしいのは、こうしたバブル経済の崩壊というのは、まったく予告なく、突然、始
まるということ。
リーマンショックのときもそうだった、ドバイショックのときもそうだった。
日本のバブル経済崩壊のときも、そうだった。
「あぶないな?」と思っていた人は多かった。
しかしいつも突然だった。

●上海ショック

 リーマンショック、あるいはドバイショックで、財産を減らした人も多い。
しかしこの2〜3か月、再び世界の株価は上昇しつづけている。
外国債券価格も、持ちなおしてきている。
だから中には、「何とか、損した部分だけも、取り返したい」と考えている人も多いはず。
「あとxか月持ちこたえてくれれば、何とかなる・・・」と。

 しかし(そのとき)があぶない。
というのも、そのとき、世界中の人たちが、(投資家ではなく、一般庶民が)、いっせいに、外国
債券を売って、資金の回収に向かう。
そういう意味で、人間の心理には、共通性がある。
「同時行動性」といってもよい。
だから昔から、こう言う。
『そこらのオジちゃん、オバちゃんが、証券会社のロビーに並ぶようになったら、証券取引から
手を引け』と。

 今がそのときかもしれない。
私もそのオジちゃんの1人だが、私が動くとき、世界中のオジちゃん、オバちゃんも動く。
何しろ数が多い。
そういう人たちが、いっせいに動く。
それがこわい。
・・・といっても、その前に、プロの投資家たちは逃げるから、最後にババを引くのは、結局は、
オジちゃん、オバちゃんということになる。

●何が安全か?

 では、手持ちの資金は、どこへ逃避させたらよいのか?
もっとも好ましいのは、現物投資ということになる。
そのひとつが、金投資。
が、すでに金価格は上昇しきっている。
円安が進めば、グラム4000円台をねらうかもしれないが、そこまで円安に向かうかどうか、わ
からない。
 
 つぎにタンス預金がある。
インフレ、円安になった分だけ、目減りするが、(現金)には、それなりの力がある。
大切なことは、最後に、ババだけは引かないこと。
その一歩手前で、損切りも覚悟して、売り逃げること。
「あと少し」「まだいける」と欲を出したとたん、プロの投資家たちの餌食(えじき)になる。

●その(時)

 2010年は、何とも不安定な状況から始まった。
明日、上海ショックが起きてもおかしくない。
あるいはドバイショックがそうだったように、まったく予想外のところから、火の手があがるかも
しれない。
たとえば日本のJALの法的整理。
そういったものが上海ショックの引き金を引く。
ドカーンと爆発する。

 ・・・以上、はやし浩司というド素人の意見。
あまり本気にしないでほしい。
無責任に思う人もいるかもしれないが、そのときは、こう考えたらよい。

 まじめにコツコツと働く人よりも、マネーゲームをしている人のほうが、儲かるというしくみその
ものが、おかしい。
それが進んで、「まじめに働くのが、バカ臭い」と、みなが思うようになったら、おしまい。
そのとき、世界経済は、本当に崩壊する。
その(時)は、刻一刻と、しかし確実に近づきつつある。
(2010年1月11日夜記)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

【自由論】

●束縛

みんな、(私も)、いつも何かにじっと耐えている。
耐えながら、生きている。
家族、地域、組織、国、そして仕事。
それから生まれる(糸)で、私たちの体はがんじがらめにされている。
自由に動き回ることさえ、できない。

出世、名誉、地位、権力、財産・・・。
これら、世俗の泥沼の中で、自分を見失っている人も多い。
が、ここからが、今日のテーマ。

自分がそうであると気がついている人は、少ない。
真の自由人であるためには、どうすればよいのか。

 「人間は社会的動物」とは、よく言われる。
しかしこの場合、「社会」とは、「社会的束縛」を意味する。
その「束縛」には、2種類、ある。

 ひとつは、外的束縛。
法律、規則、資格、認可、許可などなど。
社会的常識というのも、その中に含まれる。
作法、礼儀、しきたり、因習、慣習などなど。
その人を、外部から、束縛する。

 もうひとつは、内的束縛。
たいていは自分の欲望と結びついている。
「名誉がほしい」「地位がほしい」「お金がほしい」と。
その人自らを、内部から、束縛する。

●自由 

 人は、自由を失って、それまでの自分が自由であったことを知る。
同じように、人は、自由を得て、それまでの自分が、自由でなかったことを知る。
それまでは、わからない。
自由な人も、自由でない人も、自由とは、そこにある空気のようなもの。
自由な人にとっても、そうでない人にとっても、「自由」が、そこにあることに気づくことはない。

 たとえば日本でいう「会社人間」。
会社という組織に入り、その組織の一員として、その会社のために働く。
その会社人間のばあい、会社の肩書きはもちろんのこと、会社名を出して、ものを書くことは
許されない。
名前を出すことさえ、むずかしい。
写真ならよいと考える人もいる。
しかし写真から、その会社とわかってしまうこともある。

 だから現実には、会社人間と呼ばれる人たちは、このネット時代にあっても、実名で、自分の
BLOGさえ立ち上げることさえ、むずかしい。
実際には、できない。

 が、中には、私のように、(ものを書くこと)に生きがいを感じている人もいるはず。
仮に私なら、・・・つまり、私が会社人間で、会社という組織から、ものを書いて発表することを
禁じられたら、私なら、どうするか。
仮に私なら、私はその会社をやめてしまうにちがいない。
「自由か、仕事か」ということになれば、私は「自由」を選ぶ。
仕事は、そのつぎ。
自由を確保した上で、その自由を侵害されない仕事をさがす。

●内的束縛

 外的束縛は、それによって防げる。
しかしもっと大きな問題は、内的束縛。
内的であるがゆえに、自発的、能動的にその人に作用していく。
そのためさらにそれに気がつくのが、むずかしい。
むずかしいばかりか、それがその人の、人生の目標、あるいは生きがいになっていることが多
い。

 ある男性は、今年75歳前後になるが、今でも、定年前の地位(キャリア)を自慢にしている。
何10年も前の学歴を自慢にして生きている人となると、ゴマンといる。
若いときならまだしも、定年退職を過ぎてから、内的束縛に気がつくのは、恐ろしい。
ばあいによってはそれはそのまま、自己否定へとつながっていく。
「オレの人生は、何だったのか!」と。
自己否定による絶望感を味わうくらいなら、過去の甘い幻想にしがみついたほうが、楽。
だからますます懸命にしがみつく。

●会社という組織

 ためしに銀行のフロアをのぞいてみればよい。
みな、会社という限られた組織の中で、束縛されていることにも気づかず、せっこらせっこらと
働いている。
していることは、(お金の管理)。
真理の探究でもなければ、哲学の追求でもない。
ただの(お金の管理)。
男たちはそれでよいとしても、私はあるとき、そういった姿を見ながら、こう思った。
「幼稚園の先生たちのほうが、よっぽど生き生きしている」と。
建物や服装にだまされてはいけない。
大切なのは、中身。
中身の追求。
それが「自由」ということになる。

●平均寿命まで15年
 
 もちろんだからといって、銀行の仕事が無意味とか、つまらないとか、言っているのではな
い。
人間が(社会)を形成する以上、それぞれの人がそれぞれの分野を負担する。
銀行でのお金の管理も、そのひとつ。
しかしそれがどんな仕事であれ、(心の自由)を見失ってはいけない。
あるいは私がここに書いたことを知っているだけでも、生き様は、変わってくるはず。
他人の評価の仕方も、変わってくるはず。
あるいはこのドロドロとした俗世間を、一歩、退いて見ることができるはず。

 ・・・かく言う私も、60歳を過ぎて、やっとそれに気づいた。
私自身も、外的束縛、内的束縛にがんじがらめになっていた。
つまらないものに対して、「つまらない」と反発する勇気さえなかった。
『長いものには巻かれろ』式に、いつも、どこかで、だれかに妥協しながら生きてきた。
それが今、深い悔恨の念となって、私を襲う・・・。

・・・が、まだ私の人生が、終わったわけではない。
平均寿命まで、まだ15年ある。
がんばろう!
がんばります!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 自由 自由論 真の自由 外的束縛 内的束縛)

+++++++++++++++++++++

ついでに世界の賢人たちが、「自由」について
どのように考えているか、それを拾ってみた。

+++++++++++++++++++++

The Shepherd drives the wolf from the sheep's throat, for which the sheep thanks the 
shephard as a liberator, while the wolf denounces him for the same act as a destroyer of 
liberty" 
Abraham Lincoln
羊飼いは、羊がオオカミに喉をかみ切られないように、オオカミを追い払う。それについて羊
は、解放者として、羊飼いに感謝する。一方、オオカミは、その同じ行為を、自由(解放)の破
壊者として、羊飼いを非難する。(エイブラハム・リンカーン)


A society of sheep must in time beget a government of wolves. 
Bertrand de Jouvenel
民が羊になったそのとき、オオカミの政府が生まれる。(Bertrand de Jouvenel)


To educate a man is to unfit him to be a slave 
Fredrick Douglass
人を教育するということは、その人を奴隷にふさわしくない人にすることである。(フレドリック・
ダグラス)


If liberty means anything at all, it means the right to tell people what they do not want to 
hear 
- George Orwell
自由が何を意味するかと言えば、それはほかの人たちに、何を聞きたくないかを告げる権利と
いうことになる。


Freedom is just another word for nothing left to lose. 
Janis Joplin,"Me and Bobby McGee"
自由という言葉を言い換えると、失うものが何も残っていない状態、ということになる。(ジャニ
ス・ジョプリン)


Whoever controls the media, controls the mind. 
Jim Morrison
マスメディアを支配するものが、心を支配する。(ジム・モリソン)


Those who make peaceful revolution impossible will make violent revolution inevitable. 
John F. Kennedy
平和的な革命を不可能にする者は、暴力的な革命を避けられないものにする。(J・F・ケネデ
ィ)


And this I believe: that the free, exploring mind of the individual human is the most valuable 
thing in all the world. And this I would fight for: the freedom of the mind to take any 
direction it wishes, undirected. And this I must fight against: any idea, religion, or government 
which limits or destroys the individual. 
John Steinbeck, "East of Eden"
私はつぎのことを信ずる。つまり、個々の人間の心を探究するという自由は、世界でもっとも尊
いものである。だれにも干渉されない、自由な思索。その自由のために、私は闘うだろう。私は
個人を制限したり、破壊したりするどんな思想、宗教、政府とも戦わなければならない。(ジョ
ン・スタインベック)


Censorship is telling a man he can't have a steak just because a baby can't chew it. 
Mark Twain
検閲などというものは、赤ん坊がそれを飲み込むことができないからといって、人はステーキを
食べられないというようなものだ。(マーク・ツエイン)


Give me Liberty, or give me death. 
Patrick Henry
自由か、さもなければ、死を与えたまえ。(パトリック・ヘンリー)


Wherever a man comes, there comes revolution. The old is for slaves. 
Ralph Waldo Emerson
人が来て、革命が起きる。そのとき老人たちは、奴隷になる。(R・W・エマーソン)


Most people do not really want freedom, because freedom involves responsibility, and most 
people are frightened of responsibility. 
Sigmund Freud
ほとんどの人は、自由を望まない。なぜなら、自由は責任を伴う。そしてほとんどんの人は、そ
の責任をを恐れる。(Sigmund Freud)


Man is free at the moment he wishes to be. 
Voltaire
人は、そう願ったときだけ、自由である。(ボルテール)


Freedom is not worth having if it does not include the freedom to make mistakes. 
Mahatma Gandhi, In Struggle/Mistakes
自由といっても、それがまちがいを犯すという自由も含まないなら、自由としての価値はない。


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●平均寿命まで、あと15年(少し暗い話)

+++++++++++++++++

今年、私は満63歳になる。
男性の平均寿命は、78歳前後ということだから、
その78歳まで、あと15年。

「平均寿命」という言葉に併せて、
最近では、「健康寿命」という言葉を使う。
「健康でいられる年齢」という意味である。
ふつう(平均寿命)−10年で、計算する。
それでいくと、健康寿命は、68歳。
そのばあい私の健康寿命は、あと5年。
78歳になったとたん、ポクリと死ねるという
わけではない。
68歳以後は、いろいろな病気との闘いという
ことになる。

ましてや80歳を過ぎて、健康でいられるなどとは、
考えていない。
どこかのホームで寝たきりという状態になるかもしれない。

+++++++++++++++++

●密度

 (時間)は同じとしても、与えられた時間をどう生きるか。
それで、時間の長さは変わる。
要は、密度の問題。
仮に平均的な人より、2倍の密度の人生を送れば、残りの15年を、30年にすることができ
る。
反対に、2分の1の人生を送れば、残りの15年は、7年半になってしまう。
が、実際には、加齢とともに、脳のCPU(中央演算装置)の働きは、鈍くなる。
どんなにがんばったところで、若いときのようなわけにはいかない。
20代のころの10年と、60代になってからの10年は、明らかにちがう。
中身がちがう。
密度がちがう。
脳にも周波数のようなものがある。
脳の中心部にある視床下部の先端から出る信号も、そのひとつ。
その周波数そのものが、少なくなる。

 このことは、幼児や子どもと接していると、わかる。
彼らのもつ周波数は、私たちの世代がもつ周波数とは、明らかにちがう。
テンポやリズムがちがう。

 つまり「長生きをする」というのは、時間の問題ではない。
密度の問題ということ。

●忘れて消える情報

 このところ少し心境に変化がみられるようになった。
たとえばDVDを観ていても、「つまらない」と感じたとたん、同時に「時間を無駄にした」と思うよ
うになった。
楽しむといっても、そのあと、「だから、それがどうしたの?」という部分がないときには、それを
楽しむことができない。
やはり「時間を無駄にした」と思ってしまう。

 たとえば今夜も、1時間ほど、BS放送を観た。
そこはまさに情報の世界。
洪水のように、ドドーッ、ドドーッと、情報が飛び込んでくる。
たまたまNHKでは、ニュージーランドの山脈を、紹介していた。
美しい山々だった。
しかしそのあと、すぐ私は、こう思ってしまった。
「だから、それがどうしたの?」と。

 むしろガイドへ払う、ガイド料が、日本円で1万5000円〜2万円というテロップに、驚いた。
1名分の料金である。
10名も連れていけば、15万円〜20万円ということになる。

 明らかに円安である。
日本の(円)の価値が、さがりすぎている。
現在(1・13日)、1ニュージーランドドルは、68円前後。
「1ドルは、半分の34円でもいい」と。

 ・・・とまあ、そんな美しい景色を見ながら、そんなことを考えてしまった。

●還元

 再び、健康論。

 この健康論には、もうひとつ重大な問題が隠されている。
「だから、どうなの?」という問題である。
つまり健康というのは、いわば、(道具)のようなもの。
たとえて言うなら、パソコン。
いくら高性能のパソコンをもっていたとしても、使い方を知らないのであれば、宝の持ち腐れ。

 恩師の池田英雄先生(鵠沼在住)は、いつもこう言っている。
「若い人たちに還元すること」と。
「老後の命や健康は、若い人たちに還元するために使うべき」と。
すばらしい言葉である。

 もし残された人生を、自分のためだけに使うのであれば、・・・これは私が今、実感しつつある
ことだが、空しいだけ。
この年齢になると、遊べば遊ぶほど、そのあとに空しさが襲ってくる。
その空しさを紛らわせるために、同じように空しさを味わっている人たちと、慰めあう。
酒を飲む。
うさ晴らしをする。
愚痴を言い合う。
そんな人生になってしまう。

●余談

 ところで今朝、起きたときに、こう考えた。
ここまで書いたことと、まったく関係ない。
ないが、一度は、書いておきたい。

 よく歳を取ると、もの忘れがひどくなる、という。
しかしこの考え方は、正しくない。

 (記憶)というのは、(記銘=脳に記憶を刻む)→(保持=脳の中に保つ)→(想起=思い出
す)という、3つのプロセスを経て、(記憶)となる。

 老人になると、第一に記銘力が弱くなる。
・・・というより、その努力をしなくなる。
ちょっとだけ聞いて、それで覚えたような気になる。
これがいけない。
本当に記銘したければ、何度も復唱する。
数分、あついは1、2時間たったあと、もう一度、復唱する。
自分の脳みそを過信してはいけない。

 保持力については、その脳細胞が死滅しないかぎり、若い人たちとは、それほど、変わらな
い。

 問題は想起力。

 記憶のメカニズムは複雑で、それぞれの記憶は、そのつど、てんでばらばらな部位に記憶さ
れる。
言うなれば、本が散乱した書庫のようなもの。
歳を取ると、それがますますひどくなる。
けっして、想起力そのものが、弱くなるわけではない。

 たとえば1年前にどんな映画を観たかを忘れてしまっていても、同じ映画の一部を観ただけ
で、その映画を思い出したりする。
何かのきっかけがあれば、思い出す。
つまり「想起力」というのは、「想起法」の問題ということになる。

 たとえば子どもの名前を覚えるときは、私は、その子どもの名前と、友人の名前と結びつけ
たりする。
近所の知り合いの人の名前でもよい。
また忘れたときは、心の中で、「ア・・・、イ・・・、ウ・・・」と順に探していく。

 こうして考えていくと、「老人になると、もの忘れがひどくなる」と、記憶をひとまとめにして考え
るのは、正しくないということになる。

 が、ひとつだけ、気になることがある。

 たとえばこうして書斎の中で、パソコンに向かって文字を叩いている。
叩いていると、居間でしなければならない仕事が、3つとか4つ、頭の中に浮かんでくる。
「あれと、あれは、しなければいけない」「あれは、カバンの中にあるから、あとで書斎にもって
こよう」とか、など。

 ところが実際、居間へおりていくと、1つや2つは、覚えているが、残りは忘れてしまう。
そして再び、書斎に戻ったとき、「しまった、あれを忘れてた!」となる。

 こういう現象を、どう理解したらよいのか。
「拡散思考」という言葉があるのかどうかは、知らないが、その拡散思考力は、たしかに低下す
る。
ひとつのことを考えていると、そのことだけで頭の中がいっぱいになってしまう。
そのため、ほかのことを忘れてしまう。

 このことも子どもたちと比較してみると、よくわかる。

 子どもたちは、何かひとつのことをしながらも、いつもそのつど、別のことを考えている。
結局はそれが脳の柔軟性ということになる。
その柔軟性が、なくなる。

●寿命

 話を戻す。

 「がんで余命は、1年」と言われれば、ショック。
しかし「平均寿命まで、あと15年」と言われれば、そういったショックはない。
「ひょっとしたら、あと20年は生きられるかもしれない」という望みがある。

 が、まったくショックがないかと言われると、そうでもない。
このところ温泉につかっていても、その老人の年齢が、よく気になる。
「あの人は、何歳くらいだろうか」
「自分もやがて、ああなるのか」と。

 こればかりは、DNAの問題だから、どうしようもない。
仮に今、健康でも、私たちは確実に老人になる。
ヨボヨボになる。
避けようがない。

 で、私は最近、よくこう考える。
「これからの15年間が勝負だな」と。
つまり緊張感。
その緊張感が、日増しに強くなってきた。

 だからこう思う。
「しまった!」と。

 つまらないことで時間を無駄にしたようなとき、だ。
・・・話は、最初に戻ったので、このエッセーは、ここまで。
みなさん、おはようございます。

2010年1月15日(金曜日)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 B
W はやし浩司 老人の心理 記憶力 池田英雄 還元 平均寿命 
健康寿命)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●失聴

+++++++++++++++++

1月13日、朝。
目が覚めたら、音が聞こえなくなっていた。
もともと左耳は、32、3歳ごろ、聴力を
失っている。
そのときは焼けるようなはげしい痛みがあった。
たまたま年末で、すぐ行ける医院もなかった。
それで氷で患部を冷やしてすませた。
その痛みが取れたとき、聴力は消えていた。

が、今回は、右耳。
自分の声が小さく、海の底から聞こえてくるような
感じ。
キンキンと高い音だけが聞こえる。
まわりをすませても、いつもなら聞こえるはずの
風の音も聞こえない。
窓の外では、栗の木の葉が、はげしくゆれていた。

++++++++++++++++++++

●不安感

 起きるとすぐ、ワイフに話しかけた。
ワイフは、洗面所で化粧をしていた。
「耳が聞こえない」と言うと、何やら言った。
「よく聞こえない」と言うと、今度は大きな声で、「どうしたの?」と。

私「わからない。昨夜、1時ごろまでは何ともなかった」
ワ「どんなふうに聞こえないの?」
私「ほとんどだ・・・」と。

 「おかしい?」という思いが一巡すると、今度は不安感が私を襲った。

●失聴

 ワイフと話している間に、耳が聞こえなくなっているのを、確信した。
口は動くが、部分的な高い音以外は、聞こえない。
私はいつものように、ウォーキングマシンの上で、10分ほど運動をこなした。
いつものような足音も、モーターの音も、聞こえなかった。

 ときおりワイフが何やら話しかけてくるが、それも聞こえない。
耳の中が、ボンと詰まったような感じ。
朝起きたとき、軽いめまいがあったのも気になる。
三半規管がやられると、そうなる。
中耳なら、まだ治療法はある。
三半規管だと、深刻。

 ワイフは「耳鼻科へ行ったら」と声をかけてくれた。

●耳鼻科

 耳鼻科には、不信感が強い。
ちょうど30年前になるが、今でいう偏頭痛で、頭を割られそうになったことがある。
当時はまだ偏頭痛の診断法も、治療法も確立されていなかった。
それもあって、医師は、子どものころの慢性中耳炎だけをみて、悪性腫瘍と誤解したらしい。
あとでわかったことだが、私の左耳の奥には、真珠腫と呼ばれるかたまりがあった。

 医師は、「左耳が聞こえなくなったのは、それが原因」と断定した。(・・・らしい。)

 が、そのつぎの日、別の病院で診断してもらうと、今度は反対に、「風邪でしょう」ということに
なった。
たまたま近くで、大学の先輩が勤務医をしていた。
その人の紹介ということもあって、その病院では、3時間あまりかけて診察してくれた。
で、風邪薬をもらって飲むと、2日後には、頭痛も消えていた。
が、左耳の聴力は以後、もどっていない。
おそらくあのとき、耳と脳をつなぐ神経が焼き切れてしまったためではないか。

 しかしそれが今でもトラウマになっている。
耳鼻科に対する不信感も、そのとき生まれた。
もっとも今から30年近くも前のこと。
当時はまだ、医療水準も、その程度だったのかもしれない。

●W医院

 かかりつけの内科医院へ行くと、医師は話を聞くやいなや、「耳鼻咽喉科へ行きなさい」と言
った。
「突発性難聴だったら、早く治療を始めたほうがいい」と。

 私はそのまま、知り合いのW耳鼻咽喉科へ向かった。
私のHPでは、世話になっている。
W耳鼻咽喉科には、私のマガジンの申込用紙を置いてもらっている。
たがいに無料で、宣伝しあっている。

 しかしドクターとゆっくり話すのは、今回が、はじめて。
が、そんな心の余裕はなかった。

 ていねいに話を聞いてくれたあと、ドクターは、6種類の薬を処方してくれた。
「突発性難聴の薬も入っています」と。

●不安

 本当の不安が、私を襲ったのは、医院を出たあとのことだった。
「仕事はどうしよう」と考えたとたん、奈落の底にたたき落とされたようなショックを覚えた。
「子どもたちの声が聞こえなければ、子どもの指導もできない」と。

 ワイフはそういう私の横にいて、「1週間、休みましょうか」とか、「補聴器をつければ何とかな
るわよ」とか、言った。
そのつど、「そんな簡単な問題でもないのだがなあ」と思ったが、それは言わなかった。
反論する気力もなかった。

●健康

 健康というのは、いつもそうだが、それを失ってみて、そのありがたさがわかる。
それまでは、わからない。
そこにあるのが、当たり前。
私もそのときまで、耳のことは考えていなかった。
左耳が聞こえないから・・・ということで、右耳は大切にしてきた。
しかし今度は、前兆症状は、まったくなかった。

 ドクターに、「突発性難聴には、前駆症状がありますか」と聞くと、ドクターは、「自覚症状がな
いまま難聴になる人が多いです」と教えてくれた。
「左耳のときは、焼けるように痛かったです」と言うと、「そのときは風邪か何かで、そうなったの
でしょう」と。

●症状

 「75歳まで現役でがんばるぞ!」と宣言した矢先のこと。
出鼻をくじかれたような感じだった。
「こんな調子なら、65歳どころか、ぼくの仕事も今月まで」と。

 仕事の段取りが、クルクルと頭の中で回転した。
回転するだけで、まとまらない。
さみしかった。
つらかった。
家に帰って、横になった。
少し眠れば、症状もやわらぐと思った。
しかし朝のときと、それほど、変わらなかった。
耳鳴りだけが、ジンジンと響いた。
それ以外は、無音の世界だった。

●水がたまる

 「そう言えば・・・」ということで、一度、こんなことがあったのを思い出した。
20年近く前のこと。
そのときも何かしら、耳がふさがったような感じがした。
そこで佐鳴湖の近くの医院へ行くと、すぐ鼓膜切開をしてくれた。
中にたまった水を吸い出してくれた。
とたん、症状が軽くなった。

 「それかもしれない」と思った。
だから午後、再び医院へ向かった。
仕事はすべてキャンセルした。

 ドクターは、「そういう薬も入っていますから、まず炎症を抑えることです。水も少しはあるかも
しれませんが、炎症が収まれば、水もなくなります」と。

●8000種類以上

 病気というのは、ある日、突然、やってくる。
しかもまったく予期せぬところから、やってくる。
一度、家庭医学書を見て、驚いたことがある。
800ページ近い医学書だったが、病名だけで、その10倍以上。
簡単に計算しても、8000種類。
言うなれば、8000本のポールをよけながら、車を運転するようなもの。
毎日、ひとつずつ病気を経験しても、20年以上かかる。
「8000種類」というのは、そういう数字である。

 生きていることも奇跡だが、病気でないということも、これまた奇跡。
8001本の中から、1本だけの当たりくじを引くようなもの。

●加齢とともに

 もっとも加齢とともに、こうした病気は多くなっていく。
みなが、みな、ある日突然、ポックリと死ぬわけではない。
徐々に、徐々に、少しずつ、健康を害していく。
私もこの半年だけで、いろいろな病気を経験した。

 最近では、腰痛。
これは重い机を持ちあげたため。
原因はわかっていたが、そのつど、「このまま一生つづいたら、どうしよう」と心配した。
そのころ、同時に、EDになった。
「ぼくも、そろそろバイアグラの世話に・・・」と思った。
腰痛とEDは、どこかで関係しているらしい。
(これは私の素人判断。)
ほかに寝ていて頭を急に持ちあげたようなとき、後頭部の神経が束になって、ギクッと痛いとき
がある、などなど。
そんなわけで今年の年賀状には、こう書いた。
「今のところ、かろうじて健康ですが・・・」と。

●不安の中身

 「仕事をどうするか」という不安。
が、仕事が、問題ではない。
仕事にまつわる(生きがい)。
その(生きがい)をどうするか。
もし今の私の前から、子どもたちの姿が消えたら、思考は停止状態になってしまう。
そういう点では、「教育」というのは、ほかの世界とは、ちがう。
そこに子どもがいての「教育」。
子どもがいての「教師」。
よい例が、退職した教師たち。

 ほとんどの教師たちは、退職すると同時に、みな、異口同音にこう言う。
「教育なんて、もうこりごり」と。
たいていの人は、そのまま、教育の世界から、遠ざかってしまう。

 実は私もその1人かもしれない。
今は現役で、何とか(子どもたちの世界)にしがみついている。
が、もし子どもたちの姿が私の前から消えたら、私もこう言い出すだろう。
「教育なんて、もうこりごり」と。
が、このあとが、問題。
「こりごり」と言って去るのは、簡単。
しかしそのまま心にポッカリと穴があいてしまう。
その穴が、こわい。

●不安の連鎖

 さらに若いときとちがって、絶壁に追いやられたような恐怖感も覚える。
後がない!
若いときなら、仮に数か月、病気で休んでも、取り返しがつく。
未来に、行き止まりはない。
しかし歳を取ると、そこにDNAの問題がからんでくる。
どんなにがんばっても、(老い)と闘うことはできない。
いつも一方的な、負け戦(いくさ)。
それから生まれる閉塞感は、何ともしがたい。

 それに私は今まで、「元気で働ける」ということを前提に、自分の老後を組み立ててきた。
こうした病気になるということは、その前提が崩れることを意味する。

●究極の選択?

 もし難聴から、・・・すでに難聴ぎみだが・・・、聾唖者になってしまったら・・・。
2年ほど前のことだが、過労から、緑内障を引き起こし、右目の視野を50〜60%、失ってしま
った友人がいた。
その友人に私の耳のことを話すと、友人は、こう言った。
「まだ目ならいいけど、耳だと、たいへんだなあ」と。
そのとき私はちょうど反対のことを考えていた。
「耳ならいいけど、目だと、たいへんだなあ」と。

 どちらがよいとか悪いとかいう問題ではない。
両方とも健康なのが、よいに決まっている。
しかしこれだけは言える。

 まだ半分だけも残っているなら、幸せ、と。
もし両目、あるいは両耳の機能を同時に失ってしまったら・・・。
そのときは、もう、目だとか、耳だとかは言っておられない。

●涙

 夕方、ひとりで布団の中で横になっていると、ポロリと涙がこぼれた。
幻想でも何でもよい。
それにしがみついて生きている間は、まだ幸福なほう。
その幻想さえもつぶされてしまったら、人は、どうやって生きていけばよいのか。

というのも、幻想であるかないかということは、あくまでもその人、個人の問題。
「金儲けこそが、私を幸福にする」というにであれば、その人は金儲けだけをすればよい。
他人がそれに対して、とやかく言う必要はない。

 同じように、私は「思考こそが、私を幸福にする」と考えている。
別の人は、そういう私を見て、笑うかもしれない。
「考えてばかりいると、気が変になりますよ」と忠告してくれる人は、多い。
しかし今の私には、それが楽しい。
生きがいにもなっている。

●変化

 夜になって少し変化が見られた。
「慣れたせいかもしれない」と思った。
自分の声が少しずつ、戻ってきた。
あの水面下でキンキンするような声は、消えていた。
が、聴力はそのままだった。

 その夜は、布団乾燥機をつけたまま、また枕元には、電気ストーブをつけたまま、眠った。
睡眠導入剤をのんだこともあり、朝までぐっすりと眠った。

●朝

 目をあけると、カーテンの向こうから白い朝の日差しが見えた。
庭の木々がシルエットとなって、そこに映っていた。
耳をすました。
カサカサ、サーッ、と。
聞こえた。
つづいて自分で話してみた。
「テスティング、ワン、ツー、スリー」と。

 自分の声に戻っていた。
うれしかった。
ほっとした。
が、いつもなら聞こえるはずの、掛け時計のカチカチという音は聞こえない。
手に耳をあてて聞く。
かすかだが、聞こえた。

 昨日は、耳全体がポンとして感じだった。
が、今朝は、つばを飲み込むと、ゴクリと耳の奥で鳴った。

●今・・・

 今、ゴーンゴーンという、今までになかった耳鳴りを経験している。
おそらく耳の機能が、過剰に亢進しているせではないか。
現在、6種類の薬をのんでいるが、そのひとつに、「心臓の働きをよくして・・・」というのも含ま
れている。

 これも今の病気が治れば、消えるだろう。
あとは安静にしていればよい。

 ・・・ということで、改めて健康の大切さ、健康であることのむずかしさを知った。
同時に、こうも思った。
万が一のときのための準備も、怠ってはいけない、と。

 何があるかわからない。
それが「健康」ということになる。

 W耳鼻咽喉科の先生、ありがとうございました。
また昨年(09年)末、退職したという、MTさん、ありがとうございました。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 ある朝突然 難聴 耳が聞こえない 突発性難聴 健康論)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●13時間!

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今日は、土曜日。
パソコンと格闘して、13時間!
朝の6時から、夜の7時まで。
先ほど、やっと作業を終えた。

何をどうしたかについては、書いても意味はない。
いろいろあった。
で、やったことは、パソコンのCディスクを、
韓国製のものから、HITACHI製のものに交換しただけ。

もとからあったハードディスクが破損していて、
ハードディスクをそのままコピーできなかったこともある。
あれこれ確かめながら作業を進めた。
プラス、いろいろあった。
それで13時間。

ワイフが、「よくも、それだけの根気がつづくわね」と言って、笑った。
ホント!

が、楽しかった。
ハラハラ、ドキドキの13時間。
おかげでBIOS(バイオス)の設定のし方も、イチから理解できた。

・・・

夕方、暗くなってから、近くの回転寿司店で、回転寿司を食べた。
私が4皿、ワイフが4皿。
プラス、海草汁と茶碗蒸し。
ふと、うしろの席の人たちを見ると、父・母・子ども2人の計4人で、32皿も食べていた。
思わず皿の数を、数えてしまった。

返り際レジで、レジの女性に、「多い人は、どれくらい食べますか?」と聞くと、
「多い人で、この前、2人で、38皿、食べた人がいました」と。

38皿!

私の「17時間より、すごい」と、どういうわけか、思わずそんなことを考えてしまった。


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●「花火議員」(浮動票層が動いた!)

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民主党の若手議員たちよ、
あなたたちは、所詮、花火議員でしかない。

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民主党の小沢幹事長、あなたは、我ら、浮動票層をとうとう怒らせた!
あなたが浮かべる不遜な笑みを見て、不愉快に思っていない人はいない。

問題は、どう金が使われたかではない。
その金が、どこから、どのような経路を経て、何のために出てきたか、だ。
小細工を重ねて、問題をすり替えないでほしい。

思い出してほしい。
我ら浮動票層は、民主党を支持したから、民主党に票を入れたのではない。
「麻生首相だけには勝たせたくない」という思いが、一丸となり、民主党に向かった。
ふつうなら、ここでブレーキが働いたはず。
一方の党だけをベタ勝ちにさせるのは、我ら浮動票層のやり方ではない。
そのブレーキが、そのため働かなかった。

が、選挙に勝った(?)とたん、あなたは「支持された」と、はしゃいだ。
奥から出てきて、傲慢になった。
鳩山総理大臣ですら、「支持されたから、その責任を果たす」などというようなことを言ってい
る。
それはどうか?

 いきなり対米追従外交反対を唱え、親中路線。
アメリカをはずして、東アジア何とかという、大風呂敷。
そのうしろで、小沢幹事長は、総勢300人もの国会議員などを従えて、中国へ大名旅行。

 我ら浮動票層は、息を潜めて、小沢幹事長の言動を見守ってきた。
しかし、もう、がまんならない。
醜悪というより、醜悪さという点では、麻生前首相よりひどい。
我々はとんでもない党に、一票を入れてしまった。
バカだった。
後悔しているが、ここからが浮動票層の根性。
ただの(怒り)では、すませない。
もちろんだからといって、自民党に、と考えているわけではない。
しかしそれも醜悪さの程度による。

 それだけではない。
それよりもソラ恐ろしいのは、民主党議員たちの隷属根性。
小沢幹事長は、民主党内では批判も許さない、独裁者?
日本という民主主義国家にありながら、また「民主党」という名前を標榜しながら、その中身
は、K国と、どこもちがわない。
若手の議員たちは、「議員にしてもらった」という(恩義)だけで、黙っている。
そこが恐ろしい。
なぜ今日に至るまで、「民主党に失望した」と言って、民主党を離れる議員がいないのか?
ダンマリを決め込んでいるのか?
それほどまでに、権力の果実は、おいしいのか?

 麻生前総理大臣が、「辞職しない」とがんばったとき、それをいちばん喜んだのは、民主党だ
ったはず。
しかし今度、小沢幹事長が「東京地検と全面対決」とがんばればがんばるほど、それをいちば
ん喜ぶのが、自民党。
そんなこともわからない政治家に、どうして我ら浮動票層は、国際政治を任すことができるか。
まさに音痴政治。
専制政治。
現在の民主党は、国民の総意から、完全にはずれてしまっている。
現在、民主党の支持率はおおむね、50%強。
鳩山内閣の支持率は、10%前後。
小沢幹事長ががんばればがんばるほど、民主党の支持率はさがる。

 小沢幹事長に国会議員にしてもらった、若手の議員のみなさん。
あなたがたにつける名称は、「一夜の夢で終わる、花火議員」。
今回、一期だけの「花火議員」。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 民主党 花火議員 小沢幹事長 汚職 浮動票層の動き)

【補記】

 現在の民主党議員たちを見ていると、江戸時代さながらの封建意識を感ずる。
「忠義」という言葉に代表される、封建意識である。

 西洋では、主従関係と言っても、「契約説」に基づく。
ギブ&テイクの関係である。
親分がまちがいを犯せば、子分たちは、さっさとその場を去っていく。
別の親分と契約を交わして、新しい主従関係を作っていく。

一方、この日本では、あのドロドロしい隷属意識が、いまだに生き残っている。
そこはまさに「忠臣蔵」の世界。
義理と人情の世界。

 親分がいくら狂っても、それにたてつくことすら、許されない。
親分に責任を問うこともない。
「忠臣蔵」でも、悪の張本人は、浅野内匠頭自身ではないのか。
松の廊下での軽率な行為で、家来たちの人生をみな、狂わせてしまった。
本来なら、小沢幹事長自身が、子分たちを追い詰めないよう、自ら身を引くべき。
しかし権力と金に狂った、あの親分に、それは期待できない。
どこまでも醜悪。
ゲボが出そうなほど、醜悪。
いちばんの犠牲者は、若手の議員たちということになる。
一夜の夢だけを見させてもらい、あとは、ポイ捨て!
(2010年1月17日記)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●子どもの問題

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子ども(小学生)に何か問題を発見したら、
つぎの3つの方面から、分析、観察する。

生来的なものかどうか(遺伝的な要素、たとえば性質、性格など)
環境的な問題に起因するものかどうか(育児環境、0歳〜2歳期の母子関係)
機能的な障害によるものかどうか(何らかの情緒障害などが背景にないかどうか)

++++++++++++++++

●将来的な性質

 生来的なものとして、その子ども自身が親から引き継いだ性質、性格などがある。
過敏傾向が強い、鈍感傾向が強い(頭が「鈍感」という意味ではない)など。
繊細さや、鈍感さ(頭が「鈍感」という意味ではない)も、親の性質を引き継ぐことが多い。
これらについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。

●環境の問題

 子どもの成育、知的発達、人格的発達、道徳的発達に、重大な影響を与えるのが、「環境」と
いうことになる。
その環境は、0歳〜2歳前後までの環境と、特定してよい。
そのころ子どもの方向性は決まる。
これには、2つの意味が含まれる。

子どもの方向性が決まる。
親の育児姿勢が決まる。

 その中でもとくに大きな影響を与えるのは、母親である。
この時期の母子関係の重大さは、それ以後の親子関係のそれとは、比較にならない。

・・・といっても、深刻に考えてはいけない。
子どもというのは、愛情豊かな家庭環境の中で、静かに、穏やかに育てればよい。
ごくふつうの家庭を想定し、自然体で子育てをする。
気負い、心配、不安、過保護、過干渉、過関心は、避ける。
とくに不幸にして不幸な家庭に育った親ほど、注意する。
このタイプの親は、自然な形での(親像)が脳の中にインプットされていない。
そのため子育ての仕方が、どうしてもぎこちなくなる。
その(ぎこちなさ)が、子育てをゆがめる。

 たとえば最近の研究によれば、青年期になってからの、「うつ」「うつ病」の遠因は、この時期
に作られることがわかっている。

●機能的な問題

 脳の機質的な問題はともかくも、機能的な問題で、子どもの心がゆがむことは多い。
「情緒障害」といわれるのは、おおむね、脳の機能的な問題と考える。
もっとわかりやすく言えば、脳の機能的な変調が原因と考える。
子どもは、ささいなことで、その変調を起こしやすい。
そのため脳間伝達物資、ホルモンの分泌などに、変調がもたらされ、それが情緒障害へとつ
ながっていく。

(これに対して、脳の構造そのものに器質的問題があるばあいを、機質(器質)障害という。
しかしこれは医学的な問題で、教育の問題ではない。)

●J君の例

 J君(小1)という子どもを仮想してみる。
J君は、静かで、ハキがない。
意見も発表しない。
いつもほかの子どものうしろを、ノロノロとついていく。
穏やかで、柔和な笑みを浮かべているが、何を考えているか、つかみにくい。
つまりその分だけ、不満や不平が、心のどこかに抑圧される。
家の中では、親に対して暴言を吐いたり、暴れたりする。

このタイプの子どもを、英語では、「SHY(シャイ)な子ども」と表現する。
アメリカでは、(シャイな子ども)は、問題児と位置づけられている。
アメリカの内科学会では、情緒障害児を診断するときの、重要な診断項目のひとつにしてい
る。

●「生まれつきです」

 このタイプの子どもの母親に接すると、たいていの母親は、決まってこう言う。
「この子は、生まれつき、こうです」と。

しかしこれはウソ!

 生まれたばかりの子どもを見て、その子どもの性質、性格をつかめる親はいない。
ドクターでもいない。
専門家でもいない。
母親自身が、そういう目、つまり不安先行型、心配先行型の子育てを、(生まれながらに)して
いるにほかならない。
つまり自分だけにしか通用しない、(色眼鏡)で、子どもを見ている。
言い換えると、責任逃れ!

●分析と観察

 が、すべて(環境)だけが原因とは、考えられない。
そこで冒頭にあげた、3つの方面から、J君を分析、観察する。

 J君は、繊細な感覚をもっている。
神経質で、デリケート。
これらは将来的な部分と考えてよいが、母親自身の性質、性格が移植されているケースも少
なくない。
こうした傾向は、遺伝というよりは、代々、世代連鎖しやすい。
とくに、うつ、もしくはうつ病の母親は、注意したほうがよい。

●親の障害 

 ここにも書いたように、親自身に何らかの障害があるときは、とくに警戒を要する。
一時的なマタニティー・ブルーであれば、おおげさに考える必要はない。
しかしそれがときとして、そのまま育児ノイローゼとなって、育児期間にまで残存することがあ
る。
育児ノイローゼそのものは、うつ、もしくはうつ病と考えてよい。
けっして安易にとらえてはいけない。

 このタイプの母親は、一日中、子どものことばかり考える。
またそれが心から離れない。
ささいなことにこだわり、それをおおげさに考える。
取り越し苦労とヌカ喜び、その2つを繰り返す。
子どもに対しては、こまごまと注意したり、叱ったりする。
この心の余裕のなさが、子どもの心を萎縮させる。

●機能的な障害

 どんな子どもにも、情緒障害的な(芽)はあるという前提で考える。
個人差はあるだろうが、それはささいな(差)に過ぎない。
わかりやすく言えば、どんな子どもでも、不適切な家庭環境に置かれれば、情緒障害児になる
可能性は、あるということ。
 
 簡単な例で言えば、夜尿症にしても、今では「癖」と考える学者はいない。
脳内ホルモンの変調が原因と考えられている。
睡眠中は、脳内ホルモンの働きによって、尿の生産が止められる。
その脳内ホルモンが、変調する。
睡眠中も、尿が生産されてしまう。
それが夜尿症へとつながっていく。

 もう少し心配なケースでは、かん黙症がある。
幼稚園へ保育園などに入園したようなときに、発症することが多い。
子どもは、かん黙することによって、自分の心を守ろうとする。
心理学の世界では、「防衛機制」という言葉を使って説明する。
家の中では、ふつう児のようによくしゃべる。
が、一歩、集団の世界に飛び込むと、貝殻を閉ざしたかのように、無言を守る。

 が、こうした機能的な障害についても、0〜2歳期の環境が大きく影響している。
つまりこの時期の不適切な育児姿勢、育児環境、子どもへの態度が、その(きっかけ)を作る。

 ここでも重要な鍵を握るのが、母子関係ということになる。

●親の自覚

 だれしも、無知(?)の状態から、子育てを始める。
が、まったくの無知かというと、実はそうではない。
「子育ては、本能ではなく、学習である」というのは、そういう意味である。
つまり親は、無意識のうちにも、自分が受けた子育てを、自分の子どもに再現する。
育児姿勢だけではない。
育児哲学にしても、そうだ。
たとえば権威主義的な家庭環境(悪玉親意識が強い家庭環境など)に、育った親は、自信も、
権威主義的な子育てをしやすい。
これを心理学の世界では、「世代連鎖」とか、「世代伝播」とか、呼んでいる。

 そこで重要なことは、まず、自分の子育てに気づくということ。
そのためには、自分の(過去)、とくに0〜2歳期の自分が、どういう子育てを受けていたかを、
知る。

 といっても、そのころの記憶の残っている人はいない。
断片的な記憶はあるかもしれないが、連続性をもった記憶はない。
そこで客観的に、自分が生まれ育った環境を、推察してみる。

「私は、心豊かで、静かな環境で生まれ育ったか」
「私は、母親の愛情をたっぷりと受けて育ったか」
「家庭は円満だったか」

 その中でもとくに重要なのが、母子の間で形成される、基本的信頼関係である。
それについては、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。

(興味のある人は、「はやし浩司 基本的信頼関係」で検索してみてほしい。)

 もしそういう環境で、あなた自身が生まれ育ったのなら、よし。
そうでなければ、あなたの子育てのどこかに、(ゆがみ)がないか、・・・というより、(ゆがみ)が
あるという前提で、自分が今している子育てを、反省する。

●引き金論

 平たく言えば、子どもの情緒問題、つまり機能的な情緒問題の引き金を引くのも、(環境)と
いうことになる。

 一部の情緒障害児団体では、「遺伝説」を前面に押し出し、「親には責任がない」というような
ことを主張している。
「遺伝説」と唱えるなら、先にも書いたように、どんな子どもにも、その(芽)はある。
ない子どもはいない。
この問題は、「引き金を引く・引かない」の問題と考えてよい。

たとえば赤ちゃん返りがある。
重篤な子どもになると、嘔吐、発熱を繰り返すようになる。
しかしそういう子どもでも、(下の子ども)が生まれたからそうなったのであって、もし(下の子ど
も)が生まれなかったら、赤ちゃん返りは起こさなかったはずである。
この場合も、不適切な、(上の子指導)が、赤ちゃん返りの引き金を引いたと考える。

●J君のケース

 日本でも、「シャイな子ども」については、(問題のある子ども)と位置づけるべきではないの
か。
またそういう前提で、子どもを観察する。
そういう点では、J君は、「問題児」ということになる。
けっして子どもの、本来、あるべき姿ではない。
またそういう子どもを、よい子と誤解してはいけない。
(今でも、そういう誤解が、この日本に蔓延しているのは、驚くべきことである。)

●では、どうすればよいか

 が、希望を捨ててはいけない。
こうした子どもの問題、さらには、自分自身が生まれ育った環境の問題については、それに気
づくだけでよい。
気づけば、あとは時間が解決してくれる。
「すぐに・・・」というわけには、いかない。

 というのも、子育ては、リズム。
親のリズム。
そのリズムは、子どもを妊娠したときから始まっている。
そのリズムを変えるのは、容易なことではない。
そういう点でも、子どもの指導よりも、親の指導のほうが、むずかしい。
だから時間がかかる。

 それに理想的な環境の中で生まれ育った人など、いない。
私にしても、この文章を読んでいるあなたにしても、過去はボロボロ。
そこで重要なことは、そういう過去があったということではなく、そういう過去の上に(私)が乗っ
ていることに気づかず、その過去に振り回されること。
同じ失敗を繰り返すこと。

 繰り返すが、それに気づけば、5年とか10年とかいう年月を経て、この問題は解決する。
あとは時の流れに、静かに身を任せればよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 育児論 子どもを見る3つの側面 子どもの環境 子供の問題 はやし浩司 過
去)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●ドーピング

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「ドーピング」とは、何か?
JCCのHPには、こうある。

『ドーピングとは競技能力を増幅させる可能性がある手段(薬物あるいは方法)を不正に使用
することであり、スポーツの基本的理念であるフェアプレーに反する行為です』と。

++++++++++++++++++++

●受験ドーピング

 この原稿が読者の目の届くころには、入学試験も終盤。
だからよいというわけでもないが、受験競争にも「ドーピング」というのが、ある。

 今のところ合法(?)だから、つまり違法性はないので、ここに書いても問題はないと思う。
つまり脳みそというのは、機能の集合体のような部位だから、『能力を増幅させる可能性があ
る手段』(JCC)が、ないとは言わない。
ある。
実際には、ある。

 たとえば薬局で売っている、カフェイン入りの眠気覚ましドリンク類。
あれを飲むと、思考力そのものが、ハイになる。
私も、ときどき世話になっている。
何かのことで頭がボーッとしていて、使い物にならないようなとき、ああいったドリンク剤の世話
になる。
とたん頭がスッキリして、思考力が明晰になる。
言葉もスラスラと出てくる。

 だから・・・、というのでもないが、受験生は、こうしたドリンク剤を、効果的に利用したらよい。
ここにも書いたように、こうしたドリンク剤の使用には、今のところ、違法性はない。
かぎりなくドーピング行為に近いが、スポーツの世界でいうような、制約も制限もない。

 ただし飲み方に注意すること。
子どもによっては、量をまちがえると、精神的にハイになりすぎてしまう子どももいる。
受験中に、はしゃぎ回るようでは、困る。
当然のことながら、幼児や小学生には、避ける。
そういうことにならないよう、事前に一度のませてみて、様子をみるとよい。

●薬物でも・・・

 実はこの原稿を書くには、もうひとつの理由がある。

 現在私は、難聴治療のため、6種類の薬をのんでいる。
その中には、ホルモン剤としてよく知られている、ステロイド剤(副腎皮質ホルモン)もある。
「奇跡の薬」と言われているが、長くのんでいると、その分だけ副作用も、大きい。
服用をやめたあとの、反作用も、これまた大きい。

 そのほか、三半規管の働きをよくするために、
MT剤・・・末梢神経障害を改善する薬。
AD剤・・・心臓の働きを回復する薬、ほかを、のんでいる。

 で、この4日間、こういった薬をのんでいるが、明らかな変化が見られる。
動悸がはげしくなったこと。
耳の中を、川が流れるような音がすること。
脈拍数がふえたこと、など。
それに頭脳は、たしかに明晰になった。
テキパキと反応できる。
言葉も豊富。
かつパソコンのキーボードを叩く指が速くなった、など。

 どの薬がどのように作用しているのかは、わからない。
しかし薬効の説明書きを読むと、どうやらこういうことらしい。

「耳の聞こえをよくするため、心臓の働きをよくし、血流を増す。末梢神経の働きをよくする。そ
の結果として聴力を回復する」と。
あとの薬は、耳の中の炎症を抑えたり、鼻水や痰を排出するためのものらしい。

 で、こうした薬は、脳の神経細胞にも、同じように作用すると考えてよい。
神経細胞といえば、末梢神経のかたまりのようなもの。
(あくまでも素人判断だが・・・。)

 言い換えると、この世界にも、つまり受験競争の世界にも、ドーピングというのが、あるので
はないかということ。
うまく薬を使えば、脳の神経細胞の働きを倍加できる。
ふだんなら思い出せないような、歴史の年号がスラスラと思い浮かんできたり、計算力が速くな
ったりするなど。
もしそうだとするなら、

この分野の研究を、早急に進める。
この種のドーピング検査の態勢をできるだけ早く、整える。

 でないと、そういう薬の知識のある親の子どもは、受験競争に有利ということになる。
堂々とドーピングができる。
パーセントで表示するのは、適切ではないかもしれない。
しかし薬物の使用で、当日、10〜20%、神経細胞の活動が活発になれば、その分だけ、試
験ではよい点数を稼ぐことができる。

 が、これはフェアではない。
あるいは水面下では、すでに実行されているかもしれない。
先にも書いたように、市販のドリンク剤でも、かなりの効果がある。
今回、難聴治療のために6種類の薬をのんでみて、私はさらにそれを確信した。

ここに書いたことを、みなさんが、どう判断し、どう利用するかは、みなさんの自己責任におい
てしてほしい。
私は責任を取らない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 受験競争 ドーピング問題 薬物使用)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●親の人生vs子どもの人生

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原始社会では、基本的には、子どもは、「親の財産」と
考えられていた。
そう言い切るのは危険なことかもしれない。
だれも原始社会の人がどう考えていたかまでは、わからない。
わからないが、しかしこれは常識的な見方と考えてよい。

「財産」という言葉が悪いなら、「一家の働き手」という言い方でもよい。
その「働き手」が、順送りに伝わっていくから、親たちは安心して、
自分の老後を迎えることができた。
そんため、よほどのことがないかぎり、親のほうから子どもを
手放すというようなことはなかったはず。
「よほどのこと」というのは、親自身の生活が崩壊したようなばあいをいう。

で、「あなたの人生はあなたのもの。あなたの好きなように生きなさい」
と子どもに教えるようになったのは、ごく最近のことと考えてよい。
それだけではない。

社会保障制度のない国では、老後の親のめんどうをみるのは、
子どもの役目と考えられていた。
またそうでないと、「家族」としてのしくみを、
維持することができなかった。

+++++++++++++++++++++

●私たちの子ども時代

 私たちが子どものころには、こうした(原始性)は、まだ色濃く残っていた。
結婚のとき交わされる結納制度にしても、もとはと言えば、「人身売買」的な発想から生まれた
もの。
アフリカのある部族は、娘と家畜を交換しているそうだ。

 一方、子どもは子どもで、老後の親のめんどうをみるのは、当然と考えていた。
「当然」というのは、「疑いもしない」という意味。
また外へ出た子どもたちは、毎月、もしくは毎年、ある程度の金銭的な仕送りをするのが、常
識だった。
私も22、3歳のころから、そうしていた。
もちろん親に対して、である。

●子どもに恩を着せない

 子どもに恩を着せない。
これは子育ての基本。
親の(意思)で子どもをつくる。
そこには子どもの(意思)はない。
つまり子どもを産んでしまった以上、その子どもを、よき家庭人として自立させるのは、親の義
務ということになる。

 が、今でも、恩着せがましい子育てをつづけている人は多い。
「産んでやった」「育ててやった」と。

●親と子

 しかし本当に、「子どもは子ども」と考えてよいのだろうか。
「子どもの人生は、子どもの人生」と、子どもの人生を切り離してしまってよいのだろうか。

 最近、私は、聴力を完全に失うという病気になった。
幸い、1〜2日で、症状は改善したが、そのとき感じた孤立感には、相当なものがある。
「孤独感」ではない。
「孤立感」である。
「だれも助けてくれない」という孤立感。
そこには、もちろん子ども(=息子たち)の姿はない。
仮に生死の境をさまよっても、息子たちが、私のところへ駆けつけてくれるということはないだ
ろう。
生活に行き詰ったときも、そうだろう。
そのときふと、子どもたちの視線をどこかに感じた。
冷たい視線だった。
これから先、こうした孤立感は、大きくなることはあっても、小さくなることはない。

●家族

 長男は独身貴族。
二男は、アメリカ在住。
三男は、養子に嫁いだような状態。

 残されたのはワイフだけ。
そのときワイフがいたからよいようなものの、もしワイフがいなければ、私はそのまま独居老
人。

 内閣府(当時)の10年ほど前の調査によっても、「将来、親のめんどうをみる」と答えた若者
は、20%前後しかいない。
たいはんの若者たちは、「経済的に余裕があれば、みる」と答えている。
しかし「経済的に余裕のある人」は、いない。
みな、目いっぱいの生活をしている。
しかもこの「20%」という数値は、どんどんと低下している。

●ふえつづける独居老人。

 実際、数字をあげるのもこわいほど、独居老人がふえている。
そのための施設もあるが、今でさえ、満杯。
従姉(いとこ)の母親も現在は寝たきり状態だが、いまだに施設に入れないでいる。
年齢は85歳。
「私はだいじょうぶ」と高をくくっている人も多いだろう。
が、一度でよいから、自分の足元を見てほしい。
ほんとうに、だいじょうぶか?

 今日もワイフが、どこかの有料老人ホームのパンフをもってきた。
それによれば、入居料だけで、1名、1300万円。
それに部屋代が、2人部屋で、毎月17万円、プラス食事代、1名、12万円。
合計30万円弱。
2人で、42万円弱。
ただし健康な老人のみ、とか。
そういうパンフを見ると、もう息子や孫たちにかまっている余裕はない。
1円でもあれば、自分たちの老後のために使いたい。
私たちは、やるべきことは、やった。
それ以上、私は、何をすべきなのか。

●2人ぼっち

 昨夜も仕事の帰りに、深夜劇場に足を運んだ。
観たのは、「怪獣たちのいるところ」という、三流映画。
星など、つけようもないほど、ひどい映画。
その帰り道、私はふと、こう漏らした。

「2人ぼっちだね」と。
それに答えて、ワイフも、「そう、2人ぼっちね」と。

 そう、2人ぼっち。
で、今、私はこう思う。
「これでよかったのか」と。
つまり私たちの子育ては、これでよかったのか、と。
わかりやすく言えば、夏服のまま、山登りにでかけたようなもの。
子育ての最中というのは、そういうもの。
自分がどんな服装をしているかも、わからない。
が、山頂では、冷たい雪が降り続いている。
「ある」と思っていた、山小屋は、そこにはない。
それが現実。

●親と子

 私は親と子の関係について、考え方を改めつつある。
親も人間だが、子も1人の人間という関係は、それなりの社会制度が整った国での話。
今のこの日本で、理想主義に走ることは、まだ時期尚早(?)。
たとえばオーストラリアでは、そうした老人たちが、年金だけで、施設で晩年を迎えることができ
る。
そういう制度が確立している。
が、日本では、無理。
毎月42万円も払える夫婦というのは、そうはいない。

 お金のない老人は、壊れかかった家で、あるいは小さなマンションの中で、ひっそりと暮らす
しかない。
が、そのときも、子どもたちは、ぜったいにと断言してよいほど、私やあなたを助けには来な
い。
私やあなたの子どもが、そうだというのではない。
「日本中の若者たちが、老人を助けには来ない」という意味で、そう書いている。

●「子どもはいらない」層

 最近「結婚しても、子どもはいらない」と考えている夫婦が多いとか。
それについては、先日、書いた。
が、ここにきて、私はこうも考えるようになった。
つまり現在の若い夫婦たちは、自分の心を、子どもたちに投影させているのではないか、と。

 つまり「自分たちだって、親のめんどうをみるつもりはない」。
「だから自分の子どもたちだって、私のめんどうをみないだろう」
「だから子育てなんかしても、損」と。

 あるいは、こうでもよい。
「親たちは、自分たちを育てるのに苦労した」
「苦労といっても、ありがた迷惑なことばかり」
「自分という子どもは親に感謝していない」
「自分の子どもも、やがてそうなるだろう」
「だから私たちは、同じような無駄な苦労をしたくない」と。

 ひょっとしたらそういう(思い)も、「子どもはいらない」という考え方に、どこかでつながってい
るのではないか。
一方的な見方かもしれないが、それほどまちがっていないと思う。

●ではどうするか・・・

 元凶は、「犠牲心」ということになる。
子育てをしても、犠牲心はもってはいけない。
犠牲心を感じたとたん、それはそのまま(恩着せ)につながる。
子どもにとっても苦痛だが、親も、キズつく。

 親は親だが、親も、1人の人間として、自分の人生を生きる。
とくに母親のばあい、結婚、出産とつづくうち、キャリアをあきらめなければならない。
そういうケースが多い。
そしてその分のエネルギーを、子どもや、子育てに向けてしまう。
当然、そこからは、犠牲心が生まれる。
「子どものために、自分の人生を犠牲にした」と。

が、ここにも書いたように、この(犠牲心)が、曲者(くせもの)。
子どもたちが巣立つころになると、母親たちはみな、決まって、こう言う。
「私の人生は、何だったの?」と。
あるいは、子どもに「この、クソババア!」と呼ばれてはじめて、はっと我に返る。

 だから結局は、あのバートランド・ラッセルの言葉に戻る。

 私たちは子どもに対して、必要なことはする。
しかし限度を超えてはいけない。
その限度をわきまえている親子のみが、真の家族の喜びを与えられる。

●受験シーズンの中で・・・
 
 私もいろいろな教育論を書いてきた。
子どもの受験にも、たずさわってきた。
しかし今、これだけは、みなさんに忠告できる。

 子どもの受験競争に狂奔している、お父さん、お母さんへ、
もうそういうバカなことは、やめよう。
子どものためにも、ならない。
子どものほうから、頭をさげて、「学費を出してください」と、一度は、頭をさげさせる。
そうでなければ、高い学費を出しても、無駄。
どうせ勉強など、しない。

子どもは、出してやっても、それを「当然」と考える。
もちろん、感謝の「か」の字もない。
逆に、「したくもない勉強をさせられた」と、親をうらむ。
中には、「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する子どもさえいる。

 基本的な部分で、日本の教育は、狂っている。
まちがっている。
「教育」というより、「家庭教育」が、狂っている。
まちがっている。

 ちなみに私の教室(BW教室)では、レッスンのあとに、必ず、子どもたちを親たちに感謝する
よう指導している。
親たちに頭をさげさせる。
「みなさんは、こうしてお父さんやお母さんが、この教室へ連れてきてくださるから、勉強できる
のですよ」
「ありがとうございました」と。
この40年間、ただの一度も、この儀式を欠かしたことはない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 本末転倒 親の心vs子の心 家庭教育論 家庭教育とは)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタイト
ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" height="250" alt="●BL
OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>

●小沢疑獄vsユングの「シャドウ論」

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大筋を言えば、こうだ。

(1)どこから出たお金か知らないが、小沢氏は、
4億円で、秘書に土地を買わせた。
(2)うち5000万円については、その2日前、
どこかの土建業者から、裏金(=ワイロ)として
小沢氏が受け取ったものらしい。(ここが重要。)
(3)その大金の出所を隠すため(?)、そのあと
小沢氏は、銀行から4億円を借りた。
(あくまでも、「そのあと」である。)
つまり銀行から小沢氏が個人名義で借りたお金で、
土地を買ったことにしようとした。
(4)秘書らは、あれこれ日付をごまかすための、
小細工を重ねた。
(5)陸山会は、4億円を小沢氏に返却し、結局、
小沢氏は4億円を取り戻した(?)。

これに対して小沢幹事長は、「検察と全面対決!」と、
息巻いている。
民主党議員たちは、「ウォー」と大声をあげて、
それに呼応している(某県・民主党大会にて)。

問題は、小沢氏がもっていた4億円。
そのお金は、どこから出てきたのか?
また銀行から借りた4億円は、どこへ消えたのか?

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●毎日新聞

 毎日新聞(1−17)は、つぎのように伝える。

『・・・これまでの特捜部の調べによると、陸山会の当時の事務担当者で小沢氏の私設秘書だ
った石川議員は04年10月上旬、小沢氏から現金4億円を受領。東京都世田谷区の土地を
約3億5200万円で購入したが、同年の収支報告書に記載しなかった。当時の会計責任者で
小沢氏の公設第1秘書、大久保隆規容疑者(48)と、石川議員の後任の元私設秘書、池田光
智容疑者(32)は、07年4月に小沢氏に4億円を返却しながら記載しなかったとされる。

 最初の4億円が渡された直後、陸山会は関係政治団体などから集めた4億円で定期預金を
組み、これを担保に小沢氏名義で金融機関から融資を受け、小沢氏からの借入金として収支
報告書に記載するなど複雑な会計処理を行っている。石川議員は「小沢氏の手持ち資金を隠
すためだった」などと供述。特捜部は複雑な会計処理や虚偽記載への認識について、小沢氏
に問いただしたい意向だ』と。

●「手持ち資金を隠すためだった」

 4億円という大金は、どこからどのようにして出てきたのか?
表向きは、「複雑な会計処理や虚偽記載への認識について、小沢氏に問いただしたい意向」と
なっているが、検察側の目的は、ズバリ、収賄罪での立件。
またそこまで行かないと、国民も納得しないだろう。

 が、小沢氏があがけばあがくほど、小沢氏は墓穴を掘るだけ。
小沢氏の一連の行為、態度は見苦しいというより、醜悪ですらある。
すでに石川議員は、「小沢氏の手持ち資金を隠すためだった」などと供述している。
まともなお金だったら、隠す必要など、ない。

●消えた4億円

 で、もう一度、金の流れについて、おさらいをしておきたい。

 当初、陸山会は、小沢氏から渡された4億円(これを4億円Aとする)で、土地を買った。
そのあと、小沢氏は、4億円(これを4億円Bとする)を銀行から融資を受けている。
陸山会は、「07年4月に、陸山会は、小澤氏に4億円(これを4億円Cとする)を返却している」
(毎日新聞)。

 小沢氏が自分の資金で、自分の土地を買ったというのであれば、何も問題はない。
が、陸山会は、小沢氏から4億円Aを渡され、それで土地を買った。
そのあと小沢氏は、小沢氏名義で、銀行から4億円Bを借りた。
で、最終的に、陸山会は、4億円Cを小沢氏に返却している。
小沢氏は、その4億円Cを、銀行に返す。
となると、銀行から借りた4億円Bは、どこに、どのように消えたのか、ということになる。

 ・・・とまあ、こんな回りくどい言い方は、やめよう。
4億円Bは、マネーロンダリンされた形で、小沢氏の懐(ふところ)に戻った。
今回の事件が発覚していなければ、何かのことで、「4億円はどこから?」と聞かれたら、小沢
氏は、あの笑みを浮かべながら、こう答えたであろう。
「銀行から借りたもの」と。
つまりこれが今回の、一連の小沢疑獄の構造ということになる。

●シャドウ論

 そこで登場するのが、「シャドウ論」(ユング)。
「なぜ、シャドウ論?」と驚く人も多いかと思う。
が、もし私がここで、「小沢疑獄の構造ということになる」というだけで、ペンをおいてしまった
ら、ただの政治評論になってしまう。
が、これだけではおもしろくない。
別の角度から、つまり私の専門分野から、掘り下げて、この問題を考えてみたい。
それが、「シャドウ論」。

 が、この「シャドウ論」については、たびたび書いてきた。
つまり自民党政権というよりは、戦後の金権政治の中で、それを批判しつづけてきたはずの現
民主党政権ですら、そのシャドウ(影)を引き継いでしまった。

 「シャドウ論」について、以前書いた原稿を、添付する。
これを読めば、人間の心が本来的にもつ欠陥が、理解してもらえると思う。
内容的に、かなり遠回りになるが、そこは許してほしい。

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【シャドウ論】

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●仮面(ペルソナ)

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ペルソナ(仮面)そのものを、職業にしている人たちがいる。
いわゆる「俳優」という人たちが、それである。

で、あくまでも一説だが、あの渥美清という俳優は、本当は気難し屋で、
人と会うのをあまり好まなかったという(某週刊誌)。
自宅のある場所すら、人には教えなかったという(同誌)。
が、その渥美清が、あの『寅さん』を演じていた。
寅さんを演じていた渥美清は、ペルソナ(仮面)をかぶっていたことになる。

といっても、ペルソナ(仮面)が悪いというのではない。
私たちは、例外なく、みな、仮面をかぶって生きている。
私もそうだし、あなたもそうだ。

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●みな、かぶっている

たとえばショッピングセンターで、深々と頭をさげる女子店員を見て、
「人間的にすばらしい人」と思う人は、まずいない。
顔には美しい笑みを浮かべている。
何か苦情を言ったりしても、おだやかな口調で、「すみません。ただ今、
お調べいたします」などと答えたりする。
彼女たちは、営業用のペルソナ(仮面)をかぶって、それをしている。
同じように、教師だって、医師だって、みな、ペルソナ(仮面)を
かぶっている。

最近では、さらにそれが進化(?)した。
インターネットの登場である。

今、あなたは、私が書いたこの文章を読んでいる。
で、あなたはそれを読みながら、「はやし浩司」のイメージを頭の中で
作りあげている。
心理学の世界では、これを「結晶」と呼んでいる。
そのあなたが作りあげているイメージは、どんなものだろうか。

私にはわからない。
それに結晶といっても、その中身は、みなちがう。
ある人は、「林って、理屈っぽい、気難しい男だな」と思うかもしれない。
また別のある人は、「わかりやすい、単純な男だな」と思うかもしれない。
文章を読む人の、そのときの気分によっても、左右される。

映画なら、まだそこに「像」を見ながら、相手のイメージを頭の中で
作りあげることができる。
しかし文章だけだと、それがさらに極端化する。
それがこわい。

●相手の見えない世界

以前にも書いたが、たとえばメールで、「お前はバカだなあ」と書いたとする。
書いた人は、半ば冗談のつもりで、つまり軽い気持ちでそう書いた。
しかし受け取る側は、そうではない。
そのときの気分で、読む。
たとえば何かのことで、その人の心が緊張状態にあったとする。
だから、それを読んで激怒する。
「何だ、バカとは!」となる。

もっとも小説家といわれる人たちは、こうした結晶を逆手に利用しながら、
読者の心を誘導する。
よい例が、スリラー小説ということになる。
恋愛小説でもよい。

たとえば「A子は、みながうらやむほどの、色白の美人であった」と書いてあったとする。
それぞれの人は、それぞれの美人を空想する。
その美人の姿は、それぞれの人によって、みなちがう。

●現実

が、ここで重要なことは、ペルソナ(仮面)は、ペルソナ(仮面)として、
(現実)とは、しっかりと切り離すこと。

たとえば学生時代、私にとっては、「ベン・ハー」イコール、
「チャールトン・ヘストン」であり、「チャールトン・ヘストン」イコール、
「ベン・ハー」であった。
私には区別がつかなかった。

しかしこうした現象は、何も私だけに起きた特殊なものではない。
映画ドラマの中の主人公を、(現実の人)と思いこんでしまう現象は、
よく見られる。
しかも若い人たちだけではない。
40歳前後の女性ですら、それが区別できなくて、韓国の俳優を追いかけたり
する。

が、相手を見るときはもちろんのこと、自分自身に対してもである。
ペルソナ(仮面)と(現実)は切り離す。
とくに、自分がかぶっているペルソナ(仮面)には、警戒したほうがよい。
この操作を誤ると、自分で自分がわからなくなってしまう。
欧米では、牧師に、そのタイプの人が多いと言われている。
みなの前で、神の言葉を語っているうちに、自分自身が(現実)から遊離してしまい、
自分のことを(神)と思いこんでしまう。

が、それだけではすまない。

●シャドウ

このとき同時に、自分の中にある(邪悪な部分)を、心の中に別室に閉じこめて
しまう。
閉じこめながら、自分を善人と思いこんでしまう。
こうした現象を、あのユングは「シャドウ(影)」という言葉を使って説明した。
このシャドウが、別のところで、別人格となって、その人を裏から操る。
大教会の神々しいほどまでの牧師が、その裏で、少年や少女を相手に、性犯罪を
繰り返していたという例は、欧米では、たいへん多い。

が、さらに恐ろしいことが起きる。

このシャドウは、ときとして、そっくりそのまま子どもに伝わることがある。
心理学の教科書に出てくる例として、あの映画『復讐するは、我にあり』がある。
それについては以前にも書いたので、このあとに、そのとき書いた原稿を添付
しておく。

こういう例は極端な例であるとしても、親子の間でも、こうした現象はよく
観察される。

●シャドウを受けつぐ子ども

ある母親は、世間では「仏様」と呼ばれていた。
しかし2人の息子は、高校時代、ともに犯罪行為を犯し、退学。
周囲の人たちは、「どうしてあんないい母親なのに、息子さんたちは……?」と
言っていた。
が、こうした現象も、シャドウ論をあてはめてみると、説明がつく。
母親は、邪悪な部分、たとえば嫉妬、ねたみ、恨み、不満などを、心の中の別室に
閉じことによって、善人を演じていただけである。

そのシャドウを、いつも近くで見ていた息子たちが、受けついでしまった。

では、どうするか。

私たちはいつもペルソナ(仮面)をかぶっている。
それはそれでしかたのないこと。
ショッピングセンターの女子店員が、客に向って、「オイ、テメエ、そこの客、
泥靴なんかで、この店に来るなよ!」と叫べば、その女子店員は、そのまま解雇。
職を失うことになる。

この私だって、そうだ。

で、大切なことは、それをペルソナ(仮面)と、はっきりと自覚すること。
そして脱ぐときは、脱ぐ。
脱いで、自分に戻る。
ありのままの自分に戻る。
それをしないでいると、それこそ人格そのものが、バラバラになってしまう。
これはたいへん危険なことと考えてよい。

+++++++++++++++++

シャドウについて書いた原稿を
添付します。

+++++++++++++++++

【シャドウ論】

++++++++++++++++

仮面をかぶっても、仮面をぬぐことも
忘れないこと。

その仮面をぬぎ忘れると、たいへんな
ことになりますよ!

