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最前線の子育て論byはやし浩司
(09年6月11日〜)

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(090611)(5)最前線の子育て論byはやし浩司

***********2009年6月11日*************

最前線の子育て論byはやし浩司(090611)

【金権教】

●ぜいたくな悩み

+++++++++++++++++++++

悩みといっても、本来、悩むような問題ではないかもしれない。
ぜいたくな悩みということは、よくわかっている。
この地球上では、約3分の1の人たちが、飢餓状態に
あると言われている。
食べるのもなくて、困っている。

が、そういう中、私は今、ときどきこんな選択に迫られる。

「食べたら損なのか?」「食べなければ損なのか?」と。

+++++++++++++++++++++

●レストランで……

 昨日、ワイフの誕生日祝いということで、郊外のホテルで昼食をとった。
フルコースの半分の、ハーフコースというのを注文した。
肉料理を省略したコースをいう。

 そのコースのあと、最後にデザートが出た。
最近はやりの、バイキング・デザートというのである。
10種類くらいのケーキから、好きなのを選んで、いくらでも食べられる。

 私はイチゴ系のケーキ、ワイフはオレンジ系のケーキを選んだ。
1個というよりは、ひとかけらと言ったほうがよい。
小さなケーキだった。
で、それを食べ終わるころ、ボーイが、「ほかに、どれになさいますか?」と
聞いてきた。
そのときのこと。
またあの選択が頭の中を横切った。

「食べたら損なのか?」「食べなければ損なのか?」と。

 私は現在、ダイエット中。
昨日の朝、体重計に乗ってみたら、目標にしていた63キロ台!
この1か月半で、約5キロの減量に成功した。
「何としても、今の体重を維持しよう」と、心に決めていた、その矢先のことである。

 私はググーッとわいてくる食欲を懸命に抑えながら、「もう結構です」と答えた。
「食べたら損」のほうを、選択した。

●ムダ肉

 脂肪細胞というのは、わかりやすく言えば、エネルギーの貯蔵庫のようなもの。
ノートパソコンにたとえるなら、バッテリーのようなもの。
たとえば数日おきくらいにしか食べ物にありつけないような環境なら、脂肪細胞も
必要。
脂肪細胞にエネルギーを貯蔵しておく必要がある。

 しかし現在の日本のように、1日3食、もしくは2食、食べるのが当たり前になって
いるような国では、脂肪細胞にエネルギーを貯蔵しても、意味はない。
その必要もない。
必要なエネルギーは、そのつど摂(と)ればよい。
それに体は軽ければ軽いほどよい。
運動量もふえるから、筋肉も鍛えられる。
それが良循環となって、肉体は健康になる。
ポテポテとした肉体を引きずっていて、よいことは、何もない。

 が、どうしてか、「食べなければ損」という意識が、いつも働く。
どうしてだろう?
つまりこんなところでも、マネーの論理が働く。
「同じ値段なのだから、たくさん食べなければ損」と。
言い換えると、その人の健康観まで、マネーに毒されている(?)。
これは忌々(ゆゆ)しき問題と考えてよい。

●金銭的感覚

が、「損とは何か?」「得とは何か?」、それを考えていくと、
その先が、灰色のモヤに包まれてしまう。
何をもって、人は、得といい、何をもって、人は、損というのか?

いちばんわかりやすい例でいえば、金銭的な損と得がある。
数字が大きくなることを、「儲けた」といい、数字が小さくなることを、
「損した」という。
しかしそれにも限界がある。
金(マネー)に毒されすぎると、何が大切で、何がそうでないか、
わからなくなってしまう。
ときに人の命まで、金銭的感覚で、判断してしまう。
自分の人生まで、金銭的感覚で、判断してしまう。

●○○鑑定団

私の大嫌いなテレビ番組に、『○○鑑定団』というのがある。
いろいろな人が、いろいろなものをもちよって、その値段を
「鑑定」するという、あの番組である。
しばらくああいう番組を見つづけていると、ものの価値まで、金銭的感覚で、
判断してしまうようになる。
(……なってしまった。)

「この絵は、200万円の価値があるから、すばらしい絵だ」
「あの絵は、10万円の価値しかないから、つまらない絵だ」とか、など。

その絵にしても、有名人(?)の描いたものほど、値段が高い。
が、もし、ものの価値のみならず、美術的価値まで、金銭的感覚で判断する
ようになってしまったら、「美術とはいったい、何か?」ということに
なってしまう。

 モノならまだしも、自分の健康となると、そうはいかない。
またそうであってはいけない。

●社会のCPU(中央演算装置)

 話は少し脱線する。

世の中には、「カルト」と呼ばれる、宗教団体がある。
正確には、「宗教的団体」と言うべきか。
で、そういう団体に属する信者の人たちと話していて、いつも不思議に思うことがある。
10年前に、世間を騒がせた、あの宗教団体の信者の人たちにしても、そうだ。
会って、個人的に話をしている間は、ごくふつうの、どこにでもいるような人。
そういう狂信的な団体に属しているから、どこかおかしいのでは(?)と思って観察して
みるのだが、そういうことはない。
どこもおかしくない。
冗談も通ずる。
ふつうの常識も、もっている。

 が、全体として、つまりその団体を全体としてみると、やはりおかしい(?)。
集団となったとき、反社会的な行為を繰り返す。
団体の教義を批判したり、否定したりすると、彼らは猛烈にそれに対して反発する。
あるいはそのまま私たちを、ワクの外にはじき飛ばしてしまう。

 ……これは「カルト」と呼ばれるカルト教団の話である。
が、実は、私たちも全体として、同じような宗教を信仰しているのではないか。
「マネー教」というカルト教である。
その信者でいながら、全体がそうであるから、それに気がつかない。
そういうことは、じゅうぶん考えられる。

つまり社会のCPU(中央演算装置)そのものが狂っているから、その(狂い)すら、
自分で気がつくことができない。

●私の子ども時代

 このことは、私の子ども時代と比較してみてもわかる。
当時の特徴を2つに分けるとこうなる。

(1)戦時中の軍国主義的な色彩が、まだ残っていた。
(2)その時代につづく金権主義の色彩は、まだ薄かった。

 軍国主義的な色彩というのは、たとえば教育の世界にも強く残っていた。
(学校の先生)にしても、戦時中のままの教え方をする人もいた。
反対に民主主義的な(?)教え方をする人もいた。
それがおもしろいほど、両極端に分かれていた。

 一方当時は、まだ牧歌的な温もりが残っていた。
私の父にしても、将棋をさしながら、仕事をしていた。
将棋に熱中してくると、客を待たせて将棋をさしていたこともある。
客が、その将棋に加わることもあった。

 そういう時代と比べてみると、たしかに(現代)はおかしい。
狂っている。
が、みな狂っているから、それが見えない。
わからない。

●飽食の時代の中で

 アメリカ(USA)では、肥満をテーマにしたエッセーを書くのは、タブーだそうだ。
それだけで、「差別」ととらえられるらしい。
しかしご存知のように、アメリカ人の肥満には、ものすごいものがある。
どうすごいかは、見たとおり。
あの国では、肥満でない人をさがすほうが、むずかしい。

 で、最近、私は日本もそうなりつつあるのを、感ずる。
アメリカ人型の肥満がふえているように思う。
飽食のせいというよりは、アメリカ型食生活の影響ではないか。
ともかくも、そういった人たちは、よく食べる。

このことは以前にも書いたが、浜松市の郊外に、バイキング料理の店がある。
ランチタイム時は、1人、1200円で、食べ放題。
そういうところで食事をしている人を見ると、まさに「食べなければ損」といった感じ。
デザートのケーキでも、一個を一口で食べている。
パク、パク、パク……の3回で、3個!

 食事を楽しんでいるというよりは、食欲の奴隷。
「食べる」というよりは、「食べさせられている」。
そんな印象すら、もつ。
もちろんそういう人たちは、例外なく、太っている。
歩くのも苦しそう。

 しかしそういう人ほど、「食べたら、損」なはず。
食べれば食べるほど、健康を害する。
が、そういう人たちほど、よく食べる。

●散歩の途中で

 私たちの日常生活は、マネーにあまりにも毒されすぎている。
それに気づかないまま、毒されすぎている。
芸術も文化も、マネー、マネー、マネー。
ついでに健康までも、マネー、マネー、マネー。
その一例として、「食べなければ損」について考えてみた。

 しかしどうして「食べなければ損」なのか。
たまたま今日、ワイフと散歩しながら、途中でラーメン屋に寄った。
今度から「ランチ・メニュー」が始まった。
ラーメン+ギョーザ+ミニ・チャーハンの3点セットで、580円。
安い!
私は、チャーシュー丼を注文した。
ワイフは、ランチセットを注文した。
が、とても2人で食べられるような量ではない。
ランチセットを2人で分けても、まだ量が多すぎる。
しかし1人分の料理を、2人で分けてたべるというのも、気が引ける。
で、2人分、頼んだ。

 が、そこでもあの選択。
「食べたら損」なのか、「食べなければ損」なのか?

 私はチャーシュー丼には、ほとんど口をつけなかった。
そのかわり、ワイフが注文したランチセットを、2人で分けて食べた。
が、それでもラーメンの麺は、40%近く、食べないで、残した。

 大切なことは、「ラーメンの味を楽しんだ」という事実。
味を楽しめばじゅうぶん。
目的は達した。
「もったいないから、食べてしまおう」と思ったとたん、マネー教の虜(とりこ)
になってしまう。

●マネー教からの脱出

 お金がなければ不幸になる。
しかしお金では、幸福は買えない。
心の満足感も買えない。
お金の力には、限界がある。
が、その一方で、人間の欲望には、際限がない。
その(際限なさ)が、ときとして、心をゆがめる。
ゆがめるだけではない。
大切なものを、大切でないと思い込ませたり、大切でないものを、大切と
思い込ませたりする。

 子どもの世界でそれを考えると、よくわかる。

 10年ほど前のこと。
1人の女の子(小学生)が、(たまごっち)というゲームで遊んでいた。
私はそれを借りて、あちこちをいじった。
とたん、あの(たまごっち)が死んでしまった。
その女の子は、「たまごっちが死んでしまったア!」と、大声で泣き出した。

 私たちはそういう女の子を見ると笑う。
しかし本当のところ、私たちはその女の子と変わらないことを、日常的に
繰り返している。
繰り返しながら、それに気づかないでいる。

●ではどうするか?

 私たちはカルト教団の信者を見て、笑う。
「私たちは、あんなバカではない」と。
しかし同じようなバカなことをしながら、そういう自分に気づくことはない。
自分を知るというのは、それくらい難しい。

 つまり自分自身を、そうしたカルト教団の信者に置き換えてみればよい。
あなたならそういう信者を、どのようにして説得し、教団から抜けださせることが
できるだろうか。

 いきなり頭から「あなたは、まちがっている!」と言ってはいけない。
梯子(はしご)をはずすのは簡単なこと。
大切なことは、同時に、その人に別の救いの道を提示すること。
それをしないで、一方的に、「あなたはまちがっている」と言ってはいけない。
同じように、自分に対して、「私はまちがっている」と思ってはいけない。
大切なことは、自分の中で、別の価値観を創りあげること。

 方法は、簡単。
常に、何が大切で、何が大切でないか、それを問い続ければよい。
何があっても、それを問い続ける。
あとは、時間が、あなたを導いてくれる。
やがてその向こうに、その(大切なもの)が、見えてくるようになる。

 (見えてくのもの)は、それぞれみなちがうだろう。
しかし見えてくる。
その価値観が優勢になったとき、マネー教はあなたの中から、姿を消す。

●食べたら損

 で、結論は、「食べたら損」ということになる。
いっときの欲望を満足させることはできるが、かえって健康を損(そこ)ねる。
同じように、いくらそのチャンスがあったとしても、人をだましたら、損。
ずるいことをしたら、損。
自分を偽ったら、損。
その分だけ、心の健康を損なう。

 「損(そん)」とは、もともと「損(そこ)なうこと」をいう。
失うことを、「損」というのではない。
が、今では、金銭的な損を、「損」という。
またそういうふうに考える人は多い。

 「食べたら損」なのか、「食べなければ損」なのか。
そういうふうに迷うときがあったら、あなたも勇気を出して、「食べたら損」を
選択してみたらどうだろうか。
たったそれだけのことだが、あなたの心に、何らかの変化をもたらすはず。

 ついでに言うなら、マネーが日本で、一般社会に流通するようになったのは、
江戸時代の中期ごろから。
このことについては、以前、私がかなり詳しく調べたから、まちがいない。
つまりそれまでは、日本人は、マネーとは無縁の生活をしていた。
私が子どものころでさえ、「マネー」を、おおっぴらに口にすることは、
卑しいこととされていた。
それが今は、一変した。
何でも、マネー、マネー、マネーとなった。
マネー教の信者になりながら、信者であることにさえ気がつかなくなってしまった。
その結果が、「今」ということになる。

(付記)

 「食べ物を残すことはもったいない」という意見に、一言。

レストランへ行くと、「お子様ランチ」というのがある。
同じように、「シルバー・ランチ」、もしくは「シルバー・メニュー」のようなものを、
もっと用意してほしい。

 最近の傾向として、レストランでの料理の量が、多くなってきたように感ずる。
全国規模で展開しているレストランほど、そうで、たいてい食べ残してしまう。
しかしこれは食料資源という面で、「もったいない」。
私も、そう思う。
だから高齢者向けに、高齢者用のメニューをふやしてほしい。

 「カロリー少なめ、塩分少なめ、糖分控え目、ハーフサイズ」とか。

 もちろん値段も、その分、安くしてほしい

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て 
Hiroshi Hayashi 林浩司 BW BW教室 マネー教 金権教 金権教団)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●金権教

+++++++++++++++++

お金がすべて……。
お金しか、信じない。
そういう人は、多い。
称して、「金権教」という。

+++++++++++++++++

●戦争の後遺症

あの戦争が残した最大の後遺症と言えば、
金権教と考えてよい。
それまでは天皇が神だった。
その天皇が人間宣言をして、神の座をおりた。
とたん、多くの日本人は、行き場を失ってしまった。
心のより所を失ってしまった。
戦後しばらくの間、放心状態になってしまった人も多い。
戦後、雨後の竹の子のように新興宗教が生まれたのも
そのためと考えてよい。

が、中でも最大の新興宗教といえば、金権教ということになる。
「マネー教」と言ってもよい。
「マネーがすべて」「マネーがあれば幸せ」「マネーがあれば、どんな
夢もかなう」と。
基本的には、現在の日本は、いまだにその(流れ)の中にある。

かなり大ざっぱな書き方をしたが、大筋ではまちがっていない。

●仕事第一主義

ひとつの価値観を妄信すると、他の別の価値観が犠牲になる。
これは私の価値観というよりは、私たちの世代に共通した価値観と言ってもよい。
今でこそ、「仕事より家族のほうが大切」と考える人は多い。
しかし私たちが、20代、30代のころは、そうではなかった。
「仕事か家族か」と問われれば、みな、まちがいなく「仕事」を選んだ。
「仕事あっての家族」と考える人もいた。

だから「仕事」という言葉は、それ自体が、トランプでいえば、ジョーカー
の働きをした。

A「明日、会合に出てくれますか?」
B「私は、仕事がありますから」
A「ああ、それなら結構です」と。

戦前の「お国のため」が、「会社のため」になった。
戦前の「兵士」が、「企業戦士」となった。
仕事第一主義は、そこから生まれた。
「会社人間」という言葉も、そこから生まれた。

しかしそれを裏から支えたのが、金権教ということになる。

●ぜいたくが当たり前

お金がなければ、不幸になる。
それは事実。
しかしお金では、幸福は買えない。
それもまた事実。
お金で私たちは欲望を満足させることはできる。
しかしその欲望には、際限がない。

戦後生まれの私たちと、今の人たちを比較するのもどうかと思うが、
いろいろな場面で、私は、その(ちがい)を強く感ずる。
とくに今の若い人たちの(ぜいたく)を見たりすると、ときに、それに
ついていけないときがある。

もう15年近くも前のことだが、こんなことがあった。
息子たちが、スキーに出かけた。
スキーをするということ自体、私たちの世代には、考えられないことだった。
どこかの金持ちの、最高のぜいたくということになっていた。
が、その息子が、手ぶらでスキーにでかけ、手ぶらで、スキーから帰ってきた。
「荷物はどうした?」と聞くと、息子たちは、平然とこう答えた。
「宅急便で送った」と。

私には、その(ぜいたくさ)が理解できなかった。
そこで息子たちを叱ったのだが、少しあとになって、そのことを友人に話すと、
「今は、みな、そうだ」という返事をもらった。

あとは、この繰り返し。
それが無数に積み重なって、現代という時代になった。

●あるのが当たり前

しかし今はよい。
何とか日本の経済は、持ちこたえている。
しかし日本の経済が、後退期に入ったら、どうなるか。

たとえば今では、子ども部屋といっても、完全冷暖房が常識。
夏は、一晩中、冷房をかけっぱなしにしている。
冬は、一晩中、暖房をかけっぱなしにしている。
今の子どもたちに、ボットン便所で用を足せと言っても、できないだろう。
何でも、「あるのが当たり前」という生活をしている。

これではいくらお金があっても、足りない。
足りないから、その負担は、結局は、親に回ってくる。
ざっと見聞きした範囲でも、現在、親から仕送りしてもらっている若い夫婦は、
約50%はいるとみてよい。
結婚式の費用、新居の費用、出産の費用などなど。
さらには子ども(=孫)のおけいこ代まで。

しかしこうした(ゆがんだ生活観)を支えているのも、金権教ということになる。
「お金を出してやれば、親子の絆(きずな)は深まるはず」
「お金を出してやれば、子どもは、それに感謝するはず」と。

子どもについて言えば、クリスマスのプレゼントにせよ、誕生日のプレゼントにせよ、
より高価なものであればあるほど、よいということになっている。

●金権教と闘う

金権教といっても、まさにカルト。
一度自分の体にしみついたカルトを抜くのは、容易なことではない。
長い時間をかけて、その人の人生観、さらには人生哲学になっている。

「あなたはまちがっていますよ」と言っても、意味はない。
その人は、かえって混乱状態に陥ってしまう。
言うなら言うで、それに代わる別の価値観を容易してやらなければならない。
……と書いたが、それは私たち自身の問題でもある。

金権教と闘うといっても、金権教自体と闘っても、意味はない。
自分の中に新しい価値観を構築し、その結果として、金権教と闘う。
金権教を自分の中で、無意味化する。

が、だからといって、マネーを否定せよとか、マネーには意味がないとか、
そんなことを言っているのではない。
現代社会では、マネーに背を向けては、生きていけない。
しかし毒されすぎるのも、危険と、私は言っている。
へたをすれば、人生そのものを、棒に振ってしまう。
事実、そういう人は多い。

そこでもしあなたに子どもがいるなら、育児の場で、金権教と闘ってみよう。

(1) 子どもには、ぜいたくをさせない。
(2) 子どもには、高価なものを買い与えない。
(3) 子どもには、必要なものだけを買い与える。

少しテーマがちがうが、あのバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、
こう書いている。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。

要するに、「程度を超えない」ということ。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●徘徊(はいかい)心理(Walk About)

+++++++++++++++++

私には、徘徊ぐせがある。
それに気づいたのは最近だが、
ほぼまちがいない。
私には、たしかに徘徊ぐせがある。

たとえば職場でいやなことがあったりすると、
私はそのまま道路に出て、家まで歩いて帰る。
ふだんは、自転車やバス、タクシーで帰る。
が、そういうときは、歩いて帰る。

といっても、急ぎ足で歩いても、1時間半はかかる。
ゆっくり歩けば、2時間以上はかかる。
家に帰ると、ワイフが、私にこう言って叱る。
「どうして電話してくれなかったの!」と。

しかし電話など、できるものではない。
電話する気にもならない。
私は歩くことで、悲しさやつらさを忘れる。
頭の中を、からっぽにすることができる。
それにそういうときというのは、本当のことを
言うと、家には帰りたくない。
どこかを、……とくに目的地はないが、ただ、
どこかをめざして、歩きたい。

当然、歩くと言っても、トボトボ……
という感じになる。
スタスタではない。
が、フラフラというほどでもない。
トボトボ……、である。
まっすぐ家路をめざすというよりは、気が向いた
ところで、角を曲がり、そのまま路地を歩く。

++++++++++++++++++

●徘徊

 職を失った人が、失ったことは家族に話さないで、いつものように会社に
出かけるフリをするという話を、よく聞く。
ネクタイを締め、カバンをもって、家を出る。
しかし会社には行かない。
そのままどこかで時間をつぶす。
そして帰宅時刻になると、家路をめざす。
「ただいま!」と言って、家の中に入る。

 そういう話を聞くと、多くの人は、「どうしてそんなバカなことをするのか」と
思うかもしれない。
しかし私には、そういうことをする人の気持ちがよくわかる。
私も、同じような立場になったら、同じようにするだろう。
いつものようにネクタイを締め、カバンをもち、会社へ出かけるフリをする。
そしてどこかで時間をつぶして、その時刻になったら、家に帰る。

 そういう自分と、先に書いた徘徊ぐせと重ねあわせてみると、そこに徘徊する
老人の心理が浮かびあがってくる。
帰宅するときばかりではない。
家の中で何かいやなことがあると、私は家を出る。
飛び出すというような大げさな行為ではないが、家を出る。
そしてそのあたりを、トボトボと歩き回る。
もしそういうのを「徘徊」というのなら、徘徊ということになる。
で、そういう行動の延長線上に、痴呆老人の、あの徘徊があるとするなら、
徘徊する老人たちの心理が、私には痛いほど、よく理解できる。

 徘徊する老人たちは、背中に感ずる不安や心配から逃れたい。
歩けば、それから遠ざかることができると思う。
頭の中をからっぽにすることができる。
だから歩く。
が、けっして目的もなく、歩くわけではない。
歩くこと自体が、目的なのである。
歩くことによって、悲しみや苦しみを忘れることができる。
そこに何があるかわからないが、しかし、何かあるかもしれない
という期待が、心をなぐさめてくれる。
実際、歩いていると、それだけで気がまぎれる。

ワ「どうしてバスに乗って来なかったの?」
私「そういうのとは、ちがうよ」
ワ「タクシーだって、あるでしょ!」
私「そういうのとも、ちがうよ」
ワ「電話くらいしてくれればいいのに。迎えに行ったわよ」
私「そういうのとも、ちがうよ」と。

 私は老人になり、認知症か何かになったら、まちがいなく徘徊老人になるだろう。
今の今でさえ、徘徊ぐせがある。
何かいやなことがあると、そのまま外へ出てしまう。
出て、歩き出してしまう。

 が、しかし私が認知症か何かになって、徘徊するようになっても、
そのままにしておいてほしい。
歩きたいだけ、歩かせてほしい。
できればそうしてほしい。
……多分、無理だろうが……。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●映画『真夏のオリオン』

++++++++++++++++

私は潜水艦映画が、大好き。
閉所恐怖症だからこそ、潜水艦映画が、大好き。
潜水艦の出る映画は、ほとんどすべてを観てきた。

……ということで、今夜、映画『真夏のオリオン』を観てきた。
涙もろくなったせいもあるが、何か所で
涙がポロポロと出た。
が、だからといって、映画がよかったわけではない。
星は2つもむずかしいかなというところの、2つ。
★★(−)
理由がある。

++++++++++++++++

(1)冒頭のシーンとラストのシーンで、元潜水艦の乗組員だった老人と、
若い女性が、会話を繰り返す。
そのセリフが不自然。
まるでよくできた作文を読んでいるかのよう。
だいたい、「こんなところで老人と若い女性が面会するだろうか?」と
思うような場所で、2人は、面会する。

(2)その若い女性だが、美しく見せたいという気持ちはよくわかる。
しかし化粧のしすぎ。
歩き方も、カメラを意識しすぎてか(?)、不自然。
ぎこちない。
つまり自然ぽさのないのが、日本映画の欠点。

(3)くだらない説教と、説明が多すぎる。
何も私たちは反戦映画を見に行ったわけではない。
また乗組員が何かの装置を操作するたびに、その説明がつづく。
さらに例によって例のごとく、俳優たちが、力みすぎ。
もう少し肩の力を抜いて、自然ぽく演技してほしかった。

(4)いわゆる「お涙ちょうだい」的な構成が、できすぎ。
一枚の楽譜が、乗組員の命を救ったというストーリーだが、どこか『一杯の
かけそば』風。
昔、『ビルマの竪琴』という映画があった。
『真夏のオリオン』を観ている最中、その映画を思い出した。

(5)エンディングで、「映画が終わった」と思って席を立ったところで、突然、
映画のおまけシーンが出てくる。
「せいこいことをするな」と、私は感じた。
やり方が、姑息。

 だから星は2つでもむずかしいかな……ということで、★★(−)。
日本映画よ、もっと「自然ぽさ」を追求せよ!
「映画というのはこういうものでござる」式の演技には、うんざり!
俳優が心底、その人物になりきって演技する。
映画のおもしろさは、そこから生まれる。
その原点を、もう一度、みなが確認してほしい。
(辛辣な批評で、ごめん!)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●中国の教育の現状

++++++++++++++++++

中国の教育の現状を知ると、そのまま
それが40年前、30年前の日本であることを知る。

中国は日本を追いかけているのか。
それとも日本とは別の道を進みつつあるのか。
あるいは日本も中国も、同じなのか。

Record Chinaは、中国の教育にかけるのは、
「議論」と「消化」であると看破している。

+++++++++++++++++++

Record Chinaは、中国の教育の現状について、『中国では、哲学者は育たない』と出して、
つぎのように伝える(ヤフー・ニュース・09・06・14日より転載)

『2009年6月、米紙ボストングローブは記事「米国人学生の目から見た中国の教育」を掲載し
た。米国の私立小学校、公立中学校を卒業した学生が、中国の教育について語った。12日、
鳳凰鋭評が伝えた。

米国の教室では子どもたちはいつもわいわいと騒いでいた。一方、北京の学校は厳粛な空気
に包まれて息苦しいほど。しかしボストンの学校で学んだことは北京の学校で学んだことよりも
多かったように思う。

中国の勉強方法といえば、教科書の暗唱、黙って問題を解く、あるいは声をそろえての発話練
習など。すべては受験の準備にあてられている。それも仕方がないところだろうか、中国の高
校や大学は点数だけで計られるからだ。中国の学生が必死に勉強するさまは、名門ハーバー
ド大学を目指す米国学生ですらもかなわないだろう。

ただし自由討論や自分なりの解決方法の模索に慣れた米国人学生にとって中国の授業はあ
まりにも空虚で制約されたもののように思える。中国では1クラスには平均45人の学生がいる
(ボストンでは28人)。学生の数も教師が一人一人に気をかけることを難しくしている。

中国の教育課程は自由度が少なく、数学もコンピューターの授業もただ一つの解決方法しか
ない。作文の機会も少なく、読む本といえば歴史や古典、漢詩ばかりで小説を読むことは少な
い。しかしこうしたなか、学生は議論の機会を持てず、学んだ知識を消化することができない。
米国人にとっては深く思索すること、決断することこそが教育の重要な一部であるが、中国の
中高生にはほとんどこうした経験がない。中国の学校にも多くの長所があろうが、しかし哲学
者を育てるものではないようだ』(以上、翻訳・編集KT)。

 この記事の中で、とくに気になったのは、「学生は議論の機会を持てず、学んだ知識を消化
することができない」という部分。
「議論」と「消化」。
さすがアメリカの学生。
鋭いことを指摘している。

(1)議論

 日本の教育の最大の欠陥といえば、「議論しない」という点にある。
「議論を許したら、教育がバラバラになってしまう」と考える風潮すらある。
明治の昔から、さらに江戸時代の寺子屋の昔から、この日本では、「もの言わぬ従順な民づく
り」が基本だった。
「教育」という言葉にしても、「教え育てる」(田丸謙二先生指摘)。
さらに「学ぶ」という言葉も、「マネブ」、つまり「まねる」に由来するという(同)。

 つまり上意下達方式が、日本の教育の(柱)になっている。

(2)消化

 知識や情報は、脳の中で一度加工されて、はじめて意味をもつ。
加工されない知識や情報は、ただの知識であり情報。
田丸先生は、「そんなものは、今ではインターネットで自由に手に入れることができる」と言って
いる。
つまり無価値。
そういう無価値なものを、価値あるものと錯覚しているところに、日本の教育の最大の悲劇が
ある。
(ちょっと言いすぎかな?)

 もちろん、だからといって情報や知識を否定しているのではない。
大切なことは、情報や知識を得たら、それを頭の中で加工すること。
わかりやすく言えば、「自ら考えること」。
田丸先生は、「Independent Thinker」(自分で考える人)という言葉を使って、それを説明してい
る。
「教育では、自分の頭で考えさせることが、何よりも大切」と。

 1971年にペキン大学に留学したことのあるD・キシア君(現在、私の親友)は、こう話してく
れた。
「みな、中国の学生はテープレコーダーみたいだった」と。
つまりみな、同じようなことしか、言わなかった、と。
同じようなことを田丸先生も、私に話してくれたことがある(YOUTUBEに収録)。
それから40年。
中国はいまだに、その流れの中にあるらしい。

 では、この日本はどうなのか?
だいじょうぶなのか?
その一例として、私はテレビ番組の、あのバラエティ番組をあげる。
何もバラエティ番組が、日本人の脳みそに影響を与えていると思っているわけではない。
ああいう番組が無数にあり、つぎからつぎへと同じような番組が生まれているというところに、
日本人の思考能力の貧弱性が集約されている。
視聴率を稼げるから、テレビ局もそういった番組を作りたがる。
つまり日本人が総バラエティ番組化しているのではなく、日本人自身が、そういう番組を下から
支えている。

 脳に飛来した情報を、ペラペラと口にしているだけ。
だれも考えない。
何も考えない。
だからいくら話をしても、その話は、そのままどこかへ消えていく。
ただの雑談。
もちろん哲学を生み出すなどということは、夢のまた夢。
言うなれば、情報のゴミ。
そのゴミの中に埋もれながら、私たちは生きている(?)。
(これも、ちょっと言いすぎかな?)

 ともあれ、「議論」と「消化」。
この記事を読んで、私はこの2つの言葉に、ドキッとした。
つづいて、「米国人にとっては深く思索すること、決断することこそが教育の重要な一部である
が、中国の中高生にはほとんどこうした経験がない」とまで言い切っている。
「さすが、アメリカの学生!」と、私は感心した。
と同時に、「いつになったら、日本の学生も、そういうことを言うことができるようになるのか」
と、不安になった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 
林浩司 BW はやし浩司 中国の教育の現状 中国の教育 情報と知識 議論 debate)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●分裂する韓国

++++++++++++++++

韓国では、親北派と反北派が、
鋭く対立し始めている。

が、それにしても理解できないのが、
あの金大中。
元韓国大統領。
「ノ前大統領とは、前世では、
兄弟だった」と発言してみせたり、
今度は、「現政権は、独裁政権」と
決めつけてみせたりしている。

700億円で買ったノーベル平和賞
の話は、どうなったのか?

++++++++++++++++

朝鮮N報(090612)は、次のように伝える。

『……金大中(キム・デジュン)元大統領が11日、李明博(イ・ミョンバク)政権を「独裁政権」と
決めつけ、国民に行動を起こすよう求めた。

 金元大統領はこの日、ソウル・汝矣島の63ビルで行われた「6・15南北共同宣言9周年記
念式典」で講演し、「独裁者に頭を下げ、媚(こ)びへつらうべきではない。この国で独裁政治が
復活しつつあり、貧富の格差は史上最悪の水準に達している。われわれが一緒に行動すると
いう良心を見せ、自由・国民経済・南北関係を守るために立ち上がるべきだ。行動を起こさな
いのは悪だ」と主張した』と。

 一方、そのK国はどうかと言えば、ウソの上にウソを塗り固めたような国。
それについては前からわかっていたが、自らそのウソをバラし始めた。
あれほどウラン加工はしていないと言っておきながら、今になった「実はしていた」と。
時事通信(6月13日)は、次のように伝える。

『13日、北朝鮮外務省の声明を伝える朝鮮中央テレビのアナウンサー。同国外務省は国連
安保理による制裁決議採択を非難。その上で軽水炉建設のために「ウラン濃縮作業に着手す
る」と表明した』(韓国SBSテレビより)と。

 それにしても理解できない。
こういう声明を出すこと自体、「私たちはウソをついていました」ということを公言するようなも
の。
となると、あの6か国協議はいったい、何だったのかということにもなってしまう。
表ではプルトニウム。
裏ではウラン。
しかしこんなことは、以前からわかっていたこと。
「私は知らなかった」では、C・ヒル氏よ、すまされないぞ!
あなたのおかげで、極東アジア情勢は、メチャメチャになってしまった!

 で、そのK国だが、またまたミサイル発射実験をする構えでいる。
今度は、「ICBMだ」と、明言している。
それについても、もし同じ型のロケットだったら、「私たちはミサイルについても、ウソをついて
いました」と公言するようなもの。
「先のは、人工衛星ではありませんでした。ミサイルでした」と。
「化けの皮がはがれる」というのは、こういうことを言うのか。
つまりこうしてK国は、自ら醜態をさらしながら、崩壊していく。

【補足】(韓国中央N報より)

『ウラン濃縮計画(UEP)をめぐる朝米間の真実探りが6年8カ月ぶりに終止符を打った。 

  これまで米国と北朝鮮はUEP問題をめぐり「全部知っているから自白しろ」(米国)という督促
と、「そもそもないものをいかにして自白できるか」(北朝鮮)という反論を交わしていた。しかし
北朝鮮外務省は13日付の声明を通じ、これまでの「否認戦術」を自らやめた』と。

 つまり今まで言ってきたことが、すべてウソだったということを、
自ら認めた。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●負い目(コンプレックス)

++++++++++++++++++

だれにも負い目というのがある。
あなたにもある。
私にもある。
そのひとつが、私は車の運転免許証をもっていないこと。
同窓会などに出ると、「免許証をもっていないのは、林(=私)
だけだなア」などと、からかわれたりする。

その私だが、オーストラリアから帰ってくると、仮免許証までは取った。
が、そのあと就職とつづいて、そのままになってしまった。
バイクの免許はもっていたが、今は、50ccまでの
ソフトバイクに乗れるだけ。
免許証の更新をするのを忘れてしまった。
あのままもっていたら、今は750ccのバイクだって、
乗ることができるのに!

+++++++++++++++++++

そういう私だから、何度も免許証を取ろうとした。
が、若いころは忙しくて、それができなかった。
やっと時間ができたころには、息子たちがつぎつぎと免許証を
ほしがった。
当時ですら、20〜30万円の費用が必要だった。
それで何となく、つまり「息子たちが取れば、車を運転してくれるだろう」
というふうに考えて、あきらめてしまった。

(実際には、運転手として、息子たちが車を運転してくれるようなことは、
めったになかったが……。)

で、もっぱら、ワイフの運転する車に乗ることになった。
が、そのつど、気が引ける。
負い目を感ずる。
コンプレックス(劣等感)というのは、そういうのを言う。
心の壁にぺッタリと張りついて、はがれるということがない。

だから、何かの拍子に、ワイフに、「バスで行ってよ!」とか、
「タクシーで行ったら!」と言われることくらい、つらいことはない。
ワイフはそれほど深く考えて言っているのではない。
それはわかっているが、そういう言葉は、グイと胸を突き刺す。
心をえぐる。
さらに、具体的にバスの乗り方を指示されることくらい、つらいことは
ない。
「駅までバスで行って、そこから電車に乗れば!」と。

そういうとき、実に自分が情けなくなる。
免許証をもっていない負い目が、何百倍にも拡大する。

反対にもし、ワイフが、「お金、ちょうだい」と言ったとき、
私が「自分で仕事をしたら」「ハローワークで仕事をさがしてきたら」と
言ったら、どうなるだろう。
ワイフは傷つくだろうと思う。
そういう悲しい思いをさせたくないから、私は結婚当初から、
給料はすべてワイフに渡している。
が、悲しいかな、そういう私の気持ちは、ワイフには通じない。

(付記)

 子どもの劣等感には注意したほうがよい。
私のようなおとななら、自分でそれを何とか処理できる。
(処理できないときもあるが……。)
子どもは、それができない。
容姿、名前、家族など
とくに容姿について、あれこれ言うのは、タブー中のタブー。
わかりきったことだが……。

(補記)

 だから反対にこういうことも言える。
たとえば夫が稼ぎ柱のとき、妻に対して、恩着せがましいことを
言うのは、たいへん危険ということ。
「オレが働いているから、お前ら、食っていかれるのだ!」とか、
「お前ら、だれのおかげで生活できると思っているのだ!」とか、など。
権威主義の強い夫ほど、そういう言葉を口にする。

 こういう言葉は、夫婦の間に決定的な溝(みぞ)を作る。
夫のほうはそれで自分の立場を主張するつもりかもしれないが、そんな
ことはいちいち言われなくても、わかること。
妻は日常的に、それを負い目として生きている。
それをあえて口にされると、私のようにグイと胸をえぐられる。
そういうことばかり言っていると、いつか「離婚!」ということに
なるかも。

+++++++++++++++++++++

●郡上八幡

++++++++++++++++

明日、バススアーを利用して、岐阜県の
郡上八幡まで行くことになっている。
「ぐじょう・はちまん」と読む。
民謡の「♪かわさき」で有名な、あの郡上八幡である。
(一般には、「♪郡上踊り」として、よく知られている。)

それにしても、いやなところを選んだものだ。
いや、郡上八幡がいやだというのではない。
途中、私の郷里を通過するのが、いや。
「たまの休みだから、どこかへ行こう」ということで、
そうなってしまった。

バスは私の郷里のM町を通る。
それを考えただけで、ゆううつ。
気が重くなる。
私はあのM町が大嫌い。
「故郷」という思いは、まったくない。
「懐かしい」とい思いも、まったくない。
それが、いや。

が、どういうわけか、今、私はその郷里をめざして
電車に乗っている。
この話は、ワイフにも言ってない。
今、私が電車に乗っていることも知らない。
言っても理解できないだろうし、言えば、また「あなた、おかしいわよ」
と言われてしまう。
が、私には、どうしても決着をつけておかねばならないことがある。

+++++++++++++++++

●決着

 これから先のことは、あまりにもプライベートなことなので、
文章として、書き残すことはできない。
ありのままを書いたら、それによって迷惑をこうむる人も出てくる。
だから文章として書くのは、ここまで。(ゴメン!)

 心の決着というのは、そういうもの。
その決着をつけないかぎり、私は明日、郡上八幡へ行くことが
できない。
(たぶん、私は郡上八幡へ行くのを、ドタキャンをするだろう。
何かの理由をつけて……。)


Hiroshi Hayashi++++++++June・09++++++++++++はやし浩司

●話題

 暗い話がつづいたので、話題を変えよう。
といっても、このところ明るい話題はない。
(暗い話もとくにないが……。)

 今、少しハマっているのが、「Facebook」。
ブロフである。
そのFacebookには、いろいろな人からアクセスがある。
昨日は、モロッコのカサブランカに住む、16歳の少女から
アクセスがあった。
日本語を勉強しているとか。
ところどころに、日本語がまざっていた。
その少女と、5〜6回ほど、やり取りをした。

「私が61歳で、あなたが16歳だから、ちょうど逆だね」と
書いてやった。
16歳といえば、私には遠い遠い昔の話。
が、満16歳になったときのことは、よく覚えている。
伯父の家の縁側で、記念撮影をした。
その写真は、今でもアルバムの中に残っている。

 その少女は日本語を勉強して、いつか日本へ来るのが夢だという。
その気持ちも、よく理解できる。
私も同じ年齢のころ、アメリカにあこがれた。
当時は文通というのが、はやっていた。
私もアメリカ人の何人かの女の子と文通したことがある。
名前は……オハイオ州の、????。
忘れてしまった。
つい数年前までは覚えていたのだが……。


●アスペルガー

 元(?)アスペルガー障害をもっていた女性と結婚した男性がいる。
今年50歳くらいになるのでは?
妻のほうは3歳ちがいの、47歳くらい。

 アスペルガー児の特徴は、いろいろある。
たとえばまちがいやミスを指摘したりすると、混乱状態になる。
実際には、自分のまちがいやミスを、ぜったいに認めない。
ほかに、たとえば、がんこになる。
ふつうの(がんこ)ではない。
それこそテコでも動かないといった状態になる。
また、ひとつのことにこだわると、その殻(から)の中にこもってしまう。
他人の意見を聞かない。
頭がかたいから、冗談が通じない。
冗談、つまりジョークを言っても、笑わない。
思考の柔軟さが欠ける、など。
動物などには、ほとんど興味を示さない子どもも多い。
ほかに言葉に対して、言葉どおりの行動をすることもよく知られている。

 こんな例があった。
ある女の子に母親が電話をした。
「今日、迎えに行くのが遅くなるから、(学校の)門の前で
待っていてね」と。
その女の子は、その指示に従って、そのままずっと、立っていた。
途中で雨が降ってきたのだが、そのまま真っ暗になるまで
門の前で待っていた。

 一般的に、頭は悪くない。
数学なら数学に、特異な才能を示すことがある。
が、こうした症状も、小学3年生くらいから、少しずつ、見た目には
わからなくなってくる。
子ども自身が、自分で自分をコントロールするようになるからである。

●KA氏の妻

 その男性の名前を、KA氏としておく。
KA氏はこう言う。
「結婚したときから、妻のがんこさは気になっていました。
ほかの女性と比較したことがないので、私はそのまま妻を受け入れて
きました。
しかしやはりふつうではありませんでした。
何かのミスをしたようなとき、ふつうなら、『あら、ごめん』ですむような
話でも、妻はちがいます。
その瞬間、グッと固まってしまうのです。
で、あれこれ私が注意すると、口答えにつづく、口答え。
こちらの気が変になることもあります。
たとえば自分でお茶をこぼしても、すかさず、『あなたがここへお茶を
置いておくから悪いのよ』とやり返してきます。
まだ私が何も言ってないのに、です」と。

しかしKA氏はこう言う。
「結婚して以来、林さん(=私)は信じないかもしれませんが、一度とて、
自分のほうから、『ゴメン』と言ったことがないのですよ。
融通性がまったくと言ってよいほど、ないのです。
その場、その場で、状況に応じて行動を変えるということができません。
だから夫婦喧嘩は絶えませんでした。
今でも、ときどき衝突します」とも。

 KA氏が、自分の妻が、元アスペルガー児ではないかと気がつき始めたのは
最近のこと。
孫がアスペルガーと診断されたことがきっかけだった。
加えて、ときどき妻の兄弟から、妻の子ども時代の様子が、耳に入るようになった。
(KA氏が聞き出したということもあるが……。)
妻の兄弟は、みなこう言っているという。
「異常なまでに、がんこだった」
「冗談が通じなかった。冗談を言うと、それを本気にしてしまった」と。

 もちろん20〜30年前には、「アスペルガー」という言葉すらなかった。
「アスペルガー」という言葉が、あちこちで話題になるようになったのは、
2000年に入ってからである。
高機能自閉症のひとつだが、知的な遅れは、観察されない。

 が、KA氏の妻のばあい、KA氏がそれとなく妻の障害について話しても、
妻はそれを認めようとしないらしい。
「私はおかしくない」と。
病識がまったくない。
だから「よけいに扱い方がむずかしい」とも。

 「他人に相談しても、みな『あきらめなさい』と言います。
しかし私は、妻に、自分の障害について気づいてほしいのです。
気づけば時間はかかるかもしれませんが、治るはずですから」と。

 アスペルガー児のばあい、将来的にはこうした問題も残ることになる。
当の本人だけの問題ではすまない。

【参考】(ウィキペディア百科事典より)

『「アスペルガー症候群の定義」や「アスペルガー症候群と高機能自閉症は同じものか否かに
ついて」は、諸説あるが、日本国内においては、高機能自閉症(知的障害のない、あるいはほ
とんどない自閉症)と区別されることは少ない(アスペルガー症候群は、知的障害の有無を問
わず、言語障害のない自閉症を指すという研究者もいる)。
自閉症の軽度例とも考えられているが、知的障害でないからといっても、社会生活での対人関
係に問題が起きることもあり、知的障害がないから問題がほとんどないとすることはできない。
知能の高低については、相対的に低いよりは高い方が苦しみが軽いという見解がある。日本
では従来、アスペルガー症候群への対応が進んでいなかったが、2005年4月1日施行の発
達障害者支援法によりアスペルガー症候群と高機能自閉症に対する行政の認知は高まった。
しかし、依然社会的認知は低く、カナータイプより対人関係での挫折などが生じやすい環境は
変わっていない』(以上、ウィキペディア百科事典)。


●自己嫌悪

 自分で自分がいやになる。
「自己嫌悪」という。
しかしこの自己嫌悪は、扱い方が難しい。
自分を嫌いながら、嫌っていることに気づかない。
たいてい、それを他人のせいにする。
「他人が私を嫌っている」と。

 たとえば自分の中に、いやな面があったとする。
するとそれを直接嫌うのではなく、まわりの親しい人に、
それをぶつける。
「あなたは、私を嫌っている」と。

 本当のところ、だれもその人を嫌っていない。
嫌ってはいないのだが、勝手に、「嫌っているはず」と
決めつけてしまう。
「相手はそういう自分のことを好きなはずはない」という思いが、
「嫌っているはず」となる。

 こうすることによって、自分が自己嫌悪に陥るのを防ぐ。
防衛機制のひとつと考えてよい。
というのも、自己嫌悪ほど、恐ろしいものはない。
ひとたび自己嫌悪に陥ると、心は砂漠のようになる。
こまやかな情感が消え、人を愛することができなくなる。
愛されても、それを理解できなくなる。

●ではどうするか

 自己嫌悪そのものが、うつ症による症状のひとつと考えられている。
脳内の脳間伝達物質の変調が原因ということになる。
自己嫌悪が肥大化すると、それこそ「自己否定」、さらには、
「自殺」ということにも、なりかねない。
 けっして自己嫌悪を、甘くみてはいけない。

 次のような症状が出てきたら、やはり専門医に相談したほうがよい。

(1)何をやっても、見ても、虚しく覚える。
(2)心がかわいた砂漠のようになって、こまやかな情感が消える。
(3)自分はだれにも愛されていない。心配もされていないと感ずる。
(4)みなが、自分を嫌っていると感ずる。
(5)自分は無価値の人間で、生きていてもしかたないと感ずる、など。

 子どもの様子を見ていて、「みながぼくを嫌っている」というような
言い方をしたときは、それ自体が、自己嫌悪によるものと考えてよい。
自分の気持ちを、相手に投射させて、そう言う。
もし子どもがそういうことを口にしたら、愛情表現を豊かにする。
子ども自身に、「あなたはみなに、愛されている」ということを、
わからせる。

 できれば、「相手があなたを嫌っているのではない」「あなたが相手を
嫌っている」ということをわからせる。
根気のいる、たいへんな作業だが、子どもを自己嫌悪から守るほうほうは、
これしかない。
まちがっても、冷たく、突き放してはいけない。

(付記)
 私も、実は、よく自己嫌悪に陥る。
(だから、自己嫌悪について、詳しい。)
そういうときというのは、何をしても、虚しい。
文を書いていても、「こんなことをしていて、何になるのだ」という
迷いばかりが、胸ふさぐ。
「自分は無価値」とか、「どうせだれにも認められない」とか、
そんなふうに思いながら、どんどんと自分で自分を勝手に否定していく。

 しかし本当のところ、だれにも嫌われていない。
(私を嫌っている人は、いるにはいるが……。)
勝手にそう思い込んでいるだけである。
それを自分に何度も言って聞かせる。
そして自己嫌悪の泥沼から、抜け出す。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
自己嫌悪 負い目 コンプレックス はやし浩司 劣等感 投影 投射 防衛機制)


Hiroshi Hayashi++++++++June・09++++++++++++はやし浩司

●眠られないとき

++++++++++++++++++

私は眠られない夜は、頭の中で、UFOの
設計図を描く。
巨大なUFOで、直径は、数10キロもある。
そのUFOの部分を、毎晩あれこれ考えて、
積み重ねていく。
「今夜は、居住室」「今夜は、観察室」と。
それが習慣になっているため、たいていそのまま
眠ってしまう。

++++++++++++++++++++

【学習】

++++++++++++++++++++

少し前に買った本だが、あまり読まないで
座右に置いたままにしておいた。

『時事用語・最重要キーワード』(成美堂出版)
というのがそれ。

今朝(6月15日)は、まずこの本で、
今まで知らなかったことをさがす。

+++++++++++++++++++++

●ふるさと納税

 自分の望む都道府県・市町村に、5000円を超える寄付をすると、その分だけ、地元で、所
得税の控除をしてもらえる制度。

 たとえば私は、静岡県浜松の住民だが、岐阜県のM町に、1万円の寄付をすると、1万円分
だけ、所得税を控除してもらえる。
方法は、簡単。
寄付すると、その自治体から領収書を交付してもらえる。
その領収書を添付して、確定申告をすればよい。(以上、参考、同書)。

 同じような方法だが、欧米の企業では、学生の奨学金制度に、この方法を採用している。
学生に奨学金を提供すると、その分だけ、やはり所得税から控除を受けられる。
こうすることにより、企業はあらかじめ、日本でいう「青田買い」のようなことができる。
企業、学生の双方にメリットがあることになる。

 日本でも、ぜひ実行してほしい。


●全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)

 2007年度より、小6児と中3生を対象に、全国学力・学習状況調査がなされるようになっ
た。
 結果、日本のばあい、基礎力はまあまあだったが、応用力に問題があることがわかった(同
書)。

 で、同時に、世界的な学力調査テスト(OECD・生徒の学習到達度調査・2006)で、にわか
にクローズアップされたのが、フィンランド政府による、「フィンランド方式」。

 フィンランド・メソドのポイントは、つぎの5つからなっている。

(1)発想力
(2)表現力
(3)コミュニケーション力
(4)批判的思考力
(5)論理力(以上、参考、同書)

 これを読んで私はうれしくなってしまった。
(3)のコミュニケーション力をのぞいて、私が日々に実践していることばかりだったからであ
る。

 たとえば(2)の表現力は、「言葉クラブ」で、もう30年以上も前から実践している。
『「森」「花」「子ども」の3つの言葉を使って、簡単な話を作りなさい』(幼児向け)など。

 子どもは、たとえば「子どもが、森で、花を見つけました」などという答を考える。
さらに一歩進んで、
『「山」「川」「魚」の3つの漢字を使って、話を作りなさい』(小1向け)というのもある。

 さらに進んで、こんな問題を出すこともある(幼児向け)。

【問】A
 あなたはUFOにさらわれてしまいました。
高い塔の狭い部屋に閉じ込められていまいました。
窓の外から手紙を落として、助けてもらいます。
あなたはどんな手紙を書きますか

(文字のじょうず・へたは問題にしない。
読めればよしとする。
脱字、誤字も、問題としない。
わからない文字は、そのつど、黒板に書いて教える。)

 これひとつ取り上げても、日本の国語教育には、まだまだ改善の余地がある。
現在の国語教育の基本は、(読んで)(理解して)(子どもを教える側好みの思考をする)にあ
る。
ワークブックを見れば、それがわかる。
しかしそれでは(応用力)は育たない。

 念のため、私の教室(幼児向け)でしている問題のいくつかを、ここに紹介する。
家庭での指導に、応用してほしい。

【問】B
あなたはおばさんの家に、お菓子を届けることにしました。
が、行ってみると、おばさんは、あいにくと留守でした。
そこであなたは、そのお菓子を、窓の下に置き、手紙を
書いておいておくことにしました。
その手紙には何と書けばよいでしょうか。
(具体的に、絵で、どういう状況かを、示してやるとよい。)

【問】C
歩いていると、草むらの中に大きな穴があいていました。
あなたはあやうく、その穴の中に落ちてしまうところでした。
そこであなたはつぎに歩いてくる人が、穴に落ちないように、
立て札を立てることにしました。
その立て札には、何と書けばよいでしょうか。

 こうした問題を、みなと考えながら、レッスンを進める。
最初は、的外れな文章を書いていた子どもでも、数回練習すると、それなりの文章を考えるよ
うになる。

 大切なのは、(中身)。
日本人は、トメ・ハネ・ハライ、さらには書き順などにこだわりすぎる。
そのため、こうした(表現力)の指導がおろそかになりやすい。
文章というのは、こちらの気持ちを相手に伝えるためにある。
その本筋を忘れて、国語教育はない。
たとえばこうした手紙を、下から上に、逆に書く子どもがいる。
誤字、脱字のまま書く子どももいる。
「ゆふぉ、たすけて、つわれていかれてしむ……」と書いても、よしとする。
そのおおらかさが、子どもの豊かな表現力を育てる。

 (私の教室は、『公開教室』で公開している。興味のある人は、そちらを見てほしい。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 
林浩司 BW はやし浩司 子どもの表現力 作文力 子供の表現力
具体的指導法)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

【金権教】(2)

●「食べれば損(そこ)ねるか」「食べなければ損(そん)か」

 ワイフとこんな会話をした。
「食べれば損(そこ)ねるか」「食べなければ損(そん)か」と。
「損」という漢字は、「損(そこ)ねる」とも読める。
「損(そん)」とも読める。

 損ねるというのは、「体のどこかを傷(いた)める」という意味。
損するというのは、金銭的なロスをいう。
それをワイフに話すと、ワイフもすなおに賛成してくれた。
「(金銭的な意味で)、食べなきゃ、損と思っていると、
あっという間に太ってしまうわね」と。

私「じゃあ、金権(マネー)教の人は太りやすいということかな?」
ワ「そうねエ、食べ物を見て、すぐ金銭的な判断をする人は、食べなきゃ、
損を考えるかもね」
私「しかし自分の中から、金権教を抜くのは、たいへんなことだよ。
それまでの価値観を180度、変えなければならない人もいるから」と。

●金権教(マネー教)

 日本というより、世界中が、金権教(マネー教)の毒されている。
だから自分がその信者でいながら、その信者であることにさえ気がつかない。
そのことは隣の中国の人たちと比べてみてもわかる。
10年ほど前のことだが、実際に、こんなことがあった。

 子どもが川にはまって溺れた。
それを見て母親が周囲の人たちに助けを求めた。
で、中に1人、男が名乗り出てきて、こう言ったという。
「〜〜元、出してくれたら、助けてやる」と。

 こういう話を聞くと、日本人なら、「それはおかしい」と言う。
たしかにおかしい。
しかし当時の中国では、そうでなかったらしい?
あるいは中国でも特異な話だったかもしれない?
ともかくも金権教に毒されると、そういう発想で、世の中を見るようになる。

●ハイパーインフレ

 貧富の差が、さらに広がりつつあるという。
「ワーキングプア」という言葉にしても、新鮮味を失った。
今では、私もあなたも、みんなワーキングプア。

 一方、政府はジャブジャブどころか、どしゃ降り的に、マネーを
ばらまいている。
AS首相は世界へ行くたびに、その先々で、1兆円単位のマネーを
ばらまいている。
もちろん、この日本でも!

 そういったお金は、機関投資家や金融機関へと流れている。
が、庶民に届くのは、もっと先。
が、そのころそこで待っているのは、ハイパーインフレ。
やっとお金が回ってきたと思ったら、物価も消費税も2倍!、と。
AS首相のこうした金融政策に疑問を投げかける専門家も多い。
当然のことながら、09年6月に入って、AS首相の支持率が急落し始めている。

●金万能主義

 昔はその人の「家」を見て、その人を判断した。
「あの人は立派な家を建てた」「だから出世した」とか、など。
江戸時代の家制度の亡霊と考えてよい。

 それがある時代は、「自動車」になった。

大型の乗用車に乗っている人ほど、尊敬の念を集めた(?)。
(数年前の韓国もそうだったという話を聞いたことがある。
みな、こぞって大型車に乗りたがったとか。)
が、今は、金権(マネー)。

 「金権」というときの「権」は、「権力」の「権」ではない。
マネーがもつ「力」をいう。
マネーをもっている人は、その力にものを言わせて、好き勝手なことができる。
「金万能主義」ともいう。
「お金があれば、何でもできる」と、このタイプの人は、そう信じている。
さらに積極的に、「お金しか信じられない」とか、「信じられるのはお金だけ」とか、
そんなふうに考える。

●ではどうすれば、よいか

 自分の体にしみついた金権教を、どうすれば知ることができるか。
自分の心を映すカガミのようなものがあればわかりやすいが、そういうカガミはない。
そこで私なりにテストを考えてみた。

(1)美術館などで、絵画の価値を、売買金額で決めることが多い。
(2)金持ちの人を、成功者と称える傾向が強い。
(3)(反対に貧しい自分を、恥じる傾向が強い。)
(4)世間的な見得を張ることが多く、金持ちぶることが多い。
(5)明けても暮れても、考えることはマネーのことばかり。
(6)金銭の損得計算にこまかく、うるさい。
(7)自分が貧乏人に見られることを、とくに嫌う。
(8)「人生で、お金がいちばん頼りになる」と信じている。
(9)金儲けのためなら、家族は犠牲になって当然と考える。

 (1)〜(9)までのうち、いくつかが当てはまれば、金権教の信者
ということになる。
相互に関連しあっているので、「何点以上が金権教」というようには、
判断できない。
たとえば見栄っ張りな人は、同時に自分貧乏人に見られることを嫌う。
明けても暮れても金儲けのことしか考えていない人は、当然のことながら、
金儲けためには、家族は犠牲になって当然と考える。

●歴史

 金権教がこれほどまでに優勢になったのは、戦後のことではないか。
とくに1965年前後から始まった、高度成長期以後のことである。
だれもが「マネー」「マネー」と言い出すようになった。

 よく「日本人には宗教観がない」と言われる。
それはその通りで、仏教そのものが形骸化し、中身を失ってしまった。
かわって金権教が台頭してきた。
中には「この仏法を信ずれば、庭の枯れ木に札の花が咲く」と教えて、
戦後急速に勢力を伸ばした新興宗教団体もある。

 で、今は、その高度成長期も一段落し、円熟期というか、後退期に
入っている。
金権教の信者だった人も、「今までどおりでよいのか」と疑問をもち
始めている。
出世主義が崩壊し、家族主義が主流になったのも、そのひとつ。
「仕事より家族が大切」などという考え方は、40年前には想像もつかなかった。

●ではどうするか

 先のテストで、「私は金権教の信者」と気づいたら、同時に、別の価値観
の創造をしなければならない。
それしないまま、金権教を自分からはずすと、それこそ糸の切れた凧の
ようになってしまう。

 では、その価値観とは何か?
どうすれば自分の中に、作ることができるか?
が、こればかりは、人それぞれ。
みなちがう。
自然主義、人間中心主義、平和主義、人道主義などなど。
真・善・美の追求もすばらしい。

 そうしたものに向けて、自分を燃焼させていく。
またそういう方法で、自分の価値観を創造していく。
で、私のばあいは、どうか。

 何を隠そう、私も団塊の世代の常として、金権教の信者だった。
人一倍、そうだった。……ように思う。
しかしそういう時代というのは、今から思い出しても、残るのは、後味の悪さだけ。
そういう自分を思い出しながら、人生を無駄にしたように感ずることもある。
お金の使い方にしても、もう少し賢い使い方をすれば、より中身の濃い人生
にすることができたと思う。
人間関係にしても、そうだ。

親類にすら、お金をだまし取られた。
が、それとて、私が蒔いた種。
いいかっこうをしすぎた(?)。
私自身に責任がなかったとは、言えない。

●私のばあい

 いまだに模索状態。
何かがそこにあるはずなのに、それがつかめない。
悶々としている。
もちろん金権教も残っている。
マネーは嫌いではない。
あればあるほど、楽しい。
ないと不安というより、収入として入ってくるマネーの流れが
止まるのが心配。
いまだに何かに追い立てられているような感じがする。
そういう感じを断ち切ることができない。
……難しい。

 ただ若いころとちがうのは、マネーの限界を強く感ずるようになったこと。
「マネーでは、幸福は買えない。
命も健康も買えない。
マネーでは、生きがいを買えない」と。

 その限界を、加齢とともに、強く感ずるようになった。
この傾向は、この先、ますます増大するだろう。
その結果……。

 それには私より年配の人たちの生き様が参考になるはずなのだが、
ざっと見回したところ、そういう人が、1人しかいない。
恩師のTK先生である。
肩書きを並べただけでも、数枚の紙に収まらないだろう。
しかしTK先生のばあい、一度とて、自分のほうからそれを求めた
ことはない。
人徳というか、結果として、そうなった。

 で、そのTK先生自身は、木造の古い家に住んでいる。
大正時代に建てられた家という。
研究者らしく、モノとしての財産には、ほとんど興味がない。
先日も会ったとき、こんな話をしてくれた。
「窒素の固定化を、そこらの植物がしています。
その分子を調べたら、20数万個もの元素でできているのです※。
どうしてああいうものが、自然界で、何の苦もなくできていくのか、
不思議でなりません」と。

 興味の対象、そのものがちがう。
私はその話を聞いたとき、TK先生を、心底、うらやましく思った。
TK先生は、いつも頭の中で、そんなことを考えている。

●終わりに……

 が、無数の人の金権教のおかげで、今の日本がある。
これからの日本を支えていくためには、(少なくとも、この自由主義
貿易陣営の中で生きていこうとするなら)、金権教は必要である。
完全に否定することはできない。

 が、それに毒されすぎてもいけない。
毒されたとたん、自分を見失う。
が、それこそ人生の無駄。
損。
本物の損ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++June・09++++++++++++はやし浩司

●時間教

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『ピーターパン』の話に出てくる、フック船長は
あのワニが大の苦手。
ワニがチックタックと音を出して近づいてくるだけで、
フック船長は、震えあがる。

ワニは、いつか、目覚まし時計を飲み込んだ。
それでチックタックという音を出すようになった。
原作者のジェームズ・マシュー・バリーにそういう
意図があったかどうかは、わからない。
しかしフック船長は、そのまま、時間に追われて生きる現代人を、
象徴している(?)。

現代人はいつも、チクタクと時間に追われて生活している。

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●時間こそ財産

 「時間こそ財産」ということには、いくつかの意味が含まれる。
また「時間」は、使い方の問題。
 よく「Time is Money(時は金なり)」と、時間をマネーにたとえて
考える人がいる。
ここでいう「時間こそ財産」というのは、もっとちがった意味で、
私はそういう。

 「時間」という言い方に問題があるなら、「命」と置き換えてもよい。
生きている命そのものが、財産。
命の長さを数値で表したものが、「時間」と考えればよい。

 また「使い方の問題」というのは、要するに、何のために使うか
ということ。
金儲けのためだけに使えば、それこそフック船長ということになる。
毎日時間に追われて、あくせくする。
一方、真・善・美の追求のために使うなら、時間はつねに財産ということに
なる。

●時間との勝負

 私のばあい、「時間との勝負」「健康との勝負」の2つが加わる。
「健康」には、「肉体の健康」と「脳みその健康」がある。
一般的には、健康寿命(健康でいられる寿命)は、平均寿命から
10年を引いた分と言われている。
平均寿命が84歳なら、健康寿命は、74歳ということになる。
だれしも晩年の10年は、病気との闘いということになる。
しかしそうなったのでは、当然、脳みその働きも鈍くなる。
ものも考えられなくなる。

 肉体の健康ということになれば、そのときはそのとき。
そのとき恐れないように、今を、じゅんぶん生きていく。
何がこわいかといって、「後悔の念」ほど、怖いものはない。
その「念」だけは、それまでに、しっかりと払拭しておきたい。
そのために、「今」がある。
今、がんばる。

●時間教の勧め

 もしあなたが今、健康で、元気なら、今こそ、時間を大切にしたらよい。
目が見える、音が聞こえる、歩くことができる、話をすることができる。
食事がおいしい、初夏のそよ風が心地よい、ものを考えることができる。
 それこそが、時間教の恵みということになる。
その時間を生かして、今、やるべきことをさがし、(「したいこと」では
ない。「やるべきこと」)、そのやるべきことに自分を統合させていく。

 かなり説教ぽい書き方になってしまった。
が、これは私自身の目標でもある。
またそれができないから、(正直なところ)、悶々としている。
だいたいにおいて、(やるべきこと)が、いまだに定まっていない。
その(やるべきこ)は、エリクソンも言っているように、無私無欲でなけ
ればならない。
損得勘定、欲得が混入したとたん、統合性は霧散する。
あくまでも人のため、社会のため、人類、地球のため……。
そういう意識は高邁(こうまい)であればあるほど、よい。
つまり俗世間を相手にしないところに、統合性の確立の意味がある。
またそれなくして、統合性の確立は、ありえない。

 これは時間教の根幹をなす考え方である。

 さあ、今日一日、どうやって時間を過ごすか。
がんばってみよう。
6月15日、朝、記す。


Hiroshi Hayashi+++++++June 09++++++++++++はやし浩司

●郡上八幡

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今日、岐阜県の郡上八幡へ行ってきた。
ワイフと2人で、人力車に乗った。
郡上城にも、登った。
初夏というより、すでに夏。
しばらく歩くだけで、ジワジワと体中が
汗ばんでくるのがわかった。

昼ごろ、私はざるソバ、ワイフは何とかという
名前のついた、その店の特製ソバを食べた。
このところ小食になったのが、自分でもよくわかる。
胃袋そのものが、小さくなった感じ。
で、今朝、体重を量ったら、62・5キロ。

BMI体重判定法によれば、値は、「20!」。
理想的な体型だそうだ。

もし健康な男性が、どういう体型をしているかを
知りたかったら、私を見ればよい。
いつまでつづくかはわからないが、今日は、
そうだった!

あとはこの体重を維持する。
がんばろう!
がんばります!

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Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(090616)

●ターミネーター4(Terminator 4)(vs.「真夏のオリオン」)

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今夜、街へ行ったついでに、深夜劇場を観てきた。
『ターミネーター4』。
文句なしの、星5つ、★★★★★。
観終わったと、「娯楽映画はこうでなくちゃア」と
ワイフと言いあった。

で、先週観た、『真夏のオリオン』(邦画)が、
ガクンと色あせてしまった。
星を2つ、つけたが、『ターミネーター4』と比べたら、
星1つも、難しい。

「俺たちは、死ぬために戦っているのではない。
生きるために戦っているのだ」(「真夏のオリオン」)
というセリフひとつにしても、安っぽい!
そんな程度の哲学なら、目と表情で表現できるはず。
戦争をなめている。
まるで子どもの学芸会。
楽譜一枚で、戦争が動くはずもない。
『一杯のかけそば』風の、お涙ちょうだい映画。
(だからといって、戦争を肯定しているわけではない。
誤解のないように!)
それがわからなければ、ターミネーター4を観たらよい。

その(ちがい)がわかるはず。
私が言っていることが、辛辣でないことがわかるはず。

で、その『ターミネーター4』。
それを観ているとき、外では、はげしい雷をともなった
ドシャ降りがあった。
しかし映画の音と重なって、それがわからなかった。
つまりそれくらい迫力があった。

久々に、スカッとした!
つぎは『トランスフォーマー』。
観るぞ!

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【6月17日】

●流水は腐らず

 (やるべきこと)を見失うと、とたんに精神が腐り始める。
たまたま今の私が、そうだ。
土日からスタートして、連続4日の休暇をもらった。
言うなれば有給休暇。

 が、たった4日にもかかわらず、わずかだが日々に精神が腐っていくのがわかる。
緊張感が消える。
東洋医学では、『流水は腐らず』と教える。
生き生きと体を動かしている人は、病気になりにくいということを言ったものだが、
それはそのまま精神についても、言える。
脳みその中の血流がよどんだとたん、ものの考え方が、腐ってくる。
グチが多くなる。
うらみ、つらみが、増大する。
「休暇を楽しむ」というよりは、悶々とした気分になる。

 もちろんそれなりに楽しんだつもり。
遠方まで、2度ほど、足を運んだ。
映画も見た。
山で、穴掘りもした。
「穴掘り」というのは、粗大ごみを埋める穴である。
が、充実感がない。
なぜだろう?

●K国のミサイル

 これはあくまでも私のケースだが、育児論にしても、子どもたちの顔を見ていないと、
書けない。
顔を見ているから、書ける。
が、たった4日なのだが、子どもたちから遠ざかったとたん、育児論が書けなくなって
しまった。

 もともと、法科の学生だったということもある。
ネットで読むものといえば、国際政治がらみの記事ばかり。
今朝もまっ先に読んだのが、K国のミサイル発射実験の記事。
またまたあのK国は、ミサイル発射実験の準備を始めたらしい。
しかも今度は、テポドン2発のほか、ノドン数発の発射準備をしているという。
(どこまで、おバカなのだろう?)

 どれも液体燃料を使っているため、準備には時間がかかる。
が、一度、準備を始めたら、途中で、それを止(や)めるわけにはいかない。
つまり一度、ミサイル本体に注入したら、抜くことができない。
液体燃料というのは、そういうものらしい。
現在、どういう状態かはわからないが、もし報道されている記事の通りとするなら、
近く、K国は、ミサイルを日本に向けて発射するはず。

 「いくらなんでも、そこまではしないだろう」と、もしあなたが考えているとしたら、
それは甘い。
現在、K国がテポドンにせよ、ノドンにせよ、それを使って攻撃できる国は、この
日本をおいて、ほかにない。
「日本にミサイルを撃ち込んで、あいつらを脅かしてやろうではないか」くらいは、
考えているはず。

 が、これに対して、「アメリカが報復してくれるはず」と、あなたは思うかもしれない。
しかし弾頭に核兵器や生物兵器でも積んでいれば話は別だが、そうでなければ、アメリカ
は、何もしない。
そんな程度のことで、アメリカはK国とは、開戦しない。
開戦したとたん、朝鮮半島は、それこそ火の海となってしまう。
K国の独裁者たちも、それをよく知っている。

●空虚感

 ……しかし、私がこんなことを書いても、意味はない。
(読み物)として読んでくれる人はいるだろう。
しかし、そこまで。
言うなれば、情報のゴミ。
いくら書いても、ただのゴミ。

 だから書いていても、そのつど空虚感が、私を襲う。
「書きたい」という思いと、「書いてもムダ」という思いが、交互に胸の中を行きかう。
ワイフもときどき、こう言って笑う。

「あなたって、世界中をひとりで背負っているみたい」と。
つまり、「バカみたい」と。

 そこで話題を身近なものに絞ってみる。

(1)静岡空港はやはり、ムダだった

 I知事はがんばった。
中央から補助金を引き出すことはできた。
建設業者は、それで潤った。
が、そこまで。
あれほどまでに立派な空港など、必要ない。
だれが見ても、必要ない。
田舎のバスターミナルを、5階建てのビルにしたようなもの。
これから先、静岡県民は、空港を維持するだけでもたいへん。
へたをすれば、毎年、数百億円以上の負担になるはず。

(2)リニア迂回 

 東京―名古屋間を走るリニアのルートをどうするかで、もめている。
「長野市寄りに迂回せよ」と主張する、長野県側。
しかしもし迂回ルートを採用すると、その建設費用だけで、プラス1兆円。
東京―名古屋の所要時間も、10分、長くなるという。

 あの新幹線のルートを決めるときも、そうだった。
結局、岐阜県寄りの迂回ルートを採用してしまった。
どこのバカが迂回させたかは、岐阜羽島駅の前に立って見るとわかる。
立派な銅像が立っている。

 で、その「10分」。
今後100年間、リニアが走ると計算し、そのロスを積算していくと、1兆円や
10兆円ではすまない。
それを考えたら、ルートは、東京から名古屋までの、一直線にすべきである。
「すべき」である。
長野県の地域エゴ(=有力政治家)の言いなりになってはいけない。

 ……しかしやはり、虚しい。
こんなことを書いても、やはりゴミ。
情報のゴミ。

 では、こういうときは、どうするか?
まず、久しぶりに、近くの書店をのぞいてみる。
つぎにパソコンショップをのぞいてみる。
何人かの友人に電話を入れてみる。
新しい情報を手に入れる。
それに今夜は、義兄を訪ねてみよう。

 このまま家の中に閉じこもっていたら、精神はますます腐ってしまう。
……ということで、今日も始まった。
6月17日、早朝。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

【思考回路】(Thinking Process)

●思考回路

人間の行動の99%以上は、脳の中に
できあがった思考回路に沿ってなされる。

たとえばテーブルの上のリンゴをつかむとき、
それをどうつかむか、いちいち考えてする人はいない。
自然に手は動き、指はリンゴをつかむ。

同じように、今度はまったく新しいものを
つかむときも、それがはじめてのものであっても、
どうつかむか、それをいちいち考えてする人はいない。

脳の中に、すでに(つかむ)という動作について、
思考回路ができあがっているからである。

これは行動、動作に関する思考回路ということになるが、
同じように、思考、感情に関する思考回路もある。

たとえば何かのことで不愉快に思ったとする。
するとそれが何であれ、その人は自分の思考回路に
したがって、その問題を解決しようとする。
たとえば暴力団の人なら、(不愉快)→(暴力で
解決)というふうに、思考を肥大化するかもしれない。

が、ここで誤解してはいけないのは、思考がそのまま
行動につながるというわけではない。
(思考)→(感情の肥大化)と進み、それが臨界点を
超えたとき、(暴力)という行為につながっていく。

具体的に考えてみよう。

●感情の思考回路

たとえば、何かのことで不愉快になったとしよう。
近隣の人が、このところ何かとあなたの様子をうかがって
いる(?)。
あなたはそういう疑惑をもったとする。

するとそれまでにそういう思考回路ができている人は、
(疑惑)→(妄想)→(怒り)というように、感情を発展させていく。

そのとき、そういう思考回路のない人は、(疑惑)そのものを
もたない。
疑惑をもつということは、すでにそれ以前に、そうした思考回路
を作ってしまったということになる。
似たような経験があったというように考えてもよい。

たとえば子どものころ、仲間に意地悪をされたとか、など。
(筆箱がなくなった)→(だれかが隠した)→(いじめられた)と。

あとはその思考回路に従って、(怒り)を増大させる。
(暴力)という結果につながるかどうかは、あくまでも、
その結果、ということになる。

ただ暴力団の人は、(多分?)、暴力の使い方をよく知っているから、
即、「ぶん殴ってやれ!」というように考えるかもしれない。
私のばあいは、何か問題が起きるとすぐ、「文章を書いて解決
しよう」と考える。
それが思考回路ということになる。

●善玉思考回路vs悪玉思考回路

が、思考回路が悪いというのではない。
先に書いた、テーブルの上のリンゴをつかむときにしても、
思考回路ができあがっているため、それをスムーズにつかむことができる。
何も考えないで、つかむことができる。

思考にしても、そうだ。

大切なのは、どういう思考回路に沿って、ものごとを
考えるかということ。
そういう意味で、私は思考回路を、(1)善玉思考回路と、(2)悪玉思考回路
の2つに分けて考える。

(1)善玉思考回路

たとえば目の前に大きな問題が立ちふさがったとする。
たとえば義父の介護問題が起きたとする。
要介護度は3だが、勝手に台所へ入ってきて、いろいろなものを
散らかしてしまう。
ときに居間で、おむつの間から、便を漏らしてしまうこともある。

そういう状況になったとき、介護者であるあなたは、
いろいろな対策を考える。
義父が部屋から出られないようにする。
が、それはかわいそうだから、床からジュータンを取り除く。
台所には、ものを置かない。
おむつは大きなものにする。
簡単な囲いを作って、大切なものにはさわらせないようにするという
方法もある。

こうしてあなたは自分の思考回路に従って行動する。
それを妄想として、肥大化させない。
こういうふうに、前向きにものごとを考えていく思考回路。
それが善玉思考回路ということになる。

(2)悪玉思考回路

これに対して、妄想をどんどんとふくらませていくケースもある。
「こんなことでは、この先、どうなるかわからない」
「床が便で汚れる」
「部屋に閉じ込めておくと、暴れるかもしれない」
「義兄や義姉がそれを見たら、義父を虐待していると騒ぐかもしれない」と。

こうした悪玉思考回路は、ある人には、ある。
ない人には、ない。
以前、同じような経験をして、いやな思いをした人ほど、そういう
悪玉思考回路はできやすい。
心の病気がからんでいるケースもある。
そこでその人は、(いやだ)→(妄想)→(怒り)と、
自分の感情を肥大化させてしまう。

わかりやすく言えば、そういう悪玉思考回路のある人は、
その思考回路に従って、妄想をもちやすく、またそれを肥大化
させやすいということ。

極端なケースかもしれないが、一度、そういったケースを、
暴力を使って解決したことがある人は、即、「暴力で……」と
いうように考えるかもしれない。

が、そうでない人は、そうでない。
「暴力」そのものを思いつかない。

●体罰

よく親の体罰は、子どもに世代連鎖しやすいと言われる。
それも、この悪玉思考回路によって、説明できる。
子どもは、親に体罰を受けることによって、(何か不満がある)
→(怒り)→(体罰)という思考回路を、自分の脳の中に
作ってしまう。

そのため、自分がおとなになり、結婚し、子どもをもうけたとき、
その思考回路に従って、子どもに体罰を加えるようになる。
(心理学の世界では、「学習」という言葉を使って、それを説明する。)

もっとわかりやすい例では、体育系の教師による体罰がある。
体育系の教師自身も、自分が子どものころ、そういう教育を受けた。
その教育を、無意識のまま、繰り返している(?)。
さらにそれ以前はいえば、戦前の軍国主義教育があったかもしれない。
日本軍の指導の仕方は、体罰一辺倒であった。
何があっても、体罰。
何を失敗しても、体罰。
それが体育系の教師の思考回路として、代々、引き継がれた(?)。

●善玉思考回路

大切なことは、悪玉思考回路はつくらないということ。
教育について言うなら、子どもには、もたせないということ。
一度、作られた思考回路は、消すことができない。
できなくはないかもしれないが、改めるのはたいへん。

そこで善玉思考回路について、説明してみる。

ある女の子(幼稚園・年長児)が、「私はおとなになったら、お花屋さんに
なりたい」と言ったとする。
そのとき親は、すかさず、こう言う。

「すてきだね。
だったら、今度の日曜日に、○○ガーデン・パークへ行ってみよう」
「図書館で、お花の図鑑を借りてこよう」
「庭に、花の種をまいてみよう」
「野菜もいいかもね」と。

こうして子どもの(思い)を、どう育てていくか、子どもにそのレールを
示してやる。
それがその子どもの思考回路となる。

ただ、思考回路に何が乗るかは、それは年代によって異なる。
幼稚園児のときは、お花屋さんであっても、小学生に
なると、パン屋さんになるかもしれない。
中学生になるころには、ファッションデザイナーになるかもしれない。
しかしそれが何であれ、つまり思考回路に乗るものが何であれ、
子どもは、その思考回路に従って、自分を前向きに
伸ばしていく。
それができるようになる。

まず、図書館へ行く。
そういう仲間に入る。
自分で、パンを作ってみる、など。
大切なのは、その上に何が乗るかではなく、善玉思考回路を
どう作るか、である。

●思考回路の転換

私たちの行動、思考は、そのほとんどが、自らの思考回路に
沿ってなされる。
一見複雑に見える、人間の行動や思考だが、それぞれの人は
自分の思考回路に従って、行動し、思考しているだけ。
冒頭に書いた「99%以上」というのは、そういう意味である。

そこで、こんなことも重要である。

先にも書いたように、思考回路というのは、一度できあがると、
それを改めるのは、たいへん。
たいへんというより、よほど何かのことがないと、改めるのは
不可能。

たとえば若いとき、親絶対教の信者になった人は、死ぬまで
親絶対教の信者のまま。
その思考回路に従って、ものを考え、行動する。
権威主義でもって、親風をビュービューと吹かす。
自分で、自分の親を絶対と思うのは、その人の勝手。
しかしその返す刀で、子どもに向かって、
「親に向かって、何てこと言う!」と怒鳴り散らす。
子どもにも、それを強要する。

が、これでは親子の断絶は、時間の問題。
……というより、子どもも、親絶対教の信者にならないかぎり、
まちがいなく親子の関係は、断絶する。

そこで自分の思考回路を、ときに疑い、ときに別の思考回路を
応用してみる。
これは日々の努力のみによって可能である。
しかも脳みそが硬直化し始めたら、遅い。
若ければ若いほど、よい。

……そこでためしに、今度テーブルの上にあるリンゴを手でつかむとき、
いつものやり方、つまり無意識のままつかむという方法ではなく、
別の方法でつかんでみたらどうだろう。

たとえば両手の人さし指だけで、つかんでみるとか、
口と片手を使って、つかんでみるとか、
さらに箸で、刺してそれをもちあげてみるとか、などなど。
いろいろな方法がある。

いろいろな方法で、自分の中の思考回路を、一度破壊してみる。
思考、感情の思考回路も、また同じ。
まずいのは、同じ思考回路に沿って、毎日同じ行動、同じ思考を繰り返すこと。
そういうことをすること自体が、すでにボケの始まりとみてよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 
林浩司 BW 思考回路 善玉思考回路 悪玉思考回路 思考プロセス はやし浩司 思考回
路 思考の柔軟性 ボケの始まり)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●K国のミサイル・迎撃反対!(We just ignore the Missiles from North Korea)

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K国のミサイルに対して、迎撃反対を主張した。
それに対して、Goo−Blogだけでも、
何十ものコメントが寄せられた。

それらの中からいくつかを、そのまま紹介する。

++++++++++++++++++++++

●はじめに……

 またまたK国は、ミサイルの発射準備をしているという。
しかも今度は、ICBM(大陸間弾道弾)を2発、そのほか、日本を射程に収めた
ノドンを、わかっているだけでも、3発以上も準備しているという。

 が、今度は、実験ではない。
アメリカの軍事専門家は、「標的は日本!」と、ズバリ、言い切っている。

+++++++++++++++++++++++

時事通信・6月18日は、つぎのように伝えている。

『【ワシントン17日時事】米シンクタンク「国際政策センター」のセリグ・ハリソン・アジア研究部長
は17日、下院外交委小委員会で証言し、「北朝鮮との戦争があるとすれば、北朝鮮が攻撃す
るのは韓国ではなく日本だ」との見方を示した。ハリソン氏は今年1月に訪朝し、北朝鮮の政府
や軍部高官と会談している。

 同氏は「金正日総書記が病気で日常の公務を減らしてから、海外経験のない国粋主義的な
若手将校たちが指導部で強い立場にある」と指摘。これらの将校は、金総書記が2002年、訪
朝した小泉純一郎首相(当時)に日本人拉致問題を認め、謝罪したことに憤激していたと述べ
た。

 さらに、国連安保理制裁によってこれらの若手将校が一層立場を強め、「日本との戦争にな
った場合の北朝鮮の軍事力について、非現実的な分析を行っている」と警告した』と。

++++++++++++++++++++++++++

つまり、今、この日本は、たいへん危機的な状況に置かれている。
仮に弾道だけでも東京、大阪へ撃ち込まれるようなことにでもなれば、それこそ
日本は、ハチの巣をつついたような大騒ぎになる。
日本経済はその直後から、マヒ。
株価は暴落、債権、円も大暴落!
K国は、それをねらっている。

 が、もし、弾頭に核兵器などの大量破壊兵器が積み込まれていたとしたら……。
たった1発で、20万人以上もの死傷者が出ると予想されている。
そんなことにでもなれば、大惨事以上の大惨事。
日本はそのまま奈落の底に、たたき落とされる。
それには理由がある。

 とても残念なことだが、日本は、丸裸以上の丸裸。
こうした攻撃に対して、まったくの無防備。
あのシンガポールでは、どんなマンションにも、地下シェルターが用意されている。
韓国にしても、高速道路はすべて、そのまま戦闘機の滑走路して、使えるようになって
いる。
防毒マスクを、子どもたち全員に配っている。
一方、この日本は、どうか?
みなさん、ご存知の通り!

●危険な迎撃

 こんな状態で、日本がK国のミサイルを迎撃すれば、日本は、どうなるか?
恐らく最初の1発は、オトリで撃ってくるだろう。
が、それを迎撃したとたん、K国は、「報復!」と叫んで、20〜30発もの
ノドンを日本に撃ち込んでくるはず(韓国の軍事専門家)。
しかもそのときは、弾頭が、ただのカラ弾頭であると考えるのは、無理。
爆弾、もしくは生物、化学兵器、もしくは核兵器を搭載してくるはず。

 「迎撃!」と威勢のよいことを言うのは簡単。
しかし向うは、(数)で日本を襲ってくる。
ノドンだけでも、すでに200〜300基が、実戦配備についているという。
800基という説もある。
そうなったとき、日本は、どう対処するのか。
その対策は、できているのか。

 ゆいいつの防御方法は、最初の1発を撃ち込んできた直後に、K国のミサイル基地を
攻撃すること。
(これは間髪を入れず、その直後にする必要がある。)
しかしこれは日本の憲法が制約しているように、できない。
またその武器すら、日本は、もっていない。
その緊張感もない。

 つまりものごとは現実的に考える。
それを積み重ねていく。

迎撃は可能か……NO!
日本はK国を相手に、戦闘能力があるか……NO!
日本は、ミサイル攻撃に対して、防御能力は整っているか……NO!

 そして出てくる答は、ただひとつ。
『ミサイルを迎撃してはいけない』である。

++++++++++++++++

●コメントより

★「あんたの頭上には来ないからな」(あきれた様より)

☆「私もミサイル迎撃には反対です。K国を調子に乗せてはいけないし、日本に犠牲が出たと
しとも、我慢しなければ。戦争になるとしても国際社会を味方につけて、K国を金〇〇を徹底的
に潰さなくては。K国の国民にも犠牲者は出るでしょう、しかし戦争にならなくてもK国の国民は
何万という人々が餓死し犠牲になっています。早く民主化しないと未来は無いでしょう。日本も
いつまでもビクビクしているわけにはいかない。戦争は本当に馬鹿なものです。殺し合いで国
同士の問題を解決しようとする、この近代にあり得ない愚かな事。でもK国のような国があり、
武器を売っている国がある現実。悲しいですが受け止めなくては。私は運よくこの局面を回避
出来たとしても、日本が国際社会の中で活躍したり、国の危機管理をしっかりしてくれる政府に
なれるとは思いません。ですから10歳になる息子には、英語と新聞を読ませ、もう少ししたら、
もう一カ国語を習わすつもりです。これからは子供には日本以外で生活出来る能力を付けさせ
てあげなければ。日本人としての誇りなんていりません。国際社会で生き抜く力が必要では?」
(みずほ様より)

★「一発数百億ドルのミサイルって何ですか?そんな天文学的価格のミサイルは世界中探し
てもありませんし、そもそも自衛隊の年間防衛費では購入不可能でしょう。そもそも、一回使い
っきりの兵器で何を撃墜するのか、という事になりますけど、最新鋭ステルス戦闘機のFA22ラ
プターでも約235億"円"です。因みに自衛隊の迎撃ミサイル"パトリオット"は一発約2億円」(1
415様より)

★「ガラクタに近いロケットでも日本に落ちてきたら大惨事だろ」(Unknown様より)

☆「激しく同意。この国の人は戦争が始まろうとしているのになんでこんなに呑気なんですか
ね」(Persons1様より)

★「>人工衛星なら、北極、もしくは南極に向けて発射するのが、
>常識!
>どうしてそれを、東に向けるのか?

そんな常識ありませんよ。
人工衛星は地球の自転に後押ししてもらうために東に打つのが普通です」(愛国者A様より)

★「はじめまして、いつもこちらのブログを拝見させていただいております。
経験に裏付けされた鋭い分析に、いつもなるほどと感銘を受けております。

ですが、今回のエントリーに関しては少しだけ引っかかったことがあり、思わずコメントさせてい
ただいた次第です。

仰るとおり、加害者被害者の件において、「加害国家の都合だけで、史実上本当に一方的な
蹂躙を行った」というのであれば、その事実に対して「歴史を美化するなんてとんでもない、や
られた方の気持ちを考えてみろ」というのはとても納得できる話です。

しかしながら、その史観に基づく史実は本当に事実なのでしょうか?その前提が間違っている
可能性はないのでしょうか?
戦後60年私たちはそのように学校でも教育をうけましたし、それが当たり前とされてきていま
した。現に韓国、中国からは謝罪せよと要求されています。
我々日本人同士では相手を信頼することが前提となりますので、まさかそういった要求を不当
にするはずがない、そう言っているのだからきっとそのような非道なことを過去の日本は行った
に違いない。
そういった思考に陥っていないでしょうか?

インターネットが発達した現在、情報を調べる手段は沢山あります。また、多数の人が見るネ
ットだからこそソースのはっきりしない事は淘汰されていきます。

また、アジアの孤児と仰っていますが、アジアとは中国、韓国、北朝鮮の3国しかないのでしょ
うか?それ以外のアジア諸国、欧米が日本に対してどのような印象を抱いているかを御存知
ですか」(Haru様より)

★「あなたみたいな、直ぐに騙される日本人を眺めて、アメリカの「戦争屋」は腹を抱えて笑って
いるでしょうね。 

金正日の後継者は、CIAのエージェントみたいですよ。 
北朝鮮という「脅威」を作り出してカネを絞り取ろうというのは、他でもなく、アメリカ。 
詳しくしりたければ、リンク記事を読まれたし」(SAMU様より)

★「あんた何者?教育学者?ダカラって、ほとんどの人が使っていると思うけど。皆、思考力な
しってこと?」(Unknown様より)

☆「低劣な人間が 権力を持っている日本の政治ですね。 

麻生太郎にしろ、あの人達は日本を戦前の軍国主義社会に逆戻りさせようとする危険な集団
です。
子供達を、ああいう連中の企みから守らなければいけないと思いますね!」(SAMU様より)

★「朝鮮民主主義人民共和国朝鮮労働党総書記であり、朝鮮民主主義人民共和国朝鮮人民
軍国防委員会委員長であり、朝鮮民主主義人民共和国朝鮮人民軍最高司令官である敬愛し
尊重する金正日総書記(将軍)閣下は、朝鮮民主主義人民共和国に正義と秩序を持って国家
と国民の安寧を望まれて統治されている偉大なるお方である。
私は、朝鮮民主主義人民共和国朝鮮労働党総書記であり、朝鮮民主主義人民共和国朝鮮人
民軍国防委員会委員長であり、朝鮮民主主義人民共和国朝鮮人民軍最高司令官である敬愛
し尊重する金正日総書記(将軍)閣下に慶びを表す。
金正日総書記万歳・金正日将軍万歳・金正日国父万歳であります。
朝鮮人民軍は、神軍であり無敵艦隊であり天軍であるのです。
朝鮮民主主義人民共和国朝鮮労働党総書記であり、朝鮮民主主義人民共和国朝鮮人民軍
国防委員会委員長であり、朝鮮民主主義人民共和国朝鮮人民軍最高司令官である敬愛し尊
重する金正日総書記(将軍)閣下万歳・万歳・万歳…」(新海和明様より)

++++++++++++++++++++++

【はやし浩司より、みなさんへ】

 迎撃ミサイルの値段については、実際、よくわからない。
ミサイル1発だけで、170億円という説もある。
関連装備一式で、1兆円という説もある。
ほかに周辺装置も含めると、この金額は、さらにはねあがる。

 「一発数百億ドル」というのは、私の記述ミス。
「一発数百億円」が正しい。
ただし、一発、約2億円ということは、絶対にありえない!
たとえばライフル銃と弾丸の関係を考えてみればわかる。
弾丸一発は、数百円単位かもしれないが、ライフル銃は、10万円単位。
さらにライフル銃を設置する装甲車、さらには夜間暗視装置の購入などなど。
弾丸一発の値段だけを見て、「安い」と思う人はいないはず。

 ここに紹介した最後のコメントは、どういうスジの人が書いたかは、すぐ察しがつく。
しかし私たちは、肩書きだけで、その人を判断しない。
いくら肩書きを並べても、金xxは、金xx。
拉致問題に抗議の念をこめて、私はそうしている。

+++++++++++++++++++++++

日本よ、日本人よ、
あんな国を本気で相手にしてはいけない。
また、その価値もない。
あんな訳のわからない国を相手に、正義を説いて、どうなる?
どうする?
ものごとは、そこを原点にして考えよう。

私たち日本人は、戦争をしてはいけない。
「臆病者」と言われても、戦争をしてはいけない。

もちろん彼らが日本の領土を侵してくれば、話は別。
そのときは戦う。
しかし今は、ただひたすら無視。
「戦う」とか「戦わない」とかいうレベルの話ではない。
何もできない。
それが現実。

何かをしたら、即、国際世論に訴えていく。
国際世論で、K国を締めあげていく。
自己崩壊にもっていく。

戦争を開くのは簡単。
しかし終えるのは難しい。
それを考えたら、日本は、戦争に手を出してはいけない。

繰り返す。
日本は丸裸以上の丸裸。
その事実を忘れて、勇ましい好戦論に操られてはいけない。

だからここはぐっと我慢。
ひたすら我慢。
プラス、無視。
それが今、日本が取りうる、ゆいいつの方法である。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●私のBLOGへのコメント

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私のBLOGへ、毎日多くの人がコメントを
寄せてくれる。
もちろん、みながみな、好意的というわけではない。
コメントを書いてくる人は、たいてい批判的。

で、そういうコメントを読んでいると、いろいろな
ことに気づく。

たとえば(G−Blog)へのコメントを並べてみる。
これらは去る4月、私が書いた、「K国のミサイル迎撃反対」という記事に対する
コメントである。

★「あんたの頭上には来ないからな」(あきれた様より)

★「ガラクタに近いロケットでも日本に落ちてきたら大惨事だろ」(Unknown様より)

★「あなたみたいな、直ぐに騙される日本人を眺めて、アメリカの「戦争屋」は腹を抱えて笑って
いるでしょうね」(SAMU様より)。 

★「あんた何者?教育学者?ダカラって、ほとんどの人が使っていると思うけど。皆、思考力な
しってこと?」(Unknown様より)

+++++++++++++++++++++

●捨てゼリフ

 日本語には、「捨てゼリフ」という言葉がある。
相手の心臓をえぐるような鋭い言葉を、短く発して、その場を去る。
それが捨てゼリフ。

 ここにあげたコメントは、どれも捨てゼリフと考えてよい。
(それとも長い文章を書く時間がないのかもしれない。)
捨てゼリフであるだけに、論理性がない。
感情的。
文章の中のささいな記述ミスをおおげさにとらえて、全文、さらには私の全人格まで
否定する。
 
 で、こうした捨てゼリフには、反論のしようがない。
さらに言えば、その向うにあるのは、(撃ち落としてしまえ)式の感情論。
感情論には感情論で答えるしかない。
しかしそれを繰り返していたら、喧嘩になる。

 コメントを書いてくれた人たちの気持ちもよくわかる。
わかるが、私としては、どう答えてよいのか。

 ひとつSAMU様の意見には、「?」をつけたい。
SAMU様は、「アメリカは極東でわざと緊張感を演出し、武器で儲けようとしている」
という趣旨のことを書いている。

 同じような意見を、K国の中枢部の人たちも言っている。
「日本は、朝鮮半島への再侵略を試みている」と。

 アメリカはともかくも、日本にそんな意思がないことは、日本人なら、みな知っている。
同じようにアメリカ人にも、そんな意思は毛頭、ない。
(一部の軍事産業に関わっている人たちは、内心でそう考えることはあるかもしれないが
……。)
その余裕もない。

 たしかにアメリカは軍需産業国家である。
武器を売ることで、国を支えている。
戦争が起これば起こるほど、武器は売れ、ついでにドルの価値は高くなる。

 しかし私たちは、今、現実を見なければならない。
それがどういう理由であるにせよ、K国は、核兵器を作り、ミサイルを作っている。
K国の高官自身が暴露しているように、これらは「日本向け」である。
そういう現実を前にして、日本は、何ができる?
外交能力にしても、たいへんおぼつかない。
拉致問題ひとつ解決できずにいる。
ここはアメリカにすがるしかない。
そういう現実を前にして、「アメリカの戦争屋は腹を抱えて笑っているでしょうね」
は、ない。

 身近な殺人事件にしても、あるいは国家的な戦争にしても、そのほとんどは、
感情論が肥大化し、その臨界点を超えたときに起こる。
私たちがもっとも警戒すべきことは、実は戦争ではなく、こうした感情論である。
論理ではない。
感情論である。
感情論こそが、私たちの大敵ということになる。

 そういう視点から、読者のみなさんも、もう一度、これらのコメントを読み直して
みてほしい。
(090619記)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090620)

【子どもの盗癖】

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掲示板のほうに、こんな相談が届いている。
息子の盗癖についてのものである。
それについて、考えてみたい。

+++++++++++++++++++++

【Rさんより、はやし浩司へ】(1)

はじめまして。突然のメールで、失礼します。昨年、静岡市YU中学校区の講演
会に出席させて頂きました。まさに今、トンネルの真っ只中にいるため興味深く
時に涙しながら聴かせて頂きました。有難うございました。

  早速ですが長男のことについて相談します。小さいころから活発で元気だけが
とりえの子でした。それが中学に入った年の夏、部活動(テニス部)中に突然倒れる
ようになり病院で起立性調節障害と診断されました。朝、低血圧になり具合が悪
く午後からは嘘のように元気になるという症状で二学期はほとんど学校に行けず
に過ごしました。それをきっかけに部活動の先輩や同級生からいじめを受けるよ
うになり病気自体は三ヶ月ほどで治癒したのですが不登校になってしまいました。

それでも最初のうちは週に1、2日は登校できていましたし、体育大会や文化祭
など授業のない日は必ず参加していました。そんな生活が一年半続きましたが、
二年の三学期はとうとう始業式と終了式に参加しただけでした。ただ、三年にな
って四月末に修学旅行があるためか嘘のように登校し始めて無事修学旅行にも行
ってこられたときには本当に嬉しく思いました。

そんな思いもつかの間で五月からはまた、不登校です。今の生活は、朝具合が悪くご飯も
食べられず他の家族が出払ってしまうとパソコンに向かいオンラインゲームをほぼ一日中
やっています

夜になると明日は必ず学校に行くと言っていますがまたあくる朝になれば体調を崩す毎日の繰
り返しです。学校に行かなきゃいけないことや高校にも行きたい希望を持っているのにいざ勉
強となると集中できず学力は小六程度です。本人のやりたいこととやれることのギャップがあ
まりにも大きくて苦しんでいます。死にたいと洩らしたこともありますが自殺する勇気すらないと
言います。今は廃人同様だと嘆きどうすればいいのかわからない状態です。
 
私たち親が出来ることはただ信じて待つことだけですか。今は生きていてくれさえすればいいぐ
らいに考えられるようになりましたが正直なところ苦しいです。来年以降のことを考えると・・・・
病院に行くこともスクールカウンセラーに相談することも考えました
が息子は拒絶します。
 
  とりとめも無く書き込んでしまってすみません。ただただ息子の笑顔が見たい
だけなのです。日に日に衰弱していくのがたまらないのです。どうか・・・よろ
しくお願いします。


【Rさんより、はやし浩司へ】(2)

こんにちは。昨日はご多忙中にもかかわらずお電話を頂きまして有難うございました。早速、
仕事から帰った主人にも話しました。
 
一夜たち、今までに無く穏やかな気持ちで息子のことをみている自分がとても嬉しいです。家
族四人で何気なく交わす会話の中に幸せを感じています。
 
まだまだ先は永いと思いますが私は私らしく元気に生きていこうと思います。先生と今出会え
たことに感謝しています。そして貴重なお話をしていただけたことに感謝しています。本当にあ
りがとうございました。
 
今度メールを送るときには心から笑って話せると思えます。では、また。


【Rさんより、はやし浩司へ】(3)

すみません。今度メールするときは・・・って言ったばかりなのにまた迷いを感じる出来事があり
ました。一体、どこまで試されるんだろうと。
 
実は、うちのお金が取られました!
 
