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最前線の子育て論byはやし浩司
(09年 8月 6日〜 )

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最前線の子育て論byはやし浩司(090806)

●毒殺?

 昨日、2羽のスズメが、庭先で死んでいた。
ワイフがそう言った。
しかしそういうことはありえない。
スズメが、庭先で死ぬなどということは、ありえない。

 で、この話とは別に、最近、気になっていることがひとつ、ある。

私はスズメたちに餌を与えるようになって、もう15年以上になる。
が、ここ1、2年、そのスズメの数が、急激に少なくなった。
10年ほど前には、毎日、数十羽のスズメが、いつも庭で遊んでいた。
が、今は、いても、10〜15羽前後。
閑散としている。

 どこかでスズメを駆除しているらしい。
で、近くの農協に電話をしてみた。
「スズメに困っていますが、何か、いい方法はありませんか?」と。

 すると電話口に出た若い男は、こう言った。
「Y農協で、そういった指導をしていますから、そちらへ電話をしてみてください」と。

 で、Y農協に電話をしてみた。
が、はっきりとしたことは言わない。
どうも歯切れが悪い。
「指導会がありますから、また連絡してほしい」とか、何とか。
「どういう指導会ですか」と聞いても、「ええ、指導会です」と。
私はその返事を聞いて、ピンときた。
「毒薬を使っているな……」と。

 もちろん庭先で死んでいたスズメが、毒薬によるものと言っているのではない。
ひょっとしたら、鳥インフルエンザで死んだのかもしれない。
その可能性もないわけではない。
しかしそれにしても、急激に少なくなった。

 おかしいぞ!
 へんだぞ!

 昔から、スズメは、春には益鳥だが、秋には害鳥になるという。
米の収穫期には、米を食べる。
それはわかるが、しかし……。

 ここに書いたことは、あくまでも、私の憶測によるもの。
本当に毒殺しているかどうかは、知らない。
私が、そう疑っているだけという話である。

 が、もし本当にそういうことをしているなら、それだけはしてはいけない。
スズメと同じ餌を食べている野鳥は多い。
ドバトも、そうだ。
(そう言えば、ドバトも少なくなったぞ!)

 一度、この問題を本気で取り上げてみたい。
近く、この問題について、調べてみたい。

(補記)

 そのスズメたち。
数日前に、芝生の種をまいたのだが、あろうことか、私への恩を忘れて、
その種を食べてしまった!

 今朝見たら、種がすべて、もみ殻になっていた。
(「もみ殻」というのは、米の殻のことをいうが……。)

 今度まくときは、浅く掘って、土の中にまく。
ワイフも、そう言っている。
被害額は、1200円あまり。

 しかしこうして(自然)相手に、知恵比べをするのは、楽しい。
相手がスズメでは、怒る気は起きない。

(補記)

 同じ被害の話だが、今度は、猿の話。

 山荘のほうでは、最近、猿害に困っている。
季節になると、そのつど山荘へやってきて、悪さをする。
その(悪さ)が、スズメのそれとは、質的にちがう。
猿のほうは、(やらなくてもよいようなこと)をする。

 たとえば餌を食べるのに、わざわざ大屋根に上って食べる。
そのとき、雨どいを壊す、テレビのアンテナを壊す。
電話線を切る、など。

 山から下りてくるときも、一度、どういうわけか、山荘の屋根を
経由する。
(山)→(山荘の屋根)→(栗の木や柿の木)、と。
山から、直接、栗の木や柿の木に行けばよいと思うが、そこへ猿は、猿的な
遊びをはさむ。
(山荘の屋根)から、電話線や電線を伝って、行く、など。
それだけに、憎たらしい。

 新聞の報道によれば、そのあたりでも、今度、「猿の駆除」を始めたそうだ。
どういうことをするのか、詳しくは書いてなかったが、「駆除」というときは、
ふつうハンターに依頼しての銃殺を意味する。
抵抗を感じないわけではないが、それだけ農家の被害も大きいということか。
もとはと言えば、第二東名高速道路の工事。
その工事で追い出されて、そのあたりまでやってくるようになった。

 言うなれば、白人の開拓団に追われた、アメリカ・インディアンのようなもの。
(インディアンが「猿」というのではない。「立場」が似ているという意味。
誤解のないように!)

猿にも、いろいろ言い分はあるだろう。
(人権)もない。
(言葉)ももっていない。
それだけに、「かわいそうだな」とは思うが、どうしようもない。
何か、よい方法はないものか。
猿は頭がよいだけに、対策もむずかしい。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

【人生論】(What is the Life for us?)

●今日の言葉(イギリスのBLOGより)

Life is an unfoldment、 and the further we travel the more truth we can comprehend。 To 
understand the things that are at our door is the best preparation for understanding those 
that lie beyond 
- Hypatia、  In Religion

人生というのは、開いていくもの。先へ行けば行くほど、より多くの真理を理解できるようにな
る。ドアの近くにあるものを理解することは、遠くにあるものを理解するのに、もっとも役立つ。

●真理

 同じようなことを、私も以前、書いたことがある。
その原稿を探してみた。
「03年」とあるから、6年前の原稿ということになる。

++++++++++++++++++++++

●豊かさとは、何か?

 生活の豊かさを測る尺度は、決して、一つではない。

 もちろん収入は、多ければ、多いほどよい。お金の嫌いな人はいない。私も嫌いではない。

 しかし収入だけで、豊かさは、測れない。

 自由な時間は、どれだけあるか?
 家族と過ごせる時間は、どれだけあるか?
 住んでいる環境は、どうだ?
 友だちの数はどうだ?
 人間関係は、どうだ、など。

 健康の度合いも、豊かさの一つということになる。しかし本当の豊かさは、「心」で決まる。

 心が平穏であるか。満足しているか。やさしく、思いやりがあるか。過去を悔やむこともなけ
れば、未来を不安に思うこともない。夢や希望があり、目標もある。毎日、前向きに生き生き
と、過ごすことができる。そういった状態を、心の豊かさという。

 もちろん、心の貧しい人もいる。このときも、収入とは、関係ない。億万長者でも、心の貧しい
人は、いくらでもいる。もちろんお金がなければ、苦労する。不幸になることもある。しかしお金
で、豊かさは買えない。

 中学生たちに聞いてみた。「君たちの夢は何か?」と。多くの中学生は、「お金持ちになりた
い」「有名になりたい」と言う。

 しかしそのお金で、何をするか。その未来像が、見えてこない。また有名になるとしても、それ
はあくまでも結果。そこに至る、現実が見えてこない。

 手っ取り早く、豊かになるためには、自分の住む世界を、ぐんと小さくすればよい。あるいは
何かの宗教に身を寄せ、その世界に安住するという方法もある。この世界、広く生きようと思え
ば思うほど、人との摩擦(まさつ)も大きくなる。ひとりで生きようと思えば思うほど、障害も大き
くなる。

そこで私は、気がついた。豊かさは、求めるものではなく、その人の生きザマの中から、結果と
して生まれるもの、と。少し話が、飛躍してしまったかもしれないが、こういうことだ。

 私の知人に、長野県の山奥で、床屋を営んでいる人がいる。今年、六〇歳を超えた。彼は父
親の仕事を引き継いで、床屋を始めたわけだが、もし人生の成功者という人がいるとするな
ら、彼のような人をいうのではないか。

 釣り名人で、そのあたりでは、「釣り聖」と呼ばれている。床屋という職業もあって、村長も、助
役も、村の有力者たちも、みな、彼の前では、頭をさげる。もちろん村一番の情報通。もし彼を
敵に回したら、村議会の議員にすら、なれない。

 今は、その人は、日本画にこっていて、毎日、その日本画に没頭している。「個展を開いたら
……」とすすめると、うれしそうに笑っていた。

 一方、過去の肩書きや地位にぶらさがり、その亡霊から、逃れられない人もいる。退職した
あとも、プリプリといばっている。「仕事がない」と言うから、「貿易の知識を利用して、中国の物
産でも売ってみたら」と提案すると、こう言った。「そんな恥ずかしいことは、できない」と。(商売
することを、「恥ずかしい」と言うのだ!)

 私のまわりには、いろいろな人がいる。みな、違った方法で、豊かさを求め、幸福になろうとし
ている。もちろん、私も、そうだ。しかし豊かさというのは、求めたところで、向こうからやってくる
ものではない。しかし生きザマさえ、しっかりしていれば、向こうからやってくる。

 大切なことは、その生きザマを、どう確立するかということ。が、ここで誤解してはいけないの
は、その豊かさというのは、虹のかなたの、その向こうにあるのではないということ。あなたの
すぐそばにあって、あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて待っている。

 土地を売って大金を手に入れたからとか、あるいは大企業の部長になったからとか、著名な
タレントになったからとか、そういうことで、ここでいう「豊かさ」を手に入れることは、ない。豊か
さというのは、あくまでも、「心」の問題。名誉、地位、財産、肩書きとは、まったく、関係がない。

 大切なことは、できるだけ早い時期にそれに気づき、そうしたものに、心が毒されないように
すること。毒されれば毒されるほど、心の豊かさは、あなたから遠ざかる。

 ……と、大上段に構えて、「豊かさ」について、書いてみた。「何を偉そうに……」と思う人も、
いるかもしれない。もしそうなら、許してほしい。私自身も、こうして自分なりに、結論らしきもの
を出しておかないと、前に進めない。頭のてっぺんから、足の爪の先まで、現代社会がもつ矛
盾に、毒されている。

このつづきは、一度頭を冷やしたあとに、考えてみたい。
(031030)

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同じような内容だが、こんなことを書いたこともある。

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●生きる哲学

 生きる哲学にせよ、倫理にせよ、そんなむずかしいものではない。もっともっと簡単なことだ。
人にウソをつかないとか、人がいやがることをしないとか、自分に誠実であるとか、そういうこと
だ。もっと言えば、自分の心に静かに耳を傾けてみる。

そのとき、ここちよい響きがすれば、それが「善」。不愉快な響きがすれば、それが「悪」。あと
はその善悪の判断に従って行動すればよい。人間には生まれながらにして、そういう力がすで
に備わっている。それを「常識」というが、決してむずかしいことではない。もしあなたが何かの
ことで迷ったら、あなた自身のその「常識」に問いかけてみればよい。

 人間は過去数10万年ものあいだ、この常識にしたがって生きてきた。むずかしい哲学や倫
理が先にあって生きてきたわけではない。宗教が先にあって生きてきたわけでもない。たとえ
ば鳥は水の中にはもぐらない。魚は陸にあがらない。そんなことをすれば死んでしまうこと、み
んな知っている。そういうのを常識という。この常識があるから、人間は過去数10万もの間、
生きるのびることができた。またこの常識にしたがえば、これからもずっとみんな、仲よく生きて
いくことができる。

 そこで大切なことは、いかにして自分自身の中の常識をみがくかということ。あるいはいかに
して自分自身の中の常識に耳を傾けるかということ。たいていの人は、自分自身の中にそうい
う常識があることにすら気づかない。気づいても、それを無視する。粗末にする。そして常識に
反したことをしながら、それが「正しい道」と思い込む。あえて不愉快なことしながら、自分をご
まかし、相手をキズつける。そして結果として、自分の人生そのものをムダにする。

 人生の真理などというものは、そんなに遠くにあるのではない。あなたのすぐそばにあって、
あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて静かに待っている。遠いと思うから遠いだけ。しか
もその真理というのは、みんなが平等にもっている。賢い人もそうでない人も、老人も若い人
も、学問のある人もない人も、みんなが平等にもっている。子どもだって、幼児だってもってい
る。赤子だってもっている。あとはそれを自らが発見するだけ。方法は簡単。何かあったら、静
かに、静かに、自分の心に問いかけてみればよい。答はいつもそこにある。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●常識をみがく

 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思えば、美
しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そういう自分に静
かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にとって不愉快かがわかる
ようになる。無理をすることは、ない。道ばたに散ったゴミやポリ袋を美しいと思う人はいない。
排気ガスで汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あなたはすでにそれを知っている。それ
が「常識」だ。

 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直になってみ
るのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まちがえて50円、余
計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私がその50円を返すと、店
員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそうに笑った。そのここちよさは、みん
なが知っている。

 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそうでな
くても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実のところ、私は若
いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついている。自分では「いけないことだ」と
思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることができない。

私の中には、私であって私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっぱった
り……。先日も女房と口論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛び乗った。
「家になんか帰るか」とそのときはそう思った。で、その夜は隣町の豊橋のホテルに泊まるつも
りでいた。が、そのとき、私はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は本当に、ホテルに泊まり
たいのか」と。答は「ノー」だった。私は自分の家で、自分のふとんの中で、女房の横で寝たか
った。だから私は、最終列車で家に帰ってきた。

 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私であって、
私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。いつ、なぜそ
ういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そういう私であって私でない部
分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。

 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」を知る。
いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、それなりに戦わね
ばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」をみがくことと言って
もよい。

 「常識」はすべての哲学、倫理、そして宗教をも超える力をもっている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 常識
論 常識とは 常識について わかりやすい生き方 シンプルライフ)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

常識といっても、安易な常識論には
警戒したほうがよいですね。

それについて書いた原稿をいくつか、
集めてみました。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●安易な常識論で苦しむ人

 日本にはいろいろな常識(?)がある。「親だから子どもを愛しているはず」「子どもだから故
郷(古里)を思い慕っているはず」「親子の縁は絶対に切れない」「子どもが親のめんどうをみる
のはあたりまえ」など。

しかしそういう常識が、すべてまちがっているから、おそろしい。あるいはそういう常識にしばら
れて、人知れず苦しんでいる人はいくらでもいる。たとえば今、自分の子どもを気が合わないと
感じている母親は、7%もいることがわかっている(東京都精神医学総合研究所の調査・00
年)。「どうしても上の子を好きになれない」「弟はかわいいと思うが、兄と接していると苦痛でな
らない」とか。

 故郷についても、「実家へ帰るだけで心臓が踊る」「父を前にすると不安でならない」「正月に
帰るのが苦痛でならない」という人はいくらでもいる。そういう母親に向かって、「どうして自分の
子どもをかわいいと思わないのですか」「あなたも親でしょう」とか、さらに「自分の故郷でしょう」
「親を嫌うとはどういうことですか」と言うことは、その人を苦しめることになる。

たまたまあなたが心豊かで、幸福な子ども時代を過ごしたからといって、それを基準にして、他
人の過去をみてはいけない。他人の心を判断してはいけない。それぞれの人は、それぞれに
過去を引きずって生きている。中には、重く、苦しい過去を、悩みながら引きずっている人もい
る。またそういう人のほうが、多い。

 K市に住むYさん(38歳女性)のケースは、まさに悲惨なものだ。母親は再婚して、Yさんをも
うけた。が、その直後、父親は自殺。Yさんは親戚の叔母の家に預けられたが、そこで虐待を
受け、別の親戚に。そこでもYさんは叔父に性的暴行を受け、中学生のときに家出。そのころ
には母の居場所もわからなかったという。

Yさんは、「今はすばらしい夫に恵まれ、何とか幸福な生活を送っています」(手紙)ということだ
が、Yさんが受けた心のキズの深さは、私たちが想像できる、その範囲をはるかに超えてい
る。Yさんから手紙を受け取ったとき、私は何と返事をしてよいかわからなかった。

 ここでいうような「常識」というのは、一見妥当性があるようで、その実、まったくない。そこで
大切なことは、日本のこうした「常識」というのは、一度は疑ってみる必要があるということ。そ
してその上で、何が本当に大切なのか。あるいは大切でないのかを考えてみる必要がある。

安易に、つまり何も考えないで、そうした常識を、他人に押しつけるのは、かえって危険なこと
でもある。とくにこの日本では、子育てにも「流儀(?)」を求め、その「形」を親や子どもに押し
つける傾向が強い。こうした方法は、一見便利なようだが、それに頼ると、その実、ものの本質
を見失うことにもなりかねない。

 「親である」とか「子であるとか」とかいう「形」ではなく、人間そのものをみる。また人間そのも
のをみながら、それを原点として、家庭を考え、家族を考える。それがこれからの子育ての基
本である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW はやし浩司 安易な常識論 常識論)

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●類は友を呼ぶ

 おととい、東京に住む友人(64歳・女性)と、電話でこんな話をした。
その友人が、こう教えてくれた。

 「奥さんがずるい人ということは、ダンナもずるい人と考えていいのよ。
だから夫婦でいられるのよ」と。

 『類は友を呼ぶ』というが、『似たもの夫婦』という言葉もある。
どちらか一方がずるくて、他方が、誠実ということは、ありえない。
友人は、こう言った。

 「たとえば奥さんがずるいことをしようとしてもね、ダンナが誠実な人だったら、
それをやめさせるはずよ」と。
つまりたがいに教えあいながら、夫婦というのは成長もするし、反対に堕落もする、と。

で、話がはずみ、私たちの結論は、こうだった。
「その人を知りたければ、その人の周囲の人たちを見ればいい」と。
たとえば兄弟にせよ、友人にせよ、つねに人は類を求めて集まる。
その人の周囲の人たちが不誠実なら、その人自身も、不誠実な人と考えてよい、と。

●縁を切る

 若いころ、1人、たいへんずるい人がいた。
インチキのかたまりのような人だった。
そのためいつも、何かにつけて、小細工ばかりしていた。

 結構、金払いもよく、それなりにおもしろい人だった。
が、あるときから、金銭面で対立するようになった。
そのときのこと。

 気がつくと、私自身も、その人に対して、ずるい人間になっているのを知った。
誠実になれないというか、誠実であることに、ある種のバカらしさを感じた。
つまりそういう人に対して、誠実であっても、意味はない。
誠実そのものが通じない。
こちらが誠実であろうとすればするほど、お人好しで終わってしまう。
そう感じた。

 そのときのことを今、思い出してみると、こういうことが言える。
「不誠実な人とは、勇気をもって、縁を切れ」と。
つきあってよいことは、何もない。
が、それだけではない。
つきあえばつきあうほど、その人の不誠実さに染まってしまう。

 そういう点では、人間の心というのは、それほどタフにはできていない。
何かにつけて、染まりやすい。
とくにこの私は、生まれも育ちも、あまりよくない。
もともとガードが弱い。

●終わりに……

 要するに人生は、短い。
回り道している暇は、ない。
そのためにも、正道を急ぐ。

 最後に、3人の賢人の言葉を引用する。

To live is so startling it leaves little time for anything else。 
- Emily Dickinson

生きることはすばらしいことだが、そのほかのための時間は、ほとんど残されていない。

People's whole lives do pass in front of their eyes before they die。 The process is called '
living'。 
- Terry Pratchet、 "The Last Continent"

人生とは、その人が死ぬまで、その人の目の前を通り過ぎるだけ。そのプロセスを、「生きてい
る」という。

 そしてあのアインシュタインの言葉。

Life is a mystery、 not a problem to be solved。

人生(生命)は、ミステリー(謎)だ。そのミステリーは、解けるような問題ではない。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●K国の金xx

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昨日(09年8月5日)、K国に抑留されていた
2人のアメリカ人記者が、金xxの「特赦」(?)に
よって、解放された。
5か月ぶりの解放である。

K国は、「(ゴア元副大統領ではだめだ)、クリントン元大統領をよこせ。
よこしたら、解放してやる」と、アメリカに迫った。
その結果、クリントン大統領自身が、K国まで、出かけていった。

++++++++++++++++++

●現実検証能力

あれほどまでに現実検証能力のない人間は、そうはいない。
まるで自分のことがわかっていない。
K国に金xxを見ていると、そう思う。
 どこかの政治評論家たちは、「金xxの国際政治感覚は一級だ」とか何とかもちあげて
いるが、基本的には、ノーブレイン。
その一例が、今回発表された、一枚の写真。

 金xxが右側に座り、むっつり、上機嫌(?)。
クリントン元大統領が左側に座り、同じくむっつり、無表情(?)。
うしろには、立ったままの、5、6人のアメリカ人。
(韓国紙の報道によれば、金xxは、始終、上機嫌であったという。)

 アメリカ側、つまりクリントン元大統領は、ノーコメントを繰り返しているが、
こうした状況を、アメリカ国民はもちろん、クリントン元大統領自身も、不愉快に
思っていることは明らか。
その(不愉快さ)も理解できないほど、金xxは、ノーブレイン。

 金xxは、アメリカに謝罪させ、(アメリカ側は、謝罪したことを否定)、勝ったつもり
でいるかもしれない。
国内でも、「元大統領が謝罪に来た」と、大々的に報道ししている。
しかし今回の一連の事件は、基本的な部分で、おかしい。
狂っている。

●ノーブレイン

 ありもしない外国の脅威を理由に、自国民を締め上げる。
核兵器やミサイルを開発する。
自国民が飢えて苦しもうが、国を捨てる人が続出しようが、知らぬ顔。
その上で、取材のため、インタビューを試みた記者を、逮捕、抑留。
報道によれば、一度、川を渡ってK国側に入ったのは事実だが、拉致されたのは、
中国領土側のほうであったという。

 で、お飾りの裁判。
判決は12年の懲役刑。
その上で、「2人の記者を返してほしかったら……」と。

 アメリカ側はプライドを捨てて、2人の記者の救出を図ったわけだが、アメリカ人が
怒るのは、これから。
日本の一部の報道機関は、「米朝関係が、これをきっかけに好転する」と書いている。
しかしそんなことは、常識で考えても、ありえない。
もしそうなら、アメリカも、ノーブレイン。

●わかりやすく言えば……

 わかりやすく言えば、誘拐犯に子どもを誘拐された親が、誘拐犯に頭をさげて、
子どもを返しにもらいに行ったようなもの。
ところが誘拐犯のほうは、事情がどうなっているかもわからず、「相手が頭をさげて、
頼みにきた」と、喜んでいる(?)。
だいたい、記念撮影すること自体、バカげている。
どうして、記念撮影?
こんなバカげた構図が、ほかのどの世界にある?
つまりその(バカさかげん)がわからないほどまで、金xxは、現実検証能力を
失っている。

 日本の拉致事件についても、そうだ。
誘拐した側のほうが、一国の首相を呼びつけて、いばっている。
謝罪するのは当たり前のことなのに、「謝罪してやった」と、いばっている。
こんなバカげた国を相手に、これから先、日本はどうやって外交交渉を進めていく
つもりなのか。
考えれば考えるほど、気が重くなる。
ホント!


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●8月6日(The Day of A-Bomb in Hiroshima)

+++++++++++++++

2009年8月6日。

今日は原爆記念日。
朝、8時15分に、サイレンが鳴った。
「ああ、そうだった」と思って、一瞬、息を止めた。

先日、豊田町の(ゆや会館)で、原爆資料展を開いていた。
そのとき見た、痛々しい写真が、脳裏を何度もかすめた。

++++++++++++++++++

●もし……

 ナチスドイツによる、ユダヤ人大量虐殺を知って、多くの日本人は、こう思う。
「私たち日本人は、ああいう残酷なことはしない」と。
あるいはアメリカ軍による原爆投下を知って、多くの日本人は、こう思う。
「日本人は、ああいう爆弾は使わない」と。

 しかし本当に、そうか?
自信をもって、あなたは、そう言い切ることができるか。

 もしこの日本に、100万人単位のアジア系流民たちが住むようになり、
日本の経済を牛耳るようになったとしたら……。
日本の文化に同化せず、彼らの宗教を信じ、彼らの言葉を話したとしたら……。
そしてあなたの隣に住み、あなたの家より立派な家に住むようになったとしたら……。

 100万人なら、まだよい。
それが200万人となり、300万人となったとしたら……。
それでもあなたは、「私たち日本人は、ああいう残酷なことはしない」と、
自信をもって言い切れるだろうか。

 原爆についてもしかり。
敗戦直前、日本軍も原爆の開発をもくろんでいた。
ドイツへ研究者も派遣していた。
もしあのとき日本軍が原爆をもっていたとしたら、日本軍は容赦なく、それを使って
アメリカ軍を攻撃していただろう。

●日本の現実

 こうした残虐な行為を止めるゆいいつの方法があるとすれば、私たち1人ひとりが、
高い文化性をもつことでしかない。
高い人間性でもよい。
ふつう程度の文化性や、人間性では、足りない。
現に、シラーやゲーテ、ベートーベンを生んだドイツですら、それを食い止めることは
できなかった。
ジェファーソンやワシントン、リンカーンを生んだアメリカですら、それを食い止める
ことはできなかった。

 日本に、こうした世界に誇ることができるような賢人がいるか?
今までに、いたか?
残念ながら、答えは、NO。
まず、この現実に、目を向けなければならない。
つらいことだが、まず、それを認めなければならない。

●一億、総ギャグ化

 が、現実は、逆。
日本人は、ますます逆の方向に進みつつある。
その一つの例として、あのお笑いタレントをあげたい。
どこかの県の知事になった、あのお笑いタレントである。
(こう書くと、不愉快に思う人が多いことは、認める。
先日も、それについて書いたら、私のBLOGに、「お前は、何様のつもりか?」と
書き込んできた人がいた。)

何もお笑いタレントが、政治家になってはいけないと言っているのではない。
また、その政治家が悪いと言っているのではない。
彼とて、有権者に選ばれたから、知事になった。

あの県では、長い間、プロの政治家(?)による汚職事件が、相次いだ。
そういういきさつは、ある。
が、それでも、つまり全体として見たとき、日本人は今、一億が、総ギャク化している
としか、私には思えない。
あろうことか、当の県知事は、「総裁候補にしてくれるなら、衆議院議員に鞍替えしても
いい」というようなことまで言った。

こうした動きを見ていると、日本人が本来もっていた、あの(まじめさ)そのものが、
どこかへ消えてしまったとしか思えない。
その流れの中で、お笑いタレントが、府知事になったり、県知事になったりする。
そういう現実を、だれも、おかしいと思わない。
私は、それが「おかしい」と言っている。

 誤解があってはいけないので、再度、確認しておきたい。

 人生哲学を語りながら、その中に(ジョーク)があるなら、それはそれでよい。
しかし今の日本には、(ジョーク)ばかりで、人生哲学がない。
きちんとした政治論をもっている人が、たまにジョークを口にするのはよい。
(笑い)も、その中から、生まれる。

 たとえば県知事になるにしても、それだけの実績があるならよい。
民衆とともに歩きながら、少しずつ積み重ねあげてきたという実績である。
が、その実績がない。
ないまま、ある日突然、知名度だけを武器に、中央からやってきて知事になる。

この日本では、まじめに生きようとすればするほど、バカらしさを覚える。
社会そのものが、そういうしくみになってしまった。
その一例として、お笑いタレントをあげた。
私は、それが問題だと言っている。

●悪人の餌

 話は変わるが、たまたま数日前、1人の女優が覚せい剤所持と使用で、逮捕された。
先に、夫が逮捕され、その夫が、妻(=その女優)も使用していたことを認めた。

 その女優は、ある公的機関の、「覚せい剤撲滅運動」のポスターにも顔を出している。

 これはほんの一例だが、こうした矛盾は、いたるところにある。
たとえば難民救済運動。
どこかの有名タレントが、ある日を境に、突然、慈善運動家に変身したりする。
それ以前に、たとえば、若いときからボランティア活動をつづけてきたとか、
ホームレスの人たちに炊き出しをしてきたとか、そういう実績があれば、話もわかる。
そういう実績もないまま、「ある日を境に、突然」である。

 しかも将棋で言えば、いきなり「王手!」。
その運動のトップとして、君臨する。
雑誌やテレビを通して、さも私は善人でございますといった、様子をしてみせる。

 私は、それがおかしいという。
おかしいだけならまだしも、本当に困っている人に対して、失礼。
許しがたい冒涜と断言してもよい。
そういう知名人たちは、一見助けるフリをしながら、困っている人たちを、
その実、食い物にしている。

 どこかの県の知事になったお笑いタレントにしても、その疑いがないとは言わない。
(もちろん、そうであると、断言しているわけでもないが……。)
が、ふつうの常識のある人なら、自分に恥じて、つまりおこがましくて、そういうことは
できない。

 要するに、私は、「仮面」には注意したほうがよいと言っている。
悪をなすことは、悪いことだが、悪人を助けることは、もっと悪い。
昔、恩師の故松下哲子先生は、いつも、私にこう言っていた。
『悪人の餌にだけは、なってはいけませんよ』と。
 
●高い文化性

 高い文化性にせよ、人間性にせよ、それを養うには、(思考)しかない。
思考こそが、人間が人間である、ゆいいつの証(あかし)ということになる。
また思考によって、人間は人間であることを保つことができる。

 数日前もワイフとこんな会話をした。

 「もし裸の若い女性が部屋の中に入ってきて、こう言ったとする。
『抱いて!』と。
すてきな女性だ。
あたりにはだれもいない。
そのとき、それを断るというのは、ふつうの男なら、かなり勇気のいることだ」と。

 あるいは道で、大金の入った財布を拾ったときでもよい。
賄賂(わいろ)を、テーブルの前に、ドカッと積まれたときでもよい。
そういうとき、それを断る勇気が、あなたにはあるだろうか。
つまりそういうときに、私たちは、自分の文化性を試される。
人間性を試される。

 そのとき、「私は、まちがったことはしない」と言って、それを断ることができれば、
それはそれでよい。
そうでないなら、言葉はきついが、「偉そうなことは言うな」となる。

 つまりその延長線上に、ナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺がある。
広島、長崎への原爆投下がある。

●もし……

 「戦争、反対!」「原爆、反対!」と叫ぶのは、簡単なこと。
大切なのは、それを口にする前に、高い文化性と、人間性が、自分の中にあるかどうか
ということ。
それがあってはじめて、私たち日本人は、世界に向かって、「日本人は平和を
愛する国民です」と言うことができる。
世界の人たちを納得させることができる。

 戦後、たまたま日本が平和を守れたのは、日本人が、それだけ平和を愛する
国民だったからではない。
また平和を守ったからでもない。
アメリカ軍という世界最強の軍隊が、日本に駐留していたから、である。
もしアメリカ軍が駐留していなかったら、日本は繰り返し、戦禍にのみ込まれていたはず。

 スターリン・ソ連、毛沢東・中国、李承晩・韓国、金日成・K国……。
そういう国々が、日本に対して報復戦争をしかけてきたはず。
そのつど日本は、メチャメチャになっていたはず。
また報復されてもしかたないようなことを、日本軍は、戦争を通して、してしまった。
アメリカにしても、最後の最後まで、「Remember Pearl Harbor(真珠湾を忘れるな)」を
合言葉にしていた!

仮にあのとき日本軍が原爆をもっていたとしたら、一時的には優位になっていたかも
しれない。
が、今ごろは、北海道から沖縄まで、日本は完全な廃墟と化していたにちがいない。
「日本」「日本人」という言葉すら、この地球上から消えていたかもしれない。

 それが現実。
まぎれもない現実。
8月6日。
今年もまた、去年と同じようなことを考えた。

(追伸)

 ついでに一言。
あどけない小学生に、平和宣言など、させてはいけない。
平和を守るのは、私たちおとなの責務。
こういう場で子どもを利用するのは、どこかのテロ組織が、自爆攻撃用にと、
子どもを利用するのと同じ。
「平和目的ならいい」「戦争目的は、だめ」というのは、おとなの勝手な論理に
すぎない。
あるいはどこでどう、線を引くというのか?

++++++++++++++++++++

6年前に書いた原稿を、そのまま紹介します。

+++++++++++++++++++++++++++

●子どもによる平和宣言(Declaration for Peace by Children)

+++++++++++++++++++++++++++

今年も、広島、長崎で、子どもを使った
平和宣言がなされた。

それについて、私はかねてより、「子どもに
そんなことをさせてはいけない」と書いて
きた。

平和を守るのは、おとなである私たちの
責任。
子どもたちの未来を守るのも、おとなで
ある私たちの責任。

子どもを使うのは、卑怯だ!

+++++++++++++++++

8月8日、韓国で奇妙な事件が起きている。
どこかに立てこもった一群の中の子どもたちが、韓国の大統領である、イ大統領を
口汚く、ののしっているという。

文章を簡潔にして、紹介させてもらう。

+++++++++以下、朝鮮N報++++++++++++

「李明博(イ・ミョンバク)、なんでそんなやり方で国を治めるんだ」
「お前が死んだら僕は気持ちよく笑えるだろう。この××野郎よりダメなやつ!」
「お前がそんなことをするなら、僕はお前を殺してやる」 

 先月23日、体験学習のためソウルにやってきた地方の小学生たちが、曹渓寺(ソウル市鍾
路区)に立てこもっている、「狂牛病(BSE)の危険のある米国産牛肉の全面輸入に反対する
国民対策会議」(以下、対策会議)の芳名録に書いた、文や動画が公開され、韓国社会は衝
撃を受けた。

この小学生たちは10歳前後、小学3〜5年生の子どもたちだった。「立てこもっている人たち
がけしかけた」という学校側の主張と、「自発的に書いた」という対策会議側の主張は食い違っ
ている。

これについては警察の捜査で明らかになるだろう。

+++++++++以上、朝鮮N報++++++++++++

少しわかりにくい話なので、解説してみる。

現在、ソウルの曹渓寺というところに、アメリカ産の牛肉の輸入に反対する団体が、立てこもっ
て、それに反対しているという。
その寺の芳名録に、その小学校を訪れた子どもたちが、芳名録に書き込みをした。
それが冒頭にあげた、文章である。

「李明博(イ・ミョンバク)、なんでそんなやり方で国を治めるんだ」
「お前が死んだら僕は気持ちよく笑えるだろう。この××野郎よりダメなやつ!」
「お前がそんなことをするなら、僕はお前を殺してやる」と。

これについて、(1)立てこもっている人たちが、子どもたちにけしかけた。(2)子どもたちが自
主的に書いたと、意見が分かれているという。

が、どちらであるにせよ、つまりけしかけられたにせよ、自主的に書いたにせよ、その背後に
は、(おとなたちの意思)が、感じられる。
少なくとも、こうした言葉は、子どもたちだけの発想では生まれない。

そこで日本の子どもたちによる、平和宣言。
私は、平和宣言がまちがっているというのではない。
それ自体は尊いものであり、世界に向かって宣言して、当然である。

しかし、子どもを使って、それをしてはいけない。

5年前(03年)に、こんな原稿を書いたことがある。

++++++++++++++++++

●子どもによる平和宣言

 よくどこかの会場で、小学生くらいの子どもが、平和宣言をすることがある。「私たちは、平和
を守り……。戦争に反対し……。核兵器を廃絶し……」とか。たいていは、……というより、ほ
とんどは、おとなたちが用意した原稿を、子どもが読みあげているだけ。たまたま、この原稿を
書いている今日も、「地雷をなくそう、全国子どもサミット」(03年2月8日)があった。疑問がな
いわけでもないが、しかしそういうのなら、私も、まだ理解できる。

 しかし子どもを使って、平和宣言など、子どもに言わせてはいけない。子どもをそういうふうに
利用してはいけない。それはあまりにも酷というもの。だいたいそんな子どもに、戦争だとか、
平和がわかるわけがない。だれだって、戦争より平和のほうがよいと思っているに決まってい
る。

しかし平和というのは、それを求めて積極的に戦ってこそ、得られるもの。皮肉なことに、戦争
のない平和はない。ただ「殺しあいは、いやだから」という理由だけで、逃げまわっている人に
は、平和など、ぜったいにやってこない。世界は、そして人間が本来的にもつ性(さが)は、そん
な甘いものではない。

 たとえば戦後、つまりこの58年間、日本がかろうじて平和を保つことができたのは、日本人
がそれだけの努力をしてきたからではない。日本人が平和を愛したからでもない。日本が、戦
後、58年間という長きにわたって平和を保つことができたのは、アメリカという強大な軍事力を
もった国に、保護されていたからにほかならない。

もし日本がアメリカの保護下になかったら、60年代には、中国に。70年代には、韓国や北朝
鮮に、そのつど侵略されていただろう。台湾やマレーシアだって、だまっていなかった。フィリッ
ピンに袋叩きにされていたとしても、おかしくはない。日本は、そういうことをされても文句は言
えないようなことを、ほかの国に対して、してしまった。

しかももっと悪いことに、いまだに、公式には、日本はその戦争責任を認めていない。中には、
今でも「あの侵略戦争は正しかった」と言う日本人すら、いる。今の北朝鮮を容認するわけでは
ないが、彼らが日本を憎む理由には、そういう時代的背景がある。

 わかりやすく言えば、子どもが平和宣言をして、それで平和な国がやってくるというのは、まっ
たくの幻想。平和というのは、それ自体は、薄いガラスでできた箱のように、もろく、こわれやす
い。ときには、戦争そのもののように、毒々しく、醜い。仮に今、平和であるとしても、その底流
では、つぎの戦争を求めて、人間のどす黒い欲望が渦巻いている。つまり、平和を口にするも
のは、一方で、そういうものと戦わねばならない。その戦う意思、その戦う勇気のあるものだけ
が、平和を口にすることができる。

子どもを使って平和宣言をさせるというのは、子どもを使って宣戦布告するのと同じくらい、バ
カげている。それがわからなければ、子どもに、援助交際反対宣言をさせてみればよい。子ど
もに、政治家の汚職追放宣言をさせてみればよい。あるいは覚せい剤禁止宣言でもよい。環
境保護宣言でもよい。

そういうものが何であるかもわからないまま、無知な子どもに、そういうことを言わせてはいけ
ない。そうそう、あのK国では、幼児までもが、「将軍様を、命がけで守ります」などと言っている
という。幼児が自分の意思で、自分で考えてそう言うのなら話はわかるが、そんなことはありえ
ない。繰りかえすが、子どもを、そういうふうに利用してはいけない。

 そんなわけで、私は、小学生や中学生が、片手を空に向けて平和宣言をしている姿を見る
と、正直言って、ぞっとする。あるいはあなたは、アメリカやヨーロッパや、オーストラリアの子ど
もたちが、そういうふうに宣言をしている姿を、どこかで見たことがあるとでもいうのだろうか。
残念ながら、私はないが、ああいうことを子どもに平気でさせる国というのは、全体主義国家
か、あるいはその流れをくむ国と考えてよい。

 「地雷をなくそう、全国子どもサミット」では、ある子ども(滋賀の小学生)は、つぎのように話し
ている。

「地雷でケガをした人を見るのは初めてで、結構びっくりしたからそんなにしゃべったりできなか
ったけれど、何かちょっとずつだけど、声がかけられるようになったからよかったと思っていま
す」(TBS報道)と。私たちが聞きたいのは、子どもたちのそういう生の声である。

子どもたちのために平和を守るのは、私たちおとなの義務なのだ。どこまでいっても、私たちお
となの義務なのだ。それを忘れてはいけない。
(030209)

++++++++++++++++++

さらに進むと、自爆攻撃がある。
テロリストたちは、まだあどけない子どもを利用して、アメリカ軍などに対して、ゲリラ攻撃をし
かけている。
一度、その指導風景がテレビで紹介されていたが、指導者らしき男は、子どもたちに向かって
こう説明していた。

「死んでも、この世とまったく同じ世が、向こうの世界にある。だから恐れるな」と。

もしそうなら、テロなどしても意味はないということになるのだが、それはともかくも、子どもを使
うということは、そういうことをいう。

平和宣言だからよい。
ゲリラ戦だからよくない。
そういうふうに線引きすること自体、まちがっている。
それこそ「平和のための戦争」ということになれば、どんな戦争だって、
肯定されてしまう。
どうであるにせよ、おとなたちは、自分が信ずる「正義」に従って、子どもを利用する。
それぞれのおとなたちは、それぞれの思惑をもって、子どもを利用する。
つまり「正義」ほど、いいかげんなものもない。
私はそれがおかしいと言う。

それがわからなければ、もう一度、最初に引用した、朝鮮N報の記事を読みなおしてみること
だ。

(子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 子供によ
る平和宣言 子どもの平和宣言)

(補記)

++++++++++++++++++++

 この原稿を書いて、4か月になる(03年)。いろいろな原稿を書いているが、4か月前に書い
た原稿という気がしない。遠い昔に書いたような気がする。ただ子どもに平和宣言させること
に、全面的に反対というわけではない。子どもに戦争の悲惨さを教え、ついで平和の尊さを確
認させるという点では、意味がある。しかしそれでも、私は、「それでいい」とは、どうしても思え
ない。

 いつだったか、どこかのカルト教団の取材に行ったときのこと。全国大会とかで、全国から数
万人の信者が集まっていた。その席でも、やはり小学生代表が、こう叫んでいた。

「私たちは、○○導師様の教えを守り、この信仰を、世界に広めていきます!」と。小学生によ
る平和宣言などというものは、私には、その延長線上にあるとしか思えない。

 繰りかえすが、平和を守り、子どもたちを守るのは、私たちおとなの義務である。しかしその
平和というのは、自ら戦って、勝ち得るもの。「殺しあいはいやだ」と逃げてまわっていては、平
和は絶対に守れない。

 同じく繰りかえすが、平和主義には、二つある。「殺されても、抵抗しません。文句を言いませ
ん」という平和主義。もう一つは、「平和のためなら、命すらおしくない。いざとなったら、戦争も
辞さない」という平和主義。ここにも書いたように、「殺しあいはいやだ」と逃げてまわるのは、
平和主義でも何でもない。ただの逃避主義でしかない。

 また先の原稿の中で書いたように、戦後の日本がかろうじて平和を保つことができたのは、
それだけ日本人が平和を守ったからではない。また日本人が平和を愛したからでもない。日本
がかろうじて平和を保つことができたのは、たまたまアメリカという国に占領され、その保護下
にあったからである。

 私は60年代に、交換留学生として、韓国に渡ったが、彼らがもつ反日感情というのは、感情
というレベルを超えた、「憎悪」そのものだった。今でも基本的には、その構図は、変わってい
ない。仮に北朝鮮が日本にめがけて核ミサイルを撃ち込んだとしても、それを喜ぶ韓国人はい
ても、悲しむ韓国人はいない。そういう現実を前にして、小学生を仕立てて平和宣言をする。そ
のオメデタサは、いったいどこからくるのか。(だからといって、私が戦争を求めているのではな
い。どうか誤解のないように!)

今朝の報道によれば、あの北朝鮮は、すでに核兵器を数個もち、さらに今後、半年の間に、5
〜6発の核兵器を製造する能力があるという。さらに今年の終わりには、核実験もするかもし
れないという(クリントン政権時代の北朝鮮担当官・ケネス・キノネス氏)。そうなれば日本は、も
うおしまい。金XXの影におびえながら、毎日ビクビクしながら、生活をしなければならない。

 小学生による平和宣言の話を書いているうちに、またまた頭が熱くなってしまった。私の悪い
クセだ。しかし、これだけは言える。どんな形であるにせよ、おとなたちは自分たちの政治的エ
ゴを追求するために、子どもを利用してはならない。子どもには、子どもの人権がある。その人
権だけは守らねばならないということ。決して、子どもたちを、猿まわしのサルのように利用して
はいけない。
(030628) 

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
平和論 日本の平和 日本人 広島 原爆の日 はやし浩司 子どもによる平和宣言 子供に
よる平和宣言)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●夏休み

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私にも夏休みがあって、明日から、その夏休み。
バンザーイ!

で、その夏休み。
いくつか心に決めていることがある。

(1)運動を欠かさない。
(2)映画を3本、観る。
(3)温泉に2度行く。
(4)三男に会いにC県へ行く。
(5)実家にケリをつけてくる。(温泉に泊まってくる。)
(6)ノートパソコンを1台、買う。
(7)ワイフと喧嘩しない。

夏休みも、すべて、「即、実行!」を貫く。
今できることは、後回しにしない。
今日できることは、明日に延ばさない。
すべて、先手、先手!

プラス、のんびりできるところでは、
思いっきり、のんびりする。

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●故郷と決別する日

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近く、実兄と実母(ともに個人)の法事をする。
実家のあるM町で、それをする。
そのあと、実家を売る。
買い手は決まっている。
その契約をすます。

それがすんだら、家財を処分して、M町を去る。
同時に、故郷とは、決別する。

M町には、現在、親戚はいない。
実姉はいるが、M町から離れた、遠い、山の中に住んでいる。
M町に残るのは、墓のみということになる。
が、私は死んでも、あの墓に入るつもりはない。
ワイフも、ぜったいにいやと言っている。

私はその日を最後に、二度と、あのM町には
戻らない。
(よほどのことがあれば、別だが……。)
それを話すと、昨夜、眠る前にワイフが、
こう聞いた。
「さみしくないの?」と。

「そりゃあ、さみしいよ。
しかしね、それ以上に、うれしいよ。
やっと決別できるんだから……」と。

++++++++++++++++++++

●母への恩義

 人は、人とのつながりの中で生きている。
それが無数の糸となって、その人にからんでいる。
親子の糸は、その中でも、とくに太い。
が、親にもいろいろある。
たとえば父は、生涯にわたって、ただの一度も、私を抱いたことがない。
母が抱かせなかった。
父が結核をわずらっていたこともある。
が、母は、それにもまして、異常なまでに潔癖症だった。

 で、残されたのは、つまり私と母の間に残されたのは、細い糸。
が、いくら細い糸ではあっても、人は、その糸に、最後の希望を託す。
こと(故郷)に関して言えば、何もよいことはなかった。
(家族)を通した思い出の中で、楽しかったことなど、ほとんどなかった。
しかしそんな私でも、最後は、こう思う。

 「母も、私には、やさしいときがあった」と。

 それがあるから、今まで故郷を支えてきた。
無住の家となってからも、5年間、支えてきた。
しかしそれを仲のよい従姉(いとこ)に話すと、こう教えてくれた。
「浩司君(=私)、そんなことを、負担に思ってはだめよ。
そんなことは、親の務めなのよ。
子どもを産んだら、責任をもって子どもを育てる。
そんなことは、当たり前のことじゃない」と。

●浜松市が故郷 

 その故郷を、改めて振り返る。
「私にとって、故郷とは、何か?」と。
というより、18歳のときに故郷を離れて、今年で、すでに43年目になる。
いまだに「故郷」にこだわるほいが、どうかしている。
しかし「古里」は、「古里」。
どうしても、こだわってしまう。
なぜか?

 0歳から20歳までの20年と、20歳から40歳までの20年は、密度がちがう。
密度がちがうだけに、思いも、また複雑。
 
だからもうすぐ62歳になろうという私にしても、故郷を心の中から断ち切るのは、
容易なことではない。
本能に近い部分にまで、思い出が刷り込まれている。
が、ずるずると引きずるのも、よくない。
私はこの浜松市で居を構えたし、息子たちにとっては、ここが「故郷」。
その私がふらふらしていて、どうして息子たちの心が落ち着くか。

●解放

 しかし……。
私は、うれしい。
刻一刻と、その日が近づいてきているのが、実感としてわかる。
それがうれしい。
ルンルン気分とまではいかないが、ワクワクしている。
実家を売れば、たいした額ではないが、お金が入ってくる。
そのお金で、ワイフと温泉につかってくるつもり。

 そう、結婚する前から、私は実家に、収入の約半分を送ってきた。
その負担感……金銭的負担感というより、社会的負担感には、相当なものがあった。
あるときから、それは重圧感に変わった。
「親だから……」「子だから……」「兄弟だから……」「大学まで出してもらったのだ
から……」「男だから……」と。
『ダカラ論』だけが、先行した。
それは真綿で首をしめられるような、苦しみだった。
ジワジワと……。
いつ晴れるともなく……。
だれが、というわけではないが、そういう雰囲気の中で、私は生まれ、育った。

 私は母にお金を仕送る。
母は母で、母の実家に、お金を仕送る。
こんな生活が、30年以上もつづいた。
だから私はそのつど、叫んだ。
「もう、いいかげんにしてくれ!」と。

 そう、そう叫ぶのも、これでおしまい。
私は、解放される!

●2人だけ

 だから昨夜、ワイフにはこう言った。
「もうこれからは、2人だけだね。
仲よくしようね」と。

 故郷から決別するということは、同時に、最後の糸を断ち切ることを意味する。
「ひょっとしたら、故郷は助けてくれるかもしれない」「暖かく私を包んでくれるかも
しれない」という糸である。

 しかしそれは、もう、ない。
期待もしていない。
いくら細くても、一本ぐらい、糸を残しておいたほうがよいという考え方もある。
何も自分のほうから断ち切ることもないではないか、と。

 それもそうかもしれないが、しかしそれは私の生き方ではない。
どうせスッキリするなら、何もかも打ち棄てて、心の中を整理したい。
私も、もう62歳。
人生も終盤期に入った。
モヤモヤとした過去にしばられ、立ち止まっている暇は、もうない。
残り少ない時間だからこそ、一瞬一秒を大切に、前に向かって進んでいきたい。

●あとは野となれ、山となれ

 さあ、決別するぞ。
心から消すぞ。
あとのことは、知ったことではない。
野となれ、山となれ。
ははは。

 世の中には、いろいろな家族がある。
家庭環境も、みな、ちがう。
事情も、みな、ちがう。
私は私。
あなたの考え方と、いくらちがっていても、私は私。
私の考え方が、まちがっていると言ってほしくない。
それに私がこういう考え方をするようになったからといって、私の責任ではない。
私の中にも、私自身の意思で作った部分もあれば、私の意思とは無関係に作られた
部分もある。

 ただ覚えておいてほしいのは、世の中には、私のような人間もいるということ。
けっして、少数派ではないということ。
今まで、みな、口に出して言わなかっただけ。
安易な『ダカラ論』に押されて、遠慮していただけ。

 ♪「さらば、ふるさと、さらば、ふるさと、ふるさと、さらばア〜」と。

 私はこの歌を、明るくさわやかに歌って、あのM町を去る。

 
Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09++++++++++はやし浩司※

●手の内(Revealing the Trick)

++++++++++++++++++

子どもを見れば、家庭環境がわかる。
親子関係もわかる。
ついでに、その親と、親の親(子どもから見れば、祖父母)
との関係もわかる。
その親が、どのような環境で育ったかもわかる。

私がそれを指摘すると、みな、私が超能力か何かを
使ったかのように驚く。
しかし手の内を明かせば、何でもない。

その手の内……。
手品で言えば、種明かし。

++++++++++++++++++

(1)子育てがギクシャクしている

 その親の子育てが、どこかギクシャクしている。
気負い、戸惑い、迷い、心配、不安など。
そのため話を聞いていても、どうもすっきりしない。
 そう感じたときは、その親と、親の親(=子どもの祖父母)との関係を疑ってみる。
たいてい、その親自身が、不幸にして不幸な家庭に育った人とみてよい。
しっかりとした(親像)が、脳の中にインプットされていない。

 ふつう母親は男児の子育てで、戸惑う。
父親は女児の子育てで、戸惑う。
それにも一定の幅があるが、その幅を超えて、戸惑いが大きいときは、こう考える。

 男児の子育てに大きく戸惑う母親……その母親と、母親の父親の関係が不全であった
とみる。
 女児の子育てに大きく戸惑う母親……その母親と、母親の母親の関係が不全であった
とみる。

 子どものころから、家庭騒動、育児拒否、冷淡、無視などが、背景にあったと
考えてよい。

(2)子どもの様子

 子どもの様子から、その子どもの置かれた家庭環境がわかる。
子どもに伸びやかさがない……過干渉、過関心、神経質な子育てが背景にあるとみる。
子どもが反対に粗放化している……威圧的な過干渉、権威主義的な子育て観をもった
親とみる。
その親自身も、そうした家庭環境で育ったとみてよい。
子育ては、世代連鎖しやすい。
 妙に愛想がよいとか、反対に拒否的である……愛情飢餓の状態にあるとみてよい。
家庭が家庭として機能していない。
つっぱり、いじけ、ひがみ、ぐずりなどがあれば、かなり心がゆがんでいるとみる。
やはり愛情飢餓が背景にあるとみてよい。

 ……というような話は、いわゆる(カン)のようなもので、親と話していると、
そのカンが、働く。
ビビッと働く。
そしてそれをきっかけに、子どもの置かれた環境や、家庭環境、さらにはその親の
生い立ちまで、わかる。

 しかし誤解がないように言っておきたい。

 どんな人でも、(親でも、子どもでも)、みな、問題をかかえている。
問題のない子どもはいない。
親にしても、心豊かな家庭で、何一つ不自由なく育てられた人というのは少ない。
みな、多かれ少なかれ、問題をかかえている。
そこで大切なことは、そういう問題があることが問題ではなく、そういう問題が
あることに気づかず、同じ失敗を繰り返すことが問題であると考えること。

 子どもは家族の(代表)にすぎない。
もう少し深く言えば、家族の過去の(代表)にすぎない。
あなたという親の過去、そして子どもが生まれ育っている(環境)の、その(結果)
でしかない。
まず、それに気がつくこと。
謙虚に、自分自身の姿を見ること。

 それに気がつけば、あとは時間が解決してくれる。
5年、10年の時間はかかるかもしれないが、時間が解決してくれる。
まずいのは、子どもに何か問題を発見したとき、子どもの方ばかりを見ること。
子どもの方ばかり見て、「子どもを直そう」とか、「子どもを何とかしよう」と考えること。

 しかし本当の問題は、あなた自身のほうにある。
身勝手な親となると、親の過干渉で、さんざん子どもを委縮させておきながら、
「どうしてうちの子は、ハキがないのでしょう」とか言う。

 「手の内」というタイトルで書いたが、あなた自身を知るためのひとつの方法として、
このエッセーを利用してほしい。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●子どもの世界(Catharsis Effect)

+++++++++++++++++

小学4年生から、保健体育の時間に
性教育が始まる。

それについて、A子さん(小4)が、
こう言った。
「気味が、悪かった」と。

何でも教科書の最後のところに、男と女の
裸の絵が載っているという。
かなりリアルな絵らしい。

A子「私、あれを見て、ギャーッと声を
あげちゃったア!」
私 「そんな絵くらいでびっくりしたら、
これから先、お父さんやお母さんと、
いっしょにお風呂に入れなくなるよ」
A子「でも、あの絵は、気味が悪かった……」

私 「どうして?」
A子「だってさあ、男のあれ(チxチx)が
さア、ぶらんと下に垂れさがっているのよ……」
私 「ハア〜?」
A子「あれってさア、あんなふうには、
なってないヨ」
私 「へえ〜エ?」

A子「前にまっすぐになっているよ」
私 「垂れ下がってないの?」
A子「そう、前にまっすぐになっているよ」
私 「そんなことないよ」
A子「……。パパのは、垂れ下がっているけどね」と。

A子さんには、小6の兄がいる。
風呂へは、いつも一緒に入っているという。
いろいろ頭の中で、おかしなことを想像した。

++++++++++++++++++++

●感受性訓練法

 5〜6人のクラスで、そのままにしておくと、子どもたちは勝手な会話を
し始める。
ふだんは制止するが、ときには、そのままにしておく。
それによって子どもたちの本音を知ることができる。
が、それだけではない。
言いたいことを、そのまま言わせることは、大切なこと。
それによって、よりよい人間関係を築くことができる。
たとえば心理学の世界には、「感受性訓練法」というのがある。
「ラボラトリー・トレーニング」とも呼ばれている。

 これは体験者を一室に隔離して、ありのままの感情を、さらけ出させるという方法。
それを体験者の状態に合わせて、数時間とか数日間、つづける。
やがてカタルシス効果が現れて、体験者は、大声で泣きわめいたり、怒ったりする。
不平不満をぶつけたり、ときに暴れたりする。
が、それが一巡すると、体験者は、やがて心を抑圧していた殻(から)から解放され、
感情をストレートに表現できるようになる。

 この訓練を受けると、感受性が豊かになり、他人に対して、深い思いやりが
生まれたり、相手の悲しみや苦しみが、よりよく理解できるようになるという。
が、似たような経験を、実は私は教育の場ではよくする。

 私はときどき、子どもたち(幼稚園児)に、こう言う。
「君たちは、ママのおっぱいが好きか?」と。
すると子どもたちは、最初は、はにかみながら、「嫌いだよ〜オ」などと答えたりする。

 そこで私は、語気を強めて、こう言う。
「ウソをつくな!」「好きだったら、好きと言え!」「自分にウソをつくのは
悪いことだ!」と。
まじめな顔をして、叱る。
するとやがて子どもたちは、「好きだけどオ〜」とか言うようになる。

 が、何もおっぱいの話にかぎらない。
ときに子どもたちをじらしながら、「見たかったら、見たいと言え!」と促したりする。
(この方法は、私がレッスン中によく使う。「BW公開教室」(私のHPより)
でも紹介しているので、興味のある人は見てほしい。)

 つまりこうして内にたまった(思い)を、一度、外に吐き出させる。
大声で言えるようにする。
感情を、そのまま表現させる。
言うなれば、これもカタルシス効果のひとつということか。
この方法により、一義的には、(性)に対して暗いイメージをもたせることを
防ぐことができる。
が、それ以上に、子どもの心をまっすぐにすることができる。

その結果として、子どもをして、かつ感受性豊かな子どもにすることができる。
「感受性が豊か」ということは、それだけ「他人の心に敏感に反応できること」を
いう。
 
反対に心がゆがんでくると、心(=情意)と表情が、一致しなくなってくる。
ばあいによっては、遊離し、いわゆる(何を考えているかわからない子ども)になる。

 むずかしい話はさておき、親子の間でも、夫婦の間でも、また友人との間でも、
たがいに言いたいことを言うというのは、人間関係の基本。
それなくして、良好な人間関係は育たない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 感受性訓練 感受性訓練法 ラボラトリー・トレーニング 心の訓練 はやし浩司 
カタルシス効果)

(付記)(カタルシス効果について、以前、書いた原稿です)

●母親を嫌う子ども

 A君(小2男児)は、いつも母親の悪口を言う。「ぼくのママは、すぐ怒る」「100点でないと、す
ぐたたく」「鬼ババ」と。このところ、ずっと、それが気になっていた。

 それをひとり言のように、ずっと繰りかえす。

 が、私の知っているA君の母親は、おだやかで、やさしい人だ。決して、仮面をかぶっている
ようなタイプの人ではない。

 私はA君の様子を見ながら、欲求不満がその背景にあることを知った。私にも経験がある。

 私は小学5年生くらいのときに、好きな女の子ができた。静かで、やさしい女の子だった。し
かしいくら私がモーションをかけても、私には、振り向きもしてくれなかった。で、ある日行動に
出た。

 その女の子が何かのことで、席をはずしたとき、私はその女の子の机からノートを引き出し、
ぐいぐいと、鉛筆で、落書きをしてしまった。その女の子は、いつもノートの使い方がじょうずだ
と、先生にほめられていた。

 そのあとのことは、よく覚えている。その女の子は、そのノートを見ながら、シクシクと泣いて
いた。

 子どもというのは、ときとして、自分の思っていることと正反対の行動に出ることがある。概し
て言えば、それだけ短気でわがままということになる。

 で、A君の母親がA君を迎えにきたとき、私はA君をぐいともちあげて、A君の母親に抱かせ
た。

 最初、A君は、「ママなんか、嫌い」「鬼ババ」「クソ野郎」と、罵声をあびせかけて、それに抵
抗した。が、私はA君を背中からおさえつけて、そのままにした。

 するとA君は、そのまま、大粒の涙をポロポロとこびしながら、泣き始めた。母親の涙を見た
からではなかったか。

私「A君、好きだったら、好きと言え。『ママ、大好き』と言え」
A「嫌いだよ、こんなヤツ」 
私「ウソつくな。お前は、ママが好きなんだ。どうしてウソをつく」
A「……」
私「好きだったら、そう言え。はっきり、そう言え」と。

 しばらくおかしな押し問答がつづいた。が、突然、堰(せき)を切って水が流れ出すように、A
君が、大泣きをしながら、「ママ、好きだよオ」と言いだした。母親は、母親で、「わかっているの
よ」「わかっているのよ」と、A君を抱きしめた。

 何かの大きなわだかまりが、A君にあったのだろう。そのわだかまりが、A君の心をふさいで
いた。が、こうして自分の心を、すなおに表現することによって、そのわだかまりを取りのぞくこ
とができる。カタルシス効果というのである。

 A君は、もうそのころになると、私が背中を押さえていなくても、そのまま母親に抱かれてい
た。

A「ママ、いっしょに、お風呂に入ろうね」
母「いつも、いっしょに、入っているでしょう」と。

 A君は、いつものやさしいA君にもどっていた。もちろん私には、その(わだかまり)が何であっ
たかはわからない。子どもの心は、私たちが想像する以上に複雑だ。それにこの時期の子ど
もは、こうした変化を、毎日のように見せる。

 A君と母親を教室の外に見送ったあと、心の中が暖まっているのを感じた。そして私はどうい
うわけか、あのノートに落書きをしてしまった女の子のことを思い出していた。

 名前を、アイミヤさんと言った。聞くところによると、G県のS市で、今でも元気に暮らしている
ということだ。ごめんなさい!

++++++++++++++++

自己開示(2)

 自分をさらけ出すことを、自己開示という。そしてそれが極限にまで達したのを、「カタルシス
(除反応)」※という。心を最大限、開放させることにより、心理的、精神的負担を軽減させるこ
とをいう。

 他人との信頼関係をうまく結べない人は、まず自己開示をしてみるとよい、あなたが妻であれ
ば、夫や子どもに対して。あなたが夫であれば、妻や子どもに対して。家族には、そういう機能
がある……というより、これは家族の重要な機能の一つと考えてよい。

 方法としては、自分の過去を、あらいざらい、すべて告白するというのがある。悲しかった思
い出、つらかった思い出、恥ずかしかった思い出など。心の中に秘めている思い出を、すべて
吐き出してみる。

 これはたいへん勇気のいることだが、しかし自己開示することによって、あなたは自分の心を
開放することができる。が、それだけではない。自己開示することによって、(1)相手もあなた
に自己開示する。(2)あなたもそれまで気づかなかった自分に気づくことができるようになる。

 私はときどき、中学生に、こんな作文を書かせる。

【つぎの文につなげて、作文を書いてください。】

● 私にとって、今まで、一番楽しかったことは、
● 私にとって、今まで、一番悲しかったことは、
● 私にとって、今まで、一番うれしかったことは、
● 私にとって、今まで、一番つらかったことは、
● 私には、人に話せないような思い出が、

ほかにもいろいろあるが、子どもが書く内容は、それほど重要ではない。(また、内容について
は、一切、不問にすること。)その子どもがどこまで、具体的に自己開示するかで、たがいの信
頼関係の深さを知ることできる。

つぎに、子ども自身が、仮面をかぶっているかどうか、どこまで自分と向き合っているかどう
か、心の問題をもっているかどうかなどを、知ることができる。「のぞく」という言葉は、あまり好
きではないが、しかし、この方法で、子どもの心の中を、のぞくことができる。家庭では、たとえ
ば、子どもに向かって、「あなたにとって、今まで、一番うれしかったことは、どんなこと?」という
ように聞いてみるとよい。

……と、書いたが、あなた自身はどうかということを、自問してみてほしい。

 あなたが妻なら、夫に話せない話もあるはず。結婚前の男性関係とか、身体的なコンプレッ
クスとか、など。子どものころの家庭環境も、それに含まれるかもしれない。もしそういうのがあ
れば、思い切って、夫に話してみる。

 あなたはそれで、人間関係が壊れると思っているかもしれないが、多少の混乱を経て、あな
たと夫の心の絆(きずな)は、それで太くなるはず。とくに、他人との人間関係がうまく結べない
人、他人と接すると、すぐ神経疲労を起こす人などは、まず、身近な人に対して自己開示して
みるとよい。つまりこうして、自分の心を作り変えていく。

 もっとも注意しなければならないのは、他人への自己開示である。信頼基盤そのものがない
人に、自己開示するのは、危険なことでもある。そういうときは、相手をより深く理解するという
方法に切りかえる。たとえば……。

 日ごろ、相手が、言いたいと思っていること、知りたいと思っていることを、相手の立場になっ
て聞く。「この前、あなたはこう言ったけど、その意味がよくわからないから、もう一度、話してく
れない」「あなたの言うことはよくわかるけど、もし私だったら、どうするか、いろいろ考えてみた
わ」とか。相手をより深く理解しようとしよう姿勢を見せることで、同時に、自分もまた相手に対
して、自己開示することができる。

 前にも書いたが、自己開示をすることは、違いの信頼関係を築く、基盤となる。たがいにわけ
のわからない状態で、信頼関係を結ぶことはできない。さあ、あなたも勇気を出して、自己開示
してみよう。心を解き放ってみよう!
(030707)

※ ……自己開示することで、心理的、精神的負担を軽減することができる。ばあいによって
は、症状が焼失することもあるという。これをカタルシス効果という。自己開示には、そういう作
用もある。

++++++++++++++++++

【追記】
 
 四人の子どもに、ためしに作文を書いてもらった。

● Kさん(中二女子)

*私にとって、今まで、一番楽しかったことは、この前あった、学校の野外活動です。ナイトウ
ォークや、カレーづくり。一日中、ずっと友だちと過ごしているということが、なかなかないので、
とても楽しかったです。
*私にとって、今まで、一番悲しかったことは、(無回答)。
*私にとって、今まで、一番うれしかったことは、野外活動の先生が、私たちをたいへんほめて
くれたことです。ふだん「今の二年生は悪い」と言うだけの、いやな先生たちばかりなので、先
生たちを見返してやった気分でした。
*私にとって、今まで、一番つらかったことは、もうずいぶん前になるけど、かっていた犬が死
んでしまったことです。

● U君(中三男子)

*私にとって、今まで、一番楽しかったことは、友だちといっしょにいることが楽しいです。人と
笑うのが楽しいです。
*私にとって、今まで、一番悲しかったことは、とくにありません。あっても忘れてしまいます。
*私にとって、今まで、一番うれしかったことは、三年目にして、部活の県大会で優勝したこと
です。
*私にとって、今まで、一番つらかったことは、勉強。部活の練習も楽じゃないです。二つともと
てもつらいですが、楽しいです。

● R君(中三男子)

*私にとって、今まで、一番楽しかったことは、友だちと遊んでいたとき。友だちといっしょにい
たとき。
*私にとって、今まで、一番悲しかったことは、おじいちゃんが死んだとき。
*私にとって、今まで、一番うれしかったことは、(無回答)。
*私にとって、今まで、一番つらかったことは、勉強しているとき。部活。

● D君(小六男子)

*私にとって、今まで、一番楽しかったことは、サッカーです。
*私にとって、今まで、一番悲しかったことは、(無回答)。
*私にとって、今まで、一番うれしかったことは、サッカーでキャプテンになれたことです。
*私にとって、今まで、一番つらかったことは、サッカーで、何周もグランドを走ったことです。

 子どものばあい、身近な経験から、楽しかったことや、悲しかったことをさがしだそうとする。
つまり自分自身を、客観的に見る目が、まだじゅうぶん育っていない。しかし年齢が大きくなる
と、より自分を高い視点から、判断できるようになる。そして自分自身をより深く、見ることがで
きるようになる。「私を知る」というのは、そういう意味で、一見簡単そうで、むずかしい。

(はやし浩司 カタルシス カタルシス効果 自己開示 除反応)

Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●パソコンとの知恵比べ(8月9日)

++++++++++++++++++

今朝は、パソコンのキーボードを叩く指が、
どうも、重い。

思考力が低下している?

そこで昨日あったことを、ここに書いてみる。
私の考えていることがうまくみなさんに伝われば、
それでよし。

そのために書いてみる。
パソコンにあまり興味のない人でもわかるように
書いてみたい。
言うなれば、今朝の指慣らし……。

++++++++++++++++++

●私のホームページ(HP)

 最近、新しい無料ソフトに出会った。
写真を選ぶだけで、勝手に動画に編集してくれる。
興味のある人は、
http://www2。wbs。ne。jp/~hhayashi/
を見てほしい。
1人の絵描きが、手を動かして絵を描いているのが、それ。
(2009年8月現在。)

 で、それを昨日、UPLOADしたら、HP全体が、破壊されてしまった!
表は崩れる、絵はあちこちのが、入れ替わる、など。

●原因

 おおまかな原因は、すぐわかった。(わかっていた。)

 現在、私は、ビスタ・パソコン上で、S社のHP編集ソフトを使っている。
しかしこのソフトは、XP用。
ビスタには対応していない。
そこでいつも、そのソフトをだましだまし、ビスタ・パソコン上で、使っている。
言うなれば、反抗期の娘のようなもの。
そのため、扱いにくい。
 とくに50MBを超えるような大きなHPになると、不都合な混乱が多発する。

 そこで私が考えた方法は、こうだ。

(一度、ビスタ・パソコン上でHPを編集する)→(それをUSBメモリーにコピー、
保存する)→(XPパソコン内に貼り付ける)→(XPパソコン上で開いて、転送する)、
と。

 どうしてこんなめんどうな方法をとるかについては、もうひとつ理由がある。

 ビスタ・パソコンは1年半前に購入したものが、当時の最先端パソコン。
XPパソコンは、それよりもさらに2年前に購入したもの。
XPパソコン上で、50MBを超えるHPを編集していると、ときどきメモリー不足が
起き、そのままパソコンがフリーズしてしまう。
それにSAVEをかけると、何と、ファイルを保存するだけで、5〜6時間もかかって
しまう。

 そこで先の方法を、先日、試してみた。
で、1回目は、うまくいった。
自信をもった。

●昨日の失敗

 昨日も、同じような方法を試してみた。
まずビスタ・パソコン上で、HPを編集した。
一度ビスタ・パソコン上でSAVEをかけたあと、それをUSBメモリーのコピー。
そのUSBメモリーを、XPパソコンに挿して、それをXPパソコン内のファイルに
上書きコピー。

 つぎにXPパソコン上で、S社の編集ソフトを使って、コピーしたHPを開き、
そのままHTML転送。
HPが、ガタガタになったのは、その直後のことだった。

 理屈で考えれば、何も問題はないはず。
……ということで、悪戦苦闘すること、約2時間!
約2時間もかかったのは、それぞれのステップで、時間がかかったため。
USBメモリーにコピーしたり、パソコン内部にコピーしたりするのに、結構、時間が
かかる。

 数度試してみたが、結果は同じ。
ガタガタというよりは、メチャメチャ。
「もしや……」と思って、スパイボット・サーチで、パソコンを検査。
「ウィルスか、スパイウエアが侵入して、悪さをしているかもしれない」と考えた。
しかしそれはなかった。

 で、そのとき、メチャメチャになったHPのページを見ていて、ふと気がついた。
XPパソコンのほうに、本来残っているはずのない、前回、転送したファイルの一部が
残っているではないか!
今回、ファイルを上書きしたのだから、理屈で考えれば、残っていないはず。
それが残っているということは、上書きが正しくなされなかったこと意味する。

●わかりやすく言うと……

 わかりやすく言うと、こうだ。
 XPパソコン内部に、(ABCDE)というファイルが、もとからあったとする。
そこへビスタ・パソコンから、コピーしてきた、(FGHIJ)という
ファイルを上書きしたとする。

 上書きしたのだから、(ABCDE)は消えて、(FGHIJ)となるはず。
理屈では、そうなる。
しかしどういうわけか、XPパソコンのほうでは、それを(AB+FGHIJ)
としてしまう。
それが原因だった。

 そこで私は、一度、XPパソコン内のファイルを、削除した。
カラにした。
その上で改めて、ビスタ・パソコンからコピーしてきたファイルを張りつけた。
そしてそのファイルを開いて、HTML転送をかけた。

 今度はうまくいった!
……ということで、そのあとのHPは健康そのもの。

 それを確認したあと、フ〜〜と長い溜息がもれた。
軽い満足感と清涼感。
これがあるから、パソコンは楽しい。
やめられない。

 そこで教訓。
……というより、手順を忘れないようにするため、方法をここにメモしておく。
(これは私のため。)

(1)ビスタ・パソコン上で、HPを開き、編集する。
(2)ビスタ・パソコン上では転送しないで、そのまま保存をかける。
(3)保存が終わったら、ファイルをUSBメモリーにコピーする。
(4)XPパソコン内部にあるファイルを、前もって削除しておく。
(5)USBメモリーをXPパソコンに挿して、XP内部に、ファイルをコピー。
(6)XPパソコン上で、HPを立ち上げて、そのまま転送。
(7)XPパソコンを強制終了(Ctrl+Alt+Deleteキーを使う。)

+++++++++++++++

 以上の文章を読んで、「何がなんだか、さっぱりわからない」という人がいても、
それはあなたの責任ではない。
私の責任。
私が書いた文章が、へたなのだ。
どうも今朝の私は、頭が重い。
調子が悪い。
これもボケの始まりか?


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●がん予防(Cancer) 

++++++++++++++++++

昨年、大学の同窓生が、がんで死んだ。
晩年は、年に1、2度、街で会う程度だったので、
そのときは、それほどショックは強くなかった。
が、月がたつごとに、じわじわと彼の死がより強く
気になるようになった。

その友人。
穏やかな性格の男で、街中の人から親しまれていた。
葬儀には、その町内の人たち全員が集まったかと
思われるほど、たくさんの人たちが来ていた。

++++++++++++++++++

●T細胞と免疫力、そしてNK細胞

 人間の体の中では、いつも壮絶な戦いが繰り返されているようだ。
そのひとつが、がん細胞との戦い。

 毎日、人間の体の中では、数千個のがん細胞が新たに生まれているという。
紫外線や放射線でダメージを受ける細胞となると、もっと多い。
そういう細胞を見つけて、攻撃するのが、T細胞やNK細胞という名前の細胞。
「ナチュラル・キラー細胞」の頭文字をとって、「NK細胞」という。

 ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『……B細胞もT細胞も特異的なターゲット抗原を認識する受容体分子をもっている。T細胞は
抗原(病原体の小さな断片)が加工されて自己の受容体である主要組織適合遺伝子複合体分
子と組み合わさって提示されて初めて病原体のような非自己のターゲットを認識する。T細胞
のサブタイプには主要な2つのタイプがある。キラーT細胞とヘルパーT細胞である。キラーT細
胞はクラスIIMHC分子と結合した抗原のみを認識し、ヘルパーT細胞はクラスIIMHC分子と結
合した抗原のみを認識する。抗原提示におけるこの2つの機構はT細胞2タイプの機能の違い
に原因がある。3番目のマイナーなサブタイプのT細胞としてγδT細胞があり、MHC受容体
に結合しない、非加工の抗原を認識する。
対照的にB細胞の抗原特異的受容体はB細胞表面上の抗体分子であり、抗原加工を全く必
要とせず、病原体全体を認識する。B細胞の増殖系はそれぞれ異なった抗体を発現し、B細
胞の抗原受容体の完全な1セットは生体が生成可能な全ての抗体を表すものである……』(以
上、「ウィキペディア百科事典」より抜粋)。

 何とも頼もしい細胞ではないか!
私が知らないところで、勝手にがん細胞どもと、戦っている。
ウィキペディア百科事典の難解な文字をながめているだけで、ワクワクしてくる。
となると、その親分である「私」が、そうした細胞の活動を助けない手はない。
では、どうすればよいのか。

 いろいろな実験によれば、(すでにこの説は常識化しているので、あえてここで説明
する必要はないと思うが)、要するに、免疫力を高めればよいということになる。
「笑えば免疫力が高まる」(カリフォルニア大学)という説や、「ストレスにさらされると、
NK細胞の機能が低下する」(ニューヨーク州立大学)という説などがある。

 平たく言えば、日々に満足して、楽しく暮らせばよいということ。
そう言えば、現在十二指腸がんと闘っているS君(61歳)も、先日、電話でこう教えて
くれた。

「林君(=私)、がんになった連中の話を聞くとね、みな、何か大きなストレスがあった
あとになっているんだよな。
ストレスはいけないよ」と。
見舞いの電話をかけたつもりだったが、かえってあれこれと教えられた。
が、S君の言ったことは、道理にかなっている。
言い換えると、がんという病期も、生活習慣病のひとつと考えてよいということになる。

●がんを予防する

 がん患者には、次のような特徴が見られるという(渋谷昌三著「心理学用語」)。

(1)対人関係に傷つきやすく、孤独に逃げ込みやすい。
(2)悲しみや不安などの不快感情を無理やり抑え込もうとして、不平不満を言わず、周
囲に合わせようとする。
(3)慢性的に抑うつ的で、幸福感が低く、社会的に孤立しがち。
(以上、心理学者のリディア・テモショックの説)

 このタイプの人を、がん(Cancer)の頭文字をとって、「Cタイプ人間」と呼ぶのだそう
だ。
もちろんがんになった人がみな、こうした性格の人というわけではない。
しかしいろいろと思い当る点は、多い。

 で、テモショックの説を逆に利用させてもらうと、こうなる。
がん予防のための3か条ということになる。

(1)対人的には、のんびりと生きる。
(2)言いたいことをして、やりたいことをする。
(3)毎日を楽しく、明るく過ごす。

 これに先の、カルフォルニア大学やニューヨーク州立大学での研究を重ね合わせると
こうなる。

(4)おおいに笑いながら生きる。
(5)ストレスをためない、と。

 ふつう病気と闘うためには、3つの方法がある。
ひとつは、病気そのものと闘うという方法。
言うなれば西洋医学的方法ということになる。

もうひとつは、病気になっても、病気に負けない抵抗力を増強するという方法。
言うなれば東洋医学的方法ということになる。

が、何よりも大切なのは、病気になる前から、病気にならないよう、自分の
なまけた気持ちと闘うという方法。
言うなれば心理学的方法ということになる。

 今の私は、まだその時期にいるということになる。
つまり心理学的方法で戦っている時期ということになる。
そこで改めて、ここに書いた5か条を、復唱しておく。

(1)対人的には、のんびりと生きる。
(2)言いたいことをして、やりたいことをする。
(3)毎日を楽しく、明るく過ごす。
(4)おおいに笑いながら生きる。
(5)ストレスをためない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 
林浩司 BW がん がん予防 NK細胞 T細胞 免疫力 はやし浩司 健康論 ガン ガン予
防)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●今日は日曜日(8月9日)

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ワイフが、このところ睡眠不足気味。
それで昼過ぎ、2人で昼寝。
そのとき、こんな夢を見た。

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●昼寝(夢判断)

 ちょうど目を覚ます前。
あるいはその夢で、目が覚めた(?)。
こんな夢を見た。

 私が何かのカタログを読みながら、道路を歩いていた。
そのとき、若い男女の乗った車に、体が当たった。
私は車に両手をついた。
そのとき車から、若い女が出てきて、こう叫んだ。

 「どこを見て歩いているのよ!
車にキズがつくでしょ!」と。
私があやまっていると、男も車から出てきた。
そして私が手を当てたところを、ていねいに調べ始めた。
私は、「手が当たっただけですから……」と謝った。
イヤーナ気分だった。

 そのとき心臓の鼓動が高くなり、私は目を覚ました。
同時に、私は、それが夢だったと知った。

 「しまった!」と思った。
ぐいと目を閉じて、もう一度、同じ夢を見ようとした。
「夢なら、あいつらの車に、レンガでもぶつけてやる!」と。
しかしそのまま、本当に目が覚めてしまった。

 横にワイフがいた。
「先ほど、サイレンが鳴ったわ」
「そうだ、今日は、長崎原爆の日だ」と。

 そのあと私は、私が見た夢の話をした。

私「もう一度、夢の中に戻って、あの車にレンガをぶつけてやりたい」
ワ「おもしろい人ね。自分で勝手に夢を見て、自分に怒っているんだから……」
私「でも、このままでは腹の虫が治まらない」と。

 しかしこういう現象を、どう理解したらよいのか。

 夢の中に出てきた若い男女は、今から10年ほど前に、出会った男女ではないかと思う。
そのとき私は自転車で、コンビニの前を横切ろうとしていた。
そこへ車がつっこんできた。
私の目の前で急ブレーキをかけた。
すんでのところで、私は車にはねられるところだった。
見ると、若い男女が乗っていた。
男が私を見て、「バーカ」と言っているのが、口の動きでわかった。
女の方は、視線をはずして、ニヤニヤと笑っていた。

 そのときの記憶が、どこかに残っていて、それが夢の中に出てきた(?)。

 では、(車のキズ)の話は、どうなのか?
それにはこんな思い出がある。

 これはもう30年ほど前のことだが、自転車で走っているとき、大型の乗用車に
追突してしまったことがある。
前輪でぶつかったから、車にはキズはつかなかった。
が、運転席のドアが開き、スーツを着た男が、ゆっくりと出てきた。
そして私の前に来ると、ゆっくりと車のバンパーを調べ始めた。
私は何度も、「すみませんでした」を繰り返した。
男は自転車のタイヤの跡を手の平でこすると、ニヤリと笑った。
笑ったまま、何も言わず、再び、車の中へと消えていった。

 こうした記憶が、今日の夢の中で合体して出てきた(?)。
となると、私の感じた(怒り)は、どう理解したらよいのか。
私は本気で、「レンガをぶつけてやる」と思った。
が、それは「抑圧」という言葉で、説明できる。

 コンビニの前で、あやうく車にはねられそうになったときも、また自転車で
車に追突したときも、私は、自分を押し殺した。
そうした思いが、心の別室の中に、(怒り)となって、蓄積された。

私「夢の中に出てきた男と女は、顔は覚えていないけど、あのときの男と女だよ」
ワ「それが何年も、記憶の中に残っていたというわけ?」
私「そう、心の別室に入った記憶には、時間が働かないからね」
ワ「抑圧って、こわいわね」
私「そうだよ。子どもでも、10年前、20年前の話を持ち出して、親を責めることが
あるだろ。
心の別室に入っているため、そのあと楽しい思い出をいくら作っても、上書きされる
ということがない。
つまりいつまでも、生々しい記憶として残るわけ……」と。

 フロイト流の夢判断を、自分に試してみると、そうなる。
しかし、それにしても、もう一度、夢の中に戻ってみたい。
戻って、あいつらの車をメチャメチャにしてやりたい。

 ……というふうに、(現実の世界)と(夢の世界)の区別がつかなくなったら、かなり
あぶない(?)ということになる。
認知症になると、(現実の世界)と(夢の世界)が、混濁するようになる。
私の母も、亡くなる前は、よくこんな話をした。
「今、在所(=母の実家)の、○○さんが、私を迎えに来た」と。

 そういうときヘルパーさんは、こう言った。
「お母さんは、夢でもご覧になったのよ」と。

 夢は夢と、さっと切り替えができなくなったら、おしまい。
だから、この話は、ここまで。
それにしても、不愉快な夢だった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 夢判断 抑圧 はやし浩司 記憶と夢 夢と記憶)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●掲示板への相談より

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京都にお住まいのUNKNOWN様より
こんな相談をもらいました。

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【UNKNOWN様より、はやし浩司へ】

高校2年の娘です。一人っ子。中学2年の時 離婚。中高一貫高のため 高校入試の苦労はあ
りませんでした。

今年の1月からお昼は家に帰れる近所のパートから、通勤で1時間かかる会社に正社員とな
りましが、その頃から学校を休みがちとなり、過食嘔吐を繰り返し、5月の連休には、リストカッ
トもし、家に帰らない事もありました。娘は学校をやめるつもりで定期試験は白紙解答。出席日
数もほとんどなく2年の1学期の成績は、ついていません。

それまで子供について ほとんど苦労をせずに来たので、やっと反抗期が来た!と思うようい
たいのですが、平日学校を休んでも家に居ることもなく、家のお金を持ち出し、化粧をして出か
ける。

ここだけは通っていると思っていた 近所の学習塾や歯医者さんへも行っていないと 先生か
ら連絡がある始末です(私には行っていると言っていたので信じていました)。
リストカット・過食嘔吐が激しくなり、メンタルクリニックに通っていますが、先生に薬の事で聞き
たいことがあり、一緒に行くと行ったら その日、本人は来ませんでした。(もう脳の萎縮が始ま
っています)。

メンタルの先生から私が家に居るのが良いと言われましたが、仕事を辞めたら生活が成り立
ちません。しかし 家でひとり何をしているのかわからず、不安になります。娘は私に居て欲しく
ないと言い、休日は娘は朝から出掛け、夜まで帰りません。今日は4時には帰ると言って出ま
したが、先ほど夕ご飯は外で、とメールが着ました。これでも少し前までは連絡もなかったので
良い方向と思いますが、どこに居るのか 帰りの時間は連絡してきません。

はやし先生のHPから、この半年 私は全く逆の事ばかりしてきました。無くなったお金の事を
問い詰め、将来を不安を口にし、自ら死を口にし、お父さんの所に行くようにも言いました(元
夫は再婚しています)。

娘はよく頑張ったと思います。

2学期からは学校に行くと言っています。

私が落着いて居られる時は 関係も穏やかなのですが、お金がなくなったり、娘が嘔吐を隠し
たりすると、ダメです。わざと傷つけるような事ばかり言い、最近では手も出たりしてしまいま
す。この前は娘の前で自分の首も締めました。最悪な母です。

来週のお盆の時 娘と実家に帰省する予定でしたが、娘は行きたくない。父親の所に行くと言
っていましたが、父親はまだ奥さんに話していない様子で そんな所に行かせて良いのか・・・。

両親からは、一緒に居ない方がお互いのためのようだから、父親に渡して、今年中には帰るこ
とも考えるように言われています。

暖かい無視と 許して忘れる。
1年後 2年後 を見据えて。
頭ではわかっていますが、ギリギリの生活、このまま京都で生活して行く自信もありません。

だらだらと長くなってしまいました。
娘からはまだ連絡はありません(まだ6時なので何度もメールするのも・・・電話も出ない。)
どうしてよいのか わかりません。

【はやし浩司より、UNKNOWN様へ】

 先ほどまで、電話を待っていましたが、電話がありませでしたので、自分の考えを
書いてみたいと思います。

 あなたはがんばりすぎている……。
それが私の第一印象です。
よくここまでひとりで、がんばってこられましたね。
あなたはあなたで、最善のことをしましたよ。
今も、懸命に、がんばっています。
だからここは肩の力を抜いて、気を楽にしてください。
あなたの娘さんは、もう子どもではありません。
すでに、つまりとっくの昔に、あなたの手を離れています。
あなたが親としてできることは、ほとんどないということです。
高校2年生という年齢は、そういう年齢です。

 娘さんの言葉に、もう少し耳を傾けてあげましょう。
娘さんが、「居て欲しくない」と言うなら、それをよいほうに解釈してあげましょう。
親として、自分の子どもが巣立っていくのを知るのは、さみしくも、つらいときです。
しかしそれも巣立ち。
みながみな、よい形で巣立っていくとはかぎりません。

 あなたは自分が感じている(さみしさ)を、別の形に、自分で勝手に変えているだけ
ですよ。
「娘さんに問題がある」というような書き方で、自分をごまかしているだけですよ。
娘さんのことを心配しているようで、実は、あなたはその(さみしさ)に耐えられない
でいるだけ。

 あのね、みんなさみしいのです。
孤独なのです。
しかしあなたの娘さんは、もっとさみしがっているのですよ。
心の拠り所さえ、ないのですから。
自分の心や体を休める場所(家庭)もない……。

 今のあなたにとっていちばん大切なことは、娘さんに、心の拠り所を用意してあげる
ことです。
娘さんが、安心して心を体を休める場所を、提供してあげることです。

 進学?
塾?
……もう、そんなものは、さっさと、あきらめなさい!
大切なことは、娘さんの(友)として、娘さんの横に立つことです。
娘さんの悲しみや苦しみや、さみしさを、あなたが共有してあげることです。
「あなたもさみしかったのね」「ごめんね」と、です。

 が、すぐには娘さんは、心を溶かさないかもしれません。
つっぱったまま、これから先、5年、10年と過ぎていくかもしれません。
しかし見返りを求めない。
捨て身で対処します。
捨て身ですよ!

 娘さんが、どんなにあなたを裏切っても、あなたはそれを受け入れます。
それを「無私の愛」といいます。

 あなたもその無私の愛を感じてみてください。
そこは実におおらかで、すばらしい世界ですよ。
また「許して忘れる」は、口で言うほど、簡単なことではありません。
苦しく、つらいものです。
少しぐらい「許して忘れて」、それで効果がなかったなどと、思ってはいけません。
どこまでも、どこまでも、「許して忘れます」。
それだけを繰り返します。

 で、あなたはあなたで、あなたの生きる道をさがします。
あと10年もすれば、老後ですよ!
わかりますか?
時間がありません。
目を娘さんから離して、あなたはあなたで前を見るのです。

 心配先行、不安先行、過関心、過干渉……。
娘さんにとっては、窮屈な家庭だったと思いますよ。
その上、離婚騒動に巻き込まれ、私もあなたの娘さんなら、「バカヤロー」と
叫んで、家を出ていくでしょうね。
しかしそれをする娘さんだって、つらいのです。

 今夜帰ってくるかもしれないし、帰ってこないかもしれません。
が、あなたができることは、暖かい夜食を用意し、寝床を用意することです。
そして帰ってきても、何も言わない……。
「暖かい無視」というのは、そういうことを言います。

 いいですか、あなたの娘さんは、もう(おとな)ですよ。
あるいはあなたが高校2年生のときのことを思い出してみてください。
それが今の、娘さんなのです。
あなたの思うようにならないからといって、また取り越し苦労を重ねたところで、
問題は何も解決しないでしょう。
さらに二番底、三番底へと、娘さんは、落ちていくだけです。

 たしかにあなたがしたことは、おとなげないというか、けっしてほめられるべき
ことではありません。
しかしあなたの娘さんなら、許してくれますよ。
だから娘さんを信じて、今日、この瞬間から、あなたは肩の力を抜いて、娘さんの
「友」になります。
娘さんのほうは、すぐには友として認めてくれないかもしれませんが、あきらめては
いけません。
こうした問題には、時間が必要です。
1年や2年は覚悟してください。

 あとは娘さんの人生ですから、あなたはあなたで、幸福を追求すればよいのです。
生きがいを見つけ、仕事を懸命にします。
今できることを、懸命にすればよいのです。
そういう意味で、あなたは本当に、よくがんばっています。
めげないで、がんばっています。
すばらしい人です。

 あのね、あのスティーブンソンは、こう書いています。
「宝島」を書いた、スティーブンソンです。
『我らが目的は成功することではない。失敗にめげず前に進むことである』とです。
今のあなたに、さしあげたい言葉です。

 いいですか、こんなことでめげてはいけませんよ。
何でもない問題ですから。
どこに家にでもある問題です。
自分の娘さんだけを見て、「どうしてうちの子だけが……」とは、思わないこと。
こうして娘さんは、あるいは子どもたちは、親離れをし、自立していきます。
おとなになっていきます。
ひょっとしたら、すでにあなたの娘さんは、あなたより、ずっとおとなかもしれません。
それを信じてあげなさい。

 そう、あなたは目が見える。
音が聞こえる。
歩くことができる。
話を聞くことができる。
……あなたは生きている。
娘さんも生きている。
そこを原点として考えてください。

ね、すばらしいことでしょ!