++++++++++++++++

●自分の中の、もう1人の自分

 もともと邪悪な人がいる。そういう人が仮面をかぶって、善人ぶって生きていたとする。
するとやがて、その人は、仮面をかぶっていることすら、忘れてしまうことがある。自分
で、自分は善人だと思いこんでしまう。

 このタイプの人は、どこか言動が不自然。そのため簡単に見分けることができる。さも
私は善人……というように、相手に同情して見せたり、妙に不自然な言い方をする。全体
に演技ぽい。ウソっぽい。大げさ。

 こういう話は、以前にも書いた。

 そこでこのタイプの人は、長い時間をかけて、自分の中に、もう1人の自分をつくる。
それがシャドウである。ユングが説いたシャドウとは、少し意味がちがうかもしれないが、
まあ、それに近い。

 このシャドウのこわいところは、シャドウそのものよりも、そのシャドウを、時に、身
近にいる人が、そっくりそのまま受けついでしまうこと。よくあるのは、子どもが、親の
醜いところをそっくりそのまま、受けついでしまうケース。

●仮面(ペルソナ)をかぶる女性

 ある母親は、近所の人たちの間では、親切でやさしい女性で通っていた。言い方も、お
だやかで、だれかに何かを頼まれると、それにていねいに応じていたりした。

 しかし素性は、それほど、よくなかった。嫉妬深く、計算高く、その心の奥底では、醜
い欲望が、いつもウズを巻いていた。そのため、他人の不幸話を聞くのが、何よりも、好
きだった。

 こうしてその女性には、その女性のシャドウができた。その女性は、自分の醜い部分を、
そのシャドウの中に、押しこめることによって、一応は、人前では、善人ぶることができ
た。

 が、問題は、やがて、その娘に現れた。……といっても、この話は、20年や30年単
位の話ではない。世代単位の話である。

 その母親は、10数年前に他界。その娘も、今年、70歳を超えた。

●子に世代連鎖するシャドウ

 その娘について、近所の人は、「あんな恐ろしい人はいない」と言う。一度その娘にねた
まれると、とことん、意地悪をされるという。人をだますのは、平気。親類の人たちのみ
ならず、自分の夫や、子どもまで、だますという。

 その娘について、その娘の弟(現在67歳)は、こう教えてくれた。

 「姉を見ていると、昔の母そっくりなので、驚きます」と。

 話を聞くと、こうだ。

 「私の母は、他人の前では、善人ぶっていましたが、母が善人でないことは、よく知っ
ていました。家へ帰ってくると、別人のように、大声をあげて、『あのヤロウ!』と、口汚
く、その人をののしっていたのを、よく見かけました。ほとんど、毎日が、そうではなか
ったかと思います。母には、そういう2面性がありました。私の姉は、その悪いほうの一
面を、そっくりそのまま受け継いでしまったのです」と。

 この弟氏の話してくれたことは、まさに、シャドウ論で説明がつく。つまり、これがシ
ャドウのもつ、本当のおそろしさである。

●こわい仮面

 そこで重要なことは、こうしたシャドウをつくらないこと。その前に、仮面をかぶらな
いこと。といっても、私たちは、いつも、その仮面をかぶって生きている。教師としての
仮面。店員としての仮面。営業マンとしての仮面。

 そういう仮面をかぶるならかぶるで、かぶっていることを忘れてはいけない。家に帰っ
て家族を前にしたら、そういう仮面は、はずす。はずして、もとの自分にもどる。

 仮面をとりはずすのを忘れると、自分がだれであるかがわからなくなってしまう。が、
それだけではない。こうしてできたシャドウは、そのままそっくり、あなたの子どもに受
けつがれてしまう。
(はやし浩司 仮面 ペルソナ シャドウ)

++++++++++++++++++

少し前に書いた、「シャドウ論」を、
もう一度、ここに添付しておきます。
内容を少し手なおしして、お届けします。

++++++++++++++++++

●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、
夫としての仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。商売では、いくら客に怒鳴
られても、にこやかな顔をして、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。
これを「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよ
い。ねたみ、うらみ、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、
ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事
件を起こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないこ
とがわかる。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

●凶悪事件の裏に

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンシ
ョンに住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育に
も熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに(仮面とシャドウの問題)が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言った
とする。「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰
よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思
って、そう言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウが
つきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断
している人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところ
がある。「あの人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですって
ねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。身分制度が、その
まま学歴制度になり、さらにそれが、出身高校へと結びついていった(?)。街道筋の宿場
町であったがために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。その人を判断す
る基準が、出身高校へと結びついていった(?)。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

●ドロドロとした人間関係

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きつい
でしまう。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れよ
うとしている」と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる
基盤となってしまう。

 よくシャドウ論で話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』で
ある。佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みご
とな演技をしている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさるこ
とながら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、
榎津鎮雄との、葛藤(かっとう)である。榎津厳自身が、「あいつ(妻)は、おやじにほれ
とるけん」と言う。そんなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た
人なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印
象を与える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握ら
せる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャン。それを仮面とするなら、息子の嫁と不
倫関係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、
そっくりそのまま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげ
る原動力になった。

●いつのありのままの自分で

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、そ
の仮面を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。見抜くだけ
ならまだしも、そのシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言え
る。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのま
まの自分を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、
まし。もっと言えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子
どもにとっては、好ましいということになる。

(はやし浩司 ペルソナ 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て は
やし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 結晶 はやし浩司 復讐するは我にあり シャド
ウ論 参考文献 河出書房新社「精神分析がわかる本」)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●最後に・・・

 民主主義が、もっともすぐれた政治制度であることは、疑いようがない。
ほかに代わる政治制度もない。
しかしその民主主義にも、欠陥がある。
欠陥だらけと言っても、過言ではない。

 大切なことは、その欠陥をていねいに、ひとつずつつぶしていくこと。
今回の小沢疑惑事件にしても、そうだ。
また欠陥を補うために、さらなる制度で保管していくこと。
たとえばそれを調べ上げる、検察側の公権力を強化する、など。
が、何よりも重要なのは、私たち自身が、賢くなること。

 「政治」といっても、民主主義が完成に近づけば近づくほど、結局はそれを支える「民」の集合
体でしかない。
愚劣な民からは、愚劣な民主主義しか、生まれない。
醜悪な民からは、醜悪な民主主義しか、生まれない。
シャドウはシャドウを生み、それがどんどんと引き継がれていく。
政治は、あくまでもその結果でしかない。

 小沢疑獄事件・・・この問題だけは、「私たちはバカだった」だけでは、ぜったいにすませては
ならない。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司※

●毅然とした授業

60歳を過ぎて、やっと、だ。
やっと毅然とした授業が
できるようになった。
年の功というのではない。
経験が豊かになったということでもない。

はっきり言えば、「どうでもよくなった」。
だから毅然とした授業ができるようになった。
それまでの私は、どこか、経営第一主義。
いつも親や生徒のご機嫌をうかがいながら、
授業をしていた。
それがどうしても、自分の教え方の中から抜けなかった。
親イコール、スポンサー。
生徒イコール、お客様。

しかし60歳を過ぎるころから、それが
どうでもよくなった。
「来たかったら、おいで」式の授業に変った。
「やめたければ、やめな」式の授業に変った。

親に媚(こび)を売ることも少なくなった。
なくなったわけではないが、少なくなった。
同時に親の視線を感ずることもなくなった。
「生徒がいなくなったら、おしまい」。
それでもよいと考えるようになった。

どうあがいたところで、こうした仕事ができるのも、
あと10年。
5年かもしれない。
だったら、もう他人に遠慮することはない。
私は私なりの教え方をすればよい。

もっとも仕事は仕事。
そこはギブ&テイクの世界。
生徒あっての教室。
普通人としての常識まで失ったわけではない。

が、同時に、こうも考えるようになった。
最近になって、学生時代の友人たちが、どんどんと
退職していく。
退職といっても、みな、本物の退職。
一度、リストラされたり、退職したあと、
第二、第三の就職先で働いていた。
そういう友人たちが、本当に退職していく。
つまりは、仕事から完全に離れていく。
年賀状にそう書いてきた人もいる。

そういう人たちが、それを喜んでいるのか、
それともさみしく思っているのか。
それは私にもわからない。
が、私のばあいは、年金といっても、国民年金だけ。
もらっても、月額、6万4000円前後。
しかも、もらえるとしても、まだ3年先。
隠居など、とても考えられない。

だからこう思う。
「1年でも長く働くことができたら、もうけもの」と。
つまり今年、満63歳になるから、私は、3年分、
もうけたことになる。
つまりそういう思いがあるから、「もう、いいや」
という気持ちも生まれてくる。
「仕事がなくなっても、いいや」
「3年、みなより長く働くことができただけでも
御の字」と。

が、だからといって、授業がいいかげんになった
というわけではない。
実際には、その逆。
1日、1日が、真剣勝負。
1日だって、いいかげんな授業はしたくない。
できない。
そのため、こうも考える。
「その価値がわからないような親の子どもは、教えない」と。
もっと言えば、「それでも生徒が去っていくというのなら、
それも結構」と。

こういうのを居直りというのか。

もちろんカラ元気ではいけない。
恐らく、家庭教育と呼ばれる世界で、私ほど
勉強した人間はいない。
経験も豊富。
少なくとも、「この人は、私よりすごい」と
思えるような人に、この10年以上、出会ったことがない。
が、これは私のうぬぼれか?

しかし何度心の中で反復しても、いつも結論は、同じ。
私は、うぬぼれてはいない。
だからこう思う。
「私の授業の価値がわからないような人は、いつでも
去ってもらって結構」と。

・・・ということで、この年齢になって、
はじめて毅然とした授業ができるようになった。
自分流の教え方を、押し通すことができるようになった。
やっとできるようになった。

で、今日も、こういうことがあった。

小学x年に、K君という男の子がいる。
最近、粗放な態度が目立ってきた。
反抗的というよりは、挑発的。
俗にいう、(ツッパリ症状)が出てきた。
すさんだ目つき。
ぞんざいな、ものの言い方・・・。

おとなを、なめきったような態度。
何かを指示しても、「ウッセーナー」
「ダマレヤー」と。
が、そのK君が、ルールを破った。
すかさず私は、3分の残り勉強を命じた。
「1回注意されたら、3分の残り勉強」と、
決めている。

が、みなが帰るとき、K君が、またまたルールを
破った。
私の指示を無視し、間を抜けて帰ろうとした。
私はK君をうしろから、抱きかかえるようにして、
つかまえた。
「君は、まだ帰れない」と。

するとK君は、またあの態度を、露骨に示した。
「帰らせろヤア、このバカヤロー」と。
私は、「60を3回、数えたら、放してやる」と、
それだけを繰り返した。
が、K君は、応じなかった。

ジリジリとした押し問答がつづいた。
「数えろ!」
「いやだ!」
「数えろ!」
「いやだ!」と。

と、そのときK君が、猛烈な勢いで、私の体を
蹴ってきた。
すかさず、私も、K君を抱いたまま、数倍の力で、
蹴り返した。
私という(おとな)の蹴りである。
衝撃は大きかった。
とたん、K君は、シュンとなった。
泣き声になった。
そして小さな声で、数を数え始めた。

このタイプの子どもには、一度は、おとなの
(こわさ)を示したほうがよい。
経営ということを考えるなら、そのまま
帰したほうがよい。
こういうトラブルがあると、子どもはたいてい、
塾をやめる。

もちろん体罰ということになるが、親が
それを騒ぐなら、さっさと私のところを
去ればよい。
それが塾である。
学校とは、ちがう。
学校は、去ることができない。

が、それ以上に、私は、そのときK君には、
体罰が必要と感じた。
そこは教師と生徒の関係ではない。
男と男、人間と人間の関係。
まともな指導をしていて、暴力を振るわれた、
必要なときは、やり返す。
だまって受け止めていたら、かえって
K君のためにならない。

つまりこうした指導ができるようになったのも、
「もう、いいや」という気持ちがあるからに
ほかならない。
「やめたければ、やめろ」と。

残された時間は、少ない。
だからもう妥協したくない。
私は私の教え方をする。
私は私の人生を生きる。
それで生徒がいなくなったら・・・。
そのときは、そのとき。
私も、本物の退職をする。


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●1月19日

+++++++++++++++++

今日は火曜日。
とくに意味があるわけではない。
予定もない。
しかし今日は、忙しかった。
いくつか、心にひかかる仕事が残っていた。
それを一気に、片づけた。

そのため朝、4時に起きた。
(朝の4時だぞ!)

で、それを終えたのが、8時ごろ。
そのころワイフが床から起きてきた。
書斎へお茶を届けてくれた。
おかげで仕事は、すべて片づいた。
すっきりした。

++++++++++++++++

●ある養子縁組の悲劇

 昨日、こんな相談があった。
少し話がわかりにくい。
こういうこと。

 Aさん夫妻には、子どもがいなかった。
その地域では、昔からの土地持ちで、かなりの資産家だった。
そこでAさん夫婦は、両もらいの形で、養子縁組をした。
その地域では、「一組(いっそ)養子」という。
(以下、「養子夫婦」と書く。)

 夫になった男性は、妻の遠い親戚にあたる人だった。
妻になった女性は、夫の遠い親戚にあたる人だった。
しばらくは、うまくいった。
が、2、3年もすると、たがいの間に不協和音が流れはじめ、10年もしないうちに、養子夫婦
は、家を出てしまった。
以来、10年以上、別居状態がつづいている。
行き来はない。

 で、最近(2年ほど前)、Aさんの妻がなくなってしまった。
Aさんも、体調を崩し、現在は、有料の老人ホームと自宅を、行ったり来たりしている。
本来なら、養子縁組で入った夫婦が、(子)として、Aさんの世話をしなければならない。
が、その夫婦は、知らぬ顔。
そこでAさんが、キレた。
「養子縁組を解消する!」と。

●孫まで・・・

Aさんには、2人の弟と妹がいた。
その2人が、Aさんを支持した。
支持したというより、「自分たちは、家を出るとき、遺産相続をしてもらっていない」「養子夫婦に
遺産を相続するな」と、騒ぎ出した。
その2人の弟と妹には、それぞれ、3人と1人の子どもがいた。
これらの孫まで、その騒動に参加してきた。
「おやじの取り分をよこせ」
「おふくろの取り分をよこせ」と。

 が、一度組んだ養子縁組は、簡単には、解消できない。
法律的にも、むずかしい。
また養子夫婦にしても、Aさんが死ねば、莫大な資産が、自分たちのものになる。
おいそれと養子縁組に解消に、応ずるわけにはいかない。
そこで相談があった。
「どうすればいいか?」と。

●修羅場

 そこはまさに泥沼の世界。
修羅場。
この種の話は、こじれると、とことんこじれる。
Aさんの弟や妹にしても、Aさんの味方というわけではない。
ここにも書いたように、「遺産分けしてもらっていないから、遺産分けしろ」と、Aさんに迫ってい
る。
Aさんとしてはそうしたいが、しかしその前に、養子縁組を解消しなければならない。
が、その気力もない。
元気もない。
このままでは、莫大な資産は、そのまま養子夫婦のものとなる。
少しずつ土地を売却して、弟と妹に贈与するという方法もあるが、弟や妹は、それでは満足し
ない。

 さあ、どうするか?

●バラバラ

 この種の家庭騒動は、多い。
多いというより、どこの家でも起こっている。
金額の大小は、ほとんど、関係ない。
億単位の財産を争っている家庭もあれば、わずか数百万円の財産で争っている家庭もある。
その結果、たいていのばあい、兄弟関係は、バラバラになる。
親戚がからんでくると、親戚関係も、バラバラになる。

・・・という話は、以前にも書いた。                                    
           

 そこでこう考える。
この種の問題は、「こじれたら、どうしよう」と考えるのではなく、「こじれるのが当たり前」という
前提で考える。
つまりあなたが親で、多少なりとも残せる財産があるなら、「こじれるのが当たり前」と考える。
またそのための準備だけは、しっかりとしておく。
たとえばほとんどのケースでは、名義書き換えが必要な、土地、建物、債権類などが原因で、
騒動が起こる。
こうした資産は、できるだけ現金化するか、あるいは、遺言書でしっかりとその処分の仕方を
決めておく。

 さらに一歩進んだ考え方をするなら、こうなる。

『兄弟は、他人の始まり』と。

 そういう前提で、兄弟のあり方を考える。


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●パソコンの自作

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前から一度は、してみたいと思っていた。
それがこのところ、グググーッと、胸の
中でふくらんできた。

「PCfan」(最新号)という雑誌を買って
きたのが、きっかけだった。

それがパソコンの自作。

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●守りから攻めに

 今まで、パソコンと言えば、(守りの一手)。
新しいのを買うとしても、完成品を選んで買っていた。
ときどき、ハードディスクを取り換えたり、CDトレイを丸ごと交換したりはしてきた。
メモリーを増設したり、USB端子を増設したこともある。
しかしその程度。

 言うなれば、与えられた餌だけを食べている、飼い犬のようなもの。

●TK−BS時代

 私がはじめてパソコンに出会ったのは、今からもう35年以上も前になる。
TOSHIBA製だったと思うが、「TK−BS」という、パソコンというよりは、モニターもない、ただ
の数字を示す機械が発売になった。
命令を8進数か何かで打ち込むと、何らかの答を出してくれた。
当時は、「マシン語」という言語を使って、プログラムを組んだ。

 今から思うと、本当にチャチな機械だった。

 で、そのあとすぐ、PETとか、APPLEとかいう、モニター付きのパソコンが売りに出された。
ともに35万円前後もした。
 私は、PET2000という機種を、買った。

●機械の臭い

 今でもそうだが、パソコンという機械は、最初電源を入れると、プーンと、独特の臭いが返っ
てくる。
電線が軽く焦げるような臭いである。
あの臭いをかぐと、条件反射的に、グググーッとくる。
脳の線条体に、そうした受容体ができているらしい。
つまり、あの臭いが、たまらない。
好き!

 同時に、マザーボードの基盤。
何がなんだか、さっぱり訳が分からないが、あれを見ていても、それを感ずる。
ぞくぞくとする。
TK−BS時代の名残りである。
TK−BSという機械は、基盤がそのまま外に、むき出しのままだった。

 ・・・というわけで、雑誌を読んでいたら、無性にパソコンを自作してみたくなった。
ひとつずつ、納得のいくパーツを集めて、それを組み立てる。

●能動的に・・・

 今までパソコンが不調になるたびに、あたふたするだけ。
で、メーカーに電話をかけたりして、解決していた。
あの屈辱感というか、敗北感は、それを感ずる人にだけにしかわからないだろう。
が、考えてみれば、それも私の姿勢に原因があった。
冒頭に書いたように、(守りの一手)。
つまり依存性がついてしまった。

 が、自作すれば、その依存性を自分から抜くことができる。
わかりやすく言えば、パソコンを自分の奴隷のように、支配することができる。
この先、新しいOSが発売になっても、そのつどマザーボードを取り換えたりして、それに対処
することができる。
省資源にもなる。

 そう言えば、あのモニター一体型のパソコンだけは、買わないほうがよい。
パソコンを捨てるとき、同時にモニターも捨てることになる。
もったいない!
同じように、パソコンを自作できるほどの力が身につけば、新製品が出ても、パーツを取り換え
る程度のことで対処できる。

 ・・・とまあ、勝手なことを考えている。
プラス、ボケ防止には、よい。

 そう言えば、昨日こんなことがあった。

●A3コピー

 我が家にもコピー機はあるが、B4まで。
A3コピ−となると、近くのコンビニまで行かねばならない。
そこでのこと。

 前の男性が、コピー機を前に、おろおろしていた。
年齢は私と同じくらい。
どうやら操作方法がわからないといった様子だった。

 で、私は声をかけてくれたら助けてやろうと、一歩、前に出た。
が、それを多分、その男性は誤解したらしい。
「早くやれ!」と、私が言っているように思ったらしい(?)。
照れくさそうに笑いながら、ぶつぶつ何かを言いながら、その場を去っていった。

 私の年代には、パソコン恐怖症の人は、多い。
スイッチ類が並んでいるのを見ただけで、逃げてしまう人もいる。
タッチパネルの操作すら、苦痛の人もいる。
実際には、キーボードを見ただけで、ぞっとするという人もいる。

 そういう人がどうこうというわけではないが、この私だって、1年もパソコンと遠ざかっていた
ら、そうなるかもしれない。
勘が鈍ってしまう。

 だからあえて挑戦してみたい。
パソコンの自作。
ヤルゾー!


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

【雑感・あれこれ】(1月21日)

●民主党、小沢一郎幹事長

 民主党の小沢幹事長が、東京地検の事情聴取に応ずると言いだした。
しかし・・・「遅すぎた!」。

 すでに小沢疑獄は、底なしの様相を示し始めている。
疑惑の裏金は、4億円どころか、10億円〜とも言われ始めている。
小沢一郎は、裏金と銀行融資を巧みに組み合わせて、そのつどマネーロンダリングしていた。
最終的には、自分名義の土地を購入することによって、私腹を肥やしていた。
そのあくどさ。
醜さ。
今さら「事情聴取に応ずる」と言っても、だれも相手にしない。
すでに民意は、地滑り的に、民主党から離れ始めている。
この先、小沢幹事長が逮捕、起訴されるということにでもなれば、その流れはさらに加速する。

 この虚脱感。
この敗北感。
そして怒り。

●イラン問題

 なりを潜めていたイスラエルが、動き出した。
裏舞台から、表舞台に出てきた。
イラン攻撃のための布石?
あるいはそのお膳立て?
どちらにせよ、イラン情勢が、急速に悪化している。
緊張感が高まっている。

 仮にイスラエルがイランを攻撃するようなことにでもなれば、一気に原油価格は高騰する。
が、それだけではすまない。
その波状的影響は、繰り返し、世界を襲う。
世界経済は、再び、奈落の底に。
おおかたの評論家は、リーマンショック程度ではすまないだろうと、予測している。

 ア〜ア!

●上海B株

 世界経済が上下運動を繰り返しながら低迷する中、上海B株だけは、不気味な上昇をつづ
けている。
明らかにバブル。
一般大衆を巻き込んでの、狂乱状態。
おそらく今ごろ中国人たちは、仕事そっちのけで、株価の動向に一喜一憂しているにちがいな
い。
その不気味さ。

 「何とかして、元だけは取り返したい」と思っているのだろう。
数字の動きだけを見ていても、それがよくわかる。
つまり先のリーマンショック、ドバイショックで損した分だけは、取り返したい、と。

 しかしそれは無理。
絶対に無理。
その1、2歩手前で、中国経済は、崩壊する。
(その日)は、刻々と近づきつつある。

 みなさん、ご用心!

●心中事件

 1月の中ごろ、近くの住宅で、一家心中事件があった。
3人が亡くなり、1人が意識不明の重体。
不幸な事件である。
が、新聞記事を読んでも、家族構成が、どうしても理解できない。
新聞には、こうある。

 死亡したのは、X氏(62歳)と、その妻(62歳)。
私と同年齢なので、たいへん気になった。
もう一人死亡したのが、「養女」(59歳)。
さらに1人、意識不明の重体なのが、「孫の長女」(中学3年生)。
新聞には、「4人家族」とあった。
(「」内は、新聞記事のまま。)

 で、それを発見したのが、「長男」(39歳)とか。
「様子がおかしい?」ということで、実家へ来てみたのだろう。
そこで一家が心中しているのを、発見したらしい。

 何があったのか?
それはだれにもわからない。
どんな事情があったのか?
それもだれにもわからない。

 ただこの家族構成だけをみても、何か、複雑な事情があったことだけは、わかる。
「家庭」というのは、そういうもの。
100の家庭があれば、100のちがった問題をかかえている。
1つとて、同じ家庭はない。
つまりこのことには、重要な教訓が隠されている。

 その家庭のことは、その家庭の人たちにしか、わからない。
あなたがいくら頭がよく、また今までの知識や経験を総動員しても、その家庭のことを理解する
のは、不可能。
それぞれの家庭がかかえる問題は、その向こうにある。
だからそっとしておいてやることこそ、肝要。
あれこれ口を出すのは、タブー中のタブー。

 もちろん向こう側から相談があったときは、別。
そのときは、親身になって相談に乗ってやればよい。

●久々にATOK

 以前、「ATOK」という日本語入力システムを利用していた。
で、今回、WINDOW7マシンにしてから、再度、ATOKを使ってみることにした。
先ほど、再インストールを終了したところ。

 そのつど辞書表示があるのが、助かる。
漢字を確定する前に、「Ctrl+end」キーを押すと、ズラリと、意味や説明が並んだりする。
よくできたソフトである。
この文章は、そのATOKを使って、書いている。

 で、またまた脳みその問題。

 私は1年ほど前、CASIOの電子辞書を買った。
今も、パソコンの左側に置いてある。
ときどきそれで漢字の使い方を調べたりしている。

 ところがである。
ATOKにも、辞書が入っている。
しかも使い勝手もよい。
楽。
ここにも書いたように、「Ctrl+end」キーだけで、用例などが、ズラリと並ぶ。
たとえば「欄」
「欄」と書いて、「Ctrl+end」キーを押すと、こうなる。

『らん【欄】
?名?
(1)新聞・雑誌などで、決まった記事を掲載するための区切られた部分。「投書ー・テレビー」
(2)印刷物などで、罫けいなどで区切られた部分。「解答ー」
(造)てすり。「ー干」「勾ーこうらん」 
明鏡国語辞典』と。

 こうしてそのままコピーすることもできる。
ATOKをもっていても、それを使わず、わざわざ電子辞書を購入する。
この愚かさ・・・。
つまり脳みそがそれだけ柔軟性を失ったことを意味する。
ATOKを再インストールして、そんなことを考えた。

 さあ、今日も始まった。
1月21日。


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●自分への怒り

++++++++++++++++++

少し前だが、学生時代の友人が、がんで
他界した。
その少し前のこと。
そのときすでに末期だったということになる。
街で偶然出会い、話しかけてみたが、会話が
まったくかみ合わなかった。
よそよそしいというか、上の空というか・・・。
「いっしょに店でも、回ってみるか?」と声も
かけた。
が、どこか迷惑そうな顔をしてみせた。

その様子からそのとき私は、「何かぼくは失礼な
ことでもしたのだろうか」と、何度も自問してみた。
が、思い当たることはなかった。

+++++++++++++++++

●自分への怒り

 何かの本で読んだことがある。
人は、自分の内部で勝手に増殖するがんのような病気にかかると、自分を怒る、と。
もちろん他人を責めても意味はない。
そこでその(怒り)は、自分自身へと向かう。

 が、そのときどういう心境になるかは、やはり、その人と同じ状況に立たされてみないとわか
らない。
「やりきれないだろうな」というところまでなら、私にもわかる。
他人に蹴られたとか、殴られたのではない。
自分で、自分の中に、がん細胞を作る・・・。

●あるドラ娘

 あるところに、どうしようもないドラ娘がいた。
自分勝手でわがまま。
家事はいっさい、手伝わない。
ときどきボーフレンドを家に連れてきて、母親に食事の用意までさせていた。
その母親も、同じようなことを言っていた。

 「娘に対する怒りというより、そういう娘にしてしまった自分への怒りを覚えました」と。

 さらに似たような話だが、ワイフの友人(女性、60歳くらい)が、ワイフにこう言ったという。
「ときどき息子が嫁さんを連れて、家に帰ってきますが、今どきの嫁さんは、家事をまったく手
伝ってくれません」と。
食事の世話から、寝支度の世話まで、すべてその友人がしているという。
「息子も、共働きなので、強くは言えないようです」と。
ワイフの友人も、自分に対する怒りを覚えていた。

●ニヒリズム

 他人を怒るのは、避けた方がよい。
避けられるものなら、避けた方がよい。
しかし自分に対して怒るのは、その人を強くする。
苦しい闘いだが、その(苦しさ)が、精神をたくましくする。


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●無私の愛(Unconditional Love)

++++++++++++++++

無私の愛。
損得の勘定を捨てきった愛。
英語では、「unconditional love(無条件の愛)」という。
しかし無私の愛などというものは、それを求めようとして、
求められるものではない。
無私の愛などいうものは、裏切られ、さらに裏切られ、
その上さらに裏切られ、「どうにでもなれ」という状況
になってはじめて、それがそこにあることを知る。
あるいは苦しみや悲しみの果てでもよい。
苦しんで、苦しんで、悲しんで、悲しんで、
その果てに、それがそこにあることを知る。

が、あくまでも結果。
その結果として、「無私の愛」を知る。
「知る」というよりは、そういう状況に追い込まれる。
否応なしに、追い込まれる。
追い込まれたあと、「無私の愛」がそこにあることを知る。
そこに、最後の救いを見出す。
しがみつく。

+++++++++++++++++

●本能的な愛

 「私は子どもを愛しています」などと、平気で言う人がいる。
結構なことである。
すばらしいことである。
しかしその実、「愛」が何であるか、そういう人たちは、まったくわかっていない。
「愛」という言葉に酔っているだけ(失礼!)。

 というのも本能的な部分で、親は子どもを愛する(?)ようにできている。
一方、子どもは、本能的な部分で、親に愛されるようにできている。
最近の研究によれば、そうした心のメカニズムを、「mutual attachment(相互アタッチメント)」
という言葉を使って、説明する。
たとえばあの赤ん坊が、オギャーオギャーと泣いたとする。
が、そうして泣くのも、計算づく。
母性愛や父性愛をくすぐるために、赤ん坊は、自分の脳にインプットされた、プログラムに従っ
て泣く。
つまり赤ん坊が、親を操る。
親の心を操る。
それが別の形で現れるのが、「赤ちゃん返り」ということになる。

 下の子どもが生まれたりして、愛情飢餓の状態になると、子どもはもう一度、赤ちゃんに戻
り、親の関心を自分に引き寄せようとする。
おもらしをしたり、ネチネチした言い方をするなど。
本能的な部分で起こる現象のため、子どもを叱ったり、説教したりしても意味はない。
また、それでどうこうなるような問題ではない。

 こうした愛(?)を、私は、「本能的な愛」と呼んでいる。
もちろん先に書いた、「無私の愛」とは、まったく異質のものである。

●絶望感

 時として親は、子育てをしながら、はげしい絶望感を覚える。
挫折感、失望感・・・、何でもよい。
が、そこは自分の子ども。
自分の子どもから、逃れるわけにはいかない。
いかにはげしく葛藤しても、最終的には、受け入れるしかない。

 というのも人間の心というのは、不安定な状態には、たいへんもろい。
それから生まれる緊張感には、相当なものがある。
長くは持ちこたえられない。
そのため、一気に、どちらかの側にころぼうとする。
(拒絶)か、さもなければ(受容)か、と。
夫婦のばあいは、(拒絶)=(離婚)という方法もあるが、相手が自分の子どもでは、そうはい
かない。
親は、とことん、袋小路に追い詰められる。

 もっとも(拒絶)が、まったくないかというと、そうでもない。
本気で子どもを見捨ててしまう親も、少なくない。
家庭騒動、経済問題、夫婦不和などが、原因となることもある。
が、ごくふつうの家庭でも、(見た目には、まったくふつうの家庭でも)、(拒絶)が起こることが
ある。

 援助交際を繰り返していた中学2年生の女子を、警察官が家の母親に電話をしたところ、そ
の母親は、こう言った。
「私には関係ないことですから、(娘を)勝手にしてください」と。
そして娘には、「2度と、家には帰ってこないでよ」(某テレビ局の突撃番組)と。
(中学2年生の娘に、だぞ!)
現実には、そういう家庭もある。

●受容

 が、一般的なケースでは、子どものできが悪ければ悪いほど、親は、自分を責める。
他人の子どもなら、「ハイ、さようなら!」と別れることもできる。
が、相手が自分の子どもでは、そうはいかない。
義務と責任、憎悪と愛情のはざまで、親は、もがく。
苦しむ。
が、それも頂点に達すると、親は究極の選択に迫られる。

「拒絶か、受容か」と。
その(受容)の先にあるのが、冒頭にあげた、「無私の愛」ということになる。
「もうどうにでもなれ!」と。

 しかしだからといって、子どもを捨てるわけではない。
あきらめるわけでもない。
子どもを自分の中に、完全に受け入れる。
それが「無私の愛」ということになる。 

 が、そこか実におおらかで、ゆったりとした世界。
何ものにも束縛されない、自由な世界。
しかしここで誤解してはいけないことがある。
だからといって、それで親子関係が正常になるとか、心豊かになるとか、そういうことではな
い。
親子関係は、そのまま。

もしあなたの子どもが、どうしようもないドラ息子や、ドラ娘であれば、そのまま。
無私の愛といっても、その中身は一方的なもの。
見返りさえ、ない。
つまりそのことまで、受け入れてしまう。
それが「無私の愛」ということになる。

●補足

 K国による拉致被害者にYTめぐみさんがいる。
その両親は、今の今も、めぐみさんの救済活動をつづけている。
その姿を、テレビなどでかいま見るたび、金xxへの怒りがこみあげてくる。
(拉致の首謀者は、まちがいなく、あの金xxだぞ!)
と、同時に、めぐみさんの両親には、神々しいほどまでの崇高さを感ずる。

それはもう「無私の愛」などという、生やさしいものではない。
私がここで説明した「無私の愛」などというものは、めぐみさんの両親には、ただの紙切れのよ
うなもの。
苦しんだり、悲しんだりするといっても、そこには限度というものがある。
めぐみさんの両親は、その限度を超えている。
K国に対する非難の攻撃を、けっしてゆるめてはいけない。
もうこれ以上、めぐみさんの両親を、苦しめてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 無私の愛 無条件の愛 親の愛)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

【親バカ論】

●就職率50%

 大不況。
目下、進行中。
大卒の就職率も、50〜60%とか。
事務所の隣人は、個人でリクルートの会社を経営している。
その隣人が、こう言った。
「実感としては、50%前後ではないですかね?」と。
つまり大卒のうち、2人に1人しか、就職できない。
きびしい!

 浜松市といえば、昔から工業都市として知られている。
HONDA、SUZUKI、YAMAHAなどの各社は、この浜松市で生まれた。
その浜松市でも、「50%」!

●親、貧乏盛り

 『子ども大学生、親、貧乏盛り』という。
私が考えた諺(ことわざ)である。
それについては、何度も書いてきた。

 で、子どもを大学へ送ることは、得か損かという計算をしてみる。
・・・といっても、学部によって、大きく、異なる。
医学部のばあい、勤務医になれば、勤務後2〜3年目には、年収は2000万円を超える。
開業医になれば、月収は500万円を超える。
(月収だぞ!)

 一方、文科系の学部のばあい、学費も安いが、その分、学歴も、ティシュペーパーのように軽
い。
英文学部にしても、高校の教科書より簡単なテキストで勉強しているところは、いくらでもある。
そんな学部を出ても、実際には、何ら、役に立たない。

 全体としてみると、それなりの資格のともなった学歴であれば、得。
資格をともなわない、ただの学歴であれば、損。
その結果、就職率50%ということになれば、何のための苦労だったのかということになる。

●3人に1人が、高齢者

 3人に1人が、高齢者。
そんな時代が、すぐそこまでやってきている。
現在、40歳以上の人は、老後になっても、満足な介護は受けられないと知るべし。
実際には、不可能。

 となると、自分の老後は、自分でみるしかない。
つまりそれだけの蓄(たくわ)えを用意するしかない。
で、たいていの人は、「自分の子どもがめんどうをみてくれる」と考えている。
が、今、あなたが高齢になった親のめんどうをみていないように、あなたの子どもも、またあな
たのめんどうをみない。
60%近い若者たちは、「経済的に余裕があれば・・・」という条件をつけている。
「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と。
(この数字とて、ほぼ10年前の数字。)
実際には、みな、目一杯の生活をしている。
経済的に余裕のある人など、いない。
若い世代では、さらにいない。

●親バカ

 こうして順に考えていくと、子どもに学費をかけることが、いかに無駄かがわかってくる。
あえて言うなら、子どもを遊ばせるために、その遊興費を提供するようなもの。
が、何よりも悲劇なのは、そのためにする親の苦労など、今時の大学生にじゃ通じない。
当たり前。
「電話をかけてくるのは、お金がほしいときだけ」というのは、親たちの共通した認識である。
むしろ逆に、(してくれないこと)を、怒る。
「みなは、毎月20万円、送金してもらっている」
「どうして結婚の支度金を出してくれないのか」と。

保護、依存の関係も行き過ぎると、そうなる。
保護される側(子ども)は、保護されて当然と考える。
一方、保護するほうは、一度、そういう関係ができてしまうと、簡単には、それを崩すわけには
いかない。
罪の意識(?)が先に立ってしまう。

 どこか一方的な、つまり否定的な意見に聞こえるかもしれないが、こうして世の親たちは、み
な、つぎつぎと親バカになっていく。

●老後の用意

 しかし私たちの老後は、さみしい。
蓄(たくわ)えも乏しい。
社会保障制度も、立派なのは、一部の施設だけ。
3人のうちの1人が老人という世界で、手厚い介護など、期待する方がおかしい。
となると、自分の息子や娘たちに、となる。
しかし肝心の息子や娘たちには、その意識はまるでない。

 ある友人は、こう言った。
「うちの息子夫婦なんか、結婚して3年目になるが、嫁さんなど、来ても、家事はいっさい手伝
わない。いつもお客様だよ」と。
別の友人もこう言った。
その友人の趣味は魚釣り。
そこで釣ってきた魚を、嫁に料理をさせようとしたら、こう言ったという。
「キモ〜イ、こんなこと、私にさせるのオ?」と。

 この話をワイフにすると、ワイフもこう言った。
「私の友だちのSさんなんかね、長男は、歩いて数分のところに住んでいるだけどね、毎週、実
家へ子どもたちを連れて夕食を食べに来るんだってエ」と。

 で、私が、「食費はだれが出すの?」と聞くと、「もちろん友だちのSさんよ。長男たちは、それ
で食費を浮かせようとしているのね」と。
さらに「料理は、だれがするの?」と聞くと、「Sさんよ。嫁さんは、デンと座っているだけだそう
よ。たまに食器は洗ってくれるそうよ。でもそれだけ」と。

 私が「ヘエ〜〜」と驚いていると、さらにワイフは、驚くべきことを口にした。
「それでいて、長男は、親のめんどうをみているのは自分と、思いこんでいるみたいね」と。

私「親のめんどう・・・?」
ワ「そうよ。弟夫婦たちが実家へ来ると、兄貴風を吹かして、弟夫婦に、『お前たちも、ときに
は、親のめんどうをみろ』って言ってるんだってエ」
私「あきれるね」
ワ「そうね。孫の顔を見せるだけでも、ありがたく思えというところかしら」と。

●何かおかしい?

 何か、おかしい。
何か、まちがっている。
しかし今は、そういう時代と思って、その上でものを考えるしかない。
子どもたちというより、その上の親たちが、そういう世代になっている。
その親たちに向かって、「子育てとは・・・」と説いても、意味はない。
言うなれば、ドラ息子、ドラ娘になりきった親たちに向かって、ドラ息子論、ドラ娘論を説くような
もの。
意味はない。

 言い換えると、私たち自身が、「甘えの構造」から脱却するしかない。
「子どもたちに依存したい」「依存できるかもしれない」「子どもたちが世話をしてくれるかもしれ
ない」と。
そういう(甘え)から、脱却するしかない。
さらに言えば、「私たちの老後には、息子や娘はいない」。
そういう前提で、自分たちの老後を考える。

●私のケース

 私の息子たちが特殊というわけではない。
見た目には、ごく平均的な息子たちである。
中身も、ごく平均的な息子たちである。
だからこう書くといって、息子たちを責めているわけではない。
しかしときどき会話をしながら、その中に、「老後の親たちのめんどうをみる」という発想が、ま
ったくないのには、驚く。
まったく、ない。
むしろ逆。
こう言う。

「相手の親(=嫁の親)は、〜〜してくれた」「どうしてパパ(=私)は、してくれないのか?」と。

 息子夫婦にしても、「家族」というのは、自分と自分たちの子どもを中心とした(親子関係)を
いう。
目が下ばかり向いている。
が、それはそれでしかたのないこと。
息子たちは息子たちで、自分たちの生活を支えるだけで、精一杯。
私たち夫婦だって、そうだった。
が、それでも、お・か・し・い。

●満62歳にして完成

 ・・・こうして親は、子離れを成しとげる。
(甘え)を、自分の心の中から、断ち切る。
そして一個の独立した人間として、自分の老後を考える。

 というのも、私たちの世代は、まさに「両取られの世代」。
親にむしり取られ、子どもたちにむしり取られる。
最近の若い人たちに、「ぼくたちは、収入の半分を実家に送っていた」と話しても、理解できな
いだろう。
それが当たり前だった時代に、私たちは、生まれ育った。

 が、今は、それが逆転した。
今では子どもの、その子ども(つまり孫)の養育費まで、親(つまり祖父母)が援助する。
それが親(つまり祖父母)ということになっている。

 が、そこまでしてはいけない。
このあたりでブレーキをかける。
かけなければ、この日本は、本当に狂ってしまう。
(すでに狂いぱなし、狂っているが・・・。)

 少し前も、私は「車がほしい」というから、息子に、現金を渡してしまった。
それで私たちは、H社のハイブリッドカーを買うつもりだった。
それについて、まずオーストラリアの友人が、「渡してはだめだ」と忠告してくれた。
義兄も、「ぜったいに、そんなことをしてはだめだ」と言った。
「息子のほうが、今までのお礼にと、新車を買ってくれるという話ならわかるが、逆だ」と。

 私も親バカだった。
息子たちに怒れるというよりは、自分に怒れた。
心底、自分に怒れた。
何日か眠れない日がつづいた。
が、それが終わると、私の心はさっぱりとしていた。
息子たちの姿が、心の中から消えていた。
はやし浩司、満62歳にして、子離れ完成、と。

 それをワイフに話すと、ワイフは、こう言って笑った。
「あなたも、やっと気がついたのね」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 子離れ 親離れ 依存性 甘えの構造 甘え 子どもへの依存性 老後 はやし
浩司 親バカ論)

●親バカにならないための10か条

(1)必要なことはしろ。しかしやり過ぎるな。
(2)求めてきたら、与えろ。先回りして与えるな。
(3)一度は、頭をさげさせろ。「お願いします」と言わせろ。
(4)子どもに期待するな。甘えるな。
(5)親は親で、自分の人生を生きろ。子どもに依存するな。
(6)社会人になったら、現金は、1円も渡すな。
(7)嫁や婿の機嫌を取るな。嫌われて当然と思え。
(8)自分の老後を冷静にみろ。無駄な出費をするな。
(9)遺産は残すな。自分たちで使ってしまえ。
(10)少なくとも子どもが高校生になるころには、子離れを完成させろ。


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司※

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタイト
ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" height="250" alt="●BL
OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>

●突発性難聴

++++++++++++++++++

朝、起きたら、音が聞こえない!
自分の声が、海の底でキンキンと響くだけ!

・・・ということで、私は正月早々、
突発性難聴という病気になってしまった。
幸い、処置が早かったので、現在は、80%
前後まで、聴力は回復している。
よかった!
が、この先、まだ2か月ほど、薬をのまなければならない。

++++++++++++++++++

●「波がある」

 ドクターは、「波がある」と言った。
つまり数日おきくらいに、聞こえるようになったり、聞こえなくなったする、と。
で、ドクターの言ったとおり、たしかに数日おきに、聞こえたり、聞こえなくなったりする。
薬のせいか、音が二重に聞こえるときもある。
反対に過敏になっているときは、ゴーゴーと、川の水が流れるような音がする。

 今朝は、調子が悪い。
(朝は、このところ毎日、そうだが・・・。)
感じとしては、70〜60%前後というところではないか?
朝、目を覚ますと、まず自分の声を出してみる。

「テスティング、ワン、ツー、スリー」と。

 低音部がよく聞こえれば、OK。
そうでなければ、よくない。

●『サロゲート』

 昨日は耳の調子がよかった。
うれしかった。
・・・ということで、仕事が終わってから、久しぶりにワイフと、深夜劇場に足を運んだ。
観たのは、ブルース・ウィリス主演の『サロゲート』。
星は3つの、★★★。

(ドクターは、「できるだけ安静にしていたほうがいい」と言ったが・・・。)

 先日、『アバター』を観たので、どうしても採点がきびしくなる。
内容的には、つまりロボットに自分を代行させるという発想は、よく似ている。
個人的には、『サロゲート』のような映画は好きだが、なんと言っても、『アバター』の与えたイン
パクトは大きかった。
それで、星は、3つ。

 今週から観たい映画がつぎつぎとやってくる。
忙しくなりそう。

 ・・・昨夜、家に帰ってきたのが、午前0時ごろ。
それで今朝は、耳の調子がよくないのかも?

●ストレス

 とにかくストレスはよくない。
今回の突発性難聴も、原因はストレス(?)。
いろいろあった。
たいへんだった。
そんなわけで、心はいつも明るく、朗らかに・・・。

 が、ときとして、それがむずかしくなる。
ストレスを抱え込んでしまう。
悶々と、気が晴れない日々を過ごす。
とたん、悪玉ホルモンがあれこれ悪さを始める。
体の抵抗力を落とす。
いろいろな病気になる。

●生徒たち

 この仕事をしていていちばんすばらしいのは、・・・というより、今回、改めてそれを実感した
が・・・、子どもたちからエネルギーをもらえること。
かなり落ちこんでいても、生徒たちに接したとたん、パッと気が晴れる。
どこかうつ病的な私には、たいへんありがたい。

 もしこういう仕事でなかったら、私は今ごろ、精神病院かどこかで、寝たきりになっているは
ず。
だから今では、こう思うようになった。
「生徒を教えているのではない。助けてもらっているのだ」と。

 そんなこともあって、最近では、生徒を私の孫のように思うようになった。
かわいいというより、いとおしい。
おもちゃをあれこれ買ってきて、教室に並べておく。
めざとい子どもをは、そのつどそれを見つけ、「ほしい」などと言う。

 が、1度や2度では、与えない。
3度、4度と、「ほしい」と言い、それが本気とわかったとき、そのおもちゃを、その子どもに与え
る。
子どもは宝物でも手にしたかのようにして、喜んで帰る。
それが私にとっても、うれしい。
楽しい。

 で、ワイフも同じような気持ちでいるのを知った。
このところ幼児教室のほうを、楽しそうに手伝ってくれる。

●同窓会

 近く金沢で大学の同窓会がある。
4年ぶり?
ワイフが行きたいと言うので、行くことにした。
が、まだ出席のはがきは出していない。
その前に、ホテルの予約をしなければならない。
どういうわけか、この時期、いつもホテルは、満杯。
学会や研究会がつづく。
どこか、ホテルの予約が取れたら、「出席」のはがきを投函するつもり。

●1月26日

 ・・・ということで、今日も始まった。
朝、起きるとすぐウォーキングマシーンの上で、運動。
このところ1回で20分間の運動を基準にしている。

 それがすむころ、体がジワーッと暖かくなる。
庭に朝日が差してくる。

 とくに今日の予定はなし。
いつものように、いつもの仕事をこなす。

 みなさん、おはようございます!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●アインシュタインの言葉

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

There are only two ways to live your life. One is as though nothing is a miracle. The 
other is as though everything is a miracle. 
(人生を生きるためには、たった二つの方法しかない。一つは、奇跡など、どこにもない
と思う生き方。もう一つは、すべては奇跡だと思う生き方。)


It was, of course, a lie what you read about my religious convictions, a lie which is being 
systematically repeated. I do not believe in a personal God and I have never denied this 
but have expressed it clearly. If something is in me which can be called religious then it 
is the unbounded admiration for the structure of the world so far as our science can 
reveal it. 
(私の宗教的な確信について、あなたが読んだことは、ウソである。つまり、意図的に繰
り返されてきたウソである。私は、個人的な神の存在を信じていないし、このことを否定
したことは一度もない。それについては、ここではっきりしておきたい。もし私の中に、
宗教的なものがあるとするなら、それは、科学が明らかにした部分について、世界の構造
について、無限の崇拝の念でしかない。


We should take care not to make the intellect our god. It has, of course, powerful 
muscles, but no personality. 
知性的な人を神にしないよう、注意しなければいけない。もちろん知性的な人には、
強い筋肉はあるが、人間性はない。

(以上、アルバート・アインシュタイン言語録より)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●奇跡

 生きていること自体が、奇跡。
そこに見えるのは、分子と光が織りなす、摩訶(まか)不思議な世界。
その世界で、音を聞き、光を見る。
肌で冬の冷気を感じ、餌をあさる小鳥のさえずりを聞く。

 60億年の瞬時の、そのまた瞬時の、この瞬間において、私は生きている。
あなたも生きている。
しかしつぎの瞬時には、私もあなたも、再び、永遠の虚の世界に戻る。
「無」ではない。
「虚」の世界である。

 人生が50年であろうが、100年であろうが、瞬時には変わりない。
その瞬時に、私たちは、今、この世界に生きている。
これを「奇跡」と言わずして、何という。

●宗教

 アインシュタインは、「a personal God(個人的な神)」を信じていなかった。
つまり、無神論者だった。
が、そのアインシュタインですら、こう言っている。
「・・・the unbounded admiration for the structure of the world so far as our science can 
reveal it.(科学が明らかにした範囲における、世界の構造について無限の崇拝の念)」につい
ては、宗教性を認める、と。

 わかりにくい言い方だが、こういうことではないだろうか。

 私も記憶にあるかぎり、生涯において2度、満点の星空を見上げて、涙をこぼしたことがあ
る。
1度は、オーストラリアで。
もう1度は、近くの山の中で。
あのとき天空の星々に感じた神々しさは、忘れない。
それを「宗教性」というのなら、「宗教性」と言ってもよい。
言い換えると、だれにでも、つまり「私は無神論者」とがんばっている人にも、宗教性はある。

 大宇宙への畏敬の念と言い換えてもよい。

●人間性

 「知的な人ほど、心が冷たい」。
それはもう常識と考えてよい。
言い換えると、心の温かさは、人間的な不完全さから生まれる。
渥美清が演じた、『フー天の寅さん』を、頭の中に思い描いてみれば、それがわかる。

 ドジで、間抜けで、アホ(失礼!)。
それを知り尽くした人のみが、人間が本来的にもつ不完全さを、包容することができる。
そうでなければ、そうでない。
反対に冷酷な数学者を思い浮かべてみれば、それがわかる。
(数学者がみな、冷酷というわけではない。誤解のないように。)

 ものごとを数字だけで考えるような人に、人間的な温もりは感じない。
だからアインシュタインは、こう言った。
「知的な人間を、神にしてはいけない」と。
つまり知的な人間になることだけを、人生の目標にしてはいけない、と。

 さらに言えば、損ばかりしている人ほど、幸いなるかな。
裏切られてばかりいる人ほど、幸いなるかな。
失敗ばかりしている人ほど、幸いなるかな。
そういう人ほど、知的な人たちより、人生の真理にはるかに近いということになる。

 人間がなぜ人間であるか。
それは、その人の心の温もりで決まる。
その(温もり)を、私たちは、「人間性」と呼ぶ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 奇跡論 宗教論 人間性 人間的な温もり アインシュタイン 奇跡 奇跡論 は
やし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●平成版、『忠臣蔵』

++++++++++++++++++

2010年という、この年。
未だに動物的隷属意識が、この日本に
残っていたとは、知らなかった。
称して、『平成版、忠臣蔵』。

あの小沢一郎は、中国人も笑うような
大名行列を演出して見せた。
300人もの国会議員と合わせて、総勢
600人!
連れていったアホもアホなら、ついて
いった国会議員も、アホ。
そのアホどもが、さらにアホの上塗り。

民主党の高嶋副幹事長は、「検察側が意図的に、
政権つぶしをしようとしている節がある」と、
かみついた(jiji.com)。

民主党は、検察側が事務ミスだけで、小沢一郎を
事情聴取したというふうに、世論を誘導しよう
としている。

バカめ!
そんなことで、東京地検が動くか!

検察側の目的は、ズバリ、贈収賄罪!
天下の大罪!
まず、3つの記事を並べて読んでみる。

++++++++++++++++++++

++++++++++以下、JIJI.COM+++++++++
 
(インタビューに答えて、高嶋副幹事長曰く、)『あくまで小沢事務所の問題だ。ただ、検察側が
意図的に政権をつぶそうとか、民主党に打撃を与えようとしている節がある。小沢さんが怒っ
ているのは「なぜ、党大会の前日に逮捕するのか」ということ。明らかに民主党に対する検察
の攻撃ではないか。こういう部分については党として反撃しなければならない。検察の捜査の
在り方に問題があれば当然、政党として言うべきだ』と。

++++++++++以上、JIJI.COM+++++++++

++++++++++以下、時事通信++++++++++

『・・・小沢一郎民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる事件で、中堅ゼ
ネコン「水谷建設」(三重県桑名市)の元経理担当者が、東京地検特捜部に対し、「小沢事務
所に持って行くため、5000万円ずつ2回、現金を用意した」と証言していることが27日、関係者
の話で分かった。

 水谷建設元幹部は1億円を小沢氏側に裏献金したと供述。特捜部は、陸山会が購入した土
地の代金に、水谷側からの裏金が含まれていたとみて捜査している。

 水谷元幹部は特捜部の事情聴取に対し、2004年と05年に、小沢氏側に各5000万円、計1億
円の裏献金を渡したと供述している。

 関係者によると、水谷建設の元経理担当者は、「元幹部から『小沢事務所に持って行く』と言
われ、04年10月と05年4月ごろに、それぞれ現金5000万円を用意して渡した」と証言したとい
う。

 04年に現金を受け取ったとされる衆院議員石川知裕容疑者(36)は、翌銀行営業日に同額
を陸山会の口座に入金。ほかにも数千万円の入金を繰り返し、これらの資金で土地を購入し
ていた』

『・・・小沢一郎民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」による土地購入をめぐる事件で、逮捕
された衆院議員石川知裕容疑者(36)が、同会や関連政治団体名義の複数の口座に入れて
あった計8億円を、土地購入の前日に一つの口座に集約させていたことが26日、関係者の話
で分かった。石川容疑者はこの中から土地購入代などを支払った。

 東京地検特捜部は、ゼネコンからの裏金と、政治団体にあった「表」の資金をいったん同じ
口座に入れることで、出どころを分からなくする「資金洗浄」の狙いがあった疑いがあるとみて
捜査。一連の経理操作への小沢氏の関与も調べている。

 石川容疑者は、陸山会が2004年10月に東京都世田谷区の土地を購入した際、同会の口座
に入金した4億円を、政治資金収支報告書に記載しなかった疑いが持たれている。特捜部は
この4億円には、水谷建設(三重県桑名市)の裏献金が含まれるとみている。

 関係者によると、石川容疑者は同月中旬以降、4億円を数千万円ずつ、陸山会の複数口座
に分けて入金。同28日に全額を一つの口座に集めた。

 石川容疑者は同日、この口座に、小沢氏関連の3団体の口座にあった計約1億8000万円も
移動。もともと口座にあった資金と合わせ、計8億円が1口座に集約された。

 翌29日午前、石川容疑者はこの8億円のうち約3億5000万円で土地を購入。午後に4億円で
定期預金を組み、これを担保に同額の融資を受けた。

 こうした経理操作により、個々の入金が何に使われたかは、口座記録上は判別できなくなっ
た』

++++++++++以上、時事通信++++++++++

●贈収賄

 金を送ったほうは、「送りました」と、すでに認めている。
それを「もらってない」とか、「知らない」とか、さらに「会ったこともない」と。
時事通信の記事を読めば読むほど、あきれる。

 小細工に小細工を重ね、実の巧妙に、資金隠しをした。
しかも汚い仕事の現場には、自分は顔を出さず、後々の保身のために、秘書を利用した。
で、最終的に、小沢一郎は、時価4億円という自分の個人名義の土地を、手に入れた!

 それを「検察側の政権つぶし」とは!?
この隷属意識。
畜生根性!
こんなレベルの政治家たちが、日本の政治を牛耳っている。
少しは自分の恥じたらよい。

 で、沢一郎の「続投」をいちばん喜んでいるのが、自民党。
そのため自民党は、音無(おとなし)の構え。
小沢一郎が続投すればするほど、民主党は、そのまま自滅。
自民党もそうだったが、民主党にも、これほどまでに自浄能力がなかったとは!

 それもこれも、結局は、日本人の政治意識の問題ということになる。
その政治意識は、江戸時代の封建意識のまま。
それを変えないかぎり、こうした茶番劇は、いつまでもつづく。

 
Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

【ゲーム脳】

++++++++++++++++++++

「ゲーム脳はあるのか、それともないのか?」

これについての記事を、「毎日JP」より、抜粋
してみる。

++++++++++++++++++++

●火付け役は、、森昭雄・日本大教授(脳神経科学)。
曰く、

 『・・・「15年間、ゲームを毎日7時間やってきた大学生は無表情で、約束が100%守れな
い」「ゲームは慣れてくると大脳の前頭前野をほとんど使わない。前頭前野が発達しないとすぐ
キレる」
 森教授は02年、「ゲーム脳」仮説を提唱した。テレビゲームをしている時には脳波の中のベ
ータ波が低下し、認知症に似た状態になると指摘。その状態が続くと前頭前野の機能が衰え
ると警告した。単純明快なストーリーはマスコミに乗って広がり、暴力的な描写に眉(まゆ)をひ
そめる教育関係者や、ゲームをやめさせたい親に支持された』(毎日JPより)と。

 これに対して、「森教授の意見には、学術的な裏付けがない」と批判する人も多い。

『・・・森教授は一般向けの本や講演を通して仮説を広めてきた。本来、仮説は他の科学者が
同じ条件で試すことで初めて科学的な検証を受けるが、その材料となる論文はいまだに発表さ
れていない。
 手法にも批判がある。森教授は自ら開発した簡易型脳波計による計測で仮説を組み立てた
が、複雑で繊細な脳機能をその手法でとらえるのは不可能、というのが専門家の共通した見
方だ』(毎日JPより)と。

●利潤追求の世界

 こうした批判を尻目に、ゲーム業界は、大盛況。
その先頭に立たされているのが(?)、東北大加齢医学研究所の川島隆太教授(脳機能イメー
ジング)。
ここで注意しなければならないのは、川島隆太教授自身は、「加齢医学」が専門。
その研究に基づいて、

『・・・認知症の高齢者16人に半年以上学習療法を受けてもらった結果、認知機能テストの成
績が上がったと報告。何もしなかった16人の成績が低下傾向だったことから「認知機能改善
に効果がある」と考察した』(2003年)(毎日JPより)と。

 これにゲーム業界が飛びついた(?)。

『・・・こうした成果を企業が応用したのが、脳を鍛えるという意味の「脳トレ」だ。06年の流行語
となり、川島教授の似顔絵が登場する任天堂のゲームソフト「脳を鍛える大人のDSトレーニン
グ」は、続編も含め1000万本以上を売り上げた』(毎日JPより)と。

 こうして今やこの日本は、上も下も、「脳トレ」ブーム。
「1000万本」という数字は、そのほんの一部でしかない。

 もちろん批判もある。

『・・・ ただ、脳トレの過熱を心配する声もある。日本神経科学学会会長の津本忠治・理化学
研究所脳科学総合研究センターユニットリーダーは、「川島氏の研究は科学的な手続きを踏
んでいるが、認知機能の改善が本当に学習療法だけによるかはさらなる研究が必要だ。『改
善した』という部分だけが拡大解釈され広がることで、計算さえやれば認知症にならないと思い
込む人が出てくるかもしれない」と話す』(毎日Jより)と。

●三つ巴の論争

 現在、「ゲーム脳支持派の森教授vsゲーム脳否定派の川島教授」という構図ができあがって
しまっている。
しかし実際には、この両教授が、ゲーム脳を間に、対立しているわけではない。

 森教授は、「ゲームばかりしていると、危ない」という警鐘を鳴らした。
一方川島教授は、ここにも書いたように、「老人の認知機能」が専門。
その立場で、「脳トレは(ボケ防止には)効果がある」と、自説を発表した。

 が、一方、教育の世界には、『疑わしきは罰する』という原則がある。
(私が考えた原則だが・・・。)
完全に安全が確認されるまで、あやしげなものは、子どもの世界からは遠ざけたほうがよい。
事実、私は1日に何時間もゲームばかりしている子どもを、よく知っている。
中には、真夜中に突然起きあがって、ゲームをしている子どももいる。
もともとおかしいから、そうするのか、あるいはゲームばかりしているから、おかしいのか?
それは私にもわからないが、このタイプの子どもは、どこか、おかしい。
そういう印象を与える子どもは、少なくない。

(1)突発的に感情的な行動を繰り返す。
(2)日中、空をぼんやりと見つめるような愚鈍性が現れる、など。

「ゲーム脳」があるかないかという論争はさておき、その(おかしさ)を見たら、だれだって、こう
思うにちがいない。

「ゲームは本当に安全なのか?」と。

 そうでなくても、「殺せ!」「つぶせ!」「やっつけろ!」と、心の中で叫びながらするゲームが、
子どもの心の発育に、よい影響を与えるはずがない。
ものごとは常識で考えたらよい。
(もちろんゲームといっても、内容によるが・・・。)

 仮に百歩譲っても、認知症患者に効果があるからといって、子どもや、若い人たちにも効果
があるとはかぎらない。

●脳トレへの疑問

 私も脳トレなるものを、さまざまな場面で経験している。
それなりに楽しんでいる。
しかし子どもの知能因子という分野で考えるなら、脳トレで扱っている部分は、きわめて狭い世
界での訓練にすぎない。

 たとえば教育の世界でいう「知的教育」というのは、広大な原野。
脳トレというのは、その広大な原野を見ないで、手元の草花の見分け方をしているようなもの。
あまりよいたとえではないかもしれないが、少なくとも、脳トレというのは、「だからそれがどうし
たの?」という部分につながっていかない。

 仮にある種の訓練を受けて、それまで使っていなかった脳が活性化されたとする。
それはそれで結構なことだが、「だからといって、それがどうしたの?」となる。
もう少し具体的に書いてみたい。

 たとえば脳トレで、つぎのような問題が出たとする。

+++++++++++++

【問】□には、ある共通の漢字が入る。それは何か。

 □草、□問

+++++++++++++

 答は※だが、こうした訓練を重ねたからといって、それがどうしたの?、となる。
というのも、私はこうして今、文章を書いているが、こうした訓練は、常に、しかも一文ごとにし
ている。
的確な言葉を使って、わかりやすくものを書く。
的確な言葉をさがすのは、ほんとうに難しい。
さらにそれを文章にし、文章どうしをつなげるのは、ほんとうに難しい。

つまりこうした脳トレを繰り返したところで、(よい文章)が書けるようになるとは、かぎらない。
・・・書けるようになるとも、思わない。

 それ以上に重要なことは、本を読むこと。
文章を自分で書くこと。

 つまり本を読んだり、文章を書くことが、先に書いた「広大な原野」ということになる。
(※の答は、「質」。)

●疑わしきは罰する

 子どもの世界では、疑わしきは罰する。
先手、先手で、そうする。
以前、ゲーム脳について書いた原稿をさがしてみた。
5年前(05年9月)に書いた原稿が見つかった。
それをそのま、手を加えないで、再掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【ゲーム脳】(05年9月の原稿より)

++++++++++++++++++++++

ゲームばかりしていると、脳ミソがおかしくなるぞ!

+++++++++++++++++++++++

最近、急に脚光を浴びてきた話題に、「ゲーム脳」がある。ゲームづけになった脳ミソを「ゲー
ム脳」いう。このタイプの脳ミソには、特異的な特徴がみられるという。しかし、「ゲーム脳」と
は、何か。NEWS WEB JAPANは、つぎのように報道している(05年8月11日)。

『脳の中で、約35%をしめる前頭葉の中に、前頭前野(人間の拳程の大きさで、記憶、感情、
集団でのコミュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分)
という、さまざまな命令を身体全体に出す司令塔がある。

この司令塔が、ゲームや携帯メール、過激な映画やビデオ、テレビなどに熱中しすぎると働か
なくなり、いわゆる「ゲーム脳」と呼ばれる状態になるという。それを科学的に証明したのが、東
北大のK教授と、日大大学院のM教授である』(以上、NEWS WEB JAPAN※)。

 つまりゲーム脳になると、管理能力全般にわたって、影響が出てくるというわけである。この
ゲーム脳については、すでに、さまざまな分野で話題になっているから、ここでは、省略する。
要するに、子どもは、ゲームづけにしてはいけないということ。

 が、私がここで書きたいのは、そのことではない。

 この日本では、(世界でもそうかもしれないが)、ゲームを批判したり、批評したりすると、もの
すごい抗議が殺到するということ。上記のK教授のもとにも、「多くのいやがらせが、殺到してい
る」(同)という。

 考えてみれば、これは、おかしなことではないか。たかがゲームではないか(失礼!)。どうし
てそのゲームのもつ問題性を指摘しただけで、抗議の嵐が、わき起こるのか?

 K教授らは、「ゲームばかりしていると、脳に悪い影響を与えますよ」と、むしろ親切心から、
そう警告している。それに対して、(いやがらせ)とは!