私たちは、決して裕福な家庭ではありませんが何とか3年前念願のマイホームを手に入れまし
た。当初は主人の両親と同居していました。今は、両親とは別居しています。
まだ、同居していたころ、最初の事件は起きました。
 
祖父の財布から1000円とりました。それから時々私のバックの中の財布から・・主人の貯金
箱から・・とエスカレートしていきその度に警察につれてってくれだのもう二度としないだの死に
たいだのと言い月々のお小遣いから少しずつでも返していくことで許していました。流石に3度
目の時には、現金を鍵つきの箱(耐火金庫ではないけれど金庫と呼んでいる)に入れるように
し、もう無いだろうと思っていました。
 
本当に忘れていました。ここのところ穏やかに話ができるようになっていました。だから前々回
の相談メールではふれることも無かったのですが・・・。昨日、いつものように買い物に行くとき
金庫からお金を出そうとして先週銀行からおろしたお金が減っているのに気づき慌てた様子を
見せると息子が「自分がとった」と言いました。

「金庫は組み立て家具なのでねじをはずして中身を出した」と。ショックでした。家中のお金をそ
こに入れていたから。いくら学校休んで時間があるとはいえそこまでするとは思っていなかった
から。しかも今回は単位が万単位。主人がコツコツためていた500円貯金も、かなり持ってい
かれました。
 
何に使ったのかといえばパソコンのオンラインゲームの課金がほとんど。生活上では全く派手
になるとかではないのでわからなかった部分もあるのですが金庫に入れておけば大丈夫と思
っていたのが間違いだったのか・・・
 
信じたい・・・けど信じられない自分がいます。何度も同じ事を繰り返してその度に泣いて謝る
けど苦しんでいるはずなのに何故また繰り返すのか。うちのお金が取れないと思ったとき、外
に向かわないかという心配もあります。金額の大小ではないけれどやっぱり悔しいし悲しいで
す。こんなとき、どう対応したらいいのでしょうか。とりあえず今ある現金は今日銀行に持ってい
ってもう家には置かないつもりです。
 
本当にスミマセン。とっても素敵なメールをいただいたのに・・・保存して辛くなったら読もうと思
っていたのに何度読み返しても今、やさしい言葉が出てこない自分が情けないです。まだまだ
母は未熟者です。でも、頑張りたいのです。どうしても息子を救いたいのです。よろしくお願い
いたします。

【はやし浩司より、Rさんへ】

(Rさんには、直接、電話をかけました。
30分ほど、相談にのりました。
そのあとに送信したメールです。)

石原様へ
 
おはようございます。
人生は楽しいですよ。
いろいろなことがありますか。
 
子どもがいろいろ教えてくれるのです。
自分だけが最悪と思わないこと。
みんな外からはわからないだけ。
同じような問題をかかえて、悩んでいます。
 
あとは白い雲が流れていくように、
やがて落ち着きます。
あせらず、ここはおおらかに!
「あなたの分は、私ががんばってあげるからね」と、
やさしい言葉をかけてあげてください。
 
何でもない問題ですから……。
 
息ができる。
目が見える。
音が聞こえる。
そのすばらしさを、ゆっくりとかみしめましょう!
 
では、
 
また何かあれば連絡してください。
 
 
はやし浩司
 
 
【はやし浩司より、Rさんへ】

R様へ
 
こんばんは。
 
息子さんの盗癖は、本人自身でもコントロールできない種類のものと思われます。
アルコール中毒の人がアルコールを求めたり、ニコチン中毒の人が、タバコを
求めたりするのと同じ現象が、脳の中(視床下部→線条体)で起きていると
考えてください。
つまり条件反射的に脳の中で、勝手に反応が起きてしまい、自分でもどうしたら
よいのか、わかっていないのです。
 
ですから、ここは管理を徹底するという方法で対処しますが、この種の盗癖には、
さらに2番底、3番底がありますから、気をつけてください。
対処の仕方をまちがえると、さらにやっかいな盗癖(家の外での窃盗など)へと
つながっていきます。
 
今は、これ以上状況を悪くしないことだけを考えて、穏やかに、かつていねいに
息子さんと接してあげるのがコツです。
 
怒って、感情的になってはいけません。今こそ、親の理性が試されるときと思って
ください。
本来なら、どこかでカウンセリングのようなものを受けるのがよいのですが、
まだそういう制度そのものが、日本のばあい貧弱です。
 
とにかく感情的にならないこと。
温かい無視で息子さんを包みながら、家の事情などを、ていねいに説明されるのが
よいでしょう。
それでも盗癖がつづくようであれば、はっきり言いますが、ある程度の盗みには
目をつむりなさい。
この時期の熱病のようなものですから、数年もすれば落ち着いてきます。
どこの子どもも、みなしてますよ。
ざっとみても、3人に2人くらいはしているのではないでしょうか。
貯金通帳から盗んで使っている子どももいました。
しかも数百万円単位で使っていました(高校女子)。
 
ですから必要以上におおげさに考えないこと。
それがそのまま、たとえば、大きな事件につながるというふうには、考えては
いけません。

幼い時から、ほしいものを買い与えてきたツケが今、出ていると考えてください。
値段的には安いものだったかもしれませんが、息子さんは、それで自分の欲望を
満足させていたわけです。
それが今、表に出てきたというわけです。
つまりその責任は、あなた自身にもあるということです。
息子さんだけを見て、息子さんを責めても、それは酷というものです。
 
繰り返しますが、二番底、三番底が、まだあります。
「今が最悪」とは、思わないこと。
気をつけてください。
そのため、「直そう」とは思わないこと。
「これ以上、悪くしないこと」だけを考えて対処してください。
 
また悪い面ばかり見ないで、健康で、やさしい子どもですから、ここは子どもを信じて
みましょう。
またこんな程度の問題で、めげていてはいけません。
子どもは、上から見てはいけません。
下から見るのです。
昔の人は、こう言いました。
『上見て、きりなし、下見て、きりなし』と。

そこに子どもがいて、ここに自分がいる。
元気で、みながんばっている。
そこを原点にして、子どもの問題をながめます。
何度も言いますが、Rさんがかかえている程度の問題は、何でもありません。
「盗みたかったら、どうぞ」と。
「その分、私がまたがんばるからね」と。
今のところ、金額も、(子どもの額=少額)のようですから、あとは笑って、
『許して、忘れる』です。

いつか子ども自身が、自分のした行為を恥じるように、Rさん自身が、大きく
成長してみせます。
それが子育てのだいご味でもあります。

まずいのは、取り越し苦労に、ぬか喜び。
もう少し長いスパンで、子どもの問題に接してみてください。
「去年よりはよくなった」とか、いうようにです。

きびしいことを書きましたが、あとはひたすら管理、管理です。
私の息子の1人も、同じようなことをしたことがあります。
そのときは、金庫の中に、手紙を入れておきました。

「いくらでも、もって行け。
だけど、こういうことは、やめよう」と、です。
以後、息子は、ぴたりと盗みをしなくなりました。

では、
 
はやし浩司


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●荒れる子ども

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石川県のNさんという母親より、子どもの
(荒れ)についての相談が届いています。
それについて考えてみたいと思います。

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【Nさんより、はやし浩司へ】(1)

はじめまして。時間がなくて、携帯で先生のメルマガ等を読ませていただいていま
した。今回、どうしても力になっていただきたくて、こちらにメールしました。

> 長男が最近荒れています。今小学2年生なのですが、半年ほど前から宿題を嫌がる
ようになり、今では後回し後回しで、結局寝る直前にものすごく雑にやるといった感
じです。

少しでも間違えたり分からなかったりすると、鉛筆を投げ捨ててふてくさ
れ、その後は読めないようなめちゃくちゃな字で怒りながらやったりします。先生の
ブログなどを読むようになり、私の対応がまずかったことに気がついたのですが、今
では手がつけられないような状態になってしまっています。あまり宿題をせかしてや
らせたりしないように、本人の気が向くまで様子を見るようにしているのですが、結
局眠くなってからやるのでよけいに機嫌が悪く、悪循環になっています。

少し前にたくさんほめてちょっとだけやる気がでたこともあったのですが、そこに主人が
いろいろと口うるさく言ったために、またやらなくなってしまいました。昨日は息子が主
人に「一緒に勉強しよう」と言ってやり始めたのですが、また主人が息子がちょっとよ
そ見をするたびに叱るので、最後には大喧嘩になってしまいました。そして今日は主
人が帰ってくるのを見ると、主人の実家(同じ敷地内)に行ってしまい、「パパとご
飯を食べるのはうざいから嫌だ」と言ってなかなか帰ってきませんでした。結局はし
ぶしぶ帰って気きて、一緒にご飯を食べたのですが、私と長男が一日の出来事を話している
間に、また主人が子供にうるさく言うので、逃げるように母屋の祖父母のところへ行き
おじいちゃんとお風呂に入ってしまいました。それがまた、主人には面白くないらし
く、その後ずっと不機嫌でした。

実はそういう主人は、子供の頃一度も宿題をやったことがないそうです。主人の父が
プロサッカー選手に育てようと、サッカーの練習以外は必要ないと言って学校の先生にも「宿
題はやりません」と言ったくらいです。主人は自分の反省を生かして息子に勉強させ
ようとしているようなのですが、「勉強しろ」と言われたことがないので、そう言わ
れて勉強をやる気になるのかどうかが分からないのかもしれません。そして、とても
父親風をふかせたがります。

私も主人に時々「それは違うんじゃないの」と言ったりするのですが、主人は全く自分のやり方
を変える気はないようです。最近は主人に対して私も不信感を持つようになり、息子にとって悪
影響ならば離婚したほうがいいのかとまで思うようになりました。主人はこういった先生の本を
読むような人ではありませんし、今後も変わらないように思われて、どうしたら分かってくれるの
かと悩んでいます。

最近は少しでも気に入らないと、息子が暴れるようになり、私に暴力をふるうように
なりました。10分もするとけろっとして、「ママ、ごめんね。仲直りしよう」と言
うのですが、その直後にまた思うようにならないことがあると暴れます。これからの思春期が恐
ろしく、不安でいっぱいです。ドラ息子にしてしまった私がいけないのですが、今すべきことを教
えてください。


【Nさんより、はやし浩司へ】(2)

おはようございます。
さっそくのご返事ありがとうございます。朝から返事をいただけたことがうれしく、
涙が出ました。

昨晩は、私もどうしていいかわからず、あせってメールをしたのでうまく内容がまと
まらず、申し訳ありませんでした。肝心なことがいくつかぬけていたので、簡単に補
足します。

●学校でも半年ほど前から授業中に落ち着きがなく、上履きを脱いだり履いたり、何
度も座りなおしたりしています。(参観日に見た限りでは)

●内弁慶で、学校では大人しいのですが、友達はわりと多く、毎日のように帰りに友
達と遊んだりしています。

●ゲームやスポーツで、自分が負けそうになると投げ出す、いわゆるドラ息子です。

●主人は次男に甘く、長男もたまに「パパは○○(弟)には優しいから」と言いま
す。

●小学校に入ったときからですが、最近また「学校を休みたい」と頻繁に言うように
なりました。

以上です。

学校は結局一度も休んでないのですが、休ませたほうがよいのでしょうか。一度休む
と余計に学校に行くのが嫌になる気がしますし、もし休ませたら主人がまたガミガミ
言うのは間違いないので、長男がまた荒れる気がします。

今は学校や家での楽しい話をなるべく長男として、少しずつですが手伝いもやるよう
にさせています。宿題はやらずに学校へいく勇気はないらしく、昨日も怒りながら途
中で寝てしまったので、朝少し早く起こしてやらせました。私に「なんで宿題と学校
の用意をやっておいてくれないの!」と怒っていましたが、少し手伝うことはしても
完全にやってあげるのはまずいと思い、やっていません。

毎日とても迷い、悩みながらの子育てです。でも先生の息子さんも同じように頑張っ
ていると聞いて、少し安心しました。先生の息子さんは、すぐ身近に相談できる人が
いて幸せですね。私は両親にはあまり相談しないので(つまり信頼関係がないので
す)、うらやましく思います。でも私も先生に親切に相談にのっていただけたので、
とてもこころ強いです。

本当にありがとうございました。
先生のアドバイスを参考に、やっていこうと思っています。

7月から次男が保育園に入るので(次男もワガママで手を焼いています)、時間がで
きたら先生の過去のメルマガやブログをゆっくり読みたいと思っています。これから
もたくさんすてきなお話を聞かせてください。楽しみにしています。

【はやし浩司より、Nさんへ】

 思いつくまま、書いてみたいと思います。

●三角関係

発達心理学の世界にも、「三角関係」という言葉があります。
父親と母親の育児方針がバラバラで、子どもとの間に、三角関係ができることをいいます。
(両親が一体化しているときは、三角関係はできません。)

よくあるのは、父親が甘く、母親がきびしいケースです。
Nさんのばあいは、そこへ祖父母の関係が入り、三角関係というより、四角関係(?)
ができあがってしまっているように思います。

こうなると、子どもは、ドラ息子、ドラ娘化します(失礼!)。

とくに、2〜4歳期(エリクソンの説く自律期)に、それがあると、子どもは自分で
自分を律することができなくなります。
わがままで、自分勝手で、欲望のおもむくまま行動するようになるというわけです。
さらに父親が母親の悪口を言ったり、批判したりすると、夫婦の間に、キレツが入ることもあり
ます。
そして父親と母親、母親と子ども、子どもと父親の間に、三角関係ができるというわけです。
子どもが幼いうちはまだしも、一度、この三角関係ができると、子どもは、親の指示に従わなく
なります。

子どもは、何かあると、甘い父親もしくは祖父母のところへ逃げ込み、そこでわがまま
を通すようになるわけです。
しかしこれは過去の話。
つまり原因は、2〜4歳期にあったのでは、私は考えます。
弟さんも、同じような症状が出ているということで、そう判断しました。

問題は、今、どうするか、ですね。

●内弁慶

もうひとつ気になったのは、「内弁慶」という部分です。
外の世界で、自分をすなおに表現できず、その分だけ、不満や不平を、心の内へ内へとため
こんでいるのではないかということです。
このタイプの子どもは、内弁慶というよりは、突発的にキレたり、暴れたりします。
以前、母親が、「ピアノのレッスンをしようね」と声をかけただけで、錯乱状態になり、母親に向
かって、包丁を投げつけていた女の子(年長児)がいました。

人間関係が外の世界でうまく結べない子どもは、このように、攻撃型になるタイプと、家の中に
引きこもるタイプに分けて考えます。
ほかに同情型、依存型、服従型などがあります。

●学校恐怖症

こういうケースでは、まず一番心配なのから疑ってみます。
様子からして、お子さんは、要するに学校へ行きたくないのです。
それが基本にあって、さまざまな症状を示しているというわけです。

学校恐怖症の子ども、つまり不登校児のばあい、その前兆症状としてさまざまな神経症的な症
状を示すことが知られています(ジョンソン)。
何か神経症的な症状があれば、注意してください。
(診断シートは、私のHPの中に収録しておきました。)
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page080.html

こうした前兆症状がいくつか重なって、そのあと、ある日突然、パニック期(ジョンソン)へと入っ
ていくわけです。

そうでなければ、この話は無視してください。
学校恐怖症について書いた原稿を、ここに載せておきます。

++++++++++++++++++++++

【子どもが学校恐怖症になるとき】

●四つの段階論 
 同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひどい花粉
症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。が、その中でも恐怖症の症状
を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を「怠学(truancy)」といって区別し
ている。

これらの不登校は、症状と経過から、三つの段階に分けて考える(A・M・ジョンソン)。心気的
時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。これに回復期を加え、もう少しわかりやすくし
たのが次である。 

(1)前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、
吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜にな
ると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。
学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除
すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつ
ど移動するのが特徴。 

(2)パニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂っ
たように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、
一転、症状が消滅する。ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで
歌っていました」と。たいていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」
と思うことが多い。

(3)自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃的
態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピリピ
リした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりすること
はある(感情障害)。この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不
安感をもつ。おののく)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子
どもといった感じがするため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わか
らなくなってしまうことが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。

(4)回復期……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ友人との交際を始めたり、外へ遊
びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなことを、断続的に繰り返したあと、やが
て登校できるようになる。日に一〜二時間、週に一日〜二日、月に一週〜二週登校できるよう
になり、序々にその期間が長くなる。

●前兆をいかにとらえるか 

 要はいかに(1)の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をとるかということ。たいていの親
はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理をする。この無理が症状を悪
化させ、(2)のパニック期を招く。この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校
へ行きたくないときもあるわよ」と言えば、その後の症状は軽くすむ。一般にこの恐怖症も含め
て、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすれ
ばするほど、症状はこじれる。悪化する。 

※……不登校の態様は、一般に教育現場では、(1)学校生活起因型、(2)遊び非行型、(3)
無気力型、(4)不安など情緒混乱型、(5)意図的拒否型、(6)複合型に区分して考えられてい
る。

 またその原因については、(1)学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活動な
ど不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、(2)家庭生活起因型(生活環境
の変化、親子関係、家庭内不和)、(3)本人起因型(病気など)に区分して考えられている(「日
本教育新聞社」まとめ)。しかしこれらの区分のし方は、あくまでも教育者の目を通して、子ども
を外の世界から見た区分のし方でしかない。

(参考)

●学校恐怖症は対人障害の一つ 

 こうした恐怖症は、はやい子どもで、満四〜五歳から表れる。乳幼児期は、主に泣き叫ぶ、
睡眠障害などの心身症状が主体だが、小学低学年にかけてこれに対人障害による症状が加
わるようになる(西ドイツ、G・ニッセンほか)。集団や人ごみをこわがるなどの対人恐怖症もこ
の時期に表れる。ここでいう学校恐怖症はあくまでもその一つと考える。

●ジョンソンの「学校恐怖症」

「登校拒否」(school refusal)という言葉は、イギリスのI・T・ブロードウィンが、1932年に最初
に使い、1941年にアメリカのA・M・ジョンソンが、「学校恐怖症」と命名したことに始まる。ジョ
ンソンは、「学校恐怖症」を、(1)心気的時期、(2)登校時のパニック時期(3)自閉期の三期に
分けて、学校恐怖症を考えた。

●学校恐怖症の対処のし方

 第一期で注意しなければならないのは、本文の中にも書いたように、たいていの親はこの段
階で、「わがまま」とか「気のせい」とか決めつけ、その前兆症状を見落としてしまうことである。
あるいは子どもの言う理由(ターゲット)に振り回され、もっと奥底にある子どもの心の問題を見
落としてしまう。

しかしこのタイプの子どもが不登校児になるのは、第二期の対処のまずさによることが多い。
ある母親はトイレの中に逃げ込んだ息子(小一児)を外へ出すため、ドライバーでドアをはずし
た。そして泣き叫んで暴れる子どもを無理やり車に乗せると、そのまま学校へ連れていった。
その母親は「このまま不登校児になったらたいへん」という恐怖心から、子どもをはげしく叱り
続けた。

が、こうした衝撃は、たった一度でも、それが大きければ大きいほど、子どもの心に取り返しが
つかないほど大きなキズを残す。もしこの段階で、親が、「そうね、誰だって学校へ行きたくない
ときもあるわね。今日は休んで好きなことをしたら」と言ったら、症状はそれほど重くならなくて
すむかもしれない。

 また第三期においても、鉄則は、ただ一つ。なおそうと思わないこと。私がある母親に、「3か
月間は何も言ってはいけません。何もしてはいけません。子どもがしたいようにさせなさい」
と言ったときのこと。母親は一度はそれに納得したようだった。しかし1週間もたたないうちに
電話がかかってきて、「今日、学校へ連れていってみましたが、やっぱりダメでした」と。親にす
れば一か月どころか、一週間でも長い。気持ちはわかるが、こういうことを繰り返しているうち
に、症状はますますこじれる。

 第三期に入ったら、(1)学校は行かねばならないところという呪縛から、親自身が抜けるこ
と。(2)前にも書いたように、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考え
て、子どもの様子をみる。(3)最低でも三か月は何も言わない、何もしないこと。子どもが退屈
をもてあまし、身をもてあますまで、何も言わない、何もしないこと。(4)生活態度(部屋や服
装)が乱れて、だらしなくなっても、何も言わない、何もしないこと。とくに子どもが引きこもる様
子を見せたら、そうする。よく子どもが部屋にいない間に、子どもの部屋の掃除をする親もいる
が、こうした行為も避ける。

 回復期に向かう前兆としては、(1)穏やかな会話ができるようになる、(2)生活にリズムがで
き、寝起きが規則正しくなる、(3)子どもがヒマをもてあますようになる、(4)家族がいてもいな
くいても、それを気にせず、自分のことができるようになるなどがある。こうした様子が見られた
ら、回復期は近いとみてよい。

 要は子どものリズムで考えること。あるいは子どもの視点で、子どもの立場で考えること。そ
ういう謙虚な姿勢が、このタイプの子どもの不登校を未然に防ぎ、立ちなおりを早くする。


●不登校は不利なことばかりではない

 一方、こうした不登校児について、不登校を経験した子どもたち側からの調査もなされてい
る。文部科学省がした「不登校に関する実態調査」(二〇〇一年)によれば、「中学で不登校児
だったものの、成人後に『マイナスではなかった』と振り返っている人が、四割もいる」という。不
登校はマイナスではないと答えた人、三九%、マイナスだったと答えた人、二四%など。そして
学校へ行かなくなった理由として、

友人関係     ……45%
教師との関係   ……21%
クラブ・部活動  ……17%
転校などでなじめず……14%と、その多くが、学校生活の問題をあげている。  

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【はやし浩司より、Nさんへ】

 以上、心配をかけることばかり書きましたが、こうした子どもの問題には、必ず、二番底、三
番底があるということです。
子どもに何か問題が起きると、ほとんどの親は、(100%!)、「今が最悪」と考え、子どもに向
かって、子どもを直そうとします。
しかし今は、そういう考え方をしません。
子どもは家族の代表でしかありません。
つまり家族全体で、子どもの問題を考える、です。

 で、対処の仕方をまちがえると、「まだ以前のほうが、症状が軽かった……」ということを繰り
返しながら、二番底、三番底へと向かっていきます。
たとえばあなたの子どもが、不登校児になったとします。
そうなったとき、あなたはこう思うはずです。
「宿題ぐらい、何だ!」とです。

 さらに何かの大きな心の病気になったとします。
するとあなたはこう思うはずです。
「不登校くらい、何だ!」とです。

 ドラ息子、ドラ娘についてですが、もちろんそうでないほうがよいに決まっています。
しかし今、そうでない子どもをさがすほうが、むずかしいくらいです。
日本の子どもたちは、総ドラ息子化しています。
だからたしかに問題は問題ですが、あまり深刻に考えてはいけません。
あなたのご主人だって、かなりドラ息子ぽいですね(失礼!)。
あなた自身も、「私はドラ娘ではなかった」と自信をもって、言えますか?

 こうしたドラマを繰り返しながら、子どもは成長し、親は成長するのです。
そのドラマを楽しむ。
そういう広い視野をもつことが大切です。
つまり「突き放すところは、突き放す」です。
しかし温かい無視は、忘れずに……。

●Nさんへのアドバイス

(1)ご主人と対立してはいけません。

 子どもの教育のことで、ご主人と対立してはいけません。
まずご主人の言うことに、耳を傾けることです。
そうでなくても難しいのが子育てです。
ここはあなたのほうが折れて、夫婦は一枚岩で、子育てに対処します。
意外と、ご主人のほうが、あなたを見抜いているかもしれませんよ。

(2)ドラ息子症状について

 ドラ息子症状については、無視します。
口で言ったり、説教したりしても、意味はありません。
無視、です。
黙って聞き、あとは、無視。
けっして感情的になってはいけません。
相手は、子どもですから……。

(3)愛情飢餓

 下に弟がいるということですから、子どもは慢性的な愛情飢餓の状態にあることも考えられま
す。
(親にその意識はなくても、弟に親の愛を半分、奪われたという事実が、愛情飢餓状態を作り
ます。)
で、こういうときの鉄則は、ただひとつ。
「求めてきたときが、あたえどき」です。
子どもが何かのアクションを起こしてきたら、すかさず、(間髪を入れず)、それに応じてあげま
す。
「あとでね……」「待ってね……」は、禁句です。

(4)宿題について

 過負担になっていることはじゅうぶん、考えられます。
(同じ分量でも、子どもによって、とらえ方が違いますので、注意してください。)
ですから(できる範囲でして、それですます)が、原則です。
が、それでも子どもがそれを負担に感ずるようであれば、担任の先生に相談してください。
(担任の先生が、少しきびしすぎるかな?)
ていねいに話せば、先生もわかってくれるはずです。

(5)三角関係について 

 祖父母との同居には、マイナス面もあるいますが、それ以上にプラス面も多いはず。
そういうプラス面を生かして、あなたはあなたで、前向きに生きていけばよいのです。
そういう姿を見て、子どもはまたあなたから、何かを学んでいくはずです。

 ドラ息子の問題は、全体からみれば、マイナーな問題です。
これから先のことを言えば、思春期前後に頂点に達しますが、あなたの子どもへの愛情さえし
っかりしていれば、大げさな問題には発展しません。
ガミガミ、カリカリしないことだけには、注意してください。
大切なのは、自分で静かに考え、行動させ、責任を取らせることです。
ガミガミ、カリカリすればするほど、子どもは非常識な行動を繰り返すようになります。
もちろん親子の関係も、そこで断絶!

●今、すべきこと……

 今すべきこと……というよりは、どうか自分をしっかりと保ってください。
このままでは育児ノイローゼも時間の問題かな?
ご主人の協力が何よりも重要です。
ですから、けっしてご主人と対立してはいけません。
またあなたがすべてを背負ってはいけません。
ご主人に任すところは任せて、ご主人に責任を取ってもらいなさい!
あなたが深入りすればするほど、ご主人は逃げてしまいます。
あとはこの悪循環……。
そうならないように、注意してください。

 Nさんがそうだというのではありませんが、念のため、育児ノイローゼについて
たまたま先ほど原稿を書きましたので、ここに載せておきます。
参考にしてください。

 あとは子どもといっしょに、第二の人生を楽しむつもりで、楽しむこと。
あなたの思い通りにならないのが、子育て。
そして子ども。
どこの家も、似たような問題をかかえています。
(ちょっと無責任な回答ですみません。
私のように、子育てが終わったものからすると、Nさんのような方が、うらやましいです。
今が、いちばん楽しいときですよ!)

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●育児ノイローゼに注意

 子育てをしていて育児ノイローゼになる人は多い。圧倒的に母親に多いが、父親がノイロー
ゼになることも、珍しくはない。精神的な打撃によって起こる心的障害のことをノイローゼという
が、精神病というほど重くはない。ないが、対処のし方をまちがえると、深刻な結果を招くことが
ある。次のような症状が続いたら、育児ノイローゼを疑ってみる。

(1)生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
(2)思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低
下)、
(3)精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、
日常活動への興味の喪失)、
(4)睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。さらにその状態が進むと、
(5)風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、
(6)ムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
(7)ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
(8)同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロールができなく
なる(感情障害)、
(9)他人との接触を嫌う(回避性障害)、
(10)過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
(11)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。

もっとも育児ノイローゼになっても、本人がそれに気づくことはまずない。脳のCPU(中央演算
部分)が変調するため、本人はそういう状態になりながらも、「自分ではふつう」と思い込む。あ
るいは他人に「異常」を指摘されたりすると、反対に過度の罪悪感に襲われ、かえって深く落ち
込んでしまうこともある。

そこで重要なのが、夫ということになるが、その夫の協力が得られないことが多い。で、もしここ
に書いたような症状のうち、いくつかに思い当たることがあれば、「今の状態はふつうではな
い」という前提で、自分のまわりを見なおす必要がある。できれば子育てそのものから離れる。
でないと、(こういうことを書くと、ますます症状がひどくなってしまうかもしれないが)、子どもに
影響が出てくる。そんなわけで、もし症状がひどいようであれば、一度、精神科のドクターに相
談してみる。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●欲望の奴隷たち

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欲望の奴隷になりながら、奴隷になっていることに
すら気がつかない。
またそれがあるべき、大切な価値観と、信じて
疑わない。

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●成功者の看板

 まさか「私は成功者です」という看板を、胸につけて歩くわけにはいかない。
そこでその手段として、高級車を買う。
そしてその高級車を乗り回す。
……というような人は多い。
(もちろん、その必要性があって高級車に乗っている人もいるが……。
あるいはこれは、そういう車とは縁のない、私のひがみか?)

 もちろん高級車に乗っているから、成功者というわけではない。
また高級車に乗っている人がみな、それを看板にしているというわけでもない。
ただ中には、高級車を、成功者の看板にしている人もいるということ。
あなたの周辺にも、さがせば、そういう人は、1人や2人はかならず、いる。

●欲望の奴隷

 ニコチン中毒やアルコール中毒と同じように、欲望中毒の人は多い。
が、ニコチン中毒やアルコール中毒は、外からわかりやすいが、欲望中毒の人は、
外からはわかりにくい。

それにまわり全体、さらには国全体が、欲望中毒になっていたら、自分の姿は見えない。
「私は私」と思っているうちに、欲望の思うがまま、操られるようになる。
見栄や虚栄の世界に、どっぷりとつかっている。
それでもって、「私は成功者」と思い込んでいる。
またそれでもって「私は偉い」と思い込んでいる。
しかし所詮、欲望は欲望。
そういう人は、欲望の奴隷。

●欲望のメカニズム

 欲望のメカニズムは、単純である。
脳の中心部にある視床下部から、(生きる信号)が発せられる。
その信号を受けて、快楽と欲望を司る、脳間伝達物質であるドーパミンが放出される。
それが線条体を刺激し、そこにそれに反応する受容体があると、猛烈な欲望となって、
その人を襲う。

 アルコール中毒の人が、酒のコマーシャルを見ただけで、ググーッと酒を飲みたくなる
というような現象は、こうして説明される。
ニコチン中毒の人も、同様に考えてよい。
以前は、こうした反応を、「条件反射」という言葉を使って説明した(パバロフ)。

 が、欲望には、大きく分けて2つある。
「〜〜したい」という欲望。
もうひとつは、「〜〜が、ほしい」という欲望。
ここでいう欲望というのは、後者の欲望をいう。

●物欲 

 こうして欲望に対する条件反射が、脳の中に形成される。
性欲、食欲、名誉欲、名声欲などなど。
その中でも、とくにやっかいなのが、物欲。
「物」の中に自分の価値観を、作りあげてしまう。

 これは極端な例だが、「ためこみ屋」と呼ばれる人たちがいる。
手当たりしだい、自分の家の中にためこんだりするから、家の中は、あっという間に、
ゴミの山となる。
2〜4歳期の、いわゆる「肛門期」に、何らかの精神的ショックを受けるとそうなり
やすいという。
ためこみ屋は、他方で、異常なまでのケチになることが多い。

 そういう人たちは、モノと自分を切り離すことができない。
モノと自分がいつも、一体化している。

●意識と肉体

 たとえば今、自分の手をしっかりと見つめてみよう。
そこに見えるのは、たしかに「私の手」である。
しかし「私の手」といっても、(私という意識)とは、一度切り離してみる。
そうすると、そこに見える「私の手」は、私の手であって、私のモノではないことが
わかる。

 これを意識と肉体の分離というが、中には、それができない人がいる。
意識も肉体も、ひとまとめにして、「私」という。
そういう「私観」が、肉体を超えて肥大化したのが、「物欲の奴隷」というふうにも
考えられる。
「私が手で触れたものは、すべて私」と考える。
モノと私が一体化した状態というのは、それをいう。

●私とモノの分離

 物欲の奴隷から、自らを解放するためには、まず「私」とモノを分離する。
その第一歩として、先にも書いたように、じっと自分の手を見つめてみるとよい。
その手を見つめながら、それを見ている「私」という意識と、そこにある「手」という
肉体は、別のものであることを確認する。

 手を包む皮膚、その下の血管、さらには肉、骨……。
手はあなたの意思によって、あなたの意思のままに動かすことはできても、そこにある
手は、「私」ではない。
それに気づけば、あとは簡単。

 まわりのモノを見てほしい。
どれもこれも、ただのモノ。
それぞれには、何らかの意味はあるかもしれないが、それを超えての価値はない。
そこに気づけば、あなたの意識は、モノから解放される。

●私の母

 あれほどまでにお金(=マネー)とモノに執着していた母だったが、晩年の母は
ちがった。
私の家で過ごしているとき、私がふとこう聞いたことがある。
「母ちゃん、お金、ほしいか?」と。
すると母は、こう言った。
「お金で、命は買えん(=買えない)」と。
吐き捨てるような言い方だった。

 その言葉を聞いて、私は少なからず、驚いた。
母がまさか、そんなふうに言うとは、想像もしていなかった。
歩くこともままならなくなり、便をこぼすようになって、母は母なりに、
何かを悟ったのかもしれない。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090622)

●ふと、こんなことを考えた

(1)教室で……

 親たちが、そこにいる。
その前に、子どもたちが座っている。
それを見た。
そのときふと、それが、不思議に思えた。
どうしてそんなふうに思ったかは、わからない。
が、そう思った。
私は大きな声で、子どもたちに何かを言っていた。
これに答えて、子どもたちも何かを言っていた。
そんな最中、私は、ふと、そんなことを考えた。
おかしなことだが、そんなことを考えた。

 「どうして子どもたちが、ここにいるのだろう」と。
ほんの10年前には、その形すらなかった子どもたちである。
そんな子どもたちがそこにいて、大きな声でしゃべっている。
その子どもたちを見守る母親たちにしても、ほんの30〜40
年前には、その形すらなかった母親たちである。
そんな母親たちがそこにいて、子どもたちの姿を見て、笑っている。
言うなれば、(無)から(無)が生まれて、その(無)が
二重に並んで、そこに座っている。
そしてそれを見る私にしても、100年前には、その形すらなかった。
それがふと、不思議に思えた。


(2)立小便をして……

 そのつど、いつも「どうして?」と思うことがある。
どこの公衆トイレへ行っても、男子トイレの便器のまわりは、いつも汚れている。
男たちのする小便が、その周りに飛び散っている。
便器の中でじょうずに小便をすれば、それほど汚れるものではない。
が、その小便をじょうずにできない人がいる。
それで便器のまわりは、汚れている。

 ……と、長い間、そう考えてきた。
ところが、である。

 先日、太陽を背に、野原で立小便をした。
そのときのこと。
自分のしていた小便を上から注意深く観察すると、それぞれの小便が
丸い玉になって下へ落ちていくのがわかる。
そのことは子どものころから知っていたが、さらによく観察すると、
細かい霧状の小便が、四方八方に散って落ちていくのがわかった。
太陽の光を受けて、それが美しく輝いていた。

 公衆トイレの便器の周辺が汚れるのは、小便をこぼす人がいるからだけではない。
必然的に小便が、飛び散るのだ。
だから便器のまわりは、汚れる。
それがわかった。

 だから……というわけでもないが、便器の構造をいくら改良しても、便器の
まわりは必然的に汚れる。
それは不届きな男たちが、小便をこぼすからではなく、もともと小便というのは、
そういうものなのだ。


(3)排除?

 たとえばここに問題のある子どもがいたとする。
静かな落ち着きがなく、騒がしい。
周囲の子どもたちを巻き込んで、授業そのものを破壊してしまう。

 その子ども自身の責任というよりは、そういう子どもは確率的に
ある一定の割合で出現する。
子ども自身の管理能力を超えたところで、遺伝子が、その子どもを操っている。
だから子どもを叱ったり、責めても、意味はない。
自己認識能力にしても、小学3年生以前の子どもには、ない。
だから説教しても、意味はない。
自分がどういうことをしているか、それを客観的に判断することができない。

 ……で、こうした子どもにぶつかると、教育者は、すぐ「排除」という
ことを考える。
特別クラスを作って、別のクラスに移そう、と。
が、そういう発想では、この問題は、解決しない。
ではどうするか?

逆!
逆のことをする!

 たとえば私の教室でも、そういう子どもがいる。
そういうときは、その子どもを排除しようと考えるのではなく、その子どもを残した
まま、ほかの子どもを、別のクラスに移していく。
問題のある子どもを、ほかのクラスに移したりすると、その子どもは、それを「罰」
ととらえる。
子どもの心理形成にとって、悪い影響を与えることはあっても、よい影響を与える
ことはない。

 そこでたとえば学校教育の場でも、この方法を応用してみてはどうだろうか。
多くの学校では、名称こそみなちがうが、「〜〜特別教室」というのを用意している。
何か、問題のある子どもを、そういうクラスへ入れる。
つまり「排除」する。

 が、もしこういう方法だったら、どうだろう。
逆に、学習態度のよい子ども(能力差別ではなく、あくまでも学習姿勢を見て判断)を、
少しずつ、別のクラスに移していく。

「あなたは、学習態度がいいから、ブルーリボン教室に入ってもいいです」と。
こうして1年くらいをかけて、数人から10数人へと順に児童を移動させていく。
そうすれば、クラスを移動する子どもも、喜んで移動するだろう。
あとに残された子どもも、それを見て、自分なりに努力するようになるかもしれない。

 ……という方法を、実は、私の教室では、ずっと実践している。
そのため、残った子どもが、数人だけというクラスもある。
しかしその数人だけでも、それなりに楽しく学習している。
(できる)(できない)は、問題ではない。
人間関係は、そういうものでは影響を受けない。
たがいに楽しければ、それでよい。

ひとつの参考意見として……。


(4)体重

 現在、体重を63キロ台にキープしている。
2か月で、5キロ以上の減量をしたことになる。
その結果だが、5キロといえば、かなりの重さである。
私はいつも2リットル入りのペットボトルに換算して、重さを換算する。
つまり5キロといえば、ペットボトル2本半分!

 しかしおかしなことに、自分の体が軽くなったという実感が、あまりない。
どうしてだろう?
2か月という期間の中で、徐々にそうなったからだろうか。
というのも、体重というのは、一日の間だけでも、大きく変化する。
就眠前と就眠後だけでも、1キロはちがう。
食後、水をたくさん飲めば、それだけで1キロくらいは、ふえたりする。

 つまり5キロというのは、まだ誤差の範囲ということになる。
それにこうしたダイエットで重要なことは、食事管理だけでしてはいけない。
運動、である。
食事管理と並行して、運動をどうするかが、重要。
というのも、食事だけを減らすと、筋肉のほうが先に萎(な)えてしまう。
おまけに体の抵抗力が落ちるから、いろいろな皮膚病になったりする。

 で、ふと、こんなことを考えた。
反対に、太り始めた人は、逆の現象が起きるのではないか、と。
つまり自分の体重を重く感じないまま、太っていく、と。
先に「5キロは誤差の範囲」と書いたが、その誤差が2回積み重なれば、
10キロとなる。
3回積み重なれば、15キロとなる。
つまりこうして太っていく。


Hiroshi Hayashi++++++++June09++++++++++はやし浩司

●映画『愛を読む人』(The Reader)

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ハンカチを用意して、映画館へ足を運んだ。
思いっきり涙をこぼすつもりだった。
だからワイフにこう言った。
「涙が出なかったら、お金を返してもらう」と。

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見たのは、ケイト・ウィンスレット主演の、『愛を読む人』。
ものすごい映画だった。
息がつまるというか、演技にしても、迫真の演技。
緊張の連続。
それはその通り。
が、涙は出なかった。
一滴も出なかった。
だから私は星3つ。
ワイフは星4つ。
間を取って、★★★+。

が、どうしてか、「お金を返せ」とは言いにくい。
ものすごい映画だったことは、事実。
しかし娯楽映画でもない。
たとえて言うなら、ギューギューと2時間近く、頭の上から押さえつけられたような感じ。
が、映画としては、おもしろくなかった。

どうしてだろう?
映画館でもらった案内には、「朗読を通した30年にわたる切ない愛の
奇跡に、絶賛の声」とある。
そして各界の著名人たちも、言葉を尽くして、「すばらしい映画」と
評価している。
「涙、涙、涙の繰り返しなので、くれぐれもティッシュのご用意を」
(某モデル)というのもある。

涙もろくなった私。
いつもならボロボロと涙をこぼしたはず。
が、涙は、出なかった。
かといって、先にも書いたように、「お金を返せ!」とも言えなかった。
映画がつまらなかったのか?
それとも私の感性が落ちたのか?

ものすごい映画だということは認める。
たしかに、すごい!
しかしその(ものすごさ)に圧倒されすぎて、かえって涙が引っ込んでしまった。
『愛を読む人』というのは、そういう映画。
「もう一度、見たいか」と聞かれたら、私は、「1回でたくさん」と
答えるだろう。

私には、やはり、ああいう映画は向かない。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

【「私」って、何だろう?】(1)(09年6月22日記)
(意識と肉体の分離)

【菩提心】

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仏教によれば、私たちは煩悩(=欲望)のかたまり
であるという。
煩悩には、たとえば『貪(どん)』『瞋(しん)』『痴(ち)』
などがある。

『貪(どん)』というのは、「貪(むさぼ)ること」をいう。
『瞋(しん)』というのは、「激しく怒(いか)ること」をいう。
『痴(ち)』というのは、「無知なこと」をいう。
そのほかにもいろいろあるが、私たちの肉体は、これらの
煩悩に満ち溢れている。
その煩悩が、自分の内にある『菩提心』(すべての人々を愛すること)
が目覚めるのを邪魔する
世親(300〜400年ごろの人、パキスタン、ペシャワール
あたりの人とされる※)が、そう説いている。

だから世親は、菩提心を呼び起こすためには、心(精神)を、
一度、肉体から切り離さなければならないと説いた(『浄土三部経』)。

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●精神と肉体

 私は53、4歳のころ、女性に対する興味を、ほとんどなくしてしまった。
女性が、「女」として意識できなくなってしまった。
たとえばある日、テレビで相撲を見ていたときのこと。
相撲取りの胸が、たいへん美しく思えた。
「若い娘の胸より美しい」と思った。
あるいはこんなこともあった。

どこかのレストランで、写真週刊誌を読んでいたときのこと。
後半のほうに、若い女性たちのヌード写真が、たくさん載っていた。
それを見ながら、ふとこう思った。
「今まで、どうしてこんな写真に興味をもったのだろう?」と。

 で、家に帰ってワイフに、こう言った。
「あのなア、お前、今のぼくなら、混浴風呂で若い女性と肩を並べて入っても
平気だぞ」と。
それに答えて、ワイフはこう言った。
「バカねえ……。相手の女性がいやがるわよ」と。

あとでそのことを人に話すと、「男の更年期」と教えてくれた人がいた。
「初老性のうつ病の症状かも」と教えてくれた人もいた。
うつ病になると、性的な関心を失い、似たような症状が出ることがあるそうだ。
が、それはともかくも、私はそのときはじめて、……というより、思春期以来はじめて、
性欲からの解放感を味わった。
さばさばしたというよりは、どこか乾いた砂漠の中に入ったような気分だった。
心が恐ろしく軽くなったのを覚えている。

 と、同時に、それまでの私が、あまりにも性欲の奴隷だったことを知った。
ありとあらゆる面が、「女性」と結びつき、その向こうにある「性」と結びついていた。
それがそのとき、わかった。

●精神と肉体の分離

 たまたま今、私は精神と肉体の分離を、現実に経験している。
(少し、おおげさかな?)
というのも、目下、ダイエット中。
少し油断していたら、体重がいつの間にか68キロ台にまでふえていた。
そこで体重を、63キロ台に落とすことを決意。
それが今の今もつづいている。

 で、食事のとき、私はいつも自分にこう問いかけながら、食べている。
「食べたら損(そこ)ねるのか、それとも食べなければ損(そん)なのか」と。
たいへん興味深いことに、「損」という感じは、「損(そこ)ねる」とも使う。
「損(そん)」とも使う。
わかりやすく言えば、「体を損(そこ)ねるほど食べたら、かえって損(そん)」
ということになる。
 
 その食欲は、性欲とたいへんよく似ている。
腹がいっぱいになったとたん、食欲はスーッと消える。
性欲もまた同じ。

 回りくどい言い方をしたが、私たちの精神は、常に肉体からの命令によって、
左右される。
食欲にしても、性欲にしても、それらは肉体の反応でしかない。
その肉体の反応が、私たちの精神を操る。
ダイエットをしていると、それがよくわかる。

●肉体の奴隷

 が、もし肉体の反応のまま、精神が操られるとしたら……。
それが『貪(どん)』『瞋(しん)』『痴(ち)』ということになる。
ここでいう『痴』というのは、仏教でいうところの『愚痴(ぐち)』ということになる。
(日本語のグチとは、意味がちがう。
しかしグチを言う人は、基本的に愚かな人とみてよい。)

 操られるなら操られるなで構わないと、思う人も多いかと思う。
そのほうが楽しい、と。
ほしいものは、何でも手に入れる。
食べたいものは、何でも食べる。
したいことをし、行きたいところへ行く。
「それがどうして悪いことなのか」と。

が、しかしそれでは、「真理」に到達することはできない。
菩提心を目覚めさせることはできない。
世親は、それを言った。

●『瞋(しん)』

『瞋(しん)』というのは、「激しい怒り」をいう。
世親がそこまで考えて書いたかどうかは知らないが、怒りといっても、2種類ある。
原子力にたとえるのも、どこか不謹慎な感じがしないでもない。
が、原子力の使い方にも、2種類ある。
原子力発電所として、原子力を利用する方法。
もうひとつは、核爆弾として利用する方法。

 私は(怒り)を否定しない。
たとえば今、私はこうしてモノを書いているが、心の根底にあるのは、(怒り)と
言ってもよい。
社会に対する怒り、国に対する怒り、世界に対する怒り、など。
もちろん自分に対する怒りも、ある。
特定の個人に対する怒りも、ないとは言わない。
(できるだけそうしたことに、モノを書くということを利用したくないが……。)

 そうした(怒り)がなかったら、こうしてモノなど書かないだろう。
つまり私の感じている(怒り)というのは、原子力発電所の中の原子力のようなもの
である。

 これに対して、相手の襟首をつかまえ、「コノヤロー」「バカヤロー」と怒鳴りあうのは、
核爆弾の中の原子力のようなもの、ということになる。

●『痴(ち)』

 賢者からは、愚痴な人がよくわかる。
手に取るように、よくわかる。
しかし愚痴な人からは、賢者がわからない。
「自分と同じくらいだろう」くらいにしか考えない。

 同じように、自分が愚痴な人だったというのは、自分がより賢者になってみて、
はじめてわかる。
それはちょうど山登りに似ている。

 下から見たとき、それほど高くないと思っていても、登ってみると、意外と視野が
広いのに驚く。
また同時に、それまでの自分が、いかに低い位置にいたかを知る。

 さらに言えば、賢者も、愚痴な人も、相対的な(差)でしかない。
賢者の上には、さらなる賢者がいる。
愚痴な人の下には、さらなる愚痴の人がいる。
だから釈迦は、『精進(しょうじん)』という言葉を使った。
「日々に、研鑽あるのみ」「死ぬまで、研鑽あるのみ」と。

 その努力を怠ったとたん、どんな賢者でも、愚痴の世界に向かって、そのまま
まっしぐらに、ころげ落ちていく。

●『時は金なり』

 こうして私たちは、肉体は肉体とし、精神は精神として、分離する。
けっして肉体の奴隷になってはいけない。
奴隷になったとたん、自分を見失う。
見失って、貴重な時間を浪費する。

 『時は金なり』とはいうが、『時(=時間)そのものが、貴重』なのだ。
仮に今、あなたが「あなたの余命は、あと半年です」と宣告されたら、あなたは
どうするだろうか。
あなたは自分の命の短いことをのろい、悶絶するかもしれない。
しかし半年でも、10年でも、20年でも、同じではないか。
人はみな、例外なく、死に向かって、静かな行進をしつづける。
今、病気の人たちだけではない。
健康な人も、だ。

●恐怖心

 これから先については、私は想像で書くしかない。
「生きとし生けるもの、すべてに愛をもつこと」を『菩提心』というが、それが
どういうものなのかは、私にもわからない。
そこがどんな世界かも、知らない。
またそういう世界へ入っていくことに対して、恐怖心もないわけではない。

 そのことは、若いころ、インドのマザーテレサを知ったときにも感じた。
マザーテレサは、私たちのそれとは想像もつかないほど高い境地に達した人だが、
では、それがそのまま私たちの幸福感とつながるのかどうかということに、自信
がもてなかった。

 さらに具体的には、こうも考えた。
「もし私の息子の1人が、マザーテレサの弟子になりたいと言い出したら、それを
親として許すか」「許せるか」と。

 あなたなら、どうするだろうか。
それがここで私がいう、「恐怖心」ということになる。

●『菩提心』

 キリスト教では、愛を説く。
仏教では、慈悲を説く。
イスラム教というと、キリスト教とはまったく異質の宗教と考えている人は多い。
しかしキリスト教とイスラム教は、実際には、兄弟宗教と考えてよい。
この2つは、知れば知るほど、よく似ている。
もちろんイスラム教でも、愛を説く。

 これに対して、『菩提心』というのは、愛に合わせて、「智」も含まれる。
だから世親は、人間の欠陥のひとつとして、『痴』という言葉を使った。
「愛だけでは、人間は完成されない。智が伴って、はじめて人間は完成される」と。
これは私の勝手な判断によるものだが、それほどまちがっていないと思う。

 で、その『智』とは何か。
東洋医学では、(意)→(志)→(思)→(慮)→(智)と順に生み出していくと教える。
日本語にも、「意志」「思慮」という言葉がある。
「智」は、その先にある言葉ということになる。
英語では、sharp(頭が切れる)→clever(頭がよい)→wise(賢い)
というふうに使い分ける。

話はそれたが、簡単に言えば、人間は愛だけではだめ。
知性、理性がともなって、はじめて、愛は愛として光り輝く、というふうにも、
解釈できる。
世親のすごさは、一言で言えば、ここにある。

 要するに、『菩提心』というのは、心の中にある山の中でも、最高峰ということになる。
そこから見える景色は、どんなものか。
そのとき私はどんな境地に包まれるのか。
それは私にもわからないが、死ぬまでに一度は、その山に登ってみたい。
きっとすばらしい世界にちがいない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て 
Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 世親 浄土三部経 菩提心)

(注※……世親、ウィキペディア百科事典より)

『世親(せしん、サンスクリット、vasubandhu ヴァスバンドゥ、音写:婆藪般豆、婆藪般頭、旧訳
名:天親〈てんじん〉)は、古代インドの仏教僧。現在のパキスタン、ペシャワールの人で、無著
の弟。浄土真宗七高僧の第二祖。
初め部派仏教の説一切有部を学び、有部一の学者として高名をはせた。ところが、兄の無着
から大乗仏教を勧められ、下らない教義を聞いていたと自らの耳をそいで、瑜伽行唯識学派
に入ったといわれている。その後、唯識思想を学び体系化することに勤めた』『300〜400年
ごろの人』とある。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司※

【「私」って、何だろう?】(2)

++++++++++++++++++

今、私はここにいる。
ここにいて、頭蓋骨の中から、外の世界を
ながめている。
下のほうには、自分の鼻先が見える。
メガネのワクも、焦点が合っているわけではないが、
見える。
その向こうにはパソコンの画面。
周囲の雑多な電子機器の数々……。

この頭蓋骨の中にいる私が、「私」ということになる。

++++++++++++++++++

●精子と卵子

 若い男性のばあい、1回の射精で、約1億個の精子が放出される。
約1億個、である。
 一方、女性のほうは、毎月新しい卵子を排出する。
毎月、である。
 その精子と卵子が結合して、1人の人間が誕生する。
確率論的に言えば、1人の人間が「私」になるためには、男性側が毎月10回、射精した
としても、10年の間では、1200億個。
それに女性の卵子の数、120回(10年分)をかけると、約14兆分の1の確率という
ことになる。

 約14兆分の1、である。
もしそのとき、卵子に到達する精子が、ほんの1つ、ずれていたとしても、また結合する
時期が、1か月ずれていたとしても、「私」は、この世の中に、いなかったことになる。

●必然的な結果

 一方、外から見たらどうだろうか。
そこに一組の夫婦がいる。
その夫婦が、セックスをして、子どもをもうけたとする。
その夫婦からすれば、子どもが生まれるのは、必然的な結果ということになる。

 話をわかりやすくするために、川原に向かって小石を投げたばあいを考えてみよう。
投げた石は、重力の法則にしたがって、やがて下に落ちる。
どれかの石に当たる。
必ず、当たる。

 しかし当てられたほうの石からみると、それは何百万分の1の確率で、「当たった」
ということになる。
(川原の広さにもよるが……。)
つまり石を投げれば、必ず、どれかの石に当たる。
しかし川原の石から見れば、「私」という自分の石に当たるのは、偶然の、そのまた
偶然ということになる。

●もし……

 そこでさらにこう考えてみる。
仮に、卵子に結合した精子が、「私」の精子ではなく、その横を泳いでいた別の精子だった
ら、「私」はどうなっていただろう。
それでも卵子と精子は結合し、そこで子どもは誕生する。
で、ここでの最大の問題は、そのときそこで誕生する子どもは、「私」であるか、「私」
ではないかということ。

 もちろん「私」ではない。
「私」の兄弟あるいは姉妹かもしれないが、「私」ではない。
このことは、もしあなたに兄弟姉妹がいれば、何でもない疑問ということになる。
あなたの兄弟姉妹が「私」ではないのと同じように、そうして生まれた私は、「私」では
ないということになる。
 つまりほんのわずかだけ、タイミングと時期がずれただけで、私という「私」は
生まれず、別の人間が生まれていたことになる。

 が、親や、その周囲の人たちからみれば、そこにいるのは、(あなた)ということに
なる。
精子のひとつやふたつズレたところで、親や、その周囲の人たちからみれば、それは
ごく微小な誤差でしかない。

 ここが重要な点だから、もう一度、考え直してみる。

●9999万9999人の兄弟・姉妹

 仮に1人の男が、1億個の精子を放出したとする。
その中で卵子にたどりつき、生き残るのは、たった1個。
残りの、9999万9999個の精子は、そのまま死滅することになる。
が、仮に、「それはかわいそうだ」ということで、全世界の女性たちから、
9999万9999個の卵子を集めてきて、人工授精したとする。
そしてそれらの女性の体を使って、9999万9999人の子どもを作ったとする。

 しかしその9999万9999人の子どもは、あなたの兄弟や姉妹かもしれないが、
けっしてあなたではない。
「私」ではない。

●生の人間

 言うなれば生まれた直後の子どもは、(妊娠した直後の子どもでもよいが)、言うなれば、
(生の人間)ということになる。
 性質や気質など、親から引き継ぐものも多いが、一応(生の人間)と考える。
この(生の人間)は、その後の環境によって、(あなた)に作りあげられていく。

 日本で生まれ育てば、日本人らしくなる。
浜松で生まれ育てば、浜松の言葉を話すようになる。
私の家庭のような環境で育てば、まちがいなく、ドラ息子、ドラ娘になる。

 つまりあなたの親を含めて、外の世界から見た(あなた)は、あなた。
卵子と精子が結合するタイミングと時期が、多少程度ずれていたとしても、あなたは
あなた。
 しかしこれだけは、絶対、たしか。
その(あなた)は、けっして「私」ではない。
私という「私」は、私になれないまま、他の9999万9999個の精子とともに、
闇から抜け出ることもなく、そのまま死滅する。
もちろんそれらの精子が、「私」を自覚することはない。

●「私」は奇跡中の奇跡

 こうして考えてみると、「私」というのが今、ここにいるのは、まさに奇跡中の奇跡、
ということになる。
「約14兆分の1の確率で生まれた」と言っても過言ではない。
もしほんの1つでもタイミングがずれていたとしたら、「私」はいない。
だれかほかの人は生まれたかもしれないが、しかしそれは「私」ではない。
今の私とまったく同じ顔をし、同じことをしているかもしれないが、「私」ではない。

 もしタイミングがほんの1つでもタイミングがずれていたとしたら、私は「私」になる
前に、そのまま永遠の闇の中に、葬られていた。
永遠ということは、永遠。

●意識

 というふうに考えていくと、「私」というのは、この頭蓋骨の中から外をながめている、
「意識」ということになる。
頭蓋骨から離れたとたん、それは「私」ではなくなってしまう。
こんな例で考えてみれば、それがわかる。

 コンピュータの技術が進歩して、あなたの脳をそっくりそのままコピーできるように
なったとしよう。
そっくりそのまま、だ。
が、そのままではその脳は、見ることも、聞くことも、話すこともできない。
そこでそのコピーされた脳に、カメラやイヤホン、それにスピーカーを取りつける。
その脳は、あなたの脳とまったく同じだから、他人から見れば、(あなた)かもしれない。
しかしその脳は、けっして、あなたではない。

 あなたがその脳に向かって、名前を聞けば、その脳は、ちゃんとあなたの名前を
言うだろう。
しかし、けっして、あなたではない。
何からなにまで、そっくりあなたと同じであったとしても、あなたではない。
あなたが「私」と言えるのは、そこにあなたの意識があるからだ。

●死後の世界

 こう考えていくと、「死後の世界」という「世界」を考えることすら、無意味に
思えてくる。
死んだら、「世界」はない。
少なくとも「私」という意識は、そこで完全に途絶える。
あなたの肉体や脳を作っている無数の分子は、バラバラに解体され、その一部は、
また別の肉体や脳を作るために、再利用される。
が、だからといって、そこであなたの意識が再生されるというわけではない。
肉体や脳のほとんどは、土となり、植物となり、もろもろの生物に生まれ変わる。

 念のため、申し添えるなら、死んだとたん、意識をもつあなたの脳は、バラバラに
なる。
たとえはよくないかもしれないが、日々に排泄するあの便と同じ。
つまり意識は消える。
中に、スピリチュアル(霊)とか何とか、わかったようなことを言う人もいるが、
その意識だけが肉体から離れて、別の世界に浮遊するなどということは、ありえない。

●思考の限界を超えて……

 このあたりが、人間の思考の限界ということになるのか。
私にしても、この先が、わからない。
だから人間は、その手前で、右往左往する。
「あの世はあるのか」という命題にしても、結論を出すこともできず、今の今も、
迷っている。
またそれを乗り越えて、その先へ進むこともできない。
「その先」というのは、既存の宗教観を乗りこえた、その先という意味である。
宗教を否定しながら、宗教に頼り、宗教に頼りながら、宗教を否定する。
毎日が、その繰り返し。
その先へ、進むことができない。

 実際、宗教の先に見えるのは、広大な、それこそ果てしなくつづく広大な原野。
それを知っただけで、人々は、みな、おびえてしまう。
だからこう考える。
「そんな広大な原野にひとり取り残されるよりは、妥協して安易な道を選んだ
ほうがいい」と。

 いくら冒険好きといっても、できることと、できないことがある。
大宇宙へ、たったひとりで、宇宙船に乗って出かけるようなもの。
想像するだけで、ぞっとする。

 こうしてまたもとの世界に戻ってしまう。
それが「右往左往」ということになる。

●真の勇者

 いつか真の勇者が現れるかもしれない。
「私」という意識を乗り越えて、さらに言えば、あらゆる宗教観を乗り越えて、
広大な原野に道を切り開いてくれる人が、現れるかもしれない。

 が、それは、庭に遊ぶ犬のハナに、コンピュータの原理を理解しろというくらい、
難しいことかもしれない。
仮にこのまま数万年、進化しつづけたとしても、難しいことかもしれない。
同じように、人間が、そこへ到達するためには、長い長い時間がかかるだろう。
しかしだからといって、あきらめるわけにはいかない。
方法がないわけではない。
あのソクラテス流に言うなら、常に「私とは何か」、それを問いつづけること。
それが重要ということになる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 
林浩司 BW 私論 私とは何か ソクラテス)

(補記)

意識と肉体の分離。
精神と肉体の分離と置き換えてもよい。
常に意識が、肉体を支配し、肉体をコントロールする。
けっして、意識は、肉体にコントロールされてはいけない。

たとえば寒い朝、ジョギングに出かけるときのことを考えてみよう。
あなたは意識の中で、運動の必要性を強く感じている。
が、肉体のほうは、それに抵抗する。
「寒いから、いやだ」「疲れているから、行かない」と。
が、そういう肉体の声に負けてはいけない。
あなたは自分の意思で、ジョギングに出かける。
寒くてつらい思いをするのは、あなたの(意識)のほうではない。
(肉体)のほうである。

もしこのとき意識と肉体の分離がうまくできないと、あなたは肉体のほうの声に
負けてしまうことになる。
そしてこう言うにちがいない。
「そうだ、今日は寒いから、ジョギングにでかけるのをやめよう」と。
しかしそう思って、ジョギングをやめてしまうことは、結局は、
肉体そのものを弱くしてしまうことになる。

基本的に、(肉体)というのは、怠け者。
少しでも疲れたり、痛かったりすると、「休もう」と考える。
そしてあなたの意識を自分の都合のよいように、誘導しようとする。

が、肉体の求める欲望に負けていたら、あなたの意識は、自分の居場所すら、失って
しまうことになる。
肉体あっての意識。
肉体が滅びれば、意識も消える。

これが意識と肉体の関係。
つまり意識と肉体を分離すればするほど、意識は肉体をコントロールしやすくなる。
意識と肉体を分離することの重要さを、これでわかってもらえたことと思う。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●肉体と精神(未完成)

+++++++++++++++++++++

仏教では、「肉体とは棄(す)去らねばならないもの」
(世親・浄土三部経・観無量寿経)と教える。
精神は善であろうとしても、肉体の内側から湧き起きてくる、
もろもろの欲望、つまり煩悩(ぼんのう)が、
その精神をむしばむ。
仏教では、そう考える。

が、肉体を棄て去るということは、精神が宿る
脳そのものまで棄て去ることを意味する。
東洋医学でも、「肉体と精神は、密接不可分のもの」
(黄帝内経)と教える。
たとえば喜怒哀楽などの感情にしても、五臓六腑
の働きと密接に関連しあっている、と。

世親が説いた「棄て去る」というのは、もちろん、
切り捨てるという意味ではない。
「肉体と精神を分離せよ」という意味である。
仏教学者の人たちが聞いたら、吹き出して笑うかも
しれないが、私はそう解釈している。

+++++++++++++++++++++

●大脳生理学

 最近の大脳生理学の発達には、ものすごいものがある。
脳の構造のみならず、その働きまで、リアルタイムで追跡、観察する装置まで
開発されている。

 たとえば自分の意志で行動していると思っていることにしても、実はそれ以前に、
脳の別の部分が、すでに「そうしろ」と命令を下しているということまでわかるように
なった。
つまり私たちは、常に脳の別の部分が下した命令に従って、それを自分の意志と
誤解しながら行動しているにすぎない、と。

 たとえばあなたが台所へ行ったとする。
テーブルの上に、オレンジジュースがあったとする。
するとあなたは、それを飲みたいと思い、コップに注ぐ。
そしてそれを口に入れる。
そのときだれかが、あなたにこう聞いたとする。
「あなたは自分の意思で、ジュースを飲んでいますか?」と。
するとあなたはまちがいなく、こう答えるだろう。
「そうです」と。

 が、事実は、少しちがう。
あなたが台所へ行く前から、すでに脳の別の部分が、あなたの脳にこう命令を
下している。
「のどが渇いたから、何か飲み物を口にせよ」「台所へ行け」と。
あなたはそうした命令を意識することもなく、台所へ向かい、ジュースを口にする。

●ウソ発見器

 ウソ発見器という装置がある。
あの装置を使うと、あなたがいくら意識的に
ウソをついても、ウソ発見器は、それを見抜いてしまう。
脳の奥の反応まで、感知してしまうからである。

 つまり自分で意識できる部分で、いくらウソを言っても、脳の奥深くの意識まで、
だますことはできない。
それをウソ発見器は感知し、「ウソ」と判断する。
たとえばいくら口先で、「私は盗んでいません」と言っても、ウソ発見器は、脳の別の部分
の反応をみて、「ウソ」と判断する。
だから、よほどのことがないかぎり、あのウソ発見器をだますことはできない……そうだ。
(何かの薬をのめば、ウソ発見器をだませるというようなことは、あるらしい。)

 つまり私たちの意識というのは、常に無意識下の脳によって、命令され、作られている。
すべてがそうではないかもしれないが、そのほとんどがそうであると考えてよい。
その第一が、肉体の内側から湧き起きてくる、欲望ということになる。
その欲望が、善なる意識に影響を及ぼす。

●落語

 落語にこんな話があった。
学生時代にそれを聞いたときには、私は腹をかかえて笑った。

 ある寺に、有名な高僧がいた。
しかし歳には勝てない。
日に日に体が衰えていくのを感じた。
そこである日、その寺の後継者を決めることにした。
選りすぐった若い弟子たち10人ほどを一堂に集めて、こう言った。

「これから寺の後継ぎを決める」と。

 そこでその高僧は、若い弟子たちを全員、裸にして、チンxxのあの先に鈴を
つけさせた。
そうしてみなに瞑想をさせていると、そこへ素っ裸の若い女性が何人か入ってきた。

 するとあちこちからチリチリと鈴の音が聞こえだした。
チリチリ、チリチリ……、と。
それを聞いて高僧は、こう思った。
「ああ、どいつもこいつも修行が足りん」と。

 が、1人だけ、鈴の音が聞こえない若い僧がいた。
それを知って高僧は、その若い僧のそばにやってきてこう言った。

「お前こそ、この寺の後継ぎにふさわしい」と。
が、それを聞いて、その若い僧は、こう答えた。

「いいえ、○○様、私の鈴は、とっくにどこかへ飛んでいってしまいました」と。

●煩悩の力
 
 この話は(肉体)の反応がいかに強力であるかを示す例として、おもしろい。
が、似たような話は、多い。
たとえばニコチン中毒がある。
アルコール中毒でもよい。
こうした中毒性は、一度身につくと、それを断ち切るのは容易なことではない。
容易でないことは、みな、知っている。

 が、「私は、だいじょうぶ」と思っている人も、ちょっと待ってほしい。
ニコチン中毒やアルコール中毒とは違うかもかもしれないが、私たちの脳は、
何らかの(中毒)で、がんじがらめになっている。

 マネー中毒、時間中毒、権力中毒などなど。
性欲や食欲、物欲の奴隷となっている人となると、いくらでもいる。
ただ中毒になっていながら、自分でそれに気づくことはない。
ほとんどの人は、「私は正常だ」「ノーマルだ」と思っている。
が、実際には、何かの(中毒)で、がんじがらめになっている。
 
 仏教でいう「煩悩(ぼんのう)」というのは、まさにそれをいう。
先にも書いたように、「肉体の内側から湧き起こる欲望」ということになる。
その欲望は、先にも書いたように、かなり強力なもので、自分の意思でコントロール
するのは、並大抵の努力ではできない。

●東洋医学では

 東洋医学では、肉体と精神とは、密接不可分のものと教える。
そして人間の(意)(志)(思)(慮)(智)は、順に(心・しん)の活動の一部として
生まれると教える。

 「徳、つまり自然の生命力と気の二つが合体して、生が発現する。
その生の基本物質が精であり、精は精神活動の源である魂(こん)と、
肉体活動の源である魄(はく)を生ずる。
この魂と魄は、心のコントロールを受けながら、相互に作用しあい、さまざまな
精神活動を展開する」(「霊枢」・本神篇)と。

意……物事を話す働き
志……意から生ずる思い
思……いろいろ考える力
慮……考え抜いた結果、理想を慕うようになること
智……その理想に達するために人はいろいろな方法を選択するが、その力のこと。

 そしてこれらは、五臓六腑と密接に結びついている。

肝は(魂)、心は(神)、脾は(意)、肺は(魄)、腎は(志)を宿す、と(はやし浩
司著、「目で見る漢方診断」)。

 東洋医学の考え方を、そのまま仏教に当てはめることはできない。
が、参考にはなる。

 その東洋医学でも、「智」を最後に置いているところが、興味深い。

●理想

 世親は、さらにこう教える(浄土三部経)。
「仏陀を思念せよ」と。
わかりやすく言えば、「自分の理想とすべき人物を頭の中で、思い描き、その人物
に近づくように、努力せよ」ということになる。

 世親が説く「仏陀」というのは、真理の会得者ということになる。
が、これはたいへん重要なことである。
そのことは、逆の人たちを接してみると、わかる。
わかるというより、気がつく。

 たとえば愚劣な人と交わっていると、自分まで愚劣になっていくのが、よくわかる。
愚劣な話題に、愚劣な会話。
で、気がついてみると、いつの間にか、その人と同じような口調で、同じようなことを
話している!

 そういう意味でも、自分を高めることは、むずかしい。
しかし下げるのは、簡単。
山を登るのは苦しいが、山を下るのは簡単。
それに似ている。

 ともかくも、世親は、「仏陀を思念せよ」と。
近くに、それにふさわしい人がいれば、その人を思念するのもよい。
が、いないときは、どうするか?
絵画や音楽など、その世界で、道を究めたような人でも、またその作品でも
よいのではないか。
国宝となっているような仏像などをながめるのもよい。
ながめているだけで、厳粛な気持ちになる。

 要するに私たちは、常に高い理想をもち、その理想に近づくよう、努力するという
こと。
それを怠ったとたん、たちまち私たちは愚劣な俗世間の渦の中に、巻き込まれてしまう。

●現実性
 
 さらに世親のすぐれている点は、現実性を忘れなかったこと。
つねに「衆生(人間を含む、あらゆる生物)を観察し、それからでは、自分はどうあるべきかを
学べ」(「浄土三部経」)と。

 そういう意味でも、私は仏教というのは、もともとたいへん現実的な宗教であったと
考える。
現在でいうところの実存主義に近い、あるいはそれと同じほど、現実的な哲学をもって
いた。
その仏教が、おかしなオカルトに毒されたのは、そこにインドのヒンズー教が混入した
ためである。
輪廻転生論が、その一例である。
「人は死に、また別の何かに生まれ変わる」という、あれである。
しかし法句経を読むかぎり、釈迦は、あの世とか、前世とか、今で言うスピリチュアルな
世界については、一言も述べていない。

●肉体と精神の分離

 話がどんどんと脱線してしまったが、私たちがそこにある真理に到達するため
には、まず、(肉体)から(意識)を解放させなければならない。
たとえば目の前に、山のようなごちそうが並んでいる。
しかも、いくら食べても、無料。

 そういうときあなたなら、どう判断するだろうか。
もしあなたが肉体、つまり欲望の奴隷なら、「食べなければ損(そん)」と考える。
しかしもしあなたの意識が肉体をコントロールしているなら、こう考えるはず。
「食べたら、体を損(そこ)ねる」と。

 食欲にかぎらない。
肉体が求めるあらゆる欲望も、また同じ。
それに溺れてよいことは何もない。

 たとえば昔、『おしん』というテレビドラマがあった。
当時、一世を風靡(ふうび)した、あるスーパーマーケットの創始者をモデルに
したドラマである。
 あの(おしん)は、当初、生きるために働く。
が、それが成功を収めると、今度は、働くために生きるようになる。
全国に支店を展開し、二代目の社長は、全世界にまで進出する。
サクセス・ストーリーとして、日本ではもてはやされた。
が、そのとたん、つまり、(おしん)が働くために生きるようになったとたん、
人々の心は(おしん)から離れ始めた。

 (おしん)が故郷を離れて行くシーンではみな、涙をこぼした。
が、二代目の社長が多額の借金をかかえて倒産したときに、それに対して涙を
こぼす人はいなかった。
 (おしん)は、あるときから欲望の奴隷になってしまった。
とたん、自ら、真理からはずれてしまった(?)。

●最後に……
 
 「私」と思っている部分について、それをよくよく考えてみると、それが
「私」ではないと気がつくことが多い。
たとえて言うなら、見かけの「私」は、タマネギかニンニクのようなもの。
そのタマネギやニンニクから、欲望をはがしていくと、最後に残るものは、
ほとんどない。
細いヒモのようなものでも残っていれば、まだよいほう。
それが「智」ということになるが、まったく何もなくなってしまう人のほうが、
多い。

 このことは逆に、子どもの発達段階を見ているとよくわかる。
純粋無垢だった子どもでも、世俗にさらされるうちに、どんどんと俗化していく。
俗化されながら、自分が俗化していることに気がつく子どもはいない。
「智」をはぐくむ前に、それを包む欲望だけが、どんどんと肥大化していく。
つまりそういう子どもの延長線上に、私たち、おとながいる。

 肉体と意識の分離。
それが真理到達への第一歩となる。
(私がわかったのは、ここまでだが……。)
そのまた第一歩として、今日からでも、食事のとき、あなたは自分にこう問いかけて
みるとよい。

「食べたら損(そこ)ねるのか、それとも食べなければ損(そん)なのか」と。
食欲にかぎらない。
肉体の内側から湧き起きてくる欲望に、そのつどブレーキをかける。
たったそれだけのことだが、あなたの人生観は、それで大きく変わるはず。

(以上、未完成の原稿のまま……。後日、書き改めることにする。090624)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 肉体と精神 精神と肉体 浄土三部経 世親 はやし浩司 煩悩)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

【判断】(XX児の問題)

++++++++++++++++++++++

親のためか、それとも子どものためか。
ときとして私は、その板ばさみになって、もがく。
けっして、大げさな言い方ではない。
本当に、もがく。

++++++++++++++++++++++

●1本の電話

 ある日の午後、1本の電話がかかってきた。
受話器を取ると、女性の声で、こう言った。
「うちの子を、何としてもS小学校に入れたいのですが……」と。
そのため、私の教室で、指導してほしい、と。
1999年の春のことである。

 こういうケースのばあい、私は即、こう聞き返すことに
している。
「どなたかの紹介でしょうか?」と。
紹介者がいれば、それなりにていねいに応ずる。

「いえ、紹介ではありません。うわさをお聞きしました」
「はあ、うちは受験塾ではありませんが……」と。

 紹介があれば、その人から私の教室の内容を聞いているはず。
そのため、話もしやすい。
そうでなければ、そうでない。
小学校の受験だけを目的に来る生徒は、その場で断ることにしている。

 で、その母親は、娘(4歳児、年中児)を連れて、見学に来ることになった。

●年中児

 年長児と年中児。
その差はたったの1年だが、この時期の1年は、おとなの10年以上の差がある。
たいへん……というより、消耗するエネルギーの量がちがう。
年長児クラスなら、今でも2クラス、つづけて教えられる。
が、年中児クラスになると、1時間でヘトヘトになる。
猛烈に神経をつかう。

 言い換えると、年長児と年中児の月謝が同じというのは、おかしい。
割が合わない。
年中児のばあい、年長児の2倍の月謝でもよい。
3倍でもよい。
また、それくらいの価値はある。
皮肉なことに、小学生を教えるほうがはるかに楽。
中学生を教えるのは、もっと楽。
高校生ともなると、眠っていても、教えられる。

で、年長児になると、子どもも幼児後期から少年期へと移行する。
ある程度の「核」、つまり(つかみどころ)ができてくる。
が、年中児は、「自立」という意味で、たいへん重要な時期である。
子どもの性格そのものを、いじることができる。
わかりやすく言えば、私が意図した通りの子どもに仕上げることができる。

●参観

 その日まで、その子どものことは忘れていた。
ワイフに言って、案内書は送った。
が、名前も忘れていた。

 が、その日、やや遅れて、その子どもが教室へ入ってきた。
名前を、Gさん(年中児)と言った。
レッスンは、すでに始まっていた。
最初の緊張感が和らぎ、子どもたちがそろそろ私のリズムに乗ろうとした、
そのときだった。
私はワイフを促し、Gさんを、席に着かせようとした。

 が、様子がふつうではなかった。
母親のそばを離れなかった。
表情も硬かった。
その瞬間、私は、Gさんが、場面XX児と判断した。

●場面XX児

場面XX児というのは、よく知られた情緒障害児をいう。
家の中や、家族とは、ふつうの会話ができる。
むしろ騒がしいほど、よくしゃべったりする。
が、ひとたび環境(=場面)が変わると、まるで貝殻を閉ざしたかのように、
口を閉じてしまう。

 こうした症状に合わせて、視線を合わせない、体をこわばらせる、視線をはずす、
などの症状が出てくる。
(視線をこちらに向けたまま、動かさない子どももいる。)
が、最大の症状は、心(情意)と、表情が、遊離すること。
怒っているはずなのに、無表情のままか、ニタニタと意味のわからない笑みを
浮かべたりする。

 私はほかの子どもたちを、思いっきり笑わせてみた。
Gさんもつられて笑えばよし。
笑わないまでも、表情を和らげれば、それでよし。
それを目ろんだ。
子どもたちを笑わせるのは、私の得意芸。
「笑えば、子どもは伸びる」が、私の教育の柱にもなっている。

 で、みながゲラゲラと笑っているときも、Gさんは、無表情のままだった。
さらにみながゲラゲラと笑っているときも、表情は変わらなかった。
じっと私を見つめているようだったが、笑わなかった。
が、笑っていないわけではない。
心は笑っていた。
が、それが表情となって、外に出てこなかった。
それがxx児の特徴でもある。

●診断権

 私はドクターではない。
そのため診断権がない。
だから子どもを診断し、診断名を告げることはできない。
しかしXX児かどうかは、数分も観察すれば、わかる。
その瞬間にわかる。
XX児という言葉さえない時代から、私はXX児を指導してきている。
その数、何10例?
あるいはもっと多いかもしれない。
100〜200人と言っても、よい。
ある時期(30代のはじめ)は、そういう子どもたちばかりを教えていたことも
ある。

 XX児という言葉がポピュラーになったのは、そのあとのこと。
が、治す方法がないわけではない。
笑わせる。
大声で笑わせる。
その渦の中に、子どもを巻き込んでしまう。
程度の差こそあるが、軽い場合には、そのまま治ってしまう。
「治す」という言葉は、おおっぴらに使えないが、しかし治ってしまう。

●苦闘

 私はGさんを笑わせようと、苦闘した。
まずほかの子どもたちを笑わせ、その笑いをどんどんと大きくしていく。
そしてその笑いの渦の中に、Gさんを巻き込んでいく。

 ときどき横視現象も見られた。
視線をそらすので、そういうときは、布でできたボールを投げ、キャッチボールをする。
この方法は、集中力の欠ける子どもにも、有効である。
ボールが飛んできたとたん、子どもは、はっと我に返る。

 Gさんにも、2度ほど、ボールを投げてみた。
Gさんは、1度は、無表情のまま、ボールを手で取った。
が、もう1度は、横に座っていた母親が受け取って、私に投げ返した。
ほのぼのとした雰囲気だった。

 が、結局、1時間のレッスンの中で、Gさんは、笑わなかった。
一言もしゃべらなかった。
あとは根気との勝負である。

●幼児教育

 私は実のところ、そういう子どもを教えることのほうが、楽しい。
得意。
何も問題のない子どもを教えるよりは、教えがいがある。
「治った」ということになれば、その喜びも、また大きい。
実際、私はこの方法で、今まで、数えたことはないが、無数の子どもたちを治してきた。
(もちろん親たちの前で、「治す」とか「治した」という言葉を使ったことは、
一度もないが……。)

 私はGさんをながめながら、ムラムラと闘志が湧いてくるのを覚えた。
「治してやろう!」と思った。
「この子を治せるのは、私だけ」と思った。

 だからレッスンが終わったとき、母親にこう聞いた。
「Gさんの問題について、お気づきでしょうか?」と。

 そのとき母親の口から、「XX児」という言葉が出てくれば、話は簡単。
わかりやすい。
私はそれを期待した。
が、母親の答は意外なものだった。

「この子は、家の中ではふつうなのですが、幼稚園などでは、まったくしゃべり
ません。
保育園へ通っていたとき、先生が、たいへん神経質な先生で、こうなってしまい
ました」と。
「神経質な先生で、この子を頭から、抑えつけてしまったようです」とも言った。

 私は、「ハア〜」と答えただけで、そのあと何も答えられなくなってしまった。
で、そのあと、母親は、私にこう言った。
「実は、私もS小学校の出身なのです。だから娘には、どうしてもあの小学校へ
入ってもらわねばなりません」と。

●障害児

 障害児といっても、それは子どもの責任ではない。
親の責任でもない。
それぞれの障害児は、ある一定の割合で出現する。
だから障害児を見るときは、子どもだけを見てはいけない。
親を見てもいけない。
私たちみなが、社会全体の一員として、子どもをみる。
けっして、子どもや親を孤立させてはいけない。
みなが力を合わせて、そういう子どもを暖かい愛情で包む。

 が、重度のXX児ともなると、ふつう学級での指導は、実際問題として、難しい。
そこでこの浜松市でも、市内に拠点校というのを作って、そうした学校で集中的に
そういう子どもを集めて指導している。
「排除する」という発想ではない。
できるだけふつう学級で、ふつう児として学ばせ、プラス・アルファの教育を、
別教室でする。

●限界

 が、最近は、私は自分の体力の限界を感ずることが多くなった。
このタイプの子どもの指導には、体力が必要。
一瞬たりとも、息が抜けない。
緊張の連続。
先ほど、ヘトヘトになると書いたが、ヘトヘト以上のヘトヘトになる。
レッスンが終わったとたん、ヘナヘナと椅子に座り込んでしまうこともある。
それくらい、エネルギーを消耗する。

 が、それを支えてくれるのが、家族ということなる。
Gさんのケースでも、母親が、Gさんの障害について自覚し、その上で私に……、
ということであれば、私も喜んで指導を引き受けただろう。
しかしGさんの母親は、まったくの無知。
無理解。
こういうケースのばあい、指導はたいへん難しい。
理由というより、これにまたその一方で、苦い経験が山のようにある。

●「萎縮させてしまった」

 たいてい数か月もすると、親が子どもの手を引いてやめていく。
「この教室は、効果がなかった!」と。
こんなことがあった。

 A君(年長男児)も、そのXX児だった。
で、何とかA君にしゃべらせようとがんばった。
その日もがんばった。
が、順に当てていっても、A君の番になった。
が、A君はしゃべらなかった。
ジリジリとした瞬間が重なった。
私はあれこれ誘導しながら、何とかA君にしゃべらせようとした。
しかしA君は、意味不明の笑みを浮かべ、口を閉ざしたままだった。

 で、ころあいを見計らって、私はこう言った。
「今日は、調子が悪いんだね」と。
そしてそのまま次の席に座っている子どもに、発言させようとしたその瞬間、
母親のほうがキレた。
「うちの子は、どこも悪くありません!」「A!、帰るのよ!」と、大声で怒鳴って、
そのままA君の手をつかむと、部屋から出て行ってしまった。

 さらにこんなこともあった。
B子さん(年長女児)も、そのXX児だった。
が、B子さんは、口数は少なかったが、それなりに教室の中では楽しそうに
レッスンを受けていた。

 が、ある日突然、父親から電話がかかってきた。
こう言って、怒鳴った。
「お前は、子どもを伸ばすと言いながら、うちの娘を萎縮させてしまった。
どうしてくれる。責任を取ってもらう!」と。

 私は気がつかなかったが、その日は、B子さんの父親が参観に来ていた。
自分の娘がしゃべらないのは、私の指導の仕方が原因と、その父親は考えた……らしい。

●「家で相談してきます」

 だから……。大切なのは、親の理解と協力ということになる。
それがないと、XX児の指導はできない。
またそのために、どこかの専門の機関で、一度、診断名をしっかりとつけてもらう
必要がある。
またそれがどういう障害なのか、しっかりと知ってもらう必要がある。

 その上での指導なら、できる。
が、それがないと、できない。
私は迷った。
「引き受けるべきか、どうか」と。
母親は、「何として、S小学校に」と言っている。
しかしGさんの母親が、私の心を、無残にも叩きつぶしてしまった。
レッスンが終わると、私にこう言った。

「家に帰って、この教室に入会するかどうか、話し合ってきます」と。

 こういう場面で、「この教室へ入れていただけますか?」とか、
「引き受けていただけますか?」と聞く親は、まず、いない。
だからといって、親を責めているのではない。
今は、そういう時代である。
どの親も、「入ってやる」という態度で、私の教室へやってくる。
それはそれでしかたのないことかもしれない。
ここにも書いたように、「今は、そういう時代である」。

●販売拒否?

 が、ここでも問題が起きる。
親のほうは、入会するかどうかは、親の意思だけで決まると思っている。
教育を、自動販売機のように考えている人は多い。
「お金を出してやるから、教えろ」と。

 そうかもしれないが、それをあまり露骨に言われると、教えたいと思う
気持ちは半減する。

 さらにこちらから入会を断わったりすると、デパートで販売拒否にでも
あったかのように、最近の親たちは、怒る。
「どうしてうちの子は入れてもらえないのか」
「理由を言ってほしい」と。

 公立の学校にすら、入学試験というのがある。
私立幼稚園にしても、平均して、年間1億円以上の補助金を受けている(S県)。
が、親たちは、私のような者がそれをするのを許してくれない。

 翌日、私はGさんの家に電話を入れた。
そしてていねいに、こう言った。
「実は、またおいでねとは言いましたが、私の体力的な問題もあり、今回は
お引き受けいたしかねますので、ごめんなさい」と。

 本当はその前に、Gさんの母親が、こう言うのを期待していた。
「娘と相談してみましたが、今回は、入会を見合わせます」と。
しかしGさんの母親は、「娘が喜んでいる」「来週から行きます」と言った。
それで私としては、断わるよりほかになかった。

 で、案の定というか、今まで何度もあったように、Gさんの母親はそのまま
激怒。
声を荒げて、こう怒鳴った。
「理由を言ってください!」「理由を言ってもらわなければ、納得できません!」と。

 私はただ「体力的に自信がありませんから……」を、繰り返すしかなかった。

●方法

 今では、各地域に発達相談センターのようなものがある。
自分の子どもで、(ふつうでない面)を見つけたら、そこで相談するとよい。
子どもの世界では、『無知は罪悪』と考えてよい。
小さな殻(から)にこもってはいけない。

 そしてそこで自分の子どものもつ障害を、冷静に見つること。
先ほども書いたように、だからといって、それは子どもの責任ではない。
親の責任でもない。
社会全体の問題である。
社会全体がともに考え、負担すべき問題である。
けっして、子どもを追いつめてはいけない。
親を追いつめてはいけない。

 ただ無知なままだと、不適切な指導が、かえって子どもを悪い方向に
追いやってしまうことがある。
症状をこじらせてしまう。
だから『無知は罪悪』ということになる。

 Gさんの母親は、電話口の向こうで、電話を切る寸前まで、怒っていた。
一方、私は「すみません」「すみません」だけを繰り返した。
とても残念な事件だったが……。

 その後、Gさんがどうなったかは知らない。
が、似たような事件は、そのあとだけでも、数例あった。

(以上、ここに書いたことは、いくつかの話を混ぜて作った、フィクションです。
ある特定に親子について、書いたものではありません。
また最近、あった事件でもありません。
遠い昔あった事件を思い起こしながら、ひとつのストーリーとして
まとめてみました。
どうか誤解のないように!)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
かん黙児 場面かん黙児 緘黙 緘黙児の指導)

++++++++++++++++++++

2年前(07年)の7月にも同じような
原稿を書いていました。
それをそのまま紹介します。
文章が稚拙ですが、そのまま載せます。

++++++++++++++++++++

●無知、無理解、無学

子育てで、何がこわいかと言って、無知(=親にその知識がない)、無理解(=子どもの
症状について、理解しようとしない)、無学(=親に学ぶ姿勢がない)の3つほど、こわ
いものはない。

 私はドクターではないから、診断名をくだすことはできない。しかしその子どもに、ど
んな障害があるかは、会ったその瞬間に、ある程度わかる。が、それを口に出すことはで
きない。わかっていても、知らぬフリをする。そんなときは、そのため、それとなく、親
に、さぐりを入れる。

 が、そういう親にかぎって、無知、無理解、無学。(失礼!)「できるだけ、避けて通り
たい」という親の気持ちも、理解できないわけではない。「たとえその疑いはあっても、信
じたくない」という親の気持ちも、理解できないわけではない。親としても、つらい。悲
しい。それはよくわかる。

たとえば7、8年前になるが、1人の女の子(小2)がいた。Hさんという名前の女の子
だった。場面かん黙児だった。最初、父親に連れられて私の教室にやってきた。が、父
親は、自分の娘のことを、何も気づいていなかった。

 その日は、何とか、やり過ごした。が、つぎのときには、今度は母親に連れられてやっ
てきた。私は、それとなくさぐりを入れた。(さぐり)というのは、親がどの程度まで、自
分の子どもの問題点を理解しているか、それを知ることをいう。が、何を聞いても、即座
に返ってくるのは、反論ばかり。

私「静かなお子さんですね」
母「家では、ふつうにしゃべります」
私「学校では、どうですか?」
母「友だちとなら、会話できます。しかし、おとなが苦手です」
私「学校の教室では、どんな様子ですか?」
母「しゃべりません。とくに先生との相性が悪いようです」

私「幼児期に、どこかへ相談なさったことがありますか」
母「問題は、ありません。生まれつき、外では、静かな子どもです」
私「外で静かだということにお気づきになったのは、いつですか?」
母「言葉の発達が遅れたからです」
私「遅れたというのは……?」
母「今は、問題、ありません」と。

 その女の子には、かん黙児特有の、(遊離)が見られた。顔の表情と、心の状態(情意)
が不一致した状態をいう。いつもニンマリというか、ニコニコというか、意味のわからな
い笑みを浮かべていた。いやがっているはずのときも、怒っているはずのときも、意味の
わからない笑みを浮かべていた。同じかん黙児でも、こうした遊離が見られたら、(程度に
もよるが……)、症状は重いとみる。あるいは、すでに症状がこじれてしまっているとみる。

 もっと早い段階、たとえば3、4歳ごろにそれに気づき、適切な対処をしていれば、あ
る程度、遊離を防げたかもしれない。軽くすますことができたかもしれない。しかしそれ
は(過去)の話。教育の世界では、(今、そこにある現実)を原点に、ものを考える。親の
過去を責めても、意味はない。

 私はさらにさぐりを入れた。入れながら、親の口から、「かん黙」という言葉が出てくる
のを待った。しかし最後まで、その言葉は出てこなかった。ほんとうに無知なのか? そ
れとも隠しているのか? 私には判断できなかった。

 で、このタイプの子どもの指導のむずかしい点は、(1)集団に溶け込まないこと。(2)
心を開かないから、心の交流ができないこと。(3)ストレスを、内へ内へとためやすいた
め、予期せぬ問題が、発生しやすいこと。そのときすでに、その女の子には、家庭内暴力
的な様子が、始まっていた。母親は、こう言った。

 「学校から帰ってくると、私に向かってはげしい暴力を振るうことがあります」と。

 つまり教える側からすると、腫れ物に触れるかのような、細心で、デリケートな指導が
必要となる。何を考えているか、わからない。それがつかめない。そのため教えるといっ
ても、まさに手さぐりの神経戦。ピンと張り詰めたような神経戦。それが一瞬、一秒とい
う単位でつづく。突然、キレて、暴れ出すこともある。若いときなら、神経戦もできるが、
当時すでに私は50歳を超えていた。神経戦は、つらい。

 が、何よりも大きな問題は、そういう問題がありながらも、親自身が、それに気がつい
ていないこと。気がついていれば、話もできる。指導もできる。が、そこにある問題から、
親が目をそらしてしまっているばあい、指導そのものができない。

またこのタイプの親は、やめるのも、早い。少しやってみて効果がないとわかると、(そ
んなに簡単に効果が現れるということはないのだが……)、「この教室はだめだ」という
ような判断をくだして、子どもの手を引っ張って、そのままやめてしまう。

 その女の子のばあいも、私は、こう言った。「簡単には、いきませんよ。1年とか、2年
とか、あるいはもっとかかるかもしれません」と。しかし母親は、こう反論した。「うちの
子は、慣れれば、だれとでも話をします。話をしないのは、慣れていないだけです」と。「と
にかく、教室へ置いてくれれば、それでいい」とも、言った。

 事実、その女の子は、そのあと数か月程度で、私の教室を去っていった。

 かん黙児……。その中でもとくに指導がむずかしいのは、場面かん黙児。親は、「家では
ふつうです」と、がんばる。子ども自身に問題があるとは、思っていない。だから、その
問題点に気づくこともない。

 だから私は、当時、こう書いた。「親の、無知、無理解、無学ほど、こわいものはない」
と。

(付記)

 かん黙児にかぎらず、情緒そのものに障害がある子どもは、けっして、無理をしてはい
けない。「直そう」とか、「治そう」と考えてはいけない。そういう子どもであることを認
めた上で、その子どもに合った指導をするのがよい。(親にそれを認めさせるまでが、たい
へんだが……。)あとは、時期を待つ。子ども自身がもつ自律能力を待つ。

かん黙児にしても、その年齢がくれば、何ごともなかったかのように、終わる。小3〜
4年生を境に、症状は急速に改善する。(症状をこじらせれば、その時期は、ぐんと遅れる。あ
るいは、別の問題を引き起こす。)

 無知、無理解、無学が原因で、たいていの親は、無理をする。この無理が、こわい。「そ
んなはずはない」「うちの子に限って」と、子どもをはげしく叱ったりする。そのため症状
を、かえってこじらせてしまう。子ども自身が自分で立ちなおるのを、遅らせてしまう。

 そこで学校教育の場では、それとなく親に、学校医もしくは専門医の紹介をしたりする。
「一度、専門医に相談してみてはどうですか?」と。
幼稚園であれば、保健所(センター)などにある、「発達相談センター」を紹介したりする。

 こうした働きかけがあったら、親は、すなおにそれに応ずるのも、大切なことではない
だろうか。


Hiroshi Hayashi++++++++June09++++++++++はやし浩司※

【精神的一貫性】(Consistency of our Thought)
Can we be the same under any condition of the circumstances? If so, it is OK, but if it 
ins't, it is not OK.)

++++++++++++++++++++++++++++++

「精神的一貫性」というのは、つまり思想的同一性のことをいう。
状況が大きく変わっても、いつも同じ思想をもちつづけることをいう。
簡単に言えば、「信念」ということになるが、信念ともややちがう。
「思想的一貫性」というか、「人間的な一貫性」とか、状況に影響を
受けない「一貫性」をいう。

が、こう書くと、「何だ、そんなことか」と思う人も多いかと思う。
「そんなことなら、だれにでもできる」と。
しかしそう断言するのは、ちょっと待ってほしい。

たとえば暴力団の男性がいる。
それらしい風体に、それらしい服装。
見るからにそういう人と、わかる。
が、そんな人でも、家庭では、よき夫であり、よき父親であったりすることが多い。
常識も通ずる。
冗談も通ずる。
ちょっとふつうの人とはちがうかなという印象を与えるかもしれないが、
(ふつうの人)と、どこもちがわない。
そういう人を見ると、「なんだ、この世には悪人などいない」と、だれしも思う。
(何も暴力団の構成員がみな、悪人と言っているのではない。誤解のないように!)

が、私の言いたいのは、その逆。
そんな(ふつうの人)でも、状況が変わると、コワ〜イ男性に変身したりする。
「泣く子も黙る……」というのは、大げさかもしれないが、そういう男性に
変身したりする。
一喝されただけで、ふつうの人なら、それだけで震えあがる。

家庭ではよき夫であり、父親である。
しかし取り巻く環境が変わると、コワ〜イ男性に変身する。
つまり暴力団のこの男性には、「人間的な一貫性」がないということになる。
(あまりよい例でなくて、ごめん!)

+++++++++++++++++++++++++++++++

●一貫性の確立

 自分の中に、いかにして一貫性を構築するか。
簡単なことのようで、それが難しい。
私たちはそのときどきの(縁)に応じて、変化する。
自分を作り変える。
よい人間に作り変えることもあるが、ときには、(縁)に応じて、悪い人間に作り
変えることもある。

 たとえば私がたいへんよく知っていた人に、KY氏という人がいた。
私が子どものころ、すでに60歳くらいだった。
そのKY氏は、あの関東軍七三一部隊で、教授を務めていた。
(研究部隊ということで、内部では、「教授」という肩書になっていた。)
関東軍七三一部隊がどんな部隊であったかについては、今さらここに書くまでもない。

 が、私が知るかぎり、KY氏は、穏やかで、やさしい人だった。
私が子どものころには、近くの川に魚釣りに連れていってくれたこともある。
碁の打ち方を教えてくれたこともある。
そのKY氏が関東軍七三一部隊の教授であったことは、幸いにも(?)、KY氏が
亡くなってから、10年ほどしたときのことである。
私はそのとき30歳くらいになっていた。

 そのKY氏を思い浮かべながら、いまだに、それが信じられないでいる。
私が知っていたKY氏から、関東軍七三一部隊で教授職をしていたKY氏は、
とても想像できない。
はたしてその両者は、同一人物だったのか。

中国のハルピンでは、関東軍七三一部隊は、身の毛もよだつような悪業を重ねていた。
関東軍七三一部隊では、中国人や朝鮮人、さらにはロシア人まで、生きたまま解剖して
いたという。
教授職だったKY氏が、善人だったとは、とても思えない。
が、日本へ帰ってきてからは、一転、私が知るかぎり、仏様のような人間になっていた!
そういうKY氏を思い浮かべると、「この世の中には悪人はいない」「悪いのは戦争だ」
ということになる。
戦争が、KY氏をして、KY氏のような人間にした、と、
が、同時に、このことを反対に言うと、こうなる。
「どんな善人でも、戦争に行くと、悪人になる」と。

 もしKY氏に一貫性があったら、関東軍七三一部隊に入隊したとしても、
それをよしとしなかったはず。
反対に、日本へ帰ってきてからも、鬼のような人間のままであったはず。
が、そのつど、KY氏は、大きく変化した。
(善人)から(悪人)、その(悪人)からまた(善人)へと。

 つまりこれが私が言う、「精神的一貫性」ということになる。

●ナチスドイツ
 
 ナチスドイツは、あのアウシュビッツだけでも、1200万人以上ものユダヤ人を
虐殺した。
第二次大戦で死んだ日本人が、300万人。
日本人が殺した外国人が、300万人。
合計しても、1200万人には、とても及ばない。

 そういう事実を知ると、日本人なら、みなこう言う。
「私たちは、そういうことはしない」と。
「日本人は、そんな残虐なことはしない」とも。
しかし本当に、そうか。
そう断言してよいだろうか。
少なくともあなたには、そういう自信はあるだろうか。
(残念ながら、私には、ない。)

 もし仮に、東南アジアからの不法移民が、この日本に、100万人単位で住んでいたら、
どうだろうか。
その数が、200万人、300万人……となり、さらに1000万人、2000万人と
なったら、どうだろうか。
しかもそうした不法移民が、日本の経済を牛耳るようになったとしたら……。
彼らは日本の文化風習には同化せず、自分たちの言葉を話し、自分たちの宗教を信ずる。

 そういう状況になったときでも、あなたは、「人間はみな、平等だ」と言って、平然と
していられるだろうか。
ヒットラーが政権を握る前のドイツは、まさにそういう状況だった。
(だからといって、ナチスドイツのした行為を正当化しているのではない。
誤解のないように!)

