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最前線の子育て論byはやし浩司
(2009年 11月 12日 〜 12月31日)

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*************2009年11月12日〜**************

BW子どもクラブ・公開教室(浜松市)byはやし浩司 BW Children's Club, Hamamatsu Japan by Hiroshi Hayashi はやし浩司の実践教室と
幼児の指導およびレッスン風景+子育てのポイント、指導法ほか

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最前線の子育て論byはやし浩司(2009−11−12)

●教育の法則

+++++++++++++++++

昨日、「科学の法則」(PHP)を買ってきた。
私が読むつもりだった。
しかしここでありえないこと(?)が起きた。
ワイフが、夢中になって読みだした。
「ヘエ〜」と感心した。

で、今、その本は、ワイフの手元に。
しかたないので、私は私の法則について書く。
「私の法則」というよりは、私が考えた
「教育の法則」。

+++++++++++++++++

●Y=A/X

Y=教育の質
X=雑務の量
A=その教師がもつ指導エネルギー

この法則によれば、(教育の質)と、(雑務の量)は、反比例の関係にある。
つまり教師の雑務が多ければ多いほど、教育の質は低下する。


●Y=(x2−x1)/(年数)

Y=教育の質
x2=現在の教育の内容
x1=過去の教育の内容
(年数)=その間の経過年数

この法則によれば、Yの値が大きければ大きいほど、その教師は努力したことになる。
マイナスに転じれば、その教師の教育の質は、低下したことになる。
たとえばこの10年で、教育の内容が大きく成長的に変化すれば、Yの値は大きくなる。
逆にマイナスになれば、教育の内容が、低下したことを意味する。


●Y=(勉強が好きな子ども)/(指導生徒数)x100

Y=教師の指導力
この値が大きければ大きいほど、その教師の指導力は高いということになる。
低ければ低いほど、指導力は低いということになる。
たとえば30人の生徒のうち、(勉強が好き)と答えた子どもが15人いれば、その
教師の指導力は、50ポイントということになる。


ほかにも(教師のやる気)(心を病む教師の出現率)(親と教師の関係)などなど。
いろいろ法則は考えられる。

が、何が重要かといって、(楽しさ)ほど重要なものはない。
「教えていて楽しい」……これにまさる教育の評価の仕方はない。
本来、子どもと接し、子どもに教える仕事は、楽しいもの。
「教えるのが苦痛である」とか、「子どもと接していると、疲れる」というのであれば、
教える姿勢そのものの中に、何か大きな問題があるとみる。
そういう前提で、教育、教師のあり方を考える。

もっとも、そのカギを握るのは、親ということになる。
子どもと接するのは、楽しい。
どんな教師でも、そう言う。
しかしそこへ親が入ってくると、教育の世界が一変する。
とたん、教育そのものが、おかしくなる。
そういうことは、よくある。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

【老人心理】(回顧性との闘い)

●前向きに生きる

+++++++++++++++++++

今、すべきことをする。
今、したいことをする。
今、できることをする。
それが「前向きに生きる」ということ。

年齢は関係ない。
年齢を考える必要はない。
年齢に制限される必要もない。
私は私。
どこまでいっても、私は私。

……ということで、昨日、パソコンの
モニターを新調した。
(あまり関係ないかな?)
サイズは、25・5インチ。
ワードで書いた文章を、丸々4ページずつ
表示できる。

ワイフもこう言った。
「やりたいと思ったら、どんどん
したほうがいいわ」
「今しか、するときがないから」と。

YES!

そのモニターの前に座ったとき、
私は、こう思った。

「ようし、やりたいことをする」と。
……とまあ、今朝もそう自分に言い聞かせながら、
始まった。
(11−13朝)

+++++++++++++++++++

●展望性vs回顧性

 加齢とともに、展望性が弱くなり、回顧性が強くなる。
ちょうどこの2つが交差するのは、満55歳前後と言われている。
つまりその年齢を境にして、未来に向かって何かをしたいと思うよりも、
過去を懐かしむことのほうが、多くなる。

 が、展望性と回顧性は、バランスの問題ではない。
展望性というのは、その人を前向きに引っ張っていく。
回顧性というのは、その人の生き様を、うしろへと後退させる。
つまり回顧性というのは、戦うべきものであって、受け入れるべきものではない。
では、そのためには、どうするか。

●回顧性との闘い

 2つの方法がある。
ひとつは、回顧性を排除する。
もうひとつは、展望性を自ら大きくふくらます。
この2つを同時に実行してはじめて、回顧性を闇に葬ることができる。

 「回顧性を排除する」というのは、要するに過去を振り返らないということ。
が、それだけでは足りない。
そこで「展望性をふくらます」ということになる。
未来に夢や希望をもち、しっかりとした目標を定める。
しかし夢や希望などというものは、向こうからやってくるものではない。
自ら、作り出すもの。
その努力は、怠ってはならない。
目標は、そこから生まれる。

●特徴

 回顧性が強くなると、親戚づきあいとか、近所づきあいという言葉を、よく
使うようになる。
自分の身の回りを、(過去の時間)で、固めるようになる。
満50歳を過ぎると、同窓会のような会が急にふえるのも、そのためと考えてよい。

 特徴をいくつかあげてみる。

(1)生活が防衛的になる。(ケチになる。)
(2)生活圏が縮小される。(狭い世界で生きる。)
(3)慢性的な自信喪失状態になる。(「何をしてもだめだ」と思う。)
(4)自己中心性が強くなる。(自分に合わない人を、否定する。)

 こうした傾向は相互に関連しあいながら、ときにはその人の心をむしばむ。
「初老性うつ」に代表される、精神疾患も、そのひとつ。
回顧性に毒されてよいことは、何もない。

●(老い)の受容

 これについては、以前書いた原稿を、もう一度、手直してみる。

++++++++

老いの受容段階説

++++++++

【老人心理】

++++++++++++++++++++

キューブラー・ロスの『死の受容段階論』は、よく知られている。

死を宣告されたとき、人は、(否認期)→(怒り期)→(取り引き期)
→(抑うつ期)→(受容期)を経て、やがて死を迎え入れるように
なるという。

このロスの『死の受容段階論』については、すでにたびたび書いてきた。
(たった今、ヤフーの検索エンジンを使って、「はやし浩司 死の受容段階」
を検索してみたら、113件もヒットした。)

で、またまた『死の受容段階論』(死の受容段階説、死の受容過程説、
死の受容段階理論などともいう)。

その段階論について、簡単におさらいをしておきたい。

●キューブラー・ロスの死の受容段階論(「発達心理学」山下冨美代著、ナツメ社より)

(第1期)否認……病気であることを告知され、大きなショックを受けたのち、自分の病
気は死ぬほど重いものではないと否認しようとする。

(第2期)怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の健
康な人、家族で、医療スタッフに対する不平不満としても生ずる。

(第3期)取り引き……回復の見込みが薄いことを自覚すると、神や医者、家族と取り引
きを試みる。祈ることでの延命や、死の代償として、何かを望む。

(第4期)抑うつ……死期が近づくと、この世と別れる悲しみで、抑うつ状態になる。

(第5期)受容……最後は平静な境地に至という。運命に身を任せ、運命に従い、生命の
終わりを静かに受け入れる。(以上、同書より)

●老人心理

老人心理を一言で表現すれば、要するに、キューブラー・ロスの『死の受容段階論」に、
(第0期) を加えるということになる。
(第0期) 、つまり、不安期、ということになる。
「まだ死を宣告されたわけではない」、しかし「いつも死はそこにあって、私たちを
見つめている」と。

不治の病などの宣告を、短期的な死の宣告とするなら、老後は、ダラダラとつづく、
長期的な死の宣告と考えてよい。

「短期」か「長期」かのちがいはあるが、置かれた状況に、それほど大きなちがいは
ない。
ロスの説く、(第1期)から(第5期)まぜが混然一体となって、漠然とした不安感
を生みだす。
それがここでいう0期ということになる。

ある友人(満62歳)は、こう言った。

「若いころは何かの病気になっても、それを死に直接結びつけることはなかった。
しかし今は、経験したことのない痛みや疲れを感じただけで、もしや……と思う
ようになった」と。

そしてそれが老人心理の基盤を作る。

●死の受容

死の宣告をされたわけではなくても、しかし死の受容は、老人共通の最大のテーマ
と考えてよい。

常に私たちは「死」をそこに感じ、「死」の恐怖から逃れることはできない。
加齢とともに、その傾向は、ますます強くなる。
で、時に死を否認し、時に死に怒りを覚え、時に死と取り引きをしようとし、時に、
抑うつ的になり、そして時に死を受容したりする。
もちろん死を忘れようと試みることもある。
しかし全体としてみると、自分の心が定まりなく、ユラユラと動いているのがわかる。

 それについては、こんなエピソードがある。

 恩師のMN先生の自宅を訪れたときのこと。
MN先生は、私を幼児教育の世界に導いてくれた先生である。
そのとき80歳を過ぎていた。

 縁側に座って、何かを話しているとき、私はこう聞いた。
「先生、歳をとると、死ぬのがこわくなくなるものですか?」と。
すると先生は、笑いながら、こう言った。
「林さん、いくつになっても、死ぬのはこわいですよ」と。

●「死の確認期」

この「0期の不安期」をさらに詳しく分析してみると、そこにもまた、いくつかの
段階があるのがわかる。

(1)老齢の否認期
(2)老齢の確認期
(3)老齢の受容期

(1)の老齢の否認期というのは、「私はまだ若い」とがんばる時期をいう。
若いとき以上に趣味や体力作りに力を入れたり、さかんに旅行を繰り返したりする時期
をいう。

若い人たちに対して、無茶な競争を挑んだりすることもある。

(2)の老齢の確認期というのは、まわりの人たちの「死」に触れるにつけ、自分自身
もその死に近づきつつあることを確認する時期をいう。
(老齢)イコール(死)は、避けられないものであることを知る。

(3)の受容期というのは、自らを老人と認め、死と共存する時期をいう。
この段階になると、時間や財産(人的財産や金銭的財産)に、意味を感じなくなり、
死に対して、心の準備を始めるようになる。

(反対に、モノや財産、お金に異常なまでの執着心を見せる人もいるが……。)

もっともこれについては、「老人は何歳になったら、自分を老人と認めるか」という問題も
含まれる。

国連の世界保健機構の定義によれば、65歳以上を高齢者という。
そのうち、65〜74歳を、前期高齢者といい、75歳以上を、後期高齢者という。
が、実際には、国民の意識調査によると、「自分を老人」と認める年齢は、70〜74歳が
一番多いそうだ。半数以上の52・8%という数字が出ている。(内閣府の調査では
70歳以上が57%。)

つまり日本人は70〜74歳くらいにかけて、「私は老人」と認めるようになるという。
そのころから0期がはじまる。

●「0期不安記」

この0期の特徴は、ロスの説く、『死の受容段階論』のうち、早期のうちは、(第1期)
〜(第3期)が相対的に強く、後期になると、(第3期)〜(第5期)が強くなる。
つまり加齢とともに、人は死に対して、心の準備をより強く意識するようになる。

友や近親者の死を前にすると、「つぎは私の番だ」と思ったりするのも、それ。
言いかえると、若い人ほど、ロスの説く(否認期)(怒り期)(取り引き期)の期間が
長く、葛藤もはげしいということ。

しかし老人のばあいは、死の宣告を受けても、(否認期)(怒り期)(取り引き期)の
期間も短く、葛藤も弱いということになる。
そしてつぎの(抑うつ期)(受容期)へと進む。
が、ここで誤解してはいけないことは、だからといって、死に対しての恐怖感が
消えるのではないということ。
強弱の度合をいっても意味はない。
若い人でも、また老人でも、死への恐怖感に、強弱はない。

(死の受容)イコール、(生の放棄)ではない。
老人にも、(否認期)はあり、(怒り期)も(取り引き期)もある。
それゆえに、老人にもまた、若い人たちと同じように、死の恐怖はある。
繰り返すが、それには、強弱の度合は、ない。

●死の否認期

第0期の中で、とくに重要なのは、「死の否認期」ということになる。
「死の否認」は、0期全般にわたってつづく。
が、その内容は、けっして一様ではない。

来世思想に希望をつなぎ、死の恐怖をやわらげようとする人もいる。
反対に、友人や近親者が死んだあと、その霊を認めることによって、孤独をやわらげ
ようとする人もいる。
懸命に体力作りをしたり、脳の健康をもくろんだりする人もいる。
趣味や道楽に、生きがいを見出す人もいる。

が、そこは両側を暗い壁でおおわれた細い路地のようなもの。
路地は先へ行けば行くほど、狭くなり、暗くなる。
そしてさらにその先は、体も通らなくなるほどの細い道。
そこが死の世界……。

老人が頭の中で描く(将来像)というのは、おおむね、そんなものと考えてよい。
そしてそこから生まれる恐怖感や孤独感は、個人のもつ力で、処理できるような
ものではない。

つまりそれを救済するために、宗教があり、信仰があるということになる。
宗教や信仰に、救いの道を見出そうという傾向は、加齢とともにますます大きくなる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●では、どうするか

 かなり暗い話になってしまったが、回顧性が強くなればなるほど、同時進行の形で、
上記「0期の不安期」が始まる。

 そこでこう考える。
「もし私(あなた)が、今、30歳なら、どうするか?」と。

 ひとつの例として、冠婚葬祭、とくに葬儀をあげる。

 たまたま昨夜、叔母が亡くなった。
いとこから、そういう連絡が入った。
葬儀は明日(土曜日)ということらしいが、K市での講演と重なり、私は参列できない。
そこで昨夜、私は香典を送金し、お悔やみの電報を打った。

 が、そのときいろいろと複雑な心理が働く。
「失礼はないだろうか」「これでいいのだろうか」と。

 そうした心理が働く背景には、私流の回顧性がある。
そこで私自身を、30歳という年齢に置き換えてみる。
すると葬儀に対する考え方が、一変する。
「死者をていねいに送ることは大切なことだが、私には遠い未来の話」と。

 そこでもう一度、こう考える。
「私の息子なら、どうするだろう」
「私は、私の息子に、どうしてほしいだろう」と。

 息子たちはみな、30歳前後である。

 するとそこにひとつの答が見えてくる。
叔母の死は悲しいことだが、ひとつの(事実)として受け入れるしかない、と。
つまり甥(おい)として、やるべきことはやる。
しかしそれをきっかけとして、自分を回顧性に追い込んではいけない。

だからといって、叔母の死を軽く見ろということではない。
私たちが若いころそうであったように、老人の死は、淡々と見送るしかないということ。
早く忘れて、「私は私」という生き方に、戻るということ。

●展望性の維持vs回顧性との闘い

 そこで最後に、展望性の維持と回顧性との闘いについて考えてみたい。
これは私自身の努力目標ということになる。

○展望性の維持

(1)若い人たちと、努めて交際する。
(2)いつも新しいものに興味をもつ。
(3)今できることは、つぎに延ばさない。
(4)体力と知力の維持に、努力する。
(5)夢と希望をしっかりともつ。
(6)1日の目標、1年の目標を、いつも定める。

○回顧性との闘い

(1)過去を振り返らない。
(2)退職したら、肩書き、名誉、地位を捨てる。
(3)「死」にまつわる行事、法事は、最小限に。
(4)常に「今、あるのみ」と心得る。
(5)過去にしがみつかない。
(6)「老人はこうあるべき」という常識を作らない。

 ざっと思いついたまま書いたので、荒っぽい努力目標になってしまった。
私の母や兄などは、ともに60歳を過ぎるころから、仏壇の金具ばかりを磨いていた。
要するに、そういう人生になってはいけないということ。

この努力目標を三唱して、ともかくも、今日も始まった。
がんばろう!
どこまでできるかわからないが、がんばろう!

09年11月14日、土曜日の朝
今朝は生暖かい雨が、シトシトと降っている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 老人心理 老人の心理 回顧性と展望性 回顧性 展望性)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司※

●希望

++++++++++++++++++++++++

希望があれば、まだ何とか生きられる。
その希望にしがみついていけば、まだ何とか生きられる。
希望が、私たちを前向きに、ひっぱってくれる。

++++++++++++++++++++++++

●講演活動

 「あなたにとって希望とは何か」と聞かれたら、今の私は、「講演活動をすること」と
答える。
今は、その講演活動が楽しい。
見知らぬ土地へ行って、見知らぬ人に会う。
そして最近は、できるだけその土地のどこかの、旅館やホテルに泊まるように
している。
それが楽しい。

 今日も、沼津市の女性から、講演依頼が入った。
喜んで引き受けた。
このところ私の心が伝わるのか、遠方からの依頼が多くなった。
こういうのを心境の変化というのか。
ほんの少し前までは、県外からの講演については、ほとんど断っていた。
昨年(08年)は、北海道からの講演依頼も、2件あった。
(もちろん断ったが……。)

 講演が1本入ると、その日に備えて体力と知力を整える。
今までの講演の中で、もっとも長かったのは、4時間。
が、今は、4時間は、とても無理。
自分でもそれがよくわかっている。

 知力も整える。
講演というのは、ボケた頭では、できない。
そんな頭で講演したら、わざわざ聞きに来てくれた人に、申し訳ない。
つまりそうした(緊張感)が、私を未来へと引っ張ってくれる。

 で、明日はK市まで行って、講演をしてくる。
夜7時半〜からの講演会である。
ときどき、そういう講演がある。
「そういう講演」というのは、夜の講演会をいう。
そういう時間帯にするのは、仕事をもっている人のため。

●孤独vs希望

 そこで希望とは、何か?
あえて今の心境をもとにして考えると、(孤独)の反対側にあるのが、(希望)と
いうことになる。

 講演の依頼があるというのは、まだ人の役に立てるということ。
私の話を聞いてくれる人が、まだいるということ。
そういう(人)がいると想像するだけで、孤独が癒される。
つまりそれが(希望)ということになる。

 今は、その希望にしがみついて生きていく。
細い糸かも知れないが、その糸が切れたら、おしまい。
私はそのまま(孤独)の世界へと、落ちていく。

 が、講演には、もうひとつの意味がある。

●真理の探究

 歌手が歌を歌っているのを見たりすると、ときどき、こう思う。
「いいなあ、あの人たちは……」と。
ステージにあがって、いつも同じ歌を歌えばよい。
それで観客は喜んでくれる。
もちろんそれなりの準備とか苦労は必要かもしれない。

 しかし講演のばあいは、同じ話は、できない。
私もしたくない。
毎回、ちがった話をしたいし、ちがった話をする以上、さらによい話をしたい。
そのためには日々の鍛錬あるのみ。
その鍛錬を通して、より「真理」に近づく。

 もちろんそのためには、本を読んだり、考えたりする。
文を書いたりする。
その過程が楽しい。
とくにその向こうに、キラリと光るものを発見したときは、宝石を見つけたときの
ように、うれしい。
その光るものの向こうに、私の知らなかった世界が広がっている。

 講演というのは、あくまでもその(結果)でしかない。

●緊張感

 その講演だが、ときどき1年先とか、1年半先の依頼があるときがある。
今から思うと、そのときどうしてそんなことで迷ったと思うのが、こんな
ことがあった。

 ちょうど50歳になったころ、1年先の講演依頼があった。
そのときのこと、私はこう思った。
「1年先だって?」「そのときまで、私は生きているだろうか?」と。

 それからもたびたび、そういう講演依頼があった。
が、やがてそういう思いは弱くなり、今では1年先の講演でも平気で受けるように
なった。
反対に、「どんなことがあっても、そのときまで元気でいよう」と心に誓う。
そのために体力づくりと、知力の維持に努める。
大きな講演会のばあいは、その1週間ほど前から、運動量をふやす。
体調を整える。
先にも書いたが、こうした一連の緊張感が、私を前へ、前へと、引っ張っていく。

 言うなれば、馬の前につりさげられたニンジンのようなもの。
「いつかは食べられるかもしれない」という思いをもって、前に進む。
 
だから今の私には、うしろを振り向いている暇はない。
向きたくもない。
そうでない人たちは、そういう私を見て、「親戚づきあいが悪い」とか、
「先祖を大切にしない」とか、言う。
しかし今の私には、そういう考え方は、みじんもない。

●宗教観

 こんなことを言うと、親戚の人たちは、顔を真っ赤にして怒るだろう。
しかし私はこの1年の間に、仏壇を開いて、手を合わせたのは一度しかない。
信仰心といっても、そういう信仰心は、私にはない。
仏教徒かキリスト教徒かと聞かれれば、心は、キリスト教徒のほうに、近い。

クリスマスは、毎年祝うが、釈迦の誕生日など、祝ったこともない。
それに「寺」というと、どこもジジ臭くていけない。
(自分がジジイのくせに、そういうことを言ってはいけないのだが……。)
私の年齢になると、四国八八か所巡りというのを始める人もいる。
が、今の私には、とても考えられない。
(そのうち、世話になるかもしれないが……。)

●直送+散骨

 とは言っても、死に方を考えていないわけではない。
しかし私は、直送(病院から直接、火葬場で火葬)を望む。
葬式はまったく、不要。
みなが集まって、おいしいものでも食べてくれれば、それでよい。
で、そのあと、遺骨は、散骨でも何でもよい。
庭の肥料にしてくれても、一向に構わない。

 大切なのは、今を懸命に生きること。
悔いが残らないように生きること。
生きて、生きて、生きまくること。
そこに(死)があるとしても、そのときまで、前に向かって生きること。
言うなればそのとき残る私の死体は、ただの燃えカス。
そんなものを大切にしてくれても、意味はない。
うれしくもない。

 自信はないが、(希望)があれば、それは可能。
いつまでも前向きに生きる。
それが可能。
大切なことは、希望を絶やさないこと。

●希望論

 その希望は、向こうからやってくるものではない。
自ら、作り出すもの。
努力によって、作り出すもの。
よく「私には生きがいがない」とこぼす人がいる。
しかしそれはその人の責任。
……というのは、少し言い過ぎということはわかっている。
しかし生きることの、本当のきびしさは、このあたりにある。

 だからエリクソンは、「統合性」という言葉を使って、こう説明した。
「人生の正午と言われている満40歳(ユング)から、その準備をせよ」と。
つまり40歳ごろから、老後の生きがいとなるものを、準備せよ、と。
(すべきこと)を発見し、その(すべきこと)の基礎を作っていく。
そして老後になったら、その(すべきこと)を、現実に(する)。
それを統合性の確立という。

 何度も書くが、「退職しました。明日からゴビの砂漠で、柳の木を植えてきます」
というわけにはいかない。
そんな取ってつけたようなことをしても、長つづきしない。

 で、統合性の確立には、ひとつ大切な条件がある。
無私、無欲でなければならないということ。
功利、打算が入ったとたん、統合性の確立は、霧散する。

●無への帰着

 釈迦も「無」を説いた。
あのサルトルも、「無の概念」という言葉を、最後に使った。
私から「私」を徹底的に取り去る。
その向こうにあるのが、「無」。

 もし「死の恐怖」「死という不条理」と闘う方法があるとすれば、それは
徹底的に、私から「私」を取り除くこと。
「私」がある間は、死は恐怖であり、死はあらゆる自由をあなたから、奪う。
が、「私」がなければ、あなたはもう、何も恐れる必要はない。
失うものは、もとから、何もない。

 ……が、これはたいへんなこと。
私のような凡人は、考えただけで、気が遠くなる。
はたして、それは可能なのか。
ひとつのヒントだが、昨年亡くなった母は、私に、こんなことを教えてくれた。

 元気なときは、あれほど、お金やモノにこだわった母だが、あるとき私に
こう言った。
「お金で、命は買えん(買えない)」と。

 それまでの母はともかくも、私の家に来てからの母は、まるで別人のように、
穏やかで静かだった。
やさしく、従順だった。
その母が、そう言った。
そして死ぬときは、身のまわりにあるものと言えば、わずかばかりの洗面具と、
食器類、それに何枚かの浴衣だけだった。

 母は母なりに、「無」の世界を作りあげ、その中で静かに息を引き取った。

●希望論

 では、最後にもう一度、希望とは何か、それを考えてみる。
私は先ほど、「希望とは、向こうからやってくるものではない。
自ら、作り出すもの。
努力によって、作り出すもの」と。

しかしここでいう希望というのは、ある意味で、世俗的な希望をいう。
「宝くじが当たるかもしれない」という希望と、それほどちがわない。
となると、真の希望とは、何かということになる。
それはあるのか。
またそれを自分のものにするのは、可能なのか。

 が、ここであきらめてはいけない。

 旧約聖書にこんな説話が残っている。
こんな話だ。

 ある日、ノアが神にこう聞く。
「神よ、どうして人間を滅ぼすのか。
滅ぼすくらいなら、最初から完ぺきな人間を創ればよかった」と。
それに答えて神は、こう言う。

「人間は努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 つまり人間は努力しだいで、神のような人間にもなれるが、そうでなければ、
そうでない、と。
それが「希望」と。

 神とは言わない。
しかし神のような人間になれた人は、自らの崇高さに、真の喜びを見出すかも
しれない。
この世のありとあらゆるものを、許し、受け入れる。
もちろんそこにあるのは、永遠の命。
死の恐怖を感ずることもない。
おおらかで満ち足りた世界。
私たちは努力によって、その神に近づくことができる。
希望といえば、それにまさる希望は、ない。

 言いかえると、どんな人にも希望はある。
希望のない人は、いない。
しかもその希望というのは、あなたのすぐそばにあって、あなたに見つけて
もらうのを、静かに待っている。
そしてひとたびそれを知れば、あなたは明日からでもその希望をふところにいだきながら、
前向きに生きていくことができる。

 ……ということになる。
もちろん私はまだそんな世界を知らない。
「そこにそういう世界があるかもしれない」というところまではわかるが、そこまで。
あくまでも私の努力目標ということになる。

 ともあれ、生きるには、希望が必要。
希望さえあれば、何とか生きていかれる。
が、希望がなくなれば、いかに世俗的な欲望が満たされても、そこに待っているのは、
むなしさだけ。
それがふくらめば、絶望。
それだけは確かなようだ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 希望論 希望とは 私の希望 講演 真の希望 私にとっての希望)

+++++++++++++++++

●価値観の転換(ライフサイクル論)

+++++++++++++++++


(したいこと)から(すべきこと)へ。
中年期から老年期の転換期における、
最大のテーマが、これ。
ユングは、満40歳前後を、『人生の
正午』と呼んだ。
この年齢を過ぎると、その人の人生は、
円熟期から、統合期へと向かう。
ユングは、『自己実現の過程』と位置
づけている。


それまでの自分を反省し、では自分は
どうあるべきかを模索する。
事実、満40歳を過ぎるころになると、
(したいこと)をしても、そこにある種の
虚しさを覚えるようになる。
「これではいけない」という思いが、より強く
心をふさぐようになる。
同時に老後への不安が増大し、死の影を
直接、肌で感ずるようになる。


青春時代に、「私とは何か」を模索するように、
中年期から老年期への過渡期においては、
「私の使命とは何か」を模索するようになる。
自分の命の位置づけといってもよい。
そして(自分のすべきこと)を発見し、
それに(自分)を一致させていく。
これを「統合性の確立」という。


この統合性の確立に失敗すると、老年期は
あわれで、みじめなものとなる。
死の待合室にいながら、そこを待合室とも
気づかず、悶々と、いつ晴れるともない
心の霧の中で、日々を過ごす。


ただ、中年期、老年期、その間の過渡期に
しても、年齢には個人差がある。
レヴィンソンは、『ライフサイクル論』の
中で、つぎのように区分している
(「ライフサイクルの心理学」講談社)。


45歳〜60歳(中年期)
60歳〜65歳(過渡期)
65歳〜   (老年期)


日本人のばあい、「自分は老人である」と自覚
する年齢は、満75歳前後と言われている。
また満60歳という年齢は、日本では、
定年退職の年齢と重なる。
「退職」と同時に発生する喪失感には、
相当なものがある。
そうした喪失感とも闘わねばならない。


そういう点では、こうした数字には、
あまり意味はない。
あくまでも(あなた)という個人に
あてはめて、ライフサイクルを考える。
が、あえて自分を老人と自覚する必要はないに
しても、統合性への準備は、できるだけ
早い方がよい。
満40歳(人生の正午)から始めるのが
よいとはいうものの、何も40歳にかぎる
ことはない。


恩師のTK先生は、私がやっと30歳を過ぎた
ころ、こう言った。
「林君、もうそろそろライフワークを
始めなさい」と。


「ライフワーク」というのは、自分の死後、
これが(私)と言えるような業績をいう。
「一生の仕事」という意味ではない。


で、私が「先生、まだぼくは30歳になった
ばかりですよ」と反論すると、TK先生は、
「それでも遅いくらいです」と。


で、私はもうすぐ満62歳になる。
「60歳からの人生は、もうけもの」と
考えていたので、2年、もうけたことになる。
が、この2年間にしても、(何かをやりとげた)
という実感が、ほとんど、ない。
知恵や知識にしても、ザルで水をすくうように、
脳みその中から、外へこぼれ落ちていく。
無数の本を読んだはずなのに、それが脳の
中に残っていない。
残っていないばかりか、少し油断すると、
くだらない痴話話に巻き込まれて、
心を無意味に煩(わずら)わす。
統合性の確立など、いまだにその片鱗にさえ
たどりつけない。


今にして、統合性の確立が、いかにむずかしい
ものかを、思い知らされている。


そこで改めて、自分に問う。
「私がすべきことは、何なのか」と。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 ユング 人生の正午 ライフサイクル論 統合性の確立 はやし浩司
老年期の心理)

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もう1作、掲載します。

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●退職後の「?」(When we retire the jobs)


+++++++++++++++++


今朝、古いラジオを戸棚から、取りだした。
久しぶりにラジオを聴いた。
俳句についての講座の番組だった。
その中の特選作……。


ひとつは、「給料運搬人……」なんとかというもの。
もうひとつは、「光陰矢の如し……」なんとかというもの。
ほかにもいろいろあった。


共通していたのは、どれも長い間のサラリーマン勤めを終えた
男たちや、それを迎える妻たちの、どこか悲哀感の漂う
俳句だったということ。


ぼんやりと聴きながら、「そういうものかなあ?」
「そういうものでもないような気がする」と、
頭の中で、いろいろな思いが交錯するのを感じた。


+++++++++++++++++


私は俳句については、まったくの素人。
自分で作ったことは、あまりない。
が、どれもすばらしい俳句だった。
それはよくわかった。


で、私が気になったのは、俳句のほうではない。
その批評のほう。
何と呼んだらよいのか。
「俳句の先生」、それとも「指導者」?
「コメンテイター」?
要するに、視聴者からの俳句を選定し、批評を
加える人(女性)。
その人(女性)が、そのつど、こう言っていた。


「これからは、ゆっくりとお休みください」
「長い間、お勤め、ごくろうさまでした」
「退職後は、思う存分、お遊びください」などなど。


その人(女性)は、「私もこの年齢になり、(退職する人たちの気持ちが)、
理解できるようになりました」というようなことも
言っていた(以上、記憶によるものなので、内容は、不正確)。


しかし退職者というと、若い人たちは、どうしてそんなふうに、
とらえるのか。
「退職者は、こう思っているはず」という『ハズ論』だけが
先行している?
私はそう感じた。


とくに気になったのは、「退職後は、思う存分、お遊びください」という言葉。
私はその言葉を聞いたとき、若い人たちが、私たちの
世代を、そのように見ているのかと、がっかりした。


言うまでもなく、私もその世代の人間の1人。
しかし「遊びたい」という気持ちなど、みじんもない。
「遊べ」と言われても、遊ぶ気持ちにはなれない。
……だからといって、その人(女性)を責めているのではない。
それが世間一般の常識的な意見ということは、私にもわかっている。
それに若いときには、私もそう考えていた。
「退職したら、あとは悠々自適の隠居生活」と。


が、今はちがう。
「遊ぶ」ということに、強いむなしさを覚える。
またそんなことで、残り少ない自分の人生を、無駄にしたくない。


もちろん人、それぞれ。
退職の仕方も、人、それぞれ。
退職後の考え方も、人、それぞれ。
もちろん過ごし方も、人、それぞれ。
100人いれば、100通りの考え方がある。
退職の仕方がある。
私の考え方が正しいというわけではない。
中には、「遊びたい」と考えている人がいるかもしれない。
いても、おかしくない。


それはわかる。
しかし……。
私たちが求めるのは、そしてほしいのは、(怠惰な時間)ではない。
遊ぶための時間ではない。
(退職後の生きがい)、それがほしい。
(仕事)でもよい。
が、遊ぶための時間ではない。
だいたい遊ぶといっても、お金がかかる。
それに(遊ぶ)ということには、答がない。
「だからどうなの?」という疑問に対する、答がない。


繰り返す。
「遊んだからといって、それがどうなの?」と。
遊べば遊ぶほど、空しさがつのるだけ。
休むといっても、病院のベッドの上で休むのは、ごめん。
さらに言えば、休んだあと、どうすればよいのか。


退職者の最大の問題。
それは何度も書いてきたように、「自我の統合性」。
その統合性を、いかに確立するか、だ。


(自分がすべきこと)を発見し、そのすべきことに、
(現実の自分)を一致させていく。
(自分がすべきこと)を、「自己概念」という。
(現実の自分)を、「現実自己」という。
この両者を一致させることを、「自我の統合性」、
もしくは「自己の統合性」という。


自我の統合性の確立した老人は、すばらしい。
晩年を生き生きと、前向きに過ごすことができる。
そうでなければ、そうでない。
仏壇の仏具を磨いたり、墓参りだけをして、日々を過ごすようになる。
私の知人の中には、満55歳で役所を定年退職したあと、
ほぼ30年近く、庭いじりだけをして過ごしている人がいる。
年金は、月額にして、27〜8万円もあるという。
しかしそんな老後が、はたして理想的な老後と言えるのだろうか。


その知人は、1年を1日にして、生きているだけ(失礼!)。
10年を、1年にして、生きているだけ(失礼!)。


だから私はその人(女性)にこう反論したい。


「これからは、ゆっくりとお休みください」だと!
バカも休み休み、言え、バカヤロー!、と。
私たちの年齢をバカにするな!
(少し過激かな?)


そのあと、ワイフとこんな会話をした。


私「給料運搬人というのも、かわいそうだね。自分の仕事をそんなふうに
考えていたのだろうか」
ワ「そうよね。さみしいわね。仕事を通して生きがいというのは、なかったの
かしら」
私「ぼくも仕事をしてきたけど、自分が給料運搬人などというふうには、
考えたことはないよ」
ワ「そうねエ……」と。


給料運搬人とその人が、そう感ずるならなおさら、退職後は、そうでない仕事を
したらよい。
生きがいを求めたらよい。
「世のため、人のため」とまではいかないにしても、何かできるはず。
もしここで、その人(女性)が言うように、ゆっくりと休んでしまったら、それこそ
自分の人生は何だったのかということになってしまう。


残り少ない人生であるならなおさら、最後のところで、自分を燃焼させる。
できれば思い残すことがないよう、完全燃焼させる。
それが今まで、無事生きてきた私たちの務めではないのか。
若い人たちに、自分たちがしてきた経験や知恵を伝えていく。
若い人たちが、よりよい人生を歩むことができるよう、その手助けをしてやる。


まだ人生は終わったわけではない。
平均寿命を逆算しても、まだ25年もある。
「遊べ」だの、「休め」と言われても、私は断る。
私には、できない。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)
(Do we have what we should do? If you have something that you should do, your life 
after you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a miserable
 age.)

+++++++++++++++++

乳児期の信頼関係の構築を、人生の
入り口とするなら、老年期の自我の
統合性は、その出口ということになる。

人は、この入り口から、人生に入り、
そしてやがて、人生の出口にたどりつく。

出口イコール、「死」ではない。
出口から出て、今度は、自分の(命)を、
つぎの世代に還元しようとする。

こうした一連の心理作用を、エリクソンは、
「世代性」と呼んだ。

+++++++++++++++++

我々は何をなすべきか。
「何をしたいか」ではない。
「何をなすべきか」。

その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。
我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。
が、その「生」には、限界がある。
その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。

その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、
倫理、道徳を、つぎの世代に伝えようとする。
つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。

それが世代性ということになる。

その条件として、私は、つぎの5つを考える。

(1)普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2)没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3)無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4)高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5)還元性(=教育を通して、後世に伝える。)

この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。エリク
ソンは、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。

何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。
言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。「無間地獄」。

つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。
来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。
健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。

大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。

が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。
それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。

「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわ
けにはいかない。
またそうした行動には、意味はない。

さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。
私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないかぎ
り、統合性の確立は不可能と言ってよい。

我々は、何のために生きているのか。
どう生きるべきなのか。
その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人生の統合性 世代性 統
合性の確立)

(追記)

(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40歳
前後である。もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。

その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。

この問題だけは、そのときになって、あわてて始めても、意味はない。
たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなりボラ
ンティア活動をしたところで、意味はない。身につかない。

……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という
問題ではない。
もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。

孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。
中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。
来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。
利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。

しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。
忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。

もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめるこ
とがある。
認知症か何かになって、何も考えない人間になること。
もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。
しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老人像と考えるだろうか。

(付記)

統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自問
してみるという方法がある。

「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。
「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。

ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってくる
ものを感ずるときがある。
真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。

それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。

なおこの使命というのは、みな、ちがう。
人それぞれ。
その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。

大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。
50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。
持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。

60歳をすぎれば、さらにそうである。

我々に残された時間は、あまりにも少ない。
私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。
早ければ早いほど、よい。

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退職後の人生について書いたのが、
つぎの原稿です。
ちょうど1年前に書いたものです。

++++++++++++++++

●退職後の人たち

退職後の人たちの情報が、つぎつぎと入ってくる。
そういう人たちを、おおまかに分けると、おおむね、つぎのようになる。

(1) 道楽型(旅行三昧、趣味三昧の生活をする)
(2) ゴロゴロ型(何もしないで、家でゴロゴロする)
(3) 挑戦型(若いころできなかったことに、再挑戦する)
(4) 隠居型(息子夫婦などと同居。孫の世話などをする。)
(5) 奉仕型(何かのボランティア活動に精を出す。)
(6) 仕事型(そのまま関連の仕事をつづける。)
(7) 運動型(健康のためと称して、あらゆるスポーツをする。)

もちろんこれらの混合型というのも、ある。
しかし主にどれか、ということになると、たいてい1つに絞られる。
またどれがよいとか、悪いとかいうことではない。
人、それぞれ。
それぞれの人が、それでハッピーなら、それでよい。

ただ言えることは、どこかで「統合性の確立」をめざさないと、
老後もつまらないものになるということ。
統合性の確立というのは、(すべきこと)を見つけ、それに自分を
一致させていくことをいう。
(したこと)ではない。
(すべきこと)である。

私たちはみな、何かの義務をもって、この世に生まれている。
義務の内容は、人によって、みなちがう。
退職後は、その義務を果たす。
単純に考えれば、ボランティア活動ということになる。
が、これは一朝一夕には、できない。
「退職しました。明日からゴビ砂漠へ行って、柳の木の苗を
植えてきます」というわけにはいかない。
そんな取って付けたようなことをしても、長つづきしない。
使命感も生まれない。

で、老後というのは、みな、平等にやってくる。
例外はない。
その老後の準備をするのは、50代では遅すぎる。
エリクソンは、「40歳から……」と説く。
「40歳は人生の正午」と。
しかし実際には、40歳でも、遅すぎるのでは?

若いころからの積み重ねがあってはじめて、老後に統合性の確立が
できる。
しかも統合性の確立は、無視、無欲でなければならない。
何らかの利益につなげようと思ったとたん、統合性は霧散する。

で、私自身は、どうなのか?
私はだいじょうぶなのか?
またどの「型」に当てはまるのか?

が、私はまだ退職状態ではない。
あと9年は、現役でがんばる。
そのときまだ頭と体がだいじょうぶなら、さらにもう少し、がんばる。
統合性の確立がうまくできるかどうかについては、本当のところ、自信はない。
ないが、あえて言うなら、今、こうして文章を書くようなことが、
老後の生きがいになりそう。
少しでも多く、ものを書いて、若い人たちの役に立ちたい。 

++++++++++++++++++

さらに2年前に書いた原稿を
添付します。
内容が重複しますが、お許しください。

++++++++++++++++++

●自己の統合性

++++++++++++++

私は何をすべきか。
まず、それを考える。

つぎにその考えに応じて、
では、何をすべきか、
それを考える。

考えるだけでは足りない。
現実の自分を、それに
合わせて、つくりあげていく。

これを「統合性」という。

つまり(自分がすべきこと)と、
(現実に自分がしていること)を、
一致させる。

老後を心豊かに生きるための、
これが、必須条件ということに
なる。

+++++++++++++

●自分は何をすべきか

 定年退職をしたとたん、ほとんどの人は、それまでの(自分)を、幹ごと、ボキッ折られてしま
う。

 ある日突然、ボキッ、とだ。

 とたん、それまでの自分は何だったのか、と思い知らされる。金儲けだけを懸命にしてきた人
も、そうだ。年をとれば、体力が衰える。気力も衰える。思うように金儲けができなくなったとた
ん、心は、宙ぶらりんの状態になってしまう。

 そこで「自己の統合性」ということになる。

 (自分がすべきこと)を、(現実にしている人)は、自己の統合性があるということになる。そう
でない人は、そうでない。

 似たような言葉に、「自己の同一性」というのがある。こちらのほうは、(自分のしたいこと)
と、(現実にしていること)が一致した状態をいう。青年期には、ほとんどの人が、この同一性の
問題で悩む。苦しむ。

 「自分さがし」とか、「私さがし」とかいう言葉を使う人も多い。自分のしたいことは、そこにある
のに、どうしても手が届かない。そういう状態になると、心はバラバラになってしまう。何をして
も、むなしい。自分が自分でないように感ずる。

 しかし統合性の問題は、同一性よりも、もっと深刻。いくら悩んだとしても、青年期には、(未
来)がある。しかし老年期に入ると、それがない。たとえて言うなら、断崖絶壁に立たされたよう
な状態になる。先がない。

 そこで多くの人は、その段階で、「自分は何をすべきか」を考える。「何をしたいか」ではない。
この年齢になると、(したいことをする)ということのもつ無意味さが、よくわかるようになる。

 高級車を買った……だから、それがどうなの?
 家を新築した……だから、それがどうなの?
 株で、お金を儲けた……だから、それがどうなの、と。

 モノやお金、名誉や地位では、心のすき間を埋めることはできない。成功(?)に酔いしれて、
自分を忘れることはできる。が、そこには限界がある。(酔い)は、(酔い)。一時的に自分をご
まかすことはできても、そこまで。その限界を感じたとき、人は、こう考える。

 「これからの余生を、どう生きるべきか」と。その(どう生きるべきか)という部分から、「自分は
どうあるべきか」という命題が生まれる。

 しかし大半の人は、そんなことを考えることもなく、老後を迎える。ある日、気がついてみた
ら、退職、と。冒頭に書いたように、ある日突然、ボキッと、幹ごと折られたような状態になる。

 では、どうするか?

 多くの心理学者は、こうした作業は、40歳前後から始めなくてはいけないと説く。40歳という
年齢を、「人生の正午」という言葉を使って説明する学者もいる。

50代に入ってからでは遅い。いわんや、定年退職をしたときには、遅い。働き盛りといわれる
40歳前後である。

 つまりそのころから、老後に向けて、自分の心を整えておく。準備をしておく。具体的には、
(自分を何をすべきか)という問題について、ある程度の道筋をつけておく。つまりそれをしない
まま、いきなり老後を迎えると、ここでいうような、(ボキッと折られた状態)になってしまう。

 繰りかえすが、(したいこと)を考えるのではない。(自分がすべきこと)を考える。この両者の
間には、大きな隔(へだ)たりがある。というのも、(自分がすべきこと)の多くは、(したいこと)
でないことが多い。(すべきこと)には、いつも苦労がともなう。

 たとえば以前、80歳をすぎて、乳幼児の医療費無料化運動に取り組んでいた女性がいた。
議会活動もしていた。賛同者を得るために、いくつかのボランティア活動もこなしていた。その
女性にしてみれば、乳幼児の医療費が無料になったところで、得になることは何もない。が、そ
の女性は、無料化運動に懸命に取り組んでいた。そこで私は、その女性に、こう聞いた。

 「何が、あなたを、そうまで動かすのですか?」と。

 するとその女性は、こう言った。「私は生涯、保育士をしてきました。どうしてもこの問題だけ
は、解決しておきたいのです」と。

 つまりその女性は、(自分がすべきこと)と、(現実に自分がしていること)を、一致させてい
た。それがここでいう「自己の統合性」ということになる。

●退職後の混乱 

 しかし現実には、定年退職してはじめて、自分さがしを始める人のほうが、多い。大半の人が
そうではないのか。

 中には、退職前の名誉や地位にぶらさがって生きていく人もいる。あるいは「死ぬまで金儲
け」と、割り切って生きていく人もいる。さらに、孫の世話と庭いじりに生きがいを見出す人も多
い。存分な退職金を手にして、旅行三昧(ざんまい)の日々を送る人もいる。

 しかしこのタイプの人は、あえて(統合性の問題)から、目をそらしているだけ。先ほど、(酔
い)という言葉を使ったが、そうした自分に酔いしれているだけ。

 ……と書くと、「生意気なことを書くな」と激怒する人もいるかもしれない。事実、そのとおり
で、私のような第三者が、他人の人生について、とやかく言うのは許されない。その人がその
人なりにハッピーであれば、それでよい。

 が、深刻なケースとなると、定年退職をしたとたん、精神状態そのものが宙ぶらりんになって
しまうという人もいる。そのまま精神を病む人も少なくない。会社員であるにせよ、公務員であ
るにせよ、仕事一筋に生きてきた人ほど、そうなりやすい。

 私の知人の中には、定年退職をしたとたん、うつ病になってしまった人がいる。私は個人的
には知らないが、ときどきそのまま自殺してしまう人もいるという。つまりこの問題は、それほど
までに深刻な問題と考えてよい。

●では、どうするか?

 満40歳になったら、ここでいう自己の統合性を、人生のテーマとして考える。何度も繰りかえ
すが、「私は何をしたいか」ではなく、「私は何をすべきか」という観点で考える。

 そのとき重要なことは、損得の計算を、勘定に入れないこと。無私、無欲でできることを考え
る。仮にそれが何らかの利益につながるとしても、それはあくまでも、(結果)。名誉や地位にし
てもそうだ。

 ほとんどのばあい、(すべきこと)には、利益はない。あくまでも(心の問題)。というのも、(す
べきこと)を追求していくと、そこには絶えず、(自分との闘い)が、ある。その(闘い)なくして、
(すべきこと)の追求はできない。もっとわかりやすく言えば、この問題は、(自分の命)の問題
とからんでくる。追求すればするほど、さらに先に、目標が遠のいてしまう。時に、そのため絶
望感すら覚えることもある。

 損得を考えていたら、(自分との闘い)など、とうていできない。

たとえば恩師の田丸先生は、先日会ったとき、こう言っていた。「私がすべきことは、人を残す
ことです」と。

 そこで私が、「先生は、名誉も、地位も、そして権力も、すべて手にいれた方です。そういう方
でも、そう思うのですか」と聞くと、「そうです」と。高邁(こうまい)な人物というのは、田丸先生の
ような人をいう。

 そこで……というより、「では私はどうなのか」という問題になる。私は、自分の老後はどうあ
るべきと考えているのか。さらには、私は、何をなすべきなのか。

 実のところ、私自身、自分でも何をすべきなのか、よくわかっていない。あえて言うなら、真理
の探究ということになる。私は、とにかく、この先に何があるか知りたい。が、この世界は、本当
に不思議な世界で、知れば知るほど、そのまた先に、別の世界が現れてくる。ときどき、自分
が無限の宇宙を前にしているかのように錯覚するときもある。

 すべきことはわかっているはずなのに、それがつかめない。つかみどころがない。だからよく
迷う。「こんなことをしていて、何になるのだろう」「時間を無駄にしているだけではないのか」と。

 つまり、自己の統合性が、自分でもわかっていない。できていない。つまり私の理論によれ
ば、私は、この先、みじめで暗い老後を送ることになる。

 だから……というわけでもないが、繰りかえす。

 40歳になったら、ここでいう「統合性」の問題を、真剣に考え始めたらよい。「まだ先」とか、
「まだ早い」と、もしあなたが考えているとしたら、それはとんでもないまちがいである。子育て
が終わったと思ったとたん、そこで待っているのは、老後。50代は、早足でやってくる。60代
は、さらに早足でやってくる。

 さあ、あなたは、自分の人生で、何をなすべきか? それを一度、ここで考えてみてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 統合
性 統合性の一致 統合性一致 自己統合性 自己の統合性 すべきこと 人生の目標)

【付記】

 もうひとつの生き方は、何も考えないで生きるという方法。あるいはどこかのカルト教団に身
を寄せて、そこで生きがいを見出すという方法もある。

 しかし人間は、考えるから、人間なのである。もし、何も考えない人がいたとしたら、その人
は、そこらに住む動物と同じ。明日も今日と同じという日々を送りながら、やがてそのまま静か
に自分の人生を終える。

 そのことは、頭のボケた母を見ていると、わかる。母は、今、自分がどこに住んでいるかさ
え、ときどきわからなくなる。ワイフの顔を見て、別の人の名前で呼んだりする。しかし食欲だけ
は、人一倍旺盛。食事の時間になると、血相を変えて、その場所にやってくる。

 そういう私の母には、もう目標はない。何のために生きているのかという目的すら、ない。何
かにつけて、自己中心的で、もちろん、自分がすべきことなど、何も考えていない。毎日、もの
を食べるために生きているだけ。しかしそんな人生に、どれほどの意味があるというのか。価
値があるというのか。

 もちろん母は母で懸命には生きている。それはわかる。が、それでも、ただ、生きているだ
け。つまり考えないで生きるということは、今の母のような状態になることを意味する。母は、高
齢だからしかたないとしても、私やあなたが、そうであってよいはずはない。

 私たちはこの世に生まれた以上、何かをなすべきである。その(なすべきこと)は、人、それ
ぞれ。みな、ちがう。しかしそれでも、何かをなすべきである。またそういう使命をみな、負って
いる。

 要するに、ここで私が言いたいことは、老後になってから、その(なすべきこと)をさがそうとし
ても、遅いということ。老後といっても、長い。人によっては、30年近くもある。20歳から50歳
までの年数に等しい。

統合性の問題は、いかにその期間を、有意義に過ごすかという問題ということになる。決して、
安易に老後を迎えてはいけない。それだけは、確かである。


+++++++++++++++++

もう1作、「同一性」について書いた
原稿を、掲載します。

+++++++++++++++++

●心理学でいうアイデンティティとは、

(1)「自分は他者とはちがう」という、独自性の追求、
(2)「私にはさまざまな欲求があり、多様性をもった人間である」という、統合性の容認、
(3)「私の思想や心情は、いつも同じである」という、一貫性の維持、をいう(エリクソン)。

++++++++++++++++++++

 エリクソンは、アイデンティティの確立(自己同一性の確立)について、つぎの3つのものをあ
げる。

(1)「自分は他者とはちがう」という、独自性の追求、
(2)「私にはさまざまな欲求があり、多様性をもった人間である」という、統合性の容認、
(3)「私の思想や心情は、いつも同じである」という、一貫性の維持、である。

(1)独自性の追求

 「老人はこうあるべきだ」という目に見えない、圧力。それを加齢とともに、強く感ずるようにな
った。どうしてか?

 たとえば私はあと1年で、「還暦(かんれき)」と呼ばれる年齢になる。「60にして、還暦」の
「還暦」である。十干と十二支の組みあわせでは、満60歳(数え年では、61歳)のときに、干
支(えと)に戻るので、「還暦」という。「暦(こよみ)が、還(かえ)る」という意味である。

 で、ときどき人に、こう言われる。「林さんも、来年は還暦ですね」と。つまり私は、そういうふう
にして、まわりの人たちから、自分の年齢を作られていく。

ところで子どもの世界には、「役割形成」という言葉がある。男の子は、いつの間にか男の子ら
しくなっていく。女の子は、いつの間にか女の子らしくなっていく。遺伝子の作用によるものだと
いう説もあるが、遺伝子の作用だけでは、すべてを説明できない。

 まわりの人たちが、いつの間にか、男の子を男の子らしくしていく。女の子を女の子らしくして
いく。子ども自身も、意識の外の世界で、自ら、男の子らしくなり、女の子らしくなっていく。

 それと同じような現象が、現在進行形の形で、私の身のまわりで起こりつつある。私は、今、
老人にされつつある。だから、こう叫ぶ。

 「何が、還暦だ!」「くだらないこと言うな!」と。

 しかしその声には力がない。いくら叫んでも、その声は、そのままカスミの向こうに消えてしま
う。

 となると、「独自性とは何か」ということになる。いや、それを考える前に、いったい、私には、
独自性と言えるようものがあるのかということになる。服装だとか、髪型とか、そういうものは、
どうでもよい。大切なのは、中身だ。精神だ。その中身や精神の部分で、独自性と言えるような
ものがあるのか、と。

 どこかに(私らしさ)はあるにはあるが、いつも道に迷ってばかりいる。「これは!」と思うよう
な部分でも、相手やその周囲の人たちに、すぐ迎合してしまう。

 今の今も、そうで、生活自体が、加齢とともに、しぼんでいくのが、自分でもわかる。体力も落
ちた、収入も減った、正義感も薄れた、集中力もつづかない。そういう現実を前にして、「では、
どうすればいいのか」と考えることが多くなった。それが自分を、どんどんと、老人臭くしていく。

 しかし私は、あえて、抵抗してやる。だれが老人臭くなっていくものか!

(2)統合性の容認

 いつの間にか、私は「教育評論家」ということになってしまった。しかしこの言葉は、あまり好
きではない。私は、したいことをしているだけ。書きたいことを書いているだけ。

 私は、ごくふつうの人間だし、ごくふつうの生き方をしている。聖人でもないし、君子でもない。

 だから「教育評論家のくせに……」と言われることくらい、不愉快なことはない。ときどき、そう
言われる。とくにみなの前で、バカ話をしたようなときに、そうだ。しかもそれなりの人に、そう言
われるならまだしも、そこらのオジサンにそう言われるから、たまらない。

 「林さん、あんた、教育評論家だろ。その教育評論家がそういうことを言っちゃア、いかんよ」
とか、など。

 酒やタバコ、それに女遊びこそしないが、しかし性欲だってふつうにある。美しい女性を見れ
ば、抱きたくなる。裸を想像する。チャンスがあれば、浮気だってしたいと思っている。

 どうしてそういう私を、私自らが、否定しなければならないのか。つまり、それを否定してしまう
と、私は、私でなくなってしまう。エリクソンが説くところの、統合性がなくなってしまう。

 仮面をかぶってはいけない。自分を偽ってはいけない。私は私である前に、人間なのだ。そ
の人間であることを、そのまま認めて生きる。スケベな話、大好き! どうしてそれが悪いこと
なのか!

(3)一貫性の維持

 一貫性のあるなしは、一貫性のない人を見れば、それがよくわかる。これは極端な例だが、
認知症か何かになった人を、見てみればよい。

 数日前に、何か仕事を頼んだときには、「いいですよ」「心配ないですよ」と言っておきながら、
いざ、当日になると、不機嫌な顔をして、文句ばかり言う。こういう人は、つきあいにくい。その
人がどういう人なのか、それさえわからない。

 子どもの世界でも、似たようなことを観察する。

 年長児(満6歳児)ともなると、その子どもらしさ、つまり人格の輪郭(りんかく)が、明確になっ
てくる。人格の核(コア・アイデンティティ)が確立してくるからである。教える側からすると、「こ
の子は、こういう子だ」という、(つかみどころ)ができてくる。

 が、不幸にして不幸な家庭環境、たとえば、育児放棄、無視、冷淡、虐待、家庭崩壊、愛情
飢餓を経験したような子どもは、この核形成が、遅れる。軟弱で、つかみどころのない子どもに
なる。ときに、何を考えているかさえ、わからなくなる。

 このことを、ここでいう一貫性にあてはめてみると、一貫性というのは、他人から見た(つかみ
どころ)ということになる。その(つかみどころ)のある人を、一貫性のある人といい、そうでない
人を、そうでないという。

 わかりやすく言うと、自分がもつ一貫性などというものは、まったくアテにならない。「私は一貫
性がある」と思っている人でも、一貫性のない人はいくらでもいる。自分で、そう思いこんでいる
だけ。

 そこでこの一貫性を知るためには、一度、視点を、自分の外に置いてみなければならない。
視点を外に置き、そこから自分を見つめなおしてみる。その時点で、自分には一貫性があるか
どうかを、判断する。

 あなたは、他人から見たとき、わかりやすい人間だろうか。あるいはあなたの子どもは、あな
たという親から見たとき、わかりやすい子どもだろうか。

 以上、こうして、「私らしさ」を求めていく。その私らしさができたとき、つまり(自己概念)と(現
実自己)が一致したとき、自己の同一性(アイデンティティ)が、確立されたとみる。

 自己の同一性が確立した子どもは、どっしりとしている。落ちついている。多少の誘惑ぐらい
では、ビクともしない。夢と希望をもち、自分で目標に向かって進んでいく。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 アイデ
ンティティ 独自性 統合性 一貫性 エリクソン 自己の同一性 老後の生き方 退職後の生
き方 統合性の確立 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司

●パレスホテル掛川

+++++++++++++++++

今夜は講演のついでに、パレスホテル
掛川に泊まった。
来年、同じホテルで、O地区医師会の
講演会がある。
その会に、講師として招かれている。
その下見も兼ねて、泊まった。

楽天を通して予約したら、2人分で
1万円。
禁煙・ダブルベッドという部屋である。

料金が料金だから、ぜいたくは言えない。
が、その料金で評価するなら、星は4つ。
先日、千葉市で泊まったホテルは、最悪。
そのホテルでは最高料金のダブルベッド
ルームに宿泊した。
が、トイレ・バス・寝室を含めても、
全体で7〜8畳程度の広さ。
窮屈というより、息が詰まった。

そのホテルと比べたら、パレスホテル
掛川は、ゆったりとしている。
1階にはレストランがあるし、9階には
大浴場もある。

土曜日の夜ということもあって、駐車場は
車でいっぱい。
それだけ人気があるということか。

講演が終わったのが、午後9時少し前。
帰りに近くのコンビニで夕食を買って、
ワイフと2人で食べた。
おいしかった。

帰りは、S小学校のYU先生がコンビニまで
送ってくれた。
わざわざ大回りして、ライトアップされた
掛川城を見せてくれた。
そういうやさしさが、うれしい。
掛川はいつ来ても、心温まる町だ。

+++++++++++++++++++

●掛川で……

 昨夜は部屋の温度調整をまちがえたようだ。夜中過ぎに、暑くて何度も目が
さめた。
見ると、ヒーターのスイッチが、「強」になっていた。
あわてて「弱」にしたあと、窓を少し開けた。
それからは朝まで、ぐっすりと休むことができた。

 私たちが泊まったのは、501号室。
東向きの部屋で、日の出とともに、オレンジ色の朝日が、部屋の中に飛び込んできた。
もう一枚、内側に、ふすま様のしきりがあったが、それを閉め忘れた。
それでそのまま目が覚めた。

 服を着替えたあと、いつもにない疲れを感じた。
頭も重い。
しかしこの重さは、動き出せば消える。
薬をのむまでもない。
そのとき今度の、秋田での講演が心配になった。
秋田では、どこかの旅館に一泊してから、講演をすることになっている。
「こんな状態では、講演などできないな」と思う。

●ホテルの窓から

 窓の向こうを、たった今、新幹線が走り去って行った。
やはり朝日を浴びて、キラキラと光っていた。
遠くに低いが、とんがった山々が見える。
その山を横切って、何十本もの送電用の鉄塔が見える。
電力の大動脈になっているらしい。
「どこまで行っているのだろう」と、目で追ってみたが、手前のマンションで
その先は見えなかった。

 静かな朝だ。
眼下の木がさわさわと風に揺れているのを見なければ、一枚の写真のよう。
あとはときどき、鳥が黒いシルエットのまま、水色の空を横切っている。
窓からは相変わらず冬の冷気が入り込んでいるが、「寒い」と感ずるほどではない。
ここ数日の雨で、空気が洗われた。
が、まだまだ南の暖気のほうが優勢のようだ。
11月も半ばというのに、この暖かさは何だろう。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●知的生命体

 先日、ある本を読んだ。
それには、こうあった。
現在、文明が存在する確率は、銀河系(銀河系だぞ!)、
20個の銀河につき、1個分程度だそうだ(「宇宙と地球を動かす科学の法則」(PHP))。
つまりこの地球に、われわれ地球人という知的生物(?)がいるということは、
この銀河系には、ほかに文明を築くほどの知的生物は、ほぼいないということになる。
が、それでも、この大宇宙には、数千億個の銀河系があるから、全体では、
約50万個以上の知生体文明があることになるという。

 50万個以上! (すごいね!)

 この計算の基礎になっているのが、ドレイクの法則。
つまり「銀河文明の法則」と呼ばれているものだそうだ(同書)。

N=RfL

R; 銀河系で1年間に生まれる星の数
f;1つの星のまわりに知生体が生まれる確率
L; 知生体の文明が存続する年数

 が、この計算には、重大な欠陥がある。
称して、「自滅公式」。
それを組み込んでいない。

 人間が知的生物かどうかという議論はさておき、知的生物は、その進化の過程で
エネルギーを大量に消費するようになる。
そのとき環境を破壊する。
結果、知的生物は、そのまま自滅する。

 そこで知的生物が、宇宙へ飛び出す確率となると、きわめて少ない……というより、
惑星の大きさに比例することになる。
それが「自滅公式」ということになる。

 惑星が小さければ小さいほど、環境破壊が起こりやすくなる。
そのため知的生物がいたとしても、宇宙へ飛び出すほどまで、じゅうぶん進歩する
前に、自滅してしまう。
一方、惑星が大きければ大きいほど、環境破壊は起こりにくくなる。

 では、この地球は、どうか?
それには、隣の火星と比較してみればよい。

 かつてはあの火星も、地球と同じような、水の惑星であったという。
それが何らかの理由で、現在のような火星になってしまった。
人類と同じような知的生物がいて、進歩の過程でやはり、環境を破壊してしまった。
……という説もある。

 火星の直径は、地球の半分程度。
体積は10分の1。
その分だけ、大気の層も薄かったにちがいない。

 そこで私が考えた、「自滅公式」。

J=Ax(惑星の直径)

 自滅までの年数(J)は、(惑星の直径)に比例する。
Aは係数だが、地球人と火星人の自滅までの年数を入れて計算すれば、求まるはず。
たとえばこの地球人が新石器時代をやっと抜け出たのが、今から約5500年前。
この先、約数百年で滅亡するとして、長くても6000年。

 この6000年という年月は、宇宙的時間の中で見れば、星がまばたきする
一瞬より短い。
つまりこの大宇宙に現在、50万種類の知的生物がいるといっても、それは一瞬
にすぎない。
一瞬に生まれ、つぎの一瞬には、滅亡する。
この公式をドレイクの公式に上乗せすると、知的生物どうしが、たがいに接触する
などということは、計算上、さらにありえないということになる。

●知的生命体

 が、現実には、UFOは存在する。
(私とワイフは、巨大なUFOを目撃している!)
ということは、それに乗っている宇宙人は、宇宙人というより、私たちの仲間、
もしくは同類とみてよい。

 が、これについても、あのホーキング博士は、こんな興味深い事実を、講演の中で
述べている。
「同時に、2つの知的生命体は共存しえない」と。

 仮に近辺に、2つの知的生命体が同居したとする。
その知的生命体は、どういう形であれ、他方を抹殺するまで、戦争を繰り返す、と。
となると、地球人と、あのUFOに乗っている宇宙人との関係を、どう考えたらよいのか。

 2つの知的生命体が、同時にこの太陽系という小さな世界で、誕生する確率は、ゼロ。
しかも2つの知的生命体が共存できるという可能性も、ゼロ。
しかし現実には、(あくまでも私の個人的な体験に基づくものだが)、宇宙人は近くに存在
する。
となると、そこから引き出される答は、ただひとつ。

 私たちがいうUFOに乗った宇宙人というのは、別の知的生命体ではなく、私たち自身、
もしくは、その仲間ということになる。

 もう少し詳しく「宇宙と地球を動かす科学の法則」(PHP)を、詳しく読んでみよう。
そこには、こうある。

「この100年間に人口は5倍以上に増加しているし、放出した炭酸ガスは大気中に、
1・5倍にもなっています。
このままいきますと、2050年には100億人に達し、大気中の炭酸ガスも、
400ppmに達すると言われています。
こうなると温暖化が進行し、海水の水位が上昇することになります。
その高さは100メートルに達するという説もあります」(同書、P35)。

「すべての星に生命の誕生する惑星が1つずつあるとすれば、図の式(後述)から
わかるように、0・05〜0・005程度となります。
これでは銀河系の中でたがいに通信できる知生体はありそうでないということに
なってしまいます。
人類はこの銀河の中で、唯一無二なのかもしれません」(P36)。

 が、その人類も、このままでは、文明を築いてから、「200年」で、滅亡しようと
している(同書)。

【ドレイクの公式】

銀河系で考えると、ドレイクの公式(N=RfL)により、

R;0・5
f;10億分の1
L;1000万〜1億
N=0・05〜0・005

 しかしたった「200年」(同書)では、どうしようもない。
「6000年」でも、どうしようもない。

 ……こう考えていくと、私たち人類が、こうしてこの地球上の存在していること自体、
奇跡中の奇跡ということになる。
が、その価値を、人類は、いまだに理解できないでいる。
私も含めてどの人も、そこに私がいて、あなたがいるということを、当たり前のように
考えている。
しかしこれほど、もったいないというよりは、恐ろしいことはない。
人類は、その奇跡を自ら、末梢しようとしている。
地球火星化という問題の前では、第一次世界大戦も、第二次世界大戦も、ただの
小競(こぜ)りあい程度のものでしかない。

 では、どうするか?

 ドレイクの公式の中の(L)値を大きくするしかない。
文明の進化の速度を落としてでもよいから、人類の存続する年数を長くする。
長くしながら、その間に、人類は、より賢くなる。
現在のように、サルが核兵器をもったような状態で、人類が長く存続できると
考えるのには、無理がある。
あと10年もすれば、そこら中の国々が核兵器をもち、あちこちで、
戦争を始めるようになるかもしれない。
そうなれば、「200年」も、むずかしいということになる。

 さあ、みなさん、もっと賢くなろう!
自分で考える力を、身につけよう!
人類を救うために!
(少し大げさかな? 自分でもそれがよくわかっています!)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 知的生命体 宇宙人 知的生命 銀河系 ドレイクの公式)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●ウォルト・ディズニーの『クリスマス・キャロル』byジム・キャリー

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ものすごい映画!
3D映画。
それが『クリスマス・キャロル』。
主演は、あのジム・キャリー。
映画で、ここまでで表現できるとは!、というのが、私の感想。
驚いた。
圧倒された。
感動した。
星は文句なしの5つ星。★★★★★。
書き忘れたが、先週見た、『路上のソリスト』は、星4つの、★★★★。

『クリスマス・キャロル』の前作も、よかった。
10年ほど前に、劇場で見た。
が、今度は、CG映画。
女性の細い髪の毛一本一本が、ゆるやかに風になびいていた。
雪がひとつひとつ、遠近感を保ったまま、表現されていた。
本当に、驚いた!

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●CG映画

 CG映画、つまりコンピュータ・グラフィックス映画といえば、思い出すのが、
最近見た、『沈まぬ太陽』。
空港の向こうから旅客機が飛び立つシーンが、何度か出てきたが、みな同じ。
しかも離陸の仕方が、不自然。
右に急旋回しながら離陸していたが、あんな離陸の仕方はない。
「離陸」というよりは、「墜落」?
取って付け足したようなシーンだった。
(興味のある人は、『沈まぬ太陽』を見てみたらよい。)
つまりこのあたりに、日本映画とアメリカ映画の技術力の(差)がある。
その(差)を、改めて、見せつけられた。

 映画を観終わったあと、ワイフは、こう言った。
「哲学がちがうわね」と。
ひとつの筋が通った哲学が、矛盾なく、映画の中に流れている。
まわりを固める脇役も、うまい。
加えて音楽も、すばらしかった。
「人生はどうあるべきか」ということを、62歳になった私ですら、教えられた。

 ただし童心に返って観ること。
余計なお節介かもしれないが、一度、子どもの心になって観る。
それを忘れると、「何だ、こんな映画!」となる。
『クリスマス・キャロル』は、そういう映画。

(補足)

 クリスマス・キャロルの中のスクルージーは、だれの心の中にも住んでいる。
私の心の中にもいる。
あなたの心の中にもいる。

一方、貧しいからといって、その人が善人とはかぎらない。
裕福になったとたん、スクルージーになる人は、いくらでもいる。
たとえば政治家にしても、当初は高邁な精神でもって、その世界に入る人は多い。
しかし長い間政治にたずさわっている間に、少しずつ心がゆがんでくる……(?)。
そういう政治家は、少なくない。

 金権には、そういう魔力がある。
言い換えると、結果として、スクルージーはスクルージーになったが、ではだれが
スクルージーを、石をもって打てるかというと、それはだれにもできない。
「自分はあんなにひどい男ではない」と、スクルージーを軽蔑しながら、自分は自分で
優越感に浸る。
安心する。
そのために、そこにスクルージーがいる。

 私は映画を観ながら、ときどき自分の過去を見せつけられているように感じた。
「私も、ああだったなあ」と。
同時にまた、「私のクリスマスも似たようなものだ」とか、「私が死んでも、葬式は
あんなものだろうな」とか、思った。
私の人生は、さみしいものだった。
今も、さみしい。
これから先も、同じようなものだろう。
クリスマスといっても、ここ10年ほどは、家族でささやかに言わう程度。
ときどきワイフと2人きりで祝うこともある。

 そんなことをワイフにポツリと話すと、ワイフは、こう言った。
「あなただって、しようと思えば、いつだってできるわよ」と。
「クリスマスに、生徒や親たちをみな、招待すればいいのよ。みんな来てくれるわよ」と。

 そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
たしかに来てはくれるだろう。
しかしそんなことで、私の心は満たされるのだろうか。
立場を利用しているだけ。
またそんなことのために、みなを利用したくない。
相手のほうから、自然な形で、「メリー・クリスマス!」と言ってほしい。
が、それこそ、わがままというもの。

 そこで私は決めた!

 今年からは、私のほうから、みなにプレゼントを渡したり、みなの家に
行ってやろう、と。
つまり「他人に愛されたれかったら、まず他人を愛する」ということ。
他人を愛することもできないような人が、他人に愛されるはずがない。
クリスマスにしても、そうだ。

 映画『クリスマス・キャロル』を観ながら、そんなことを考えた。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(091116)

【記憶の時効】

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記憶にも時効がある。
と言っても、忘れるまでの時間をいうのではない。
私が言う「記憶の時効」というのは、何かの経験をして、
それを自己開示できるまでの時間をいう。

たとえばあなたにも、いろいろな過去がある。
その過去の中でも、(人に話せる話)と、(人には話したくない話)がある。
そのうちの(人に話したくない話)を、人に話せるようになるまでには、
ある程度の時間が必要である。
(もちろん相手にもよるが……。)
その(ある程度の時間)のことを、「記憶の時効」(はやし浩司)という。

……これだけではよくわからないという人も、いるかもしれない。
もう少し具体的に説明するから、どうか短気を起こさないでほしい。

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●私の過去

 私は若いころ、こう考えていた。
「実家の恥になるような話や、親の悪口などといったものは、人に言うべきものではない。
ましてや文にして書くべきものではない」と。
ワイフにすら、そう思っていた。
だから結婚してからも、私は実家の話や、親の話は、ほとんどしなかった。
話せば、どうしても悪口になってしまう。

 その私が実家の話や、親の悪口(?)を書くようになったのは、私が45歳を
過ぎてからのことではなかったか。
それまでは、それを口にすることさえなかった。
とくに他人に対しては、そうだった。
が、45歳も過ぎるころから、心境に変化が生じ始めた。

 たとえば私は父を恨んでいた。
私が子どものころは、数日おきに酒を飲み、家の中で暴れた。
私の父親というのは、そういう父だった。

 が、45歳を過ぎるころから、父が感じていたであろう、孤独感や苦しみが
理解できるようになった。
それが少しずつ私の心を、溶かし始めた。
そして同じように少しずつだが、私は父について書くようになった。
といっても、それにはかなりの勇気が必要だった。
崖から下へ飛び込むような勇気だった。
昔の人は、「清水の舞台から飛びおりる」と言った。

 けっして大げさなことを書いているのではない。
ほとんどの人は、自分のことですら、匿名で書いている。
ひょっとしたら、この文を読んでいるあなただって、そうかもしれない。
BLOGにせよ、HPにせよ、実名を名乗って書いている人は、少ない。
いわんや、(家の恥)、(家族の恥)となるような話となると、大きな抵抗感を
覚える。

 が、書き始めると、意外と楽に書けることを知った。
心の中にあるモヤモヤが、少しずつ晴れていくように感じた。
それからは、自由に、私は、実家や家族のことを書くようになった。

 つまり、これが私の言う、「記憶の時効」である。

●崖から飛び降りる

 (話したくない話)でも、ある程度時間がたつと、(話してもいい話)になる。
それまでは、(話したくない話)は、ずっと心の中にとどまったまま。
が、ある程度時間がたつと、(話したくない)という気持ちが薄れてくる。
つまり(話したくない話)が、(話してもいい話)に変化するまでに時間が、
「記憶の時効」ということになる。

 「この話は、もう時効になったから、他人に話してもいい」と。

 そこでこんな実験をしてみる。

 実は、この話は、まだ時効になっていない。
ごく最近というか、まだ1年ほどしか、たっていない。
それにこの話は、私にとっては、たいへん恥ずかしい。
が、思い切って、ここに書いてみる。
「崖」とは言わないが、二階屋根から飛び降りるような心境である。

●腸内ガス

 センナという薬草がある。
便秘薬として、使われている。
私は便秘症ではないが、腸がはれぼったいと、気になってしかたない。
そこでときどき、強制的に、腸内を空にする。
そのとき、センナという薬草を、煎じてのむ。

 そのセンナをのむと、半日もすると、独特のにおいの腸内ガスが出る。
どう独特かというと、つまり独特。
それに強烈。
センナをのんだことがある人なら、みな、知っている。
しかも腸内ガスが、排便が近づくと、ブーッ、ブーッと気持ちよく出る。

 で、ある日のこと。
生徒たちが来るのを待って、私はコタツの中に座っていた。
寒い冬の日だった。
私はコタツの中で、それをしてしまった。
「まだ時間がある」と思っていた。
が、そこへ親たちが、子どもを連れてやってきた。
ドヤドヤと、階下から階段をのぼってくる足音が聞こえてきた。

「しまった!」と思ったが、遅かった。

 そこであたりをみると、香水の入った瓶と殺虫剤が目に入った。
私はこたつのふとんの中めがけて、香水を吹きかけた。
同時に、殺虫剤をまいた。

 数分もたたないうちに、子どもたちが入ってきた。
親たちも入ってきた。
親といっても、若くて美しい母親たちである。
その母親たちがいつものように、まっすぐ、コタツのほうに向かっていった。

 あああ……。

 私はそ知らぬ顔をして、教室の反対側に立った。
そのときのこと。
母親たちが、(正確には3人いたが)、たがいに「何のにおい?」「何かしら?」と、
話している声が聞こえた。
ひとりはこたつのふとんの中に、クンクンと、顔までつっこんでいた。
私は生きた心地がしなかった。

●恥ずかしい話

 この話は、実は、ワイフにすらしていない。
まだ「記憶の時効」になっていない。
こうして書くこと自体、本当のところ、時期尚早。
あと数年は、隠しておきたかった。

 というのも、現在の今も、その母親と子どもは、私の教室に通っている。
もしこのエッセーを読んだら、……それを想像することすら、恐ろしい!
つまりこれが「記憶の時効」ということになる。

 人は、自己開示をすることによって、自分を見つめなおすことができる。
そういう点では、(さらけ出し)は、悪くない。
フロイトが説いた、「肛門期」というのが、それ。
何かの秘密(?)をもつと、それを外へ吐き出したくなる。
そういう衝動にかられることは多い。
しかしそれには、「記憶の時効」が働く。

 たとえば私は、自分たちの性生活については、ほとんど書いたことがない。
私がそれについて書けば、「老人の性」というタイトルがつくだろう。
若い人たちも、それについて興味をもっているかもしれない。
私と同じ世代の人たちも、興味をもっているかもしれない。
しかし私は、書けない。
書かない。

 恥ずかしいというより、(確かに恥ずかしいが……)、息子たちの前で、
それについて語るのは、昔からタブーにしてきた。
それにそれは私が専門とする分野ではない。
言い換えると、まだ「記憶の時効」になっていない。
今、それについて書くとなったら、私は、それこそ「清水の舞台から……」となる。

●私というより、1人の人間

 (書きたい)と思っていることと、(書いてもいい)と思っていることの間には、
距離がある。
時間的距離である。

 が、その時間的距離は、時間がたてばたつほど、短くなっていく。
それには、理由がある。

 「私」という人間は、私であって私でない。
「私といっても、広く、人間の1人である」と思うようになる。
そういう「私」が、加齢とともに、よくわかってくるようになる。
あるいは「私の経験していることは、だれでも経験していること」と思うようになる。

 たとえば私が、性的な夢想にふけったとしよう。
若い女性と、性的行為を楽しむような夢想でよい。
しかしそうした夢想というのは、だれしも経験するものである。
またそれは私であって私でない部分が、勝手に私にそうさせるもの。
平たく言えば、本能。
その本能に応じて、ホルモンが分泌され、それに応じて脳が勝手に反応する。
これには、教師も、聖職者も、僧侶もない。
校長だって、副校長だって、同じ。
そういうことが、自分でもわかってくる。

 となると、私が性的な夢想をするのは、ごく自然な行為ということになる。
恥ずかしく思わなければならないようなことではない。
隠さなければならないようなことでもない。

 だったら、それをすなおに書けばよい。
私のこととしてではなく、人間のこととして書けばよい。
……ということがわかってくるようになる。
それがわかってくれば、それについて書くことについては、時効が成立した
ということになる。

●自己開示

 話はそれるが、自己開示についても一言、触れておきたい。

 もともと自己開示というのは、相手との親密性を知るバロメータとして
利用される。
浅い身の上話から、深い身の上話まで、いろいろある。
深い身の上話までできるということは、あなたはその人と、親密度が高いという
ことになる。

 結婚当初、私はワイフにすら、実家の話や、親の悪口などは話さなかった。
つまり自己開示できなかった。
わかりやすく言えば、私はワイフにすら、心を閉じていた。

 が、やがて、私はワイフに実家のことや、親のことを話すようになった。
私の心には、無数の傷がついていた。
それについては前にも書いたので、ここでは省略するが、それを話すようになったのも、
結婚してから数年後のことである。

●傷(トラウマ)

 私は若いころから、そして今に至るまで、実家の問題がからんでくると、精神状態
がたいへん不安定になる。
心が緊張し、ささいなことで、カッとキレやすくなる。
おまけにいじけやすく、ひねくれたものの考え方をするようになる。
子どもじみた行動に出ることもある。
家を出て、そのあたりを徘徊したりする。

 が、ありのままをワイフの語ることによって、そうした症状は、かなり軽くなった。
つまり自己開示するということには、そういう意味も含まれる。

●暴露

 こうした記憶の時効は、そのつど、いつも感ずる。
(この話は書くべきでない)と思うことは、しばしばある。
あるいは迷う。
「まだ時効になっていないぞ」と。
しかしそのとき、別の心が働く。
「今しか、書くときがないぞ」と。
そして同時に、こうも思う。
「お前は、お前であって、お前ではない部分がある。
どうしてそれを書くのに、ためらうのか」と。

 さらに言えば、自己開示をすればするほど、その先に、自分の姿が、より
鮮明に見えてくることがある。
が、抵抗がないわけではない。

 先日も1人、こう言った人がいた。
「自分のことをそこまで暴露して、抵抗はありませんか?」と。
私の立場で言うなら、「そこまで暴露して、何になるのか?」ということになる。
中には興味本位で読んでいる人もいるだろう。
また私の内情を探るために読んでいる人もいるだろう。
それにみながみな、私に対して、好意的とはかぎらない。
私の文章を読みながら、「このヤロー!」と怒っている人もいるはず。

 私が書いたことで、実際、「どうして私のことを書いたか!」と抗議してきた人も
いる。
(それはその人のまったくの誤解だったが……。)
怒ってくる人はまだよいほう。
そのまま私から黙って去っていく人もいる。

 どんどんと自己開示してくと、どうしてもそこに私の近親者たちが登場する。
いろいろな技法を用いるが、読む人によっては、その人のこととわかってしまう。
それが壁となって、私の前に立ちはだかる。

 が、自己開示を重ねるたびに、私はその(上)に出るような気分も、これまた
否定しがたい。
それはちょうど山登りに似ている。
下から見ると低いと思われるような山でも、登ってみると、意外と視野が広い。
遠くまで見える。

 その歓びが、私をして、またつぎの自己開示へと結びつけていく。

●記憶の時効

 刑法の世界には、時効というのがある。
正式には、公訴時効という。
刑期の長さによって、時効の期間が異なる。
死刑にあたるような罪では、25年。
無期懲役または禁錮にあたるような罪では、15年。
軽い、拘留または科料にあたるような罪では、1年などなど。

 記憶にも、同じような時効がある。
(人に話したくない話)でも、そのときが来れば、自然と話せるようになる。
そしてその時効は、加齢とともに、ますます短くなっていく。
今の私がそうだ。
本来の時効など待っていたら、それこそその前に、私の人生が終わってしまう。
私は私。
私はありのままの「私」を書く。
理由は、簡単。
私は私であって、私ではない。
1人の人間。
「私」のことをありのままさらけ出すということは、「人間」をさらけ出すこと。

そういう私をまちがっているというのなら、それを言う人のほうが、まちがっている。
仮にまちがっているとしても、それは「私」ではない。
「人間」がまちがっているということになる。

 それともあなたは、思わぬところで腸内ガスを出し、あたふたしたという経験が
ないとでも言うのだろうか。

 ……ということで、「記憶の時効」について書いてみた。
とくに私のように、どこか心の開けないような人は、思い切って何でも人に
話してみるとよい。
書いてみるとよい。
それによって心をがんじがらめにしているクサリを解き放つことができる。
そういう効果もある。
 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 自己開示 記憶の時効)


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司

●崩れた人格

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私はS氏(当時70歳くらい)を、「詐欺師」と呼んでいた。
預かった香典をネコババする程度のことは当たり前。
自分の土地を、二重売り、三重売りするなどということも朝飯前。
二束三文の骨董品を、「江戸時代のもの」と言って、人に平気で売りつける。
しかもそれを、甥や姪に売りつける。
お金がなくなると、妻の老齢年金手帳を担保に、借金をする。
ウソにウソを重ねるというより、ウソを言いながら、
それをウソとも思っていない。
そのうち愛人との間にできた子どもまで、出てきた!

しかしそう書くからといって、何もS氏を個人攻撃する
つもりはない。
個人的には、S氏に興味はなかったし、関係も浅いものだった。
話題にするのも、不愉快。

が、心理学的には、たいへん興味がある。
S氏ほど、まともで、その一方で、人格的に崩れた人は、
そうはいない。

一例をあげる。

S氏には、愛人がいた。
その愛人をある日自宅へ連れてきた。
そして自分の妻に、こう言い放った。
「今日から、この女も、この家に住む。
めんどうみてやってくれ!」と。
S氏が、40歳を少し過ぎたころのことだった。

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●非常識

 一事が万事というか、S氏には、S氏なりの一貫性がある。
けっして悪人ではない。
悪人ではないが、結果としてみると、詐欺まがいのことばかりしている。
が、その意識がない。
人をだましたという意識そのものが、ない。

 自宅へ愛人を連れてきたときも、そうだ。
S氏にすれば、友人(?)のめんどうをみるくらいの軽い気持ちだったかもしれない。
もともと家父長意識の強い人で、妻について言えば、自分の奴隷のようにしか
思っていなかった。

 だからS氏にすれば、親しい(?)友人が困っているのを助けるということになる。
そして妻は、そういう夫を手伝って、当然ということになる。
しかし全体としてみると、そういった行為そのものが、常識をはずれている。
つまり非常識。

 あとは推して量るべし。
ほかにもいろいろあるが、ここではそれについて書くのが目的ではない。
こうした非常識、もしくは非常識性は、どうして生まれるか。
ここでは、それについて、考えてみたい。

●人格の完成度 

 「人格の完成度」については、たびたび書いてきた。
EQ(Emotional Intelligence Quotient)論ともいう。
直訳すれば、「情動の知能指数」ということになる。

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説くEQ論では、
主に、つぎの3点を重視する。

(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性

 一般的には、(1)自己管理能力が低く、(2)他者との良好な人間関係が築けず、(3)
他者との共感性が低い人のことを、「自己中心的な人」という。

 わかりやすく言えば、より自己中心的な人を、人格の完成度の低い人という。
反対に、より利他的な人を、人格の完成度の高い人という。
自己中心性が肥大化した人のことを、「自己愛者」という。

 しかしS氏のようなケースは、特殊。
あまり例がない。
かといって、見た目には、どこにでもいるような、ごくふつうの男性である。
痴呆性を感ずることもない。
反応もそれなりに、早い。
口も達者。
しかしどこかちがう。
おかしい。

●思慮深さ

 最大の特徴は、思慮深さがないということ。
ものの考え方が、短絡的で、演歌風。
(「演歌風」というのは、演歌の歌詞をそのまま口にすることが多いということ。)
そのためものの言い方も、唐突でぶっきらぼう。
もちろん繊細な会話はできない。
またそういうセンスは、もとから持ち合わせていない。

 それについては、血栓性の脳梗塞を起こしたためと説明する人もいる。
しかしS氏について言えば、30代、40代のころから、そうだった。
愛人を家に連れ込んできたときも、S氏は、40歳を少し過ぎたときのことだった。

 ではなぜ、S氏はS氏のようになったか。

 私はいくつかの点で、気になっていたことがある。
ひとつは、S氏の周辺には、文化性を思わせるものが何もないということ。
本や雑誌など、読んだことさえないのでは?
家人の話では、テレビのドラマさえ見たことがないということだった。
が、最大の特徴と言えば、思慮深さそのものの欠落ということになる。

 自己中心的で、わがまま。
常識といっても、一昔前の常識。
会話の中にも、「お前は男だろが……」とか、「女のくせに……」という言葉が
よく出てくる。
が、何と言っても常識そのものが、狂っている。

 預かった香典をネコババしたときも、そうだ。
同居している息子がそれをとがめると、こう言ったという。
「親が、先祖を守るために、甥の金を使って何が悪い!」と。

 まるで罪の意識がない。
ないというより、独特の論理の世界で生きている。

●非常識性

 こんな話を読んだことがある。

 今でもK国から脱出してくる人は、後を絶たない。
「脱北者」と呼んでいる。
そういう人たちが韓国へ逃れてくると、一時的に、そういった人たちを収容し、教育する
施設に入れられる。
そこでのこと。
脱北者たちは、散歩に出ると、近くの畑から、野菜や果物を平気で盗んできてしまう
という。
「盗む」といっても、その意識はないのかもしれない。
K国の中では、そうした食物は、国民みなのものという考え方をするらしい。

 つまり常識などといったものは、その時代、その民族、国民によってみなちがう。
決まった常識などというものは、ない。

 愛人を家に連れてきたというS氏だが、そういった話は、明治時代や大正時代には、
あちこちであった。
お金に余裕がある人は、愛人に別宅を与えて、そこに住まわせたりした。

●常識論

 が、今では、それは非常識。
ふつうの常識のある人なら、そういうことはしない。
……と、断言したいが、そうはいかない。
「私は常識的」と思っている人でも、別の場面では、結構非常識なことをしている。
先にも書いたように、「常識」などというものは、その時代、その民族、国民に
よってみなちがう。

では、こうした非常識性と闘うためには、どうするか。
それについて書く前に、もう一歩、話を掘りこんでみる。
というより、人間は、本来、そういう動物であるという前提で考える。

人間が今のような人間になったのは、ここ1000年とか2000年の間ではないか。
それ以前の人間には、道徳も倫理もなかった。
さらに今から5000〜6000年前までの新石器時代となると、人間は人間という
より動物に近かった。

 人間は本来的に、S氏のような人間であると考える。
よい例が、戦国武将と呼ばれる人たちである。
NHKの大河ドラマに出てくる武将たちを観ていると、結構、思慮深い人物に描かれて
いる。
が、本当にそうだろうか。
そう考えてよいのだろうか。

 「武将」というためには、同時に平気で人を殺せる人でなければならない。
(人を殺す)という時点で、いくら名君と呼ばれようが、その人の人間性は、
動物と同じと考えてよい。
(動物だって、そんなことはしない!)
よい例が、織田信長ということになる。
徳川家康だって、そうはちがわない。
ただ徳川家康にしても、その後、300年という年月をかけて、徹底的に美化され、
偶像化された。
徳川家康に都合の悪い話は、繰り返し、末梢された。
その結果が今である。

 「盗(と)るか、盗(と)られるか」という時代にあっては、きれいごとなど、
腸から出るガスのようなもの。
きれいごとを並べていたら、その前に自分が殺されてしまう。
S氏の非常識など、戦国武将の前では、何でもない。
ただの冗談ですんだはず。

●では、どうするか

 あなたの周囲にも、S氏のような人はいるかもしれない。
似たような話を耳にしているかもしれない。
そこで大切なことは、そういう人がいたとしても、自分から切り離してしまっては
いけないということ。
「他山の石」もしくは、「反面教師」として、自分の中でそれを消化する。
その第一が、「思慮深くなる」ということ。

 S氏についても、総じてみれば、「思慮深さがない」。
すべては、そこへ行き着く。
もしS氏がもう少し思慮深ければ、S氏はもっと別のS氏になっていたかもしれない。
わかりやすく言えば、人格の完成度にしても、それはあくまでも(結果)。
日ごろから思慮深ければ、人格の完成度は、自ずと高くなる。
そうでなければ、そうでない。

 で、さらにその思慮深さは何で決まるかといえば、(思考を反すうするという習慣)
によって決まる。
それについては、数日前に書いたばかりだから、ここでは簡単にしておきたい。

 つまり自分の考えを、何ども頭の中で反すう(=反芻)するということ。
そしてそれは能力の問題ではなく、習慣の問題ということ。
その習慣を身につける。
それがその人の人格の完成度を、長い時間をかけて決める。

●補記

 同じ命を授かり、同じ時代を生きながら、そこに真理があることにさえ気づかず、
あえてそれに背を向けて生きている……。
私には、S氏という人がそういう人にしか、思えない。
「崩れた人格」というタイトルで、このエッセーを書き始めたが、「かわいそうな人」
というタイトルでもよい。

 さらに興味深いことは、そういうS氏でも、「いい人だ」と評価する人もいるということ。
まったくの悪人かというと、そうでもない。
もともと気が小さい人だから、大きな悪事を働くということはない。
陰に隠れて、コソコソと動き回っているだけ。

 それにどこか「寅さん」的なところがあって、憎めない。
香典をネコババされた人も、「あいつのやりそうなこと」と言って、笑ってすませている。
愛人を連れ込まれた妻にしても、今ではそれを笑い話にしている。
中に偽の骨董品を買わされて怒っている人もいるが、金額はたいしたことない。

 そうそう言い忘れたが、そのS氏は、ごく最近(09年)、他界したという。
久しぶりに知人に電話すると、そう教えてくれた。
享年、80歳。
私には強烈な印象を残して、この世を去っていった。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●世界は今……

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激動する世界!
いいのか、このままで!

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息子(二男)の話では、こうだ。

今、息子は、スイスにあるCERN(量子加速器)の
分析用のコンピュータのソフトウェアを開発している。
が、スーパーコンピュータでも、データを処理できないほど
情報量が多いそうだ。
そこでアメリカは、アメリカを中心として、OSG(Open Science Grid)
という組織体(コラボレーション)を組織しているという。
わかりやすく言うと、各大学などがもっている大型コンピュータ、
約1万台をつないで、スーパーコンピュータ以上の働きを
させるというもの。

この方法は、それぞれの研究者にとっても、つごうがよい。
自分の研究室にいながらにして、最先端の情報を手にすることができる。

そのEU版(バージョン)が、「EG」という組織体だそうだ。
息子たちが開発したソフトウェアを、EGに移植するという
話が出てきた。
それで今度、息子は、もうひとりの同僚といっしょに、スイスへ
向かうという。

世界は今、猛烈な勢いで、進歩している。
息子の話を聞きながら、そう感じた。

しかも驚いたことに、10人ほどのグループで、ソフトウェアを
開発しているそうだが、インディアナ大学にいるのは2人だけ
という。
あとはニューヨークとか、まったく別の地域に住んでいて、
そこで仕事をしているという。
「毎日、SKYPEなどで連絡を取り合っているから、不便は
ない」とのこと。
そう言っている息子も、週のほとんどを自宅で仕事をしている。

「お前のような人間が、アメリカで働いているということ自体、
日本にとっては、大きな損失なんだよナ」と言うと、息子は、
ポツリとこう言った。
「だって、日本には、ぼくができるような仕事はないから」と。

日本はいつの間にか、ここまで後れてしまった。
どうしようもないほど、後れてしまった。
息子にさえ、バカにされる、そんな国になってしまった。
小さな世界に閉じこもったまま、チマチマとたがいに出世競争
ばかりしている。
その結果が、「今」ということになる。

しかしこうした現状を、いったい、どれだけ多くの日本人が知って
いるだろうか。
息子の話によれば、家庭で使うコンピュータにしても、日本製はもう
ないそうだ。
ほとんどが中国製か韓国製という。

で、おととい見た、ディズニーの『クリスマス・キャロル』の話になった。
それについても、こう言った。
「あの映画もね、インドの会社が、ヨーロッパの会社に発注して、それを
アメリカで編集してできたんだよ」(注:内容は聞き覚えなので不正確)と。
映画も、世界的規模で制作されている。
そんな時代になった。

今、世界中が、溶けた鉄の固まりのようになって、ルツボの中で、ぐるぐると
回っている。
そんな中、いまだに「子どもに英語教育は必要ない」とか、「武士道こそ、
日本が誇るべき精神的バックボーン」とか、そんなことを説いている学者が
多いのには、驚かされる。
このままでは、日本は、再び、極東アジアの島国に逆戻りしてしまう。

いいのか、日本!
このままで!
息子とのSKYPEを切ったとき、私は、そう感じた。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司

【2010年のこと】

☆2009年から、3つの新しいことを始めました。
まず、ルーム・ウォーカーを購入したこと。
朝起きるとすぐ、それで10分間、ウォーキングをします。
平均して毎日、30〜40分は、その上で歩いています。
いろいろなものを買いましたが、ルーム・ウォーカーは、
その中でも、ベスト・ワンということになります。

ただその分だけ、サイクリングの回数が減ったかな?
それまでは、40分のサイクリングを1単位として、
週に5〜7単位を目標にしていました。
が、今は、週に3〜4単位程度。
「安全」を考えるなら、やはりこれからは家の中で
運動したほうがいいかもしれません。

2つ目は、毎週、舘山寺の温泉に通い始めたということ。
どこでも「日帰り入浴」というのを、させてくれます。
それを使って、あちこちの温泉巡りというわけです。

また3つ目は、バス旅行をやめ、講演先でホテルや旅館に
泊まるようにしたことです。
こうして月に2〜3回は、小旅行を楽しんでいます。

☆今年(2010年)もつづけたいことはいくつか、あります。
数年前から、週に1度は劇場で映画を観ることにしています。
これはボケ防止のためです。
シルバー料金というのがあって、いつも1000円(1人)で
観られます。
おまけに6回観ると、つぎの1回分はただ。
さらにポイントが6000点たまると、1か月のフリーパス
がもらえます。
それを使って、12月〜1月は、映画を見放題。
ハハハ。

09年に、68キロ前後から、60キロ前後まで減量しました。
体重の話です。
少し油断すると、すぐリバウンドしそうになります。
そのたびに、ダイエット+運動。
その繰り返し。
2010年中は、この体重をキープします。
つまりがんばります。

☆2009年には、いくつかのできごとがありました。
三男が結婚したこと。
実家を処分し、実家から解放されたこと。
ともに、バンザ〜イ!

☆ともあれ、何よりも大切なのは、家族と健康。
いつも夫婦喧嘩ばかりしていますが、それも今では
スパイス(調味料)のようなもの。
割り切って(?)、喧嘩しています。

おかげさまで、2009年は、みな、健康に恵まれました。
体重を減らしたおかげで、脚痛も、なくなりました。
今のところ成人病とは無縁。
がん検診も、ことごとく(?)、シロでした。
そんなわけで、たぶん、2010年も、無事生きていかれる
のではないかと思います。

☆あとは仕事ですね。
私のばあい、休みが1週間もつづいただけで、脳みそが休眠
状態になってしまいます。
2週間もつづいたら、サビてしまう?
もちろん体も……。
そんなわけで、退職、引退などというのは、まったく考えて
いません。
死ぬまで働く……。
それしかないというのが、今の結論です。

多くの人に支えられての1年間でした。
おかげで、2010年は、2009年より忙しくなりそうです。
「がんばります」というより、「がんばれ!」「がんばれ!」と、
自分にムチを打ちながら、今年も、前に向かって進みます。

                   (2010年・元旦)

Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●正岡子規

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正岡子規の『歌よみに与ふる書』を読む。
何となく子規ブームがやってきそうな気配。
それで、それを読む。

が、興味をもったのは、書の巻末にあった年譜。
それと『九月十四日の朝』。
正岡子規は、若年、満35歳(明治35年)で
この世を去っている。
明治35年に35歳!

生まれは、現在の松山市新玉町とある。
慶応3年生まれ。
まさに幕末+明治のはざまで生まれた人という
ことになる。

++++++++++++++++++

●「九月十四日の朝」

 正岡子規は、明治35年(1902年)の朝、病床で高浜虚子(たかはまきょし)
に、随筆を筆記してもらっている。
それが『九月十四の朝』。
『歌よみに与ふる書』の巻末に、おまけとして収録されていた。

「朝蚊帳(かや)の中で目が覚めた。尚半ば夢中であったがおいおいというて
人を起こした。……』と。

 正岡子規は、その5日後に亡くなっている。

●病弱

 正岡子規は、健康には恵まれなかった人のようだ。
有名な『かけはしの記』も、学年試験を放棄したあと、木曽路をたどった旅行記として
書かれている。
上野から出て、軽井沢、善光寺、松本を経て、馬籠(まごめ)から御嵩(みたけ)へ、と。
当時としては、たいへんな旅だったらしい。

 そのところどころに、俳句が散りばめてある。

『はらわたもひやつく木曽の清水かな』
『白雲や青葉若葉の三十里』
『撫し子や人には見えぬ笠のうち』など。

 あちこちに「五月雨(さみだれ)」という文字が読める。
5月に、木曽に入ったらしい。
「いい季節に、木曽路を旅したのだなア」と思う。
山は、ホトトギスが鳴く、5月ごろが、もっともすばらしい。
山は、本当に山らしくなる。
この浜松で言えば、5月の終わりごろ。
野イチゴが実をつけ、野生のジャスミンが咲き誇る。
当時の長野県は、もう少し寒かったかもしれない。
そんなことを考えながら、『かけはしの記』を読む。

●すごい人

 ついでに35歳という年齢で亡くなったことに、驚く。
現在という時代から見ると、35歳というのは、あまりにも若い。
また35歳前後までに、名を残すことができるような人は、そうはいない。
もの書きでは、もっと少ない。
改めて、正岡子規のものすごさに驚く。
……というか、当時は、そういう時代だったかもしれない。

 すべての娯楽が、文学に集中していた。
こういう言い方は失礼になるかもしれないが、一作、本を当てれば、
大金持ちになれた。
林芙美子を例にあげるまでもない。
林芙美子は、『放浪記』を書いて、貧乏のどん底から、大金持ちに変身した。

 それに今とは時代がちがった。
私は正岡子規の原稿集を手でもちながら、率直に、こう思った。
「量的には、私の1か月分の原稿にもならないのになあ」と。
私は毎月、原稿用紙にすれば、700〜800枚は書いている。

 もちろん私が書くのは、価値のない駄文。
言うなれば、ゴミ。
量が多いからといって、正岡子規とは、比較にならない。
それに当時は今と違って、作家たちは、一語一語に心血を注いだ。

 今はパソコン相手に、ピアノの鍵盤でも叩くかのようにして文を書く。
私がそうだ。
書いた文は、そのまま活字となって(?)、世界中に配信される。

 それにしても、35歳とは!
各地に、記念館まで残っている。

●イメージ

 で、正岡子規についていつも思うこと。
「正岡子規」という名前が、すばらしい。
格調高く、品がある。
いかにもそれらしい人物というイメージをもつ。
そう感ずるのは私だけかもしれないが、「さすが!」と思う。

 北原白秋にしても、雪舟にしてもそうだ。
雪印乳業にしても、そうだ。
(あまり関係ないかな?)