 実は、同じことを私も経験している。5、6年前に、私は「ポケモンカルト」(三一書房)という本
を書いた。そのときも、私のところのみならず、出版社にも、抗議の嵐が殺到した。名古屋市
にあるCラジオ局では、1週間にわたって、私の書いた本をネタに、賛否両論の討論会をつづ
けたという。が、私が驚いたのは、抗議そのものではない。そうした抗議をしてきた人のほとん
どが、子どもや親ではなく、20代前後の若者、それも男性たちであったということ。

 どうして、20代前後の若者たちが、子どものゲームを批評しただけで、抗議をしてくるのか?
 出版社の編集部に届いた抗議文の中には、日本を代表する、パソコン雑誌の編集部の男性
からのもあった。

 「子どもたちの夢を奪うのか!」
 「幼児教育をしながら、子どもの夢が理解できないのか!」
 「ゲームを楽しむのは、子どもの権利だ!」とか何とか。

 私の本の中の、ささいな誤字や脱字、どうでもよいような誤記を指摘してきたのも多かった。
「貴様は、こんな文字も書けないのに、偉そうなことを言うな」とか、「もっと、ポケモンを勉強し
てからものを書け」とか、など。

 (誤字、脱字については、いくら推敲しても、残るもの。100%、誤字、脱字のない本などな
い。その本の原稿も、一度、プロの推敲家の目を経ていたのだが……。)

 反論しようにも、どう反論したらよいかわからない。そんな低レベルの抗議である。で、そのと
きは、「そういうふうに考える人もいるんだなあ」という程度で、私はすませた。

 で、今回も、K教授らのもとに、「いやがらせが、殺到している」(同)という。

 これはいったい、どういう現象なのか? どう考えたらよいのか?

 一つ考えられることは、ゲームに夢中になっている、ゲーマーたちが、横のつながりをもちつ
つ、カルト化しているのではないかということ。ゲームを批判されるということは、ゲームに夢中
になっている自分たちが批判されるのと同じ……と、彼らは、とらえるらしい(?)。おかしな論
理だが、そう考えると、彼らの心理状態が理解できる。

 実は、カルト教団の信者たちも、同じような症状を示す。自分たちが属する教団が批判され
たりすると、あたかも自分という個人が批判されたかのように、それに猛烈に反発したりする。
教団イコール、自分という一体感が、きわめて強い。

 あのポケモン全盛期のときも、こんなことがあった。私が、子どもたちの前で、ふと一言、「ピ
カチューのどこがかわいいの?」ともらしたときのこと。子どもたちは、その一言で、ヒステリー
状態になってしまった。ギャーと、悲鳴とも怒号ともわからないような声をあげる子どもさえい
た。

 そういう意味でも、ゲーム脳となった脳ミソをもった人たちと、カルト教団の信者たちとの間に
は、共通点が多い。たとえばゲームにハマっている子どもを見ていると、どこか狂信的。現実と
空想の世界の区別すら、できなくなる子どもさえいる。たまごっちの中の生き物(?)が死んだ
だけで、ワーワーと大泣きした子ども(小1女児)もいた。

これから先、ゲーム脳の問題は、さらに大きく、マスコミなどでも、とりあげられるようになるだ
ろう。これからも注意深く、監視していきたい。

 ところで、今日の(韓国)の新聞によれば、テレビゲームを50時間もしていて、死んでしまっ
た若者がいるそうだ。たかがゲームと、軽くみることはできない。

注※……K教授は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)と、ファンクショナルMRI(機能的磁
気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置で、実際にゲームを使い、数十人を測定した。
そして、2001年に世界に先駆けて、「テレビゲームは前頭前野をまったく発達させることはな
く、長時間のテレビゲームをすることによって、脳に悪影響を及ぼす」という実験結果をイギリ
スで発表した。

この実験結果が発表された後に、ある海外のゲーム・ソフトウェア団体は「非常に狭い見識に
基づいたもの」というコメントを発表し、教授の元には多くの嫌がらせも殺到したという(NEWS
 WEB JAPANの記事より)。

(はやし浩司 ゲーム ゲームの功罪 ゲーム脳 ゲームの危険性)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ゲーム脳(2)

【M君、小3のケース】

 M君の姉(小5)が、ある日、こう言った。「うちの弟、夜中でも、起きて、ゲームをしている!」
と。

 M君の姉とM君(小3)は、同じ部屋で寝ている。二段ベッドになっていて、上が、姉。下が、
M君。そのM君が、「真夜中に、ガバッと起きて、ゲームを始める。そのまま朝まで、しているこ
ともある」(姉の言葉)と。

 M君には、特異な症状が見られた。

 祖父が、その少し前、なくなった。その通夜の席でのこと。M君は、たくさん集まった親類の人
たちの間で、ギャーギャーと笑い声で、はしゃいでいたという。「まるで、パーティでもしているか
のようだった」(姉の言葉)と。

 祖父は、人一倍、M君をかわいがっていた。その祖父がなくなったのだから、M君は、さみし
がっても、よいはず。しかし、「はしゃいでいた」と。

 私はその話を聞いて、M君はM君なりに、悲しさをごまかしていたのだろうと思った。しかし別
の事件が、そのすぐあとに起きた。

 M君が、近くの家の庭に勝手に入り込み、その家で飼っていた犬に、腕をかまれて、大けが
をしたというのだ。その家の人の話では、「庭には人が入れないように、柵がしてあったのです
が、M君は、その柵の下から、庭へもぐりこんだようです」とのこと。

 こうした一連の行為の原因が、すべてゲームにあるとは思わないが、しかしないとも、言い切
れない。こんなことがあった。

 M君の姉から、真夜中にゲームをしているという話を聞いた母親が、M君から、ゲームを取り
あげてしまった。その直後のこと。M君は狂ったように、家の中で暴れ、最後は、自分の頭をガ
ラス戸にぶつけ、そのガラス戸を割ってしまったという。

 もちろんM君も、額と頬を切り、病院で、10針前後も、縫ってもらうほどのけがをしたという。
そのあまりの異常さに気づいて、しばらくしてから、M君の母親が、私のところに相談にやって
きた。

 私は、日曜日にときどき、M君を教えるという形で、M君を観察させてもらうことにした。その
ときもまだ、腕や顔に、生々しい、傷のあとが、のこっていた。

 そのM君には、いくつかの特徴が見られた。

(1)まるで脳の中の情報が、乱舞しているかのように、話している話題が、めまぐるしく変化し
た。時計の話をしていたかと思うと、突然、カレンダーの話になるなど。

(2)感情の起伏がはげしく、突然、落ちこんだかと思うと、パッと元気になって、ギャーと騒ぐ。
イスをゴトゴト動かしたり、机を意味もなく、バタンとたたいて見せたりする。

(3)頭の回転ははやい。しばらくぼんやりとしていたかと思うと、あっという間に、計算問題(割
り算)をすませてしまう。そして「終わったから、帰る」などと言って、あと片づけを始める。

(4)もちろんゲームの話になると、目の色が変わる。彼がそのとき夢中になっていたのは、N
社のGボーイというゲームである。そのゲーム機器を手にしたとたん、顔つきが能面のように無
表情になる。ゲームをしている間は、目がトロンとし、死んだ、魚の目のようになる。

 M君の姉の話では、ひとたびゲームを始めると、そのままの状態で、2〜3時間はつづける
そうである。長いときは、5時間とか、6時間もしているという。(同じころ、12時間もゲームをし
ていたという中学生の話を聞いたことがある。)

 以前、「脳が乱舞する子ども」という原稿を書いた(中日新聞発表済み)。それをここに紹介す
る。もう4、5年前に書いた原稿だが、状況は改善されるどころか、悪化している。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、あ
あ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポ
ンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよ
う。動作も一貫性がない。騒々しい。

ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立! そしてそ
のままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も激しく変化する。目
が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学2、3年になると、症状が
急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。30年前には
このタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ10年、急速にふえた。小1児で、10人に2人
はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、一クラスに数人もい
ると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあ
ちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答え
た先生が、66%もいる(98年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。

「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、15%が、「1名
以上いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子ども
については、90%以上の先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(75%)、「友
だちをたたく」(66%)などの友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(66%)、「配布物を破った
り捨てたりする」(52%)などの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが
最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。

「新しい荒れ」とい言葉を使う人もいる。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、
キレ、攻撃行為に出るなど。多くの教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわ
からなくなった」とこぼす。

日教組が98年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を
感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」(1
4%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(10%)と続く。そしてその結果
として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、「かなり感ずる」「やや感ずる」という
先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲー
ムをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊
家庭は少なくなった。

むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味もなく突発
的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きてい
る。実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビ
やゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。

「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もし
ませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。
速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。
速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりや
すく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。その
証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くことができ
ない。

浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚が、お
しっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろいが、直感的
で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさど
るのは、左脳である(R・W・スペリー)。

テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことがない新し
い刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。その一つが、こ
こにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊を
あげる。

(付記)

●ふえる学級崩壊

 学級崩壊については減るどころか、近年、ふえる傾向にある。99年1月になされた日教組と
全日本教職員組合の教育研究全国大会では、学級崩壊の深刻な実情が数多く報告されてい
る。「変ぼうする子どもたちを前に、神経をすり減らす教師たちの生々しい告白は、北海道や
東北など各地から寄せられ、学級崩壊が大都市だけの問題ではないことが浮き彫りにされた」
(中日新聞)と。「もはや教師が一人で抱え込めないほどすそ野は広がっている」とも。

 北海道のある地方都市で、小学一年生70名について調査したところ、
 授業中おしゃべりをして教師の話が聞けない……19人
 教師の指示を行動に移せない       ……17人
 何も言わず教室の外に出て行く       ……9人、など(同大会)。

●心を病む教師たち

 こうした現状の中で、心を病む教師も少なくない。東京都の調べによると、東京都に在籍する
約6万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、93年度から4年間は毎年210人から2
20人程度で推移していたが、97年度は、261人。さらに98年度は355人にふえていること
がわかった(東京都教育委員会調べ・99年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、96年
度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。

この数字は全休職者の約五二%にあたる。(全国データでは、97年度は休職者が4171人
で、精神系疾患者は、1619人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、う
つ状態が約半数をしめていたという。原因としては、「同僚や生徒、その保護者などの対人関
係のストレスによるものが大きい」(東京都教育委員会)ということである。

●その対策

 現在全国の21自治体では、学級崩壊が問題化している小学1年クラスについて、クラスを1
クラス30人程度まで少人数化したり、担任以外にも補助教員を置くなどの対策をとっている
(共同通信社まとめ)。

また小学6年で、教科担任制を試行する自治体もある。具体的には、小学1、2年について、
新潟県と秋田県がいずれも1クラスを30人に、香川県では40人いるクラスを、2人担任制に
し、今後5年間でこの上限を36人まで引きさげる予定だという。

福島、群馬、静岡、島根の各県などでは、小1でクラスが30〜36人のばあいでも、もう1人教
員を配置している。さらに山口県は、「中学への円滑な接続を図る」として、一部の小学校で
は、6年に、国語、算数、理科、社会の四教科に、教科担任制を試験的に導入している。大分
県では、中学1年と3年の英語の授業を、1クラス20人程度で実施している(01年度調べ)。
(はやし浩司 キレる子供 子ども 新しい荒れ 学級崩壊 心を病む教師)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●失行

 近年、「失行」という言葉が、よく聞かれるようになった。96年に、ドイツのシュルツという医師
が使い始めた言葉だという。

 失行というのは、本人が、わかっているのに、できない状態をいう。たとえば風呂から出たと
き、パジャマに着がえなさいと、だれかが言ったとする。本人も、「風呂から出たら、パジャマに
着がえなければならない」と、理解している。しかし風呂から出ると、手当たり次第に、そこらに
ある衣服を身につけてしまう。

 原因は、脳のどこかに何らかのダメージがあるためとされる。

 それはさておき、人間が何かの行動をするとき、脳から、同時に別々の信号が発せられると
いう。行動命令と抑制命令である。

 たとえば腕を上下させるときも、腕を上下させろという命令と、その動きを抑制する命令の二
つが、同時に発せられる。

 だから人間は、(あらゆる動物も)、スムーズな行動(=運動行為)ができる。行動命令だけだ
と、まるでカミソリでスパスパとものを切るような動きになる。抑制命令が強すぎると、行動その
ものが、鈍くなり、動作も緩慢になる。

 精神状態も、同じように考えられないだろうか。

 たとえば何かのことで、カッと頭に血がのぼるようなときがある。激怒した状態を思い浮かべ
ればよい。

 そのとき、同時に、「怒るな」という命令も、働く。激怒するのを、精神の行動命令とするなら、
「怒るな」と命令するのは、精神の抑制命令ということになる。

 この「失行」についても、精神の行動命令と、抑制命令という考え方を当てはめると、それなり
に、よく理解できる。

 たとえば母親が、子どもに向かって、「テーブルの上のお菓子は、食べてはだめ」「それは、こ
れから来る、お客さんのためのもの」と話したとする。

 そのとき子どもは、「わかった」と言って、その場を去る。が、母親の姿が見えなくなったとた
ん、子どもは、テーブルのところへもどってきて、その菓子を食べてしまう。

 それを知って、母親は、子どもを、こう叱る。「どうして、食べたの! 食べてはだめと言った
でしょ!」と。

 このとき、子どもは、頭の中では「食べてはだめ」ということを理解していた。しかし精神の抑
制命令が弱く、精神の行動命令を、抑制することができなかった。だから子どもは、菓子を食
べてしまった。

 ……実は、こうした精神のコントロールをしているのが、前頭連合野と言われている。そして
この前頭連合野の働きが、何らかの損傷を受けると、その人は、自分で自分を管理できなくな
ってしまう。いわゆるここでいう「失行」という現象が、起きる。

 前述のWEB NEWSの記事によれば、「(前頭連合野は)記憶、感情、集団でのコミュニケ
ーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分」とある。

 どれ一つをとっても、良好な人間関係を維持するためには、不可欠な働きばかりである。一
説によれば、ゲーム脳の子どもの脳は、この前頭連合野が、「スカスカの状態」になっているそ
うである。

 言うまでもなく、脳には、そのときどきの発達の段階で、「適齢期」というものがある。その適
齢期に、それ相当の、それにふさわしい発達をしておかないと、あとで補充したり、修正したり
するということができなくなる。

 ここにあげた、感情のコントロール、集団におけるコミュニケーション、創造性な学習能力と
いったものも、ある時期、適切な指導があってはじめて、子どもは、身につけることができる。
その時期に、ゲーム脳に示されるように、脳の中でもある特異な部分だけが、異常に刺激され
ることによって、脳のほかの部分の発達が阻害されるであろうことは、門外漢の私にさえ、容
易に推察できる。

 それが「スカスカの脳」ということになる。

 これから先も、この「ゲーム脳」については、注目していきたい。

(補記)大脳生理学の研究に先行して、教育の世界では、現象として、子どもの問題を、先にと
らえることは、よくある。

 たとえば現在よく話題になる、AD・HD児についても、そういった症状をもつ子どもは、すでに
40〜50年前から、指摘されていた。私も、幼児に接するようになって36年になるが、36年前
の私でさえ、そういった症状をもった子どもを、ほかの子どもたちと区別することができた。

 当時は、もちろん、AD・HD児という言葉はなかった。診断基準もなかった。だから、「活発型
の遅進児」とか、「多動性のある子ども」とか、そう呼んでいた。「多動児」という言葉が、雑誌な
どに現れるようになったのは、私が30歳前後のことだから、今から、約30年前ということにな
る。

 ゲーム脳についても、最近は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)や、ファンクショナルM
RI(機能的磁気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置などの進歩により、脳の活動そ
のものを知ることによって、その正体が、明らかにされつつある。

 しかし現象としては、今に始まったことではない。私が書いた、「脳が乱舞する子ども」という
のは、そういう特異な現象をとりあげた記事である。

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Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●臨界期(0歳〜7か月ごろ)

++++++++++++++++++

生後直後から、約7月前後までの期間を、
「臨界期」という。

この臨界期には、特別の意味がある。

++++++++++++++++++

●特別な時期

 哺乳動物の神経細胞は、外界からの刺激で大きく、機能を変える。
最近このことが、最近あちこちでよく話題になる。
とたえば人間にも、鳥類に似た、「刷り込み(インプリンティング)」があることがわかっている。
そのためこの時期に、とくに母子関係において、濃密な人間関係ができる。
が、その一方で、一部の神経細胞への刺激を遮断したりすると、その神経細胞は機能しなくな
るとも言われている(注※)。
まさか人について、人体実験をするわけにはいかないので、あくまでも動物実験での話というこ
とだが・・・。

 たとえば生後直後のマウスの片目を、何らかの方法で塞(ふさ)いでしまったとする。
するとその目は、やがて見るという機能を失ってしまう。
そればりか、ある一定の時期を過ぎると、今度は、その塞いでいたものを取り除いても、目の
機能は回復しない。
視力は失ったままとなる。

 さらにこんな事実もある。
「野生児」と呼ばれる子どもたちが、今でも、ときどき発見される。
何らかの理由で、生後まもなくから人間のそばを離れ、野生の動物に育てられた子どもであ
る。
インドのオオカミ姉妹(少女)が有名である。

 オオカミ姉妹のばあいも、そのあと手厚い保護、教育を受けたのだが、人間らしい(心)を取
り戻すとはできなかったという。
つまり脳のその部分の機能が、停止してしまったということになる。
「停止した」というよりは、「退化してしまった」ということか。

 そういう意味で、「臨界期」には、特別な意味がある。
またそれだけにこの時期の子どもの教育には、重大な関心が払わなければならない。
近年話題になっている、乳幼児〜1歳前後までの早期教育の科学的根拠も、ここにある。

 ほかにも乳幼児には記憶がないというのは、とんでもない誤解。
この時期、子どもは周囲の情報を、まさに怒濤のごとく記憶として脳の中に刻み込んでいる(ワ
シントン大学・メルツォフ教授ら)。

 さらに最近の研究では、あの乳幼児のほうからも、親に働きかけをしていることまでわかって
きた。
つまり自らを(かわいく)見せ、親の関心を引こうとする。
乳幼児が見せる、あの「エンゼル・スマイル」も、そのひとつと言われている。
潜在意識、もしくは本能の奥深くでなされる行為のため、もちろん乳幼児がそれを意識的にし
ているわけではない。
一方、親は親で、そういう乳幼児の姿を見て、いたたまれない気持ちに襲われる。
「かわいい」という感情は、まさにそういう相互作用によって生まれるものである。
こうした相互の働きかけを「相互アタッチメント(mutual attachmennt)」という。

●さらに一歩進んで・・・

 臨界期の存在は、近年になってつぎつぎと発見されてきた。
今では、それを疑う人はいない。
常識と考えてよい。

 が、さらに研究は、一歩、進んだ。
「毎日・JP」は、つぎのように伝える。

『・・・生後直後の特別な時期「臨界期」の後でも、機能変化を起こすことを理化学研究所の津
本忠治チームリーダー(神経科学)らが発見した。脳の成長の仕組みを見直す成果で、人間の
早期教育論にも影響しそうだ。米科学誌「ジャーナル・オブ・ニューロサイエンス」で27日発表
した』(10年1月)と。

 もう少し詳しく読んでみよう。

『・・・ チームは臨界期中と臨界期後のマウスで目隠し実験をし、大脳皮質の視覚野で、もの
の細部を見る役目を担う「興奮性細胞」と、輪郭をとらえる「抑制性細胞」の活動を個別に計測
した。結果、臨界期中マウスは両細胞とも、ふさいだ目側の反応が落ちた。臨界期後のマウス
は興奮性細胞は変化しなかったが、抑制性細胞は臨界期中マウスと同様に反応が落ちた。抑
制性細胞は臨界期後も機能が変わる証拠という。

 津本チームリーダーは「大脳は臨界期後も一定の発達が可能ということを示せた。マウスの
視覚野での実験だが、人間を含む他の動物や脳のほかの機能でも同様の仕組みがあるので
はないか。臨界期を人間の早期教育の根拠とする意見もあるが、それを考え直す契機にもな
るだろう」としている』と。

 つまり臨界期に機能を失った脳の神経細胞でも、何らかの訓練をすれば(?)、機能を回復
することもあるという。
「海馬などの一部の神経細胞以外は、再生されることはない」という定説をひっくり返す研究と
して、注目される。

●補記

 ただし神経細胞の再生を、そのまま喜んではいけない。
それでよいというわけではない。
もし脳の神経細胞が、ほかの細胞と同じように、死滅→再生を繰り返していたら、人間は性
格、性質、人格など、こと「精神」に関する部分で、一貫性を失うことになる。
「10年前の私と、今の私は別人」ということになったら、社会生活そのものが混乱する。
従来の定説によれば、一度できた神経細胞は、死滅する一方で、再生しない。
だからこそ、私たちは、子ども時代の性格や性質、さらにはクセまで、おとなになってからも残
すことができる。
20年前、30年前の知人とでも、安心して会話を交わすことができる。

 この論文でいう「再生」というのは、あくまでもごく限られた範囲での、しかも何らかの治療を
目的とした「再生」と考えるべきである。

 さらに一歩進んでいえば、脳は硬い頭蓋骨に包まれている。
つまり脳ミソが入る容量には限界がある。
神経細胞だけを、どんどんとふやすということは、物理的にも不可能である。

(注※)
『思考など高度な機能を担う脳の「大脳新皮質」で、成体でも神経細胞が新たに作られること
を、藤田保健衛生大、京都大、東京農工大などの研究チームがラットで見つけた。成熟した個
体では脳の神経細胞が増えることはないと長い間信じられ、論争が続いていた。米科学誌「ネ
イチャー・ニューロサイエンス」(電子版)に27日、掲載された。

 近年、記憶に関連する海馬や嗅(きゅう)覚(かく)をつかさどる部位で神経細胞の新生が確
かめられたが、哺乳(ほにゅう)類などの高等動物ほど発達している大脳新皮質については明
確な報告がなかった。

 藤田保健衛生大の大平耕司助教(神経科学)らは、人間の30〜40歳にあたる生後6カ月
のラットの大脳新皮質で、一番外側の第1層に、分裂能力を示すたんぱく質が発現した細胞を
見つけた。頸(けい)動脈を圧迫して脳への血流を一時的に少なくしたところ、この細胞が約1・
5倍に増え、新しい細胞ができた。

 新しい細胞は、形状から神経細胞と確認。第1層から最深部の第6層まで7〜10日かけて
移動する様子が観察できた。このラットを新しい環境に置いて活動させたところ、新しい細胞が
活発に働いていることも確かめた。

 これらのことから、成体ラットの大脳新皮質には、やがて神経細胞になる「前駆細胞」が存在
し、神経細胞が危機にさらされると神経細胞が生み出されて働くと結論付けた。チームは、ヒト
でも同様の仕組みがあると推測している。

 神経細胞は興奮性と抑制性の両方がバランスよく働いているが、この新しい神経細胞は抑
制性だった。大平助教は「薬などで前駆細胞の働きを制御して抑制性の神経細胞を作り出す
ことで、興奮性の神経細胞が過剰に働くてんかんや、一部の統合失調症の新たな治療法が見
つかるかもしれない」と話す』(以上、毎日・JPより)と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 神経細胞 臨界期 はやし浩司 臨界期 乳幼児 乳幼児の記憶 刷り込み 神
経細胞の再生 臨界期の重要性 早期教育 科学的根拠)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●『アバター』と私

+++++++++++++++++

私が中学1年生のときに書いた作文を
紹介する。
今からちょうど50年前に書いた。

当時まだ、コンピューターというのは
なかった。
私がはじめてコンピューターなるものを
見たのは、大学2〜3年生のとき。
工学部の実験室にそれがあった。

当時のコンピューターは、コンピューターと
いっても、紙テープに、点字で使うような
穴を無数にあける程度のものだった。

もちろん今でいう、モニターなど、なかった。

そういう時代、つまり私が13歳のときに
書いた作文である。
どうか一読してほしい。

・・・というより、私は、こうした情報を
どこでどう手に入れたのか、よく覚えていない。
手塚治虫の『鉄腕アトム』というのは、
すでによく知っていたので、その影響を
受けたのかもしれない。

が、最近見た、映画『アバター』にも
負けないような内容(?)と思っている。

(これは私の自慢!)

++++++++++++++++++++

http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4313002066/sizes/l/

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

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bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.static.flickr.com/4014/4312266761_
92f1cb6e61_b.jpg" width="716" height="1024" alt="img003" /></a>

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【知性vs人間性】

●人間性の喪失

+++++++++++++++++

近くの郵便局で、元局長が、客や仲間から、
数億円を詐取するという事件が起きた。
「儲かるから、投資しないか」と、客たちに
呼びかけていたという。
あるいは客からの預かり金を、そのまま、
ネコババしていたという。

+++++++++++++++++

●他者との共鳴性

 人間性は、一言で表現すれば、「他者との共鳴性」で決まる。
共鳴性の深い人を、人間性の高い人という。
そうでない人を、そうでないという。
他者を平気で(?)だます人は、それだけ人間性が低いということになる。
ここにあげた事件では、元局長(当時は局長)が、客を、つぎつぎとだまして、金をネコババして
いた。

 罪の意識はあったのだろうか?
それともなかったのだろうか?
他人への迷惑を考えるなら、とてもできなかった犯罪である。
身近で起きた事件だけに、いろいろ考えさせられた。

●親をだます子どもたち

 親に学費を出させ、その学費で、遊びまくる。
勉強など、しない。
専門書も、買わない。
買うといえば、漫画やコミック本ばかり・・・。
親子の関係とはいえ、これは立派な犯罪である。

 今、そんな学生がふえている。
・・・というより、もとから学ぶ意識など、ない。
目的もない。
だから遊ぶ。
で、金がなくなると、「〜〜の資格を取るために、30万円、必要」とか
何とか言って、親に金をせびる。
あとはバイト、バイトの生活。

●知的な人間

 このタイプの学生にかぎって、外面(そとづら)だけはよい。
ボーイフレンドやガールフレンドに、献身的に仕えたりする。
服代や化粧代だけに、金をかける。
あるいは相手の両親には、献身的に仕えたりする。
実家では掃除の「ソ」の字もしたことのないような学生が、正月には、相手の家で、
大掃除を手伝ったりする。

 一事が万事。
万事が一事。

 はげしい受験競争をくぐり抜けた学生ほど、そうで、あのアインシュタインも、
こう書いている。
「知的な人間を、神にしてはいけない」と。

いろいろに解釈できるが、「知性」と「人間性」は、別物と考えてよい。

●予兆

 数億円・・・新聞の報道によれば、7億円〜とか!
どこかの投資会社にのめりこんで、それで金額がふえていったということらしい。
私はその記事を読んで、その犯罪性よりも、その男性の過去に興味をもった。
年齢は、40代半ば。

 「こんな男なら、親をだますのは、平気だろうな」と思った。
あるいは「親は、それに気づかなかったのだろうか」とも思った。
あるいはその逆でもよい。
バカな親がいて、息子をして、そういう息子にしてしまった。
が、こうした予兆は、早ければ子どもが小学生のときから、見られるようになる。

●小ズルさ

 「ズルイ」といっても、2種類ある。
子どもらしいズルさ。
表面的で、どこかイタズラぽい。
もうひとつは、その子どもの奥深くから発している、ズルさ。
「ズルい」というより、「狡猾(こうかつ)」。

 親のキャッシュカードから現金を引き出して、遊んでいた子ども(小学生)がいた。
あるいは親と教師を、その間に立って、自分の意のままに操る。

 親には、「あの先生は、依怙贔屓(えこひいき)する」と訴える。
一方、先生には、「ぼくのママが、先生のことを、教え方がヘタだと言っていた」と言う。
こうして親と先生の信頼関係をこわしながら、自分にとって居心地のよい世界を作る。

●親バカ

 結局、行き着くところは、「親バカ」論。
本来なら、こんな子どもには、1円も渡してはいけない。
必要なことはしても、それ以上のことをしてはいけない。
が、親にもメンツや世間体がある。
「何とか、学歴だけは・・・」という弱みもある。
そこで金を出す。
出しつづける。

 が、肝心の子どもは、感謝の「か」の字もしていない。
中には、「親がうるさいから、大学だけは出てやる」と豪語(?)する子どもいる。
大半の学生は、大学を出ると同時に、「ハイ、さようなら!」。

 内閣府の調査によっても、「将来、親のめんどうをみる」などと考えている若者は、
28%前後しかいない(後述、注※)。

 で、親は、あるとき、ハタと気がつく。
「私の子育ては、いったい、何だったのか」と。

●ツケ

 ずいぶんときびしいことを書いたが、結局は、そのツケは、子ども自身に回ってくる。
目一杯の派手な生活。
余裕のない生活。
その先で待っているのは、孤独。
「豊かな貧困感」。
見た目には豊かだが、心はいつも飢餓状態。
貧しい。
しかも、都会の一流大学を出た子どもほど、そうなるというのは、人生の皮肉としか
言いようがない。

すべてをあの受験競争のせいにするわけにはいかない。
が、受験競争が影響を与えていないとは、もっと言えない。
思春期前夜から思春期にかけて、成績という数字だけに振り回されるようになると、
子どもは、とたんに冷たくなる。
その(冷たさ)は、親にはわからない。
が、私には、わかる。

 私は、この40年間、幼稚園の年中児から高校3年生まで、子どもたちを教えてきた。
そういう(流れ)の中で、子どもたちの心が、あの受験期を境に、どんどんと
変わっていくのを知っている。
それを毎年のように、目の当たりに見ている。
わかりやすく言えば、過酷な競争は、その子どもから共鳴性を奪う。
人間性を殺す。
親は、「おかげで一流大学に合格できました」と喜んで見せるが、そのうしろで
吹きあげている秋の空風(からかぜ)には、気づいていない。

 40代で郵便局の局長をしていたということだから、きっと頭のよい男だった
のだろう。
そこそこの学歴もあったに、ちがいない。
しかし7億円とは・・・!

 「これでいいのか?」と、疑問をぶつけて、このエッセーを終える。
これでいいのか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 受験教育の弊害 人間性 共鳴性 スポイルされる子どもたち 親バカ論)

(参考)

(注※)日本と韓国の若者は、将来、親の面倒を見ようという意識が低い・・・。日韓、欧米の計
5カ国の若者を対象にした内閣府の調査で、こんな実態が浮き彫りとなった。
調査は日本、韓国、米国、英国、フランスで、18〜24歳の男女各1千人前後を対象に5年ご
とに面接方式で実施しており、今回(2009年)で8回目。

現在、母と暮らすのは韓国が77%(父とは74%)と最も多く、次いで日本が74%(同68%)
で、欧米3カ国の平均は48%(同37%)だった。

「親から経済的に早く独立すべきだ」という考え方について、「そう思う」が各国とも75%を超
え、日本は89%と最も高く、次いで韓国の84%だった。

一方、将来、年老いた親を「どんなことをしてでも養う」と答えたのは英66%、米64%、仏5
1%と欧米が高かったが、日本は28%、韓国も35%と低かった。逆に「将来、自分の子ども
に老後の面倒をみてもらいたいか」の問いでは、「そう思う」は欧米3カ国の平均67%に対し、
日韓は40%台だった。

日韓の若者の傾向について、内閣府の担当者は「親との同居世帯は多いが、将来への独立
志向が高く、親の面倒をみるという意識も低い。欧米に比べると親子関係はドライなのかもし
れない」と話している。(石塚広志氏HPより引用)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

【夫婦の問題】

+++++++++++++++++++++

100組の夫婦がいれば、100の異なった事情がある。
1組とて、同じ事情の夫婦はいない。
しかも複雑。
大小のちがいはあるだろうが、みな、それぞれの事情の中で、
何らかの問題をかかえている。
問題をかかえていない夫婦はない。
みな、懸命にふんばっている。
ぎりぎりのところで、ふんばっている。
東北地方に住んでいる、HY氏もその1人。
HY氏からのメールを、改めて、読みなおしてみる。
HY氏の問題というよりは、私自身の問題として、
読みなおしてみる。

++++++++++++++++++++++

【HY氏より、はやし浩司へ】

お忙しいところ申し訳ございません。
今家の中は妻と娘の問題で騒然、混沌としております。
どう解決していけばいいかわからない状態です。
先生のお知恵をいただき、何とか解決の糸口を見つる事ができればと思っています。
宜しくお願いします。

妻とは職場結婚し、23年になります。
私は外科医師で妻は元看護師です(結婚と同時に退職)。
結婚当初から気に入らないことがあると、1週間でも口を利かなくなり、私を無視するところが
ありました。
離婚を匂わせる発言も数回ありました。
私はどちらかと言うと家族の絆・連帯を重んじたいほうで、家内にはそれも重荷になっていたよ
うです。

1年3ヶ月前ちょっとしたことで家内が激高し、それ以来寝室は別々で、家庭内別居の状態が
続いています。
元々お互いにセックスレスだったこともあり、今は家内に触れただけで大声を上げて嫌がりま
す。

激高したちょっとしたことについて少し書きます。

・・・早めに病院に行かねばならず、家内が車庫から車を出した際、車庫前に駐車していた隣
人の車にぶつかった。
急いでいたしその車が誰のものかもわかっていたので、不覚にも私は家内に、「送っていって
から隣人に詫び言って弁償相談して」と言ってしまい、家内にそのようにしてもらった。
しかし家内が帰宅すると隣人の車は出発していたので、家内は隣人に詫びを言い、隣人の車
が帰ってきたのは夕方だったとのこと。

その後車庫内に置こうとした私の自転車が、代車がそこにあったことで、うまく駐輪できず、内
開きになっている駐車場のドアにかかってしまっていた。
家内が車庫に物を取りに行ったとき、自転車を倒し、自転車が代車にぶつかってしまい、代車
が傷つき、家内にそのことを強くとがめられた。

そのまま謝ればよかったのだが、私も眠くイライラして「僕も悪かったが車をとめる時、自転車
があるのだから、もうちょっと気をつけてくれてとめてくれても良いのではないか」と抗議してしま
った。
非常に雰囲気が悪くなったので、慌てて車を見に行き、かすり傷が、代車についているのを認
めた。
車庫内で家内は興奮し、近所に聞こえるような大声で泣きながら怒り始めたので、平謝りに謝
った。
翌日自動車会社から私に、「たいした傷ではないので大丈夫ですよ」と言ってもらった。
その日以来、寝室は別になった・・・

対外的に妻は非常に良い人で、幼稚園や小学校でお母さん連中に慕われています。
私の両親にも献身的で祖父母が存命だった時は病院への送り迎えや、母が仙台で手術を受
けたときなどは、家族のためにウィークリーマンションを借りたり、下準備を全て行ってくれた
り、至れり尽くせりで家族は感謝していました。

また私の父も1年6ヶ月前に亡くなり、秋田で暮らしていた母と、重い精神病の妹が2人残され
たので2ヶ月ほど前、仙台市内の我が家から500mはなれたところのマンションを借りるのに
も尽力してくれました。

でも私には家庭内別居になってから「おはよう」「おやすみ」「おかえり」などの基本的な挨拶も
全くありません。

12歳になる長女は3歳頃から「どうして、どうして」といいながら2〜3時間は泣くことがしばしば
ありました。
家が微妙な状態になった頃、突然受験すると言って中学受験を決意しました。
私が殆どマンツーマンで勉強を見ました(家庭教師もつきましたが)。
今は片道1時間半かかる仙台市内まで、バスと電車を乗り継いで通学しています。
しかし今だ1週間に1回くらいは「自分だけどうして、どうして」と2〜3時間大声で幼児返りのよ
うにして泣き続けます。

私立中学入学当初は「一番になる」と豪語していましたが、最近は反抗期も重なりイライラが強
く腰を据えて勉強できなくなってきています。
中間テストの2週間前は椅子に座ったと思ったら数秒で立ち上がることを繰り返し、下の子供
が寝ると歯磨きをし始める有様に成りました。
もちろん成績も200人中160位くらいでした。「こうやって自分は落ちこぼれていくんだ」と言い
聞かせているようにつぶやきます。

今は下の子と帰ってきてから2〜3時間遊んで(と言うより遊んでもらって)、下の子が寝る9時
頃から1時間かけて10分くらい宿題をして寝てしまいます。
制服も帰ってきてからどんなに注意しても、脱いだままにしています。
「勉強したほうがいいのでは」などというと「今しようと思っていたところなのに、いわれたからや
らない!」と拒絶します(言わなかったら殆どしません)。

下の子には思いっきり意地悪をすることが多く、家内は娘を怒ります。
娘はここぞとばかりに、「下の子ばかりかばってどうして自分だけ怒られなければならないの、
下の子の方が悪いのに」と言ってまた泣きます。
家内にダッコを求めますが、家内は仁王のように腕組みして立ちはだかり、私に対するのと同
じように、「触られたくない」と拒絶します。
弟との差を感じてますます娘は泣きます。

長男は今のところ明るい社交的な子に育っており、母の愛情も充分受けています。でも家庭内
のギクシャクのためか切れやすくなってきています。

私の対応としては、出来るだけ家庭内で明るく振舞い家内が嫌な (しつこくする)ことをできる
だけ避けるようにしています。でも家内は冷たい・・・

離婚相談のOK先生に円満になれるように相談し始めたところです(家内に内緒で)。
家内に第三者に入ってもらって相談することで建設的になれればと、いっしょに相談にのっても
らおうと話を持ちかけましたが、家内は、「それは修復したいと思っている人のすることで、私
はこの家にも子供にも未練がない。親権もくれてやる。
あなたにしても、子供にしても帰ってくるのが苦痛だ。私を早く一人にさせて。」と言います。
全てが本心でないのでしょうけど、私に対することは本心と思われます。
「子供には両親が必要だし下の子が20歳になるまでは我々の責任だ」と説得していますが、
最近は内心そこまで持たないのではと思います。

家内の精神面がかなり荒廃していると思われ精神科の先生にも相談し安定剤を処方したこと
がありますが、「私が神病だって言うのかい!」といわれ、1回内服してくれただけで拒絶されま
した。

それからは何か相談しても(娘のことに関しては会話がかろうじて出来ます)、「精神病の人に
聞かないで」と言われてしまいます。
出来るだけ家内を解放して、実家のK町に少しでも帰るように仕向けていますが、外へ向けて
の完ぺき主義の家内は、夏祭りの準備などで殆ど帰れないように雁字搦めになっています。
今まで家族のためにと思って頑張って働いていたのに、私も死にたい気持ちになったりしてい
ます。

ただこのまま私が死んでしまったら子供たちがかわいそうで、母と妹も引っ越してきて、どうしよ
うもないし、私が弱ったらだめと言い聞かせています。
わたしの精神もかなり磨り減っており、カーネギーの「道は開ける」や、心の学校のST先生
の、「捨てる生き方」など読み漁っています。

とに角怒らないようにし、子供を過保護にしているのかもしれないけど、抱きしめるようにしてい
ます。
ダブルベットで上の子と私は一緒に寝ています。下の子のベッドで家内は寝ていますが、私の
部屋が涼しいので、下の子もダブルベットに来るようになり、3人で川の字に寝ることが多くなり
ました。

このままでは子供の精神が壊れてしまうのではないかということと、家内も相当壊れてきている
のではないかと心配しています。

最近は(家内にだけ秘密)、両方の家族に実情を説明し、サポートを期待しています。

あと私に出来ることは何でしょうか?
このまま現状維持で子供は大丈夫でしょうか?
やはり子供が巣立ってから離婚になるのでしょうか、子供のために今離婚したほうが良いので
しょうか?
無理難題の質問してしまい申し訳ありません。
家内は非常に勘が鋭いので、何かありましたら私の携帯(090-xxxx-xxxx)にかけていただけ
ればと思います。
何卒ご回答宜しくお願いします。

【はやし浩司よりHYさんへ】

●離婚

 こうした問題は、なるようにしかならない。
また(そうなる)ときは、本当に、自然と、(そうなる)。
水が高いところから低いところを求めて流れていくように、(そうなる)。
たとえば離婚にしても、「離婚する」とか「しない」とか、がんばっているときは、離婚などしない。
言い争っている間は、離婚などしない。
「子どもはどうする」「親はどうする」などと騒いでいるときも、離婚などしない。
本当に夫婦が離婚するときは、ごく自然な(流れ)の中で、離婚していく。
そのときは、子どもの姿も、親の姿もない。
もちろん夫婦の間の会話も途絶え、「話し合っても、無駄」という状態になる。
たがいにサバサバした状態で、夫婦は離婚届に署名し、押印する。

●干渉

 で、改めてHYさんからのメールを読みなおしてみる。
1年前にいただいたときには感じなかった重みを、今は、感ずる。
しかしこれメールだけで、返事を書くことはできない。
夫婦にはその夫婦にしかわからない、深い事情がある。
いくら想像力を働かせても、そこにはかならず限界がある。
このことは反対の立場を経験してみると、よくわかる。

 私もいろいろな経験をした。
けっして平穏、無事な人生ではなかった。
そうした中で、あれこれと私に意見を言ってくる人がいた。
こちらの事情を表面的な部分だけを見て、そこに自分の解釈を加えてくる。
しかもわずか数歳年上というだけで、ものの言い方が説教ぽい。
偉そうな顔をして、「浩司クン、君はねエ・・・」と言ったりする。
あのとき感じた不快感は、今でも忘れない。
ガラス板を、つめ先でひっかくような不快感と言ってもよい。

 そういう私を知っているから、こうした問題、つまり夫婦の問題にかぎらず、
家庭内の問題については、私は、首をはさまないようにしている。
もちろん相手から相談があれば、話は別。
が、それでも一方的な話だけでは、
何とも答えようがない。

 このHYさんにしても、私はHYさんから相談を受けた。
おそらくHYさんは、自分につごうの悪い話は書いていない。
あるいは自分でも気がついていない問題が、ほかにもあるのかもしれない。
正当に判断しようと考えるなら、HYさんの妻の話も聞かなければならない。

 が、それはさておき、メールからもわかるように、HYさん夫婦は、現在、
危機的な状況にあることだけは、よくわかる。

(1)寝室は別々で、家庭内別居であること。
(2)妻の体に触れただけで、はげしく拒否されること。
(3)ささいな会話が、そのまま爆発的に、夫婦喧嘩になってしまうこと。
(4)意思の疎通も、ままならないといった状態、など。

●がんばる当事者たち

 私は若いころ、アメリカ人の離婚率は高いと、よく聞かされた。
しかし現在、アメリカ人の離婚率も、日本人の離婚率も、それほどちがわない。
それだけ生活が欧米化したともとれる。
が、ともに心のブレーキがはずれたことも、理由のひとつと考えてよい。

 日本では、女性の側が、がまんした。
「離婚は恥」という文化性も、まだ色濃く残っていた。
それに離婚したばあい、女性のほうが決定的に不利な立場に置かれた。

 一方、アメリカでは、宗教的な制約から、離婚したくても離婚できない夫婦が多くいた。
今もそうなのかもしれない。
もしその制約が緩めば、離婚率は、もっと高くなるかもしれない。
ともかくも、(離婚)イコール(悪)という考え方は、今では通用しない。
日本では、女性ががまんする時代は、終わった。
5組に1組は離婚する状態である。

●男親

 それはそれとして、私も「男親」の1人として一言。

 男親というのは、仕事をすることで、家族への義務を果たそうとする。
また仕事をしていれば、家族への義務を果たしていると思いやすい。
しかし残念ながら、(仕事)の力は弱い。
安定した仕事をしていればしているほど、家族は、それを(空気)のように思う。
つまり男親が自負しているほど、家族は、それを評価しない。
私も、よく言われた。
「パパは、仕事ばかりしている」と。

 そういう状態になると、男親の苦労話など、家族にとっては、愚痴になってしまう。
HYさんも「家族のために……、がんばって……」という言葉を使っている。
しかしそうした(思い)というのは、家族には通じない。

 もっと具体的には、現在、親に感謝しながら高校へ通っている高校生など、さがしても
いない。
大学生でも、少ない。
つまりそういう幻想をもたないこと。
またそういう幻想に、しがみつかないこと。
バートランド・ラッセルも言っているように、(親として、すべきこと)はする。
しかし常にその限度をわきまえる。

●拒否

 メールを読むかぎり、なぜHYさん夫婦が離婚しないかという問題より、なぜ
夫婦でいるかということのほうが、理解できない。
仲がよくても、セックスレスの夫婦はいくらでもいる。
一方、セックスをしているからといって、夫婦仲がよいということにもならない。

 が、「妻の体に触れただけで、はげしく拒否される」というのは、ふつうではない。
妻のほうに、何か、理由があるのだろうか?
夫のほうに、何か、原因があるのだろうか?
しかしもしそうだとするなら、HYさん夫婦は、他人以上の他人になっている。
私がHYさんだったら、1日だって、そういう状態には、耐えられないだろう。

●子どもの問題

 こうした離婚では、いつも子どもが問題になる。
しかし一度離婚を決意した夫婦は、子どもの姿さえ、見えなくなる。
子どものことはどうでもよくなるというのではない。
「離婚することが、子どものため」というような考え方になる。
言い換えると、HYさんは、まだその段階ではないということになる。

 だから以前、このメールをHYさんからもらったとき、私は返事に、こう書いた。

「離婚するときは、未練を残さないようにしたらいい」と。
未練を徹底的に、燃焼させる。
燃えカスが残らないほどまでに、燃焼させる。
未練が残った状態では、離婚はできない、と。
HYさんのばあい、その未練は、どの程度、残っているのだろう・・・?

●私たちのばあい

 実のところ、私たちも、2010年の1月、かなり危機的な状況に追い込まれた。
危機的といっても、たがいの間に、何か問題が起きたというわけではない。
が、三男が、私たちから完全に去ったのを知ったとき、たがいの間を結びつけていた、
(かすがい)が、消えたかのように感じた。

 「さみしい」と感ずる私。
「何でもない」と割り切るワイフ。
その間に、私は遠い(距離感)を覚えた。

 「あなたは親意識が強すぎるのよ」と、ワイフは、私を批判した。
「勝手にやりすぎただけよ」と、ワイフは、私を責めた。
それでワイフを、遠くに感じた。
それでいつものように、「お前なんかとは、離婚してやる」
「今度こそ、離婚しましょう」となった。

●下田にて

 で、今、私はこの原稿を、下田の白浜海岸そばにある、ガーデンビラ白浜という
ホテルで書いている。
星は4〜5つの★★★★。
夏場に訪れたら、最高!、というペンション風のホテルである。
金儲け主義のホテルとちがって、経営者の個性が随所でキラキラと光っている。

 そのホテルに、今、ワイフといっしょに泊まっている。
これから食事をしたあと、貸し切り風呂に入ることになっている。
風呂からは、太平洋が一望できるとか。

 おかしな夫婦で、一方で離婚を口にしながら、こうして旅行している。
「なぜついてきた?」とワイフに聞くと、「あなたの体が心配だからよ」と。
「どこでぶっ倒れようが、ぼくの勝手だ」と言うと、「迷惑するのは私よ」と。

 この正月、狭心痛(?)なるものを、数回経験した。
どういうのを狭心痛というのか知らないが、胸がしめつけられるように、痛かった。
以来、ときどきその痛みを感ずる。

 あるいは、ひょっとしたら、逆流性胃炎かもしれない。
2年ほど前、一度、それになったことがある。
そのときも、胸全体が焼けるように熱く感じた。

●1月30日

 で、今、そのワイフは、どこかよそよそしい。
どこか他人ぽい。
「簡単には仲直りしませんよ」という態度である。
そういう態度を見ていると、私のほうも、「そっちがそっちなら、今度こそ、
本気で離婚してやる」と考える。

 しかしこういう状態で、離婚するのもたいへん!

仕事の問題、財産の問題、それに老後の問題。
ワイフは「親戚がどう考えようと、私には関係ない」と言うが、そういった問題も
ある。
それを考えると、気が重くなる。

 まあ、しばらくは様子を見たほうがよいのかも・・・?
ワイフもそう言っている。
ふだんはやさしいワイフだが、喧嘩状態になると、貝殻を閉ざしたように、頑固に
なる。

●離婚

 ・・・ということで、どんな夫婦にも、問題はある。
問題のない夫婦はない。
それぞれがそれぞれの立場で、悩み、苦しみ、懸命にそれと闘っている。
HYさんにしても、そうだろう。
「今ごろは、どうしているだろう?」と考える。
が、私のできることは、ここまで。
私たち自身でさえ、四苦八苦している。
どうしてそんな私が、HYさんのような人の相談に乗ることができるだろうか。
おこがましいというよりは、その一歩手前で、おじけづいてしまう。

 ただ先にも書いたように、今どき、離婚を重大視するほうが、おかしい。
結婚があれば、離婚もある。
もともと(性的関係)で結びついた人間関係だから、壊れるときには、壊れる。
友情や親戚関係とは、中身がちがう。
深みも、ちがう。
だから「離婚は悪」という前提で、ものを考えてはいけない。
人生は短いが、やりなおしは、何度でもできる。

 子どもの問題にしても、離婚そのものは、子どもにはほとんど影響を与えない。
与えるとしたら、離婚に至る家庭騒動。
夫婦喧嘩。
それが長ければ長いほど、子どもに与える影響は、大きい。

 離婚するとしても、「明るく、さわやかに」(某テレビタレント談)ということになる。

●補記

 先ほど、ホテルの露天風呂に入ってきた。
ちょうど満月が、頭上高く昇り、太平洋を、美しく照らし出していた。
今までいろいろな露天風呂に入ってきたが、ここ、ガーデンビラ白浜のそれは、最高!
時間割で、家族風呂として使うことができる。
先ほど星は4つと書いたが、料金も勘案すると、5つの★★★★★。

 伊豆の下田のほうへ来ることがあったら、一度、このホテルを検討してみたらよい。
小さいがプールもある。
夏場には、どう開放されるかどうかは知らないが、眼下には、コバルトブルーの
入り江も見える。

 さて私のワイフ。
一方で離婚を口にしながら、私が「今度、金沢(石川県)へ行ったら、前泊まった
ホテルと同じところにしようか?」と言うと、「うん」と。

 おかしな夫婦である。
本当におかしな夫婦である。
私自身がそう思っているのだから、まちがいない。
こういう感じで、もう40年も、いっしょに、過ごしてきた。

(注)「ガーデンビラ白浜」・・・室内の案内書では、「ガーデンヴィラ白浜」と
なっている。
電話は、0558−22−8080。
住所は、〒415−0012 静岡県下田市白浜2644−1。

 建物はやや古いかなという感じだが、どこか明治時代の洋館を思わせるような
雰囲気。
アガサ・クリスティの推理小説に出てくるような宿屋(Inn)という感じ。
大ホテルにありがちな垢抜けたサービスも悪くないが、私は久しぶりにくつろいだ
ひと時を過ごすことができた。
とくに露天風呂は、最高!、の一言。
よかった!

 私は今、そのホテルの306号室で、このエッセーを書いている。

【ガーデンヴィラ白浜】

●もと物産マン

帰りの車の中で、ホテルのオーナーが、三井物産元社員だったということを知った。
「父は、商社マンでした」と、その女性は言った。
娘さんだった。
「バンクーバー勤務を最後に、商社を退職し、あそこにホテルを買い求めました。
8年前のことです」と。

 オーナーの男性が、昭和22年生まれということは知っていた。
チェックアウトするとき、立ち話だったが、そういう話になった。

私「商社って、どこですか?」
娘「三井物産です」
私「エッ、物産マン?」
娘「そうです」
私「私も、そうでした」

娘「あなたもですか?」
私「大学は……?」
娘「東大です」
私「東大の……?」
娘「理2、化学です」と。

 オーナーの名前は聞いていなかった。
それに理2といえば、恩師の田丸先生が当時、教授をしていた。
そこにいた人が、東大を卒業し、私と同じ年に三井物産に入社した。

私「先にそれを知っていたら、話がはずみました」
娘「そうですね」
私「残念です。とても残念です」
娘「父は、化学部で、化学プラントを担当していました」
私「はあ、私は繊維です」
娘「繊維ですか?」
私「そうです。でもサラリーマンがいやで、物産をやめました」と。

 私は早口でまくしたてた。
車はすでに下田の街の中を走っていた。
瞬間、Uターンして、もう一泊しようかと考えた。
しかしその思いは、車が止まったとき、消えた。

私「だったら、ずっと営業畑だったんですね?」
娘「そうです」
私「私も、入社直後に、営業へ回されました」
娘「そうですか……」と。

 三井物産という会社では、内部では、自分たちのことを「物産マン」と呼んでいた。
それに社員は、「管理」と「営業」に分かれていた。
商社マンの世界では、営業マンこそが、商社マンということなる。
その営業マンの中でも、海外へ出るのは、約30%。
物産マンの中でも、エリート。
70%は、国内営業ということになっていた。

 もっと話をしたかった。
私の過去の中でも、三井物産時代だけが、スッポリと抜けてしまっている。
つきあっている友人もいない。
それだけに残念だった。

私「海外勤務だったということは、正社員だったんですね」
娘「そうです」
私「あそこには、いろいろな社員がいましたから」と。

 あわただしい会話だった。
ふつう「物産マン」というときは、正社員をいう。
子会社から派遣されてきた嘱託社員は、「物産マン」とは呼ばない。
内部ではかなり差別的に扱われていた。

 そのホテルのオーナーは、サラリーマンがいやで、現在のホテルを買収して、
自分でそのホテルを経営するようになったという。
その気持ちは、よくわかる。
わかりすぎるほど、よくわかる。
だから、よけいに残念だった。

私「よろしくお伝えください。また行きます」
娘「おいでください」と。

 父親とともに、海外をあちこち回ったらしい。
日本人にはない、センスが光っていた。
私たちは何度も頭をさげて、その女性と別れた。

 書き忘れたが、下田へは、講演でやってきた。
講演の内容は、下田の有線放送で、流されるとか。

●HYさんへ

 HYさんからのメールについて書いているうちに、離婚から、下田の話に脱線して
しまった。
ついでにガーデンヴィラ白浜の話になってしまった。

 で、このエッセーの結論。
気が腐ったら、旅行をする。
すてきなホテルに泊まる。
温泉に入る。
とたん離婚旅行が、再婚旅行に変わる。

 よかった!
明日からまた仕事。
がんばるぞ!

 HYさん、ありがとう!
ガーデンヴィラ白浜のみなさん、ありがとう!
ついでに、我がワイフ、晃子、ありがとう!
これからもよろしく!

 本当によい旅だった。
そうそう最後になったが、講演の主催者の下田地区教職員組合のみなさん、ありがとう!
(2010−01−31)

(はやし浩司 離婚 再婚 ガーデンビラ白浜 白浜温泉 ガーデンヴィラ白浜 ガーデン ヴィ
ラ 白浜 ガーデン ビラ 白浜 リゾートホテル 白浜リゾートホテル)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司
 
●うつ

++++++++++++++++++

うつ状態というのは、それになった人でないと、
どういう症状なのか、わからない。
とくに心の健康な人には、わからない。
「気のせい」とか、「心の持ち方の問題」とか言って、
簡単に片づけてしまう。

そういう人に出会うと、うつ状態の人は、
絶望感すら覚える。
この病気だけは、理屈だけで割り切ることができない。
脳間伝達物質の偏(かたよ)りで発症するため、
本人自身の力では、コントロールできない。

たとえばよくある早朝覚醒。
これにしても、朝早く目が覚めてしまう。
目が覚めてしまうから、どうしようもない。
「もっと眠っていよう」と思えば思うほど、
頭が冴えてしまう。
たった今が、そうだ。

++++++++++++++++++++

●私のばあい

 うつ病にも、さまざまなタイプがある。
が、それについて書くのが、ここでの目的ではない。
また書いても、参考にならない。
それに私は、その病気の専門家ではない。

 が、私のばあいは、ひとつのことにこだわり始めると、どんどんとその深みにはまってしまう。
ふだんなら笑ってすませるような話でも、「ぜったいに許せない」とか、「あいつはまちがってい
る」とか、そういうふうになる。
神経は緊張状態にあるため、ささいなことで激怒したり、大声をあげたりする。

 で、精神安定剤が効果的かというと、そうとも言い切れない。
そのときはぼんやりとした睡魔に襲われるが、1、2日もすると、かえって神経がいらだってしま
う。
だからやや長期的な視点で考えると、こうした「精神薬」は、必要最小限にしたほうがよい。
とくに脳間伝達物質をいじるときは、そうしたほうがよい。

●タネ

 うつ病には、かならず原因となっている(タネ)がある。
そのタネを、まず取り除くこと。
そのタネさえ取り除けば、ときとして、パッと気が晴れる。

 で、私のばあい、精神的な負担感には、たいへん弱い。
心が過度に緊張するあまり、数時間もすると、ヘトヘトに疲れてしまう。
実際には、数時間はともかくも、1日もつづかない。
攻撃的に爆発するか、反対に、あきらめて、心の整理を先にしてしまう。
投げやりになることもある。
「負けるが勝ち」と逃げてしまうこともある。

 どうであるにせよ、うつ状態というのは、本人にとっても、いやな状態である。
悶々とすればするほど、心が蝕(むしば)まれていく。
いじけたり、くじけたり、ひがみやすくなったりする。

●買い物

 で、私のばあい、そういう状態になったら、こうする。
若いころから、何かほしいものがあったら、パッとそれを買う。
買ったとたん、胸がスカッとする。
(反対にほしいものを、長い間がまんしていると、悶々とした気分になる。
それがうつ状態を引き起こすこともある。)
これは脳の中の、どういう反応によるものか?

 多分、ドーパミンがドッと分泌され、それが物欲を満たす。
その満足感が、脳内を甘い陶酔感で満たす。
言うなれば、麻薬をのんだような状態になる(?)。

 これはあくまでも、私という素人の判断だが、たとえば買い物依存症なども、
似たような現象を引き起こす。
何かの依存症になる人には、うつ病の人が多い。
そのモノがほしいから買うのではなく、買うことにより、物欲を満たす。
喫煙者がタバコを吸ったり、アルコール依存症の人が酒を飲むようなもの。

●発散

 どうであるにせよ、加齢とともに、うつ状態は、ひどくなる。
「初老性のうつ病」という言葉もある。
若いときとちがって、気分の転換がむずかしくなる。
一度、落ち込むと、それが長くつづく。
それに最近気がついたが、いろいろな病気を併発する。

 頭痛、胃炎、それに心痛などなど。
体の弱い部分が、表に出てくる。

 で、私のばあい、そうなったら、子どもを相手に心を発散するようにしている。
ときどきレッスンで、メチャメチャ、羽目をはずすことがある。
(YOUTUBEで、紹介中!)
落ち込んでいるときほど、そうする。
子どもたちも喜んでくれるが、同時に、それは私自身のためでもある。
レッスンが終わったあと、気分が変わっているのが、自分でもよくわかる。

●仲良くする

 要するに、まじめな人ほど、この世の中では、うつ病になる。
そういう点では、この世の中は、うつ病のタネだらけ!
(たぶんに、弁解がましいが・・・。)

 しかし私の印象では、うつ病というのは、仲良くつきあう病気で、闘うべき病気
ではないということ。
もちろん症状がひどくなれば、それなりの対処もしなければならない。
しかし症状も軽く、ときどき、慢性的に起こる程度いうのであれば、仲良く、つきあう。
だれだって、落ち込んだり、反対にハイになったりすることはある。
そう考えて、ジタバタしないこと。
できるだけ薬物の世話になることは、避ける。
一度、世話になると、それこそ、薬なしでは生活できなくなる。

 私のばあいは、精神安定剤と熟睡剤、あとは市販のハーブ系の薬をうまく使って、
自分をコントロールしている。
漢方薬にも、よいのがある。
脳間伝達物質を調整するような薬は、よく効くのかもしれないが、そのあと起こる
フィードバックを考えると、こ・わ・い。

 「フィードバック」というのは、ある種のホルモンを、人工的に体内へ取り入れると、
そのホルモンを中和しようとして、相対立するホルモンが分泌されることをいう。
それが長くつづくと、本来そのホルモンを分泌している器官が、ホルモンの分泌を
やめてしまう。
副作用のほうが、大きい。
ステロイド剤も、そのひとつ。

●長い間、ありがとう(?)

 どうであるにせよ、老後は、みな、そのうつ病に直面することになる。
言うなれば天井の低い、袋小路に入るようなもの。
薄日は差すことはあっても、青い空など、もとから求めようもない。
友の死、知人の死がつづけば、なおさら。
大病になれば、さらになおさら。

 で、おかしなことだが、私はこの正月、狭心痛(?)なるものを、覚えた。
そのときのこと。
「心筋梗塞で死ねるなら、本望」と。
いわゆるポックリ死である。
ふだんの私なら、心気症ということもあって、何かの病気を宣告されたら、それだけで
ガタガタになってしまう。
が、こと心筋梗塞について言えば、こわくない。
私の父親も、その心筋梗塞で命を落としている。

 私は、やるべきことは、やった。
今さら、思い残すことは、ほとんどない。
これから先、10年長生きしたとしても、状況は同じだろう。
10年後に、今よりすばらしい文章が書けるという保証はない。
反対に脳みそは、不可逆的にボケていく。

 息子たちは、みな、去っていった。
去っていっただけではなく、心も離れてしまった。
ワイフとの関係にしても、今は、どこかギクシャクしている。
落ちつかない。
ただオーストラリアの友人のB君だけが、このところ毎日のように、「オーストラリア
へ来い」「いっしょに住もう」と、提案してくれている。
希望といえば、それだけ(?)。

 だから今は、こう思う。
「いつ、死んでも構わない」と。
一時の激痛ですむなら、それでよい。
それで死ねるなら、それでよい、と。

 ・・・しかしそう考えること自体、うつ病なのかも?
脳のCPU(中央演算装置)が狂ってくるから、自分ではその(狂い)はわからない。
「正常」と思いつつ、「異常」な考えをもつ。
「死んでもいい」というのは、どう考えても、異常である。
おかしい。
しかしこればかりは、どうしようもない。
心臓という、私の手の届かないところにある臓器の問題である。

 あとは運命に命を任すしかない。
もし私がポックリと死んだら・・・。
そのときは、そのとき。
電子マガジンも、そこでおしまい。
BLOGも、そこでおしまい。

 みなさん、長い間、購読、ありがとう!
(前もって、言っておきます。)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司※

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタイト
ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
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OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>

●同窓会

++++++++++++++++++

近く、金沢市で、大学の同窓会がある。
ホテルの予約が取れ次第、「出席」の
ハガキを出す。

ビジネスホテルなら、いつでも予約できる。
しかしわざわざ金沢まで行って、ビジネス
ホテルはない。
ワイフも同行する。

++++++++++++++++++

●恨み

 金沢にも、(恨み)はある。
あるが、ほとんどが、食べ物の(恨み)。
食べたくても、食べられなかったものが、たくさんある。
貧乏学生だった私は、いつもこう思った。
「いつか、金沢へ来たら、それを食べてやろう!」と。

 その第一が、カニ料理。
ゴリ料理。
それにフグ料理、などなど。

 今度金沢へ行ったら、フグ料理を食べてやる!
昔からこう言う。
「食べ物のうらみは、大きい」と。

●ひもじさ

 今の若い人たちは、(貧乏)というより、(ひもじい)という言葉を知らない。
人生の底辺を知らない。
そこに(豊かさ)があるのが、当たり前と思いこんでいる。
しかしこんな(豊かさ)など、薄い氷の上の楼閣。
私たちの世代は、それをよく知っている。
だから生き様そのものが、謙虚。

1万円あれば、そのうちの5000円は横にのけ、残った5000円で生活する。
が、今の若い人たちは、私たちの世代とは、生き様そのものが、ちがう。
目一杯の生活をしてしまう。
さらに借金までして、2万円とか3万円の生活をしてしまう。

●自業自得 

 「ぼくたちは子どものころ、腹一杯、ご飯を食べることもできなかった」と言う。
すると今の若い人たちは、「そんなのは、あんたたちの問題だろ。勝手に戦争を始めて、負け
たのだから、しかたないだろ」と。

 若い人たちは、「自業自得」という言葉をよく使う。
私も何度か、そういう会話の中で、言われた。
息子たちにも、言われた。
今、そこにある(豊かさ)を見ながら、あたかも自分たちが作ったものであるかのように錯覚し
ている。

 しかし(あるのが当たり前)という生き様と、(ないのが当たり前)という生き様は、基本的な部
分で、ちがう。
たとえば息子たちの学費にしても、私は惜しみなく提供してきた。
それだけ経済的に余裕があったからではない。
働いた。
懸命に働いた。
その中から、自分たちの(身)を削って、提供してきた。

 私の息子たちは、ごくふつうの子どもたちである。
そんな息子たちでさえ、そうした苦労に、感謝の念をもってるかと言えば、残念ながら、まったく
ない。
ついでに中学生や高校生にも、聞いてみた。
私の生徒たちである。
しかしみな、同じ。
最初から最後まで、「親が学費を出すのは、当たり前」と考えている。

 これも今の若い人たちに言わせれば、「自業自得」ということになるのか。

●2人ぼっち

 気がついてみたら、そこにいたのは、ワイフだけ。
ワイフにしても、そうで、ときどき、ふと、こう言う。
「2人ぼっちね」と。

 「お前は、さみしくないか?」と聞くと、ワイフはいつも決まってこう言う。
「私はこうなることは、ずっと昔からわかっていたから」と。

 そういう点では、私は親バカだった。
自分のしていることが、見えなかった。
視野が狭かった。

 ともかくも、ここで親バカ廃止宣言!
「これからの人生は、自分たちで楽しもう」と言うと、ワイフも、すんなりと同意してくれた。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●おかしな投票(日本相撲協会の理事選挙)

+++++++++++++++++

相撲協会が、理事選挙を行った。
その結果を、まずよく見てほしい。

■理事選の各候補得票数

武蔵川 ・・・11票
北の湖 ・・・10票
出羽海 ・・・10票
放駒  ・・・11票
ニ所ノ関・・・11票
大島  ・・・ 8票(落選)
友綱  ・・・10票
陸奥  ・・・10票(新任)
鏡山  ・・・10票(新任)
九重  ・・・10票
貴乃花 ・・・10票(新任)

投票は、111人の評議員
(親方107人、力士2人、立行司2人)によって、
無記名で行われた。

++++++++++++++++

●まちがいさがし

 「まちがいさがし」という遊びがある。
2枚の絵を見比べながら、まちがいをさがす。
で、そのまちがいさがしをするような気持ちで、この投票結果をよく見てほしい。
何か、おかしい?
どこか、おかしい?

 投票は、無記名でなされたはず。
「投票」ということは、「投票」。
選挙である。
しかしこんな選挙があるか?
土建業者の談合でも、ここまではしない。

●インチキ選挙

 落選した大島は、8票。
が、残る1人は、全員、11票か10票!
きれいに、11票か10票!

 今回の選挙で注目されたのは、貴乃花。
当初、貴乃花を支持を表明したのは、親方6人だけと言われていた。
が、フタをあけてみたら、10票!
この票の動きも、どこか不自然。
もっと言えば、うさんくさい。

 あらかじめ支持を集めながら(?)、理事候補者たちが立候補した。
それはわかる。
しかし結果は、先に書いたとおり。

●闇の奥の日本相撲協会

 日本の相撲協会ほど、闇に包まれた協会はない。
巨額のお金が、その闇の奥で、乱舞している(?)。
ときどきその一端がマスコミに流れ、世間を騒がす。
それはそれとして、こういう選挙結果を見ると、相撲協会とは、いったい何なのか?
さらに踏み込んで言えば、国技とは何なのか?
そこまで考えてしまう。

 そこでさっそく、小学生を中心に、50人ほどの子どもたちに聞いてみた。
「相撲を見ている人?」と。
答は、ゼロ!
「相撲が好きな人?」と。
答は、ゼロ!

 にもかかわらず、NHKだけは、BS放送で、午後1時半前後から夕方6時前後まで、いつも
実況中継している。
NHKと相撲協会は、会長職でつながっている。

 「国技」ということは、わかる。
が、もちろんスポーツではない。
何も、ここまで保護しつづけなければならない理由などない。

 日本相撲協会の理事選挙の結果を見ながら、いろいろと考えさせられた。
つぎの選挙は、(今回が4期8年ぶりだったということを考えるなら)、8年後ということになる。
そのときは、もう少し自然な(?)、投票結果になるかもしれない。
こんなインチキ臭い選挙は、見たことがない。
聞いたこともない。
私が書いていることがおかしいと思うなら、もう一度、あなた自身の目で、「まちがいさがし」をし
てみてほしい。
もう一度、選挙結果を、よく見てほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 相撲協会 日本相撲協会 理事選挙)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●子ども手当て(改)

++++++++++++++++

「子ども手当」が支給されるという。
当然のことである。
そんなことは世界の常識。
今さら、おおげさに騒ぐような手当てではない。

それに対して、鳩山首相は、「給食費
などの未納があるばあいには、相殺
できる仕組みを検討するという考えを
示した」(中日新聞・2010・1月31日)と。

ハア〜〜〜?
とんでもない!
とんでもない(考え)である!
どうとんでもないかは、
私のエッセーを読んでもらえれば、
わかるはず。

++++++++++++++++

●給食費の未納問題

 給食費の未納問題については、たびたび書いてきた。
給食費を払えない、あるいは払わない家庭がふえている。
しかしそれはそれ。

 こういうケースのばあい、(給食費を払えるが、払わない家庭)を前提に考えてはいけない。
(本当に給食費を払えない家庭)を前提に考える。
給食費を払えるのに、払わないというのは、たしかにずるい。
そういう家庭を前提に考えるなら、子ども手当で相殺させるという方法もある。
しかし本当に給食費を払えない家庭もある。
払いたくても、払えない家庭もある。
そういう家庭にまで、子ども手当で給食費を相殺させるというのは、明らかにまちがっている。
貧しい人たちを、さらに貧しくする。
本当に助けを必要としている人たちを、見捨ててしまう。

●相殺

 子ども手当というのは、子どもをもつ家庭を助けるためのもの。
そういう趣旨で与えられる。
欧米では常識化している。
が、その子ども手当で、給食費を相殺させるなどという話は、聞いたことがない。
ないというより、非常識。
どうして給食費なのか?