●ドイツ人vs日本人

 「私たち日本人は、ナチスドイツがしたようなことはしない」と言うのは簡単。
「私たちはドイツ人とは、ちがう」と。
しかしそれだけの精神的一貫性を、私たち日本人は、ほんとうにもっているだろうか。
が、私の印象では、もし日本が同じような状況になったとしたら、ひょっとしたら
日本は、ナチスドイツがしたよりも、もっとひどいことをするかもしれない。
悲しいかな、日本には、それだけの文化的な蓄積すらない。
忘れてならないのは、ゲーテやシラー、さらにはベートーベンを生み出したドイツですら、
そんなことをしたということ。

 そこで精神的一貫性。
精神的一貫性が確立していれば、まわりの状況が変わったとしても、私は私でいられる。
そうでなければ、そうでない。
一貫性のない人は、まわりの状況に応じて、そのつど主義主張まで、変えてしまう。
カメレオンのように、周囲の色に合わせて、自分の色まで変えてしまう。
考えようによっては、これほど、恐ろしいことはない。
どう恐ろしいかは、先に書いたとおりである。

●精神的一貫性の確立
 
 実は今、私は精神的一貫性の確立について、悩んでいる。
考えようによっては、それほど深刻な問題ではないかもしれない。
しかし悩んでいる。

 私は昨年、実兄と実母を、あいついで亡くした。
2度の葬儀と、それにつづく法要の数々。
四九忌まで、毎週1回ずつの法要、そして百か日忌。
が、それが今度は、1周期!
来年には、また3回忌。
(仏教では、死んだ前の日から年数を数え始めるため、2年目に、3回忌をする。)

 が、こうした法要の根拠は、鎌倉時代にできた『地蔵十王経』という、偽経である。
まっかな偽教である。
どこの寺も、偽教ということを百も承知の上で、それを根拠に法要を私たちに強いてくる。
しかしこうした法要そのものが、私の主義主張と、まっこうから対立する。
「長いものには巻かれろ」式の妥協をすることも考えた。
しかし妥協を繰り返すのも、このところ、疲れた。
だから「悩む」ということになる。

●ケチ
 
 こう書くと、「ケチ」と誤解する人がいるかもしれない。
しかし今、介護費用も、相当な額になった。
当時、救急車で一回、病院へ運ばれただけで、それだけで、15万円前後の費用がかった
(08年)。
救急車は無料だが、病院での検査、治療費などなど。
(無駄な検査の多いのには、驚いた!※)
で、救急車で運ばれると、たいてい特別の個室をあてがわれる。
「大部屋があいていないので、個室で」となる。
この費用が大きい。
1泊するだけでも、3万円弱。
数泊しれば、10万円。
帰りも救急車というわけにはいかない。
寝台つきのタクシーを使うと、料金メーターの数字が、1000円単位であがっていく。
それで15万円前後ということになる。

 そこへもってきて、葬儀。
今、全国平均で、1回の葬儀にかかる費用は、240万円前後。
香典でまかなえる人も多いと聞くが、私のばあいは、香典で集まったのは、実兄のときも、
実母のときも、40万円程度でしかなかった。
あとは私の持ち出しということになった。

が、それで終わったわけではない。
今では、一回の法事ごとに、寺に支払う布施にしても、5万円が相場。
初盆ともなると、いくら安くあげても、数10万円はかかる。

生きている人間にお金を使うのは当然としても、どうして死んだ人間にまで、こうまで
お金を払いつづけなければならないのか。

いや、お金にこだわっているわけではない。
死者にそれだけのお金を使うくらいなら、その分、今、生きている人たちのために
使いたい。
事実、私は息子たちの学費については、一円たりとも惜しんだことはない。

 私はケチではない。
こうした儀式そのものが、私の主義主張に反している!

●私たちは、だいじょうぶか?

 精神的一貫性を保つのは、容易なことではない。
戦地に赴く兵士にしても、そうだ。
先に書いたKY氏にしても、兵士になる前は、私やあなたとどこもちがわない、
ごくふつうの人だったにちがいない。
が、そういう状況に包まれたとたん、その人は、その人になる。
精神的一貫性そのものが、どこかへ吹き飛んでしまう。

 では、私はだいじょうぶなのか?
あなたは、だいじょうぶなのか?

●ではどうしたらよいのか

 では、精神的一貫性を保つためには、どうしたらよいのか。
それについては、2つの方法がある。

(1)適当に妥協して生きる。
(2)徹底的に自分の主義、主張を貫く。

 たとえば法事にしても、私は、そのつど、「旅行の一環」と位置づけてきた。
法事に行くたびに、それを利用して、あちこちを旅行した。
地元の旅館に泊まるのも楽しかった。
「法事」と構えると、疲れる。
角が立つ。

 が、先にも書いたように、このところ妥協するのにも、疲れを覚えるようになった。
そこで「悩む」ということになるが、これについては、今まで書いたとおりである。
そこで(2)の徹底的に自分の主義、主張を貫くということになる。
法事というのは、しなければならないものではない。
だれかに義理立てしてまで、しなければならないようなものではない。
私は私。
そういう私を、あれこれ言う人がいたら、言わせておけばよい。

 ということで、母の1周忌を最後に、私は縁を切る。
「縁」と言っても、「寺との縁」のことではない。
不確かで、あやふやな自分と「縁」を切る。
その上で、妥協できることについては、妥協する。 
適当にやって、それですますこところは、すます。
それが私にとっての、精神的一貫性ということになる。

●終わりに……
 
 精神的一貫性を保つためには、確固たる信念と哲学をもたねばならない。
が、もつだけでは足りない。
それを自分の中で、熟成させなければならない。
が、熟成させるだけでも足りない。
自分のもつ文化性を高め、その文化性で、自分の心を包まねばならない。
本を読み、芸術をたしなむ。
信念と哲学が、自分を支える強いバネとなるのは、そのあとのことである。

と、同時に、妥協できる部分については、妥協する。
まわりの人たちがそれで安心するなら、妥協する。
お金の問題ではない。
それが人間が、本来的にもつ(やさしさ)ということになる。
また、その(やさしさ)を忘れてはいけない。

……ということで、精神的一貫性についてのエッセーを終わる。
精神的一貫性をもつことが、いかに難しいかということを、このエッセーを通して
読者の方にわかってもらえれば、うれしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
精神的一貫性 精神的統一性 信念と哲学 はやし浩司 一貫性の確立)

(※付記)

救急車で運ばれると、まず検査。
また検査。
検査につぐ検査。
そこである日、私は担当のドクターにこう言った。
「検査していただけるのは、ありがたいですが、その結果、治療していただけるのですか?」
と。
するとそのドクターは、わざわざ私を応接室へ招いて、こう言った。
「治療はしません」「延命処置もしません」と。

そこで私が、「じゃあ、検査しても意味ないではないですか」と言うと、
あっさりと、「そうですね」と。
要するに、老人が、病院の金儲けの道具にされていた。


Hiroshi Hayashi++++++++June・09++++++++++はやし浩司

●静岡県・知事選(民主主義の危機)(改)

++++++++++++++++

静岡県の知事選が始まった。
4氏が立候補している。
保守系(前副知事)が1人。
野党系が候補統一に失敗し、今のところ
保守系候補が有利。

同時に、昨日、こんなニュースが伝わってきた。
何でもJ党が、宮崎県のA知事に、衆院選挙
への出馬を要請したという。
が、驚くべき発言が、そのA知事の口から出た。
「総裁候補にしてくれるなら、受ける」と。
A知事というのは、元、お笑いタレント。

それに対して、野党がいっせいに、反発。
「J党も、ここまで落ちぶれたのか」(亀井氏)と。

そう、J党は、ここまで落ちぶれた!

++++++++++++++++++

●民主主義の危機

 どうしてAS氏のような人が、総理大臣?
 どうしてAZ氏のような人が、宮崎県の県知事?
「あんな人物が?」と言ってもよい。
……良識のある人なら、みな、そう思っている。

 「選挙で選ばれたのだから、民衆の代表」ということになるが、もしそうなら、
それこそ民主主義政治の欠陥と断言してもよい。
知名度や家柄だけで議員が決まるとしたら、選挙そのものが意義をなくす。
もっとも、民主主義が生まれたころには、(マスコミ)は、まだ存在していなかった。
かくもマスコミが選挙に影響を与えるなどとは、だれも予想していなかった。
が、今は、ちがう。
その一例が、宮崎県知事ということになる。

このあたりで、一度、(知名度)と(選挙)の関係について、だれかが断をくだして
おかないと、日本のみならず、世界中がメチャメチャになってしまう。

 もっともそれに対抗する方法がないわけではない。
有権者である私たちが、より賢くなることである。
が、それよりも先に、民主主義の欠陥ばかりが、肥大化する。
良識をもった人たちの良識など、こうした欠陥の前では、嵐の中のローソクのようなもの。
その結果が、AS総理大臣ということになる。
AZ宮崎県県知事ということになる。

 何が、総裁候補だ!
バカも休み休み言え……と書きたいが、今、日本の民主主義政治は、そこまで堕落して
いる。

●落下傘候補

 これは何も静岡県のことだけにかぎらない。
今、全国の都道府県+大都市では、落下傘のように、中央の官庁から候補者がおりてきて、
県や大都市で、要職の選挙戦を繰り広げる。
選挙などというものは、いわば(飾り)のようなもの。
当選すれば、そのまま要職に。
落選すれば、また元の職場に復帰。
 称して「落下傘候補」という。

 「中央から来た」というだけで、何でもありがたがる、この田舎根性。あさましさ。
一方、「中央から来てやった」という、この中央集権意識、あさましさ。
この両者の(あさましさ)が合体して、今の日本がある。

 たしかにこうした落下傘候補は、中央官庁とのパイプは太い。
だから巨額の建設資金を中央から、呼び込むことができる。
その結果が、サッカー場であり、空港ということになる(静岡県)。
しかしそれで潤ったのは、建設業界だけ。
残ったのは、場違いなほど立派な箱モノと、この先延々とつづく、赤字、また赤字。
当然、その赤字は、県民が負担することになる。

 この浜松市にしても、駅前に、これまた立派な、アクトタワーという建物がある。
建設費は2000億円とも3000億円とも言われている。
いったい、どれだけの税金が投入されたのか、されなかったのか、いまだもって、
よくわからない。
が、そのアクトタワーが生み出している利益など、ほとんどない。
市は、(公務員だから)、職員の人件費などはすべて棚にあげて、「黒字になった」
とさかんに宣伝している。
しかし「黒字」程度では、私たちは納得しない。
当時、2000億円を、年率5%で貯金しても、毎年、50億円の利息が手に入った
はず。
つまりそれ以上のものを稼いで、はじめて「黒字」と言ってほしい。

 もうバカげた箱モノ作りはやめよう。
それがいかにバカげているかは、あの簡保センターを見ればわかるはず。
数10億円もかけて作った箱モノが、たったの数万円!
こうして私やあなたの税金が、日々に、ドブへ、ドブへと捨てられている!

(参考)

時事通信はつぎのように伝える。

『自民党の古賀誠選対委員長は23日(090623)、宮崎県庁でAZ夫知事と会談し、「今の自
民党にない新しいエネルギーが欲しい」と次期衆院選への出馬を要請した。これに対し、知事
は「わたしを次期総裁候補として、次の衆院選を戦う覚悟があるのか」と条件を提示し、即答を
避けた』と。

これに対して、JIJICOMは、次のように伝える。

『…… 「ここまで落ちたか、もの悲しい」―。国民新党の亀井静香代表代行は24日の記者会
見で、自民党の古賀誠選対委員長がAZ宮崎県知事に次期衆院選への出馬を要請したことに
ついて、自民党が落ちぶれたと嘆いてみせた。

 亀井氏は「自民党は人材がいないということを天下にさらした」と指摘し、「わらにもすがる思
いで(AZ氏に)頼る(つもりの)ようだが、大いに最後のあがきをおやりになればいい」。衆院選
後の政権交代を疑わないだけに、「自民党もそれなりの終えんを迎えてもらいたい。散るも桜。
散り際が良ければまた芽が吹く」とも語った』と。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●幼児教育のコツ

++++++++++++++++++

幼児を教えるときの、最大のコツは、
教える側が、それを楽しむこと。
「教えよう」という気持ちは、そこそこに。
とにかく、童心に返って、楽しむ。
楽しんで楽しんで、その渦(うず)の中に、子どもを
巻き込んでいく。

あとの判断は、子どもに任す。
どう判断し、それをどう生かすかは、子どもの問題。
教える側の、私の問題ではない。

++++++++++++++++++

●私にとってのBW教室

 「来たくれば来ればいい」「来なくてもかまわない」。
そこまで割り切らないと、幼児教室はつづかない。
子どもに媚(こび)を売っても、無駄。
親に媚を売っても、無駄。 
子どもが親の手を引っ張って、やってくる。
そうでなければ、まず子どもがいやがる。
ついで親も、それを理由にして、やめる。
「子どもがいやがりますから……」と。

 よく職場が苦痛という人がいる。
しかし私のばあい、職場が、ストレス発散の場所。
子どもたちといっしょになって、ワーワーと騒いでいるだけで、気が晴れる。
気分がスカッとする。

 もちろん(仕事)だから、それなりの(効果)は期待される。
が、そこは心配、無用!
子どもたちのほうが、勝手に伸びてくれる。
『楽しく学ぶ子は、よく学ぶ』。
成績のことを書くのは気が引けるが、みな、ぞれぞれの学校でトップクラスの
成績を収めている。
が、それだけではない。
どの子どもも、小中学校で、リーダー格となって、活躍している。

 なぜ、そうなるか?

 それには、一度、『BW公開教室』の動画を見てほしい。
「はやし浩司のHP」→「最前線の子育て論byはやし浩司」→「公開教室」
へと、進んでくれればよい。

 とくに比較してほしいのは、BWへやってきたばかりの年少児、年中児の子ども
たちと、BW教室で、1〜2年、訓練を受けた年長児や小1児の子どもたちの動画。
迫力がちがう。
つまり指導の仕方によって、子どもたちは、ここまで伸びる!

 (たぶんに宣伝ぽいが、そういう下心は、もうない!
自分のしていることに、自信があるから、今回、こうして公開することにした!)

●「やりたい!」「やってやる!」

 子どもの側からみて大切なことは、(やる気)。
何か新しい問題を出したとしよう。
そういうとき、「やりたい!」とか、「やってやる!」とか言って食いついてくれば、
それでよし。
そうでなければ、そうでない。
中には、「やってやろうじやないか!」「林(=私)を負かしてやる!」とか言う子どもも
いる。
そういう子どもは、伸びる。
またそういう子どもにする。

 つまりおとなの優位性を押しつけないように。
またときには、バカな先生のフリをして、子どもに自信をもたせる。
そのサジ加減が、こうした子どもたちの指導の、醍醐味でもある。
おもしろい!

 つまりそういう子どもたちにするから、学校でもリーダー格となって活躍する。
言い換えると、今、そうでない子どもが多すぎる。
飼いならされたペット(失礼!)のような子どもたちばかり。
たくましさそのものに、欠ける。
だからよけいに目立つ。

●2009年6月

 公開教室に、はじめて、ファンメールが届いた。
外山さんというお父さんからのもの。
「娘が、喜んで見ています」と。

 うれしかった。
励まされた。
「とくに女学生の先生が好きです」と。

 私はときどき女学生の先生のフリをする。
それが気に入られたようだ。
だから早速、昨日、そのフリをして動画に収めた。
(公開教室、6月号に収録。)

 実のところ、公開教室と言いながら、子どもたちに見てほしい。
親や教職に就いている人には、見てほしくない。
ぜったい見てほしくないのは、同業者!
とくに幼児教育関係の本を書いている、インチキ・ライターたち!

 先日もネットサーフィンしていたら、どこかの幼稚園の幼児教室が、
私の持論の一つである、『友を責めるな、行為を責めよ』をテーマにして
講座を開いていた。
(『友を責めるな 行為を責めろ』で、検索してみるとよい。
「よ」と「ろ」のちがいだが、どこの幼稚園か、それですぐわかるはず。)

 ほかに『やればできるはずは禁句』というタイトルで、本を書いている人も
いる。
新聞の広告によれば、何10万部も売れているとか。
これも私の持論。
もう20年近くも前に書いた本に、そのまま使っている。
どこのどういう人が、そういうことをしているかも、インターネットで検索して
みればわかるはず。

 こうした持論は、何百人も、何百人も子どもと接してみて、はじめてそこに
浮かびあがってくるもの。
学者や医師が、つかめるような話ではない。

 まだ、ある!

 『いじめられっ子は、やさしくなる』とかいうのもある。
私は、「背中にチョークで落書きされた中学生」を例にあげたが、その本の
中では「カバンにチョークで落書きされた中学生」になっていた。

 偶然の一致?

 どうしてみな、こういうずるいことをするのだろう。
だからそういう連中には、見てほしくない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
友を責めるな、行為を責めよ 友を責めるな 行為を責めろ はやし浩司 
いじめられっ子 チョークでいたずら書き はやし浩司 やればできるはず 
やればできる やればできるは禁句 やればできるはずは禁句)

●6月27日

 少し頭が熱くなった。
今朝の私は、少し神経がピリピリしているようだ。
昨夜寝る前に見たビデオがよくなかった。
殺人がテーマのビデオだった。

 寝る前に、ああいうビデオを見るのはよくない。
寝つきも悪い。
寝起きもよくない。

 それに今朝、体重を計ったら、61・5キロ。
努力した甲斐があった。
かなり血糖値はさがっているはず。
だからピリピリする。
こういうときは、夫婦喧嘩に気をつけよう。

 ……ということで、今日も始まった!


Hiroshi Hayashi++++++++June09++++++++++はやし浩司

●消息

 昨日薬局で、20年ぶりに、Mさんという人と会った。
1年ほど、いっしょに仕事をした仲間である。
年齢の話になったとき、「ぼくのほうが、林君より、一回り年上だったのか」と
言った。
歳は、71〜2歳ということになる。

 立ち話だったが、当時の人たちの消息を聞くことができた。

(社長)ともによく知っている社長の名前が出た。
ある貿易会社の社長をしていた。
その社長はそのあと、重い精神病を患い、4、5年前に他界したという。
「あの人は注射で殺されたようなものだね」と、Mさんは言った。
病院で暴れたため、いつも注射を打ちつづけられたから」と。

(社長の奥さん)よい人だった。
親切な人だった。
その奥さんも、やはり4、5年前に、他界したという。
最期は脳腫瘍だったという。

(YGさん)その会社で営業部長をしていたのが、YGさん。
テニスで国体にも出たような人だった。
で、ある高校で顧問として指導していたが、そこで女子高校生と関係をもって
しまった。
それで東京へ追放。
……という話は、表の話で、実は、「幼女に性的いたずらをして、刑務所に
入っていた」とのこと。
私にはよくしてくれた人なので、信じられなかった。

(社長の子どもたち)社長には、2人の息子と、1人の娘がいた。
娘のほうは知らないが、2人の息子は、ともに高校を強制退学。
結婚して、それぞれ2人の子どもをもうけたが、浮気が原因で2人とも、離婚。
今は、その子どもたちの養育費すら払えないほど、生活が困窮しているという。

(社長の兄弟たち)社長の兄弟は、2人、いた。
Mさんは、その兄弟たちについては知らないといった。
ただ1人の弟の妻は、電車に飛び込んで、自殺したという。
「新聞にも出ていたから、林君も知っているだろ?」とMさんは言ったが、
私は知らなかった。

 言い忘れたが、Mさんは、その会社で、専務をしていた。
私はときどきその会社で、貿易の手伝いをしていた。

私「当時は、全盛期だったのに……」
M「そうなんだよ。社長が使う電話の電話料金だけで、月に300万円もあった」
私「300万円……?」
M「電話魔でね。一日中、世界中に電話をかけていた」
私「知らなかった……。金払いのいい人とは思っていた。
シンガポールへ電報をその場で打ってやっただけで、チップだといって、10万円を
くれたこともあります」と。

 で、その会社は、そのあとまもなく倒産。
Mさんとは、1、2度、街の中で会ったことがある。
が、それからさらに20年。

 今は、ある会社の経理顧問をしながら、収入を得ているという。
10分ほどの立ち話だったが、人生の重みをズシリと感じた。

 『おごれるもの、久しからず』か?


Hiroshi Hayashi++++++++June09++++++++++はやし浩司
 
●私の、うつ病薬

++++++++++++++++++++

ダイエットと同時に、徐々に私を襲ってきたのが、
うつ病。
脳間伝達物質が不足し、それが脳の機能を低下させる。
行動力が落ちる。
頭の回転が鈍る。
悶々とした気分がつづき、ときに厭世(えんせい)的になる。
血糖値が低下するから、慢性的な低血糖状態にもなる。
ささいなことで、キレやすく、カッとなりやすい。

が、薬がないわけではない。
私のばあい、新しい電子製品を買うと、どういうわけか、
気が晴れる。
そのままうつ状態を脱することができる。

+++++++++++++++++++++

●次期パソコン

 秋に、最新型のパソコンを買う。
そのころWINDOW7も、発売になる。
64ビットマシンで、人間にたとえるなら、脳みそが4人分ついたようなパソコンである。
(実際には、8つの仕事を同時にこなす。)
いまどき、1テラバイトのハードディスクは、常識。
う〜〜ん。
そういう目標があるから、今は、パソコンを買うこともできない。
こういうときはパソコンでも買うのが、いちばんよいのだが……。

(この間、半日!)

 で、結局、1テラバイトのハードディスクを、今、買ってきた。
値段は、8700円。
韓国のS社製のものもあった。
こちらは値段は7000円だったが、回転数が遅いので、やめた。
(+あのような反日国家の製品を買うのは、どうも気が進まない。)

 今夜、ハードディスクの取り換え作業をするつもり。
毎年夏になると、ハードディスクが1台くらいは、壊れる。
その予防のため。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●パソコンの修理

+++++++++++++++++++

昨日、1テラバイトのハードディスクを買ってきた。
1テラバイト=1000GBである。

ちょうど10年前、10GBのハードディスクのパソコンが売りに出された。
それを知って、私たちは驚いた。
が、今は、1テラバイト!
それを現在、メインで使っているパソコン(ビスタ)の
ハードディスク(300Gバイト)と、つけ替えることにした。

で、夜になって仕事が一段落したところで、作業、開始!
(その前に、元のハードディスクのエラーチェックと、
新しいハードディスクへのコピーを、すませておいた。
かかった時間は、3時間+2時間の、計5時間。)

そこからは、ハードディスクを入れ替え、配線をしなおすだけの
簡単な作業のはずだった。
が、ここでまたまた失敗。

不自然な姿勢で、ぐいと力を入れて配線を押し込んだとたん、端子が割れてしまった。
ゾ〜〜〜ッ!
マザーボードのばあい、ほんの一部でも欠けたら、マザーボードごとすべて、
取り替えなければならない。
破損したのは、コネクターのコードほうだった。
しかしマザーボードのほうも、同時に、破損したかもしれない。

恐る恐る電源を入れる……。
ハラハラ、ドキドキ……。
やはり、パソコンが、立ち上がらなくなってしまった。
いろいろ試してみたが、やはりだめだった。

……冷や汗、タラタラ……。
……冷や汗、タラタラ……。

途中からワイフが手伝ってくれたが、ウンともスンとも動かない。
1年半ほど前にも、同じ失敗をした。
そのときは、マザーボード側の端子を破損してしまった。
ピンが一本、折れただけだったが、マザーボード全体を交換しなければならなかった。

そのときの悪夢が、フラッシュ・バック!
修理には最低でも、2〜3週間はかかる。
仮にリカバリーということにでもなれば、すべてイチから再セットしな
ければならない。

ドキドキ、ハラハラ……。

しかたないので、隣に置いてある、別のパソコン(XP)に電源を入れた。
しばらくそれ使うしかない。
ア〜〜〜ア!

(こういうときのため、データは、2重、3重と、べつの場所に保存してある。
だからデータが失うということはない。
しかし気分は重い。)

 で、今日は日曜日。
朝起きると一番に、もう一度、パソコンを点検。
古いパソコンのコネクターを抜いてきて、壊れたコネクターと交換してみた。
が、何と、である!
あっさりとパソコンが起動したではないか!

 これには驚いた+うれしかった!

 ……ということで、今日は、ついでに書斎を大掃除。
書斎の机の位置を替えた。

 パソコンという化け物は、それなりに、ほどほどに動いているなら、
けっして冒険してはいけない。
いじってはいけない。
いちばんこわいのは、知ったかぶり。
知ったかぶりして、あちこちいじると、とたんに故障する。


Hiroshi Hayashi++++++++June09++++++++++はやし浩司

●視野の狭い女性

+++++++++++++++++++++++

あるとき、1組の夫婦が、ある寺にやってきた。
そして寺の住職にこう言った。
「私の家は、何かに、たたられている。
ついてはお祓(はら)いをしてほしい」と。

そこで住職がその夫婦の話に、耳を傾けるところとなった。

+++++++++++++++++++++++

●つづく不幸(?)

 たいした不幸という不幸ではない。
どこにでもある話である。
しかしその夫婦には不幸だった。
こういう話である。

 その夫婦には、2人の息子と1人の娘がいた。
が、2人の息子は、それぞれ高校時代に、傷害事件を起こし、2人とも強制退学。
1人の娘は、やはり高校を卒業すると、15歳年上の男性と、駆け落ち。
よくある話である。
それを「たたり」と言うには、少し無理がある。

 で、それからほぼ10年。
2人の息子は結婚。それぞれ2人の子どもをもうけた。
その夫婦にとっては、孫ということになる。
娘は、そのまま静岡市に定住。
2人の子どもができた。
が、ここから、つぎの「たたり?」が始まる。

 息子の両方とも、結婚後5〜7年で、離婚。
そのまま定職にも就かず、実家を出たり入ったり……。
その夫婦が養育費の連帯保証人になっていたこともあり、夫婦のところに、
養育費の督促が届くようになった。

 が、「世間体が悪い」という理由で、その夫婦は、2人の息子を自分の家には住まわせ
なかった。
もちろん養育費も払わなかった。

●私のところへ

その住職は、私を紹介した。
住職と私は、20年来のつきあいがある。
で、それからしばらくして、その夫婦は、私のところへ、相談にやってきた。
夫婦の年齢は、ともに58歳(当時)。
夫の職業は、大手の自動車会社勤務。
妻は、パートで、当時できたばかりの老人ホームで、給食の手伝いをしていた。

 が、相談といっても、相談にならなかった。
妻のほうは多弁だった。
一方的に、ペラペラと、しゃべりつづけた。
が、その妻とは正反対に、夫は静かな人だった。
長い間、東北地方にある研究所へ単身で赴任していたという。
3人の子どもたちは、少年、少女時代、父親との接触は、ほとんどなかった。

 妻はこう言った。
「これだけ苦労して、育ててやったのに……」
「あれだけ、いろいろ世話をしてやったのに……」
「私は、どれほど苦労したかわからない」
「息子の嫁や孫たちは、私に苦労ばかりかけていた」と。

 2人の息子が、高校を強制退学になったことについても、
「息子たちは悪くない」
「学校の教師の誤解によるもの」
「警察が私たちの言い分を聞いてくれなかった」
「大きな怪我をしたのは、むしろ息子たちのほうだ」と。

 妻のほうは、本当に、よくしゃべった。

●反論

 子どもは家族の(代表)にすぎない。
子どもに問題が起きたら、家庭環境のどこかに問題があると考える。
それが2例、3例とつづいたら、なおさらである。

 私の印象では、父親の存在が、たいへん希薄だった。
とするなら、原因は、母親の育児姿勢にある。
が、母親は、「私は正しい」、
「私はまちがったことは何もしていない」の一点張り。
聞く耳すらもっていなかった。
私が何かを問いかけると、即座に、その数倍の反論がはね返ってきた。

私「養育費は払ったほうがいいですね」
妻(私の話をさえぎって)、「私は孫の世話を、xxxxx」
「誕生には、xxxxx」「病気になったときには、xxxxx」と。
それをことこまかく説明した。
つまり「私には、払う必要はない」、
「むしろ私のほうが、慰謝料をもらいたいくらいだ」と。

しかし先にも書いたように、一度しゃべり始めると、止まらない。
それを聞いている私のほうが、気が変になりそうだった。

●視野

 それぞれの人には、それぞれの視野というものがある。
その視野は、みなちがう。
と、同時に、その視野には、広い、狭いのちがいがある。
もちろんその視野は広ければ広いほどよい。
しかしその妻は、異常なまでに、狭かった。

 一方、夫のほうはというと、かなりの権威主義者。
話の随所で、「男だから……」「女だから……」「親だから……」という
『ダカラ論』を、ときどき、口にした。

 こういうケースのばあい、「相談」と言いながら、実際には、相談にならない。
私は黙って、妻の愚痴を聞くだけ。
「そうですね」「そうですね」と。
で、「お祓い」ということになった。

●住職への報告
 
 その夜遅く、私は住職に電話した。
報告の電話である。
その夫婦にとっては深刻な問題かもしれないが、教育的には大きな問題ではない。
今どき強制退学にしても、離婚にしても、珍しくもなんともない。
おおげさに考える必要はない。
それに袋小路に入ったわけではない。
妻が勝手に袋小路に入ったと思い込んでいるだけ。
問題になるとしたら、「世間体」ということになる。
夫も妻も、その世間体に苦しんでいた。

 ただ気になったのは、夫のほうは一見静かな人のようだったが、キレやすく
一度キレると、自分をコントロールできないようなタイプの人だったということ。
住職がそれを私に話してくれた。
「あの方は、怒ると、『テメエ!』『このヤロー』という言葉を使いますよ」と。
私が「信じられませんね」と言うと、住職は、カラカラと笑った。

 つまりこういうことらしい。
夫は権威主義者。
昔からの男尊女卑思想を強くもっていた。
妻は、多動型の多弁性がり、人の話を聞かない。
万事にこまかく、うるさい。
過干渉ママに加えて、情緒がかなり不安定だった。
精神安定剤を常用しているという。
そういった家庭環境が、長い時間をかけて、3人の子どもして、そういう子どもにした。

●では、どうするか?

 視野を広くするためには、より賢くなるしかない。
日ごろから、自分の文化性を磨き、高めていく。
より多くの情報に接し、見聞を広めていく。
これは世間体と闘うための鉄則でもある。

 が、残念ながらその母親には、その教養もあやしかった。
人格の完成度が低く、ものの考え方が自己中心的で、それに加えて、わがままだった。
ああでもない、こうでもないと、愚痴を並べるだけ。
話にならなかった。
私が、「〜〜してはどうでしょうか」と何かを提案しても、「そんなのは無駄」
「やってみた」「息子は黙っているだけで、返事もしない」と、
間髪を入れず、それを否定した。

 で、住職は乞われるまま、その数日後、その夫婦のためにお祓いをした。
私が「ご住職もたいへんですね」と言うと、「はあ、これもお努めの一つですから」と。

 視野の狭い人というのは、そういう女性のことをいう。
そうそう何かの話のついでに、「ビデオなんかは、見たことがありますか?」と
聞いたら、「見ません」ときっぱりと言った。
「本も読んだことがない」とも。
理由を聞くと、「読むと、頭が痛くなるから」と。
自分で自分の視野を狭くしている。
そのことにさえ、その女性は気づいていなかった。

 が、これは何も女性だけの問題ではない。
男性もまた、結婚して子どもをもうけたら、そのときから、ただひたすら学習、あるのみ。
その努力を忘れてはいけない。
忘れたとたん、その女性のようになる。

(09年06月記)
(注:この話はフィクションで、いくつかの古い話をひとつにまとめたものです。)


Hiroshi Hayashi++++++++June09++++++++++はやし浩司※

●使わない脳は退化する?

+++++++++++++++++++++

XPパソコンのばあい、ときどきこんな表示が
画面に出たことがあった。

「デスクトップに、6か月以上、使われていないソフトが
あります。削除しますか?」と。

こういうのを、いらぬお節介という。
つまり「長い間、使っていないから、削除したほうが
いい」と。

もっともパソコンのばあいは、それでよいとしても、
脳のばあいは、どうか?

人間の脳の中でも、同じような現象が起きているという。
毎日新聞は、つぎのように伝える。

+++++++++++++++++++++

 『……脳神経細胞同士の接続を正常に保つ働きをたんぱく質「Wnt」が持つことを、林悠(は
やしゆう)・理化学研究所基礎科学特別研究員(元東京大大学院)ら、東大と九州大のチーム
が線虫を使い解明した。

哺乳(ほにゅう)類も同じメカニズムを持つと見られ、アルツハイマー病など脳神経変性疾患の
理解につながると期待される。28日付の米科学誌「ネイチャー・ニューロサイエンス」電子版に
掲載された。

 人間は成長期に脳神経細胞同士が突起を伸ばして盛んにつながる一方、「刈り込み」という
不要な接続の削除が行われる。アルツハイマー病やパーキンソン病は、刈り込みが過剰に起
きて脳神経機能が阻害されることが一因と考えられている』(毎日新聞09年6月29日)と。

●接続の削除

 一個の脳神経細胞からは、数十万本という突起(ニューロン)が延びている。
その突起が複雑に接続しあいながら、脳は機能する。
それはよく知られた事実だが、その接続を、脳自身が、勝手に削除してしまうことも
あるという。
それを「刈り込み」という。

ヘ〜〜〜エ!
知らなかった。

 要するに、使わない脳みそは、どんどんと刈り込みがなされ、コンピュータにたとえる
なら、そのままゴミ箱へと捨てられるということらしい。
コンピュータのばあいは、そのほうがハードディスクも身軽になり、動きも軽快になる。
しかし人間の脳について言えば、それは困る。
使わないといっても、5年後、あるいは10年後に、また使うことがあるかもしれない。
勝手に刈り込み、つまり削除されてしまっては、困る!

 で、今回、理化学研究所の研究員の人たちが、脳神経細胞同士の接続を正常に保つ働き
をたんぱく質「Wnt」が持つことを発見したという。
つまり「Wnt」が、刈り込みに対して、ブレーキの役目をするということらしい。
(「ブレーキ」というのは、私の勝手な判断によるもの。)
もし刈り込みが、どんどんと勝手になされたら、それこそ脳の中は、からっぽになって
しまう。

『アルツハイマー病やパーキンソン病は、刈り込みが過剰に起きて脳神経機能が阻害され
ることが一因と考えられている』ということだから、「脳が軽くなった」と喜ぶわけには
いかない。

●刈り込み

 しかしその「刈り込み」を実感として、感ずることが、このところ多くなった。
つい先日は、FLASH(動画編集)の編集の仕方を忘れてしまった。
一時は、それをよく使って、私のHPを飾った。

が、それから2、3年。
ソフトを立ち上げたあと、「どうだったか?」「こうだったかな?」の連続。
結局、マニュアル本を再度読みなおすハメに……。

 脳が勝手に、FLASHの使い方を、削除してしまったらしい。
で、その「刈り込み」に対して、「Wnt」というたんぱく質が、ブレーキのような
働きをするという。

 ……それに、このところパソコン相手の将棋で、けることが多くなった……。

 が、ここで新たな疑問。

 パソコンのばあい、たとえば私は今度、ハードディスクを1テラバイト(=1000
GB)のものに取り換えた。
が、1テラバイトといっても限界がある。
(おおざっぱに言えば、1時間分のビデオを1本収録すると、20〜30GBもの容量が
減る。)
だから新しい情報を蓄積するときは、同時に、ハードディスク内から、不用な情報を
消していかねばならない。

 脳のばあいも、刈り込みがあるからこそ、そこに余裕ができるのではないのか?

●情報の洪水の中で……

 先日も長野県のある町にある、ある文豪の記念館を訪れてみた。
大正時代から昭和の初期に活躍した文豪である。

 私はそこに残っている文章を読んで、ア然とした。
へたくそというか、まるで意味のないエッセー。
しかも全集として本が並んでいたが、私の半年分の原稿量にもならない。
(現在、私は1か月で、500枚前後の原稿を書いている。
400字詰めの原稿用紙になおすと、2000枚近くになる。
単行本1冊が、約400枚前後だから、毎月5冊分の原稿を書いていることになる。)

 といっても、大正時代と現代とでは、情報の量そのものがちがう。
20年前とくらべても、ちがう。
20年前には、図書館通いが日課だった。
が、今は、インターネットを使って、必要な情報が瞬時、瞬時に調べられる。
が、その分、情報の量が、ケタちがいに多くなった。
それこそ毎日が、情報の洪水。
ドドーッと押し寄せてきては、ドドーッと去っていく。

 じょうずに情報をコントロールしないと、それこそ、情報の洪水の中で、
溺れてしまう。

●では、どうすればよいか

 が、ここで重要なことが一つある。
それは先の毎日新聞の記事をていねいに読むと、わかる。

 刈り込みには、必要な情報すらも削除してしまうということも含まれる。
それに新しい情報が入ってくるとか、入ってこないとか、そういうことには関係なく、
削除してしまうということらしい。

 パソコンにたとえるなら、私が現在使っている、ワード2007のソフトまで削除
してしまうということになる。
が、これは困る。
それがアルツハイマー病とか、パーキンソン病ということになる。

 そこでハタと、また考える。
では、どうすればよいのか、と。

 研究者たちの意見を拝借すれば、「Wnt」というたんぱく質を補えばよいという
ことになる。
が、脳には、フィードバックという作用もある。
余計な物質を脳の中に送り込むと、脳は、それを打ち消すための別の作業を開始する。
脳のメカニズムを単純に考えることは、危険なことでもある。

 となると、突起、つまりシナプスを、どんどんとふやすしかない。
このシナプスは、訓練によって、いくらでもふやすことができる。
つまり頭は、使えば使うほど、よくなる。
年齢にも左右されない。
言い換えると、毎日、数億本の突起が刈り込みされたら、それ以上の突起を、作れば
よい。

 ものごとは、前向きに考えよう!

 それにしても、「刈り込み」とは?
脳というのは、一生を通しても、そのうちの何分の1も使わないという。
だったらこんなお節介なことをしなくても、よいのではないのか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
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記憶の削除)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090629)

●民主主義の危機(政治的アレルギー反応)

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今、私の脳みその中で、政治的アレルギー反応が
起きている。
不快感を通り越して、掻(か)いても掻いても掻き切れない、
そんな歯がゆさを覚えている。

宮崎県知事の、AZ氏が、衆議院議員?
比例東京ブロック1位、指名?
総裁候補?

これを民主主義の危機と言わずして、何という。

AZ氏は、「政党は政策で決める」と、一方で言いながら、
「総裁候補にしてくれるなら、自民党員になる」
と言っている。
M党のH代表ですら、「支離滅裂」と酷評している。

今、日本の民主主義が、危ない!

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●知名度?

 簡単な数学。

 ここに知名度40%の男性がいる。
男性X氏としよう。
日本の有権者を1億人として、4000万人がX氏を知っていることになる。
しかしX氏の評判は、悪い。
X氏を「いい人」と思う人は、20%しかいない。
残りの80%は、X氏に対して、嫌悪感すら覚えている。
が、それでもX氏は、800万人の支持者を得ることになる。

 一方、知名度10%の男性がいる。
男性Y氏としよう。
日本の有権者を1億人として、1000万人しかY氏を知らないことになる。
しかしY氏の評判は、よい。
Y氏を「いい人」と思う人は、80%もいる。
が、それでもY氏は、800万人の支持者しか得られないことになる。

 このX氏とY氏が、選挙戦でぶつかった。
こういうケースのばあい、最終的には、浮動票がX氏に向かい、X氏が当選する。
が、はたして、これを民主主義と言ってよいのか?
もしこんな方式で、私たちの(代表)が選ばれることになったら、選挙そのものが、
有名無実化する。
マスコミの人気投票だけで、政治家を決めればよい。

●知名度優先?

 もちろん政治家は中身を見て、判断する。
過去の実績を見て、判断する。
わかりやすい例で説明しよう。

 よくどこかのタレントが、ある日突然降ってわいたように、ボランティア活動を
始めたりすることがある。
アフリカの難民救済運動のようなものでよい。

 もちろん自分で始めるわけではない。
どこかの団体に依頼されて、それを始める。
その団体は、その人の知名度を利用しているだけ!

 が、それでもよい。
よいが、そのとき重要なのは、そのタレントには、どのような実績があるかということ。
たとえば若いときから、近所のホームレスの人に、食事の炊き出しをしてきたとか、
孤児の救援運動をしてきたとか、そういう実績の上に、難民救済運動があるのなら、
まだ話もわかる。

 が、そういう下積みもないまま、ある日突然、国際的な(?)救済運動に加担する。
リーダーとなり、運動を率先する。
あるいはそういう運動をしながら、他方で、私財を投げ打っているいるとか、孤児を
自宅で世話しているとかいうなら、まだ話もわかる。

 しかしそういうことをいっさいしないでおいて、知名度を生かし、ある日突然降って
わいたように、ボランティア活動を始めたりする。
まず、このおかしさに、私たち自身が疑問をもたねばならない。

 政治家もまた、同じ。

●J党内部からも疑問

 AZ氏への出馬要請に対して、J党内部からも疑問が呈されている。
産経新聞は、つぎのように伝える(6月26日)。

『J党の各派領袖らが25日、衆院選の出馬要請を受けたAZ宮崎県知事が、同党の総裁候補
とするよう条件をつけたことを相次いで批判した。

 I元幹事長は「人気が出て少し思い違いをしている。党に新しい血を入れないとダメだが、輸
血は血液型が合わないと頓死する」と語った。Y副総裁は「知事の任期いっぱいを務める姿勢
がないと地方分権の主張者として正しくない。(くら替えは)宮崎県民への裏切り行為で、党の
候補にするのは反対だ」と強調した。

 出馬要請をして批判されているK選対委員長は「迷惑、心配をかけたら許してほしい。何もし
ないより、何か起こした方がいい」と釈明した。M前官房長官は「支持をとりつけようと人に会う
のは選対委員長の責務だ」とK氏を擁護した』と。

 こういうのをドタバタ劇という。

●知名度主義

 AZ氏に対する出馬要請の話を知ったとき、私はこう思った。
「日本人の心は、ここまでマスコミに汚染されているのか」と。
中央官僚たちが日本の政治を牛耳っている。
これを官僚主義という。

 これに対して、マスコミが日本の政治を牛耳っている。
これを何と表現したらよいのか。
マスコミ主義ではおかしい。
が、あえて言うなら、知名度主義ということになる。

 何でもかんでも、まず有名になればよい。
政治は、あとからついてくる?
(ついでにボランティア活動も、あとからついてくる?)
が、こんなことは、40年前には考えられなかった。
日本に民主主義がやってきた、60年前には、さらにそうであっただろう。

 が、これを民主主義の危機と言わずして、何という?
AZ氏にしても、自分の顔をイラスト化して、宮崎県興しをしたという話は
知っている。
しかし私の不勉強かもしれないが、私はAZ氏の書いた政治論文にせよ、評論など、
一文も読んだことがない。
政策論争すら耳にしたこともない。

 が、「総裁候補にしてくれるなら、出馬要請を受ける」とは?
J党というより、私たち国民を、どう考えているのか?
それがわかるから、私の脳みその中で、今、アレルギー反応が起きている。

●国民の意識

 つまるところこの問題は、国民の政治意識の問題ということになる。
悲しいかな、私たちは、いまだに民主主義というのが、どういうものであるかさえ
わかっていない。
それを勝ち取るための苦労もしていない。
そればかりか、江戸時代の封建制度にしても、敗戦までの軍国主義にしても、
日本人はただの一度も、清算していない。
反省すらしていない。
(反省している人もいるにはいるが、メジャーではない。)

 だからAZ氏のような人が……とは書けないが、しかし日本のAS総理大臣は、
あのK国にすら、バカにされている。
つい先日も、「オバマ大統領」と言うべきところを、「ブッシュ大統領」と言いまちがえた。
サッカーの対戦相手の名前も、言いまちがえた。
それをK国が指摘し、日本の総理大臣の資質を問うている。
(問われること自体、不愉快なことだが……。
しかし公にこそ言わないが、世界中の人たちも、そう考えている。)
AS首相の失言録をまとめたら、それこそ一冊の本になるかもしれない。

 が、結局は、それは、そういう政治家を選び(?)、総理大臣を生み出してしまった、
私たち有権者の責任ということになる。
なるが、マスコミを通して流れる知名度には、勝てない。
勝てないひとつの例として、冒頭に、「簡単な数字」を書いた。

 「J党も落ちるところまで、落ちた」(亀井氏談)というより、「日本の政治も、
落ちるところまで、落ちた」。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●『北朝鮮の不思議な人民生活』(宝島編集部・宝島社)

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数日前、『北朝鮮の不思議な人民生活』(宝島社)という
本を買ってきた。
その本の感想を一言で表現すれば、題名どおり、「不思議」。
「今どき、こういう国もあるんだなあ」と、驚くばかり。

で、その話は別に、とくに私の関心をひいたのは、中国との関係。
現在、6か国協議は崩壊し、日本と韓国は、K国を除く、
5か国協議の開催に力を入れている。

が、中国は基本的には、制裁会議には、消極的。
アメリカは、K国と対話重視の姿勢を崩していない。
が、この本を読んで、中国がなぜ、K国に対する制裁に
消極的なのか、それがよくわかった。

K国と中国は、たがいに密接にからみあっている。
中国の企業家たちだけは、自由にピョンヤンに出入り
することができる。
工場を建てることもできる。
(年間、1万5000人もの中国人観光客がK国を
訪れているという。
これに対して、日本人観光客は、たったの400人弱。)

そしてこうもある。

「04年以後、中国の対北朝鮮投資熱は、(中国側の)
国策的な後押しを受けたものと思われる」と。
そして日本の制裁が強まれば強まるほど、(中国側に
とっては)、「その分だけ、ビジネスチャンスがふえる
だけ」と。

中国は、K国を、国策的に取り込もうとしている。
そのため中国はK国の制裁に加わりたくても、加われない。
そんな内部事情が、この本を読んで、よ〜くわかった。

それにもう一言。

「ふつうの日本人は、K国には行かないほうがいい」。
「ふつうの……」というのは、向こうの人たちと
何もつながりのない、ごくふつうの日本人という意味である。

この本の筆者は、在日朝鮮人(?)と思われる。
そんな人でも、旅行記の最後を、こう結んでいる。

「……車が最終検問所を過ぎ、中朝友誼橋にさしかかった
時、『やっと自由世界に戻ってきた』と本気で喜んだ。
中国側の旅行社の担当者の姿を中国側の国境ゲートで目に
したとき、全身の力が抜けてしまった……」と。

 K国という国は、そういう国らしい。

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●のろわれた(?)家系

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少し前、「のろわれた家系」という題で、エッセーを
書いた。
それに対して、「私の家系は、もっとすごい」という
メールをもらった。
転載は不許可ということなので、大筋だけ、かいつまんで
書かせてもらう。

その人は、6人兄弟の、上から三番目。
今年、50歳になるという。
仮にX氏としておく。
 
兄、姉、(X氏)、妹、弟、弟。

6人兄弟なのだが、うち、離婚した人、4人。
残りの2人のうち、かろうじて家族円満なのは、X氏だけ。
もう1人も、別居状態。
うち、家族(夫婦、子ども)の中で自殺者を出した兄弟、3人。
だから「私の家系も、のろわれています」と。

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 単純に計算すれば、離婚率、80%以上。
自殺者を出した割合、50%となる。
しかしX氏は、こう言う。

「原因は、すべて私たちの両親にあります。
さらに言えば、父親の両親(=X氏の祖父母)にあります」と。

 もっともそれぞれの人には、それぞれの事情というものがある。
離婚するにせよ、自殺するにせよ、それぞれの思いをもって、そうする。
私のような部外者が、あれこれ詮索したところで、意味はない。
どう詮索したところで、その一部を知ることさえできない。
いわんや、「率」だけを見て、とやかく言うのは許されない。
たまたまそういう不幸な事件が重なった……とも考えられる。

 が、そのX氏は、こう言う。
「祖母が、精神的に欠陥のある人でした。
その影響を私の父が受け、家庭の中は、私が子どものころから、メチャメチャでした。
父は祖父の財産を乗っ取り、小さなスナックを開きましたが、斜陽になると、自ら
放火。
多額の保険金を手に入れました。

そんな家族ですから、はやし先生が説く、『親像』とか、『家庭像』などといった
ものは、私の生まれ育った家には、まったくありませんでした。
だから兄弟姉妹は、バラバラ。
その結果が今、です」と。

 X氏の兄弟たちはみな、幸せな家庭作りに失敗した。
3人の家族(妻、長男、二女)が自殺したことについても、もし幸せな家庭作りに成功
していれば、なかったかもしれない。
「のろわれた家系」ではなく、「なるべくしてなった家系」ということになる。
X氏からのメールを読んで、そんな印象をもった。

Xさん、メール、ありがとうございました。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●育児疲れ

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子育ては重労働。
一瞬たりとも、気が抜けない。
そんな重圧感に苦しんでいる。
KNさん(母親・磐田市在住)も、
その1人。

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【はやし浩司より、KNさんへ】

多分に、育児ノイローゼかと思います。
この時期、家事、育児、生活と、多忙が原因で、多くの人が、KNさんのようになります。
マタニィティブルーのようなものです。
症状も典型的なもので、とくにKNさんだけ……というものではありません。
 
KNさんは、メールを読んだ私の印象では、いわゆる気負い型ママということになります。
「はやし浩司 気負い型ママ」で検索してくださると、多分、いくつか記事を
ヒットすると思います。
一度試してみてください。
 
原因は、KNさん自身にるのではなく、あなたの実の両親にあると考えられます。
あなた自身と実の母との関係です。
あなた自身が、あなたの実の母との間の人間関係をうまく作ることができなかった。
遠い昔の、あなたの乳幼児期に、です。
心理学で言えば、「基本的信頼関係」の構築が、うまくできなかった(?)。

どこか権威主義的で、心を閉ざした母親……、そんなKNさんの実の母親の姿が、
想像されます。
しかしそれはあなたの責任ではなく、あなたの実の母の責任です。
不幸にして、あなた自身が、あなたの実の母の温かい、豊かな愛情に
恵まれなかった。
 
だから気負ってしまうのです。
自然な形で子育てができない。
どこかぎこちなく、ぎくしゃくしてしまう。
 
しかしこの問題は、そういう不幸な過去があるということではなく、それに気づかず、
それに振り回されてしまうということです。
一度、自分の心の中を冷静に観察してみてください。
そしてこう思うのです。
 
「私の責任ではない。私の生まれ育った環境の責任なのだ」とです。
1〜5年と時間はかかりますが、あとは時間が解決してくれます。
(こうした心に深く根ざす問題は、簡単には解決しません。
しかしそれに気がつけば、向うのほうから、去っていきます。)
 
で、それが世代を超えて、今度は、KNさんが、KNさんのお子さんに対して、
同じことを繰り返しています。
子どもの心がうまくつかめず、今度はKNさんが、悩んでいるのです。
これを世代連鎖と言います。
 
つまり、あなたは自分の不幸な過去を、今、お子さんに対して、再現しているというわけです。
 
では、どうするか?
 
(1)まず、自分が過去に作られた人間であることに気がつくこと。
(2)あなたに親像、家庭像が入っていず、ぞれが気負い型ママになっていることに気がつくこ
と。
(3)この時期、多くの人がなりがちな、育児ノイローゼになっていることに気がつくこと。
 
が、ここが重要ですが、(4)どれもしかしほとんどの人が、そうなるというくらい多い問題ですか
ら、自分を責めないこと、です。

私も不幸な家庭で生まれ育ち、若いころは苦労しました。
親像も家庭像も、満足にインプットされていませんでした。
だから私の子育ても、ぎこちないものでした。
毎日、「これでいいのか」「こんなふうにしていいのか」と、子育てをしながら、悩みました。
が、そのうち、こうしてみなさんからの相談を受けるうち、「なんだ、私も、みなと同じだア」と思う
ようになりました。
 
そう、外から見ると、みなうまくいっているように見えますが、それはそうではありません。
みな、もっと深刻な問題をかかえて、苦労しています。
そういう意味で、KNさんの悩みなどというのは、たいしたこと、ありません!
 
で、あまりイライラするようでしたら、私のばあいは、カルシウム剤をのんんだり、
市販のハーブ系の精神安定剤を服用したりして、対処しています。
あとはワイフの女性用のセパゾンというやはり安定剤を、ときどきのんでいます。
(これは医師に申し出れば、処方してくれます。穏やかな薬ですから、副作用は
ありません。私は1錠のむところを、いつも半分に割って、口の中で溶かしてのんでいます。
女性用のものですが、どういうわけか、私にも効きます。
あとは漢方薬で、ハンゲコウボク湯をのんでいます。
これも女性の精神安定剤(胃腸薬)としてよく使われているものです。)
 
で、ポイントは、あなたとご主人との関係です。
まず育児は重労働ということを理解してもらいます。
そういう方法は、ないものでしょうか。

そのためには、心を開いて、もっと甘えたらよいと思います。
そう、もっと心を開くのです。
気負い型ママというのは、問題をすべて自分で背負いこんでしまいます。
だから努めて、心を開きます。
ありのままの自分を、もっとさらけ出すのです。
言いたいことを言い、したいことをする。
これを心理学の世界では、自己開示といいます。

今は、閉そく感の中で、苦しいかもしれませんが、そこにある「運命」をそのまま受け入れてしま
います。
運命というのは、逆らえば逆らうほど、キバをむいてKNさんに襲いかかってきます。
が、受け入れてしまえば、向うから退散していきます。
「まあ、私の人生は、こんなもの」と割り切ればよいのです。
 
なお、子どもには当たらないこと。
子どもというのは、これから先の長い友だちです。
友としてとらえてください。
「友」としてとらえれば、あとはうまくいきます。
(今のKNさんは、親意識が強すぎると思います。
昔風の悪玉親意識です。
そんなものは、くだらないから、今すぐ、捨てなさい!)
 
で、今は、KNさんにはわからないかもしれませんが、KNさんは、(ふつうの女性)から、
1ランク上の(母親)に脱皮しようとしているのです。
この時期は苦しいかもしれませんが、うまく乗り越えて、よりすばらしい女性になってください。
またなれます。
苦しみ、悩みが、人間を成長させるのです。

そうそう今は苦しいかもしれませんが、そろそろ自分のしたいことを見つけ、その準備もしてお
くといいですよ。
やがてすぐ子どもは親離れしていきますから……。
あなたはあなたでしたいことを発見し、それに向かって前向きに進んでいくのです。
子育てに埋没してしまうと、自分の姿が見えなくなってしまいます。
そうなると、その先で待っているのは、「うつ病」ということになります。
子どもにも、悪い影響を与えます。
 
たくさん原稿を書いていますので、また読んでみてください。
参考になると思います。
 
いただいたメールは、どこにも出しませんので、ご安心ください。
テーマとして、今朝、少し考えてみます。
それはお許しください。
また返事を書きます。
 
では、今朝も始まりました。
 
おはようございます!!!
 
はやし浩司


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●精神医学

++++++++++++++++++++

発達心理学と精神医学。
似ているようで、似ていない。
まったく異質。
先ほど、統合失調症(精神分裂病)の
診断基準を読んでみた。
内容はともかくも、用語の使い方が、
私が知る世界のものとは、大きくちがう。
そこに興味をもった。

たとえば、「陰性障害」という言葉。
「眼球運動の非円滑性」という言葉もある。

「精神医学の世界では、こんな言葉を
使うのか」と、改めて、その世界の広さに
驚いた。

++++++++++++++++++++

●某、精神医学者のHPより抜粋(診断基準)

 「精神分裂病」で検索していたら、つぎのような診断基準が、目にとまった。
トップページをさがしたが、そこには何もなかった。
しかたないので、そのまま、一部を、参考までに、転載させてもらう。

+++++++++++以下、診断基準+++++++++

(認知行動障害)

【1】 基礎障害(分裂性鈍化) ・・・・ 認知障害、陰性症状

(1)中核障害 
A、「 連合障害 」 (思考途絶、自生思考など) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  認知障
害(思考力障害)
(関連障害:短期作業記憶障害、注意持続障害、眼球運動の非円滑性)

(2)周辺障害
B、「 交流能力・同調能力の著しい低下 」:自閉状態(発話と自発動作の減少)・・・  陰性症
状 
C、「 感情表出の減少 」(硬い表情)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  陰性症
状 
D、「 アンビバレンス 」(感情的な判断の困難、意思決定の困難)・・・・・・・・・・・・・・  認知障
害 

(精神病症状)
【2】副次的症状 ・・・・ 急性症状 陽性症状
(1)妄想状態
  1、「 妄想気分 」  (理由のない自生的な恐怖感の持続)
  2、「 被注察妄想 」 (不気味な不安感を伴う被注察感)
  3、「 妄想知覚 」  (全てが自分に関係しているように感じられる)
  4、「 確信的妄想 」 (訂正不能な思い込み)

(2)幻覚
  1、「 思考化声 」  (考えた事が声として頭の中で響く)
  2、「 体感幻覚 」  (体中を虫がはっている感触)
  3、「 会話性幻聴 」 (存在しない声が聞こえる)
  4、「 幻視 」     (存在しないものが見える)

 (3)自我障害 (させられ体験:自分の思考や動作が自分の意志から乖離する)
 (4)思考伝播 (自我障害の一種:自分の思考が他人に伝わってしまう)
 (5)緊張病性運動障害 (意味なく暴れたり、石のように固まってしまう)
 (6)著しく混乱した(disorganized)会話 (会話が脱線して意味が通じない)  

(その他の認知・行動障害)
   1、「 易疲労性 」 (思考力・動作能力)
   2、「 社交恐怖 」 (対人恐怖)
   3、「 トゥレット症候群 」 (表情筋チック(状況と無関係の"しかめ面")、言語性チック
(攻撃的な独り言))

(生理的症状)
   1、不定愁訴 (頭痛、頭重、身体硬直(肩こり等)、全身倦怠、心拍亢進など)
   2、不眠、昼夜逆転 (生命時計の失調)
   3、社交恐怖 (金縛り)

+++++++++++以上、診断基準+++++++++++++

●独特の用語

 統合失調症について書くのが、目的ではない。
ここでは、その用語の使い方について考えてみたい。
私の知らない用語が、ズラリと並んでいる。
たとえば……。

思考途絶、自生思考、交流能力、同調能力、アンビバレンス、思考化声、感情表出の減少、
自我障害、会話性幻聴、易疲労性、社交恐怖、言語性チックなどなど。

 その中でもとくに私の注意を引いた言葉が、「アンビバレンス」という英語。
アンビバレンスとは、どう綴るのだろう。

「unbibakence」?
「umbivalence」?

 手元にある電子辞書(EX−word)を縦横に調べてみたが、それらしい単語は見つからなかっ
た。
逆に、「認知障害」を和英辞典で調べてみたが、それでも見つからなかった。
精神医学の世界では、常識的な言葉にちがいない。
それにしても、興味深い。
たとえば「感情表出の減少」とは!

 顔による感情の表現が乏しくなることをいったものだが、それにしても「うまい」いうか、「的
確」というか……。
とくに私の世界では、使わない用語である。
こんな用語を使ったら、それこそ親たちは、チンプンカンプンになってしまう。

「お宅のお子さんは、感情表出に乏しく、交流能力に問題があります。ほかに自我障害、易疲
労性なども見られます。言語性チックにも注意してください」と。

 ほかに気になったのは、「眼球運動の非円滑性」という用語。
たしかにこのタイプの人は、目つきが定まらず、ギョロ、ギョロとあたりを見回したりする。
それを「眼球運動の非円滑性」と言うらしい。
だったら、「目つきがギョロギョロする」でもよいのではないか?

 そう言えば法律の世界にも、法律用語というのがある。
たとえば「無限軌道車」と言えば、「キャタピラーのついた車」をいう。
タンクやブルドーザーがそれに当たる。
私はその言葉をはじめて知ったとき、ハタと考え込んでしまった。
「無限軌道車とは何か?」と。

 精神医学者たちは、こういう用語を縦横に操りながら、自分の専門性を維持しているのだろ
う。
たいへんよい勉強になった。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●反乱

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近く、実兄と実母の一周忌がある。
私の属する宗派では、盆供養というのはしない。
そのかわり、一周忌では、その法要を派手にする。

寺での供養が済んだあと、親類縁者、一堂に
集まって、飲み食いの席をもうける慣わしに
なっている。

が、私はこう決めた。

(1)実兄の一周忌はしない。
(2)実母の一周忌は、寺で、私とワイフだけで
すます。

それが私たちの結論。
X市に住む従姉のYさんが、「そうしたら」という
アドバイスをくれた。
だから、そうする。

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●親

 親にもいろいろある。
みながみな、森進一が歌う、『♪おふくろさん』に出てくるような親とはかぎらない。
中には、子どもを罵倒しながら、好き勝手なことをしている親もいる。
好き勝手なことをしながら、他人の前では、仏様のようなフリをする。
Aさん(65歳・女性)の母親もそうだ。
あまりにわがままに、Aさんは、いつもこう言っている。
「母に、殺意すら覚える」と。

 晩年の母はともかくも、私の母も似たような親だった。
生涯にわたって、自分で職をもったことは、一度もない。
稼業は自転車屋だったが、ドライバーを握ったこともない。
家の上の掃除は母がしたが、その下の土間、仕事場の掃除、窓ガラス拭きなどは、
すべて私たち子どもの仕事だった。

●他界

 が、昨年、実兄が死に、実母が死んだ。
そして今年、一周忌がやってきた。
「どうするか?」。
悩んだ末の結論が、上に書いた、(1)と(2)ということになる。

 親類と言っても、叔父、叔母方が、2人。
伯父、伯母方が、2人。
それだけ。
あとは従兄弟たちだが、今は、疎遠になってしまい、行き来はない。
「今さらどうして親戚づきあい……?」というのが、私の本音。
それに私はもう自分の哲学を曲げてまで、法事はしたくない。
必要なことは、すべてした。
実兄、実母の百か日の法要までは、きちんとした。
しかし、そこまで!

●幻惑

 といっても、体の芯まで染み込んだ「幻惑(=苦悩)」を、心から抜き去るのは
容易なことではない。
本能に近い部分にまで染み込んでいる。

私たちは生まれるとすぐ、もろもろの「刷り込み」を経験する。
親子関係もそうだが、ほかに家族関係、親戚関係など。
こうした関係が、「家族自我群(=呪縛感)」となって、私たちの心をがんじがらめに
している。
だから苦しむ。
もがく。

 ずるい親になると、そうした「家族自我群」を使って、逆に、子どもを束縛する。
先に書いたAさんの母親も、そうだ。
自分は昼間は寝ているから、よい。
が、夜中になると、大声で、こう叫ぶという。

「ああ、腹減った!」
「何か食わせてくれないと、死んでしまう!」
「長生きして、損した!」と。

 Aさんは一晩中、自分の耳を押さえて眠るという。
が、それもこのところ限界にきた。
慢性的な不眠がつづき、精神状態もおかしくなってきた。
うつ病薬、精神安定剤の量も、ふえてきた。
だからAさんは、こう言う。
「死ぬまではめんどうをみるが、死んでも、葬式はしない」と。

●決別

 もし上に書いたような(1)と(2)を実行すれば、私のことを悪く言う親類は、
何人か出てくるだろう。
悪口を言うために、てぐすねをひいて、待っている。
(……というのは、私の思い過ごしかもしれない。
が、いいふうには、言わないだろう。)

 が、私は、こう思う。
「もう、いいかげんにしてほしい!」と。
あるいは「いつまで私を苦しめたら、気が済むのだ!」と。

 もちろんお金の問題ではない。
法事の費用のことを言っているのではない。
これは私の主義、主張の問題。 

 私はもうこれ以上、自分の主義、主張を捻じ曲げたくない。
安易な妥協で、もうこれ以上、自分の人生を汚したくない。
ゆいいつの方法は、私の主義、主張を、関係者に理解してもらうことだが、
それをするのも疲れた。
また、それを理解できるような人たちなら、まだよい。
しかしこのところ、ますますたがいの間の(距離)を感ずるようになった。
そうでなくても、みな、加齢とともに、脳みその活動が鈍くなってきている。
説明しようにも、説明のしようがない。

●私は私

 私は、「私は私」という生き方を貫いてきた。
が、そこに親類、縁者が加わると、とたんにそれができなくなる。
夏目漱石も、小説『こころ』の中で、似たようなことを書いている。
どんな高邁な哲学や思想をもっている人でも、一度、家族自我群の中に巻き込まれると、
私が私でなくなってしまう。

 だから「勇気」ということになる。
私はもう、人が何と言おうと気にしない。
言いたい人には言わせておけばよい。
私自身の人生も、それほど長くない。
だから「勇気」ということになる。
その勇気がないと、「家族自我群」による「幻惑」から、自分を解放させることは
できない。

 が、そう割り切ったとたん、気分がスーッと軽くなった。
楽になった。
もちろんだからといって、実兄や実母の死を軽くみているわけではない。
新調した仏壇は、私の家の中でも、いちばんよい場所に安置してある。
折につけ、手を合わせている。
が、それ以上に、どうして法事が必要なのか。
もしそれで「成仏」なるものができないとするなら、私は自分が死んだら、
あの世で真っ先に抗議活動を始める。
そんなバカげた仏教が、どこにある!

 ……ということで、私の気分を軽くしてくれた従姉には、さっそく礼の品々を、
昨日贈っておいた。

 Yさん、ありがとう!


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●ASO首相(Brain-less Prime Minister of Japan, Mr. "Ass-Sore")


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おととい、コンビニで、タブロイド紙を
買った。
それには、「おバカ宰相」とあった。
ASO首相のことである。


同じようなことを、あのK国も言っている。
あの国だけには、批評されたくないが、
あの国だからこそ、言ってくれる(?)※。


で、今度は、EUまで!


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韓国の東亜N報は、つぎのように伝える。


『……麻生太郎首相に対する支持率が、10%台にまで落ち込むなど、政権崩壊の危機に直
面している日本の与党・自民党の内部でこんな発言が飛び出した。「ABBA」といえば、1970
年代から80年代にかけ一世を風靡(ふうび)した、スウェーデン出身の男女4人からなるポップ
ス・グループだが、同党でいう「ABBA」とはもちろん、このグループのことではない。


 同党の幹事長を務めた加藤紘一議員は1日、イギリスの経済紙フィナンシャル・タイムズ(F
T)とのインタビューで、「総選挙が行われれば、党にとって最後の瞬間が訪れるかもしれない。
若手の議員たちを中心に、"ABBA"が自民党にとっての危機打開策になる、という主張が出て
いる」と述べた。加藤議員によると、「ABBA」とは「Anybody is better than Aso」の略で、「卓越
した人物はいないものの、誰であれ麻生首相よりはましだ」という意味だという』と。


 「ABBA(アバ)」という言葉を使ったのは、外国人記者ではない。
日本人の口を借りて、ASO首相を、揶揄(やゆ)している。
それだけがゆいいつの救いだが、世界の人たちは、今、日本の首相というより、日本という国
を、そういう目で見ている。


 家柄だけを盾に、そのつどああでもない、こうでもないと理由にもならない理由をこじつけ、政
権の座に居座ろうとする、あの醜悪さ。
あのニューヨークタイムズですら、「(一連の言動からは)、扇動的な発言からは誠実さも賢明さ
もうかがえない」と批判する社説を掲載したことがある(08年9月)。
その醜悪さは、あの顔にそのまま表れている。
最近では、ASO首相がテレビ画面に出るだけで、私は即座にチャンネルを変えるようにしてい
る。


 どうしてあんな人物が、日本の首相なのか?
首相でいられるのか?
「失言」というが、失言の内容にしても、レベルを逸脱している。
つい先日、K国が核実験をしたあとも、こう発言している。
「(K国の核実験について)、ブッシュ大統領と協議した」と。


「ブッシュ大統領」?


 「オバマは英語がウメエ〜」と言っていた、ASO首相である。
まともな日本語すら、話せない。
もちろん議論(debate)など、夢のまた夢。
前回のオバマ大統領との会見のときも、「聴取不能」の文字が、向うの会談録に並んだ。


 で、今まで「これだけは……」と思って書かないできたことがある。
しかしASO首相のためというより、日本のために書く。


 「アソー」、つまり、「ass−sore」が、どういう意味か、もしあなたの
近くに外人がいたら、その意味か聞いてみたらよい。
彼らが日本の首相をさしてその名を呼ぶとき、侮蔑の念をこめて、そう呼ぶ。
(けっして、ほかの「アソー」という名前の人たちについて、そう書いているので
はない。誤解のないように!)


 自称「外交のASO」とか?
世界へ出るたびに、1兆円単位のお金をバラまき、ついで、日本でもばらまき、
何が「外交のASO」か?
結果的にみても、成果はゼロ。
ドイツを怒らせ、ロシアを怒らせただけ。


 で、今度は、元お笑いタレントを、閣僚にと画策した。
が、失敗。
J党の中にも、まだ良識のある議員たちが残っていた。


 支持率10%台で、どうやって選挙戦をやりぬくつもりなのか?
少しは自分に恥じたらよい。

なおASO首相の失言の数々を聞いていると、私のような素人にも、「あれはただの失言ではな
い」とわかる。
 これからは、宰相はもちろん、大臣になるような人たちも、一度、脳ドックで、脳検査を受けて
から就任するようにしてほしい。
また早急に、そういう制度を確立してほしい。

(注※補記)

K国「労働新聞」より転載。

『「(北朝鮮の)核実験が2回目に行われた後には、ブッシュ大統領に、また国連安保理のメン
バーの方々に電話をし・・・」(麻生首相)

 このように、アメリカのオバマ大統領を「ブッシュ大統領」と言い間違えたことや、7日の街頭
演説で、サッカー日本代表がワールドカップ出場を決めた試合の対戦相手である「ウズベキス
タン」を「カザフスタン」と間違えたことなどを挙げています。

 労働新聞は、麻生総理を「失言の選手権保持者」、「彼の頻繁な失言は、彼がさして賢くない
ということを示している」と揶揄。さらに、「このような人物が権力を握って国を治めているから、
日本政治が駄目になるしかないのである」と批判しています。(26日16:39)』と。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

【夜の散歩】

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夏になると、夜、散歩に行くことが多くなる。
日中は暑い。
それに紫外線も心配。
だから「夜に……」ということになる。

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●目的

 散歩に出かけるときは、いつも、何かの目的を作る。
「ただ散歩……」と言っても、気乗りがしない。
「コンビニまで行って、缶ジュースを買う」というのでもよい。
「ポストまで行って、手紙を投かんする」というのでもよい。
「パン屋でパンを買う」というのでもよい。

 昨日は、「ビデオショップで、ビデオを借りる」という目的を作った。
フランシス・コッポラが監督した、『コッポラ、胡蝶の舞い』というのを見たかった。
それで片道、約4〜5キロの道を歩いた。

●歩道

 散歩するときは、歩道のしっかりした道を歩くことにしている。
遠回りになるとわかっていても、そうしている。
身の安全のため、である。
それに車の排気ガスからも、できるだけ遠ざかりたい。
今でも、排気ガスを煙幕のように出しながら走るジーゼル車は多い。
燃費をよくするため、マフラーに加工を加えている。
しかし歩行者こそ、えらい迷惑。

 そんなこともあって、できるだけ内回りの、細い路地を歩くことが多い。
小さな角をこまめに回りながら歩く。
それが結構、楽しい。

●ゴシップ好き

 昨夜は、一度、大通りに出た。
大通りには、広い歩道が両側についている。
車1台が、楽に走れる幅がある。
その通りに出て、ワイフとこんな話をした。

私「ぼくたち、離婚状態にあるんだってエ?」
ワ「だれが、そんなこと、言っているの?」
私「あいつだよ」
ワ「……いやな人ねエ……。私たちの不幸が、そんなに楽しいのかしら……」

私「ハハハ、ちがうんだよ。先日、あいつをからかってやったんだよ。
『ぼくたち夫婦は、別居状態だ』ってね」
ワ「バカねエ。そんなこと言うからよ」
私「そしたら、その1週間後には、従姉から電話がかかってきたよ」
ワ「何て?」

私「『浩司くん、離婚するの?』ってね」
ワ「あいつは、そういう話になると、その日のうちに、みなに電話をするらしい」
私「……本当に、いやな人ねエ……。この前は、うちのH(=息子)が、精神病って
みなに言いふらしていたのでしょう」
私「ハハハ、バカだよ、あいつは……」と。

●口のうまい人

 口のうまい人には注意したほうがよい。
何だかんだと、さぐりを入れてきては、今度は、それを酒の肴(さかな)にする。
口がうまいから、悪口を言いふらすのも、うまい。

 「私、あの浩司さんが、かわいそうでならないの」とか何とか言い、さも同情している
かのようなフリをして、悪口を言いふらす。
ときに泣き声になることもある。
もちろん涙は出ない。

 「あいつ」も、そうだ。
それとなく、「最近、H(=息子)さんの様子はどう?」などと言って、電話をかけてくる。
が、そういうとき、うかつにこちらの内情を話したら、最後。
それが何倍にも拡大され、みなに伝えられる。

私「世の中には、相対的価値観で生きている人は多いから……」
ワ「何、それ?」
私「他人が自分より不幸なら、私は幸福。
他人が自分より幸福なら、私は不幸。
そういうふうにいつも、他人と比較しながら、相対的に自分の幸福度を測る人だよ」と。

●二人三脚

 広い大通りは、そのまま浜松市内へとつづいている。
その大通りを、東へ、一直線に歩く。
たいていワイフと腕を組んで歩く。
私がワイフを引っ張り、ワイフは、私の体を支える。
こういうのを二人三脚という。

 数日前、東京では気温が35度を超えたという。
観測史上、記録的な暑さだったという。
が、ここ浜松では、そういうことはなかった。
たまたま私たちは山荘に泊まったが、朝はふとんをかぶらなければならないほど、
空気は乾いた冷気を帯びていた。

 昨夜も、そうだった。
ひんやりとした夜の風が、心地よかった。
「帰りに、缶ジュースを買おうか?」と言うと、ワイフは「うん」とだけ言った。
ワイフは疲れてくると、無口になる。
私もそれに応じて、無口になる。
あとは黙ったまま、ただひたすら前に向かって歩く。

●ビデオショップ

 今度新しくオープンしたビデオショップには、小さなレストランまである。
1階は書店だが、広すぎて、私向きではない。
2階に、ビデオショップがあり、その3分の1ほどでは、ゲームのソフトを売っている。
このところ、毎回のように、そのソフトコーナーものぞくようにしている。
ときどき、ソフトを買い、それをアメリカに住む、孫に送っている。

 カウンターで、「コッポラの……」というと、店員がすぐ、それを見つけてくれた。
内容は、ある老人が通りを歩いていると、雷に打たれる。
とたん、その老人が、70歳くらいから、35歳前後まで若返ってしまうというもの。
どこかSF的な映画である。

 その予告編を見て、その映画が見たくなった。
フランシス・コッポラと言えば、あの『地獄の目次録』を監督した人である。
期待が高まる。

 店を出たところで、自動販売機で、缶ジュースを買った。
私はミルクココア、ワイフは、ミックスジュース。
2人で飲みくらべながら、飲んだ。

●「あいつ」さんへ

 もう私どものことは、心配せず、ご自身のことだけを考えて、生きてください。
あなたの人生も、それほど長くないはず。
それにあなたの家にも、大きな問題が、3つ、4つもあるではありませんか。
あなた自身が、親類の中でも、(そして近所でも)、笑い者になっていますよ。
「あのXさんのグチに、みな、閉口していますよ」と。

 相手が自分の思い通りにいかないからといって、それでもってグチをこぼして
どうなりますか。
そういうときは、自分ですればよいのです。
自分で気が済むように、自分ですればよいのです。
自分では何もしないで、グチだけこぼして、どうなるというのでしょうか。
「グチ」というのは、「愚痴」と書くのですよ。
仏教で言う「愚痴」というのは、別の意味ですが、グチを言えば言うほど、あなたの
品位はさがるだけです。
「愚痴」というのは、「愚かでバカ」という意味です。

 わかるかな?
……恐らく、今のあなたには、それすら理解できないでしょう。
そうそう今度、あなたから電話がかかってきたら、私は、こう言うつもりでいます。

「ぼくね、今度、アルツハイマー病って、診断されましたよ」と。
あなたを喜ばせてあげますから、お楽しみに!


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司※

●ダイエット

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無理な減食だけでダイエットしても、意味はない。
それはよくわかっている。
体内脂肪が減るよりも先に、筋肉が萎(な)えてしまう。
それに猛烈な食欲。
飢えた脂肪(摂取)細胞が、「食べ物をよこせ!」と騒ぎ出す。
ふつうの食欲ではない。
ここにも書いたように、「猛烈な食欲」。
で、油断すると、あっという間にリバウンド。
しかもやっかいなことに、これを繰り返していると、
内臓脂肪ばかりが、ふえることになる。
今、私はそれを、身をもって、体験しつつある。

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●私のばあい

 今朝、体重計に乗ったら、61・8キロだった。
2か月前には、68・4キロだったから、約7キロの減量ということになる。
約7キロ!
しかしおかしなことに、体脂肪率は、24・5%から23・5%と、それほど変わって
いない。

 つぎに体重が約7キロ減ったということは、2リットル入りのペットボトルで、
3本半分ということになる。
が、その実感が、ほとんど、ない。
このことは自転車で、いつもの坂を登ってみると、よくわかる。
約7キロ減ったのだから、その分、坂を登るのが、楽なはず。
が、実際には、そうでない。
先日は、かえって体が重くなったように感じた。
つまり無理なダイエットによって、筋肉のほうが、先に萎えてしまった(?)。

 ダイエットは、(1)食事制限と、(2)運動を、並行して行う。
どんな本にもそう書いてある。
そこで今回は、食事制限と並行して、運動の量を、それまでの約2倍以上にふやした。
ほとんど毎日、1万歩前後、散歩した。
加えてサイクリング。
それでもこのザマというか、体力のほうが先に弱ってしまった。

 が、ここであきらめるわけにはいかない。
ここでリバウンドさせるわけにはいかない。
ダイエットするにも、年齢制限のようなものがある。
運動量をふやすといっても、それには限界がある。
70歳や80歳になってからだと、運動そのものが、難しくなる。
それがそのまま年齢制限となる。
今、ここでダイエットに失敗したら、私は死ぬまで67〜8キロ台。
こわいのは、悪循環。
(運動不足)→(肥満)→(成人病)→……
これを繰り返しているうちに、持病が持病を呼び込み、そのうち体が動かなくなる。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●思考のループ【輪形彷徨】

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思考のループほど、恐ろしいものはない。
ループ状態に入ったとたん、思考は停止し、
その分だけ、時間を無駄にする。

私たちにとって重要なことは、歩きつづけること。
先へ行けば行くほど、さらにその先に、「先」が
現れてくる。
だからますます先に進みたくなる。
が、ループ状態に入ると、「進んでいる」と
錯覚したまま、そこで停滞してしまう。
それは思想的には、「死」を意味する。
「魂の死」と言い換えてもよい。

何も肉体の「死」だけが死ではない。

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●輪形彷徨(りんけいほうこう)

 思想がループ状態に入ることを、「輪形彷徨」という。
ちょうど輪のように、同じところをグルグルと回るところから、そう言う。

もちろんその半径は、それぞれの人によって、みな、ちがう。
ある人は、1日単位で、ループ状態を繰り返す。
またある人は、1年単位で、ループ状態を繰り返す。
繰り返しながら、自分では、それがわからない。
自分では、前に向かって進んでいると錯覚する。
が、実のところ、一歩も前に進んでいない。

 このことは、あなたの周辺から、何人かの人を選んで、
その人を観察してみれば、わかる。
中には、10年1律のごとく、同じことしか言わない人がいる。
(さらにひどくなると、月単位、週単位で、同じことしか言わない人がいる。)

が、その一方で、そのつど新しい視点で、新しいことを言う人もいる。
話題も豊富で、そのつど話の内容が深く、濃くなっている。

10年1律のごとく、同じことしか言わない人は、その程度の人と見てよい。
思想的には、死んだも同然。
いくら派手な言動を繰り返しても、死んだも同然。
そういう人を、「思想的死者」と呼ぶ。

●思想的死者

 輪形彷徨がこわいのは、それを繰り返しているうちに、思想がどんどんと
浅くなっていくこと。
視野もせまくなる。
それしか目に入らなくなる。

 このことは、私の母の晩年の日記を読んでいて気がついた。
私の母は、毎日その日の終わりに日記をつけていた。
が、晩年になればなるほど、毎日書いていることが同じになっている。

 「今日は雨(晴れ、うす曇り、曇り)で始まり、「〜〜さんが来た」「〜〜さんと
会った」「〜〜さんと話をした」という話につながる。
そしてしめくくりはいつも、「明日は晴れますように(涼しくなりますように)」と。

 私なりに母の気持ちをくみ取りたいと思ったが、日記を読む範囲では、それが
できなかった。
当時年齢も90歳に近かったから、それもしかたのないことかもしれない。
が、母にかぎらず、人は、一度、この輪形彷徨に入ると、そのワクから抜け出られなく
なる。
そしてあとはその悪循環の中で、自分の住む世界を、どんどんと小さくしてしまう。

●では、どうすればよいか

 私たちも、ふと油断すると、そのつど思考がループ状態になるのを知る。
そこで私のばあい、努めて、毎回、ちがったことを書くことにしている。
子どもたちを教えるときも、そうで、同じ年長児のクラスでも、切り口を変えるよう
にしている。
内容そのものも、変えることがある。
こうして自分の思考が、ループ状態に入るのを防ぐ。

 が、このところ、ときどき恐ろしい経験をする。
「このテーマは初めて……」と思って書いている原稿でも、検索してみると、
同じようなことを、数年前に書いたのを知るときがある。
しかも数年前に書いた原稿のほうが、内容が深い!

 たとえば「思考のループ」にしても、実は、それについて書くのは、今回が
初めてではない。

(ここで、ヤフーの検索機能をつかって、検索してみた。)

「はやし浩司 思考のループ」で検索してみたら、ナント、204件もヒットした。
それも、だ。
最新の原稿は、08年11月付けとなっている!
私は6か月前に、同じことを考えていたことになる。
以下、かなりの長文になるが、それをそのまま、ここに掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●思考のループ

++++++++++++++++++
うつ状態になると、ものごとに対する
(こだわり)が強くなる。

(うつ)と(こだわり)は、紙でいえば、
表と裏のような関係と考えてよいのでは?
そのことだけを、悶々と悩むようになる。
そこで最近、こんなことに気がついた。
若いときは、うつ状態になっても、脳の
中の情報は、割とそのまま維持される。
しかし加齢とともに、うつ状態になると、
脳の中の情報が、こぼれ落ちるように、
消えていく。

特定のことにこだわるあまり、ほかの
情報が入ってこなくなる。
つまりうつ状態が長くつづくと、脳みそ
全体が、ボケていく。
だから一般的には、こう言われている。
「ボケからうつ病になることもあるし、
うつ病からボケになることもある。
その見分けは、むずかしい」と。
つまり今度は、(うつ)と(ボケ)が、
紙で言えば、表と裏の関係と考えて
よいのでは?、ということになる。

+++++++++++++++++

●60代

自分が60代になってみて、恐ろしいと感じたことが、ひとつある。
それは急速に、過去の知識や経験が、脳みそから消えていくということ。
記憶にしても、記銘力、維持力、想起力が、同時に弱くなった。
つまり私たちは、それに気がつかないまま、どんどんとバカになっているということ。
そこで大切なことは、歳をとればとるほど、脳みそをさまざまな角度から、
刺激していかねばならない。
肉体の健康にたとえるまでもない。

が、ここで思わぬ伏兵が現れてきた。
たとえば心がうつ状態になったとする。
(うつ)の第一の特徴は、(こだわり)である。
ある特定のことがらに、悶々と悩んだりする。
それが短期間なものであれば、問題はない。
しかしそれが長期間つづくと、その間に、ほかの部分にあった知識や経験が、
どんどんと脳みそから消え、結果として、頭がボケていく。
そのため総合的な判断が、できにくくなる。

ただ本人自身は、ここにも書いたように、自分でそれに気づくことはない。
そういう状態になりながらも、「私は、まとも」と思う。
このズレが、いろいろな場面で、トラブルの原因となることもある。
先日も、私がその女性(65歳くらい)に、「私は、そんなバカではないと
思います」と言ったときのこと、その女性は何を勘違いしたのか、こう言って
叫んだ。

「私だって、そんなバカではありません!」と。
私はその女性に、認知症の初期症状をいくつか感じ取っていた。
自分勝手でわがまま。
繊細な会話ができない。
話す内容も一方的で、その繰り返し。
が、それはそのまま私自身の問題でもある。

私もよく(うつ状態)になる。
何かのことでそれにこだわると、それについて、悶々と悩んだりする。
毎日、そのことばかりを考えるようになる。
考えるといっても、堂々めぐり。
思考そのものが、ループ状態になる。
とたん、ほかの情報が脳みその中に、入ってこなくなる。
肉体の健康にたとえるなら、これは腕の運動ばかりしていて、体全体の運動を
忘れるようなもの。

うつ状態が長期になればなるほど、そのため、頭はボケていく。
だから……、といっても、もう結論は出ているが、うつ状態は、ボケの敵。
50歳を過ぎたら、とくに注意したほうがよい。

(付記)
認知症から(うつ状態)になる人もいれば、(うつ状態)から認知症になる人も
いる。
その見分けは、専門家でもたいへんむずかしいという。
が、こう考えてはどうだろうか。
どちらであるにせよ、脳の一部しか機能しなくなるために、そうなる、と。
とくに50代以上になると、それまでの知識や経験が、穴のあいたバケツから
水がこぼれ出るように、外へと漏れ出ていく。
そうでなくても補充しなければいけないときに、特定のことにこだわり、
それについて悶々と悩むのは、それだけでバカになっていく。
それが認知症につながっていくということも、じゅうぶん考えられる。
少し前まで、「損得論」についていろいろ考えてきたが、損か得かという
ことになれば、脳みその機能が悪くなることほど、損なことはない。
まさに「私」の一部を、失うことになる。

++++++++++++++++
思考のループについて、
以前書いた原稿を、添付します。
++++++++++++++++

●無限ループの世界

 思考するということには、ある種の苦痛がともなう。それはちょうど難解な数学の問題を解くよ
うなものだ。できれば思考などしなくてすましたい。それがおおかたの人の「思い」ではないか。

 が、思考するからこそ、人間である。パスカルも「パンセ」の中で、「思考が人間の偉大さをな
す」と書いている。しかし今、思考と知識、さらには情報が混同して使われている。知識や情報
の多い人を、賢い人と誤解している人さえいる。

 その思考。人間もある年齢に達すると、その思考を停止し、無限のループ状態に入る。「そ
の年齢」というのは、個人差があって、一概に何歳とは言えない。二〇歳でループに入る人も
いれば、五〇歳や六〇歳になっても入らない人もいる。「ループ状態」というのは、そこで進歩
を止め、同じ思考を繰り返すことをいう。こういう状態になると、思考力はさらに低下する。私は
このことを講演活動をつづけていて発見した。

 講演というのは、ある意味で楽な仕事だ。会場や聴衆は毎回変わるから、同じ話をすればよ
い。しかし私は会場ごとに、できるだけ違った話をするようにしている。これは私が子どもたち
に接するときもそうだ。

毎年、それぞれの年齢の子どもに接するが、「同じ授業はしない」というのを、モットーにしてい
る。(そう言いながら、結構、同じ授業をしているが……。)で、ある日のこと。たしか過保護児
の話をしていたときのこと。私はふとその話を、講演の途中で、それをさかのぼること二〇年
程前にどこかでしたのを思い出した。とたん、何とも言えない敗北感を感じた。「私はこの二〇
年間、何をしてきたのだろう」と。

 そこであなたはどうだろうか。最近話す話は、一〇年前より進歩しただろうか。二〇年前より
進歩しただろうか。あるいは違った話をしているだろうか。それを心のどこかで考えてみてほし
い。さらにあなたはこの一〇年間で何か新しい発見をしただろうか。それともしなかっただろう
か。

こわいのは、思考のループに入ってしまい、一〇年一律のごとく、同じ話を繰り返すことだ。もう
こうなると、進歩など、望むべくもない。それがわからなければ、犬を見ればよい(失礼!)。犬
は犬なりに知識や経験もあり、ひょっとしたら人間より賢い部分をもっている。しかし犬が犬な
のは、思考力はあっても、いつも思考の無限ループの中に入ってしまうことだ。だから犬は犬
のまま、その思考を進歩させることができない。

 もしあなたが、いつかどこかで話したのと同じ話を、今日もだれかとしたというのなら、あなた
はすでにその思考の無限ループの中に入っているとみてよい。もしそうなら、今日からでも遅く
ないから、そのループから抜け出してみる。方法は簡単だ。何かテーマを決めて、そのテーマ
について考え、自分なりの結論を出す。そしてそれをどんどん繰り返していく。どんどん繰り返
して、それを積み重ねていく。それで脱出できる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●ノーブレイン

 英語に「ノーブレイン(脳がない)」という言い方がある。「愚か」という意味ではない。ふつう
「考える力のない人」という意味で使う。「賢い(ワイズ)」の反対の位置にある言葉だと思えばよ
い。「ヒー・ハズ・ノー・ブレイン(彼は脳がない)」というような使い方をする。

 そのノーブレインだが、このところ日本人全体が、そのノーブレインになりつつあるのではな
いか。たとえばテレビ番組に、バラエィ番組というのがある。チャラチャラしたタレントたちが、こ
れまたチャラチャラとした会話を繰り返している。どのタレントも思いついたままを口にしている
だけ。一見、考えてしゃべっているように見えるが、その実、何も考えていない。脳の表層部分
に飛来する情報を、そのつど適当に加工して口にしているだけ。

考える力というのは、みながみな、もっているわけではない。仮にもっていたとしても、考えるこ
とにはいつも、ある種の苦痛がともなう。それは難しい数学の方程式を解くような苦痛に似てい
る。しかも考えて解ければそれでよし。「解いた」という喜びが快感になる。しかしたいていは答
そのものがない。考えたところで、どうにもならないことが多い。そのためほとんどの人は、無
意識のうちにも、考えることを避けようとする。

言いかえると、「考える人」は、少ない。「考える習慣のある人」と言いかえたほうが正しいかも
しれない。その習慣のある人は少ない。私が何か問いかけても、「そんなめんどうなこと考えた
くない」とか、反対に、「もうそんなめんどうなこと、考えるのをやめろ」とか言う人さえいる。

人間は考えるから人間であって、もし考えることをやめてしまったら、人間は人間でなくなってし
まう。少なくとも、人間と、他の動物を分けるカベがなくなってしまう。「考える」ということには、
そういう意味が含まれる。ただここで注意しなければならないのは、考えるといっても、(1)そ
の方法と、(2)内容である。

これについてはまた別のところで結論を出すが、私のばあい、自分の考えが、ループ状態
(堂々巡り)にならないように注意している。またそれだけは避けたいと思っている。一度その
ループ状態になると、一見考えているように見えるが、そこで思考が停止してしまう。

それに私のばあい、これは私の思考能力の欠陥と言ってよいのだろうが、大きな問題と小さな
問題を同時に考えたりすると、その区別がつかなくなってしまう。ときとしてどうでもよいような問
題にかかりきりになり、自分を見失ってしまう。「考える」ということには、そういうさまざまな問題
が隠されてはいる。しかしやはり「人間は考えるから人間」である。それは人間が人間であるこ
との大前提といってもよい。つまり「ノーブレイン」であることは、つまりその人間であることの放
棄といってもよい。

人間を育てるということは、その「考える子ども」にすることである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●考えない子ども

 「1分間で、時計の長い針は、何度進むか」という問題がある(旧小4レベル)。その前の段階
として、「1時間で360度(1回転)、長い針は回る」ということを理解させる。そのあと、「では1
分間で、何度進むか」と問いかける。

 この問題を、スラスラ解く子どもは、本当にあっという間に、「6度」と答えることができる。が、
そうでない子どもは、そうでない。で、そのときの様子を観察すると、できない子どもにも、ふた
つのタイプがあるのがわかる。懸命に考えようとするタイプと、考えることそのものから逃げて
しまうタイプである。

 懸命に考えようとするタイプの子どもは、ヒントを小出しに出してあげると、たいていその途中
で、「わかった」と言って、答を出す。しかし考えることから逃げてしまうタイプの子どもは、いくら
ヒントを出しても、それに食いついてこない。「15分で、長い針はどこまでくるかな?」「15分
で、長い針は何度、回るかな?」「15分で、90度回るとすると、1分では何度かな?」と。

そこまでヒントを出しても、まだ理解できない。もともと理解しようという意欲すらない。どうでもよ
いといった様子で、ただぼんやりしている。さらに考えることをうながすと、「先生、これは掛け
算の問題?」と聞いてくる。

決して特別な子どもではない。今、このタイプの、つまり自分で考える力そのものが弱い子ども
は、約二五%はいる。四人に一人とみてよい。無気力児とも違う。友だちどうしで遊ぶときは、
それなりに活発に遊ぶし、会話もポンポンとはずむ。知識もそれなり豊富だし、ぼんやり型の
子ども(愚鈍児)特有の、ぼんやりとした様子も見られない。

ただ「考える」ということだけができない。……できないというより、さらによく観察すると、考える
という習慣そのものがないといったふう。考え方そのものがつかめないといった様子を見せる。

 そこで子どもが考えるまで待つのだが、このタイプの子どもは、考えそのものが、たいへん浅
いレベルで、ループ状態に入るのがわかる。つまり待てばよいというものでもない。待てば待っ
たで、どんどん集中力が薄くなっていくのがわかる……。

 結論から先に言えば、小学四年生くらいの段階で、一度こういう症状があらわれると、以後な
おすのは容易ではない。少なくとも、学校の進度に追いつくことがむずかしくなる。やっとできる
ようになったと思ったときには、学校の勉強のほうがさらに先に進んでいる……。あとはこの繰
り返し。

 そこで幼児期の「しつけ」が大切ということになる。それについてはまた別のところで考える
が、もう少し先まで言うと、そのしつけは、親から受け継ぐ部分が大きい。親自身に、考えると
いう習慣がなく、それがそのまま子どもに伝わっているというケースが多い。勉強ができないと
いうのは、決して子どもだけの問題ではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 思考
のループ ループ性 ループ状態)


【子どもの思考力】

●考える子どもvs考えない子ども

 勉強ができない子どもは、一般的には、たとえば愚鈍型(私は「ぼんやり型」と呼んでいる。こ
の言葉は好きではない。)、発育不良型(知育の発育そのものが遅れているタイプ)、活発型
(多動性があり、学習に集中できない)などに分けて考えられている(教育小辞典)。

しかしこの分類方法で子どもを分類しても、「ではどうすればよいか」という対策が生まれてこな
い。さらに特殊なケースとして、LD児(学習障害児)の問題がある。診断基準をつくり、こうした
子どもにラベルを張るのは簡単なことだ。が、やはりその先の対策が生まれてこない。つまりこ
うした見方は、教育的には、まったく意味がない。言うまでもなく、子どもの教育で重要なのは、
診断ではなく、また診断名をつけることでもなく、「どうすれば、子どもが生き生きと学ぶ力を養
うことができるか」である。

 そこで私は、現象面から、子どもをつぎのように分けて考えている。

(1)思考力そのものが散漫なタイプ
(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ
(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ
(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ
 
この分類方法の特徴は、そのまま自分自身のこととして、自分にあてはめて考えることができ
るという点にある。たとえば一日の仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっているとき
というのは、考えるのもおっくうなものだ。そういう状態がここでいう(1)の状態。

何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけてよい
かわからなくなることがある。それが(2)の状態。

パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられ、何がなんだ
かさっぱりわからなくなるときがある。それが(3)の状態。

歳をとってから、ドイツ語を学びはじめたとする。単語を覚えるのだが、覚えられるのはその場
だけ。つぎの週には、きれいに忘れてしまう。それが(4)の状態。

 勉強が苦手(できない)な子どもは、これら(1)〜(4)の状態が、日常的に起こると考えると
わかりやすい。そしてそういう状態が、実は、あなた自身にも起きているとわかると、「ではどう
すればよいか」という部分が浮かびあがってくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 勉強
が苦手 勉強が苦手な子供)

(1)思考力そのものが散漫なタイプ

思考力そのものが、散漫なタイプの子どもを理解するためには、たとえばあなたが一日の仕事
を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっているようなときを想像してみればよい。そういうと
きというのは、考えるのもおっくうなものだ。ひょっとしたら、不注意で、そのあたりにあるコーヒ
ーカップを、手で倒してしまうかもしれない。だれからか電話がかかってきても、話の内容は上
の空。「アウー」とか答えるだけで精一杯。あれこれ集中的に指示されても、そのすべてがどう
でもよくなってしまう。明日の予定など、とても立てられない……。

もしあなたがそういう状態になったら、あなたはどうするだろうか。一時的には、コーヒーを口に
したり、ガムをかんだりして、頭の回転をはやくしようとするかもしれない。効果がないわけでは
ない。が、だからといって、体の疲れがとれるわけではない。そういうときあなたの夫(あるいは
妻)に、「何をしているの! さっさと勉強しなさい」と、言われたとする。あなたはあなたで、「し
なければならない」という気持ちがあっても、ひょっとしたら、あなたはどうすることもできない。
漢字や数字をみただけで、眠気が襲ってくる。ほんの少し油断すると、目がかすんできてしま
う。横で夫(あるいは妻)が、横でガミガミとうるさく言えば言うほど、やる気も消える。

思考力が弱い子どもは、まさにそういう状態にあると思えばよい。本人の力だけでは、どうしよ
うもない。またそういう前提で、子どもを理解する。「どうすればよいか」という問題については、
あなたならどうしてもらえばよいかと考えればわかる。疲労困ぱいして、ソファに寝そべってい
るようなとき、あなたなら、どうすればやる気が出てくるだろうか。そういう視点で考えればよ
い。そういうときでも、あなたにとって興味がもてること、関心があること、さらに好きなことな
ら、あなたは身を起こしてそれに取り組むかもしれない。まさにこのタイプの子どもは、そういう
指導法が効果的である。これを「動機づけ」というが、その動機づけをどうするかが、このタイプ
の子どもの対処法ということになる。

(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ

何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけてよい
かわからなくなることがある。実家から電話がかかってきて、親が倒れた。そこでその支度(し
たく)をしていると、今度は学校から電話がかかってきて、子どもが鉄棒から落ちてけがをし
た。さらにそこへ来客。キッチンでは、先ほどからなべが湯をふいている……!