 要するにあなたが今、娘さんとの間で経験しているのは、家庭のドタバタです。
何でもない問題です。
が、あなたにはそれがわからない。
ささいなことを針小棒大に考えて、ひとりで大騒ぎしている……。
言うなれば、ひとり芝居。
そんな感じです。

 どなたか、相談できる人は、近くにいませんか?
話を聞いてくれる人がいるとよいですね。
その人も、同じことを言いますよ。

 だから、ここは、「許して忘れる」。
暖かい無視を大切に、あなたはあなたで、好き勝手なことをすればよいのです。
娘さんのことは、もう、構わないで……。
だいじょうぶですよ。
あなたの娘さんは、あなたが考えているより、はるかにおとなです。

 コツは、(今の状態)をこれ以上悪くしないことだけを考えて、対処すること。
あなたが騒げば騒ぐほど、逆効果ですから、注意してくださいね。

 電話で直接話したかったのですが、電話がありませんでしたので、メールで失礼
します。
なおたいへん申し訳ありませんが、電話での相談は、お断りしています。
電話番号は、忘れてください。
(気まぐれですみません。)

 今夜はこれで失礼します。
もしよかったら、私のHPの原稿を、片っ端から読んでみてください。
きっと気が楽になりますよ。

 では、おやすみなさい。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(090810)

●人間性

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目の前に札束が積まれる。
電話一本で、自分のものになる。
相手の男は、こう言った。
「領収書はいりません」と。

部屋の中にはだれもいない。
あなたが迷っていると、さらに相手の男は
こう言った。

「このお金は、裏帳簿でねん出したものです」と。

そんなときあなたは、その申し出を断ることが
できるだろうか。
言い忘れたが、金額は、3000万円!
電話といっても、配下の役人に電話するだけ。
「よろしく、頼む」と。

++++++++++++++++++

●背伸び

 私たちは他人の悪事や不正を知ると、まるで鬼の首でも取ったかのように騒ぐ。
「私たちは善人です」と。
朝のワイドショーが、そのひとつ。
このところ芸能界では、立てつづけにいろいろな事件が重なっている。
しかしそういう報道を見ながら、私は、ふとこう思う。
「何を偉そうに!」と。

 キャスターにしても、コメンテイターにしても、どこかインチキ臭い。
そういう人たちが、いっぱしの正義を説くから、おかしい。
いや正義を説いてはいけないと言っているのではない。
どこかチグハグだから、おかしいと、私は言っている。
たとえて言うなら、まるで知性を感じさせない俳優が、映画の中で科学者や哲学者を
演ずるようなもの。
背伸びして、力んでいるだけ。

●自問

 そこで冒頭の話。
もしあなたがそれなりの政治家で、目の前に大金を積まれたら、あなたはどうする
だろうか。
「私は、そういうお金はいりません!」と、きっぱりと断ることができるだろうか。

 政治家が収賄罪で逮捕されるたびに、私は、自問する。
「お前なら、どうする?」と。
で、答えはいつも同じ。
「私なら、もらってしまうだろうな」と。
お金は嫌いではない。
何もあえて嫌う必要もない。

 だから私は政治家には向かない。
政治家にはなれない。
仮に断ったとしても、多分(?)、そのあと後悔するだろう。
「もらっておけばよかった」と。
つまり私の人間性も、その程度。
だからこと収賄罪については、私は偉そうなことは言えない。
事実、偉そうなことを書いたことはない。

●平和宣言

 で、再び、子どもたちによる平和宣言。
今年も、あのH市で、子どもたちによる平和宣言がなされた。
今年は、「議論をしつくして、平和を守ろう」というようなことを、子どもたちは言った。
まさに正論だが、正論すぎるという点で、私は顔をそむけた。
相手が、ワイドショーのコメンテイターなら、すかさずこう思っただろう。
「何を偉そうに!」と。

 少なくとも、私にはできない。
近親者や近隣者とのトラブルは、無数に経験してきたが、私にはできない。
いわんや、そこらの小学生にできるはずもない。
期待もしていない。
そういう子どもたちが、堂々と(?)、こう言う。
「話し合いで、問題を解決しよう」と。
 
 このおかしさ。
 このこっけいさ。

 だれかが言わせているのだろうが、子どもに、そんなことをさせてはいけない。
何なら、こんな宣言をさせてみたらどうだろう。
「私たちは、おとなになり、政治家になっても、賄賂は受け取りません!」と。

●教育の世界でも

 人はだれしも、人間的な(弱さ)をもっている。
「人」というより、「人間」と言った方がよいかもしれない。
私ももっているし、あなたももっている。

 その(弱さ)を克服するとなると、並大抵の努力ではできない。
それに時間がかかる。
苦しんだり、悩んだりしながら、少しずつ克服していく。
まさに日々の精進(しょうじん)あるのみ。
日々の精進こそが、それを可能にする。
たとえば子どもの教育にしても、そうだ。

 教育というのは、手をかけようと思えば、いくらでもかけられる。
が、その一方で、手を抜こうと思えば、いくらでも抜ける。
それこそプリントだけをやらせて、それで終わることもできる。
(世の親たちは、プリント教材を多く与える教師を、よい先生と誤解している
ようだが……。
プリント学習ほど、教師にとって、楽な指導法はない!)

 子どもたちにしても、もともと勉強などしたくない。
教師がへたにがんばると、かえって子どもたちには嫌われる。

 そういうとき自分にムチを打って、手をかけるというのは、実のところ、
たいへんなことである。
その心は、目の前に積まれた大金を断る(心)と、どこか相通ずる。
金額の桁(けた)はちがうが、心は同じ。

 手を抜こうと思えば、いくらでも抜ける。
子どもたちもそれを望んでいる。
今日、一日、楽に終わったところで、子どもたちへの影響は微々たるもの。
給料は、ちゃんともらえる……。

 そんなときあなたは、手をかけて、子どもたちを指導するだろうか。
それができるだろうか。

●哲学

 話を戻すが、自分の人間的な(弱さ)を克服するのは、簡単なことではない。
先にも書いたように、「その(弱さ)を克服するとなると、並大抵の努力ではできない」。

 では、どうするか?

 ひとつの例として、私はダイエットをあげる。
私は今まで、何十回となく、肥満→ダイエット→リバウンドを繰り返してきた。
数か月ごとの定例行事になっていた。

 その私は、こんなことに気づいた。
「哲学のないダイエットは、意味がない」と。
言い換えると、それなりの哲学を構築するのが先。
それがないままダイエットを始めても、長つづきしない。
結局は(ダイエット→リバウンド)の繰り返しで終わってしまう。

 たとえばダイエットするにしても、運動と食事制限だけでは、無理。
美容目的なら、さらに無理。
そこで私は、「食べたら損(そこ)ねるのか、食べなければ損なのか」を自問する
ようになった。
そして最終的には、「損とは何か」というところまで、考えるようになった。

●政治家としての哲学

 冒頭にあげた、賄賂の問題にしても、最終的には、哲学の問題ということになる。
たとえばその賄賂を、そのまま懐(ふところ)に入れてしまえば、一時的には、得を
したことになる。
しかしもう少し長い目で見れば、自分の人間性を損(そこ)ねる。
人生を無駄にすることになる。
つまり損(そん)をすることになる。

 その(人間性を損ねる)部分を、はっきりと(損)と自覚するためには、それなりの
哲学、つまり生きざまが必要。
その生きざまの確立なくして、この問題を解決することはできない。

 政治について言えば、政治家というのは、国のリーダーである。
そのため無私無欲の公僕でなければならない。
日本全体、世界全体の共通した「善」の達成のためにこそ、力を注ぐ。
……こうした哲学を、一歩、一歩と完成させていく。
その結果として、政治家は政治家でありうる。
かなりきびしいことを書いたが、それができないようなら、またその努力をしない
ようであるなら、偉そうに、政治家などになるべきではない。

 いわんや、自己の名聞名利(みょうもんみょうり)の達成のために政治を利用する
などということは、あってはならない。

●精進あるのみ

 ……といっても、ほとんどの人にとっては、政治家という職業は無縁のもの。
目の前に大金を積まれるということも、ない。

 しかし自分の人間性を試されるということは、日常的によくある。
あるいは私たちは、常に試されながら、生きている。

道路でサイフ拾ったとき。
どこかの店で、駐車場の空きがないとき。
並んで順番を待っているとき。
混雑したバスや電車に乗ったとき。
買い物をするとき。
ゴミを捨てるとき、などなど。

 そのつど私たちは、自問する。
「損(そこ)ねるのか、それとも損(そん)なのか」と。
自問しながら、自分を高めていく。
その緊張感を緩めたとたん、元の木阿弥。
とくに私のような、もともと素姓のよくない人間ほど、そうなる。

 で、やはり答えは、同じ。
「私なら、もらってしまうだろうな」と。
私には、そんな高邁な人間性は、ない。
だから今日も、精進あるのみ。
がんばろう!

 2009年8月10日、朝記。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090812)

●今朝は、5時7分起き

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今朝は、午前5時7分に目が覚めた。
強い地震が、静岡県地方を襲った。
この浜松市でも、震度4〜5前後もあったという。

私はそのとき、山荘にいた。
床の中で眠っていた。
ズシン、ドドドド……と、はげしい揺れを感じた。
瞬間、自分がどこにいるか、わからなかった。
ワイフが隣のふとんから、手を延ばしてきた。
こわかったらしい。
いつもは姉さん女房のようなワイフだが、こういうときは
気が小さい。

私は震源地を計算していた。
縦揺れから、横揺れに移るまでの時間を思い出していた。
数秒か、あるいはもう少しか……。

「震源地は結構、近いな」と思った。
それに山荘でこの程度だから、浜松市内は、もっと揺れたはず。

このあたりは、山全体が大きな岩盤のようになっている。
一方、浜松市内は、もとはと言えば砂浜。
「被害はどれくらいだろう?」と思った。
思いながら、床から起き上がった。
テレビにスイッチを入れた。

 で、そのあとのこと。
私はこうして起きて、パソコンに電源を入れた。
ワイフは、そのまま再び眠ってしまった。
ああいう性格は、ほんとうにうらやましい。


++++++++++++++++++++++++++

●超徳の人

 昨日、ウォーキングをしながら、こんなことを考えた。
1人の男がジョギングをしながら、私を追い抜いた。
そのときのこと。
その男が、2度、3度と、たてつづけに道路に痰を吐いた。
薄緑色の、汚い痰だった。

 それを見たとき、私は、人間は、いくつかのタイプに分かれることを知った。

(1)それを見て、怒るタイプ。これを「タイプA」とする。
「A」は、「angry(怒り)」の頭文字。

(2)それを見て、平気なタイプ。これを「タイプI」とする。
「I」は、「indifferent(無関心)」の頭文字。

 さらに「Aタイプ」は、自分も同じようなことを平気でしているタイプと、
そういうことはしていないタイプに分かれる。
前者は、「A・身勝手タイプ」ということになる。
後者は、「A・超自我タイプ」ということになる。

 「Iタイプ」も、自分も同じようなことを平気でしているタイプと、
そういうことはしないタイプに分かれる。
前者は、「I・無責任タイプ」ということになる。
後者は、「I・厭世(えんせい)タイプ」ということになる。

 で、「私は、どのタイプか」と。

●善人論

 私は道路に痰を吐いたことはない。
少なくとも20歳以後は、一度もない。
19歳のときに、一度、大失態をしてから、痰はもちろん、ツバを吐くことすら、
やめた。

 だからというわけでもないが、そういう光景を見ると、かなり強い怒りを覚える。
そのため私は「タイプA・超自我タイプ」ということになる。
ほとんどの人が、このタイプに属する。
問題は、そのつぎ。

 そういう光景を見たとき、相手を注意すべきかどうかということ。
私はもともと法科出身だから、すぐ法律的なものの考え方をしてしまう。
「まだ浜松市には、そういう条例はなかったはず」と。
つまり私の(怒り)を後ろから支えてくれる、条例がない。
とたん、口が勝手に閉じてしまった。
相手が男だったから、遠慮したわけではない。
健康のためにジョギングするような人だから、それなりの人物のはず。
が、それを注意することができなかった。

 では、無視すればよいかというと、そうでもない。
善をなすから、善人ということにはならない。
悪をしないから、善人ということにもならない。
善人が善人であるためには、積極的に悪と闘わねばならない。
積極的に悪と闘ってはじめて、人は、善人になれる。
これは私の持論でもある。

 そのばあい、その男の行為を積極的に制止してこそ、私は善人ということになる。

●高徳の人

 「たかが痰くらいで、目くじらを立てることもないだろ」と思う人もいるかもしれない。
しかしこうした論法には、しっかりと釘を刺しておきたい。

 日々の積み重ねが、月となり、それがさらに積み重なって、年となる。
それが10年、20年とつづいて、その人の人格になる。
日々のささいな行為、言動こそが、その人の人格を決める。

 先に書いた、「I・無責任タイプ」「I・厭世タイプ」の人が、長い年月を経て、
どんな人間になっていくかは、容易に察しがつく。

 ……ところが、そのときは、ちがった。
私は痰を吐きながら走るその男のうしろ姿を見ながら、こう思った。
「もうひとつ、別のタイプの人間もいるのではないか」と。
世俗のもろもろの(悪)を超越して生きる生き方も、あるのではないか、と。
(怒りを通り越した、その向こうの生き方)といってもよい。

 というのも、まわりは、世俗のかたまり。
排気ガスをボンボンと出しながら走る車。
くもの巣のように、天をおおう電線。
交通ルールを守らないドライバーたち。
緑のない、殺風景な道路。
満足な歩道すら、ない。
いちいち(怒り)を感じていたら、それこそ身が持たない。

 そういう(世俗社会)を見ながら、「これが人間の世界」と受け入れてしまう。
道路に痰を吐く男も、その一部にすぎない。
それよりも重要なことは、私も、その男も、この世俗社会で懸命に生きている
という事実。
その(尊さ)に比べたら、道路に痰を吐くことなど、なんでもない。
(だからといって、容認してよいということではない。誤解のないように!)

 だからもし私が怒りを感ずることもなく、ニコリと笑いながら、
「それはいけませんね」と軽く注意することができたら……。
それに応えて、その男もやはり、ニコリと笑って、「すみません」と言うことが
できたら……。
たがいに不愉快に思うことはない。
 
 それができる人のことを、「高徳の人」という。
心を乱すことなく、相手の非をとがめ、相手がどんな反応を示しても、これまた
心を乱すこともない。

 が、残念ながら、私は、(怒り)の段階で、自分を収めてしまった。
(どういうわけか、相手が白人だと、私はできるのだが……。)
不快感だけをどこかに残しながら、私はそのままウォーキングをつづけた。

 見るとその男は、道を途中で左に曲がり、路地の向こうに消えるところだった。
そのときも、ペッペッと痰を道路に吐いていた。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09++++++++++はやし浩司

●Wait a minute! (ちょっと、待ってください)

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英語には、「Wait a minute!(ちょっと待ってください)」
という言い方がある。

その「minute」には、「ちょっと」という意味と、「1分、2分というときの
「分」という意味もある。

「世界おもしろジョーク集」(PHP)のほうには、その解説が載っていなかったので、
私のほうで先に解説しておく。
その上で、つぎのジョークを読むと、さらに深く(?)、意味がわかるのでは……。

その本に、こんなジョークが載っていた。
(内容は、私の方で編集。)

++++++++++++++++++++++

●「1分だけ、待ってほしい」

 ある若い女の子が、神様にこう聞いた。
「神様、天国には時間というものがあるのですか」と。
それに答えて、神様は、こう言った。

「ないよ。地球上の数十万年が、天国のこちらでは1分だよ」

すると女の子は、つづけて、こう聞いた。

「神様、お金(マネー)には、意味があるのですか」と。
それに答えて、神様は、こう言った。

「ないよ。お金には、まったく意味がないよ。価値もないよ」と。

で、女の子は、それを聞いて、つづけてこう言った。
「だったら、神様、私に数十万ドルをくれない?」と。

すると神様は、こう言った。

「Wait a minute!」(ちょっとだけ、待ってほしい)と。

●解説

 わかるかな?
神様は、掛け言葉を使った。
「ちょっと」と「1分」を、掛けた。

 天国では、地球上の数十万年が、1分に相当する。
つまり「Wait a minute!」というのは、神様にしてみれば
1分かもしれないが、地球に住むその女の子には、数十万年を意味する。
つまり「数十万年、待ってほしい」と。

●反応

 で、こうしたジョークを子どもたちに話していて、ひとつ気がついたことがある。
私はときどき、レッスンの合間に、ジョークをはさむ。
が、である。

 日本の子どもたち……というより、日本人は、こうしたジョークを楽しむという
習慣そのものがない。
先日も、小学5、6年生のクラスで、いくつかのジョークを話してやったのだが、
だれも笑わない。
「どうしてそんな話がおもしろいの?」と。

 そこであれこれ解説してやるのだが、反応がイマイチ、弱い。
鈍い。
中には、「くだらネ〜」とはき捨てる子どももいる。

 どうしてだろう?
おもしろい現象なので、ついでに、ここに書きとめておくことにする。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09++++++++++はやし浩司

●買い物依存症

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買い物依存症の人は多い。
私も、その1人。

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 が、買い物依存症の人は、それを必要とするから、
それを買うのではない。

買った瞬間、自分のものになったという快感を
味わうために、買う。
だからある程度、時間が過ぎると、また別の
ものが、ほしくなる。
(あるいは同じものでも、ほしくなる。)

 線条体に、そうした受容体ができていて、
視床下部の指令を受けて分泌されたドーパミンが、
その受容体を刺激する。

 言うなれば、条件反射。
並みの努力では、その条件反射と闘うのは、難しい。

 「アルコール中毒、ニコチン中毒と同じに考えていい」と言うと、
ワイフが、すかさず反論した。

「買い物依存症とはちがうわよ」と。

 ところが、どっこい!
人間の脳みそは、一見複雑だが、こと「反応」ということになると、単純。
線条体そのものには、知的判断力はない。
「これはアルコール用のドーパミン」「これはニコチン用のドーパミン」というふうには、
区別しない。
ドーパミンが分泌されると、その区別なく、脳は、自動的に反応してしまう。

 で、その買い物依存症。

 今日、これから近くのパソコンショップで、パソコンを買ってくる。
ねらっているのは、T社製の、「ダイナブック」。
性能はまあまあ。
値段は。9万9800円。
16インチの大型画面。

半年ほどから、ミニノートを3台使ってみたが、どうも使い勝手が悪い。
文字が打ちにくい。
文字が見づらい。
反応が遅い、などなど。

ワイフにねだったら、「しかたないわねエ〜」と。
それで買うことにした。

 ときどきこういう刺激を与えないと、脳みそがしぼんでしまう。
言うなれば、脳みそのレッスン料。

で、今は、ワクワク。
手元にあるチラシは、すでにクシャクシャになっている。

「待ってろよ、ダイ子! 今、買ってやるからな!」と。

 言い忘れたが、私はパソコンには、それぞれに、すべて女性名をつけている。
「ダイナブック」だから、「ダイ子」。
真っ白で、スベスベした肌の女の子。
体は大きいが、抱きごこちは、よさそう。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09++++++++++はやし浩司

●恩着せがましい子育て法

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恩着せがましい子育てをする人は多い。
「産んでやった」「育ててやった」と。
しかしこうした言葉を口にすればするほど、
親子関係は、さみしくなる。
心もさみしくなる。

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●一貫性

 一事が万事、万事が一事。
子育てには一貫性が重要だが、しかしそれには条件がある。
大切なのは、哲学。
スジ。
一本のスジ(筋)が通っていれば、よい。
スジが通っていないと、話がおかしくなる。
子育てが混乱する。
中には、こんな一貫性(?)もある。

●恩着せ

 ある母親(現在、60歳)が、あるとき私にこう言った。
「私は、子育てで、どれだけ苦労したかわからない」と。
話を聞くと、こうだ。

 2人の息子がいたのだが、「塾の送り迎えで、苦労した」「友だちのいじめに
あって、苦労した」「部屋を散らかすので、掃除で苦労した」「卵アレルギーで
苦労した」と。

 こういった話が、つぎからつぎへとつづく。
が、最後は、いつもこうだ。
「でも、みんな、無駄でした」「子育てなんか、するもんじゃない」「息子たちは
今では、どこに住んでいるかさえ、わからない」「損をした」と。

●いやみ

 その女性の話し方には、もうひとつの特徴があった。
それとなく、子どもたちの心を操るという方法である。
が、それがその女性にとっては、ごくふつうの言い方だったようだ。
当の本人は、それに気づいていなかった。
たとえばこういう言い方をする。

 「あの家の息子さんは、立派なもんです。今度、親のために、離れを建ててやった
そうです」「あの家の嫁さんは、すばらしい。親を温泉に連れていって、背中を流して
やったそうです」とか。

 そういうことを、息子たちが聞こえるところで、わざと言う。
私も聞いたことがある。
そのときは、こう言った。
「Nさん(女性の友人)は、幸せや。息子さんがすばらしいから、老後の心配は、
何もしなくていい」と。

 こういうのを私たちの世界では、「イヤミ」という。
が、ふだんからそうした言い方をしている人には、それがわからない。

●おかしな世界

 こうした言い方は、一度身につくと、クセになる。
何かにつけて、そういう言い方をするようになる。
が、世の中には、そういう女性のような言い方を支持する人もいる。
イヤミはイヤミなのだが、同じような言い方をする人には、それがイヤミには
聞こえなくなる。……らしい。

 ある男性(60歳くらい)は、こう言った。
「あの女性は、いい人ですよ」「子どもたちのために、どれほど苦労したかわからない」
「親のカガミです」「頭がさがります」と。
そういう女性を高く評価(?)する人もいる。

●私のばあい

 私自身は、そういう言い方を、3人の息子たちにしたことはない。
ときに口から出そうになったこともあるが、そこはぐいとがまんした。
息子たちが、生意気な口をきいたときのことだ。

 だから余計に、そういう言い方をする人が、私には目立つ。
違和感を覚える。
へんに感心することもある。
「世の中には、そういうものの考え方をする人もいるんだナ」と。

 子育てというのは、(そのとき)を楽しむためにある。
そこから始まって、そこで終わる。
そういう点では、私にとっては、子育ては楽しかった。
息子たちが、私に生きがいを与えてくれた。
毎日、仕事が終わると、何らかのおもちゃを買って帰った。
子どもたちの喜ぶ顔が、楽しみだった。
子どもたちがいなかったら、私はああまでがんばらなかっただろう。
現に今が、そうだ。
子どもたちが巣立ってしまった今、生活そのものから、ハリ(緊張感)が消えてしまった。

 だから息子たちには、感謝することはあっても、恩を着せることはない。
息子たちがみな、それぞれの生活をしているのを見て、それでよかったと思っている。

●人、それぞれ

 が、私が正しくて、その女性がまちがっているというのではない。
人それぞれだし、みな、それぞれの思いの中で、子育てをする。
子育てには、その人の人生観、哲学、価値観、それにその人の生い立ち、過去、
すべてが凝縮されている。

 その人が懸命に子育てをしているなら、「おかしい」とか、「まちがっている」とか、
そういう失礼なことを言ってはいけない。
それがたとえあなた自身の親であっても、だ。

 事実、私の母も、恩着せがましいことを、よく口にした。
うるさいほど、よく口にした。

●分析

 が、こうした恩着せがましい子育てをする人の心を分析することは、許される。
というのも、こういう恩着せがましい、言うなれば、イヤミたっぷりの子育てを
つづけていれば、親子断絶は、時間の問題、……というより、確実。

 先の女性にしても、「子育ては損」と言った。
しかし「損」ではなく、そういう結果を、その女性自身が招いたと考えるのが正しい。
2人の息子は、社会へ出るとすぐ、ともに暴力事件を引き起こし、警察に逮捕されている。
今は、職業と住居を転々としながら、どこで暮らしているかさえ、わからない。

 そこで分析ということになるが、こうした恩着せがましい子育てをしている人には
共通点がある。

(1)家族観の欠落、(2)不幸な夫婦生活、(3)不平、不満の多い生活、それに(4)強度の依
存性。

不幸にして不幸な家庭で育った可能性がある。
そのため(家族像)が、育っていない。 

望まない結婚であった可能性も高い。
それが不幸な結婚生活の基本になっている。

また性格もわがまま。
それが不平、不満の原因になっている。

が、何といっても、最大の原因は、精神的な未熟性と考えてよい。
親になっても、ひとり立ちできない。
それが転じて、強度の依存性を生む。

●では、どうすればよいか

 こうした子育てにまつわる問題は、それを自分の中に感じたら、まず、それに気がつく
こと。
まずいのは、それに気がつかないまま、同じパターンを繰り返すこと。
気がつけば、あとは時間が解決してくれる。
すぐには改まらないかもしれないが、時間が解決してくれる。

 恩着せがましい子育てにしても、そうだ。
まず、それに気がつくとこと。
「ここに書いてあるのは、私のことだ」と思うだけでよい。
それだけで、あなたの子育て方が、客観的に浮かび上がってくる。

 つぎに大切なことは、別の新しい子育て観をもつこと。
「〜〜してやっている」という意識を捨て、「子どもと今の人生を楽しむ」「楽しんで
やる」と思いなおすこと。
大切なのは、「今」であって、「過去」でも「未来」でもない。

 ……とまあ、大上段に構えたような書き方をしてしまったが、これは私の
考え方。
あくまでも参考に。

●終わりに

 それぞれの親は、それぞれの子育て観、子育て法をもっている。
それに基づいて、子育てをする。
そしてそれが多くのばあい、「一事が万事」「万事が一事」となる。

子育てには一貫性が重要。
が、同じ一貫性でも、確固たる子育て観に基づかない一貫性ほど、こわいものはない。
世俗に流されるまま、自分を見失ってしまう。
子どもの心を見失ってしまう。
ここに書いた、「恩着せがましい子育て法」も、そのひとつと考えてよい。

 話が繰り返しになったので、このエッセーは、ここまで!


Hiroshi Hayashi+++++++AUG. 09+++++++++++++++はやし浩司

●風邪の菌

+++++++++++++++++++++++

風邪の菌にせよ、ウィルスにせよ、大人用、子ども用、
ひきかけ用、治りかけ用というのは、ない。
みな、同じ。

+++++++++++++++++++++++

ほとんどの人は誤解している。

風邪にせよ、インフルエンザにせよ、菌やウィルスには、
大人用もなければ、子ども用もない。
なり始め用もなければ、治りかけ用もない。

「子どものひいた風邪だから、おとなには移らない」と
考えるのは、誤解というより、まちがい。
むしろ子どものもっている菌やウィルスのほうが、強力と
考えてよい。

またよく誤解されるのが、「治りかけの風邪」。
先日も、ほぼ1週間ぶりに風邪が治って、教室へやってきた
女の子(小5)がいた。
ときどき、痰がのどにからむような、深い咳をする。
そこで私が、「マスクをするように!」と何度も促したのだが、
「私はもう治った」と言って、私の言うことを聞かない。

だから、私は説明してやった。

「あのね、治ったのではないよ。
君の体の抵抗力が、風邪の菌に勝っただけだよ。
菌はそのまま、君の体の中に残っている。
その菌というのはね、君が病気で寝ていたときと同じ菌だよ。
君が治ったからといっても、菌はそのまま。
感染力も、そのまま。
弱くなったということではない。
君が咳をすれば、その菌は、みなに移るんだよ」と。

 しかしその女の子は納得しなかった。
「菌が弱くなったから、私は治った」と。
そればかりを言い張った。

で、私は、本気で叱った。
ほかの子どもたちのほうを向いて、平気で咳をしていたからだ。

「マスクをしないなら、出て行け。
ほかの人に咳を吐きかけるというのは、暴力と同じだ」と。

女「暴力とはちがう!」
私「暴力だ」
女「どうして暴力なのよ!」
私「それで風邪を移されたら、その相手は、数日間苦しむことになる」
女「私の菌とはかぎらないわよ」
私「だれの菌かは、特定できない。潜伏期間というのもあるから。
しかし君から移されたのではないと、だれが証明できる!」と。

 その会話を聞いていたほかの子どもたちが、私の味方についてくれた。

「そうだ、そうだ。来週、ぼくが風邪をひいたら、お前のせいだ。
損害賠償を請求するからな」と。

 それでその女の子は黙った。
が、マスクは最後までしなかった。
咳を懸命にこらえたまま、終わりまで、勉強していた。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09++++++++++はやし浩司

●ジェット水流風呂

 このところ毎週のように、近くの温泉に足を運んでいる。
そこで、こんなことが気になった。

 大浴場の脇に、人が並んで入れるほどの小浴場がある。
その中では猛烈な勢いで、ジェット水流が噴出している。
ザーザーというよりは、ゴーゴーといった感じ。
まるで大きな滝の中に身を落としたよう。
それが背中側からと、ちょうど尻の下側からと、それと足の裏が当たるあたりの
3方から、噴出している。

 はじめてそれに当たったときには、しばらくすると激痛が走るようになった。
あとで見たら、背中の皮が赤むけていた。
つまりそれくらい、水流は強力。

 それはそれでよいのだが、こんなこともある。

 シャワートイレというのがある。
そのシャワートイレを使っていると、水流が肛門から腸のほうへ、逆流して入って
くることがある。
で、そのあと腹に力を入れると、腸を洗浄するかのように、ザーッと汚れた水が
出てくる。
(きたない話でごめん。しかしこれは重要なことだから……。)

 で、温泉で、そのジェット水流風呂につかっているときのこと。
水流は、先にも書いたように、3方から同時に噴出してくる。
で、その中でも問題なのは、尻の下から噴き上げてくる水流。
それがちょうど肛門あたりに、当たる。

 その感触が、シャワートイレと同じ(?)。
よく見ると、自分の肛門あたりを、わざとその水流に当てている人もいる!
で、それに気がついたとき、体中を戦りつが走った。
ゾーッ。

 風呂の水の汚れは、ゴーゴーと噴出する水流の泡でわからない。
しかし中には、その水流を、肛門を通して、腸の中に取り入れている人も
いるはず。
その気はなくても、水流のほうが、勝手に入ってくる。
ということは、……?????

 このあとのことは、読者のみなさんが、勝手に想像してほしい。
想像するだけでも、ゾーッ!
それにしても、汚い。
だから私は、それからは、温泉を出るときは、必ずシャワーで体を流すように
している。
つまり、あれほど、恐ろしいものはない。
みなさんも、あのジェット水流風呂なるものに入るときは、じゅうぶん、気を遣って
ほしい。

 あれは、どうも、……?
ゾーッを、20回くらい繰り返して、この話は、おしまい。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09++++++++++はやし浩司

●新しいパソコン

 今、この文章を、新しいパソコンを使って書いている。
T社製のダイナブック、TX66、2009年の夏モデル。
純白の美しいパソコンである。
その設定に、2時間ほど、かかった。

 ウィルス対策ソフトをインストール、スパイボットをインストール、
いろいろな常用ソフトをインストールなど、など。
ほかにワードの辞書、さらにはお気に入りの引っ越しなど。
ついでに私のメインHPの更新も試してみた。
みんなサクサクと、うまくいった。

 ノートパソコンだから・・・とバカにしていたが、それはまちがいだった。
この数年で、パソコンは、またまた進化!
プラス、驚いた。
使いながら、何度も「フ〜〜ン」と感心した。

手元の仕様書によれば、「インテルCore2DuoプロセッサーP8600、
2・40GHz」とある。
悔しいが、2年前に買った、デスクトップのパソコンより、頭がよい。
ただしグラフィックボードは搭載していないので、ゲームなどはどうか?
(ゲームをすることは、めったにないが・・・。)
あとでそれも試してみる。

 で、何か気のきいた文章を打ってみたいが、まだ指のほうが、慣れていない。
どこかぎこちない。
脳みそと文章の間に、厚い壁があるような感じ。
キーボードのキーが磨滅して、テカテカになるまでに、数か月はかかる。
そのころになると、その壁が消える。
考えたことがそのまま、文章になる。

 ところで設定のとき、「どうしてこのパソコンを選びましたか」という
質問項目があった。
私は「美しかったから」と書いた。
「このパソコンで主に何をしますか」という質問項目については、「今夜は、
抱きしめて寝ます」と書いた。

Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司※

●バカげた珍報道(地震報道について)

++++++++++++++++++

昨日(8月11日)、午前5時7分、
静岡県地方を、大きな地震が襲った。
かなり大きな地震だった。
静岡市周辺で、震度6〜。
床から出て、テレビにスイッチを入れると、
地震報道を繰り返していた。

「津波の心配があります。
海岸には近づかないでください」と。

それを何十回も繰り返していた。

しかしそのまったく同じとき、静岡県沖を、
台風9号が通過しつつあった。
静岡県にもっとも接近したのは、同じ日の
午前9時ごろ(気象庁)。
そのとき台風9号は、御前崎の真南、約100キロ
前後のところを通過しつつあった。

が、これからが、ジョークにもならない珍報道。

「津波の高さは、50センチが予想されます。
どうか海岸地域にいる人は、海岸に近づかない
でください」と。

このジョーク、わかるか?

そのとき海岸には、5〜6メートルを超える、
高波が打ち寄せていた。
これは台風9号によるもの。
その海岸に、50センチの高さの津波が来るから、
「近づかないでください」は、ない。

言うとしたら、「台風による高波に警戒してください」だ。

世の中には、常識というものがある。
どこのバカが、5〜6メートルもの高さの波が
打ち寄せている海岸に、近づくというのか。
(高波を見物に行く人もいないわけではないが……。)
その高波の中にあって、50センチの高さの
津波など、誤差の範囲。

スタジオで、伝えられた数字だけを見て報道
していると、こういう珍報道になる。
私とワイフは、それを聞いて、ゲラゲラと
笑った。

ついでにアメリカに住む二男夫婦に
そのことを知らせると、こんな返事が来た。

「ヒロシさん、あなたにはユーモアの
センスがあります」(二男の嫁)と。
(Denise Hayashi 
Haha! A math quiz。。。it's good to see that you still have your sense of humor despite all of 
this! The tidal wave is shorter; did I pass? :) Please tell Akiko and Shuichi that we send our 
best to you all。)

私は何もジョークを書いたつもりはなかったのだが……。

Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

風邪

+++++++++++++++++++

 8日の夜からだから、もう4日目になる。
どうも風邪が抜けない。
昨夜は、肺の下のほうから咳が出た。
そのたびに痛かった。 
そこで大きな中国製の湿布薬を張った。
これが効いた。
三男がシンガポールで買ってきてくれたものだ。

朝までには、かなり楽になっていた。
あとは「柴胡桂枝湯(さいこけいしとう)」(漢方薬)
と、ビタミンCで治るはず。
今は、その柴胡桂枝湯の粉末を口の中でなめながら、
この文章を書いている。

+++++++++++++++++++

●慇懃無礼(いんぎんぶれい)

 「慇懃無礼(いんぎんぶれい)」という言葉がある。
漢字で書けと言われても、私には書けない。
「慇懃」は、「殷」と「勤」の下に、「心」がつく。
覚えるとしたら、そういう覚え方をする。
で、「殷勤」なら、「いんきん」と読める。

慇懃無礼というのは、バカていねいな対応をしながら、相手を煙に巻くという
方法である。
が、「無礼」は「無礼」。
それをされると、かえって不愉快になる。
ときにカチンと頭にくる。

が、敵もさるもの。
自分に非を向けさせないようにして、相手を不愉快にさせる。
それが目的で、わざと慇懃無礼な言い方をする。
そういう場面に出くわすことは、多い。

●ストーカー

 ストーカーというと、男女の間だけで起こる問題と考えている人は多い。
ゆがんだ恋愛感情がもつれて、人は、ストーカー行為を繰り返すようになる。
が、実際には、それに似たような行為となると、ほかにもある。

 もう10年になるだろうか。
そのつど電話をかけてきたり、ちょっとしたモノを送り届けてくる人がいた。
最初のうちは、そのつどていねいに返事を書いたり、電話をかけたりしていた。
が、どうも様子がおかしい。
それに気づいたのは、その人が、私が話したことを、あちこちで言いふらして
いるのを知ったときのことだった。

 つまりその人は、そういう形で、私の家にさぐりを入れていた。
理由はわからない。
競争心からか?
それとも嫉妬心からか?
何かにつけ、その人は、私の家の内情が気になるらしい。

 一度、夫婦喧嘩の話をした。
そのとき私が、「うちなんか、明日、離婚してもおかしくないですよ」と話したことがある。
たまたまワイフと言い争いをしていたときでもあった。
その人はさも同情したかのような様子をしてみせ、あれこれと相談にのってくれた。
が、驚いたのは、その数日後のこと。
別の人から心配して、電話がかかってきた。
そしていきなり、こう言った。
「林さん、離婚するって、本当ですか?」と。

●矛盾

 さらにそれを確信させるようなことがあった。

その人がたいへん嫌っている人がいた。
名前をX氏としておく。
いろいろあったらしい。
その嫌っている人について、こう言った。

「私ね、弟と2人で、先日、見舞いに行ってきました」と。

 これには驚いた。
ここにも書いたように、その人はX氏を嫌っていたはず。
そのX氏を見舞ったというのだ。
あれほど、悪口を言っていた人である。
で、私が「どうでしたか?」と聞くと、こう言った。

 「私が見たところ、それほど、長くはないわね。
すい臓がんだから、もって、あと半年ね」と。

 その人は、X氏を見舞ったのではなく、様子を見に行ったのだ。
が、そういうことを平気でできる人というのは、そうはいない。
かなり心がゆがんだ人でないと、できない。

●地震

 実は、昨日も、電話がかかってきた。
たまたま留守にしていて、留守番電話に伝言が残っていた。
「地震のことを心配しています。無事でしたか」と。
実に、慇懃無礼な言い方だった。
背筋に力を入れ、まるで位の高い女性が、下僕を見下ろすような言い方だった。

 ワイフはそれを聞きながら、「また、かかってきたわね」と。

言い忘れたが、その人というのは、女性。
年齢は6x歳くらい?
私はワイフにこう言った。

 「もうぼくらのことは、放っておいてほしい」と。

 言うなれば、これもストーカー行為ということになるのではないか。
事件になるような行為ではないが、相手に与える不快感は同じ。

私「本当に心配して、電話をかけてくるんじゃ、ないんだよ」
ワ「わかっているわ」
私「今度電話がかかってきたら、地震で屋根が壊れたとでも言ってやろうか」
ワ「よしなさいよ。まともな人じゃ、ないから」
私「そうだね。無視するのが一番」と。

●無視

 慇懃無礼な言い方をするため、こちらもそれに応じて、ていねいな(?)言い方を
しなければならない。
相手は、「私には悪意はありません」という立場を、一応保っている。
つまりとぼけている。
「うちの心配は無用ですから、どうかこれからは電話など、かけてこないでください」
と言いたいが、その寸前の、スレスレのところで、電話をかけてくる。
またそういう言い方をする。

 が、しつこい。

 実は、先ほども電話がかかってきた。
ナンバーディスプレイを見ると、その番号だった。
こちらが無視すれば、かえって相手は、ムキになる。
電話をかけてくる。
以前にも、そういうことがあった。

私「うるさいね、ホント!」
ワ「何が目的なのかしら?」
私「何かの下心があるのだろうが、ぼくにはわからない」
ワ「やはり、無視するしかないわね」
私「そうだね」と。

●結論
 
 こうした行為を繰り返す人というのは、現実検証能力というか、自分を
客観的に見ることができない人ということになる。
あるいは脳の一部に、別室を作り、そこへ邪悪な心を押し込んでしまう。
そして自分は、善人であると、思い込んでしまう。
「私は、本当に心配しているから、電話をかけたのだ」と。

 ストーカー行為を繰り返す人にしても、そうだ。
「私こそが、相手を本当に愛しているのだ」とか、「相手は私の愛を理解
できないだけ」とか、勝手にそう思い込んでしまう。

 相手の迷惑など、まったく考えない。
迷惑しているということさえ、理解できない。
自分勝手でわがまま。
自己中心的で独善的。
心がゆがんでいるのは、乳幼児期の不幸な体験が原因になっていることが
多い。
つまり「根」が深い。

 このタイプの人は、他人との良好な人間関係を築くことができない。
小さなカプセルの中に閉じこもったまま、自分だけの世界を肥大化させて
しまう。
ストーカー行為を繰り返す人にしても、同じように考えてよい。
精神的に未熟というか、幼稚。
IQ論によれば、(1)他者との良好な人間関係、(2)共鳴性、(3)より
自己中心的でないことが、人格の完成度をみる、バロメーターになっている。

 そのうちの共鳴性がなくなる・・・つまり相手の苦しみや悲しみが理解でき
なくなる。
はっきり言えば、人格の完成度は低い。

ワ「じゃあ、どうすればいいの?」
私「もう60歳を過ぎているしね。どうしようもないね」
ワ「どうしようもないわね」
私「要するに、触らぬ神に、たたりなし。適当に無視して、遠ざかるしかないね」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
 Hayashi 林浩司 BW ストーカー ストーカー行為 人格の完成度 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司 

●TOSHIBAのダイナブック(TX)

++++++++++++++++++

昨日、TOSHIBAのダイナブック(TX)を買ってきた。
使い勝手は、たいへんよい。
国内メーカーのノートブックを買ったのは、5、6年ぶり。
その間に、この世界も、格段の進化を遂げていた。

++++++++++++++++++

で、その印象。

まず国内メーカーのパソコンは、値段が割高であるという誤解。
実際、今度買ってみて、こんなことに気がついた。

(1)サービスがよい。
(2)こまかいところにまで、配慮がゆき届いている。

 それまでは、ミニノートのパソコンを3台使っていたが、
正直言って、使い勝手がたいへん悪い。
とくに、M社(台湾)の、WNは、たいへん悪い。

 タッチパッドの感度がよすぎて、指が近付いただけで、勝手に
反応してしまう。
そのためワードを使って作業をしているようなときなど、文字が
あちこちに飛んだり、カーソルが勝手にどこかへ行って
しまったりする。

 メーカーに相談しても、打つ手なし。
販売店の店員に相談すると、「紙でも張って使ってください」と。
タッチパッドに紙を張れ?
実に中国の製品らしい?

 ダイナブックでも同じ現象が起きた。
そこで電話をすると、即座につながり、問題は解決した。
方法はこうだ。

(コントロールパネル・クラシック表示)→(マウス)→(拡張)→(拡張機能の設定)
→(ポインタ速度とタッピングの設定)→(タッピングの設定)→(キー入力時の
タッピングを無効にする)

 それ以後は、イライラもなく、こうして作業ができる。
サクサクと文字が打てる快感は、なにものにも代えがたい。
気持よい。

 ついでながら、ミニノートや、安いパソコンには、こうした調整機能はついていない。
だからこう思った。
「値段が高いだけのことはあるなア」と。

 見直したぞ、TOSHIBAさん。
すばらしいパソコンを作ってくれて、ありがとう!


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090812)

●運命は受け入れる

++++++++++++++++++++

それが運命なら、受け入れる。
受け入れてしまえば、なんでもない。
が、それに逆らうと、運命というのは、
牙(きば)をむいて、
あなたに襲いかかってくる。

++++++++++++++++++++

●犬の糞(うんち)

 私は犬のハナ(ポインター種)を、庭で放し飼いにしている。
家に来た時から、ずっと、そうしている。
今年で13歳になるが、そのこともあって(?)、今でも元気。

 しつけらしいしつけは、何もしていない。
食事の前に、いちど、きちんとお座りをさせることはある。
ワイフが、そうさせている。
それ以外は、芸らしい芸もしない。
ただ人間の言葉は、かなり理解できるよう。
「散歩に行こうか?」と声をかけると、シッポを振る。
「水をかけてやろうか?」と声をかけると、そのまま小屋へ逃げ込んでしまう。

 そのハナだが、大便、小便は、そのつど庭のあちこちでする。
そのため便の始末が、私たちの日課になっている。
小便にしても、小便をしたところだけ、芝生が丸く枯れたりする。
そのため庭の芝生は、円形脱毛症のように、あちこちが枯れている。

 そういうハナだが、私たちにとっては、家族。
ハナのおかげで、安心して私たちは家を留守にすることができる。

 で、今日、ハナの便を始末しながら、ふとこんなことを考えた。
「もしこの便がハナのものでなく、近所の他人の飼っている犬のものだったら、
どうだろうか」と。
「私は平気でいられるだろうか」と。
犬でなくても、ときどきやってくる、どこかの猫のものでもよい。
たぶん私は、その糞を見るたびに、激怒するだろう。
犬や猫の飼い主がわかっていれば、その家に抗議に行くかもしれない。

●同じ糞でも・・・

 同じ犬の糞である。
ハナのものだったら、・・・というより、そのことでハナを叱ったことは一度もない。
始末するのは、たしかに面倒なことだが、それをいやだと思ったことはない。
ハナの糞は、一度集めて、肥料として再利用(?)している。

 これが「運命を受け入れる」ということになる。

 一方、他人の飼っている犬や猫だったら、どうだろうか。
それがたった一度でも、たぶん、許せないだろう。
便の始末をしながら、ブツブツと愚痴を言うかもしれない。

 このばあいは、「運命を受け入れていない」ということになる。
あまりよいたとえでないかもしれないが、(受け入れるか、受け入れないか)で、
同じ(犬の糞)に対する反応が、180度、ちがう。

●プラス反応vsマイナス反応

 運命を受け入れたときの心理的反応を、「プラス反応」という。
運命に逆らったときの心理的反応を、「マイナス反応」という。
プラス反応を示すときは、なにごとにつけ、ものの考え方が、前向きになる。
肯定的になり、積極的になる。
マイナス反応を示す時は、なにごとにつけ、ものの考え方が、後ろ向きになる。
否定的になり、消極的になる。

 私はこのことを、母の介護をしていて学んだ。

 同じころ、私の知人(女性、64歳)で、彼女の母の介護をしている人がいた。
それで知り合いになり、よく情報を交換した。
その女性を。Nさんとしておく。

 Nさんの口から出てくるのは、愚痴ばかり。
「家が臭くなった」「食べ物をみんな食べてしまった」「夜中じゅう、起きている」
「徘徊するようになった」「町内会の仕事ができなくなった」「コンロの火がつけっぱなし
だった」などなど。
私は聞き役に回ることが多かった。
へたに反論すると、Nさんは、それだけでパニック状態になってしまった。

 たとえば臭いがひどいということについて、「換気扇をつけたら?」と提案すると、
「私の家は、夫のものです。「壁に穴をあけるなんて、とんでもないことです」と。
火の消し忘れについても、「コンロを、過熱防止装置付きのものにしたら?」と
提案すると、「そんな高価なものはうちでは買えません」と。

 Nさんは、明らかにマイナス反応を示していた。
が、一度こうしたマイナス反応を示すようになると、すべてを否定的にとらえ、
悪いほうに、悪いほうにと、ものごとを考えるようになる。
取り越し苦労に、ヌカ喜び・・・これを繰り返しながら、やがては精神を病むこともある。

 事実、Nさんは、うつ病薬を心療内科で処方してもらい、それを服用していた。
「ときどき、車ごと、どこかにぶつかって死にたいと思うことがあります」というような
ことを言ったこともある。

●同じ運命でも・・・

 が、運命というのは、一度受け入れてしまうと、様子は一変する。
先に書いた、犬の糞の話を思い出してほしい。
それを当り前のこととしてしまうと、あるいはその意識すらもたないでいると、
何も考えないで、犬の糞を始末できるようになる。
そうでなければ、そうでない。

 たとえば親の介護にしても、「たいへんだ」「たいへんだ」と思って、する人もいる。
しかし「なんでもない」と思って、する人もいる。

 山荘の近くに住む、S氏(男性・66歳)もそうだ。
一度、私にこう言ったことがある。
「林さん、老人なんてものはね、家のそこらに、ころがしておけばいいのですよ」と。

 ずいぶんと乱暴な言い方に聞こえるかもしれないが、S氏の人間的な温もりを知って
いる人は、そうは思わない。
「自由に、やりたいように、させておくのが、老人にとっては、いちばんいい」という
意味で、S氏は、そう言った。

 が、親の介護は、たいへん。
重労働。
それは事実。
このあたりでも、『親の介護を3年すれば、兄弟関係は、破壊される』と言う。
たとえ兄弟でも、(介護する人)と、(介護しない人)とに分かれると、大きな亀裂が
入ることをいう。
ある看護師の女性が、そう教えてくれた。

●運命

 それぞれの人には、それぞれ、無数の(糸)がからんでいる。
家族の糸、親類、知人の糸、過去の糸、生い立ちの糸、環境の糸などなど。
その糸が、ときとして、その人の進むべき道を決めてしまう。
それを私は、「運命」と呼んでいる。

 が、その運命というのは、そのときは、わからない。
が、自分の人生を振り返ってみたとき、結果としてそこにあることがわかる。
どこかの頭のおかしい人たちが説く、スピリチュアル的な運命をいうのではない。

 だからそのときはそのときで、懸命に、あがく、もがく。
ときに苦しむ。
が、心のどこかで、その最中に、運命をふと感ずるときがある。
「ああ、これが私の人生だ」と。

 そのとき、それが戦うべきものあれば、戦う。
最後の最後まで、ふんばる。
人間の生きる意味や、美しさは、そこから生まれる。

 しかしそれがどうしようもないものであれば、受け入れる。
受け入れてしまう。
とたん、気が楽になる。
そこにあった運命が、向こうのほうから、シッポを巻いて、逃げていく。

 要するに「いやだ、いやだ」と思っていると、それはますます(いやなもの)になる。
が、反対に、「こういうもの」と割り切ってしまうと、(なんでもないもの)になる。
私も母の介護をしているとき、こう感じたことがある。
「息子たちの世話より、楽だ」と。
私のばあい、そこまで割り切ることができた。
私の家に2年間いたが、私もワイフも、ただの一度も、愚痴を言ったことはない。

●教訓

 で、介護の問題でなくても、私たちは日々に、生活を通して、(運命)を
感ずることがある。
夫婦の問題、親子の問題、子どもの問題、近隣の人たちとの問題などなど。
そういうとき大切なことは、その運命を、(プラス反応)に変えていくということ。

 たとえば今、私は山荘で、この原稿を書いている。
その途中の道が、長さ200〜300メートルにわたって、夏草におおわれる
ようになった。
地主のKさん(今年80歳くらい)が、このところ元気がない。
いつもなら、毎年、数回、草を刈っている。

 で、もう少し太陽が高くなったら、草刈り機で私は草を刈るつもり。
誤解がないように書いておきたいが、私は草刈り機で草を刈るのが好き。
楽しい。
ドサッと生えた夏草を、草刈り機でバリバリと刈ることによる爽快感は、
なにごとにも、代えがたい。
運動にもなる。
それに私は、Kさんを尊敬している。
この山荘の土地を分けてくれたのも、そのKさんである。

 ただ変数がひとつ生まれた。
実は風邪気味で、昨夜は、自分の咳で、1〜2時間ごとに目が覚めた。
そのためどこか熱っぽい。
体がふわふわする。
無事、草刈りができるかどうか、今のところ、自信はない。
が、予定では、つまり気持の上では、草刈りをすることになっている。

 これが(プラス反応)ということになる。
ひとつの例として、書いてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 運命 プラス反応 マイナス反応 はやし浩司 運命論)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●パソコン

 結論から先に言えば、持ち運び用ということでないなら、
パソコンは、大きければ大きいほど、よい。
キーピッチは、19ミリ。
これをフルサイズという。
それ以上あっても、しかたない。

が、画面(モニター)は、大きければ大きいほど、よい。
12インチより、14インチ、14インチより、16インチ・・・というように。
私は今、それを実感しつつある。

 あとは目的に応じて、スペクを考えればよい。
私のばあいは、こうして文章を書くのが目的だから、それほど高い性能でなくてもよい。
ハードディスクにしても、400GBもあれば、じゅうぶん。
ゲームはしないので、グラフィックボードは、必要ない、など。

 そうそう、キーボードは、自分で実際、叩いてみること。
指の感触が重要。
私のばあい、(ENTER・キー)の右に、ページUP、DOWNのキー、さらには
テン・キーがついているのは、買わない。
打ちミスがどうしても多くなる。
そのため、気になってしかたない。

ついでに言えば、日本語ワープロとして使うときは、ENTER・キーは、大きければ
大きいほど、よい。
そのほかのキーは、めったに使わない。

 あとは相性の問題。
それは男と女の関係に似ている。
たいへんよく似ている。

 
Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●熟年・離縁

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ワイフからこんな話を聞いた。
ワイフの友人(今年、60歳、女性)が、
父親の三周忌を機に、親族と離縁する
という。
称して、「熟年離婚」ならぬ、「熟年・離縁」。

++++++++++++++++

●Yさんのケース

 ことの発端は、やはり父親の介護。
いろいろあったらしい。
その女性を、Yさんとしておく。
Yさんには、2人の兄と、1人の妹がいる。
父親の世話(?)をしていたのは、長男氏だったが、その長男氏は、毎月のように、
Yさんに、介護費用を請求してきたという。
(あとの兄弟たちにも、同じように請求していたらしい。)

 Yさんの夫は、外車販売を手掛けている。
日々に扱う金額も多い。
他人には、リッチに見える。

 Yさんは、こう言った。

「兄弟たちは、みな、私のお金をアテにしていました。
兄には、毎年、数10万円程度を渡していました。
が、それでも足りないというのです。
で、あるとき、何度も自問してみました。
『私が困ったとき、兄弟たちは助けてくれるか』とです。
が、兄弟たちはみな、口がうまいだけ。
そのつど『何も助けてくれない』と、確信しました。

 が、それでも・・・と思って、つまり自分がまちがっているのではないかと
思い、兄弟たちを観察してみました。
が、結論は、やはり同じでした。

 で、父は2年前に死に、50坪足らずの土地と、古い家を残しました。
それについて兄(長男)が、『親のめんどうをみたのは私だ』といって、
すべて自分のものにしてしまいました。

 夫の扱っている金額からすれば、車1〜2台分のささいな遺産です。
それをほかの兄弟たちと、喧嘩もんかで、取り合っている・・・。
あさましいというか、情けないというか・・・。

 さらに父の死後も、兄は、私の夫に借金を申し込んできました。
私たちの財産を、まだアテにしているのですね。
それで覚悟を決めました。
三周忌を機に、兄弟たちとは、縁を切る、と。
ついでに親戚づきあいも、やめる、と。

●身辺の整理

 『遠くの親類より、近くの友』という。
それはそのとおりで、兄弟、姉妹の縁というのも、時の流れの中で、薄れていく。
子どもの世界でも、弟や妹に、はげしい憎悪の念をもっている兄や姉は多い。
「兄弟だから仲がいいはず」と考えるのは、幻想以外のなにものでもない。
みんなそのフリをしているだけ。
(もちろん仲がよい兄弟、姉妹も、多いが・・・。)

 私のばあいも、親戚づきあいをしながら、「ここまでしなければならないのか?」と
思うことがたびたび、あった。
人づきあいは大切だが、自分の主義主張、さらには哲学を捻じ曲げてまでつきあう
必要はない。
そういうことをするのも、疲れた。
「時間の無駄」と思うようになった。

 たとえば近く、実兄と実母の一周忌の法要をする。
私自身は、内々で、質素にすませたいと願っている。
が、前回の四九日法要のときもそうだったが、たがいに連絡を取り合い、
結構派手なものになってしまった。
またそういうことをすれば、この(私)が喜ぶとでも思っているのかも
しれない。

 しかし私には、意味がない。
だからといって、死者を軽んじているわけではないが、カルトもよいところ。
あるいはこれをカルト(迷信と言ってもよいが)と言わずして、なんという。

 あえて擁護するなら、「家」制度のあった江戸時代には、それなりの意味が
あったのかもしれない。
親類が「家」を中心の結束し、自分の社会的立場を、固定した。
そのために、一周忌があり、三周忌があった。
あるいはそれをうまく、利用した。
だから私が子どものころには、こうした法要は、どこかの料亭を借りて、
派手にやるのが、ひとつの習わしになっていた。

 しかし今は、時代が変わった。
冠婚葬祭という(儀式)に、疑問を感ずる人が、より多くなった。
またその流れは加速しつつある。

●再び、Yさん

 私はYさんの生きざまに、興味をもった。
私と同じ年齢ということもある。

私「そういうのを熟年・離縁というよ」
ワ「だれが言い出したの?」
私「このぼくだよ」
ワ「フ〜〜ン?」

私「Yさんの兄は、黙っていないだろうね」
ワ「それも覚悟の上みたいよ。
介護費用を負担していたという話にしても、Yさんの兄は、だれにも
話していなかったみたい」
私「それはずるいね」
ワ「でしょ。だから縁を切ると決めたらしいわ」と。

 熟年離婚もこわいが、熟年・離縁もこわい。
兄弟、姉妹といっても、基本的には、人間と人間のつきあい。
壊れるときには、壊れる。
幻想にしがみつくのは、よくない。
幻想にしばられるのは、もっとよくない。
だから結論は、こうなる。

『遠くの親類より、近くの友』と。

 そうそうYさんは、こういう言葉を使ったという。
「腐れ縁」と。
「腐れ縁ですから」と。
兄弟、姉妹、親戚づきあいも、その仕方によっては、「腐れ縁」になるということらしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 熟年離縁 熟年・離縁 熟年離婚 兄弟の縁 姉妹の縁 縁を切る はやし浩司 
腐れ縁)

(補記)

 このYさんの話には、つづきがある。

 最近、Yさんの長男氏からYさんに、電話がかかってきたという。
(Yさんは、この浜松市に住んでいる。
長男氏は、富山市の郊外の町に住んでいる。)

 「私が怒っているのを百も承知の上で、『元気か?』といって電話をかけてくるのね。
兄の(とぼけ)には、もううんざりです」と。

 この話を聞いて、私は私の兄のことを思い出していた。
私の兄も、とぼけがうまかった。
兄は、グループホームへ入る前、3か月間、私の家にいた。
その兄は、ワイフがひとりで風呂に入っていたりすると、風呂のドアをあけて、いつも
こう言った。
「トイレは、こっちやったかなも(=こちらでしたか)」と。

 認知症にもなっていたが、あちらのほうだけは、達者だった。
私がそれを叱ると、「まちがえただけや」と、いつも弁解していた。
今となってみると、それも笑い話のひとつになっているが・・・。

 そこに不幸な家庭があるなら、そっとしておいてやろう。
あれこれ詮索したり、内情をさぐるような、醜い行為はやめよう。
もちろん相手が助けを求めてきたら、そのときは、ていねいに応えてやればよい。

 それぞれの人は、それぞれの立場で、懸命にがんばっている。
その(懸命さ)を、少しでも感じたら、そっとしておいてやろう。
不必要な介入をしたり、説教したりするのは、もってのほか。
あなたがどんな立場にあっても、それはしてはいけない。
それはこの世を生きている人間が守るべき、最低限のマナーと考えてよい。

 
Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●仮面(ペルソナ)人間

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どこか、へん?
どこかちぐはぐ?
妙に、(できた人間)を演ずる。
穏やかな表情に、もの知り顔。
話し方も、ていねい。
しかしやはり、おかしい。
不自然。

+++++++++++++++++++++

●錯覚

 仮面をかぶりながら、それを仮面と気がつかないまま、その仮面を
取り外すことさえ忘れてしまう・・・。
このタイプの人を、「仮面(ペルソナ)人間」という。

 よくある例が、どこかのカルト教団の信者たち。
さも「私は、よくできた人間でございます」というような表情をしてみせる。
思想といっても、自分の思想など、どこにもない。
他人に注入された思想をもって、それを自分の思想と、錯覚する。

 何度も書くが、人格の完成というのは、日々の生活の中で鍛錬されてこそ、
はじめて身につく。
しかも10年とか、20年とか、長い年月がかかる。
しかも絶え間ない精進ことが、重要。
進むのをやめたとたん、そのときから、人格は後退する。
それは健康論と似ている。
日々の運動のみが、その人を健康にする。
運動をやめたとたん、そのときから、健康は下降する。

そこらのオジチャンやオバチャンが、1年や2年程度、修行(?)したからと
いって、身につくものではない。

●ちぐはぐさ

 ペルソナ人間を見分ける方法は、簡単。
慣れてくると、直感でわかるようになる。
どこか、へん?
どこかちぐはぐ?

 (外に見せる様子=外見的自己)と、(実際にしていること=現実自己)が、
分離してくる。
一方で、ケチでケチでどうしようもない人が、他方で、毎日読経をしているとか。
あるいは、自分では1冊も本を読んだこともないような人が、説話会などで、
釈迦の話をするとか、など。

 西洋でよく話題になる仮面(ペルソナ)人間といえば、牧師がいる。
教会では神のような人間を演じながら、裏では児童虐待を繰り返すなど。
そういう点では、教職者もあぶない。
「先生、先生」と呼ばれているうちに、自分の本当の姿を見失ってしまう。

●シャドウ

 仮面(ペルソナ)人間のこわいところは、実は仮面ではない。
たいていは仮面をかぶりながら、善人を演ずるわけだが、その裏で心の
別室を作り、そこへ邪悪な自分を押し込んでしまう。
それがこわい。

 その程度がある限度を超えると、その人は多重人格性をおびてくる。
あるいは(邪悪な自分)が、たとえばそっくりそのまま子どもに移植されたり
する(ユングの「シャドウ論」)。

●ありのまま生きる

 こうした仮面をかぶるのは、しかたのないことかもしれない。
人は、だれしも、仕事上、仮面をかぶる。
私もかぶる。
あなたもかぶる。

 が、大切なことは、(1)それが仮面であると、しっかりと認識すること。
つぎに(2)日常生活のどこかで、その仮面をしっかりとはずすこと。
ありのままの自分に、もどること。
自分をさらけ出すこと。
その操作を繰り返すこと。

 (その人らしさ)とは何かといえば、(自然なふるまい)の中にある。
逆に言うと、その(自然ぽさ)が消えたとき、その人は仮面をかぶったまま、
自分を見失ってしまう。

 それに・・・仮面をかぶって生きるというのは、それだけでたいへんなこと。
エネルギーを消耗する。
疲れる。
実のところ私もそうだった。

とくに生徒や親たちを前にした、「教室」という場では、そうだった。
それもあって、30歳になるころまで、今でいう偏頭痛との闘いがつづいた。
だからある日から、それまでの仮面をかなぐり捨てた。
ありのままをさらけ出して生きるようにした。
とたん、気が楽になった。

 ・・・といっても、それができるようになるまでに、何年もかかったような
気がする。
だからこそよけいに、仮面(ペルソナ)人間が、よくわかる。
直感として、よくわかる。
で、そのたびに、こう思う。
「かわいそうだな」と。

【仮面(ペルソナ)人間・診断法】

●つぎの質問項目のうち、いくつかが当てはまれば、あなたは仮面(ペルソナ)
人間とみてよい。

( )他人の目を意識すると、緊張し、無理をすることが多い(初期)
( )精神疲労を起こしやすく、不平、不満、愚痴が多い(初期)
( )他人の前で自分をさらけ出すことができない。苦手。(初期)
( )本当の自分と、外の世界での自分が別人のように感ずる。(中期)
( )ときどき自分が何を望み、何をしたいかが、わからなくなる。(中期)
( )他人に批判されることを好まず、とりつくろい、弁解が多い。(中期)
( )自分はよい人間に思われることに満足することがある。(後期)
( )他人に、したり顔で、説教したり、相談にのったりする。(後期)
( )話し方、表情が、(よくできた人)のように穏やかで、静か。(後期)

 かなり大ざっぱに書いたので、不正確かもしれないが、自分(私)を
知るためのひとつの手がかりにはなる。
 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 
林浩司 BW ペルソナ人間 仮面人間 はやし浩司 自己診断法)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司※

●リバウンド(?)

+++++++++++++++++

飢えた摂取細胞が、猛烈な勢いで、
反撃に転じている……らしい。
今朝、体重を測定したら、2キロオーバーの
62・5キロ。

ここ2日、風邪気味。
病院で出してもらった
薬をのむためには、食事をきちんと
とらなければならない。
それが災い(?)した。
加えて、休みに入って、運動不足?

今日からしばらく、菜食主義+2食。
このあと、サイクリングをしてくる。
目標は、佐鳴湖一周。

それにしても、たった1日で2キロとは!

+++++++++++++++++

●使わない筋肉は、衰える?

 こんなおもしろい現象を経験しつつある。
2週間ほど前、ジョギング中に、こむら返りを経験した。
突然、足がひきつって、歩けなくなった。
それから数日間、歩くのもままならなかった。
が、自転車をこいでみて、驚いた。
そんな足でも、自転車のほうは、平気!
いつものようにスイスイと自転車をこぐことができた。

 ジョギングで使う足の筋肉と、サイクリングで使う
足の筋肉は、ちがうらしい。
言い換えると、ジョギングで鍛えたからといって、
サイクリングができるようになるとはかぎらない。
サイクリングで鍛えたからといって、ジョギングが
できるようになるとはかぎらない。

 こういうのを専門用語で、「廃用性機能低下」という。
平たく言えば、「使っていない機能は、低下する」ということ。
何も筋肉にかぎらない。
脳みそだって、そうだ。
それが顕著に現れるのが、(ものを書く力)。

 しばらくものを書いていないと、とたんに勘が鈍る。
パソコンに向かっても、文そのものが、わいてこない。
書いても、考えがまとまらない。

 仮にこんな生活を半年とか1年もつづけたら、
それこそ本当に文章を書けなくなってしまうだろう。
しかしこのことは、別の重要な教訓を、私たちに
教えている。

 ある特定のことに秀(ひい)でることはよいとしても、
そればかりに集中していると、そのほかの部分が、
おろそかになるということ。
機能そのものが、低下する。
体を鍛えるにしても、脳を鍛えるにしても、いつも(全体)
を見ながら、鍛える。
毎日ジョギングしているから、それでよいということには
ならない。
文章を毎日書いているから、それでよいということには
ならない。
「廃用性機能低下」というのには、そういう意味も含まれる。
 
 たとえば知人の中に、何かにつけて、こまかいことに
こだわる女性(60歳)がいる。
実にこまかい。
孫の話などをするときも、不必要なことまで話す。
「靴下の色はどうだった」「汚れていた」「実家へ来るなら、
(嫁は)洗濯した靴下をはかせるべきだ」とかなど。

 一見、よく気がつく女性に思うかもしれないが、その
ほかの部分は、眠ったような状態になっている。
つい1週間前の約束すら、忘れてしまう。
少し難解な説明書になると、読んでそれを理解することも
できない。
つまり脳みそでも、使っている部分は、ほんの一部と
いうことになる。
そのほかの部分は、機能そのものが低下してしまっている。
こうした現象も、「廃用性機能低下」という言葉で
説明できる。

 ではどうするか。

 体にせよ、脳にせよ、いろいろな場面で、いろいろな方法で
使う必要がある。
そのためには、生活そのものを豊かにする。
バラエティ豊かなものにする。
単調でマンネリ化した生活は、体にとっても、また脳みそにとっても、
よくない。

 さて今日から数日、またまた苦しい闘いが始まる。
まだ咳が少し残っている。
体重が60キロに戻るまで、がんばろう!

 ……では、これからサイクリングに!
時刻は、午前6時、少し前。
雲が多いが、その向うに水色の澄んだ空が見える。
サイクリングをするには、よい朝だ。

 では、みなさん、おはようございます!

2009年8月14日、金曜日

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 廃用性機能低下)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●病気見舞い

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冠婚葬祭というと、派手であればあるほどよい
と考える人は多い。
しかしそれはちょうど、子どもに与えるプレゼント
のようなもの。
高価なものであればあるほど、子どもは喜ぶはずと
親は考える。
しかし実際には、逆効果。
(物欲)には、麻薬性がある。
つぎに子どもは、つぎにもっと高価なものを求めるようになる。
また高価なものでないと、満足しなくなる。
さらに言えば、これを繰り返していると、子どもはかえってドラ息子化するだけ。

で、最近は、冠婚葬祭を質素にすます人がふえてきた。
(形)より(中身)、(中身)より(心)を求める人が、
それだけふえてきたと考えてよい。

++++++++++++++++

●山城新伍

 私の好きな俳優に、山城新伍という人がいた。
おととい(12日)、亡くなったという。
享年、70歳。
長い間、糖尿病を患っていたという。
その山城新伍について、ちょうど1年前(08年の8月)、
こんな原稿を書いていた。
(このとき母は、まだ特別養護老人ホームに入居していた。)

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●見舞い

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週刊B春の中で、映画俳優のYS(山城新伍)は、こう語っている。

記者が、「友人の方々が心配しているようです」と語りかけたことに対して、
「そんなもん、会いたくないやろ。それで連絡もとっていない。このまま
消えてしまいたいぐらいや」(「週刊B春・08・9・4日号」と。

YS(69歳)は、現在、特別養護老人ホームに入居している。
持病の糖尿病が悪化、今は介護なしでは、生活できないような状態らしい。

週刊B春のほうは、「消えてしまいたい」という言葉を、新聞広告の
見出しに並べていたが、私はその前の言葉のほうが、気になった。

YSは、こう言っている。

「そんなもん、会いたくないやろ」と。

同じような言葉を、以前、ある末期がんの人が言っていたのを思い出した。
「だれにも会いたくない」「本当に心が安まる人だけと、静かに時間を過ごしたい」と。

それを心配するまわりの人たちは、(本気で心配しているかどうかという問題もあるが)、
「会いたい」と思うかもしれない。
「相手は、私に会いたがっているはず」と思うかもしれない。
しかし当の本人にとっては、ありがた迷惑。

私も母の介護をしていて、それを感じたことがある。

ときどき親類の人たちや、元近所の人たちから、「見舞いに行きたい」などというような
連絡を受ける。
しかし私はそういう申し出を、たいてい、ていねいに断るようにしている。
私の立場というよりは、母の立場で、断わるようにしている。

仮に私が母なら、だれにも会いたくない。
「だれも見舞いに来なければ、さみしいだろう」と、その人は思うかもしれない。
が、それこそ、いらぬお節介。
母にしても、本当に会い人などというのは、そうはいない。
家族とか親友、その範囲の数人と考えてよい。

母にしても、自分の無様(ぶざま)な姿など、見せたくもないだろう。
が、無神経な人は、それほど親しくもないのに、「喜んでくれるはず」と、
勝手にそう決めて、やってくる。

さらに無神経な人は、興味本位で電話をかけてくる。
「お母さんの、具合はいかがですか?」と。

母は元気なころ、陰で、その人の悪口ばかり言っていた。
そういう母の気持ちを私はよく知っている。
だから、断る。

YSは、そういう心情を、率直に表現した。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。

週刊B春によれば、こうある。

「実は今年の春先、山城の友人や知人の間で、山城の所在を
めぐり、ちょっとした騒動が持ちあがっていたのである。
『S伍の携帯に何度かけても、つながらないんだ。こっちが
いやがっても電話をしてくるような男なのに、何かあったんじゃ
ないだろうか」
「どこかの病院に入院したと聞いたんだが、S吾が、『面会に
来ないでくれ』と言っているそうだ」と。

治る見込みのある病気ならまだしも、そうでない病気なら、
そうかもしれない。
私自身は、まだそういう大病を経験していないので、本当の
ところ、YSの心情を理解できるというわけではない。
しかし私がYSの立場なら、おそらくYSと同じように考えるに
ちがいない。

希薄な人間関係など、いくら重ねても、自分の心の隙間を
埋めることはできない。
かえって騒々しいだけ。
わずらわしいだけ。
それがわからなければ、都会の雑踏の中をひとりで歩いてみることだ。

相手がそういう状態なら、そっとしておいてやることこそ、思いやり。
相手から「会いたい」という連絡でもあれば、話は別だが、
そうでないなら、そっとしておいてやる。

これは人生の末期にいる人たちへの、たいへん重要なマナーのひとつと
考えてよい。

Hiroshi Hayashi++++++++Aug。08++++++++++はやし浩司

●「形」だけの人間社会

++++++++++++++++++++

形だけの言葉、形だけのあいさつ、形だけの心配、
形だけの喜び、形だけの行為、形だけの悲しみ……。

ふと気がついてみると、私のまわりには、「形」だけ……
ということは多い。
私も他人に対してそうだし、他人も、私に対してそうである。

身内にも、それがある。
親子にも、それがある。
夫婦にも、それがある。

++++++++++++++++++++

総じてみれば、この世は「形」だけ。
そう言い切るのは、少し乱暴すぎるかもしれないが、
否定するのは、もっとむずかしい。
つまりまず形をつくって、自分への責任を回避しようとする。
それだけ人間関係が希薄になったとも考えられる。
あるいは人間関係が広がりすぎ、その分だけ複雑になったとも考えられる。

そのつどいちいち心を入れていたら、それこそ身がもたない。
よい例が、冠婚葬祭
とくに葬儀。
葬儀は、「形」の集合。
私は兄の葬儀のときに、そう感じた。

何からなにまで「形」が決まっていて、まるで流れ作業のよう。
形、形、形……また、形。
線香の立て方から、焼香のしかた、さらには僧侶への礼の仕方まで。
「形」から踏み出すことを、みな、恐れているかのようですらあった。喪主ということで、
葬儀社の人から、ことこまかく、指示を受けた。

それぞれが自分のやり方をしたら、かえって葬儀が混乱してしまう。
参列する人にしても、そうだろう。
しかし、葬儀といえども、どうして個性的であってはいけないのか。
自分で考えた葬儀では、どうしていけないのか。

「形」を決めておけば、楽は楽。
しかしそうした葬儀のあり方には、疑問ばかりが残る。

というのも、兄は、生前において人間関係が、きわめて希薄だった。
弟という私に対しても、一度だって、何かの祝いをしてくれたことはない。
結婚したときも、子どもが生まれたときも……。
そういう意味では、生まれながらにして、きわめて依存心の強い人だった。
生活能力も、ほとんどなかった。

そういう兄を、母は、よく「生まれつき」と言ったが、
生まれつきそうであるかどうか、そんなことがわかる親はいない。
病院の医師だってそうだろう。

母の異常なまでの溺愛と過関心、過干渉が、兄をして、兄のような
人間にした。

だから葬儀に来た人の中でも、兄と個人的な思い出、あるいは
つながりのある人は、ほとんどいなかった。
この私ですら、9歳、齢が離れていることもあったが、
一度とて、兄といっしょに遊んだ記憶そのものがない。

むしろそういう兄であったがために、私に対する社会的重圧感には、
相当なものがあった。
経済的重圧感というより、社会的重圧感である。
とくにあのG県の郷里では、それを許してくれなかった。
「家意識」も色濃く残っている。
それこそ「借金をしてでも、実家を守れ」と言う人さえいる。
「兄のめんどうは、弟のお前がみるべき」と。

だから参列に来てくれた人たちが、それなりにしおらしい顔をして、
「ご愁傷様です」などと言ってくれても、私にはピンとこなかった。
私のほうも、それらしい顔をして、「ありがとうございます」と答える。

形だけの心配、形だけのあいさつ、形だけの言葉。
晩年の兄が感じていただろう(孤独)にしても、それを孤独として
本当に理解していた人は、何人いただろう。
仮に理解していたとしても、だれにも、何もできなかった。

だからといって、いいかげんな葬儀でよかったと言っているのではない。
むしろ、その逆。
そういう兄だったからこそ、私は人並み以上の葬儀に……と思った。
広い会場だったこともあり、参列者はガラガラだった。
空いている椅子は、参列者の数倍は、あった。

で、結局、何ごともなかったかのように、葬儀は終わった。
だれも、兄が背負ったであろう孤独感や絶望感について話題にしなかった。
(もちろん私も、しなかった。)
死んだ人は、仏……ということか。
あるいは「終わった人は、終わり」ということか。
食べて、飲んで、雑談をして、おしまい。

それも「形」なのかもしれない。
が、だとするなら
葬儀というよりは、「人の死」とは何かということになる。
さらに言えば、「命」とは何かということになる。

こうして1人の人間が、あたかも何ごともなかったかのように、
この世から消えた。
その人間にしてみれば、この宇宙もろともに、である。

葬儀……もっと心を大切にすべきではないか。
故人の心を、である。
でないと、それこそ兄の死は、本当に無駄死で終わってしまう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW はやし浩司 山城新伍 山城S伍 形だけの人間関係)

+++++++++++++以上、08年8月記+++++++++++++

●「そんなもん、会いたくないやろ」

 山城新伍は、こう言ったという。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。

 この一言だけで、山城新伍を判断するわけではないが、しかしこの
一言だけでも、山城新伍は、ものすごい人ということがわかる。
大物というか、自分に正直。
だれしも山城新伍のような生き方をしたいと思いつつ、それができないでいる。
見栄や体裁に振り回される。

 こんなことがあった。

 私の母が死んでちょうど1年になる。
その当時を思い出しながら、ある女性(66歳)がこう言った。
「もっと、あなたのお母さんを見舞ってやればよかった」と。

 私はその言葉を聞いて、その女性の自己中心性に驚いた。
まるで自分のことがわかっていない。
生前、母は、その女性のことをたいへん嫌っていた。
私が知るかぎり、死ぬ間際まで、嫌っていた。
母にしてみれば、見舞いに来てほしくない第一の女性だった。
そんな女性が、自分だけの判断で、「もっと見舞ってやればよかった」とは!

 またこんな話もある。

 ワイフの友人(55歳・女性)が、子宮筋腫の手術で、1週間ほど
病院に入院した。
それについて、ワイフの友人は、そのことをだれにも話さなかった。
自分の夫にすら、「だれにも言わないでほしい」と念を押していたという。

 さらにこんな話もある。
このことは以前にも書いたが、Yさんという友人の夫(43歳)が、交通事故
で入院した。
それについて夫の友人の1人が、その日のうちにあちこちへ電話をかけ、みなに
知らせてしまった。
親切心からそうしたのだろうが、Yさんの気持ちを、先に確かめるべきだった。
Yさんは、こう言った。
「入院したその日に、ドヤドヤと、いろいろな人が見舞いに来て、その応対だけで
疲れてしまいました」と。

 見舞いといっても、みながみな、それを望んでいるわけではない。
また来てほしい人というのは、かぎられている。
で、それなりの立場でないなら、安易に見舞うというのは、やめたほうがよい。
かえってありがた迷惑になるだけ。
Yさんのケースにしても、そっとしておいてやることこそ、大切。

 もう一例、こんな話もある。

 2年前に、私の友人が亡くなった。
で、その初盆が昨年の7月にあった。
私はすっかりその日を忘れてしまっていた。
(私の生まれ故郷では、8月に盆供養をする習わしになっている。)

 それでそれをわびるために出向くと、奥さんは、こう言った。
「正直に言いますとね、初盆のほうが、葬式よりたいへんでした。
そのあと体の調子を崩してしまい、1週間ほど、寝込んでしまいました」と。

 周囲の人にしても、そうだ。
「親だから・・・」「子だから・・・」という理由だけで、それを前提として
ものを考えてはいけない。
親といってもさまざま。
子どもといってもさまざま。
親子関係となると、さらにざまざま。
「親の顔を見るだけで、ゾッとする」という人もいる。
「子の顔を見るだけで、ゾッとする」という人もいる。
それがわからないのは、あなただけ。

 いろいろなケースがある。
しかしこと病気の見舞いとなると、それを望まない人のほうが多いのでは?
(あるいは私の意見が、否定的すぎるかな?)
そこで大切なことは、一度家族の人の意見を聞いてみるということ。
その上で、見舞いに行くかどうかを決めればよい。
「私が見舞いに行けば、相手は喜ぶはず」という、「ハズ論」だけでものを
考えてはいけない。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW はやし浩司 見舞い 病気見舞い エチケット)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug。08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090815)

●「反戦の誓い」?(Making a Vow not to break out a War?)

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8月15日、麻生総理が「不戦の誓いを新たにし、
世界の恒久平和の確立に向けて積極的に貢献していくことを誓う」と
式辞を述べたあと、正午からは1分間の黙祷が行われたという。
(全国戦没者追悼式・日本武道館)

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●反戦の誓い?

「反戦の誓い」とは、何か?
私には理解できない。
文字通りに解釈すれば、「戦争に反対する誓い」ということになる。
それに、「誓い」といっても、いったいだれに対してするのか。

 何度も繰り返し書くが、戦後、日本がかろうじて平和を保つことができたのは、
「反戦の誓い」があったからではない。
世界最強のアメリカ軍が駐留していたからにほかならない。
もしアメリカ軍が日本に駐留していなかったら、あるいはあのまま日本を去って
いたら、日本は繰り返し、外国の攻撃にさらされていたはず。
これは(可能性)の問題ではない。
(確実にそうなったであろう)という話である。

 毛沢東・中国、李承晩・韓国、金日成・北朝鮮、マルコス・フィリッピン。
それにスターリン・ソ連などなど。
アジアの国々が連合軍を組織して、日本を攻めたかもしれない。

 何もこう書くからといって、「反戦の誓い」がまちがっているというのではない。
言葉としては、美しい。
美しいが、それだけ。
もし仮に、アメリカのオバマ大統領が、「反戦の誓い」なるものをしたとしたら、
どうなる?
その瞬間から、世界中は、大混乱に陥るはず。
日本だけが、「反戦の誓い」とやらをしながら、自分だけ安全圏に逃れるのは、
果たして許されることなのか。

 もし全国戦没者追悼式で宣言することがあるとするなら、「反戦の誓い」ではなく、
「反省の決意」である。
私たち日本人は、世界各国から戦後、袋だたきにあってもしかたのないようなことを、
先の戦争でしてしまった。
いくら弁解しても、この事実をゆがめることはできない。
もし戦時中の日本軍の行動が正しかったと言うのなら、逆に、現在の日本が、その反対の
ことをされても、文句を言わないことだ。
どこかの国の植民地になったとしても、文句を言わないことだ。
つまりそこまで覚悟して、「反戦の誓い」は、意味をもつ。

 反戦も結構。
しかし先のK国のミサイル発射実験を例にあげるまでもなく、仮に、どこかの国が
日本を攻撃してきたら、どうするのか?
「自衛は反戦ではない」と、そのときは「誓い」を捨てるつもりなのか?

 反戦という以上、「戦争はしない」。
たとえどこかの国が攻めてきても、戦争はしない。
というのも、自衛と戦争の間に、線を引くことはできない。
現に先のミサイル発射実験のときには、敵地攻撃論、さらには最近に至っては、
先制攻撃論、核兵器保有論まで、政府の高官の口から出てきている。
「坐して死を待つことはない」と。

 自衛戦争は、即、「戦争」そのもの。
古今東西、どの国も、「自衛」を口実に、世界に向かって戦争をしかけていった。
つまりこれほどまでにいいかげんな「誓い」というのは、そうはない。
だいたい、だれに向かって誓うというのか?

 自分か?
日本国民か?
それとも世界か?
あるいは神や仏か?

 平和というのは、他国の平和をまず考えてやってこそ、守れる。
インドの元首相のネールも、そう言っている。
わかりやすく言えば、他国に脅威を与えない。
「日本は脅威ではありませんよ」という印象を与えてこそ、日本の平和は守れる。
誓うとしたら、「他国に脅威を与えるようなことはしません」でもよい。
そういう具体性、かつ、世界の人が納得する(誓い)であるなら、私も賛成する。
が、そうでないから、私は首をかしげる。
しかしそれにしても、10年、20年一律のごとく、「反戦の誓い」とは?

 少しは自分の頭で考えて、進歩しろ!

 あえて言う。
戦争はいやですと言って、逃げて回るのは、平和主義でもなんでもない。
ただの臆病という。
戦争になって、殺されても構いませんと言うのも、これまた平和主義でも
なんでもない。
ただの事なかれ主義という。
いざとなったら、国を守るために戦いますというのが、平和主義ということに
なる。

 つまり平和というのは、つねに積極的に求めてこそ、守れるもの。
「何もしないから、相手も何もしてこないだろう」という考え方は、甘い。
いかに甘いかは、日本軍が戦時中にしたことを思い浮かべてみればわかるはず。
日本軍は、そういう国々をつぎつぎと占領していった。

 それを棚に上げて、「反戦の誓い」はない。
すべきことがあるとするなら、「反省の決意」である。
勇気が必要だが、その勇気を世界に示してこそ、日本ははじめてアジア諸国のみならず、
世界の国々に認められる。
またそのときこそ、日本の平和が保障される。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 平和宣言 反戦の誓い 戦没者追悼式 平和主義 平和主義者 日本
の平和と安全)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●映画『ナイト・ミュージアム2』

+++++++++++++++++

字幕版、『ナイト・ミュージアム2』を見てきた。
字幕版のほか、「日本語・吹き替え版」というのもある。
吹き替え版のほうは、ちょうど夏休みということで、
子ども向けということか。

星は3つの、★★★。
前作は、4つの、★★★★。
今回の「2」は、あまりにもドタバタ。
あれも、これもと、何もかも詰めすぎた。
結果、何がなんだか、訳が分からない映画に
なってしまった。
おもしろい映画だったが、それだけ。
ドタバタ、ドタバタ・・・。
それだけで終わってしまった。
だから星は、やはり3つ。

やはりこの映画は、子ども向け。

+++++++++++++++++++

●映画と文学

 映画のもつアカデミック性は、文学のそれよりは
一般的に低く評価される。
(コミックと文学の関係も、それに似ている。)
映画はあくまでも娯楽、という考え方が、今でも根強い。
私自身も、心のどこかで、そう感じている。
しかしそれは偏見。

映画はそれ自体、すばらしい芸術。
絵画や音楽そのものが、そこへ凝縮されている。
文学と比較しても、なんら遜色がないばかりか、実はその逆。

絵画、音楽、文学の3つが一体化したのが、映画ということになる。
ときに、それ以上のものを表現する。
絵画、音楽、文学では表現できないものを、映画は表現する。
が、問題がないわけではない。
そのひとつが、(時の流れ)。
つまり映画は、製作者の意図したまま、私たち自身を操る。
ときに考えるスキを与えない。

たとえばもし映画を、政府のプロパガンダ(情宣活動)や、
どこかの宗教団体の洗脳教育用に使われたら、たいへんなことになる。

一方、本なら、ときどき読むのをやめたりして、時間を調整することができる。
批判をはさむこともできる。
映画では、それができない。

また文学のもつ(想像性)というのが、映画では、抹殺される。
つまり映画を見ながら、自分の想像力を働かせるということができない。
それ以上のものを、映画は、(現実)として、それを観る人に
押しつけてしまう。

たとえば本で、「水もしたたるような美人」という表現があったとする。
そういうとき私たちは、頭の中で、それぞれの美人を想像する。
が、映画では、その美人そのものまで、画像として出してしまう。

むずかしい話はさておき、映画と文学の最大のちがいは何かといえば、
(考える力)ということになる。
文学では、常に考える力を試される。
一方、映画では、考える力を必要としない。
「観れば、それでわかる」と。

が、もちろん映画には、文学にはない、すばらしい面がある。
それは過去や未来、あるいは遠い見知らぬ国を、先にも
書いたように、それを(現実)のものとして、見せてくれる。
いくら想像力を働かせても、想像できないような世界を見せてくれる。

ただもちろん映画にも限界がある。
たとえば私は今、ここまで40行前後の文章を書いた。
テーマは、「映画と文学」。
こうした文章にみられる、(論理性)というのは、映画にはない。
あるにはあるのだろうが、観る人にその力がないときには、
「ああ、おもしろかった」で終わってしまう。

だからあえて言うなら、映画を観たら、どこかでそれを(思想)として
消化しなければならない。
具体的には、その映画について考え、評論し、思想として抜き出させるものは、
抜き出す。

それをしないで、ただ観っぱなしにすれば、それこそただの娯楽で終わってしまう。 
つまり読む側、観る側の姿勢のちがいによって、文学は文学になり、映画は映画に
なる。

で、最近、DVDで好んで借りてくるのが、実話もの。
昨夜も、オーストラリア映画の、『ディア・マイ・ファーザ(Dear My Father)』というの
借りてきた。
原作は、Raimond Gaita著※の、『Romulus、 My Father』となっている。

舞台は、メルボルン市の郊外にあるバララートという、昔からある町。
(最後のエンディングのところで、ビクトリア州のMaldonで撮影、とある。)
今でも、開拓時代の面影を強く残す町として、多くの観光客が訪れている。
内容はともかくも、私はその主人公に興味をもった。

年齢は、私と同じ。
「1960年に、満13歳」とあった。
私も1947年生まれ、1960年には、満13歳!
最後のところには、こうあった。

「主人公のRaimondは、のちに、著名な作家、哲学者となった」と。
ビクトリア州で、哲学科のある大学といえば、メルボルン大学しかない。
大きな大学だから、私と接点があったとは思わないが、その主人公に
たいへん興味をひかれた。
確率論的には、どこかで顔を合わせているはず。

実際、ハウス(カレッジ)の同窓生には、そののち映画監督になったのもいる。
オーストラリア医師会の副会長になったのもいる。
それぞれがそれぞれの分野で、大成している。
哲学者になったのがいたとしても、なにもおかしくない。

最後にこうある。

Raimond Gaita grew up to become an acclaimed author and philosopher。
Romulus Gaita returned to live at Frogmore and eventually remarried。
He died in May 1996。
He is buried in the local cemetery close to Christina。
 
ライモンド・ガイタは、著名な作家、哲学者となった。
父のロムラス・ガイタは、フログモアに戻り、再婚した。
彼は1996年の5月の死去。
クリスチーナ(元妻)の近くの墓地に埋葬されている。

実話であるだけに、また実名で映画化されているだけに、元妻の2人の娘たちと
その家族の了解も取り付けたらしい。
「Special Thanks(感謝の意を捧げる)」として、実名と家族名が、それぞれ
公表されている。

内容は、静かな、あのオーストラリアの広大な牧場を舞台とした、どこまでも
静かな映画。
星はつけたくない。
オーストラリアが好きな人には、たまらない映画と思う。
「こういう人生があり、こういう環境で育った子どももいるのだなあ」と思いたい人には、
お勧め。
当時のオーストラリアといえば、世界でも2番目にリッチで、生活が楽な国として
ランクされていた。
メルボルン市にしても、世界でもっとも気候が温暖な都市として、知られていた。
その裏で、こういう世界もあったのか・・・、と。

物語は、1960年から始まる。
私がオーストラリアへ渡る、ちょうど10年前ということになる。
・・・いろいろ考える。

話を戻す。

いくら想像力が豊かでも、本を読んだだけでは、オーストラリアのあの広大な
牧場の景色は思い浮かんでこない。
登場人物の、ちょっとした動作やしぐさにしても、文章を通して読んだら、
日本人のそれをそれに重ねてしまうかもしれない。

映画がよくて、文学がつまらないと書いているのではない。
それぞれに一長一短があるということ。
ときにこうした映画を通して、たがいに補完しあうということもある。

が、残念ながら、映画のアカデミック性は、まだまだ弱い。
大学に、「映画学部」とか、「映画学科」というのが生まれるまでには、
まだ相当の時間がかかる。
(演劇学部というのは、あるが・・・。)
が、だからといって可能性がないわけではない。
映画を観て、人生を学び、真理を探究するという時代も、すぐそこまで来ているように
私は感ずる。

(補記)
 このところ劇場へ足を運ぶと、『20世紀少年』とかなんとかいう、
どこかあやしげな映画の予告編が流される。
どこかの宗教団体と結託してできた映画、という説もある。
あるいはどこかの宗教団体を批判した映画、という説もある。
どこか不自然、かつ不気味?

 もし、どこかの宗教団体が、あの映画制作を裏で操っているとしたら、
これは社会問題ということになる。
そうでないことを願うが、私はああいう映画は、お金を出してまでは観に
行かない。
予告編だけを観た印象では、イヤ〜ナ感じ。
だいたいあんな映画が、第3作までつづくということがおかしい。
劇場映画として、劇場まであがってくるのがおかしい。
かなりの資金力が裏で働かなければ、とうていできない芸当である。

 あやしいぞ!
おかしいぞ!
一度、本気で調べてみたい!