 子どもを育てるには、それなりのお金が必要。
衣食費はもちろん、そのほかもろもろの費用が必要。
何も給食費だけが、費用ではない。
もろもろの費用の、ほんの一部でしかない。
もしこんな論理がまかり通るなら、子ども手当は、ほかのあらゆるものと相殺されることにな
る。

 学校施設費と相殺する。
テキスト代と相殺する。
交通安全費と相殺する。
通学保険費と相殺する。
修学旅行費と相殺する、と。
「相殺」ということになれば、いくらでもそのワクを広めることができる。

●役人の人件費

 給食費を払えるのに、払わない家庭もある。
が、だからといって、払いたくても払えない家庭までいっしょくたにして、相殺するというのは、先
にも書いたように、まちがっている。
してはいけない。

 もしこんなことがさらに常識になってしまえば、今、給食費を払っている家庭まで、払わなくな
るかもしれない。
「子ども手当で相殺してください」と。

 そういうことにでもなれば、さらに事務手続きは煩雑になる。
その分だけ役人の仕事がふえる。
役人の数がふえる。
その分だけ、税金が無駄づかいになる。

 ドイツでは、一律、何の制約もなく、チャイルド・マネーを支給している。
最長、子どもが27歳前後になるまで支給している(「27歳」というのは、10ほど前の
データ)。
フランスでも、そうしている。
その方がわかりやすい。
事務も簡素化し、役人に与える人件費も安くつく。
で、子どもをもつ親が、そのお金をどう使おうが、それは親の勝手。
たかが1万3000円程度(初年度)の話ではないか。
そのお金で、「給食費と相殺する」だと?
バカげている!

●貧乏論
 
 貧乏人と金持ちのちがいは、ほんの紙一重。
貧乏な人は、働いても働いても、お金のほうから先に逃げていく。
一方、金持ちの人は、遊んでいても、向こうからお金が飛び込んでくる。
しかも桁(けた)がちがう。
2桁も3桁もちがう。

 で、金持ちの人たちは、「貧乏な人は、もっと働けばいい」と言うかもしれない。
しかしここにも書いたように、働いても働いても、どうにもならない。
すべてが空回りする。
空回りに振り回される。
一度、そういう状態になると、働く意欲さえ、消え失せる。
それが悪循環になって、貧乏な人は、ますます貧乏になっていく。
つまり貧乏というのは、その人の責任ではない。
「歯車」の問題。
今、この文章を読んでいるあなただって、いつなんどき、その歯車が狂うかもしれない。

 言うなれば、「給食費と相殺させる」というのは、貧乏が何であるかも知らない、どこかのドラ
息子の発想。
親から何十億円という小遣いをもらいながら、みじんも恥じない、どこかのドラ息子の発想。
悲しいかな、鳩山首相は、貧乏というものが、どういうものか、まったくわかっていない。

●役人根性

 日本ほど子どもに対する社会保障費の低い国はない。
「アメリカと同程度」と反論する人もいるかもしれないが、アメリカでは、その分だけ、奨学金制
度が発達している。
大学生にしても、親のスネをかじって大学へ通っている学生など、さがさなければならないほ
ど、少ない。
つまりこの日本では、それすらも、親の負担。
『子、大学生、親、貧乏盛り』(はやし浩司)という。

 むしろ逆で、子どもをもつ親を、国はもっと保護、助成、補助すべきではないのか。
たった1万3000円程度の子ども手当を、おおげさに「手当」と言って騒ぐ。
騒ぐだけならまだしも、そのお金で給食費を相殺させる。
こんな残酷な話が、どこにある?
(給食費を払えるのに払わない家庭があること)を理由に、(払いたくても払えない家庭)の人た
ちを、これ以上苦しめてはいけない。

 だいたいこうした発想そのものが、役人的。
一方で「払う」と言っておきながら、「取れるところからは、目一杯、取ってやろう」と。
だったら、せめて給食費くらい、全額無料にすればよい。
役人の数を、数パーセント減らせば、その人件費だけで、給食費は無料にできる。
(役人の人件費は、年間約38兆円。1%、役人を削減すれば、それだけで、3800億円、浮か
ぶ。)

私が小学生だったころには、学校の給食だけが、(栄養源)だった。
ごちそうだった。
あのころの日本がもっていた(温もり)は、どこへ消えたのか?

●弱者にやさしい社会

 その社会の完成度は、弱者にいかにやさしいかで決まる。
弱者にやさしい社会を、豊かな社会といい、「国」という。
GDPではない。
モノの豊かさではない。
心。
(やさしさ)だ。

 今度の鳩山首相の発言には、その(やさしさ)がない。
がっかりしたというよりは、「なるほどなあ」と、へんに感心してしまう。

 いいか、鳩山首相、子ども手当など、いじってはいけない。
いわんやそれで相殺などと、考えてはいけない。
「どうぞ、お父さん、お母さん、自由に使ってください」と言って、親に渡す。
「子育てはたいへんですね。お金もかかることでしょう」と言って、親に渡す。
それが子ども手当。

 その趣旨を踏みはずしてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 子ども手当 子供手当 手当て)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●2月1日

++++++++++++++++++++++

今日から2月。
とくに変ったことはない。
ないが、寒い。
また肌寒い冬に逆戻りしたよう。
霧のような小雨が、音もなく降りつづいている。

で、昨夜、『ラブリー・ボーン』という映画を、劇場で観てきた。
星は2つか3つの、★★。
残虐な殺人事件と、天国の美しさを対比させた映画だった。
その(落差)が激しすぎて、私はついていけなかった。
たとえて言うなら、高級レストランで料理を食べていたら、隣の酔っ払いが
ゲボを吐いた。
ゲーゲーと吐いた。
それをがまんしながら、料理を食べた。
そんな映画だった。

観ているうちに、気分が悪くなった。
頭の中がバラバラになってしまった。
だから星は、2つ。
天国の描写はすばらしかったが、その(すばらしさ)を、映画として
生かせなかったものか・・・?
たとえば殺人事件ではなく、主人公の少女が病気か何かで、他界する。
事故でもよい。
それを悲しむ家族とのやりとりを主題にする。
そういうストーリーも考えられたはず。
そういう意味では、残念・・・というより、
監督の理性を疑わせる映画だった。
つまり期待はずれ。

++++++++++++++++++++++++++++

●民主党の小沢一郎幹事長

 人間が本来的にもつ醜悪さを、凝縮したような政治家。
それが民主党の小沢一郎。
地位もある、名声もある、力もある。
しかし心は、ドロドロ。
ドロドロに腐っている。
ほかの世界に住んでいる人には、それがわからないかもしれない。
しかし私のように、(子どもの世界)に住んでいる者には、それがよくわかる。
(だからといって、私の心が清純というわけではない。誤解のないように。)

実際、あの時折表情に出す、不遜な笑みを見ていると、吐き気すら覚える。
あれを見て、小沢一郎が、善人と思う人は、まずいないだろう。
(悪人とはかぎらないが・・・。)
その小沢一郎が、「4億円は知人に借りたもの」と発言を変えた(10年2月1日)。
今までの説明では、つじつまが合わなくなったらしい。

つまり出所のわからないお金が、先に現れた。
銀行から4億円の融資を受けたのは、そのあと。
本人としては、うまくごまかしたつもりだったのかもしれない。
しかし4億円である。
動けば、かならず、足跡が残る。

で、その知人とやらは、今は亡くなっている、とも。
「死人に口なし」というわけ。

 ずるいぞ、小沢一郎!

●講演旅行

 この先、1週間の間に、3か所で講演をすることになっている。
1か所をのぞいて日帰りは無理なので、先方で一泊する。
ワイフが同行してくれる。
ワイフは、私の体を心配する。
一方、私はワイフのボケを心配する。
あちこちへ旅行することは、ボケ防止になるのだそうだ。

健康にもよい。
ワイフはいつも歩数計をもっていく。
それを見ながら、「今日は、1万2000歩も歩いたわ」と喜んでいる。

 今は、それが楽しい。
いつまでつづくかわからないが、・・・つづけられるかわからないが、今は、がんばる。
がんばるしかない。
先のことは考えない。
そのときは、そのとき。
今のこの時代を思い出して、「ああ、あのころは楽しかったね」と言えれば、それでよい。

●別居問題

 Dさんの夫は、歯科医師。
1人息子。
岐阜市で開業して、10年になる。
しかしDさん(嫁)は、Dさんの母親(姑)と、たいへん仲が悪い。
表立った喧嘩こそしなかったが、陰湿ないがみあいがつづいた。
Dさんは、私の遠い親類にあたる。

 Dさんは、「別居か、さもなければ離婚か」と、夫に迫った。
Dさんにとっても、限界だった。
精神状態も不安定になった。

Dさんの夫は、迷った。
というより、その板ばさみになった。
苦しんだ。
で、結論は、両親との別居。
不動産屋に相談。
で、その日のうちに、中古マンションを購入。

 こういうケースのばあい、Dさんの母親(姑)にしてみれば、「息子を取られた」
ということになる。
Dさんの夫にしてみれば、「親を捨てた」ということになる。
一方、Dさんだけは、ルンルン気分(?)。
その日のうちに、私に連絡があった。
メールだったが、それがわかった。
「その日」というのは、家を購入した日。

 若いころの私なら、全面的にDさんを支持しただろう。
しかしこの年齢になると、親(姑)の気持ちも、よくわかる。
親(姑)も、さぞかし、さみしい思いをするだろうな、と。
言い忘れたが、Dさんには、3人の子どもがいる。
上から小2(男児)、年長女児、そして2歳になる女児。
親(姑)にすれば、3人の孫ということになる。

「よかったですね」とDさんに言いつつも、別の心で、「この先、まだ問題は
つづくだろうな」と思った。

 で、ついでに一言。

嫁と親(姑)で、夫(息子)を取りあうようなケースでは、親(姑)には、
まず勝ち目はない。
夫がマザコンであるとか、どちらかに不倫問題のようなものがあれば話は別だが、
夫(息子)は、親を捨て、嫁(妻)を取る。
「捨てる」という言い方は適切ではないかもしれないが、親(姑)にすれば、「捨てる」
という言い方になる。
つまり「別居か、さもなければ離婚か」ということになれば、夫(息子)は、別居を選ぶ。

 だからこの文章を読んでいるあなたが、親なら、最初から息子には、期待しないこと。
そういう前提で、子育てを組み立てる。
 
●薄情

 昔は、「薄情」と言った。
今は、「ドライ」という。
そのドライが、日本人の心になってしまった。
みながみな、ドライになってしまったから、他人のドライさがわからない。
自分のドライさも、わからない。
ドライになりながら、それが「ふつう」と思い込んでいる。
世界の常識と思い込んでいる。

 こうしたドライさは、外国の人たち、とくにオーストラリア人と比べてみると、
よくわかる。
あるいは受験期前の子どもたちと比べてみると、よくわかる。
ときとして自分自身のドライさに、ア然とするときがある。
いつの間にか、私自身も、そうなってしまった。
いつも心のどこかで、損得の計算をしている。

 が、私にも言い分がある。

 私はもともと、お人好し。
いつも人に、裏切られてばかりいた。
そういう私を見て、ワイフは、こう言う。

「あなたはいつも、相手がそれを望んでいないのに、やりすぎるのよ」
「だからキズつくのよ」と。

 そう、私は若いころから、そういう人間だった。
今も、そうかもしれない。
そんなわけで、心はボロボロ。
この日本で生きていると、そうなる。
お人好しで生きれば生きるほど、そうなる。
人と人が、(金)だけでつながっている。
「金の切れ目が、縁の切れ目」?
たとえば被害者は私のほうなのに、加害者のほうから、逆恨みされる。
そういうこともある。

 こうなったら、あとは静かに生きるだけ。
どうせ人生も短い。
平均寿命まで、16年を切った。
健康寿命まで、6年を切った。

 ドライになるのもいや。
だったら、この日本から、一歩、退いて生きるしかない。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

【息子に対するいじめ】

【OMさんより、はやし浩司へ】

++++++++++++++++++++

小学6年生の男児に対する、いじめについて
相談が届いています。
もうすぐ卒業式。
何とか笑って卒業できれば・・・と、
母親のOMさんは悩んでいます。

++++++++++++++++++++

はやし浩司さまへ

内容が具体的なので、くれぐれも住所・年齢・家族構成がわからないようにお願いします。

以前、娘のことで何度か相談しお世話になりましたN県N市の、OMです。
今回は、もうすぐ中学生になる息子のことで相談したく、パソコンを開きました。

これまで娘のこと(学校でおとなしい。自分が出せない・・・)で悩むことが多く、息子に関して
は、仲良しの友達もいて、先生からも誰とでも仲良くすると聞いていたので、全く心配していま
せんでした。

最近、娘のほうは落ち着いてきて、相変わらずおとなしいけれど、自分なりに楽しく家でも明る
く学校の話をするようになり、ホッとしていました。
その矢先、今度は、息子が・・・

ある日、突然、
仲良しグループから仲間外れにあっていると、言い出したのです。

原因は何度考えてもわからない。
いつものように、休み時間に友達のところへ行くと、まるで息子が居ないかのように仲良く話し
をしたり、昼休みも息子を無視して外へ遊びに行ったり・・・。

掃除の時間は仲良しグループの子と一緒なのですが、息子と二人のときは普通に話すけれ
ど、終わると、また無視して、他ところへ行くそうです。

息子は初めのうちは何事もなかったように話しかけたりしていましたが、反応があまりにも嫌わ
れていると、わかるので今では自分からは話しかけていません。
たまにそのグループの子から「バイバイ」程度のことは言ってくれるようですが・・・。

最近、息子は1人が少し慣れたのか、休み時間は、1人で本を読んだりして過ごしています。
登校を嫌がることは、今のところありません。

今のところ親友がいるので、心強いのですが、その親友の子にも共通の友達がいるので
いつか、親友にも無視されるのではないかと、息子は心配しています。

このまま、原因もわからず、仲間外れにされたままで、息子は大丈夫でしょうか?
グループの子になんで無視するの?、っと聞くと、余計にややこしくなったりするから聞きたくな
い。どうせ、嫌われているならもう関わりたくないと、言っています。

もうすぐ卒業式。
笑って卒業できないことがくやしいです。

なんとか仲良くもとに戻ってほしいのですが・・・

息子は、少し人の気持ちを考えずに思ったことを話すところがあり、友達には「もし、悪いところ
があったら直したいから言ってよ」などと、仲良し子に対しては何でも話します。
でも、ちょっと苦手な子がくると、仲良しの子がいても、みんなで楽しく遊んだりできないタイプだ
と思います。

4月から中学になります。
違う地区からも、生徒がきます。
そこで新しく友達ができるといいのですが。

まとまりのない文章になってしまいましたが、今、息子に対して、家族としてしてあげることはあ
るでしょうか?

【はやし浩司よりOMさんへ】

●加害意識と被害意識 

 加害意識と被害意識。
いじめを考えるときは、まずこの2つに着目しなければなりません。
むずかしい問題ですね。
「害を与えた者は、害を受けた者の心の痛みが理解できず、いつも害を過小評価する」。
あるいは「害を与えた者は、害を受けた者がそれをいつまでも覚えていることに気づかず、す
ぐそれを忘れてしまう」。
わかりやすく言えば、いじめる側には、それだけの加害意識がないということ。
この意識のズレが、害を受けた人の心の傷を、さらに大きくします。
子どもの世界では、とくにそうです。

 私もよく(いじめの現場)を、直接見ることがあります。
しかしそういうとき、どこまでが(遊び)で、どこから(いじめ)なのか、よくわからないというのが、
実情です。
私の目の前で、堂々と、それをしますから・・・。
しかもそのときは、双方が、むしろ笑いあいながら、それをしている・・・。

あとになって、親のほうから、「いじめられた」という報告をもらってはじめて、「ああ、あのときが
そうだったのか」と知ったりします。

 しかし(いじめる側)にとっては、(遊び)でも、(いじめられる側)にとっては、(遊び)ではない。
そのつど(いじめられる側)は、大きく傷つきます。

●いじめ

 OMさんの息子さんが、そうだというのではありません。
しかし(いじめる側)と、(いじめられる側)は、いつも一方通行というわけでもありません。
べつの場面では、(いじめる側)が、いじめられ、一方、(いじめられる側)が、(いじめの側)に
回ったりします。
あるいはいじめられる前に、いじめのグループに入り、(いじめの側)に回ったりします。
子どもにとっての「仲間」というのは、そういうもので、仲間を作ることによって、自分にとって居
心地のよい世界を作ろうとします。
その仲間意識を維持するために、意味のない(いじめ)を繰り返すこともあります。
この時代の子どもたちを総称して、「ギャング・エイジ」と呼ぶのも、そういう理由からです。

 わかりやすく言えば、「善や道徳の通ずる世界」では、ないということです。
たとえば(いじめる側)は、その意識もないまま、面白半分で、それをしたりします。

つまり私たちおとなが考えるより、(いじめの問題)は、はるかに複雑ということです。
しかもどこか動物的。
もちろんだからといって、いじめを肯定しているのではありません。
どうか、誤解しないでください。

●では、どうするか?

 (いじめの問題)は、常に(いじめられる側)の立場で、(いじめられる子どもの心)の救済だけ
を考えて対処する。
これは大原則です。
(いじめる側)が、いくら「いじめていない」と言い張っても、(いじめられた側)が、それだけつら
い思いをしているなら、(いじめ)があるという前提で対処します。
またそういう前提で、子どものいじめを考え、(いじめられる側)の救済にかかります。
もし(いじめる側)に、加害意識がないなら、それをわからせるまで、徹底的に指導します。
これも大原則です。

 しかし実際には、指導の仕方をまちがえると、かえっていじめを陰湿化させてしまうことにもな
りかねません。
水面下にもぐらせてしまうこともあります。
嫉妬やひがみがからむと、さらにそうなります。
そこでもうひとつの大原則があります。

 大切なことは、子どもが楽しく通学すること。
そのためには、折れるところは折れ、妥協するところは、妥協する。
この世界には、『負けるが勝ち』という格言もあります。
ほかの世界とはちがって、子どもの世界は、不合理のかたまり。
先にも書いたように、もともと道理が通ずるような世界ではありません。

 ですから、結局は、つぎのような結論になってしまいます。

(1)その範囲のいじめなら、親としてつらいところかもしれませんが、子どもを慰め、励ましなが
ら、様子をみる。
(2)その範囲を超えたら、一に、担任の先生に相談です。仲のよい友だちがいたら、その友だ
ちの親に相談するのも大切なことです。
(3)さらにその範囲を超えたら、転校も視野に入れて、学校の先生に相談、です。

 ここでいう「その範囲」というのは、あくまでもその子どもの(心の状態)をみて、という意味で
す。
いじめられることにタフな子どももいれば、そうでない子どももいるということです。

●列を作らない子どもたち

 話は変わりますが、今、この原稿を、沼津市のホテルの一室で書いています。
今朝は、市の医師会のほうで講演をすることになっています。
夕方、沼津市に着きましたが、駅での光景を見て、驚きました。

 一度新幹線で、JR三島まで来て、そこでローカル線に乗り換えて、沼津市へやってきまし
た。
三島駅でのこと。
中学生や高校生たちで、ごったがえしていました。
が、驚いたことに、学生たちはそのあたりに、三々五々に集まっているといった雰囲気で、列を
作らないのです。

 私とワイフは、プラットフォームに書かれた数字を見ながら、そこへ並ぼうとするのですが、ど
う並んだらよいか、かなり迷いました。
先回りして、割り込むこともできない。
かといって、どこが最後尾かもわからない・・・。

 「最近の若い人たちは、列を作らない」と、そんなことを知りました。
理由はいろいろ考えられます。

その第一、「急いで家に帰ろう」という意識が、希薄?
その第二、ルールを守らない。
その第三、立ち話を楽しんでいる。
その第四、早く乗って、座席に座ろうという意思がない(?)。

 どうであるにせよ、それでいて電車が到着し、ドアがあくと、ゾロゾロと車内へ入ってくる・・・。
ゾロゾロ、とです。
ダラダラ・・・かな?
もともと座席に座ろうという意識もないようで、席があいていても、そのまま立ち話を繰り返して
います。

 私たちの世代とはもちろん違いますが、おそらくOMさんたちの時代とも、違うのではないでし
ょうか。
日本人が古来よりもっていた、(まじめさ)が、一本、抜けてしまったような印象をもちました。
つまり今、子どもたちが質的に変化しつつあります。
子どもたちというより、日本人が、です。

●暖かい無視

 さてOMさんの息子さんの件ですが、まだ(その範囲)にいて、(その範囲)でがんばっている
ように感じます。
不登校ということでもないようですし、「関わりたくない」とがんばっています。
つまり(その範囲)で、息子さん自身が、懸命に処理しようとしているのが、文面からもわかりま
す。

 こういうときは、子どもの様子を見ながら、つまり暖かく見守りながら、「家庭は、そういう子ど
もの心を癒す場所」と考えて、無視するしかありません。
これを「暖かい無視」(野生動物愛護協会の言葉)といいます。
残念ながら、いじめのない世界はないし、いじめから逃げても、またつぎのいじめが、そこで待
っています。
一方、子どもは、そういう世界を切り抜けることによって、たくましく成長していきます。
OMさんには、つらいことかもしれませんが、親のできることにも限界があるということです。
息子さんは、小学6年生ということですから、すでに思春期に入っています。
息子さんのほうは、とっくの昔に親離れしています。
そういうことも考えると、今、OMさんができることは、かなり限られてくると思います。

 そこで大切なことは、
(1)ここにも書いたように、家庭を(心を癒す場所)と考えて、思いっきり、ゆるめる。
(2)よき聞き役に回り、子どもの心を解放させる、です。

 生活態度がだらしなくなっても、「ああ、うちの子は、こうして心を休めているのだ」と思い、そ
れを許します。

 もちろん心の変化には、じゅうぶん、注意します。
とくに(その範囲)を超えそうなときには、注意します。

●シカト(無視)

 私も高校3年生のとき、今で言うシカトで、いやな思いをしました。
あるグループが、徒党を組んで、私を無視しました。
しかし私は、そんなヤワな人間ではありませんでした。
あるとき、その中の1人がもっていた、ギターをぶったたいて、壊してやりました。
相手は相手で、私をいじめていたという意識があったのかもしれません。
何も抵抗しなかったのを、覚えています。

 で、それから20年近くたったときのこと。
同窓会に出てみました。
で、そのグループが、当時のことを覚えているかなと、それなりに会話を交わしてみました。
が、だれにもその意識がないことを知りました。
つまりまったく平気な顔をしていました。

 (いじめられた側)の私は、よく覚えていました。
今でも、よく覚えています。
しかし(いじめた側)は、何も覚えていない(?)。
それを知って、むしろ私のほうが、驚いたくらいです。

 言い換えると、私自身も、どこかで(いじめる側)で、だれかをいじめていたのかもしれませ
ん。
気がついていないのは、私だけ、とです。

 だからメールでの様子からすると、息子さんをいじめているグループには、そういう意識も希
薄なまま、いじめているといった感じがします。
私があなたの息子さんなら、そういった連中は相手にしないで、マイペースで進むことだけを考
えるかもしれません。

 その点、同じいじめでも、(もの隠し)や、(暴力)、(恐喝)とは、質がちがいます。
今は、様子を見られたほうがよいかもしれません。
「笑って卒業できない」、悔しさはよくわかりますが、別の見方をすれば、よい「転機」にもなるの
ではないでしょうか。

 相手はただの子ども。
小学6年生。
そんな子どもを相手に、「悔しい」と思ってはいけません。
あなた自身の精神のレベルを下げてしまいます。

●小沢一郎の不起訴処分

 悔しいといえば、今の民主党。
反自民というよりは、反麻生の票が、どっと民主党へ流れ込んだ。
結果は、民主党のひとり勝ち。

 その結果が今。
結局、「秘書が勝手にやったことです」と言って、小沢一郎は、逃げてしまった。
検察側は、証拠不十分ということで、一連の小沢疑獄事件にはメスを入れないまま、不起訴処
分にしてしまった。

 悔しいといえば、悔しいですね。
最初から現場には、自分が出ないで、秘書たちを出させていた。
おそらくあとあとのことを考えて、そうしていたのでしょう。
つまり汚れ役は秘書たちにやらせて、自分は、奥から指示だけを出していた。
そして事件が発覚すると、「私は知りません」「秘書が勝手にやったことです」と。

 こういう事件が明るみになるたびに、政治家たちは、ますます巧妙になっていく。
やり方がズル賢くなっていく。

そこで「連座制」というのが生まれたわけですが、しかしこれは刑事訴訟法には、規定されてい
ない。
あくまでも政治家のモラルの問題というわけです。

 つまり私が言いたいのは、「上」がこのザマだから、どうしてその「下」がよくなるかということで
す。
いわんや、子どもの世界をや!

●OMさんへ

 話が脱線しましたが、あなたもそろそろ子離れを始めるときです。
「子離れ」というのには、2つの意味があります。

 ひとつは、あなた自身が、子どものことを忘れて、自分の人生を生きるという意味。
もうひとつは、あなたの子どもがじょうずに親離れできるように、子どもを仕向けるという意味。

 さらに言えば、あなたがもっている(幻想)を、早く捨てること。
「私たちはすばらしい親子である」とか、「私は人一倍、愛情の深い親である」とかいう幻想で
す。
こうした幻想は、かえって子どもの足かせになるだけで、子どもの自立ということを考えるなら、
好ましいことではありません。
子どもも、いつかそれを負担に思うようになるでしょう。
「お母さんは、お母さんで、勝手に生きてくれ」と。

 私もこの年齢になってはじめて気がついたことがあります。

 やっと子育てが終わって、ほっとしたとき、そこでドカッと待っていたのは、老後だったというこ
と。
老後の資金といっても、息子たちの学費で、使い果たしてしまっていますから、ほとんど残って
いません。
学費だけでは、ありません。
頼まれもしないのに、100万円単位のお金を、そのつど供出してきました。
が、息子たちには、感謝の「か」の字もない。
ないというより、その余裕がない(?)。
自分たちの生活を支えるだけで、精一杯。
というより、目一杯の生活をするから、余裕など、生まれるはずもない。
そんな感じです。

何というバカ親だったのかと、私もこの年齢になってやっと、思い知らされたというわけです。
いえ、息子たちを責めているのではありません。
「年老いた親を、どんなことをしてでも養う」と答えた若者は、28%しかいません(総理府、200
9年調査)。

イギリス人でさえ66%、アメリカ人でさえ、64%!
東南アジアの若者たちにいたっては、80〜90%ですから、いかにこの数字が低いものか、わ
かっていただけると思います。

ここに書いた、「自分の人生を生きること」という言葉には、そういう意味も含まれています。
ついでですが、どうか、参考にしてください。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

【乳幼児期の重要性】

●今日の講演(歴史の生き証人)

+++++++++++++++++++

これからN市の保険医師会主催の、講演会で
講師をすることになっている。

ドクターたちの集まりだから、その道の
専門家も多い。
だからというわけでもないが、今、ひとつの
ことを考えている。
講演の前段で、こんな話をしてみたい。

+++++++++++++++++++

この21世紀に入ってから、教育の世界が
大きく変わってきたということ。
「変わった」といっても、制度的な変化を
いうのではない。

現在、(教育)と(心理学)と(大脳生理学)の、
この3つの分野が、融合されつつあるということ。
私たちは今、たいへんおもしろい時代に、
遭遇しつつある。

今はまだわからないかもしれない。
しかしこのあと、20年とか、30年とか過ぎたあと、
「あの時代に、この3つの分野が融合した」という
ことが、わかるはず。

たとえば子どものやる気にしても、教育の世界では、
(弱化の原理)(強化の原理)という言葉を使う。
「子どものやる気を引き出すには、どうしたらいいか」
というテーマは、とく話題になる。

しかし大脳生理学の世界では、辺縁系にある帯状回という
組織が、どうやらそのやる気を司っていることが
わかってきた。
さらにカテコールアミンというホルモンが、やる気に
関係していることもわかってきた。

またフロイトが説いた「性的エネルギー」についても、
根源は、どうやら視床下部あたりが、それを司って
いることもわかってきた。
そこから発せられる信号が、ドーパミンの分泌を促し、
もろもろの欲望も、そこから生まれる。

さらに善悪感覚にしても、ホルモンの作用によるという
ことまでわかってきた。

「悪」については、まだ未解明な部分も多いが、
「善」については、同じく辺縁系にある、扁桃核が
司っている。

何かよいことをすると、大脳の皮質部のほうから
信号が送られ、それに反応して、扁桃核が
モルヒネ様のホルモンを分泌する。
エンケファリン系、エンドロフィン系のホルモンである。
それが大脳全体を、甘い陶酔感で満たす。

「いいことをすると、気持ちよい」というのは、
そういう理由による。
先にも書いたように、やる気については、カテコールアミン
というホルモンが関係している。
もっとも私自身は、それがどういうホルモンであるかは
知らない。
知らないが、生き生きと活動している子どもは、
表情が輝いている。
その(輝き)こそが、カテコールアミンと、考えてよい。
私は勝手にそう解釈している。

さらに近年の大脳生理学の発達には、驚くべきものがある。
最近になって、「敏感期」「臨界期」という言葉を
よく聞くようになった。

人間の基本中の基本は、実は、0歳から7か月前後までの
間に決定されるという考え方である。
従来、「乳幼児には記憶がない」と考えられていた。
しかしこれもとんでもないまちがいであることがわかってきた。
今から10年ほど前、ワシントン大学のメルツォフ教授がそれを発表した。
むしろこの時期、怒涛のごとく、記憶が蓄積されていることがわかった。

まだある。
今度は、それまで愛着行動は、親の側からの一方的なものと
考えられていた。
しかしこれについても、実は、乳幼児のほうからも、愛着行動が
発せられていることがわかってきた。
もちろん無意識のうち・・・というか、本能的なものだが、
あの乳幼児が育ててもらえるよう、自ら親に向かって働きかけを
している。
親に向かって、(赤ちゃんらしいかわいさ)を、子どものほうからも
発信する。
それを受けて、母親は、子どもに乳をくれる。

相互に愛着行動を繰り返すので、「ミューチュアル・アタッチメント(相互愛着)」
という。

さらに、たとえば(人間性)にしても、この時期に、その基礎が
形成される。
反対にこの時期をのがすと、人間性の基礎もままならなくなる。

野生児をその例にあげるまでもない。

また人間にも、ある種の鳥類に似た、「刷り込み」が
あることがわかってきた。
この時期を、「敏感期」と、心理学の世界では呼んでいる。

一方、大脳生理学の分野では、重に、脳の神経細胞の
研究の分野から、この時期の(刺激)が、重要な意味を
もつことがわかってきた。

これはモルモットでの実験だが、(というのも、人体で
人体実験をすることはできないので)、たとえば生後
直後から、モルモットの片目を何かで塞いでしまうと、
そのモルモットの視覚を司る神経細胞は、機能を停止
してしまうという。
停止するばかりか、その塞いだものを取り除いても、
神経細胞が再生するということはない。
(一部、輪郭だけは見えるようになるという説もあるが・・・。)

神経細胞の完成しているおとなであれば、一時的に
目を塞いだからといって、目が見えなくなるということはない。
しばらくすると、機能は回復してくる。

こうした事実から、乳幼児期における早期教育の重要性を、
説く人も多い。
この時期に適切な刺激を与えることによって、子どもが
本来的にもつ「力」を、外に引き出すことができる。
そうでなければ、ここに書いたように、脳の神経細胞そのものが、
そのまま退化(「退化」という言い方が適切かどうかは
知らないが・・・)してしまう。

この時期に音楽的な刺激を受けた子どもは、音感にすぐれた
才能を発揮するようになる。
そうでなければ、神経細胞そのものが、退化してしまう(?)。

こうした現象がもっとも顕著に現れたのが、「野生児」である。
インドで見つかったオオカミ少女を、今さら例にあげるまでもない。
その後、2人の少女は、死ぬまでインド政府によって手厚く
保護され、教育を受けたが、最後まで人間らしい心を
取り戻すことはなかった。

腹が減ったときだけ、動物的な声を張り上げて、「怒った」と
いうような記録は残っている。

大脳生理学の分野では、この時期を、「臨界期」と
呼んでいる。
教育の世界でいう「敏感期」と同じに考えてよいのでは
ないだろうか。

こうして(教育)と、(心理学)と、(大脳生理学)が、
今、三つ巴になって融合し始めている。

考えてみれば、これはものすごいことではないか。
それぞれの分野で、未解明だったり、経験的にわかって
いたにすぎなかったことが、今、解明されようとして
いる。
私たちはその歴史の生き証人として、まさにその
時代の中で、それを目撃していることになる。

+++++++++++++++++++++++

●乳幼児期に作られる「私」。

 私たちは例外なく、乳幼児期に「私」が作られる。
「私は私」と思っている人は多い。
しかしそれでも、その「私」は、乳幼児期に作られる。
さらに言えば、今の私は、そのころできたレールの上に乗っているだけ。
けっして大げさなことを言っているのではない。
「私」のことがわかればわかるほど、そのことがわかってくる。

 言いかえると、それまでに作られる「私」がいかに重要かが、わかる。
さらに言いかえると、それまでの(子育て)が、いかに重要かが、わかる。

 「私」を知ることは、それほどまでにむずかしいということにもなる。
あるいは、「おもしろい」ということにもなる。

●過去をのぞく

 しかしここで誤解しないでほしい。
自分の過去をのぞいてみたとき、その過去が、仮に悲惨なものであっても、
それはそれ。
ほとんどの人は、多かれ少なかれ、そうした過去を背負っている。
恵まれた環境で、何一つ不自由なく、親の豊かな愛情に包まれて育った人の
ほうが、少ない。

 たいていの人は何らかの問題をもっている。
家庭騒動、両親の不和、経済問題などなど。
問題はそういう問題があったということではなく、そういう問題があったことに
気づかず、同じ失敗を繰り返すこと。
とくに自分の子育てで、どこかにぎこちなさを感じている人は、一度、自分の
過去を静かにのぞいてみてほしい。
子どもに対して極端に甘い親、反対に、極端にきびしい親など。
のぞくだけでよい。
あとは、時間が解決してくれる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 臨界期 敏感期 やる気 カテコールアミン 帯状回 扁桃核 扁桃体 視床下部
 ドーパミン はやし浩司 乳幼児 メルツォフ 乳幼児の記憶 愛着行動)


Hiroshi Hayashi++++++Feb.2010++++++はやし浩司

●無知

++++++++++++++++++

「無知」を地でいくような話が、ある雑誌に載っていた。
こんな話である。

織田信長は、本能寺で焼け死んでいる。
それについて、ある子どもがBLOGにこう書いた。
年齢はわからないが、漢字の使い方からして、
中学生くらいではないか。

「どうして消防自動車を呼ばなかったか」と。

それに答えて別の子どもが、「電話線も切られて
いたんじゃない?」と。
そこで先の子どもが、反論した。

「携帯電話はもっていなかったのか」と。

それについても、「電池が切れていたのかも」と。

会話がつづいた。

A「信長だろ、消防自動車くらいは、呼べたはず」
B「家が木造だったから、火の回りが早かったかも」
A「消火器はなかったのか」
B「なかったかも」と。

この2人のやり取りを読んだ別の子どもが、こう書いた。

C「お前ら、ちゃんと勉強したのか。
信長は、赤ん坊を助けるため、火の中に飛び込んだんだぞ。
それで焼け死んだんだぞ」と。

(以上、「週刊アスキー」に載っていた記事を簡略。)

++++++++++++++++++++

●「学校は、どうしているの?」

 こういう記事を読むと、常識のある人なら、だれでも笑う。
あまりにも非常識というか、バカげている。
が、笑ってばかりは、いられない。
同じような無知、無理解は、いたるところで経験する。

 先日も、BS放送(NHK)を見ていたら、こんなシーンがあった。

 タイのチェンマイにある、屋台を紹介していた。
その屋台を、2人の子どもたちが、手伝っていた。
それを見たレポーターが、こう問いかけた。
「学校は、どうしているの?」と。

 子どもを見かけると、すぐ「学校」「学校」と問いかける。
日本人の悪いクセである。
10年ほど前には、こんなシーンもあった。
同じくNHKの番組だった。
戦禍のサラエボで、逃げ回る子どもに向かって、「学校は、どうしているの?」と。

●理解できない世界

 恐らく今の若い人たちに向かって、こう言っても、理解できないだろう。
「私は結婚前から、収入の約半分を、実家に送っていた」と。
私の親類の中には、無神経な人がいて、「そんなはずはない」と言った人もいる。
「そのお金は、どこに消えたのか」と。

 私が送ったお金のたいはんは、母が貯金していた。
また別のたいはんは、母から、さらに母の実家を守る伯父に渡っていた。
伯父は定職にもついていなかった。
ほかにも、いろいろある。

 が、私が書きたいのは、このことではない。
私の生まれ育った時代には、それが当たり前のことだった。
珍しくも、何ともなかった。
収入の何割かを、毎月実家へ仕送りしていた人は、いくらでもいた。

 で、ここにも書いたように、そういう話をしても、今の若い人たちには理解できない。
いつも「現在」を基準にして、ものを考える。
話の内容こそ正反対だが、織田信長の時代に、携帯電話があったと思うのと、どこも
ちがわない。

●「学校」意識

 織田信長の時代に携帯電話という話は例外としても、こうして並べて考えてみると、
「歴史とは何か」。
そこまで考えてしまう。

 「学校」にしても、日本人がもつ「学校」意識は、明治以後の国策のひとつとして、
作られたもの。
富国強兵策のひとつとして利用された。
そういう歴史的背景があって、日本人は、子どもを見れば、「学校」「学校」というように
なった。

 もちろんこうした意識は、国によってもちがう。
隣の韓国は、世界に名だたる受験国家として知られている。
その影響もあって、韓国の新聞各紙を読んでいると、「順位」が話題にならない日はない。

「韓国は、世界〜位になった」「〜位にさがった」と。
とくに相手が日本のときは、日本の順位と並んで、「日本に勝った」「負けた」の記事が
並ぶ。
今度のTOYOTA自動車のリコール問題についても、韓国内では連日、大々的に
報道されている。
「日本車への信頼は、地に落ちた」という記事まで載った。

●私は私?

 私たちは、つねに自分の意識を疑う。
言いかえると、私たちがもっている意識ほど、あてにならないものはない。
ときにその意識が、そこにある(真実)を、覆い隠してしまうこともある。
さらに端的に言えば、「私は私」と思っているのは、私だけ。
その実、私などどこにもないということになる。

 前にも書いたが、北海道のスズメも、沖縄のスズメも、同じ。
スズメはスズメ。
どこもちがわない。
その(ちがわない)という範囲で、私は私。

 私たちの意識は、常に何かによって作られ、操られている。

 では、どうするか?

 無知は、「私」の大敵と考える。
無知は、私を「私」から遠ざける。
言いかえると、「私は私のことをいちばんよく知っている」と豪語する人ほど、
自分のことを知らない。
一方、「私は何か」と問いつづけている人をほど、自分のことを知っている。
「私」を知らないで生きるということは、私がただの動物と同じ。
それにすら気がつかないで、ただ生きているだけ。

●無知

 無知の話から「私」論へと、話が脱線してしまった。
(脱線したという意識は、あまりないが・・・。)
織田信長と携帯電話の話はそれでよいとしても、こと「私」については、
無知であってはいけない。
その理由は、先にも書いた。

 ついでながら、織田信長の話を、小学5年生の子どもにしてみた。
冒頭に書いた話である。
それを聞いた、その子ども(男児)は、こう言った。
「信長の時代に、電話なんか、あるわけないよ」と。

 しっかりと勉強している子どもも、ちゃんといる。
それを聞いて、私は安心した。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 無知 無知の知 無知という罪悪)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●2月5日

++++++++++++++++++++

●変りつつある学校

今、学校教育が、大きく変りつつある。
制度というよりは、中身が変りつつある。
たとえば今、子ども(小学生)が、「今日は
塾があるから、クラブを休ませてほしい」と
言うと、すんなりと許可がおりる。
早退ができる。

しかし今から、30年前は、そうではなかった。
そんなことを生徒が言おうものなら、即座に
教師はこう言った。

「だったら、学校をやめろ!」と。

●教師の姿勢

また指導の仕方も変った。
今では、生徒に向かって、「掃除しなさい!」と
がなりたてる教師はいない。
「掃除しましょう」(共同型)、あるいは
「掃除してください」(依頼型)、さらには
「掃除したらどうでしょう」(提案型)の言い方が
ふつうになっている(静岡県)。

こうした指導の仕方について、ある小学校の
校長はこう言った。
「現場の教師たちが、萎縮しています」と。

今では、紙を丸めて生徒の頭を叩いても、「体罰!」と
なる。
ささいな(遊び)についても、「そら、いじめ!」となる。
親が、そう言って騒ぐ。

また生徒が学校で怪我をしたりすると、担任が
家までその生徒を送り届け、わびを言うのが
慣わしになっている。
少し前までは、電話一本ですんだような話である。

●掛け算

一方、教師たちの教え方にも、変化が見られるように
なった。
ほんの15年前なら、たとえば掛け算のできない生徒
(小2)がいたとする。
そういう生徒に対して教師は残り勉強をさせてでも、
掛け算を教えた。
生徒が泣いても、教えた。

が、今は、ちがう。
教師も一通りのことは教える。
しかしそこまで。
「あとは生徒の責任」と突き放してしまう。
だから小学3年生でも、掛け算のできない生徒は、
いくらでもいる。
(一度覚えたからといって、それで安心してはいけない。
子どもだって、時間がたてば、忘れる。)

●不登校児

こうした変化がもっとも顕著に出ているのは、
不登校児の扱い方である。

20年前、30年前には、「不登校は悪」という前提で、
生徒が不登校児になったりすると、教師は家まで出かけていった。
半ば強制的に、生徒を学校へ連れていった。

が、今は、ちがう。
生徒が不登校児になっても、教師は用意されたマニュアル
通りの指導しかしない。
「無理に・・・」という姿勢は、消えた。

こうした一連の変化を、まとめて言えば、教師がサラリーマン化した
ということになる。
サラリーマン化が悪いというのではない。
サラリーマンなのだから、サラリーマンでよい。
が、それ以上に、教師たちは雑務、雑務の連続で、窒息
しかかっている。
「授業中だけが、休める場所です」と言った教師もいた。

見かけの自由はふえたが、たとえば(空き時間)にしても、
今ではほとんどない。
このあたりの中学校でも、たがいに何とかやりくりして、
週に2〜3時間の(空き時間)を作っている。
私たちが中学生のころは、「1時間教壇に立ったら、
つぎの1時間は空き時間」というのが、ふつうだった。

●親たちの意識

それに合わせて、親たちの意識も変ってきた。
学校に求めるものが、変わってきた。
いわゆる学校の予備校化である。

この世界も例外ではない。
需要と供給のバランスの上で、成り立っている。
高校を中心に、予備校化は、ここ10年、急速に進んでいる。
私立高校では、予備校から講師を招いて、授業を
しているところもある。

小学校は、中学入試のため、
中学校は、高校入試のため、
高校は、大学入試のため、というわけである。
あくまでもゴールは、大学。
「モンスターママ」という、あの忌まわしい呼び名も、
そういうところから生まれた。

●反動

一方、「これではいけない」と考える教師も多い。
子どもを、もっと全人格的に評価しようという動きである。
AO入試方法が、その一例ということになる。

また学力の評価の仕方にしても、(できる子ども)から、(考える子ども)
へと、変ってきている。
中高一貫校を中心に入試問題も、大きく様変わりしつつある。
ありきたりの(ガリ勉)では、歯が立たない。
そんな問題が、ふえてきた。
列車の時刻表を見せながら、「どの列車をうまく乗り継ぐと、
目的地へ早く着くことができるか」と。

●パズル化する入試問題

が、「敵もサルもの・・・」。
進学塾が、こうした入試方法に、即、反応している。
いわゆる(見かけの考える子ども)の育成である。
というのも、(考える)といっても、傾向としては、
パズル的な問題が多くなる。
深く分析し、論理的に組み立てる問題というよりは、
直感的に即断するという問題が多い。
こうした問題は、訓練によって、かなりの程度まで、
解けるようになる。

では、その子どもの内面世界はどうか。
それを知る方法が、「作文」ということになる。
が、その「作文」にしても、1〜2年も訓練すれば、
だれでもそれらしい文章を書けるようになる。
「弱い子がいたら、助けてあげます」式の、
きれいごとを並べれば、それですむ。

●欲望

要するに元凶はどこにあるかといえば、(人間の欲望)
ということになる。
わかりやすく言えば、教育そのものが、学校、親、
子どもと、三位一体となって、欲望の追求の場になっている。

学歴ではない。
欲望である。
「学歴」といっても、今では、欲望追求のための一里塚
でしかない。

20〜30年前までなら、学歴さえあれば、何とか
生きていくことができた。
が、学歴を支えていた権威主義そのものが、崩壊した。
では、親たちをして、何が、子どもの教育に駆り立てるのか?
それが「格差社会」ということになる。 

●格差社会

一生働いて、数百万円の財産も築けない人がいる。
その一方で、親から10数億円の小遣いをもらいながら、
みじんも恥じない総理大臣がいる。

こうしたケースは、例外であるとしても、
親たちは日常生活の、ごく身近なところで、こうした
「格差」を肌で感じ取っている。
すでに利権にありついた親は、それを手放さまいと、がんばる。
まだ利権にありつけない親は、何とかそれをつかみたいと、
これまたがんばる。
もちろんこうした熾烈な競争に背を向ける親もいる。
最初から、はじき飛ばされる親もいる。
あきらめて、近寄らない親もいる。

が、この私たちの世界では、強者はつねに発言者であり、
弱者はつねに沈黙者である。
その強者が、社会を作りあげていく。
もちろん教育とて例外ではない。

どうであれ、「格差」というのは、「不平等」を意味する。
「力のある人が、それなりにいい生活をするのは当然」
「力のない人が、そうでない生活をするのも、これまた当然」と。
ある程度の「差」については、だれもが納得している。
が、現実は、そうでない。
格差が格差の範囲を超えて、だれにでもわかる不平等に
なったとき、ここでいう「格差社会」が生まれる。

その不平等感が、社会を緊張させる。
いうなれば今の教育現場は、その緊張状態の中にある。
だれもがイライラしながら、それでいて身動きが取れない。

●社会の熟成度

忘れてはいけない。
受験競争は、子どもの心を破壊する。
それについては、何度も書いてきた。
が、最大の悲劇は、子どもの心を破壊しながら、
親にも、また教師にも、その意識がないこと。
さらに言えば、親自身も、また教師自身も、すでに破壊されている。
自分が破壊されているから、子どもの心が破壊されていることに
気がつかない。

わかりやすく言えば、日本というこの社会は、その結果。
「心の冷たい社会」になってしまった。
(上の人たち)だけではない。
(下の人たち)も、である。

言うまでもなく、社会の熟成度は、いかに弱者にやさしいかで
決まる。
弱者にやさしい社会を、熟成度の高い社会という。
そうでない社会を、そうでないという。
残念ながら、この日本は、経済力という金権と引き換えに、
人間性を見失ってしまった。

●人間性の回復

一度壊れた心は、もとには戻らない。
トラウマ(心の傷)を例にあげるまでもない。
戻すといっても、並大抵の努力ではできない。
その人自身が、それを知るというだけでも、たいへん。

そこで大切なことは、まず壊さないこと。
教育について言えば、子どもの心を壊さないこと。
これからの教育は、そうでなければならない。
また、そのためには、社会はどうあるべきかを、
考えなければならない。

このままでは、この日本は、ますます冷たい国に
なってしまう。
そうなったとき、結局は、さみしい思いをするのは、
あなた自身であるということ。
それを忘れてはいけない。


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【息子に対するいじめ】

【OMさんより、はやし浩司へ】

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小学6年生の男児に対する、いじめについて
相談が届いています。
もうすぐ卒業式。
何とか笑って卒業できれば・・・と、
母親のOMさんは悩んでいます。

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はやし浩司さまへ

内容が具体的なので、くれぐれも住所・年齢・家族構成がわからないようにお願いします。

以前、娘のことで何度か相談しお世話になりましたN県N市の、OMです。
今回は、もうすぐ中学生になる息子のことで相談したく、パソコンを開きました。

これまで娘のこと(学校でおとなしい。自分が出せない・・・)で悩むことが多く、息子に関して
は、仲良しの友達もいて、先生からも誰とでも仲良くすると聞いていたので、全く心配していま
せんでした。

最近、娘のほうは落ち着いてきて、相変わらずおとなしいけれど、自分なりに楽しく家でも明る
く学校の話をするようになり、ホッとしていました。
その矢先、今度は、息子が・・・

ある日、突然、
仲良しグループから仲間外れにあっていると、言い出したのです。

原因は何度考えてもわからない。
いつものように、休み時間に友達のところへ行くと、まるで息子が居ないかのように仲良く話し
をしたり、昼休みも息子を無視して外へ遊びに行ったり・・・。

掃除の時間は仲良しグループの子と一緒なのですが、息子と二人のときは普通に話すけれ
ど、終わると、また無視して、他ところへ行くそうです。

息子は初めのうちは何事もなかったように話しかけたりしていましたが、反応があまりにも嫌わ
れていると、わかるので今では自分からは話しかけていません。
たまにそのグループの子から「バイバイ」程度のことは言ってくれるようですが・・・。

最近、息子は1人が少し慣れたのか、休み時間は、1人で本を読んだりして過ごしています。
登校を嫌がることは、今のところありません。

今のところ親友がいるので、心強いのですが、その親友の子にも共通の友達がいるので
いつか、親友にも無視されるのではないかと、息子は心配しています。

このまま、原因もわからず、仲間外れにされたままで、息子は大丈夫でしょうか?
グループの子になんで無視するの?、っと聞くと、余計にややこしくなったりするから聞きたくな
い。どうせ、嫌われているならもう関わりたくないと、言っています。

もうすぐ卒業式。
笑って卒業できないことがくやしいです。

なんとか仲良くもとに戻ってほしいのですが・・・

息子は、少し人の気持ちを考えずに思ったことを話すところがあり、友達には「もし、悪いところ
があったら直したいから言ってよ」などと、仲良し子に対しては何でも話します。
でも、ちょっと苦手な子がくると、仲良しの子がいても、みんなで楽しく遊んだりできないタイプだ
と思います。

4月から中学になります。
違う地区からも、生徒がきます。
そこで新しく友達ができるといいのですが。

まとまりのない文章になってしまいましたが、今、息子に対して、家族としてあげることはあるで
しょうか?

【はやし浩司よりOMさんへ】

●加害意識と被害意識 

 加害意識と被害意識。
いじめを考えるときは、まずこの2つに着目しなければなりません。
むずかしい問題ですね。
「害を与えた者は、害を受けた者の心の痛みが理解できず、いつも害を過小評価する」。
あるいは「害を与えた者は、害を受けた者がそれをいつまでも覚えていることに気づかず、す
ぐそれを忘れてしまう」。
わかりやすく言えば、いじめる側には、それだけの加害意識がないということ。
この意識のズレが、害を受けた人の心の傷を、さらに大きくします。
子どもの世界では、とくにそうです。

 私もよく(いじめの現場)を、直接見ることがあります。
しかしそういうとき、どこまでが(遊び)で、どこから(いじめ)なのか、よくわからないというのが、
実情です。
私の目の前で、堂々と、それをしますから・・・。
しかもそのときは、双方が、むしろ笑いあいながら、それをしている・・・。

あとになって、親のほうから、「いじめられた」という報告をもらってはじめて、「ああ、あのときが
そうだったのか」と知ったりします。

 しかし(いじめる側)にとっては、(遊び)でも、(いじめられる側)にとっては、(遊び)ではない。
そのつど(いじめられる側)は、大きく傷つきます。

●いじめ

 OMさんの息子さんが、そうだというのではありません。
しかし(いじめる側)と、(いじめられる側)は、いつも一方通行というわけでもありません。
べつの場面では、(いじめる側)が、いじめられ、一方、(いじめられる側)が、(いじめの側)に
回ったりします。
あるいはいじめられる前に、いじめのグループに入り、(いじめの側)に回ったりします。
子どもにとっての「仲間」というのは、そういうもので、仲間を作ることによって、自分にとって居
心地のよい世界を作ろうとします。
その仲間意識を維持するために、意味のない(いじめ)を繰り返すこともあります。
この時代の子どもたちを総称して、「ギャング・エイジ」と呼ぶのも、そういう理由からです。

 わかりやすく言えば、「善や道徳の通ずる世界」では、ないということです。
たとえば(いじめる側)は、その意識もないまま、面白半分で、それをしたりします。

つまり私たちおとなが考えるより、(いじめの問題)は、はるかに複雑ということです。
しかもどこか動物的。
もちろんだからといって、いじめを肯定しているのではありません。
どうか、誤解しないでください。

●では、どうするか?

 (いじめの問題)は、常に(いじめられる側)の立場で、(いじめられる子どもの心)の救済だけ
を考えて対処する。
これは大原則です。
(いじめる側)が、いくら「いじめていない」と言い張っても、(いじめられた側)が、それだけつら
い思いをしているなら、(いじめ)があるという前提で対処します。
またそういう前提で、子どものいじめを考え、(いじめられる側)の救済にかかります。
もし(いじめる側)に、加害意識がないなら、それをわからせるまで、徹底的に指導します。
これも大原則です。

 しかし実際には、指導の仕方をまちがえると、かえっていじめを陰湿化させてしまうことにもな
りかねません。
水面下にもぐらせてしまうこともあります。
嫉妬やひがみがからむと、さらにそうなります。
そこでもうひとつの大原則があります。

 大切なことは、子どもが楽しく通学すること。
そのためには、折れるところは折れ、妥協するところは、妥協する。
この世界には、『負けるが勝ち』という格言もあります。
ほかの世界とはちがって、子どもの世界は、不合理のかたまり。
先にも書いたように、もともと道理が通ずるような世界ではありません。

 ですから、結局は、つぎのような結論になってしまいます。

(4)その範囲のいじめなら、親としてつらいところかもしれませんが、子どもを慰め、励ましなが
ら、様子をみる。
(5)その範囲を超えたら、一に、担任の先生に相談です。仲のよい友だちがいたら、その友だ
ちの親に相談するのも大切なことです。
(6)さらにその範囲を超えたら、転校も視野に入れて、学校の先生に相談、です。

 ここでいう「その範囲」というのは、あくまでもその子どもの(心の状態)をみて、という意味で
す。
いじめられることにタフな子どももいれば、そうでない子どももいるということです。

●列を作らない子どもたち

 話は変わりますが、今、この原稿を、沼津市のホテルの一室で書いています。
今朝は、市の医師会のほうで講演をすることになっています。
夕方、沼津市に着きましたが、駅での光景を見て、驚きました。

 一度新幹線で、JR三島まで来て、そこでローカル線に乗り換えて、沼津市へやってきまし
た。
三島駅でのこと。
中学生や高校生たちで、ごったがえしていました。
が、驚いたことに、学生たちはそのあたりに、三々五々に集まっているといった雰囲気で、列を
作らないのです。

 私とワイフは、プラットフォームに書かれた数字を見ながら、そこへ並ぼうとするのですが、ど
う並んだらよいか、かなり迷いました。
先回りして、割り込むこともできない。
かといって、どこが最後尾かもわからない・・・。

 「最近の若い人たちは、列を作らない」と、そんなことを知りました。
理由はいろいろ考えられます。

その第一、「急いで家に帰ろう」という意識が、希薄?
その第二、ルールを守らない。
その第三、立ち話を楽しんでいる。
その第四、早く乗って、座席に座ろうという意思がない(?)。

 どうであるにせよ、それでいて電車が到着し、ドアがあくと、ゾロゾロと車内へ入ってくる・・・。
ゾロゾロ、とです。
ダラダラ・・・かな?
もともと座席に座ろうという意識もないようで、席があいていても、そのまま立ち話を繰り返して
います。

 私たちの世代とはもちろん違いますが、おそらくOMさんたちの時代とも、違うのではないでし
ょうか。
日本人が古来よりもっていた、(まじめさ)が、一本、抜けてしまったような印象をもちました。
つまり今、子どもたちが質的に変化しつつあります。
子どもたちというより、日本人が、です。

●暖かい無視

 さてOMさんの息子さんの件ですが、まだ(その範囲)にいて、(その範囲)でがんばっている
ように感じます。
不登校ということでもないようですし、「関わりたくない」とがんばっています。
つまり(その範囲)で、息子さん自身が、懸命に処理しようとしているのが、文面からもわかりま
す。

 こういうときは、子どもの様子を見ながら、つまり暖かく見守りながら、「家庭は、そういう子ど
もの心を癒す場所」と考えて、無視するしかありません。
これを「暖かい無視」(野生動物愛護協会の言葉)といいます。
残念ながら、いじめのない世界はないし、いじめから逃げても、またつぎのいじめが、そこで待
っています。
一方、子どもは、そういう世界を切り抜けることによって、たくましく成長していきます。
OMさんには、つらいことかもしれませんが、親のできることにも限界があるということです。
息子さんは、小学6年生ということですから、すでに思春期に入っています。
息子さんのほうは、とっくの昔に親離れしています。
そういうことも考えると、今、OMさんができることは、かなり限られてくると思います。

 そこで大切なことは、
(3)ここにも書いたように、家庭を(心を癒す場所)と考えて、思いっきり、ゆるめる。
(4)よき聞き役に回り、子どもの心を解放させる、です。

 生活態度がだらしなくなっても、「ああ、うちの子は、こうして心を休めているのだ」と思い、そ
れを許します。

 もちろん心の変化には、じゅうぶん、注意します。
とくに(その範囲)を超えそうなときには、注意します。

●シカト(無視)

 私も高校3年生のとき、今で言うシカトで、いやな思いをしました。
あるグループが、徒党を組んで、私を無視しました。
しかし私は、そんなヤワな人間ではありませんでした。
あるとき、その中の1人がもっていた、ギターをぶったたいて、壊してやりました。
相手は相手で、私をいじめていたという意識があったのかもしれません。
何も抵抗しなかったのを、覚えています。

 で、それから20年近くたったときのこと。
同窓会に出てみました。
で、そのグループが、当時のことを覚えているかなと、それなりに会話を交わしてみました。
が、だれにもその意識がないことを知りました。
つまりまったく平気な顔をしていました。

 (いじめられた側)の私は、よく覚えていました。
今でも、よく覚えています。
しかし(いじめた側)は、何も覚えていない(?)。
それを知って、むしろ私のほうが、驚いたくらいです。

 言い換えると、私自身も、どこかで(いじめる側)で、だれかをいじめていたのかもしれませ
ん。
気がついていないのは、私だけ、とです。

 だからメールでの様子からすると、息子さんをいじめているグループには、そういう意識も希
薄なまま、いじめているといった感じがします。
私があなたの息子さんなら、そういった連中は相手にしないで、マイペースで進むことだけを考
えるかもしれません。

 その点、同じいじめでも、(もの隠し)や、(暴力)、(恐喝)とは、質がちがいます。
今は、様子を見られたほうがよいかもしれません。
「笑って卒業できない」、悔しさはよくわかりますが、別の見方をすれば、よい「転機」にもなるの
ではないでしょうか。

 相手はただの子ども。
小学6年生。
そんな子どもを相手に、「悔しい」と思ってはいけません。
あなた自身の精神のレベルを下げてしまいます。

●小沢一郎の不起訴処分

 悔しいといえば、今の民主党。
反自民というよりは、反麻生の票が、どっと民主党へ流れ込んだ。
結果は、民主党のひとり勝ち。

 その結果が今。
結局、「秘書が勝手にやったことです」と言って、小沢一郎は、逃げてしまった。
検察側は、証拠不十分ということで、一連の小沢疑獄事件にはメスを入れないまま、不起訴処
分にしてしまった。

 悔しいといえば、悔しいですね。
最初から現場には、自分が出ないで、秘書たちを出させていた。
おそらくあとあとのことを考えて、そうしていたのでしょう。
つまり汚れ役は秘書たちにやらせて、自分は、奥から指示だけを出していた。
そして事件が発覚すると、「私は知りません」「秘書が勝手にやったことです」と。

 こういう事件が明るみになるたびに、政治家たちは、ますます巧妙になっていく。
やり方がズル賢くなっていく。

そこで「連座制」というのが生まれたわけですが、しかしこれは刑事訴訟法には、規定されてい
ない。
あくまでも政治家のモラルの問題というわけです。

 つまり私が言いたいのは、「上」がこのザマだから、どうしてその「下」がよくなるかということで
す。
いわんや、子どもの世界をや!

●OMさんへ

 話が脱線しましたが、あなたもそろそろ子離れを始めるときです。
「子離れ」というのには、2つの意味があります。

 ひとつは、あなた自身が、子どものことを忘れて、自分の人生を生きるという意味。
もうひとつは、あなたの子どもがじょうずに親離れできるように、子どもを仕向けるという意味。

 さらに言えば、あなたがもっている(幻想)を、早く捨てること。
「私たちはすばらしい親子である」とか、「私は人一倍、愛情の深い親である」とかいう幻想で
す。
こうした幻想は、かえって子どもの足かせになるだけで、子どもの自立ということを考えるなら、
好ましいことではありません。
子どもも、いつかそれを負担に思うようになるでしょう。

 私もこの年齢になってはじめて気がついたことがあります。

 やっと子育てが終わって、ほっとしたとき、そこでドカッと待っていたのは、老後だったというこ
と。
老後の資金といっても、息子たちの学費で、使い果たしてしまっていますから、ほとんど残って
いません。
学費だけでは、ありません。
頼まれもしないのに、100万円単位のお金を、そのつど供出してきました。
が、息子たちには、感謝の「か」の字もない。
ないというより、その余裕がない(?)。
自分たちの生活を支えるだけで、精一杯。
というより、目一杯の生活をするから、余裕など、生まれるはずもない。
そんな感じです。

何というバカ親だったのかと、私もこの年齢になってやっと、思い知らされたというわけです。
いえ、息子たちを責めているのではありません。
「年老いた親を、どんなことをしてでも養う」と答えた若者は、28%しかいません(総理府、200
9年調査)。

イギリス人でさえ66%、アメリカ人でさえ、64%!
東南アジアの若者たちにいたっては、80〜90%ですから、いかにこの数字が低いものか、わ
かっていただけると思います。

ここに書いた、「自分の人生を生きること」という言葉には、そういう意味も含まれています。
ついでですが、どうか、参考にしてください。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●今日の講演(歴史の生き証人)

+++++++++++++++++++

これからN市の保険医師会主催の、講演会で
講師をすることになっている。

ドクターたちの集まりだから、その道の
専門家も多い。
だからというわけでもないが、今、ひとつの
ことを考えている。

この21世紀に入ってから、教育の世界が
大きく変わってきたということ。
「変わった」といっても、制度的な変化を
いうのではない。

現在、(教育)と(心理学)と(大脳生理学)の、
この3つの分野が、融合されつつあるということ。
私たちは今、たいへんおもしろい時代に、
遭遇しつつある。

今はまだわからないかもしれない。
しかしこのあと、20年とか、30年とか過ぎたあと、
「あの時代に、この3つの分野が融合した」という
ことが、わかるはず。

たとえば子どものやる気にしても、教育の世界では、
(弱化の原理)(強化の原理)という言葉を使う。
しかし大脳生理学の世界では、辺縁系にある帯状回という
組織が、どうやらそのやる気を司っていることが
わかってきた。
さらにカテコールアミンというホルモンが、やる気に
関係していることもわかってきた。

さらに言えば、フロイトが説いた「性的エネルギー」についても、
根源は、どうやら視床下部あたりが、それを司って
いることもわかってきた。
そこから発せられる信号が、ドーパミンの分泌を促し、
もろもろの欲望も、そこから生まれる。

さらに善悪感覚にしても、ホルモンの作用によるという
ことまでわかってきた。

「悪」については、まだ未解明な部分も多いが、
「善」については、同じく辺縁系にある、扁桃核が
司っている。

何かよいことをすると、大脳の皮質部のほうから
信号が送られ、それに反応して、扁桃核が
モルヒネ様のホルモンを分泌する。
エンケファリン系、エンドロフィン系のホルモンである。
それが大脳全体を、甘い陶酔感で満たす。

「いいことをすると、気持ちよい」というのは、
そういう原理による。
先にも書いたように、やる気については、カテコールアミン
というホルモンが関係している。
もっとも私自身は、それがどういうホルモンであるかは
知らない。
知らないが、生き生きと活動している子どもは、
表情も輝いている。
その(輝き)こそが、カテコールアミンと、考えてよい。
私は勝手にそう解釈している。

さらに近年の大脳生理学の発達には、驚くべきものがある。
最近になって、「敏感期」「臨界期」という言葉を
よく聞くようになった。

人間の基本中の基本は、実は、0歳から7か月前後までの
間に決定されるという考え方である。
従来、「乳幼児には記憶がない」と考えられていた。
しかしこれもとんでもないまちがいであることがわかってきた。
今から10年ほど前、ワシントン大学のメルツォフ教授がそれを発表した。
むしろこの時期、怒涛のごとく、記憶が蓄積されていることがわかった。

まだある。
今度は、それまで愛着行動は、親の側からの一方的なものと
考えられていた。
しかしこれについても、実は、乳幼児のほうからも、愛着行動が
発せられていることがわかってきた。
もちろん無意識のうち・・・というか、本能的なものだが、
あの乳幼児が育ててもらえるよう、自ら親に向かって働きかけを
している。
親に向かって、(赤ちゃんらしいかわいさ)を、子どものほうからも
発信する。
それを受けて、母親は、子どもに乳をくれる。

相互に愛着行動を繰り返すので、「ミューチュアル・アタッチメント(相互愛着)」
という。

さらに、たとえば(人間性)にしても、この時期に、その基礎が
形成される。
反対にこの時期をのがすと、人間性の基礎もままならなくなる。

野生児をその例にあげるまでもない。

また人間にも、ある種の鳥類に似た、「刷り込み」が
あることがわかってきた。
この時期を、「敏感期」と、心理学の世界では呼んでいる。

一方、大脳生理学の分野では、重に、脳の神経細胞の
研究の分野から、この時期の(刺激)が、重要な意味を
もつことがわかってきた。

これはモルモットでの実験だが、(というのも、人体で
人体実験をすることはできないので)、たとえば生後
直後から、モルモットの片目を何かで塞いでしまうと、
そのモルモットの視覚を司る神経細胞は、機能を停止
してしまうという。
停止するばかりか、その塞いだものを取り除いても、
神経細胞が再生するということはない。
(一部、輪郭だけは見えるようになるという説もあるが・・・。)

神経細胞の完成しているおとなであれば、一時的に
目を塞いだからといって、目が見えなくなるということはない。
しばらくすると、機能は回復してくる。

こうした事実から、乳幼児期における早期教育の重要性を、
説く人も多い。
この時期に適切な刺激を与えることによって、子どもが
本来的にもつ「力」を、外に引き出すことができる。
そうでなければ、ここに書いたように、脳の神経細胞そのものが、
そのまま退化(「退化」という言い方が適切かどうかは
知らないが・・・)してしまう。

この時期に音楽的な刺激を受けた子どもは、音感にすぐれた
才能を発揮するようになる。
そうでなければ、神経細胞そのものが、退化してしまう(?)。

こうした現象がもっとも顕著に現れたのが、「野生児」である。
インドで見つかったオオカミ少女を、今さら例にあげるまでもない。
その後、2人の少女は、死ぬまでインド政府によって手厚く
保護され、教育を受けたが、最後まで人間らしい心を
取り戻すことはなかった。

腹が減ったときだけ、動物的な声を張り上げて、「怒った」と
いうような記録は残っている。

大脳生理学の分野では、この時期を、「臨界期」と
呼んでいる。
教育の世界でいう「敏感期」と同じに考えてよいのでは
ないだろうか。

こうして(教育)と、(心理学)と、(大脳生理学)が、
今、三つ巴になって融合し始めている。

考えてみれば、これはものすごいことではないか。
それぞれの分野で、未解明だったり、経験的にわかって
いたにすぎなかったことが、今、解明されようとして
いる。
私たちはその歴史の生き証人として、まさにその
時代の中で、それを目撃していることになる。

+++++++++++++++++++++++

●乳幼児期に作られる「私」。

 私たちは例外なく、乳幼児期に「私」が作られる。
「私は私」と思っている人は多い。
しかしそれでも、その「私」は、乳幼児期に作られる。
さらに言えば、今の私は、そのころできたレールの上に乗っているだけ。
けっして大げさなことを言っているのではない。
「私」のことがわかればわかるほど、そのことがわかってくる。

 言いかえると、それまでに作られる「私」がいかに重要かが、わかる。
さらに言いかえると、それまでの(子育て)が、いかに重要かが、わかる。

 「私」を知ることは、それほどまでにむずかしいということにもなる。
あるいは、「おもしろい」ということにもなる。

●過去をのぞく

 しかしここで誤解しないでほしい。
自分の過去をのぞいてみたとき、その過去が、仮に悲惨なものであっても、
それはそれ。
ほとんどの人は、多かれ少なかれ、そうした過去を背負っている。
恵まれた環境で、何一つ不自由なく、親の豊かな愛情に包まれて育った人の
ほうが、少ない。

 たいていの人は何らかの問題をもっている。
家庭騒動、両親の不和、経済問題などなど。
問題はそういう問題があったということではなく、そういう問題があったことに
気づかず、同じ失敗を繰り返すこと。
とくに自分の子育てで、どこかにぎこちなさを感じている人は、一度、自分の
過去を静かにのぞいてみてほしい。
子どもに対して極端に甘い親、反対に、極端にきびしい親など。
のぞくだけでよい。
あとは、時間が解決してくれる。
5年とか10年とか、時間はかかるが、時間が解決してくれる。


Hiroshi Hayashi++++++Feb.2010++++++はやし浩司

●意識(改作)

++++++++++++++++++

織田信長は、本能寺で焼け死んでいる。
それについて、ある子どもがBLOGにこう書いた。
年齢はわからないが、漢字の使い方からして、
中学生くらいではないか。

「どうして消防自動車を呼ばなかったか」と。

それに答えて別の子どもが、「電話線も切られて
いたんじゃない?」と。
そこで先の子どもが、反論した。

「携帯電話はもっていなかったのか」と。

それについても、「電池が切れていたのかも」と。

会話がつづいた。

A「信長だろ、消防自動車くらいは、呼べたはず」
B「家が木造だったから、火の回りが早かったかも」
A「消火器はなかったのか」
B「なかったかも」と。

この2人のやり取りを読んだ別の子どもが、こう書いた。

C「お前ら、ちゃんと勉強したのか。
信長は、赤ん坊を助けるため、火の中に飛び込んだんだぞ。
それで焼け死んだんだぞ」と。

(以上、参考、「週刊アスキー」に載っていた記事より。)

++++++++++++++++++++

●「学校は、どうしているの?」

 こういう記事を読むと、常識のある人なら、だれでも笑う。
あまりにも非常識というか、バカげている。
が、笑ってばかりは、いられない。
同じような無知、無理解は、いたるところで経験する。

 先日も、BS放送(NHK)を見ていたら、こんなシーンがあった。

 タイのチェンマイにある、屋台を紹介していた。
その屋台を、2人の子どもたちが、手伝っていた。
それを見たレポーターが、こう問いかけた。
「学校は、どうしているの?」と。

 子どもを見かけると、すぐ「学校」「学校」と問いかける。
日本人の悪いクセである。
10年ほど前には、こんなシーンもあった。
同じくNHKの番組だった。
戦禍のサラエボで、逃げ回る子どもに向かって、「学校は、どうしているの?」と。

●仕送り

 恐らく今の若い人たちに向かって、こう言っても、理解できないだろう。
「私は結婚前から、収入の約半分を、実家に送っていた」と。
私の親類の中には、無神経な人がいて、「そんなはずはない」と言った人もいる。
「そのお金は、どこに消えたのか」と。

 私が送ったお金のたいはんは、母が貯金していた。
また別のたいはんは、母から、さらに母の実家を守る伯父に渡っていた。
伯父は定職にもついていなかった。
ほかにも、いろいろある。

 が、私が書きたいのは、このことではない。
私の生まれ育った時代には、それが当たり前のことだった。
珍しくも、何ともなかった。
収入の何割かを、毎月実家へ仕送りしていた人は、いくらでもいた。

 で、ここにも書いたように、そういう話をしても、今の若い人たちには理解できない。
いつも「現在」を基準にして、ものを考える。
話の内容こそ正反対だが、織田信長の時代に、携帯電話があったと思うのと、どこも
ちがわない。

●「学校」意識

 織田信長の時代に携帯電話という話は例外としても、こうして並べて考えてみると、
「歴史とは何か」。
そこまで考えてしまう。

 「学校」にしても、日本人がもつ「学校」意識は、明治以後の国策のひとつとして、
作られたもの。
富国強兵策のひとつとして利用された。
そういう歴史的背景があって、日本人は、子どもを見れば、「学校」「学校」というように
なった。

 もちろんこうした意識は、国によってもちがう。
隣の韓国は、世界に名だたる受験国家として知られている。
その影響もあって、韓国の新聞各紙を読んでいると、「順位」が話題にならない日はない。

「韓国は、世界〜位になった」「〜位にさがった」と。
とくに相手が日本のときは、日本の順位と並んで、「日本に勝った」「負けた」の記事が
並ぶ。
今度のTOYOTA自動車のリコール問題についても、韓国内では連日、大々的に
報道されている。
「日本車の信頼は、地に落ちた」という記事まで載った。

●意識

 私たちは、つねに自分の意識を疑う。
言いかえると、私たちがもっている意識ほど、あてにならないものはない。
ときにその意識が、そこにある(真実)を、覆い隠してしまうこともある。
とくに、作られた意識には、警戒したほうがよい。

 コンビニで買ってきた本に、こんな話が載っていた。
2つの話を並べてみる。
みなさんは、この2つの話の共通点がわかるだろうか。
内容は、少し私のほうで変えさせてもらった。

(日本の中学校で・・・)

【問】「織田信長は、本能寺で、家来の(     )に、殺害された」
「また織田信長は、壮大な(     )を、作り上げた」

(K国の学校で・・・)

【問】「我が国の偉大かつ輝ける指導者である金xx様による賢明な指導により、
建設された、P市大通りに面したところにある、音楽室の面積は、60平方メートル
である。縦の長さは、横の長さより、4メートル長い。縦と横の長さを求めよ」

その本の中で、ある中学生は、こう書いた。

【答】「織田信長は、本能寺で、家来の(宴会中)に、殺害された」
「また織田信長は、壮大な(ロマン)を、作り上げた」

 思わず笑ってしまったが、よくよく考えてみれば、この中学生の書いた答のほうが、
正しいのかもしれない。
正解は、(明智光秀)(安土城)ということになるが、どうして(明智光秀)(安土城)で
なければならないのか。
もしそうなら、ついでに、そのとき火を放った、ほかの家来たちの名前もいっしょに、
出題したらよい。
それともこの問題を出した教師は、その名前を知っているのだろうか。

 またK国の数学の問題にしても、しかり。
こんな問題なら、何も長々と、金xxをたたえた文章を、前置きとして書かなくても、「3行ですむ」
(同書)。

 ともに無駄なことを教え、それを「教育」と錯覚している。
つまりこれが共通点でである。
そしてその中で、私たちの意識は作られていく。

 まとまりのない話になってしまったが、織田信長と携帯電話の話は、おかしい。
同じように、答に「明智光秀」と書かせるのも、これまたおかしい。
そのおかしさをわかってもらいたくて、このエッセーを書いてみた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【追記】

●織田信長

++++++++++++++++++++++++++

織田信長は、なぜ、消防自動車を呼ばなかったのか?
「織田信長は、家来の(宴会中)に殺された」では、なぜまちがっているのか?