一度こういう状態になると、考えが堂々巡りするだけで、まったく先へ進まなくなる。あなたも学
生時代、テストで、こんな経験をしたことがないだろうか。まだ解けない問題が数問ある。しかし
刻々と時間がせまる。計算しても空回りして、まちがいばかりする。あせればあせるほど、自分
でも何をしているかわからなくなる。

このタイプの子どもは、時間をおいて、同じことを繰りかえすので、それがわかる。たとえば「時
計の長い針は、15分で90度回ります。1分では何度回りますか」という問題のとき、しばらくは
分度器を見て、何やら考えているフリをする。そして同じように何やら式を書いて計算するフリ
をする。私が「あと少しで解けるのかな」と思って待っていると、また分度器を見て、同じような
行為を繰りかえす。式らしきものも書くが、先ほど書いた式とくらべると、まったく同じ。あとはそ
の繰り返し……。

一度こういう状態になったら、ひとつずつ片づけていくのがよい。が、このタイプの子どもはいく
つものことを同時に考えてしまうため、それもできない。ためしに立たせて意見を発表させたり
すると、おどおどするだけで何をどう言ったらよいかわからないといった様子を見せる。そこで
あなた自身のことだが、もしあなたがこういうふうにパニック状態になったら、どうするだろう
か。またどうすることが最善と思うだろうか。

 ひとつの方法として、軽いヒントを少しずつ出して、そのパニック状態から子どもを引き出すと
いう方法がある。「時計の絵をかいてごらん」「1分たつと、長い針はどこからどこまで進みます
か」「5分では、どこまで進みますか」「15分では、どこかな」と。これを「誘導」というが、どの段
階で、子どもが理解するようになるかは、あくまでも子ども次第。絵をかいたところで、「わかっ
た」と言って理解する子どももいるが、最後の最後まで理解しない子どももいる。そういうときは
それこそ、からんだ糸をほぐすような根気が必要となる。しかもこのタイプの子どもは、仮に「1
分で長い針は6度進む」とわかっても、今度は「短い針は1時間で何度進むか」という問題がで
きるようになるとはかぎらない。少し問題の質が変わったりすると、再びパニック状態になって
しまう。パニックなることそのものが、クセになっているようなところがある。あるいはヒントを出
すということが、かえってそれが「思考の過保護」となり、マイナスに作用することもある。

 方法としては、思い切ってレベルをさげ、その子どもがパニックにならない段階で指導するし
かないが、これも日本の教育の現状ではむずかしい。

(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ

パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられると、何がな
んだかさっぱりわからなくなるときがある。「メニューから各機種のフォルダを開き、Readme.
txtを参照。各データは解凍してあるが、してないものはラプラスを使って解凍。そのあとで直接
インストールのこと」と。

このタイプの子どもは、頭の中に、自分がどこへ向かっているかという地図をえがくことができ
ない。教える側はそのため、「これから角度の勉強をします」と宣言するのだが、「角」という意
味そのものがわかっていない。あるいはその必要性そのものがわかっていない。「角とは何
か」「なぜ角を学ぶのか」「学ばねばならないのか」と。そのため、頭の中が混乱してしまう。「角
の大きさ」と言っても、何がどう大きいのかさえわからない。それはちょうどここに書いたよう
に、パソコン教室で、先生にいきなり、「左インデントを使って、段落全体の位置を、下へさげて
ください」と言われるようなものだ。こちら側に「段落をさげたい」という意欲がどこかにあれば、
まだそれがヒントにもなるが、「左インデントとは何か」「段落とは何か」「どうして段落をさげなけ
ればならないのか」と考えているうちに、何がなんだかさっぱりわけがわからなくなってしまう。
このタイプの子どもも、まさにそれと同じような状態になっていると思えばよい。

そこでこのタイプの子どもを指導するときは、頭の中におおまかな地図を先につくらせる。学習
の目的を先に示す。たとえば私は先のとがった三角形をいくつか見せ、「このツクンツクンした
ところで、一番、痛そうなところはどこですか?」と問いかける。先がとがっていればいるほど、
手のひらに刺したときに、痛い。すると子どもは一番先がとがっている三角形をさして、「ここが
一番、痛い」などと言う。そこで「どうして痛いの」とか、「とがっているところを調べる方法はない
の」とか言いながら、学習へと誘導していく。

 このタイプの子どもは、もともとあまり理屈っぽくない子どもとみる。ものの考え方が、どこか
夢想的なところがある。気分や、そのときの感覚で、ものごとを判断するタイプと考えてよい。
占いや運勢判断、まじないにこるのは、たいていこのタイプ。(合理的な判断力がないから、そ
ういうものにこるのか、あるいは反対に、そういうものにこるから、合理的な判断力が育たない
のかは、よくわからないが……。)さらに受身の学習態度が日常化していて、「勉強というの
は、与えられてするもの」と思い込んでいる。もしそうなら、家庭での指導そのものを反省する。
子どもが望む前に、「ほら、英語教室」「ほら、算数教室」「ほら、水泳教室」とやっていると、子
どもは、受身になる。

(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ

 大脳生理学の分野でも、記憶のメカニズムが説明されるようになってきている。それについ
てはすでにあちこちで書いたので、ここではその先について書く。

 思考するとき人は、自分の思考回路にそってものごとを思考する。これを思考のパターン化
という。パターン化があるのが悪いのではない。そのパターンがあるから、日常的な生活はス
ムーズに流れる。たとえば私はものを書くのが好きだから、何か問題が起きると、すぐものを
書くことで対処しようとする。(これに対して、暴力団の構成員は、何か問題が起きると、すぐ暴
力を使って解決しようとする?)問題は、そのパターンの中でも、好ましくないパターンである。

 子どもの中には、記憶力が悪い子どもというのは、確かにいる。小学六年生でも、英語のア
ルファベットを、三〜六か月かけても、書けない子どもがいる。決して少数派ではない。そういう
子どもが全体の二〇%前後はいる。そういう子どもを観察してみると、記憶力が悪いとか、覚
える気力が弱いということではないことがわかる。結構、その場では真剣に、かつ懸命に覚え
ようとしている。しかしそれが記憶の中にとどまっていかない。そこでさらに観察してみると、こ
んなことがわかる。

「覚える」と同時に、「消す」という行為を同時にしているのである。それは自分につごうの悪い
ことをすぐ忘れてしまうという行為に似ている。もう少し正確にいうと、記憶というのは、脳の中
で反復されてはじめて脳の中に記憶される。その「反復」をしない。(記憶は覚えている時間の
長さによって、短期記憶と長期記憶に分類される。また記憶される情報のタイプで、認知記憶
と手続記憶に分類される。

学習で学んだアルファベットなどは、認知記憶として、一時的に「海馬」という組織に、短期記憶
の形で記憶されるが、それを長期記憶にするためには、大脳連合野に格納されねばならな
い。その大脳連合野に格納するとき、反復作業が必要となる。その反復作業をしない。)つまり
反復しないという行為そのものが、パターン化していて、結果的に記憶されないという状態にな
る。無意識下における、拒否反応と考えることもできる。

 原因のひとつに、幼児期の指導の失敗が考えられる。たとえば年中児でも、「名前を書いて
ごらん」と指示すると、体をこわばらせてしまう子どもが、約二〇%はいる。文字に対してある
種の恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。このタイプの子どもは、文字嫌いになる
だけではなく、その後、文字を記憶することそのものを拒否するようになる。結果的に、教えて
も、覚えないのはそのためと考えることができる。つまり頭の中に、そういう思考回路ができて
しまっている。

 記憶のメカニズムを考えるとき、「記憶するのが弱いのは、記憶力そのものがないから」と、
ほとんどの人は考えがちだが、そんな単純な問題ではない。問題の「根」は、もっと別のところ
にある。

Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●結びに……

 昨年(08年11月)に書いた原稿を読みながら、ふとこう思った。
「去年のほうが、内容が深いのでは……?」と。
つまりこれぞまさしく、「輪形彷徨」。
「輪形彷徨」と言わずして、何という?

ゾーッ!

 つまりこうして私も、ボケていく。
バカになっていく。
が、それではいけない。
輪形彷徨を打破しなければならない。
何としても打破しなければならない。
そのためには、今、そこにある輪形方向から、一歩、外へ抜け出なければならない。
新しい世界に興味をもち、その世界へと足を踏み入れる。

 今の私にはそれしか思いつかないが、具体的には、こうする。

(1)書店へ立ち寄っても、立ち止まるところは、いつも同じ。
次回から、それをやめ、別の場所へ行ってみる。
そこで片っ端から立ち読みをしてみる。
(今夜から、さっそく、実行!)

(2)新しい経験を試みる
今度、近くの温泉街に、静岡県イチという大浴場ができた。
日帰り入浴というのができるそうだから、今週中に一度行ってみる。
つまり今までの行動(生活)パターンを変える。

 その結果、私の脳みその中に、何らかの変化が起きればそれでよし。
その変化を感じたら、それを大切にし、拡大させる。

 そうそう私には、ひとつ大特典がある。
「子ども」という大特典である。
私が教えている子どもたちは、そのつど、私に大きな変化をもたらしてくれる。
どんな遊びを、どのようにしているかを知るだけでも、よい刺激になる。
そこで、

(3)子どもたちの世界に、もっと積極的に飛び込んでみる。
どんなゲームをどのようにしているかを、知る。
私もそのゲームを自分でも、買ってみる。
いっしょに、子どもたちとしてみる。

 輪形彷徨というのは、いわば思想の渦のようなもの。
渦の中で安穏としていると、そのまま渦の中心部で、押しつぶされてしまう。
自分では気がつかないまま、そうなってしまう。
これからの老後を生きるためにも、それにはじゅうぶん警戒したらよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 思考のループ ループ状態 はやし浩司 輪形彷徨)


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●幻惑

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「幻惑」に苦しんでいる人は多い。
「家族だから」「親だから」「長男だから」と。
意味のない『ダカラ論』で、体中が、がんじがらめになっている。
ふつうの(苦しみ)ではない。
悶々と、いつ晴れるともわからない苦しみ。
その苦しみが、ときとして、その人を押しつぶす。

「幻惑」……「家族」という独特の世界で生まれる、
精神的呪縛感をいう。

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●呪縛感からの解放

 本来なら、親のほうが気を使って、子どもが家族のことで、苦しまないようにする。
それが親の(やさしさ)ということになる。
親の(努め)ということになる。
親は、また、そうでなければならない。

 が、世の中には、いろいろな親がいる。
「産んでやった」「育ててやった」と恩を着せるだけではなく、そのつど、
真綿で口を塞ぐようにして、子どもを、苦しめる。
そんな親もまだ多い。
実のところ、私の母もそうだった。
わざと私の聞こえるところで、他人と、こんな会話をする。

「○○さんところのA君は、立派なものじゃ。今度、両親を、温泉へ連れていって
やったそうだ」とか、など。
 あるいはその一方で、こんな話もする。
「△△さんところの嫁は、ひどい嫁じゃ。親には、親子どんぶりを食べさせ、自分は、
うな丼を食べていたそうだ」とか、など。
 あるいは、「親の葬式だけは、家屋敷を売ってでも、立派にやれ」とも言った。

 私はこうした話を、子どものころから、耳にタコができるほど聞かされた。
もっとも子どものころは、まわりの人たちがみな、同じようなことを言っていたことも
あり、それほど疑問には思わなかった。
私が疑問に思い始めたのは、やはり高校生になってからだと思う。
だからある日、私は突然、叫んだ。
「いつ、お前に、産んでくれと頼んだア!」と。

●勇気 

おかしなことだが、こうした呪縛感は、親が死んだあとも、残る。
派手な葬儀に、派手な法事。
それが転じて、仏教不信へともつながっている。
が、ここで終わるわけではない。
今年は一周忌。
来年は三周忌……、とつづく。

 「勇気」というとおおげさに聞こえるかもしれないが、こうした「幻惑」と闘う
ためには、勇気が必要である。
体中に巻きついた呪縛感を、取り除く……。
が、それには、親族たちの白い目、決別を意味する。
それ以上に、私自身の内部で、既存の宗教を乗り越える宗教観をもたねばならない。
さらに言えば、家族への依存性とも決別しなければならない。

 「私が死んだときも、葬儀は不要」「一周忌も三周忌も不要」と言えるように
なるまでには、相当の覚悟が必要である。
その覚悟をもつには、それ相当の勇気が必要。
その勇気なくして、その覚悟をもつことはできない。

 もっともだからといって、死者を軽く扱うということではない。

●儀式

 近くに、冠婚葬祭だけはしっかりと済ます人がいる。
3人の子どもがいたが、それぞれの結婚式には、町内の自治会長、副会長まで
呼んだ。
その数、300〜400人。

 しかしおかしなことに、かけた教育費は、ゼロ(?)。
いろいろあったのだろうが、3人とも、学歴は中卒で終わっている。
(だからといって、中卒がどうこう言うのではない。誤解のないように!)
いつだったか、その母親のほうが、こう言ったのを覚えている。
「へたに学歴をつけると、遠くへ行ってしまうから、損」と。

 この話を聞いたとき、私の生きざまとは正反対であることに驚いた。
私は、こと教育費にかけては、一度とて惜しんだことはない。
息子たちが言うがまま、一円も削ることなく、お金を出してきた。

一方、私たち自身は、結婚式なるものをしていない。
お金がなかった。
が、それ以上に、冠婚葬祭の意味すら、認めていなかった。
それなりの(式)をするのは、当然だとしても、しかしそこまで。
それ以上は、まさにムダ金。

 同じように、葬儀にしても、大切なのは、(心)。
(心)を中心に考える。
儀式はあくまでも、あとからついてくるもの。
儀式をしたから、死者が浮かばれるとか、反対に、儀式をしなかったから、
死者が浮かばれないとか、そういうふうに考えること自体、バカげている。

●新しい死生観

 現在、都会地域では、約30%の人が、直葬方式で、葬儀を行っている
という(中日新聞・東京)。
「直葬」というのは、病院から直接火葬場へ向かい、遺骨となって自宅へ戻る
ことをいう。
そのあとは「家族葬」といって、家族だけで、内々で葬儀をすます。

 恩師のT先生も、それを望んでいる。
数か月前、鎌倉の自宅で会ったとき、そう言っていた。
私が「先生のような方のばあい、周囲がそうさせませんよ」と言うと、先生は、
「私はそうしてもらいます」と、きっぱりと言った。
T先生は、天皇陛下のテニス仲間でもある。

 が、私のばあいは、少しちがう。

 もしワイフが先に死んだら、私は、しばらくワイフの遺体といっしょに寝る。
たぶん私が先に死んだら、ワイフもそうしてくれるだろうから、私はワイフのそばを
離れない。

 いつもどおりの生活をして、しばらくそうしていっしょに、過ごす。
うるさい葬儀はしない。
参列者も家の中には、入れない。
息子たちやその家族たちだけが、来られる日に、それぞれが来ればよい。
来なくても、構わない。

 気持ちが安らいだところで、火葬にしてもらう。
遺骨は、私が死ぬまで、私のそばで預かる。
そのあとのことは、息子たちに任す。
海へ捨てるのもよし。
どこかの山の中に捨てるのもよし。

 あの墓の中に入るのだけは、ぜったいにごめん。
私のワイフも、そう言っている。
それだけは、どんなことがあっても、ぜったいにしてほしくない。

 ……という死生観をもつためには、それなりの努力が必要である。
勇気も必要である。
体にしみついた呪縛感を抜き去るのは、容易なことではない。
ときに身をひきちぎるような苦痛を伴うこともある。

 だから……。
私は3人に息子たちには、私が味わったような苦しみを、味あわせたくない。
だから3人とも、親絶対教の信者たちに言わせれば、この上ないほどの
親不孝者ばかりである。(ホント!)

 しかし私はそういう息子たちをあえて弁護する。

 私は3人の息子たちを通して、じゅうぶん、人生を楽しんだ。
息子たちは私に生きる喜びや、生きがいそのものを与えてくれた。
今、それ以上に、私は息子たちに、何を望むことができるのか。
感謝しこそすれ、親不孝者とののしる気持ちなど、みじんも、ない!
息子たちは息子たちで、自分たちの家族を楽しめばよい。

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昨年(08年)の9月に書いた原稿を、そのまま
再送信します。

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●自然葬(Natural Funeral)

自然葬を望む人が、団塊の世代を中心にふえているという(中日新聞報道)。
そういう活動を指導的に行う、NPO法人(特定非営利活動法人)も
立ち上がっている。

「葬送の自由をすすめる会」(東京)というのも、そのひとつ。
同会のばあいは、1991年に発足し、会員は全国で1万2000人、
3年前とくらべて、2倍にふえたという。

少し前、「直葬(ちょくそう)」という葬儀の仕方について書いた。
都会地域では、30%前後の人たちが、現在、直葬を選択しているという。

自然葬にせよ、直葬にせよ、日本の伝統的な死生観にそぐわないため、
抵抗を感ずる人も多い。
とくに農村部ではそうだろう。
しかし同時に、今、冠婚葬祭のし方が、この日本でも大きく変わろうとしている。
「従来のままではおかしい」と考え始めている人が、ふえ始めている。

実際、おかしい。
儀式化するのはしかたないとしても、肝心の「心」が、どこかへ置き去りに
なってしまっている。
誤解しないでほしいのは、直葬にせよ、自然葬にせよ、それをするからといって、
死者を軽んじているということではない。

もちろん中には経済的な理由で、そうする人もいるだろう。
都会地域では、葬儀費用は、平均して300万円前後もかかるという(同)。
この浜松市でも、140〜50万円が、その相場ということになっている。

しかし実際には、それまでの介護費用、あるいは介護で、疲れきって
いる家庭も多い。
その上での葬儀である。
(私も先日、実兄を見送ったが、葬儀費用は、しめて165万円。
香典などでの収入は、43万円前後だったので、約120万円の赤字(?)という
ことになる。)

葬儀の費用のうち何割かが、僧侶への布施。
布施の額は、戒名によって異なる。
寺の格式(?)によっても、異なる。
G県の小さな田舎町での葬儀だったが、下は30万〜80万円。
上にはキリがないそうだ。

ちなみに、自然葬のばあい、合同葬なら、約5万円。
個人葬でも、約10万円だそうだ(上記、同会)。

日本人の多くは、葬儀といえば、僧侶による読経を当然と考える。
その読経の仕方も、布施の額によって異なる。
たとえば、寺に頼んでも、僧侶が1人で来るということはない。
たいてい仲間を誘う。(たがいに誘い合う?)
こうして別途に、1人、10〜20万円前後が請求される。
(これでも安いほうだそうだ。)
5人、助っ人を頼めば、プラス100万円〜となる。
(ある宗教団体では、僧侶を呼ばず、「友人葬」と称して、仲間同士で
葬儀をする。)

しかしこうした常識そのものが、おかしい。
で、私はこれについて、一度、地元のある寺の住職にこんな質問を
したことがある。

「戒名は、どうして必要なのか」
「読経は必要なのか」と。

それに対して、その住職は、こう教えてくれた。

「俗名には、世間のしがらみが、いっぱいくっついています。
清廉潔白な気持ちで浄土へ行くためには、戒名は必要です」
「読経するのは、仏(=死者)を、成仏させるためです」と。

私にはこれ以上のことはわからない。
わからないが、こんな方法では、残された遺族の悲しみやさみしさは、
癒されない。
むしろ、こうした形式的な儀式によって、死者や遺族の意志を、もて
あそぶことになりやしないか。

私の近い知人(元)高校教師(男性)が、先日、亡くなった。
しかしだれも、その知人の葬儀の日すら、知らなかった。
葬儀は、僧侶なし、家族だけの密葬で行われた。
が、だからといって、いいかげんな葬儀だったと考えないほうがよい。
それから1〜2週間、妻は、床に伏せたままだったという。
それを心配した息子や娘は、妻(=母親)のそばにずっといて、
妻(=母親)の介護をしたという。

故人というより、葬儀にしても、もっと遺族の心を大切にすべき。
と、同時に私たちも、意味のない迷信にとらわれることなく、
(こうあるべき)という葬儀の仕方を、もっと前向きに考えた
ほうがよい。

今のように(形)が先にあって、その(形)だけをすれば、それでよい
と考えるほうが、おかしい。
むしろ現実は逆で、心の中では、「バンザーイ!」と叫びながら、葬儀の席では、
うちひしがれた遺族を演ずる家族も少なくない。
その隠れ蓑として、「形」が利用される(?)。

で、もう少し先を言えば、「戒名」などという言葉は、釈迦の時代には、
「カ」の字もなかった。
「成仏」という言葉にしても、だれでも修行すれば仏になれると説いたのは、
北伝仏教。
さらに「死ねばみな、仏」という考え方をするのは、私が知るかぎり、この
日本人だけである。

(釈迦の教えが直接伝わっている南伝仏教では、ある一定の位以上の僧のみが、
仏になると教える。)

僧侶に読経してもらった程度のことで、成仏できるというのなら、ではこの
現世での努力は、何かということになってしまう。
懸命に生きた人も、そうでない人も、同じ仏という考え方そのものが、不平等。

いろいろ考えてみるが、私には、「成仏」という概念が、どうしても理解できない。
理解できないから、葬儀のあり方そのものに、どうしても納得できない。

……ということで、自然葬、おおいに結構。
私に遺産があるとかないとか、そういうことには関係なく、息子たちには、
無駄なお金を使わせたくない。
私は自分の遺灰が、どこかに捨てられても、いっこうにかまわない。
遺骨などに、私の魂は、ない。
あるはずもない。

私がワイフより先に死んだら、遺骨はワイフが死ぬまで、ワイフが預かる。
再婚したければ、すればよい。
ワイフが死んだら、私とワイフの遺骨の始末は、息子たちに任せる。
自由に決めてよい。

ワイフが私より先に死んだら、その反対。私が死ぬまで、ワイフの遺骨は
私が預かる。
私が死んだら、あとの始末は、息子たちに任せる。

なお散骨について、法務省刑事局総務課は、つぎのような見解を示して
いるという(同紙)。

「節度をもってすれば、刑法の遺骨遺棄罪には当たらず、問題はない」とのこと。
よかった!

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Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●月に1日勤務で、月額42万円?

++++++++++++++++++++++

全国の都道府県で、これまた前代未聞の月額
報酬を支給していたことがわかった(読売新聞)。

まず、つぎの記事を読んでほしい。
これを読んで、怒らない読者はいないと思う。

++++++++++++++++++++++

『…… 新潟県収用委(定数7)は、3年間で収用手続きが1件もなく、会議が年4回ずつ開か
れただけで、残りの勤務ゼロの月について委員11人に計1840万円を支給した。その会議も
欠席し、25か月勤務実績がないのに、275万円を受け取った委員もいた。福島の収用、愛媛
の選管、栃木の労働の各委員会も同様に、勤務実績がない月の報酬を3年間で1000万円
以上支給していた。また、43府県は月に1日勤務の委員に対し、3年間に月額報酬約21億5
000万円を出していた』(読売新聞・09年7月4日)と。

 つまり、勤務実績がほとんどないにもかかわらず、県は、行政委員に対して、たとえば、11
人に、計1840万円も支払っていた(新潟県)と。

 記事の内容がふじゅうぶんで、正確にはどうなのかよくわからないが、こういうことらしい。

●会議が年、4回開かれただけ。
●4年間で、委員11人に対して、計1840万円、県が支給した。

 これらの数字をつかって割り算をしてみると、11人の委員は、毎年、42万円、受け取ってい
たことになる。
しかも、その会議すら欠席し、25か月、勤務実績がないにもかかわらず、275万円も受け取
っていた委員もいた、と。

 だれが考えても、これはおかしい。
おかしいものは、おかしい。
そこで、全国の都道府県では、こうしたおかしな出費の見直しを始めた。
『北海道や兵庫など8道県は「月に1日も勤務しない場合は報酬を支給しない」と条例などで規
定しており、勤務ゼロでの支給はなかった』(同)と。 

私はこの記事を読みながら、「静岡県」の名前を懸命にさがした。
が、残念ながら、その記事には、「静岡県」の名前はなかった。
というのも、私は、(うわさ)として、似たような話を耳にしている。
正確な金額は忘れたが、たとえば選挙管理委員として、投票所に顔を出して座っているだけ
で、委員は、〜〜万円という日当をもらえる、と。
(一桁ではなく、二桁だったように記憶している。)
それを聞いたとき、私はわが耳を疑った。
つまりそれほどまでに高額であった。

 読売新聞の記事には、こうある。

++++++++++++++以下、読売新聞++++++++++++++++

『……34府県が2006〜08年度、選挙管理(選管)と労働、収用の行政委員会委員に、勤務
がない月も月額報酬を支給していたことが、読売新聞の調べで分かった。

 ゼロ勤務の委員579人への支給総額は3年間で約3億4000万円に上る。

 委員の月平均勤務は3日に満たず、月額支給は違法とする司法判断も出ている。神奈川、
大阪など7道府県では、日当制の導入など実態に見合った支給方法への見直しを始めてい
る。

 47都道府県141委員会(定数計1300)の事務局に報酬や勤務実態を聞いたところ、08
年4月時点で日当制の富山、福井、山梨、長野の収用委員会を除き、月額支給だった。このう
ち34府県89委員会が、勤務がない月にも36万円〜5万2000円の報酬を支給していた。

 月額報酬の平均額は、選管が約19万8000円、労働が約19万4000円、収用が約14万
7000円。06〜08年度の委員の月平均の勤務日数は、回答のなかった東京などを除き、選
管1・93日、労働2・38日、収用1・56日だった。最も多い神奈川県労働委員で5・51日だっ
た。

 新潟県収用委(定数7)は、3年間で収用手続きが1件もなく、会議が年4回ずつ開かれただ
けで、残りの勤務ゼロの月について委員11人に計1840万円を支給した。その会議も欠席
し、25か月勤務実績がないのに275万円を受け取った委員もいた。福島の収用、愛媛の選
管、栃木の労働の各委員会も同様に、勤務実績がない月の報酬を3年間で1000万円以上
支給していた。また、43府県は月に1日勤務の委員に対し、3年間に月額報酬約21億5000
万円を出していた。

 一方、北海道や兵庫など8道県は「月に1日も勤務しない場合は報酬を支給しない」と条例な
どで規定しており、勤務ゼロでの支給はなかった。

 行政委員の報酬を巡っては、大津地裁が1月、滋賀県の選管、労働、収用の3委員につい
て、「常勤同様の勤務実態がなく、月額での報酬支給は地方自治法違反」と支給差し止めを命
じた。滋賀県が控訴している。

 この判決を契機に、勤務実態に見合う制度への見直しが進んでいる。北海道は今年4月か
ら収用委員の報酬を日当制に変更、宮城、群馬、神奈川、大阪、鳥取、大分の6府県も現在、
日当制導入に向けて準備中だ』と。

++++++++++++++以上、読売新聞++++++++++++++++

 どうして「静岡県」の名前が、この記事の中にないのか?
この記事だけで断定はできないが、静岡県は、『この判決を契機に、勤務実態に見合う制度へ
の見直しが進んでいる』県のひとつには、なっていないということか?

 が、この程度の(特権)は、公務員の世界では、まさに氷山の一角。
友人や知人の中には、その公務員をしている人も多い。
だから私としては言いにくいが、しかしこんなことをしていたら、本当に日本は破産してしまう。
(すでに破産状態だが……。)

 ともかくも、「まあ、いいじゃないか、もらえるものは、もらっておけ」式の支給が、中央の官僚
たちの世界だけではなく、全国、津々浦々の公務員の世界でも、常識化しているということ。
それがいかに恵まれたものであるかは、ひょっとしたら、すでにあなた自身も知っているはず。
が、これだけは忘れてはいけない。

そのツケは、回り回って、やがてあなた自身の上にのしかかってくる。
あなたの子ども、さらにはあなたの孫にのしかかってくる。
「私だけ、こっそりと得をすればいい」と、もしあなたが考えているとしたら、私はこう言いたい。

「あなたが、そう考えるから、あの手この手で、我も我もと、税金のつかみ取りを、みながしてい
る」と。
そのひとつが、行政委員会委員への(月額報酬)ということになる。

 しかしね、みなさん、どうしてこんなバカげた条例が、つぎからつぎへと、県、市、町、村議会
で可決されるか、その理由がわかりますか?
つまりね、議会が議会として、じゅうぶん、機能していないということ。
民主主義のとらえ方に、大きな穴があいているということ。
そのあたりからもう一度、洗い直さないと、こうした問題は、解決しないということ。

この記事を読んで、(怒り)を通り越して、(脱力感)を覚えるのは、けっして私だけではないと思
う。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●DVD『コッポラの胡蝶の夢』

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ビデオショップで、DVD『胡蝶の夢』を借りてきた。
夜、10時を過ぎてから、ワイフと2人で、それを見た。
字幕の翻訳がよくないのか、内容がよく理解できなかった。
理解できないまま、最後まで見た。

星は、1、2個の、★。
『地獄の黙示録』で、世界的な監督になった、フランシス・
コッポラの監督作品ということで、かなり期待していた。
が、がっかり。
……というのが、私の率直な感想。

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その『地獄の黙示録』では、こんな強烈な思い出がある。
ある夫婦なのだが、その映画を、ある日の午後、劇場で見た。
その夜のこと、妻が自宅にガソリンをまいて、焼身自殺。
その火事に巻き込まれて、夫と、1人の息子も焼死。
手伝いで住み込んでいた女性も、焼死。
何とも痛ましい事件だった。

私は縁があって、その夫婦とは、それまでの10年近く、
深く交際させてもらった。
そのこともあって、そこにいたる経緯(いきさつ)を
私はよく知っている。
で、『地獄の黙示録』。

今でもその題名を聞くたびに、「あの映画が関係あった
のではないか」と、思う。
「あの映画を見たので、奥さんは、自殺を決意した」と。
つまり当時としては、それくらい強烈な印象を与えた映画だった。

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●人間的な(やさしさ)

 その人のもつ、社会性、大衆性は、その人の人格の完成度を知る、重要な
バロメーターのひとつと考えてよい。
EQ理論(ピーター・サロベイ)でも、「他者との良好な人間関係」でもって、
人格の完成度を量る。
より深い社会性、大衆性があれば、それでよし。
そうでなければ、そうでない。
それだけ人格の完成度は、低いということになる。

 で、『コッポラの胡蝶の夢』。
SF映画のようだが、SF映画でもない。
恋愛映画のようだが、恋愛映画でもない。
過去と現在が、複雑に交錯する。
そのうちわけがわからなくなる。
おまけにコッポラの哲学。
難解なセリフ。
意図はよくわかるが、観客の目で見て、「おもしろくない」の一言。
私はその映画を見ながら、若いころ、主婦と生活社にいた、INという
編集長が教えてくれた話を思い出した。

●「まず相手を楽しませろ」

 INという編集長は、こう言った。
『林君(=私のこと)、原稿を書くときは、まず、相手を楽しませること。
相手をいい気分にさせること。
「あなたはすてきだ」「あなたはすばらしい」と。
それが80〜90%。
残りの10〜20%を使って、その中に自分の意見を織り込む。
「だけど、私はこう思います」と、ね。
それでじゅうぶん。
いいかね、文章というのは、まず読んでもらわなければならない。
それを忘れてはいけないよ』と。

 また別の出版社の社長は、こう教えてくれた。
東京の神田で、出版社を経営していた人である。
当時『磯野家の謎』という本を出して、大当たりした。
いわく、「どんな本を書くときも、全力で書け。
けっして、出し惜しみしてはいけない」と。

 どういうわけか、これら2人の人たちが話してくれたことが、私の
耳に鮮明に残っている。

 そうそう、もう1人。
学研の幼児局にいた、STという編集長も、私にこう教えてくれた。

『エッセーを書くときは、具体例を3分の1は入れること』と。
さらにこうも言った。
『読者を批判したら、かならず、「ではどうしたらいいか」という意見を
書き添えること。
けっして読者を批判したままで、終わってはいけない』とも。

それらが今でも、こうしてものを書くときの(私の柱)になっている。

(1)まず、読んでもらうこと。
(2)出し惜しみしないこと。
(3)具体例を書くこと。
(4)読者を批判したままでは、終わらないこと、と。

●大監督

 映画に限らないが、芸術家というのは、「大」の文字を冠(かんむり)に
かぶるようになると、製作に対する姿勢が大きく変わってくる。
どうしてだろう?
で、その映画だが、たとえば昔、黒沢Aという名前の監督がいた。

 若いころ監督した映画は、たしかにおもしろかった。
私も大ファンだった。
しかし晩年の作品になればなるほど、がっかりすることが多くなった。
それを最初に強く感じたのが、『デルスウラーザ』。
それに『影武者』『乱』とつづく。
(このあたりの順序は、記憶によるものなので、不正確。)

 どれも見るに耐えないというか、駄作(失礼!)ばかり。
「大作」と銘打って、豪華な俳優と、製作費をふんだんに使った映画だった。
が、どこかひとりよがり。
「どうだ、これが映画だ」という傲慢さばかりが、目だった。

 先日見た、『コッポラの胡蝶の夢』も、そうだった。
先にも書いたように、おもしろくなかった。
私は途中で何度か、席を離れた。
(だから余計に内容が、理解できなかったかもしれない。)


●「初心、忘れるべからず」

結局は、「初心、忘れるべからず」ということになる。
初心を忘れたとたん、作品は、現実から遊離してしまう。
現実から遊離すればするほど、そのまま自分の殻(から)にこもってしまい、
独善と独断の世界に入りこみやすくなる。
が、一度、こうなると、あとは(殻にこもる)→(現実からの遊離)の悪循環。
へたをすれば、人格そのものが、後退するようになる。

 フランシス・コッポラ監督がそうだとは思わない。
が、ここまで(現実)から遊離した映画を製作するようになると、
彼自身の人格を疑われてもしかたないのではないか。
映画を通してみる彼の人格は、偏屈で、がんこ。
人間らしい(やわらかさ)を、見失ってしまった(?)。
だから星は、やはり1つの、★。

 難解な哲学書を読んでも平気な人は、DVD『コッポラの胡蝶の夢』を見たらよい。
もう一度、よく見れば、私にも内容が理解できるようになるかもしれない。
が、私は、一度で、たくさん!

 今度、劇場で、ニコラス・ケイジ主演の、『ノウイング(Knowing)』が封切られる。
楽しみ!
見るぞ!
私には、ああいう映画のほうがあっている。
(まだ見てないが……。)


Hiroshi Hayashi++++++++June09++++++++++はやし浩司

●静岡県知事選挙

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現在、居間でこの原稿を書いている。
時は、7月5日(日曜日)、午後10時25分。
昨日、故障していたミニノート(ASPIRE・1)が、
修理から返ってきた。
その初期設定が、先ほど、終了。
今は試し打ちをしているところ。

テレビ(NHK)では、ウィンブルドンの試合を実況中継している。
ロジャー・フェデラーが新たな記録を作るか……?
その合間に、ときどき今回の静岡県知事選挙の投票結果が、報道される。
開票率17%前後だが、前副知事のSK氏(自民・公明推薦)が、得票数
1位をキープしている。
2位のKK氏とは、2万票の差をつけている。
県知事選挙とはいえ、国政選挙のような雰囲気。

 どうなるのだろう?

たった今、開票率22%の結果が出た(10時40分)。
SK氏とKK氏が、やや間を縮めてきた。

フェデラーの試合も気になる。
選挙結果も気になる。
ウィンブルドンも、静岡県知事選挙も、大接戦。
今夜は、このまま徹夜になりそう。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●罰(ばち)

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不可思議なパワーによる「罰(ばち)」というのは
認めない。
しかし「罰(ばち)」というのは、たしかにある。
あるが、それは不可思議なパワーによるものではなく、
その人自身の運命が、自ら、つくりあげていくものである。

+++++++++++++++++++

●運命

 「運命論」については、たびたび、書いてきた。
書いてきたので、ここでは簡単に触れるだけにする。
つまり私たちには、私たちの行き先を決める、無数の「糸」が
からみついている。
家族の糸、仕事の糸、環境の糸、才能の糸、などなど。
過去の糸もあるし、遺伝子の糸もある。
そういった無数の糸が、ときとして、自分の望むのとは
別の方向に、自分を連れ去ってしまうことがある。
それを「運命」という。

 ただし運命というのは、その時点では、わからない。
自分の過去を振り返ってみたときに、それがわかる。
「ああ、私には私の運命があったのだ」と。

●罰(ばち)

 私自身は、罰(ばち)(以下、「罰」とだけ表記)という言葉は
好きではない。
どこか宗教じみている。
宗教の中でも、カルトじみている。
しかしときとして、運命は、その人を、罰と言えるほど、悪い状況
に追いやってしまうことがある。
 それを私は罰という。

 が、先にも書いたように、どこか別の世界に、たとえば霊的な存在
があって、その人を、悪い状況に追いやるわけではない。
その人の運命が、自ら、作りあげていくものである。

●緑内障

 最近、緑内障になって、視力をほとんど失ってしまった女性(65
歳)がいる。
 ただし、誤解のないように言っておくが、緑内障になったからといって、
罰が当たったということではない。
緑内障といっても、病気のひとつ。
だれでもなりうる病気である。
よい行いとしたから、ならないという病気ではない。
悪い行いをしたから、なるという病気でもない。
ただその女性自身が、「罰が当たった」と騒いでいるから、罰ということに
なる。
こういうことだ。

●小ずるい女性

 「一事が万事」という。
「万事が一事」ともいう。
その女性は、何かにつけて、ずるい女性だった。
ずる賢いと言ったほうが、よいかもしれない。
口がうまい分だけ、人をだますのも、うまかった。

 今でこそ、「代理ミュンヒハウゼン症候群」という言葉が、ポピュラーに
なった。
その人を介護するフリをしながら、一方で、その人を虐待するという、
あれである。
ごく最近も、どこかの母親が、自分の子どもに、汚れた水を点滴しながら、
その一方で、よくできた母親を演じていた女性がいた(岐阜県S市)。

 介護する相手は、自分の子どもであることが多いが、実の両親や、義理の
両親に対して、それをする女性もいる。
他人が見ているときは、ベッドの上で、その人の背中をやさしくさすって
見せたりする。
その女性もそうだった。
義理の母親だったが、食事を与えない。
便の始末をしない。
冬の寒い日でも、暖房器具は使わず、そのままにしておいた、などなど。

 が、他人の目を感じたとたん、「よくできた嫁」に変身する。
言葉の使い方はもちろん、口調まで変えた。
だからその女性をよく知らない人たちは、その女性のことを、ことさら
高く評価した。
が、それこそ、その女性の望むところ。
他人をして、そう思わせることによって、自分の立場を維持していた。

●シャドウ論(ユング)

 が、その女性の長男が、傷害事件を起こした。
警察に逮捕された。
その少し前、二男も、交通事故を起こしている。
横断歩道で、自転車通行中の高校生をはね、そのまま逃げてしまった。
義理の母親が、老衰で亡くなってから、ともに数か月後のことだった。

 近所の人たちはみな、首をかしげた。
「あれほどまでによくできた母親なのに、どうして息子たちは、そうなって
しまったのか」と。

 しかしユングのシャドウ論をあてはめて考えれば、謎でも何でもない。
母親がその内に隠しもっていたシャドウ(=邪悪な影)を、2人の息子たちは
そのまま引き継いだ。
よくある話で、何でもない。
が、その女性には、それが理解できなかった。
しかもその女性は、人一倍、世間体を気にした。
小さな町で、その話は、みなに伝わってしまった。

●強度のストレス

 その女性が緑内障になったのは、長男が逮捕されたその翌日のことだった。
朝起きてみたら、視野が極端に狭くなっているのを知った。
いつもならそこに見えるはずの目覚まし時計すら、見えなかった。
トイレに起きたとき、廊下の柱に顔をぶつけた。

 異変に気づいたその女性は、夫にそれを話し、地元の救急病院へと
そのまま直行した。
医師は「強度のストレスが、緑内障を引き起こした」と診断した。
が、その女性は、それを罰(ばち)ととらえた。
いや、実際には、それを先に罰ととらえたのは、夫のほうだった。
夫は、その女性の虚像を、結婚当初から見抜いていた。
義理の母親(夫にとっては、実父)に対する虐待についても、
薄々、感じ取っていた。
だから夫は、すかさず、こう言った。
「お前は、罰が当たった」と。

 それを聞いてその女性は錯乱状態になった。
ギャーと叫んだあと、体中をばたつかせて、泣いた。

●自業自得

 この話は、最近、ワイフがどこかで聞いてきた話を、私なりに
アレンジしたものである。
実際にあったケースではない。
しかしこれに似たような話は、どこにでもある。
「似たような」というのは、病気の原因を自ら作りながら、それに
気がつかないまま、(病気という結果)を、罰ととらえるケースである。
俗に言う、「自業自得」。
さらに言えば、「自ら墓穴を掘る」、である。

 が、少し冷静に考えれば、こんなのは罰でも何でもない。
医師も言っているように、「強度のストレス」が、緑内障を引き起こした。
そしてそのストレスは、長男の逮捕によってもたらされた。
が、このとき、その女性が悩んだのは、長男の逮捕ではない。
世間体である。
もしその時点で、世間体を処理できれば、ストレスはストレスにならなかった
かもしれない。

 さらに2人の息子がともに事件を起こしたのは、元はと言えば、その原因は、
その女性自身にある。
もともとは邪悪な性格の女性と考えてよい。
その邪悪な部分を、2人の息子は、うしろから見ながら、それを引き継いで
しまった。
聞くところによると、その女性は、かなりわがままな人だったらしい。
息子たちに対しても、いつも命令するだけの人だった。

 親子らしい親子の会話もなかった。
それが子どもたちから、静かに考えるという習慣を奪い、それが2つの
事件へとつながっていった(?)。
そういうふうにも考えることもできる。

●罰とは?

 昔の人は、こうした(原因)と(結果)をつなげて、こう言った。
「親の因果、子にたたり」と。
しかし冒頭にも書いたように、私は、不可思議なパワーによる罰という
ものを認めない。
またあるはずもない。
もしそれを「不可思議なパワーによるものだ」と考えるなら、それは、
その人の無知と無理解、無教養によるものである。

 言い換えると、運命というのは、その時点、時点において、その人の
努力によって修正することができるもの、ということ。
それを支えるのが、日ごろの生き方、教養、それに文化性ということになる。
 
 もしその女性が、正直に生きていたら・・・。
世間体というものを気にしていなかったら・・・。
息子たちの悩みや苦しみを分かち合っていたら・・・。
その女性は、緑内障という運命を、避けることができたかもしれない。

 というわけで、そういう意味での罰(ばち)というのはたしかにある。
またそういうのを「罰(ばち)」という。
つまり、「罰(ばち)」というのは、その人自らが、つくりだすものという
こと。
それをここに書きたかった。


はやし浩司+++July 09+++Hiroshi Hayashi

●古いパソコン

+++++++++++++++++

現在、この文章を、パナソニック社製の「Let's Note」(CF−L1)
を使って書いている。
「Let's Note」の中でも、初代機。
当時の値段で、24万円もした。
が、購入直後から、故障つづき。
当時は、修理といっても、地元のパナソニックの代理店までもって行かねば
ならなかった。
最初の6か月のうち、3〜4か月は、会社のほうにあった。
が、私は、このパソコンが、たいへん気に入っている。
キーボードの感触が、たまらない。
で、購入日を見ると、「2000年9月」となっている。
が、これはおかしい?
「2000年9月まで保証期間」という意味かもしれない。
2000年には、すでにこのパソコンを使っていたはず。
それに、あれからたった10年とは、とても信じられない。
私には、遠い遠い昔のように思われる。
言い換えると、この10年は、ほんとうに長かった。

SDカードも使えない。
インターネットもできない。
キーを叩いたとき、反応も鈍い。
データの保存は、フロッピーディスクだけ。
(着脱式のCDドライブは、とっくの昔に壊れ、今は、端子をビニールで
端子を塞いで使っている。)
が、私は、このパソコンが好き。
このパソコンで文章を書いていると、叩いているだけで、気持ちよくなる。
何と言うか、長年苦楽を共にしてきた、古い友人のようでもある。

 このパソコンだけは、死ぬまで、大切にしたい。
(大げさかな?)

++++++++++++++++++++

●静岡県知事選挙

++++++++++++++

私は「浮動票の王様」。
支持政党はない。
が、そのつど私が投票する候補者は、
かならずといってよいほど、当選する。
今回も、そうだった。

が、それについて、中央のJ党は、
「僅差で敗れたのだから、政権には
影響はない」と言っている。
しかしこれは、ウソ。
「僅差」ではない!

J党は、SK氏(前副知事)を推した。
M党は、KK氏(前大学学長)を推した。
しかし実際には、M党からは、候補者が2人出ていた。
もう1人のUN氏は、元M党参議院議員。
つまりM党支持者は、2つに割れた。
割れた上で、J党が推したSK氏が敗れた。
もしUN氏が立候補していなければ、KK氏の圧勝で終わっていたはず。
具体的には、J党:M党=1:2で、終わっていたはず。

それを「僅差」とは?

なお、J党は、この静岡県を、「地方」「地方」と切り捨てている。

TBS−iビュースは、つぎのように報道している。

『…… 「地方選がこうだから、"総選挙がかくあるべし"ということは理念としては、切り離して
考えるべき」(甘利明 行政改革相)

 「地方選挙によって解散戦略が影響することは、ここはやはり私はないというふうに思ってお
ります」(自民党・菅義偉 選対副委員長)

 「落胆することなく今回の東京都議会議員選挙は、東京都の議会の代表を選ぶ選挙ですか
ら」(自民党・石原伸晃 幹事長代理)

 「我々も国政との関連は切り離して考えてきたわけであります」(河村建夫 官房長官)』と。

選挙前は、よほど「勝つ」という自信があったのか、静岡県知事選挙をはずみに、
国政選挙(衆議院議員選挙)に打って出る予定だった。
が、敗北したとたん、「地方の選挙にすぎない」と切り捨て、一方で、解散を延期する
動きを見せている。
「今、国政選挙をすれば不利」と、J党は呼んだ。

しかしこの「地方」という言葉に、カチンときたのは、私だけではないと思う。
全国の人たちも、そう感じたはず。

何が地方だ!
何が中央だ!

日本人に、地方も、中央もない!
この中央集権意識こそが、奈良時代からつづいた日本の負の遺産。
今、それが音をたてて崩れ始めている。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●ジョーク

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コンビニで、ジョークを集めた
本を買ってきた。
最近、この種の本を買うことが
多くなった。
「この種」というのは、値段が
手ごろで、読みやすいという意味
である。

その中のひとつを、紹介する。
(記憶によるものなので、内容は
かなりちがう。
また、このジョークを、外国の
友人にも送りたいため、まず英語で
書いてみる。)

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●殺人事件(A Murder)

One night a man called his wife over the phone when he was on his way back home.
But a young woman instead of his wife, answered the phone.

A Man "Who is it talking with me?"
A Woman "I am a maid that your wife has hired from today, sir."
A Man "OK, please get this phone to my wife."
A Woman "Sorry, sir. She can't answer this phone, for she is in her bed-room with a young 
man."

A Man, angrily, "Is she in her bed-room with a young man?"
A Woman "Yes, sir. She has been in her room for almost two hours now."
A Man "OK, try to find out the hand-gun in the locker near the table and shoot them down 
right now."
A Woman "…shoot them down to kill them?"
A Man "Yes. Kill them right now then you shall have 50 thousands dollars. Or I will kill three 
of you right after this. I am near my home now."

A Woman "50 thousands dollars? Or you will kill me?"
A Man, "Definitely yes!"

Then the man heard two shots over the phone.
…Bang! Bang!…

A Man "Did you kill my wife and the young man?"
A Woman "Yes, sir. I just did as you told me."
A Man "Good job. I will give you 50 thousands dollars very soon."
A Woman "By the way, sir, what shall I do with this hand-gun?"
A Man "Throw it into the swimming pool in front of the dining room."

A Woman "…A swimming pool? …but there is no swimming pool in this house nor in front of 
the dining room…"

A wise man advise you like this: 

When you make a phone-call to your wife, make sure if the number is correct or not.
(以上、へたくそな英語で、ごめん!)

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 私の英語力を暴露するようで、恐縮だが、
英語も使わないと頭の中でさびる。
しかし何とか友人たちには、通ずるだろう。
・・・ということで、今度は、その日本語訳。

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●ある殺人事件

ある男性が家に電話をした。
しかし電話に出たのは若い女性だった。
男「君は誰かね」
女「今日から奥様に雇われた、メイドです」
男「ワイフを電話口に出してくれ」
女「いえ、それができません。奥様は、2時間ほど前から、若い男と寝室にいらっしゃいます」

男「・・・何! 若い男と寝室にだと!」
女「そうでございます」
男「横のロッカーに、ピストルがある。それで2人を撃ち殺してこい。撃ち殺したら、5万ドル、お
前にやる。
女「5万ドル!」
男「そうだ、5万ドルだ。もし殺さなかったら、これからすぐ家に帰って、お前も殺してやる」

女「わ、わかりました・・・」

(バン、バンと2回、銃声が聞こえる)

男「殺したか?」
女「殺しました」
男「よくやった」
女「でも、だんな様、このピストルは、どうしましょうか?」
男「居間の前にプールがあるから、そこへ捨てて来い」
女「・・・だんな様、しかしこの家にはプールはありません。居間の前にもプールはありません」

賢者の言葉:家に電話をかけるときは、電話番号をよく確かめてからすること。


はやし浩司+++July09+++Hiroshi Hayashi

●老年期のダイエット

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私は今まで、ダイエットとリバウンドを、
数え切れないほど、経験してきた。
たいていは夏前に太り始め、夏の最中に、
ダイエットを始める・・・。

体重で言えば、68キロ前後になって
太りすぎと知り、そのつど、63キロ前後まで、
落とす。
この繰りかえし。
が、それにも、年齢制限がある。

私の知人を観察してみると、60歳を過ぎてからの
ダイエットには、危険がともなうということ。
というより、60歳ごろまでにきちんと適正体重に
しておかないと、そのあと体重を落とすのは、
たいへんむずかしい。

70歳になると、さらにむずかしくなる。
80歳になると、さらにさらにむずかしくなる。

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●太りすぎ

 太りすぎがよくないことは、よくわかっている。
しかし最近何かの本で読んだ報告によれば、やせ過ぎもよくないということらしい。
むしろやや太りぎみの人のほうが、長生きをするということもわかってきた。

 しかし、もちろん太りすぎもよくない。
体重が、足の関節や腰を痛める。
で、私はこの2か月と少しで、68キロ台から、現在、61キロ台にまで体重を
落とすことができた。
現在、満61歳だから、年齢的には、かなりきびしいダイエットということになる。
その(きびしさ)を、現在、体験しつつある。
理由を、順に、それらを書き留めてみる。

(1)運動量を、簡単にはふやせない。
ダイエットと並行して、運動をすることは絶対条件だが、「今まで以上に
運動を・・・」と言われても、それがむずかしい。
生活の習慣そのものを変えなければならない。
それに何ごとも、この年齢になると、新しいことを始めることが、おっくうになる。
今回、それまでの運動量に加えて、ほとんど毎日、8〜10キロの道のりを歩いた。
運動にはなっているが、足の裏が痛くなる(私)、足の関節が痛くなる(ワイフ)
という弊害も出てきた。 

(2)抵抗力が落ちる。
私のばあい、ダイエットを始めたとたん、体の抵抗力が落ちる。
具体的には、皮膚病にかかりやすくなる。
今まではそうだったので、今回は、栄養の補給には細心の注意を払った。
今のところ、これといった症状は出ていない。

(3)脂肪率は、簡単には、さがらない。
今回、ダイエットを始めるにあたって、最新型の体重計を購入した。
体脂肪率はもちろん、基礎代謝量まで測定できる。
が、それによっても、体重は7キロ前後まで減ったのに、体脂肪率は、
24・5%から、24%。
たった0・5%しか減っていない。
これはどういうことなのか?
体重は10%減ったのだから、それ以上に、体脂肪率も減ってもよいはず。

(4)虚脱感からキレやすくなる
空腹感はしかたないとしても、体が慢性的にだるくなる。
体重が減ったから、体を軽く感ずるということはない。
自転車をこいでいるようなとき、むしろ、体を重く感ずることがある。
それに空腹感を通り越すと、精神状態が不安定になる。
イライラしやすくなり、ときにカッと、つまらないことで、キレやすくなったりする。
これは血糖値の低下が、多分に関係していると思う。

(5)便秘になりやすい
ダイエットをしていると、便が出にくくなる。
出ても、固い。
だから数日置きに、漢方薬のセンナをのみ続ける。
が、その薬の量をまちがえると、今度は下痢状態になる。
その調整がむずかしい。

(6)慢性的なガス欠状態
当然のことだが、基礎代謝エネルギーそのものが不足するから、体は
慢性的なガス欠状態になる。
そのせいか(?)、いつも眠い。
何をしていても、眠い。
運動をする前も、運動をしたあとも眠い。
「ダイエットというのは、睡魔との闘いである」と言っても、過言ではない。
睡眠時間は、たっぷりととっているはず。
それに毎日、ちゃんと昼寝もしているはず。
それでも眠い。

(7)皮膚が、たれさがる
ダイエットしてみて、驚いたことがある。
何と、それまで太っていた体の各部が、たれさがるようになったこと。
太っているときは、モリモリしていたような部分が、である。
男の私でもショックを受けたほどだから、女性となると、そのショックもかなり
大きいのでは?
あるいは一度、伸びた皮膚は、元には戻らないということか。
皮膚がたるんでからのダイエットは、美容の面でも、問題がある。

 以上、問題点だけを、洗い出してみた。
もちろんこれは(私)のケース。
みながみな、そういうふうになるということではない。
運動の仕方も、いろいろある。

 が、それ以上に大切なことは、先にも書いたように、ダイエットには
年齢制限があるということ。
恐らく私の今ぐらいの年齢が、上限ではないか。
この年齢になると、ダイエットすることによるメリットよりも、デメリットの
ほうが目立つ。
ダイエットすることによって、さまざまな弊害が現れるようになる。
仮に運動量をふやさないまま、ダイエットだけをすると、体の抵抗力が
落ちてしまう。
持病がひどくなることだって、ありえる。

 だから私は、「今回が最後」と自分に言って聞かせて、ダイエットに臨んだ。
「今回、ダイエットに失敗したら、もう二度とつぎはない」と。
そういう点では、今回のダイエットには、どこか悲壮感が漂っている。

 で、今は、61キロ台。
この状態を、あとはキープ。
そのうち体のほうが、61キロで機能し始めるはず。
それまでまだ、気を緩めることができない。
がんばろう!


はやし浩司+++July09+++Hiroshi Hayashi※

●消息たずね(身勝手な好奇心)

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どうしてこんな、おかしな夢を見るのか?
ときどき、見る。
で、今朝は、起きがけに、高校時代の友人の
AK君の夢を見た。
AK君の実兄が、10年ほど前、自ら命を絶った。
そういう話は聞いていた。
そのAK君も、重い精神疾患を、患うようになったという。
私はその話を、2年前、中学の同窓会で
聞いた。

ところが、今朝、そのAK君が夢に出てきた。
その10年くらい前までは、年に1、2度、
我が家へ遊びに来てくれていた。
奥さんとも電話でよく話した。
が、そのころ、音信がプツリと切れた。

夢の中で、AK君が、こう言った。
「ぼくも、今度兄貴と同じように、自殺したよ」と。

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●電話

 何があってもおかしくない。
私もそういう年齢になった。
だからというわけでもないが、何を聞いても、このところ驚かなくなった。
知人が亡くなったとか、そういう話でも、淡々と聞き流せるようになった。
知人の大病についても、そうだ。
「つぎはぼくかなあ……」と。

 しかしこういう夢は気になる。
死んだ人が、わざわざ夢を借りてあいさつに来たような感じがする。

もちろん私自身はスピリチュアル(霊)的な力といものを、信じていない。
またそんな力が、私にあるなどとは思っていない。
夢というのは、脳の奥深くに潜む潜在意識、さらにその下の無意識が具現化したもの。
そこにある(意識できない意識)が、勝手な想像をする。
今朝見た夢も、そうだ。
しかし気になる。……気になった。

 が、こういう話は、自分で確かめておく必要がある。
しっかりと自分なりに結論を出しておく必要がある。
一度は、それをしておかねばならない。

 AK君の実家は、もう一人の兄が引き継いでいる。
名前も知っている。
さっそく(104)に電話をかけ、電話番号を確かめる。
つづいて、AK君の実家に電話を入れる。

 AK君自身も、実は、数年前から、重い精神病を患い、現在は、名古屋市の
そうした病院に入院している。
数年前に一度、見舞いに行ったきりになっている。

 電話には、AK君の妹氏が出た。
私は自分の名前と立場、それにたがいの関係をしっかりと話したあと、妹氏に聞いた。

私「AK君は、元気ですか?」
妹「……まだ名古屋の病院に入ったままです……」と。

●思いすごし

 やはり私の思いすごしだった。
AK君は、自殺など、していなかった。
よかった。
先日も、同じような夢を見たとき、ワイフがこう言った。
「あなたには、そういう超能力があるのかもしれないわ」と。
私は、笑って、吐き捨てた。
「バカなこと言うな」と。

 こういう話は、映画の世界ではおもしろい。
映画の世界でなら、ありえる。
死んだ人が、その能力のある人のところへやってきて、挨拶をする……。
しかしこれは現実の世界の話ではない。
現実の世界では、ありえない。
それを今回、確かめてみた。……みたかった。

結果、つまり消息をたずねてみた結果、私の思いすごしだった。
……ということがわかった。
やはり夢は夢。
夢だった。
脳みその、ただのいたずら。
脳の、奥深くに住む意識が、勝手に想像した。
それを知って、安心した。

私「お元気なら、それでいいです」
妹「何か、伝言があれば、伝えておきますが……」
私「いいです。今朝、AK君の夢を見たので、それで気になって電話をしただけですから」
妹「ご心配かけて、すみません」と。

 妹氏の話は、AK君からよく聞いていたが、声を聞いたのは、今朝がはじめてだった。
しかし……。
こうして私のまわりから、1人、2人……と、人が消えていく。
この淡々とした静けさこそが、不気味。
それを傍観しながら、どうして私はこんなにも冷静でいられるのか?
私はそれほどまでに、心の冷たい人間になってしまったのか?
こうした現象は、私だけに起きているものなのか?
それとも、ある一定以上の年齢になると、みな、そう考えるようになるのか?

 加えて、何というニヒリズム。
……私がAK君の実家に電話をしたのも、AK君を心配したからではない。
ただ単なる好奇心。
イヤ〜ナ好奇心。
それも自分の(思い込み)を確かめるための電話。
もっと言えば、ときどき見るおかしな夢を、自ら、否定するため。
わかりやすく言えば、自分のエゴ。
が、どうして私は、こんな残酷なことができるのか。

 ……このところ私の精神状態は、あまりよくない。
だから、こんな夢を見る。
そして意味のない電話をしてしまう。

そうそう気分を入れ替えるため、今日は、ワイフと近くの温泉風呂に行ってくる
つまり。
夜9時まで入れば、11時まで、入浴できるという。
中で、軽い食事もできるという。
一度、そこで心をリフレッシュしてくる。

(付記)
 世の中には、他人の不幸をのぞいては、それを楽しむ人たちがいる。
そういう低レベルな人たちがいる。
それをするのは、その人の勝手だが、されたほうは、たまらない。
そうした行為は、グサリと胸に突き刺さる。
胸をえぐられるような悲しみと言ってもよい。

 だから……。

 他人の不幸は、のぞいてはいけない。
世の中には、知らなくてもよいことは、山のようにある。
(一方、知らなければならないことも、山のようにあるが……。)
のぞけばのぞくほど、自分の品位をさげる。
よい例が、モーニングショー(テレビ)のゴシップ番組。

見るからに低俗なレポーターが、さも知ったかぶりをして、タレントたちのゴシップを
追いかけている。
ああいうことばかりしていると、ああいう人間になる。……なってしまう。

 そういう意味でも、ある一定の年齢になったら、つきあう人を選ぶ。
「選ぶ」といっても、勇気のいることだが、その勇気がないと、いつの間にか、
自分自身も低俗になってしまう。
が、それこそ、時間のムダ。
人生のムダ。

(付記2)

そこに不幸な人がいるなら、静かに、そっとしておいてやろう。
相手から何かを求めてきたら、すかさずそれに応じてやればいい。
しかしそれまで、静かに、そっとしておいてやろう。
まちがっても、人の不幸をのぞいてはいけない。
確かめてはいけない。

今朝の反省より。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●親類づきあいと、縄張り意識(Sectionalism, or Territorial Fight of the Families)

++++++++++++++++++++++

親類づきあいというのは、人間が本来的にもっている
縄張り意識と、深く関係している。

「?」と思う前に、こんな事例があるので、読んで
ほしい。
少し、話が入り組んでいるので、かみくだいて説明する。

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●意地で参列した葬式


Aさん夫婦(72歳と70歳)は、Bさん夫婦(67歳と60歳)とは、断絶していた。
Aさんの夫と、Bさんの妻は、兄と妹の関係。
数年前、実母が他界した。
その直後から、遺産相続問題が起きた。
毎週のように、実家で、怒鳴りあいの喧嘩を繰り返した。
それが発端となって、今は、行き来なし。
まったく、なし。

 で、A氏(兄)が、1億円近い現金をBさん(妹)に渡し、それで遺産相続問題は
解決した。
が、同時に、たがいに縁を切った。
切ったが、Aさん夫婦と、Bさん夫婦には、共通の親類や友人が、たくさんいた。
縁を切ったといっても、それぞれの人間関係が、複雑にからんでいる。
そうした人間関係まで、たがいに切ることはできない。

 そんなとき、Bさん夫婦の親(Bさんにとっては、義父)が、他界した。
Aさん夫婦は、新聞の死亡欄で、それを知った。
そこでAさん夫婦は、葬儀に出るべきかどうかで悩んだ。
迷った。

 縁を切っているから、(といっても、公に切ったわけではないが)、Aさんは
葬儀には出たくなかった。
それにBさん夫婦からは、何も連絡はなかった。
本来なら、Aさん夫婦は、Bさん家の葬儀には出なくてもよかった。

 しかし、Aさんは、こう考えた。
言い忘れたが、Aさん夫婦とBさん夫婦には、合わせて10人近い兄弟がいる。
それぞれが、何らかの形で、Bさん夫婦と関係をもっている。
「もし、葬儀に出なければ、みなに何と言われるかわからない」と。

●義理を欠く

 こうした世界には、恐ろしい言葉がある。
「義理を欠く」という言葉である。
こうした世界では、一度、親戚に「義理を欠いた」というレッテルを張られると、
以後、村八分にされる。

 「今どき、そんなことがあるのか?」と思う人も多いだろう。
しかし現実には、ある。
遠い山の中の、田舎の話ではない。
HONDAやSUZUKIの工場がある、この浜松市での話である。

 もしAさん夫婦が、その葬儀に出なかったら、Bさん夫婦以外の人たちは、「Aさんは
義理を欠いた」と判断する。
そして一度、そういうレッテルを張られると、Aさんは、親戚一同の中で、
自分の立場を失う。
そこでAさん夫婦は、葬儀に参列することにした。……参列した。

 あとでAさん夫婦は、こう話してくれた。
「葬儀の席では、Bさん夫婦とは、一言も言葉を交わしませんでした」と。

●たかが葬儀

 親にも、いろいろある。
兄弟姉妹にも、いろいろある。
人間関係は、みな、ちがう。
「自分がそうだから」という理由だけで、「相手もそうだろう」とか、「そうあるべき」
と考えてはいけない。

 葬儀についても、そうだ。
葬儀を一生の一大事に考える人もいる。
しかし「たかが葬儀」と考える人もいる。
そこには、その人の死生観のみならず、人生観、哲学、思想が凝縮される。
「儀式はあくまでも儀式」。
「大切なのは、中身」。

……私などは、むしろそう考えるほうなので、「葬儀など、出たい人は出ればいい。
出たくなければ、出なくてもいい。義理に縛られることはない」と考える。
しかしこの考え方は、一般的ではない。
だから、妥協するところは妥協しながら、適当に参列したりしている。

 が、Aさん夫婦も、Bさん夫婦も、そうではなかった。
親戚の人たちも、そうではなかった。
それをよく知っていたから、Aさん夫婦は、Bさん夫婦の葬儀に参列した。

●縄張り意識

 こうした人間の行動性の原点にあるものは、何か?
それを一言で表現すれば、「縄張り意識」ということになる。
原始の昔から、人間が本来的にもっている縄張り意識である。

 少しでも支配的立場に自分を置いて、自分にとって居心地のよい世界を作る。
その上で、優越性を確保する。
ついで、上下関係を維持で、命令と服従とでなる権力関係も作りあげる。

 こうした縄張り意識は、人間だけの特有のものではない。
ほとんどの哺乳動物が、同じような意識をもっている。
逆に、そうした動物たちの縄張り意識を観察してみると、人間がもつ縄張り意識を
理解できることがある。
わかりやすい例でいえば、サルの世界がある。
イヌの世界も、そうである。

 そこでこの縄張り意識を、さらに解剖していると、そこに強烈な相互依存関係が
あるのがわかる。
「群れ意識」と言ってもよい。
とくにアジア系の民族は、この群れ意識が強い。
群れから離れることを恐れる。
それが強烈な相互依存関係となって、人間どうしを、縛る。
それが縄張り意識となり、さらに親戚づきあいとなる。

 だから親戚づきあいをやめるということは、それ自体が、恐怖心となって、
はねかえってくる。
相当の神経の持ち主でも、親戚づきあいを断ち切るということについては、
かなりの抵抗感を覚える。
言うなれば、親戚づきあいをやめるということは、自ら、「根」を切ることを
意味する。

●崩れる意識

 が、悪いことばかりではない。
日本は今、第二、第三の意識革命の波にさらされている。
日本人の意識が、そのつど大きく変化しつつある。

 葬儀にしても、葬儀すらしない人もふえている。
僧侶なしで、家族だけで、葬儀をすます人もふえている。
都会地域では、直葬方式で葬儀をすます人が、30%(中日新聞)にもなっている。
このあたりの地方でも、初盆、さらには一周忌の法要すらしない人も多い。
またそういう人たちが、過半数を超え、大勢をつくりつつある。

 親類づきあいにしても、田舎の農村地域は別として、ますます希薄になってきている。
それが悪いというのではない。
新しい形での(つきあい方)が始まっている。
さらに言えば、「おかしいものは、おかしい」と、声をあげる人もふえている。
そう、たしかにおかしい。
義理にしばられ、自分の主義主張をねじまげる。
どうしてそこまでして、葬儀に出なければならないのか?

●他人以上の他人

 言うまでもなく、(依存)と(自立)は、反比例の関係にある。
依存性の強い人は、それだけ、自立していないということになる。
自立している人は、それだけ、依存性が弱いということになる。
が、今、日本人も、ゆっくりだが、しかし確実に、欧米並みに、自立の道を
模索し始めた。

 私のばあいも、濃厚な親戚づきあいのある世界で、生まれ育った。
しかし振り返ってみて、その親戚が、何をしてくれたかというと、実のところ、
何もない。
父親系、母親系で、「おじ」「おば」と呼んだ人は、12世帯あったが、一泊でも
泊めてくれた人は、1人しかしない。
私の家が実家ということもあって、みな、平気で寝泊りをしていったが、その逆は
数えるほどしかない。

 兄弟姉妹ですら、付きあい方によっては、他人以上の他人になる。
Aさん夫婦、Bさん夫婦の例をあげるまでもない。
いわんや親類をや!

 私たちは私たちで、生きていく。
自立していく。
こうした生きざまは、そのまま国の生きざまとして反映されることもある。
が、それはともかくも、これを「後退」ととらえてはいけない。
私たちは、その一方で、新しい生きざま、人間関係を模索し、構築しつつある。
兄弟姉妹関係についても、表面的な義理ではなく、中身を見ながら構築しつつある。
またこの先、日本は、そういう方向に向かって進んでいく。

 恐れることはない。
心配することもない。
私たちは、自信をもって、前に進めばよい。
なぜなら、それが世界の常識。

 「義理を欠いた」と、排斥するようなら、排斥させておけばよい。
どうせ相手は、その程度の人間。
サルかイヌに近い意識しかない。
所詮、親戚づきあいというのは、その程度のもの。
繰り返すが、動物のもつ縄張り意識が変化したもの。
それ以上の意味は、ない!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 
林浩司 BW BW教室 縄張り意識 親戚づきあい はやし浩司
親戚付き合い 義理 義理を欠く)


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●子どもの虚言癖

++++++++++++++++++

「子どもは家族の代表」という考え方が、
現在では、主流的な考え方です。
というより、今では、常識。

子どもに何か問題が起きたときは、
それを「家族全体の問題」として考えます。
子どもだけを見て、「直そう」と考えては
いけません。

E県のESさん(母親)から、子どもの
虚言癖について、メールが届いています。
この問題を、いっしょに考えてみたいと
思います。

++++++++++++++++++

【ESさんより、はやし浩司へ】

小学校6年生の息子のことでご相談させてください。

先日、息子の通学用のかばんから危ないものが出てきました(料理用の小型ナイフ)。
その前に、台所で何かに興味を示していたので、息子が自分でかばんに入れて
学校に持って行ったものと思い、
「危ないから、そんなものはもって行ってはいけない」と注意すると、
絶対自分はかばんに入れていない、自分ではない、と強く反論しました。

それでも内心嘘をついていると思いながらもあまり問い詰めず、そのままになりました。

翌朝、もう一度、もって行ったことはともかく、嘘をついたことが気になり、
学校に登校する前に「本当は持って行ったんじゃないの」と聞きましたが、
泣きながら、絶対に自分は知らない、と反論しました。

それですっかり怖くなってしまったのですが、
嘘をついているなら、まだましで、本人の記憶が飛んでいるのではないかと
思うほど、自分でも「もって言っていない」と、信じ込んでいる様子なのです。

普段から生活態度がだらしなく、細かいことまで沢山注意したり叱ったりすることも多く、
バイオリンを小さい頃から習っていて、その練習でも親子喧嘩が絶えず、
ストレスがたまった結果、こんなことになったのか、と悩んでいます。

子供はこうやって都合の悪いことを、本当に忘れたりすることがあるのでしょうか。
それともやはり分かっていて嘘をついているのでしょうか。

病的行動との心配があるならどう対処したら良いのでしょうか。

どうしてよいか分からず、悩んでいます。

【はやし浩司より、ESさんへ】

 いくつかの点で、気になることがあります。

(1)「かばんから……」という部分
(2)「泣きながら……」という部分
(3)「親子喧嘩が絶えず……」という部分
(4)「すっかりこわくなって……」という部分
 
 子どもの虚言で注意しなければならないのは、「空想的虚言(妄想)」です。
それについては、たびたび書いてきましたので、一度、「はやし浩司 空想的虚言」で
検索してみてください。
(私のHPのトップページ、子育てあいうえおを参考にしてください。)

 SEさんのお子さんのばあいも、その空想的虚言が疑われます。
心の中に別室を作り、その中に、いやなことや、思い出したくないことを、
閉じ込めてしまいます。
心理学的には、「抑圧」という言葉を使って説明されます。
自分の心を守るために、いやなことを閉じ込めるという防衛機制をいいます。
この抑圧についても、たびたび書いてきました。

 一般的には、気の抜けない、強圧的な過干渉が慢性化すると、子どもは自分の心を防衛す
るために、いわゆるシャーシャーとウソをつくようになります。
そしてひとつのウソがバレると、また新たなウソをつきます。
それがひどくなると、先に書いた、空想的虚言となるわけです。
(たった一度の、衝撃的な事件がきっかけで、空想的虚言をつくようになる子どももいます。)

 で、この抑圧で怖いのは、ふだんは何ともなくても、時と機会をとらえて、突発的に
爆発するということです。
俗に言う「キレる」原因の一つになることもあります。
「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と、です。
古い、とっくの昔に忘れたはずのできごとを、つい昨日のできごとのように思い出して、キレる
のが、特徴です。
(30歳になっても、40歳になっても、子どものころのことを、つい昨日のできごとのように思い
出して、錯乱的に怒ったりすることもあります。
心の別室の中では、時間は止まったままになります。)
が、抑圧イコール、空想的虚言ということではありません。
子どもの心理は、もう少し複雑です。

 で、それについて書く前に、気になった点を並べてみます。

(1)「かばんから……」……私は、生徒はもちろん、ワイフのかばんすら、中をのぞいたことが
ありません。いわんや息子たちのかばんをのぞいたことは、ただの一度もありません。そういう
私ですから、それが許されることなのか、許されないことなのかという議論はさておき、ESさん
の行為が、私には、理解できません。

(2)「泣きながら……」……ふつうは、(「ふつう」という言葉は、あまり使いたくありませんが)、
この程度のことで、子どもは泣かないものです。どうしてそこまでたがいに感情的になってしま
うのでしょうか。責める側(=ESさん)にも、子どもの側にも、心の余裕が感じられないのが、
気になります。

(3)「親子喧嘩が絶えず……」……私も小学生のとき、バイオリンをやらせられ、たいへんいや
な思いをした経験があります。結果、大の音楽嫌いになってしまいました。小学生のころ、「音
楽」という言葉を聞いただけで、ゾーッとしたのを、覚えています。

(4)「すっかりこわくなって……」……お子さんが小3であることを考えるなら、親子関係はすで
に、かなり危険な状態に入っているとみますが、いかがでしょうか。

●過去の事例から

 似たような事件で、印象に残っているのが、2つあります。
ひとつは、月謝袋をバスの中で落としたと言い張った女の子(小4)。
落としたときの様子を、ことこまかに説明したので、私はウソと判断しました。

 もう1人は、私の教室でおしっこを漏らしたと母親に告げた男の子(年長児)。
「林先生(=私)が、床を拭いてくれた」と母親に言いましたが、私には覚えがありません。
それで母親が問い詰めると、今度は、「園バスの中でもらした」と。
が、バスの運転手さんや、同乗の先生に聞いても、「知らない」と。
結局、その子どもは、バスをおりてから、家に帰るまでの間にもらしたということになりました。
「どうしてママに言えなかったの!」と叱られるのがいやで、そういうウソをついたのでしょう。

●二番底、三番底

 この種のケースで注意しなければならないのは、二番底、三番底です。
けっして「今が最悪」と考えてはいけません。
「子どもを直そう」と考えるのも、危険です。
(簡単には、直りませんから……。)

 対処の仕方をまちがえると、「まだ以前のほうが症状は軽かった……」ということを繰り返しな
がら、さらに症状はこじれます。
もっと大きな問題を引き起こすようになります。
まだ小3ですから、まにあいます。
今は、「これ以上、問題(=子どもの心)を、こじらせないこと」だけを考えて、対処してください。

 大切なことは、ESさんの、育児姿勢、態度を、改めることです。
子どもだけを見て、ESさんは、自分の姿を見ていません。
冒頭に書いたように、子どもは、家族の「代表」にすぎないのです。
そういう視点で、率直に反省すべきことは反省します。

●気になる不信感

 ESさんの子育てを総合的に判断すると、いわゆる「不信型の子育て」ということになります。
「信じられない」という不安感が、過干渉の原因になっています。
が、この問題は、「根」が深いです。
時期的には、0〜2歳までさかのぼります(エリクソン・心理社会発達理論)。
母子の間の、基本的信頼関係の構築に失敗したとみます。

 ESさんのほうが、お子さんを全幅に許してこなかった。
その結果、ESさんがお書きになっているように、「普段から生活態度がだらしなく、細かいこと
まで沢山注意したり叱ったりすることも多く……」ということになったと考えられます。

 「だらしない」という基準は、どこにあるのでしょうか。
どこの子どもも、だらしないものですよ。
だらしなくない子どもなど、いないと考えてください。
ESさんの思い通りにならないからといって、「だらしない」と決めつけてはいけません。
むしろ逆で、子どもは学校という職場で、疲れきって帰ってきます。
家の中で、ぞんざいになっても、それはそれでしかたのないことです。
(とくにESさんのお子さんは、そうではないでしょうか。)
むしろ家の中では、したいようにさせ、羽を伸ばさせてやる。
それが「家庭」の基本です。

 私があなたの子どもなら、こう言うでしょうね。
「うるさい、放っておいてくれ!」と。

●では、どうするか?

 何よりも大切なことは、ESさん自身が子どもを信ずることです。
このままでは、(互いの不信感)→(親子のキレツを深める)→(ますます互いに不信感をもつ)
の悪循環の中で、やがて親子の断絶……ということになります。
(すでに今、その入口に立っていると考えてください。
さらに症状が悪化すると、あいさつ程度の会話もできなくなりますよ。)

 といっても、この問題は先ほども書いたように「根」が深く、簡単には解決できません。ESさん
が、「では、今日から、私は子どもを信じます」と言ったところで、そうはいかないということで
す。

 仮にそれができたところで、今度は、子どもの固まった心を溶かすには、さらに時間がかかり
ます。
それについては、とても残念なことですが、すでに手遅れかもしれません。
小3という時期は、そういう時期です。
年齢的には、思春期前夜に入るころです。
親離れを始める時期と考えてください。
ESさんのお子さんがもっている、ESさんへの印象を、ここで変えることはできません。

 では、どうするか?

 あきらめて、それを受け入れる、です。
勇気を出して、あきらめなさい。
『あきらめは、悟りの境地』と考えてください。
押してだめなら、思い切って引くのです。
親のほうがバカになって、頭をさげるのです。

 どこの家庭も、ESさんのような問題をかかえています。
うまくいっている家庭など、100に1つもないと考えてください。
そして一方で、裏切られても、裏切られても、『許して、忘れる』を繰り返してください。
その度量の深さで、あなたのお子さんに対する愛の深さが試されます。

 メールを読んだ範囲では、あなたの子育ては、「取り越し苦労」と「ヌカ喜び」の繰り返しといっ
た印象を受けます。
カバンの中にナイフ……というのは、ふつうではないと思いますが、しかしそれを見てパニック
になってしまう。

 いいですか、「心配だ」「心配だ」と思っていると、本当に、(あるいはさらに)、心配な子どもに
なってしまいますよ。
こういうのを「行為の返報性」といいます。
(これも、「はやし浩司 行為の返報性」で検索してみてください。
参考になると思います。)

 そこで私が今できるアドバイス……

☆「あなたはいい子」「すばらしい」を、口癖にして、あなた自身の心をだまし、作り変えること。

☆子どものほうに目が行き過ぎていませんか。もしそうなら、子どものことは構わず、あなたは
あなたで、したいことを、外の世界ですること。
母親でもなく、妻でもなく、女でもなく、ひとりの人間として、です。

☆「子どもに好かれよう」とか、「いい母親でいよう」とか、「いい親子関係を作ろう」という幻想
は、もうあきらめて、捨てること。またそういう気負いは、あなたを疲れさせるだけです。
とくに「おとなの優位性」を捨てること。

☆「今の状態をこれ以上悪くさせないこと」だけを考えて、あとはもう少し長い時間的スパンで、
ものを考えてください。1年とか、2年です。あとは時間が解決してくれます。あせればあせるほ
ど、逆効果。それこそ二番底、三番底に進んでしまいますよ。

●ESさんへ、

 かなりきびしいことを書きましたが、あなたのお子さんの問題は、実は、あなた自身の問題と
いうことに気がついてくだされば、うれしいです。
「なぜ、子どもがウソをつくのか」「ウソをつかねばならないのか」、そのあたりから考え直してみ
てください。

 それを「病的」と、子どもの責任にしてしまうのは、あまりにも酷というものです。
ひょっとしたら、あなた自身が、自分が子どものころ、全幅に親に甘えられなかったのかもしれ
ません。
あなたの親に対して、心を開くことができなかった。
あるいは結婚当初の何らかのつまずきが、そのあとの(心配の種)になってしまったことも考え
られます。

 そんなわけで私があなたのお子さんなら、あなたにこう言うでしょう。

「ママ、もっと心を開いて、ぼくを信じて!」と。

あなたのお子さんがあなたに求めているのは、ガミガミ、キリキリと、やりたくもない音楽の練
習ではなく、「友」です。
親意識が強く、支配的に上に君臨する女帝ではなく、「友」です。

 さあ、あなたも、一度子どもの世界に身を落として、友として、お子さんの横に立ってみてくだ
さい。
時間はかかりますが、やがて少しずつ、あなたのお子さんは、あなたに対して心を開くようにな
るでしょう。
それがあなたにも、わかるようになるはずです。
と、同時に、あなたはお子さんといっしょに、第二の人生を楽しむことができるようになります。
そう、「楽しむ」のです。

 子育ては、本来、楽しいものですよ!

 最後に一言。
『許して、忘れる』です。
(「はやし浩司 許して忘れる」を検索してみてください。)

 では、今日は、これで失礼します。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW BW教室 子どもの虚言癖 虚言 空想的虚言 親子断絶)


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司 

●庭のすずめ

+++++++++++++++++++

私の家の裏庭は、鳥の楽園。
裏庭全体が、大きな鳥小屋のようになっている。
すずめ、もず、ヒヨドリ、むくどり、つぐみが
やってくる。
それにカラスなど。
ときどき白鷺(さぎ)まで、やってくる。

そのすずめを見ていて、今朝、こんなことに気がついた。
庭にまいた餌がなくなると、すずめたちは、木々の
枝や畑の中に入って、何かをつまんで食べている。
ワイフは何かの虫のようというが、多分そうだろう。
この時期のすずめは、益鳥である。
虫を餌にする。
もしそうなら、つまり虫を食べてくれるなら、
「恩返し」ということになる。
私がワイフに、「すずめの恩返しだよ」と言うと、
「そうかもね」と。
ワイフは笑った。

毎朝、起きると同時に、手で2つかみ分ずつ、餌を
庭にまいている。
今朝もはじまった。
7月11日。

+++++++++++++++++++++

●土曜日

 午前中から、今日は中元のあいさつ回り。
午後も、あいさつ回り。
夕方は、義兄にあいさつ。
いろいろ世話になっている。
息子たちの身元保証人にもなってもらっている。

 帰りは夕方5時ごろになるかもしれない。
ワイフと道順を相談しながら、そんな結論になった。

(今度買う車には、かならずカーナビを装着するぞ!
カーナビがあれば、無駄なく、市内を回れる。)


●映画『ノウイング(Knowing)』 

昨夜、仕事が終わってから、深夜劇場に足を運んだ。
観たのは、ニコラス・ケイジ主演の『ノウイング』。
星は4つの、★★★★。
劇場で見て、損はない映画。
じゅうぶんおもしろかった。

 内容は、平たく言えば、人類滅亡映画。
最後に人類は、ごく一部の人間(子どもたち)を除いて、あっさりと滅亡してしまう。
今までの地球危機映画とは、一線を画す。
ヒーローはいない。
もちろんハッピーエンドで終わる映画でもない。
ワイフは見終わったあと、こう言った。
「とうとうこんな映画が出てきたわね」と。
つまり人類滅亡も、SF映画が先行する形で、現実のものになりつつある。
観終わったあと、そう思った。

 まったくの同感である。
最後に宇宙人が、わずかの数の人間だけを、どこか別の惑星に移住させる
というのも気になる。
旧約聖書を類推させるようなシーンもあった。
観終わったあと、私とワイフは、こんな会話をした。

私「どこかのカルト教団では、最後の審判のとき、天から神が降臨し、
その宗教を信じた人だけが、救われると教えているよ」
ワ「あら、そうね。あの映画は、どこかの宗教団体がスポンサーに
なっているのかしら?」
私「そんなことはない思うけど、そう疑われてもしかたないかもね……」
ワ「……でも、どこか宗教じみた映画だったわ」
私「そうだね」と。

 転々とストーリーが展開して、飽きない。
(最初の数シーンを見ただけで、結末がわかってしまうような映画も
中にはあるが……。)
最後まで、最後にどうなるか、私にも想像できなかった。
こういう映画はおもしろい。
だから星は4つ。
家に帰って時計を見ると、午後11時30分を過ぎていた。


●丸和のギョーザ

 中元回りの途中で、このあたりでも有名な、ギョーザ屋に立ち寄った。
『丸和』(実名)というギョーザ屋である。
このあたりでは、たいへんよく知られた店である。
安くて、おいしい。
私たちは、ギョーザというと、いつもこの店で買っている。

 で、帰りに義兄の家にも立ち寄るため、みやげは、ギョーザにした。
が、この店は、いつ来ても、長蛇の列。
30〜40分待ちは、当たり前。
私とワイフは、玄関先に出してある椅子に座って、順番を待つことにした。

 営業日は、火曜日〜土曜日、9:30〜18:00。
定休日は、日曜日と月曜日。
玄関先のガラス戸には、そう書いてある。

 場所は、ジャスコ・志都呂店から北へ、車で5分ほどのところ。
みやげとしても喜ばれる。
「浜松」と言えば、ギョーザ。
どこかへ行くときは、ここでギョーザを買っていくとよいかも。
丸和からまっすぐ北へ車を走らせれば、10分ほどで、東名浜松西
インターにつながる。

私が知るかぎり、浜松ではイチ押しのギョーザ屋である。
言い忘れたが、売っているのは、生ギョーザだけ。
看板には、「持ち帰り専門店」とある。
調理は、自分でして食べる。

丸和さん、これからも安くておいしいギョーザをお願いします。
いつもありがたくいただいています。


●うなぎ丼

 昨日、千葉に住む三男に、浜松のうなぎを送った。
が、それをメールで連絡すると、「明日から東南アジアを回る」と。
ア〜ア。
が、幸いなことに宅配会社に連絡すると、まだ冷蔵倉庫に入った
ままとか。
すぐワイフが、取り戻しに行く。
……というわけで、今朝は、何と、朝食にうなぎ丼。
こんな豪華な朝食は、10年来、はじめて(?)。

 三男にしてみれば、新婚旅行のようなものらしい。
奥さんは、旅行が趣味とか。
これから先、三男夫婦は、思う存分、世界中を旅行できる。
「うらやましい……」ということになる。
が、飛行機嫌いの私は、あまりうらやましいとは思わない。
しかしそれとは別に、自分でしたいことを存分できるというのは、よい。
仕事と趣味が、一致している。
三男も嫁さんも、航空会社のJ社勤務。

 またそのうち何か連絡してくるだろう。
で、今夜は、うちもギョーザ。
ニンニクをたっぷりとつけて食べる。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●宇宙人

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数日前、バラエティ番組のひとつが、
「UFO」を特集していた。
見るに耐えないというか、お粗末な
内容だった。

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●宇宙人論

 宇宙人がいるとか、いないとか。
さらには、「いるなら、どうして出てこないのか」とか。
別の男性は、宇宙人からメールが届いたというようなことを言っていた。
またひとりの若い女性は、「これだけ進化した人間を、宇宙人が見捨てるはずがない」
というようなことを言っていた。
(以上、聞き覚えなので、内容は不正確。)

 このバラエティ番組では、定期的にUFO問題を取り上げている。
が、そのつど、イチからのやり直し。
まったく進歩がない。
つまり番組全体+出演者全員が、「輪形彷徨(ループ状態)」に入り込んでしまっている。
若い女性の「これだけ進化した人間を、宇宙人が見捨てるはずがない」という
意見には、思わず、笑ってしまった。

●なぜ宇宙人は、姿を現さないか?

 理由のひとつとして考えられるのは、数、つまり(人口)そのものが、少ない。
住んでいる場所が、月内部なら、月内部でもよい。
しかしその数は、数千人から、多くても数万人規模。
あるいはそれよりも、ずっと少ないかもしれない。

 今までいろいろなタイプの宇宙人が目撃されている。
その中でも、身長が2メートル前後もある大きな宇宙人が、彼らの世界の中での
私支配者ではないかと、私は思っている。
地球へやってくる、通称「グレイ」と呼ばれる宇宙人は、ただのロボットに過ぎない。
大型の宇宙人の命令に従って、地球や人間を監視している。

 あのホーキング博士も言っているように、「2種類の知的生命体は、共存できない」
という原則に従うなら、彼らとて、人間を恐れている。
おいそれと自分の姿を現すわけにはいかない。

●人間は進化したか

 視点を変えてみよう。
「もし私が宇宙人なら」という視点で考えてみる。
「もしあなたが宇宙人なら」でもよい。
「もしあなたが宇宙人なら、あなたは人類の滅亡を、阻止するだろうか」と。

 答えはとても残念ながら、「NO!」である。

 もし人間のような邪悪で、好戦的な生物が宇宙にまん延したら、それこそ宇宙は、
たいへんなことになる。
この地球上で、人間は、いたるところで戦争を繰り返している。
この日本にすら、権力欲にとりつかれたような総理大臣がいる(09年7月)。
もしこんな生物が、強力な武器を手にしたら、宇宙は、どうなる?
ほんの少しだけ常識を働かせば、こんなことはだれにでも、わかるはず。

 そんなわけで私は、「これだけ進化した……」という意見には、思わず、笑ってしまった。

●人類の滅亡

 もし彼らが人類を残すとしたら、あくまでもサンプル程度。
それこそ多くて、数千人規模でじゅうぶん。
それでも多すぎるかもしれない。
それを映画で表現したのが、ニコラス・ケイジ主演の『ノウイング』ということに
なる。

 で、このままであれば、残念ながら人類は自ら、滅亡する。
地球そのものが、人類の生存に適さなくなる。
地球温暖化は確実に進行している。
そのための会議も、空回りばかりしている。
宇宙人に言わせれば、「ホープレス(望みなし)」ということになるのでは?

 (だからといって、会議に出ている人を責めてはいけない。
だれがやっても、結論は、同じになるだろうと思う。
つまりそれが人間のもつ英知の限界ということになる。)

●マヤの予言

 ついで、マヤの予言が飛び出した。
何でもマヤの暦(こよみ)は、2012年12月21日(数字は不正確)に終わって
いるという。
それを根拠に、「人類は、そのとき滅亡する」とか?

 2012年12月といえば、あと3年と少し。
ヘ〜〜エ!
またまた出てきた、インチキ予言。
私たちは、あの『ノストラダムスの大予言』で何を学んだというのか。
どれだけ賢くなったというのか。

 平和な時代が半世紀もつづくと、人間は、自ら不安を作りあげ、それを楽しむ
ようになる。
「平和」そのものがもつ閉そく感を、打ち破りたい衝動にかられる。
さらに言えば、「自分だけは、選ばれた人間になりたい」と願う。
幼稚な自己中心性の表れとみていよい。
それはわかるが、そういうことは、映画館の中だけですればよい。
それでもって、「人類は2012年に滅亡する」と騒ぐのは、バカげている。
本当にバカげている。

●しかし……

 UFO問題が、どこかカルト化している点、あるいはその可能性が高い点については、
じゅうぶん、警戒したほうがよい。
すでにそうした方向性をもって動いている団体は、いくつかある。
過去にも、そういう例がある。

 つまりUFO問題は、それ自体が、カルト化、つまり信仰化する要素を内在している。

(1)神格化しやすい
(2)神秘性をもっている
(3)超越性をもっている

 それを支える人類危機説。
人々の心理が不安定になると、こうしたカルトは急速に力をます。
勢力を伸ばす。

 宇宙人はいる。
しかもこの地球の近くにいる。
それは事実としても、私たちは冷静に、この問題を考えなければならない。
たとえば宇宙人なるものが、明確に私たちの前に姿を現したとしたら、そのとたん、
世界の宗教は大混乱に陥る。
それがさらに社会不安を引き起こし、人間の心は乱れに乱れる。

 「どうして姿を堂々と現さないのか」というような単純な問題では、ない。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●J社社員の年金

+++++++++++++++

航空運輸会社に、J社という会社がある。
そのJ社の社員の年金が、国民年金、厚生年金、
それに企業年金の3つを合わせて、
平均で、月額50万円弱もあるという(新聞報道)。
年間になおすと、600万円弱!

+++++++++++++++

もっともこの程度の年金なら、それほど
珍しくない。
大手商社のばあい、もっと多い。
「公的年金など、はした金」と、彼らは言う。
それほどまでに、多い。

が、なぜ、それほどまでに多いか。
一説によれば、「口止め料」とか。
商社マンというのは、そのつど、たいへん
きわどい仕事をしている。
そうした仕事の内容を、退職後口外されたら、
それこそ、たいへんなことになる。
だから「口止め料」と。
そんな話を、電話で友人と話しながら、
私はこう言った。

「それだけの年金があれば、死ぬまで
遊んで暮らせるよね」と、友人が言った
ときのこと。
「遊べと言われても、遊べるものでは
ないしなア・・・」と。

そう、「遊びなさい」「休みなさい」と言われて、
遊べるものではない。
休めるものでもない。
年金の額ではない。
(もちろん年金は多ければ多いほど、よいが・・・。)
私たちが求めるのは、(生きがい)。
生きがいなくして、老後はない。

で、あなたなら、どちらを選ぶだろうか。

(1)50万円の給料をもらって、働く。
(2)50万円の年金をもらって、遊ぶ。

今の私なら、迷わず(1)を選ぶ。
仕事をすることから得られる緊張感は、お金では買えない。
それに遊び始めたとたん、体がなまけてしまい、
元に戻れなくなる。
ほとんどの人が、そうである。
そのあとは、老後というよりは、「死」に向かって
まっしぐら!

・・・それに、「だから、それがどうしたの?」
という問いに、答えのない人生ほど、意味がないものはない。
これには老いも若きもない。
・・・というのは、言い過ぎということは、
私にもわかっている。
しかし、それほどまちがってはいない。

平たく言えば、遊んだからといって、それが
どうなの?
遊び始めたとたん、1年を1日にして生きるだけ?
今の私は、そんな人生には、とても耐えられない。
だから、いくら忙しくても、働いていたほうがよい。

話が脱線したが、このところ年金の話になると、
ビリビリと、脳みそが勝手に反応してしまう。
そしてそのつど、「いいなあ」とか、「たいへんだなあ」と
思ってしまう。

 で、私のばあいは、年金といっても、月額6万4000円前後。
国民年金だけ。
しかも満65歳からということになっている。
が、こんな額では、とても生活できない。
だからまったくアテにしていない。
アテにしていないというより、「年金で遊んで
暮らす」という発想、そのものがない。
だから(1)の「50万円の給料をもらって、働く」を
選んでしまう。
選ぶしかない。

 しかし私は、これでよかったと思う。
その(きびしさ)が、心の中に、ある種の緊張感を作る。
その緊張感が、私の人生を、かえって豊かなものにする。

もし今の私が、毎月50万円もの年金を手にしたら、
勤労意欲そのものが、消えてしまうだろう。
あっという間に、ボケてしまうだろう。
1年を1日にして、生きるようになってしまうだろう。

 ・・・と書くのは、私のひがみかもしれない。
自分をなぐさめるために、(というのも、どうあがいても、
今さら年金の額をふやすことはできないので)、自分の立場を
無理に合理化しているだけかもしれない。

 それにしても、このところこうした不公平感を覚えることが、
やたらと多くなった。


はやし浩司+++July09+++Hiroshi Hayashi

●教職という職業の特殊性

 教職という仕事は、おもしろい仕事である。
それから離れたとたん、教職という仕事を通して得た
知識や経験が、そのまま真っ白になってしまう。
これは私の意見ではない。
長い間、教職についていた人は、みな、そう言う。
中には、「教育には、二度と携わりたくない」という人もいる。

 これはたいへん興味深い現象である。
理由はわからないが、教職という仕事には、たしかにそういう
面がある。
「子どもと接しているときだけが、仕事」。
そう考えてよい。

たとえばこの私でも、休暇が数日つづいただけで、子育て論が
書けなくなってしまう。
(これは本当だぞ!
大げさなことを言っているのではない!)
事実は事実。
これは教職という職業だけがもつ、特殊性と言ってもよいのでは?


Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●七夕(たなばた)

 七夕の短冊のひとつに、こんなことが書いてあった。
テレビでかいま見た、1シーンだった。
若い女性の字だった。
「どうか、10キロ、やせられますように」と。

 それを読んで、「10キロは、たいへんだな」と思った。
2、3キロなら、何とか、なる。
しかし10キロともなると、かなりの覚悟が必要。
減量するだけなら、食事制限がある。
食事制限だけでも可能だが、そんな無茶なやり方を
すれば、体のほうが先に壊れてしまう。
ダイエットは、いつも運動とペアでなくてはならない。
その運動がつらい。
相当の決意がないと、その運動をこなすことができない。

 で、私も目下、ダイエット中。
慢性的なガス欠(=エネルギー不足)状態。
何をしていても、眠くてしかたない。
運動疲れもある。
スカスカと風通しはよくなった感じはするが、体はかえって重くなった感じ。
たった今、朝の運動から帰ってきたところ。
1時間半、歩いた。
40分、サイクリングをした。

 扇風機の風に当たりながら、うつらうつら・・・。
眠くてしかたない。


Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●「車に注意」?

近くに大型ショッピングセンターがある。
そのうちの一か所の出口が、歩道を乗り越えて、
大通りに出るようになっている。
買い物に来た客の車は、その歩道を乗り越えて、
大通りに出る。
周囲を3〜4メートルの植木で囲まれて
いたこともある。
この歩道で、人身事故が絶えなかった。

車を運転する人は、右方向だけを見て車を
大通りに出そうとする。
そのとき、左側から来た歩行者や自転車を、
はねる。

そこで半年ほど前、植木の上部が刈り込まれ、
高さが1メートルほどになった。
が、それでも、事故はつづいた(?)。
それもそのはず。
車を運転する人は、相変わらず、右方向
だけを見て、車を大通りに出そうとする。
植木のあるなしは、あまり関係ない。

が、である。
最近見たら、歩道に沿って、ズラリと
小さな看板が立てられているではないか。
大きさは、縦50センチ、横15センチほど。
それが車の出入り口の向かって左側、7〜8メートルに
わたって、10〜15本も立てられている。
「車に注意!」と。

しかしこれこそ、立場が逆!
歩行者軽視もよいところ!
書くとしたら、内側の車に向かって、「歩行者に注意!」。
それも向かって右側に立てるべき。
あるいは具体的に、「左から来る歩行者や、自転車に注意!」
でもよい。

(店側)                   ↓(車の出入り)  
―――――――――――――――――看看看看●   ●―――――――――
(歩道)                   ↓
―――――――――――――――――――――●   ●―――――――――
(大通り)                   →

つまり「ここから車が出てくるから、歩行者や自転車
に乗っている人は、注意しろ!」と。
もっと言えば、「お前ら歩行者がぼやぼやしているから、
事故は起きる」とでも、言いたげ?
(これは考えすぎかな?)

このことをワイフに話すと、ワイフはこう言った。
「お客様、苦情センターというコーナーがあるから、
そこへ手紙を書いたら?」と。

・・・ということで、この手紙を書いた。
あとで、プリントアウトして、そこへもっていくつもり。
だれが指示してあんな立て札を立てさせたのかは
知らないが、あれを考えた人は、かなりジコチュー
な人と考えてよい。

歩行者が歩道を歩くのに、どうして車に注意して
歩かねばならないのか!

(注:この手紙は、その店には、もっていかなかった。)


Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●「私だけは特別」

「私だけは特別」と思いたいという心理は、よくわかる。
よ〜く、わかる。
だれにでも、そうした心理は、平等に働く。
私にもある。
あなたにもある。
しかし現実には、なかなか、そうはいかない。
無数の壁にぶつかるうち、そのつど「私だけは特別」という思いは、
粉々に、こわされる。
そしてこう知る。
「ああ、やっぱり、私だって、ふつうの人間だったのだ」と。

 ふつうであることが悪いと言うのではない。
ふつうで、御の字。
すばらしい。
賢い人は、ふつうの価値に、ふつうであるときに気がつく。
そうでない人は、それを失ってから気がつく。

 が、世の中には、そうでない人も多い。
みながみなというわけではないが、「私だけは特別」と思いたいがため、
信仰にその希望を託す人たちがいる。
先日も、どこかのキリスト教団の信者がやってきて、私にこう言った。

 「この信仰を信じたものだけが、アルマゲドン(=終末)がやってきたとき、
神によって救われます」と。

 だいたい「救われる」というのは、どういう意味なのか?
「自分だけは助かる」という意味なのか?
どうせ人間は、みな、死ぬ。
そのとき助かっても、そのあと、100年を生きることはない。
それに自分たちだけ助かって、どうする?
どうなる?
つまりこの(オメデタさ)こそが、幼稚性の表れと考えてよい。
自己中心性の表れと言ってもよい。
その証拠に(?)、幼児期の子どもたちは、みな、同じように考える。
私にこう言った小学1年生がいた。

 「先生、ぼくが前を向いたとき、ぼくのうしろの世界は消える」と。
そこで私が、「そんなことはないよ。君が前を向いているときも、
ちゃんとうしろの世界はあるよ」と。

 が、その子どもは、それを信じなかった。
そしてさらに、「ぼくがうしろを向いたとき、前の世界は消え、うしろの
世界が現れる」と。

 「自分だけは特別」ということを裏書したいがために、そうした人たちは
信仰の世界に埋没する。
教団自体が、信者にそう教えることもある。
「あなたは神に選ばれた、すばらしい人」と。
 
 彼らの目の中には、(うしろの世界)はない。
(現実の世界)すら、ない。
あるのは、どこまでも自己中心的な幼稚性だけ。

 大切なことは、自分で考え、自分の足で立つこと。
生きる気高さも、そこから生まれる。
不完全であることを恥じることはない。
未熟であることを恥じることはない。
常に、前に向かって進むこと。
もしそれがまちがっているというのなら、それを言う神のほうが
まちがっている。
そんな神なら、すぐさま捨てたほうがよい。


●自己中心性

 EQ論(情緒指数論、人格完成論)によれば、その人の自己中心性を
みることによって、その人の人格の完成度を知ることができるという
(ピーター・サロベイほか)。

 自己中心性の強い人は、それだけ、人格の完成度は低いということになる。
こんな話を、最近、耳にした。

 ある死刑囚だが、看守にこう尋ねたという。
「免許証の更新日が近づいたが、だいじょうぶか?」と。
彼は自分が死刑囚であることを忘れ(?)、免許証の更新日のことを
心配していた。

 また別の話。
ある患者だが、彼は、精神病棟の、「鉄格子のある部屋」(知人談)に入院していた。
そのことからも、彼がどういう病気の人かがわかる。
その患者が、たまたま見舞いに来ていた知人に、こう聞いたという。
「何か、いい仕事はないか。あれば紹介しほしい」と。

 こうした現象は、心理学の世界では、「現実検証能力」という言葉を使って
説明される。
自己中心性が肥大化すると、それと反比例の形で、現実検証能力を喪失する。
自分で自分がわからなくなる。
自分がどういう立場にいるか、わからなくなる。

 こうした死刑囚や、精神病棟の患者に、「人格の完成論」を求めても、意味はない。
それに不幸な人たちであることにはちがいない。
だれもそうなりたくて、なるわけではない。
無数の(運命の糸)に引っ張られるうちに、そうなる。
つまり人格の完成は、その(あと)の問題ということになる。
(ただし死刑囚の人たちの中には、人格的に、すぐれて高邁な人になる人も
いるという話も、聞いたことがある。)

 が、これはそのまま私たち自身の問題でもある。

 私たちはそのつど、常に現実検証能力を試される。
「今、自分はどういう立場にあるのか」、
「人から見たとき、どういうふうに見られているのか」と。

 たとえば今、私は、私の教室の様子をビデオカメラに収め、それを
編集してYOUTUBEに載せている。
それがどういう意味をもつのか、私には、実際のところわからない。
恐らく日本でもはじめての試みではないか。
「林はバカなことをやっている」と思う人もいるかもしれない。
「つまらないことをやっている」と思う人もいるかもしれない。
結果的に、たいへん無駄なことをして、時間をつぶしただけということにも
なりかねない。
自分で自分のしていることが、わからない!
完全に現実検証能力を喪失している。

 その姿は、免許証の更新を心配した死刑囚、職さがしをしている精神病棟
の患者と、どこもちがわない。


●「まとも」論

 こうして考えていくと、では「『まとも』とはどういう状態をいうのか」という
問題が起きてくる。
「まともな人」というときの、「まとも」である。

 実は私はある人にこう言われたことがある。
「私が幼稚園で働いています」と言ったときのこと、その男性(当時50歳くらい)は、
こう言った。
「もっとまともな仕事をしろ!」と。

 ある役所で役人をしている男だった。
つまり幼稚園での仕事は、「まともではない」と。

 しかしこうした職業観そのものが、あの身分制度の名残と考えてもよい。
日本人は昔から、独特の職業観をもっている。
「いい仕事」「悪い仕事」と色分けすることも多い。

 さらに、「まともな人間」という言葉もある。
このばあいは、「人生の正道を歩く人間」という意味か?
「そこそこに人格の完成度も高く、そこそこに他者と良好な人間関係を築ける人間」
と。

 しかし実際には、一方に(まともでない人)がいて、その反対側にいる人を、
(まともな人)という。
そういう点で、「まとも」の定義は、むずかしい。
あえて言うなら、「ふつう」という意味にも解釈できる。
しかしこの世の中に、(ふつう)も、(ふつでないもの)もない。
人について言うなら、どういう人を、「ふつうの人」といい、どういう人を、
そうでないと言うのか?