が、現実の正岡子規は、イメージとはだいぶちがうようだ。
俳優で言えば、ロック・ハドソン風の美男子を想像する。
が、写真で見るかぎり、どうもそうではなかったらしい。

 同じようなことが、あの室生犀星についても、言える。
私はいつだったか、写真を見るまで、やはりロック・ハドソン風の
美男子を想像していた。
が、写真を見て、絶句!
「まさか」と思って、何度も確かめた。
私がまだ金沢で学生だったころの話である。

 俳人や詩人と言われる人たちというのは、そういう人たちだったのかもしれない。
言葉の美しさと、風貌、つまり肉体が、完全に遊離している(失礼!)。

●正岡子規論

 で、肝心の『歌よみに与ふる書』のほうだが、私はあいにくと俳句が
あまりよくわからない。
「そういうものかなあ」という思いで、サラサラと読み流す。
ひとつ覚えていることと言えば、「くだもの(果物)」という言葉は、
「果物を食べると、腹がくだる」という意味から、「くだもの」と言うように
なったそうだ。
正岡子規は、「栗は果物かどうか」ということについても書いていたが、結論の
ところはよく覚えていない。

 俳句がすばらしいから、明治の文豪になったのだろう。
しかし文章そのものは、それほどうまくない(失礼!)。
読みづらく、まわりくどい。
それにたとえば『九月十四日の朝』もそうだが、まるで、70歳か80歳の
老人が書いているような文章。
つまり威張っている。
「35歳で、ここまで高姿勢な視点で、ものが書けるのかなア」と、むしろ
そちらのほうに驚いた。
「私は」と書くところを、「余は」と書いている。
きっと明治の人は、寿命が短かった分だけ、早熟だったのかもしれない。
 
 ……これ以上書くと、正岡子規のファンの人たちに、袋叩きにあうかもしれない。
そんなわけで、正岡子規についての話は、ここでおしまい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 正岡子規 九月十四日の朝 歌よみに与ふる書)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司※

●11月18日

++++++++++++++++++

揺れ動く。
揺れ動く心理。
その様(さま)は、思春期のそれに似ている。
強気になったり、弱気になったり……。
先日も叔母が他界した。
が、淡々とした気持ちで、それを受け入れることができた。
「悲しい」とか、「さみしい」とかいう気持ちは
なかった。
会ったのは、この30、40年間で、数度だけ。
それもあって、「順送りだな」と思った。

私の「上」で、傘のようになっている人が、1人、また
1人と亡くなっていく。
そういう人が、このところ、毎年のように多くなった。
で、その傘が消え、青い空が見えるようになったら、
つぎは私の番。

悲しんでいるひまはない。
さみしがっているひまはない。
さあ、今日も、急ごう!

++++++++++++++++++

●歩き方

 このところ老人たちの歩き方が気になる。
いろいろな人がいる。
脳梗塞か何かになって、体が不自由になった人は別として、老人には老人の
独特の歩き方がある。
どこかの大学の教授が、それについて詳しく研究したのを覚えている。
しかしそんな論文など、読む必要はない。

(1)ひざを曲げて歩く。(歩くとき、足が前に出ない。)
(2)前のめりにして歩く。(腰がうしろからついてくるような感じ。)
(3)足を開いて歩く。(がに股になる。)
(4)かかとをあげないで歩く。(地面に足をこすりつけるように歩く。)

 こういう歩き方を、「老人歩き」という。
中には、ひざが痛くて、独特の歩き方をする人もいる。
しかしたいていは、筋力が弱り、足腰が体重を支えきれず、そういう歩き方になる。

 そこで問題は、どうすれば、そういう歩き方をしないですむか、ということ。

●ウォーキング・マシン

 本当は、「ランニング・マシン」という。
しかし私の買ったのは、ウォーキング・マシン。
走行用にはできていない。
説明書にも、そう書いてある。
それに時速は、6キロが最高。

 そのウォーキング・マシンを使ってみて、気がついた点がいくつかある。
それについては前にも書いたので、ここでは、その先を書いてみたい。

 老人になればなるほど、つま先歩きから、足の裏全体を使って歩くようになる。
ペタペタという感じの歩き方になる。
そこであえて、つま先歩きをしてみる。
とたん、……というより、1〜2分で疲れてしまう。
自分では気がつかなかったが、私もいつの間にか、ペタペタ歩きになっていた。
これでは軽快な動きはできない。
ヨタヨタというか、モサモサという歩き方になる。

 で、つま先歩きの練習をする。
10分間の歩行のときは、最後の1〜2分、20分間の歩行のときは、最後の、2〜3
分を、つま先歩きにする。
(時間は、タイマーでセットできる。)
が、疲れるだけではない。
最初のころは、その翌日くらいに、太ももから、ふくらはぎにかけて、足が痛んだ。
つまりそれだけ、ペタペタ歩きになっていたということ。

 私もそうだったが、たいていの人は、老人歩きを見ても、「私はああならない」と
思うだろう。
しかし知らないうちに、私たちはみな、少しずつ、老人歩きをするようになる。

●ひざ

 昨日の夜も、温泉につかっていると、目の前を、75歳前後の老人が歩いていた。
裸だったから、筋肉の動きが、よく観察できた。
腰は軽くまがり、ひざは曲げたままの角度で歩いていた。
歩くというよりは、上半身を前に倒しながら、その勢いで足を動かしているといった
風だった。
ヨタヨタと。

 太もも(大腿筋)が、鳥のガラのように細いのも、気になった。

 その老人を見ながら、こう思った。
「早めに、ウォーキング・マシンで訓練したほうがいい」と。
まことにもって手前味噌で申し訳ないが、自分でウォーキング・マシンを使うように
なってから、そう思うことがしばしばある。
私も、もっと早い時期から使えばよかった!

 ただし無理をしてはいけない。
おととい、30分間、最高速度の6キロで歩いてみた。
最後はつま先歩き……というよりは、駆け足走行になった。
で、今日は朝から、右足のひざが痛い。
(おとといの夜、重いものを持ちあげたためかもしれないが……。)

 私の観察によれば、ひざというのは、一度痛めると、そのまま持病になりやすい。
とくに60歳を過ぎてからの運動には、注意を要する。

●老人

 歩き方だけではない。
ほかにもいろいろと観察している。
しゃべり方、顔の色やシワ、髪の毛、女性の化粧のし方などなど。
その中でもとくに気になるのは、思考力の深さ。

 もっともそれについて書くと、長くなってしまう。
が、最近は、ほんの10〜20分、話すだけで、その人の思考力の深さがわかる
ようになった。
「この人は深い」とか、「浅い」とか。

 60歳を過ぎると、思考力はどんどんと浅くなる。
知力が低下する。
「知力」というより、知力を維持するための緊張感が持続できなくなる。
が、それを自覚できる人は、私も含めて、いない。
この問題は、脳のCPU(中央演算装置)に関連している。

 ……とまあ、歩き方の話から、別の話になってしまった。
しかし「体(月)の要(かなめ)」と書いて、「腰」という。
歩き方を見れば、その人の肉体年齢がわかる。
逆に言うと、歩き方を訓練すれば、自分の肉体年齢を若くすることができる。

 何かあったときに、ヒョイヒョイと、身軽に椅子から立ちあがる。
スタスタと歩く。
パッパッと行動する。

若い人には何でもない行動かもしれないが、それができれば、それでよし。
そのとき、ヨイコラショと身を持ちあげ、ペタペタと前かがみになって
歩くようであれば、あなたの肉体はかなり老化しているということになる。

 何歳から……とは言えないが、あなたも50歳を過ぎたら、私のように
老人観察を始めたらよい。
老後の健康は、まずそこから始まる。
遅かれ早かれ、老後は確実にやってくる。
そうであるからこそ、健康はできるだけ引き伸ばして使う。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 老人観察 歩き方 歩行 老人の歩行)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(091119)

●他罰と自罰

+++++++++++++++++

罰(ばつ、バチ)には、2つある。
他罰と自罰。
私が考えた言葉である。

他人がその人に与える罰のことを、他罰。
自ら墓穴を掘っていく罰のことを、自罰。

+++++++++++++++++

●不幸な人

 世の中には「不幸な人」と呼ばれる人たちがいる。
どう不幸かということは、ここに書けない。
それに「不幸」といっても、それをどうとらえるかは、人それぞれ。
みな、ちがう。
同じような「不幸」をかかえながらも、明るく、さわやかに生きている人はいくらでも
いる。
一方、何でもないような問題をおおげさに考え、ギャーギャーと騒いでいる人もいる。

 「ここに生きている」ということを前提に考えれば、どんな不幸でも、不幸でなくなる。
つまり不幸かそうでないかは、ひとえに、その人の生き方の問題ということになる。

 そうした問題はあるが、現実に、「私は不幸」と、騒ぎたてる人は少なくない。

●ずるい人

 たとえばここに小ずるい人がいたとする。
一事が万事というか、何をするにもずるい。
ウソ、小細工は朝飯前。
言い逃れ、言い訳も、これまた朝飯前。
それが日常的になっているため、本人には、その意識すらない。

 そういう人は、そういう人にふさわしい運命をたどる。
いつの間にか、自分にふさわしい環境を、自分の周りに作る。
気がついたときには、「私は不幸だ」といった状態になる。

 実はこの私も、身近にそういう人がいて、その人に翻弄された。
で、そういう人を見たとき、私はひとつの選択にかられる。
「無視すべきか、闘うべきか」と。

 しかし無視するのが、最善。
「無視」といっても、「暖かい無視」。
その人の不幸を共有しながら、無視する。

本人にはその意識はないし、またそういう人を相手に、時間を無駄にしたくない。
エネルギーも無駄になる。

 それに、もしそこで私が闘えば、それは「他罰」ということになってしまう。
ともすれば他罰というのは、恨み、怒りにつながりやすい。
そういう後ろ向きな感情は、心と肉体の健康のためにも、よくない。

●墓穴

 一方、そういう人はそういう人で、自ら墓穴を掘っていく。
かわいそうとは思うが、私としては、なす術(すべ)もない。
本人は「不幸だ」「不幸だ」と言っているが、私から見れば、要するに(ないものねだり)。
自分の思い通りにいかないからといっては、それを逐一、自分の不幸につなげていく。
が、これではいつまでたっても、充足感は、得られない。

 子育ての世界でも、似たような経験をよくする。

 やっとC中学へ入れそうになると、親は、「B中学に……」と言いだす。
で、何とかB中学に入れそうになると、親は、今度は、「せめてA中学に……」と言いだす。

 あるいは子どもが不登校児になったとする。
1年とか2年とか、親にしてみれば、長くて暗いトンネルに入る。
で、その子どもが、やっと午前中だけでも登校ができるようになると、親は、「給食も……」
と言いだす。
で、何とか給食を食べるようになると、親は、今度は、「せめて終わりの時間まで……」と
言いだす。

 だからといって、C中学へ入ったり、子どもが不登校児になることを、「不幸なこと」と
書いているのではない。
ものの考え方は、視点をほんの少し変えるだけで、一変するということ。
B中学で何が悪い?
午前中だけの登校で、何が悪い?

が、視点を変えなければ、ここに書いたように、いつまでたっても、充足感は得られない。
しかしそれこそまさに、「自罰」ということになる。 

●不幸のとらえ方

 不幸をどう考えるか……そこにその人の人生観が集約される。
そこでひとつの考え方として、「他罰」「自罰」という言葉を考えた。
平たく言えば、賢明な人は、自罰を自罰として意識することができる。
自罰を、無力化することができる。

 自罰というのは、そういうもので、それを意識したとたん、そのまま霧散する。
が、どうすれば、自罰を自罰として、意識できるかということ。

 たとえば先にあげた、小ずるい人を考えてみる。
その人は、家庭問題、親子問題、夫婦問題、近隣問題、実家問題などなど、そのとき
どきに応じて、不平、不満ばかり言っている。
取り越し苦労を重ねては、その一方で、ささいなことでヌカ喜びを繰り返している。
手当たり次第に電話を入れては、ネチネチと愚痴を並べている。

 そういう人を遠くからながめながら、私はこう思う。
「その人がその人の自罰に気がつくことはあるのだろうか」と。
しかしこれは何も、その人の問題ではない。
私自身だって、自罰に気がついていない。
そういうことはある。

●私の自罰

 不幸と言えば、不幸かもしれない。
長男は、まだ未婚。
二男、三男は、会うこともままならないような遠くへ行ってしまった。
友人も少ない。
クリスマスも正月も、この10年、家族だけでささやかに祝っている。

 見る人が見れば、「あの林は、何とさみしい人生を送っていることか」と思うに
ちがいない。

 しかしそういったことは、「不幸」とは、思っていない。
けっして、強がりを言っているのではない。
一抹のさみしさはあるが、その(さみしさ)は、私のエゴと結びついている。
私の思うようにならないから、それを「さみしい」と言っているにすぎない。

たとえば私の母は、私がワイフと結婚したとき、親戚中に電話をかけ、「悔しい」と
言って泣いたという。
「浜松の嫁に、息子を取られたア!」と。

 ずっとあとになってそれを知ったとき、私は母の気持ちを理解できなかった。
母は、私の幸福よりも、自分の充足感を満たすことだけを考えていた(?)。
そういう経験があるから、私は、母のしたことの二の舞だけはしないと心に誓った。
その結果が「今」なのだから、私としては、文句を言えないはず。
「さみしい」などと言っている方が、おかしい。

 で、私は自分の人生を振り返ってみたとき、こう思う。
「もし息子たちがいなければ、私はああまでがんばらなかっただろう」と。
「それに、息子たちは、私に生きがいを与えてくれ、私を楽しませてくれた」と。
私は息子たちのために生きたのではない。
息子たちに生かされた!

●「生きている」

 要するに、不幸というのは、自罰に気がつかないまま、その自罰に振り回されることを
いう。
が、自罰に気がつけば、不幸はそのまま霧散する。
簡単に言えば、受け入れてしまうということ。
「まあ、私の人生はこんなもの」と、割り切ってしまう。
その瞬間、不幸は不幸でなくなってしまう。

 「不幸だ」「不幸だ」と思って、それが逃げようとすればするほど、不幸はますます
大きくなって、あなたに襲いかかってくる。
が、受け入れてしまえば、不幸は、向うからシッポを巻いて逃げて行く。

 それでも不幸がそこにあるようだったら、(生きている)という原点に自分を置いて
考えてみる。
そこに視点を置けば、そのままありとあらゆる問題は解決する。
「今、ここに生きている」という喜びまで押しつぶすほどの不幸は、ありえない。

私は生きている!
それにまさる価値はない。

●他罰

 ついでに他罰について。

 基本的には、私たちには、だれをも責める資格はないということ。
たとえその相手が、どんな人であっても、だ。
その相手というのは、私であり、私は、その相手と考えればよい。
 
それに他人に罰を与えるのは、やめたほうがよい。
考えるのも、やめたほうがよい。
どんなことがあっても、その人の不幸を願ったり、笑ったりしてはいけない。
願ったり、笑ったりすれば、それはそのまま私たちに返ってくる。
「ああ、私でなくてよかった」と思うのもいけない。
その人が、それを不幸だと思っているなら、あなたはあなたで、その人の立場で、
それを共有してやればよい。

 説教したり、自分の考えを押しつけるのも、やめたほうがよい。
その人はその人。
そっと静かにしておいてやる。
もちろん相手から助けを求めてきたときは、別。
そのときは、相談に乗ってやればよい。
それを私は「暖かい無視」と呼んでいる。

(この言葉は、もともとは、ある野生動物保護団体が使っていたものである。
それを拝借させてもらっている。)

●ついでに……

 40歳になると、その人の将来が見えてくる。
50歳になると、その人の結論が見えてくる。
60歳になると、その人の結論が出てくる。
その「結論」を決めるのが、他罰、自罰ということになる。

 私たちは常に、他人に罰せられながら生きている。
同時に、自らを罰しながら生きている。
それが積もり積もって、その人の「結論」となっていく。

 で、ついでに私は私の人生を振り返ってみる。
……といっても、今あるのは、「今」だけ。
過去など、どこにもない。
未来も、ない。
あるのは「今」だけ。
この「今」が、今まで生きてきた私の結論ということになる。

 大切なことは、つぎの「今」に向かって、前向きに生きるということ。
常に、つぎの「今」に向かって、懸命に生きるということ。
そのつど結論は、あとからついてくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 自罰 他罰 自罰論 他罰論 バチ論)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

【反抗期の子ども】

●思春期前夜

++++++++++++++++++

目の前に、2人の小学生がいる。
2人とも、小学4年生。
伸びやかに育っている。
言いたい放題のことを言い、
したい放題のことをしている。
恵まれた子どもたちである。
頭はよい。
作業も早い。

子どもは、小学3年生ごろを境にして、
思春期前夜へと入る。

今日はワークブックの日。
2人も、黙々と、自分のワークブックに
取り組んでいる。
私はこうしてパソコンを相手に、パチパチと
文章を書いている。

このところ新型インフルエンザの流行で、
ほかの子どもたちは、外出禁止。
そのため、今日の生徒は2人だけ。

が、この時期の子どもは、どこかピリピリして
いる。
それだけ精神が緊張していることを示す。

(緊張)と(弛緩)。
それがこの時期の子どもの、精神状態の特徴
ということになる。

++++++++++++++++++

●揺り戻し

この時期の子どもは、あるときは(おとな)に
なり、また別のときは(幼児)になる。
精神的に不安定になる。
私はこの幼児ぽくなる現象を、勝手に、「揺り戻し現象」
とか、「揺り戻し」とか、呼んでいる。

(先日、書店で、ある「子育て本」を読んでいたら、
同じことが書いてあったのには、驚いた。
こうした揺り戻しについて書いたのは、私が最初で、
また私以外に、それについて書いた人を、私は知らない。
著者はどこかのドクターだったが、そのドクターは、
どこでそういう情報を手に入れたのだろう?
余計なことだが……。)

この時期にさしかかるころ、その揺り戻しの振幅が大きくなる。
たとえば、幼児的な扱いをすると不機嫌になる。
が、そうかと思っていると、反対に、自から幼稚ぽくなったりする、など。
が、幼児でもない。
ふとしたきっかけで、生意気な態度をとったりする。
ふてくされたり、キレたりする。
あるときは、幼児に、またあるときはおとなに……。
その振幅の幅が、大きくなる。

が、年齢とともに、やがて振幅は小さくなる。
幼児ぽくなることが少なくなり、やがて思春期へと入っていく。
(独特のあのピリピリとした緊張感は、そのまま残るが……。)

親の側からすると、幼児に扱ってよいのか、
あるいはおとなとして接したらよいのか、わかりにくくなる。
それがこの時期の子どもの特徴ということになる。

●幼児とおとなのはざまで……

 2人の小学生には、その揺り戻しが顕著に現れている。
「典型的な症状だ」と、先ほども、ふと思った。
その特徴を箇条書きにしてみる。

(幼児の部分)(緊張感が弛緩しているとき)
○プロレスごっこや鬼ごっこをしてやると、ネコの子のようにじゃれたり、
笑って喜んだりする。
○機嫌がいいときには、幼稚っぽいしぐさとともに、おとなに甘えたり、
体をすり寄せてきたりする。

(おとなの部分)(心が緊張状態にあるとき)
○何かのことで注意したり、まちがいを指摘したりすると、露骨にそれを
嫌い、不機嫌な態度に変わる。
○おとなとして扱うことを求め、(子どもぽい)遊びなどをすることについて、
敏感に反応し、拒絶したりする。

 が、全体としてみると、1時間の間だけでも、つねに(緊張)と(弛緩)を
繰り返しているのがわかる。

●情緒不安

 よく誤解されるが、情緒が不安定になるから、「情緒不安」というのではない。
精神の緊張状態がとれないから、「情緒不安」という。
精神が緊張している状態へ、不安感や心配ごとが入ると、それを解消
しようとして、精神状態は、一気に、不安定になる。
不機嫌になったり、反対に、カッと怒り出したりする。

つまり「情緒不安」というのは、あくまでもその結果でしかない。
また緊張した状態が、「ピリピリした状態」ということになる。

 そのことは、それだけ触覚が、四方八方に伸びていることを示す。
何を見ても気になる。
こまかいところを見る。
ささいなことを気にする。
そのため、それまで気がつかなかったことについても、気がつくようになる。
そのターゲットになるのが、父親であり、母親ということになる。
学校では、教師ということになる。

●血統空想

 ところであのフロイトは、「血統空想」という言葉を使った。
自分の母親を疑う子どもはいないが、父親を疑う子どもは多い。
「ぼくの(私の)本当の父親は、別にいるはず」と。

 それまでは絶対と思っていた父親や母親が、絶対でないことに気づく。
完ぺきでないことに気づく。
幼児のある時期には、子どもは、「この世のすべてのものは、親によって
作られたもの」と思い込む。
それが思春期前夜に入ると、その幻想が、急速に崩れ始める。

 そこで子どもは、自分がもっている父親像は母親像の修正にとりかかる。

●無謬性

 「親だから、こうであるべき」「こうあってほしい」という(期待)。
つまり親に無謬性(むびゅうせい:一点のミスも欠点もないこと)を求める。
が、その一方で、親が本来的にもつ欠陥にも、気づき始める。
それはそのまま、(怒り)となって子どもを襲う。

子どもは、(期待)と(怒り)の間で、混乱する。

 ある女性(60歳)は、自分の母親(90歳)が、車の中で小便を漏らした
だけで、混乱状態になってしまったという。
それでその母を、強く叱ったという。
その女性にしてみれば、「母親というのは、そういうことをしないもの」と
思い込んでいたようだ。
つまり(小便を漏らす)という行為そのものが、自分が抱く母親像と矛盾して
しまった。
それが(混乱)という精神状態につながった。

 このタイプの女性はかなりマザコンタイプの人の話と考えてよい。
自分の中の混乱を、怒りとして、母親にぶつけていただけということになる。
つまり似たような現象が、思春期前夜の子どもに起こる。

●血統空想

 フロイトが説いた「血統空想」も、似たような現象と考えてよい。
子どもは、完ぺきな父親を期待する。
しかし現実の父親は、その完ぺきさとは、ほど遠い。
頼りがいがなく、だらしない。
不完全さばかりが、気になる。

 そこで子どもは葛藤する。
「父親というのは、完ぺきであるべき」という思いと、現実の父親の受容との
はざまで、もがく。
それがときとして、「ひょっとしたら、あの父親は、ぼくの(私の)本当の
父親ではないかもしれない」という思いにつながる。
それが「血統空想」ということになる。

 このことは生徒としての子どもを見ていても、わかる。
「教えてやろうか」と声をかけると、「いらない!」と言って、それに反発する。
が、その一方で、親には、「あの林(=私)は、教え方がへた」とか言って、
不満を述べたりする。
簡単な問題だから、私が「自分で考えてごらん」と言っても、怒り出す。
ふてくされる。
が、教えてやろうと身を乗り出すと、「ウッセー!」と言って、怒り出す。
目の前の2人の子どもたちも、そうだ。

 私の中に完ぺきさを求めつつ、完ぺきでない私を知ることで、混乱する。
それに反発する。
「反抗期」というのは、それをいう。

そうした子どもの心理が、手に取るように私にはよくわかる。

●親を拒否する子どもたち
 
 言うなればこの時期は、つづく思春期と合わせて、嵐のようなもの。
子どもの立場で考えてみよう。

それまでは親の言うことに従っていれば、それですんだ。
親が、自分の進むべき道を示してくれた。

 が、その親がアテにならなくなる。
親の職業を、客観的に評価するようになる。
そのため、ますます親がアテにならなくなる。

 幼児のころは、「おとなになったら、パパ(ママ)のような人になりたい」
と思っていた子どもでも、この時期になると、「いやだ」と言い出す。
中学生でも、「将来、父親(母親)のようになりたくない」と考えている子どもは、
60%〜80%はいる※1。
いろいろな調査結果でも、同じような数字が並ぶ。

●自己の同一性

 この思春期前夜の「混乱」を通して、子どもは、自分のあるべき(顔)を模索する。
そしてそれがやがて、自己の同一性の確立へと、つながっていく。
「私はこうあるべきだ」というのが、(自己概念)。
が、現実の自分がそこにいる。
その現実の自分を、(現実自己)という。

 これら両者が一致した状態を、「自己の同一性」(アイデンティティ)という。
子どもというより、思春期における青少年にとって、最大の関門といえば、
自己の同一性の確立ということになる※2。

 それが確立できれば、それでよし。
そうでなければ、混乱した状態は長くつづく。
30歳を過ぎても、「私さがし」をしている青年は、いくらでもいる。

●動じない

 話を戻す。

 2人の子どもは、相変わらず、黙々と自分に与えられた作業をこなしている。
どこかピリピリしている。
が、そこは暖かい無視。
私の度量を試すような行動も、みられる。
わざと怒らせようとする。
しかし私は動じない。

 生意気な態度。
ぞんざいな言葉。
投げやりな姿勢。
ふてくされた顔。
しかしその間に見せる、あどけない表情。
それがこの時期の子どもの特徴ということになる。

 重要なことは、けっして子どものパースに巻き込まれてはいけないということ。
この時期の子どもは、ギリギリのところまでする。
ギリギリのところまでしながら、その一線を越えることはない。
叱ったり、怒ったりしたら、こちらの負け。
言うべきことは言いながら、あとは暖かい無視で子どもを包む。
 
 嵐はいつまでもつづくわけではない。
やがて収まる。
そのころには、この子どもたちも、立派な青年になっているはず。
2人の子どもの横顔を見ながら、そんなことを考えた。

●補記

 反抗期に反抗期特有の症状を示さないまま、思春期を過ぎた子どもほど、
あとあといろいろな心の問題を起こすことがわかっている。
とくに親が権威主義的で、威圧的だと、子どもは反抗らしい反抗もしないまま、
思春期を過ぎる。
それから生まれる不平、不満、不完全燃焼感は、心の別室に抑圧され、時期をみて、
爆発する。
「こんなオレにしたのは、テメエだろオ!」と。

 「抑圧感」が大きければ大きいほど、爆発力も大きくなる。
(あるいはそのまま一生、爆発することもなく、なよなよした人生を送る子どもも
少なくない。)

 ちょうど昆虫がそのつど殻を脱皮して、成長するように、人間の子どももまた、
そのつど成長の殻を脱皮しながら、成長する。
殻を脱ぐときには脱ぐ。
脱がせるときは、脱がせる。

 そういうことも頭に入れて、子どもは、一歩退いたところから見守る。
それが「暖かい無視」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 思春期前夜 はやし浩司 思春期 思春期の子供 思春期前夜の子供 揺り戻し
 揺り戻し現象 揺りもどし ゆり戻し ゆりもどし)

(注※1)子どもたちの父親像

 今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は、55%もいる。
「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は、79%もいる
(「青少年白書」平成10年)。

(注※2)エリクソンの心理発達段階論

エリクソンは、心理社会発達段階について、幼児期から少年期までを、つぎのように
区分した。

(1) 乳児期(信頼関係の構築)
(2) 幼児期前期(自律性の構築)
(3) 幼児期後期(自主性の構築)
(4) 児童期(勤勉性の構築)
(5) 青年期(同一性の確立)
(参考:大村政男「心理学」ナツメ社)

+++++++++++++++++

以下、09年4月に書いた原稿より……

+++++++++++++++++

●子どもの心理発達段階

それぞれの時期に、それぞれの心理社会の構築に失敗すると、
たとえば子どもは、信頼関係の構築に失敗したり(乳児期)、
善悪の判断にうとくなったりする(幼児期前期)。
さらに自主性の構築に失敗すれば、服従的になったり、依存的に
なったりする(幼児期後期)。

実際、これらの心理的発達は4歳前後までに完成されていて、
逆に言うと、4歳前後までの育児が、いかに重要なものであるかが、
これによってわかる。

たとえば「信頼関係」にしても、この時期に構築された信頼関係が
「基本的信頼関係」となって、その後の子ども(=人間)の生き様、
考え方に、大きな影響を与える。
わかりやすく言えば、基本的信頼関係の構築がしっかりできた子ども
(=人間)は、だれに対しても心の開ける子ども(=人間)になり、
そうでなければそうでない。
しかも一度、この時期に信頼関係の構築に失敗すると、その後の修復が、
たいへん難しい。
実際には、不可能と言ってもよい。

自律性や自主性についても、同じようなことが言える。

●無知

しかし世の中には、無知な人も多い。
私が「人間の心の大半は、乳幼児期に形成されます」と言ったときのこと。
その男性(40歳くらい)は、はき捨てるように、こう反論した。
「そんなバカなことがありますか。人間はおとなになってから成長するものです」と。

ほとんどの人は、そう考えている。
それが世間の常識にもなっている。
しかしその男性は、近所でも評判のケチだった。
それに「ためこみ屋」で、部屋という部屋には、モノがぎっしりと詰まっていた。
フロイト説に従えば、2〜4歳期の「肛門期」に、何らかの問題があったとみる。

が、恐らくその男性は、「私は私」「自分で考えてそのように行動している」と
思い込んでいるのだろう。
が、実際には、乳幼児期の亡霊に振り回されているにすぎない。
つまりそれに気づくかどうかは、「知識」による。
その知識のない人は、「そんなバカなことがありますか」と言ってはき捨てる。

●心の開けない子ども

さらにこんな例もある。

ある男性は、子どものころから、「愛想のいい子ども」と評されていた。
「明るく、朗らかな子ども」と。
しかしそれは仮面。
その男性は、集団の中にいると、それだけで息が詰まってしまった。
で、家に帰ると、その反動から、疲労感がどっと襲った。

こういうタイプの人は、多い。
集団の中に入ると、かぶらなくてもよい仮面をかぶってしまい、別の
人間を演じてしまう。
自分自身を、すなおな形でさらけ出すことができない。
さらけ出すことに、恐怖感すら覚える。
(実際には、さらけ出さないから、恐怖感を覚えることはないが……。)
いわゆる基本的信頼関係の構築に失敗した人は、そうなる。
心の開けない人になる。

が、その原因はといえば、乳児期における母子関係の不全にある。
信頼関係は、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)の上に、
成り立つ。
「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味。
「私は何をしても許される」という安心感。
親の側からすれば、「子どもが何をしても許す」という包容力。
この両者があいまって、その間に信頼関係が構築される。

●自律性と自主性

子どもの自律性や自主性をはばむ最大の要因はといえば、親の過干渉と過関心が
あげられる。
「自律」というのは、「自らを律する」という意味である。
たとえば、この自律性の構築に失敗すると、子どもは、いわゆる常識はずれな
言動をしやすくなる。

言ってよいことと悪いことに判断ができない。
してよいことと、悪いことの判断ができない、など。

近所の男性(おとな)に向かって、「おじちゃんの鼻の穴は大きいね」と
言った年長児(男児)がいた。
友だちの誕生日に、バッタの死骸を詰めた箱を送った小学生(小3・男児)が
いた。
そういう言動をしながらも、それを「おもしろいこと」という範囲で片づけて
しまう。

また、自主性の構築に失敗すると、服従的になったり、依存的になったりする。
ひとりで遊ぶことができない。
あるいはひとりにしておくと、「退屈」「つまらない」という言葉を連発する。
これに対して、自主性のある子どもは、ひとりで遊ばせても、身の回りから
つぎつぎと新しい遊びを発見したり、発明したりする。

●児童期と青年期

児童期には、勤勉性の確立、さらに青年期には、同一性の確立へと進んでいく
(エリクソン)。

勤勉性と同一性の確立については、エリクソンは、別個のものと考えているようだが、
実際には、両者の間には、連続性がある。
子どもは自分のしたいことを発見し、それを夢中になって繰り返す。
それを勤勉性といい、その(したいこと)と、(していること)を一致させながら、
自我の同一性を確立する。

自我の同一性の確立している子どもは、強い。
どっしりとした落ち着きがある。
誘惑に対しても、強い抵抗力を示す。
が、そうでない子どもは、いわゆる「宙ぶらりん」の状態になる。
心理的にも、たいへん不安定となる。
その結果として、つまりその代償的行動として、さまざまな特異な行動をとる
ことが知られている。

たとえば(1)攻撃型(突っ張る、暴力、非行)、(2)同情型(わざと弱々しい
自分を演じて、みなの同情をひく)、(3)依存型(だれかに依存する)、(4)服従型
(集団の中で子分として地位を確立する、非行補助)など。
もちろんここにも書いたように、誘惑にも弱くなる。
「タバコを吸ってみないか?」と声をかけられると、「うん」と言って、それに従って
しまう。
断ることによって仲間はずれにされるよりは、そのほうがよいと考えてしまう。

こうした傾向は、青年期までに一度身につくと、それ以後、修正されたり、訂正されたり
ということは、まず、ない。
その知識がないなら、なおさらで、その状態は、それこそ死ぬまでつづく。

●幼児と老人

私は母の介護をするようになってはじめて、老人の世界を知った。
が、それまでまったくの無知というわけではなかった。
私自身も祖父母と同居家庭で、生まれ育っている。
しかし老人を、「老人」としてまとめて見ることができるようになったのは、
やはり母の介護をするようになってからである。

センターへ見舞いに行くたびに、あの特殊な世界を、別の目で冷静に観察
することができた。
これは私にとって、大きな収穫だった。
つまりそれまでは、幼児の世界をいつも、過ぎ去りし昔の一部として、
「上」から見ていた。
また私にとっての「幼児」は、青年期を迎えると同時に、終わった。

しかし今度は、「老人」を「下」から見るようになった。
そして自分というものを、その老人につなげることによって、そこに自分の
未来像を見ることができるようになった。
と、同時に、「幼児」から「老人」まで、一本の線でつなぐことができるようになった。

その結果だが、結局は、老人といっても、幼児期の延長線上にある。
さらに言えば、まさに『三つ子の魂、百まで』。
それを知ることができた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 エリクソンの心理発達段階論 (1) 乳児期(信頼関係の構築)
(2) 幼児期前期(自律性の構築) (3) 幼児期後期(自主性の構築) (4) 児童
期(勤勉性の構築)(5) 青年期(同一性の確立))


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司

●11月20日

数日前、重いテレビを持ちあげた。
ブラウン管方式の32インチのテレビ。
バカなことをした。

 重量は軽く100キロ近くはある。
おとな3人でも、運べない。
おかげで右のひざを少し傷めた。
軽い鈍痛がつづく。

 このまま症状が収まればよいが、
持病になったら、たいへん!
母は、まずひざを傷めた。
それでやがて、歩けなくなった。

 幸い自転車に乗るのは、何ともない。
ひざに体重がかからない。
これからしばらくは、自転車による
運動が中心になりそう。

●民主党にもの申す

 民主党にとってOZ氏(どういう役職になっているか、私は知らない。
が、実質的に、民主党の支配者)は、最重要の人物かもしれない。
しかしそのOZ氏が、民主党のイメージをいかに悪くしているか、
それを一度、庶民(選挙民)の立場で、ながめなおしてみてほしい。

 数日前も、OZ氏に関して、1億円の裏金問題が、発覚した。
OZ氏のコメントは、まだ読んでないが、「いかにも、そういうことをしそうな人物」と
いう点で、OZ氏のイメージは、たいへん悪い。
あのOZ氏を見て、誠実な人、あるいは正直な人というイメージをもつ人は、まずいない。

 「OZ氏は民主党の生みの親」という気持ちは、よく理解できる。
しかし私たち選挙民は、OZ氏という個人を支持しているわけではない。
「民主党」という「党」を支持している。
つまりこの瞬間から、民主党は民主党として、党全体のあり方を考えなければならない。

 OZ氏が、いつまでも親風を吹かしていると、民主党は、再び野党に転落する。
このところHT内閣の支持率が、ジリジリとさがってきている。
数日前には、何かの報道機関で、50%という数字が出てきた。
OZ氏の裏金問題が発覚する前の数字だから、今は、もっとさがっているかもしれない。


●6か国協議

 K国は核兵器を放棄しない。
現在の体制がつづくかぎり、放棄しない。
核兵器そのものが、独裁政権というカルトの中で、本尊化している。
西洋人には理解しがたいことかもしれない。
この日本でも、『イワシの頭も信心から』と言う。

 ひとりノー天気なのは、フランス。
あれこれ外交官を送りこみながら、かつてのC・ヒル国務次官補と同じことをしようと
している。
オバマ大統領にしても、あれほどブッシュ政権を批判しておきながら、やっていることは、
ブッシュ政権時代のそれと同じ。

 ここまできたら……というより、今さら手遅れだが、K国の政権転覆を考えるしか、
解決方法はない。
今までにも、チャンスは何度かあった。
そういうチャンスを、アメリカや韓国のみならず、この日本も見逃してしまった。
その(結果)が今である。

(1990年の終わりごろ、K国は一度、崩壊の危機に陥った。
金xxも本気で中国北部への亡命を考えていた。
そのときあろうことか、120万トンのコメを送ってK国を救済したのが、
当時の日本のKN外務大臣である。
「これでK国が動かなかったら、責任を取る」と大見えを切ったが、結局、K国は
動かなかった。
KN氏がそのあと責任を取ったという形跡も、まったくない。)

 結局、オバマ大統領も同じことを繰り返しながら、K国に時間を与えるだけ。
この先日本は、現在の体制がつづくかぎり、K国の核兵器にビクビクしながら生きていく。
そういう前提で、これからの外交政策を考えるしかない。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司※

●大失態

+++++++++++++++++

この1か月半の間、教室への問い合わせや、
仕事の依頼が、パタリと止まってしまった。
「?」とは思っていたが、それほど気にして
いなかった。
……というか、気がつかなかった。

+++++++++++++++++

そこで昨日、たまたま自分から自分宛てに、メールを送信してみた。

送信はたしかにできる。
送信済みトレイに、メールは残る。
しかし肝心のメールがはね返ってこない。

ギョッ!

「?」と思いつつ、プロバイダーに連絡をとる。
が、「どこにも問題がありません」と。

原因はわからない。
相談にのってくれた女性は、「サーバーから 削除されているようですね」と。

メールだけではない。
ためしにフォームを使って、自分から自分宛に、仕事の依頼を書いてみた。

「フォーム」というのは、様式をこちらが定めて、そこへ相手に必要事項を
書いて送ってもらうというもの。
迷惑メールや、ウィルスを仕込んだメールを 排除するために、私は、それを
使っている。

それも戻ってこない。
つまり私宛のフォームも、私に届く前に、
どこかで削除されてしまう。
「?」。
そんなはずはない。

「???」と思いながら、あちこちをいじる。
が、どこもおかしくない。

ビスタ(OS)では、(新規メール作成)のすぐ上に、
(迷惑メール)設定のタグが並んでいる。
ときどき まちがえて クリックしてしまうことがある。
原因は、どうやらそのあたりにあるらしい。
(確かではないが……。)

で、昨夜は夜中の1時過ぎまで、パソコンと格闘。
ハラハラしながらの作業さった。

それにしても大失態。
この1か月半に、フォームを使って メールをくれた人もいるだろう。
ひょっとしたら、教室への問い合わせや、仕事の依頼も あったかもしれない。
そういう人のフォームは、どこかへ消えてしまった。
その可能性は大きい。
申し訳ないことをした。
と、同時に、インターネットの恐ろしさを、今一度、思い知らされた。

 ……で、こんな経験を思い出した。

 その飲食店は、雑居ビルの2階にある。
しかしある日の午後、客足が パタリと止まってしまった。
いつもなら客でにぎわう夕食時になっても、客はゼロ。
私の行きつけの店だった。
恐る恐るその店に入り、私が「あの〜、営業していますか?」と聞くと、「はい、
してます」と。

 階段の入口に、「準備中」の看板が 立てられていた。
だれかがいたずらで、「営業中」から「準備中」へと、看板をひっくり返したらしい。

 「悪いことをする人もいるもんだ!」と、店の主人は 怒っていたが、今回の
私の大失態は、その話と、どこか似ている。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司

●変わる 文章の書き方

 明治、大正時代に出版された本を見ると、(読むのではなく、見ると)、
文字が ぎっしりと 詰まっているのがわかる。

 昭和のはじめに書かれた本にしても、そうだ。

 が、最近の本は 余白をたっぷりと とってある。
行間も広くなった。
文字数も 少ない。
大きなイラストが、散りばめてあるのも多い。

 それを見ると、この20年の間に、本の作り方にしても 大きく変化したことが
わかる。
さらにここ10年、とくにインターネットを中心として、本の体裁だけではなく、
文章の書き方も さらに大きく、変わってきた。

 文字を書くとき、「もったいない」という意識が 消えた。
以前は、余白が大きければ大きいほど、「紙がもったいない」と思った。
だから本を書くときも、一行を、40文字にするか、42文字にするかで、悩んだ。
40字にすると、読みやすい。
しかしその分だけ文字数が少なくなる。
42字にすると、感じがぐんと変わってくる。
行数にしても、1頁、15行にするか、17行にするかで、感じがぐんと変わってくる。

そのことで、出版社と、もめたこともある。
が、そういう意識が 消えた。

 たとえば今、私はこの文章を書いている。
一文ずつ、一行に書くようにしている。
つぎの文を書くときは、改行する。

 こんな書き方は、30〜40年前には 考えられなかった。
当時は「もったいない」ということを、まず考えた。
が、今は、それを考えなくなった。
「読みやすくしよう」という意識が先に立つようになった。

(それでも意識というのは、おもしろいもので、こういう書き方をしていると、
今でも心のどこかで、もったいないと思う。)

 ネットの世界では、当然のことながら 紙を使わない。
だからいくら余白を大きくしても、どうということはない。
それが文章の書き方にも、大きく影響し始めている。

 この先、もっと余白は大きくなるだろう。
文と文の間が、スカスカになるだろう。
文そのものも、短くなるだろう。
英語のように、言葉と言葉の間に 空白を入れるという方法も一般化するかもしれない。
幼児向けの本では そういう手法を用いる。
「、」を入れるよりは、ずっと読みやすくなる。

 今、ここに書いたことをもとにして、このエッセーを書いてみた。
みなさんは、この文章を読んで、どんな印象をもっただろうか。

 これからは しばらく この手法で、文章を書いてみたい。
読みやすさを、自分なりに 追求してみたい。

(補記)

 同じようなことは、デジタルカメラを 使うようになったときも経験している。
フィルムは使わないのだから、「損」という感覚は おかしい。
が、シャッターを 押すごとに、「もったいない」と感じた。

 今回も、そうだ。
こうしてスカスカの文章を 書いていると、どうも気になる。
「これでいいのかな」と迷う。
私としては、文と文が、しっかりと詰まっている文章のほうが、文章らしく見える。
重みもある。

 しかしこれも時代の流れ。
この先、紙を使った本は、どうあがいても消える。
そのとき文章は、その時代の書き方で書かれるようになる。
日本語について言えば、

(1)漢字が、少なくなる。
(2)一文一文が短くなる。
(3)スカスカになる。
(4)文字と図形(写真)が混在するようになる。 

 100年後の人たちが、私が書いた文章をどう思うだろうか。
今、私は明治時代の人たちの書いた文章を読んでみる。
「読みづらい」と思う。
同じように、100年後の人たちは、どうだろうか。
私のこの文章を読んで、「読みづらい」と 思うだろうか。

 もっともそのころまで、私の書いた文章は残っていないだろうが……。

 言い忘れたが、こうして電子の世界で書いた文章は、「形」がないだけ、
消えるのも早い。
電源を落とせば、それですべてが消える。
本というのは、燃えても、カスが残る。
しかし電子の世界で書いた文章は、そのカスさえ残らない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 インターネット時代の文章 新しい文章 新しい文章の書き方)


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司v
 
●映画『2012年』

 昨夜遅く、映画『2012年』を観てきた。
午後9時20分始まりの、まさに深夜映画。
終わって劇場内の時計を見たら、午前0時を
10分ほど、回っていた。

2時間50分?
長い映画だった。
プラス、ものすごい映画だった。

星は4つの、★★★★。

 破壊シーンが、ものすごかった。
そればかりが目立った。
それで星を1つ、減らした。
まさに究極の破壊映画。

まあ、何と言うか……。
「ここまでやるか!」というような、映画だった。

 で、いくつか矛盾も ないわけではない。
たとえば映画に中では、現代版ノアの箱舟が 登場する。
世界中が水没する。
一部の人たちは、その箱舟に乗って、難を逃れる。
が、あの形では、押し寄せる水の圧力には、耐えられない。

 私なら、箱舟を 球形にする。
構造を3層構造くらいにして、衝撃に耐えられるようにする。
(映画の中では、長細い宇宙船のような形をしていた。)

そしてそれを一度、山頂に固定する。
海の底に沈み、海面が静かになったあと、留め具を解除して、
海面に浮上する。

 最後は 隆起したアフリカ大陸を めざすという設定になっている。
(最後のオチを話してしまって、ごめん!)
しかしどうせ隆起させるなら、太平洋の中央に、別の大陸を隆起させればよい。
新アトランチス大陸という設定も、おもしろい。

 最大の矛盾は、地熱の急上昇。
太陽風の影響を受けて、地熱が急上昇する。
マグマの対流が 激しくなる。
それによって、地殻が不安定になる。
世界各地で、想像を絶する 地震が起こる。
世界中の大陸が 海の底に沈む。

 こうした流れが 映画の(柱)になっている。
が、それによる地球温暖化は、どうなるのか。
映画の中では、地熱は急速に 冷却することになっている。
が、そういうことは ありえない。
その前に、海水は水蒸気化し、厚い雲を作るはず。
そうなれば温暖化は一気に進む。

 映画の中では、最後にみな、青い空を見ることになっている。
しかしそういうことは、ありえない。
厚い雲は日光をさえぎり、真昼でも 真夜中のようになる。

 つまりそうした科学性のなさが、あの映画の欠陥。
すごい映画だが、それは破壊シーンだけ。
それが繰り返し、つづく。
これでもか、これでもかと つづく。

 そんなことも考えながら、あの映画を観ると、楽しいのでは……?
つまり アラさがし。

(あるいは、かえってみなさんの期待を つぶしてしまったかな?
もし そうなら、ごめん!)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●ヒマ(暇)論

++++++++++++++++++

「どうやって1日を 過ごそうか?」
……それを考えるのも、苦痛。
ヒマなときというのは、そういうもの。
もちろんヒマであることも、苦痛。

こういうのを ぜいたくな 悩みという。
しかし 世の中には、そういう
恵まれた人(?)も いる。

「毎日、ヒマでヒマで、どうしようもない」と。

++++++++++++++++++

●「ヒマでヒマで……」

 M氏は、今年65歳になる。
息子と娘がいたが、今は 2人とも、遠くに住んでいる。
私はどこか知らないが、M氏は、そう言った。

 公務員を退職し、つい数か月前まで、郊外の公共施設で 働いていた。
週3日だけの 勤務だった。
が、そこも退職。
今は、悠々自適の隠居生活。
親の代からの 財産も ある。
そのM氏が、こう言った。

 「毎日、ヒマでヒマで、どうしようもない」と。
「朝起きて考えること言えば、今日、1日を どうやって 過ごそうかということです」と。

●気がヘンになる

 M氏は、こう言った。
「日中は まだ何とかなります。
草を買ったり、バイクを直したりします。
問題は、夕食後です。
昨夜も、2時間も 音楽を聴いて、ぼんやりとしていました」と。

 で、私にこう聞いた。
「林さんは、どうしていますか?」と。

 たまたまその前日、私は友人への クリスマス・カードを 作っていた。
今年は、手作りカードに 挑戦している。
色紙に 写真や絵を張りつけ、それを 本のように仕立てる。

「ぼくもねエ、ヒマだと気がヘンになってしまいます。
だからいつも 何かをしています」と。

●生きがい

 M氏には話さなかったが、私のヒマつぶしといえば、インターネット。
ヒマなときは、まずパソコンに 電源を入れる。
とたん、したいこと、すべきことが、ドカッと、目の前に広がる。
趣味でもある。
道楽でもある。
が、それ以上に、今は、それが生きがいになっている。

 文章を書くために、本や雑誌を読んだりする。
マガジンを発行するために、写真を撮ったりする。
HPの更新も、そのつど しなければならない。

 やりたいこと、やるべきことが、あまりにも多い。
ヒマだとか、そんなことを言っている ヒマもない。
が、時として、ヒマになることがある。

●貧乏症

 私のばあいは、軽いパニック障害がある。
少し前までは、「不安神経症」と言った。
簡単に言えば、「貧乏症」。
いつも何かに 追い立てられているような感じがする。
乳幼児期の 不全な家庭環境が、原因と考えている。

 だからヒマであること自体が、苦痛。
何かをしていないと、気がすまない。
いつも、何かを している。

 そういう私の反対側にいるのが、無気力な人。
燃え尽き症候群とか、荷降ろし症候群とかいう。
私の年代には、「空の巣症候群」というのも ある。
子育ても終わり、子どもたちが巣立ってしまうと、とたんに 無気力状態になる。

 が、M氏のばあいは、少しちがうようだ。
「やりたいことは あるはずなのに、それが わからない」と。

●自己の統合性

 青年期には、「自己の同一性」という問題がある。
同じように、退職後には、「自己の統合性」という問題がある。
(やるべきこと)をもち、現実に、(それをする)。
これを「統合性」という。

 この構築に失敗すると、老後は、あわれで みじめなものになる。
M氏が そうだというのではない。
M氏はMしなりに、今のような老後を 夢見ながら、がんばって生きてきた。
しかし実際、それを手にすると、「何をしてよいか、わからない」、となる。

 孤独であるのも いやなこと。
老後になっても、息子や娘のことで、心配の種が尽きない人もいる。
それも いやなこと。
そういう人たちから見ると、M氏の置かれた立場は、うらやましいとなる。
先に「ぜいたくな悩み」と書いたのは、そういう意味。

●「だから、それが どうしたの?」

 そこでM氏が 見せてくれたのは、「太平洋一周、船の旅」という、パンフレット。
1人、150万円前後で、太平洋一周の旅ができるという。
行程は、日本→ハワイ→サンフランシスコ→ニュージーランド→オーストラリア
→東南アジア→中国→日本。

40日間の旅だという。

 「で、それに参加しようかどうかで、迷っている」と。

 私もときどき そうした旅行を考える。
が、そのまま シャボン玉のアワのように消えてしまう。

私のばあい、そういう旅行が、こわくて できない。
帰ってきたときの 虚しさを 想像するだけで、ゾッとする。
かえって虚脱感に襲われる……と思う。

 つまりそうした旅行には、「だから、それが どうしたの」と、そのあとに
つづくものがない。
たとえばそれぞれの国の 教育事情を調べるとか、そういうことなら楽しい。
あるいは私自身が 子どもたちを連れて、何かの指導をするというのでもよい。

 しかし帰ってきたとき、「ただいま!」だけでは、あまりにも さみしい。
一時的に ヒマをつぶすことは できても、そのあと、もっと大きなヒマが 
襲ってくる。
それに耐える自信が、私には、ない。

●老人観察

 老後には いろいろな問題がある。
しかし「ヒマ(暇)」について 考えたことはない。
M氏の話を聞きながら、「そういう問題もあったのか」と、驚いた。

 で、さっそく、あちこちの 老人観察を始めた。
「みんな、どうして いるのだろう?」と。

 もちろん 旅行を繰り返している人も いる。
趣味ざんまいの人も いる。
スポーツをしたり、孫の世話をしている人もいる。
人によって、みなちがう。

 が、こういうことは 言える。
人間というのは 勝手なもの。
忙しいときには、休みが来るのを、何よりも楽しみにする。
が、休みになったとたん、何をしてよいかわからず、ヒマをもてあます。
人生を「曜日」にたとえるなら、月曜日から土曜日までが、仕事。
日曜日が、つまり退職後ということになる。

 毎日が日曜日!

 しかし、これも考えもの。

●私のばあい

 で、私のばあいは、1、2年前に、ひとつの結論を すでに出した。
「私は 死ぬまで、現役で働く」と。
「過去は振り返らない。
前だけを見て、働く」と。

 わかりやすく言えば、身のまわりに、「ヒマ」を作らない。
そういう私の人生を 横から見ながら、「かわいそうなヤツ」と思う人もいる
かもしれない。
自分でも、それがよくわかっている。

 しかし いまだに(やるべきこと)が、何であるか、それがよくわからない。
統合性の確立があやふやなまま、今の仕事をやめてしまったら、それこそ 
たいへんなことになる。

 そのままボケ老人に向かって、まっしぐら!

 ただ幸いなことに、先にも書いたように、私にはまだ、やりたいことが
山のようにある。
どこから手をつけてよいのか、わからなくなることもある。

 で、今は、とりあえずは、新しいパソコンがほしい。
超高性能の、WINDOW7搭載の64ビット・マシン。
今夜も、ワイフに、それをねだったばかり。

 誤解がないように言っておくが、パソコンというのは、電気製品ではない。
買ったあとも、実際、使えるようになるまでに、いろいろな作業がつづく。
その作業が、楽しい。
だから買うとしても、長い休暇の前。

 ……ということで、改めて、究極の選択。

(1)一生、ヒマで遊んで暮らす。
(2)一生、仕事で、死ぬ寸前まで働く。

 どちらかを選べと言われたら、私は、迷わず、後者の(2)を選ぶ。
(すでに選んでいるが……。)

 M氏の話を聞いて、ますます強く、そう思うようになった。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

【ちょうど6〜7年前に書いた原稿より、4作】

++++++++++++++++

原稿の整理をしていたら、たまたま
6〜7年前に書いた原稿が出てきた。

いくらたくさんの原稿を書いていても、
読み始めたとたん、これはまちがいなく
私の原稿とわかる。

原稿というのは、そういうもの。

現在の「私」は、その上に乗っている。

++++++++++++++++

●先生を雑務から解放しよう!

全休職者のうち、約五二%が精神系疾患によるものとし、九七年度には一六一九人がそのた
め休職している。もちろんこれは氷山の一角で、精神科へ通院している教員はその一〇倍、さ
らにその前段階で苦しんでいる教員はそのまた一〇倍はいる。

 理由の第一は、多忙。今、教師は忙し過ぎる。雑務に続く雑務。ある教師(小二担任)はこう
言った。「教材研究? そんな時間がどこにありますか。唯一息を抜ける時間は授業中だけで
す」と。が、それだけではない。こんなこともある。

 俗に「アルツハイマー」と呼ばれる病気がある。脳障害の病気の一つ※だが、その初期症状
は、ひどい物忘れ。が、その初期症状のそのまた初期症状というのがあるそうだ。(1)がんこ
(自分の意見をゆずらない)、(2)自己中心性(自分が正しいと確信する)、(3)繊細さの欠落
(ズケズケとものを言う)など。しかも、だ。四〇歳から、全体の五%前後の人にその傾向が見
られるようになるという※。四〇歳といえば、子どもがちょうど中学生になるころ。一クラスに三
〇人の生徒がいたとすると、六〇人の親がいることになり、そのうち三人が、あぶない(?)と
いうことになる。家族の一人がアルツハイマーになると、その周囲の家族もたいへんだが、そ
のまた外にいる人も、何らかの影響を受ける。たとえば学校の先生。

 ある日一人の母親が、私のところへやってきて、こう言った。「小学校で英語教育をするとい
うが、そんな教育は必要ない」と。ものすごい剣幕である。しかしそれはそれから続いた不毛の
議論の、ほんの始まりに過ぎなかった。「学校五日制はおかしい」「中高一貫教育には疑問が
ある」など。毎月のように電話やメールで、あれこれ言ってきた。

が、そのうち私のほうが疲れてしまい、適当に答えていると、最後はこう言った。「あんたは教
育評論家だそうだが、その資格はない。あんたが本を書けば、社会に害毒を流すことになる」
と。これには私も怒った。怒って電話をすると、夫が出て、こう言った。「すみません、すべてわ
かっています」と。そして数日後、夫から手紙が届いたが、それにはこうあった。「妻の様子が
おかしいので、今、病院へ通っているところです」と。もっとも私のばあい、それまでにもこのタ
イプの親は最初ではなかったので、それほどキズつかないですんだが、若い未経験の先生だ
と、そうはいかない。とことん神経をすりへらす。

 結論から言えば、学校の先生には、まず授業に専念してもらう。そういう環境を用意する。ち
ょうど医療機関におけるドクターのよう、だ。原則として、先生を雑務から解放する。だいたい
今のように、教育はもちろんのこと、しつけから果ては、子どもの心の問題、さらには家庭問題
まで押しつけるほうがおかしい。ある先生はこう言った。「毎晩親たちからのメールの返事を書
くだけで、一時間くらいとられます」と。

こんな状態で、今の先生に「よい授業」を期待するほうがおかしい。たとえばカナダ(バンクーバ
ー市など)では、親が先生に直接連絡をとることすらできない。また原則として先生は、授業以
外のことでは一切責任をとらないことになっている。日本も方向性としては。やがてそうするべ
きではないか。


●人間の豊かさ

 人間の豊かさとは何か。人生の目的とは何か。五〇歳も半ばを過ぎると、そろそろそれにつ
いて結論を出さねばならない。

 私には六〇人近い、いとこがいる。その中でも一番の出世がしら(こういう言い方は好きでは
ないが)が、大阪に住むKさん。日本でも一、二を争う大学を出て、某都市銀行に入社した。現
役時代は、ドイツ支店の支店長まで勤めている。が、ちょうど同じ年齢のいとこに、Bさんがい
る。中学を出るとすぐ理容師の学校に進み、それ以後は長野の田舎にこもり、理容院を経営し
ている。魚釣りがうまく、今ではその地方では、「名人」というニックネームで呼ばれている。

 私はときどきこの二人のいとこを比較して考える。Kさんは、バブル経済崩壊のあと、銀行を
離れ、一〇年ほど前に子会社のT金融会社に出向。そののち、定年退職で今は宝塚のほうで
年金暮らしをしている。Bさんは、今でも理容院を経営しているが、魚釣りが高じて、釣竿づくり
に手を出し、Bさんが作る竿は、芸術品とまで言われるようになっている。

ひところ昔の尺度でみるなら、Kさんは勝ち組み、Bさんは負け組ということになる。が、しかし
今、こうして人生全体を振り返ってみると、私にはどちらがどうということが言えなくなってしまっ
た。KさんはT金融会社に出向する少し前私の家に遊びにきて、こう言った。「女房のヤツが
ね、『私の人生は何だったのよ。返して』と言ってぼくを困らすのだよ」と。Kさんはともかくも、K
さんの出世を陰で支えてきた妻の悲哀も、また大きい。一方Bさんは、その村の村長まで一目
置く人物になっているし、かなりの財産もたくわえた。六〇歳を過ぎた今でも、毎日釣りざんま
いの優雅な生活を楽しんでいる。

 ただ一つ注意しなければならないのは、「楽な生活」がよいわけではないということ。こんなこ
ともあった。街角で偶然、二五年ぶりにM氏(五四歳)に会ったときのこと。久しぶりのことで、
近くのレストランで食事をすることにしたが、話していて、私はハタと困ってしまった。何もない
のだ。何も感じないのだ。

私と同じ五四歳なのだから、「この人も何かをしてきたはずだ」と思い、それを懸命にさぐろうと
したのだが、かえってくるものが何もない。話を聞くと、休みはパチンコ、見るテレビは野球中
継とバラエティ番組。新聞といっても、読むのはスポーツ新聞だけ、と。いくら楽でも、私はそう
いう人生には、価値をみない。

 もちろん今でもKさんは、いとこの中でも自慢のいとこだ。Kさんがする話は、私のような田舎
者が知る由もない、雲の上の話でおもしろい。が、今、私にもう一度人生が与えられ、Kさん
か、それともBさんの人生のどちらかを選べと言われたら、私は迷わず、Bさんのほうの人生を
選ぶ。今の自分の人生をみても、私の人生はBさんのほうに、はるかに近い。

しかしこれだけは言える。人生の価値や意味などというものは、世俗の尺度では決まらないと
いうこと。つまるところ、その人がどれだけ自分の人生に納得しているかで決まる。言いかえる
と、納得さえしていれば、それが他人から見てどんな人生であっても、気にすることはない。人
間の豊かさというのも、それで決まる。地位や肩書きや名誉や財産ではない。あくまでも自分
自身である。

 
●日本の英語教育

 小学校で英語教育が始まることについて、「必要ない」と言ってきた人がいた。「日本語もロク
にわからない子どもに、英語など教える必要はない」と。今どき、こういう意見がまかりとおるこ
とのほうが、私には理解できない。こんな話がある。

 アメリカの中南部あたりでは、食べ物の味付けが、とにかく甘い。たとえば日本人だと、ケー
キのひとかけらすら、食べられない。それを彼らはパクパクと平気で食べる。一方、日本へ来
たアメリカ人は、日本の食べ物は、どれもこれも塩からいという。そうそう先日もこんなことを言
ったオーストラリア友人がいた。浜松駅におりたったときのこと。「ヒロシ、どうしてこの町はこん
なに魚臭いのか」と。自分の味やにおいは、外国へ出てみてはじめてわかる。子育てもそう
だ。

 日本人の子育ての特徴を一言で言うなら、「依存性」ということか。子どもが親に依存心をも
つことに、日本人は甘い。日本では親にベタベタと甘える子どもほど、かわいい子イコール「い
い子」と評価する。そして親は親で、一方的に子どもにあれこれしてしまう。善意や親切を押し
つけながら、押しつけているという自覚もない。それは自分自身がそういう子育てを受けたとい
うより、自分も子どもに依存したいという思いから、そうなる。

ある女性(七〇歳)はこう言った。「息子を横浜の嫁に取られてしまいました」と。その女性は、
息子が結婚して横浜に住んでいることを、「取られた」と言うのだ。こうした子どもを所有物か何
かのように考える意識も、結局は依存性の表われとみる。ほかにこの日本には、忠誠心だの
服従心だの、依存性を意味する言葉はいくらでもある。少し前には会社人間という言葉もあっ
た。日本人は互いに依存しあうことによって、自分の身の保全をはかろうとする。

 こうした日本人のもつ問題点も、自分自身が外国に出て、外国を知ることではじめてわかる。
観光客の目ではわからない。そこに住んで、そこの人たちと同じ気持ちになってはじめてわか
る。日本だけしか知らない人には、日本の味はわからない。浜松のにおいはわからない。外国
を知るということは、結局は自分を知ることになる。英語教育というのはそのための教育だ。

ただ北海道の端から沖縄の端まで、同じ教育をという発想もおかしい。英語を勉強したい子ど
ももいる。したくない子どももいる。教えたい親もいる。教えたくない親もいる。英語教育が必要
だという教育者もいる。必要でないという教育者もいる。だったら、そんなのは個人に任せれば
よい。日本人すべてが同じ教育をという発想は、まさに全体主義の亡霊でしかないでしかな
い。

そこで一つの方法として、カナダやドイツのように、クラブ制にしてはどうだろうか。費用はドイ
ツのように、「子どもマネー」を支給すればよい。ドイツでは子ども一人あたり、一律二三〇ドイ
ツマルク(日本円で一五〇〇〇円程度)が、最長子どもが二七歳になるまで支払われている
(二〇〇一年度)。そしてその分、学校を早く終わればよい。日本人ももう少し教育をフレキシ
ブルに考えるべきではないのか。


●アルツハイマーの初期症状

 アルツハイマー病の初期症状は、異常な「物忘れ」。しかしその初期症状のさらに初期症状と
いうのがあるそうだ。(1)がんこになる、(2)自己中心的になる、(3)繊細な感覚がなくなるな
ど。こうした症状は、早い人で四〇歳くらいから表われ、しかも全体の五%くらいの人にその傾
向がみられるという(※)。五%といえば、二〇人に一人。学校でいうなら、中学生をもつ親で、
一クラスにつき、三人はその傾向のある親がいるということになる(生徒数三〇人、父母の数
六〇人として計算)。

 問題はこういう親にからまれると、かなり経験のある教師でも、かなりダメージを受けるという
こと。精神そのものが侵される教師もいる。このタイプの親は、ささいなことを一方的に問題に
して、とことん教師を追及してくる。私にもこんな経験がある。ある日一人の母親から電話がか
かってきた。そしていきなり、「日本の朝鮮併合をどう思うか」と質問してきた。

私は学生時代韓国にユネスコの交換学生として派遣されたことがある。そういう経験もふまえ
て、「あれはまちがっていた」と言うと、「あんたはそれでも日本人か」と。「韓国は日本が鉄道
や道路を作ってあげたおかげで、発展したのではないか。あんたはあちこちで講演をしている
ということだが、教育者としてふさわしくない」と。繊細な感覚がなくなると、人はそういうことをズ
ケズケと言うようになる。

 もっとも三〇年も親たちを相手にしていると、本能的にこうした親をかぎ分けることができる。
「さわらぬ神にたたりなし」というわけではないが、このタイプの親は相手にしないほうがよい。
私のばあい、適当にあしらうようにしているが、そうした態度がますます相手を怒らせる。それ
はわかるが、へたをすると、ドロドロの泥沼に引きずり込まれてしまう。先の母親のケースで
も、それから一年近く、ああでもないこうでもないという議論が続いた。

 アルツハイマー病の患者をかかえる家族は、それだけもたいへんだ。(本人は、結構ハッピ
ーなのかもしれないが……。)しかしもっと深刻な問題は、まわりの人が、その患者の不用意な
言葉でとことんキズつくということ。相手がアルツハイマー病とわかっていれば、それなりに対
処もできるが、初期症状のそのまた初期症状では、それもわからない。

私の知人は、会社の社長に、立ち話で、リストラされたという。「君、来月から、もう、この会社
に来なくていい」と。その知人は私に会うまで、毎晩一睡もできないほどくやしがっていたが、私
が「その社長はアルツハイマーかもしれないな」と話すと、「そういえば……」と自分で納得し
た。知人にはほかにも、いろいろ思い当たる症状があったらしい。

 さてもちろんこれだけではないが、今、精神を病む教師は少なくない。東京都教育委員会の
調べによると、教職員の全休職者のうち、約五二%が精神系疾患によるものとし、九七年度に
は一六一九人がそのため休職している。もちろんこれは氷山の一角で、精神科へ通院してい
る教員はその一〇倍。さらにその前段階で苦しんでいる教員はそのまた一〇倍はいる。まさに
現在は、教師受難の時代とも言える。
ああ、先生もたいへんだ! 


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

【内閣官房報償費】(機密費)

+++++++++++++++++++++++++++++++++

こんな記事が、中日新聞のトップに載っていた(09年11月21日)。

『官房・機密費・麻生氏退陣前、2億5000万円』

いわく「麻生内閣の河村建夫官房長官(当時)が、先の
衆院選2日後の9月1日に、機密費2億5000万円を
引き出していたことが判明。
毎月の支出額は、1億円程度で、退陣が決まっていた
麻生内閣の最後の支出は、突出している」と。

+++++++++++++++++++++++++++++++++

●大敗北の2日後に、2億5000万円?

わかりやすく言えば、衆議院銀選挙で、大敗北した麻生前首相が、その選挙の2日
あとに、機密費2億5000万円を引き出していたという。

何のために?
どうして?

機密費(正式には、「内閣官房報償費」という)について、ウィキペディア百科事典は
つぎのように説明する。

『官房報償費は国政の運営上必要な場合、内閣官房長官の判断で支出される経費。
内閣官房機密費とも呼ばれる。
会計処理は、内閣総務官が所掌(閣議決定等に基づく各本部等については、当該事務局が
分掌)する。

支出には領収書が不要で、会計検査院による監査も免除されている。
原則、使途が公開されることは無い。毎年約12億円ほどが、計上されている。
以前から「権力の潤滑油」などと呼ばれ、不透明な支出に疑惑の目を向けられていた。

しかし、近年の外務省や都道府県警察本部の報償費が裏金としてプールされたり、横領さ
れていた問題の発覚を受け、元内閣官房長官塩川正十郎が「外遊する国会議員に餞別とし
て配られた」、「政府が国会対策の為、一部野党に配っていた」、「マスコミ懐柔の為に、一
部有名言論人に配られていた」など、内閣官房報償費の実態をテレビで暴露する。

報償費の使い方にマスコミや一部野党による批判や追及が激しくなり、与野党政治家主催
のパーティ券購入や会食、紳士服の購入、さらには官房長官による私的流用疑惑なども噴
出する。

これを受け、会計検査院も管理が不十分と指摘する。政府は1998年には支出の基準(内
規)を設けた』と。

●機密費=報償費

 機密費というのは、

(1)領収書が不要。
(2)毎年、12億円ほどが計上されている、という。

 またその内容については、

(1)「権力の潤滑油」とも呼ばれている。
(2)国会議員に選別として配れたこともある。
(3)一部、野党にも配れたこともあるという。
(4)一部有名言論人に配られたこともあるという。
(5)パーティ券の購入や、紳士服の購入などにあてられたこともあるという。

 これもわかりやすく言えば、機密費というのは、内閣のポケット・マネーということに
なる。
では、どうして「機密費」と呼ばれるのか?

 機密的な仕事、たとえば「ゴルゴ13」に出てくるような、諜報活動などに使われる
から、「機密費」というのか。
それとも内閣が、極秘に使えるから、「機密費」というのか。
前者的な使用方法であれば、外務省あたりに、そうした機関があり、予算もそれなりに
つけられているはず。
内閣が独自に、諜報活動をするということは、役職的にも限界がある。

 となると、「機密費」の「機密」というのは、やはり「報償費」ということになる。

●大敗北の2日後に、2億5000万円?

 衆院選挙で大敗北したあと、麻生内閣は、機密費を、2億5000万円も引き出して
いたという。
もしこれが事実であるとするなら、(事実であることには、ほぼまちがいないが)、この
一事によって、麻生前総理大臣がどういう人であったかが、わかる。
一事が万事。
万事が一事。

 まさかとは思いたいが、麻生前総理大臣以下、当時の内閣は、退職金がわりに、
機密費を山分けしたとも考えられなくはない。
本来ならその時点で、政権交代は確実だったはず。
麻生前総理大臣の政治活動は、(終わり)に向かって、掃除段階に入っていたはず。
その日の授業がすべて終わり、「さあ、みなさん、掃除ですよ」というときの、「掃除」
である。

 どうしてそんなときに、2億5000万円も、必要だったのか?
私には、2億5000万円の上に、あの小ずるそうな笑みを浮かべた麻生前総理大臣
の顔がダブる。

●浮動票

 私は、自称、「浮動票の王様」。
(あるいは「川面に浮かぶ、枯れ葉」?)

「王様」というのもヘンだが、私はずっと、浮動票層の1人として、投票してきた。
そのときどきによって、支持政党が変わる。
自民党に入れることもあれば、共産党に入れることもある。
公明党に入れることもあれば、民主党に入れることもある。
が、私が動くところ、浮動票層もいっしょに、ザザーッと動く。
(その逆でもよいが……。)

 その浮動票層には、いくつかの「掟(おきて)」がある。

(1)ギリギリまで、支持政党、支持候補者を決めない。
(2)自分が投ずる1票は、死に票にしない。
(3)極端な勝ち組は作らない。
 
 これは私が決めた掟だが、浮動票層の人たちは、おおむね、同じような掟をもっている
とみてよい。

 世間一般の人は、「浮動票層」というと、半ば軽蔑の念をこめて、私たちをそう見る。
が、ひょっとしたら、どこかの政党を支持する人たちよりも、はるかに政治について
真剣に考えている。
(もちろん、そうでない人もいるが……。)

何も考えないで、盲目的に、どこかの政党を支持するほうが、実際には楽。
そういう人のほうが、多い(?)。

●「やっぱり、なア〜」

 が、前回の衆議院議員選挙では、自民党が大敗退した。
浮動票層が、ドドーッと、雪崩(なだれ)をうって、民主党支持に回った。
本来なら、ここで「極端な勝ち組は作らない」というブレーキが働いたはず。
しかし前回は、そのブレーキが働かなかった。

 なぜか?

 理由は簡単。
「あの麻生だけには、勝たせたくない」という思いが、先に立った。

 が、一抹の不安はあった。

 民主党は、かねてから、反米意識が強く、選挙の前から、「脱・アメリカ追従外交」を
唱えていた。
そのうしろでは、さらに訳のわからない、OZ氏という、闇将軍が君臨していた。

 果たして、あの結果でよかったのか?
自民党は、大敗退。
民主党は、大勝利。
それでよかったのか?

……そんな疑念を、選挙のあと、浮動票の多くは、もったはず。
が、今回の機密費の公表で、その疑念は消えた。
「やっぱり、なア〜」と。
つまり麻生前総理大臣は、自己の政治姿勢を、自ら証明して見せてくれた。
それが「2億5000万円」という数字ということになる。

●付記

 が、あえて、一言。
今、こうして機密費の支出が公表されたわけだが、それを公表した民主党の歯切れも、
あまりよくない。
「今度は、自分たちの番だ」と言わんばかりの、雰囲気である。

 政治の世界は、ドロドロした欲望の渦に、よくたとえられる。
今回の公表にしても、どこか陰謀臭い。
「やられたから、やり返す」と。
OZ氏の1億円の闇献金発覚の翌週に、こうした公表がなされた?

 何かしら国民である私たちだけが、振り回され、もてあそばれているような感じが
しないでもない。
そういうことも頭のどこかに入れながら、こうした記事は読んだほうがよい。
つまり一方的に、あの麻生氏は、悪だと決めてかかることもできない。
(善人でないことは、たしかだが……。)

 で、私の立場で、気になったのは、ウィキペディア百科事典に書いてあった、つぎの
一文。

「マスコミ懐柔の為に、一部有名言論人に配られていた」と。

 当時、いろいろとうわさされていた言論人(評論家やニュースキャスター)が、
いるにはいた。
ある大学教授の書いた本を、大量に購入し、ベストセラーに祭りあげたという話も、
聞いている。
さらにある政党では、機関誌に投稿してもらうことによって、常識では考えられない
高額の原稿料を払っていた。
つまりそういう形で、「一部有名人」を、懐柔していた。

もちろんそういうことのために、機密が使われたと言っているのではない。
ひょっとしたら、2億5000万円程度なら、この世界では、ハシタ金なのかも
しれない。
それ以上に、この世界は、ドロドロとした闇に包まれている。

 何とも言われない(怒り)を覚えて、一気にこの原稿を書いた。
(2009年11月22日・朝)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●Open Office

++++++++++++++++++++

ワープロソフトといえば、MSのワード。
定番ソフトだが、値段が高い。

……ということで、今日から、ワープロソフトを、
フリーソフトの(Open Office)に、
少しずつ乗り替えることにした。

MSのOfficeは、単体で購入しても、2万円前後。
(以下、MSのOfficeは、単に、Officeと表記。)

パソコンでも、Officeのプレ・インストール版は、
1〜2万円ほど、割高になる。

パソコンが20万円を超えていた時代には、
それほど気にならなかった。
が、今は、平均価格も、10万円以下。
性能も、ぐんとよくなった。
ふだん家庭で使う分なら、それでじゅうぶん。
そういう時代だから、Officeの割高感が、
ぐんと身にこたえるようになった。
つまり、バカ臭くなった。

たとえば先日、ネットショップで、ミニパソを買った。
TOSHIBAのUXノート。
購入価格は、3万5000円。
それにOfiiceを載せると、
プレ・インストール版でも、
4〜6万円。
近くの店で買うと、6万円〜。
Officeを、単体で別に買うと、プラス、2万円。

そんなことがあって、ためしに今度、
Open Officeを
使ってみることにした。
(以下、Open Officeは、単にOOと表記。)

++++++++++++++++++++

●互換性

 いちばん心配なのが、互換性。
今まで書いてきた原稿が、無駄になってしまっては、意味はない。
で、恐る恐る、Officeと、OOの間で、文章を交換してみる。
Officeで書いた文章を、OOで開く。
適当に加筆し、それを一度保存をかけたあと、再び、Officeで開く。

 数度繰りかえしてみたが、まったく問題、なし!
となると、今までの、Officeは、何だったのかということになる。
10年ほど前には、パソコンを買い替えるたびに、7〜8万円の出費を強いられた。
そのときのパッケージは今でも捨てられず、棚に飾ってある。

●OO(Opnen Office)

 Office 2007と比べて、・・・というより、今まで使いなれていたせいもある
が、使いにくい面もある。
が、これも(慣れ)の問題。
時間の問題。
ふと、昔、使っていた、ワープロ専用機を思い出す。

 あのころは、メーカーによって、キー配列まで異なっていた。
最初は、Sharpのワープロ。
それからToshiba、Fujitsuと、乗り替えていった。
そのつどそれまで書いた文章が、無駄になった。
ファイル交換機能というのはあるにはあったが、めったに使わなかった。
当時は、まだ「紙」全盛期。
紙に印字できれば、それでじゅうぶんだった。
それで満足した。
「他機種に変換してまで・・・」とは、だれも考えなかった。

 が、今は、互換性がなければ、使えない。
はたして、互換性は、だいじょうぶなのか。

 ・・・ここまで書いた文章を、一度コピーして、O.E.(メール)に張りつけて自分宛てに送受信
してみる。
うまくできるかな?

(この間、数分・・・。)

●無料

 たった今、O.E.にコピーして、自分宛てに送受信してみた。
が、まったく問題、なし!

 ・・・ウム〜〜〜ン・・・

 しかし大量の文書は、どうなのか。
今度は、自分のHPから、600ページ(40x36)を、ダウンロードして、別の新規作成文書に、
張りつけてみる。

(この間、1分程度)

 難なく、コピー、張りつけができた!
まったく問題、なし!
驚いた!

 が、OOには、「編集記号」がない。
そこで(表示)→(編集記号)と進み、(編集記号)をクリックしてみる。
とたん派手な記号が、ズラズラと、文面に現れた。
ギョッ!
あわてて編集記号を消す。

 ・・・とまあ、こうした戸惑いがあるのは、しかたない。
無料ということだから、文句は言えない。
この先のことを考えると、やはりOOを使ったほうが、得。
ここは慣れるしかない。

 そう言えば、コンピュータ技師をしている二男も、数年前に、こう言っていた。
「パパ、オープン・オフィスにしなよ。MSのオフィスは、不安定だから・・・」と。

 今になって、二男の言った言葉の意味が、よくわかる。

 で、どうして、今、OOかって?
実は、今朝、1時間あまり書いた文章が、あやうく途中で、消えそうになった。
あちこちをいじって、何とか復元できた。
が、Office 2007にしてから、こうした不調がたびたび起こるようになった。
で、OOへの切り替えを考えた。
たしかにワードは、不安定。
それがきっかけ。
けっしてお金だけの問題ではない。

(疑問)

 WINDOW7では、どうかな?
OOは、うまく作動するのかな?
WINDOW7のOSは、先日、購入した。
が、まだこわくて、使えないでいる。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov.09+++++++++はやし浩司

●樹香庵(浜松市北区浜北・森の家) 

++++++++++++++++++

今夜は、浜北にある、「森の家」に一泊。
このところ、こうしてどこかの旅館に
泊まるのが、楽しい。

「森の家」は、浜北森林公園の頂上付近にある。
その「森の家
の一角に、離れの形で、樹香庵がある。
「じゅこうあん」と読む。
純和風の別宅。

その樹香庵で、今、この文章を書いている。

+++++++++++++++++

●イチオシ

 樹香庵は、10畳が2間。
一間は茶室風になっている。
風呂、トイレも北側にあって、申し分なし。
風呂は、小さいが、ヒノキ風呂。
浜松方面に来て、やや時間に余裕があるなら、イチオシの旅館である。
「やや時間に……」というのは、浜松駅からは、電車とタクシーを乗りついで、1時間ほどかか
る。
(東名・浜松インターからだと、30分ほど。)

 値段も、素泊まりで、1泊1人、8000円(2名宿泊のばあい)。
隣が、「まつぼっくり」という名前のレストランになっている。
食事は、そちらですますようになっている。
経営母体が変わるたびに、メニューも変わるが、今夜のそれは、悪くなかった。
(若い人には、量が少ないかな……?)

●掛け軸

 こういうところで文章を書いていると、いっぱしの作家気分。
たった今、風呂から出て、部屋の中には、私、ひとり。
ワイフが交替で、今、風呂に入っている。

 向こう側の日本間には、ふとんが2組、敷いてある。
床の間が、私の背中側にもあるが、向こうの和室にも、もうひとつ床の間がある。
掛け軸が掛かっていて、そこには、「日々是好日」と書いてある。
中国語で、「是」というのは、英語の「is」に相当する。
だから、「毎日、よい日です」という意味になる。

 背中側の床の間にも、掛け軸がかかっている。
そこには、「一期一会」と書いてある。
今さら、意味を説明するまでもない。
ともに、生き方を象徴する言葉である。

●『日々是好日』

 日々を満ち足りた気持ちで、楽しく過ごす。
生きる目的は、この4語に集約される。
私だって、そうだ。

朝起きると、まず、10分間の運動をする。
ウォーキング・マシンの上で、時速6キロで歩く。
かなり寒い朝でも、それで体は暖まる。
頭もスッキリする。
そのとき、こう誓う。
「今日こそは、がんばるぞ」と。

 この言葉には、いろいろな意味がこめられる。
ひとつは、「今日こそは、有意義に生きてやる」という意味。
もっと言えば、「今日こそは、がんばったなあ」という1日にすること。
その第一の条件が、「今日は、好い日」ということになる。

 なお『日々是好』というと、「日」という文字を書き加えて、『日々是好日』と書く人は多い。
しかし正しくは、『日々是好』である。

●『一期一会』

 では、『一期一会』はどうか?

 いろいろに解釈する人がいる。
人との出会いは、その瞬間、その瞬間。
1回だけだから、真剣に会えというように、説明する人もいる。
「人との出会いを大切にしろ」と。
もともとは、千利休の弟子の山上宗二が、「一期に一度の会」と書いたことに始まる。
それを幕末の大老、井伊直弼が、『一期一会』にまとめたとされる(ウィキペディア百科事典よ
り)。

茶室には、どこも、この言葉がかかげられている。
が、私は若いころから、こう解釈していた。

 「その瞬間、その瞬間は、1回しかないから、覚悟して生きろ」と。

 そういう意味では、この言葉は、「今を生きる」という生き方に、つながる。
「今しかない。
だからその今を、懸命に生きろ」と。

 どの解釈が正しいとか、そうでないとか、論じても意味はない。
それぞれの人が、言葉を読み、自分で何かを感じればよい。
自分流に解釈すればよい。
それを自分の中で、生かせばよい。

●中国文化

 こうして純和風の一室に泊まってみると、「日本はやはり、中国の文化圏に属するのだな」と
知る。
四字熟語にしても、もともとは中国から入ってきたもの。

が、こう書くからといって、日本が、現在の中国の属国であるとか、そういうことを言っているの
ではない。
現在の中国人もそうだが、私たち日本人も、その向こうにある、同じルーツの子孫ということ。
どちらが「上」で、どちらが「下」などという議論そのものが、ナンセンス。
中国人の多くは、自分たちが「上」と思っているかもしれないが……。

 また中には、和風建築は、日本独特のものと主張する人もいるかもしれない。
しかし全体としてみると、つまり国際的な視野でみると、中国式は中国式。
漢字を、ひらがなや、カタカナにした程度のちがいはあるかもしれない。
しかし「独自」とは、とても言いがたい。

 そのことは、学生時代に、横浜の中華街へ行ったときにも、感じた。
たまたま何かの祭りをしていた。
それを見て、驚いた。

 太鼓の鳴らし方、はやし方、どれも、私が子どものころ、郷里のM町で聞いたものだった。
私は、日本の祭りは、日本独特のものだとばかり思っていた。
つまり基本に中国の祭りがあり、それをまねたというよりは、不完全なまま輸入して、日本の祭
りを作りあげた。
見よう見まねで、日本人は日本の祭りを作った。

 あるいは(中国)→(朝鮮半島)→(日本)へと、文化が移入する過程で、少しずつ変化したの
かもしれない。
少なくとも、日本人が、オリジナルとして、自分で作りあげた祭りではない。
それを横浜の中華街で、見て、驚いた。

●「日の本」

 日本を否定してばかりいては、いけない。
しかし前にも書いたが、日本のことを「日本」というが、「日本」、つまり「日の本(もと)」という発
想そのものが、日本人のそれではない。
「日本」という名前は、「日(=太陽)が昇る国」という意味である。
「日の本」というのは、中国、あるいは朝鮮半島から見て、そうだというにすぎない。
日本人が、自分の国の名前をつけるとき、「ここは日の本だ」などと、言うだろうか。

 だいたいにおいて、「日本」を、「ニッポン」「ニホン」と、音読みにすること自体、おかしい。
どうして「日本」という国名が、中国式の発音になっているのか。

 また「日本」という国名は、中国人、もしくは朝鮮半島の人たちによって、つけられた。
さらに中国には、「倭国」と書いて、「日の本」と読んでいたという記録も、残っている。
詳しくは別の原稿で書いたので、ここでは省略する。

●愛国心

 またまた日本を否定してしまった。
私の悪いクセだ。
不愉快に思っている人も、多いことと思う。

 このところおかしな復古主義が、幅をきかせているから、こういう話になると、どうしてもムキ
になる。
車が暴走しかけているから、ブレーキのかけ方が、どうしても強くなる。
今は、そういうときかもしれない。

 ただ誤解しないでほしいのは、だからといって、私は日本を嫌っているのではない。
好きとか嫌いとかは、感情として、あまり考えたことはない。

しかし人一倍、日本のことを心配している。
いつも日本のことを考えている。
外国から日本へ帰ってくると、心底、ほっとする。
日本がすばらしい国になることを、いつも心の中で願っている。
そういう気持ちを総称して、「愛国心」というのなら、私にも愛国心はある。

 しかしこうした愛国心と民族主義は、区別したほうがよい。
「大和民族はすぐれている」と思うのは、その人の勝手。
しかしだからといって、その返す刀で、「ほかの民族は、劣っている」と思うのは、まちがい。

 ともに高い次元で、相手を認めあってこそ、民族主義は、光る。
そうでなければ、戦争の火種になるだけ。
とくに過激な国粋主義には、警戒したほうがよい。

●レストラン
 
 どんどんと考えが、ひとり歩きしてしまった。
こんな部屋で、日本や民族について書くつもりはなかった。
もう少し、楽しい話題について、書くつもりだった。

 ……先ほど、隣のレストランで、夕食をとった。
今夜は森の家の招待ということもあって、無料。
あとでメニューを見たら、私の料理が、1300円。
ワイフのそれが、850円ということだった。
量的には、私たち夫婦には、多すぎるくらい。
私もワイフも、半分程度、残した。

 というのも、数日前、体重計に乗ったら、62・5キロになっていた。
風邪気味だったので、食事の量をふやした。
とたん、このザマ。
あわてておとといから、ダイエット。
今朝は、60・5キロに戻っていた。

ホ〜〜〜ッ!

 そのレストランには、たくさんの人たちが、それぞれグループを作り、食事をしていた。
みな、楽しそうだった。
中には、口角に泡を飛ばして、議論している人たちもいた。
うしろの席に座った夫婦は、料理ごとに、デジタルカメラで写真を撮っていた。
前の席に座っていたグループは、大学のゼミか何かでやってきたようだ。
中央に教官らしき人を置き、みなが、その人の話を真剣に聞いていた。

 人は、やはり人と関わりをもって生きる。
「いいなあ」とか、「うらやましいなあ」とか、そんなことを言い合いながら、
ワイフと夕食を食べた。

(注)BLOGのほうに意見をもらった。
『日々是好日』が正しく、『日々是好』は、正しくないそうだ。


●DVD

 夜も更けてきた。
時刻は、今、21:20。
パソコン上の時計では、そうなっている。
今日は昼寝をしなかった。
そのこともあって、今は、眠い。
目をあけているのが、やっと。

 ワイフは、別のパソコンで、ここへ来るとき借りてきたDVDを観ている。
リチャード・ギア主演の『最後の初恋』。
私好みではない。
音声だけ聞こえてくるが、ネチネチした会話がつづく。
要するに、(お涙ちょうだい映画)?

「涙は出たか?」と聞くと、ワイフは、「ちょっとね」と。

一方、私が借りてきたのは、『デイブは宇宙船』。
「宇宙人」ではなく、「宇宙船」。
人間の形をした宇宙船という意味である。
パッケージの裏の解説しか読んでないが、おもしろそう。
楽しみ。

●明日

 明日は勤労感謝の日。
休日。
とくに予定は、ない。
帰りに、別のパソコンショップへ寄るつもり。

 ところでこのエッセーは、Open Officeを使って書いたもの。
最初は、どこかおっかなびっくりという感じだったが、今のところ問題、なし!
動作も安定している。
OOを使っているということすら、忘れていた。

MSのOfficeにない機能も、いくつかついている。
かなり気に入ってきた。
ワンクリックで、全画面表示にしたり、もとに戻すこともできる。

 いいぞオ〜〜!

 ……ということで、就寝タイム。
少しのどが痛いので、うがいをしてから寝る。

2009年11月22日、夜。
結局、今日も、たいしたことができなかった。
「明日こそは、がんばろう」と、改めて心に誓う。

(注)雑誌などの記事によると、OO上では、複雑な図形や、レイアウトについて、
崩れることもあるそうだ。
しかし一般の人たちが、ふつうの状態で使うなら、何も、問題はないようだ。

 私が確かめたのは、(Office2007と、Open Offfice)の互換性。
近く発売になる、Office2010との相性については、未確認。

 ともあれ、Open Officeに、バンザ〜イ!

(樹香庵の写真は、マガジン12月号のはじめに、紹介します。)


(注:一期一会について)

ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。
参考までに、転載させてもらう。

『一期一会(いちごいちえ)とは、茶道に由来することわざ。『あなたとこうして出会っているこの
時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切に思い、
今出来る最高のおもてなしをしましょう』と言う意味の、千利休の茶道の筆頭の心得である』
と。

(補記)

●DVD『デイブは宇宙船』

 発想はおもしろいが、中身が薄い。
陳腐。
そんなわけで、星は2つの、★★。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●気分

 今日は、1日中、ずっと気分が晴れなかった。
原因はわからない。
俗に言う、「落ち込んだ状態」。
ときどき、こうなる。
何を考えても、否定的、悲観的。
平たく言えば、いじけている。
マイナス思考になっているから、批判だけで終わってしまう。
そこから何も生まれてこない。

 こういうときは、あまり文章を書かないほうがよい。
書いても、よい文章が書けない。
……ということで、写真の加工をして、時間をつぶした。
HPの更新をした。
午後からは、ワイフと買い物に出かけた。
帰りにパソコンショップに寄ってみた。
新製品に、いくつか手を触れてみた。
で、ビビッときた。

「そうだ、あのレッツ・ノートを手入れしてみよう」と。

 レッツ・ノートというのは、9年ほど前に買った、P社製の
ノート・パソコンをいう。
CF−L1。
骨董的価値がある?
当時はもっとも愛用したパソコンである。
価格は、22万円。
よく覚えている。

 が、買ったときから、不調つづき。
最初の半年くらいは、ずっと、パソコンショップとメーカーの間を
行ったり来たりしていた。
それで直ったわけではない。
今でも、CDトレイは、殺したまま。
端子にビニールをはさんで、使えないようにしてある。

●古いパソコン

 そのパソコンで、この文章を叩いている。
気持ちよい。
あのころの感触が、指先から戻ってくる。
ただ記憶媒体が、フロッピーディスクのみ。
たった今、USBメモリーを試してみたが、やはりだめだった。
CDが使えないから、ドライバーをインストールすることもできない。
何か、よい方法はないものか。

 ところで光学マウスは、どうか?

 ヘエ〜〜〜?

 光学マウスは、認識したようだ。
使えるようになった。
しかしUSBポートは、1つしかない。
だから文章を保存するときは、一度マウスをはずさなければならない。
それにフロッピーディスクは、あったかな?

 画面全体は、薄黄色。
セピアカラーとまではいかないが、それに近い。
「かえって目にやさしくなった」と言って、自分をなぐさめる。
こういうのを心理学の世界では、「合理化」と呼んでいる。

●パソコン

 こうして考えてみると、パソコンというのは、大切に使うものではない。
どうせ9年も使うと、ただの廃棄物。
ノート・パソコンなら、まだよい。
大型のデスクトップパソコンとなると、そうはいかない。
処分に困る。

 ところでモニター一体型のパソコンというのを、今でも売っている。
しかしこれは私の個人的な意見だが、ああいうのは、買わないほうがよい。
パソコンを処分するとき、モニターまで処分しなければならない。
モニターが別になっていれば、またほかのパソコンで、再使用ということも可能。

 そこで考えた。
人間の臓器移植のように、パソコンも、そのつど、より高性能の部品と交換
できればよい。
(たとえが悪くて、ごめん!)
最初から、そういう(作り)になっていれば、無駄がない。
ハードディスクやメモリーなどは、簡単に交換できる。
同じように、マザーボードやグラフィックボードも、交換できるようになると
よい。

 そのためには、パソコンの規格化が、もっと進まなければならない。
果たして、それは可能なのか。

●たった9年!

 しかしこのパソコンには、思い出が詰まっている。
このパソコンで、何冊か、本も書いた。
新聞のコラムも書いた。
たった9年前のことだが、遠い昔のことのように感ずる。
正確には、「2000年9月19日、購入」となっている。
私はパソコンにかぎらず、何か電気製品を買うと、裏に購入年月日の
シールを張ることにしている。

 その間の9年で、パソコンの世界は、格段の進歩を遂げた。
この先も、さらにさらに進歩する。

●スパコン

 ところで今、政府部内では、予算配分の見直し作業を進めている。
その作業の中で、スパコン(スーパーコピュータ)の開発予算が、削られる
ことになったという。
これに対して、その道の専門家たちが、猛反発しているらしい。

 しかしこれについて、私の二男は、こう言っている。
「これからは、スパコンの時代ではない」と。

 現に、CERN(スイスに本部を置く、量子加速器研究所)では、スパコン
ですら、役に立たないという。
そこで世界中の大型コンピュータを回線でつなぎ、それを使ってデータの分析や
解析を行っているという。
その数、約1万台。
そのほうがそれぞれの科学者にとっても、使いやすいのだそうだ。

 二男はその技術者として、来月(12月)、スイスへ行くという。
スパコンにこだわる時代は、終わりつつあるのかもしれない。
つまりハードからソフトの時代へ。

似たような例に、ウィキペディア百科事典がある。
(私が勝手に、そう思っているだけだが・・・。)

何かの百科事典を書こうとすると、たいへんな作業になる。
20〜50人単位の編集者が、数か月かけて、やっと1巻。
全巻完成するまでに、何年もかかる。
しかし世界中の人たちが、少しずつ書けば、あっという間に、百科事典が
できあがってしまう。

同じように、すべての分析を、1台のスパコンを使ってするよりは、1万人の科学者が、
1万台のパソコンを使って分析したほうが、早い。
もちろんそこから出てきたデータは、私たちがウィキペディア百科事典を利用するように、
みなで共有する。
この世界も、今、急速に変わりつつある。

 「このままでは、日本はスパコンの世界から、はじき飛ばされてしまう」と
心配するのは、どうか?
それよりも重要なことは、それを使うソフトウェアの開発ということになる。

●後書き

 夕食後、だいぶ心も落ち着いてきた。
いじけた心が、弱まってきた。
これならあと1〜2時間で、精神状態は安定してくるはず。
よかった!

 今日、のんだ薬。

 葛根湯・・・頭が重かったから。
 ハンゲコウボクトウ(半夏厚朴湯)・・・これは精神の安定にきく。
 セパゾン半錠・・・同じく、精神の安定にきく。
 午後になって、頭痛薬半錠・・・これは念のため。
 さらに寝る前に、センナを少しのむつもり。
これは腸が、腫れぼったいから。

 そうそうこれから20分間、ウォーキング・マシンの上で運動。
今日(11−23)は、勤労感謝の祭日。
明日から、また仕事。
がんばります!


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司※

●子どもの人格の完成度

++++++++++++++++++

子どものばあい、その年齢に比して、
幼児ぽい(幼稚ぽい)というのは、
好ましいことではない。

やってよいことと、やっていけないことの
区別ができない。
突然、突飛もない行動をしたりする。

子どもの人格の完成度は、子どもの
様子を、ほかの子どもと比較して判断する。

+++++++++++++++++++

●前頭連合野

 「理性の府」と呼ばれるのが、前頭連合野。
この前頭連合野が何らかの形で損傷を受けると、善悪の判断が適切に
できなくなる。
欲望の命ずるまま、勝手な行動を繰り返すこともある。

 晩年の兄が、そうだった。
玄関先で小便をしたり、自動車のナンバーに、マジックインクで、いたずら書きを
したりした。
ゴミを捨てに行くときも、そのゴミを、近所の家の間にはさんで帰ってきたことも
ある。
 兄は、若いころから母の過干渉により、自分で考えるということができなかった。
それが晩年、ひどくなった。
軽い認知症が加わり、さらにひどくなった。

 子どものばあいでも、異常な過関心が日常化すると、似たような症状を示す。
「自分で考える」という習慣そのものが、育たない。
「自分で行動する」ということはできるが、その「行動」に対して責任を取らない。
「責任を取る」という意味すら、理解できない。
 
 強く叱ると、そのときだけは、(さも、叱られています)という姿勢(ジェスチャ)
をして見せる。
しかしジェスチャだけ。
その実、何も反省していない。

●ある母親

 その母親(当時35歳くらい)は、たいへん口うるさい人だった。
いつも子どもたち(息子と娘)を相手に、ガミガミと怒鳴ってばかりいた。
そのため子どもたちは、一見、従順な子どもになった。
が、自分で考えて、責任を取るということが、できなかった。

 その母親自身も、子どものころ、今で言うAD・HD児ではなかったかと思う。
異常な多弁性が、特徴的だった。
電話で話しても、いつも一方的にまくしたてるだけ。
相手の話を聞かない。
聞かないというより、相手に話させるようなスキ(?)をつくらない。
話の内容も、ポンポンと飛ぶ。

 ある日のことだった。
何かの会合に、その母親が娘を連れてきた。
娘は当時、10歳くらいではなかったか。
その娘にこう言っていた。

 「お茶を出すときは、絵柄を相手に向けて出すのよ、わかった?」と。
そしてお茶の出し方を、みなの前で、こまごまと指導していた。

 一方、私は、そのときまで、そういったことに注意を払ったことは、一度も
なかった。
そういう作法があることさえ、知らなかった。
しかしその母親の頭の中には、そういった情報が、ぎっしりと詰まっていたらしい。
ことあるごとに、こまごまとしたことを、娘に指示していた。

 私はそれを聞きながら、「こういう母親では、子どもたちも息が詰まるだろうな」と
思った。

●常識ハズレ

 結果としてそうなったのだろうが、息子も娘も、中学生のころには、いろいろな
事件を引き起こすようになった。
とくに息子のほうは、その町内でも有名なほど、「グレた」(同じ町内に住む友人の話)。
娘のほうも、同じような経過をたどった。

 が、息子も娘も、見た感じでは、ごくふつうの子どもといった感じだった。
おとなたちの前では、おとなしく、無口だった。
親の言うことには、従順に従っていた。

 が、常識ハズレはつづいた。

 これは人伝えに聞いた話だが、結婚式の当日、息子は、暴走族仲間を連れてきた
という。
予定外のハプニングに、母親は、(もちろん父親も)、あわてた。
しかしそれも後の祭り。
盛大な結婚式を用意しただけに、親たちは、かえって恥をかかされるところとなった。

●子育て自由論

 「自由」とは、もともとは、「自らに由(よ)る」という意味。
自分で考え、自分で行動し、自分で責任を取る。
この3つを重ねて、「自由」という。

 そのためには、子どもには、まず自分で考えさせる。
行動させる。
そして自分で責任を取らせる。

 これは乳幼児期からの、子育ての基本ということになる。
そのためには、いくつかの前提がある。

(1)子どもをひとりの人間と認める。
(2)親意識(とくに悪玉親意識)を捨てる。
(3)友として、子どもの横に立つ。

 ここでいう「悪玉親意識」というのは、親風を吹かすことをいう。
 頭ごなしに、ガミガミ言うのは、禁物。
それが日常化すると、子どもは自分で考えることができなくなってしまう。
親の言うことには従順に従っても、母親がいないところでは、何もできなく
なってしまう。

 あとは、(ますますガミガミ言う)→(ますます常識はずれになる)の悪循環。
それを繰り返す。

●早期診断

 こうした悪循環は、早期発見、早期解決が何よりも、大切。
私の経験では、子どもが3〜4歳児になるころには、たいてい手遅れ。
というのも、子育ては(リズム)。
そのリズムは、ひょっとしたら、子どもを妊娠したときから始まっている。
そのリズムを直すのは、容易なことではない。

 基本的には、心配先行型の育児姿勢がその背景にあるとみる。
(異常な溺愛、あるいはその背景に、親自身の情緒的な欠陥が、子どもの精神的な
発育をはばむこともある。)
さらに言えば、親自身に、ちゃんとした(親像)がしみこんでいない。
親自身が、不幸にして不幸な家庭で、育っている。
根は深い。

 が、気がつけば、よい。
こうした問題は、気がつけばよい。
気がつけば、あとは時間が解決してくれる。
5年とか、10年とかはかかるが、時間が解決してくれる。
まずいのは、そういう(過去)があることに気づかず、同じ失敗を繰り返すこと。
過去に振り回されること。
 
 その診断の目安のひとつが、「人格の完成度」ということになる。
満5〜6歳になると、子どもの核(コア・アイデンテティ)が、見えてくる。
「この子は、こういう子」という、つかみどころをいう。
そのとき、「うちの子は、どこかおとなっぽい」と言うのであれば、よし。
しかし反対に、「うちの子は、どこか幼稚ぽい」と感じたとしたら、人格の核形成
が遅れているとみてよい。
幼稚園や保育園の中での言動を、ほかの子どもと比較すれば、それがわかる。

●子どもらしさと幼稚性

 誤解がないように書いておく。

 子どもが子どもらしい心をもっているということと、幼児性(幼稚性)が残って
いるというのは、別問題である。
子どもらしい、素直さ、明るさ、無邪気さをもっているというのは、むしろ好ましい。
一方、ここでいう幼児性(幼稚性)は、退行的な症状をいう。

 騒いでいけないような場所で、騒いでみせたり、平気で人が困るようなことを
したりする。
言ってはいけないような冗談を口にしたり、悪いことでも平気でする、など。
その場の雰囲気を、適切に判断できない。
赤ちゃん返りのような、甘ったれた、ネチネチしたものの言い方をするときもある。

 が、何よりも目立つのは、常識はずれな行為。
色水をバケツの中で溶かし、それを幼稚園のベランダから、下の子どもにかけていた
子ども(年長・男児)がいた。
コンセントに粘土をつめて遊んでいた子ども(年長・男児)もいた。
小学3年生の子ども(男児)だが、虫の死骸をマッチ箱に詰めて、それを誕生日
プレゼントにした子どももいた。
そういうのを幼児性(幼稚性)という。

●では、どうするか?