++++++++++++++++++++++++++

●珍回答

 「織田信長は、本能寺で、なぜ消防自動車を呼ばなかったのか?」と聞いた、子どもがいた。
子どもといっても、中学生(?)である。
年齢はわからないが、漢字をそこそこに使えるところをみると、それくらいの年齢である。

 一方、「織田信長は、家来の(宴会中)に、殺された」と、歴史のテストで答えた子どどもいた。
こちらも、中学生(?)である。
年齢はわからないが、ともに小学校の高学年児かもしれない。
あるいはひょっとしたら、高校生かもしれない。
「高校生」とは名ばかり。
歴史の知識にかぎらず、その程度の常識しかない高校生は、いくらでもいる。

●バカげた歴史教育

 そこそこに歴史の知識のある人は、こうした子どもたちの疑問や、回答を笑う。
かれらがもっている常識でもよい。
その常識を笑う。
織田信長の時代には、消防自動車は、なかった。
また織田信長は、家来の(明智光秀)に殺された。

 が、ここで私は、ハタと考えてしまう。
私たち自身だって、一応常識的な人間と思っているが、その一方で、非常識な情報に、そのつ
ど振り回されている。

 織田信長にしても、日本では歴史上の人物となっている。
しかし(ほめたたえるべき人物)であったかどうかということになると、それはどうか?
見方をほんの少し変えると、織田信長は、ただの殺戮(さつりく)者。
それを本能寺で討ち殺した明智光秀も、これまたただの殺戮者。
言うなれば、本能寺での異変は、ただ単なる、殺戮劇!

 権力の座についたというだけで、この日本では、「歴史上の人物」ということになる。
名を残すことになる。
事件があった年まで、記録され、今になっても、子どもたちは、それを暗記させられる。
どうしてそんなことが
必要なのか。
重要なのか。
さらに一歩、踏み込めば、このバカげた歴史教育に、なぜ、私たち日本人は、気がつかないの
か?

 たとえばあなたの近所で、親の遺産を取り合って殺人があったとする。
そうした殺人と、織田信長や明智光秀がした殺人と、どこがどうちがうというのか。
あなたはその(ちがい)を説明できるだろうか。

 「戦国時代の昔、いろいろな武将がいて、国を取り合った。
その中に、頭のおかしい武将もいて、家来に殺されることもあった」と。
その程度の知識で、じゅうぶんではないのか。
またどうしてそれではいけないのか。
年号を正確に言えたからといって、それがどうしたというのか?
必要であれば、そのつど、調べて、それを書けばよい。
ちなみに私は「本能寺の変」という言葉は知っているが、何年にそれが起きたか、知らない。

 大切なのは、中身。
今に残る、中身。
つまりなぜ私たちが歴史を学ぶかと言えば、過去の人たちのなした経験を、「今」に生かすた
め。
失敗でもよい。
そういうことをしないで、一方的に織田信長を美化するから、いまだに「国盗り物語」よろしく、
政治家の中には、権力闘争に明け暮れる人がいる。
またそういう人が、いつまでたっても、後を絶たない。

●大切なのは中身

 もし本能寺での異変が重要な歴史的事実であるとするなら、なぜそういう事件が起きたか。
その背景を教える。
そこに至る経緯を教える。
ついでに権力闘争の醜さや、無意味さを教える。
それが歴史教育だと、私は思う。

 だからテストの内容も、こう変えればよい。

【問】

 「織田信長という独裁者が、本能寺という寺で、家来の明智光秀という人に殺された。
なぜ、明智光秀は、織田信長を殺したか。またあなたはこうした権力闘争を、どう思うか」。

 ともかくも日本の歴史教育は、暗記一辺倒。
暗記に始まって、暗記に終わる。
この教育姿勢は、明治の昔からまったく、変わっていない。
ウソだと思うなら、大学の受験生たちがもっている歴史の参考書を見てみればよい。
センター試験の問題を見てみればよい。

 重箱の隅の、そのまた隅をほじくり返したような問題ばかり。
教える側も、それを教えるのが歴史教育と錯覚している。
教わる側も、それを暗記するのが歴史教育と錯覚している。

 ちなみにこうしたバカげた歴史教育をしているのは、この日本だけ。
欧米では、教師が生徒にテーマだけを与えて、そのテーマに沿ってレポートをまとめるのが、
歴史教育の(柱)になっている。

「あなたはトラガルファーの戦いについて、1年をかけて、調べなさい」
「あなたはフランス革命について、1年をかけて、調べなさい」と。

 そして年度の終わりに、自分の勉強したことを、調べたことを、みなの前で発表する。
そういう教育を、小学生のときからしている。
小学生のときから、受けている。

●知識は無価値

 暗記ということになるなら、ついでに明智光秀のほかの家来たちの名前も暗記したらよい。
ついでにそれぞれが、どのような作業を分担したか、それも暗記したらよい。
本能寺にいた織田信長の家来たちの名前も、暗記したらよい。
本能寺の住所も暗記したらよい。

 が、今では、こうした知識は、インターネットを使えば瞬時に手にすることができる。
詳しい内容を知りたければ、パソコンを使って調べればよい。
大切なのは、その上で、どう考え、どう判断するか、である。
そしてそれをどう「今」に生かしていくかである。

 私たちもそろそろ気がつくべきときにきている。
「暗記は無価値」と。
暗記といっても、このばあい、暗記のための暗記を重ねるような暗記をいう。
地理にしても、無罪とは言えない。

 この話で思い出すのは、5、6年ほど前に、つぎのようなことを暗記していた中学生である。
その中学生は、こう復唱していた。
「長野の高原野菜、富山のチューリップ・・・」と。
そこで私がその中学生に、「高原野菜って何?」と聞くと、その中学生はあっさりと、こう答え
た。
「知らない・・・」と。

 で、私はこう言った。
「浜名湖のうなぎと、教科書には書いてあるけど、今ではうなぎを養殖している業者は、ほとん
どいないよ」と。

●新しい教育

 「織田信長は、家来の(宴会中)に、殺された」でも、よいではないか。
そのとき本当に宴会をしていたのかもしれない。
ひょっとしたら織田信長の家来たちは宴会でもして、油断していたのかもしれない。
それをまちがっていると証明できる人は、だれもいない。
百歩譲って、どうして「明智光秀」という名前を、書かねばならないのか。
またどうしてそれが重要なことなのか。

 さらに百歩譲って、それが重要なことというのなら、それこそ重箱の底をほじくり返すような知
識を、生徒たちに暗記させたらよい。
暗記程度に応じて、成績をつけたらよい。
が、それは先にも書いたように、バカげている。
つまりこういうバカげた教育を教育と思い込んでいるから、その一方で、「なぜ消防自動車を呼
ばなかったのか?」という子どもが出てくる。
思考力そのものが欠落したような子どもである。

 が、これでは、いつまでたっても、日本人は変わらない。
進歩しない。
愚劣な失敗を、いつまでも繰り返す。

 たとえば私は、もう40年も前のことだが、北欧のどこかの国の首相が、議会まで自転車通勤
をしているのを知って、本当に驚いたことがある。
当時の常識(?)に凝り固まっていた私には、信じられないような話だった。
「首相が、自転車で通勤?」と。

 ちょうど同じころ、つまり私が金沢で大学生だったころ、石川県選出の代議士が、防衛庁の
長官に就任した。
たまたま駅でその凱旋パレードを見たが、それはまさしく大名行列そのもの。
何十台も車を並べて、夜の金沢市の町を駆け抜けていった。
それが当時の常識だったし、そういう光景を見ても、だれもおかしいと思わなかった。

 悲しいことに、現在の日本は、まだその延長線上にある。
その責任の大きな部分は、日本のゆがんだ歴史教育にある。
・・・と言うのは書き過ぎかもしれない。
しかしそれくらいの緊張感をもって、この問題を考えないと、今の日本の歴史教育を変えること
はできない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 日本の歴史教育 暗記教育 暗記のための暗記 ゆがんだ歴史教育 暗記教
育)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

(2010年2月8日、朝)

●不良老人

++++++++++++++++++++

昨夜は、映画『Dr.パルナサスの鏡』を観てきた。
家に帰ったのは、午前0時過ぎ。
寝るとき枕元の時計を見たら、午前1時だった。

星は4つの★★★★。

奇想天外というか、よくもまあここまで空想力、想像力
が働くものだと、そういうことに感心しながら観た。
おもしろかった。

数日前には、『オーシャンズ』を観たが、こちらは
説教ぽい映画で、星は2つの★★。
海洋生物の多様性には改めて驚いたが、もちろん
ストーリー性はない。
頭から「お前ら、バカか!」と言われているような
気がして、あまり楽しめなかった。

夜の道を歩きながら、ワイフとこう言い合った。
「ぼくら、不良老人だね」と。

世間では、「老人は規則正しい生活をするもの」とか、
「早寝、早起きが理想」とか、言う。
が、私たちは、不規則を旨として生きている。
若いときから、そうしている。
昨日も、映画を観るため、夕方1〜2時間ほど、
仮眠した。

今週をのがしたら、『Dr.パルナサスの鏡』は、
打ち切りになる。
それでそうした。

つぎに観たいのは、『インビクタス』と『トイ・ストーリー・
3D版』。
何とか時間を作って、今週中に2本とも観る。
来週になると、また新作がいくつか公開される。

+++++++++++++++++++

●買い物

 買ってよかったと思うものに、3つある。
ひとつは、布団乾燥機。
ひとつは、ウォーキング・マシン。
もうひとつは、ビデオカメラ。

 布団乾燥機は、布団の暖房用として使っている。
羽布団の下、毛布との間に、サンドイッチにして使っている。
おかげで寝るときはいつも、温泉につかっているような気分。

 いくつかコツがある。

 布団は、軽い羽毛布団にすること。
重い布団だと、暖気がふとんをもちあげることができない。
タイマーが切れたら、それ自体は、ふとんの外に出すとよい。
切れたとたん、布団の通気性を悪くする。

 昨夜のように、寒い夜は、ありがたい。
どうありがたいかは、一度使ってみるとわかる。
(M社から、同じようなしくみの暖房機器が売りに出されて
いるとか。
生徒の母親から、そんな話を聞いた。
ただし価格は20万円以上とか。)

 もうひとつは、ウォーキングマシン。
朝起きると、すぐそれを使って運動する。
10分もすれば、体が温まる。
20分もすれば、ジワーッと汗が出てくる。
頭の働きもよくなる。
もちろん健康にもよい。
食事の前とか後、ちょっとした時間を利用して
運動できるのがよい。
ときどきビデオを観ながら、使うこともある。
こういうのを一石二鳥という。

ハハハ!

 で、3つめが、ビデオカメラ。
2009年度、もっとも活躍したのが、ビデオカメラ。
そのカメラを使って、私の幼児教室を、ほぼすべて
ビデオに収めた。
YOUTUBEで見られるようにした。
カメラは、VICTORのEverio。
一度も故障することなく、よく働いてくれた。
かなり荒っぽい使い方をした。
今度買うときも、VICTOR社のものにする。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●TOYOTA車

 TOYOTA車のリコール問題について。
今では車といっても、電子機器のかたまり。
大きなパソコンのようなもの。

 パソコンを仕事で使っている人なら、みな知っている。
パソコンにトラブルは、つきもの。
私も昨年の12月(今月で3か月目)に、最先端の
パソコンを購入した。
あれこれとオプションをつけたら、軽く20万円を超えた。
(モニターは別。)

 そのパソコン、最初からトラブルつづき。
原因がわからないまま、毎日のようにメーカーに
相談した。
で、最終的に、原因がハードディスクそのものに
あることがわかった。
修復不能の不良セクターが、84Kか所もあった。

(ふつうは修復をかければ、不良セクターはゼロになる。
が、数回、修復をかけてみたが、それでも84Kか所も
残った。)

全体では、1000GBのハードディスクだから、
84K(=84000)程度など、微々たるものかも
しれない。
その84Kの部分で、いろいろな症状が出た。
突然、パソコンがフリーズするなど。
ハードディスクの丸コピーもできなかった。

 そういうことを知っているから、TOYOTAも
たいへんだなあと思う。
何しろ車である。
乗る人の乗り方によっても、影響を受ける。
たとえばオーストラリア人のばあい、日本人の私たちには
想像もつかないような、乱暴な乗り方をする。
荒れ地(アウトバック)で、大きな石を蹴散らしながら
走る。
アメリカ人も、そうだ。
しかも今年あたり、オーストラリアでは、
連日45度を超える日々がつづいた(南オーストラリア州)。

 そういうところで、それがパソコンだったら、
故障しないほうが、おかしい。

 それにしても頭にくるのが韓国。
自国のメーカーでもない。
自国では、数えるほどしか走っていない。
にもかかわらず、連日、TOYOTA車の欠陥問題を、
新聞の一面で報じている。
日本の(つまづき)が、よほど、うれしいと見える。
本当に、イヤ〜〜〜ナ国!

●電子ブック(後手後手に回る、日本の電子産業)

 その韓国。
近く、子どもたちが学校で使う教科書を、すべて電子ブック化するそうだ。
韓国政府が、そう発表した。
いいか、日本!
どうして日本は、そういうことをしないのか!

 文科省と教科書会社との癒着構造は、以前から問題になっている。
裏ではいろいろあるらしい。
だから今、日本の文科省が、「日本も電子ブック化します」などと言おうものなら、
天下り先になっている各種団体から、猛烈な抵抗を受けるだろう。
しかしこうした癒着構造が、日本の教育を、硬直化させている。
こんなことがあった。

 もう25年以上も前のこと。
「学校でパソコン教育」という声が高まったとき、それに真っ先に反対したのが、
あろうことか当時の文部省。
通産省はかなり本気で、パソコン教育を推進しようとしていた。
が、文部省は、「教師がいない」だの、「教員免許はどうする」だの、
「学部で教授を育てるまでに、20年はかかる」だのとか言って、
結局、パソコン教育を、クラブ活動程度に、抑え込んでしまった。
(今でも、その状態のままだが・・・。)

 教師などは、工学部の学生をあてればよい。
教員免許など、学士号があれば、じゅうぶん。
現に欧米では、そうしている。
教育学部で、電子学科を新設し、そこで教授を育てようとする発想そのものが、古い。

 こうして日本は、電子立国の地位を、韓国に明け渡してしまった。
で、さらに今度は、電子ブック。
こういう分野でこそ、日本は、率先して改革を進めるべきではないのか。
「2012年度から、子どもたちの教科書をすべて、電子ブック化します」と。

 こうしたダイナミズムが、日本の電子産業を活性化させる。
が、なぜか、日本の教育は、何かにつけて後手後手。
たとえばいまだに携帯電話の是非論が、問題になっている。
「子どもに携帯電話は是か非か」と。

 だったら、あの携帯電話を利用して、大型の電子ブックを作ればよい。
アナログ放送も受信できるようにして、教科書の内容をそのまま配信すればよい。
もちろん電話、端末機としての機能ももつ。
パソコン機能もつければ、もっと視覚的な指導も可能になる。
方法は、頭を使えば、いくらでもある。

 さらに言えば、あの黒板だって、電子モニター化できるはず。
パソコンとつなげれば、もっと視覚的な授業が展開できるはず。

 が、なぜか、日本は、それをしない。
日本の文科省は、それをしない。
どうしてか?
ひとつだけはっきりしていることがある。

またまた日本は、韓国に10年は後れる。
悔しいが、そうなる。

(参考、産経新聞より)

 『・・・サムスン電子とアイリバーは大型書店「教保文庫」と提携し、書籍の6割程度の価格の
電子書籍を提供している。教保文庫によると電子書籍に依然として抵抗感を持つ出版社も多
く、ベストセラーや新刊の提供が難しいなど、コンテンツ不足は否めないという。

 端末機の開発・製造だけでなく、ネオラックスの場合、コンテンツの提供も始めている。書籍
のほか、韓国紙「朝鮮日報」や「毎日経済」などと提携し、契約者に新聞購読料の半額程度で
朝6時にニュースを配信している。新たに2紙が参入する予定だ。

 「低炭素・グリーン成長」政策を掲げる李明博政権は、韓国政府の環境対策のひとつとして、
紙の出ない電子書籍や電子ペーパー事業を後押ししている。来年から小・中・高校に「電子教
科書」が導入される見通しで、電子書籍の端末機やコンテンツ関連の企業の株価の急騰に弾
みをつけている』と。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●老後問題(意識と制度)

+++++++++++++++++

いくら意識はそうであっても、制度が
それに伴わないときは、意識にブレーキを
かける。
あるいは制度を、変えていく。
当然のことではないか。

昨日も渋滞で車が止まったとき、ふと
横を見ると、一組の家族がみなで、塀の柵を
なおしていた。
父親と思われる、70歳前後の男性が、小さな
斧で、柵を壊していた。
その横に、その息子夫婦と思われる男女が、
新しい材木を並べ、寸法を測っていた。

「いい光景だなあ」と私は、思った。
昔は、こうした光景はどこでも見られた。
当たり前の光景だった。
しかし今は、珍しい。

つまり老人は、家族とともに暮らし、その
家族に守られて生活していた。
とくに介護施設などなくても、何も問題は
なかった。
もちろん家族はそれなりにたいへんだった
だろう。
が、しかしこうした生活の延長線上に、
老人たちの老後があった。
老人たちは動けなくなるまで、家族の
ために働いた。
そういう姿を家族も見ているから、
親が動けなくなったからといって、
冷たくあしらうということは、なかった。

私の生まれ育った家族も、そうだった。

が、日本人のばあい、意識だけが変わってしまった。
欧米化したということになるが、逆に
欧米化していない部分を、否定するように
なってしまった。
「老人がさみしい思いをするのは、自業自得」と。

家族はバラバラになり、老人たちだけが取り残されてしまった。
この先、じゅうぶんな介護も受けられないまま、
独居老人になる人は多い。
孤独死ということにも、なりかねない。
私がそうなるかもしれない。
私のワイフがそうなるかもしれない。

そういう現実を目の前にすると、今までの教育は
これでよかったのかと、改めて考えなおしてしまう。

++++++++++++++++++

●制度の改革

 現在の介護制度は、おかしい。
たしかにおかしい。
本当にそれを必要とする人は、その恩恵をほとんど受けられないでいる。
その一方で、それほど必要としないと思われる人が、過分な恩恵を受けている。

 私の知人に、こんな夫婦がいる。
夫は長く、医療機関で事務長をしていた。
妻は、公的機関で、「長」のつく仕事をしていた。
だからこそそれができるのだろうが、現在、2人は、有料の老人ホームへ入居している。
高級マンションのような住居で、もちろん3食つき。
医療介護つき。
月額、2人で、35万円前後の生活費(部屋代が5万円、食事代が15万円x2)
だそうだ。

 もちろん自宅はある。
その自宅へ、週2回ほど、帰ってくる。
その日に合わせて、訪問介護の人がやってきて、掃除や洗濯をしてくれる。
夏の暑いときや、冬の寒いときは、老人ホームで寝泊まりする。
しかし春や秋の、過ごしやすい季節のときは、老人ホームを出て、自宅で寝泊まりする。

 現在、ともに84歳。
すでに30年近く、年金生活をしていることになる。
(30年だぞ!)
夫のほうは、歩くのが少し難儀になってきたようだが、妻のほうは、まだ自動車を
運転している。
あとは毎日、趣味三昧。

 この夫婦のばあい、死ぬまで、「豊かな生活」が保証されている。
その有料施設の横に、特別養護老人ホームが併設されている。
いよいよというときは、そのままその特養へ、移動できることになっている。
言い忘れたが、子どもはいない。

そういう人たちがいるのを知ると、「介護制度とは何か」と、またまた考えてしまう。
もちろんそういう人たちが、悪いというのではない。
「制度がおかしい」と、私は言っている。

●独居老人

 『平成18年度の数字を見てみると、「高齢者世帯数」が約840万世帯で、全世帯の約17・
8%を占めるようになった』という(厚生労働省の平成18年度国民生活基礎調査・現実にある
出来事HPより)。
その数は、1986年の、約3倍!
そのうちの何割かが、独居老人ということになるが、同時にそれと並行して、いわゆる「孤独
死」の問題があることを忘れてはならない。
死後、2週間前後で発見される人が多いという。

 こう書くと、「私はだいじょうぶ」と考える人がいるかもしれない。
しかし現在、40代の人が高齢者になるころには、3人に約1人が、その高齢者になる。
つまり1人の高齢者を、2人の若い人たちが支えることになる。
が、それは無理というより、不可能。
特養に入居している老人たちにしても、現在、1人あたり、月額30数万円の税金が、
投入されている。
今後、独居老人はふえる。
同時に、孤独死を迎える老人もふえる。
が、それはあなた自身の未来像に、ほかならない。

●では、どうするか

 2つの方法が考えられる。
ひとつは、家族を、いつも呼び寄せられる範囲に置くという方法。
そういう環境にある老人を、「呼び寄せ老人」というらしい(同HP)。

 もうひとつは、『・・・福祉先進国と呼ばれているスウェーデン。スウェーデンには「呼び寄せ老
人」に該当する言葉はないそうで、この国ではどんな過疎地でもホームヘルパーが活躍してお
り、年老いても独り暮らしができる環境が整っているそうです』(同HP)という方法。

 つまりホームペルパー制度の充実ということになる。
現在この日本でも、独居老人を定期的に巡回訪問している自治体がある。
マンション単位で、住人が話し合って、巡回訪問しているところもある。
いろいろな方法があるが、大切なことは、「独居老人」を、「独居」にしないこと。
週に2回、「こんにちは!」と声をかけてくれる人がいるだけでも、老人は、救われる。
孤独をいやすことができる。

 どうであるにせよ、私たちの未来は、暗い。
だから私は、「いい光景だなあ」と思った。
昔は、どこにでも見られた光景である。
「昔」といっても、ほんの一世代前。
その一世代だけで、日本は、こうまで変わってしまった。
「日本」といっても、日本人が変わってしまった。

 現在(09年)、「将来、どうしても親のめんどうをみる」と考えている若者は
30%もいない(内閣府調査)。
残りの多くは、「経済的に余裕があれば・・・」という条件をつけている。
もちろん「親のめんどうなど、みない」と考えている若者も多い。
つまり制度がともなわないまま、日本人の意識だけが先行して変わってしまった。
が、それでは困る。
「ブレーキをかける」と冒頭で書いたのは、そういう意味である。

●終わりに・・・ 

 あなたの息子や娘は、こう言うにちがいない。
「私という息子や娘が幸福になるというのに、親に、何が文句があるの?」と。
「親というのは、息子や娘が幸福になることだけを考えればいい」とも。

 もう10年近くも前のこと。
同じような意見を私がエッセーに書いたら、恩師のTK先生は、その返事として、こう
書いてきた。
「老人向きの意見ではありませんね」と。

 そのときは、私は、その意味がよくわからなかった。
「老人であろうと、親は親」と考えていた。
が、今は、その意味がよくわかる。
同時に、強烈な不公平感を覚える。

 何度も書くが、私は、結婚前から、収入の約半分を、実家へ仕送りしていた。
私だけが特別というわけではない。
それ以前の、つまりもう一世代前の若い人たちは、みな、そうしていた。
が、今は、逆。
ほとんどの親たちは、子どもの学費で貯金を使い果たしてしまっている。
老後の資金など、さがしても、ない。
どこにも、ない。
だから私たちの世代を、「両取られの世代」という。
親から取られ、子どもたちから取られる。

良好な人間関係があれば、まだ救われる。
しかしそんな関係を築いている親子など、これまたさがさなければならないほど、
少ない。
親というより、子どもたちのほうに、その意識がない。
ささいなトラブルを理由に、「私は親とは縁を切りました」などということを、平気で
口にする。

 家庭教育とは何か?
私たちはもう一度、原点に立ち返って、この問題を考えなおしてみる必要がある。
さて、あなたはだいじょうぶか?


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●ゲーム脳

+++++++++++++++++

「ゲーム脳」というのは、大脳生理学上の
問題ではない。
「現象」の問題である。
「大脳生理学上、ゲーム脳というのはない」と
説く学者もいる。
その世界では神格化され、「つぎつぎと商品企画
が、もちこまれている」(某雑誌)とか。

結構な話だが、こういう学者は、つぎのような
現象を、どう考えるのだろうか。
産経新聞をそのまま転載させてもらう。

+++++++++++++以下、産経新聞より++++++++++++++

【産経新聞・10−02−08】

『・・・世界最大となる3億3800万人のインターネット人口を抱える中国で、2400万人の青少
年がオンラインゲームやチャットにのめり込む(ネット中毒)に陥っている。中国青少年インター
ネット協会が8日までに発表した調査結果で明らかになった。 

 中国のネット人口のうち3分の1は、19歳以下の青少年が占めている。6〜29歳の青少年
7千人を対象に行われた調査結果によると、ネットに依存している青少年は2007年の9・7%
から14%に増加。「ネット中毒」が社会問題化し始めた05年ごろは400万人程度で、4年間
で6倍に増えた計算だ。娯楽の少ない発展が遅れている地域に中毒者が多いことも、特徴の
一つに挙げられている。

 中毒を誘因している一番の原因はオンラインゲームだ。「ネットを通じて何をしているか?」と
の問いに対し、47・9%が「ゲーム」と回答。2位の「アニメや映画、音楽のダウンロード」の2
3・2%、3位の「チャットで友達を作る」の13・2%を大きく引き離した。

 中国では08年11月、人民解放軍北京軍区総医院が策定した「ネット中毒臨床診断基準」を
公表し、ネット中毒を「繰り返しネットを使用することで一種の精神障害をきたした状態」と定義
付けた。今回の調査でも、ネット中毒になっていない人の66・5%は「他人を殴るのは間違って
いる」と答えたのに対し、中毒者は48%にとどまった。

 国際情報紙、環球時報(英語版)によると、中国青少年精神保健センターの創設者は「ネット
中毒者の40%は、(不注意や衝動的な症状などが出る)注意欠陥・多動性障害といった精神
疾患にかかっている」と警鐘を鳴らしている』(以上、産経新聞)。

+++++++++++++以上、産経新聞より++++++++++++++

●韓国→中国→日本?

 韓国で、ゲーム中毒の子ども(若者)が問題になりはじめて、すでに10年近く
になる。
中国の現状については、ここに産経新聞が取り上げているとおり。

 では、この日本ではどうか?
この日本での現状は、どうなのか?
が、不思議なことに、この日本では、ほとんど問題になっていない。
話題にすら、ならない。
韓国や中国では問題になっている。
が、この日本では、ほとんど話題にすら、ならない。
????

 実は、この日本では、ゲームを批判すると、猛烈な抗議の嵐にさらされる。
10年ほど前、私が『ポケモン・カルト』(三一書房)という本を書いたときも、
そうだった。
出版社だけではない。
私のところにも、電話や手紙、ハガキが殺到した。
名古屋のCラジオ局では、1週間にわたって、賛否の討論がなされたという。
(そういう番組があったことは、あとになって知った。)

 ゲーム脳という言葉を使った、M教授のところでも、同じようなことが起きたという。
つまりこうした(現象)は、それが話題になる前に、カルト化した信者たちによって
封殺されてしまう。
マスコミ自体が、どこかでゲーム産業と関係している。
あの『ポケモン』にしても、(テレビ)(雑誌)(玩具)の3つの分野の世界が、まさに
三位一体となって、生まれた。
批判どころか、「これがマルチ・メディアの成功例」と、もてはやされた。

 しかしゲーム脳はさておき、現象としての「ゲーム中毒」の子ども(若者)たちは、
この日本にもいると考えるのが自然。
「精神障害をきたしている」(産経新聞)子ども(若者)たちはも、多いはず。
そういう(現象)をみれば、「ゲーム脳などいうのは、学問的に証明された脳ではあり
ません」と説くほうが、おかしい。
学問的に証明されるのを待っていたら、それこそ、日本中の子ども(若者)たちの脳が
おかしくなってしまう。

 私がここに書いたことがおかしいと思うなら、もう一度、この産経新聞の記事を、
じっくりと読み返してみたらよい。
あの中国においても、その(現象)が起きている。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

【福音(神の国)の世界】

●選択

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私たちはそのつど、自分の人生を
選択しながら、生きている。
「あっちへ行くか?」「こっちへ行くか?」と。
映画『DR. ペルナサスの鏡』の中に出てくる
台詞(せりふ)である。
で、地獄に落ちたDR.ペルナサスは、
地獄をさまよい歩きながら、最後にこう叫ぶ。
「もう選択はいやだ!」と。
とたん、彼は地獄から解放され、現実の世界へと
引き戻される・・・。

+++++++++++++++++++

●人生論

 「私」のまま、私の人生を生きている人は、いったい、どれだけいるだろうか。
「これが私の道」と、その道だけを信じて、まっすぐ進んでいる人は、いったい、
どれだけいるだろうか。

 たいていの人は、私も含めて、そのつど角にぶつかり、選択をしながら、生きている。
「あっちの道へ行こうか、こっちの道へ行こうか?」と。
毎日が、その連続といってもよい。
そしていつの間にか、自分の意思とは無関係に、まったく別の道に入ってしまう。
そういう意味では、善人も悪人も、紙一重。
成功者も失敗者も、紙一重。
大きくちがうようで、どこもちがわない。
それが人生。
私やあなたの人生。

●運命

 私たちの心と体には、無数の糸が、からみついている。
過去の糸、生い立ちの糸、社会の糸、仕事の糸、血縁の糸、そして家族の糸などなど。
「糸」が悪いというのではない。
ときに、その糸に励まされ、生きる目的を与えられる。
心の安らぎを得ることもある。

 しかしその糸が、これまたときとして、私やあなたの体にからみつき、
私やあなたを、まったく別の世界に、導いてしまうことがある。
ばあいによっては、糸の奴隷となってしまうこともある。
それを「運命」と呼ぶなら、運命というのは、たしかにある。
「右へ行きたい」と思っていても、心と体は、左へと引っ張られてしまう。
運命というのは複雑な方程式のようなもの。
(今の私)が、その答ということになる。

●自由

 キリスト教というと、「愛の宗教」と考える人は多い。
しかしキリストは愛だけを説いたわけではない。
もうひとつ、「自由」を説いた。
「愛」を横軸とするなら、縦軸にあるのが、「自由」ということになる。
英語では、「liberation(解放)」という。
つまり魂の解放をいう。

 その解放とは何かということになれば、「選択と運命からの解放」ということになる。
私は、キリスト教の信仰者ではない。
これ以上のことはわからない。
が、キリストの説いた哲学は、まさに核心をついている。
なぜ私たちは生きているか。
なぜ私たちはここにいるか。
その答を示している。

つまり愛を横軸、自由を縦軸にして生きる。
それこそまさにキリスト教でいう、「福音の世界」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 自由 愛 愛と自由 魂の解放 福音の世界)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●兄の泣き声(改) 

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今でも、ときどき兄の泣き声が聞こえてくる。
今日も聞こえた。
少し前も聞こえた。
兄は、父や母に叱られると、決まって二階の
一番奥の部屋にやってきて、そこで泣いた。

私とは9歳ちがうから、そのとき兄は、
20歳前後ではなかったか。
私が小学生のころである。

兄は手のひらで自分の鼻を下から、すくいあげる
ようにして泣いていた。
オーオー、オーオー、と。

「準ちゃん、何が悲しいのか?」と声をかけても、
兄は、ただ泣くばかり。
鼻水をたらたらと流しながら、ただ泣くばかり。

それは私にとっては、過去ではない。
遠い昔の話でもない。
今でも、兄は、そこにいて、泣いている。
今でも、その声が聞こえてくる。

それはつまり私の心の傷。
傷の声。
傷の泣き声。
オーオー、オーオー、と。

++++++++++++++++++

●心の傷

 私の心の傷は、いやされるのか?
それとも死ぬまで、その傷に苦しむのか?
一生、私は、それを背負って生きていかねばならないのか?
いつかは忘れることができるだろうと思っていた。
いつかは解放されるだろうと思っていた。
しかし心の傷は、そんな生やさしいものではない。
いつもそこにあって、ジワジワと私の心をむしばむ。
いつ晴れるともなく、心の壁に張りついている。

 言いようのない孤立感と焦燥感。
毎晩のように見る、悪夢。
いつも何かに追い立てられている・・・。

 だれに話すこともない、私の過去。
暗くて、ジメジメした、私の過去。
その過去が、今も、そこにあって、私を苦しめる。
今夜も、またワイフに言ってしまった。
「離婚してあげようか?」と。
ワイフはさみしそうな声で、こう答えた。
「本当に、そうしたいの?」と。

 本当は離婚など、したくない。
別れたくない。
しかし私は、自分の心をどうすることもできない。

だれにも心を許さない。
心を開かない。
そういう私で、さみしい思いをしているのは、ワイフ。
そのワイフを、私がからませている鎖から、解放してやりたい。
私がいなければ、ワイフが幸福になれる。
そんな思いから、私自身も私を解放することができない。

 心の傷というのは、そういうもの。
いつも私の中にいて、私を、裏から操る。
操りながら、私をあざ笑う。

 ああ、今日も聞こえる、兄の泣き声。
オーオー、オーオー、と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 心の傷 トラウマ 兄の泣き声)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●セキュリティーソフト

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パソコンに、セキュリティーソフトは、必需品。
そのセキュリティーソフト。
いろいろな製品が発売になっている。

以下、「Mr.PC」(vol.1、P121)に出ていた
記事を、そのまま掲載させてもらう。

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G DATA  ・・・99・80%(99・80%)・・・1時間に1回以上更新
avast   ・・・99・30%(98・30%)
F−Secure・・・99・20%(99・60%)
Norton  ・・・98・70%(95・40%)・・・15分おきに更新
・・・
McAfee  ・・・93・60%(94・50%)

SourcenextウィルスセキュリティーZERO・・・92・10%(94・00%)・・・週に6回更新

数値は、「マルウェアの検出率」、(かっこ)内は、アドウェア・スパイウェアの検出率。

++++++++++++++++++

 こうして並べてみると、一目瞭然。
しかも更新頻度にいたっては、メーカーによって、大きな差がある。
で、こう書くと、「Sourcenext社のウィルスセキュリティーZERO」の悪口になってしまうが、私
は、7〜8台のパソコンすべてに、同社の製品をインストールしてきた。
が、あまりの低品質に驚いた。
(原稿の責任は、Mr.PCにとってもらう。)

現在12社から発売しているウィルスセキュリティーソフトの中でも、下から2番目。
しかも無料のウィルスセキュリティーソフトよりも、検出精度が低い(?)。
また「更新頻度は、無料のセキュリティーと同じ」(同誌)とか!

 この記事を読んだとき、ガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた。
「それなりにいいソフト」と思い込んでいた。
しかし検出度が、1%さがると、約10000のウィルスを見逃すことになるという。
もちろん99・99%だからといって、安心できるわけではない。
しかしそれにしても・・・。
「ZERO」の更新が、週に6回程度だったとは知らなかった。

 「更新料がいくらZERO」でも、これではZEROの意味がない。
ということで、今日、さっそく、パソコンのウィルスセキュリティーソフトを、購入。
すべて「G DATA」に乗り換えた。
かなりの出費と損失だったが、パソコンの健康には、代えられない。

●安全対策

 私のばあい、つぎのようにして、ウィルス(ボット)から、パソコンを守っている。

(1)仕事によって、パソコンを使い分けている。
(2)プロバイダーの、ウィルスチェック(有料版)を経由している。
(3)パソコン内部に、今回、「G DATA」を導入。
(4)あやしげなメールは即、削除。あやしげなサイトには、近づかない。

 とくに注意しているのが、私のウエブサイト(=ホームページ)。
ここにウィルスが仕込まれると、多くの読者に迷惑をかけることになる。
当然のことながら、頻繁に、ウィルスチェックを実行している。

 この世界でまずいのは、(知ったかぶり)。
パソコンの使い方に少し慣れてくると、あちこちに手を出す。
おかしなファイルをダウンロードしてみたり、動画サイトをのぞいてみたりする。
そのとき、つまり手を出したときに、ウィルスに感染する。
知らないなら知らないで、静かに、電気製品のひとつくらいに考えて、使う。
そうすれば、ウィルスに感染することはない。
私のワイフがそうだ。

 パソコンを立ち上げても、見るのはメールと、私や息子たちのサイト程度。
一通りみたら、そのままシャットダウン。
それでいつも、おしまい。
要するに、『触(さわ)らぬ神にたたりなし』。

●ウィルスへの認識

 実は、私も過去において、2度、ウィルスの侵入を許したことがある。
その人のパソコンにウィルスが侵入していて、ファイルを開いたとたん、こちらの
パソコンに感染してしまった。

 そのときのこと。

 Aさんは、私が電話でそれを報告すると、パニック状態になってしまった。
即座にパソコンを閉鎖し、パソコン自体をリカバリーした。

 Bさんは、やはり電話で連絡したのだが、まったく平気な様子だった。
罪の意識がないというか、「ぼくも被害者です」と言って、ヘラヘラと笑っていた。

 が、けっして笑ってすませられるような話ではない。
私はそのあと、1日かけて、パソコンをリカバリー(再セットアップ)した。
リカバリーが、いかにたいへんな作業であるかは、経験したことのある人なら、
みな知っている。
私はそのとき、つまりウィルスの侵入を知ったとき、体中に戦りつを覚えた。
ハラハラ、ドキドキしながら、リカバリーをした。

 ・・・ということで、ウィルス対策には、万全を期している。
先にも書いたように、パソコンの使い分けはもちろん、データ、ファイルは、そのつど、
コピーを取って保存している。
最悪のばあいをいつも想定し、いつでもリカバリーできる状態にしている。
ソフトを使って、ウィルス駆除という方法もあるが、私はこの方法を、信頼していない。
リカバリーが最善ということになる。
 
 要するに「安いからいい」と思って、値段の安いソフトを使ってはいけない。
(一方、値段が高いから安心ということでもない。
ちなみに、検出度1位の「G DATA」は、1年(1台分)で、4000円弱。
中には1万円以上もするソフトもある。

 「Mr.PC」誌は、こう書いている。
「結局な話、現時点での最強ソフトは、G DATA」(P122)と。
G DATAは、2本分のソフトの能力をもっている。
つまりソフト2本で、独立して、ウィルスをチェックする。
で、その乗り換え作業が先ほど、終了したところ。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●壊れる日本語

 今日、ある店で、たいやきを2枚買った。
1枚は、あずき。
これは私用。
もう1枚は、カスタード。
これはワイフ用。
そのときのこと、店の若い女性が、袋の詰めながら、こう言った。
「シタアンです」と。

 私は2度も聞き返した。
「シタアン?」
「どういう意味ですか?」と。
瞬間、ポルトガル語かとも思った。

 つまり「2枚重なっているが、下のたいやきが、あずきです」と。
私はそれを知ったとき、日本語そのものが、携端末機化していると感じた。
もちろん文章になっていない。
そればかりか、省略につづく省略。
つまりメチャメチャ。

 しかしこれも時の流れか?
携帯端末機世代がつぎの日本を背負うようになると、私がここに書いているような
文章は、消えてなくなるかもしれない。
たとえば、こうなる。

「・・・夕食まだ。おかず焼きそば。腹へった。油少し願う。ワイフ同意。私待つ」と。

 「それでいいのかなあ・・・?」と、かなり強い疑問を感じながら、たいやきを食べた。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司※

●大学生、貧乏盛り

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親元から離れて暮らす大学生への仕送り額が、
25年前の水準まで落ち込んでいることが10日、
全国大学生活協同組合連合会(東京)の調査でわかった。
(以上、読売新聞記事より)

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 読売新聞は、つぎのように伝える(2010年2月10日)。

 『・・・調査は全国31大学の学生を対象に昨年10〜11月に実施し、9660人から回答があ
った。

 マンションやアパートなど自宅外(寮を除く)から通う大学生への仕送り額は、月7万4060円
(前年比3520円減)で、月7万4240円だった1984年並みに下がった。仕送りゼロと回答し
た学生は全体の10・2%(同1・9ポイント増)に上り、70年以降で初めて1割を突破した。

 不況の影響からアルバイト収入も減少し、月2万2370円(同2230円減)となった。奨学金
は前年比2100円増の月2万6430円で、仕送りなどの減収分を補っている様子がうかがえ
る。

 一方、支出を切り詰める傾向も続き、住居費以外の支出はすべて減少。特に食費は月2万
3350円(同1080円減)で、1976年以降で最低の金額になった。

 大学生協連では「08年秋のリーマンショック以降、親の生活が厳しくなり、仕送りが減ってい
る。アルバイトにも頼れず、弁当を持参したり、研究室に炊飯器を持ち込んでご飯を炊いたりと
いった食費節約の努力をする学生が目立つ」と話している』(以上、読売新聞より)。

●月、7万4060円

 親からの仕送り額の平均は、月、7万4060円。
この額は、1984年並という。
25年前というと、私が、37、8歳のころ。
私が大きな転機を迎えたころである。

 このころ、私は、2つの世界から、足を洗った。
ひとつは、東洋医学の世界。
もうひとつは、教材作りの世界。
幼児教室も、閉鎖寸前まで追い込まれた。
私にとっても、何かときびしい状況だった。

 もっとも貧乏学生の話になれば、私だって負けない。
この私だって、学生のころ、実家からの仕送りは、1年生のとき、8000〜9000円。
4年のときも、1万2000円前後だった。
つまり下宿代だけ。
学費、その他の諸費用は、すべてバイトで稼がねばならなかった。
(学費は、月額1000円で安かった。1年生のとき。)

●奨学金制度の充実を!

 欧米では、奨学金制度が発達している。
企業も、「税金としてどうせ取られるなら・・・」と、その分を奨学金として、学生に渡している。
つまり奨学金として支出すれば、その分だけ、税金から控除される。
そのため学生たちは、「どこの大学へ入るか」よりも、「どこから奨学金を得るか」のほうに、よ
り強い関心をもっている。
そのために動き回る。
いくら大学への入学が決まっても、お金がなければ、勉強できない。

 もちろん優秀な学生には、大学からも奨学金が出る。
が、日本では、それをしない。
奨学金制度が貧弱なことは、すでにみなさん、ご存知のとおり。
理由など、今さら、ここに書くまでもない。

●貧乏は悪いことではない

 若いうちに、貧乏をしっかりと経験しておく。
そこを原点として、あとは、はい上がる。
ただバイト、バイトの学生生活にも、問題がある。
本を買うためにバイトというのはわかるが、携帯端末の使用料金のためにバイトというのは、
おかしい。
いわんや遊興費を稼ぐためにバイトということなら、もとから大学など行かなければよい。
その前に、「何のための大学か」ということになる。

 大学の英文科といっても、高校の教科書より簡単なテキストを使っているところは、いくらでも
ある。
最近もある女子大生(英文科3年)にこう聞いてみたことがある。
「目的格補語って、何?」と。
するとその女子大生は隣にいた別の女子大生に話しかけながら、「何だったけ? どこかで聞
いたことがある〜〜ウ」と。

 そこそこに名前の通った、私立の大学である。

●学費

 もちろんこの7万4060円には、大学への納入学費は含まれていない。
またこの額は、あくまでも平均。
読売新聞の記事にも書いてあるように、仕送りゼロと回答した学生が、全体の10・2%もいる
ことに、注目しなければならない。

 月に、20〜30万円も仕送りをしてもらっている学生がいる一方、ゼロの学生もいる。
さらに親に車を買ってもらったり、何かの資格を取るためと親をだまし、金を取っている学生も
いる。
そういう学生も含めて、平均「7万4060円」である。

 が、「仕送りゼロ」というのは、私にも想像がつかない。
私のばあいもバイトをしたが、試験期間中は、それもできなかった。
そんなときは、朝、夕の2食だけで、何とか生き延びた。
最長、20日間、生き延びた。
夏場は、大学のプールを風呂代わりにした。
ときどきパチンコ屋を回り、落ちている玉を拾って、それでタバコ代を稼いだこともある。
が、それとて下宿代だけは、親に出してもらったから、できた。

 「仕送りゼロ」というのは、「勉強もゼロ」ということではないのか。
10年ほど前だが、年に数回、講義に顔を出しただけで卒業できたと投書欄に投書していた大
学生(?)すら、いた。

●無駄な教育

 無駄な教育イコール、税金の無駄づかいと考えてよい。
もとから勉学意識のない学生が、大学に入る。
だから遊ぶ。
国にそれだけの余裕があれば、話も別だが、今のような状況で、子どもたちに、そこまでぜい
たくをさせる必要はない。
大学をもっと選別して、閉鎖すべき大学は、閉鎖する。

 一方、お金をかけるべき学生には、お金をかける。
お金をかけるべき大学には、お金をかける。
たとえば大学への進学率を、欧米並みに日本ももっと下げたらよい。
少なくとも少子化に並行して、大学の数を減らすべきではないのか。

 が、それもだめなら、これも欧米並に、落第制度をもっときびしく活用したらよい。
「年に数回、講義に・・・」という学生がいること自体、異常なのである。

 (1)奨学金制度の充実。(2)大学の選別化。(3)落第制度の厳格化。

 読売新聞の記事を読んで、私は、この3つを考えた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 仕送り額 平均仕送り額 

+++++++++++++

ついでに以前書いた原稿を
再掲載します。

+++++++++++++

●教育費の公的支出割合

++++++++++++++++++++++++++++++

日本の公的支出割合は、OECD(経済協力開発機構)の
調査によれば、対GDP比において、日本は3・3%と、28
か国中、下から2番目だった(2009年9月9日)。

わかりやすく言えば、その分だけ親の負担が大きいということ。
「全教育費に占める私費負担の割合は、33・3%と、
韓国に次いで、2番目に高く、平均の2倍以上だった」(中日新聞)と。

++++++++++++++++++++++++++++++

●子ども大学生、親、貧乏盛り(When boys are Univ. students, Parents in Japan are the 
poorest.)

++++++++++++++++++

8年前(2001年)に書いた
原稿を、再掲載。

++++++++++++++++++

子どもの教育費を考える法(学費を安くせよ!)

親が子どもの学費で苦労するとき

●親、貧乏盛り  

 少子化? 当然だ! 都会へ今、大学生を一人送ると、月々の仕送りだけで、毎月二七
万円(九九年東京地区私大教職員組合連合調べ、学費含む)(※)。が、それだけではすま
ない。アパートを借りるだけでも、敷金だの礼金だの、あるいは保証金だので、初回に四
〇〜五〇万円はかかる。それに冷蔵庫、洗濯機などなど。パソコンは必需品だし、インタ
ーネットも常識。となると、携帯電話のほかに電話も必要。入学式のスーツ一式は、これ
また常識。世間は子どもをもつ親から、一体、いくらふんだくったら気がすむのだ! そ
んなわけで昔は、『子ども育ち盛り、親、貧乏盛り』と言ったが、今は、『子ども大学生、
親、貧乏盛り』という。大学生を二人かかえたら、たいての家の家計はパンクする。

●親の負担が大きい日本

 一方、アメリカでもオーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、
さがさなければならないほど、少ない。たいていは奨学金を得て、大学へ通う。企業も税
法上の控除制度があり、「どうせ税金に取られるなら」と、奨学金をどんどん提供する。し
かも、だ。日本の対GNP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツに少な
い。欧米各国が、七〜九%(スウェーデン九・〇、カナダ八・二、アメリカ六・八)。日本
はこの一〇年間、毎年四・五%前後で推移している(UNESCO調べ)。大学進学率が高
いにもかかわらず、対GNP比が少ないということは、それだけ親の負担が大きいという
こと。日本政府は、あのN銀行という一銀行の救済のためだけに、四兆円という大金を使
った。それだけのお金があれば、全国二〇〇万人の大学生に、それぞれ二〇〇万円ずつの
奨学金を渡せる!

●もの言わぬ従順な民

 が、日本人はこういう現実を見せつけられても、誰も文句を言わない。教育というのは
そういうものだと、思い込まされている。いや、その前に日本人の「お上」への隷属意識
は、世界に名だたるもので、戦国時代の昔から、そういう意識を徹底的にたたき込まれて
いる。いまだに封建時代の圧制暴君たちが、美化され、英雄化され、大河ドラマとして放
映されている! 日本のこの後進性は、一体、どこからくるのか。親は親で、教育といい
ながら、その教育を、あくまでも個人的利益の追求の場と位置づけている。世間は世間で、
「あなたの子どもが得をするのだから、その負担はあなたがすべきだ」と考えている。だ
から隣人が、子どもの学費で四苦八苦していても、誰も同情しない。こういう冷淡さが積
もりに積もって、その負担は結局は、子どもをもつ親のところに集中する。

 日本の教育制度は、欧米に比べて、三〇年は遅れている。その意識となると、五〇年は
遅れている。かつてジョン・レノンが日本の税関で身柄を拘束されたとき、彼はこう叫ん
だ。「こんなところで、子どもを育てたくない」と。「こんなところ」というのは、日本の
ことをいう。彼には彼なりの思いがいろいろあって、そう言ったのだろうが、それからほ
ぼ三〇年。この状態はいまだに変わっていない。もしジョン・レノンが生きていたら、き
っとこう叫ぶに違いない。「こんなところで、孫を育てたくない」と。私も三人の子どもを
もっているが、そのまた子ども、つまりこれから生まれてくるであろう孫のことを思うと、
気が重くなる。日本の少子化は、あくまでもその結果でしかない。

(参考)

※……東京地区私立大学教職員組合連合の調査(一九九九年)によると、関東圏内の三一
の私大に通う大学生のうち、約九三〇〇人の学生について調べたところ、次のようなこと
がわ
かったという。親の平均年収       ……一〇三四万円(前年度より二四万円減)
受験費、住居費、学費、仕送りの合計金額 ……三二二万円
子どものために借金した親        ……二八・〇%(自宅外通学のばあい)
親の平均借り入れ額           ……一七六万円
教育費の負担が「たいへん重い」と答えた親……四四・六%
 このため、子どもの学費は、親の年収の三一・八%を占め、平均仕送り額は、一二万一
〇〇〇円。そこから家賃の五万六九〇〇円を差し引くと、自宅外通学生の生活費は六万四
〇〇〇円ということになる(以上一九九八年度)。

(参考)

●かたよった日本の行政予算

 これは2001年度、静岡県浜松市における予算案だが、それによれば、歳出のうち、
土木費が25・0%、民生費が19・5%、公債費が12・1%、教育費が10・3%、
衛生費が9・4%、以下総務費9・3%、商工費4・5%、となっている。

 教育費が少ないのはともかくも、土木費が25%(4分の1)というのは、世界的にみ
ても異常としか言いようがない。家計にたとえるなら、月収50万円の人が、毎月、13
万円ものお金を家や庭の増改築に使っているようなものだ。こうしたいびつな予算配分が、
結局は子どもをもつ親の負担となってはね返ってくることを忘れてはならない。

+++++以上、2001年ごろ書いた原稿より(中日新聞掲載済み)+++++

 この中で、1999年の調査結果を書いた。
ここに出てくる数字と、今回公表された数字を比較してみたい。

【1999年】

スウェーデン9・0、カナダ8・2、アメリカ6・8)。日本はこの10年間、毎年4・5%
前後で推移している(UNESCO調べ)。

【2006年】(今回、公表)

アイスランド……7・2%
デンマーク、スウェーデンとつづき、
日本は、2005年の3・4%より、さらに0・1%さがり、3・3%。

とくに大学などの高等教育費は、0・5%と、各国平均の1%の半分以下!
『子ども、大学生、親、貧乏盛り』の意味は、ここにある。

 今回政権を取った民主党は、これを5%にするといっている。
おおいに期待したい。
が、同時に、こんなことも言える。

 私などは国民年金しかないので、死ぬまで働くしかないと思っている。
が、その一方で、月額30万円前後の年金を手にして、優雅な生活を楽しんでいる
老人も多い。
そういう老人個人には、責任はないが、こんな偏(かたよ)った行政予算をしている
国は、OECDの調査結果を見てもわかるように、この日本だけ。

 どうして元公務員たちの年金が、私たちの5倍近くもあるのか!
最近、私の友人はこう言った。

「この日本では、自営業など、バカ臭くて、そのうちだれもしなくなるだろう」と。
ホント!
江戸時代の士農工商という身分制度が、形を変えて、そのまま現代の世界に復活している。
「士」だけが特権階級を形成し、残りの93〜94%の民衆は、増税にあえぐ。

 そのあたりから根本的に改善しないかぎり、結局はそのしわ寄せは、子どもをもつ
親にのしかかってくる。

 それにしても、たったの3・3%とは!
その一方で、土木費が、25%!
どこの公共施設も、超の上に超がつくほど、立派。
豪華。
そんな施設の中で、何が、「育児相談会」だ。
笑わせるな!


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●2月13日、今朝、あれこれ

 一雨ごとに、寒くなったり、暖かくなったり・・・。
数日前は、一度、4月の陽気になった。
が、一転、今朝は、寒い。

 朝、起きると一番に、ウォーキングマシンで、20分、歩いた。
このところ、運動不足。
現在体重は、2キロオーバーの、62・2キロ。
食事の量を減らしているが、やはり運動不足。
明日あたり、ワイフと近くの山に登ってみよう。

●金(ゴールド)バブルの崩壊?

 金(ゴールド)の価格が、グイグイとさがって、少し戻し、またグイグイと
さがっている。
こういうときあわてて金に手を出すと、ババをつかむことになる。
金バブルが、崩壊しつつある。

 数か月前、1オンスが1000ドルを超え、それが1200ドルを超えた。
日本では、グラム、3600円前後まであがった。
メチャメチャな額と言ってよい。
で、昨日あたりは、3200円台。
底をみきわめるのは難しいが、長期的な流れをみると、2800円台が正常値。
バブル崩壊ということになれば、さらにさがる。
さがったまま、その価格で低迷する。
こういうときは、一歩退いて、静観するのがよい。

●K国情勢

 あのK国が、いよいよおかしくなってきた。
もとからおかしい国だから、今さら、驚かない。
しかしそれ以上に、おかしくなってきた。

 日本にとって最善のシナリオ・・・それはK国を自然崩壊に導くこと。
朝鮮半島が混乱して困るのは、韓国と中国。
この日本ではない。

 あえてこちらから喧嘩することはないが、韓国や中国に対して、おかしな友邦
意識をもつのは禁物。
国の(距離)は、メジャーで計ってはいけない。
メジャーでは、計れない。
距離的に近いからといって、「近い国」ということにはならない。
韓国や中国は、日本にとっては、もっとも遠い国。
K国は、さらに遠い国。

 韓国では、このところ毎日のように、TOYOTAのリコール問題を一面で
報じている。
もちろんこの日本のことを心配して、ではない。
彼らにしてみれば、それがうれしくてたまらない。
アメリカでは、TOYOTAから現代車に乗り換えたら、1000ドル割り引くという
キャンペーンを始めた。
昔も今も、韓国という国は、日本にとって、そういう国である。

●不気味な上海B株

 バブルといえば、中国。
中国経済。
いつそのバブルがはじけるか?
ハラハラ、ドキドキ・・・。
中国政府は金利を高めに誘導して、バブルの沈静化を始めた。
しかし焚き火でも、水をかぶせすぎると、爆発する。

 すでに世界の機関投資家たちは、どうやって私たち庶民にババを引かせるか、
その準備段階に入った。
つまり私たち素人にババを引かせて、そのまま逃げる。

 そこらのオジチャンやオバチャンが、書店の金融雑誌コーナーに並ぶようになったら、
あぶない。
そのとき、中国経済は、崩壊する。
注視、上海B株!

●2年前の記事

 2年前の6月26日の、ABC・NEWSを読む。
それには、こうある。
「N. Korea Gives Up Some of Its Nuke Secrets」、つまり「北朝鮮、
核開発の秘密をあきらめる」と(2008年6月26日)。

 08年といえば、あのC・ヒル氏が、ひとりではしゃいでいたときである。
そのC・ヒル氏の報告に基づいて、時のジョージ・ブッシュ大統領は、
「今日、北朝鮮は、核開発の詳細な内容を示した資料を、アメリカ政府に
渡した」(同ABC・NEWS)と。

 そしてさらにこれに基づいて、アメリカ政府は、北朝鮮を、テロ支援指定国家
から解除し、さらに「"Axis of Evil" - off the list of countries that support "terror."」、
つまり「悪の枢軸」という呼び名を改めた(同)。

 記事には、それを誇らしげに発表するG・ブッシュ大統領の写真が掲載されている。

 C・ヒル氏が、G・ブッシュ大統領に、どのようなことを報告したかは知らない。
が、このとき北朝鮮から渡された資料というのは、ペラペラの、数枚の程度の紙だった
という。
そのことは、あとになってわかった。

 つまりこの記事を読んだだけでも、当時のアメリカ政府が、いかに方向音痴だったかが
わかる。
が、その流れは、今も変わっていない。
アメリカにも官僚主義というのがある。
その官僚たちの思考回路は、今も、同じ。
ボズワースの動きから、目を離してはいけない。

●小沢一郎幹事長

 方向音痴といえば、民主党。
不支持率が、支持率をとうとう超えてしまった。
「小沢一郎、やめろコール」が、80%近くにまで上昇している。
にもかかわらず、鳩山首相は、「小沢続投」と。

方向音痴というか、自分たちが今、どこにいるかさえ、わからなくなってしまった(?)。
今は、そんな感じがする。

●今日は土曜日

 とくに予定はないが、午後5時に、1人、人に会う約束になっている。
が、私は、休日に、こうした約束を入れるのが好きではない。
それによって、せっかくの休日が、その約束によって制約されてしまう。
窮屈といえば、窮屈。
「5時までに、帰ってこなければならない」とか、「5時には、家にいなければ
ならない」とか。
そんなふうに考えてしまう。
しかし約束した以上、しかたない。
会うしかない。

 とくにやりたいことはないが、今日は、「合成写真」にチャレンジしてみたい。
新しいソフトが手に入った。
2枚の写真をうまく合成すると、たとえば私が、火星の上を歩いているかのような
写真にすることができる。
今までも何度かやってみたが、意外と難しい。

 ・・・そう言えば、またまた私のビョーキが始まった。
何でもよい。
新しい電子機器がほしい。
メチャメチャ複雑なものほど、よい。
分厚い説明書がついているのが、よい。
箱を開けたとき、電子機器特有の、あのにおいがプ〜ンと出てくる。
あれがたまらない。
ズシリとした説明書。
それを手にしたときの感触が、たまらない!

 線条体の中に、そういう受容体ができてしまっている。
そこへ猛烈な勢いで、ドーパミンが作用している。
私には、それがよくわかる。

 これから早速、ソフトをインストールして、写真を合成してみたい。
・・・ということで、今日も始まった。
時刻は、もうすぐ午前7時になるところ。

 みなさん、おはようございます。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

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ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" height="250" alt="●BL
OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>

Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

【服装の乱れ?】(国母和宏選手の服装の乱れ問題)(改)

●「日本人よ、障子を開けて、外を見ろ」

+++++++++++++++++++

国母和宏選手(東海大)の公式服装の着方が
乱れていたと批判されている問題で、日本選手団の
橋本聖子団長は12日(日本時間13日)、
同夜開催される開会式への国母選手の出席を
取りやめさせると発表した。
(2010年2月)

+++++++++++++++++++

●報道記事より

 まず毎日JPの記事を紹介する。

++++++++++++以下、毎日JPより++++++++++++++

バンクーバー五輪のスノーボード・男子ハーフパイプ日本代表、国母和宏選手(東海大)の公
式服装の着方が乱れていたと批判されている問題で、日本選手団の橋本聖子団長は12日
(日本時間13日)、同夜開催される開会式への国母選手の出席を取りやめさせると発表し
た。17日に予定されている競技には、橋本団長の判断で参加できることになった。国母選手
は会見に同席し、「責任を重く感じています」と謝罪した。

 国母選手は会見で「応援してくださる方々に、雪の上でいい滑りを見せられるよう頑張りま
す」と述べ、開会式については「チームのみんなと出たかった。残念です」とした。

 批判の電話などが多数寄せられた全日本スキー連盟(SAJ)では、日本オリンピック委員会
(JOC)に国母選手の大会出場辞退を申し出た。これを受け、橋本団長が12日に国母選手と
話し合った結果、大会出場を認めることが決まった。橋本団長は「私がすべての責任を負い、
全力でサポートしたい」とした。また、「責任を取るのは大会で自分を出し切ること。子供たちに
夢を与えるのが、いまの彼の仕事だ。本人は反省している」と述べた。

 国母選手はバンクーバーに移動した際、公式ブレザーを着用しながら、ネクタイを緩め、ズボ
ンを腰の低い位置まで下げるなどしていた。また、10日に開かれた会見では「反省してまー
す」と語尾を伸ばして語ったが、反省の色が見られないとの批判も出ていた。

++++++++++++以上、毎日JPより++++++++++++++

つづいて、YAHOO NEWSより

++++++++++++以下、YAHOO NEWSより++++++++++++++

スノーボード男子ハーフパイプ日本代表の国母和宏選手(東海大)の、公式服装の乱れと会見
での態度が問題となっている件について、国母選手が在学する東海大学がWebサイトに「大学
といたしましても誠に遺憾に思っております」などとする見解を掲載した。

++++++++++++以上、YAHOO NEWSより++++++++++++++

また毎日新聞は、つぎのように報じている。

++++++++++++以下、毎日新聞より++++++++++++++

公式服装が乱れていたと批判されているスノーボード男子ハーフパイプ日本代表、国母和宏
(東海大)は、12日(日本時間13日)に行われた開会式の出席を取りやめた。同日午前、日
本選手団の橋本聖子団長と話し合いを持ち、国母に参加自粛を促した。全日本スキー連盟は
出場辞退を申し出ていたが、橋本団長の判断で、17日の競技には出場する。

 国母と橋本団長は12日、記者会見して謝罪した

++++++++++++以上、毎日新聞より++++++++++++++

●東京オリンピック

 私が高校生のとき、東京オリンピックが開催された。
もう40年以上も前のことである。
そのときのこと。

日本選手団は、一糸乱れぬ入場行進をして見せた。
「一糸乱れぬ」である。
歩き方、顔の向け方、礼の仕方、などなど。
手の上げ方、その角度まで、同じだった。
それを報道しながら、ニュースキャスターたちは、「すばらしい行進です」と、ほめちぎった。

 が、一方、欧米の選手たちは、バラバラ。
バラバラというより、行進の「体」をなしていなかった。
それを見て、その当時の私は、「何と、だらしない行進なんだろう」と思った。
思ったが、今から思うと、私というより、日本人の感覚ほうが、世界の常識から、ずれていた。

●乱れた服装?

