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最前線の子育て論byはやし浩司
(09年5月 6日〜)

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幼児の学習指導byはやし浩司 BW教室How to cope with pre-school children at homes by Hiroshi Hayashi Hamamatsu-city Japan
2009 子育てポイントを解説

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*************09年5月6日より****************

●5月6日

+++++++++++++++++++++

この数日間、軽い虚脱感に襲われている。
日々の生活が、それほど変化したというわけではない。
何か大きな問題があるというわけでもない。
しかしどこか虚しい。
けだるい。
「これでいいのか?」という思い。
「こんなことをしていていいのか?」という思い。
それがよどんだ池に浮かぶ、メタンガスのように、
ポカン、ポカンと、水面に浮かびあがってくる。

5月に入ってから、そんなわけで原稿をあまり
書いていない。
本来なら、今ごろは、6月5日号の電子マガジンの編集を
していなければならない。
(マガジンは、いつも1か月先の分を、配信予約をしている。)
しかしまだ6月号には、手をつけていない。
(そんなわけで、この原稿は、6月1日号用
ということになる。)

マガジンの読者がふえなくなって、もう数か月になる。
私のワイフですら、このところ、私のマガジンを
あまり読んでいない。

BLOGのほうの原稿も書いているが、こちらも、
原稿をアプロードしなくなったとたん、ガクンと
読者数が減る。
ここ数日は、合計でも1日あたり、1000件程度。
アクセス数が低迷している。
(それ以前は、多いときは、合計で、5000件〜。)
アクセス数がふえるのはうれしい。
が、毎日、何かに追い立てられているような感じ。
気が抜けない。
それが少し、負担になってきた?
……というより、少し疲れを覚えるようになってきた。

なぜだろう……?、と考えながら、こうした
心の状況を記録しておくことは、将来の自分の
ためにも、また同じような状態にある人たちの
ためにも役に立つのではないか。

こうした虚脱感は、多かれ少なかれ、だれしも、
そのつど日常的に経験するもの。
けっして私だけに起きていることではない。

++++++++++++++++++++++

●原因

原因のひとつとして、手を広げ過ぎた?
あれこれやりすぎた?
2月に入ってから、「BW公開教室」を手がけるようになった。
毎日、教室の様子をビデオの収め、それをYOU・TUBEにUPLOADする。
教室での作業は、ビデオカメラのスイッチを入れたり切ったりするだけ。
編集にも、それほど時間はかからない。
YOU・TUBEにUPLOADするときに、時間がかかるが、ただぼんやりと
待っているわけではない。
ほかのパソコンを使って、別の作業をする。
だから時間的ロスは、それほどないはず。

どうしてだろう?

あるいは仕事が忙しくなりすぎた?
昨年度より、量的には、1・x〜x倍になった。
しかしこれとて、若いときの量にくらべたら、何でもない。
その分だけ、体力と気力が低下した?

こういう世相だから、仕事があるだけでも、御の字。
こういう年齢だから、仕事ができるだけも、御の字。
健康で仕事ができるだけでも、御の字。
家族がいるだけでも、御の字。

が、何よりも大きな理由は、このところ目標がはっきりしないからではないか。
「何のために」という部分がない。
さらに言えば、「だからそれがどうしたの?」という質問に対して、答えがない。
いくら書いても、孤独感が癒されるわけではない。
もちろん収入につながるわけでもない。
何かしら、壮大な(お人好し)をしている感じ。
バカなことをしている感じ。
その(感じ)から、自分を解き放つことができない。

いや、ボランティアならボランティアでもよい。
しかし私がしているボランティア活動には、ギャラリーがいない。
他人の視線を感ずることもなければ、拍手を受けることもない。
あるとすれば、日々のアクセス数だけ。
数字だけ。
それにだからといって、みながみな、好意的に読んでくれているというわけではない。
中には、私のアイディアをどんどんと盗んでいる人もいる。
盗んで本にしている人もいる。
一般の人にはわからないかもしれないが、私にはそれがわかる。