 自分で考える子どもにするには、読書が効果的である。
反対に、読書が好きな子どもは、例外なく、様子がおとなっぽい。
人格の完成度が高い。

 親自身についても、そうだ。

 先にあげた母親のばあい、識字能力に問題があり、本や雑誌をまったくといってよい
ほど、読まなかった。
ある日何かの書類を手渡したことがあるが、その母親は、それを見せるやいなや、
片手で、それを払いのけてしまった。
「私には、こんなもの、読めません!」と。
文字に対する拒否反応すら示していた。

 つまりこの問題は、子どもの問題というよりは、母親の問題。
家族の問題ということになる。
子どもは、その家族の「代表」に過ぎない。

 母親は今でもガミガミと子どもたちを叱りつづけている。
叱られるべきは、母親自身ということになる。
が、悲しいことに、自分を客観的に判断する能力すら、もっていない。

●ものを書く

 あとは、ものを書くという習慣を勧める。
ものを書くことによって、人は考える。
その(考える)という習慣が、長い時間をかけて、その人の人格を完成させる。

 日記でもエッセーでも、何でもよい。
ひとつのことがらが気になったら、それについて、自分の意見を書き添える。
それだけのことで、考えるという習慣を身につけることができる。

 それを5年とか、10年単位でつづける。
その結果として、人は、「自ら考える人」になることができる。
繰り返すが、子どもの人格の完成度は、あくまでも、その結果として決まる。

+++++++++++++++

過去に書いた原稿の中から、
いくつかを紹介します。
以下2作は、03年(6年前)に
書いた原稿です。
内容的に多少、荒っぽいところも
ありますが、基本的な考え方は、
今も変わっていません。

+++++++++++++++

●欲望vsコントロール

 こんな男性(45歳)がいた。子どものころから親の異常なまでの過干渉で、性格が萎
縮していた。そのため、どこかふつうではなかった。

 その男性の特徴は、自分の欲望をコントロールできなかったこと。正月用に買い置きし
ておいた料理でも、食べてしまったり、生活費でも、パチンコ代に使ってしまったりした。
そこで70歳近い母親が、それを叱ると、「ちょっと食べてみたかっただけ」「ちょっと遊
んでみたかっただけ」と、弁解したという。

 この話を聞いたとき、私は、子どもにも、似たような子どもがいることを知った。その
年齢であるにもかかわらず、とんでもないことをする子どもは、多い。先生のコップに殺
虫剤を入れた子ども(中学男子)や、無免許で、母親の車を乗りまわした子ども(高校男
子)などがいた。そしてつぎのような結論を得た。

 「おとなになるということは、自分の欲望をコントロールすること」と。

 してよいことと、悪いことを冷静に判断して、その判断にしたがって行動することがで
きる人を、おとなという。またそれができない人を、子どもという、と。そしてこの部分
に焦点をあてて子どもを観察すると、人格の完成度がわかる、と。

 たとえば先日も、やや太った女の子に向かって、「お前、デブだな」と言っていた男の子
(小2)がいた。すかさず私はその男の子をたしなめたが、その子どものばあい、言って
よいことと悪いことの判断が、つかない。

 小学2年生ともなれば、もうそのあたりの判断力があっても、おかしくない。が、それ
がないということは、人格の完成度が遅れているということになる。

 こうした完成度は、年齢とは関係ないようだ。60歳とか70歳とかになっても、遅れ
ている人は、遅れている。つい先日も、こんな事件があった。

 ある知人(64歳)から電話がかかってきて、こう言った。

 「うちの家内が言うには、林君から、おかしな電話がかかってきたというが、何の用だ
った?」と。

 いろいろな事情があって、私はその電話のとき、彼の奥さんに、遠まわしな言い方をし
た。それは事実だが、その電話を、「おかしな電話」と。たとえそうであっても、そういう
ことは、スケズケとは言わない。「おかしな電話とは何だ!」と、思わず言いそうになった
が、やめた。そういう人は、相手にしないほうがよい。

 もっとも、人間は、45歳前後を境にして、脳の活動も、そしてそれを支える気力も、
急速に衰えてくる。それまでは、何かと人格者ぶっていた人も、それがメッキであったり
すると、はげ始める。そこに、老人特有のボケが加わると、さらに、はげ始める。

 ここでこわいのは、このとき、その人の人格の「核(コア)」が、モロに外に出てきてし
まうこと。つまり、「地(じ)が出る」。

 考えてみれば、人格者ぶることは、簡単なこと。多少の演技力があれば、だれにだって
できる。さももの知りのような顔をして、だまっていればよい。しかし演技は演技。長つ
づきしない。人格の「核」というのは、そういうもの。一朝一夕にはできない。と、同時
に、実は、かなり早い時期にできる。

 青年期か? ノー。もっと早い。少年、少女期か? ノー。もっと早い。私の印象では、
その方向性は、年長児のころに決まるのではないかと思っている。この時期の子どもを、
少していねいに見れば、そののち、どんな人格者になるかどうか、だいたい、わかる。

 欲望の誘惑に強い子どもがいる。欲望の誘惑に弱い子どももいる。たとえば幼児でも、
ある一定のお金をもたせると、それをすぐ使ってしまう子どももいれば、そうでない子ど
ももいる。中には、「貯金して、お料理の道具を買う」と言う子どももいる。「その道具で、
お母さんに料理を作ってあげる」などと言う。

 こうした方向性は、すでに幼児期に、決まる。そしてそれが、ここでいう人格の「核」
となっていく。

 そこであなた自身の問題。あなたは、自分の欲望を、しっかりとコントロールできるだ
ろうか。もしそうなら、それでよし。しかしそうでないなら、あなたは、真剣に自分の老
後を心配したらよい。私も実は、中身はボロボロ。欲望には、弱い。誘惑にも、弱い。今
は、懸命にそういう自分と戦い、それを隠しているが、やがて外に出てくる。

 冒頭にあげた男性の話を聞いたとき、「私のことではないか」と、思った。さあ、どうし
よう?
(03年12月26日記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「親である」という幻想

●親を美化する人

 だれしも、「親だから……」という幻想をもっている。あなたという「親」のことではな
い。あなたの「親」についてで、ある。

 あなたは自分の親について、どんなふうに考えているだろうか。「親は、すばらしい」「親
だから、すべてをわかっていてくれるはず」と。

 しかしそれが幻想であることは、やがてわかる。わかる人には、わかる。親といっても、
ただの「人」。ただの人であることが悪いというのではない。そういう前提で見ないと、結
局は、あなたも、またあなたの親も、苦しむことになる。

 反対に、親を必要以上に美化する人は、今でも、多い。マザーコンプレックス、ファー
ザーコンプレックスをもっている人ほど、そうだ。それこそ、森進一の『♪おふくろさん』
を聞きながら、毎晩のように涙を流したりする。

 つまりこのタイプの人は、自分のコンプレックスを隠すために、親を美化する。「私が親
を慕うのは、それだけ、私の親がすばらしいからだ」と。

●権威主義

 もともと日本人は、親意識が強い民族である。「親は絶対」という考え方をする。封建時
代からの家(先祖)意識や、それにまつわる権威主義が、それを支えてきた。たとえば江
戸時代には、親から縁を切られたら、そのまま無宿者となり、まともに生きていくことす
ら、できなかった。

 D氏(54歳)は、近所では、親思いの、孝行息子として知られている。結婚して、も
う30年近くになるが、今でも、給料は、全額、母親に渡している。妻もいて、長女もす
でに結婚したが、今でも、そうしている。はたから見れば、おかしな家族だが、D氏自身
は、そうは思っていない。「親を粗末にするヤツは、地獄へ落ちる」を口グセにしている。

 D氏の妻は、静かで、従順な人だった。しかしそれは、D氏を受け入れたからではない。
あきらめたからでもない。最近になって、妻は、こう言ってD氏に反発を強めている。「私
は結婚したときから、家政婦以下だった。私の人生は何だったの。私の人生を返して!」
と。

 自分自身が、マザーコンプレックスにせよ、ファーザーコンプレックスにせよ、コンプ
レックスをもつのは、その人の勝手。しかしそれを妻や子どもに、押しつけてはいけない。

 D氏について言えば、「親は絶対!」と思うのは、D氏の勝手。しかしだからといって、
自分の妻や子どもに向って、「自分を絶対と思え」「敬(うやま)え」と言うのは、まちが
っている。が、D氏には、それがわからない。

●親を見抜く

 まず、親を見抜く。一人の人間として、見る。しかしほとんどの人は、この段階で、「親
だから……」という幻想に、振りまわされる。とくにマザーコンプレックス、ファーザー
コンプレックスの強い人ほど、そうである。

 かりに疑問をもつことはあっても、それを自ら、否定してしまう。中には、他人が、自
分の親を批判することすら、許さない人がいる。

 U氏(57歳)がそうである。

 U氏の父親は、数年前に死んだが、その父親は、金の亡者のような人だった。人をだま
して、小銭を稼ぐようなことは朝飯前。その父親について、別の男性が、「あんたの親父(お
やじ)さんには、ずいぶんとひどい目にあいましたよ」と、こぼしたときのこと。U氏は、
猛然とその男性にかみついた。それだけではない。「あれは、全部、私がしたことだ。私の
責任だ。親父の悪口を言うヤツは、たとえ友人でも、許さん」と。そのとき、そう言いな
がら、その男性の胸を手でつかんだという。

 U氏のような人にしてみれば、そういうふうに、父親をかばうことが、生きる哲学のよ
うにもなっている。私にも、ある日、こう言ったことがある。

 「子どもというのは、親から言葉を習うものです。あなただって、親から言葉を習った
でしょう。その親を粗末にするということは、人間として、許されないことです」と。

 「親を見抜く」ということは、何も「粗末にする」ことではない。親を大切にしなくて
もよいということでもない。見抜くということは、一人の人間として、親を、客観的に見
ることをいう。つまりそうすることで、結局は、今度は、親である自分を知ることができ
る。あなたの子どもに対して、自分がどういう親であるかを、知ることができる。
 
●きびしい親の世界

親であることに、決して甘えてはいけない。つまり、親であることは、それ自体、きび
しいことである。

マザーコンプレックスや、ファーザーコンプレックスが悪いというのではない。えてし
て、そういうコンプレックスをもっている人は、その反作用として、自分の子どもに対
して、同じように考えることを求める。

 そのとき、あなたの子どもが、あなたと同じように、マザーコンプレックスや、ファー
ザーコンプレックスをもてば、よい。たがいにベタベタな関係になりながら、それなりに
うまくいく。

 しかしいつも、そう、うまくいくとは、かぎらない。親を絶対化するということは、同
時に親を権威化することを意味する。そして自分自身をまた、親として、権威づけする。「私
は、親だ。お前は、子どもだ」と。

 この権威が、親子関係を破壊する。見た目の関係はともかくも、たがいの心は、離れる。

●親は親で、前向きに

 親は親で、前向きに生きていく。親が子どものために犠牲になるのも、また子どもが親
のために犠牲になるのも、美徳でも何でもない。親は、子どもを育てる。そしていつか、
親は、子どもの世話になる。それは避けられない事実だが、そのときどきにおいて、それ
ぞれは、前向きに生きる。

 前向きに生きるというのは、たがいに、たがいを相手にせず、自分のすべきことをする
ことをいう。かつてあのバートランド・ラッセルは、こう言った。「親は、必要なことはす
る。しかしその限度をわきまえろ」と。

 つまり親は、子どもを育てながら、必要なことはする。しかしその限度を超えてはなら
ない、と。このことを、反対に言うと、「子どもは、子どもで、その限度の中で、懸命に生
きろ」ということになる。また、そうすることが、結局は、親の負担を軽減することにも
なる。

 今、親の呪縛に苦しんでいる子どもは、多い。あまりにも、多い。近くに住むBさん(4
3歳、女性)は、嫁の立場でありながら、夫の両親のめんどうから、義理の弟の子どもの
めんどうまで、押しつけられている。義理の弟夫婦は、今、離婚訴訟の最中にある。

 Bさんの話を聞いていると、夫も、そして夫の家族も、「嫁なら、そういうことをするの
は、当然」と考えているようなフシがある。Bさんは、こう言う。

 「(義理の)父は、長い間、肝臓をわずらい、週に2回は、病院通いをしています。その
送り迎えは、すべて、私の仕事です。(義理の)母も、このところ、さらにボケがひどくな
り、毎日、怒鳴ったり、怒ったりばかりしています。

 そこへ、(義理の)兄の子どもです。今、小学3年生ですが、多動性のある子どもで、1
時間もつきあっていると、こちらの頭がヘンになるほどです」と。

 こうしたベタベタの関係をつくりあげる背景に、つまりは、冒頭にあげた、「幻想」があ
る。家族は、その幻想で、Bさんを縛り、Bさんもまた、その幻想にしばられて苦しむ。
しかしこういう形が、本当に「家族」と言えるのだろうか。またあるべき「家族」の姿と
言えるのだろうか。

●日本の問題

 日本は、今、大きな過渡期を迎えつつある。旧来型の「家」意識から、個人型の「家族」
意識への変革期にあるとみてよい。家があっての家族ではなく、家族あっての家という考
え方に、変りつつある。

 しかし社会制度は、不備のまま。意識改革も遅れている。そのため、今、無数の家々で、
無数の問題も、起きている。悲鳴にも近い叫び声が聞こえている。

 では、私たちは、どうしたらよいのか。またどうあったらよいのか。

 私たちの親については、しかたないとしても、私たち自身が変ることによって、つぎの
子どもたちの世代から、この日本を変えていかねばならない。その第一歩として、私たち
がもっている幻想を捨てる。

 親子といえども、そこは純然たる人間関係。1対1の人間関係。1人の人間と、1人の
人間の関係で、成りたつ。「親だから……」と、親意識をふりかざすことも、「子どもだか
ら……」と、子どもをしばることも、これからは、やめにする。

 一方、「親だから……」「子どもだから……」と、子どもに甘えることも、心して、最小
限にする。ある母親は、息子から、土地の権利書をだましとり、それを転売してしまった。
息子がそのことで、母親を責めると、母親は、平然とこう言ったという。「親が、先祖を守
るため、息子の財産を使って、何が悪い!」と。

 こういうケースは、極端な例かもしれないが、「甘え」も、行き着くところまで行くと、
親でも、こういうものの考え方をするようになる。

 もちろん子どもは子どもで、その重圧感で悩む。その息子氏とは、この数年会っていな
いので、事情がわからないが、最後にその息子氏は、私にこう言った。「それでも親ですか
ら……」と。息子氏の苦悩は、想像以上に大きい。

 さてあなたは、その幻想をもっていないか。その幻想で苦しんでいないか。あるいは、
その幻想で、あなたの子どもを苦しめていないか。一度、あなたの心の中を、のぞいてみ
るとよい。
(03年12月27日記)

【追記】

 正月が近づくと、幼児でも、「お正月には、実家へ帰る」とか言う子どもがいる。しかし
「実家」とは何か? もし祖父母がいるところが、実家なら、両親のいるところは、「仮の
家」ということになる。

 家族に、実家も、仮の家もない。こうした、封建時代の遺物のような言い方は、もうや
めよう。

 農村地域へ行くと、「本家(屋)」「新家(屋)」という言い方も残っている。20年近く
も前のことだが、こんなことを言った母親がいた。「うちは、あのあたりでも、本家だから、
息子には、それなりの大学に入ってもらわねば、世間体が悪いのです」と。

 日本人の意識を「車」にたとえるなら、こうした部品の一つずつを変えていけないと、
車の質は変わらない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 親意識 親像 人格の完成度 子どもの完成度 幼稚返り 家意識 
家制度 はやし浩司 実家 実家意識 マザーコンプレックス マザコン ファザコン 
ファーザーコンプレックス)


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司

【貧者の論理】

+++++++++++++++++++

近代経済学が、なぜ、世情に合わないか。
国際政治学でも、よい。
近代経済学は、世情を捉えるのに、ことごとく失敗している。
理屈どおりには、いかない。
理論どおりにも、進まない。
そこで経済学者たちは、頭を悩ます。
国際政治は混乱する。

それもそのはず。
経済学者たちには、(こういうふうに大上段に
構えて、ものを書くのも気が引けるが)、
貧者には貧者の論理というものがある。
貧者の論理は、理屈や理論どおりには、動かない。
そのことがまったく、わかっていない。

貧困が、嫉妬、ひがみ、ねたみ、うらみ、いじけを生む。
それらが複雑に屈折し、絶望、虚無主義につながる。
善悪の基準そのものも、ちがう。
リッチな世界では重犯罪でも、貧者の世界では
ただの(遊び)。
窃盗にしても、貧者の世界では、窃盗されるほうが、
悪いとなる。

この(ちがい)が、経済学者が考える経済理論を、
根底からくつがえす。
国際政治学にしても、そうだ。
きれいごとだけでは、国際政治は動かない。
つまり数字や理屈で考える常識では、理解不能。
いくら想像力を豊かにしても、貧者の論理は、その
向こうにある。

+++++++++++++++++++++

●観光事業

 たまたまこんな事例がある。

 韓国側の1民間企業が主体となって、K国への観光事業を始めた。
その1民間企業にとっては、メリットは大きい。
K国内での観光事業を、独占的に展開できる。
一方、K国側は、観光客の落とす現金で、潤う。

 が、その観光事業は、現在、中断している。
理由は、観光客の射殺事件。
K国側は、その事件について、正式に謝罪をしていない。
補償もしていない。
事件の調査すら、韓国側にさせていない。

 韓国政府が、観光事業を中断させるのは、当然である。

 が、これに対して、1民間企業である観光会社の社長が、K国まで行って、直談判。
社長と、K国の幹部とは、何やら深い関係にあるらしい。
これに対して、K国側は、「観光事業を再開してほしい」と。

 その返答を受けて、社長は意気揚々と韓国へ帰ってきた。
が、韓国政府の反応は、こうだ。
「国としての正式の回答ではないので、政府としては、何とも返事をしかねる」と。
これにK国が、反発した。

 そのときのニュースが、これ(時事通信11月25日)。

『朝鮮中央通信は25日、中断しているK国の金剛山と開城での観光事業について、韓国の玄
仁沢統一相を、名指しで批判する朝鮮アジア太平洋平和委員会報道官談話を伝えた。談話は
南北間の観光事業について、「南朝鮮(韓国)当局が、対決の目的に悪用し、阻もうとしてい
る」と主張した』と。

 とくに「?」なのが、「韓国当局が、対決の目的に悪用し」という部分。

●貧者の論理

 どうして、悪用なのか?
この理解不能の部分に、実は、貧者の論理が働いている。
貧者は、「援助してもらうのが、当然」と考える。
援助してもらうことについて、感謝の念は、最初から、ない。
だからその援助が止められることを、「悪用」ととらえる。

 誤解がないように書いておくが、「観光事業」とはいうものの、その中身は、「援助」。
道路整備から観光バス、宿泊施設の建設まで、韓国側で提供している。
わずかな距離の観光だが、その費用は、10〜30万円。
韓国側の観光客は、法外な費用を払って観光する。
一方、K国側にとっては、そのまま貴重な外貨の収入源となる。
それを韓国側が、取りやめた。
それをK国は、「悪用」という。

●3年前の原稿より

 こうした貧者の論理を理解するためには、一度、あなた自身を貧者の立場に置いて
みる必要がある。
それについては、以前にも書いたので、そのまま紹介する。
日付は、06年の10月となっている。

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●K国の核実験宣言

++++++++++++++++

K国が、核実験をすると、
公式に発表した。

だれにも相手にされなくなると、
悪あがきしてみせる。

「ならず者」の典型的な
行動パターンである。

++++++++++++++++

 とうとうというか、ついに、K国が、核実験を公式に宣言した。「アメリカの反共和国(反
北朝鮮)孤立圧殺策動が限界点を越えた状況にあって、われわれはこれ以上、傍観してい
るわけにはいかない」(10月3日・K国外務省)というのが、その理由だそうだ。

 アメリカが悪い。だから核実験をするのだ、と。

 とんでもない意見に聞こえるかもしれないが、貧者には貧者の論理(※)というものが
ある。その日の食べ物に困っている人にしてみれば、腹いっぱい、おいしいものを食べて
いる人を見ただけで、腹がたつもの。それはわかる。しかしそれを考慮に入れても、K国
のこの言い分には、(?)マークが、何個も並ぶ。

 が、もし核実験をすれば、それで本当に、K国は、おしまい。おしまいの、おしまい。
あとは自己崩壊するしかない。つまりK国は、現在、そこまで追いつめられている。K国
というより、金xxによる独裁政権は、そこまで追いつめられている。

 日本としては、金xx独裁政権を、自己崩壊させるのが、もっとも好ましいシナリオと
いうことになる。拉致問題も、それで解決する。

 しかし、問題は、韓国。いまだに、「同胞、同胞」と、K国にすりよっている。どこか演
歌的? どこか浪曲的? あのN大統領は、「北朝鮮の核は一理がある」とさえ言ったこと
がある。最近にいたっては、「K国が核実験をしても、戦時作戦統制権の単独行使には影響
しない」とまで言い切っている。「K国が核事件をしても、アメリカ軍は、必要ない」と。

 天下のおバカ大統領である。K国が核兵器をもてば、韓国内の軍隊は、すべて「紙くず」
(朝鮮N報)と化す。にもかかわらず、そういうことが、まるでわかっていない。あるい
はそのうち、「K国をここまで追いこんだのは、アメリカだ。日本だ」と言い出すかもしれ
ない。

 何度も書くが、K国の金xxは、もう(まとも)ではない。はっきり言えば、狂ってい
る。そういう人間を相手に、まともな議論などしても意味はない。金xxの言動を、いち
いち分析しても意味はない。真意はどうの、目的はどうのと、論じても意味はない。

 私たち日本人は、そういう前提で、K国問題を考え、K国の核開発問題を考える。K国
が自己崩壊すれば、韓国や中国は困るかもしれない。が、今の段階では、そんなことは日
本の知ったことではない。そういうのを、私たちの世界では、「自業自得」という。

 それにしても、とうとうここまで来たか……というのが、今の私の実感である。
 
【貧者の論理】(※)

 若いころ、オーストラリアの大学で、ある教授が口にした言葉である。名前は忘れたが、
その教授は、『貧困による公害(Pollution by Poverty)』という言葉を使った。

 つまり貧者には貧者の論理というものがあり、その論理を忘れて貧者を語ることはでき
ないというものだった。

 たとえば1人の金持ちと、1人の貧者がいたとする。金持ちは、自分が豊かであること
を、見せつけるともなく、見せつける。そして貧者に向かって、こう言う。「君も、ぼくの
ようになりたかったら、努力しなさい」と。

 金持ちは、貧者に努力の大切さを教えたつもりかもしれないが、貧者は、そうはとらな
い。貧者は、やがてその金持ちを、ねたむようになる。そしてこう思うようになる。「お前
たちのような人間がいるから、オレたちは貧しいのだ」と。

 そのよい例が、現在のK国である。

 情報が遮断(しゃだん)されていることもあるが、K国の人たちは、だれも、自分たち
の指導者がまちがっているとは思っていない。とくに金xxを取りまく人たちは、そうで
ある。

 西側の豊かさを見聞きするたびに、それをうらやましいと思う前に、「西側が、オレたち
の発展をじゃまするから、オレたちは貧しいのだ」と考える。豊かな生活といっても、その実感
そのものがない。

 そのため貧者は、貧者であるがゆえに、屈折したものの考え方をする。そしてそのため、
貧者の世界では、勝者の論理は、ことごとく否定される。「核兵器を拡散させたら、世界は
たいへんなことになる」と説くのは、勝者の論理である。貧者は貧者で、別の論理で考え
る。そしてこう言う。

 「自分たちは核兵器をもっていて、何てことを言うのだ!」と。「第三世界」という言葉
も、そういう過程で生まれた。

 こうして勝者と貧者は、あらゆる場面で、ことごとく対立する。おおざっぱに言えば、
それがアメリカ流民主主義が、その世界でしか通用しないという理由でもある。さらにお
おざっぱに言えば、西側の経済論理が、その世界でしか通用しないという理由でもある。

 こうした貧者の論理にメスを入れ、それを解き明かそうとする努力も、いろいろな場面
でなされている。が、そのどれも結局は中途半端で終わってしまうのは、いつも勝者が勝
者の立場で、貧者を論ずるからである。
(06年10月4日記)

++++++++++++++++++++

07年にも、同じような原稿を書いていた。
こうして原稿を拾い出してみると、私は
ちょうど2年ごとに、同じことを考えて
いるのがわかる。
どうでもよいことだが・・・。

内容が一部、重複するが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●今日・あれこれ

+++++++++++++++

K国は、K国で開発したミサイルを、
イランで実験していたという。

そのイランは、ウランの濃縮を加速
させているという。

K国とイラン。水面下で、深く、結
びついている。

+++++++++++++++

●貧者の論理

 貧者には、貧者の論理というものがある。(私はよく知っているぞ!)

 たとえばあなたが日々に生活に困り、今日の食べ物すらままならない生活をしていたと
する。子どもは腹をすかせて、泣いている。午後には、借金取りがやってくる。

 そういうとき、あなたの隣人は高級車を乗り回し、豪勢な買い物をしている。見ると車
の後部座席には、夕食の食材が、どっさり!

 そういう隣人を見て、あなたはうらやましいと思うだろうか。その隣人を、すばらしい
人と思うだろうか。が、実際には、そうではない。

 ここで貧者の論理が働く。貧者は、こう考える。「お前たちが富を独り占めにするから、
オレたちは貧しいのだ」と。

 が、そういう声は隣人には届かない。その隣人は、あなたに向かってこう言う。「あなた
も一生懸命、働きなさい。働けば、いい生活ができます」と。

 しかしあなたはそれに反発する。反発するだけではない。怒りすら覚える。隣人のアド
バイスは、こう言っているように聞こえる。「あなたが貧しいのは、あなたがなまけている
からだ」と。

 そうではない! この日本では、ほんのわずかでも、チャンスをつかんだ人だけが成功
する。そうでない人は、そうでない。それは個人の力というよりも、(流れ)の中で決まる。
あせればあせるほど、深みにはまり、ますます身動きが取れなくなってしまう。そういう
人は多い。

●富者の論理

 K国を理解するときは、この貧者の論理を念頭に置かねばならない。食糧はない。原油
もない。いろいろ経済政策を試みてはみるが、どれも、うまくいかない。失敗の連続。

 つまり相手の立場で、ものを見る。K国から見たら、この日本はどう見えるかというこ
と。このことは、日本に住んでいる、在日K国人と言われている人たちを見ればわかる。

 彼らは日本に住み、日本のことをたいへんよく知っている。同時に、K国のことも、た
いへんよく知っている。本来なら……というより、常識的に考えれば、K国の政治体制が
おかしいと、だれしも思うはず。しかし彼らは、そうは思っていない。日本の繁栄ぶりを
見ながらも、こう思っている。「この日本が繁栄しているのは、私たちが犠牲になったから
だ」「今も犠牲になっているからだ」と。

 貧者の論理がまちがっているというのではない。しかし富者の論理だけでものを考える
と、失敗する。そのよい例が、経済学である。

 ほとんどの近代経済学は、その富者の論理だけで成り立っている。国際政治にしても、
そうだ。大きく見れば、アメリカのイラク政策、イラン政策、さらにはK国政策も、アメ
リカという富者の論理ばかりが先行している。だからいつも限界にぶつかる。あるところ
までは正当性をもつが、それを乗り越えることができない。いつもそこで第三世界の反撃
をくらう。

●加工される貧者の論理

 だからといって、K国の核開発やミサイル開発を容認せよというわけではない。こうし
た貧者の論理を当てはめても、とうてい理解できないほど、K国の論理は、常軌を逸して
いる。むしろ貧者の論理を、逆手(さかて)に取って、自分たちを正当化している。

 そこで今度は、イランでのミサイル発射実験である。K国は、自国で開発した長距離ミ
サイルを、イランで実験していたという(5月16日)。

 日本にとっては、とんでもないニュースである。が、ここでもやはり貧者の論理が働く。
この日本でも、かつてこう言ったニュースキャスターがいた。当時は夜のニュース番組を
代表するキャスターだった。

 K国の核開発問題に触れながら、こう言った。「何、言っているんですか。アメリカだっ
て、核兵器をもっているではありませんか!」と。どこか吐き捨てるような言い方だった。
つまり、「核兵器を思う存分もっているアメリカが、K国の核兵器開発を問題にするのはお
かしい」と。

 しかし忘れてならないのは、K国の核兵器開発は、「日本向け」のもの。かねてから、K
国の政府高官たちは、そう繰り返し述べている。「韓国向け」ではない。もちろん「中国向
け」でもない。「アメリカ向け」という説もあるが、アメリカに対しては、「脅し」にすぎ
ない。

 私はこの発言にあきれて、即座にテレビ局に抗議の電話を入れた。あのA新聞社の系列
のA放送である。「拉致問題は、日本政府のデッチあげ」と主張してやまなかった、あのA
新聞社である。

 貧者の論理は貧者の論理でも、富者によって加工された貧者の論理である。

●経済制裁

 そういうK国に対して、経済制裁は、当然のことである。もっとわかりやすく言えば、
私たちは、目下、戦争状態にある。かつて「戦争は政治の延長である」と言った政治家が
いたが、戦争といっても、ある日、突然、始まるものではない。それまでの(くすぶり)
があって、ある日、ボッと火が燃えあがる。

 わかりやすく言えば、すでに戦争は始まっているということ。私たちがなすべきことは、
K国というよりも、K国の体制を崩壊させること。独裁政権であるがゆえに、ほかに方法
はない。

 が、この経済制裁を、つぎつぎと骨抜きにしているのが、ほかならぬK国の隣国の韓国
である。それについてはすでにたびたび書いてきたので、ここでは省略するが、今度は、
米中韓Kの、4か国首脳会議を画策している。南北首脳会談も画策している。もっとも4
か国首脳会議については、アメリカが異議を唱えたため、韓国政府は、「6か国協議の枠内
での4か国首脳会議」(5月16日)と、言いなおしている。

 どうであるにせよ、現在の韓国は、イコール、K国と考えてよい。つまりこの日本は、
韓国とも、すでに戦争状態にあるとみるべきである。

●東京に核兵器が!

 いろいろな意見がある。「原爆の1発や2発、(東京に落ちても)、どうということはない」
という意見もある。どこかの科学者が、ある雑誌で、堂々とそういう意見を披露していた(雑誌
「S」)。

 あるいは「K国には、核開発をする能力はない」と主張している学者も多い。

 しかしそのK国が、どうやら水面下で、イランと結びついているのがわかってきた。K
国はミサイル技術を提供し、イランは、核開発技術を提供する。……となると、今までの
図式が総崩れとなる。「K国、一国だけなら……」と考えていた人も多いかと思うが、それ
がグローバルな問題へと、ここで一気に拡大する。

 中東問題もからんでくる。米中、米ロ問題もからんでくる。もしそうなれば、(現実にそ
うなりつつあるが……)、それこそまさにK国の思うツボ。国際社会の混乱を引き寄せなが
ら、つぎに一気に、日本をおどしにかかってくるはず。

 そのとき、アメリカとの間に、相互不可侵条約のようなものであれば、仮にK国が日本
を攻撃しても、アメリカはK国に対して、手も足も出せない。日本は日本で、憲法9条に
制約されて、防衛に徹するしかない。

 たとえば仮に今、東京でK国の核兵器が爆発しても、日本は、それに対してK国に反撃
することもできない。もちろん今は、日本は、アメリカの核の傘のもとにあるから、一応、
アメリカがK国に反撃してくれることになっている。

 しかしそのアメリカにしても、自国を犠牲にしてまでも、日本を守ってくれるだろうか。
そんな疑問もないわけではない。

●ではどうするか?

 日本にとっての最良のシナリオは、K国が自己崩壊すること。これはK国の人たちのた
めでもある。あのFさん(韓国へ亡命したK国の元政府高官)や、韓国に脱北した人たち
も、みな、そう言っている。

 が、これに猛烈に反対しているのが、韓国政府であり、中国政府ということになる。と
くに韓国のN大統領の論理は、貧者の論理の上に成り立っている。

 「朝鮮半島が南北に分断されたのは、アメリカのせい」「しかも、こうした悲劇の基礎を
作ったのは日本」と。

 それが反米、反日運動の原点にもなっている。加えて、(1)「日本ごときに韓国が蹂躙
(じゅうりん)された」という憎しみ、(2)独立を自分たちの力でなしえなかったという
不完全燃焼感(以上、M氏談)もある。

 以上を考えていくと、私たち日本人がなすべきことは、ただひとつ。現在の日韓経済戦
争に勝利することである。わかりやすく言えば、韓国経済をたたきつぶす。

 ……こう書くと、かなり過激な意見に聞こえるかもしれないが、日本はそうでなくても、
向こう(=韓国)は、その気で、日本の常に挑戦をいどんできている。それがわからなけ
れば、韓国の中央N報、朝鮮N報、東亜N報の各紙を、ほんの少しでもよいから目を通し
てみることだ。

 「日本に勝った」「日本に負けた」の記事が、連日のように、トップ記事として並んでい
る。

 ……何はともあれ、東京とのど真ん中で、たった1発でも、核兵器が爆発してからでは、
遅いのである。それだけは忘れてはならない。
(07年5月17日記)

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●母のこと

 「貧者の論理」というと、特別の人だけがもつ論理に考えるかもしれない。
しかし実際には、そうでない。
私だって、あなただって、その立場になれば、もつ。
私の母だって、そうだ。……そうだった。

 私は結婚する前から、実家に住む母に、収入の約半分を仕送りしてきた。
今のワイフと結婚するときも、それを条件として、ワイフと結婚した。
だからワイフは、以後、20年以上、何ひとつ不平や不満を言わず、それをつづけてくれた。

 が、一度(保護)(依存)の関係ができると、それを断ち切るのは容易なことではない。
最初は感謝されるが、1〜2年もすると、それが当たり前になり、さらに1〜2年もすると、今度
は相手側から請求されるようになる。

 仕送りの額を減らしたり、遅らせたりすると、かえって相手の反感を買ってしまう。
私の母のばあいは、泣き落とし戦術というか、そのつど、メソメソと泣き言を言ってきた。
兄もそうだった。
何かほしいものがあると、「〜〜がないで困る」「〜〜が壊れた」と電話をかけてきた。
こうして冷蔵庫、ステレオ、テレビなどなど。
コンロまで、別枠で、私が買って与えるようになってしまった。

 そんなある日、私は私の山荘へ母と兄を招待した。
山荘といっても、小さな山を買い、6年かかって、造成した土地である。
毎週土日に、ワイフと2人で、工事をした。
家だけは、地元の建築会社に建ててもらった。

 その山荘を見て、母は、こう言った。
「どうせ建てるなら、M町(実家のある町)に建ててくれればよかった」
「そうすれば、私が使えた」と。

 私の夢がかなったことを、母は喜んでくれるものとばかり思っていた。
が、母には、母の論理があった。
「親孝行をするのが、先。息子であるお前が、親よりいい生活をするのは許せない」と。
そうは言わなかったが、私には、そう聞こえた。

 だからといって、母を責めているのではない。
母は母で、貧者の論理で、ものを考えていた。

●机上の空論

 貧者の論理は、人間が原罪的にもつ(欲望)と深くからんでいる。
そのためにひとたび扱い方をまちがえると、その論理に毒されてしまう。
正常な判断力、思考力すら、見失ってしまう。

 これは人間性の問題というよりは、油断の問題と考えてよい。
つまり人は、いつもどこかで、(保護)(依存)の関係を保ちながら、他の人と交わっている。
それが複雑にからみあっている。
保護している人も、べつの場面では、だれかに依存している。
依存している人も、べつの場面では、だれかを保護している。

 が、ひとたびどこかで油断すると、そうした関係が、貧者の論理に毒されるようになる。
嫉妬、ひがみ、ねたみ、うらみ、いじけが、その人の心をゆがめる。
心そのものがゆがむため、自分でそれに気づくことは、まずない。
その一例が、現在のK国ということになる。

 韓国側が、観光事業を止めたことを、「被害」と、受け止める。
そして観光事業を再開しないことを、「悪用」と、とらえる。
韓国政府は先に、トウモロコシ1万トンの援助を申し出た。
それについても、「少なすぎる?」という理由で、K国側は、受け取りすら拒否している。

 私たち日本人からすると、「どこまでいじけるか?」ということになる。
しかし彼らは、けっして自分たちが、いじけているとは思っていない。
それが正当な行為と信じ切っている。
貧者の論理に毒されると、そういうものの考え方をするようになる。

 で、冒頭の話になる。

 経済学にもいろいろある。
そのつどいろいろな学者が自説を披露する。
しかしこと経済については、(国際外交もそうだが)、理論どおりには機能しない。
「援助してやったから、貧しい国の人たちは、感謝しているはず」
「〜〜億ドル、渡したから、これで国の再建はできるはず」と。
しかしこうした論理は、貧しい国の人たちには、通用しない。
彼らには、彼らを支える論理がある。
それが、「貧者の論理」ということになる。
言い換えると、貧者の論理にメスを入れないかぎり、経済学も、国際政治学も、いつまでたって
も机上の空論で終わってしまう。

 私は、それを書きたかった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW はやし浩司 貧者の論理 ゆがんだ心 歪んだ心 嫉妬 ひがみ いじけ 恨み)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov.09+++++++++はやし浩司

●36億円!

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もちろん私の中にも、貧者の論理が
巣くっている。
「36億円」という数字をみたとき、
それを感じた。

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●ケタはずれ

 あまりにもケタはずれなので、驚いた。
鳩山首相の資金管理団体「友愛政経懇話会」をめぐる、政治資金収支報告書の
虚偽記載問題に関して、驚くなかれ、鳩山首相の実母が、自己名義の口座から、
何と計約36億円を引き出し、現金化していたという。

36億円だぞ。

 新聞などの報道によれば、「現金化された資金の一部が、首相の政治資金に
充てられた可能性もあるとみて、東京地検特捜部が、慎重に調べている」(C新聞)
とのこと。

 今のところ、「首相への貸付金なら、法的な問題は生じない」とし、「悪質ではない」
という理由で、直接の担当者については、在宅起訴程度ですませる予定という。

●悪意性はない?

 親子の間だから、多少の金銭の動きはあるだろう。
政治活動ともなれば、なおさら。
しかしその額が、問題。
約36億円!
つい先日、民主党のOZ党首の、3億円の献金が問題になった。
そのあと、自民党のAS前首相の、2億5000万円の機密費が問題になった。
しかし36億円というのは、1桁、桁がちがう。

 その36億円について、「貸付金なら問題はない」「悪質性はない」とは!
いくらそうであっても、貧者は、それでは納得しない。

●消えた36億円

 それにしても興味深いのは、つぎの2点。

(1)36億円という巨額の資金は、どこへ消えたのか。
(2)貸付金とはいうものの、そんな借金を、この先、どうやって返済するのか。

 この先、その中身は特捜部の捜査によって、少しずつ明らかになるだろう。
しかしいろいろな見方ができる。

 ひとつは、母親から鳩山総理大臣に対する、生前贈与。
毎月、小口に分けて送金したということから、それが疑われる。
だから鳩山総理大臣は、政治資金に使ったというよりは、自分の(財産)として、
それをプールした可能性も、なくはない。

 仮に政治資金として使われたとするなら、それによって利益を受けた人もいるはず。
どこに、どのように使われたのか。
考えれば考えるほど、疑惑がわいてくる。

●貧者のひがみ

 週に1回、温泉街にある温泉に行く。
1回の入浴料金は、1000円。
ゆかたを借りると、プラス300円。
たいてい帰りには、回転寿司の店に寄って、一皿100円の寿司を食べる。
あるいは全国チェーンのラーメン店に寄る。
計、2000円。
夫婦で遊んでも、4000円。

 計算するのもバカ臭いから、数字を並べてみる。

温泉+回転寿司            4000円
鳩山首相のポケットマネー 3600000000円

 「0」の数だけ並べ比べても、それがわかるはず。

 それでも、まあ、自分としては、リッチなほうっだと思っている。
好きなことを、予算を考えないでできる。
(たいした予算ではないが……。)

 しかしそれでも、36億円という金額は、想像できない。
しかも新聞報道によれば、毎月5000万円。
それを6年間!

●論理という非論理

 いつの間にか、この日本は、こんなバカげた国になってしまった。
こういう話を耳にするたびに、(まじめ)さが、この国から色あせていく。
つまり自分のしていることが、バカ臭くなっていく。

 もう少しわかりやすい例で説明しよう。

 あなたには3人の子どもがいる。
みんな、腹をすかせている。
電気代もガス代も、節約しなければ、生活できない。
そんな中、隣の家を見ると、煌々と明かりがついている。
垣間見る台所には、食べ物が山のようになっている。

 そんなとき、だれかがあなたにこう言ったとする。

「この世は、より働くものが、よりよい生活ができる。
そうでないものは、そうでない」と。

 あなたはその論理に、素直に納得するだろうか。

●毎月5000万円、6年間!

 そういう人が、日本の総理大臣をしている!
私はこの事実が、許せない。
たとえばあのK国では、首都のP市に住む人だけが、それなりによい生活が
できるという。
P市に住めるというだけで、特権階級。
一方、地方では、09年の秋になってから、餓死者が出始めているという。

 そういう話を聞くと、私たちは、こう思う。
「何て、バカげた国なんだろう」と。
しかしそういう国を、だれが笑うことができるのか。
笑うことができないだけではない。
結局は、私たち日本人も笑われている。

 いくら「悪意性はない」と言っても、そんな論理は、まともな世界では通用しない。
はっきり言えば、狂っている。
一国の首相の母親が、毎月5000万円だと!
それを6年間も!

●退陣あるのみ

 何が、民主主義だ。
民主党だ。
名前を聞いて、あきれる。
民主主義の本質を、根底からひっくり返している。
民主主義そのものを、否定している。

これほどまでの不平等を、自ら放置し、容認するばかりか、その不平等の上に、
どっかりと腰をすえている。

 36億円というポケットマネーは、そういうお金。
どうしてそういう人物が、日本の首相でありえるのか。
日本の首相で、いてよいのか。

 自民党のあのAS前首相には、うんざり。
がっかり。
その上、鳩山首相まで!
いったい、私たちは何を信じたらよいのか。

 最後に一言。

 この問題は、「悪意性がない」とか、あるとかいう問題ではない。
私たちが今感じている、このやりようのない(怒り)。
それが、問題。
挫折感。
失望感。
それが、問題。

 昨日の世論調査によれば、民主党の支持率こそ、50〜60%前後だそうだが、
鳩山首相個人への支持率は、10%前後しかないという。
当然のことだ。
あのAS前首相の支持率より低くなったことを、忘れてはいけない。

 「民主党」のために、鳩山首相、ならびに、OZ氏は、即刻退陣したらよい。
がんばればがんばるほど、民主党に与えるダメージは、大きくなる。
日本の民主主義は、後退する。

Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司※

●BW教室から

●チン毛

 小学4年生の子どもたちが、ヒソヒソと何やら話している。
A君が言った。
「お前、本当に、生えているのか?」
B君「生えているよオ〜」
A君「本当か?」
B君「まだ、産毛だけどね……」と。

 横には女児がいる。
前には、私というおとながいる。
先週、何かの拍子に、A君が、「生えている」と漏らしたのを、B君が覚えていた。

私「そういう話は、してはだめ。セクハラになる!」と。

が、それを横で聞いていたC子さん(女児)が、すかさず、こう言った。
「そんな話、学校で、たくさん聞いている!」と。

私「学校で?」
C「保健体育の時間に、先生が話してくれた」
私「先生が?」
C「そうよ……。教科書の最後に、絵が載っていた。私、あれを見て、気持ち悪かった…
…」
私「どうして、気持ち悪かったの?」
C「だってさア、アレが、ダラ〜ンとぶらさがっていたもん」と。

 つまり男性のアレが、ダラ〜ンとぶらさがっていたというのだ。

私「どうして、ぶらさがっていたら、気持ち悪いの?」
C「だってさあ、あんなふうに、ぶらさがっていないもん」と。

 それを聞いて、みなが、笑った。

男児たち「お前さア、見たことあるのかア? エッチだなア……」と。

私「あのなあ、ふつうは、ダラ〜ンとぶらさがっている」
C「ギャー、気持ち悪い!」
私「ヘビじゃないんだからさア……。気持ち悪いというのは、おかしい」
C「ギャーア、ハハハハ」と。

 「性」というのは、不思議な二面性をもっている。
ただの器官としての(性)。
性欲を燃え上がらせるための(性)。
男も女も、この2つの間を、行ったり来たりしている。
その中から、無数のドラマが生まれる。
小学4年生というと、この二面性に気づき始める年齢ということになる。


●世界一すばらしい人

 年長児のクラスで、「世界でいちばん、すばらしい人はだれか?」という質問をしてみた。
当然、「ママ」とか、「お母さん」という言葉が返ってくるものとばかり思っていた。
が、いくら促しても、そういう言葉が出てこない。
中に、「アラン・ドロン」と答えた子どももいた。
しびれをきらして、私が、「お母さんだろ!」と言うと、みなが、「ゲーッ」と。

 これには驚いた。
うしろの席には、母親たちが、みな参観している。

私「あのなあ、そういうこと言うと、お母さんが悲しむよ」
子「だって、うちのママ、全然、かっこよくないもん」
私「あのなあ、そういうことを、人の前で言ってはだめ」
子「だって、本当だもん」と。

 つづいて、「世界で、いちばん大切な人はだれか」とも聞いてみた。
このときも、「パパ」とか、「お父さん」という言葉が返ってくるものとばかり思っていた。
が、やはり、そういう言葉が、いつまで待っても、出てこない。

私「あのなあ、パパだろ。パパが、いちばん大切だろ」
子「パパだってエ〜。ゲラゲラ」
私「あのなあ、そういうことを言うと、君たちのパパは悲しむよ」
子「ママがいるから、いい……」
私「もう、お前たちは、いったい、何を考えているんだ。許さん!」
子「許さん……てえ?」
私「全員、おしおきだ」と。

 ……こうした様子は、YOUTUBEに収録しておいた。
興味のある人は、どうか、見てほしい。
子どもたちの明るい笑い声を、楽しんでもらえるはず。

(注)本当は、子どもたちの表情をカメラに収めたいのだが、このところ肖像権という
のが、うるさくなった。
私自身は、子どもたちにとっても、よい思い出になるから、カメラに収録しておきたい
のだが……。
この時期の子どもたちは、数か月単位で、表情も様子も、どんどんと変わっていく。

BW公開教室・11月号は、以下のアドレスから……。

http://bwhayashi.ninja-web.net/page009.html

どうか、お楽しみください。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●人がもつ悪魔性について

++++++++++++++++++

イギリスでは、『抑圧は悪魔を作る』という。
慢性的な抑圧状態がつづくと、ものの考え方が
悪魔的になることをいう。

ここでいう「抑圧状態」というのは、いわゆる
心が押し殺された状態をいう。
言いたいことも言えない。
したいこともできない。
不平や不満が押しつぶされ、心が石のようになる。
そういう状態をいう。

また「悪魔的」というのは、ズバリ、人間らしい心の崩壊をいう。
道徳の崩壊、倫理の崩壊につづいて、善悪感覚の
麻痺、心の温もりの消失、やさしさの欠落……とつづく。

で、ここが重要だが、一度、心の崩壊、つまり
心が壊れると、修復は、たいへんむずかしいということ。
私が知るかぎり、心が一度壊れた人が、そのあと、
再び人間らしい心を取り戻したという例はない。
何とかごまかして、それらしく取り繕う人はいるが、
基本的には、変わらない。

1920年代にあいついで見つかった、野生児を
例にあげるまでもない。

+++++++++++++++++++

●悪魔性

 「悪魔」とまではいかないにしても、「悪人」と呼ばれる人は多い。
しかし悪人といっても、心の問題だから、外からはわかりにくい。
「私は悪人です」というラベルを、張っているわけでもない。
さらにタチの悪いことに、このタイプの人ほど、仮面をかぶる。
(よい人)ぶる。

 だから私は、「悪魔」というよりは、「悪魔性」という言葉を使う。
「悪魔的」でもよい。
内に潜んで、外に顔を出さないから、「悪魔性」という。
その悪魔性は、ときとばあいに応じて、その人の心を裏から操る。

●反動形成

 この悪魔性は、0歳から4、5歳の幼児期前期までに作られると考えてよい。
それ以後も、『抑圧は悪魔を作る』という格言は正しいが、修復が不可能という
状態にはならない。
しかし0歳から4、5歳までに、一度この悪魔性が作られると、先にも書いたように、
以後、修復するのが、たいへんむずかしくなる。

 ひとつの例として、「嫉妬」をあげる。
たとえば下の子どもが生まれたとき、上の子どもが、赤ちゃん返りという症状を
示すことがある。

 ネチネチと赤ちゃんぽくなるのを、マイナス型とするなら、下の子どもに対して
暴力的になるのは、プラス型ということになる。
マイナス型とプラス型の両方を、あわせもつケースも少なくない。

 そのとき、上の子どもが、(よくできた、いい兄(姉))を演ずることがある。
これを心理学の世界では、「反動形成」という。
本当は下の子が憎くてしかたないのだが、その心を見抜かれると、自分の立場が
なくなる。
そこで上の子どもは、(いい兄(姉))という仮面をかぶることで、人の目をごまかす。

 こうした一連の反応は、本能的な部分で起こるため、本人にも仮面をかぶっている
という意識はない。
が、その裏で、上の子どもは、大きく心をゆがめる。
それがおとなになってからも、いろいろな形に姿を変えて、残る。

●欲求不満

 一般的に、長男、長女は、生活態度が防衛的になる。
「防衛的」というのは、ケチで、ため込み屋になりやすいということ。
嫉妬深く、用心深く、かつ疑り深い。

 親にすれば、「兄(姉)も弟(妹)も同じようにかわいがっています」ということ
になるが、兄(姉)にすれば、「同じように」という部分が、そもそも不満という
ことになる。
下の子どもが生まれるまでは、100%の愛情を受けていた。
それが下の子どもが生まれて、半分、あるいはそれ以下に減ってしまった。
それが不満ということになる。

 このばあいは、慢性的な愛情飢餓状態になる。

 言い忘れたが、「抑圧」といっても、2種類、ある。
外発的な抑圧(たとえば過干渉、過負担など)と、内発的な抑圧(愛情飢餓、
欲求不満)である。
どちらも子どもの心に対して、同じように作用する。

●ケチ

 この文章を読んでいる人で、長男、長女の人は多いと思う。
その中でも、ケチの人は、多いと思う。
ためこみ屋の人も、いる。
あのフロイトも、肛門期に、たとえば愛情飢餓の状態になると、ケチになりやすいと
説いている(※)。
しかしそういう人でも、その原因が、自分の乳幼児期にあると気がついている
人は少ない。
だいたい、自分がケチであるということにすら、気がついていない。

 たいてい長い時間をかけて、自分のケチを正当化してしまっている。
「私は倹約家だ」「質素こそ、生活の旨(むね)とすべき」「私は無駄づかいは
しない」と。
だからむしろ、「私はすばらしい人間」と思い込んでいる。
そしてそうでない人を、「浪費家」とか、「愚かな人」と、さげすんでいる。

 ため込み屋にしても、そうだ。
モノを捨てることができない。
そのため部屋中、家中、モノであふれかえることになる。
ひどくなると、ゴミまで、ため込むようになる。
もっともこの段階になると、心の病気がからんでくるため、単純に考えることは
できない。

 ともかくも、ケチな人は、自分がケチだとは思っていない。
その人がケチであるかないかは、そうでない人から見て、わかること。
自分では、わからない。
つまりそれくらい、自分を知ることは、むずかしい。
いわんや、悪魔性をや、ということになる。

●心の壊れた人

 以前、私にこんなことを話した人がいた。

 その人(男性、60歳くらい)は、車を運転しているとき、車をどこかの塀に
ぶつけたらしい。
そのため塀の一部というか、1メートル前後にわたって、大きく傷をつけてしまった。
それについて、その人は、得意げに、(「得意げに」だ)、こう言った。

 「林さん、あんなのいちいち謝りに行っていたら、かえって補修費を請求されるよ。
だからぼくはね、帰り道、わざと自分の車を、山の崖に当ててね、車に傷をつけた。
そうすれば、自分の車は、保険で直してもらえるからね」と。

 私が「それって、当て逃げになるのでは?」と言うと、その人は、こう言って
笑った。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、あの家は、バーさんのひとり暮らしだから」と。

 一見すると、あっけらかんとして、朗らかな人に見えるが、心が壊れた人というのは、
そういう人をいう。

●私のばあい

 その人を非難しているのではない。 
私も、あの戦後のどさくさの最中に生まれ育っている。
道徳観も倫理観も、希薄な時代だった。
みなが、心のより所を見失い、「マネー」「マネー」と言い始めた時代だった。
家庭教育の「カ」の字もない時代だったと言っても、過言ではない。
少なくとも、今という時代と比較すると、そうだった。

 だから道路でお金やモノを拾っても、それはすべて拾った子どものものになった。
「交番へ届ける」という発想そのものが、なかった。
ある時期などは、大きな磁石にヒモをつけ、それで川の中をさらって歩いたこともある。
それで鉄くずを集めて、鉄くず商へもっていくと、結構なお金になった。
父が一日かかって稼ぐ金額より多く、稼いだこともある。
もっとも、それは悪いことではなかったが……。

 実は、先に書いた、塀に当て逃げした男というのは、私の子ども時代からの
知人である。
同じ価値観を共有している。
つまり相手の男は、私もまた同じような人間だろうということで、その話をした。
事実そのとおりだから、反論のしようがない。
反論のしようがないから、今、私はそういう自分の中に潜む悪魔性と、懸命に
闘っている。
私も油断すれば、ふとあのころの自分に戻ってしまう。

小ずるくて、インチキ臭い。
ウソは平気でつく。
人をごまかしても、罪の意識が薄い。

それを「たくましさ」と誤解する人もいるかもしれないが、ほんとうのたくましさは、
生き様の中で試される。
逆境の中で、どう生きていくか。
その生き様の中で試される。
ずる賢い人のことを、「たくましい人」とは、言わない。

●『抑圧は悪魔を作る』

 ここに書いたことだけでも、乳幼児期の子どもの育て方が、いかに重要なもので
あるかが、わかってもらえたと思う。
内的抑圧にせよ、外的抑圧にせよ、『抑圧は、悪魔を作る』。
そしてその悪魔性は、生涯にわたってその人の心の奥深くに住み、その人の心を
裏から操る。

 こうした悪魔性の恐ろしいところは、その悪魔性そのものよりも、悪魔性に毒される
あまり、大切でないものを大切なものと思い込んだり、大切なものを大切なものでない
と思い込んだりするところにある。
つまり時間を無駄にする。
積もり積もって、わずかな利益と交換に、人生を棒に振る。

●終わりに・・・

 先ほどケチについて書いた。
ひょっとしたら、あなた自身のことかもしれない。
あるいはあなたの周囲にも、そういう人がいるかもしれない。
が、私が知っている人の中には、家族よりも金儲けのほうが大切と考えている人もいる。
妻や子どもですら、自分の金儲けの道具くらいにしか考えていない。
私たちから見ると、実に心のさみしい人ということになるが、しかしそういう人を
だれが笑うことができるだろうか。

 この世界で、抑圧を受けていない人はいない。
いつも心のどこかで、じっと、それに耐えている。
毎日が、抑圧との闘いであると言っても過言ではない。
そのため、多かれ少なかれ、悪魔性は、だれももっている。
悪魔性のない人は、いない。

 大切なことは、その悪魔性に気がつくこと。
つぎに大切なことは、その悪魔性に毒されないこと。
これは人生を有意義に生きるための、大鉄則と考えてよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 抑圧 抑圧は悪魔を作る 悪魔性 悪魔的思考法 抑圧論 ケチ ケチ論 はや
し浩司 けち けち論)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●ケチ論

 ケチと倹約については、たびたび書いてきた。

+++++++++++++++++++++

子どもの自慰とからめて、人間の心は
乳幼児期に作られることを、再確認してほしい。

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【子どもの自慰】

●自慰

 子どものばあい、慢性的な欲求不満状態がつづいたり、慢性的な緊張感がつづいたりする
と、何らかの快感を得ることによって、それを代償的にまぎらわそうとする。代表的なものとし
て、指しゃぶり、髪いじり、鼻くそほりなどがある。

 毛布やボタンなどが手放せない子どももいる。指先で感ずる快感を得るためである。が、自
慰にまさる、快感はない。男児というより、女児に多い。このタイプの女児は、人目を気にする
ことなく、陰部を、ソファの角に押し当てたり、直接手でいじったりする。

 そこでこういう代償的行為が見られたら、その行為そのものを禁止するのではなく、その奥底
に潜む原因、つまり何が、慢性的な欲求不満状態なのか、あるいはなぜ子どもの心が緊張状
態にあるかをさぐる。そのほとんどは、愛情不足もしくは、愛情に対する飢餓感とみてよい。

 で、フロイトによれば、人間の行動の原点にある、性欲動という精神的エネルギー(リビドー)
は、年齢に応じて、体のある特定の部分に、局在するという。そしてその局在する部分に応じ
て、(1)口唇期(生後〜18か月)、(2)肛門期(1〜3歳)、(3)男根期(3〜6歳)、(4)潜伏期
(6〜12歳)、(5)性器期(12歳〜思春期)というように、段階的に発達するという。

 が、それぞれの段階に応じて、その精神的エネルギーがじょうずに解消されていかないと、そ
の子ども(おとな)は、それぞれ特有の問題を引きおこすとされる。こうした状態を「固着」とい
う。

 たとえば口唇期で固着を起こし、じょうずに精神的エネルギーを解消できないと、口唇愛的性
格、たとえば依存的、服従的、受動的な性格になるとされる。肛門期で固着を起こし、じょうず
に精神的エネルギーを解消できないと、肛門愛的性格、たとえば、まじめ、頑固、けち、倹約的
といった性格になるとされる(参考、「心理学用語」渋谷昌三ほか)。
 
●代償行為

 男根期の固着と、代償行為としての自慰行為は、どこか似ている。つまり男根期における性
的欲望の不完全燃焼が、自慰行為の引き金を引く。そういうふうに、考えられなくもない。少な
くとも、その間を分けるのは、むずかしい。

 たとえばたいへん強圧的な過程環境で育った子どもというのは、見た目には、おとなしくな
る。まわりの人たちからは、従順で、いい子(?)という評価を受けやすい。(反対に、きわめて
反抗的になり、見た感じでも粗雑化する子どもも、いる。よくある例は、上の兄(姉)が、ここで
いう、いい子(?)になり、下の弟(妹)が、粗雑化するケース。同じ環境であるにもかかわら
ず、一見、正反対の子どもになるのは、子ども自身がもつ生命力のちがいによる。強圧的な威
圧感にやりこめられてしまった子どもと、それをたくましくはね返した子どものちがいと考える
と、わかりやすい。)

 しかしその分だけ、どちらにせよ、コア・アイデンテティの発達が遅れ、個人化が遅れる。わ
かりやすく言えば、人格の(核)形成が遅れる。教える側からみると、何を考えているかわかり
にくい子どもということになる。が、それではすまない。

 子どもというのは、その年齢ごとに、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして、成長する。このタイ
プの子どもは、反抗期にしても、反抗らしい反抗をしないまま、つぎのステップに進んでしまう。

 親によっては、そういう子どもほど、いい子(?)というレッテルを張ってしまう。そしてその返
す刀で、反抗的な子どもを、できの悪い子として、排斥してしまう。近所にそういう子どもがいた
りすると、「あの子とは遊んではダメ」と、遠ざけてしまう。

 こうした親のもつ子ども観が、その子どもを、ますますひ弱で、軟弱にしてしまう。中には、自
分の子どもをそういう子どもにしながら、「うちの息子ほど、できのいい息子はいない」と公言し
ている親さえいた。

 しかし問題は、そのあとにやってくる。何割のかの子どもは、そのまま、生涯にわたって、ひ
弱で、軟弱なまま、陰に隠れた人生を送ることになる。しかし大半の子どもは、たまったツケを
どっと払うかのように、さまざまな問題を起こすようになる。はげしい反抗となって現れるケース
も多い。ふつうの反抗ではない。それこそ、親に対して、包丁を投げつけるような反抗を、繰り
かえす。

 親は、「どうしてエ〜?」「小さいころは、あんないい子だったのにイ〜!」と悲鳴をあげる。し
かし子どもの成長としては、むしろそのほうが望ましい。脱ぎ方に問題があるとしても、そういう
形で、子どもはカラを脱ごうとする。その時期は、早ければ早いほどよい。

 反抗をしないならしないで、子どもの心は、大きく歪(ひず)む。世間を騒がすような凶悪事件
を起こした子どもについて、よく、近所に住む人たちが、「どちらかというと目立たない、静か
な、いい子でしたが……」と言うことがある。見た目にはそうかもしれないが、心の奥は、そうで
はなかったということになる。

●神経症

 話が大きく脱線したが、子ども自慰を考えるときは、こうした大きな視点からものを考える必
要がある。多くの親たちは、そうした理解もないまま、娘が自慰らしきことをすると父親が、息
子が自慰らしきことをすると母親が、あわてる。心配する。「今から、こんなことに興味があるよ
うでは、この先、どうなる!」「この先が、思いやられる」と。

 しかしその原因は、ここに書いてきたように、もっと別のところにある。幼児のばあい、性的好
奇心がその背景にあると考えるのは、まちがい。快感によって、脳内ホルモン(エンケファリン
系、エンドルフィン系)の分泌をうながし、脳内に蓄積された緊張感を緩和しようとすると考える
のが正しい。

 おとなでも、緊張感をほぐすため、自慰(オナニーやマスターベーション)をすることがある。

 だからもし子どもにそういう行為が見られたら、その行為そのものを問題にするのではなく、
なぜ、その子どもがそういう行為をするのか、その背景をさぐるのがよい。もっとはっきり言え
ば、子どもの自慰は、神経症、もしくは心身症のひとつとして対処する。

 自慰を禁止したり、抑えこんだりすれば、その歪みは、また別のところに現れる。たとえば指
しゃぶりを、きびしく禁止したりすると、チックが始まったり、夜尿症になったりする。そういうケ
ースは、たいへん多い。

 そういう意味でも、『子どもの心は風船玉』と覚えておくとよい、どこかで圧力を加えると、その
圧力は、別のところで、べつの歪みとなって現れる。

 子どもの自慰、もしくは自慰的行為については、暖かく無視する。それを強く叱ったりすると、
今度は、「性」に対して、歪んだ意識をもつようになることもある。罪悪感や陰湿感をもつことも
ある。この時期に、一度、そういう歪んだ意識をもつようになると、それを是正すのも、これまた
たいへんな作業となる。
(はやし浩司 自慰 子供の自慰 オナニー 神経症 心身症 子どもの自慰 
はやし浩司 固着 口唇期 肛門期 男根期 子供の心理 心の歪み)

【補足】

 歪んだ性意識がどういうものであるか。恐らく、……というより、日本人のほとんどは、気づい
ていないのではないか。私自身も、歪んだ性意識をもっている。あなたも、みんな、だ。

 こうした性意識というのは、日本の外から日本人を見てはじめて、それだとわかる。たとえば
最近でも、こんなことがあった。

 私の家にホームステイしたオーストラリア人夫婦が、日本のどこかへ旅行をしてきた。その旅
先でのこと。どこかの旅館に泊まったらしい。その旅館について、友人の妻たち(2人)は、こう
言った。「混浴の風呂に入ってきた」と。
 
 さりげなく、堂々と、そう言う。で、私のほうが驚いて、「へえ、そんなこと、よくできましたね。恥
ずかしくありませんでしたか」と聞くと、反対に質問をされてしまった。「ヒロシ、どうして恥ずかし
がらねばならないの」と。

 フィンランドでは、男も女も、老いも若きも、サウナ風呂に入るのは、みな、混浴だという。た
またまそのオーストラリア夫婦の娘の1人が、建築学の勉強で、そのフィンランドに留学してい
た。「娘も、毎日、サウナ風呂を楽しんでいる」と。

 こうした意識というのは、日本に生まれ育った日本人には、想像もつかないものといってもよ
い。が、反対に、イスラムの国から来た人にとっては、日本の女性たちの服装は、想像もつか
ないものらしい。とくに、タバコを吸う女性は、想像もつかないらしい。(タバコと性意識とは関係
ないが……。)

 タバコを吸っている若い女性を見ると、パキスタン人にせよ、トルコ人にせよ、みな、目を白
黒させて驚く。いわんや、肌を露出して歩く女性をや!

 性意識というのは、そういうもの。私たちがもっている性意識というのは、この国の中で、この
国の常識として作られたものである。で、その常識が、本当に常識であるかということになる
と、そのほとんどは、疑ってかかってみてよい。

 だいたいにおいて、男と女が、こうまで区別され、差別される国は、そうはない。今度の女性
天皇の問題にしても、そうだ。そうした区別や差別が、世界の常識ではないということ。「伝統」
という言葉で、ごまかすことは許されない。まず、日本人の私たちが、それを知るべきではない
だろうか。

 こう考えていくと、自慰の問題など、何でもない。指しゃぶりや髪いじりと、どこもちがわない。
たまたまいじる場所が、性器という部分であるために、問題となるだけ。……なりやすいだけ。
そういうふうに考えて、対処する。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 B
W はやし浩司 はやし浩司 自慰 子供の自慰 自慰行為 オナニー)

Hiroshi Hayashi++++++++Nov.09+++++++++はやし浩司

【私を知る】

●ためこみ屋(ケチ)

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数日前、「ためこみ屋」と呼ばれる人について書いた。
どんどんと、自分の身のまわりに、ものをためこむ人をいう。
「ためこみ屋」というのは、私が考えた言葉ではない。
心理学の本にも出ている。
ちゃんとした言葉(?)である。
時に家中を、ものだらけにしてしまう。
ひどくなると、家の中や外を、ごみの山にしてしまう。

一般的に、ためこみ屋は、ケチである。
ためこみ屋、イコール、ケチ、ケチ、イコール、ためこみ屋と考えてよい。
が、一方的にケチかというと、そうでもない。
ときに突発的に寛大になることがある。
雰囲気にのまれて、大金を無駄にはたいたりする。
こうした現象は、排便論で説明される。

フロイト学説によれば、2〜4歳の肛門期に、何かの問題があって、
そうなるという。
つまり乳幼児にとっては、便は(財産)。
その便をためるという行為が、ものをためるという行為につながる。
しかし同時に、排便の快感も味わう。
それが(突発的に寛大になる)という行為につながる。

もう少し詳しく説明すると、こうなる。
肛門期に、(1)親にきびしい排便のしつけがされた、(2)排便にたいして適切な
指導を受けなかった、(3)排便について、何らかのトラウマができた。
排便だけではない。

とくに注意したいのが、愛情問題。
たとえば下の子どもが生まれたりして、上の子どもが、愛情飢餓状態に
なることがある。
親は「平等にかわいがっています」と言うが、上の子どもにしてみれば、
それまであった(愛情)が、半分に減ったことが不満なのだ。
赤ちゃん返りは、こうして起きる。

そういう経験をした子ども(人)は、生活態度が、防衛的になる。
長男、長女がケチになりやすいという現象は、こうして説明される。

が、こうした現象を知ることによって、私たちは私の中の(私)を
知る手がかりを得ることができる。
あるいはそのヒントを得ることができるようになる。
ここでは、それについて考えてみたい。

++++++++++++++++++++

●私の知人

私は基本的には、ケチではない。
自分で自分をケチと思ったことはない。
しかしそんな私でも、ときどき落ち込んでいるようなとき、パッと
ものを衝動買いすることがある。
とたん、気分がスカッとする。
反対に、ものを衝動買いすることによって、ストレスを発散させることもある。
これも言うなれば、肛門期の名残(なごり)ということになる。

が、それが病的な状態にまで進んでしまうことがある。
だれがみても、(ふつうでないという状態)になることがある。
それがここでいう「ためこみ屋」ということになる。

私の知人に、こんな人(50歳くらい)がいる。
ケチの上に、「超」がつくような人である。
娘が結婚したが、その引き出物として、100円ショップで買ってきた
家庭用品を5〜6個ずつ、箱に入れて渡していた。
(100円ジョップの商品だぞ!)

もちろん小銭に、うるさかった。
小さな菓子屋を経営していたが、妻などは、家政婦くらいにしか
考えていなかった。
すべての行為が、(金儲け)につながっていた。
またそういう目的のために、結婚したようなもの。
妻を使ったというより、こき使った。
そのため妻はやがて、うつ病になり、自殺未遂まで起こしている。

が、悲しいかな、それでその知人が、自分の愚かさに気づいたというわけではない。
妻は1か月ほど入院したのだが、入院費がもったいないという理由で、その知人は、
無理に退院させてしまった。

そのあとのことは知らないが、人づてに聞いたところでは、その知人はケチはケチだが、
ためこみ屋ではないとのこと。
家の中も、それなりに整頓されているとのこと。
しかしそれには、妻の努力があったようだ。
妻が、きれい好きだったということか。
加えてケチが転じて、その知人は、守銭奴になった。
何しろ子どもの学費すら、「もったいない」と言って、ケチったという。

これはあくまでも一般論だが、ためこみ屋の人は、ものを失うことに、強迫観念を
もっていると考えられる。
あるいは時間に対して、異常なまでに執着し、そのため生活そのものが時刻表的
になることが多い。
これは乳幼児期における、神経質な排便指導が原因と言われている。

●人は人

もっともそれでその知人がそれでよいというのなら、それでよい。
私のような他人が、とやかく言ってはならない。
またそんなことをすれば、それこそ、内政干渉。
しかしその知人は、私たちに大切な教訓を与えている。
つまり(私の中の私)である。

ためしにその知人に、こう言ってみたらどうだろうか。
「あなたはあなたですか? 
あなたはあなたの中の、あなたでない部分に
操られているとは思いませんか?」と。

その知人は、まちがいなく、その質問に猛反発するにちがいない。
「私は私だ。私のことは、私がいちばんよく知っている」と。

しかしそうでないことは、ここまで読んでくれた人にはわかるはず。
その知人もまた、(私であって私でない部分)に操られているだけ。
原因はわからないが、いろいろ考えられる。

その知人は、4人いる兄弟姉妹の長男。
昔からの菓子屋。
父親は、道楽三昧(ざんまい)の遊び人だった。
母親は、近所でも有名なほど、勝気な人だった。
そのため長男のしつけには、ことさらきびしかったようだ。
そういう家庭環境の中で、その知人は、その知人のようになった。

言い換えると、自分を知ることは、それほどまでに難しいということ。
しかし知ろうと思えば、知ることは、けっして不可能ではないということ。

●そこで(私)

もしこの文章を読んでいる(あなた)が、ここでいう「ためこみ屋」で、
ケチであるなら、(つまりそういう症状が出ているなら)、一度、自分の心の中を
のぞいてみるとよい。

あなたも、(私であって私でない部分)に気がつくはず。

そして……。

こうして(私)の中から、(私であって私でない部分)を、どんどんと取り除いて
いく。
ちょうどたまねぎの皮をむくように、だ。
そして最後に残った部分が、(私)ということになる。

ただそのとき、恐らくあなたは、(私)がほとんどないことを知るかもしれない。
(私)というのは、たまねぎにたとえるなら、たまねぎの中心部にある、細くて
糸のようなもの。
あるいはもっと小さいかもしれない。
つまりそれくらい、(私)というのは、頼りない。

●スズメはスズメ

だから、さらに……。
ためしに、庭に遊ぶスズメを見てみたらよい。
スズメたちは、恐らく、「私は私」と思って行動しているつもりかもしれない。
しかし北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメ。
どこかで連携しているというわけでもないのに、まったく同じような行動パターンで、
同じように行動している。
もちろんどこかで共通の教育を受けたということでもない。
が、同じ。
私たち人間から見れば、同じ。
つまり(私)というものが、どこにもない。

同じように、アメリカ人も日本人も、人間は人間。
それぞれ「私は私」と思って行動しているが、視点を変えれば、まったく同じような
行動パターンで、同じように行動している。

スズメの中に(私)がないように、実は、私の中にも、(私)というのは、ほとんどない。
「まったくない」とは思わないが、ほとんど、ない。

●ある生徒

たとえばケチな人は、ケチであるということに気がつくか、どうか?
少し話はそれるが、私の生徒のことで、こんな経験をしたことがある。

ある生徒(高2男子)が、私にこう言った。
「生徒会の仕事をするようなヤツは、バカだ」と。
そこで私が理由をたずねると、こう言った。
「そんなことをしていたら、受験勉強ができなくなる」と。

私はその言葉を聞いて、しばらく考え込んでしまった。
たしかにその生徒の言っていることは正しい。
有名大学への進学を考えるなら、1時間でも、時間は惜しい。
生徒会の仕事をしていたら、勉強の時間が犠牲になる。
それはわかる。
しかしその生徒は、受験勉強という、もっと言えば、受験制度の中で、
踊らされているだけ。
もちろんその生徒は、それには気づいていない。
「私は私」と思って、自分で考え、自分で行動している。

さらに言えば、ではその生徒は、何のために勉強しているのか。
何のために高校へ通っているのか。
そういうことまで考えてしまう。

つまりこうした疑問は、そっくりそのままケチな人についても言える。
その知人は、何のためにお金をためているのか。
何のために生きているのか。
そういうことまで考えてしまう。

●私を知る

ではどうすれば、その知人は、どうして自分がそうであることを知ることができるか。
その方法はあるのか。
その知人のことを心配して、こう書いているのではない。
その知人は、その知人でよい。
しかしそれを考えることによって、私たちは自分を知る手がかりを得ることができる。
そのために、その方法を考える。

まず、その知人は、自分がケチであることを知らねばならない。
これが第一の関門。
しかし実際には、そういう人にかぎって、自分がケチとは思っていない。
「自分は堅実な人物」とか、「他人は浪費家」と思っている。
人生観、さらには哲学まで、その上に、作りあげてしまう。
さらに『類は友を呼ぶ』の諺(ことわざ)どおり、そういう人たちはそういう人たちで、
ひとつのグループを作ってしまう。

だからますます「私」がわからなくなってしまう。

言い換えると、私たち自身も、実は同じことをしているのに気がつく。
(私であって私でない部分)が中心にあって、そのまわりを、たまねぎの皮のような
ものが、つぎつぎと重なっている。
そしてつきあう相手も、自分にとって居心地のよい人を選ぶ。
たとえば冒頭に書いたように、私自身はケチではないから、ケチな人間が好きではない。
ケチケチした人のそばにいるだけで、息苦しさを覚えることもある。

しかしそれは本当の(私)なのか?

ケチに気づくことも難しいが、自分がケチでないことに気づくのも難しい。
どちらであるにせよ、どちらがよいということにもならない。
先の高校生について言うなら、現代という社会は、そのほうが、生きやすい。
たしかに「生徒会などをしているヤツは、バカだ」ということになる。

●作られる(私)

で、そういう自分であることに気がついたとする。
つぎに私たちは、いつ、どこで、どのようにしてそういう(私)ができたか、
それを知る。
これが第二の関門。

私はそのためには、精進(しょうじん)あるのみ、と考える。
昨日の私より、今日の私を賢くすることしか、方法はない。
人は、より賢くなって、それまでの自分が愚かだったことを知る。

専門家に相談するという方法もあるかもしれないが、そのレベルまで到達した
専門家をさがすのは、たいへん難しい。
へたをすれば、どこかのカルト教団の餌食(えじき)になるだけ。
占いや、占星術、さらにはスピリチュアルなどというわけのわからないものを、
押しつけられるだけ。

そこで精進。
つねに勉強し、つねに視野を広める。
手っ取り早い方法としては、心理学や哲学を学ぶという方法もある。
が、何よりも大切なことは、自分で考えるということ。
考える習慣を身につけること。
その習慣が、やがて(私)の発見へとつながっていく。

●(私)を知るメリット

もっとも(私)を知ったところで、それがどうした?、と考える人もいるかも
しれない。
(私)を知ったところで、直接、何らかの利益につながるというわけではない。
しかし(私)を知ることによって、私たちは、そこに生きる意味を見出すことができる。
それがわからなければ、反対に、もう一度、庭に遊ぶスズメたちを思い浮かべて
みればよい。

スズメはスズメ。
同じように、人間は人間。
もしそうなら、私たちはスズメと、どこもちがわないということになってしまう。
言い換えると、私たちは(私)を知ることによってのみ、生きる意味そのものを
知ることができる。
そこに生きる意味を見出すことができる。
(私)があって、私たちははじめて、生きることになる。
その実感を手に入れることになる。
そしてそれがわかれば、まさに『朝に知れば、夕べに死すも可なり』ということになる。
「朝に真理を発見できれば、夕方に死んでも悔いはない」という意味である。
もっと言えば、無益に100年生きるより、有益に1日を生きたほうが、よいという
意味である。

(私)を知るということは、そういうことをいう。

●再び、「ためこみ屋」

「ためこみ屋」の人にしても、「ケチ」と周囲の人にうわさされるほどの人にしても、
何らかの心のキズをもった人と考えてよい。
またそう考えることによってのみ、そういう人たちを理解することができる。
(あえて理解してやる必要はないのかもしれないが……。)

しかし先にも書いたように、あなたや私にしても、みな、何らかのキズをもっている。
キズをもっていない人は、いない。
ぜったいに、いない。

大切なことは、まずそのキズに気がつくこと。
そうでないと、あなたにしても、私にしても、いつまでもそのキズに振り回される
ことになる。
同じことを繰り返しながら、繰り返しているという意識すらない。
ないまま、また同じことを繰り返す。

しかしそれこそ、貴重な人生、なかんずく(命)を無駄にしていることになる。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 ためこみ屋 ケチ
ケチ論 肛門期 フロイト はやし浩司 私論 私を知る)
(09年1月19日記)

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●富めるときは貧しく……

++++++++++++++++++++

今の若い夫婦を見ていて、かなり前から
ハラハラしていたことがある。
どの夫婦も、目いっぱいの生活をしている。
仮に給料が30万円あったとする。
すると30万円、ギリギリの生活をしている。

今の若い夫婦は、貧しい時代を知らない。
知らないから、日本は昔から豊かで、
またこの豊かさは、いつまでもつづくと思っている。

しかし今回の大不況で、それが土台から、崩れ去った。
つまり若い夫婦がもっている常識が、土台から
崩れ去った。

+++++++++++++++++++++

私たち団塊の世代は、極貧の時代から、世界でも類を見ないほど豊かな時代へと、
言うなれば、地獄と天国を、両方経験している。
その(坂)を知っている。

が、今の若い夫婦は、それを知らない。
「すべてのものが、あるのが当たり前」という生活をしている。
結婚当初から、自動車や電気製品にいたるまで、すべて、だ。
そのため、いつも目いっぱいの生活をしている。
30万円の給料があったとすると、30万円ギリギリの生活をしている。
大型の自動車を買い、子どもを幼稚園に預けながら、それを当然の
ことのように考えている。

そういう意味で、貧しい時代を知らない人は、かわいそうだ。
そこにある(豊かさ)に気がつかない。

私たちの時代など参考にならないかもしれないが、あえて書く。

私たち夫婦も、自動車を買った。
HONDAの軽。
水色の中古車だった。
それでもうれしかった。

つぎにアパートに移り住んだ。
そこでのトイレは、水洗だった。
それまでは、部屋の間借り。
ボットン便所だった。
トイレの水を流しながら、においのしないトイレに感動した。

幼稚園にしても、当時は約5%の子どもは、通っていなかった。
2年保育がやっと主流になりつつあった。
たいていは1年保育。

さらにクーラーがある。
数年前、あまりの暑さに耐えかねて、私の家にもクーラーをつけた。
しかし使ったのは、ほんの一か月足らず。
かえって体調を崩してしまった。

が、今ではそういう(貧しさ)そのものが、どこかへ行ってしまった。
今の若い夫婦は、この日本は昔から豊かで、そしてこの豊かさは、いつまでも
つづくものと思い込んでいる。
しかしそれはどうか?

私たちは(坂)を知っている。
貧しい時代からの豊かな時代への(坂)である。
その(坂)には、上り坂もあれば、下り坂もある。
だから下り坂があっても、私は驚かない。
またその覚悟は、いつもできている。
「できている」というよりは、豊かな生活を見ながら、その向こうにいつも、あの
貧しい時代を見ている。

が、今度の大不況で、その土台が、ひっくり返った。
崩れた。
これから先のことはわからないが、へたをすれば、10年単位の、長い下り坂が
つづくかもしれない。
が、私が心配するのは、そのことではない。
こういう長い下り坂に、今の若い夫婦が、耐えられるかどうかということ。
何しろ、(あるのが当たり前)という生活をしている。
もしだれかが、「明日から、ボットン便所の部屋に移ってください」と言ったら、
今の若い夫婦は、それに耐えられえるだろうか。
「大型の車はあきらめて、中古の軽にしてください」でもよい。
「幼稚園は、1年保育にしてください」でもよい。

悶々とした閉塞感。
悶々とした不満感。
悶々とした貧困感。

これからの若い夫婦は、それにじっと耐えなければならない。

……と書くと、こう反論する人がいるかもしれない。
「それがわかっていたなら、どうしてもっと早く、言ってくれなかったのか」と。

実は、私たちの世代は、常に、若い夫婦に対して、そう警告してきた。
聞く耳をもたなかったのは、若い夫婦、あなたがた自身である。
スキーへ行くときも、そこから帰ってくるときも、道具は宅配便で運んでいた。
それに対して、「ぜいたくなことをするな」と言っても、あなたがたは、こう言った。
「今では、みな、そうしている」と。

スキーを楽しむということ自体、私たちの世代には、夢のような話だった。
しかしそれが、原点。
もっとわかりやすく言えば、生活の基盤。
今の若い夫婦は、スキーができるという喜びすら、知らない。
さらに言えば、私たちの世代は、稼いだお金にしても、そのうちの何割かは、
実家に仕送りをしていた。
私のばあいは、50%も、仕送りをしていた。

が、今、そんなことをしている若い夫婦が、どこにいる?
むしろ生活費を、実家に援助してもらっている(?)。

この愚かさにまず気がつくこと。
それがこれからの時代を生きる知恵ということになる。

『豊かな時代には、貧しく生きる』。
これが人生の大鉄則である。
同時に、こうも言える。
『貧しい時代には、豊かに生きる』。

「豊か」といっても、お金を使えということではない。
「心の豊かさ」をいう。
その方法が、ないわけではない。
この大不況を逆に利用して、つまり自分自身を見直す好機と考える。
その心の豊かさを、もう一度、考え直してみる。

偉そうなことを書いたので、不愉快に思っている人もいるかもしれない。
しかし私は、心底、そう思う。
そう思うから、このエッセーを書いた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 豊か
な時代 貧しい時代 豊かさの中の貧しさ 貧しさの中の豊かさ)

Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

●貧しさの中の豊かさ

++++++++++++++++++

貧しいのに、損をしたことがないという人がいる。
損をすることに、たいへん警戒心が強い。
それこそビタ一文、他人のためには、出さない。
いや、出すこともあるが、いつも計算づく。
他人の目を意識したもの。
しかし小銭は出しても、いつもそこまで。
ケチはケチだが、自分ではケチとは思っていない。
「私は金がない」「私は賢い節約家」を口癖にする。

このタイプの人は、住む世界も小さいが、
それ以上に、心も狭い。
会って話をしていても、息苦しさを感ずるほど。

++++++++++++++++++

フロイト学説によれば、2〜4歳の肛門期に何か問題があると、ためこみ屋、
守銭奴、さらにはここでいうケチになりやすいという。
生活態度が防衛的で、その分だけ、自分の小さな世界に閉じこもりやすい。

一方、人は、損をし、その損を乗り越えることで、自分の住む世界を大きく
することができる。
損をする……というよりは、損得を考えないで行動する。
できれば無私無欲で行動する。

そのもっともよい例が、ボランティア活動ということになる。
ためしにあなたの近くで、ボランティア活動を進んでしている人がいたら、
その人と話してみるとよい。
そうでない人には感じない、心の広さを感ずるはず。

たとえば私の近所に、MRさんという女性がいる。
年齢は50歳くらい。
折につけ、ボランティア活動ばかりしている。
そのMRさんの家へ行くと、いつもスイスから来た夫婦がきている。
親類ではない。
親類ではないが、MRさんは、その夫婦の子ども(幼児2人)のめんどうをみている。
無料というより、その夫婦の親になりきって、めんどうをみている。
ことの発端は、スイスから来た夫婦の妻が、病気になったことだそうだ。
それが縁でたがいに行ったり、来たりするようになった。
今ではスイスから来た夫婦が、MRさんの家に住みついたような形になっている。

ほかに自宅を外国人に開放し、個展を開いてやったりしたこともある。

ほかに休みになると、外国まで行って、着物の着付けのしかたを指導している。
ときにそれが数か月から半年単位になることもあるそうだ。
しばらく見かけないと思っていたら、「カナダに4か月、行ってきました」と。
平気な顔をして、そう言う。

そういう女性は、輝いている。
体の奥から、輝いている。

が、そうでない人も、多い。
こうして書くのもつらいほど、住んでいる世界が小さく、超の上に「超」がつくケチ。
息がつまるほど、ケチ。

ケチといっても、何もお金の問題だけではない。
自分の時間や、体力を使うことにも、ケチ。
損になることは、何もしない。
まったく、しない。

が、そういう人ほど、外の世界では、妙に寛大ぶったりする。
反動形成というのである。
自分の心を見透かされないように、その反動として、反対の自分を演じてみせる。
が、もともと底が浅い。
浅いから、どこか軽薄な印象を与える。
一本の筋のとおった、哲学を感じない。

では、どうするか?

いつか私は、『損の哲学』について書いた。
損をするのは、たとえば金銭的な損であればなおさらそうだが、だれだって、避けたい。
そう願っている。
しかし損に損を重ねていると、やがてやけっぱちになってくる。
で、ここが重要だが、やけっぱちになったとき、それに押しつぶされるか、
それを乗り越えるかで、その人の人生観は、そのあと大きく変わってくる。

押しつぶされてしまえば、それだけの人。
しかし乗り越えれば、さらに大きな人になる。
そういう意味で、私は若いころ、Tという人物と知り合いになれたのを、
たいへん光栄に思っている。

いつかTについて詳しく書くこともあると思うが、ともかくも、あの人は、
損に損を重ねて、あそこまでの大人物になった。
何かあるたびに、「まあ、いいじゃねエか」と、ガラガラと笑っていた。

言い忘れたが、Tというのは、「xxx」と読む。
若い人たちは知らないかもしれない。
当時、日本を代表する大作家であった。
何度か原稿を書くのを横で見ていたが、一字一句、まるで活字のようなきれいな
文字を書いていた。

……というわけで、損をすることを恐れてはいけない。
大切なことは、その損を乗り越えること。
金銭的な損であれば、それをバネにして、さらに儲ければよい。
時間的な損であれば、その分だけ、睡眠時間を削ればよい。
体力については、それを使って損をするということは、ありえない。
ゴルフ場でコースを回る体力があったら、近所の雑草を刈ればよい。

こうして損を乗り越えていく。
が、それができない人は、自分の住む世界を、小さくしていくしかない。
つまらない、どこまでもつまらない人間になっていくしかない。

50代、60代になってくると、そのちがいが、よくわかるようになる。
その人の(差)となって、表に出てくるようになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
損の美学 損論 損得論 ケチ けち ケチ論 フロイト 肛門期)
(09年2月記)


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司※

【高学歴の条件(逆流的教育論)】

+++++++++++++++++

「高学歴」のもつ意味が、大きく変化
しつつある。
「高学歴者」イコール、「成功者」あるいは
「人格者」と考えるのは、今では幻想以外の
何物でもない。

が、高学歴への志向性がなくなったわけではない。
ここでは、どうすれば高学歴をめざせるのか
について考えると同時に、高学歴者のもつ
責務について、考えてみたい。

+++++++++++++++++

(1)環境
親の学歴(親の思考パターンが、世代連鎖する)
親の収入(高品質の教育を受けられる)(※1)
教育環境(地方よりも、都会のほうが有利)
育児環境(親の育児姿勢、育児観、教育観が影響する)

(2)能力
遺伝的要素(否定する人も多いが、実際には遺伝的要素は否定できない)

●高学歴者の問題点

(1)合理主義的なものの考え方(情感的なものの考え方ができない)
(2)自己中心的なニヒリズム(自分勝手で、他者の犠牲を過小評価する)
(3)点数主義(順位、成果、数字、成績に大きくこだわる)
(4)優越・劣等感覚(低学歴者に対して、優越感をもつ)
(5)社会性の欠落(家庭人としての常識の欠落) 

●権威主義の崩壊

(1)高学歴の意義の変化(EUに見る、大学の権威の崩壊)
(2)学歴から実力主義への転換。(「何ができるか」が評価される)
(3)教育制度の自由化(大学間の単位の共通化、入学後の学部学科の変更の自由など)
(4)その一方で、受験競争の低年齢化(小学受験、中学受験が、関門になっている)
(5)子どもたちの二極化(学力試験の形骸化とともに、学力の低下が指摘されている)
(6)新家族主義の台頭(2000年を境に、親たちの意識が大きく変化した)
(7)大卒から大学院卒への高学歴化(「大卒」程度では役にたたない)

●高学歴者を見る社会の変化

(1)学歴から専門評価へ(「何ができるか」が問題)
(2)人格評価の変化(AO入試の採用など)(※2)
(3)大卒後の各組織体による再教育制度の充実(とくに文系出身者)
(4)高学歴をありがたがる官僚制度(学歴制度温床の場としての官僚制度)

+++++++++++++++++++++++++

以下、順に、考察を加えてみたい。

+++++++++++++++++++++++++

(※1)【年収と学力】(Parent' s Income and their Children's Ability of Studying)

+++++++++++++++++++++

予想されてはいたことだが、平たく言えば、
金持ちの親の子どもほど、成績は総じてよいということ。
文科省は、全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)
をもとに、このほど、そのような調査結果を公表した。

+++++++++++++++++++++

●年収200万円層

 時事通信(8月5日)は、以下のように伝える。
 
『年収が多い世帯ほど子供の学力も高い傾向にあることが、2008年度の小学6年生を対象
にした全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)を基に行われた文部科学省の委託研究で4
日、分かった。学力テストの結果を各家庭の経済力と結び付けて分析したのは初めて。

 委託研究では、5政令市にある公立小、100校を通じて、6年生約5800人の保護者から家
庭環境などのデータを新たに収集。個人名が分からないよう配慮した上で、学力テストの結果
と照合した。

 学力テストには、国語、算数ともに知識を問うA問題と活用力を試すB問題があるが、世帯年
収ごとに子供を分類すると、いずれも200万未満の平均正答率(%)が、最低だった。

 正答率は年収が多くなるにつれておおむね上昇し、1200万円以上1500万円未満だと、2
00万円未満より20ポイント程度高まった。ただ、1500万円以上では正答率が微減に転じ
た』(以上、原文のまま)と。

●数字の整理

 数字を整理してみる。

(1) 年収200万円未満の平均正答率が、最低だった。
(2) 年収が1200万円〜1500万円の層は、200万円未満の層より、20ポイント、高かっ
た。
(3) ただ1500万円以上では、正答率は、微減に転じた。
 
つまり金持ちの子どもほど、成績はよいということ。
しかし年収が1500万円を超えた層では、正答率が微減に転じた、と。
 
が、この調査ほど、納得がいくというか、矛盾を感じない調査はない。
年収1500万円以上の子どもたちの正答率が微減したということについても、
妙に納得がいく。
その分だけ、子どもがドラ息子しているとも解釈できる。
 
しかし親の年収で、子どもの学力に(差)が出るということは、本来は、あってならないこと。

しかし現実には、ある。
「金持ちの親の子どもほど、学力が高い」と。
が、ここで新たな疑問が生まれる。
親の年収と、子どもの学力を、そのまま関連づけてよいかという疑問である。

●学歴と親の年収

 それ以前の問題として、親の学歴と、親の年収との間には、明らかな相関関係がある。
学歴が高ければ高いほど、年収も高い。
言い換えると、このことから、親の学歴が高ければ高いほど、子どもの正答率も高くなると言え
なくもない。

(親の学歴が高い)→(年収が多い)→(子どもの正答率が高くなる)、と。
子どもは、いつも親の影響を受けながら、成長する。
つまり年収だけをみて、「親の年収が子どもの学力に影響を与える」と考えるのは、少し、
短絡的すぎるのではないのか?
(もちろん今回の調査では、そんなことは一言も述べていないが……。)

 つまりもっと正確には、(親の学歴が低い)→(その分だけ、家庭における知的環境レベルが
低い)→(子どもの知的学習能力も低くなる)→(正答率が低くなる)、ということではないのか。

 もし親の年収が子どもの学力に直接的に影響を与えるものがあるとするなら、塾などの学外
教育費用、あるいは学外教材費用の面である。
年収に余裕があればあるほど、子どもの学外教育に、親はお金をかけることができる。

●親の知的レベル

 「知的レベル」という言葉を使ったので、それについて補足。
 親の知的レベルが、子どもの知的レベルに大きな影響を与えるということは、常識と
考えてよい。

(ただし親の学歴が高いから、親の知的レベルが高いということにはならない。
反対に、親の学歴が低いから、親の知的レベルが低いというこにもならない。)

 「知的レベル」というのは、日々の生活の場で鍛錬されて、決まるもの。
学歴のあるなしは、それに影響を与えるという程度のものでしかない。
要するに、親のものの考え方次第ということ。
それが子どもに知的好奇心、問題の解決能力に大きな影響を与える。

●知的レベルの怖ろしく低い親

3、4年前のことだが、私はこんな場面に遭遇したことがある。
その家の長男(当時、35歳)に愛人ができ、離婚騒動がもちあがった。
そのときのこと。
その長男の父親は、一方的にどなり散らすだけ。
「テメエ、コノヤロー、オメーモ、男だろがア!」と。
 
 が、これでは会話にならない。
話し合いにもならない。
もちろん騒動は解決しない。
私はその父親の言葉を横で聞きながら、その父親のもつ知的レベルのあまりの
低さに驚いた。

 別のところで話を聞くと、その父親の趣味は、テレビで野球中継を見ること。
雨の日はパチンコ。
晴れの日は海釣り。
本や雑誌など、買ったこともなければ、読んだこともないという。
 
子どもに直接的に影響を与えるのは、親の知的レベルである。
学歴ではない。
年収ではない。

●ともあれ……

 ともあれ、(親の年収)と、(子どもの学力)との間に、相関関係があることは、
これで確認できた。

しかしこんなことは、何もあえて調査しなくても、わかりきったこと。
ゆいいつ意味があるとするなら、「20%」という数字が出されたこと。
要するに、平均点が20点ほど、低いということか。

 年収が1200〜1500万円の親の子どもの平均点が、80点とするなら、
200万円以下の親の子どもの平均点は、60点ということになる。
そうまで単純であるとは思わないが、かみくだいて言えば、そういうことになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 親の年収と子供の学力 親の知的レベルと子供の学力 子どもの学力調査 はや
し浩司 全国学力調査)

(付記)

 都会地域へ大学生を1人送ると、平均して、月額17万円前後の費用がかかる。
それを12倍すると、年額204万円。
つまり年収200万円以下の親の子どもが大学へ通うのは、事実上、不可能。
文科省の今回の調査では、「年収200万円以下」を問題にしているが、この数字そのものが、
少し極端すぎるのでは?