 「国母選手はバンクーバーに移動した際、公式ブレザーを着用しながら、ネクタイを緩め、ズ
ボンを腰の低い位置まで下げるなどしていた」という。
写真も紹介されていたが、髪の毛も、長髪で、アフリカン・スタイル。
シャツも、そでが外に出ていた。

 が、結論から先に言えば、どうしてそれが乱れた服装なのか?
国母選手は、国母選手なりに、そういう服装を、意図的に、かつ、ファッショナブルに表現して
みせた。
私はその写真を見たとき、「マイケル・ジャクソン、そっくり」と思った。
つまりマイケル・ジャクソンの服装に、よく似ていた。
それがわからなければ、あのビル・ゲイツ氏を見ればよい。
彼は世界中を飛び回って、公式の場で講演を重ねている。
が、いつもヨレヨレのシャツに、ジーパン姿である。

●きちんとした服装

 一方、ではきちんとした服装というのは、どういう服装をいうのか?
「講演」という言葉を使ったので、私のことを書く。

 私は今でも、講演をするたびに、どんな服装で行くべきか、悩む。
本当なら、ありのままの服装で行きたい。
ありのままの服装で、ありのままの自分を話したい。

 が、会場がホテルであったり、何かの大会であったりすると、どうしても服装まで、硬くなって
しまう。
ネクタイを締め、ブレザーを着て行く。
が、そのつど、こう思う。
「どうしてこんな服装をしなければならないのか?」と。
日ごろの私は、そんな格好など、したことがない。

●ファッション

 ファッションということになれば、国母選手の服装は、どこも乱れていない。
腰パンがだめだというなら、どうしてだめなのか、その理由をきちんと説明できる人はいるだろ
うか。
自分たちの服装とちがうからといって、それを乱れていると考えるなら、それこそ、まちがって
いる。
まちがっていることは、人生を半世紀以上生きた人なら、みなわかる。

 たとえば江戸時代には、職業によって、着物の色が決まっていた。
柄や使う色の数も制限されていた。
そうした名残は、戦後になっても残っていて、「ホワイトカラー」とか、「ブルーカラー」という言葉
になった。
江戸時代には、士農工商の工民は、青い色の着物しか着られなかった。
それが「ブルーカラー」になった。

 さらに言えば、私が子どものころには、(男の色)、(女の色)というのまで決まっていた。
だから男の私が、赤いズボンや、赤いシャツを着るなどということは、考えられなかった。
考えられなかったというより、ありえなかった。

●画一性

 画一性が、いかに不気味なものであるかは、その外の世界に住んでいる人にはわかる。
あのOM事件のとき、OM真理教の信者たちは、みな、白い装束に身を包んでいた。
それを見て、だれしも、不気味と感じた。

 が、そう思う私たちだって、欧米人から見た、私たちの姿に気づいていない。

 あるアメリカ人(女性、当時30歳くらい)は、こう言った。
「ヒロシ、この前、海へ行って、驚いた。
日本の女子高校生たちは、みな、黒い水着で泳いでいた。
気味が悪かった」と。

 そこで私が、「では、アメリカの高校生たちは、どんな水着で泳ぐのか」と聞くと、その女性は、
こう言った。
「みんな、自分の好きな水着を着る」と。
この話は、30年近くも前の話だが、それ以後、日本人の意識が変わったかというと、それはな
い。
というより、欧米人の感覚は、さらに先に進んでいる。

●意識のちがい

 服装が乱れているかどうかは、結局は、それを着る人、見る人の意識の問題ということにな
る。

 「乱れている」という基準は、他人に不快感を与えるかどうかで決まる。
そのとき、自分のもっている基準で、その服装を判断してはいけない。
たとえば臭いとか、不潔とか、そういうことであれば、「乱れている」ということになる。
しかし腰パンであろうが、シャツのそでが出ていようが、あるいはユルユル・ネクタイであろう
が、どうしてそれが問題なのか?

 国がちがえば、服装もちがう。
たとえば子どもたちは、「男の人がスカートをはいたら、おかしい」と言う。
しかし世界には、男でも、スカート、もしくはそれに似た服を着ている民族は、いくらでもいる。
スコットランドやマレーシアを例にあげるまでも、ない。
インドネシアの民族衣装だって、それに近い。

●自由の象徴

 40年以上も前の、あの東京オリンピックを思い出してみてほしい。
残念ながら、団長の橋本聖子氏は若い。
若いから、当時の日本を知らない。
だから「乱れている」という。
しかし今、日本の選手団だって、欧米人にならって、バラバラの入場行進をしているではない
か。
またそのほうが自然。
「自由」の象徴。
「乱れている」というのなら、あのころを基準にすれば、日本の選手団全員、乱れている。
開会式を、全員、辞退したらよい。

●ルール?

 「一糸乱れぬ」という、あのきわめて全体主義的な、どこかの独裁国家の軍事パレード的な
行進感覚が、いまだに、この日本に残っている。
今回の国母選手の服装問題に関する記事を読んだとき、まっさきに、私はそれを感じた。
むしろ欧米人の感覚からすれば、「日本人も変わったなあ」と、むしろそちらのほうに感心する
かもしれない。

 日本人というと、画一的でおもしろくない。
それが欧米人がもつ、日本人観である。
そうした感覚は、欧米の映画に出てくる日本人を見れば、よくわかる。
欧米的であることが、すべて正しいというわけではない。
しかし一度は、欧米人の視点から、日本をながめてみたらよい。
むしろ今だに、学校の教科書よろしく、制服を決め、その着方まで決めている日本のほうが、
おかしい。
狂っている。

 日本のオリンピック理事会は、「スポーツにはルールがある」というようなことを理由にして、
国母選手を非難している。
ルール?

 ルールは、競技の世界でこそ、守るべきもの。
またそこで守れば、じゅうぶん。
どうして服装にまで、ルールがあるのか?

●軍国主義時代の亡霊

 恐らくさらに40年後には、開会式の服装すら、自由になるだろう。
今は、それはわからない。
私たちだって、40以上も前の、あの東京オリンピックのとき、あの行進を見て、「日本人はす
ばらしい」と思った。
しかし今になってみると、私たち日本人のほうが、世界の(非常識)だった。
軍国主義時代の亡霊を、そのまま引きずっていた。

 そのことは、あのK国の軍事パレードを見ればわかる。
ああいう軍事パレードをする国を、だれも「正常」とは思わない。
自由が一方にあって、その上で、ああした行進をするなら、まだ理解できる。
しかし国全体が、そして国民一人ひとりが、みな、日常生活の中で、軍事パレードをしている。

 もちろん、あのK国には、思想の自由はない。

●反省?

 まあ、あえて言うなら、国母選手の服装は、発展途上国である、この日本では、早すぎたとい
うこと。
理解されなかったということ。
おおかたの日本人は、眉をひそめたであろう。
そういう(常識)の壁を破るのは、簡単なことではない。
また国母選手も、そこまで肝がすわっていたわけではない。

 だから記者会見場では、頭をさげ、うなだれていた。
橋本聖子団長は、こう述べた。
「責任を取るのは大会で自分を出し切ること。子供たちに夢を与えるのが、いまの彼の仕事
だ。本人は反省している」と。

 「子どもたちの夢」?
・・・いろいろ書きたいことはある。
山ほどある。
が、そんなことで、子どもたちの夢は、破れない。
またそんなことは、夢でも何でもない。
もしそうなら、マイケル・ジャクソンは、世界中の子どもたちの夢をつぶしたことになる。

●結論

 日本人よ、もうこういうバカげた画一性を、他人に押しつけるのをやめよう。
オリンピック選手は、競技の場で、勝負すればよい。
どんな格好あろうが、またどんな服装をして行こうが、そんなことは競技とは関係ない。
そういう(自由)が基本にあって、その上で、何らかの統一性をもたせるというのであれば、そ
れはそれ。
私も納得する。
しかしその(自由)も知らないような民族が、過去の亡霊に引きずるのは、まちがっている。

 何も教科書問題とからめるわけではないが、欧米先進国の中で、「検定制度」をもうけている
のは、この日本だけ。
文科省は、「国定と検定はちがう」と反論している。
が、どこもちがわない。

 また「欧米にも検定機関がある」と反論しているが、オーストラリアにしても、検閲するのは、
(性的表現)と(暴力的表現)のみ。
むしろ(歴史)などは、検閲してはいけないと、釘をさしている。

 国母選手が、あっさりと謝ってしまったことのほうが、問題。
本来なら、教育の自由を守るべき母校の大学が、国母選手を批判しているほうが問題。
どうして出身校の大学が、「大学といたしましても誠に遺憾に思っております」などと発言するの
か。
発言できるのか。
それこそ、世界の笑い物。

 欧米では、今では、大学の単位は共通化され、「出身校」という概念そのものがない。
だからこうした発想は、欧米では、まったく理解されない。
報道記事の中には、「国母和宏選手(東海大)」と、わざわざ大学名を入れているのもある。
つまりこうした書き方そのものも、世界の非常識。

 今回の国母選手の、服装問題を考えたとき、私の結論は、ただひとつ。
日本人よ、「障子をあけて外を見ろ」(豊田佐吉の言葉より※)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 国母選手 国母和宏選手(東海大) 服装の乱れ 乱れ問題 オリンピック 開会
式辞退 はやし浩司 国母和宏選手)

(訂正※)正しくは、『障子を開けてみよ。外は広いぞ』。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●文章力

 このところ文章力が落ちてきたように思う。
あとで自分で読み返してみたようなとき、それがわかる。
「文章力」といっても、「表現力」のことではない。

(「表現力」というのは、その文章のもつ(深み)によって決まる。
より深く考える。
そのより深く考えた部分を、どう表現するか。
切り口が深い文章ほど、またそれがよくわかる文章ほど、よい。
それを決めるのが、「表現力」ということになる。)

一方、文章力というのは、いかに適切な言葉で、的確に表現するか、その力をいう。
読みやすければ読みやすいほど、よい。
その力が落ちてくると、あとで読みなおしてみたようなとき、「こういう言葉を使えば
よかった」とか、「どうしてこんな回りくどい言い方をしたのか」と思うことが多くなる。

それにこのところ、言葉の使い方にも、ミスが多くなった。
「表す」と書くべきところを、「現す」と書くなど。

たとえばここでいう「文章力」というのも、正確には、「文章表記力」ということになる。
しかし「表記力」というのも、おかしい。
正しくは、何というのか?
 
 それに文章全体がもつリズムも大切。
私はそのリズムを大切にしているが、調子が悪いときに書いた文章には、そのリズムが
ない。
これもあとで読み返してみたようなとき、それがわかる。
よい文章というのは、読んでいても、気持ちよい。
書いてあることが、スイスイと頭の中に入っていく。
そうでないときは、一文ごとに、食べものが喉でひっかかるように、頭の中でひっかかる。
読んでも意味がわからないというのは、文章としては、最悪。
誤解されるというのも、よくない。

 で、ためしに何か、書いてみる。
(1)の文章は、未校正、未推敲の文章。
(2)の文章は、(1)の文章を校正、推敲したもの。
たまたま今、テレビで、衆院予算委員会の国会中継をしている。
それを見ながら、感じたことを書いてみる。

(1)国会中継

 ハイビジョン画像になると、議員の髪の毛一本一本まで、はっきりと映る。
たった今、鳩山首相が答弁に立ったが、うっすらと化粧している様子まで、よくわかる。
それに・・・今、気がついたが、鳩山首相の手作が、小刻みに震えている。
血栓性の脳梗塞か何か、あるのかもしれない。
ハイビジョンというのは、そこまでテレビに映し出す。

(2)国会中継

 ハイビジョンテレビでは、議員の髪の毛一本一本まで、はっきりと見える。
たった今も、鳩山首相が答弁に立ったが、うっすらと化粧をしている。
そんな様子まで、わかる。
それに・・・今、気がついたが、鳩山首相の手先が、小刻みに震えている(?)。
小刻みだが、たしかに震えている。
血栓性の脳梗塞か何か、あるのかもしれない。
そういう意味では、ハイビジョンテレビというのは、恐ろしい。
そこまでこまかくテレビに映し出す。
・・・映し出してしまう。

 (1)の文章より、(2)の文章のほうが、私はよいと思うが、それは私の印象。
そこでその印象をたしかなものにするために、しばらく文章を熟成させてみる。
「熟成」というのは、少し時間をおいて、読みなおしてみるということ。
そのとき、コツがある。
その文章を、自分の文章としてではなく、他人の文章として読む。
一歩、退いて読む。
もちろんそのとき、内容的に正しいかどうかも、判断する。

 こうして文章というのは、文章になる。
つまりこうして、よみやすい文章を書く力が、「文章力」ということになる。
その文章力が、落ちてきた。

 あとで読みなおしてみたとき、自分でも、下手な文章だなと思うときがある。
以前は、あまりそういうことはなかったが、このところ、そう思うことが多くなった。
それだけ集中力が落ちてきたのかもしれない。
勘が鈍ってきたのかもしれない。

 言い忘れたが、文章力というのは、しばらく書いてないと、確実に低下する。
大切なことは、毎日書くこと。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●茶番劇

++++++++++++++++++++++

あなたは大会社の常務。
実質上の会社のオーナー。
その会社で、あなたの若い部下が、不祥事を犯した。
あなたの知らないところで、あなたの印鑑を
勝手に持ち出し、私文書を偽造した。
何億というあなたの個人資産を、右から左へと動かした。

そのためあなたに、脱税の疑惑がかけられた。
あなたにとっては、まったく身に覚えのない話。
それどころか、あなたはそれによって、検事に二度まで取り調べられた。

もしそういうとき、あなたなら、どうするだろうか?
あなたなら、あなたの部下をどうするだろうか?

あなたがその常務なら、まっ先にあなたは、その部下をクビにするだろう。
背任罪で訴えるかもしれない。
横領はなかったにしても、あなたが受けた心的被害には、ものすごいものがある。
怒りに狂って、夜も眠られないかもしれない。

が、あなたはその部下をクビにしなかった。
クビにしなかったばかりか、部下のもとには、あなたの、腹心中の腹心の
弁護士を送った。
会社の顧問弁護士である。
で、部下は起訴され、拘置所から出てきた。
その部下に、あなたは、こう言った。

「そっと見守りたい」と。
???
怒るどころか、「そっと見守りたい」と。

こんなバカげた話が、どこにある?
こんな茶番劇が、どこにある?
それが今度の小沢疑獄事件の核心である。

で、その部下は、意気揚々と、拘置所から出てきた。
満面の笑顔を浮かべながら、カメラに向かって、手を振った。
こう言った。
「しばらく役職を離れますが、今までどおり仕事をつづけます」と。

TBSNEWs−iは、つぎのように伝える。

+++++++++++以下、TBSNEWS−iより+++++++++++++

 民主党・小沢幹事長の資金管理団体の政治資金規正法違反事件で起訴された元秘書の石
川知裕衆院議員が、近く離党を表明し、12日にも離党届を提出する見通しとなりました。

 石川議員に近い民主党中堅議員によりますと、石川議員は、「皆さんに迷惑はかけたくない」
と述べ、離党する考えを伝えました。ただ、国会議員は辞職せず、今後も議員活動を続けてい
く意向だということです。

 また、小沢氏に近い民主党中堅議員によりますと、石川議員は近く離党を表明し、12日にも
離党届を党本部に提出するとの見通しを示しました。

 石川議員の処遇をめぐっては「離党しなければ党内はまとまらない」など、離党は避けられな
いという見方が大勢で、石川議員もこうした意見をもとに判断したものとみられます。

 一方、10日夕方、新党大地の鈴木代表と会談した小沢氏は、「そっと見守りたい」と述べて、
石川議員の判断を尊重する考えを示したということです。
(2010年2月10日)

+++++++++++以上、TBSNEWS−iより+++++++++++++

●「もし・・・」

 それが茶番劇かどうかは、「もし・・・」を、頭につけて考えてみれば、よい。
それでわかる。
それで簡単に見破ることができる。
このばあいは、「もし、本当に、小沢氏が、無実であるとするなら・・・」という前提で考えてみれ
ばよい。

 もし小沢氏が無実であるとするなら、小沢氏の秘書に5000万円という大金を渡した業者の
話は、どうなる?
業者がウソをついているか、それとも、小沢氏の秘書が、ネコババしたことになる。
「5000万円」というのは、明らかになった金額。
実際には、ワイロとして動いた金額は、10億円とも、あるいは、それ以上とも言われている。

 業者は、秘書に、「5000万円を渡した」と言っている。
具体的に渡したときの状況まで、証言している。
もしそうなら、つまり業者が言っていることが本当なら、秘書がそのお金をネコババしたことに
なる。
あなたが「会社の常務」なら、そういうときどう判断するだろうか。
業者を疑う前に、あなたの部下を疑うだろう。
部下を問いただすだろう。
そして部下が逮捕されたら、あなた自身が、真相の究明を求めるはず。
警察や検事の取り調べに、積極的に協力するはず。
どうしてそんなとき、会社の顧問弁護士を、毎日のように拘置所へ送るだろうか。

・・・回りくどい言い方はやめよう。
民主党は、全体として、「記載ミス」を主張している。
「たかが記載ミス程度のことで、秘書が逮捕された」と。
しかしこういうのを、「すり替え」という。
わかっているくせに、つまり他人(=私たち一般庶民)をごまかすために、そういう。
が、天下の、あの東京地検特捜部が、たかが記載ミス程度のことで、動くか!
ものごとは、常識で考えろ!

 目的は、贈収賄罪。
しかも金額がちがう。
桁がちがう。

 が、秘書たちのかたい結束を打ち破ることができなかった。
みな、「知らぬ、存ぜぬ」を繰り返した。
5000万円についても、「受け取った覚えはない」と。
ということで、秘書たちは起訴されたが、そのお金を受け取ったであろうだれかは、
罪を問われることはなかった。

 民主党幹部は、鳩山総理大臣も含めて、「これで一件落着」と、無言を貫いている。
民主党内部でも、だれもそれを問題にしない。
声をあげるものも、いない。
残るは、野党となった自民党だが、自民党にしても、へたに騒げば、まさにヤブヘビ。
おかしな共存関係。

 何とも言えない、脱力感。
無力感。
「日本の政治も、こんなものかなあ」という思い。
「こんなことで、いいはずはないのになあ」という思い。
あるいは、「政治って、だれがやっても同じなのかなあ」という思い。
そういう思いが、つぎつぎと現れては、また消える。

 ただ大切なことは、私たち1人ひとりが、もっと声をあげること。
おかしいものは、「おかしい」と、声をあげること。
時間はかかるかもしれないが、それが私たちの意識を変え、政治を変えていく。

(追記)

 小沢一郎幹事長は、こう言った。
「しばらく民主党政権はつづく」と。
私たちの感じている脱力感を見越しての発言とも、考えられる。
「自民党もだめ」「民主党もだめ」「では、どうすればいいのか?」と。

 つまり私たちの感じている脱力感を、逆手に取った。
「どうあがいても、オレたち、民主党しかないだろ」と。

 たしかにそうだが、そうであるからこそ、民主党、なかんずく小沢一郎幹事長は、
もう少し謙虚であるべきではないのか。
権力の座についたことをよいことに、傲慢になった・・・というより、なりすぎて
しまった。

 このまま鳩山政権が小沢一郎幹事長を、事実上の党首として、その存在を許すなら、
私たち浮動票層が、黙っていない。
とりあえずは、民意の力で、小沢一郎を、裁判所に引き出すこと。
その場で、白黒の決着をつけること。
そういう方向で、世論を高めていくしかない。
数日前の世論調査によっても、80〜90%の国民は、今回の不起訴処分に納得していな
い。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司※

●2月14日

●不気味な足音

++++++++++++++++++++

あちこちのニュース・サイトをのぞいた。
その中でも、ドキッとしたのが、NIKKEI
(日本経済新聞社)の、つぎのニュース。

新興国から、資金が流出し始めているという。
そのため、BRICS株が、年初より、
6〜13%も下落しているという。

NIKKEI・サイトは、つぎのように伝える。

++++++++++++++++++++

『・・・ BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)の直近の株価は年初来高値と比較した下落率
(終値ベース)がそれぞれ6〜13%に達した。米調査会社EPFRグローバルによると新興国株
式ファンドの投資は、1月下旬から資金流出額が流入額を上回って推移している。主要な新興
国通貨も対米ドルで下落に転じている』(NIKKEI・2/14)。

 BRICSの株価が下がったことが問題ではない。
(下がった)のは、あくまでも(結果)。
(資金が流出し始めている)のが、問題。
その結果、株価が下落した。

 現在、これらの国々は、バブル経済で踊っている。
そのバブル経済が、今、少しずつだが、はじけ始めている(?)。
仮に中国のバブル経済がはじけたら、その爆発力は、ドバイショックの比ではない。
「威力は1000倍」と説く、経済学者さえいる。

 外債を買っている人たちは、じゅうぶん、注意+警戒したらよい。
08年のリーマンショックで、50〜70%の損失を出した人は多い。
そういう人たちは、何とか元だけは取り戻したいと、売るに売れない外債をかかえ、
じっと塩漬けにしている。
がまんしている。

 しかし今度中国でバブル経済がはじけたら、50〜70%の損失ではすまなくなる。
へたをすれば、3分の1、あるいはそれ以下になる。
私の知人の中には、08年のリーマンショックで、約1億円分の外債を、10分の
1以下にしてしまった人がいる。

 ギリシャのデフォルト(国家破綻)問題は、EUが乗り出し、今のところ平静を
取り戻している。
しかしそれで問題が解決したわけではない。
この先、何が起こるか、だれにもわからない。
どの国が、最初にこけるか、だれにもわからない。
しかし不気味な足音だけは、私にも聞こえる。
それがジワジワと近づきつつある。

NIKKEIのニュースを読んで、私は、それを感じた。
(2010年2月14日朝、記)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

【老人心理】

●生活範囲

老人というのは、年をとれば取るほど、
生活範囲が小さくなる。
小さくなるというよりは、外の世界を
もてあますようになる。
その結果として、身のまわりを小さく
していく。
それだけではない。
「あれもできない」「これもできない」と。
逃げ腰になる。
ますます生活範囲が小さくなる。
それはわかる。

が、こんな老夫婦がいる。
私の母もそうだったので、これは老人に
共通した心理かもしれない。
こんな老夫婦である。

●ある老夫婦

私の近くに、ともに85歳になる老夫婦がいる。
2人とも、数キロ離れたところにある、
有料の老人ホームに住んでいる。
ところが、である。
毎日、そのうちのどちらかが、家にやってきて、
家の窓を開ける。
開けたあと、また老人ホームへと戻っていく。

夕方になると、今度は、その反対のことをする。
そのうちのどちらかが、家に帰ってきて、
家の窓を閉める。
閉めたあと、たいていはそのまま、また老人ホームへと
戻っていく。
ときどき、家に泊まることもある。

どうしてだろう?
どうして、そんな一見、無駄に見えるような
行動を繰り返すのだろう?

●私の母も

で、私は最初、こう思った。
「家の中に、たとえばタンス預金か何かがあって、
それを心配しているためではないか」と。
空き家とわかれば、泥棒が入るかもしれない。
あるいは何か、盗まれて困るようなものが、
あるのかもしれない。
が、どうもそれだけでは、ないようだ。

先に、「私の母もそうだった」と書いた。
つまり私の母は、世間体を気にして、
店だけは、どんなことがあっても、閉めなかった。
自分自身が入院したときも、また店を預かる
兄が入院したときも、そうだった。

私が「しばらく休業しますという張り紙でも
しておけばよい」と言ったときのこと。
母は、血相を変えて、それに反対した。

店を閉めるということは、母にしてみれば、
敗北を認めるようなもの。
だれに対してというのではない。
直接的には、世間体を気にして、ということになる。
母は、人一倍、世間体を気にしていた。
もちろんそこには、自分自身に対して、という意味も含まれる。
だからどんなときでも、店だけは開けていた。
私はそう理解した。

●最後の砦

で、先の老人夫婦だが、私が知るかぎり、
妻のほうは、世間体をあまり気にしていないようだ。
夫のほうが、気にしている。

こうした心理状態というのは、私も含めて、
若い人たちには、理解できないものかもしれない。
が、そこに(小さな世界)を重ね合わせてみると、
老人特有の心理状態が浮かびあがってくる。

家の窓を開けておくというのは、あるいは店を
開けておくというのは、そうした老人たちにとっては、
最後の砦(とりで)ということになる。

もし窓を閉めたり、店を閉めたりすれば、自ら、
社会とのつながりを切ることになる。
それは同時に、自分自身が、死の待合室に入った
ことを意味する。
が、それだけは、何としても認めたくない。
避けたい。
そういう思いが、窓を開け、店を開けるという
心理へとつながっていく。

●虚勢

が、この話は、何も、老人たちだけのことではない。
よく定年退職した人が、虚勢を張ることがある。
「退職はしたが、まだ別の組織でがんばっている」と。
年賀状などに、そう書いてくる人もいる。
しかし虚勢は虚勢。
つまりこうした虚勢にしても、その中身は、
負けを認めたくないという心理によるもの。
負けを認めたとたん、そのまま老人の世界に埋没
してしまう。
だからがんばる。
ふんばる。
が、それも長続きしない。
やがて負けを認めざるをえないときがやってくる。

仕事そのものがなくなる。
健康をそこねる。
こうして加齢とともに、老人は、社会の隅へ隅へと、
追いやられていく。
ますます小さな世界に、閉じ込められるようになる。
その結果として、あの独特の心理状態になる。

毎日、家の窓だけは、開ける。
毎日、店だけは、開ける、と。

●教訓

が、このことから、私たちはもうひとつ、
重要なことを知る。

人間は社会的な動物である。
社会あっての個人ということになる。
社会がなければ、個人はない。
だから自分を、社会から切り離して
生きていくことはできない。
切り離したとたん、「息(いき)る」という
状態になる。
ただ息をしているという状態になる。

つまりその社会が、小さくなればなるほど、
心の世界もまた、小さくなるということ。
あるいは、その反対でもよい。
数学的に言えば、その人の住む社会と、
心の世界は、比例する。

●2倍の人生

もちろん心の世界というのは、広ければ
広いほどよい。
仮に2倍、広ければ、その人の人生は、
2倍、豊かになる。
3倍、広ければ、その人の人生は、
3倍、豊かになる。
そのためには、自分の住む世界を、広くする。
が、それとて、簡単なことではない。
そうでなくても、先にも書いたように、
どんどんと小さくなっていく。
広くするためには、それと闘わなければ
ならない。

いや、広くするなどということは、ありえない。
現状維持だけで、精一杯。
またそれができるだけでも、御の字。
が、闘う。
またそういう強い意思があってはじめて、
自分の心の世界を、維持することができる。

でないと、結局は、先の老人夫婦や、私の
母のようになってしまう。

●最後の最後

もっとも、その老人夫婦は、ともに85歳。
私の母も、92歳で、他界している。
平均寿命を超えている。
その年齢の老人たちの住む世界が小さいからといって、
それを批判しても意味はない。
しかし人生の(長さ)は、数字では決まらない。
(密度)で決まる。
そのことも考えあわせるなら、住む世界が
広ければ広いほど、密度が濃くなる。
人生が長くなる。

で、私たちは今、こう言って、そういう
老人たちを笑う。
「つまらないことを心配している」と。
しかし私やあなたも、そうならないという
保証は、どこにもない。
20年後の私も、ひょっとしたら、その
老夫婦のように、あるいは私の母のように、
窓だけは開けておきたい、
店だけは開けておきたいと、
がんばるようになるかもしれない。

最後の、そのまた最後の砦として・・・。


Hiroshi Hayashi++++++Feb.2010++++++はやし浩司

●身勝手

 仕事がないと、怒る。
仕事がありすぎても、怒る。
若いときは、その許容範囲が、広かった。
しかし年を取ると、その許容範囲が狭くなる

言い換えると、孤独。
仕事がないと孤独。
言い換えると、体力の限界。
仕事がありすぎても、体力がつづかない。
だから許容範囲が、どうしても狭くなる。

 今の私がそうかもしれない。
「怒る」といっても、自分に怒る。
だれに怒っても、しかたない。

 が、私はがんばるしかない。
選択の余地はない。
そこにある道に沿って、その上を歩くしかない。
4月から、仕事が忙しくなりそう。
一時は、仕事を減らすことばかり考えていた。
しかしその考えは、正しくなかった。
逆に言うと、どうして減らさなければならないのか。
どうして老人をめざして、生きなければならないのか。
 
 「がんばってやる」という思いがあるからこそ、
今朝も、歩いた。
ウォーキング・マシーンの上で、歩いた。
昨日まで10分だったが、今朝からは20分にした。
じんわりとした汗を背中に感じたとき、
それが「まだがんばれる」という実感に変わった。

 暇なことを嘆いてもしかたない。
忙しいことを嘆いてもしかたない。
暇だったら、仕事を作ればよい。
忙しかったら、それを感謝すればよい。
その緊張感こそが、重要。
昔からこう言う。

『流水は腐らず』と。

 こわいのは、「水」が止まったとき。
そのとき水はよどみ、腐る。
精神は、腐る。

 さあ、今朝も始まった。
がんばろう!
(2010年5月16日)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 老後の生き甲斐 老人心理 老人の心理 老後問題 団塊の世代 最後の砦)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

【北朝鮮問題】

●9000億円の超大型投資!

+++++++++++++++++++++

とんでもないニュースが飛び込んできた。
何でも中国が、国連による制裁議決を無視して、
北朝鮮に対して、9000億円もの、
投資をするという。
時事通信は、つぎのように伝える。

『韓国の聯合ニュースは2月15日、先に行われた中国の王家瑞共産党対外連絡部長の訪朝
で、鉄道や住宅など100億ドル(約9000億円)以上の北朝鮮に対する投資計画がまとまった
と報じた。統計にもよるが、これは北朝鮮の国内総生産(GDP)の7割にも当たる巨額の計画
となる。北朝鮮の外資誘致にかかわる朝鮮テプン国際投資グループの消息筋の情報として伝
えた。

 事実であれば、核問題をめぐる6カ国協議復帰の見返りとして、中国が北朝鮮に投資を約束
したとの見方もある』(時事通信)と。 

 それを受けて、即座に北朝鮮が反応した。
聯合ニュースは、つぎのように伝える。

『北朝鮮の金永南(キム・ヨンナム)最高人民会議常任委員長が15日、今後は対話と交渉を
通じ米朝の敵対関係を終息させるとの考えを示した。朝鮮中央通信が報じた。

 金委員長は、金正日(キム・ジョンイル)総書記の68回目の誕生日(16日)を翌日に控え平
壌の4・25文化会館で開かれた中央報告大会に出席。「自主、平和、親善の旗を高く掲げ、国
の間の善隣友好関係を発展させ、世界の自主化を実現するため、力強く闘争していく」と述
べ、このように強調した』と。

++++++++++++++++++

●日本の無能外交

 こうした動きに対して、日本および韓国は、ただ指をくわえて見ているだけ。
もし9000億円の超大型投資が実施されれば、国連による制裁決議そのものが、
破綻する。
が、それだけではない。
北朝鮮は、核開発を加速させる。

一方、朝鮮半島の北半分は、中国の勢力下に入る。
豊富な鉱物資源は、そっくりそのまま中国の手中に落ちる。
韓国にしても、「独島(竹島)」どころの話ではない。
(わかったか、韓国!)
さらにこれらの動きに歩調を合わせるかのように、北朝鮮は、海外投資解放区を
設定した。
中国からの投資を、そのまま解放区に向けようという魂胆。

 となると、開城(ケソン)工業団地など、ものの数ではない。
北朝鮮は、韓国人を追い出したあと、諸設備、人員をそっくりそのままその解放区に
移動させる。
(わかったか、韓国!)

●北朝鮮の崩壊

 あと一歩で、本当にあと一歩で、北朝鮮は、内部崩壊する。
その矢先での、この発表。
9000億円!
中国は、北朝鮮の内部崩壊を、何よりも恐れている。
朝鮮半島の混乱を恐れているのではない。
その混乱に乗じて、韓国やアメリカが、支配権を拡大するのを恐れている。

 北朝鮮の核兵器など、中国にとっては、痛くもかゆくも、何ともない。
中国は、すでに数百発以上もの核兵器を実戦配備している。
いざとなれば、数日で北朝鮮を、制圧できる。
そんな中国に、6か国協議の議長を頼んだアメリカ、韓国、日本が、バカだった。
あえて言うなら、泥棒に、自分の家の管理を任せたようなもの。

 が、日本も韓国も、何もできない。
その能力もない。
時折しも、日米関係は、最悪。
……というより、こうした一連の動きの裏に、アメリカがいたとみるべき。
すでに中国は、アメリカとの間で、合意を取りつけている。
その証拠に、アメリカは、それに対して、何ら、反応していない。
ダンマリを決め込んでいる。
本来なら、アメリカは、即座に反応してよいはず。
つまり、またもや日本は、アメリカに裏切られた。
ボズワースが、頻繁に中国を訪れていた理由が、これでわかった!

●さあ、どうする、日本!

 打つ手なしの日本。
狼狽する韓国。
「ヤッター!」と歓喜する、北朝鮮。
ニンマリとほくそ笑む、中国。
「ザマーミロ!」と、日本を笑うアメリカ。

 言うなれば荒野の荒くれ男たち。
腰からピストルを抜き、バンバンと撃ちはなっている。
そんな荒くれ男たちを前に、日本は立ち向かおうにも、その力もない。
武器もない。
「国際制裁決議、違反!」と声をあげることもできない。
ただニコニコ笑いながら、あとをついていくだけ。
何しろ日本の宰相は、世界に名だたる、マザxx総理。
手下の幹事長に牛耳られた、あやxx総理。
母親の悪口を言われただけで、顔を赤くし、手を震わせる。

 何とも情けない話だが、これが日本の現状。
置かれた立場。

 で、北朝鮮は、6か国協議には出てくるだろう。
しかしすぐには、核兵器開発を放棄しない。
つまり6か国協議は、北朝鮮への、見返り協議となる。
もっとわかりやすく言えば、「北朝鮮援助会議」となる。

 すでに北朝鮮は、数年前、中国を介して、日本に戦後補償費を打診してきている。
その額、驚くなかれ、100兆円(当時)。
他の5か国は、日本に向かって、「金を出せ」と迫ってくる。
(わかっているのか、日本!)
が、それだけではすまない。
その先にあるのは、「日本解体」。
TOYOTA車のリコール問題にしても、その第一歩にすぎない。

 何度も書くが、「対米追従外交反対」(寺島)も結構だが、時期尚早だった。
「東アジア何とか構想」(鳩山)にしても、稚拙。
アメリカを怒らせただけ。

 私が日本の総理大臣なら、猛烈なSTOP攻撃をしかける。
もちろん中国との間の大げんかになる。
しかし9000億円というのは、ハンパな額ではない。
先の国連による制裁決議を考えるなら、日本としては当然、怒ってよい話である。
が、怒ることもしない。
怒ることもできない。

 ア〜アと嘆いたところで、この話は、おしまい。
まさに日本としては、打つ手なし。
八方ふさがり。
袋小路。
しばらく北朝鮮の動きを静観するしかない。

ただ唯一の希望は、中国がそうした動きに出てきたのは、つまりそれだけ北朝鮮の
内部状況が悪化しているということ。
北朝鮮の内部崩壊が先か、それとも中国の投資が先か。
今は、そういう状況。
だから、静観あるのみ。
日本は何だかんだと理由をこじつけて、6か国協議を遅らせたらよい。
けっして中国、北朝鮮のペーズにはまってはいけない。

(2010−2−16記)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●BW教室、今日、あれこれ

(出る出る、うんち)

 小3の子ども(男児)が、こう言った。
「先生、出ちゃう出ちゃう、うんこって、知っている?」と。
「出る出る……」と聞いて、ピンと来た。
薬局で売っている、あの便秘薬である。
私は一度、試供品を飲んで、ひどいめにあっている。

私「知ってるけど、『出る出る、うんち』じゃあ、なかったかな?」
子「そう、それ!」
私「それがどうしたの?」
子「うちに、ある」と。

 こういうとき、「だれが使っているの?」と聞いてはいけない。
そう聞くと、子どもは、口を閉ざす。

私「だれが使っているか、言ってはいけないよ。わかった?」
子「ママだよ」と。


(カイロ)

 今日、背中にカイロを入れた。
接着テープがついていなかった。
夕方になると、それがだんだんと下がってきて、尻のあたりまできた。

私「困ったヨ〜。カイロがこんなところまで、下りてきちゃったあ」
子「どこ、どこ?」
私「ほら、お尻だ!」と。

 カイロは、ズボンの分け目のところで、止まっていた。
それを私はうしろから手を入れ、外に取り出した。
取り出しながら、「いけねえ、うんちがついてしまったア!」と。

 とたん、子どもたちが、蜂の巣をつついたように騒ぎ出した。
ギャーッ、と。

 私はそのカイロを、A君に向かって、投げた。
A君はそれをB君に投げた。
投げながら、子どもたちは、ギャーギャーと喜んだ。

私の言ったことが冗談であることを、みな、よく知っている。
うんちなど、ついていない。
つきあいは長い。
年中児のときからだから、もう5、6年になる。
言い忘れたが、小学3年生の子どもたちである。

 みなでカイロを投げて遊んだ。
楽しかった。


(年少児クラス)

 子どもたちが、母親に連れられて、教室の見学にやってきた。
みな、年少児(4歳児)である。
この4月から、私の教室へ入ってくれるかもしれない。
で、たまたま年中児の子どもたちが欠席していたこともある。
そのため今日は、そのクラスは、年少児クラスになった。
1人、2歳の子ども(生徒の弟)も、加わった。

 ところで数の臨界期は、4歳前後ではないか?
この時期に、(数)の感覚を教えておかないと、あとあと(数)に鋭い子どもにはならない。
わかりやすく言えば、(数)の得意、不得意は、この時期に決まる。
が、相手は4歳児。
見た目には反応のない子どもたちだが、見た目にだまされてはいけない。
脳は、その裏で、猛烈な勢いで記憶を蓄積している。

そこで重要なことは、この時期、(数)についての感覚を、ちょうど種まきのように
植えつけておくこと。
(できる、できない)は、どうでもよい。
(楽しんだか、どうか)、それが重要。
「楽しかった」という前向きな姿勢が、子どもを伸ばす。
(数)を好きな子どもにする。
それが(数)に鋭い子どもにする。

 本当は、年少児あたりの指導を、もっとしてみたい。
……と思いつつ、今日はレッスンを始めた。
ていねいに、かつ、慎重に!
その模様は、ビデオカメラに収めた。
YOUTUBEに、アプロードした。
興味のある人は、どうか、見てほしい。

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www.youtube.com/v/lnszVOHbJsQ&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
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v/o5gTC03JaVY&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

【LSホテルにて】(浜名湖、浜松市)(2010−1−17)

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●眠られぬ夜

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今夜は、この原稿を、浜名湖畔にある、
LSホテルの一室で書いている。
本来なら、1泊、2万8500円のホテルだが、
1泊、5000円でよいとのこと。
それなりのホテルかなと思って泊まってみたが、
案内されて、びっくり!
仰天!
13階建てホテルの、最上階。
ペントハウス!
いろいろなホテルに泊まったことがあるが、
こんな部屋に泊まったことはない。
(外国で泊まったホテルをのぞく。)

豪華というより、ぜいたく。
私のような下賎の者には、かえって落ち着かない。
そのため、かえって眠られなくなってしまった。
ベッドに入って、しばらく目を閉じる。
あれこれ考える。
が、「眠らなければ・・・」と思えば思うほど、
頭が冴えてしまう。
それに今日は、昼寝もしていない。

しかたないので、枕もとの電灯をつけて、パソコンのふたをあける。
時刻はわからない。
恐らく午前0時をすでに過ぎていると思う。

++++++++++++++++++++++

●自然体で

 こういう眠られぬ夜は、珍しくない。
月に、1、2度はある。
そういうときは、無理をしない。
一説によると、2晩や3晩、人間は眠らなくても、どうということはないそうだ。
だから焦らない。
なるようにしか、ならない。
眠くなったら、眠ればよい。
それまで好きなことをすればよい。
で、今が、そのとき。

 ワイフは横のベッドで、寝息をたてている。
いっしょに来た長男は、隣の和室で眠っている。
全体で、25坪くらいはある。
この部屋だけでも、15、6畳。
窓のそばには、60インチを超える、大型液晶テレビがすえつけてある。
和室にも、40インチのテレビ。
「こういうところに泊まる人もいるのだなあ」と思いつつ、改めて部屋の周囲を見回す。

●講演

 今朝はA町の教育委員会のほうで呼ばれて、講演をしてきた。
話しやすかった。
みな、真剣に聞いてくれた。
終わりごろ、何人かの女性が、懸命に泣くのをこらえて、顔をまっかにしていた。
「どうして泣いているんだろう?」と思いつつ、私は視線をそらして話した。
そういうときは、そういう人たちの顔を、できるだけ見ないようにしている。

 あとでそのことをワイフに告げると、ワイフは、こう言った。
「花粉症か何かではなかったの?」と。
そうだったかもしれない。
そうでなかったかもしれない。

 で、午後はふつうの仕事をして、夕方遅く、このホテルにやってきた。
料理は和食。
おいしかったが、ホテルの経営者の方に申し訳なく、居心地が、あまりよくなかった。
そういう点では、私は、小物。
見分不相応の場所にくると、すぐこうなってしまう。

●健康寿命

 今日、講演の中で、こう言った。
「私も、平均寿命まで、あと16年を切りました」と。
自分でそう言っておきながら、その言葉が、今ごろ気になりだした。
(平均寿命)−10年が、(健康寿命)ということになる。
健康寿命で計算すると、残りは、あと6年。
それから10年は、病気と闘い。
徐々に死に向かう。

 16年といっても、あっという間に過ぎる。
現在、満63歳だから、16年を引くと、47歳ということになる。
あれこれと、自分が47歳だったころのことを思い浮かべてみる。
その47歳のときから、今日まで、あっという間。
だからこの先、16年も、同じように、あるいはさらに加速されて、あっという間に、
過ぎていくにちがいない。

 いろいろあった。
今まで、いろいろあった。
そういうことを考えながら、私も覚悟を決める年齢になってきた。
死ぬ覚悟というより、いつ死を宣告されても動揺しないという覚悟。

だから今日もがんばった。
今も、がんばっている。
明日も、がんばろう。

●幸福

 近く、大学の同窓会がある。
ホテルの予約も済んだ。
今日、列車の切符の予約も済んだ。
長男も行くというので、予定外の家族旅行になった。

「雪が見られるよ」と言うと、ワイフも長男も、うれしそうだった。
ここしばらく私も、本格的な雪を見ていない。
それに今の時期は、ズワイ蟹がおいしい。
長男の好物は、蟹。
「ぼくは同窓会に行くけど、お前たちは、どこかで蟹でも食べてきな」と言うと、
ワイフと長男は、さらにうれしそうな顔をした。
横顔だったが、長男の顔に、幼児のころのあの、あどけない笑みが浮かんだ。
うれしかった。

 父親にとって、息子というのは、何歳になっても息子。
夜、ベッドの中に入ったとき、私はふとワイフにこう言った。

「二男も三男も、遠くへ去ってしまったけど、ぼくは、今、幸福だよ。
幸福すぎて、こわいほどだよ」と。

●同じ台詞

 目の前には、大きな鏡がある。
そこに私の顔が、部屋全体の風景とともに、映っている。
皺だらけの、ジジ臭い顔。
体重を落としたせいか、顔が細くなったような気がする。
そんな顔を見ながら、「お前も年を取ったな」と、声をかける。
何かをしてきたようで、結局は、何もできなかった。
「明日こそは・・・」と、いつも思うだけ。
思うだけで、何もできない。
いつも空振り。
無念と言えば無念だが、だからといって、どうしようもない。

 が、また今も、同じ台詞(せりふ)を口にする。
「明日こそは!」と。

 やりたいこと、やるべきことを、頭の中で、いろいろ考える。
いつもだったら、そのまま眠くなって眠ってしまう。
が、今夜は、眠くならない。
先ほど、精神安定剤を半錠、それに睡眠導入剤を、ひとかけら口の中で
溶かした。
もうすぐそれが効いてくるはず。
今は、静かにそれを待つ。

●パソコン

 そう言えば、昨日、N君(小3男児)の母親から、こんなことを頼まれた。
「息子にパソコンを買ってやりたいが、ついては先生(=私)のほうで、よいのを
選んでくれないか」と。

 こういう依頼は、大歓迎。
さっそく昨夜、家に帰ってから、いろいろな雑誌から記事を切り抜く。
DVD(CD)ドライブがついているのと、ついていないのとでは、値段が大きくちがう。
ついていなければ、外付けのドライブを、別に購入しなければならない。
それにウィルス・セキュリティソフトはマスト(=必需品)。
そんな話を、N君の母親に話した。
それについて、「先生に任すから、注文してほしい」と。

 こういう依頼は、自分のことのようにうれしい。
どういうわけか、うれしい。
まるで自分が、新しいパソコンを買うような気分。
「昨年の秋モデルだったら、3〜4万円は安く買えますよ」と教えてやった。
明日にでも電話して、もう少し詳しく話を聞いてみよう。

●静かな夜

 眠られぬ夜は、そっと自分の心を夜にゆだねればよい。
無理をしない。
頭の中に、現れては消える雑念。
それにそっと耳を傾ければよい。

 窓の外には、浜名湖をはさんで、遠くに町の明かりが見える。
カーテン越しに、それがぼんやりとした光となって、そこに見える。
まばたきもしない。
いや、たった今、信号の明かりが、赤から青に変った。
その間を、赤いテールランプを灯して、車が去っていく。

 静かな夜。
おだやかな夜。
睡魔がかすかに脳裏をかすめた。
まぶたが重くなった。
「このまま眠られるかな?」と。
かすかな不安は残るが、ここでパソコンの電源を落とすことにした。

 みなさん、おやすみなさい。
今日も、ありきたりの一日が、終わった。
「明日こそは、がんばろう」と。

●翌朝

 今、起きたところ。
風呂は、朝6時から、入れるとのこと。
時刻は、6時37分。
あまりよく眠られなかった。

 ベッドが西洋式で、硬かった。
それに暖房が、少し効きすぎていた。
寝苦しかった。
数回、夜中に目をさました。

 テーブルには、手書きのあいさつ状。
それに今日の天気予報が記されていた。
それには、曇り、ときどき晴れと書いてあった。
こまかい気配りが、かえって私の心を重くする。
「温泉でも入れればいい」と、軽い気持ちでやってきた。
その軽い気持ちが、部屋に入ったとたん、吹き飛んでしまった。
あとで礼状を書くにも、どうやって書けばいいのか。

●朝風呂

 朝風呂は、部屋の中の風呂ですますことにした。
鏡を見ると、髪の毛が、ボサボサ。
で、このまた風呂がすごい。
超ハイテク。
ジェット水流付き。
「こんな風呂に入っていいのかなあ?」と声をかけると、ワイフは、
「いいんじゃないの」と。
私よりいつも、ワイフのほうが、大物。
肝っ玉がすわっている。

 ・・・ということで、思いがけず、今日は旅行気分。
目の前に広がる浜名湖の写真を、何枚か取った。
これから朝食を済ませて、そのまま帰るつもり。

 さあ、今日こそ、がんばるぞ!
みなさん、おはようございます。
LSホテルのみなさん、ありがとうございました。

(講演は、「BW公開教室」→「2010年2月」に収録、
「LSホテルでの一泊」は、「音楽と私」の2010年2月のところに収録。)


Hiroshi Hayashi++++++Feb.2010++++++はやし浩司

【裏の心】(臨界期)

+++++++++++++++

(表の心)があるとするなら、(裏の心)がある。
(表の心)は、外から見える。
それだけにつかみやすい。
しかし(裏の心)は、外からは見えない。
そのため何かと無視されやすい。
しかし(表の心)より、(裏の心)のほうが、
はるかに重要。
人間の心、つまり「私」の大部分は、この
(裏の心)でつくられていく。

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●別の脳

 どんなに熟睡していても、(「熟睡」の定義もむずかしいが)、人はベッドから落ちない。
それは自分では、いくら熟睡していると思っても、脳の別の部分が、それを意識しているからに
ほかならない。
「それ」というのは、「自分の体とベッドの位置関係」ということになる。
もし「その部分」まで、本当に眠ってしまえば、それこそ人は寝返りを打つたびに、ドスン、ドス
ンと、ベッドからころげ落ちることになる。

 これは眠っているときの話である。
が、目を覚ましているときも、実は脳の別の部分は、意識とは別に、別の働きをしている。
このことは、子どもを観察してみると、わかる。

 たとえば私と母親と、その子どもについて、何かを話していたとする。
子どもは、少し離れたところで、何かのおもちゃと遊んでいる。
私と母親の話を聞いているようには見えない。
そういうときでも、私がその子どもをほめたりすると、話の内容がわかっているかのように、私
たちのほうを見て、ニコッと微笑んだりする。

 あるいは、その子どもの問題点を指摘することもある。
そういうとき、もし子どもが近くにいるようなら、私はできるだけ難解な言葉を使うようにする。
子どもに、話の内容を悟られたくない。

「行動面では問題ないと思いますが、識字能力が心配です。黙読にすると、読解力が著しく落
ちます」と。

 すると子どもは、そういうとき、こちらのほうを見て、何か心配そうな表情をして見せる。

●2人の(自分)

 ここに書いたことと、同じ現象と考えてよいかどうかはわからない。
わからないが、私はよく、こんなことを経験する。
最初に、それがわかったのは、私がどこかの会場で、講演をしているときだった。
私は、自分の脳の中に、2人の(自分)がいることを知った。

 1人の(自分)は、講演の内容について考えている。
もう1人の(自分)は、そういう自分を、別のところから見ていて、「あと30分しか時間がないぞ」
「つぎの話は簡単にして、すませ」「時間があるから、ついでにあの話もしろ」などと命令する。

 このように(意識)というのは、二重、三重構造になっている。
少なくとも、一重ではない。
そんな単純なものではない。
そうした意識の下に、意識できない意識の世界がある。
一般的には、意識の世界よりも、意識できない世界のほうが広いと言われている。
しかも、意識できない世界のほうが、意識できる世界よりも、数万倍から、数10万倍も広いと
言われている。

 言い換えると、私たちが今意識している世界などというのは、脳の中でも、ほんの一部でしか
ない。

●子育ての世界では・・・

 ここに1人の子どもがいる。
その子どもは、自分の好きなことをしている。
そういうときでも、その子どもは、周囲の変化や様子に、絶えず注意を払っている。
注意を払っているだけではない。
周囲のあらゆるものを、どんどんと自分の脳の中に蓄積している。

 その子どもの外見的な様子に、だまされてはいけない。
まわりの様子に無頓着で、無関心に見えるからといって、「注意を払っていない」と考えてはい
けない。
親の立場、あるいは教師の立場から言うと、けっして、油断してはいけない。

 たとえばあなたが今、車を運転しているとする。
子どもは助手席に座って、ゲーム機器をいじっている。
そんなとき、携帯電話の呼び鈴が鳴った。
あなたは携帯電話を手にすると、「まあ、いいか」という思いで、携帯電話で相手と話し始める。

 横を見ると、子どもは、どうやら気づいていないようだ。
相変わらず、ゲームに夢中になっている。
が、実際には、そうではない。

 子どもは、見えない目、見えない耳で、あなたの行動すべてを観察している。
それを脳の中に、しっかりと焼きつけている。
つまりこうしてあなたの子どもは、あなたという人間の人物像を、少しずつだが、つくりあげてい
く。
「ママ(パパ)は、ずるい人間」と。

 が、それだけではない。
そうした人間像は、そっくりそのまま、その子どもの人間像となって、反映されるようになる。

●赤ん坊の記憶

 こう書いても、まだ私の話を信用しない人がいるかもしれない。
しかしこんな話を書けば、どんなに疑い深い人だって、私の話に納得するだろう。

 実は、あの生まれたての赤ん坊にしても、まわりの様子をどんどんと記憶している。
それを証明したのは、ワシントン大学のメルツオフという人だが、まさに怒涛のごとく記憶して
いる。

 仮にこの時期、子どもが人間の手を離れ、たとえば動物によって育てられたとすると、その子
どもは、そのまま動物になってしまう。
インドで1920年代に発見された、オオカミ姉妹の例をあげるまでもない。
で、ここが重要だが、この時期、一度、動物になってしまうと、仮に再び人間によって育てられ
たとしても、人間に戻ることはない。
オオカミ姉妹にしても、同じころ、フランスで見つかった、ビクトールという少年にしても、人間ら
しさを取り戻すことはなかった。

 ここで登場するのが、「臨界期」という言葉になる。
D・H・ヒューベルとT・N・ヴィーゼルという2人の科学者が、子ネコについて行った実験で、世に
知られるようになった※。
つまり人間というのは、(ほかの動物もそうだが)、その時期において、適切な指導や刺激を受
けないと、脳の機能が変化してしまうことをいう。

 「赤ん坊には記憶はない」と考えるのは、誤解というより、まちがい。
赤ん坊は赤ん坊で、まわりの様子を、猛烈な勢いで吸収、それを記憶にとどめている。

●母の心

 私はこんな経験もした。
最後の2年間を、母は、この浜松市で過ごした。
1年たったころ、脳梗塞を起こしてからは、そういうことはなかったが、私の家に来たころは、頭
の働きも達者で、冗談をたがいに言いあうほどだった。

 そんなある日、母が、親類の人たちの話を始めた。
「あの人は、いい人や」「あの人は、悪い人や」と。
その話を聞いて、私は、驚いた。
話の内容に、驚いたのではない。
母は、私が子どものころにもっていた印象と、まったく同じことを口にしたからだ。

 たとえば私は、子どものころ、Aさんという親類の男性が嫌いだった。
あるいはBさんという親類の女性が好きだった。
そのAさんについて、「あのAさんは、タヌキ(=うそつき)だった」とか、「Bさんは、やさしい人だ
った」とか、言った。

 私は私がもっていた印象は、何のことはない、子どものころ、母によって作られたことを知っ
た。
つまり親子というのは、そういうもの。
「以心伝心」という言葉もある。
「魚心あれば、水心」という諺もある。
親がもっている心は、そっくりそのまま子どもに伝わる。
あなたという親が、言葉として、何も話さなくても、伝わる。
それを見たり、聞いたりするのが、冒頭に書いた、「別の脳」ということになる。

●核心

 いよいよ子育ての核心部分ということになる。

 あなたは今、子育てをしている。

「ほら、算数だ」「ほら、英語だ」「ほら、ひらがなだ」と。
それを(表の子育て)とするなら、(裏の子育て)がある。
「教えずして教えてしまう」のが、(裏の子育て)ということになる。
そして実は、その(裏の子育て)のほうが、実は重要で、かつ比重的には、(表の子育て)より
も、はるかに大きい。
もちろん子どもに与える影響も、はるかに大きい。

 たとえば私は子どものころ、たいへん小ずるい子どもだった。
ずるいことが平気でできた。
しかしそのほとんどは、私が母から受け継いだものだった。
もし私があのまま、郷里の町で、生活していたら、その小ずるさそのものに気づくこともなかっ
たかもしれない。
幸か不幸か、私は郷里を離れた。
その結果として、私は私自身を、客観的に見る機会を得た。
外国の人たちと、自分を、比較することもできた。
そして(あの世界)が、全体として、その(小ずるさ)で成り立った世界であることを知った。

 母とて、その中のワンノブゼム(多数の中の1人)に過ぎなかった!

●別の心

 子育てをするときは、常に子どもの中で、どのような(裏の心)が作られているかに注意する。
たとえば私のばあい、幼児に文字を教えたとする。
そのとき重要なのは、その幼児が、(文字を書けるかどうか)(文字を書けるようになったかどう
か)ということよりも、(文字を楽しんだかどうか)ということになる。

 (できる・できない)は、別。
もっとわかりやすく言えば、その子どもの中に、(文字に対する前向きな姿勢ができたかどう
か)ということになる。

 これは文字の話だが、こうした指導法は、幼児の指導法の原点ということになる。
文字、数などの学習面にかぎらない。
行動、情緒、知育、性格、性質など、あらゆる部分に及ぶ。
さらには、人間性にまで及ぶ。
先に書いたオオカミ姉妹の例を、もう一度、思い浮かべてみてほしい。
オオカミ姉妹にしても、その適切な時期に、適切な刺激を受けなかったため、生涯にわたっ
て、人間らしさを取り戻すことはできなかった。

 「私は私」と思っている、あなた。
「私のことは、私がいちばんよく知っている」と思っている、あなた。
今一度、あなたの中にいる、別の(あなた)を、探索してみてほしい。
そこに本当の(あなた)がいる。

(注※……臨界期)(理化学研究所のHPより、転載)

『ヒトを含む多くのほ乳類の大脳皮質視覚野神経細胞は、幼若期に片目を一時的に遮蔽する
と、その目に対する反応性を失い、開いていた目だけに反応するよう変化します。この変化
は、幼若期体験が脳機能を変える例として、これまで多くの研究が行われてきましたが、この
ような変化は「臨界期」と呼ぶ生後発達の一時期にしか起きないと報告され、脳機能発達の
「臨界期」を示す例として注目されてきました。

(中略)

サル、ネコ、ラットやマウスなどの実験動物で、生後初期に片目を一時的に遮蔽すると、大脳
皮質視覚野の神経細胞がその目に反応しなくなり、弱視になることが1960年代に発見され、そ
の後、生後の体験によって脳機能が変化を起こす脳の可塑性の代表的な例として、多数の研
究が行われてきました。さらに、片目遮蔽によって大脳皮質にこのような変化を起こすのは生
後の特定の期間だけであったことから、鳥類で見つかった刷り込みと同じように、この期間は
「臨界期」と呼ばれるようになりました。

この「臨界期」の存在は、その後ヒトでも報告されたことや、視覚野だけでなく脳のほかの領域
にも認められたことから、「臨界期」における生後環境あるいは刺激や訓練の重要性を示す例
として、神経科学のみならず発達心理学や教育学など、ほかの多くの分野にも影響を与えてき
ました。その中で、例えば、脳機能発達には「臨界期」が存在することを早期教育の重要性の
科学的根拠とする主張も出現してきました。

最近になって、成熟脳でも可塑性のある脳領域が存在することや、「臨界期」を過ぎた大脳皮
質でも可塑性が存在することを示唆する研究が報告されました(Sawtell et al., Neuron 2003)。
しかし、大脳皮質視覚野の「臨界期」後に可塑性が保持されるのかどうか、保持されるとすれ
ばどの程度なのかは不明のままでした。

研究チームは、大脳皮質神経回路を構成する興奮性と抑制性の2群の神経細胞を区別して、
それらの左右の目への光刺激に対する反応を記録することで、「臨界期」終了後の可塑性の
解明に挑みました』(以上、「理化学研究所」HPより)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 臨界期 別の心 別のあなた 本当の私)

(注)この原稿は、心理の発達段階論と、臨界期をやや混同、誤解している部分があります。
その点をご理解の上、お読みください。
近く、改めて、この原稿を書き改めてみます。
(2010−2−19記)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●老人大国(これは、たいへんなことになるぞ!)

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A町での講演会を終え、浜松駅を出たときのこと。
デパートの地下にある、その店に行こうとして、一瞬、足を止めた。
私とワイフは、カレーライスを食べるつもりだった。

見ると、老人、また老人……。
そこはまさに老人のたまり場だった。
年齢は70〜80歳前後。
そういった老人たちが、長椅子を占拠し、
そこにズラリと座っていた。
何かを食べたり、たがいに話し込んだりしていた。

あと15〜20年もすると、日本人の3分の1が、そうした高齢者になるという。
が、そこはすでに3分の1以上が、高齢者だった。
私はその異様な光景に、驚いた。
「何だ、これ!」と思った。
が、つぎの瞬間、私もその仲間であることを知って、口を閉じた。

++++++++++++++++++++++++++++++++

●老人ファッション

 昨日、眼鏡屋でこんな女性を見かけた。
その女性は、店員と、何かを話していた。
前かがみになっていたので、背中の下が大きく割れ、ジーパンの端から、中のパンティが
見えていた。
シマシマのピンクのパンティだった。

 ついでに言うと、上から、大きな毛糸の帽子、黒い毛皮のコート、それにジーパン。
ひざまで届くような、長いブーツをはいていた。
私は「最近の若い人は……」と思った。
「平気で下着を見せる!」と。

 が、横に座って、私は我が目を疑った。
顔半分を覆うようなマスクをしていたので気がつかなかった。
が、若い女性と思ったその女性は、50歳は超えたの年配の女性だった。
全体が茶髪で、髪の毛の一部を、紫色に染めていた。

 こういうとき「男」というのは、「しまった!」と思う。
「若い女性と思って、損をした!」と。
どうしてそう思うのか、わからないが、そう思う。

●落差

 似合うか、似合わないかということになれば、似合うはずがない。
見た目はともかくも、見た人は、その(落差)に驚く。
その女性の服装は、どう見ても、10代後半、もしくは20代前半の、未婚の
女性のものだった。
うしろ姿だけを見たら、だれだって、そう思う。
私だけではない。
いっしょにいた、ワイフだって、そう思った。
驚いた。

 が、だからといって、年配の女性が、そういう格好(かっこう)をしてはいけないとか、
そういう失敬なことを書いているのではない。
落差。
その落差が、問題。

 たとえば50代の人が、それなりの格好をしているなら、まだよい。
しかし50代の女性が、10代の女性のマネをして、どうなる?
つまりそんなことをしても、若い人たちに、バカにされるだけ。
……というのは、書き過ぎ。

 しかし老人は老人としての、ステータスを確保する。
「これが年の功」と言えるようなものを用意する。
極端な言い方をすれば、若い人が、老人を見習う。
あるいはマネをする。
そういうものを示してこそ、私たちは老人、つまり「Aged People」。
「円熟した人」ということになる。

 ファッションについて言えば、老人臭くない、老人ファッションというものが、
あってもよいのでは?
若い人たちが着る服を着れば、それでよいというものではない。

●駅前で……

 駅前といっても、それぞれコーナーらしきものが、できあがっている。
大きく、若い人たちが集まっているコーナー。
老人たちが集まっている、コーナー。
老人たちは、デパートの地下、その出入り口のところに集まっている。
集まっているというよりは、先にも書いたように、占拠している。

 地下には、スーパーマーケットや、食料品店が並んでいる。
買い物をしたついでに、そこへみなが集まるのだろう。
見方によっては、のどかな風景。
しかし異様は、異様。
私はそれを見て、「これは、たいへんなことになるぞ!」と思った。

 その第一。
老人たちが、若い人たちと、融和していない。
それはちょうど、日本の街角で、それぞれの外国人が集団を作ってたむろしている様子に
似ている。
そうでない人たちを、はじき飛ばしてしまうかのような、排他性すらある。
が、それは同時に、若い人たちから見れば、そのまま差別意識につながる。

 もっとも今は、まだよい。
デパートの出入り口という一部。
しかしそれが日本中の、いたるところでそうなったら、どうなる?
目的意識もない老人たちが、ブラブラとうたるところで、たむろするようになったら、
どうなる?

 そのとき若い人たちが、私たち老人をながめて、「どうせ老人だから……」と、
寛大に見てくれるだろうか?
結論を先に言えば、老人は老人として、やるべきことがある。
そのやるべきことをして、老人は、老人である。
身勝手で、自己中心的で、自分勝手な老人は、「老人」ではない。
いわんや終日、デパートの出入り口に陣取って、世間話に夢中になる老人は、「老人」では
ない。
そんなことばかりしていたら、それこそ、私たちは社会のゴミになってしまう!

 それがわからなければ、逆に、年少の子どもたちが、デパートに出入り口あたりで、
たむろしていたら、あなたはどう思うだろうか。
おそらくあなたは、子どもたちに向かってこう言うにちがいない。
「君たち、こんなところで、そんなことをしていてはいけないよ」と。

 だから私は言いたい。

「老人たちよ、こんなところで、そんなことをしていてはいけないよ」と。

●まとめて老人

 このところ、急速に肩身が狭くなってきているのを感ずる。
ときどき生きているのが、申し訳ないような気分にすら、なる。
現実問題として、長生きをすればするほど、みなに、迷惑をかける。
介護制度にしても、この先20年、悪化することはあっても、よくなることはありえない。

 いくら私一人ががんばったところで、若い人たちは、私を区別してくれない。
区別できない。
「まとめて老人」と考える。
そうなったとき、私やあなたの生きる場所はあるのか。
あるいはどう生きたらよいのか。

 本来なら老人というのは、人生の先輩として、知恵や経験を若い人たちに伝えていく
立場にいる。
そうした老人がむしろ逆に、若い人たちに、バカにされるようなことばかりしている。
自分たちだけで、小さな世界をつくり、そこにたむろしている。
冒頭に書いた女性にしても、そうだ。
そういう服装を見て、若い女性たちは、どう思うだろうか。
だから「これは、たいへんなことになるぞ」となる。

 やがて私たち老人は、(社会のゴミ)となってしまう。
が、そうなっても、私たちには、それと戦う気力も体力もない。
財力もない。
虐待されるようなことになっても、私たちは、それを受け入れるしかない。
現に今、老人虐待が、あちこちで問題になっている。
やがてそれが世間一般で、おおっぴらになされるようになるかもしれない。

●では、どうするか?

 何度も書くが、老人たちは自ら(やるべきこと)を定め、それを(現実にする)。
この両者を一致させることを、「統合性の確立」という。
けっして、現在の立場に安住してはいけない。
「人生の先輩」として、若い人たちの上に、君臨してはいけない。

 デパートの出入り口にたむろするくらいなら、カニばさみと、ポリ袋をもって、
街の清掃くらいしたらよい。
「街のガイドをします」というような小さなネーム・カードを、胸につけるだけでも、
外から来た人には助かる。
「私は料理のプロです」「中国語の通訳ができます」というカードでもよい。
その気になれば、何だってできるはず。
それを「私は人生を終えました」と、居直ってしまう。
居直って、奥にひっこんでしまう。
自分のしたいことだけをする。
私は、それではいけないと言っている。

 若い人たちから見て、「やはり、ジーチャン、バーチャンは、必要なのだ」と。
そういう存在感を作る。
でないと、「3分の1」という数字を乗り越えることはできない。
やがてすぐ、日本人の3分の1が、その老人になる。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●年長児(数の学習)

年長児の学習風景を、そのまま紹介します。

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Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

【臨界期・精読】(大学の同窓会)
(Critical Period for Children & Class Re-Union Party at Kanazawa)

+++++++++++++++++++++

理化学研究所の論文を、精読してみたい。
(読んで頭の痛くなりそうな人は、下の(*)
まで、skipしてください。

+++++++++++++++++++++

『ヒトを含む多くのほ乳類の大脳皮質視覚野神経細胞は、幼若期に片目を一時的に遮蔽する
と、その目に対する反応性を失い、開いていた目だけに反応するよう変化します。この変化
は、幼若期体験が脳機能を変える例として、これまで多くの研究が行われてきましたが、この
ような変化は「臨界期」と呼ぶ生後発達の一時期にしか起きないと報告され、脳機能発達の
「臨界期」を示す例として注目されてきました。

(中略)

サル、ネコ、ラットやマウスなどの実験動物で、生後初期に片目を一時的に遮蔽すると、大脳
皮質視覚野の神経細胞がその目に反応しなくなり、弱視になることが1960年代に発見され、
その後、生後の体験によって脳機能が変化を起こす脳の可塑性の代表的な例として、多数の
研究が行われてきました。さらに、片目遮蔽によって大脳皮質にこのような変化を起こすのは
生後の特定の期間だけであったことから、鳥類で見つかった刷り込みと同じように、この期間
は「臨界期」と呼ばれるようになりました。

この「臨界期」の存在は、その後ヒトでも報告されたことや、視覚野だけでなく脳のほかの領域
にも認められたことから、「臨界期」における生後環境あるいは刺激や訓練の重要性を示す例
として、神経科学のみならず発達心理学や教育学など、ほかの多くの分野にも影響を与えてき
ました。その中で、例えば、脳機能発達には「臨界期」が存在することを早期教育の重要性の
科学的根拠とする主張も出現してきました。

最近になって、成熟脳でも可塑性のある脳領域が存在することや、「臨界期」を過ぎた大脳皮
質でも可塑性が存在することを示唆する研究が報告されました(Sawtell et al., Neuron 2003)。
しかし、大脳皮質視覚野の「臨界期」後に可塑性が保持されるのかどうか、保持されるとすれ
ばどの程度なのかは不明のままでした。

研究チームは、大脳皮質神経回路を構成する興奮性と抑制性の2群の神経細胞を区別して、
それらの左右の目への光刺激に対する反応を記録することで、「臨界期」終了後の可塑性の
解明に挑みました』(以上、「理化学研究所」HPより)。

●(*)精読

★ヒトを含む多くのほ乳類の大脳皮質視覚野神経細胞は、幼若期に片目を一時的に遮蔽す
ると、その目に対する反応性を失い、開いていた目だけに反応するよう変化します。

いろいろな専門用語が並ぶ。
大脳皮質視覚野神経細胞、幼若期、遮蔽、反応性などなど。
つまり視覚を司る神経細胞は、乳幼児期に遮蔽されると、「反応性」を失う、と。
ここで重要な言葉は、「反応性」。

 神経細胞が機能を失うというのではない。
神経細胞は、基本的には、ふえたり、減ったりはしない。
退化するということもないし、消滅するということもない。
あくまでも「反応性を失う」ということ。
わかりやすく言えば、眠ったままの状態になるということ、

 つまり光に対して反応しなくなる、と。
その結果、開いていたほうの目だけで、ものを見るようになってしまう。
イコール、遮蔽されていたほうの目は、反応性を失い、視力を失うということになる。
なおこの実験は、よく知られた実験で、別の論文などによれば、子ネコのばあい、「生後、2〜
3週間」遮蔽していただけで、「反応性を失う」ということらしい。
(たったの2〜3週間!)