 死刑囚になるような人は、その一方で、被害者の人たちの、想像を絶するような、
怒りや恨みを買っているから、私はあえて擁護しない。
しかし心の病気についていえば、これは本人の責任ではない。
私だってなるし、あなただってなるし、だれだってなる。
鉄格子のある病棟に入院しているからといって、「まともでない」と決めつけてはいけない。

 つまり、この世界、(まとも)の基準などないし、裏を返して言うと、
この世界全体が狂っている。
人間がおかしいのではなく、その人間を包む世界のほうが、おかしい。
それこそまともに生きようと思えば思うほど、気が変になってしまう。

 大切なことは、あなたという自分を基準にして、人を判断してはいけないということ。
「自分がそうであるから、他人もそうであるべき」とか、「自分とちがうから、あの人は
おかしい」とか、そういうふうに、考えてはいけないということ。

 ……と考えていくと、「まとも論」ほど、どうでもよいものはないということになる。
つまるところ、私は私。
あなたはあなたということ。

 私も「もっとまともな仕事をしろ!」と言われたとき、そう感じた。
この世の中には、まともな仕事も、またそうでない仕事もない。
まともな人間も、またそうでない人間もいない。
だから(まとも)も、(まともでもない)ものもない。

 それがここでの結論ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

【兄、準二のこと】

●兄のこと

 私が「兄のことを書こうか?」と提案すると、ワイフは、すかさず、
「書いたら」と。
「このまま何も書き残さなかったら、あなたの兄さんは、本当に消えてしまうわ」と。
そう、本当に消えてしまう。

 結婚をしていない。
子どももいない。
おそらく生涯、「女」すら知らなかった。
一度だけだが、この浜松へ遊びに来たとき、私は兄をトルコ風呂へ連れていこうとした。
兄に「女」を経験させてやりたかった。
しかしそのもくろみは、はかなくも失敗した。
それについては、いつかどこかで書くことになるだろうと思う。
が、ともかくも私の兄は、そういう兄だった。

 まったく頼りなく、まったくふがいなく、まったくどうしようもなかった。
私の兄は、そういう兄だった。

●記憶

 私より9歳年上だった。
そのこともあって、私には兄といっしょに遊んだ思い出が、ほとんどない。
一度とて、ない。
母は兄を嫌っていたし、それがそのまま私の心になっていた。
私が中学生になるころには、すでに私は兄というより、兄の存在を
負担に感ずるようになっていた。

 今から思うと、兄が見せていた一連の症状は、自閉症のそれだった。
事実、晩年、グループホームへ入居してから、自閉症と診断されている。
が、当時は、「自閉症」という言葉すらなかった。
そういう兄を、母は、「家の恥」と考えていたようだ。
母は親意識が強く、そのこともあって、兄を家の中に閉じ込めるようになった。
「外で遊ばせると、みなにいじめられるから」というのが、その理由だった。
友だちと遊ぶことさえ、禁じた。

●M町

 私が生まれ育った岐阜県のM町は、昔から和紙の生産地として、よく
知られている。
由緒ある町というよりは、気位の高い町で、M町の人たちは、M町以外の
町を、「下」に見ていた。

 たとえば生活ができなくなって、M町から出て行く人を、M町の人たちは、
「出ていきんさった(=出ていった)」という言葉を使って、軽蔑した。
M町では、「出ていきんさった」という言葉は、そのまま負け犬を意味した。
だれがそう教えてくれたわけではないが、私は子どもながらに、その意味を
よく知っていた。

 私の実家は、そのM町の中心部にあった。
祖父の時代からの自転車屋で、祖父の時代には、現在のスポーツカー専門店
のように、華やかな商売だったようだ。
祖父は祖父なりに、財産を築いた。

●負担

 話は飛ぶが、私が高校生のとき、こんなことがあった。
近視が進んだ兄を連れて、岐阜の町へ行った。
M町から岐阜の町までは、当時、「美濃町線」と呼ばれる電車が走っていた。
チンチン、ゴーゴーと音を出して走るところから、私たちは、「チンチン電車」
と呼んでいた。

 私は兄を連れて、その電車に乗った。
母に言いつけられて、そうした。
私にはいやな一日だった。

M町にも、いくつかメガネ屋はあったが、度数を選んでかけるだけの簡単な
メガネ屋ばかりだった。
兄に合うメガネがなかった。
それで私は兄を岐阜の町まで連れていった。
電車で、1時間半ほどかかった。

 そこでのこと。
いろいろな検査がつづいたが、兄はすでにそのころ、まともに返答できる
だけの能力はなかった。
メガネ屋の男の質問を、私が兄に伝える形で、私が間に立った。
そのときのこと。

 メガネ屋の女性が、私にふとこう聞いた。
「この人は、あなたの兄さんですか」と。
私は突然の質問にあわてた。
で、そのままこう口走ってしまった。

 「いいえ、ぼくの兄ではありません。うちで働いている小僧さんです」と。

●自転車屋

 兄がなぜ、あのような兄になってしまったかについては、理由はよくわからない。
覚えているのは、兄は、いつも父や母に、叱られていたということ。
自転車屋といっても、店先は、全体でも7坪もなかった。
そこに20台前後の自転車を並べ、その隙間で、父や兄は、自転車を組み立て、
修理し、そして売っていた。

 兄にとっては息の詰まるような職場だったにちがいない。
兄の症状が悪化したのは、兄が中学校を卒業してから後のことではないか。
それまでの兄は、アルバムを見る範囲では、ごくふつうの兄だった。
何枚かみなと笑って写っている写真もあるが、どれも明るく、さわやかな
笑顔をしている。

●飛び降りる

 そんなある日、……少し話が過去に戻るが、何かのことで、私が兄を
いじめたことがある。
何をしたかは覚えていない。
何かの意地悪をしたと思う。
私が小学3、4年生のころだった。

言い訳がましいが、私は腕白な子どもだった。
また当時は、弱い者いじめなど、日常茶飯事。
罪の意識は、まったくなかった。
戦後の混乱期ということもあった。
家庭教育の「か」の字もない時代だった。
少なくとも、私の家は、そうだった。
私はその中で、その時代の子どもとして、育った。

 そのとき、兄は、あの二階の階段の最上段から、下へ飛び降りた。
止める間もなかった。
飛び降りるといっても、身を守る姿勢をまったく取らないまま飛び降りた。
そのまま1階の板間まで、ドスン、と。
 私はそれを見て、驚いた。
驚いて母のところへ走った。
「準ちゃんが、階段から落ちた!」と。

 が、母は、意外なほど、冷静だった。
まったくあわてるふうでもなく、こう言って、吐き捨てた。
「準ちゃんは、わざと、そういうことをするでエ」と。

●犠牲

 全体として、あのころの過去を振り返ると、兄は、「家」の犠牲になった。
その一言に尽きる。
 家にしばられ、家から一歩も、外へ出ることを許されなかった。
母が出さなかった。
私のほうから理由を聞いたわけではなかったが、母はいつも口癖のように
こう言っていた。

 「準ちゃんは、みなにいじめられるから」と。
そしてこうも言った。
「準ちゃんは、生まれつき、ああいう子だった」と。

つまり生まれつき、問題のある子どもだった、と。
そう、兄は、いつも孤独だった。
母からも、見捨てられていた。

●代償的過保護

 少し専門的な話になる。
そういう兄の話をすると、当時の母と兄の関係を知る人は、みな、こう言う。
「浩司君(=私)、あんたは、まちがっているよ。
お母さん(=私の母)は、兄さんをかわいがっていたよ」と。

 しかしこれはうそ。
最近の発達心理学での言葉を使えば、「代償的過保護」ということになる。
一見「過保護」だが、「子どもを自分の支配下に置き、自分の意のままに操る
こと」を、代償的過保護という。

 過保護には、その底流に、親の愛がある。
しかし代償的過保護には、それがない。
そこにあるのは、親のエゴ。
加えて、私の母は、親意識が、人一倍、強かった。

●「お姫様」

 母は、その年齢になるまで、実家のK村では、「お姫様」と呼ばれていた。
実家は農家だったが、そのあたりの農地を支配していた。
大地主だった。
兄弟は母も含めて、13人。
母は9番目前後に生まれた、最初の女の子だった。
だから母は、生まれながらにして、わがままいっぱいに育てられた。……にちがいない。
当時のことを知る人が、私にこう教えてくれた。
 「豊子さん(=私の母)は、お姫様と呼ばれていましたよ」と。
農家に生まれ育ちながら、結婚するまで、土を手でいじったことは一度もなかった。
いつだったか、母が自慢げにそう話してくれた。

 そのお姫様が、自転車屋の跡取りの父と結婚した。
二度目の見合いで結婚を決めたという。
実際には、私の祖父と、母の父親との間で、結婚が決められてしまった。
つまり母を見そめたのは、私の父ではなく、祖父ということになる。

 そう、母は、お姫様だった。
自転車屋という商人の家に嫁ぎながら、生涯にわたって、自分の手を
油で汚したことはない。
一度もない。
ドライバーを握ったことさえ、ない。
これについても、私がとくに聞いたという記憶はないが、母は、よく
こう言った。

「わっち(=私)はなも、結婚したとき、じいちゃん(=祖父)が、
『女は、店に出るな』と言いんさったでなも(=言ったから)」と。
つまり祖父の言いつけを守って、店には出なかった、と。

●斜陽

 私が高校生になるころには、私の家はすでに斜陽の一途をたどっていた。
近くに大型店ができ、そこで自転車を売るようになった。
もう少し早く、私が中学生のころには、そうなっていた。
祖父はそのころ引退し、道楽でオートバイをいじって遊んでいた。
もちろん収入はない。

 私は祖父の威光が、年々、薄くなっていくのを感じていた。
しかしそれは私にとっては、たまらなく、さみしいことでもあった。
祖父あっての、「林自転車屋」だった。
それが世間の目だった。
私にも、それがよくわかっていた。

●父、良市

 父は、もともとは学者肌の人だった。
ふだんは静かで、暇さえあれば、黒い、油で汚れた机に向かって、何かを
書いていた。
いつも書いていた。

 が、酒が入ると、人が変わった。
今で言う、「酒乱」である。
酒が入ると、大声を出し、家の中で暴れた。
家具を壊し、食卓をひっくり返した。

 私が5、6歳のときには、すでにそうなっていた。
私には、暗くて、つらい毎日だった。
父を恨んだ。
酒をうらんだ。
父に酒を売る、酒屋をうらんだ。

●レコード

 兄のゆいいつの趣味は、レコード集めだった。
わずかな小遣いを手にするたびに、兄はそのお金をもって、近くのレコード店へ
足を運んだ。

 当時は表(A面)に一曲。
裏(B面)に一曲だけの、シングル盤というのが主流だった。
それでも値段は300〜400円前後だったか?
うどんが、150円前後で食べられた時代だったから、けっして安い趣味ではなかった。
が、兄は、私が高校生のときには、すでに数百枚のレコードをもっていた。
そのレコードを、一枚ずつていねいに分類し、それを1ミリの狂いもなく、きれいに
並べてしまっていた。

 私はすでにそのころ、兄のレコードには手を触れていけないことを知っていた。
たった一枚でもレコードが抜けただけで、兄は、それに気づき、パニック状態になった。
動かしても、兄は気づいた。
「レコードがない」と、ボソボソと言いながら、混乱状態になった。
そんなわけで、兄のレコードのあるその一角は、聖域というか、近づくことさえでき
なかった。

 その一方で、兄は、レコードの最初の一小節を耳にしただけで、即座に、その曲名と
歌手の名前を言い当てることができた。
神業にちかいものだった。
特殊なこだわりと、才能。
今から思うと、まさにそれが自閉症によるものだった。

●大学生

 兄との思い出は、そういうこともあって、ほとんどない。
兄は兄で、私の知らない世界で生きていた。
一方、私は三男という末っ子のよさをフルに利用して、思う存分、自由に生きた。
「自由」というより、「放任」だった。

 長男の賢一は、私が5歳のときに、日本脳炎で他界している。
つづいて兄が生まれ、姉が生まれた。
その姉とも、5歳、年が離れていた。
姉と私の間に、もう1人兄が生まれたが、生まれると同時に、死んだ。

そういうこともあって、母も、私には手が回らなかった。
今から思うと、それがよかったのかもしれない。
私は毎日、あたりが真っ暗になるまで、近くの寺の境内で遊んだ。
学校から帰るときも、やはり家に着くのは、とっぷりと陽が暮れてからだった。

 私の家には、私の居場所すらなかった。
それに父の酒乱があった。
今でも私は夕焼けを見ると、言いようのない不安感に襲われる。
その時刻になると、父が酒を飲み、通りをフラフラと歩いていた。
私にはつらい少年時代だった。

 私ですらそうだった。
いわんや、兄をや。

●金沢へ

 私はそのあと大学生となって、金沢に移った。
母は、「国立でないと、大学はだめ」と、いつも言っていた。
当時は、国立と私立では、学費が、まるでちがっていた。
私が通った金沢大学のばあい、半期(6か月)ごとに、学費は6000円。
月額1000円だった。
一方、私立は、たとえば私立の歯学部に入学した友人がいたが、入学金だけで、
300万円。
私はその額を聞いて、それこそ度肝を抜かれるほど、驚いた。
「300万円!」と。
 その額は、私には理解できないものだった。

 その学費についても、母は口癖のようにこう言った。
「みんなが苦労して作ったお金だ」と。

●恩着せ

 私の母の子育ての基本は、「恩着せ」だった。
そのつど私に、恩を着せることで、私を縛った。
兄や姉に対しては、どうだったかは知らない。
しかし私には、そうだった。

 「産んでやった」「育ててやった」と。
私が大学生になると、「学費を出してやる」「出してやった」と。
が、それにはいつも別の修飾語がついた。

 「このお金を作るのに、どんだけ(=どれほど)、苦労したかわからない」と。
そしてそのつど、その苦労話を、ことこまかく説明した。

●姉

 私には5歳違いの姉がいる。
その姉とは、よく遊んだ。
遊んだといっても、たがいの間には、しっかりとした垣根があった。
当時は、男児が女の遊びをするということだけでも、ありえないことだった。
住む世界がちがった。

 それに姉は、私とは別の世界に生きていた。
お琴に日本舞踊。
徹底したお嬢様教育。
それを、そのまま受けていた。
そのこともあって、私は姉が台所で料理を手伝ったり、料理をしている姿を見た
ことがない。

 母には母の思いがあったのだろう。
しかし私はすでに中学生のときには、その虚栄を見抜いていた。
母は、M町でも名家と呼ばれていた、Y家の妻や、K家の妻たちと、同等、もしくは
それ以上の立場をとりつくろいながら、生きていた。
だから私はこう思った。
思っただけではなく、口に出して言ったこともある。

「自転車屋の女将(おかみ)さんが、医者や酒屋の奥さんとつきあって、どうする?」と。
が、この言葉は、いつも母をそのまま激怒させた。
姉のお嬢様教育は、その延長線上にあった。

●稼業

 私は触覚を、四方八方に延ばしていた。
延ばすことができた。
目はいつも外を向いていた。
兄が家に閉じ込められた分だけ、私は外の世界で、自由に生きた。

 兄は、たしかに「家」の犠牲者だった。
「林家(け)」と、「家(け)」をつけるのもおかしい世界に住みながら、その
「家」に縛られた。
同業の人には失礼な言い方になるかもしれないが、たかが自転車屋。
跡取りとして、守らなければならないような稼業でもない。
当時すでに、自転車店業は、同じ商店業の中でも、番外化していた。

 汚れ仕事だった。
それにこの世界は、まさに弱肉強食。
より大型店ができるたびに、より弱小店は、弊店に追い込まれた。
あるとき祖父が、近所の時計店が新装オープンしたとき、その店に招待された。
そしてその店から帰ってきて、私にこう言った。

 「浩司、時計屋ではな、皿一杯の時計だけで、このうちの自転車すべての
値段と同じだぞ」と。

 つまり家にある20台の自転車すべての値段と、時計屋にある、皿(トレイ)
にある時計の値段と同じ、と。
「時計屋には、そういう皿が、10〜20枚もある!」と。

 私はそれを知って、祖父が受けた以上のショックを受けた。
その自転車屋について、母は、こう言った。

 「勉強しんさい(=しなさい)。でなければ、この自転車屋を継ぎんさい」と。
しかしその言葉は、私に死ねと言うくらい、恐ろしい言葉だった。
私は兄を見て育っている。
その兄と同じになれというくらい、恐ろしい言葉だった。

●仕送り

 そんなわけで、私の実家の家計は、私が中学生のころには、火の車だった。
大学生のときも、毎月の仕送りは、下宿代の1万円だけ。
あとは、アルバイトで稼ぐしかなかった。

 姉は私が大学生のとき、農家の男性と結婚した。
農家といっても電信会社に勤務していた。
母は、この結婚に大反対した。
何度も、「うちのM子は、あんな男と結婚するような娘ではない」と。
が、姉は、その男性と結婚した。
母には、不本意な結婚だった。
姉へのお嬢様教育が、こなごなに壊れた瞬間でもあった。

 その結婚のときにも、私の家には現金がなかった。
それで近くにあった借家を売ることになった。
私はその売買に、直接関わった。
法科の学生ということもあった。
値段は、150万円。
当時としては、文句のない値段だった。
そのお金がどう使われたかは知らないが、姉の結婚式は、それなりに派手な
ものだった。

●家族

 私は大学生になることによって、家を飛び出すことができた。
そのあとも、オーストラリアへ留学し、商社へ入社しと、自由気ままに自分の
人生を生きた。
 が、実家のことは、いつも気になった。
重い石のように、頭から離れることはなかった。

 母の恩着せは、そのころもつづいた。
電話をするたびに、「お前を大学まで出してやった」と、これまた口癖のように言われた。
そしてそのつど、あの愚痴とも、抗議ともわからない、ネチネチとした苦労話。
「親の恩を忘れんさるな(=忘れるなよ)」と。
最後は、いつもその言葉で終わった。

 が、私と母の関係は、私が高校生のときに、すでに切れていた。
そういう母だったから、一方、私はそういう息子だったから、いつも衝突を繰り返して
いた。
断絶という状態がつづき、母の私に対する気持ちは、憎しみに変わっていた。
母はことあるごとに、親戚の人たちには、こう言っていた。

 「子どもなんて育てるもんじゃ、ねえ(=ない)。
どうせ親は捨てられるだけじゃ」と。

●自我群の苦しみ 

 そうでありながらも、私の心の中には、「絆(きずな)」が、しっかりと刷り込まれて
いた。
本能に近い部分にまで、刷り込まれていた。
それを断ち切るのは用意なことではない。
実際には、兄や母が他界した今でも、それはつづいている。

 私は自分で収入を手にするようになると、その半分は、実家に送金した。
したくてしたわけではない。
が、そこには、私の(誇り)もあった。
私は子どものころから、そして大学生になってからも、肩身の狭い思いをしていた。
が、仕送りをすることで、そうした思いを、跳ね飛ばすことができた。
そういう思いもあった。

 が、母は母で、そうした私の思いとはちがった角度で、私をながめていた。
平たく言えば、「金づる」。
私から容赦なく、お金を奪っていった。
病弱な父。
そしてあの兄。
収入など、あってないようなものだった。
加えて母の虚栄は、私が子どものころのままだった。

●金づる

 盆と暮れ。
それに数か月に1度、あるいは2度帰るというだけの関係になった。
兄との関係は、ますます疎遠になっていった。

 私が結婚したあと、あちこちへ連れていってやったことはある。
しかしたがいに心が通うということはなかった。
兄とは、ふつうの会話すらできなかった。
兄は、私の知らない、閉ざされた心の中に住んでいた。
私も、家族には、心を開けなかった。

 調子のよいお世辞と、世間話。
口のうまい人間ばかり。
面従腹背というか、表ではニコニコ笑いながら会話をし、いったん裏へ入ると、たがいに
口汚くののしりあった。

母ですら、表と裏では、まるで別人だった。
世間では、「よくできた苦労人」、
さらには、「仏様」と呼ばれていた。

 しかし家の中では、ちがった。
ことあるごとに、人を中傷し、罵倒した。
好き嫌いがはっきりしていた。
母に一度嫌われたら最後。
「江戸の仇(かたき)は長崎で」というようなことを、母は平気でしていた。

 私はいつしか、……30歳になる前には、すでにただの「金づる」に
なっていた。

●重圧感

 だれでもそうなのだろうが、一度巣立ってしまうと、実家との関係はそこで
切れる。
共通の思い出をつくることもない。
母は、私たち家族を、そのつどていねいに迎えてはくれたが、すでに他人以上の
他人になっていた。
言葉の使い方で、私には、それがよくわかった。

 母との関係ですら、そうであった。
いわんや、兄をや、ということになる。
私にとって、兄、準二は、家のお荷物、あるいは、家の家具のような存在だった。
実家に帰っても、小遣いを渡すのは、私のほう。
話しかけて、あれこれと世話を焼くのも、私のほう。
誓って言うが、兄が生涯、私におごってくれたものと言えば、ラーメン一杯だけ。
それも兄の意思からではない。
母にせかされて、そうした。

 弟の私ですらそうなのだから、兄は、さらに孤独な世界へと追いやられた。
友もなく、親には見捨てられ、そして兄弟とのつながりもなかった。
いつも独りで、レコードを聞いていた。

●母との確執

 30歳になったころだと思う。
ワイフの実家(浜松市)の近くに、授産施設のようなものができた。
身体や精神に障害のある人たちが共同で仕事をし、支えあうという施設である。

 当時としては、まだ珍しい施設だったが、私は最初に、その施設に兄を入れること
を考えた。
浜松へ来れば、私の自宅から、その施設に通えばよい。
ワイフも、快く同意してくれた。

 が、これに猛然と抵抗したのが、母だった。
狂ったように抵抗した。
すでにそのとき父も他界していた。
母にしてみれば、兄を手放すということは、稼業の廃止ということになる。
母としては、ぜったいに譲れない一線だった。

 私と母は、毎日、毎晩、電話で怒鳴りあうような喧嘩をした。
激しいものだった。
で、それを1週間から10日ほどつづけたところで、私のほうがギブアップ。
当時の私には、自転車屋を一軒開業することなど、何でもなかった。
仕事は順調だった。
収入も多かった。
私は、もし母や兄が望むなら、浜松で、自転車屋を開業する覚悟でいた。
その覚悟も、そのまま霧散した。

 「母もいっしょに浜松へ」という考え方もあった。
が、母には、M町を「出る」ことなど、想像もつかなかった。
私には、それがよくわかっていた。

●兄の性癖

 兄にも、問題があった。
ゆがんだ性癖という問題だった。
私の家に遊びにやってきたときも、ワイフの入浴をのぞく、私のスキをみては、
ワイフに抱きつく、あるいは留守番をさせておくと、ワイフの下着を手で触れて
遊ぶ、など。

 やがてワイフは、そういう兄に、恐怖感を覚えるようになっていた。
だから私は兄が私の家にいるときも、また私たちが私の実家に帰ったときも、
ぜったいに、兄とワイフを、2人だけにはしなかった。

 さらに兄は、ことあるごとに、病院へ入院した。
そこでも看護婦さんに抱きついたり、下半身を露出させたりした。
そういう話を知っていたから、兄との同居には、それなりの覚悟が必要だった。

 私はこう考えた。
「兄の問題は、一度、母と切り話さなければ、解決しない」と。

 兄は、今で言う、マザコン。
度を越したマザコンだった。
母と兄は、強烈な相互依存関係で成り立っていた。
「共依存」という関係である。

 そういうこともあって、それ以後、私は、兄を引き取るという話は、
二度としなかった。

●思い出

 兄は、毎月の仕送りとは別に、何かほしいものがあると、私に電話をかけてきた。
裏で母の意図を感じたこともある。

「テレビが見られない」
「冷蔵庫が使えなくなった」
「ステレオが壊れた」と。

 そのつど言われるまま、その金額を、送った。

 が、そのほとんどは、悲しい思い出でしかない。
あるとき高校の同窓会に出ることになった。
そのとき、恩師へのみやげということで、その直前に買ったジョニ黒(ウィスキー)
を、もっていった。
が、その朝見ると、栓が抜いてあった。
上から数センチ分、ウィスキーが減っていた。
兄が口をつけたことは、すぐわかった。
だから兄に、「どうしてこんなことをする!」と怒鳴った。
が、その声は、むなしく宙に消えた。

 すでにそのころ、兄はまだ40歳前だったが、兄はことの善悪の判断すら、
じゅうぶんできなくなっていた。
異常までの母の過干渉。
それが原因だった。

 しかし本当の悲しい思い出といえば、私は兄の存在を意識して、結婚式が
できなかったこと。
よく「お金がなかったから」と、書くことはあるが、もうひとつ、大きな
理由があった。
私は酒乱の父や、今でいう自閉症の兄を、みなの前で、どう紹介すればよいのか。

●愛情

 これはあくまでも結果論だが、母に、一微でも兄に対する愛情があれば、
私の家庭は大きくちがっていただろうと思う。
実際、そういう子どもをかかえながらも、明るく、さわやかに生きている親は多い。
今どき自閉症にせよ、何かの情緒障害にせよ、何でもない。
それを恥ずかしいとか、そういうふうに考える人は、いない。
だいたいこの世の中には、まともな人はいない。
あるいはどういう人を、「まともな人」というのか。

 子どもの心は、母親によって作られる。
母親が嫌っている人は、子どもも嫌う。
母親が好意をもっている人は、子どもも、好意をもつ。
ウソだと思うなら、あなた自身の心の中をのぞいてみるとよい。

 私が兄を嫌っていたのは、私のせいではない。
母が嫌っていた。
私はそれを敏感に受け継いでいた。

 だから……。
もし「私の母に、一微でも兄に対する愛情があれば、私の家庭は大きくちがって
いただろうと思う」と。
この思いは、今でも変わらない。

●母との確執

 結局、私は母に、生活費を仕送りしつづけた。
47歳を過ぎるまで、そうした。
が、そのとき、事件が起きた。
それについては、前にも書いた。
母は、私から土地の権利書を言葉巧みに取り上げると、無断で、それを他人に
売ってしまった。
私が泣いてそれに抗議をすると、母は、こう言って、私の言葉をはねのけた。

「親が、先祖を守るために、子の金を使って、何が悪い!」と。

 一事が万事。
私の母というのは、そういう母だった。

●音信途絶

 以後、10年ほど、母との音信は途絶した。
1、2度、さみしさに耐えかねたのか、母から電話があった。
しかし会話にならなかった。
一言、「すまなかった」と謝ってくれたら、私は母を許すつもりでいた。
が、母のもつ親意識は、それをはるかにしのぐものだった。

兄の存在は、もっと軽かった。
「知ったことか!」と、吐き捨てながら、心にのしかかる重荷を脇へやった。
が、事情を知らないノー天気な親類は、どこにでもいる。

 わずか数歳、年上というだけで、安易なダカラ論をぶつけてくる人もいた。

「親だからな……」とか、「親は親だで……」とか。

 私はそのつど、心臓をえぐられるような苦痛を覚えた。
さらに中には、私の家庭を、興味本位でのぞいてくる人もいた。
興味本位である。

「浩司君、今朝、君の夢を見たよ」とか何とか言って、電話をかけてくる。
こちらの内情をさぐる。
それが私には、よくわかった。

●親の介護

 母は、晩年、最初に軽い認知症になった。
そのこともあって、それまでのうっぷんを晴らすかのように、兄に、きびしく当たる
ようになった。
情け容赦ない言葉を、そのつど、兄に浴びせかけた。
「お前なんか、どこかへ行って、死んで来い」とかなど。

 外の世界では、「仏様」と呼ばれていた。
おだやかで、やさしく、静かで落ち着いた表情をしていた。
が、それは仮面。
私には、それがよくわかっていた。
母がまだ元気なうちには、私も、母によく脅された。

「お前は地獄へ落ちるぞ」とか、など。
母も、また、実のところ、心を開くことができない、かわいそうな女性だった。
息子の私に対してでさえ、心を開くことができなかった。

●兄の病状

 そのころから兄の病状は、一気に悪化した。
持病の胃病は慢性化し、毎週のように病院通いがつづいた。
胃潰瘍で、1、2か月単位で入院することも重なった。

 で、見舞いに行くと、そこにかならず、母や姉がいた。
そして私の姿を見かけると、かいがいしく、兄の背中をさすってみせたりした。
「代理ミュンヒハウゼン症候群」という言葉は、今では知らない人はいない。
が、私には、それがわかっていた。
母が私の前でしてみせたのは、まさに、それだった。

 兄は私が見舞うと、「仕事をしてエ(=したい)」「してえ」と駄々をこねた。
悲しそうな声で、「ぼく、工場で働くで……」と言ったこともある。
私はその言葉が、胸に突き刺さった。
症状こそちがえ、私のもっている傷と同じ傷を、兄はもっていた。

 その翌日、私は100万円の貯金をおろすと、それをすべて1000円札に換え、
兄に届けた。
母には、「これはぼくが準ちゃんにあげたお金だ。絶対に横取りするな」と、
何度も釘をさした。

 が、そのお金も、やがて母のものとなった。

●兄の涙

 時間は飛ぶが、兄の様子がおかしいと連絡を受けて、兄を見に行ったことがある。
ライターで障子の紙に火をつける。
マジックインクで、車のナンバーに落書きをする。
ごみを近所の家に放り込む。
勝手に他人の家にあがりこむ、など。

 うつ病が悪化していた。
が、残念なことに、兄の周辺には、母も含めて、理性的な会話ができる人は1人も
いなかった。
姉は姉で、そのつど、パニック状態になった。
精神的にも、かなり混乱していた。
で、私はネットで拾いあげた記事をプリントアウトして、それをみなに渡したこともある。
が、だれもそれに目を通そうとすらしなかった。

 兄が心療内科の門をくぐったのは、そのときがはじめてだった。
私が兄を病院へ連れていった。

 その前のこと。

 私が寝室にいる兄のそばに行くと、兄は、自分でふとんをかけ直していた。
子どものころから、1センチ単位で、ふとんをきちんと並べて寝ていた。
が、その兄は、私の姿を見ると、突然、ポロポロと涙をこぼし始めた。

 よほどつらかったのだろう。
私はポケットからハンカチを取り出すと、それで兄の目をふいてやった。

●擁護

 こう書くからといって、全責任が母にあるというのではない。
母とて、あの時代の申し子に過ぎなかった。
また母には母の、「運命」という無数の糸がからんでいた。
母も、その「糸」に操られていただけかもしれない。

 不本意な結婚。
わがままな性格。
無知、無学。
慢性的な貧乏。
潔癖症などなど。

 母だけが特別であったというよりは、もし母と同じような環境で生まれ育ち、
父のような人間と結婚したら、だれだって母のようになったかもしれない。
言い忘れたが、母の実家は、戦後、農地解放でほとんどの田畑を取り上げられてしまった。
それ以後は、往年の繁栄など見る影もないほど、やせ細った貧しい農家になってしまった。
そういうこともあったのだろう。

母は私からお金を吸い上げると、せっこらせっこらと、母の実家へ、それを渡していた。
「先祖を守るために、親が子のお金を使って、何が悪い!」という言葉は、そういう
ところから生まれた。

●兄と母

 まず兄が姉の家に、3か月、いた。
それから兄はグループホームへ入った。
つづいて母が、2年間、姉の家に、いた。
そのころ、私が兄を、3か月、私の家で預かった。
つづいて1年と11か月、母は、浜松に住んだ。

 兄は2008年の8月に、母は同じ年の10月に、それぞれ他界した。
その兄と母の死について、当時、書いたのが、つぎの原稿である。
そのまま紹介する。

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兄の死

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●兄の歯

 先日私の兄が死んで、火葬されたときのこと。
私は兄の下あごの骨が、どういうわけか、気になった。
遺骨をつぼにみなが詰めるときも、私は、下あごだけを、じっと見つめていた。
それは雪のように美しかった。
紙のように薄かったが、形はしっかりと整っていた。
が、その美しさが、かえって不思議だった。

 兄は子どものころから歯が弱く、年中、虫歯に悩まされていた。
夜中じゅう、「歯が痛い」と泣いていたのも、よく覚えている。
そんなこともあってか、最後の10〜15年間は、すべての歯は抜け、
総入れ歯をしていた。

下あごには、そのためか、一本も、歯は残っていなかった。
総入れ歯にしたと聞いたとき、私は、「それでよかった」と思った。
兄は、少なくともそれで、虫歯の痛みからは解放された。

で、今朝、歯科医院へ行ってきた。
歯にも定期検診というのがある。
今日は、その日だった。
で、歯垢を取り除いてもらっているとき、兄のあの下あごの骨を思い出していた。
「私も死んだら、ああなるのか」と。
そういう気持ちを察したのか(?)、いや、そんなことはありえないが、
歯科医師のK先生は、こう言った。

「1本でも歯が残っていれば、その歯が役にたちますよ」と。

どういう意味でK先生がそう言ったのかは知らない。
その1本をたよりに、ほかの入れ歯が入れやすいということか。
あるいは総入れ歯は、よくないということか。

 兄は死んだが、この先、10年や20年など、あっという間に過ぎてしまうだろう。
つぎの瞬間、私の体が、兄のようになったところで、何ら、おかしくない。
だれかが私の遺骨を拾いながら、私が思ったように、「美しい」と思うかもしれない。
兄のあの下あごが、私のものだったと考えても、何ら、おかしくない。
現に今、私は満60歳になってしまった。
若いころは、自分が60歳になるとは、とても信じられなかった。

 やがて私も、この世から消える。
いつかだれか、私の遺骨を見ながら、同じように思うかもしれない。

 生きているとき、兄は、私にとっては、小さな存在でしかなかった。
しかし死んでからの兄は、日増しに大きくなりつつある。
……というより、毎日、兄のことを考えている。

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母の死

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●最後の会話

11月11日、夜、11時を少し回ったときのこと。
ふと見ると、母の右目の付け根に、丸い涙がたまっていた。
宝石のように、丸く輝いていた。
私は「?」と思った。
が、そのとき、母の向こう側に回ったワイフが、こう言った。
「あら、お母さん、起きているわ」と。

母は、顔を窓側に向けてベッドに横になっていた。
私も窓側のほうに行ってみると、母は、左目を薄く、開けていた。

「母ちゃんか、起きているのか!」と。
母は、何も答えなかった。
数度、「ぼくや、浩司や、見えるか」と、大きな声で叫んでみた。
母の左目がやや大きく開いた。

私は壁のライトをつけると、それで私の顔を照らし、母の視線の
中に私の顔を置いた。
「母ちゃん、浩司や! 見えるか、浩司やぞ!」
「おい、浩司や、ここにいるぞ、見えるか!」と。

それに合わせて、そのとき、母が、突然、酸素マスクの向こうで、
オー、オー、オーと、4、5回、大きなうめき声をあげた。
と、同時に、細い涙が、数滴、左目から頬を伝って、落ちた。

ワイフが、そばにあったティシュ・ペーパーで、母の頬を拭いた。
私は母の頭を、ゆっくりと撫でた。
しばらくすると母は、再び、ゆっくりと、静かに、眠りの世界に落ちていった。

それが私と母の最後の会話だった。

●あごで呼吸

朝早くから、その日は、ワイフが母のそばに付き添ってくれた。
私は、いくつかの仕事をこなした。
「安定しているわ」「一度帰ります」という電話をもらったのが、昼ごろ。

私が庭で、焚き火をしていると、ワイフが帰ってきた。
が、勝手口へ足を一歩踏み入れたところで、センターから電話。
「呼吸が変わりましたから、すぐ来てください」と。

私と母は、センターへそのまま向かった。
車の中で焚き火の火が、気になったが、それはすぐ忘れた。

センターへ行くと、母は、酸素マスクの中で、数度あえいだあと、そのまま
無呼吸という状態を繰り返していた。
「どう、呼吸が変わりましたか?」と聞くと、看護婦さんが、「ほら、
あごで呼吸をなさっているでしょ」と。

私「あごで……?」
看「あごで呼吸をなさるようになると、残念ですが、先は長くないです」と。

私には、静かな呼吸に見えた。

私はワイフに手配して、その日の仕事は、すべてキャンセルにした。
時計を見ると、午後1時だった。

●血圧

血圧は、午前中には、80〜40前後はあったという。
それが午後には、60から55へとさがっていった。
「60台になると、あぶない」という話は聞いていたが、今までにも、
そういうことはたびたびあった。
この2月に、救急車で病院へ運ばれたときも、そうだった。

看護婦さんが、30分ごとに血圧を測ってくれた。
午後3時を過ぎるころには、48にまでさがっていた。
私は言われるまま、母の手を握った。
「冷たいでしょ?」と看護婦さんは言ったが、私には、暖かく感じられた。

午後5時ごろまでは、血圧は46〜50前後だった。
が、午後5時ごろから、再び血圧があがりはじめた。

そのころ、義兄夫婦が見舞いに来てくれた。
私たちは、いろいろな話をした。

50、52、54……。

「よかった」と私は思った。
しかし「今夜が山」と、私は思った。
それを察して、看護士の人たち数人が、母のベッドの横に、私たち用の
ベッドを並べてくれた。
「今夜は、ここで寝てください」と。

見ると、ワイフがそこに立っていた。
この3日間、ワイフは、ほとんど眠っていなかった。
やつれた顔から生気が消えていた。

「一度、家に帰って、1時間ほど、仮眠してきます」と私は、看護婦さんに告げた。
「今のうちに、そうしてください」と看護婦さん。

私は母の耳元で、「母ちゃん、ごめんな、1時間ほど、家に行ってくる。またすぐ
来るから、待っていてよ」と。

私はワイフの手を引くようにして、外に出た。
家までは、車で、5分前後である。

●急変

家に着き、勝手口のドアを開けたところで、電話が鳴っているのを知った。
急いでかけつけると、電話の向こうで、看護婦さんがこう言って叫んだ。
「血圧が計れません。すぐ来てください。ごめんなさい。もう間に合わないかも
しれません」と。

私はそのまままたセンターへ戻った。
母の部屋にかけつけた。

見ると、先ほどまでの顔色とは変わって、血の気が消え失せていた。
薄い黄色を帯びた、白い顔に変わっていた。

私はベッドの手すりに両手をかけて、母の顔を見た。
とたん、大粒の涙が、止めどもなく、あふれ出た。

●下痢

母が私の家にやってきたのは、その前の年(07年)の1月4日。
姉の家から体を引き抜くようにして、抱いて車に乗せた。
母は、「行きたくない」と、それをこばんだ。

私は母を幾重にもふとんで包むと、そのまま浜松に向かった。
朝の早い時刻だった。

途中、1度、母のおむつを替えたが、そのとき、すでに母は、下痢をしていた。
私は、便の始末は、ワイフにはさせないと心に決めていた。
が、この状態は、家に着いてからも同じだった。

母は、数時間ごとに、下痢を繰り返した。
私はそのたびに、一度母を立たせたあと、おむつを取り替えた。

母は、こう言った。
「なあ、浩司、オメーニ(お前に)、こんなこと、してもらうようになるとは、
思ってもみなかった」と。
私も、こう言った。
「なあ、母ちゃん、ぼくも、お前に、こんなことをするようになるとは、
思ってもみなかった」と。

その瞬間、それまでのわだかまりが、うそのように、消えた。
その瞬間、そこに立っているのは、私が子どものころに見た、あの母だった。
やさしい、慈愛にあふれた、あの母だった。

●こだわり

人は、夢と希望を前にぶらさげて生きるもの。
人は、わだかまりとこだわりを、うしろにぶらさげながら、生きるもの。
夢と希望、わだかまりとこだわり、この4つが無数にからみあいながら、
絹のように美しい衣をつくりあげる。

無数のドラマも、そこから生まれる。

私と母の間には、そのわだかまりとこだわりがあった。
大きなわだかまりだった。
大きなこだわりだった。

話しても、意味はないだろう。
話したところで、母が喜ぶはずもないだろう。
しかし私は、そのわだかまりと、こだわりの中で、12年も苦しんだ。
ある時期は、10か月にわたって、毎晩、熱にうなされたこともある。
ワイフが、連日、私を看病してくれた。

その母が、そこにいる。
よぼよぼした足で立って、私に、尻を拭いてもらっている。

●優等生

1週間を過ぎると、母は、今度は、便秘症になった。
5、6日に1度くらいの割合になった。
精神も落ち着いてきたらしく、まるで優等生のように、私の言うことを聞いてくれた。

ディサービスにも、またショートステイにも、一度とて、それに抵抗することなく、
行ってくれた。

ただ、やる気は、失っていた。

あれほどまでに熱心に信仰したにもかかわらず、仏壇に向かって手を合わせることも
なかった。
ちぎり絵も用意してみたが、見向きもしなかった。
春先になって、植木鉢を、20個ほど並べてみたが、水をやる程度で、
それ以上のことはしなかった。

一方で、母はやがて我が家に溶け込み、私たち家族の一員となった。

●事故

それまでに大きな事故が、3度、重なった。
どれも発見が早かったからよかったようなもの。
もしそれぞれのばあい、発見が、あと1〜2時間、遅れていたら、母は死んでいた
かもしれない。

一度は、ベッドと簡易ベッドの間のパイプに首をはさんでしまっていた。
一度は、服箱の中に、さかさまに体をつっこんでしまっていた。
もう一度は、寒い夜だったが、床の上にへたりと座り込んでしまっていた。

部屋中にパイプをはわせたのが、かえってよくなかった。
母は、それにつたって、歩くことはできたが、一度、床にへたりと座ってしまうと、
自分の手の力だけでは、身を立てることはできなかった。

私とワイフは、ケアマネ(ケア・マネージャー)に相談した。
結論は、「添い寝をするしかありませんね」だった。

しかしそれは不可能だった。

●センターへの申し込み

このあたりでも、センターへの入居は、1年待ちとか、1年半待ちとか言われている。
入居を申し込んだからといって、すぐ入居できるわけではない。
重度の人や、家庭に深い事情のある人が優先される。

だから「申し込みだけは早めにしておこう」ということで、近くのMセンターに
足を運んだ。
が、相談するやいなや、「ちょうど、明日から1人あきますから、入りますか?」と。

これには驚いた。
私たちにも、まだ、心の準備ができていなかった。
で、一度家に帰り、義姉に相談すると、「入れなさい!」と。

義姉は、介護の会の指導員をしていた。
「今、断ると、1年先になるのよ」と。

これはあとでわかったことだったが、そのとき相談にのってくれたセンターの
女性は、そのセンターの園長だった。

●入居

母が入居したとたん、私の家は、ウソのように静かになった。
……といっても、そのころのことは、よく覚えていない。
私とワイフは、こう誓いあった。

「できるだけ、毎日、見舞いに行ってやろう」
「休みには、どこかへ連れていってやろう」と。

しかし仕事をもっているものには、これはままならない。
面会時間と仕事の時間が重なってしまう。

それに近くの公園へ連れていっても、また私の山荘へ連れていっても、
母は、ひたすら眠っているだけ。
「楽しむ」という心さえ、失ってしまったかのように見えた。

●優等生

もちろん母が入居したからといって、肩の荷がおりたわけではない。
一泊の旅行は、三男の大学の卒業式のとき、一度しただけ。
どこへ行くにも、一度、センターへ電話を入れ、母の様子を聞いてからに
しなければならなかった。

それに電話がかかってくるたびに、そのつど、ツンとした緊張感が走った。

母は、何度か、体調を崩し、救急車で病院へ運ばれた。
センターには、医療施設はなかった。

ただうれしかったのは、母は、生徒にたとえるなら、センターでは
ほとんど世話のかからない優等生であったこと。
冗談好きで、みなに好かれていたこと。

私が一度、「友だちはできたか?」と聞いたときのこと。
母は、こう言った。
「みんな、役立たずばっかや(ばかりや)」と。
それを聞いて、私は大声で笑った。
横にいたワイフも、大声で笑った。
「お前だって、役だ立たずやろが」と。

加えて、母には、持病がなかった。
毎日服用しなければならないような薬もなかった。

●問題

親の介護で、パニックになる人もいる。
まったく平静な人もいる。
そのちがいは、結局は(愛情)の問題ということになる。
もっと言えば、「運命は受け入れる」。

運命というのは、それを拒否すると、牙をむいて、その人に襲いかかってくる。
しかしそれを受け入れてしまえば、向こうから、尻尾を巻いて逃げていく。
運命は、気が小さく、おくびょう者。

私たちに気苦労がなかったと言えば、うそになる。
できれば介護など、したくない。
しかしそれも工夫しだいでどうにでもなる。

加齢臭については、換気扇をつける。
事故については、無線のベルをもたせる。
便の始末については、私のばあいは、部屋の横の庭に、50センチほどの
深さの穴を掘り、そこへそのまま捨てていた。
水道管も、そこまではわせた。

ただ困ったことがひとつ、ある。
我が家にはイヌがいる。
「ハナ」という名前の猟犬である。
母と、そしてその少し前まで私の家にいた兄とも、相性が合わなかった。
ハナは、母を見るたびに、けたたましくほえた。
真夜中であろうが、早朝であろうが、おかまいなしに、ほえた。

これについても、いろいろ工夫した。
たとえば母の部屋は、一日中、電気をつけっぱなしにした。
暖房もつけっぱなしにした。
そうすることによって、母が深夜や早朝に、カーテンをあけるのをやめさせた。
ハナは、そのとき、母と顔を合わせて、ほえた。

いろいろあったが、私とワイフは、そういう工夫をむしろ楽しんだ。

●鬼

それから約1年半。
母の92歳の誕生日を終えた。
といっても、そのとき母は、ゼリー状のものしか、食べることができなくなっていた。
嚥下障害が起きていた。
それが起きるたびに、吸引器具でそれを吸い出した。
母は、それをたいへんいやがった。
ときに看護士さんたちに向かって、「あんたら、鬼や」と叫んでいたという。

郷里の言葉である。

私はその言葉を聞いて笑った。
私も子どものころ、母によくそう言われた。
母は何か気に入らないことがあると、きまって、その言葉を使った。
「お前ら、鬼や」と。

●他界

こうして母は、他界した。
そのときはじめて、兄が死んだ話もした。
「準ちゃん(兄)も、そこにいるやろ。待っていてくれたやろ」と。

兄は、2か月前の8月2日に、他界していた。

母の死は、安らかな死だった。
どこまでも、どこまでも、安らかな死だった。
静かだった。

母は、最期の最期まで、苦しむこともなく、見取ってくれた看護婦さんの
話では、無呼吸が長いかなと感じていたら、そのまま死んでしまったという。

穏やかな顔だった。
やさしい顔だった。
顔色も、美しかった。

母ちゃん、ありがとう。
私はベッドから手を放すとき、そうつぶやいた。

2008年10月13日、午後5時55分、母、安らかに息を引き取る。

++++++++++++++++++++

●終わりに……

先日、従弟(いとこ)の1人と、電話で話した。
子どものころから、いちばん、仲のよい従弟である。
その従弟が、私の母や兄について、聞いた。
死んだことについて、聞いた。

 が、私はウソは言えなかった。
だから正直に、こう答えた。
「今は、ほっとしている」と。

 そう、ほっとしている。
が、もちろん兄や母の死を喜んでいるわけではない。
しかし悲しみより、解放感のほうが、先に来る。
私にとっては、長い、長い、60年間だった。
重苦しい、60年間だった。
一日とて、気が晴れることがなかった。

 と、同時に、私にとって家族とは何だったのか、それを改めて考える。
もちろん多くの人は、家族に心の拠り所を求め、そこで心を休める。
が、私には、それがなかった。
それができなかった。

 だから、……というわけではない。
弁解するつもりもない。
また私の家族を反面教師とするには、私にはあまりにも重過ぎる。
私は私で、今のワイフと結婚し、私の家族をもうけた。
「何とか幸福になりたい」と思いつつ、その気負いばかりが強かった。
その後遺症は、そのまま私の息子たちに残ってしまった。
息子たちは息子たちで、私とは別の形で、家族を求めて苦しんでいる。

 ほかに他意はない。
私と同じような境遇に苦しんでいる人たちのために、この原稿を書いた。
1人でも多くの人が、「家族自我群」という「幻惑(=呪縛感)」から解放されることを
願う。


Hiroshi Hayashi++++++++JULY 09++++++++はやし浩司

【世界おもしろジョーク集(PHP)】より

●「糞の世界」……考えさせられた!

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いつもトイレの中で、「世界おもしろジョーク集」
(PHP版)を読んでいる。
おもしろい。

その中にこんなのがあった。
(あらすじで、ゴメン!)

+++++++++++++++++++++

●善人vs悪人

 ある日、牛車にのった農夫が通りかかると、道端で一羽の小鳥が、寒さで今にも
死にそうなのがわかった。
そこでその農夫は、まだ温もりの残る牛の糞で、小鳥の周りを包んでやった。
小鳥はそれで元気になった。
元気になって、歌を歌い始めた。

 しばらくすると、別の農夫がそこを通りがかった。
歌声に誘われてそこを見ると、一羽の小鳥が牛の糞の中に埋もれているのがわかった。
そこでその農夫は、小鳥の周りから牛の糞を取り除くと、その糞を遠くへ投げ捨ててやった。

 そのあとまもなくして、小鳥は寒さで、死んでしまった。

 この物語には、3つの教訓がある。
一つ目は、あなたを糞の世界に閉じ込める人が、悪人とはかぎらないということ。
二つ目は、あなたを糞の世界から助け出してくれる人が、善人とはかぎらないということ。
そして三つ目は、糞の世界では、けっして歌を歌わないということ。

●糞の世界

 ここでいう「糞の世界」とは、どういう世界をさすのか?
私はこのジョークを読んで、すぐさま、「裏社会」のような世界を連想した。
暴力と犯罪、女とカネ、それに麻薬が飛びうような世界である。

 「小鳥」とは、純粋無垢な、若者?
つまり農夫は、今にも死にそうな小鳥を助けるため、その小鳥を、温かい牛の糞で、包んでや
った。
おかげで小鳥の命は助かった。
だから教訓のようになる。
「あなたを糞の世界に閉じ込める人が、悪人とはかぎらないということ」と。

 二つ目の教訓も、同じよう考えて、理解できる。

 が、問題は三つ目である。
どうして「糞の世界では、歌を歌ってはいけないのか」。

●歌を歌う

 私はこのジョークを読んで、しばらく考え込んでしまった。
トイレから出てからも、ずっと考えた。
が、どうも意味が、よくわからない。
そこでワイフに相談すると、ワイフは、あっさりと、こう教えてくれた。

 「要するにね、目立ってはだめということじゃ、ナア〜イ」と。

 さすが裏社会を生きてきたワイフ。
ズバリと言い当てた。
つまり裏社会で生きる人間は、目立たず、静かに生きろということか。
たとえばマフィアの親分が、自伝を書いたら、どうなる?
自伝でなくても、たとえばBLOGのようなものを出したらどうなる?
たちまち警察の目にとまり、ああでもない、こうでもないと文句をつけられ、その
親分は、たちまち刑務所送りになるかもしれない。

 だから「静かにしていろ」と。

 ほかのジョークのようには笑えなかったが、発想そのものが、おもしろい。
日本人の私たちにはない発想である。
「農夫と小鳥と糞」という取り合わせが、おもしろい。

●静かに生きる

 糞にもいろいろある。
私が今、住んでいるこの世界も、(現代社会)という観点から見ると、「糞のような世界」
ということになる。
アウト・ローの世界とまではいかないが、それに近い。
フリーターの世界というのは、そういう世界である。

 私ははからずも、その糞の世界に入ってしまった。
ずっとその世界で生きてきた。
今も、糞の温もりを感じながら、生きている。
結構、居心地もよい。

 が、その世界で、こうしてモノを書いている。
先のジョークでいう、歌を歌っていることになる。
過去において、そういう私を、糞の世界から取りだそうしてくれた人も、いない
わけではない。
が、私は自ら、断ってきた。
そして今、満61歳。
今では、糞の世界から出たとしても、出たあと、行く場所すらない。
だから今の世界に、このままいるしかない。

 そういう私は、静かに生きたほうがよいのか。
そのほうが身の安全のためには、よいのか。
そこまで深く考える必要はないのかもしれないが、しかしこのジョークには、
いろいろと考えさせられた。
(プラス、おもしろかった!)


Hiroshi Hayashi++++++++JULY 09++++++++はやし浩司※

●イライラする若者たち(文部科学省所管の統計数理研究所)

++++++++++++++++++

このほど文科省は、「日本人の国民性・
宣告調査」の結果を公表した。

産経新聞、7月17日の記事を、そのまま
紹介させてもらう。

++++++++++++++++++

●産経新聞の記事より

+++++++++++以下、産経新聞(090717)+++++++++++

 経済の低迷が続く中で「自信喪失」から抜け出せず、心のよりどころを模索する傾向が強ま
っている……。文部科学省所管の統計数理研究所は16日、5年ごとに実施している「日本人
の国民性」全国調査の結果を公表した。「生活は貧しくなる」と将来を悲観する人が57%を占
め、若者層を中心に「いらいら」が募っているという。同研究所は「調査は不況の影響が広がり
始めた昨秋に行った。影響が深刻化している現在は不安感がさらに増しているはず」と分析し
ている。

 調査によると、最近20年間で「社会に対する悲観的な見方」が急速に浸透。バブル崩壊後
では4回目となる今回の調査でも、「自信喪失」は続いている。

 日本の経済力に対しては「非常によい」「ややよい」を合わせた肯定的な評価が37%で、日
本経済への自信に満ちていた昭和63年の82%には遠く及ばない。将来展望では「人々が貧
しくなる」が5年前の47%から57%に跳ね上がり、「豊かになる」と希望を持つ人は14%から
11%に減った。

 今回の調査で目立ったのは、社会状況を反映して「いらいら」を募らせる若者が急増したこ
と。1カ月間に「いらいら」した」人の割合が、20〜40代で急増し、20、30代では初めて6割
を超えた。

 一方、家庭や職場での人間関係を重視し、精神的な充足感を求める傾向も読み取れる。自
分にとって一番大切なものは、「家族」が最も多い46%で、50年前(昭和33年)の12%の4
倍に迫る。また、「仕事以外で上役とのつき合いがあった方がよい」とする人が20、30代では
6割を超え、若い社会人が職場での人間関係を見直す傾向が強まっている。背景には、派遣
社員など不安定な雇用環境の広がりがあるとみられる。

 人間として大切な道徳を2つ選ぶ質問では「親孝行」(76%)や「恩返し」(57%)を上げる人
が多く、「個人の権利を尊重」(27%)や「自由を尊重」(36%)に差を付けた。

 初めて質問項目となった「生まれ変わりたい国」では77%が日本と回答。また、科学技術の
水準が「非常によい」とする人が10年前の24%から今回は35%に、芸術では7%から13%
に伸び、経済以外の分野では「自信回復」の兆しも読み取れる。

 調査は昭和28(1953)年から実施。今回は昨年10月下旬から約1カ月かけ、無作為に選
んだ20歳以上80歳未満の男女約3300人から回答を得た。

+++++++++++以上、産経新聞(090717)+++++++++++

 記事の中に出てくる数字を、まとめると、つぎのようになる。

「生活は貧しくなる」と将来を悲観する人……57%

日本の経済力に対しては「非常によい」「ややよい」……37%
(注:日本経済への自信に満ちていた昭和63年の82%には遠く及ばない。)
「人々が貧しくなる」……5年前の47%から、57%に増えた。
「豊かになる」と希望を持つ人……14%から11%に減った。

1カ月間に「いらいら」した」人……20、30代では、初めて60%を超えた。

人間として大切な道徳を2つ選ぶ質問では、

「親孝行」     ……76%
「恩返し」     ……57%
「個人の権利を尊重」……27%
「自由を尊重」   ……36%

●マイナス変化

 こうしたアンケート調査が公表されたとき、それに驚くときもある。
しかしその一方で、「まあ、こんなものだろうな」と、納得するときもある。
今回の文科省の統計数理研究所の調査結果を見たときは、後者のほうだった。

 私たち団塊の世代は、日本の急速な変化に対して、それについていくだけでたいへん
だった。
が、結構それなりに楽しむこともできた。
実際には、怒涛をかけ分け、船をこぐような緊張感とスリルを、いつも肌で感じていた。
こうした前向きな変化を、「プラス変化」と呼ぶなら、現在の若者たちが感じている
変化は、「マイナス変化」ということになる。

 たとえばボットン便所から水洗便所への変化は、「プラス変化」、
水洗便所からボットン便所への変化は、「マイナス変化」ということになる。

 ものごとは、サッカーの試合でもそうだが、攻勢のときは、おもしろい。
押せ押せムードで、意気もあがる。
しかし一度守勢に回ると、ハラハラドキドキの連続。
それが長くつづくと、この調査結果のように、イライラ感に変化する。
とくに今の20代、30代の若者たちは、日本の高度成長期の波に乗り、飽食と
ぜいたくを、ほしいままにした。

 私は当時から、現在の(結果)を、予測し、心配していた。
「飽食とぜいたくに慣れきってしまったら、この先、子どもたちは、どうなる
のだろう」と。
「今のまま、高度成長がいつまでもつづくはずがない。
経済がマイナス成長になったとき、今の若者たちは、はたしてそれに耐えられるだろうか」
と。
それがそのまま、「60%」という数字になったと考えてよい。

●親孝行

 その一方で、「大切な道徳」として、興味深いことに、76%の人たちが、
「親孝行」をあげている。
年代別の数字がわからないので、コメントできないが、「日本人全体としてみれば、
そんなものだろうな」というのが、私の感想。

 とくに50代以上の人たちは、「親孝行論」を強く主張する。
しかしここで注意しなければならないのは、「親孝行論」には、2側面性があるということ。

(1)自分自身が「子」の立場にいて、健在する「親」をもっているときの親孝行論。
(2)自分自身が「親」の立場にいて、健在する「子」をもっているときの親孝行論。

 76%の人が、(1)と(2)のどちらの立場にいるのか、この報道だけではわからない。
が、もし(2)の立場だったら、親孝行論も、ずいぶんと身勝手なものと言わざるを
えない。
自分の息子や娘に対して、「私に親孝行しろ」とは!

 もっともこういうケースのばあい、ほとんどの親は、「先祖」という言葉を使って、
自分への親孝行論を正当化する。
「先祖を大切にしろ」と。
まさか「自分を大切にしろ」とは言えない。
だから「先祖を大切にしろ」となる。

●若者たちの老人観

 若者たちがいらいらしている気持ちは、これでよくわかった。
わかったが、しかし私はもうひとつの変化を、心配する。
そのいらいらした気分を、最近の若者たちは、私たち古い世代に向け始めているという
こと。
(これは多分に、私の杞憂(=取り越し苦労)か?)

つまり「老人がふえたから、日本は貧しくなったのだ」と。
あるいは「老人がふえればふえるほど、日本は貧しくなる」でもよい。
この先、私たち団塊の世代が75歳になるころには、日本人の約3分の1が、その
老人になる。
そうなったとき、若い世代の人たちは、私たち老人をどう見るだろうか。
想像するだけで、ソラ怖ろしくなる。

 さて、この先、この日本はどうなるのだろう?
日本人は、どう変化していくのだろう?
ただひとつ言えることは、「今のままではいけない」ということ。
 
 産経新聞は、「精神的な充足感を求める傾向も読み取れる」とコメントを寄せているが、
私は、この言葉に期待したい。
こうした閉そく感を打ち破るには、「精神的な充足感」しかない。
カネやモノではない。
心。
そのためにも、ひとりでも多くの人が、精神的な充足感を求めるために、
立ち上がってほしい。
今回の調査結果を見て、私は、そう感じた。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

【首相、閣僚の脳検査を義務づけよう】

●AS首相

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夜遅く、山荘にやってくる。
途中、コンビニで、タブロイド紙(日刊ゲンダイ)を買う。
一面の大見出しには、「予想以上にAS自民は大敗する」(7・17)とあった。
それが気になった。
その下に、AS首相の、さらに醜い、あの表情が載っていた。

小見出しには、「どうやら精神に異常をきたしていると見えるバカ首相の
指令で、自爆玉砕選挙に突入していく、まるで勝てない
戦争をした戦前の東条英機政府さながら」と。

一国の宰相が、ここまで酷評される。
その異常さに、驚いた。

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●権力の亡者

 当初、選挙までの暫定内閣だったはずのAS内閣。
1、2週間で、その使命を終えるはずだった。
が、そのつど、ああでもない、こうでもないと、自分勝手な理由をこじつけて、
権力の座に居座ること、10か月。
自称「外交のAS」とか、「経済のAS」とか言って、いろいろやってはみた。

しかし外交面でも、経済面でも、さしたる成果はゼロ。
アメリカには相手にされず、ロシアやドイツを怒らせただけ。
「経済」といっても、日本国内はもとより、世界中に、金(マネー)をばらまいただけ。
自民党内部からでさえ、「AS首相に欠けるのは徳性」とまで、酷評される始末。
しかしそんなことは、当初から、わかっていたはず。

 あのAB元総理大臣の辞任劇の陰で暗躍したのが、AS氏であるという説もある。
AB元総理大臣は、「(ASに)裏切られた」と言って、辞任した。
陰謀と策略。
AS首相に張り付いたイメージは、この10か月、増大することはあっても、縮小
することはなかった。
「精神に異常をきたしていると見える」(日刊ゲンダイ)というのは、少し
言いすぎかとは思う。
しかし今、日本中の人たちが、それに近い印象を持ち始めている。

 たしかに、おかしい。
AS首相は、たしかに、おかしい。

●落下傘(候補)

 横山ノック氏(故人、元お笑いタレント)が、大阪府知事になったとき、だれもが
首をかしげた。
結末は、破廉恥事件を起こして失脚。
私たち日本人は、あの横山ノック氏を通して、何を学んだのか。
そのままその後を引き継いだのが、宮崎県。
宮崎県のAZ知事。

 自民党から衆議院議員への出馬要請受け、「総裁候補にしてくれるなら」という
条件をつけた。
だれしもお笑いタレント特有のギャグかと、わが耳を疑った。
しかしAZ知事は、本気だった。
そこで自民党の出した提案は、東京都X区、比例区第一位候補者……!

 が、日本人も、そこまでバカではない。
自分への逆風を知ると、「師匠のBタケシ氏に、『甘くない』と言われた」とか
何とか、これまた勝手な理由をこじつけて、突然、辞退表明。
「宮崎県知事に戻る」とか、言い出した。
今回の衆議院議員出馬騒動で、振り回されたのは、宮崎県民だけ。
AZ知事にしてみれば、宮崎県など、ただの踏み台でしかない。……なかった。

 この静岡県にしても、中央からやってくる政治家というのは、たいていこの種の
政治家と思って、ほぼまちがいない。
称して、「落下傘(候補)」と言う。
落下傘のように、ある日、突然、空から舞い落ちてくる。
落選すれば、また元の職場に、そのまま戻る。

●幻想主義者

 金(マネー)と女と権力。
まったく異質のもののように見えるが、これら三者は、(煩悩)という欲望を介して、
密接につながっている。
三者一類と考えてもよい。

 権力の魔力とやらを知りたかったら、歴史をながめてみればよい。
一度権力の魔力にとりつかれた政治家は、狂ったように、その座にしがみつこうとする。
政敵を粛清(殺害)することなど、朝飯前。
まともな政治家なら、まだ救われる。
しかしこの類の政治家は、まともでないから困る。
よい例が、あのスターリンである。
彼が率いた恐怖政治のもとで、いったい、どれほど多くの善良な市民が、命を
失ったことか。
何十万人?
何百万人?
あるいはそれ以上?

私はこうした政治家たちを、「幻想主義者」と呼んでいる。
「権力」という、おかしな幻想にとりつかれ、その奴隷となって自分を見失ってしまう。

 権力が人を狂わせるのか。
それとも狂っているから、その人をして、権力に向かわせるのか。
あるいは人は、権力に向かうと同時に、より狂人的になるのか。
しかしそんな政治家を抱いたら、それこそ市民こそ、えらい迷惑。

●自民党の終焉(しゅうえん)

 このまま何ごともなければ、日刊ゲンダイ紙が言うように、AS自民党は、
つぎの国政選挙で、大敗以上の大敗をする。
週刊誌によってちがうが、民主党の単独過半数確保は、ほぼまちがいないようだ。
すでに火事場のネズミよろしく、連立政権を組んでいたK党ですら、連立離脱を
ほのめかしている。

 「何ごともなければ……」というのは、「あのAS首相のことだから、何を画策
しているかわからない」という意味である。
何か問題が起きるたびに、それを理由にして権力の座にしがみついてきた。
今度は、自ら、何か問題を起こす。
そういうことも、じゅうぶん考えられる。
あるいは今、AS首相は、血眼(ちまなこ)になって、その問題をさがしている?
今のAS首相にしてみれば、(失うこと)イコール、自己否定ということになる。
それこそ徳性のある政治家なら、自己否定すらも、自ら心の中で消化することも
できる。
が、AS首相には、その徳性すらない。

●金権主義

 民主主義がこの世に生まれたときはもちろんのこと、この日本に民主主義が
もたらされたとき、民主主義はこれほどまでに金権に毒されやすいものだと
いったい、だれが予想しただろうか。
今の日本の民主主義は、その金権に毒されているというよりは、腐敗しきっている。
民主主義そのものが、金権の奴隷。
金権に操られるがまま操られ、金権の道具として、利用されている。

 はからずも「日刊ゲンダイ」は、AS首相を、あの東条英機にたとえた。
そう、あの東条英機にしても、自分の失敗を認め、すなおに退散していれば、広島の
原爆はなかった。
長崎の原爆もなかった。
東京大空襲もなかったかもしれないし、沖縄の玉砕もなかったかもしれない。

 歴史作家の加来耕三氏の言葉を、このように伝えている。

『まさしく、今のAS首相は東条英機ですね。
つまり冷静な判断力がなく、国民のことを考えられない。
頭にあるのは自分自身の有終の美だけなのでしょう。
いかに自分がかっこよく散るか、それしか考えていないように見えます」(一面)と。

●「精神に異常をきたしていると見える」(日刊ゲンダイ)

 AS首相の精神が、どうなのかということについては、わからない。
しかし一連の言動や失言からして、脳の何らかの障害が疑われても、しかたない。
「精神に異常をきたしていると見える」という発言については、「日刊ゲンダイ」社
(名古屋市中村区名駅4−4−12・購読は、中日新聞出版販売店)に
責任を取ってもらうことにして、もし仮にそうであるとするなら、当然に私たちは、
ドクターストップをかけなければならない。
今は無理なら、そういうシステムを早急に、作り上げなければならない。

 その第一歩として、首相はもちろん、閣僚級の人物については、最低でも、
脳ドックを受けてもらい、その診断結果くらいは、公表すべきではないのか。
就任時はもちろん、半年ごとに、公表したらよい。
認知症、脳梗塞、精神病などなど。
こうした心配のある人物は、そもそも国のリーダーとして、ふさわしくない。
国のリーダーになってもらっては、困る。
また任期途中でも、その心配が発生したら、ドクターストップをかける。

 これは当人のプライバシーがどうのこうのという問題ではない。
またそのレベルの話でもない。
民間航空機会社のパイロットでさえ、半年ごとに精密な健康診断を受けている。
もしその時点で、不適格の判定がくだされたら、以後、そのパイロットは、
操縦桿を握られなくなる。

 民間航空機会社の一パイロットでさえ、そうである。
が、どうして首相には、そういう検査が義務づけられていないのか。
現に、民間のタブロイド紙ですら、AS首相の精神の異常さを疑っている。
気づいている人も多いかと思うが、AS首相の失言の数々、漢字の読み違いなどは、
単なる「ミス」ではない。
ミスではすまされない。
話す言葉ですら、きちんとした文章になっていない。
ズタズタというか、支離滅裂。
私は専門家ではないが、私は、AS首相の認知症の初期症状を疑っている。
その心配をしている。

 そのためにも、つまり私たちがもつ不安や心配を解消するためにも、一度、
脳ドックを受け、それを公表してほしい。
そういうシステムを、一日も早く、確立してほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW 首相の脳検査 脳ドック 首相の適格性)


Hiroshi Hayashi++++++++JULY 09++++++++はやし浩司

●HPの修理

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「修正」というよりは、「修理」と書いたほうが、わかりやすい。
昨日見たら、私のメインのHPの一部が、ズタズタに壊れていた。
原因は、よくわかっている。

 私はメインのHPには、K7社製のHP作成ソフトを使用している。
が、このソフトは、WINDOW・ビスタには対応していない。
(もともとは、XP用に開発されたもの。)
そのソフトを、だましだまし、使っている。

 そのため、アニメーションや、ロゴ文字を挿入すると、それらが、
あちこちでゾンビのように現れる。
HPを破壊する。
(ウィルスによるものではないので、どうか、ご安心を!)

 その修理に、今朝、2時間ほどかかった。
ひとつずつ、アニメーションを消し、ロゴをふつうの文字に置き換えた。
破壊された写真については、一枚ずつ、(切り取り)→(張り付け)を繰り返した。
結構たいへんだったが、その分、楽しかった。

 秋に、WINDOW7が発売になる。
WINDOW7のほうでは、XP用ソフトが、そのまま使えるようになるという。
それまでの辛抱。
がまん。
プラス、秋が楽しみ。
64ビットマシンとは、どんなマシン?
ゾクゾク!
ワクワク!
市販パソコンの中では、最高性能のものを、買うつもり。

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●痛ましい事件(抑圧は悪魔を作る)

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またまた13歳の少年が、父親を殺害する
という事件が起きた。

まず、その記事(産経新聞・7月18日)を
読んでみたい。

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+++++++++++++以下、産経新聞より、抜粋転載+++++++++++++

島根県I市で中学2年の少年(13)が、父親(43)を殺害した事件で、少年の付添人となった弁
護士が17日、M市内で会見し、少年が「父親の勉強に対する指導が厳しかった」との内容を
話していることを明らかにした。

 付添人によると、これまで4回、少年に面会しているが、落ち着いた様子で応じているという。
付添人は「父親に対する恐怖心が拒絶感になり、事件に至ったのではないかと考えている」と
話した。今後は、少年の主張を代弁するなど少年の権利を保障するとともに、聞き取りをして
いくなかで更生に助力するとしている。

 I市教委などによると、少年は昨年11月、スクールカウンセラーに「成績のことで父親に頭な
どをたたかれる」と訴え、竹刀でたたかれる体罰行為もあったという。

 県警のこれまでの調べに、少年は「父親を殺すしかないと思った」と説明。さらに、同級生に
は事件前、「おやじ殺しちゃう」と殺害を予告し、当日朝には、「殺した」と伝えていた。少年の部
屋からは、殺害方法などが書かれたメモやナイフ数本が見つかっており、県警は少年が計画
的に父親を殺害した可能性があるとみて慎重に調べている。

+++++++++++++以上、産経新聞より、抜粋転載+++++++++++++

●「抑圧」の恐ろしさ

 イギリスの教育格言に、『抑圧は悪魔を作る』というのがある。
心理的に抑圧状態が慢性的につづくと、人の心が悪魔的になることを言ったもの。
子どものばあい、それが顕著に現れる。

 まずつぎのテストを受けてみてほしい。
このテストは、表面的には、穏やかで従順な子どもを対象にしたものである。

あなたの子どもは……、

(  )表面的には穏やかで従順である。(親の前では、見た目には静か。)
(  )感情表現、とくに喜びの表現が乏しい。
(  )ときにツンとした人間的な冷たさを感ずる。
(  )ものの考え方が、消費的で刹那的。(小遣いなどもすぐ、使ってしまう。)
(  )「殺す」「死ぬ」という言葉をよく使う。(あるいはあちこちに、書く。)  
(  )「銃(ガン)」「戦争」などに興味をもっている。
(  )ノートなどに残酷な絵を描くことが多い。(「血」をテーマにした絵が多い。)
(  )善悪の判断にうとく、ときに常識はずれなことをする。
(  )何を考えているのか、親にもわからないときが多い。
(  )小動物や人形などに興味を示さない。

 もしこのテストで、5個以上思い当るところがあれば、あなたの子どもの心は
かなりゆがんでいるとみてよい。
(即席で作成したテストなので、信頼性はあまりない。)

 表面的に穏やかで従順であるからといって、「いい子」とは限らない。
それは子どもの世界では常識。
表面的な様子に、だまされてはいけない。
とくにあなた自身が権威主義的なものの考え方をしているなら、注意したらよい。

(権威主義:悪玉親意識が強く、上下意識も強い。
子どもが口応えしただけで、「親に向かって、何てこと言うか!」と怒鳴りつけるような
タイプの親をいう。
「産んでやった」「育ててやった」と、親風を吹かすことも多い。
妻に向かっては、「食べさせてやる」「稼いでやる」とか言う。
家父長意識も強い。)

 今回、I市で起きた事件の背景が、そうであったというのではない。
しかしこの種の事件は、まさに氷山の一角。
その一歩、あるいは二歩手前で、あやうく事件にならないで、闇に隠れている
ケースとなると、ゴマンとある。
ひょっとしたら、あなたの親子関係も、そうかもしれない。

 もしそうなら、(1)権威主義的発想を捨てること。
(2)友として、子どもの横に立つこと。
(3)今の状態を、これ以上悪くしないことだけを考えて、対処すること。

 この3つに心がけてみてほしい。
時間はかかるが、(というのも、この種の心の問題は、一朝一夕には解決しないので)、
やがて子どものほうから、心を開いてくる。

 それにしても、「『成績のことで父親に頭などをたたかれる』と訴え、竹刀でたたかれる体罰行
為もあった」とは!

 そこまでひどくなくても、毎日、毎晩、「勉強しろ!」「うるさい!」の大乱闘を
繰り返している親子は、少なくない。
もしあなたがそうなら……。
 
「子どもの成績があがったら、どうなのか?」
「それがどうしたというのか?」
そのあたりからもう一度、考え直してみてほしい。

 もし殺された父親に、そういうものの見方の一片でもあれば、少なくとも今回の
ような悲劇は避けられたはず。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て 
Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 父親殺害 抑圧は悪魔を作る)


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●スパイ・テスト

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私は、幼児を教えて40年になるが、たとえば、
幼児のもっているバッグの中に、手を入れたことは、
ただの一度もない。
ほんとうに、ない。

たとえばその日のレッスンが終わると、出席表にシール
を張ることにしている。
そのとき、バッグから出席表を出さない子どもがいる。
何か、ほかのことに気をとられて、隣の子どもと、
ふざけて遊んでいたりする。

そういうとき、私はその子どもに向かって、「出席表を
出してください」と、何度も促す。

バッグの口は開き、そこに出席表が見えている。
手でつかめば、さっと取りだすことができる。
それでも私は待つ。
子どもが自分で出席表を取りだすまで、待つ。

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●スパイ・テスト

 こうしたテスト方法(入学試験方法)は、今では、全国のあちこちの小学校で
行われている。
あえて名前をつければ、「スパイ・テスト」ということになる。
もちろん学校によって、呼び方はちがう。
浜松市のある小学校では、「遊びの部屋」と呼んでいる。
しかたは、こうである。

 まず(1)7〜8人、1グループの子どもたち(園児)を、ひとつの部屋に集める。
そこで(2)教師が、あれこれと指示をする。

 「青い線から外へ出てはいけません。青い線の中にあるおもちゃでは遊んではいいです。
しかし青い線の外にある、ピアノやパソコンには、さわってはいけません。
タンバリンの音が聞こえたら、遊びをやめて、後片づけをしてください」と。

 こうして指示をしたあと、(3)教師は、外へ出ていく。
言い忘れたが、子どもたちは胸に、大きなぜっけん(番号)をつけている。

●モニター

 「遊びの部屋」には、テレビカメラが設置してある。
教師は子どもたちの様子を、外(職員室)から監視し、子どもたちの様子を見る。
どの子どもが言いつけどおりに遊んでいるか、あるいは遊んでいないか、など。

 時間にすれば、20〜30分ほど。

 このテスト方法は、子どもたちのありのままの様子を見るテスト方法としては、
たいへんすぐれている。
というのも、この時期の子どもには、現実検証能力というか、自己評価力が、
まだほとんどない。
自分の姿を、第三者的な視点から、客観的に見ることができるようになるのは、
小学3年生〜以上である。
それまでは、自分がどういう立場にあった、他人にどう思われているか、それを判断
することはできない。
子どもたちは先生がいないことをよいことに、ありのままの自分を、さらけ出してしまう。

 だから親たちが、「そういうテストがあるから、先生の言いつけをよく守って遊ぶのよ」
と言っても、意味はない。

●だから、それがどうなの?

 このテスト方法が、親たちとの懇談会の場で話題になった。
「子どものありのままの姿を知るには、よいテスト方法かもしれませんね」と、
私が話すと、親たちは、みな、笑った。

 しかし具体的な話になると、みな、「それはおかしい」と言いだした。
たとえば教室の天井の隅に、テレビカメラを設置する。
私や親は、そのまま廊下に出る。
廊下に設置してあるテレビを見ながら、子どもたちの様子をさぐる……。

 そこで問題!
このテスト方法には、「だからどうなの?」という部分がない。
たとえば私の指導に従わず、勝手にパソコンやピアノに触って遊んだ子どもがいたとする。
そういうとき、どうするのか?

 あとで、その子どもを叱るということもできない。
まさか「外から、スパイしていました」とは、とても言えない。
もしそんなことを言えば、私とその子どもとの信頼関係は、そのまま破壊される。
いくら相手が幼児だからといっても、信頼関係なくして、教育は成り立たない。

●人間性の問題

 学校という集団教育の場では、監視カメラは必要かもしれない。
不審者による犯罪も、心配される。
しかしそのカメラが、子どもの方を向いたとき、監視カメラは、別の意味をもつ
ようになる。

 それは必要なのか。
そこまでしてよいのか。
またそれは許される行為なのか。

 いろいろ議論はあるだろう。
あるだろうが、現実に今、しかしそれがそのままテスト方法として採用されている。
ありのままの子どもの姿を知るためには、よいテスト方法かもしれない。
しかし私はどうしても、こうしたテスト方法には、生理的な嫌悪感を覚える。
……覚えてしまう。
それがわからなければ、冒頭に書いたバッグの話を思い浮かべてみてほしい。

 つまりあえて言うなら、このテスト方法は、子どものバッグの中に手を入れ、
バッグの中身を調べるのと、どこか似ている(?)。

 さらに言えば、子ども部屋に親が勝手に入って、(あるいは教師もいっしょに
入って)、子どもの机の中を調べる行為にも通ずる。
こうした方法は、何度も書くが、ありのままの子どもの様子を知るためには、
よい(?)方法かもしれない。
が、このテスト方法には、それをする人たちの人間性の問題がからんでくる。

 それができる人は、できる。
しかしできない人には、できない。
そういうテスト方法である。

●人権の無視

 どこかでこっそりと監視しながら、子どもの様子をさぐる……。
いくら相手が幼児だからといっても、本来なら、許されるテスト方法ではない。
それがわからなければ、あなた自身のこととして、考えてみたらよい。

 あなたが家庭の主婦なら、こうだ。
あなたの家庭での様子を知りたいと思ったあなたの夫が、家のどこかに監視カメラを
設置する。
それをあなたの夫が、携帯電話に転送して、ずっと見ている……。

 想像するだけで、ぞっとするような話ではないか。
あなたにまともな神経があるなら、あなたはきっとこう叫ぶはず。

 「そういういやらしいことは、やめて!」と。

 そう、こういうテスト方法は、いやらしい。
子どもというより、人間としての人権を無視している。
子どもにも人格があり、人権がある。
そうしたものを、無視している。

 ……といっても、今ではこのテスト方法は、全国の小学校で、広く採用されている。
何もこの浜松市の小学校だけが、しているわけではない。
しかしもし学校側に、少しでも子どもへの人権意識があるなら、どこかで抵抗感を覚える
はず。
それとも、今では、学校の先生たちは、子どもの持ち物などを、平気で調べているとでも
いうのだろうか。
子どものバッグの中に、勝手に手を入れて……!

 10年ほど前に、こんな原稿を書いたことがある(中日新聞発表済み)。

++++++++++++++++++++

ついでに、子どものプライバシーは、どのように
考えたらよいか。それについて書いたのが、つぎ
の原稿である。
この原稿は、中日新聞に掲載して
もらったが、かなり反響のあった原稿である。

++++++++++++++++++++

●逃げ場を大切に

 どんな動物にも最後の逃げ場というものがある。動物はこの逃げ場に逃げ込むことによっ
て、身の安全を確保し、そして心をいやす。人間の子どもも、同じ。

親がこの逃げ場を平気で侵すようになると、子どもの情緒は不安定になる。最悪のばあいに
は、家出ということにもなりかねない。

そんなわけで子どもにとって逃げ場は、神聖不可侵な場所と心得て、子どもが逃げ場へ逃げ
たら、追いかけてそこを荒らすようなことはしてはならない。説教をしたり、叱ったりしてもいけ
ない。

子どもにとって逃げ場は、たいていは自分の部屋だが、そこで安全を確保できないとわかる
と、子どもは別の場所に、逃げ場を求めるようになる。A君(小2)は、親に叱られると、トイレに
逃げ込んでいた。B君(小4)は、近くの公園に隠れていた。C君(年長児)は、犬小屋の中に入
って、時間を過ごしていた。電話ボックスの中や、屋根の上に逃げた子どももいた。

 さらに親がこの逃げ場を荒らすようになると、先ほども書いたように、「家出」ということにな
る。

このタイプの子どもは、もてるものをすべてもって、家から一方向に、どんどん遠ざかっていくと
いう特徴がある。カバン、人形、おもちゃなど。D君(小1)は、おさげの中に、野菜まで入れて、
家出した。

これに対して、目的のある家出は、必要なものだけをもって家出するので、区別できる。が、も
し目的のわからない家出を繰り返すというようであれば、家庭環境のあり方を猛省しなければ
ならない。過干渉、過関心、威圧的な子育て、無理、強制などがないかを反省する。激しい家
庭騒動が原因になることもある。

 が、中には、子どもの部屋は言うに及ばず、机の中、さらにはバッグの中まで、無断で調べ
る人がいる。しかしこういう行為は、子どものプライバシーを踏みにじることになるから注意す
る。

できれば、子どもの部屋へ入るときでも、子どもの許可を求めてからにする。たとえ相手が幼
児でも、そうする。そういう姿勢が、子どもの中に、「私は私。あなたはあなた」というものの考え
方を育てる。

 話は変わるが、98年の春、ナイフによる殺傷事件が続いたとき、「生徒(中学生)の持ちもの
を検査せよ」という意見があった。しかしいやしくも教育者を名乗る教師が、子どものカバンの
中など、のぞけるものではない。

私など結婚して以来、女房のバッグの中すらのぞいたことがない。たとえ許可があっても、サイ
フを取り出すこともできない。私はそういうことをするのが、ゾッとするほど、いやだ。

 もしこのことがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。あるいはあなたが子ども
のころを思い出してみればよい。あなたにも最後の逃げ場というものがあったはずだ。またプ
ライバシーを侵されて、不愉快な思いをしたこともあったはずだ。それはもう、理屈を超えた、
人間的な不快感と言ってもよい。自分自身の魂をキズつけられるかのような不快感だ。

それがわかったら、あなたは子どもに対して、それをしてはいけない。たとえ親子でも、それを
してはいけない。子どもの尊厳を守るために。

(はやし浩司 家の間取り 子ども部屋 プライバシー 子どもの尊厳 家出 
はやし浩司 ナイフによる殺傷事件 子どもの持ち物 スパイテスト スパイ・テスト)
(040401)


+++++++++++++++++++++

そう言えば、「子どもにはナイフを与えろ」と説いていた教育評論家がいた。
最後は、麻薬所持で逮捕され、しばらくこの世界から姿を消したが、またその名で、
原稿を書き始めているという。
いいのかなあ?

それについて書いた原稿が、つぎのもの。

+++++++++++++++++++++

●ニセ科学(pseudo science)

In Japan very strangely most of the young people believe that each man's personal 
character is decided by the blood type. It is only one of pseudo science, which widely spread 
throughout Japan.

++++++++++++++++

家具屋の店員に、重い家具を搬入してもらった。
そのとき、私が「こんな家具、地震で倒れたら、たいへんだなア」と、ふと漏らすと、その店員
は、こう言った。
「重いから、倒れません」と。

私は、その言葉を聞いて、あっけに取られた。

血液型による性格判定についても、しかり。
つまり科学性、ゼロ!

++++++++++++++++

「Imidas、時事トレンド」の中に、こんな記事が載っていた。同志社大学教授の左巻健男氏の
書いたものだが、「人はなぜ、ニセ科学を信ずるのか?」というのが、それ。

 左巻氏は、ニセ科学として、いくつかの例をあげている。そのひとつが、マイナスイオン。

(1) マイナスイオンとは、化学で学ぶ「陰イオン」ではなく、これに近いのが、大気科学の「負イ
オン」である。「滝にマイナスイオンが発生している」と言うばあいには、負イオンだが、これが
健康によいという根拠はない。

プラスイオンは「吸うと心身の状態が悪くなる」のに対して、マイナスイオンは空気を浄化し、吸
うと気持ちのイライラが解消し、ドロドロ血はサラサラに、アトピーや高血圧症にも効き、健康に
もいい」というのである。

これは「納豆ダイエット」でねつ造が発覚したテレビ番組「発掘、あるある大辞典」(フジテレビ
系)が火付け役で、1999年から2002年にかけて、特集番組で驚くべき効能がうたわれた。

そこから有名企業までが、マイナスイオン類似の効果をうたう商品を製品化し、エアコン、冷蔵
庫、パソコン、マッサージ機、ドライヤーや衣類、タオルなど、広範囲の商品が市場に出される
に至った(以上、P162)、と。

 ニセ科学は、血液型による性格判定だけではなかったというわけである。電気店へ行くと、た
しかにその種のうたい文句を並べた商品は多い。私はマイナスイオンにとくにこだわっていた
わけではないが、今度、新しく購入した冷蔵庫にも、それがあった。

 しかし左巻氏に言わせると、それもニセ科学だったとは! しかも火付け役が、あの「発掘、
あるある大辞典」だったとは! 

 左巻氏は、こうつづける。「マイナスイオン測定器でこれらを測定すると、1ccあたり、数10万
個との数値を示すが、空気の分子数とくらべると、微々たる数値にすぎないことに注意を要す
る」(同書)と。

 だからといって、つまりImidasにそう書いてあったからといって、左巻氏の意見を全面的に信
ずるのもどうか、ということにもなる。しかしここは、やはり科学者である左巻氏の意見を尊重し
たい。相手が、「発掘、あるある大辞典」では、話にならない。

 左巻氏も書いているが、本当の問題は、こうしたニセ科学にあるのではなく、「人はなぜ、
ニセ科学を信ずるのか?」という部分。

 もうひとつ、こんな例をあげている。

(2) 容器に入った水に向けて、「ありがとう」と「ばかやろう」の「言葉」(文字)を書いた紙を張
り、その水を凍らせる。

すると「ありがとう」の水は、対称形の美しい六角形の結晶に成長し、「ばかやろう」の水は、崩
れた汚い形の結晶になるか、ならない。

ゆえに「水が言葉を理解する」と主張する『水からの伝言』(江本勝著)という本が話題になっ
た。

水という物質が、言葉によって影響を受けるということはない(同書)、と。

 こんなアホなことは、だれにでもわかる。何も、左巻氏の説明を借りるまでもない。しかし、
だ。こんなアホな説を根拠に、教育界でも、「きれいな言葉を使いましょう」運動が広まったとい
う。

 理由は、「人間の体の6〜7割は水だから」と。が、批判が高まると、「それに加担した教育団
体は、ホームページからその授業案を削除したが、いまもどこかで、こうした(道徳)の授業が
行われている」(同書)と。

 しかし、『水からの伝言』とは何か? 江本勝という人物は、どんな人物なのか? 少し前、麻
薬を所持していて逮捕された教育評論家がいた。彼は以前、「子どもにはナイフを持たせろ」
「親が子どもを信頼している証になる」と説いていた。

 その教育評論家は、都会で子どもたちによるナイフ殺傷事件がつづくと、いつの間にか、自
説をひっこめてしまった。私は、左巻氏の意見を読みながら、その教育評論家のことを思い浮
かべていた。

 で、さっそくヤフーの検索エンジンを使って調べてみると、それは、そこにあった。

いわく、「私たちは、水の結晶写真技術に基づいて、愛・感謝の気持ちが水を美しく変化させる
ということを、実証してきました。水をきれいにすることにより、私たちの心身もきれいになり、
健康を取り戻し、本来持っている才能を開花することができるのです。水が変われば世界が変
わります。いっしょに波動と水の可能性を探究しましょう」(「水からの伝言」HPより)と。

 どうやら、本気らしい。

 しかし……? 「?」マークを、1ccあたりに存在する水の分子の数ほど、つけたい。その数
は、約3x10の22乗!(ヤフー・知恵袋参照)

 数字で表してみると、こうなる。

300,0000,0000,0000,0000,0000個!

 しかし、左巻氏ではないが、どうして人は、こんな珍説を信ずるのだろう。あの占星術にして
も、そうだ。科学性は、さらに低い! ゼロどころか、ゼロにもならない!

 これも教育の欠陥といえば、それまでだが、その先には宗教があり、カルトもある。けっして、
軽く考えてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ニセ科学 非科学 納豆ダイエ
ット マイナスイオン マイナス・イオン 水からの伝言 水の結晶)


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司※

●自閉症スペクトラムの子どもたち

+++++++++++++++++++++

「自閉症」と言うと、ほとんどの親たちは、
(無口で、内気。殻(から)に閉じこもった
子ども)を想像する。
しかしこれは誤解。

そこで最近では、自閉症という言葉はあまり
使わない。
「広汎性発達障害」という言葉を使うことが
多い。
(以前は、多動性、多弁性のある自閉症児を、
「活発型自閉症児」と呼びことが多かった。)

また症状や程度は、千差万別。
ふつうの子ども、(この言葉には、少なからず
抵抗を覚えるが)、そのふつうの子どもと
ほとんど違わないレベルから、顕著な症状の
現れる子どももいる。
そのため患者数も、36万人〜120万人
(日本自閉症協会)と、大きな幅がある。

そのこともあって、最近では、「スペクトラム」
という言葉を使うことが多い。
「自閉症スペクトラム」というような言い方を
する。

たとえば現在、自閉症といっても、高機能自閉症
(アスペルガー症候群含む)は、区別して考える。
症状としては、AD・HD児や、LD児のそれを
併せもつケースも多い。
もちろん知的障害をもった子どもも多い。
が、先にも書いたように、その境界が、よくわからない。
わからないという意味で、「スペクトラム」という
言葉を使う。

「スペクトラム」というのは、光の分光器で光を
分解したときのように、それぞれの症状が、多岐、
複雑に分かれ、かつ連続性をもつことをいう。

+++++++++++++++++++++
 
●自閉症スペクトラム

 診断については、DSMによる診断基準が、広く、一般的に使われている。
ウィキペディア百科事典に出ている、「DSMによる診断基準」を、そのまま紹介
させてもらう。

+++++以下、ウィキペディア百科事典「自閉症」より転載+++++

DSMの診断基準 

DSMの診断基準に挙げられている症状は次の通り。

●コミュニケーションにおける質的な障害 
○視線の相対・顔の表情・体の姿勢・身振り等、非言語行動がうまく使えない。 
○(例)会話をしていても目線が合わない。叱られているのに、笑っ
ている。 
○発達の水準にふさわしい仲間関係が作れない。 
○興味のあるものを見せたり指さしたりする等、楽しみ・興味・成果を他人と
自発的に共有しようとしない。 
○対人的または情緒的な相互性に欠ける。 
●(例)初対面の人に対する無関心。 

●意思伝達の質的な障害 
○話し言葉の発達に遅れがある。または全く話し言葉がない。 
(例)クレーン現象
○言語能力があっても、他人と会話をし続けることが難しい。 
(例)一問一答の会話になってしまう。長文で会話ができない。 
○同じ言葉をいつも繰り返し発したり、独特な言葉を発する。 
(例)人と会話をする際に同じ返事や会話を何度もする。 
○発達の水準にふさわしい、変化に富んだ『ごっこ遊び』や社会性を持った
『物まね遊び』ができない。 

●限定され、いつも同じような形で繰り返される行動・興味・活動(いわゆる「こ
だわり」) 
○非常に強く、常に繰り返される決められた形の一つ(もしくはいくつか)の
興味にだけ熱中する。 
○(例)特定の物、行動などに対する強い執着心。 
○特定の機能的でない習慣・儀式にかたくなにこだわる。 
(例)物を規則正しく並べる行動。 
(例)水道の蛇口を何度も開け閉めする行動。 
○常同的で反復的な衒奇(げんき)的運動物体の一部に持続的に熱中する。 
(例)おもちゃや本物の自動車の車輪・理髪店の回転塔・換気扇な
ど、回転するものへの強い興味。 
(例)手をヒラヒラさせて凝視する。 

+++++以下、ウィキペディア百科事典「自閉症」より転載+++++

●軽重の判断を正確に

 この診断基準を読んでもわかるように、自閉症のもっとも顕著な特徴は、他者との
良好な人間関係(コミュニケーション)をとれないところにある。
 もちろんその程度も、子どもによってちがう。
一日中、小刻みな運動を繰り返し、ほとんどコミュニケーションがとれないタイプの
子どももいれば、ふとしたきっかけで、親や兄弟たちと、いっしょになって行動する
というタイプの子どももいる。

 そこで自閉症が疑われたら、まずどの程度の症状かを、正確に把握する必要がある。
症状が軽いばあいには、自閉症であることをあまり意識せず、(ふつうの子ども)として、
ふつうの環境で育てるのがよい。
私の経験でも、自己管理能力が育つ、小学3〜4年生を境にして、症状は急速に収まって
くる。
大切なことは、それまでに症状をこじらせないこと。
多くのばあい、その症状の特異性から、親が乳幼児期に、はげしく叱ったり、ときに
暴力を加えたりしやすい。
こうした一連の不適切な対処の仕方が、子どもの症状をこじらせる。

●原因

 こと教育の場では、(原因さがし)というのは、しない。
しても意味はない。
「そこにそういう子どもがいる」という立場で、指導を開始する。
ただ親には、ある程度のことは話す必要がある。

 というのも、自閉症が疑われると、ほとんどの親は、その瞬間から、はげしい
絶望感を覚える。
が、こと自閉症に関していえば、「脳の機能障害」であり、さらにわかりやすく
言えば、一時的であるにせよ、あるいは長期的にあるにせよ、機能が不全の状態
であるにすぎない。
(詳しくは、ウィキペディア百科事典を参照のこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E9%96%89%E7%97%87)

 たとえば私のばあい、軽度自閉症であれ、アスペルガー症候群であれ、高機能
自閉症であれ、その子どもが一定のワクの中に入れば、そうした「障害」は無視し
て指導を開始する。
(ここでいう「高機能」というのは、「知的な障害が見られない」という意味で、
そう言う。)

 つまり診断名を親に告げる必要はないし、(また「診断名」を告げることは、
タブー中のタブー)、原因や、将来の予想を告げる必要もない。
重要なことは、「先月よりも、今月はよくなった」「半年前より、症状が軽くなった」
という状況を作ることである。
 またそういう状況になるように、指導に専念する。

●親の無理解

 症状が重く、医師による診断がくだされているケースは、別として、先にも
書いたように、症状があいまいな子どもも少なくない。

(ただし医師の診断が、いつも正しいとはかぎらない。
私も医師によって「自閉症」と診断された子どもを、何十例と指導してきた経験
があるが、そのうち3〜4割については、「?」と感じている。)

 たいていは2〜3歳ごろになって、「どうもうちの子は、おかしい」「言葉の
発達が遅れている」「落ち着きがなく、突発的に錯乱状態になる」などの症状が
現れて、ふつうではないことに気づく。
多動性、衝動性が見られることも多く、そのため先にも書いたように、はげしく
叱ったり、ときに暴力を加えたりしやすい。
それが症状をこじらせるだけではなく、指導するばあいも、親の協力が得られず、
苦労する。

やっとの思いで、(ふつうの子ども?)になっても、「この教室は効果がなかった」
という判断をくだして、そのまま去って行く親も少なくない。
(というより、そういうケースが、ほとんどと考えてよい。)
そういうばあい、私(=指導者)が受ける落胆感というか、絶望感には相当な
ものがある。
自閉症にかぎらず、親の無知、無理解が原因で、そうした絶望感を味わうことは
じばしばある。
が、いまだに、その絶望感だけは、どうしようもない。

 つまりこういうことが重なるため、指導する側(幼稚園や保育園を含む)は、
どうしても指導に消極的になる。……ならざるをえない。
目に余るほど症状が顕著なばあいには、入園そのものを断るケースが多い。

●希望

 最近では、自閉症児に対する理解も進み、またその周囲環境も整えられてきて
いる。
いろいろな団体や組織が、治療プログラムを用意し、好成績を収めている。
またあくまでも機能障害であり、(機能の改善)をめざした医学的治療法も、
現在急速に進歩しつづけている。
原因についても、大脳生理学の分野で、かなり精密に解明されつつある。

 また(流れ)の中でみると、自閉症児にかぎらず、AD・HD児、かん黙児
にしても、小学3〜4年生を境に、急速に症状が緩和されてくる。
とくに脳内ホルモンのバランスが調整されてくる思春期前夜ごろになると、
子ども自身がもつ、自己治癒機能が働くようになる。
専門家が見れば、そうとわかるが、そうでなければ、外目にはわからなくなる。
つまりその程度までに、改善する。

 そのため仮に、専門機関で自閉症と診断されても、(親が受けるショックは
大きいが)、それを「終わり」と考えてはいけない。
そのためにも、つぎのことに注意する。

(1)専門機関で診断名をつけてもらい、自閉症に対する知識をしっかりともつ。
(2)愛情の糸だけは大切にし、どんなばあいも、子どもを「許して忘れる」。
(3)乳幼児期には、「症状を悪化させないこと」だけを考える。
(症状をこじらせれば、いろいろな合併症を併発する。
また立ち直りも、その分だけ遅れる。)
(4)治療のターゲットを、小学3〜4年生(9〜10歳)ごろに設定する。
それまではジタバタしない。
「ようし、十字架のひとつやふたつ、背負ってやる」という前向きな、
暖かい愛情が、何よりも重要と心がける。
(5)幼稚園以後の教育法などについては、各地域にある、「発達障害相談窓口」
(多くは保健所、保険センター)に相談するとよい。
現在、この浜松市でも、10年前とは比較にならないほど、そうした障害
をもつ子どもに対する支援プログラム、支援組織、支援団体が組織化されている。
けっして「私、1人」と、自分を追い込んではいけない。

(2009年7月22日記)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 自閉症 自閉症スペクトラム)


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●近況・あれこれ(090722)

●私は「男」ではない?