仮に年収100万円以下ということになれば、「家庭」そのものが、成り立たない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(※2)●AO入試

+++++++++++++++++++++++++

アドミッション・オフィス入試、略して、「AO入試」。


 簡単に言えば、志願者のそれまでの経験や成績、
志望動機など、さまざまな側面を評価し、
合否を決める入試方法をいう。

 従来のペーパーテスト、面接試験から、
さらに1歩踏み込んだ入試方法ということになる。

 当初は、慶応義塾大学で試験的になされていたが、
それが昨年度(05)は、国交私立、合わせて、
400を超す大学で実施され、最近では、
一部の小中学校でも採用されるようになった。

+++++++++++++++++++++++++
●AO入試とは

 AO入試について、(Gakkou Net)のサイトには、つぎのようにある。

「大学の 入試形態の多様化は既に周知の事実ですが、その中でもここ数年、センター入試と
並んで多くの大学で導入されているのが、AO入試(アドミッションズ・オフィス入試)です。 

AO入試を初めて実施したのは慶応義塾大学の総合政策学部と環境情報学部で、1990年の
ことでした。99年度には13の私立大学が導入していただけのAO入試も、2001年度には、2
07大学と急増。その後もAO入試を実施する大学は、年々増加の一途をたどっています。

自己推薦制などに似た入試形態です。 学力では測れない個性豊かな人材を求めることを目
的としていて、学力よりも目的意識や熱意・意欲を重視しています。

入試までの一般的な流れは、(1)エントリーシートで出願意志を表明し、(2)入試事務局とやり
とりを行ってから正式に出願するといったもの。

選考方法は面談が最も多く、セミナー受講、レポート作成、研究発表といった個性豊かなもの
もあります。

出願・選抜方法、合格発表時期は大学によって様々で、夏休みのオープンキャンパスで事前
面談を行ったり、講義に参加したりする場合もあります。「どうしてもこの大学で学びたい」受験
生の熱意が届いて、従来の学力選抜では諦めなければならなかった大学に入学が許可され
たり、能力や適性に合った大学が選べるなど、メリットはたくさんあります。

ただし、「学力を問わないから」という安易な理由でこの方式を選んでしまうと、大学の授業に
ついていけなかったり、入学したものの学びたいことがなかったといったケースも考えられます
から、将来まで見据えた計画を立てて入試に望むことが必要です。

AO入試は、もともとアメリカで生まれた入試方法で、本来は選考の権限を持つ「アドミッション
ズ・オフィス」という機関が行う、経費削減と効率性を目的とした入試といわれています。 AOと
は(Admissions Office)の頭文字を取ったものです。

一方、日本では、実は現時点でAO入試の明確な定義がなく、各大学が独自のやり方で行って
いるというのが実情です。

しかし、学校長からの推薦を必要とせず、書類審査、面接、小論文などによって受験生の能
力・適性、目的意識、入学後の学習に対する意欲などを判定する、学力試験にかたよらない
新しい入試方法として、AO入試は注目すべき入試だということができるでしょう」(同サイトよ
り)。

●推薦制度とのちがい 

 従来の推薦入試制度とのちがいについては、つぎのように説明している。

「(1)自己推薦制などに似た入試形態です。 学力では測れない個性豊かな人材を求めること
を目的としていて、学力よりも目的意識や熱意・意欲を重視しています。

(2)高校の学校長の推薦が必要なく、大学が示す出願条件を満たせば、だれでも応募できる
「自己推薦制・公募推薦制」色の強い入試。選考では面接や面談が重視され、時間や日数を
かけてたっぷりと、しかも綿密に行われるものが多い。

(3)模擬授業グループ・ディスカッションといった独自の選抜が行われるなど、選抜方法に従来
の推薦入試にはない創意工夫がなされている。

(4)受験生側だけでなく、大学側からの積極的な働きかけで行われている

(5)なお、コミュニケーション入試、自己アピール入試などという名称の入試を行っている大学
がありますが、これらもAO入試の一種と考えていいでしょう」(同サイトより)。

●AO入試、3つのタイプ

大別して3つのタイプがあるとされる。選考は次のように行われているのが一般的のようであ
る。

「(1)論文入試タイプ……早稲田大学、同志社大学など難関校に多いタイプ。長い論文を課し
たり、出願時に2000〜3000字程度の志望理由書の提出を求めたりします。面接はそれを
もとに行い、受験生の人間性から学力に至るまで、綿密に判定。結果的に、学力の成績がモノ
をいう選抜型の入試となっています。

(2)予備面接タイプ(対話型)……正式の出願前に1〜2回の予備面接やインタビューを行うも
ので、日本型AO入試の主流になっています。 エントリー(AO入試への登録)や面談は大学主
催の説明会などで行われるのが通常です。エントリーの際は、志望理由や自己アピールを大
学指定の「エントリーシート」に記入して、提出することが多いようです。 このタイプの場合は、
大学と受験生双方の合意が大事にされ、学力面より受験生の入学意志の確認が重視されま
す。

(3)自己推薦タイプ……なお、コミュニケーション入試、自己アピール入試などという名称の入
試を行っている大学があるが、これらもAO入試の一種と考えていいでしょう」(同サイトより)。

 詳しくは、以下のサイトを参照のこと。
   http://www.gakkou.net/05word/daigaku/az_01.htm

 また文部科学省の統計によると、

 2003年度……337大学685学部
 2004年度……375大学802学部
 2005年度……401大学888学部が、このAO入試制度を活用しているという。

++++++++++++++++

 年々、AO入試方法を採用する大学が加速度的に増加していることからもわかるように、これ
からの入試方法は、全体としてAO入試方法に向かうものと予想される。

 知識よりも、思考力のある学生。
 ペーパーテストの成績よりも、人間性豊かな学生。
 目的意識をもった個性ある学生。

 AO入試には、そういった学生を選びたいという、大学側の意図が明確に現れている。ただ
現在は、試行錯誤の段階であり、たとえばそれをそのまま中学入試や高校入試に応用するこ
とについては、問題点がないわけではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 AO入
試 アドミッション・オフィス Admission Office 大学入試選抜)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(※3)【カナダの幼稚園】

++++++++++++++++

少し前まで、カナダで暮らして
おられた、GSさん(静岡市在住)から、
こんなメールが届きました。

そのまま紹介させていただきます。
カナダの幼稚園の様子がよくわかる、
たいへん興味深いメールです。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【GSさんより、はやし浩司へ】

カナダの幼稚園についての原稿ですが、もちろん引用してくださって構いません。 

カナダでの育児状況について、もし参考になるようでしたらと思い、もう少し、お話させ
ていただきます。

私も含め皆さんが、とても利用していたのが、フリー(無料)で行われる、『プレイグルー
プ』(確か州で運営)というものでした。

会場は、各地域にある大きなスーパーの2階です。そこが日本でいう公民館的な空間にな
っていて、大き目の会場とキッチン付きの部屋などもあり、そこで様々な集会、会議、講
習、お稽古などが催されています。

プレイグループは週2回、予約、会費なども一切なく、本当にフリーに出入りできるので、
人気がありました。ベテラン保母さん(たぶん退職されたであろう年齢の方々)が来てい
て、午前中の間開放されます。

その時間内、入りたいときに入り、出たいときに出るというやり方です。子どもだけ置い
ていっても構いませんが、親が一緒に入っているケースがほとんどです。(親がいない子ど
もは、数人いるかいないかという程度です。)それでも、定員を超えるとドアは閉められ、
誰かが抜けるまで、入れず、外で待ちます。 

お絵かき、粘土、パズル、玩具、絵の具、はさみ遊び等等、たくさんの物が用意されてい
て、どれでも好きな物で遊べます。最後に、みんなが円になり、絵本の時間と歌遊びがあ
って、最後までいた子ども達は先生からご褒美シールをもらって終了。

そのシールって好きなところに張ってくれるのだけれど、だいたい、手とか腕とかホッペ
とかでカワイイ(笑)です。

本当に産まれたばかりのような赤ちゃんから、(日本ではきっと外に連れ出さない程の月
齢)、PreSchoolの年齢の子までいます。 

そこで、玩具の貸し借り、順番、ケンカした時の対応などが、自然に意識することなく経
験できたように思います。 

1歳、2歳でもその環境で習得する力はすざましく、林先生の何かの原稿にあったように、
親、先生よりも周りにいる年上の子の真似事が一番の影響を持ちますね。

もちろん、様々な子ども達がいるし、人種も宗教も肌の色も本当に様々なはずですが、子
どもの世界はさほど変わりありません。先生達は特別な指導はなく、何かもめている子ど
ものところへ行っては解決させ、後は良くできているね!と褒めて歩いたり、相談を聞い
たりといった感じです。

息子は、そのプレイグループが大好きで、先生にもすっかり名前を覚えてもらい帰国前に
は涙してサヨナラして来た程でした。

公園の違いについて。

小さな幼児用の遊具と、大きい子用の遊具がしっかり分かれていました。
下は転んでもさほど問題のないように2〜3センチの木片や大鋸屑がひきつめられているか、
滑らないゴムのようなものになっていて、滑り台への階段も、1歳児がハイハイして登って
行けるほど、広く段差が低いものです。一か所の公園だけでのことではありません。

また、夏には幼児向けプールが開かれます。 だいたい遊具の近くの芝生の真ん中にあり
ます。

大きな円のプールで中心へむかい深くなっていて、一番深い所で大人の膝程度です。 な
ので端の浅い所では、1歳未満の子が水着で遊んでいたりする中、4〜5歳の子が大はしゃ
ぎで走り回るという感じです。週末は短パンで水に入りながら一緒に遊び、周囲の芝生で
ランチしている家族が多く見られます。

高校生のボランティアが監視役として必ず一人ついていて、時間になると水遊び用の玩具
をぶら下げながらやってきて、プール内を掃除して水をはります。決まった時間になると
笛をふき、全員プールから出し水の消毒にかかります。 

毎度、プールから全員上がらせるまでに時間がかかりますが、出てしまった後は、みんな、
まだかまだかと持参したフルーツやおやつを食べたりしながら、しっかり待っています。

以上、特に印象が強かった良い環境だなあと思った2点です。 

私は、妊娠6か月の時にカナダへ行き、親や友達は海外での出産と育児でとても大変だと
心配してもらいましたが、かえって日本よりとっても精神的にもリラックスできていた気
がしますし、子育てはむしろ日本よりもしやすい環境だったと感じています。

もちろん、出産は日本のようにいたれりつくせりではないし、身体的に問題が起きて大変
な思いもしたし、いわゆる子どもを預けてつかのまの休息というものは一切なかったので、
大変は大変でしたけど(笑)。 
だからといって、子どもと少し離れたい!、と思ったこともありませんが。

小学、中学、高校になると、スポーツ系のクラブが数多くあり所属している事が多いよう
です。夏は日が長いせいもあるのか、9時過ぎまでグランドで練習、試合をしている姿が
よく見られます。また、クラブ活動を通しての縦割りのボランティア活動も多いようです。 

女の子のチームも多くあります。ある中学生の子どもを持つ銀行員のお母さんは、やっと
の週末のお休みも、子どものクラブの活動で朝から大忙しだと話していました。でも、そ
の家族の時間も嬉しいと楽しんでいました。 

どちらにせよ、カナダでは、ハッキリと言えることは、家族で過ごす時間をとても大切に
しているというのが強いですよね。日本ではそうではないとは決して言えませんが、平均
的にそれに対する比重はとても違うように感じます。

なんだかまた長々と書いてしまいましたが、少しでも参考になれば幸いです。

【はやし浩司より、GSさんへ】

カナダの教育についての情報、ありがとうございました。
「幼稚園」と構えないで、「(無料の)プレイグループ」というのは、すばらしいですね。
保育時間も、親自身が決められるところも、すばらしいですね。

私の孫も、アメリカで、おおむねそのようなやり方で、少しずつ、集団教育に慣れていっ
たようです。
最初は、週に1、2回程度。
様子をみながら、回数をふやしていきました。

どうして日本では、そういうことをしないのか、不思議でなりません。
いきなり集団教育の場に子どもを放り込んで、それでよしとしています。
考えてみれば、これほど、乱暴な教育もないわけです。

またいろいろ教えてください。
イギリス→カナダは、さすが教育の先進国だけあって、日本とは、ちがいますね!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist カナダ カナダの幼児教育
 カナダの教育事情 カナダの幼児教育 プレーグループ プレイグルー play group は
やし浩司 カナダ 幼児教育 幼稚園)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(※4)●教育の自由化

アメリカに限らず、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドの小学校を訪れて驚くのは、その
「楽しさ」。まるでおもちゃ箱に入ったかのような錯覚にさえとらわれる。百聞は一見にしかず。
この写真は、アメリカ中南部の、ある公立小学校で撮影したもの。アメリカでは、ごく一般的な、
ふつうの学校とみてよい。

●アーカンソー州、アーカデルフィア、ルイサ・E・ぺリット・プライマリー・スクール。ブルー・リボ
ン賞受賞校。四歳児(年中)から七歳児(小一)までを教える。全校生徒三七五名。公立学校
だが、朝食代と昼食代など、必要実費が、週六〇ドル必要。
 
(写真ABC)は、小一クラス。一クラス二〇名。この日は、教師、大学からきたインターンの学
生、それに当番制で学校に手伝いに来ている母親の三名が、指導に当たっていた。写真右端
にあるのが、教師のデスク。教師のデスクは、それぞれの教室の内部にあり、日本でいう職員
室のような部屋はない。写真左端で床に座っているのが、当番制でやってきた、母親。奥のほ
うでマンツーマンの指導をしているのが教師。インターンの学生は、私と並んでいたので、この
写真には収まっていない。

(写真D)は、図書室の様子。アメリカでは、そして他の国々でも、図書室の充実が、学校教育
の柱になっている。たいていどこの学校にも、専門の司書がいて、子どもの読書指導にあたっ
ている。写真の女性は、ボランティアでやってきた母親。

(写真E)は、コンピュータ学習ルーム。この日は、四歳児が授業を受けていた。この学校で
は、四歳児からコンピュータの学習を実施している。ちなみにオーストラリアでも、すでに一五
年前から、コンピュータ学習は、小学三年生から必須科目になり、現在では、幼稚園レベルか
ら教育を行っている(南オーストラリア州)。

●アメリカの学校制度

 こうした公立、私立の学校のほか、アメリカには、チャータースクール(親たちが自ら教師を
雇い、学校そのものをチャーターする)、バウチャ(学校券)スクール(親に配布した学校券で、
学校を運営する)、さらにはホームスクール(学校へ通わないで、家庭で学習する)などの学校
がある。ホームスクールというと、日本では不登校児のための制度と誤解している人が多い
が、それはまちがい。九七年度にはアメリカだけで、ホームスクーラーは、一〇〇万人になり、
毎年約一五%程度の割合でふえている。「真に自由な教育は家庭でできる」(「LEARN IN F
REEDOM」)という理念のもと、この運動は、全世界的に拡大している。アメリカでは、親の希
望に応じて、公的な機関が、専門の教師やアドバイザーを、定期的に派遣するという制度も確
立している。また地域のホームスクールの親や子どもたちは、ひんぱんに会合を開き、合同で
教育活動も行っている。そして現在、世界で一〇〇〇以上もの大学が、ホームスクーラーの子
どもの受け入れ態勢を整えている(前述、L.I.F)。

●教育の自由化

 アメリカの学校では、公立、私立に限らず、カリキュラムの作成は、州政府のガイドラインに
従い、親と教師が、「カリキュラム作成委員会」の席で、決定している。日本でいう全国一律の
学習指導要領なようなものはない。(たとえば中学校レベルでも、三年間で所定の単位学習を
すませばよいことになっていて、一年生だから、一年の学習を、という拘束性はない。)また当
然のことながら、アメリカには、日本でいう「文部省検定済教科書」のようなものはない。検定制
度そのものがない。子どもたちが使っているのは、あくまでも「テキスト」である。よくテキストを
「教科書」と訳す人がいるが、欧米でいう「テキスト」と、日本の「教科書」とは、本質的にまったく
異質なものと考えてよい。

 ついでながら検定制度について、たとえばオーストラリアには、民間団体による検定委員会
はある。しかし検定する範囲は、過激な性的描写、暴力的表現に限られていて、特に「歴史的
分野」については、検定してはならないことになっている(南オーストラリア州)。
 欧米では、「教育の目標は、将来、多様な社会に、柔軟に適応できる子どもを育てること」(オ
ーストラリア)が柱になっている。アメリカでは行き過ぎた自由化が、一部で問題になっている部
分もあるが、しかしこうした自由な発想が、学校教育そのものをダイナミック

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 アメリカ 教育制度 実情 教育の自由化)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(※5)教育の自由化

【教育再生会議・中間報告原案】

++++++++++++++++++

06年の12月21日、教育再生会議の
中間報告会議の原案が、提示された。

「塾を禁止せよ」と提案した野依良治氏
(座長)。過激すぎるというか、現実離れ
しすぎているというか?

いろいろ提案がなされたようだが、本当
に、このメンバーの人たちは、教育の現
場を知っているのだろうかというのが、
私の率直な疑問。

案の定、教育再生会議の出した提案は、
ことごとく無視されている。

かろうじて通ったのは、(ゆとり教育の
見直し)だけ。

++++++++++++++++++

 06年の12月21日、教育再生会議の中間報告の原案が提示された。内容は、以下のような
もの。

(1) ゆとり教育の見直し
(2) 教員免許更新制
(3) 学校の第三者評価制度
(4) 教育委員会改革
(5) 大学9月入学

 このうち、安倍内閣の教育改革の意に合致したものは、(1)のゆとり教育の見直しだけ。
(2)の教員免許更新制については、検討中ということ。

 どこかわかりにくい中間報告の原案だが、私たちの視点で、もう一度、この原案なるものを、
検討してみたい。

●ダメ教員の問題

 どこの学校にも、ダメ教員と呼ばれる教員がいる。その数は、「不適格教師」と認定された教
師の10倍以上はいるとみてよい。

 しかしその基準が、イマイチ、はっきりしない。さらに40代、50代の教師となると、それぞれ
個性があり(?)、上からの指導になじまない。自分の指導法に自信をもっている教師も多い。
あるいは自分の指導法に、こだわる教師も多い。

 だからたとえばすでに文科省が、決めているように、10年ごとに30時間の講習を受けるな
どいう制度だけで、こうした教師の再教育ができると考えるほうが、無理。

 もっとも効率的な方法は、親や子ども自身に、(教師選択の自由)を与えること。「あの先生
に、うちの息子を教えてもらいたい」「私は、あの先生に教えてもらいたい」と。

 アメリカでは、こうした選択は、ごくふつうのこととして、すでになされている。「今年も、エリー
先生の教室で勉強したい」と、親や子どもが願えば、学年に関係なく、その教室で勉強できる
ようになっている。教育再生会議では、(3)学校の第三者評価制度をあげているが、これは教
育現場をまったく知らない、ド素人のたわごとと考えてよい。

 だれが、どうやって評価するのか? 具体性が、まったく、ない。

 ただ私立幼稚園のばあい、講演に招かれたりすると、その幼稚園がすぐれた幼稚園である
かどうかは、雰囲気でわかる。教師や子どもたちが、生き生きとしている。園長の個性が、あち
こちで光っている。

 しかしそれは、私立幼稚園という、教育の自由が許された環境でこそ、可能だということ。し
かも私立幼稚園は、常に、生き残りをかけて、壮絶な戦いというか、苦労を重ねている。

●美しい国づくり 

 提言の中に、「美しい国づくり」がある。大賛成である。が、どうして、「美しい国づくり」が、教
育と関係があるのか。

 あえて言葉を借りるなら、「国民全体の資質向上」(会議)ということになる。これにも大賛成
だが、では「美しい国」とは、どういう国をさすのか。

 外国から帰ってきて成田空港で電車に乗ったとたん、あまりの落差というか、醜さに、がく然
とすることがある。「これが私たちの国か」と思うことさえある。

 雑然と並んだ町並み。自分の家さえよければと、無理に増築に増築を重ねた家々。クモの巣
のように張りめぐされた電線。けばけばしい看板。標識の数々。入り組んだ道に、手あたりしだ
いにつけられたガードレールなどなど。

 その間にパチンコ屋があり、駐車場があり、軒をつらねて商店街がある。数日も住むと、今
度は日本の風景になじんでしまい、今度はその醜さがわからなくなる。が、日本という国は、基
本的な部分から、美的感覚を再構築しないと、決して「美しい国」にはならない。

 が、それは教育の問題ではない。社会の問題である。もっと言えば、日本人自身がもつ文化
性の問題ということになる。これだけ豊かな自然(木々の緑)に囲まれながら、その自然を生か
すことさえできないでいる。

 教育で、それを子どもに押しつけるような問題ではない。

●いじめを許さない

 提言では「いじめを許さない、安心して学べる規律のある教室」を歌っている。

 方法がないわけではない。現在のように、英・数・国・社・理にかぎるのではなく、科目数をふ
やせばよい。子どものもつニーズと多様性に合わせて、子どもたちにとって、好きなことを好き
なだけできるような環境を用意すればよい。

 好きなことを生き生きできる。そういう世界を用意してこそ、子どもはいじめを忘れることがで
きる。

 たとえばオーストラリアでは、中学1年レベルで、外国語にしても、ドイツ語、フランス語、イン
ドネシア語、中国語、日本語の5つから、選んで学習できるようになっている。芸術にしても、ド
ラマ(演劇)、絵画、工芸、音楽などが、それぞれ独立した科目になっている。

 以前書いた原稿を1作、紹介する(中日新聞掲載済み)。

+++++++++++++++++

【学校神話を打ち破る法】

常識が偏見になるとき 

●たまにはずる休みを……!

「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ
そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。

アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が18歳のときにもった
偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たとえ
ば……。

●日本の常識は世界の非常識

★かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材一式
を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政府が家
庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも
97年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の割合でふ
え、2001年度末には200万人に達するだろうと言われている。

それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は
家庭でこそできる」という理念がそこにある。

地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は
世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している(L
IFレポートより)。

★おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通
う。早い子どもは午後1時に、遅い子どもでも3時ごろには、学校を出る。

ドイツでは、週単位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることが
できる。そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習
クラブは学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が1200円前後(2001
年調べ)。

こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども1人当たり、230マルク(日本円で約1
万4000円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最
長27歳まで支払われる(01年)。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。

日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対する世間の評価はまだ低
い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任
をもたない」という制度が徹底している。

そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が
先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文
化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。

「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから
電話がかかってきます」と。

★進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で70校近くあった。が、私はそれを見て驚いた。

どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、はさん
であるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオーストラリアの友人に話す
と、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オーストラリアではど
ういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを
組んでくれる。

たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子どもは、毎日木工
ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマースクールには入学試
験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ行き、入学願書
を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身
の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ
るべきか。さらには子育てとは何か、と。

その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私
はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰してい
る。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世
界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかない
まま、仮想の価値に振り回されている……。

●解放感は最高!

 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に
行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して
いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ
い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。

※……1週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後
3時まで学校で勉強し、火曜日は午後1時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めること
ができる。

●「自由に学ぶ」

 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」
を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。

いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始
まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるというこ
とを忘れてはならない」と。
 
さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は
むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな
い。

学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所システ
ムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべきで
はないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中学生では、38
人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、4000人多い。
 
++++++++++++++++++

 世界は、ここまで進んでいる。にもかかわらず、(4)教育委員会改革だの、(5)大学9月入学
だのと、そんなことを論じていること自体、バカげている。ノーベル賞を受賞した偉い(?)先生
かも知れないが、世の中には、「専門バカ」という人もいる。

 「塾を禁止して、(勉強が)できない子どものための塾だけにせよ」(野依座長)という提言にい
たっては、「?」マークを、10個ほど、並べたい。むしろ世界は、教育の自由化(=民営化)をこ
ぞって選択している。

 カナダでは、そこらの塾が塾をたちあげるほど簡単に、学校の設立そのものを自由化してい
る。その学校で使う言語も、自由である。たとえば、ヒンズー語で教える学校を作りたいと思え
ば、それもできる。

 (これに反して、アメリカでは、学校では英語で教育すべしというのが、原則になっている。ま
たそういう学校しか認可されていない。)

 ドイツ、イタリアにいたっては、ここにも書いたように、「クラブ」が、教育の自由化を側面から
支えている。野依座長も、もう少し、研究室から出て、世界を見てきたらどうか。少なくとも、もう
少し教育の現場をのぞいてみてから、意見を述べるべきである。

 教育再生会議のメンバーたちは、「提言がことごとく無視された」と怒りをぶちまけているが、
それもしかたのないことではないかと、私は思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 教育
再生会議 再生会議提案 中間報告 中間報告原案)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●逆流的教育論

昔は町内で東大生が生まれたとすると、その
町内の人が、ちょうちん行列までして、その
学生と家族を祝った。

しかしそれから100年。
尾崎豊が「卒業」を歌ったころから、こうした
日本独特の権威主義、それを支える学歴制度は、
大きな転機を迎えるところとなった。

「学歴」よりも、「中身」「実力」をみる時代へと
変化した。
そのため大学の選抜方法も、AO入試に見られる
ように、時代の流れの中で変化しつつある。

たとえばEUでは、大学の単位そのものが、
共通化されている。
学生たちは、自由に各大学間を渡りあるいている。
最終的にどこの大学で、学位、博士号を認定される
かということは、重要なことだが、少なくとも
「出身大学」という概念は、もうない。

日本でも同レベル(?)の大学間で実験的に
単位の交換がなされているが、あまりパッとしない。
ブランド志向は、過去の亡霊として、まだ残っている。

もちろん小中高校生の教育制度も、大きく変化
しつつある。
ドイツにおけるクラブ制度を例にあげるまでもない。
EUでは、子どもたち(中学生)は、学校での
カリキュラム(ほとんどが単位制)を終えると、
午後は、それぞれが自分の好きなクラブに通って
いる。
それを支えるための、「チャイルド・マネー」も
支給されている。

(高学歴者)イコール、(成功者)という発想そのもの
が、陳腐化している。
もちろん(高学歴者)イコール、(人格者)という
わけでもない。

もし(高学歴)に求められるものがあるとするなら、
真・善・美の追求者としての、社会的責務である。
その責務を果たしてこそ、高学歴者は高学歴者としての
意味をもつ。
そうでなければ、高学歴といえども、卒業証書は、
ただの紙切れ。
自己利益の追求のための道具でしかない。

ちょうど2000年を境にして、日本人の学歴意識は
大きく変化した。
(出世主義)から(新・家族主義)への変化である。
このころ、「仕事より家族のほうが大切」と考える
人が、50〜80%へと変化した。
こうした変化を、「サイレント革命」と名づけた人もいる。

今後この(流れ)は加速することはあっても、逆行する
ことはありえない。
理由は簡単。

世界はすでにその先を走っている。
日本は今、それを追いかけなければならない立場にある。
単位の共通化にしても、今では、世界の常識。
インドネシアのジャカルタ大学で1年、中国の北京大学で
1年、3年目と4年目は、EUのソルボンヌ大学と、
ハイデベルグ大学で。
合計して必要単位を履修していれば、あとはどこかの大学で
単位を認定してもらう……。

日本だけが、そのカヤの外。
日本の医師免許は、日本以外の国では通用しない。
アメリカの医師は、日本で開業することができない。
これはほんの一例だが、こうした閉鎖性を打破しない
かぎり、日本の未来に明日はない。

大切なのは、学歴の追求ではなく、実力の追求。
それができる社会システムを、早急に立ち上げる。
(学歴)というキャリアは、あくまでもあとから
ついてくるもの。
(学歴)を目的とする時代は、すでに終わっている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 逆流的教育論 教育の自由化 日本の教育)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

【雑感・心の問題、あれこれ】

●心の一貫性

良好な人間関係は、生きる基本。
それができる人を、人格の完成度が高い人という。
それができない人を、そうでないという。
良好な人間関係を決める第一の鉄則が、一貫性。
一貫性があれば、相手は安心する。
あなたを信頼する。
その安心感や信頼感が、良好な人間関係をはぐくむ。

が、この一貫性には、2つの意味がある。

表の意味と裏の意味。
称して、「表の一貫性」と、「裏の一貫性」。
「対人の一貫性」と、「反応の一貫性」と言い換えてもよい。
「行動の一貫性」と、「心の一貫性」と言い換えてもよい。

ルールは守る。
ウソはつかない。
そのときどきにおいて、動じない。
コールバーグという学者は、そういう人を「道徳の完成度の高い人」と説いた。
これが表の一貫性。
この表の一貫性がないと、言動がコロコロと変わることになる。
一義的には、信用をなくす。
相手を不安にする。

もうひとつは、裏の意味。

言うなれば、「反応の一貫性」ということになる。
同じことをしてやっても、そのときどきの気分に応じて、反応が変化する。

たとえば何かの荷物をもってやったとする。
それに対して、あるときは、たいへんな喜び方をし、あなたに感謝する。
が、つぎのときには、ブスッとしている、など。

裏の一貫性がなくなると、つきあうこちら側が、不安になる。
こちらの心が相手に伝わらなくなる。
親切にしてやっても、次の機会には、それを忘れてしまったかのような
言動を示す。
もちろん誠意も通じなくなる。

●Iさん(40歳くらい、女性)

 Iさんという女性がいる。
もちろん架空の女性である。
何人かの女性を、1人の女性に仕立ててみた。

 そのIさんは、そのときどきの気分に応じて、様子ががらりと変わる。
機嫌のよいときは、愛想もよく、会う人ごとにニコニコと笑いながら、あいさつを交わす。
が、ひとたび機嫌をそこねると、ささいなことで激怒。
ふつうの激怒ではない。
近所中に聞こえるような大声で、怒鳴り散らす。

 あるとき、自分の家の前にだれかが、車を無断駐車した。
ほんのわずかな時間だった。
道路の反対側の家の人に、何かの届け物を届けるために、そこに駐車した。
が、Iさんは激怒。

 駐車場から自分の車を出すと、その人の車の前に、横向きに置いた。
で、数分後、その車の持ち主が届け物を置いて出てくると、自分の車が動かせなくなって
いた。
が、その人に向かって、Iさんは、こう怒鳴った。
「2万円、もってこい。このバカヤロー!」と。

 大声を聞いて、道路の反対側の人たちも出てきた。
しかしみな、Iさんのあまりの剣幕に、足が震えたという。

 この話をしてくれた、道路の反対側に住んでいる知人は、こう言った。

「よく私の家の前に、自分でも車を停めることがあるのですよ。
機嫌のいいときには、『すみませんね』と言って、声をかけてくれます。
でも、一度でもああいうことがあると、不安になります。どうつきあって
いいのか、わからなくなります」と。

●努力の問題

 表の一貫性を保つことは、先にも書いたように、良好な人間関係を築く基本である。
教師という職業においては、それがとくに強く、要求される。
そのときどきの気分で、教え方が変化するというのは、たいへんまずい。
相手が幼児のばあいは、なおさらである。

 子どもの側から見て、安心感をもてない。
安心感をもてないから、最低限のところで、教師に合わせようとする。
つまり委縮する。

 同じように裏の一貫性を保つことも、良好な人間関係を築く基本である。
わかりやすく言えば、そのときどきの気分に左右されて、反応を変えては
いけない。
これは人間性の問題というよりは、努力の問題と考えてよい。
というのも、この問題には、心の問題がからむ。
ここに書いたIさんにしても、この10年以上、うつ病の薬をずっとのんでいる。
何かのことで(こだわり)をもつと、自らその深みに、どんどんと入りこんでいって
しまう。

 が、Iさんほどではないにしても、私たちはみな、それぞれいろいろな心の問題を
かかえている。
最近の精神医学の分野では、「正常」の定義すら、していない。
つまりこの世の中には、「正常」と呼べる人はいない。
だから「努力の問題」ということになる。

 たとえば簡単なことだが、子ども(生徒)が、何かの絵を描いてきて、私に見せたと
する。
そういうとき私は、努めて、同じような反応を示すようにしている。
花丸を描き、ほうびのシールを張り、その絵をしばらく掲示板に飾る。
その間に、子どもをほめ、頭をさすってやる。
もちろん本気で喜んでみせる。

 つまりこうした「裏の一貫性」を貫くことで、子どもは安心する。
その安心感が、子どもを伸びやかにする。
(私の生徒は、1、2年もすると、みんな伸びやかになるぞ!
ウソだと思うなら、YOUTUBEを見てほしい!)

 こうした裏の一貫性は、行動としてパターン化しておくとよい。
というのも、私はもともと、情緒がそれほど安定していない。
こだわりも強い。
だから自分の行動をパターン化することで、裏の一貫性を保つようにしている。
そうでない、つまり情緒の安定している人からすれば、「何だ、そんなことか!」と
思うかもしれない。
しかし私には、「努力」が、必要ということになる。

 「表の一貫性」「裏の一貫性」。
これはよき家族を築くためにも、必要条件ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 表の一貫性 育児の一貫性 教育の一貫性 子育ての一貫性 はやし浩司 家
庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 一
貫性 人格の完成度 道徳の完成度 表の一貫性 裏の一貫性 反応の一貫性 心の一貫
性 はやし浩司 行動の一貫性 コールバーグ 道徳の完成論)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●あとから理由(無意識下の思考)

+++++++++++++++

何かを言う。
言ったときは、何も考えていない。
直感的というか、反射運動的に、言う。
言ったあと、理由を言う。
こういうのを「あとから理由」という。
わかりやすく言えば、「こじつけ」。

たとえば運転をしていて、道をまちがえたとする。
そのとき横に乗っていた人が、「この道じゃ、ない」と
言ったとする。
軽い気持ちで、そう言った。

が、すかさず、そのまちがえた人が、こう言い返す。
「うしろから車が来ていたから、そちらに
気を取られていた」と。

子どもの世界でも、似たような現象は、よく起きる。
たとえば子どもが、何かを不注意で落としたとする。
教師が、アッと声をあげる。
とたん、その子どもはこう反論する。
「先生が、こんなところにものを置いておくから悪い!」と。

+++++++++++++++

●こじつけ論

 人はなぜ、あとから理由を言うか。
あるいは自分の行為を正当化するために、あとからこじつけをすることは多い。
が、そういう言い方を、「ずるい」と決めてかかってはいけない。
脳には、どうやらそういう機能が、もとからあると考えてよい。

 たとえば(意識)。
この意識として働いている部分は、脳の中でも、数10万分の1程度と言われている。
たとえば今、あなたはパソコンの画面上で、私の書いた文章を読んでいる。
が、同時に、目の中には、無数の情報が、いっしょに入っているはず。

 画面の色、モニターの色、机の上に雑然と置かれたモノ、周囲の温度、光の強さ、
時計などなど。
そういったものを、あなたの目は同時にとらえている。
その中から、文字だけを選び、それを選んでいる。
意識している部分は、その部分だけ。
ごくかぎられた部分だけ。

●「うしろから車が……」

 その人は、実は道をまちがえる前から、無意識の世界で、車を見ていたのかも
しれない。
そして意識している脳とは別の脳、つまり無意識の世界で、「うしろから車が来たぞ」
「運転が乱暴だ」「気をつけろ」と考えていたかもしれない。
が、こうした無意識下での反応は、意識の世界までは、あがってこない。

 が、そこで道をまちがえた。
隣の席にいた人に、「道が違う」と指摘された。
とたん、無意識下で考えていたことが、意識の世界にあがってくる。
だからすかさず、こう言う。

「うしろから車が来ていたから、そちらに気を取られていた」と。

 先の子どもの例で考えるなら、その子どもはそのものを落とす前から、無意識の世界で
こう考えていたかもしれない。
「あんなところに先生は、ものを置いたが、先生は、あんなところにものを置いては
いけない」と。

●反対の現象

 たまたま昨日、こんなことがあった。

 自分の部屋を出るとき、何か、心がすっきりしなかった。
忘れ物をしたような気分が残った。
が、それが何だか、そのときはわからなかった。
しかし何かを、忘れた。
その意識は、軽く残っていた。

 居間で椅子に座っているときも、気になった。
が、わからなかった。
思い出せなかった。

 が、しばらくしてワイフが、テレビの番組の話をした。
とたん、それを思い出した。
テレビのリモコンを、うっかり自分の部屋にもっていってしまった、と。

 私は自分の部屋にあわてて戻り、リモコンをもってきた。

 このばあいは、「テレビのリモコンを自分の部屋にもっていってしまったから、
もってこなくてはいけない」という意識が、無意識の世界にとどまっていたことになる。

 このことと、先に書いた、(こじつけ)と対比させて考えてみると、無意識下の
心の反応が理解しやすくなる。

●頭の中のモヤモヤ

 私たちはいつも、同時に、意識の世界と無意識の世界で生きている。
意識している世界だけが、すべてではない。
むしろ無意識の世界のほうが、はるかに広い。
意識の世界で考えていることよりも、はるかに多くのことを考えている。

 もうひとつの例だが、たとえば私のばあい、何か書きたいテーマがあると、まず
それは頭の中で、モヤモヤとした感じとなって現れてくる。
そのときは何か、よくわからない。
今、書いているこの文章にしても、そうだ。
最初から、今、ここに書いていることがわかっていたわけではない。

 そこで何かを書き始める。
するとやがて、そのモヤモヤの正体がわかってくる。
輪郭が見えてくる。

 そこでこうも考えられる。

 実は私はこうしてものを書き始める前に、無意識の世界で、つまり別の脳が、すでに
ものを考え始めていた、と。
それがモヤモヤといった感じとなって、頭の中に充満する。

●無意識の世界

 今まで、私はあとから理由を述べたり、自分を正当化するために(こじつけ)を
する人を、ずるい人と考えていた。
しかしこの考え方は、ここで修正しなければならない。

 わかりやすく言えば、意識の世界だけが、すべての世界ではないということ。
私たちは同時進行の形で、無意識の世界でも、いろいろとものを考えている。
それが表に出てくるかどうかは、(きっかけ)の問題ということになる。
きっかけに応じて、無意識の世界の(思い)が、表、つまり意識の世界に飛び出して
くる。

 それがあとから理由になったり、こじつけになったりする。
ワイフがテレビの番組の話をしたとたん、リモコンのことを思い出したのも、そうだ。
あるいは、私がものを書くときもそうだ。

 反応としては、すべて、同じワクの中で考えてよい。

●付記

 私はよく「モヤモヤ」という言葉を使う。
ワイフと話していても、「頭の中がモヤモヤとしてきた」と言うなど。

 それが何だかそのときは、よくわからない。
無意識の世界の中にとどまったままの状態で、外に出てこない。
ちょうどリモコンを忘れて、自分の部屋を出たときのような気分である。
が、何かのきっかけで、その片鱗をつかむ。
たとえばこの文章を書き始めたときも、そうだ。

「あとから理由を並べて、自分を正当化するということは、よくある」と考える。
とたん、そのモヤモヤの中から、書きたいことが姿を現す。
あとはそれについて、一気に書きあげる。
時間的にすれば、20〜30分程度。
この文章が、それである。

 つまり私のばあい、頭の中にモヤモヤがあると、それが気になってしかたない。
しかしそのモヤモヤを吐き出したときのそう快感は、何物にも代えがたい。
たとえて言うなら、(汚いたとえで恐縮だが)、長い間便秘で苦しんでいた腸が、
一気に便を排出したときのようなそう快感である。

 またそれがあるから、こうして文章を書く。
楽しい。
反対に、モヤモヤをそのままにしておくと、気分が悪くなる。
ときにイライラしてくることもある。

 で、今は、どうか?

 実は、もうひとつ、頭の中でモヤモヤしているものがある。
先日、「ケチ論」について書いた。
が、「ケチ」といっても、お金だけの問題ではない。
心の問題もあるし、時間の問題もある。
さらに言えば、命の問題もある。

 モヤモヤの中に、私はその片鱗を見つけた。

 ……ということで、つぎに、「ケチ論」について、補足してみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司

●本物のケチ

++++++++++++++++

金銭的な面でのケチというのは、わかりやすい。
またふつう「ケチ」というときは、金銭的な面での
ケチをいう。
しかしどうも、それだけではないようだ。
「ケチな人」について、思いつくまま、まず、書いてみる。

++++++++++++++++

●ケチな人

自分の時間を、自分のためだけに使う人。

自分の時間を、自分の欲望を満足させるためだけに使う人。

自分の心を、相手に分け与える余裕のない人。

自分の人生を、自分だけのために生きる人。

すべてを自分に引き寄せ、自分から逃れていく人を許さない人。

自分勝手でわがまま、他人の失敗を許さない人。

視野が狭く、欲望の虜(とりこ)になっている人。

自分の欲望を満足させるためにしか、頭を働かせない人。

相手に愛を求めながら、自分からは人に愛を与えない人。

愛されることだけを考え、人を愛することを考えない人。

自分の得だけを考え、相手に得をさせることを考えない人。

失うことを恐れ、ものを失うと、ギャーギャーと大騒ぎする人。

相手の欠点を指摘しても、自分の欠点を指摘されることを許さない人。

小さな欲望を内へ内へと引き寄せ、外に向かって、冒険しない人。

来年の100万円より、明日の1000円を、大切にする人。

他人の失敗を酒の肴にして笑っても、自分では何もしない人。

臆病で、自分の勇気を外の世界で試さない人。

わずかな財産にしがみつき、自分は成功者といばる人。

無難な道だけを歩き、その道を他人に歩かせない人。

無私、無欲の世界を、知らない人。

自分の才能や健康を、自分だけのために使う人。

心よりも、金、モノを大切にする人。

自分より劣っている人には尊大ぶっても、自分よりすぐれている人が理解できない人。

自分の欲望を満足させるためだけに、時間と才能を使う人。

他人の幸福をねたみ、それを邪魔する人。

心にやさしさがなく、損得計算でいつも心が緊張状態にある人。

●心のケチ

 いくつか箇条書きにしているうちに、同じような内容のことを書いた部分もある。
しかし冒頭にも書いたように、「ケチ」と言っても、けっしてお金だけの問題ではない。
最悪のケチは、「心のケチ」ということになる。

 この中でも、たとえば、つぎのものが、それ。

自分の心を、相手に分け与える余裕のない人。

すべてを自分に引き寄せ、自分から逃れていく人を許さない人。

相手に愛を求めながら、自分からは人に愛を与えない人。

 わかりやすく言えば、心に余裕がない。
いつも緊張しているというか、ピリピリしている。
一方、若いころ、こんな人に出会ったことがある。

 その男性(75歳くらい)は、若いころから、無精子症だったという。
それについて、「オレにはね、種(=精子)がないんだよね」と。
で、「いつからですか?」と聞くと、「もう20歳になるころには、なかったよ」と。

 が、そんなはずはない。
その男性には、息子さんがいた。
そこですかさず私が、その男性に、「だってあなたには、40歳になる息子さんが
いるではありませんか」と言うと、その男性は、カラカラと笑った。
笑いながら、何度も、「いいじゃ、ねエ〜カ、いいじゃ、ねエ〜カ」と言った。

●寛大さ

 ケチの反対側にあるのが、「寛大さ」ということになる。
お金でもない。
モノでもない。
心である。

 で、あのマザーテレサは、「愛」を人に、惜しみなく与えた人という。

"It is not how much we do, but how much love we put in the doing.
It is not how much we give, but how much love we put in the giving."
どれだけのことをしたかは、問題ではありません。
することについて、どれだけ愛を込めたかが大切なのです。
どれだけのものを与えたのかは、問題ではありません。
与えることに、どれだけの愛をこめたかが、大切なのです。

"I have found the paradox, that if you love until it hurts, there can be no more hurt, only 
more love".
私はパラドックスを発見しました。
もしあなたが苦しいほどまでに人を愛するのなら、もう苦しみはありません。
そこにあるのは、さらに深い愛です。

 これ以上のことは、書く必要はない。
書けない。
マザーテレサがすべてを、語ってくれた。

つまりどこまで、人を許し、忘れるか。
その度量の深さこそが、その人の寛大さを決める。

 卑俗な言い方で申し訳ないが、これでモヤモヤが消えた。
書きたいことを吐き出した。
今日は、すばらしい一日になりそう。

2009年11月29日早朝

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 マザーテレサ パラドックス 心のケチ論)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(091129)(今日からマガジン2010年1月号用)
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今日からの原稿は、マガジン2010年1月号〜用になります。
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Happy New Year!
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Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

(11月29日'09)

●義兄

 昨夜(091128)は、義兄の家で、ちょうど真夜中の12時まで、話し込んだ。
ときどき世話になる。
行くたびに、いろいろな話を聞き、それが、私の脳みそを、バチバチと刺激する。
義兄は私の知らない世界の話を、山のように知っている。
「もう帰ります」と言って、中腰になったのが、11時ごろ。
その中腰のまま、30分ほど話す。
さらに玄関先で、30分ほど話す。
こうして夜中の12時……。

 今朝は、日曜日ということもあって、朝、8時ごろまで寝ていた。
ワイフは、9時ごろまで寝ていた。


●猟師

 同じく昨日(091128)、山荘の近くの店で、猟師の男と出会った。
意気投合して、1時間ほど、いろいろな話を聞いた。
おもしろかった。
とくに猿の話は、興味深かった。
このあたりでは、一匹殺すと、1万円の報奨金が出るのだそうだ。
「かわいそうだな」と思いつつ、しかし猿害も、深刻になってきている。
山荘の近くでは、農作物を作っている人は、もういない。
イノシシとハクビシン、それに猿。
何を作っても、これらの動物に食べられてしまう。
しかし猿が出没するようになったのは、ここ3、4年のこと。
奥の山では、第二東名の工事が、急ピッチで進んでいる。

その猿害。
家も、被害を受ける。
テレビのアンテナは、ボキボキ。
雨どいも、あちこちで折られる、など。
私の家も、猿の餌になるような実のできる木は、すべて切った。
栗の木、梨の木、みかんの木など。
それからは猿も来なくなったが……。

 「猿はね、いちばん高い所に陣取って、威張っているやつから、撃ち殺すんだよ。
そうすると、あとは統制を失って、バラバラになって逃げるから」と。

 ナルホド!


●散歩

 今日は、3キロほど先にある、ビデオショップまで歩いた。
途中、佐鳴湖で、写真を撮った。
水面は、鏡のように静かだった。
「今年は、紅葉を撮り損ねた」と言うと、ワイフが、「今年はおかしな季節だったわ」と。
暖かい日と、寒い日が、交互につづき、いつの間にか、冬になってしまった。
気がついたときには、紅葉の季節は終わっていた。

 ビデオショップといっても、1階が書店。
軽食も食べられる。
立ち読みどころか、椅子に座って、軽食をとりながら、新刊本を読み放題。
2階が、ビデオショップとゲームソフトコーナー。
アメリカに住む孫の誠司と芽衣に、ニンテンドーのDS用ソフトを1枚、買う。

 その息子夫婦から、ワイフのところに、写真が届いていた。
10日ほど前に送った、日本のせんべいを食べている写真だった。
みんな元気でやっているようだ。

 帰りはバス。
家に着いたら、厚い曇り空ということもあって、とっぷりと日が暮れていた。


●ドバイショック

 ドバイが、こけた。
それがドバイショックとなって、世界を駆け巡った。
つぎは、メキシコ。
メキシコもあぶない。
ドバイで多額の損出を被った、イギリスもあぶない。

 日本も無事ではすまない。
急激な円高で、輸出企業は、思考停止状態。
こんな状態が1か月もつづけば、2010年早々、株価は暴落する。

 ひとり元気なのは、金相場。
世界中が、我も我もと、札の印刷機を回している。
そのマネーが、金に向かっている。
しかしバブルは、バブル。
金相場がはじけたとき、世界は、例外なく、ハイパーインフレに見舞われる。

 2010年というより、明日からの経済から目が離せない。
この12月の動向を見ていれば、2010年の経済がどうなるか、その方向性が
見えてくるはず。

 それにしても、あんなバカな国に投資をしつづけた、イギリス、ドイツ、フランス、
それに日本は、アホ!
金持ちの遊び場を作るために、湯水のようにマネーを使った。
人工島にしても、ヤシの形をしているそうだ。

 ところで韓国の各紙を読んでいて、笑ってしまった。
「円高の津波……恐慌に陥った日本の輸出メーカー」(東亜日報・11・27)などと、
日本の困窮を、おもしろおかしく、はやしたてている。

韓国は、相対的に、ウォン安。
自動車産業を中心とする輸出企業が、ホクホクとか。
しかしそれはどうか?
今回の急激な円高で、韓国の銀行のかかえる借金は、雪だるま式にふえる。
円キャリートレードの恐ろしさは、このあとにつづく。
私のような素人にも、その程度のことはわかる。
韓国の各紙の経済記者は、私以上に、ド素人ということ。

 日本あっての、韓国。
そういうことが、まるでわかっていない。

 フンと笑って、この話は、おしまい。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●今朝は風邪

++++++++++++++++++

朝、頭痛で目が覚めた。
時計を見ると、午前6時。

しばらく目を閉じていたが、
思い切って起き上った。

台所へ行き、コーンスープを温める。
それをザーッと飲んだあと、
鎮痛剤と、ビタミンC(アスコルビン酸)を
のむ。
ふとんに入ってから、睡眠導入剤と、
精神安定剤。
それと葛根湯。
ついでに頭に湿布薬を張る。

幸い、風邪のようだ。
昨夜風呂から出て、1時間半あまり、
こたつに入っていたのが、まずかった。

つぎに目を覚ましたのが、午前10時過ぎ。
頭痛が消えていた。
悪寒も消えていた。

で、今のところ風邪の症状はなし。
インフルエンザでなくて、よかった!
というのも、インフルエンザだったら、
こんなに簡単には、治らない。

+++++++++++++++++

●満62歳

満62歳。
私の年齢。
その年齢で、隠居生活に入った人が多いのには、驚いた。
ワイフが属するクラブ仲間(全員女性)には、現在、満62歳の夫をもつ人が、
4人いる。
それに私の近辺にいる満62歳の知人(やはり満62歳の男性)を含めると、計6人。
その中で、現在、仕事をしている人は、たったの1人!
私を含めると、7人中、たったの2人!

残りの5人は、「オサンドン」とか。
「おさんどん」というのは、昔の言葉で、「女中」「下女」をいう。
それが転じて、「台所仕事」という意味になった(以上、広辞苑)。
「お三どん」と書く人もいる。
「みんな、何してるの?」と聞くと、「みんな、家でブラブラしているだけみたいよ」と。
しかし、待ったア!

62歳という年齢は、まだ隠居する年齢ではない。
隠居してはいけない。
隠居したとたん、脳も体もサビつく。
使い物にならなくなる。
私の年齢になると、「1年くらい休んで、来年からまた仕事」ということができなくなる。
理由がある。

50歳を過ぎると、適応能力が、極端に低下する。
新しい環境に適応できなくなる。
新し仕事を始めても、ストレスばかりを感じて、それに適応できなくなる。
慣れ親しんだ仕事ならともかくも、そうでないなら、手続きを記憶するだけでも、
たいへん。
それ以上に、バケツの底に穴があいたような状態になる。
自分では気がつかない間に、知識や知恵、経験が、容赦なく、下へ流れ落ちて行く。

東洋医学では、『流水は腐らず』という。
健康法を説いたものだが、精神面でも、同じことが言える。
隠居したとたん、心がよどむ。
腐る。
そういう人も少なくない。

健康に問題があるならともかくも、そうでないなら、仕事を分担する。
働く。
私たち団塊の世代が、満75歳まで働けば、日本の少子化問題は解決できる。
が、それは同時に、私たちのためでもある。
寿命まで20年あるとする。
20年と言えば、赤ん坊が成人するまでの年数ということになる。
その気になれば、何かができる。

こんな状態では、私たち団塊の世代は、やがて若い人たちから、粗大ゴミと
言われるようになる。
すでに「老害」という言葉が、あちこちでささやかれ始めるようになてきた。
そうなったら、私たちの居場所そのものが、なくなる。

現に、医療の世界では、「75歳」に、一本の線を引きつつある。
「75歳以上は、がん治療でも、手術はしない」と。
暗黙の了解のようなものだが、それがやがて70歳に引き下げられても、私たちは、
文句を言えない。
生きていても、どうせ何の役にも立たない老人なのだから!

……という状態にしてはいけない。

7人のうち、5人が働いているというのはわかる。
しかし7人のうち、5人が、「オサンドン」というのは、尋常ではない!
個人的には、「遊んでいるのは、私だけ」と思っているかもしれないが、そういう世界から
一歩外に出て、私たち団塊の世代を、今一度、客観的に見てほしい。

けっして穴の中に身を潜め、小さな世界に閉じこもってはいけない。

あなたにも、(私にも)、何かやるべきことがあるはず。
この世に生を受けた以上、やるべきことがあるはず。
そのやるべきことをやりながら、自分の(命)を、若い人たちに還元していく。
「還元」という言葉は、F市に住む、I先生が教えてくれた言葉だが、
その一言に、私たちの世代の生きざまが、集約されている。
つまり自分の命を、若い人たちに、感謝の念をこめて、返していく。
けっして自分だけで、食いつぶしてはいけない!


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

●英語の言葉(メタ認知能力)

++++++++++++++++++

精神医学には精神医学特有の言葉がある。
もとはと言えば、外国からきたもの。
で、英語の文献を読む機会が多くなった。
そのこともあって、ここで英語の単語を
整理してみる。

こうして並べて書き出してみると、受験生に
なったような気分である。

+++++++++++++++++

Mental retardation (精神遅滞)
Learning disability (学習障害)
Autism (自閉症)
Dementia (痴呆)
Histeria (ヒステリー)
Anxiety neurosis (不安神経症)
Hypochondoria (心気症)
Phobia (恐怖症)
Obsessive compulsive neurosis (強迫神経症)
Seclusive neurosis (内閉神経症)
Tic (チック)
Selective mutism (場面かん黙)
Enuresis (遺尿)
Encopresis (遺糞)
Anorexia nervosa (神経性無食欲症)
Psychosomatic disease (心身症)
Drug dependence (薬物依存症)
Borderline personality disorder (境界性人格障害)
Antisocial personality disorder (反社会性人格障害)
(以上、日本語名は、無藤隆著「心理学とは何だろうか」新曜社より)

+++++++++++++++

●暗記法

 どれも聞きなれた言葉だが、今、単語のテストをされたら何点を取れるだろうか。
本当のところ、自信がない。
英語の意味はわかるが、日本語を英語に訳せと言われると困る。
高校生になったつもりで、暗記してみる。

で、こういうときは、まずいちばん難解な単語に目をつける。
この中で言えば、Obsessive compulsive neurosis (強迫神経症)と、Anorexia nervosa 
(神経性無食欲症)。
最初に、この2つを徹底的に暗記する。
学生時代からの、私の英単語攻略法である。

そのとき重要なのは、単語という無機質な文字の上に、具体的に人の顔をダブらせるとよいと
いうこと。
たとえば「bicycle」と書いて、「自転車」と、直接、日本語に置き換えて覚えるのではなく、自転
車の形を思い浮かべる。
自転車が走っている様子でもよい。

ここでは「Obsessive compulsive neurosis(強迫神経症)」のばあいは、今まで出会った人の中
で、そのタイプの人を、少しデフォルメして覚える。
「Anorexia nervosa(神経性無食欲症)」も、そうである。
私たちが「摂食障害」と呼んでいる人を、想像すればよい。

 その「Obsessive compulsive neurosis(強迫神経症)」で思い出すのが、私の実兄。
夜寝るときになると、一度、1センチ単位でふとんのズレを直さないと、床に入ることができなか
った。
「こうでなくてはならない」という思いだけが、勝手にどんどんとふくらんでしまい、それが強迫観
念となる。
だから兄の顔を思い浮かべながら、「Obsessive compulsive neurosis」という単語を覚える。

(で、10分ほど、時間が過ぎた。
昨日撮ったビデオを、YOUTUBEにアプロードした。)

 で、2つの単語を思い出してみる。
ハハハ。
何を隠そう、2つとも忘れた。
「神経性無食欲症」のほうが、まったく、思い出せない。
学生時代なら、10回ほど復唱すれば、すぐ覚えられたのに……。
明らかに記銘力が低下している。
こうなったら、しかたない。
「あのオ〜歴史や、なんぼさ?(=アノレキシア・ナーボーサ=Anorexia nervosa)」で覚えるし
かない。
奥の手である。

●老化と闘う

 加齢とともに、新しいことが覚えられなくなる。
これは事実である。
若い人は、「そんなはずはない」と思うかもしれないが、(私も若いとき、そう思っていた)、これ
は事実である。

 単語だけではない。
歌も、歌詞も、である。
先週は、『スノーマン』に出てくる、『♪We're waliking in the air』に挑戦してみた。
結構苦労した。
で、今は、やっと半分程度、歌えるようになった。

 言い換えると、脳の老化はやむをえないものかもしれないが、老化に任せて、そのままにして
おいてはいけない。
闘って闘って、闘いぬく。
そうでなくても、バケツに穴があいたような状態になる。
知恵や知識や経験が、どんどんと下へ、こぼれ落ちて行く。
たった今覚えた2つの言葉にしても、「エ〜ト、何だったかな?」となる。

 こわいのは、そうした老化に気づかないまま、老いていくこと。
心理学の世界には、「メタ認知能力」という言葉がある。

 たとえば勉強が苦手な子どもでも、どこがどうして苦手か、わかっている子どもは、指導しや
すい。
が、中には、どこがどうして苦手なのか、それすらわかっていない子どももいる。
子ども自身が闇の中に入ってしまったような状態になる。
そういう子どもは、指導しにくい。
つまり自分の姿を、自分を超えた視点から認知する能力。
それが「メタ認知能力」ということになる。

 加齢とともに、そのメタ認知能力も、衰えてくる。
やがて自分で自分がわからなくなってくる。
そうなると、あとはボケに向かって、まっしぐら!
以前、こんな女性に出会ったことがある。

●メタ認知能力

 何かのことで電話をしていたときのこと。
こまごまと、どうでもよいようなことで私に説教した。
で、私は、こう言った。
「私は……あなたが思っているほど、バカじゃ、ないと思います」と。
すると何を勘違いしたのか、その女性は金切声をあげて、こう言って叫んだ。
「私だって、バカじゃ、ありません!」と。

 その女性は、そのあとしばらくしてから、認知症か何かの相談で、夫とともに、病院を訪れて
いる。
つまり頭がボケてくると、自分がボケていることさえ、わからなくなる(失礼!)。
メタ認知能力そのものを、失う。
けっして他人ごとではない。
これは私やあなたの、近未来像そのものと考えてよい。

●単語のテスト 

 さて、単語のテスト。
受験生よろしく、英語のほうを隠して、自分で単語を書いてみる。
ハハハ……。
笑ってごまかす。

 実のところ、上記19問中、x点しか、取れなかった。
ハハハ……。
英語を日本語に訳すのは楽だが、その反対ができない。
「まっ、いいか。外国の病院で働くことは、ないから……」と言って、自分で自分をなぐさめる。

 が、ここで重要なことは、先にも書いたように、バケツの底の穴を、自分でしっかりと自覚する
こと。
それができなくなったら、つまりメタ認知能力がなくなったら、私もおしまい。
そういう意味でも、こうして英語の単語を書き出してみたのは、役に立った(?)。

 今日1日、コピーを片手にがんばってみる。
がんばって、暗記してみる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 メタ認知能力 記銘力 強迫神経症 Anorexia nervosa)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司





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.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 12月 1日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================

臨時号「キレる子ども」特集

★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page015.html

メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

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【キレる子ども】

+++++++++++++++++

こんな記事が、読売新聞に載っていた。
そのまま紹介させてもらう。

キレる子どもの背景には、「抑圧」がある。
その抑圧の恐ろしさを、改めてこの記事を
読んで知った。

つまり日ごろ、(いい子)でいる子どもほど、
心に別室を作り、その中に不平、不満を
押し込める。
それがときとばあいに応じて、突然、爆発する。

(心の別室)には、いわゆる(心の上書き)が
働かない。
ふつう心というのは、何かいやなことがあっても、
そのあと楽しいことがあると、上書きされ、
いやなことを忘れる。
しかし心の別室に入った思い出には、その
上書きが働かない。

だから何年も、あるいは何十年もたっている
にもかかわらず、それが爆発する。

「いい子ほど心配」という意味が、わかって
もらえれば、うれしい。

+++++++++++++++++

++++++++++以下、読売新聞より++++++++++++

●無抵抗の教師殴るける、子供の暴力エスカレート

12月1日9時13分配信 読売新聞

 子供の暴力の4件に1件は、相手を負傷させるほどエスカレートしていた。文部科学省
が30日公表した問題行動に関する調査は、暴力行為が過去最多を記録。内容も悪質化し
ていた。

 今年9月、栃木県日光市の市立中学校。放課後の教室で、3年男子が女性教諭の顔など
を殴り全治1週間のけがを負わせた。市教委によると、宿題の作文を書いておらず、その
場で書くよう指導されただけで突然キレたといい、無抵抗の教諭を殴ったりけったりした。

 「意思疎通が下手で、言葉にする前に手が出る子供はますます増えている」。神奈川県の
中学校の女性スクールカウンセラー(45)は話す。今回の調査で、同県は暴力行為の件
数が9232件と全国最多だった。カウンセラーは、家庭の経済的な困窮を背景に、スト
レスをため込んでいる子供が増えたと指摘。「ささいなことで感情を爆発させる子にそうし
た子供が多い」と話した。

 一方、学校がいじめを把握した件数は大幅に減ったが、山形県高畠町の会社員渋谷登喜
男さん(57)は「いじめを把握できないのは、子供が本音を明かさないためです」と語
る。

 高校2年だった長女の美穂さん(当時16歳)は2006年11月、校内で飛び降り自
殺した。死後、美穂さんの携帯電話から、いじめを受け自殺を決意したことをうかがわせ
る本人の書き込みが見つかったが、県教委は「いじめは確認できない」とした。

 今回の調査で「いじめゼロ」だった学校は、個別面談や家庭訪問の実施率が低い傾向が
あった。学校側の責任を問い、県と裁判で争っている渋谷さんは、「教師が忙し過ぎて子供
と向き合えていない。学校現場で心や命の問題がおろそかになっている」と訴えている

++++++++++++++++以上、読売新聞より++++++++++++++

【子どもとストレス】

●キレる子ども 

++++++++++++++++++

キレる子どもについては、たびたび、
取りあげてきた。

その「キレる」という行為だが、通常の
「激怒」とは、いくつかの点で、異なる。

++++++++++++++++++

 子どもでも怒る。激怒することはある。しかし「キレる」という行為とは、明確に、区
別される。「キレる」という行為には、つぎのような特徴がある。

(1)突発的に錯乱状態になる。
(2)暴力行為に、見境がなくなる。
(3)脳の抑制命令が、欠落する。
(4)瞬間、別人のような鋭い目つきになる。
(5)キレる理由そのものが、明確ではない。

 順に考えてみる。

(1)突発的に錯乱状態になる。

 キレる子どもの特徴は、突発的に錯乱状態になること。その少し前から、ピリピリとし
た緊張状態がつづくことがあるが、暴れ出すときは、突発的である。瞬間、人格の変化を
感じたと思ったとたん、「コノヤロー」と金切り声をあげて、相手に飛びかかっていったり
する。

(2)暴力行為に、見境がなくなる。

 キレる子どものする暴力には、見境がない。ふつうの暴力には、(手かげん)というもの
がある。しかしキレる子どものする暴力には、その(手かげん)がない。全力をこめて、
相手を殴ったり、蹴ったりする。

(3)脳の抑制命令が、欠落する。

 言動が、まるでカミソリでものをスパスパと切ったようになる。動きが直線的になり、
なめらかさが消える。脳の抑制命令が欠落したような状態になる。当然、言葉もはげしい
ものになる。

(4)瞬間、別人のような鋭い目つきになる。

 その瞬間、子どもの顔を観察すると、顔色は青ざめ、目つきが別人のように鋭く、冷め
たものになっているのがわかる。憎しみや怒りを表現しながら相手に殴りかかるというよ
りは、無表情のまま。ときに、そのあまりにもすごんだ顔を見て、ゾッとすることさえあ
る。

(5)キレる理由そのものが、明確ではない。

 キレるとき、その理由が、よくわからない。A君(小3男児)は、順番を待って並んで
いるとき、突然、キレて暴れ出した。近くにあった机や椅子を、ギャーッという叫び声と
ともに、手当たり次第、足で蹴って倒した。

 B子さん(小5女児)は、私が「こんにちは」と声をかけて肩をたたいたその瞬間、突
然、キレた。私に向かって、「このヘンタイ野郎!」と言って、私の腹に足蹴りを入れてき
た。ものすごい足蹴りである。私は、その場で、息もできなくなり、しばらくうずくまっ
てしまった。

 C君(小4男児)は、問題を解いているとき、私がそれを手助けしてやろうと声をかけ
たとたん、キレた。「テメエ、ウッセー!」と叫んで、そばにあったワークブックで、私の
頭を、つづけざまに、狂ったように叩きつづけた。

 こういうケースのばあい、私ができることと言えば、男児のばあいは、抱きかかえ、子
どもを抑えることでしかない。しかし相手が女児のばあいだと、それもできない。両手で
まるく、自分の頭をおおうことでしかない。子どもの世界では、おとなの私のほうが、や
り返すなどというのは、タブー。(当然だが……。)

 こうした子どもを観察してみると、先にも書いたように、脳の抑制命令そのものが、欠
落したような状態になっていることがわかる。脳の機能そのものが、異常に亢進し、狂っ
たような状態になる。

 原因のほとんどは、慢性的なストレス、日常的な緊張感、抑圧感の蓄積と考えてよい。
それが脳間伝達物質の過剰分泌を促し、瞬間的に脳の機能が異常に亢進するためと考えら
れる。

 さらにその原因はといえば、脳の微細障害説などもあるが、家庭環境も、大きく作用し
ていることは否定できない。

 子どもがこういう症状を示したら、親は、家庭環境を猛省しなければならない。が、こ
ういう子どもにかぎって、親の前では、むしろ静かでいい子ぶっていることが多い。つま
りそのはけ口を、弱い人や、やさしい人に向ける。

 だからたいていのばあい、私がそれを指摘しても、親は、その深刻さを理解しようとす
る前に、子どもを叱ったり、さらに子どもを抑えつけようとしたりする。これがますます
症状をこじらせる。あとは、この悪循環。最後は、行き着くところまで行く。それまで気
がつかない。

 対処法としては、過剰行動児に準ずる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

以前書いた原稿より……

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ストレス学説

+++++++++++++++++

適度なストレスは、生活のスパイス。
それは常識だが、では「適度なストレス」
とは、どの程度のストレスのことを
いうのか。

称して、「はやし浩司のストレス学説」

+++++++++++++++++

 適度なストレスは、生活のスパイス。それが、生活に、ある種の緊張感をもたらす。そ
れは常識だが、では「適度なストレス」とは、どの程度のストレスのことをいうのか。そ
れがわからない。

●正のストレス、負のストレス

 ストレス(生理的ひずみ)にも、2種類ある。たまたま、私は、それを同時に経験しつ
つある。

 来月(10月)から、数年ぶりに、言葉クラブをもつ。生徒も、5、6人、集まった。
で、これが今、ある種の緊張感となって、私の心を包んでいる。これが正のストレス。

 一方、この先ずっと、私は、グループ・ホームへ入った兄のめんどうをみなければなら
ない。ひょっとしたら、兄のほうが、私より長生きをするかもしれない。途中、いろいろ
な医療費も負担することになるだろう。それを考えると、気が重くなる。これが負のスト
レス。

 つまり前向きに、自分を発展させていくストレスが、正のストレスということになる。
一方、袋小路に入ったように、先が見えないストレスが、負のストレスということになる。

 適度なストレスとはいうものの、正のストレスなら、まだ何とかなる。ここでいう、生
活のスパイスになる。

 しかし負のストレスは、そうではない。それがいくら軽いものであっても、(重いものな
ら、当然だが)、心の内側にペタッと入りついて、その心を、重く苦しいものにする。

●住んでいる世界で異なるストレス

 心の広さというのは、千差万別。人によって、みな、異なる。

 井戸のような世界に住んでいる人は、小さな石ころが落ちただけで、それを大きなスト
レス(ストレッサー)にしてしまう。

 一方、大きな海のような世界に住んでいる人は、渦巻く台風のような風が起きても、平
気。

 つまりは住んでいる世界、あるいはその人の心の広さによって、同じストレスでも、感
じ方まで、異なってくる。

 それが正のストレスであれ、負のストレスであれ、事情は同じ。

 では、私たちは、ストレスに対して、どのように考え、どのように対処すればよいのか。

●ストレス学説 

 ストレスというのは、もともとは「圧力」を意味する(セリエ)。その圧力が、心理的負
担になり、心理的反応を示した状態を、「ストレス」という。「生理的ひずみ」と考えると、
わかりやすい。

 しかしそのストレスの受け方には、ここにも書いたように、個人差がある。たとえば同
じストレス(圧力)でも、人によって、それを重圧に思う人もいれば、そうでない人もい
る。そこで今では、ストレスに個人差、つまり個人変数を加えて考えるのが常識になって
いる(ラザラスとフォルクスマン)。

 同じストレスであるにもかかわらず、人によって個人差が出るのは、それぞれの人がも
つ認知プロセスがちがうからと考えられている。わかりにくい言葉だが、要するに、その
人が置かれた環境、心理状態、精神状態、経験などにより、その処理方法が異なるという
こと。

 たとえばある男性(40歳)は、こう言った。「オレは、借金がないと仕事をする気が起
きない」と。

 また別の男性(40歳)は、こう言った。「オレは、借金に追われるようになると、仕事
が手につかなくなる」と。

 同じ(借金)でも、それを受け取る側の認知プロセスによって、ストレスにするかしな
いかが決まってくる。こうしたストレスへの対処方法を総称して、「コーピング(copi
ng)」と呼ぶ学者もいる。

●では、どうするか?

 ストレスと戦うためには、2つの方法が考えられる。ひとつは、そのストレスそのもの
と戦うという方法。もう1つは、自分の住む世界を、より広く、大きくすることによって
対処するという方法である。
 
つまり心理的圧力となるような原因を取り除くのが、前者。広い海のような心をもち、
小石が落ちたくらいでは、ビクともしない。そういう状態にもっていくのが、後者とい
うことになる。

 で、私のばあいは、ストレスの原因となるようなストレッサー、とくに冒頭にあげた負
のストレスを、心のどこかで感じたばあいには、できるだけ早い段階で、それを解消する
ように努めている。もともとあまりストレスに強い精神構造にはできていない。

 つぎに、できるだけ広い心を用意する。具体的には、さまざまな経験をすることによっ
て、広い心をもつようにする。そのためには、情報が重要な役割をになうことが多い。そ
ういう意味では、無知、無学は、ストレスの大敵と考えてよい。

 ほかに、たとえば、心の防衛機制に準じて、(1)合理化、(2)反動形成、(3)同一視、
(4)代償行動、(5)逃避、(6)退行、(7)補償、(8)投影、(9)抑圧、(10)置
換、(11)否認、(12)知性化という方法などがある。

どう反応するかは、もちろんそれぞれの人によって異なる。が、人というのは、それをス
トレスと感じたときから、それに長く耐える力は、あまりない。これは幼児のばあいだが、
日中、ほんの5〜10分間程度ストレスを感じただけで、精神疲労症状を起こす子どもは、
少なくない。

 子どもによっては、頭痛、腹痛を訴えることもある。吐く息が臭くなったり、下痢症状
を示すこともある。それが周期的に長くつづいたりすると、心をゆがめることも少なくな
い。神経症を発症したり、さらに情緒障害、精神障害に発展することも珍しくない。

 話が脱線したが、今、あなたが何かのストレスを感じているなら、まずその中身を知る。
敵を知る。それがストレスと立ち向かう、第1歩ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
ストレ
ス、ストレッサー ストレス学説 正のストレス、負のストレス)

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ストレスについて、以前書いた原稿の
中から、いくつかを集めてみました。

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子どもが自慰をするとき

●ある母親からの質問

 ある母親からこんな相談が寄せられた。いわく、「私が居間で昼寝をしていたときのこと。
6歳になった息子が、そっと体を私の腰にすりよせてきました。小さいながらもペニスが
固くなっているのがわかりました。やめさせたかったのですが、そうすれば息子のプライ
ドをキズつけるように感じたので、そのまま黙ってウソ寝をしていました。

こういうとき、どう対処したらいいのでしょうか」(32歳母親)と。

●罪悪感をもたせないように

 フロイトは幼児の性欲について、次の3段階に分けている。(1)口唇期……口の中にい
ろいろなものを入れて快感を覚える。(2)肛門期……排便、排尿の快感がきっかけとなっ
て肛門に興味を示したり、そこをいじったりする。(3)男根期……満4歳くらいから、性
器に特別の関心をもつようになる。

 自慰に限らず、子どもがふつうでない行為を、習慣的に繰り返すときは、まず心の中の
ストレス(生理的ひずみ)を疑ってみる。

子どもはストレスを解消するために、何らかの代わりの行為をする。これを代償行為とい
う。指しゃぶり、爪かみ、髪いじり、体ゆすり、手洗いグセなど。自慰もその一つと考え
る。

つまりこういう行為が日常的に見られたら、子どもの周辺にそのストレスの原因(ストレ
ッサー)となっているものがないかをさぐってみる。ふつう何らかの情緒不安症状(ふさ
ぎ込み、ぐずぐず、イライラ、気分のムラ、気難しい、興奮、衝動行為、暴力、暴言)を
ともなうことが多い。そのため頭ごなしの禁止命令は意味がないだけではなく、かえって
症状を悪化させることもあるので注意する。

●スキンシップは大切に

 さらに幼児のばあい、接触願望としての自慰もある。幼児は肌をすり合わせることによ
り、自分の情緒を調整しようとする。反対にこのスキンシップが不足すると、情緒が不安
定になり、情緒障害や精神不安の遠因となることもある。子どもが理由もなくぐずったり、
訳のわからないことを言って、親をてこずらせるようなときは、そっと子どもを抱いてみ
るとよい。最初は抵抗するそぶりを見せるかもしれないが、やがて静かに落ちつく。

 この相談のケースでは、親は子どもに遠慮する必要はない。いやだったらいやだと言い、
サラッと受け流すようにする。罪悪感をもたせないようにするのがコツ。

 一般論として、男児の性教育は父親に、女児の性教育は母親に任すとよい。異性だとど
うしても、そこにとまどいが生まれ、そのとまどいが、子どもの異性観や性意識をゆがめ
ることがある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子供の性教育 性教育 子供の性 性 自慰 子供の自慰 自慰行為)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どものおねしょとストレス

 いわゆる生理的ひずみをストレスという。多くは精神的、肉体的な緊張が引き金になる
ことが多い。

たとえば急激に緊張すると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まり、その結果心臓が
ドキドキし、さらにその結果、脳や筋肉に大量の酸素が送り込まれ、脳や筋肉の活動が活
発になる。

が、そのストレスが慢性的につづくと、副腎機能が亢進するばかりではなく、「食欲不振や
性機能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などの種々の反応が引き起こされる」(新
井康允氏)という。こうした現象はごく日常的に、子どもの世界でも見られる。

 何かのことで緊張したりすると、子どもは汗をかいたり、トイレが近くなったりする。
さらにその緊張感が長くつづくと、脳の機能そのものが乱れ、いわゆる神経症を発症する。

ただ子どものばあい、この神経症による症状は、まさに千差万別で、定型がない。「尿」に
ついても、夜尿(おねしょ)、頻尿(たびたびトイレに行く)、遺尿(尿意がないまま漏ら
す)など。

私がそれを指摘すると、「うちの子はのんびりしています」と言う親がいるが、日中、明る
く伸びやかな子どもでも、夜尿症の子どもはいくらでもいる。(尿をコントロールしている
のが、自律神経。その自律神経が何らかの原因で変調したと考えるとわかりやすい。)同じ
ストレッサー(ストレスの原因)を受けても、子どもによっては受け止め方が違うという
こともある。

つまり子どもによって、それぞれ認知プロセス(=ストレスに対する耐性)は異なる。

 しかし考えるべきことは、ストレスではない。そしてそれから受ける生理的変調でもな
い。(ほとんどのドクターは、そういう視点で問題を解決しようとするが……。)

大切なことは、仮にそういうストレスがあったとしても、そのストレスでキズついた心を
いやす場所があれば、それで問題のほとんどは解決するということ。ストレスのない世界
はないし、またストレスと無縁であるからといって、それでよいというのでもない。

ある意味で、人は、そして子どもも、そのストレスの中でもまれながら成長する。で、そ
の結果、言うまでもなく、そのキズついた心をいやす場所が、「家庭」ということになる。

 子どもがここでいうような、「変調」を見せたら、いわば心の黄信号ととらえ、家庭のあ
り方を反省する。手綱(たづな)にたとえて言うなら、思い切って、手綱をゆるめる。一
番よいのは、子どもの側から見て、親の視線や存在をまったく意識しなくてすむような家
庭環境を用意する。

たいていのばあい、親があれこれ心配するのは、かえって逆効果。子ども自身がだれの目
を感ずることもなく、ひとりでのんびりとくつろげるような家庭環境を用意する。子ども
のおねしょについても、そのおねしょをなおそうと考えるのではなく、家庭のあり方その
ものを考えなおす。

そしてあとは、「あきらめて、時がくるのを待つ」。それがおねしょに対する、対処法とい
うことになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
 子供の夜尿症 おねしょ 頻尿 子どものおねしょ おねしょう)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私のストレス発散法

 ストレス(生理的なひずみ、あるいは「気」のうっ積)で苦しんでいる人は、多い。実
のところ、私は30歳〜35歳のころ、偏頭痛で苦しんだ。年に数回、あるいはもっと多
い頻度で、偏頭痛の発作が起きた。それこそ四転八転の苦しみを味わった。「頭を切ってく
れ!」と叫んで、ふとんの中でもがいたことも多い。その苦しみは、偏頭痛を味わったも
のでないとわかるまい。

 もっとも当時は、偏頭痛に対する理解も治療法もなく、(あったかもしれないが、私が相
談した医師は、別の診断名をくだしていた。ある大病院では、脳腫瘍と診断し、開頭手術
まで予定した)、市販の薬をのんでは、ゲーゲーとそれを吐き出していた。そういう意味で
は、まさに毎日がストレスとの戦いでもあった。

 そんな中、やがて自分なりの対処法を身につけるようになった。

 まず第一に自分はストレスに弱いことを自覚した。そのため、ストレッサー(ストレス
の原因)となりやすいものは、できるだけ避けるようにした。たとえば人と会う約束も、
1日1回にするとか、など。あるいはスケジュールには、余裕をもたせるなど。

 つぎに、当然のことながら、治療法をさがした。たまたま東洋医学の勉強もしていたの
で、あらゆる漢方薬を試してみた。しかし結局は、そのうち、たいへんよく効く西洋薬が
開発されて、それでなおるようになった。ただその薬は、のむと胃を荒らすので、できる
だけのまないようにしている。

 が、最善の治療法は、汗をかくこと。ただし、偏頭痛がひどくなってからでは、汗をか
くと、かえって……というより、運動することそのものができない。軽い段階で、思い切
って汗をかく。

運動がよいことは言うまでもないが、その中でも、私のばあい、エンジン付の草刈り機で、
バンバンと草を刈るのが効果的。一汗かくと、偏頭痛そのものが消える。だから「おかし
い」と感じたら、あたりかまわず草を刈ることにしている。理由はよくわからないが、下
半身は毎日、自転車できたえているため、走ったり、自転車にのっても、あまり汗をかか
ない。しかし反対に、上半身は、ほとんど鍛えていないので、草を刈るとその上半身を使
うため、汗をかくのではないか……と、勝手にそう解釈している。

 今でも、少し油断すると、頭重が起きる。しかしそれは同時に、私の健康のバロメータ
ーでもある。持病もうまくつきあうと、それを反対に利用することができる。「少し頭が重
くなったから、仕事を減らせ」とか。そういうふうに、利用できる。

 この話は、子育てとは関係ないが、育児疲れや育児ノイローゼで、偏頭痛になる人も多
いので、参考のために書いた。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●わずらわしい世界

 情報の時代というが、本当に、この世界、わずらわしい。昨夜も、居間でお茶を飲んで
いたら、若い女性から電話がかかってきて、息子の電話番号を教えろ、と。私が断ると、「何
を偉そうに!」と。勝手に他人の家に電話をかけてきて、「何を偉そうに!」は、ない。

 ひとり静かに生きることは、一見、楽なようにみえて、楽ではない。「一日」という時間
帯をみても、ひとり静かでのんびりできる時間のほうが、少ない。つぎからつぎへと、い
ろいろな事件が起きる。そのほとんどは、向こうからやってくる。

できるなら、そういうわずらわしさから、解放されたい。しかし、それは死ぬまで、不可
能だろう。ただ私のばあい、朝、5時ごろ目が覚めて、それから7時、8時まで、こうし
て原稿を書いているが、その時間ほど、「ひとり」でいられる時間はない。貴重な時間だ。
しかし、それでわずらわしさが消えるわけではない。

 こうしたわずらわしさがあれば、それと戦うしかない。受け身になったとき、そのわず
らわしさは、ストレッサーとなる。問題は戦い方だ。しかしひとたび情緒が不安定になる
と、それも簡単ではない。

子どものばあい、大きく分けて、三つのタイプに分かれる。(1)攻撃型、激情型、暴力型、
(2)内閉型、オドオド型、萎縮型、(3)執着型、こだわり型、依存型。

思いついたまま書いたので、正しくないかもしれないが、要するに、大声を出して暴れる
タイプと、グズグズして引きこもるタイプ、それにモノにこだわって、それを異常にこだ
わるタイプがある。

 おとなもそうで、私のばあいは、(1)の攻撃型と、(2)内閉型の間をいったりきたり
する。精神状態がフワフワし、自分でもつかみどころがなくなってしまう。爆発しそうな
自分を必死でこらえたり、反対に、電話に出るのも、おっくうになったりする。

あるいはときどき、(3)のモノにこだわるときもある。そういうときは、それまでほしか
った高価なものを、パッと買ったりする。それで気分が晴れることもある。あとはカルシ
ウム剤をたっぷりと飲んで、風呂に入って、よく眠る。「明日は明日の風が吹く」と、そう
思いながら、床につく。

 昨日も一日、何かとわずらわしいことがつづいた。そのため朝なのに、少し頭が痛い。
しかし考えても始まらない。「何とかなるだろう」と、自分をなぐさめながら、前に進むし
かない。がんばりましょう。がんばります。では、みなさん、おはようございます。
(02−11−16)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●心のメカニズム

*****************

少し不謹慎な話で恐縮だが、セックス
をすると、言いようのない快感が、脳
全体をおおうのがわかる。これはセッ
クスという行為によって刺激され、脳
にモルヒネ様の物質が放出されるため
である。しかしこういう快感があるか
ら人は、セックスをする。つまり、種
族を私たちは維持できる。同じように、
よいことをしても、脳の中で、同様の
変化が起きる? それについて考えて
みた。

*****************

 まず、数か月前に私はこんなエッセーを書いた。その中で、私は「気持ちよさ」とか、「こ
こちよさ」という言葉を使って、「正直に生きることの大切さ」について書いてみた。

●常識の心地よさ 

 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思
えば、美しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そ
ういう自分に静かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にと
って不愉快かがわかるようになる。

無理をすることは、ない。道ばたに散ったゴミやポリ袋を美しいと思う人はいない。排気
ガスで汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あなたはすでにそれを知っている。それ
が「常識」だ。

 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直に
なってみるのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まち
がえて50円、余計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私
がその50円を返すと、店員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそう
に笑った。そのここちよさは、みんなが知っている。

 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそ
うでなくても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実の
ところ、私は若いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついている。自分
では「いけないことだ」と思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることが
できない。

私の中には、私であって私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっ
ぱったり……。先日も女房と口論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛
び乗った。「家になんか帰るものか」とそのときはそう思った。で、その夜は隣町のT市の
ホテルに泊まるつもりでいた。が、そのとき、私はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は
本当に、ホテルに泊まりたいのか」と。答は「ノー」だった。私は自分の家で、自分のふ
とんの中で、女房の横で寝たかった。だから私は、最終列車で家に帰ってきた。

 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私で
あって、私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。
いつ、なぜそういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そうい
う私であって私でない部分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。

 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」
を知る。いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、そ
れなりに戦わねばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」
をみがくこと、そのものと言ってもよい。

●なぜ気持ちよいのか

 少し話が専門的になるが、大脳の中心部(大脳半球の内側面)に、辺縁系(大脳辺縁系)
と呼ばれる組織がある。「辺縁系」というのは、このあたりが、間脳や脳梁(のうりょう)
を、ちょうど包むようにフチどっていることから、そう名づけられた。

 その辺縁系の中には、認知記憶をつかさどる海馬(かいば)や、動機づけをする帯状回
(たいじょうかい)、さらに価値判断をする扁桃体(へんとうたい・扁桃核ともいう)があ
る。

その扁桃体が、どうやら、人間の善悪の感覚をつかさどっているらしいことが、最近の研
究でわかってきた。もう少しわかりやすく言うと、大脳(新皮質部)でのさまざまな活動
が、扁桃体に信号を送り、それを受けて、扁桃体が、麻薬様の物質を放出する。その結果、
脳全体が快感に包まれるというのだ。

ここに書いたケースで言えば、私が店員さんに50円のお金を渡したことが、扁桃体に信
号を送り、その扁桃体が、私の脳の中で、麻薬様の物質を放出したことになる。

 もっとも脳の中でも麻薬様の物質が作られているということは、前から知られていた。
そのひとつに、たとえばハリ麻酔がある。体のある特定の部位に刺激を与えると、その刺
激が神経を経て、脳に伝えられる。すると脳の中で、その麻薬様物質が放出され、痛みが
緩和される。私は23、4歳のころからこのハリ麻酔に興味をもち、一時は、ある研究所
(社団法人)から、「教授」という肩書きをもらったこともある。

 それはそれとして、麻薬様物質としては、現在数10種類ほど発見されている。その麻
薬様物質は、大きく分けて、エンドルフィン類と、エンケファリン類の二つに分類される。
これらの物質は、いわば脳の中で生産される自家製のモルヒネと思えばよい。こうした物
質が放出されることで、その人はここちよい陶酔感を覚えることができる。

 つまりよいことをすると、ここちよい感じがするのは、大脳(新皮質部)が、思考とし
てそう感ずるのではなく、辺縁系の中にある扁桃体が、大脳からの信号を得て、麻薬様の
物質を放出するためと考えられる。少し乱暴な意見に聞こえるかもしれないが、心の働き
というのも、こうして、ある程度は、大脳生理学の分野で説明できるようになった。

 で、その辺縁系は、もともとは動物が生きていくための機能をもった原始的な脳と考え
られていた。私が学生時代には、だれかからは忘れたが、この部分は意味のない脳だと教
えられたこともある。

しかしその後の研究で、この辺縁系は、ここにも書いたように、生命維持と種族維持だけ
ではなく、もろもろの心の活動とも、深いかかわりをもっていることがわかってきた。そ
うなると人間は、「心」を、かなりはやい段階、たとえばきわめて原始的な生物のときから
もっていたということになる。ということは、同属である、犬やネコにも「心」があると
考えてよい。実際、こんなことがある。

 私は飼い犬のポインター犬を連れて、よく散歩に行く。あの犬というのは、知的なレベ
ルは別としても、情動活動(心の働き)は、人間に劣らずともあると言ってよい。喜怒哀
楽の情はもちろんのこと、嫉妬もするし、それにどうやら自尊心もあるらしい。

たとえば散歩をしていても、どこかの飼い犬がそれを見つけて、ワンワンとほえたりする
と、突然、背筋をピンとのばしたりする。人間風に言えば、「かっこづける」ということに
なる。そして何か、よいことをしたようなとき、頭をなでてやり、それをほめたりすると、
実にうれしそうに、そして誇らしそうな様子を見せる。恐らく、……というより、ほぼま
ちがいなく、犬の脳の中でも、人間の脳の中の活動と同じことが起きていると考えてよい。
つまり大脳(新皮質部)から送られた信号が、辺縁系の扁桃体に送られ、そこで麻薬様の
物質が放出されている!

●心の反応を決めるもの

 こう考えていくと、善悪の判断にも、扁桃体が深くかかわっているのではないかという
ことになる。それを裏づける、こんなおもしろい実験がある。

 アメリカのある科学者(ラリー・カーヒル)は、扁桃体を何らかの事情で失ってしまっ
た男性に、つぎのようなナレーションつきのスライドを見せた。そのスライドというのは、
ある少年が母親といっしょに歩いているとき、その少年が交通事故にあい、重症を負って、
もがき苦しむという内容のものであった。

 そしてラリー・カーヒルは、そのスライドを見せたあと、ちょうど一週間後に再び、そ
の人に病院へ来てもらい、どんなことを覚えているかを質問してみた。

 ふつう健康な人は、それがショッキングであればあるほど、その内容をよく覚えている
もの。が、その扁桃体を失ってしまった男性は、スライドを見た直後は、そのショッキン
グな内容をふつうの人のように覚えていたが、一週間後には、そのショッキングな部分に
ついて、ふつうの人のように、とくに覚えているということはなかったというのだ。

 これらの実験から、山元大輔氏は『脳と記憶の謎』(講談社現代新書)の中でつぎのよう
に書いている。

(1)(扁桃体のない男性でも)できごとの記憶、陳述記憶はちゃんと保たれている。
(2)扁桃体がなくても、情動反応はまだ起こる。これはたぶん、大脳皮質がある程度、
その働きを、「代行」するためではないか。
(3)しかし情動記憶の保持は、致命的なほど、失われてしまう。

 わかりやすく言えば、ショッキングな場面を見て、ショックを受けるという、私たちが
「心の反応」と呼んでいる部分は、扁桃体がつかさどっているということになる。

●心の反応を阻害(そがい)するもの

 こうした事実を、子育ての場で考えると、つぎのように応用できる。つまり子どもの「心」
というのも、大脳生理学の分野で説明できるし、それが説明できるということは、「心」は、
教育によって、はぐくむことができるということになる。

 そこで少し話がそれるが、こうした脳の機能を阻害するものに、「ストレス」がある。た
とえばニューロンの死を引き起こす最大の原因は、アルツハイマー型などの病気は別とし
て、ストレスだと言われている。

何かの精神的圧迫感が加わると、副腎皮質から、グルココルチコイドという物質が分泌さ
れる。そしてその物質が、ストレッサーから身を守るため、さまざまな反応を体の中で引
き起こすことが知られている。

 このストレスが、一時的なものなら問題はないが、それが、長期間にわたって持続的に
つづくと、グルココルチコイドの濃度があがりっぱなしになって、ニューロンに致命的な
ダメージを与える。そしてその影響をもっとも強く受けるのが、辺縁系の中の海馬だとい
う(山元大輔氏)。

 もちろんこれだけで、ストレスが、子どもの心をむしばむ結論づけることはできない。
あくまでも「それた話」ということになる。しかし子育ての現場では、経験的に、長期間
何らかのストレスにさらされた子どもが、心の冷たい子どもになることはよく知られてい
る。

イギリスにも、『抑圧は悪魔を生む』という格言がある。この先は、もう一度、いつか機会
があれば煮つめてみるが、そういう意味でも、子どもは、心豊かな、かつ穏やかな環境で
育てるのがよい。そしてそれが、子どもの心を育てる、「王道」ということになる。

 ついでに、昨年書いたエッセーを、ここに転載しておく。ここまでに書いたことと、少
し内容が重複するが、許してほしい。

●子どもの心が破壊されるとき

 A小学校のA先生(小1担当女性)が、こんな話をしてくれた。「1年生のT君が、トカ
ゲをつかまえてきた。そしてビンの中で飼っていた。そこへH君が、生きているバッタを
つかまえてきて、トカゲにエサとして与えた。私はそれを見て、ぞっとした」と。

 A先生が、なぜぞっとしたか、あなたはわかるだろうか。それを説明する前に、私にも
こんな経験がある。もう20年ほど前のことだが、1人の子ども(年長男児)の上着のポ
ケットを見ると、きれいに玉が並んでいた。私はてっきりビーズ玉か何かと思った。が、
その直後、背筋が凍りつくのを覚えた。

よく見ると、それは虫の頭だった。その子どもは虫をつかまえると、まず虫にポケットの
フチを口でかませる。かんだところで、体をひねって頭をちぎる。ビーズ玉だと思ったの
は、その虫の頭だった。

また別の日。小さなトカゲを草の中に見つけた子ども(年長男児)がいた。まだ子どもの
小さなトカゲだった。「あっ、トカゲ!」と叫んだところまではよかったが、その直後、そ
の子どもはトカゲを足で踏んで、そのままつぶしてしまった!

 原因はいろいろある。貧困(それにともなう家庭騒動)、家庭崩壊(それにともなう愛情
不足)、過干渉(子どもの意思を無視して、何でも親が決めてしまう)、過関心(子どもの
側からみて息が抜けない家庭環境)など。威圧的(ガミガミと頭ごなしに言う)な家庭環
境や、権威主義的(「私は親だから」「あなたは子どもだから」式の問答無用の押しつけ)
な子育てが、原因となることもある。要するに、子どもの側から見て、「安らぎを得られな
い家庭環境」が、その背景にあるとみる。さらに不平や不満、それに心配や不安が日常的
に続くと、それが子どもの心を破壊することもある。

イギリスの格言にも、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。抑圧的な環境が長く続くと、
ものの考え方が悪魔的になることを言ったものだが、このタイプの子どもは、心のバラン
ス感覚をなくすのが知られている。

「バランス感覚」というのは、してよいことと悪いことを、静かに判断する能力のことを
いう。これがないと、ものの考え方が先鋭化したり、かたよったりするようになる。昔、
こう言った高校生がいた。「地球には人間が多すぎる。核兵器か何かで、人口を半分に減ら
せばいい。そうすれば、ずっと住みやすくなる」と。そういうようなものの考え方をする
が、言いかえると、愛情豊かな家庭環境で、心静かに育った子どもは、ほっとするような
温もりのある子どもになる。心もやさしくなる。

 さて冒頭のA先生は、トカゲに驚いたのではない。トカゲを飼っていることに驚いたの
でもない。A先生は、生きているバッタをエサとして与えたことに驚いた。A先生はこう
言った。「そういう残酷なことが平気でできるということが、信じられませんでした」と。

 このタイプの子どもは、総じて他人に無関心(自分のことにしか興味をもたない)で、
無感動(他人の苦しみや悲しみに鈍感)、感情の動き(喜怒哀楽の情)も平坦になる。よく
誤解されるが、このタイプの子どもが非行に走りやすいのは、そもそもそういう「芽」が
あるからではない。
非行に対する抵抗力がないからである。悪友に誘われたりすると、そのままスーッと仲間
に入ってしまう。ぞっとするようなことをしながら、それにブレーキをかけることができ
ない。だから結果的に、「悪」に染まってしまう。

 そこで一度、あなたの子どもが、どんなものに興味をもち、関心を示すか、観察してみ
てほしい。子どもらしい動物や乗り物、食べ物や飾りであればよし。しかしそれが、残酷
なゲームや、銃や戦争、さらに日常的に乱暴な言葉や行動が目立つというのであれば、家
庭教育のあり方をかなり反省したらよい。

子どものばあい、「好きな絵をかいてごらん」と言って紙とクレヨンを渡すと、心の中が読
める。子どもらしい楽しい絵がかければ、それでよし。しかし心が壊れている子どもは、
おとなが見ても、ぞっとするような絵をかく。

 ただし、小学校に入学してからだと、子どもの心を修復するのはたいへん難しい。修復
するとしても、四、五歳くらいまで。穏やかで、静かな生活を大切にする。
(02−11−23)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
心をゆがめる子供 扁桃体 ストレスと子供 子供とストレス)


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ここまでの原稿に関連して、
以前にマガジンで配送した原稿を、送ります。
前に読んでくださった方は、とばしてください。

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●性善説と性悪説

 胎児は母親の胎内で、過去数10万年の進化の過程を、そのまま繰り返す。ある時期は、
魚そっくりのときもあるそうだ。

 同じように、生まれてから、知能の発達とは別に、人間は、「心の進化」を、そのまま繰
り返す。……というのは、私の説だが、乳幼児を観察していると、そういうことを思わせ
る場面に、よく出会う。

たとえば生後まもなくの新生児には、喜怒哀楽の情はない。しかし成長するにつれて、さ
まざまな感情をもつようになる。よく知られた現象に、「天使の微笑み」というのがある。
眠っている赤子が、何を思うのか、ニコニコと笑うことがある。こうした「心」の発達を
段階的に繰り返しながら、子どもは成長する。

 最近の研究では、こうした心の情動をコントロールしているのが、大脳の辺縁系の中の、
扁桃体(へんとうたい)であるということがわかってきた。

たしかに知的活動(大脳連合野の新新皮質部)と、情動活動は、違う。たとえば1人の幼
児を、皆の前でほめたとする。するとその幼児は、こぼれんばかりの笑顔を、顔中に浮か
べる。その表情を観察してみると、それは知的な判断がそうさせているというよりは、も
っと根源的な、つまり本能的な部分によってそうしていることがわかる。が、それだけで
はない。

 幼児、なかんずく4^6歳児を観察してみると、人間は、生まれながらにして善人であ
ることがわかる。中に、いろいろ問題のある子どもはいるが、しかしそういう子どもでも、
生まれながらにそうであったというよりは、その後の、育て方に問題があってそうなった
と考えるのが正しい。

子どもというのは、あるべき環境の中で、あるがままに育てれば、絶対に悪い子どもには
ならない。(こう断言するのは、勇気がいることだが、あえてそう断言する。)

 こうした幼児の特質を、先の「心の進化」論にあてはめてみると、さらにその特質がよ
くわかる。

 仮に人間が、生まれながらにして悪人なら……と仮定してみよう。たとえば仲間を殺し
ても、それを快感に覚えるとか。人に意地悪をしたり、人をいじめても、それを快感に覚
えるとか。新生児についていうなら、生まれながらにして、親に向かって、「ババア、早く
ミルクをよこしやがれ。よこさないとぶっ殺すぞ」と言ったとする。もしそうなら、人間
はとっくの昔に、絶滅していたはずである。

つまり今、私たちがここに存在するということは、とりもなおさず、私たちが善人である
という証拠ということになる。私はこのことを、アリの動きを観察していて発見した。

 ある夏の暑い日のことだった。私は軒先にできた蜂の巣を落とした。私もワイフも、こ
の1、2年で一度ハチに刺されている。今度ハチに刺されたら、アレルギー反応が起きて、
場合によっては、命取りになるかもしれない。それで落とした。殺虫剤をかけて、その巣
の中の幼虫を地面に放り出した。そのときのこと。時間にすれば10分もたたないうちに、
無数の小さなアリが集まってきて、その幼虫を自分たちの巣に運び始めた。

 最初はアリたちはまわりを取り囲んでいただけだが、やがてどこでどういう号令がかか
っているのか、アリたちは、一方向に動き出した。するとあの自分の体の数百倍以上はあ
るハチの幼虫が、動き出したのである!

 私はその光景を見ながら、最初は、アリたちにはそういう行動本能があり、それに従っ
ているだけだと思った。しかしそのうち、自分という人間にあてはめてみたとき、どうも
それだけではないように感じた。

たとえば私たちは夫婦でセックスをする。そのとき本能のままだったら、それは単なる排
泄行為に過ぎない。しかし私たちはセックスをしながら、相手を楽しませようと考える。
そして相手が楽しんだことを確認しながら、自分も満足する。同じように、私はアリたち
にも、同じような作用が働いているのではないかと思った。つまりアリたちは、ただ単に
行動本能に従っているだけではなく、「皆と力を合わせて行動する喜び」を感じているので
はないか、と。またその喜びがあるからこそ、そういった重労働をすることができる、と。

 この段階で、もし、アリたちがたがいに敵対し、憎みあっていたら、アリはとっくの昔
に絶滅していたはずである。言いかえると、アリはアリで、たがいに助けあう楽しみや喜
びを感じているに違いない。またそういう感情(?)があるから、そうした単純な、しか
も過酷な肉体労働をすることができるのだ、と。

 もう結論は出たようなものだ。人間の性質について、もともと善なのか(性善説)、それ
とも悪なのか(性悪説)という議論がよくなされる。しかし人間は、もともと「善なる存
在」なのである。私たちが今、ここに存在するということが、何よりも、その動かぬ証拠
である。繰り返すが、もし私たち人間が生まれながらにして悪なら、私たちはとっくの昔
に、恐らくアメーバのような生物にもなれない前に、絶滅していたはずである。

 私たち人間は、そういう意味でも、もっと自分を信じてよい。自分の中の自分を信じて
よい。自分と戦う必要はない。自分の中の自分に静かに耳を傾けて、その声を聞き、それ
に従って行動すればよい。もともと人間は、つまりあらゆる人々は、善人なのである。
(02−8−3)

参考文献……『脳と記憶の謎』山元大輔(講談社現代新書)
      『脳のしくみ』新井康允(日本実業出版社)ほか

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
性善説 ストレスとは ストレス学説)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●キレる子供

【特集・キレる子ども】(1)


【キレる子ども】(再録)

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夏場になると、キレる子どもが
多くなる。

暑いせいか?

しかしそれだけとは言えない。

以前書いた原稿を、手なおして
して、ここに掲載する。

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●暴れまわる子ども(キレる子ども)

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アメリカのBLOGサイトに、こんな
相談があった。

預かっている子どもについての相談だが、
暴れまわって、困るという内容のもの。

Bulletin Board for EDSPC 753より転載。

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We have had custody of my 6 year old stepson for 9 months now, and I am truly worn out 
and need help ASAP. I went to the school today to pick him up for a doctor appointment 
(for his behavior & yes he is on medications for this)and upon seeing me in the hallway 
he became hysterical and ran in the oposite direction screaming. The principal and I 
caught up with him and he began punching, kicking, slapping, biting, and pulling 
several handfulls of my hair out of my head before the principal could restrain him. 
When he seemed calmed a bit i tried to calmly let him know that I was just picking him 
up for his doctor's appointment, at that point he kicked me in the face and continued to 
scream as loud as he could, disrupting several classrooms. The principal tried to carry 
him out to my vehicle, but once in he began kicking the daylights out of my car, he then 
got out and threw himself on the ground screaming. Please tell me what in the world to 
do and how should this be handled if it should occur at school again. The only facts we 
know about his life with his real mother is that she admitted in court to having heavily 
used methamphetamines daily throughout the pregnancy. I am not a teacher, but I fell 
terrible that the staff at his school had to go through this. He had an episode eight 
weeks ago where he did the same thing to his teacher that he did to me, I am in fearthat 
his abuse will only escalate. He is scheduled for a psych evaluation in Tacoma in 2 
weeks, please give me advice for the mean time, we have 5 other well behaved children 
in our home, how do I keep them safe?

6歳の子どもを預かるようになって、9か月になる。私は本当に疲れた。今日も、ドクタ
ーの診察を受けるため、学校へ子どもを迎えに行った。

玄関で私を見るやいなや、子どもはヒステリックになり、反対方向へ走って逃げていった。
校長と2人で、追いついたものの、殴ったり、蹴ったり、ひっぱたいたり、髪の毛を引っ
ぱったりした。少し落ち着いたところで、今日は、病院へ行くだけだと話して聞かせた。

そのときも、私の顔を蹴り、大声で泣き叫び、いくつかの教室の授業を混乱させてしまっ
た。どうしたらよいのか、どうか、教えてほしい。また学校で同じようなことが起きたら、
どうすればよいのか。8週間ほど前も同じようなことをしたとき、このままエスカレート
したら、どうしようかと悩んだ。

彼は、タコマで、心理教育を受けることになっている。この間、どうすればよいのか、教
えてほしい。私のところには、ほかにも5人の子どもを預かっているが、みな、行儀がよ
い。

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ある教育者からの返事

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It sounds like you are dealing with an extremely difficult situation. So far the other 
suggestions posted by Dina and Bear should be helpful. I have two more techniques that 
may be helpful for your stepson. One technique that you might want to try is creating a 
behavior contract with your stepson. First, you can figure out what behaviors you would 
like to see him exhibit in school and at home. Some suggestions would be he needs to 
draw when he is feeling angry or he needs to follow directions the first time that they 
are given. Set a time frame for each time you or the teacher will be evaluating his 
behavior. Start small to encourage his success with the technique. You might want to 
say, if you can do this for 30 minutes you will receive a reward. And, keep track of 
whether or not he is exhibiting this behavior every 30 minutes. You will talk to him 
about what kinds of rewards he is willing to work for. If he loves to play with his toy 
trucks maybe you can use extra play time as a reward or getting to watch a favorite 
movie. It is important to figure out what rewards matter to him. You can find more 
information on using behavior contracting on this website. Go to the main 
behavioradvisor.com screen and you will find the link for contracts. 

たいへん困難な状況にあると思う。先にコメントを書いた、DさんやBさんの意見も、役
に立つでしょう。で、私は、役にたつであろう2つの技術をもっている。

1つは、まず試してみるべきことは、その子どもとの、(行動契約)を結ぶこと。まず、学
校や家で、彼がどうあるべきかを、あなたがそれを具体的に頭の中で描いてみる。彼が怒
っているときや、最初に指示に従う必要にあるとき、どうするかを決めるのもよい。それ
ぞれのときに、時間のワクをつくれば、先生が、子どもの行動を(客観的に)評価するだ
ろう。

もし30分以内にできれば、ほうびを与えるなどとする。30分ごとに、その契約が守れ
るかどうかを、観察する。またその子どもがどのようなほうびを求めているかを、子ども
と話しあう。たとえばおもちゃのトラックと遊びたいとか、好きな映画を見たいというの
であれば、それらをほうびとする。その子どもが何をしたがっているかを知ることが、重
要。

このサイトで、(行動契約)についてのさらなる情報を、手に入れることができる。そちら
を訪問してみたらよい。

The second technique that you might want to try is having your stepson self monitor his 
own behavior. You will start out when he is calm to identify a behavior that you would 
like to encourage. Be confident in his ability to master this technique. It may sound 
unlike you, but give him excessive amounts of your confidence that he can master this 
behavior. Many children take their cues from the adults in their lives. Once you have 
figured out what behavior you will be working on, create a sheet with smily faces and 
frowning faces. At designated times, ask him to circle the smiling face if he is exhibiting 
this behavior or the frowning face if he is not. This will build his own motivation to 
exhibit appropriate behaviors. 
And, celebrate when he is improving!!! I know this can be difficult to do, as some of the 
improvements will seem small in relation to the problems; however, it is good for you 
and him to recognize when changes are occuring. It seems like you are really commited 
to helping this child and he is lucky to have such a 
stable adult in his life. Good luck with this situation. 