★この変化は、幼若期体験が脳機能を変える例として、これまで多くの研究が行われてきまし
たが、このような変化は「臨界期」と呼ぶ生後発達の一時期にしか起きないと報告され、脳機
能発達の「臨界期」を示す例として注目されてきました。

「幼若期体験が、脳機能を変える」。
これを言い換えると、幼若期でなければ、脳機能は変わらないということになる。
たとえばおとなの私たちが、何かの病気か事故で、しばらくの間、片目を遮蔽していたとして
も、再びその遮蔽していたものを取り除けば、視力は回復する。
多少のリハビリは必要かもしれないが、そのまま失明するということはない。

 つまり先にあげたような現象は、「一時期」にしか起こらない。
それを「臨界期」という。

 が、ここで注意しなければならないことは、「例」、つまり一例として、あげられているというこ
と。
臨界期というのは、それぞれの機能すべてにあるというように考えてよい。
たとえばよく言われるが、音楽教育についても、幼少のある時期から始めないと、ものにならな
いと言われている。
小学校に入学してから、音楽教育をほどこしたとしても、子どもはそこそこにはできるようにな
るかもしれない。
しかし「すばらしい才能を発揮して・・・」というところまでは、ならない。

ただ「音楽教育」とまでいかなくも、「音楽」に慣れ親しんで育ったばあいには、小学校に入学し
てからでも、手遅れということにはならない。
「音楽」といっても、(感性)(技術)(鑑賞力)(音感)などに分けられる。
臨界期を過ぎたからといって、すべてがだめになるというわけではない。

 最近では、論理性、さらに具体的には、読書力や表現力などについても、同じような臨界期
があると説く人もふえてきた。
最近、「作文力にも、臨界期がある」というような意見も聞いたことがある。
多くは我田引水型の拡大解釈なので、そのまま鵜呑みにすることはできない。
たとえばどこかの音楽教室などでは、さかんにこの「臨界期」という言葉を使って、乳幼児期に
おける音楽教育の重要性を主張している。

 が、私の経験からも、「臨界期はある」と断言できる。
たとえば4〜5歳の時期に、(数)の指導を施すと、子どもは、たしかに数に鋭い子どもになる。
一方、小学生になってから、数にうとい子どもを、鋭い子どもにしようとしても、たいていうまくい
かない。

 (中略)

★サル、ネコ、ラットやマウスなどの実験動物で、生後初期に片目を一時的に遮蔽すると、大
脳皮質視覚野の神経細胞がその目に反応しなくなり、弱視になることが1960年代に発見さ
れ、その後、生後の体験によって脳機能が変化を起こす脳の可塑性の代表的な例として、多
数の研究が行われてきました。

 人間の子どもに対して実験するわけにはいかない。
しかし人間も、哺乳動物。
サル、ネコ、ラット、マウスでもそうなのだから、人間もまた、同じと考える。
が、こうした現象は、すでに1960代に発見されていたという。
今から50年も前のことである。

 しかしこれはほんの一例。
「生後の体験によって、脳機能は変化を起こす」。
その代表的な例が、大脳皮質視覚野の神経細胞が起こす反応ということになる。
で、こうした現象を拡大解釈すると、たとえば、聴覚はどうなのか。
嗅覚はどうなのか。
味覚はどうなのか。
つぎつぎと興味の範囲が広がっていく。

 おそらくそれについては、すでに多くの研究者が取り組み、その結果を発表しているはず。
さらには先にも書いたように、音感や、数的感覚、論理性、言語能力などなど。
こうしたものにも臨界期があるとするなら、それぞれの臨界期に、適切な環境で適切な指導を
する。
子どもの指導を考えるとき、これはとても重要なことである。

★さらに、片目遮蔽によって大脳皮質にこのような変化を起こすのは生後の特定の期間だけ
であったことから、鳥類で見つかった刷り込みと同じように、この期間は「臨界期」と呼ばれるよ
うになりました。

 ここで「刷り込み」という言葉が出てくる。
この研究とは別に、発達心理学の世界でも、人間にも「刷り込み」があることが、最近、わかっ
てきた。
生後直後から、7か月前後までの間と言われている。
この時期を、発達心理学の世界では、「敏感期」という。
この論文によれば、「敏感期」イコール、「臨界期」ということになる。
この時期を通して、母子関係は、絶対的なものとなる。
言うまでもなく、子どもは母親から生まれ、母親から乳を得て、成長する。
「絶対的」というのは、本能に近い部分にまで、その関係が刷り込まれることをいう。

 が、この時期に刷り込みがなされなかったら、どうなのか。
よくあるのが、何らの事情により、生後直後から、親の元を離れて育てられるケース。
「ホスピタリズム」という言葉もあることからわかるように、子どもの心に大きな影響を与える。
反対に、生後7か月を過ぎて、確固たる親子関係を築こうとしても、臨界期(敏感期)を過ぎて
いるため、それはむずかしいということになる。

 しっかりとした親子関係を作ろうとしたら、生後7か月まで、ということになる。
この時期の家庭環境、とくに母子関係が、重要であることは、今さら言うまでもない。

★この「臨界期」の存在は、その後ヒトでも報告されたことや、視覚野だけでなく脳のほかの領
域にも認められたことから、「臨界期」における生後環境あるいは刺激や訓練の重要性を示す
例として、神経科学のみならず発達心理学や教育学など、ほかの多くの分野にも影響を与え
てきました。

 大脳生理学や生物学の世界では、人間のことを「ヒト」と表記する。
教育の世界では、もちろん「人」もしくは、「人間」である。
「ヒト」というのは、「種」としての人間をいう。
サル、ネコ、イヌと並べて、「ヒト」という。
私はこの言い方に、いまだに違和感を覚える。
 
 この中で、論文は、こう書いている。
「・・・臨界期における生後環境あるいは刺激や訓練の重要性を示す例として・・・」と。

 ここが重要である。
「刺激」という言葉が出てくる。
つまり(できる・できない)ではない。
(覚えた・覚えない)ではない。
刺激である。
その刺激が大切。

 わかりやすく言えば、刺激を与える。
与えても、仮に効果らしきものがなくても、気にしない。
刺激というには、「教え育てる」という意味での「教育」とは、ちがう。

このことは、私も経験則上、納得する。
たとえば年少のはじめごろの子ども(3〜4歳児)などにものを教えても、反応がまったく見られ
ない状態が、しばらくつづく。
子どもによっては、数か月から半年近く、つづく。
教えても教えても、乾いた土に水がしみ込んでいくように、教えたことが、どこかへ消えてしま
う。
が、けっして無駄ではない。
無駄と考えてはいけない。
そうして与えた情報は、やがて子どもの頭の中で膨らみ、臨界点に達する。
とたん、子どもは大きく変化する。
ある日を境に、子どもが階段を上るように、まるで別人のように変化していくことも珍しくない。

 が、それはそれとして、この時期に与える刺激が、いかに重要なものであるかが、これでわ
かる。
すばらしい音楽を聞かせる、すばらしい絵画を見せる、すばらしい本を読んであげる、あちこち
へ旅行に連れていってやる、など。
こうした刺激が、子どもの才能を、いつかやがて開花させる。

★その中で、例えば、脳機能発達には「臨界期」が存在することを早期教育の重要性の科学
的根拠とする主張も出現してきました。

 「早期教育」というと、「早取り教育」と誤解している人も多い。
たとえば小学校で学ぶ掛け算を、幼児に教えるなど。
足し算にしても、引き算にしても、そうである。
しかし「早取り教育」は、「早期教育」ではない。
いくら臨界期があるといっても、幼児に掛け算を教えることは、早期教育ではない。

 同時に忘れてならないのは、子どもを楽しませること。
楽しませることによって、脳内で特殊な反応が起こる。
たとえばカテコールアミンというホルモンが分泌され、それが子どもを前向きに引っ張っていく。
それがどういうものか知りたければ、生き生きと反応している子どもの顔を見ればよい。
(生き生きとしている)ときの顔のツヤ、それがカテコールアミンである。

 つまりいくら(刺激)といっても、子どもが逃げ腰になっていたのでは、効果はないということ。

★最近になって、成熟脳でも可塑性のある脳領域が存在することや、「臨界期」を過ぎた大脳
皮質でも可塑性が存在することを示唆する研究が報告されました(Sawtell et al., Neuron 
2003)。しかし、大脳皮質視覚野の「臨界期」後に可塑性が保持されるのかどうか、保持される
とすればどの程度なのかは不明のままでした。

 「可塑性」というのは、「元に戻る可能性」のこと。
先ほどから、「反応性を失う」と書いてきた。
つまり「元には戻らない」と。
またそれが今までの常識だった。
しかし理化学研究所の研究員の研究によれば、「もとに戻ることがある」、あるいは、「戻る部
分もある」ということになる。

 もちろん程度の問題もあるだろう。
「戻る」といっても、「元通り」ということではない。
そのことは、1920年代に見つかったオオカミ姉妹を例にあげるまでもない。
あるいはもっとわかりやすい例で言うと、手乗り文鳥がいる。
文鳥という鳥を手乗りにするためには、その時期までに、人間の手で育て始めなければならな
い。その時期を逸すると、手乗り文鳥は、「手乗り」にならなくなる。

 まったく不可能ではないが、野生化し、たいへんむずかしくなる。
「元に戻る」といって、その程度のことをいう。

★研究チームは、大脳皮質神経回路を構成する興奮性と抑制性の2群の神経細胞を区別し
て、それらの左右の目への光刺激に対する反応を記録することで、「臨界期」終了後の可塑性
の解明に挑みました』(以上、「理化学研究所」HPより)。

 ここから先は、さらに専門的になる。
神経回路には、(興奮性)と(抑制性)がある。
いつもペアで、働いている。
たとえば指を上下させるときも、(動かせ)という命令と、(動かすな)という命令が、同時に働
く。
それがバランスよく働くから、指はスムーズかつなめらかに動く。
(興奮性)が強ければ、パッパッと、かみそりでものを切るように動く。
(抑制性)が強ければ、ダラダラとしたような動きになる。

 (行動の世界)のみならず、いわゆる(精神の世界)でも、同じようなことが起きている。

 理化学研究所の研究員たちは、その「可塑性」の研究に臨んできたという。

●再び、臨界期

 私が音痴なのも、芸術に親しみがないのも、運動神経がイマイチなのも、ものさがすのが苦
手なのも、女性が苦手なのも、すべてそれぞれの臨界期において、適切な刺激を受けてこな
かったせいかもしれない。

 その一方で、私は子どものころから、かなり理屈ぽい人間だったようだ。
ものごとを理詰めで考えるのが得意だったし、またそうでもしないと、納得しなかった。
そういう自分は、ひょっとしたら、すでに幼児期にはできていたのではないか。
記憶に残っているのは、近くの公園で遊んでいるとき、だれかが私に向かって、こう言ったこ
と。
「浩ちゃん(=私)は、哲学者だなあ」と。

 私はまだ幼稚園児だった。
「テツガクシャ」という言葉だけが、ずっと記憶に残った。

 で、そういう自分をフィードバックしてみると、私という人間がそうなったのは、すでにそのころ
までにそうなっていたということ。
このことも、今、子どもの世界を観察してみると、よくわかる。
年長児でも理屈ぽい子どもは、理屈ぽい。
そうでない子どもは、そうでない。
小学生になると、この傾向は、さらに大きく分かれる。

 幽霊や霊の存在をまったく認めない子どももいる。
一方、まじないや占いに凝っている子どももいる。
ちなみに、私は、まじないや占いを、まったく信じていない。
信じていないというより、体が受けつけない。

 ともかくも、「臨界期」を知ることには、2つの意味がある。
ひとつは、それによって、より自分のことが深くわかるようになるということ。
もうひとつは、あなた自身が、自分の子どもを見る目が変わってくるということ。
小学生にもなった子どもに、「どうしてあなたは〜〜ができないの!」と叱っても、意味がない。
その子どもの中身のみならず、方向性のほとんどは、乳幼児期にできあがる。
言い換えると、その後の「私」は、その「燃えカス」のようなもの。
そういったこともわかるようになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 臨界期 理化学研究所 敏感期 大脳皮質 視覚野 神経細胞 臨界期終了後
 可塑性 はやし浩司 敏感期 刷り込み 刷りこみ 臨界期)


Hiroshi Hayashi++++++Feb.2010++++++はやし浩司

●金沢へ

+++++++++++++++++

私は今、この原稿を、金沢へ向かう
電車の中で書いている。
「しらさぎx号」という電車で、
米原発を、50分遅れ。
何でも一宮(いちのみや)付近で、
人身事故があったとか。

このところ列車事故がよくある。
「そのひとつかな?」と思った。

++++++++++++++++++

●北陸トンネル

 列車は、もうすぐ北陸トンネルに入るはず。
その手前で、北陸トンネルらしき、長いトンネルに入るが、これは北陸トンネルではない。
長さは、13キロ以上ある。
長いトンネルである。
昔は、つまり私が学生時代には、このトンネルが近づくと、急いで窓をしめた。
蒸気機関車の煙が、容赦なく窓の中に飛び込んできた。

 窓の外は低く、重い雲がたれさがっている。
雪雲である。
近くの山々の上部は、白い雪でおおわれている。
寒々とした景色である。

 私は学生時代、この天気が嫌いだった。
米原から北陸線に入ったとたん、ゆううつな気分になった。
今でもその気持ちは変わらない。

●金沢の町

 好きか嫌いかと問われれば、「好きではない」。
私にとって金沢という町は、そういう町だった。
今もそうだ。
また「住みたくない」という意味では、嫌いな町ということになる。
私には、青い空がさんさんと輝くような町のほうがあっている。
が、だからといって、性格が明るいというわけではない。
ひょっとしたら、暗いから、そうなのかもしれない。
ときとして、人は、自分の心と正反対のものを、外の世界に求める。
私のような性格のものが、金沢のようなところに住んだら、ますます暗くなってしまう。
いつもうつ病と紙一重のところで生きている。

 あまり自慢にならないが、当時、つまり今から40年以上も前の話だが、学生の自殺率ナン
バーワンの大学といえば、私たちの母校、金沢大学だったという。
とくに戦後直後は、学生の自殺者が後を絶たなかったと聞いている。
(この話は、学生時代、だれかから聞いたもの。)

●雪国

 北陸トンネルを抜けると、「そこは雪国」だった。
見た感じ、40〜50センチほど、雪が積もっていた。
寒々とした景色だった。
その間を、大きな瀬を立てて、小さな川が流れていた。
私はしばらくパソコンを打つ手を休めて、窓の外の景色に見とれた。
そこは白と黒の世界。
ほんのりと少し、空に水色の光も見える。

 『♪秋の灯ともしころの、しぐれの長浜の町は・・・』と。
学生時代、合唱団で歌った歌が、頭の中で聞こえてきた。
とたん、懐かしさが、ググーッとこみあげてきた。
切ないというか、さみしさと悲しさの入り交ざった思い。
あれから40年以上にもなるのに、その40年が、どこかへ消えてしまった。
人生という部屋に入ったら、入り口が、そのまま出口だった。

 今はいるはずもない、下宿のおばさんや、友だちの顔々が、つぎつぎと浮かんでは消える。
「みやげはもっているだろうか?」と、ふとそんなことを考える。
・・・列車はたった今、「武生(たけふ)」という駅に止まった。

●列車の中

 ワイフはポータブルビデオを見ている。
長男は、だまって窓の外の景色を見ている。
5、6席前のところでは、4人組みの若い男たちが、大声で話し込んでいる。
先ほど注意したが、効果なし。
相変わらず甲高い声で、ぺちゃぺちゃと話している。

 私の横の席には、若い男女。
男のほうは、ノートパソコンを叩いている。
P社のレッツノート。
高級品である。
私のは、TOSHIBAのミニノート。
言うなら、安物。

 どういうわけか、私はそういうことが気になる。
ほかのことでは競わないが、パソコンだけは、競ってしまう。
「いいのをもっているなあ」と思いつつ、「負けたな」と。

 しかしその男も、かなりパソコンが好きらしい。
私と同じように、楽しそうに文章を叩いている。
指先の動きが大きいので、速く文章を打っているように見えるが、私より遅い(?)。
速く打つ人は、キーボードの上を、指先を左右にすべらすようにして、キーを打つ。
(打つのではなく、すべらす。)
たとえば、「〜〜ですね」と叩くときも、「D」から「E」へとそのまま指をすべらす。
そのまま「N」を押しながら、ふたたび「E」へすべらす。

 キーの叩き方にも、美しさがある。
隣の男のは、まるでタップダンスでも踊っているかのよう。
指先がポンポンとキーの上ではじける。
一方、私のは、なめらかなワルツのよう。
音もなく、指が左右に揺れる。

●福井

 列車は、福井駅に着いた。
その福井。
少し前まで、1年先輩の、Aさんが、この福井県の副知事をしていた。
今も、していると思う。
卒業してから、20年程は、年賀状を交換していた。
が、今は、音信もない。
すばらしい先輩だった。

 高いビルこそ見えないが、静かで落ち着いた町だ。
・・・たった今、「北陸電力」の看板も見えた。
このあたりは、北陸電力の管轄下。
同窓生の1人は、その社長(当時)の令嬢と結婚した。
「学生時代は、原子力発電所建設反対と言っていたが、今は建設するほうで働いている」と。
いつだったか、一度会ったときに、笑いながらそう話してくれた。
そうそうこの町で、弁護士をしている同窓生もいる。

 みんながんばっている。
そんな思いが、私をふと、小さくする。
「ぼくは、何もできなかった・・・」と。

●北陸新幹線

 芦原温泉に着いた。
窓の外に、「福井県に新幹線の槌音を!」という看板が見える。
福井県に新幹線?

 気持ちはわかるが、こんなところに新幹線は、必要ない。
この電車にしても、特急電車と言いながら、温泉地ごとに止まる、ローカル列車。
新幹線の駅も、そうなるのだろうか?
もしそうなら、新幹線は、不要。

 もし必要性があるとするなら、秋田から新潟、富山経由で、京都へ抜ける新幹線ということに
なる。
その結果として、金沢→福井→京都と、新幹線がつながる。
それならよい(?)。

しかしそれでも、どれだけの需要が見込まれるというのか。
もし日本にまだ余力が残っているなら、もっとほかの予算に、使うべき。
人口が密集しているところに建設したほうがよい。
東海道新幹線を、複々線化するとか、リニア路線を延長するとか、など。
が、残念ながら、今の日本に、それだけの余力はない。
・・・というより、土木事業は、もうじゅうぶん。
たくさん!
そうでなくても、国の借金は、雪だるま式に、ふえつづけている。

●国の借金

 ついでに・・・。
国の借金という言葉が出てきたので、その国の借金について。

現在、国の借金は、600兆円とも、800兆円とも言われている。
しかしこれはウソ。
実際には、1000兆円を、はるかに超えている。
たとえばあの旧国鉄が清算されたとき、年金債務だけで、17兆円もあったはず。
そうした借金は、どこへ消えたのか。
清算されたという話は聞いていない。
そういう隠れ債務が、山のようにある。

 しかしどういうわけか、日本は、「倒産」しない。
それについては、こう説明されている。

(1)日本という「国」は、外国には借金をしていない。
(2)日本という「国」は、1000兆円近い国有財産をかかえている。

 つまり日本という「家」は、身内からの借金でまかなっている。
「家」のおやじは、借金とは別に、同じほどの財産をもっている。

 が、このところ、どうもそれがあやしくなってきた。
つまり「1000兆円」という数字が、あやしくなってきた。
一説によると、この「1000兆円」という金額は、官僚筋から意図的に流されたウソということら
しい。
国が保有している国有地にしても、バブル経済時代の実勢価格を、基準にしている(?)。
となると、これは深刻な問題である。
「JALの株を、100万株持っているから、だいじょうぶ」というのに、話が似ている。
(JALは、現在、法的整理され、1株、1円。)

●指定席

 時期的なせいもあるのか、列車内は、がらんとしている。
かえって自由席のほうが、すいている。
先ほど、指定席車両に来た人が、前よりの2号車(自由席車両)へ移っていった。
隣でパソコンを叩いていた男も、途中で下車した。
金沢に近づくにつれて、列車は、私たちの貸し切り車両のようになった。

 ついでに今回の旅行の費用について。

 往復旅費が、3人分で、60000円と少し。
それにホテル代が、3人分で、22000円(朝食のみ)。
同窓会費が、8000円。
あとはもろもろ。
計10万円。
「10万円で同窓会か?」と、切符を買うとき、そう思った。
金沢の町を観光したいという気持ちはあるが、今回は、あきらめた。

 金沢の駅に着いたときには、午後6時を過ぎていた。
すでに同窓会は始まっているはず。
「人身事故ではしかたないな」と言って、あきらめる。

(2010年2月20日記)

●追記

 同窓会は、始まっていた。
私が遅刻で、しんがり。
みな、すでに会食を始めていた。
浅野川沿いにある、「太郎」という由緒ある小料理屋。
鍋料理が、おいしい。
今回で、2度目だが、そのおいしさを、改めて確認した。
星は、5つの、★★★★★。

 みな、それぞれ自分の人生をしっかりと歩んできた連中ばかり。
私だけ、自己紹介で、「いまだに風来坊です」と言った。
が、だれも否定しなかった。
私は、学生時代から、風来坊だった。
そんな雰囲気の満々と漂わせた男だった。

●金沢大学法学部(旧法学科)

 びっくりするような役職を並べた男もいたし、転々と職を替えている男もいた。
今は退職したが、大手企業のトップを経験した男もいた。
が、ああして円陣を描いて鍋料理を囲むと、ただの男。
学生時代のまま。
「コンパを思い出すなあ」と。
そう、あのコンパのままだった。

 飲んで、食って、ただひたすらしゃべりつづける。
が、不思議とだれも、健康の話、病気の話、家族の話をしない。
「しない」というより、「聞かない」。
相手が言い出すばあいはともかくも、そこにはエチケットというブレーキが働く。
みな、その向こうで、いろいろな問題をかかえている。
それをほじくり返すのは、エチケットに違反する。

 みな、自分の仕事の話をした。
私もした。
だれかが、「給料は、28万だ」と言うと、「29万以上は、老人xx控除が受けられないぞ」
というヤジが飛ぶ。
みな、それぞれの道の専門家だ。

 同窓会の最後に、第四高等学校応援歌の『南下軍(なんかぐん)』を歌った。
歌詞は印刷し、私が用意しておいた。
YOUTUBEに載せたい。
が、横にいた男が、こう言った。
「四高記念館へ来れば、いつでも聞けるよ。ぼくが館長をしているよ」と。

 我ら、金沢大学法文学部法学科卒業生。
北陸3県で、唯一の法学部。
しかも100名(1学年)だけ。
我らを除いて、当時は、この地には、「法律」はなかった。
その心意気は、今も、しっかりと胸に残っている。


Hiroshi Hayashi++++++Feb.2010++++++はやし浩司

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタイト
ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" height="250" alt="●BL
OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>

●南下軍の歌(通称「南下軍」)

++++++++++++++++++

その昔、第四高等学校と第三高等学校は、
よく対校試合をしたそうです。
そのとき第四高等学校(金沢大学の前身)の
学生が、京都に向かうとき歌った歌が
「南下軍の歌」です。

2010年2月10日、第18回法学科卒の
同窓会がありました。
そのときの様子を送ります。

++++++++++++++++++

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HTTPは、
http://www.youtube.com/watch?v=1iAyFSKXeqI
より

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 南下軍の歌 南下軍 第四高等学校応援歌 金沢大学応援歌)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●同窓会

 60歳を過ぎると、同窓会の質が変わってくる。
若いときは、同窓会をしても、「今度〜〜しよう」とか、
「来月にでも会おう」とかなる。
仕事の話につながることもある。

 が、60歳を過ぎると、先がない。
「これから〜〜しよう」という展望性がない。
みな、人生そのものに遠慮している。
そんな感じになる。
言うなれば、すでに結論が出てしまっている。
あるいはエンディングの始まった映画のようなもの。
すでに観客席を立ち始めた人さえいる。

 今、元気な人も、来年は、わからない。
今、肩書きのある人も、来年は、わからない。
また健康にせよ、肩書きにせよ、そういったものにまつわる
空しさを、みな、知り尽くしている。
だから話の内容も、健康の話とか、家族や孫の話になったりする。
定年退職後の再就職の話になったりする。

もちろん過去の話もするが、その過去も色あせてしまった。
思い出そうとしても、細切れになってしまったフィルムのよう。
結局は、みな、一方的に、自分の過去の一部を話し、
「そうだったのか」「そうだったな」で、終わってしまう。

 おそらくみな、内心では、「これではいけない」と思っている。
「何とかしたい」と思っている。
が、どうしようもない。
現状維持が、精一杯。
明るい未来など、どこにもない。
希望さえ、見つからない。

 帰り道、AD君と、ホテルの近くまで歩く。
そこにAD君の息子が、車で待っていた。
息子といっても、30歳を超えている。
それを見て、再び、我に返る。
「ぼくたちの時代は、終わったのか」と。

 ホテルの部屋に入ると、ワイフはオリンピックの
中継を見ていた。
長男は、頭痛がするとかで、隣の部屋で寝ていた。
「同窓会、どうだった?」とワイフが聞いた。
「懐かしかった」とだけ答えて、私もテレビを見始めた。

 あとは静かな無言。
無数の映画を一度に見終えたような疲れが、そのとき、
どっと襲ってきた。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●親のウソ(強化の原理)

++++++++++++++++++++++

この話は以前にも書いた。
こんな話。

ある母親がこう言った。
「うちの子(年長児)は、字を書くのがへたでしょ。
みなさんは、じょうずに書けるでしょ。
だから本人もそれを気にして、BW教室(=私の教室)
へ行くのをいやがっています」と。

この話は、ウソ。
親の作り話。
が、どこがウソか、あなたはわかるだろうか?
親の話には、この種のウソが多い。

+++++++++++++++++++++

●強化の親vs弱化の親

 発達心理学の世界には、「強化の原理」「弱化の原理」という言葉がある。
何ごとも前向きに取り組んでいる子どもは、そこに強化の原理が働き、ますます前向きに伸び
ていく。
反対に、「いやだ」「つまらない」と思っている子どもは、そこに弱化の原理が働き、子ども自身
が、自ら伸びる芽をつんでしまう。

 同じように、親にも、(子どもを伸ばす親)と、(子どもが伸びる芽を摘んでしまう親)がいる。
前者を、(強化の親)というなら、後者は、(弱化の親)ということになる。
(この言葉は、はやし浩司の造語。)

たとえばときどき教室を参観して、「うちの子はすばらしい」「できがいい」と思っている親の子ど
もは、どんどんと伸びていく。
反対に、「だめだ」「できない」と思っている親の子どもは、表情も暗くなり、やがて伸び悩む。

●「わざとほめてくれるのよ!」

 この話も前に書いたが、こういう話。
ある女の子(年長児)の話。
その女の子は、おかしなことに、私がほめればほめるほど、表情が固く、暗くなっていった。
ふだんから静かな子どもだった。

 私はその理由が、わからなかった。
が、ある日、レッスンが終わって廊下に出てみたときのこと。
いつも、その子どもの祖母にあたる女性が、その子どもを教室へ連れてきていた。
その女性が、その女の子(=孫)に向かって、こう言っていた。

 「どうしてあなたは、もっとハキハキしないの!
あなたができないから、先生がああしてわざとほめてくれるのよ。
どうしてそれがわからないの!」と。

●自己評価力

 自分を客観的に評価する・・・それを自己評価力という。
「現実検証能力」と言ってもよい。
この自己評価力は、小学3年生前後(10歳前後)を境にして、急速に発達する。
が、それ以前の子どもには、その力は、ない。
よくある例が、落ち着きのない子ども。
AD・HD児もそれに含まれる。

 このタイプの子どもに向かって、「もっと静かにしなさい」とか、「君が騒ぐと、みなが迷惑する
よ」とか、教えても、意味はない。
自分が騒々しいことにすら、気づいていない。
その自覚がない。
またそれを気づかせる方法は、ない。

 いわんや、幼稚園児をや、ということになるが、文字についてもそうである。
自分の書いた文字を見て、それがじょうずか、へたか、それを判断できる子どもはいない。
それを判断し、子どもに伝えるのは、親ということになる。

 つまり親が、「自分の子どもの書く字がへた」と思っている。
だからそれを子どもに言う。
「あなたは、字がへた」と。

 ここで冒頭に書いた話を思い出してほしい。
私はその母親の言ったことを、ウソと書いた。
理由は、もうわかってもらえたと思う。
繰り返しになるが、年長児くらいで、自分の書いた字がじょうずか、へたか、それを客観的に判
断できる子どもはいない。
子どもは、親の反応を見ながら、じょうずかへたかを知る。
しかしそれでも、どこがどうへたなのか、それがわかる子どもはいない。
つまり子どもの書いた字を、へたと決め込んでいるのは、母親自身ということになる。
が、それだけではない。
むしろ子どもの伸びる芽を、親が摘んでしまっている!

●強化の原理

 子どもが何か、文字らしきものを書いたら、ほめる。
それがどんな文字であっても、ほめる。
「ホホー、じょうずに書けるようになったね」と。

 こういう働きかけが、子どもに自信をもたせる。
その自信が、強化の原理となって、子どもを前向きに引っ張っていく。

 この時期、子どもは、ややうぬぼれ気味のほうが、あとあとよく伸びる。
「私はすばらしい」という思いが、強化の原理として働く。

 最初の話に戻るが、こういうときは、その反対のことを言う。
「あなたは、字がじょうずになったわね。
先生も、ほめてくれていたわよ」と。

 以前、『欠点はほめろ』という格言を、私は考えた。
これもそのひとつ。
子どもに何か問題を見つけたら、それを指摘して、責めてはいけない。
反対に、ほめて、伸ばす。
たとえば意見を発表するとき、声が小さかったら、「もっと大きな声で!」ではなく、「あなたはこ
の前より、大きな声が出るようになったね」とか、「あなたの声は、いい声よ」とか、など。

 これは子どもを伸ばすための、第一の鉄則である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 欠点はほめる 親のウソ 親の嘘 子どもを伸ばす 強化の原理 弱化の原理)


Hiroshi Hayashi++++++Feb.2010++++++はやし浩司

●有島武郎(ありしま・たけお)

++++++++++++++++++++++++

今では、「有島武郎(ありしまたけお)」という名前を
知っている人も、少ない。
明治11年(1878)生まれ。
明治から大正にかけての文豪で、大正12年(1923)、
45歳の若さで、この世を去っている。

明治41年(1908)に、妻、安子と結婚するが、
その安子は、大正5年(1916)に、他界。
有島武郎自身は、そのあと、7年生き、大正12年(1923)に、
軽井沢の別荘で、『婦人公論』の女性記者と情死している。
「情死」というのは、「心中」のこと。

その有島武郎の代表作である、『カインの末裔』を、久しぶりに
読む。
学生時代、有島武郎の大ファンの友人がいて、彼はそののち、
有島武郎論を、あちこちの同人誌に発表している。
それで私も彼につられる形で、有島武郎に興味をもつようになった。
が、好きか嫌いかと問われれば、好きではない。
回りくどい情景描写が、ときにまだるっこい。
・・・というより、それが有島武郎。
回りの情景描写を積み重ねながら、主人公の「心」を
浮かび上がらせていく。

+++++++++++++++++++++++++

●『カインの末裔(まつえい)』

 ストーリーだけを追えば、何でもない作品。
ただ昔読んだときも、それを感じたが、今回も、その謎は解けなかった。
つまり主人公の仁右衛門(小作人)は、場主(地主)を、最後のところで殺害したかどうかという
こと。
何度かその部分を読み返してみたが、結局、結論は、「?」。
全体としてみると、「殺害した」ということになるが、その部分は、「・・・のぼせ上がったために湯
気をださんばかりに赤くなっていた」で終わる。
つづいて、いきなりシーンが変わり、仁右衛門は、そのまま自分の小屋に帰り、そのあと、自分
の馬を斧でたたき殺している。

そのつながりの部分が、実のところ、よくわからない。
題名の『カインの末裔』というところから、つまり「カイン」という名前を使っているところから、そ
れなりのことをしたということになる。
「カイン」というのは、アダムとイブの長男。
弟のアベルに嫉妬して、アベルを殺してしまう。
仁右衛門は、そのカインの末裔というわけである。

 で、こうした作品を読んでいつも感ずることがある。
そのひとつは、日本語が、当時と比べただけでも、大きく変化したということ。
私ですら、「昔の作家は、漢字をよく知っていたなあ」と感心する。
(もっとも私は、子どものころから、漢字が苦手。)

「章魚」と書いて、「たこ」と読む。
「溺(いば)る」というのは、「小便をする」こと。
「鬣」と書いて、「たてがみ」と読む。
「漢字で、『たてがみ』と書け」と言われて、この漢字を書ける人は、まずいない。

 最初の数ページを一読しただけでも、こうした漢字がズラズラと並ぶ。

●有島武郎論

 こうした文豪について、それぞれ研究者や論者がいて、無数の論文を書いている。
北海道のニセコ町には、有島記念館まであるという。
私のような素人が、有島武郎について書いたら、それこそ、八つ裂きにされてしまう。
事実、学生時代、冒頭に書いた友人は、私が何を言っても、「君は、浅い」と怒った。
「有島武郎のような文豪の書いた文章を、君のような男に、理解できるはずもない」と。

 しかしその私も63歳。
有島武郎を死んだときの年齢よりも、約20歳も、長生きをしている。
今さら、有島武郎に遠慮しなければならない理由などない。
人生経験という部分では、有島武郎にひけを取らない。
東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学)の教授だったというが、肩書きにビビるような年
齢は、とっくの昔に終わった。

 そういう自分と比較してみて、つまりこの『カインの末裔』が、その後の「農場解放」へとつなが
っていくという部分をのぞいて、若いころ、あれほどまでに畏れ多く感じた私は何だったのかと
思う。
(だからといって、私のほうが上だとか、有島武郎がつまらないとか言っているのではない。
どうか誤解しないでほしい。)

この『カインの末裔』にしても、どこからともなく仁右衛門という小作人がやってきて、またどこか
へと去っていくというストーリー。
最後は貧富の差に疑問を感じ、「同じ人間ではないか」と、場主(地主)を殺害し、自分たちは
またそのあと、どこかへと去っていく。
『カイン』とか、『末裔』とかいうには、少し無理がある?
私なら、『仁右衛門』という題ををつけ、それですます。

 ……こんなことを書くと、この道の研究家たちによって、袋だたきにあいそうなので、やはりこ
の話は、ここまで。
久しぶりに、骨太の短編小説を読んだ。
おもしろかった。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●『恋するベーカリー』

++++++++++++++++++

メリル・ストリープの出る映画は、
『マジソン郡の橋』以来、すべて観ている。
で、昨夜は、『恋するベーカリー』を
観てきた。

星は2つか3つの、★★。

もちろん深夜劇場。
が、入ってみて、驚いた。
観客は、私とワイフの2人だけ!
完全、貸し切り!

久々に、2人で、ああでもない、
こうでもないと、ペチャペチャと
しゃべりながら、映画を観た。

帰ってきて時計を見たら、深夜の
0時を過ぎていた。

今までにたくさんの映画を観てきたが、
観客が、私たち2人だけというのは、
はじめて。
それだけに、今回の映画は、特筆すべき
映画となった。

++++++++++++++++++

●パソコン

 生徒(小4)の母親から、「息子にパソコンを買ってやってほしい」と頼まれている。
そこで選んだのが、TOSHIBAのMX33。
雑誌などでも、評価が高いパソコンである。
標準バッテリーだけで、9時間半も作動する。
私も以前から、ほしかった。

 で、近くの店で買うと、安いところで、7万6000円前後。
駅前のBショップでは、7万9800円。
が、ネットで買うと、4万5000円。
この差額は大きい。
約半額!

 今日、もう一度値段を確認に、その母親に了解してもらったあと、注文を出すつもり。
言い忘れたが、私も買う。
カラバリ(色)は、赤、黒、白の3色。
私は白、その生徒は黒。
楽しみ。

 ところでパソコンというのは、バリバリ使って、使い倒す。
使って使って、使いまくる。
磨いて、飾っておくものではない。
保証期間中に故障が起きたら、即、修理。
どうせ1〜2年で、使い物にならなくなる。
(2月23日朝、記)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●農業とパソコン

はじめて庭先で畑作を始めたころのこと。
私は毎回、自分の人生観が大きく変わって
いくのを感じた。
その第一。
「やるべきことはやって、あとは時の流れを待つ」。

畑作というのは、そういうもの。
土を耕し、肥料を混ぜる。
苗を植えたり、種を蒔いたりする。
棚を作ったり、風よけを立てたりする。
が、すぐに収穫があるわけではない。
あとは(時の流れ)を待つ。

こうした人生観は、それまでの私には、なかった。
魚釣りにたとえるなら、釣り竿をたれてじっと
待つという方法がある。
しかし私は、その「待つ」ということができなかった。
魚を手に入れたかったら、水の中に飛び込んで
いけばよい。
モリで突けばよい。
それが私の人生観の基本だった。

で、今、パソコンを相手に、同じように考える。
たとえばYOUTUBEで、5本のビデオを
アプロードしようとすると、40分前後の
時間がかかる。
何ごとも、瞬時、瞬時に片づいていく世界だが、
時に、こうして(時の流れ)を待つことがある。

ファイルチェックするときも、デバッグするときも
そうだ。
大きなファイルを保存するときも、やはり
時間がかかる。
が、そういうときも、「設定だけをしっかりして、
あとは時の流れを待つ」。

が、最近、もうひとつ、こんなことも考える
ようになった。

たとえば今、私はこうして愚にもならない原稿を
書いている。
こうした原稿が、どこでどうなっていくか、
本当のところ、まったくわからない。
一生懸命書いたからといって、読者の人たちに
受け入れられるというわけではない。
軽い気持ちで書いた文章だからといって、
そのまま消えるわけではない。
そういう意味では、まったく予想が立たない。

が、そういうときも、こう考える。
「あとは、時の流れに任せればいい」と。
それはまさに、畑作の世界。
やるべきことはやって、あとは時の流れを待つ。
どんな花が咲き、実がなるかは、そのときに
なってみないとわからない。
あるいは風雪に耐えられず、そのまま枯れて
しまうかもしれない。

そういう意味で、農業とパソコンの世界は、
よく似ている。
今朝は、そんなことを、いちばんに考えた。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司※

●中日春秋(2010−2−24)「直葬についての誤解」

+++++++++++++++++

今朝の中日新聞、『中日春秋』に、こんなコラムが載っていた。
いわく「……葬儀業界には、『直葬』という言葉があるのだそうだ。
病院から火葬場へと直行、翌日葬儀なしで、荼毘(だび)に付す。
それが格安の『直葬プラン』らしい。
とにかく『省く』は、当節のキーワードだ。
第一は不況による節約ムードのせいだろうが、少し前、ある業界の卸売会社
の経営者から聞いた話には、やりきれない思いがした……」(以上、原文のまま)と。

つまり、節約ムードの中で、省く目的で、「直葬」がふえている、と。

以下、「省く」ということで、中間卸売会社が省かれる例、インターネットで、
小売店が省かれる例がつづく。

そしてしめくくりは、「……効率化の名の下、今後も一層、旧来の手順や仕組みを
「省く」方へと社会を押しやるに違いない。
そしてその都度、省くべきでない何かも一緒に省かれていくだろう」と。

+++++++++++++++++

●すでに30%以上が直葬

 要するに、「直葬というのは、省くことから生まれた」。
その理由は、「不況による節約ムードだ」と。
しかしこのコラムを書いた人は、このコラムを書くまで、「直葬」という言葉すら知らなかったらし
い。
「言葉があるのだそうだ」、つまり「……そうだ」と、書いている。
たぶん、若い人か、今まで葬儀を経験したことのない人なのだろう。
が、現実は、ちがう。
「不況」、「節約」、「省く」に関係なく、すでに首都圏では、30%以上もの人たちが、その直葬に
より、葬儀を行っている。

 もちろんその中には、ほかの宗教を信じている人も含まれる。
無神論の人も含まれている。
さらに主義主張をもち、自己の哲学に従って、直葬を行っている人もいる。
今ごろ「……そうだ」というのは、おかしい。

●思慮

 思慮の深さは、その人の書いた文章を読んでみればわかる。
とくに、こうしたデリケートなテーマについて書いた文章を読んでみればわかる。
……というより、人の死に関する文章を書くときは、この私でも細心の注意を払う。
このコラムを書いた人は、しかし、直葬というより、それを行う遺族たちの心を、「節約」と決め
つけた上、「不況によるもの」と、大上段に切り捨てている。
無神経というか、傲慢というか……?
あまりにも思慮がない。
ないというより、浅い。
浅すぎる!
私たちの世界の用語を使えば、「切り口が甘い」。

 批判はさておき、直葬について、改めて考えてなおしてみたい。

●節約が理由ではない

 その第一。
私は、(私のワイフも)、直葬を望んでいる。
理由はいくつかあるが、何といっても、現在の葬儀の仕方には、おおきな疑問を覚える。
私たちの主義、主張に反する。
「不況」、「節約」、「省く」が、理由ではない。
またそれを押しつけられても、困る。

 あえて言うなら、3人の息子たちに、迷惑をかけたくないという思いがある。
さらに言えば、僧侶による読経を拒否したからといって、どうしてそれが「省く」ことになるのか。
その前に、僧侶による読経に、どれほどの意味があるというのか。
和式仏教、さらには北伝仏教に対する疑問が、それにつづく。

●金銭的な負担

 その第二。
現実問題として、たいていの人は、それまでの介護で、クタクタになっている。
「親の介護が2年つづけば、兄弟関係は壊れる」とも言われる。
遺産相続問題がからめば、なおさら。
みながみな、裕福なわけではない。
介護により、親の財産どころか、自分の財産まで食いつぶしてしまっている人も多い。

 私も一昨年、実兄と実母を相次いで亡くした。
それまでの30年以上、生活費、税金をすべて負担してきた。
その上で、葬儀となった。

 実兄のときは、葬儀費用だけで、200万円を超えた。
加えて僧侶への供養、戒名料などなど。
計250万円以上。
一方、親族などからの香典による収入は、60万円弱。

 2か月後に今度は、母が他界した。
私は質素に葬儀を行うことを決めた。
が、それでも、……つまりいくら節約(?)しても、僧侶を呼ぶような葬儀となると、100万円をく
だることはない。
僧侶のほうから、「お宅は、みな、院号がついていますから」と、戒名に、院号をつけることを求
めてきた。
戒名によって、値段が異なることは、すでにみなさん、ご存知の通り。

が、それで終わるわけではない。
それにつづく、七七回忌、一周忌などなど。
今年は三回忌。
私のばあい、仏壇を新調し、「精(しょう)抜き」「精入れ」の法事もしなければならなかった。

●中身は様々

 その第三。
親子関係、親族関係といっても、中身は様々。
「親だから……」「子だから……」という『ダカラ論』ほど、いいかげんなものはない。
『ダカラ論』は、論理ではない。
その『ダカラ論』で苦しんでいる人となると、ゴマンといる。
私自身が、そうだった。

 無神経な親族は、表面的な部分だけを見て、また一方的な意見だけを聞いて、容赦なく私に
『ダカラ論』をぶつけてきた。
「浩司君、君は男だろが」とか、「何と言っても、親は親だからな」とか、など。
「本家だからな」と言った人もいた。
そうした『ダカラ論』から受ける苦痛には、相当なものがある。
そのつど、自分のもっている主義主張をねじまげなければならない。
世俗に妥協しなければならない。
 
 もちろん良好な親子関係、親族関係がベースにあれば、問題はない。
またそういう人たちから見れば、直葬というのは、「とんでもない葬儀の仕方」ということになる。
またそういう人たちの感覚からすれば、「不況」、「節約」、「省く」という言葉も出てくる。
先の中日春秋のコラムを書いた人は、たぶん、きわめて恵まれた家庭環境の中で、生まれ育
った人なのだろう。
が、見方を変えれば、ノー天気。

●直葬

 私の恩師のT先生も、直葬を望んでいる。
会うたびに、私にそう言う。
東京大学の副総長(総長特別補佐)も経験している。
「天皇陛下のテニス友だちなのだから、先生は、そういうわけにはいきませんよ」と、私は言う。
しかしT先生は、すでにそう決めている。
意志は固い。

 T先生がそうであるからというわけではない。
それ以前から、私は戒名なし、葬儀なしの直葬を望んでいる。
私は、葬儀そのものの意義を認めていない。
それが納得できなければ、あなたも、一応仏教徒なのだから、釈迦からはじまって、現在に至
る仏教なるものを、一度は、紐解いて調べてみたらよい。

 ためしに『地蔵十王経(地蔵菩薩発心因縁十王経)』あたりから調べてみたらどうだろうか。
和式仏教が、いかにインチキにインチキを重ねてできあがったものかが、それでわかるはず。
戒名の由来について、調べてみるのもよい。
が、何よりも重要なことは、釈迦の原点に立ち返って、仏教をもう一度、見直してみること。

 私は、その結果、直葬でよい……というより、直葬を強く望むようになった。

●人の死

 「誕生」が静かなものであるように、「死」もまた静かなもの。
仰々しく、儀式を行う方が、おかしい。
たとえば親類や友の死にしても、「ああ、あの人は、もう亡くなった」で、よいではないか。
私の死にしても、私は、だれにも知らせなくてもよいと、家族に伝えてある。
いつかだれかが、「あの林(=私)は、〜〜年前に死んだそうだ」と言ったところで、一向にかま
わない。
そのほうが自然。

 もしその人を弔う方法があるとするなら、その人の(心)に触れること。
私のばあいなら、いつか、どこかでだれかが私の書いた文章を読んでくれれば、それでよい。

 さらに言えば、葬儀というと、死者を弔うための儀式と考える人は多い。
しかし現実には、葬儀は、その人の人生に終止符を打つことによって、その人の人生に、その
時点で、区切りをつけてしまう。
「ああ、あの人の人生は終わった」と。
しかしむしろそちらのほうが、その人に対する冒涜ではないのか。

 少なくとも、私は「死」という死によっては、死なない。
肉体が滅んだからといって、死んだことにはならない。
反対に、ただ息(いき)ているだけなら、生きていることにはならない。
「死」のとらえ方そのものが、ちがう。
だからこそ、今、こうして自分をさらけ出して、文章を書いている。

●中日春秋

 中日春秋の論説が、年々、浅くなっていると感ずるのは、私だけだろうか。
この「直葬」に関するコラムにしても、そこにあるのは、「直葬は悪である」という、きわめて通俗
的なものの見方でしかない。

中には、本当に貧しくて、したくても、それができない人もいる。
「独居老人」と呼ばれている人もいる。
そういう人たちを一緒くたにして、「省く」という言葉を使って、書き殴ってよいものか。

 一読して、「おかしい?」と感じたので、こうして文章にして書いてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 中日春秋 直葬 葬儀の仕方 葬儀論)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

【パソコンと人生論】

++++++++++++++++++++++++++

新しいパソコンを買った。
が、いくら性能がよくても、だからといって
それでよい文章が書けるようになるというわけではない。
大切なのは、使い方。
どう使うか?
磨いて飾っておくだけなら、無用の長物。

人生も、どこか、それに似ている。
ただ生きていれば、それでよいというのではない。
大切なのは、生き方。
生き方で、その人の人生の価値が決まる。

++++++++++++++++++++++++++

●新型パソコン

 先日、ある母親から、その母親の息子のために、パソコンを選んでくれと頼まれた。 
こういう依頼は、うれしい。
楽しい。
が、その生徒のパソコンを選んでいるうちに、私も同じものがほしくなった。
これは私のビョーキ。
カタログをながめているだけで、物欲がググーッとわいてくる。

そこで買ったのが、TOSHIBAのMX33(白)。
店では、7万9800円(=ほぼ8万円)。
ネットで買うと、4万6000円(税込み、手数料こみ)。
ただし09年の秋・冬モデル。
ちがいは、ハードディスクの容量だけ。
もちろんネットで買った。

 TOSHIBAは、TX(16インチ、ノート)を買って以来、ファンになった。
デスクトップ以外は、みな、TOSHIBAと決めている。
性能が、安定している。
作りもよい。
そのパソコンを使って、今、この文章を叩いている。
言うなれば、処女作。

 キーの形状が、四角で、指をすべらせたようなとき、指がひかかるような感じがする。
エンターキーが、小さく、打ちにくい。
本で言えば、余白があるわけだから、どうしてその分だけ、エンターキーを大きくしなか
ったのか。
やや不満は残るが、価格が価格だから、文句は言えない。

 書き忘れたが、バッテリーだけで、9時間半ももつという。
(9時間半!)
すごい!

●ネットショップ

 私もこのところ、数万円を超えるような買い物は、すべてネットですませている。
便利で、早い。
代引きで買うから、安全。
少し前までは、多少の不安もあったが、今では、ショップの評価までネットでわかる。
「客の満足度、80%」とか、など。
そういうふうに評価される。
それを見て、ショップを選ぶ。

 ……ということで、今、ものの売買の仕方が、大きく変わりつつある。
それがどうこうということを考えても、意味はない。
この流れは、もうだれにも、止められない。
これから先、この仕方が、当たり前というより、主流になる。
そのうち、自動車も、ネットで買えるようになるかもしれない。

●小売店

 半面、小売店が苦境に立たされている。
製造メーカーが、直接、個人客にモノを売る時代になった。
小売店だけではない。
大規模店ですら、売り上げ高が減少している。
いわんや、小売店をや、……ということになる。

 が、すべてをネットの責任になすりつけるわけには、いかない。
実のところ、小売店の窮状は、15年以上も前から始まっている。
そのころから郊外に大型店ができ、客を奪われるようになった。
町によっては、市内の商店街がゴーストタウン化したところもある。
私がよく知っているのは、岐阜県関市のH町通り。

私が子どものころは、ゾロゾロと人ごみで埋まっていた。
が、今は、見る影もない。
ほとんどの店が、シャッターをおろしたまま。
もっともそのH町にしても、もとはと言えば、郊外の大型店ができたのが理由ではない。
車社会の発展とともに、「道」が、車に占領されてしまった。
車がビュンビュンと道路を走るようになった。
同時に、駐車場問題が起きた。
「駐車場がないから、買い物ができない」となった。

●時代の流れ

 こうして過去へ、過去へとさかのぼっていくと、そのときどきに、(時代の流れ)がある
のがわかる。
そのつど、ささやかな抵抗運動のようなことは起こるが、長つづきしない。
街中に駐車場をふやしてみたり、あるいは郊外の大型店の進出に反対してみたりする。
今は、ネット。

 では、どうすればよいのか。
方法はないわけではない。

(1)高度に専門化する。
(2)人員による直接サービスを充実する。
(3)特殊技術を売り物にする、など。

 たとえば理髪店のように、客が直接、店に来なければできない仕事もある。
あるいは自転車店のように、そのつど修理で稼げる仕事もある。
こうした分野で、小売店は、生き残りを図るしかない。
残念ながら、その努力を怠った小売店は、ジワジワと、衰退の一途をたどる。

●復古主義

 「昔はよかった」と言うときは、注意しなければならない。
安易な復古主義は、さらに未来に向かう(時代の流れ)をも、敵に回すことになる。
しかしこと、「心」ということになると、昔のほうが牧歌的な温もりがあった。
私の父親などは、客が来ても、別の客と平気で将棋を指して遊んでいた。
時間が、今より、はるかにゆるやかに流れていた。

 が、さらにその昔となると、どうだったのか。
大正時代とか、明治時代とかである。
おそらく時間は、もっとゆるやかに流れていたにちがいない。
ということは、今のこの時間にしても、50年後、100年後になってみると、それなり
にゆるやかに流れているのかもしれない。

 で、そこで登場するのが、私の持論。
『……だから、それがどうしたの?』論。

●『だから、それがどうしたの?』

 私は近くの店での価格の半額程度で、新しいパソコンを手に入れた。
このことは冒頭で書いた。
で、この1〜2年で買ったパソコンを並べてみる。

HPの1233(故障して、放棄)、
MSのWINDBOOK(生徒にあげた)、
AcerのASPIRE・ONE、
TOSHIBAのTX、
それにUXと、今回買ったMX。
その間に、MCJの最先端デスクトップ。
もう1台、NECのLavie(故障して、放棄)。
計8台ということになる。

つまり新しく買う必要など、どこにもない。……なかった。
現に昨日まで、モバイルには、TOSHIBAのUXを使っていた。
今、使っているMXと、性能はほとんど同じ。

 簡単に言えば、買わなくてもよいものを、買った。
もっと言えば、「だからそれがどうしたの?」という答がないまま、買った。
つまり世の中が高速で回転すればするようになるほど、ものの売買も高速で回転する。
たとえばこのパソコンにしても、だからといって、よい文章が書けるようになるわけでは
ない。
パソコンの性能がよくなったからといって、また7台もっているからといって、よい文章
が書けるようになるわけではない。

●使い方
 
 「進歩とは何か?」
たとえば情報。

ネット時代になって、情報量が、それまでの量とは比較にならないほど、ふえた。
以前だと、中央の図書館へ行かなければ手に入らなかったような情報が、瞬時、瞬時に手に
入るようになった。
それだけではない。
以前だと、一部の特殊な人たち(=官僚)でないと手に入らなかったような情報ですら、手に入
るようになった。
まだ、ある。
ネット時代になって、(中央)と(地方)を分け隔てていた、壁が取れた。
私の中からも、地方コンプレックスが、急速に消え始めている。
「東京だけが文化の中心」という考え方も、このところ改まりつつある。

 が、ここで立ち止まる。
「だから、それがどうしたの?」と。
つまりそこにある(現実)を、いくら変えても、意味はない。
大切なのは、その現実から、どう自分を組みたてていくかということ。
パソコンを例にあげるまでもない。
いくらよいパソコンをもっていたとしても、使い方がわからないようであれば、意味はない。

 情報にしても、そうだ。
へたをすれば、情報の洪水の中で、溺れてしまう。

●人生論

 こうして考えていくと、この問題は、人生論に直結しているのがわかる。
健康だ……だから、それがどうしたの?
生きている……だから、それがどうしたの?、と。
その反対でもよい。

 病気だ……だから、それがどうしたの?
死んでしまった……だから、それがどうしたの?、と。

 今、ここに「私」が生きているなら、大切なことは、どう生きるかということ。
その視点を踏みはずすと、生きる意味そのものを見失ってしまう。

 ……ということで、今は、指慣らし。
キーを時折、指先でこすりながら、指をキーになじませる。
あるいはキーを指になじませる。
キーが体の一部になったとき、思ったことや考えたことが、そのままモニター上に、文章
となって、現れる。

 そう言えば、つまり今、こうして書いた文章を読みなおしてみたが、どこかぎこちない。
バラバラでまとまっていない(?)。
新しいパソコンを使い始めたときは、いつもそうだ。
今、しばらく、こうして使いこなしてみるしかない。
そのうち、もう少しまとまりのある文章が書けるようになるだろう。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

【雑感】

●引佐町

 この引佐町に住むようになって、もう15年。
その前、6年かけて、土地の造成をした。
毎週、ここへやってきて、ユンボを動かした。
石垣を組んだ。
砂利を運んだ。
地目を変更するために、一度、植林もした。
たいへんだったのは、水道工事と下水道工事。
これらの工事は、私とワイフの2人でした。
ほかにもある。

私には、農業資格がなかった。
そのため直接、農地の売買をすることができなかった。
言い忘れたが、このあたりでは、南側の土地は、ほとんどが農地になっている。

農地を宅地にするためには、一度(山林)に転用し、法務局の検査を経て、宅地に転用
しなければならない。
家が建てられるようになるのは、そのあと。
だからこの町とのつきあいは、15+6=21年ということになる。
人生の3分の1を、ここ引佐町で過ごしたことになる。

●3分の1

 3分の1と知って、同時に私はラッキーだったと思う。
カナダやオーストラリアで住むようなわけにはいかないが、しかし自然に包まれて過ごすことが
できた。
「上を見れば、キリなし」。
私にしてみれば、ほどほどの人生だった。
だから「ラッキーだった」と。

 で、再び、「引佐町」の話。
「いなさ・ちょう」と読む。
この引佐町は、「引佐原人」が住んでいた部落として知られている。
何でも日本最古に原人だそうだ。
わかるかな?
引佐原人だぞ!

 しかし不思議なことに、この引佐町の人たちは、引佐原人のことをあまり話題にしたがらな
い。
「村興(おこ)し」に使えば、もっと観光などにも、利用できるはず。
どうしてだろう?

●四季

 この引佐町に住むようになって……といっても、週に、1、2度来る程度だが、自然の変化に
敏感になった。
森に囲まれて住むと、四季が、極彩色のカラー映画のように移り変わっていく。
春は、極端に春らしくなる。
夏は、極端に夏らしくなる。
それに比べると、浜松市内での生活は、セピアとまではいかないにしても、いつも灰色のモヤ
に包まれている。
季節の変わり目が、はっきりしないまま、冬が終わり、春になっていく。

 私が好きなのは、5月ごろの初夏と、10月ごろの晩夏。
5月ごろには、野生のジャスミンが咲き誇り、空をホトトギスが舞う。
野いちご、ビワの収穫とつづく。
しばらくすると、今度は、ヒグラシが鳴き始める。

 10月もすばらしい。
夕日が山の端に隠れたとたん、谷底から、湿った冷気が吹きあげてくる。
そういうとき私は、虫の大合唱を聴きながら、あたりが真っ暗になるまで、ベンチに座って、時
が過ぎていくのを待つ。

 で、そのつど、私はこう思う。
「生きていて、よかった」と。
大げさに聞こえるかもしれないが、そう思う。
心底、そう思う。

 引佐町という町は、私にとって、そういう町である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 引佐町 山荘ライフ 引佐)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

【夢と現実】

(注:不完全な文章で申し訳ありませんが、そのまま公開します。
読み終えたあと、「林(=私)は、何を言わんとしているのか、よくわからない」と、どうか怒らな
いでください。
書いた私自身が、よくわかっていないのですから……。)

●夢

++++++++++++++++

数日前、こんな夢を見た。
目を覚ます直前のことだった。

私はどこかの小道を歩いていた。
その小道のそばに、土手があった。
段々になった墓が立っていた。
3段に分かれていた。
古い墓で、墓石の間には、大きな隙間があった。

その隙間を見ると、宝石がいっぱい詰まっていた。
大きなダイアモンドもあった。
オパールやルビーもあった。
サファイアもあった。

みな、何かの呪いがかけられた宝石という。
だれかにそう言ったわけではないが、
私には、それがわかった。
宝石を持ち帰ったら、不幸になるという。
手で触れるのも、よくないという。

私は、その場を離れようとした。
が、土手の反対側を見ると、
道の下に川が流れていた。
美しく、澄んだ川だった。
それほど深くなかった。
底がよく見えた。

で、歩きながらその川を振り返ると、
川の底で、キラキラと何かが
光っているのが、わかった。
よく見ると、それも宝石だった。
私はそれ拾うべきかどうか、迷った。

が、そのときのこと。
ときどきこういうことがあるが、
私はそれが夢であることに気づいた。
「これは夢だ」と。

+++++++++++++++++

●これは夢

 夢を見ながら、それが夢であることに気づくことが、ときどきある。
眠りが浅いときに、そうなるらしい。
それはそれとして、そのときも、それが夢であることに気づいた。
それだけではない。
私はこう考えた。

 「目が覚めたら、宝石は消える」と。
そのとき私は、川の中に入っていた。
指の爪ほどもある大きなダイアモンドを、何十個も、集めていた。
「どうすれば、このダイアモンドを現実の世界に持って帰ることができるか」と、
一方で、そんなことを考え始めた。

 おそらくすでにそのとき、私は半覚半眠の状態だったと思う。
「目を覚ましたくない」という思いが、強く働いた。
同時に、「この宝石は、私のものだ」「だれにも渡したくない」と、そんなことまで考えた。

●目を覚ましてから

 目を覚ましてから、夢の中の自分について考えてみた。
心のどこかに、「惜しいことをした」という余韻が、まだ残っていた。
で、最初に考えたのは、どうして私が「呪い」を気にしたかということ。
日ごろの私は、そういった類(たぐい)のものは、まったく信じていない。
占い、予言、まじない、霊の存在など、今流行のスピリチュアル的なものは、
認めていない。
生理的な部分で、拒絶反応を示す。

 そんな私が、夢の中で、「呪い」なるものを、本気で信じていた。
これはどうしたことか?
が、これには、2つの理由が考えられる。

 私は子どものころは、幽霊の存在を信じていた。
よく覚えているのは、家の前に、「髪結いさん」という、日本髪を専門に結う美容院が
あり、その美容院の男が、よく幽霊の話をしてくれたこと。
夏の夜などは、みなが道路に長椅子を並べて、その男のする話に耳を傾けた。
楽しかったが、恐ろしかった。

 つまりそのころの「私」が、心のどこかに残っていて、それが夢の中に出てきた。

 もうひとつは、反動形成。
本来の私は、そうした霊的なものにあこがれているのかもしれない。
まじないひとつで、この世の中を思い通りに動かすことができたら、そんな楽しいこと
はない。
「超能力のようなものがほしい」と思うこともある。
しかし私の中の理性が、すかさず、それを否定する。
「そんなもの、あるか!」と。
そこで私は、自分の本心とは、まったく正反対の自分を演ずる。

 が、夢の中では、ありのままの自分が出てくる。

●エス

 つぎに私の貪欲さ。
夢の中で私は、川に戻り、ダイアモンドを拾い集める。
そのとき始終、だれかに横取りされるのではないかという不安感を覚えた。
かなり強い不安感だった。

 いやな根性!
貪欲のかたまり!
日ごろの私は、そういう根性と、いつも闘っている。
そういう自分が、夢の中では、そのまま出てきてしまう。
赤裸々というか、フロイト流に考えるなら、(超自我)(自我)(エス)うち、
(エス)の部分だけが、そのまま夢の中で、拡大して出てくる。
(エス)というのは、動物的な欲望をいう。
そのため知性や理性によるコントロールが、どこかへ吹き飛んでしまう。

 これはおもしろい現象だと思う。
が、だからといって、それが原点にある「私」というわけではない。
「私」であるとしても、それはあくまでも「私」の一部。

●現実との混だく

 が、そのうち、こんなことを考えるようになった。
「これらの宝石を、現実の世界へもってくる方法はないか」と。
私はそのとき、目が覚めれば、宝石が消えてしまうことを、知っていた。
子どものころ、そういう夢をよく見た。
夢の中で、何かほしいものを手に入れるのだが、目が覚めたとたん、それが消えて
しまう。

 貪欲さは、そのままだった。
私はだれかが川の中に入ってくるのを、警戒した。
すでに私は、袋いっぱいの宝石を手に入れていた。
それでも警戒した。
「明日の夜、もう一度、来よう」と思った。
「それまで宝石は残っているだろうか」とも、思った。

 夢の世界というバーチャルな世界(仮想世界)と、現実が、混だくしていた。
が、私は必死で、夢にしがみついた。

●連続性

 と、そのときのこと。
ふと、私はこう考えた。
今までにない経験だった。
私は、そこが夢の世界ということは、よくわかっていた。
やがて目が覚めるということも、よくわかっていた。
同時に、手にした宝石も消えることも、よくわかっていた。
そこで、「では、夢の世界の中で、目が覚めたとき残っているものはないのか」と。

 夢の中では、私は、川の中に立っていた。
その情景も、目が覚めれば、消える。
すべてのものが、消える。
が、その中でも、現実の世界と連続性をもったものはないか、と。

 私はそのときすでにほとんど目が覚めかかっていたと思う。
夢の世界から、現実の世界へ……。
そのとき私は気がついた。

 こうして(考えている部分)だけは、夢の世界から、現実の世界へとつながっている、
と。
夢の世界で、私は、「残っているものはないか」と考えた。
つまりその考えた部分は、目が覚めても、現実の世界で、残っていた。

 私は目を覚ました。
覚ましたあとも、その夢について、ずっと考えつづけた。

●生きる力

 夢の中では、深層心理の、その奥に隠された部分が露出してくる。
フロイトはそれを利用して、「夢判断」という診断法を確立した。
ふだんは心の奥に隠れ、意識としてのぼってこない意識が、夢として現れる。
数日前に見たその夢にしても、そういう夢だった。

 貪欲な私。
だれかに奪われるのではないかという不安感。
それに焦燥感。

 全体としてみると、それが私の生き様を象徴している。
つまり原点には、そういう「私」が、確かにいる。
その私を、知性や理性が、包み隠している。
表面的に見れば、私はそれなりの常識人かもしれない。
そのように、行動している。
が、私だけが特殊とは考えにくい。

 私が夢の中で見た貪欲さにしても、それはあらゆる人が共通してもっているものと
考えてよい。
フロイトは、それを「性的エネルギー」と言った。
ユングは、それを「生的エネルギー」と言った。
その貪欲さが、(生きる力)の根源になっている。
貪欲さを否定してしまったら、その人は生きることそのものをやめてしまうかもしれない。

 が、本来なら、ここで私のもつ知性や理性が、働かなければならない。
「みなと、宝石を分けあおう」とか、「少しだけ拾って、あとは残しておこう」とか。
しかしそこは夢。
脳の働きそのものに、限界がある。
私は、そこまでは考えなかった。

●あとがき

 数日前の夢だったが、今でも、その夢を思い出すたびに、ふとこう思う。
「ひょっとしたら、今のこの現実の世界も、夢のようなものではないか」と。
言い替えると、「夢の中の世界が、本当の世界であり、現実のこの世界が、バーチャルな
世界ではないか」と。
どちらが本当の世界で、どちらがバーチャルな世界と決めることはできない。

 このことは、現実を、「死」と対比させてみると、よくわかる。
私たちは、死ぬことで、すべてを失う。
「あの世」があるならなおさらで、私たちはあの世へ、ゴミひとつ、チリひとつ、もって
いくことはできない。
「死」によって、私たちはそのまま消えてなくなってしまうと考えるなら、なおさらである。

 そこでたとえば過去の強大な権力を手中に収めた独裁者たちは、(現実)を、(あの世)へも
っていくことを考えた。
秦の始皇帝を例にあげるまでもない。
つまり私が夢の中で、宝石を現実の世界へ持ち込もうと考えたように、秦の始皇帝は、
現実にあるものを、(あの世)へ持っていこうと考えた。
この発想は、夢の中の宝石を、現実の世界へもってこようとした私のものと、どこも
ちがわない。

一見すると、正反対の行動に見えるかもしれないが、中身は同じ。

●虚像

 私の身の回りには、無数のモノがある。
価値のないものが多いが、中には価値のあるものもある。
しかしそのモノにしても、分子と光が織りなす、虚像に過ぎない。
それを見て、判断している、私の脳みそにしても、分子と光が織りなす虚像に過ぎない。
つまり虚像である「私」が、虚像である「モノ」を見ている。

 死んで「私」を作り上げている分子がバラバラになれば、(死ななくても、毎日、肉体の何%か
は、バラバラになっているが)、私はその(モノ)すら、見ることはない。
つまり消えてなくなる。
さらに言えば、私が夢の中で見た「宝石」と、現実に今、こうして見ている「モノ」は、
どこがどうちがうというのか。
区別できないというより、区別するほうが、おかしい。

●非現実主義

 ……と考えすぎるのは、危険なことかもしれない。
こうしたものの見方を総称して、非現実主義という。
これがさらに進むと、神秘主義となる。
狂信的なカルト教団の多くは、その神秘主義の上に成り立っている。

 しかし心のどこかにそういうものの考え方を、入れておくことは、けっして無駄なことではな
い。
というのも、私たちは日常生活の中で、現実に、あまりにも毒されすぎてしまっている。
現実に毒され過ぎるあまり、ものごとの本質を見失ってしまっている。
そういう例は多い。

 たとえばそこに山のようにある宝石を見ながら、私は金持ちだ。
私は成功者だ。
私はすぐれた人物だ、などと思ってしまう。
そしてその返す刀で、そうでない人たちを否定する。
その人の、人間としての価値まで否定する。

●光陰、矢のごとし

 どうであるにせよ、私には、不思議な夢だった。
いろいろ考えさせられた。
目を覚ましたあとも、そのまま、夢の内容について考えた。

 で、最後に一言。

 中には、「たかが夢ではないか」と思う人もいるかもしれない。
しかし今の私のように、平均寿命まで、あと15、6年という人間にしてみると、
今まで生きてきたことが、夢の中のできごとのようにも思えてくる。
長い、短いという判断もあるが、まさに『光陰、矢のごとし』。
数日前に見た夢が短くて、今まで生きてきた人生が長かったとも、これまた言いにくい。

 つまり「現実とは何か」、それが加齢とともに、ますますわかりにくくなる。
結論を言えば、そういうことになる。

●終わりに……

 何ともまとまりのないエッセーになってしまった。
そこで最後に、改めて、このエッセーを通して、何が書きたかったかを、整理してみる。

 私は夢の中で、袋いっぱいの宝石を手に入れた。
が、途中で、それが夢とわかった。
そこで私はその宝石を、何とかして、目を覚ましたあとの現実の世界にもってこようとした。
しかし目が覚めたとたん、手に握っていたはずの、宝石の入った袋は消えていた。

 しかし人生も残り少なくなってくると、今まで生きてきたこと自体が、夢の中のできごとのよう
に思えてくる。
実際には、(夢)と(現実)が、区別しにくくなる。
ここで私が死ねば、あの世へ入ったとたん、(あくまでもあの世があるという前提での話だが)、
今、私がもっているものは、すべて消える。
あの世へは、ゴミひとつ、チリひとつ、もっていくことはできない。
ちょうど夢の中で手に入れたものを、何一つ、現実の世界にもってこれないように、だ。

 つまり私は、(夢の世界)から目を覚まし、(現実の世界)に戻ることによって、(死)を模擬体
験したことになる。
言い替えると、その夢を通して、私は、宝石に象徴される、モノや財産が、いかにむなしいもの
であるかを、改めて知った。
人間が本来的にもつ貪欲さにしても、そうだ。
さらに言えば、名誉や地位、肩書きにしても、そうだ。

 が、その中にあっても、ゆいいつ連続性を保つものがある。
夢の世界と現実の世界の間で、つながっているものがある。
それが「意識」、あるいは「思考」ということになる。

 このことを拡大解釈すると、こうなる。

 仮に私が死に、肉体が滅んだとしても、私が今もっている意識や思考は、この文章を通して、
その読んだ人に伝わっていく。
つまりその時点で、私は、この文章を読んだ人の中で、生き返ることになる。
死を克服したことになる。

 ……とまあ、突飛もない結論になってしまった。
たぶんに手前味噌的な結論で申し訳ないが、今は、そう思うことによって、自分をなぐさめるこ
とにする。
というのも、ときどき、こう思うことが多くなった。
「毎日、こんなふうに、エッセーを書いていて、何になるのだろう」と。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

【胡蝶の夢】

●夢と現実(2)

++++++++++++++++

昨日、「夢と現実」について書いた。
うまくまとまらなかった。
そこで今日、もう一度、それについて
書いてみたい。

またまたわかりにくい文章でごめん!