(注※)Raimond Gaita(ライモンド・ガイタ)

Gaita attended St。 Patrick's College、 Ballarat (Victoria) Melbourne High 
School(Victoria)、 University of Melbourne (BA Hons、 MA) and University of Leeds 
(PhD)。 
He is married to Yael Gaita、 who is a teacher at The King David School、 where she 
teaches Hebrew。 He has two children、 Katerina and Eva and two step children、 Dahlia 
and Michelle。

ガイタは、聖パトリックのカレッジ、Ballarat(ビクトリア)、メルボルン高校(ビクトリ
ア)、メルボルン(オナーBA、MA)大学とリーズ(博士)大学に通う。彼はヤエルGaita
(その人はデイビッド学校王の教師)と結婚。彼女はヘブライ語の教授。彼には、2人の子
供たち、カテリーナとエヴァと2人の継子(Dahliaとミシェル)がいる。

(注)正しくは「レイモンド」だが、オーストラリアでは、「ライモンド」と発音する。
また(オナーBA)というのは、成績優秀者に与えられる学位をいう。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●基本的人生論

++++++++++++++++++

DVD『ディア・マイ・ファーザー』を
ほめてばかりいてはいけない。
DVDを観ながら、こんなことを考えた。

++++++++++++++++++

●裏切られる夫

 映画のストーリーを簡単に説明する。

 夫と妻、それに主人公の息子(ライモンド)の、3人家族。
しかし妻は、つぎからつぎへと男を乗り替え、浮気し放題。
あげくの果てには、夫の友人の弟ともできてしまう。
そしてその弟との間に、子ども(主人公にとっては、
種ちがいの妹)まで作ってしまう。

 が、夫は、静かにそれに耐える。
離婚を考えることもない。
妻はときどき夫のところへ帰ってきて、体を求める。
夫は、どこか冷やかさを残しながらも、そういう妻の求めに応ずる。
そういう家庭環境の中で、主人公の子ども(ライモンド)は成長していく。

 で、最後は、妻は睡眠薬を飲んで自殺。
友人の弟も自殺。
夫は心を病み、精神病院へ……。

 何とも悲惨なストーリーだが、それがこの映画の(柱)に
なっている。

●疑問?

 この映画を観ていて、第一の疑問は、「それほどまでに、よくできた男というのは、
本当にいるのか?」ということ。
あるいは、「それほどまでに妻を深く愛せる男というのは、本当にいるのか?」でも
よい。

 つまり(できすぎ)。
この(できすぎ)のところが不自然。
しかしこの話は、実話である。
となると、俳優が悪いということになる。

 映画に出てくる夫は、ハンサムで、かっこいい。
頭もきれそうだし、生活力もありそう。
何かのラブストーリーの主人公になっても、おかしくない。

 私たちは映画を観るとき、俳優を通して、その俳優の心をさぐる。
で、そこで脳みその中で、電気的ショートが起こる。
「こんなすばらしい夫をもちながら、どうして?」と。

 ……ということで、私は、事実は、少し違うのではないかと思う。
ライモンドの実際の父親は、どこか頼りなく、どこか抜けたような、どこか覇気のない
男性ではなかったか、と。
映画に出てくるような、かっこいい男性ではなく、風采のあがらない、なよなよした
男性ではなかったか、と。
これには、理由がある。

●基礎的人間性

 仮にあなたの妻が、外出しては、浮気を重ねていたとしよう。
そしてその浮気相手と、子どもまで、作ってしまったとしよう。
そのとき、あなたなら、どのように反応するだろうか。
それをほんの少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。

 こういうケースのばあい、大きく分けて、2つの選択肢がある。

(1)妻と大喧嘩を繰り返し、離婚を覚悟する。
(2)妻の浮気を認め、妻のしたいようにさせる。

 が、主人公ライモンドの父親(夫)は、(2)のほうを選択する。
となると、ライモンドの父親は、ものすごい人生観の持ち主ということになる。
あるいは妻に対して、神々しいほどまでの愛を感じているということになる。
すべてを許し、すべてを忘れる……。

 が、ここで大きな壁にぶつかる。
それほどまでの(愛)となると、並大抵の努力では、自分のものにすることはできない。
幾多の苦労に苦労を重ねて、人生の極致に達した人だけがもちうる愛と考えてよい。
それにそこに至るには、熟成期間というのが、必要。
もし私のワイフが、そんなことを繰り返していたら、私なら、即、離婚を考えるだろう。
40年近くもいっしょに暮らし、もうすぐ62歳になる私にしてもそうだ。

 つまり、それが「基礎的人間性」ということになる。

 どんな人にも、その人なりの人間性というものがある。
その人間性を支える、(基礎)というものがある。
その基礎なくして、突然、その人が、神々しい愛をもつなどということは、常識で
考えても、ありえない。
空腹でおなかをすかした幼児が、自分のもっているパンを、友人に分け与えるようなもの
である。

●偽善

 いくつかの例をあげてみよう。

(例1)Kさんは、周囲の人たちから、高い評価を受けていた。
ボランティアとして、近所の独居老人宅を回り、その世話をしていた。
が、自分の親の介護になったとたん、豹変した。
親を虐待した。
親を食卓へ連れてくるときも、首をつかんだまま、廊下を引きずっていた。

(例2)Xさんは、有名なタレントだった。A国の難民救済運動家として活躍していた。
週刊誌や月刊誌にも、写真がよく紹介された。
が、あるカメラマンが、思わぬ光景を目撃してしまう。
情宣用の写真撮影が終わると、Xさんは、赤子を抱いた手や体を消毒薬で
消毒していたという。
つまり写真撮影のためだけに、難民の赤子を抱いていた。

(例3)Yさんも、このところ孤児救済のチャリティバザーを繰り返している。
ラジオに出ては、ボランティア活動の重要さを説いている。
しかしそこに至る実績はゼロ。
若い時から、ホームレスの世話をしたとか、食事の炊き出しをしたとか、
そういう背景と言うか、積み重ねがあれば話は別。
Yさんをよく知る某テレビ局のディレクターは、こう教えてくれた。
「Yさんは、いつも2時間くらいかけて、化粧をしています」と。

 こういうのを、私たちの世界では、「偽善」と呼ぶ。
善人ぶりながら、自分への評価を高め、最終的にはそれを自分への利益へとつなげていく。
こうした偽善を見破るのは、簡単。
どこかに(ちぐはぐさ)を感じたら、それは偽善と判断してよい。

●ディア・マイ・ファーザー

 DVD『ディア・マイ・ファーザー』に話を戻す。
この映画が実話なら、私はやはり、俳優の選択ミスということになる。
ライモンドの父親は、家具職人である。
鉄の棒を熱で曲げながら、いろいろな家具を作る。

 そういう職歴の男性が、こうまで高邁(こうまい)な愛を、はたして
もちうるものだろうか。
(何も、職人という職業がどうのこうのと言っているのではない。
しかしあまりにも、高邁すぎる?)

 それに若い。
映画の中では、30歳前後の男性として登場している。
つまり基礎的人間性が、それなりにあるとしても、映画で表現されているほどはない。
……という点で、不自然。
私はその(不自然さ)を感じてしまった。

 あとの判断は、映画を観た人に任せる。
「林の言ったとおりだな」と思う人もいるかもしれない。
あるいは「林の言っていることは、まちがっている」と思う人もいるかもしれない。
一度、そういう視点で、あの映画を観てみたらどうだろうか。
家庭で観て、損はない映画である。
よい映画であることには、まちがいない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 ライモンド レイモンド ディア・マイ・ファーザー オーストラリア映画 基礎
的人間性 基礎人間性 周囲人間性)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●私たちは死なない(What is the Death for Us?)

人は日々に死に、日々に生まれ変わる。
細胞の生死を考えれば、それがわかる。
骨の寿命にしても、それほど長くはない。
6か月とか1年単位で、すべて入れ替わる。

死んだ細胞は、体外へ排出され、ときに
分子レベルまでばらばらになって、また
別の生物や無生物の中へと、取り込まれていく。
同時に、私たちは日々に、ほかの生物や
無生物から、食物として、新しい細胞を
取り入れて、いく。

こうして私たちはありとあらゆる生物と
つながり、今というときを生きている、

では、死んだらどうなるか。
基本的には、人にかぎらず、生き物には死はない。
意識は途絶えるが、(命)は、姿や形を変え、
別の生物となって生きていく。
虫かもしれない。
花や木かもしれない。
動物や、魚かもしれない。
ともかくも、生きていく。

この連続性を総称して、「命」という。
ただそれぞれの意識は、一度、途絶える。
たとえばあれほどまでに人を警戒していた
スズメにしても、死ねば、その羽を
風にさらず。
人につかまれても、身動きひとつしない。
が、だからといって、それが(終わり)を
意味するわけではない。
スズメの意識が、途絶えただけ。

が、意識が途絶えることは、こうした生命の
流れの中では、何でもないこと。
今、あなたが感じている意識しにしても、
あなたの脳の意識の、数十万分の1、
あるいはそれ以下かもしれない。
「これが私」と思っている意識にしても、
そのほとんどが、私であって私でない。
そんな意識が途切れることを、恐れる必要はない。
恐れてはいけない。

それよりもすばらしいことは、あなたの命が、
今のこの瞬間にも、日々に、ほかの生物へと
伝わっているというその事実。
同じように反対に、ほかの生物が、
日々にあなたを作りあげえているという、
その事実。
何も「死」だけが死ではない。
繰り返すが、私たちは、すでに日々に死に、そして日々に
生まれ変わっている。
そうした生物ぜんたいの一部として、私がここにいて、
あなたがそこにいる。

死ぬことを恐れる必要はない。
たとえばあなたはトイレで便を出すことを恐れるだろうか。
そんなことはだれも恐れない。
しかしあの便だって、ほんの1週間、あるいは1か月前には、
あなたの(命)だった。
その命が、便となり、あなたから去っていく。
その便が、いつかどこかで、別の命を構成していく。

もし「死」が何であるかと問われれば、それは
意識の(とだえ)をいう。
死んだとたん、意識は連続性を失う。
しかし心配無用。

ものが見えなくなる。
ものが聞こえなくなる。
しかしそれを悲しむ意識そのものも消える。
だから取り越し苦労はしない。
そのときは、そのとき。
そのときまでものが見えるなら、それを喜べばよい。
ものが聞こえるなら、それを喜べばよい。
それに意識を残す方法は、いくらでもある。

たとえば今、あなたは私の書いたこの文章を読んでいる。
その瞬間、私の意識とあなたの意識はつながる。
私はあなたの意識の中に、入る。
多少の時間差はあるかもしれないが、あなたの意識の中に入る。

「多少の時間差」というのは、数日かもしれないし、
5年とか、10年という年月かもしれない。
しかしどうしてそれが問題なのか。
時の流れというのは、そういうもの。
一瞬を数万年に感ずることもできる。
数万年を一瞬に感ずることもできる。
長い、短いという判断は、主観的なもの。
もともと時の流れに、絶対的な尺度など、ない。

大切なのは、今、この瞬間に、私がここにいて、
あなたがそこにいるという、この事実。
この瞬間にこの文章を私が書き、あなたが
読んでいるという事実。

あなたの意識は、あなたの肉体の死とともに
途絶える。
しかしその意識は、別のだれかに伝えられる。
また、それができる。
ちょうど今、釈迦やキリストの代わりに、
あなたがこの世界を見たり、聞いたりするように、
いつかだれかがあなたの代わりに、この世界を
見たり、聞いたりするようになる。
こうしてあなたは、べつのだれかの中で、
生き返る。
それを繰り返す。

大切なことは、本当に大切なことは、
そのためにも、よい意識を残すこと。
伝えること。
善なる心を残すこと。
伝えること。
その努力を怠ってはいけないということ。
それが私たちが今、ここ生きている、
第一の目的といってもよい。

さあ、死を恐れるのは、もうやめよう。
死なんて、どこにもない。
私たちはこれからも、永遠に生きていく。
姿、形は変わるかもしれないが、もともと
この世のものに、定型などない。

なにも人間の形だけが、「形」ではない。
また私たちの姿、形が、ミミズに変わったとしても、
ミミズはミミズで、土の中で、結構楽しく
暮らしている。
人間だけの判断基準で、ほかの生物を見ては
いけない。

そうそう犬のハナのした糞にさえ、ハエたちは
楽しそうに群がっている。
それが命。

私たちが日々に生き、日々に死ぬことさえわかれば、
最後の死にしても、「命」の一部にすぎない。
そのときは、何もこわがらなくてもよい。
あなたは静かに目を閉じるだけ。
それだけで、すべてがすむ。

すでにあなたの生まれ変わりは、あなたの周囲に、
ゴマンといる。
そこにいるハエだって、ハエはそれを意識することは
ないだろうが、あなたの生まれ変わり。
あなたも、ハエの生まれ変わり。

あなたはありとあらゆる生物の(輪)の中で
生きている。
あなたが死んでも、その輪は残る。
そしてあなたはその輪の中で、永遠に生きる。

繰り返す。
死んだときから、その輪が始まるわけではない。
輪は、すでに永遠の過去から始まり、
この先も永遠につづく。
しかも日々に、この瞬間ごとに、つづく。

あとはその日まで、思う存分、生きること。
目的はただひとつ。
あなたの意識を、深めること。
あなたの意識を、一歩でもよいから、善なるものに
近づけること。
つぎにつづく人や生物たちが、よりよく生きやすく
するために。
それが今を生きる私たちの使命ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司※

●「やさしさがないなとは思う」?

++++++++++++++++++

俳優の山城新伍が亡くなったことについて、
波紋が広がりつつある。
山城新伍のマネージャー氏は、次のように
語っている(ディリースポーツ・8月15日)。

++++++++++++++++++

『……山城さんは糖尿病に加え、認知症と高血圧を患っていたという。

 07年7月ごろより、都内を徘徊することが多くなり、昨年3月31日に東京・町田市内の老人
ホームに入所。その際に町田市役所が元妻で女優の花園ひろみと一人娘で女優の南夕花に
連絡したが、花園は「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。山城さんサイドの家族に、
電話で怒鳴り散らしたという。

 その後、山城のマネジャーが花園らに連絡を取ったが、ついには音信不通になってしまった
という。S雄さんは「優しさがないなとは思う。わたしから連絡を取ることもない」と肩を落とした。

 生前、山城さんは「引退した者やから何もしなくていい。このままひっそりとしてほしい。人と接
したくない」と老人ホームを終(つい)の棲家に考えていたというが、「娘には会いたいなあ」とよ
くこぼしていたが、その願いはかなわなかった。

 なお密葬は近親者のみで18日に京都で行われ、四十九日法要後、大親友の梅宮辰夫が発
起人となり都内で「お別れ会」を開く予定。骨は京都市内に、自身が建てた2カ所のお墓に分
骨される……』と。

 この中でとくに気になったのは、『S雄さんは「優しさがないなとは思う。わたしから連絡を取る
こともない」と肩を落とした』という部分。
「S雄氏」というのは、山城新伍の弟氏をいう。

 何があったのか?
私たち部外者の知るところではないが、この記事からも、よほどの確執があったらしいことは、
容易に察しがつく。
元妻ですら、「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。山城さんサイドの家族に、電話で
怒鳴り散らした』という。

 この記事を読んで、あなたなら、どう考えるだろうか?
弟のS雄氏のように、「優しさがない」と思うだろうか。
それとも別の考え方をするだろうか。

 こういうケースのばあい、まず念頭に置かねばならないことは、それぞれの家庭には、
言うに言われない複雑な事情があるということ。
表面的な部分だけをみて、それに自分の常識を当てはめて考えてはいけない。
どんなにあなたが社会経験が豊富で、常識豊かな人であっても、こと家庭の問題となると、
話は別。

 こうした問題で、安易にコメントを寄せる人というのは、それだけでノーブレインの人と考えて
よい。(S雄氏がそうであると言っているのではない。誤解のないように!)
いわんや、その家族のことを批判するのは、最小限にしたい。
元妻の花園さんについても、『……花園は「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。山城
さんサイドの家族に、電話で怒鳴り散らしたという』とある。

 問題は、そうした電話のやり取りを、だれが外部の人に漏らしたかである。
あるいはどうして私が知っているか、でもよい。
記事の内容からすると、マネージャー氏が、マスコミに暴露したと考えてよい。
となると、これまた背信行為ということになる。

 マネージャーという立場上、元妻や娘を批判したい気持ちはよくわかるが、一方的に、このよ
うな内容を暴露するのは、どうか?
たとえそうであっても、やはりこうした話は内々で伏せておくべきではないのか。
こんなことを暴露すれば、今度は、花園さんと弟氏の関係も、破壊されてしまう。
つまりこういうことが重なって、先の記事のような内容になったとも考えられる。

 「電話で怒鳴り散らした」とあるから、相当のわだかまりがあるとみてよい。
であるなら、なおさら、そっとしておいてやるべきではないのか。
何も、山城新伍の死を理由にして、ことを荒立てる必要はない。
(日本人は、葬儀という場面になると、どんな無礼なことをしても許されると考える傾向が強
い。)
むしろ私も経験があるが、こうした事情をよく知らない人たちが勝手に騒ぎたてると、遺族はそ
れまで以上に、とことん傷つけられる。
それは身を引きちぎられるような苦痛と表現してもよい。

 恐らくディリースポーツのこの記事を読んで、花園さんや娘さんたちは、さらに激怒しているに
ちがいない。
傷口に塩を塗りこまれたような状態ではないか。

 私自身は、山城新伍が好きだったし、好きだ。
しかしそれはスクリーンを通してでの話。
もちろん実物の山城新伍を知らない。
知る必要もない。
興味もない。
元妻や娘さんに冷たくされたといって、それで私の山城新伍への気持ちが揺らぐわけではな
い。
どこの家にも、似たような話はある。
だったらなおさら、そっとしておいてやるべきではないのか。
静かに冥福を祈るだけである。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090816)

●権威主義

++++++++++++++++++++

権威主義がどういうものであるか、
それを知りたかったら、現在のK国を見ればよい。
あの国は、権威主義のかたまり。
朝のニュース(毎日新聞)から、一部を拾ってみる。

『……韓国統一省は15日、訪朝中の韓国・現代グループの玄貞恩(ヒョンジョンウン)会長が、
滞在日程をさらに1日延長し、16日までとすることを明らかにした。金正日(キムジョンイル)総
書記との面会の調整が難航しているためとみられる。玄会長は10日に2泊3日の予定で訪朝
した』と。

 抑留されていた、現代グループのYさんは、すでに解放されている。
だったら、問題は、すでに解決したはず。
が、なぜか、ヒョンジョンウンさんは、まだK国にとどまっている。
で、この事実と、これから私が話す「権威主義」と、どう結びつくか?

+++++++++++++++++++++

●もったいぶった行動

一言で表現すれば、「もったいぶった行動」ということになる。
会うべき人なら、たがいに、さっさと会えばよい。
会う可能性がないなら、さっさとヒョンジョンウンさんを、韓国へ帰してやればよい。
が、そこは権威主義の国。
何かにつけて、相手をじらす。
もったいぶる。
もったいぶりながら、自分の権威を、相手に押しつける。

 わかるかな?

 この話と対照的なのが、スカンジナビア半島のどこかの国のこと。
(名前は忘れたが、スウェーデンではなかったかと思う。)
1970年当時。
今から40近くも前のこと。
その国の女性首相が、自宅から自転車通勤をしていると知った。
私は本当に驚いた。
当時の日本の常識では、考えられない行動であった。
「一国の首相が、自宅から自転車通勤?」、と。

 この事実と比較してみると、権威主義がいかにこっけいで、愚劣なものかがわかる。
現在の日本を位置付けてみると、日本は、K国と、スウェーデンとの中間あたり、
K国寄りのほうにあることがわかる。
 某週刊誌(今週号)によれば、麻生首相の自宅は、評価額が64億円だそうだ。
わかるか?
64億円だぞ!
そんな家に住んでいる人が、庶民の代表のような顔をして、総理大臣をしている!

●水戸黄門

 権威主義といえば、その象徴、それがあの「水戸黄門」(TBS系)。
いまだにドラマがテレビで放映され、視聴率を20%前後も稼いでいるという。
驚きでしかない。
 三つ葉葵の紋章を見せ、「控えおろう!」と一喝すると、みな、ハハーと言って
頭をさげる。

 このこっけいさ。
愚劣さ。
日本人も、いい加減に、それに気づくべきときに、きているのではないのか。
(こういう論調で、水戸黄門を批判しているのは、今のところ、この私だけというのも、
おかしなこと。)

 どうして三つ葉葵の紋章を見せ付けられたくらいのことで、頭を下げなければならない
のか。
言い換えると、権威主義への(あこがれ)が、他方で、『水戸黄門』というテレビ番組を
支えていると考えられなくもない。
あるいは長くつづいた封建時代の中で、日本人は、骨のズイまで、魂を抜かれてしまった?

●どうして偉いのか?

 K国の将軍様というのは、それほどまでに偉い方なのか。
しかし実際のところ、私たちは、あの方が、過去に、どのような実績を残したか、
まったく知らない。
あの方が直接、ご自身で書いた文章すら、目にしたことがない。
 
実際にはまわりの一部の取り巻きたちが、祭りあげているだけ。
韓国に亡命した、K国の元高官のファン氏も、こう言っている。
彼を取り巻いているのは、実際のところ、20人前後。
多くても100前後と述べていると述べている。
そういう人たちが、金xxを一方的にたたえ、独裁政権を支えている。

 ただ金日成の息子、というだけである。
しかも先週アメリカ側が暴露した資料によれば、本物の金日成は、とっくの昔に
死亡していて、後にK国の将軍となる金日成は、金日成になりすました、偽者である
という。
ことの真偽はともかくも、どうしてそういう人物が偉いと言えるのか?
さらに言えば、どうして水戸黄門が偉いと言えるのか?

だいたい「偉い」というのは、どういう意味なのか?
権力の座にいる人を偉いというのなら、それこそまさに時代錯誤。
そう言えば、少し前、子どもたちを前にして、「私、日本でいちばん偉い人」と、
自分を指さして見せた日本の首相がいた。

●封建主義時代の亡霊

 今でも、封建時代そのままの権威主義は、いたるところに残っている。
最近一部の人たちが声高に説いている武士道なるものにしても、権威主義そのものと
考えてよい。
もちろん歴史は歴史だから、それなりの評価をくだすことは大切なことである。
しかしそれがもつ負の遺産に目を閉じたまま、一方的に武士道なるものを礼さんするのは、
どうか?
使い方をまちがえると、日本の進歩を、逆行させてしまうことにも、なりかねない。

 たとえばあのK国では、上級の官吏が、下級の官吏に対して、怒鳴りつけるようにして
命令しているという。
そういう光景が、いたるところで見られるという。
わかりやすく言えば、私たちがもっている(上下意識)。
それを支えているのが権威主義ということになる。

 武士が威張っていた日本でも、きっとそんな光景がいたるところで見られたに
ちがいない。

●日本の革命

 が、日本は今、大きく変わろうとしている。
また変わらなければならない。
64億円もするような大豪邸に居を構えるような首相が、日本の代表であるはずはない。
またそんな人を、すばらしい人と思ってはいけない。
感覚そのものが、私たち庶民のそれとは、あまりにもかけ離れている。
このおかしさ。
この愚劣さ。

もしあなたが、「首相にもなるような人だから、その程度の豪邸に住んでもおかしくない」
と考えているなら、それこそ、バカげている。
まず、私たちは、それに気づかねばならない。

●権威主義の国

 そしていつか、この日本でも、首相が自宅から自転車通勤をするようになり、近所の
人たちとあいさつを交わすようになったとき、日本は真に民主主義国家となる。
またそういう国をめざさなければならない。
そのために私たちの意識を、変えていかねばならない。

 理由にもならないような理由をこじつけて、一般の社員を抑留した。
その社員を返してくれと、その会社の社長が、わざわざK国まで出向いた。
そして「お会いしてくださるかもしれない」という期待だけで、2泊3日の予定が、
延び延びになった。

 このこっけいさ。
この愚劣さ。

もしそれがあなたにわからないというのなら、あなたは権威主義に、かなり毒された
人と考えてよい(失礼!)。

 みんなで力を合わせて、こういう日本を変えていこう!

(はやし浩司 権威主義 水戸黄門 上下意識 封建時代 封建時代の遺物)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09++++++++はやし浩司

●なぜ太るか?

++++++++++++++++++

60・5キロ前後だった体重が、この数日間で
63・5キロにまでなってしまった。

++++++++++++++++++

風邪気味で、風邪薬をのむため、やや食事の量をふやした。
運動量も減った。
が、それにしても、激太り!

昨日も、朝食をかねて、昼にミニ丼。
夕方はサラダと、ポッカチオ(イタリア・パン)1枚。
今朝は、サラダとパン。
夕食は、インスタントラーメンを半分と、イカ焼き少し。
が、それでも太ってしまった。

いったい私の体の中では、何が起きているのか?
摂取細胞が、飢餓細胞に変身し、わずか食べ物でも、すべて脂肪細胞に変えている。
まさに水を飲んだだけでも太るといった感じ。
私にはそうとしか、思えない。

 こういう状態と闘う唯一の方法は、運動をすること。
運動しかない。
これからすぐ、自転車で佐鳴湖を一周してくる。
距離は、7〜8キロ+1キロ。
(佐鳴湖まで、500メートル前後あるので、その往復で+1キロ)。

 今、時刻は、正確には、午後5時40分00秒。
スタート!

(……この間、28分!)

 今もまだ、ハーハーしている。
計算してみると、平均時速約19キロ近くで走ったことになる。
かなり速い!
体中、汗びっしょり。
キーボードも、汗で光る。

扇風機の風が気持ちよい。
多分明日の朝は、60キロ台に体重が戻っているはず。

 で、サイクリングの途中、多くの人と出会った。
みな、それぞれと挨拶を交わす。
今ごろの佐鳴湖周辺は、健康を大切にする人で、あふれている。
すばらしいことだ。

 みなさん、いっしょに、がんばりましょう!


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090817)

●夏休み・最終日(単純接触の効果)

++++++++++++++++++

今日の予定はない。
人と会う約束もない。
仕事の予定もない。
すべきことがあるとすれば、
9月からのこと。
大きな講演がいくつかつづく。
それに実家のあと始末などなど。
今日から準備を始めてもよいが、
どうも気が進まない。

朝食の時、ワイフが、「出かけない?」と
聞いた。
「うん」と答えて、あれこれ考える。
何か運動につながるようなことをしたい。
明日から、仕事。
体調を整えておきたい。

それにしても気持ちのよい朝だ。
空気はほどよく冷たく、さわやか。
空はうっすらと水色。

++++++++++++++++++

●『去るものは日々にうとし』

 中国のことわざである。
「遠くに住んでいたり、長く会わないでいると、たがいに気持ちが疎遠になっていく」
という意味だが、心理学の世界には、「単純接触の効果」という言葉がある。

 頻繁に接触しているだけでも、親密度がますことを言ったものだが、相手と親しくなる第一の
条件は、接触を繰り返すこと。
毎日会っているだけでも、親近感がます。
このことを裏から言うと、『去るものは日々にうとし』となる。

 その『去るものは日々にうとし』は、加齢とともに、ますます加速する。
記憶そのものが薄れていくし、「接触しよう」という気力も薄れていく。
それに人は、みな変わる。
昔のままの人でいる人は、ほとんどいない。
加えてこの年齢になると、まず相手の頭の状態を知らなければならない。
「この人の脳みそは、だいじょうぶかな?」と。
それに話すことといえば、どうしても健康談議が中心になる。

 つまり『去るものは日々にうとし』というのは、どこかの相手のことを言った
ものではなく、実は、私自身のことを言ったものということが、これでわかる。

 私たちは加齢とともに、この(社会)そのものから離れていく。
社会から見て、私自身が、うとくなっていく。
そういう自分を知って、「これではいけない」と思う。
しかし、「ではどうすればいいか」という部分が、頭の中に浮かんでこない。

 そこで勢い、「もういいや」と自分に言い聞かせて、居直ってしまう。
それがますます、行動半径をせばめる。
このことは、都会の片隅で暮らしている独居老人と言われる人たちみればわかる。
だれもそういう生活を望んでいるわけではないのだろうが、人は、負の一次曲線的に
そういう生活に向かって、少しずつ進んでいく。
私もその過程の中にある。
やがてすぐ、私自身も独居老人になる。
それはひょっとしたら、もう避けられないものかもしれない。

 となると、「受け入れる」ではなく、「あきらめる」と言ったほうが正しい。
それはちょうど、健康論に似ている。

 いくらがんばっても、衰える部分は衰える。
最近、強く感ずるのは、足腰の衰え。
10〜20分もジョギングをすると、下肢が痛み出す。
「こんなはずはない」と思って無理したりすると、それから数日間、足が
動かなくなったりする。
そういう自分の足をさすりながら、私は、あきらめる。
走ることをあきらめるのではなく、そういうふうに痛くなるのをあきらめる。
昔の人は、こう言った。『歳には勝てない』と。

 そう、歳には勝てない。

 ……ということで、この先、現状維持が精いっぱい。
またそれができるだけでも、御の字。

ぽっかりとあいた休日。
夏休み最後の休日。
本来なら喜んでよいはずなのに、どうも素直にそれが喜べない。
「何かをしたい」という気ばかりがあせって、それが手につかない……。

 いや、ひとつ、あった!
あったぞ!
ハハハ。
それについては、もう少し、あとに書いてみたい。
今は、Confidential!
それについて書くのは、もう少し具体的になるまで、待ってほしい。

 ……とういうことで、今日もがんばる!

 そうそう体重が、今朝は、61・2キロにまで戻っていた。
よかった。
ホッとした。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 単純接触の効果)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●金価格

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金塊の現物取引している人が
ふえているという。
私も、少量だが、している。

私は「金」といえば、現物取引だけ。
現金で金塊を買って、金塊を現金で売る。

参考になるかどうかわからないが、
そのとき、こんなことに注意している。

+++++++++++++++

日本でも、「田中」とか「徳力」という
名前の会社がある。
そういうところのHPをのぞくと、その
日の売買価格がわかる。

このとき参考になるのが、
(1)金属相場データと、
(2)東京金商品先物取引

 金属相場データと東京金商品先物取引は、以下のHPで見ることができる。

http://www。metal-eco。net/info/data。html
http://www。fuji-ft。co。jp/newspaper/frame_kin。htm

 もちろん当時の為替相場(円・ドル相場)も重要だが、それを見ているだけでは、
振り回されるのみ。
またほかにも証券各社がいろいろな資料を公表しているが、私のように、片手間相場師
のばあいは、そこまで研究して……ということは、できない。
時間的にも、無理。
あくまでも道楽の範囲。

 で、私のばあい、まず金属相場データを見て、ニッケル、アルミ、銅などの
価格動向を知る。
金にしても、白金にしても、その一部にすぎない。
ときに原油価格動向、アメリカの株式動向を見ることもある。
が、こちらの動きは、金価格の動向に直結するというわけではないの注意。

 やはり金属相場データが重要。
その上で、東京金先物取引での価格動向を見る。
同じHP上で、ニューヨークの金先物取引の価格動向が示されているので、ついでに
見ておくとよい。
東京の金価格は、ニューヨークの金価格にすれば、「金魚のフン」のようなもの。

 円相場、金属相場、そして先物取引の動向……この3つを見て、(買い時)か
(売り時)かを判断する。
その判断は、株取引のそれと似ている。
(上値)と(下値)がある。
上値を吹いたら、売る。
下値を抜いたら、買う。

 これはあくまでも私の判断。
あくまでも参考価格だが、8月16日現在は、
2200円(金・キロバー価格)が、上値。
1900円が、下値。
金には、(買値)と(売値)の間には、70円(キロ)前後の値幅があるので、当然、
それを計算に入れて、売買する。

2200円で売るということは、金の販売価格が、2270円前後になっていなければ
ならない。
で、その間、300円前後の値動きが必要。

 田中貴金属が公表している、月次金価格動向グラフによれば、だいたい3か月前後を
1サイクルとしてその間の価格を上下しているのがわかる。
つまり最低でも、それくらいの期間は、じっと我慢する必要がある。

 もともと「今日、買って、明日、売る」という商品ではない。

 またこんなコツも必要である。
 わかりやすく説明するために、日付と金額を単純化してみる。

1月1日 1キロバーを、1000円で購入。
2月1日 1キロバーを、1100円で購入。
3月1日 1キロバーを、 900円で購入。
4月1日 1キロバー価格が、1000円になった。

 こういうとき、けっして平均値を出してはいけない。
「2月に1100円で買ったから、1000円で売るのは損」というような考え方を
すると、身動きが取れなくなる。
そういうときは、3月1日に900円で買った金を売ることにする。
またそう自分に言い聞かせて、売る。
そうすれば、キロバーで計算すると、10万円の儲けということになる。

 つまりそれぞれの月に買った金塊は、別々の商品と思うようにする。
そして4月は、10万円の儲けとして、計上する。

そして……
5月1日 1キロバーを、1000円で購入。
6月1日 1キロバー価格が、1100円になった。

 そのときは、1月と5月に買ったキロバーを売ると考える。
こうすれば20万円の儲けとなる。

が、つづく7月1日に、1キロバーが、800円になったとする。
そのときはそれが(下値)であれば、すかさず、買いを入れる。

 このときもやはり、平均値で計算してはいけない。
1月に購入した金塊は、ジャヌアリー社の株券と思うこと。
2月に購入した金塊は、フェブルアリー社の株券と思うこと。
3月に購入した金塊は、マーチ社の株券と思うこと。
別々の会社の株券と思い、売買を繰り返す。

 ただし一言。

 こうしたバクチは、小遣い範囲ですること。
また小遣い程度を儲けたら、それでよしとすること。
何があるかわからないのが、相場の世界。
素人の私たちが手を出せば、やけどは必至。
あくまでも道楽のひとつとしてすること。
私のばあいは、脳みその運動もかねて、そうしている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 金相場)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●イヤ〜ナ事件(「無視する」)

+++++++++++++++++

おととい、あるいとこと、久しぶりに電話で
話した。
そのときのこと、そのいとこが、遠慮がちに、こう聞いた。

「話しにくいけど、○○さん(=私の家族)が
亡くなったとき、ぼくは香典をXさん(=私の親類)に
頼んでおいたけど、受け取ってくれたか?」と。

私が「受け取っていない」と言うと、そのいとこは、
たいへん驚いていた。
「ぼくは、Xさんに、葬儀には出られないから、香典を立て替えて
おいてほしいと言って頼んだ。
あとで現金書留で、そのお金をXさんに送っておいたんだが……」と。

何度か、当日の香典帳を調べてみたが、いとこの名前は
なかった。
香典袋もなかった。

しかし、こういうのは、本当に困る。
今ごろそれをXさんに問いただしても、「忘れていた」とか、
「もらった覚えはない」と、どうせとぼけるだけ。
私ひとりが、悪者になってしまう。

++++++++++++++++++

●ではどうするか?

 いきなり本論に入るが、こういうケースのばあい、どうするか?
で、私が選んだ方法は、こうだ。

 「無視する」。

原爆投下の直前、連合国側に日本が伝えた返事が、「黙殺する」。
「無視する」と「黙殺する」は、微妙にニュアンスがちがう。
が、どこかのだれかが、「黙殺する」を、「無視する」と翻訳した。
そしてそれを時のアメリカ大統領に伝えた。

しかし英語で、「無視する(ignore)」と言うと、たいへん強い意味になる。
それがアメリカ軍を怒らせ、原爆投下へとつながっていった。

 が、私は「無視する」。
黙殺ではなく、無視だ!
Igonoreだ!

 この世界には、誤解はつきもの。
たとえて言うなら、スーパーの万引き率のようなもの。
スーパーなどでは、あらかじめ万引き率に応じて、損金を計算に入れ、それを
価格の上に上乗せしている。

 いちいち目くじらを立てていたのでは、生きにくい。
世の中には、そういうこともあるという前提で生きていく。
それにもうちょうど1年もたっている。
「今さら……」というところか。

 よいも悪いも、人はごちゃまぜにして生きている。
私がこうして書いている文章にしても、そうだ。
「よかれ」と思って書いていても、ときに猛烈な反撃をくらうことがある。
みなによい顔ができるというわけではない。
またできないからといって、心をわずらわせてはいけない。
あとは、時間が解決してくれる。

 それによって私の不義理を怒る人もいるだろう。
「あの浩司は、香典の礼も言ってこない!」と。
しかし、そういうこともあるという前提で、この世界を生きていくしかない。

 ところで話はぐんと変わるが、今度、韓国の現在グループの会長が、K国の金xxと
会談し、「5項目からなる交流事業に合意した」という。

 こういう女性を日本では「でしゃばり女」というが、こういう女性は、困る。
本当に困る。

聯合ニュースは、つぎのように伝える。

『現代グループと北朝鮮の朝鮮アジア太平洋平和委員会は17日、ことしの秋夕(旧盆)の金剛
山での南北離散家族面会など、5項目からなる交流事業に合意し、これらを盛り込んだ共同
報道文を発表した。

 報道文は、16日の玄貞恩(ヒョン・ジョンウン)現代グループ会長と金xx総書記の会談後、北
朝鮮の朝鮮中央通信が発表した』と。

 今ごろこの報道に困り切っているのが、韓国政府。
かつて日本の金丸xxも、K国に対して、同じようなことをした。
権限を付与された特使でもないのに、特使づらして、いろいろな約束を交わしてしまった。
それが結果的に、K国の不信感を招くことになった。

 今回もそうだ。

 一民間人に過ぎない、玄貞恩(ヒョン・ジョンウン)現代グループ会長が、金xxと
会談し、勝手に(5項目)について、合意してしまったというのだ。
越権行為とも言えない。
つまりデシャバリ!

 韓国政府が黙殺すれば、K国はそれを口実に、ますます高飛車に出てくるだろう。
容認すれば、「では韓国政府という政府は何か」ということになってしまう。
だから困る。
こういうのは、困る。

 先のクリントン元大統領と金xxの会談のときは、クリントン元大統領は、
人質の解放以外の話は、いっさいしなかった。
また応じなかった。
当然である。
またそういう人を、(おとな)という。

 玄貞恩(ヒョン・ジョンウン)現代グループ会長は、おめおめとK国まで出かけて
いって、結局はよいように操られただけ。
恐らく玄貞恩(ヒョン・ジョンウン)現代グループ会長は、意気揚々と韓国に
帰国してくるのだろう。
何しろかかえた負債額だけでも、110億円近くもある。

しかしこういうデシャバリが、ときとして、国際政治をメチャメチャにする。
金丸xxが、訪朝したときも、そうだった。

 で、私が韓国のイ大統領なら、「黙殺する」。
一民間人がなした合意など、ただの立ち話。
言うなれば、韓国政府は、完全にナメられた!
プラス、ハメられた!

 ……こうした国際的な混乱と比べたら、消えた香典の話など、サルの出す屁のような
もの。
本気でカリカリするほうが、おかしい。
この先は、そういう人物と知った上で、つきあうしかない。

 「私はもうそういうくだらない人間は、相手にしないぞ!」と。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●謎のミサイル発射事件

++++++++++++++++++++

韓国の中央N報が、こんな興味深い記事を
掲載している。
そのまま紹介させてもらう。
何でもK国が、シリアおよびイランと共同で、
ミサイルの発射実験をしたという。

++++++++++++++++++++
++++++++++以下、中央N報・8月17日+++++++++++++

 K国がシリアおよびイランと共同開発したミサイルが試験発射に失敗、大規模な人命被害を
出したと日本の共同通信が16日、報道した。 

  通信によると北朝鮮は、シリア、イランとともに短距離弾道ミサイルの新型「スカッド」を開発
後、5月末にシリア国内で発射実験を実施したということだ。 

  このミサイル開発過程で3カ国は部分別に特化し、エンジンは北朝鮮が、弾頭部分と誘導シ
ステムはシリアとイランが担ったということだ。 

  共同通信はこれら3カ国間の協力関係に詳しい西側外交消息筋の情報を引用、シリア南部
で発射されたミサイル2発のうちの1発が誘導装置の故障と予想航路からの離脱、トルコとの
国境地帯に落ちて20人余りが死亡、60人余りがけがをしたと報道した。 

  シリア政府は実験失敗直後ミサイルが落ちた地域を封鎖して遺体を収拾し、住民たちにはガ
ス爆発による事故だと発表した。また1発は北東部イラク国境地域に墜落したものと推定され
た。 

  発射されたミサイルは、射程距離が700キロに達し、現在、開発中のスカッドDと違う種類の
弾頭が搭載された。また今回の実験はK国が主導、ミサイルなど大量破壊兵器開発に関与し
てきたといわれる「リョンハブ2貿易会社」の技術者が立ち会った。今回の実験の失敗原因
は、シリア側にあるとされているが、正確な経緯はまだわかっていない。現在、これに関する調
査がシリア科学研究センターによって行われていると、共同通信は伝えた。

++++++++++以上、中央N報・8月17日+++++++++++++

 ことの真偽はともかくも、今日は8月17日。
ミサイル実験が行われたと思われるのは、「5月末」。

 謎というのは、どうしてこれほどまでの大事件が、3か月近くもたった今、
こうして報道されるかということ。

 「ミサイル発射実験」ということになれば、アメリカが知らぬはずがない。
実験がなされたという場所は、シリア。
イスラエルをはじめ、世界中が目を皿にして監視している国である。
あるいはなぜ、アメリカは今日の今日まで、こんな大事件を伏せてきたのか?
考えれば考えるほど、謎が深まる。

 ただこれは私のあくまでも推察だが、ひょっとしたらその実験の(失敗)に、
アメリカやイスラエルがからんでいたのではないかということ。
何らかの方法で、失敗させた。
が、ただの失敗では終わらなかった。
失敗により、80人前後の民間の死傷者が出てしまった。
だからアメリカにせよ、イスラエルにせよ、ミサイル発射実験そのものを隠ぺいする
必要があった(?)。

 80人もの死傷者が出たということは、大爆発と考えてよい。
そんな大事件が、どうして3か月近くもたった今、明るみになったのか?
考えれば考えるほど、謎が深まる。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●Eモバイルを、モデムとして使う

+++++++++++++++++

私は携帯電話に、Eモバイルを使用している。
キーボード付きの最新型である。
が、旅行用。
ふだんは、ほとんど使っていない。

で、昨日、Eモバイルショップの店員さんに
おもしろいことを聞いた。
何でもEモバイルを、モデムとして使用
できるというのだ。

ナルホド!

もしそうなら、ミニパソコンとEモバイルを
つなげれば、外出先(戸外)でも、
インターネットを利用することができるはず。
まさに、「モバイル!」。

さっそく家に帰って、設定を始める。
が、マニュアル通り操作しても、作動しない。
で、携帯電話会社に電話した。
悪戦苦闘すること、1時間あまり。
最後にやっとつながった!

理由は、……話してもあまり意味がない。
というより、携帯端末機がもつ、基本的な
欠陥。
私はキーボードをスライドさせて、横型
(左右にワイド画面)で使った。
こうすると、たとえば(接続先)の選択画面
などでは、本来なら4〜5か所表示される
接続先が、3か所しか表示されない。

残り2か所が、どこかへ隠れてしまう。
だから「そんな選択先はありません」と
なる。
電話口の男性は、「おかしいですね。
ではリセットして、最初からやりなおして
みましょう」となる。

こうして1時間……。
だったらはじめから縦型にして使えばよいという
ことになるが、(次回からはそうする)、
縦型にすれば、キーボードが使えない。
キーボードを使うためには、どうしても
横型で使わなければならない。
(キーボードを開くと、自動的に横型になる。)

しかし楽しかった。
おもしろかった。
ちょうどつながったところで、夕食の
準備ができた。

「これからは旅館でもインターネットが
できるよ」とワイフに報告。
「ヘエ〜〜」とワイフは、感心してくれた。

++++++++++++++++++

●電子機器

 電子機器は、おとなのおもちゃ。
私はそう位置づけている。
だから大型のパソコンショップをのぞいたりすると、その昔、おもちゃ屋に入った
ような楽しさを覚える。
眺めているだけで、楽しい。

 が、ただのおもちゃではない。
一見バラバラに見えるおもちゃだが、みな、連続性がある。
デジタルカメラにせよ、プリンターにせよ、それらがすべてパソコンという人工知能に
つながっている。
しかも毎週のように、新製品が生まれている。
奥が深くなっている。
便利になっている。
だからおもしろい。

 そう言えば、三男も以前、そう言っていた。
何もすることがないときは、パソコンショップをブラつく、と。
多分私が感じているのと同じ、(楽しさ)を味わっているらしい。

 ……しかしそのおかげで、私の書斎(実際には、書斎の隣の部屋)は、
電子機器だらけ。
よくもまあ、これだけの電子機器があるものだと、自分でも驚く。
最近はできるだけ買わないようにしているが、先日、電源アダプターを整理して
みたが、電源アダプターだけで、60〜70個以上もあった。
いつの間にか、そんなにたまってしまった。

「もったいない」とは思うが、「ボケ防止用」と思えば、安い。
ワイフも、そう言って、納得してくれている。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●芝生

 最近、……といっても、ここ数週間だが、力を入れているのが、庭の芝生。
「庭全体を、芝生で覆う」というのが、今の私の目標になっている。

 これが結構、楽しい。
現在、7〜8割がた、覆われたという感じ。
ところどころ円形脱毛症のようにはげているのは、犬のハナのせい。
かなり濃密な小便をするらしく、その部分が、しばらくすると、はげ始める。

 で、そこへは種をまぜた土を、水でこねて置く。
毎日がその作業の繰り返し。
どうせ相手は犬。
話してわかるような相手ではない。

 もう少し草の丈が伸びてきたら、草刈り機で刈りそろえる。
その日が楽しみ。

 さあ、今日も始まった。
今日から仕事。
長い夏休みだったが、ちょうどその間、風邪をひいてしまった。
何もできなかった。
……というより、昨日、ワイフと2人で、浜名湖を船で一周してきた。
「今日が休みの最後だから……」と。

 このところ電子マガジン用の写真をあまり撮っていない。
そのこともあって、浜名湖を一周してきた。
楽しかった。

 では、みなさん、おはようございます!
時刻は、8月18日(火曜日)、午前5時15分。
窓から見える空は、灰色にどんよりと曇っている。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●自称「浮動票の王様」

++++++++++++++++++++

「王様」というのも、おおげさ(?)。
しかしひとつくらい、そういう肩書があってもよい。
私はその「浮動票の王様」。

支持政党はなし。
毎回変わる。
変わるが、私が動くところ、ドドーッと大衆も動く。
だから「王様」。

その浮動票の王様は、こう考える。

++++++++++++++++++++

★死に票にしない

 浮動票層には浮動票層のプライドというものがある。
その第一が、「自分の票だけは、死に票にしたくない」という自負心。
「どうせ一票を入れるなら、有効に使いたい。できればそれでもって、投票した人を
勝たせたい」と。

 そのため浮動票層は、明らかに敗れるとわかっている候補者には、票を入れない。

★判官(ほうがん)びいき

 自分自身が弱者のせいか、どうしても判官びいき的な心理が働く。
「絶対に勝つ」とわかっている候補者より、「この候補者は、ちょっとあぶないな」と
思われる候補者に入れる。
……入れようとする心理が働く。

 ぜったい勝つとわかっている候補者に票を入れたのでは、おもしろくない。
浮動票層にならない。

★当日の朝、候補者を決める

 浮動票層は、ギリギリまで票を入れる候補者を決めない。
私のばあいは、投票所のあの台の前に立ったその瞬間に、だれに投票するかを決める。
それまでは、(迷う)というよりは、(様子見)。

 だからよく浮動票層の人を対象にした事前調査などがなされるが、あれなどは、
ナンセンスもよいところ。
直前まで、だれに投票するかを決めないから、浮動票層という。

★基準は、消去法

 浮動票層は、「だれに入れるか」という決め方はしない。
「だれに入れたくないか」という基準で、投票する候補者をしぼっていく。
「だれに入れたくないか」という消去法で候補者を消していくと、最後に1〜2名、残る。
その中から選ぶ。

 最初から(入れたい人)が決まっていたら、浮動票層にはならない。

★誇り

 世の中の人たちは、やや軽蔑の念をこめて、私たちを「浮動票層」と呼ぶ。
しかしこれほど失敬な呼び名はない。
浮動票層こそ、絶妙なバランスを保つ、民主主義の担い手。
どこかの政党に属し、それに縛られて、言うがままに操られている連中よりは、
はるかに常識的。
常識豊か。

 浮動票層というと、「何も考えない連中」と誤解されているようだが、実際には逆。
自由である分だけ、孤独。
孤独だから、自分で考える。

 浮動票層であることを、何ら、恥じることはない。
言うなれば、「自由思索層」。
「自由投票層」でもよい。
これから私たちを、そう呼んでほしい。

「浮動票」というと、腰の軽い、ふわふわとした人を連想する。
が、実際には、そうではない。

 で、そういう浮動票の王様が見るところ、今度の選挙は……。
この先は書かない。
浮動票層は、みな、同じように考える。
もしあなたが浮動票層なら、私の考えは、あなたのそれと同じ。
結果が見え見えの総選挙だが、それをダメ押しするのも、私たち浮動票層の役目。

 浮動票層の目標はただひとつ。
あのAS首相だけには、勝たせたくない!
言い気にさせたくない!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 浮動票 浮動票層 衆議院議員選挙 国政選挙)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090819)

●時代遅れ(ネット時代)

++++++++++++++++

総務省の調査でも、インターネットの人口普及率は、75%を超えた。
75%と言えば、「ほぼ全世帯」と考えてよい。
(75%の人なのか、75%の世帯なのかによっても、中身はちがってくるが……。
それに子どもや老人が、この数字の中に含まれているか、いないかによっても、
中身はちがってくるが……。)

ともかくも、今や、ネット時代。
そんな時代にあって、今朝(19日)、ヤフー・ニュースに、こんな記事が載っていた。
何でも「あれもダメ」「これもダメ」式の公職選挙報が、時代に流れに即していないという。
たとえば、マニフェストの配布場所は決められている。
インターネットで選挙を呼び掛ける行為は禁止されている、などなど。
一部を紹介する。

『……ネットの人口普及率は総務省調査で75%を突破したものの、本来ネットは選挙運
動には使えない。しかし、各党は事実上のマニフェストをホームページ上に公開。K党広
報部長は「事前運動と指摘されないようテキスト版を載せた」とし、各党とも表向きは「選
挙公約ではなく、政権政策」。公示後は更新もできないため、「こうでもしないと政策が伝
わらない」というのが本音だ』(時事通信・8月19日)。

●私の経験から

 本(=書籍)とインターネット。
私はこの9年近く、本を、まったく書いていない。
「本」の限界を強く感ずるようになった。
だいたい私の書いた本は、売れない。
この世界、知名度が何にもまして、優先する。
知名度といっても、(テレビへの露出度)を意味する。

 頭をさげながら、本を出してもらう。
頭をさげながら、本を売ってもらう。
しかし本は売れない。
今度は、売れなかったことで、頭をさげる。
毎回、この繰り返し。

 本を出してもらうまでが、これまたたいへん。
何度も東京まで足を運ばねばならない。
加えて無駄な接待。
頭ペコペコ、またペコペコ……。

●インターネットの可能性

 そこで私は、(本)から(ネット)に、発表媒体を替えた。
とたん、目の前の世界が、変わった。
広がった。
ネットのすばらしいところは、(地域性)がないということ。
(地方性)と言うべきか。
(東京)という(中央)を飛び越えて、一気に(世界)に向かって、原稿を発表できる。
この狭い日本の中だけで見ていると、(東京)と(浜松)の落差は大きい。
しかし(世界)から見ると、(北海道)も、(沖縄)も、同じ。
(東京)と(浜松)のちがいなど、(点)に過ぎない。

 ネットを通して、少なくとも私は、(地方コンプレックス)を、完全に吹き飛ばすことが
できた。

 それ以後のネットの発達には、驚くべきものがある。
たとえば昨年の2月ごろ、アクセス数を合計してみた。
すべてのページにアクセスカウンターを設置しているわけではないが、それでも
合計してみると、月間10万件を突破していた。
(1人で、10回アクセスしても、10件とカウントされるので、10万件イコール、
10万人という意味ではない。)

 それがこの5月には、何と、30万件を突破した。
1年とちょっとの間に、3倍以上になったことになる。
ネットが、確実に世論のみならず、逆に、印刷媒体を凌駕(りょうが)しつつある。

 つい先日も、ある知人から、こんなニュースがもたらされた。

「(林さんの原稿が、以下の雑誌で紹介されます。)……広告媒体は10/1発売 COMO、10/2
発売 オレンジページ 、10/7発売ESSE、10/7発売 LEE、などを想定しているとのこ
とです。
 全国区の有名雑誌での掲載は初めてですので、本当に嬉しく思っております」と。

●時代錯誤

 こういう(流れ)の中、いまだに(印刷物)にこだわる人も多い。
それはそれでしかたないとしても、(法律)そのものが、(印刷物時代)を、ベースに
して作られているというのは、おかしい。
これを時代錯誤と言わずして、何と言う?
時代遅れと言ってもよい。

 その一例が、先にあげた公職選挙法である。
「あれもダメ」「これもダメ」という規制、規制の網をくぐりぬけて、ネット人口は、
好き勝手なことをしている。……好き勝手なことができる。

 たとえば今、こうして書いている文章は、10分後には、ネットに乗る。
(「載る」ではなく、「乗る」。)
Goo-Blogのばあい、24時間後には、約2000人の人の目にとまる。
反応も速い。
(「早い」ではなく、「速い」。)
私の書いた文章について、コメントがズラリと並ぶ。
「はてなBLOG」だけでも、毎日、40〜60件の書き込みがある。
多いときは、200件を超える。

●誤解

 これに対して、ネットに対する誤解と偏見も、根強い。
よく聞かれるのは、「ネットの情報は、信頼性がない」「ネットの情報は、軽い」など。
つまり情報源としては、それなりの価値はあるが、本のそれには、とてもかなわない、と。

 ある読者は、ていねいにこう書いて教えてくれた。

「本は、出版されるまで、編集部や販売部の担当者の目をくぐり抜けなければなりません。
その間に文章は洗練され、内容も整えられます。
しかしネットに流される文章には、そうしたプロセスがないのです」と。
つまり「いいかげん!」と。

 ならば聞きたい。
私がここに書いている文章と、書店で並んでいる本に載っている文章を、くらべて
読んでみてほしい。
「本に載っている文章だからすばらしいとか、ネットに乗っている文章だから、意味が
ない」というのは、偏見もよいところ。
私のばあい、本を書いているときも、こうしてネットに文章を書いているときも、
真剣度は同じ。
手は抜かない。
量を多く書いているから、その分、校正、推敲に書ける時間が少なくなるのは、しかたの
ないこと。
誤字、脱字は、いくら注意していても、避けられない。
(本のばあいは、出版社が、校正屋と呼ばれる、プロに文章を校正させている。)

 しかしそれを除けば、「ネットに乗っている文章だから……」という批判は、こと私の
書いている文章について言えば、当てはまらない。

●今は過渡期

 現在は、(印刷物)から(非印刷物)への過渡期と考えてよい。
ネットにも、いろいろな問題点がある。
未熟な点もある。
改善すべき点も多い。
それは認める。

しかしそれらの問題点は、日進月歩の時代の中にあって、日々に解決されつつある。
が、それ以上に、ネットのもつすばらしさが、ますます見なおされてきている。
動画や音声が、そのまま送信できるようになった。
それがいとも簡単にできるようになった。

 やがて「ネットに乗っている文章だから……」と陰口をたたく人もいなくなるだろう。
念のため、このエッセー(「時代遅れ」)については、一度、きちんと推敲、校正をして
からネットに乗せてみたい
「いいかげん」という陰口を叩かせないぞ!

 さあ、どうだ!


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●「偉そうなこと言うな!」

+++++++++++++++++++

今日、ある人(女性・60歳くらい)から、
こう言われた。

「偉そうなこと言うな!」と。
いきさつがある。
その場の雰囲気もある。

が、それについては、ここには書けない。
ともかくも、その女性は、私に、そう言った。

この言葉は、強烈に私の心に打撃を与えた。
つまりその一言で、私はその女性への思いが、
消えた。
完全に消えた。
今まで積み重ねてきた関係が、土台から
崩れ去った。

その女性が、まさか、そう言うとは、
思ってもみなかった。
ある程度の信頼関係はできあがっていると
思っていた。
しかし内心では、強く私に反発していたらしい。
だからこそ、とっさの拍子に、そういう言葉が出てきた。

心理学の世界でも、ときとしてこうした現象が起こる
ことが、証明されている。
いわゆる「思わず本音が……」という、あれである。
「言ってはいけない」と思っていると、かえって
そのことが口から出てきてしまう。

60歳ともなるとなおさらで、自分をコントロールする
気力そのものが、弱くなる。
だからよけいにそういう現象が起きやすくなる。

「なるほど」と思ったとたん、残念だが、その女性への
思いが、すべて吹き飛んでしまった。
恐らくその女性は、私という人間を外から見ながら、
いつも、「何を偉そうに!」と思っていたにちがいない。
私自身は、偉そうにしていたつもりはないのだが……。

しかしよい勉強になった。
こうしてものごとを評論すること自体、(偉そうなこと)。
地位も肩書きもない私が、教育を論じ、社会を論じ、世界を
論ずる……。
なるほど私がしていることは、(偉そうなこと)そのもの。
その女性は、それをわかりやすい言葉を使って、指摘した。

これからは気をつけよう。
人というのは、わからない。
本当にわからない。
外の様子からだけでは、ぜったいにわからない。
その気はなかったのだが、私も知らず知らずのうちに、
偉そうにしてみせていた。

これからは、もう少し謙虚になろう。
ただし一言。
『口は禍(わざわい)の門』という。
『舌は禍の根』※ともいう。
一度出た言葉は、簡単には消えない。
この先のことはわからないが、その女性との関係が
修復されることは、ないだろう。
人生は、それ以上に短い。
修復するための時間があったら、ほかの人との親交を深めることに
使いたい。

(注※)
『口は是れ虎に似て、人われの身を害す。
舌は是れ剣に似て、人われの命を絶つ』(古事)ともある。
舌の一撃は槍の一撃より悪いことを言ったもの。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

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●メタ認知(認識)(解離性人格障害)

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自分の現在の脳みその活動を、客観的に
認識することを、「メタ認知(認識)」という。
「メタ」というのは、「超えた」という意味。
「認識を超えた認識」という意味で、「メタ
認識」という。

たとえば空腹感を覚えたようなとき、
「ああ、血糖値がさがっているぞ。視床下部の
センサーがそれを感知しているぞ。
ドーパミンが線条体を刺激し始めたぞ……」と。

目には見えないが、脳のメカニズムがある程度
わかってくると、具体的にそれを知ることができる
ようになる。
自分の中に起きている変化を、客観的に認識する
ことができるようになる。
それが「メタ認知(認識)」。
新しい言葉なので、用語の使い方がまちがっているかも
しれないが、大筋ではそれほどまちがっていないと思う。

で、たとえばパソコンのOSにビスタがある。
このビスタには、自己評価能力という機能が
ついている。
それぞれの機能を、6点満点法で表示してくれる。
これなどは、メタ認知(認識)ということになる。
自分で自分をテストして、自分の能力を調べる。

で、ふとこんなことを考える。
人間も、似たようなことはできないものか、と。

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●解離性人格障害

 「人格障害」というと、ゾッとする人も多いかもしれない。
しかしこと、この「解離性人格障害」について言えば、程度の差こそあれ、ほとんどの
人に、その傾向が見られる。

 本来の「私」はいるのだが、興奮したようなとき、あるいは攻撃的になったようなとき、
もっとわかりやすい例では、カッと頭に血が上ったようなとき、別人のようになる人は
多い。
そのとき、通常の人とちがう点は、人格そのものまで変化するということ。
ふだんは平和主義者の人が、そういう状態になったとたん、虚無主義者になったりする。
淋しがりやの人が、孤独に強くなったりする。

 実は、私もそうで、それに気づくまでに、20年以上の年月がかかった。
つまり病識そのものが、なかった。
そういう自分を薄々知りながらも、「私はまとも」と思っていた。
しかし私は、(まとも)ではなかった。

 「解離(かいり)」というのは、主人格がちゃんとあって、そのつど、副人格が優勢に
なる状態をいう。
主人格との間に、連続性はない。
あるいは副人格になったときでも、主人格ははっきりとそれを自覚していて、一方の側から、
「やめろ」とか、「今のお前はおかしい」とか、口を添えたりする。

●解離性性格

 で、こういう話をすると、たいていの人は、「そういえば、私にも似たようなところが
ある」と言い出す。
他人の心の奥までは覗くことはできないが、もしそうであるなら、「人格障害」という
診断名は、少し仰々しすぎるのでは?
「解離性性格」でもよいのではないか。
たとえばアルコールが入ったとたん、別の人間のようになる人は多い。
ふだんは、気が弱く、おとなしく静かだった人が、アルコールが入ったとたん、気が
大きくなり、大声でわめき散らしたりする。

●病識の自覚

 ここでの目的は、解離性人格障害について書くことではない。
目的は、そうした問題が自分自身にあるとき、どうすれば、それを自分で知ることが
できるかということ。

 たとえば精神疾患の世界には、「病識」という言葉がある。
同じ精神疾患でも、「私は病気」と気がついている、つまり病識がある人は、まだ軽いの
だそうだ。
が、それがさらに進むと、その病識がなくなる。
「私はどこもおかしくない」とがんばる人ほど、重症ということになる。

 では、病識のある・なしは、どこで決まるのか。
 
 ひとつには、知識と経験ということになる。
そういう点では、他人の病気を知ることは、たいへん、役に立つ。
たとえば今、私は認知症の高齢者にたいへん興味がある。
そういう人たちをたくさん見ておくことによって、自分の変化をより的確に知ること
ができるようになる。

●脳のCPU

 が、脳のCPUそのものが狂ってしまっていたら、どうなのか。
言うなれば狂った頭を、狂った頭で判断するようなもので、理論上は、メタ認知(認識)できない
ということになる。

 よい例が、幻覚。

 私はチョコレートをたくさん食べると、脳の様子が変調する。
おかしくなる。
一種の覚醒作用か?

具体的にはどういう作用によるものかはわからないが、脳みそが勝手に暴走し始める。
10年ほど前、一度、そういう経験をしてから、それが恐ろしくなり、以後、チョコ
レートは、ほとんどといってよいほど、口にしていない。
(そのときは、バレンタインディーか何かで、休み時間ごとに、パクパクと
チョコレートを食べた。)
 
 そのときの症状は、別のどこかですでに書いたことがある。
たとえばこうである。
 
 頭の中に、2本の物干し竿が浮かんでくる。
具体的に、その映像が頭の中に映ってくる。
それについて、「人生の真理は、2本の物干し竿である」というように考え始める。
私が意図的に考えるのではなく、勝手に脳みそがそう考え始める。
(物干し竿)と(真理)の間には、連続性は、まったくない。
で、ふと、我に返る。
我に返って、それを頭から、振り払う。
が、つぎの瞬間には、また別のことを考え始める……。

 それは不気味というよりは、恐怖だった。
「頭が狂うということは、こういうことだ」と知った。

 そのときの経験から、CPUが狂ったときには、それを自分でコントロールするのは、
たいへんむずかしいということを知った。

●では、どうすればよいか
 
 要するに、(心の問題)は、それがどんなものであれ、うまくつきあうしかない。
たとえばうつ病にしても、約30%の人が罹患すると言われている(アメリカ)。
日本人は、どこかいいかげんな精神構造をもっているので、それよりは少ないと
言われている。

 仮に30%とするなら、それは「病気」というよりは、(病気であることには
まちがいはないが……)、「人間が本来的にもつ性質」のようなもの。
少なくとも、特別視するほうがおかしい。

 だったら、あとはうまくつきあう。
つきあうだけ。
つきあいながら、それ以上、症状を重くしないことだけを考える。
「直そう」とか「治そう」と考えれば考えてはいけない。
そう考えて、自分を追い込めば追い込むほど、自分を苦しめることになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 メタ認知(認識) 病識 解離性人格障害 剥離性人格障害 はやし浩司 メタ認
識 メタ認知)

(補記)

●メタ認知(追記)

 今日、ドライブしながら、ワイフに、メタ認知の説明をした。ワイフは、たいへん興味深そうに、
私の話を聞いてくれた。

 メタ認知……わかりやすく言えば、自分の思考プロセスを、客観的に意識化することをいう。
私が、「人間が知覚する意識の中でも、最高度のものだよ」と説明すると、「ふ〜ん」と。

私「なぜ、自分がそのように行動し、考えるかという、そのプロセスを知ることだよ」
ワ「それがわかったからといって、どうなの?」
私「自分で、自分をコントロールすることができるようになる」
ワ「そうねえ。自分がなぜ、そのように行動し、考えるかがわかれば、自分で自分をコントロー
ルするのは、簡単ね」
私「そうなんだよ」と。

 私が、なぜ、こうして毎日文を書いているかと言えば、その原点に、(生)があるからである。
その(生)を確認するために、文を書いている。それはまさしく、(生との闘い)と言ってもよい。
そういうプロセスを知ることが、メタ認知ということになる。それを話しているとき、若い男が運
転する、ランドクルーザーとすれちがった。横には、若い女性が、乗っていた。

私「ほら、あの男。自分では、自分で考えてあの車を買ったつもりでいる。しかし実際には、自
分の力不足を、ごまかすために、あの車を買ったのかもしれない。ランクルに乗っているだけ
で、大物になったような気分になれる」
ワ「でも、本人は、それには気づいていないわね」
私「気づいていない。自分の中の、奥深くに潜む意識によって、操られている。おそらく説明し
ても、あの男性には、理解できないだろうね」と。

 その男性は、(生的エネルギー)(ユング)というよりは、(性的エネルギー)(フロイト)のほう
に、強く操られていたかもしれない。常識で考えれば、あれほどまでに若い男が、600〜800
万円もするような高級車に乗れることのほうが、おかしい。

 言いかえると、性的エネルギーは、それほどまでに強力ということ。が、それはそのまま私た
ち自身の問題ということになる。

 私たちは、今、なぜ、今のような行動をし、今のように考えるか。行動の内容や、考えの内容
は、どうでもよい。問題は、なぜそのような行動をし、考えるかを知る。それがメタ認知というこ
とになる。

私「もし精神疾患をもった人が、自分を客観的にメタ認知できるようになったら、自分で自分の
病気を克服できるようになるかもしれないね」
ワ「すごいことね」
私「そう、すごいことだ。が、重度の患者ほど、『私は正常だ』『どこも悪くない』と言ってがんば
る。つまりメタ認知ができないということになる」と。

 こんな例が適切かどうかは、知らない。が、こんなこともある。

 空腹になってくると、血糖値がさがってくる。同時に脳間伝達物質が、減少してくる。すると、
精神的に不安定になる。人によっては、怒りっぽくなったり、イライラしたりするようになる。

 その怒りっぽくなったり、イライラしたようなとき、自分を客観的にメタ認知できたら、どうだろ
うか。「ああ、今、怒りっぽくなっているのは、空腹のせいだ」と。それが自分でわかる。そうす
れば、自分の感情を、その時点でコントロールすることができるようになる。

 で、そのときも、そうだった。私はそれを感じたので、ワイフに、「どこかで食事しようか」と声
をかけた。ワイフは、それに快く応じてくれた。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

【生の源泉】

●生(なま)のエネルギー(Raw Energy from Hypothalamus)
In the middle of the brain、 there is hypothalamus、 which is estimated as the center of the 
brain。 This part of the brain shows the directions of other parts of the brain。 But it is not 
all。 I understand the hypothalamus is the source of life itself。

++++++++++++++++++++

おおざっぱに言えば、こうだ。
(あるいは、はやし浩司の仮説とでも、思ってもらえばよい。)

脳の奥深くに視床下部というところがある。

視床下部は、いわば脳全体の指令センターと考えるとわかりやすい。
会社にたとえるなら、取締役会のようなもの。
そこで会社の方針や、営業の方向が決定される。

たとえば最近の研究によれば、視床下部の中の弓状核(ARC)が、人間の食欲を
コントロールしていることがわかってきた(ハーバード大学・J・S・フライヤーほか)。
満腹中枢も摂食中枢も、この部分にあるという。

たとえば脳梗塞か何かで、この部分が損傷を受けると、損傷を受けた位置によって、
太ったり、やせたりするという(同)。

ほかにも視床下部は、生存に不可欠な行動、つまり成長や繁殖に関する行動を、
コントロールしていることがわかっている。

が、それだけではない。

コントロールしているというよりは、常に強力なシグナルを、
脳の各部に発しているのではないかと、私は考えている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
これを「生(なま)のエネルギー」とする。
つまり、この生のエネルギーが(欲望の根源)ということになる。(仮説1)

フロイトが説いた(イド)、つまり「性的エネルギー」、さらには、ユングが説いた、
「生的エネルギー」は、この視床下部から生まれる。(仮説2)

こうした欲望は、人間が生存していく上で、欠かせない。
言いかえると、こうした強力な欲望があるからこそ、人間は、生きていくことができる。
繁殖を繰りかえすことが、できる。
そうでなければ、人間は、(もちろんほかのあらゆる動物は)、絶滅していたことになる。
こうしたエネルギー(仏教的に言えば、「煩悩」)を、悪と決めてかかってはいけない。

しかしそのままでは、人間は、まさに野獣そのもの。
一次的には、辺縁系でフィルターにかけられる。
二次的には、大脳の前頭前野でこうした欲望は、コントロールされる。(仮説3)

性欲を例にあげて考えてみよう。

女性の美しい裸体を見たとき、男性の視床下部は、猛烈なシグナルを外に向かって、
発する。
脳全体が、いわば、興奮状態になる。
(実際には、脳の中にある「線状体」という領域で、ドーパミンがふえることが、
確認されている。)

その信号を真っ先に受けとめるのが、辺縁系の中にある、「帯状回」と呼ばれている
組織である。

もろもろの「やる気」は、そこから生まれる。
もし、何らかの事故で、この帯状回が損傷を受けたりすると、やる気そのものを喪失する。
たとえばアルツハイマー病の患者は、この部分の血流が著しく低下することが、
わかっている。

で、その(やる気)が、その男性を動かす。
もう少し正確に言えば、視床下部から送られてきた信号の中身を、フィルターにかける。
そしてその中から、目的にかなったものを選び、つぎの(やる気)へとつなげていく。
「Sックスしたい」と。

それ以前に、条件づけされていれば、こうした反応は、即座に起こる。
性欲のほか、食欲などの快楽刺激については、とくにそうである。
パブロフの条件反射論を例にあげるまでもない。

しかしそれに「待った!」をかけるのが、大脳の前頭前野。
前頭前野は、人間の理性のコントロール・センターということになる。
会社にたとえるなら、取締役会の決定を監視する、監査役ということになる。

「相手の了解もなしに、女性に抱きついては、いけない」
「こんなところで、Sックスをしてはいけない」と。

しかし前頭前野のコントロールする力は、それほど強くない。
(これも取締役会と監査役の関係に似ている?
いくら監査役ががんばっても、取締役会のほうで何か決まれば、
それに従うしかない。)

(理性)と(欲望)が、対立したときには、たいてい理性のほうが、負ける。
依存性ができているばあいには、なおさらである。
タバコ依存症、アルコール依存症などが、そうである。
タバコ依存症の人は、タバコの臭いをかいただけで、即座に、自分も吸いたくなる。

つまり、ここに人間の(弱さ)の原点がある。
(悪)の原点といってもよい。

さらに皮肉なことに、視床下部からの強力な信号は、言うなれば「生(なま)の信号」。
その生の信号は、さまざまな姿に形を変える。(仮説4)

(生きる力)の強い人は、それだけまた、(欲望)の力も強い。
昔から『英雄、色を好む』というが、英雄になるような、生命力の強い人は、
それだけ性欲も強いということになる。

地位や名誉もあり、人の上に立つような政治家が、ワイロに手を染めるのも、
その一例かもしれない。

つまり相対的に理性によるコントロールの力が弱くなる分だけ、欲望に負けやすく、
悪の道に走りやすいということになる。

もちろん(欲望)イコール、(性欲)ではない。
(あのフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使って、性欲を、心理学の中心に
置いたが……。)

ここにも書いたように、生の信号は、さまざまな姿に変える。
その過程で、さまざまなバリエーションをともなって、その人を動かす。

スポーツ選手がスポーツでがんばるのも、また研究者が、研究で
がんばるのも、そのバリエーションのひとつということになる。
さらに言えば、女性が化粧をしたり、身なりを気にしたり、美しい服を着たがるのも、
そのバリエーションのひとつということになる。

ほかにも清涼飲料会社のC社が、それまでのズン胴の形をした瓶から、
なまめかしい女性の形をした瓶に、形を変えただけで、
現在のC社のような大会社になったという話は、よく知られている。
あるいは映画にしても、ビデオにしても、現在のインターネットにしても、
それらが急速に普及した背景に、性的エネルギーがあったという説もある。

話がこみ入ってきたので、ここで私の仮説を、チャート化してみる。

(視床下部から発せられる、強力な生のシグナル)
      ↓
(一次的に辺縁系各部で、フィルターにかけられる)
      ↓
(二次的に大脳の前頭前野で、コントロールされる)

こう考えていくと、人間の行動の原理がどういうものであるか、それがよくわかる。
わかるだけではなく、ではどうすれば人間の行動をコントロールすることができるか、
それもよくわかる。

が、ここで、「それがわかったから、どうなの?」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分の心というのは、わかっているのと、わからないのでは、対処のし方が、
まるでちがう。

たとえば食欲を例にあげて、考えてみよう。

たとえば血中の血糖値がさがったとする。
(実際には、食物の分解物であるグルコースや、インスリンなどの消化器系ホルモン
などが、食欲中枢を刺激する。)
すると視床下部は、それを敏感に関知して、「ものを食べろ!」というシグナルを
発する。
食欲は、人間の生存そのものに関する欲望であるだけに、そのシグナルも強力である。

そのシグナルに応じて、脳全体が、さまざまな生理反応を起こす。
「今、運動をすると、エネルギー消費がはげしくなる。だから動くな」
「脂肪内のたくわえられたエネルギーを放出しろ」
「性欲など、当座の生命活動に必要ないものは、抑制しろ」と。

しかしレストラン街までの距離は、かなりある。
遠くても、そこへ行くしかない。
あなたは辺縁系の中にある帯状回の命ずるまま、前に向かって歩き出した。

そしてレストラン街まで、やってきた。
そこには何軒かの店があった。
1軒は、値段は安いが、衛生状態があまりよくなさそうな店。それに、まずそう?
もう1軒は。値段が高く、自分が食べたいものを並べている。

ここであなたは前頭前野を使って、あれこれ考える。

「安い店で、とにかく腹をいっぱいにしようか」
「それとも、お金を出して、おいしいものを食べようか」と。

つまりそのつど、「これは視床下部からの命令だ」「帯状回の命令だ」、さらには、
「今、前頭前野が、あれこれ判断をくだそうとしている」と、知ることができる。
それがわかれば、わかった分だけ、自分をコントロールしやすくなる。

もちろん性欲についても同じ。

……こうして、あなたは(私も)、自分の中にあって、自分でないものを、
適確により分けることができる、イコール、より自分が何であるかを知ることが、
できる。

まずいのは、視床下部の命ずるまま、それに振り回されること。
手鏡を使って、女性のスカートの下をのぞいてみたり、トイレにビデオカメラを
設置してみたりする。
当の本人は、「自分の意思で、したい」と思って、それをしているつもりなのかも
しれないが、実際には、自分であって、自分でないものに、振り回されているだけ。

それがわかれば、そういう自分を、理性の力で、よりコントロールしやすくなる。

以上、ここに書いたことは、あくまでも私のおおざっぱな仮説によるものである。
しかし自分をよりよく知るためには、たいへん役に立つと思う。

一度、この仮説を利用して、自分の心の中をのぞいてみてはどうだろうか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 視床下部 辺縁系 やる気)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR。08++++++++++はやし浩司

●仮説(Hypothesis)
In the middle of the brain、 there may be a center which gives orders to the whole brains。 
The limbic system filters these orders to the one、 which may be understood by other 
brains。 Then brains give orders to each part of the body。 The orders are controlled by the 
frontal part of the brain。 This is my hypothesis。 …sorry about my improper use of words )

+++++++++++++++++

電車の中。
春うららかな、白い光。
その白い光の中で、1人の若い女性が
化粧を始めた。
小さな鏡をのぞきこみ、
口紅を塗っていた。

私はその光景を見ながら、
ふと、こう思った。

「彼女は、自分の意思で化粧をしているのか?」と。

私がその女性にそう聞けば、100%、その女性は、
こう答えるにちがいない。

「もちろん、そうです。私の意思で、化粧をしています」と。

しかしほんとうに、そうか?
そう言い切ってよいのか?

ひょっとしたら、その女性は、
「私でない、私」によって、操られているだけ。

+++++++++++++++

昨日、新しい仮説を組み立てた。
人間の生命と行動に関する仮説ということになる。
それについては、昨日、書いた。

仮説(1)

人間の脳みその奥深くに、(生命力)の中枢となるような部分がある。
最近の研究によれば、視床下部あたりにそれがあるらしいということが、わかってきた。
視床下部というは、脳みその、ちょうど中心部にある。

仮説(2)

その(生命力の根源)となるような部分から、脳みそ全体に、常に、
強力なシグナルが発せられている。
「生きろ!」「生きろ!」と。

生命維持に欠かせない、たとえば食欲、生存欲、性欲、支配欲、闘争欲などが、
そのシグナルに含まれる。

これらのシグナルは、きわめて漠然としたもので、私は、「生(なま)の
エネルギー」と呼んでいる。

仮説(3)

この生のエネルギーは、一次的には、辺縁系という組織で、フィルターに
かけられる。
つまり漠然としたエネルギーが、ある程度、形をともなったシグナルへと
変換される。

やる気を司る帯状回、善悪の判断を司る扁桃核、記憶を司る海馬などが、
辺縁系を構成する。

つまりこの辺縁系で一度フィルターにかけられた生のエネルギーは、志向性を
もったエネルギーへと、変換される。
このエネルギーを、私は、「志向性エネルギー」と呼んでいる。

仮説(4)

この志向性エネルギーは、大脳へと送信され、そこで人間の思考や行動を決定する。
ただそのままでは、人間は野獣的な行動を繰りかえすことになる。
そこで大脳の前頭前野が、志向性エネルギーをコントロールする。
この前頭前野は、人間の脳のばあい、全体の28%も占めるほど、大きな
ものである。

以上が、私の仮説である。

具体的に考えてみよう。

たとえばしばらく食べ物を口にしていないでいたとする。
が、そのままでは、エネルギー不足になってしまう。
自動車にたとえるなら、ガス欠状態になってしまう。

具体的には、血中の血糖値がさがる。
それを視床下部のセンサーが感知する。
「このままでは、ガス欠になってしまうぞ」
「死んでしまうぞ」と。

そこで視床下部は、さまざまな、生のシグナルを中心部から外に向かって発する。
そのシグナルを、一次的には、視床下部を包む辺縁系が、整理する。
(これはあくまでも、仮説。こうした機能を受けもつ器官は、ほかに
あるかもしれない。)

「食事行動を取れ」
「運動量を減らせ」
「脂肪細胞内の脂肪を放出せよ」と。

その命令に従って、脳みそは、具体的に何をするかを決定する。
その判断を具体的にするのが、前頭前野ということになる。
前頭前野は、脳みそからの命令を、分析、判断する。

「店から盗んで食べろ」「いや、それをしてはいけない」
「あのリンゴを食べろ」「いや、あのリンゴは腐っている」
「近くのレストランへ行こう」「それがいい」と。

そしてその分析と判断に応じて、人間は、つぎの行動を決める。

これは食欲についての仮説だが、性欲、さらには生存欲、支配欲、所有欲
についても、同じように考えることができる。

こうした仮説を立てるメリットは、いくつか、ある。

その(1)……「私」の中から、「私であって私である部分」と、
「私であって私でない部分」を、分けて考えることができるようになる。

たとえば性欲で考えてみよう。

男性のばあい、(女性も同じだろうと思うが)、射精(オルガスムス)の
前とあととでは、異性観が、まったくちがう。
180度変わることも珍しくない。

たとえば射精する前に、男性には、女性の肉体は、狂おしいほどまでに魅力的に見える。
女性の性器にしても、一晩中でもなめていたいような衝動にかられることもある。
しかしひとたび射精してしまうと、そこにあるのは、ただの肉体。
女性器を目の前にして、「どうしてこんなものを、なめたかったのだろう」とさえ思う。

つまり射精前、男性は、性欲というエネルギーに支配されるまま、「私で
あって私でない」部分に、操られていたことになる。

では、どこからどこまでが「私」であり、どこから先が、「私であって
私でない」部分かということになる。

私の仮説を応用することによって、それを区別し、知ることができるようになる。

こうして(2)「私であって私である」部分と、「私であって私でない」部分を
分けることによって、つぎに、「私」の追求が、より楽になる。
さらに踏み込んで考えてみよう。

たとえばここに1人の女性がいる。

朝、起きると、シャワーを浴びたあと、毎日1〜2時間ほどもかけて化粧をする。
その化粧が終わると、洋服ダンスから、何枚かの衣服を取りだし、そのときの自分に
合ったものを選ぶ。
装飾品を身につけ、香水を吹きかける……。

こうした一連の行為は、実のところ「私であって私でない」部分が、
その女性をウラから操っているために、なされるものと考えられる。

もちろんその女性には、その意識はない。化粧をしながらも、「化粧を
するのは、私の意思によるもの」と思っている。
いわんや本能によって操られているなどとは、けっして、思っていない。

しかしやはり、その女性は、女性内部の、「私であって私でない」部分に操られている。
それを意識することはないかもしれないが、操られるまま、化粧をしている。

++++++++++++++++++

こう考えていくと、「私」の中に、「私であって私」という部分は、
きわめて少ないということがわかってくる。

たいはんは、「私であって私でない」部分ということになる。
あえて言うなら、若い女性が口紅を塗りながら、「春らしいピンク色にしようか、
それとも若々しい赤色にしようか?」と悩む部分に、かろうじて「私」があることに
なる。

しかしその程度のことを、「私」とはたして言ってよいのだろうか?
「ピンク色にしようか、赤色にしようか」と悩む部分だけが、「私」というのも、
少しさみしい気がする。

さらにたとえばこの私を見てみたばあい、私という人間は、こうして
懸命にものを考え、文章を書いている。

この「私」とて、生存欲に支配されて、ものを書いているだけなのかもしれない。
つまり、私の脳みその中心部から発せられる、生のエネルギーに操られているだけ?
……と考えていくと、「私」というものが、ますますわからなくなってくる。

しかしこれが、「私」を知るための第一歩。
私はやっと、その(ふもと)にたどりついたような気がする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私論 私で会って私でない部分
 視床下部 大脳前頭前野)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●糸の切れた凧(たこ)

+++++++++++++

ただ勉強さえできれば、それで
いいと考えている親は、多い。

若い親たちは、ほとんどが、みな、
そうではないか。

しかし指針のない教育ほど、
恐ろしいものはない。それは
たとえて言うなら、糸の切れた
凧のようなもの。

風が吹くのに任せて、右往左往する
だけ。

やがて子どもは、ダメ人間に……。
親は親で、深い、絶望の谷底に
……。

+++++++++++++

 もう20年以上も前のこと。あるとき1人の母親が私のところへきて、こう相談した。「うちの息
子(5歳男児)が通っている英語教室の先生は、アイルランド人です。アイルランドなまりの、へ
んな発音が身につくのではないかと、心配です」「だからどうしたらいいでしょうか」と。

 この話は、ほんとうにあった話である。あちこちの本や雑誌にも、紹介させてもらった。

 たしかにアイルランド人は、やや独特の英語を話す。「W」の発音を、「ウォ〜」と延ばしたりす
る。オーストラリアやアメリカには、アイルランド系の移住者も多い。

 しかしネイティブは別として、日本人で、アイルランド英語を、ほかの英語と区別できる人は、
いったい、どれだけいるだろうか? 私はその相談を受けたとき、「そんな問題ではないのだが
なア」と思った。

 その子どもには、多動性に併せて、多弁性も見られた。きびしいしつけが日常化し、それが
原因と思われるチックと吃音(どもり)も見られた。幼児期はともかくも、小学校へ入学したあ
と、伸び悩むことは、明白だった。が、その母親は、英語教室の先生の、なまりを気にしてい
た!

 ……というような例は、多い。子育てイコール、(子どもが勉強ができるようにすること)と考え
ている。もっとはっきり言えば、進学競争のため。ほとんどの親は、「うちの子は、やればできる
はず」「うちの子にかぎって、今より悪くなるはずはない」と信じている。つまり、前しか見ない。
上しか見ない。

 が、子どもの世界には、うしろもある。下もある。幼児期の、あの穏やかさ、すなおさが、いつ
までもつづくと考えるのは、幻想以外の何ものでもない。やがてつぎつぎと問題が起こり、それ
が怒濤のように親を襲う。

 それには、理由がある。

 親の欲望には、際限がない。少し子どもができるようになると、「もっと」「もっと」と言って、子
どもを追いまくる。が、子どもとて、1人の人間。やがてその限界にやってくる。よく家庭内暴力
が問題になるが、子どもが暴力をふるうのは、何も、家庭だけではない。学校という場で、教師
に向かって暴力をふるう子どもが、近年、急速にふえている。

 いつだったか、私は『子どもの心は風船玉』という格言を考えた。学校でしめつけられた子ど
もは、家庭で荒れる。反対に、家庭でしめつけられた子どもは、学校で荒れる。

 ふつうの荒れ方ではない。「テメエ、この野郎!」と言って、本気で足蹴りを入れてくる。本気
だ。しかも高校生や中学生ではない。まだあどけなさの残る、小学生。それも、小学3、4年
生。たいていは、女児である。

 が、親というのは、悲しい。子どもがそういう状態になっても、気がつかない。気がつかないフ
リをする。私がそれとなく指摘しても、「まさか……」「そんなはずは……」と、それを否定してし
まう。ことの深刻さが、理解できていない。

 この時点で、子どもの心は、粉々に破壊されている。やさしい心は消え、心は、とげとげしくな
る。ささいなことでキレやすくなり、暴れる。「勉強どころの話ではないのだが……」と私は思う
のだが、親は親で、拍車をかけて、子どもの受験競争に狂奔する。症状も、この程度ですめ
ば、まだよいほう。さらに心をゆがめれば、行き着く先は、不登校、家庭内暴力、陰湿ないじめ
などなど。

 ……というような、その親子の未来像が、私には、手に取るようにわかる。40年近くも幼児を
見ていると、それがわかるようになる。が、それを口に出すことは、タブー。わかっていても、今
度は、私の方が知らぬフリをする。冷酷なようだが、その人の子育てには、その人すべての哲
学や人生観が集約されている。さらに、その人自身の過去が集約されている。

 仮に問題があったとしても、親自身がそれに気がつくのは、むずかしい。心理学の世界に
も、「メタ認知」という言葉がある。自分自身の思考プロセスを、意識化することをいう。人間が
もつ意識の中でも、最高度の意識といってもよい。

 「なぜ私は、子どもの受験競争に狂奔するのか」と。それが自分でわかる親は、まずいない。
どの親も、もっと深い部分からの命令によって、動かされているだけ。それを認知する力が、
「メタ認知」ということになる。

 私はその母親と別れるとき、「道は遠いだろうな」と思った。その母親が、自分の愚かさ(失
礼!)に気がつくことはあるのだろうかとさえ、思った。と、同時に、そのときほど、やる気をなく
したことはない。おかしな無力感だけが、いつまでも残ったのだけは、今でもよく覚えている。

 学生時代、私のガールフレンドは、そのアイルランド移民だった。若くして白血病でなくなって
しまった。今でもアイルランド英語を耳にするたびに、切ない思いにかられる。これは余談だが
……。

(補記)【メタ認知】

 医学の世界にも、「病識」という言葉がある。精神疾患を病んだような人が、「自分はおかし
い」と認識することを、病識という。

 この病識がある、なしで、精神疾患の重大さを判断することができるという。「私はおかしい」
「私は狂っている」と、認識できる病人は、まだ症状が軽いという。

 しかし病状が進むと、それすら、わからなくなる。「私はどこもおかしくない」「私の精神状態は
健康だ」とがんばる病人ほど、症状が重いという。

 自分で自分の(おかしさ)に気づくことは、それほどまでに、むずかしい。同じように、自分の
思考プロセスを、意識化することは、むずかしい。たとえばDV(家庭内暴力)がある。たいてい
は夫が妻に暴力をふるうケースだが、なぜ暴力をふるうのか。その思考プロセスを、夫自身が
気がつくのは、むずかしい。

 とくに心のキズというのは、そういうもの。無意識の世界から、その人を操(あやつ)り人形の
ように、操る。夫自身も、幼少時代、親に虐待されていたかもしれない。

 わかりやすく言えば、哲学の世界で、「今の自分を知る」ということが、心理学の世界では、
「メタ認知」ということになる。

 まず手始めに、「なぜ、私はこうまで、子どもの受験競争にカリカリするのか」と、自問してみ
るとよい。そこからメタ認知は、始まる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 メタ認
知 思考過程 思考プロセス 無意識下の意識)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司※

●自分を知る

++++++++++++

ほとんどの人は、「私のことは
私がいちばんよく知っている」
と思っている。

しかしその実、自分のことは、
まったくわかっていない。そう、
自分で思いこんでいるだけ。

よい例が、「病識」。「私は病気で
ある」という意識があることを、
病識という。

精神疾患の世界でも、この病識
のあるなしで、病気の軽重が
決まるという。

同じように、心理学の世界には、
「メタ認知」という言葉がある。
自分の思考プロセスを客観的に
知り、それを意識化することをいう。

「なぜ、私はこう考えるのか」と。
考えている内容ではない。なぜ、
そのように考えるか、そのプロセスを
意識化することをいう。

さらに哲学の世界では、「汝自身を
知れ」が、究極の目標になっている。

精神医学、心理学、そして哲学の
世界で、それぞれ言っていることは、
みな、同じ。

つまり、「私を知ること」は、それほど
までにむずかしい。

……それでもあなたは、「私のことは
私がいちばんよく知っている」と、
言い張ることができるだろうか?