Keely

2番目の技術は、子ども自身の行動について、自己監視させること。子どもがあなたから
見て、落ち着いていて、好ましい状態にあるときから、始める。この技術をマスターする
ための能力が子どもにあると、自信をもつこと。

子どもが自分で自分を管理できると、あなたが、(今のあなたには、そうではなくても)、
自身をもっていることを、子どもに強く印象づける。多くの子どもたちは、彼らの生活に
おいて、おとなたちから、その手がかりを得る。どんな様子が望ましいかがわかったら、(ニ
コニコマーク)と(しかめっつらマーク)を描いたシートを用意する。

このことで、子どもに自覚を促す。そしてうまくいったときは、その子どもをほめたたえ
る。このことはむずかしいことは、わかっている。この問題に関しては、進歩は、少ない
だろう。しかしあなたとその子どもにとって、変化が起きつつあることを気がつくために
は、よい。その子どもにとって、あなたのような安定したおとなをもっているということ
は、すばらしいことだ。

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●子どもの過剰行動性について

 子どもの突発的な過剰行動性、いわゆるキレる子どもについては、いろいろな分野から
考察が繰りかえされている。

 大脳の微細障害説、環境ホルモン説、食生活説など。それらについて、数年前に書いた
原稿を、ここに添付する。

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【子どもがキレるとき】

●ふえるキレる子ども

 2000年、全国の教育委員会から報告された校内での暴力行為は、前年度より11.
4%ふえて、34595件に達したことがわかった(文部科学省)。「対外的に問題の見ら
れなかった子どもが、突発的に暴力をふるうケースが目立つ」と指摘。同省・児童生徒課
は、キレる子どもへの対応の必要性を強調した(中日新聞)。

 暴力行為が報告された学校の割合は、小学校が全体の2・2%だったが、中学校が35・
8%、高校が47・3%にのぼった。また学校外の暴力行為は、小中高校で、計5779
件だった。私が住む静岡県でも、前年度より210件ふえて、1132件だった。マスコ
ミで騒がれることは少なくなったが、この問題は、まだ未解決のままと考えてよい。

 こうしたキレる子どもの原因について、各方面からさまざまな角度から議論されている。
教育的な分野からの考察については言うまでもないが、それ以外の分野として、たとえば
(1)精神医学、(2)栄養学の分野がある。さらに最近では(3)環境ホルモンの分野か
らも問題が提起されている。これは、内分泌かく乱化学物質(環境ホルモン)が、
子どもの脳に影響を与え、それが子どもがキレる原因の一つになっているという説
である。以下、これらの問題点について、考えてみる。

(1)精神医学の分野からの考察

●躁状態における錯乱状態 

 キレる状態は、心理学の世界では、「躁(そう)状態における精神錯乱」と位置づけられ
ている。躁うつ病を定型化したのはクレペリン(ドイツの医学者・1856〜1926)
だが、一般的には躁状態とうつ状態はペアで考えられている。周期性をもって交互に、あ
るいはケースによっては、重複して起こることが多いからである。それはそれとして、こ
のキレた状態になると、子どもは突発的に攻撃的になったり、大声でわめいたりする。

(これに対して若い人の間では、ただ単に、激怒した状態、あるいは怒りをコントロール
できなくなった状態を、「キレる」と言うことが多い。ここでは区別して考える。)私にも
こんな経験がある。

●恐ろしく冷たい目

 子どもたち(小3児)を並べて、順に答案に丸をつけていたときのこと。それまでF君
は、まったく目立たないほど、静かだった。が、あと一人でF君というそのとき、F君が
突然、暴れ出した。突然というより、激変に近いものだった。ギャーという声を出したか
と思うと、周囲にあった机とイスを足げりにしてひっくり返した。瞬間私は彼の目を見た
が、その目は恐ろしいほど冷たく、すごんでいた……。

●心の緊張状態が原因

 よく子どもの情緒が不安定になると、その不安定な状態そのものを問題にする人がいる。
しかしそれはあくまでも表面的な症状に過ぎない。情緒が不安定な子どもは、その根底に
心の緊張状態があるとみる。その緊張状態の中に不安が入りこむと、その不安を解消しよ
うと、一挙に緊張感が高まり、情緒が不安定になる。先のF君のばあいも、「問題が解けな
かった」という思いが、彼を緊張させた。そういう緊張状態のところに、「先生に何かを言
われるのではないか」という不安が入りこんで、一挙に情緒が不安定になった。

言いかえると、このタイプの子どもは、いつも心が緊張状態にある。気を抜かない。気を
許さない。
周囲に気をつかうなど。表情にだまされてはいけない。柔和でおだやかな表情をしながら、
その裏で心をゆがめる子どもは少なくない。

これを心理学の世界では、「遊離」という。「遊離現象」というときもある。心(情意)と
表情がミスマッチを起こした状態をいう。一度こういう状態になると、教える側からする
と、「何を考えているかわからない子ども」といった感じになる。

 その引き金となる原因はいくつかあるが、その第一に考えるのが、欲求不満である。欲
求不満が日常的に続くと、それがストレッサー(ストレスの原因)となり、心をふさぐ。
その閉塞感が、子どもの心を緊張させる。子どもの心について、こんな調査結果がある(9
8年・文部省調査)。

 「いらいら、むしゃくしゃすることがあるか」という質問に対して、小学6年生の18.
6%が、「日常的によくある」と答え、59.8%が、「ときどきある」と答えている。そ
の理由としては、

(1)友だちとの人間関係がうまくいかないとき……51.8%
(2)人に叱られたとき……45.7%
(3)家族関係がうまくいかないとき……35.5%
(4)授業がわからないとき……34.1%
(5)意味もなくむしゃくしゃするときがある……18.5%

また「不安を感ずることがあるか」という質問に対しては、やはり小学六年生の7.8%
が、「日常的によくある」と答え、47.7%が、「ときどきある」と答えている。その理
由としては、

(1)友だちとの関係がうまくいかないとき……51.0%
(2)授業がわからないとき……47.7%
(3)時間的なゆとりがないとき……29.3%
(4)落ち着ける居場所がないとき……22.4%
(5)進路、進学について……20.4%
 
 この調査結果から、現代の子どもたちは、およそ20人に一人が日常的に、いらいらし
たり、むしゃくしゃし、10人に一人が日常的にある種の不安を感じていることがわかる。

●子どもの欲求不満

 子どもの欲求不満については、その原因となるストレスの大小はもちろんのこと、それ
を受け取る子ども側の、リセプターとしての問題もある。同じストレスを与えても、それ
をストレスと感じない子どももいれば、それに敏感に反応する子どももいる。そんなわけ
で、子どものストレスを考えるときは、対個人ではどうなのかというレベルで考える必要
がある。それはさておき、子どもは自分の欲求が満たされないと、欲求不満になる。この
欲求不満に対する反応は、ふつう、次の三つに分けて考える。

(1)攻撃・暴力タイプ

 欲求不満やストレスが、日常的にたまると、子どもは攻撃的になる。心はいつも緊張状
態あり、ささいなことでカッとなって、暴れたり叫んだりする。母親が、「ピアノのレッス
ンをしようね」と話しかけただけで、包丁を投げつけた女の子(年長児)がいた。

私が「今日は元気?」と声をかけて、肩をたたいた瞬間、「このヘンタイ野郎!」と私を足
げりにした女の子(小5)もいた。こうした攻撃性は、表に出るタイプ(喧嘩する、暴力
を振るう、暴言を吐く)と、裏に隠れてするタイプ(弱い者をいじめる、動物を虐待する)
に分けて考えることができる。

(2)退行・依存タイプ

 ぐずったり、赤ちゃんぽくなったりする(退行性)。あるいは誰かに依存しようとする(依
存性)。このタイプの子どもは、理由もなくグズグズしたり、甘えたりする。母親がそれを
叱れば叱るほど、症状が悪化するのが特徴で、そのため親が子どもをもてあますケースが
多い。

(3)固執・執着タイプ

 ある特定の「物」にこだわったりする(固執性)。あるいはささいなことを気にして、悶々
と悩んだりする(執着性)。ある男の子(年長児)は、毛布の切れ端をいつも大切に持ち歩
いていた。最近多く見られるのが、おとなになりたがらない子どもたち。赤ちゃんがえり
ならぬ、幼児がえりを起こす。ある男の子(小5)は、幼児期に読んでいたマンガの本を
ボロボロになっても、まだ大切そうにカバンの中に入れていた。そこで私が、「これは何?」
と声をかけると、その子どもはこう言った。「どうチェ、読んでは、ダメだというんでチョ。
読んでは、ダメだというんでチョ」と。

 ものに依存するのは、心にたまった欲求不満をまぎらわすための代償行為と考えるとわ
かりやすい。よく知られているのに、指しゃぶりや、爪かみ、髪いじりなどがある。別の
ところで指の快感を覚えることで、自分の欲求不満を解消しようとする。

 キレる子どもは、このうち、(1)攻撃・暴力タイプということになるが、しかし同時に
退行性や依存性、さらには固着性や執着性をみせることが多い。 

●すなおな子ども論

 補足だが、従順で、おとなしい子どもを、すなおな子どもと考えている人は多い。しか
しそれは誤解。教育、なかんずく幼児教育の世界では、心(情意)と表情が一致している
子どもを、すなおな子どもという。うれしいときにはうれしそうな表情をする。悲しいと
きには悲しそうな表情をする。しかし心と表情が遊離すると、ここに書いたようにそれが
チグハグになる。ブランコを横取りされても、ニコニコ笑ってみせたり、いやなことがあ
っても、黙ってそれに従ったりするなど。

中に従順な子どもを、「よくできた子ども」と考える人もいるが、それも誤解。この時期、
よくできた子どもというのは、いない。つまり「いい子」ぶっているだけ。このタイプの
子どもは大きなストレスを心の中でため、そのためた分だけ、別のところで「心のひずみ」
となって現われる。よく知られた例として、家庭内暴力を起こす子どもがいる。このタイ
プの子どもは、外の世界では借りてきたネコのようにおとなしい。

●おだやかな生活を旨とする

 キレるタイプの子どもは、不安状態の中に子どもを追いこまないように、穏やかな生活
を何よりも大切にする。乱暴な指導になじまない。あとは情緒が不安定な子どもに準じて、
(1)濃厚なスキンシップをふやし、(2)食生活の面で、子どもの心を落ち着かせる。カ
ルシウム、マグネシウム分の多い食生活にこころがけ、リン酸食品をひかえる。リ
ン酸は、せっかく摂取したカルシウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出して
しまう。もちろんストレスの原因(ストレッサー)があれば、それを除去し、心の
負担を軽くすることも忘れてはならない。

●子どもの感情障害

 ほかに自閉症やかん黙児、さらには小児うつ病など、脳に機能的な障害をもつ子ども、
さらに近年問題になっている集中力欠如型多動性児(ADHD)は、感情のコントロール
ができないことがよく知られている。これらのタイプの子どもは、ささいなことがきっか
けで、突発的に(1)激怒する、(2)興奮、混乱状態になる、(3)暴言を吐いたり、暴
力行為に及ぶ。攻撃的に外に向って暴力行為を及ぶタイプを、プラス型、内にこもり混乱
状態になるのをマイナス型と私はわけている。どちらにせよその行動は予想がつきにくく、
たいていは子どもの「ギャーッ」という動物的な叫び声でそれに気づくことが多い。こち
らが「どうしたの?」と声をかけるときには、すでに手がつけられない状態になっている。

(2)栄養学の分野からの考察

●過剰行動性のある子ども

 もう20年以上も前だが、アメリカで「過剰行動性のある子ども」(ヒュー・パワーズ・
小児栄養学)が、話題になったことがある。ささいなことがきっかけで、突発的に過剰な
行動に出るタイプの子どもである。日本では、このタイプの子どもはほとんど話題になら
なかったが、中学生によるナイフの殺傷事件が続いたとき、その原因の一つとして、マス
コミでこの過剰行動性が取りあげられたことがある(98年)。

日本でも岩手大学の大沢博名誉教授や大分大学の飯野節夫教授らが、この分野の研究者
として知られている。

●砂糖づけのH君(年中児)

 私の印象に残っている男児にH君(年中児)という子どもがいた。最初、Hさん(母親)
は私にこう相談してきた。「(息子の)部屋の中がクモの巣のようです。どうしたらいいで
しょうか」と。話を聞くと、息子のH君の部屋がごちゃごちゃというより、足の踏み場も
ないほど散乱していて、その様子がふつうではないというのだ。が、それだけならまだし
も、それを母親が注意すると、H君は突発的に暴れたり、泣き叫んだりするという。始終、
こきざみに動き回るという多動性も気になると母親は言った。私の教室でも突発的に、耳
をつんざくような金切り声をあげ、興奮状態になることも珍しくなかった。そして一度そ
ういう状態になると、手がつけられなくなった。私はその異常な興奮性から、H君は過剰
行動児と判断した。

 ただ申し添えるなら、教育の現場では、それが学校であろうが塾であろうが、子どもを
診断したり、診断名をくだすことはありえない。第一に診断基準が確立していないし、治
療や治療方法を用意しないまま診断したり、診断名をくだしたりすることは許されない。

仮にその子どもが過剰行動児をわかったところで、それは教える側の内心の問題であり、
親から質問されてもそれを口にすることは許されない。診断については、診断基準や治療
方法、あるいは指導施設が確立しているケース(たとえば自閉症児やかん黙児)では、専
門のドクターを紹介することはあっても、その段階で止める。この過剰行動児についても
そうで、内心では過剰行動児を疑っても、親に向かって、「あなたの子どもは過剰行動児で
す」と告げることは、実際にはありえない。教師としてすべきことは、知っていても知ら
ぬフリをしながら、その次の段階の「指導」を開始することである。
 
●原因は食生活?

 ヒュー・パワーズは、「脳内の血糖値の変動がはげしいと、神経機能が乱れ、情緒不安に
なり、ホルモン機能にも影響し、ひいては子どもの健康、学習、行動に障害があらわれる」
という。メカニズムは、こうだ。ゆっくりと血糖値があがる場合には、それに応じてイン
スリンが徐々に分泌される。しかし一時的に多量の砂糖(特に精製された白砂糖)をとる
と、多量の、つまり必要とされる量以上の量のインスリンが分泌され、結果として、子ど
もを低血糖児の状態にしてしまうという(大沢)。そして(1)イライラする。機嫌がいい
かと思うと、突然怒りだす、(2)無気力、(3)疲れやすい、(4)(体が)震える、(5)
頭痛など低血糖児特有の症状が出てくるという(朝日新聞98年2・12)。これらの症状
は、たとえば小児糖尿病で砂糖断ちをしている子どもにも共通してみられる症状でもある。
私も一度、ある子ども(小児糖尿病患者)を病院に見舞ったとき、看護婦からそういう報
告を受けたことがある。

 こうした突発的な行動については、次のように説明されている。つまり脳からは常に相
反する二つの命令が出ている。行動命令と抑制命令である。たとえば手でものをつかむと
き、「つかめ」という行動命令と、「つかむな」という抑制命令が同時に出る。この二つの
命令がバランスよく調和して、人間はスムーズな動きをすることができる。しかし低血糖
になると、このうちの抑制命令のほうが阻害され、動きがカミソリでスパスパとものを切
るような動きになる。先のH君の場合は、こまかい作業をさせると、震えるというよりは、
手が勝手に小刻みに動いてしまい、それができなかった。また抑制命令が阻害されると、
感情のコントロールもできなくなり、一度激怒すると、際限なく怒りが増幅される。そし
て結果として、それがキレる状態になる。

●恐ろしいカルシウム不足

 砂糖のとり過ぎは、子どもの心と体に深刻な影響を与えるが、それだけではない。砂糖
をとり過ぎると、カルシウム不足を引き起こす。

糖分の摂取が、体内のカルシウムを奪い、虫歯の原因になることはよく知られている。体
内のブドウ糖は炭酸ガスと水に分解され、その炭酸ガスが、血液に酸性にする。その酸性
化した血液を中和しようと、骨の中のカルシウムが、溶け出るためと考えるとわかりやす
い。体内のカルシウムの98%は、骨に蓄積されている。そのカルシウムが不足すると、「(1)
脳の発育が不良になったり、(2)脳神経細胞の興奮性を亢進したり、(3)精神疲労をし
やすくまた回復が遅くなるなどの症状が現われる」(片瀬淡氏「カルシウムの医学」)とい
う。わかりやすく言えば、カルシウムが不足すると、知恵の発達が遅れ、興奮しやすく、
また精神疲労を起こしやすいというのだ。甘い食品を大量に摂取していると、このカルシ
ウム不足を引き起こす。

●生化学者ミラー博士らの実験

 精製されてない白砂糖を、日常的に多量に摂取すると、インスリンの分泌が、脳間伝達
物質であるセロトニンの分泌をうながし、それが子どもの異常行動を引き起こすという。
アメリカの生化学者のミラーは、次のように説召している。

 「脳内のセロトニンという(脳間伝達)ニューロンから脳細胞に情報を伝達するという、
神経中枢に重要な役割をはたしているが、セロトニンが多すぎると、逆に毒性をもつ」(「マ
ザーリング」81年7号)と。日本でも、自閉症や子どもの暴力、無気力などさまざまな
子どもによる問題行動が、食物と関係しているという研究がなされている。ちなみに、食
品に含まれている白砂糖の量は、次のようになっている。

製品名             一個分の量    糖分の量         
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー        
 ヨーグルト    【森永乳業】     90ml  9・6g         
 伊達巻き       【紀文】     39g  11・8g         
 ミートボール   【石井食品】 1パック120g  9・0g         
 いちごジャム   【雪印食品】  大さじ30g  19・7g         
 オレンジエード【キリンビール】    250ml  9・2g         
 コカコーラ              250ml 24・1g         
 ショートケーキ    【市販】  一個100g  28・6g         
 アイス      【雪印乳業】  一個170ml  7・2g         
 オレンジムース  【カルピス】     38g   8・7g         
 プリン      【協同乳業】  一個100g  14・2g         
 グリコキャラメル【江崎グリコ】   4粒20g   8・1g         
 どら焼き       【市販】   一個70g  25g          
 クリームソーダ    【外食】  一杯      26g           
 ホットケーキ     【外食】  一個      27g          
 フルーツヨーグルト【協同乳業】    100g  10・9g         
 みかんの缶詰   【雪印食品】    118g  15・3g         
 お好み焼き   【永谷園食品】  一箱240g  15・0g         
 セルシーチョコ 【江崎グリコ】   3粒14g   5・5g         
 練りようかん     【市販】  一切れ56g  30・8g         
 チョコパフェ     【市販】  一杯      24・0g       

●砂糖は白い麻薬

 H君の母親はこう言った。「祖母(父親の実母)の趣味が、ジャムづくりで、毎週ビンに
入ったジャムを届けてくれます。うちでは、それを食べなければもったいないということ
で、パンや紅茶など、あらゆるものにつけて食べています」と。私はH君の食生活が、か
なりゆがんだものと知り、とりあえず「砂糖断ち」をするよう進言した。が、異変はその
直後から起きた。幼稚園から帰ったH君が、冷蔵庫を足げりにしながら、「ビスケットがほ
しい、ビスケットがほしい」と泣き叫んだというのだ。母親は「麻薬患者の禁断症状のよ
うで、恐ろしかった」と話してくれた。が、それから数日後。今度はH君が一転、無気力
状態になってしまったという。私がH君に会ったのは、ちょうど一週間後のことだったが、
H君はまるで別人のようになっていた。ボーッとして、反応がまるでなかった。母親はそ
ういうH君を横目で見ながら、「もう一度、ジャムを食べさせましょうか」と言ったが、私
はそれに反対した。

●カルシウムは紳士をつくる

 戦前までは、カルシウムは、精神安定剤として使われていた。こういう事実もあって、
イギリスでは、「カルシウムは紳士をつくる」と言われている。子どもの落ち着きなさをど
こかで感じたら、砂糖断ちをする一方、カルシウムやマグネシウムなど、ミネラル分の多
い食生活にこころがける。私の経験では、幼児の場合、それだけで、しかも一週間という
短期間で、ほとんどの子どもが見違えるほど落ち着くのがわかっている。川島四郎氏(桜
美林大学元教授)も、「ヒステリーやノイローゼ患者の場合、カルシウムを投与するだけで
なおる」(「マザーリング」81年7号)と述べている。効果がなくても、ダメもと。そう
でなくても、缶ジュース一本を子どもに買い与えて、「うちの子は小食で困ります」は、な
い。体重15キロ前後の子どもに、缶ジュースを一本与えるということは、体重60キロ
の人が、4本飲む量に等しい。おとなでも缶ジュースを4本は飲めないし、飲めば飲んだ
で、腹の中がガボガボになってしまう。

 なお問題となるのは、精製された白砂糖をいう。どうしても甘味料ということであれば、
精製されていない黒砂糖をすすめる。黒砂糖には、天然のミネラル分がほどよく配合され
ていて、ここでいう弊害はない。
 
●多動児(ADHD児)との違い

 この過剰行動性のある子どもと症状が似ている子どもに。多動児と呼ばれる子どもがい
る。前もって注意しなければならないのは、多動児(集中力欠如型多動性児、ADHD児)
の診断基準は、2001年の春、厚生労働省の研究班が国立精神神経センター上林靖子氏
ら委託して、そのひな型が作成されたばかりで、いまだこの日本では、多動児の診断基準
はないというのが正しい。つまり正確には、この日本には多動児という子どもは存在しな
いということになる。一般に多動児というときは、落ち着きなく動き回るという多動性の
ある子どもをいうことになる。そういう意味では、活発型の自閉症児なども多動児という
ことになるが、ここでは区別して考える。

 ちなみに厚生労働省がまとめた診断基準(親と教師向けの「子どもの行動チェックリス
ト」)は、次のようになっている。

(チェック項目)
1行動が幼い
2注意が続かない
3落ち着きがない
4混乱する
5考えにふける
6衝動的
7神経質
8体がひきつる
9成績が悪い
10不器用
11一点をみつめる

たいへんまたはよくあてはまる……2点、
ややまたは時々あてはまる……1点、
当てはまらない……0点として、
男子で4〜15歳児のばあい、
12点以上は障害があることを意味する「臨床域」、
9〜11点が「境界域」、
8点以下なら「正常」

この診断基準で一番気になるところは、「抑え」について触れられていない点である。多動
児が多動児なのは、抑え、つまり指導による制止がきかない点である。教師による抑えが
きけば、多動児は多動児でないということになる。一方、過剰行動児は行動が突発的に過
剰になるというだけで、抑えがきく。その抑えがきくという点で、多動児と区別される。
また活発型の自閉症児について言えば、多動性はあくまでも随伴的な症状であって、主症
状ではないという点で、この多動児とは区別される。またチェック項目の中の(1)行動
が幼い(退行性)は、過保護児、溺愛児にも共通して見られる症状であり、(7)神経質は、
敏感児、過敏児にも共通して見られる症状である。さらに(9)成績が悪い、および(1
0)不器用については、多動児の症状というよりは、それから派生する随伴症状であって、
多動児の症状とするには、常識的に考えてもおかしい。

ついでに私は私の経験から、次のような診断基準をつくってみた。

(チェック項目)
1抑えがきかない
2言動に秩序感がない
3他人に無遠慮、無頓着
4雑然とした騒々しさがある
5注意力が散漫
6行動が突発的で衝動的
7視線が定まらない
8情報の吸収性がない
9鋭いひらめきと愚鈍性の同居
10論理的な思考ができない 
11思考力が弱い

 このADHD児については、脳の機能障害説が有力で、そのために指導にも限界がある
……という前提で、それぞれの市町村レベルの教育委員会が対処している。たとえば静岡
県のK市では、指導補助員を配置して、ADHD児の指導に当っている。ただしこの場合
でも、あくまでも「現場教師を補助する」(K市)という名目で配置されている。

(3)環境ホルモンの分野からの考察

●シシリー宣言

1995年11月、イタリアのシシリー島のエリゼに集まった一八名の学者が、緊急宣言
を行った。これがシシリー宣言である。その内容は「衝撃的なもの」(グリーンピース・J
APAN)なものであった。

いわく、「これら(環境の中に日常的に存在する)化学物質による影響は、生殖系だけでは
なく、行動的、および身体的異常、さらには精神にも及ぶ。これは、知的能力および社会
的適応性の低下、環境の要求に対する反応性の障害となってあらわれる可能性がある」と。

つまり環境ホルモンが、人間の行動にまで影響を与えるというのだ。が、これで驚いて
いてはいけない。シシリー宣言は、さらにこう続ける。「環境ホルモンは、脳の発達を阻害
する。神経行動に異常を起こす。衝動的な暴力・自殺を引き起こす。奇妙な行動を引き起
こす。多動症を引き起こす。IQが低下する。人類は50年間の間に5ポイントIQが低
下した。人類の生殖能力と脳が侵されたら滅ぶしかない」と。ここでいう「社会性適応性
の低下」というのは、具体的には、「不登校やいじめ、校内暴力、非行、犯罪のことをさす」
(「シシリー宣言」・グリーンピース・JAPAN)のだそうだ。

 この事実を裏づけるかのように、マウスによる実験だが、ビスワエノールAのように、
環境ホルモンの中には、母親の胎盤、さらに胎児の脳関門という二重の防御を突破して、
胎児の脳に侵入するものもあるという。つまりこれらの環境ホルモンが、「脳そのものの発
達を損傷する」(船瀬俊介氏「環境ドラッグ」より)という。

(4)教育の分野からの考察

 前後が逆になったが、当然、教育の分野からも「キルる子ども」の考察がなされている。
しかしながら教育の分野では、キレる子どもの定義すらなされていない。なされないまま
キレる子どもの議論だけが先行している。ただその原因としては、(1)親の過剰期待、そ
してそれに呼応する子どもの過負担。(2)学歴社会、そしてそれに呼応する受験競争から
生まれる子ども側の過負担などが、考えられる。こうした過負担がストレッサーとなって、
子どもの心を圧迫する。ただこの段階で問題になるのが、子ども側の耐性である。最近の
子どもは、飽食とぜいたくの中で、この耐性を急速に喪失しつつあると言える。わずかな
負担だけで、それを過負担と感じ、そしてそれに耐えることがないまま、怒りを爆発させ
てしまう。親の期待にせよ、学歴社会にせよ、それは子どもを取り巻く環境の中では、あ
る程度は容認されるべきものであり、こうした環境を子どもの世界から完全に取り除くこ
とはできない。これらを整理すると、次のようになる。

(1)環境の問題
(2)子どもの耐性の問題。

 この二つについて、次に考える。

●環境の問題
●子どもの耐性の問題

終わりに……

以上のように、「キレる子ども」と言っても、その内容や原因はさまざまであり、その分野
に応じて考える必要がある。またこうした考察をしてのみ、キレる子どもの問題を正面か
らとらえることができる。一番危険なのは、キレる子どもを、ただばくぜんと、もっと言
えば感傷的にとらえ、それを論ずることである。こうした問題のとらえ方は、問題の本質
を見誤るばかりか、かえって教育現場を混乱させることになりかねない。

(はやし浩司 キレる子ども 過剰行動性 突発的に暴れる子供 暴れる子ども 心の別
室 抑圧)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●「抑圧」の恐ろしさ(Another Room in the Mind)
(キレる子どもの補足)

++++++++++++++++++++


よく兵士、あるいは元兵士の残忍行為が問題になる。
最近でも、アメリカの収容所で、アメリカ兵が
イラク軍捕虜に対して暴力、暴行を繰り返したという事件が
問題になった。


こう書くからといって、アメリカ兵を擁護するわけではない。
が、こうした問題は、常に戦争について回る。
戦時中には、日本軍もした。
ドイツ軍もした。


その多くはPTSDに苦しみ、さらには心そのものを
病んでしまう兵士も珍しくない。
昨年見た映画の、『アナザー・カントリー』も、そうした兵士を
題材にした映画だった。
が、こうした問題も、心理学でいう「抑圧」を当てはめてみると、
理解できる。


++++++++++++++++++++


●抑圧


 自分にとって都合が悪い記憶があると、人はそれは心の別室を用意し、そこへそれを
押し込めてしまう。
そうすることで、自分の心が不安定になったり、動揺したりするのを防ぐ。
こうした現象を、心理学の世界では、「抑圧」という。


「隠ぺい記憶」と言う人もいる。
 もともとは乳幼児期の不快な思い出や記憶について起こる現象を説明したものだが、
もちろんおとなになってからも、ある。
何かのことで失敗したり、いやなことがあったりすると、それをできるだけ早く
忘れようと、心の別室を用意し、その中に押し込んでしまう。


●上書きされない


 ふつう記憶というのは、どんどんと上書きされていく。
たとえば不愉快なことがあっても、そのあと楽しいことがつづくと、過去の記憶を
忘れてしまう。
 が、心の別室に入った記憶には、その(上書き)という操作が働かない。
別室に入ったまま閉じ込められているから、修正されるということもない。
だから何かの拍子に表に出てくる。
たとえば高校生になった子どもが、5年前、あるいは10年前にあったことを持ち出し、
「あのとき、テメエは!」と言って、親に対してどなり散らすことがある。


 また最近聞いた話では、ともに70歳前後の夫婦なのだが、喧嘩するたびに、30年前、
40年前の話を持ち出して、たがいに責めあうという。
それを横で聞いていた娘(50歳くらい)は、こう言った。
「どうしてそんな昔の話をして、喧嘩するのでしょう。
頭がボケてきたのでしょうか」と。


 もちろん頭はボケていない。
(あるいはボケとは関係ない。)
抑圧された記憶というのは、そういうもの。


●子どもの世界でも


 「いい子ほど心配」とは、教育の世界では、よく言う。
先生や親の言うことに従順で、すなお。
ハイハイと指示や命令に従う……。
しかしこのタイプの子どもほど、あとあと心をゆがめやすい。
(あるいはその過程で、すでに心をゆがめている。)
思春期前夜、あるいは思春期になると、突然変化することも珍しくない。
はげしい家庭内暴力や、引きこもりにつながることもある。
何かのことで突発的に爆発して、こう叫んだりする。
「こんなオレにしたのは、テメエだろう!」と。


 心の別室には、キャパシティ(容量)というものがある。
そのキャパシティを超えると、隠ぺいされた記憶が、そこから突然、飛び出す。
本人ですらも、コントロールできなくなる。


 そんなわけで、子どもを指導するとき大切なことは、子どもに、
心の別室を作らせないこと。
まず言いたいことを言わせる。
したいことをさせる。
常に心を開放させる。
それが子どもの心をゆがめないコツということになる。


●兵士のばあい


 話を戻す。
もちろん私には戦争の経験はない。
ないが、おおよその見当はつく。
つまり兵士たちは、戦場では、慢性的に恐怖感にさらされる。
そのとき兵士は、その恐怖感を、心に別室を作り、そこへ押し込めようとする。
その上で、勇敢な兵士を演じたりする。


 が、これが心をゆがめる。


何かのきっかけ、たとえば相手が捕虜であっても、敵の顔を見たとたん、隠ぺい
された記憶が暴走し始める。
それは「記憶の暴走」と言うような、簡単なものではないかもしれない。
暴走させることによって、心の別室にたまった、恐怖感を解消しようとするの
かもしれない。
それが捕虜への、暴力や暴行へとつながっていく。


●教授の殺害事件


 今年(09)に入ってから、ある大学で、ある大学の教授が、元学生に殺害
されるという事件が起きた。
動機はまだはっきりしていないが、その学生は教授に対して、かなりの恨みを
もっていたらしい。


 この事件も、「抑圧」という言葉を当てはめてみると、説明できる。
というのも、その元学生のばあいも、元学生とはいっても、大学を卒業してから、
すでに10年近くもたっている。
ふつうなら、いろいろな思い出が上書きされ、過去の思い出は消えていてもおかしく
ない。


が、先にも書いたように、一度心の別室に入った記憶は、上書きされるということは
ない。
いつまでも、そのまま心の中に残る。
そこで時間を止める。


●心の別室


 ところで「心の別室」という言葉は、私が考えた。
心理学の正式な用語ではない。
しかし「抑圧」を考えるときは、「心の別室」という概念を頭に描かないと、どうも
それをうまく説明できない。
さらに「心の別室」という概念を頭に描くことによって、たとえば多重人格性などの
現象もそれで説明ができるようになる。


 人は何らかの強烈なショックを受けると、そのショックを自分の力では処理することが
できず、心の別室を用意して、そこへ自分を押し込めようとする。
「いやなことは早く忘れよう」とする。
しかし実際には、「忘れる」のではない。
(その記憶が衝撃的なものであればあるほど、忘れることはできない。)
だから心の中に、別室を作る。
そこへその記憶を閉じ込める。

●では、どうするか


 すでに心の別室を作ってしまった人は、多いと思う。
程度の差の問題で、ほとんどの人に、心の別室はある。
暗くてジメジメした大倉庫のような別室をもっている人もいる。
あるいは物置小屋のような、小さな別室程度の人もいる。


 別室が悪いと決めつけてはいけない。
私たちは心の別室を用意することによって、先にも書いたように、
自分の心が不安定になったり、動揺したりするのを防ぐ。


 が、その別室の中の自分が、外へ飛び出し、勝手に暴れるのは、よくない。
その瞬間、私は「私」でなくなってしまう。


ふつう心の別室に住んでいる「私」は陰湿で、邪悪な「私」である。
ユングが説いた「シャドウ」も、同じように考えてよい。
あるいはトラウマ(心的外傷)も、同じように考えてよい。
そこで大切なことは、まず自分自身の中にある、心の別室に気がつくこと。
そしてその中に、どんな「私」がいるかに気がつくこと。


 シャドウにしても、トラウマにしても、一生、その人の心の中に残る。
消そうとして消えるものではない。
だったら、あとは、それとうまく付きあう。
うまく付きあうしかない。
まずいのは、そういう自分に気がつかないまま、つまり心の別室にきがつかない
まま、さらにはその中にどんな「私」がいるかに気がつかないまま、その「私」に
振り回されること。
同じ失敗を、何度も繰り返すこと。


 たとえば夫婦喧嘩にしてもそうだ。
(私たち夫婦も、そうだが……。)
もうとっくの昔に忘れてしまってよいはずの昔の(こだわり)を持ち出して、
周期的に、同じような喧嘩を繰り返す。
「あのときお前は!」「あなただってエ!」と。


 もしそうなら、それこそ「愚か」というもの。
が、もし心の別室に気がつき、その中にどんな「私」がいるかを知れば、あとは
時間が解決してくれる。
5年とか、10年はかかるかもしれないが、(あるいは程度の問題もあるが)、
時間が解決してくれる。


 あとは心の別室を静かに閉じておく。
その問題には触れないようにする。
心の別室のドアは、開かないようにする。
対処の仕方は、シャドウ、もしくはトラウマに対するものと同じように考えてよい。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW BWきょうしつ 心の別室 はやし浩司 抑圧 抑圧と
心の別室 シャドウ はやし浩司 トラウマ)


(付記)
 心の別室といっても、けっしてひとつではない。


そのつど人は、様々な大きさの別室を、作る。
作って、自分の心を救済しようとする。
 ……と考えていくと、心の別室というのは、脳の問題というよりは、習慣の問題
ということになる。
心の別室を作りやすい人と、そうでない人がいるということ。
何かあるたびに、心の別室を作り、そこへ自分を閉じ込めようとする人もいれば、
そのつど自分を発散させ、心の別室を作らない人もいる。
だから「習慣の問題」ということになる。


 もちろんできれば、心の別室など、作らないほうがよい。
そのつど自分を発散させたほうがよい。


(追記)


 同じような原稿を、この3月にも書いた。
あわせて読んでほしい。


●「抑圧」(pressure)


+++++++++++++


昨日、「抑圧」について書いた。
強烈な欲求不満がつづくと、人(子ども)は、
その欲求不満を、心の中の別室に押し込んで、
それから逃れようとする。


が、それでその欲求不満が解消されるわけではない。
10年とか、20年とか、さらには40年とか、
50年たっても、それが何らかのきっかけで、
爆発することがある。
「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と。


++++++++++++++++++


が、こうした「抑圧」は、形こそちがえ、また
大小のちがいもあるが、だれにでもある。
あなたにもある。
私にもある。
だから、何かのことで不満を感じたら、そのつど、
外に向かって吐き出すのがよい。
けっして、心の中にためこまない。


徒然草の中にも、『もの言わぬは、腹ふくるるわざなれ』※
とある。
「言いたいことも言わないでいると、腹の中がふくれてくる」
という意味である。
が、その程度ですめばよい。


ひどいばあいには、心に別室ができてしまう。
本来なら楽しい思い出が上書きされ、不愉快な思い出は消える。
しかし別室に入っているため、上書きされるということがない。
そのまま、それこそ一生、そこに残る。
そして折につけ、爆発する。


「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と。
そして10年前、20年前の話を持ち出して、相手を責める。
こうした抑圧された感情を解消するためには、2つの
方法がある。


ひとつは、一度、大爆発をして、すべて吐き出す。
もうひとつは、原因となった、相手が消える。
私のばあいも、親に対していろいろな抑圧があるにはあった。
しかし父は、私が30代のはじめに。
母は、昨年、他界した。


とたん、父や母へのこだわりが消えた。
同時に、私は抑圧から解放された。
親が死んだことを喜んでいるのではない。
しかしほっとしたのは、事実。
それまでに、いろいろあった。
ありすぎてここには書ききれないが、それから解放された。


母は母で、私たちに心配をかけまいとしていたのかもしれない。
しかしどんな生き方をしたところで、私たちは、それですまなかった。
「では、お母さんは、お母さんで、勝手に生きてください。
死んでください」とは、とても言えなかった。


人によっては、「朝、見に行ったら死んでいたという状態でも
しかたないのでは」と言った。


が、それは他人のことだから、そう言える。
自分の親のこととなると、そうは言えない。
いくらいろいろあったにせよ、家族は家族。
いっしょに生きてきたという(部分)まで、消すことはできない。
話が脱線したが、抑圧は、その人の心までゆがめる。
そういう例は、ゴマンとある。


大切なことは、心の別室を作るほどまで、抑圧をためこまないこと。
言いたいことも言えない、したいこともできないというのであれば、
すでにそのとき、その人との人間関係は終わっていると考えてよい。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 心の別室 隠ぺい記憶 隠蔽記憶 トラウマ 抑圧 はやし浩司 抑圧心理 思
春期の爆発 キレる)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

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よろしくお願いします。              はやし浩司
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Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

【2010年】

謹賀新年

明けまして、おめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

・・・と書きましたが、実は、この原稿を書いている今日は、12月1日です。
ちょうど1か月前です。

(マガジンの原稿は、だいたい1か月ほど前に書いています。
原稿の枚数が、20〜30枚(1枚=40字x36行)になったところで、
配信予約を入れるようにしています。)

ですから今は本当のところ、「今年も、あと1か月」と思いながら、この文章を
書いています。
「あと、1か月」です。

で、この1か月でしたいことが、あります。
新しいパソコンを買うこと。
正月休みは、それをいじって遊ぶ。
「何だ、そんなことか?」と思う人も、いるかもしれません。
しかしそれがけっこう、たいへんな作業なのです。

セキュリィテイの設定や、Raidの設定などなど。
ホームページだけでも、現在、20本ほど、使っています。
それらすべてのIDおよび、パスワードの再設定をしなければなりません。
ほかにも、いろいろあります。
無線LANの設定とか、各種サービスの設定とか、全部で、200〜300くらいは、
あります。
考えただけで、気が遠くなります。

今、使っているパソコンで、何も問題はないのですが、それはそれ。
ときどきこう思うことがあります。
「できるだけ長生きして、どんなパソコンが生まれるか、それを見届けたい」と。

私がパソコンにはじめて出会ったのは、私が26、7歳くらいのときです。
コモドール社(アメリカ)から、PET2000というパソコンが発売になりました。
それを手に入れました。
当時の値段で、32万円もしました。
あとで知ったのですが、同じころ、あのビル・ゲーツ氏も、同じパソコンで遊んで
いたのだそうです。

今から思うと、想像もできないほど、のんびりとしたパソコンでした。
「Y=XxX」というような公式を、ベーシック言語で打ち込むと、ポツポツと、
小さな画面に、曲線を描いてくれました。
ポツポツ、とです。
それがうれしくて、プラス楽しくて、私はあごを両手で支えながら、その点に見とれて
いました。

 それ以後は、パソコンについては、とっかえ、ひっかえ・・・。
35年という年月が過ぎました。
2009年だけでも、4、5台、ノートパソコンやミニパソコンを買い替えました。
で、今度は、いよいよ本丸。
最先端のデスクトップをねらっています。
もちろん周辺機器も!

 この原稿がみなさんの目にとまるころには、私は最先端のパソコンを前に、1月号の
原稿を書いていることと思います。
どうか、ご期待ください!
(見た目には、何も変わりませんが……。)

 で、2010年も、そこにある(真理)を求めて、さまよいつづけます。
そこにある(真理)です。
そこにあるのですが、どうしてもつかみきれない。
が、そのはがゆさが楽しい。
本当に楽しい。
私にとっては、それが生きがいになっています。

 もちろん、みなさんという読者あっての、文章。
みなさんが、こうして読んでくださるのが、何よりも励みになります。
今年も、よろしくお願いします。
私はできるかぎりの力を尽くして、情報を提供します。
みなさんは、私に、(励み)をくださる。
この1年間、どうかよろしくお願いします。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司

●ウィルス対策

ヤフーの検索エンジンを使って、「はやし浩司」を検索してみる。
するとあちこちのページが、一覧表となって示される。
私は最近まで、そういうページをほとんど、のぞいたことがない。
気にはなっていたが、見れば、さらに気になる。
が、この数週間、ときどきランダムに選んでは、読ませてもらっている。

が、その中で、「?」と思うページも、いくつかある。
「はやし浩司」を取り上げてはいるが、まったく意味のないページである。
おかしな言葉が、無数に並んでいる。
それだけ。
ちゃんとした文章に、なっていない。
が、タイトルだけは、しっかりしている。
そのため思わず、そのページをのぞいてしまう。

今朝も、床の中で目を覚ましたあと、そうしたページのことを考えていた。
「あれは、いったい、何なんだろう?」と。

そこで思いついたのが、K国による、サイバーテロ。
私はあの国をよく批判する。
そのせいか、数年前までは、ハングル文字の意味不明のメールが、よく届いた。
「ひょっとしたら、新手のサイバーテロかもしれない」と。
(現在は、フィルターをかけて、特定の国からのメールしか受け取らないようにしている。)

つまりこうして「はやし浩司」の検索を通して、私のパソコンに入り込む。
何かしらの悪さをする。
私自身が、検索を通して、そのページを読むことを見越した上で、である。

けっしてありえない話ではない。
今ではホームページ(ウェブサイト)を開いただけで、感染するウィルスもある。
その目的で、私をそのページに誘導する(?)。

以上は、あくまでも、私の推理。
(邪推?)
……ともあれ、今朝は、朝一番に、ウィルス・チェック。
それと今日から、すべてのパソコンを、無線LANでつなぐことにした。
詳しくはわからないが、無線LANにすると、それ自体が、ウィルス対策になるとか。
こうして二重、三重の防御態勢をとる。

あのK国のしわざとは断定できないが、しかし用心だけはしたほうがよい。
何しろ国をあげて、サイバーテロを繰り返している国である。

(補記)
居間でよく使っているパソコンについて、先ほど、ウィルス・チェックと、
ボット・チェックをしてみた。
ともにシロだった。
ほっとした。


Hiroshi Hayashi+++++林 浩司+++++はやし浩司

●人間関係

++++++++++++++++

良好な人間関係を結べない人は多い。
初対面では、よい人という印象を受ける。
愛想もよいし、人当たりもよい。
が、しばらくつきあっていると、
様子がおかしくなる。
言うことがコロコロと変わる。
雰囲気そのものも変わる。
気分屋で、ときどきカッとなる。
カッとなると、別人のように攻撃的になったりする。
そのため結果的に、みな、その人から遠ざかっていく。

そういう人は、長い目で見て、何らかの
障害をもっている人と見てよい。
「長い目」というのは、瞬間的に会って
話してみる程度では、わからないということ。
たがいに、ときどきあいさつする程度でも、
わからない。
が、1年単位、2年単位でみると、
どうも様子がおかしい……ということが
わかってくる。

++++++++++++++++

●xx障害者

 どんな人にも、性格や性質というものがある。
私にもあるし、あなたにもある。
そういう性格や性質が、ある一定の枠(わく)の中にある間は、問題ない。
しかしその枠を超えて、それが原因で、良好な対人関係が築けないというのであれば、
その人自身に、何か深刻な精神的欠陥があるとみてよい。

●Nさんのケース

 Nさんという女性(40歳くらい、架空の人物、マンション住まい)がいる。
人当たりは悪くない。
とくに初対面のときは、悪くない。
何かを頼むと、しすぎるほど、いろいろなことをしてくれる。

 が、どうも様子がおかしい。
落ち着かない。
ときに善意の押し売りをされているような気分になる。

●気分屋

 が、やがて本性が現れてくる。
ささいなことで気分を損ねたりすると、今度は手のひらを返したように、
攻撃的な態度となって、はね返ってくる。

 たとえばこんなことがあった。

 Nさんの隣の部屋に、新しい人が引っ越してきた。
Nさんは、その人を、手厚く(?)歓迎した。
あれこれと世話をした。
引っ越してきた夜には、わざわざ夕食まで届けてくれたという。

 で、しばらくは、穏やかな日がつづいた。
隣人は、Nさんに感謝した。
Nさんのことを、心のおおらかな、やさしい人と思っていた。
が、ある日のこと。
Nさんが、その隣人の家に、怒鳴り込んできた。
まだ夜も明けきらない、寒い冬の朝のことだった。
ものすごい剣幕だった。
「どうして、通路に、生ゴミを置いておくのだア!」と。

 あわてて通路に出てみると、生ゴミが散乱していた。
隣人が生ゴミを、うっかり通路に置き忘れたのが悪かった。
それをカラスが食い散らしたらしい。

 あまりの剣幕に、Nさんの足は震えたという。
で、その日以来、隣人はNさんとは、一線を引くようにした。
が、これがそれにつづく、地獄の始まりだった……。

●『二匹のヤマアラシ論』

 ……というようなケースは、話としてよく聞く。
またNさんのような人は、珍しくない。
ショーペンハウエルの『二匹のヤマアラシ論』※を、改めて取り上げるまでもない。

 孤独だから、他人に接しようとする。
しかし他人に接したとたん、たがいに傷つけあってしまう。
だから離れる。
離れたとたん、また孤独になる。
Nさんは、それをいつも繰り返していた。

●精神的欠陥

 こういうケースのばあい、Nさんが、いつどこで自分の精神的欠陥に気づくかが、
問題となる。
夫は何度も、Nさんを心療内科へ連れていこうとした。
が、Nさんは、それを強く拒否。
「私は何でもない!」と。
もちろん夫婦喧嘩も絶えなかった。
ふつうの夫婦喧嘩ではない。
「フライパンが宙を飛び交うような喧嘩だった」(隣人談)そうだ。

●他山の石

 こういうケースを見聞きしたら、それを他山の石として、自己診断するしかない。
つまり自分で自分を知る。

 実のところ、私もNさんに似ているから、偉そうなことは言えない。
Nさんの話を聞いたとき、「私のことだ」と思ってしまった。
私のように、乳幼児期に、母子との間において、基本的信頼関係の構築に失敗した
人は、多い。
そういう人は、多かれ少なかれ、Nさんのような人になりやすい。
他人に対して、心を開くことができない。
だから孤独。
孤独だから他人との接触を試みる。
しかし接触したとたん、神経疲れを起こす。
神経疲れを起こすから、カラにこもる。
孤独になる。
あとはこれを繰り返す。

●自己診断

 このタイプの人を、「xx障害者」と呼ぶ。
「xx」としたが、病名など、何でもよい。
しかしつぎのような症状に当てはまるようであれば、その「xx障害者」という
ことになる。

( )行き来する友人の数が、極端に少ない。
( )つきあった人とは、たいてい1〜2年以内に、喧嘩別れとなる。(相手が避ける)
( )孤独と、他人との衝突を繰り返す。
( )初対面の人などには、たいへん親切。
( )気分屋で、気分に応じて行動しやすい。
( )他人とのつきあいは、表面的かつ、形だけ。
( )カッとなると、人間関係を破滅的に導いてしまう。

●加齢とともに

 しかしNさんの姿は、けっして他人ごとではない。
もうお気づきの人もいるかもしれないが、あるタイプの認知症になると、似たような
症状を示すことがある。
たとえばアルツハイマー病もあるし、それに似た、ピック病というのもある。
そうでなくても、頭がボケてくると、がんこになり、心の余裕を失う。
今、「私はだいじょうぶ」と思っている人でも、老後のことはわからない。
Nさんのようになる可能性は、ないとは言えない。

●では、どうすればよいか

 まず、自分に気がつくこと。
自分がそういう人間であるということに、気がつくこと。
こうした心の問題は、気がつくだけで、そのほとんどが解決したとみる。
時間はかかるが、やがて症状も収まってくる。
そうでなければ、そうでない。
いつまでも同じパターンで、同じ問題を引き起こす。
それを繰り返す。

 ただこの段階で、たいへん興味深いことは、ほとんどの人は、最初、そうであることを
かたくななまでに否定するということ。
Nさんのケースでも、Nさんの異変に、Nさんの夫は結婚当初から気づいていた。
そのため何度も、Nさんを専門医に診察してもらおうとした。
そのことについては、先に書いたとおりである。

 自分がそうであることを認めるのがこわいのか?
それとも、自分で何とかしようとする気持ちが強いのか?
さらには、自分ではどうにもできないと、あきらめているのか?
あるいは、薄々ながら、自分がふつうでないことに、気がついているのかもしれない。

Nさんの夫の話によれば、「病院」とか「病院へ行こう」と言っただけで、Nさんは、
狂乱状態になってしまうという。
さらに最近では、Nさんはことあるごとに、夫にこう言うという。
「あんたは、私を気チxxと言った」「精神病院へ入れようとした」と。
そしてそれがきっかけで、夫婦喧嘩になることも多い、と。

 簡単なことのようだが、他人と良好な人間関係を築くのは、むずかしい。
それができる人には、簡単にできる。
が、できない人には、むずかしい。
Nさんのケースは、けっして他人ごとではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 良好な人間関係)

(注※)『二匹のヤマアラシ』……寒い夜、二匹のヤマアラシが、身を寄せ合って眠ろうと
した。しかし近づけば、たがいの針で、体が痛い。そこで離れる。しかし離れると、今度は寒
い。こうして二匹のヤマアラシは、一晩中、体を近づけたり、離したりを繰り返した。

 
Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司

●損得論

+++++++++++++++++

損得論は、意外と奥が深い。
こんな話もある。

ある父親が東京に住む娘に、みかんを
送った。
その返事が、父親の方ではなく、母親のほうに、
メールで届いた。
「お母さん、ありがとう」と。

父親は、こうぼやいた。
「みかんを送ったのは、私なんだけどな」と。

また、別の話。

息子が横浜に住む女性と結婚した。
それについて、息子の母親が、こう言った。
「悔しい。
手塩をかけて育てた息子を、横浜の嫁に
取られた」と。

+++++++++++++++++

●ケチの一貫性

 損得論といっても、お金(マネー)だけの問題ではない。
心の問題もある。
しかし人間という動物は、それほど器用にできていない。
お金にケチな人は、心もケチ。
心がケチな人は、お金にもケチ。
そういう意味では、一貫性がある。

 つまり損得論は、その人の人生観、さらには哲学と深く結びついている。
たとえば自分の時間の使い方にしても、ケチな人と、そうでない人がいる。
愛情の示し方にしても、ケチな人と、そうでない人がいる。

 嫉妬深いというのは、そういう意味で、ケチの一様態と考えてよい。
「みかんを送ったのは、私なんだけどな」と言った父親。
「手塩をかけて育てた息子を、横浜の嫁に取られた」と言った母親。
ともにケチな人ということになる。

●ケチを決める人間性

 要するに、損得論というのは、欲望と深く結びついている。
その欲望をコントロールするのが、理性や知性ということになると、ケチ論の先に
見えてくるのは、その人の人間性ということになる。

 いろいろな意味でケチな人というのは、それだけ人間性が薄っぺらいということ。
薄っぺらい人を、ケチな人という。
温もりや、やさしさがない。
言うなれば、心のクッションがない。
いつもどこかで、計算している。
心の余裕がない。
ピリピリしていて、緊張感が取れない。

 そういう人をケチな人という。

●心のクッション

 「心のクッション」という言葉を使ったので、補足しておきたい。

 一般論として、……というより、心理学のテキストなどによれば、自己愛者と
呼ばれる人は、だれか批判されるのを許さない。
自己中心的な人は多いが、その自己中心性が肥大化した人のことを、自己愛者という。
完ぺき主義で、同時に、自分は完成された人間と思い込む。

 このタイプの人は、心にクッションがない。
そこでクッションのある人と、ない人を、対比させてみる。

(穏やか)−(ピリピリしている)
(共鳴性がある)−(他人の心に鈍感)
(よき聞き役)−(一方的に自分の意見を言う)
(自責型タイプ)−(他責型タイプ)
(控えめ)−(目立ちたがり屋)

 が、何よりも特徴的なのは、クッションのある人は、「損」に対して、寛大。
おおらか。
クッションのない人は、わずかな「損」に対しても過剰に反応し、おおげさに
騒ぐ。

●2つのタイプ

 ところがたいへん興味深いことに、何かのことで大損をした人は、そのあと、
つぎの2つのタイプに分かれる。
ひとつは、極端なケチになるタイプ。
もうひとつは、損に対して、おおらかになるタイプ。

 私のことを書いてもあまり意味はないが、損か得かということになれば、私は
自分の人生の中で、損ばかりしてきた。
いまだかって、(もらったお金)と言えば、ワイフの実父が亡くなったとき、義兄から
受け取った10万円だけ。
あとはすべて出超。

 お金だけではない。
いろいろなチャンスがありながら、そのチャンスを生かすことさえできなかった。
いつもあと一歩というところで、身を引いてしまった。
だからときどき、こう考える。
「今さら、何が損か」と。

 おおらかになったわけではないが、損得勘定に、鈍感になってしまった。
で、その一方で、たぶんに言い訳がましいが、こう言って自分をなぐさめる。
「健康で、家族がいるではないか」と。
「たいした人生ではなかったが、思う存分、自分の生きたいように生きることが
できたではないか」と。

●莫大な財産

 損か、得か。
最後に、最近、聞いた話。

 ある妻は、自分の生涯を、夫に捧げた。
夫を愛していたからではない。
家族を大切に考えていたからでもない。
子どもが2人いたが、その子どもたちのためでもない。

 夫の両親がもっていた、莫大な遺産があったからである。
夫婦関係についていえば、子どもたちがまだ小学生のころ、完全に
冷えていた。

 夫の両親は、その妻が、50歳になる少し前に、相次いで他界した。
が、だからといって、夫の両親の財産が、妻のものになったわけではない。
夫の両親の財産は、夫と、夫の弟で、2分した。

 が、夫は、自分が相続した財産を、妻には渡さなかった。
妻が財産目当てに、自分との婚姻関係をつづけてきたことを知っていた。
以来、毎日のように言い争いがつづいた。

 で、そうこうしているうちに、15年が過ぎた。
妻は、現在、65歳前後。
2人の子どもたちはそれぞれが独立し、ほとんど行き来はない。
莫大な財産は、手を伸ばせばすぐそこにあるが、しかしだからといって、それが
どうなのか。
妻は、去年、若年性アルツハイマー病になってしまった。
夫も、軽い脳こうそくを起こし、歩くのもやっとという状態になってしまった。

 損と言えば、これほど損な話はない。
自分の人生そのものを、棒に振ってしまった。
 
●損得論

 資本主義社会になって、損得論が変質してしまった。
金銭的な損得論だけが、ひとり歩きをするようになってしまった。
しかし(生きること)には、もっと別の価値がある。
しかもその価値というのは、金銭的な尺度では、計算できない。
わかりきったことだが、そのわかりきったことが、わかりにくくなってしまった。

 で、最近観た映画に、『クリスマス・キャロル』がある。
自由貿易体制の宗主であるアメリカで、ああした映画が作られるというのも、おもしろい。
あの『クリスマス・キャロル』は、そのわかりにくくなった部分を、鋭くえぐり
出している。

 私たちにとって、何が本当に大切なのか。
生きるとは、本来どういうことなのか。
それを考えていくと、そこに壁のように立ちはだかるのが、損得論ということになる。
言い換えると、その損得論を乗り越えないかぎり、私たちは、その先へ進むことは
できない。

 冒頭で、「損得論は、意外と奥が深い」と書いた意味が、これでわかってもらえた
だろうか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 損得論 ケチ論)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司

●相続制度の崩壊

+++++++++++++++++++

本来相続権のない、息子や娘が
親に代わって、相続財産の分与を求め、
裁判を起こす。
そんな例がふえているという。

F県で司法書士をしている学生時代の
友人が、そんな話をしてくれた。

もう少し、詳しく説明する。

親が死ねば、その財産は、配偶者と
子どもに、分配される。
これらの人たちを、相続権者という。

が、その子どもの子ども、つまり孫が、
親をたきつけて、相続財産を争う。
もちろん孫には、相続権はない。
ないにもかかわらず、親をたきつけて、
裁判を起こす。
「親の取り分をよこせ!」と。

ある女性(40歳くらい)は、こう言った。
「私の父は、父が実家を出るとき、1円も財産を
分けてもらわなかった。
不公平だ。
だから父の実家に、財産分与を請求して、
どうして悪いですか」と。

+++++++++++++++++++

●孫が親の実家を訴える?

 こうした裁判は、私が若いころには、想像もできなかった。
長子相続制度、家(家督)制度というのは、そのとき廃止されていたが、その意識はまだ残って
いた。
それが社会の常識として定着していた。

「長子相続制度」というのは、長男、もしくは男子が、「家」を継ぐという制度。
女子は、長子相続制度からは、はずされることが多かった。

また「家制度」というのは、「家督制度」とも呼ばれた。
家族(親族)を、「戸主」と「家族」に分け、戸主に統率権限を与えていた制度をいう。
「家」あっての家族ということになる。
同時に、その「家」では、戸主が絶対的な権限を握っていた。

 これら2つの制度は、1947年の民法の大改革によって、廃止されている。
子どもは、みな、平等となった。
つまりそれまでは、「家」を出た者は、当然のこととして、遺産相続権を放棄したものと、みなさ
れた。
「家族より、家の方が大切」と考えていた。
財産分与を請求すれば、「家」が弱体化する。
そのため財産分与の請求など、常識として、ありえなかった。
むしろ家を出た者は、「本家」を守るため、毎年何かしらの貢ぎ物(=マネー)を
渡すのが習慣になっていた。
私の母ですら、あるとき私にこう言った。
「親が、先祖を守るために、息子の財産を使って、何が悪い!」と。

 そうした意識の片鱗は、実は私の中にも、残っている。
孫の立場の子どもが、親をたきつけて、親の実家に向かって、財産分与を請求する
ということそのものが、理解できない。
が、実際には、先にも書いたように、そういう事例が、ふえている、・・・という。

●農村社会の連続性

 江戸時代は、きびしい身分制度が敷かれていた。
農民は、生まれながらに農民。
それ以外には、なりえなかった。
が、それだけではない。

人口の90%以上が、農民であった。
そういう社会では、世代の連続性が重要視された。
親が死んだ、だから農業を廃業しますというわけにはいかない。
また代々、親が死ぬたびに、農地を分割していたら、3代、4代もすれば、農地が
こまごまになってしまう。
それでは農業そのものが、成り立たなくなってしまう。
そこで(連続性)を維持するために、長子相続制度や家制度が生まれた。

 本家は、一族を代表して、祭祀を執り行った。
一方、本家を出た者たちは、絶対的な服従を強いられた。

 が、時代が変わった。
子どもたちの権利意識も変わった。
農業といっても、今では専業で農業を営んでいる人は少ない。
しかも都会地域の農地は、宅地に転用したとたん、巨億の財産に変身する。
が、何よりも変わったのは、長子相続制度が廃止され、家制度が廃止されたこと。
長男も二男も、男も女も、平等になった。

●遺産相続の手続き

 が、私は、どうしても納得できない。
子どもが、自分の親の死にあたって、遺産相続権を行使するのは、わかる。
が、孫にあたる子どもが、自分の親をたきつけて、親の実家を相手に、遺産相続を
請求するというのは、私の理解の範囲を超える。

 もう一度、冒頭に書いた女性の言葉を思い出してみてほしい。
その女性は、こう言った。

「私の父は、父が実家を出るとき、1円も財産を分けてもらわなかった。
不公平だ。
だから父の実家に、財産分与を請求して、どうして悪いですか」と。

 あなたはこの意見を読んで、「当然のことだ」と考えるだろうか。
それとも、「おかしい」と考えるだろうか。

 さらにこんな例もある。

●複雑な家族関係

(家族関係を説明するときは、言葉の使い方がむずかしい。
書き方をまちがえると、何がなんだか、わけがわからなくなる。)

 そこであらかじめ、家族関係を説明しておく。

(父親と母親・・・X)には、3人の(子ども・・・Y)がいた。
3人の子どもを、A、B、Cとする。
A、B、C、それぞれの子どもには、2人ずつの子どもがいた。
これらの子ども、つまり孫を、(A1)(A2)(B1)(B2)(C1)(C2)とする。

 こういうケースのばあい、(父親と母親・・・X)が死亡すれば、その財産は、A、B、C
の3人の子どものものになる。

 が、Aという子どもが、親より先に死ねば、Aがもっていた遺産相続権は、(A1)(A2)が引き
継ぐことになる。
配偶者がいれば、配偶者も、引き継ぐことになる。

仮にそのとき(A1)が死亡していて、(A1)に、3人の子どもがいたとすると、
すると遺産相続権は、さらにその3人の子ども(Xからすれば、ひ孫)が、引き継ぐことになる。
こうして権利関係は、恐ろしく複雑になる。

 だから法律をよく知っている人は、みな、こう言う。
「遺産相続の手続きだけは、親が死んだら、すぐしろ」と。

 今では農地でも、50年も放っておいたら、だれのものか、わからなくなってしまう。
相続手続きをしようにも、しようがない。
そんな状態になってしまう。
それこそ「日本中をかけずり回って、何十人もの人たちから、印鑑を集めてこなければならなく
なる」(友人談)。

●平等意識

 が、みなが、みな、すんなりと相続放棄の書類に判を押してくれるわけではない。
当然何らかの分け前を求めてくる。
「分け前をくれなければ、判は押さない」と。

 つまり孫、あるいはひ孫にあたる人たちが、遺産相続を請求するようになる。
こういう世相を、はたして正常と言ってよいのか、どうか?
法律的には、ほかに妙案がないのだから、現行法を支持するしかない。
が、それもだめというのなら、たとえば死んだら、私有財産は、一度すべて国のものにすると
か、そういう方法を考えるしかない。
しかしそれをするには、民法どころか、国民の意識、さらには資本主義制度そのものまで、
大改革しなければならない。

●矛盾

 端的に言えば、財産は、自分で作るもの。
死ぬまでに、自分で使いきればよい。
自分が死んだら、息のかかったものどうしで、分ければよい。
だから私は、その女性(40歳くらい)に、こう言いたかった。

 「祖父母の財産を請求するくらいなら、親の財産を請求しなさい」と。

 もちろんそんなことは言わなかったが、ほとんど世話をしたこともない祖父母の財産を
請求するほうが、おかしい。
(祖父母のほうは、あれこれと、孫であるその女性のめんどうをみてくれたかもしれない
が・・・。)
おかしいが、やはりそれ以外に方法がないのだから、今の遺産相続制度を支持するしかな
い。

私「では、親は、何と言っているのですか?」
友「親自身は、遺産なんてどうでもいいと言っているんですがね、その子どもたちが、それでは
いけないと、親をたきつけているんですね」
私「平等意識というのですかね」
友「結局、そういうことになりますね」と。

 世の中も、変わってきた。
今は、その過渡期イコール、混乱期ということになる。
それがこのエッセーの結論ということになる。

(参考:ウィキペディア百科事典より)

●長子相続(ちょうしそうぞく)とは、最初に生まれた子供(長子)が家産を相続する制度であ
る。ここでいう長子は、長男のみを指し、「長女」が外されることが多く、「男女を問わず、最初
に生まれた子供が相続する」という真の意味の「長子」相続とは言えない例が多い。相続する
家産は、財産のみならず家督や地位をも含んでいた。

●日本国憲法が施行された1947年には、民法が大規模に改正され、家督相続が廃止され
た。この時の改正では、長男相続制も廃止されて、配偶者にもいかなる子供にも平等に相続
権を持つことが規定された。

●家制度(いえせいど)とは、1898年に制定された民法(以降、旧民法という)において規定さ
れた家族制度であり、親族関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、戸主と家族として一つ
の家に属させ、戸主に家の統率権限を与えていた制度である。江戸時代に発達した、武士階
級の家父長制的な家族制度を基にしている。

(以上、ウィキペディア百科事典より)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●緩慢行動

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愛知県にお住まいの、NSさんという
方より、子どもの緩慢行動についての
相談がありました。

それについて考えてみます。

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【NSさんより、はやし浩司へ】

以前、息子の手洗い癖について相談させていただきました者です。その節は本当にお世話に
なりました。

あれから1年以上たちますが、お陰様で息子は問題なく、楽しく過ごせているようです。
今日は長女の事なのですが、何かアドバイスをいただけましたらと思いメールをさせていただ
きました。

小学2年生です。家ではまったくこのような状態ではないのですが、学校に行くと人よりテンポ
が少し遅くなるようで、何をやるのにも少し人とズレます。

行動を起こす時も、他の子より遅く始めたり、人の後から行動したりしています。その割に目立
つのは好きなのか、授業中も発言をよくするのは良いのですが、

時々、その話はもう終わったよというような内容の発言をすること事もあります。いつもではな
いのですが・・・。友達の輪にも入りにくいようで、先生にペアを組むように言われるとあぶれる
ことも多く、オロオロとしていることもあります。

そこそこ仲の良い子もいるようなのですが、その友達にとって、一番に仲が良いわけではない
ようで、遊びに誘おうと思って行動するときには、もう他の子と遊ばれていることが多いようで
す。一緒に混ぜてもらったら?と言うと、あの子たちとは仲良くないもんとか、あたしはあまり好
かれてないもんなどと言い、尻込みをします。

何か言われた事あるの?と言うとそうじゃないけど・・と曖昧な返事がかえってきます。友達が
なかなか出来にくい事を本人も気にしているようで時々私に相談してくる事もあるのですが、基
本的に連れて女の子達が行くトイレを嫌がったり、誘われても今行きたくないから・・・と断った
りしているようです。たまには付き合いだと思って行ってみたらと言うとそういう妥協はしたくな
いらしく曖昧な返事がかえってきます。

ただでさえテンポが遅く、人の中で浮きやすいのに、へんなところで真面目なので、何か悪い
事をしている人を見つけたり、本人が納得できない事があるとお構いなく、キツイ言い方をする
事がしばしばあるので、よけいに引かれてしまうようです。家ではお手伝いをしてくれたり、通信
教育の勉強をバリバリこなしたり、外で遊ぶ時も元気で、とてもやる気がないとか無気力なよう
には見受けられないのですが、学校では場合によってはやる気が見受けられないらしく、担任
の先生から注意を受けた事もあり、通信簿の生活面の評価はとてもひくいです。

最後までやりきるとか、皆で協力してやり遂げるなど全然できていないようです。勉強面での評
価はそこそこ良いのですが、生活面の評価はひどいです。昨年の評価は、お友だちの輪には
なかなか入り難いようですが、頑張りやで、一つのことを責任を持ってやりとげますと先生に言
われたのが、嘘のようです。

上手く説明をすることが出来なくすみません。息子の時と違って、はっきりここが変だというよう
な表現ができないものですから、ダラダラと長くなりすみません。何かアドバイスがありましたら
お願いいたします。

【はやし浩司より、NSさんへ】

全体に、マイナス思考である点が、気になります。
お子さんの悪い面ばかりを見ている。
気にしている。
悪い面ばかりに気がつき、それだけを問題にしている……?
私があなたのお嬢さん(小2)なら、あなたのそばにいるだけで、窮屈に感ずるかもしれませ
ん。

まずお嬢さんを信ずる。
つぎに学校の先生を信ずる。
もうひとつ、あなた自身を信ずる。
子ども不信型の子育て、つまり過干渉、過関心が日常化しているように感じます。
小学2年生というと、そろそろ親離れを始める時期です。
反抗もはげしくなってきます。
だいたい小学3年生前後で、親離れし、思春期前夜に入ると考えてください。

が、あなたのほうには、それがわかっていない。
あなたはまだ自分の子どもが、幼児のままと思っている。
仮にあなたがここに書いたとおりであるとしても、小学2年生では、もう手遅れです。
はっきり言って、直・り・ま・せ・ん。
つまり直そうと思わないこと。
あなたが直そうと思えば思うほど、逆効果。
お嬢さんは、自信をなくして、今の時期につづくつぎの思春期では、自我の同一性の確立さえ
おぼつかなくなります。
それこそこの先、「私は何だ?」と悩みつづけるでしょう。
あるいはスーッと非行の道に入ってしまうかもしれません。

今、そこにいるお嬢さんを認め、そのお嬢さんを信ずることです。
それともあなたは、いったい、自分の子どもが、どんな子どもになるのを、望んでいるのです
か?
もっと言えば、あなたはどうでしょうか?
あなたは自分の子どもの前で、胸を張って、「私はすばらしい人間」と言えるでしょうか。
社交性もあり、皆に親しまれ、リーダー格で、勉強もよくできる、と。

あなた自身、恵まれない家庭で、両親の愛情と理解を受けないで、さみしい思いをしたのでは
ありませんか。
それが現在の、あなたの子育ての基本になってしまっています。

お嬢さんの友だちの問題にまで、介入してはいけません。
家では、いろいろと仕事をしてくれるということですから、すばらしい子どもですよ。
学校では、緩慢行動が目立つということですが、そういうときは、逆にほめてみるのです。
あなたは1年生のときより、すばらしくなったわ、とです。
どのみち、あなたが説教したところで、直りません。
方法もありません。
(学校の先生に相談するのは構いませんが、学校の先生にしても、直す方法はありません。
あるとすれば、何かの機会をとらえて、みなの前でほめることです。
「今日のNさんは、すばらしかった!」とです。
が、それができるのは、学校の先生だけです。)

「ここがヘン」という言葉は、使ってはいけません。
今では、子どもは家族の「代表」という考え方をします。
子どもに何か問題があったら、それは、家族の問題と考えます。
はっきり言えば、あなた自身の問題ということです。
もっとはっきり言えば、あなたにだけ、そう見えるということです。
「子どもがヘン」と感じたら、「私の子育てがヘン」と思うことです。

これから思春期に入り、子どもは大きく変化していきます。
子ども自身の力で、変わっていきます。
そんな子どもを、頭から、ハンマーで叩くようなことはしてはいけません。

心配先行型、不安先行型の育児観を、改めてください。
そして「私の子どもはすばらしい子ども」と自分で自分に言って聞かせるのです。
あなた自身の心を作り変えるのです。
そのあと、問題は、自然に解決していきます。

ある男が医者の所に来て、こう言いました。
「ドクター、私は、指で足を押さえると、足が痛い。
腹を押さえると、腹が痛い。
頭を押さえると、頭が痛い。
私は、いったい、どこが悪いのでしょうか」と。

それに答えて、その医師は、こう言いました。

「あなたはどこも悪くありません。
あなたの手の指の骨が折れているだけです」と。

子どもというのは、親や教師が見方を変えるだけで、変わってしまいます。
「好意の返報性」という言葉もあります。
日本では、「魚心あれば、水心」と言いますね。
あなたが「心配だ」「心配だ」と思っていると、そのとおりの子どもになってしまいます。
だからこそ、まずあなたの心を作り変えるのです。
それともあなたは、あなたが経験したような、さみしい少女時代を、あなたのお嬢さんに繰り返
してほしいですか?

小学2年生ですよ!
私は幼児を指導していますが、小学2年生というと、完成された幼児です。
あと1、2年で、親離れしていきます。
親としてできることは、ほとんどないということです。

あきらめて、あるがままを受け入れなさい!
「あきらめは、悟りの境地」ですよ。
おおらかで、満ち足りた世界です。
あなたも一度、そういう世界に、入ってみるとよいですよ。
あなたのお嬢さんも、それで見違えるほど明るくなるはずです。

とは言っても、緩慢行動(神経症)について問題にしておられますので、このあと、いくつかの原
稿を添付しておきます。

メール、ありがとうございました。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自己効力感(Self Achievement)

 「自分でできた」「自分でやった」という達成感が、子どもを伸ばす。これを自己効力感
という。

 子どもを伸ばすコツは、この自己効力感をうまく利用すること。

 反対に、この自己効力感を、阻害(じゃま)するようなことがあると、子どもは(1)
それに大きく反発するようになり、(2)ついで、心が極度の緊張状態におかれるようにな
ることが知られている。

 それを阻害するものに対して、反抗するようになる。

 が、それだけではない。子どもは、ますます、そのものに固執するようになる。こんな
ことがある。

 A君(小4)は、サッカークラブで、やっとレギュラー選手になることができた。A君
はA君なりに、努力をした。

 が、小5になるとき、母親は、A君を、進学塾へ入れた。そしてそれまで週3回だった
サッカーの練習を、週2回に減らすように言った。当然、そうなると、A君は、レギュラ
ー選手からはずされる。

 A君は、猛烈にそれに反発した。が、やがてその反発は、母親への反抗となって現れた。
すさんだ目つき、母親への突発的な暴力行為など。

 もうそうなると、進学塾どころではなくなってしまう。あわてた母親は、進学塾をやめ、
再び、サッカークラブにA君をもどした。が、今度は、A君は、そのサッカーにすら、興
味を示さなくなってしまった。母親はこう言う。

 「あれほど、毎晩、サッカーをさせろと暴れていたのに、サッカークラブへ再び入った
とたん、サッカーへの興味をなくすなんて……」と。

 子どもの心理というのは、そういうもの。A君の母親は、それを知らなかっただけであ
る。A君が母親に反抗したのは、サッカーをしたいからではなかった。自分の自己効力感
(達成感)を、阻害されたからである。そのことに対して、A君は、反抗したのである。

 少し話がちがうかもしれないが、こんな例もある。

 若い男女が、恋愛をした。しかし周囲のものが、猛反対。そこでその男女は、お決まり
の駆けおち。そして子どもをもうけた。

 やがて周囲のものが、あきらめ、それを受け入れた。とたん、たがいの恋愛感情が消え
てしまった。

 この例でも、若い男女が駆けおちしたのは、それだけたがいの恋愛感情が強かったから
ではない。周囲のものに反対されることによって、より結婚に固執したからである。だか
ら、結婚を認められたとたん、恋愛感情が消えてしまった。

【教訓】

 子どもの得意芸、生きがいは、聖域と考えて、決して、土足で踏み荒らすようなことは
してはいけない。へたに阻害したりすると、かえって子どもは、それに固執するようにな
る。最悪のばあいには、親子関係も、それで破壊される。
(はやし浩司 自己効力感 自己達成感 一芸論)


●高度な欲求不満

 欲求不満といっても、決して一様ではない。心理学の世界には、欲求不満段階説(マズ
ローほか)さえある。このことは、子どもの発達過程を観察していると、わかる。

【原始的欲求不満】

 愛情飢餓、愛情不足など。飢餓感や不足感が、欲求不満につながる。この欲求不満感が、
子どもの心をゆがめる。よく知られているのは、赤ちゃんがえり。下の子どもが生まれた
ことなどにより、飢餓感をもち、それが上の子どもの心をゆがめる。

 生命におよぶ危機感、安心感の欠如から生まれる欲求不満も、これに含まれる。

【人間的欲求不満】

 人に認められたい、人より優位に立ちたい、目立ちたいという欲求が、満たされないと
き、それがそのまま欲求不満へとつながる。「自尊の欲求」(マズロー)ともいう。この人
間的欲求は、自分がよりすぐれた人間であろうとする欲求であると同時に、それ自体が、
社会全体を、前向きに引っ張っていく原動力になることがある。

 が、子どもの世界では、こうした人間的欲求は、変質しやすい。

 ある子ども(中2男子)は、私にある日、こう言った。「ぼくは、スーパーマンになれる
なら、30歳で死んでもいい。世の中の悪人をすべて退治してから死ぬ」と。

 こうした人間的欲求は、幼児にも見られる。みなの前でその子どもをほめたりすると、
その子どもは、さも誇らしそうな顔をして、母親のほうを見たりする。

 子どもの中に、そうした人間的欲求を感じたら、静かにそれをはぐくむようにする。こ
れは子育ての大鉄則の一つと考えてよい。

(はやし浩司 マズロー 自尊欲求 自尊の欲求 人間的欲求 はやし浩司 家庭教育
 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi 
education essayist writer Japanese essayist 自己効力感 欲求不満 子供を伸ばす 伸
ばし方 子供の伸ばし方)


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司

●幼児の緩慢行動(Dull Movement of Children)

 心理的抑圧状態(欲求不満を含む)が、日常的につづくと、子どもはさまざまな、心身
症による症状を示すことがある。が、その症状は、子どもによって、千差万別。定型がな
い。

 「どうもうちの子、おかしい?」と感じたら、その心身症を疑ってみる。

 その中のいくつかが、緩慢行動(動作)であったり、吃音(どもり)であったりする。
神奈川県に住む、Uさん(母親)から、多分、緩慢行動ではないか(?)と思われる相談
をもらった。

 ここでは、それについて、考えてみたい。

+++++++++++++++++++++

【Uさんより、はやし浩司へ】

私には、4歳(年少)の娘、M子(姉)と、1歳8ヶ月の息子S夫(弟)がいます。
先日、娘の幼稚園の個人懇談がありました。

そこで、先生に言われたのが

「M子(姉)ちゃんはいつもマイペースで、マイペースすぎてもうちょっとスピードアッ
プして欲しいんですけどね」でした。

「急がないと行けない時にもマイペースでね、今(年少)はあまりする事も少なくて、他
の子と差は出てこないと思いますけど、これから先、年中、年長となるにつれてその差は
広がっていきますからね」

「急がないといけない時に、急げるようなボタンがあればいいんですけどねー(笑)。そこ
を押せば、急いでくれるっていう風に・・・・(笑)」と冗談まじりではあったのですが、
最後に夏休み中にお母さんから、M子ちゃんに急ぐって事を教えてあげておいてください
と言われました。

「急ぐという事を教えるといわれても・・・・先生どうしたらいいんでしょう?」って聞
いたのですが、イマイチよく分かる回答がなかったような気がします。

怒って「急いで!急いで!急いで!」とまくし立てるのも良くないと思いますし、言った
所で出来るわけでもないですし。

普段、出来るだけ怒らないように大声をあげないように、出来たら大げさに誉めてあげて、
を心がけているのですが今の私のやり方では、夏休みあけても同じだろうし・・・・どう
したらいいのだろう?、と考えこんでしまいます。

何がどうマイペースか具体的に言うと、給食の時間になって先生が、「後に給食の袋を取り
にいって準備して下さい」って言っても、上の方を見てボーッと椅子に座っていることが
時々あって、「M子ちゃん、準備よー急いでー!」って言っても、とりわけ急ぐ様子もなく
ゆっくりらしいです。

又、今メロディオンの練習をしているようなのですが、M子(姉)は指でドレミファソを
弾く事は出来るみたいなのですが、ホースを口にあてて息を吹く事が分からなかったみた
いで、一人だけ音が出なかったみたいです。

先生が側で、「M子ちゃん吹くんですよー」って言っても分からなくて、挙句の果てには、
ホースに口をあててホースに向かって、ドレミファソを言いながら、けん盤を弾いていた
ようです。

先生も??、だったみたいで、「違うよM子ちゃん! 吹くのよ!!」って言うと今度は、
何でそんなに先生は私に怒ってるの?、っていう反応だったようです。

あと、空想にふけっていたりするみたいです。

他にも日々の行動で色々あるようです。

M子(姉)は私に似ているのか、よく言えばおっとりで悪く言えば、どこかのろい所があ
って入園の際、私もそれが少し気にはなっていました。

のびのび保育の幼稚園を選べば、そんな事を考えなくて良かったのかもしれませんが、私
的には、小学校でお勉強を始めるより、幼稚園で少しでも触れていれば気遅れなく、M子
(姉)もやっていけるのではと考えたのですが、やはりその分要求される事も多いんです
ね・・・。

今は、本人は幼稚園が大好きでお歌の時間もプリントの時間も体操の時間も楽しいとは話
しています。

楽しく通ってくれれば、私はそれで大満足なのですが年中、年長になった時、まわりの早
さについて行けなくなって幼稚園が楽しくなくなったら、やはり園を変えた方がいいんで
しょうか?

また、もっとスピードアップさせるにはどうしたらいいのでしょうか?

また、M子(姉)には、時々どもりがあります。ほとんど指摘しないように聞きながして
いるのですが、ちょっと気になっています。

はっきりとした原因は分かりませんが、下の子を出産する際引き裂かれるように、私と離
れ離れになってしまって、10日間ほど離れて暮らしていたのが悪かったのかな?、と反省
しています。

長々と下手な文章で好きな事を綴ってしまいましたが、アドバイス頂けますようお願い申
し上げます。

これからもまぐまぐプレミアをずっと購読していこと思っています。毎日暑いですが、ど
うぞお体にお気をつけ下さい。


【はやし浩司より、Uさんへ】

 まぐまぐプレミアのご購読、ありがとうございます。感謝しています。

 ご相談の件ですが、最初に疑ってみるべきは、緩慢行動(動作)です。原因の多くは、
親の過干渉、過関心です。子どもの側から見て、過負担。それが重なって、子どもは、気
うつ症的な症状を見せるようになり、緩慢行動を引き起こします。

 ほかに日常的な欲求不満が、脳の活動に変調をきたすことがあります。私は、下の子ど
もが生まれたことによる、赤ちゃんがえり(欲求不満)の変形したものではないかと思っ
ています。

 逆算すると、M子さんが、2歳4か月のときに、下のS夫君が生まれたことになります。
年齢的には、赤ちゃんがえりが起きても、まったく、おかしくない時期です。とくに「下
の子を出産する際引き裂かれるように、私と離れ離れになってしまって、10日間ほど離
れて暮らしていたのが悪かったのかな?」と書いているところが気になります。

 たった数日で、別人のようにおかしくなってしまう子どもすらいます。たった一度、母
親に強く叱られたことが原因で、自閉傾向(一人二役のひとり言)を示すようになってし
まった子ども(2歳・女児)もいます。決して、安易に考えてはいけません。

 で、その緩慢行動ですが、4歳児でも、ときどき見られます。症状の軽重もありますが、
10〜20人に1人くらいには、その傾向がみられます。どこか動作がノロノロし、緊急
な場面で、とっさの行動ができないのが、特徴です。

 こうした症状が見られたら、(1)まず家庭環境を猛省する、です。

 幸いなことに、Uさんの子育てには、問題はないように思います。そこで一般の赤ちゃ
んがえりの症状に準じて、濃密な愛情表現を、もう一度、M子さんにしてみてください。

 手つなぎ、抱っこ、添い寝、いっしょの入浴など。少し下のS夫君には、がまんしても
らいます。

 つぎに(2)こうした症状で重要なことは、「今の症状を、今以上に悪化させないことだ
けを考えながら、半年単位で様子をみる」です。

 あせってなおそう(?)とすればするほど、逆効果で、かえって深みにはまってしまい
ます。子どもの心というのは、そういうものです。

 とくに気をつけなければいけないのは、子どもに対する否定的育児姿勢が、子どもの自
信をうばってしまうことです。何がなんだかわけがわからないまま、いつも、「遅い」「早
く」と叱れていると、子どもは、自分の行動に自信がもてなくなってしまいます。

 自信喪失から、自己否定。さらには役割混乱を起こす子どももいます。そうなると、子
どもの心はいつも緊張状態におかれ、情緒も、きわめて不安定になります。そのまま無気
力になっていく子どももいます。

 「私はダメ人間だ」という、レッテルを、自ら張るようになってしまいます。もしそう
なれば、それこそ、教育の大失敗というものです。

 そこで(3)子どもの自己意識が育つのを静かに見守りながら、前向きの暗示をかけて
いきます。

 「遅い」ではなく、「あら、あなた、この前より早くなったわね」「じょうずにできるよ
うになったわね」と。最初は、ウソでよいですから、それだけを繰りかえします。

 「先生もほめていたよ」「お母さん、うれしいわよ」と言うのも、よいでしょう。

 ここでいう「自己意識」というのは、自分で自分を客観的にみつめ、自分の置かれた立
場を、第三者の目で判断する意識というふうに考えてください。

 しかし4歳児では、無理です。こうした意識が育ってくるのは、小学2、3年生以後。
ですから、それまでに、今以上に、症状をこじらせないことだけを考えてください。

 とても残念なことですが、幼稚園の先生は、せっかちですね。その子どものリズムに合
わせて、子どもをみるという、保育者に一番大切な教育姿勢をもっていないような気がし
ます。

 おまけに、「年長になったら……」と、親をおどしている? ある一定の理想的(?)な
子ども像を頭の中に描き、それにあわせて子どもをつくるという、教育観をもっているよ
うです。旧来型の保育者が、そういうものの考え方を、よくします。(今は、もうそういう
時代ではないのですが……。)

 M子さんに、ほかに心身症による症状(「はやし浩司 神経症」で、グーグルで検索して
みてください。ヒットするはずです。
あるいは、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page080.html)が出てくれば、この時期
は、がまんしてその幼稚園にいる必要は、まったくありません。

 子どもの心に与える重大性を考えるなら、転園も、解決策の一つとして、考えてくださ
い。

 そして(4)「うちの子を守るのは、私しかいない」と、あなたが子どもの盾(たて)に
なります。先生から苦情があれば、「すみません」と一応は謙虚に出ながらも、子どもに向
かっては、「あなたはよくがんばっているのよ」「すばらしい子なのよ」と言います。そう
いう形で子どもの心を守ります。

 まちがっても、そこらの保育者(失礼!)がもっている理想像(?)に合わせた子ども
づくりを、してはいけません。

 子育てもいつか終わりになるときがやってきます。そういうとき、あなたの子育ての思
い出を、光り輝かせるものは、「私は、子どもを守りきった」「私は、子どもを信じきった」
という、親としての達成感です。

 今が、そのときです。その第一歩です。

 最後に(5)M子さんに合わせた、行動形態にすることです。「のろい」と感ずるなら、
あなたも、もう一歩、自分の歩く早さを、のろくすればよいのです。どこかに子育てリズ
ム論を書いておきましたので、また参考にしてください。

 とても幸いなことに、Uさんは、たいへん愛情豊かな方だと思います。それに自分の子
育てを客観的にみつめておられる。とてもすばらしいことです。(プラス、私のマガジンを
読んでいる!)

 子どもといっしょに、子どもの友として、子どもの横を歩いてみてください。楽しいで
すよ。セカセカと歩いていたときには気づかなかったものが、たくさん見えてきますよ。

 そうそう、最後に一言。

 こうした緩慢行動(動作)は、子どもの自己意識が育ってくると、自然に消えていくも
のです。子どもが自分で判断して、自分で行動をコントロールするようになるからです。
どうか、安心してください。

 私の経験でも、乳幼児期の緩慢行動(動作)が、そのまま、小学5、6年生まで残った
というケースを知りません。小学3、4年生ごろには消えます。(ただしこじらせると、回
復が遅れますが、そのときは、もっと別の、ある意味で深刻な、心身症、神経症による症
状が出てきます。

 また親は「のろい」「のろい」と心配しますが、第三者から見ると、そうでないというケ
ースも、たいへん多いです。これは親子のリズムがあっていないだけと考えます。)

 吃音(どもり)については、ここ1〜3年は、症状が残るかもしれません。環境が大き
く変わっても、クセとして定着することもあるからです。吃音については、あきらめて、
濃密な愛情をそそいであげてください。これも時期がくれば、症状は消えます。

 どんな子どもでも、一つや二つ、三つや四つ、そうした問題をかかえています。全体と
してみれば、マイナーな、何でもない問題です。

 あまり深刻にならず、ここは、おおらかに! なお先取り教育は、失敗しますので、注
意してください。それについては、またマガジンのほうで取りあげてみます。

 なおこの原稿は、(いただいたメールの転載も含めて)、8月13日号で掲載する予定で
す。どうか転載のご承諾をお願いします。不都合な点があれば、書き改めます。至急、お
知らせください。

 まぐまぐプレミアのご購読、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。

                                  はやし浩司

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Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

【北朝鮮の崩壊】(Let's North Korea Collapse as It Is Now!)

2009年12月2日現在、北朝鮮は、大混乱に陥っている。
すでに、870万人が、飢餓に直面しているという。

国連の潘基文事務総長は去る9月4日、「国際支援の拒否などにより食糧不足も深刻さを増し
ており、約870万人が飢餓に直面している」と発表している(産経新聞)。

そんな中、世界の歴史の中でも類を見ないような、めちゃめちゃな経済改革(?)が、このた
び、北朝鮮で強行された。

デノミである。
交換額制限付きのデノミである。
その模様を、韓国の各紙は、つぎのように伝えている。

★「北朝鮮が12月1日、これまでの貨幣100ウォンを新貨幣の1ウォンと交換するデノミネー
ション(デノミ、通貨呼称単位の変更)を行った。1992年に新旧の貨幣を1対1の比率で交換
する貨幣改革を行って以来、17年ぶりのことだ。今回の措置で、住民たちは北朝鮮貨幣をド
ルや中国人民元に交換しようと闇市に殺到するなど、大騒ぎになったという」(朝鮮N報)。

★「北朝鮮当局は当初、旧貨幣を世帯当り10万ウォンまで交換しようとしたが、住民の強い反
発を受け、交換限度を15万ウォンへ拡大したという。新貨幣と交換できない旧貨幣はそのま
ま紙くずになるため、住民の反発が大きいのは必至だ。北朝鮮専門のインターネット新聞「デ
イリーNK」は、北朝鮮の内部情報筋の話として、昨日、貨幣交換が始まると、突然財産を失う
ようになった住民の動揺が大きく後遺症が深刻だと伝えた」(東亜日報)。

★「聯合ニュースによると、旧通貨と新通貨の交換比率は100対1。11月30日午後から交換
が行われ、平壌市民は突然のデノミに驚き、自宅の現金を両替しようと闇市に殺到。ドルや人
民元が暴騰するなど混乱したという。

 北朝鮮のデノミについて、韓国統一省は「現在確認中」としているが、確認されれば今回で5
回目の実施となる。統一省によると、北朝鮮の新通貨発行は1992年以来。ただ当時は交換
比率が1対1で、新しい貨幣に換えられる上限が決まっていたため超過した分は事実上、国に
没収された。

 90年代後半に数百万人が餓死したとの情報がある北朝鮮は2002年7月、「経済管理改善
措置」を発令。滞りがちになっていた配給制を取りやめ、公定価格や給料を引き上げるなど、
経済の活性化を図った。そのため急激なインフレも起きた。現在、北朝鮮の一般の労働者の
給料は月額3000ウォン前後とされるがこれはトウモロコシ2キロの値段にすぎず、それほど
インフレが深刻ということだ」(韓国、産経新聞)。

●日本は日本の国益を第一に考える

 日本の国益とは何か?
それは北朝鮮を、自然死にもちこむこと。
自己崩壊させること。

 現在、北朝鮮は、アメリカとの間で、「米朝友好条約」なるものの締結をもくろんでいる。
しかしこれほどまでに日本にとって、危険な条約はない。
仮に米朝友好条約なるものが締結されたら、それ以後、北朝鮮は日本に対してしたい放題の
ことができるようになる。

 これは憶測でも杞憂でもない。
現実である。
その時点から、日米安保条約は死文化し、北朝鮮は、アメリカ本土にさえ手を出さなければ、
日本に対して軍事行動すら可能になる。
仮に核兵器はなくても、日本は北朝鮮の化学兵器、生物兵器にビクビクしながら生きていかね
ばならなくなる。
現に250〜500発のノドン型ミサイルが、実戦配備についている。
「友好」という名前にだまされてはいけない。

 日本にとって、ベストのシナリオは、北朝鮮を自己崩壊させること。
それで拉致問題も、解決する。
今こそ、兵糧攻めの手を緩めてはいけない。
中国、韓国は国境を接しているため、困るだろう。
日本にとっても、朝鮮半島の混乱は、好ましくない。
しかし10年後、20年後の日本のことを考えるなら、ああした国を、生かしておいてはいけな
い。

 もちろん日本が手をくだすことはできない。
軍事力の行使も許されない。
だからこそ、「自然死」ということになる。
それがまた、北朝鮮の人たちにとっても、ベストのシナリオということになる。
世界でも最悪の恐怖政治から、北朝鮮の人たちも、解放される。

 今こそ、チャンス。

 ちょうど10年ほど前にも同じことが起きたが、そのときは、日本が最大の援助国となって、北
朝鮮を助けた。
当時のK外務大臣は、あろうことか、白米120万トンと北朝鮮に届けた。
そのとき金xxは、中国北部への亡命まで画策していた。
そんな愚かな外交を繰り返してはいけない。

 それともあなたは、あのミサイル発射実験のとき感じた恐怖を忘れたとでも言うのか。
今、あの国を自然崩壊させないと、二度と、そのチャンスはやってこない。
「核兵器の標的は日本」
「日本は存在してはならない国」などなど。

そのつど私たちは北朝鮮の脅迫にさらされてきた。
国際政治は、どこまでも現実的に。
現実だけをみて、対処する。
(いい子)ぶって、よいことは何もない!
(09年12月2日記)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

【心のクッション】

●人はなぜ怒るか

++++++++++++++++++++

(怒り)にもいろいろある。
その中でも、ちょっと変わった怒りもある。
「変わった」というよりは、「極端な」といったほうが、
正しいかもしれない。
実際の例をいくつかあげながら
怒りについて、考えてみたい。

++++++++++++++++++++

(例1)

 Hさんは、その少し前から認知症の疑いがあった。
今年65歳、女性。
もの忘れがひどくなりつつあった。
そんなある日、クラブのメンバー(友)と、電話でこんなやり取りをしたという。

H「今度の会合は、AA台にあるBBというレストランでしましょう」
友「わかりました、AA台のBBですね」と。

 で、しばらくほかの話をしたあと、終わり際に、友人が
「じゃあ、AA台のBBで……」と言ったときのこと。
突然、Hさんは、パニック状態になってしまった。

「私、BBなんて言っていません。CCです!」

友「だって、あなた先ほど、BBって、言いましたよ」
H「言っていません。どうしてそんなウソをつくのですかア!」と。

 ふつうの激怒ではない。
ギャーギャーと泣き叫ぶようにして、そう言ったという。

【例2】

 同じく、そのHさんのこと。
親類(Hさんの従兄)の1人も、そうした異変に、薄々気がつき始めた。
それでその親類が、Hさんの夫に、それとなくそれを伝えようとしたときのこと。
親類は、Hさんのことを心配して、それを伝えようとした。
こうした病気は、早期に発見し、治療を始めれば、進行を遅らせることができる。
が、Hさんの夫は、逆に怒ってしまったという。

「Hは、思い込みがはげしいところはあるが、頭は何ともない!
頭はいい!」と。

 あまりの剣幕に、従兄のほうが、たじたじになってしまったという。

【例3】

 内容は同じような話だが、Xさん(45歳、女性)も、このところ様子が
おかしい。
ガスコンロの火を消し忘れたり、風呂の湯を止め忘れたりする、など。
あるいは3〜4日も、気分が悪いといっては、床に伏したままになることもあった。
そこで夫が、Xさんを、心療内科へ連れていこうとした。

 が、これにXさんが、猛反発。
逆上というか、まるで狂人のようになって暴れて、抵抗したという。

【例4】

 つぎの話は、以上の話を、私の友人に話したとき、その友人から聞いた話である。

 その家には、90歳を過ぎた母親がいた。
そのときすでに、要介護度3前後の認定を受けていた(旧認定基準)。
そこでその友人が、いろいろ考えた末、特別養護老人ホームへ入居の手続きを
しようとした。
それを聞いた、友人の妹たち2人が、友人の家にやってきて、これまた大激怒!
「親を、施設に入れるな!」と。

●怒り

 これらの怒りに共通するのは、「心のクッション」がないこと。
心に余裕がない。
心は緊張状態にあり、そこへ何らかの刺激が加わると、一気にそれを
解消しようとして、精神状態が不安定になる。

 ふつうなら、こういうとき、理性が感情の暴走にブレーキをかける。
が、そのブレーキが働かない。
このことから、こういうケースのばあい、(怒り)は、つぎの二段階を経て、
(怒り)になることがわかる。

(1)心が緊張状態にあって、不安や心配が入り込むと、それを一気に解消
しようとして、不安定になる。
(2)感情が暴走し、理性によるブレーキが働かなくなる。

●では、どうするか

 (怒り)は、(心のクッション)と、大きく関係している。
(心のクッション)が、大きい人は、相手の心を、暖かく包み込むことができる。
そうでない人は、そうでない。
そのまま相手の心を、冷たくはね返してしまう。

 私の印象では、(あくまでもそう思うだけだが)、認知症か何かになると、この
心のクッションが、たいへん薄っぺらくなる。
心の余裕そのものがなくなり、ささいなことで、激怒しやすくなる。
 
 お金にたとえるのも不謹慎なことかもしれない。
しかしたとえば懐(ふところ)に、何百万円ももっている人は、寿司屋でも、好きな
寿司を注文することができる。
しかし小銭しかないと、ハラハラしながら食べなければならない。

 同じように、心の中に(大きなもの)をもっている人は、ささいなことでは、動じない。
そうでない人はそうでない。

 たとえばそれが(思い込み)であるにせよ、何かの信仰をもっている人は、外部の人に
対して、おおらか。
いつも満足そうな笑顔を浮かべている。
科学者にしても、思想家にしてもそうだ。
「宇宙だ」「哲学だ」「真理だ」と言っている人は、それだけ、ささいなことでは、動じな
い。

 言い換えると、このタイプの(怒り)と闘うためには、(怒り)そのものと闘うというよ
りは、それによって動じない(大きなもの)を、もつこと、ということになる。
大きければ大きいほど、よい。
それがそのまま(心のクッション)となる。

 先にあげた4つの例では、つまりは加齢や認知症の進行とともに、(大きなもの)が心から消
えたことが理由と考えてよい。
思考能力そのものが低下するから、自分の住む世界そのものが、小さくなってしまう。

 「AA台のBB」であろうが、「AA台のCC」であろうが、心に余裕のある人だったら、
「あら、まちがえました。ごめんなさい、ホホホ」で済んだ話である。
つまりこれが結論ということになる。

(1)常に、大きな世界で生きよう。
(2)常に、大きなテーマをもち、それについて考えよう。
(3)常に、新しいことに興味をもち、それにチャレンジしよう。
(4)常に、自分の文化性(絵画、音楽などの芸術性)を高めよう。
(5)常に、生きることを原点に、真・善・美の追求をしよう。

 その結果として、私たちは、自分の(心のクッション)を大きくすることができる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
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Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●意欲

++++++++++++++++

このところ、ときどき、スーッと
意欲そのものが減退していくのを
感ずることがある。
「やりたい」と思う意識そのものが、
薄れる。

恐らく視床下部あたりから出る信号が
弱くなり、その瞬間、ドーパミンの
分泌が減少するためではないか。

+++++++++++++++++++

●マイナスの一次直線

 何ごとも、「やりたい」と思ったときにする。
それが老後を、前向きに生きるコツ。
最近、それを強く思うようになった。

 そのことは、反対に、意欲を喪失した老人たちを見ると、わかる。
何もしないで、ただボーッと、テレビの前に座っているだけ。
もちろんテレビなど、見ていない。
何も考えていない。
画面に映る光の信号を、目で追っているだけ。

 だれしも、ある日、突然、ああなるわけではない。
マイナスの一次直線的に、長い時間をかけて、ああなっていく。
であるとするなら、すでに今、私たちは、そのマイナスの一次直線に乗っている
と考えたほうがよい。

 その第一が、意欲の減退ということになる。

●「今度は、海のそばに建てる!」

 私は40代のはじめ、山荘造りに執念を燃やした。
小さな山を買い、毎週、ワイフと2人で、ユンボを操り、土地を造成した。
石を組み、ダンプで砂利を運んだ。
土地づくりだけで、6年もかかった。
そのころの私を思い出しながら、今、自分でも、「よくやったなあ」と思う。
で、そのあと1年で、山荘を建築した。
山荘本体だけは、地元の建築会社に建ててもらった。
で、その直後のこと。
私は、ワイフにこう宣言した。
「今度は、海のそばに建てる!」と。

 もちろん今は、もうそんな元気はない。
意欲もない。
むしろ今は、山荘をどうやって売るか、そればかりを考えている。

●意欲

 意欲は、それがあるうちに、生かす。
なくなったら、最後。
そのままどこかへ消えてしまう。
だから、今、したいことがあったら、する。
しなければならない。
「また、今度」とか、「気が向いたらしよう」などと考えていたら、そのうち
何もしなくなる。

 好奇心にしても、そうだ。
このところときどき、ものを書いているときも、そのことがどうでもよくなって
しまうことがある。
今朝も久しぶりに経済問題について、自分の考えを書いていた。
が、そのときも、「こんなことを書いて、何になるのだろう」と思ってしまった。

 おまけに正義感も薄れてきた。
ズルイ人を見かけても、「まあ、いいじゃないの」と思うことが多くなった。
その分、人間が丸くなったというか、自分自身が、ズルくなったというか。
よくわからないが、その一方で、「これではいけない」と、自分で自分に
言って聞かせる。

●体力と気力

 気力も体力と同じ。
あるいはたがいに連動している。
東洋医学では、気力も体力も、同じものと考える。
区別しない。

 だから加齢とともに、体力が衰えるように、気力も、衰える。
これはしかたのないことかもしれないが、だからといって、何もしないでよい
ということでもない。

 体力を鍛えるように、気力も鍛える。
東洋医学的な発想によれば、体力を維持することによって、気力も維持することが
できる。
言い換えると、体力を鍛える。
その結果として、気力も増進する(?)。

●確実性の問題

 そこでワイフに、先ほど、こう言った。
「ぼくは、今、新しいパソコンがほしい。
が、そういう意欲も消えたら、ぼくもおしまいだね」と。

 それを聞いて、ワイフは、ややきびしい表情をしてこう言った。
「そうね、だったら、今、買えばいいのよ」と。

 あと10年もすると、新製品にすら、興味を示さなくなるかもしれない。
「新しいパソコンがほしい」という気持ちも、なくなるかもしれない。
これは可能性の問題ではなく、確実性の問題である。
だれだって、そうなる。
私だって、あなただって、例外はない。

私だって、あなただって、最後は、ああなる。
それだって、運がよければ……という話だが……。

が、そうなったら、私も、おしまい。
だから今日も、何冊か、新しい本を買ってきた。
手当たりしだいというか、私の知らない世界について書いてある本を選んだ。
とにかく、新しい世界に挑戦していくしかない。
つまりそういう形で、自分の意欲を、奮(ふるい)い立たせる。

●生きがい

 で、こうした意欲を支えるのが、(生きがい)ということになる。
それについては何度も書いてきた。
生きがいさえあれば、……といっても、その生きがいをもつのはたいへんな
ことだが、何とか、老後を前向きに生きていくことができる。
生きる意欲も、そこから生まれる。

 そこで私は気がついた。
最近、私の生活から、緊張感が薄れてきた。
ときどき意欲の減退を感ずるのは、そのためではないか。
日々は平和で、平穏。
それに平凡。
今のところ、大きな問題はない。
それが心のどこかで、意欲の減退とつながっている(?)。

 では、どうするか?