 若いころほどではない。
ないが、今でも若い女性の胸元が見えたりすると、ドキッとする。
が、最近の若い女性、それに母親たちは、無防備と言えば、無防備。
それに大胆。

 話はそれるが、学生時代、金沢で外人相手の観光ガイドのアルバイトをしていた
ことがある。
そのときのこと。
カナダ人夫婦が、女子高校生を連れてやってきた。
その女子高校生が、今で言うタンクトップというのを着ていた。
当時、ああいう服装をしている日本の女性は、いなかった。
若い女性でもいなかった。
そのため、私は金沢の街の中をいっしょに歩きながら、しばしば歩けなくなってしまった。
どうして歩けなくなってしまったについては、今更、ここに書くまでもない。

 が、今では、タンクトップなど、珍しくも何ともない。
とくにこの浜松市には、南米からの労働者たちがたくさん住んでいる。
一番多いときで、3万人前後になった。

 その人たち。
これまた大胆というか、ノーブラの上に、胸元を大きく開けた、薄いシャツ一枚。
店の中で通り過ぎたときなど、目のやり場がない。
どうしたらいいか、そのつど迷う。

 そうした影響もあるのだろう。
このところ日本の若い女性たちも、大胆になってきた。
若い母親たちも、大胆になってきた。
平気で(?)、胸元を見せたりする。
が、私はそういうとき、別のことを考える。
「私だって、まだ男だ!」と。

 若い母親たちから見れば、私は、彼女たちの世代からはるか離れた
ジー様ということになる。
私自身の若いころを思い出してみると、若い母親たちがどう思っているか、よくわかる。
20代、30代のころ、50歳、60歳の人は、別世界の人のように思えた。
はっきり言えば、どうでもよい世界の人たちに思えた。
それはわかる。
しかし私は、今でも「男」である。
「男」を棄てたわけではない。
だから、ドキッとする。
と、同時に、「ああ、私は男に思われていないのだ」と知り、がっかりする。

 何年か前のことだが、こんなこともあった。
ある母親が私に、こう言って相談してきた。

 「兄(小3)と妹(幼稚園児)が、私のおっぱいを取りあって、喧嘩をします。
どうしたらいいでしょうか」と。

 話を聞くと、「兄が左、妹が右と決めているのですが、それでも喧嘩になります」と。
で、私は、思わず、「どうして?」と聞いてしまった。
「どうして兄が左で、妹が右?」と。
するとその母親は、私の目の前で、両方の胸を両手で下からもちあげて見せ、
「ほら、先生、左のほうが大きいでしょう」と。

 そのとき気がついたが、その母親はノーブラだった。
そしてそのときも、こう思った。
「私だって、男だ」と。

 その母親は、美しい人だった。
それでよけいに印象に残った。

 で、この話をそのあとワイフにすると、ワイフもこう言った。
「かわいそうね。あなたは、男と見られていないのよ。
牧師さんか、まあ、そんな人のように思われているのよ」と。

 しかし結びに、もう一言。
私だって、まだ「男」だア!


●人間性の壊れた人

 今日、ドライブをしながら、ワイフとこんな会話をした。
先日、私の庭に、マムシが出た。
その話をすると、ワイフの義兄の家にも、一度、マムシが出たことがあるという。
しかもそのマムシというのは、どうやら義兄の隣人が投げ込んだものらしい、と。

私「それって、殺人未遂だよ」
ワ「そうね、それでかまれて死ねば、殺人罪よね」
私「そうだよ」と。

 しかしマムシに名前があるわけではない。
つまり隣人が投げ込んだという証拠もない。

 そこで話が進んだ。
私「じゃあさあ、今度そういうことがあったら、マムシを隣へ投げ返してやればいい」
ワ「そんなこと、できないわよ」
私「それもそうだね。そういうことをすると、気分が悪くなるよね」
ワ「そうよ。……でも、そういうことが平気でできる人というのは、すでに
人間性が破壊されている人とみていいわね」

私「そう、まともな人なら、そういう隣人とは関わりたくない。そう思うよ」
ワ「でもね、そういう人は多いわよ。そういうことが平気でできる人……」
私「そう言えば、それに似たような話を、A君(学生時代の友人)から、
聞いたことがあるよ」と。

 それはこんな話だ。

 数年前、その友人の父親が死んだ。
90歳だったという。
それまで父親は、実家に、ひとり住まい。
友人の姉が訪れてみたときには、すでに死後、2、3日もたっていたという。

 で、連絡を受け、あわてて友人が実家へかけつけてみると、1、2通の通帳類を
残して、現金など、財産的価値のあるものは、きれいに消えていたという。
ついでにA君が子どものころ集めていた、古銭や切手も!
その直前に、友人の姉が、すべて持ち出していた。

 が、友人にすれば、それどころではない。
こうした不審死のばあい、警察が介入してくる。
友人は、取り調べも受けた。

 で、葬儀も無事済み、1か月ほどがたったときのこと。
姉から手紙が送られてきた。
中身を見ると、古い株券が10枚ほど入っていたという。
「価値のあるものか、どうか、調べてほしい」と、手紙にはそうあった。

 そこでその友人が、市内の証券会社にもちこみ、調べてもらうと、数千円分の
価値しかないことがわかった。
で、友人は、姉にそのことを連絡した。

 が、この話には裏がある。
実は、A君の姉は、その株券がその程度の価値しかないことを、すでに知っていた。
知っていた上で、A君に送り届けてきた。
よくある『小悪を暴露して、大悪を隠す』という手法である。
小ずるい人間が、よく使う手である。

 つまり小悪を、わざと暴露する。
そうして自分は正直な人間ですということを、相手に印象づけながら、一方で、
大悪を隠す。

ワ「その姉さんという人も、相当の悪ね」
私「そうなんだよな。だれでも頭の中では、いろいろ考える。ときには、悪いことも
考える。しかしそれを実際に実行する人となると、そうはいない」
ワ「そうね、そういうことが平気でできる人というのは、人間性が壊れていると
みるべきね」
私「そうだよ。友人もそう言っていた。『姉とは縁を切った』とね」と。

●善人と悪人

 善人と悪人の(差)は、(距離)の問題と考えてよい。
だれしも、悪いことを考える。
考えるが、実行するとなると、別の覚悟が必要である。
その(考えること)と、(実行)の間には、(距離)がある。
それが善人と悪人の(差)ということになる。

 善人は、その(差)が、大きい。
悪人は、その(差)が小さい。

 たとえば、だれしも、「こうすればいい」というようなことまでは、考える。
その中には、悪いことも含まれる。

私も、若いころは、銀行強盗の仕方を、毎晩のように考えた。
(一度もそれについて書いたことはないが……。というのも、真似をする人が
出てくると困る。しかし私が考えた方法は、完璧なものである。ワイフにそれを
話すと、ワイフは、「ハリウッドへ原稿を送ってみたら」と言った。
つまりそれほどまでに、斬新で(?)、確実性のあるものだった。)

ほかにアメリカ映画のような、現金輸送車の強盗も考えた。
当時、そういう映画がよくはやった。
しかし考えても、私は実行しない。
それが(距離)となる。

 で、話を戻す。
ここに書いた、『小悪を暴露して、大悪を隠す』というのも、その一例である。
それができる人は、できる。
できない人は、できない。

たとえば小悪を暴露することは、それほど難しいことではない。
それによって、自分を善人に仕立てることもできる。
しかしその一方で、大悪を隠すとなると、心は大きく揺れ動く。
人間の心というのは、自己矛盾に対しては、それほどタフにできていない。
精神は緊張状態に置かれ、ついで、不安定になる。

 それがいやだから、つまり心が不安定になるのがいやだから、ふつうの人なら、
それをしない。
(考え)と(実行)の間に、(遠い距離)を覚える。
しかし人間性が壊れている人は、そうでない。
平気でそれができる。
したところで、罪の意識を覚えない。
ごく日常的な行為として、それができる。

ワ「周囲の人たちは、その姉さんのことを、どう思っているのかしら?」
私「そう、ぼくも、それをA君に聞いたことがある。
そしたらA君が言うには、A君の周囲の人たちは、みな、そういう人たちばかり
と言っていた」
ワ「類は友を呼ぶ……だったかしら?」
私「そう。友は類を呼ぶでもいいよ。そういう人たちは、そういう人たちどうしで集まり、
居心地のいい世界を作るもんだよ」
ワ「いや〜ネ」
私「ホント」と。

 A君の姉もそうなら、姉のダンナも似たような人という。
一見まじめそうだが、小ずるくて、いつもセコセコしている、と。
さらに姉がいちばん親しく行き来している、伯父にあたる人もそうだという。
まさに『類は、友を呼ぶ』ということか。

●では、どうするか?

 人生も長ければ、それでもよい。
しかし10年など、あっという間に過ぎてしまう。
とくに60歳を過ぎると、人生も秒読み段階に入る。
そうなると、無駄な人と、無駄な時間を過ごすこと自体が、苦痛となる。

 さらに人間性に欠ける人たちとつきあっていると、こちらの人間性まで、
変調してしまう。
つまりその分だけ、時間を無駄にする。
そこで教訓。

(1)小数の人たちと、より深く交際する。
(2)より高次元の人を選んで、交際する。
(3)低次元の人たちとは、勇気をもって、縁を切る。

 原稿をさがしてみたら、昨年(08年)の3月に、同じようなことを書いたのを
知った。

それをそのままここに、転載する。
ここに書いたことが、ひとつの結論になるのではないだろうか。

++++++++++++++++++++++++

●私らしく生きる(I live as I am.)

If someone speak ill of you behind you, what will you do? In may case I cope with such a 
problem, just ignoring him or her. We don't have to be a good friend for all the people. 
There is a saying in England, that we can't be a good man to two people together. In 
Japan we say that those who wish to be a good man to everyone are called "8-direction 
good man". We rather despise this sort of man. This means to be a good man to someone 
means to be a bad man to another man. We are often forced to choose one of them. 
Moreover the older we get, the less time we have. We don't have time to waste but to go 
forward with good people around us. Our life itself is so limited. This is an article I write 
about it.

+++++++++++++++++

ときとして人との交わりは、わずらわしい。
こちらが望まなくても、災いは、向こうからやってくる。

あなたを悪く言ったり、非難したり、
中傷したりする人がいたとする。

そういう人と、こちら側から、あえて
仲よくする必要はない。

弁解したり、反論したり、言い争う必要もない。
「必要もない」というより、
そういうことをしても、意味はない。

サルはサルと喧嘩する。
イヌはイヌと喧嘩する。
(ちょっと言いすぎかな?)

その相手が気になるということは、
あなた自身も、そのレベルの人間ということ。
あなたが相手を超えてしまえば、
その相手が気にならなくなる。

無視すればよい。
相手が近づいてきたら、それなりに
適当にあしらっておけばよい。

やがて相手は、自らを追いこんでいく。
あなた以上に、苦しんだり、悩んだりする。
いやな思いをする。

つまりは、「根くらべ」ということになる。

その根くらべのできる人を、「丸い人」という。
「賢い人」という。

私のばあいも、あるときから、八方美人で
あることをやめた。
英語の格言にも、「2人の人にいい顔はできない」
というのがある。
年を重ねれば重ねるほど、そうで、人は人を
選んで生きるようになる。

言いかえると、「去る人は追わず」ということか。
そのため友人の数もぐんと減るが、その分だけ、
残り少ない友人たちとの関係が、濃密になる。

・・・というものの考え方に、当初は、自信がなかった。
「広く浅くつきあうことこそ大切ではないか」と
迷ったことも、しばしばある。

たしかにビジネスの世界では、そうかもしれない。
知人の輪は、それが広ければ広いほど、利益につながる。
「名刺の数が多ければ多いほど、金が入る」と説く人もいる。

が、私は、エイズを発症した一人の青年の
手記を読んだとき、私は、自分の考え方が
正しいと確信をもった。その青年は、こう書いていた。

「私の人生は残り少ない」「無駄にできる時間はない」
「だから無駄な人と無駄な時を過ごす時間は、もうない」と。

それを書いたのはアメリカ人の青年だった。
で、それを読んだとき、私もこう思った。
「私にも無駄にできる時間は、もうない」と。

その後、その青年は、半年足らずで亡くなったそうだ。
しかしその青年の半年と、私がまだもっているであろう
10年と、どこがどうちがうというのか。
20年でもよい。
半年を短いといい、20年を長いと、どうして言う
ことができるのか。

この広い宇宙を基準にして考えれば、半年であろうと、
20年であろうと、ともに星がまばたきする瞬間に
過ぎない。どこもちがわない。

しかも20年あるとはかぎらない。明日、交通事故
か何かにあうかもしれない。あさって、不治の病を宣告
されるかもしれない。

だったらなおさら、私には、無駄にできる時間はない。
さらに言えば、無駄な人と無駄に過ごす時間は、ない。

・・・と考えていくと、自と結論が出てくる。

私たちは人を選びながら、生きていく。
当然のことながら、相手も、私という人間を選びながら
生きていくだろう。「あの林はいやなヤツだ」
「あの林とは、もうつきあわない」と。

しかしそれはそれで、かまわない。
かまわないから、私は私で生きていく。
人は、人、それぞれ。

あなたを悪く言ったり、非難したり、
中傷したりする人がいたとしても、気にしない。
言いたいように、言わせておけばよい。

そういう人と、こちら側から、あえて
仲よくする必要はない。ないから、別れる。
古い言い方をするなら、「縁を切る」。
縁を切って、そのまま忘れる。
時の流れに任せる。

どうせ私にしても、あなたにしても、
50年を超えて、生き残ることはない。
100年を超えることは、ぜったいに、ない。

そう考えて、私は私で生きていけばよい。
あなたはあなたで生きていけばよい。

やがて相手は、自らの愚かさの中で、
自らクビをしめていくだろう。
不愉快な思いをするのは、その相手自身ということになる。

(追記)

 私のまわりにも、口だけ出してくる人は多い。しかし口を出すくらいなら、だれにだっ
て、できる。しかもこちら事情も知らないで、そう言ってくるから、たまらない。あるい
は、どこからか一方的な情報だけを聞いて、そう言ってくるから、たまらない。

 さらに権威主義というか、1、2歳、年上というだけで、そう言ってくる。私は内心で
は、「ごちそうさま」と思うが、しかしそれは言わない。言っても無駄。それなりの人物な
ていない。

 だから相手にしない・・・ということになる。が、相手にしないでおくと、その相手は
ますます墓穴を掘り始める。騒げば騒ぐほど、だれからも相手にされなくなる。

 大切なことは、そういう相手はもちろん、そういうことも忘れて、私は私、あなたはあ
なたで、サバサバと生きていくということ。「無視する」というのは、そういう意味。

(追記2)

 この原稿をたまたま横にいたワイフに読み聞かせると、ワイフはこう言った。「冠婚葬祭
がそうね」と。

 ワイフの姉(=私の義理の姉)は、いつもこう言っているという。「もう何十年もつきあ
いはないのに、冠婚葬祭の連絡を受けたりすることがある。うちは本家(ほんや)だから、
顔を出さないわけにはいかない。しかし出るたびに、どうしてこんなつきあいをしなけれ
ばならないのかと疑問に思う」と。

 「田舎」と呼ばれる地方では、こうした風習を断ち切るのは容易ではないかもしれない。
「親戚づきあい」という言葉が、いまだに色濃く残っている。しかしみなが、声を合わせ
ていっせいに断ち切れば、この日本も変わる。

ワ「でも、私たちが断ち切るということは、私たちも相手の人から、断ち切られるという
ことになるのじゃない?」
私「そうだね。だからぼくは、たとえばお前の葬式やぼくの葬式には、だれも来なくても
かまわない。息子の結婚式だって、ほんとうに祝ってくれる人だけが集まってくれた。ぼ
くはそれでいいと思う」
ワ「孤独にならないかしら?」

私「みんな、ほんとうは、孤独なんだよ。みんなその孤独を、ごまかしながら生きている
だけなんだよ。しかしいくらごまかしても、孤独から逃れることはできない」
ワ「冠婚葬祭に、みなが集まってくれるからといって、孤独がいやされるというものでは
ないわね」
私「そう。孤独というのは、もっと別のところにある。だからもっと別の戦い方をしなけ
ればならない。孤独と戦うということは、そんな簡単なことではないんだよ」と。

 私が臨終のときは、ワイフと、もしできれば息子たちがそこにいてくれれば、それでよ
い。葬式も、そうだ。派手な葬式など、望むべくもないが、そんなものをしてくれる必要
はまったくない。

ワ「でも、叔父や叔母の葬儀などは、どうしたらいいの?」
私「そのときの気持ちに、すなおに従えばいい。参列したいと思えば、参列すればいい。
そうでなければ、参列しなければいい。義理にしばられる必要はない」
ワ「でも、相手が、不愉快に思うわよ」
私「そう思うなら思わせておけばいい。どうせその程度の人間関係なんだよ」
ワ「でも反対に、うちの葬式には、だれも来なくなるわよ」
私「ハハハ、それも結構。いいじゃない、それで。どうせその程度の人間関係。うるさい
連中は、こちらから願い下げだよ」と。

(追記3)

 「親戚づきあい」とは言うが、私自身の人生を振りかえってみたとき、たとえばこの私
をその家に一泊させてくれたことがある親戚と言えば、母の実家の1軒しかない。金銭的
な援助を受けた親戚といえば、1軒もない。

 (反対に我が家に泊めてやった親戚となると、何十人もいるぞ!)

 こうした事情は、いまでは、たいていどこの家庭でも似たようなもの。親戚といっても
形だけ(?)。そんな親戚も、少なくない。が、なぜか、日本人は、「親戚」というだけで、
その言葉にしばられる。

 私たちは今、「親戚づきあい」そのものを考えなおす時期に来ているのではないだろうか。
江戸時代の昔ならいざ知らず、今は、もう「血筋」にしばられる時代ではない。こだわる
時代でもない。またそうであってはいけない。

 親戚であっても、また親戚でなくても、そこにあるのは、純然たる人間関係。その人間
関係は、中身を見て判断する。形や外見ではない。中身だ。

 (今日の私の意見は、少し、過激かな?)


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●近況(日記風に……)(7月23日)

++++++++++++++++++++++

昨日(7月22日)、この浜松でも、部分日蝕が観察
できるはずだった。
しかしあいにくの雨模様。
私はちょうどその時間、寝室でうたた寝をしていた。
多少、空が暗くなったかな……というところまでは
覚えているが、あとは、そのまま眠りの世界へ。

で、昨日は、仕事の合間を縫って、パソコンショップへ
2度も足を運んだ。
秋には、WINDOW7が発売になる。
それに合わせて、プリンターとか周辺機器も、
買い換えようと計画している。
モニターも、現在は、22インチのものを使用しているが、
24インチ〜以上のものが、ほしい。
……などなど。
だから2度も足を運んだ。

そのパソコンショップでのこと。
店員さんが寄ってきて、「何か……?」と言った。
そのとき私は、L社(旧IBM社)のパソコンの
キーボードを指でいじっていた。
とっさに、私は、「L社のキーボードはいいですね」
と答えた。

そう、たしかにL社のキーボードは、すばらしい。
指で触れていても、気持ちがよい。
好き好きもあるのだろうが、私にはいちばん合って
いる。

「ぼくは、パソコンは、キーボードの感触で選んで
います」と答えると、店員さんも、「そうですね」と、
同意してくれた。

あとは、日常的な仕事。
夜、仕事のあと、BSで、洋画を見た。
以前、見たことのある映画だった。
たしか『エニグマ何とか』という映画ではなかったか?
ドイツのUボート(潜水艦)を奪取して、暗号解読機
を手に入れるという映画だった。

先日見た、『真夏のオリオン』(邦画)そっくりのシーン
が、何か所も出てきた。
新旧を問題にするなら、『真夏のオリオン』のほうが、
模倣したということになる。
(もっとも潜水艦映画というのは、どれも似たような
ものになりやすいが……。)
ただ迫力が、ちがった。
緊張感が、ちがった。
潜水艦映画は、その緊張感が売り物。
緊張感なくして、潜水艦映画はないと断言してもよい。

言い忘れたが、『真夏のオリオン』が、頭の中で、
ますます色あせていくのを感じた。
日本の俳優たちは、顔や声で、ただ力(りき)むだけ。
心底、その人物になりきっていない。
それが迫力や緊張感のちがいとなって、表れる。

+++++++++++++++++++++

●笑い話(「世界、面白ジョーク集」(PHP)より)

 いつもトイレの中で、「世界、面白ジョーク集」を読んでいる。
そのため書斎のほうで、そのまま紹介することができない。
(その本は、トイレ専用の本ということになっている。ごめん!)
その中に、こんな話が載っていた。
(記憶によるものなので、私のほうで、勝手に編集する。)
「ジョーク集」とはいえ、いろいろと考えさせられる。
つまり、おもしろい!

++++++++++++++++

☆神に見捨てられた男

 たいへん熱心な信者がいた。
その信者が、海で遭難にあった。
ボートで漂流した。
そこへ救助隊がやってきて、その信者を助けようとすると、その信者、つまり
男は、涼しい顔をして、こう言った。
「私は、神に守られている。助けなど、必要ない」と。

 救助隊はそのまま去った。
が、今度は、通りがかった船があった。
その船長が救助を申し出ると、その信者、つまり男は、再び、涼しい顔をして、
こう言った。
「私は、神に守られている。助けなど、必要ない」と。

 船はそのまま去った。
で、3度目に、連絡を受けた別の救助隊のヘリコプターがやってきた。
「このままでは嵐に巻き込まれて、命を落とすことになる」と。
しかしそのときも、その信者は、こう言った。
「私は、神に守られている。助けなど、必要ない」と。
が、そのあと本当に嵐がやってきて、その信者、つまり男は死んでしまった。

 ……天国へやってきた男は、神を前にして、こう言った。
「どうして私を殺したのか。
私はあなたを今まで、ずっと信じてきたではないか」と。
すると、神はこう答えた。

 「だから3度も、助けを送ってやっただろうが……」と。


☆観光ビザ

 ある男が死んだ。
そして天国と地獄の分かれ道のところへやってきた。
天使が、その男に、こう言った。
「あなたは善人だ。天国でも地獄でも、どちらでも好きな方に行けばいい」と。

 するとその男は、こう言った。
「一度、天国と地獄の両方を、自分の目で確かめてみてから、決めたい」と。

 天使は同意した。
で、男はまず天国へ行った。
が、そこは真っ白な世界。
老人たちが、本を読んだり、音楽を聴いていたりした。
のんびりとした、かったるい世界だった。

 つぎに男は地獄へ行った。
無数の酒場が並び、男や女が、遊んでいた。
けばけばしいネオンサインも並んでいた。
裸の女が踊っているのも見えた。

 もとの場所へ戻ってきた男は、天使にこう言った。
「地獄の方がいい。地獄へ行く」と。
そこでその男は、地獄へ行くことになった。

 が、地獄へ着くやいなや、そこで待っていたのは、拷問だった。
台に鎖でしばりつけられ、溶けた鉛を頭からかぶせられた。
で、男は、こう叫んだ。

 「話がちがう! 天使に見せてもらった世界は、こんなところではなかった!」と。

 するとそれを聞いた悪魔が、こう答えた。
「お前は、この前は、観光ビザで来たやろが。元役人のくせに、そんなことも
わからないのか!」と。

+++++++++以上、「面白ジョーク集」からの話を、編集++++++++++

 先の「神に見捨てられた男」の話は、信仰の根幹にも触れる問題を秘めている。
以前、この話と正反対の話を聞いたことがある。
実話である。
こんな話である。

 ある教団に、たいへん熱心な信者(女性)がいた。
その信者の夫が、何かの病気で急死した。
そのとき、何かの保険金で、3000万円も手に入った。
その信者は、「それほど多額の保険金が入ったのは、この信心をしていたおかげ」と、
そのうちの1000万円を、教団に寄付してしまった。

 その教団では、1000万円以上の寄付をする信者のことを、「4桁会員」と呼んで、
ほかの信者とは区別していた。

 が、この話は矛盾している。
もし「信心のおかげ」と言うくらいなら、神は、(仏でもよいが)、夫を殺さなかった
はず。

 で、先の「神に見捨てられた男」の話。
「だから3度も、助けを送ってやっただろうが……」という神の言い分に、
恐ろしいほどの説得力がある。
つまり「3度も助けを出してやったのに、すなおに助けに応じなかった、お前が悪い」と。

 この男の話と、1000万円も寄付金を提供した女性は、水面下でともにつながって
いる。
「妄信」という糸で、ともにつながっている。

 で、つぎの「観光ビザ」という話も、おもしろかった。
笑った。
みなさんは、どうであっただろうか。
つまり「観光ビザ」で見る世界と、たとえば、「就労ビザ」で見る世界は、ちがう。
まるでちがう。
そんなことは、世界の常識。
だから悪魔は、こう言った。

 「元役人のくせに、そんなこともわからないのか!」と。

 そう、外国というところは、その国に住んでみないと、わからない。
「わからない」というのは、観光ビザは、観光ビザ。
見せるほうも、表面的な部分しか、見せない。
はっきり言えば、本気で、相手にしない。
笑顔だけ振りまいて、それでおしまい。

 最初、観光ビザで地獄へ行った男は、地獄のよい面だけを見て、「地獄とは、そういう
ところ」と思ってしまった。
しかしこうした経験は、だれしも、一度や二度はする。
よい例が、「田舎暮らし」。

 それまで都会でサラリーマンなどをしていた人が、定年後、あるいはその前に、
思い立って田舎暮らしを始める。
しかしたいてい、失敗する。
それもそのはず。
村の人たちが、受け入れてくれない。
(「村」という自治体が、いくら振興策を練ったところで、それで現地の村の隣人たちが
動くわけではない。)

 私も、浜松市という(都会)と、山の中の(山荘)と、2つの世界で生活するように
なって、もう15年近くになる。
幸いにも村の人たちは、暖かく私を迎え入れてくれた。
が、しかし実際に「住む」となると、二の足を踏んでしまう。
田舎生活には、外から見えない、無数の問題がある。

 だからよく客人が、こう言ったりすると、私は、「よしなさい!」と思ってしまう。
「いいところですね。私もこんなところに住んでみようかな」と。
先のジョークを読みながら、別の頭で、そんなことを考えた。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

【命のうまみ】(The Beauty of Life)

●歳は取るものではなく、受け入れるもの

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数日前、近くの温泉で……。
だらりと下がった、胸、尻の皮。
それを鏡に映して、「ああ、ボクも歳を取ったナ」と思う。
が、ふと横を見ると、80歳くらいの男性。
私の体より、さらに、だらりと下がっている。
太ももも、鳥のガラのよう。
それを見て、「ボクは、まだよいほう」とか、
「近々、ボクもああなるナ」とか、思う。

歳は取るものでない。
受け入れるもの。
少しずつだが、人は、こうして自分の歳を受け入れていく。
その男性と自分を比較しながら、ふと、そう思った。

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●絶対寿命

 人間には、「絶対寿命」というものがあるという。
いまだかって、130歳を超えて生きた人はいないという。
だから「130歳」という年齢が、その絶対寿命ということになる。
が、実際には、90歳から100歳前後か?

その年齢になると、いくらがんばっても、DNAレベルで、細胞がバラバラになるらしい。
つまり一個ごとに、DNAは、時計のようなものをもっている。
「時計」というより、正確には、細胞の分裂回数に、制限があるということらしい。
だからたとえば、80歳の男性の細胞を使って、クローン人間を作ったとしても、
そのクローン人間の寿命は、80歳を起点にして始まる。
見た目にはいくら、子どもでも、寿命は、せいぜいあと10〜20年程度ということに
なる。

 「老い」はだれにでもやってくる。
「死」もやってくる。
避けることはできない。
わかりきったことだが、しかしその(事実)を受け入れるのは、なかなか難しい。
人はだれしも、「ひょっとしたら、私だけは……」という甘い期待をもって、生きている。
さらに積極的には、あの世に、希望を託す人もいるかもしれない。
「私だけは、天国に入れる」と。

●人生の(深み)

 しかし(衰え)は、日々に、だれしも感ずる。
肉体の衰え、体力、気力の衰え。
それに知力の衰えもある。
何かの持病をかかえていたら、なおさらである。

 先日も、朝早く目を覚ましてみると、そこにワイフが眠っていた。
その寝顔を見たとき、「この人もバーさんになったな」と感じた。
しかし悪いことばかりではない。
その分だけ、そこに(深み)を感ずる。
(味)を感ずる。

 たとえはあまりよくないかもしれないが、それはスルメのようなもの。
かめばかむほど、味が出る。
うまくなる。
最後は溶けてなくなってしまうが、その直前、あのうまみが口の中に充満する。
もし寿命というものがなかったら、その(うまみ)を感ずることもないかもしれない。

 私は思わずワイフの額を手で撫でてやった。
撫でながら、「あと10年かナ?」と思った。
ワイフの寿命のことではない。
「こうして共に、幸福なときが過ごせるのは、あと10年かナ」と

●(衰え)

 思わず深刻で、暗い話になってしまったが、こうして人は、歳を受け入れていく。
若い人には、(私もそうだったが)、「死」は恐怖そのものかもしれない。
しかし死は何も、突然、やってくるわけではない。
徐々に、少しずつ、こうしてやってくる。

 だからといって、死に対して覚悟ができるということではない。
死への恐怖が和らぐということでもない。
しかしそこに(死)を感ずることによって、今のこの(命)の密度を、何十倍にも
することができる。

 だらだらと生きるのも1年かもしれないが、その1年を、何十倍も濃く生きることも
できる。
それができれば、死がやってきたとき、「思い残すことはありません」と言って、
この世を去ることができるかもしれない。
もし(希望)というのが何であるかと問われれば、私は、それが希望だと思う。

 またまた暗い話に戻ってしまったが、歳は受け入れていくしかない。
ただ誤解してほしくないことは、(歳)といっても、(年齢)という(数字)の
ことを指すのではない。
年齢という数字など、意味はない。
60歳だろうが、70歳だろうが、そのときはそのとき。
そのとき、できることをすればよい。
年齢という数字に遠慮する必要はない。

 私がここでいう(歳)というのは、(衰え)という限界状況をいう。
(死)という限界状況をいう。
たとえばおとといも、5キロ近く、ジョギングをしてみた。
が、いまだに赤色筋肉の中にたまった乳酸が消えない。
つまり太ももが痛い!

 こうした(衰え)は、自分ではいかんともしがたい。
が、それは受け入れるしかない。

●勝手に、たれ下がれ!

 言うなれば、「もう、逃げ隠れはしない」ということ。
いくら逃げようとしても、逃げられるものではない。
私だけ例外ということは、ありえない。
運がよければ、あと10年は健康寿命を保てるかもしれない。
あるいは明日の命かもしれない。

 どうであるにせよ、私は私。
今は今。
胸や尻の皮は、だらりとたれ下がり始めている。
だからといって、それを嘆き悲しんだところで、どうしようもない。
嘆き悲しむ必要もない。
そのかわり、私は、別の新しい世界を見ることができる。
むしろそちらのほうに、興味がひかれる。
何がそこにあるかはわからないが、今までの私が知らなかった、(命のうまみ)と
表現してよいかもしれない。
それがそこにある。

 が、もしここで、今、私が、「いやだ」「いやだ」と思って逃げていたら、どうだろうか。
「私だけ若くみられたい」と、へんにがんばったら、どうだろうか。
私はその分だけ、回り道をすることになる。
だったら、受け入れる。
受け入れてしまう。

 それが「歳を受け入れる」ということ。

 ……で、あとは、最後の最後まで、がんばる。
がんばるだけ。
50歳から60歳までの人生があっという間に過ぎたように、これからの10年も
あという間に過ぎるだろう。
考えてみれば、今の私には(歳)を気にする暇などない。

 胸よ尻よ、勝手にたれ下がれ!
私の知ったことではない!
温泉に入っても、もう気にしないぞ!

 ……ということで、今朝もはじまった。
みなさん、おはようございます!

2009年7月24日


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司※

●勉強をしない子どもたち(Children who lose Diligence)

++++++++++++++++++++++

最近の子どもたちは、勉強をしない。
本当にしない。
このあたり(浜松市)でも、「勉強して、いい高校(?)に
入ろう」と考えている中学生は、全体の40%弱と
みてよい。
あるいはそれ以下。
残りの60%は、最初から受験勉強など、考えて
いない。
「がんばって、いい高校をめざしたら?」などと言っても、
「勉強で苦労するから、いや」などと答えたりする。

++++++++++++++++++++++

●異変?

 たしかに今、子どもたちの世界がおかしい。
何か、へん。
簡単に言えば、昔風の(まじめさ)が、どんどんと消えつつある。
学校の勉強についても、「やらなければならない」という意識そのものが、急速に
しぼみつつある。
たとえば今は、夏休み。
「学校の宿題は?」と聞いても、確たる返事が返ってこない。
「夏休みの友は?」「工作は?」と聞いても、返ってくるのは、
あいまいな返事だけ。
どうでもよいといったふう。

その一方で、あらゆる面で、ギャグ化が進んでいる。
まじめに考えるという習慣そのものが、ない。
あるいはまじめに考えることを、むしろ避けている。
そんな感じすら、する。
いったい、子どもの世界は今、どうなってしまったのか?

●ギャク化

 今さら、理由や原因を並びたてても意味はない。
いろいろあるが、ありすぎて、ここには書ききれない。
つまり結果として、今、そうなってしまった。
言うなれば、子どもたちの世界から緊張感が消え、のびたゴムのようになってしまった。
だらしないというか、しまりがないというか……。

 先に「ギャク化」と書いたが、それなりにまじめというか、緊張感をもっている
子どもは、小学3年生レベルで、10〜20%前後。
10人に、1〜2人程度と考えてよい。

 茶化す、おどける、騒ぐ、ふざける、はぐらかす……。
それが現在の平均的な、日本の子ども像。
議論をしようにも、議論にならない。
まじめな話をしようとすると、「ダサ〜イ」と言って、はねのけられてしまう。
こういう現実を、いったい、今、どれだけの人たちが知っているのか。

●日本の将来

 一足飛びに話を進めるが、日本の将来は、今の子どもたちを見るかぎり、お先
真っ暗。
それもそのはず。
日本の社会そのものが、ギャク化している。
政治にしても、そうだ。
お笑いタレントが、府知事になったり、県知事になったりする。
さらに漢字もロクに読めないような、そして日本語すらまともに話せないような人物が、
総理大臣になったりする。
それについても、私が「おかしい」などと発言すると、「どうしてそれがいけないのか」
という反論が、山のように届く。

 何もお笑いタレントに偏見をもっているわけではない。
が、どこかへん。
どこか、おかしい。
総理大臣に至っては、さらにへん。
さらに、おかしい。
そのおかしさが、そのまま子どもの世界にまで、入り込んでいる。

 こんな日本で、その未来を、どこにどう求めたらよいのか。

●家庭の教育力

 学校教育というより、(教育)そのものが、崩壊してしまった。
かろうじて残っているのは、(学校)という、ワクだけ。
……というのは、少し言いすぎかもしれないが、しかし、教師自身が教育力を
失ってしまった。

 これについても、今さら、理由や原因を並びたてても意味はない。
いろいろあるが、ありすぎて、ここには書ききれない。
つまり結果として、今、そうなってしまった。

 では、どうするか?
家庭教育のもつ(教育力)を、強くするしかない。
「子どもの教育は、親がする」という自覚をもつしかない。
自分で自分の子どもを育てるしかない。
が、悪いことばかりではない。
今は、こういう時代だから、その気にさえなれば、子育てそのものが、むしろ
楽になったとも考えられる。

 たとえば今から30年前には、私の教室でも、T大、K大へ進学していく
子どもはほとんどいなかった。
が、今では、本当にみな、ウソみたいに、みな、スイスイと入っていく。
私の教室のレベルがあがったというよりは、周辺の地盤が沈下した。
その分だけ、相対的に、私の教室のレベルがあがった。

(もっとも有名大学へ進学していく子どもが多いから、レベルが高くなった
と考えるのは、正しくない。
また私も、それを目標にしているわけではない。
が、結果としてそうなっているのは、事実。)

●勉強をしない子どもたち

 勉強をしない子どもたちが、この先、どんな日本を作っていくのか、私にも
よくわからない。
外国をみながら、その例をさぐろうとするが、参考になるような国は、ほとんどない。
(したくても、教育環境が整っていなく、子どもたちが満足に勉強できない国は
いくらでもあるが……。)
ただ言えることは、この先、この日本に対して、不平、不満をいだく若者たちが
急増するだろうということ。

 「あるのが、当たり前」という世界で育ってきた若者たちである。
水も空気も食べ物も。
が、それだけではない。
先にも書いたように、「一度のびたゴムは、元にはもどらない」。

 競争力はどうする?
 適応力はどうする?
 打開力はどうする?
 忍耐力はどうする?
 協調性はどうする?
 社会性はどうする?

 「勉強をしない」という言葉の裏には、そういう問題もひかえている。
誤解がないように言っておくが、何も受験勉強をガリガリするほうがよいという
のではない。
つまり「勉強をしない」というのは、あくまでもその結果。
当然、日本の子どもたちの学力は、ますます低下する。
そのとき日本は……?

 少し前までは、中国が日本を追い抜くのは、2015年と予測されていた。
しかし実際には、それよりも6年も早く、今年(2009年)に追い抜かれた。
こうしてこの日本は、このアジアの中でも、ごくふつうの小国になっていく。
 
これも、しかたのないことかもしれないが……。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●実家を売る

++++++++++++++++++

郷里の知り合いに頼んでおいたら、私の
実家が、売れた。
伝統的建造物にもなっている古い家である。
「どうしたらいいか?」と悩んでいたら、
何と、その知り合いの方が、「買ってもいい」と
申し出てくれた。

値段は相場の半額程度とは思うが、私は満足。
できるだけ早く、あのM町とは、縁を切りたい。
すっきりしたい。
お金の問題ではない。

++++++++++++++++++

 私にとっては、実家は、重荷以外の何物でもなかった。
心の内側にペッタリと張り付いた重荷だった。
そのため暗くて、ゆううつな60年間だった。

 「依存性」という言葉がある。
依存する方は、それだけ楽かもしれないが、依存される方はそうでない。
保護と依存の関係も、感謝されるのは、最初だけ。
やがて当たり前になり、さらに進むと、依存する方が、それを請求してくるようになる。
が、こうなると、その関係を切ることはできない。

 依存される側は、その重圧感で、悶々と苦しむようになる。
お金の問題ではない。

 まったく生活力のない兄と母。
それを見て、「親のめんどうをみるのは、息子の役目」とせまってくる周囲の人たち。
無言の圧力。
たとえばこういうような言い方をする。

 「私は、あなたの母さんのことは、何も心配してないよ。あなたがいるからね」とか。
あるいは「あなたの母さんは、幸福だね。親孝行のいい息子をもって……」とか。
さらには、「○○さんところの息子は、親孝行の感心な息子だ。今度、家の横に離れを
親のために建ててやったそうだ」とか、など。

 こういう言い方をしながら、真綿で首を絞めるように、ジワジワと迫ってくる。

 ……こうして60年間。
その重圧感から、やっと解放される。
そんな日が、あと数日に迫った。
多少のさみしさはあるが、だれしも一度や二度は乗り越えなければならない道。
感傷にひたっている暇はない。

 ところで話は変わるが、「行動力」という言葉がある。
この行動力は、加齢とともに、急速に減退する。
が、若いうちは、それがわからない。
行動力があるのが当たり前。
また行動力は、死ぬまでつづくものと、思っている。
私もそうだった。
しかし50歳を過ぎると、その行動力そのものが、減退する。
何をするにも、おっくうになる。
つまり決断力を要するようなことをするとき、強く、それを感ずる。

 だからこうした決断は、すみやかに、したほうがよい。

「買いたいです」「はい、わかりました。その値段で結構です」と。

 あとは事務手続きのみ。
そして忘れる。

 親子三代にわたってつづいた自転車屋だったが、ちょうど100年の歴史を、
終える。
祖父も、父も、そして兄も、何をどう思って、あの家を守ったのか?
今、ふと、そんなことを考える。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●映画『レイチェルの結婚』

シアリアス感(深刻さ)を強調するためか、
それとも素人ぽさを、演出するためか。
画面が、常時、手ぶれでガタガタ揺れた。
言うなれば、「手ぶれ映画」。
制作するほうは、それでよいとしても、
観るほうはたまらない。
劇場のような大画面で、観るならなおさら。
私は観ているうちに、船酔いならぬ、映画酔いを
起こしてしまった。

アカデミショー賞候補とか何とか歌ってはいるが、
私はあんな映画に、星はつけない。
薬物中毒だった女性が、ギャーギャーと騒いだだけ。
星は1個にもならない、★(−)。

もっとも深刻な社会勉強をしたいと思う人は
観に行ったらよい。
子どもの工場見学のようなもの。
おもしろくも、何ともない。

劇場へなぜ私たちが足を運ぶかといえば、娯楽のため。
その娯楽性なくして、だれが劇場までわざわざ足を運んで映画など、
観るものか。

そんなわけで途中で、ギブアップ。
吐き気、頭痛が同時に襲ってきた。
劇場を出て、通路にあったソファで、半時間ほど、気分を収めた。

お金を出して、気分を悪くしただけ。
私にとって、『レイチェルの結婚』という映画は、そういう映画だった。
ネットの映画案内には、何人かの知名人が、「すばらしい」「感動した」
と書いていた。

??????

こういうばあい、だれが責任を取ってくれるのか?
「警告:この映画は、劇場の大画面で観ると、映画酔いを起こす可能性
があります」くらいのことは、これからは告知してほしい。


Hiroshi Hayashi++++++++JULY 09++++++++はやし浩司

●堪忍袋の緒が切れた! (麻生首相よ、いい加減にしろ!)

++++++++++++++++++++++++++

何を言っても驚かない。
怒らない。
しかし今度だけは、別!
堪忍袋の緒が切れた。
怒った!
私は、怒った!
もともとモヤモヤしていたところに、火がついた!
爆発した!

まず、つぎの記事を読んでほしい。
これを読んで、怒らない人(高齢者)はいないと思う。
とくに私の年代で、自分の体にムチ打ってがんばっている人ほど、
そうではないか。

++++++++++++++++++++++++++

●「高齢者は、働くことしか才能がない」

(以下、読売新聞、7月25日より)

+++++++++++++++++++

 麻生首相は25日午前、横浜市内で開かれた日本青年会議所の会合であいさつし、「日本は
65歳以上の人たちが元気だ。介護を必要としない人たちは8割を超えている」としたうえで、
「元気な高齢者をいかに使うか。この人たちは働くことしか才能がない。働くということに絶対の
能力がある。80(歳)過ぎで遊びを覚えるのは遅い」と語った。(2009年7月25日)

+++++++++++++++++++

●働きたい

 私は働きたい。
死ぬまで働きたい。
また元気な老人たちは、年金を返上してでも、働いたらよい。
それがそのまま生きる喜びにつながる。
私たちを支えたくれた人たちに対して、恩返しもできる。
そういう思いは、ある。
またそういう思いで、毎日、がんばっている。

しかしそれを逆手に取られると、カチンとくる。
麻生という首相は、基本的な言葉の使い方も知らない、バカである。
はっきりと断言する。
「バカ」である。

 「元気な高齢者をいかに使うか。
この人たちは働くことしか才能がない。
働くということに絶対の能力がある。
80(歳)過ぎで遊びを覚えるのは遅い」とは!

 「いかに使うか」という発想そのものが、許せない。
私たちは麻生首相の道具ではない。
もちろん奴隷でもない。
しかも「働くことにしか才能がない」とは!
もう少しくだけた言い方をすれば、「働くことしか能がない」となる。
ニュアンスとしては、それと同じ。

あるいは麻生の言語能力からして、もともと「能がない」と言おうと
したところを、「才能がない」と、言いまちがえたのではないのか。
ふつうはこういうとき、「能がない」と言う。
「才能がない」とは言わない。
たとえば「あいつは、パチンコしか脳がない」とは言うが、
「パチンコしか才能がない」とは言わない。

 もちろん相手をバカにしたときに、そう言う。

 先の首脳会談では、ドイツを怒らせ、ロシアを怒らせた。
で、今度は、私たち、団塊の世代を怒らせた!
ものは言いよう。
「高齢者の人たちには、がんばってもらいたい」とか、
「働きたい高齢者のために、環境を整えたい」とか、
そういうふうに言うのなら、まだ理解できる。
また政治家たるもの、その程度の知性はもってほしい。
それを、「80(歳)過ぎで遊びを覚えるのは遅い」とは!
つまり「今さら遊ぶことなどできないはずだから、働け」という意味か。

 誤解があるといけないので、明言しておく。
私たちは、遊びたいのではない。
遊んだところで、どうなる?
それがどうした?
遊べば遊ぶほど、自分がむなしくなる。
1年を1日にして、生きるようになる。
そんな人生に、どれほどの意味があるというのか。

 私たちが求めるのは、生きがい。
仕事でもよい。
一人前の仕事。
今まで得た経験や知恵を還元できる、職場、環境、そして社会。
政治家なら、その程度の思考力はあってしかるべき。

 それにしても、これほどまでに高慢な政治家というのも、そうは
いない。
ふつうなら、それ以前の段階で、自然淘汰され、政治家として選ばれない。
が、どういうわけか、「おバカ」(日刊ゲンダイ)が、首相をしている。
血筋や血統だけで、政治をしている。
これを民主主義の欠陥と言わずして、何と言う?

 で、私は浮動票の王様。
私が投票するところ、浮動票が動く。
で、今度だけは、J党だけには、勝たせたくない。
J党というより、麻生には勝たせたくない。
勝てば、(仮に僅差でなら、敗れても)、麻生は、有頂天になるはず。
そして政権続行!

 だからいって、どの党に一票を入れるかということについてまでは、
ここには書けない。
しかし私が行くところ、浮動票の行くところ。
結果は、今度の選挙の結果でわかるはず。
 
 ……それにしても、「働くことしか、才能がない」とはねエ。
確かにそうかもしれないが、しかし麻生だけには、そう言われたくない。
この不快感。
拒絶感。

 それにしても、どうしてあの程度の男が、総理大臣などしているの
だろう。
ほぼ同年齢だが、あまりにも低劣。
レベルが低すぎる。
麻生を選んだ、つまりは私たち有権者が愚かだったということになる。
が、麻生は、国政選挙という選挙を通して総理大臣になった男ではない。
それだけが、今の私たち国民にとって、ゆいいつの救いということになる。

 ついでにJ党の細田氏は、麻生をかばってか、またまた失言。
こう言った。

「自民党の細田博之幹事長が首相の失言などを取り上げた報道を批判し、『国民の程度か
もしれない』」(毎日新聞・7・25)
と。

J党の閣僚たちの発言には、意味不明のものが多い。
しかしそのまま読めば、「麻生総理が言ったように、国民の程度というのは、その程度ほど
までに低い」とも解釈できる。
もしそうなら、これまた、これほどまでに私たちをバカにした言葉はない。

 私の地元の選出の、片山さつき氏は、かつてこう言った。
「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、イチコロよ」(倉田由美子・雑誌「諸君」
05年11月号・P87)と。

「この辺の田舎者」というのは、静岡県7区に住む、この私たちのことをいう。

 さらにに一言。
青年会議所って、いったい、何をしているところなのか?

(麻生の失言 総理の失言 暴言 総理大臣の暴言 麻生総理大臣の失言
麻生総理の失言 暴言)


(注※)

その片山さつき氏について、倉田真由美氏(マンガ家)が、こんな気になる記事を書いている。

 『……片山さつきさんの地元代議士への土下座は、毒々しさすら漂っていた。謝罪ではない、
媚(こび)の土下座は見苦しいし、世間からズレている。未だに「ミス東大→財務省キャリア」と
いう自意識に浸(つ)かり、「謙虚」のケの字もわからないまま、「私が土下座なんてしたら、この
辺の田舎者は、イチコロよ」と高を括(くく)る。

 そうしたバランス感覚の欠如も、いくら揶揄(やゆ)されても変えない髪型や化粧も、自分が客
観視できない、強すぎる主観の表れだ。

 「私いいオンナだから、これでいいの」という思い込みに対して、周りの人間も、もはやお手上
げなのだろう』(以上、原文のまま。雑誌「諸君」・05年11月号・P87)と。

 この記事の中で、とくに気になったのは、「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、イ
チコロよ」という部分である。本当にそう言ったかどうかは、この記事を書いた、倉田真由美氏
に責任を取ってもらうことにして、これほど、頭にカチンときた記事はない。

 片山さつき氏が、どこかの席で、土下座をして、「当選させてほしい」と頼んだという話は、当
時、私も耳にしたことがある。しかしそのあと、東京に戻って、「私が土下座なんてしたら、この
辺の田舎者は、イチコロよ」と話した部分については、私は知らなかった。

 何が、「田舎者」だ! 「イチコロ」とは何だ! しかしこれほど、選挙民をバカにした発言はな
い。民主主義そのものを否定した発言はない。そういうタイプの女性ではないかとは疑ってい
たが、片山さつき氏は、まさにその通りの女性だった。

 私たちが、田舎者? ならば聞くが、いまだにあちこちに張ってある、あのポスターは何か?
 あれが都会人の顔か? あれが元ミス東大の顔か? 笑わせるな!

 もしこれらの発言が事実とするなら、私は片山さつき氏を許さない。片山さつき氏は、まさに
選挙のために地元へやってきて、私たち選挙民を利用しただけ。しかも利用するだけ利用して
おきながら、その私たちを、「田舎者」とは!

 そして先の選挙からちょうど1年になるが、片山さつき氏が、この1年間、この地元に帰って
きて、何かをしたという話を、私は、まったく知らない。念のためワイフにも聞いてみたが、ワイ
フも、「知らない」と言った。ワイフの知人も、「知らない」と言った。

 つまり、片山さつき氏は、選挙のために、私たちを利用しただけ。もっとはっきり言えば、自
己の名聞名利のために、私たちを利用しただけ。

 しかしこれがはたして、民主主義と言えるのか? こんな民主主義が、この日本で、まかり通
ってよいのか?

 ある日、突然、中央から、天下り官僚がやってくる。それまで名前のナの字も知らない。もち
ろん地元のために、何かをしてきた人でもない。そういう人が、うまく選挙だけをくぐりぬけて、
国会議員になり、また中央へ戻っていく! どうしてそういう人が、地元の代表なのか?

 そののち片山さつき氏は、派手なパフォーマンスを繰りかえし、政界ではさまざまな話題をふ
りまいている。しかしそれらは、あくまでも、自分のため。私たちの住むこの地元の利益につな
がったという話は、まったく聞いていない。少なくとも、私は、まったく知らない。

+++++++++++++

同じようなテーマで書いたエッセー
がつぎのものです。

先のエッセーの直後に書いたもの
です。

+++++++++++++

●仕事開始!

 夏休みも終わって、仕事開始。とはいっても、これとて大きな変化はない。淡々と、その日の
ルーティーン(茶飯事)をこなすだけ。

 やりたいことは、いろいろある。しかしどれも、時間がかかることばかり。そのため、とりかか
る前に、何かと、おっくうになる。

 そういえば、昨日(19日)は、頭にカチンとくることがあった。あの片山さつき氏(静岡県7区
から立候補、当選)のことだ。

 片山さつき氏は、この選挙区(地方区)で敗れても、全国区の比例区で当選する段取りにな
っていた。だから当時から、(熱意に欠ける選挙運動)が、問題になっていた。その片山さつき
氏が、東京へ戻ってから、こんなことを言っていたという。

「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、イチコロよ」(倉田真由美氏指摘・「諸君」)。

 ここまで書いて思い出したことがある。昔、中央官庁で部長をしていた知人が、私にこう言っ
た。

 「定年退職をしたら、郷里の長野県のS市に帰って、市長でもしようかな」と。「……でも」とい
うところが、恐ろしい!

 片山さつき氏の発言は、その部長の発想の延長線上にある。何が、市長だ! バカヤロ
ー!

 何でもかんでも、「東京からきた」というだけで、ありがたがる田舎根性。それはたしかに、こ
の浜松市にもある。私は、否定しない。

 しかしその田舎根性を逆に利用して、中央からやってくる政治家たち。私は、そういう政治家
というより、そういう政治家を生み出す、この日本のシステムに腹が立つ。

 わかりやすく言えば、日本の民主主義も、この程度。みなが、何かに動かされるまま、動かさ
れてしまう。自分で、考えようとしない。自分で考えて、行動しようとしない。

 近く、もう少し涼しくなったら、この問題に取り組んでみよう。今は、暑くて、脳みそも、だらけ
がち。それに明日から、仕事が待っている。まず、私の生活を優先させなければならない。

 がんばろう! がんばります!


Hiroshi Hayashi++++++++JULY 09++++++++はやし浩司

●満腹中枢と摂食中枢(男と女)(Man and Woman)

++++++++++++++++++++++++++

脳幹に視床下部と呼ばれる部位がある。
その中に、「食欲中枢」と呼ばれる部分がある。
その食欲中枢は、満腹中枢と摂食中枢に分かれる。
満腹中枢というのは、「お腹(なか)がふくれた」という
ことを感じ取る部分。
摂食中枢というのは、「お腹がすいた」ということを
感じ取る部分。

ここまでは私も知っていたが、最近、こんなことを
知った。

女性の性欲本能、つまりSックス中枢は、このうちの
満腹中枢に隣接しているという。
一方、男性の性欲本能、つまりSックス中枢は、
摂食中枢に隣接しているという(「人体の不思議」
日本文芸社)。

新しい考え方、ゲット!

(ネット禁止用語に抵触するため、「交尾行動」を、「Sックス」など
というように、表記します。)

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●男性と女性のちがい

 「人体の不思議」(上述)は、こう書いている。

『……一般に、女性は恋愛をすると食欲を感じなくなることがあるといわれますが、
それは、このSックス中枢が活発に働くため、満腹中枢までもが満たされているからとも
考えられます。
 
 男性のSックス中枢は、女性とは異なり、空腹を感ずる摂食中枢に隣接しています。
生命の危険を感ずると、男はB起してしまうといわれることもありますが、これも
Sックス中枢の位置に関係していそうです。

 つまり飢餓で死に直面すると、なんとしてでも種族を保存しなくては、という感情が
起こるように脳がつくられているのです』と。

 しかも、だ。
第一性欲中枢(異性を求める性欲中枢)について言えば、男性のそれは、女性のそれの
約2倍もの大きさがあるという。
つまりその分だけ、男性のほうが、Sックスに関して、女性より攻撃的ということになる。

 なるほど!

 で、これで今まで私が感じていた謎のいくつかが、解けた。
男性と女性の、(性)がもつ、基本的な(ちがい)といってもよい。
その理由が、わかった。

●男と女

 所詮、人間も動物。
同じというか、どこもちがわない。
動物時代からの本能(脳幹)を、しっかりと保持している。
が、こうした本能、つまり脳自体が構造的にもつ能力のままに行動したら、「人体の
不思議」の中にもあるように、人間社会は、メチャメチャになってしまう。

 そこでこうした本能をコントロールするのが、大脳連合野ということになる。
(私はこの仮説を、すでに10年以上も前から、考えていたぞ!)
人間のばあい、大脳連合野の発達がとくに進んでいる。
その大脳連合野が、中心部からわき起きてくる(性欲)を、コントロールする。
それが「知性」ということになる。

 それにもし男性のみならず、女性までもが、性欲について攻撃的になったら、それこそ
たいへんなこと(?)になってまう。
人間もいたるところで、交尾を始めるようになるかもしれない。
(反対に女性のように、男性までもが、受動的になってしまっても、困るが……。)
要するに、長い間の進化の過程を経て、人間も、「実にうまく」できているということ
になる。

●満腹中枢vs摂食中枢

 満腹感を感ずる満腹中枢。
空腹感を感ずる摂食中枢。
何かのタンクの警報機にたとえるなら、満タン警報機と、カラ警報機ということになる。
それを脳の中心部にある視床下部という部位が、担当している。
私自身も、実は、こうした機能について、「本で読んで知った」というだけの立場で
しかない。
が、それにしてもおもしろい。

 が、疑問がないわけではない。

 女性のSックス中枢は、満腹中枢の隣にある。
男性のSックス中枢は、摂食中枢の隣にある。
それはわかるが、これらの両社はそれぞれ、どのように関連しあっているのか?
単純に考えれば、女性のばあいは、Sックス中枢が刺激されると、同時に満腹中枢も
刺激され、満腹感が生まれるということになる。

 他方、男性のばあいは、Sックス中枢が刺激されると、同時に摂食中枢も刺激され、
空腹感が生まれるということになる。

 ……あるいは、その反対なのか?

 そこで自分自身のことを振り返ってみる。
(私も「男」だぞ!)

 腹が減ったときと、満腹のときと、どちらのときのほうが、性欲をより強く感ずるか?
……というより、経験的に、Sックスしたあとなど、よく空腹感を覚えることがある。
「終わったから、食事に行こうか」というような会話を、ワイフとした記憶がある。
……あるいは、その逆かもしれない。

 ともかくもどのように影響しあっているのか、それがよくわからない。
あるいは、影響しあうといっても、そのレベルの話ではないのかもしれない。
たとえばここでいう「空腹感」というのは、「危機状態」をさすのかもしれない。
それも極限的な危機状態。
その本にも書いてあったが、生命の危機を覚えたりすると、B起することもあるそうだ。
「最後に種族を残そう」という本能が働くためらしい。

 どうであるにせよ、たいへん興味深い。
「私は私」と思って、みな、考え、行動している。
が、実際のところ、脳に操られているだけ。
それだけは確かなようだ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 
林浩司 BW 満腹中枢 摂食中枢 視床下部)


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●離婚と離縁(ある離婚劇)

++++++++++++++++++++++

熟年離婚がふえている。
正確には、婚姻歴20年以上の人の離婚を、「熟年離婚」という。
その熟年離婚が、この20年間で、4倍にふえているという。

そんな中、3年前、私の知人が、離婚した。
婚姻歴は、ちょうど20年。
子どもも、2人、いる。
現在、高校生と中学生。
離婚したといっても、事情が、やや複雑。
知人、つまりその男性は、養子縁組をして、妻側の戸籍に入っている。
しかも筆頭。
こういうケースのばあい、離婚したからといって、即、離縁ということにならない。
(昔は、離婚、即離縁ということになったが、現在は戸籍法が変わり、離婚と離縁は、
まったく別のものとして扱われている。)

知人側は、妻側の父親の保有している財産の分与を求めている。
一方、妻側は、「1円も渡さない」と、がんばっている。

+++++++++++++++++++++++

●泥沼化

 知人のケースのばあい、離婚しても、戸籍上は、妻側の両親の「子(=養子)」としての
身分は残ったまま。
繰り返すが、離婚(=婚姻関係の解消)と離縁(=養子縁組の解消)は、まったく別。
別の事項として扱われている。
妻の実父が死去すれば、当然のことながら、遺産相続権を行使することができる。
そこで妻側は、知人に離縁に応ずるように求めているが、知人側は、それを拒否。
それがこじれに、こじれて、泥沼化。

 離婚してすでに3年になるが、養子縁組は、そのままになっているという。
知人側の言い分しか聞いていないが、内情は、こういうことらしい。

(1)離婚したとき、私(=知人)には、責任はなかった。
一方的に、妻側から、「性格の不一致」を主張された。
(2)妻側の両親と同居し、両親の生活を支えてきた。

 一方、妻側の母親は、数年前に死去。
昔からの財産家で、もし父親が死去すれば、莫大な財産が、知人のものとなる。

 で、こういうケースのばあい、個人が役所へ出かけていって、自分で解決するのは、
たいへん難しい。
家庭裁判所で調停するといっても、そうは簡単にいかない。
相手の妻(実際には元妻)も応じないだろうして、たいていその場で、喧嘩もんかに
なる。
さらに財産分与、養育費、慰謝料の問題のほか、知人が戸籍の筆頭になっているため、
戸籍を「抜く」ということもできない。
できなくはないが、手続きが複雑。
そんなわけで、弁護士に相談するのが、いちばん、よい。
ワイフを通して、そういう相談があったので、私は、そう答えておいた。

●養子縁組は慎重に

 もちろん養子縁組をしても、その後、良好な家族関係を築いている人も多い。
しかし少数とはいえ、私の知人のようなケースも、ないわけではない。
が、こと養子縁組ということになれば、慎重にしたほうがよい。
知人のケースでも、婚姻届だけを出して、妻側の家に同居するという方法も
なかったわけではない。
昔は、これを「入り婿」と言った。
(女性が結婚して、夫側の家庭に入ったばあいが、それに相当する。)
そうすれば万が一、離婚ということになっても、手続きが楽。

 ともあれ、こうした問題は、一度こじれると、とことんこじれる。
「他人は、やはり、他人」となる。

 離婚劇にもいろいろあるが、ここまで複雑となるケースは、そうはない。
話を聞いていて、私自身も、頭の中がゴチャゴチャになってしまった。
だからやはり、ここはプロ、つまり弁護士に任せた方がよいということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW 離婚劇 離婚 離縁 養子縁組 養子縁組解消)


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司※

●実家を売る(2)

+++++++++++++++++++

実家を売ることにした。
買い主の言い値で、売ることにした。
現在、その相手と交渉を進めている。
「損」とか「得」とかは、考えない。
そういうのではない。
私は早く、あの実家とは縁を切りたい。
ついでに郷里とも、縁を切りたい。
それが目的だから、価格など、関係ない。
どうでもよい。

+++++++++++++++++++

●故郷

 一抹のさみしさは、ある。
ないとは言わない。
しかしそれ以上に、うれしい。
「うれしい」というよりは、気持ちが軽い。
心に張り付いた、重荷がこれでやっと、はずせる。
私にとって、「実家」というのは、そういうもの。
「故郷」というのは、そういうもの。
それがやっと、はずせる。

●縁を切る

 同時に法事の問題もある。
実兄と実母の一周忌がつづく。
墓の問題もある。
しかしあとは、成り行き。
成り行きに任せる。
なるようになる。

 そのときは、そのとき。
陰でいろいろ言っている人もいるようだ。
だれかがひとりで、騒いでいる。
が、言わせておけばよい。
気にしない。
「故郷と縁を切る」ということには、そういう意味も含まれる。

●相続

 昨日、20年来の友人(SGさん、男性、64歳)と、話した。
その友人は、8人兄弟の長男。
広い農地をもっている。
それでこう言った。
「ご先祖様には、感謝しなくちゃア」と。

 実父が死んだときのこと。
遺産相続でもめないようにということで、
葬儀の席で、現金を兄弟たちに分配したという。
その額、1人あたり、1000万円。
それを条件に遺産相続を、放棄してもらった。
「たいへんでしたね」と私が言うと、
「(兄弟どうしで)もめるのは、いやだからねエ」と。

●人それぞれ

 SGさんの親のように、多額の遺産を残す親もいれば、その一方で、
借金を残す親もいる。
借金どころか、隠し子を残す親さえいる。
遺族たちは、葬儀の席でそれを、はじめて知ったりする。

 私のばあいは、そうした問題は、とくになかった。
遺産といっても、60坪と33坪の土地だけ。
(それだけでもありがたいが……。)

が、それ以上に、母が死んだとき、同時にあの重圧感から解放されたのが、うれしかった。
ほっとした。
葬儀のあと、ぼんやりとした気分がつづいたが、それは母を失ったさみしさというよりは、
自分の過去の一部が切り取られたようなさみしさだった。
ポッカリと穴があいたような気分だった。
今度も実家を売ることになって、似たようなさみしさを感じている。

 二度とあの時代は戻ってこない。
あの時代に帰ることもない。

●SGさん

 SGさんのばあいは、地目がまだ農業用地のとき、父親名義から自分名義に
書き換えておいたという。
その直後、都市計画法による大規模開発の計画地に組み込まれ、多額の現金が手に入っ
た。
それでそういうこと、つまり兄弟たちに現金を渡し、遺産相続を放棄させることができた。
SGさんが、「ご先祖様」と、「ご」と「様」をつける理由は、そこにある。
しかし私のばあいは、逆さまに吊るされても、そういう言葉は出てこない。

 私が親不孝者なのか。
できそこないなのか。
それとも、こういう私にしたのも、親の責任なのか。

●私の父

 私の母は、住職の妻とまちがえられるほど、寺に入りびたりだった。
そのことで父と母は、いつも言い争っていた。

 一方、父は、私が知るかぎり、ただの一度も墓参りなるものをしていない。
父が墓参りして、手を合わせている姿を、見たことがない。
祖父にしても、そうだ。
そう言えば、父や祖父が、家の中の仏壇に手を合わせている姿さえ、私の記憶の中には
ない。
私は、そういう祖父や父の死生観を、しっかりと、受け継いでしまった(?)。

●一周忌

 郷里に住む知人にたずねたところ、盆供養にせよ、一周忌にせよ、それをするか
しないかは、喪主が決めればよいとのこと。
実際には、しない人もふえているという。

 「しなくてもいいものですか?」と、私が驚いていると、「しなくても、寺は何も
言ってきませんよ」と。

私「しかしお墓があります……」
知「寺のほうで管理してくれていますか」
私「寺とは離れた場所にありますから……」
知「それなら、放っておけばいいでしょう」
私「……そういうものですか。知りませんでした」と。

●心の問題

 形だけやればよいという問題ではない。
若いころならともかくも、今さら自分の哲学をねじまげるもの、難儀なこと。
「妥協」という言葉もあるが、妥協するのも疲れた。
私の生まれ故郷は、冠婚葬祭だけは、派手にする地域である。
そのたびに、莫大な費用がかかる。

 だからやはり、ここは心の問題ということになる。
心が通じていれば、お金の問題など、何でもない。
たとえば私の息子たちは、結局は3つずつ、大学を出た。
長男は、キャxx大学、メルxx工科大学、東海xx学校。
二男は、ワチxx大学、ヘンダxxx大学、インxxxx大学。
三男は、横xx大、フリxxx大学、航x大学。

 しかし一度だって、学費を惜しんだことはない。
心が通じ合っているときというのは、そういうもの。
心が通じていないときは、たとえ1万円でも、惜しい!

●さて、どうするか?

 「実家」で、私は、60年間、苦しんだ。
残りの人生がどれだけあるか私にはわからない。
が、せめて残りの人生くらいは、実家を考えないで、過ごしたい。
この解放感を大切にしたい。
10年か、20年か?

 世の中には、『子はかすがい』という諺(ことわざ)がある。
同時に『子は、三界の足かせ』ともいう。
これらをもじると、こうなる。
『家族は、かすがい』『家族は、三界の足かせ』と。

 (かすがい)にするか、(足かせ)にするかは、結局は親しだいということ。
私自身の心境を弁解するつもりはないが、それは私という子どもの責任ではない。
つまり私という子どもの責任では、ない。

 今の私が、「私」。
これが「私」。
あとはすべて、私自身の判断ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++July・09++++++++++はやし浩司

●文章

++++++++++++++++++++

文章というのは、しばらく書かないでいると、書けなくなる。
方向が定まらない。
的確に自分の考えを、まとめられない。
文章のリズムさえ、つかめなくなる。
「漢字」については、さらにそうした現象が、顕著に現れる。
少し前だが、どこかのショッピングセンターで、「札幌」という漢字が書けなくて、
恥ずかしく思ったことがある。

そういうのを、度忘れというが、では、読解力は、どうなのか?
読解力も、同じように考えてよいのか。
たとえば私は最近、読解力が低下したのか、ときどき目の前の
文章がよく理解できないときがある。
今は、グラフィック(画像)編集ソフトに取り組んでいる。
説明書を、眠る前に毎晩、読んでいる。
しかしどうも意味が、よくわからない。
カタカナ文字ばかりで、チンプンカンプン。
集中力そのものが、鈍ってきた。

 どうしたことか?

++++++++++++++++++++ 

●認知症

 またまた認知症の話。
私の世代の者たちにとっては、認知症は、深刻な問題である。
だれがそうであっても、「明日は我が身かな」と考える。
で、読解力が低下したことについて、「これは認知症によるものではないか」と、
ふと、心配になる。

 何かの方法で、自己診断することはできないものなのか。
たとえばこんな文章を考えてみた。
一読して、意味がスラスラとわかったら、あなたはかなりの読解力があるということに
なる。

【テスト】

(1)叔母の義理の姉が、私の妹の夫と昔からの知り合いで、義理の姉の息子が、
今、妹の娘を学校で教えている。

(2)新アカウントでログオンし、デスクトップに「USMxxxx」という
フォルダーが作成されていることを確認したあと、「ファイルと設定の転送ウィザード」
を起動して画面を進め、「転送先」を選んでクリックする。 

 (1)は、関係が複雑。
頭の中で系図を描きながら聞かないと、意味がわからない。
(2)は、用語が縁門的。
コンピュータに通じていないと、意味がわからない。

 別の知人(女性、現在65歳)は、今回、アルツハイマー病と診断された。
その知人のばあい、その数年ほど前から、文章が読めなくなったという。
生命保険会社から送られてきた書類だったというが、「こんなもの、私が読んでも
わからない!」と叫んで、それを手で払いのけてしまったそうだ。
 
 そういうこともあるから、この問題を軽く考えてはいけない。

●集中力と拡散力

 ここで集中力の話を書いたので、拡散力についても、書いておきたい。
「拡散力」というのは、私が考えた言葉である。

 集中力というのは、ある特定のことがらに神経を集中させることをいう。
それに対して拡散力というのは、四方八方に、注意力を分散させることをいう。
具体的に考えてみよう。

 たとえば台所で、漢方薬を煎じていたとする。
弱火で、30〜40分ほど、煮込まなければならない。
と、そのとき庭を見ると、キュウリの棚が、風にあおられて、大きく傾いて
いるのが目に付いた。
ほかの野菜も、水が不足しているのか、元気がない。
私は庭へ出る。
とたん犬のハナが小屋から出てきて、おやつをねだる。
私はキュウリの棚を直す。
水道の蛇口をひねって、大きな水がめに、水を注ぐ。

 こういう状況のとき、ひとつのことをしながらも、あちこちに注意力を分散しなければ
ならない。
これが拡散力である。
が、このとき拡散力が鈍くなると、ひとつのことに気を奪われるあまり、水道の蛇口を
閉め忘れたり、ガスコンロの火を消し忘れたりする。
加齢ともに集中力が鈍くなることは、あちこちで指摘される。
しかし同じように、拡散力も鈍くなる。

●文章力

 それに文章力というときには、「鋭さ」も含まれる。
「切り込みの深さ」ともいう。
ただ誤解がないように言っておくが、難解な文章イコール、(深い)ということではない。
文章というのは、平易であればあるほど、よい。
読みやすければ読みやすいほど、よい。

 大切なのは、中身。
その中身で決まる。
たとえば名文中の名文と言われている文章に、『方丈記』がある。

『行く川の流れは絶えずして、

しかももとの水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止とゞまる事なし。
世の中にある人と住家すみかと、またかくの如し』と。

わかりやすい文章だが、一文読むごとに、はっと我に返る。
それが(深さ)ということになる。
(鋭さ)ということになる。

 しばらく文章から遠ざかっていると、その(鋭さ)が消える。
……というより、毎日書きつづけているからこそ、文章というのは書ける。
そういう習慣の中から、(鋭さ)が、生まれる。
鋭い文章というのは、書こうとして書けるものではない。
書いているうちに、そこにキラリと光る。
「何だろう?」と思ってみると、それが(鋭さ)ということになる。

●駄文

 で、このところ私が書く文章が、ますます駄文化しているのが、よくわかる。
あとで読み直してみたり、それ以前に書いた文章と読み比べてみると、それがわかる。
どうでもよいことを、ダラダラと書いている。
この文章にしても、そうだ。
(鋭さ)がどこにもない。
あえて言うなら、「拡散力」という言葉を考えたところ。
それはひとつの収穫だが、それ以外に、見るべきものがない。
読むに耐えないというか、つまらない。
だから、この話は、ここでストップ。

 一度、気分を変えてみる。
明日は、ワイフと近くの温泉に行くことになっている。
それに期待したい。


Hiroshi Hayashi++++++++July 09++++++++++はやし浩司※

●看護師より、ホステス(Hostess rather than Nurse)

韓国の朝鮮N報が、『公務員より、ホステスのほうが、
女子高生に人気』と題して、こんな記事を掲載している。

+++++++++以下、朝鮮N報(090729)+++++++++++++++

 日本の女性たちが就きたがらなかった職業、ホステスが最近、堂々と、あこがれる高所得の
職業として人気を集めている。今年、東京の文化学研究所が女子高生1154人を対象に世論
調査を行ったところ、ホステスが40種の人気職業のうち12位になったという。公務員は18
位、看護師は22位だった。

 こうした現象の裏には、日本では高卒の若い女性の就業機会が非常に少ないという現実が
ある。ところが最近、深刻な不景気の影響で、多くの女性が抵抗感なくホステスなどの職業を
選ぶ傾向が増えている。日本でホステスとして1年間働くと、難なく10万ドル(約1億2000万
円)以上稼げる場合もある、と米紙ニューヨーク・タイムズは報じた。

 一部の女性は桃華Eさん(27)のようなシンデレラ・ストーリーを夢見ている。シングルマザー
の桃華さんはホステスを経て、テレビで人気者となった。衆議院にはホステスの経験のある太
田K議員(29)がいる(衆議院解散前)。ホステスに対しては日本の宗教団体や女性団体が、
ホステスが客との性関係を強要されることで、女性が性風俗産業に進出するきっかけになって
いると批判している。

+++++++++以上、朝鮮N報(090729)+++++++++++++++

 朝鮮N報の記事を整理してみる。

(1)40種の人気業種のうち、ホステスが、12位。
(2)公務員は、18位、看護師は、22位。
(3)1年間ホステスとして働くと、約1億2000万円の収入になることもある。
(4)桃華さんは、ホステスを経て、テレビで人気タレントとなった。
(5)ホステスを経験した、太田Kという衆議院議員もいる。

 この分だと、近い将来、「おとなになったら、ホステスになる」と言う幼稚園児が、
続出するようになるかもしれない。
ホステスという職業に偏見はないが、非生産的職業であることには、ちがいない。
社会の中で、有機的に人と関わりあっていくという要素も希薄。
時代が変わったのか?
それともそう考える、私の頭が古いのか?

 朝鮮N報は、「1億2000万円」という数字をあげているが、
1桁まちがえているのではないか?
10万ドルが正しいのか?
それとも1億2000万円が正しいのか?
しかしいくら何でも1億2000万円はない。
10万ドルは、1200万円。
1月に、100万円。
それなら納得できる。

 が、その額にしても、平均的な看護師の約5倍。
私たちが子どものころには、「芸人」「芸能人」というのは、「まともな職業」としては、
認められていなかった。
江戸時代の昔には、さらにそうであったにちがいない。
が、今はちがう。
有名テレビタレントたちが、「文化人」として、国や都から表彰される時代になった。

だから今、「女子高校生たちが、ホステスになりたがっている」という記事を読んでも、
頭の中が混乱するだけ。
どうも自信がもてない。
「これでいいのかなあ……?」と思ったところで、思考が停止してしまう。
しかしこれだけは言える。

 職業というのは、日々の研鑽の中で、進歩、進化するものであるということ。
絶え間ない学習と努力が、それを裏から支える。
が、ホステスの第一の条件は、(若さ)と(美しさ)。
つまり若いうちは、それなりに稼げるかもしれないが、30代、40代になったら、
どうするのか。
タレントになったり、国会議員になったりするのか。
が、そういう人は、例外。
よほどの能力とチャンス、それに魅力に恵まれないと無理。
……とまあ、そう言い切る自信も、私にはない。

 お笑いタレントが、府知事になったり、県知事になったりする時代である。
『ゴルゴ13』の愛読者が、総理大臣になったりする時代である。
つまり日本中が今、ギャク化している。
女子高校生の世界も、またしかり。
そのひとつが、これ。
「看護師より、ホステス」と。

 要するに、(1)日本人の自己中心化がより進んでいるということ。
そのために、(2)安楽にお金を稼いだ方が得という風潮が、蔓延しているということ。

 こうした風潮に対して、「ホステスに対しては日本の宗教団体や女性団体が、
ホステスが客との性関係を強要されることで、女性が性風俗産業に進出する
きっかけになっていると批判している」と、記事は結んでいる。
それを読んで、少しだけ、安心する。

 で、今、子どもたちのもつ職業観は、大きく変わった。
小学校の高学年児でも、「おとになったら、お笑いタレントになりたい」と言う子どもは、
いくらでもいる。
が、それはそれ。
ここまで変わっているとは、私も知らなかった。
東京の文化学研究所が、女子高生1154人を対象に世論調査を行ったということだから、
これらの数字は、信頼してよい。

 再び、「これでいいのかなあ……?」と思ったところで、この話は、おしまい!
このつづきが、どうしても書けない。

(補記)

 子どもでも、たとえば正月のお年玉をもらったりすると、新しいフルートを買うために、
貯金すると言う子どもがいる。
(現在教えている、中2のOKさんが、そうだぞ!)

 一方、そのまま享楽的に使ってしまう子どももいる。
意味のないおもちゃや、ゲーム機器を、それで買ったりする。

 前者を、生産的な考え方をする子どもというなら、後者は、非生産的な考え方
をする子どもということになる。
しかし子どもでも、飽食とぜいたくに慣れてしまうと、ものの考え方が、非生産的に
なる。

 一部の子どもたちがそうであるのは、しかたのないことかもしれないが、それが
全体となってきたとしたら、この日本は、どうなるのか?
つまりそれこそまさに、「亡国の風潮」。
「これは個人の問題」「個人がそれでよければ、それでいいんじゃナ〜イ」という
レベルの話ではない。
またそれですませてはいけない。

 宗教団体や女性団体だけに任せておくのではなく、教育界、さらには国をあげて、
改めて、この問題を考えなおしてみる必要がある。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●映画『アイスエイジ・3D』

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内容はともかくも、映像のすごさに驚いた。
何といっても、3D!
迫力満点!

いろいろな3D映画を見てきたが、これは格別!
料金も、通常の1・5倍。
しかし見る価値はある。

ときどき3Dメガネをはずして画面を見たが、
「今まで、こんなひどい2D映画を見てきたのか」と知り、
がっかり。

内容は子ども向け映画ということで、星は3つの
★★★。
しかし一見の価値ありということで、星は5つの
★★★★★。

おとなでもじゅうぶん、楽しめる。

ハリウッド映画は、やはり、すごい!

+++++++++++++++++++++

Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

【3つの相談】

++++++++++++++++++

ある小学校での講演のあと、分科会で、
3つのテーマについて、話し合うことになった。

(1)小学生の生活、行動範囲
(2)思春期の子どもに対する接し方
(3)子どもの言葉づかい

今までに書いた原稿の中から、いくつかを
選んでみたい。

++++++++++++++++++


(1)小学生の生活、行動範囲

 子どもには、常に3つの世界がある。
家庭を中心とした、第一世界。
学校を中心とした、第二世界。
そして友人を中心とした、第三世界。

 これら3つの世界は、年齢とともに、その比重が大きくなったり、小さくなったりする。
幼児期には、第一世界が大きく、小学校に入学すると、第二世界が大きくなる。
そして思春期前夜前後から、第三世界が急速に膨張する。
と、同時に、つまりこうした変化に合わせて、家庭の役割も、相対的に縮小、かつ変化
する。

 たとえば幼児期には、(しつけの場)であった家庭は、(心と体を休める、癒しの場)
へと変化する。

 この問題は、【子どもの人格論】と深く関連している。
それについて考えてみたい。


(2)思春期の子どもに対する接し方

 この時期の子どもは、親に見せる側面と、子どもどうしに見せる側面と、さらには
教師に見せる側面は、まるでちがう。
が、たいていの親は、自分に見せる側面だけを見て、「うちの子のことは、私がいちばん
よく知っている」と言う。
「言う」というより、そう思い込んでいる。

 それについては、「子どもの心がつかめない」というテーマで書いた原稿があるので、
それを紹介したい。


(3)子どもの言葉づかい

 日本語の乱れについては、各方面からいろいろな場で、指摘されている。
しかし言葉は、まさに(生き物)。
別人格をもった生き物と考える。
コントロールしようとして、できるものではない。
またできない。

仮に子どもがどんな言葉を話すにせよ、きちんとした場所では、きちんとした
話ができれば、それでよしとする。

 が、それは結局は、子どもの会話能力(=言葉能力)の問題というよりは、
私たちおとなの会話能力(=言葉能力)の問題ということになる。

 反対に、つまりいつも子どもの側を責めてばかりいないで、ときには、子どもの
世界に、おとなの私たちのほうが飛びこんで行ってみることも大切。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

(特集)【子どもの人格論】□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもの人格】

●幼児性の残った子ども

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人格の核形成が遅れ、その年齢に
ふさわしい人格の発達が見られない。

全体として、しぐさ、動作が、
幼稚ぽい。子どもぽい。

そういう子どもは、少なくない。

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 「幼稚」という言い方には、語弊がある。たとえば幼稚園児イコール、幼稚ぽいという
ことではない。幼稚園児でも、人格の完成度が高く、はっと驚くような子どもは、いくら
でもいる。

 が、その一方で、そうでない子どもも、少なくない。こうした(差)は、小学1、2年
生ごろになると、はっきりとしてくる。その年齢のほかの子どもに比べて、人格の核形成
が遅れ、乳幼児期の幼児性をそのまま持続してしまう。特徴としては、つぎのようなもの
がある。

(1) 独特の幼児ぽい動作や言動。
(2) 無責任で無秩序な行動や言動。
(3) しまりのない生活態度。
(4) 自己管理能力の欠落。
(5) 現実検証能力の欠落。

 わかりやすく言えば、(すべきこと)と、(してはいけないこと)の判断が、そのつど、
できない。自分の行動を律することができず、状況に応じて、安易に周囲に迎合してしま
う。

 原因の多くは、家庭での親の育児姿勢にあると考えてよい。でき愛と過干渉、過保護と
過関心など。そのときどきにおいて変化する、一貫性のない親の育児姿勢が、子どもの人
格の核形成を遅らせる。

 「人格の核形成」という言葉は、私が使い始めた言葉である。「この子は、こういう子ど
も」という(つかみどころ)を「核」と呼んでいる。人格の核形成の進んでいる子どもは、
YES・NOがはっきりしている。そうでない子どもは、優柔不断。そのときどきの雰囲
気に流されて、周囲に迎合しやすくなる。

 そこであなたの子どもは、どうか?

【人格の完成度の高い子ども】

○同年齢の子どもにくらべて、年上に見える。
○自己管理能力にすぐれ、自分の行動を正しく律することができる。
○YES・NOをはっきりと言い、それに従って行動できる。
○ハキハキとしていて、いつも目的をもって行動できる。

【人格の完成度の低い子ども】

○同年齢の子どもにくらべて、幼児性が強く残っている。
○自己管理能力が弱く、その場の雰囲気に流されて行動しやすい。
○優柔不断で、何を考えているかわからないところがある。
○グズグズすることが多く、ダラダラと時間を過ごすことが多い。

 では、どうするか?

 子どもの人格の核形成をうながすためには、つぎの3つの方法がある。

(1) まず子どもを、子どもではなく、1人の人間として、その人格を認める。
(2) 親の育児姿勢に一貫性をもたせる。
(3) 『自らに由(よ)らせる』という意味での、子育て自由論を大切にする。

++++++++++++++++++

今までに書いた原稿の中から
いくつかを選んで、ここに
添付します。

内容が少し脱線する部分があるかも
しれませんが、お許し下さい。

++++++++++++++++++

(1)【子どもの人格を認める】

●ストーカーする母親

 一人娘が、ある家に嫁いだ。夫は長男だった。そこでその娘は、夫の両親と同居するこ
とになった。ここまではよくある話。が、その結婚に最初から最後まで、猛反対していた
のが、娘の実母だった。「ゆくゆくは養子でももらって……」「孫といっしょに散歩でも…
…」と考えていたが、そのもくろみは、もろくも崩れた。

 が、結婚、2年目のこと。娘と夫の両親との折り合いが悪くなった。すったもんだの家
庭騒動の結果、娘夫婦と、夫の両親は別居した。まあ、こういうケースもよくある話で、
珍しくない。しかしここからが違った。なおこの話は、「本当にあった話」とわざわざ断り
たいほど、本当にあった話である。

 娘夫婦は、同じ市内の別のアパートに引っ越したが、その夜から、娘の実母(実母!)
による復讐が始まった。実母は毎晩夜な夜な娘に電話をかけ、「そら、見ろ!」「バチが当
たった!」「親を裏切ったからこうなった!」「私の人生をどうしてくれる。お前に捧げた
人生を返せ!」と。それが最近では、さらにエスカレートして、「お前のような親不孝者は、
はやく死んでしまえ!」「私が死んだら、お前の子どもの中に入って、お前を一生、のろっ
てやる!」「親を不幸にしたものは、地獄へ落ちる。覚悟しておけ!」と。それだけではな
い。

どこでどう監視しているのかわからないが、娘の行動をちくいち知っていて、「夫婦だけ
で、○○レストランで、お食事? 結構なご身分ですね」「スーパーで、特売品をあさっ
ているあんたを見ると、親としてなさけなくてね」「今日、あんたが着ていたセーターね、
あれ、私が買ってあげたものよ。わかっているの!」と。

 娘は何度も電話をするのをやめるように懇願したが、そのたびに母親は、「親に向かって、
何てこと言うの!」「親が、娘に電話をして、何が悪い!」と。そして少しでも体の調子が
悪くなると、今度は、それまでとはうって変わったような弱々しい声で、「今朝、起きると、
フラフラするわ。こういうとき娘のあんたが近くにいたら、病院へ連れていってもらえる
のに」「もう、長いこと会ってないわね。私もこういう年だからね、いつ死んでもおかしく
ないわよ」「明日あたり、私の通夜になるかしらねえ。あなたも覚悟しておいてね」と。

●自分勝手な愛

 親が子どもにもつ愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛。ここで
いう代償的愛というのは、自分の心のすき間を埋めるための、自分勝手でわがままな愛を
いう。たいていは親自身に、精神的な欠陥や情緒的な未熟性があって、それを補うために、
子どもを利用する。子どもが親の欲望を満足させるための道具になることが多い。そのた
め、子どもを、一人の人格をもった人間というより、モノとみる傾向が強くなる。いろい
ろな例がある。

 Aさん(60歳・母親)は、会う人ごとに、「息子なんて育てるものじゃ、ないですねえ。
息子は、横浜の嫁にとられてしまいました」と言っていた。息子が結婚して横浜に住んで
いることを、Aさんは、「取られた」というのだ。

 Bさん(45歳・母親)の長男(現在18歳)は、高校へ入学すると同時に、プツンし
てしまった。断続的に不登校を繰り返したあと、やがて家に引きこもるようになった。原
因ははげしい受験勉強だった。しかしBさんには、その自覚はなかった。つづいて二男に
も、受験期を迎えたが、同じようにはげしい受験勉強を強いた。「お兄ちゃんがダメになっ
たから、あんたはがんばるのよ」と。ところがその二男も、同じようにプツン。今は兄弟
二人は、夫の実家に身を寄せ、そこから、ときどき学校に通っている。

 Cさん(65歳・母親)は、息子がアメリカにある会社の支店へ赴任している間に、息
子から預かっていた土地を、勝手に転売してしまった。帰国後息子(40歳)が抗議する
と、Cさんはこう言ったという。「親が、先祖を守るために息子の金を使って、何が悪い!」
と。Cさんは、息子を、金づるくらいにしか考えていなかったようだ。その息子氏はこう
話した。

「何かあるたびに、私のところへきては、10〜30万円単位のお金をもって帰りまし
た。私の長男が生まれたときも、その私から、母は当時のお金で、30万円近く、もっ
て帰ったほどです。いつも『かわりに貯金しておいてやるから』が口ぐせでしたが、今
にいたるまで、1円も返してくれません」と。

 Dさん(60歳・女性)の長男は、ハキがなく、おとなしい人だった。それもあって、
Dさんは、長男の結婚には、ことごとく反対し、縁談という縁談を、すべて破談にしてし
まった。Dさんはいつも、こう言っていた。「へんな嫁に入られると、財産を食いつぶされ
る」と。たいした財産があったわけではない。昔からの住居と、借家が二軒あっただけで
ある。

 ……などなど。こういう親は、いまどき、珍しくも何ともない。よく「親だから……」「子
だから……」という、『ダカラ論』で、親子の問題を考える人がいる。しかしこういうダカ
ラ論は、ものの本質を見誤らせるだけではなく、かえって問題をかかえた人たちを苦しめ
ることになる。「実家の親を前にすると、息がつまる」「盆暮れに実家へ帰らねばならない
と思うだけで、気が重くなる」などと訴える男性や女性はいくらでもいる。

さらに舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)との折り合いが悪く、家庭騒動を繰り返してい
る家庭となると、今では、そうでない家庭をさがすほうが、むずかしい。中には、「殺し
てやる!」「お前らの前で、オレは死んでやる!」と、包丁やナタを振り回している舅す
ら、いる。

 そうそう息子が二人ともプツンしてしまったBさんは、私にも、ある日こう言った。「夫
は学歴がなくて苦労しています。息子たちにはそういう苦労をさせたくないので、何とか
いい大学へ入ってもらいたいです」と。

●子どもの依存性

 人はひとりでは生きていかれない存在なのか。「私はひとりで生きている」と豪語する人
ですら、何かに依存して生きている。金、モノ、財産、名誉、地位、家柄など。退職した
人だと、過去の肩書きに依存している人もいる。あるいは宗教や思想に依存する人もいる。
何に依存するかはその人の勝手だが、こうした依存性は、相互的なもの。そのことは、子
どもの依存性をみているとわかる。

 依存心の強い子どもがいる。依存性が強く、自立した行動ができない。印象に残ってい
る子どもに、D君(年長児)という子どもがいた。帰りのしたくの時間になっても、机の
前でただ立っているだけ。「机の上のものを片づけようね」と声をかけても、「片づける」
という意味そのものがわからない……、といった様子。そこであれこれジェスチャで、し
まうように指示したのだが、そのうち、メソメソと泣き出してしまった。多分、家では、
そうすれば、家族のみながD君を助けてくれるのだろう。

 一方、教える側からすれば、そういう涙にだまされてはいけない。涙といっても、心の
汗。そういうときは、ただひたすら冷静に片づけるのを待つしかない。いや、内心では、
D君がうまく片づけられたら、みなでほめてやろうと思っていた。が、運の悪いことに(?)、
その日にかぎって、母親がD君を迎えにきていた。そしてD君の泣き声を聞きつけると、
教室へ飛び込んできて、こう言った。ていねいだが、すごみのある声だった。「どうしてう
ちの子を泣かすのですか!」と。

 そういう子どもというより、その子どもを包む環境を観察してみると、おもしろいこと
に気づく。D君の依存性を問題にしても、親自身には、その認識がまるでないということ。
そういうD君でも、親は、「ふつうだ」と思っている。さらに私があれこれ問題にすると、
「うちの子は、生まれつきそうです」とか、「うちではふつうです」とか言ったりする。そ
こでさらに観察してみると、親自身が依存性に甘いというか、そういう生き方が、親自身
の生き方の基本になっていることがわかる。そこで私は気がついた。子どもの依存性は、
相互的なものだ、と。こういうことだ。

 親自身が、依存性の強い生き方をしている。つまり自分自身が依存性が強いから、子ど
もの依存性に気づかない。あるいはどうしても子どもの依存性に甘くなる。そしてそうい
う相互作用が、子どもの依存性を強くする。言いかえると、子どもの依存性だけを問題に
しても、意味がない。子どもの依存性に気づいたら、それはそのまま親自身の問題と考え
てよい。

……と書くと、「私はそうでない」と言う人が、必ずといってよいほど、出てくる。それ
はそうで、こうした依存性は、ある時期、つまり青年期から壮年期には、その人の心の
奥にもぐる。外からは見えないし、また本人も、日々の生活に追われて気づかないでい
ることが多い。しかしやがて老齢期にさしかかると、また現れてくる。先にあげた親た
ちに共通するのは、結局は、「自立できない親」ということになる。

●子どもに依存する親たち

 日本型の子育ての特徴を、一口で言えば、「子どもが依存心をもつことに、親たちが無頓
着すぎる」ということ。昔、あるアメリカの教育家がそう言っていた。つまりこの日本で
は、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とする。一方、独
立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、「鬼っ子」として嫌う。私が生まれ育った岐
阜県の地方には、まだそういう風習が強く残っていた。今も残っている。

親の権威や権力は絶対で、親孝行が今でも、最高の美徳とされている。たがいにベタベ
タの親子関係をつくりながら、親は親で、子どものことを、「親思いの孝行息子」と評価
し、子どもは子どもで、それが子どもの義務と思い込んでいる。こういう世界で、だれ
かが親の悪口を言おうものなら、その子どもは猛烈に反発する。相手が兄弟でもそれを
許さない。「親の悪口を言う人は許さない!」と。

 今風に言えば、子どもを溺愛する親、マザーコンプレックス(マザコン)タイプの子ど
もの関係ということになる。このタイプの子どもは、自分のマザコン性を正当化するため
に、親を必要以上に美化するので、それがわかる。

 こうした依存性のルーツは、深い。長くつづいた封建制度、あるいは日本民族そのもの
がもつ習性(?)とからんでいる。私はこのことを、ある日、ワイフとロープウェイに乗
っていて発見した。

●ロープウェイの中で

 春のうららかな日だった。私とワイフは、近くの遊園地へ行って、そこでロープウェイ
に乗った。中央に座席があり、そこへ座ると、ちょうど反対側に、60歳くらいの女性と、
五歳くらいの男の子が座った。おばあちゃんと孫の関係だった。その2人が、私たちとは
背中合わせに、会話を始めた。(決して盗み聞きしたわけではない。会話がいやおうなしに
聞こえてきたのだ。)その女性は、男の子にこう言っていた。

 「オバアちゃんと、イッチョ(一緒)、楽しいね。楽しいね。お山の上に言ったら、オイ
チイモノ(おいしいもの)を食べようね。お小づかいもあげるからね。オバアちゃんの言
うこと聞いてくれたら、ホチイ(ほしい)ものを何でも買ってあげるからね」と。
 
 一見ほほえましい会話に聞こえる。日本人なら、だれしもそう思うだろう。が、私はそ
の会話を聞きながら、「何か、おかしい」と思った。60歳くらいの女性は、孫をかわいが
っているように見えるが、その実、孫の人格をまるで認めていない。まるで子どもあつか
いというか、もっと言えば、ペットあつかい! その女性は、5歳の子どもに、よい思い
をさせるのが、祖母としての努めと考えているようなフシがあった。そしてそうすること
で、祖母と孫の絆(きずな)も太くなると、錯覚しているようなフシがあった。

 しかしこれは誤解。まったくの誤解。たとえばこの日本では、誕生日にせよ、クリスマ
スにせよ、より高価なプレゼントであればあるほど、親の愛の証(あかし)であると考え
ている人は多い。また高価であればあるほど、子どもの心をつかんだはずと考えている人
は多い。しかし安易にそうすればするほど、子どもの心はあなたから離れる。仮に一時的
に子どもの心をつかむことはできても、あくまでも一時的。理由は簡単だ。

●釣竿を買ってあげるより、一緒に釣りに行け

 人間の欲望には際限がない。仮に一時的であるにせよ、欲望をモノやお金で満足させた
子どもは、つぎのときには、さらに高価なものをあなたに求めるようになる。そのときつ
ぎつぎとあなたがより高価なものを買い与えることができれば、それはそれで結構なこと
だが、それがいつか途絶えたとき、子どもはその時点で自分の欲求不満を爆発させる。そ
してそれまでにつくりあげた絆(本当は絆でも何でもない)を、一挙に崩壊させる。「バイ
クぐらい、買ってよこせ!」「どうして私だけ、夏休みにオーストラリアへ行ってはダメな
の!」と。

 イギリスには、『子どもには釣竿を買ってあげるより、子どもと一緒に、魚釣りに行け』
という格言がある。子どもの心をつかみたかったら、モノを買い与えるのではなく、よい
思い出を一緒につくれという意味だが、少なくとも、子どもの心は、モノやお金では釣れ
ない。それはさておき、その六〇歳の女性がしたことは、まさに、子どもを子どもあつか
いすることにより、子どもを釣ることだった。

 しかし問題はこのことではなく、なぜ日本人はこうした子育て観をもっているかという
こと。また周囲の人たちも、「ほほえましい光景」と、なぜそれを容認してしまうかという
こと。ここの日本型子育ての大きな問題が隠されている。

 それが、私がここでいう、「長くつづいた封建制度、あるいは日本民族そのものがもつ習
性(?)とからんでいる」ということになる。つまりこの日本では、江戸時代の昔から、
あるいはそれ以前から、『女、子ども』という言い方をして、女性と子どもを、人間社会か
ら切り離してきた。私が子どものときですら、そうだった。

NHKの大河ドラマの『利家とまつ』あたりを見ていると、江戸時代でも結構女性の地
位は高かったのだと思う人がいるかもしれないが、江戸時代には、女性が男性の仕事に
口を出すなどということは、ありえなかった。とくに武家社会ではそうで、生活空間そ
のものが分離されていた。日本はそういう時代を、何100年間も経験し、さらに不幸
なことに、そういう時代を清算することもなく、現代にまで引きずっている。まさに『利
家とまつ』がそのひとつ。いまだに封建時代の圧制暴君たちが英雄視されている!