+++++++++++++

 たとえば若い女性が、胸や太ももをあらわにした服を着たとする。その女性にしてみれば、そ
れが流行であり、そのほうが自分に似合うと思うから、そうする。

 そこでさらに、店にでかけ、あれこれ迷いながら、自分に合った(?)服を買おうとする。そうい
う女性に向かって、「どうしてそういう服を買うのですか」と質問しても、意味はない。その女性
はその女性なりに、懸命に考えながら、色やデザインを選んでいる。

 が、もしその女性が、こう考えたらどうだろうか。

 「私はフロイトが説いたところの、イド、つまり性的エネルギーに支配されているだけ」と。

 そう、その女性は、無意識の世界からの命令によって動かされているだけ。そしてその命令
は、種の保存本能に根ざしている。胸や太ももをあらわにするのも、結局は、(男)という異性
をを意識しているからにほかならない。が、もちろんその女性には、その意識はない。

私「男を意識するから、そういう服を着るの?」
女「男なんて、関係ないわよ。ファッションよ」
私「ファッションって?」
女「自分に似合った服を選んで、身につけることよ」と。

 つまり精神疾患でいうところの「病識」が、その女性には、まったくないということになる。「私
は正常だ」「ふつうだ」と思いこんでいる。しかし若い男性にとっては、そうではない。あらわにな
った胸や太ももを見ただけで、性的な情欲にかられる。女性には、その意識はなくても、男性
は、そうなる。

 「どんな服装をしようとも、女性の勝手」というわけにはいかない。

 もっとも、その女性が、性的エネルギーにすべて支配されていると考えるのも、まちがいであ
る。動機の原点に、性的エネルギーがあるとしても、そこから先は、(美の追求)ということにな
る。ファッションショーに、その例を見るまでもない。

 しかしそのつど、もし私たちが、自分の思考プロセスを、客観的に認知することができるよう
になったら、またそういう習慣を身につけることができたら、自分の見方が大きく変わるかもし
れない。それを心理学の世界では、「メタ(高次)認知」という。

 たとえばこの私。毎日、ヒマさえあれば、こうしてパソコンのキーボードをたたいている。実際
には楽しいから、そうしている。頭の中の未知の世界を探索するのは、ほんとうに楽しい。毎
日、何か、新しいことを発見することができる。

 が、なぜ、そうするかというと、そこからが、「メタ認知」の領域ということになる。哲学の世界
でいう、「私自身を、知る」という世界ということになる。

 基本的には、大きな欲求不満があるのかもしれない。あるいは心のどこかで女性という読者
を意識しているのかもしれない。さらに言えば、(生)に対して、最後の戦いをいどんでいるのか
もしれない。フロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使ったが、弟子のユングは、「生的エネ
ルギー」という言葉を使った。

 「性」も「生」の一部と考えるなら、私は、今の自分が、その生的エネルギーによって支配され
ているということになる。

 その生的エネルギーが姿を変えて、私を動かしている。それを知るということが、つまりは、メ
タ認知ということになる。「私自身を知る」ということになる。

(補記)

 子どもの世界をながめていると、メタ認知というものが、どういうものか、よくわかる。

 たとえば心理学の世界にも、「防衛機制」という言葉がある。自我が危機的な状況に置かれ
ると、子どもは、(おとなもそうだが)、その崩壊を防ぐために、さまざまな行動に出ることが知ら
れている。

 たとえば学習面では目立たない子どもが、スポーツ面でがんばるなど。非行や暴力、つっぱ
りも、その一部として理解されている。

 が、当の本人たちには、その意識はない。「私は私」と思って、(思いこんで)、そういう行動を
繰りかえす。

 相手は子どもだから、ここでいうメタ認知を求めても、意味はない。心を知り尽くした心理学
者でもむずかしい。あのソクラテスですら、「汝自身を知れ」という言葉にぶつかってはじめて、
「無知の知」という言葉を導いた。

 しかしメタ認知は、同時に、他人をよく知る手助けにもなる。

 出世主義に邁進する人も、金儲けに血眼になっている人も、あるいはスポーツの世界で華々
しい成果をあげている人も、心のどこかで、何かによって動かされている。それが手に取るよう
に、よくわかるようになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 メタ認
知 認識 病識 汝自身を知れ 汝自身を、知れ)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●空腹のメカニズム(メタ認識・メタ認知)

+++++++++++++

昨夜、床につく前、猛烈な空腹感
に襲われた。

「パンでも食べようか……」と思ったが、
やめた。

そういうときの空腹感は、幻覚の
ようなもの。

朝、起きると、空腹感は消える。
今までの経験で、それがよくわかって
いる。

それに寝る前に食べると、肥満に
つながる。

+++++++++++++

 人間の空腹感は、(ほ乳動物もみなそうだが)、2つの相反する作用によって決まるということ
がわかっている。「食べたい」という作用と、「食べたくない」という作用である。「食べたい」とい
う作用が、「食べたくない」という作用よりも強くなったとき、空腹感が起きてくる。順に考えてみ
よう。

 大脳の視床下部に、血糖値を感知するセンサーがある。一般的には、血糖値がさがると、そ
のセンサーが機能し、空腹感をもたらすと考えられている。

 しかし空腹感のメカニズムは、そんな単純なものではない。私の例で、考えてみよう。

 たとえば昨夜、私は寝る前に、猛烈な空腹感に襲われた。人間には、(ほ乳動物はみなそう
だが)、ホメオスタシス効果というのがある。「ホメオスタシス」というのは、人間内部の生理的
環境を一定に保とうとする機能を総称したもの(付記、参照)。

 もっともわかりやすい例が、食欲である。体内のエネルギーが不足してくると、生理的バラン
スを一定に保つために、ホメオスタシス効果が機能し始める。それが食欲につながる。

 猛烈な空腹感に襲われたのは、血中の血糖値がさがったため。それを大脳の視床下部のセ
ンサーが感知した。それが猛烈な空腹感へとつながった。

 しかしならば、朝になると、どうしてその空腹感が消えるのか? 血糖値は、昨夜のままのは
ず。あるいは睡眠中に、ホメオスタシス効果が機能して、血糖値を調整したのか。その可能性
は、ある。あるが、どうも合点がいかない。血糖値だけで、食欲の有無は、決まるのか?

 この謎を解くカギが、拒食症や過食症の患者にある。

 食欲……正確には、「摂食行動」というが、その摂食行動は、2つの相反する作用によって、
決まるという。ネズミの実験だが、ネズミの視床下部の外側野に電気刺激を与えると、摂食行
動が活発化し、反対にその部分を破壊すると、摂食行動が停止するという(春木豊氏「心理学
の基礎」)。

 が、反対に、その視床下部の外側野に隣接した、腹内側核を刺激すると、摂食行動が起き
なくなり、反対にその部分を破壊すると、摂食行動が止まらなくなり、ネズミは過食し始めると
いう(同)。

 わかりやすく言えば、視床下部の外側野と、それに隣接する腹内側核が、たがいに相反した
機能をもちながら、人間の食欲を調整しているということになる。以上の話を、もう一度、まとめ
ると、こうなる。

(1)視床下部の外側野……(刺激すると)→(摂食行動が起きる)
               (破壊すると)→(摂食行動が停止する)

(2)視床下部に隣接する腹内側核……(刺激すると)→(摂食行動が起きなくなる)
                    (破壊すると)→(過食が始まる)   

 脳の機能も外部からの刺激で、変調しやすい。ここに書いたマウスの実験では、脳の一部を
破壊することによって、摂食行動の変化を確かめたが、機能が変調しても、同じことが起きると
考えるのは、ごく自然なことである。 

 たとえば拒食症の人は、視床下部の外側野の機能が、低下した人ということになる。一方、
過食症の人は、腹内側核の機能が、低下した人ということになる。(かなり乱暴な書き方で、ご
めん!)

 で、私のばあいは、どうか?

 昨夜、猛烈な空腹感が、私を襲った。原因として考えられるのは、夕食を、一気に食べたこ
と。つまり短時間で食べた。

 短時間で食べたため、血糖値が、急激に上昇した。それと並行して、(ややタイムラグ=時間
的なズレはあるが)、インシュリンが分泌された。昨夜は、それがやや多めに分泌されたらし
い。

 結果、血糖値はさがったが、インシュリンは、血中に残って、さらに血糖値をさげつづけた。
そのため寝る前に、私は、低血糖の状態になった。それを大脳の視床下部にあるセンサーが
感知した。そしてその信号を、視床下部の外側野に伝えた。

 私は猛烈な空腹感に襲われた。

 しかし私は、それをがまんした。一連のメカニズムがわかっていると、がまんするのも、それ
ほどつらいことではない。「この空腹感は、幻覚」と自分で自分に、言って聞かせることができ
る。

 眠っている間に、ホメオスタシス効果が機能した。体内の生理的バランスを調整した。結果と
して、朝起きたとき、空腹感は消えていた。

 ……というように、自分の欲望や行動を、客観的に意識化することを、「メタ認知」という。人
間がもつ認知力の中でも、最高度のものである。少し前、ワイフが、「それ(=メタ認知)ができ
たからといって、それがどうなの?」と聞いた。私は、それに答えて、「メタ認知ができるようにな
れば、さらに自分がよくわかる。自分で自分をコントロールできるようになる」と答えた。

 以上、「空腹のメカニズム」。おしまい!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 空腹
のメカニズム 過食症 拒食症 ホメオスタシス メタ認知 視床下部 外側野 腹内側核 は
やし浩司 メタ認識)

(付記)

ホメオスタシス……「平衡状態」「定常状態」の意。生物が環境のさまざまな変化に対応し、生
物体内の形態的、生理的状態を安定な範囲に保ち、生存を維持する性質。アメリカの生理学
者のキャノンが提唱(国語大辞典)。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090819)

●掲示板より

【Yさんより、はやし浩司へ】

1学期出席日数不足で成績の出なかった高校2年の娘の件です。
終業式も欠席したので、通知表を昨日、もらいに行く予定でした。
私には行くと言い、夜も行ったと話していたので、見せなかったので 
不審感はありましたが、うるさく言ってもよくないと思い 何も言いませんでした。
やはり行かなかったようで、先ほど担任の先生から連絡がありました。
とりあえず、娘には学校に連絡して、すぐに行くようメールで伝えましたが・・・
どのように対応したらよいのかわかりません。
2学期からは行くと言っていたので それも心配です。

暖かい無視・・・難しいです。

【はやし浩司より、Yさんへ】

 前にも書きましたが、(1)学校、進学、進級は、あきらめなさい。
お嬢さんは、もうあなたの手の届かないところにいます。
あなたがガタガタしたところで、この問題は解決しないばかりか、かえって
より悪い方へ、お嬢さんを追いやってしまうだけです。

 こうした問題には、二番底、三番底があります。
「まだ以前のほうがよかった……」ということを繰り返しながら、あなたの
お嬢さんは、その二番底、三番底へと向かっていきます。

 「やるべきことはする」という姿勢に徹し、あとの判断は、お嬢さんに任せなさい。
退学するもよし。
またその覚悟をもち、退学してきても、あなたはお嬢さんを、暖かく迎え入れます。
あたかも何ごともなかったかのように、です。

 投稿記事によれば、あなたはその旨、メールで伝えたというのですから、それで
じゅうぶんです。
それ以上の対応はする必要ありませんし、なにもできることはありません。

 あなたはぬか喜び(「2学期からは行く」と言っていると喜び)と、取り越し苦労
(「成績表がどうのこうの」と言って心配する)を、ドタバタと繰り返しています。
あなた自身に、一本の筋の通った一貫性(=哲学)がないのが、気になります。
周囲の状況に応じて、アタフタしているだけ。
ドタバタしているだけ。
その一方で、「許して忘れるはむずかしい」とか、「暖かい無視はむずかしい」とか、
たいした努力もしていないのに(失礼!)、つまり自分と闘うこともせず、結論ばかり、
急ぎます。
もう少し、デンと構えなさい。
「許して忘れる」にしても、「暖かい無視」にしても、そんな簡単なことではありません。
すこしくらいマネごとしたからといって、会得できるようなことではないということです。

 あなたはあなたなで自分のしたいこと、すべきことをするのです。
1人の人間として、です。
いまだに子離れできていない、未熟な母親を想像してしまいますが、ちがうでしょうか。
また「学校、学校」と、おおげさに考えないこと。
税金と、あなたの払う月謝で運営しているのですから、あなたのほうが、もっと威張れ
っていればよいのです。

 「おい、ちゃんとうちの娘の面倒を、しっかりとみろ!」と、です。

それくらいの気持ちで、あなたはあなたのお嬢さんのほうを守ります。
立場が逆ですよ。
あなたは学校側に立って、学校といっしょになってお嬢さんを責めている!
あなた自身が、学校絶対教の信者になっていますよ!

 ……とまあ、かなりきびしいことを書きましたが、あなたは一歩退いて、お嬢さんに
こう言うのです。

 「あなたの人生だから、どんな道を進むかは、あなたが決めなさい。
どんな人生を選んでも、私はあなたを信じていますからね。
応援しますよ。
よく考えて、自分の進路を決めなさい」と。

 結果として、退学しても、よし。
学校へ通うのも、よし。
あなた自身の17歳のときを思い出してみてください。
あなたはすばらしい女子高校生でしたか?
そういう視点で、あなたのお嬢さんを見るのです。

 今、大切なことは、お嬢さんの逃げ場をつぶしてしまわないこと。
あなたが今の状態で、ワーワーとわめいてしまったら、お嬢さんは、帰る場所を
なくしてしまいますよ。
退学どころか、家出、さらにどこかの男性と同棲、妊娠……とつづきますよ。

 「今の状態を、これ以上悪くしないことだけ」を考えて、対処してください。

これで私からの返事は終わりますが、ひとつだけ気になっていることがあります。
いただいた相談には、「お父さんの影」が、どこにもないのは、なぜでしょうか?
よけいなことですが……。

 で、繰り返しますが、高校2年生は、もうおとなです。
ひょっとしたら、あなたのお嬢さんは、あなたより、おとなです。
少なくとも、あなたのお嬢さんは、あなたをそういう目で見ていますよ。
「うちのママったら、どうしようもないわ」と、です。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司※

【たぬき村】

●あいさつ

++++++++++++++++++

ムカ〜シ(昔)といっても、今の時代だが、
あるところに、「たぬき村」という村があった。……ある。

そこでは、何が本当で、何がウソか、まったくわからない。
虚々実々。
たとえば村の人たちの交わすあいさつにしても、こうだ。

「よお、うちで、昼飯でも食っていかんけエ?」と声をかける。
これに答えて、声をかけられたほうは、
「悪いのオ、今、食べてきたところでのオ」と。

昼飯を誘う方も、本気で誘っているのではない。
形だけ。
本気で、「昼飯を食っていけ」と言っているのではない。
あくまでもあいさつ。

言われたほうも、それをよく承知している。
いくら空腹でも、そう答える。
「食べてきたところでのオ」と。

そのあたりでは、どこの家も、昼は茶漬けですますという習慣がある。
食事らしい食事を用意している家など、ない。
本当に相手が、「食べていこうか」などとでも答えたら、たいへんなことになる。

で、たぬき村。
その物語。
始まり、始まり……。

++++++++++++++++++

●村の習慣

 うまいものは、隠れて食べる。
まずいものは、隠して食べる。
食べ方は同じだが、中身がちがう。

 うまいものを食べているのを知られると、「ぜいたく」と叱られる。
まずいものを食べているのを知られると、「貧乏」と笑われる。
だからうまいものは、隠れて食べる。
まずいものは、隠して食べる。
それがその村の習慣。

みながそうしているから、ひとりだけ別行動と言うわけにはいかない。
別行動をしたとたん、「変わり者」というレッテルを張られる。
さらにさからえば、あの恐ろしい「村八分」。
村八分が待っている!

●詮索

 村の人たちは、詮索しあって生きている。
「他人の不幸話ほど、おもしろいものはない」と、だれも、口にこそ出しては言わないが、
みな、そう思っている。
 で、ひとたび、どこかの家で不幸な話があると、またたく間に、村中に広がる。

「ああ、あわれや、あわれや……。Aさんとこの息子は、傷害事件を起こし、今度
高校を退学になったそうや……。ああ、あわれや。かわいそうや」と。

 ときに涙声になるが、もちろん、涙は一滴も出ない。
あるいはよく使う言葉が、これ。

「ここだけの話ですがね……」
「あの人の悪口だけは言いたくないのですがね……」
「私はどちらでもいいと思っているのですが、村の人ほかのたちは、
何と言いますかねエ……」と。

●相対的価値観

 だからたぬき村の人たちは、たがいの家の内情を、たいへんよく知っている。
昔から『米櫃(びつ)の中の、米の数まで知っている』というが、それはけっして
おおげさな言い方ではない。
それこそ息子や娘たちの給料の明細まで、知っている。
 現金収入、アルバイト収入、副収入……。
すべて知っている。

 そしてたぬき村での幸福感は、相対的なもの。
「他人より、よい生活ができれば、リッチ、幸福」
「他人より、悪い生活になれば、プア、不幸」と。

 だから隣人の生活が気になる。
気になってしかたない。
そして最後は、こうなる。

『みんなで渡れば怖くない』
『出る釘は打たれる』
『渡る世間は、鬼ばかり』と。

 それがたぬき村の処世術。

●ドロドロした人間関係

 年功序列、上下意識、権威主義、家父長意識、加えて「家」意識。
たぬき村には、みな、残っている。
封建時代の邑(むら)意識が、そのまま、残っている。
しっかりと残っている。
たぬき村には、「正直」「誠実」という言葉は、ない。
あるとすれば……、

『小悪を暴露して、大悪を隠す』
『小善をなして、善人ぶる』
『建前で本音を隠す』などなど。

 ついでに『面従腹背』というのもある。
表面的にはにこやかにつきあいながら、裏で足を引きあう。
のどかな、のどかな、どこまでも牧歌的な温もりのする世界だが、
その皮を一枚むけば、そこにあるのはドロドロした人関係。
それが底なしに渦巻いている。

●嫉妬と見栄

 たぬき村の人は、概して言えば、嫉妬深い。
それが先に書いた、足の引きあいということになる。
驚くなかれ、たぬき村では、「香典抜き」は、日常茶飯事。

 だれかが亡くなって葬式になったとする。
で、そういうとき、香典を、ぜったいに村の人に預けてはいけない。
頼んでもいけない。
3万円の香典が、1万円に化けるなどということは、当たり前。
中には、香典そのものをかすめてしまう人もいる。

 遠方に住む親類からの送金については、なおさらである。
……こんなことを書くと、「そんなことをすれば、すぐバレてしまうでしょう」
と思う人もいるかもしれない。

 しかしそこはたぬき村。
香典抜きをするにしても、たがいの微妙な人間関係を知り尽くした上でする。
たがいに連絡を取り合うことはないだろうということを知り尽くした上で、それを
する。

●口がうまい

 たぬき村の人は、口がうまい。
お世辞、へつらい、おじょうずは、日常の会話。

「あなたが今度、祭の役人に加わってくださったら、みんな、喜びますよ。
なんといっても、あなたがこの村の立役者ですから」と。
で、その人がその気になって祭の会合に出ても、その話はいっさい、なし。
どこかみな、シラーとしている。

 が、こんな程度のことで、腹を立てていたら、村の人たちとのつきあいはできない。
「そういうもの」と割り切ってつきあうしかない。
だから会合に誘ってくれた人には、こう言って言い返す。

「みんな楽しそうですね。いい雰囲気です。何といっても、祭は祭りですから……」と。
ついでにカラ笑いをしてみせる。
カラカラと豪快に、カラ笑いしてみせるほど、よい。

●新しく薬局が開店

 そんな村に大異変が起きた。
「田舎暮らし」キャンペーンとかなんとかに踊らされた、1人の都会人が、
その村に移住してきた。
村のはずれに、薬局を開いた。
元、薬剤師の男性だった。

 その男性は、近所のあちこちを回り、それなりに礼を尽くした。
しかし開店当日から、客はゼロ。
あの手この手で、宣伝に努めたが、(もちろん価格も安くしたが……)、
客はゼロ。

 それもそのはず。
その村には、もう一軒、薬局というより、昔からの小さな薬屋があった。
その薬屋の経営者が、その村でも長老格の親分だった。

 村の人たちは、無言の圧力を感じて、新しい薬局へ入ることができなかった。

●浜松市

 日本もまだまだ、広い。
つまい地域によっては、こうしたウソがまったく通用しない地域もある。

 たとえば私が現在住んでいる浜松市の人たちは、ものの考え方がストレート。
もの売買でも、駆け引きをしない。
ものを買うとき、それを値切る人はいない。
口もへただし、おじょうずも言わない。

 私もこの町に住んで40年近くになる。
当初はあれこれ、戸惑ったこともあるが、今は、この町が好き。
すがすがしさを覚える。
この町では、なにかにつけ、相手が言った通りのことをすればよい。
私の義兄、義姉にしても、みな、そうだ。
私のワイフなど、とくにそうだ。

 つまりわかりやすい。
ときに、冷たく感ずることもあるが、そのほうが気が楽。
そんなある日、ワイフと私が、たぬき村にある、一軒の民宿に一泊することになった。

●朝ごはん

 夏場以外は、泊り客など、ほとんどいないという民宿だった。
そんな朝、「バスの時刻もあるから、私は、朝食は結構ですと断った。
しかし、である。
さあ、民宿を出ようとすると、そこに朝食が用意してあった。

 私が「朝食は食べないと言ったつもりですが……」と言うと、その家の
女主人(50歳くらい)はこう言った。
「まあ、そんなこと言わんでもいいから、食べていきなさい。
また来てもらわねばならなんから」と。

 一事が万事というか、たぬき村では、日本語が通じない。
みな、それぞれが、自分流のやり方で動いてしまう。
だからワイフは、こう言った。

「この村の人たちは、何を考えているか、さっぱりわからない」と。

 そう、まったくわからない。
だから「たぬき村」。

●たぬき

 たぬきといっても、(善良なたぬき)もいれば、(腹黒いたぬき)もいる。
が、その差は、紙一重。
(善良なたぬき)といっても、これまた演技。
善良なたぬきと思っていると、それが別のところでは、腹黒いたぬきに変身したりする。
腹黒いたぬきも、それなりに善良なたぬきを演ずることもある。
が、概して言えば、たぬきはたぬき。

『小悪を暴露して、大悪を隠す』
『慇懃(いんぎん)無礼で証拠を残さない』
『連絡を取り継がない』などなど。
話のすりかえ、とぼけ、ごまかしなどは、日常茶飯事。

 一本筋の通った文化性がない。
いつもあたりをキョロキョロを見回しながら、様子をうかがう。
様子をうかがいながら、自分の行動を決める。
だからたぬき村の人たちは、なによりも世間体を気にする。
とくに冠婚葬祭を気にする。

 もちろん派手であればあるほど、よい。
派手であればあるほど、その家の「力」と評価される。
たぬき村での地位も高くなる。

 たぬき村……どこの村の話ということではない。
たぬき村は、どこにでもある。
あなたの近くにもある。

●では、どうするか?

 たぬき村は、相手を知り尽くせば、それなりにおもしろい。
「日本にも、こういうところが残っているのだなあ」と、ときに、感心することもある。
が、鉄則は、ただひとつ。

 いつもどこかで一線を引いてつきあうこと。
けっして深入りしてはいけない。
巻き込まれてはいけない。
動物園で動物を観察するようなつもりで、観察する。

 というのも、たぬき村の人たちは、自分たちは、それでも(まとも)と思い込んでいる。
外の世界を知らない。
だから自分たちが、(標準)と思い込んでいる。
もちろん自分たちが、(たぬき)とは思っていない。
すべてがそういう尺度で動いている。

 だから、説教したり、説明したりしても、無駄。
言うだけ無駄。
反対に、「あなたには義理人情というものが、わからないのですか」とやり返されてしまう。
200年、300年とつづいた、伝統ある(?)村の意識は、そうは簡単には変えられ
ない。

 そうそう先に薬局を出した男性の話を書いた。
これは私が当事者から直接聞いた、実話である。
「薬局」、つまり「薬屋」というのも、本当の話である。

 で、その男性は、こう考えていた。

「1年ほど薬局を経営してみて、それが軌道に乗ったら、都会に住む家族を呼び寄せよう」
と。
しかし1年を待たずして、薬局は閉店。
つぎには日雇いの労働者となって、工事現場で働くようになった。
が、やがてそれも限界に来た。
その男性は、薬局と自宅を売り払い、さらにその1年後、再び、都会へ逆戻り。

 で、私には、こう言った。
「たぬき村には、もうこりごり。二度と、あんなところへは行きたくありません」と。

 たぬき村とは、そんな村をいう。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●さすが受験国家!

+++++++++++++++++

韓国は、世界に名だたる「受験国家」。
押しも押される受験国家。
そのはげしさは、群を抜いている。
子どもたちは幼児期から受験塾に通っている。

で、現在、各界で活躍するエリートたちは、
そうした過酷な受験競争を勝ち抜いて
きた連中ばかり。
そうした傾向は、韓国系の新聞に
目を通してみると、よくわかる。

何かにつけて、点数と順位にこだわる。
ついでに何が気になるのか、この日本に
こだわる。

百聞は一見にしかず。

朝鮮N報の記事をそのまま紹介する。

大見出しは、『日本は、13位!』
(ごちそうさま!)

++++++++++++++++

+++++++++++++以下、朝鮮N報、8月20日より++++++++++++

 一方、日本は政治力(11位)、文化力(10位)などの不振で、ソフトパワー(8位)がハードパ
ワー(3位)に比べて劣っている。特に、日本は国会や政党に対する信頼、政治家の国際的経
験などが主要20カ国・地域(G20)の中でも中位以下にとどまっており、政治力の分野では、
韓国同様に悩みを抱えていることが分かった。(朝鮮N報・8月20日)

+++++++++++++以上、朝鮮N報、8月20日より++++++++++++

 どうしてそうまで点数と順位にこだわる?
日本にこだわる?
少しは自分たちが体質としてもっている異常性に気がついたらよい。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090821) 

●酒井N子の賠償責任

++++++++++++++++++

どうして酒井Nが、賠償責任?
まず、つぎの記事を読んでみてほしい(ヤフーNEWSより)

++++++++++以下、ヤフーNEWSより+++++++++++

酒井N容疑者が所属するサンミュージックに、CMやファッションブランドの打ち切りなどで億単
位の賠償金が請求される可能性が出てきた。このうち、酒井容疑者がどれだけ負担するかが
焦点になっている。

■田代Mは、8000万円請求される

 テレビに出ることは最近少なかった、のりピーことタレントの、酒井N容疑者(38)。とはいえ、
CMにファッションブランド、裁判員制度PR映画と、その清純派キャラをビジネスにうまく生かし
ていた。

 それだけに、覚せい剤事件を起こして、巨額の損害賠償のうわさがささやかれている。元タレ
ントの田代Mさん(52)は、内外タイムスの2009年8月18日付コラムで、自らも事件を起こし
た経験から賠償について語った。

 田代さんは、「すでに収録が終わっていた番組がお蔵入りしてしまい、賠償金を8000万円
請求されてまだ返してる最中」と告白。そして、「のりピーの場合さらにCMの違約金なども発生
してすごい額になってしまうのではないかと…」などと、つづっている。

 実際、酒井容疑者は、CMでは、トヨタ自動車と製薬会社のアラクスと契約しており、トヨタが
契約の打ち切りを予定し、アラクスが契約解除の交渉をしている。CM制作には、数億円かか
るとされるから、損害は大きい可能性がある。

 また、酒井容疑者のファッションブランド「PP rikorino」について、伊藤忠商事はすでに契約を
継続しない決定をしている。150品目もあるといい、商品が店頭から撤去されたとも報じられ
ている。

 さらに、酒井容疑者が出演の裁判員制度PR映画「審理」について、最高裁がDVD貸し出し
中止などを行った。制作費だけで7100万円もかかっているという。

 このほか、ビクターエンタテインメントが、酒井容疑者のCD、DVDを出荷停止などにし、ベス
ト盤CDの発売も中止している。

 ただ、損害賠償の請求については、各企業や最高裁では、まだ決まっていないなどとしてい
る。

++++++++++以上、ヤフーNEWSより+++++++++++

●法的根拠

 契約内容にもよる。
各企業と酒井N子、さらには各会社とプロダクション、またプロダクションと酒井N子
の間で、どのような契約が取り交わされていたのか。
それがはっきりしないので、ここではあくまでも、「?」というレベルで、ものを書く。
つまり、こういうこと。

 各企業は、プロダクションを通して、酒井N子に、モデルなどを依頼し、販促用の
DVDなどを制作していた。
それはわかる。

 ところが今回、酒井N子は、覚せい剤の所持、使用などで逮捕された。
それもわかる。
しかしどうしてこのことが、酒井N子への損害賠償請求へとつながっていくのか?
因果関係については、推察することはできるが、それを証明するとなると、至難の業。
「酒井N子が逮捕されたので、制作したDVDが使用できなくなりました」と。
どうやってその連続性を証明するのか?

 言葉は悪いが、そんなのは、各企業の責任。
各企業が、バカだっただけ。
ろくに人選もせず、イメージだけで販促用のDVDなどを制作した。
プロダクションにしても、通常、そこまで個人の私生活など、知るのは不可能。
覚せい剤などというものは、もともと隠れて使用するもの。
「知らなかった」を押し通せば、それですむ。
……すんでしまう。
(実際、知らなかっただろうし……。)

 『億単位の賠償金が請求される可能性が出てきた。このうち、酒井容疑者がどれだけ負担す
るかが焦点になっている』というが、その法的根拠は何か?

 たとえば冒頭に書いたように、契約書か何かに、「出演者が故意もしくは過失により、
DVDの発行を無理せしむべく行為をなしたばあいには、出演者が賠償の責を負う』
というような条項でもあれば、話は別。

 (そあたりは、どうなっているのかな?)

 それについて、あの田代Mさん(マスコミ界では、すでに「〜〜さん」づけで呼んで
いるが……)は、こう答えている。

『すでに収録が終わっていた番組がお蔵入りしてしまい、賠償金を8000万円請求され、まだ
返している最中』と。

 本当かな?
本当に返している最中かな?
それはともかくも、田代Mさんは、どうして損害賠償責任を負ったのか?
考えれば考えるほど、わからない。

 で、問題は、酒井N子が、「裁判員制度PR映画」に加担していたということ。
よくある話である。
何でもないそこらのタレントが、ある日突然、日本を代表する、〜〜救済活動の
リーダーに変身したりする。
そこに至るプロセスは、何もない。
(その家に、ホームレスの人が何十人も寝泊りしているという話があるなら、私はまだ
納得するが、そういう話は、まったくない。)

 自分は億単位の大豪邸に住んで、億単位の年収を稼ぎ、何が〜〜救済運動だ!
偽善者もよいところ!
……というバカげた話の延長線上に、酒井N子がいる。

 ところで、彼らの合言葉を知っているか?

『中央で有名になって、地方で稼げ』だ。

私も若いころ、マスコミの世界で仕事をしていたから、そのあたりのことをよく知って
いる。
知名度があがればあがるほど、その分だけ、稼ぎが増える。
だから出演料5000円でも、一着数百万円もかけた衣装を身につけてテレビに出る。
……出たがる。
(NHKでは、どんな出演者でも、30分で5000円と、一律に決まっていた。当時)

 それに踊らされるのは、各企業、そして私たち、名もなき、力もない、一般庶民。

 何も酒井N子の肩をもつわけではないが、裁判員裁判制度のPR映画に使った、
7100万円は、担当職員たちに支払わせればよい。
「有名人を使えば、それだけ効果があがるはず」と考える、浅はかさ!
日本の司法関係者まで、ギャグに踊らされている!
このおかしさ!
少しは、自分に恥じたらよい!

(そう言えば、酒井N子は、その裁判員たちよって、裁判を受けるのか?)

 各企業は、たぶん、「イメージをつぶされた」とか何とか言って、怒っているのだろう。
しかし裏を返して言うと、そのイメージとやらを使って、私たち庶民をだますことに
失敗しただけではないのか。
損害賠償うんぬんという話ではない。

 もともと胡散(うさん)臭い世界での、痴話劇。
成り行きを注視したい。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●メタ認知能力(Metacognitive Ability)とは、何か

++++++++++++++++++++++

メタ認知能力とは何か。
川島真一郎氏(高知工科大学大学院)の修士学位論文より、
一部を抜粋引用させてもらう。
(出典:メタ認知能力の向上を指向した
高校数学における問題解決方略の体系化
Systematization of Problem Solving Strategy in High
School Mathematics for Improving Metacognitive
Ability(平成19年))

++++++++++++++++++++++

●メタ認知

メタ認知(metacognition)とは、認知活動についての認知のことである。メタ認知概念
は、ブラウン(A・Brown)やフラベル(J・H・Flavell)によって1970 年代に提唱された。

メタ認知は、まずメタ認知的知識(meta-cognitive knowledge)とメタ認知的活動
(metacognitiveactivity)に分かれ、それぞれがさらに細かく分かれる。メタ認知的知識とは、メ
タ認知の中の知識成分を指す。メタ認知的知識は、人間の認知特性についての知識、課題に
ついての知識、課題解決の方略についての知識の3 つに分けて考えることができる。メタ認知
的活動とは、メタ認知の中の活動成分を指す。メタ認知的活動は、メタ認知的モニタリング、メ
タ認知的コントロールの2 つに分かれる。メタ認知的モニタリングとは、認知状態をモニタする
ことである、認知についての気づき(awareness)、認知についての感覚(feeling)、認知につい
ての予想(prediction)、認知の点検(checking)などが含まれる。メタ認知的コントロールとは、
認知状態をコントロールすることである。認知の目標設定(goal setting)、認知の計画
(planning)、認知の修正(revision)などが含まれる。

困難な場面に遭遇したとき、タ認知はその事態を打開すべく、関係のありそうな経験や
知識を想起する。似たような困難を克服した経験があれば、それは大きな手掛かりとなる。

過去の経験がそのままでは使えないときでも、見方を変えたりすることで使えることもあ
る、直面している問題が極めて困難なときは、条件の一部を解き易い形にした問題をまず解
いてみることが手掛かりになることがある。また、問題の解決に使えそうな法則なども思い出
し、解決に向けた道筋を描く。解決に向けた一番確かそうな方針が決まれば、実行してみる。
間違いを犯しそうな場面では注意深く実行し、時々方針が間違っていないか検討を加える。こ
のようにして、メタ認知はルーティンワークでない困難な問題を解決するときに、力を発揮する
と考えられる。

そして、メタ認知能力は使うことで訓練をしなければ、その能力は向上しないと考えられ
る。訓練するための問題は、メタ認知が働かなくても解決できるような平易過ぎる問題は役に
立たない。適度な難易度の問題を解決することが必要である。従って、パターン暗記に終始す
るような学習では、メタ認知能力は向上しないと考えられる。その意味で、生徒が試行錯誤し
ながら自力で問題の解決を図る問題解決学習は、その狙いが実現できれば、メタ認知能力の
育成に大いに効果を発揮すると考えられる。
(以上、川島真一郎氏の論文より)

+++++++++++++++++++++

●メタ認知能力(Metacognitive Ability)

 私は「メタ認知能力」なるものについては、すでに10年ほど前から、原稿を書いて
きた。
が、ここ数年、この言葉をあちこちで聞くようになった。
しかし本当のところ、メタ認知能力とは何か、私もよくわかっていない。

 そこでまず私がとった手段は、メタ認知能力、つまりMetacognitive Abilityについて、
できるだけ原文に近い文献をさがすことだった。
最初は、直接アメリカの文献(英文)から調べようとしたが、先に、ひとつの文献を
さがしだすことに成功した。
ここに紹介した川島真一郎氏の修士学位論文が、それである。
わかりやすく書いてあるので、そのまま引用させてもらった。

 つまり私は、(メタ認知能力)とは何か知るために、つまりその壁を打開するため、
今までの経験を総動員して、(おおげさかな?)、あちこちを調べた。
その結果が、先にあげた論文の一部ということになる。

●メタ認知能力

 が、これだけをさっと読んだだけでは、意味がよくわからない。
内容を、もう少し整理してみる。

メタ認知

(1)メタ認知的知識(meta-cognitive knowledge)
メタ認知の中の知識成分を指す。
(1)人間の認知特性についての知識、
(2)課題についての知識、
(3)課題解決の方略についての知識の、33つに分けて考えることができる。


(2)メタ認知的活動(metacognitive activity)
メタ認知的活動とは、メタ認知の中の活動成分を指す。メタ認知的活動は、
(1)メタ認知的モニタリング、
(2)メタ認知的コントロールの2つに分かれる。

 これでだいぶ頭の中がすっきりしてきた。

 さらに、

(1)メタ認知的モニタリングとは、認知状態をモニタすることである。
認知についての気づき(awareness)、認知についての感覚(feeling)、認知についての予想
(prediction)、認知の点検(checking)などが含まれる。

(2)メタ認知的コントロールとは、認知状態をコントロールすることである。
認知の目標設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の修正(revision)などが含まれ
る、と。

●実益

 先にメタ認知能力の実益について、引用させてもらう。
川島真一郎氏は、こう書いている。

『メタ認知はルーティンワークでない困難な問題を解決するときに、力を発揮すると考えられ
る。そして、メタ認知能力は使うことで訓練をしなければ、その能力は向上しないと考えられる』
と。

 日常的な行動を同じように繰り返すようなときには、メタ認知能力は、力を発揮しない。
つまり難解で、より高度な知識と経験を必要とするような問題に直面したとき、メタ認知
能力は力を発揮する、と。

 そしてそのメタ認知能力は、訓練しなければ、向上しない、ともある。

●因数分解

 川島真一郎氏は、因数分解を例にあげて、メタ認知能力がどういうものであるかを
説明している。
そのまま印象させてもらう。

++++++++++以下、川島真一郎氏の論文より+++++++++++++

7。 <題>求めるもの(答え)と、与えられた条件の関係を発見せよ。[関係は直接的に見
えるときもあれば、仲介物を通して初めて見えて来るときもある。例えば、中間的な目標を設
定せよ。(例)(a + b + c)(bc + ca + ab) ? abc を因数分解せよ。]
8。 <眼><針>関係の有りそうな公式は何か。
9。 <経><予>似た問題を思い出せ。
10。 <経><眼><針>似た問題の方法や結論を利用できないか。[(例)x、 y の対称式
はx + y とxy で表せる。]
11。 <眼><針>求めるもの(答え)の形を考え、それを具体的に(例えば式に)できな
いか。[また、その形のどの部分を求めればよいか。それを求めるのに、条件をどのように
使えるか。]
12。 <眼><針>与えられた条件や式を、解答で使い易いように変形できないか。[場合
によっては、結論の式から解答を進めて、後で比較するのが有効なときも有る。]
13。 <助><検>(方針の選択や解答の進め方について)解法の大筋を捉える。[大まか
な見通しを持つことが、解答への着手を促し、右往左往したり、袋小路に入ったりするのを防
ぐ。(例)増減表を書けば解けそう。判別式を利用できそう。等々]
14。 <経><眼><針>前に使った方法が直接使えないとき、補助的な工夫を加えること
で使えるようにならないか。[(例)角度の問題で、補助線を引く事で三角形の問題と捉
える。]
15。 <眼><針>求める結果が得られたと仮定して、逆向きに解けないか。[求める結果
を明確にイメージすることで、必要となる道筋が見えてくることが有る。]
16。 <眼><針>定義に帰ることで、手掛かりが得られることが有る。[2 次関数関連の
問題と判別式の関係。微分係数の定義。等々]
17。 <困><眼><針>問題を言い換えることで、容易になったり、既習の解法が使えた
りしないか。(そのとき、与えられた条件はどう変わるか。)[問題を違った視点から見る。
(例)sin θ+ cos θ の最大値を求めるのに、単位円周上の点P(x、 y) を利用する。]
18。 <困><眼><針>問題を一般化することで、容易になることがある。[(例)具体的
な数値の問題を、一般的な文字に置き換えることで見通しが良くなることが有る。]
19。 <困><眼><針>問題を特殊化することで、解決の糸口がつかめるときがある。
[(例)直方体の対角線の長さを求める問題で、高さが0 の場合を解いてみる。]
20。 <困><分><眼><針>条件の一部からどんなことが分かるか。[条件を幾つかの
部分に分けられないか。全体の解答とどう関係するか。]
21。 <困><眼><針>解き易い類題を考えることが、元の問題の手掛かりになることが
ある。[問題の一部は解けるか。どういう条件が付加されていれば解き易いか。等々]
22。 <補><検><助>条件の使い忘れはないか。
(CP)
23。 <題><検>方針に従い解答を進め、適当な段階で検討を加え、必要に応じて方針を
見直す。
24。 <補>自信の持てるる解き方から試みよ。[大抵の問題は、何通りか解き方がある。
(例)基本的な公式だけを使う。図形を利用する。微分を利用する。等々]
(LB)
25。 <題>結果の検討。[少しの検討が、長い目で見ると大きな効果をもたらす。]
26。 <検><眼>別の解法はないか。得られた答えが別の簡単な解法や、答えの意味を示
しているときが有る。
4。4 体系化された問題解決方略の適用
27。 <検><眼>使った方法や結果を総括する。他の問題に応用できないか。

++++++++++以下、川島真一郎氏の論文より+++++++++++++

●因数分解(例)

 高校生たちに因数分解を教えるとき、私自身は、半ばルーティンワーク的に解いて
みせている。
(因数分解そのものは、解法公式はほぼ確立していて、簡単な問題に属する。)

しかしこのように内容を秩序だてて分析されると、「なるほど、そうだったのか」と、
改めて、驚かされる。
私はそれほど意識せず、メタ認知能力を、応用かつ利用していたことになる。
率直に言えば、「メタ認知能力というのは、こういうものだったのか」と納得する
と同時に、「奥が深いぞ」と驚く部分が、頭の中で交錯する。

 ちなみに、先の(a + b + c)(bc + ca + ab) - abcを、別の紙で、因数分解してみた。
因数分解の問題としては、見慣れない問題である。

(1)見ただけでは、瞬間、頭の中で公式が浮かんでこない。
(2)直感的に、「いつものやり方ではできない」ということがわかる。

 が、こういうときの鉄則は、(3)「ひとつの文字に着目しろ」である。
この問題では、(a)なら(a)に着目し、(a)について式をまとめる。

 しかしこの場合、一度、式をバラバラにしなければならない。
結構、めんどうな作業である。
が、ここで「こんなめんどうな問題を出題者が出すはずがないぞ」というブレーキが働く。
「時間さえかければ、だれでもできる」というような問題は、数学本来の問題ではない。
ただの作業問題ということになる。

 そこで私は、(4)もっと簡単な方法はないかをさがす。
(bc + ca + ab)という部分に着目する。
(a)でくくれば、(b+c)という因数を導くことができる。
(b+c)を、(B)と一度置き換えてから、因数分解できないかを考える。
しかしもう一つの項、(abc)が残る。
つぎの瞬間、「この方法ではだめだ」と直感する……。

 ……というように、認知の目標設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の
修正(revision)を繰り返す。

●高度な知的活動

 小学1年生が訓練するような、足し算の練習のような問題は、ただの訓練。
メタ認知能力など、必要としない。

 そこで昨日(8月21日)、メタ認知能力を確かめるため、私は小学2、3年生クラス
で、ツルカメ算の問題を出してみた。
あらかじめ、「ツルが2羽、カメが4匹で、足は合計で何本?」というような練習
問題を5〜6問、練習させる。
そのとき「できるだけ掛け算を使って、答を出すように」と指示する。

 それが一通りすんだところで、「ツルとカメが、合わせて、10匹います。
足の数は、全部で、28本です。
ツルとカメは、それぞれ何匹ずついますか?」という問題を出す。

 で、このとき子どもたちを観察してみると、いろいろな反応を示すのがわかる。
(私の教室の子供たちは、幼児期から訓練を受けている子どもたちだから、こうした
問題を出すと、みな「やってやる!」「やりたい!」と言って、食いついてくる。)

 絵を描き始める子ども。
足を描き始める子ども。
意味のわからない記号を書き始める子ども。
2+2+2……と、式を書き始める子どもなどなど。

 こうした指導で大切なことは、(解き方)を教えることではない。
(子ども自身に考えさせること)である。
だから私は、待つ。
ただひたすら、静かに待つ。

 が、やがて1人、表を書き始める子どもが出てきた。
私はすかさず、「ほう、表で解くのか。それはすばらしい」と声をかける。
するとみな、いっせいに、表を描き始める。
表の形などは、みな、ちがう。
しかしそれは構わない……。

 (こうした様子は、YOUTUBEのほうに動画として、収録済み。)

●メタ認知能力の応用

 こうして書いたことからもわかるように、メタ認知能力というのは、もともとは、
数学の問題を解法技法のひとつとして、発見された能力ということになる。
しかしその奥は、先にも書いたように、「深い」。
日常的な思考の、あらゆる分野にそのまま応用できる。
ひとつの例で考えてみよう。

●パソコンショップの店員

 こういう書き方ができるようになったのは、私もその年齢に達したから、ということ
になる。
パソコンショップの店員には、たいへん失礼な言い方になるかもしれないが、そういう
店員を見ていると、ときどき、こう考える。

「だから、どうなの?」
「この人たちは、自分の老後をどう考えているんだろ?」
「もったいないな」と。

 つまりパソコンショップの店員の目的は、パソコンを客に売ること。
しかしそんな仕事を、仮に10年つづけていても、身につくものは何もない。
店が大きくなり、支店がふえれば、支店長ぐらいにはなれるが、そこまで。
だから「だから、どうなの?」となる。

 つぎにパソコンショップの店員たちは、よく勉強している。
その道のプロである。
しかしプロといっても、一般ユーザーの目から見てのプロに過ぎない。
パソコンを自由に操ることはできるが、その先、たとえばプログラミングの仕事とか、
さらには、スーパーコンピュータの操作となると、それはできない。

 そこで私はこう考える。
「こうした知識と経験を使って、別の仕事をしたら、すばらしいのに」と。
たとえばデザインのような、クリエイティブな仕事でもよい。
それが「もったにないな」という気持ちに変わる。

 そこでメタ認知能力の登場!

(1)自分の置かれた職場環境の把握
(2)その職業を長くつづけたときの、メリット、デメリットの計算
(3)老後が近づいたときの、将来設計
(4)収入の具体的な使い道などなど。
 
 そうしたことを順に考え、自分の生活の場で、位置づけていく。
中には、「お金を稼いで、高級車を買う」という人もいるかもしれない。
しかしそれについても、メタ認知能力が関係してくる。
「だから、それがどうしたの?」と。

 高級車を乗り回したからといって、一時的な享楽的幸福感を味わうことは
できる。
が、できても、そこまで。
4〜5年もすれば、車は中古化して、当初の喜びも、半減する。

 ……つまりこうしてパソコンショップの店員は、メタ認知能力が少しでもあれば、
「もったいないな」を自覚するようになる。
また自覚すれば、生きざまも変わってくる。
同じ店員をしながらも、ただの店員で終わるか、あるいはつぎのステップに進むか、
そのちがいとなって、現れてくる。

 が、このことは、家庭に主婦(母親)として入った女性についても、言える。

●生きざまの問題に直結

 日常的な作業(=ルーティンワーク)だけをし、またそれだけで終わっていたら、
その女性の知的能力は、(高度)とは、ほど遠いものになってしまう。
電車やバスの中で、たわいもない愚痴話に花を咲かせているオバチャンや、オジチャン
たちを見れば、それがわかる。

 そこで重要なことは、あくまでもメタ認知能力の訓練のためということになるが、
つねに問題意識をもち、(問題)そのものを、身の回りから見つけていくということ。
問題あっての、メタ認知能力である。

 社会問題、政治問題、経済問題、さらには教育問題などなど。
あえてその中に、首をつっこんでいく。
ワーワーと声をあげて、自分で騒いでみる。
私はそのとき、そのつど文章を書くことを提唱するが、これはあまりにも手前みそ過ぎる。
が、(書く)ということは、そのまま(考える)ことに直結する。
ほかによい方法を私は知らないので、やはり書くことを提唱する。

 で、こうして書くことによって、たとえば今、「メタ認知能力」についての理解を
深め、問題点を知ることができる。
同時に、応用分野についても、知ることができる。
こうして自分がもつ知的能力を高めることができる。
そしてそれがその人の生きざまへと直結していく……。

 簡単に言えば、「自分の意識を意識化すること」。
それがメタ認知能力ということになる。
オックスフォード英英辞典によれば、「Meta」は、「higher(より高度の)」「beyond
(超えた)」という意味である。
「より高度の認知能力」とも解釈できるし、「認知能力を超えた認知能力」とも解釈
できる。

 私はこのメタ認知能力の先に、(ヒト)と(動物)を分ける、重大なヒントが隠されて
いるように感ずるが、それは私の思いすごしだろうか?
つまりメタ認知能力をもつことによって、ヒトは、自らをより高いステージへと、自分を
もちあげることができる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 メタ メタ認知能力 metacognitive ability 高度な知的活動)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

【メタ認知能力】(追記)(Metacognitive Ability)

+++++++++++++++

この数日間、「メタ認知能力」という
言葉に、たいへん興味をもっている。
以前にも何度か、それについて書いた
ことがある。
が、そのときは、それほど
重要視していなかった。
しかしその後、知れば知るほど、
なるほどと思う場面に遭遇した。

「メタ認知能力」……まさに人間だけが
もちうる、最高度の認知能力という
ことになる。

+++++++++++++++++

●食欲とメタ認知能力

 食欲中枢は、脳の中でも視床下部というところにあることがわかっている。
そこにあるセンサーが、血糖値の変動を感知して、食欲を増進させたり、反対に
食欲を減退させたりする。

 しかしこれら2つの働き、つまり(食欲増進)を促す中枢部と、(食欲抑制)を
促す中枢部が、最近の研究によれば、別々のものというところまでわかってきている。
これら2つの中枢部がたがいに連携をとりながら、もう少し具体的には、絶妙なバランス
をとりながら、私たちの(食欲)を、コントロールしている。

●意識を意識する

 もちろん私たちは、こうした知識を、本という(文字)を通して知るしかない。
頭を開いて、その中を見て知るわけではない。
が、想像することはできる。
たとえば空腹感を覚えたようなとき、「血糖値がさがってきたぞ」とか、など。

 血糖値がさがると、胃や腸が収縮し始める。
空腹になると、おなかがグーグーと鳴るのはそのためだが、そうした変化に合わせて、
空腹感がどういうものであるかを知る。

 このとき、「ああ、腹が減ったなあ」だけでは、メタ認知能力はないということに
なる。
が、このとき、自分の脳みその中の変化を、想像してみる。
「ああ、今、食欲増進中枢部が働いているぞ」
「今度は、食欲抑制中枢部が働いているぞ」と。

 こうして自分の意識を、別の意識で客観的に評価する。
それをする能力が「メタ認知能力」ということになる。

●2つの働き

 これもひとつのメタ認知能力ということになるのか。
たとえば講演などをしているとき、自分の脳の中で、2つの働きが同時に起きている
のがわかる。
ひとつは、講演の話の内容そのものを考えること。
「この話には、異説があるので、注意しよう」とか、「この話は、もう少し噛み砕いて
話そう」とか、考える。

 もうひとつは、話しながらも、「残り時間があと20分しかないから、少し結論を
急ごう」とか、「つぎにつづく話は、途中で端折ろう」とか、時間を意識すること。
この両者が、交互というよりは、同時進行の形で働く。

 つまり講演している私を、別の意識が客観的にそれをみて、私にあれこれと命令を
くだす。

●知的能力

 教育の世界の話になると、ぐんと具体性を帯びてくる。
たとえば今、掛け算の九九練習している子ども(小2)を、頭の中で想像してみてほしい。
その子どもは懸命に、「二二が4、二三が6……」と暗記している。
そのとき子どもは、「なぜそれを学習しているのか」「なぜそれを学習しなければならな
いのか」「学習したら、それがどう、どのように役立っていくのか」ということについては、
知る由もない。

 「掛け算は覚えなければならない」という意識もない。
ないから、先生や親に言われるまま、暗記する……。

 これは子どもの世界での話だが、似たような話は、おとなの世界にも、いくらでもある。
またその程度の(差)となると、個人によってみなちがう。
言い換えると、メタ認知能力の(差)こそが、その人の知的能力の(差)ということにな
る。

●自己管理能力とメタ認知能力

 たとえば若い男性の前に、裸の女性が立ったとする。
かなり魅力的な、美しい女性である。
そのとき若い男性が、それを見てどのように反応し、つぎにどのような行動に出るかは、
容易に察しがつく。

 が、そのときその若い男性が、自分の中で起きつつある意識を、客観的にながめる
能力をもっていたとしたら、どうだろうか。
「今、視床下部にある性欲本能が、攻撃的な反応を示し始めた」
「ムラムラと湧き起きてくる反応は、食欲増進反応と同じだ」
「今、ここでその女性と関係をもてば、妻への背信行為となる」など。
いろいろに考えるだろう。

 こうしてメタ認知能力をもつことによって、結果的に、大脳の前頭連合野が分担する、
自己管理能力を、より強固なものにすることができる。

●スーパーバイザー

 「意識を意識する」。
それがメタ認知能力ということになるが、もう少し正確には、「意識を意識化する」という
ことになる。

 もちろんその日、その日を、ただぼんやりと過ごしている人には、(意識)そのものが
ない。
「おなかがすいたら、飯を食べる」
「眠くなったら、横になって寝る」
「性欲を覚えたら、女房を引き寄せる」と。

 が、そうした意識を、一歩退いた視点から、客観的に意識化する。
言うなれば、「私」の上に、スーパーバイザー(監督)としての「私」を、もう1人、置く。
置くことによって、自分をより客観的に判断する。
たとえば……。

 「今日は寒いから、ジョギングに行くのをやめよう」と思う。
そのときそれを上から見ている「私」が、「ジョギングをさぼってはだめだ」
「このところ運動不足で、体重がふえてきている」「ジョギングは必要」と判断する。
そこでジョギングをいやがっている「私」に対して、「行け」という命令をくだす。
言うなれば、会社の部長が、なまけている社員に向かって、はっぱをかけるようなもの。
部長は、社員の心理状態を知り尽くしている。

●うつを知る

 メタ認知能力は、訓練によって、伸ばすことができる。
私なりに、いくつかの訓練法を考えてみた。

(1)そのつど、心(意識)の動きをさぐる。
(2)それが脳の中のどういう反応によるものなのかを知る。
(3)つぎにその反応が、どのように他の部分の影響しているかを想像する。
(4)心(意識)の動きを、客観的に評価する。

 この方法は、たとえば(うつ病の人)、もしくは(うつ病的な人)には、とくに
効果的と思われる。
(私自身も、その、「うつ病的な人」である。)

 というのも、私のようなタイプの人間は、ひとつのことにこだわり始めると、そのこと
ばかりをずっと考えるようになる。
それが引き金となって、悶々とした気分を引き起こす。

 そのときメタ認知能力が役に立つ。
「ああ、これは本来の私の意識ではないぞ」
「こういうときは結論を出してはいけない」
「気分転換をしよう」と。

 すると不思議なことに、それまで悶々としていた気分が、その瞬間、とてもつまらない
ものに思えてくる。
と、同時に、心をふさいでいた重い気分が、霧散する。

●メタ認知能力

 メタ認知能力を養うことは、要するに「自分で自分を知る」ことにつながる。
ほとんどの人は、「私は私」と思っている。
「私のことは、私がいちばんよく知っている」と思っている。
が、実のところ、そう思い込んでいるだけで、自分のことを知っている人は、ほとんど
いない。
(私が断言しているのではない。
あのソクラテスがそう言っている。)

 が、メタ認知能力を養うことによって、より自分のことを客観的に知ることができる。
「私は私」と思っていた大部分が、実は「私」ではなく、別の「私」に操られていた
ことを知る。
それこそが、まさに『無知の知』ということにもつながる。

 もちろん有益性も高い。
その(有益性が高い)という点で、たいへん関心がある。
応用の仕方によっては、今までの私の考え方に、大変革をもたらすかもしれない。
またその可能性は高い。

 しばらくはこの問題に取り組んでみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 メタ認知能力 Metacognitive Ability)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●メタ認知能力(Metacognitive Ability)

+++++++++++++++++++++

「メタ認知能力」?
私は新しい概念に出あったりすると、
それが何であるかを知るために、ときどき
こういう手法をもちいる。

(メタ認知能力のすぐれた人)を想定する。
一方で、(メタ認知能力に欠ける人)を想定する。
その両者を比較する。
比較して、その(ちがい)を洗い出す。

この手法は、教室でもよく使う。
たとえば(問題のある子ども)がいたとする。
そういうときは、(問題のない子ども)と比較しながら、
その(ちがい)を洗い出す。

++++++++++++++++++++++

●メタ認知能力のある人

 「メタ認知能力」とは何か?
実のところ、私にもよくわからない。
だから私なりの解釈を加えてみる。
が、私の解釈が正しいとはかぎらない。
実のところ、意識に関する概念は、どれもむずかしい。
意識そのものが、漠然としている。
概念としては理解できるが、そこまで。
たとえば「潜在意識」というものにしても、概念としては理解できるが、
どれが潜在意識で、どれがそうでないかというと、それがよくわからない。
「これが潜在意識」とわかったとたん、それは潜在意識ではなくなる。
「意識」ということになる。

そういう前提で、つまりまちがっているかもしれないという前提で、
私なりに、メタ認知能力について、書いてみる。
だからここに書くことが、「メタ認知能力」というわけではない。

●私の性質

 たとえば私は、ひねくれやすい性質をもっている。
子どものころからずっとそうで、それには私の乳幼児期の育児環境が大きく影響して
いる。
こんなことがあった。

 小学2年生のときのことだった。
その日、私は弁当を忘れた。
母が作り忘れた。
で、担任の先生が、自分の弁当箱のフタに、みなから少しずつごはんとおかずを
集めてくれた。
それを私にくれた。
しかし私は、それを食べなかった。
食べられなかった。
がんとして、それを拒否した。

 ふつうなら、みなの好意をそのまま受け入れて、「ありがとう」と言ってたべるだろう。
心がすなおに育っている子どもなら、そうする。
が、私には、それができなかった。
 今でも、それが残っている。

●分離不安症?

 弁当を食べなかったのは、私の(がんこさ)だったかもしれない。
プライドが許さなかったのかもしれない。
が、こういう例で説明すれば、もう少しよく、私のゆがんだ性質を、
わかってもらえるかもしれない。

 たとえば私は子どものころから、ひとりで寝るのが苦手だった。
若いころは、それなりに気力で自分を支えたが、結婚してからは、がくんと
弱くなってしまった。
以来、ワイフとは、いつも床を同じくして、眠っている。
が、これにも私の生い立ちが関係している。

 で、そういう中にありながら、私はそれを心のどこかで(引け目)に感じている。
ときどきワイフも、そういう言う。
「あなたは、おとなの分離不安症よね」と。

 だからたとえば、ワイフが先に、さっさと床に入ってしまったようなときなど、
あのひねくれやすい症状が顔を出す。
置いてきぼりをくらったかのような、怒りを覚える。
そしてこう思う。
「だれがあんなヤツと、いっしょに寝てやるか!」と。

 私は、書斎の横にある部屋で、ひとりで寝る。
そういう私を心配して、ワイフがやってきて、こう言う。
「何をいじけているの! 早く寝なさいよ」と。
私はワイフの言葉にせかされ、いそいそと寝床に入っていく……。

●ひねくれ症状

 実はつい先日も、そういう状況になった。
が、そのときはちがった。
私は「メタ認識能力」という言葉を知っていた。
で、それを自分に応用してみた。

 ワイフは、先に床に入った。
私が部屋に入ると、すでに寝息をたてて眠っていた。
それを見て、またまたあのひねくれ症状が出てきた。

 で、そのとき私はその(症状)がどこから出てくるかを、自分で観察してみた。
が、不思議なことに、本当に不思議なことに、観察し始めたとたん、それが
パーッと、霧のように散ってしまった。

 これには驚いた。
もともと(ひねくれ症状)には、実体がない。
本来の(私)の上に、雲のように、おおいかぶさっているだけ。
理屈があるわけでもない。
理由などない。
私は「ナ〜ンだ、こんなものか」と思いながら、いつものように寝床に入った。

●メタ認知能力のない子ども

 が、もしメタ認識能力がなかったら、どうなるか。
(この解釈は、最初に断ったように、私独自の解釈で、正しいとはかぎらない。)
外部に表象される意識だけが、(意識)ということになる。
そして結果的には、その意識だけに振り回されることになる。

 こうした現象は、子どもの世界でも、ときどき観察される。
算数という勉強に当てはめて、考えてみる。

 たとえば何かの問題を解かせると、中に、こう聞いてくる子どもがいる。
「先生、これ足し算の問題? それとも引き算の問題?」と。

 もう少し学年が大きくなってくると、こう聞いてくる子どもがいる。
「先生、割り算でするの? それとも掛け算でするの?」と。

 こうした子どもたちには、問題の中の数字しか目にとまらない。
数字だけ見、それを加工して、答を出そうとする。

 同じようにおとなたちにしても、その場だけの状況に応じて、
ものごとを判断しようとする。
そういうおとなは、多い。
このタイプのおとなは、何かあるとアタフタするだけ。
あとは取り越し苦労とヌカ喜び。
それを繰り返す。

●ある女性

 こんなことがあった。
ある女性(当時、65歳くらい)がいた。
90歳近い母親を介護していた。
その母親について、「夏場になると、老臭がひどくて困る」と。

 そこで私はつぎのように提案してみた。
「換気扇をつけたらどうでしょう」→「それを取りつける、穴がない」
「穴を開ければいいですよ」→「そういう道具がない」
「大きなドリルであけます。電気屋に相談すれば、貸してくれますよ」→「家に傷を
つけたくない」
「換気扇があれば、何かと便利です。家の湿気も取ります」→「うちは湿気ません」と。

 こういう意味のない押し問答がいつまでも、つづいた。
つまりその女性の頭の中には、(老臭)という問題しかなかった。
「だからどうしたらいいのか」と、考えることすらできなかった。
で、この女性の思考回路は、先に「先生、これ足し算の問題? それとも引き算の問題?」
と聞いた小学生の思考回路と、どこもちがわない。

 が、メタ認識能力というときは、さらにその先をいう。
もしその女性が、「なぜ、自分が老臭を嫌うという意識をもつのか」という心の深い部分
にまでメスを入れていたら、もう少し介護の仕方も変わっていたのではないか。

 つまりその女性にとっては、親の介護そのものが負担だった。
そこに至る理由はいろいろあるだろう。
私のような部外者の知るところではない。
それが形を変えて、「老臭」につながった。
だから最初から、その女性にしてみれば、老臭など、どうでもよかった。
「介護はたいへんだ」ということを他人に訴えるための、口実にすぎなかった。
ただの愚痴にすぎなかった。

 だから私があれこれと解決策を示しても、その女性はそれには応じてこなかった。
ああでもない、こうでもないと、別の理由をこじつけては、それに反論した。

 メタ認知能力がないと、自分を客観的に観察する能力すら、失う。
そこにある問題に気づくこともなく、あわてふためく。

●ちがい

 こうして考えていくと、メタ認知能力のある・なしを、比較することができる。
(かっこ)内は、メタ認知能力がない人ということになる。

(1)自分を客観的に評価できる。(視野が狭くなる。)
(2)自分の未来を、予想することができる。(その場だけのことしかわからない。)
(3)問題解決の技法を、すみやかに見つけることができる。(あたふたするだけ。)
(4)解決方法を、多角的に見つけることができる。(ひとつの方法にこだわる。)
(5)新しい問題に対して、チャレンジする。(できることしか、しない。)
(6)感情のコントロールができる。(感情的になりやすい。)
(7)臨機応変に環境に適応できる。(不適応症状を示しやすい。)
(8)人間的な豊かさ、深みがある。(全体に浅はかな印象を与える。)
(9)心に余裕があり、おおらか。(心に余裕がなく、セカセカしている。)

 このメタ認知能力は、「訓練によってのみ、伸ばすことができる」(ブラウン、フラベル)
という。
そのためには、まず、メタ認知能力というものがどういうものであるかを知らなければ
ならない。

 わかりやすく言えば、「意識を意識化する」。
今、自分がもっている意識を、別の意識で客観的に知る。
それによって、メタ認知能力を身につけることができる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW メタ認知能力 Metacognitive Ability メタ認識 メタ認知)

(補記)

 私たちがもっている「意識」ほど、不可解で、いいかげんなものはない。
「私は私」と思う意識にしても、そうだ。
どこからどこまでが「私」かとなると、それがわからない。

 最近の大脳生理学によれば、私たちの意識ですらも、脳の別のところであらかじめ
作られるということまで、わかってきた。
それが無意識の段階から、意識の段階まであがってきて、私たちはそのとき、
それを自分の意識として自覚する。
そしてそれを「私」という。

 わかりやすい例でいえば、女性が化粧をするのも、男性がかっこよく見せようとする
のも、結局は、性的エネルギー(フロイト)が、裏からその人を操っているからにほか
ならない。
当の本人は、「私の意思で化粧している」「ぼくの意思でかっこよくしている」と思って
いるかもしれない。
が、実のところ心の奥深くから湧きおこる、性的エネルギーに操られているだけ。

 私たちが意識として意識できる部分というのは、脳の中でも、ほんの一部にすぎない。
一説によれば、数10万分の1とも言われている。
そのほかの意識は、無意識の世界で、私たちを内側から操っている。

 となると、メタ認知能力の重要性がますますクローズアップされてくる。
私たちの(意識)を、その奥にある意識でもって、客観的に観察、判断、さらには
コントロールする。

 こうした能力は、ほかの動物たちにはない能力とみてよい。
ほかの動物たちは、意識される意識のみに従って、行動している。
が、人間はちがう。
意識される意識を、べつの意識で観察、判断、さらにはコントロールする。
つまりそれこそが、人間と、他の動物たちを隔てる壁ということになる。

●補記

 ここに書いたことは、まちがっているかもしれない。
(多分、まちがっている。)
しかし考えるテーマとしては、おもしろい。
もし「私」を、別の「私」によって、知ることができたら、これほど楽しいことはない。
言うなれば、心の鏡のようなもの。
その鏡に自分の心を映して、自分の心を知る。
心がどんな顔をしているかが、それでわかる。

 まだまだ、このつづきを考えてみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

●クレヨンしんちゃん

++++++++++++++++++

ある高校生から、掲示板のほうに、
こんな書きこみがあった。

【Tさんより、はやし浩司へ】

私は、高校2年生の遠山です。
今私は放送部に所属しています。
毎年秋のアナウンス大会では、「自分の住んでいる県または市について」という題で
原稿を書いています。そこで今年は私が住んでいる埼玉県の話ということで春日部市が
舞台になっているクレヨンしんちゃんについて書こうと思っています。

理由は、私自身が昔からしんちゃんが好きだという気持ちもあるのですが、しんちゃんの
育児教育についてテレビで目にしたからです。この大会の原稿というのは、ただ単に地元
話題を書くだけではなく、その話題の内容を含めて日本の社会のありかたなど、誰が聞いても
ためになる話であったり、理解され受け入れてくれる話でなければいけないのです。

私は、クレヨンしんちゃんの面白さ以外の意味をこの年になって初めて知りました。このしんち
ゃんのもうひとつの意味をみんなに知って欲しい(特に同年代の人に)と思っています。

もしよければはやし先生にクレヨンしんちゃんの親と子の関係の良さと、現代の日本の教育と
の関係などについてお答えいただければと思っております。

せっかくの子供の教育についてのご相談の場所においてこのような質問をし、大変申し訳ござ
いません。是非ともお答えのほうよろしくお願いいたします。

【はやし浩司より、Tさんへ】

 クレヨンしんちゃんについては、大きな誤解があります。
テレビのアニメ番組について、「子どもに見せたくない番組」のワーストワンに
あげられることもしばしばです。

 しかしもしあなたが、コミック本のほうの、Vol.1~12前後まで読まれたら、印象は
大きく変わるでしょう。
そういう点では、テレビのアニメ番組のほうは、ギャグ化され、しんのすけ君の悪い面ばかり
が、おもしろおかしく、誇張されすぎています。
とても残念に思っています。

 いくつか、よい点をあげてみます。

(1)最近、しんのすけ君のようなたくましい男児が、減っている。(男児の女児化が問題になっ
て、すでに20年以上になる。母親中心の育児環境が、男児の女児化を促進してしまった。)
(2)みさえさんの育児観がすばらしい。(夫に対しても、しんのすけ君に対しても、全幅に心を
開いている。基本的信頼関係の構築という点では、世の母親たちは、おおいにに見習うべき。
言い換えると、心を閉ざした育児ほど、子どもに悪影響を与えるものはない。)
(3)育児のたいへんさをうまく表現している。(育児は、それ自体重労働。たいへんな重労働。
それを世の男性諸君は、知らなさすぎる。『男は仕事、女は家庭、育児』と安易に考えすぎてい
る。)
(4)みさえさんの生きざまは、新しい母親像の見本。(とくに新潟と九州の父親とのやり取り
が、おもしろい。相手が舅(しゅうと)といっても、遠慮する必要はない。今、舅、姑との確執問
題で悩んでいる若い母親が多い。おおいに参考にしたらよい。)
(5)友だち親子。(みさえやヒロシは、しんのすけを、1人の人間として、その人格を尊重してい
る。こうした育児観は日本人にはないもの。つまり日本の親たちは、「友」として子どもの横に
立つという習慣をもっていない。そういう点で、野原家の育児論は、参考になる。
(6)子どもらしい性への疑問と関心。(コミック本のほうでは、しんのすけ君の、性への疑問と
関心が、実にうまく生き生きと描かれている。Vol1~12あたりまでは、臼井家族の実体験的なコ
ミックと考えてよい。私も幼児を教えて40年以上になるが、読んでいて、違和感がないのは、
そのため。ただし繰り返すが、テレビのアニメ番組のほうは、たしかによくない。制作を担当し
ているプロダクションが勝手に料理しすぎているためでは!)

 ほかにもいろいろよい点はたくさんあります。
小生の「野原家の育児論」を参考にしてください。
なおこの文中では、急いで書いたため、固有名詞、名前など、まちがっているところがあるかも
しれません。
(はやし浩司曰く……)と断りを入れてくださるなら、ここに書いた原稿を、自由に使っていただ
いて、結構です。

参考……
http://shizuoka.cool.ne.jp/bwhayashi/page065.html

 では、はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 クレヨンしんちゃん・野原家の子育て論)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司

【たぬき村】(改作・追加)

●あいさつ

++++++++++++++++++

ムカ〜シ(昔)といっても、今の時代だが、
あるところに、「たぬき村」という村があった。……ある。

そこでは、何が本当で、何がウソか、まったくわからない。
虚々実々。
たとえば村の人たちの交わすあいさつにしても、こうだ。

「よお、うちで、昼飯でも食っていかんけエ?」と声をかける。
これに答えて、声をかけられたほうは、
「悪いのオ、今、食べてきたところでのオ」と。

昼飯を誘う方も、本気で誘っているのではない。
形だけ。
本気で、「昼飯を食っていけ」と言っているのではない。
あくまでもあいさつ。

言われたほうも、それをよく承知している。
いくら空腹でも、そう答える。
「食べてきたところでのオ」と。

そのあたりでは、どこの家も、昼は茶漬けですますという習慣がある。
食事らしい食事を用意している家など、ない。
本当に相手が、「食べていこうか」などとでも答えたら、さあ、たいへん。
上を下をの、大騒ぎになる。

で、たぬき村。
その物語。
始まり、始まり……。

++++++++++++++++++

●村の習慣

 うまいものは、隠れて食べる。
まずいものは、隠して食べる。
食べ方は同じだが、中身がちがう。

 うまいものを食べているのを知られると、「ぜいたく」と叱られる。
まずいものを食べているのを知られると、「貧乏」と笑われる。
だからうまいものは、隠れて食べる。
まずいものは、隠して食べる。
それがその村の習慣。

みながそうしているから、ひとりだけ別行動と言うわけにはいかない。
別行動をしたとたん、「変わり者」というレッテルを張られる。
さらにさからえば、あの恐ろしい「村八分」。
村八分が待っている!

●詮索

 村の人たちは、詮索しあって生きている。
「他人の不幸話ほど、おもしろいものはない」と、だれも、口にこそ出しては言わないが、
みな、そう思っている。
 で、ひとたび、どこかの家で不幸な話があると、またたく間に、村中に広がる。

「ああ、あわれや、あわれや……。Aさんとこの息子は、傷害事件を起こし、今度
高校を退学になったそうや……。ああ、あわれや。かわいそうや」と。

 ときに涙声になるが、もちろん、涙は一滴も出ない。
あるいはよく使う言葉が、これ。

「ここだけの話ですがね……」
「あの人の悪口だけは言いたくないのですがね……」
「私はどちらでもいいと思っているのですが、村の人ほかのたちは、
何と言いますかねエ……」と。

●相対的価値観

 だからたぬき村の人たちは、たがいの家の内情を、たいへんよく知っている。
昔から『米櫃(びつ)の中の、米の数まで知っている』というが、それはけっして
おおげさな言い方ではない。
それこそ息子や娘たちの給料の明細まで、知っている。
 現金収入、アルバイト収入、副収入……。
すべて知っている。

 そしてたぬき村での幸福感は、相対的なもの。
「他人より、よい生活ができれば、リッチ、幸福」
「他人より、悪い生活になれば、プア、不幸」と。

 だから隣人の生活が気になる。
気になってしかたない。
そして最後は、こうなる。

『みんなで渡れば怖くない』
『出る釘は打たれる』
『渡る世間は、鬼ばかり』と。

 それがたぬき村の処世術。

●ドロドロした人間関係

 年功序列、上下意識、権威主義、家父長意識、加えて「家」意識。
たぬき村には、みな、残っている。
封建時代の邑(むら)意識が、そのまま、残っている。
しっかりと残っている。
たぬき村には、「正直」「誠実」という言葉は、ない。
あるとすれば……、

『小悪を暴露して、大悪を隠す』
『小善をなして、善人ぶる』
『建前で本音を隠す』などなど。

 ついでに『面従腹背』というのもある。
表面的にはにこやかにつきあいながら、裏で足を引きあう。
のどかな、のどかな、どこまでも牧歌的な温もりのする世界だが、
その皮を一枚むけば、そこにあるのはドロドロした人関係。
それが底なしに渦巻いている。

●嫉妬と見栄

 たぬき村の人は、概して言えば、嫉妬深い。
それが先に書いた、足の引きあいということになる。
驚くなかれ、たぬき村では、「香典抜き」は、日常茶飯事。

 だれかが亡くなって葬式になったとする。
で、そういうとき、香典を、ぜったいに村の人に預けてはいけない。
頼んでもいけない。
3万円の香典が、1万円に化けるなどということは、当たり前。
中には、香典そのものをかすめてしまう人もいる。

 遠方に住む親類からの送金については、なおさらである。
……こんなことを書くと、「そんなことをすれば、すぐバレてしまうでしょう」
と思う人もいるかもしれない。

 しかしそこはたぬき村。
香典抜きをするにしても、たがいの微妙な人間関係を知り尽くした上でする。
たがいに連絡を取り合うことはないだろうということを知り尽くした上で、それを
する。

●口がうまい

 たぬき村の人は、口がうまい。
お世辞、へつらい、おじょうずは、日常の会話。

「あなたが今度、祭の役人に加わってくださったら、みんな、喜びますよ。
なんといっても、あなたがこの村の立役者ですから」と。
で、その人がその気になって祭の会合に出ても、その話はいっさい、なし。
どこかみな、シラーとしている。

 が、こんな程度のことで、腹を立てていたら、村の人たちとのつきあいはできない。
「そういうもの」と割り切ってつきあうしかない。
だから会合に誘ってくれた人には、こう言って言い返す。

「みんな楽しそうですね。いい雰囲気です。何といっても、祭は祭りですから……」と。
ついでにカラ笑いをしてみせる。
カラカラと豪快に、カラ笑いをしてみせるほど、よい。

●新しく薬局が開店

 そんな村に大異変が起きた。
「田舎暮らし」キャンペーンとかなんとかに踊らされた、1人の都会人が、
その村に移住してきた。
村のはずれに、薬局を開いた。
元、薬剤師の男性だった。

 その男性は、近所のあちこちを回り、それなりに礼を尽くした。
しかし開店当日から、客はゼロ。
あの手この手で、宣伝に努めたが、(もちろん価格も安くしたが……)、
客はゼロ。

 それもそのはず。
その村には、もう一軒、薬局というより、昔からの小さな薬屋があった。
その薬屋の経営者が、その村でも長老格の親分だった。

 村の人たちは、無言の圧力を感じて、新しい薬局へ入ることができなかった。

●浜松市

 日本もまだまだ、広い。
つまい地域によっては、こうしたウソがまったく通用しない地域もある。

 たとえば私が現在住んでいる浜松市の人たちは、ものの考え方がストレート。
もの売買でも、駆け引きをしない。
ものを買うとき、それを値切る人はいない。
口もへただし、おじょうずも言わない。

 私もこの町に住んで40年近くになる。
当初はあれこれ、戸惑ったこともあるが、今は、この町が好き。
すがすがしさを覚える。
この町では、なにかにつけ、相手が言った通りのことをすればよい。
私の義兄、義姉にしても、みな、そうだ。
私のワイフなど、とくにそうだ。

 また同じ「村」といっても、浜松市周辺の村々は、たいへんわかりやすい。
ときに、それを冷たく感ずることもあるが、そのほうが気が楽。
そんなある日、ワイフと私が、たぬき村にある、一軒の家に一泊することになった。

●タクシー

 ある出版社の編集部長の紹介で、M氏という人の家に一泊することになった。
編集部長の母親の実家だった。
「その村のレポートを書いてほしい」と頼まれて、一泊することになった。

 が、居心地はよくなかった。
で、朝になって帰る支度をしているときのこと。
私がM氏の妻に、こう頼んだ。
「今なら10時ごろの電車に間に合いますから、タクシーを呼んでくれませんか」と。
たぬき村から、JRのN駅までは、車でちょうど1時間。
帰り支度をしていると、そこでM氏がやってきた。
そして私にこう言った。

 「なあ、あんたさん、そのタクシー代、私にくれんかね?
私が駅まで送ってやるに」と。

 この言葉には、言いようのない不快感を覚えた。
タクシー代といっても、8000円前後。
そのタクシー代を、「くれんかね?」と。
私は、その申し出を、ていねいに断った。

そうそう、その朝、こんなこともあった。

「電車の時刻もあるから、私は、朝食は結構ですと断った。
しかし、である。
さあ、M氏の家を出ようとすると、そこに朝食が用意してあった。

 私が「朝食は食べないと言ったつもりですが……」と言うと、M氏の
妻(50歳くらい)はこう言った。
「まあ、そんなこと言わんでもいいから、食べていきなさい。
また来てもらわねばならなんから」と。

 一事が万事というか、たぬき村では、日本語が通じない。
みな、それぞれが、自分流のやり方で動いてしまう。

「この村の人たちは、何を考えているか、さっぱりわからない」と。
私はふと、タクシーの中で、そう漏らした。

 そう、まったくわからない。
だから「たぬき村」。

●相づち

 たぬき村では、相手が何を言っても、相づちだけは打ってはいけない。
相づちを打てば、今度は、あなたが言ったこととして、他人に話が伝わってしまう。

 たとえばMさんが、あなたにこう言ったとする。
「Xさんって、ずるい人よ」と。
それに応えて、あなたが、「そうよ」と言ったら、さあたいへん。
収拾がつかなくなってしまう。
今度は、Mさんは、あなたが言った言葉として、みなに知らせてしまう。

 あなたが、「Xさんって、ずるい人よ」と言っていた、と。

 だからだれかの悪口を聞いても、たぬき村の人たちは、意味のわからない笑みか、
フフフと笑って、すます。
否定することもできない。
否定すれば、相手の気分を害する。
気分を害すれば、どこでどのようにまた、あなたの悪口を言われるか、わかったものでは
ない。

 ここが重要な点だから、もう一度、書いておく。
だれかが、だれかの悪口を言っても、あなたはその場は笑ってごまかす!

●たぬき村をつなぐもの

 そんなたぬき村だが、なぜか、結束力は固い。
それもそのはず、みなが、何らかの形で、姻戚関係にある。
A氏の妻は、B氏の妹。
B氏の母親は、C氏の弟。
C氏の弟の娘は、Dさんの嫁・・・、と。

 人間関係だけではない。
土地関係も、これまた複雑に入り組んでいる。

 A氏の宅地の一角に、B氏名義の土地がある。
そのB氏名義の土地の、そのまた中に、C氏名義の土地がある。

 中には、代々放置され、今ではだれの土地かわからないものもある。
登記簿を調べても、3代前のG氏のもの。
G氏の子孫は、みな、たぬき村を離れて、今では、連絡先すらわからない・・・、と。

 こういう関係だから、たがいにいがみあいながらも、それでいて、なんとなくみな、
仲よく暮らしている。
それがたぬき村。

●村祭り

 たぬき村の人口については、よく知らない。
近くの新聞販売店の店主に聞いてみたところ、新聞の配達部数は、45部だそうだ。
それを3倍して、約150人というところか。

 たったの45軒。
あるいは45世帯。
そんな小さな村だが、いちばんの重要ごとは、秋の祭り。
村の予算の8割を、一夜の祭りのために使ってしまうというから、すごい!

 打ち上げ花火、弁当の配布、餅まき・・・と。
その祭りで演じられる神楽舞(かぐらまい)は、300年の歴史があるとか。
テレビや新聞でも、ときどき紹介される。
そのこともあって、たぬき村の人たちは、その祭りをやめるにやめられない。
「祭りは、村の顔」。

 負担も大きい。
村会費(積立金)だけでも、一世帯あたり、毎月、1万5000円。
共働き、兼業農家の世帯は、2万円。
若い人たちの間では、「やめよう」という意見も出ている。
しかし60歳以上の、「長老」と呼ばれる人たちが、それを許さない。

 見栄だけは張る。
張って張って、張りまくる。
それがたぬき村。

●たぬき

 たぬきといっても、(善良なたぬき)もいれば、(腹黒いたぬき)もいる。
が、その差は、紙一重。
(善良なたぬき)といっても、これまた演技。
善良なたぬきと思っていると、それが別のところでは、腹黒いたぬきに変身したりする。
腹黒いたぬきも、それなりに善良なたぬきを演ずることもある。
が、概して言えば、たぬきはたぬき。

『小悪を暴露して、大悪を隠す』
『慇懃(いんぎん)無礼で証拠を残さない』
『連絡を取り継がない』などなど。
話のすりかえ、とぼけ、ごまかしなどは、日常茶飯事。

 一本筋の通った文化性がない。
いつもあたりをキョロキョロを見回しながら、様子をうかがう。
様子をうかがいながら、自分の行動を決める。
だからたぬき村の人たちは、なによりも世間体を気にする。
とくに冠婚葬祭を気にする。

 もちろん派手であればあるほど、よい。
派手であればあるほど、その家の「力」と評価される。
たぬき村での地位も高くなる。

 たぬき村……どこの村の話ということではない。
たぬき村は、どこにでもある。
あなたの近くにもある。

●報復

 こんなことがあった。
ある日Hさん(50歳・女性)の家に電話があった。
Hさんは、留守だった。
で、電話をかけたIさん(50歳・女性)が、伝言を残した。
「風邪だと聞いていたけど、お元気ですか?」と。

 Hさんは、伝言を聞いたが、それには返事をしなかった。
たいした内容の電話ではないと思った。
というより、夜も遅かったので、その電話のことは忘れた。

 が、それから1か月ほどたったある日のこと。
Iさんが、こんな話をしているのを耳にした。
なんでもIさんが、その年に初盆を迎える世帯の人たちのために、世話役を
決めようと、Hさんに相談した。
が、Hさんが、それを無視した、と。

 Hさんは、そこではじめて世話役の話を知った。
が、Iさんから、そんな相談を受けたこともない。
Hさんに、そのことで、それとなく抗議すると、Iさんは、こう言った。
「あら、話しませんでした。留守だったので、留守番電話に伝言を入れておいたのですが
・・・」と。

 たぬき村では、電話をもらったら、必ず、返事をしなければならない。
無視すれば、かならずなんらかの報復を受ける。

●上下意識

 たぬき村の最大の特徴は、上下意識。
上下意識というか、上下関係。
それが年齢に応じて、きびしく決められている。

 たった1歳でも、年長は年長。
年下のものは、年長者に、ぜったい服従。
苦言を口にすることすら、許されない。
そんなわけで、もっとも力のあるのは、村で、「長老」と呼ばれている人たち。
現在、80歳以上の老人が、5人もいる。
1人をのぞいた、残りの4人が、村を取り仕切っている。
1人というのは、村でもつまはじき者。
若い時から、詐欺まがいの仕事ばかりしていた。

 その上下関係のワクの中で、妻や子どもたちの地位や立場も決まる。
村の会合でも、その序列に従って男たちは席につき、女たちは、男たちに給仕する。
序列の低い女たちは、裏方。
序列の高い女たちは、席に出て、茶をくんだり、酒をついだりする。

●「住んでみたいわ」

 そんなたぬき村が、地方局だが、テレビに紹介されたことがある。
2人の旅行者が、あちこちの村を訪れ、いろいろと村の話を聞くという番組だった。
そのときは、たぬき村が選ばれた。
たぬき村の人たちは、みな緊張した。

 結局、その相手は、たぬき村のK氏(44歳)がすることになった。
K氏だけが、学卒、つまり大学を出ていた。

 で、その日はやってきた。
橋を渡って2人の旅行者が村に入る。
それをK氏が迎える。
しばらく村の案内をしたあと、村の人たちが作った山菜料理をみなで食べる。
そういう段取りだった。

 が、突然、旅行者兼レポーターの若い女性が、こう言った。
台本にはないセリフだった。

「すばらしいところですね。緑が多くて、空気がおいしいわ。私、こんなところに
住んでみたい。私のような者でも、住めますか」と。

 K氏は落ち着いた声で、こう答えた。
「ええ・・・住めますよ」と。
 しかしそれを聞いたたぬき村の人たちは、みな、こう言って吐き捨てた。
「こいつはターケぬかせ!」と。
たぬき村では、「愚か者」をさして、「ターケ」という。
つまり、レポーターの若い女性をさして、「バカぬかせ」と言った。

●よそ者

 たぬき村では、外の世界から入ってきた人のことを、「よそ者」と呼ぶ。
しかし「よそ者」というのは、ただのよそ者ではない。
たぬき村では、3代住んで、はじめて仲間という掟(おきて)がある。
それまでは、村八分。
葬儀を除いて、村の行事には参加させてもらえない。

 最近はこの掟も少しは緩んだと聞いているが、しかし3代。
水は、村の中心にある神社、(「お宮様」と彼らは呼んでいるが・・・)、その神社の
横から出ている湧水を分け合って使っている。
3代も住まないと、その水すら、分けてもらえない。

 それまでは井戸の水。
農薬の混ざった井戸の水。

 たぬき村の住人は、こう言った。
「この村で迎えられるのは、元校長格の学校の先生、医者、あるいは芸術家のような
変わり者」と。

 「元サラリーマンはどうですか?」と聞くと、その人は、こう言った。
「そんな人は、住めません」と。

 実際、戦後、たぬき村に移住してきたのは、1人だけ。
しばらく薬局を経営していたが、2年後にはまた、元の都会へと戻っていった。
その男の話は、もう少しあとに書く。

●本音と建前

 たぬき村の人たちは、本音を言わない。
すべてが建前だけで動く。
そのため、一皮むけば、その下でどす黒い、いがみあいが渦を巻いている。

 足の引き合いは、日常茶飯事。
そのためほかの世界では見られない珍現象が、よく起きる。

 たとえばいくら急病でも、救急車は呼ばない。
呼べば、村の話題になるだけ。
そういうこともあって、たぬき村では、葬式が、なによりも重大事。
ある男性は、はからずもこう言った。
「あいつが死ぬのを見届けないかぎり、おれは死なない」と。

 あるいはこう言った男性もいた。
「こいつはオレより年上だから、オレより先に死ぬんだなと思ったら、気が楽に
なった」と。

 最終的な人間関係は、葬式によって結論づけられる。
だから葬式ほど、虚々実々の駆け引きがなされる場も、ない。
悲しくもないのに、悲しそうな顔をする。
うれしいのに、悲しそうな顔をする。

 そうそう実の兄が死んだとき、葬式の場で、大声で泣いてみせた女性もいた。
それまでさんざん兄を虐待しておきながら、である。

●みな、武藤

 どこの村にも、そうした話はあるが、たぬき村にもある。
たぬき村は、その昔、○○藩の家老を出した、由緒ある村ということになっていた。
そのこともあって、明治になって名字をもつことが許されるようになると、たぬき村の
人たちは、みな、「武藤」姓を名乗るようになった。

 たぬき村では、1軒をのぞいて、みな、「武藤」。
1軒というのは、昔からの庄屋で、その家だけは、江戸時代の昔から、「泉谷」という
姓を名乗っていた。
 しかし今は、その泉谷家は戦後の農地解放で田畑のほとんどを失い、落ちぶれてしま
った。

 ・・・それはともかくも、たぬき村では、みな、名前のほうで、たがいに呼び合って
いる。
しかも難解な名前が多い。
辞書が手元にあっても、その読み方すらわからない。
たとえば・・・といって、ここに名前を出すわけにはいかない。
創作で適当な名前を書くことも、できなくはないが、しかし私の創作力にも限界がある。
たぬき村の人たちの名前は、私の創作力を超えている。

●では、どうするか?