 2010年から、新しい企画として、たとえば、映画評論もしてみたい。
旅行記も別コーナーで、立ち上げてみたい。
それとこの浜松市の紹介を、1住民の立場で取り上げてみたい。
……などなど。

 この1年間、「BW公開教室」に力を入れてきた。
収録したYOUTUBEは、現在、1400本になりつつある。
(1400本だぞ!)
1本が、平均9分として、9x1400÷60で、210時間ということになる。
何度か迷ったことはあるが、とにかく、やり遂げた。
2010年も、何か目標を決めて、それをやり遂げたい。

 批判したい人がいれば、すればよい。
笑いたい人がいれば、笑えばよい。
私はだれもしなかったことを、した。
そこに私がしたことの意味がある。
(自画自賛!、それとも慰め?)

●あとは健康論

 意欲の減退は、要するに脳間伝達物質によるところが大きい。
だから栄養面、精神面、生活面、プラス、運動面でのケアを大切にする。
ひとつずつクリアしていくしかない。
その努力を怠ったとたん、あの暗くてジメジメした、死の待合室に向かって、
まっしぐら!

 ところで最近、たいへん気になっていることがある。
余計なことで、不愉快に思う人もいるかもしれないが、こういうこと。

 定年退職と同時に、家の中でブラブラし始める人がいる。
そういう人が、多い。
私の周辺でも、7人のうち、5人が、そういう生活をしている。
それを理想の老後生活と考えている人も多いようだが、本当にそう考えてよいのか。
話をよく聞くと、「仕事は、もうこりごり」と言う人が多い。
しかし一度、なまった体は、もとには戻らない。
若いときならまだしも、60歳を過ぎたら、そうである。
「2、3年、休養でもして、65歳くらいになったら、また仕事をしよう」などと
考えていたら、それはまちがい。

 そのときは、働きたいという意欲そのものが消える。
働いても、長つづきしない。
体がそれについてこない。

 さらに言えば、脳みそそのものが、柔軟性を失う。
新しい仕事を覚えられなくなる。
新しい環境に適応できなくなる。

こればかりは、自分の意思ではどうにもならない。

だから……。
これは余計なことかもしれないが、仮に退職しても、何らかの形で、(仕事)を
つづけたほうがよい。
エンジンでいえば、軽くかけたままの状態にしておく。
いきなりスイッチを切るようなことをすると、エンジンはそのまま冷えて使いものに
ならなくなってしまう。

 似たようなことは子どもの世界でも、よく起こる。
たとえば燃え尽き症候群などになり、やる気をなくしてしまう子どもがいる。
親は、オール・オア・ナシング(All or Nothing)とばかり、すべての塾やおけいこごとを
やめたりする。
が、そんな極端なことをすれば、今度は、立ちあがりに苦労する。
少しでもよいから、子どもの好きなことを残し、それをさせておく。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 B
W はやし浩司 意欲 意欲減退 やる気 子どものやる気 老後のやる気 老後の過ごし方)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●遊戯王(カード・ゲーム)

+++++++++++++++++

昨日、生徒を連れて、近くのビルの
地下にある、お化け屋敷へ連れていった。
小学4年生の子どもたちである。

2人だけが、「入る」と言った。
S君(男児)と、Sさん(女児)である。

が、入ったとたん、私の体に
しがみついてきた。
あとはキャーッ、ギャーッの連続。
要所ごとに、「もうリタイアする」と。

それでも子どもバージョン。
以前、聞いた話によると、台の上に
封筒を置いたとき、死人の手がその
台の向うから出てきて、置いた人の
手をつかむということだった。

が、それはなかった。
そんなことをすれば、子どもたちは、
気を失ってしまったかもしれない。

++++++++++++++++

 そのお化け屋敷の隣が、カード・ゲーム・コーナーになっていた。
遊戯王とか、ポケモンのカードを使って、若い人たちが、ゲームに夢中になっていた。
年齢は、20〜30歳前後か。
ときどき、「ターン・エンド」とか、「ドロー」とか、小さな声を出してする人もいたが、
みな、黙々と、それをしていた。

 おもしろそうだった。
そこでそこにいたF君に、「遊び方を知っているか?」と聞くと、「ぼくは2位に入賞した
ことがある」と。
どこかで、そういう試合(?)に出たことがあるらしい。

 そこで教室に返って、20分ほど、遊戯王の遊び方の講義を受けた。
実のところ、それほど長い時間、受けるつもりはなかった。
私だって、ある程度の遊び方は知っていた。
が、F君の得意そうな顔を見て、そのままつづけてもらった。
私という「先生」に、ものを教えるのが、うれしくてたまらないといったふうだった。

 その興奮状態は、帰るときまでつづいた。
「今度、カードをもってきてあげる」
「先生にも、カードを分けてあげる」
「最強カードは、(神)だよ」と。

で、その(神)のカードは、3種類あるのだそうだ。
値段は、3000円とか。

「神様が3人もいたら、喧嘩になってしまうぞ」と言ったが、F君には理解できなかった
らしい。
しかし久しぶりに、楽しいときを過ごした。

遊戯王……それぞれのカードに、攻撃力と防御力が、数字で表示してある。
そのカードを交互に出しあって、相手を倒したり、相手に倒されたりする。
持ち点(4000点)が、ゼロになったら、その人の負け。
これが遊び方の基本だが、その間に、カードの攻撃力を2倍にしたりする隠し技など
がある。
カードとカードが合体すると、(これを「融合」というが)、攻撃力がさらに強く
なったりする。

 どこか麻雀の遊び方に似ている。
カードゲームというのは、そういう遊びをいう。


●金(ゴールド)の暴騰

 金価格が、暴騰している。
明らかに、バブル。
金そのものの需要は減っている。
にもかかわらず、暴騰している。
昨日は、1グラムあたり、3600円前後で取り引きされている。
わかりやすく言えば、行き場を失った投資資金が、金に向かっているということ。
さらに不気味なのは、同時に、ドルの価値が下がっていること。

 簡単に言えば、ドル・キャリー・トレードであぶれた資金が、金というバクチの
世界に流れこんでいる。
しかしこれは「投資」という「投資」ではない。
何も産み出さない。
不毛の投資。
簡単に言えば、バクチ。
ドルをもっている人が、ドルをもっていても、目減りするから……という理由だけで、
金を買っている。

 2012年ごろまで、アメリカは現在の金利政策をつづけるということだから、
当分は、金価格の暴騰はつづくかもしれない。
……と、だれしも考える。
経済雑誌も、おおむね、そのような筋書きで、金の価格を予想している。
が、国際経済というのは、その裏をかいて、突然ひっくり返る。
そういうことがあるから、この先のことは、だれにも予想できない。
つまり最後に、だれがババを引くか。
そこへ行き着く。
ババを引いた人が、大きく損をする。

 昨年、プラチナは、1グラム7000円前後まで暴騰したあと、一気に、3000円台
まで急降下した。
そういうこともある。
売り逃げた人は、儲けた。
しかしそれができた人は、プロ中のプロだけ。

 そこらのオバチャンまで、「金だ」「金だ」と騒ぐようになったら、金取り引きからは、
手を引いたほうがよい※。
街中でも、「金を、高価買い取り」という看板が目につくようになった。
今が、そのとき?

 ところで私は知らなかったが、投資信託で損を出した人は、多いという。
某経済雑誌によると、総じて約20%分の資産が、投資家から消えたという。
銀行や郵便局の窓口で、簡単に申し込めるのも、わざわいした。
そのため高齢者に被害者が多いとか(週刊B春誌)。

 お金(マネー)というのは、汗水流して、稼ぐもの。
バクチをするとしても、その基本だけは、忘れてはいけない。
数字だけを見て、それに踊らされるようになったら、子どものするカードゲームと同じ。
その先に待っているのは、破産。

(注※)「そこらのオバチャン」説
 つまりそこらのオバチャンまで騒ぐようになったら、(オジチャンでもよいが)、
すでに過熱状態にあるということ。
車にたとえて言うなら、ボンネットの上から、蒸気が出ているようなもの。
いつエンジンが爆発してもおかしくない状態とみてよい。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●琉球独立党

 「沖縄が生き残る道は、日本(ヤマトンチュー)からの独立しかない」と。
そうして生まれたのが、琉球独立党。
党首は、YC氏(55歳)。

06年の沖縄県県知事選挙にも出馬している。
そのとき獲得した票数が、6220票。
その数を多いとみると、少ないとみるか……。
沖縄独立党は、それを「大勝利」と喜んでいる。
「我々を支持してくれる人が、6220人もいる」、あるいは「6220人にふえた」と。

 「独立党」という名称からもわかるとおり、沖縄独立党は、「日米の支配状態を脱せ」を、
旗印にかかげている。
ほかにも「琉球共和国」とか、「石油採掘権獲得」などという言葉も並ぶ。
興味深いのは、「独立したあかつきには……」「国際入札で、アメリカ軍はもちろん、
日本の自衛隊、あるいは中国やロシアの軍隊を、(有料で)、駐留させる」(「日本のタブー」・
ミリオン出版)という部分。
しかしそうはうまく、いくものか?
どこか現実離れしている?
あるいは排他的民族主義?

 中国は、台湾の独立を認めていない。
いずれは、台湾を自国の領土に編入しようとしている。
と、同時に、すでに、沖縄は、中国の領土であると主張し始めている。

 その前に、もう一度、日米関係について考えてみたい。
つぎの原稿は、2006年の1月に書いたものである。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●対米追従外交?

++++++++++++++++

たしかに日本の外交は、戦後一貫して、
「対米追従外交」(経済評論家・T氏談)
である。

事実は、事実。それは、もうだれの目にも、
疑いようがない。

しかし一方で、国際外交は、どこまでも
現実的でなければならない。

現実を見失ったとき、国際外交は崩壊する。
同時に、その国は、進むべき道を、
見誤る。

++++++++++++++++

 対米追従外交を、批判する人は多い。経済評論家のTJ氏も、そのひとりである。三井物産
時代のかつての同僚ということで、肩をもちたい気持ちもないわけではないが、ならば聞く。今
の日本にとって、どうして対米追従外交であってはいけないのか。

 「追従」「追従」というが、追従しなければならない「現実」がそこにある。

 あの中国は、ものの10分足らずで、(あるいは数分で)、日本中を廃墟と化すことができる。
それだけの核兵器を、すでに保有し、実践配備をすませている。

 忘れていけないのは、戦争というのは、兵器だけでするものではないということ。日本にとっ
て脅威なのは、兵器もさることながら、その兵器を底流で支える、士気である。反日感情であ
る。中国人がもっている、その反日感情には、ものすごいものがある。

 いったんどこかでそれに火がつけば、悲しいかな、今の日本に、それをくい止めるだけの武
器もなければ、実力もない。もっとわかりやすく言えば、日本の平和がかろうじて守られている
のは、(中国側から見れば)、その背後に、アメリカという巨大な軍事国家がひかえているから
にほかならない。

 また在日米軍を支えるための、多額の負担金を問題にする人もいる。たしかに日本は、20
06年度だけでも、「思いやり予算」(=在日米軍駐留経費)と称して、2326億円もの負担金を
支払っている。先に問題になった、沖縄からの基地移転費用についても、これとは別に、「35
00億円までなら支払ってもよい」と、日本側は、回答している。

 この額を多いとみるか、少ないとみるか?

 仮に日本有事ということにでもなれば、日米安保条約が発動されて、日本は、アメリカ軍の庇
護下に入る。が、そのときアメリカ側が負担する金額は、ぼう大なものになるはず。あの韓国で
さえ、こんな試算を出している。

「朝鮮半島有事の際には、韓国は、アメリカから1300兆ウォン(約158兆円)分の軍事装備
を、無償で借りることができる」(朝鮮日報・K論説委員)と。(158兆円だぞ!)

 現に今、となりのK国は、日本攻撃を目的として、核兵器を開発している。が、そのK国に対
して、この日本には、満足な交渉能力すら、もっていない。拉致問題ひとつ解決できない。そう
いう日本が、どうして核開発問題を解決できるというのか。

 韓国にしても、いまや日本の同盟国と考えている人は、ほとんど、いない。いつなんどき、中
国と手を組んで、日本に襲いかかってくるか、わかったものではない。K国とさえ、手を組むか
もしれない。少なくとも、現在のN大統領政権というのは、そういう政権である。

 日本は、そういう立場である。つまりそういう立場であることを棚にあげて、「自主権」なるもの
をいくら唱えても、意味はない。わかりやすく言えば、日本は、アメリカに追従するしか、今のと
ころ、生き残る道はない。「追従」という言葉に語弊(ごへい)があるなら、「密接な協調」でもよ
い。

 戦後、日本という国が、かろうじて平和を保つことができたのは、日本人が、平和を愛したか
らではない。(こういうばあい、「愛する」という言葉は、腸から出るガスくらいの意味しかないが
……。)

 日本が平和を保つことができたのは、背後にアメリカ軍がいたからにほかならない。が、もし
アメリカ軍がいなければ、そのつど日本は、毛沢東・中国、スターリン・ソ連、金日成・K国、さら
に李承晩・韓国に攻撃されていただろう。これまた悲しいかな、日本はそういうことをされても
文句が言えないようなことを、先の戦争でしてしまった。

 日本は、アメリカに追従せざるをえなかったし、基本的には、今も、その状態はつづいてい
る。それが「現実」である。

 もちろん私も、このままではよいとは思っていない。いつか日本も、アメリカから独立し、日本
は日本として、独自の道を歩まねばならない。しかしその前提として、この極東アジア、東北ア
ジアに、相互の信頼関係が築かれなければならない。それがないまま、「日本は日本だ」「日本
が国内で何をしようが、日本の勝手」と言い切ってしまうのは、今の日本にとっては、きわめて
危険なことである。

 その一例が、日本のK首相によるY神社参拝問題ということになる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●沖縄の独立(?)
 
 琉球独立党のYC氏(党首)には悪いが、もし沖縄が独立すれば、沖縄はそのまま中国の支
配下に入る。
中国が、黙っていない。
また中国は、現状においては、そんな甘い国ではない。
ないことは、チベット問題ひとつみても、わかるはず。
尖閣諸島周辺には、天然ガスや石油など海洋資源が眠っている。
であるならなおさら、中国は、沖縄の独立を認めるわけがない。

 2005年に書いた原稿を、そのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●台湾問題は、日本の問題

++++++++++++++++++++++

どうして、中国は、日本が主張する経済水域の中で、
ガス油田の開発および採掘を始めたのか。

どうして日本の抗議に対して、中国は耳を貸そうと
しないのか。

実は、この問題に裏には、台湾、さらには沖縄(琉球)
の領有権問題がからんでいる。

雑誌「諸君」(11月号)の中の記事を参考に、この
問題を考えてみたい。

+++++++++++++++++++++++

 中国と台湾。その中国は、台湾は、中国の領土と主張し、もし台湾が独立宣言をするような
ことがあれば、中国は武力介入も辞さないと、ことあるごとに宣言している。

 つまり台湾の独立は、許さない、というわけである。

 しかし、この問題は、そのまま日本の問題と考えてよい。中国に視点を置いてみれば、それ
がわかる。中国の東には、台湾がある。しかしその台湾の向こうには、沖縄(琉球)がある。も
し台湾が独立してしまえば、沖縄(琉球)は、ますます、中国から遠ざかってしまう。

 仮に台湾が、中国の領土の一部になれば、つぎに中国が領有権を主張してくるのは、実は、
沖縄(琉球)なのである。これは私の被害妄想でも、憶測でも、何でもない。

 連合国は、ポツダム宣言(1945)によって、日本の敗戦を明確に位置づけた。しかしそのポ
ツダム宣言の前に、ヤルタ協定(同、1945)、さらにその前に、エジプトのカイロでなされたカ
イロ宣言(1943)がある。

 そのカイロ宣言の中には、「日本は、中国から奪取したすべての領土を、中国に返還すべ
き」という一文があるが、中国は、その中には、台湾はもちろんのこと、沖縄(琉球)も含まれる
と主張した。毛沢東が、その人である。毛沢東は、その著書、『中国革命と中国共産党』の中
で、「沖縄(琉球)は、日本が中国から奪った領土である」と書いている(中西輝政氏、指摘・
「諸君」11月号)。

 ……こう書くと、「沖縄が、中国の領土だって?」と思う人がいるかもしれない。しかしここは、
明確に述べておかねばならない。

琉球王朝、つまり沖縄は、江戸時代においては、薩摩の「附庸国」であると同時に、明と清との
朝貢関係をもっていた。つまり沖縄(琉球)は、幕藩体制の中では、一応、日本の「領分」としな
がらも、日本では異国として扱われていたのである。

 が、1871年、宮古・八重山島民が台湾に漂着し、54人が、台湾島民に殺害されるという事
件が起きた。これに対して時の明治政府は、「日本国民を殺害した」として清国に抗議、台湾
へ出兵。そしてそのあと、日本は、北京条約で、清に沖縄(琉球)の日本への帰属を認めさせ
る(参考、中島成久氏ゼミ資料)。

 こういう流れからみると、つまりどこか力ずくで、沖縄(琉球)を日本の領土としてきたという流
れからみると、「沖縄(琉球)は、中国の領土である」と、中国が主張しても、どこもおかしくな
い。少なくとも、「沖縄は、日本の領土である」という主張には、歴史的根拠があまりない。つま
りここが、日本最大のアキレス腱ということになる。

 しかしその中国が、沖縄をあきらめたわけではない。かろうじて、本当にかろうじて、今、中国
がそれを主張しないのは、台湾問題があるからにほかならない。台湾が、中国のコブなら、沖
縄(琉球)は、そのコブの上のコブにすぎない。「沖縄(琉球)が、中国の領土である」ということ
を主張するためには、まず台湾を、自分の領土に組みこまねばならない。

 わかりやすく言えば、台湾が、大きな壁となって、中国と日本の間に、またがっている。中国
にしてみれば、まず、台湾問題なのである。

 つまりもうおわかりかと思うが、台湾問題が片づけば、つぎにやってくるのが、沖縄(琉球)問
題である。「台湾問題は、日本に関係ない」などと思っていたら、たいへんなまちがいである。
現に今、「沖縄は中国の領土である」と主張する知識人が、中国国内で、ふえ始めている。

 一方、ここ1、2年、米中関係は、急速に悪化の一途をたどっている。新たな冷戦時代の始ま
りと説明する人も多い。最近になってアメリカのライス国務次官も、中国を、「明らかな脅威」と
位置づけ始めている(05年8月)。台湾や日本にとって、脅威という意味ではない。アメリカ本
土にとって、脅威という意味である。

 事実、それに呼応するかのように、中国の軍の近代化と拡充には、ものすごいものがある。
軍事費にしても、公表されている数字の3倍近くはあると言われている。あるいは、それ以上
かもしれない。

 そこで、その中国がなぜ、こうまで、軍事力の拡充に熱を入れるかといえば、すでに中国は、
台湾や日本を飛び越して、アメリカとの戦争を、念頭に置いているからに、ほかならない。その
中国は、これまたことあるごとに、「もし中台戦争にアメリカが介入してくるようなことがあれば、
アメリカとの対決も辞さない」と主張している。

 中西輝政氏は、つぎのような事実も指摘している。

 「この(05年)7月、中国国防大学のエリート、朱成虎少将が多くの欧米記者を前に、『アメリ
カが中台の武力紛争に介入したときには、中国は、アメリカ本土に、戦略核ミサイルによる先
制攻撃を加える』という警告を発した」(同、「諸君」11月号)と。

 そうなれば、沖縄はもちろん、日本の本土すらも、中国の核攻撃の対象となる。

 ……とまあ、こうした物騒な話はさておき、中国は、日本の主張する経済水域を、そもそも認
めていない。だから平気で、その中で、ガス油田の開発、採掘をすることができる。だからいく
ら日本が抗議の、のろしをあげても、どこ吹く風。中国は、これから先も、ますます堂々と、日
本の経済水域内に入ってきて、ガス油田の開発、採掘をするだろう。

ワイフ「そう言えば、沖縄って、日本とは、ちがうという感じがしていたわ」
私「あまり、そういうことは言わないほうがいい。もしそんなことを、日本人のお前が言っている
ことを知ったら、中国人は、『そら、みろ!』と喜んで、飛びついてくるかもよ」
ワ「でも、事実は事実だから……」
私「日本としては、何としても、米中関係の悪化を、阻止しなければならない。これ以上、悪化
すれば、日本の平和どころの問題では、なくなってしまう」
ワ「K国の核開発問題も、どこかへ吹っ飛んでしまうわね」
私「そういうこと」と。

 こうした中国の野望を封じこめるための方法は、2つある。一つは、中国の民主化運動を、
側面から支援して、中国を民主化すること。ブッシュ大統領も、「世界を民主化することが、世
界に平和をもたらす方法」というようなことを言っている。

 もう一つは、日本、東南アジアからインドにかけて、中国包囲網を構築すること。とくに重要な
カギを握るのが、すでに核保有国となったインドである。すでに、アメリカも日本も、その方向で
進んでいる。中国が、軍拡をつづけているかぎり、日本は、中国とはどこかで一線を画す。でな
いと、それこそ敵に、塩を送るようなことになりかねない。

 ……とまあ、いっぱしの外交評論家のようなことを書いてしまったが、しかしこれらの問題は
そのまま、私たち自身の問題である。日本の平和と安全に、直接かかわってくる問題である。
これからも、これらの問題を追求していきたい。
(参考、「国家の覚悟が問われる秋」by中西輝政、「諸君」11月号)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 B
W はやし浩司 琉球 沖縄 沖縄の領有権 沖縄独立党 ポツダム宣言 ヤルタ会談 ヤル
タ協定 沖縄問題)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●国際政治は、現実的に!

 沖縄がかかえている問題は、よくわかる。
「(沖縄の)住民は、基地問題、低学歴、就職難で苦しめられている」(「日本のタブー」)。
そのとおりだと、私も思う。
YC氏は、同書のインタビューに答えて、こう述べている。

「沖縄独立なんていえば、妄想だの、荒唐無稽だのって、鼻で笑われたが、六千数百人の有
権者が、私の訴えに賛成したのも事実。
海や空の色とは裏腹に、基地の重圧、戦争の傷痕、財政難が住民の心を重くしている。
けれどこれはみんなヤマトンチューから押し付けられたもの。
だから私はこれをヤマトにお返しして、シマンチューのための琉球共和国を作ろうと言っている
のです」と。

が、その問題と、「独立」とは、まったく別の問題である。
ヤマトンチュー(日本)が気に入らないから、シマンチュー(沖縄)は独立すべきという考え方
は、沖縄の人たちにとっても、現実的ではない。
第一に、私たち本土の(?)人間にしても、「鼻で笑っている」わけではない。
また「押しつけている」わけでもない。
沖縄県の人たちに、「申し訳ない」と思っている人のほうが、多い。
それを一足飛びに飛び越えて、「独立」と言われると、私たちとて、どうしてよいのかわからなく
なってしまう。

 むしろ私が心配するのは、「独立」の向うに見え隠れする、YC氏自身の排他的民族主義。
民族主義というのは、より狭小になればなるほど、また先鋭化すればするほど、戦争の火種と
なってしまう。
それが排他的であればなおさら、そうである。
あのアインシュタインも、TK先生への手紙の中で、こう述べている。
「exaggerated nationalism(誇張されたナショナリズム=国粋主義)こそが、すべての戦争の原
因である」と。

 ともあれ、沖縄というより、沖縄県の問題は、日本全体の問題である。
そのことを気づかせてくれた、沖縄独立党の存在感は、大きい。
私たちは私たちで、「沖縄に独立されては困る」という発想からではなく、沖縄の人たちがかか
える問題を、私たちの問題として考える必要がある。
たしかに私たちは、今まで、沖縄の人たちがかかええる問題について、あまりにも無関心であ
りすぎた。

 一方、沖縄の人たちは沖縄の人たちで、もう少し現実的なものの考え方をしてほしい。
いろいろな問題があることは、みな知っている。
だからこそ、それらの問題をひとつずつ解決していく。
私はそのほうが現実的だと思うし、建設的だと思う。
そういう意味で、いきなり「離婚」を訴える沖縄独立党の考え方には、どうしてもついていけな
い。

 ……イマイチ歯切れの悪い結論で、ごめん!


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●「子どもをもつ必要はない」!?

+++++++++++++++++

「子どもをもつ必要はない」と考えて
いる人が、半数以上もいる。

このほど内閣府が発表した調査結果に
よれば、20代、30代の若い人を
中心に、「子どもをもつ必要はない」と
考えている人が、それぞれ63%(20代)、
59%(30代)もいることがわかった。

ならばそう考えている人に聞く。
あなたがたの老後のめんどうは、
いったい、だれがみるのか?
次世代のこの日本は、だれが担(にな)うのか?

……というヤボな質問はさておき、
子育ては、人間が本来的にもつ、権利である。
種族保存ということを考えるなら、
私たち1人ひとりが真剣に考えなければ
ならない、義務である。

が、それだけではない。
子育てをすることによって、人は、生きる目的、
意義、さらには喜びを、知る。

世の中には、子どもがほしくても、それが
できなくて、悲しい思いをしている人も多い。
そういう人たちの心も、少しは考えるなら、
安易に、「子どもをもつ必要はない」などとは、
考えないでほしい。

仮にそう考えたとしても、そういう(考え)とは、
自分の中で戦ってほしい。
いろいろと事情のある人もいるだろう。
それぞれの人には、それぞれの思いもあるだろう。
が、それはそれ。
まず、それと戦う。
戦った上で、「子どもはもつ必要はない」と
答えてほしい。

内閣府は、「生き方の多様化が進んでいる」と
コメントを寄せている。
とんでもない!
これは「多様化」の問題ではない。
「子どもをもたない」ことは、生き方の選択肢の
ひとつではない。
また選択肢のひとつと考えてはいけない。

そんなことはないと思うが、もし、あなたが、
「子育てをするのは、わずらわしい」とか、
「子育てをすれば、自分たちが楽しめる時間が減る」とか、
そんなふうに考えているとしたら、それは、まちがっている!

子育ては、たいへん!
つらい!
それはその通り!
しかしそれを乗り越えるところから、生きる喜びが
生まれる。
人生の深みも、そこから生まれる。

私たちは何のために生きているか。
何のために、ここにいるのか。
ものごとは、そこから考え直してみてほしい。

++++++++++++++++++

 2009年12月5日の時事通信は、つぎのような記事を配信している。

++++++++++以下、時事通信より++++++++++++

内閣府は5日、男女共同参画に関する世論調査の結果を発表した。それによると、結婚しても
必ずしも子どもを持つ必要はないと考える人は、2年前の前回調査に比べ6.0ポイント増の
42.8%となり、1992年の調査開始以来最高となった。持つ必要があるとする人は同6.5ポイ
ント減の52.9%だった。少子化の背景に、国民の家庭に対する意識変化があることを示した
結果と言え、内閣府の担当者は「生き方の多様化が進んでいる」としている。

 調査は、10月1日から18日にかけて、全国の成人男女5000人を対象に個別面接方式で
実施。有効回収率は64.8%だった。

 子どもを持つ必要はないとした人は、男性が38.7%、女性が46.4%だった。年齢別では、2
0歳代が63.0%、30歳代が59.0%と高く、若い世代ほど、子どもを持つことにこだわらない傾
向が浮き彫りになった

++++++++++以上、時事通信より++++++++++++

●子どもに育てられる

 親が子どもを育てるのではない。
子どもが親を育てる。

 ……というような話は、講演会の場で、私が毎回話していることである。

私の本からの一作を、転載します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どもへの愛を深める法(子どもは下から見ろ!)

親が子どもを許して忘れるとき

●苦労のない子育てはない

 子育てには苦労はつきもの。苦労を恐れてはいけない。その苦労が親を育てる。親が子ども
を育てるのではない。子どもが親を育てる。よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分
を育てること」と言う人がいる。まちがってはいないが、しかし子育てはそんな甘いものではな
い。

親は子育てをしながら、それこそ幾多の山や谷を越え、「子どもを産んだ親」から、「真の親」へ
と、いやおうなしに育てられる。たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてくるような親は、確か
に若くてきれいだが、どこかツンツンとしている。どこか軽い(失礼!)。バスの運転手さんや炊
事室のおばさんにだと、あいさつすらしない。しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を卒園する
ころには、ちょうど稲穂が実って頭をさげるように、姿勢が低くなる。人間味ができてくる。

●子どもは下からみる

 賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。そうでない人は、それをなくしてから
気づく。健康しかり、生活しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 私には三人の息子がいるが、そのうちの二人を、あやうく海でなくすところだった。とくに二男
は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海のまん中で、しかもほとんど
人のいない海のまん中で、一人だけ魚を釣っている人がいた。あとで話を聞くと、国体の元水
泳選手だったという。

私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、昼寝をしていた。子どもたちは近くの浅瀬で遊んで
いるものとばかり思っていた。が、三歳になったばかりの三男が、「お兄ちゃんがいない!」と
叫んだとき、見ると上の二人の息子たちが流れにのまれるところだった。私は海に飛び込み、
何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。

私は舟にもどり、懸命にいかりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、それもで
きなかった。そのときだった。「もうダメだア」と思って振り返ると、その元水泳選手という人が、
海から二男を助け出すところだった。

●「こいつは生きているだけでいい」

 以後、二男については、問題が起きるたびに、「こいつは生きているだけでいい」と思いなお
すことで、私はその問題を乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰り返したと
きも、受験勉強そっちのけで作曲ばかりしていたときも、それぞれ、「生きているだけでいい」と
思いなおすことで、乗り越えることができた。

私の母はいつも、こう言っていた。『上見てキリなし。下見てキリなし』と。人というのは、上ばか
りみていると、いつまでたっても安穏とした生活はやってこないということだが、子育てで行きづ
まったら、「下」から見る。「下」を見ろというのではない。下から見る。「生きている」という原点
から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決するから不思議である。

●子育ては許して忘れる 

 子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいる
と、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。

英語では「Forgive and Forget」という。この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与えるため」とも
訳せる。同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せる。しかし何を与えるために
許し、何を得るために忘れるのか。私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと考えていたよ
うに思う。が、ある日。その意味がわかった。

 私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。そのときだ。この言葉が頭を横切った。
「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではないか。
許して忘れてしまえ」と。つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、
子どもから愛を得るために忘れろ」ということになる。

そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許し、忘れるかで、親の愛の深さが決まる。もちろん
許して忘れるということは、子どもに好き勝手なことをさせろということではない。子どもの言い
なりになるということでもない。

許して忘れるということは、子どもを受け入れ、子どもをあるがままに認めるということ。子ども
の苦しみや悲しみを自分のものとして受け入れ、仮に問題があったとしても、その問題を自分
のものとして認めるということをいう。

 難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生きている」と
いう原点から見る。が、それでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い出してみてほし
い。許して忘れる。それだけであなたの心は、ずっと軽くなるはずである。

※……聖書の中の言葉だというが、私は確認していない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

もう1作、中日新聞の載せてもらった
原稿を掲載します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子育てには四つの方向性

 その(1)。子どもに子ども(あなたからみれば孫)の育て方を教えるのが、子育て。「あなたが
親になったら、こういうふうに子どもを育てるのですよ」「こういうふうに子どもを叱(しか)るので
すよ」と。

もっと言えば、子育ての見本を見せるのが子育て。「親子というのはこういうものですよ」「幸せ
な家庭というのはこういうものですよ」と。あなたの子どもは親になったとき、あなたがした子育
てを繰り返す。それを想像しながら、子育てをする。

 その(2)。あなたは今、自分が受けた子育てを繰り返しているにすぎない。そこであなたの過
去をさぐってみる。あなたは心豊かで、愛情深い家庭環境で育っただろうか。もしそうならそれ
でよし。が、そうでなければ、あなたの子育ては、どこかがゆがんでいるとみる。その「ゆがみ」
に気づくこと。あなたはひょっとしたら、そのゆがみに気づかないまま、今の子育てをしている
かもしれない。そしてさらに、そのゆがみを、あなたから、今度はあなたの子どもへ伝えている
かもしれない。…と、言ってもむずかしいことではない。この問題だけは、気づくだけでよい。そ
れでなおる。

 その(3)。子育ては「上」から見る。自分の子育てを、他人のと比較する。兄弟や友人、さら
には近所の人たちのと比較する。もしできれば、世界の子育てと比較してみるのもよい。子育
てでこわいのは、独善と独断。「子どものことは私が一番よく知っている」「私が正しい」と豪語
する親ほど、子育てで失敗しやすい。要は風通しをよくするということ。そのために視野を高くも
つ。

 最後に(4)。子育てはただの子育てではない。よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは
自分を育てることだ」と言う人がいる。まちがってはいないが、しかし子育ては、そんな甘いもの
ではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越え、谷を越え、いやおうなしに育てられる。

はじめて幼稚園へ子どもを連れてくるような親は、たしかに若くてきれいだが、底が浅い。しか
しそんな親でも、子育てで苦労するうちに、やがて姿勢が低くなり、人間的な深みができてくる。
親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。子どもが親に、人間がどういうものかを
教える。

 以上、子育てに、未来、過去、外、内の四つの方向性があることを、私は「子育て四次元論」
と呼んでいる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 この2作だけではわかってもらえないかもしれないが、子育てには、(子どもを育てること)以
上に、大きな意味がある。
その意味を知るか知らないかは、あなたの自由かもしれない。
しかしその意味を教えてくれる子育てを、自ら放棄してしまうというのは、どうか?
はたして正しい選択と言えるのか?
選択の問題と、片づけてよいのか?

 今、あなたはそこにいる。
そこに存在する。
それはたいへん重い意味をもっている。
が、その存在と同じくらい重い意味が、子育ての中にある。
(生きる)ということは、(あなた)が生きることを意味する。
あなたが生きる。
が、あなただけが生きるのではない。
あなたの中のあなたが生きる。
子育てというのは、その一部。

 それがわからなければ、一度、自分の手をしっかりと見つめてみることだ。
そこに見える、手や指、爪は、あなたのものであって、けっしてあなたのものではない。
数十万年という長い年月を経て、進化の過程で、そういう手や指、爪になった。
そこに尊さや気高さを少しでも感じたら、あなたがつぎに考えることは、それをつぎの世代に伝
えること。

子育てをしないというのであれば、あなたは(生きる)ことそのものを、放棄したと考えてよい。
でないというのなら、あなたはいったい、何のために、生きているのか。
あなたの中に生きているあなたを、あなただけのものとして、終わらせてよいのか。
が、そんな権利は、あなたにも、ないはず。

仮に百歩譲って、もしそうであるとするなら、「何のために必要でないのか」、その質問には、き
ちんと答えてほしい。
子育てをすること以上に、ほかに崇高な目的があるなら、それもよいだろう。
しかし残念ながら、子育てをすること以上に、崇高な目的など、存在しない。
そんなことは、ほかの生物を見れば、すぐわかること。
ありとあらゆる生物は、自分の命を、つぎの世代に伝えるために、生きている!

 また先にも書いたように、何らかの事情があって、子育てをしたくても、できない人もいる。
たいへんつらい思いをしている人もいる。
そういう人たちの気持ちが、千分の1でもわかるなら、「子どもをもつ必要はない」とは、安易に
考えてほしくない。

 「政府など必要ない」と考えたら、それは、無政府主義。
同じように、「子どもをもつ必要はない」と考えたら、それは、非人間主義。
非生物主義でもよい。

 もちろんそう考えるようになるには、それなりの理由があることと思う。
子育てには、金がかかる。
子育てには、時間も取られる。
この日本では、子どもをもつことにより、幸福感を味わうよりも、そうでないときのほうが多いか
もしれない。

 この日本では、子どもというより、子育てを、あまりにもないがしろにし過ぎた。
「子供というのは、放っておいても生まれるもの」という政策が基本になっている。
国の予算にしても、国家税収の78%が土木建設費にかけられる一方、教育費は、対GDP費
でみても、たったの4〜5%(注:国家税収を40兆円、03年度の土木建設費を、31兆円で計
算)。
こんなバカげた国は、そうはない。

しかしだからといって、短絡的に、そのことを結論と結びつけてはいけない。
世の中には、私のように微力ながら、そうした社会と戦っている人間もいる。
大切なことは、「だからダメだ」式に逃げるのではなく、「みんなでよくしよう」と戦うこと。

 どうであるにせよ、今回の内閣府のした調査結果には、ほんとうに驚いた。
絶望感すら、覚えた。
はっきり言えば、今の若い人たちに、失望した。
「日本も、とうとうこなってしまったのか!」と。

 最後にもう一度、繰り返す。

 自分のことしか考えない人間を、ジコチューという。
同じように、自分の世代のことしか考えない人間も、ジコチューという。
日本の若い人たちが、ジコチューな人間になりつつあるとは、以前から感じていた。
が、ここまでジコチューになっているとは、知らなかった!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 子どもをもつ喜び 育児の喜び 内閣府 調査 子どもをもつ必要はない 子供
をもつ必要はない)

+++++++++++++++

(参考)(「税金知郎の日本解体新書」HPより)

●日本の公共事業費は巨額

1.日本の公共事業費は巨額! GDPの3.92%が行政の土木建設費
2.国と地方の公共事業費の純計は、31兆5,941億円(2003年度)!

●就学前教育の公的負担割合も低い!

1.生徒一人当りの就学前教育費の家計負担額は、OECD加盟国中3番目に高い!
2.生徒一人当りの就学前教育の家計負担割合は、OECD加盟国中2番目に高い!
3.大卒までの生徒一人当りの教育費の家計負担額は、OECD加盟国中2番目に高い!


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●前向きに生きる

 数日前も、義兄と語り明かす。
話が尽きない。
生き様が前向きなのが、よい。
話を聞いていても、あきない。
楽しい。

 義兄がほかの老人たちと異なる点は、過去の話、つまり回顧的な話をしないこと。
「昔はよかった」式の話は、しない。
そのかわり、「先週は長野までドライブした」とか、「バイクで、磐田市まで行ってきた」
とか、そういう話をする。
言い忘れたが、義兄は、今年、75歳。
後期高齢者ということになる。
また75歳くらいから、人は、自分が老人であることを自覚するようになるという。

 が、義姉のほうは、義兄の心配ばかり。
義兄は、脳梗塞の経験もある。
自分では、「前科者」と言っている。
その長野へドライブへ行った際にも、突然、左目が見えなくなってしまったという。
で、その日は予約していた旅館には泊まらず、そのまま浜松まで帰ってきてしまった。
時間にすれば、3〜4時間の距離である。
「虚血性の何とかだったよ」と、義兄はその話をしながら、カラカラと笑った。
義姉は、「無茶ばかりする……」と。

●後ろ向きな女性

 一方、歳は同じくらいなのだが、こんな女性もいる。
部屋中にお札様を張り、サイフの中には、ヘビの皮を入れているという。
そうすれば、お金が入ってくるという。

 話すことと言えば、先祖の自慢話か、あの世の話。
「私も、もうすぐお迎えが来ますから……」と。
今にも死にそうな、か細い声で、そう言う。
そう言いながら、他人の同情を買う。
が、私は同じ言葉を、もう20年前から聞いている。

 そういう老人の話は、おもしろくない。
聞いていても、つまらない。
要するに、その女性の言っているのは、グチ(愚痴)。
グチは、その人を小さく、見苦しくする。

●良循環vs悪循環

 2人の老人を頭に浮かべながら、どこがどう違うかを、考える。
簡単に言えば、「前向き」と「後ろ向き」。
子どもでも、新しいことに、つぎつぎと挑戦する子どもがいる一方で、何かにつけ、
逃げ腰の子どももいる。
どちらの子どもが伸びるかということになれば、今さら言うまでもない。

 同じように、老人でも、外向きな人もいれば、内向きな人もいる。
義兄は、その外向きな人ということになる。
例にあげた女性は、内向きな人ということになる。

 どちらであるにせよ、他人の目など気にすることはない。
しかし前向きに生きている人のところには、みなが集まっていく。
後ろ向きに生きている人からは、みなが遠ざかっていく。
それがともに、良循環、悪循環となって、その人の周りの世界を作っていく。
どちらが好ましいかということになれば、これも、今さら言うまでもない。

●回顧性

 「今を生きる」という言葉には、いろいろな意味が含まれる。
「今を懸命に生きる」という意味のほか、「今を大切にする」「今がすべて」などなど。
もうひとつ、「過去に縛られない」という意味も含まれる。

 心理学でいう「回顧性」というのは、「過去にしばられること」をいう。
が、誤解しないでほしい。
過去を懐かしんだり、思い出したりするのは、何も悪いことではない。
それはそれ。
しかしその過去にしばられてはいけない。
が、それには2つの意味がある。

 ひとつは、過去のいやな思い出を引きずること。
もうひとつは、過去の栄華や名誉を引きずること。
先日も、こう言った女性がいた。

 「私の父は、(父の)実家を出るとき、実家から財産分けをしてもらっていない」と。
70歳近い女性が、いまだにそういう話をする。
しかも70年とか、80年も前の話である。

あるいはこのタイプの人は男性に多いが、退職前の肩書きを引きずっている人もいる。
先日も、小さなレストランで、若い店員に向かって、怒鳴り散らしていた男性がいた。
「ライスは、大盛りと言っただろがア!」と。

 その威張り方が、時代劇に出てくる侍のようで、あきれるというよりは、おもしろ
かった。
ワイフはその男性を見ながら、こう言った。
「きっとあの人は、退職前は、役人か何かで、威張っていたのよ」と。 

 どうであるにせよ、過去にしばられるのは、よくない。

●映画『カールじいさん、空を飛ぶ』

 ……ということで、昨夜は、映画『カールじいさん、空を飛ぶ』という映画を
見てきた。
カールじいさん、イコール、前向きな老人(?)。
星は5つの、★★★★★。
つまり前向きに生きるエネルギーを分けてもらうために、その映画を見てきた。
昨夜(12月5日)封切りの、ピカピカの新品映画。

 おまけに1か月有効のフリーパスが手に入ったから、映画は見放題。
ハハハ。
映画を見ながら、「人生、こうでなくちゃア」と、カールじいさんに、乾杯!
時間さえ許せば、毎日でも劇場に足を運んでやる!
カールじいさんに負けないぞ!

 とういうことで、迷っていたが、それに今夜、いよいよ最先端の「i7/64ビット」
パソコンを注文をする。
納期は、2週間先の、12月22日とか。

●パソコン

 で、そのパソコンの話。

 釣り師が、よい釣り竿を求めるように、
ゴルファーが、よいクラブを求めるように、
私は、よいパソコンを求める。

 が、ひとつ、ほかの趣味とは大きく異なる点が、ある。
釣り竿は、魚を釣るため。
クラブは、飛距離を伸ばすため。
正確さも、重要なポイントとなる。

 が、パソコンには、そういった目的がない。
たとえば私は、パソコンを、もっぱら文章を書くために使う。
しかしパソコンがあるから、文章が書けるわけではない。
いくらよいパソコンがあっても、よい文章が書けるとはかぎらない。
パソコンを打つ練習をしたからといって、よい文章が書けるようになるわけではない。

おかしなもので、パソコンに向かった瞬間というのは、頭の中は真っ白。
パソコンに向かったからといって、書きたいことが浮かんでくるわけではない。

 そういう意味では、パソコンは、昔の作家たちが使ったペン、もしくは
筆のようなもの(?)。
わかりやすく言えば、「道具」。
が、それでも、私はよいパソコンを求める。
いくつか、ポイントがある。

(1)性能がよいこと
(2)キーの感触がよいこと、などなど。

 何よりも大切なのは、相性。
「これはいい」と思ったパソコンが、よい。
その相性が合わなければ、それまで。
手で触れるのも、おっくう。
文章そのものが、頭の中に浮かんでこない。

 が、ここでいつも問題が起こる。
以下は、ノートパソコンの話。

「いいパソコン」と思って使い始めても、使いにくくて、あきてしまうことがある。
たとえば私のばあい、ENTER・キーが小さいと打ちづらい。
ENTER・キーの右横にキーがあると、使いづらい。
最近では、タッチパッドの感度がよすぎて、指を近づけただけで、勝手に
反応してしまうものがあった(M社のミニノート)。
ほかのは、感度を調整したりできるのだが、それはできなかった。
だからそのまま、生徒の1人にあげた。

 最近では、キーの感触のみならず、表面加工の仕様にも気を使っている。
ツルツル・テカテカしているのは、指先がすべり、何かにつけて使いにくい。
これには、人それぞれに好みがあるようだが……。

 ……とまあ、こんなふうにして文章を叩いていると、やがて頭の中の、作文モードに、
スイッチが入る。
とたん、書きたいことが、ドドーッと出てくる。
あとは、それを文章に仕上げていく。

 私にとって、パソコンというのは、そういう道具をいう。

●親が原因

 話がぐんと、生臭くなるが、子育ての話。

 親自身が、子どもの成長を台無しにするという例は、多い。
その子どもには、能力もある。
力もある。
せっかくそういう能力に恵まれながら、親自身が、子どもの方向性をつぶしてしまう。
そういう例は、多い。

 印象に残っている子どもに、R君(小学生)という子どもがいた。

 頭もよかった。
性格もよかった。
好奇心も旺盛で、放っておいても、学校でもトップクラスを走るような子どもだった。
しかし母親が悪かった。
完ぺき主義で、神経質だった。
学校でするテストにしても、満点(すべて正解)でないと、許さなかった。
毎日子どもにノルマを課し、そのノルマを果たしていないと、夜中でも、子どもを
ベッドから引きずり出して、それをさせていた。

 小学3、4年生ごろまでは、それでも何とか(いい子?)で過ごした。
が、そのころを過ぎると、母親を避け始めた。
会話も途絶えがちになった。
しかし母親は、それを許さなかった。
学校へ行き、担任の前で、さめざめと泣いて見せた。
「息子が、学校であったことを話してくれなくなったア」と。

 こうしてR君は、混乱し始めた。
もし母親に、「自我の同一性」についての片鱗でも、知識の中にあったら、子どもの
接し方も大きく違っただろう。
が、母親は無知、それに無学だった。

 小学6年生のときには、地域のサッカークラブに属していたが、母親の命令で、
それをやめさせられてしまった。
毎週日曜日は、叔父と海釣りに行っていたが、それもやめさせられてしまった。
「受験勉強に専念するため」と。

 が、異変はすぐ起きた。
R君は、母親の前では、相変わらず従順な息子を装っていた。
しかし勉強といっても、フリ勉。
時間がかかるだけで、勉強は、ほとんどはかどらなかった。
それでも持ち前の知的能力とまじめさで、そこそこの成績をあげていた。
が、このあたりでもいちばんという、進学校には力が足りなかった。
そのため母親は、R君を毎日のように、叱りつづけた。

R君のケースは、しかし、けっして特異な例ではない。
親が、子どもの伸びる芽を自ら摘んでしまうというケースは、多い。
その上、タチの悪いことに、親にその自覚がない。
ないから、反省するということもない。
無理に無理を重ねながら、悪循環を繰り返す。

 やっと頭が動き始めた。
今日も、こうして始まった。
2009年12月6日、日曜日。
今日の予定はとくにない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 カールじいさん カール爺さん UP カールじいさんの空飛ぶ家)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●官民人材交流センター

+++++++++++++++++

官僚の天下りを規制しようという目的で誕生したのが、
「官民人材交流センター」。
これが官僚自身の手によって、骨抜きにされた上、
今、現在(09年12月)は、停止中。
鳩山政権は、センターの廃止の方針をすでに決めている。

なぜか?

+++++++++++++++++

●流れ

 当初、官民人材交流センターの発足に対して、官僚たちは、猛反発した。
が、どういうわけか、麻生政権になると、一転、実現に向けて積極的に動き出した。
妙に協力的になり、懇談会を立てつづけに開いた。
なぜか?

 人材センターを職員10人規模の、「形だけの」組織にすることにより、センターその
ものを形骸化するためである。
つまりセンターを、各省庁からあがってきた、書類を「ホッチキスで留めだけの機関」
にする。
そうすれば、官僚たちは、今まで通り、自由に天下りできる。
しかも「官民人材交流センター」という公的機関のお墨付き。
堂々と天下りできる。

●限度額の引き上げ

 そこでセンターを立ち上げる際の懇談会では、こう決まった。
「官僚の年収に見あう、年間1400~1600万円以上の事業を、国から随意契約で
請け負っている法人には、官僚を天下りさせない」と。
実際には、「1000万円程度なら、人件費をカバーできない」との意見が出された。

 こうすれば、天下り先の企業は、官僚を迎え入れるだけの(うまみ)を、なくす。
企業が、なぜ官僚たちを迎え入れるかといえば、持参金としてもってくる随意契約が、
ほしいから。
その随意契約が年収程度ということになれば、受け入れるだけの(うまみ)がなくなる。

 ところが、である。

 官民人材センターが、実際に発足してみると、その限度額が、官僚たちによって、
勝手に、1億円に引き上げられていた(中日新聞)。

●「懇談会」「会議」というインチキ

 官僚たちは、つぎのような手法を使って、自分たちに都合のよいように、利益を誘導
する。
この方法は、日常茶飯事的に、中央省庁のみならず、地方の県単位、市町村単位でも
使われている。
私たち庶民は、こうしたインチキには、じゅうぶん、注意したらよい。

(1)まず適当に、イエス・マンを中心とした、メンバーを選定する。
(2)選定には、基準はない。自分たちにとって都合のよい人間を選ぶ。
(3)「〜〜懇談会」「〜〜会議」もしくは、それに類する名称をつけて、会議を開く。
(4)会議の議題、目録、内容は、あらかじめ、役人側の方で用意する。
(5)議長には、それなりの有力者、実力者が選ばれる。会議の冒頭で、多数決という形
で選ばれる。
(6)世間で騒がれている問題についての会議ほど、メンバーを多くする。つまりこうす
ることによって、それぞれのメンバーの発言時間を少なくする。
(7)会議は、1回につき、2〜3時間程度。必要な資料は、役人側の方で用意する。
(8)つまり会議は、あくまでも形式的。結論として出される答申の雛型まで、役人側
で用意することが多い。役人側で用意した答申の雛型(役人側は、「書記が会議の内
容をまとめた」と言うことが多い)を、修正、訂正、加筆しながら、会議のメンバ
ーは、答申として提出する。
(9)その答申をもとに、役人たちは、あとは、やりたい放題。

 そのため答申として提出される文書の内容は、総括的、かつあいまいなものほど、よい。
今回の「官民人材センター」にしても、そうである。

●「役人のいつものやり方」

 懇談会は、「天下り官僚の人件費を出すため、省庁が随意契約で事業を発注している」
との議論の中で、随意契約限度額を、報告書(答申)の中に盛り込んだ。
が、決まったのは、「限度額」という言葉だけ。

 しかし麻生政権下の08年12月にセンターが設立された際の「センター長決定」では、
その限度額が、「1億円」になっていた!
つまり答申の趣旨を無視して、官僚たちが、勝手に1億円に引き上げたことになる。

 関係者は、「同センター設置の根拠となる政令をつくる段階の、各省庁の折衝で、骨を
抜かれたようだ」(中日新聞)と述べている。

 こうしたやり方は、まさに官僚の手法。
小ずるさを通り越して、あくどさすら覚える。
はっきり言えば、インチキ!
つまりこうなると、何のためのセンターかということになる。
あるいは、何のための懇談会だったのかということになる。

 座長を務めた田中一昭拓殖大名誉教授ですら、こう述べている。
「変更したことだけを、あとで、知らされた。
答申や法律を細部で変えるのは、役人のいつものやり方」(中日新聞)と。

●日本の政治

 どういう理由で、またどういう思惑があって、鳩山政権は、センターの廃止の方針を
決めたのかは、知らない。

無意味だから、廃止するのか?
それとも官僚に都合が悪いから、廃止するのか?

 どうであるにせよ、一事が万事。
日本の政治は、こういう官僚たちによってゆがめられていく。
が、気がついたときには、もう遅い。
そこにあるのは、鉄壁の要塞。
政権が変わったくらいでは、ビクともしない。

天下りにしても、これほど騒がれているにもかかわらず、何一つ、解決されていない。
解決されていないばかりか、官僚の天下りは、今の今も、かえって堂々となされ
つづけている。

 話はぐんと国際的になるが、あのK国では首都ピョンヤンに住めるだけでも、特権階級
だそうだ。
ピョンヤンの住民たちだけが優遇されている。
食料でも電力でも、ピョンヤン市民に優先的に配分されている。
あとは野となれ、山となれ。
餓死者が出たところで、知ったことか!、と。

そうした事実を見せつけられると、私たちは、「K国は、何とひどい国なのか」と思う。
しかしどっこい。
私たちの住む、この日本だって、それほど、変わらない。
懇談会では、「……官僚の年収に見あう、年間1400~1600万円以上……」という
数字が出てきた。
この数字に驚いたのは、私だけだろうか。

 詳細はよくわからないが、天下り先の年収というふうにも解釈できる。
「ヘエ〜〜」と思っただけで、そのあとの言葉がつづかない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 B
W はやし浩司 官民人材センター 天下り規制 官民人材交流センター)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

To; Mr. Steven Bosworth,

Do you repeat the same failures as Mr. C. Hill did in the past?
North Korea has no idea to make a "Big Deal" with you.
Why can't you understand this simplest political sense in Asia, or so-called spiritualism we 
have.
Their nuclear bombs are not for the "Big Deal", but they are the symbols of Power as well 
as Dignity of Kim-Jong-Il, the tyrant of North Korea.
If he loses them he is nothing but just a tiny man, about which he is afraid of the most.  
Please wake up and see the Asia as it is.
We are afraid that your western-style logical sense does not work here in Asia as you 
expect.

+++++++++++++++++++++++++++

●S・ボズワースよ、目を覚ませ!

S・ボズワースよ、あなたはC・ヒルが犯したのと同じ失敗を繰り返そうとしている。
彼らは、アメリカと、「ビッグ・ディール(大きな取り引き)」をするために、核兵器の開発をしてい
るのではない。
あなたはアジア人のもつ、精神主義というものが、まったくわかっていない。
核兵器は、独裁者、金xxの権威の象徴であると同時に、力の象徴でもある。
核兵器そのものが、精神的な「本尊」になっている。
もし金xxが核兵器を失ったら、彼はただの人。
金xxは、そうなることを、もっとも恐れている。

北朝鮮のねらいは、あるとすれば、ズバリ、Japan Money。
アメリカと相互友好条約を結んだあと、この日本をゆっくりと料理する。
そのための核兵器。
彼らのねらいは、アメリカや韓国が提供するような、ハシタ金ではない。
総額100兆円(中国を通して打診)とも言われる、日本からの戦後賠償金。

そんなこともわからないで、何が、米朝交渉か?
6か国協議か?

アジア人にはアジア人独特の、精神主義というものがある。
その精神主義を無視して、いくら交渉を重ねても、イン・ベイン(in vain)。
つまり無駄に終わる。

++++++++++++++++++

●K国の目的

 ロイターは、つぎのように伝える。

『米国のボズワース北朝鮮担当特別代表は、北朝鮮に6カ国協議復帰を促すため北朝鮮に出
発した。米高官によると、ボズワース氏は、北朝鮮の6カ国協議復帰の意向を確認する方針。

……米高官によると、今回の訪朝では米国からの新たな提案はない見通し。ただ、6カ国協議
に復帰すれば、2005年に合意した枠組みに基づく、経済援助が受けられることになり、北朝
鮮にとっては大きなメリットがある』と。
 経済援助をちらつかせながら、米朝交渉に臨もうとするアメリカ。
「K国は、経済的に困っているはずだから、交渉に応じてくるはず」と、S・ボズワースは考えて
いる。
しかしこの視点そのものが、完全に的外れ。
仮に交渉に応じてくるような姿勢を見せたとしても、(1)アメリカの意図を裏から読んでいるか
らにほかならない。
もうひとつねらいは、(2)とりあえずの援助を取りつけ、時間稼ぎをすること。
「あいつら、俺たちが援助をほしがっていると思っているぞ。
だったら、それを臭わせながら、協議をこっちのペースに引き込め」と。

●アメリカの意図

 アメリカの意図については、韓国の中央N報が、詳しく書いている。
北朝鮮外交界に人脈が広いトニー・南宮(ナムグン)博士(リチャードソン米ニューメキシコ州知
事顧問)は、「ボズワース特別代表の訪朝が朝米関係の行方を決める分水界になるという見
方を示した」あと、つぎのように述べている。

  「北朝鮮に核をあきらめる意向があるとみられるか」という質問に対して、「疑いの余地がな
い。北朝鮮が核開発を進めた目的は米国に渡すためだ。その代わり、朝米国交正常化と平和
協定、大規模な経済支援と交換するのだ。60年代初めの開発段階では米国に対抗するため
だったが、90年代にはその目的が『米国とのビッグディールのため』に変わった」と。

 どうしてこんなオメデタイ人が、博士であり、(北朝鮮外交界に人脈が広いトニー・南宮(ナム
グン)博士(リチャードソン米ニューメキシコ州知事顧問))なのだろうか。

●精神主義

 もし(ビッグ・ディール)のためなら、もうとっくの昔に、K国は、それをしているはず。
もしここで金xxが、核兵器、あるいは核兵器開発を断念すれば、金xxは、「本尊」を失うことに
なる。

 本尊である。
武士道における、「刀」でもよい。

 その本尊がどういうものであるかは、仏教で少しは信仰をしたことがある人なら、わかるは
ず。
それをアジアでは、「精神主義」という。
理屈ではない。
理屈では、理解できない。

 が、アメリカ人は、自分たちのアメリカ流合理主義だけで、ものごとを考えようとする。
そしてそれを、私たちアジア人に、押しつけてくる。
その政治姿勢そのものが、アジア人のそれとズレている。

●アメリカ流合理主義

 たとえばこの日本でも、合理的に生きるのが、たいへんむずかしい。
とくに宗教がらみの問題については、そうである。
合理的に考えることすら、許されない。
つまりそれだけ民族性というか、土着性が、色濃く残っている。

 ある宗教団体では、壁にかけられた本尊に、息がかかってはだめという理由だけで、口に何
かの葉をかみながら、本尊に手をかける。
もちろん素手ではだめ。
みな、白い手袋をはめて、それをする。

 「刀」についても、そうだ。
江戸時代には、相手の刀をまたいだだけで、その場で切り捨てられた。
あるいは歩いていて、鞘(さや)どうしが触れただけで、切り合いになった。

 K国で合理が通ずるなら、あんな国は、とっくの昔に崩壊している。

●自然崩壊こそ、ベスト

 K国は、自然崩壊させる。
……と書くと、過激な意見に聞こえるかもしれない。
が、「制裁」イコール、「自然崩壊」と考えれば、何でもない。
あの国は、自然崩壊させるしかない。
とくに国際政治は、きれいごとだけでは動かない。

 拉致問題にしても、金xx体制がつづくかぎり、解決しない。
金xx自身が拉致の指揮者だったことを考えるなら、当然のことである。
この問題だけは、よい子ぶっていたら、何も解決しない。

 だからこそ今、K国を自然崩壊にもちこむ。
本来なら武力を使ってでも……ということになるが、あんな国をまともに相手にしてはいけな
い。
その価値もない。

 今こそ、国連で決められた制裁措置に従って、粛々と、かつ厳格に、制裁のヒモを強く引き締
める。
時折りしも、今、K国は、デノミ騒動で、大混乱!
暴動を取り締まるため、軍隊まで出動しているという。
K国はまさに、大ピンチ!

 だから、S・ボスワースには、こう言いたい。
「けっして援助の手を差し伸べるな!」と。
C・ヒルの犯した愚策だけは、繰り返してはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司

【時間】

●動物的な勘(かん)

 今朝は、午前5時に起きた。
昨夜、床に就く前から、「明日は、5時に起きる」と心に決めていた。
どうしてもやりたいことが、あった。

 私のばあい、目覚まし時計は、不要。
その時刻になると、目が覚める。
うつ病の人も、そういうことが、できるという。
半眠半覚の状態だから、そういうことができるらしい。

が、私のばあいは、私の特殊能力。
(自分で、そう思っているだけだが……。)
眠っても、脳みその中の時計は、しっかりと働いている。
ほかに、方向感覚。
はじめて行ったような場所でも、道に迷うことは、めったにない。
つまりそれだけ、動物的な勘が優れているということ。
(自分で、そう思っているだけだが……。)

 そんなわけで、旅先でホテルや旅館に泊まっても、モーニングコールに
起こされたことは、一度もない。
モーニングコールが鳴る前に、目を覚まして、それを待つ。
方向感覚にしても、反対に、方向音痴の人が、私には理解できない。
私のワイフもその1人だが、今では私にすっかり頼りきっている。

●48枚、55分

 話がそれたが、起きるとすぐ、ウォーキングマシーンの上で、運動。
10分もすると、ジワーッと汗が出てくる。
今朝のように寒い朝は、この運動が、いちばん。
健康にもよい。
で、それが終わって、書斎へ入ったのが、5時20分ごろ。
正確には、5時23分。

 予定では、9時ごろまでに、若いころ指導・制作した教材を
UPLOADするつもりでいた。
全部で、48枚x4=192枚。

(1)一度、スキャナーで1枚ずつ、パソコンに取り込む。
(2)48枚ずつまとめて、FrikrにUPLOADする。
(3)それから今度は、1枚ずつHTMLを拾い出し、HPに張りつける。

 で、最初の48枚分の作業が終わるのに、ちょうど50分かかった。
スキャナーの性能があまりよくない。
加えて「My Picture」のそのFOLDERには、すでに2000枚近い
写真や本のページが、取り込んである。
多ければ多いほど、読み込みに時間がかかる。

 それで55分!

●5時間半

 昨夜、くだらないDVDを見てしまった。
途中で何度もやめようとしたが、ズルズルと見てしまった。
そのあと、「時間を無駄にした」と、後悔した。
3時間もあれば、若いころ、指導・制作した教材をUPLOADできる。
そう考えた。
だらしなく過ごすのも、3時間。
意味のあることをして過ごすのも、3時間。
 
 それでそのとき、「明日は、5時に起きる」と心に誓った。

 で、48枚x3=144枚までは、順調に作業が終わった。
が、残りの48枚というところで、ドジ!
同じ教材を、ダブッて、スキャンしてしまった。
そしてそれをそのまま、FrickrにUploadしてしまった。
枚数を数えながら作業をしなかった、私が悪かった。

 こうなると、HPに載せるとき、1枚ずつ、ほかのとダブっていないかを
確かめなければならない。
ダブっているのを、1枚ずつ削除する。
それはまるで何かのゲームをしているかのような感覚だった。
「まちがいさがし」でもしているような気分だった。
96枚の絵の中から、ダブッた48枚をさがして、削除しなければならない。

……というような愚かな作業を繰り返して、結局、すべての作業が終わったのが、
午前11時。
かかった時間は、5時間半!
(途中で、30〜40分ほど、朝食をはさんだが……。)
 やり終えたとき、甘い陶酔感をともなった、心地よい満足感を覚えた。

 で、その作業の途中、私は何度も、こう考えた。
「時間が、ほしい」と。
というのも、私は、こうした繰り返しがつづく、単純作業が苦手。
探しものも、苦手。
ついでに言うと、魚釣りも苦手。
水の中に潜っていって、モリで突くのは好きだが、魚釣りは苦手。
性に合わない。

●どう生きるか
 
 同じ時間でも、使い方によっては、長くもなる。
短くもなる。
言い換えると、時間の使い方によって、人生は長くもなるし、短くもなる。
昨夜の私のように、「くだらない」と思いつつ、くだらないDVDを見つづけるのも
人生。
このばあいは、時間を無駄にしたことになる。

が、同じ時間を有効に使えば、人生の密度を、ぐんと濃くすることもできる。
そうでなければ、そうでない。
今朝の私は、有効に使ったとは言いがたいが、それでも満足感を覚えることができた。
昨夜の後悔を、(敵)ととらえるなら、その仇討ちをしたような気分。

 で、改めて私はこう思う。
「生きるというのは、時間の使い方の問題」と。 
長い、短いというのは、結果論。
大切なのは、中身。
どう生きるか、それが大切、と。

 あえて批判したくはないが、先の作業をつづけているとき、ふと、こうも思った。
「今ごろ、パチンコ屋でパチンコをしている人もいるだろう。
自分では楽しんでいるつもりなのかもしれないが、その一方で、時間をドブへ捨てて
いるようなもの」と。

 こう書くのは、たいへん失礼なことというのは、重々、承知している。
パチンコすることによって、気分転換を図っている人も多い。
夕食後、一家団欒で、テレビのバラエティ番組を見ている人もそうだ。
しかし(時間)というのは、金の砂時計のようなもの。
若いときは、私もそれほど強く意識しなかったが、しかしこの年齢になると、それが
よくわかる。
金の砂時計。
お金にたとえるのも、どうかと思うが、1グラム3400円(09年12月)の、金の
砂時計。
(時間)には、それ以上の価値がある。
その価値に気づいたら、時間の過ごし方、人生のとらえ方も、少しは変わってくるはず。

 ともかくも、与えられた……というより、残された時間は、あまりにも短い。
明日、死の宣告がなされても、うろたえないように、今日までの分を、完全に燃焼させて
おく。

 ……とは言っても、それができたと思ったことは、一度もない。
毎朝、「今日こそは!」と思って、その日を始める。
しかし寝るときになると、「やっぱりだめだった」となる。
が、今朝は、少し違った。
完全燃焼とまではいかなかったが、軽い達成感を覚えた。
そのせいか、午後は、ずっと気分がよかった。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司

●12月9日(映画『イングロリアス・バスターズ』)(Inglourious Basterds)

 昨夜は仕事が終わってから、ワイフと、ブラッド・ピット主演の『イングロリアス・バスターズ』と
いう映画を観てきた。
意味のない、ただの殺戮(さつりく)映画。
このところブラッド・ピット主演の映画には、がっかりさせられることが多い。
星は、2つか3つの、★★。

 スポーツ感覚で人を殺すのも、どうかと思う。
やり方も残忍。
殺した相手の、頭の皮をはぐというのも、どうかと思う。
つまりその程度の映画。
殺す側の主人公のほうよりも、殺される側のドイツ兵のほうに、同情してしまった。
つまり映画としては、駄作。
観終わったあとの気分も悪かった。

 で、今朝は、映画館で食べたポップコーンや、スルメが、まだ胃の中に残っていて、どうも気
分がよくない。
軽い頭痛もある。
やはり深夜劇場というのは、体にあまりよくない。

 ……と、まあ、この程度の批評なら、だれにでもできる。
そこでもう一歩、話を進めてみる。

●パラドックス

 最後のところで、映画館ごと、ヒットラー以下、ナチスの幹部たちを、まとめて焼き殺すという
シーンが出てくる。
その劇場でヒットラーが観ていた映画は、戦争映画。
ひとりの勇敢なドイツ兵が、つぎつぎとアメリカ兵を撃ち殺すという映画。
わかるかな、このパラドックス?
戦争映画を笑って観ている人を、笑いながら殺す。
そういう戦争映画を、私たちは笑いながら観ている。

 つまりアメリカ兵をつぎつぎと撃ち殺す映画を、笑いながら観ているヒットラー以下、ナチスの
幹部たち。
が、その映画館は放火され、爆破される。
ドアにはすべて施錠してある。
逃げ場はない。
まさに大量虐殺。
それを笑いながら観ている、私たち観客。

 つまりヒットラーと私たち観客は、どこもちがわない!
まったく相対立する立場にいるようには見えるが、中身は同じ。
考えてみれば、もともと戦争というのは、そういうもの。
アフガン戦争を例にあげるまでもない。

●正義

 アルカイダはアルカイダの論理で、自分たちの正義のために戦っている。
アメリカはアメリカの論理で、自分たちの正義のために戦っている。
もともと「正義」というのは、そういうもの。
立場が変われば、正義は不正義になり、不正義は正義になる。
自分たちの都合で、いかようにも変化する。

ついでに言えば、正義と不正義がごちゃ混ぜになったとき、戦争は、泥沼化する。
(あるいはその逆でも、よいが……。
泥沼化すればするほど、正義と不正義は、ごちゃ混ぜになる。)

つまり戦争には、加害者も被害者もない。
戦争にかかわりあった人すべてが、加害者であり、同時に、被害者。
「戦争」がもつ愚劣さは、この一点に集約される。

 で、ナチスにはげしい敵意を抱くユダヤの人たちには、おもしろい映画かもしれない。
笑って観る人も多いかと思う。
しかし私たち日本人にも、その(おもしろさ)をわかれと迫られても、それは困る。
ドイツ人に対して、あそこまでの敵意はない。
映画を観ていて気分が悪くなったのは、そのため。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 正義 不正義 戦争論)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

【ボケ防止論】

●映画

 その映画(『イングロリアス・バスターズ』)を観ながら、こんなことを考えた。

 「今、観ている映画にしても、いつまで記憶に残るだろうか」と。

現在、月に4〜5本は、劇場で映画を観ている。
「ボケ防止にはよいのではないか」と、勝手にそう考え、そうしている。
(実際にボケ防止としての効果があるかどうかということについては、わからない。)

 先週は、『カールじいさんと空飛ぶ家』というのを観た。
が、その前に観た映画については、題名どころか、内容すら思い出せない。

 「……何だったかなア……?」と。

 ……今、やっと思い出したが、その前に観た映画は、『2012』だった。
つまりこうして記憶というのは、つぎつぎと頭の中に入ると同時に、同じくつぎつぎと頭の中から
消えていく。
が、映画だから、まだよい。
毎回、ストーリーが、大きく違う。
あとになって、「2012はどんな映画だった?」と聞かれたら、ある程度は、その内容について
の話をすることができる。

 が、これがたとえば野球中継のようなテレビ番組だったら、どうだろうか。
サッカーの試合でもよい。

●脳みその穴

 「変化」といっても、ある一定の枠(わく)の中に、閉じ込められてしまう。
とくに印象に残っている試合は別として、日々の食事のように、記憶にさえ残らない。
観て楽しんで、それでおしまい。
覚えて忘れて、それでおしまい。
それを繰り返す。

ボケがひどくなると、食べたことすら、忘れてしまうという。
同じように、野球中継を観たことすら、忘れてしまう?

 若いころは小さな穴かもしれない。
しかし加齢とともに、その穴は、どんどんと大きくなっていく。
「穴」というのは、脳みその底の穴をいう。
その穴から、知識や知恵、経験や手続きが、どんどんと下へこぼれ落ちていく。

 毎週のように劇場へ足を運んで映画を観ていると、そのことが、実感としてよくわかる。
先にあげた『2012』にしても、かなり印象に強く残った映画である。
そんな映画でも、つぎに『カールじいさんと空飛ぶ家』を観、そのあと『イングロリアス・バスター
ズ』を観るころには、忘れてしまう。

 考えてみれば、これは恐ろしいことである。
というのも、忘れたということに気づかないまま、忘れていく。
気がついたときには、ボケは、再起不能の状態のところまで進んでいる!

 だからというわけでもないが、「ボケ防止」といっても、映画程度では、ボケ防止にならないの
ではないか。
どこかの音楽会へ行くとか、演劇を観賞するとか。
美術館へ足を運ぶのもよい。
もちろん旅行でもよい。
つまり努力して、その(変化)の枠を大きくしないかぎり、何をしても、ボケ防止としての効果は
ない(?)。

 繰り返しになったとたん、枠の中に閉じ込められてしまう(?)。

 いわんや、毎週野球中継を観る程度の変化では、効果はない(?)。
昨年、他界した私の実兄ですら、死ぬ1、2年前、こう言っていた。
「野球なんて、どれも同じ」と。
実兄は、うつ(鬱)から認知症に似た症状を、そのとき発症していた。

●みな、同じ

 要するに私たちの脳みそは、日々に、どんどんとボケているということ。
しかもタチの悪いことに、それに気づかないまま、ボケているということ。
「私はまとも」と思っている間にも、どんどんとボケていく。
脳のCPU(中央演算装置)からボケていくから、理屈の上では、それに気づくことはない。

 その点、肉体のばあいは、自分の顔や体を鏡に映すことによって、老化の度合いを知ること
ができる。
たるんだ胸や腹、それに尻。
それを見ながら、「ああ、私も年を取ったなア」と。

 しかし脳みそのばあいは、それがわからない。
聞くところによると、あの特別養護老人ホームにいる老人たちにしても、自分で自分のボケを
自覚している人は、まずいないという。
みんな自分では、「私は若いころと同じように、利口」と思っているらしい。

 このことは、子ども(幼児)についても言える。

 先日も、「3+4」の問題を、私が計算機を使って計算してみせたら、(もちろん演技で、そうし
たのだが)、真顔で私にこう言った子ども(年長・女児)がいた。

「先生、そんな問題もできないの!」と。

 特別養護老人ホームの老人たちを、笑ってはいけない。
子どもたちを、笑ってはいけない。
私たちと彼らは、どこも違わない。
まったく、同じ。

●では、どうするか?

 ボケについては、まず、自分を知る。
すべては、そこから始まる。
幸いにも私のばあいは、中学生や高校生にものを教えるという立場で、ある程度、自分を知る
ことができる。

 昨日は、高校生にベクトルを教えた。
ある高校生が、いきなりこんな問題をもってきた。

「a(→)=(1、2)、b(→)=(1、−1)、c(→)=(5、4)のとき、sa(→)+tb(→)=c(→)となった。
sとtの値を求めろ」と。

 きわめて初歩的な問題だが、実のところ、高校生にベクトルを教えるのは、10年〜ぶり。
英語なら、予習なしでも、高校3年生まで教えられる。
が、数学は、そこまで得意ではない。

で、こういうとき私は、まず、「こんな簡単な問題は、私にできないはずはない!」と言い聞かせ
ながら、教え始める。
とたんカーッと、頭に血が上っていくのがわかる。
つまりそれが大切。
言うなれば、サビついた脳細胞を、そのつど血で洗う。

 が、もしこの段階で、「私にはできない」と逃げてしまったら、どうか?
頭は冷えたまま。
頭に血が上ることはない。
そのままベクトルを忘れてしまう。
が、これではいけない。

つまりそうした場を、日常的に、身のまわりに作りあげていく。
「頭に血が、カーッと登るような場」を、である。
それがボケ防止ということになる。

 けっして、同じことを繰り返すようになってはいけない。
それには映画も、野球中継もない。
繰り返すようになったとたん、ボケ防止としての意味を失う。

 常に新しいことに挑戦し、脳細胞に刺激を与えていく。
枠を広げる。
それが結局は、ボケ防止になる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 ボケ ボケ防止 ボケ防止論)

 
Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

【雑談】

●WINDOW7

 居間のコタツの上には、2台のパソコンが置いてある。
16インチのノートパソコンと、10インチのミニパソコン。
ともにTOSHIBA製。
その16インチのノートパソコンを、今、ビスタから、WINDOW7に、アップグレイドしている。
その間に、10インチのミニパソコンを使って、この文章を書いている。
すでに1時間ほど、たった。
けっこう、時間がかかる……。

 現在は、「Window ファイルのコピー中」と表示され、(43%)終了という数字が見える。
もっと簡単にできると思っていた。
が、雑誌などを読むと、全体で、3〜4時間もかかるそうだ。
(これはビスタをアップグレイドしたばあい。
新規にインストールしたばあいは、もっと速くできるとのこと。
そのばあいは、ビスタに残っていたデータが、すべて削除されてしまうとのこと。)

 今、やっと(69%)になった。

 アップグレード・キットは、1か月ほど前に手に入れた。
が、そのままにしておいた。
どうも自信がもてなかった。
それでこの1か月の間、何冊か雑誌を買ってきて、先にそれを読んだ。
勉強した。
前知識もなく、あわてて作業をすると、たいてい失敗する。
で、どうして今日になったか?
どうして今日、アップグレイドする気になったか?

 ハハハ。

 高性能のデスクトップパソコンが、12月22日に届く。
(i7)の64ビットマシンと言えば、わかる人にはわかる。
メモリーは、8GB。
今日は、その前哨戦。
まずこのノートパソコンで、使い勝手を試してみる。

 ……今、「ファイルのコピー」が終わり、今は、「プログラムの収集中」となった。
このあと、まだ「Windows ファイルの展開」「更新プリグラムのインストール」「プログラムの転
送」とつづく。

 私は、ただ画面を見ているだけ。
が、それが結構、楽しい。

●パソコンのない世界

 今では、逆に(パソコンのない世界)が想像できない。
パソコンがなかったら、私という個人だけをみても、仕事が止まってしまう。
それに今では、2〜3万円を超える買い物は、たいていネットを使って、している。
息子たちのやり取りも、パソコン。
株や債権の売買も、パソコン。
それだけではない。
(ものを書く)という仕事も、パソコンでしている。
お金儲けが目的ではないから、「仕事」と書くのも、へんだが……。

 だから同年齢の人で、「私はパソコンをしていません」などと言う人に出会ったりすると、「ハア
……?」と思ってしまう。
「この人は、どうやって生活しているのだろう」と、思うこともある。

 つまりこうして、(パソコンをしている人)と、(パソコンをしていない人)の間に格差が生まれ
る。
「情報格差」という格差である。
が、そういう人にかぎって、こう言う。
「あんなもの(=パソコン)なくても、一向に困りませんよ」と。

●庭の雛

 そのパソコンのすばらしさをあげたら、キリがない。
が、何がすばらしいかといって、世界中の最先端の情報を、地方の、しかも家庭の中で手に入
れることができるようになったこと。
それにまさるすばらしさは、ない。
画面の向こうは、巨大な図書館。
若いころはと言えば、何かの情報を手に入れるためには、図書館へ行かねばならなかった。
静岡市にある県立図書館へ通ったこともある。

 このことは、逆に、私が書く情報については、即、そのまま世界に向けて発信できることを意
味する。
つまり情報に、(地方性)がなくなった。
私について言えば、(地方コンプレックス)がなくなった。
東京の第一線級の評論家が手に入れるものと同じ情報を、私も手に入れることができる。
(個人的なコネを経て得る情報は別だが……。)

 ……たった今、山鳩の雛を、庭の端に埋めてきた。
先ほどから何かあると思っていたが、よく見たら、山鳩の雛の死骸だった。
おとなの握りこぶしほどの大きさに成長していた。
たぶん栗の木から落ちてきたのだろう。
くちばしのところから、うっすらと赤い血が流れていた。
元気で育てば、大空を飛ぶことができたのに……。

 WINDOW7のアップグレイドは、まだつづいている。

●時間がもったいない

 現在は、「ファイルの展開中」(21%)。
その(21%)で、動きが止まったような状態になっている。
その右に、小さなドットが現れては消えたりしている。
動いていることは動いている。
こういうときは、ただひたすら、じっと待つ。

……静かな朝だ。
庭の木の葉も、動きを止めている。

見ると犬のハナは、先ほどまで山鳩の雛が死んでいたあたりを、懸命に鼻でかいでいる。
ものわかりのよい犬で、「鳩は友だちだ」と数回教えたら、それからは、鳩には近づかなくなっ
た。
鳩が庭で餌を食べていたりすると、わざわざ遠回りをして、鳩を避ける。

 まだ(21%)……。

 こんなことをしていたら、時間がもったいない。
ここで書くのを一休止して、午後からの仕事の準備に取りかかる。
時刻は、午前10時20分。
薄曇りの、のどかな朝。

●WINDOWメール

 昼少し前、ワイフが、テニスクラブから帰ってきた。
その少し前、私は、庭の枯れ木を集め、それを燃やした。
「まだしているの?」とワイフが聞いた。
「まだ……。あと少しかな」と、私。

 パソコンは、最後の仕上げをしているといった感じだった。
「WINDOW7にすると、速くなるの?」
「速くはならないが、軽快になるそうだ」
「フ〜ン」と。

 ワイフはそのままキッチンに向かった。
向かったまま、「何を食べる?」と聞いた。
「何でもいい」と答えた。

 説明書が写真入りで、ていねいだったこともある。
アップロードは、無事済んだ。
あとは「WINDOWメール」を、ダウンロードすればよい。
WINDOW7には、Outlook Express(メールソフト)が、入っていない。
そのかわり、WINDOWメールというのを、自分でダウンロードして使うようになる。
その作業が少し、めんどう。

「どうして最初から、入ってないのかしら?」
「そうだな……。いろいろなメールソフトが出回っているからかな」
「でも、パソコンに触れるのがはじめてという人には、そんな作業は無理よね」
「そうだな……」と。
 
●アップグレイド、完了!

 こうして今日、ビスタからWINDOW7へのアップグレイドは、無事終了した。
かかった時間は、WINDOWメールの設定も含めて、ちょうど3時間。
パソコンを立ち上げると、琴の音で、コココ〜ン、と。
それが私には、「ごくろうさん」と言っているように聞こえた。

 「これならWINDOW7とも、親しくなれそう」と感じた。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司
 
【今、K国では……】

●餓死者

 K国では餓死者が出始めているという。
餓死者だぞ!
が、それはまさに氷山の一角。
その直前で、がんばっている人も多い。
その数10倍の人、あるいはそれ以上が、餓死寸前の状態にあるとみてよい。
あのピョンヤンの小学校でも、1クラス40人のうち、10人前後が、「欠食」で学校を休んでいる
という(韓国紙)。

「欠食」?

「欠食」という言葉は、はじめて知った。
つまり食事をとっていないから、登校できないということらしい。

●そこは地獄

 世界でも1、2を争う最貧国。
それがK国。
で、そういう国がどういう状況になっているかは、同じく1、2を争っているアフリカの国々を見れ
ばわかる。
表向きはどうであれ、その内部では、私たちの想像を絶するような地獄絵図が繰り広げられて
いるにちがいない。
漏れ伝わってきた情報によると、「旧紙幣で払う」「受け取らない」で、殴り合いの喧嘩になり、
死んだ人もいるとか。
さらに「もう生活できない」と言って、自殺していく人も多いという報道もある。
少し前に読んだ記事には、人肉まで、売買されているというのもあった。

 人肉だぞ!

 暴力、略奪、窃盗、強盗、殺人……。
「悪」として思いつくことすべてが、あの国の闇の部分で繰り広げられている。

●後遺症

 しかし本当にこわいのは、人心の荒廃。
一度壊れた心は、元には戻らない。
幼児期、少年少女期の子どもほどそうで、後遺症は世代連鎖を経て、そのあと何世代にも渡
ってつづく。
そうした禍根を作りつつある現政権、つまり金xxの罪は重い。

 が、これはK国だけの問題ではない。
金xx政権はやがて崩壊するとしても、私たち日本人は、そのあと何10年も、そういう人たち
と、付きあっていかねばならない。
現在の日本と韓国、あるいは日本と中国の関係を見れば、おおかたの予想はできる。
教育によって徹底的に植え込まれた反日意識、反日感情というのは、それこそこの先、何10
年もつづく。

●戦後補償

 で、この時点で、改めて念を押しておきたいことがある。

 日本は戦後、中国、韓国をはじめとして、東南アジアの国々に、莫大な戦後補償を払ってき
た。
とくに韓国には、日本の屋台骨を何本も抜くほどの補償をしてきた。
しかしお金では、心は買えない。
買えないばかりか、札束で相手の頬を払うようなことをすれば、さらに深い反感を買ってしま
う。
戦後補償をするとしても、一般民衆にわかる形で、かつ一般民衆に感謝される形でしなければ
ならない。

 さらに一度、(保護)(依存)の関係ができてしまうと、依存する側は、「助けてもらって当然」と
いうような考え方をするようになる。
そうなると、いくら援助しても、それこそ乾いた砂漠に、水をまくようなことになってしまう。

 私が韓国にいたときも、日本は、日本のお金でどこかにダムを建設した(1967)。
そのときもダムの前に、「このダムは日本の援助で建設されました」というようなプレートを立て
る約束だった。
にもかかわらず、韓国政府は、それ立てなかった。
たまたまその式典から帰ってきた日本政府の高官が、その話をしながら、かなり怒っていた。

 この先、そういう話は、山のようにつづく。
今から覚悟して、対処する。

●人間性

 『衣食足りて、礼節を知る』※という。
それは事実だが、一時的なものであってはいけない。
また一時的なもので、礼節は身につかない。
現在私たちが人間性、文化性と呼んでいるものはそうで、それを培(つちか)うには、何世代に
も渡る(努力)と(時間)が必要である。

 一度壊れた心を元に戻すには、さらに長い(努力)と(時間)が必要となる。
そのことは、戦後生まれの私たちの世代なら、みな、知っている。
私たちはあのドサクサの中で、まさにその人心の荒廃を、身をもって体験している。
ただ幸いなことに、その期間が短かった。
5年とか10年。
その間に日本は経済を立て直し、今に見る繁栄を築きあげた。

 もしあんな状態が、半世紀もつづいていたら……。
日本も恐らく、現在のK国のようになっていたにちがいない。

(注※)原文……『倉廩(そうりん)実ちて 則(すなわ)ち礼節を知り、衣食足りて則ち 栄辱(えい
じょく)を知る』(管仲著「管子」)。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●「子どもは必要ない」(追記)

++++++++++++++++++++

先日、「子どもは必要ない」と考えている若い人たちへの
意見を書いた。
今では、50〜60%の若い人たちが、20〜30代の
人たちを中心に、「子どもは必要ない」と考えているという(内閣府)。

いろいろな意味に解釈できる。
「結婚しても、子どもは必要ない」と考えている。
「結婚そのものも、しない」と考えている。

後者の中には、「結婚しなくても、子どもだけほしい」という人も含まれる。
そうして生まれた子どもを「婚外子」というのに対して、「嫡出子」という。

ともかくも、私は、「子どもは必要ない」と考えるのは、おかしいと自分のBLOGに
書いた。
が、それに対して、いろいろな書き込みがあった。

「生き方の問題ではなく、現実に、結婚したい相手が見つからない」
「地球温暖化など、子どもの将来に不安を感ずるから」
「出産と同時に、70%の女性が職場を余儀なく、離れさせられている」など。
つまり私が考えているほど、単純な問題ではない、と。

「年収が200万円以下の男性は、結婚する率が、極端に低くなる」という
説もある。

+++++++++++++++++++++

●山鳩の世界

 今年の春から、一羽の山鳩が、私の家の庭に住みついた。
たぶん雄だと思う。
ときどきやってくる別の山鳩に、ちょっかいを出すのだが、相手にされなかった。
理由はわからない。
山鳩には、山鳩なりの見方、考え方があるらしい。

で、その山鳩は、ずっとチョンガ(=独身)だった。
ときどき2羽でやってくる山鳩がいた。
その奥さんのほうに手を出そうとしたこともある。
しかしやはり相手にされなかった。
(山鳩というのは、想像以上に夫婦の絆が強い。)

その山鳩は、12月に入った今も、チョンガ。
そういう世界を見ていると、山鳩の世界も、人間の世界と同じだなあと思う。
あるいは、その反対でもよい。

●現実論

 つまり結婚したくても、相手がいなければ、どうしようもない。
子どもを作るとなると、なおさらである。
そういう相手が見つからない人たちが、「子どもは必要ない」と考えるようになったところで、何
もおかしくない。

 生き方の多様性の問題というよりは、「現実論」の問題ということになる。
つまり現実を冷静にみていくと、必然的結果として、(結婚できない)。
そのため(子どもをつくることができない)。
それを合理化するために、「子どもは必要ない」と考える。

 またこうした傾向は、何も日本だけにあるわけではない。
世界的にみても、(1)晩婚化、(2)女性の社会への進出、(3)婚外子の増加は進んでいる。

 そこでここでは話を一歩進めてみる。
というのも、この問題は、多くの人たちがすでに論じているし、雑誌などでもたびたび取り上げ
られている。
何を書いても、私のばあい、二番煎じになってしまう。

●「孫は必要ない」

 「子どもは必要ない」の先にあるのが、「孫は必要ない」である。
これについてなら、私にも書ける。
二番煎じでもない。

 で、祖父母の立場で言うなら、ほとんどの人は、「子育ては一度で、こりごり」と考えている。
祖父母の世界には、『来て、うれし。帰って、うれし』という格言すら、ある。
「孫が来てくれると、うれしいが、そこまで。
帰ってくれると、ほっとして、それもうれしい」と。

中には、孫を目の中に入れても痛くないという人もいるが、これは当初から同居しているばあ
い。
しかしそうでなければ、そうでない。
つまりこれが祖父母の本音ではないか。

 子育てというのはぞれ自体、重労働である。
で、やっとその重労働から解放されたと思ったら、そこに孫がいる。
若い人たちは、「ジーチャン、バーチャンは、孫をかわいいはず」と思い込んでいる。
私もそうだった。
しかし孫といえども、人間関係。
ある日いきなり孫を押しつけられ、「かわいいだろ」と言われても困る。
私のばあいが、そうだった。

 私が自分の孫を「かわいい」と感じたのは、孫に会ってから、1週間目のことだった。
それまでは、「どうしてこんな孫がかわいいのか?」と、何度も自問した。

●「孫は必要かどうか」

 そこでこんなふうに考えてみる。
「孫は必要かどうか」と。

 私のばあい、たぶん不幸なことに、最初の2人の孫は、現在、アメリカに住んでいる。
会えるといっても、1〜2年に1回。
息子のBLOGには、こうあった。
「高い旅費を払ってまで、日本へ帰る必要はあるのか?」と。
それを読んだとき、正直言って、私はがく然とした。
それを読んで以来、私は「日本へおいで」とは、言えなくなってしまった。

 もちろん孫たちに会いたいという気持ちは、強い。
しかしその気持ちを支えるの、これまたたいへん。
いろいろ努力はしているが、『去るもの、日々に疎(うと)し』という格言もある。
孫への気持ちが、年々、薄らいでいくのが、自分でもよくわかる。
恐らくあと数年もすれば、上の孫にしても、親離れを始めるだろう。
そうなれば、当然、私の姿も、孫の中から消える。

●私のばあい

 そのかわり……というと語弊があるかもしれない。
しかし私のばあい、そのかわり、生徒たちがいる。
年齢的には、4歳前後から高校生まで。
最近は、そうした子どもで、孫への思いを代償的に消化している。
たまらないほどの、「いとおしさ」を感ずることもある。

 これは若いころ経験しなかった感情である。
だからもし、私が今の仕事から、身を引いてしまったら、仕事から去るという(さみしさ)のほか
に、それこそ身を引きちぎられるような(さみしさ)も覚えるにちがいない。

 一方、孫たちのほうは、どうか。

 少し前だが、こんな調査をしてみたことがある。

 私の教室に通っている、幼児、小学生の子どもたちに、こう聞いてみた。
「おじいちゃん、おばあちゃんが死んで、悲しく思った人はいるか?」と。
すると、ほぼ全員、こう答えた。
「何ともなかった」と。
1人だけ、「悲しかった」と答えた子どもがいたが、彼は(おじいちゃん子)で、しかも小学6年生
だった。

 子どもたちは、老人の私たちを、「死にゆく者」と考えている。
「死んで当然」とまではいかないにしても、それに近い。
そういうふうに考えている。

●問題は別のところに

 こう考えていくと、「子どもは必要ない」と考える若い人たちを、一概に、まちがっているとも言
えなくなる。
つまりその結果、子育てのもつすばらしさがわからなくても、また最終的に人類が滅亡すること
になっても、それはそれ。
しかたのないこと。
それについて、とやかく言う方が、おかしい(?)。
それぞれの人は、それぞれの考えに基づいて、人生を選択している。
言うなれば、あとは多数決の問題ということになる。

 ただ、これだけはまちがえないでほしい。

 だからといって、この日本や社会がかかえる問題を、放置しておいてよいということではな
い。
この日本では、子育てが、ますますしにくくなってきている。
少子化の問題も、その(結果)でしかない。
そういった問題については、積極的に考えていかなければならない。
それはそれ。

 ……ということで、この問題は、またの機会に、もう少し頭を冷やしてから考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 少子化 婚外子 嫡出子 子どもは必要ない 内閣府)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

【統領様が、やって来た!】

●とある工場で……

 第一報が入ったのは、その3日前のことだった。
その工場長の工場に、何と、あの統領様が視察にやってくるという。
どういうわけか、そういうことになった。
軍の地方幹部からその第一報が届いたとき、工場長は気を失った。
椅子からころげ落ちた。
何しろ、この数日間、食べたものと言えば、トウモロコシの入ったお粥だけ。
それも全部で、4杯。

 工場長はそれでも気を取り直すと、工員たちに総動員をかけた。
工場長といっても、名ばかり。
「工場」というのも、これまた、名ばかり。
手で運べるような工具や工作機械は、とっくの昔に消えてなくなっていた。
残った工員にしても、ほかに何もできないから、そこにいるだけ。
つまりどうしようもない工員たち。
そういう工員が数人。
それなりに力のある工員たちは、みな、闇市での商売や行商に精を出していた。

●製品?

 工場長は、その少し前、「工場の自社製品」と偽って、ピルピル市(首都のある町)へ、ステン
レス製の鍋や食器を送っていた。
隣の中京国から仕入れたものだった。
何も出すものがなかったから、そうした。
軍の幹部から、「100日闘争の成果を見せろ」と迫られたから、そうした。
で、そのときはそれで、何とか、その場をやり過ごした。
しかし先にも書いたように、工場とは名ばかり。
残ったのは作業台と、それを取り囲むようにして残った、大型機械だけ。
もともとは、プレス加工の工場。
軍用トラックのボンネットなどを作っていた。

 が、それでも「統領様が来る」というニュースに驚いたのか、その日の午後までには、工員た
ちがほぼ全員、集まった。
サボタージュしているとわかったら、それこそ家族もろとも、公開処刑。
命がけ。

●体裁

 工場長は、それらしい体裁だけは整えようと、みなに提案した。
異議を唱えるものは、いなかった。
その日のうちに、新たにいくつかの台が並べられた。
それらしい部品もいくつか、並べられた。
つかなくなった電球は、別の工場からもってきたものと取り替えられた。
が、肝心の製品がない。

 そこで工場長はありったけの金を集めると、工員の2人に、中京国国境まで行って、かってく
るように命じた。
工場には、古いトラックが1台あった。
が、このところ仕事もなく、死んだ人を運ぶ霊柩車として使っていた。
葬式だけは、派手にやる国である。

 幸い中京国国境までは、トラックで、2時間あまり。
朝早く出発すれば、午前の検問時刻には間に合う。
その時間帯をのがすと、つぎの検問時刻は、昼からになる。
ということで、みなの期待を一身に背負いながら、運転手は、トラックを国境に向けて走らせ
た。

●水洗トイレ

 問題はトイレ。
工場には、2つのトイレがあった。
が、2つとも汚れて、使い物にならなかった。
そのあたりでは、ボットン便所が当たり前。
座式の水洗トイレは、隣町の駅の中にしかない。
しかもそのトイレというのは、政府高官用。

 工場長は何とか頼み込んで、そのトイレを1日だけ、借りることに成功した。
そして工場長の隣にある、小さな物置部屋を、トイレに改装することにした。
工員たちは汗を流しながら、その日だけは、懸命に仕事をした。

壁に板を打ち付ける者。
床に、タイルを敷く者。
壊れた窓枠を、直す者、などなど。

便器は台の支柱ごと、土の中に埋められた。
そのまわりを、大きな石で囲んだ。
最後に床の上に板を敷き、ジュータンでそれを隠した。
また道路から玄関先までは、木が植えられた。

 人手だけは、たくさんある。
困らない。
工場内は、足の踏み場もないほど、人でごったがえした。

 さらにあちこちの家を回って、家具をもってきた。
それを工場の中に並べた。
町にひとつしかない電話機も、並べられた。
が、そのとき1人の工員が、工場長にこう言った。
「水はどうしますか?」と。

 水洗トイレである以上、水が流れなければ意味がない。
が、そこで議論が始まった。
「統領様は、トイレを使わない」
「いや、使うかもしれない」
「見るだけだ」
「いや、大便だったら、どうする?」と。

●問題は水

 つぎの日の午後、隣町の駅から、便座式のトイレが届いた。
工員の妻たちが、それをていねいに手で洗った。
その一方で、男たちは穴を掘り、排水用の土管を通した。
土管を通しただけで、その先は、ボットン。
みな、穴掘りだけは、得意だった。

 が、やはり問題は、水だった。
以前、製品を洗浄するための水道管をとりつけたが、それは15センチもある大口径のもの。
しかし迷っている暇はない。
その水道管をトイレに取り付けた。
そのころ、中京国国境から、トラックが戻ってきた。

●メイド・イン・チュウキョー

 工場長は玄関先の陳列ケースに、(これは近くの中学校から持ち出したものだが)、それに
食器を10点ほど、並べた。
「Made in Chukyo」と刻印が押してあるところには、紙テープを張った。
あの中京国という国は、それこそ箸一本にも、「Made in Chukyo」と書く。
工場長は、それをうらめしく思った。

 が、予算が足りなくて、鍋は、60個あまり、食器は大小さまざまなものが、100個あまりしか
買えなかった。
「とりあえず」ということで、工場長は、それらの製品を台の上に並べた。
いくつかは茶色い紙でくるんだあと、小さな箱の中につめた。
ほかにも箱だけはたくさんあったが、もちろん中はカラ。

●再びトイレ

 再び問題は、トイレということになった。
もし統領様がトイレを使い、コックをひねったら、どうするか。
そこで工場長は、一案を思いついた。
コックの軸の先を壁の外に出す。
外でそのコックが動くのをみたら、別の工員が、水道管のコックをゆるめて水を流す。
しばらく流したあと、またコックを閉じればよい。

 そのために1人の若い男が、トイレの水係りとして選ばれた。

で、何とか夜中までには、リハーサルまでできるようになった。
徴兵前の、まだ17歳の若い工員だった。
 工場長が「大」のほうへコックをひねると、それを見て、外の若い工員が、水道管のコックを
ひねって、水を送る。
そして元に戻す。
「小」のほうへコックをひねると、やや少なめに、水を送る。
若い工員は、その手順を懸命に頭の中に、叩き込んだ。

 が、工場長は、その夜は一睡もできなかった。

●緊張感

 統領様の到着時刻は、その前日の夜にならないとわからない。
遠くの通りを見ると、兵隊たちが忙しそうに動き回っているのが見えた。
ときどき怒号と悲鳴も聞こえる、何とも訳の分からない声も聞こえた。
殺気立った兵隊たちが、住民に命令して、徹夜で道路の清掃作業をさせていた。

統領様がいるところから、半径1キロ以内にある銃器からは、すべて弾を抜かれる。
半径2キロ以内にある大口径の銃器は、銃口が反対側に向けられ、鉄線ですべて固定され
る。
町中が、その町はじまって以来の、大騒動となった。

工場長はそれを見ながら、ピルピル市に、鍋や食器を送ったことを、後悔した。
心底、後悔した。
「家族もろとも銃殺刑!」。
そんな言葉が、聞こえてきそうだった。

●やって来た!