++++++++++++++++

●夢

 私は夢の中で、袋いっぱいの宝石を手に入れた。
中には、指の爪ほどの大きさのあるダイアモンドもあった。
ほかに、ルビーやサファイアなどもあった。

 が、夢の途中で、私はそれが夢であることに気がついた。
ときどきそういうことがある。
夢を見ながら、「これは夢だ」と。
そこでつぎに私は、どうすれば、この宝石を、現実の世界へ持ち帰ることができるか、それを
考えた。
今までにも、そういう夢をときどき見たことがある。
が、目が覚めたとたん、夢の中で手にしたものは、すべて消えていた。

●強欲

 目が覚めてから、私は私が見た夢について考えた。
夢の中の私は、見苦しいほど、強欲だった。
それに警戒心も、猜疑心も強かった。
「だれかに盗まれるのではないか」と、それを心配した。

 日ごろ、私はそういう私になるのを、避けているはず。
また身近にそういう人がいると、そういう人を人いちばい嫌っているはず。
そういう私が夢の中では、見苦しいほど、強欲だった。
それを思い出しながら、「私の知性や理性は、どこへ消えてしまったのか」と。
あるいは夢の中では、脳の活動分野がちがうため、知性や理性は機能しないのかもしれな
い。
知性や理性をコントロールするのは、前頭連合野。
その前頭連合野は、まだ眠ったままだったのかもしれない。
しかしそれにしても、強欲だった。
欲望のまま……というか、私は完全にドーパミンに支配されていた。

●薄もやの向こう

 一方、こんなことも言える。
ときどき小学生たちを見ながら、「私にも、小学生だった時代があるはず」と。
で、私が小学生だったころを思い出そうとする。
とくによく覚えているのは、小学3年生のころの私である。
1年間だけだが、那須(なす)先生という、よい先生に恵まれた。
思い出の数が、とくに多い。
あるが、どれも、薄もやの向こうに隠れて、よく見えない。
大画面に大きく映像が映るというよりは、脳の一部に、小さく映る。
しかもそれぞれが断片的で、輪郭がはっきりしていない。

 そういう自分を思い浮かべてみると、あのころの私が、まるで夢の中の私のように思えてく
る。
眠っているときに見る夢と、区別がつかない。

さらに今のように、人生も晩年になってくると、(私自身は、「晩年」という言葉が嫌いだが…
…)、今までの自分、つまり過去全体が、夢の中のできごとのように思えてくる。
つまり(現実)とは言うが、その(現実)が、夢の中のできごとのように思えてくる。

●非現実主義

 現実も夢も同じようなもの。
ちがいは、どこにもない。
あるいは、どこがどうちがうというのか……。

 ……というふうに考えるのは、危険なことでもある。
現実と夢、もっと正確に言えば、現実と空想の世界を、混だくさせることは、危険なことでもあ
る。
よい例が、神秘主義。
あやしげな宗教団体は、その神秘主義をうまく操って、信者を洗脳する。
洗脳して、操る。
だからというわけでもないが、私たちは常に、現実主義に基盤を置いて、ものを考える。
生きる。

 「人生は夢のごとし」と口で言うのは構わないが、だからといって、人生は無意味とか、現実
には価値がないと考えてはいけない。
その上で、「夢と現実」のつづきを書く。

●死ねばおしまい

 あの世があるにせよ、またないにせよ、私たちは死ねば、この世から消える。
脳みそですら、分子レベルまでバラバラにされて、地球上のありとあらゆるものに、再生されて
いく。
もちろんその一部は、人間を含めた、ほかの生物の一部となっていく。
それを「あの世」というのなら、「あの世」はある。
「あの世」という言葉に問題があるなら、「つぎの世界」と言い替えてもよい。

 ということは、(主体)である「私」が消えるわけだから、私たちは、この現実の中のモノを、ゴ
ミひとつ、チリひとつ、つぎの世界へもっていくことはできない。
今、億万長者になって得意になっている人も、莫大な財産を築いて喜んでいる人も、死ねばお
しまい。

 つまりこの「死ねばおしまい」という部分が、「目が覚めたらおしまい」という部分と似ている。
似ているというより、同じ。
私は目が覚めたとき、それを知った。
つまり私は夢の中で、袋いっぱいの宝石を手に入れた。
しかし目が覚めたら、それらはすべて消えていた。

●夢のごとし

 繰り返しになるが、平均寿命までまで、あと15、6年と言われるようになると、とたんに、今ま
での人生が、まるで夢の中のできごとのように思われてくる。
先に、私は私が小学3年生のときのことを書いた。
しかし何も小学3年生のときにかぎらない。

 20代のころも、30代のころも、40代のころも、同じようなもの。
どれも脳の中では、断片的な一部の記憶でしかない。
たしかに60数年生きてきたはずなのに、その実感がない。
もともと記憶というのは、そういうものかもしれない。
「記憶がある」といっても、それは脳の中の電気信号のようなもの。
「形」があるわけではない。
言い替えると、「人生は夢のごとし」と言うのは、それほどまちがっていないということになる。

 夢と現実。
今、ここに見えている世界は、たしかに現実だが、それは今というこの一瞬にすぎない。
それ以外は、すべて夢。
眠っているときに見る夢と、どこもちがわない。

●現実=夢

 そこでこう考えたら、どうだろうか。
ここにある現実そのものが、夢である、と。
今は、「現実」かもしれないが、一瞬先には、夢になる。
10年もすれば、脳の一部の断片的な記憶でしかなくなる。

 つまり私たちは、現実という夢の中にいながら、「これは夢だ」と気がつく。
つまり私があの夢の中で、袋いっぱいの宝石を手に持ちながら、「これは夢だ」と気がついたよ
うに、である。

 が、私はその夢の中で、何とかしてその宝石を、現実の世界へもってこようとした。
その方法はないかと考えた。
いちばんわかりやすい方法は、宝石の入った袋を、しっかりと手で握ること。
私は子どものころは、そうしていた。
「目が覚めても、放さないぞ」と。

 これは夢の中の話だが、しかし現実のこの世界では、私たちは、日常的に、同じようなことを
している。
お金はもちろん、名誉、地位、財産、肩書きにしがみついている人は多い。
(だからといって、それが無駄と書いているのではない。誤解のないように!)

 その「しがみつく」という行為が、「目が覚めても、放さないぞ」と、手を握った行為と同じ。

●パンコ

 夢の中で、袋いっぱいの宝石を手に入れた。
だからといって、それがどうしたというのか。
だれしも、こう言うにちがいない。
「夢は夢。夢の中で、そういう夢を見ただけ」と。

 しかしそれと同じことを、ひょっとしたら、私たちは、この現実の世界でしているのではないだ
ろうか。

 わかりやすい例として、もう一度、私が小学3年生だったころの話をしてみる。

 あのころは、「パンコ」という遊びが流行(はや)っていた。
地方によっては、「メンコ」とか、いろいろな呼び名がある。
地面に置いた相手のカードを、自分のカードで叩いてめくったら、自分のものになるという遊び
である。
私たちは毎日のように、カードの枚数を競い、絵柄を自慢しあった。
その遊びに夢中になったということは、それだけ強欲になったことを意味する。

 が、それも今となっては、まるで夢の中のできごと。
現実にそれをしたはずなのに、今は、何も残っていない。
夢の中で手に入れた宝石も、子どものころに手に入れたパンコも、同じ。

 あえて言うなら、眠っているときに見る夢は、数分前後で、消える。
が、過去は、もう少し長い時間をかけて、消える。
しかしそれが数分であれ、10年であれ、どういうちがいがあるというのか。

●宝石を持ち帰る

 夢の中の私は、見苦しいほどまでに強欲だった。
袋いっぱいの宝石をしっかりと握りながら、「だれにも渡したくない」と考えた。
「だれかに奪われるのではないか」と警戒した。
「これは夢だ」とわかっていても、そうした。

 で、つぎに考えたことは、その宝石を、現実の世界に持ち帰ることだった。
そこで私は、子どものころの私のように、その袋をしっかりと手に握った。
幼稚というより、それ以上の理性や知性が、働かなかった。
が、当然のことながら、目が覚めたとたん、その袋は消えていた。

 ……というのは、夢の中の話だが、実は、これと同じことを、私は現実の世界でもしているこ
とを知った。
この現実の世界全体を、「夢」と考えると、それがわかるはず。

(だからといって、非現実主義に走るのも危険である。
これについては、先に書いたとおり。)

 つまりそう考えることによって、私たちは、つぎのステップへと、自分を昇華させることができ
る。

●欲望の虜(とりこ)

 「私」には、無数の(しがらみ)が取り巻いている。
「私」自身が、欲望の塊(かたまり)と表現しても、さしつかえない。
もちろんだからといって、「欲望」を否定してはいけない。
この「欲望」が、生きる力の源にもなっている。

 フロイトが説いた「性的エネルギー」、ユングが説いた「生的エネルギー」といったものは、そ
れをいう。
その(エネルギー)を取り除いたら、私たちは、ただの生きる屍(しかばね)。

 しかしこの現実世界全体を、「夢のようなもの」と考えることによって、私たちは、欲望との間
に一線を引くことができる。
つまり私たちを、より客観的に、外からながめることができるようになる。

 まずいのは、現実主義に走りすぎるあまり、欲望の虜(とりこ)になりながら、そうであることに
気づかないこと。
そういう人を、仏教の世界では、「餓鬼」という。
その餓鬼になってしまう。

●夢は夢

 ……あの夢を見てから、数日が過ぎた。
で、今は、こう考える。

 「私たちが『現実』と思っている、この現実世界全体にしても、夢のようなものだなあ」と。
静かに目を閉じてみると、さらにそれがよくわかる。
その現実世界の夢の中で、私たちは、日々にあたふたとしながら、生きている。
先にも書いたように、名誉、地位、財産、肩書きにしがみついて生きている。
それが無意味とは言い切れない。
つまり人間がなぜ、こうして生きているかといえば、そのドラマを作るため。
そのドラマに意味がある。
価値がある。

 が、夢は夢。
どこまでいっても、夢は夢。
今の私は、そう考える。

●(補記)

 このエッセーを書きながら、脳の一方で、私は荘子の『胡蝶の夢』を、ずっと考えていた。

 ……荘子の思想を表す代表的な説話として『胡蝶の夢』がある。「荘周が夢を見て蝶になり、
蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは
蝶が夢を見て荘周になっているのか」この説話の中に、無為自然、一切斉同の荘子の考え方
がよく現れている……(以上、「ウィキペディア百科事典」より転載)。

荘子は神秘主義に走り、俗世間からの徹底した離脱を説いた。
「無為自然」とは、それをいう。
『胡蝶の夢』は、その象徴的な逸話として紹介されることが多い。

 「荘子が夢を見て、蝶になったのか」、それとも、「蝶が夢を見て、荘子になったのか」。
たいへんわかりにくい話だが、私も今回、同じような経験をした。
「私は、夢の中で、現実を体験したのか」、それとも、「現実の中で、夢を体験しているのか」と。

 が、再三再四書いているように、だからといって、神秘主義に走り、「現実は無意味」と考えて
はいけない。
私たちは、今、ここに生きている。
生きているからこそ、夢も見る。
眠っているときの夢もそうだが、「現実も夢のよう」というときの夢も、そうである。
生きていなければ、どちらの夢であるにせよ、夢を見ることはない。
この問題を考えるときは、いつもそこを原点として考える。
 

Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●荘子(370BC〜286BC)

++++++++++++++++++

荘子はある日、夢を見る。
その夢の中で、荘子は、胡蝶となり、
楽しそうに飛び回る。

その夢から覚めたとき、荘子は、
こう考える。

「荘子が夢の中で胡蝶になったのか?」、
それとも「胡蝶が夢の中で、荘子になったのか?」と。

++++++++++++++++++

●胡蝶の夢

 荘子の、この『胡蝶の夢』の逸話を読んでいると、そのうち何がなんだか、わけがわからなく
なってくる。
だから荘子自身も、「どちらでもいい」と、結論づけている。
「どのみち、すべては無なのだから」と。

 もう一度、荘子の見た夢について考えてみよう。
具体的に、あなた自身が見た夢として考えてみる。
あなたはどこかの切り株にもたれて、うたた寝をする。
そのとき、夢を見る。

 あなたは一匹の蝶が空を飛ぶ夢を見る。
その蝶は、フワフワと風に乗って、楽しそうに飛んでいる。
が、ふと気がつくと、蝶だと思っていたのは、実はあなた自身であった。
あなたは蝶のように、あるいは蝶の姿のまま、空を飛んでいた。

 そこで荘子は考えた。
「自分が蝶になったのか」、それとも「蝶が自分になったのか」と。

●現実と非現実

 (現実の世界)であるにせよ、(非現実の世界)であるにせよ、どこからどこまでが(現実)で、
どこから先が(非現実)なのか、よくわからないときがある。

 私自身は、現実主義者と思っている。
サルトル風に言えば、(存在)と(認識)を基本に、ものを考え、その上に論理を積み重ねてい
る。
そのため、そうでないもの、たとえば占いとか、まじない、迷信、霊(スピリチュアル)などという
ものを、まったく信じていない。
星占いや、血液型による性格判定にしても、そうだ。

 しかしこのところ、(生きていること自体)が、何か、夢の中のできごとのように感ずることが、
多くなった。
つまり「私たちは、ひょっとしたら、とほうもないほど非現実の世界に生きているのではないか」
と。

 たとえばそこに今、見えているものについても、たまたまそう見えるから見ているにすぎない、
と。
言い替えると、今、そこに見えているからといって、それをそのまま信じてもよいものか、と。
あるいは実際には、私たちには、見えないもののほうが多いのではないか、と。

 よい例が、私たち自身の(過去)ということになる。

●夢

 (現実)は、常に、(過去)の結果でしかない。
(現実)は、今、ここに(存在)するものである。
それはその通りだと思う。
しかし(過去)などというものは、どこにも存在しない。
しないが、私の記憶の中には残っている。
その(残っている部分)が、今、こうして振り返ってみると、まるで夢の中のできごとのように思
えてくる。

 そう、まさに(夢)。
私は子どものころ、父の酒乱でつらい思いをしたが、そうしたドラマでさえ、今、振り返ってみる
と、夢の中のできごとだったように思えてくる。
結婚してからのこと、子育てを夢中でしていたころのこと……、すべてが夢の中のできごとだっ
たように思えてくる。

 言い替えると、今、子ども時代を過ごしている子どもにしても、子育てに奮闘している親にして
も、やがてすぐ、夢の中へと消えていく。
「消える」というよりは、今の私のように、(夢の中のできごと)のように思うようになる。
そしていつか、あなたも今の私と同じようなことを言うかもしれない。

「過去を振り返ってみると、すべてが夢の中のできごとのように見える」と。

●再び、現実主義

 これは老人の共通した心理かもしれない。
そこにあるのは、(過去)ばかりで、いくらさがしても、(未来)が見つからない。
だから勢い、(過去)を振り返ることが多くなる。
で、その(過去)はというと、記憶の中にあるだけ。
だから、「まるで夢のよう」となる。

 若い人なら、このあたりで思考を停止して、今度は(未来)を見る。
(過去)は(過去)として、それを踏み台にして、(未来)に目を向ける。
しかし老人には、その(未来)がない。
だから(過去)を振り返りながら、「まるで夢のよう」と思いつつ、それを拡大解釈し、今、ここに
ある(現実)まで、「まるで夢のよう」と考えてしまう。

(この間、1時間ほど、すぎた。
あれこれ考えた。
で、スーッと、頭の中が整理されていくのを感じた。)

 しかしこの考え方は、まちがっている。
言うなれば、ジー様のたわごと。
いくら歳をとっても、またいくら死に近づいても、私たちは、(現実)を手放してはいけない。
(現実)を手放したとたん、私たちは(死)に向かって、まっしぐら。

 そう、そういう意味では、このところ、私はたしかに弱気になっている。
そこにある(現実)から目をそらし、(夢の中の世界)で生きようとしている。
晩年の母がそうだった。

 毎日、朝夕、欠かすことなく仏壇の前で手を合わせていた。
暇さえあれば、仏壇の金具を磨いてばかりいた。
そこにある(現実)を見失うと、そういう生き様になる。

●結論

 数回にわたって、『夢と現実』について書いてきた。
中には、「林(=私)は、いったい何を考えているのだ」と思った人も多いかと思う。
事実、私自身も、一連のエッセーを書きながら、ときどき自分でも何を書いているかわからなく
なった。

 だからこの話は、ここまで。
考えるだけ、無駄。
簡単に言えば、たわいもない夢を見ただけ。
その夢に振り回されただけ。
「無」といっても、荘子が説く「無」と、サルトルが説く「無」とは、概念がちがう。
「無」と考えて、けっして、虚無主義に陥ってはいけない。

 私は私で、年齢など気にせず、その日が来るまで、前向きに生きていく。
今、そこにある(現実)の中で、戦って戦って、戦い抜く。
それが私の、今までの生き様だった。
これからも、それが私の生き様。

 さあ、今日も始まった。
心機一転、がんばるぞ!
みなさん、おはようございます!

(2010年2月28日、明日から3月)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

【集団性と個人性】

●ライブ

+++++++++++++++++

某国、某所でのライブ会場。
よくあるライブ。
が、ひとつだけ、ほかのライブ会場とはちがった。
異様な雰囲気。
それもそのはず。
よく見ると、ファンたちが、みな、何かをかぶっている。
色は様々だが、白が多い。
パンティである。
女性用のパンティである。
そのパンティを頭からかぶり、両目を、足の部分から出している。
中央部は上から下へと、鼻から口を覆っている。
写真で見る限り、女性が多い。
中には、男性らしき人もいるが、ほとんどが、女性。
若い女性。
そういう女性が、みな、パンティを頭からかぶっている!

++++++++++++++++++

●後追い自殺

 以前、後追い自殺について書いた。
ある有名なロックバンドのメンバーが自殺した。
それにつづいて、何人かの若いファンが、後追い自殺をした。
実際には、親族たちによって闇から闇へと葬られるケースもあるから、もっと数が多いはず。

 それについて、7、8年ほど前、批判記事を書いた。
それについて、数は数件程度だったが、はげしい文句を並べた抗議のメールが届いた。
内容は忘れたが、はげしい文句だった。
私はそれを読んで、「この世界も、カルト化している」と感じた。

●麻薬性

 音楽は、読んで字の通り、「音を楽しむ」ことをいう。
私も、毎日、いろいろな音楽を聴いている。
しかしそこには、限度(?)がある。
あくまでも「楽しむため」。

 脳の中には、そういう受容体があるらしい。
聴覚を通して音楽を聴いていると、脳内はやがてモルヒネ様のホルモンで満たされる。
それが甘い陶酔感を引き起こす。
その陶酔感があるから、人は、音楽を聴く。

 そのため音楽にも、習慣性、つまり麻薬性がある。
メカニズムは、ニコチン中毒、あるいはアルコール中毒と同じに考えてよい。
中には、1日中、音楽を聴いていないと、落ち着かないという人もいる。

●パンティ

 が、音楽を聴くというだけなら、だれにも迷惑をかけない。
だれしも、それを、その人の趣味と理解するだろう。
仮にあなたの子どもが、1日中、耳にヘッドフォンをあてていたところで、あなたはそれを、とが
めることはない。

 しかし危険性がないわけではない。
それが冒頭にあげた例である。
(そのときのライブの写真で載せておく。)
若い女性たちが、みな、頭からパンティをかぶっている!
よく見ると、似たようなパンティが多いので、会場で配られたものかもしれない。
あるいはあらかじめ、そういうパンティをもってくるように指示されたのかもしれない。
しかしふつうの常識のある人なら、こんな奇天烈(きてれつ)な格好はしない。

 仮にあなたの子どもが、頭から女性用のパンティをかぶって歩いたら、あなたはそれをどう思
うだろうか。
「若者のバカ騒ぎ」と、簡単にかたづけることができるだろうか。
 
<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4396131493/" title="img043 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm3.static.flickr.com/2740/4396131493_
1cf26a4eda_o.jpg" width="505" height="368" alt="img043" /></a>

●集団洗脳

 それ以上の情報はわからない。
私は、1枚の写真しか見ていない。
が、その写真には、こんなコメントが添えられていた。
「ファンの娘が、一斉に(パンティを)装着。ステージから見る変態度たるや、ハンパじゃない。
(これでは)男は誰しもミュージシャンに一度は、憧れるわけだ」(「B誌」)と。

 私はその写真を見たとき、即座に、カルト教団による集団洗脳会場を思い浮かべた。
どこのカルト教団とは言わない。
この日本には、届けられた宗教法人だけで、20数万団体もある。
その中には、似たような方法で、信者を獲得したり、洗脳したり、再教育しているところがある。

 一斉に読経したり、あるいは指導者の名前を連呼する、など。

 中には「宗教と音楽はちがう」と考える人もいるかもしれない。
しかし中身は、同じ。
どこがどうちがうというのか?

●魔力

 集団への帰属性と、個人的な思考性は、常に対立関係にある。
その人の集団への帰属性が強くなればなるほど、その人のもつ個人的な思考性は、犠牲にな
る。
カルト教団では、個人的な思考性は、徹底的に排除される。
へたに個人的な主張をしようものなら、即座にその教団からはじき飛ばされるか、「あなたの信
仰心は不十分」とか言われて、のけものにされる。

 が、ここで誤解してはいけないことがある。
カルト教団があるから、信者がいるのではない。
それを求める信者がいるから、カルト教団がある。

 それぞれの人は、何らかの悩みや苦しみをもち、それから救われたいために、カルト教団に
身を寄せる。
つまりはじめから個人的な思考性を捨てている。
だからそのまま洗脳されてしまう。
洗脳されていると気づかず、洗脳されてしまう。

 そこは実に心地よい世界でもある。
信者どうしが、親子以上の親子、兄弟以上の兄弟になることもある。
甘くて、心もとろけるような世界。
だから人は、そのままその世界に陶酔するようになる。

 カルトにかぎらず、集団への帰属には、そういう魅力というか、魔力がある。

●トンデモ本

 が、それはカルト教団の話。
私が見たのは、どこかのライブ会場での写真。
若い人たちといっても、それなりの教育を受けている人たちである。
またそれほど苦しみや悲しみがあるとも、思われない。
そういう若い人たちが、頭からパンティをかぶっている。
パンティをかぶって、ライブに夢中になっている!

 私はこの「集団性」こそが、問題と言っている。
またそのような本も書いたことがある。
『ポケモン・カルト』(三一書房)というのが、その本である。

 私はポケモンを攻撃したのではない。
あくまでもポケモン現象を通して見た「集団性」、さらには「カルト性」を問題にした。
が、その本は、その世界の人たちから、「トンデモ本」として、攻撃されつづけている。
(どこかの検索エンジンを使って、検索してみてほしい。
ついでにどういう人たちが、攻撃しているかも知ってほしい。)

 「人間は、ここまでバカになれる」。
言い方を変えると、「人間を指導すれば、ここまでバカにすることができる」。
その恐ろしさは、この1枚の写真を見ただけでもわかる。

 繰り返すが、「ライブだからいい。カルトは悪い」という論法は、通用しない。
(ライブ)と(カルト)。
その差は、紙一重もない。
こうした(集団性)が、いつなんどき、(カルト)に向かわないとは、だれにも言えない。

●個人的な思考性

 集団の中で、いかに個人的な思考性を守るか。
あるいはそれを育てていくか。
これは民主主義教育の根幹でもある。
戦前のあの、全体主義教育を例にあげるまでもない。

 が、実のところ、私は、日本人の集団性が、ここまで進んでいるとは思っていなかった。
集団性というより、「愚民化」と書くべきかもしれない。
最近読んだ雑誌の中には、それを特集しているのもあった。
若い人たちには辛辣(しんらつ)な意見に聞こえるかもしれない。
が、私もそう思う。
「日本の若者たちは、たしかにバカになりつつある」。

 その原因の第一が、自分の頭を使って、自分で考えないこと。
考えることそのものを放棄してしまっている若者も多い。
が、それがいかに危険なものであるかは、やはり戦前、もしくは戦時中の日本を見ればわかる
はず。

 たった1枚の写真だが、その写真を見て、いろいろと考えさせられた。
あるいは、あなたなら、この写真を見て、どう思うだろうか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 集団性 個人的な思考性 思考能力 カルト)


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

(珍問答)

●チx毛

+++++++++++++++++++++

小5、6の子どもたちが騒いでいる。
そういうときは、こう言う。
「チx毛の生えてきた人は、しゃべっていい」と。
すると、たいてい水を打ったように静かになる。

が、しばらく沈黙を保ったあと、S君がこう聞いた。
「じゃあ、先生はどうなんだ?」と。

そこで私が、「ぼくのは、もう白髪(しらが)だ」と言うと、
みなが、ドッと笑った。
あとは、収拾がつかないほど、みなが笑った。
私も笑った。

念のため申し添えると、どういうわけか、あのチx毛だけは、
白髪にならない。
あるいは頭より、ずっと後れて、白髪になる?
どうしてだろう?

ある教室での一こまでした!

++++++++++++++++++++++++※

Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4255532084/" title="●BLOGタイト
ル最前線の子育て論byはやし浩司 by bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.
static.flickr.com/4006/4255532084_4e04cf5858_o.jpg" width="500" height="250" alt="●BL
OGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司" /></a>


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BW幼児教室byはやし浩司

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***********BW幼児教室byはやし浩司*************


【BLOG・読者のみなさんへ】


3月になり、いよいよ仕上げの時期。
1年間、BW教室でレッスンを受けてくれた子どもたちも、
もうすぐ年長児。


今年は、1年間、中途退会者もなく、みなさん、1年間、
レッスンを受けてくれました。
ホ〜〜〜ッ!


ありがとうございました。
3月1日(月)の子どもたち(年中児)のレッスン風景を
ビデオに収めました。
言うなれば、1年間の総仕上げです。
子どもたちの楽しそうな様子が、みなさんに伝われば、
うれしいです。
(顔を出すことはできませんので、お許しください。)


(▲)をクリックしてくだされば、自動的に、動画が
始まります。
どうか、お子さんといっしょに、お楽しみください。


今日は「形」をテーマにレッスンを、進めました。


(なお楽天BLOGの読者の方には、YOUTUBEをそのまま
埋め込むことができませんので、ホームページのアドレスのみを
記載しておきます。)


【マガジン読者の方へ】


またマガジン読者の方は、HTML版(カラー版)のほうへ、おいでください。


●つぎのアドレスをクリックしてみてください。
(3月26日号)


http://bwhayashi2.fc2web.com/page014.html



***********BW幼児教室byはやし浩司*************


【年中児(満5歳児)・形の学習】(1〜5部に分けてあります)


【1】

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v/pP6_gvkkw30&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/pP6_gvkkw30&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
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【2】

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v/BsTsqvn-JaA&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/BsTsqvn-JaA&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
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【3】

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v/VatHXzaBVn4&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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www.youtube.com/v/VatHXzaBVn4&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
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【4】

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v/nCSxti0eZhQ&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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www.youtube.com/v/nCSxti0eZhQ&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
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【5】

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v/FRkmFvvzlV4&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
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www.youtube.com/v/FRkmFvvzlV4&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
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●ついでに小学1年生のクラスの様子も、ご覧ください。


【小学1年生のクラス】

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v/u7JtZ2Uxff0&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/u7JtZ2Uxff0&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>


********************


あるいは以下のアドレスから直接、HPのほうへ
おいでくださっても、結構です。


(マガジン読者の方は、こちらから、アクセス
してください。)


(1)
http://www.youtube.com/watch?v=pP6_gvkkw30


(2)
http://www.youtube.com/watch?v=BsTsqvn-JaA


(3)
http://www.youtube.com/watch?v=VatHXzaBVn4


(4)
http://www.youtube.com/watch?v=nCSxti0eZhQ


(5)
http://www.youtube.com/watch?v=FRkmFvvzlV4


●(小1クラス、3月1日の様子)
http://www.youtube.com/watch?v=u7JtZ2Uxff0


********************


さらに、この1年間のBW教室の様子をご覧くださる方は、
以下のアドレスより、おいでください。


1年分のレッスンを、まとめてご覧いただけます。


●BW公開教室

http://bwhayashi.ninja-web.net/


●はやし浩司のメイン・ホームページ
 (現在、毎月30万件以上のアクセスがあります。
  安心して、ご覧ください。)


http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/


**************************************


BW教室
053−452−8039


はやし浩司

***************************************

はやし浩司のHPは、


http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

BYE!


<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4399275264/" title="img002 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm5.static.flickr.com/4060/4399275264_
de2e570acc_o.jpg" width="536" height="600" alt="img002" /></a>

モデルは、私の孫の、林 誠司です。


Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司

*****私・記*****
(はやし浩司のばあい)

【幼年期】

●古い記憶

 いちばん古い記憶は何か。
私の、いちばん古い記憶は何か。
ときどきそれを考える。
しかしそのつど、ちがう。
どれが古いのか、
どちらが古いのか、
それがよくわからない。

 ひとつ覚えているのは、大きな鐘。
大きな鐘が、薄暗い広い部屋の中で、
ゆっくりと揺れている。
斜め向こう側から、こちら側へ……。
こちら側へ来た鐘は、今度は反対側に揺れていく。

 鐘といっても、クリスマスに使うような形の鐘。
西洋式の鐘である。
黒い鐘で、鐘全体が、何かにつり下げられて、揺れる。
音は出ない。

 私はそれを夢の中で見たのだと思う。
よく夢の中に出てきた。
私がかなり大きくなるまで、よく夢の中に出てきた。
だから私はその夢を、すでに赤ん坊のときに
見ていたにちがいない。

 私にとって、いちばん古い記憶といえば、
その鐘の記憶である。
ただここで「鐘」と書いたが、
丸い大きな鉄球のようなものだったかもしれない。
「鐘」と思うようになったのは、
ずっとあとになってからかもしれない。

●トイレ

 それが古い記憶だったということは、
あとになってわかること。
たとえば私は兄が、死んだ日のことを覚えている。
土間に、無数の下足が、並んでいた。
今でも静かに目を閉じると、その下足が
まぶたの中に浮かんでくる。

 そのことをいつだったか、母に話すと、
母は、こう言った。
「あれは、健ちゃん(=兄)が、なくなった日の
ことや。
おまえは、まだ2歳やった」と。

 つまり私は2歳のときのことを覚えていることになる。
遠い昔のことと言うよりは、記憶の断片に過ぎない。

 ほかにもいろいろと、断片的な記憶はある。
しかしどれが古いのか、どちらが古いのか、よくわからない。
が、おもしろいことに、そのころの記憶というのは、
何かストーリー性のあるものではない。

 居間の板間の模様とか、天井の木の節穴とか、
そういったもの。
たとえば私はそのころから、家のトイレを使うことが
できなかった。
「そのころ」というのは、自分で排便するように
なったころをいう。
年齢的には、やはり2歳前後ではなかったか。

 私の家のトイレは、家の中でもいちばん奥の、
暗いところにあった。
ボットン便所。
明かりはない。

 そのトイレの壁の黒いシミが、ある日、動いている
ように見えた。
それでそのトイレへ入れなくなった。

 私は大便のほうは、トイレの前に一度紙を敷いてもらい、
その上でしていた。

●家族

 こうして私の幼児期は、始まった。
言い忘れたが、私には生まれたとき、2人の兄と、
1人の姉がいた。
もう1人、兄がいたが、私が生まれる前に
生まれるとすぐ、死んでいる。

 いちばん上の兄は、先に書いたように、
私が2歳前後のときに、死んでいる。
だから私には、兄弟といえば、兄と姉という
ことになる。

 私は「末っ子」として生まれ、育った。
そういう点では、母親の愛情をたっぷりと受けて育った。
「愛」というよりは、「溺愛」だったかもしれない。
そのことは、ずっとあとになって、伯父や伯母から
聞いた。
「おまえは、お母さんに、かわいがってもらったぞ」と。

私は毎晩、小学2年生になるころまで、母親の
ふとんの中で、いっしょに寝た。
ときどき、祖父のふとんの中で寝たこともある。
ひとりで寝ることは、めったになかった。
母の在所(実家)へ遊びに行ったときも、
伯父や伯母と寝た。

 これは母の生まれ育った在所の習慣だったようだ。
いとこの中には、小学2、3年生まで、親と
いっしょに寝た人は多い。

 そういう習慣が残っているのか、私は60歳を過ぎた
今でも、ひとりで寝るのが苦手。
いつもワイフとひとつの布団の中で、寝ている。
どんなはげしい夫婦げんかをしても、寝るまでには
仲直りする。
あるいはけんかをしていても、いっしょに、寝る。
たまに怒ってひとりで寝るときもあるが、2日つづいて
ひとりで寝ることはない。

 一方、兄や姉はどうだったかは、知らない。
兄とは9歳、年が離れている。
姉とは5歳、年が離れている。
たぶん、兄も、姉も、幼児のころは、母といっしょに
寝たにちがいない。

●父

 そのころの私にとって、父といえば、悲しい思い出
しかない。
父は生涯にわたって、一度も、私を抱いたことがない。
手をつないだこともない。
会話らしい会話も、したことがない。

 父は結核を患っていた。
そのため母は、私を父に近づけなかった。
……といっても、私が生まれたころには、
父の結核は、治っていた。
アメリカ軍がもってきた、ペニシリンという
強力な治療薬のおかげである。

 が、母は、そうは思っていなかった。
私が小学校に入学するころまで、母は毎回、
父の使った食器を、熱湯で消毒していた。
母には、そういう性癖があった。
潔癖症というか、不潔嫌悪症というか……。

 が、私と父を分けたのは、何よりも、父の
酒乱だった。
私が3、4歳になるころには、父は、数晩おきに
酒を飲み、暴れた。
ふつうの暴れ方ではない。

 障子戸をこわしたり、ふすまに穴を開けたりした。
食卓をひっくり返したこともある。
ふだんは学者肌の静かな父親だったが、酒が入ると
人が変わった。
私は恐ろしくて、父には近づけなかった。
静かなときでも、私にはそれが信じられなかった。
その向こうにある父の姿に、おびえた。

 そういう私だったが、祖父母と同居していたおかげで、
飢餓感はほとんどなかった。
今にして思えば、祖父が、私の父親がわりだった。
祖父は、私を、息子のようにかわいがってくれた。
ほしいものは、何でも買ってくれた。

●兄弟

 今でもときどき、仲のよい兄弟を見ると、こう思う。
「いいなあ」と。
しかし私のばあいは、ちがった。
年齢が離れていたせいもある。
私は兄といっしょに遊んだ記憶が、まったくない。
姉とも、ほとんど、ない。
町内でみなといっしょに、川へ泳ぎにいったようなとき、
近くでいっしょに泳いだ記憶はある。
あっても、その程度。

 しかし苦楽をともにしたとか、そういう思い出はない。
また当時は、男が女といっしょに遊ぶということは、
なかった。
遊び方も、ちがった。
だから私は、いつも近所の同年齢の子どもたちと遊んだ。
もちろん相手は、すべて男だけ。
女と遊ぶと、すかさず「女たらし」という
レッテルを張られた。
それは何よりも、不名誉なことだった。

 こうした傾向は、私が中学校を卒業するまで
つづいた。
そういうこともあって、私は家の中では、
いつも孤立していた。
話し相手もいなかった。

 母にしても、私を溺愛はしたが、親絶対教の
信者で、話し相手にはならなかった。
少しでも反抗めいたことを口にすると、すかさず
叱られた。
私の家では、親は絶対的な存在だった。

●故郷

 楽しかったのは、母の在所へ行くこと。
私は岐阜県の美濃市という田舎町で生まれ育った。
田舎といっても、町中にある商家だった。
全体でも33坪しかない。
その土地いっぱいの、2階建ての家だった。
もちろん庭などない。
家の奥に、天窓があり、そこからわずかに光が
差すところがあった。
その光が差すところが、土がむき出しの土間に
なっていた。
私は子どものころ、そこが「庭」と思っていた。

 が、母の在所は、ちがった。
岐阜県の山奥にあった。
板取村という小さな部落だった。
前に川が流れ、うしろに低いが、遊ぶのには
こと欠かない、山が連なっていた。

 私は母の在所では、思う存分、羽を伸ばす
ことができた。
みな、親切だった。
それにいとこたちの中でも、ほぼ最年少という
ことで、みなにかわいがられた。
そんなこともあって、私にとっての故郷といえば、
美濃市というあの町ではなく、
板取村という、あの村をいう。

 今の今でも、都会の街並みは、私の肌には
合わない。
田舎の緑が、好きというわけではないが、
緑の中にいたほうが、気が休まる。

【少年期】

●円通寺

 私は毎日、学校から帰ってくると、そのまま近くの
寺の境内へ遊びに行った。
仲間たちは、みな、そこにいた。
「円通寺」という、さんが住んでいる寺だった。

 缶蹴り、「駆逐・水雷・戦艦」、コマ回し、草履(ぞうり)取りなど。
「駆逐・水雷・戦艦」という遊びは、鬼ごっこのようなもの。
(駆逐艦は潜水艦より強く)、(潜水艦は戦艦より強く)、
(戦艦は駆逐艦より強い)という遊びである。
帽子のかぶり方で、それを決めた。
まだ戦時中の遊びが色濃く残っている時代で、
時には、「処刑ごっこ」というのもした。

 敵兵をつかまえてきたという想定で、鬼の子どもを
壁に立たせ、5〜6メートル離れたところから、
ボールを当てるという遊びだった。
痛くはなかったが、恐ろしかった。

 その円通寺の向こうは、低い山になっていた。
私たちは山の中に「陣地」を作り、その中に入って
遊んだ。

●陣地

 陣地について、もう少し詳しく書いておきたい。

 私たちはその山をはさんで、隣町の子どもたちと、
毎日、戦争ごっこをした。
「ごっこ」というよりは、本気に近かった。
そのため、私たちは、山の中に、陣地を作った。
今風に言えば、「ゲリラ戦ごっこ」。

 まず地面に軽い穴を掘る。
まわりを木で覆い、その上から、枝や葉で小屋を隠す。
大きな陣地になると、ドアまでつくる。
中に、棚や、寝場所まで作る。

 けもの道のようになった「道」から、ぜったいに
見えないように作る。
もし敵に見つかったら、陣地は、容赦なく破壊された。
もちろん私たちも、敵の陣地を見つけたら、
容赦なく、破壊した。

 時には、敵の陣地の中に、人糞をばらまくこともあった。
だれかが大便をしたいというと、その子どもを
敵の陣地の中へ連れていき、そこで大便をさせた。

 ときどき破壊しているとき、敵に見つかることもあった。
そこでつかまると、敵に、リンチされた。

 いろいろな方法があったが、いちばんこたえたのが、
チxチxに、かぶれの木の樹液を塗られること。
あれを塗られると、そのあと1週間近く、チxチxが、
まっかに腫れた。
小便も、思うようにできなかった。

 私たちも敵を見つけて、つかまえると、同じような
ことをした。
石を投げ合ったこともある。
今でも私の頭には、そのときにできた傷が残っている。

●道草

 当時は、学校帰りに道草を食うということは、
子どもたちにとっては、当たり前のことだった。
私たちは学校からの帰り道、あちこちで遊びながら、帰った。
まともに、つまりまっすぐ家に帰るなどということは、
ほとんどなかった。

 学校のすぐ横に、小倉公園という公園があった。
公園といっても、小高い山。
小さな動物園もあった。
たいていはその山で、1〜2時間は、遊んで帰った。

 それから町には、細い路地がいたるところにあった。
美濃市という町は、昔から和紙の産地として
知られている。
古い町である。
そのこともあって、大通りは直線的だったが、
一歩、大通りからはずれると、そこには、路地が
たくさんあった。
私たちはそれを、「探検ごっこ」と呼んでいた。

 ときに石垣に、はいつくばいながら、民家と民家の
間を抜けていったこともある。
あるいは民家の家の中を、すり通りしていったこともある。
昔からの商家は、どれも、細長いつくりになっていた。
そういうことをしながらも、思い出のどこをさがしても、
だれかに叱られたという記憶がない。

 私たちの要領がよかったのか。
それともまだ世間に、牧歌的な温もりが残っていたのか。
どうであるにせよ、子どもたちは、今よりずっと、
自由だった。
世間もおおらかだった。
あるいはそれだけ放任されていたのかもしれない。

 また「団塊の世代」と言われるほど、当時は、子どもたちは
どこにでもいた。
夕方になると、道路のあちこちから、子どもの声が
聞こえてきた。
一方、親たちは親たちで、生きていくだけで精一杯。
家庭教育の「か」の字もない時代だった。

●長良川

 美濃市といえば、長良川。
世界一の清流と言っても、過言ではない。
もっとも、それを知ったのは、おとなになってから。
あちこちを旅行するようになってから。
私にとって「川」というのは、長良川をいった。
また世界中の川も、長良川のようなものと思っていた。
が、これはまちがっていた。
 
 私はその長良川で、泳いで育った。
まだプールのない時代で、「泳ぐ」といえば、「川で泳ぐこと」を
いった。
また学校の水泳指導も、川でなされた。

 当時は、水泳能力に応じて、白帽子に黒い線を入れてもらえた。
こまかいことは忘れたが、1本線→2本線→3本線へと、進んでいった。
中学生になるころには、みな、2本線とか3本線になっていった。

 その長良川。
泳ぐだけが楽しみではない。
水中眼鏡をかけて泳ぐと、そのまま天然の水族館。
そこはまったくの別世界だった。
もちろん魚を釣ることもできた。
モリで、魚を突くこともできた。

 私は川での泳ぎは得意だった。
渦を巻くような激流の中でも、平気で泳いだ。
一見、危険な遊びのように思う人もいるかもしれない。
しかし川の渦は、巻き込まれるものの、
渦に身を任せていると、一度、川底に着いたあと、やや川下のほうで、
体がまた浮いてくる。
けっして、あわててはいけない。
渦に身を任す。
その瞬間は、洗濯機の中でグルグル回ったようになる。
それを知らない人は、そこであわてる。
あわててバタバタする。
だから溺れる。

 泳ぎ方も、川での泳ぎ方と、プールでの泳ぎ方は、ちがう。
川では、流れをうまくとらえ、その流れに乗って泳ぐ。
体をななめにして立ち泳ぎをすれば、たいした体力を使うこともなく、
川の向こう側まで渡ることができる。

 当時の子どもたちは、みなその泳ぎ方をよく知っていた。
 
●ひもじさ

 あの時代を総称して言えば、「ひもじさとの闘い」
ということになる。
子どもたちは、みな、いつも腹をすかしていた。
食べるものはそれなりにあったが、育ち盛りの
子ども用というものは、少なかった。

 私はもっと、肉類を食べたかった。
が、家で出される料理といえば、野菜の煮込んだのとか、
そういうものばかりだった。
ハムにせよ、ソーセージにせよ、私たちはめったに
口にすることはできなかった。
寿司にしても、正月か、あるいは風邪をひいて、
病気になったようなときだけ。

 よく覚えているのは、バナナ。
今でこそ、一房、7〜8本、まとめて買う。
が、当時は、バナナは1本売り。
それが、ふつうだった。
ミカンも、1個売り、りんごも、1個売り。

 一方、学校の給食では、よくクジラの肉が出た。
私たちには、ごちそうだった。
それにおいしかった。
ミルクがたっぷりと入った、クリーム・シチューなどは、
家ではぜったいに食べられないものだった。

 で、ある日私は決心した。
「おとなになったら、腹一杯、ソーセージを
食べてやる!」と。
いつだったか、町内で旅行に行ったとき、
前に座った子どもが、それをおいしそうに
食べていた。
そのとき、そう決心した。

【思春期】

●思春期

 子どもには思春期という節目がある。
当時、すでに思春期という言葉は、使われていた。
「性にめざめる時期」という意味で、使われていた。
私とて例外ではない。
が、私がそれを意識したのは、かなり早い時期だった。
みなもそうだったのかもしれないが、そういった類(たぐい)の話は、
恥ずかしいものという先入観があった。
私の時代には、とくにそれが強かった。

 いろいろな経験をした。
が、それとて、ごくふつうの子どものそれだった。
私も、小学5、6年生のころから、女性に猛烈に
興味を引かれるようになった。
女性というより、「女の体」のほうだった。

 しかし先にも書いたように、私の時代には、女の子と遊ぶことさえ
タブー視されていた。
「男」と「女」の色分けが、たいへんはっきりしていた。
今でこそ、男が赤いシャツ、赤い靴下、赤い下着を身に着けても
だれもおかしいとは思わない。
が、当時は、そういうこと自体、考えられなかった。

 その上、母はきわめて男尊女卑意識、家父長意識、上下意識の
強い人だった。
そのこともあって、たとえば私のばあい、台所に立っただけで、
母に叱られた。
「男が、こんなところに来るもんじゃ、ない!」と。

●愛情飢餓

 私はいつも愛情に飢えていた。
それはおとなになってからわかったことだが、私はいつもだれかに
恋をしていた。
幼稚園児のときも、幼稚園から帰ってくるたびに、「Y子ちゃんが
好きだ」と言っていたという。
私は覚えていないが、母がそう言っていた。

 つづいて小学3年生のころは、山口K子さんという女の子。
小学5、6年生のころは、相宮F子さんという女の子。
中学に入学すると、小坂Y子さんという女の子。
つぎつぎと恋をしていった。

 私のばあい、すぐ「結婚」という言葉を使った。
「好き」という代わりに、「結婚しよう」と言った。
「好き」という言葉の意味を知らなかったせいだと思う。
「好きどうしなら、結婚する」と、そんなふうに考えていた。
ほかの男たちが、どう考えていたかは知らない。
しかし私のばあいは、そうだった。

 しかし私が中学2年生になるまで、どれも、秘められた思いでしか
なかった。
自分の心を打ち明けるということはなかった。
あの日も、そうだった。

●はじめての電話

 中学に入ってから、小坂Y子さんという女の子が好きになった。
毎日、Y子さんのことばかり考えていた。
そのY子さんというのは、私が幼稚園児のときに好きだったという
女の子である。
幼稚園児のときから、6年を経て、再び好きになったということになる。

 で、ある日、爆発しそうな心を抑えることができず、10円玉を
もって、電車駅のところまで自転車で走った。
家にも電話はあったが、家からは、かけられなかった。
それで電車駅を出たところにある、公衆電話を使うことにした。

 心臓は、今にも爆発しそうだった。
はげしい動悸だけは、よく覚えている。
そして交換手を通して、電話をかけた。
電話はつながり、Y子さんの母親が、電話口に出た。
つづいてY子さんを、その向こうで呼ぶ声がした。
「Y子!」「Y子!」と。
私は夢中だった。
何も考えられなかった。
 
 しばらくすると、……というより、数秒もすると、
受話器を取る音がして、Y子さんが、電話に出た。

「何?」と。

 その瞬間、私ははじめて気がついた。
電話をしなければとは思ったが、何も用事はなかった。
「何?」と聞かれたものの、そのあとの言葉がつづかなかった。
私は、「ぼくです……」と言っただけで、あわてて電話を切った。

 切なくも、淡い初恋は、こうして終わった。

●ゆがんだ心
 
 私の心はゆがんでいた。
「好きだったら、好き」と言えと、私は今、生徒たちにそう教える。
が、私には、それができなかった。
Y子さんのことを好きなはずなのに、私はそれ以後、むしろ嫌っている
ような態度を繰り返した。

 ひどくプライドが傷つけられたように思ったのかもしれない。
理由はわからないが、ともかくも、私は、私のほうからY子さんを
避けるようになった。

 思春期特有の子どもの心理とも考えられるが、それ以上に、私の
心はゆがんでいた。
今にして思うと、それがよくわかる。

 私の中には、いつも、もう1人の「私」がいた。
いつその「私」ができたのかは知らないが、その「私」が、そのつど
現れては、本当の「私」をじゃました。

 よく覚えているのは、小学5年生のとき、好きだった相宮F子さんとの
事件である。
私はある日、F子さんがいないときを見計らって、F子さんの机の
中からノートを取り出し、それに落書きをしてしまった。

 そのあとの記憶は断片的でしかないが、F子さんは、さめざめと
泣いていた。
その泣いている姿を見て、2人の「私」が私の中で、別々のことを
言っているのを覚えている。
「どうして、そんなバカなことをしたのだ」と、私を責める「私」。
「ザマーミロ!」と、それを喜ぶ「私」。

●2人の「私」

 ……と書いても、この程度の思い出は、だれにでもある。
私だけが特別だったとは思わない。
が、私のばあい、この事件が、2人の「私」を知るきっかけになった。

 話は教育的になるが、ふつう「素直な子ども」というときは、
(心の状態)と(表情)が一致している子どものことをいう。
うれしかったら、うれしそうな顔をする。
悲しかったら、悲しそうな顔をする。
もちろん好きだったら、「好き」という。

 が、私のばあい、そのつど、もう1人の「私」が、それをじゃました。
じゃまするだけならまだしも、正反対の「私」となって、外に現れた。
そのため、私はよくいじけた。
ひがんだ。
すねた。
それに意味もなく、つっぱった。

 わざと相手を悲しませたり、苦しめたりすることもあった。
で、そのたびに、つまりいつもそのあとに、深い後悔の念にとらわれた。

●成績

 私は子どものころから、心の開けない人間だった。
母子関係が不全だった。
父はいたが、先のも書いたが、「形」だけ。
形だけの父親。
母の心は、父から完全に離れていた。
それもあって、落ち着かない家庭だった。

 が、子どものころの私を知る人は、みな、こう言う。
「浩司(=私)は、朗らかな、明るい子だった」と。

 しかし当の私は、そうは思っていない。
私はいつも仮面をかぶっていた。
つまり、だれにでもシッポを振るタイプの子どもだった。
シッポを振りながら、自分の立場をとりつくろっていた。

 だから家に帰ると、いつもドカッとした疲れを感じた。
それなりにみなと、うまくやるのだが、そんなわけで集団が苦手だった。
運動会も遠足も、自ら「行きたい」と思ったことは、めったになかった。
小学生のころのことは、よく覚えていないが、中学生になってからは、
その傾向がさらに強くなった。
 
 それが思春期になると、攻撃的な性格となって
現れてきた。
攻撃的といっても、自分に対する攻撃。
私は典型的な、ガリ勉となった。

 当時、私の中学には、1学年、550人の生徒がいた。
11クラス、550人である。
その学校で、3年生のとき、1度たりとも、2番になったことはない。
当時は9教科で順位を争った。
(主要4教科)x100点、(英語、保健、技術、美術、
音楽の5教科)x50点の、合計で、650点満点。
そうした定期試験で、640点を取ることもあった。
2番の男とは、いつも40〜50点の差があった。

 勉強を楽しんだというより、自虐的な勉強だった。

●中学時代

 そんなわけで中学時代の思い出は、どこかみな、
灰色ぽい。
というより、中学生になって、思い出か、
色が消えてしまった。
が、思い出が、ないわけではない。

クラブは、コーラス部に属していた。
小学時代は、大の音楽嫌いだった。
その私がコーラス部?

 これにはちゃんとした理由がある。
きっかけは、映画『野ばら』を観たこと。
ウィーン少年合唱団が主演する映画だった。
それを観て、突然、音楽が好きになった。
……ということで、中学へ入学すると、同時に、
私はコーラス部に籍を置いた。

 ほかに毎週、柔道場へ通っていた。
かなりいいとろまで行ったが、左肩の鎖骨を2度つづけて骨折。
それをきっかけに、柔道からは遠ざかった。

 多感な少年だった。
何でもした。
その上、器用だった。
魚釣りもした。
山登りもした。
何でもした。
したが、どれもストーリーとしては、つながっていない。
毎日がバラバラだった。
だから記憶としては、どれも断片的。
こま切れになったまま、そこに散らばっている。

●飛行機
 
 少し話は前後する。 
小学生のころの私は、パイロットにあこがれた。
空を飛ぶ飛行機を見ただけで、興奮状態になった。
実際、木で翼を作り、2階の窓から飛び降りたこともある。
それに当時は、ロケット作りが流行(はや)った。

 短い鉛筆を長くして使う道具がある。
名前は知らない。
細い金属製の管で、ロケット作りには最適だった。
長さは10センチほど。
それに花火の火薬をほぐして詰め、それを飛ばして遊ぶ。
うまく作ると、数十メートル近く、シューッと
音を立てて飛んだ。

 もうひとつは、ピストル。
市販のおもちゃんの鉄砲を改造して、本物に近いピストルを作って
遊んだ。
結構、威力はあった。
至近距離からだと、1〜2センチの板なら、簡単に撃ち抜いた。
ときに3センチくらいの板を撃ちぬくこともあった。
私たちは、その威力を競いあった。

 ……こんなことを書くと、なんとも殺伐とした子どもを
思い浮かべる人もいるかもしれない。
しかし当時は、そういう時代だった。
町中で、空気銃を使ってスズメを撃ち落して遊んでいるおとながいた。
川へダイナマイトを放り投げて、魚を採っているおとなもいた。

 が、仲間のひとりが、それで自分の手のひらを撃ち抜くという
事件が起きた。
まぬけな男だった。
おかげでその直後、その遊びは、学校からきびしく禁止されてしまった。

 ともかくも、私は「飛ぶ」ということが好きだった。
今でも飛行機は、模型であれ、戦闘機であれ、あるいはラジコンであれ、
鳥であれ、何でも好きである。

●夢

 で、ある時期は、本気でパイロットになることにあこがれた。
しかしその夢は、あっさりとつぶれた。
「近眼の人は、パイロットになれない」と言われた。
そのころから私は、近眼になり始めた。

 かわりに……というわけではなかったが、私はモノを作るのが、
一方で、好きだった。
工作の時間だけは、楽しかった。
とくに木工が好きだった。
学校から帰ってくると、いつも家の中で、何かを作っていた。
そのためいつしか私は、「大工になる」という夢を持ち始めた。

 学校からの帰り道、新築の家があると、私はその家を近くでじっと
見ていた。

 ほかに……。

 が、何よりも強く思ったことは、「いつか、この町を出る」ということ。
美濃市という町は、三方を、それほど高くはないが、山々に囲まれている。
その中央に長良川が流れ、私の家の近くにも山がある。
「息苦しい」と感じたことはないが、その反動からか、
海の見えるところへ行くと、言いようのない解放感を覚えた。

 だからいつもこう思っていた。
「おとなになったら、海の見える町に住もう」と。
「仕事が何であれ、海の見える町に住もう」と。

●家族

 再び家族のこと。

そういう点では、私の家族は、関係が、
たがいにきわめて希薄なものだった。
父と母が、しんみりと話し合っている姿など、
記憶のどこをさがしても、ない。
母はわがままな性格の女性で、いつも「私がぜったい、正しい」という
姿勢を崩さなかった。
一見、腰の低い人に見えたが、それは母一流の仮面だった。
(表で見せる顔)と、家の中で見せる(裏の顔)は、正反対だった。
また好き嫌いのはげしい人で、自分が気に入った人には、とことん
親切にする。
その一方で、自分が嫌っている人には、とことん意地悪をした。

 それに迷信深く、一貫性がなかった。
足の靴を買うにも、「日」を見て決めて買っていた。
「今日は大安だからいい」とか、「仏滅だからだめ」とか。
「時間」も決めていた。
「昼過ぎには、靴を買ってはいけない」と、母に何度も叱られたのを
よく覚えている。

あるいは、「靴は、脱いだところで履け」とも、よく叱られた。
ふとんにしても、頭を北向きにしただけで、母は狂乱状態になった。
実際には、北向きにしたことは、なかったが……。

 そういう母に、父ははげしく反発していたにちがいない。
私が小学生のころには、さらに酒の量がふえ、数日おきに、近くの
酒屋で酒を飲んでは、暴れた。
祖父母も、70歳を超えるころには、急速に元気をなくしていった。

 私は孤独だった。
さみしかった。
心細かった。
それに不安だった。
「この家は、どうなるのだろう」と、毎日、そんなことばかり考えていた。

●自転車店

 稼業は、自転車屋だった。
「自転車屋」というと、どこか嘲笑的な響きがある。
これは私自身の、多分に偏見によるものだが、私はいつもそう感じていた。

が、大正時代の昔には、花形商売だったらしい。
戦後まもなくまで、そうだった。
またそれなりに、儲かった。
祖父の道楽ぶりは、町でも有名だった。
「芸者を10人連れて、料亭ののれんをくぐった」というような話は、
よく聞いた。
祖父の自慢話のひとつにもなっていた。

 が、私が小学生のころには、すでに家計は火の車。
中学生になるころには、祖父も引退し、それがさらに拍車をかけた。
近くに大型店ができ、そこでも自転車を売るようになった。
何とかパンク張りで生計をたてていたが、それにも限界がある。

 店といっても、7〜8坪もない。
そんな狭いところに、自転車を20〜30台並べていた。
おまけに、そのうちの半分以上は、中古車だった。
「中古自転車の林」と、よく言われた。
 
 ……いろいろあった。
ということで、私は、自転車は好きだが、自転車屋という商売は好きではなかった。
商売そのものが、好きではなかった。
ウソと駆け引き。
その繰り返し。

美濃市という町は、商圏は名古屋市に属しながら、商習慣は、関西の影響を
強く受けていた。
「売り値」などというものは、あってないようなもの。
その場での客とのやり取りの中で、決まる。
こういった世界では、口のうまい人、うそが平気でつける人でないと、
務まらない。

 が、私が自転車屋という職業を嫌っていたのは、今から考えると、
母の影響だと思う。
母は、自転車屋という職業を、心底、軽蔑していた。
いつも、「ド汚ねえ(どぎたねえ)」と、嫌っていた。
「たいへん汚い仕事」という意味である。
手にほんの少し油がついただけで、母は、それが落ちるまで、何度も
何度も手を洗っていた。

 事実、母は、自転車屋の親父と結婚しながら、生涯にわたって、
ドライバーすら握ったことがない。
それについて、一度、私が母を揶揄(やゆ)したことがある。
すると、母は、こう言った。
「結婚のとき、おじいちゃん(=私の祖父)が、
女は店に立たなくていいと、言いんさったなも(=言ったから)」と。

 つまり父との結婚の条件として、店を手伝わなくていいと、
祖父が言ったという。
それを母は、かたくななまでに、守った。
守ったというより、それを口実に、店には立たなかった。

 そういう母を見ながら、私は私の心を作っていった。
私も自転車屋という職業を嫌うようになった。

●親絶対教

 今でこそ、こうして稼業や母の悪口を書けるようになった。
しかし当時の、私を取り巻く環境の中では、考えられなかった。
父は、親絶対教で知られる、「M教」という教団の熱心な信者だった。
宗教団体ではなかった。
正式には、「倫理団体」ということになっていた。
が、宗教団体的な性格も帯びていた。
宗教的儀式こそしなかったが、天照大神を「神」とたたえ、
天皇を絶対視していた。

 私の家でも、毎月のように、よく会合がもたれた。
その「M教」。
ここに書いたように、「親絶対教」。
私はいつしか、その教団を、そう呼ぶようになった。
「親(=先祖)は、絶対」と考える。

 いろいろな教義はあるが、核心を言えば、そういうこと。
父も母も、私が何かのことで口答えしただけで、私を叱った。
「親に向かって、何てことを言う!」と。
そしてそれと並行して、私は「産んでやった」「育ててやった」
という言葉を、それこそ耳にタコができるほど、聞かされた。

 そこである日、私は、キレた。
私が高校2年生のときのことだったと思う。
母に向かって、こう言って、怒鳴り返した。

「だれがいつ、お前に、産んでくれと頼んだア!」と。
それは私と母の決別を意味した。
私が決別したというよりは、今にして思えば、母のほうが
私を切り捨てた。

●高校時代

 高校は地元のM高校に入った。
トップの成績で、答辞を読んだ。
が、それからの3年間は、私にとっては、2度と戻りたくない時代となった。
とくに高校3年生のときには、笑顔の写真が一枚もないほど、
私には苦しい時代だった。

 ある秋の夕暮れ時のことだった。
補習の授業を受けながら、私はこう思った。
「こんな日々は、いつ終わるのか。
早く終わるなら、命の半分を捨ててもいい」と。
私は赤い太陽が、山の端に沈むのを、ぼんやりとながめていた。

 私には、友だちがいなかった。
みなも、私のことを、いやなヤツと思っていたにちがいない。
私には、それがよくわかっていた。

 だから今でも、こう思う。
神様か何かがいて、もう一度、私をあの時代に戻してやろうかと聞かれたら、
私は、まちがいなく、こう答える。
「いやだ!」と。

●デート

 暗い話がつづいたので、明るい話もしたい。 

 中学時代はコーラス部に属していた。
そのこともあって、私は高校に入ると、合唱クラブに入った。
もうひとつ、化学クラブにもはいっていたが、こちらのほうは、
受験勉強を兼ねたものだった。

 その合唱クラブで、浅野Sさんという女の子を知った。
一目ぼれだった。
スラッとした、本当に美しい人だった。
笑顔がすてきだった。
それに色が白く、声もきれいだった。
しかし自分の気持ちを伝えるのに、1年以上もかかった。
私は子どものころから、「女性」が苦手だった。
女性の心が理解できなかった。

 その浅野Sさんにしても、私は、便をしない人だと思っていた。
つまりそれくらい、私の女性に対する感覚は、常識をはずれていた。

 が、高校2年生になったころ、打ち明けた。
「好きです」と。
それがきっかけで、2、3度、デートすることができた。
が、この話は、どういうわけか、みなが知るところとなってしまった。
同時に、担任の教師の耳に入るところとなった。

 私は職員室の別室に呼び出された。
叱られた。
「受験生が、何をやっている!」と。

●いとこ

 私には、60数人もの、いとこがいる。
母方の伯父、伯母が、12人。
父方の叔父、叔母が、4人。
それで60数人。
正確に数えたことはないが、それくらいはいる。
親戚づきあいの濃厚な家系でもある。

 このことは、ずっとそのあとになって、ワイフの家系と比べてわかった。
私の家系がふつうなのか、それとも、ワイフの家系がふつうなのか。
(ふつう)という言い方には、いろいろと問題がある。
あるが、相対的にみて、私の生まれ育った家系は、少なくともワイフの
生まれ育った家系とくらべると、「異常」。
つまりそれくらい、大きな(差)はある。 

 だから当初、つまりワイフと結婚してから、私は
ワイフの親類とつきあうのに、かなり戸惑った。
私がもっている生来的な常識は、ことワイフの家系では通用しなかった。

 が、悪いことばかりではない。
多くのいとこに恵まれたおかげで、私はそれなりにバラエティ豊かな
親戚づきあいをすることができた。

相手の家に自由に入ることができる。
遠慮なく、ものを言ったり、食べたりすることができる。
何か失敗をしても、すべて父や母のせいにできた。
そういう点では、親戚というのは、気が楽だった。

 言い換えると、いくら親しくても、相手が他人では、
そこまではできない。

●モノづくり

 木工が好きになったのには、理由がある。
昔は、自転車というのは、問屋から、木の箱に入れられて送られてきた。
自転車屋は、それを組み立てて売る。
そのときの木箱、それが残る。
だから自転車屋の店先には、木の廃材が、どこも山のようになっていた。

 厚さは1センチほど。
幅は10センチほど。
長さはまちまち、だった。
私はその廃材を使って、いろいろなものを作って遊んだ。
夏休みの工作にと、組み立て式のボートまで作ったことがある。
小学5年生ごろのことだと思う。

 私はそんなこともあって、モノを作るのが好きだった。
ある時期は、プラモデルに、夢中になったこともある。
当時は、マルサンという会社が、小さな飛行機を売りに出していた。
たしか「マッチボックス・シリーズ」とかいう名前がついていた。
値段は、30円。
よく覚えている。
組み立てると、私は手それを手でもち、家の中を走り回った。

 今でも、モノを作るのは好きだが、そういう「私」が
相互にからみあいながら、今の「私」になっている。
40歳を過ぎたころ、山荘を建てようと思ったのも、
その結果ということになる。
私とワイフは、毎週、現地へ出かけ、ユンボを操縦して、
土地の造成をした。
そのために、6年という年月を費やした。

●卒業

 私は何とか、高校を卒業した。
今で言うなら、いつ不登校児になってもおかしくない状態だった。
しかし不登校を許してくれるような、家庭環境でもなかった。
いくら学校がつらくても、家よりは、ましだった。
……というより、私には逃げ場がなかった。
学校からも、家からも追い詰められた。

 今、覚えているのは、ときに学校に向う自分の足が、鉄のように
重く感じたことがあるということ。
本当に、鉄のように感じた。
その足を引きずりながら、歩いた。

 だから「何とか卒業した」ということになる。
この言葉に偽りはない。

 このつづきは、また別の機会に書いてみたい。
(2010年3月2日記)

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【年少児クラス】(形の学習)(4歳児3人、5歳児3人の混合クラス)

●今日(3月2日)は、形の学習をしました。
 幼児教室の楽しさを、お届けします。
 お子さんといしょに、お楽しみください。


【1】

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【2】

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【3】

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【4】

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【5】

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【6】

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(浜松・BW教室byはやし浩司  連絡先 053−452−8039)


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阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.

writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ

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