 たぬき村は、相手を知り尽くせば、それなりにおもしろい。
「日本にも、こういうところが残っているのだなあ」と、ときに、感心することもある。
が、鉄則は、ただひとつ。

 いつもどこかで一線を引いてつきあうこと。
けっして深入りしてはいけない。
巻き込まれてはいけない。
動物園で動物を観察するようなつもりで、観察する。

 というのも、たぬき村の人たちは、自分たちは、それでも(まとも)と思い込んでいる。
外の世界を知らない。
だから自分たちが、(標準)と思い込んでいる。
もちろん自分たちが、(たぬき)とは思っていない。
すべてがそういう尺度で動いている。

 だから、説教したり、説明したりしても、無駄。
言うだけ無駄。
反対に、「あなたには義理人情というものが、わからないのですか」とやり返されてしまう。
200年、300年とつづいた、伝統ある(?)村の意識は、そうは簡単には変えられ
ない。

 そうそう先に薬局を出した男性の話を書いた。
これは私が当事者から直接聞いた、実話である。
「薬局」、つまり「薬屋」というのも、本当の話である。

 で、その男性は、こう考えていた。

「1年ほど薬局を経営してみて、それが軌道に乗ったら、都会に住む家族を呼び寄せよう」
と。
しかし1年を待たずして、薬局は閉店。
つぎには日雇いの労働者となって、工事現場で働くようになった。
が、やがてそれも限界に来た。
その男性は、薬局と自宅を売り払い、さらにその1年後、再び、都会へ逆戻り。

 で、私には、こう言った。
「たぬき村には、もうこりごり。二度と、あんなところへは行きたくありません」と。

 たぬき村とは、そんな村をいう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 B
W はやし浩司 たぬき村 タヌキ村 邑意識 邑物語)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG. 09+++++++++はやし浩司※

●猿・害

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山荘の近くに、山猿が出没するようになった。
昨年の秋くらいからのことである。
山荘の、山ひとつ隔てた奥では、現在、第二東名
の工事が急ピッチで進んでいる。
おそらくそこを追われた山猿たちである。

いろいろないたずらをする。
雨どいを壊す、テレビのアンテナを折る。
電話線を切る、など。

で、昨日、ワイフが「見て!」と言ったので
そちらを見ると、山猿が5、6匹いた。
まだ青い栗を食べていた。

身近にあった空のペットボトルをパンパンと
叩きながら、大声で、ワーッと叫んでやった。
山猿たちは、それほどあわてるといったふうでも
なく、悠然と、その場を去っていった。

親子連れだった。

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●栗の木

 そこで今日、栗の木を切ることにした。
電動のチェーンソーをもってきて、先の細い枝から切り落としていった。
ウィーン、バサバサ……。
ギギーン、バサバサ……。

 落ちた枝を、ワイフが下で集める。
それを見ながら、上から木を落とす。

 30分もすると、乾いた夏の日差しを受けて、全身から汗が噴き出すのがわかった。
気持ちよかった。
こうした作業をいやがる人も多いが、私は好き。
楽しい。
憎き山猿の顔を思い出しながら。やがて太い枝を切り落とす。
それが終われば、栗の木は、丸裸。

 (このときの様子は、ビデオに収録。
YOUTUBEにアップロード済み。)

 枝を片付けると、栗の実が、かなりの数、地面に落ちていた。
ワイフがそれを集める。
「あとでガソリンをかけておくよ」と私。

 餌があるから、山猿がやってくる。
餌がなければ、やってこない。

 時期をみて、サクランボの木も切るつもり。
柿の木と、桃の木も切るつもり。
これらの木は、みな、実はなるが、私たちは食べたことがない。
食べる前に、鳥や山猿が来て、みな、食べてしまう。
だから、切る。

 こうした山の中では、畑作は無理。
「ニンニクくらいしか、できないよ」と、隣の農家の女性が話してくれたのを思い出す。
言い忘れたが、このあたりでは、イノシシも出る。
ほかにハクビシン、イタチ、モグラ、タヌキ……。
みな、いる。
最近は、イノシシの害もふえてきた。
山荘の近くにも、何頭か住んでいる。

 本当のことを言うと、私には、それが楽しい。
イノシシと見たときも、ハクビシンを見たときも、うれしかった。
昨日、山猿を見たときも、実は、うれしかった。
こういうことがあるから、山荘ライフは、やめられない。

 が、その私が栗の木を切る。
矛盾しているようだが、これは山荘を守るため。
これ以上、壊されたら、たまらない。
だから栗の木を切る。
山猿には悪いが、(本当のところ、「悪い」とは、まったく思っていない)、
ここは心を鬼にするしかない。

 本音を言えば。山猿も楽しいが、その対策を考えるのも、これまた楽しい。
山荘ライフの醍醐味は、ここにある。

私「あいつら、がっかりするだろうね」
ワ「仕返し、しないかしら?」
私「ハハハ、そんなことしたら、今度は有刺鉄線を張り巡らせてやる」
ワ「それはかわいそうよ」
私「わかっている……」と。

 結構、重労働だった。
あとで体重計に乗ってみたら、58・7キロ!
ここ30年で、最低記録。
汗をかいた分だけ、体重が減った。

 山荘からの帰り道、自衛隊の基地の近くにある、カレー店で、私は、
夏野菜カレーを食べた。
おいしかった。
水を、ガブガブと飲みながら……。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●8月25日

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今朝は、8時間、たっぷりと眠った。
眠る前、SPという女性専用の精神安定剤を
半分、舌の先で溶かしてのむ。
(通常は1錠、もしくは2錠が適量だそうだ。)

それをのむと、朝までぐっすりと眠られる。

で、起きてパソコンに電源を入れる。
TK先生(恩師)からのメールが届いていた。
今日は、そのメールを読むところから
始まった。

昨日、山荘の栗の木を切った。
そのとき撮ったビデオを、先生に送った。
その返事。

++++++++++++++++++

【TK先生からのメール】

林様:

  今度はよく見られました。 大変な重労働でしたね。 梯子や脚立から落ちたりしないよう
十分に気をつけて下さい。 それにしても切った木はどのように片つけるのでしょうか。 昔の
ようにたき火もできないし、細かく切って袋に入れる作業もそれこそ大変ではないかと想像して
います。 御苦労様でした。

  私はビニルのひもが早く回って雑草や芝刈りが精いっぱいです。 それにしても最初に
除草機を動かすには私の力では動かないので、介護の人が来たときに引っ張って動かしても
らいます。 もっと簡単なものがないかと気にしています。 一人住まいで庭の手入れが精一杯
です。

  来月は理科大の卒業生が20人あまり「先生の庭の除草に来ますが、まさか偉くなった
弟子に除草でもないし、一仕事です。 芝生よりも雑草の方が元気良く増えますから。 何時ま
で管理ができるか、先が思いやられます。 未だ老化など全然考えない貴方には分からない
心境ですけれど。 その一週間後には例の「サロン・ド・タマル」があり、結構忙しいです。 皆
よく来てくれると有難く思っています。 こんなこと全く例外的なことだとよく言われます。

  私の化学会の「インタビュー」(写真入りもお送りしましたっけ)が思いの外、評判になって
「現在の日本の教育は危機状態である」と日本化学会の会長さんをはじめ、幾人もの連中が
相談を始めています。 もう私のような老人が出る幕ではないし、出来るだけ控えたく思ってい
ますが、来月に開かれる化学会の「顧問会」(会長経験者敬の集まり)には主題の一つになり
そうで迷っています。

  くれぐれもお元気で。
                                                                             
  TKより

++++++++++++以上、TK先生からのメール+++++++++++++++

 「老化?」。
私よりTK先生の方が、若い!
毎月のように、多くの弟子や研究者が、先生のもとを訪れている。
東大でも、教授になった弟子の数がいちばん多いのが、TK先生である。
以前、「総理大臣が(自宅まで)あいさつに来ました」と、話してくれたこともある。
少し前までは、天皇陛下のテニス仲間でもあった。
(この3月に人工関節にしてからは、テニスの話は聞いていない。)

 80歳を過ぎても、外国の文献を翻訳し、出版している。
そういう人物を、「若い」という。

 私の親類などは、まだ60代なのに、一周忌だの、三周忌だのと、墓参りや法事
ばかりを一生懸命している。
そればかりにこだわっている。
その(ちがい)というか(落差)を覚えるたびに、「老後って何?」と考えさせられる。

 TK先生には、とてもかなわないが、目標はTK先生。
生きざまをまねしたい!
私は死ぬまで、ヤンング・オールド・マンを貫くぞ!

(追記)
栗の木を切った様子は、YOUTUBEにアプロード済み。
「hiroshihayashi」で検索してくださると、お楽しみいただけます。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 老後 ヤングオールドマン Young Old Man ヤング・オールド・マン)

【はやし浩司よりTK先生へ】

お元気そうですね!!!

よかった!!!!

切り取った木は、そのまま裏山の空き地に投げ捨てていきます。
1〜2年もすると、木は枯れ、やがて土に返っていきます。
その土を取りだし、一度、日干しにしたあと、今度は肥料にします。
リサイクルです。
日干しにするのは、虫の卵がいっぱい入っているからです。

私も何度か、草刈りに行ってあげようかと思いましたが、
もともと草刈りはへたです。
最近は、山荘周辺の200〜400メートル前後の道の両側まで
草刈りをしています。
このあたりも高齢化が進み、草を刈る人が、年々少なくなってきました。

しかしよい運動になります。
汗をかくのは、よいことです。
それに楽しいです。

たしかに化学は嫌い……という高校生がふえています。
ほとんどがそうではないかな?
どうして?、と聞くと、必ず返ってくる言葉が、「暗記がめんどう」と。
みな、暗記科目と誤解しています。
この誤解を解くのがむずかしいですね。
古い切り傷のかさぶたのように、固まっていますから……。

コンピュータゲームで、そういう楽しいゲームはできないものでしょうか?

たとえば、新型放射線シールド物質の作り方……とか何とか?
分子を合成して、合成たんぱくをつくろうというのでもよいかもしれません。
ゲーム化してしまうのです。

私も現役時代だったら、(つまり教材屋時代の私だったら)、どこかへ
話をもちかけて、ゲーム化したかもしれません。

今日は8時間たっぷり眠りました。
朝の風も気持ち良く、すがすがしい気分です。

今朝も始まりました。
がんばります!
メール、ありがとうございました。

はやし浩司


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●映画『ハリーポッター』(A Half Blood Prince)

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昨夜、日曜日の夜ということで、深夜劇場へと足を運んだ。
観たのは、『ハリーポッター』(A Half Blood Prince)。

くだらないというか、まったく、意味のない映画。
星など、つけようもない。
しかしあえてつければ、1つ。★。

よくもまあ、あのようなアホな映画をつくるものだ。
むしろ、そちらのほうに感心した。

ひとつの魔法が生まれると、今度はそれを打ち消す魔法が生まれる。
別のところでは有効だった魔法が、今度は無効。
あるいは魔法を使えば簡単に解決できるような場面でも、あえて
使わなかったり……。

マッチ・ポンプ映画というか、矛盾だらけ映画。
哲学もゼロ。
感動もゼロ。

結局、ダラダラと話がつづいて、何一つ問題を
解決しないまま、そこで終わり。
「次回へつづく」と。

私は字幕版のほうを見たが、英語は、シェークスピア的な
格調高いもの。
字幕の方では、それがうまく表現されていなかった。
残念と言えば残念ということになるが、言い換えると、
とってつけたような表現、もしくは美辞麗句のかたまり。
そんな英語だった。

まねをして書いてみよう。

「脳を腐らせる愚作。
革命的なほどまでに空漠とした作品。
しばし、睡魔をともなった不可抗力的なあくびに、
心を奪われる」。

どうしてあんな映画が、(作品が)、世界的な作品(?)
なのか。
観終わったあと、改めて、それを確認した。

劇場を出るとき、ワイフと、「Hachi」にすればよかったと、
何度も言いあった。

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●8月24日

●いなくなったミツバチ

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「ミツバチがいなくなった」とは、よく聞く。
新聞やテレビでも、よく報道されている。
しかしそれが私の家の庭でも、そうなるとは
思ってもいなかった。
また私の家には、関係のない話だと思っていた。

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 最後に見たのは、1か月以上も前のこと。
7月のはじめごろではなかったか。
そのころ、畑のナスにうどん粉病が発生するようになった。
そこで私は、殺虫剤と殺菌剤を混合した、スプレー式の農薬を買ってきた。
かなり強力な農薬だった。
例年なら、赤虫など、いろいろな虫がキュウリの葉を食べた。
が、今年は虫がつかなかった。
同時に、ミツバチも来なくなった。

 ミツバチといっても、私が見たのは1匹だけだった。
そのミツバチが、忙しそうにあちこちを飛び回っていた。

 畑に異変が起きたのは、そのあとのことだった。

 4月に一度、いんげん豆の苗を、5本ほど植えた。
それはよく実をつけた。
 つづいて6月ごろ、もう一度、いんげん豆の苗を、5本ほど植えた。
肥料がよかったのか、6月に植えた苗は、すくすくと成長し、あっという間に、
私の身の丈を超えた。
が、苗は葉をつけるだけ。
どんどん大きくなるだけ。
今にいたるまで、まったく実をつけない!

 例年だと、このやり方で、今ごろは食卓にいんげん豆の料理が、毎晩のように並ぶ。
が、今年は、ゼロ。
いんげん豆の収穫は、ゼロ。

 「おかしい」と思った。
ワイフも、「おかしい」と言った。
で、そのうち、「そう言えば、ミツバチを見ない」と、たがいに言い出した。

●殺虫剤

 5、6年前から、ハチ退治用の殺虫剤が店に並ぶようになった。
私もスズメバチ退治用に、何度か使ったことがある。
が、である。

 最近、近くの大型ドラグストアへ行ってみて、驚いた。
種類と数が、ものすごくふえていた。
ズラリとふえていた。
「飛距離、7メートル」「直射噴射」「一網打尽」とかなど。
それぞれが殺虫剤の特徴を、競っていた。

 このことと、ミツバチが減ったこととの間に、因果関係があるとは、断言できない。
しかしみなが、平気で、また簡単にハチを殺すようになったのは、事実。
その中には、ミツバチも含まれているかもしれない。

●食糧危機

 「ミツバチがいなくなったら、つぎにやってくるのは、食料危機」。
専門家たちは、そう警告している。
残された方法は、人口受粉だが、そんなことをしても、追いつくはずがない。
農家の人自身が、「不可能」(テレビ報道)と断言している。

 一方、ミツバチがいなくなったのは、地球温暖化と関係していると説く人もいる。
どういう連続性をもってそうなるのかは、私にもよくわからない。
それに温暖化の影響は、ミツバチだけに及んでいるのではない。
私たちの生活の、ありとあらゆる部分に及んでいる。
そしてそれは、年を追うごとに、深刻化している。
ミツバチがいなくなった結果として、食糧危機がやってきたとしても、それは地球
温暖化の一部にすぎない。

 現に、世界中で地球温暖化による、農地の砂漠化が進んでいる。
極地方では凍土も溶け出し、今後、大量のメタンガスが発生することも予想されている。
そうなれば、地球温暖化は、ますます加速される。
ミツバチどころではない、ということになる。

●不測の事態

 不測の事態が、また別の不測の事態を生む。
人間の想像力にも限界がある。
こうしてやがて世界中が、不測地獄へと陥っていく。
最近耳にした新しい話としては、こんなのがある。
地球温暖化が進んで、海の底を流れる海流の流れまで、変わってきたという。
そのためプランクトンの発生地や量が、大きく影響を受け始めているという。
もちろんこのことは、魚などの海洋生物にも、深刻な影響を与える。

 ほかにもたとえば、今からたった10年前でもよいが、ミツバチへの影響を予想した
学者はいただろうか?

●では、どうするか

 スズメバチなどはしかたないとしても、ハチ退治用の殺虫剤を使うにしても、
それなりの注意書きは必要ではないか。
「直接的な害がないばあいは、ミツバチ退治などには、使用しないでください」程度の
ことは書いてのでは……。
農薬の使いすぎは、各方面で問題になっているが、家庭においても、最小限にしたい。

 ところで、こんな話もある。

 もし、アリがいなくなったら、やがて人類は滅亡するだろうと言われている。
アリは、地上の掃除人。
その掃除人がいなくなることになる。

 さらに今日、こんな不気味な話を聞いた。
静岡県と言えば、お茶の産地。
そのお茶の産地から、夏のセミの声が消えて、久しいという。
原因は、言わずと知れた、農薬。

 また私の家の近辺から、スズメが消えた。
消えたというより、本当に少なくなった。
10年前の、10分の1以下になった。
あるいはそれ以下になった。
だれかがどこかで、スズメを殺している(?)。

 「とりあえず自分さえよければ……」という考え方を、みなが捨てないかぎり、
そのつぎに待っているのは、私たち自身の滅亡ということになる。

(付記)

 私自身は、人類の滅亡は、……というより、地球の火星化は、もう避けられないもので
はないかと思っている。
私たちの努力で、その時期を遅らせることはできても、止めることはできない。
100年後はよくても、200年後のことはわからない。

問題はそれをどう防ぐかではなく、そこに至る地獄を、人類はどう処理するか、である。
それこそ、どんなはげしいSF映画ですらも描ききれないような地獄絵図が、繰り広げ
られるようになるはず。

 そのとき、私たちはいかにして、自分を守り、自分を支えるか。
その哲学というか、倫理観をどうもつか。
この際、宗教観でもよい。

 その構築を同時進行の形で、推し進めないと、それこそ人類は、たいへんなことになる。
(悲観的な見方で、ゴメン!)


はやし浩司+++++++++Aug 09+++++++++++Hiroshi Hayashi

●総選挙

 8月30日、衆議院議員選挙がある。
おおかたの予想では、自民党の大敗北。
民主党の、大躍進。
「自民党は、このまま滅亡するだろう」とさえ、言われている。

 で、不動表層の1人として、意見を一言。

 こういうとき、浮動票層の人たちには、絶妙のバランス感覚が
働く。
いわゆる「判官びいき」(=弱者にひいき)が働く。
しかし今回は、どういうわけか、働かない。
自民党がどうのこうのという問題ではない。
私たちは、あのAS首相だけには、勝たせたくない。
いい気にさせたくない。

 が、肝心のAS首相自身は、まるで自分のことがわかっていない。
ますますいい気になって、はしゃいでいる(?)。
だからどうせやるなら、徹底的に……となる。
つまり徹底的に、反ASで、固まる。

 自民党は大敗北したのち、その歴史の幕を閉じる。
分裂、結合、新党結成、吸収、合併を繰り返しながら、消滅する。
が、これだけは忘れてはいけない。

 その責任は、あのAS首相にある。
だから今ごろ自民党支持者や議員たちは、こう思っているはず。
「選挙が終わったら、アイツを袋叩きにしてやる」と。
私も、今度だけは、ただではすまないと思う。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

【TK先生からの追伸】

(TK先生について原稿を書いたときには、かならずTK先生に
その内容をすべて送付するようにしている。
内容について、まちがいを指摘してもらうためである。)

林様:

  化学はコンピュータの時代になると、「暗記モノ」から「探究的思考力を鍛える科学の一
分野」になりつつあります。 加速度的に変化が速くなる時代をリードできるのは創造力の問題
です。 教師が自分で考えないから生徒はその背を見て教わるのです。 かわいそうに。 い
い知恵があったら教えて下さい。
                                                                             
  TK


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●無意識下の変化

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意識できるから、「意識」という。
意識できないから、「無意識」という。
しかし私は考える。
その意識できない部分にある無意識を、なんとか意識できないか、と。
が、ここでまた別の矛盾にぶつかってしまう。

いくら無意識でも、意識したとたん、それは無意識では
なくなってしまう。
意識である、
そしてさらにその奥に、無意識の世界が広がる。
しかもその世界は、意識の世界より、何十万倍も広い。

そうなれば、さらにその奥にある無意識に向かって、
進む。

ということは、意識・無意識の問題は、レベルの問題
ということになる。
探検にたとえるまでもない。
きわめて表層的な意識だけの世界で生きている人もいる。
しかし一方、本来、無意識の世界にまで深く立ち入って、
それを意識して生きている人もいる。

では、どうすれば、無意識の世界まで奥深く立ち入って、
私は、さらに「私」を知ることができるか。

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●無意識下の世界

 無意識の世界が、具現化して表れるのが「夢」ということになる(フロイト)。
その夢を分析すれば、無意識下の(意識)が、何をどのように考えているかが
わかるという。

●今朝の夢

 今朝、こんな夢を見た。
寝起きの夢である。
そのとき私は、ワイフとどこかの田舎道を歩いていた。
舗装もしてないような、土むき出しの、でこぼこ道だった。
道も、まっすぐではなく、農家の間をぬうような、曲がりくねった道だった。

 私は近くにいた人に、こう聞いた。
「豊橋へ行くのは、どう行けばいいですか」と。
その人はていねいに教えてくれたが、そちらに方向には、道らしい道はなかった。
そこで私は反対側にある、浜松市への方向を聞いた。

 浜松市への道は、やはりでこぼこ道だったが、わかりやすかった。
私とワイフは、道に沿って歩いた。
しばらくすると、バス停があった。
近くに、駄菓子屋もあった。
私とワイフは、バスを待った。

 しばらくすると、バスがやってきた。
見ると「豊橋行き」とあった。
私とワイフは、バスに乗った。
が、どうも様子がおかしい。

 「今、何年ですか?」と聞くと、前に座った客が、「昭和20年です」と答えた。
とたん、今、もっているお金が使えるだろうか、それが心配になった。
私は、昭和20年ごろのお金は、もっていなかった。
最近のお金を出せば、ニセコインと思われるにちがいない。

 そこで目が覚めた。

●夢判断

 私は、自分が見た夢を、どのように判断すればよいのか。
夢と言えば、私のばあい、ほとんどが旅行をしている夢。
たいていはバスや電車に乗る夢。
そこから家に向かって、帰る夢。

 慢性的な不安神経症(パニック障害)が、基礎にあると考えられる。

 で、今回は、昭和20年。
これには最近見た、テレビのドキュメンタリー映画が影響しているようだ。
あるいは私はSF映画を、好んで見る。
その影響もあるかもしれない。

 バスの運賃については、バスに乗るたびに、小銭の心配をする。
それが夢の中にも、出てきた。

 しかし農道にしても、あのバスにしても、いかにも昭和20年ごろのものという
感じがした。
それは私が子どものころ、どこかで見た農道が、記憶の中に残っているものと思われる。

●根なし草

 こうした夢と、私の無意識とどう結びつけたらよいのか。
ひとつ気になる点があるとするなら、私が見る夢は、ここにも書いたように、いつも旅行
をしている夢。
旅行を楽しんでいる夢というよりは、「家に帰る」という夢。

 私はいつもどこかに住みながら、(そこ)を、定住の場所とは考えていない。
あるいはふつうの人ならみな、もっているだろう安定した(故郷感)をもっていない。
私にとって、(故郷)というのは、そういうもの。
子どものころから、実家のあるあの(故郷)が、いやでいやで、たまらなかった。
つまり私は、「根なし草」。
心の拠りどころをもっていない。
それがそのまま夢の中に、現れてくる。

 私が日常的に感じている、不安感、さらに言えば、孤独感の原因も、どうやらその
あたりにある。
そしてそれがそのつど、姿、形を変えて、私の生きざまに大きな影響を与えている。

●末那識(まなしき)

 こうして私は、無意識下の「私」について、ひとつの手がかりを得たことになる。
無意識下にも、「私」がいて、それがいつも私を、「下」から操っている。
・・・と考えなおしてみると、あのジークムント・フロイトという人は、ものすごく頭の
よい人だったということがわかる。

 もっとも仏教の世界でも、同じようなことを言っている。
「末那識」(まなしき)という言葉もある。

「末那識」について書いた原稿をさがしてみる。

++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●愛他的自己愛者(偽善者)

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私の知人に、こんな女性(当時55歳くらい)がいた。
その女性は、何でも、ボランティア活動として、近所の
独居老人の世話をして回っているという。
そういう話を、その女性から直接、聞いた。

「どんなことをしているのですか?」と聞くと、
その女性は、ことこまかに、あれこれと説明してくれた。
で、あるとき、こんな会話をしたのを覚えている。

私がその話に少なからず感動し、「すばらしいことです」と
言ったときのこと。
その女性は、さらにこう言った。
「いえいえ、私なんか、何でもありません。
私の友人のHさんなんかは、独居老人の入浴を手伝っていますよ。
でね、入浴中に、老人が、便をもらすこともあるそうです。
が、Hさんは、そうした便を、手ですくって、外へ捨てていますよ」と。

さらに驚いたことに、話を聞くと、そのHさんというのは、まだ
20代の後半の男性と言った!

私は当時、この話を聞いて、心底、感動し、エッセーも書き残した。

しかし、である。
どうも、この話は、おかしい。
どこか、へん。

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その人が善行をなすには、その人自身を支える、(周囲文化)というものが必要である。
たとえば自動車産業というものを考えてみよう。
自動車産業が生まれるためには、それを支える周辺の技術、研究、環境が必要である。
人材ももちろん、育成しなければならない。
そういった(周囲)もないまま、自動車産業だけが、忽然(こつぜん)と、
姿を現すということはありえない。

そこで私は、その女性の周辺に興味をもつようになった。
どういう生い立ちで、どういう人生を送ってきたか、などなど。
またその女性を支えている哲学は何か、とも。

しかし、である。
それから5、6年になるが、どこをどうつついても、その(周囲文化)というものが、
浮かび上がってこない。
それなりの基礎があったとか、経験があったとかいうなら、まだ話がわかる。
また会話をしていて、それなりの(深み)を感ずるというのなら、まだ話がわかる。
しかしそういうものが、まったく、ない。
だいたい、本を読んだことさえないという。
音楽も絵画もたしなまない。

そのうち私は、「どうしてそんな女性が、ボランティア活動?」と、疑問に思うように
なった。
が、やがていろいろな情報が入ってくるようになった。

その女性は、ケチの上に、「超」が三つも四つも重なるような女性である。
子どもの教育費すら、惜しんで出さなかったという。
2人の娘がいたが、「大学を出すと、遠くの男と結婚するから」という理由で、
娘たちには、大学へは行かせなかった。
が、世間体だけは人一倍気にしていた。
見栄っぱりで、虚栄心が強かった。
が、決定的だったのは、その女性が、一方でボランティア活動を他人に吹聴しながら、
その前後から始まった実父の介護では、虐待に近いことをしていたということ。

この話を、私はあるケアマネ(ケア・マネージャー)をしている人から聞いた。
そのときには、「ヘエ〜、あの女性がですか……」と言ったきり、言葉が詰まってしまった。

つまりその女性は、ボランティア活動を、自分を飾るための道具として利用していただけ。
口もうまい。
言葉も巧み。
それとなく会話の中に、自分の善行を織り交ぜながら、相手を煙に巻く。
結果として、他人に、自分はすばらしい人間と思わせる。

「明日、町内の会合があるそうですが、私は行けません。
主人に代わりに行ってもらいます。
私には、一人、近所で、気になっている老人がいますので、その人を見回って
あげなければなりません。
かわいそうな人でね。
子どもは1人いるのですが、数年に1、2度、やってくるかどうかという人です。
あわれなもんです。
先日も、何かの書類が必要だというので、その老人のために、私は半日かけて
書類を集めてやりました」とか、何とか。

つまり一貫性がない。

そこまで親身になって独居老人の世話をしているというのなら、それなりの一貫性が
なければならない。
その一貫性が、こちら側に伝わってこなければならない。
さらに言えば、そこに至るまでのプロセスに、(自然さ)がなければならない。

たとえば以前、ある大学の教授の家を訪問したときのこと。
たまたまそこに、カンボジアの難民キャンプから帰ってきたばかりという女性がいた。
その女性は、左手を怪(けが)したとかで、まだ大きな包帯を幾重にも巻いていた。
「暴動に巻きこまれて、怪我をしました」「それで休暇をもらって、日本へ帰ってきて
います」ということだった。

そういう女性と話していると、(自然さ)を感ずる。
深い人間愛というか、人間味を感ずる。
哲学や人生観を感ずる。
どこにもスキがない。
私がここでいう(一貫性)というのは、それをいう。

で、私たちの世界では、先に書いたような女性のことを、「愛他的自己愛者」、つまり、
「偽善者」という。
もっとも軽蔑すべき人間ということになる。
なるが、先に書いたケアマネの人は、こう言って教えてくれた。

「そういう女性だとわかっていますが、そういう人でも、何かと助かっています」と。
偽善がときには、真善になるということもあるということか。
私には、とてもマネできないことだが……。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【末那識(まなしき)】

●偽善

 他人のために、善行をほどこすことは、気持ちがよい。
楽しい。
そう感ずる人は、多い。
俗にいう、「世話好きな人」というのは、そういう人をいう。
しかしそういう人が、本当に他人のことを思いやって、そうしているかと言えば、それは
どうか?

実は、自分のためにしているだけ……というケースも、少なくない。

このタイプの人は、いつも、心のどこかで、たいていは無意識のまま、計算しながら行動
する。
「こうすれば、他人から、いい人に思われるだろう」「こうすれば、他人に感謝されるだろ
う」と。
さらには、「やってあげるのだから、いつか、そのお返しをしてもらえるだろう」と。

心理学の世界でも、こういう心理的動作を、愛他的自己愛という。
自分をよく見せるために、他人を愛しているフリをしてみせることをいう。
しかしフリは、フリ。
中身がない。仏教の世界にも、末那識(まなしき)という言葉がある。
無意識下のエゴイズムをいう。わかりやすく言えば、偽善。

 人間には、表に現われたエゴイズム(自分勝手)と、自分では意識しない、隠されたエ
ゴイズムがある。
表に現れたエゴイズムは、わかりやすい。自分でも、それを意識することができる。

 しかし、この自分では意識しない、隠されたエゴイズムは、そうでない。
その人の心を、裏から操る。
そういう隠されたエゴイズムを、末那識というが、仏教の世界では、この末那識を、強く
戒める。

 で、日本では、「自己愛」というと、どこか「自分を大切にする人」と考えられがちであ
る。しかしそれは誤解。自己愛は、軽蔑すべきものであって、決して、ほめたたえるべき
ものではない。

 わかりやすく言えば、自己中心性が、極端なまでに肥大化した状態を、「自己愛」という。
どこまでも自分勝手でわがまま。
「この世界は、私を中心にして回っている」と錯覚する。「大切なのは、私だけ。あとは、
野となれ、山となれ」と。

 その自己愛が基本にあって、自己愛者は、自分を飾るため、善人ぶることがある。繰り
かえしになるが、それが愛他的自己愛。つまり、偽善。

 こんな例がある。

●恩着せ

 そのときその男性は、24歳。その日の食費にも、ことかくような貧しい生活をしてい
た。

 その男性から、相談を受けたXさん(女性、40歳くらい)がいた。その男性と、たま
たま知りあいだった、そこでXさんは、その男性を、ある陶芸家に紹介した。
町の中で、クラブ制の窯(かま)をもっていた。
教室を開いていた。その男性は、その陶芸家の助手として働くようになった。

 が、それがその男性の登竜門になった。その男性は、思わぬ才能を発揮して、あれよ、
あれよと思う間に、賞という賞を総なめにするようになった。20年後には、陶芸家とし
て、全国に、名を知られるようになった。

 その男性について、Xさんは、会う人ごとに、こう言っている。

 「あの陶芸家は、私が育ててやった」「私が口をきいてやっていなければ、今でも、貧乏
なままのはず」「私が才能をみつけてやった」と。
そして私にも、こう言った。

 「恩知らずとは、ああいう人のことを言うのね。あれだけの金持ちになっても、私には
1円もくれない。あいさつにもこない。盆暮れのつけ届けさえくれない」と。

 わかるだろうか?

 このXさんは、親切な人だった。そこでその男性を、知りあいの陶芸家に紹介した。
が、その親切は、ある意味で、計算されたものだった。
本当に親切であったから、Xさんは、その男性を、陶芸家に紹介したわけではなかった。
それに一言、つけ加えるなら、その男性が、著名な陶芸家になったのは、あくまでもその
男性自身の才能と努力によるもの。

 ここに末那識(まなしき)がある。

●愛他的自己愛

 この末那識は、ちょっとしたことで、嫉妬、ねたみ、ひがみに変化しやすい。
Xさんが、「恩知らず」とその男性を、非難する背景には、それがある。そこで仏教の世界
では、末那識つまり、自分の心の奥底に潜んで、人間を裏から操(あやつ)るエゴイズム
を、問題にする。

 心理学の世界では、愛他的自己愛というが、いろいろな特徴がある。ここに書いたのは、
偽善者の特徴と言いかえてもよい。

(1)行動がどこか不自然で、ぎこちない。
(2)行動がおおげさで、演技ぽい。
(3)行動が、全体に、恩着せがましい。
(4)自分をよく見せようと、ことさら強調する。
(5)他人の目を、強く意識し、世間体を気にする。
(6)行動が、計算づく。損得計算をいつもしている。
(7)裏切られるとわかると(?)、逆襲しやすい。
(8)他人をねたみやすく、嫉妬しやすい。
(9)他人の不幸をことさら笑い、話の種にする。

 こんな例もある。同じ介護指導員をしている、私の姉から聞いた話である。

●Yさんの仮面

 Yさん(60歳、女性)は、老人介護の指導員として、近所の老人家庭を回っていた。
介護士の資格はもっていなかったから、そのため、無料のボランティア活動である。

 とくにひとり住まいの老人の家庭は、数日ごとに、見舞って、あれこれ世話を焼いてい
た。
もともと世話好きな人ということもあった。

 やがてYさんは、町役場の担当の職員とも対等に話ができるほどまでの立場を、自分の
ものにした。
そして市から、介護指導員として、表彰状を受けるまでになった。

 だからといって、Yさんが、偽善者というわけではない。
またYさんを、非難しているわけでもない。仮に偽善者であっても、そのYさんに助けら
れ、励まされた人は、多い。
またYさんのような親切は、心のかわいたこの社会では、一輪の花のように、美しく見え
る。

 が、Yさんは、実は、そうした老人のために、指導員をしているのではなかった。
またそれを生きがいにしていたわけでもない。
Yさんは、「自分が、いい人間に思われることだけ」を考えながら、介護の指導員として活
動していた。

 みなから、「Yさんは、いい人だ」と言われるために、だ。Yさんにしてみれば、それほ
ど、心地よい世界は、なかった。

 しかしやがて、そのYさんの仮面が、はがれる日がやってきた。

 Yさんが、実父の介護をするようになったのである。

実父は、元気な人だったが、脳梗塞(こうそく)を起こしてしまった。
トイレや風呂くらいは、何とか自分で行けたが、それ以外は、寝たきりに近い状態になっ
てしまった。
年齢は、73歳(当時)。

 最初は、Yさんは、このときとばかり、介護を始めたが、それが1か月もたたないうち
に、今度は、実父を虐待するようになった。
風呂の中で、実父が、大便をもらしたのがきっかけだった。

 Yさんは、激怒して、実父に、バスタブを自分で洗わせた。
実父に対する、執拗な虐待が始まったのは、それからのことだった。

 食事を与えない。与えても、少量にする。
同じものしか与えない。初夏の汗ばむような日になりかけていたが、窓を、開けさせない。
風呂に入らせない。
実父が腹痛や、頭痛を訴えても、病院へ連れていかない、など。

 こうした事実から、介護指導員として活動していたときの、Yさんは、いわば仮面をか
ぶっていたことがわかったという。
ケアマネの人は、こう言った。

 「他人の世話をするのは、遊びでもできるけど、身内の世話となるいと、そうはいかな
いからね」と。

●子育ての世界でも

 親子の間でも、偽善がはびこることがある。無条件の愛とか、無償の愛とかはいうが、
しかしそこに打算が入ることは、少なくない。

 よい例が、「産んでやった」「育ててやった」「言葉を教えてやった」という、あの言葉で
ある。
昔風の、親意識の強い人ほど、この言葉をよく使う。

 中には、子どもに、そのつど、恩を着せながら、その返礼を求めていく親がいる。
子どもを1人の人間としてみるのではなく、「モノ」あるいは、「財産」、さらには、「ペッ
ト」としてみる。
またさらには、「奴隷」のように考えている親さえいる。

 息子(当時29歳)が、新築の家を購入したとき、その息子に向って、「親よりいい生活
をするのは、許せない」「親の家を、建てなおすのが先だろ」と、怒った母親さえいた。

 あるいは結婚して家を離れた娘(27歳)に、こう言った母親もいた。

 「親を捨てて、好きな男と結婚して、それでもお前は幸せになれると思うのか」「死んで
も墓の中から、お前を、のろい殺してやる」と。

 そうでない親には、信じがたい話かもしれないが、事実である。
私たちは、ともすれば、「親だから、まさかそこまではしないだろう」という幻想をもちや
すい。
しかしこうした(ダカラ論)ほど、あてにならないものはない。

 親にもいろいろある。

 もっとも、こうしたケースは、稀(まれ)。
しかしそれに近い、代償的過保護となると、「あの人も……」「この人も……」というほど、
多い。

●代償的過保護

 代償的過保護……。ふつう「過保護」というときは、その奥に、親の深い愛情がある。
愛情が基盤にあって、親は、子どもを過保護にする。

しかし代償的過保護というときは、その愛情が希薄。あるいはそれがない。「子どもを自分
の支配下において、自分の思いどおりにしたい」という過保護を、代償的過保護という。

 見た目には、過保護も、代償的過保護も、よく似ている。
しかし大きくちがう点は、代償的過保護では、親が子どもを、自分の不安や心配を解消す
る道具として、利用すること。
子どもが、自分の支配圏の外に出るのを、許さない。よくある例は、子どもの受験勉強に
狂奔する母親たちである。

 「子どものため」を口にしながら、その実、子どものことなど、ほとんど考えていない。
人格さえ認めていないことが多い。
自分の果たせなかった夢や希望を、子どもに強要することもある。
世間的な見得、メンツにこだわることもある。

 代償的過保護では、親が子どもの前に立つことはあっても、そのうしろにいるはずの、
子どもの姿が見えてこない。

 つまりこれも、広い意味での、末那識(まなしき)ということになる。
子どもに対する偽善といってもよい。
勉強をいやがる息子に、こう言った母親がいた。

 「今は、わからないかもしれないけど、いつか、あなたは私に感謝する日がやってくる
わよ。SS中学に合格すれば、いいのよ。お母さんは、あなたのために、勉強を強いてい
るのよ。わかっているの?」と。

●教育の世界でも

 教育の世界には、偽善が多い。
偽善だらけといってもよい。
教育システムそのものが、そうなっている。

 その元凶は「受験競争」ということになるが、それはさておき、子どもの教育を、教育
という原点から考えている親は、いったい、何%いるだろうか。
教師は、いったい、何%いるだろうか。

 教育そのものが、受験によって得る欲得の、その追求の場になっている。
教育イコール、進学。
進学イコール、教育というわけである。

さらに私立中学や高校などにいたっては、「進学率」こそが、その学校の実績となっている。
今でも夏目漱石の「坊ちゃん」の世界が、そのまま生きている。
数年前も、関東地方を中心にした、私立中高校の入学案内書を見たが、どれも例外なく、
その進学率を誇っていた。

 SS大学……5人
 SA大学……12人
 AA大学……24人、と。

 中には、付録として、どこか遠慮がちに別紙に刷りこんでいる案内書もあったが、良心
的であるから、そうしているのではない。
毎年、その別紙だけは、案内書とは分けて印刷しているために、そうなっている。

 この傾向は、私が住む、地方都市のH市でも、同じ。
どの私立中高校も、進学のための特別クラスを編成して、親のニーズに答えようとしてい
る。

 で、さらにその元凶はいえば、日本にはびこる、職業による身分差別意識と、それに不
公平感である。
それらについては、すでにたびたび書いてきたのでここでは省略するが、ともかくも、偽
善だらけ。

 つまりこうした教育のあり方も、仏教でいう、末那識(まなしき)のなせるわざと考え
てよい。

●結論

 私たちには、たしかに表の顔と、裏の顔がある。
文明という、つまりそれまでの人間が経験しなかった、社会的変化が、人間をして、そう
させたとも考えられる。

 このことは、庭で遊ぶスズメたちを見ていると、わかる。
スズメたちの世界は、実に単純、わかりやすい。礼節も文化もない。
スズメたちは、「生命」まるだしの世界で、生きている。

 それがよいとか、はたまた、私たちが営む文明生活が悪いとか、そういうことを言って
いるのではない。

 私たち人間は、いつしか、自分の心の奥底に潜む本性を覆(おお)い隠しながら、他方
で、(人間らしさ)を追求してきた。
偽善にせよ、愛他的自己愛にせよ、そして末那識にせよ、人間がそれをもつようになった
のは、その結果とも言える。

 そこで大切なことは、まず、そういう私たち人間に、気づくこと。
「私は私であるか」と問うてみるのもよい。
「私は本当に善人であるか」と問うてみるのもよい。あなたという親について言うなら、「本
当に、子どものことを考え、子どものために教育を考えているか」と問うてみるのもよ
い。

 こうした作業は、結局は、あなた自身のためでもある。あなたが、本当のあなたを知り、
ついで、あなたが「私」を取りもどすためでもある。

 さらにつけたせば、文明は、いつも善ばかりとはかぎらない。
悪もある。その悪が、ゴミのように、文明にまとわりついている。それを払いのけて生き
るのも、文明人の心構えの一つということになる。
(はやし浩司 末那識 自己愛 偽善 愛他的自己愛 愛他的自己像 私論)
(050304)

【補記】

●みんなで偽善者を排斥しよう。偽善者は、そこらの犯罪者やペテン師より、さらに始末
が悪い

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もう1作、見つかったので、
そのまま紹介します。

++++++++++++++++++

●仏教聖典
(Buddah's Teaching)

仏教伝道協会発行の「仏教聖典」を座右の書とするようになって、そろそろ1年になる。
この本は、どこの旅館やホテルにも置いてある。そこでこの本のことを知った。
一度、あるホテルのマネージャーに売ってくれないかと頼んだことがあるが、断られた。
そこで協会のほうへ直接注文して、取り寄せた。料金は後払いでよいということだった。

内容については、私のBLOGやマガジンのほうでも、たびたび、
引用させてもらっている。

まず「因縁(いんねん)」について……。

因と縁のことを、「因縁」という。
因とは、結果を生じさせる直接的原因。縁とは、それを助ける外的条件である。
あらゆるものは、因縁によって生滅するので、このことを「因縁所生」などという。
この道理をすなおに受け入れることが、仏教に入る大切な条件とされる。
世間では転用して、悪い意味に用いられることもあるが、本来の意味を逸脱したもので
あるから、注意を要する。
なお縁起というばあいも、同様である。(同書、P318)

+++++++++++++++++

仏教聖典、いわく、

『この人間世界は苦しみに満ちている。
生も苦しみであり、老いも、病も、死も、みな苦しみである。
怨みのあるものと会わなければならないことも、
愛するものと別れなければならないことも、
また求めて得られないことも苦しみである。
まことに執着(しゅうじゃく)を離れない人生は、すべて苦しみである。
これを苦しみの真理、「苦諦(くたい)」という』(P42)

こうした苦しみが起こる原因として、仏教は、「集諦(じったい)」をあげる。
つまりは、人間の欲望のこと。この欲望が、さまざまに姿を変えて、苦しみの原因となる。

では、どうするか。

この苦しみを滅ぼすために、仏教では、8つの正しい道を教える。
いわゆる「八正道」をいう。

正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

(1) 正見 ……正しい見解
(2) 正思惟……正しい思い
(3) 正語 ……正しい言葉
(4) 正業 ……正しい行い
(5) 正命 ……正しい生活
(6) 正精進……正しい努力
(7) 正念 ……正しい記憶
(8) 正定 ……正しい心の統一(同書)をいう。

仏教聖典には、こうある。

『これらの真理を人はしっかりと身につけなければならない。
というのは、この世は苦しみに満ちていて、この苦しみから逃れようとするものは、
だれでも煩悩を断ち切らなければならないからである。
煩悩と苦しみのなくなった境地は、さとりによってのみ、到達し得る。
さとりはこの8つの正しい道によってのみ、達し得られる(同書、P43)。

以前、「空」について書いたことがある。

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●すべて「空」

 大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっても過
言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるものは、何もな
い、と。

 この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、コンピュータの中の世
界かもしれない。

 たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の目。そ
のキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面には、ただの
光の信号が集合されているだけ。

 私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。

 しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在して、脳
に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。

 こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。釈迦滅後、数百年後を経て、紀
元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、完成されたと言われている。釈迦の生誕
年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされている。

 ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、600年以
上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や法華経などの、大乗経
典も、できあがっている。

 しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではないかと思い
始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひょっとしたら、何
もないのではないか、と。

 たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこれが私な
のかと思ってしまう。

 同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされている。仏
教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるものを、阿頼那識(あら
やしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、同じに考えてよいのでは
(?)。

 こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限られた部
分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、「本当にそう
か?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。

 さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。億年
の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、この大
地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。

 そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と思ってしま
う。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味であるとか、虚(む
な)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。

 私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかということ。
私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。そういうものに振り
まわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄にすることになる。

●自分をみがく

 そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうどう)があ
る。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、正思惟、正語、
正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

 が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、布
施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。

 八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、「布
施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。

 しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。こうした
教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考え方が否定され
てしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」という程度で、よいのではな
いか。

 で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。中に
は、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そういう修行も必
要かもしれない。しかし、私は、ごめん。

 大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、その中で、
自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自分をみがいていくこ
とではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格が高邁(こうまい)になると
か、そういうことはありえない。

 その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になったとた
ん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですというような雰囲
気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。

 だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、私たち
は、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)に、こだわる
必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。

 私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんなことを
考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まちがったこともす
るかもしれない。

 しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、
「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間として、生きる
意味がある。

 今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考えてみた
い。
(050925記)
(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識)

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八正道の中でも、私は、正精進こそが、
もっとも重要だと思う。

とくに、今の私のように、健康で、何一つ
不自由のない生活をしているものにとっては、
そうである。

けっして今の状況を、怠惰に過ごしてはいけない。
時間にはかぎりがあり、人生にも、それゆえに
限界がある。

それこそ死を宣告されてから、悟りを求めても、
遅いということ。

たとえば肺ガンを宣告されてから、タバコをやめたり、
胃ガンを宣告されてから、飲酒をやめても、遅い。

健康であるなら、さらに今の生活が満ち足りたものであるなら、
なおさら、私たちは、精進に精進を重ねる。

一瞬、一秒たりとも、無駄にできる時間はない。
また無駄にしてはいけない。

正精進について書いた原稿がある。
一部内容がダブるが、許してほしい。

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●正精進

 釈迦の教えを、もっともわかりやすくまとめたのが、「八正道(はっしょうどう)」ということにな
る。仏の道に至る、修行の基本と考えると、わかりやすい。

 が、ここでいう「正」は、「正しい」という意味ではない。釈迦が説いた「正」は、「中正」の「正」
である。つまり八正道というのは、「八つの中正なる修行の道」という意味である。

 怠惰な修行もいけないが、さりとて、メチャメチャにきびしい修行も、いけない。「ほどほど」
が、何ごとにおいても、好ましいということになる。が、しかし、いいかげんという意味でもない。

 で、その八正道とは、(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)正念、(7)
正精進(8)正定、をいう。広辞苑には、「すなわち、正しい見解、決意、言葉、行為、生活、努
力、思念、瞑想」とある。

 このうち、私は、とくに(8)の正精進を、第一に考える。釈迦が説いた精進というのは、日々
の絶えまない努力と、真理への探究心をいう。そこには、いつも、追いつめられたような緊迫感
がともなう。その緊迫感を大切にする。

 ゴールは、ない。死ぬまで、努力に努力を重ねる。それが精進である。で、その精進について
も、やはり、「ほどほどの精進」が、好ましいということになる。少なくとも、釈迦は、そう説いてい
る。

 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、探究心を忘れない。努力する。がんばる。が、
そのつど、音楽を聞いたり、絵画を見たり、本を読んだりする。が、何よりも重要なのは、自分
の頭で、自分で考えること。「考える」という行為をしないと、せっかく得た情報も、穴のあいた
バケツから水がこぼれるように、どこかへこぼれてしまう。

 しかし何度も書いてきたが、考えるという行為には、ある種の苦痛がともなう。寒い朝に、ジョ
ギングに行く前に感ずるような苦痛である。だからたいていの人は、無意識のうちにも、考える
という行為を避けようとする。

 このことは、子どもたちを見るとわかる。何かの数学パズルを出してやったとき、「やる!」
「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になる子どももいる。中には、となりの
子どもの答をこっそりと、盗み見する子どももいる。

 子どもだから、考えるのが好きと決めてかかるのは、誤解である。そしてやがて、その考える
という行為は、その人の習慣となって、定着する。

 考えることが好きな人は、それだけで、それを意識しなくても、釈迦が説く精進を、生活の中
でしていることになる。そうでない人は、そうでない。そしてそういう習慣のちがいが、10年、20
年、さらには30年と、積もりに積もって、大きな差となって現れる。

 ただ、ここで大きな問題にぶつかる。利口な人からは、バカな人がわかる。賢い人からは、愚
かな人がわかる。考える人からは、考えない人がわかる。しかしバカな人からは、利口な人が
わからない。愚かな人からは、賢い人がわからない。考えない人からは、考える人がわからな
い。

 日光に住む野猿にしても、野猿たちは、自分たちは、人間より、劣っているとは思っていない
だろう。ひょっとしたら、人間のほうを、バカだと思っているかもしれない。エサをよこせと、キー
キーと人間を威嚇している姿を見ると、そう感ずる。

 つまりここでいう「差」というのは、あくまでも、利口な人、賢い人、考える人が、心の中で感ず
る差のことをいう。

 さて、そこで釈迦は、「中正」という言葉を使った。何はともあれ、私は、この言葉を、カルト教
団で、信者の獲得に狂奔している信者の方に、わかってもらいたい。彼らは、「自分たちは絶
対正しい」という信念のもと、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、相手を切って捨て
る。

 こうした急進性、ごう慢性、狂信性は、そもそも釈迦が説く「中正」とは、異質のものである。と
くに原理主義にこだわり、コチコチの頭になっている人ほど、注意したらよい。
(はやし浩司 八正道 精進 正精進)

【補足】

 子どもの教育について言えば、いかにすれば、考えることが好きな子どもにするか。それが、
一つの重要なポイントということになる。要するに「考えることを楽しむ子ども」にすればよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 正見、正思惟、正語、正業、正
命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道 仏教聖典 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●自分の中のバカとの戦い

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長野県に住む大学の同窓生と、しばらく電話で話す。
その同窓生が、こんな話をしてくれた。

その同窓生は、2年前、父親を亡くした。
で、昨年、一周忌の法要をした。
その法要でのこと。

同窓生は、法要を簡単にすますつもりでいた。
が、当日、親戚同士が連絡を取り合い、なんと25人前後の
人たちが集まってしまったという。

同窓生の姉に、1人、節介好きの人がいて、その女性が
みなに連絡したという。
同窓生は、かなり怒っていた。

++++++++++++++++++++

●儀式論

 愛知県や岐阜県では、冠婚葬祭を派手にする。
が、「長野県もそうだ」と。
一方、この静岡県(西部)では、全体的に質素。

 それについて、長野県に住む同窓生は、冒頭に書いたようなことを話してくれた。
で、私が、「どういうやり方をすれば、みんなが満足するのか」と聞くと、
こう言った。

「ああいう連中は、どんなやり方をしても、満足しねえだろうね」と。

 そこでしばらく、たがいに儀式論について、話し合った。

 儀式は生活につきもの。
その儀式には、たいてい「形」がある。
形を決めておけば、あとが、楽。
何も考えず、過去を踏襲すればよい。

 で、「ふつうはどんなやり方をするのか?」と聞くと、こう教えてくれた。
「このあたりでは、仏壇の前で僧侶による読経法要が済むと、みなで墓参りを
する。そのあと、どこかの料亭を借りて、飲み食いをする」と。

●変わる時代

私「しかしそれぞれの家庭には、それぞれの事情というものがあるだろ?」
友「あっても、関係ねえな」
私「関係ないって?」
友「形が決まっているからな」
私「それで君は、どうした?」
友「あんなくだらねえこと、やらなかったよ」と。

 時代はたしかに変わりつつある。
が、それよりも問題なのは、同窓生の親類の1人が、こう言ったということ。

「あいつ(=同窓生のこと)は、大学で法学まで学んだのに、常識が備わっていない。
いくら偉そうなことを言っても、そんな常識も知らねえのは、人間のクズ」と。

 その話を、同窓生の姉が、同窓生に伝えたという。
同窓生が、姉を非難したときのことだった。
「私はいいけど、みんなが陰でなんて言っているか、あなたは知っているの!」と。

●アラ探し

 私ももうすぐ、母と兄の一周忌の法要をする。
連絡したのは、実姉のみ。
たぶん姉のことだから、喪主の私をさておいて、同じようにあちこちに連絡するだろう。
姉は、姉の常識(?)に従って行動する。

 同窓生の姉も、そして私の姉も、(伝統)という(鎧(よろい))を身につけているから、
強い。
その伝統を破るのは、簡単なことではない。
よい例が、地域の(祭り)。
祭りというのは、作るのは簡単。
しかし一度、できあがってしまうと、今度は、変えるのはむずかしい。
(形)の上に、また別の(形)ができてしまう。

 そういう(形)に抵抗を示すと、それだけで(変わり者)というレッテルを張られて
しまう。
先の同窓生も、そう見られているという。

私「大学で教育を受けたというと、そういうのが教育と、みな、思うからね」
友「学歴コンプレックスの裏返しではないかなあ・・・」
私「そういう面もあるよな」
友「あいつら、何かにつけて、オレのアラ探しをするからな」
私「そうそう、ぼくもそうだ。先日も、ぼくに向かって、『偉そうなこと言うな』と
言った人もいたぞ」
友「そりゃあ、ちょっと、ひでえな〜」と。

●同じ長野県でも・・・

 もう一人、長野県には同窓生がいる。
彼は長野市から、車で1時間ほどの町に住んでいる。
その町では、「質素運動」というのが、10年以上も前から進められているという。
香典の額にしても、1世帯当たり、一律に1000円と決められているという。
香典袋にしても、市役所のほうで、販売しているという。

 また寺が出す戒名にしても、一律、同名、同額に決められているという。

 同じ長野県でも、地域によって、みな、それぞれとのこと。
私が「長野市のA君の話とは、だいぶちがうな?」と言うと、その同窓生は、
「ああ、あそこは派手だからな。ここは貧乏村なんだよな」と。

 これはあくまでも補足。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 法事 儀式 一周忌の法要)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●識字障害(失読症・ディスクレシア)(文字の読めない子ども、20人に1人!)

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文字を読めない子どもがいる。
何とか読むことはできても、意味や内容を理解
できない。

学習障害児の1様態として考えられている。

日本人のばあい、全体の5%(アメリカ人は全体の10%)いる
と言われている(NHKオンライン)

インターネットを使って、「識字能力」を調べてみた。

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●ウィキペディア百科事典より

 ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『……知的能力及び一般的な学習能力の脳内プロセスに特に異常がないにもかかわらず、書
かれた文字を読むことができない、読めてもその意味が分からない(文字と意味両方ともそれ
ぞれ単独には理解できていることに注意)などの症状が現れる。逆に意図した言葉を正確に
文字に表すことができなくなる「書字表出障害(ディスグラフィア、Dysgraphia)」を伴うこともあ
る。また簡単な計算ができない「計算障害」を伴うことも多い。左脳内の文字と意味の相関関
係を司る特殊なプロセスに何らかの障害が発生していると考えられているが、はっきりした原
因はまだ突き止められていない。なお家族性の発症例も古くから知られており、遺伝マーカー
との関連に関する研究も行われている』(以上、ウィキペディア百科事典より)。

●NHKオンラインより

 NHKオンラインのHPには、「日本でも5%もいることがわかってきた」という。

『……会話能力にも問題はなく、しかも眼に異常があるわけでもないのに、文章を読むのに著
しい困難を抱える人たちがいる。読字障害だ。この障害が見つかったのは、19世紀末の英
国。数字の「7」は読めるのに「seven」を見せると読めない中学生が見つかった。当時は、まれ
なケースと思われていたが、英米では人口の10%、日本では5%もいることが判ってきた。最
新の研究によって読字障害の人は一般の人と、脳での情報処理の仕方が異なることが明らか
になってきた。通常、情報を統合する領域で文字を自動処理しているが、読字障害の人は文
字処理をスムーズにできないのである。人類が文字を使い始めてわずか5千年、この時間の
短さ故、脳は十分に文字を処理できるよう適応しきれていないのである』(NHKオンライン)。

●Yahoo・知恵袋より

 識字能力といっても、内容はさまざまに分類される。

『……日本語で失読症と翻訳されている言葉には、Alexia(アレクシア)とDyslexia(ディスレクシ
ア)の2つがあります。

 まず、Alexia(アレクシア)からご説明します。英語版のWikipediaからの引用http://en.
wikipedia.org/wiki/Alexia_(disorder)をご覧下さい。後天的な脳障害にて、言語機能のうち、「読
む」能力が選択的に障害された状態です。失語症の特殊なタイプと考えられています。

 Dyslexia(ディスレクシア)については、こちらhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%
A3%E3%82%B9%E3%83%AC%E...をご参照下さい。ディスレクシアは学習障害の一種であり、失読
症、難読症、識字障害、読字障害ともいう、と説明されています。アメリカ合衆国では人口の約
15%がディスレクシアと言われています。トム・クルーズがディスレクシアを抱えていたことを告
白したことも、人々の関心を呼び起こした原因となっています。

 国際Dyslexia協会のホームページhttp://square.umin.ac.jp/LDDX/newpage106htm.htmもお
読みください。先天性、後天性の読み書き障害の違いについて、説明されています。ちなみ
に、この協会ではディスレクシアを発達性読み書き障害と表記しています。

 Alexia(失読症)、Aphasia(失語症)に使用されているA-は、否定の意味を示す接頭語です。
Apraxia(失行症)、Agnosia(失認症)も全く同じです。これら高次脳機能障害に使用されている
用語は、学問的にも行政的にも、ほぼ確立しています。

 一方、Dyslexia(ディスレクシア)やDysmetria(測定障害)で使われているDys-は、同じ接頭語
でも困難であることを示しています。このため、日本語の訳語でも、「?障害」と表記されること
が多いようです。

 既にAlexiaを失読症と翻訳している現状を考えると、ディスレクシアを失読症と表記すること
は妥当ではなく、難読症、ないし、識字障害、読字障害と表記すべきでしょう。さらに言うと、代
表的な学習障害であるという意味を強調するために、国際Dyslexia協会が使用している発達性
読み書き障害という用語の方が意味が明快です。いずれにせよ、ディスレクシアをどう表記す
るかについては、関係学会の調整が必要です。それまでの間は、ディスレクシア(難読症)と併
記するなどの工夫をするしかないでしょう』(Yahoo・知恵袋より)。

●発達障害の救急箱HPより

 日本でも有名人の中に、識字障害の人がいると言われている。
故岡本太郎氏や、タレントの黒柳徹子氏らの実名があげられている。

『……ディスレクシア(ディスレキシア)とされる芸能人、有名人
"岡本太郎(おかもとたろう) 
"黒柳徹子(くろやなぎてつこ) 
http://www.laqoo.net/hattatu/dyslexia.html』(発達障害の救急箱HP)。

++++++++++++++++++++

●識字障害(Dyslexia)

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ほぼ20年ぶりに、ある家族を訪問してみた。
どこか雰囲気がおかしい。
見慣れた家庭の様子とは、どこかちがう。
が、そのときは気がつかなかった。

で、その1年後、再びその家庭を訪問してみて、
私は知った。
その家には、本という本、雑誌にいたるまで、
それがまったくなかった!

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●文章を読めない人たち

 その家族……Y家としておく。
私の遠い親戚にあたる。
そのY家の息子(高校3年生)が、引きこもり状態になってしまったという。
相談があった。
そこで私は、資料を、30〜40ページあまりプリントアウトし、それを直接
Y家の人に届けることにした。

 Y家は、見慣れた家庭の雰囲気とは、どこかちがっていた。
どこかちがうということはわかったが、理由がわからなかった。
が、2度目に訪問してみて、気がついた。

 本がない!
本という本が、ない!
雑誌も、ない!
新聞はあったようだが、読んだ形跡がほとんど、ない!
食卓のある居間には、大きなテレビがあった。
ふつうなら、そのあたりに、何冊か本が並んでいる。
それもなかった!

●「私、そんなもん、読んでもわかりません!」

 異変はつづいた。
食卓のある居間で待っていると、そこへYさん(妻)がやってきた。
で、簡単なあいさつをして、私がカバンの中から、プリントアウトした資料を
見せようとしたその瞬間のこと。
Yさんが、突然パニック状態になり、書類のたばを見ることもなく、それを
片手で払いのけてしまった。
「私、そんなもん、読んでもわかりません!」と。

 「引きこもりに関する資料ですが……」と、それを集めてYさんに再び
見せようとすると、Yさんは、そのまま、席を立ってしまった。

 異様な行動だった。
文字というより、書類の束(たば)に、拒絶反応を示した。
そのとき私の脳裏を、「識字障害」という言葉が横切った。

 たいへん珍しいケースだが、Y家では、夫のY氏も、妻のYさんも、
その識字障害者だった。
……というより、若い時より(文字を読まない)→(ますます読めなくなる)の
悪循環の中で、文字から遠ざかってしまった。

ついでにいうと、引きこもりを起こした息子にも、その傾向が見られた。
その少し前、「英語が苦手」「英語の単語をまったく覚えられない」という話を
聞いていた。

●識字障害

 識字障害といっても、

『日本語で失読症と翻訳されている言葉には、Alexia(アレクシア)とDyslexia(ディスレクシア)の
2つがあります。……ディスレクシアは学習障害の一種であり、失読症、難読症、識字障害、読
字障害ともいう』(ヤフー知恵袋)とある。

 つまり失語症といっても、

(Alexiaアレクシア)……後天的な脳障害にて、言語機能のうち、「読む」能力が選択的に障害
された状態。
(Dyslexiaディスクレシア)……学習障害の1つ。
に分類される。

 さらにディスクレシアといっても、

(1)書かれた文字を読むことができない、
(2)読めてもその意味が分からない
(3)(文字と意味両方ともそれぞれ単独には理解できていることに注意)
(4)逆に意図した言葉を正確に文字に表すことができなくなる「書字表出障害(ディスグラフィ
ア、Dysgraphia)」を伴うこともある。
(5)また簡単な計算ができない「計算障害」を伴うことも多い。(以上、ウィキペディア百科事典
より)というように分類される。

●Y家のばあい

 Yさんにしても、簡単な手紙の読み書きくらいはできる。
実際、手紙をもらったことがある。
また自分たちがそうであることを自覚しているためか、(とりつくろい)が、たいへん
うまい。

 その場をたいへんうまく、とりつくろう。

 同じ日、こんなことがあった。
私がたまたま実母の介護のことで困っていたので、そのことをふと漏らすと、Yさんは、
「いい資料がある」と言って、奥のほうから、小冊子をもってきてくれた。
Yさん自身も、ボランティアだが、近所の老人の世話をしていた。

 が、Yさんはポンとその資料をテーブルの上に置くと、そのままどこかへ行ってしま
った。
「今、しかけた仕事があるから……」と。

 Yさんの説明を期待していたが、私はその資料を、最初からすべて読むハメになった。

●早期発見、訓練こそが、大切

 「5%〜10%」という数字には、驚く。
私も子どもたちの指導を通して、「文章を読めない子ども」というのは、数多く
経験してきた。
さらに「英語の単語を覚えられない」という子どもも、経験してきた。
しかしそれらの子どもが、脳の機能そのものに問題があり、さらにその数が、
20人に1人以上もいるというということまでは知らなかった。
(程度の差もあるだろうから、軽度の子どもも含めれば、数はもっと多い。)

 原因としては、人間の脳が、まだそこまで進化していないということが考え
られる。
文字の発明は、紀元前3500年前後までさかのぼることができる。
が、文字が一般社会に普及し始めたのは、ここ数百年のことである。
脳の機能が、こと文字の発達に、追いついていないということは、じゅうぶん
考えられる。

 が、(機能)の問題であるだけに、早期に発見し、適切に対処すれば、改善の
余地は大いにありということになる。

 現に黒柳徹子氏などは、本まで書いている。

 今、その研究と対策が、始まったばかりということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 識字障害 文字を読めない子ども 難読症 はやし浩司 文盲 失読  
Alexia(アレクシア) Dyslexia(ディスレクシア))


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司※

●分かっていないのは、だれ?

++++++++++++++++++++

NIKKEI NEWSは、
つぎのように伝える。

『麻生太郎首相は25日、宮城県多賀城市で街頭演説し「政治はばくちじゃない。(民主党に)
ちょっとやらせてみようか、というのは違う話だ。全く優先順位が分かっていない人が多すぎる」
と、いら立ちを見せた。報道各社が衆院選情勢調査で自民党の劣勢を伝えていることが背景
にあるとみられる』(Nikkei NEWS 09年8月26日)

++++++++++++++++++++

●方向音痴

 「もう、いやだ」「たくさん」というのが、浮動票層の本音。
選挙もせず、政権をたらい回しにし、あれこれと理由にもならない理由をこじつけて、
政権の座に居座りつづけている……。
そういうAS首相に、生理的嫌悪感すら覚える。

 むしろ浮動票層の私にしてみれば、いまだにAS内閣の支持率が、20%前後も
あるということのほうが、驚き。
だれが、いつ、どこで、AS首相を支持した?
裏工作に裏工作を重ね、自分で勝手に総理大臣の椅子を手にしただけではないのか?

 まったく分かっていないのは、AS首相本人。
「この怒り、どこに向かうべきか」(尾崎豊「卒業」)。
本来なら、行き過ぎた民主党支持に対して、ブレーキをかけるのが、私たち浮動票層
の役目。
ふつうなら、「民主党のひとり勝ちはよくないぞ!」と。
しかし今度ばかりは、そのブレーキが働かない。
理由の第一は、AS首相自身にある。

 民主党は300議席以上を確保するだろうと言われている。
が、このままでは、300議席ではなく、320議席以上。
そういう数字も視野に入ってきた。

 ところで、私とワイフは、年間、49万円近い国民健康保険料を支払っている。
7回に分けて支払っているので、1〜2か月ごとに7万円!
もうすぐ国民年金が手に入る年齢になるが、国民年金は、月額6万3000円。
わかるか?
たったの6万3000円。
2人で、13万円弱!

 国民年金など、国民健康保険料だけで、吹っ飛んでしまう。
こんなバカげた国が、どこにある。
……と、みなが、思い始めている。
今に、自営業を営む人は、ひとりもいなくなるぞ!
この怒り、どこに向かうべきか!

それが今度の総選挙ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●子どもは、家族の「代表」

++++++++++++++++++++

子どもは、家族の「代表」。
代表にすぎない。
今では、それは、常識。
子どもに何か問題があったとしても、
それは子どもだけの問題ではない。
家族全体の問題。
そのように、考える。
またそのように考えないと、子どもの問題は
解決しない。

しかしそれだけでは足りない。
足りないという話を、今までの経験を交えながら
書いてみたい。

+++++++++++++++++++

●優等生

 その母親(当時60歳)は、自分の息子(33歳)をさして、「うちの子ほど、
すばらしい息子はいない」と言った。
自分の息子をさして、「すばらしい」と言う親は、珍しい。
外国では多いが、日本では珍しい。
そこで私はその息子氏に会ってみたくなった。
が、その日は、その直後にやってきた。

 ある葬儀に出たときのこと。
その息子氏は母親のそばに寄り添うように、そこに座っていた。
「ああ、これがあの息子か」と、私は思った。
思いながら、私はその息子氏にあれこれと話しかけてみた。

 が、第一印象は、言うなれば、完璧に近いほど、マザコン。
穏やかで、おとなしいが、覇気がなく、静か。
私が話しかけても、はにかむだけ。
満足な返事もない。
どこかの電気会社の下請け企業で、技術者として働いているということだった。

私「仕事はどう?」
息「うん、まあまあ」
私「暑いときは、たいへんだね」
息「うん、ふふふ……」と。

●同一性の確立

 親はそれぞれの思いをもって、子育てを始める。
自分の夢や理想、思いを子育てに凝縮させる。
自分なりの(子ども観)をもつ人も多い。
それ自体は、悪いことではない。

 が、親が思い描く子ども観を、子どもに押し付けてはいけない。
「求める」ことまではしても、押し付けてはいけない。
それが度を越すと、過干渉となる。

 その息子氏は、母親の過干渉で、人格そのものまで、押しつぶされてしまっていた。
思春期前期から、思春期にかけて、自我の同一性の確立に失敗した。
私は、そう判断した。
だから人格の「核」がない。
「この人は、こういう人だ」という(つかみどころ)を「核」という。
その「核」がない。

 軟弱で、ひ弱。
たしかに(いい人)だったが、それだけ。
面白みがない。
迫力もない。 

●過干渉

 原因は、ここにも書いたように、母親にあった。
口うるさい人だった。
葬儀の席だったが、そんなとことでさえ、こまごまとしたことを、矢継ぎ早に
指示していた。
「あの扇風機を、こちらに向けなさい」
「ざぶとんを、あの人に出しなさい」
「お茶をわかしてきなさい」と。
息子氏は、黙ってそれに従っていた。

 つまりこうした親子のリズムが、その息子氏をして、そのような息子にした。
が、ここで最大の問題は、息子氏のことではない。
母親自身にその自覚がないということ。
先にも書いたように、母親自身は、そういう息子を、「すばらしい子ども」と誤解して
いた。

●病識

 精神病の世界にも、「病気意識(病識)」という言葉がある。
「私はおかしい」「へんだ」と思っている人は、まだ症状が軽い。
しかし「私はだいじょうぶ」「何でもない」とがんばる人ほど、症状は重い。
まったく病識のない人さえいる。

 同じように、自分の子どもの問題点に気がついている母親は、まだよい。
指導ができる。
そうでない母親は、指導そのものが、できない。

 たとえば年中児(4〜5歳児)でも、親の過干渉が原因で、精神そのものまで
萎縮してしまったような子どもがいる。
けっして少なくない。
10人のうち、1人はいる。
程度の差も含めれば、10人のうち、2〜3人はいる。

しかしそういう子どもの親ほど、「うちの子どもはできがいい」と思い込んでいる。
またそういう子どもにしようと、無理をしている。
で、その一方で、ほかの子どもを、「できの悪い子ども」として、排斥してしまう。
自分の子どもから遠ざけてしまう。

●極端化

 小さな世界に閉じこもり、自分だけの世界で、子育てをする親がふえている。
以前はそれを「核家族」と呼んだ。
今は、「カプセル家族」と呼ぶ。

 このタイプの家族は、大きく2つに分けられる。

(1)親たち自身が高学歴で、外の世界の価値を認めない。
(2)親たち自身が低学歴で、外の世界の価値を理解できない。

 どちらであるにせよ、一度カプセルの中に入ってしまうと、その狭い世界で、
自分だけの価値を熟成させてしまう。
結果として、独善的になったり、社会から孤立化したりする。
これがこわい。

 一度カプセルの中に入ってしまうと、同じ過保護でも極端化する。
過干渉でも極端化する。
これが子育てそのものを、ゆがめる。

●A君(小2)の例

 A君は、幼児期のときは、まだ明るかった。
何かの勉強をしていても、楽しそうだった。
が、小学校へ入学したとたん、表情が暗くなった。
もともと勉強が得意ではなかった。
言葉の発達も遅れ気味だった。
そのため母親が、かかりっきりで、A君を指導した。
A君は、月を追うごとに、やる気をなくしていった。
私の教室でも、フリ勉(勉強をしているフリをする)、
ダラ勉(ダラダラと時間ばかりかけて、何もしない)、
時間つぶし(ほかの作業をして、時間をつぶす)などの症状が見られるようになった。

 こうなると、つまりこの時期に一度、こうなると、症状は、ずっとつづく。
「直る」のは、ほぼ不可能とみてよい。
(ますます勉強から遠ざかる)→(無理な家庭学習が日常化する)の悪循環の
中で、症状は、ますますひどくなる。
それ以上に、学校での学習量がふえる。
学校での勉強が追いかけてくる。
A君はその負担に、ますます耐えられなくなる。

●迷い
 
 こういうケースでは、親にそれを告げるべきかどうかで悩む。
親にそれだけの問題意識があればよい。
が、そうでないケースのほうが多い。
「まだ何とかなる」「うちの子にかぎって……」「やればできるはず」と。
それにこの時期、「過負担を減らしましょう」と言うことは、親にしてみれば、
「勉強をあきらめなさい」と言うに等しい。
親がそれを受け入れるはずがない。

 とても残念なことだが、親というのは、行き着くところまで行かないと、自分では
気がつかない。
これは子育てというより、家庭教育のもつ宿命のようなもの。
私の立場では、自分のできる範囲で、また自分の世界で、(最大限)、指導するしかない。
この世界には、『内政不干渉の大原則』という原則もある。

 で、実際問題として、この時期、それを親に告げると、私のほうにはその意図が
なくても、親は、「拒否された」ととる。
そのまま私のところを去っていく。

●いい子論

 話を戻す。
そんなわけで、「いい子論」は、家庭によって、みなちがう。
子育ての目標がちがうように、みなちがう。
冒頭に書いた息子氏について書く。

 母親は、かなり権威主義的なものの考え方をする人だった。
「親絶対教」の信者でもあった。
「先祖」「親孝行」という言葉をよく使った。
ものの言い方が威圧的で、一方的だった。
一見穏やかで、やさしそうな言い方をする人だったが、それは仮面。
息子氏や、ほかの娘たちが口答えでもいようものなら、烈火のごとく、それを叱った。
「親を粗末にするヤツは、地獄に落ちる」が、その母親の口癖だった。

 息子氏はそういう環境の中で、ますます萎縮していった。

 で、悲劇は、その数年後に起きた。
妻のほうが、一方的に離婚を宣言し、子どもを連れて、家を出てしまった。
息子氏の母親は、息子氏の妻(嫁)を、はげしくののしった。
が、そういう面もなかったとは言わない。
いろいろあったのだろう。
しかし離婚を宣言した妻の気持ちも、よくわかる。

 「あの息子と、あの姑(しゅうとめ)では、だれだって離婚したくなる」と、
私は、そのときそう思った。

●では、どうするか

 「まず、自分を知る」。
それが子育てにおいては、必須条件ということになる。
この世界では、無知は罪悪。
無知であることを、居直ってはいけない。

 そのためには、もしあなたの生活がカプセル化しているなら、風穴をあけ、
風通しをよくする。
もしそれでも……ということであれえば、私が用意した「ママ診断テスト」を
受けてみてほしい。
(私のHPより、「最前線の子育て論」→「ママ診断」へ。)
平均的な母親たちと、どこがどうちがうかを知ることができる。
平均的であればよいということにはならないが、自分の子育てを、ほかの人と
比較することはできる。

 つぎに、たとえば学齢信仰、学校神話、出世主義、権威主義に毒された子育て観を
改める。
世界も変わった。
世間も変わった。
しかし子育ての基本は、変わっていない。
子育ての基本は、1000年単位、2000年単位で、繰り返されるもの。
その原点に立ち返る。

 というのも、子どもというのは、子ども自身が自ら伸びる(力)をもっている。
あらゆる動物や、植物がそうである。
その(力)を信じ、その力を(引き出す)。
それが子育ての原点ということになる。
言うなれば、子育ての原理主義ということか。
しかし何かのことで迷ったら、そのつど原点に立ち返ってみる。
意外とその先に、「道」が見えてくるはず。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子育ての原理主義 無知は罪悪 萎縮する子ども 過干渉 いい子論 はやし浩司 
よい子論 覇気のない子供 家族の代表 代表論 子供の問題)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG・09++++++++++はやし浩司

●意識vs無意識

++++++++++++++++++++++

 簡単に説明してみよう。
まず、意識を、(意識)と(無意識)に分ける。
今どき、こんな単純な分け方をする人はいないが、ここではそうする。

 つまり(今、意識している意識)を、(意識)という。
それに対して、意識できない意識、それを(無意識)という。
(意識)というのは、わかりやすい。
今、あなたは考えたり、思ったりしていることが、(意識)ということになる。
では、無意識とは何か。
それがわかりにくい。
平たく言えば、それ以外の、表に出てこない意識を、(無意識)という。

 これを簡単に図示すると、つぎのようになる。

――――
意識
====
無意識
――――

意思として自覚する(意識)。
意識として自覚しない(無意識)。
今は、そう考えて、話を先に進める。

ここで、それぞれの強弱を、仮に3段階に分けてみる。

するとそれぞれの組み合わせは、9通りになる。
(意識が強くて、無意識が強い人)、(意識が強くて、無意識が中くらいの人)、
(意識が強くて、無意識が弱い人)……、と。

その中でもわかりやすいのを、3通り、ここに書き出してみる。

(1)(意識・強)−(無意識・強)……精神力の強固な人
(2)(意識・中)−(無意識・中)
(3)(意識・弱)−(無意識・弱)……精神力の軟弱な人

そこでさらに一歩、話を進めてみる。
たとえば(意識が強くて、無意識が弱い人)と、反対に(意識が弱くて、
無意識が強い人)を考えてみる。

(4)(意識・強)−(無意識・弱)……臨機応変に自由に行動できる人
(5)(意識・弱)−(無意識・強)……がんこで、融通がきかない陽と

 たとえば、たいへんがんこな子どもがいる。……いたとする。
一度、こうと言い出したら、テコでも動かなくなるタイプである。
たとえばこんな子ども(年中児)がいた。

 幼稚園でも、自分の座る席が決まっていた。
それ以外の席には、座らなかった。
先生がいくらていねいに指導しても、「ぼくは、この席!」と譲らなかった。

 ズボンもそうだった。
毎日、幼稚園へはいていくズボンが決まっていた。
「青いズボン」と決めると、毎日、そればかりをはいて、幼稚園へ出かけた。
母親が、いくらほかのずぼんを勧めても、それは、はかなかった。

 こうした(こだわり)は、自閉傾向(自閉症児のことではない)のある子どもに、
共通して見られる症状である。
いわゆる(根性)とちがうところは、(理由)がないということ。
理由もなく、「この席でないといやだ」とか、「青いずぼんでないといやだ」とか言って、
カラにこもる。

 このタイプの子どもは、(意思の力)というよりも、その子どもを裏から操る、
(無意識の力)のほうが、強いということになる。
先の分類法によれば、(5)の(意思・弱)−(無意識・強)というのが、それに当たる。

●(意識・強)−(無意識・弱)

 反対に、意識が強く、無意識の力が弱いばあいは、どうか。

 このばあいは、意識できる意思が強く、無意識の世界からの影響を受けないので、
臨機応変に、自分で考えて、自由に行動する。
無意識の世界から、いろいろな命令があがってきたとしても、それすらも、自分の
意思でコントロールしてしまう。

 ただ誤解していけないことは、無意識の力が弱いからといって、それだけ無意識の
世界が狭いということではない。
脳のもつキャパシティは、同じと考えてよい。

●発達段階

 これらのことは、子どもの発達段階を観察してみると、納得がいく。

 いわゆる3〜4歳期の、幼児期前期の子どもを観察すると、(言われたことをきちん
と守る)という習性があるのがわかる。
何か母親が言ったりすると、「幼稚園の先生がこう言ったから」と、かたくなに
言い張ったりする。
最初にきちんとした形で入った情報を、絶対的と思い込む。

 そのため、この時期は、(しつけ)がしやすい。
エリクソンは、「自律期」と呼んでいるが、それはそういう理由による。

 しかしその幼児でも、満4・5歳を過ぎると、なにごとにつけ、急に反抗的に
なってくる。
母親が、「新聞をもってきて!」などと言うと、「自分のことは自分でしな」などと
言い返したりする。

 つまり(決められたこと)を、自由な意思で、コントロールするようになる。
上記の分類法によれば、(4)の(意識の力が強くなり)−(無意識の力が弱くなった)
状態を考えればよい。

●思考の融通性

 思考の融通性は、(意識の力)と(無意識の力)の強弱によって決まる。
意識の力が強く、無意識の力が弱ければ、融通性があるということになる。
これを(a)の人と呼ぶ。

 反対に、意識の力が弱く、無意識の力が強ければ、融通性がきかなくなる。
ものごとに、よりこだわりやすくなる。
これを(b)の人と呼ぶ。

 が、それはあくまでも相対的な力関係に過ぎない。
意識の力が弱い人でも、さらに無意識の力が弱ければ、融通性のある人ということに
なる。
このばあいは、軟弱な印象を、人を与える。
覇気がない。
何か指示すると、だまってそれに従ったりする。
同じ融通性がある人といっても、(a)の人のような、強い意識の力を感ずることはない。

●応用

 この分類法を使うと、子どもの様態が、より明確に区分できるようになる。

 たとえば、かん黙児の子どもについて言えば、(意識の力が弱く)−(無意識の力
が強い)ということから、上記(5)のタイプの子どもと位置づけられる。

 反対に、AD・HD(注意力欠陥型多動性児)のばあいは、(意識の力が強く)−
(無意識の力が弱い)ということから、上記(4)のタイプの子どもと位置づけられる。

 このことは年齢を追いかけながら、子どもを観察してみると、よくわかる。
たとえばかん黙児の子どもにしても、AD・HD児にしても、加齢とともに、症状が
緩和されてくる。
自己管理能力が発達し、自分で自分をコントロールするようになるためである。

 で、そのとき、かん黙児の子どもにしても、(がんこさ)はそのまま残ることは多い。
一方AD・HD児のばあいは、もちまえのバイタリティが、よいほうに作用して、
自由奔放な子どもになることが多い。
モーツアルト、チャーチル、エジソン、さらには最近では、あのアインシュタインも、
子どものころ、AD・HD児だったと言われている。

●無意識の世界

 話はぐんと変わるが、ダメ押し的な補足として、こんなことを書いておきたい。

 催眠術という「術」がある。
あの催眠術を使って、被験者に、たとえば「あなたはキツネになった」と暗示をかけると、
あたかもキツネになったかのように、ピョンピョンとはねたりする。
こうした現象は、(意識の世界)が、(無意識の力)に支配されたことによって起こると
考えると、わかりやすい。

 意識の世界で、いくら「私はキツネではない」と思っても、無意識の力の前では、
無力でしかない。
それだけ無意識の世界の力が強力であるとも考えられるが、言い換えると私たちは、
意識の力と、無意識の力の、絶妙なバランスの上で行動しているということになる。

 意識の力だけで行動していると思っても、常に無意識の力の影響を受けている。
しかし意識の力だけで行動しているわけではない。
無意識の力だけで行動しているのでもない。

 それをわかりやすくするために、上記(1)〜(5)の仮説を立ててみた。
「私」をよりよく知るための、ひとつのヒントにはなる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 B
W はやし浩司 無意識 意識 意識vs無意識論 意識の強弱)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG 09++++++++はやし浩司

●学問のすすめ(福沢諭吉)

(未完成原稿)

++++++++++++++++++++++

いまだに学問を否定する人が多い。
それには、驚かされる。
本当に驚かされる。
学問無用論すらある。
(「学歴無用論」ではない。「学問無用論」である。)

「学問」という言葉に問題があるなら、「学識」
でもよい。
重要なのは、学識。
いくら学歴や学問を否定しても、学識まで
否定してはいけない。

++++++++++++++++++++++

●福沢諭吉

 あの福沢諭吉は、こう書いた(『学問ノススメ』)

『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万
人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをも
って天地の間にあるよろずの者を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げ
をなさずして、おのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今広くこの人間世界
を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるものあり、貴人もあり、
下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは、何ぞや。その次第甚だ明らかなり』
と。

 『学問のすすめ』については、ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『・・・原則的にそれぞれ独立した17つのテーマからなる、初編から十七編の17の分冊であっ
た。 1872年(明治5年2月)初編出版。以降、1876年(明治9年11月25日)十七編出版を
以って一応の完成をみた。その後1880年(明治13年)に「合本學問之勸序」という前書きを
加え、一冊の本に合本された。その前書きによると初出版以来8年間で、合計約70万冊が売
れたとの事である』(ウィキペディア百科事典より抜粋)と。

●1872年(明治5年2月)

1872年(明治5年2月)というから、2009−1872=137年前ということ
になる。

 遠い昔に思う人もいるかもしれないが、137年というのは、私の年齢(61歳)に
してみれば、たったの2倍強にすぎない。
で、この137年の間に、教育、教育を取り巻く環境、人々の教育観は大きく変わった。
といっても、明治の昔にはどうであったか。
それについては、ただ想像するだけでしかない。
が、手掛かりがまったくないかというと、そうではない。
私のばあい、子どものころを思い出せば、その片鱗をかぎ取ることができる。

●学歴時代

 学問を鼓舞するために、学歴が利用された。
あるいは江戸時代の身分制度を、別の形で温存させるために、学歴が利用された。
明治の終わりですら、東大生のほとんどが、華族、士族、豪商の子弟たちで占められた。
(詳しくは、別のところで……。)
そういういきさつはあるが、結果として、世界に名だたる学歴制度というの
が、日本に生まれた。

 私が子どものころには、「学卒」、つまり大学卒と言われる人たちは、
それだけで一目置かれた。
ところが身近にいる人というと、学校の教師か、医者くらいなもの。
そのため学校の教師や、医者は、飛びぬけた存在だった。
「学校の先生がこう言った」と言うだけで、親たちですら、黙った。

●高学歴時代

 それが今では、さらに一歩進んで、大学などというのは、当り前。
修士号か博士号をもっていないと、一人前に扱われないという時代になった。
それがさらに一歩進んで、今はもう、学歴をぶらさげて生きる時代ではない。
「学歴より中身」というわけである。

 この意見には異論はない。
まさにそうあるべきだし、またそれが正しい方向ということになる。
が、こうした(流れ)に対して、その一方で、学問そのものを否定する人が多いのには
驚かされる。

 (学歴の否定)が、一足飛びに、(学問の否定)につながっている(?)。
若い人を中心に、しかも中高校生あたりにも、そのように考える子どもは多い。
これには驚かされる。

●勉強より部活

 たとえばこの浜松市あたりでも、約60%前後の中学生は、受験勉強すらしていない。
たいはんは、「部活でがんばって、推薦で高校へ入る」などと考えている。
「有名進学校なんか入ると、勉強でしごかれるから、いや」などと言う子どもも多い。
つまり頭から、勉強、つまり学問を否定してしまっている。

 が、このことと、(学歴の否定)とは、まったく別問題である。
学歴というのは、あくまでも結果。
しかしいくら学歴を否定しても、学問、つまり学識まで否定してはいけない。
またそういう考え方は、まちがっている。

●50歳
 
 満50歳前後になると、その人のそれまでの生きざまが、そのまま集約され、表に
出てくる。
それまでにどんな生き方をしてきたかが、大きな(ちがい)となって表に出てくる。

 こんなことがあった。

 それまでにほぼ20年ぶりに、X氏という名前の男性(私と同年齢)と会った。
通りで会って、そのまま喫茶店に入った。
しばらくは会話がはずんだが、そのあとがつづかない。
どんなことをしているのかと聞くと、X氏は、こう言った。

「趣味は、プロ野球の実況中継を見ること。
天気のよい日は魚釣り。
雨の日は、パチンコ・・・」と。

 そういう生活が積み重なって、X氏は、X氏のような人物になった。

●学識

学識のある人からは、学識のない人がよくわかる。
が、学識のない人からは、学識のある人がわからない。
それはちょうど山登りに似ている。
どんな小さな山でも登ってみると、意外と視野が広いのがわかる。
下から見上げているときは、それがわからない。

 だから学識のない人は、自分に学識がないことに気づかない。
「私も平均的だ」とか、「ふつうだ」とか、思ったりする。
だからといって、私には、学識がある。
X氏には学識がないと言っているのではない。

 学識のあるなしは、相対的なもの。
学識のある人でも、さらに学識の高い人から見れば、学識の低い人ということになる。
恩師のTK先生から見たら、私など、いまだにヒヨコ以下かもしれない。

●学識の否定

 その学識を否定する。
そうでない人には、信じられないような話だが、実際には、そういう人もいる。
ある人は、こう言った。

 「林君、いくら偉くなっても、死ねばおしまいだよ。
10年もすれば、総理大臣ですら、忘れさられる」と。

 名誉や地位についてはそうかもしれない。
しかし名誉や地位にしても、あとからついてくるもの。
その前に立つのが、(学識)ということになる。
学識は残る。
人から人へと、(心)の形で残る。

(そう言えば、たった今、インターネットを通して、こんなニュースが飛びこんで
きた。
あのおバカ首相が、またまた大失言。
昨日は、どこかで、「貧乏人は結婚するな」式のことを言った。
今日は、豪雨の被災地で、こう言った。
「引き続き捜索にあたっている方々が努力しておられると思うが、ぜひ遺体が
見つかるように今後とも努力をしていただきたい」と。
「行方不明者」と言うべきところを、「遺体」と言った。

 あきれるというよりも、あのAS首相をながめていると、「学識とは何か」、
そこまで考えさせられる。)

 名前を残すか、残さないかということになれば、AS首相は、確実に名を残す。
「自民党を解体した、最後の総理大臣」として。
つまり学識のあるなしは、名を残すかどうかということとは、関係ない。
あくまでも個人の問題。
個人の(知的世界)の問題。

●雲と泥

 福沢諭吉は、「知的世界」の重要性を説いた。
なかんずく、「知的世界の広さ」の重要性を説いた。
『学問ノススメ』という本は、そういう本である。

『……今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富め
るものあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。その
次第甚だ明らかなり……』と。

 「人間はみな、同じ。同じだが、人によって、雲と泥ほどのちがいがある」と。

 そのちがいは、何によって生まれるか。
それが、言わずと知れた、「学識」ということになる。
つまり学ぶことを忘れたら、人間は「サル」(福沢諭吉)になりさがる。

 そこで……。
いきなり結論ということになるが……。

 さあ、あなたも本を開こう。
考えよう。
そして文を書こう。
それは遠くて険しい道かもしれない。
しかしほんの少しでも視野が広がれば、あなたはそれを喜びに感ずるはず。
その喜びは、ほかのありとあらゆる喜びにまさるものであることを知るはず。
そしてそれこそが、人間が人間であるという証(あかし)ということになる。

●補記

 福沢諭吉の時代から、ほぼ140年。
人間を取り巻く知的環境は、大きく変わった。
が、その分だけ、人間が賢くなったかといえば、それは疑わしい。
たとえばそのあと、日本人にしても、福沢諭吉が説いたように、もっと
知的世界を広め、磨いておけば、あの太平洋戦争はなかったかもしれない。

 現在にしてもそうだ。
21世紀に入って10年にもなるのに、どうして今、武士道なのか?
福沢諭吉らは明六社に参画し、封建時代の清算を試みた。
が、それはきわめて中途半端なもので終わってしまった。
あるいはそれにつづく軍国主義の台頭とともに、しぼんでしまった。

 ついでながら、たいへん興味深いのは、福沢諭吉が、あの『忠臣蔵』を、
批判しているということ。
たいした批判ではないのだが、当時としては、たいへんな批判だったにちがいない。
『学問ノススメ』の中の「赤穂不義士論」が、それである。

 その中で福沢諭吉は、『国法の貴きを論ず」において、赤穂浪士の討ち入りは私的制裁であ
って正しくないと論じている。さらに、浅野内匠頭が切腹になったのに吉良上野介が無罪になっ
たことの不当性を、本来は幕府に訴えて、裁判により明らかにすべきであると論じている』(第
6編、ウィキペディア百科事典より抜粋)と。

 これに対して、猛烈な批難の嵐が巻き起こった。
「義士を、批判するとは何ごとぞ!」と。

 福沢諭吉は、「こうげきばり ちやうじやう ゑんきん けふはくじやう たうらい
ちうこく しんぺん あやう ばあい」(=攻撃罵言の頂上を極め、遠近より脅迫状の到来、
友人の忠告など、今は、ほとんど、身辺も危うきほどの場合に迫れり)」と書き残して
いる。

 わかるかな?

 赤穂の浪士たちは、暗殺劇を試みるのではなく、正々堂々と裁判で闘えばよかった
と福沢諭吉は説いた。
まさに正論である。
この正論に対して、福沢諭吉は、身の危険を感ずるほどの脅迫にさらされた。
『しんぺん あやう ばあい(身辺も危うき場合に迫れり)』と。

 今でも、毎年12月を迎えると、『忠臣蔵』が、顔を出す。
NHKの大河ドラマとしても、繰り返し取り上げられている。
が、『忠臣蔵』が問題というのではない。
この(進歩のなさ)こそが、問題なのである。
140年を経た今でさえ、何も変わっていない。
それが問題なのである。

 学識を磨くには、日々の鍛錬あるのみ。
立ち止まったとたん、学識は後退する。

(注:中途半端な原稿のまま、発表します。推敲、校正は、また後日します。ごめん!)
09年8月26日記)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 B
W はやし浩司 学識論 福沢諭吉 赤穂浪士論 忠臣蔵)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●新しい試み(WEBCAMERAを使って、YOUTUBEに直接アプロード)

<object width="480" height="385"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/DXlPZOKLgbU&hl=ja&fs=1&color1=0xe1600f&color2=0xfebd01"></param><param name="
allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always">
</param><embed src="http://www.youtube.com/v/DXlPZOKLgbU&hl=ja&fs=1&color1=
0xe1600f&color2=0xfebd01" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="
always" allowfullscreen="true" width="480" height="385"></embed></object>

++++++++++++++++++++

インターネットの世界には、「YOU STREAM」
というサービスがある。
これは言うなれば、私設の放送局のようなもので、
これを使うと、話したことが、リアルタイムで
HPなどにアプロードできる。
みなさんに楽しんでもらえる。

が、問題がある。
せっかくアプロードしても、1年を待たずして、
削除されてしまう。
(あるいは半年くらいか? 確かめていない。)
しかしこれでは使い物にならない。

一方、YOUTUBEのほうは、今のところ、10年前に
アプロードした動画も、そのまま残っている。
今後のことはわからないが、今のところ、息が長い。

が、これにも問題がある。
カメラに向かって話したことを、直接アプロード
する方法もあるらしいが、何度試しても、うまくいかない。
(どこかに操作ミスがあると思うが、それがよくわからない。)

そこで今は、一度、ビデオカメラに動画を収めて、
編集したのち、YOUTUBEにアプロードしている。
が、これには、けっこう時間がかかる。
10分程度の動画をHPに載せようとすると、
編集するのに、5〜8分。
ファイル変換に、3〜4分。
アプロードするのに、7〜8分。
どんなにはやくやっても、計30分前後もかかって
しまう。

そこでいろいろ考える。
手元に「防犯24時」というソフトがある。
XPパソコン時代に購入したもので、今でも
使えるかどうかわからない。
しかしこの「防犯24時」には、撮った動画を
即、ファイル化してくれる機能がついている。
それを使えば、あとはYOUTUBEにアプロード
するだけ。

そうすれば、毎朝、文章ではなく、生の
声で、「みなさん、おはようございます」と
話しかけることができる。……はず。

試してみない手はない。
朝のルーティーン(日常行事)が終わったら、
さっそく試してみたい。
アプロードした動画は、別枠で新設した
BLOG上で、公開するつもり。

ともかくも、8月27日。
みなさん、おはようございます!

今日はやや湿った空気。
どこか肌寒さを感じるが、心地よい。
もうすぐ9月だなあと、今、そう思った。

+++++++++++++++++++

(追記)

たった今、WEBCAMERAを使って、
直接動画を、YOUTUBEにアプロードしてみた。
今度は、うまくできた。
が、音声がうまく録音できない。
マイク自体の性能が悪いのか?
設定が悪いのか?