 その日はやってきた。
到着の前日の午後に、連絡が入った。
そしてその朝。
兵隊たちが、線路脇に、ズラリと並んだ。
時刻は午前7時。
ふつうの人には、早朝だが、統領様にとっては、就寝前。
生活時間がちょうど10時間ほど、ずれていた。

で、統領様は、専用列車でやってきた。
豪華な専用列車だった。
町中が緊張感で包まれた。
住民たちは一着しかない民族服を着て、懸命に旗を振った。
その笑顔で忠誠度が調べられる。
笑顔を作るのも必死。
旗を振るのも、これまた必死。
保安員ににらまれたら最後。
そのまま収容所送り。

 統領様は駅で車に乗り換えると、そのまま工場のほうに向かってやってきた。
その様子は、通りに立っていてもよくわかった。
駅のほうから歓声があがった。
その歓声がだんだんと、工場のほうに近づいてきた。
工場長は、生きた心地がしなかった。

●世界の水準

 幸い(?)、統領様は、立っても20メートルほどしか、歩けなかった。
持病の糖尿病が悪化し、足の末端部は、紫色に腫れ上がっていた。
車から出るところから、統領様は大きな車輪付きの椅子に座った。
「車椅子」ではない。
彫刻をほどこした、金ピカの木製の椅子である。
それに4個の車輪がくっつけてあった。
それを3人の女官が動かしていた。

 統領様が立つのは、写真撮影のときだけ。
それ以外のときは、その椅子に座ったまま。
で、玄関のところで統領様はこう言った。

 「この工場の製品は、世界の水準に達している」と。

 それを聞いて、工場長は、あふれんばかりの涙を流した。
もちろん喜びの涙ではない。
恐怖の涙である。

●視察

 視察は、数分ほどで終わった。
終わったというより、終わらざるをえない状況になった。

その間、駆り出された工員たちは、統領様の前で、忙しそうに動き回って見せた。
鍋を磨きながら箱につめる工員。
その裏で、箱から鍋を取り出し、また作業台に並べる工員。
裏のほうから、食器を運んでくる工員。
その食器を再び、裏へ運んでいく工員。
食器だけが、ぐるぐると工場の中を回っていた。

 工場長は、統領様の気を引こうと、わざと大泣きをしてみせたり、反対に統領様の一言一句
に、大笑いをしてみせたりした。
が、つぎの一言で、工場長は、あやうく気を失うところだった。

「トイレを使いたい」と。

●大洪水

 外で待機していた若い工員に、即座に、合図でそれが伝えられた。
若い工員は、トイレの外で待機していた。
その国の冬は早い。
若い工員は、カチカチになった手で、水道管のコックを握った。
「大」のほうにコックが回れば、水道管を大きく開いて、パッと水を止める。
「小」のほうにコックが回れば、それよりは、小さく開いて、パッと水を止める。

 電気もガスもない国だが、水だけは、豊富にある。
豊富にあるといっても、冬場だけだが……。

 若い工員はその瞬間を待った。
1秒、2秒、3秒……、と。
それが若い工員には、気が遠くなるほど、長い時間に思えた。
「まだか……」「まだか……」と。
若い工員は、コックが回るのを待った。
じっとそこを見つめた。
まばたきもしないで、そこを見つめた。

 が、その瞬間は、意外と早く来た。
コックが、一度、大きく「大」のほうへ振れた。
若い工員は、水道管のコックを大きく開いたあと、すぐさまコックを閉めた。
壁の向こうで、ザーッと、勢いよく水が流れる音がした。
「ホーッ」と息をついだつぎの瞬間、今度は、コックが左右に、カチャカチャと動いた。
「大なのか、小なのか……?」と。
何しろその若い工員は、生まれてこの方、水洗トイレというのを使ったことがない。
見たこともない。
「大なのか、小なのか……?」と。

 若い工員はあわてた。
コックは左右にまた揺れた。
中で統領様がコックを、カチャカチャと動かしている……。
そこで若い工員は、思いっきり水道管のコックを大きく開けた。
とたん、中から、ワーッという悲鳴が聞こえた。

 そのときトイレの中では、便器から洪水のように水が溢れ出し、大便もろとも、統領様の下半
身全体をドドーッと濡らしていた。

●土下座

 みな、公開処刑を覚悟した。
その町でも、1〜2か月ごとに、墓場の横にある空き地で、公開処刑がなされていた。
相手が統領様では、弁解の余地はない。
みな、その場で土下座した。
額を地面にこすりつけた。

 が、同時に統領様は気分屋としても、よく知られている。
そのときの気分で、判断が、180度変わることも、珍しくなかった。

あいさつの仕方をまちがえて、処刑になった兵士もいる。
しかしまちがえたあと、統領様の靴に、顔をすりつけて泣いた兵士もいた。
その兵士のばあいは、そのあと反対に、昇進している。

トイレから出てくるときには、付き添いの女官たちが、すでに統領様の衣服を取り替え、もとど
おりのピカピカの防寒服になっていた。
そしてガタガタと震えながら土下座している工場長を見ると、こう言った。

「気にしなくてもよい。
トイレの故障は、今度来るときまでに、直しておくように」と。

また別れ際、こうも言った。
「お前の工場の製品は、ピンピン市でも、特設売り場を作って売るようにしてやる」と。

●みやげ

 こうして統領様の視察は終わった。
トイレでのハプニングのおかげで、視察も、最初の数分足らずで終わった。
鍋や食器などの製品については、地方軍部も事情をよく知っていた。
だから、お咎(とが)めなし。

 で、今でも、その工場は、開店休業状態。
工場長と数人の、どうしようもない工員たちが、ひまそうにタバコを吸っている。

 で、あの鍋や食器は、どうなったかって?

 鍋や食器は、みんな、軍の幹部たちが、みやげものとして、持ち帰っていった。
そのあとに残ったのは、「Made in Chukyo」と書かれた、カラ箱だけ。
それを横目で見ながら工場長は、何度も何度も、あくびを繰り返していた。

(以上の話は、すべてフィクションです。)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●日米関係(091211)

+++++++++++++++++

日米関係が、急速に悪化している。
日本側が申し入れていた日米首脳会談についても、
アメリカ側が、それを拒否してきた。
ここにきて、あの古典的とも言える、『ジャパン・
バッシング(日本叩き)』が、再び始まった(?)。
私には、そんな感じがする。

+++++++++++++++++

●小細工

 日本の外交の歴史は、「小細工の歴史」と言い換えてもよい。
日本は、世界を欺くため、小細工に小細工を重ねてきた。
これは日本人自身が生来的にもつ民族性のようなもの。
古い話で恐縮だが、「軍隊」を、「自衛隊」と表現したときも、そうだった。
当初、私がそれをオーストラリアの友人たちに話すと、みな、こう言った(1969年当時)。

「セルフ・デフェンス・フォース? ヒロシ、一体、それは何だ?」と。

 そう言われてはじめて、私は、「自衛隊」という言葉のもつ欺瞞性に、気がついた。
「専守防衛」を目的とした軍隊だから、日本政府は、「自衛隊」とした。
しかし古今東西、そんなことは世界の常識。
自国を守らない軍隊が、どこにある!
それを日本政府が、「自衛隊は軍隊ではありません。セルフ・デフェンス・フォースです」と説明
したから、話がおかしくなった。

 これはほんの一例だが、こうした言葉のごまかしは、世界では通用しない。
とくにアメリカには通用しない。

●安保ただ乗り論

 アメリカの財政事情も、きびしさを増している。
こうした動きに連動して、これまた再び、日米貿易摩擦が再燃しつつある。
その顕著な例として、現在、アメリカでは、「TOYOTA・バッシング」が始まっている。
理由にもならない理由をこじつけて、TOYOTAの車が、ねらいうちにされている。
「アメリカの自動車産業が打撃を受けたのは、日本車のせい」と。

 そういう中、これまた再び、『安保ただ乗り論』が、浮上してきた。
「日本が安い防衛費で、平和でいることができているのは、アメリカのおかげ」と。
若い大統領ということもある。
オバマ大統領は、こうした一連の日米関係を、振り出しから、リピートし始めている。

(日本異質論・1970年代)→(安保ただ乗り論・1970年代)→(日米経済摩擦・1990年代)
→(ジャパン・バッシング・1990年代)と。

 で、現在は、北朝鮮問題、中国の軍事的脅威にからんで、再び、『安保ただ乗り論』というわ
けである。

●アメリカの言う「ただ」
 
 アメリカが言う「ただ」というのは、「お金」のことではない。
「人命」のことをいう。
そこを誤解してはいけない。
イラク戦争だけをみても、実際のところ正確な数字は公表されていないが、アメリカ兵の死者
は、5269人(05年1月まで)とも言われている(イラク・レジスタンス・レポート)。

 が、そういう現実を日本は見て見ぬふりをしながら、「思いやり予算」とか、「インド洋での給油
活動」とか、アメリカ側から見れば、小細工に小細工を重ねて、「ただ乗り」をつづけてきた。
これが鳩山政権になって、一気に問題化した。

 だからといって、自衛隊員に死んでこいと書いているのではない。
もしそれがだめというなら、日米関係は、終焉させるしかない。
つまりこの問題は、それほどまでに深刻な問題であり、日本側にも大きな覚悟が必要というこ
と。
が、とても残念なことに、母親から小遣いをもらっているような鳩山首相には、荷が重すぎる。
きびしさそのものが、ちがう。

●今、アジアは……

 アメリカは、(冷戦)→(ベトナム戦争の敗退)→(それにつづくスタグフレーション)→(湾岸戦
争)を経験している。
その間に、世界の勢力地図も、大きく変わった。
当然、アメリカの軍事戦略も、大きく変わった。
同時に、日本の地位、沖縄の戦略的立場も、大きく変わった。

 が、日本だけは、いまだに井の中の蛙(かまず)というか、井戸の中からときどき、外の世界
を垣間見ている程度。
世界の動きを、つかみきれていない。
そのひとつが、あの『東アジア・サミット』。

 ASEAN10か国に、日本、中国、韓国を加えたのが、「ASEAN+3」。
そのASEAN+3に、さらに、オーストラリア、ニュージーランド、インドを加えたのが、鳩山首相
が説く、「東アジア・サミット」。

 当初この東アジア・サミットに、アメリカを加えなかったから、さあ、たいへん!
アメリカの日本不信に、鳩山首相は、火をつけてしまった。
アメリカには、APEC構想というものがある。
東アジア・サミットは、それに対抗する構想として、理解(あるいは誤解?)されてしまった。
鳩山首相は、あわてて「東アジア・サミット構想には、アメリカも含む」と訂正したが、これはあと
の祭り。

●「アメリカと社民党と、どちらが大切なのか」

 鳩山首相というより、それを裏で操る小沢政権は、早々と、「脱・アメリカ構想」を決め込んで
しまった。(……ようだ。)
今の今、小沢氏は、総勢600人もの随行者を伴って、中国を訪問している。
アメリカやオーストラリアで、鳩山民主党政権の誕生を、「社会主義国の台頭」と報じているの
は、そのため。

 が、これは現在の日本にとっては、たいへん危険なことでもある。
「なぜ今なのか?」という理由も明確でないまま、ここで脱・アメリカを事実上宣言するのは、こ
の日本にとっては自殺行為に等しい。
北朝鮮問題ひとつ取りあげても、それがわかるはず。

 日本には、まともな外交能力はない。
北朝鮮がすでに実戦配備しているノドンミサイルや、化学・生物兵器に対しても、まったく無
力。
中国を信用するには、まだ時期が早すぎる。
ジョン・ルース駐日アメリカ大使が、鳩山首相に向かって、「アメリカと社民党と、どちらが大切
なのか」と息巻いた背景には、そんな(現実)がある。

●では、どうするか?

 民主党は先の衆議院議員選挙で、大勝利を収めた。
が、それは反自民というよりは、反麻生でかたまった浮動票層が動いたからである。
しかしだからといって、一気に反米へ進めということではない。
まただれも、そこまでは予想していなかった。

 鳩山首相は、もう少し時間をかけるべき。
どうしてこうも急いでいるのか、私にはその理由がわからない。
とくに国際外交、なかんずく日米関係については、そうである。
戦後60数年の歴史を、わずか1年足らずで、ひっくり返してしまうような政策が、はたして智策
と言えるのか。

 それをいきなり社民党にすり寄って、沖縄問題についての日米合意を白紙に戻すとは!
そんなことは、国際常識からしても、ありえない。
またそんなことは、してはいけない。

 その選挙で民主党に一票を入れた人たちは、今、大きな失望感を覚えつつある。
「私たちが選んだ首相だから、しかたない」と、自分で自分を慰めている。
しかしそんな(慰め)は、いつまでもつづかない。
自民党もだめだが、民主党もだめということになったら、この日本は、いったい、どこに向かっ
て進めばよいのかということになる。
その責任は、重い。
そんなことも考えながら、ここは慎重に!
自民党政権のそれというよりは、戦後の日本の歴史の中で、踏襲すべきものは踏襲しながら、
時間をかけて軌道修正していく。

 私は、切にそれを望む!

(09年12月11日朝、記)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

【沈黙の価値】

●おしゃべり

 どこの世界に行っても、おしゃべりの人はいる。
おしゃべりが悪いというのではない。
が、人に迷惑をかけるようなおしゃべりは、どうか。

 飛行機の中、バスの中、そして電車の中。

 昔から「日本人は騒音には、無頓着」とは、よく言われる。
たしかにそうだったし、今も、そうだ。
今、この文章を、東京から浜松へ向かう新幹線の中で書いている。
その新幹線の中でも、おしゃべり、またおしゃべり。
あちこちで、おしゃべり。
あたりかまわず、大声で話しているグループもいる。

 2〜3列、席を飛び越えて話が聞こえてくる。
かなりプライベートな内容である。
会社の上司の悪口、批判、仕事への不満など。

 当然、そういった話は、私のような人間にも聞かれている。
そういうことを承知の上で、話している。
……ということは、私たちは、ただの石ころ。
川原の石ころ。
そういったおしゃべりをしている人は、私たちの存在を完全に無視している。

●意地悪

 こうした都会的ニヒリズムは、都会人独特のもの。
先日も何かの雑誌で読んだが、道端で倒れている人を見ても、都会人ほど、無視する
傾向が強いそうだ。
またそういうニヒリズムを身につけていないと、都会では生きていけない。
それこそ掃いて捨てるほど、人がいる。
いちいち気にしていたら、何もできない。
何も話せない。
それがこうしたおしゃべりの中にも見られる。

 ふつうならそんな話は、他人の前ではしない。
常識のある人なら、そんな話はしない。

そこでふと意地悪な気持ちが顔を出す。
そうした声を一度、何かに録音する。
その声を、その人たちの会社か、上司に聞かせる。
話の内容を組み立てれば、どこの会社か、特定できる。

 ……ということもありえるから、私なら、そういう話は、電車の中ではしない。

●マナー

 結局は、マナーの問題ということになる。
時刻は午後6時を回ったころ。
帰宅中のサラリーマンも多い。
居眠りしている人もいる。
そういうとき耳元で、ペチャペチャとやられたら、たまらない。
が、日本人というのは、忍耐強い。
しゃべるのも国民性なら、それに耐えるのも国民性。

 うるさいと言えば、観光バスのバスガイド。
客も、うるさい。
たいてい2〜3組のおしゃべりグループが乗っていて、大声でペチャペチャとしゃべり
あっている。
オバチャンのほうが多いが、オジチャンもいる。

 08年ごろまでは、月に2〜3回は、地元の観光バスを利用して旅を楽しんでいた。
しかし09年に入ってからは、数えるほどしかしていない。
最後に、ほかの客とトラブルになり、それがトラウマになってしまった。
それについては以前、別の原稿に書いたことがある。

 で、観光バスを利用した旅行は、やめた!

●スズメ

 まずもって、おしゃべりほど、無駄なものはないと心得る。
しゃべるほうも、無駄。
聞くほうも、無駄。
情報の交換ということになるが、価値そのものがない。
言うなれば、スズメのおしゃべりと同じ。
話した瞬間から、話を忘れ、聞いた瞬間から、話を忘れる。
記憶に残るとしても、数日。
長くて数週間。

 ただ、そのときの感情は残る。
たとえばだれかの悪口を話したとする。
悪口を聞いたときでもよい。
そういうときというのは、話した話の内容よりも、後味の悪さだけが残る。

 もともとおしゃべりというのは、そういうもの。
人間もスズメも、基本的には、同じ。

●沈黙の価値

 ……と書くだけなら、だれにでもできる。
そこで考える。
ではどうすれば、価値あるおしゃべりができるか、と。
情報の価値を高めるためには、どうすればいいか、と。

 そこで出てくるのが、(考える力)ということになる。
聞いて考え、考えてしゃべる。
が、それだけでは足りない。
それよりも大切なことは、沈黙を守ること。
考えては黙り、また考えては黙る。
英語国では、『沈黙の価値のわからぬ者は、しゃべるな』という。

 言葉を口にするのは、そのあとでよい。

●沈黙は文化

 私はさらに一歩進んで、「沈黙は文化」と考えている。
そのことは、ここ半世紀の変化を見ただけでもわかる。

 私が20代のころには、観光バスというと、カラオケが定番だった。
自己紹介も定番だった。
おしゃべりどころではない。
ワイワイ・ガヤガヤ……。
それが定番だった。
で、やっと静かになったと思ったら、こんどはビデオ。

 で、子どもたち(中学生)とこんな会話をした。
私が「ぼくたちが子どものころは、観光バスの中でも、みなで歌を歌っていたよ」と
話すと、「ホント?」と言って、子どもたちは驚いた。
一方、オーストラリアにも観光バスに似たようなバスサービスはあるそうだ。
が、ガイドはいない。
運転手がときどき、そのあたりの名所を説明することはあるそうだが、その程度。
で、オーストラリアの友人に聞いた。
そのときオーストラリアの友人と、バスで長野県のほうに旅行をしていた。
彼はこう言った。

「オーストラリアで、ああいうガイドを見つけたら、みな、『黙って座れ』と言う
だろうね」と。

 陽気な人たちだが、一方的な話には、寛大ではない。

 文化と騒音。
これは反比例の関係にある。
文化が高ければ高いほど、騒音は少ない。
結果として少なくなる。
というのも、文化の程度は、その国の国民が、いかに深く考えることができるかで決まる。
……と書くのは、言い過ぎ。
しかしこれだけは言える。

 静かに考えながら旅を楽しむ人も多い。
だから乗り物の中でのおしゃべりは、するとしても、まわりの人たちに迷惑を
かけないように、してほしい。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司

【秋田】09年12月12日

●秋田へ向かう

 浜松から東京へ。
ワイフと2人旅。
東京から仙台、盛岡を経て、秋田へ。
窓の外は、大地まで足を伸ばした雨雲が、低く垂れている。
それが電車の窓より低いところにある。
幾重にも重なった、暗い雲。
灰色の雲。
その向こうには、白い雲が、細く尾を引くように流れている。

寒々とした景色が、心を重くする。
電車は、もうすぐ盛岡に着くはず。
そんなことを考えながら、窓に手を当てる。

思ったより暖かい。
東京も、そうだった。
仙台も、そうだった。
20〜30年前なら、このあたりは一面、雪景色。
盛岡を出たあたりから、小雨が降り始めた。
車窓から見る道路は、黒く、雨で光っていた。

●東北

 日本に62年も住みながら、秋田県へ行くのは、これがはじめて。
楽しみ。
プラス、少し不安。

学生時代の友人に、A君という人がいた。
親友の親友だったが、私とは、ほとんど縁がなかった。
そのAZ君は、秋田県出身で、秋田県庁に勤めていた。
僧籍をもっていた人だから、今ごろはどこかの寺で、僧侶でもしているかもしれない。
背の高い、かっこいい人だった。

 それよりも「秋田」と聞くと、どういうわけか、別の男を思い出す。
金沢大学を受験するとき、たまたま同じ旅館に泊まった。
たしかその旅館には、3泊した。
その間に、親しくなった。
その男が、秋田県の秋田高校から来ていた。

 自分が大学に入学したあと、その男をさがした。
が、その男は見つからなかった。
その当時は、名前も顔もよく覚えていた。
「合格したら、会おう」と何度も約束した。
が、今では名前も顔も浮かんでこない。

●田沢湖へ

 東北は、やはり米どころ。
窓の外は、田んぼにつづく、田んぼ。
乗った電車も、「こまち」。
「こまち17号」。
停車駅が少ないのには、驚いた。
東京のつぎが上野、大宮。
つぎが仙台。
仙台のつぎが田沢湖。
私たちは大曲(おおまがり)で降りることになっている。

 冬景色ということもあるのかもしれない。
時折見られる農家も、どこか……というか、まったく元気がない。
トタン屋根の、質素な作りの家が並ぶ。
浜松の家々より、全体に、平屋が多い。
3〜4割の家が平屋といったふう。
このあたりは日本でも有数の豪雪地帯。

 ……と書いていたら、列車はいつの間にか、雪の中を走っていた。
山を越えているのか、速度も、70〜80キロ?
私はカメラを取り出すと、何枚か、写真を撮った。

 しばらく走ると、今度はトンネルにつづくトンネル。
それを抜けるたびに、外の景色が暗くなっていくように感ずる。
と、同時に窓の下に見える川の流れが、逆になった。
峠を越えたらしい。
時計を見ると、まだ午後2時50分。

●学生時代

 田沢湖を出ると、つぎは……。
先ほど社内アナウンスがあったが、忘れた。
大曲には、15時22分着ということになっている。
新幹線というよりは、ローカル特急といったふう。
動きが止まったような景色が、ゆるやかにつづく。

 私は、こういう冬景色が苦手。
見ているだけで、憂うつになる。
ワイフが横にいるからよいようなものの、これがひとり旅だったら……。
何度も学生時代を思い出す。
列車に乗って、米原を過ぎて、北陸線に入ったとたん、雪景色。
そのたびに、憂うつな気分になった。

 何回か、ワイフの手を握る。
そのたびに子どもでもあやすかのように、ワイフは、私の手をパタパタと叩いた。

「旅館では、秋田名物のきりたんぽが出るそうだ」
「楽しみね」と。
実のところ「きりたんぽ」という名前は知っていたが、それがどんなものか、私は
まったく知らなかった。

●秋田美人

 横手市に着いて、最初にしたこと。
それは「秋田美人」をさがすこと。

 ところが、である。
若い女性たちが、美しい。
本当に美しい。
それには、驚いた。
みな色白で、スラッとして、おまけに彫りが深い。

 一方、30、40代過ぎの女性たちは、みなごくふつうの女性。
「????」。
理由はわからないが、若いときは秋田美人。
しかし歳を取ると、大和民族?

 これは新発見!
ダーウィンの進化論をくつがえすほどの新発見。
つまり胎児は、母親の胎内で、進化の過程を一度、すべて繰り返す。
同じように、秋田の女性は、生まれたあと、進化の過程を、同じように繰り返す(?)。
そういう論文は、ないのか?
(これはジョーク。)

しかし美しい人が多いのには、本当に驚いた。
電車の中でも、駅の売店でも、そして泊まることになった旅館のフロントでも……。

●YP旅館

 私たちは横手駅前の、YP旅館に泊まった。
ネットで予約したこともあり、ちょっと選択ミスをしたかな(?)という旅館だった。
残念!
(悪口を書くので、YP旅館と伏字にする。)

 露天風呂があるということだったが、外来の客たちと重なり、混んでいた。
湯も汚かった。
地元の銭湯としても使われているらしい。
そんな感じだった、

おまけにトイレも汚かった。
トイレのフタに、薄茶色の汚れが、模様のようについていた。
ゾーッ!

部屋だけは、14畳あり、まずまず。
あとは料理だが、私たちは、小食派。
たいした料理は、いらない。
ぜいたくばかり言っていてはいけない。
グチは言いたくない。
だからこの話は、ここまで。

 ……たった今、フロントに電話をした。
ていねいに、穏やかに……。
しかし、こうお願いした。
言い方をまちがえると、清掃係の人が、クビになってしまう。
それはかわいそう。

「トイレのフタに便の汚れがついていますが……。
生理的に、どうも気分が悪いので、消毒薬か何かをかけて、拭いてもらえませんか」と。
フロントの女性は、「すみません。ただ今……」と言った。

●トイレの汚れ

 旅館のサービスの第一は、清潔感。
つぎに料理。
そのほかのことは、客の責任。
(自分で選んで、自分で予約するのだから……。)

 ……とまあ、生意気なことを言って、ごめん。
みんな一生懸命、やっている。
トイレの掃除まで、手が回らないのかもしれない。

 ……たった今、1人の女性が清掃に来てくれた。
ほっとした。
ていねいに礼を言った。
で、これから食事。

 明日はここから車で20分ほどのところで、講師をすることになっている。
同じ横田市だが、HK地区というところ。

このあたりでは、当然のことながら、私の知名度はゼロ。
だから聞きに来てくれる人も少ないだろう。
わかっている。

 ……が、私は、手を抜かない。
聴衆が100人でも、500人でも、同じ。
来てくれた人が、「来てよかった」と喜んでくれるような話を、しっかりとしたい。

(2009年12月12日節句)

(後記)

 12月13日。
13時03分発の電車で、横田市を立つ。
大曲からは秋田新幹線に。
その新幹線に乗ると、猛烈な睡魔が私を襲った。
……というわけで、田沢湖から仙台に着くころまで、ぐっすりと眠った。
昨夜はじゅうぶん眠ったはずなのに……。

 久々に気持ちのよい講演をさせてもらった。
話しやすかった。
男の人も何人かいたが、話すたびに、「そうだ」「そうだ」と首を縦に振ってくれた。

主催者の方たちや、聴衆の方たちの、暖かい温もりを直接肌で感ずることができた。
会場によっては、高い山の上から天に向かってしゃべるような感じになることがある。
しかし今日は、ちがった。
それに……。
地元で講演するときとちがって、「もう2度と会うことはないだろうな」という思いが、
話している最中に、ときどき頭の中に、浮かんでは消えた。
会場を主催者の方の車で帰るとき、さみしかった。
こんな気分になったのは、今日がはじめて。

 ……そのとき、仙台の町が、ぼんやりと見えてきた。
大きな町だ。
私は雑誌を開いて、それを読み始めた。

HK地区のみなさん、ありがとうございました!
「秋田こまち(米)」を食べるたびに、これからは、みなさんのことを思い出します。

(091213記)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司

●破綻する日本経済

 2009年度の日本の国家税収が、大幅に減った。
ひところは44〜5兆円と言われていたが、2009年度は、38兆円。
「38兆円」といえば、「公務員の人件費の総額」に等しい。
「土木建設費の総額」に等しい。

 つまり公務員の人件費と土木建設費だけで、計76兆円。
わかりやすく言うと、月収38万円の人が、自分の家で働いている従業員に、38万円の
給料を払い、毎月38万円をかけて、家の増改築をしているようなもの。
あとは国債という「借金」。

 こんなバカげた経済運営をしている国が、どこにある?

 この静岡県だけを見ても、立派なのは、道路と公共施設だけ。
Eサッカー場にしても、S空港にしても、目の玉が飛び出るほど立派。
が、問題は、それにつづく維持費。
この先、毎年、何10億円、何100億円という維持費を、私たち県民が負担
しなければならない。

 こうした施設は、建てたときは、それなりに潤う。
(潤うといっても、大半は都会のゼネコン。
地元の中小の建設会社は、そのおこぼれをもらうだけ。)

が、それが終わると、今度は、その維持費がズシンと、のしかかってくる。

●唯一の救い

 唯一救われるのは、日本という国は、外国には借金をしていないということ。
国債にしても、外人の持ち比率は、4〜5%前後と言われている。
言うなれば、身内の借金。
一家のおやじが、家族に借金している。
わかりやすく言えば、そういうこと。
おやじの借金を取り立てる息子は、いない。

 その身内の資産が、1500兆円ほどある。
だからだいじょうぶ……と言いたいが、ここへきて、借金の総額がその
1500兆円を超え始めた。

 これはたいへんなことになったと言ってよい。
1500兆円を超えれば、つぎに日本政府は、外国から、お金を借りなければならない。
しかし今の金利では、だれも貸してくれない。
(つまり国債を引き受けてくれない。)
となると、金利をあげるしかない。

 が、金利をあげたとたん、日本経済は、大爆発を起こす。
ドカーン!、と。
それでおしまい。
終わり。
破綻。

●バカげた経済構造

 しかしそれにしても、バカげた経済構造を作ってしまったものだ。
今さら「公共事業を減らします」とは、とても言えない。
公共事業にぶらさがって生きている人が、あまりにも多すぎる。
またそういう人たちは、ほかに働く場所がない。
ほかの仕事ができない。
「道路工事の仕事がなくなりましたから、明日からコンピュータの技師をします」
というわけにはいかない。
土木作業というのは、そういうもの。

 本来なら、労働者の質を高め、先端工業の分野で、人を生かし、育てるしくみを
作らねばならなかった。
が、日本政府は、そういう努力を怠った。
そのかわり、必要もないような橋を作ったり、道路を作ったり、大型施設を作ったり、
そんなことばかりしていた。

 その結果が今である。

●個人の問題

 こうなったら、それぞれの日本人が、個人的に、自分の資産を守るしかない。
わかりきったことだが、お金という「札」は、急速に価値をなくす。
今の円高が終わるころ、つぎにやってくるのは、ハイパーインフレ。
ラーメンいっぱいが、2000円とか3000円とかになる。
あるいは5000円になるかもしれない。
1万円になっても、私は驚かない。

 物価が10倍になるということは、私たちのもっている(札)の価値が、10分の1
になることを意味する。
残りの10分の9は、政府に奪われるのと同じ。

どうやって資産を守るかということについては、私の立場では書けない。
方法はいろいろあるが、確実なものはない。
(札)のもつ価値を、別のものに移し換えていく。
それが何であるかは、私にもわからない。

ともかくも、それは時間の問題。
ひょっとしたら、2010年の間くらいは、だいじょうぶかもしれない。
しかし2015年まで、今の状態をもちこたえるとは、だれも思っていない。

 ただここで言えることは、早ければ早いほど、よいということ。
あとになればなるほど、破綻したあとの傷口が深くなる。

●消費税

 私が若いころは、「日本は、間接税の国」と知らされていた。
「だから消費税は、ない」と。
しかし今は、「間接税+直接税」の国になってしまった。
つまり両取られ!

 ……というわけで、今すぐというわけにはいかないだろう。
しかしこの先、少しずつ、軌道修正していく。
たとえば「景気が悪くなったから、即、公共事業」という発想はやめる。
ブレーキをかける。
それにもう一言。

 これだけ社会福祉にお金を注ぎながら、実際には、多くの老人たちは、
介護施設にさえ入れないでいる。
浜松でも、「150人待ち」「2年待ち」というのが当たり前。
なぜか?

施設は立派だが、絶対数が足りない。
先日、オーストラリアへ行ってきたが、オーストラリアでは、古いビルや事務所を
改造して、介護施設にあてている。
日本では、どうしてそういうことをしないのか?

 「あとは消費税をあげるだけ」という発想が、ひとり歩きし始めている。
今の今ですら、あげざるをえない状況にある。
しかし同時に、今、やるべきことは山のようにある。
「予算が足りないから、消費税」という発想では、早晩、再び日本の国家経済は
立ち行かなくなる。
「構造」を変えないかぎり、そうなる。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司

【子どもの盗癖】

●反動形成

++++++++++++++++

人は自分の邪悪な部分を隠すため、
その正反対の自分を演ずることがある。
演じると意識しないまま、演ずることがある。
それを「反動形成」という。
無意識下の行為であるため、それを自覚する
ことはいない。

こんなことがあった。

++++++++++++++++

●盗み

 ウソ、悪口、盗みは、子どもにとっては、三種の神器。
この3つを巧みに操作しながら、子どもは親の世界を操る。
おとなの優位性を破る。

 が、病的なほどまでに、盗みを繰り返す子どもがいる。
D君(小4・男児)も、そんな子どもだった。
何かほしいものがあると、それとなく近づいてきて、じっと、そこにいる。
(盗む)というよりは、(人の目を盗む)。
私がほんの瞬間、目をそらしたとたん、それを手でつかみ、さっとポケットに入れる。
それが神業のように、うまい。
速い。
しかも、遠慮がないというか、ありったけのものを盗んでいく。
こんなことがあった。

 ほかの親が「差し入れ」と置いておいた、チョコボールが、40〜50個、山に
なってテーブルの上にあった。
「危ないな……」と思っていると、案の定、気がつくと、それがごっそりと減っていた。
D君の仕業ということはすぐわかった。

●特徴

 このタイプの子どもは、2つの方面から、特徴的な行動を示す。

(1)欲望にブレーキがかけられない。
(2)理性の力によるブレーキが働かない。

 「ほしい」と感じたら、その瞬間から、脳のある部分のスイッチがONになる。
なったとたん、それが猛烈な欲望となって、脳を満たす。
つまり「必要だから盗む」のではない。
脳の中の欲求願望を満たすために、盗む。
よい例が、買い物依存症。

たとえばバッグばかり買う女性がいる。
そういう女性は、同じバッグをもっていても、また買う。
そのバッグが必要だから買うのではない。
買いたいという欲望を満たすために買う。
だからしばらくすると、また同じバッグがほしくなる。
そのメカニズムは、喫煙者がタバコを求めるのと同じ。

で、もうひとつ特徴的なのは、このタイプの子どもは、全体に知恵の発達に
遅れが見られることが、多いということ。
その分だけ、前頭連合野の働きも弱い(?)。
そのため理性の力によるブレーキがききにくい(?)。

 こうしてD君は、常習的に盗みを繰り返していた。

●正義の使者?

 が、ここまでのことについては、何度も書いてきた。
反動形成にしても、盗みにしても、発達心理学の世界では、すでに議論がされ尽くして
いる。
ただこの段階で、多くの人は、「反動形成と盗みはどう関係があるのか」と思うにちがい
ない。
短気を起こさないで、今、しばらく待ってほしい。

 で、ここでは、もう一歩、話を進める。
そのきっかけを作ってくれたのが、同じ、D君だった。

 あるときのこと。
10人くらいの小グループで、ゲームを始めた。
ハンカチ落としのようなゲームを想像してもらえばよい。
そのときのこと。
そのD君が、目ざとくルール違反を見つけ、そのつど私に言いつけた。
「A君がズルした」「Bさんが、こんなことした」「C君が……」と。

 私はそのD君を見て、ヘエ〜と、驚いてしまった。
D君にそれほどまでの正義感があったとは、そのときまで気がつかなかった。
私が抱いていたイメージとは、あまりにもかけ離れていた。

 私がい抱いていたイメージは、「D君は、ずるい」というもの。
しかしみなでゲームをし始めたとたん、今度は、正義のリーダー?
そのD君を観察しながら、私は別の男性(70歳くらい)を思い浮かべていた。
その男性を、M氏としておく。

●泥棒の家

 昔から『泥棒の家は、戸締りが厳重』という。
M氏は泥棒ではなかったが、それに近かった。
M氏の隣に住む人が、いろいろ話してくれた。

 「この30年間、M氏には、いろいろといやがらせをされました。
自転車のタイヤに穴をあけられたり、窓ガラスを割られたり……。
隣の枯れ草に火をつけられり、買ったばかりの新車に、傷をつけられたことも
あります。
 最初はだれの仕業かわかりませんでしたが、そのうち、隣のM氏によるものと
わかりました。
私の家に向かって、パチンコを使って石を飛ばしているところを、たまたま通りがかった
人が見たからです」と。

 で、そのM氏はどうかというと、「戸締りが厳重」。
おとなの背丈を越える塀で家を囲み、駐車場には、電動で動くシャッターが取りつけた。
 自分が乗る自転車にしても、いつも奥の納屋にしまっていた。
が、何よりも驚いたのは、そのM氏が、公安関係の役所の、元副長であったこと。
言うなれば、犯罪を取り締まる側の人である。

●3つの話

 これら3つの話は、どこでどうつながるか?

(1)盗みを繰り返していた、D君の話。
(2)反動形成の話。
(3)そして隣人にいやがらせを繰り返していた、M氏の話。

 ところで反動形成としてよく知られているのが、長男、長女である。
下の子が生まれると、たいていの長男、長女は、愛情の落差から、愛情飢餓の状態に
陥る。
はげしい嫉妬が、心をゆがめることも多い。
親にすれば、「平等」ということになるが、上の子どもにしてみれば、それまで
100であった愛情が、半分に減ったことが許せない。
ある日突然、ダンナが愛人を家庭へ連れ込んだようなもの。

 そのとき上の子どもは、さまざまな反応を示す。
赤ちゃん返りもそのひとつ。
反対に下の子に対して、攻撃的になることもある。
嫉妬がからんでいるから、ときに下の子に、はげしい殺意を覚えることもある。
(嫉妬はこわいぞ!)
が、そんな態度を見せれば、自分の「兄」「姉」としての立場がなくなる。
そこでその反動として、上の子が、一見、ものわかりがよく、やさしい兄や姉を
演じてみせるようになる。
意識的な行為というよりは、無意識下の行為と考えたほうがよい。

 これが「反動形成」である。

●連続性

 こう考えたら、どうだろうか。
人は、子どもにかぎらず、自分の中にある邪悪な部分を、無意識のうちにも、隠そう
とする。
そして自分が邪悪であるがゆえに、他人の中に同じような部分を見つけると、それに
敏感に反応するようになる、と。

 こう考えると、3つの話は、1つの話として、つながる。
『泥棒の家は、戸締りが厳重』という諺とも、つながる。

 D君のばあいは、いつもずるいことばかりしている。
だからほかの子どもが、ずるいことをすると、それに対して敏感に反応する。

 しかしそういう邪悪な面は、できるだけ隠そうとする。
隠そうとして、仮面をかぶる。
いい子ぶる。
これが「反動形成」。

 で、自分が邪悪な人ほど、他人に対しては疑い深くなる。
「疑う」というよりは、他人も自分と同じ思考回路をもっていると錯覚する。
他人も自分と同じように、邪悪な人と思う。
だから『戸締りが厳重になる』。

 言い換えると、無防備、無警戒の人というのは、それだけ心がきれいな人と言っても
よい。
それともバカ?
お人よし?
私のワイフが、そうである。
これは余談だが、一理ある。

●思考回路

 それぞれの人には、それぞれの人の思考回路というのがある。
たとえば私は文を書くのが、好き。
何か問題が起きると、まず文章を書いて解決しようとする。
これが思考回路。
つまり線路。
その上を貨車が走る。
その貨車に乗るものは、何かわからない。
そのつど、変化する。

 で、その思考回路。
少し前だが、私は、こんな経験をした。

 私は生涯において、2度、他人に対して、(殺意)を覚えたことがある。
はげしい怒りや憎しみが、そのとき殺意に変化した。
もちろんそれを感じただけで、それ以上のことはなかった。
なかったが、もしそのとき、私が本当にその人をあがめていたら、私は殺人者という
ことになる。

 が、本当の恐ろしさは、そのあとに始まる。
こうして一度、(殺人)という思考回路ができてしまうと、つぎからは、何か問題が
起きるたびに、その思考回路に従ってものを考えるようになる。
「いやなヤツは、殺せばいい」と。
恐らく回を重ねれば重ねるほど、思考回路はさらにしっかりとしたものになる。

 ……という話は、極端な話で、私たちの日常的な生活とは無縁の話である。
が、子どもについて言うなら、こうした思考回路は、作らないほうがよい。
作るとしても、よい思考回路。
それを作る。

 そこで教訓。

 子どもが乳幼児期のときほど、注意する。
よい思考回路を作ることは重要なことだが、悪い思考回路を作らせてはいけない。
冒頭にあげたD君にしても、どこかでそういう思考回路を作ってしまった。
つまり「自分の欲望を満たすために、手っ取り早く、盗んで手に入れる」という
思考回路である。

 で、こうした思考回路は一度できあがると、それを修正するのは、たいへんむずかしい。
不可能と考えてよい。
喫煙や飲酒は、外から見てわかる。
しかしD君のような(盗癖)については、外からはわからない。
わからないから、「不可能」ということになる。

●余談

 このD君については、こんな余談がある。
つまりこうした問題が起きたとき、D君を指導する者としては、悩む。
「親に話すべきか、どうか」で、悩む。

 親にそれだけの知識と思慮深さがあればよい。
が、それが期待できないとなると、どうしても口が重くなる。
また親に話したところで、どうにもならない。
説教して、直るような問題ではない。
根は深い。
こういった話をすると、たいていの親は、はげしく叱ることで、子どもを直そうとする。
しかし、叱って直るような問題でもない。

(実際、D君は、日常的に母親に叱られていたようである。
叱られ上手というか、私が何かを叱りそうになると、先に涙を流して、「ごめんなさい」と
しおらしく謝ったりした。)

 では、D君のような子どもは、どうなるか?

 おとなになっても、小ずるい人になるだろう。
それは確かであるとしても、ある一定の枠(わく)の中で、そうなるだけ。
子どもにとっての(盗み)というのは、そういうもの。
もともと気が小さいから(=臆病だから)、盗みをする。
だから、たいそれたことは、できない。

 小ずるいことを重ねながら、他人との衝突を繰り返す。
そういう中で、自分で自分を軌道修正していく。
(中には、無意識のまま、つまりずるいことをしているという自覚がないまま、
ずるいことをするようになる人もいるが……。)
しかしそれも人生。
今、ここで私が騒いだところで、どうにもならない。
……ということで、私のできる範囲の中で、D君に対して、あれこれと説教するしか
なかった。

 ついでながら実のところ、私も子どものころ、小ずるい人間だった。
すべてをあの時代のせいにすることもできないが、当時は、そういう時代だった。
戦後の、まさにドサクサ期。
だから私は私なりに、そのあと、苦労した。
人に嫌われたこともある。
人を傷つけたこともある。
よい友を失ったこともある。

が、それも人生。
D君はD君なりに、つらい思いや、さみしい思いをするだろう。
私もした。
しかしそれもD君の人生。
私の人生。
そう割り切って、やり過ごすしかない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 反動形成 はやし浩司 盗み 子供の盗み 子どもの盗み 仮面 泥棒の家 は
やし浩司 子どもの盗癖 子供の盗癖 思考回路 はやし浩司 反動形成 条件反射 条件反
射反応)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司

●表の顔vs裏の顔

++++++++++++++++++

タイガーウッズ選手が不倫した。
アメリカ社会に大きな衝撃を与えた。
見本となるべき人物が、複数の愛人と、
交際をしていたという。
それはわかる
わかるというより、よくある話。
あったところで、驚かない、
しかし……。

だれにも、「表の顔」と「裏の顔」がある。
私にもあるし、あなたにもある。
ふだんは表の顔で仕事をし、家庭の奥では
裏の顔に戻る。
「戻る」と書くのは、それが「本来の姿」だから。
裏の顔があるのが、悪いというのではない。

タイガーウッズ選手にしても、裏の顔がある。
裏の顔で、金と名声を利用して、不倫を重ねていた。
しかし、それがどうして悪いことなのか。
金もある。
名声もある。
それに群がる「女」たちもいる。
妻の信頼を裏切ったとはいうが、それはあくまでも、
タイガーウッズ選手と妻の問題。
個人的な問題。
妻が怒るのはわかるが、何も、社会までいっしょになって、
タイガーウッズ選手を責めるような話ではない。
念のために申し添えるなら、不倫は、犯罪ではない。

タイガーウッズ選手は、いくつかのコマーシャルからはずされた。
名誉職からもはずされた。
本人も、「ツアーを、無期中止」と。

が、それもおかしい。

もともとタイガーウッズ選手の名声にぶらさがったのは、
(相手)のほうではないのか。
聞くところによると、妻への慰謝料だけでも、9億円を払ったという。
離婚ということになれば、慰謝料は「愛人3人分で、17億x3=51億円」
(某雑誌)になるとか。

ゴルフ?

たかが棒でボールを叩くゲームではないか(失礼!)。
そんな選手に、これだけの財産があること自体、信じられない。
異常。
私などは、タイガーウッズ選手の不倫問題より、むしろ
そちらのほうに驚いた。

話を戻す。
つまり表では、「名選手」。
裏では「大金持ち」。
やりたい放題のことをしている。
それだけのこと。

『声明で、ウッズ選手は、「家族のプライバシーを尊重してほしい」と訴えた上で、「より良い夫、
父親、そして人間であろうと努力する必要がある」との理由を明らかにしました』(TBS・News-i
より)

+++++++++++++++++++

●裏の顔

 表の顔と裏の顔があるとしても、この両者は、近ければ近いほどよい。
「あるがままに生きる」というのは、そういう生き方をいう。
が、この両者は、離れていればいるほど、人格そのものが、バラバラになってしまう。
さらにひどくなると、表の顔だけが遊離してしまう。
心理学の世界でも、そういう顔を、ペルソナ(仮面)という。
そのときでも、ペルソナをかぶっていることに気づいていればよい。
そしてその場を離れたら、ペルソナを脱ぐ。

が、中には、表の顔だけが自分の顔と思い込んでしまう人もいる。
外国では、聖職者や教職者に、そういう人が多いと言われている。。

●不倫の相手に、不倫話

 こんな話を聞いた。
不倫の話というのは、当然のことながら、妻や夫には、言わない。
言えば、騒動になってしまう。
トップ・シークレット。

それはそうだが、不倫相手には、別の不倫話は、するそうだ。
「お前は、ぼくの4人目の不倫相手だよ。今も、もう1人、別の女とつきあって
いる」とか、など。
女性のばあいは、夫にも話したことのないような、初体験の話をすることもあるそうだ。
「私は、中学2年生のとき、初体験をすませたわ。夫は、結婚のときまで、私の
ことを処女だったと思っていたけどね」と。

●罪の共有

どこまで自己開示をするか。
その度合いによって、親密度が決まる。
あたりさわりのない世間話をするレベルから、自分の過去や犯罪歴を告白するレベル
まである。

(「はやし浩司 自己開示」で検索してみてほしい。)

言い換えると、相手がどの程度までの話をするかによって、その相手が、どの程度の
新密度を自分に抱いているかがわかる。
あるいはどこまで親密になりたがっているかが、わかる。

が、この現象が、逆に進むことがある。
これを「罪の共有」という。
わかりやすく言えば、「罪」を共有することで、互いの親密度が急速に進むことがある。
それが先に書いたような、さらに深い自己開示へと進む。

「こんな話は、妻には言えないが、お前の体のほうが、すてきだよ」と。
あるいは女のほうは、こう言うかもしれない。
「夫は、私のタイプじゃないわ。もうここ1年、本気で感じたことはないわ」と。
不倫という(罪の意識)を共有しているから、一気に自己開示が進む。
 
●自己開示

 夫婦でも罪の共有をすることはある。
夫婦で銀行強盗をするとか、保険金詐欺を企てるとか。
そういう話は、よく映画にもなる。
私はそういう映画を観るたびに、別の心で、「いい夫婦だなあ」と思ってしまう。
行為そのものは犯罪であり、許されない。
しかし夫婦が2人で、ヒソヒソと何やら相談している光景を思い浮かべてみればよい。
これにまさる(?)、自己開示はない。

●タイガーウッズ選手のばあい

 タイガーウッズ選手は、どうして自分の不倫の話を、妻に話さなかったか?
……という質問ほど、ヤボなものはない。

 自分の不倫の話を妻に話すバカはいない(失礼!)。
しかしともかくも、結果として、それが妻にバレてしまった。
が、週刊誌などの記事によると、妻側には離婚の意思はどうもないようだ。
となると今ごろ、タイガーウッズ選手は妻に許しを乞いながら、過去の不倫を洗いざらい
話しているかもしれない。

 しかしそれこそ自己開示。
すばらしい(?)、自己開示。
妻が、自分への裏切りをどう消化するかにもよるが、もし2人でこの問題を克服できれば、
タイガーウッズ夫婦は、親密度という点では、つぎのステージへ上ることができる。

 もっともこうした不倫は、脳の線条体がからんでいるだけに、常習化しやすい。
美しい女性を見たとたん、ドーパミンが分泌され、条件反射反応を起こす。
タイガーウッズ選手が、それで不倫をやめるようになるとは、私は思っていない。
ヘビースモーカーがタバコをやめたり、アルコール中毒の人が、酒をやめるのと
同じくらい、むずかしい。
これは余計なことだが……。

●踊らされる民衆

 マスコミの世界では、こうした痴話話も、かえってハク付けになる。
やがてしばらくすると、不倫話も消え、タイガーウッズ選手は、再びマスコミの表世界で
活躍するようになる。
クリントン元大統領の、女子学生との不倫話を例にあげるまでもない。

 つまりこうして私たち一般民衆だけが、踊らされる。
タイガーウッズ選手が飲む飲料水を飲み、タイガーウッズ選手が着るシャツを着る。
それが回りまわって、莫大な利益が、タイガーウッズ選手に入ってくる。
それが「慰謝料だけでも9億円!」となる。
 
●ひがみ?

 こういうエッセーを書くこと自体、私の(ひがみ)に誤解されるようで、おもしろく
ない。
ひがみかもしれない。
ひがみでないかもしれない。
持てる人は、何もかも持つ。
持てない人は、何も持たない。
やっぱり、ひがみ?

しかしこのところそういう(ひがみ)からも、私は急速に卒業しつつある。
どうでもよくなってしまった。
ゴルフ・ファンの方たちには、たいへん失礼な言い方になるかもしれないが、
ゴルフはゴルフ。
所詮、ゴルフ。
楽しむなら、その範囲で楽しめばよい。
私は、そうしている。
タイガーウッズ選手は、すばらしい選手だが、それは表の顔。
だったら、私たちは表の顔だけを見て、それで終わればよい。
それで忘れればよい。

 不倫しようが、しまいが、それは裏の顔。
だれにだって裏の顔はある。
それがどんなものであれ、その人はその人。
そっとしておいてやることこそ、大切。
繰り返すが、不倫は、犯罪ではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 表の顔 裏の顔 自己開示 タイガーウッズ ゴルフ)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司

●天才たちの病跡学(パトグラフィー)

++++++++++++++++++

世に知られた天才たちには、それぞれ
独特の病跡がある。
その研究をするのが、病跡学(パトグラフィー)。

たとえば、ニュートンやアインシュタインは、
「分裂病圏の学者」、
ダーウィンやボーアは、「躁鬱病圏の学者」、
あのフロイトは、「神経症圏の学者」と
言われている(「心理学とは何だろうか」より・
無藤隆・新曜社)。

++++++++++++++++++

●ニュートンとアインシュタイン

 「心理学とは何だろうか」によれば、ニュートンやアインシュタインの仕事には、つぎのような
特徴があったという。

「経験的、感覚的、伝統的思考的、斬新的」(同書)。

そして彼らには一定の危機的環境があったという。

「思春期における性的同一性や、青年期における社会的同一性の動揺を契機とすることが多
い。
その後も対人的距離の喪失、たとえば批判にさらされることや、有名になることが危機を招く」
(同書)と。

 そういった危機的環境の中で、ニュートンやアインシュタインは、今に見る業績を残す。

「創造性は自己や世界の危機に触発されるが、仕事の完成には、適当な対人的距離、現実と
の介在者、保護者が必要」(同書、飯田・中井・1972)と。

●インチキ番組

 すこしわかりにくい話がつづいたので、簡単に説明する。

つまりそれぞれの学者には、それぞれの個人的背景があったということ。
そしてそれぞれの学者は、その背景の中で作られた問題をかかえていたということ。

 が、ここで注意しなければならないことがひとつある。

 先日(09年12月)も東京のXテレビ局から、こんな依頼があった。
何でも東大生を調べたら、約80%の学生が子どものころ、水泳とピアノをしていたという。
そこで「林先生(=私)に、それを裏付けるような発言をしてほしい」と。
つまり私に、「水泳やピアノは天才児をつくると、テレビの中で、発言してほしい」と。

 どう話せばよいかを聞くと、「指先の刺激は、脳によい刺激を与える。それが結果として、頭
のいい子どもを育てる」と。

 しかし……。
この話は、おかしい。
完全に、おかしい。
「非行に走る子どもを調べたら、50%が女子だった。
だから女子は非行に走りやすい」と言うのと同じ。
(子どもの50%は、女子だぞ!)

 この浜松市あたりでも、幼児期に、80%以上の子どもたちが、水泳やピアノをしている。
もっと多いかもしれない。
つまりXテレビ局の説は、まったくのナンセンス。

 私がそれを指摘すると、それきり連絡は途絶えた。
ついでながら、どうして私に、そういう依頼が来たか?
恐らく、こういう事情ではないか。

 Xテレビ局は、そういう珍説を組み立てて番組を作った。
しかしそんな珍説、まともな学者なら、だれも相手にしない。
が、地方に住む、彼らにすれば、私のようなザコ評論家なら、それに応じてくれるのではない
か、と。
そう考えて、私に連絡してきた。

 つまり私が言いたいのは、ニュートンやアインシュタインの過去がどうであれ、またどういう心
の病気をかかえたにせよ、では同じような環境にあれば、みな、同じような天才になるとはかぎ
らないということ。

●ダーウィンやボーア

 しかし、それでも興味深い。
「病跡学」というのは、そういう学問をいう。

 ほかにも、ダーウィンやボーアについては、こうある。
危機的状況として、「住みなれた空間の喪失、たとえば故郷・友人からの別離、権威的人間の
圧迫、板挟み状況」(同書)と。

 その結果として、「創造性は社会的自立を契機として解放されるが、仕事の完成には、庇護
的な空間、仕事を是認し、価値づけてくれる人、苦手な面を引き受けてくれる人の存在が必
要」(同書)と。

 ここまで読んだとき、ダーウィンやボーアの境遇が、私のそれと、たいへんよく似ていることに
気がついた。
とくに「住みなれた空間の喪失、たとえば故郷・友人からの別離、権威的人間の圧迫、板挟み
状況」という部分。

多少ちがうといえば、「喪失」したというよりは、私のばあい、「逃避」した、
故郷の友人たちと、別離したわけではないという点。
「権威主義的人間の圧迫」「板挟み状況」という2つの点については、酷似している。
言い換えると、それがどういうものであるか、私には、たいへんよく理解できる。

 私の生まれ育った地方では、みな、たいへん権威主義的なものの考え方をする。
たった数歳年上というだけで、どの人も、兄貴風、親分風を吹かす。
年長の叔父、叔母となると、さらにそうで、自分では介護の「か」の字もしたことがないような叔
父が、こう言ったりする。
「悔いのないように、親の介護しろよ」と。

 もちろん何かにつけて、『ダカラ論』が、ハバをきかす。
「親だから……」「子だから……」と。

●ソクラテス

 「私は私」と思っている人でも、その「私」は、まさに環境の産物。
よく知られた言葉に、こんなのもある。

『悪妻をもてば、夫は哲学者になる』と。

 ソクラテスの残した言葉と言われている。
悪妻との葛藤がつづくと、それから生まれる悩みや苦しみを、夫は、哲学に昇華するという意
味に、解釈されている。
つまりソクラテスの妻は、よほどの悪妻だったらしい。
……という話は別として、イギリスには、こういう格言もある。

『空の飛び方は、崖から飛び降りてから学べ』と。

 要するに人は、どういう形であれ、追いつめられないと、真の力を発揮できないということ。
「危機的状況」というのは、それをいう。

私も親や兄の介護問題で、さまざまな面で、板挟み状態になったことがある。
悶々とした気分が毎日のようにつづいた。
が、そういう危機的状況があったからこそ、当時の私は、猛烈な勢いで文章を書いた。

 同じく、「心理学とは何だろうか」の中に、フロイトやウィーナーについては、こう書いてある。

「学問を自己抑圧の手段として出発することが多いが、重大な葛藤状況を契機に、学問が自
己解放の手段に転化し、そこで真の自己の主題を発見することが多い」(同書)と。

 「悪妻をもつ」ということは、まさに「重大な葛藤状況」ということになる。
そこでソクラテスは、追いつめられ、自己解放の手段として哲学者になっていった(?)。
そういうふうにも考えられる。

●職歴学

 病跡学というのがあるなら、「職跡学」というのがあっても、おかしくない。
「学歴学」でもよいし、「環境学」でもよい。
親子関係もその人の人格形成に大きな影響を与える。
そうなると「家族学」でもよい。
つまりその人の生まれ育った環境は、その人の考え方や思想のみならず、性格や性質にまで
大きな影響を与える。
言い換えると、「私は私」と思っている部分についても、本当は「私」と言える部分は少なく、大
半は、「私であって私でない部分」ということになる。

 そういう「私であって私でない部分」に操られていくうちに、ときとして、自分の望むのとは別の
方向へ進んでしまう。
気がついてみたら、そうなっていた……ということは多い。
私は、それを「運命」と呼んでいる。

 もちろんオカルト的、つまり神秘主義に基づく運命を言うのではない。

●強迫神経症

 たとえば私には、強迫神経症的な部分がある。
若いときから、いつも何かに追い立てられているような気分が抜けない。
乳幼児期の不幸な母子関係が、私をして、そういう私にした。
基本的信頼関係の構築に失敗した。
だから基本的に、人間不信の状態にある。
つまり他人との信頼関係の構築が苦手。

 しかしこれは私の責任というよりは、私の母や家族の責任である。
私はそういう母をもち、そういう家庭で生まれ育った。
だから今でも、いつも何かをしていないと、落ち着かない。
こうした特異性は、オーストラリアの友人たちと比較してみると、よくわかる。
彼らはときどき日本へやってきて、1〜2か月のバカンスを、のんびりと過ごす。
旅行先で気に入った旅館や温泉を見つけると、同じところに何泊もして、過ごす。
私というより、日本人には考えられない休暇の過ごし方である。

 逆に、オーストラリアの友人たちには、私の休暇の過ごし方が理解できない。
4泊5日くらいでオーストラリアへ行ったりすると、いつもこう言う。
「ヒロシは、どうしてそんなに忙しいのか?」と。

 忙しくはないが、オーストラリア流のバカンスの過ごし方が、身についていない。
何もしないで、ボケーッとして過ごすことができない。
その(できない)理由が、実は、私自身の中にある。
「ある」というよりは、作られた。
それが先に書いた、強迫神経症ということになる。

●作られた私
 
 で、私はいつも何かの仕事をしている。
仕事をしていないと落ち着かないし、くだらないことで時間を無駄にしたりすると、「しまった!」
と思う。
が、よくよくみなの話を聞いてみると、そういうふうになる人は、私だけではないようだ。
私の世代、つまり団塊の世代には、私のようなタイプの人が多い。
ワーカホリック、つまり働き中毒の人間である。

 で、そういう自分を客観的にながめてみると、「私であって、私でない部分」がたくさんあるの
がわかる。
私は、私を離れたところにある、もっと別の私に操られている。
そしてその(別の私)というのは、「私」というよりは、(作られた私)ということがわかる。
仮に私が後世に残るような業績を成し遂げたとしても、(そういうことはありえないが……)、そ
れは(操られた結果)としてそうなっただけということになる。

●不幸な過去

 では、ニュートンやアインシュタインは、どうだったのか?
病跡学によれば、不幸な過去が、こうした偉人たちの業績に、大きな影響を与えたのがわか
る。
もしこれらの人が、平和でのどかな時代に生まれ、家族の愛に包まれて育ったなら、ニュートン
やアインシュタインは、今で言う、ニュートンやアインシュタインにはならなかったかもしれない。
そこそこの人物にはなったかもしれないが、毎年、数か月単位で、どこかの保養地でのんびり
と休暇を過ごしていたかもしれない。

●やはり、私は私 

 しかしやはり、「私は私」。
言うなれば、歩きつづける旅人。
そうでない人たちから見れば、「かわいそうな男」ということになる。
しかし私自身は、歩きつづけていることが、楽しい。
追い立てられているというよりは、その先に何があるか、それを知りたい。
また知るのが、楽しい。

 (歩きつづける部分)が、強迫神経症によるものだとしても、(楽しいと思う部分)は、「私」であ
る。
(あるいは楽しいと思う部分まで、作られた私なのだろうか……?)

 今の今も、来週あたり届けられる高性能のパソコンで、頭の中はいっぱい。
どうやってファイルを移動させるか、……これが大問題だが、そんなことなかりを考えている。
プリンターも新調するつもり。
MSのパブリシャーなども使っているが、WINDOW7で、はたしてそのまま使えるだろうか。
使えないときは、どうしたらよいだろうか。
「XP」も使えるようにと、OSは、WINDOW7の、プロフェッショナル版にした。
プロフェッショナル版なら、仮想XPを、WINDOW7上で、動かすことができる。
……つまりこうして考えているのが、正しい。

●性質

 要するに、「偉人」と呼ばれる人には、それぞれふつうでない過去があったということか。
あるいはふつうでない特殊な環境に生まれ育った。
それがバネとなって、ニュートンをニュートンにし、アインシュタインをアインシュタインにした。

 が、ここでひとつ重要な要素を忘れているのに、気づく。
ニュートンもそうでなかったかと言われているが、アインシュタインについては、子どものころ、
今で言うAD・HD児だったと言われている。
モーツアルトもそうだったし、チャーチルもそうだった。
エジソンも、そうだったと言われている。

 こうした生来の性質は、どう計算の中に組み込んだらよいのか。
AD・HD児特有の無鉄砲さが、加齢とともに、よい方向に向くということはよくある。
もともと行動力があり、好奇心も旺盛である。
それがある年齢を超えると、その人を前向きにぐんぐんと引っ張り始める。

●運命論

 病跡学は、そういう意味では、運命論と似ている。
科学的な運命論ということになる。
それぞれの人には、無数の(糸)がからんでいる。
その糸が、ときとして、その人の進むべき道を決めてしまう。
そのときどきは、自分の意思でそうしていると思っていても、結果として、その糸に操られてしま
う。

 で、その運命と闘う方法もある。
その第一が、自分を知るということ。
そのためには、病跡学というのは、たいへん興味深い。
自分を知れば知るほど、運命をコントロールできる。
そう考えてもよい。

 同書には、つぎのようにある。

『病跡学(パトグラフィー)……文学研究・歴史研究と精神病理学・臨床心理学の境界領域の学
問である。著名な人物、とくに「天才」の精神病理を分析し、その人間の創造的な行動や業績・
作品の、より深い理解に役立てる。
伝記的事実や作品を資料として、その人間の精神病理を描き出す』(同書、P149)と。

 「ああ、だからあの人は、ああなったのだ」と考えることによって、その先に、「ああ、だから私
は、こうなったのだ」とわかってくる。
それが病跡学ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 運命 運命論 病跡学 パトグラフィー はやし浩司 アインシュタイン ニュート
ン)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●12月16日(水曜日)

今朝は、ふとんに入りこむ冷気で目が覚めた。
あわててワイフにしがみつく。
が、時計を見ると、6時。
自分に号令をかけて、ふとんから出る。

トイレから出ると、すぐウォーキング・マシーンに。
10分も歩くと、体がポカポカしてきた。
そのまま服に着替えて、書斎へ。

あとはいつものルーティーン。
自分で書いた『老後論』(12月16日マガジン)を
読んで、「そうだ」「そうだ」と、何度も納得する。
当然のことながら、自分で書いた原稿を読むのは
気持ちがよい。
スーッと頭の中に、思想がしみ込んでいく。
(当然のことだが……。)
さあ、今日も始まった。

●暖気

あまり寒いのもよくないが、暖かいのもよくない。
ものを書くには、ある程度の(きびしさ)が必要。
その(きびしさ)がないと、脳みそそのものが、眠ってしまう。
だらけた体では、仕事はできない。
同じように、なまけた頭では、文章は書けない。

が、今朝の寒さは、格別。
足の先、手の先が、ツンと冷える。

ところでおとといの夜、映画『パブリック・エネミー』という映画を観てきた。
あんな凶悪犯人でも、仕立て方によって、ヒーローになってしまう。
昔観た、『ゴッド・ファーザー』もそうだった。
よくできた映画だった。
星は4つの、★★★★。
少し採点が甘いかな?

ガタガタ……。
先ほどワイフが、朝のお茶を届けてくれた。
「ヒーターをつけたら?」と言ってくれた。
しかしヒーターをつけたとたん、眠くなってしまう。
「あとで居間へ行くよ」と言った。

それにしても今朝は、寒い。
今、動画のアプロードをしている。
それがすんだら、居間へ行くつもり。
おなかもすいた。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●内面対話法(内的対話法)(自分を知るために)


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自分を知る……つまり「私」の中の深層部(=深層心理)を
知るためのひとつの方法として、「内面対話法」というのがある。
(この名称と方法は、私が考えた。)


簡単に言えば、頭の中に、別のだれか(=自分)を思い浮かべ、
その人と対話をすることによって、自分の心の
奥深くに潜む「私」を知るという方法である。


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【方法】


 静かな場所を選ぶ。
周囲は、暗いか、薄暗いところがよい。
目は閉じる。


 閉じると、あたりはぼんやりとした暗闇に包まれる。
その闇の向こうに、問いかける相手を想像する。
ぼんやりとした輪郭(りんかく)程度でよい。
その相手というのは、あなた自身でもよいし、別のだれかでもよい。
その相手に向かって、いろいろ、問いかけてみる。
問いかけながら、その答の中から、自分で気がつかなかったものを見つけていく。


●対話


 問いかける内容は、何でもよい。
何か、あなたが今、悩んだり、苦しんだりしていることがあれば、それについて問いかけるのが
よい。


問:あなたはだれか?
問:あなたは何をしているか?
問:あなたは何をしたいか?
問:あなたの心をふさいでいるものは、何か?
問:どうして悩んでいるか?
問:どうすればよいと思っているか?
問:何かよい方法を、あなたは知っているか?
問:あなたはどこに原因があると思うか?


 頭の中で、その相手がどう答えるかについては、何も考えてはいけない。
相手がだまっていたら、そのままにしておく。


 こうして自分に問いかけながら、その中から自分を発見していく。


●私のばあい


 いきなりやっても、ザワザワとした感じになってしまう。
就寝前、あるいは寝起き後がよい。
で、私は、この方法を、いろいろな場所で試している。
「私の中の私」に、いろいろ質問している。
いつの間にか、そういう習慣が、身についてしまった。


「そこにいる君は、だれか?」……(ぼんやりとした黒い影、無言)
「君は、なぜ、そこにいるのか?」……(無言)
「気分は、どうだ?」(何度も問う)……「ぼくは何ともない。お前はどうだ?」
「君は、暗いな」……「見た感じで、決めつけるな」
「何か、しゃべれ」……(無言)
「会話は嫌いか?」……「わずらわしい」と。


●本当の私


 子どものころから、私は快活な子ということになっていた。
しかし本当の私は、混雑した場所が嫌い。
集団の中に入ると、すぐ神経疲れを起こす。
旅行でも、集団で行くよりは、少人数、
あるいはひとり旅のほうを、好む。


 そういう(私)が、こうした内面対話法の中でも、顔を出す。
私は、自分では騒々しい人間だと思うが、しかし騒々しいところが嫌い。
とくにあの女性たちがする、おしゃべりが、苦手。
これには私の母や姉が、たいへんなおしゃべりで、口うるさかったことが関係している。


●自己暗示


 内面対話法は、自己暗示法としても、応用できる。
暗闇の中の自分に語りかけることによって、深い、無意識の世界にいる自分を、作り変えるこ
ともできる(?)。
そういう論文は見たことはないが、理論的には、可能なはず。


「お前なア、取り越し苦労ばかりしているが、もう少し、他人を信用しろ」……(無言)
「このところ運動量が減っている。もっと運動しろ」……「そうだな」
「どういう運動が必要と考えているんだ?」……「上半身の運動かな」
「グチを言うなよ。見苦しいぞ」……「うん」
「何でも、先手、先手で、やるんだ」……(無言)
「Aさんには、親切にしてやれ。さみしがっているぞ」……(わかった)と。


 応用の仕方は、いろいろある。


 ほかにいくつか気がついた点をメモしておく。


●もう1人の私


意識している私を、「私A」とする。
内面対話法による私を、「私B」とする。
この私Aと、私Bは、明らかに価値観がちがう。
性質も性格も、ちがう。


 私Aは、ひょうきんで、冗談が好き。
おしゃべりで、社交的。
正義感が強く、議論好き。


一方、私Bは、あまり冗談を言わない。
カタブツで、まじめ。
冷静で、それでいて、面倒くさがり屋。


 恐らく人によって、私Aと私Bは、ちがう。
で、これはあくまでも私のばあいだが、私は基本的には、私Bのほうが、本当の私ではないか
と思う。
しかし長い人生の間に、生きる技術として、私Aを身につけてきた。
またそういう環境で、生まれ育ってきた。


 ともあれ、だからといって、深刻に考える必要はない。
内面対話法といっても、心の遊びのようなもの。
適当にやって、適当に楽しめばよい。


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浩司 BW 内面対話法 内的対話法 心の対話法 はやし浩司 深層心理 私の中の私 内
面会話法 内的会話法)


●(補記)信仰的連帯性


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この内面対話法というのは、信仰者と
言われる人たちは、日常的に経験している。
とくに仏教では、「心仏」という言葉を使う。
「仏は心の中にいる」と説く。


(本当は「いる」のではなく、「いると思っている」だけ
なのだが……。)


あるいはキリスト教徒も、同じようなことを言う。
ともに内面対話法を使い、自分の心の中の、仏や神と対話する。


+++++++++++++++++++++


 仏教の世界には、「異体同心」という言葉がある。
「体は別々でも、心はひとつ」という意味である。
何かの対象物に向かって祈ったり、唱題していると、あたかもみなの心が、仏(神)の小心と融
合し、一体化したかのように感ずることがある。
信仰の世界だけではない。
スポーツの世界でも、音楽の世界でもよい。
みなでひとつのチームを応援したり、コンサートで熱狂しているようなときを想像してみればよ
い。


こうして信仰者たちは、連帯性を感ずる。
が、この連帯性こそが、こうした信仰の最大の魅力ということになる。
こうした連帯性があるからこそ、信者どうしは、ときには親子以上、兄弟以上の関係を結ぶこと
ができる。
連帯性を感じたとたん、孤独が癒される。
この魅力は、何ものにも代えがたい。


一方、教団側は、それを熟知しているから、それを利用して信者を教団に縛る。
「この教団から離れたら、地獄へ落ちますよ」と。
(実際、教団から離れた直後というのは、地獄へ落ちたかのような孤独を覚えることが多いが
……。)


●宗教戦争


 ここにも書いたように、信仰的連帯性は、きわめて強固なものである。
その世界を知らない人には、想像もつかないような世界と言ってもよい。
古今東西、「宗教戦争」と言われるものが、どういうものであったかを知れば、それがわかるは
ず。
信者たちは、命をかける。
現在のイラク、アフガニスタンを例にあげるまでもない。
とても残念なことだが、アメリカ軍には、それがわかっていない。
つまりどれほど長く戦ったところで、アメリカ軍に勝ち目はない。
信仰的連帯性というのは、そういうもの。


●問題点


 思想は大脳の皮質部(連合野)を支配する。
しかし信仰は、その何10万倍もあるとされる、深層心理部を支配する。
信仰は理屈ではない。
信仰を理屈で考えても、意味はない。
そこで内面対話法ということになるが、信仰者のばあい、内在する(相手)というのは、彼らが
信仰する神(仏)ということになる。


 ある男性(40歳くらい、当時)は、こう言った。
「古い寺で、徹夜で読経していたときのこと。
自分の周りで、何10人もの人たち(=死者たち)がいっしょに唱和してくれた」と。


 また別の女性(40歳くらい、当時)は、こう言った。
「私は目を閉じれば、そこにいつも神の存在を感じます」と。


 それぞれの人は、それぞれの思いをもって信仰の世界に入る。
両親の死や病気、家族や経済的な問題など。
だからそういう信仰を否定してはいけない。
そっとしておいてやることこそ、大切。


 問題という問題ではないかもしれないが、しかしときとして、人はそれを神や仏と錯覚すること
もある。
内面対話法には、そんな問題も隠されている。


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浩司 BW 内面対話法 内面的対話法 私の中の私 私論)



Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司


●Sさんの死


 いろいろ世話になった、土建業者のSさん(男性)が、おととい亡くなった。
ここ数年、人工透析を受けていたというから、そのつど心配はしていたが、まさかこんなに早く
亡くなるとは思っていなかった。
年齢は確かではないが、いつだったか、私より、5〜6歳若いということを知った。
それによれば、享年、52〜3歳ということになる。


 暴飲暴食、それにヘビースモーカー。
最後に世話になったとき、Sさんは、緑内障か何かで、左目が見えなかったのではないか。
小路から大通りに右折して出るとき、左側から来た車と、あやうく衝突にしそうになったことが
ある。
以来、あれこれ理由をこじつけ、Sさんの運転する車には、乗らないようにしていた。
が、亡くなってみると、それもよい思い出。


私の代わりに、息子に、今日は葬儀に行ってもらった。


●アルツハイマー病の、初期の初期症状


 アルツハイマー病の初期の、そのまた初期症状があるという話は、よく聞く。
医学書にも、そういう症状が載っている。
そのひとつが、心の余裕がなくなってくること。


 ふつうなら笑ってすますようなころでも、このタイプの人にはそれができない。
こんなことがあった。


 ワイフがXさん(当時64歳、女性)に、何かのことで、3桁の番号を話したときのこと。
ワイフは、「347」と言った。
そのときXさんは、「347……ね」と言いながら、自分の手帳にメモを取った。
が、ワイフが見ると、それに、「473……」と書こうとしていた。
そこでワイフが、Xさんに、「473ではないですよ。347……」と言いかけたところで、Xさんは、
激怒。
血相を変えて、こう怒鳴ったという。


「わかっています。今、3と書こうとしていたところです!」と。


 アルツハイマー病の初期の人が、取り繕(つくろ)いや、つじつま合わせがうまくなるというの
は、よく知られている。
しかしその前の段階として、怒りっぽくなるということは、あまり知られていない。
怒りっぽくなるというよりは、心の余裕がなくなり、ささいなミスを指摘されただけで、おおげさに
激怒したりする。


 ふつうなら、(「ふつう」という言葉は適切ではないかもしれないが)、笑ってすます。
「ハハハ、3でしたね。ハハハ」と。


 この「ハハハ」と笑ってすます部分が少なくなってくる。
言い換えると、心の余裕をもつということによって、認知症になるのを防げるのではないか。
たとえばジョーク。
ジョークの通ずる人は、それだけ心が広い人ということになる。
同時に、少なくとも、アルツハイマー病の心配はない人ということになる。


 今日、車の中で、ワイフとそんな会話をした。


●気候


 冬になるたびに、こう思う。
「浜松に住むようになって、よかった」と。


 浜松、とくに浜名湖周辺は、日本でも鹿児島県につぐ、気候の温暖な地域として知られてい
る。
真冬でも、緑の木々が美しい。
種類も豊富。


 が、その一方で、地球温暖化(Global Warming)が、問題になっている。
この浜松も、温暖な気候が、ますます温暖化している。
ときどき喜んでいていいのかなあと、迷う。


 しかしここは楽天的にとらえるしかない。
心配しても、しかたない。
暖かい冬、おおいに結構、と。
(無責任な発言で、ごめん!)。


 そんなこともあって、今日、ワイフと西区引佐町にある、城山公園に登ってみた。
12月16日。
今ごろ、この浜松では、紅葉が、もっとも美しくなる。
全国的にみれば、もっとも遅い秋。
マガジンに載せる写真を、30枚近く撮った。


●どこかのバカ


 どこかのバカ知事が、こう言ったそうだ。
「(現在の)福祉制度は、障害者を生き延びさせるだけだ」と。


 こういうバカがいるから、日本はよくならない。
またこういうバカを選ぶ選挙民がいるから、日本はよくならない。
この発言を裏から読むと、「障害者は、早く死ね」という意味になる。
小学生だって、わかる。
小学生だって、こんなバカなことは言わない。


 が、当の知事は、「辞任しない」と、がんばっているという。


●天皇の政治利用


 一方、中央では、天皇の政治利用が問題になっている。
民主党のOZ氏の要請で、天皇が急きょ、中国の副首相と会うことになった。
それについて、宮内庁の長官が、苦言を呈した。
これにOZ氏が反発。
右翼も、反対の立場で、反発。
自民党も反発。
何だか、三つ巴(どもえ)、四つ巴の混乱を呈してきた。


 しかし肝心の天皇の意思が見えてこない。
つまりこのあたりに、日本の天皇制度の最大の問題が隠されている。


 私たちは一度だって、天皇の意思を確かめたことがない。
本当の気持ちを聞いたことがない。
「天皇という、日本国にあって最高の要職を務めていただけますか?」と。
そういうことを一度もしないでおいて、「天皇は幸福なはずだ」と決めつけてかかるのも、どう
か?


 「政治的利用」とは言うが、天皇だって1人の人間。
いろいろな思いもあるだろう。
意見もあるだろう。
政治的な意見も、当然、それに含まれる。


 言論の自由とはいうが、天皇には、言論の自由すらない。
それがいかに窮屈なものであるかは、私にはわかる。
わかるから、もし私なら、「天皇か、それとも自由か」と問われれば、迷わず、「自由」を選ぶ。
そのことは、以前、『世にも不思議な留学記』の中でも書いた。


 会いたければ会えばよい。
会いたくなければ、会わなくてもよい。
「1時間くらいなら、何とか……」ということになるかもしれない。
「このところ、体の調子がよくありませんから……」ということになるかもしれない。
天皇がどういう判断をしても、私たちは天皇を支持する。

 それが民主主義の精神ではないのか。


++++++++++++++++++


『世にも不思議な留学記』より


++++++++++++++++++


王子、皇太子の中で【27】


●VIPとして


 夏休みが近づくと、王子や皇太子たちは、つぎつぎと母国へ帰っていった。もともと彼らは、
勉強に来たのではない。研究に来たのでもない。目的はよくわからないが、いわゆるハクづ
け。


 ある国の王子の履歴書(公式の紹介パンフ)を見せてもらったことがある。当時は、海外へ
旅行するだけでも、その国では重大事であったらしい。それには旅行の内容まで書いてあっ
た。「○○年X月、イギリスを親善訪問」とか。


 一方、オーストラリア政府は、こうしたVIPを手厚く接待することにより、親豪派の人間にしよう
としていた。そういうおもわくは、随所に見えた。いわば、先行投資のようなもの。一〇年先、二
〇年先には、大きな利益となって帰ってくる。


 私のばあいも、ライオンズクラブのメンバーが二人つき、そのつど交互にあちこちを案内して
くれたり、食事に誘ってくれたりした。おかげで生まれてはじめて、競馬なるものも見た。生まれ
てはじめて、ゴルフコースにも立った。生まれてはじめて、フランス料理も食べた。


●帝王学の違い?


 私たち日本人は、王子だ、皇太子だというと、特別の目で見る。そういうふうに洗脳されてい
る。しかしオーストラリア人は、違う。イギリスにも王室はあるが、それでも違う。少なくとも「おそ
れ多い」という見方はしない。


 このことは反対に、イスラム教国からやってきた留学生を見ればわかる。王子や皇太子を前
にすると、「おそれ多い」というよりは、まさに王と奴隷の関係になる。頭をさげたまま、視線す
ら合わせようとしない。その極端さが、ときには、こっけいに見えるときもある(失礼!)。


 で、こうした王子や皇太子には、二つのタイプがある。いつかオーストラリア人のR君がそう言
っていた。ひとつは、そういう立場を嫌い、フレンドリーになるタイプ。もうひとつは、オーストラリ
ア人にも頭をさげるように迫るタイプ。アジア系は概して前者。アラブ系は概して後者、と。


 しかしこれは民族の違いというよりは、それまでにどんな教育を受けたかの違いによるもので
はないか。いわゆる帝王学というのである。たとえば同じ王子でも、M国のD君は、ハウスの外
ではまったく目立たない、ふつうのズボンをはいて歩いていた。かたやS国のM君は、必ずスリ
ーピースのスーツを身につけ、いつも取り巻きを数人連れて歩いていた。(あとでその国の護
衛官だったと知ったが、当時は、友人だと思っていた。)


●王族たちの苦しみ


 私は複雑な心境にあった。「皇室は絶対」という意識。「身分差別はくだらない」という意識。こ
の二つがそのつど同時に現れては消え、私を迷わせた。


 私も子どものとき、「天皇」と言っただけで、父親に殴られたことがある。「陛下と言え!」と。
だから今でも、つまり五六歳になった今でも、こうして皇室について書くときは、ツンとした緊張
感が走る。が、それと同時に、なぜ王子や皇太子が存在するのかという疑問もないわけではな
い。ただこういうことは言える。


 どんな帝王学を身につけたかの違いにもよるが、「王子や皇太子がそれを望んでいるか」と
いう問題である。私たち庶民は、ワーワーとたたえれば、王子や皇太子は喜ぶハズという「ハ
ズ論」でものを考える。しかしそのハズ論が、かえって王子や皇太子を苦しめることもある。


 それは想像を絶する苦痛と言ってもよい。言いたいことも言えない。したいこともできない。一
瞬一秒ですら、人の目から逃れることができない……。本人だけではない。まわりの人も、決し
て本心を見せない。そこはまさに仮面と虚偽の世界。私はいつしかこう思うようになった。


 「王子や皇太子にならなくて、よかった」と。これは負け惜しみでも何でもない。一人の人間が
もつ「自由」には、あらゆる身分や立場を超え、それでもあまりあるほどの価値がある。「王子
か、自由か」と問われれば、私は迷わず自由をとる。

 私はガランとしたハウスの食堂で、ひとりで食事をしながら、そんなことを考えていた。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●新しい日本の流れ(再考版)


++++++++++++++++++


古い原稿を、読み直している。
日付は、2007年となっているが、
実際には、もっと古いと思う。
記事の内容からして、2000〜2001年
ごろ書いたものではないかと思う。


こうして古い原稿を読みなおしてみると、
古い原稿そのものが、私の一部になっているのが
わかる。


私は(過去)の上に立っている。
と、同時に、2つのことに気づく。


ひとつは、「その通りだ」と思う部分。
もうひとつは、「少し、おかしいぞ?」と
思う部分。
この10年の間に、世間の事情も大きく
変化した。
私自身も、変化した。


が、基本的には、私は(過去)の上に
立っている。


つっこみの甘いエッセーだが、「10年前に
は、こんなことを考えていたのか」と
思いながら、読んだ。
現状に合わない意見もあるが、それはそれとして
許してほしい。


が、その一方で、今、教育の世界が、私が予想
した通りに動きつつあるのを知るのは、
楽しい。


たとえば「学力」の見直しも進んでいる(09年)。
入試制度も、この10年のうちに、大きく
変わりつつある。


そんなことも考えながら、以下の原稿を読んで
いただければ、うれしい。


+++++++++++++++++

 
 日本の教育は、今、知識偏重の詰めこみ教育から、議論をしながら考える教育へと、その転
換期にある。
多くの学校で、今まで私たちが知らなかった試みが、なされている。


 今までは、知識詰め込み式の教育でよかったが、これからは、もう、そういう教育は、通用し
ない。それはもう、だれの目にも、明らかである。
(しかしその亡霊は、社会や化学など、いたるところに残ってはいるが……。)


 と書いても、私に、何か、具体的な方法論があるわけではない。私は、こういうとき、つまり、
自分がどこか袋小路に入ったのを感じたようなときは、ネットサーフィンをしながら、あちこちで
世界の賢者たちの言葉を読むことにしている。


 世界の賢者たちの言葉を、あちこちから拾って、訳をつけてみた。


+++++++++++++


★The important thing is not to stop questioning. - Albert Einstein
「重要なことは、問いつづけることだ」(A・アインシュタイン)


★Those who educate children well are more to be honored than parents, for these gave 
only life, those the art of living well. - Aristotle 
「子どもをよく教育するものは、両親より、称えられる。なぜなら、両親は、命を与えるだけだ
が、子どもをよく教育するものは、生きる技術を与えるから」(アリストテレス)


★They were majoring in two subjects: physics and philosophy. Their choice amazed 
everybody but me: modern thinkers considered it unnecessary to perceive reality, and 
modern physicists considered it unnecessary to think. I knew better; what amazed me was 
that these children knew it, too. - Ayn Rand
「彼らは、物理学と哲学のふたつを専攻していた。その選択は、私をのぞいて、みなを驚かせ
た。しかし近代の思想家は、現実を認知することを、不必要と考えた。そして近代の物理学者
は、思索することを、不必要と考えた。しかし私は、私を驚かせたことは、これらの子どもたち
も、それを知っていたということを、よりよく知っていた」(A・ランド)


★"Most of all, perhaps, we need an intimate knowledge of the past. Not that the past has 
anything magical about it, but we cannot study the future." - C.S. Lewis
「私たちのほとんどは、たぶん、過去をよくしる必要がある。それは、過去が何か神秘的である
からということではなく、過去を知らなければ未来を学ぶことができないからである」(C・S・ル
イス)


★Frederick Douglass taught that literacy is the path from slavery to freedom. There are 
many kinds of slavery and many kinds of freedom. But reading is still the path. - Carl Sagan
「フレドリック・ダグラスは、読み書きの能力は、奴隷を解放する道だと教えた。いろいろな種類
の奴隷制度があり、いろいろな種類の自由があるが、読書は、まさにその道である」(C・サガ
ン)


★I hear and I forget. I see and I remember. I do and I understand. - Confucius
「私は聞いて、そして忘れる。私は見て、そして覚える。私は行動して、そして理解する」(孔子)


★The true genius shudders at incompleteness - and usually prefers silence to saying 
something which is not everything it should be. - Edgar Allen Poe
「真の天才は、未完成さに、身震いする。つまり真の天才は、それがすべてでない何かを語る
よりも、沈黙をふつう、好む」(E・A・ポー)


★To know what to leave out and what to put in; just where and just how, ah, THAT is to 
have been educated in the knowledge of simplicity. - Frank Lloyd Wright
「どこにどのように、何を捨て、何を取り入れるか……つまりそれが、単純な知識として、教育さ
れるべきことである」(F・L・ライト)


★You cannot teach a man anything; you can only help him find it within himself. - Galileo 
Galilei
「あなたは人に教えることなどできない。あなたはただ、人が彼の中にそれを見つけるのを、助
けることができるだけである」(G・ガリレイ)


★What office is there which involves more responsibility, which requires more qualifications, 
and which ought, therefore, to be more honourable, than that of teaching? - Harriet 
Martineau 
「教育の仕事以上に、責任があり、資格を必要とし、それゆえに、名誉ある仕事が、ほかのど
こにあるだろうか」(H・Martineau)


★A child's wisdom is also wisdom - Jewish Proverb
「子どもの智慧も、これまた智慧である」(ユダヤの格言)


★The teacher, if indeed wise, does not bid you to enter the house of their wisdom, but 
leads you to the threshold of your own mind. - Kahlil Gibran
「本当に賢い教師というのは、あなたを決して彼らの智慧の家に入れとは命令しないもの。しか
し本当に賢い教師というのは、彼ら自身の心の入り口にあなたを導く」(K・ギブラン)


★We have to continually be jumping off cliffs and developing our wings on the way down. - 
Kurt Vonnegut
「私たちはいつも、崖(がけ)から飛び降りる。飛び降りながら、その途中で、翼を開発する」
(K・Vonnegut)


★Just as iron rusts from disuse, even so does inaction spoil the intellect. - Leonardo Da 
Vinci
「鉄がさびて使い物にならなくなるように、何もしなければ、才能をつぶす」(L・ダビンチ)


★Truth is eternal. Knowledge is changeable. It is disastrous to confuse them. - Madeleine L'
Engle
「真実は永遠である。知識は、変化しうるもの。それらを混同するのは、たいへん危険なことで
ある」(M・L'Engle)


★Never let school interfere with your education. - Mark Twain
「学校を、決して、あなたの教育に介在させてはならない」(M・トウェイン)


★Education is an admirable thing, but it is well to remember from time to time that nothing 
that is worth knowing can be taught. - Oscar Wilde
「教育は、賞賛されるべきものだが、しかしときには、価値ある知識は教えられないということ
も、よく覚えておくべきである」(O・ワイルド)


★You must train the children to their studies in a playful manner, and without any air of 
constraint, with the further object of discerning more readily the natural bent of their 
respective characters. - Plato「あなたは子どもを、遊びを中心とした方法で指導しなければな
らない。強制的な雰囲気ではなく、彼らの好ましい性格の自然な適正を、さらに認める目的を
もって、そうしなければならない」(プラト)


★In every man there is something wherein I may learn of him, and in that I am his pupil. - 
Ralph Waldo Emerson
「どんな人にも、彼らの中に、私が学ぶべき何かがある。そういう点では、私は生徒である」
(R・W・エマーソン)


★We, as we read, must become Greeks, Romans, Turks, priest and king, martyr and 
executioner, that is, must fasten these images to some reality in our secret experience, or 
we shall see nothing, learn nothing, keep nothing. - Ralph Waldo Emerson
「読書することによって、私たちは、ギリシア人にも、ローマ人にも、トルコ人にも、王にも、殉教
者にも、死刑執行人にも、なることができる。つまり読書によって、こうした人たちのイメージ
を、私たちの密かな経験として、現実味をもたせることができる。読書をしなけば、何も見るこ
とはないだろうし、何も学ぶことはないだろうし、何も保持することはないだろう」(R・W・エマー
ソン)


★Education is a sexual disease, IT makes you unsuitable for a lot of jobs and then you have 
the urge to pass it on. - Terry Pratchett
「教育は、性病だ。つまり教育によって、ジョークがわからなくなり、そのためそれをつぎつぎ
と、人にうつしてしまう」(T・プラシェ)


★I am always doing what I cannot do yet, in order to learn how to do it - Vincent Van Gogh 
「私はいつも、まだ私ができないことをする。それをいかにすべきかを学ぶために」(V・V・ゴッ
フォ)



【考察】


●これらの教育格言の中で、とくにハッと思ったのが、エドガー・アラン・ポーの「真の天才は、
未完成さに、身震いする。つまり真の天才は、それがすべてでない何かを語るよりも、沈黙を
ふつう、好む」という言葉である。


 わかりやすく言えば、「ものごとを知り尽くした天才は、自分の未熟さや、未完成さを熟知して
いる。だから未熟なことや、未完成なことを人に語るよりも、沈黙を守るほうを選ぶ」と。私は天
才ではないが、こうした経験は、日常的によくする。


 私のばあい、親と私の間に、どうしようもない「隔たり」を感じたときには、もう何も言わない。
たとえば先日も、こんなことを言ってきた母親がいた。


 「先祖を粗末にする親からは、立派な子どもは生まれません。教育者としても失格です」と。


 30歳そこそこの若い母親が、こういう言葉を口にするから、恐ろしい。何をどこから説明した
らよいかと思い悩んでいると、そのうち私の脳の回路がショートしてしまった。火花がバチバチ
と飛んでいるのがわかった。だから私は、「ハア〜?」と言ったまま、おし黙ってしまった。


 私自身は、先祖を否定したようなことは、一度もないのだが……。(念のため。)


●つぎに「私たちはいつも、崖(がけ)から飛び降りる。飛び降りながら、その途中で、翼を開発
する」と言った、K・Vonnegut。英語では、何と読むのだろうか。それはともかくも、これは私の
持論でもある。以前私は、「人間の創意工夫は、絶壁に立たされて、はじめて生まれる」と書い
た。


 少し前だが、ある教育審議会のメンバーをしたこともあるF氏から、相談を受けた。「学校教
育に蔓延(まんえん)している沈滞感は、どうしたら克服できるか」と。


 それに対して私は、「教師を絶壁に立たせないと、ダメです」と。


 こう書くと学校の先生は、不愉快に思うかもしれないが、ここは怒らないで聞いてほしい。


 学校の先生たちは、たしかに忙しい。同じ公務員でも、給料が20%増しという理由も、そこに
ある。納得できる。しかしそれでも、一般世間の、つまりは民間企業に働く労働者とは、待遇や
職場環境が、基本的に違う。


 たとえば私立幼稚園にしても、今、少子化の波をもろにかぶり、どこも四苦八苦している。経
営のボーダーラインといわれている、200人(園児数)を割っている幼稚園は、いくらでもある。
もっとも経営者自身は、それほど深刻ではない。すでにじゅうぶんすぎるほどの財力を蓄えて
いる。悲惨なのは、そこで働く保育士の先生たちである。安い給料の上、いつリストラされるか
と、ビクビクしている。中には、園児獲得のノルマを、先生たちに課している幼稚園もある。(ほ
とんどの幼稚園が、そうではないか?)


 だから毎年、10月前後になると、先生たちは、案内書や簡単なみやげをもって、幼児のいる
家を、1軒ずつ回っている。「教える」だけではなく、生徒集めにまで、神経をつかっている。し
かも、その先は、まさに絶壁!


 こうした危機感があるから、当然のことながら、教えることについても、ある種の緊張感が生
まれる。その緊張感が、教育の質を高める。もし本当に、教育の質を高めようと思うなら、こう
した緊張感を、人為的につくるしかない。


 残念ながら、それから先の方法については、私もわからない。しかしこれだけは言える。学校
の先生たちも、勇気を出して、崖から飛び降りてみてほしい。翼、つまり創意工夫は、飛び降り
ている間に生まれる。



●三つ目に、アリストテレスの、「子どもをよく教育するものは、両親より、称えられる。なぜな
ら、両親は、命を与えるだけだが、子どもをよく教育するものは、生きる技術を与えるから」とい
う言葉。


この訳は正確ではないと思う。思うのは、冒頭の「Those」を、「親」と訳すべきか、「教師」と訳
すべきかで、意味がまるで変わってくる。


「親」とみると、「だれでも子どもを産めば親になるが、生きる技術を与えて、親は、真の親とな
る」と解釈できる。


 一方「教師」とみると、「生きる技術を与える教師は、親よりすばらしい」と訳せる。どちらが正
しいかわからないという意味で、「この訳は正確ではないと思う」と書いた。


 一般論として、欧米の教育の「柱」は、ここにある。どの人に会っても、彼らは、「教育の目標
は、「子どもに生きる技術を与えること」と言う。オーストラリアの友人(M大教授)も、かつてこう
教えてくれた。


 「教育の目標は、私たちのもつ知恵や経験を、子どもたちがつぎの世代を、よりよく生きてい
くことができるように、それを教え伝えることだ」と。


 つまり「実用的なのが教育」ということになっている。しかしこの日本には、むしろ実用的であ
ってはならないという風潮すらある。日本の教育は、将来学者になるためには、すぐれた体系
をもっている。しかし、だ。みながみな、学者になるわけではない。あるいは将来、学者になる
子どもは、いったい何%、いるというのか。


 英語にしても、数学にしても、将来、英語の文法学者や、数学者になるには、すぐれた体系
をもっている。しかしそのため、おもしろくない。役にたたない。しかしこんなことは、30年前
に、すでにわかっていたことではないか。最近になって、やっと「役にたつ」という言葉が聞かれ
るようになったが、それにしても、30年とは!


 要するに、子どもを産むだけでは、親ではないということ(失礼!)。自分の生きザマを、子ど
もに示してこそ、親は、親になる。そしてそれが親の役目ということになる。



+++++++++++++++++++

【新しい教育】


 教育を考えるときは、当然のことながら、年齢別、学年別に考えなければならないことは、言
うまでもない。


 その中でも、とくに幼児教育の重要性については、私は、たびたび書いてきた。


 それはともかくも、今度は、子ども自身がもつ、方向性にあわせた教育を考えなければならな
い。


 将来、すぐれた研究者になるための教育もあれば、その研究を利用した分野で活躍する人
材を育てるための教育もある。どちらが正しいとか、有用とかいうのではない。どちらかの立場
で、一方的に、相手に押しつけるのは、正しくないということ。


 そこで登場するのが、「教育の多様性の問題」である。アメリカの小学校を例にあげて考えて
みよう。



●アメリカの小学校


 アメリカでもオーストラリアでも、そしてカナダでも、学校を訪れてまず驚くのが、その「楽し
さ」。まるでおもちゃ箱の中にでも入ったかのような、錯覚を覚える。


たとえば、アメリカ中南部にある公立の小学校(アーカンソー州アーカデルフィア、ルイザ・E・ペ
リット小学校。児童数370名)。教室の中に、動物の飼育小屋があったり、遊具があったりす
る。


 アメリカでは、教育の自由化が、予想以上に進んでいる。


まずカリキュラムだが、州政府のガイダンスに従って、学校が独自で、親と相談して決めること
ができる。オクイン校長に、「ガイダンスはきびしいものですか」と聞くと、「たいへんゆるやかな
ものです」と言って笑った。


もちろん日本でいう教科書はない。検定制度もない。たとえばこの小学校は、年長児と小学一
年生だけを教える。そのほか、プレ・キンダガーテンというクラスがある。四歳児(年中児)を教
えるクラスである。費用は朝食代と昼食代などで、週六〇ドルかかるが、その分、学校券(バウ
チャ)などによって、親は補助されている。


驚いたのは4歳児から、コンピュータの授業をしていること。また欧米では、図書室での教育を
重要視している。この学校でも、図書室には専門の司書を置いて、子どもの読書指導にあたっ
ていた。


 授業は、1クラス16名前後。教師のほか、当番制で学校へやってくる母親、それに大学から
派遣されたインターンの学生の3人であたっている。アメリカというと、とかく荒れた学校だけが
日本で報道されがちだが、そういうのは、大都会の一部の学校とみてよい。周辺の学校もいく
つか回ってみたが、どの学校も、実にきめのこまかい、ていねいな指導をしていた。


 教育の自由化は、世界の流れとみてよい。たとえば欧米の先進国の中で、いまだに教科書
の検定制度をもうけているのは、日本だけ。オーストラリアにも検定制度はあるが、それは民
間組織によるもの。しかも検定するのは、過激な暴力的表現と性描写のみ。「歴史的事実につ
いては検定してはならない」(南豪州)ということになっている。


アメリカには、家庭で教えるホームスクール、親たちが教師を雇って開くチャータースクール、さ
らには学校券で運営するバウチャースクールなどもある。行き過ぎた自由化が、問題になって
いる部分もあるが、こうした「自由さ」が、アメリカの教育をダイナミックなものにしている。


 ドイツでは、中学生にしても、たいていは午前中だけで授業を終え、そのまま、それぞれのク
ラブに通っている。


 運動クラブだけではない。科学クラブもあれば、それぞれの趣味に合わせたクラブもある。そ
してそうした費用は、「チャイルドマネー」と呼ばれている補助金によって、まかなわれている。


【後書き】


内閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、二六%もいる(二〇〇
〇年)。九八年の調査よりも八%もふえた。むべなるかな、である。


 もう補習をするとかしなとかいうレベルの話ではない。日本の教育改革は、三〇年は遅れ
た。しかも今、改革(?)しても、その結果が出るのは、さらに二〇年後。そのころ世界はどこま
で進んでいることやら! 


日本の文部科学省は、いまだに大本営発表よろしく、「日本の教育レベルはそれほど低くはな
い」(※1)と言っているが、そういう話は鵜呑みにしないほうがよい。今では分数の足し算、引
き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。


「小学生レベルの問題で、正解率は五九%」(国立文系大学院生について調査、京都大学西
村和雄氏)(※2)だそうだ。


 あるいはこんなショッキングな報告もある。世界的な標準にもなっている、TOEFL(国際英語
検定試験)で、日本人の成績は、一六五か国中、一五〇位(九九年)。「アジアで日本より成績
が悪い国は、モンゴルぐらい。北朝鮮とブービーを争うレベル」(週刊新潮)だそうだ。


オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本に
は数えるほどしかいない。あの天下の東大でも、たったの二人。ちなみにアメリカだけでも、二
五〇人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い(田丸謙二氏指摘)。


 「構造改革(官僚主導型の政治手法からの脱却)」という言葉がよく聞かれる。しかし今、この
日本でもっとも構造改革が遅れ、もっとも構造改革が求められているのが、文部行政である。
私はその改革について、つぎのように提案する。


(1)中学校、高校では、無学年制の単位履修制度にする。(アメリカ)
(2)中学校、高校では、授業は原則として午前中で終了する。(ドイツ、イタリアなど)
(3)有料だが、低価格の、各種無数のクラブをたちあげる。(ドイツ、カナダ)
(4)クラブ費用の補助。(ドイツ……チャイルドマネー、アメリカ……バウチャ券)
(5)大学入学後の学部変更、学科変更、転籍を自由化する。(欧米各国)
(6)教科書の検定制度の廃止。(各国共通)
(7)官僚主導型の教育体制を是正し、権限を大幅に市町村レベルに委譲する。
(8)学校法人の設立を、許認可制度から、届け出制度にし、自由化をはかる。


 が、何よりも先決させるべき重大な課題は、日本の社会のすみずみにまではびこる、不公平
である。


この日本、公的な保護を受ける人は徹底的に受け、そうでない人は、まったくといってよいほ
ど、受けない。わかりやすく言えば、官僚社会の是正。官僚社会そのものが、不公平社会の温
床になっている。この問題を放置すれば、これらの改革は、すべて水泡に帰す。今の状態で教
育を自由化すれば、一部の受験産業だけがその恩恵をこうむり、またぞろ復活することにな
る。


 ざっと思いついたまま書いたので、細部では議論もあるかと思うが、ここまでしてはじめて「改
革」と言うにふさわしい。



(※1)
 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・99年)の調査によると、日本の中学生の学
力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港についで、第五位。以下、オーストラ
リア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続くそうだ。理科については、台湾、シンガポールに次い
で第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシア、と。


この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育
は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメントを寄せて
いる。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与え
るのは問題が残る」と述べていることとは、対照的である。


ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学生が最低(四八%)。「理科が好き」と答
えた割合は、韓国についでビリ二であった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外で勉強する
学外学習も、韓国に次いでビリ二。一方、その分、前回(九五年)と比べて、テレビやビデオを
見る時間が、二・六時間から三・一時間にふえている。


で、実際にはどうなのか。東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を公表
している。教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結果だそうだ。


この二〇年間(一九八二年から二〇〇〇年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、小学
六年生で、八〇・八%から、六一・七%に低下。分数の割り算は、九〇・七%から六六・五%に
低下。小数の掛け算は、七七・二%から七〇・二%に低下。たしざんと掛け算の混合計算は、
三八・三%から三二・八%に低下。全体として、六八・九%から五七・五%に低下している(同じ
問題で調査)、と。


 いろいろ弁解がましい意見や、文部科学省を擁護した意見、あるいは文部科学省を批判し
た意見などが交錯しているが、日本の子どもたちの学力が低下していることは、もう疑いようが
ない。


同じ澤田教授の調査だが、小学六年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、二
〇〇〇年度に三〇%を超えた(一九七七年は一三%前後)。反対に「算数が好き」と答えた子
どもは、年々低下し、二〇〇〇年度には三五%弱しかいない。原因はいろいろあるのだろう
が、「日本の教育がこのままでいい」とは、だれも考えていない。


少なくとも、「(日本の教育が)国際的にみてトップクラスを維持していると言える」というのは、も
はや幻想でしかない。


+++++++++++++++++++++


(※2)
 京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであったとい
う。


調査は一九九九年と二〇〇〇年の四月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学などを研
究する大学院生約一三〇人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。結果、二五点満点で平
均は、一六・八五点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、ある国立大学の文学部一年
生で、二二・九四点。多くの大学の学部生が、大学院生より好成績をとったという。)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●The important thing is not to stop questioning. - Albert Einstein
「重要なことは、問いつづけることをやめないことだ」(A・アインシュタイン)


 「考える教育」が、重要なことは言うまでもない。しかし「考える」という概念ほど、これまた抽
象的で、わかりにくい概念もない。


 そこでアインシュタインの言葉。


The important thing is not to stop questioning. 