 が、戦後、女性の地位は急速に回復した。それはそれだが、しかし取り残されたものが
ひとつある。それが『女、子ども』というときの、「子ども」である。

●日本独特の子ども観

 日本人の多くは、子どもを大切にするということは、子どもによい思いをさせることだ
と誤解している。もう10年近くも前のことだが、一人の父親が私のところへやってきて、
こう言った。「私は忙しい。あなたの本など、読むヒマなどない。どうすればうちの子をい
い子にすることができるのか。一口で言ってくれ。そのとおりにするから」と。
 私はしばらく考えてこう言った。「使うことです。子どもは使えば使うほど、いい子にな
ります」と。

 それから10年近くになるが、私のこの考え方は変わっていない。子どもというのは、
皮肉なことに使えば使うほど、その「いい子」になる。生活力が身につく。忍耐力も生ま
れる。が、なぜか、日本の親たちは、子どもを使うことにためらう。はからずもある母親
はこう言った。「子どもを使うといっても、どこかかわいそうで、できません」と。子ども
を使うことが、かわいそうというのだが、どこからそういう発想が生まれるかといえば、
それは言うまでもなく、「子どもを人間として認めていない」ことによる。私の考え方は、
どこか矛盾しているかのように見えるかもしれないが、その前に、こんなことを話してお
きたい。

●友として、子どもの横を歩く

 昔、オーストラリアの友人がこう言った。親には3つの役目がある、と。ひとつはガイ
ドとして、子どもの前を歩く。もうひとつは、保護者として、子どものうしろを歩く。そ
して3つ目は、友として、子どもの横を歩く、と。

 日本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意。しかし友として、子どもの横を歩くの
が苦手。苦手というより、そういう発想そのものがない。もともと日本人は、上下意識の
強い国民で、たった1年でも先輩は先輩、後輩は後輩と、きびしい序列をつける。男が上、
女が下、夫が上、妻が下。そして親が上で、子が下と。親が子どもと友になる、つまり対
等になるという発想そのものがない。ないばかりか、その上下意識の中で、独特の親子関
係をつくりあげた。私がしばしば取りあげる、「親意識」も、そこから生まれた。

 ただ誤解がないようにしてほしいのは、親意識がすべて悪いわけではない。この親意識
には、善玉と悪玉がある。善玉というのは、いわゆる親としての責任感、義務感をいう。
これは子どもをもうけた以上、当然のことだ。しかし子どもに向かって、「私は親だ」と親
風を吹かすのはよくない。その親風を吹かすのが、悪玉親意識ということになる。「親に向
かって何だ!」と怒鳴り散らす親というのは、その悪玉親意識の強い人ということになる。
先日もある雑誌に、「父親というのは威厳こそ大切。家の中心にデーンと座っていてこそ父
親」と書いていた教育家がいた。そういう発想をする人にしてみれば、「友だち親子」など、
とんでもない考え方ということになるに違いない。

 が、やはり親子といえども、つきつめれば、人間関係で決まる。「親だから」「子どもだ
から」という「ダカラ論」、「親は〜〜のはず」「子どもは〜〜のはず」という「ハズ論」、
あるいは「親は〜〜すべき」「子は〜〜すべき」という、「ベキ論」で、その親子関係を固
定化してはいけない。固定化すればするほど、本質を見誤るだけではなく、たいていのば
あい、その人間関係をも破壊する。あるいは一方的に、下の立場にいるものを、苦しめる
ことになる。

●子どもを大切にすること

 話を戻すが、「子どもを人間として認める」ということと、「子どもを使う」ということ
は、一見矛盾しているように見える。また「子どもを一人の人間として大切にする」とい
うことと、「子どもを使う」ということも、一見矛盾しているように見える。とくにこの日
本では、子どもをかわいがるということは、子どもによい思いをさせ、子どもに楽をさせ
ることだと思っている人が多い。そうであるなら、なおさら、矛盾しているように見える。
しかし「子育ての目標は、よき家庭人として、子どもを自立させること」という視点に立
つなら、この考えはひっくりかえる。こういうことだ。

 いつかあなたの子どもがあなたから離れて、あなたから巣立つときがくる。そのときあ
なたは、子どもに向かってこう叫ぶ。

 「お前の人生はお前のもの。この広い世界を、思いっきり羽ばたいてみなさい。たった
一度しかない人生だから、思う存分生きてみなさい」と。

つまりそういう形で、子どもの人生を子どもに、一度は手渡してこそ、親は親の務めを
果たしたことになる。安易な孝行論や、家意識で子どもをしばってはいけない。もちろ
んそのあと、子どもが自分で考え、親のめんどうをみるとか、家の心配をするというの
であれば、それは子どもの問題。子どもの勝手。しかし親は、それを子どもに求めては
いけない。期待したり、強要してはいけない。あくまでも子どもの人生は、子どものも
の。

 この考え方がまちがっているというのなら、今度はあなた自身のこととして考えてみれ
ばよい。もしあなたの子どもが、あなたのためや、あなたの家のために犠牲になっている
姿を見たら、あなたは親として、それに耐えられるだろうか。もしそれが平気だとするな
ら、あなたはよほど鈍感な親か、あるいはあなた自身、自立できない依存心の強い親とい
うことになる。同じように、あなたが親や家のために犠牲になる姿など、美徳でも何でも
ない。仮にそれが美徳に見えるとしたら、あなたがそう思い込んでいるだけ。あるいは日
本という、極東の島国の中で、そう思い込まされているだけ。

 子どもを大切にするということは、子どもを一人の人間として自立させること。自立さ
せるということは、子どもを一人の人間として認めること。そしてそういう視点に立つな
ら、子どもに社会性を身につけさえ、ひとりで生きていく力を身につけさせるということ
だということがわかってくる。「子どもを使う」というのは、そういう発想にもとづく。子
どもを奴隷のように使えということでは、決して、ない。

●冒頭の話

 さて冒頭の話。実の娘に向かって、ストーカー行為を繰り返す母親は、まさに自立でき
ない親ということになる。いや、私はこの話を最初に聞いたときには、その母親の精神状
態を疑った。ノイローゼ? うつ病? 被害妄想? アルツハイマー型痴呆症? 何であ
れ、ふつうではない。嫉妬に狂った女性が、ときどき似たような行為を繰り返すという話
は聞いたことがある。そういう意味では、「娘を取られた」「夢をつぶされた」という点で
は、母親の心の奥で、嫉妬がからんでいるかもしれない。が、問題は、母親というより、
娘のほうだ。

 純粋にストーカー行為であれば、今ではそれは犯罪行為として類型化されている。しか
しそれはあくまでも、男女間でのこと。このケースでは、実の母親と、実の娘の関係であ
る。それだけに実の娘が感ずる重圧感は相当なものだ。遠く離れて住んだところで、解決
する問題ではない。また実の母親であるだけに、切って捨てるにしても、それ相当の覚悟
が必要である。あるいは娘であるがため、そういう発想そのものが、浮かんでこない。そ
の娘にしてみれば、母親からの電話におびえ、ただ一方的に母親にわびるしかない。

実際、親に、「産んでやったではないか」「育ててやったではないか」と言われると、子
どもには返す言葉がない。実のところ、私も子どものころ母親に、よくそう言われた。
しかしそれを言われた子どもはどうするだろうか。反論できるだろうか。……もちろん
反論できない。そういう子どもが反論できない言葉を、親が言うようでは、おしまい。
あるいは言ってはならない。仮にそう思ったとしても、この言葉だけは、最後の最後ま
で言ってはならない。言ったと同時に、それは親としての敗北を認めたことになる。

が、その娘の母親は、それ以上の言葉を、その娘に浴びせかけて、娘を苦しめている。
もっと言えば、その母親は「親である」というワクに甘え、したい放題のことをしてい
る。一方その娘は、そのワクの中に閉じ込められて、苦しんでいる。

 私もこれほどまでにひどい事件は、聞いたことがない。ないが、親子の関係もゆがむと、
ここまでゆがむ。それだけにこの事件には考えさせられた。と、同時に、輪郭(りんかく)
がはっきりしていて、考えやすかった。だから考えた。考えて、この文をまとめた。
(02−9−14)※

++++++++++++++++

(2)【育児の一貫性】

子育ての一貫性

 以前、「信頼性」についての原稿を書いた。この中で、親子の信頼関係を築くためには、
一貫性が大切と書いた。その「一貫性」について、さらにここでもう一歩、踏みこんで考
えてみたい。

 その前に、念のため、そのとき書いた原稿を、再度掲載する。

++++++++++++++++++++++

信頼性

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外で
はない。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本
である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、
反対にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような
調子で、同じようなパターンで、答えてあげること。こうしたあなたの一貫性を見ながら、
子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことができる。こうした安定的な人間関係が、
ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基
本的信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの3つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。
これを第1世界という。園や学校での世界。これを第2世界という。そしてそれ以外の、
友だちとの世界。これを第3世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第2世界、つづいて第3世界へと、応用して
いく。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第2世界、第3世界での
信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の
基本となる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親
側の情緒不安や、親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなば
あい、子どもは、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、
人間関係になる。これを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分
野で現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ね
たみ症状などは、こうした基本的不信関係から生まれる。第2世界、第3世界においても、
良好な人間関係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れ
る。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安
心して」というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分
をさらけ出せる環境」をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役
目ということになる。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよ
い。

● 「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
● 子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じよう
に接する。
● きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くな
るというのは、避ける。

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 よくても悪くても、親は、子どもに対して、一貫性をもつ。子どもの適応力には、もの
すごいものがある。そういう一貫性があれば、子どもは、その親に、よくても、悪くても、
適応していく。

 ときどき、封建主義的であったにもかかわらず、「私の父は、すばらしい人でした」と言
う人がいる。A氏(60歳男性)が、そうだ。「父には、徳川家康のような威厳がありまし
た」と。

 こういうケースでは、えてして古い世代のものの考え方を肯定するために、その人はそ
う言う。しかしその人が、「私の父は、すばらしい人でした」と言うのは、その父親が封建
主義的であったことではなく、封建主義的な生き方であるにせよ、そこに一貫性があった
からにほかならない。

 子育てでまずいのは、その一貫性がないこと。言いかえると、子どもを育てるというこ
とは、いかにしてその一貫性を貫くかということになる。さらに言いかえると、親がフラ
フラしていて、どうして子どもが育つかということになる。
(030623)
(はやし浩司 一貫性)

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(3)【子育て自由論】

●親子でつくる三角関係

 本来、父親と母親は一体化し、「親」世界を形成する。

 その親世界に対して、子どもは、一対一の関係を形成する。

 しかしその親子関係が、三角関係化するときがある。父親と、母親の関係、つまり夫婦
関係が崩壊し、父親と子ども、母親と子どもの関係が、別々の関係として、機能し始める。
これを親子の三角関係化(ボーエン)という。

 わかりやすく説明しよう。

 たとえば母親が、自分の子どもを、自分の味方として、取り込もうとしたとする。

「あなたのお父さんは、だらしない人よ」
「私は、あんなお父さんと結婚するつもりはなかったけれど、お父さんが強引だったのよ」
「お父さんの給料が、もう少しいいといいのにね。お母さんたちが、苦労するのは、あの
お父さんのせいなのよ」
「お父さんは、会社では、ただの書類整理係よ。あなたは、あんなふうにならないでね」
と。

 こういう状況になると、子どもは、母親の意見に従わざるをえなくなる。この時期、子
どもは、母親なしでは、生きてはいかれない。

 つまりこの段階で、子どもは、母親と自分の関係と、父親と自分の関係を、それぞれ独
立したものと考えるようになる。これがここでいう「三角関係化」(ボーエン)という。

 こうした三角関係化が進むと、子どもにとっては、家族そのものが、自立するための弊
害になってしまう。つまり、子どもの「個人化」が遅れる。ばあいによっては、自立その
ものが、できなくなってしまう。

●個人化

 子どもの成育には、家族はなくてならないものだが、しかしある時期がくると、子ども
は、その家族から独立して、その家族から抜け出ようとする。これを「個人化」(ボーエン)
という。

 が、家族そのものが、この個人化をはばむことがある。

 ある男性(50歳、当時)は、こんなことで苦しんでいた。

 その男性は、実母の葬儀に、出なかった。その数年前のことである。それについて、親
戚の伯父、伯母のみならず、近所の人たちまでが、「親不孝者!」「恩知らず!」と、その
男性を、ののしった。

 しかしその男性には、だれにも話せない事情があった。その男性は、こう言った。「私は、
父の子どもではないのです。祖父と母の間にできた子どもです。父や私をだましつづけた
母を、私は許すことができませんでした」と。

 つまりその男性は、家族というワクの中で、それを足かせとして、悶々と苦しみ、悩ん
でいたことになる。

 もちろんこれは50歳という(おとな)の話であり、そのまま子どもの世界に当てはめ
ることはできない。ここでいう個人化とは、少しニュアンスがちがうかもしれない。しか
しどんな問題であるにせよ、それが子どもの足かせとなったとき、子どもは、その問題で、
苦しんだり、悩んだりするようになる。

 そのとき、子どもの自立が、はばまれる。

●個人化をはばむもの 

 日本人は、元来、子どもを、(モノ)もしくは、(財産)と考える傾向が強い。そのため、
無意識にうちにも、子どもが自立し、独立していくことを、親が、はばもうとすることが
ある。独立心の旺盛な子どもを、「鬼の子」と考える地方もある。

 たとえば、親のそばを離れ、独立して生活することを、この日本では、「親を捨てる」と
いう。そういう意味でも、日本は、まさに依存型社会ということになる。

 親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子。かわいい子イコール、よい子とし
た。

 そしてそれに呼応する形で、親は、子どもに甘え、依存する。

 ある母親は、私にこう言った。「息子は、横浜の嫁に取られてしまいました。親なんて、
さみしいもんですわ」と。

 その母親は、自分の息子が結婚して、横浜に住むようになったことを、「嫁に取られた」
と言う。そういう発想そのものが、ここでいう依存性によるものと考えてよい。もちろん
その母親は、それに気づいていない。

 が、こうした依存性を、子どもの側が感じたとき、子どもは、それを罪悪感として、と
らえる。自分で自分を責めてしまう。実は、これが個性化をはばむ最大の原因となる。

 「私は、親を捨てた。だから私はできそこないの人間だ」と。

●子どもの世界でも……

 家族は、子どもの成育にとっては、きわめて重要なものである。それについて、疑いを
もつ人はいない。

 しかしその家族が、今度は、子どもの成育に、足かせとなることもある。親の過干渉、
過保護、過関心、それに溺愛など。

 これらの問題については、たびたび書いてきたので、ここでは、もう少しその先を考え
てみたい。

 問題は、子ども自身が、自立することそのものに、罪悪感を覚えてしまうケースである。
たとえばこんな例で考えてみよう。

 ある子どもは、幼児期から、「勉強しなさい」「もっと勉強しなさい」と追い立てられた。
英語教室や算数教室にも通った。(実際には、通わされた。)そしていつしか、勉強ができ
る子どもイコール、優秀な子ども。勉強ができない子どもイコール、できそこないという
価値観を身につけてしまった。

 それは親の価値観でもあった。こうした価値観は、親がとくに意識しなくても、そっく
りそのまま子どもに植えつけられる。

 で、こういうケースでは、その子どもにそれなりに能力があれば、それほど大きな問題
にはならない。しかしその子どもには、その能力がなかった。小学3、4年を境に、学力
がどんどんと落ちていった。

 親はますますその子どもに勉強を強いた。それはまさに、虐待に近い、しごきだった。
塾はもちろんのこと、家庭教師をつけ、土日は、父親が特訓(?)をした。

 いつしかその子どもは、自信をなくし、自らに(ダメ人間)のレッテルを張るようにな
ってしまった。

●現実検証能力 

 自分の周囲を、客観的に判断し、行動する能力のことを、現実検証能力という。この能
力に欠けると、子どもでも、常識はずれなことを、平気でするようになる。

 薬のトローチを、お菓子がわりに食べてしまった子ども(小学生)
 電気のコンセントに粘土をつめてしまった子ども(年長児)
 バケツで色水をつくり、それを友だちにベランダの上からかけていた子ども(年長児)
 友だちの誕生日プレゼントに、酒かすを箱に入れて送った子ども(小学生)
 先生の飲むコップに、殺虫剤をまぜた子ども(中学生)などがいた。

 おとなでも、こんなおとながいた。

 贈答用にしまっておいた、洋酒のビンをあけてのんでしまった男性
 旅先で、帰りの旅費まで、つかいこんでしまった男性
 ゴミを捨てにいって、途中で近所の家の間に捨ててきてしまった男性
 毎日、マヨネーズの入ったサラダばかりを隠れて食べていた女性
 自宅のカーテンに、マッチで火をつけていた男性などなど。

 そうでない人には、信じられないようなことかもしれないが、生活の中で、現実感をな
くすと、おとなでも、こうした常識ハズレな行為を平気で繰りかえすようになる。わかり
やすく言うと、自分でしてよいことと悪いことの判断がつかなくなってしまう。

 一般的には、親子の三角関係化が進むと、この現実検証能力が弱くなると言われている
(ボーエン)。

●三角関係化を避けるために

 よきにつけ、あしきにつけ、父親と母親は、子どもの前では、一貫性をもつようにする
こと。足並みの乱れは、家庭教育に混乱を生じさせるのみならず、ここでいう三角関係化
をおし進める。

 もちろん、父親には父親の役目、母親には母親の役目がある。それはそれとして、たが
いに高度な次元で、尊敬し、認めあう。その上で、子どもの前では、一貫性を保つように
する。この一貫性が、子どもの心を、はぐくむ。

++++++++++++++

以前、こんな原稿を書いた。
中日新聞に発表済みの原稿である。

++++++++++++++

●夫婦は一枚岩

 そうでなくても難しいのが、子育て。夫婦の心がバラバラで、どうして子育てができる
のか。その中でもタブー中のタブーが、互いの悪口。

ある母親は、娘(年長児)にいつもこう言っていた。「お父さんの給料が少ないでしょう。
だからお母さんは、苦労しているのよ」と。

あるいは「お父さんは学歴がなくて、会社でも相手にされないのよ。あなたはそうなら
ないでね」と。母親としては娘を味方にしたいと思ってそう言うが、やがて娘の心は、
母親から離れる。離れるだけならまだしも、母親の指示に従わなくなる。

 この文を読んでいる人が母親なら、まず父親を立てる。そして船頭役は父親にしてもら
う。賢い母親ならそうする。この文を読んでいる人が父親なら、まず母親を立てる。そし
て船頭役は母親にしてもらう。つまり互いに高い次元に、相手を置く。

たとえば何か重要な決断を迫られたようなときには、「お父さんに聞いてからにしましょ
うね」(反対に「お母さんに聞いてからにしよう」)と言うなど。仮に意見の対立があっ
ても、子どもの前ではしない。

父、子どもに向かって、「テレビを見ながら、ご飯を食べてはダメだ」
母「いいじゃあないの、テレビぐらい」と。

こういう会話はまずい。こういうケースでは、父親が言ったことに対して、母親はこう
援護する。「お父さんがそう言っているから、そうしなさい」と。そして母親としての意
見があるなら、子どものいないところで調整する。

子どもが学校の先生の悪口を言ったときも、そうだ。「あなたたちが悪いからでしょう」
と、まず子どもをたしなめる。相づちを打ってもいけない。もし先生に問題があるなら、
子どものいないところで、また子どもとは関係のない世界で、処理する。これは家庭教
育の大原則。

 ある著名な教授がいる。数10万部を超えるベストセラーもある。彼は自分の著書の中
で、こう書いている。「子どもには夫婦喧嘩を見せろ。意見の対立を教えるのに、よい機会
だ」と。

しかし夫婦で哲学論争でもするならともかくも、夫婦喧嘩のような見苦しいものは、子
どもに見せてはならない。夫婦喧嘩などというのは、たいていは見るに耐えないものば
かり。

その教授はほかに、「子どもとの絆を深めるために、遊園地などでは、わざと迷子にして
みるとよい」とか、「家庭のありがたさをわからせるために、二、三日、子どもを家から
追い出してみるとよい」とか書いている。とんでもない暴論である。わざと迷子にすれ
ば、それで親子の信頼関係は消える。それにもしあなたの子どもが半日、行方不明にな
ったら、あなたはどうするだろうか。あなたは捜索願いだって出すかもしれない。

 子どもは親を見ながら、自分の夫婦像をつくる。家庭像をつくる。さらに人間像までつ
くる。そういう意味で、もし親が子どもに見せるものがあるとするなら、夫婦が仲よく話
しあう様であり、いたわりあう様である。助けあい、喜びあい、なぐさめあう様である。

古いことを言うようだが、そういう「様(さま)」が、子どもの中に染み込んでいてはじ
めて、子どもは自分で、よい夫婦関係を築き、よい家庭をもつことができる。

欧米では、子どもを「よき家庭人」にすることを、家庭教育の最大の目標にしている。
その第一歩が、『夫婦は一枚岩』、ということになる。

++++++++++++++++++

● あなたの子どもは、だいじょうぶ?

あなたの子どもの現実検証能力は、だいじょうぶだろうか。少し、自己診断してみよう。
つぎのような項目に、いくつか当てはまれば、子どもの問題としてではなく、あなたの
問題として、家庭教育のあり方を、かなり謙虚に反省してみるとよい。

( )何度注意しても、そのつど、常識ハズレなことをして、親を困らせる。
( )小遣いでも、その場で、あればあるだけ、使ってしまう。
( )あと先のことを考えないで、行動してしまうようなところがある。
( )いちいち親が指示しないと行動できないようなところがある。指示には従順に従う。
( )何をしでかすか不安なときがあり、子どもから目を離すことができない。

 参考までに、私の持論である、「子育て自由論」を、ここに添付しておく。

++++++++++++++++++

●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。
法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。

釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。
つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、も
ともと「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行
動し、自分で責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは
言わない。子育ての基本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれ
るタイプの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込ん
でくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう
言いなさい」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」
と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を
変えて、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。

ある母親は今の夫といやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつにな
ったら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるい
は自分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、
精神面での過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のも
とだけで子育てをするなど。

子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子ど
もになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がな
い。自分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同
士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り
飛ばしたい衝動にかられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。
警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。た
またまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机
を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、
子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。
(040607)
(はやし浩司 現実検証能力 ボーエン 個人化 三角関係 三角関係化)

+++++++++++++++++

【終わりに……】

 子どもは子どもらしく……とは、よく言う。しかし「子どもらしい」ということと、「幼
児性の持続」は、まったく別の問題である。

 また子どもだからといって、無責任で、無秩序であってよいということではない。どう
か、この点を誤解のないように、してほしい。
(はやし浩司 子供らしさ 幼児性の持続 子供の人格 人格の完成度)

 
Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

(特集)【思春期の子どもの心】□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの心がつかめない(?)

+++++++++++++++++

心がつかめない娘(小6)について、
そのお母さんから、こんな相談があり
ました。

この問題について、考えてみたいと
思います。

+++++++++++++++++

どこからお話ししていいのか分りません。沢山の問題があるように思うのですが・・・。
どうか、少しでも、問題点が整理できればと、こちらのHPに投稿させて頂きました。

事の始まりは、先日娘の担任の先生から電話があったことです。

「実は、P子さん(=私の娘、小6)が、最近、A子さんにひどい言い方をしているようだ。下校
中、上下関係があるように見える」と言われました。それがたいへん、気になりました。

さらに、「実は去年の冬ごろ、ちょっとした事件がありまして」と、聞かされました。

先生の話の内容は、こういうことでした。娘のP子が、B子さんに本を貸したのですが、なかな
か返してくれないので、「返して」と言ったところ、B子さんは、「私は借りていない」と言ったとの
こと。

「確かにB子さんに貸したはず」と娘は言いましたが、しかし別の子から、「あっ、私、借りてる
よ」と、本を渡されました。娘はB子さんに謝り、この件は終了しました。

ところが、その後、B子さんが、「私のペンがない!」と騒ぎ出しました。周りの友人も手伝っ
て、探したところ、それが娘のP子の筆箱の中に、あったというのです。「あっ、そのペン私のじ
ゃない?」と、B子さんが言ったといいます。それを見ていた先生も中に入り、娘に聞くと、「違
う、これはお母さんに買ってもらったもの」と答えたというのです。

先生は「じゃあ、お母さんに聞いてもいいですか?」と、娘のP子に訪ねると、「ダメ」と答えたと
いうのです。

それはおかしいなーと、いうことで、周りからも疑われた。・・・・と、いう事がありました。先生
は、「もう、このことは済んだことなので、いいのですが・・・・。しかしP子さんが、A子さんにひど
く当ることなどを、とても心配しています。おうちでも話しあってみてください」と言いました。

 初耳でした。でも、結果として娘はみんなの前で泥棒にされてしまったのでしょうか。
とにかく、真実を知りたいと、私は、娘に聞いてみました。

まず、A子さんのことですが、娘のP子は、「思い当たることはない、何の事を言っているのか
わからない」と言いました。無意識でも、つまりこちらがその気でなくても、相手が傷ついている
としたら、とっても悲しい事だから、これから気をつけてねなどと、話しました。次にペンの事を
聞いたのですが、その話になるろ、娘は泣きだしてしまいました。

 ・・・・実はこのずっと以前から気になっていたのですが、子どもたちは文房の交換をしている
ようです。「このペンどうしたの? この前買ったペンはどこ行ったの?」と私がP子に聞くと、屈
託なく、「うん、友達が交換してっていうからいいよって」とか言います。

私「え? 何で?」
娘「どうしても欲しいって言うし、交換ならいいかなって。それに断る理由がないから」とのこと。

これもショックでしたが、きちんと「物をもっと大切にして欲しい。簡単に交換しないでほし
い。。。」などなど沢山話しこれからはしないでねと、そのときは、そういう話で終わりました。

 で、本題ですが、「ペンのことだけど、こんなことがあったんだって? そのペンはどうしたもの
なの?」と聞くと、娘はなかなか答えようとしませんでした。そこで(1)持ってきてしまった、(2)
拾った、(3)自分で買った、(4)その他の中のどれ?、と聞くと、やっとの事で、「交換したもの」
と言いました。

「じゃあ何であの時、そういわなかったの?」と聞くと、泣くばかりです。泣いて泣いて、やっと聞
けたのが、「交換しようって言われてしたのに、Bちゃんがどうしてそんな事を言い出したのか
分らなくって」と。

私「あなたは泥棒だと、他の人はそう思うよ、それでもいいの?」
娘「盗んだと思われてもいい。それでも自分の思いは言えない」と。

 最近、大きくなってきて、少し手が離れてきたと思って手を抜いてしまったと、我にかえりまし
た。低学年のころは、毎日のように主人と夜、子どもたちのことについて話し合っていたのも、
最近ではしていない事にも気付かされました。

で、昔からの悩みの種は、娘(相談の娘小6・この下に小3の妹がいます)の、対人関係につい
ての問題です。

私が働いていたため、娘が1歳半のときから保育園へ預けました。教育熱心で有名な保育園
でしたが、右を向きなさいと指示されても、右を向かないような娘でした。そんなわけで、先生
も、娘にかなり手を焼いていたようでした。何度も主人と呼び出されては、「お宅の子は人を見
る」とこんこんと言われました。

人見知りが極端にはげしく、突然話し掛けられたりすると、かたまって口を閉ざしたり、下を見
る、隠れるなどの行為をしました。ですから、極力休日は、家族で一緒にのんびりゆったり、栄
養を蓄えるつもりで、常に皆で横に手をつなぎ、時には後ろに回り背中をなでながら過ごしてい
ました。

小学校の入学時には、「大丈夫、なにも心配要らないよ」と、ぽんっと送り出したりしましたが、
当時は、本当に元気よく通っていました。が、大人に理解されにくい性格は中々変わることもな
く、「こう思ってるんだよ!」などと、口にした事は無いようです。

が、その一方で、娘は、地道に努力するタイプで、昨年、放送委員になったのですが、家で練
習し、運動会やおひつの放送も、物怖じせず、こなしていきました。

一時期、これは、何かの障害なのではないかと、悩みました。が、素人判断も出来ず、なんと
かやっていけていましたので・・・・。

現在も、三者面談などでは体をこわばらせ、手に冷や汗をかいています。落ち着きがなくなり、
なんとか作り笑いをしてみせたりするのですが、それも先生にはふざけているように見えるの
か、あまりよい印象は与えていないようです。

 そのような関係の先生ですが、今回の話し合った結果を、その先生に連絡しました。

私としては、なんとか、先生にだけでも誤解を解きたい。このままでは娘のP子がかわいそうと
の思いで話しました。

先生は「分りました。ペンの事は申すんでしまった事なので、(確かに時がたちすぎている)、今
さら蒸し返すのも何ですのでやめます」と言ってくれました。またペンのことについては、「やは
りあのペンはB子さんのものだったわけだ。でも、B子さんは、交換した気は全く無いですよ」と
のこと。私は「また相談にのって頂きたいので、よろしくお願いします」と言えただけです。

先生は、本当に娘のことを心配しているのか不安になりました。なぜ先生は、娘の側を少しで
も見ようとしてくれないのでしょうか。私は常に平等を心がけ、こちらが悪いのでは、と思いなが
ら話を聞くようにしているのですが。。。

長々とすみません。娘から話しを聞いて、娘には、「お母さんは、あなたを信じている。本当に
信じている。世界で一番の味方だから」「分った、お母さんが守ってあげる。心配しないで。で
も、努力しようね」と、言いました。

A子さんには本当に申し訳ない事をしたと思っています。とてもおとなしい子です。B子さんは、
大人うけする、ハツラツとしたとても気持ちのいい子です。クラスのリーダー的存在。親友の子
と喧嘩をした時だけ、娘に愚痴を言いにくるようです。

私は今、娘に何をしたらいいのか。先生に何を言ったらいいのか。主人とも話し合っています
が、行き詰まってしまっています。

本当に長くなって申し訳ありません。毎晩、この問題を考えていると、眠れません。アドバイスを
お願いします。
(大阪府、KR子、P子の母親より)

【はやし浩司より、P子さんのお母さんへ】

 メール、ありがとうございました。

 まず、最初に、一言。

 この種の問題は、たいへんありふれた問題です。はっきり言えば、何でもない問題です。

 まず、A子さんについてですが、A子さんは、P子さんに、いじめられていると訴えただけのこ
とです。ただP子さんには、その意識はなかった。つまり(いじめている)という意識がないまま、
結果として、いじめているという雰囲気になってしまった。それだけのことですが、これも(いじ
め)の問題では、よくあることです。

 B子さんとの本のトラブルについては、P子さんが、ウソを言っているだけのことです。何でも
ない、つまりは、子どもの世界では、よくあるウソです。一応たしなめながらも、おおげさに考え
る必要は、まったくありません。

 思春期の子どもは、自立を始めるとき、それまでになかったさまざまな変化を見せるようにな
ります。フロイトの説によれば、イド(心の根源部にある、欲望のかたまり)の活動が活発にな
り、ときとして、子どもは欲望のおもむくまま、行動するようになります。

 ウソ、盗みなどが、その代表的なものです。万引きもします。性への関心、興味も、当然、高
まってきます。しかしそういう形で、つまり親や社会に対して抵抗することで、子どもは、親から
自立しようとします。

 ですから、ここに書いたように、一応はたしなめながらも、それですませます。あなたのよう
に、子どもを追いつめてはいけません。これはP子さんの問題というよりは、完ぺき主義(?)
のあなたのほうに問題があるのではないかと思います。

それともあなたは、子どものころ、あなたの親に対して、ウソをついたことはないとでも言うので
しょうか? ものを盗んだことはないとでも言うのでしょうか? 親の目の届かないところで、男
の人と遊んだことはないとでも言うのでしょうか? もしそうなら、あなたは修道女? (失礼!)

 もしP子さんに問題があるとするなら、乳幼児期に、母子の間で、しっかりとした信頼関係が
結べなかったという点です。母子の間でできる信頼関係を、心理学の世界では、「基本的信頼
関係」といい、それが結べなかった状態を、「基本的不信関係」といいます。

 この信頼関係が基本となって、その後、先生との関係、友人関係、異性関係へと発展してい
きます。

 そのころの(不具合)が、今、P子さんの対人関係に、影響を与えているものと思われます。
が、しかしそれは遠い過去の話。今さら、どうしようもない問題です。

 ですから今は、「うちの子は、人間関係を結ぶのが苦手だ」「他人に心を開くのが苦手だ」「外
では無理をして、いい子ぶる」「自分の心の中を、さらけ出すことができない」と、割り切ることで
す。だれでも、ひとつやふたつ、そういう弱点があって、当たり前です。

 大切なことは、そういう子どもであることを、認めてあげることです。認めた上で、P子さんを
理解してあげることです。「なおそう」とか、そういうふうに、考えてはいけません。(どの道、今さ
ら、手遅れですから……。)

 あとはP子さん自身の問題です。もしP子さんが、もう少しおとなになり、人間関係の問題で悩
むようなことがあったら、ぜひ、私のHPを見るように勧めてあげてください。あるいはマガジン
の購読を勧めてあげてください。無料です。同じような問題は、そのつどテーマとして、マガジン
でもよく取りあげていますので、参考になると思います。

 で、今、あなたの目は、P子さんのほうに向きすぎています。そんな感じがします。しかも、P
子さんへの不信感ばかり……! 心配先行型の子育てが、いまだにつづいているといった感
じです。

 ですからあなたはあなたで、もう少し、外に向かって目を向けられたらどうでしょうか? 多
分、あなたはP子さんにとっては、うるさい、いやな母親と映っているはずです。たかがペンぐら
いの問題で、親からここまで追及されたら、私なら、机ごと、親に向かって投げつけるだろうと
思います。ホント! 今では、ペンといっても、いろいろありますが、100円ショップで、3〜5本
も買える時代です。

 いわんや子どもが泣きだすほどまで、子どもを追いつめてはいけません。またこの問題は、
そういう問題ではないのです。

 さらに学校の先生も、それほど、おおげさには考えていないはずです。先にも書きましたが、
こうした問題は、まさに日常茶飯事。ですから、先生がP子さんのことを悪く思っているとか、娘
が誤解されてかわいそうとか、先生が親側に立ってものを考えてくれないとか、そういうふうに
考えてはいけません。

 またP子さんに向かって、「信じている」とか何とか、そんなおおげさな言葉を使ってはいけま
せん。また使うような場面ではありません。繰りかえしますが、たかがペン1本の問題です。わ
かりやすく言えば、P子さんが、B子さんのペンを盗んで、自分の筆箱に入れた。それだけのこ
とです。

 多少の虚言癖はあるようですが、それもこの時期の子どもには、よくあることです。(もちろん
病的な虚言癖、作話、妄想的虚言などは、区別して考えますが……。)

 あなたにも、それがわかっているはず。わかっていながら、P子さんを追いつめ、P子さんの
口からそれを聞くまで、納得しない。つまりは、あなたは、完ぺき主義の母親ということになりま
す。

 P子さんは、いい子ですよ。放送委員の一件を見ただけでも、それがわかるはず。そういうP
子さんのよい面を、どうしてもっとすなおに、あなたは見ないのですか。あなたが今すべきこと
は、そういうP子さんのよい面だけを見て、あなたはあなたで、前を見ながら、前に進む。今
は、それでよいと思います。つまりは、それが(信ずる)ということです。言葉の問題ではありま
せん。

 またこうした問題には、必ず、二番底、三番底があります。あなたはP子さんの今の状態を最
悪と思うかもしれませんが、しかし、対処のし方をまちがえると、P子さんは、その二番底、三番
底へと落ちていきますよ! これは警告です。

 反対の立場で考えてみてください。私なら、家を出ますよ。息が詰まりますから……。P子さん
が、家を出るようになったら、あなたは、どうしますか。外泊をするようになったら、どうします
か。

 ですから今は、「今以上に、状態を悪くしないことだけを考えなら、様子をみる」です。

 だれしも、失敗をします。人をキズつけたり、あるいは反対に人にキズつけられながら、その
中で、ドラマを展開します。悩んだり、苦しんだり……。そのドラマにこそ、意味があるのです。
子どもについて言えば、そのドラマが、子どもをたくましくします。

 P子さんは、たしかにいやな思いをしたかもしれませんが、それはP子さんの問題。親のあな
たが、割って出るような問題ではないのです。親としてはつらいところですが、もうそろそろ、あ
なた自身も、子離れをし、P子さんには、親離れをするよう、し向けることこそ、大切です。

 とても、ひどいことを言うようですが、私はあなたの相談の中に、子離れできない、どこか未
熟な親の姿を感じてしまいました。あなたはそれでよいとしても、P子さんが、かわいそうです。

 で、たまたま昨夜、『RAY』というビデオを見ました。レイ・チャールズの生涯をつづったビデオ
です。あのビデオの中で、ところどころ、レイ・チャールズの母親が出てきますが、今のあなた
に求められる母親像というのは、ひょっとしたら、レイ・チャールズの母親のような母親像では
ないでしょうか。

 最後に、もう一言。

 こんな問題は、何でもありませんよ! 本当によくある問題です。ですから、「A子さんに申し
訳ない」とか、B子さんがどうとか、そんなふうに考えてはいけません。今ごろは、A子さんも、B
子さんも、学校の先生も、何とも思っていませんよ。

 あなた自身が、心のクサリをほどいて、自分のしたいことをしたらよいのです。心を開いて!
 体は、あとからついてきますよ!

 すばらしい季節です。おしいものでも食べて、あとは、忘れましょう! 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの虚言 子供の虚言 盗み)

+++++++++++++++

いくつか、今までに書いた
原稿を添付しておきます。

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【信頼関係】

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではな
い。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対
にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、答え
てあげること。こうした一貫性をとおして、子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことが
できる。その安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的
信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これ
を第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、友だちとの
世界。これを第三世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用していくこ
とができる。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、第三世界での
信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基
本となる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情
緒不安。親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子ども
は、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。こ
れを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で
現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状な
どは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、良好な人間関
係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」
というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出しても、気に
しない」環境をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということにな
る。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。

● 「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
● 子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接す
る。
● きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるという
のは、避ける。
(030422)
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 信頼
関係 親子関係 親子の信頼関係 基本的信頼関係 不信関係 一貫性)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

【感情の発達】

 乳児でも、不快、恐怖、不安を感ずる。これらを、基本感情というなら、年齢とともに発達す
る、怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの感情は、より人間的な感情ということになる。これらの感
情は、さらに、自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情へと発展していく。

 年齢的には、私は、以下のように区分している。

(基本感情)〇歳〜一歳前後……不快、恐怖、不安を中心とする、基本感情の形成期。

(人間的感情形成期)一歳前後〜二歳前後……怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの人間的な感
情の形成期。

(複雑感情形成期)二歳前後〜五歳前後……自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情など
の、複雑な感情の形成期。

 子どもは未熟で未経験だが、決して幼稚ではない。これには、こんな経験がある。

 年長児のUさん(女児)は静かな子どもだった。教室でもほとんど、発言しなかった。しかしそ
の日は違っていた。皆より先に、「はい、はい」と手をあげた。その日は、母親が仕事を休ん
で、授業を参観にきていた。

 私は少しおおげさに、Uさんをほめた。すると、である。Uさんが、スーッと涙をこぼしたのであ
る。私はてっきりうれし泣きだろうと思った。しかしそれにしても、大げさである。そこで授業が
終わってから、私はUさんに聞いた。「どうして泣いたの?」と。すると、Uさんは、こう言った。
「私がほめたれた。お母さんが喜んでいると思ったら、自然と涙が出てきちゃった」と。Uさん
は、母親の気持ちになって、涙を流していたのだ。

 この事件があってからというもの、私は、幼児に対する見方を変えた。

 で、ここで注意してほしいのは、人間としての一般的な感情は、満五歳前後には、完成すると
いうこと。子どもといっても、今のあなたと同じ感情をもっている。このことは反対の立場で考え
てみればわかる。

 あなたという「人」の感情を、どんどん掘りさげていってもてほしい。あなたがもつ感情は、い
つごろ形成されただろうか。高校生や中学生になってからだろうか。いや、違う。では、小学生
だろうか。いや、違う。あなたは「私」を意識するようになったときから、すでに今の感情をもって
いたことに気づく。つまりその年齢は、ここにあげた、満五歳前後ということになる。

 ところで私は、N放送(公営放送)の「お母さんとXXXX」という番組を、かいま見るたびに、す
ぐチャンネルをかえる。不愉快だから、だ。ああした番組では、子どもを、まるで子どもあつか
いしている。一人の人間として、見ていない。ただ一方的に、見るのもつらいような踊りをさせて
みたりしている。あるいは「子どもなら、こういうものに喜ぶはず」という、おとなの傲慢(ごうま
ん)さばかりが目立つ。ときどき「子どもをバカにするな」と思ってしまう。

 話はそれたが、子どもの感情は、満五歳をもって、おとなのそれと同じと考える。またそういう
前提で、子どもと接する。決して、幼稚あつかいしてはいけない。私はときどき年長児たちにこ
う言う。

「君たちは、幼稚、幼稚って言われるけど、バカにされていると思わないか?」と。すると子ども
たちは、こう言う。「うん、そう思う」と。幼児だって、「幼稚」という言葉を嫌っている。もうそろそ
ろ、「幼稚」という言葉を、廃語にする時期にきているのではないだろうか。「幼稚園」ではなく、
「幼児園」にするとか。もっと端的に、「基礎園」でもよい。あるいは英語式に、「プレスクール」で
もよい。しかし「幼稚園」は、……?
(030422)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 基本
感情 人間的感情形成 感情形成期)

Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

【不安なあなたへ】

 埼玉県に住む、一人の母親(ASさん)から、「子育てが不安でならない」というメールをもらっ
た。「うちの子(小三男児)今、よくない友だちばかりと遊んでいる。何とか引き離したいと思い、
サッカークラブに入れたが、そのクラブにも、またその友だちが、いっしょについてきそうな雰囲
気。『入らないで』とも言えないし、何かにつけて、不安でなりません」と。

 子育てに、不安はつきもの。だから、不安になって当たり前。不安でない人など、まずいな
い。が、大切なことは、その不安から逃げないこと。不安は不安として、受け入れてしまう。不
安だったら、大いに不安だと思えばよい。わかりやすく言えば、不安は逃げるものではなく、乗
り越えるもの。あるいはそれとじょうずにつきあう。それを繰りかえしているうちに、心に免疫性
ができてくる。私が最近、経験したことを書く。

 横浜に住む、三男が、自動車で、浜松までやってくるという。自動車といっても、軽自動車。
私は「よしなさい」と言ったが、三男は、「だいじょうぶ」と。で、その日は朝から、心配でならなか
った。たまたま小雨が降っていたので、「スリップしなければいいが」とか、「事故を起こさなけ
ればいいが」と思った。

 そういうときというのは、何かにつけて、ものごとを悪いほうにばかり考える。で、ときどき仕事
先から自宅に電話をして、ワイフに、「帰ってきたか?」と聞く。そのつど、ワイフは、「まだよ」と
言う。もう、とっくの昔に着いていてよい時刻である。そう考えたとたん、ザワザワとした胸騒
ぎ。「車なら、三時間で着く。軽だから、やや遅いとしても、四時間か五時間。途中で食事をして
も、六時間……」と。

 三男は携帯電話をもっているので、その携帯電話に電話しようかとも考えたが、しかし高速
道路を走っている息子に、電話するわけにもいかない。何とも言えない不安。時間だけが、ジ
リジリと過ぎる。

 で、夕方、もうほとんど真っ暗になったころ、ワイフから電話があった。「E(三男)が、今、着い
たよ」と。朝方、出発して、何と、一〇時間もかかった! そこで聞くと、「昼ごろ浜松に着いた
けど、友だちの家に寄ってきた」と。三男は昔から、そういう子どもである。そこで「あぶなくなか
ったか?」と聞くと、「先月は、友だちの車で、北海道を一周してきたから」と。北海度! 一
周! ギョッ!

 ……というようなことがあってから、私は、もう三男のドライブには、心配しなくなった。「勝手
にしろ」という気持ちになった。で、今では、ほとんど毎月のように、三男は、横浜と浜松の間
を、行ったり来たりしている。三男にしてみれば、横浜と浜松の間を往復するのは、私たちがそ
こらのスーパーに買い物に行くようなものなのだろう。今では、「何時に出る」とか、「何時に着
く」とか、いちいち聞くこともなくなった。もちろん、そのことで、不安になることもない。

 不安になることが悪いのではない。だれしも未知で未経験の世界に入れば、不安になる。こ
の埼玉県の母親のケースで考えてみよう。

 その母親は、こう訴えている。

● 親から見て、よくない友だちと遊んでいる。
● 何とか、その友だちから、自分の子どもを離したい。
● しかしその友だちとは、仲がよい。
● そこで別の世界、つまりサッカークラブに自分の子どもを入れることにした。
● が、その友だちも、サッカークラブに入りそうな雰囲気になってきた。
● そうなれば、サッカークラブに入っても、意味がなくなる。

小学三年といえば、そろそろ親離れする時期でもある。この時期、「○○君と遊んではダメ」と
言うことは、子どもに向かって、「親を取るか、友だちを取るか」の、択一を迫るようなもの。子
どもが親を取ればよし。そうでなければ、親子の間に、大きなキレツを入れることになる。そん
なわけで、親が、子どもの友人関係に干渉したり、割って入るようなことは、慎重にしたらよい。

 その上での話しだが、この相談のケースで気になるのは、親の不安が、そのまま過関心、過
干渉になっているということ。ふつう親は、子どもの学習面で、過関心、過干渉になりやすい。
子どもが病弱であったりすると、健康面で過関心、過干渉になることもある。で、この母親のば
あいは、それが友人関係に向いた。

 こういうケースでは、まず親が、子どもに、何を望んでいるかを明確にする。子どもにどうあっ
てほしいのか、どうしてほしいのかを明確にする。その母親は、こうも書いている。「いつも私の
子どもは、子分的で、命令ばかりされているようだ。このままでは、うちの子は、ダメになってし
まうのでは……」と。

 親としては、リーダー格であってほしいということか。が、ここで誤解してはいけないことは、
今、子分的であるのは、あくまでも結果でしかないということ。子どもが、服従的になるのは、そ
もそも服従的になるように、育てられていることが原因と考えてよい。決してその友だちによっ
て、服従的になったのではない。それに服従的であるというのは、親から見れば、もの足りない
ことかもしれないが、当の本人にとっては、たいへん居心地のよい世界なのである。つまり子ど
も自身は、それを楽しんでいる。

 そういう状態のとき、その友だちから引き離そうとして、「あの子とは遊んではダメ」式の指示
を与えても意味はない。ないばかりか、強引に引き離そうとすると、子どもは、親の姿勢に反発
するようになる。(また反発するほうが、好ましい。)

 ……と、ずいぶんと回り道をしたが、さて本題。子育てで親が不安になるのは、しかたないと
しても、その不安感を、子どもにぶつけてはいけない。これは子育ての大鉄則。親にも、できる
ことと、できないことがある。またしてよいことと、していけないことがある。そのあたりを、じょう
ずに区別できる親が賢い親ということになるし、それができない親は、そうでないということにな
る。では、どう考えたらよいのか。いくつか、思いついたままを書いてみる。

●ふつうこそ、最善

 朝起きると、そこに子どもがいる。いつもの朝だ。夫は夫で勝手なことをしている。私は私で
勝手なことをしている。そして子どもは子どもで勝手なことをしている。そういう何でもない、ごく
ふつうの家庭に、実は、真の喜びが隠されている。

 賢明な人は、そのふつうの価値を、なくす前に気づく。そうでない人は、なくしてから気づく。健
康しかり、若い時代しかり。そして子どものよさ、またしかり。

 自分の子どもが「ふつうの子」であったら、そのふつうであることを、喜ぶ。感謝する。だれに
感謝するというものではないが、とにかく感謝する。

●ものには二面性

 どんなものにも、二面性がある。見方によって、よくも見え、また悪くも見える。とくに「人間」は
そうで、相手がよく見えたり、悪く見えたりするのは、要するに、それはこちら側の問題というこ
とになる。こちら側の心のもち方、一つで決まる。イギリスの格言にも、『相手はあなたが相手
を思うように、あなたを思う』というのがある。心理学でも、これを「好意の返報性」という。

 基本的には、この世界には、悪い人はいない。いわんや、子どもを、や。一見、悪く見えるの
は、子どもが悪いのではなく、むしろそう見える、こちら側に問題があるということ。価値観の限
定(自分のもっている価値観が最善と決めてかかる)、価値観の押しつけ(他人もそうでなけれ
ばならないと思う)など。

 ある母親は、長い間、息子(二一歳)の引きこもりに悩んでいた。もっとも、その引きこもり
が、三年近くもつづいたので、そのうち、その母親は、自分の子どもが引きこもっていることす
ら、忘れてしまった。だから「悩んだ」というのは、正しくないかもしれない。

 しかしその息子は、二五歳くらいになったときから、少しずつ、外の世界へ出るようになった。
が、実はそのとき、その息子を、外の世界へ誘ってくれたのは、小学時代の「ワルガキ仲間」
だったという。週に二、三度、その息子の部屋へやってきては、いろいろな遊びを教えたらし
い。いっしょにドライブにも行った。その母親はこう言う。「子どものころは、あんな子と遊んでほ
しくないと思いましたが、そう思っていた私がまちがっていました」と。

 一つの方向から見ると問題のある子どもでも、別の方向から見ると、まったく別の子どもに見
えることは、よくある。自分の子どもにせよ、相手の子どもにせよ、何か問題が起き、その問題
が袋小路に入ったら、そういうときは、思い切って、視点を変えてみる。とたん、問題が解決す
るのみならず、その子どもがすばらしい子どもに見えてくる。

●自然体で

 とくに子どもの世界では、今、子どもがそうであることには、それなりの理由があるとみてよ
い。またそれだけの必然性があるということ。どんなに、おかしく見えるようなことでも、だ。たと
えば指しゃぶりにしても、一見、ムダに見える行為かもしれないが、子ども自身は、指しゃぶり
をしながら、自分の情緒を安定させている。

 そういう意味では、子どもの行動には、ムダがない。ちょうど自然界に、ムダなものがないの
と同じようにである。そのためおとなの考えだけで、ムダと判断し、それを命令したり、禁止した
りしてはいけない。

 この相談のケースでも、「よくない友だち」と親は思うかもしれないが、子ども自身は、そういう
友だちとの交際を求めている。楽しんでいる。もちろんその子どものまわりには、あくまでも親
の目から見ての話だが、「好ましい友だち」もいるかもしれない。しかし、そういう友だちを、子
ども自身は、求めていない。居心地が、かえって悪いからだ。

 子どもは子ども自身の「流れ」の中で、自分の世界を形づくっていく。今のあなたがそうである
ように、子ども自身も、今の子どもを形づくっていく。それは大きな流れのようなもので、たとえ
親でも、その流れに対しては、無力でしかない。もしそれがわからなければ、あなた自身のこと
で考えてみればよい。

 もしあなたの親が、「○○さんとは、つきあってはだめ」「△△さんと、つきあいなさい」と、いち
いち言ってきたら、あなたはそれに従うだろうか。……あるいはあなたが子どものころ、あなた
はそれに従っただろうか。答は、ノーのはずである。

●自分の価値観を疑う

 常に親は、子どもの前では、謙虚でなければならない。が、悪玉親意識の強い親、権威主義
の親、さらには、子どもをモノとか財産のように思う、モノ意識の強い親ほど、子育てが、どこか
押しつけ的になる。

 「悪玉親意識」というのは、つまりは親風を吹かすこと。「私は親だ」という意識ばかりが強く、
このタイプの親は、子どもに向かっては、「産んでやった」「育ててやった」と恩を着せやすい。
何か子どもが口答えしたりすると、「何よ、親に向かって!」と言いやすい。

 権威主義というのは、「親は絶対」と、親自身が思っていることをいう。

 またモノ意識の強い人とは、独特の話しかたをする。結婚して横浜に住んでいる息子(三〇
歳)について、こう言った母親(五〇歳)がいた。「息子は、嫁に取られてしまいました。親なんて
さみしいもんですわ」と。その母親は、息子が、結婚して、横浜に住んでいることを、「嫁に取ら
れた」というのだ。

 子どもには、子どもの世界がある。その世界に、謙虚な親を、賢い親という。つまりは、子ど
もを、どこまで一人の対等な人間として認めるかという、その度量の深さの問題ということにな
る。あなたの子どもは、あなたから生まれるが、決して、あなたの奴隷でも、モノでもない。「親
子」というワクを超えた、一人の人間である。

●価値観の衝突に注意

 子育てでこわいのは、親の価値観の押しつけ。その価値観には、宗教性がある。だから親子
でも、価値観が対立すると、その関係は、決定的なほどまでに、破壊される。私もそれまでは
母を疑ったことはなかった。しかし私が「幼児教育の道を進む」と、はじめて母に話したとき、母
は、電話口の向こうで、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」と泣き崩れてしまった。私が二三
歳のときだった。

 しかしそれは母の価値観でしかなかった。母にとっての「ふつうの人生」とは、よい大学を出
て、よい会社に入社して……という人生だった。しかし私は、母のその一言で、絶望の底にた
たき落とされてしまった。そのあと、私は、一〇年ほど、高校や大学の同窓会でも、自分の職
業をみなに、話すことができなかった。

●生きる源流に 

 子育てで行きづまりを感じたら、生きる源流に視点を置く。「私は生きている」「子どもは生き
ている」と。そういう視点から見ると、すべての問題は解決する。

 若い父親や母親に、こんなことを言ってもわかってもらえそうにないが、しかしこれは事実で
ある。「生きている源流」から、子どもの世界を見ると、よい高校とか、大学とか、さらにはよい
仕事というのが、実にささいなことに思えてくる。それはゲームの世界に似ている。「うちの子
は、おかげで、S高校に入りました」と喜んでいる親は、ちょうどゲームをしながら、「エメラルド
タウンで、一〇〇〇点、ゲット!」と叫んでいる子どものようなもの。あるいは、どこがどう違うの
というのか。(だからといって、それがムダといっているのではない。そういうドラマに人生のお
もしろさがある。)

 私たちはもっと、すなおに、そして正直に、「生きていること」そのものを、喜んだらよい。また
そこを原点にして考えたらよい。今、親であるあなたも、五、六〇年先には、この世界から消え
てなくなる。子どもだって、一〇〇年先には消えてなくなる。そういう人間どうしが、今、いっしょ
に、ここに生きている。そのすばらしさを実感したとき、あなたは子育てにまつわる、あらゆる
問題から、解放される。

●子どもを信ずる

 子どもを信ずることができない親は、それだけわがままな親と考えてよい。が、それだけでは
すまない。親の不信感は、さまざまな形で、子どもの心を卑屈にする。理由がある。

 「私はすばらしい子どもだ」「私は伸びている」という自信が、子どもを前向きに伸ばす。しかし
その子どものすぐそばにいて、子どもの支えにならなければならない親が、「あなたはダメな子
だ」「心配な子だ」と言いつづけたら、その子どもは、どうなるだろうか。子どもは自己不信か
ら、自我(私は私だという自己意識)の形成そのものさえできなくなってしまう。へたをすれば、
一生、ナヨナヨとしたハキのない人間になってしまう。

【ASさんへ】

メール、ありがとうございました。全体の雰囲気からして、つまりいただいたメールの内容は別
として、私が感じたことは、まず疑うべきは、あなたの基本的不信関係と、不安の根底にある、
「わだかまり」ではないかということです。

 ひょっとしたら、あなたは子どもを信じていないのではないかということです。どこか心配先行
型、不安先行型の子育てをなさっておられるように思います。そしてその原因は何かといえ
ば、子どもの出産、さらにはそこにいたるまでの結婚について、おおきな「わだかまり」があった
ことが考えられます。あるいはその原因は、さらに、あなた自身の幼児期、少女期にあるので
はないかと思われます。

 こう書くと、あなたにとってはたいへんショックかもしれませんが、あえて言います。あなた自
身が、ひょっとしたら、あなたが子どものころ、あなたの親から信頼されていなかった可能性が
あります。つまりあなた自身が、(とくに母親との関係で)、基本的信頼関係を結ぶことができな
かったことが考えられるということです。

 いうまでもなく基本的信頼関係は、(さらけ出し)→(絶対的な安心感)というステップを経て、
形成されます。子どもの側からみて、「どんなことを言っても、またしても許される」という絶対的
な安心感が、子どもの心をはぐくみます。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味
です。

 これは一般論ですが、母子の間で、基本的信頼関係の形成に失敗した子どもは、そのあと、
園や学校の先生との信頼関係、さらには友人との信頼関係を、うまく結べなくなります。どこか
いい子ぶったり、無理をしたりするようになったりします。自分をさらけ出すことができないから
です。

さらに、結婚してからも、夫や妻との信頼関係、うまく結べなくなることもあります。自分の子ど
もすら、信ずることができなくなることも珍しくありません。(だから心理学では、あらゆる信頼関
係の基本になるという意味で、「基本的」という言葉を使います。)具体的には、夫や子どもに
対して疑い深くなったり、その分、心配過剰になったり、基底不安を感じたりしやすくなります。
子どもへの不信感も、その一つというわけです。

 あくまでもこれは一つの可能性としての話ですが、あなた自身が、「心(精神的)」という意味
で、それほど恵まれた環境で育てられなかったということが考えられます。経済的にどうこうと
いうのではありません。「心」という意味で、です。あなたは子どものころ、親に対して、全幅に
心を開いていましたか。あるいは開くことができましたか。もしそうなら、「恵まれた環境」という
ことになります。そうでなければ、そうでない。

 しかしだからといって、過去をうらんではいけません。だれしも、多かれ少なかれ、こうした問
題をかかえているものです。そういう意味では、日本は、まだまだ後進国というか、こと子育て
については黎明(れいめい)期の国ということになります。

 では、どうするかですが、この問題だけは、まず冷静に自分を見つめるところから、始めま
す。自分自身に気づくということです。ジークムント・フロイトの精神分析も、同じような手法を用
います。まず、自分の心の中をのぞくということです。わかりやすく言えば、自分の中の過去を
知るということです。まずいのは、そういう過去があるということではなく、そういう過去に気づか
ないまま、その過去に振りまわされることです。そして結果として、自分でもどうしてそういうこと
をするのかわからないまま、同じ失敗を繰りかえすことです。

 しかしそれに気づけば、この問題は、何でもありません。そのあと少し時間はかかりますが、
やがて問題は解決します。解決しないまでも、じょうずにつきあえるようになります。

 さらに具体的に考えてみましょう。

 あなたは多分、子どもを妊娠したときから、不安だったのではないでしょうか。あるいはさら
に、結婚したときから、不安だったのではないでしょうか。さらに、少女期から青年期にかけて、
不安だったのではないでしょうか。おとなになることについて、です。

 こういう不安感を、「基底不安」と言います。あらゆる日常的な場面が、不安の上に成りたっ
ているという意味です。一見、子育てだけの問題に見えますが、「根」は、ひょっとしたら、あな
たが考えているより、深いということです。

 そこで相手の子どもについて考えてみます。あなたが相手の子どもを嫌っているのは、本当
にあなたの子どものためだけでしょうか。ひょっとしたら、あなた自身がその子どもを嫌ってい
るのではないでしょうか。つまりあなたの目から見た、好き・嫌いで、相手の子どもを判断して
いるのではないかということです。

 このとき注意しなければならないのは、(1)許容の範囲と、(2)好意の返報性の二つです。

 (1)許容の範囲というのは、(好き・嫌い)の範囲のことをいいます。この範囲が狭ければせ
まいほど、好きな人が減り、一方、嫌いな人がふえるということになります。これは私の経験で
すが、私の立場では、この許容の範囲が、ふつうの人以上に、広くなければなりません。(当然
ですが……。)子どもを生徒としてみたとき、いちいち好き、嫌いと言っていたのでは、仕事そ
のものが成りたたなくなります。ですから原則としては、初対面のときから、その子どもを好き
になります。
 
 といっても、こうした能力は、いつの間にか、自然に身についたものです。が、しかしこれだけ
は言えます。嫌わなければならないような悪い子どもは、いないということです。とくに幼児につ
いては、そうです。私は、そういう子どもに出会ったことがありません。ですからASさんも、一
度、その相手の子どもが、本当にあなたの子どもにとって、ふさわしくない子どもかどうか、一
度、冷静に判断してみたらどうでしょうか。しかしその前にもう一つ大切なことは、あなたの子ど
も自身は、どうかということです。

 子どもの世界にかぎらず、およそ人間がつくる関係は、なるべくしてなるもの。なるようにしか
ならない。それはちょうど、風が吹いて、その風が、あちこちで吹きだまりを作るようなもので
す。(吹きだまりというのも、失礼な言い方かもしれませんが……。)今の関係が、今の関係と
いうわけです。

 だからあなたからみて、あなたの子どもが、好ましくない友だちとつきあっているとしても、そ
れはあなたの子ども自身が、なるべくしてそうなったと考えます。親としてある程度は干渉でき
ても、それはあくまでも「ある程度」。これから先、同じようなことは、繰りかえし起きてきます。
たとえば最終的には、あなたの子どもの結婚相手を選ぶようなとき、など。

 しかし問題は、子どもがどんな友だちを選ぶかではなく、あなたがそれを受け入れるかどうか
ということです。いくらあなたが気に入らないからといっても、あなたにはそれに反対する権利
はありません。たとえ親でも、です。同じように、あなたの子どもが、どんな友だちを選んだとし
ても、またどんな夫や妻を選んだとしても、それは子どもの問題ということです。

 しかしご心配なく。あなたが子どもを信じているかぎり、あなたの子どもは自分で考え、判断し
て、あなたからみて好ましい友だちを、自ら選んでいきます。だから今は、信ずるのです。「うち
の子は、すばらしい子どもだ。ふさわしくない子どもとは、つきあうはずはない」と考えのです。

 そこで出てくるのが、(2)好意の返報性です。あなたが相手の子どもを、よい子と思っている
と、相手の子どもも、あなたのことをよい人だと思うもの。しかしあなたが悪い子どもだと思って
いると、相手の子どもも、あなたのことを悪い人だと思っているもの。そしてあなたの前で、自
分の悪い部分だけを見せるようになります。そして結果として、たいがいの人間関係は、ますま
す悪くなっていきます。

 話はぐんと先のことになりますが、今、嫁と姑(しゅうとめ)の間で、壮絶な家庭内バトルを繰り
かえしている人は、いくらでもいます。私の近辺でも、いくつか起きています。こうした例をみて
みてわかることは、その関係は、最初の、第一印象で決まるということです。とくに、姑が嫁に
もつ、第一印象が重要です。

 最初に、その女性を、「よい嫁だ」と姑が思い、「息子はいい嫁さんと結婚した」と思うと、何か
につけて、あとはうまくいきます。よい嫁と思われた嫁は、その期待に答えようと、ますますよい
嫁になっていきます。そして姑は、ますますよい嫁だと思うようになる。こうした相乗効果が、た
がいの人間関係をよくしていきます。

 そこで相手の子どもですが、あなたは、その子どもを「悪い子」と決めてかかっていません
か。もしそうなら、それはその子どもの問題というよりは、あなた自身の問題ということになりま
す。「悪い子」と思えば思うほど、悪い面ばかりが気になります。そしてあなたは悪くない面ま
で、必要以上に悪く見てしまいます。それだけではありません。その子どもは、あえて自分の悪
い面だけを、あなたに見せようとします。子どもというのは、不思議なもので、自分をよい子だと
信じてくれる人の前では、自分のよい面だけを見せようとします。

 あなたから見れば、何かと納得がいかないことも多いでしょうが、しかしこんなことも言えま
す。一般論として、少年少女期に、サブカルチャ(非行などの下位文化)を経験しておくことは、
それほど悪いことではないということです。あとあと常識豊かな人間になることが知られていま
す。ですから子どもを、ある程度、俗世間にさらすことも、必要といえば必要なのです。むしろま
ずいのは、無菌状態のまま、おとなにすることです。子どものときは、優等生で終わるかもしれ
ませんが、おとなになったとき、社会に同化できず、さまざまな問題を引き起こすようになりま
す。

 もうすでにSAさんは、親としてやるべきことをじゅうぶんしておられます。ですからこれからの
ことは、子どもの選択に任すしか、ありません。これから先、同じようなことは、何度も起きてき
ます。今が、その第一歩と考えてください。思うようにならないのが子ども。そして子育て。そう
いう前提で考えることです。あなたが設計図を描き、その設計図に子どもをあてはめようとすれ
ばするほど、あなたの子どもは、ますますあなたの設計図から離れていきます。そして「まだ前
の友だちのほうがよかった……」というようなことを繰りかえしながら、もっとひどい(?)友だち
とつきあうようになります。

 今が最悪ではなく、もっと最悪があるということです。私はこれを、「二番底」とか「三番底」と
か呼んでいます。ですから私があなたなら、こうします。

(1) 相手の子どもを、あなたの子どもの前で、積極的にほめます。「あの子は、おもしろい子
ね」「あの子のこと、好きよ」と。そして「あの子に、このお菓子をもっていってあげてね。きっと
喜ぶわよ」と。こうしてあなたの子どもを介して、相手の子どもをコントロールします。

(2) あなたの子どもを信じます。「あなたの選んだ友だちだから、いい子に決まっているわ」
「あなたのことだから、おかしな友だちはいないわ」「お母さん、うれしいわ」と。これから先、子
どもはあなたの見えないところでも、友だちをつくります。そういうとき子どもは、あなたの信頼
をどこかで感ずることによって、自分の行動にブレーキをかけるようになります。「親の信頼を
裏切りたくない」という思いが、行動を自制するということです。

(3) 「まあ、うちの子は、こんなもの」と、あきらめます。子どもの世界には、『あきらめは、悟り
の境地』という、大鉄則があります。あきらめることを恐れてはいけません。子どもというのは不
思議なもので、親ががんばればがんばるほど、表情が暗くなります。伸びも、そこで止まりま
す。しかし親があきらめたとたん、表情も明るくなり、伸び始めます。「まだ何とかなる」「こんな
はずではない」と、もしあなたが思っているなら、「このあたりが限界」「まあ、うちの子はうちの
子なりに、よくがんばっているほうだ」と思いなおすようにします。

 以上ですが、参考になったでしょうか。ストレートに書いたため、お気にさわったところもある
かもしれませんが、もしそうなら、どうかお許しください。ここに書いたことについて、また何か、
わからないところがあれば、メールをください。今日は、これで失礼します。
(030516)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 さらけ
出し 子育て不安 育児ノイローゼ)


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

(特集)【子どもの言葉】□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「先生は、S? それともM?」

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中学生のSさんが、突然、私にこう
聞いた。

「先生、先生は、S? それとも
M?」と。

ギョッとした。が、そこはとぼけて、
「服はみんな、Mサイズだよ。下着は
Sかな?」と。

するとSさんは、「そうじゃないわよ。
先生は、サド? それともマゾ?」と。

+++++++++++++++++

 学生言葉というのがある。学生しか通じない言葉である。あとで以前、それについて書
いた原稿を添付しておくが、今度は、「SとM」。

 そこでSさんに、話を聞くと、こう教えてくれた。

 「いじめる側に回って、いじめるのが好きな人を、Sというのよ。反対に、いじめられ
る側に回って、いじめられるのを楽しむ人を、Mというのよ」と。

私「いじめられて楽しい人なんているの?」
S「いるわよ。そういう趣味の人も」
私「それはおかしいよ。趣味だなんて……」
S「いじめられる側って、結構、気楽なものよ」
私「あのねえ、そういう考え方をするバカがいるから、いじめの問題は、いつまでもつづ
くんだよ」と。

 しかしサドとか、マゾとか、そういう言葉が、中学生の子どもの口から出てくるとは、
想像もしていなかった。ホント!

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもの心をつかむために

 あなたは子どもの世界(小学生)を、どれほど知っているだろうか。つぎの言葉の中で、
意味を説明できるのが、いくつあるか、答えてみてほしい。

●アブトロニック
●ムッチョ
●ホグワーツのグリフィンドール
●マッチョ(流行語)
●ブルーアイズ、アルティミッドドラゴン
●かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっち
●SAKURAドロップ
●桃色の片思い

 8問のうち、5〜6問までわかれば、あなたはすばらしい親と考えてよい。子どもの心
をしっかりと、つかんでいる。

 正解は、つぎ。

○アブトロニック……10分で腹筋を600回、振動する美用具、19800円
○ムッチョ……筋肉モリモリ、「ムキムキマッチョ」……筋肉モリモリの人。
○ハリーポッターの通う全寮制の学校と、宿舎名
○マッチョ……筋肉モリモリ(ムッチョの最近の言葉)
○遊戯王の裏ワザ……ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが三枚と、アルティミッドドラゴ
ンが一枚。それと融合カードが一枚で、ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが降臨する。
○モーニング娘の、かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっち
○宇多田ひかるの「SAKURAドロップ」
○松浦あやの「桃色の片思い」

 あなたも一度、子どもの前で、こう言ってみたらどうだろう。「あのね、ブルーアイズ・
ホワイトドラゴンが三枚と、アルティミッドドラゴンが一枚。それと融合カードが一枚で、
ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが降臨するんだってね。あなた知っている?」と。

あなたの子どもは目を白黒させて、あなたを尊敬するようになるだろう。一度、試して
みてほしい。女子だったら、「私、かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっちの中で、
やっぱりかごちゃんが一番、すてきだと思うわ」と。コツは、さりげなく、サラリと子
どもの前で言うこと。

●子どもの言葉

●子どもの言語能力(Language Ability of Children)
What is the difference between men and apes? T. Sawaguchi says it is the difference 
between men who has language ability and the apes which do not have language ability. It 
means to improve the language ability is an essential part of education, especially when the 
boys or girls are at the proper age for the education.

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ついでに……、
澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」
と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。

私も、そう思う。

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澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。

 私も、そう思う。

 言語能力のあるなしで、その人の知性が決まる。「ヒトとサルの違いは、この言語能力のある
なしである」(同書)という。

 私も、そう思う。

 つまりその言語能力を喪失したら、ヒトは、ヒトでなくなってしまう。ただのサルになってしまう。

 が、最近、その言語能力のない人が、ふえてきた。いろいろな原因が考えられているが、要
するに、人間、なかんずく日本人が、それだけ「バカ」(養老孟子)になってきたということか。

 先日も、コンビニで立ってレジがすむのを待っていたら、前に立っていた母親が、自分の子ど
もに向かって、こう叫んでいたという。

 「テメエ、騒ぐと、ぶっ殺されるぞオ!」と。

 これは、ある小学校の校長先生が話してくれたエピソードである。服装や、かっこうはともかく
も、その母親の頭の中は、サル同然ということになる。

 つまりは思考能力ということになるのだろうが、それを決定づけているのが、大脳の中でも前
頭連合野である。最近の研究によれば、この前頭連合野が、「人格、理性と深いかかわりがあ
ることがわかってきました」(同書、P34)という。

 その前頭連合野の発達のカギを握るのが、ここでいう言語能力である。しかもその発達時期
には、「適齢期」というものがある。言語能力は、ある時期に発達し始め、そしてある時期がくる
と、発達を停止してしまう。「停止」という言い方には語弊があるが、ともかくも、ある時期に、適
切にその能力を伸ばさないと、それ以後、伸びるといことは、あまりない。

 それを「適齢期」という。

 私の経験では、子どもの、論理的な思考能力が急速に発達し始めるのは、満4・5歳から5・
5歳と、わかっている。この時期に、適切な指導をすれば、子どもは、論理的に考えることがで
きる子どもになるし、そうでなければ、そうでない。

 この時期を逸して、たとえば小学2年生や3年生になってから、それに気がついても、もう遅
い。遅いというより、その子どものものの考え方として、定着してしまう。一度、定着した思考プ
ロセスを修正、訂正するのは、容易なことではない。

 で、言語能力については、何歳から何歳までということは、私にはわからない。わからない
が、その基礎は、言葉の発達とともに、小学生のころから、大学生のころまでに完成されるの
ではないか。

 この時期までに、ものを考え、言語として、それを表現する。そういう能力を養っておく必要が
ある。

 澤口氏は、「日本人の脳の未熟化が進んでいる」(同書、P130)と、警告しているが、このこ
とは、決して笑いごとではすまされない。
(はやし浩司 言語能力 大脳 前頭連合野 適齢期 したたかな脳)


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司※

●7月31日

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今日で、2009年7月は、終わり。
その7月を、総括してみる。

が、大きな動きはなかった。
日々、平穏にして、無事。
生活にも、これといって、変化はなかった。
今日は6月30日と、だれかが言っても、
「そうだろうな」と思う。

この1か月は、そんな1か月だった。

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●日々の記録

 ダイエットは、そろそろ終盤。
現在、(今朝、起きたとき)、体重は、60・7キロ。
体脂肪率も、21〜22%に低下。
あとは、この体重を維持するだけ。

 運動は、よくした。
昨夜も、9時過ぎに、全速で40分近く、自転車で走った。
日中にも、5キロほどウォーキングしたから、合計で2単位、運動したことになる。
今日も、同じくらい、運動をするつもり。

 それから今月から、近くの温泉に通い始めた。
料金は、1人、1300円+消費税。
いつも入浴後、2階にあるレストランで食事をしている。
それが楽しみ。
 しばらく、週に1度、曜日を決めて通うつもり。
(平日は、ガラガラで、のんびりできる。)

 映画は、3〜4本、観た。
これはボケ防止用。
ボケ防止用だから、劇場で観なければ意味がない。
家の居間で観ていると、ワイフは、いつもそのまま眠ってしまう。

 文化的なことは、あまりしなかった。
本は、単行本を、4〜5冊、雑誌も、4〜5冊、買った。
それだけ。


●持病

 健康といっても、私の年齢になると、(今の状態)を維持するだけでもたいへん。
それができれば、御(おん)の字。
で、ひとつ気をつけていることがあるとすれば、持病をつくらないこと。
このことは、母を介護しているときに学んだ。

 60歳を過ぎると、持病のあるなしで、その人の健康は、大きく影響を受ける。
持病が急速に拡大するのも、このころ。
私が知るかぎりでの話だが、ひざ関節、腰などを傷(いた)める人が多い。
もちろん内臓疾患、成人病もある。
50歳くらいまでは、体力と気力で、カバーすることができる。
しかし60歳を過ぎると、体力と気力が急速に衰えてくる。
とたん内側に隠れていた持病が、どんと表に出てくる。

 80歳を過ぎても健康な人というのは、その持病がない。
だから持病を作らない。
体の不調を感じたら、すみやかに治す。
(今の状態)を保つ。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

【ある夫婦の問題】

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東北のある県にお住まいの、TRさん(男性)より、
夫婦の問題についての相談がありました。

それについて、考えてみたいと思います。

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【TRさんより、はやし浩司へ】

お忙しいところ申し訳ございません。

今家の中は妻と娘の問題で騒然、混沌としておりどう解決していけばいいかわからない状態で
す。先生のお知恵をいただき何とか解決の糸口を見つる事が出来ればと思っています。宜しく
お願いします。

妻とは職場結婚し20年経ちます。私は整形外科医師で、妻は元看護師です(結婚と同時に退
職)。結婚当初から気に入らないことがあると、1週間でも口を利かなくなり私を無視するところ
がありました。離婚を匂わせる発言も数回ありました。私はどちらかと言うと家族の絆・連帯を
重んじたいほうで、家内にはそれも重荷になっていたようです。

1年3か月前ちょっとしたことで家内が激高し、それ以来寝室は別で、家庭内別居の状態が続
いています。元々お互いにセックスレスだったこともあり、今は家内に触れただけで大声を上
げて嫌がるようになってしまいました。

激高したちょっとしたことについて少し書きます

・・・早めに病院に行かねばならず、・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・車庫内で家内は興奮し近所に聞こえるような大声で泣きながら怒り始めたので、平謝り
に謝った。翌日自動車会社に私から電話謝罪し、「たいした傷ではないので大丈夫ですよ」と
言ってもらった。

その日以来、寝室は別になった・・・

対外的に妻は非常に良い人で、幼稚園や小学校でお母さん連中に慕われています。私の両
親にも献身的で、祖父母が存命だった時は、病院への送り迎えや母が仙台で手術を受けたと
きなどは家族のために、ウィークリーマンションを借りたり、下準備を全て行ってくれ、至れり尽
くせりで、家族は感謝していました。

また私の父が2年3か月前に亡くなり、F市で暮らしていた母と統合失調症の弟が2人残された
ので、3か月ほど前I市の我が家から500メートルはなれたところのマンションを借りるのにも
尽力してくれました。

でも私には家庭内別居になってから「おはよう」「おやすみ」「おかえり」などの基本的な挨拶さ
えも全くありません。

12歳になる長女は、3歳頃から、「どうして、どうして」といいながら2〜3時間は泣くことがしば
しばありました。家が微妙な状態になった頃突然受験すると言って、中学受験を決意しました。
私が殆どマンツーマンで勉強を見ました(家庭教師もつきましたが)。今は片道1時間半かかる
M町までバスと電車を乗り継いで通学しています。

しかし今だ1週間に1回くらいは、「自分だけどうして、どうして」と、2〜3時間大声で幼児返り
のようにして泣き続けます。私立中学入学当初は「一番になる」と豪語していましたが、最近は
反抗期も重なり、イライラが強く腰を据えて勉強できなくなってきています。中間テストの2週間
前は椅子に座ったと思ったら、数秒で立ち上がることを繰り返し、下の子供が寝ると歯磨きを
し始める有様に成りました。

もちろん成績も200人中180位くらいでした。「こうやって自分は落ちこぼれていくんだ」と、自
分に言い聞かせているようにつぶやきます。今は下の子と帰ってきてから2〜3時間遊んで(と
言うより遊んでもらって)、下の子が寝る9頃から1時間かけて、10分くらい宿題をして寝てしま
います。

制服も帰ってきてからどんなに注意しても脱いだままにしています。「勉強したほうがいいので
は」などというと、「今しようと思っていたところなのに、言われたからやらない!」と拒絶します
(言わなかったら殆どしません)。

下の子には思いっきり意地悪をすることが多く、家内は娘を怒ります。娘はここぞとばかり、
「下の子ばかりかばってどうして自分だけ怒られなければならないの、下の子の方が悪いの
に」と言ってまた泣きます。

家内にダッコを求めますが、家内は仁王のように腕組みして立ちはだかり、私に対するのと同
じように、「触られたくない」と、拒絶します。弟との差を感じてますます娘は泣きます。

長男は今のところ明るい社交的な子に育っており、母の愛情も充分受けています。でも家庭内
のギクシャクのためか、切れやすくなってきています。

私の対応としては、出来るだけ家庭内で明るく振舞い家内が嫌な (しつこくする)ことを出来る
だけ避けるようにしています。でも家内は冷たい・・・

離婚相談のA先生に、円満になれるように相談し始めたところです(家内に内緒で)。家内に第
三者に入ってもらって相談することで建設的になれればと話を持ちかけましたが、「それは修
復したいと思っている人のすることで、私はこの家にも子供にも未練がない。親権もくれてや
る。あなたにしても、子供にしても帰ってくるのが苦痛だ。私を早く一人にさせて。」と言います。

全てが本心でないのでしょうけど、私に対することは本心と思われます。「子供には両親が必
要だし、下の子が20歳になるまでは我々の責任だ」と説得していますが、最近は内心そこまで
持たないのではと思います。

家内の精神面がかなり荒廃していると思われ、精神科の先生にも相談し安定剤を処方したこ
とがありますが、「私は精神病なんかではない!」と言い、1回内服してくれただけで拒絶されま
した。それからは何か相談しても、(娘のことに関しては会話がかろうじて出来ます)、「精神病
の人に聞かないで」と言われてしまいます。

出来るだけ家内を解放し、実家のT市に少しでも帰るよう仕向けていますが、外へ向けての完
ぺき主義の家内は、夏祭りの準備などで殆ど帰れないようにがんじがらめになっています。

今まで家族のためにと思って頑張って働いていたのに、私も死にたい気持ちになったりしてい
ます。ただこのまま私が死んでしまったら子供たちがかわいそうで、母と妹も引っ越してきてど
うしようもないし、私が弱ったらだめと言い聞かせています。

わたしの精神もかなり磨り減っており、本を片っ端から本を読んだり、Y先生の「悟りの子育て」
などを読み漁っています。

とに角怒らずに子供を過保護かもしれないけど、抱きしめるようにしています。
ダブルベットで上の子と私は一緒に寝ています。下の子のベットで家内は寝ていますが、私の
部屋が涼しいので、下の子もダブルベットに来るようになり、3人で川の字に寝ることが多くなり
ました。

このままでは子供の精神が壊れてしまうのではないかということと、家内も相当壊れてきている
のではないかと言うことが心配でなりません。最近は、(家内にだけ秘密)、両方の家族に実情
を説明し、サポートを期待しています。

あと私に出来ることは何でしょうか?
このまま現状維持で子供は大丈夫でしょうか?
やはり子供が巣立ってから離婚になるのでしょうか、子供のために今離婚したほうが良いので
しょうか?

無理難題の質問してしまい申し訳ありません。
何卒ご回答宜しくお願いします。

【はやし浩司より、TRさんへ】

●運命論

 こうした問題は、離婚問題にかぎらず、やがて流れるところに流れ、そこで解決します。
その(流れ)を感じたら、身を任すこと。
離婚問題、子どもの問題も、その結果として、自然に解決していきます。

(流れ)、……それを私は「運命」と呼んでいますが、この運命というのは、それに
逆らえば、キバをむいて、あなたに襲いかかってきます。
しかしそれを受け入れてしまえば、向うからシッポを巻いて逃げていきます。
(現在は、きばをむいて、あなたに襲いかかっている状態です。)

今のあなたは、(離婚する決意もできず)、同時に(関係を修復する決意もできず)、その
はざまで、悶々と苦しんでいます。
つまり「このままではいけない」という気持ちと、「何とかしたい」という気持ちの中で、
はげしく葛藤しています。
「何かをしなければならない」という気持ちと、「何をしたらいいのだ」という気持ちの
中で、です。

 こうした心の状態は、心理学でいう、『フリップ・フロップ理論』で、説明されます。
つまりどちらにころぶこともできず、フラフラの状態ということです。
もともとは、無神論の人が有神論に、有神論の人が無神論になるときの心理状態を
説明したものです。(日本では、この理論を知っているのは、私だけかと思います。)

 が、こうした状態に、人は、それほど長くは耐えられません。
はげしい葛藤がしばらくつづいたあと、コロリとどちらかに倒れます。
だから私は勝手に、『コロリ理論』と訳しています。

 そうそう私が言う「運命論」というのは、今はやりの、スピリチュアル(霊的)な
ものではありません。
私たちには、それぞれ無数の目に見えない糸がからんでいます。
家族の糸、社会の糸、環境の糸、生い立ちの糸などなど。
その(糸)がときとして、私たちの進む方向を、勝手に決めてしまいます。
で、振り返ってみると、そこに(道)ができているのを知ります。
私はそれを「運命」と呼んでいます。

●離婚
 
 順に考えていきます。

 まず離婚ですが、離婚そのものが、子どもの心に影響を与えるということは、あり
ません。
子どもはそのつど状況を受け入れ、それに適応していきます。
が、離婚に至る、家庭騒動は、子どもに大きな影響を与えます。
はげしい夫婦喧嘩、対立、騒動、言い争い、いがみあい、など。
(子どもというのは、環境的な変化には、すばらしい適応能力を示します。
が、愛情の変化には、たいへんもろいということです。)

子どもが乳幼児であれば、基本的不信関係、基底不安の原因となることもあります。
心の開けない子どもになったり、慢性的な不安感をいつも覚える子どもになったりします。
最近の研究によれば、おとなになってからうつ病になる人のほとんどは、乳幼児期の
親子関係(とくに母子関係)に起因するというところまでわかってきました(九州大学)。

 だから家庭騒動は、最小限に。
離婚するにしても、「明るく、さわやかに」(某タレント談)が、鉄則です。

●潔癖症 

 で、奥さんの潔癖症が、気になります。
神経症のひとつということになっていますが、こだわりが強い分だけ、やはり心の病を
もっておられるように感じます。
病識があればよいのですが、いただいたメールによれば、その病識がないようですね。
こういうケースのばあい、奥さんが平常なとき、「それが本来の姿」と、奥さんに
気づかせるのがよいわけです。
が、家族(=夫のあなた)では無理です。
 
 たとえばTRさんが、その話題をもちだせば、とたんに烈火のごとく、奥さんは、
それに反発してしまうでしょう。
だからカウンセリング……ということになります。
どなたか間に入って、奥さんと冷静に話せる人がいらっしゃるとよいのですが……。
(あるいは奥さん自身は、すでにそれに気づいておられるのかもしれません。
自分でもどうしようもなく、自己否定から自暴自棄になっておられる可能性もあります。)

 私は、こだわりの強さと、心の緊張状態から、奥さんのうつ病を疑っていますが、
そのあたりのことは、一度専門医に相談なさってみられたらどうでしょうか。
(奥さんも、そういう点では、表面的にはともかくも、不幸にして不幸な家庭環境に
育った女性とみてよいのでは(?)。
とくに奥さんと、奥さんの母親との関係が、乳幼児期に、不全だったように感じます。)

●子どもの進学

 つぎに12歳の長女の進学問題についてです。
この際、子どもの進学問題については、あきらめなさい。
つまりTRさんの手に負えるような問題ではないということです。
が、鉄則があります。

(1)「なるようになれ!」と、自分の心から進学問題を切り離すこと。
(2)「許して、忘れる」を貫くこと。
(3)「暖かい無視」を忘れないこと。
(4)「求めてきたときが、与えどき」と心得て、すかさず、必要なことはしてやること。

 これが「あきらめる」の意味です。
「捨てろ」とか、「育児放棄しろ」とか、そういう意味ではありません。
もちろんお嬢さんを切り離せということではありません。
切り離すのは、「進学問題」だけです。
どんなに成績が悪くても、「友」として、子どもの横に立つということです。

 で、その上で、私は、『あきらめは、悟りの境地』という格言を考えました。
そこは実におおらかで、すばらしい世界です。
子育ての極致のようなものです。
あなたも勇気を出して、あきらめてみてください。
気が楽になりますよ。
「お前の分は、オレががんばってやるからな」と宣言すればよいのです。

 あとは娘さんが、自分で自分の道をさがし、求めていくでしょう。
親としてはつらくも、さみしいときかもしれませんが、TRさんのできることにも
限界があるということです。
で、しばらくは迷い、悩んだりしますが、その分だけ、お嬢さんは、たくましく
育っていきます。
私たち親ができることと言えば、子どもをうしろから見守るくらいなことだけです。
子どもが巣立つときというのは、そういうものです。

●自分を追い込まないこと

 はげしく葛藤しているということは、この時点においては、結論を出さないこと。
そのほうが、賢明かと思われます。
『迷っているときは、結論を急がない』『悩んでいるときは、結論に向かわない』が、
原則です。

 重要なのは、とくに奥さんに対して、未練を残さないように、(あるいは反対に深い愛情を感
ずるまで)、心の整理をしておくことではないでしょうか。
「別れれば、まったくの他人」、あるいは反対に、「死ぬときは、いっしょ」と、心の覚悟
をどちらかに決めること。
また決まるまで、自分の心を見つめること。

 その覚悟ができるまで、「急がない」が、原則です。

 私も事情は異なりますが、同じような立場になったことが、数回、あります。
で、こういうときはジタバタしない。
(流れ)を感じたら、その(流れ)に身を任す。
コロリとどちらかに倒れるまで、待つ。
結論はそのあと、自ずと出てきます。
そしてそのとき、きわめて自然な形で、離婚もでき、また子どもの問題も解決します。
「何だ、こんなことだったのか!」とです。

 今、TRさんは、「子どもが20歳になるまで」とか、「娘の進学が心配」とか、
いろいろと自分を追い込んでいます。
心理学的には、TRさんは、自責型人間ということになります。
(奥さんは、それに対して、他責型?)
あまりそういうふうに、考えない方がよいです。
こうした問題は、なるようにしかならないし、またなるようになっていくものです。
もう少し肩の力を抜いて、無責任になるところは、なる。
ズボラになるところは、ズボラになる。
あるいは、仕事に没頭する……。
幸いにもすばらしいご職業をおもちなのですから、それこそ好き勝手なことができるはず。

 私たち夫婦も、月例行事のように夫婦喧嘩をしています。
しかしそういうときは、(こんなことを、おおっぴらに書くと、叱られそうですが)、
「女など、本気で、相手にしない」です。
(結構、男尊女卑思想に染まった部分もありますので……。)

 私など、一年中、「母親」という女性の世界で生きていることもあって、いつもそう
感じています。
「女など、本気で、相手にしない」です。
(私のワイフはワイフで、「男など、本気で、相手にしない」と考えていますよ。)

 それに離婚と言っても、いまどき、何でもないことです。
日本人も、20数%の人が、離婚を経験しています。
アメリカの離婚率より、やや低いかな……というところです。
5組に1組、あるいは5人に1人ということです。
あまりおおげさに考える必要はありません。

●もし、できれば……

 もし、できれば、負けを認めるという方法もあります。
プライドはみな、捨てて、こう言うのです。
「お前を愛している。お前なしでは生きていかれない。もう一度、ゼロからやりなしたい。
協力してほしい」と。

 奥さんの前で、心を丸裸にしてみるのです。
心底、心から、そう叫んでみるのです。
離婚するにしても、またしないにしても、一度は、その関門を通りくぐらなければなり
ません。
「やるだけのことはした」という思いが、仮に、それが奥さんに通じなくても、あなたの
心をさわやかにします。

このとき、子どもを理由(ダシ)にしてはいけません。
「修復しよう」という下心も捨てます。
ありのままに、ありのままのあなたの心を語ります。
TRさんは、TRさんだけのことを考えて、行動すればよいのです。
またそれが(すべて)です。

 あなたの真心が伝われば、奥さんの心もそれで溶けるはず。
が、溶けなければ、それまで。
あとは(流れ)に静かに身を任せます。
運命を受け入れ、それに身を委ねます。

●私のこと

 話は変わりますが、私も、最近、「故郷」とは縁を切る覚悟をしました。
言うなれば、故郷との離縁です。
(簡単なようで、これは実際には、たいへんなことですよ!)
今度、法事をすませたら、それでおしまい。
親戚づきあいも、なし。
ご愛想も、体裁もなし。
ついでにxxとも、お別れ。
自然のなりゆきで、そうなりました。
が、実にさわやかな気分です。

 家族自我群(呪縛感)の中で、もがき苦しんでいるときは、ほんとうにたいへんでした。
運命をのろい、運命にさからっていたからです。
が、まず最初に、(いい子)ぶるのをやめました。
誤解を解く努力も、やめました。
どうせその程度の人たちなのですから、言いたいように言わせておけばいい。
いろいろ口は出しても、何もしてくれないことがわかったからです。
1人、2人ではない。
全体として、縁を切る。
そういうふうに考えて、運命を受け入れました。

 それ以上に大切なことは、残りの人生を、楽しく有意義に生きることです。
私はすでにやるべきことはした。
じゅうぶん、した。
だからだれにも、うしろ指をささせない!
そういう思いが、私を、今、支えてくれます。
「逃げる」のではなく、「過去の亡霊を断ち切って、前に進むのです」。
どうか、参考にしてみてください。

 (いただきましたメールの転載許可に、感謝します。)


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●足跡

私のBLOGや掲示板、それにYOU・TUBEのほうに、いろいろと
書きこみをしてくる人がいる。
たいていは好意的なものだが、中には、批評を通り越して、非難、さらには、口汚く
ののしるものもある。
先日も、私のYOU・TUBEの動画について、こう書いてきた人がいた。
「こんなひどいレッスンを受ける子どもたちが、かわいそう。即刻、教室を閉鎖すべし」
と。

しかしYOU・TUBEのばあい、「足跡」がそのまま残るしくみになっている。
コメントを書いた人を逆追跡すると、その人が制作、アプロードした動画を、そのまま
見ることができる。
つまりその動画から、その人を特定することができる。
その人は、そんなことも知らず、私の動画にコメントを書きこんだらしい。

それにしても、ほんの一部だけを見て、「閉鎖すべし」はない。
何が気に食わなかったのか……?
……というより、私はその女性をよく知っている。
10年ほど前、私の教室に怒鳴りこんできた女性である。
「あなたは、先祖を否定している。そういう人間は教師としてふさわしくない!」と。
(Rデザインの、Kさんですね!)

 どこかの宗教団体に属しているらしい。
が、そのときは、私は訳もわからず、しばらくしてからその女性に電話すると、
夫にあたる男性が出た。
その男性は、「すみません」「すみません」だけを繰り返した。
妻の行状に、かなり困っているといった様子だった。

 ついでに言うと、私は一度だって、「先祖」なるものを否定したことはない。
人、それぞれ。
ただ言えることは、私自身も、つぎの世代の人たちにとっては、その「先祖」に
なる、ということ。
私は、私。
つぎの世代の人たちは、つぎの世代の人たち。
だからつぎの世代の人たちに、恩を着せるようなことだけは、したくない。
つぎの世代の人たちは、つぎの世代で、勝手に生きていけばよい。
私という「先祖」に遠慮する必要はない。

 そういう思いが私にはあるから、私は「先祖」という言葉を口にしたことはない。
そういう私の生き様を、その女性は、「否定した」ととらえた。……らしい。

 話は脱線したが、BLOGにせよ、HPにせよ、何かの書きこみをするときは、
じゅうぶん注意したほうがよい。
何らかの足跡が残る。
その足跡から、その気になれば、あなたが書いたということが、わかってしまう。
こんな例が、ある。

 2年ほど前だが、同じように、同じようなことを書いてきた女性がいた。
が、文章に、独特の特徴があった。
(今回も、「即刻」「閉鎖すべし」という2語に特徴があった。)
そこでその文章から、いくつかの言葉を抜き出し、ヤフーの検索エンジンにかけてみた。
するとズバリ、同じような文章が、いくつか検索できた。

 よほど文章を書きなれた人は別として、そうでない人は、同じような文句を使って、
同じような文章を書く。
その女性は、別のBLOGに、別のコメントを書いていた。
そして「Yxxxx」というハンドル・ネームを残していることまでわかった。

 そこで今度は、「Yxxxx」というハンドル・ネームを検索してみた。
すると、同じ名前を、メールアドレスの一部に使っていることもわかった。

……ということで、私はその女性が、神奈川県のC市周辺に住む、YYという
女性であることまで知ることができた。

 だから私はそのコメントの返事に、こう書いた。

「神奈川県C市のYYさん、かなりきびしいコメントですね。
たいへん参考になりました」と。

 みなさんも、コメントを書きこむときは、くれぐれも、注意したほうがよい。
もしそれが犯罪につながるような内容であれば、そのまま警察に通報される
ことにもなる。
そうなれば、「ただの書きこみです」では、すまなくなる。


Hiroshi Hayashi++++++++JULY・09++++++++++はやし浩司

●パソコンは、ほしいときが華(はな)。

 パソコンは、高価な買い物であることにはちがいない。
10〜20万円といっても、命が短い分だけ、高価。
長く使っても、せいぜい2年。
それに合わせて、周辺機器を買いそろえたりすると、かなりの金額になる。

 そのパソコンについて、最近こんなことを考える。
「買ったら、損なのか、それとも買わなければ、損なのか」と。

 で、私の得た結論は、こうだ。
「買わなければ、損」。
それには理由がある。

 少し前、何かのことで、ひどく落ち込んだときがある。
何をするにも、おっくうになった。
もちろんパソコンに向かうのも、いやになった。
もちろん頭の中は、からっぽ。
休眠状態。
文章を書こうにも、アイディアそのものが浮かんでこない……。

 言うなれば、私は認知症の疑似体験をしたということになる。
(あるいは、本当に認知症になりつつあるのかもしれない……。)
が、もし本当に認知症になってしまったら、それこそパソコンどころではなくなって
しまう。
文章が書けなくなってしまう。
考えることもできなくなってしまう。

 だからそのあとワイフに私は、こう言った。
「新しいパソコンがほしいと思っているうちが、華(はな)だね」と。
つまり「パソコンなんか、いらない」と私が言い出したら、私は、お・し・ま・い。
それを思ったら、新しいパソコンを買うことなど、何でもない。
それにあえて付け加えるなら、パソコンは、現代の必需品。
「生きるための道具」と言い換えても、けっして、過言ではない。

 で、話は変わるが、今、我が家には、ひとつだけ「家宝」と言えるようなものがある。
古九谷焼きの布袋様(ほてい様)の置き物である。
江戸時代のものだと思うが、年代はわからない。
しかし精緻な作りは、ほかにはない。
恐らくその道の職人が、何か月以上もかけて作り上げたものにちがいない。
値段をつければ、数百万円以下ということはないだろう。
昔、私の祖父が、「浩司、これひとつで、家が一軒、建つ」と言っていたのを覚えている。

 その置き物を見ながら、ときどき「パソコンと置き物とどちらが価値があるか」と
考える。
布袋様の置き物のほうは、これから先も、何代もその価値を保ちつづけるだろう。
一方、パソコンのほうは、それこそ2年ごと、長くて5年ごとに、その寿命を終える。
大切に磨いて使っても、意味はない。
で、これについても、私の結論は、こうだ。

 布袋様の置き物のほうは、売ってはじめて、その価値が出る。
それまでは、ただの置き物。
見た人が、「ほほう、これはすばらしいですね」と言って、それで終わってしまう。
で、その布袋様を売ったとする。
数百万円なら数百万円でよい。
問題は、そのお金を、どう使うか、だ。
どう、有効に使うか、だ。

 一方、パソコンのほうは、今を生きる私を側面から支えてくれる。
その道具としての、パソコンがある。
だからやはり最新のものが、ほしい。

 たとえば今、原稿ファイルを読み出そうとすると、読み出すだけで、10分ほど
時間がかかる。
そのファイルは、約3万ページもある。
それを書き換えたあと、保存をかけると、今度は、20分ほど時間がかかる。
HPについては、保存をかけるだけでも、ちょうど2時間10分ほど時間がかかる。
こうした問題が解決できるなら、10〜20万円は、安い。

私「もしぼくが、新しいパソコンに興味を示さなくなったら、ぼくはおしまいだね」
ワ「そうね。新しいパソコンがほしいと言っているうちが、華(はな)よね」
私「そうだね。ぼくもそう思う。そういう気持ちが消えないように、がんばるよ」と。

 だから、今、「買う」といっても、心のどこかで、「買わなければならない」
という、おかしな意思が働く。

(布袋様は、写真に撮って、近々、マガジンHTML版のほうに載せておきます。)

 
Hiroshi Hayashi++++++++JULY・09++++++++++はやし浩司

●二男のラジオ番組

 前から話には聞いていたが、二男が、ときどきラジオのトーク番組に出るように
なった。
今朝も、それを聴いた人がいて、その話をしてくれた。
「息子さんが出てましたよ」と。

昨年までは、ときどき、「これからラジオで話すよ」という連絡が届いたりしたが、
最近は、ない。
ないから、それを聴いた人から、連絡を受けて知る。

 息子の活躍を耳にするのは、うれしい。
何というか、手にしたバトンを、もうひとりの「私」に手渡すような気分である。
もう少し大げさに言えば、「分身を残した」感じ。
「これでぼくも、死ねるなア」と。

 ラジオの中では、今、本を書いているようなことを言っていたとか。
二男は子どものころから、独特の感性をもっている。
数年前も、一時帰国した折、地元の中学校で講演をした。
そのときのこと。
二男は、破れたTシャツを着て、講演をした。
ギターを弾きながらの講演だったという。
私にはそういうマネはできない。
言い換えると、二男という息子は、そういう息子である。

 本名は、「林宗市(はやし・そういち)」。
どこかでその名前を耳にしたら、どうか、よろしく。
現在は、アメリカのインディアナ州立大学で、スパコン(スーパーコンピュータ)の
技師をしている。
世界中のスパコンをつないで、ひとつにするという、とんでもない仕事を手がけている。

 先に「うれしい」と書いたが、ソラ恐ろしい感じすらする。


Hiroshi Hayashi++++++++JULY・09++++++++++はやし浩司

【意思論】

++++++++++++++++++

脳細胞というのは、それぞれひとつずつは、
ON/OFFのスイッチにすぎない。
そのスイッチが無数に集合化されると、
そこに「意思」が生まれる。

私たち人間が、その一例ということになる。

もちろん脳を解剖しても、そんな意思は、
どこにもない。
そこに見えるのは、神経細胞(ニューロン)と、
それから延びる神経突起だけ。
神経突起のつなぎ目(シナプス)だけ。

たとえば私の名前は、「はやし浩司」だが、
脳のどこかに、「はやし浩司」という文字が
書きこまれているわけではない。
こと脳ということになれば、偉大な哲学者の
脳も、そこらのオジサンの脳も、見た目には
同じ。
電子顕微鏡でいくらのぞいても、(ちがい)すら、
ぜったいにわからないだろう。

++++++++++++++++++

●一寸の虫にも……

 「一寸の虫」という言葉は、よく耳にする。
しかしあのハチ(蜂)ほど、頭のよい虫はいない。
しっかりとした意思も、もっている。

 ときどき首をかしげて、何かを考えている様子を
見せることがある。
その姿は、人間のそれ、そっくり。
あまりにもそっくりなので、ときに思わず、笑ってしまう。

 が、本当に驚くべきことは、あんな小さな脳の中で、
そうした思考力や、意思をもっているという事実。
さらに最近、こんなことにも、驚いた。

●たったの66MB!