どうであるにせよ、あとは小さな問題。

よかった!
……と、自分で喜んでいる。
ハハハ。

+++++++++++++++++++++

(追記2)

結局、5回トライアルしてみた。
音声が録音されない原因はよくわからないが、マイクは、ヘッドフォンのもの、
スピーカーは外付けの大型のものを、それぞれ使っている。
それが原因ではないか?

……ということで、いろいろ試行錯誤の結果、やっと満足に録画、録音できるように
なった。
この日記に添えて、YOUTUBEでのあいさつ、第一号をBLOGに公開してみる。

ホ〜〜ッ!


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●60キロ(肥満論)

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体重が60キロになった。
(4か月前には、68・5キロ!)
喜んでいたら、義兄も60キロという。
妻の義姉も、60キロという。

見ると、義兄のほうは、丸々と太っている。
腹もポカリと丸く突き出ている。
「兄さんが、……それで60キロ?」と驚いていると、
「そうだと」と。
横にいた義姉も、「私もよ・・・」と言った。
それを聞いて、笑った。

同じ60キロといっても、太り方は、さまざま。
義兄のばあいは、小さな相撲取りといった風。
メタボリック。
見た感じでは、70キロ以上。
一方、義姉は、典型的なずん胴(ごめん!)。

私のばあいは、このところ骨と皮だけといった
風になってきた。
同じ60キロなのに、どうしてみな、太り方が
ちがうのだろう?
義兄と私は、身長は、それほど変わらない。

++++++++++++++++++++

●太り方

「りんご太り」とか、「洋ナシ太り」とかいう言葉がある。
内臓脂肪の付き方で、太り方がちがってくるそうだ。
「りんご太りのほうはよくないが、洋ナシ太りはよい」とか、言う。
正確には・・・

リンゴ型肥満(内蔵脂肪型)・・・ビール腹とも言われる。
中年男性に多い太り方。
内臓につく脂肪は生活習慣病を引き起こしやすいと同時に、
体内で悪玉物質の量を増やすので、糖尿病、脳梗塞、高血圧など、
成人病にかかる確率も、非常に高くなるといわれている(All About HP)。

洋ナシ型肥満(皮下脂肪型)・・・お尻、下腹、太ももなど下半身を中心に脂肪がつき、
女性に多く見られる太り方。
皮下脂肪は妊娠や出産時のエネルギー源となるため、あまり減らしすぎても危険だが、
皮下脂肪が蓄積されて代謝されないままでいると、セルライトができやすくなるので
注意が必要(同HP)。

 そこで私は、そもそも「りんご」とか「洋ナシ」という言葉が、日本人の体形には
合っていないのではないかと思うようになった。

 りんご太りは、「たぬき太り」「太鼓腹太り」「すいか腹太り」と言い換えればよい。
洋ナシ太りは、「ずん胴太り」「短足太り」「アヒル太り」と言い換えればよい。
アメリカで見る洋ナシ太りの人は、見るからに、それとわかる。
体の前部と後部の両方に、お尻がついているといった風。
日本人には、ああいう体形の人は、珍しい。
(最近、ふえてきたようには思うが・・・。)

 要するに、肥満は健康に悪いということ。
太り方は、そのあとの問題ということになる。

 そこで私の哲学。

『食べたら損(そこ)ねるのか、食べなければ損(そん)なのか』。
結局は、そこへ行きつく。

 よけいに食べれば、損(そこ)ねる。
食べたら、損(そん)なのである。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●温泉の注意書き

+++++++++++++++++++

このところ毎週のように、温泉街のひとつに
ある温泉浴場に、足を運んでいる。
最近オープンしたばかりの、温泉浴場である。

そこでのこと。
毎回のように、注意書きがふえているのに
気がついた。

最近見たのには、こうあった。
「おむつ、尿取りパッドなどを使用している
方の入浴は、ご遠慮ください」と。

おむつというのは、赤ん坊のそれをいう。
それはわかる。
尿取りパッドというのは、老人のそれをいう。
それも一応、わかる。
わかるが、40代、50代の女性でも、
日常的に尿漏れを起こしている人は多い。
(男性は少ないと思うが・・・。)

しかしこれから先は、こういう注意書きが、どんどんと
ふえてくるのでは・・・?
要するに、「老人の入浴は、遠慮してくれ」と。

++++++++++++++++++++++

●嫌われる老人

 このところどこへ行っても、老人の姿が目立つようになってきた。
温泉だけではない。
映画館でも、バス旅行でも、そしてレストランでも・・・。
通りをふらふらと歩いている老人も、目立つようになってきた。
やがて75歳以上の、後期高齢者の数が、人口の3分の1、つまり
3人に約1人になると言われている。

 そうなったとき、私たち老人族は、どう扱われるのか。
想像するだけで、さみしくなる。

 老人は、老人特有の臭いがする。
いわゆる「加齢臭」というのである。
映画館へ入ったようなとき、それがプンと臭うときがある。
そういう臭いがすると、(私たち自身も老人の仲間なのだが・・・)、即、席をかわる
ようにしている。
が、それは明日の、私たち自身の問題でもある。
やがて映画館の入り口にも、こういう注意書きが並ぶようになるかもしれない。

「加齢臭のある方の入場は、お断りします」と。

 が、それはしかたないとしても、マナーの悪い老人が多いのも事実。
気力が弱くなるせいか、自分で自分を律することができなくなる。

 痰を吐く。
服装がだらしなくなる。
入浴の仕方が、いいかげんになる。
態度が横柄になる。
マナーを守らなくなる。
もちろん加齢臭を放つ。

 つい先日は、コンビニで、ウンチを漏らしたまま歩いている老人を見かけた。
ズボンの後部が、下痢か何かで、べっとりと汚れていた。
そういう老人が、コンビニで買い物をする!

 世の中がそういう老人を受け入れてくれればよい。
「老人というのは、そういうもの」と理解してくれればよい。
が、そうは寛大ではない。
寛大でないことは、若い人たちのBLOGを読めば、よくわかる。

「昨夜、車をぶつけられた。相手は70のクソジジイだった」とか何とか。
「老人」というだけで、白い目で見られる。
差別される。
こうした傾向は、今後加速することはあっても、減速されることはない。

●新たな老人問題

 今はまだ、社会のほうも遠慮している。
表だって、老害論を説く人は少ない。
しかしこうした(やさしさ)も、いまや、風前のともしび。
そのエネルギーは、爆発寸前といってもよい。

 温泉にしても、映画館にしても、バス旅行にしても、さらにレストランにしても、
そのうち年齢制限が設けられるようになるかもしれない。
「65歳以上の方は、ご遠慮ください」とか、なんとか。

 さらに深刻な問題として、(事実、そうなりつつあるが・・・)、がんなどの重病の
ばあい、ある一定年齢以上の老人は、治療そのものを拒否されるようになってきた。
私の実母も、実兄も、そして義兄も、それを経験している。

 自分がそういう立場になったら、どうするか?
いさぎよく死ぬか?
その覚悟は、できているか?

 今のままでは、あと10年を待たずして、全国の火葬場は、飽和(満員)状態に
なるという。
今の今でさえ、夏場や冬場には、3〜4日待ちというのは、当り前。
そこで東京都では、大型船を改造して、船そのものを火葬場にする構想まで考えられて
いる。

 火葬場ですら、そうなのだから、そうなれば、老人は、満足な治療すら
受けられなくなる。
さらに一歩進んで、「もう、死んでください」となるかもしれない。

●老人よ、自分の存在価値を高めよう!

 こうした老人問題に対処するためには、老人自身が、自分の存在感を高めることでしか
ない。
わかりやすく言えば、(価値ある老人)になること。
若い人たちから見て、「老人は必要な存在なのだ」と思ってもらえるような老人になること。

 名誉や地位や財産ではない。
過去の名誉や地位をぶらさげれば、かえって嫌われるだけ。
(価値)である。
(存在価値)である。
そのための努力を怠ってはいけない。

 代替的な方法として、「お金を貯める」という方法もあるかもしれない。
お金で老後を買う。
あるいは息子や娘に依存するという方法もあるかもしれない。
息子や娘にめんどうをみてもらう。
しかしこうした方法では、今度は、私たち自身の(生きがい)を満たすことはできない。
それについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略するが、
やはり結論は、ここにくる。

「私たちは私たちで、自分の存在価値を高めるしかない」である。


+++++++++++++++++++++++++++

●親と子、意識のズレ

+++++++++++++++++

私が母に嫌われていると知ったのは、
私が40歳も過ぎてからではなかったか。
それまでは、そう思っていなかった。
母の気持ちを、みじんも疑わないでいた。
「母は、私を好いているはず」と。

しかも嫌われたのは、私が高校2、3年生のころ。
そのころの、私は、「荒れた」。
気持ちがすさんでいた。
親というより、「家」そのものが、私には
負担だった。
居場所もなかった。
それに自分が進むべき方向さえ定まらなかった。
やや遅い思春期だったが、たぶん、母には、
それが理解できなかったのだろう。

数日おきに、「親に向かって何てこと言う!」
「うるさい、このバカヤロー!」と、まあ、
よく覚えていないが、そういうような言い争い
をよくしたと思う。

母は、悪玉親意識が強かった。
親風をよく吹かした。

が、それでも私は幻想を抱いていた。
「親だから……」という幻想である。
「親だから、どんなことがあっても、私を嫌う
はずがない」と。

しかしいつしか母は、私を恨むようになった。
私が結婚したことについても、そうだった。
「浜松の嫁に、息子を取られた」と、
親類にはもちろん、近所の人たちにまで、
泣きついていた。

+++++++++++++++++++++

●似たような話

 冒頭に書いたのは、私と私の母についての話である。
しかし似たような話は多い。
たまたま今日も、耳にした。
こういう話である。

 Aさん(女性、40歳くらい)は、現在、近くの特別養護老人ホームで介護師を
している。
その女性が話してくれた。

 ひとりの老人(女性、80歳)がいるのだが、その老人は、ことのほか、自分の娘
(50歳)を嫌っている。
どう嫌っているかについては、ここに書いても意味はない。
が、介護師をしているその女性には、それがよくわかる。
が、肝心の娘には、それがわからないらしい。
「自分が見舞いに来たことで、母親は喜んでいるはず」と思い込んでいる。
しかしその女性(80歳)は、娘が見舞いに来るのを、何よりもいやがっている。
 
●思い込み

 だれにでも、(思い込み)というのはある。
一般的には、自己中心性の強い人ほど、思い込みがはげしい。
一度、「こうだ」と思い込んだら、そのワクから抜け出せない。

私「そういうのをありがた迷惑というんだよ」
ワ「そうね。でもその女性(50歳)には、わからないのよ」
私「どうしてだろ?」
ワ「親だから、娘の自分が見舞いに行けば、喜ぶはずと思い込んでいるのね」
私「……う〜ん、そういうケースは多いよ。ぼく自身が、そうだったからね」と。

 (思い込みのはげしさ)という点では、よくストーカーが例にあげられる。
ストーカー行為を繰り返す男性にせよ、女性にせよ、(思い込み)から始まる。
「相手は、自分のことをきにかけているはず」
「相手は、自分のことを好きなはず」
「嫌っているフリをしているだけ」と。

 親子の間でも、似たような(思い込み)が、起きることがある。
ここに書いた女性(50歳)も、その1人ということになる。

●なぜ、起きるか

 こうした思い込みは、なぜ起きるか。
ほかによくある例が、うつ病タイプの人の思い込み。
このタイプの人は、ひとつのことにこだわり始めると、そのことばかり考えるようになる。
脳みそのカベに、そのことがペタリと張り付いたような状態になる。
その結果、取り越し苦労、ぬか喜びを繰り返す。
繰り返しながら、どんどんと深みにはまっていく。

 では、私のばあいは、どうだったか。

 ひとつには、これはずっとあとになってからワイフが教えてくれたが、私はかなりの
マザコンだったということ。
学生時代、野口英世の母、シカの手紙を読んで、涙をこぼしたことさえある。
窪田聡の『かあさんの歌』は、日本が誇る名曲と思っていたこともある。
森進一の歌う、『おふくろさん』でも、そうだった※。

 しかし自分が親になってみて、急速に、私の中のマザコン性は、消えていった。
というより、仕事を通して、マザコンタイプの子どもたちを観察するうち、自分の中の
マザコン性に気がついた。

 そのマザコン性は、乳幼児期の刷り込みによって、作られる。
人間にも、ある種の鳥類に見られるのと同じ、(刷り込み)があることが、わかってきた。
0歳から生後7か月前後までの期間と言われている。
この時期を、とくに「敏感期」と呼ぶ人もいる。

 子どもは、こうして作られた(刷り込み)を基盤に、成長する。
成長しながら、修正する。
その鍵を握るのが、父親ということになる。
イギリスでは、『母親は子どもを産み育てるが、父親は、子どもに狩の仕方を教える』
と教える。

 父親の役目は、(1)母子関係の是正と、(2)社会性の構築である。
が、その父親の存在感が薄いと、子どもは(刷り込み)を修正できないまま、マザコン化
する。
私のばあい、父親の存在感がきわめて薄い家庭に、生まれ育った。

●隠れマザコン

私「自分の中から、マザコン性が抜けないかぎり、親、とくに母親に対して、幻想を
もちつづけるだろうね」
ワ「理想の女性像を、母親に求めるわけね」
私「そう。だから、マザコンタイプの男性のばあい、離婚率が高いと言われている」
ワ「理想像を求められたら、妻だって疲れてしまうわ」
私「そう、まったく、そのとおり」と。

 そのマザコン性が、子どもの側の心を盲目にする。
書き忘れないうちに書いておきたいことがある。

 ふつう「マザコン」というと、「男性」を想像する人は多い。
しかし女性にも、マザコンは多い。
(ひょっとしたら、男性より女性のほうが多いかもしれない。)
男性のマザコンは目立つが、女性のマザコンは、同姓であるという点で目立たない。
たとえば母親と娘がいっしょに風呂に入っていても、それを「おかしいこと」と思う人
は少ない。

 私は女性のマザコンを、「隠れマザコン」と呼んでいる。

●容赦なかった、私の母

 私の母は、そういう母だったから、私からお金を(まきあげる)のは、平気だった。
「取る」とか、「奪う」などというようなものではなかった。
「まきあげる」。
容赦なかった。

長男が生まれたときも私のアパートへやってきて、母は、貯金全額を、
もって帰っていった。
私は私で、マザコンだったから、そういう母の行為をみじんも、疑わなかった。
母は、そのつど言葉巧みに、こう言った。
「私が、あなたの代わりに、貯金しておいてやる」と。

 ワイフはそういう母を、薄々疑い始めていた。
が、私は、「ぼくたちがもっているより、安全だから」と、そのつどワイフを説得した。
そういう関係が、それからあと、25年以上もつづいた。

●その女性(50歳)

 冒頭にあげた女性(50歳)のばあい、「自分は母親に好かれている、すばらしい
娘」と思い込んでしまっている。
母親への依存心も、その分だけ、強い。
自分が本当は嫌われているにもかかわらず、それすら客観的に判断することもできない。
そのため、自分勝手な行動を繰り返す。
その仕方は、被害者を追いかけ回す、ストーカーと、そっくり。
どこもちがわない。

 で、この話には、つづきがある。
……というか、ここまで現在形で書いたが、実は、過去の話である。

 最近(09年の春)、その女性(50歳)の母親が、他界した。
それについて、その女性(50歳)は、こう言っているという。

「施設に入れないで、私がめんどうをみてやればよかったア」と。
そして母親が他界したあと、毎週のように墓参りをしているという。
その女性(50歳)は、いまだに自分のことが、まるでわかっていない。
恐らく死ぬまで、自分の(思い込み)に気づくことはないだろう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
マザコン 自己中心性 親の気持ちがわからない娘 刷り込み 敏感期 思い込み 思い込み
の激しい人 人の心がわからない人)

(注※…日本には、この種の「マザコン・ソング」が多い。
母親を実際以上に美化し、たたえ、そしてそこに理想的な女性像を織り込む。
すべてを許し、すべてを受け入れてくれるような女性である。
しかしそんな女性(=母親)など、どこにもいない。
いるはずもない。
本能的な母性愛というのは、子どもに対してのものであり、夫に対してのものではない。
またそういう女性を求めてはいけない。

もし「どうしても……」と考えるなら、どこかの寺の観音様でも拝んでくればよい。
……というのは言い過ぎかもしれない。
が、夫の側にマザコン性が強すぎると、その分だけ妻側に負担感がます。
この負担感が、夫婦関係そのものを、ぎくしゃくさせる。
おかしくする。
「マザコン男性の離婚率は高い」というのは、そういう理由による。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 マザコン マザコン夫 離婚率)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG・09++++++++++はやし浩司

●8月29日

++++++++++++++++++

暑いといえば、暑かった。
しかし全体としてみれば、異常なほど、
涼しい夏だった。
その夏も、もう終わり?
気象庁の発表によれば、9月に入れば、
今度は残暑がきびしくなるとか。
今日は、8月29日、土曜日。

振り返ってみるが、今月も、何かと
あわただしく過ぎていった。
それだけ。
何かをやり残したという実感が、
ほとんど、ない。
たった今、大きなあくびが、出た。
このあくびが、この8月を象徴して
いる。
「これではいけない」と、気を引き締める。
やりたいことは、そこに山のようにある。
が、どれから手をつけたらよいのか、
わからない。

今日も、忙しい1日になりそう。
がんばるしかない。
自分の体に、ムチ打って……。

みなさん、おはようございます。

++++++++++++++++++

●老害問題(価値ある老人をめざして)

+++++++++++++++++++

やがて……というより、もうすぐ、「老害」
という言葉が、日常的に使われるようになる。
現に今、若い人たちの老人を見る目が、
大きく変わりつつある。

「そこにいる老人」から、「そこにいては
いけない老人」へと大きく変わりつつある。
彼らの目に映る老人の姿そのものが、ちがってきた。
今後、私たち老人を見る、若い人たちの目が、
きびしくなることはあっても、やさしくなることはない。

が、ともすれば私たちは、老人の立場で、
自分たちの未来をどう守ればよいか、
それだけを考えやすい。
しかし本当の問題は、高齢化社会を
どうすれば守れるかではない。
どうすれば若い人たちに受け入れられる老人に、
私たちがなれるか。
それが本当の問題。

こうした問題を総合して、「老害問題」と、
私は呼ぶ。

+++++++++++++++++++

●健康な老人

 もう30年近くも前のこと。
当時の三世代同居家庭の若い母親たちを対象に、私は、
祖父母(=同居の舅、姑)に何を望むかというアンケート調査をしたことがある。
その結果、第一の答が、「健康であること」であった。
(ついでに、第二が、「子どもの教育に口出しをしないこと」。)

 今、調査をしても、同様の結果が出ると思う。
私たち老人族は、第一に、健康でなければならない。
そのための努力を怠ってはいけない。
老人の問題は、その老人だけの問題ではない。
家族全体の問題である。
「迷惑をかけないからいい」という問題ではない。
(老人が同居している)ということ自体が、みなに迷惑をかけている。
もっと言えば、私たちが老人であること自体が、みなに迷惑をかけている。
つまり老人の問題は、自分のためというよりは、家族全体の「和」
のための問題と考えるべき。
こんなことを言う人がいた。

「親の介護が3年つづくと、兄弟姉妹はメチャメチャになる」と。

 先日、健康診断に行ったら、そこにいた看護士の女性が、そう教えてくれた。
つまり介護問題はこじれやすく、それが原因で、兄弟姉妹関係がメチャメチャになる。
そういうケースが多い、と。

 老人というのは、できるだけギリギリまで健康でいて、死ぬときは、さっさと死ぬ。
それが理想ということか?
要するに、家族には迷惑をかけない、ということ。
老人問題は、それに始まって、それに終わる。

 ……とまあ、書くのは簡単なことだが、実際には、そのようにうまくはいかない。
「死ね」と言われても、死ねるものではない。
さりとて生きていくのも、むずかしい……。
多くの老人は、最後は、「死ぬこともできないから、生きている」という状況に
追い込まれる。
わかっていても、どうしようもない。
それ以上に、私たちは無力。
加齢ともに、さらに無力になっていく。

●勤労寿命

 人間には3つの寿命がある。
(1)絶対寿命、(2)平均寿命、それに(3)健康寿命。

 絶対寿命というのは、その年齢を超えて生きることはないという寿命をさす。
現在、満130歳が、絶対寿命と言われている。
それ以上の年齢を生きた人はいない。

 平均寿命については、すでにみなさんご存知のとおり。
問題は、健康寿命。
ふつう平均寿命から、10歳を引いた年齢が、健康寿命と言われている。
満84歳が平均寿命なら、健康寿命は、満74歳ということになる。
死ぬまでの、最後の10年は、病魔との闘いということになる。

 そのため平均寿命を延ばすことも大切だが、健康寿命を延ばすことのほうが、
もっと大切。
健康というのは、(病気のない)状態をいう。
もう少しつっこんで言えば、(死の恐怖を感じない)状態をいう。

で、さらにこれら3つに、もうひとつ寿命を加えるとしたら、(4)勤労寿命というのも
ある。

 いくら健康でも、庭いじりと、孫の世話だけで、老後を過ごせといっても無理。
老人には老人の生きがいが必要。
(生きがい)なくして、長い老後を生き延びることはできない。

その(生きがい)となると、働くことを考えるのが、いちばんわかりやすい。
働くことによって、私たちは社会とのつながりを維持することができる。
その働ける限界を、「勤労寿命」という。
勤労寿命は、健康寿命からさらに10年を引いた年齢をいう。
健康寿命が、満74歳なら、満64歳ということになる。

●徴兵制

 これから書くことは極論ということは、私もよく承知している。
あくまでもひとつの(例)として理解してほしい。
その上で、私は、こう考える。

現在、世界で、徴兵制を敷いていない国は、そうはない。
とくにこのアジア地域で、徴兵制を敷いていない国は、この日本だけ。

 だからといって、徴兵制を敷けということではない。
それに賛成しろというのでもない。
しかしこの日本が、かろうじて平和を維持できているのは、日本人がそれだけ平和的
であるからではない。
平和を守っているからでもない。
さらに言えば、日本人のもつ哲学観が、それだけすぐれているからでもない。
戦後、65年の長きにわたって、日本が平和を守れたのは、たまたまアメリカ軍という、
世界最強の軍隊が、日本に駐留しているからにほかならない。

 あるパキスタン人(友人)は、こう言った。
「日本が核武装していないだってエ? とんでもない。そう思っているのは、君たち
だけだ。君たちの国には、アメリカ軍が駐留しているではないか」と。

 つまり日本以外の世界の人たちは、「日本は核武装している」と、思っている。
核武装していないと思い込んでいるのは、この日本人だけ。
『核の傘』というのは、そういう意味である。

日本の平和というのは、言うなれば薄氷の上に立った楼閣のようなもの。
さらに言えば、日本という国は、丸裸のうさぎのようなもの。
で、こうした事実を冷静に積み重ねていくと、その先に浮かび上がってくるのが、
「徴兵制」ということになる。

 その徴兵制について、たとえばこんな徴兵制はどうか。
「満60歳になったら、5年間、徴兵義務を負う」と。

 これに対して、「老人に戦争は無理」と思う人も多いかと思う。
しかしそれは、使用する武器の問題。
年齢の問題ではない。
老人用に、携行する武器を軽くするとか、いくらでも方法はある。
今では戦争の仕方も、大きく変わってきた。
戦闘機は無理でも、戦車くらいなら、私でも操縦できる。(……と思う。)

それに若い人たちを戦場へ送るよりは、はるかに合理的。
若い人たちには、(未来)という人生がある。
が、私たち老人には、すでに(過去)という人生しかない。
若者が死ぬか、老人が死ぬかと問われれば、私たち老人が死んだ方がよい。

 もし「満60歳になったら、5年間、徴兵義務を負う」ということになったら、
私たち老人を見る若い人たちの目も、少しは変わってくるのではないだろうか。

 徴兵制を例にあげたが、これはあくまでも(例)。
老人たちにも、しなければならないことがある。
できることがある。
それが(老人)ということになる。

●老害問題(私たちが老害にならないために……)

 私は(老害問題)を考えるたびに、そこにあのユダヤ人問題を重ね合わせてしまう。
第二次大戦前のドイツと、現在の日本は、よく似ている、と。

 戦前のドイツには、ユダヤ人たちが、1千万人単位で住んでいた。
そういうユダヤ人たちが、ドイツ社会に同化することもなく、自分たちの宗教をもち、
自分たちの言葉で話した。
ドイツの経済を牛耳るようになった。
もちろんドイツが迎えた人たちではなかった。
そのほとんどは、今で言う、違法難民であった。

 その結果、こうした事実が、あの忌まわしい、ユダヤ人虐殺へとつながっていく……。
問題は、あれほどまでに高い文化を誇った、ドイツで、そういう虐殺事件が起きたという
こと。
多くの日本人は、「日本人は、あんな残虐なことはしない」とか、「日本人の私たちは
ちがう」と思っている。
しかし本当に、そうか?
そう断言できるか?

 ユダヤ人虐殺事件はともかくも、これからの日本で、似たような事件が起きないか、
私はそれが心配でならない。
3人に1人が、75歳以上の後期高齢者になったとき、ひょっとしたら、老人排斥運動
が始まるかもしれない。
表立った行動をする人はいないだろうが、人々の心の奥深くで、それは静かに進行する。

 現に今、医療機関において、後期高齢者に対する治療拒否などの問題が、起きつつある。

●やるべきことを見つけよう!

 老人たちよ、けっして今の立場に安住してはいけない。
安住したまま、若い人たちを、上から見下ろしてはいけない。
老人たちだけの別世界を作り、自分たちをその中に隔離してはいけない。
たとえばこんな光景を想像してみるとよい。

 あるみやげものセンターに、一台の大型のバスが止まった。
見ると、60歳以上の老人たちが、ゾロゾロとバスを降りてくる。
どこかの観光地を回ってきた団体である。

 一方、みやげものセンターでは、20代、30代の若い人たちが、声を張り上げて、
こう連呼する。
「いらっしゃいませ!」と。
せわしく動き回りながら、老人たちの落とすお金を、ねらっている……。

 こういう光景が、ごく日常的なものになったとき、はたして私たちは、それを
望ましい社会の姿と言ってよいのだろうか。
もちろん老人には老人の言い分がある。
それはよくわかる。
わかるが、しかしそうした言い分だけでは、若い人たちが感じ始めている矛盾を、
溶かすことはできない。

 老人は老人で、自分たちが生きてきた人生を、若い人たちに還元していかねば
ならない。
「命」を、還元していかねばならない。
「還元」という言葉は、藤沢市に住むI先生が教えてくれた言葉である。
すばらしい言葉だ。
知恵や知識を伝え、人生の先輩として、どう生きるべきかを伝えていく。
それをしてはじめて、私たちは、「老人」と胸を張ることできる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 B
W はやし浩司 命の還元 老人問題 はやし浩司 老害)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司        

【熟年離婚】(17% of old couples have been divorced now in Japan)

●ふえる熟年離婚

厚生省大臣官房統計情報・人口動態統計課の「人口動態調査」によると、昭和25年から平成
7年までの間に、離婚率は、4・6倍になったという。

 その中でも、結婚生活20年以上の熟年夫婦の離婚率は、3・5%から、16・9%にまで上昇
しているという。17%といえば、ほぼ5組に1組ということになる!

 実は、私の知人の中にも、今、離婚の危機に立たされている人が、何人かいる。しかしそう
いう人たちと会って話をしてみると、どこまでが冗談で、どこから先が、真剣なのか、わからなく
なってしまう。そのわからなさこそが、この熟年離婚の特徴の一つかもしれない。

知人「もう、5年も、セックスレスだよ」
私「本当かあ!」
知人「寝室も別々だよ」
私「本当かあ!」

知人「だからさ、オレにも、愛人がいてさ」
私「本当かあ!」
知人「家内も、今ごろは、どこかの大学生と、飲み歩いているよ」
私「本当かあ!」と。

 そんな調子で、会話がかみあわなくなってしまう。が、それでいて、その奥さんからは、こまめ
に礼状が届いたり、電話がかかってきたりする。離婚の雰囲気など、どこにも感じさせない
(?)。

 で、それを話題にする私のほうも、疲れた。私の実感では、「離婚する」「離婚する」と、騒ぐ
人ほど、離婚しない。本当に離婚する人は、静かに、だれにも悟られずに、離婚する……とい
うことか。

 その熟年離婚には、大きな特徴がある。今までの経験をまとめてみると、こうなる。

(1)夫の知らないところで、妻側が、先に離婚の決意をかためてしまう。
(2)それまでは表面的には、従順で、家庭的な妻であることが多い。
(3)夫の職業は、ほとんどが会社勤めのサラリーマン。会社人間であることが多い。
(4)夫は、まじめタイプ。むしろ、家庭思い。家族思い。家庭サービスもしている。
(5)共通の趣味や、目的がない。休日などは、バラバラの行動をすることが多い。
(6)妻側から離婚を申し出られると、夫は、「どうして?」と、ろうばいしてしまう。
(7)子どもの結婚など、子育てが終わったときなどに、離婚しやすい。

 ほかにもいろいろあるが、実は、私たち夫婦も、あぶない。しかし私のように、「あぶない」「あ
ぶない」と思っている夫婦は、離婚しない。それを知っているから、「多分、だいじょうぶだろう」
と、自分では、そう思っている。

 そこでこうした熟年離婚を防ぐには、どうしたらよいかということになる。が、それとて、つま
り、「防ぐ」という発想とて、一方的に、夫側の勝手にすぎない。夫としては、離婚されたら困る
かもしれない。しかし一方の当事者である、妻側は困らない。離婚を望んでいる。

 だから「防ぐ」という発想そのものが、夫側のものでしかない。妻側にすれば、「どうすれば、
離婚できるか」。さらには、「どうすれば、夫の束縛から解放されて、自分らしい人生を、もう一
度、生きることができるか」ということが、問題なのだ。

 事実、熟年離婚する妻たちは、こう言っている。「残りの人生だけでも、私らしい生き方を、し
てみたい」と。だから、「防ぐ」という発想そのものが、そぐわない。そういう妻たちにとっては、
かえって迷惑になる。

 そこで、これはあくまでも夫側の立場の意見だが、熟年離婚を防ぐためには、とにかく『協同
意識』をもつしかないのではないかということ。共通の目的が無理なら、趣味でもよい。たがい
に、たがいの心の補完をしあうような活動をしなければいけない。土日になると、夫は、ひとり
で魚釣り。妻は、テニス仲間と旅行……というのでは、あぶないということ。

 で、私たち夫婦も、その熟年離婚の予備軍のようなものだから、偉そうなことは言えない。し
かし最近、私は、こう思う。

 夫は、夫で、妻の生きがいを、いっしょにさがし、育ててやる。それが熟年離婚を防ぐ、最大
の方法ではないか、と。「私は夫だ。お前らを食わせてやっている」という発想では、熟年離婚
されても、文句は言えない。

 そう言えば、離婚の危機にある(?)と思われている、冒頭にあげた知人たちは、どの人も、
どこか権威主義的。夫意識が強すぎるのでは? 「男は仕事だけしていれば、一人前」「それ
でじゅうぶん」「妻は家庭に入って、家事をすればよい」と、日常的に、そんなふうに考えている
ような感じがする。つまり、そういう発想をする夫ほど、あぶないのでは?

 今夜もワイフに、「おい、今じゃあ、5組に1組が熟年離婚する時代だそうだよ。20年間も結
婚生活をしていてね……」と話すと、ワイフは、どこか感慨深げ。「じゃあ、私たちも……」と言
いそうな雰囲気だった。うちも、あぶないなア〜。

【補記】

 どうせ17%も、熟年離婚するなら、そういう熟年離婚を、積極的に考えなおしてみたら、どう
だろうか。夫婦も、いつまでも「結婚」というワクにとらわれないで、自由に、自分たちの時間を
楽しむとか……。そういう発想で、たがいの関係を、もう一度、つくりなおす。

 もっと言えば、「結婚」という概念を、一度解体した上で、つくりなおす。こういう時代になった
のだから、いつまでも、旧態依然の結婚観にしがみついているほうが、おかしいのかも?

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●疑似・熟年離婚

++++++++++++++++++

9月x日、私は故郷のM町と、絶縁する。
言うなれば、「熟年・離縁」。
故郷と言いながら、私にとっては、腐れ縁。
思いも枯れた。
未練も枯れた。
言い残すことは、何もない。
いろいろ言いたいことはある。
あるが、今さら言いたくもない。
言ったところで、何も変わらない。
説明しても、どうせわからないだろう。
どうにもならない。
いや、それ以上に、私の人生も、秒読み段階に入った。
だからきれいさっぱり、自分の心の中から消す。
だから「熟年・離縁」。

++++++++++++++++++

●熟年離婚

 人は時として、ひとつの人生を生きながら、別の人生を経験する。
ひとつの例が、「熟年離婚」と「熟年・離縁」。
まったくちがうようで、中身は同じ。
心の動きは同じ。
今、私は熟年・離縁を経験しながら、他方で、熟年離婚を経験しつつある。
が、どうか心配しないでほしい。
私とワイフが離婚するわけではない。
そのつもりもない。
あくまでも「熟年・離縁」。

つまり人の心は複雑なようで、ときに、定型化することができる。
似たような例を経験しながら、それをもとに別の経験を定型化することができる。
わかりやすく言えば、私は今、熟年・離縁を経験しながら、「熟年離婚もこんな
ものだろうな」と、想像することができる。

●なぜ離縁?

 いつかゆっくりと、それについて書くときがやってくるだろう。
今はまだ、そのときではない。
話せば長くなる。

 要するに、失望の連続。
裏切られることはあっても、何もよいことはなかった。
が、「それでも……」と思って、故郷にしがみついてきた。
私なりに(縁)を大切にしてきた。
つまりそれも限界に来たということ。
だから離縁!

 もっとも私は故郷を離れて、40年以上になる。
正確には44年!
いまだに故郷にしばられるほうがおかしい。
おかしいが、しばられた。
ずっとしばられた。
その呪縛感には、相当なものがあった。
だから今の気持ちは、「もう、たくさん!」

●香典抜き

 もちろんきっかけは、ある。
私はずっと絶壁のフチに立っていた。
その私を背中から、どんと押すような事件があった。
「事件」というのも、大げさに聞こえるかもしれないが、事件は、事件。
ワイフは、「あの男のやりそうなことね」と言った。
わかってはいるが、私の背中を押すには、じゅうぶんなパワーがあった。

 何と、私の肉親の葬儀のとき、間に立って、香典抜きをしていた親類がいた。
ほかの親類から預かった香典を、自分の懐(ふところ)に入れていた。

それは「浩司君、ところで……」という話から、始まった。
「こんなこと聞きにくいのだけど、ぼくが出した香典、君に届いているだろうか?」と。

 私が「届いていない」と答えると、声にもならないような声を出して、その人は
「ハア〜」と言って、驚いた。
そのまま黙ってしまった。

 こうした香典抜きが、いかに親戚関係を破壊するものか、葬儀を経験したことのある人
なら、わかるはず。
私はその親戚づき合いが、つくづくいやになった。
愛想(あいそ)も尽きた。

「あのNS氏というのは、そういう男ですよ。私も、さんざんだまされた。
しかしそこまでやるとはねエ……!」と私。

●熟年離婚

 つまらない話を書いたが、そういう意味では、(貧乏)というのは、恐ろしい。
金銭的な貧乏が、時として、その人の心まで貧しくする。

私「まあ、私は無視します。あんな男、相手にしたくありません。定職ももたず、かわ
いそうな男です」
相「しかし、ぞっとするような話です……」
私「だから葬儀のあと、あなたのところに電話を入れていたのですね」
相「そうだったのか。そうだったんだ。浩司君とぼくが、連絡を取り合っていないか、
それを確かめるために、ね」
私「ハハハ、そこまでやるとはねエ……」と。

 で、そのとき私は、理解できた。
熟年離婚を申し出る、妻の気持ちが、である。
グググッと怒りが増幅し、それが頂点に達したとき、突然、急に、心の中がすっきりする。
許したのではない。
受け入れたのでもない。
「もうどうでもいいや」というニヒリズムが、心を満たす。
そのとたん、ス〜ッと、心がすっきりする。

●熟年離婚に至るまで

 そこで自分なりに心の中を整理してみる。
そして自分が熟年・離縁に至った過程を、熟年離婚のそれに当てはめて考えてみる。
つぎのが、それである。

(1)疑問期…「これでいいのか」という疑問をもち始める。
(2)反復期…疑問と否定を繰り返す。
(3)確認期…「これでいい」という確信をもちはじめる。
(4)決断前夜…身辺の整理を始める。
(5)決断期…未練をふっきり、決別を決断する。

 最大の問題は、「悪人としての顔を、どう吹っ切るか」ということ。
私を悪く思っている人を、心の中で、どう処理するかということ。
イギリスの格言に、『2人の人によい顔はできない』というがある。
どちらか一方の人によい顔を見せることはできても、もう一方の人にまで
よい顔を見せるのはむずかしい。
どちらかに好かれれば、どちらかに嫌われる。
嫌われることを恐れていたら、ときとして、真の友を失うこともある。
熟年離婚についていえば、自分の最後の時間を失うことになる。

 内容について考えてみよう。
ただしこれは、先にも書いたように、私の(熟年・離縁)をもとにして
書いたものであり、(熟年離婚)には、そのまま当てはまらないかもしれない。
「似ている?」という点で、私自身が経験した(熟年・離縁)をもとに、
熟年離婚を考えてみた。

(1)疑問期…「これでいいのか」という疑問をもち始める。

 現状への不信感がつのる。(夫への不信感がつのる。)
重苦しい日々がつづく。(悶々たる日々がつづく。)
やがてその原因や理由に気づくようになる。(なぜ、そうなるか、それを考える。)
現状を打開しようとする。(空漠とした日々に耐えられなくなる。)

(2)反復期…疑問と否定を繰り返す。

 「これでいいいのか」という疑問。(「夫婦というのは、どういうものか」と悩む。)
「これでいい」「しかたない」という否定。(自分を納得させる。)
(怒り)と(絶望感)でもよい。(妥協と衝突を繰り返す。)
その2つが、交互に心の中に現れては消える。
家族、親類、社会……もろもろの「糸」にからまれる。(とくに子どもの問題。)
もがく。
苦しむ。

(3)確認期…「これでいい」という確信をもちはじめる。

 苦しんだ分だけ、心が研ぎ澄まされてくる。(ものごとを割り切るようになる。)
拾い出すものと、棄てるものを、選び分ける。(みなによい顔ができないことを知る。)
それらを天秤にかけながら、取捨選択を繰り返す。(居直る。)
「みなにいい顔はできない」ことを知る。

(4)決断前夜…身辺の整理を始める。

 身辺の整理を始め、同時進行の形で、心の準備を整える。(覚悟を決める。)
未練の燃焼。(思い残すことがないよう、準備する。)
後悔しないことの確認。
前に向かって進む勇気の確認、(うしろを見ない。振り返らない。)など。

(5)決断期…未練をふっきり、決別を決断する。

 過去を消し、未来だけを前に置く。
行動として、それを表現する。(離婚を申し出る。)

●2人の人によい顔はできない

 どんな形であるにせよ、また人知れずそれをしたところにせよ、
それをよしとしない人は、かならず現れる。
そういった人にとっては、理由など、何でもよい。
(自分たちから去っていくこと)自体が、悪であり、まちがっているという
ことになる。

 似たような現象は、カルト教団でもよく見られる。
カルト教団にしてみれば、去っていくこと自体、まちがっているということに
なる。
理由があるとしても、あとから理由、つまりこじつけすぎない。

「あいつは親の面倒すら、ロクに見なかった」
「親の一周忌すら、簡単にすませた」
「私への借りを踏み倒した」などなど。

 いろいろ理由をこじつけて、あなたを非難する。
自分から去っていく人間を肯定することは、そのまま自己否定につながる。
だから(去られる側)は、周囲を巻き込んで、援軍を求める。

 熟年・離縁を覚悟する人は、そうした人たちすべてとも縁を切る。
誤解を解くという方法も残されているが、それには相当のエネルギーが必要。
また残された時間は、それほどない。
だから、「思いたければ、勝手に思え」という方法で、居直る。
居直るしかない。
「すべてを断ち切る」という覚悟をもつしかない。

●悪役一筋

 たとえば私は、親類の中では、悪役だった。
遠くに住むことをよいことに、母は、私を悪役に仕立てた。
何かつごうの悪いことがあると、すべて私の責任にした。
その中でも、最大の問題が、祖父が残し遺産の相続問題。

 祖父が他界し、数年後に父が他界した。
祖父は3筆の土地を残した。
その土地を自分名義のものするため、母は、私を悪役に仕立てた。
「私は遺産などいらないが、息子の浩司がうるさいから、判を押してくれ」と。
親戚中に泣きついた。
つまり私がうるさくて困っているから、遺産相続放棄の書類に判を押してくれ、と。

 が、私はそういうことを母がしているとは、まったく知らなかった。
また遺産相続について、私が口を出したことは、一度もない。

 結局母は、自分の思い通りに、ことを運んだ。
同時に、私は、悪者になった。

 誤解と言えば誤解だが、私自身も、最終的には利益を享受するという点で、
それ以上のことは、何も言えなかった。
また当時の私にしてみれば、いくら誤解を解くためとはいえ、親の悪口を言うことは
許されないことだった。
私は沈黙を守った。
叔父の1人に顔面を数発殴られたこともあるが、それでも沈黙を守った。

●熟年・離縁

 しかしこれも人生。
私の人生。
世の中には、もっと複雑で、不愉快な運命を背負って生きている人がいる。
またそういう人の方が、多い。

 みな、それぞれが、それぞれの運命を背負いながら、懸命に生きている。
私もそうだし、あなたもそうである。
その(懸命さ)こそに、生きる意味がある。
無数のドラマも、そこから生まれる。

 私の母にしても、一時は、私は母を恨んだ。
心の水が枯れるまで、恨んだ。
しかし今はちがう。
「母は母で、あの時代を懸命に生きた」という思いの方が優勢である。
かく言う私だって、たいした人生を送っているわけではない。
偉そうなことを言える立場ではない。
もし私が母と同じ立場に置かれたら、私もやはり母と同じことをしていただろう。
それを考えると、どうも自信がもてない。

 で、9月X日。
私は故郷のM町と、縁を切る。
怒っているからでも、また不愉快に思っているからでもない。
人生には、結末というものがある。
その準備として、縁を切る。

 私の故郷は、ここ浜松市である。
それをさらに確固たるものにするため、縁を切る。
だから今、さばさばとした気持ちで、
本当にさばさばとした気持ちで、こんな歌を歌う。

「♪さらば、ふるさと、さらば、ふるさと、ふるさと、さらばあ〜」と。
(ただし歌のような涙は、一滴も出ない!※)

 恐らく熟年離婚をして夫のもとを去っていく妻も、似たような気持ではないか。
夫には、理解できないかもしれないが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 熟年離婚 熟年離縁 熟年・離縁)

(注※:補記)

♪『故郷を離るる歌』(ドイツ民謡)

 園の小百合、撫子、垣根の千草、
 今日は汝(なれ)を眺むる最終(おわり)の日なり。
 おもえば涙、膝をひたす、さらば故郷(ふるさと)。
 さらばふるさと、さらばふるさと、故郷さらば。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●衆議院議員選挙(8月30日)

++++++++++++++++++

浜松7区。
3人の立候補者がいる。

順に、
(1)現職の、片山S氏衆議院議員・元官僚・自民党)
(2)前職の、城内M氏・元官僚・元自民党)
(3)新人の、斉木T氏・元アナウンサー・民主党)

+++++++++++++++++++++

今日(29日)までの予想によれば、この7区だけは、週刊誌によって、みな、ちがう。
片山氏優勢というのもあれば、城内氏優勢というのもある。
新人の斉木氏について言えば、「新人」ということで知名度が低い。
しかし「民主優勢」の流れに乗って、他の2人の候補者に肉薄しつつある。

 こういうとき、浮動票の王様を自称する私は、むずかしい選択に迫られる。
浮動票層には、浮動票層としての、プライドがある。
哲学もある。

 その第一。
自分の入れる票は、死に票にしたくない。
ぜったい敗れるとわかっている候補者には、貴重な一票は入れない。

 その第二。
浮動票は、言うなればバランス票。
バランス感覚を重要視する。
本来なら、今回のように、自民党ベタ負けとわかっているというときには、
自民党に一票を入れるということも、当然、考える。
民主党のベタ勝ちというのは、浮動票層の望むところではない。
またそれは日本の民主主義制度にとっても、よくない。

 が、今回は、異変が起きた。
「激戦区」というよりは、「混戦区」。

 片山氏と城内氏は、いうなれば同じ穴のムジナ。
城内氏は、もともと自民党。
当選すれば、自民党に復帰する。
自民党系の票は、片山氏と城内氏の2人で、分け合う形になる。
こうなれば、斉木氏有利!

 一方、城内氏と斉木氏の関係も、それに似ている。
城内氏は、地元では人気度が高い。
片山氏と一対一の一騎打ちになれば、今回は、城内氏が勝つはず。
これに対して斉木氏は、民主党優勢の流れに乗っている。
反自民党の票は、城内氏と斉木氏の2人で、分け合う形になる。
こうなれば、片山氏有利!

 つまり三つ巴の混戦状態。
地元の雰囲気からすると、(あくまでも私の印象だが……)、
城内氏が有利、そのあとを、片山氏と斉木氏が猛追しているといった
ところか。

 が、自民党の片山氏に票を入れても、死に票になる。
今回は、当選は無理。
そこで城内氏に入れるか、斉木氏に入れるか……?
そのとき第一に考えるのが、城内氏が元自民党であること。
(繰り返すが、当選すれば、当然、自民党に復帰。)
斉木氏が民主党であること。

 自民党か民主党かということになれば、今の流れからすれば
民主党ということになる。
が、先にも書いたように、城内氏の支持基盤は固い。
となると、最終的にそれを決めるのは、私たち浮動票層ということになる。
つまり、投票率。
投票率で決まる。
投票率が高ければ高いほど、斉木氏(民主党)に有利になる。
(一方、投票率が低ければ低いほど、片山氏に有利になる。)

 現在までの予想によれば、明日のこの7区の投票率は、80%近くになると言われて
いる。
ということは、斉木氏が、がぜん有利ということになる。

 では、どう判断したらよいのか。

(1)バランス感覚が働かない

 今回の選挙で特徴的なのは、本来なら働くはずのバランス感覚が、
働かないということ。
AS首相は、昨日、「自民党の支持率が低いのは、今までの自民党に責任が
ある」というような発言をした。
これなどは、言い逃れもよいところ。
AS首相という人は、自分のことがまるでわかっていない。
わかっていないから、鉄槌を加えてやるしかないということになる。

 AS首相は、こう述べている。

『……自民党にとって、今回の衆院選で、与党が「3分の2」を失うというのは早くからの既定路
線だった。AS首相は衆院解散後「与党で過半数なら、引き続き信任をいただいたことになる」
と、事実上の勝敗ラインを過半数の241議席に設定した』と。

(もしここで自民党が善戦したということにでもなれば、AS首相の続投
が決まってしまう。
それだけは生理的にも、許せない。)

 ……ということで、私は明日の投票率をにらみながら、だれに一票を入れるかを
決める。
投票率速報をにらみながら、夕方遅く投票所に向かうつもり。

投票率が低いようであれば、XX氏。
投票率が高いようであれば、YY氏。
同時に片山氏だけには、勝たせたくない……。

(GOOD NEWS)

 今回の選挙で、自民党が大敗北を期したとしたら、自民党の派閥そのものが
消滅することになる。
あの悪名高い、派閥政治の終焉。
親分(領袖)が落選する。
資金の流れも、止まる。
族議員も消える。
つまり派閥そのものが、成り立たなくなる。

 これだけでも、とてもすばらしいことだ。
どこかのタブロイド紙は、「日本の革命」と書いていたが、まさに「革命」。
「革命」と言うにふさわしい。
明日、その日がやってくる。

(付記)

 総選挙の結果は、
(1)城内M氏が、小選挙区で当選。
(2)斉木T氏は、小選挙区で落選したものの、比例区で当選。
(3)片山S氏は、落選。

 投票率が予想外に低く、70%に届かなかった。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG 09++++++++はやし浩司

●日本の総選挙(General Election of Japan, Farewell to the Rotten Politics of Japan!)

We feel something has been changing rapidly and dynamically. We hope this would be the 
end of rotten politicsof Japan.

+++++++++++++++++++

昨夜は、眠い眼(まなこ)をこすりながら、
夜遅くまで、選挙報道をテレビで見ていた。
結果は、みなさんご存知の通り。

民主党が、最終的に308議席。
自民党が、119議席。
民主党の完全圧勝で終わった。

これからは、30代を中心とした若い人たちが、
政治の中心を担うことになる。
すばらしいことである。

言い換えると、今までの自民党政治は、あまりにも
ドロドロしかった。
薄汚かった。
カネと権力。
言うなれば、腐敗したゴミの山。
それがその底流で、渦を巻いていた。

今回の総選挙は、一応、それを一掃してくれた。
これから先のことはわからないが、民主党政権の
これからに、強く期待したい。

がんばれ、民主党!

+++++++++++++++++++

●AS首相

 それにしても醜いのが、AS首相。
この場に及んでも、自分の責任を認めるどころか、安倍首相、福田首相の辞任劇を、
敗因の理由にあげている。
自分だって、国民の審判を受けて総裁になり、総理大臣になったわけではない。
そのAS首相が、そう言う。
そのおかしさ。

今回の敗因の理由の第一は、もちろん、AS首相、彼自身にある。
それを棚に上げて、テレビ画面に向かって、さかんに「自民党の3分の2の支持を得て、
総裁になった」と主張していた。
「私には責任はない」と言わんばかりの口調である。
自己矛盾もはなはだしい。

 本来は、選挙までの暫定内閣として発足したAS内閣。
そのAS内閣のAS首相は、そのつどああでもない、こうでもないという理由を
こじつけて、政権の座に居座った。
その見苦しさ。
つまりその結果が、今回の総選挙ということになる。

 本来なら自民党内部でさえ、袋だたたきにあってもしかたない立場。
ところがその袋叩きする人すら、今の自民党には、いない。
AS首相は記者の質問に答えて、「政治は大きなうねりの中で、よいときもあれば、
悪いときもある」というようなことを言っていた。
が、それはどうか?
へたをすれば、自民党は、このままバラバラになってしまうだろう。
もともと主義主張、つまり正義が(柱)にある党ではない。
金(マネー)と権力。
この2つだけで、これから先、どうやって自民党をひとつにまとめていくつもりなのか。

 先ほどざっと世界の報道記事に目を通してみた。
世界中が、速報の形で、日本の総選挙の結果を伝えていた。
「日本は今、大きな転換期を迎えた」というのが、おおかたの見方である。
そう、今、日本は、大きく変わりつつある。
この流れは、もうだれにも止められない!

(8月31日記)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090901)

●米朝平和協定・絶対阻止!(Down with the Peace Treaty between USA and North Korea)

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今日から9月。
9月1日。
ときに書きたいことが枯渇することがある。
書きたいことが何もなくなり、ただぼんやりと
時間を過ごす。
が、今朝はちがう。
書きたいことが、山のようにある。
あれも、これも、と。
どこから手をつけてよいのか、わからない。

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●米朝平和協定(We should never accept or admit the "Peace Treaty between USA and 
North Korea, which would bring Japan the greatest political damage.)

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日本よ、民主党政権よ、どんなことがあっても、
米朝平和協定なるものの締結だけは、阻止しろ!
ぜったいに結ばせてはならない。
これは日本の死活問題。

もしアメリカと北朝鮮の間で、「米朝平和協定」
なるものが結ばれたら、それこそ日本はそのあと、
たいへんなことになる。
まさに北朝鮮に言いなり。
言いなりになるしかない。
北朝鮮の核兵器におびえながら、日本は、莫大な戦後補償費
なるものを絞り取られる。

「金を出せ」「出さなければ、戦争だ」と。

わかるか?

米朝平和協定が結ばれたら、アメリカ本土が攻撃され
ないかぎり、いくら北朝鮮が日本を攻撃しても、
アメリカは、それに対して手も足も出せなくなる。
つまりそれこそが、北朝鮮のねらい。
つまりこの時点で、こと北朝鮮に関するかぎり、
日米安保条約は死文化する。

「アメリカと北朝鮮が仲良くなればいい」という
ような単純な問題ではない。
またこれはそういう問題ではない。

北朝鮮の立場で、ものを考えてみれば、それがわかる。
北朝鮮にとっては、在日米軍は、まさに目の上のタンコブ。
在日米軍が日本に駐留しているかぎり、北朝鮮は
日本に対して、何もしかけることができない。
そこで「米朝平和協定」ということになる。

また今回、鳩山内閣が組閣されるについて、TJ氏
(私の三井物産時代の元同僚)が、首相の顧問団に
加わることになった。
TJ氏は、かねてより、「対米追従外交反対」を
唱えている。

行き過ぎたアメリカ追従主義にも問題がある。
あるが、しかし現実には、日本の平和と安全は、アメリカ軍
によって守られている。
この事実は、(現実)であり、だれにも動かしがたい。
それを忘れてはならない。
けっして理想主義に突っ走ってはいけない。

聯合ニュースは、つぎのように伝える(09年8月31日)

+++++++++++以下、聯合ニュース+++++++++++

【ソウル8月31日聯合ニュース】北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記が、北朝鮮の緊張
状態を緩和し戦争の危険を取り除く問題は「米国がわが共和国に対する敵対視政策を捨て、
朝米(米朝)間で平和協定を締結してこそ解決できる」と述べたと、北朝鮮の対外用放送、平
壌放送が31日に報じた。ただ、金総書記がいつどこで、こうした発言をしたかについては明ら
かにされなかった。

 平壌放送は1999年9月29日にも、金総書記が「戦争の危険を取り除き平和を担保するに
は、われわれと米国間で平和協定を締結し平和保障体系を策定するべき」だと述べたと伝え
ている。(聯合ニュース)

+++++++++++以上、聯合ニュース+++++++++++

 アメリカには、北朝鮮を攻撃する意図など、最初からみじんもない。
ないことを知りつつ、「平和協定」の締結を求める。
その理由は、ここに書いたとおりである。

 繰り返す。
米朝平和協定の締結は、どんなことがあっても、日本は阻止しろ!


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

●「明治維新以来の大変革」

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今回の総選挙について、外国のメディアは、
おおむねつぎのように伝えている。
オーストラリアの(ジ・オーストラリアン紙)の
記事を紹介する。

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【ジ・オーストラリア紙より】
(翻訳は、Lingoes)

Pivotal moment in Japan's history(日本の歴史のターニングポイント)
Greg Sheridan, Foreign editor | August 31, 2009 
Article from: The Australian 
YUKIO Hatoyama's victory is a pivotal point in modern Japanese history.
鳩山由紀夫氏の勝利は近代日本の歴史において極めて重要なポイントです。
And when Japan pivots, the consequences for Australia are enormous. 
Hatoyama and his Democratic Party of Japan promise to break down the influence of Japan'
s all-powerful bureaucracy and put power into the hands of politicians. 
そして、日本が枢軸、オーストラリアの巨大されている結果。 
鳩山氏と民主党の政治家の手に渡って、日本のすべての強力な官僚制とputの力の影響を打
破する日本の約束。
They also promise to reverse the crippling fertility decline, which has led to Japan's 
population starting to decrease, to seek a more independent foreign policy, to redistribute 
money and spending power to the consumer and most of all to normalise Japanese politics 
- to create a competitive two-party system. It's a grand sweep of history, to wipe away the 
post-war settlement under which Japan has changed government just once since the mid-
1950s. 
彼らはまた、日本の人口が減少し始めてつながっている壊滅的な出生率低下は、逆に、消費
者にお金と購買力を再配布して、すべてのほとんどは日本の政治を正常化する-競争力を作
成するために複数の独立した外交政策を追求することを約束二大政党制。これは、歴史のポ
ストの下で日本は1回以来、政府が変更されて戦争の和解をぬぐうための壮大な掃引、の
1950年代半ば。
It could be as big and bold and thunderingly significant as the last two great Japanese 
pivots - the Meiji Restoration in the late 1800s and the post-war economic revival. 
Both of those pivots had colossal consequences for Australia. 
これは大きくて大胆かつthunderinglyの最後の2つの偉大な日本の枢軸として大きな-明治維
新後、1800年代後半に、戦後の経済復興ことができる。 
両方のこれらのピボットのオーストラリアの巨大な影響をもたらした。
The Meiji Restoration modernised a previously feudal society. But Japan took on some of 
the most unpleasant aspects of modernisation - such as colonialism and militarism. The 
Meiji Restoration led to the industrial and military behemoth Australia fought in World War II. 
明治以前は封建社会の近代化。しかし、日本のいくつかの近代化の中で最も不快な側面をし
た-植民地主義や軍国主義など。明治維新オーストラリア二次世界大戦に参戦した産業や軍
事巨大につながった。
The post-World War II restoration, when Japan embraced defeat and took all the 
opportunities an enlightened US dominance provided, was also of profound importance to 
Australia. Japan's economic growth in the second half of the 20th century, more than any 
other external factor, powered Australian economic growth. 
後の日本が敗戦を受け入れて悟りを開いた米国の独占提供するすべての機会だった二次世
界大戦の修復も、オーストラリアへの深い重要なものでした。 20世紀の後半に日本の経済成
長は、他の外部的な要因より、電源がオーストラリアの経済成長率よりも。
So we have our war legends because of the Japanese, and we also have our contemporary 
prosperous Australian society because of the Japanese. 
Japan is still Australia's largest export market. It is still the biggest Asian investor in 
Australia. And because the US strategic position in Asia depends utterly on Japan, Tokyo is 
still the most important player in regional security for Australia. 
How will Hatoyama make things different? 
だから我々は戦争をするための伝説、日本語、また日本語のための私達の現代的な豊かな
オーストラリアの社会にしている。 
日本はオーストラリア最大の輸出市場である。まだオーストラリアではアジア最大の投資家で
ある。とはアジアでの米国の戦略的位置は全く日本に依存し、東京がまだオーストラリアの地
域の安全保障の中で最も重要なプレーヤーです。 
どのように鳩山氏は物事を一味違ったものでしょうか?
Some of his economic populism is dangerous. Some of it opposes the market-based reforms 
that Japan's economic system, which has its brutally efficient parts and its astonishingly 
bureaucratic and inefficient parts, still needs. 
いくつかの彼の経済的ポピュリズムは危険です。それのいくつかは、市場は反対に、その残酷
な効率的な部品とは、驚くほど、官僚主義や非効率な部分が日本の経済システムは、まだそ
のニーズに改革した。
In some areas, Hatoyama has not so much repudiated the ruling Liberal Democratic Party 
as simply made a takeover bid for some of its constituencies, offering for example the same 
antique protection to Japan's wildly expensive and inefficient agricultural sector as the LDP 
has done. 
Hatoyama himself began his political career in the LDP, and one of the dangers of the new 
situation is that the DPJ simply inherits the LDP's patronage system of politics and 
perpetuates the iron triangle - of bureaucrats, business leaders and politicians scratching 
each other's backs. 
But Japan hungers for change. Japan's last successful prime minister, the redoubtable 
Junichiro Koizumi, already tried to push greater power to politicians and away from the 
bureaucracy. This process, if Hatoyama completes it, would make Japanese politics more 
transparent, competitive and nimble in its responses. 
一部の地域ではそれほど単純に、いくつかの選挙のための買収提案を行ったとして、例えば、
自民党の行っているとしての日本の非常に高価で、非効率的な農業部門には、同じアンティー
クな保護を提供する自民党を否定、鳩山しています。 
鳩山氏自身は、自民党内の政治的キャリアを開始し、1つの新たな状況の危険性については、
民主党は、単に政治の自民党の庇護のシステムを継承し、鉄の三角形の官僚は、ビジネスリ
ーダーや政治家が互いの背中スクラッチ-を永続させています。 
しかし、変化は、日本ハンガー。日本の最後に成功した首相は、恐るべき小泉純一郎首相
は、すでに政治家に大きな力をプッシュするとの距離は官僚から試みた。このプロセスは、場
合、鳩山氏は、それが完了する、日本の政治の透明性を作ると競争し、その応答に軽快。
But it is hard to read Hatoyama's policy pronouncements. He has softened earlier 
opposition to free trade agreements, such as the one Canberra is trying hard to negotiate 
with Tokyo. 
Hatoyama will certainly never give total free access for Australian farmers to the Japanese 
food market, but he might be prepared to move enough to make an FTA of some kind a 
possibility. 
Hatoyama wants a more independent foreign policy for Japan. In the past this was code for 
Japan seeking a more equal alliance with the US. 
しかし、鳩山氏の政策の公式見解を読むことは難しい。彼は、1つのキャンベラなどのハード東
京都と交渉するとしている自由貿易協定に、以前の野党軟化しています。 
鳩山氏は、確かに日本の食品市場、オーストラリアの農民のための合計の無料アクセスを提
供することはありませんが、彼に移動する準備かもしれないFTAのいくつかの種類の可能性を
確認するのに十分。 
鳩山氏は日本の複数の独立した外交政策を望んでいる。過去には、この日本のコードでは、
米国との対等な協力関係を求めていた。
But the irony was that greater independence allowed Tokyo to do more things that 
Washington wanted, such as dispatching troops to peacekeeping operations, making the US-
Japan alliance reciprocal, or supporting the US military logistically in the war on terror. 
Hatoyama has opposed Japan's refuelling ships engaged in the conflict in Afghanistan. 
But he won't stop the practice immediately. He will let the current arrangements run their 
course until early next year and simply then plans not to renew the relevant legislation. 
しかし皮肉なことに一層の自立東京より多くのものは、ワシントンなど、平和維持活動に軍隊を
派遣するなどやりたいことができたの日米同盟は、相互に、または論理学対テロ戦争で米軍
の支援を行っていた。 
鳩山氏は、日本の給油発送アフガニスタンでの紛争に従事して反対している。 
しかし、彼はすぐにその習慣をやめることはありません。彼は、現在の取り決めは来年初めま
で、そのコースを実行し、単純にしてできるようになる関連法規を更新しない方針だ。
But all this is a work in progress. It could all change. The DPJ, though it contains 
fundamental internal divisions on the US alliance, will not threaten the alliance 
fundamentally. 
Hatoyama will want to get on well with the Obama administration and co-operate, especially 
on issues such as climate change and the shaping of the G20 summit process as the key 
instrument to respond, at the policy co-ordination level, to the global financial crisis. 
Hatoyama will almost certainly continue close co-operation with Canberra as well. 
しかし、これは進行中の作業です。これはすべての変更があります。民主党はしかし、これは、
韓米同盟関係を根本的に内部分裂が含まれて根本的に同盟を脅かすことはありません。 
鳩山氏も、オバマ政権と共同で、問題は特に、気候変動などとして動作するとうまくやってする
必要がシェーピングポリシーのコーディネーションのレベルには対応するキーの楽器として、
G20首脳会談のプロセスのグローバルな金融危機。 
鳩山氏は、ほぼ間違いなくキャンベラとも緊密な協力を継続されます。
It is instructive to examine the experience of the late Roh Moon-hyun in South Korea. Roh, 
whose presidency finished last year, came to office with a background in radical labour union 
law and was a harsh anti-American and well to the left of the Korean political spectrum. He 
looked much more radical than Hatoyama. 
これは、後半に盧大統領はムーンの経験は、韓国の大統領を調べることは有益です。盧大統
領は、その大統領は、昨年完成のオフィスに過激な労働組合法の背景に来て、過酷な抗さ
れ、また、韓国の政治的スペクトルの左側にあるアメリカ。彼は多くの急進的な鳩山も見えた。
But in office he negotiated a free trade agreement with Washington and sent thousands of 
Korean troops to Iraq, essentially to make sure the alliance with the US stayed healthy. 
Hatoyama's other big foreign policy challenge is integrating China into Asia-Pacific and 
regional institutions. 
しかし、オフィスで彼はワシントンとの自由貿易協定を交渉し、イラクへの韓国軍の何千もの送
信、本質的に確認して、米国との同盟関係を健全に宿泊された。 
鳩山氏の他の大きな外国の政策課題、アジアの中に中国に統合されて太平洋地域機関。
A centre-left leader is expected to get on well with China, but as Kevin Rudd shows, this 
doesn't always work out. Further, when Japan has self-confident prime ministers with strong 
political bases, they tend to squabble with China. 
Almost everyone in Japan, and almost everyone in the world concerned with Japan, wants 
Hatoyama to produce key changes. 
But they also want him to produce key continuities. 
He may not get the balance right. He won't please everyone. But we may be witnessing 
another, gigantic, Japanese pivot.
中心リーダー左だけでなく、中国との上を取得するが、期待されてケビンラッドを示し、これは
常にうまくされません。さらに、日本が強力な政治的拠点と自信の首相が、彼らは中国と口論
する傾向にある。 
世界は日本との関係で日本では、ほとんどみんな、ほぼ全員が、鳩山氏は主要な変更点を生
成する望んでいる。 
しかし、彼らも彼のキーの連続性を生成します。 
彼は正しいバランスを得ることはできません。彼は全員を満足されません。しかし、我々は、日
本ピボット別の、巨大な目撃されることがあります。

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●オーストラリアの友人たちからも、メールが届いている。

Hi Hiroshi,

Interesting times in Japanese politics!
(日本の政治に、興味深いことが起きている。)

What do you think about it.?
(君は、どう思うか。)

One of our local commentators has the opinion that this is an event in
Japanese history as important as the Meiji Restoration & the Economic
miracle after WW2.
ぼくたちの地方のコネンテイターは、今回の選挙結果は、明治維新や、戦後の
高度成長というあの奇跡に匹敵するほど、日本の歴史には重要なできごとである
と述べている。

Cheers,
バイ
B

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G'day mate, 
(やあ、こんにちは!)

I am interested to know what you think about the election result. I guess the important 
thing is politicians think about the nation first. 

D
今回の選挙結果について、君がどう考えているか、興味をもっている。
重要なことは、政治家が、国家をまず第一に考えることだと思う。

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【民主党政権へ】

 世界の期待は大きい。
こうした期待を裏切らないよう、どうかがんばってほしい。
(090901記)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

●人間不信

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ゆらゆらと揺れるカーテン。
その向こうに、乾いた庭の落ち葉が見える。
台風が、現在、太平洋上を、関東地方に向かっているという。
湿り気を帯びた、あやしげな風。
それがパタパタと、庭をせわしく走り抜けている。

だれもいない朝。
ワイフは、午前中はクラブに出かけて、今はいない。
時間は、先ほどから止まったまま。
私はぼんやりと時の流れに身を任す。

++++++++++++++++++

●自業自得

 「人間不信」というと、(私)の問題と考える人は多い。
まちがってはいない。
しかし「人間不信」には、もうひとつの意味が含まれる。
相手の人から見て、私は、どう見られているかという問題である。
「相手の人は、私を信じているか」と。
人は、他人を信じ、同時に、他人に信じられてこそ、「人間不信」という問題を
克服することができる。
他人に信じられない人が、己の人間不信を嘆いても、それは身勝手というもの。
そういうのを、言葉はきついが、『自業自得』という。
 
●孤立感

 今、ふと我に返る。
私の周りには、だれもいない。
私はひとりぼっち。
孤独ではないが、孤立。
孤立感。
この孤立感は、いったい、どこからくるのか。

 再びゆらゆらと揺れるカーテン越しに、庭の落ち葉を見る。
土の色と化した、葉っぱの死骸。
それがところどころで、小さな山を作っている。
それを見ていると、孤立感が、カプセルとなって、私をすっぽりと包む。

●基本的不信関係

 「他人を信じられない」と嘆いても、意味はない。
「他人に信じられない」と嘆いても、意味はない。
だいたい私は、私自身を信じていない。

 ふわふわとした人生観。
焦点のぼやけた哲学観。
だれにでもシッポを振る、捨て犬のような根性。
「私は私でいたい」といくら願っても、そのつど、世の動きに、そのまま流されてしまう。

 原因は、基本的不信関係。
心理学では、そう説明する。
乳幼児期の貧弱な家庭環境が、私をして今のような私にした。
これは生まれついた、脳みそのシミのようなもの。
簡単には取れないし、また取れるようなものでもない。
本能に近い部分にまで、刷り込まれている。

●心の傷

 だから私には、(その人)がよくわかる。
『同病、相、憐れむ』といったところか。
私に似た人に出会うと、「ああ、ここにも、心のさみしい人がいる」と。

 一見、朗らかで、明るい。
快活で、幸福そう。
しかしそれは仮面。
精一杯、無理をしている。

 そういう人を見ながら、私は、いつもこう思う。
「この人は、自分の心の傷に気がついているのだろうか」と。
あるいは傷があることにさえ、気がついていない?
「かわいそうな人だ」とは、思うが、どうしようもない。
私自身だって、どうしようもない。

●信じられるのは、お金だけ

 私はよい夫を演じているだけ。
よい父親を演じているだけ。
ワイフにしても、私を信じていない。
息子たちとなると、さらに私を信じていない。

 私は、自己愛者。
愛他的自己愛者。
自分勝手で、自己中心性が強い。
プラス、わがまま。
心の中身も、さみしい。
いまだに「信じられるのは、お金だけ」と。
そんな人生観を崩せずにいる。

 だからみんな、去っていく。
楽しそうな顔をしたまま、去っていく。

●希望

 ゆういつの救いは、パソコン。
こうしてパソコンに向かって、心の内を書く。
真新しいパソコンで、キーボードに触れているだけで、気持よい。
その気持よさに陶酔しながら、孤立感をまぎらわす。

 このパソコンの向こうには、私に共鳴してくれる人もいるはず。
数は少ないが、「私もそうだ」と思ってくれる人もいるはず。
今すぐには無理かもしれない。
しかし何か月か、何年かを経て、いつかどこかで、だれかが共鳴してくれるかもしれない。
「文」には、そういう「力」がある。
私にとっては、それが希望。
孤立感を癒す、ゆいいつの方法。

●自分の中のボロ

 しかしどうして私は、こうまで人に裏切られてばかりいるのか。
「人を信じよう」と思ったとたん、そこで裏切られてしまう。
相手は、最初から私をそういう人間と思って、近づいてくる?
それとも最初から、私をまともな人間と思っていない?

そんな人間関係に、ボロボロとまではいかないにしても、もう疲れた。
「信じられたい」と思いつつも、その努力にも限界がある。
私ももうすぐ、満62歳。

 このところザルから水がこぼれ出るように、人々が私から去っていく。
それが実感として、よくわかる。
あの人も、この人も……と。
理由がわかっているだけに、私としてもなす術(すべ)もない。
「歳を取る」ということは、こういうことかもしれない。
自分を支える気力そのものが弱くなる。
孤立に弱くなるというのではない。
自分の中のボロが、そのまま表に出てきてしまう。
それが周りの人たちを、遠ざけていく。

●捨て身

 「今日、1日だけでもいいから、ワイフを信じてみよう」と、今、思った。
だまされてもいい。
裏切られてもいい。
・・・ワイフは、そういうことはしない。
それはわかっているが、こうなれば捨て身で、ワイフと接してみよう。
気を張れば張るほど、疲れるだけ。
ワイフも疲れる。

 「信じてもらおう」などと思う必要はない。
「信じてやろう」と気を張る必要もない。
ただひたすら、「捨て身」。
何も考えない。
何も求めない。

 こうしてぼんやりと、時の流れに身を任す。
どうせ今の私には、それしかできない。
それしかすることもない。

 そうそう心なしか、庭を行き交う風が、強くなったように思う。
カーテンの揺れが、それに合わせて、大きくなった。
さあて、今日もこうして始まった。
まだ朝のニュースは見ていないが、今ごろは選挙一色のはず。
自民党が歴史的敗北を期した。

……となってみると、今まで、あんな党がどうして50年間も、
日本に居座っていたのか、居座ることができたのか、
その理由がよくわからない。

2009年8月31日(月曜日)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●980円の時計(脳の中の脳)

++++++++++++++++++

近くのショッピングセンターでは、毎月
30日に、「みそか市」というのが開かれる。
この日は、商品を選んで特別に安く、ものが
売られる。
1万円の自転車とか、6000円の掃除機とか、など。
その中に、9800円のソーラーバッテリーで
動く腕時計(電波時計)というのがあった。

ググーッと物欲が湧いてきた。
が、ここで「待ったア!」。

++++++++++++++++++

●作られる意識

 最近の脳科学の進歩には、めざましいものがある。
その中のひとつが、これ。

 実は(意識)というのは、それを意識として意識する前に、
脳の別のところで、つまり無意識の段階で、その意識の原型が作られる。
私たちが「意識」と呼んでいるのは、実はその無意識に操られてできた意識
ということになる。

 もう少しわかりやすく説明しよう。

●物欲

 私はその腕時計がほしくなった。
腕時計など、この10年以上、身につけたこともないのに、ほしくなった。
で、ワイフに「あとで、この時計を買いに行こう」と誘った。

 が、実はこのときすでに、脳の別のところでは、「買わない」という意識が
作られていた。
もちろんそれは無意識の世界でのこと。
無意識の世界で、別の反応が起きていることなど、私には知る由もない。
意識の世界では、「ほしい」「買いたい」「買いに行こう」という意識が働く。

●無意識の世界の反応

 で、ショッピングセンターに出向く。
時計売り場に立つ。
時計を見る。
「どこかジジ臭い」と、私は思った。
「重そうだ」と、私は思った。
で、結論は、「買わない」。

 ……と書くと、「どうして無意識の世界の反応が、あらかじめ君には
わかったのか?」という質問が出てくるかもしれない。
私は無意識の世界では、「どうせ店に行っても買わないだろう」と反応していた。
無意識の世界での反応だから、意識の世界で、それがわかるはずがない。
わかったとたん、それは無意識ではなくなる。

●訓練

 ところが、である。
少し自分の脳みそを訓練すると、無意識の世界での反応が、おぼろげならも、
自分でわかるようになる。
そのときも、そうだった。

 コマーシャル(DMチラシ)を見たとき、私は意識の世界では、それを
「ほしい」と思った。
が、同時に、脳の別のところで、モヤモヤとした感覚が、それをじゃました。
それは「迷う」という反応とは、ちがう。
意識の世界では、はっきりと「買う」という反応を示していた。
が、そのモヤモヤとした感覚の中に、「買ってはだめ」とか、「買ってもむだ」とか
いう(思い)が、あるのを感じた。

 言葉ではない。
感覚的な反応である。
それが無意識の世界の(反応)ということになる。

●嘘発見器

 私は実物を見たことがない。
嘘発見器なるものに、触れたこともない。
しかし映画などでは、よく見かける。
その嘘発見器だが、今では、脳の奥深くで起きる反応を見分けることが
できるそうだ。

 だからいくら意識的に嘘をついても、脳の別のところが、別の反応をそてしまう
ため、それを嘘と見抜いてしまう。

 そこで……。
ここからはあくまでも映画で知った話だが、一流のスパイともなると、嘘発見器を
だます技術を身につけるのだそうだ。
本当かどうかは知らないが、もしそういう訓練があるとするなら、それは無意識の
世界をだます訓練ということになる。

 が、そういうことはありえることだと私は思う。
訓練すれば、無意識の世界をコントロールし、ばあいによっては、だますこと
もできる。

 その反対の側位にある反応が、催眠術ということになる。

●催眠術

 催眠術については、今さら、改めて、ここに説明するまでもない。
あの催眠術を使えば、心の奥の奥、深層心理までコントロールすることが
できる。

 こんな実験を、私は、直接、目撃したことがある。

実験者(催眠術師)が、被験者(女性、30歳くらい)にこういう暗示を与える。
「あなたは目をさましたあと、隣の部屋に行って、ハサミをもってくる」と。

 で、そのあと被験者は催眠術から解かれ、我に返る。
が、そのあとのこと。
被験者は席を立ち、隣の部屋に行こうとする。
それを見ていたほかの人が、「どこへ行くのですか?」と聞くと、
「ちょっと、隣の部屋まで……」と。

そこで「どうして隣の部屋に行くのですか」と聞くと、
「ハサミを取りにいくのです」と。

「なぜ、ハサミを取りにいくのですか?」
「あら、……どうしてかしら?」
「ハサミで何を切るのですか?」
「でも、ハサミを取りにいかなきゃ……」と。

 その女性は、自分の意思でハサミを取りに行くようにみえた。
が、実際には、他人によって作られた(暗示)に、操られていただけ。
ハサミが、なぜ必要なのか、それについては、まったく考えていなかった。

●もうひとりの「私」

 乳幼児期(0〜2歳)から幼児期前期(2〜4歳)にさしかかってくる
と、子どもは、「いや」という言葉を連発するようになる。

母「お外へ行こうか」
子「いや」
母「じゃあ、おうちの中で遊ぼうか」
子「いや」と。

 そういう子どもの反応を観察していると、子どもの意思というよりは、
子どもの意思そのものが、さらに奥深い意識によって操られているのがわかる。
何も考えず、条件反射的に「いや」と言う。

 子どもの心の中で、自立に対する意識が芽生え始めているためと考えてよい。
その意識が、親の言いなりになることに対して抵抗する。

 同じような現象がおとなの世界でも、見られる。
私のワイフでも、虫の居所が悪くなったりすると、何かにつけて拒否的な態度
を示すようになる。
私への嫌悪感が、ワイフを裏から操る。
「あれもいや」「これもいや」となる。

●残った物欲

 ……ということで、9800円のソーラー電波時計は買わなかった。
が、ここでまた別のおもしろい反応が、脳の中で起きた。
視床下部の指令を受けて、ドーパミンが放出された。
そのドーパミンが、線条体を刺激した。

 私の線条体の中には、物欲に反応する受容体ができあがっている。
「何かほしい」と思うと、それを自分の意思で止めることがむずかしくなる。
アルコール中毒の人が、酒のコマーシャルを見たときのような反応が、脳の
中で起きる。
ニコチン中毒の人が、タバコの煙をかいだときのような反応が、脳の中で
起きる。

 それが何であれ、この反応が一度起きると、簡単には止められない。
そのモノがほしくなる。
とくに私は、デジモノに弱い。
9800円の時計については、買うのをやめたが、「時計がほしい」という気持ちは、
そのまま残った。

 そこで私がしたことは、その横にある、安物の時計を買うことだった。
値段は、980円。
10分の1の値段。
ベルトが布製の、けっこうしゃれた時計だった。
色は茶と白と黒の組み合わせ。
小ぶりで、軽いのも、気にいった。
で、買った。
その日は、一日、その時計を腕につけて遊んだ。
こうして物欲を満たし、やがて私の脳は、落ち着きを取り戻した。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG・09++++++++++はやし浩司

●9月の抱負

+++++++++++++++++

明日から9月。
講演の季節。
私は最近、講演に招かれると、できるだけ
先方の地で、そのまま旅館に泊まるようにしている。

来週は、F県のN町と、伊豆半島のA温泉で、
それぞれ一泊することになっている。
楽しみ……というより、そういう楽しみを
用意しておくと、心もはずむ。
講演旅行も、ずっと楽しくなる。
言い忘れたが、私はいつもワイフを連れて行く。
ワイフの趣味は、旅行。
それを満足させてやるのも、夫の役目。

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●料理は最低

 N町の旅館では、鮎の塩焼きが出るという。
A温泉では、伊勢海老の姿焼きが出るという。
結構な料理だが、私たち夫婦は、基本的には小食。
回転寿司でも、2人で、7〜8皿が限度。
ときには、6皿。
それ以上は食べられない。

 だから旅館を予約するときも、料理はいつも最低の料理を注文する。
追加料理は、なし。
不要。
そのかわり、風呂の設備のよい温泉を選ぶ。
湯質がよければ、文句なし。


●幻覚

 今日、はじめて、私は(幻覚)なるものを見た。
子どもたち(小4生徒)たちにワークをさせていたときのこと。
シーンと静まり返っていた。
そのとき私は腕組みをして、目を伏せていた。
たぶん、そのとき眠ってしまったのだと思う。
ほんの瞬間のできごとだった。

 目をさますと同時に、ななめ右前の子どもを見た。
見たというより、目に入った。
そのときのこと。
その子どもの背後に、黒いスーツを着た男が立っていた。
その男が、見た瞬間、くるりと体を回すと、そのままドアのほうへ
音もなく消えていった。

 私は思わず声をあげた。
「どちらさんですか?」と。

 今から思うと、それは幻覚だった。
脳の中で、夢と現実が、ごちゃまぜになった。
が、私はワイフにそれを話すまで、それが幻覚だったとは思わなかった。
あとでワイフに電話をして、そういうものを見たと話すと、ワイフは、
「ヘエ〜、あなたは幻覚を見たのね」と言って笑った。

 幻覚?
もしそうなら、私は生まれてはじめて、幻覚を見たことになる。
あるいは脳みそが、とうとうおかしくなり始めたのか?
死ぬ直前の母も、よく幻覚を見ていた。

 理屈の上では、視覚野を通して入ってきた情報と、夢として見る
情報が、脳のどこかで交錯したと考えられる。
実に奇怪な経験だった。

 で、その話を子どもたちにすると、私が真顔だったせいもあるが、
何人かが、「先生、こわい!」と言い出した。
「本当にこわいのか?」と聞くと、「こわい」と。
1人の子ども(男児)は、体を小刻みに震わせていた。
「冗談かな?」と思ったが、本当に震わせていた。
いつもは大胆な言動で、みなを笑わす子どもが、である。
それを見て、「そういうこともあるんだ」と思った。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司※

●9月X日、運命の日

+++++++++++++++++

現在の心境。
たいへん軽い。
刻一刻と、時が流れていく。
その音が、やさしいせせらぎのように、
心地よく心に響く。
うれしい。
9月X日。
私は、古里と決別する。
待ちに待った、その瞬間。
それがやってくる。

もちろん不安がないわけではない。
どんな別れにせよ、(別れ)というのは
そういうもの。
いつも不安がともなう。
あえて言うなら、『モヤのかかった
山の頂上に、朝日を見るような』
(シェークスピア)のような心境。

++++++++++++++++

●実家を売る

 結局、間に立ってくれた人が、「自分でほしい」と言ってくれた。
譲渡価格は、問題ではない。
いくらでもよい。
とにかく買ってくれる人がいたら、それでよい。
そう思って、その人に、売買を一任した。
で、その人自身が、買ってくれることになった。
その人の言い値で売ることにした。
母に直接渡した現金の10分の1にもならない。
しかしそれで(過去)から解放されるなら、いうなれば
人生の(おまけ)。
バンザーイ!

●貧乏

 私が実家を(重荷)に感じ始めたのは、小学5、6年生くらいの
ことではなかったか。
記憶は確かではないが、中学生になるころには、はっきりとそれを
自覚するようになった。
今にして思えば、そういう重圧感を作ったのは、母自身ということになる。
母は私に生まれながらにして、「産んでやった」「育ててやった」「親のめんどう
みるのはお前」と、言いつづけた。
それが私の母の教育の基本だった。

 加えてそのころから、稼業の自転車店は、ほとんど開店休業状態。
パンク張りの日銭で、何とかその日をしのいでいるという状態だった。
今になって実家は、町の「伝統的建造物」に指定されている。
大正時代の商家そのままという。

 しかし何も好き好んで、伝統的建造物を守ったわけではない。
改築するお金もないまま、ズルズルと今に至っただけ。
言うなれば、慢性的貧乏。
その象徴が、私の実家。
わかりやすく言えば、そういうことになる。

●保護と依存

(この間、半日が過ぎた。
私は今、実家へ向かう電車の中にいる。
時は9月2日、午前7時40分。)

 要するに保護と依存の関係。
それができてしまった。
保護する側はいつも保護の側に回る。
依存する側は、いつも依存する側に回る。
最初は感謝されることはあっても、それは一時的。
やがてそれが当たり前になり、さらに時間がたつと、相手、つまり
依存する側が、保護する側に請求するようになる。
「何とかしろ」と。

 さらに時間がたつと、保護する側は、今度は、それを義務に感ずる
ようになる。
こうして人間関係そのものが、固定化する。

●解放

 今の私の立場を一言で表現すれば、「何もかも私」という状況。
だれというわけではないが、みな、そう思っている。
私自身もそう思っている。
そういう中で、みなは、ジワジワと私に迫ってくる。
私はそれにジワジワと苦しめられる。

 が、それが今日という日を境に、終わる。
私は何もかもから解放されたい。
何もかもから、解放される。
法事の問題、墓の問題も、あるにはある。
あるが、いくらでも先延ばしにできる。

●ドラマ

 ところで昨日、郷里住むいとこと、2回、電話で話した。
どちらも1時間以上の長電話になった。
「明日、M町とは縁を切ってきます」と告げると、「それはよかった」。

 で、私は自分の心にけじめをつけるつもりで、今までの心境を
語った。
弁解とか、言い訳とか、悪口とか、そういうのではない。
今さら私が苦しんだ話など、だれも聞きたがらない。
話しても意味はない。
いとこはいとこで、自分の経験を、あれこれとしてくれた。
それが心に染み入った。
参考になった。
懸命に生きてきた人には、懸命に生きてきた人のドラマがある。
そのドラマが、人生の終わりに、光り輝く。

●社会的重圧感

 金銭的負担感というよりは、社会的負担感。
負担感というよりは、重圧感。
40歳を過ぎるころから、私はそれに苦しんだ。
貪欲なまでに、私のお金(マネー)を求める母。
といっても、そのころになると、そのつど母は、私を泣き落とした。
一方、私は私で、そういう母のやり方に疑念をもつようになった。

 疑念をもちながら、それでも仕送りを止めるわけにはいかない。
それが社会的負担感を増大させた。
実家へ向かうたび、私はどこかで覚えたお経を唱えずして、帰る
ことができなかった。

●不安

 が、不安がないわけではない。
親類がもつ濃密な人間関係は、ほかのものには、かえがたい。
それを断ち切るというのは、それ自体、たいへんな勇気を必要とする。
断ち切ったとたん、そこに待っているのは、孤立感。
「私にはその孤立感と闘う力はあるのか」と、何度も自問する。
……というより、この10年をかけて、少しずつ、親類との縁を
切ってきた。
幸い、その分だけ、ワイフの兄弟たちとは、親しくさせてもらっている。
心の穏やかな、やさしい人たちである。
息子たちの結婚式など、そのつど、みな協力してくれた。
その温もりが、こういうときこそ、私を横から支えてくれる。

●真理

 そう言えば、今朝、目を覚ましたときのこと。
私の心がいつもになく、穏やかなことを知った。
たいてい……というより、ほとんど毎朝、私は旅行の夢で目が覚める。
が、今朝はちがった。
夢の内容は忘れたが、あのハラハラした気持ちはなかった。
そのかわりに、郷里の人たちが、みな、小さな、どこまでも
小さな人間に思われた。

 つい昨夜まで、心を包んでいたあの緊張感が、消えた。
「どういうことだろう?」と、自分に問いかけた。
いや、ときどき、そういうことはある。

 あるひとつのことで、緊張感が頂点に達したとき、突然、
目の前に、別の世界が広がる。
ひとつの(山)を乗り越えたような気分である。

 たとえば人を恨むことは、よくない。
しかし恨んで恨みまくると、やがて心の水が枯れる。
枯れたとたん、その人を、別の心で包み込むことができる。
あマザーテレサも、同じようなことを言っている。

『愛して、愛して、愛し疲れるまで、相手を愛せよ』と。

 私はそこまで高邁な心境になることはできないが、マザーテレサの
言ったことは、真理ということは理解できる。

●運命

 そんなわけで、今、苦しみのどん底にいる人たちに、こんなことは
伝えられる。
 どんな問題でも、相手が人間なら、時間がかならず解決してくれる、と。
解決してくれるだけではない。
『時間は心の癒し人』。
心も癒してくれる。

 だからそこに運命を感じたら、あとは静かに身を負かす。
(運命)というのは、それに逆らえば、牙をむいて、その人に襲いかかってくる。
しかしひとたび受け入れてしまえば、尻尾を巻いて逃げていく。
もともと気が小さい。
臆病。
 
 私もある時期、母を恨んだ。
心底、恨んだ。
しかし私の家に住むようになった直後のこと。
下痢で汚れた母の尻を拭いたとたん、その恨みが消えた。
「こんなバーさんを、本気で相手にしていたのか」と。

 と、そのとき母が私にこう言った。
「お前にこんなことをしてもらうようになるとは思わないんだ」と。
私も、「ぼくも、あんたにこんなことをしてやるようになるとは、
思っていなかった」と。

 まだ正月気分も抜けやらない、1月のはじめの日のことだった。
 
●こうして人生は過ぎていく

 こうして人はやってきて、またどこかへと去っていく。
M町にしてみれば、私はただの通行人。
店先をのぞいて、そのまま通り過ぎる、通行人。
あの実家にしても、明日からは別の人が住み、別の生活が始まる。
みやげもの屋、もしくは町の案内所としては、最適。
実家は実家で、また別の人生を生きる。
あたかも何ごともなかったかのように……。

私「M町へ、再び行くようなことはあるだろうか」
ワ「……何か、あればね。今のあなたの気持ちとしては、もう
ないでしょうね」
私「何もなければいいけどね。行くとしても、素通りするよ」
ワ「そうね」と。

 電車は、豊橋を過ぎると、少しずつ混み始めた。
ちょうどラッシュアワーに重なった。
「名古屋を過ぎれば、またすいてくるよ」と私。
不思議なほど、心は静かなまま。
フ〜〜〜ッと。


●M町を去る

古い家だった。
家全体が、骨董品の倉庫のよう。
昔の人は、冠婚葬祭を自宅で、した。
そのときの道具が、一そろい、残っている。
奥の戸棚を開けると、古い木箱に入った道具類が、
山のように出てきた。

浜松へ持ち帰るとしても、たいへんな作業になる。
「どうしようか?」と考えているうち、GOOD IDEA!

道路並べて、近所の人たちに無料で、分けてやることにした。

++++++++++++++++++++

●モノを分ける

 現在の貨幣価値になおして、時の祖父は、そうした道具類を
何百万円も出して買ったのだろう。
茶碗といっても、本ウルシを塗った高価なもの。
金沢市の駅前のみやげもの店なら、1個、1万円前後で
売っているだろう。

 そういうものをビニールシートに並べる。
ほかに焼き物、花瓶、置物などなど。
「どうぞ自由にお持ち帰りください」という張り紙を張ったとたん、
4、5人の人たちが、そこに集まった。
最初は遠慮がちだったが、やがて大きな袋をもってくる人もいた。

 うれしかった。

 私からのプレゼントというよりは、私の祖父母、両親からのプレゼント。
祖父母や両親が、「気前のいい話やなあ」と、どこかで笑っているような
気がした。

●モノ

 モノとは、所詮、そんなもの。
価値があるようで、ない。
あるとしても、思い出。
私の過去は、そうしたモンと、深くからんでいる。
それぞれのものを手に取ってみては、「ああ、これはあのときの
もの」と。

 しかし時間的にも感傷に浸っている時間はない。
11時半から、実家の売買契約。
2時から、法事。
3時から、古物商との商談。
そして5時には、運送会社がやってくる。

●価値

 古物の価値が、さがってきている。
たとえば切手にしても、古銭にしても、売り先を見つけるのさえ
難しい。
ネットでオークションに出すという方法もあるが、そのための
時間がない。
ということで、そのまま宝の持ち腐れ?