 アインシュタインは、こう言っている。「重要なことは、問うことをやめないことである」と。


 つまり子どもに向かって、「考えなさい」と言っても、あまり意味はない。しかし子どもが何かの
ことで問うことにたいして、その問うことを、励まし、伸ばすことはできる。「ほほう、それはおもし
ろい質問だね」「なかなか鋭いね」と。

 たったそれだけのことで、子どもを、より深く、考える子どもに誘導することができる。つまり
「より考える子どもにしたい」と考えたら、「より質問を繰りかえす子どもにすること」を考えれば
よい。


 むずかしいことではない。


 子どもは、満4・5歳から5・5歳にかけて、「なぜ?」「どうして?」を繰りかえす時期にさしかか
る。乳幼児の思考的特徴(自己中心性、物活論、人工論など)からの脱却を、はかる。そして
その結果として、子どもは、より分析的なものの考え方や、より論理的なものの考え方をするこ
とができるようになる。


 この時期というのは、乳幼児から、少年、少女期への移行期にもあたる。


 この時期をうまくとらえれば、その「問う」という行為を、じょうずに引き出すことができる。が、
そうでなければ、そうでない。


 私としては、その重要性というか、幼児教育の重要性が理解してもらえなくて、歯がゆくてなら
ない。はっきり言えば、そのあとの、小中高、それに大学教育など、そのころできた方向性の、
燃えカスのようなもの。……というのは、少し言い過ぎかもしれないが、しかし、一度、この時期
にできた方向性が、その子どもの将来を、決定づける。またこの時期にできた方向性は、一度
できると、それ以後、なかなか変えることはできない。


 昨今、小学校教育の場でも、「より考える深く子ども」が、大きなテーマになっている。「総合的
な学習」というのも、そういう視点から、取り入れられたものである。それはそれとして評価され
なければならないが、もっと大切なことは、その(方向性づくり)である。


 そのために、(問う)という姿勢を伸ばす。テーマは何でもよい。どんなささいなことでもよい。


 日本では、「わかったか? では、つぎ」が、教育の基本になっている。しかしアメリカでは、
「君は、どう思う?」「それはすばらしい」が基本になっている(T先生、指摘)。そういう部分か
ら、つまりもっとベーシックな部分から、教育というより、子育てのあり方そのものを考えなお
す。


 それが結局は、日本の教育を変えていく、原動力になる。



【付録】


●ついでに、A・アインシュタインの語録を、集めてみた。(イギリス「Quote Cache」より)


It's not that I'm so smart, it's just that I stay with problems longer. 
(私は頭がきれるのではない。私はただ、その問題に、より長くかかわっているだけだ。) 


The physicist's greatest tool is his wastebasket. 
(物理学者のもっともすばらしい道具は、ごみ箱である。)


There are only two ways to live your life. One is as though nothing is a miracle. The other is 
as though everything is a miracle. 
(人生を生きるためには、たった二つの方法しかない。一つは、奇跡など、どこにもないと思う
生き方。もう一つは、すべては奇跡だと思う生き方。)


It was, of course, a lie what you read about my religious convictions, a lie which is being 
systematically repeated. I do not believe in a personal God and I have never denied this but 
have expressed it clearly. If something is in me which can be called religious then it is the 
unbounded admiration for the structure of the world so far as our science can reveal it. 
(私の宗教的な確信について、あなたが読んだことは、ウソである。つまり、意図的に繰り返さ
れてきたウソである。私は、個人的な神の存在を信じていないし、このことを否定したことは一
度もない。それについては、ここではっきりしておきたい。もし私の中に、宗教的なものがあると
するなら、それは、科学が明らかにした部分について、世界の構造について、無限の崇拝の念
でしかない。


We should take care not to make the intellect our god. It has, of course, powerful muscles, 
but no personality. 
知性的な人を神にしないよう、注意しなければいけない。もちろん知性的な人には、筋肉はあ
るが、人間性はない。


Fantasie ist wichtiger als Wissen. 


If my theory of relativity is proven succesful, Germany will claim me as German and France 
will declare that I am a citizen of the world. If my theory should prove to be untrue, then 
France will say that I am a German, and Germany will say that I am a Jew. 
もし私の相対性理論が正しいと証明されるなら、ドイツ人とフランス人たちは、私が世界市民で
あると宣言することについて、文句を言うだろう。もし私の理論がまちがっていると証明される
なら、フランスは私をドイツ人と呼び、ドイツは、私をユダヤ人と呼ぶだろう。


Any fool can make things bigger, more complex, and more violent. It takes a touch of genius-
"and a lot of courage--to move in the opposite direction. 
バカが、ものごとを、誇大し、複雑にし、暴力的にする。その反対方向にものごとを進めるため
には、転載的なひらめきと、勇気が必要である。


Great spirits have always encountered violent opposition from mediocre minds. 
偉大な精神というのは、いつも二流の精神からの猛烈な抵抗に出会うもの。


The human mind is not capable of grasping the Universe. We are like a little child entereing a 
huge library. The walls are covered to the ceilings with books in many different tongues. The 
child knows that someone must have written these books. It does not know who or how. It 
does not understand the languages in which they are written. But the child notes a definite 
plan in the arrangement of books--a mysterious order which it does not comprehend, but 
only dimly suspects. 
人間というのは、宇宙の構造を把握することはできない。それは小さな子どもが、巨大な図書
館に入ったようなもの。壁には、床から天井まで、異なった言語で書かれた本でおおわれてい
る。子どもは、だれかがこれらの本を書いたことはわかる。しかしだれが、どうやって書いたか
までは、わからない。それらが書かれた言語も理解できない。しかし子どもは、本の並び方の
中に、一定の秩序があることに気がつく。つまり、神秘的な秩序だ。はっきりとわかるわけでは
ないが、おぼろげながら、疑うことはできる。


The important thing is not to stop questioning. 
重要なことは、問うことをやめないことだ。


Few are those who can see with their own eyes and hear with their own hearts. 
ほとんどの人は、自分の心で見て、聞くことができない。


The pioneers of a warless world are the youth that refuse military service. 
戦争のない世界をつくるパイオニアたちは、軍務を拒否する若者たちだ。


Reality is merely an illusion, albeit a very persistant one 
現実は、ただの幻想でしかない。が、研究は、とても忍耐を必要とするものだ。


It is not enough for a handful of experts to attempt the solution of a problem, to solve it 
and then to apply it. The restriction of knowledge to an elite group destroys the spirit of 
society and leads to its intellectual impoverishment. 
一つの問題を解決し、それを応用するためには、一握りのエキスパートだけでは、じゅうぶんで
はない。一つのエリート集団に、知識を制限することは、社会の精神を破壊し、社会を、知的な
貧困へと導くことになる。


A country cannot simultaneously prepare and prevent war. 
一つの国というのは、戦争を同時に、準備し、避けることはできない。


I am enough of an artist to draw freely upon my imagination. Imagination is more important 
than knowledge. Knowledge is limited. Imagination encircles the world. 
私はイマジネーションによって、自由に絵を描く画家と言ってもよい。イマジネーションは、知識
よりも重要である。知識には、限界がある。イマジネーションは、世界をかけ回る。


True art is characterized by an irresistible urge in the creative artist. 
真の芸術は、想像的な芸術家による、抵抗しがたい欲求によって、特徴づけられるものであ
る。


The most beautiful thing we can experience is the mysterious. It is the source of all true art 
and science. 
私たちが経験できるもっとも美しいものは、神秘である。それはすべての芸術と化学の源泉で
ある。


I do not believe in the immortality of the individual, and I consider ethics to be an 
exclusively human concern without any superhuman authority behind it. 
私は人間の不死を信じない。そして私は、その背後に超人的な権威のない、倫理こそが、人
間唯一の関心ごとであると考える。


Only two things are infinite, the universe and human stupidity, and I'm not sure about the 
former. 
たった二つのものだけが、永遠である。この宇宙と、人間の愚かさである。そして私は、その前
者である宇宙については、あまりよく知らない。


Life is a mystery, not a problem to be solved 
人生(生命)は、神秘である。それは解かれねばならない問題ではない。


Nothing will benefit human health and increase the chances for survival of life on Earth as 
much as the evolution to a vegetarian diet. 
菜食主義ほど、人間の健康に恩恵をもたらし、命の存続をふやすものはない。


Creativity is contagious. Pass it on. 
創造力は、伝染しやすい。ままにさせておけ。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司(以上、古い原稿の、再掲載)


●移りゆくネットの世界


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来年(2010年)早々、BIGLOBEの電子マガジンサービスが、
廃止されることになった。


理由は、「スパムメールと誤解され、また各プロバイダー(サーバー)の
ほうで、スパムメールとして処理されることが多くなったため」とか。


電子マガジンを利用して、スパムメールを流している人も多い。
勝手にアドレスを代理登録して、1日に、何十通も流すというやり方である。
そういうトラブルが跡を絶たない。


この世界は、変化がはげしい。
新しいサービスがつぎつぎと生まれ、古いサービスがつぎつぎと姿を消していく。
私のように(?)、まじめに電子マガジンサービスを利用している人も多いはず。
そういう人たちが、そうでない人たちの心ない利用の仕方によって、影響を受ける。
とても残念。


その代わり、今は、BLOGが全盛期。
BLOGだけでも、毎日、3000〜4000件のアクセスがある。
ほんの一部だけを読んで、「バ〜〜イ」という人も含まれるので、3000〜4000件、イコール、
読者数ということではない。
それはよくわかっている。


さらに今では、TWITTERや、FACEBOOKというサービスも生まれた。
急速に利用者がふえている。
また個人のHPよりは、ポータルサイトのほうが、勢力を伸ばしつつある。
どうであれ、この世界は、今、どんどんと変化しつつある。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●私は私

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Aさんは、Xさんを、「すばらしい人」と評価する。
しかし同じXさんを、Bさんは、「下衆(げす)」と評価する。
こうした場面には、よく出会う。

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●印象の種

 人の印象は、第一印象で、そのほとんどが決まる。
一度できた印象は、そのあと、よほどのことがないかぎり、変わらない。
で、最初の印象を「種」とするなら、人はその種を育てるようにして、その人の
人物像をつくりあげていく。
よい点だけを見て、ますますその人をよい人と思うようになる。

 が、最初の第一印象が悪かったら、どうなるか。
今度は逆の現象が起きる。
悪い点ばかりが気になり、ますますその人を悪い人と思うようになる。

●鬼みたいな人

 もう7、8年前になるが、近所の女性が亡くなった。
そのとき88歳くらいではなかったか。
穏やかでやさしい人だった。
いつも歩行器を押しながらやってきて、ちょうど私の家の前で反転し、
自分の家に戻っていった。

 で、亡くなってからしばらくしたときのこと。
その女性の隣に住む男性と、立ち話になった。
私が「あの方は、仏様のような方でしたね」と言ったら、その男性は、顔色を変えて
こう言った。
掃き捨てるような言い方だった。

「とんでもない! あの人は、若いころは、鬼みたいな人でした!」と。

私はその落差というか、印象のあまりのちがいに驚いた。

●長電話

 実は、昨夜、長電話の最長記録を作った。
ある従姉(いとこ)と、1時間55分も、話した。
従姉だから、伯父、伯母の話になった。
私には母方だけで、13人の伯父、伯母がいた。
そのうちの10人は亡くなったが、現在、3人の伯父、伯母がまだ生きている。
いとこにしても、母方だけで、正確に数えたことはないが、40人以上もいる。
父方も含めると、63、4人になる。
話の種は尽きない。

 長電話の中で、伯父や伯母、いとこたちに対する印象が、ときどき、まったく正反対
なのを知って驚いた。
その人がよい人と言うときも、そうでないと言うときも、電話の向こうの従姉は、そのつど理由を
言った。
一方、私はいちこたちとの交際が希薄なこともあって、驚くばかり。
「浩司君(=私)、知らなかったの?」と言うから、そのつど「ヘエ〜、知りませんでした」
と答えるだけ。

●決め手

 話の内容は、ここでは重要ではない。
またそんなことを書いても、意味はない。
私はいとこの話を聞きながら、同じ人なのに、どうしてたがいがもつ印象がこうまで
ちがうのか、それが不思議でならなかった。

 あえてその理由を並べてみる。

(1)金銭問題が、ひとつの決め手になる。
(2)たがいの連絡の親密度が、ひとつの決め手になる。
(3)が、何よりも重要なのは、第一印象、と。

 私も従姉も、金銭問題で悪い経験をもった人には、悪い印象をもった。
疎遠になればなるほど、よい印象でも悪い印象でも、熟成される。
よい印象をもった人は、さらにその人に対して、よい印象をもつようになる。
そうでなければ、そうでない。
そうした印象の基盤は、第一印象で決まる、と。

 が、その人の印象というのは、離れて住んでみないとわからない。
さらに(時の流れ)の中に置いてみないと、わからない。
その上で、「あの人は、すばらしい人」ということになる。
「あの人は、悪い人」ということになる。

●みなによい顔はできない

 私のばあい、いとこたちの間で、どう思われているか、知らない。
知りたくもない。
私は私だし、それがよいものであっても、悪いものであっても、私の知ったことではない。
見方によって、私は善人にもなるし、悪人にもなる。
相手の見方しだい。
それを知っているから、「どうでもいい」となる。

 同じように、私がだれか1人の人を、「いい人」と思ったところで、それは私だけの
印象。
その印象を、他人に植えつけようとは思わない。
反対にばあいも、そうだ。
私は私、人は人。

●決め手は親密度

 ……ということで、1時間55分になった。
で、その結論。

 誠実な人は、よい印象をもたれる。
不誠実な人は、悪い印象をもたれる。
長い時間をかけて、そうなる。

 ……とは言っても、他人の目など気にしてはいけない。
その必要もない。
どんなに誠実に生きても、みなによい顔はできない。
とくに親戚関係というのは、一方的な意見だけを聞いて、その人の人物像を作りあげる。
そういうことが多い。
その点、密度、つまり親密度がものを言う。
悪人どうしが近くでワーワーと騒げば、どんな誠実な人でも、悪人に仕立てられる。
(だからといって、親類に悪人がいるということではない。誤解のないように!)

 仮に悪く言われていても、遠くに住んでいると、反論することもできない。
だから「私は私、人は人」となる。

 1時間55分の長電話で、私は、それを学んだ。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司

●山のあなた

山のあなたの空遠く
「幸」住むと人のいふ。
ああ、われひとと尋めゆきて
涙さしぐみ、かへりきぬ
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ。

あなた=かなた
尋(と)めゆきて=たずねて行って
涙さしぐみ=涙ぐんで

(カール・ブッセ)(上田敏訳)

+++++++++++++++

 小学5年生が使うワークブックに、カール・ブッセの詩が載っていた。
何度か読んでいるうちに、切なくなってきた。
意味はよくわからないが、切なくなってきた。
解釈の仕方はいろいろある。
読む人によって、思いもちがう。
ただ「幸せ」というのは、そういうものかもしれない。
ここでいう「幸せ」というのは、「亡くなった人」とも解釈できる。
「あなた」が、「遠くに」と、「あなた」の掛詞(かけことば)になっているようにも
思う。
愛する人が亡くなった。
そのさみしさに耐えかね、幸せを求め、遠くまでやってきた。
しかし幸せは、さらに遠くにあって、手が届かなかった。
私には、そんな情景が浮かんでくる。


Hiroshi Hayashi+++++林 浩司+++++はやし浩司

●認知症と激怒(認知症の前駆的初期症状)

+++++++++++++++++++++++++

認知症になりかけた人は、どうして怒るのか?
まちがいを指摘したりすると、パニック状態になる。
ささいなことで、激怒する。
まちがえたら、まちがえましたですむ話。
しかし認知症になりかけた人は、それができない。
心の余裕を失う。
認知症を意識するあまり、それが激怒に変わる。
あるいは自分がそういう状態になっていることを、
人に知られるのを、たいへん恐れる(?)。

+++++++++++++++++++++++++

●認知症

 「もしかしたら……」と思うことは、恐怖以外の何ものでもない。
たしかに恐怖。
私も、最近、よくその恐怖を味わう。
もの忘れというのは、若いときからよくした。
今も、若いときとそれほど状態は変わってしない。
しかし若いときは、「忘れた」ですむ。
が、私の年齢になると、それが「もしかしたら……」となる。
あるいは「もしかしたら……」に、結びつけてしまう。

 たとえば同時に、2つ、3つの用事を予定したとする。
デジカメに充電し、めがねを取り出し、戸棚に本をしまう……と。
そこへ電話がかかってきたりすると、電話で話している間に、用事を忘れてしまう。
そのまま書斎に入ってしまったりする。
そこでどっかりと腰をすえたとき、「あっ、忘れた!」となる。

 注意力は、確かに散漫になってきた。
それは認める。
それに若いときは、触角が四方八方に向いている。
が、今は、その範囲が狭くなった。
ひとつの用事をこなしていると、ほかの用事を忘れてしまう。

●脳の乱舞

 が、まだ(恐怖)という段階ではない。
しかしそれがある一定限度を超えると、自分自身が信じられなくなる。
私も一度、チョコレートを食べ過ぎて、幻覚(?)を見たことがある。
幻覚というよりは、脳みそが勝手に乱舞してしまった。
あのとき覚えた恐怖感は、今でも忘れない。

 認知症になりかけのころは、こうした恐怖感が、日常的にその人を襲う(?)。
これはあくまでも私の想像だが、その恐怖感が緊張感となり、そこへ心配や不安が
入り込むと、一気に情緒が不安定になる。
それが多くのばあい、(怒り)に変わる。

●T氏(75歳)のケース

 T氏に会ったのは、10年ぶりだった。
私とワイフが山荘を造成しているころには、ときどきやってきて、私たちを手伝ってくれた。
T氏は、山荘の近くで、製剤工場を経営していた。

 そのT氏は、私たちのことを忘れていた?
「お世話になりました。あのときの林(=私)です」と、あいさつしたのだが、覚えていないといっ
たふうだった。

 T氏は、そのつど、いろいろな材木を届けてくれた。
その材木を使って、私は、テラスを作ったり、椅子やテーブルを作ったりした。
で、今回は、座卓の柱を切ってもらうことにした。
長さを、何ども「36センチ」と念を押したのに、家に帰って寸法を測ってみると、30センチしか
なかった。
ワイフも、「あれだけ言ったのに……」と、残念そうだった。
夜になっていたこともあり、その日はそのままにした。

 で、翌朝、電話をした。
が、私がミスを指摘したとたん、Tさんの様子が急変した。
私はていねいな言い方をしたつもりだったが、Tさんは、怒ったような雰囲気だった。

「紙に書いてくれればよかった」と、私をなじった。
そうかもしれない。
そのときも、心のどこかで「あぶないな」と感じた。
だからこそ、何度も念を押した。
「36センチですよ」と。

●恥

 Tさんは、こう言った。

「私のミスだから、作り直す」
「作り直して、お宅まで、届ける」
「会社のほうへ、取りに来てくれるな」
「家族には、ミスしたことを話さないでくれ」
「私の恥だ!」と。

 私が「作り直しておいてくれれば、受け取りに行く」と言ったのだが、そのあたりから、声の調
子が大きく変わった。
Tさんは、「恥」という言葉を使った。

 ふつうなら、こういうとき、「ハハハ、こちらのミスです。作り直します」という程度の会話で終わ
る。
が、Tさんは、そうではなかった。
ミスをした自分が許せないといったふうだった。
そういう自分に怒っている。
私はそう感じた。

 その話をすると、ワイフは、こう言った。

「きっと、家の中でもいろいろミスをしているのよ。
それでそれをみんなに知られるのを、恐れているのよ」と。

 Tさんが認知症になっているかどうかは、わからない。
年齢的には、認知症になっていても、おかしくない。
が、認知症の初期の人が、怒りっぽくなるという話はよく聞く。
先にも書いたように、心の余裕を失う。
そのためささいなことで、激怒する。

●段階論

 私なりに、認知症の初期症状を段階論的にまとめてみる。

(1)疑惑期……「ひょっとしたら……」と、不安、心配になる。
(2)確認期……「たしかにおかしい?」と、自分でもそれがわかるようになる。
(3)隠蔽期……おかしくなりつつある自分を隠そうとする。
(4)否認期……とりつくろい、つじつま合わせがうまくなる。
(5)混乱期……だれかにミスを指摘されたりすると、激怒したりする。
(6)拒絶期……まわりの人たちが、診断を勧めたりすると、それをはげしく拒否する。
(7)治療期……認知症と診断され、治療期へと入っていく。

 上記、混乱期の特徴は、ささいなことで、パニック状態になること。
いわゆるヒステリー症状を示す。
ギャーギャーと泣きわめきながら抵抗したり、反論したりする。
まわりの人が、「わかった、わかった」となだめても、効果はない。
手がつけられないといった状態になる。

 Tさんについて言えば、あくまでもこれは私の印象だが、(3)の隠蔽期から(4)の否認期に向
かいつつあるのではないか。
心の緊張状態がつづき、やがて心の余裕を失っていく。

 先にも書いたが、75歳という年齢からして、今、そういう状態にあってもおかしくないし、また
そういう状態にあることは、じゅうぶん、疑われる。
今回会ったときも、Tさんは、メモ帳を片時も離さないでもっていた。
TさんはTさんなりのやり方で、自分の年齢と懸命に闘っているようにも見えた。

以上、あくまでも私の勝手な判断によるものだが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 B
W はやし浩司 認知症の初期症状 痴呆症の初期症状 初期の初期 認知症段階論)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●「濃い男」

++++++++++++++++++

「濃い男」「薄い男」という言い方は、
私が考えた。
もう20年以上も前のことである。
そのころ書いた本の中で、この言葉を
使った。

濃い男というのは、性的な意味で、
女性にしか興味を示さない男性をいう。
女性の肉体には強い関心をもつが、反対に
男性には手を触れられただけで、ぞっとする
ような嫌悪感を覚える。
つまり性的な意味で、男性にはまったく
興味を示さない男性をいう。

一方、薄い男というのは、性的な意味で、「女性
でもいいが、男性もいい」と考える男性をいう。
同性愛者は、そういう意味では、たいへん「薄い男性」
ということになる。

+++++++++++++++++

●文化

 先日、テレビを見ていたら、この言葉を使った人がいた。
「ぼくは、濃い男ですから……」と。
驚いた。
もっともその人は、最近流行している、「草食系男性」「肉食系男性」という
意味にからめて、そう言った。
要するに性的な意味において、つまり女性に対して、より能動的、かつ攻撃的な
男性という意味で、そう言った。

 で、しばらくして、こう考えた。

 こうして断片的ではあるにせよ、無数の人たちの文化が、無数にまざりあって、
つぎの世代の文化を創りあげていく、と。
私も、その一部でしかない。

「草食系」「肉食系」という言葉にしても、今ではだれが使い始めたかさえわからない。
しかし言葉として、私たちの文化の中に、定着している。
私自身も、だれが使い始めた言葉かを知らないまま、その言葉を使っている。
同じように、「濃い男」「薄い男」という言葉にしても、今、ここで私が、「もともとは
私が使い始めた言葉だ」と叫んでも意味はない。
すでにこの言葉は、ひとり歩きしている。
しかも意味が、私が考えた意味とは、少しちがう意味で使われている。

●オリジナル

 こうして私がオリジナルで考え、そののち、広く一般に使われているのが、
たくさんある。

 時計のお絵かき歌というのもある。
「♪丸描いて、チョン、上、下、横、横……」という歌である。
その歌が、ある幼児教育雑誌に、紹介されていた。
楽譜も載っていたが、「似ている」という程度だった。
もともとの私の歌い方とはちがう。
が、その歌詞について、何と、「作者不詳」となっていたのには、やはり驚いた。

 ほかにも、「道づくりゲーム」がある。
正方形のカードに、(直線道路)(三叉路)(十字路)(曲がった道)が描いてあり、
それをつなげて遊ぶというものである。
このゲームは、私は20代のころ、学研の「幼児の学習」という雑誌で発表した。
たいへん好評で、その1、2年後、同じ付録が、復刻版で出た。
たしか当時、学研で、実用新案として申請、登録されたと思う。
(発案者には、権利はない。
申請者に、権利が残る。
発案者は、「はやし浩司」、申請者は、「学研」だったと思う。)

 そのあと、そのゲームは、「ヘビ・ゲーム」とか、「水道管ゲーム」に変形され、
市販化された。
が、今では、このゲームは、あちこちで無断で(?)、使われている。

 ほかにもある。

 東京の私立小学校で使われている入試問題の何割かが、私が考えたものである。
ウソだと思う人がいたら、「主婦と生活」(1975年11月号の巻末付録)を見て
ほしい。
ちょうど35年前である。
それを見た人は、こう思うだろう。
「私立小学校の入試問題と同じ」と。
(そのときの私のHPに、収録しておく。)
 
 それ以前に、どこかの小学校の入試に、似たような問題が使われていたとしたら、
私がまねて、雑誌に発表したことになる。
が、そういうことは、ない。

 ……ということで、いろいろ書きたいことはあるが、ここまで。
書けば、どうしてもグチになる。

●文化

 私だけではない。
いろいろな人が、いろいろな立場で、無数の文化を創りあげている。
それが積み重なって、また別の文化を創りあげている。
そのときには、もう「私」はいない。

 あのお絵描き歌にしても、「道作りゲーム」にしても、入試問題にしても、
はやし浩司の痕跡は、どこにもない。
考えてみれば、さみしく思わないわけではないが、その一方で、私は無数の人たちの、
これまた無数の文化を継承している。
「団塊の世代」という言葉にしても、もとは、ある評論家の考え出した言葉である。
そういう言葉を使いながら、それがだれの考えた言葉かは、いちいち考えない。
それが「文化」ということになる。
  
 大切なのは、そのときは意識しないかもしれないが、常に前向きに創りあげていく
ということ。
どんなことでもよい。
何でもよい。
その積極性が、人間の文化を前へ前へと、進歩させる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 文化 文化論 道作りゲーム 道づくりゲーム 時計のお絵描き歌 はやし浩司 
濃い男 薄い男)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司

●心の壊れた人たち

++++++++++++++++++

他人の不幸を、楽しんでいる人がいる。
さも同情しているかのような顔をして聞き、
内心では笑う。
心が壊れた人というのは、そういう人をいう。

自己中心性が肥大化すると、自己愛につながる。
自己愛に陥った人を、「自己愛者」という。
「自分を大切にする人」という意味ではない。
「自分のことしか考えない、愚かで、あわれな人」
という意味である。

このタイプの人のやっかいな点は、演技がうまいこと。
さも同情したフリをして、他人の不幸話を聞き出す。
誘導の仕方が、うまい!
聞き出し、それを酒の肴(さかな)にして、楽しむ。
うわさ話をしながら、「あいつはダメだ」とか、「こいつは
バカだ」とか言って、笑う。

あるいは自分は人格者であるかのように振る舞う
こともある。
むしろほかの人よりも、高邁で立派な人に見える。
が、年季が入っているから、ちょっとやそっとでは
見抜けない。
10年くらいつきあって、「?」と思う。
20年くらいつきあって、やっと、そういう人とわかる。

そんなわけで、価値観、幸福感も相対的。
他人が自分より不幸であれば、「私は幸福」と
喜ぶ。
笑う。
他人が自分より幸福であれば、「私は不幸」と
嘆く。
ねたむ。

++++++++++++++++++

●「私はふつう」

 一度壊れた心は、生涯、なおらない。
そう思って、ほぼまちがいない。
心というのは、そういうもの。
作るのは、むずかしい。
壊すのは簡単。
ほんの1、2年、はげしい受験勉強を経験させるだけで、壊れる。
あるいは、不幸にして不幸な家庭に育った子どもも、そうだ。
愛情飢餓、虐待、無視、冷淡、さらに嫉妬や日常的な欲求不満を経験すると、子どもの心は壊
れる。

 が、ここから先が、心の恐ろしいところ。
壊れた心をもちながら、壊れていることに気づく人は、まず、いない。
自分では、「ふつう」と思い込んでいる。
あるいは「他人も、自分と同じ」と思い込んでいる。
その一方で、心の暖かい人が理解できない。
そういう人が近くにいても、その人を信ずることができない。
何かのことで親切にされても、それを素直に、受け入れることができない。
どこまでも心のさみしい、かわいそうな人ということになる。
が、それも、このタイプの人には、わからない。

●不信

 こういう心の状態を、心理学では、「基本的不信関係」という言葉を使って説明する。
多くは、乳児期の母子関係の不全によって、そうなる。
わかりやすく言えば、相手に対して、心を開けない。
心を許さない。
疑い深く、嫉妬深い。
心のクッションが薄いから、ささいなことで激怒したり、相手を必要以上に嫌ったり、避けたりす
る。

 が、「不信」である分だけ、「孤独」。
だから勢い、たとえば、「信じられるのは、お金だけ」となる。
名誉や財産、地位や学歴にしがみつく。
ときに孤独に耐えかねて、集団の中に入る。
大判振る舞いをする。
しかし気が抜けない。
疲れる。
そういう生きざまになる。
言い換えると、そういう生きざまの人は、すでに何らかの形で、心が壊れている人と考えてよ
い。

●受験競争

 ひょっとしたら、この文章を読んでいるあなた自身も、その(心の壊れた人)かもしれない。
程度の差はあるだろうが、私たちの生活は、何らかの形で、お金に毒されている。
「私は、そんなまちがったことできません」などと言おうものなら、社会そのものからはじき飛ば
されてしまう。
子どもの受験勉強にしても、そうだ。
あんな子どもが、点数だの、成績だの、順位だので追いまくられて、まともに育つはずがない。
ないことは、子どもを年中児から高校3年生まで教えてみるとわかる。

 子どもによっては、夏休みの間、どこかの受験塾が主催する夏期講習に入っただけで、激変
する。
親は、そういう子どもを見て、「やっとうちの子も、(受験を)自覚できるようになりました」と喜ん
でいるが、とんでもない誤解。
あるいは親自身も、心が壊れているから、それに気づかない。
心の壊れた親が、自ら、自分の子どもの心を壊している。
受験塾の講師にしても、そうだ。
ああいった指導(教育ではないぞ!)が、平気でできる人というのは、そのレベルの人と考えて
よい。
まともな心の持ち主なら、ぜったいにできない。

 人間が人間に点数をつけ、順位をつけ、進学指導の指導(?)をする。
もちろん金儲けのため。
しかもそんな汚い仕事を、20代とか30代の、人生が何であるかもわからないような若い講師
がする。
まずもって、その異常さに、みなが気がついたらよい。

 まわりくどい言い方をしたが、受験競争の弊害を、心という面から、考えてなおしてみた。
さらに一言付記するなら、そうした受験競争をうまくくぐり抜けた人ほど、社会のリーダーとなっ
ていくのは、まさに悲劇としか、言いようがない。
現在のこの日本が、まさにそうであると断言してよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 受験競争の弊害)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

【Boys, be ambitious】

●大卒の就職内定率

+++++++++++++++++

大卒の就職内定率が、60%前後という。
浜松市内で、リクルートの会社を経営している
N氏は、こう言った。
「現状(09年12月現在)は、50%前後では
ないでしょうか」と。

わかりやすく言えば、大卒のうち、2人に1人しか
就職が決まっていないということ。

+++++++++++++++++

●仕事は自分で作るもの

 「就職」という考え方にこだわるかぎり、「50%」というのは、深刻な数字ということになる。
18年間も勉強してきた……というよりは、親の立場で言うなら、18年間も、学費を負担してき
た。
その結果として、息子や娘たちの就職さえも、ままならない。
見返りを求めるわけではないが、こうなってみると、何のための学費だったかということにな
る。

 が、ここで早合点してはいけない。
就職できないことイコール、(失敗)ではない。
またそんなことで、へこたれてはいけない。
日本人は、江戸時代の昔から、「仕事は与えられるものという意識」を強くもっている。
「会社に仕えるものという意識」という意識と、言い換えてもよい。
しかし(仕事)は、もらうものではない。
与えられるものでもない。
自分で作るもの。
仕事がなければ、自分で作ればよい。
それこそ「リヤカーを引いて」でも、自分で作ればよい。

 こんなことを書くと、「何をバカなことを!」と思う人も多いかもしれない。
しかし私は、若いころ、そう考えたし、そうしてきた。
浜松に住み始めたころのこと。
画家の男と手を組み、その画家の父親の絵をリヤカーに積み、住宅街を売って回ったこともあ
る。

 そういう(たくましさ)を、今の若い人は失ってしまった。
失ったというより、知らない。
また皮肉なことに、そういう(たくましさ)のある大学生ほど、就職内定率50%といいながら、就
職できる。

●日本人の集団性

 日本人の集団性は、外国へ出てみると、よくわかる。
集団の中の一員としては、行動できる。
1人になると、何もできない。
……というのは、言い過ぎかもしれない。
中には、1人で、がんばっている人もいる。
しかし全体としてみると、きわめて少ない。

 一方、オーストラリア人などは、独立心が旺盛で、かえってそれが弊害となって現れている。
オーストラリアの友人はこう言った。
「オーストラリアでは、大企業が育たない」と。
彼らは、高校や大学を卒業すると、車1台と電話1本で、開業する。
集団性がない分だけ、組織が育たない。
大企業が育たない。
あるといっても、鉱山会社のような大企業だけ。
友人は、それを言った。

 で、ここでふと考えてみる。
「どうして日本人は、こうまで就職を深刻に考えるのか」と。
言い換えると、どこかの組織に属していると、本人も安心する。
まわりの人たちも、安心する。
そうでないとそうでない。
銀行ですら、相手にしてくれない。

 江戸時代の昔から、(組織)あっての(個人)。
組織から離れて生きることさえ、難しかった。
実際には、「無頼(ぶらい)」とか、「無宿者」とか呼ばれて、見つかればそのまま佐渡の金山な
どへ送られた。

 あの武士道にしても、徹底した主従関係で成り立っている。
保護と依存、命令と服従の関係。
「主君に仕える」が、のちの「会社一社懸命」(友人のM君)という、あの精神につながった。
で、この精神は明治政府へとそのまま引き継がれ、一般民衆は、「もの言わぬ従順な民」へと
育てられていった。
そういう民衆を作りあげたのは、言うまでもなく、(教育)である。
学校神話や学歴信仰、さらには「まともな仕事論」などは、そうした(流れ)の中でできた、副産
物ということになる。

●まともな仕事論

 この世界に入ってから、「まともな仕事論」というので、私はどれほど痛めつけられたかわか
らない。
私の母ですら、M物産という商社をやめて、幼稚園の講師になったときのこと。
「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」と、電話口の向こうで泣き崩れてしまった。
あるいは私に面と向かって、こう言った男(当時、50歳くらい)がいた。

 「お前は学生運動か何かをしていて、ロクな就職ができなかったのだろう」と。

 こうした常識というか、偏見は、かなり若い時期にできるものらしい。
アインシュタインは、「18歳前後」にそれができるというようなことを書き残している。
が、日本人のばあい、江戸時代の昔から骨のズイまで、そうした偏見が叩き込まれている。
身分意識という偏見である。
その常識を打ち破るのは、簡単なことではない。
またその常識と闘いながら生きるのは、簡単なことではない。

 ある新聞社で記者をしていた人が、ある日、私にこう言った。

「林さん(=私)、あなたのような生き方をしている人が、成功すると、私たちは困るのです。
あなたのような人が成功すると、では私たちのようなサラリーマンが、いったい何なのかという
ことになってしまいますから」と。

 が、実際には、20代のころ、私と同じような立場にいた人は、まわりに10人ほどいた。
しかしうち生き残ったのは、私1人だけ。
どこかへ消えてしまった人もいるが、大半は、再びサラリーマンの世界へと戻っていった。

●少年よ……

 あのクラーク博士は、札幌の農学校去るとき、『少年よ、大志を抱け!』と言ったとか。
しかしこれはおかしい。
「Boys, be ambitious」と言ったのを、当時の貧弱な英語力で翻訳したから、そういう訳が生まれ
た。
クラーク博士は、「あのなあ、お前たち、チマチマした生き方をしないで、もっと野心的に生き
ろ!」と言った。
そのことは、アメリカ人の視点に、当時の日本の大学生を置いてみればわかる。
最近の大学生でもよい。
私に言わせれば、「就職、就職って、バカみたい」(失礼!)ということになる。
繰り返すが、「仕事というのは、もらうもの」という発想が基本にあるから、「就職、就職」と騒
ぐ。

「少年よ、大志を抱け」については、以前、こんな原稿を書いたことがある。
日付は2003年になっている。
青年というよりは、私たち老人に向けて書いた原稿である。
 
+++++++++++++++++++

●Ambitious Japan

●『ただの人(Das Mann)』 

+++++++++++++++++++++++++

「(ハイデッガーは)、自分の未来に不安をもたず、
自己を見失って、だらだらと生きる堕落人間を、
ひと(das Mann)と呼びました」(「哲学」宇都宮輝夫・
PHP)と。

+++++++++++++++++++++++++

●堕落人間

 堕落人間(ハイデッガー)は、いくらでもいる。
ここにも、そこにも、あそこにも……。
年齢が若いならともかくも、60歳代ともなると、言い訳は通用しない。
いまだに「老後は孫の世話と、庭いじり」と言っている人が多いのには、驚かされる。
「晴耕雨読」というのも、そうだ。
そういうバカげた老人像を、いつ、だれが作り上げた?

 私の知人に、公的機関の副長職を、満55歳で定年退職したあと、以後、30年近く、
庭いじりだけをして過ごしている人がいる。
30年だぞ!
年金だけで、毎月30数万円。
妻も公的な機関で働いていたから、2人の年金を合わせると、相当な額になる。

 ここで「庭いじりだけ」と書いたが、本当に庭いじりだけ。
子どもはいない。
孫もいない。
近所づきあいもしない。
まったく、しない。
もともと農家出身だったらしく、裏には、100坪前後の畑ももっている。
そのくせ周囲の家にはうるさく、隣の家にある木の葉が落ちてきただけで、樋(とい)が
つまると、その家に苦情の電話を入れたりする。

 最近、私はそういう老人がいるのを知ると、腹の底から怒りがこみあげてくるように
なった。
加齢とともに、その怒りは、ますます大きくなってきた。
ねたみとか、ひがみとか、そういう低次元な怒りではない。
人気として許せないというか、そういう次元の怒りである。
が、そういう私の気持ちを、あのハイデッガーは、みごとに一言で表現してくれた。
『ただの人(das Mann)』と。

●生きがい

 世の中には、恵まれない老人はいる。
が、その一方で、恵まれすぎている老人もいる。
その知人にしても、介護保険制度が始まって以来、週に2回、在宅介護を受けている。
……といっても、どこか具合が悪いということでもない。
ときどき見かけるが、夫婦で庭の中を、歩き回っている。
元役人ということで、そういう制度の使い方は、よく心得ているらしい。

 その知人をよく知る、同年齢のX氏は、こう皮肉る。
「あれじゃあ、まるで、毎月30数万円の税金を投入して、庭の管理をしてもらって
いるようなものですナ」と。

 が、うらやましがるのは、ちょっと待ってほしい。
いくら年金がそれだけあるといっても、また庭いじりができるといっても、私なら、
そんな生活など、数か月も耐えられないだろう。
何が「晴耕雨読」だ。
自分がその年齢になってみてはじめてわかったことがある。
それがこれ。
「老人をバカにするにも、ほどがある!」と。

 私たち老人が求めるものは、「生きがい」。
わかりやすく言えば、「自分を燃焼させることができる仕事」。
晴れの日に、畑を耕して、それがどうだというのか?
雨の日に、本を読んで、それがどうだというのか?
「だから、それがどうしたの?」という質問に、答のない生活など、いくらつづけても
意味はない。
ムダ。
そういう生活をさして、「自己を見失って、だらだらと生きる」という。

 私はその知人に、こう言いたい。
「お前らのような老人がいるから、ぼくたちは肩身の狭い思いをしているのだ」と。
若い人たちは、そういう老人を見て、老人像を作ってしまう。
誤解とまでは言えないが、しかし懸命に生きている老人まで、同じ目で見てしまう。
だから腹が立つ。

 いいか、老人たちよ、よく聞け。
あのクラーク博士はこう言った。
『少年よ、野心的であれ!』と。
本当は少しちがった意味で、「Boys, be ambitious」と言ったのだが、同じ言葉を、
私はそうした老人たちに言いたい。

『老人よ、野心的であれ!』と。
この意見は、少し過激すぎるだろうか?

(付記)

「少年よ、大志を抱け」で検索してみたら、6年前に書いた原稿が見つかった。
そのまま掲載する。

+++++++++++++++++++++

●納得道(なっとくどう)と地図

●納得道

 人生には、王道もなければ、正道もない。大切なのは、その人自身が、その人生に納得
しているかどうか、だ。あえて言うなら、納得道。納得道というのなら、ある。

 納得していれば、失敗も、また楽しい。それを乗り越えて、前に進むことができる。そ
うでなければ、そうでない。仮にうまく(?)いっているように見えても、悶々とした気
分の中で、「何かをし残した」と思いながら生きていくことぐらい、みじめなことはない。
だから、人は、いつも自分のしたいことをすればよい。ただし、それには条件がある。

 こんなテレビ番組があった。親の要請を受けて、息子や娘の説得にあたるという番組で
ある。もともと興味本位の番組だから、それほど期待していなかったが、それでも結構、
おもしろかった。私が見たのは、こんな内容だった(〇二年末)。

 一人の女性(二〇歳)が、アダルトビデオに出演したいというのだ。そこで母親が反対。
その番組に相談した。その女性の説得に当たったのは、俳優のT氏だった。

 「あなたが思っているような世界ではない」「体を売るということが、どういうことかわ
かっているの?」「ほかにしたいことがないの?」「そんなにセックスがしたいの?」と。

 結論は、結局は、説得に失敗。その女性は、こう言った。「私はアダルトビデオに出る。
失敗してもともと。出ないで、後悔するよりも、出てみて、失敗したほうがいい」と。

 この若い女性の理屈には、一理ある。しかし私は一人の視聴者として、その番組を見な
がら、「この女性は何と狭い世界に住んでいることよ」と驚いた。情報源も、情報も、す
べて、だれにでも手に入るような身のまわりにあるものに過ぎない。あえて言うなら、あ
まりにも通俗的。「したいことをしないで、あとで後悔したくない」というセリフにしても、
どこか受け売り的。そのとき私は、ふと、「この女性には、地図がない」と感じた。

 納得道を歩むには、地図が必要。地図がないと、かえって道に迷ってしまう。しなくて
もよいような経験をしながら、それが大切な経験だと、思いこんでしまう。私がここで「条
件がある」というには、それ。納得道を歩むなら歩むで、地図をもたなければならない。
これには若いも、老いもない。地図がないまま好き勝手なことをすれば、かえって泥沼に
落ちてしまう。

●地図 

 人生の地図は、三次元で、できている。(たて)は、その人の住んでいる世界の広さ。(横)
は、その人の人間的なハバ。(深さ)は、その人の考える力。この三つが、あいまって、人
生の地図ができる。

 (たて)、つまり住んでいる世界の広さは、視点の高さで決まる。自分の姿を、できるだ
け高い視点から見ればみるほど、まわりの世界がよく見えてくる。そしてそこには、知性
の世界もあれば、理性の世界もある。それをいかに広く見るかで、(たて)の長さが決まる。

(横)、つまり人間的なハバは、無数の経験と苦労で決まる。いろいろな経験をし、その中
で苦労をすればするほど、この人間的なハバは広くなる。そういう意味で、人間は、子ど
ものときから、もっと言えば、幼児のときから、いろいろな経験をしたほうがよい。

 が、だからといって、人生の地図ができるわけではない。三つ目に、(深さ)、つまりそ
の人の考える力が必要である。考える力が弱いと、ここにあげた女性のように、結局は、
低俗な情報に振りまわされるだけということになりかねない。

 で、もう一度、その女性について、考えてみる。「アダルトビデオに出演する」というこ
とがどういうことであるかは別にして、……というのも、それが悪いことだと決めてかか
ることもできない。あるいはあなたなら、「どうしてそれが悪いことなのか」と聞かれたら、
何と答えるだろうか。この問題は、また別のところで考えるとして、まず(たて)が、あ
まりにも狭い。おそらくその女性は、子どもときから低俗文化の世界しか知らなかったの
だろう。テレビを通してみる、あのバラエティ番組の世界だ。

 つぎのこの女性は、典型的なドラ娘。親の庇護(ひご)のもと、それこそ好き勝手なこ
とをしてきた。ここでいう(横の世界)を、ほとんど経験していない。そう決めてかかる
のは失礼なことかもしれないが、テレビに映し出された表情からは、そう見えた。ケバケ
バしい化粧に、ふてぶてしい態度。俳優のT氏が何を言っても、聞く耳すらもっていなか
った。

 三つ目に、(深さ)については、もう言うまでもない。その女性は、脳の表層部分に飛来
する情報を、そのまま口にしているといったふう。ペラペラとよくしゃべるが、何も考え
ていない? 考えるということがどういうことなのかさえ、わかっていないといった様子
だった。いっぱしのことは言うが、中身がない。

 これでは、その女性が、道に迷って、当たり前。その女性が言うところの「納得」とい
うのは、「狭い世界で、享楽的に、したいことだけをしているだけ」ということになる。

●苦労

 納得道を歩むのは、実のところ、たいへんな道でもある。決して楽な道ではない。楽し
いことよりも、苦労のほうが多い。いくら納得したからといって、また前に別の道が見え
てくると、そこで悩んだり、迷ったり、ときにはあと戻りすることもある。あえていうな
ら、この日本では、コースというものがあるから、そのコースに乗って、言われるまま、
おとなしくそのコースを進んだほうが得。楽。無難。安心。納得道を行くということは、
そのコースに背を向けるということにもなる。

 それに成功するか、失敗するかということになると、納得道を行く人のほうが、失敗す
る確率のほうが、はるかに高い。危険か危険でないかということになれば、納得道のほう
が、はるかに危険。だから私は、人には、納得道を勧めない。その人はその人の道を行け
ばよい。私のようなものが、あえて干渉すること自体、おかしい。

 が、若い人はどうなのか。私はこうした納得道を歩むというのは、若い人の特権だと思
う。健康だし、気力も勇気もある。それに自由だ。結婚には結婚のすばらしさがあるが、
しかし結婚には、大きな束縛と責任がともなう。結婚してから、納得道を歩むというのは、
実際問題として、無理。だから納得道を歩むのは、若いときしかない。その若いときに、
徹底して、人生の地図を広げ、自分の行きたい道を進む。昔、クラーク博士という人が、
北海道を去るとき、教え子たちに、『少年よ、野心的であれ(Boys, be ambitious!)』と言
ったというが、それはそういう意味である。

 私も若いときには、それなりに納得道を歩んだ。しかしそのあとの私は、まさにその燃
えカスをひとつずつ、拾い集めながら生きているようなもの。それを思うと、私はよけい
に、子どもたちにこう言いたくなる。「人生は、一度しかないのだよ。思う存分、羽をのば
して、この広い世界を、羽ばたいてみろ」と。つまるところ、結論は、いつもここにもど
る。

 この「納得道」という言い方は、私のオリジナルの考え方だが、もう少し別の機会に、
掘りさげて考えてみたい。今日は、ここまでしか頭が働かない。
(03−1−10)

+++++++++++++++++++

●氷河期とは言うが……

 今さら野心的に生きろと言っても、今の若い人たちには、無理。
社会制度そのものが、資格と法律で、がんじがらめになっている。
今では、地方の田舎町でガイドをすることにさえ、資格がいる。
野心的になりたくても、なりようがない。

 ……と言っても、若い人たちには、理解できないかもしれない。
が、現実に、私は、浜松へ来たころ、ワイフと2人で、電柱に張り紙をして歩いた。
「翻訳します」と。

 当時は資格など、必要なかった。
浜松市の商工会議所に、翻訳家として登録していたのは、私を含めて2人だけ。
仕事はいくらでもあった。
お金にもなった。

 仕事がなかったら、リヤカーを引けばよい。
電柱に張り紙をすればよい。
(そう言えば、今では電柱に張り紙をすることさえ禁止になっている。
リヤカーなど、どこにも売っていない。)

 ……という原点に、私たちは一度、戻ってみる必要がある。
つまりその(たくましさ)がないと、この先この日本は、このアジアの中でさえ、生きていくのさえ
難しい。
理由は簡単。
中国人にせよ、インド人にせよ、かつての日本人のように、たくましい。
中国人やインド人を猛獣にたとえるなら、現在の日本人は、ニワトリのようなもの。
まともに戦ったら、勝ち目は、ない。
ぜったいに、ない。

●補記

 10年ほど前、「フリーター撲滅論」を展開した、どこかの高校の校長がいた。
「撲滅」というのは、「棒か何かで、叩きつぶす」という意味である。
ほかのだれかが言ったのなら、まだ許せる。
校長だから、許せない。
しかも自分は、権利の王国に住みながら、そういうことを言うから、許せない。
何が、撲滅だ!

 言い換えると、日本人が、こうまでキバを抜かれてしまったのは、現在の教育制度に問題が
あるというよりは、教師自身の生き様に原因がある。
よほどのヘマをしないかぎり、クビになることはない。
生活に困ることもない。
そのため教師自身から(たくましさ)が消えた。
その結果として、子どもたちから、(たくましさ)が消えた。

 では、どうするか?

 ひとつには、この(完成されすぎた社会のしくみ)を、ゆるめる。
わかりやすく言えば、行過ぎた官僚制度を、一度、解体する。
「制度」というより、そうした制度の中で、がんじがらめになった「心」を解体する。
若い人たちは、「これが社会」と思っているかもしれないが、それこそ、世界の非常識。
がんじがらめにされていることにさえ、気がついていない。

 だからこそ、クラーク博士は、こう言ったのだ。
「Boys, be ambitious!」と。
「大志」ではないぞ。
どこか出世主義の臭いがする、「大志」という意味ではないぞ。
「野心的」だぞ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 B
W はやし浩司 boys be ambitious 野心的であれ 大志)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●正常と異常

++++++++++++++++

何をもって「正常」といい、何をもって
「異常」というか?
実のところ、正常には基準はない。
異常にも、基準はない。
たとえば精神医学の世界では、「正常」という
概念はない。
わかりやすく言えば、この世界には、
「正常な人」というのは、いない。

また「異常気象」とはいうが、気象学の
世界では、「異常」という概念はない。
その定義すら、ない。

その気象。
09年を振り返ってみて、特異だったのは、
長梅雨。
そのため日本各地で、記録的な日照不足が
起きた。
正確には、「観測史上初の短さ」ということに
なる。
が、だからといって、「異常」とは言わない。

+++++++++++++++++

●異常気象

 いくら「おかしい」と思っても、そこには原因がある。
原因がある以上、いきなり「異常」という言葉で片づけることはできない。

たとえば09年の日照不足にしても、その原因は、長梅雨。
さらに長梅雨の原因はといえば、「エルニーニョ現象」。
太平洋東部(南米沖)の海水温があがると、相対的に、日本の南の海水温がさがる。
簡単に言えば、太平洋という海をはさんで、東部と西部が、シーソーをしているようなもの。
太平洋東部の海水温があがれば、「エルニーニョ現象」。
太平洋西部(日本の南部)の海水温があがれば、「ラニャーナ現象」。
09年は、エルニーニョ現象のため、相対的に、西部の海水温がさがった。
そのため日本に張り出す太平洋高気圧が弱くなり、夏らしい夏がこなかった。
そのため長梅雨になり、日照不足が各地で観測された。

 こうした現象を、「異常」とは言わない。
しかし「異常気象」という言葉だけが、今、ひとり歩きしている。
言うなれば、「異常」という言葉を使うことによって、思考することをやめてしまっている。

●子どもの世界

 子どもの世界でも、(もちろん)、「正常」「異常」という言葉は、存在しない。
その概念もなければ、定義もない。
あるはずもないし、またあってはならない。

 「問題のある子ども」というのはいるが、しかし仮にそうであるとしても、そこには原因がある。
理由もある。
ほとんどは子ども自身の問題というよりは、子ども自身には責任のない問題である。
また「問題」といっても、それは固定された視点から見て、「そうだ」と言うにすぎない。
別の視点から見れば、問題が問題でなくなってしまう。
言い換えると、「問題」というのは、その子どもを見る「視点の問題」ということになる。
さらに言えば、「問題のある子ども」というのは、存在しない。

 たとえば不登校にせよ、学習障害児にせよ、AD・HD児にせよ、「学校教育」という枠(わく)
の中で、「問題のある子ども」と言うにすぎない。
学校教育という枠をはずれれば、何でもない。
むしろ別のすばらしい才能を発揮することもある。

 言い換えると、「正常」「異常」、さらには、「問題」にせよ、これらはすべて人間が勝手に作り
だした言葉にすぎないということ。

●まず、認める

 そこで重要なことは、たとえば現在の気象状態を見ながら、「異常」「異常」と騒ぐことではな
く、冷静に原因と理由を見つめていくということ。
この世界では、思考力のない人ほど、「異常」「異常」と騒ぎやすい。
またそういう言葉を使うことによって、自らの思考力を停止してしまう。

 子どもの世界も、またしかり。
そこにそういう子どもがいるなら、そういう子どもと認めた上で、その子どもに合った指導をす
る。
すべてはそこから始まり、そこで終わる。
とくに教育者は、ドクターとは立場が異なる。
診断名をつけて、治療するなどということは、ドクターに任せておけばよい。
もちろんその知識をもつことは重要なことだが、だからといって、私たちには、どうすることもで
きない。
その子どもを、そこを原点として、前向きに伸ばしていく。

 実際、私の経験からしても、問題のない子どもはいない。
どんな子どもにも、それぞれ何かの問題がある。
だから「問題がある」という前提で子どもを見るのではなく、「その子はそういう子どもである」と
認める。
へたに「なおしてやろう」と考えると、教えるのもたいへんだが、子どもも疲れる。
指導法をまちがえると、子どもをかえって悪い方向に、追いやってしまう。
だから、「あるがまま」。

●一言

 これは、私たち自身の問題と直結している。
つまり私たちは、常に自分に問いかける。
「私は正常」と思い込んでいる人ほど、あぶない。
「私はだいじょうぶ」と思い込んでいる人も、あぶない。
たいへん興味深いことは、認知症の初期段階では、「自分はおかしい?」と思うこともあるらし
いが、さらに進んでくると、それもわからなくなるらしい。
(認知症の種類にもよるが……。)

 私もこんな経験をしたことがある。
どこか認知症ぽい女性(当時、63歳くらい)に、こう言ったときのこと。
その女性のまわりくどい言い方に閉口していた。
「私は、そんなバカではないと思いますが……」と。

 するとその女性は、何をどう誤解したのかはわからないが、「私だって、そんなバカではな
い!」と言って、叫んだ。
私はそのとき、「この女性は、本物のバカだ」(失礼!)と思った。……思ってしまった。

 「私」を知るためには、常に私を疑う。
こと「私」について言えば、「私はおかしい」という前提で考えるのがよい。
「私はまちがっている」でもよい。
ばあいによっては、「私は異常かもしれない」でもよい。
つまりそうした謙虚な姿勢が、「私」の発見につながっていく。

 「正常」「異常」という言葉が、あまりにも安易に使われているような気がしたので、(私自身
も、使っているが……)、ここでそれについて考えてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 正常 異常 正常論 異常論 異常気象論 異常気象)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●i7、64ビット・パソコン

++++++++++++++++++

昨日、待望の(i7、64ビット)パソコンが
届いた。
注文してから、2週間も待たされた。
もちろんOSは、WINDOW7・プロフェッショナル。

すごい!
パフォーマンス評価をしてみたら、ハードディスクの
転送速度以外は、何とスコアは、7・5〜7・7!
(7・9が満点とか。)
今までのビスタパソコンは、5・5〜5・9だった。
ワクワク、ドキドキ・・・。
そんなわけで、今朝は午前5時に起き。
6時間かけて、設定をすませた。
6時間だぞ!

「プロフェッショナル」にしたのには、理由がある。

WINDOW7・プロフェッショナルでは、
仮想(バーチャル)XPというのが使える。
それを使えば、ビスタで使えなくなったソフトを、
再び生き返らせることができる。
今までビスタ上で、だましだまし使っていたソフトを、
WINDOW7上で、堂々と使える。

が、ひとつ大きな問題が発生した。
Adobe(アドビ)が、64ビットパソコンに
対応していない。
そのため、YOUTUBEなどの動画が、見られない。
FLASH画像も(×)が出て、表示されない。
そこでAdobeベータ版(試作版)をダウンロード。
が、それでも動画を見ることができない。

?????の連続。

あれこれ原因をさぐったり、いじったり……。
削除したり、再インストールしたり……。
1時間ほど、回り道をした。
それが楽しかった。

【解決法:表示されない画面の状態で、
(スタート)→(すべてのプログラム)→
(Internet Explorerを右クリック)→
(管理者として実行)を順にクリック。】

終わったときには、むずかしい数学の問題を解いたような
満足感を覚えた。
ほっとした。
気持ちよかった。
そのあと少し横になったが、頭が冴えて、眠れなかった。

あとは時間をみて、ファイルを、古いパソコンから
新しいパソコンへ、ゆっくりと移すだけ。

(実際には、Dディスクにコピーして、ディスクごと、
新しいパソコンに移動する。
作業は、簡単。
それはこの正月の楽しみ。)

この原稿は、そのパソコンを使って書いた、はじめての原稿。
記念すべき原稿。

時は2009年12月23日。

晃子へ、

こんな道楽を、好き勝手にやらせてくれて、ありがとう!
プラス、パソコンの世界は、それを専門にしている人は
別として、私たちには、少し荷が重すぎる。
どんどん進歩していく。
変化していく。
ついていくだけで、たいへん。

++++++++++++++++++++

●うれしいメール

 幼児クラスで教えたことのある、Dさん(小3・女児)が、数か月前、私の教室に戻ってきた。
お母さんの話では、いろいろあった。
それについてはここに書けないが、ともかくも、いろいろあって、Dさんは、元気をなくしてしまっ
た。
そこで私のところに相談があった。
お母さんが、「娘が、BWのHPを、なつかしそうに見ていました」「それで、BWへもう一度、通っ
てみる?、と声をかけたら、そのとき、はじめてニコリと笑いました」と。
BWというのは、私の教室をいう。

 私はDさんを迎えるため、1か月かけて準備をした。
とくに心の暖かい子どもだけを3〜4人集め、お母さんの仕事時間に合わせて、新しいクラスを
作った。
『子どもの先生は、子ども』。
子どもは子どもの影響を受けて、変わる。
それに、私の教室で幼児期を過ごした子どもは、(心の基礎)が、しっかりとできている。
ちょっとやそっとでは、崩れない。
私はそれを信じている。

 で、Dさんは、やってきた。
ほかの生徒たちには、それとなくDさんのことを話しておいた。
みな、快く協力を申し出てくれた。
「私が抱っこして教えてあげる」と言ってくれた中学生もいた。

 ……それからちょうど3か月。
Dさんのお母さんからメールが届いた。
それを読んで、思わず涙が出た。
うれしかった。
そのまま紹介させてもらう。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

>『はやし先生へ
>
> こんばんは。いつもDがお世話になっております。
>
> 林先生に再びお世話になるようになってから、Dの様子が変わって来ました。
>
> あれだけ無表情でやる気の無かったDが、このところテストで90点や100点を取って来るよ
うになり、話しかけても返事もしなかったのに、この頃は呼ぶと「ハイ!!」と大きな声で返事を
し、にこにこと元気があふれる表情に変って来ました。
>
> しかも、ビックリしたのが、「負けるのが嫌だからスポーツはやらない。」と言っていたのに、
自分から「バスケットボールやりたい。」と言い出し、半信半疑で体験させたところ、「楽しい!
頑張る!」と言い、練習日には自分で仕度をして元気に出かけて行きます。
>
> 今日、持久走大会があり、48人中17位になったと嬉しそうに報告してくれました。 

>
> 以前のDに戻ってくれたと、私は感激で胸がいっぱいになりました。
>
> やっぱり、はやし先生にお願いして良かったと心から感謝しています。あまりの変わりよう
に、魔法にかかったような信じられない気持です。
>
> どうしても、先生にお礼と報告がしたくて、メールさせていただきました。
> ありがとうございます。これからも宜しくお願いします。
>
> 急に寒くなりました。お体に気をつけてください。
>
> (Dの母より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 どうかBW教室の宣伝と、とらえないでほしい。
私には、もうそういう気持ちはない。
ただ、うれしかった。
それだけ。

 そうそう、昨日、先日講演をした、秋田県の横田市のみなさんから、講演の感想が届いてい
た。
みなさん、ほんとうに暖かく、迎えてくれた。
それが私は、うれしかった。
片道7時間前後の長旅だったが、疲れはまったく感じなかった。
その感想の一部を、ここに抜きださせてもらう。
(原稿は、EXCEL版なので、そのまま転載できないので……。)

SKさん、ありがとうございました!!!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●とてもすばらしいお話でした。自分自身を見つめ直す機会にもなりました。ありがとうござい
ました。

●非常に良い講演でした。今日は、参加できなかった妻にも聞かせたかった。

●分かりやすく明快な講演でした。来年も是非企画してください。

●友達に誘われてきましたが、来て良かったと思います。子育てに対する情熱を感じました。
また子育てという視点だけでなく、自分自身を見つめる機会になりました。一番最後の「私の○
○、私の××、というものがあるから死に対して臆病になる。だったらそれを捨てればいい」と
いう部分が印象的でした。なかなか自分のしがらみというか、防御する心は捨てられないし、舞
い戻ってしまうけれど、「やっていこう!」と行動をおこすことが大切だと思いました。HPを見て
みたいと思います。

●とてもいい講演でした。手帳にたくさんメモしました。最後のお子さんの話には、とても感動し
ました。いつか将来私の心にも子育てをやりとげたとおいう風が吹く日が来たら幸せだろうなあ
と思いました。

●普段の自分の子どもへの接し方を改めて考えさせられました。親も余裕をもって接したいな
あと思いました。ありがとうございました。

●色々な深い話を聞けて大変参考になりました。遠くからどうもありがとうございました。

●とても心にしみるお話でした。子育てはもちろん、いろいろ考えさせられ、とてもよいお話でし
た。ぜひHPも見たいと思います。

●とてもいいお話を聞きました。HP絶対見ます。ありがとうございました。働いていると情報が
遠いような気がします。こういった会の開催など、簡単に確実に情報を得たい。

●とても充実した時間を過ごすことができました。

●お話がおもしろくて楽しかった。子育てにはユーモアが大切なのだな〜と実感しました。あ〜
でも私は、子供をあたたかく見守ることができるのかな〜なんて思ってしまいました。

●大変すばらしい講演会でした。ありがとうございます。

●参加して大変よかったです。先生の体験談、特に息子さんのお話に深く感銘し感動しまし
た。悩みながらの子育て中ですが、参加したことが、私にとって大きな改心の第一歩になると
思います。素晴らしいお話をありがとうございました。

●今日のお話の中にあった「東洋医学的な抵抗力を育てる」ことが、実は秋田県や横手市の
子育て支援にも大切なことだと思った。子育て中のお母さんたちを本当の意味で支援するこ
と、お母さんたちの自立を促すような内容をみんなで考えていけたらいいですね。講師の先
生、すばらしかったです。実行委員の皆様お疲れ様でした。

●HPも見ておりましたが、実際に聞いて、とても感動しました。これからの子育て孫育てに役
立てたいと思います。

●自分は64歳ですが、先生のお話に大いに共感いたしました。ありがとうございました。

○チラシをコンビニなど手に取りやすい所に置いてほしい。
○資料の隅でもいいので、メモが少しあったら嬉しかったです。
○講演の内容はすばらしく、聞きやすかったです。
○講演内容からすれば、より来場者があってもいいはずで、PRの方法を、様々な団体と検証
した方がいいと思う。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【横手市のみなさんへ】

 またいつか、おうかがいしますよ!
ワイフも、たいへん喜んでいました。
SKさんにいただいた、ぜんまい、たいへん、おいしかったです。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●『THE FOURTH KIND』(映画)

+++++++++++++++++++

今日は北区の劇場まで行って、『フォース・カインド』という
映画を観てきた。
久々のUFO映画。
「信ずるか信じないかは、あなた次第」という映画。
だから・・・というわけでもないが、映画は訳のわからないまま始まり、
訳がわからないまま終わってしまった。
「何とも中途半端な映画」というのが、私の感想。
星は2つか3つの、★★。

UFOファン(?)には、星4つかな。

+++++++++++++++++++

●シュメール文明

 「シュメール」については、若いころから興味があった。
東洋医学の本を書いているころからだった。
そのいきさつについては、『目で見る漢方診断』(飛鳥新社・はやし浩司著)にも書いた。
映画『フォース・カインド』の中で、そのシュメールの古代シュメール語(?)が出てくる。
シュメール語自体は楔形文字だが、ロゼッタ石の発見で、発音とか意味が、解読されている。
シュメール文明というのは、不思議な文明で、周囲の文明とはかけ離れて高度な文明を築いて
いた。
一説によれば、乾電池やメッキ技術ももっていたという。
中国の黄河文明が生まれるのと同時期、紀元前3500年ごろ。
今から5500年前のことである。
そのころ、伝説どおりとするなら、東洋医学のバイブルとも言われる『黄帝内経(こうていだい
けい)素問(そもん)』が、生まれた。
「黄帝」というのは、司馬遷の『史記』の大1頁目を飾る帝王である。

●シュメール語?

 『フォース・カイド』の中に出てくる宇宙人(?)は、そのシュメール語を話す。

古代メソポタミア文明を築いたという、あのシュメール人のシュメール語。
もう少し補足すると。紀元前3500年ごろ、今から5500年前ごろに栄えた文明である。
テープレコーダーの中に、それがたまたま録音されていた。
しかしここが、おかしい。
シュメール語は、かなりの部分まで、発音、意味が解読されている。
たとえば「神」は、「dingir」と発音する。
「ディンギル」と発音する。

(詳しくは、はやし浩司著『漢方のロマン』へ。
http://shizuoka.cool.ne.jp/bwhayashi/page055.html)

しかし実際の発音は、それに近いというだけで、5500年も経た現在、正しく発音できる人はい
ない。
また正しい発音を聞いたとき、発音だけで、それがシュメール語とわかる人はいない。

 たとえば私も学生時代、アメリカ人が、「golf」と言ったのを、聞き取れなかった。
「グォールフ」と発音したからだ。
つまりいくら「ゴルフ」と口で発音していても、実際の英語の発音は、まったくちがう。
日本語で「ゴルフ」と言うのと、英語で「golf」と言うのとは、まったくちがう。
反対に、アメリカ人に、日本語で「ゴルフ」と言ってみたらよい。
彼らは、ぜったいに、それがわからない。

 だから……。
宇宙人らしき生物が、シュメール語(映画の中では、「古代シュメール語」と言っていた)を話し
たというのは、ウソと考えてよい。

●宇宙人「グレイ」

 ただ「フクロウ」というのは、気になる。
被害者たち(?)は、みな、一様に、「窓の外にフクロウを見た」と証言している。
小型のグレイ型宇宙人なら、目も大きく、見方によっては、フクロウに見えるかもしれない。
「グレイ」というのは、アーモンド型の大きな目をした、灰色(グレイ)の宇宙人である。
そのグレイ型宇宙人が、窓の外から見ていた……。

 ただこの事件、つまりアラスカのノームで起きた一連の事件については、UFO研究家の間
で、以前から議論されている。
否定的な意見としては、あの地方には大酒飲みが多く、酒による幻覚を見たのではないかとい
うのがある。
そのあたりのことは、あちこちのサイトに書いてあるので、興味のある人は、そちらを読んだら
よい。
私はその映画を見ながら、映画『ロズウェル』を思い浮かべていた。
実によくできた映画で、最初に観たときには、実録なのか、映画なのか、観終わったあとでも判
断できなかった。
結果的に、映画だったということはわかったが……。

 それと比べると、今度の『フォース・カインド』は、さらに本物ぽい?
宇宙人による(?)拉致の仕方も、あちこちで報告されている方法と同じ。
退行催眠によって、その「時」になると、被験者がパニック状態になる話も、よく聞く。
となると、またここで疑問。

 どうして宇宙人は、麻酔薬を使わないのか?
人間が野生動物をつかまえるときは、麻酔銃などを使ったりする。
映画のとおりだとするなら、宇宙人は強烈な恐怖心を与えながら、人間を拉致していることにな
る。
私なら、人間を眠らせた状態で、何かの手を加える。
それが何であれ、それくらいの思いやりはある。
が、宇宙人には、それがない(?)。

 よく言われるが、グレイというのは、爬虫類を遺伝子操作によって、ロボットに仕立てた生物
と言われている。
つまり感情がない。
冷酷。
残忍。
だからそういうことが、平気でできる(?)。

 ワイフは、久々にUFO映画を観ることができたと喜んでいた。


Hiroshi Hayashi+++++林 浩司+++++はやし浩司

●映画『アバター(AVATAR・3D)』

++++++++++++++++++

昨夜、仕事の帰りに、『アバター』を観てきた。
文句なしの、星は5つ。
★★★★★+。
今年観た映画の中で、最高の映画。

++++++++++++++++++

●ジェームズ・キャメロン

 観終わってからわかった。
あの映画の中には、強烈な反戦メッセージが隠されている。
ジェームズ・キャメロンのメッセージである。

利権を確保するために、強力な機械軍団を送り込む、地球軍。
それと戦う、原住民。
その原住民の中に、遺伝子操作でできた、アバター数体が送り込まれる。
言うなれば、スパイ。
工作活動部員。
物語は、ここから始まる……。

 あとは映画を観てからのお楽しみ。
また観るなら、劇場の3D画面で観たほうがよい。
迫力がちがう。
(我が家にも、42インチのフルHDテレビはあるが……。)

 何というか、その映画を観て、2つのことを感じた。
「とうとう映画も、ここまで来たか!」という驚き。
もうひとつは、「これでまた日本映画は、さらに後れた!」という悔しさ。
マラソンにたとえるなら、ダントツのトップを走るアメリカ映画。
この映画で、アメリカはさらに数百メートル、先にぬき出た。
そのトップをはるか前方に見ながら、あえぎながら走る2番集団。
そのあとにつづく3番集団。
その3番集団から日本映画は、さらに後れて、4番集団に入った。

 「まあ、すごい!」の一言。
どうすごいかは、『アバター』を観ればわかる。
娯楽映画のもつすべてを盛り込んだような超大作。
3時間という上映時間は、あっという間に過ぎた。
 

Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司

●クリスマス+正月

 最近、いろいろな従兄弟(いとこ)たちと、電話でよく話す。
「いろいろ」というのは、私には、60数人もの従兄弟がいる。
みんな、それぞれに年を取った。
話しながら、しみじみとそれを感ずる。
みんあ、がんばっているなあ、と。

 そういう従兄弟たちを思いやりながら、また1歳、年を取るのかと、ため息をつく。
新しい年を迎えるたびに、「1年、無事に生きられてよかった」という思い。
「また、1年、過ぎてしまった」という思い。
新年を迎えるたびに、いつもこの2つが、複雑に心の中で交錯する。
私としては、「今年は、さらに充実した年にしたい」と思いたいが、自信が半分。
不安が半分。

 で、今日は12月24日。
クリスマス・イブ。
ワイフはケーキを作るとはりきっている。
私は朝から、新パソコンの設定にかかりっきり。
のどかな朝。
庭では、スズメたちが餌をついばんでいる。

 ワイフへのプレゼントは何にしよう……?
まだ考えてなかった。

 ……私もがんばろう。
どこまでできるか、わからないが、やるしかない。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●頭のキレる子ども(Smart Kids)

+++++++++++++++++++++++

頭のキレる子どもと、そうでない子どもがいる。
どこがどうちがうか。
ひとつには、頭のキレる子どもは、スパスパと、
まるでかみそりで、ものを切るかのように、
ものを考える。
考えるというよりは、何かテーマを与えると、それに
食いついてくる。
切り込んでくる。

反応も早いが、反応の仕方も、的確。
無駄がない。

一方、そうでない子どもは、反応が鈍い。
頭の中で、思考が回り道をしているような感じになる。
モタモタしている。
テーマを与えても、「どうでもいい」といったふうに、
逃げてしまう。
先天的なちがい、つまり遺伝子のちがいによる部分もないとは
言わない。
それはある。
しかし結果としてみると、頭のキレる子どもは、
良循環の中で、ますます頭がキレるようになる。
そうでない子どもは、悪循環の中で、ますますそうでなくなる。

+++++++++++++++++++++++

●特徴

 頭のキレる子どもの特徴を並べてみる。
たまたま私の目の前に、何人かの恵まれた子どもたち(小学生)がいる。
今日は、ワークブックの日。
月に1回は、ワークブックの日と定めて、学校の教科書に沿った勉強をしている。
しかしどの子どもも、1〜2年分、飛び級をして、勉強している。

 まず気がつくことは、(1)目つきが鋭いということ。
眼球は、その子どもの脳の中をのぞく、窓と考えてよい。
眼球の中をのぞけば、その子どもが頭のキレる子どもかどうかが、わかる。
動きに無駄がない。
時折、視線がキラッキラッと動くことがあるが、そのつどちゃんとした目的がある。

 一方、そうでない子どもは、目つきそのものが、どんよりとした感じになる。
無目的に視線を動かす。
フワフワしている。

 つぎに気がつくことは、(2)的確性。
頭のキレる子どもは、目的に向かって、まっすぐと切り込んでくる。
言い換えると、「集中力」ということになる。
その集中力がある。
同じ(10)の力をもっていても、(10)の力すべてを、一点に集中させる。
そうでない子どもは、力を拡散させてしまう。
つまり頭がキレるかどうかは、集中力で決まる。
さらに鋭い子どもになると、スキがない。
ツンとした緊張感に包まれる。

 が、何よりも重要なのは、(3)切り込みということになる。
だから「キレる」という言葉を使うようになったのかどうかは知らないが、あたまのよい子ども
は、どんどんと切り込んでくる。
「AだからB……BだからC……CだからD……」と。
ちょうどドミノ倒しのドミノのように、ちょっとしたきっかけを与えるだけで、「ハイハイ、わかりまし
た!」と言って、自分で理解してしまう。

 たとえばたまたま今、目の前の子ども(小3)が、こんな問題を解いている。

「体□、□草の□に入る漢字を書け」(小5国語ワークブック)と。

 答は、「質」。
だから「体(質)、(質)草」。

 しかし小学生が、「質草」という言葉を知っているわけがない。
で、私が「質だよ」と教えると、「質草って何?」と聞き返してくる。
そこで「お金を借りるとき、時計とかカメラを相手に渡すときがある。
それを質草というんだよ」と教えると、すかさず、「お金が返せなかったら、
取られてしまうの?」と。 

私「お金が返せなかったら、時計とかカメラは、取られてしまうよ」
子「だったら、損だ。だれかにカメラを売ったほうがいい」
私「でも、お金を返せば、カメラは戻ってくる」
子「古いカメラでもいいの?」
私「もちろん価値のあるカメラでないといけないよ。
相手の人は、お金を返してもらえないときは、そのカメラをだれかに売って、お金を取り戻す
よ」
子「高く売れたら、残りは、返してもらえるの?」
私「それはない」
子「だったら、やっぱり、損だ」と。

 こういう会話が、ポンポンとつづく。

●習慣の問題

 先にも書いたように、(遺伝子のちがい)は、否定できない。
「頭のよい親の子どもは、頭がよい」。
しかしそれとて、こうも考えられなくもない。
つまり子どもは、日常的に頭のよい親に接している。
親の影響を受ける。
そのため思考するという習慣を、自然と身につける。

 たとえばこんなことがある。

 私は小学生の高学年になると、中学生のクラスなどにその子どもを置いて指導する。
上級生の(勉強ぐせ)を、もらうためである。
この方法は、きわめて効果的である。
イギリスでも、カレッジ制度の中で、それが応用されている。
……というより、イギリスのカレッジ制度を、私は、まねさせてもらっている。

 とくに頭のキレる中学生の間に置いたりすると、効果的である。
半年もすると、その上級生の勉強ぐせのみならず、思考力というか、思考回路そのものを身に
つけてしまう。
つまり頭がキレるようになる。

 このばあい、脳の神経細胞(シナプス)が発達したというよりは、頭の中に新しい回路(ニュー
ロン)ができたと考えるほうが、自然である。
つまり神経細胞は、生まれながらにして数が決まっているが、回路(ニューロン)は、環境によ
って、できる。
環境の中で、子どもは自ら、それを脳の中に作っていく。

 私の書きたいことが、もうわかってもらえたと思う。
頭のよい子どもは、環境の中で、そうなっていく。
それが(考えるという習慣)につながり、さらにそれが良循環となって、頭のキレる子どもになっ
ていく。

 たいへん失礼な言い方になるかもしれないが、親がボケーッとした生活を、日常的にしてい
て、どうして子どもが頭のキレる子どもになるというのか。
子どもは日ごろの、何でもないような会話を通してでも、自らの思考回路を作っていく。
その逆の、極端な例が、野生児ということになる。
オオカミに育てられれば、オオカミ程度の思考力しかない子どもになる。
(野生児については、何度も書いてきたので、ここでは省略する。)

 簡単に言えば、子どもは、頭のキレる人に接すれば、頭のキレる子どもになる。
そうでなければ、そうでない。
その責任の第一は、親ということになる。
が、親だけではない。
もちろん教師も、その中に含まれる。
頭のキレる教師に接すれば、子どもは、頭のキレる子どもになる。
そうでなければ、そうでない。
(教師だからといって、みながみな、頭のキレる人ばかりではないぞ!)

 そういう意味では、「教育」というのは、ものを教えるだけが教育ではないということ。
むしろ(教えずして教える部分)のほうが、重要。
またそれから受ける影響力のほうが、子どもにとっては、大きい。
アインシュタインもこう書いている。

 『教育とは、学校で習ったことをすべて忘れてしまったあとに、残っているもの』と。

 ……ということで、頭のキレる子どもについて、書いてみた。
が、誤解しないでほしい。
教える立場のものが、いつも教えるのではない。
その点、年齢は、あまり関係ない。
私のばあい、頭のキレる子どもに接すると、反対に、私のほうが大きな刺激を受けることがあ
る。
相手は子どもだから、知識や経験こそ少ないが、こと頭のキレについては、上下はない。
実のところ、私自身は、頭のキレる子どもと接しているのが、楽しい。
教えていても、おもしろい。
ときに教える立場であることを忘れて、子どもとのやりとりに夢中になることがある。

 ついでに……。
だからといって、私がどうと言うのではない。
しかしこういうことも言える。
「頭のキレる人には、頭のキレる人がわかる。
しかしそうでない人には、そうでない」と。
もっとわかりやすく言えば、「頭のよい人には、頭のよい人がわかる。
しかしそうでない人には、それがわからない」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW はやし浩司 頭のよい子ども 頭のよい子供 頭のキレる子供 鋭い子供 子供
の集中力)

【補記】

『バカな人には、利口な人がわからない。利口な人からは、バカな人がよくわかる』
『愚かな人には、賢い人がわからない。賢い人からは、愚かな人がよくわかる』
さらに、
『自分がより利口になってはじめて、それまでの自分がバカだったことを知る』
『自分がより賢くなってはじめて、それまでの自分が愚かだったことを知る』
また、逆にこうも言える。
『バカな人は、自分がバカということがわからない。利口な人は、自分がバカということがわか
る』
『愚かな人は、自分が愚かということがわからない。賢い人は、自分が愚かということがわか
る』

 こうして考えていくと、いかに自分のことを知るのがむずかしいかがわかる。
私はこのことを、どこか認知症ぽい女性(60歳くらい)と話していて気がついた。
バカでもわかるようなくだらない話を(失礼!)、その女性は、私にくどくどと説明した。
そこで私が、「私は、そんなバカではないと思いますが……」と言うと、突然、大声で私にこう言
った。
「私だって、バカじゃ、ありません!」と。

 私は、「あなたが思っているようなバカではない」と言ったつもりだった。
またその女性を、バカと言ったわけではない。
が、その女性は「バカ」という言葉に、過剰に反応した。
自分がバカと言われたと、勘違いした。

 私も、母を見舞うついでに、老人ホームにいる老人たちを観察させてもらったことがある。
そのとき気がついたが、ああいった施設にいる老人で、自分をバカと思っている老人はいない
ということ。
一日中、「飯はまだかア!」と、叫んでいる女性(90歳くらい)もいた。
食事がすんだ直後でも、そう言って叫んでいた。

 そういう女性を、バカというのも、失礼なこと。
それは、よくわかっている。
しかしその女性は、私自身の近未来像。
私もやがて、その女性と同じようなバカになる。
まちがいなく、そうなる。

だから最後に、こうも言える。

『自分がバカになりつつあるときは、だれもそれに気がつかない』
『自分が愚かになりつつあるときは、だれもそれに気がつかない』と。

老後の恐ろしさは、まさに、ここにある。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司

【常識の壁】

●思考のパターン化(思考回路の形成)

+++++++++++++++++++++++

同じことを繰り返す。
繰り返していると、やがて脳みそは、やがてそれを
パターン化する。
パターン化して、そのまま脳の中に叩きこむ。
これを「自動化」という。

たとえばコップを手に取り、お茶を飲む。
そのとき、手でどのようにコップを握るか、
それをいちいち考えてする人はいない。
手は自動的に動き、コップを手にし、それを
口に運ぶ。
これが自動化である。

もう少し複雑な自動化としては、タイピングがある。
パソコンに向かって、キーボードを打つときを、思い浮かべて
みればよい。

私もこうして文字をパソコンに向かって、キーボードを
打つとき、どこにどのキーがあるか、いちいち考えて打たない。
短い言葉なら、指がまとめて動く。
「まとめて」というのは、たとえば「言葉」と打つとき、
何も考えなくても、「KOTOBA」と、一気に指が動く。
「K」「O」「T」……というように、ひとつずつの
キーを意識して打つわけではない。

だからふつう、口で話すよりも速く、文字を打つことができる。
この自動化のおかげで、私は、能率よく、かつ無駄なく、自分の
仕事をこなすことができる。

++++++++++++++++++++

●思考回路

 ある作業を繰り返していると、脳はそのパターンを認識し、それを記憶する。
脳の中に、一定の回路をつくる。 
そうした回路のうち、作業に関する回路は、手続きが記憶されるという意味で、「手続き記憶」
とも呼ばれている。
わかりやすく言えば、頭が覚えるのではなく、体が覚える。
(本当は、頭が覚えるのだが……。)

 たとえばここに書いたタイピングにしても、最初は、一本の指だけでパチン、パチンと打つ。
が、慣れてくると、カチカチと打てるようになる。
さらに練習を重ねていくと、キーボードを見なくても、文字が打てるようになる。

同じような現象が、「思考」についても、起きる。

 たとえば何かの問題にぶつかったとしよう。
そのとき私たちは自分のもつ思考回路に沿って、ものを考え、問題を解決しようとする。
たとえば暴力団の人は、(暴力)という手段を念頭に置いて、問題を解決しようとする。(多
分?)
お金や権力のある人は、お金や権力という手段を念頭に置いて、問題を解決しようとする。(多
分?)
私のばあいは、ものを書くのが好きだし、「ペン」の力を信じている。
だからものを書くという手段を念頭に置いて、問題を解決しようとする。

 人それぞれだが、さらに中身をみていくと、興味深い事実に気がつく。

●常識(?)

 それぞれの人には、それぞれの(糸)が無数にからんでいる。
過去の糸、生い立ちの糸、環境の糸、教育の糸、人間関係という糸、などなど。
そういう無数の糸にからまれながら、その人のものの考え方、つまり常識ができあがっていく。

 アインシュタインは、「その人の常識は、18歳くらいまでに完成される」というようなことを書き
残している。
「18歳」という年齢にこだわる必要はないが、かなり早い時期に完成されることは事実である。
そしてその常識は、一度形成されると、よほどのことがないかぎり、生涯に渡ってそのまま、そ
の人のものの考え方の基本となる。

 たとえばY氏(67歳)は、ことあるごとに、「お前は、男だろが!」「お前は、長男だろが!」「何
と言っても、親は親だからな!」とか言う。
そういう言葉をよく使う。
何か問題が起こるたびに、そう言う。
それがY氏の常識ということになる。
そうした常識は、ルーツをたどっていくと、かなり若いころまで、さかのぼることができる。
Y氏は、若いころ、「親絶対教」として知られる、M倫理団体の青年部員として活躍していた。

●思考回路への挑戦

 私が自分のもつ思考回路を疑い始めたのは、オーストラリアに留学していたときだった。
もちろんそのときは、「思考回路」という言葉すら、知らなかった。
そのことを書いたのが、つぎの記事である(「世にも不思議な留学記」(中日新聞発表済み))。

 この中で、私は、私たちがもっている職業観ですら、環境の中で作られていくものだということ
を書きたかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「外交官はブタの仕事」

 そしてある日。友人の部屋でお茶を飲んでいると、私は外務省からの手紙をみつけた。許可
をもらって読むと、「君を外交官にしたいから、面接に来るように」と。そこで私が「おめでとう」と
言うと、彼はその手紙をそのままごみ箱へポイと捨ててしまった。「ブタの仕事だ。アメリカやイ
ギリスなら行きたいが、九九%の国へは行きたくない」と。

彼は「ブタ」という言葉を使った。あの国はもともと移民国家。「外国へ出る」という意識そのも
のが、日本人のそれとはまったくちがっていた。同じ公務の仕事というなら、オーストラリア国内
で、と考えていたようだ。

また別の日、フィリッピンからの留学生が来て、こう言った。「君は日本へ帰ったら、軍隊に入
るのか」と。「今、日本では軍隊はあまり人気がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の、
伝統ある軍隊になぜ入らない」と、やんやの非難。当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍
人になることイコ−ル、出世を意味していた。マニラ郊外にマカティと呼ばれる特別居住区があ
った。軍人の場合、下から二階級昇進するだけで、家つき、運転手つきの車があてがわれた。

またイソロクは、「白人と対等に戦った最初のアジア人」ということで、アジアの学生の間では英
雄だった。これには驚いたが、事実は事実だ。日本以外のアジアの国々は、欧米各国の植民
地になったという暗い歴史がある。

 そして私の番。ある日、一番仲のよかった友だちが、私にこう言った。「ヒロシ、もうそんなこと
言うのはよせ。ここでは、日本人の商社マンは軽蔑されている」と。私はことあるごとに、日本
へ帰ったら、M物産という会社に入社することになっていると、言っていた。ほかに自慢するも
のがなかった。

が、国変われば、当然、価値観もちがう。私たち戦後生まれの団塊の世代は、就職といえば、
迷わず、商社マンや銀行マンの道を選んだ。それが学生として、最良の道だと信じていた。し
かしそういう価値観とて、国策の中でつくられたものだった。私は、それを思い知らされた。時
まさしく日本は、高度成長へのまっただ中へと、ばく進していた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 で、帰国後、私は大阪に本社を置く、M物産(当時は、東京と大阪の2本社制を敷いていた)
に勤めるようになった。
そこで私は、ある日、こんな実験をした。
今にして思えば、それが、私が意識的にした最初の、思考回路への挑戦だったと思う。
私は自分の思考回路を、変えてみたかった。

 それについて書いた原稿が、つぎのもの。
少し余計なことも書いているが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●私の過去(心の実験)

 私はときどき心の実験をする。わざと、ふつうでないことをして、自分の心がどう変化するの
を、観察する。若いときは、そんなことばかりしていた。私の趣味のようなものだった。

たとえば東京の山手線に乗ったとき、東京から新橋へ行くのに、わざと反対回りに乗るなど。
あるいは渋谷へいくとき、山手線を三周くらい回ってから行ったこともある。

一周回るごとに、自分の心がどう変化するかを知りたかった。しかし私の考え方を大きく変えた
のは、つぎのような実験をしたときのことだ。

 私はそのとき大阪の商社に勤めていた。帰るときは、いつも阪急電車を利用していた。その
ときのこと。あの阪急電車の梅田駅は、長い通路になっていた。その通路を歩いていると、た
いていいつも、電車の発車ベルが鳴った。するとみな、一斉に走り出した。私も最初のころは
みなと一緒に走り、長い階段をかけのぼって、電車に飛び乗った。

しかしある夜のこと、ふと「急いで帰って、それがどうなのか」と思った。寮は伊丹(いたみ)にあ
ったが、私を待つ人はだれもいなかった。そこで私は心の実験をした。

 ベルが鳴っても、わざとゆっくりと歩いた。それだけではない。プラットホームについてからも、
横のほうに並べてあるイスに座って、一電車、二電車と、乗り過ごしてみた。

それはおもしろい実験だった。しばらくその実験をしていると、走って電車に飛び乗る人が、ど
の人もバカ(失礼!)に見えてきた。当時はまだコンピュータはなかったが、乗車率が、130〜
150%くらいになると電車を発車させるようにダイヤが組んであった。そのため急いで飛び乗
ったようなときには、イスにすわれないしくみになっていた。

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。「早く楽になろうと思ってがんばっているう
ちに、疲れてしまって、何もできなくなる」という意味だが、愚かな生き方の代名詞にもなってい
る格言である。

その電車に飛び乗る人がそうだった。みなは、早く楽になりたいと思って電車に飛び乗る。が、
しかし、そのためにかえって、よけいに疲れてしまう。

 ……それから35年あまり。私たちの世代は企業戦士とか何とかおだてられて、あの高度成
長期をがむしゃらに生きてきた。人生そのものが、毎日、発車ベルに追いたてられるような人
生だった。どの人も、いつか楽になろうと思ってがんばってきた。

しかし今、多くの仲間や知人は、リストラの嵐の中で、つぎつぎと会社を追われている。やっとヒ
マになったと思ったら、人生そのものが終わっていた……。そんな状態になっている。

私とて、そういう部分がないわけではない。こう書きながらも、休息を求めて疲れるようなこと
は、しばしばしてきた。しかしあのとき、あの心の実験をしなかったら、今ごろはもっと後悔して
いるかもしれない。

そのあと間もなく、私は商社をやめた。今から思うと、あのときの心の実験が、商社をやめるき
っかけのひとつになったことは、まちがいない。

【補記2】

 やはり、「♪のんびり行こうよ……」は、いい歌です。私は何度も、この歌と歌詞に救われまし
た。小林亜星さん、そしてそのコマーシャルを流してくれたM石油さん、ありがとう。

 そうそうそのM石油。一度、入社試験を受けたことがあるんですよ。学生時代の話ですが…
…。そのあとM物産に入社が内定したので、そのままになってしまいましたが……。ごめん!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 話は前後するが、私はこんな経験もした。
私の思考回路に、強烈な刺激を与えた事件だった。
同じく『世にも不思議な留学記』の中で、こんな原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●たった一匹のネズミを求めて(そのネズミになる)

●牧場を襲った無数のネズミ

 私は休暇になると、決まって、アデレ−ド市の近くにある友人の牧場へ行って、そこでいつも
一、二週間を過ごした。「近く」といっても、数百キロは、離れている。広大な牧場で、彼の牧場
だけでも浜松市の市街地より広い。その牧場でのこと。

ある朝起きてみると、牧場全体が、さざ波がさざめくように、波うっていた! 見ると、おびただ
しい数のネズミ、またネズミ。……と言っても、畳一枚ぐらいの広さに、一匹いるかいないかと
いう程度。しかも、それぞれのネズミに個性があった。農機具の間で遊んでいるのもいたし、干
し草の間を出入りしているのもいた。

あのパイドパイパ−の物語に出てくるネズミは、一列に並んで、皆、一方向を向いているが、そ
ういうことはなかった。

 が、友人も彼の両親も、平然としたもの。私が「農薬で駆除したら」と提案すると、「そんなこと
をすれば、自然のライフサイクルをこわすことになるから……」と。農薬は羊の健康にも悪い影
響を与える。こういうときのために、オーストラリアでは州による手厚い保障制度が発達してい
る。

そこで私たちはネズミ退治をすることにした。方法は、こうだ。まずドラム缶の中に水を入れ、
その上に板切れを渡す。次に中央に腐ったチーズを置いておく。こうすると両側から無数のネ
ズミがやってきて、中央でぶつかり、そのままポトンポトンと、水の中に落ちた。が、何と言って
も数が多い。私と友人は、そのネズミの死骸をスコップで、それこそ絶え間なく、すくい出さねば
ならなかった。

 が、三日目の朝。起きてみると、今度は、ネズミたちはすっかり姿を消していた。友人に理由
を聞くと、「土の中で眠っている間に伝染病で死んだか、あるいは集団で海へ向かったかのど
ちらかだ」と。伝染病で死んだというのはわかるが、集団で移動したという話は、即座には信じ
られなかった。移動したといっても、いつ誰が、そう命令したのか。ネズミには、どれも個性が
あった。

そこで私はスコップを取り出し、穴という穴を、次々と掘り返してみた。が、ネズミはおろか、そ
の死骸もなかった。一匹ぐらい、いてもよさそうなものだと、あちこちをさがしたが、一匹もいな
かった。ネズミたちは、ある「力」によって、集団で移動していった。

●人間にも脳の同調作用?

 私の研究テ−マの一つは、『戦前の日本人の法意識』。なぜに日本人は一億一丸となって、
戦争に向かったか。また向かってしまったのかというテ−マだった。が、たまたまその研究がデ
ッドロックに乗りあげていた時期でもあった。あの全体主義は、心理学や社会学では説明でき
なかった。

そんな中、このネズミの事件は、私に大きな衝撃を与えた。そこで私は、人間にも、ネズミに作
用したような「力」が作用するのではないかと考えるようになった。わかりやすく言えば、脳の同
調作用のようなものだ。最近でもクロ−ン技術で生まれた二頭の牛が、壁で隔てられた別々の
部屋で、同じような行動をすることが知られている。そういう「力」があると考えると、戦前の日
本人の、あの集団性が理解できる。……できた。

 この研究論文をまとめたとき、私の頭にもう一つの、考えが浮かんだ。それは私自身のこと
だが、「一匹のネズミになってやろう」という考えだった。「一匹ぐらい、まったくちがった生き方
をする人間がいてもよいではないか。皆が集団移動をしても、私だけ別の方角に歩いてみる。
私は、あえて、それになってやろう」と。

日本ではちょうどそのころ、三島由紀夫が割腹自殺をしていた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●思考回路 

 何度も書くが、思考回路そのものは、「悪」ではない。
思考回路があるからこそ、私たちは日常の生活の中で、ものごとをスムーズに作業し、ものご
とをスムーズに考えることができる。
手続き記憶を考えてみれば、それがわかる。

 しかしこの思考回路は、ときとして、新しいものの考え方に対して、壁となって立ちはだかるこ
とがある。
新しいものの考え方を取り入れるのを、じゃまする。
それだけではない。
その返す刀で、新しいものの考え方を、「まちがっている」と排斥してしまうことがある。ときには
それがその人の全人格的な思考回路になっていることがある。
たとえば「義理・人情」とかいう言葉をよく使う人がいる。
そういう人は、何かにつけて、この言葉に固執する。

 そういう人がそれまでの思考回路を変更するということは、その人自身が自分の過去、つま
りそれまで生きてきた人生そのものを否定することに等しい。
その分だけ、衝撃が大きい。
だからよけいにはげしく、抵抗する。
「オレは、義理・人情に命をかける」と。

 ……というような経験は、日常生活の中でもよくする。

 そこで2つのことを提案したい。

(1)常に新しい思考回路が組み込めるように、心の中に余裕(ROOM)を作っておくこと。
(2)常に新しい思考回路をもった人と接する機会を、大切にすること。

 つまり自分がもつ常識は、絶対的なものでないと、いつもどこかでそれを疑う。
一度思考回路ができてしまうと、『類は友を呼ぶ』のことわざ通り、人は居心地のよい世界を求
めて、集まる傾向がある。
暴力団の人は、暴力団の人どうし。
ドクターの人は、ドクターの人どうし。
さらには老人の人は、老人の人どうし、と。
が、これは思考回路を固定化するという面で、危険なことでもある。

 私は個人的には、子どもと接するのがよいと思うが、みながみな、そういう機会があるという
わけではない。
子どもたちの思考回路は、いわば白紙の状態。
その(白紙)を見ながら、私たちは自分の思考回路に(色)がついていたり、あるいは(汚れて
いることを知ったりする。

 ……ということで、思考回路について、考えてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 思考回路 手続き記憶 手続き的知識 常識の破壊 常識への挑戦)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●ネット通販

+++++++++++++++++

先日、小学3年生の子どもたちに、
こう話した。
「ネットで新しいパソコン、買ったよ」と。
そのときのこと。
すかさず子どもたちがこう聞いた。

「価格ドットコム?」「ヤフー・ショッピング?」と。

これには驚いた。
最近の子どもたちですら、その名前を
知っている。
価格ドットコム!
ヤフー・ショッピング!

一方、ネットを通しての販売高は、
デパートやショッピングセンターでの
販売高を超えた。
それも数年前の話。

+++++++++++++++++

●価格比較

 今朝、新聞に折り込み広告が入っていた。
近くの「K」電気店と、駅前の「B」電気店のものである。
ともに全国的なチェーン店を展開している。

朝食後、少し時間があったので、価格を比較してみた。
(こういうヒマなことをするのが、趣味。)
以下、「B」電気店の目玉商品。
(カッコ)内は、価格ドットコムでの、12月25日現在の価格。

emachine-eMD525-W25(ノートパソコン)・・・5万4800円→(4万8000円)
Sony-VGN-NW51FBH(ノートパソコン)・・・11万9800円→(9万0000円)
NEC−PCLL700VG(ノートパソコン・赤)・・・13万4800円→(10万2835円)

 もちろん価格だけで比較するのは、正しくない。
「B」店のばあい、チラシには、「最大で20%のポイント還元」とある。
また店が近いと、故障したときなど、店員に直接相談にのってもらえる。
不良品であれば、すぐ取り替えてもらえる。
しかし全体としてみると、小売店に、勝ち目はない。

たとえば私が今、ねらっているのが、ToshibaのMX/33KWH。
11・6インチのネットブック(白)。
これなどは、近くの「K」店では、現在、7万5000円前後で売っている。
が、価格ドットコムのほうでは、5万0442円。
ちがいは2万5000円。
この差は、大きい。
しかも「K」店には、ポイント制はない。

となると、買うとしたら、価格ドットコムのほうで、となる。

●弱肉強食 

 今、世の中は、大きく変わりつつある。
急速というより、恐ろしく大きく変わりつつある。
販売流通網にしてもズタズタに分断され、弱小の小売店は、街中から、どんどんと姿を消しつ
つある。
(……すでに消してしまったところも、多い。)

 それがよいことなのか、悪いことなのか、考えたところで意味はない。
なるようにしか、ならない。
弱肉強食の世界。
食うか、食われるか……。
つまり弱小の小売店は中規模の販売店に、中規模の販売店は大規模の販売店に、さらに大
規模の販売店はその上をいく、全国規模の販売店に、つぎつぎと駆逐(くちく)されていく。

 追い払う方は楽しいかもしれない。
しかし追い払われるほうは、そうでない。
日々に、悶々と、重苦しい空気に包まれる。
けっして晴れることのない曇天。
だらだらと、それが何年も、何年もつづく。

●自転車店業界

 私の親の稼業は自転車店だった。
その自転車店で、その苦しみを、私は直接経験している。
今では、自転車店にしても、全国規模の販売店がいくつもある。
価格面においても、サービス面においても、小売店には勝ち目はない。
大規模店は、夜9時〜10時まで営業している。
加えて年中無休。

 これに対して、卸しや(自転車店業界では、問屋のことを、「卸しや」と呼ぶ)単位で、連合して
対抗しようという動きもあるには、あった。
専門職化したり、特製の自転車を並べたりした。
外国の自転車の特約店を、チェーン店化したりもした。
「高級自転車は、自転車店で」という、ブランド化の動きもあった。
が、ここへきての不況。
プラス店主の高齢化。
「弱り目にたたり目」とは、こういう状態をいう。
今では、自転車店業界は、「斜陽」というより、「衰退」産業に位置づけられている。

 が、大型店が安泰かというと、そうでもない。
それがネット通販。
何と、自転車業界にまで、触手を伸ばしつつある。
価格ドットコムでも、楽天ショップでも、自転車を取りあつかい始めている。
今はまだ値段のはっきりしているメーカー品にかぎられているが、(というのも、自転車ほど、
値段のわからない商品はないので)、それも時間の問題。
やがて原産地表示、品質表示、材質表示などが、詳しく表示されるようになるだろう。
むしろ小売店のほうが、値段をごまかして売っているケースのほうが多い。
「ごまかす」という言い方がまずいことは、よく知っている。
しかし自転車ほど、卸値(おろしね)のわからない商品はない。

 で、あとは修理の問題ということになる。
アフターサービス。
が、現実には、自転車も消耗品の世界に入りつつある。
大手のAショップ(全国展開の自転車大型店)では、「2年半」と読んでいる。
つまり自転車の寿命は、2年半。
パンク程度の修理は残るかもしれないが、平均的な人は、2年半で、自転車を乗り換えている
という。
昔のように何度も修理しながら、乗りつづけるという時代は、終わった(?)。

●政治の問題 
 つまりここまでくると、個人の問題というよりは、政治の問題。
街の文化は、街の商店主たちが支えてきた。
その文化が、今、こうしてつぎつぎと灯を消そうとしている。
しかも一度消えたら最後、再生は、ほとんど不可能。
その一例として、自転車店業界をあげた。

 そこで街の文化。
「どうやったら、街の商店を守れるか」という発想ではなく、「どうやったら、街の文化を残すこと
ができるか」という発想で、この問題を考える。
個人の問題ではない。
地域の問題。
みんなの問題。
となると、もう政治しかない。   

 ……とは言いつつ、私も今年(09)から、ネット通販を通してものを買うことが多くなった。
価格が4〜5万円を超えるようなものは、まず近くの店で、現物と価格を調べる。
つぎに家に帰って、ネットで価格を調べる。
差額がそれほど大きくなければ、店で買う。
その差額がじゅうぶん魅力的なものであれば、ネット通販で買う。
心理的には、10〜15%前後か。
それ以上の差額であれば、ネット通販で買う。

たいていその翌日には、玄関先前まで届けてくれる。
が、「どうすればいいだろう……」と思ったところで、思考停止。
どうしようもない。
今さら、この(流れ)を止めることは、だれにもできない。

 ……街を歩くたび、そしてさびれた商店を見るたび、私にはその店のおやじたちの悲鳴が聞
こえてくる。
そのおやじの悲鳴を聞きながら、暗くて重い気持ちで、悶々としている家族の気持ちが伝わっ
てくる。

 やはりこの問題は、なるようにしか、ならないのか。
私たちは今、その時代の流れの、まっただ中にいる。

 子どもたちとの会話はつづいた。

私「価格ドットコムって、何?」
子「価格ドットコムも、知らないの? ……後れてるウ」
私「だって、君は、インターネットをしていないのだろ?」
子「ママがしているよ」
私「ハア、ママがしているのかア……?」
子「そうだよ」と。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

***********以上、2009年12月31日分まで************




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司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松市 幼

児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐

阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.

writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ

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