 私は原稿を書きながら、一定の分量になると、「総集編」
というファイルに、それを追加していく。
その「総集編」が、現在、約3万ページになった。
1ページが、約1600文字である。

 私にとっては、この10年の、「命」そのものということになる。
つまりこの10年分の原稿が、3万ページ。

 で、それをパソコンの中のハードディスクだけではなく、
外付けのハードディスクなどにも、分散して保存している。
つい先日は、USBメモリーの中にも、保存した。
たまたま4GBのメモリーを、1000円前後で売っていた。
それでそれを買い、3万ページの原稿を、保存してみた。

 が、驚いたのは、そのあとのこと。
それでそのメモリーは、私の原稿で、さぞかしいっぱいになった
だろうと思い、プロパティを開いて調べてみた。
ところが、使用したのは、たったの66MB!

 4GBのメモリーに保存すれば、4000分の66!
全体の1・7%!
この分で計算すると、4GBのメモリーをいっぱいに
するには、この先、約580年もかかることになる!

 私はそのUSBメモリーを指先でクルクルといじりながら、
「ぼくの命は、こんなものか」と、がくぜんとした。

●USBメモリーに「意思」はあるか

 脳は、構造的には、ON/OFFのスイッチのかたまり。
USBメモリーも、基本的には、その脳と同じ。
ということは、USBメモリーに、人間、あるいはハチと
同じような(意思)があると考えても、おかしくない。
 
 ハチと比べても、きわめて希薄な意思かもしれないが、
電流が流れたとたん、USBメモリーは、そこに蓄えられた
情報とは別のことを、考える。

 たとえば私が総集編の原稿を、そのUSBメモリーから
呼びだしたとする。
そのときUSBメモリーは、「めんどうだな」とか、
「今日は疲れている」くらいのことは、考えるかも
しれない。

 ON/OFFだけのスイッチだから、そんなことは
考えないだろうと、あなたは思うかもしれない。
しかし私たちの脳だって、基本的には、USBメモリー
と、その構造において、どこもちがわない。

●水からの伝言(水伝)

 少し前、『水からの伝言(略して、「水伝」ともいう)』という、
これまた奇想天外な説を主張した学者(?)がいた。
エセ科学もよいところ。
科学性、ゼロ。
再現性、ゼロ。
デタラメ、インチキ!

 が、驚いたのは、このことではない。
地方によっては、教育委員会レベルで、この説を信奉し、
各学校で、それをもとに、「美しい言葉」運動が始まったこと。
(この静岡県でも、始まった!)

 が、その「水」に、本当に意思がないかということになると、
私はそうは思わない。
理屈で考えれば、構造的に、ON/OFFになっている物質には、
すべて(意思)があるということになる。
「水」とて例外ではない。

 しかし私がいう「水」というのは、太平洋全体規模の「水」をいう。
が、それとてきわめて希薄なもので、「美しい氷の結晶を作るか、
作らないか」ということまで決めるほどの意思ではない。
ひょっとしたら、太平洋全体の水の意思を統合しても、一匹のハチが
もつ程度の意思かもしれない。
(が、それとて、宇宙的規模になると、ものすごいことになるが……。)

●意思論

 そこで最後に、もう一度、「意思」について考えてみる。
つまり私が言いたいことは、(生物)だけが、意思をもっていると
考えるのは、正しくないのではないかということ。

 現に、コンピュータは無生物だし、USBメモリーにいたっては、
ただの(物)。
しかしその中には、「私」が、ぎっしりと詰まっている。
もしこのUSBメモリーが、たとえば人工知能のようなソフトと
結合すれば、そこに別の「私」、つまり(意思)をもった「私」が、
生まれるかもしれない。

 「今、何をしてほしいですか?」と問いかけると、コンピュータが、
「暑いから、換気をしてほしい」とか、答えたりする。
もちろん「どうすれば、意思として認識できるようにすることができるか」
という問題もある。
コンピュータでいうなら、(解読ソフト)のようなものが、必要。
最低限、マイクやスピーカも、取り付けなければならない。
が、それはともかくも、こう考えていくと、ありとあらゆるものに、
意思があるということになる。

 海にも、地球にも、太陽にも、宇宙にも……、と。
ただ誤解してはいけないことは、仮にあったとしても、その意思は、
人間がもつ意思、(あるいはハチでもよいが)、そうした意思とは、
きわめてかけ離れた意思であるだろうということ。

 仮に人間との間の疎通装置のようなものができたとしても、人間には
理解できないものと考えるのが正しい。
逆に言うと、宇宙的規模からこの地球をながめると、人間とハチの
誤差など、問題にならない。
似ているというより、まったく同じ。
つまり海や、地球や、太陽や、宇宙がもっている意思(?)は、
それくらい人間の意思とは、かけ離れているということ。

 ……とまあ、話がかなりオカルト的になってきたので、この
話は、ここまで。
しかしこれだけは言える。

 私やあなたには、たしかに(意思)がある。
しかしその(意思)はどこから、どのようにして生まれてくるのか、
そのメカニズムは今もなお、深い謎の奥にあるということ。
言いかえると、「私」を知るということは、それほどまでに
むずかしいこと、ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 
林浩司 BW 意思論 意思とは はやし浩司 水からの伝言 水伝
意思について)


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司※

●100歳

++++++++++++++++++

昨日、ワイフのテニスのコーチをしていた、
Nさん(男性)という人が、亡くなった。
享年、100歳だったという。
まだ5、6年前まで、自転車に乗っていた。
その自転車で、コートまで通ってきていた。

100歳!
つまり、私が22歳のとき、今の私の年齢の
61歳だったということになる。
100歳!
すごい!

……ふと心のどこかで、私が浜松へ来たころの
ことを思い浮かべる。
あのときが22歳だった、と。
同時に今、22歳の若い人たちのことを思い浮かべる。
みんな、何をしているのだろう、と。

Nさんは、90歳を過ぎても、テニスを
楽しんでいた。

++++++++++++++++++

●享年

 享年と書いて、「きょうねん」と読む。
本来は、「行年」と書いたらしい。
あの世へ旅たったときの年齢をいう。

 で、昨日、ワイフとこんな会話をした。
「どうせ死ぬなら、早い方がいい」
「しかし長生きするなら、100歳くらいまで生きた方がいい」と。

 この先、老人の生活環境について言えば、悪くなることはあっても、
よくなることはない。
介護施設にしても、すでに飽和状態。
寝たきりの状態でも、施設に入居するのは、むずかしい。
だったら、できるだけ早めに入るか、反対に、すいたら、入るかということになる。
レストランと同じ。
ちょうど昼時に行くと、順番待ちになる。
少し時間をずらすと、楽にテーブルに着くことができる。
不謹慎なたとえに聞こえるかもしれないが、私たちの世代にとっては、切実な問題である。

 そこで私たち夫婦の結論。
「できるだけがんばって、すいたら、入ろう」「できるだけ長生きしよう」と。


●靴

 今日、靴屋で靴を買った。
水色のラインの入った、きれいな靴である。
白の部分は、エナメルが塗ってあり、テカテカ光る。
ワイフが、「老人が履くような靴ではないわ」と言った。
「ぼくは老人ではない」と、私は答えた。

ワ「だって、私たちは老人よ」
私「ぼくは、老人ではない」
ワ「気だけは、ね。でも体がついてこないわ」
私「いや、ぼくはそうでないと思う」と。

 私の知人に、TK氏という人がいる。
ある大手のペンキ会社の監査役をしていた人だが、こう話してくれたことがある。
私が、「もうすぐ60歳になります。いやですね」と言ったときのこと。
「林さん(=私)、60代というのは、いちばん仕事ができる年齢ですよ。
私も60代のとき、いちばん仕事ができました」と。

 TKさんは、今年、80歳くらいになる。
その人が、そう言った。

 で、私はもうすぐ満62歳になる。
「あと10年、現役でがんばる!」と宣言したのは、私がちょうど満60歳のとき。
それからすでに2年、経過したことになる。

 その2年。
つまりこの2年。
たしかに体の調子はよい。
頭のほうも、いまのところ、だいじょうぶ。
「このままなら、70歳どころか、75歳までだいじょうぶかな」と思い始めている。

 ……ということもあって、水色のラインの入った靴を買った。
私の年代というと、茶系のジジ臭い靴と、相場が決まっている。
しかし何も、自ら進んでジジ臭くなることはない。
言うなれば、水色のラインの入った靴は、私の決意の表れということになる。
「75歳まで、がんばってやる!」と。


●ノートパソコン

 近くの電気屋へ行ったら、格安のノートパソコンが、並んでいた。
N社製のパソコンだった。
オープン価格で16万円。
それが11万円。
さらにボーナスセールということで、2万円引き。
8万8900円という値段がついていた。
ワードなど、オフィスソフトがついて、その値段。

 ググーッと、物欲が、脳の中に充満。
ドーパミンが、線条体を刺激した。
買うか、買わないか、半時間ほど迷った。
が、やめた。
秋には、WINDOW7が発売になる。
それまで、がまん。

インテルCore i7−975
トリプルチャンネル DDR3 12GB(メモリー)
NVIDIA GeForce GTX285・1GB
ブルーレイディスクドライブ
もちろん64ビットマシン!

 仕様書をながめているだけで、頭の中が興奮状態になってくる。
ゾクゾクゾク!

これにオフィスのソフトと、3年間の保証をつけると、
28万3500円(M社)!
10月ごろには、もう少し安くなるかもしれない。
あるいはさらに性能がアップするかもしれない。

 そうそう現在、22インチと20インチのモニターを、2つ並べて使っているが、
今度は24インチ、もしくは26インチのものにしたい。
モニターは、大きければ大きいほど、使いやすい。
作業がしやすい。

 ……ということで、私は、まだまだ元気。
100歳までは無理としても、せめて90歳くらいまでは、元気に生きてやる。

(追伸)
 そんなこともあって、昨夜、散歩の途中で、洋服店に寄った。
靴の色に合わせて、白いシャツと、水色の薄いコートを買った。
夏休みに、どこかへ旅行に行くとき、それを着ていくつもり。
楽しみ!


●芝生

 庭が、芝生で覆われるようになった。
20年ほど前に植えた芝生が、今になっても、そこに生える。
が、ところどころ、まばら。

 そこで昨日、「芝生の缶詰」というのを買ってきた。
ついでに「芝生の土」というのも買ってきた。
その2つをバケツの中で混ぜ、庭にまいた。
時期的には、1、2か月遅い。
しかしそこは芝生。
「だいじょうぶだろう」と自分に言い聞かせながら、庭にまいた。

 で、私は、芝刈りを、草刈り機でしている。
エンジンで丸い歯をウィンウィンと回して草を刈る、あの草刈り機である。
いろいろな方法を試してみたが、芝刈り機でするのが、一番、楽。
それに仕上がりも、よい。

 エンジンを中速程度に抑えながら、ゆっくりと地面をなでるようにして、芝を刈る。
雑草を見つけたら、草刈り機をややななめにして、地面ごと、雑草を吹き飛ばす。
乱暴なやり方だが、私はいつもそうしている。

 ただし注意。

 通常の草を刈るときは、草の上のほうを刈るので、それほど危険ではない。
しかし芝刈り機として使うときは、地面すれすれに刈る。
そのときどうしても土や小石を巻き込んで、それを跳ね飛ばす。
その土や小石が、目に入ることがある。
だからゴーグルは、必需品。

 が、もし万が一、土や小石が目に入ったら……。
そのときは、こうする。
大きな洗面器に水を張り、その中に目を大きく開けて、顔をつける。
指で目を開きながらするとよい。
その状態で、何度かまばたきを繰り返す。
まちがっても、指でこすってはいけない。

 私のばあいは、いつもそうしている。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●Low-Toe ジョギング

++++++++++++++++

「スロー・ジョギング」というのはある。
が、私が考えたのは、「ロー・トウ・ジョギング(ひざを低くして走る走り方)」。
足をあげないで、足を引きずるようにして走る。
テンポは、ふつうの速さ。
だからスロー・ジョギングともちがう。

で、昨夜、そのジョギングをしていたところ、4〜5キロ走ったところで、
こむら返りが起きてしまった。
カルシウム不足?
あるいは片手に、ペットボトルをもっていたため?

ともかくも、それ以後、走れなくなってしまった。
あえなく、ダウン。
ワイフに車で、迎えに来てもらった。

++++++++++++++++

●ダイエット

 ダイエットも、そろそろ終わり。
目標の60キロを達成!
今朝起きて、体重計に乗ってみたら、59・8キロ。
50キロ台は、30年ぶりではないか?
あとは、この体重を維持するだけ。

61キロを超えたら、食事制限。
60キロを下回ったら、食事をふやす。
こbの方法は、どこか株の売買に似ている?

株にも値幅というものがあって、一定金額を超えたら、売り。
一定金額を下回ったら、買い。
これを繰り返す。

 ……ということで、今朝は、久々に、一食分を食べた。
おいしかった。


●講演

 昨日、隣町の「ゆやホール」というところで、講演をさせてもらった。
すばらしい会場だった。
たいへん話しやすかった。
聴きに来てくれた人たちも、真剣に(多分?)、聴いてくれた。
聴衆との一体感を私は、感じた。


●パソコン

 再三、近くのパソコンショップに足を運んでいる。
目当ては、N社製のノートパソコン。
買うか、買わないか……。
一週間も迷った。
が、結論は、「買わない」。
その結論を、昨日、出した。
もう少しわかりやすく言うと、「別れてきた」。

で、秋まで、待つことにした。
WINDOW7が発売になる。
それを見ないことには、どうしようもない。


●DVD『ベンジャミン・ボタン』

 昨夜、ワイフと、DVD『ベンジャミン・ボタン』を観た。
星は、文句なしの5つ。★★★★★。
どこか『フォレスト・ガンプ』を連想させる映画だった。
劇場で見なかったのが、悔やまれる。

 予告編は劇場で何度か観たが、そのときは、「ジジ臭そうな映画だな」で
終わってしまった。
が、それはまちがっていた。

 ただ一言。

 すばらしい映画だった。
それは認める。
観て、損はない。
が、もうすぐ62歳になる私は、少しちがった印象をもった。
「だから、それがどうしたの?」と。

 こんなことを書くと、ブラッド・ピッド・ファンの方に叱られそうだが、あの
映画には、その答えがない。

 1人の男性が、時計を逆回りにして生きただけ。
恋もした、冒険もした、莫大な財産も手に入れた。
しかしそれにつづく部分がない(?)。

 つまるベンジャミンは、自分のために生きただけ。
だれかのために、何かをしたというのではない。
言うなれば、ただの恋愛映画。
が、それではいけない。
もの足りない。

数奇な運命に翻弄されたベンジャミン。
それはわかるが、それにつづく部分を、何か描いてほしかった。
多分、脚本家は、若い人なのだろう。
人生のその向うにあるものが、まだ見えない?
私が感じた(もの足りなさ)は、どうやらそのあたりから生まれている。


●『アイスエイジ・3D』

 先週、『アイスエイジ・3D』を、劇場で観てきた。
3Dということで、おもしろかった。

 で、その映画ついて、追伸。

 ああした動物を主人公にした映画で、いちばん、気になるのは、「餌」。
言うなれば、共食いの世界。
が、そんな残酷な様子を、映画の中で表現することはできない。
『アイスエイジ』の中でも、私は、それが気になった。
「動物たちは、何を食べて生きているのだろう?」と。

 一度、恐竜の母親が、ドカッと、巨大な鳥の足をテーブルの上に置くシーンが
あった。
それを見たとき、「ああ、ここでは鳥を食べているのだ」とわかった。
しかしそれでも、違和感を覚えた。

 ……心のどこかでそんなことも考えながら、『アイスエイジ』を観るとおもしろい。
いらぬお節介かもしれないが……。


●人種差別 

 同じように、ハリウッド映画では、「人種」について、かなり神経をつかっているのが
わかる。

 黒人を殺人鬼に仕立てるときは、刑事も黒人にしたり、あるいは黒人の妻を白人に
したりする。
そういうこまかい配慮を、実にていねいにする。
人種による偏見を、観客にもたせないようにするためか。

同じように、アジア人についても、気をつかっているのがわかる。
さらに言えば、日本の映画ファンへのサービスなのか、ところどこに、日本的なものを
挿入することが多い。
寿司屋で食事をして見せたり、日本車をそれとなく走らせて見せたりする、など。
(韓国版では、韓国的なものを挿入したりするようだ。)

 どういうところに、どう気をつかっているかをみるのも、これまた楽しい。


●スズメ

おととい、庭に、芝生の種をまいた。
(芝生の目止め)という土と混ぜて、まいた。
が、何と、今朝見たら、スズメどもが、その種を食べているではないか!

 しかたないので、庭の端に、いつもの数倍の分量の餌をまいてやった。
あ〜あ。
本当に、あ〜あ!


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●8月4日(ダイエット、一考)(Dieting)

++++++++++++++++++

私にも夏休みがある。
1週間ほど、それがもらえる。
その夏休みが、近づいてきた。
が、今年の予定は、なし。
実家の売却、法事とつづく。
それが無事すまないことには、
どうも落ち着かない。

+++++++++++++++++++

●こむら返り

 おととい、夜中にジョギングしているとき、突然、こむら返りが起きた。
コムラ返りそのものは、すぐ収まったが、そのあと筋肉離れでもしたかのような激痛。
で、あえなく、ジョギングは、中止。

 が、それで運動をやめたのでは、(はやし浩司)が泣く。
昨夜は、5キロ前後を歩き、プラス2キロ前後を走った。
おかげで家に帰ったときには、足は棒のようになっていた。
静かにしていれば、何ともないが、歩き始めたとたん、ギギーンと痛む。

●はやし浩司流、ダイエット法
 
 いろいろなダイエット法がある。
いろいろな人が、本を書いている。
が、どれも基本的には、同じ。
運動と食事制限。
この2つが柱になっている。

しかし「はやし浩司流、ダイエット法」は、少しちがう。
生きる哲学そのものを見直そうというのが、それ。
その哲学を変えないかぎり、ダイエットは、成功しない。

●ダイエット哲学

 「食べたら損(そこ)ねるのか、それとも食べなければ損なのか」。
すべてはそこから始まり、そこで終わる。

 私たちは、あらゆるものを金銭的価値に置き換えて、ものを考える傾向が強い。
たとえばレストランへ入ったとるする。
800円のランチを頼んだとする。

 そういうとき私たちはこう考える。
「800円出したのだから、800円分、しっかりと食べなければ、損」と。
しかしこの考え方そのものが、おかしい。
まちがっている。
まず、それに気づく。

●どうして食べなければ、損なのか?

 私は子どもたちに、よくこう言う。
「ぼくの車は、ビッツ(トヨタの最安車)だけど、体はベンツ(高級車)だよ」と。
冗談ぽく言うが、冗談ではない。
かなり本気である。
「トヨタのビッツのような車で、ベンツのような体か、それともベンツのような車で、
ビッツのような体か」と、問われれば、私なら、(ベンツのような体)のほうを、選ぶ。

 私たちの精神は、ズイのズイまで、金銭的判断に毒されている。
いつも損得を考えて、行動している。
そのことは、食べ放題の店に入ってみると、よくわかる。
どの人も、食べなければ損……といったふうに、食べている。
たとえばケーキでも、パクパクパクの3回で、3個!

 が、そういう人ほど、例外なく、太っている。
見た目にはどうであろうとも、体はビッツ(失礼!)ということになる。

●「食べたら、損(そこ)ねる」

 「食べたら、損ねる」。
まず、それに気づく。
太っていてよいことは、何もない。
メタボリック症候群を例にあげるまでもない。

 が、問題は、なぜ太るか、だ。
こう質問すると、「腹がへるからだ」と、たいていの人は、そう答える。
しかし本当にそうだろうか?
そう考えてよいのだろうか?

 実際にはそうではなく、ほとんどの人は、(食べている)のではなく、
(食べさせられている)だけ。
食欲の命ずるがまま、操られているだけ。

まず、それに気づく。

●損得論

 繰り返す。 
私たちの生活は、金銭的判断によって、あまりに毒されすぎている。
わかりやすく言えば、何を食べるにも、「もったいない」という意識が働く。
「もったいないから、食べる」と。

 が、「もったいない」という意識が、たとえば「世界の食糧そのものが不足している
から」と考えて、そこから生まれているのなら問題ない。
あるいは「食べ物を大切にしよう」という意識でもよい。
しかしもしそれが、「食べなければ損」という意識から生まれているとしたら、おおいに
問題あり、ということになる。

 つまり健康そのものを、金銭的判断に置き換えて考えること自体、まちがっている。
健康はお金では買えない。
さらに言えば、命は、お金では買えない。
少しおおげさな感じがしないでもないが、しかし、健康を考えるなら、一度自分の
中から、金銭的な損得論を消し去らなければならない。

 つまりそれが「はやし浩司流、ダイエット法」の、第一歩ということになる。

●心の実験

 レストランへ入る。
私の好物は、その店の五目焼きそば。
一品(いっぴん)である。
値段は1200円。

 そのとき、こんな実験をしてみる。
最初に自分で、食べる量を決める。
3分の1なら、3分の1でもよい。
箸で、「ここまで食べて、残りは、捨てる」と。

 空腹なとき、この判断をするのは、かなりきびしい。
値段から計算すると、1200円のうちの、800円分を捨てることになる。
(本来なら、料理の量を3分の1にしてもらい、値段も3分の1にしてもらうのが
よいのだが……。)

 実際には、3分の1ほどを食べたところで、さらに空腹感が増大してくる。
かなり強烈な空腹感である。
メカニズム的には、アルコール中毒の人や、ニコチン中毒の人が、酒やタバコを
求める作用と同じ。
視床下部あたりの指令を受けて、脳内にドーパミンが充満する。

 が、心を鬼にして、残りの3分の2を捨てる。
そのときあの感覚、つまり「もったいない」という思いが、ドドーッと心を襲う。
が、それでも捨てる。

●損の美学

 それは生きる美学といってもよい。
そう、それは、まさに「美学」。

 私たちは、常に損をしながら生きている。
損をすることを恐れてはいけない。
損は、その人をたくましくするだけではなく、その人の人生を、より豊かにする。
(反対に、「私は損をしたことがない」という人をみてみると、それがわかる。
どこかこじんまりとしていて、おもしろくない。)

 以前、二男のBLOGに、こんな話が載っていた。

 二男夫婦が、何かの会合に出かけたときのこと。
息子と娘の2人を連れていった。
遅れて行ったこともあり、行ってみると、ケーキの数が残り少なくなっていた。
そのとき、二男の嫁は、息子と娘に、こう言ったという。

 「あとで来る人のために、あなたたちは、1個を2人で分けて食べなさい」と。
つまり残りは、あとから来る人のために、残しておきなさい、と。

 損か得かということを、金銭的判断だけでするかぎり、二男夫婦は、損をしたことに
なる。
しかしそう判断するのは、まちがっている。
二男は、つづくBLOGにこう書いている。
「妻のすばらしさを、再確認した」と。

●生きざまの問題

 つまり私たちのもつ、ものの考え方そのものを改める。
その結果として、ダイエットを遂行する。
それが「はやし浩司流、ダイエット法」ということになる。

 が、この哲学は、何も、ダイエットだけに通ずるものではない。
その人の生きざま、そのものにも、関わってくる。
たとえば昔、『おしん』というテレビドラマがあった。
あのおしんは、当初、生きるために働く。
しかし事業が成功してくると、今度は、働くために生きるようになる。
つまりその分だけ、貪欲になる。

 とたん、生きざまが見苦しくなった。
が、(見苦しくなった)だけでは、すまされない。
おしんは、より大切なものを見失うことによって、命そのものまで粗末にするように
なった。

 わかりやすく言えば、おしんは、働くことによって、自分の心を損(そこ)ねた。

●「食べたら損ねる」

 ダイエットを心がけるなら、基本的な部分で、哲学、さらには生きざまそのものを
変える。
食事制限をするにしても、また運動をするにしても、まずその哲学を確立する。
またそれなくして、ダイエットは、成功しない。

 この私にしても、そうだ。
過去、何十回もダイエットに挑戦し、そして失敗した。
その繰り返し。
が、それもそのはず。
私には、一本、スジの通った、哲学がなかった。
が、今回は、ちがう。
それがここに書いた方法である。

といっても、方法は簡単。
いつも、自分にこう、問いかける。

 「食べたら損(そこ)ねるのか、それとも食べなければ損なのか」と。
私のように、人生観そのものが、金銭的判断に毒されている人ほど、そうしてみたらよい。
答えはいつも、シンプル。
「食べたら損ねる」である。

(付記)

 昨夜、こんな経験をした。
ウォーキングを始めて、30〜40分ほどしたころのこと。
距離にすれば、4〜5キロを歩いていた。
そのとき猛烈な空腹感が、私を襲った。

 その空腹感と闘うというよりは、汗の出方がまだ足りないと感じたので、私はその
先、1〜2キロを走ることにした。
足は痛かった。
が、がまんした。
歯をくしばって、走った。

 で、不思議なことに、1〜2キロ走り、サーッと汗をかいたところで、その空腹感
が消えているのを、私は知った。
あれほど強く感じていた空腹感が、どこかへ消えてしまった。
のどは渇いていたが、空腹感は消えていた。
これはどういう作用によるものなのか?

 汗をかいたことによって、水分が抜け、血糖値が相対的にあがった?
これはあくまでも私という素人によるものだが、そう考えると、うまく説明ができる。
おもしろい現象だったので、ここに書きとめておくことにする。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司 

●愚痴(Complaint or Grumble)

++++++++++++++++++++++++

英語と日本語を一致させることはできない。
微妙にニュアンスがちがうことが多い。
たとえば「愚痴」を、英語では、「complaint(不平・不満)」という。
しかし「愚痴」と、「complaint」は、どこかちがう?
そういうことはあるが、その「complaint」について、アメリカの精神医学会
(American Psychiatric Association)は、「不安神経障害(Anxiety Disorder)」
の主症状のひとつにあげている(DSM-4)。

愚痴をあれこれ言うこと自体、「障害(Disorder)」のひとつというわけである。
なるほど!
だから、愚痴は言わない。

APAのHPには、つぎのようにある(一部抜粋)。

In behavioral health care as in general medicine, when an individual complains of a 
subjectively experienced disturbance or unpleasant perception such as pain or anxiety, we 
call this a symptom. We distinguish this from a sign such as slurred speech which a 
professional can observe.
(苦痛や心配ごとのような混乱や不快感について、不平、不満を訴えることを、「症状」といい、
たとえばおどおどした態度のような、専門家でないと区別できないような症状を、「兆候」とい
う。)

+++++++++++++++++++++++++

●日本語

 日本語を使っているとき、ときどき、こう感ずることがある。
「日本語って、すぐれているなあ」と。
とくに(心)を表現する用語が、きわめて豊富である。

 たとえば10年ほど前から、欧米では、さかんに「attachment(アタッチメント)」
という言葉が使われるようになった。
「愛着行為(行動)」と翻訳されている。
が、これなどは、「赤ちゃん返り」の類義語と考えればよい(反論もあるだろうが……。)

 心理学で言う「固着」にしても、日本語には、「わだかまり」とか、「こだわり」とか
いう言葉がある。その類義語と考えればよい。(反論もあるだろうが……。)

 さらに日本語には、「取り越し苦労」とか、「ヌカ喜び」という言葉もある。
これなどは、まさに「不安神経障害(Anxiety Disorder)」の主症状のひとつと考えてよい。
(反論もあるだろうが……。)
精神的に不安定な人ほど、取り越し苦労とヌカ喜びを、いつも繰り返す。

 私たちは専門家ではないから、(逃げるわけではないが……)、要するに、心理学と
いっても、よりよく自分の人生を生きるための道具にすぎない。
またそういう目的のために利用すればよい。
(それでお金を稼いでいる人は別だが……。)

冒頭にあげた、愚痴(complaint)にしてもそうだ。
「愚痴を口にしたら、精神状態はふつうでない」と考えてよい。
(反論もあるだろうが……。)

●K子さん(62歳)の例

 当時、私は無料で、電話相談なるものを受け付けていた。
そんなある日、K子さんという女性から、家族の問題について、相談があった。
静かで、落ち着いた女性だった……と感じたのは、最初の1回目のときだけ。
それにつづく相談は、まさに「?」としか思えないようなものだった。

 いくつか特徴があった。

(1)一方的にしゃべるだけ。
(2)不平、不満をしゃべるだけ。
(3)「では、どうすればいいのか」という話し合いができない。
(4)ことこまかに、どうでもよいことを、しゃべるだけ。
(5)つぎの相談のときには、前の相談のことを忘れてしまっている(?)。
(6)前回の相談のときの矛盾をつくと、パニックになる。
(7)「私はすばらしい」「まちがっていない」ということを強調する。
(8)私が反論的な意見をそえると、それに猛反発する。
(9)子どもの相談といいながら、ときとして、夫や姑の話になる。
(10)そういう電話が、毎回、ときに1時間以上も、ねちねちとつづく。

 当時の私は、「愚痴を聞いてやるだけでもいいのでは」と考えて、K子さんの
言うままにしておいた。
しかしまともに聞いていると、こちらまで気が変になりそう。
そう感じたから、ときには受話器を耳からはずして、「そうですか」「そうですね」だけを
繰り返した。
一度だが、私の方から電話を切ろうとしたことがある。
とたん、K子さんは、パニック。
激怒。

「どうして私の話を聞いてくれないのですかア!」と。

●愚痴 

 「愚痴は言わない」というのは、さわやかに生きるための大鉄則。
だが、同時に、「他人の愚痴を聞かない」というのも、重要。
愚痴には、恐ろしい魔力がある。

 仏教でも、肉体の奴隷になることを、強く戒めている。
もし肉体の命ずるままに、精神が動揺したら、人間はそのまま畜生と化す。
その中でも、とくに警戒すべきものが、『貪(どん)』『瞋(しん)』『痴(ち)』。

ここでいう『痴』というのは、仏教でいうところの『愚痴(ぐち)』をいう。

 要するに、(愚かさ)が極まった状態を、『痴(ち)』といい、それが愚痴の語源に
なっている。
わかりやすく言えば、愚痴を言うこと自体、その人が愚かであることを意味する。
その(愚かさ)に接していると、接するこちら側まで、愚かになる。
だからある賢人は、こう言った。

 「怒っていたら、愚痴を言うな。愚痴を聞いても、怒るな」と。
けだし、明言である。

 ともかくも、愚痴を言うということ自体、アメリカでは、精神障害(mental disorder)
を疑われるということ。
日本では、愚痴を軽く考える傾向があるが、アメリカでは、そうでないということ。
気をつけよう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW はやし浩司 愚痴 愚痴論 complainment 不安神経障害)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●即、実行!

+++++++++++++++++

最近、とくに心がけていることが、ひとつある。
何かと忘れっぽくなったこともある。
あるいは年々、気力が弱くなるのを、感じていることもある。

……ということもあって、「即、実行!」。

今できることは、(あと)に回さない。
明日に回さない。
来週や、来月に回さない。
即、実行!

+++++++++++++++++++++

●気力

 庭をながめていて、木々の枝が伸びたのがわかる。
即、ハサミをもって、庭に飛び出る。
 腹がはれぼったく、重い。
即、センナ(便秘薬)を煎じて、飲む。
 C県に住むKさん夫婦のことを思う。
即、近くの店に行って、届け物を買うなど、など。

 遊ぶときも、そうだ。
今できることは、今、する。
「明日、行こう」とか、「来週にしよう」などとは、考えない。
映画でも、思い立ったら、その夜にでも行く。
午後10時〜の深夜劇場は、いつもがらがら。

 余裕のない生き方に思う人もいるかもしれない。
しかし私は本気。
というのも気力が弱くなっているのが、自分でもよくわかる。
ときに、投げやりになる。

しかし気力というのは、一度弱気になると、そのままずるずると、ますます
弱くなってしまう。
だから自分をあえて奮い立たせながら、今できることは、今する。
それが「即、実行!」。

●出鼻

 が、反対に、出鼻をくじかれることもある。
「やろう!」と覚悟していても、横槍が入ったりする。
相手との日程が合わなかったりする。
そういうとき、とたんに調子が狂う。

 これはたぶんに、私のわがままな性格によるものかもしれない。
そういうとき、自分を納得させるのが、むずかしい。
迷う。
戸惑う。
時に、相手に対して、憎悪の念を覚えることもある。
最近でも、こんなことがあった。

 法務局へ届ける書類があった。
自分でしようと思えば、自分でできた。
が、時間がなかった。
だから近くの司法書士に、それを頼んだ。
が、その司法書士は、その書類を、何と10日も、ほうっておいた!
当然、手続きはすんでいるものと思って電話をすると、「これからします!」と。

 こういう場面に出くわすと、自分をどうコントロールしてよいか、わからなくなる。
怒りを抑えるだけで、一苦労。

●ボケ防止

この「即、実行」には、もうひとつの意味がある。
実の話、このところ、何かにつけて、忘れっぽくなった。
2つ、3つくらいのことなら、何とかなるが、4つ、5つと重なると、そのうち
1つや2つは、忘れてしまう。

 ボケの始まりか?
その一例が、アイディア。

 こうして文章を書いていると、ときにつぎつぎと、アイディアがわいてくることがある。
で、そのときは、「覚えておこう」と思う。
「メモなど必要ない」と思う。
が、しばらくすると、それが何だったか忘れてしまう。

 そういうことが、最近、ふえてきた。
つまり自分に自信がもてなくなってきた。
しかしそれは、恐怖そのもの。
得体がつかめないだけに、不気味。
一時的なものであればよいが、もしそれがボケの前兆であるとしたら……?
ゾーッ!

 だから、ますます即、実行ということになる。
思いついたら、その場で、文章にしていく。
が、今のところ、メモにして残すということは、あまりしていない。
しかし、それも時間の問題か。
できるだけ頭の中に記憶しておこうと思っているが、そのうち、メモ用紙は
常備品になるかもしれない。

 (実際には、一度、小型ボイスレコーダーを買って、持ち歩いたこともある。
しかし長つづきしなかった。)

 ……だから、即、実行。
何かにつけて、即、実行。
即、実行、あるのみ。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG・09++++++++++はやし浩司

●愚痴な人とは、つきあわない

 「愚痴(ぐち)な人」というのは、「愚かで、智恵がない人」のことをいう。
日本語で言う「グチ(愚痴)」とは、少し意味がちがう。
が、共通しない部分もないわけではない。
愚かで、智恵のない人ほど、グチをよくこぼす。

 そういう愚痴な人とは、関わりをもたない。
あえて遠ざかる。
これは自分の人生を賢く生きるための、鉄則と考えてよい。
というのも、愚痴な人には、恐ろしい魔力がある。
しばらくつきあっていると、こちらも、その人に染まってしまう。
こんなことがあった。

●オバチャン

 先日、観光バスに乗って、伊豆のほうへ旅をした。
そのときのこと。
うしろの席に、2人のオバチャンが座った。
年齢は、2人とも、55〜60歳くらい(?)。
その2人が、ペチャペチャと、意味のない話をし始めた。
実に、中身のない会話だった。
それに大声だった。

(このエピソードについては、以前にも書いたことがある。)

「隣の家の嫁は、どうのこうの」
「あそこの息子は、親の一周忌にも顔を出さなかったから、どうのこうの」
「だから今に、あの息子は、地獄に落ちるとか、何とか」
「今度のちぎり絵の先生は、性格が悪いとか、何とか」などなど。

 一度、私が「もう少し、小さい声で話していただけませんか」と頼むと、こう言った。
「私ら、おしゃべりが楽しみで、旅行しているもんねエ〜」と。
そして行きのバスの中でも、帰りのバスの中でも、口の動きを止めることはなかった。
時間にすれば、往復、計5時間以上!

 私たちは、2人のオバチャンの話を5時間も聞いたことになる。
その間、私の思考力は停止したまま。
小型パソコンに文字を打ち込もうとしても、何も書けない。
気がついたときには、私自身も、同じような考え方をし始めているのを知った。

 で、そのオバチャンたち。
私たちがバスを降りるとき、皮肉たっぷりの言い方で、こう言った。
「お元気でエ〜」「さようならア〜」と。
私たちはそれを無視した。
せっかくの旅行も、それで台なし。

●賢者は孤独

 『若い人は、老人をバカと思う。しかし老人は、若い人をバカと思う』。
そう言ったのは、どこかの賢人である。

 しかし老人にも、バカな人は多い。
若い人にも、賢い人は多い。
しかし総じてみれば、加齢とともに、人はますます愚痴な人になっていく。
特別な努力をしないかぎり、そうなっていく。

 で、(特別な努力)というのは、つまるところ「精進(しょうじん)」という
ことになる。
つまり日々の研鑽(けんさん)あるのみ。
死ぬまで、研鑽あるのみ。
それ以外に、自分を愚痴の世界から守る方法はない。

 そこで結論。

 あなたの周りにも、愚痴な人はいるはず。
こずるくて、口がうまい。
よくしゃべるが、中身がない。
会えば、グチばかり。

会話の中にも、「だからそれがどうしたの?」という部分が、まったくない。
そういう人とは、勇気を出して、遠ざかる。
(勇気)というのは、その分だけ、あなたは孤独になる。
その孤独に耐えるには、それなりの覚悟が必要。
言うなれば、小船で大海へ乗り出すようなもの。
だから(勇気)ということになる。

 そこで一言。
『賢者はいつも孤独なり』と。

 私が考えた格言だが、言い換えると、賢い人というのは、そういう孤独に耐える力の
ある人ということになる。
孤独に耐える力なくして、私たちは賢者になることはできない。
(もちろん、私のことではない。
私には、その力はない。
そうありたいとは思うが、私のことではない。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
愚痴 愚痴な人 愚かな人 精進 賢人 愚痴論)

Hiroshi Hayashi++++++++AUG・09++++++++++はやし浩司

【働くしか能がない】

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AS首相は、「(老人たちは)働くしか能がない」と言う。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
が、しかし(働く)ということは、とても大切なこと。
今日も、こんな経験をした。

++++++++++++++++++++

●昼寝

 ここ数年、ちょうど昼ごろ、昼寝をすることが多くなった。
とくにこの1年、それが日課になりつつある。
朝、早く起きるということもある。
それもあって、一仕事したあと、時刻的には、午前10時〜11時ごろ、
もう一度、床に入って、眠る。

 昼寝といっても、1時間以上、眠ることは、めったにない。
たいてい静かに目を閉じているだけ。
が、ときに30〜40分間くらい眠ることがある。
今日もそうだった。
午後1時ごろ、いつものように、ふとんの上に横になった。

 で、仕事に行く時刻になった。
時計を見ると、1時45分。
少し眠ってしまった。
夢の残像が、まだ残っていた。

 が、私は血圧が低い。
目を覚ましたからといって、すぐには起き上がれない。
そのままの姿勢で、5分前後、まわりを眺めたりして、過ごす。
が、そのとき、ワイフが心配して、私を起こしにきた。
私は体にぐいと力を入れて、体を支える。
その勢いを借りて、起き上がる。

 そのときのこと。
私は、こう思った。
「もし、仕事がなかったら、私はどうなるのだろう?」と。

●選択

 「仕事に出かけなければ……」という思いがあるからこそ、私は起き上がる。
無理をしてでも、起き上がる。
が、もし仕事がなかったら、私はだるい体になまけて、そのまま眠ってしまうに
ちがいない。
ワイフも起こしには、こないだろう。

が、そのまま眠ってしまったとしたら……。
そんな生活を、毎日のようにつづけたとしたら……。

 私はそのまま老人の仲間入りをしてしまうことになる。
だから起き上がるとすぐ、私はワイフにこう言った。
「仕事があるということは、それだけでも、ありがたいことだね」と。

 ……たしかに、つらい。
だらけた体にムチ打って、起き上がるのは、たしかにつらい。
しかしその(つらさ)があるからこそ、私には、(今日)がある。
(健康)もある。
これはお金(マネー)の問題ではない。
仮に、つぎうちのひとつを選べと言われたら、私はまちがいなく、(2)の
ほうを選ぶ。

(1)年金を30万円もらって、遊んで暮らす。
(2)給料を30万円もらって、働く。

 もっとも仕事といっても、ハードなものはできない。
(そこそこの仕事)ということになる。
もっと言えば、収入に見合った、楽な仕事ということになる。
そうであるなら、遊んで暮らすよりは、働いていたほうがよい。

 それがつぎの(健康)へとつながっていく。

●働く喜び

 (働ける)ということは、それ自体が、大きな喜びである。
働くことによって、生活に緊張感とリズムが生まれる。
で、その私がもし働かなくなったら、どうなるか。
想像するだけでも、ぞっとする。
そのことは、現に、仕事から引退して、日々を無益に過ごしている人を見ればわかる。

 もっとも人は、ふつうの精神状態であるなら、何もしないで過ごすことはできない。
(退屈)は、それ自体が、(苦痛)。
その苦痛に、人はそれほど長くは耐えられない。
だからほとんどの人は、退職したりすると、何かの運動や、ボランティア活動を
始めたりする。
孫の世話や、庭いじりをする人もいる。
が、それにも限界がある。
やがて虚(むな)しさに襲われるようになる。

たいていは何かの病気や事故をきっかけに、運動をやめたり、ボランティア活動から
遠ざかったりする。
が、一度中断すると、もとに戻るのは、至難のわざ。
たいへん難しい。
そこであとはやがて、お決まりの老人メニューに沿って、そのまま死の待合室へ……。

 であるとするなら、できるだけ現役時代を、つづける。
延ばす。
限界の、そのまた限界を感ずるまで、働く。
そしてここが重要だが、(死)がそこにきたら、いさぎよくそれを受け入れる。

 これは口で言うほど簡単なことではないかもしれない。
それはわかっている。
しかしもしそうなったら、いさぎよく、運命を受け入れる。
それが(死)であるなら、それもしかたのないこと。
今の私は、(本当のところ、自信はないが)、そう考える。

●「働くしか能がない」

 そんなわけで、確かに、「働くしか能がない」かもしれない。
ほかにやりたいこともない。
できることもない。
少なくとも、今の私には、働くしかない。
一方、「遊べ」と言われても、私は、すぐそのつぎを考えてしまう。
「遊んだからといって、それがどうなの?」と。

 AS首相は、失言をカバーするため、「歳をとってから、新しい遊びを見つける
ことはできない」と言った。
これも、たしかにそうかもしれない。
そうでないかもしれない。

しかし私は、遊びたくない。
遊んで、時間を無駄にしたくない。
繰り返すが、遊んだからといって、それがどうなのか。
今の私にとって、そして多くの老人にとっては、(時間)イコール(命)。
その命を、無駄にしたくない。
今さらゴルフ(AS首相)ができるようになったからといって、それがどうなのか?

私「どんなことがあっても、最後の最後まで、ぼくは仕事をするよ」
ワ「それがいいわね」
私「何も仕事をしなくなってしまったら、ぼくは、気が変になる」
ワ「そうね」と。

(補記)

●老後の生きがい

 生きがいなくして、老後を生きるのは、むずかしい。
心豊かに生きるのは、さらにむずかしい。

私の知人(現在85歳、男性)に、こんな人がいる。
満55歳で役所を定年退職をしたあと、この30年間、ほとんど家の中に
引きこもったまま。
妻が薬剤師をしていたこともあり、自分では、それ以後、仕事をしたことはない。
ただの一度もない。
人づきあいも、まったくといってよいほど、しない。

 その知人を、この30年間の様子を、10年単位で輪切りにしてみると、
ますます変人かつ、がんこになっていくのがわかる。
その一例だけをもって、こう結論づけるわけではないが、私は、ああはなりたくない。
いくら年金生活といっても、そんな年金生活に、どんな意味があるというのか。
10年を1日にして、生きているだけ。

 しかも10年ごとに、より賢くならまだしも、ここに書いたように、ますます
おかしくなっていく。
軽い認知症も起こしている。
一度、脳梗塞か何かで、救急車で運ばれたこともある。

 もっとも当の本人は、他人のそれと比較することもない。
自分の生活がどういうものであるか、それを知ることはない。
病気にたとえるなら、病識そのものがない。
で、私はいちばん恐れるのは、そのこと。
自分が変人になりつつありながら、それに気づかないというのは、恐怖以外の
何ものでもない。
それこそ私が、(私)でなくなってしまう。
(すでにその兆候が現れつつあるのかもしれないが……。)

 どうすれば、自分の変化を知ることができるか。
またどうすれば自分が変化することを、食い止めることができるか。
そのためにも、仕事をつづけることは、重要なこと。
社会との接触を保つこと。
仕事そのものが、社会につながる(窓口)ということになる。

 だから、みなさん!
私たちは働こう。
最後の最後まで、働こう。
お金(マネー)のためではない。
私たち自身のためである。
「働くしか能がない」と言われても、構わない。
気にすることはない。
そんなことは、どこかのバカに言わせておけばよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 老後の生きがい 老後の生き方 統合性)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG・09++++++++++はやし浩司

●子どもの問題

子どもの問題をかかえて、悩んでいる人は多い。
「勉強をしない」
「目標をもってない」
「毎日、だらだらしている」
「自覚がない」
「親子の会話が途絶えた」などなど。

しかしそういうとき、どうして親たちは、自分の姿を見ないのか?
自分のこととして、考えないのか。
つまり「私自身はどうなのか」と、なぜ、考えないのか。

ある母親は、こう言った。
「うちの子(中学3年、男子)は、学校から帰ってきても、受験勉強どころか、
学校の宿題もしません。どうしたらいいですか」と。

私はその質問を聞いて、こう思った。
(思っただけで、言わなかったが……。)
「だったら、お母さん、あなた自身が勉強をすればいい」
あなた自身が、東大へ入ってみせればいい」と。

先に書いた親の悩みについても、同じようなことが言える。

「勉強をしない」(だったら、あなたは勉強をしているのか?)
「目標をもってない」(だったら、あなたは目標をもっているのか?)
「毎日、だらだらしている」(だったら、あなたは、きびきびとしていのか?)
「自覚がない」(だったら、あなたは自覚しているのか?)
「親子の会話が途絶えた」(だったら、あなたは会話をしているのか?)、と。

最近の考え方としては、「子どもは家族の代表にすぎない」とする。
子どもに何かの問題があったとしても、それは子どもだけの問題ではない。
家族全体の問題である。
子どもに現れた症状は、あくまでもその(結果)にすぎない。
そう考えて、対処する。

かなりきびしいことを書いたが、それくらいの心構えをもってこそ、
ちょうどよい。
私たち日本人は、親意識が強い。
子どもだけをみて、子どもを何とかしようと考える。
しかしそういう見方では、問題は解決しない。
子どもも納得しないだろう。

 
Hiroshi Hayashi++++++++AUG・09++++++++++はやし浩司

【離婚・補記】

●ある離婚

 先ほど、ある夫婦の離婚問題について、意見を書いた。
東北地方のある県に住む人から、相談があった。
自分なりに、意見をまとめた。

が、人との出会い、別れは、この世のつきもの。
それはわかる。
が、離婚は、別。
最大の別れということになる。
その深刻さには、想像を絶するものがある。
敗北感もある。
挫折感もある

たとえば「離婚」にしても、「明るく、さわやかに」とはいうものの、そう簡単には
いかない。
ほとんどのばあい、それに先立って、はげしい騒動、あるいは冷却しきった
夫婦関係がつづく。
神経を、互いにとことん、すり減らす。
その結果の離婚ということになる。

 また離婚したあとも、たいへん。
先日も、ある夫婦が離婚した。
夫は、養子縁組をしたあと、その家のひとり娘と結婚した。
ついでに戸籍の筆頭者になった。

こういうケースのばあい、離婚したといっても、養子縁組は、そのまま残る。
戸籍の筆頭者になっているから、養子縁組を解消するためには、また別の手続きが
必要となる。

 元夫は、「離縁しない」とがんばっている。
元妻は、「先祖の財産は、1円も渡さない」とがんばっている。
こうなると、離婚騒動も、泥沼化する。
家庭裁判所での離婚調停という方法もあるが、実際には、怒鳴りあいになって
しまうという。
話しあいにならないという。

●夫婦とは何か 

 こうした離婚劇をみていると、(「劇」という文字を使うこと自体、失礼なことだが……)、
「では、夫婦とは何か」と、そこまで考えてしまう。
どの夫婦も、結婚するときは、それなりの覚悟をもって、結婚する。
多くは、家族や親類に祝福され、また多くは、その夫婦の年収分以上のお金をかけて、
結婚式をあげる。

 が、離婚する人は、離婚する。
その結果、日本人の離婚率は、20数%ということになっている。
が、その一歩手前で、ふんばっている夫婦となると、その数倍はいる。
ほとんどが、そうではないか。

 つまり夫婦を維持するためにも、それなりの努力が必要。
その努力なくして、夫婦は、夫婦でありえない。
結婚というのは、そういうもの。
その(努力)を前提として、成り立っている。

●夫婦としての努力

 共働きといっても、夫婦で同じ仕事に取り組んでいるようなケースでは、離婚率は、
ぐんと低くなる。
たとえば農業経営者。
私が知るかぎり、農業を営んでいる夫婦で、離婚した人はいない。
あるいはたいへん少ない。
商店経営者、理髪店経営者も、そうだ。

 夫婦が、生活の歯車の中に、がっちりと組み込まれているため、「離婚したくても、
離婚できない」という現状が、そこにある。

 一方、これも私が知るかぎり……という話になるが、離婚する夫婦というのは、
夫がサラリーマンであるケースが、ほとんど。
「熟年離婚」となると、とくにそうである。
結婚したときから、別々の生活が始まる。
重なり合う生活そのものが、少ない。

 そこでひとつのヒントだが、仮に夫がサラリーマンであっても、夫婦は、共に、
同じ生活の場をもったほうがよいということ。
(同じ生活の場)をもつという意味で、努力が必要となる。
「あなたは、あなた」「私は、私」という夫婦もいるが、そういう夫婦は、ささいな
きっかけでも、離婚ということになってしまう。

 夫婦には、その(ささいなきっかけ)が、つきもの。
毎日が、その連続と言ってもよい。
 
●私たち夫婦

 私たち夫婦のばあい、基本的には、サラリーマン家庭ということになる。
(仕事)という面で、ワイフとの接点は、ほとんど、ない。
ここ4、5年になってはじめて、何かと手伝ってくれるようにはなったが、それ以前は
というと、まったくと言ってよいほど、接点はなかった。

 が、それではいけない。
それがわかったから、最近は、できるだけワイフにも仕事を手伝ってもらうように
している。
講演に招かれることも多いが、できるだけいっしょに行くようにしている。
趣味も、運動も、できるだけいっしょにするようにしている。
ワイフにとっては、私はうるさい夫かもしれないが、そうでもしないと、私たち夫婦は
バラバラになってしまう。
そういう危機感は、いつも、ある。

 理由がある。

 私は、愛情の希薄な家庭で生まれ育っている。
とくに私の脳みそには、ちゃんとした父親像が入っていない。
ワイフも、4、5歳のとき、母親を亡くしている。
ちゃんとした母親像が入っていない。
ときどきワイフの中に、ぞっとするような(冷たさ)を感ずることもある。
だから「努力が必要」ということになる。

●結論

 『子はかすがい』とはいうが、子どもを理由にして、離婚を思いとどまる必要はない。
大切なのは、離婚の仕方。
できれば「明るく、さわやかに」となる。
子どもに与える影響を考えるなら、それが正しい。
子どもに与える影響は、最小限にとどめたい。
またそれが夫婦の責任であり、子どもへの愛ということになる。

 が、これも実際には、むずかしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 離婚 はやし浩司 離婚問題)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG・09++++++++++はやし浩司※

【年収と学力】(Parent' s Income and their Children's Ability of Studying)

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予想されてはいたことだが、平たく言えば、
金持ちの親の子どもほど、成績は総じてよいということ。

文科省は、全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)
をもとに、このほど、そのような調査結果を公表した。

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●年収200万円層

 時事通信(8月5日)は、以下のように伝える。

 『年収が多い世帯ほど子供の学力も高い傾向にあることが、2008年度の小学6年生を対
象にした全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)を基に行われた文部科学省の委託研究
で4日、分かった。学力テストの結果を各家庭の経済力と結び付けて分析したのは初めて。

 委託研究では、5政令市にある公立小、100校を通じて、6年生約5800人の保護者から家
庭環境などのデータを新たに収集。個人名が分からないよう配慮した上で、学力テストの結果
と照合した。

 学力テストには、国語、算数ともに知識を問うA問題と活用力を試すB問題があるが、世帯年
収ごとに子供を分類すると、いずれも200万未満の平均正答率(%)が、最低だった。

 正答率は年収が多くなるにつれておおむね上昇し、1200万円以上1500万円未満だと、2
00万円未満より20ポイント程度高まった。ただ、1500万円以上では正答率が微減に転じ
た』(以上、原文のまま)と。

●数字の整理

 数字を整理してみる。

(1)年収200万円未満の平均正答率が、最低だった。
(2)年収が1200万円〜1500万円の層は、200万円未満の層より、20ポイント、高かった。
(3)ただ1500万円以上では、正答率は、微減に転じた。

 つまり金持ちの子どもほど、成績はよいということ。
しかし年収が1500万円を超えた層では、正答率が微減に転じた、と。

 が、この調査ほど、納得がいくというか、矛盾を感じない調査はない。
年収1500万円以上の子どもたちの正答率が微減したということについても、
妙に納得がいく。
その分だけ、子どもがドラ息子しているとも解釈できる。

 しかし親の年収で、子どもの学力に(差)が出るということは、本来は、あってならないこと。
しかし現実には、ある。
「金持ちの親の子どもほど、学力が高い」と。
が、ここで新たな疑問が生まれる。
親の年収と、子どもの学力を、そのまま関連づけてよいかという疑問である。

●学歴と親の年収

 それ以前の問題として、親の学歴と、親の年収との間には、明らかな相関関係がある。
学歴が高ければ高いほど、年収も高い。
言い換えると、このことから、親の学歴が高ければ高いほど、子どもの正答率も高くなると言え
なくもない。

(親の学歴が高い)→(年収が多い)→(子どもの正答率が高くなる)、と。

子どもは、いつも親の影響を受けながら、成長する。
つまり年収だけをみて、「親の年収が子どもの学力に影響を与える」と考えるのは、少し、
短絡的すぎるのではないのか?
(もちろん今回の調査では、そんなことは一言も述べていないが……。)

 つまりもっと正確には、(親の学歴が低い)→(その分だけ、家庭における知的環境レベルが
低い)→(子どもの知的学習能力も低くなる)→(正答率が低くなる)、ということではないのか。

 もし親の年収が子どもの学力に直接的に影響を与えるものがあるとするなら、塾などの学外
教育費用、あるいは学外教材費用の面である。
年収に余裕があればあるほど、子どもの学外教育に、親はお金をかけることができる。

●親の知的レベル

 「知的レベル」という言葉を使ったので、それについて補足。

 親の知的レベルが、子どもの知的レベルに大きな影響を与えるということは、常識と
考えてよい。
(ただし親の学歴が高いから、親の知的レベルが高いということにはならない。
反対に、親の学歴が低いから、親の知的レベルが低いというこにもならない。)

 「知的レベル」というのは、日々の生活の場で鍛錬されて、決まるもの。
学歴のあるなしは、それに影響を与えるという程度のものでしかない。
要するに、親のものの考え方次第ということ。
それが子どもに知的好奇心、問題の解決能力に大きな影響を与える。

●知的レベルの怖ろしく低い親

3、4年前のことだが、私はこんな場面に遭遇したことがある。
その家の長男(当時、35歳)に愛人ができ、離婚騒動がもちあがった。
そのときのこと。
その長男の父親は、一方的にどなり散らすだけ。
「テメエ、コノヤロー、オメーモ、男だろがア!」と。
 
 が、これでは会話にならない。
話し合いにもならない。
もちろん騒動は解決しない。
私はその父親の言葉を横で聞きながら、その父親のもつ知的レベルのあまりの
低さに驚いた。

 別のところで話を聞くと、その父親の趣味は、テレビで野球中継を見ること。
雨の日はパチンコ。
晴れの日は海釣り。
本や雑誌など、買ったこともなければ、読んだこともないという。

 子どもに直接的に影響を与えるのは、親の知的レベルである。
学歴ではない。
年収ではない。

●ともあれ……

 ともあれ、(親の年収)と、(子どもの学力)との間に、相関関係があることは、
これで確認できた。
しかしこんなことは、何もあえて調査しなくても、わかりきったこと。
ゆいいつ意味があるとするなら、「20%」という数字が出されたこと。
要するに、平均点が20点ほど、低いということか。

 年収が1200〜1500万円の親の子どもの平均点が、80点とするなら、
200万円以下の親の子どもの平均点は、60点ということになる。
そうまで単純であるとは思わないが、かみくだいて言えば、そういうことになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW 親の年収と子供の学力 親の知的レベルと子供の学力 子どもの学力調査 はや
し浩司 全国学力調査)

(付記)

 都会地域へ大学生を1人送ると、平均して、月額17万円前後の費用がかかる。
それを12倍すると、年額204万円。
つまり年収200万円以下の親の子どもが大学へ通うのは、事実上、不可能。
文科省の今回の調査では、「年収200万円以下」を問題にしているが、この数字そのものが、
少し極端すぎるのでは?
仮に年収100万円以下ということになれば、「家庭」そのものが、成り立たない。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

【家族、そして親戚づき合い】(Families and Blood Relatives)

+++++++++++++++++++++++

家族にもいろいろある。
親戚づきあい。
それにも、いろいろある。
人それぞれ。
みな、ちがう。

家族にせよ、親戚づきあいにせよ、
たがいに良好なら、まだよい。
救われる。
そうでないなら、そうでない。

しかしひとたびこじれると、親戚であるがゆえに、
他人以上の他人になる。
ささいなことでも、はげしく衝突するようになる。
憎しみあい、ののしりあうようになる。

++++++++++++++++++++++++++

●姉妹の確執

 最近、A子さん(40歳)は、姉のB子さん(42歳)と縁を切った。
一切、行き来は、なし。
しかしその理由を知る人は少ない。 
A子さんも、それについては、人に話さない。

 A子さんの夫が、姉のB子さんと、不倫関係をもってしまった。
夫のほうが、B子さんに言い寄った。
悪いのは夫、ということになる。
が、いろいろ事情があって、A子さんは、離婚にまでは踏み込めないでいる。
A子さんの心中は、複雑。

●親子の縁
 
 C氏(55歳・男性)は、この10年以上、母親に会っていない。
その母親が、昨年、脳梗塞で倒れた。
伯父から連絡を受けた。
が、C氏は、見舞いにも行っていない。
が、それにも、理由がある。

 C氏は、母親と別の男性との間に生まれた、不倫の子だった。
気がついたのは、学生時代のことだった。
ほかの3人の兄弟(兄2人、妹1人)と、血液型が符合しなかった。
で、念のためにと、DNA鑑定をしてもらった。
結果、C氏だけは、別の男性の子であることがわかった。
C氏はこう言う。

 「父はもう死んでいるから、本当のことを話してほしい。
しかし母は、いまだにとぼけている。
私はそれが許せない」と。

●外面(そとづら)と内面(うちづら)

 外面と内面が、まったく異なる人は、珍しくない。
外の世界では、神のような人物を演ずる。
しかし家の中では、まったくの別人。
わがままで、自分勝手。
Dさん(80歳、女性)も、その1人。
「超」の上に、さらにもうひとつ「超」がつくほど、わがまま。
自分勝手。

 嫁がつくる食事を、「まずい!」と言っては、嫁に投げつける。
息子には、「遺産(=土地)がほしければ、今、お前の貯金をよこせ!」と怒鳴る。
あるいは泣き声で、懇願する。

 が、他人の視線を感じたとたん、豹変する。
表情まで、別人になる。

●親子関係

 その家には、その家の人たちだけにしかわからない、裏の事情というものがある。
外の人には、それはわからない。
が、外の人は、表面的な部分だけを見て、判断をくだす。
自分の意見を添える。
しかしこういう判断や意見は、当事者たちを、とことん傷つける。
ある人(男性、50歳)は、こう言った。

 「それは心臓をえぐられるような苦しみです。
そういう経験のない人には、理解できないでしょう」と。

 とくに親子関係というのは、本能に近い部分にまで刷り込みがなされている。
それを断ち切るのは、容易なことではない。
実際には、不可能。
だから、もがく。
苦しむ。

 親戚関係にしても、そうだ。
そこに至るまでには、長い歴史というものがある。
かさぶたの上に、かさぶたが重なり、傷口にしても、原型をとどめないほどまでに、
複雑になっている。
そういうケースは多い。

●神経戦

 「村八分」という言葉がある。
「今では、死語になっている」と説く人もいる。
「遠い、昔の話」と。
しかし現実には、残っている。
ここにも、そこにも、どこにでも残っている。
「村」という単位ではなく、「親戚」という単位となると、もっと多い。

 が、「八分」にする人も、またされる人も、とことん神経をすり減らす。
すり減らしながら、神経戦を繰り返す。
果てしない消耗戦と言ってもよい。
それが5年、10年単とつづく。

●ダカラ論
 
 要するに、たとえ親戚であっても、家族の問題には、首をつっこまないこと。
相手の側から相談でもあれば、話は別だが、そうでなければ、そっとしておいて
やる。
それが思いやりというもの。
まちがっても、安易な『ダカラ論』や、『スベキ論』で、相手を責めてはいけない。

 私もいろいろあって、この『ダカラ論』や、『スベキ論』に苦しんだ。

 「お前は、子だろ」「お前は、大学まで出してもいらっただろ」「産んでもらった
だろ」「育ててもらっただろ」と。
「いくら事情があっても、親は親だからな」と言ってきた人もいた。
「だから、お前は〜〜すべき」と。

●「親戚」という呪縛

 今、「親戚」という足かせの中で、もがき、苦しんでいる人は多い。
こうした原稿をBLOGなどで発表すると、ものすごく多くの人たちから、反響が届く。
「私も……」「私も……」といった感じである。

 「正月に実家へ帰ると考えただけで、頭が痛くなります」といったレベルの
人まで含めると、3人に1人くらいはいるのでは?
つぎのような原稿があるのを思い出した。
日付を見ると、06年となっている。
今から3年前の原稿である。

++++++++++++++

【親子の確執】

フロッピーディスクを整理していたら、

こんな相談が出てきた。



そのときは相談してきた方の立場になって、

それなりに返事を書いたつもりでいる。



しかし、記憶というのは、いいかげんな

もの。「そういうことがあったな」という

程度には、思い出せるが、そこまで。

もし偶然であるにせよ、その相談を見ることが

なかったら、私は、そんな相談があった

ことすら、思い出すこともなかっただろう。



+++++++++++++++++



 何枚かのフロッピーディスクを、整理していたら、こんな相談が出てきた。パソコンからパソコ
ンへの原稿の移動には、私は今でも、フロッピーディスクを使っている。



 まず、そのときの相談を、そのままここに転載する。当時、相談をしてきた方から、転載許可
をもらった記憶だけは残っている。



+++++++++++++++++



【YDより、はやし浩司へ】



 以前にもご相談させていただきましたYDです。 今回は私と実父とのことで、ご相談をお願い
したいと思いました。 



18歳のときに、私は、今の主人とつきあい始めました。そのときは、私が進路未定の状態だっ
たので、私たちの交際は、猛反対されました。 



 幼稚だった私は当時、交際を隠し続けていたのですが、結局、親が知るところとなり、私は家
を飛び出し、主人の所に転がり込む形で、家族との縁を切りました。そのときから体の不調が
始まり、主人と同棲を始めると同時に、自律神経失調症とわかり、一年間、薬の服用をしまし
た。(主治医の先生によると、「おびえ」という症状との見解でした。)



 実家とは絶縁状態のまま結婚、出産し、4年が過ぎたころ、実母が亡くなり、家の敷居をまた
ぐになりましたが、実父との関係は、今でも修復されないままでいます。



 母は子供の頃から誰にも言えない胸のうちでも、私には話せるようで、愚痴の聞き役のよう
な感じでした。家を出てからも、父に隠れながら、毎日のように電話をくれました。しかし私の話
より、自分の愚痴や不安を聞かされ、私が励ます内容の電話が多かったと思います。そのせ
いか、私は心のどこかで、父を軽蔑していると自分では思っています。

 

 母が亡くなった事で、法事などで実家に行くこともありますが、主人は父を嫌って極力実家に
は近づこうとしません。父にはそれがもの凄く不満のようで、「もっと先祖(=私)を大事にしてく
れ」と訴えるのですが、主人は、自分の両親・姉でさえとも一線を引くようなところがあり、自分
と合わない人間とは付きあわないところがあります。主人の気持ちも考えると、どちらにも強く
言えないでいます。 



 このお正月に母のお墓参りに行きましたが、場所が北海道と遠いこともあり、また車で行くと
いうこともあり、雪も降ったあとだったので、詳しい日程が立てられないまま行きました。



 結局、予定より2日も余裕ができたので、叔父達に会いに行くことができましたが、事前に詳
しく連絡を入れていなかったことで、父に迷惑がかかり、怒られる結果となりました。



 父は「相手の立場に立って思いやりを持って行動すべきだ。相手にも都合がある。正月とい
う時期だから、余計に考えるべきだった。自分(=父)が何も知らせないで、勝手に決めすぎ
だ」と言われましたが、今回は行き当たりばったりで、皆に迷惑をかけたのは確かだと、自分で
は思っています。 



 事前に父に密に予定を話しておけば良かったことなのですが、私自身ごちゃごちゃ言われた
くないから、最低限のことだけ伝えればいいやと、父とのコンタクトを避けてしまった結果だと、
自分では思っています。 



 父は、私の家族であるリーダーは主人だから、私に言っても仕方なく、主人が考え、行動す
べきことであり、主人と話をすることを考えていると言っています。私は主人の性格を考える
と、余計に父を疎ましがるのではないかと思い、まずは私が父とコミュニケーションを取れるよ
うにならなければ、今の関係の改善は難しいと思うのですが。



 また、私たち家族が出向くことによって父が、叔父達に「よろしくお願いします」「お世話になり
ました」と動けるように、私たちから働きかけるべきなのでしょうか? 父にその必要があるの
なら、父から聞いてくればいいのにと、どこか反発心もありながら、社会を見ないまま家庭に入
った身として、常識に欠けているのか判断ができずにいます。まず何から改善すべきか見出せ
ない現状です。



 文章が支離滅裂でお恥ずかしいのですが、先生はどう感じたでしょうか? 聞かせていただ
けるととても嬉しいです。



++++++++++++++++++



当時のことを思い出すために、

YDさんからの相談を、自分の

原稿集の中で、検索してみた。



で、さらに驚いたことに、この相談を

もらったのは、(06年 FEB)とある。



つまり今年の2月!



私はたった9か月前のことすら、

もう忘れてしまおうとしている!



ついでにそのときYDさんに書いた

返事を、そのままここに載せる。



+++++++++++++++++



●「家族」とは何か?



 多くの人にとっては、「家族」は、その人にとっては、(心のより所)ではあるが、しかし一度、
歯車が狂うと、今度は、その「家族」が、重圧となってその人を苦しめることがある。ふつうの苦
しみではない。心理学の世界でも、その苦しみを、「幻惑」と呼んでいる。



 そういった「家族」全体がもつ、束縛意識、結束意識、連帯意識を総称して、「家族自我群」と
呼ぶ学者もいる。こうした意識は、乳幼児期から、親を中心とする家族から本能に近い部分に
まで刷りこまれている。そのため、それから自らを解放させることは、容易なことではない。



 ふつう、生涯にわたって、人は、意識することがないまま、その家族自我群に束縛される。
「親だから……」「子だから……」という、『ダカラ論』も、こうした自我群が背景となって生まれ
る。



 さらにこの日本では、封建時代の家督制度、長子相続制度、権威主義などが残っていて、親
子の関係を、特別視する傾向が強い。私が説くところの、「親・絶対教」は、こうして生まれた
が、親を絶対視する子どもは、少なくない。



 が、ときに、親自身が、子どもに対して、その絶対性を強要することがある。これを私は「悪
玉親意識」と呼んでいる。俗に言う、親風を吹かす人は、この悪玉親意識の強い人ということに
なる。こういう人は、「親に向かって、何てことを言うのだ!」「恩知らず!」「産んでやったでは
ないか!」「育ててやったではないか!」「大学まで出してやったではないか!」というような言
葉を、よく口にする。



 もともと権威主義的なものの考え方をする傾向が強いから、人とのつながりにおいても、上下
意識をもちやすい。「夫が上、妻が下」「男が上、女が下」と。「親が上で、子が下」というのも、
それに含まれる。さらにこの悪玉親意識が強くなると、本来なら関係ないはずの、親類の人た
ちにまで、叔父風、叔母風を吹かすようになる。



 が、親子といえども、基本的には、人間対人間の関係で、決まる。よく「血のつながり」を口に
する人もいるが、そんなものはない。ないものはないのであって、どうしようもない。観念的な
(つながり)を、「血」という言葉に置きかえただけのことである。



 で、冒頭に書いたように、(家族のつながり)は、それ自体は、甘美なものである。人は家族
がもつ安らぎの中で、身や心を休める。が、それには、条件がある。家族どうしが、良好な人
間関係を保っているばあいのみ、という条件である。



 しかしその良好な人間関係にヒビが入ると、今度は、逆に(家族のつながり)が、その人を苦
しめる、責め道具になる。そういう例は、多い。本当に多い。子ども自身が、自らに「親捨て」と
いうレッテルを張り、生涯にわたって苦しむという例も少なくない。



 それほどまでに、脳に刷りこまれた(家族自我群)は、濃密かつ、根が深い。人間のばあい、
鳥類とは違い、生後、0か月から、7〜8か月くらいの期間を経て、この刷りこみがなされるとい
う。その期間を、「敏感期」と呼ぶ学者もいる。



 そこで、ここでいう家族自我群による束縛感、重圧感、責務感に苦しんでいる人は、まず、自
分自身が、その(刷りこみ)によって苦しんでいることを、知る。だれの責任でもない。もちろん
あなたという子どもの責任でもない。人間が、動物として、本来的にもつ、(刷りこみ)という作
用によるものだということを知る。



 ただ、本能的な部分にまで、しっかりと刷りこまれているため、意識の世界で、それをコントロ
ールすることは、たいへんむずかしい。家族自我群は、意識の、さらにその奥深い底から、あ
なたという人間の心を左右する。いくらあなたが、「縁を切った」と思っていても、そう思うのは、
あなたの意識だけ。それでその刷りこみが消えるわけではない。



 この相談を寄せてくれた、YDさんにしても、家を出たあと、「体の不調が始まり、主人と同棲
を始めると同時に、自律神経失調症とわかり、一年間、薬の服用をしました」と書いている。ま
た実母がなくなったあとも、その縁を断ち切れず、葬儀に出たりしている。

 

 家族自我群による「幻惑」作用というのは、それほどまでに強力なものである。



 で、ここで人は、2つの道のどちらかを選ぶ。(1)家族自我群の中に、身を埋没させ、安穏
に、何も考えずに生きる。(2)家族自我群と妥協し、一線を引きながらも、適当につきあって生
きる。もう1つ、本当に縁を切ってしまうという生き方もあるが、それはここでは考えない。



 (2)の方法を、いいかげんな生き方と思う人もいるかもしれないが、自分の苦しみの原因
が、家族自我群による幻惑とわかれば、それなりにそれに妥協することも、むずかしくはない。
文字が示すとおり、「幻惑」は、「幻惑」なのである。もっとわかりやすく言えば、得体の知れな
い、亡霊のようなもの。そう考えて、妥協する。



 YDさんに特殊な問題があるとすれば、あくまでもこのメールから私がそう感ずるだけだが、
それはYDさん自身の、依存性がある。YDさんは、親に対してというより、自分自身が、だれか
に依存していないと、落ち着かない女性のように感ずる。そしてその依存性の原因としては、Y
Dさんには、きわめて強い(弱化の原理)が働いているのではないか(?)。



 自信のなさ、そういう自分自身を、YDさんは、「幼稚」と呼ぶ。もう少し精神的に自立していれ
ば、自分をそういうふうに呼ぶことはない。YDさんは、恐らく幼いときから、「おまえはダメな子」
式の子育てを受けてきたのではないか。とくに父親から、そう言われつづけてきたように思う。



 そのことにYDさん自身が気づけば、もっとわかりやすい形で、この問題は解決すると思われ
る。



 あえてYDさんに言うべきことがあるとするなら、もう親戚のことや、父親のことは忘れたほう
がよいということ。YDさんがもっとも大切にすべきは、夫であり、父親ではない。いわんや、郷
里へ帰って、親戚に義理だてする必要など、どこにもない。それについてたとえYDさんの父親
が、不満を言ったとしても、不満を言う、父親のほうがおかしい。それこそまさに、悪玉親意
識。YDさんは、すでにおとな。親戚にまで親風を吹かす父親のほうこそ、幼稚と言うべきであ
る。詳しくは、このあとそれについて書いた原稿を添付しておく。



【YDさんへ……】



 お元気ですか。ここまでに書いたことで、すでに返事になってしまったようです。



 私のアドバイスは、簡単です。あなたの父親のことは、相手のほうから、何か助けを求めてく
るまで、放っておきなさい。あなたがあれこれ気をもんだところで、しかたのないことです。また
どうにもなりません。



 父親が何か苦情を言ってきたら、「あら、そうね。これからは気をつけます」と、ケラケラと笑っ
てすませばよいのです。何も深刻に考えるような問題ではありません。



 あなたの結婚当初の問題についても、そうです。いつまでも過去をずるずると引っぱっている
と、前に進めなくなります。



 で、もっと広い視野で考えるなら、そういうふうにYDさんを苦しめている、あるいはその原因と
なっているあなたの父親は、それだけでも、親失格ということになります。天上高くいる神なら、
そう考えると思いますよ。



 本来なら、そういう苦しみを与えないように、子どもを見守るのが親の務めです。あなたの父
親は、結果としてあなたという子どもを苦しめ、悲しませている。不幸にしている。だから、あな
たの父親は、親失格ということになるのです。



 そんな父親に義理立てすることはないですよ。



 今は、一日も早く、「ファーザー・コンプレックス(マザコンに似たもの)」を捨て、あなたの夫の
ところで、羽を休めればよいのです。あなたの夫と、前に進めばよいのです。あなたの夫が、
「実家へ行きたくない」と言えば、「そうね」と、それに同意すればよいのです。



 私は、あなたの夫の考え方に、賛成します。同感で、同意します。



 では、今日は、これで失礼します。



 出先で、この返事を書いたので、YDさんとわからないようにして、R天日記のほうに返事を書
いておきます。お許しください。



【YDさんより、はやし浩司へ】



++++++++++++++++++



私が返事を書いた、翌日、

YDさんより、こんな

メールが届いた。



++++++++++++++++++



はやし先生



 先ほど楽天日記を読ませていただきました。



心が楽になりました。ありがとうございまいた。



 家族自我群にあてはまるのだと教えて頂き、とても感謝しています。先生のホームページか
ら勉強させて頂きマガジンからも勉強させていただいていますが、私は自分の都合の良い情
報ばかりを集めて自分を正当化しようと思っているのではないかと思っていました。



 先生のお書きになった通り、私は依存性が強い人間です。主人と付きあい始めた当初は自
分でも思い出したくないくらいです 苦笑。そして父から褒められた記憶はありません。



 父は「言って聞かないなら殴る。障害者になってもいいんだ」という教育方針で、私が何か悪
いことをすると、殴られるのは当たり前でした。お説教の最中に物が飛んでくるのもよくあること
でした。なので、父からのお説教があってしばらくはもう二度と可愛いと思ってもらえないかもし
れないという恐怖心は強かったと、今になると思います。



 それでも、学校をさぼったりしていたのは、何でだったのか、まだ当時の自分を自己分析でき
ずにいますが・・・。



 「大切にされた記憶がない」と話すと、父は、「毎週(月曜日に剣道に通っていたのですが、終
わるのが夜の9時でした)、迎えに行っていたのになぁ」と言われた事があります。私が父の愛
情に気付いていなかっただけなのか、自分がされた嫌な事だけしか覚えていないから私は自
分を悲劇のヒロイン化させているのかと思っていました。



 その反面、(私は中学生でしたが)、当時の心境は、「夜遊びに走らないように監視されてい
る」のが本当のところではなかったのかと思います。きっとその頃からひずみはすでに始まって
いたんでしょう・・・。



 自分では私は「アダルトチルドレン」に入るのではないかと思っています。社会との繋がりがう
まく持てない焦りから、今の自分のままでは子供達の成長に良くないのではないかと焦ってい
ます。父に「親や、その親、親の兄弟あってのお前なんだから、まわりを大切にすべきだ」と強
く言われる事で、自分を見失ってしまいました。



 父の事を思い起こすと未だに震えが起こるので、きちんと文章になっているのか不安ですが
お時間を割いて頂きありがとうございました。



 追伸・「ユダヤの格言xx」という本の中で、「父親の生き方から夫の生き方に変え、逆境のと
きは夫を支え、喜びを分かち合い、女中を雇う余裕があっても怠けることなく、話をしてくるもの
にはわけへだてなく対応し、困っている人には手を差し伸べる」(ユダヤ人の伝統的な良き妻の
像)と言う説を手帳に書き写したことがあります。楽天の日記を読ませていただきこの事を思い
出しました。 



 個人的なのですがこの本の先生の見解にとても興味があります。

 長々と読んでいただきありがとうございました。



++++++++++++++++



●悪玉親意識



悪玉親意識についての原稿を添付しておきます。



++++++++++++++++



●悪玉親意識



 親意識にも、親としての責任を果たそうと考える親意識(善玉)と、親風を吹かし、子どもを自
分の思いどおりにしたいという親意識(悪玉)がある。その悪玉親意識にも、これまた二種類あ
る。ひとつは、非依存型親意識。もうひとつは依存型親意識。



 非依存型親意識というのは、一方的に「親は偉い。だから私に従え」と子どもに、自分の価値
観を押しつける親意識。子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしようとする。子
どもが何か反抗したりすると、「親に向って何だ!」というような言い方をする。



 これに対して依存型親意識というのは、親の恩を子どもに押し売りしながら、子どもをその
「恩」でしばりあげるという意識をいう。日本古来の伝統的な子育て法にもなっているため、た
いていは無意識のうちのそうすることが多い。親は親で「産んでやった」「育ててやった」と言
い、子どもは子どもで、「産んでもらいました」「育てていただきました」と言う。



 さらにその依存型親意識を分析していくと、親の苦労(日本では、これを「親のうしろ姿」とい
う)を、見せつけながら子どもをしばりあげる「押しつけ型親意識」と、子どもの歓心を買いなが
ら、子どもをしばりあげる「コビ売り型親意識」があるのがわかる。



 「あなたを育てるためにママは苦労したのよ」と、そのつど子どもに苦労話などを子どもにす
るのが前者。クリスマスなどに豪華なプレゼントを用意して、親として子どもに気に入られようと
するのが後者ということになる。



 以前、「私からは、(子どもに)何も言えません。(子どもに嫌われるのがいやだから)、先生
の方から、(私の言いにくいことを)言ってください」と頼んできた親がいた。それもここでいう後
者ということになる。

 これらを表にしたのがつぎである。



   親意識  善玉親意識

        悪玉親意識  非依存型親意識

               依存型親意識   押しつけ型親意識

                        コビ売り型親意識

 

 子どもをもったときから、親は親になり、その時点から親は「親意識」をもつようになる。それ
は当然のことだが、しかしここに書いたように親意識といっても、一様ではない。はたしてあな
たの親意識は、これらの中のどれであろうか。一度あなた自身の親意識を分析してみると、お
もしろいのでは……。



+++++++++++++++



もう1作……



+++++++++++++++



●子育て、はじめの一歩



 先日、あるところで講演をしたら、一人の父親からメールが届いた。いわく、「先生(私のこと)
は、親は子どもの友になれというが、親子にも上下関係は必要だと思う」と。



 こうした質問や反論は、多い。講演だと、どうしても時間的な制約があって、話のあちこちを
端(はし)折ることが多い。それでいつも誤解を招く。で、その人への説明……。



 テレビ番組にも良質のものもあれば、そうでないのもある。そういうのを一緒くたにして、「テ
レビは是か非か」と論じても意味がない。同じように、「(上下意識のある)親意識は必要か否
か」と論じても意味はない。親意識にも、つまり親子の上下関係にも、いろいろなケースがあ
る。私はそれを、善玉親意識と、悪玉親意識に分けている。



 善玉親意識というのは、いわば親が、親の責任としてもつ親意識をいう。「親として、しっかり
と子どもを育てよう」とか、そういうふうに、自分に向かう親意識と思えばよい。一方、悪玉親意
識というのは、子どもに向かって、「私は親だ!」「親に向かって、何だ!」と、親風を吹かすこ
とをいう。



 つまりその中身を分析することなく、全体として親意識を論ずることは危険なことでもある。同
じように「上下意識」も、その中身を分析することなく論じてはいけない。当然、子どもを指導
し、保護するうえにおいては、上下意識はあるだろうし、またそれがなければ、子どもを指導す
ることも、保護することもできない。しかし子どもの人格を認めるという点では、この上下意識
は禁物である。あればじゃまになる。



 親子の関係もつきつめれば、一対一の人間関係で決まる。「親だから……」「子どもだから…
…」と、「だから」論で、たがいをしばるのは、ときとしてたがいの姿を見失う原因となる。日本人
は世界的にみても、上下意識が強い民族。親子の間にも、(あるいは夫婦の間ですら)、この
上下意識をもちこんでしまう。そして結果として、それがたがいの間にキレツを入れ、さらには
たがいを断絶させる。



 が、こうして疑問をもつことは、実は、子育ての「ドア」を開き、子育ての「階段」をのぼる、そ
の「はじめの一歩」でもある。冒頭の父親は、恐らく、「上下関係」というテーマについてそれま
で考えたことがなかったのかもしれない。しかし私の講演に疑問をもつことで、その一歩を踏み
出した。ここが重要なのである。もし疑問をもたなかったら、その上下意識についてすら、考え
ることはなかったかもしれない。もっと言えば、親は、子育てをとおして、自ら賢くなる。「上下意
識とは何か」「親意識とは何か」「どうして日本人はその親意識が強いか」「親意識にはどんなも
のがあるか」などなど。そういうことを考えながら、自ら賢くなる。ここが重要なのである。



 子育ての奥は、本当に深い。私は自分の講演をとおして、これからもそれを訴えていきた
い。

(はやし浩司 親意識 親との葛藤 家族自我群 はやし浩司 幻惑 はやし浩司 家庭教育 
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風を吹かす親 上下意識)



【付記】



 今回、ここまでの原稿を再読してみて、いくつか気がついたことがある。



 そのひとつは、ここでいう「悪玉親意識」というのは、(親子の間)だけの話ではないというこ
と。



 悪玉親意識、つまり親風を吹かす人は、あらゆる場面で権威主義的なものの考え方をする。
たとえば弟や妹に対しては、兄風、姉風を吹かす。甥(おい)や姪(めい)に対しては、叔父風、
叔母風を吹かすなど。



 あらゆる場面で上下意識が強く、そのわずかな(差)の中で、人間の優劣を決めてしまう。



 で、本人は、それでそれなりにハッピーなのかもしれない。また多くの場合、その周囲の人た
ちも、それを認めてしまっているから、それなりにうまく(?)いく。兄風を吹かす兄と、それを受
け入れる弟との関係を想像してみればよい。



 こうした上下意識は、儒教の影響を受けた日本人独特のもので、欧米には、ない。ないもの
はないのであって、どうしようもない。はっきり言えば、バカげている。この相談をしてきたYDさ
んの父親にしても、ここでいう悪玉親意識のたいへん強い人だということがわかる。「親は親
だ」「親は偉い」という、あの悪玉親意識である。YDさんは、父親のもつその悪玉親意識に苦し
んでいる。



 が、ここで話が終わるわけではない。



 今度はYDさん自身の問題ということになる。



 現在、YDさんは、父親の悪玉親意識に苦しんでいる。それはわかる。しかしここで警戒しな
ければならないことは、YDさんは、自分の父親を反面教師としながらも、別のところで自分を
確立しておかないと、やがてYDさん自身も、その悪玉親意識を引きついでしまうということ。



 たとえば父親が、亡くなったとしよう。そしてそれからしばらく時間がたち、今度はYDさん自身
が、なくなった父親の立場になったとしよう。すると、今度は、YDさん自身が、なくなった父親そ
っくりになるという可能性がないわけではない。



 ユングが使った「シャドウ」とは少し意味がちがうかもしれないが、親がもつシャドウ(暗い影)
は、そのまま子どもへと伝播(でんぱ)していく。そういう例は、多い。ひょっとしたらあなたの周
辺にも似たようなケースがあるはず。静かに観察してみると、それがわかる。



 で、さらに私は、最近、こういうふうに考えるようになった。



 こうした悪玉親意識は、それ自体がカルト化しているということ。「親絶対教」という言葉は、
私が考えたが、まさに信仰というにふさわしい。



 だからここでいう悪玉親意識をもつ親に向かって、「あなたはおかしい」「まちがっている」など
と言ったりすると、それこそ、たいへんなことになる。だから、結論から先に言えば、そういう人
たちは、相手にしないほうがよい。適当に相手に合わせて、それですます。



 実は、この私も、そうしている。そういう人たちはそういう人たちの世界で、それなりにうまく
(?)やっている。だからそういう人たちはそういう人たちで、そっとしておいてやるのも、(思い
やり)というものではないか。つまりこの問題は、日本の文化、風土、風習の分野まで、しっかり
と根づいている。私やあなたが少しくらい騒いだところで、どうにもならない。最近の私は、そう
考えるようになった。



 ただし一言。



 あなたの住む世界では、上下意識は、もたないほうがよい。たとえば兄弟姉妹にしても、名
前で呼びあっている兄弟姉妹は、そうでない兄弟姉妹より仲がよいという調査結果もある。



 「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と呼びあうよりも、「ヒロシ」「アキコ」と呼びあうほうが、兄弟姉妹
は仲がよくなるということ。



 夫婦についても、同じように考えたらよい。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG 09++++++++++はやし浩司

●2009年8月5日に……

YDさんとのやり取りをしたのが、2006年の2月〜。
それからすでに3年。
改めて自分の書いた原稿を読み直してみる。
「おもしろい」と思うよりも前に、それ以後の私が、ほとんど進歩していないのを知る。
ここに書いた「悪玉親意識」(これは私が考えた言葉)にしても、今では、あちこちで
使われるようになった。
(ためしに、「悪玉親意識」で検索してみるとよい。)

 今回は、「悪玉親戚意識」ということになる。
何かにつけて、年長者が、年長風を吹かす。
たった1、2歳、年上というだけで、相手に向かって説教したりする。
一方、たった1、2歳、年下というだけで、自分は、それをだまって聞く。

 こうした傾向は、地方の田舎へ行けばいくほど、強くなる。

●決別

 私も今回、親類とは、決別することにした。
もちろん、中には親しく交際している人もいる。
そういう人はそういう人で、大切にしたい。

 ただ意識の上から、「親戚」というものを、はずす。
はずした上で、交際する人とは交際し、交際しない人とは、交際しない。
親戚であるとかないとか、そういうことで、相手を判断したくない。
江戸時代の昔なら、いざ知らず。
今は、そういう時代ではない。

 ついでに兄弟、姉妹についても、そういった意識とは決別する。
といっても、私には実姉は、1人しかいない。
大切にしたいとは思うが、今では他人以上の他人になってしまった。
たがいに歳を取りすぎたこともあるが、それ以上に、人生観がまったくかみ合わない。
……というより、実姉にも、どこか認知症の気配が出てきた(……と思う)。
会話そのものが、まったく、かみ合わない。

 ワイフの兄弟たちとは、うまく(たぶん?)、付き合っている。
みな、この浜松市内、およびその周辺に住んでいる。
たがいの行き来もある。
私にとっては、親類というよりは、友だち。
ワイフ自身も、そう思っている(?)。

 で、今、世の中が、急速に変化しつつある。
旧態依然の義理とか、人情とかいう世界が、音をたてて崩れ始めている。
冠婚葬祭にしても、質素になってきた。
驚いたのは、このあたりでも、初盆すらしない家庭がふえていること。

 正確な数字を改めて、拾ってみたい。

●初盆はしない

 ワイフの実母が、浜名湖畔にある、I村という、村の出身である。
昔から何かとしきたりが、きびしい土地がらである。
そんな村で、昨年(08年)、15世帯の家の人たちが、初盆を迎えることになった。
しかし実際、初盆の供養(僧侶、親戚を呼んでの儀式)をした家庭は、7世帯
だけだったという。

 この数字は、私が改めて確認したものなので、正確。

 浜松市内のような都会での数字ではない。
I村という、(昔からのしきたりが、きびしい土地)での話である。

 私はその話を、直接、喪主から聞いた。
加えて、驚いた。

●これからの日本

 で、それがよいことなのか、悪いことなのかは、私にもわからない。
どういう方向に向かっているのかも、私にもわからない。
わからないが、今、この日本も、大きく変わりつつある。
それだけは事実。

 で、来週あたり、私は、実兄と実母の、一周忌の法要をすることになっている。
(私の宗派では、盆供養はしない。
その代わり、一周忌の供養はすることになっている。)

 それについて、「私は、それが最後」と心に決めている。
私も、今年、満62歳になる。
自分の哲学や人生観をねじまげてまで、世間に迎合するのも疲れた。
もとはといえば、『地蔵十王経』。
鎌倉時代にできた、まっかなニセ経。
そんな経典に従って、何年も何年も、供養(?)をつづけることに、どういう意味が
あるのか。
それがはたして、仏教と言えるのか。
(教え)と言えるのか。
 
 簡単に言えば、日本の仏教そのものが、カルト化している。
カルト化したまま、日本の風土の中に、定着してしまっている。

●人それぞれ

 頭が熱くなったが、親戚づきあいにしても、そのカルトの上に乗っている。
もちろん、たがいに濃密な世界を築いている人もいれば、希薄な人もいる。

 私の実家は濃密だが、それと比べると、ワイフの実家は希薄である。
また同じワイフの兄弟、姉妹でも、濃淡には、大きな違いがある。
だから最初の話に戻る。

「親戚づきあい。
いろいろある。
人それぞれ。
みな、ちがう」と。

 たがいにうまくいっているなら、それはそれでよい。
何も私のような他人がとやかく言う必要はない。
ただこれだけは、覚えておいてほしい。

 自分たちがうまくいっているからといって、その尺度で他人を見てはいけない
ということ。
自分の価値観、あるいは価値基準を他人に押しつけることだけは、避けてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
親類づきあい 親戚付き合い 親類との確執 親子の確執)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG 09++++++++++はやし浩司

●愚痴

+++++++++++++++++++++

数日前から、「グチ(愚痴)」について書いている。
仏教で教える「愚痴」というのは、読んで字のとおり、
「愚かさが極まった状態」をいう。

が、日本語で「グチ」というと、不平、不満を、
意味もなくタラタラと口にすることをいう。

そのグチについて調べていたら、アメリカでは、
不安神経障害(Anxiety Disorder)の主症状の
ひとつであることがわかった。

++++++++++++++++++++++

●日本人のグチ

 この日本では、グチを言う人も、またそれを聞く人も、グチについては甘い。
「グチ」を、精神障害の症状のひとつと考えている人は、少ない。
実のところ、私も、そうだった。

 私自身も、グチを平気で口にしていた。
また私に対してグチを言う人がいても、「そういう話を聞いてやるのも、大切な
こと」と考えて、耳を傾けてやった。

 しかしグチはグチ。
精神障害にそのまま結びつくかどうかは別として、たしかにグチというのは、
それ自体、見苦しい。
グチをこぼす人も見苦しいが、それを聞くほうも、つらい。
不愉快。
よいことは何もない。

 で、これからはちがう。
「精神障害の主症状のひとつ」と考えて、私はグチを言わない。
一方、私にグチを言う人がいても、耳は貸さない。
聞いてやる必要もない。

 もしグチを言う人がいたら、こう言ってやるのはどうか。
「一度、精神科で診てもらったら?」と。
……と書くのは、少し言いすぎというのは、わかっている。
というのも、グチを言う人は、グチを言いながら、心に風穴をあけている。
言うなれば、ストレス発散のひとつの方法として、グチを言う。
だからその人のグチを抑え込んでしまったら、かえって症状は重くなってしまう
かもしれない。

 ただこういうことは言える。

 私の友人(外国人)たちを思い浮かべてみても、私にグチを言った人は、
ほとんどいないということ。
実際には、記憶のどこをさがしても、そういう人が出てこない。
日本人特有の、あのグチである。
記憶の中に、そういう人が出てこない。

 ということは、欧米人の間には、やはり「グチというのは、精神疾患の主症状
のひとつ」という認識があるからではないか、……ということになる。
グチを口にしたら、精神障害者と疑われてもしかたない(?)。
あるいは幼いころから、また環境的にも、歴史的にも、グチを言わない社会に
なっている(?)。

 日本では当たり前のように、言ったり、聞いたりしているグチだが、外国では
別の考え方をしている。
それだけは、確かなようである。

【はやし浩司流、今日の教え】

●グチは言わない。聞かない。
グチを言う前に、自分で考えて、自分で行動し、自分で解決せよ。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG 09++++++++++はやし浩司

●地蔵十王経

「地蔵十王経」の由来については、ウィキペディア百科事典が、詳しく書いている。
難解な文章がつづくが、そのまま紹介させてもらう。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++

仏教が中国に渡り、当地の道教と習合していく過程で偽経の『閻羅王授記四衆逆修生七往生
浄土経』(略称として『預修十王生七経』)が作られ、晩唐の時期に十王信仰は成立した。また
道教経典の中にも、『元始天尊説?都滅罪経』、『地府十王抜度儀』、『太上救苦天尊説消愆滅
罪経』という同名で同順の十王を説く経典が存在する。

『預修十王生七経』が、一般的な漢訳仏典と際立って異なっている点は、その巻首に「成都府
大聖慈寺沙門蔵川述」と記している点である。漢訳仏典という用語の通り、たとえ偽経であった
としても、建て前として「○○代翻経三蔵△△訳」のように記すのが、漢訳仏典の常識である。

しかし、こと「十王経」に限っては、この当たり前の点を無視しているのである。この点が、「十
王経」類の特徴である。と言うのは、後述の日本で撰せられたと考えられる『地蔵十王経』の巻
首にも、同様の記述がある。それ故、中国で撰述されたものと、長く信じられてきたという経緯
がある。ただ、これは、『地蔵十王経』の撰者が、自作の経典の権威づけをしようとして、先達
の『預修十王生七経』の撰述者に仮託したものと考えられている。また、訳経の体裁を借りな
かった点に関しては、本来の本経が、経典の体裁をとっておらず、はじめ、礼讃文や儀軌の類
として制作された経緯に拠るものと考えられている。

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++

要するに、「地蔵十王経」というのは、中国でできた偽経の上に、さらに日本でできた偽経とい
うこと。

が、この「地蔵十王経」が、日本の葬式仏教の基本になっているから、無視できない。
たとえば私たちが葬儀のあとにする、初七日以下、四十九日の儀式など、この「地蔵十王経」
が原点になっている。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++

死者の審理は通常七回行われる。没して後、七日ごとにそれぞれ秦広王(初七日)・初江王
(十四日)・宋帝王(二十一日)・五官王(二十八日)・閻魔王(三十五日)・変成王(四十二日)・
泰山王(四十九日)の順番で一回ずつ審理を担当する。

ただし、各審理で問題が無いと判断された場合は次の審理に回る事は無く、抜けて転生してい
く事になるため、七回すべてやるわけではない。一般には、五七日の閻魔王が最終審判とな
り、ここで死者の行方が決定される。これを引導(引接)と呼び、「引導を渡す」という慣用句の
語源となった。

七回の審理で決まらない場合も考慮されており、追加の審理が三回、平等王(百ヶ日忌)・都
市王(一周忌)・五道転輪王(三回忌)となる。ただし、七回で決まらない場合でも六道のいずれ
かに行く事になっており、追加の審理は実質救済処置である。もしも地獄道・餓鬼道・畜生道
の三悪道に落ちていたとしても助け、修羅道・人道・天道に居たならば徳が積まれる仕組みと
なっている。

なお、仏事の法要は大抵七日ごとに七回あるのは、審理のたびに十王に対し死者への減罪
の嘆願を行うためであり、追加の審理の三回についての追善法要は救い損ないを無くすため
の受け皿として機能していたようだ。

現在では簡略化され通夜・告別式・初七日の後は四十九日まで法要はしない事が通例化して
いる。

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++

つまり人は死ぬと、7回の裁判を受けるという。

死後、七日ごとにそれぞれ、

(1)秦広王(初七日)
(2)初江王 (十四日)
(3)宋帝王(二十一日)
(4)五官王(二十八日)
(5)閻魔王(三十五日)
(6)変成王(四十二日)
(7)泰山王(四十九日)の順番で一回ずつ審理がされるという。

ただし、各審理で問題が無いと判断された場ばあいは、つぎの審理に回ることはなく、
抜けて転生していくことになるため、七回すべてやるわけではないという。

一般には、五十七日の閻魔王が最終審判となり、ここで死者の行方が決定される。これを引
導(引接)と呼び、「引導を渡す」という慣用句の語源となったという(参考、引用、ウィキペディ
ア百科事典より)。

わかりやすく言えば、最終的には、五十七目に、閻魔王が、その死者を極楽へ送るか、地獄
へ送るかを決めるという。
私たちも子どものころ、「ウソをつくと、閻魔様に、舌を抜かれるぞ」とよく、脅された。

しかしこんなのは、まさに迷信。
霊感商法でも、ここまでは言わない。
もちろん釈迦自身も、そんなことは一度も述べていない。
いないばかりか、そのルーツは、中国の道教。
道教が混在して、こうした迷信が生まれた。

極楽も地獄も、ない。
あるわけがない。
死んだ人が7回も裁きを受けるという話に至っては、迷信というより、コミック漫画的ですらあ
る。

法の裁きが不備であった昔ならいざ知らず、現在の今、迷信が迷信とも理解されず、葬儀とい
うその人最後の、もっとも重要な儀式の中で、堂々とまかり通っている。
このおかしさに、まず私たち日本人自身が気づべきである。

「法の裁きが不備であった昔」というのは、当時の人たちなら、「悪いことをしたら地獄へ落ち
る」と脅されただけで、悪事をやめたかもしれない。
そういう時代をいう。

「死」というのは、どこまでも厳粛なものである。
そういう「死」が、ウソとインチキの上で、儀式化され、僧侶たちの金儲けの道具になっている。
このおかしさ。
そして悲しさ。

仏教を信ずるなら信ずるで、もう一度、私たちは仏教の原点に立ち戻ってみるべきではないだ
ろうか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 地蔵十王経 初七日 四十九日
 法要 偽経)


***********2009年8月6日まで***************




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ント はやし浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市 金沢大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 幼児教育評論家 林浩

司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松市 幼

児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐

阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.

writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ

 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 

教材研究  はやし浩司 教材作成 教材制作 総合目録 はやし浩司の子育て診断 これでわかる子育てアドバイス 現場からの子育

てQ&A 実践から生まれたの育児診断 子育てエッセイ 育児診断 ママ診断 はやし浩司の総合情報 はやし浩司 知能テスト 生活力

テスト 子どもの能力テスト 子どもの巣立ち はやし浩司 子育て診断 子育て情報 育児相談 子育て実践論 最前線の子育て論 子

育て格言 はやし浩司 子どもの問題 子供の問題 育児相談 子どもの心 子供の心 子どもの心理 子供の心 はやし浩司 不登校 

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