 そこで改めて、ふと考える。

 私は先日、古いパソコンを、6〜7台、処分した。
「古い」といっても、10年ほど前のもの。
当時でもパソコンは、1台20万円前後はした。
ことパソコンに関して言えば、骨董的価値はない。
そのままゴミ。

 となると、祖父が買った茶器類と、私の買ったパソコン類と、
どちらが(価値)があるか、と。
あるいは(価値)を考えること自体、まちがっているのか。

 たとえば茶器にしても、プラスチック製のものよりは、ウルシ塗りの
もののほうが、作るのに手間がかかる分だけ、値段が高い。
値段が高いから、価値があるということになる。
しかしそこでハタと考えてしまう。

「だから、それがどうしたの?」と。

●骨董品

 一方、パソコンのほうは、それなりの(仕事)をした。
言うなれば骨董品のほうは、(見る)もの。
パソコンのほうは、(使う)もの。
(使う)という視点で価値を判断するなら、数年の1度しか
使わない茶器より、毎日使うパソコンのほうが価値がある。
(価値といっても、金銭的価値だが……。)

 だから10年を経て、それが20万円で買ったものであったと
としても、棄てても悔いはない。
が、ウルシの茶器は、どうでない。
棄てることはできない。
が、骨董屋に売っても、二束三文。
だったら、近所の人たちに、無料で分ける。
そのほうが、ずっと気持ちがよい。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 09++++++++はやし浩司

●本音と建前

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学生時代、オーストラリアの人たちはみな、
私に親切だった。
あの人口300万人と言われたメルボルン市でさえ、
日本人の留学生は、私、1人だけ。
もの珍しさもあったのかもしれない。

が、あるとき、どういうきっかけかは覚えていないが、
こう感じたことがある。
「友人としてつきあう分については、そうかもしれないが、
一線を越えたらそうではないだろうな」と。

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●社会的距離尺度(ボガーダス)

 たとえば(結婚)。
(友人)としての範囲なら、親しく接してくれるオーストラリアの人たち。
しかしその範囲を越えて、たとえば(結婚)となったら、どうだろうか。
当時の状況からして、それはありえないことだった。

 1970年当時、白豪主義は、残っていた。
日本人は、まだ第二級人種と位置づけられていた。 
仮に相手がオーストラリア人であっても、第二級人種と結婚したばあい、
そのオーストラリア人も、第二級人種に格下げされた。

 こうした距離感を、「社会的距離尺度」(ボガーダス)という。
つまり表面的には受容的であっても、内面では、否定的。
その距離感のことをいう。
日本的に考えれば、(本音)と(建前)ということになる。

●心の遊び

 日本人には、うつ病の人は少ないと言われている。
その理由のひとつに、日本人の心がダブル構造になっていることが
あげられる。
(本音)と(建前)というのが、それ。
表と裏を、うまく使い分ける。
それが心に穴をあける。

 一方、それに比較して、欧米人は、なにごとにつけ、ストレート。
日本的に本音と建前を使い分けると、「うそつき」というレッテルを
張られる。
その分だけ、心の(遊び)がない。
だからうつ病になりやすい。

●本音で生きる

 が、できれば、日本人の私たちも、できるだけ本音で生きるように
したい。
本音と建前を分ければ分けるほど、外から見ると、訳の分からない民族
ということになる。
その典型的な例というわけでもないが、よく話題になるのが、日本人の
(笑い)。

 よく電車に乗り遅れたような人が、プラットフォームで苦笑いするような
ことがある。
ああした(笑い)は、欧米人には理解できないもの。
最近ではぐんと少なくなったが、デッドボールを当てたピッチャーが苦笑いを
するのもそれ。

 内心と表情が、別々の反応を示す。
いやなヤツと思っていても、ニコニコと笑いながら接する。
そういう場面は多い。
しかしそういう生き様は、時分自身を見苦しくする。
あとで振り返っても、後味が悪い。

●「自分の心を偽るな!」

 平たく言えば、「どうすれば社会的距離尺度を、短くすることが
できるか」ということ。
で、私はここ1年ほど、子どもたちを指導しながら、こんなことに
注意している。

 幼稚園の年中児でも、「君たちは、おっぱいが好きか?」と聞くと、
みな、恥ずかしそうな顔をして、こう言う。
「嫌いだよ〜」「いやだよ〜」と。

 そこですかさず私は、真顔で、子どもたちを叱る。

「ウソをつくな!」「好きだったら、好きと言え!」
「自分の心を偽るな!」と。

 2、3度、真剣にそう叱ると、子どもたちはみな、
「好きだよ〜」と、小さな声で答える。
つまり日本人独特の、本音と建前は、こうして生まれ、
子どもたちの心に根付く。
(少し大げさかな?)

●本音で生きよう

 本音で生きるということは、勇気がいる。
しかしその分だけ、人生がわかりやすくなる。
すがすがしくなる。

 自分を飾ったり、ごまかしても、後味が悪いだけ。
どうせ一回しかない人生。
だったら、思う存分、本音で生きてみる。
ものを書く立場で言うなら、ありのままをありのままに書く。
こう書くからといって、誤解しないでほしい。
読者あっての(文章)だが、私は、読者など、もうどうでもよい
とさえ思っている。
読んでくれる人がいるなら、それでよし。
読んでくれなくても、どうということはない、と。

 どう判断されようが、私の知ったことではない。
大切なことは、こうして懸命に生きている人間がいること、
……過去にいたことを、何らかの形で、だれかに伝えること。
それができれば、御の字。
それ以上、何を望むことができるか?

 話はそれたが、本音で生きるということには、そういう意味も
含まれる。
余計なことかもしれないが……。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 09++++++++はやし浩司

●英語のジョーク

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オーストラリアの友人のBob君が、こんなおもしろい
ジョークを集めてくれました。

(Thank you Bob!)

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 先生「マリア、地図のところへ行って、北アメリカがどこにあるか、見つけてきなさい」
マリア「(指をさしながら)、ここです」
先生「そうです。では、みなさん、だれが北アメリカを発見したか、知っていますか」
生徒たち「マリア!!」

KIDS ARE QUICK: 

TEACHER: Maria, go to the map and find North America. 
MARIA: Here it is. 
TEACHER: Correct. Now class, who discovered America? 
CLASS: Maria. 

先生「どうしてあなたはかけざんを、床の上でしているの?」
ジョン「だって先生が、テーブル(机、掛け算表)を使ってしてはいけないと
言ったから」

TEACHER: John, why are you doing your math multiplication on the
floor? 
JOHN: You told me to do it without using tables. 

先生「グレン、あなたはワニは、どういうふうに綴るのですか」
グレン「KROKODIAL」
先生「あなたはまちがっている」
グレン「わかっている。でも、先生は、ぼくがどう綴るかを聞いたでしょ」

TEACHER: Glenn, how do you spell 'crocodile?' 
GLENN: K-R-O-K-O-D-I-A-L' 
TEACHER: No, that's wrong 
GLENN: Maybe it is wrong, but you asked me how I spell it. 
(I Love this kid) 

先生「ドナルド、水の分子式を言いなさい」
ドナルド「HIJLLMNOです」
先生「何を言っているの?
ドナルド「だって、先生、先生は昨日、水は「H to O(HからOまで)と
言ったじゃない」

TEACHER: Donald, what is the chemical formula for water? 
DONALD: H I J K L M N O. 
TEACHER: What are you talking about? 
DONALD: Yesterday you said it's H to O. 

先生「ウィニー、私たちが10年前にもっていなかった、重要なものを言いなさい」
ウィニー「私!」

TEACHER: Winnie, name one important thing we have today that we
didn't have ten years ago. 
WINNIE: Me! 

先生「グレン、どうしてあなたはいつも、そんなに汚れているの?」
グレン「先生より、ぼくのほうが地面に近いからです」

TEACHER: Glen, why do you always get so dirty? 
GLEN: Well, I'm a lot closer to the ground than you are. 

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【名言集】

I CAN:

When I offend, I prefer it to be intentional.--Scott Adams
私は怒ったとき、よりい国際的になることを好む。

The last time I had a 36-inch waist was in the 8th grade.--John Madden
ぼくのウエストが、最後の36インチになったのは、中学2年生のときだ。

Drug misuse is not a disease; it is a decision, like the decision to move
out in front of a moving car.--Philip K Dick
ドラグの使用は病気ではない。それは心の決意の問題だ。
動いている車の前に飛び出すような決意だ。

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FUNNY FORWARDS:  

An invisible man marries an invisible woman. The kids were nothing to look
at either.
透明人間の夫が透明人間の妻と結婚した。
その子供たちは、何も見えなかった。

Two cannibals are eating a clown. One says to the other: 'Does this taste
funny to you?'
2人の人食い人種が、道化師を食べた。
1人がもう1人に言った。
「おもしろい味がしたかい?」

P.S. what do you call a fish with no eyes? A fsh!
目(アイ)のない魚(FISH)は、何と呼ぶか、知っているか?
答え……「FSH」


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

●9月4日

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古里と決別した。
実家を売り払い、家財を処分した。
かなりのモノが残ったが、それはそのままにしておいた。
つぎに入居する人のための、置き土産。
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●損論

 わずかな財産だった。
モノは山のようにあったが、お金にはならなかった。
数十枚もあった着物が、全部で、たったの2万円。
漆(ウルシ)塗りの食器も、10数箱もあったが、一部を除いて、近所の人に
分けてやった。
「ほしい方はどうぞ!」と書いたら、みなが、もち帰っていった。
中には、大きな袋に入れて、もち帰っていった人もいた。
 損?
損といえば、損。
が、私がした損は、そんなものではない。
たとえて言うなら、数千万円も損をした人が、10万円や20万円の損に
こだわるようなもの。
それよりも私は、実家のことで、自分の人生そのものを、犠牲にしてしまった。
失われた時間は、戻ってこない。
その「損」と比べたら、10万円や20万円の損など、なんでもない。
それよりも私は、こうして実家から解放された。
その解放感のほうが、うれしい。

金銭的な価値で計算することはできないが、今から20年も前だったら、
1億円でも高くない。
つまりあのとき、だれかが、「1億円出してくれたら、お前の重荷を代わりに担いで
やる」と言ったら、私は1億円を出しただろう。
そのときすでに私は、合計すれば、それ以上のお金を、実家に貢いでいた。

●財産

 私はそうした財産を処分しながら、何度もこう思った。
祖父の時代から、父の時代。
そして兄の時代へと、3代つづいた自転車店だったが、その「3代」で、残ったものは、
何だったのか?、と。
ときどき、祖父や父や兄たちが、必死になって守ろうとしてきたものは、
何だったのか?、と。

35坪足らずの土地に、古い家屋。
私はその家で生まれ育ったが、その私だって、何だったのか?、と。
わかりきったことだが、モノ、つまり財産のもつ虚しさを、改めて感じた。

●未練

 ワイフも、私の意見とまったく同じだった。
故郷を自分の中から消すということは、一度、自分自身を、(無)に
しなければならない。
未練が残ったら、故郷を消すことはできない。
そのときもし、実家に残っているモノを見ながら、そこに自分の過去を
重ねるようなことをすれば、故郷を去ることはできない。
何もかも棄てるというのは、そういう意味。

「惜しい」と思ったとたん、それは未練に変わる。
未練が残れば、前に向かって歩けない。
未練は、心を、うしろ向きに引っ張る。
だから心の中を、一度、無にする。

ある女性は、漆の食器を、大きな袋に詰めながら、私にこう聞いた。
「本当にいいのですか?」と。
つまり「本当に、もらってもいいのですか?」と。
私はそのつど、笑みを浮かべながら、「どうぞ」「どうぞ」を、繰り返した。
買えば、一個、1万円はくだらない。
お椀の模様にしても、手彫りで、その溝に、金箔が埋め込んである。
それがつぎつぎと消えていくのを見ながら、私はある種の快感を覚えていた。
言うなれば、古里を蹴飛ばすような快感だった。

●夢

 その翌朝。
つまり今日、私は兄の夢を見た。
私は実家のあるゆるい坂道を、実家に向かって歩いていた。
そのときふと横を見ると、兄がいっしょに歩いていた。
ニコニコと笑っていた。
うれしそうな顔だった。
黄色いTシャツを着ていた。
私は、兄を、右手で抱いた。
兄といっても、いつからか、私の弟のようになっていた。
小さな体に、頼りない顔をしていた。

 私は兄に、こう言った。
「仇(かたき)は、取ってやったぞ」と。
それを聞いて、兄は、さらにうれしそうに笑った。
私は夢の中だったが、涙で目がうるんだ。

●家の奴隷
 
 兄は、一家の主人というよりは、家の奴隷だった。
母にしばられ、家にしばられ、社会を知ることもなく、この世を去った。
生涯において、母は、兄を、内科以外の病院へは連れていかなかった。
無知というよりは、兄を「家の恥」と考えていた。

 晩年、母の認知症が進んだこともあり、(実際には、老人性のうつ病だったかも
しれない)、兄は母の虐待を受けるようになった。
一度、ワイフと2人で実家を見舞うと、兄は、何が悲しかったのか、
私の顔を見るやいなや、ポロポロと、大粒の涙をこぼした。
私はその涙を、私のハンカチで拭いてやった。

 今にしてみれば、唯一の、それが、心残りということになる。
どうしてあのとき、私は兄を浜松へ連れてこなかったのか。
その気になれば、それができたはず。
あのときを思い出すたびに、胸が痛くなる。

が、迷ったのには、それなりの理由がある。
兄には、おかしな性癖があった。
私の目を盗んでワイフに抱きついたり、ワイフの入浴中に、風呂の中に、
勝手に入ってきたりした。
その性癖を、兄は、自分ではコントロールできなかった。

●総決算

 その兄の夢が、私の人生の総決算かもしれない。
実家への思いを、それで断ち切ることができた。
兄も、それで断ち切ることができた。
一抹のさみしさがないと言えば、ウソになる。
しかしそれ以上に、実家から解放されたという(ゆるみ)のほうが、
大きい。
長い旅が終わって、気が抜けたような状態。
緊張感そのものが、消えた。
私はその陶酔感に浸りながら、何度も何度も、肩の力が抜けていくのを覚えた。

●世間体

 母は母で苦しんだ。
それはわかる。
しかし母の人生観が、ほんの少しちがっていたら、その(苦しみ)の
中身もちがっていたことだろう。
私たちの人生も、大きく変わっていたことだろう。
母が悪いというよりは、母はあまりにも通俗的だった。
自分の人生というよりは、「世間体」の中で生きていた。
いつもそこに他人の目を気にしていた。
その通俗性の中で、母は、自分を見失ってしまっていた。

 通俗的になればなるほど、何が大切で、何がそうでないか、それがわからなくなる。
晩年の母は、仏具ばかり磨いていたが、私はそこに、哀れさというよりは、
もの悲しさを感じていた。

●「まんじゅう……1個、80円」

 実家を整理しているとき、兄の残したノートが出てきた。
その1ページに、「まんじゅう……1個、80円」とあった。
その日、どこかでまんじゅうを1個買って、食べたらしい。
それが80円、と。

 それを見たとき、ぐいと胸がふさがれるのを感じた。
貧しい生活。
慎ましやかな生活。
1個80円のまんじゅうまで、ノートに書きとめていた。

 それをワイフに話しながら、ふと、こう漏らした。
「ぼくたちのしたことは、まちがっていなかったね」と。

 母は、そのつど、私から、お金を(まきあげていった)。
額は計算できないが、相当な額である。
そういったお金は、実家の生活費だけではなく、母の実家へと流れていった。
もう一か所、別のところへ流れていき、残ったお金は、母の通帳の中へと消えた。
10数年ほど前だが、現金だけで、母は、3000〜4000万円程度は
もっていたはず。
 
 その一部を、兄は母からもらいうけ、それでまんじゅうを買って食べていた。
兄は生涯にわたって、給料らしい給料を手にしたことはなかった。
いつも「小遣い」と称して、小額のお金を、母から受け取っていた。
それだけ。

 兄は、自閉傾向(自閉症ではない)はあったかもしれないが、頭はよかった。
65歳で私の家に来たときも、小学3〜4年生の算数の問題を、スラスラと
解いてみせた。

●のろわれた家系

 母が守ったものは、何だったのか。
守ろうとしたものは、何だったのか。
よくわからないというより、あまり考えたくない。
母は母で、自分の人生を懸命に生きた。
それが正しいとか、正しくないとか、そういう判断をくだすこと自体、まちがっている。
母は母でよい。

 が、全体としてみれば、「林家」は、(「家(け)」と家付けで呼ぶのも、
おこがましいが)、(のろわれた家系)である。
ひとつの例外もなく、どの家族も、深い不幸を背負っている。
みな、それぞれ、必死にそれを隠し、ごまかしている。
が、人の口には戸は立てられない。
他人は気づいていないと思っているのは、本人たちだけ。
みな、知っている。
知って、知らぬフリをしている。

●象徴

私には、その象徴が、兄だったように思う。
いつしか兄が、そうした不幸を、一身に背負っているように感じるようになった。
だから兄が死んだときも、その通夜のときも、私はうれしかった。
兄が死んだことを喜んだのではない。
私以上に、重い苦しみを背負い、兄は、もがいた。
健康でそれなりの仕事をしている私だって、苦しんだ。
兄の感じた苦しみは、私のそれとは比較にならなかっただろう。
「家」という呪縛感。
重圧感。
母の異常なまでの過干渉と過関心。
それでいて、それに抵抗する力さえなかった。
つまり兄は、死ぬことで、その苦しみから解放された。
自分の運命に翻弄されるまま、またその運命と闘う力もないまま、この
世を去っていった。

最後は、やらなくてもよいような治療を受け、体中がズタズタにされていた。
食道や胃に穴をあけ、そこから流動食を流し込まれていた。
動くといけないからと、体は、ベッドに固定されたままだった。

 一度、見舞いに行くと、私の声とわかったのか、目だけをギョロギョロと
左右に振った。
三角形の小さな目だった。

 兄は死ぬことで、その苦しみからも解放された。
私はそれがうれしかった。

が、それだけではない。

●犠牲になった兄

兄は、林家にまつわる(のろい)を、一身に背負っていた。
いや、私が兄だったとしても、何も不思議ではない。
兄が、私であったとしても、何も不思議ではない。
たまたま生まれた順序がちがっていただけ。

で、もし反対の立場になっていたら……。
あの兄なら、私のめんどうをみてくれたことだろう。
収入の半分を、私に分け与えてくれただろう。
兄は、私より、ずっと心の温かい、やさしい人間だった。
その兄が(のろい)のすべて背負って、あの世へ旅立ってくれた。
私はそれがうれしかった。
だから祭壇に手を合わせながら、私はこうつぶやいた。
「準ちゃん(=兄名)、ありがとう」と。

●礼の言葉

 葬儀が終わったとき、私は参列者にこう言った。
「今ごろ、兄は、鼻歌でも歌いながら、金の橋を、軽やかに渡っているはずです」と。
それについて、その直後に、寺の住職が、「そういうことはまだです。
四九日の法要が終わってから決まることです」と言った。
つまり「まだ、極楽へ渡ってはいない」と。

 もともと『地蔵十王経』という偽経を根拠にした意見だが、何が四九日だ!
私の人生は61年。
兄の人生は69年。
アホな「十王」どもに、人生の重みがわかってたまるか!

 兄は、あの夜、まちがいなく、金の橋を渡って、極楽へと旅立った。

●終焉

 こうしてあの「林家」は、終わった。
が、すべてがハッピーエンドというわけではない。
問題は残っている。
残っているが、これからはそのつど、蹴飛ばしていけばよい。
私の知ったことではない。
いまさら誤解を解きたいなどとは思わない。

●運命

最後に、これだけは、ここで自信をもって言える。
もしあなたが運命に逆らえば、運命は、キバをむいてあなたに
襲いかかってくる。
しかし運命というのは、一度受け入れてしまえば、向こうから尻尾を
巻いて逃げていく。
もともと気が小さくて、臆病。
そこに運命を感じても、おびえてはいけない。
逃げてはいけない。
受け入れる。
そしてあとはやるべきことをやりながら、時の流れに身を任す。
あとは必ず、時間が解決してくれる。

 つまりこうして今まで、おびただしい数の人の人生が流れた。
あたかも何ごともなかったかのように……。

 準ちゃん、ぼくももうすぐそちらへ行くからな。
またそこで会おう!

(補記)(のろい論)

 私はここで(のろい)という言葉を使った。
しかしスピリチュアル(=霊的)な、のろいをいうのではない。
ひとつの大きな運命が、つぎつぎと別の運命の糸を引き、ときとして
それぞれの家族を、翻弄する。
それを私は、(のろい)という。
ふつうの不幸ではない。
ふつうの不幸ではないから、(のろい)という。
が、それは偶然によるものかもしれない。
たまたまそうなっただけかもしれない。
しかし私はそうした(不幸)に間に、一本の糸でつながれた、
運命を感ずる。

 それについて書くのは、ここではさしひかえたい。
まだ生きている人も多いし、みな、それぞれの運命を引きずりながら、
懸命に生きている。
私とて例外ではない。
ある時期、私は、心底、そっとしてほしいと願ったときもあった。
けっして、問題から逃げようとしたわけではない。
どうにもならない袋小路に入ってしまい、身動きできなくなってしまった
ときのことだった。

 しかしそういうときにかぎって、事情も知らないノー天気な人たちが、
あれこれと世話を焼いてくる。
わずか数歳、年上というだけで、年長風を吹かしてくる。
その苦痛には、相当なものがある。
私はそれを身をみって、体験した。

 だから、……というわけでもないが、もしその人が、今、苦しんで
いるなら、そっとしておいてやることこそ、重要ではないか。
もちろん相手が求めてくれば、話は別。
そうでないなら、そっとしておいてやる。
それも気配りのひとつ。
思いやりのひとつ、ということになる。

 
Hiroshi Hayashi++++++++AUG 09++++++++はやし浩司

●伊豆・熱川(あたがわ)温泉にて

+++++++++++++++++

今日は、講演のつづきで、伊豆の熱川温泉に泊まった。
きびしい海岸線にへばりついたような温泉街で、いたるところから白い蒸気が立ち上って
いるのがわかった。
ホテルに着くと私たちはすぐ、海岸へ出てみた。
やや荒い波が、黒っぽい砂浜に絶え間なく、打ち寄せていた。
何組のかの若い男女が、波と戯れていた。
私は、DVDカメラを回しつづけた。

泊まったホテルは、「ホテル・セタスロイヤル」。
「セタス」というのは、「クジラ座」という意味だそうだ。
駅からホテルまで運んでくれた運転手が、そう教えてくれた。
この地域は、何かのことでクジラと縁があるらしい。
9階の私たちの部屋から、そのまま太平洋が一望できた。
すばらしい!
ワイフは、「私は海が好き」と、子どものようにはしゃいでいた。

+++++++++++++++++++++

●セタスロイヤル
 
 実名を出してしまったので、評価することはできない。
しかし熱川温泉では、海に面した、見晴らしのよさでは、最高のホテル。
各部屋から、太平洋が、視界が届く限り、端から端まで、一望できる。
加えて6階にある露天風呂がすばらしい。
広くて、美しい。

ただ露天風呂までの通路が長いのが、やや気になる。
寒い冬などは、それだけで体が冷えてしまうだろう。
が、長い通路を通りぬけて行くだけの価値はじゅうぶん、ある。
私たちはそのホテルの最上階、つまり9階に部屋にあてがわれた。

 で、このところ私たちは、ほかにホテルがあっても、その土地へ行ったら、
できるだけ同じホテルに泊まるようにしている。
新しいところで冒険するより、勝手がよくわかったホテルのほうが、落ち着く。
2度目より3度目。
3度目より4度目のほうが、落ち着く。
次回、何かの機会で熱川温泉へ来るようなことがあれば、まちがいなくセタスロイヤルに
泊まるだろう。

●旅のよさ

 人生を旅に例える人は、多い。
たしかに旅だ。
もう少し詳しく表現すれば、人生は、(時の旅)。
旅は、(位置の旅)。
時間と空間のちがいということになるが、今では、時間と空間は、物理学の世界では、
「同じ」と考える。
たとえば時間が止まれば、物体の移動も止まる。
時間が動き出せば、物体もまた動き出す。
見た目には静止していても、分子レベルでは、猛烈な勢いで動き出す。

 私たちは位置を移動することによって、そこに時間の動きを感ずることができる。
わかりやすく言えば、(変化)を感ずることができる。
(時間の変化)を感ずることができる。
その時間の変化を感ずるために、旅をする。

●時間の変化

 わかりにくいことを書いた。
理屈っぽくすぎて、「?」と思った人も多いことだろう。
つまり旅をすることによって、それまで止まっていた時計が、
再び動き出す。
時間の変化を感ずることができる。
もし旅をしなかったら、今日は昨日のまま過ぎ、明日は今日のまま過ぎる。
「マンネリ」という言葉も、そういうときの状態を表現するためにある。
わかりやすく言えば、そういうこと。

 が、旅は、その時の流れに、ひとつの区切りを入れてくれる。
今日と昨日の間に、区切りを入れてくれる。
今日と明日の間に、区切りを入れてくれる。
今度の旅は、確実に、その区切りを入れてくれた。

●朝、5時に起床

 朝、5時に目が覚めた。
昨夜は、午後9時半ごろ、それまでの疲れがどっと出たのか、そのまま眠ってしまった。
それで5時。

 静かにカーテンをあけると、そこに再び、太平洋が現れた。
窓を開けると、潮騒の音が、部屋中に響いた。
空はほんのりと、ピンク色。
紫色の雲が、左から右へと、ゆっくりと流れているのがわかる。
その下を細いひだになった波が、手前へと流れている。
壮大な景色である。
水平線だけの、壮大な景色である。

 私はDVDを回し、つづいてカメラのシャッターを切る。
午前5時26分。
日の出。
真っ赤な、小さな光点が、水平線から顔を出す。

●リバウンド?

 伊東もよい。
稲取もよい。
しかしここ熱川もよい。
伊豆半島の東岸には、すばらしい温泉地が並ぶ。
近く、下田の市民文化会館で、講演をすることになっている。
そのときは、下田市に一泊するつもり。
楽しみ。

 そうそう昨夜は料理で、一夜にして、3日分を食べた。
量的には、それくらいあった。
あとで体重計に乗るのがこわい。
おそらく63キロ台に戻っているはず。
私は食べたら、食べた分だけ太る。
今日は、がまんして、絶食。

(浴場にあった体重計に乗ってみたら、意外や意外!
体重は、60キロを切っていた!
「?」と思いながら、数回、量りなおしてみる。
私は講演期間中は、食事の量を極端に減らしている。
講演中に眠くなってしまう。
今日も、口にしたのは、稲荷寿司、数個だけだった。
リバウンドしていなかったことを、喜んだ。)

●心の整理

 ワイフが楽しそうなのが、うれしい。
家の中で見るワイフと、旅先で見るワイフは、別人のよう。
昔から、「電車に乗っているだけで、楽しい」と、口癖のように言う。

 一方、私は実家の問題が、解決した。
実家から解放された。
ついでに姉夫婦とも、xxした。
いろいろあった。
ありすぎて、ここには書けない。
それに書けば、いろいろと問題になる。
姉の娘が、ときどき私のHPをのぞいている。
のぞいては、内容を、あちこちに知らせている。

ただできるなら、もう私たちのことは、放っておいてほしい。
気になるのはわかるが、あなたがたはあなたがたの人生を生きればよい。
私の家の心配をするよりも、あなたがたの家の心配をしたほうがよいのでは・・・?
このままでは・・・?
この先のことは、あなたがたが、いちばん、よく知っているはず。
私が何も知らないと思っているのは、あなたたちだけ。
(わかりましたか、SRさん、それにMSさん!)

 ともかくも、今は病気に例えるなら、病後の養生期。
ゆっくりと静養して、つぎの人生に備える。

●新しい人生

 こうして私の新しい人生は、始まった。
太平洋に昇る朝日を見ながら、それを感じた。
老後なんて、私には関係ない。
これからが私の人生。
今まで苦しんだ分だけ、自由に、この大空をはばたいてみたい。
今日が、その第一歩。

 2009年9月6日、日曜日。


Hiroshi Hayashi++++++++SEP.09+++++++++はやし浩司【別記】

●M町を去る(別記)

古い家だった。
家全体が、骨董品の倉庫のよう。
昔の人は、冠婚葬祭を自宅で、した。
そのときの道具が、一そろい、残っている。
奥の戸棚を開けると、古い木箱に入った道具類が、
山のように出てきた。

浜松へ持ち帰るとしても、たいへんな作業になる。
「どうしようか?」と考えているうち、GOOD IDEA!

道路脇並べて、近所の人たちに無料で、分けてやることにした。

++++++++++++++++++++

●モノを分ける

 現在の貨幣価値になおして、時の祖父は、そうした道具類を
現在の価値で、何百万円も出して買ったのだろう。
茶碗といっても、本ウルシを塗った高価なもの。
金沢市の駅前のみやげもの店なら、1個、1万円前後で
売っているはず。

 そういうものをビニールシートに並べる。
ほかに焼き物、花瓶、置物などなど。
「どうぞ自由にお持ち帰りください」という張り紙を張ったとたん、
4、5人の人たちが、そこに集まった。
最初は遠慮がちだったが、やがて大きな袋をもってくる人もいた。

 うれしかった。

 私からのプレゼントというよりは、私の祖父母、両親からのプレゼント。
祖父母や両親が、「気前のいい話やなあ」と、どこかで笑っているような
気がした。

●モノ

 モノとは、所詮、そんなもの。
価値があるようで、ない。
あるとしても、思い出。
私の過去は、そうしたモンと、深くからんでいる。
それぞれのものを手に取ってみては、「ああ、これはあのときの
もの」と。

 しかし時間的にも感傷に浸っている時間はない。
11時半から、実家の売買契約。
2時から、法事。
3時から、古物商との商談。
そして5時には、運送会社がやってくる。

●価値

 古物の価値が、さがってきている。
たとえば切手にしても、古銭にしても、売り先を見つけるのさえ難しい。
ネットでオークションに出すという方法もあるが、そのための
時間がない。
ということで、そのまま宝の持ち腐れ?

 そこで改めて、ふと考える。

 私は先日、古いパソコンを、6〜7台、処分した。
「古い」といっても、10年ほど前のもの。
当時でもパソコンは、1台20万円前後はした。
ことパソコンに関して言えば、骨董的価値はない。
そのままゴミ。

 となると、祖父が買った茶器類と、私の買ったパソコン類と、
どちらが(価値)があるか、と。
あるいは(価値)を考えること自体、まちがっているのか。

 たとえば茶器にしても、プラスチック製のものよりは、ウルシ塗りの
もののほうが、作るのに手間がかかる分だけ、値段が高い。
値段が高いから、価値があるということになる。
しかしそこでハタと考えてしまう。

「だから、それがどうしたの?」と。

●見るモノと、使うモノ

 一方、パソコンのほうは、それなりの(仕事)をした。
言うなれば骨董品のほうは、(見る)もの。
パソコンのほうは、(使う)もの。
(使う)という視点で価値を判断するなら、数年の1度しか
使わない茶器より、毎日使うパソコンのほうが価値がある。
(価値といっても、金銭的価値だが……。)

 だから10年を経て、それが20万円で買ったものであったと
としても、棄てても悔いはない。
が、ウルシの茶器は、そうでない。
棄てることはできない。
が、骨董屋に売るとなると、二束三文。
だったら、近所の人たちに、無料で分ける。
そのほうが、ずっと気持ちがよい。


Hiroshi Hayashi++++++++SEP.09+++++++++はやし浩司
 
●9月X日、運命の日

+++++++++++++++++

現在の心境。
たいへん軽い。
刻一刻と、時が流れていく。
その音が、やさしいせせらぎのように、
心地よく心に響く。
うれしい。
9月X日。
私は、古里と決別する。
待ちに待った、その瞬間。
それがやってくる。

もちろん不安がないわけではない。
どんな別れにせよ、(別れ)というのは
そういうもの。
いつも不安がともなう。
あえて言うなら、『モヤのかかった
山の頂上に、朝日を見るような』
(シェークスピア)のような心境。

++++++++++++++++

●実家を売る

 結局、間に立ってくれた人が、「自分でほしい」と言ってくれた。
譲渡価格は、問題ではない。
いくらでもよい。
とにかく買ってくれる人がいたら、それでよい。
そう思って、その人に、売買を一任した。
で、その人自身が、買ってくれることになった。
その人の言い値で売ることにした。
母に直接渡した現金の10分の1にもならない。
しかしそれで(過去)から解放されるなら、文句はない。
いうなれば、人生の(おまけ)。
バンザーイ!

●貧乏

 私が実家を(重荷)に感じ始めたのは、小学5、6年生くらいの
ことではなかったか。
記憶は確かではないが、中学生になるころには、はっきりとそれを
自覚するようになった。
今にして思えば、そういう重圧感を作ったのは、母自身ということになる。
母は私に生まれながらにして、「産んでやった」「育ててやった」「親のめんどう
みるのはお前」と、言いつづけた。
それが母の教育の基本法だった。

 加えてそのころから、稼業の自転車店は、ほとんど開店休業状態。
パンク張りの日銭で、何とかその日をしのいでいるという状態だった。
今になって実家は、町の「伝統的建造物」に指定されている。
大正時代の商家そのままという。

 しかし何も好き好んで、伝統的建造物を守ったわけではない。
改築するお金もないまま、ズルズルと今に至っただけ。
言うなれば、慢性的貧乏。
その象徴が、私の実家。
わかりやすく言えば、そういうことになる。

●保護と依存

(この間、半日が過ぎた。
私は今、実家へ向かう電車の中にいる。
時は9月2日、午前7時40分。)

 要するに保護と依存の関係。
それができてしまった。
保護する側はいつも保護の側に回る。
依存する側は、いつも依存する側に回る。
最初は感謝されることはあっても、それは一時的。
やがてそれが当たり前になり、さらに時間がたつと、相手、つまり
依存する側が、保護する側に請求するようになる。
「何とかしろ」と。

 さらに時間がたつと、保護する側は、今度は、それを義務に感ずる
ようになる。
こうしてつながりそのものが、保護と依存の関係が結ばれたまま、
固定化する。

●解放

 今の私の立場を一言で表現すれば、「何もかも私」という状況。
だれというわけではないが、みな、そう思っている。
私自身もそう思っている。
そういう中で、みなは、ジワジワと私に迫ってくる。
私はそれにジワジワと苦しめられる。

 が、それが今日という日を境に、終わる。
私は何もかもから解放されたい。
何もかもから、解放される。
法事の問題、墓の問題も、あるにはある。
あるが、いくらでも先延ばしにできる。

●ドラマ

 ところで昨日、郷里住むいとこと、2回、電話で話した。
どちらも1時間以上の長電話になった。
「明日、M町とは縁を切ってきます」と告げると、「それはよかったね」と。

 で、私は自分の心にけじめをつけるつもりで、今までの心境を語った。
弁解とか、言い訳とか、悪口とか、そういうのではない。
今さら私が苦しんだ話など、だれも聞きたがらない。
話しても意味はない。
いとこはいとこで、自分の経験を、あれこれとしてくれた。
それが参考になった。
心に染み入った。
懸命に生きてきた人には、懸命に生きてきた人のドラマがある。
私にもある。
そのドラマが、今、光り輝く。

●社会的重圧感

 金銭的負担感というよりは、社会的負担感。
負担感というよりは、重圧感。
40歳を過ぎるころから、私はそれに苦しんだ。
貪欲なまでに、私のお金(マネー)を求める母。
といっても、そのころになると、そのつど母は、私を泣き落とした。
一方、私は私で、いつしか、そういう母のやり方に疑念をもつようになった。

 疑念をもちながら、それでも仕送りを止めるわけにはいかない。
それが社会的負担感を増大させた。
実家へ向かうたび、私はどこかで覚えた経文を唱えずして、帰る
ことができなかった。

●不安

 が、不安がないわけではない。
親類がもつ濃密な人間関係は、ほかのものには換えがたい。
それを断ち切るには、それ自体、たいへんな勇気が必要。
断ち切ったとたん、そこに待っているのは、孤立感。
「私にはその孤立感と闘う力はあるのか」と、何度も自問する。
……というより、この10年をかけて、少しずつ、親類との縁を
切ってきた。

幸い、その分だけ、ワイフの兄弟たちとは、親しくさせてもらっている。
心の穏やかな、やさしい人たちである。
息子たちの結婚式など、そのつど、みな協力してくれた。
その温もりが、こういうときこそ、私を横から支えてくれる。

●真理

 そう言えば、今朝、目を覚ましたときのこと。
私の心がいつもになく、穏やかなことを知った。
たいてい……というより、ほとんど毎朝、私は旅行の夢で目が覚める。
が、今朝はちがった。
夢の内容は忘れたが、あのハラハラした気持ちはなかった。
そのかわりに、郷里の人たちが、みな、小さな、どこまでも
小さな人間に思われた。

 つい昨夜まで、心を包んでいたあの緊張感が、消えた。
「どういうことだろう?」と、自分に問いかけた。
いや、ときどき、そういうことはある。

 あるひとつのことで、緊張感が頂点に達したとき、突然、
目の前に、別の世界が広がる。
ひとつの(山)を乗り越えたような気分である。

 たとえば人を恨むことは、よくない。
しかし恨みも頂点に達すると、やがて心の水が枯れる。
枯れたとたん、その人を、別の心で包み込むことができる。
あマザーテレサも、同じようなことを言っている。

『愛して、愛して、愛し疲れるまで、相手を愛せよ』と。

 私はそこまで高邁な心境になることはできないが、マザーテレサの
言葉には、いつも真理が隠されている。

●運命

 そんなわけで、今、苦しみのどん底にいる人たちに、こんなことは
伝えられる。
 どんな問題でも、相手が人間なら、時間がかならず解決してくれる、と。
解決してくれるだけではない。
『時間は心の癒し人』。
心も癒してくれる。

 だからそこに運命を感じたら、あとは静かに身を負かす。
(運命)というのは、それに逆らえば、牙をむいて、その人に襲いかかってくる。
しかしひとたび受け入れてしまえば、尻尾を巻いて逃げていく。
もともと気が小さい。
臆病。
 
 私もある時期、母を恨んだ。
心底、恨んだ。
しかし私の家に住むようになった直後のこと。
下痢で汚れた母の尻を拭いたとたん、その恨みが消えた。
「こんなバーさんを、本気で相手にしていたのか」と。

 と、そのとき母は私にこう言った。
「お前にこんなことをしてもらうようになるとは思わないんだ」と。
それに答えて、私も、「ぼくも、あんたにこんなことをしてやるように
なるとは、思っていなかった」と。

 まだ正月気分も抜けやらない、1月のはじめの日のことだった。
 
●こうして人生は過ぎていく

 こうして人はやってきて、またどこかへと去っていく。
M町にしてみれば、私はただの通行人。
店先をのぞいて、そのまま通り過ぎる、通行人。
あの実家にしても、明日からは別の人が住み、別の生活が始まる。
みやげもの屋、もしくは町の案内所としては、最適。
実家は実家で、また別の人生を生きる。
あたかも何ごともなかったかのように……。

私「M町へ、再び行くようなことはあるだろうか」
ワ「……何か、あればね。今のあなたの気持ちとしては、もう
ないでしょうね」
私「何もなければいいけどね。行くとしても、素通りするよ」
ワ「そうね」と。

 電車は、豊橋を過ぎると、少しずつ混み始めた。
ちょうどラッシュアワーに重なった。
「名古屋を過ぎれば、またすいてくるよ」と私。
不思議なほど、心は静かなまま。
フ〜〜〜ッと。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 09++++++++はやし浩司

●本音と建前

+++++++++++++++++++

学生時代、オーストラリアの人たちはみな、
私に親切だった。
あの人口300万人と言われたメルボルン市でさえ、
日本人の留学生は、私、1人だけ。
もの珍しさもあったのかもしれない。

が、あるとき、どういうきっかけかは覚えていないが、
こう感じたことがある。
「友人としてつきあう分については、そうかもしれないが、
一線を越えたらそうではないだろうな」と。

++++++++++++++++++++++

●社会的距離尺度(ボガーダス)

 たとえば(結婚)。
(友人)としての範囲なら、親しく接してくれるオーストラリアの人たち。
しかしその範囲を越えて、たとえば(結婚)となったら、どうだろうか。
当時の状況からして、それはありえないことだった。

 1970年当時、白豪主義は、残っていた。
日本人は、まだ第二級人種と位置づけられていた。 
仮に相手がオーストラリア人であっても、第二級人種と結婚したばあい、
そのオーストラリア人も、第二級人種に格下げされた。

 こうした距離感を、「社会的距離尺度」(ボガーダス)という。
つまり表面的には受容的であっても、内面では、否定的。
その距離感のことをいう。
日本的に考えれば、(本音)と(建前)ということになる。

●心の遊び

 日本人には、うつ病の人は少ないと言われている。
その理由のひとつに、日本人の精神構造がダブルになっていることが
あげられる。
(本音)と(建前)というのが、それ。
表と裏を、うまく使い分ける。
それが心に穴をあける。
風通しをよくする。
悪く言えば、平気でウソをつく。
ウソをつきながら、自分をとがめない。

 一方、それに比較して、欧米人は、なにごとにつけ、ストレート。
日本的に本音と建前を使い分けると、「うそつき」というレッテルを
張られる。
その分だけ、心の(遊び)がない。
だからうつ病になりやすい。

●本音で生きる

 が、できれば、日本人の私たちも、できるだけ本音で生きるように
したい。
本音と建前を分ければ分けるほど、外から見ると、訳の分からない民族
ということになる。
その典型的な例というわけでもないが、よく話題になるのが、日本人の
(笑い)。

 よく電車に乗り遅れたような人が、プラットフォームで苦笑いするような
ことがある。
ああした(笑い)は、欧米人には理解できない。
最近ではぐんと少なくなったが、デッドボールを当てたピッチャーが苦笑いを
するのもそれ。

 内心と表情が、別々の反応を示す。
いやなヤツと思っていても、ニコニコと笑いながら接する。
そういう場面は多い。
しかしそういう生き様は、時分自身を見苦しくする。
あとで振り返っても、後味が悪い。

●「自分の心を偽るな!」

 平たく言えば、「どうすれば社会的距離尺度を、短くすることが
できるか」ということ。
で、私はここ1年ほど、子どもたちを指導しながら、こんなことに
注意している。

 幼稚園の年中児でも、「君たちは、おっぱいが好きか?」と聞くと、
みな、恥ずかしそうな顔をして、こう言う。
「嫌いだよ〜」「いやだよ〜」と。

 そこですかさず私は、真顔で、子どもたちを叱る。

「ウソをつくな!」「好きだったら、好きと言え!」
「自分の心を偽るな!」と。

 2、3度、真剣にそう叱ると、子どもたちはみな、
「好きだよ〜」と、小さな声で答える。
つまり日本人独特の、本音と建前は、こうして生まれ、
子どもたちの心に根付く。
(少し大げさかな?)

●本音で生きよう

 本音で生きるということは、勇気がいる。
しかしその分だけ、人生がわかりやすくなる。
すがすがしくなる。

 自分を飾ったり、ごまかしても、意味がない。
後味が悪いだけ。
どうせ一回しかない人生。
だったら、思う存分、本音で生きてみる。
ものを書く立場で言うなら、ありのままをありのままに書く。
こう書くからといって、誤解しないでほしい。
読者あっての(文章)だが、このところ読者の目は、ほとんど
気にしていない。
読んでくれる人がいるなら、それでよし。
読んでくれなくても、それでもよい、と。

 どう判断されようが、私の知ったことではない。
(自分の力では、どうしようもないが・・・。)
大切なことは、こうして懸命に生きている人間がいること、
……過去にいたことを、何らかの形で、だれかに伝えること。
それができれば、御の字。
それ以上、何を望むことができるというのか?

(つい先週も、40年来の友人から、こんなメールが届いた。
「君はプライベートなことを書いているが、気にしないのか」と。)

 話はそれたが、本音で生きるということには、そういう意味も
含まれる。
余計なことかもしれないが……。


Hiroshi Hayashi++++++++SEP.09+++++++++はやし浩司

●夢判断

++++++++++++++++++++

夢判断というのは、たしかにある。
私にとっては、2009年9月2日は、心の大きな転機になった。
そのせいだろうと思うが、その日を境に、夢の内容が、がらりと変わった。

それまでは夢といえば、旅行先の夢ばかりだった。
どこかの旅館やホテルにいて、帰りのバスや飛行機の時刻を心配する
そんな夢ばかりだった。

おかしなことに、夢の、こまかい部分については、そのつど、ちがった。
同じ内容の夢を見ることは、ほとんどない。

が、9月3日は、忘れたが、旅行の夢ではなかった。
9月4日は、兄の夢。
9月5日も忘れたが、旅行の夢ではなかった。
9月6日、つまり今朝は、浜松の自宅に、生徒たちが遊びに来た夢。

夢の内容を判断するかぎり、私の心境は、大きく変化した。

++++++++++++++++++++

●深層心理

 心の奥底にあって、人間の意思や意識をコントロールする。
それが深層心理ということになる。
人間のばあい、(人間だけにかぎらないのだろうが)、深層心理のほうが分量的にも、
はるかに大きい。

 一説によれば、脳の中で意識として活動している部分は、脳全体の20万分の1
程度という。
何かの本でそう読んだ。

 つまり私たちの意識は、その20万倍もの無意識や潜在意識によって支配
されている。
私が毎晩、ちがった夢を20年間見たとしても、365x20=7300。
20万倍には、遠く及ばない。

 わかりやすく言えば、私たちの意識は、常に、無意識や潜在意識によって
支配され、コントロールされている。
私が旅行先の夢を見るのは、焦燥感、不安感、心配、不信感などが、ベース
になっているからと考えてよい。
が、それが消えた。

●墓参り

 そのうち心境が変化するかもしれない。
しかし今の私には、墓参りをするという意識そのものがない。
祖父も、父も、墓参りだけは、したことがない。
墓参りした姿さえ、私の記憶にない。
理由はわからない。

 が、墓参りを大切にしている人もいる。
人は、人それぞれだし、それぞれの思いの中で、墓参りをする。
私がしないからといって、それでもって他人のことをとやかく言っては
いけない。
が、同時に、自分が墓参りするからといって、私のことをとやかく言って
ほしくはない。
私は、私。
それでバチ(?)なるものが当たるとしたら、それは私のバチ。
あなたには関係のないこと。

 ただ言えることは、合理的に考えれば、遺骨に霊(スピリチュアル)が
宿るということは、ありえない。
人間の肉体は、骨も含めて、常に新しく生まれ、そして死ぬ。
もし魂が宿るとしたら、むしろ脳みそということになる。
心臓でもよい。
しかし脳みそや心臓は、保存には適さない。
だから「骨」あるいは「髪の毛」ということになった。

 言うなれば、人間のご都合主義が、「骨」にした。

●それぞれの思い

 話はそれたが、墓参りを熱心にする人というのは、何かしらの
(わだかまり)が、心の奥にあるためではないか。
罪滅ぼし?
懺悔?
後悔?
うしろめたさ?
何でもよい。

 こう決めてかかると、墓参りを熱心にしている人に対して失礼な
言い方になるかもしれない。
多くの人は、故人をしのび、故人を供養するために、墓参りをする。
「先祖を祭り、大切にするため」と主張する人もいる。
それはそれでわかる。

 しかし私は墓参りも、自然体でよいのではないかと考える。
参りたいと思うときに、参ればよい。
もちろんそれぞれの思いに従えばよい。
罪滅ぼしであっても、また故人の供養でもよい。

ただ遺骨に、必要以上の意味をもたせることは、好ましいことではない。
もっと言えば、墓参りをすることによって、「今」そのものを見失って
しまう。
こんな女性(60歳くらい、当時)がいた。

 その女性の母親が生きている間は、虐待に近い虐待を繰り返していた。
で、その母親は、ある寒い冬の夜、「ふとんの中で眠ったまま」(その
女性の言葉)、死んでしまった。

 その女性の墓参りがつづくようになったのは、しばらくしてからのこと
だった。
一説によると、夜な夜な、母の亡霊が枕元に立ったからという。
あるいはその女性は、罪の意識に苛(さいな)まれたのかもしれない。
それで墓参りをするようになった(?)。

 よくある話である。

●今が大切

 死者を弔うことも大切だが、それ以上に、はるかに大切なことは、
「今」を大切にすること。
これは私の人生観とも深くからんでいるが、母を介護しているときにも、
それを強く感じた。

 介護といっても、そのつど、多額の介護費用などがかかる。
救急車で病院へ一度運んでもらえば、救急車代は別としても、1回につき、
10万円前後の検査費、入院費、治療費がかかった。

 しかしそういう費用が、惜しいとか、そういうふうに考えたことは一度も
ない。
「高額だな」と反感を覚えたことはあるが、それは医療体制に対しての
ものであって、母に対してではない。

 しかし今、法事に、読経をしてもらうだけで、1回5万円ということに
ついては、矛盾というより、バカらしさを覚える。
信仰心のあるなしとは、関係ない。
まただからといって、母の死を軽んじているわけでもない。
この落差というか、(心の変化)を、どう私は理解したらよいのか。

 同じように、私は、「今」を生きている。
懸命に生きている。
もし息子たちに、私やワイフを大切にしてくれる気持ちが少しでもあるなら、
今の私たちを大切にしてほしい。
死んでから、墓参りに来てくれても、うれしくはないし、またそんな
ことをしてくれても、私には意味はない。
またそれで私が地獄へ落ちるとしたら、仏教のほうがまちがっている。
カルト以下のカルト。

 供養するかしないかは、あくまでも(心)の問題。
心があれば、毎日だって墓参りをすればよい。
また心があるなら、墓参りなどしなくても、どこにいても、供養はできる。

 この3日間、いろいろと考えた。
私には、収穫の多い、3日間だった。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 09++++++++はやし浩司

【生命から生命へ】(From Life to Life)
We live and die and repeat it again and again, conveying out Life to other all living creatures 
and things together with our consciousness.(後日、要推敲)

++++++++++++++

あなたの生命は、ほかのありと
あらゆる生命とつながっている。
過去から未来へと、つながっている。
すべての植物から動物へと、つながっている。
それがわかれば、あなたは
もう孤独ではない。

もしあなたに「死」というものが
あるとするなら、それはあなたの
「意識」の死に、過ぎない。
もっと言えば、意識の連続性が、
途切れるに過ぎない。

だから、もしあなたが意識の連続性を、
あなたの肉体を超えて感ずることが
できたら、あなたには、「死」は
ないことになる。

++++++++++++++

●生物の連続性

人は日々に死に、日々に生まれ変わる。
細胞の生死を考えれば、それがわかる。
死んだ細胞は、体外へ排出され、ときに
分子レベルにまでばらばらになり、また
別の生物や無生物の中へと取りこまれていく。
と、同時に、私たちは日々に、ほかの生物や
無生物から、新しい肉体を作り、生きている。

こうして私たちはありとあらゆる生物と
つながり、今というときを生きている。
これを「生物の連続性」という。

●命

では、死んだらどうなるか。
が、基本的には、「死」は存在しない。
その人個人の意識は途絶えるが、生命は、
姿や形を変え、別の生物の中に取りこまれて
生きていく。

虫かもしれない。
花や木かもしれない。
動物や、魚かもしれない。
ともかくも、生きていく。

この連続性を総称して、「生命」という。

●意識

個人は、その人の意識によって特定される。
「私は・・・」というときの「私」である。
しかしその私にしても、肉体のほんの一部
でしかない。
もっと言えば、脳の中を走り回る、電気的
信号の一部でしかない。

だからといって、「私」に意味がないというのでは
ない。
私が書きたいのは、その逆。
この「私」があるから、そこから無数の
ドラマが生まれ、人間の生活を、潤い豊かなものに
する。
もし「私」がなかったら、私たち人間は、そこらに
生える雑草のような存在になってしまう。

●死

 では、「死」とは何か?
言うまでもなく、意識の途切れをいう。
その人の意識が途切れたとき、「私」は消える。
言うなれば、パソコンの電源を切るようなもの。
そのときから、見ることも、聞くことも、
感ずることもできなくなる。

 しかし先にも書いたように、それで生命が
途切れるわけではない。
生物の連続性の中で、つぎつぎと新しい生物の
中に、生命は取りこまれていく。
あなたが過去から現在に至るまで、取りこんで
きたように・・・。

●再生

 そんなわけで、「生命」を、あなたという個人の
中だけに閉じこめておくのは、正しくない。
またそういう視点で、あなたという「私」を見ては
いけない。

 もっと具体的に話してみよう。

 脳も含めて、上は髪の毛から、下は、足の爪まで、
私たちは長くて1年足らずで、すべてが作り替えられる。
古い肉体は、つねに便となったりして、外に排出される。
が、それは自然界でつねにリサイクルされ、無数の
生物の、一部となって再生される。
もちろんあなた自身の一部として戻ってくることもある。

●破壊と再生

 こうした破壊と再生の中で、連続性をもつものが
あるとすれば、それが意識ということになる。
脳の中で、意識は、古い細胞から新しい細胞へと、
つねに伝えられていく。

 あなたが子どものころの記憶があるとしても、
子どものころの脳細胞が、残っているからではない。
そのころの脳細胞は、とっくの昔に破壊されている。
今、「子どものころの記憶がある」と思いこんでいるのは、
ごく最近再生された、脳細胞の中に伝えられた電気的
信号にすぎない。

●瞬間移動(転送)

 映画『スタートレック』の中に、よく「転送」という
言葉が出てくる。
これはある一定の場所から、別の場所に、瞬時に
移動することをいう。
SF映画の世界でのことだから、まともに考えるのも
どうかと思うが、その転送について、こんな議論がある。

 「転送されてきた人間は、もとの人間と言えるか」
という問題である。

 原理は、こうだ。

 まずあなたという人間を、分子レベルにまで、バラバラに
する。
そのバラバラになったあなたを、電磁波か何かの(波)に
乗せて、別の場所に転送する。
そしてその別の場所で、もとどおりに、組み立てなおす。

 そこであなたはこう考える。
見た目には、もとの人間と同じだが、しかしもとの人間は
一度死んだはず、と。
新しく再生された人間は、あくまでもまったく別の人間。

 つまり転送を10回繰りかえせば、あなたは10回
死に、10回再生されたことになる。

●破壊と再生

 人間の肉体は、転送という劇的な変化ではないにしても、
1年単位という時間の流れの中で、映画『スタートレック』の
中の転送と同じことを、繰りかえしている。

 「劇的」というのは、映画『スタートレック』の中では、
すべてを瞬時にすることをいう。
一方、肉体のほうは、それぞれがバラバラに、長い時間をかけて、
徐々にする。

 そこでもし、映画『スタートレック』の中の転送について、
あれは、「破壊」と「再生」を繰り返したもの、つまり
「一度死んで、再び、生きかえったもの」と考えるなら、
私たち自身も、同じことを繰りかえしていることになる。

 「瞬時」にそれをするか、「1年」をかけてそれをするかの、
ちがいだけである。

●伝えられる意識

 さらに……。
科学が進めば、(あなた)のコピー人間を作ることも、
可能になるだろう。
すでにクローン牛なども誕生している。

 しかし意識は、どうか。
あなたのコピーは、あなたと同じ意識をもつだろうか。
今のところ、その答は、NO。
あなたのコピー人間は、ただのコピー人間。
たとえば私のコピーを作ったとしても、そのコピー人間が、
今の私と同じ感情をもつとはかぎらない。
というより、ありえない。
私のワイフを見て、私は逃げ回るかもしれない。

●コピー人間の意識

 私が「私」と言えるのは、「意識の連続性」があるからにほかならない。
もし意識の連続性がなかったら、「私」はそのつど分断されてしまう。

 たとえばクローン技術を使って、あなたのコピー人間を作ったとしよう。
見た目はもちろん、何から何まであなたと同じ人間である。
しかしそのクローン人間は、ここにも書いたように、「あなた」ではない。
意識の連続性がないからである。

 同じように、先にも書いたが、あなたは日々に生まれ変わっている。
古い細胞は死に、新しい細胞が生まれる。
1年前のあなたは、どこにも残っていない。
言い換えると、今のあなたは、1年前のクローン人間といっても、さしつかえ
ない。

 が、あなたはあなた。
そういうあなたは、「私は私」と言うだろう。
それが意識の連続性ということになる。

●親子

 さらに言えば、親子の関係も、それに似ている。
親子のばあいは、1世代、つまり約30年をかけて、
親は自分のクローン人間を作る。

 自分の子どもは、約30年をかけて作る、自分
自身のクローン人間とも考えられる。
顔や姿は、配偶者のそれと半々するということになるが、
それは大きな問題ではない。

 それに意識、……このばあい、ものの考え方も、
あなたのそれに似てくる。
ただ親子のばあいは、クローン人間とはちがい、
個人差はあるだろうが、親子の間には、たしかに
意識の連続性がある。

●意識があるから私

 こうして考えると、「意識」の重要性が、ますます
理解してもらえると思う。
もっと正確には、「意識の連続性」ということになる。

言うなれば、「意識の連続性があるから、私」ということになる。
「私」イコール、「意識」。
「意識の連続性」。
「意識の連続性」イコール、「私」と考えてよい。

●あやふやな意識

 が、その一方で、その「意識」ほど、あてにならない
ものもない。
「私は私」と思っている意識にしても、そのほとんどが、
意識できない「私」、つまり無意識の世界で作られた
私でしかない。

 意識している私は、無意識の世界で作られている私に、
操られているにすぎない。
その反対の例が、催眠術ということになる。
「あなたはキツネだ」という強力な暗示をかけられた
被験者は、目が覚めたあとも、キツネのように、
そのあたりをピョンピョンと、とび跳ねたりする。

 つまり脳の中には、無数の暗示が詰めこまれていて、
それが私たちを裏から操る。
それを私たちは、「私の意識」と思いこんでいる。
・・・だけ。

 意識には、そういう問題も隠されている。

●私の死

 そこで再び、「死」について考える。

 脳の中の意識は、脳細胞の中を走り回る電気的信号の
集合でしかない。
人間が霊的(スピリチュアル)な存在でないことは、認知症
か何かになった老人を見れば、わかる。
脳の機能が低下すれば、思考力も低下し、ついで、
意識の力も弱体化する。
「私」すら、わからなくなる老人も多い。

 人間が霊的な存在であるなら、脳の機能に左右
されるということは、ありえないはず。

 で、その電気的信号が止まったら、どうなるか。
それが「肉体の死」ということになる。

●すべてが消える

 「死」についての説明は、これでじゅうぶんかも
しれない。
結論的を先に言えば、私たちは死によって、意識を
失う。
意識の連続性を失う。
だからこの大宇宙を意識している「私」すら、消滅する。
つまりこの大宇宙もろとも、消えてなくなる。
あなたが深い眠りの、そのまた数万倍、深い眠りに
陥った状態を想像してみればよい。
夢を見ることもない、深い眠りである。

(それでも、微量の意識は残るが・・・。)

 それが「死」に近い状態ということになる。 

 では、「私」とは何か。
つまりそれが「意識」ということになる。
「意識の連続性」ということになる。

●意識

 結論は、もう出ている。
「意識」イコール、「私」。
「私」イコール、「意識」ということになる。

 が、「意識」だけでは足りない。
「私」を意識するためには、繰り返すが、そこに
「連続性」がなければならない。
意識だけなら、空を舞う蚊にすら、ある。
あの蚊に、「私」という意識があるとは、とても
思えない。

 しかしその「私」は、努力によっていくらでも
大きくすることができる一方、ばあいによっては、
犬やネコどころか、虫のそれのように小さく
してしまうこともありえる。

 人間は平等とはいうが、こと意識に関しては、
平等ということはありえない。
深い、浅い、の差はある。
またその(差)は大きい。
その(差)は努力によって決まる。

 そうした努力を、釈迦は、「精進(しょうじん)」
という言葉を使って説明した。

●生命の伝達

 そこで生きている人間の最後の使命はといえば、
「生命の伝達」ということになる。
「意識の伝達」と言い換えてもよい。

 再び映画『スタートレック』の話に戻る。
もし肉体の転送だけだったら、別の肉体をもう一個、
作っただけということになる。
あなたのコピー人間を作っただけということになる。

 そこで当然、意識の伝達が、重要な要素となる。
そうでないと、転送先で、それぞれが、何をしてよいか
わからず、混乱することになる。
本人も、どうして転送されたのかも、わからなくなって
しまうだろう。
与えられた使命すら、忘れてしまうかもしれない。
あなたに接する、相手も困るだろう。

(映画『スタートレック』の中では、この問題は
解決されているように見える。
しかしどういう方法で意識の連続性を保っているのか?
たいへん興味がある。)

 そこで私たちは、生きると同時に、つねに意識の
伝達に心がけなければならない。
その意識の伝達があってはじめて、私たちは、
生命を、つぎの世代に伝えることができることになる。

●意識の消滅

個人の意識が途切れることは、こうした生命の
流れの中では、何でもないこと。
今、あなたが感じている意識しにしても、
あなたのほんの一部でしかない。

あなたの数10万分の1、あるいはそれ以下かも
しれない。
そんな意識が途切れることを恐れる必要はない。

●意識の伝達

それよりもすばらしいことは、あなたの生命が、
日々に、ほかの生物へと伝わっていること。
あなたの子どもに、でもよい。
ほかの生物が、日々にあなたを作りあげていくこと。
そうした生物ぜんたいの一部として、私がここにいて、
あなたがそこにいること。

 つまりあなた自身も、無数の意識の連続性の中で
今を生き、そして無数の連続性を、かぎりなく
他人に与えながら、今を生きている。

●肉体の死

死ぬことを恐れる必要はない。
たとえばあなたはトイレで便を出すことを恐れるだろうか。
そんなことはだれも恐れない。
しかしあの便だって、ほんの1週間、あるいは1か月前には、
あなたの(命)だった。
その命が、便となり、あなたから去っていく。
また別の命を構成していく。

●意識の死

 肉体は、1年程度で、すべて入れ替わる。
ただ同じように、意識も、そのつど入れ替わる。
このことは、1年とか、2年前、さらには10年前に書いた自分の文章を
読んでみればわかる。
ときに「1年前には、こんなことを書いていたのか?」と驚くことがある。
あるいは自分の書いた文章であることはわかるが、まるで他人が書いた文章の
ように感ずることもある。

 さらに最近に至っては、まるでザルで水をすくうように、知識や知恵が、
脳みその中から、ざらざらとこぼれ落ちていくのがわかる。
それを知るたびに、ぞっとすることもある。

 若い人たちには理解できないことかもしれないが、現在、あなたがもっている
知識や知恵にしても、しばらく使わないでいると、どんどんと消えてなくなって
いく。
ついでに、意識も、それに並行して、どんどんと変化していく。
何も、肉体の死だけが死ではない。
意識、つまり精神ですら、つねに生まれ、そしてつねに死んでいる。

●死とは

もし「死」が何であるかと問われれば、それは
意識の連続性の(途切れ)をいう。
しかし心配無用。
あなたの意識は、(思想)として、残すことができる。
たとえば今、あなたは私の書いたこの文章を読んでいる。
その瞬間、私の意識とあなたの意識はつながる。
私はあなたと、同じ意識を共有する。
たとえそのとき、私という肉体はなくても、意識は
残り、あなたに伝えられる。

●重要なのは、意識の連続性

 反対に、こうも考えられる。
仮に肉体は別々でも、そこに意識の連続性があれば、「私」ということに
なる。

 では、その意識の連続性は、どうすれば可能なのか?

 ひとつの方法としては、SF的な方法だが、他人の意識を、自分の脳の
中に注入するという方法がある。
もっと簡単な方法としては、どこかのカルト教団がしているように、たがいに洗脳
しあうという方法もある。

 が、自分の肉体にさえこだわらなければ、今、こうして私が自分の意識を
文章にする方法だって、有効である。
この文章を読んだ人は、肉体的には別であっても、またほんの一部の意識かも
しれないが、そこで意識を共有することができる。
それが意識の連続性につながる。

 つまりこうして「私」は、無数の人と、意識の連続性を作り上げることに
よって、自分の「生命」を、そうした人たちに残すことができる。
もちろんそうした人たちも、また別の人たちと連続性を作り上げることに
よって、自分の「生命」を、そうした人たちに残すことができる。

 人間は、こうして有機的につながりながら、たがいの生命を共有する形で、
永遠に生きる。
つまり「死」などは、存在しない。
繰りかえすが、個体として肉体の「死」は、死ではない。

●時空を超えて

さらに言えば、私という肉体はそのとき、ないかもしれない。
しかし時の流れというのは、そういうもの。
一瞬を数万年に感ずることもできる。
数万年を一瞬に感ずることもできる。
長い、短いという判断は、主観的なもの。
もともと時の流れに、絶対的な尺度など、ない。

 寿命があと1年と宣告されても、あわてる
必要はない。
生き方によっては、その1年を100年にする
こともできる。
(年数)という(数字)には、まったく意味がない。

●大切なこと

大切なのは、今、この瞬間に、私がここにいて、
あなたがそこにいるという、その事実。

あなたの意識は、あなたの肉体の死とともに
途切れる。
しかしその意識は、かならず、別のだれかに
伝えられる。
こうしてあなたは、べつのだれかの中で、
生き返る。
それを繰り返す。

そこで大切なことは、本当に大切なことは、
よい意識を残すこと。
伝えること。
それが私たちが今、ここ生きている、最大の目的
ということになる。

●もう恐れない

さあ、もう死を恐れるのをやめよう。
死なんて、どこにもない。
私たちはこれからも、永遠に生きていく。
姿、形は変わるかもしれないが、もともと
この世のものに、定型などない。
人間の形だけが、「形」ではない。
また私たちの姿、形が、ミミズに変わったとしても、
ミミズはミミズで、土の中で、結構楽しく
暮らしている。
人間だけの判断基準で、ほかの生物を見ては
いけない。

そうそう犬のハナのした糞にさえ、ハエたちは
楽しそうに群がっている。
それが生命。

●日々に死に、日々に生まれる

私たちが日々に生き、日々に死ぬことさえわかれば、
最後の死にしても、その一部にすぎない。
何もこわがらなくてもよい。
あなたは静かに目を閉じるだけ。
眠るだけ。
それだけで、すべてがすむ。

あなたはありとあらゆる生物の(輪)の中で
生きている。
あなたが死んでも、その輪は残る。
そしてあなたはその輪の中で、この地球上に生命が
あるかぎり、永遠に生きる。

しかしそれとて何でもないこと。
なぜならあなたはすでに、毎日、日々の生活の
中で、それをしている。
繰りかえしている。

あとはその日まで、思う存分、生きること。
あなたという意識を、深めること。
つぎにつづく人や生物たちが、よりよく生きやすく
するために……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
 BW はやし浩司 生命論 意識論 生命の連続性 090907)

(補記)
一気に書き上げた文章なので、随所に稚拙な部分、わかりにくい部分があるかもしれない。
今はこのままにし、しばらく時間をおいてから、推敲してみたい。
(文章の一部からでも、何かを感じとってもらえれば、うれしい。)

要するに私は、この原稿の中で、「死」を(肉体の死)と(意識の途切れ)に
分けて考えてみた。
肉体の死については、何も「死」だけが死ではない。
私たちは、毎日、死に、そして生まれ変わっている。
意識にしても、そうだ。

そこで重要なのは、(意識の途切れ)ということになる。
たしかに死によって、私たちの意識はそこで途切れるが、
だからといって、それで(意識)が死ぬわけではない。

現に今、あなたはこの文章を読んでいる。
読んだとたん、私の意識は、あなたの中に伝達されることになる。
あなたの中で生きることになる。
そして今度は、あなたは私の意識を土台に、さらに自分の意識を
発展させる。
こうして意識もまた、永遠に、生き残っていく。

そこで「死など、恐れる必要はない」と書いたが、それにはひとつの
重要な条件がある。
それは「今を、懸命に生きること」。
とことん懸命に生きること。
過去にしばられるのも、よくない。
明日に、今日すべきことを回すのも、よくない。
要するに、「死」に未練を残さないこと。
とことん燃やしつくして、悔いを明日に残さないこと。
あなたが今、健康であっても、またそうでなくても、だ。
それをしないでいると、死は、恐ろしく孤独なものになる。
人間は、基本的には、その孤独に単独で耐える力はない。

……と書きつつ、これは私の努力目標である。
いろいろ迷いや不安はあるが、とにかくその目標に
向かって進んでいくしかない。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

●決別、5日目

++++++++++++++++

古里と決別して、今日で5日目。
この4日間、いろいろあった。
そのせいか、今日になって疲れが
どっと出てきた。

ショックだったのは、むしろ
仲がよかった、K氏(59歳)が、
悪性リンパ腫になっていたこと。
血液のがんである。
今年で闘病生活も3年になるという。
知らなかった。

昨日、はじめて知った。
驚いたというより、3年間も
知らなかった私に、驚いた。

「最近はすぐれた抗がん剤も開発
され、数値をみながらのんでいれば、
何でもありません」と、K氏は笑っていた。
いっしょに笑いたかったが、私は
笑えなかった。

+++++++++++++++

●「私は健康だ」

 「私は健康だ」と言うときには、そこにある種の優越感がともなう。
自分にはその気がなくても、相手によっては、それがイヤミに聞こえる。
とくに重病で苦しんでいる人には、そうだろう。
だから「私は健康だ」などとは、あまり人に言わないほうがよい。
それはちょうど、「私は金持ちだ」と言うのに似ている(?)。
その日の生活費に困っている人が聞いたら、どれほど不愉快に思うことか。

 ……といっても、つまり健康といっても、今、そうであるというだけで、
明日のことはわからない。
加齢とともに、不可逆的に健康は衰えていく。
仮に優越感をもったとしても、それは一時的。
大切なことは、今ある健康を、かみしめながら生きていくこと。
あとはその状態を、できるだけ、長く保つこと。

●苦痛
 
 古里の話を書こうと思っていたが、健康論になってしまった。
話をもどす。
古里と決別して、先にも書いたように今日で5日目になる。
何かが大きく変わったように感ずる。
が、それが何であるか、今のところ、まだよくわからない。

 平和になったというか、気が抜けたというか……。
心の緊張感は解けた。
正直に告白するが、実兄が死んだときも、実母が死んだときも、
私はホッとした。
実兄や実母の死を喜んだわけではない。
そんな気持ちは、みじんもなかった。

ただそれまでの重圧感には、ものすごいものがあった。
臨終が近づくにつれて、その重圧感が、さらに倍加した。
その重圧感が、スーッと消えた。

 実のところ、実兄も実母も、それぞれ施設に入居していたから、
私への負担は、ほとんどなかった。
精神的負担も、ほとんどなかった。
ときに、「介護が、こんなに楽でいいのか」と思ったことさえある。

私が感じた重圧感というのは、実姉からのものだった。
実姉は、そのつど、狂ったように、私のところに電話をかけてきた。
それが苦痛だった。
受話器を取るたびに、手が震えた。

 今にして思えば、姉は姉で、張りつめた緊張感の中で、もがき苦しんで
いたのだろう。
それはよくわかる。
わかるが、私には、どうしようもなかった。
実姉は、不満や不安をそのまま、私にぶつけた。
私は私で、包容力を失っていた。

 が、それも今となっては、昔話。
1日ごとに、どんどんとそれが過去へ過去へと、遠ざかっていく。

●疲れ

 講演の疲れ。
旅の疲れ。
それが今日になって出てきた。
睡眠薬の世話になっているわけでもないが、このところ毎日、9〜10時間
近く眠っている。
昼間も眠い。
そのつど、軽い昼寝をする。

 寝心地は、よい。
どこにいても、気持ちよくうたた寝できる。
何よりも大きな変化は、悪夢から解放されたこと。

●今後のこと

 今後のことは考えていない。
考えても、あま意味はない。
なるようにしか、ならない。
なり行きに任せる。
それしかない。
実家にまつわる問題は、すべて解決した。
「すべて」だ。

 親戚づきあいも、今のところ、するつもりはない。
冠婚葬祭も、遠慮させてもらう。
その前に、だれも知らせてこないだろう。
そのかわりというわけでもないが、私の方のことも、だれにも伝えない。
「私が死んでも、親戚にはだれにも話すな」と、ワイフや息子たちには、
しっかりと伝えてある。

 親戚など、今の私には、「クソ食らえ」(尾崎豊)、だ。
さみしい関係だが、仮面をかぶってつきあうのも、疲れた。
もうたくさん。
いや、それ以上に、私の人生も、刻一刻と短くなっていく。

 そうそう、K氏の病名を聞いたとき、驚いたのには、
もうひとつの理由がある。
「そんな病気もあったのか!」と。

 ひょっとしたら、病名の数のほうが、浜松市の人口(約80万)より
多いのではないか?
がんにしても、体の部位の数だけ、種類がある。
「病気から身を守る」といっても、どうやって守ればよいのか。
たとえて言うなら、浜松中の人たちが、みな悪党になったようなもの。
しかもみな、中身がちがう。
先日は、ほんの半時間ほどだが、視覚野の画像が乱れた。
半円形のチカチカした模様が、視野をじゃました。
あれはいったい、どういう病気によるものなのか?

 言い換えると、私たちの健康は、細い糸でぶらさがっているようなもの。
その下では、無数の病気が、「おいで、おいで」と、手招きしている。
で、私はK氏にこう聞いた。
「どうして、その病気とわかったのですか?」と。

 それについてK氏は、こう言った。
首の下のリンパ腺が腫れたこと。
胃の上に腫れ物ができたこと。
それで病院へ行ったら、悪性リンパ腫とわかった、と。
そして最後にこう話してくれた。

 「おかしいと思ったら、検査だけは、どんどんと受けたほうがいいですよ」と。
しかし……。
おかしいと言っても、おかしなところだらけ。
一応、今のところ自分では健康とは思うが、中身はボロボロ。
何とかごまかしながら生きている。
だからやはり、検査は受けたくない。
受けても、しかたない。
20も30も、ゾロゾロと病名が出てきたら、どうするのか!


Hiroshi Hayashi++++++++Sep・09++++++++++はやし浩司

●つながり

++++++++++++++++++++

朝、パソコンを立ち上げる。
メールを読む。
つぎにHPやBLOGへの、アクセス数を
確認する。
ここまでで、5〜10分前後。

そのあと世界のニュースに目を通す……。

このころになると、頭の中が少しずつ、動き
始める。
私は血圧が低いこともあって、朝が苦手。
濃いお茶を飲んで、眠気を取り去る。

……こうして私の1日は始まる。
思いついたことを、書き始める。
しかしそれは同時に、不安との闘いでもある。
いつも文を書きながら、「こんなもの、だれが
読んでくれるだろう?」と迷う。
この文にしても、そうだ。

読んでも意味のない、ただの駄文。
自分でも、それがよくわかる。
目の前に見えるのは、パソコンの画面だけ。
その画面に向かって、孤独な闘いがつづく。

++++++++++++++++++

●T県のNさん(母親)より

 そんな中、T県のNさんより、メールが届いていた。
少し前、子どもの相談にのってあげた人である。
うれしかった。
それをそのまま紹介させてもらう。

『……先生に相談にのっていただいてから、三ヶ月近くが経ちました。今、長男はとても
落ち着いています。暴力もほとんどなくなりました。本当に感謝しています。あの時、勇
気を出して相談にのっていただいてよかった、としみじみ思います。

今、私はとても子育てが楽しくなりました。そして長男をとてもいとおしく思います。も
ちろん、まだまだ問題がすべて解決したわけではありません。学校も嫌いだし、勉強も嫌
い、そしてゲームで負ければ怒ります。他のお母さんから見たら、問題ばかりで自慢でき
るような息子ではないかもしれません。でも、私はそれでいいと思えるようになりました。

勉強については、あきらめました。宿題を必要最小限なんとか怒らずにやるようになった
ので、それでよしとすることにしました。ゲームで負けると相変わらず怒り出すのですが、
そっとしておくとすぐに気持ちを切り替えて遊べるようになりました。
そして、私が重い荷物を持っているときには、すかさず手助けしてくれるようになりまし
た!こうしたほんの少しの変化が、とてもうれしいのです。

昨日は次男のトイレトレーニングにかかりきりで、遠くから「早く宿題やってね」と
時々言っていたのですが、あとで長男に「なんでママは今日怒ってばかりいるの?」
と聞かれました。怒ってはいなかったのですが、言い方がきつかったのかもしれませ
ん。でもそれを冷静に聞き流し、あとで私にそうやって言えるなんて、私よりずっと
大人だと思いました。

でも、一番変わったのは私なんだと思います。いつも「許して忘れる」を心にとめて
過ごしていたら、自然と怒ったりしなくなりました。私が長男を追い詰めていたのか
もしれませんね。今でも、もちろん心配事はたくさんありますが、心の中で「頑張っ
て」とつぶやきながら、私は私で頑張っていこうと思っています。次男も保育園に入
り、私も仕事を探すつもりです。これからは、自分の時間を大切にしていきたいで
す。

ほんとうにありがとうございました。先生、これからもお身体に気をつけて、たくさ
んの人の力になってください。すばらしいお仕事をされていて、尊敬しています。また
いつか、相談をするかもしれませんが、そのときはよろしくお願いします……』

●それでじゅうぶん

 私はNさんを知らないし、仮にどこかですれちがっても、そのまま通り過ぎてしまう
だろう。
何かのことでまたメールをもらえば、そのときはそのときで、返事は書く。
しかしそこまで。
生涯、会うこともないだろうし、もちろん関係を深めるということもない。
が、私はそこに、何というか、人生の切なさを感じる。
またそれが人生なのかなと思ってしまう。

 数日前も、伊豆を旅して、いろいろな人に出会った。
話もした。
たがいに笑ったりもした。
しかし、やはりそこまで。
私はその場を去り、ここへ戻ってきた。

 が、だからといって、そういう出会いが無意味と言っているのではない。
その切なさがあるからこそ、私はまたつぎの切なさを求めて、人と出会い、
メールを交換し、旅に出る。
言い換えると、人生は、その切なさの集まり。
その切なさが、無数のドラマを作る。
そのドラマに意味がある。

 今回も、Nさんは、私をさして、「尊敬しています」と書いてくれた。
が、私は、そんな人間ではない。
まったく、ちがう。
Nさんが実物の私を見たら、がっかりして、ひっくり返ってしまうだろう。
が、それでも、うれしい。
どうしてだろう?
いったいこの(うれしさ)は、どこから来るのか?

 ちょうど窓の外には、T県の方角が見える。
澄んだ水色の秋の空。
「あの空の遠くに、Nさんは住んでいるのだろうな」と、ふと思う。
この光と分子の織りなす世界で、ほんの少しだけだが、私とNさんと、心がつながった。
人との(つながり)を感じた。

 私にとっては、それでじゅうぶん。
私のしていることで、喜んでくれた人がいた。
私のしたことが、役にたった人がいた。
それ以上、私は何を望むことができるのか。
何を望んでいるのか。

 さあ、今日もがんばろう。
そこでだれかが待っていてくれる。

書き忘れたが、「切ない」ということは、「さみしい」ということではない。
「虚しい」という意味でもない。
人間も、そこに命の限界を感ずるようになると、その(切なさ)を楽しむことが
できるようになる。
私がここにいて、生きていること自体に、切なさを感ずることもある。

Nさん、ありがとうございました。
今日は、よい1日になりそうです。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

●運命(Destiny)

++++++++++++++++++++

無数の(糸)がからんで、ときにその人の
進む道を決めてしまう。
社会の糸、家族の糸、生い立ちの糸などなど。
それを「運命」という。

が、「運命」は、自分で作っていくもの。
一見矛盾した考えに思う人もいるかもしれない。
自分の力では、どうにもならない力を運命という。
「しかしその運命は、自分で作るものとは、どういうことか」と。
しかしそのときは、こう考えたらよい。

その「糸」は、ふつうは見えない。
見えないが、自分のことがわかればわかるほど、
それが見えてくる。
それが見えるか見えないかは、その人自身の(視野の広さ)による。
視野さえ広めれば、そこにある(糸)が見えてくる。
糸さえ見えれば、自分で自分の運命をコントロールすることができる。
自分の運命を、自分で作ることもできる。
作り変えることもできる。

++++++++++++++++++++

●たとえば

 たとえばこんな例で考えてみよう。
もちろんここに登場する母親は、架空の女性である。
いろいろなケースを、ひとつにまとめた。

●子どもの非行

 最初に断っておく。
子どもが非行に走ったからといって、子育てに失敗したということではない。
今どき、非行など、珍しくも何ともない。
もう少しマクロな見方をすれば、まじめで(?)、何ごともなく青春期を過ごした
子どもほど、あとあと何かと問題を起こすことがわかっている。
あれこれと非行を経験した子どものほうが、のちのち常識豊かな子どもになる。
教育の世界では常識。
「教育がしにくい」というだけで、ほかに問題があるわけではない。
(だからといって、非行を奨励するわけでもないが……。)

●母親の視野

 が、視野の狭い母親ほど、自分の子どもが何かの事件を起こしたりすると、
あわてふためく。
ギャーギャーと泣き叫んで、大騒ぎをする。
そして本来なら、軽く乗り越えられるような問題まで、より深刻にしてしまう。
こんな例で考えてみよう。

●3人も強制退学

 その母親には、3人の子どもがいた。
上から、(男)(女)(男)である。
が、3人とも、高校生のとき、強制退学。
それぞれが傷害事件を起こした。

 こういうケースのばあい、まず疑ってみるべきは、母親の育児姿勢。
1例とか2例なら、同じようなことがつづくことはある。
しかし3例ともなったら、原因は、環境にあるとみる。
なかんずく母親の育児姿勢にあるとみる。
が、残念なことに、その母親には、それを理解するだけの知的能力がなかった。
いや、自分では、「賢い、頭のいい女性」と思い込んでいた。

 繰り返すが、子どもが強制退学になったからといって、「失敗」という
ことではない。
子どもたちに問題があったということでもない。

●夫の責任

 子育てで何がこわいかといって、親の独善と独断ほど、こわいものはない。
その母親のばあいも、住んでいる世界そのものが、小さかった。
それに自分と同じレベルの人だけの世界で住んでいた。
が、それでいて、先にも書いたように、「私は賢い、頭のいい女性」と思い込んでいた。

 で、こういうケースのばあい、そばにいる夫が妻を指導しなければならない。
しかしその夫も、趣味は、パチンコ。
これではたがいに、向上しあうことなど、夢のまた夢。

 その女性は、いつもこう言っていた。
「子どもに教育をつけると、遠くへ行ってしまう。だから、損」と。

●レベルの高い人

 母親は、つねに視野を広くする。
「視野を広くする」というのは、内面世界を豊かにすることをいう。
外面的な虚勢を張りあうことではない。
そのためには、つねに自分よりレベルの高い人と交際する。
これは恩師のTK先生が教えてくれたことである。

 そしてできれば、……というより、同時に、自分の周囲からレベルの
低い人を遠ざけることも忘れてはいけない。

 私もある時期、たいへん小ずるい男性と交際したことがある。
気がついてみると、私自身も、たいへん小ずるいものの考え方をしていることを知った。
人間というのは、こうしてたがいに感化しあう。

●長女、二男

 長男が傷害事件を起こしたとき、その母親は、ガミガミというより、ギャンギャンと
子どもを叱った。
来る日も来る日も、子どもを叱った。
「私は苦労してあんたを育てた」「塾の送り迎えで苦労した」「親の恩を忘れたのか」
「世間に顔向けができない」と。

 長女はと二男は、同時期に暴走族に加わった。
暴走族同士の抗争事件を引き起こし、警察に逮捕。
そのまま高校は強制退学。

 再びその母親は、ガミガミというより、ギャンギャンと子どもを叱った。
来る日も来る日も、子どもを叱った。

●子どもは家族の代表

 こういう話を見聞きすると、私はすぐこう思う。
「責められるべきは母親のほうであって、子どもたちではない」と。
子どもは家族の(代表)にすぎない。
それがわかるか、わからないかは、親の視野の広さによる。

 が、たいへん悲しいことに、その母親には、その視野の広さがなかった。
ウソと虚栄のかたまり。
ひとつのウソをごまかすために、つぎのウソをついた。
あとは、その繰り返し。

 子どもたちが強制退学になったことについても、「学校が正しい判断をしなかった」
「相手の子どもが悪い」「うちの子は、たまたま事件に巻き込まれただけ」と主張した。

 その結果、子どもたち自身も、ますます自分を見失っていった。

●不幸の連鎖

 長男と長女は、そのまま家出。
二男はしばらく家を出入りしていたが、母親は、「近所に恥ずかしい」という理由で、
それを許さなかった。

 で、それから10年。
現在、長男と二男は、離婚。
これについても、「離婚したから、子育てで失敗した」と書いているのではない。
問題は、そのあと。
それぞれ2人の子ども(その女性の孫)がいるが、養育費すら満足に払えない状態が
つづいている。

これについても、その女性は、「(孫を)相手の嫁に取られたのだから、養育費など
払う必要はない」とがんばっている。
調停員が、「あなたは連帯保証人になっている」と、いくら説明しても、その女性には
それを理解する能力さえない。

●失敗

 もしこういうケースで、「失敗」という言葉を使うとしたら、子どもたちが退学
させられたり、良好な家庭を築けなかったことではない。
離婚にしても、いまどき、何でもない。

「失敗」という言葉を使うとしたら、子どもたちの能力を、じゅうぶん、
引き出せなかったこと。
よき家庭人として、自立させられなかったこと。
ついでに言えば、孫たちの養育費すら払わず、責任逃れをしていること。
そういう無責任な人間になってしまったこと。

 で、こうした一連の(流れ)を、外から見ると、そこに一本の(糸)があることが
わかる。
その糸が順につながって、その女性の現在の状況を作りあげている。

●自分で作る運命

 その女性は、たぶん心のどこかで、自分の運命をのろっているかもしれない。
最初の話にもどるが、その女性が現在の状況になったのは、(なった)というよりは、
(作り出した)のは、その女性自身の育児姿勢にある。
自ら(糸)を作り、自らその(糸)に巻き込まれていった。

 が、自分を見つめる視野そのものが狭い。
だからそういう(糸)があることにさえ、気づいていない。

 私が知るかぎり、その女性は、口がうまく、不誠実だった。
言っていることのうち、10に1つも、本当のことがない。
そういう女性だった。

 しかしその女性がそういう女性になったのは、その女性の生まれ育った家庭環境に
あった。
視野を広めていくと、そういうことまでわかるようになる。

●運命と闘う

 そこにある運命と闘うためには、まず自分の視野を広くすること。
視野が広くなればなるほど、そこに(糸)が見えてくる。
その糸さえわかれば、自分でその糸をほぐすことができる。
運命の糸を、ほぐすことができる。

 ではどうしたらよいか……ということをわかってもらいたかったから、
架空の女性だが、1人の女性を例にあげて、考えてみた。
私たちは、その反対のことをすればよい。
それが運命と闘う方法のひとつということになる。

(今日の教訓)

そこに運命があるなら、視野を広くせよ。
文化に親しみ、教養を深くせよ。
運命は、それを恐れれば、キバをむいてあなたに襲いかかってくる。
しかし一度受け入れてしまえば、向うからシッポを巻いて逃げていく。

不誠実、愚かさは、視野を狭くする。
その視野の狭さが、やがてあなたを袋小路に追いつめる。
あなたは運命に翻弄され、暗闇の中で、もがき、苦しむ。
あとは、あなたの勇気だけ。
それさえあれば、霧に包まれた原野の向うに、一本の道が見えてくる。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司※

●教育費の公的支出割合

++++++++++++++++++++++++++++++

日本の公的支出割合は、OECD(経済協力開発機構)の
調査によれば、対GDP比において、日本は3・3%と、28
か国中、下から2番目だった(2009年9月9日)。

わかりやすく言えば、その分だけ親の負担が大きいということ。
「全教育費に占める私費負担の割合は、33・3%と、
韓国に次いで、2番目に高く、平均の2倍以上だった」(中日新聞)と。

++++++++++++++++++++++++++++++

●子ども大学生、親、貧乏盛り(When boys are Univ. students, Parents in Japan are the 
poorest.)

++++++++++++++++++

8年前(2001年)に書いた
原稿を、再掲載。

++++++++++++++++++

子どもの教育費を考える法(学費を安くせよ!)

親が子どもの学費で苦労するとき

●親、貧乏盛り  

 少子化? 当然だ! 都会へ今、大学生を一人送ると、月々の仕送りだけで、毎月二七万
円(九九年東京地区私大教職員組合連合調べ、学費含む)(※)。が、それだけではすまな
い。アパートを借りるだけでも、敷金だの礼金だの、あるいは保証金だので、初回に四〇〜五
〇万円はかかる。それに冷蔵庫、洗濯機などなど。パソコンは必需品だし、インターネットも常
識。となると、携帯電話のほかに電話も必要。入学式のスーツ一式は、これまた常識。世間は
子どもをもつ親から、一体、いくらふんだくったら気がすむのだ! そんなわけで昔は、『子ども
育ち盛り、親、貧乏盛り』と言ったが、今は、『子ども大学生、親、貧乏盛り』という。大学生を二
人かかえたら、たいての家の家計はパンクする。

●親の負担が大きい日本

 一方、アメリカでもオーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなけ
ればならないほど、少ない。たいていは奨学金を得て、大学へ通う。企業も税法上の控除制度
があり、「どうせ税金に取られるなら」と、奨学金をどんどん提供する。しかも、だ。日本の対G
NP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツに少ない。欧米各国が、七〜九%
(スウェーデン九・〇、カナダ八・二、アメリカ六・八)。日本はこの一〇年間、毎年四・五%前後
で推移している(UNESCO調べ)。大学進学率が高いにもかかわらず、対GNP比が少ないと
いうことは、それだけ親の負担が大きいということ。日本政府は、あのN銀行という一銀行の救
済のためだけに、四兆円という大金を使った。それだけのお金があれば、全国二〇〇万人の
大学生に、それぞれ二〇〇万円ずつの奨学金を渡せる!

●もの言わぬ従順な民

 が、日本人はこういう現実を見せつけられても、誰も文句を言わない。教育というのはそうい
うものだと、思い込まされている。いや、その前に日本人の「お上」への隷属意識は、世界に名
だたるもので、戦国時代の昔から、そういう意識を徹底的にたたき込まれている。いまだに封
建時代の圧制暴君たちが、美化され、英雄化され、大河ドラマとして放映されている! 日本
のこの後進性は、一体、どこからくるのか。親は親で、教育といいながら、その教育を、あくま
でも個人的利益の追求の場と位置づけている。世間は世間で、「あなたの子どもが得をするの
だから、その負担はあなたがすべきだ」と考えている。だから隣人が、子どもの学費で四苦八
苦していても、誰も同情しない。こういう冷淡さが積もりに積もって、その負担は結局は、子ども
をもつ親のところに集中する。

 日本の教育制度は、欧米に比べて、三〇年は遅れている。その意識となると、五〇年は遅
れている。かつてジョン・レノンが日本の税関で身柄を拘束されたとき、彼はこう叫んだ。「こん
なところで、子どもを育てたくない」と。「こんなところ」というのは、日本のことをいう。彼には彼
なりの思いがいろいろあって、そう言ったのだろうが、それからほぼ三〇年。この状態はいま
だに変わっていない。もしジョン・レノンが生きていたら、きっとこう叫ぶに違いない。「こんなとこ
ろで、孫を育てたくない」と。私も三人の子どもをもっているが、そのまた子ども、つまりこれか
ら生まれてくるであろう孫のことを思うと、気が重くなる。日本の少子化は、あくまでもその結果
でしかない。

(参考)
※……東京地区私立大学教職員組合連合の調査(一九九九年)によると、関東圏内の三一
の私大に通う大学生のうち、約九三〇〇人の学生について調べたところ、次のようなことがわ
かったという。親の平均年収       ……一〇三四万円(前年度より二四万円減)
受験費、住居費、学費、仕送りの合計金額 ……三二二万円
子どものために借金した親        ……二八・〇%(自宅外通学のばあい)
親の平均借り入れ額           ……一七六万円
教育費の負担が「たいへん重い」と答えた親……四四・六%
 このため、子どもの学費は、親の年収の三一・八%を占め、平均仕送り額は、一二万一〇〇
〇円。そこから家賃の五万六九〇〇円を差し引くと、自宅外通学生の生活費は六万四〇〇〇
円ということになる(以上一九九八年度)。

(参考)

●かたよった日本の行政予算

 これは2001年度、静岡県浜松市における予算案だが、それによれば、歳出のうち、土木費
が25・0%、民生費が19・5%、公債費が12・1%、教育費が10・3%、衛生費が9・4%、以
下総務費9・3%、商工費4・5%、となっている。

 教育費が少ないのはともかくも、土木費が25%(4分の1)というのは、世界的にみても異常
としか言いようがない。家計にたとえるなら、月収50万円の人が、毎月、13万円ものお金を家
や庭の増改築に使っているようなものだ。こうしたいびつな予算配分が、結局は子どもをもつ
親の負担となってはね返ってくることを忘れてはならない。

+++++以上、2001年ごろ書いた原稿より(中日新聞掲載済み)+++++

 この中で、1999年の調査結果を書いた。
ここに出てくる数字と、今回公表された数字を比較してみたい。

【1999年】

スウェーデン9・0、カナダ8・2、アメリカ6・8)。日本はこの10年間、毎年4・5%前後で推移し
ている(UNESCO調べ)。

【2006年】(今回、公表)

アイスランド……7・2%
デンマーク、スウェーデンとつづき、
日本は、2005年の3・4%より、さらに0・1%さがり、3・3%。

とくに大学などの高等教育費は、0・5%と、各国平均の1%の半分以下!
『子ども、大学生、親、貧乏盛り』の意味は、ここにある。

 今回政権を取った民主党は、これを5%にするといっている。
おおいに期待したい。
が、同時に、こんなことも言える。

 私などは国民年金しかないので、死ぬまで働くしかないと思っている。
が、その一方で、月額30万円前後の年金を手にして、優雅な生活を楽しんでいる
老人も多い。
そういう老人個人には、責任はないが、こんな偏(かたよ)った行政予算をしている
国は、OECDの調査結果を見てもわかるように、この日本だけ。

 どうして元公務員たちの年金が、私たちの5倍近くもあるのか!
最近、私の友人はこう言った。

「この日本では、自営業など、バカ臭くて、そのうちだれもしなくなるだろう」と。
ホント!
江戸時代の士農工商という身分制度が、形を変えて、そのまま現代の世界に復活している。
「士」だけが特権階級を形成し、残りの93〜94%の民衆は、増税にあえぐ。

 そのあたりから根本的に改善しないかぎり、結局はそのしわ寄せは、子どもをもつ
親にのしかかってくる。

 それにしても、たったの3・3%とは!
その一方で、土木費が、25%!
どこの公共施設も、超の上に超がつくほど、立派。
豪華。
そんな施設の中で、何が、「育児相談会」だ。
笑わせるな!


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

●9月11日

++++++++++++++++++

リバウンドが始まった?
旅行先で、ごちそうを食べたのが悪かった?
……おととい、恐る恐る体重計に乗ったら、
何と、62・5キロ!
2・5キロのオーバー。
たった、1日か2日で、2・5キロもオーバーとは!

あわてて食事制限+運動。
昨夜は、1時間ほど、汗をかいてサイクリングした。
で、今朝は、……60・1キロ。
ホ〜〜ッ!

++++++++++++++++++

●バカな人

そこにバカな人がいても、相手にしてはいけない。
そこにバカな人がいるということを、知るだけでよい。
そういうバカな人が、この世にいることを知るだけでよい。
つまりそういうバカな人もいることを前提で、ものを考え、行動する。

そこにいるバカな人を、1人や2人、相手にしても、世の中は何も変わらない。
相手にすればするほど、無駄なエネルギーを消耗する。
不愉快な思いをする。

無視して、あとは遠ざかる。
そしてその分、社会全体、日本全体をながめる。
自分の行動を決める。
その中でものを考え、ものを書く。
それが賢い生き方。

(注)「バカなことする人をバカという。頭じゃないのよ」(映画「フォレスト・ガンプ」)。

●妄想

(こだわり)と(妄想)。
密接に関連している。
こだわりが強くなればなるほど、妄想が生まれる。
さらに(うつ病)と(こだわり)。
密接に関連している。
うつ病がひどくなると、こだわりもひどくなる。
そのことばかりに、こだわり、悶々とした気分になる。(……らしい。)

うつ病というと、当人の問題だけと考える人は多い。
しかし周りの人たちに与える影響も、大きい。
その人がうつ病とわかっていれば、それでよい。
が、わからないと、周りの人たちが、それによって振り回される。
もちろんうつ病といっても、症状はさまざまだが……。

さらに高齢者になると、(うつ病)と(認知症)の問題が起きる。
うつ病から認知症になる人もいれば、反対に認知症からうつ病になる人もいる。
同時進行の形で、その両方になる人もいる。
そうした区別は、専門家でも、むずかしいそうだ。

要するに、(こだわり)をもつようになったら、要注意。
ただひたすら、気分転換、あるのみ。
何でもよい。
それぞれが自分に合った方法で、気分転換をする。
私のばあいは、映画を観に行ったり、温泉に入ったりする。
パソコンショップを歩き回るのもよい。
いちばん効果的なのは、運動。
それに買い物。
音楽をつづけて聴くのもよい。
草刈り機で雑草を刈ったり、畑を耕すのも楽しい。

言い忘れたが、もうひとつ効果的な方法がある。
気分がクシャクシャしたら、こうしてパソコン相手に文章を叩き出す。
それも楽しい。
読んでくれる人には、迷惑なことかもしれないが……。

(補記)

今、ふと、こんなことを思った。
こうしてパソコン相手に、文章を書けるのも、あと何年かな?、と。
頭の働きが鈍くなってきているのが、自分でもわかる。
集中力と根気が、つづかない。
それに油断すると、パソコンの使い方そのもので、迷うことがある。
アルツハイマー病でいう、(手続き記憶の喪失)というのかもしれない。
昨日までできたことが、今日になって、できなくなる、など。

この先、そういうことがふえてくるかもしれない。
あるいは本当に、認知症か何かになってしまうかもしれない。

今のところだいじょうぶとは思うが、……というのも、昨夜も中学生を相手に、
方程式の問題で、競争をしてみた。
私の完勝だった。
ほっとした。
が、発症したら最後。
そのあと数年で、頭は使い物にならなくなるという。
(アルツハイマー病については、前兆症状があり、さらに前兆の前兆症状というのも、
あるそうだ。)

今の私は、だいじょうぶかな?、と、何度も頭の中をさぐってみる。

「昨日の昼は、回転寿司屋で、3皿、食べた」
「昨日の夜は、きのこ弁当を食べた」
「中学生と解きあった方程式の問題は……」と。

若いころは、こんなこと、心配したこともなかった。
が、今は、そんな心配ばかりしている。
ああ、これも(こだわり)のひとつか?

これから居間へおりていって、ワイフとバカ話をしてこよう。

みなさん、おはようございます。
今日は、9月11日。
あの「9・11」の9月11日。
「9・11」という数字を見て、何も思い出さないようなら、あなたもあぶない?


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

【家という、監獄】

+++++++++++++++

私の兄は、生涯、「家」という監獄に
閉じ込められた。
みなは、兄のことを、バカだと思っていた。
またそういう前提で、兄を見ていた。
「だから、しかたなかった」と。
しかしこれはまったくの誤解。

兄の感受性は私のそれよりも、鋭かった。
知的能力にしても、少なくとも姉よりは、
ずっと高かった。
そんな兄が、「家」という監獄に閉じ込められた
まま、昨年(08年)、他界した。

そう、兄にとっては、たしかに「家」は
監獄だった。
私にとっても、そうだった。
だから兄の苦しみが、私には、痛いほど、
今、よくわかる。

+++++++++++++++

●兄

 みなさんは、「家制度」というものを、知っているだろうか?
知っているといっても、その中身を知っているだろうか?
「家」に縛られる、あの苦しみを知っているだろうか?

恐らく、今の若い人たちは、それを知らないだろう。
理解することもできないだろう。
自由であることが当たり前だし、自由というのは、自分が自由でなく
なったときはじめて、わかる。
それは空気のようなもの。
空気がなくなって、はじめて、そのありがたさがわかる。
自由も、また同じ。

●家制度

 「家」に縛られる。
「家」あっての、「私」と考える。
江戸時代の昔には、「家」あっての「私」ということになる。
「家」から離れれば、無宿者(むしゅくもの)と呼ばれた。
街角で見つかれば、そのまま佐渡の金山送りとなった時代もある。
あるいは無頼(ぶらい)とか、風来坊(ふうらいぼう)という言葉もある。
少し意味はちがうが、「家」がなければ、定職につくのも、むずかしかった。

そのため(私)は、「家」を守ることを、何よりも大切にした。
「家」のために(私)が犠牲になることは、当然のことのように考えた。

 ずいぶんと乱暴な書き方をしたが、大筋では、まちがっていない。
そういう前置きをした上で、私は、私の兄について書く。

●江戸時代

 こう書くからといって、母を責めているのではない。
というのも、母が生きた時代には、まだすぐそこに江戸時代が残っていた。
私はそのことを、満60歳になったときに知った。

 大政奉還によって江戸時代は終わったが、今から130年前のこと。
「130年」というと、若い人たちは、遠い昔に思うかもしれないが、
60歳になった私には、そうではなかった。
私の年齢の約2倍。
「2倍」と言えば、たったの2倍。
私の年齢のたった2倍昔には、そこにはまだ江戸時代が残っていた!

 去年(08年)、私の母は、92歳で他界したが、母にしてみれば、
母が子どものころは、江戸時代はいたるところに残っていた!
江戸時代、そのものといってもよい。

●実家意識

 そのため母がもつ、実家意識と、私たちがもつ、実家意識には、
大きなちがいがあった。
実家意識イコール、先祖意識と考えてよい。

 母は容赦なく、私からお金を奪っていったが、母にすれば、
それは当然の行為ということになる。
あるとき私が、あることで泣きながら抗議すると母は、ためらうことなく
こう言った。

 「親が実家を守るため、子(=私)の金(=マネー)を使って
何が悪い!」と。

 母は、私から言葉巧みに土地の権利書を取り上げると、その土地を
転売してしまった。
土地を母名義のままにしておいたのが、悪かった。

●栄養不足

 兄は、母の言葉を借りるなら、「生まれながらにして体が弱かった」。
母がそう思った背景には、母なりの理由がある。
長男の健一は、生まれるとまもなく、小児麻痺になった。
そして私が3歳のとき、日本脳炎で、死んでしまった。
そのあと、もう1人、兄がいたが、死産だった。
そのあと、もう一人の兄、準二が生まれた。
戦時中の貧しい時代のことで、栄養失調などというものは、あたりまえ。
国民病のようにもなっていた。

 私が子どものころでさえ、砂糖水がミルクの代わりに使われていた。
私もよく飲まされた。
兄は、恐らくもっと多量に飲まされていたにちがいない。
それだけが原因だったとは言えないが、たしかに兄は、弱かった。
今で言う脳水腫のようなものを起こしたのではなかったか。
背も低かった。
おとなになってからも、身長は、150センチ前後しかなかった。

●長子相続

 「家制度」は、「長子相続」が基本。
「長男が家を継ぐ」というのが、原則だった。
そのため父母はもちろんのこと、祖父母も、兄に大きな期待を寄せた。
同時に、兄に、スパルタ教育を試みた。

 アルバムを見るかぎり、中学を卒業するころまでは、兄は、どこにでも
いるような、ごくふつうの子どもだった。
明るい笑顔も残っていた。
その兄がおかしくなり始めたのは、兄が17、8歳くらいからのこと
ではなかったか。

 兄は、(跡取り息子)というよりは、(奴隷)に近かった。
もともと静かで、穏やかな性質だったが、それが父や母には気に入らなかった。
毎日のように兄は、父や母に叱られた。
怒鳴られた。
加えてやがて、家族からも孤立し始めた。
私とは9歳、年が離れていたこともある。
私は、兄といっしょに遊んだ記憶が、まったく、ない。
私は、父や母の関心が兄に集中する一方で、放任された。
私にとっては、それがよかった。
兄とは正反対の立場で、毎日、父や母の目を感ずることなく、遊んでばかりいた。

●心の監獄

 今になって江戸時代の、あの封建主義時代を美化する人は多い。
悪い面ばかりではなかったかもしれないが、しかし封建主義時代がもつ(負の遺産)に
目を向けることなく、一方的に、あの時代を礼賛してはいけない。

 家制度のもつ重圧感は、それを経験したものでないとわからない。
説明のしようがないというか、それは10年単位、20年単位でつづく。
いつ晴れるともわからない、悶々とした重圧感。

が、あえて言うなら、本能に近い部分にまで刷り込まれた、監獄意識に近い。
良好な家族関係、人間関係があるならまだしも、それすらないと、そこは
まさに監獄。
心の内側から、肉体を束縛する監獄意識。

 この私ですら、そうだったのだから、兄が感じたであろう重圧感には、
相当なものがあるはず。
監獄から逃げる勇気もなかった。
その能力もなかった。
それ以上に、兄の精神は、20歳になるころには、すでに萎縮していた。
父は、親絶対教の信者。
母は、口答えすら許さない権威主義者。
そういう環境の中で、兄は、なるべくして、あのような兄になっていった。

●意識

 が、意識というのは、おかしなもの。
私自身は戦後の生まれで、戦後の教育を受けた。
にもかかわらず、はじめてオーストラリアへ渡ったとき、そこで受けたのは、
ショックの連続だった。

 日本でいう上下意識がなかった。
 日本でいう家父長意識がなかった。
 日本でいう男尊女卑思想がなかった。
 もちろん長子存続意識もなかった。
 さらにこんなことにも驚いた。

 友人の家族だったが、年に2度も引っ越した。
オーストラリア人は今でもそうだが、収入が増えると、それに見合った
家に移り住んでいく。
「家を売り買いする」という意識そのものが、私の理解を超えていた。
「家」を売り買いするという意識そのものが、私には理解できなかった。
今から思うと、あのとき、その話を聞いて驚いたということは、それだけ
私の意識が、オーストラリア人のそれと、ズレていたことを示す。

●兄

 兄は、自分で考える力すら、失っていた。
してよいことと、悪いことの判断すら、できなかった。
そのため常識はずれな行動が目立った。
こんなことがあった。

 私が30歳のときのこと。
高校の同窓会があった。
私は恩師へのみやげということで、ジョニ黒(ウィスキー)を
用意して、もっていた。
が、その日の朝、見ると、フタが開けられ、上から3〜4センチくらい、
ウィスキーが減っていた。

 兄の仕業ということはすぐわかった。
で、兄にそれを叱ると、悪びれた様子もなく、兄は、こう言った。
「ちょっと飲んでみたかっただけや」と。

 一事が万事、万事が一事だった。

●マザコン

 それで母の過干渉が終わったわけではない。
今にして思うと、ほかに類をみない、異常なまでの過干渉だった。
たとえば兄を、自転車屋という店に縛りつけたまま、一歩も、外に出さなかった。
友人も作らせなかった。
「おかしな連中とつきあうと、だまされるから」というのが、母の言い分だった。

 兄は、そんなわけで生涯にわたって、給料なるものを手にしたことはない。
ときどき小遣いという名目の小銭をもらい、そのお金でパチンコをしたり、
レコードを買ったりしていた。

 そんな母だったが、兄は、母の言いなりだった。
嫌われても、嫌われても、兄は母の言いなりだった。
何かあるたびに、兄は、こう言った。
「(そんなことをすれば)、母ちゃんが怒るで……」と。
母の機嫌をそこねるのを、何よりも、こわがっていた。

●母との確執

 私が30歳を過ぎたころ。
兄は40歳になりかけていた。
そのころ、私は兄を、浜松へ呼びつける覚悟をした。
祖父が他界し、父も他界していた。
「母と兄を切り離さなくてはいけない」と、私は決心した。

 すでに兄は、うつ病を繰り返していたし、持病の胃潰瘍も悪化していた。
内科の医師はこう言った。
「潰瘍の上に潰瘍ができ、胃全体が、まるでサルノコシカケのように、
なっています」と。

 血を吐いたことも、たびたびある。
そういう兄を知っていたから、私は母と言い争った。
「兄を浜松へ、よこせ!」
「やらない!」と。

 母は、兄を自分の支配化に置き、自分の奴隷として使うことしか考えていなかった。
心理学で言う、「代償的過保護」というのである。
「過保護」というときは、その裏に、親の愛情がある。
その過保護に似ているが、代償的過保護というときには、その愛情がない。

 一時は、1週間にわたって、母と怒鳴りあいの喧嘩をしたこともある。
はげしい喧嘩だった。
が、母には勝てなかった。
兄は兄で、母の呪縛を解くことができなかった。
私は引き下がるしかなかった。

●母の愛

 「愛」という言葉がある。
しかしこと私の母に関して言うかぎり、「愛」という言葉ほど、白々しい
言葉はない。

 もっとも母は、「愛」という言葉は使わなかった。
「かわいい」という言葉を使った。
「準ちゃん(=兄)は、かわいい」
「私は準ちゃんを、かわいがっている」というような言い方をした。

 母は、自分に従順で、口答えしない子どもが、「かわいい子」と言った。
そういう観点から見れば、私は、「鬼っ子」ということになる。
私は、ことあるごとに母に逆らった。
私のほうが生活の主導権を握っていたということもある。
母にはもちろん、兄にも、生活能力は、ほとんどなかった。
生活費は、すべて私が出した。
税金はもちろん、近親の人の香典まで……。

●泣き落とし

 そこで母が私に使った手は、泣き落としだった。
母は、いつも貧しく、弱々しい母を演じた。
そういう話になると、いつも涙声だった。
(涙は、ほんとうは一滴も出ていなかったと思うが……。)

 「母ちゃんは、近所の人が分けてくれる野菜で、生きていくから
心配しなくていい」というのが、母の口癖だった。
が、そう言われて、「はい、わかりました」と言う息子はいない。

 私はこうして母に、お金を貢いだ。
実家へ帰るたびに、20万円とか30万円(当時の金額)という現金を、母に渡した。

●家族自我群

 それでも私は自由だった。
浜松という土地で、好き勝手なことができた。
結婚し、3人の子どもをもうけることもできた。
そんな私でも、心が晴れたことは、一日もなかった。
本当になかった。

 心理学の世界には、「家族自我群」という言葉がある。
無数の「私」が、家族という束縛の中で、がんじがらめになっている状態をさす。
それから生まれる呪縛感には、相当なものがある。
「幻惑」という言葉を使って、それを説明する学者もいる。

 切るに切れない。
無視することもできない。
「私は知らない」と、放り出すこともできない。
それは悶々と、真綿で首を絞めるような苦しみと表現してもよい。
そんな中、母が私をだますという事件が起きた。
それについては、先にも書いた。

●家の犠牲

 私は「家」の犠牲になった。
兄は、さらに犠牲になった。
生涯、「女」も知らず、結婚もせず、一生を終えた。
一度だけだが、兄にも結婚の話があった。
しかし母がそれを許さなかった。
「結婚すれば、嫁に財産を奪われてしまう」と。

 で、ある日、私は兄を、浜松へ遊びに来たついでに、トルコ風呂へ連れて
いったことがある。
兄に「女」を経験させてやりたかった。
しかし入り口のところで兄は、固まってしまった。
「さあ、いいから、中へ入れ」と何度も促したが、兄は入らなかった。
そこがどういうところかも理解できなかった。

 そう、そのころから、兄は、私の兄というよりは、私の弟という
存在になった。
さらに私の息子という存在になった。

●兄の死

 こうして兄は、2008年の8月、持病を悪化させ、最後は胃に穴をあけられ、
肺炎で他界した。
作った財産は、何もない。
残した財産も、何もない。
あの「林家」という「家」に縛れられたまま、そこで生涯を終えた。

 冒頭の話に戻るが、だからといって、母にすべての責任があるわけではない。
母は母として、当時……というより、自分が生まれ育った時代の常識に従った。
ここでいう「家制度」というのも、そのひとつ。

 今でも、この「家制度」は、あちこちに残っている。
地方の田舎へ行けば行くほど、色濃く残っている。
そういう意識のない人たちからみれば、おかしな制度だが、そういう意識を
かたくなに守っている人も少なくない。

●家に縛られる人たち

 私の知人に、D氏(50歳)という男性がいる。
父親との折り合いが悪く、同居しながらも、子どものころから、たがいに口を
きいたこともない。

 父親は、きわめて封建的な人で、家父長意識がその村の中でも、特異とも
言えるほど、強い。
母親は、穏やかでやさしい人である。
そのため、一歩退いた世界から見ると、母親は、父親の奴隷そのものといった
感じがする。

 が、D氏は、その「家」を離れることができない。
なぜか?
ここに(意識)の問題がある。
D氏をその家に縛っているのは、もちろんD氏の意識ではない。
D氏自身は、一日でもよいから、父親のもとを離れたいと願っている。
が、それができない。

 それが家族自我群ということになる。
深層心理の奥深くから、その人を操る。
理性や知性の範囲を超えているから、自分でそれをコントロールすることは、
ほぼ不可能と考えてよい。

 私も何度か、「親と別れて住んだらいい」とアドバイスしたことがあるが、
そういう発想というか、意識そのものがない。
ないというより、もてない。
「何十代もつづいた家だから」というのが、その理由である。

 しかしはっきり言おう。
そういうくだらない考えは、私たちの時代で終わりにしたい。
「家」が大切か、「私」が大切かということになれば、「私」に決まっている。
「家を継ぐ」とか、「継がない」という発想そのものが、時代錯誤。
バカげている。
が、それがわからない人には、それがわからない。

 D氏は死ぬまで、結局は、「家」に縛られるのだろう。
しかし先日、古里と決別した、私から一言。

 「家意識なんて、棄ててしまえ!」。
「『私』を、鎖から解き放て!」。

 そこは自由で、どこまでもおおらかな世界。
D氏よ、何を恐れているのか?
何を失うことを、心配しているのか?

 あなたが自由になったところで、あなたは何も失わない。
あれこれと言う連中はいるだろうが、そういうバカな連中は相手にしなくてもよい。
相手にしてはいけない。
どうせ化石となって、消えていく運命にある連中なのだから……。

●兄へ
 
 兄は、死ぬことで、「家」から解放された。
運命と言えば、それが運命だった。
またそれ以外、方法はなかった。
運命と闘い、それを切り開く能力もなかった。
本来なら、いちばんそばにいて、兄を助けるべき母が、それをはばんでしまった。

 私のワイフは、よくこう言った。
「あなたの兄さんは、気の毒な人ね」と。
最近になって、つまり兄が死んでから、近所の人たちも、そう言うように
なった。
「あなたの兄さんは、気の毒な人だった」と。

 その「気の毒」という言葉の中に、兄の人生のすべてが集約されている。
それが兄の人生だった。

(補記)

 こうして兄のことを、包み隠しなく書くのは、兄のためである。
もしこのままだれも兄についての記録を残さなかったら、兄は、本当に
ただの墓石になってしまう。

 兄だって、懸命に生きた。
苦しみながら生きた。
その記録を残すのは、私という弟の義務と考える。
今、同じような境遇で苦しんでいる人のために、一助になればうれしい。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep・09++++++++++はやし浩司

●ジョーク

「世界おもしろジョーク集」(PHP判)の中の1つを、
編集させてもらう。

+++++++++++++++

あるとき、釈迦が、ある村にやってきた。
家制度がしっかりと残っている村だった。
釈迦は、その村で、3日間、説法をすることになった。

(第一日目)

釈迦がこう言った。
「みなさんは、家制度というものを知っているか?」と。
すると、みなは、こう言った。
「知っていま〜す」と。
すると釈迦は、こう言った。
「そうか、それなら、何も話すことはない。今日の説法はおしまい」と。

村の人たちは、みな、顔を見合わせた。
そこでこう決めた。
「明日、釈迦が同じ質問をしたら、みな、知らないと答えよう」と。

(第2日目)

釈迦がこう言った。
「みなさんは、家制度というものを知っているか?」と。
すると、みなは、こう言った。
「知りませ〜ん」と。
すると釈迦は、こう言った。
「そうか、それなら、何を話しても無駄だ。今日の説法はおしまい」と。

村の人たちは、みな、顔を見合わせた。
そこでこう決めた。
「明日、釈迦が同じ質問をしたら、右半分の人は、『知っている』と
答え、左半分の人は、『知らない』と答えよう」と。

(第3日目)

釈迦がこう言った。
「みなさんは、家制度というものを知っているか?」と。
すると、右半分の人たちは、「知っていま〜す」と答えた。
左半分の人たちは、「知りませ〜ん」と答えた。
すると釈迦は、こう言った。
「そうか、それなら、右半分の人が、左半分の人に、家制度がどういう
ものか、話してあげてください。今日の説法はおしまい」と。

釈迦の3日間の説法は、それで終わった。

(以上、「世界おもしろジョーク集」を改変、編集。)

++++++++++++++++

●自己否定

 少し不謹慎なジョークに仕立ててしまったが、そこは許してほしい。
こうした意識の奥深くに潜む意識の問題について書くのは、たいへんむずかしい。

 本人自身にその自覚があれば、まだよい。
さらにそれに対する問題意識があれば、まだよい。
が、それすらないとなると、その説明すらできない。
「家制度」そのものが、その人の哲学(?)や、ものの考え方の基本になって
いることもある。
へたにそれを否定すると、その人にとっては、自己否定そのものにつながって
しまう。
「あなたの人生はまちがっていました」「あなたは無駄なものを大切なものと
思い込んでいただけです」と。

 だからこのタイプの人は、抵抗する。
命がけで抵抗する。
そういうとき、決まって、「先祖」という言葉をよく使う。
「先祖あっての、あなたではないか」「その先祖を粗末にするとは何事か」と。
中に、「先祖を否定するあなたは、教育者として失格だ。
即刻、教育者としての看板をさげろ」と言ってきた女性(当時、35歳くらい)
がいた。
(この話は、ホントだぞ!)

 私は何も、先祖を否定しているわけではない。
「教育者」を名乗っているわけでもない。

●D氏のばあい

 先に書いた、D氏のばあい、盆供養のときは、位牌だけでも、
100個近く並ぶという。
昔からの家柄である。
そういう伝統を、D君の代で断ち切るというのは、D君自身にもできない。
できないというより、それをするには、大きな勇気がいる。
親戚の承諾も必要かもしれない。

 が、こういうケースのばあい、不要な波風を立てるよりは、安易な道を選ぶ。
選んで、現状維持を保つ。
こうしてD氏自身も、やがて「家制度」の中に組み込まれていく。

 そこで大切なことは、「私の代で、こうした愚劣な制度はやめにする」と
決意すること。
宣言すること。
子どもたちにそれを伝えて、よいことは何もない。
今度は、その子どもたちが苦しむことになる。

 が、実際には、高齢になればなるほど、それができなくなる。
家制度そのものは、高齢者にとっては、けっこう、居心地のよい世界である。
家父長として、みなの上に、君臨できる。
そのためものの考え方も、どうしても保守的になる。
こうして再び、ズルズルと、家制度をそのままつぎの世代へと残してしまう。
つぎの世代はつぎの世代で、同じようなプロセスを経て、同じように考える。

●周りの人たち

 そんなわけで周りの人たちが、その渦中で苦しんでいる人を、励まして
やらねばならない。
私も今回、古里と決別するについて、周りの人たちの励ましが、何よりも
大きな力となった。
ある友人は、こう言った。
「檀家なんて、やめてしまえよ」と。
また別の友人はこう言った。
「親が子どもを育てるのは当たり前のことだろ。感謝するとかしないとかいう
問題ではないだろ」と。
うれしかった。

 また長野県のある地方では、自治体ぐるみで、そういった悪習と闘って
いるところもある。
香典の額を、一律、1000円と決めたり、葬儀での僧侶への布施の額を、
一律、5万円と決めるなど。
戒名もひとつにしているという(長野県S市)。

 今、そういう動きが全国的に広がっている。
またその動きは、今後加速することはあっても、後退することはない。
あとは、私たちの勇気だけということになる。

 みなが、一斉に声をあげれば、こうした愚劣な制度は滅びる。
それにしても、21世紀にもなった今、どうして長子相続制度なのか?
家制度なのか?
人間にどうして上下意識があるのか?
バカげていて、話にならない!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 
はやし浩司 長子相続 家制度 家意識 家父長意識 封建制度 はやし浩司 私の兄 先祖
意識 親絶対教)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

【損得論】

●損と得

++++++++++++++++++

60歳をすぎて、「損と得」についての考え方が、大きく変わってきた。
「損とは何か」「得とは何か」と。
それをしみじみと(?)、心の中で思いやりながら、
「老人になるというのは、こういうことなのか」と思う。
「老人」といっても、使い古された、老いぼれた人のことではない。
少し照れくさいが、「円熟した人」をいう。

++++++++++++++++++

●何が損か

 この世の中で、「損かどうか」を考えること自体、バカげている。
どんなにあがいても、「死」というもので、私たちは、すべてを失う。
この宇宙もろとも、すべてを失う。
「死」を考えたら、それほどまでの「大きな損」はない。
たとえばあなたが地球上の、ありとあらゆる土地を自分のものにしたとする。
北極から南極まで。
一坪残らず、だ。
が、死んだとたん、すべてを失う。
つまり「死」にまさる(?)、損はない。

 これには、自分の死も、相手の死もない。
そのため「死」をそこに感ずるようになると、日常的に
経験する損など、何でもない。
損とは感じなくなる。

●「金で命は買えん」

 たとえば私の友人の中には、数か月で、数億円も稼いだ人がいた。
その友人は、数年前、死んだ。
莫大な財産を残したが、死んだとたん、「彼の人生は何だったのか?」
となってしまった。

私の母ですら、死ぬ直前、こう言っていた。
「金(=マネー)で命は、買えん」と。
あれほどまで、お金に執着していた母ですら、そう言った。

●得

 一方、「得」と思うことも多くなった。
昨日も、秋の空を見たときも、そう思った。
澄んだ水色の空で、白い筋雲が、幾重にも重なって流れていた。
それを見て、「ああ、生きていてよかった」と思った。

 ただ「損」とちがって、「得」という感覚は、実感しにくい。
大きな青い空を見たからといって、大きく得をしたとは思わない。
反対に、小さな花を見たからといって、大きな青い空を見たときに感ずるそれに、
劣るということはない。

 もちろん私も、金権教にかなり毒されている面もあるから、お金は嫌いではない。
たいていのばあい、金銭的な価値に置き換えて、ものの損得を考える。
たとえば予定外の収入があったりすると、「得した」と思う。
しかし同時に、そこにある種の虚しさを覚えるようになったのも事実。
「だから、それがどうしたの?」と。

●長生き

 では、長生きはどうか?
長生きをすればするほど、得なのか、と。
が、これについても、最近は、こう考える。
「それが無駄な生き方なら、長生きしても、意味はない」と。

 「生きることが無駄」と言っているのではない。
「どうせ生きるなら、最後の最後まで、意味のある生き方をしたい」と
いう意味で、そう言う。
もちろん、できれば、長生きしたい。
たった一度しかない人生だから、それは当然のこと。
問題は、どうしたら、意味のある人生にすることができるか、ということ。

●今のままで、よいのか

 未来は現在の延長線上にある。
とするなら、今の生き方が、未来の生き方になる。
となると、「今のままでいいのか」となる。
今、意味のある人生を送っていない私が、この先、意味のある人生を
送れるようになるということは、ありえない。

 言い換えると、今の生き方そのものが、大切ということになる。
「今日」という「今」ではなく、「この瞬間」における「今」ということになる。
「私は、この瞬間において、意味のある生き方をしているのか」と。

●命の換算

 この話は前にも書いたので恐縮だが、テレビでこんな人を紹介していた。
ある男性だが、何かの病気で、2年近い闘病生活のあと亡くなった。
その男性について、妻である女性が、こう言った。

 「がんばって生きてくれたおかげで、娘の家が建ちました」と。

 つまり夫であるその男性が、死の病床にありながらも、がんばって生きて
くれたので、その年金で、娘のための家を建てることができた、と。

 私はその話を聞いたとき、「夫の命まで、金銭的な価値に置き換えて
考える人もいるのだなあ」と驚いた。
まあ、本音を言えば、だれだってそう考えるときがある。
私もあるとき、ふと、こう思ったことがある。

「1年、長生きをして、1年、仕事がつづけられたら、○○○万円、
得をすることになる」と。
しかしこの考え方は、まちがっている。
もしこんな考え方が正しいというなら、私は自分の命すら、金銭的な
価値に置き換えてしまっていることになる。

 仕事ができること自体が、喜びなのだ。
収入があるとすれば、それはあとからついてくるもの。
生きる目的として、収入があるわけではない。

●奇跡

 さらに言えば、アインシュタインも言っているように、「この世に生まれた
ことだけでも、奇跡」ということになる。
(あなた)という人間が生まれるについても、そのとき1億個以上の精子が1個の
卵子にたどりつけず、死んでいる。

 もしそのとき、隣の1個の精子が、あなたにかわって卵子にたどりついていたら、
あなたという人間は、この世には存在しない。
そのことは、二卵性双生児(一卵性双生児でもよいが)を見れば、わかる。
外の世界から見れば、(あなた)かもしれないが、それはけっして、(あなた)
ではない。
他人が見れば、(あなた)そっくりの(あなた)かもしれないが、けっして、
(あなた)ではない。

 つまり私たちは、この世にいるということだけ、この大宇宙を手にしたのと
同じくらい、大きな得をしたことになる。

●統合性の確立

 若いときは、生きること自体に、ある種の義務感を覚えた。
子育ての最中は、とくにそうだった。
働くことによって収入を得る。
その収入で、家族を支える。

 しかし今は、それがない。
どこか気が抜けたビールのようになってしまった。
生きる目的というか、ハリが、なくなってしまった。
「がんばって生きる」とは言っても、何のためにがんばればよいのか。

 そこで登場するのが、「統合性」ということになる。
(自分がすべきこと)と、(現実のしていること)を一致させていく。
それを「統合性の確立」というが、この確立に失敗すると、老後も、みじめで
あわれなものになる。
くだらない世間話にうつつを抜かし、自分を見失ってしまう。
そんなオジチャン、オバチャンなら、いくらでもいる。
あるいは明日も今日と同じという人生を繰り返しながら、時間そのものを無駄に
してしまう。

 が、その統合性の確立には、ひとつの条件がある。
無私、無欲でなければならない。
功利、打算が入ったとたん、統合性は霧散する。
こんな話を、ある小学校の校長から聞いた。

●植物観察会

 ある男性(80歳くらい)は、長い間、高校で理科の教師をしていた。
その男性が、今は、毎月、植物観察会を開いている。
もちろん無料。

 で、雨の日でも集合場所にやってきて、だれかが来るのを待っているという。
そしてだれも来ないとわかると、そのまま、また家に帰っていくという。

 その男性にとっては、植物観察会が生きがいになっている。
参加者が多くても、またゼロでも構わない。
大切なことは、その(生きがい)を絶やさないこと。

 が、もしその男性が、有料で植物観察会をしていたら、どうだろうか。
月謝を計算し、収入をあてにしていたら、どうだろうか。
生徒数がふえることばかり考えていたら、どうだろうか。
同じ植物観察会も、内容のちがったものになっているにちがいない。
つまり、無私、無欲でしているから、その男性の行動には意味がある。
「統合性の確立」というのは、それをいう。

●変化

 損か、得か?
それを考えるとき、これだけは忘れてはいけない。
今、ここに生きていること自体、たいへんな得をしているということ。
それを基本に考えれば、日常生活で起こるさまざまな損など、損の中に入らない。

 そして損ということになれば、「死」ほど、大きな損はない。
それを基本に考えれば、日常生活で起こるさまざまな損など、損の中に入らない。

 つまり生まれたこと自体、大きな得。
死ぬこと自体、大きな損。
私たちは、その得と損の間の世界で、ささいな損得に惑わされながら生きている・

 ・・・というようなふうに、このところ考えることが多くなった。
私自身が「死」に近づいたせいなのか。
それとも「生」の意味が少しはわかるようになったせいなのか。
どうであるにせよ、「損と得」について、私の考え方が大きく変わってきた。
この先のことはわからないが、人は老人になると、みな、そう考えるようになるのか。
それとも、私だけのことなのか。
どうであるにせよ、今は、自分の中で起こりつつある変化を、静かに見守りたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW はやし浩司 老後 損得論 損か得か 自己の統合性 統合性の確立)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep・09++++++++++はやし浩司

●柔軟性(理性vs欲望)

++++++++++++++++++

子どもの世界では、よく柔軟性が問題になる。
「頭のやわらかい子」「頭のかたい子」というような表現の仕方をする。
頭のやわらかい子どもは、融通性があり、機転がきく。
一方、頭のかたい子どもは、融通性がなく、機転がきかない。
「カタブツ人間」(「心理学用語がわかる本」渋谷昌三)
になると言われている。

頭のやわらかい子どものほうが、よいように思える。
が、柔軟性が強すぎてもよくない。
行動が衝動的になったり、ときに人格そのものが
支離滅裂になる。

+++++++++++++++++++++

●柔軟性

 人は常に無意識の世界に支配されながら、考え、行動する。
その無意識の世界を分類すると、(イド)(自我)(超自我)ということに
なる(フロイト学説)。

 「イドとは、無意識的、衝動的な側面で、心のエネルギーの貯蔵庫」(同書)。
「自我とは、パーソナリティの中の意識的な側面」(同書)という(以上、フロイト学説)。

 つまり人は、イドと自我の間で、バランスを取りながら、自分をコントロールする。
イドが強すぎると、欲望に支配され、享楽的な生き方になる。
自我が強すぎると、融通がきかなくなる。
さらに「超自我」(「一般的に道徳心とか良心とよばれるもの」(同書))が強すぎると、
「柔軟性の欠けたカタブツ人間」(同書)になる。

●思考の柔軟性

 子どもの柔軟性(=思考の柔軟性)は、2つに分けられる。

(1)思考の柔軟性
(2)行動の柔軟性

 思考の柔軟性は、たとえば、ジョークを話したときなどに判断できる。
思考が柔軟な分だけ、おとなのジョークもよく理解する。
思考が柔軟でない子どもは、「カタブツ」という言葉で表現される。
言葉を額面通り、受け取ってしまう。
たとえばアスペルガー児などは、この思考の柔軟性が極端に失われた状態の
子どもと考えるとわかりやすい。

 また行動の柔軟性は、たとえば、「がんこ」という言葉で表現される。
「青いズボンでないと、幼稚園へ行かない」とがんばったりする。
一方、行動に柔軟性のある子どもは、その場、その場で、臨機応変に行動を変える。
「これがだめなら、あれが、だめ。あれもだめなら、それにする」と。

 一般的には、思考にせよ、行動にせよ、柔軟性のある子どものほうが、あとあと伸びる。

●自律期

 3〜4歳の「自律期」(エリクソン)においては、一時期、子どもは、柔軟性に欠ける
ようになる。
おとなや先生が言ったことを、かたくなに守ろうとする。
この時期をうまくとらえて指導をすると、しつけがうまくいく。
またこの時期の子育てに失敗すると、子どもは、いわゆるドラ息子、ドラ娘になる。
わがままで自分勝手。
享楽的で、ルールを守れないなど。

 で、その時期を過ぎると、今度は、「自立期」(エリクソン)へと入ってくる。
この時期に、思考が柔軟な子どもほど、あとあと伸びる。
好奇心が旺盛で、触角が四方八方に向いている。
天衣無縫というか、遊びにしても、自分でつぎからつぎへと発明していく。

 反対に、いつも遊びは同じとか、遊び友だちは同じという生活は、子どもには、
好ましくない。
とくに変化の少ない、単調な生活は、子どもの知育の発育の大敵と思うこと。
ほどよい刺激を子どもの周辺に用意するのは、親の務めと考えてよい。

●「超自我」

 超自我・・・いわゆる「理性」ということになる。
脳科学の世界では、人間の理性をコントロールするのは、大脳の中でも前頭前野という
ことになっている。
部位的には、額の部分。
額の奥に、前頭前野がある。
この部分が、人の心や行動をコントロールする。

 しかし万能かというと、そうでもない。
たとえば思春期になると、子どものもつ性的エネルギー(フロイト)は、きわめて
強力になる。
大脳生理学的には、視床下部あたりの働きが活発になり、ドーパミンの分泌が旺盛に
なる。
ドーパミンというのは、欲望と快楽をつかさどる脳内ホルモンをいう。

 こうした働きを、前頭前野だけで、コントロールするのはむずかしい。
むずかしいというより、不可能。
似たような反応に、アルコール中毒症やニコチン中毒症がある。
酒のにおいをかいだり、タバコのコマーシャルを見ただけで、酒を飲みたく
なったり、タバコを吸いたくなったりする。
これは条件反射反応といわれるものだが、意思の力で、それをコントロール
するのは、むずかしい。

●では、どうするか

 要するに、(理性=善)と、(欲望=悪)との戦いということになる。
(ただし欲望イコール、悪ではない。念のため。)
こうした戦いは、何も子どもの世界だけの話ではない。
おとなになってからも、つづく。
老齢期になってからも、つづく。

 だから子どもの問題として考えるのではなく、あなた自身の問題として考えるのがよい。
その結果、つまり「では自分はどうすればいいか」を考えながら、それを子どもの世界
へと、延長していく。
 あるいはあなた自身の青春時代はどうであったかを、みるのもよい。

●精進(しょうじん)

 結局は、「精進(しょうじん)」ということになる。
欲望という悪と戦うためには、日々に研鑚あるのみ。
これは健康論と似ている。

 健康を維持するためには、日々に運動し、体を鍛錬するしかない。
それを怠ったとたん、健康は下り坂へと向かう。
同じように、日々の研鑚を怠ったとたん、心は欲望の虜(とりこ)となる。

 私たちが生きているかぎり、健康に完成論がないのと同じように、理性や道徳に
完成論はない。
ただ幸いなことに、こと性欲に関しては、加齢とともに、弱体化する。
まったくなくなるわけではないが、若いときのように、四六時中・・・ということはない。
また時折泉から湧いてくるメタンガスのようなもので、湧いても、すぐ消える。
あるいは長つづきしない。

 私もある時期、性欲から解放されてはじめて、性欲が何であったかを知った。
同時に、あのすがすがしい解放感を、今でも忘れることができない。

●限界

 ということで、親として、あるいはおとなとして、子どもに対してできることにも
限界があるということ。
自分という親(=おとな)ですらできないことを、どうして子どもに求めることが
できるのか。

 ・・・と書くと、何のためのエッセーかということになってしまう。
そこで重要なのが、子どもの「自我の同一性」ということになる。
これについては、もう何度も書いてきた。
要するに、(自分のしたいこと)を、(生き生きと前向きにしている)子どもは、
それだけ心の抵抗力が強いということ。
心にスキがない。
ないから、悪をはねのけてしまう。
つまりそういう方法で、子どもの心を守る。

●私たちの問題

 私たち親(おとな)も、また同じ。
理性や道徳の力に限界があるなら、それを補うためにも、(自分のしたいこと)を見つけ、
それに向かって(生き生きとする)。
もしあなたが老齢期にさしかかっているなら、(満40歳以後は老齢期だぞ!)、(自分の
すべきこと)を見つけ、それに向かって(生き生きとする)。
(自分のしたいこと)ではない。
(すべきこと)である。
しかもその(すべきこと)は、無私無欲でなければならない。
これを「統合性の確立」というが、打算や功利が混入したとたん、その統合性は霧散する。

 そういう姿を、あなたの子どもが見て、またあなたをまねる。
結局は、それがあなたの子どもを伸ばすということになる。

●柔軟性とは

 話が大きく脱線した。
柔軟性について書きたいと思っていた。
が、こんな話になってしまった。

 しかし思考の柔軟性には、こんな問題も含まれている。
いくら柔軟性があっても、欲望のおもむくまま振り回されていたのでは、
どうしようもない。
一方、人は、自らが不完全であることを恥じることはない。
その(不完全さ)が、無数のドラマを生み、人生を潤い豊かに、楽しいものにする。
要はバランスの問題ということになる。
あるいはときに応じて、カタブツになったり、反対にハメをはずして遊ぶ。
その限度をわきまえる力が、「柔軟性」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW イド 自我 超自我 はやし浩司 融通性 子どもの柔軟性 思考の柔軟性 理性
 カタブツ)


Hiroshi Hayashi++++++++SEP.09+++++++++はやし浩司

●山荘

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今夜は、夜中に山荘にやってきた。
日時は、9月11日。
午後11時45分。
あと少しで、9月12日。

少し前、ワイフはチューハイを一缶飲んだ。
そしてそのまま床の中へ。

私は眠いが、こうしてパソコンを相手に、
文章を書いている。
真新しいパソコンで、キーを叩いているだけで、
気持よい。
TOSHIBAのTX66という機種である。
(パソコンのことを、「機種」と言うのかどうか
知らないが・・・。あるいは「型番」というのが、正しいのか?)

画面は16インチもある。
そのため持ち運びには不便だが、ひとたびデスクに
置けば、あとは楽。
ふつうのデスクトップのようにして、使える。

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●子どものやる気

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J君(小4)という、興味深い
子どもがいる。

毎週1時間30分、その子どもの学習を
みている。
が、1時間30分、勉強するわけではない。
最初の10〜20分は、コミック本を
読んで、時間をつぶす。
それから20〜30分は、だらだらと
勉強らしい勉強もせず、無駄話をして
すごす。

こうしてときに1時間あまり、時間を
無駄にしたあと、何かの拍子にふと
気が向くと、突然、勉強を始める。
が、一度始めると、猛烈な勢いで、
今度は「量」をこなす。
もともと頭の切れる子どもである。
あっという間に、計算問題だと、
40〜50問くらいは解いてしまう。

時間にすれば、20〜30分前後だが、
それでふつうの子どもなら、1時間
30分くらいはかかるような量を、
終えてしまう。

そしてそれが終わると、またいつもの
ように、だらだらし始める。
無駄話を始めて、時間をつぶす。

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●内発的か、外発的か?

 子どものやる気をみるとき、それが内発的(自ら進んでやろうとしている)か、
外発的(親や先生に言われてやろうとしている)かを、みる。
内発的であれば、よし。
そうでなければ、そうでない。

 たとえば子どもの学習の3悪に、(1)条件、(2)比較、(3)無理、強制がある。
条件というのは、「〜〜したら、〜〜を買ってやる」式の条件をつけること。
比較というのは、「〜〜さんは、もうカタカナが書けるのよ」と、子どもをほかの子ども
と比較すること。
無理、強制というのは、能力を超えた学習を子どもに押しつけたり、強制的に子どもを
勉強させることをいう。

 こうした方法は、一時的には効果があっても、長つづきしない。
しないばかりか、それが日常化すると、子どもは、やる気そのものをなくす。

 たとえば冒頭に書いたJ君の例で考えてみよう。
J君は、私の教室(BW教室)へは、小学1年生のときから来ている。
今年で、4年目になる。
当初は、そういうJ君の特性(?)に、戸惑った。
ときには条件をつけたり、あるいは無理に学習に向かわせようとした。
しかし効果はいつも、一時的。

 そこである日から、(というのも、ガミガミ言うのは私のやり方ではないので)、
本人のやりたいようにさせることにした。
その結果が、冒頭に書いたようなやり方ということになる。

●特性

 それぞれの子どもには、それぞれの特性がある。
勉強という(作業)をこなすときには、その特性が、大きくその子どもを左右する。
たとえば集中力についても、持続的に長時間保てる子どももいれば、そうでない
子どももいる。
極端なまでに集中力の欠ける子どもを、「集中力欠如型〜〜」とかというが、しかし
だからといって、それが問題というわけではない。

 最近の調査によれば、チャーチルもモーツアルトも、そしてあのエジソンも、
アインシュタインも、その「集中力欠如型〜〜」(AD・HD児)だったと言われている。
とくにエジソンなどは、ここに書いた、J君とそっくりの特性を示していた。

●天才型

 そういうJ君を指導しながら、よく「この子には、これでいいのだ」と、自分に言って
聞かせる。
あるいはときどき、もし父親が、そういうJ君を、この教室で見たら、どのような
判断をするだろうかと考えるときがある。
「怒って、やめてしまうだろうな」と。

 幸い母親が理解のある人で、また愛情豊かな人のため、J君をおおらかに見ている。
会うたびに、「迷惑ばかりかけて、すみません」と言ってくれる。
本当は、迷惑と感じたことはない。
ただ私流の指導が思うようにできないため、私流にいらいらしているだけなのかも
しれない。

 しかし考えてみれば、私自身にだって、私流の特性がある。
たった今も、この原稿を書いている途中で、ラジコンのヘリコプターの調整のため、
庭へ出て、それを飛ばしてきた。
集中力があるかないかということになれば、・・・というより、特性という点では、
私とJ君は、よく似ている。

 若いときから、そうだった。
だらだらと一定の時間を過ごしたあと、仕事をするときは、一気にする。
それが私のやり方だった。

 反対に、持続的にコツコツと勉強に取り組む子どもも、多い。
しかし期待するほど、効果はあがらない。
そこそこに勉強はできるようにはなるが、そこで止まってしまう。
「天才型」、あるいは、「才能発揮型」の子どもというのは、多くはJ君のような
特性を示す。
指導する側としては、(指導しにくいタイプ)ということになるが、長い目で見れば、
むしろこのタイプの子どものほうが、好ましいということになる。

●避けたい外発的動機づけ

 内発的に子どものやる気を引き出すことを、「内発的動機づけ」という。
(これに対して、条件、比較、無理、強制などにより、外発的に子どものやる気を
引き出すことを、「外発的動機づけ」という。)

 外発的動機づけが日常化すると、子どもは、ものごとに対して依存的になりやすい。
言われたことはするが、それ以上のことはしない。
あるいは言われないと、行動できない、など。
とくに条件が日常化すると、条件なしでは勉強しなくなる。
さらにこの条件は、年齢とともに、エスカレートしやすい。

 幼児のころは、「30分、勉強したら、お菓子一個」ですむかもしれない。
しかし中学生や、高校生ともなると、そうはいかない。
「学年順位が10番あがったら、10万円」となる。

 だから内発的動機ということになる。
子どものやる気を、子どもの内側から自然に引き出す。
そのための方法は、いくらでもある。
またそれを実践していくのが、教育、なかんずく幼児教育ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW やる気 はやし浩司 動機づけ 内発型 外発型 動機づけの3悪
4悪 達成動機)


Hiroshi Hayashi++++++++SEP.09+++++++++はやし浩司※

●子どもの叱り方(How to give a good scolding to Children)

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子どもの叱り方については、たびたび
書いてきた。
本の中でも書いてきたし、雑誌の中でも
書いてきた。
HPの中でも書いてきた。

で、ここでは、その先について書いてみたい。

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●なぜ、叱り方が問題になるのか

 「子どもの叱り方がわからない」と悩んでいる親は、多い。
懇談会の席などでも、よく話題になる。
で、そのたびに私は、こう思う。
「どうしてそんなことが問題なるのか」と。

 で、それについて書く前に、こんなことがある。

20年ほど前に、私が書いた子育て格言集の中に、『子どもは親の芸術品』という
のがある。
親というのは、自分の子どもを、自分自身の芸術品のように考える傾向が強い。
つまり子どもというのは、自分の(作品)というわけである。
こんな失敗をしたことがある。

 ある日のこと。
ショッピングセンターの一角にあるレストランで、食事をしていたときのこと。
隣のテーブルに座った子ども(年齢は5歳くらい)が、自分の顔よりも大きな
ソフトクリームを食べていた。

 おとなにはふつうの量でも、子どもにはそうでない。
そこで思わず、私はこう言ってしまった。
「そんなにたくさん、食べないほうがいいよ」と。

 が、この言葉が、母親を激怒させた。
「いらんこと、言わんでください!」
「あなたの子じゃ、ないでしょ!」と。

 私はその場を、平謝りに謝り、何とかやり過ごしたが、以後、そうしたお節介は
しないことにしている。

●なぜ母親は、激怒したか

 なぜ、あの母親は、そのとき激怒したか?
私は親切心から、そうアドバイスしただけである。
当時、白砂糖の過剰摂取が、問題になり始めていた。
マウスの実験では、脳水腫を起こすことまでわかっていた。

 理由をあれこれ考えてみた。
が、結局は、母親と子どもの間に、(壁)がないことが理由であることに気がついた。
このことは溺愛児と呼ばれる子どもをみると、よくわかる。
(溺愛児についても、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。)

 子どもを溺愛する親は多い。
とくに母親に多い。
私は勝手に「溺愛ママ」と呼んでいるが、溺愛ママの特徴のひとつに、親子の間に
壁がないことがあげられる。
密着度が高すぎて、親イコール子、子イコール親といった状態になる。
だからこのタイプの母親は、自分の子どもが批判されたり、けなされたりすると、
それに対して猛烈に反発する。
あたかも自分が批判されたり、けなされたかのように、激怒することも珍しくない。

 子どもどうしの喧嘩でも、中へ割って入ってきたりする。

 溺愛ママは別としても、日本人は、欧米人に比べて、親子の密着度が高い。
とくに母親と子どもの密着度が高い。
こうした日本人に対して、アメリカ人の親のばあい、「子どもは、神からの授かりもの」
という考え方をする。
つまり子どもから一歩退いて、子どもを見る。
そういう見方が、自然な形で身についている。

●親子の壁

 親子の間に壁がないから、(あるいは密着度が高いから)、親は一歩退いたところで、
自分の子どもを見ることができない。
そのため子どもを叱ることに、自ら、ある種の抵抗感を覚える。
「子どものできが悪いのは、私の責任」と。

 だから当然叱るべき場面になっても、自分でその責任をしょいこんでしまう。

 こうした意識が、「子どもの叱り方がわからない」「どう叱ればいいのか」という
問題に、つながっていく。

●では、どうすればよいか

 子どもの叱り方で悩んだら、まず、あなた自身が、自分の子どもをどう見ているかを
判断する。
先にも書いたように、密着度が高ければ高いほど、子どもを客観的に見ることができない。
それが(悩み)につながっている。
そういうケースは、たいへん、多い。

 さらにこの問題は、日本人独特の民族性とも、深くからんでいるため、解決は容易で
ない。
子どもを(自分のモノ)と考える。
1人の独立した人間というよりは、モノと考える。
少なくとも欧米人と比べると、その傾向は強い。
その上さらに、日本人のばあい、父親の存在感が薄い。
その分だけ、母親の影響力が強い。

 これらのことが、親子、とくに母子の密着度を高くする。
それが(叱り方)をむずかしくする。

 が、反対に、子どもから一歩退いてみたらどうだろうか。
子どもの見方が一変するのみならず、叱り方の問題は、自然に解決する。
できれば、自分の子どもであっても、1人の独立した人間として見る。
それができれば、あとは自然体。
そして親は、人生のよき先輩として、また子どものよき友として、子どもを
励まし、ほめ、ときには叱る。

●補記

 ついでに言うなら、(子どもを叱る)ためには、親側の方に、それなりの哲学
や倫理観がなければならない。
親が信号無視や駐車違反を平気でしながら、子どもに向かって、(叱る)は、ない。

 が、むずかしいことではない。
親は、常にルールを守る。
約束を守る。
ウソをつかない。

 この3つだけを、かたくなに守ればよい。
その積み重ねが、その親の人格を作る。
その人格がしっかりとしてくれば、親は、自然な形で、またそれほど考えることなく、
子どもを叱ることができるようになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 
林浩司 BW はやし浩司 子どもの叱り方 子供の叱り方 叱る方法 はやし浩司 叱り方の
基本 子供の叱り方について 子供をどう叱るか)

(追記)

 要するに、自分が、叱られるべきようなことを多々しておきながら、子どもを
叱ろうというのは、ムシがよすぎるということ。
先にも書いたように、信号無視、駐車違反、運転中の携帯電話を平気でしておきながら、
子どもに向かって、「約束を守りなさい」「ルールを守りなさい」は、ないということ。

 私の知人(女性、現在60歳くらい)に、こんな人がいる。
口がうまく、ウソばかりついている。
一事が万事、万事が一事。
ひとつのウソがバレそうになると、つぎのウソで塗りかためる。
あるいはバレると、とぼける。
その場だけの言い逃れをして、あとそれを既成事実化してしまう。

 結果、どうなったかだが、家庭教育はメチャメチャ。
2人の息子がいたが、2人とも、よき家庭づくりに失敗し、今はどこに住んでいる
かさえもわからないという。

 その女性だが、私が知るかぎり、子どもたちがまだ小さいころは、ガミガミ言って
ばかりいた。
つまり叱ってばかりいた。
が、2人の息子の方は、そういう母親を裏から見抜いていた。
ユングのシャドウ論を借りるまでもない。
その結果が、「今」ということになる。

 親であることには、それなりのきびしさが伴う。
その(きびしさ)を乗り越えるのも、親の務めということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

●9月13日

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ぽっかりとあいた、日曜日。
久しぶりの休日。
だれに会うという約束もない。
とくに予定もない。

昨日は、ワイフと散歩中、突然の
大雨に見舞われた。
そのため近くにあったレストランで、
雨宿り。
私はジュースを3杯も飲んだ。
ワイフは、コーヒーと紅茶を2杯も飲んだ。

久々の雨である。
私の記憶によれば、2か月ぶりの雨?
芝生の種をまいてからの、はじめての雨?

これから先、1日、1日と
秋らしくなっていく。

++++++++++++++++

●新しいHP

 現在、新しいHPの開設を考えている。
カラフルで、楽しいものを考えている。
その構想を頭の中で練っているだけで、楽しい。

 そうそう昨日、Twitterに登録してみた。
YOU STREAMも試してみた。
FACEBOOKも試してみた。
で、今度は、Twitter。

 今のところ、残念ながら、それがどうしておもしろいのか、よくわからない。
現在Twitterを楽しんでいる人は、私をフォローしてみてほしい。


●携帯電話

 Twitterのことを書いたので、携帯電話についても書いておかねばならない。
現在、多くの人が、携帯電話でHPを見たり、インターネットを楽しんでいる。
小説まで読んでいる人もいるという(G県のAさん)。

 私も携帯端末機をもっているが、使うのは、旅行のときだけ。
それをふつうのパソコンにつなげば、モデムとしても使用できる。
やや不便だが、今のところ、それで満足している。

 が、話を聞いていると、結構、おもしろそう。
小さなUSB端末をミニパソコンに装着すると、どこでもインターネットが
楽しめるようになるという。
「やってみたい」という思いは強いが、手を広げすぎるのもよくない。
そのうち収拾がつかなくなる。
(すでに今、収拾がつかなくなってきているが……。)


●WINDOW7が、待ち遠しい

 10月下旬に、WINDOW7が、発売になる。
それに合わせて、パソコンメーカー各社から、新製品が発売になる。
楽しみ。

 しかし……。
VISTAが発売になったとき、当時としては、最先端をいくパソコンを購入した。
が、今では、ノートパソコンでも、その程度の能力はもっている。
2、3週間前に買った、T社のノートパソコンにしても、そうだ。
がっかりしたというより、この世界の進歩の速さに驚く。

 私の物欲エネルギーは、そういうわけで爆発寸前。

(1)WINDOW7搭載、64ビット最先端パソコン。
(2)カラーレザープリンター。
(3)24〜5インチクラスの、大型モニター。

 この3つは、どうしてもほしい。
(現在、ワイフをあれこれと説得中!)


●近況

 今朝、体重計に乗ってみたら、59・8キロ。
よかった!
(5日前には、62・5キロだった。)

で、昨夜、床に就く前に、猛烈な空腹感を覚えた。
視床下部にある血糖値センサーが、血糖値の低下を感知し、ドーパミンを
大量に放出した。
それが猛烈な空腹感を引き起こした。

さっそくワイフが、「カップヌードルでも食べたら?」と、私を誘惑。
が、それを口にしたら、おしまい。
またまたリバウンド。
「脳みそにだまされないぞ」と自分に言って聞かせて、歯を磨いた。
歯を磨いてしまえば、何も食べられない。
2度も歯を磨くのは、めんどうなこと。
だからそういうときは、先に、歯を磨いてしまう。

 窓の外には、水色の空が広がっている。
白い筋雲が美しい。
朝食のあと、自転車で、佐鳴湖を一周してみよう。

 ……ということで、9月13日も、始まった。
全世界のみなさん、おはようございます!


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司


●価値観の転換(ライフサイクル論)


+++++++++++++++++


(したいこと)から(すべきこと)へ。
中年期から老年期の転換期における、
最大のテーマが、これ。
ユングは、満40歳前後を、『人生の
正午』と呼んだ。
この年齢を過ぎると、その人の人生は、
円熟期から、統合期へと向かう。
ユングは、『自己実現の過程』と位置
づけている。


それまでの自分を反省し、では自分は
どうあるべきかを模索する。
事実、満40歳を過ぎるころになると、
(したいこと)をしても、そこにある種の
虚しさを覚えるようになる。
「これではいけない」という思いが、より強く
心をふさぐようになる。
同時に老後への不安が増大し、死の影を
直接、肌で感ずるようになる。


青春時代に、「私とは何か」を模索するように、
中年期から老年期への過渡期においては、
「私の使命とは何か」を模索するようになる。
自分の命の位置づけといってもよい。
そして(自分のすべきこと)を発見し、
それに(自分)を一致させていく。
これを「統合性の確立」という。


この統合性の確立に失敗すると、老年期は
あわれで、みじめなものとなる。
死の待合室にいながら、そこを待合室とも
気づかず、悶々と、いつ晴れるともない
心の霧の中で、日々を過ごす。


ただ、中年期、老年期、その間の過渡期に
しても、年齢には個人差がある。
レヴィンソンは、『ライフサイクル論』の
中で、つぎのように区分している
(「ライフサイクルの心理学」講談社)。


45歳〜60歳(中年期)
60歳〜65歳(過渡期)
65歳〜   (老年期)


日本人のばあい、「自分は老人である」と自覚
する年齢は、満75歳前後と言われている。
また満60歳という年齢は、日本では、
定年退職の年齢と重なる。
「退職」と同時に発生する喪失感には、
相当なものがある。
そうした喪失感とも闘わねばならない。


そういう点では、こうした数字には、
あまり意味はない。
あくまでも(あなた)という個人に
あてはめて、ライフサイクルを考える。
が、あえて自分を老人と自覚する必要はないに
しても、統合性への準備は、できるだけ
早い方がよい。
満40歳(人生の正午)から始めるのが
よいとはいうものの、何も40歳にかぎる
ことはない。


恩師のTK先生は、私がやっと30歳を過ぎた
ころ、こう言った。
「林君、もうそろそろライフワークを
始めなさい」と。


「ライフワーク」というのは、自分の死後、
これが(私)と言えるような業績をいう。
「一生の仕事」という意味ではない。


で、私が「先生、まだぼくは30歳になった
ばかりですよ」と反論すると、TK先生は、
「それでも遅いくらいです」と。


で、私はもうすぐ満62歳になる。
「60歳からの人生は、もうけもの」と
考えていたので、2年、もうけたことになる。
が、この2年間にしても、(何かをやりとげた)
という実感が、ほとんど、ない。
知恵や知識にしても、ザルで水をすくうように、
脳みその中から、外へこぼれ落ちていく。
無数の本を読んだはずなのに、それが脳の
中に残っていない。
残っていないばかりか、少し油断すると、
くだらない痴話話に巻き込まれて、
心を無意味に煩(わずら)わす。
統合性の確立など、いまだにその片鱗にさえ
たどりつけない。


今にして、統合性の確立が、いかにむずかしい
ものかを、思い知らされている。


そこで改めて、自分に問う。
「私がすべきことは、何なのか」と。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 ユング 人生の正午 ライフサイクル論 統合性の確立 はやし浩司
老年期の心理


+++++++++++++++++


●計画


 満65歳になったら、反カルト教団活動を再開するつもり。
私がもっている(もうひとつの顔)を、公表する。
そして宗教に名を借りて、人の心をもてあそんでいるような教団を、
片っ端から攻撃してやる。
この20年間、静かにしてきたが、もう遠慮はしない。
それまであと3年。
今は、静かにその準備を重ねている。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

●ショッピングセンターで

 ワイフと散歩をしながら、ショッピングセンターへ行ってきた。
その電気店に、ランニングマシン(ルームランナー)が置いてあった。
試してみた。
時間、もしくは距離をインプットすると、それを表示しながら、床が回転する。
それに合わせて、歩いたり、ランニングしたりする。

 値段は、6万円弱。
買うか、買わないか、迷った。
このところ紫外線を避けるため、散歩は、日没後と決めている。
しかしそのマシンがあれば、いつでも運動ができる。

 で、ふと見ると、そのマシンの前に、こんな宣伝文句が張ってあった。
「リハビリに最適」と。

 それを読んで、私はこう考えた。
「リハビリが必要になったら買った方が得なのか、それともそうならないよう、
予防のために買った方が得なのか」と。

 たとえば事故や病気などで、リハビリが必要になったとする。
そのときこうしたマシンは、役に立つ。
それはわかる。
しかし同時に、同じマシンを使えば、健康を増進でき、その類の病気になるのを
未然に防ぐことができるかもしれない。

 だから「どちらが得か」と。

 ・・・そのときのこと。
私の頭の中に、今まで考えたことがないことが、思い浮かんだ。
(そこに見える危機)と、(そこに見えない危機)というのが、それ。

 「リハビリに最適」という文句は、(そこに見える危機)を言ったもの。
しかし私だっていつ、そのリハビリを必要とする体になるかもしれない。
そうしたマシンを否応なしに、買わなければならない立場になるかもしれない。
今はかろうじて健康だから、それ、つまり(リハビリをするという危機)が見えないだけ。
つまりそれが、(そこに見えない危機)ということになる。

 少し長い前置きになったが、(そこに見える危機)と、(そこに見えない危機)に
ついて書いてみたい。
うまく自分の考えをまとめられるかどうか、自信はないが、書いてみる。

●そこに見える危機

+++++++++++++++++

何か不幸なできごとが起きたとする。
事故、病気、災難、何でもよい。
すると人は、そこを起点にものを考え始める。
しかしその不幸なできごとが、本来なら
起こったであろう、さらに大きくて、
不幸なできごとを防いでくれたかも
しれない。

禅問答のような話だが、未来はいつも、
その起点を基準に、プラスの方向か、
マイナスの方向のどちらかに向かう。
確率論的には、50%vs50%とみる。
つまり「フィフティ・フィフティ」。

たとえばあなたの息子が、学校へでかける
とき、玄関先で足をすべらせ、転倒したとする。
足の骨を骨折したとする。
するとあなたは息子の不注意をなじり、
学校へ行けなくなったことを、叱るかも
しれない。

しかしもしそのとき、いつものように
学校へでかけていたら、途中で、交通事故に
あって、障害が残るような大きなけがを
していたかもしれない。
そう考えれば、玄関先で転倒したことは、
むしろ幸運なできごとだったということになる。

するとあなたは、こう反論するかもしれない。
交通事故にあう確率は、ぐんと小さい。
そんなありえない話を前提に、玄関先で
転倒したことを幸運だったと思えと言われても、
それはできない、と。

++++++++++++++++++++

●そこに見える危機

 私たちは常に、(そこに見える危機)と、(そこに見えない危機)の間で生きている。
(そこに見える危機)というのは、たいていはすでに起きた危機と考えてよい。
先の例で言うなら、息子が玄関先で転倒したような事故をいう。

 が、もしそのとき、息子がいつもの時刻どおりに目をさましていたら、その事故は
起きなかったかもしれない。
たまたまその朝は、寝坊をしてしまった。
そのままでは遅刻してしまう。
そこで息子はあわてて玄関を飛び出した。
転倒した。

 つまりすでに事故は、息子が寝坊をした段階で、(そこに見える危機)に向かって、
まっしぐらに進んでいたということになる。
が、そのときは、それがわからない。
つまりまだ(そこに見えない危機)だったということになる。

●健康論

 このことは、健康論についても言える。
つぎのような例は、多い。

 胃の調子が悪いと思って、たまたま病院で検査をしてもらったら、まったく
別のところに悪性腫瘍が見つかった、など。
このばあいは、胃の調子が悪いというのは、(そこに見える危機)ということになる。
が、そのときは、別のところに悪性腫瘍があるなどとは思っていない。
それが(そこに見えない危機)ということになる。

 もっともこのばあいも、いつも(そこに見えない危機)があるわけではない。
たいていは胃薬を処方してもらい、それで胃の調子は、もとにもどる。
悪性腫瘍が見つかる・・・というより、悪性腫瘍がある確率は、ぐんと低い。
つまり(そこに見える危機)の向こうに、いつも(そこに見えない危機)が
潜んでいるわけではない。

●賢人と愚人

 (そこに見える危機)と、(そこに見えない危機)。
賢者は、いつも(そこに見える危機)の向こうに、(そこに見えない危機)があること
を知る。
愚者は、(そこに見えない危機)が、(そこに見える危機)になってから、あわてふた
めく。

 たとえば「今」というこのとき、あなたの身のまわりを静かに観察してみよう。
一見、平和でなにごともなく過ぎていく毎日だが、よくよく考えれば、身のまわりは、
(そこに見えない危機)だらけということがわかるはず。
それがわかると、(今の状態)が、きわめて恵まれた状況であることがわかってくる。

 もう少し具体的に考えてみよう。

●二番底、三番底

 子どもが非行化するときというのは、きわめて短時間でそうなる。
たとえばある夜、あなたの娘が、門限を破って、夜遅く帰宅したとする。
それが(そこに見える危機)ということになる。

 そこであなたは娘を叱る。
「二度と門限を破ってはいけない」と強く、諭(さと)す。
が、その向こうには、(そこに見えない危機)が待ち受けている。
つぎにあなたの娘は、門限を破ったとき、叱られるのがいやで、そのまま外泊
してしまうかもしれない。
それが(そこに見えない危機)ということになる。

 つまりこうしてあなたの娘は、あっという間に、二番底、三番底へと落ちていく。
(外泊)→(連泊)→(家出)と。
さらに進んで、異性と同棲、子どもの出産と進むかもしれない。

●では、どうするか

 大切なことは、いつも(そこに見える危機)を、受け入れていくということ。
受け入れてしまうと、(そこに見えない危機)まで、見えてくるようになる。
冒頭の話について言えば、こうなる。

 玄関先で転倒した子どもについて、「あわてて飛びだしたから、転倒した」と。
そしてなぜあわてて飛びだしたかについては、「寝坊をしたから」と。
もし同じような状態で、道路を横切っていたら、交通事故にあっていたかもしれない。
つまりそのとき、(そこに見えない危機)が、見えてくる。

 門限を破ったあなたの娘についても、そうだ。
たぶんあなたは、「うちの娘にかぎって」とか、「まさか」と思っているかもしれない。
しかし対処の仕方によっては、最終的には、「家出」ということにもなりかねない。
つまりそこまで、(そこに見えない危機)が見えてくる。

●ランニングマシン

 リハビリを必要とするようになってから買うよりも、それ以前から、つまりそうした
病気になる前から、予防のために買う方が、得。
そのほうが長く使える。
それに遅かれ早かれ、そういう時期は、やってくる。
70歳かもしれない。
80歳かもしれない。

 やがて外の道路を歩くのも、つらくなる。
それがここでいう(そこに見えない危機)ということになる。
が、私は、ショッピングセンターで、ランニングマシンを見たとき、(そこに見えない
危機)を、見ることができた。
つまりこの段階で、(そこに見えない危機)が、(そこに見える危機)になった。

 家に帰ってきてから、私はワイフにこう言った。
「あのマシンを買おう」「どうせ必要になるから」と。

 で、ひとつの教訓を得た。
それが先に書いた教訓である。

賢者は、いつも(そこに見える危機)の向こうに、(そこに見えない危機)があること
を知る。
愚者は、(そこに見えない危機)が、(そこに見える危機)になってから、あわてふた
めく。

●終わりに

 何ともまとまりのない、つまり焦点のボケたエッセーになってしまった。
要するに、私たちは、日常的に、(そこに見えない危機)に囲まれているということ。
そうした危機が、そこにあることを忘れてはいけないということ。
その上で、今、(そこに見える危機)を、見直してみるということ。
あるいは(そこに見えない危機)を基準に、現在の(そこに見える危機)を考える。
賢く生きるための、これはひとつの原則ではないだろうか。


Hiroshi Hayashi++++++++SEP.09+++++++++はやし浩司

●危機感vs道徳の完成度

+++++++++++++++

巨大な危機が人類というより、
地球全体を襲いつつある。
そうした危機に直面したとき、
それがあまりにも巨大すぎるためか、
危機感そのものがわいてこない。

どうしてだろう?

+++++++++++++++

●海面上昇

まず、つぎの毎日JPのニュースを読んでみてほしい。
この記事を読んで、あなたはそこにある危機を、どの程度強く感じ取ることが
できるだろうか。

『WWF:今世紀末、1メートル超の海面上昇 北極圏、温暖化で……報告書

北極圏での温暖化の影響で、今世紀末には1メートルを超える海面上昇が起こるとの報告書
を、環境保護団体の世界自然保護基金(WWF)がまとめた。「気候変動に関する政府間パネ
ル(IPCC)」が07年に予測した18〜59センチの海面上昇を大きく上回る。グリーンランドなど
の氷床や各地の氷河の減少が、世界的な影響を及ぼすと分析している。

 報告書によると、北極圏の気温は過去20年で、世界平均の2倍のペースで上昇し、氷床や
氷河の消失を招いた。また、永久凍土が溶けることにより温室効果ガスのメタンの放出に拍車
がかかり、温暖化を促進させているとしている』(09年9月13日)。

 要点をまとめると、こうなる。

(1)IPCCは、今世紀末(2100年ごろ)には、海面上昇は、18〜59センチと
予想していた。

(2)しかしWWFがまとめた報告書によれば、1メートル近くになるという。

(3)北極圏の気温上昇は、世界平均の2倍のペースで上昇しつづけている、と。

 韓国の海運業者(?)は、さっそく北極海経由の韓国→ドイツ航路を開始した。
インド洋→アフリカ経由の航路より、はるかに短時間で物資を輸送できる。

●危機感の喪失

 もし海面が1メートルも上昇すれば、東京都全体が水没することになる。
この浜松市にしても、中心街の大半が、水没することになる。
「北極や南極の氷が溶けてしまえば、海面上昇は止まる」と考えている人も
いるかもしれない。
しかし海面上昇は、その後もつづく。
気温上昇によって、海水が膨張するからである。
海面上昇は、氷が溶けることによってではなく、海水の膨張によって起こる。

 また「1メートルくらいなら、何とかなる」と考えてはいけない。
下水管などの生活インフラは、そのまま役に立たなくなってしまう。
台風などの高潮時には、さらに大きな被害が出るようになる。
それに、ここが重要だが、仮に予定通り排出ガスが規制されたとしても、
それで気温上昇(地球温暖化)が止まるわけではない。
仮に今世紀末は、何とかなっても、2200年には、どうなっているか
わからない。

 不測の事態が、さらに不測の事態を引き起こし、二次曲線的に気温が上昇
するということも考えられている。
もしそうなれば、この地球の気温は、100年(たった100年だぞ!)を
待たずして、400度C近くにまで上昇するかもしれない。
もしそうなれば、「地球温暖化」ではなく、「地球火星化」ということになる。

●能力的欠陥

 怖ろしいことを書いた。
読者のみなさんを不安にさせたかもしれない。
しかし私がここで書きたいのは、そのとき、ほんの少しでよいから、あなた自身の
心の中をのぞいてみてほしいということ。
あなたは(そこにある危機)を、どの程度深刻に感ずることができただろうか。

 が、書いている私でさえ、ある種の不安感は覚えるが、そこまで。
それ以上の深刻さが、生まれてこない。
これはどうしたことなのか?
それとも私にだけ起こる、おかしな現象なのか?
深刻になる前に、「どうしようもない」とあきらめてしまうせいなのか?
 
 つまり人は、そこにある小さな危機には、敏感に反応する。
しかし遠くにある巨大な危機に対しては、鈍感に反応する。
もし(危機の大きさ)(危機への距離感)によって、危機感が変化するとするなら、
それは人の、どういう能力的な欠陥によるものなのか。
またその能力的欠陥を克服するためには、どうしたらよいのか。

 つまりこのあたりの能力的欠陥を克服しないかぎり、地球温暖化の問題は、
根本的には解決しない。
「北極海の航路が使えるようになった」と喜んでいる海運業者を、例にあげる
までもない。

 さらに言えば、こうした問題に取り組んでいる研究者や、政府関係者にしても、
「形」だけの心配で終わってしまう可能性もある。
「立場上、地球温暖化を問題にしているだけ」と。

●触角

 こう考えていくと、危機感の問題は、つまるところその人のもつ触角の長さに
よって決まるということになる。
触角が長ければ長いほど、より遠くにある危機を、自分のものとして実感できる。
そうでなければ、そうでない。

 では、触角を長くするためには、どうしたらよいのか。
その前に、触角は長い方がよいのか、それとも短い方がよいのかという問題もある。
しかし道徳論でも、より視野の広い人ほど、道徳の完成度の高い人とみる(コールバーグ)。

 それについては、こんな原稿を書いたことがある。

++++++++++++++

【子どもの道徳・道徳の完成度】

●地球温暖化

+++++++++++++

子どもたちほど、地球温暖化の
問題を真剣に考えているという
のは、興味深い。

他方、おとなほど、この問題に
関して言えば、無責任(?)。

「何とかなるさ」という言い方をする
おとな。「だれかが何とかしてくれ
る」とか、「私ひとりが、がんばって
も、どうしようもない」とか。

そんなふうに考えているおとなは、
多い。

+++++++++++++

 道徳の完成度は、(1)いかに公正であるか、(2)いかに自分を超えたものであるか、
その2点で判断される(コールバーク)。

 いかに公正であるか……相手が知人であるとか友人であるとか、あるいは自分がその立
場にいるとかいないとか、そういうことに関係なく、公正に判断して行動できるかどうか
で、その人の道徳的完成度は決まる。

 いかに自分を超えたものであるか……乳幼児が見せる原始的な自己中心性を原点とする
なら、いかにその人の視点が、地球的であり、宇宙的であるかによって、その人の道徳的
完成度は決まる。

 たとえばひとつの例で考えてみよう。

 あなたはショッピングセンターで働いている。そのとき1人の男性が、万引きをしたと
する。男性は品物をカートではなく、自分のポケットに入れた。あなたはそれを目撃した。

 そこであなたはその男性がレジを通さないで外へ出たのを見計らって、その男性に声を
かけた。が、あなたは驚いた。他人だと思っていたが、その男性は、あなたの叔父だった。

 こういうケースのばあい、あなたなら、どう判断し、どう行動するだろうか。「叔父だか
ら、そのまま見過ごす」という意見もあるだろう。反対に、「いくら叔父でも、不正は不正
と判断して、事務所までいっしょに来てもらう」という意見もあるだろう。

 つまりここであなたの公正さが、試される。「叔父だから、見過ごす」という人は、それ
だけ道徳の完成度が低い人ということになる。

 またこんな例で考えてみよう。

 今、地球温暖化が問題になっている。その地球温暖化の問題について、いろいろな考え
方がある。コールバークが考えた、「道徳的発達段階」を参考に、考え方をまとめてみた。

(第1段階)……自分だけが助かればばいいとか、自分に被害が及ばなければ、それでい
いと考える。被害が及んだときには、自分は、まっさきに逃げる。

(第2段階)……仕事とか、何か報酬を得られるときだけ、この問題を考える。またその
ときだけ、それらしい意見を発表したりする。

(第3段階)……他人の目を意識し、そういう問題にかかわっていることで、自分の立場
をつくったりする。自分に尊敬の念を集めようとする。

(第4段階)……みなでこの問題を考えることが重要と考え、この問題について、みなで
考えたり、行動しようとしたりする。

(第5段階)……みなの安全と幸福を最優先に考え、そのために犠牲的になって活動する
ことを、いとわない。日夜、そのための活動を繰りかえす。

(第6段階)……地球的規模、宇宙的規模で、この問題を考える。さらに、人類のみなら
ず生物全体のことを念頭において、この問題を考え、その考えに沿って、行動する。

 この段階論は、子どもたちの意見を聞いていると、よくわかる。「ぼくには関係ない」と
逃げてしまう子どももいれば、とたん、深刻な顔つきになる子どももいる。さらに興味深
いことは、幼少の子どもほど、真剣にこの問題を考えるということ。

 子どもも中学生や高校生になると、「何とかなる」「だれかが何とかしてくれる」という
意見が目立つようになる。つまり道徳の完成度というのは、年齢とかならずしも比例しな
いということ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子供の道徳 道徳の完成度 道徳 完成度 はやし浩司 道徳の完成度 コールバーク 
道徳完成度 完成度段階説)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●道徳の完成度(2)

+++++++++++++++++++

道徳の完成度は、(1)いかに公正であるか、
(2)いかに自分を超えたものであるか、
その2点で判断される(コールバーク)という。

 いかに公正であるか……相手が知人である
とか友人であるとか、あるいは自分がその立場
にいるとかいないとか、そういうことに関係なく、
公正に判断して行動できるかどうかで、その人の
道徳的完成度は決まる。

 いかに自分を超えたものであるか……乳幼児
が見せる原始的な自己中心性を原点とするなら、
いかにその人の視点が、地球的であり、宇宙的
であるかによって、その人の道徳的完成度は決
まる。

+++++++++++++++++++

 この2日間、「道徳の完成度」について、考えてきた。「言うは易(やす)し」とは、よ
く言う。しかし実際に、どうすれば自己の道徳を完成させるかということになると、これ
はまったく別の問題と考えてよい。

 たとえば公正性についても、そのつど心の中で揺れ動く。情に動かされる。相手によっ
て、白を黒と言ってみせたり、黒を白と言ってみせたりする。しかしそれでは、とても公
正性のある人間とは言えない。

 またその視野の広さについても、ふと油断すると、身近なささいな問題で、思い悩んだ
り、自分を取り乱したりする。天下国家を論じながら、他方で、近隣の人たちとのトラブ
ルで、醜態をさらけだしたりする。

 コールバークの道徳論を、もう一度、おさらいしてみよう。

(1)「時、場所、そして人のいかんにかかわらず、公正に適応されるという原則」
(2)「個人的な欲求や好みを超えて、個人の行為を支配する能力」(引用文献:「発達心理
学」ナツメ社)。

 そこで重要なことは、日々の生活の中での心の鍛錬こそが重要、ということになる。常
に公正さを保ち、常に視野を広くもつということ。が、それがむずかしい。ときとして問
題は、向こうから飛びこんでくる。こんな話を聞いた。

 よくある嫁―姑(しゅうとめ)戦争だが、嫁の武器は、子ども。「孫がかわいい」「孫に
会いたい」という姑の心を逆手にとって、その嫁は、姑を自分のよいように操っていた。
具体的には、姑のもつ財産をねらっていた。

 いつしか姑が、息子夫婦の生活費を援助するようになっていた。嫁の夫(=姑の息子)
の給料だけでは、生活が苦しかった。質素に生活すれば、できなくはなかったが、嫁には、
それができなかった。嫁は、派手好きだった。

 そのうち、姑は、孫(=嫁の息子、娘)の学費、教育費まで負担するようになった。し
かし土地などの財産はともかくも、現金となると、いつまでもつづくわけではない。そこ
で姑が、支出を断り始めた。「お金がつづかない」とこぼした。とたん、嫁は、姑と息子と
娘(=姑の孫)が会うのを禁止した。

息子(小4)と娘(小1)は、「おばあちゃんに会いたい」と言った。
嫁は、「会ってはだめ」「電話をしてもだめ」と、自分の子どもにきつく言った。
姑は「孫たちに会いたいから、連れてきてほしい」と、嫁に懇願した。
嫁は間接的ながら、「お金がなかったら、土地を売ってお金をつくってほしい」と迫った。

 ……という話を書くのが、ここでの目的ではない。こういう話は、あまりにも低レベル
というか、あさましい。できるなら、こういう話は聞きたくない。話題にしたくもない。
が、現実の世界では、こうした問題が、つぎからつぎへと起きてくる。いくら道徳的に高
邁(こうまい)でいようとしても、ふと気がつくと、こうした問題のウズの中に巻き込ま
れてしまう。

 言いかえると、道徳の問題は、頭の中だけで論じても、意味はないということ。この私
だって、偉そうなことなら、いくらでも言える。それらしい顔をして、それらしい言葉を
口にしていれば、それでよい。それなりの道徳家に見える。

 しかし実際には、中身はガタガタ。私はその嫁とはちがうと思いたいが、それほどちが
わない。そこで繰りかえすが、「日々の生活の中での心の鍛錬こそが重要」ということにな
る。

 私たちは常に試される。この瞬間においても、またつぎの瞬間においても、だ。何か大
きな問題が起きれば、なおさら。そういうときこそ、日々の鍛錬が、試される。つまりそ
の人の道徳性は、そういう形で、昇華していくしかない。

(道徳性について、付記)

 高邁な道徳性をもったからといって、どうなのか……という問題が残る。たとえばこん
な例で考えてみよう。最近、実際、あった事例である。

 あなたは所轄官庁の担当部長である。今度、遠縁にあたる親類の1人が、介護施設を開
設した。あなたは自分の地位を利用して、その親類に、多額の補助金を交付した。その額、
数億円以上。

 そのあなたが、ある日、その親類から、高級車の提供をもちかけられた。別荘の提供も
もちかけられた。飲食して帰ろうとすると、みやげを渡された。みやげの中には、現金数
百万円が入っていた。
(お気づきの人もいるかと思うが、これは実際にあった事件である。)

 こういうケースのばあい、あなたならどう判断し、どう行動するだろうか?

 「私はそういう不正なことは、しません」と、それを断るだろうか。その勇気はあるだ
ろうか。また断ったところで、何か得るものは、あるだろうか。

 私はそういう場に立たされたことがないので、ここでは何とも言えない。しかし私なら、
かなり迷うと思う。今の私なら、なおさらそうだ。いまだに道路にサイフが落ちているの
を見かけただけで、迷う。

不運にも(?)、この事件は発覚し、マスコミなどによって報道されるところとなった。
しかしこうした事例は、小さなものまで含めると、その世界では、日常茶飯事。それこ
そ、どこでも起きている。

 つまり道徳性の高さで得られるものは、何かということ。それがこの世界では、たいへ
んわかりにくくなっている。へたをすれば、「正直者がバカをみる」ということにもなりか
ねない。

 ところで、少し前、中央教育審議会は、道徳の教科化を見送ることにしたという。当然
である。
 道徳などというものは、(上)から教えて、教えられるものではない。だいたい道徳を教
える、長の長ですら、あの程度の人物。公平性、ゼロ、普遍性、ゼロ。どうしてそんな人
物が、道徳を口にすることができるのか。

 「学習指導要領の見直しを進めている中央教育審議会は、18日、道徳の授業を教科と
しない方針を固めた。政府の教育再生会議は、規範意識の向上を目的に、第二次報告で道
徳を『徳育』としたうえで、教科化するよう求めていた。もともと中教審の内部では、教
科化に慎重な意見も強かったが、安倍首相の辞任後、『教育再生』路線との距離の置き方も、
明確になった格好だ」(中日新聞)とある。

 わかりやすく言えば、安倍総理大臣が辞任したこともあり、安倍総理大臣が看板にして
いた徳育教育(?)が、腰砕けしたということ。

 閣僚による数々の不祥事。加えて、安倍総理自身も、3億円の脱税問題がもちあがって
きている。「何が、道徳か!」、ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
道徳 道徳教育 徳育 徳育教育 教育再生会議 中央教育審議会)

++++++++++++++++++++

●危機感について

 触角の長さというのは、つまるところ、その人の道徳性の完成度と関係がある
ということになる(コールバーグ)。

 道徳性の完成度の高い人ほど、触角が長くなり、遠くにある危機をも、そこに
ある危機として認識できる。
そうでなければ、そうでない。
日常のささいな問題に心を奪われ、その先を見ることができない。
加齢とともに、さらにこの傾向は強くなり、やがてそこらのオジチャン、オバチャンへと
変身していく。

 そのひとつのバロメーターが、地球温暖化の問題ということになる。
私たちがこの問題に対して、いかに深く危機感をもちうるかによって、その一方で
自分の道徳の完成度を知ることができる。

 私のように、「それがあまりにも巨大すぎるためか、危機感そのものがわいてこない」
というようであれば、道徳の完成度はまだまだ低いということになる。

(ついでに、補記)

●実家からの解放

 話はぐんと私的になるが、私は60年を経て、やっと「実家」から解放された。
実に重苦しい、60年間だった。
実家を売り飛ばし、家財のほとんどを、近所の人たちに無料で配った。
そのあとのこと。
とたん、毎朝見る、夢の内容まで変わってしまった。
これには驚いた。
それをワイフに話すと、ワイフも驚いた。

 私のこうした行為に対して、中には不満に思っている人もいるらしい。
すでにそういう話が、漏れ伝わってきている。
が、私が今感じている爽快感は、何物にも、替えがたい。

 で、私はそれまで、(そこにある現実)に、毎日のように惑わされた。
心は地球、人類、教育へと、自由に駆け回るのだが、ふと気がつくと、そこに(実家)
がある。
あまりにも生々しく、毒々しい。
いくら自分では高邁(こうまい)であろうとしても、ふと油断すると、そこにある
(現実)に振り回されてしまう。
あの夏目漱石も、同じようなギャップに悩んだ。
小説『こゝろ』(こころ)が、それである。

 最終的には、『こゝろ』の中の先生は、友人Kの自殺の罪悪感を克服することが
できず、明治天皇の崩御、乃木希典の殉死を契機に、自殺を決行する。

 もちろん私は自殺などしないが、(実家)から解放されてはじめて、私の人生を
私のものにすることができた。
それはあまりにも生々しく、毒々しい自分との決別できた瞬間でもあった。

 実家を、超安値の、破格価格で売り飛ばした。
が、価格など問題ではない。
私はそうすることで、実家そのものを、爆破したかのような爽快感を味わった。
事実、その翌朝、死んだ実兄が夢の中に現れた。
実兄は、私と腕を組みながら、うれしそうに笑っていた。
で、私が、「準ちゃん(=兄)、仇(かたき)は取ってやったぞ」と言うと、
実兄は、さらにうれしそうに笑った。

 夢は夢だが、その夢が、私の深層心理にあったすべてを表現している。

●触角を長くするために

 触角を長くするためには、いつも心を遠大な、宇宙の果てに置く。
そこにあまりにも生々しく、毒々しい世界があるなら、できるだけ早く、決別する。
自分の心から切り離す。

 同時に2つの世界を経験すると、それこそ魂を切り裂かれるような苦痛を覚える。
自分の人格がバラバラになっていくように感じることさえある。
そうでなくても、おかしな緊張感が、じわじわと精神をむしばむ。
これは精神の健康にとっても、よくない。
私のばあいは、実家のことが頭の中を横切るたびに、情緒そのものが不安定になった。
ワイフに八つ当たりしたとことも、多い。

 道徳の完成度を論ずるときの、ひとつの参考になれば、うれしい。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司※

***************2009年9月14日***************



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阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.

writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ

 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 

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