というのも、育児書というのは、ひとつの哲学書でもある。
その哲学、もっと言えば、育児哲学というのは、そうは一致しない。
書いた人によって、大きな違いが出てくる。
出てきて、当然。
が、その育児哲学が一致している本が、別のところで数百万部も売れていたりする。
おかしなことだが、相手も、利口な人だと思う。
それなりの肩書もある。
しっぽをつかまれるようなことはしないだろう。

あるいは別のライターが書いて、その人の名前で出しているのかもしれない。
この世界では、よくある話である。
そういうのを知るたびに、ガクン、ガクンと、やる気がうせる。

今がそのときかもしれない。

ときどき「一気に、すべてのHPを閉鎖しようか」とも考える。
「とりあえず、電子マガジンを休刊にしようか」とも。
こんなお人好しをつづけていて、何になるのか。
だれが評価してくれるのか。

孤独……。
本当に孤独……。

……しかしここはがんばるしかない。
読者のため……などという、きれいごとは言わない。
私は、私自身のために書く。
だれのためではない。
私自身のため、である。

『我らが目的は、成功することではない。
失敗にめげず、前に進むことである』(スティーブンソン)と。

●気分転換

こういうときは何かの気分転換をするのがよい。
自分でも、それがよくわかっている。
そのこともあって、ここ数日は、私が料理をしている。
コツは、ぐんと腹が減った状態で、料理をすること。
たまたま三男夫婦が遊びに来ているので、それなりに結構、楽しかった。

で、今日の目標。
(1)朝風呂に入る。
(2)床屋へ行く。
(3)三男と嫁の両親のために、なにかみやげを用意する。
(4)ワイフと1万歩を目標に、散歩する。
(5)昨夜の夕食の様子を、YOU・TUBEにUPLOADする。
そして
(6)何とか、今日中に、電子マガジン6月1日号の配信予約を入れる。

虚脱感というのは、吹き寄せる風のようなもの。
こちらがふんばれば、何とかもちこたえることができる。
こちらが弱気になれば、そのまま体ごと吹き飛ばされる。
あとは気力の問題。

がんばるしかない!
とにかく、がんばるしかない!

大切なことは、人に期待をしないこと。
甘い幻想を抱かないこと。
期待を抱けば、裏切られる。

「だれかが何かをしてくれるだろう」という甘い期待をもたないこと。
私は私。
それを貫く。
とくにこういう状態のときは、前に向って、一歩、足を踏み出す。

……ということで、5月6日が始まった。
みなさん、おはようございます。
(5月6日、午前6時10分記)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

【K子さんとE市へ】

●家族を迎える

++++++++++++++++++++++++++++++++++++

三男が、嫁さん(「嫁さん」という言い方には、どうも抵抗を感ずるが……)、
その嫁さんを連れて、今、帰郷している。
明るい性格のさっぱりした女性だが、どこかで無理をしていないか、少し心配。
私が嫁さんの立場なら、半日で、激しい片頭痛に襲われるだろう。
どうか気を遣わないで、我が家では気楽に過ごしてほしい。
言いかえると、私たちも気を遣わない。
ありのまま。
言いたいことを言い、したいことをしている。
それが最善の迎え方(?)。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●家の女?

私たちはともかくも、相手の親は、さぞかしさみしい思いをしていることと思う。
ワイフから聞いた話しでは、嫁さんの実姉も、結婚が決まったとか。
つまり2人つづけて、結婚する。

今どき「家を出る」とか、「嫁ぐ」とか、そういう言い方をするのは好きではない。
同じように「嫁さん」という言い方にも、どこか抵抗を覚える。
「嫁」とは、「家の女」という意味。
私は、そういう発想そのものに、生理的な抵抗感を覚える。
どうして1人の人間が、「家の女」?

ほかに呼び方はないのだろうか。
二男の妻?
二男の奥さん?
二男の連れ添い?
二男のワイフ?

どれもどこかに封建主義的な臭いを感ずる。
「〜〜の」という言い方そのものが、おかしい。
嫁さんは、「モノ」ではない。
で、あえて言えば、(英語式に)「二男のワイフ」がいちばん私は好きだが、
しかしそういう言い方をする人は、この日本では少ない。

●今は静観

二男が結婚し、今度、三男が結婚した。
私にとっては、2人目ということで、どこかサバサバしている。
「サバサバ」というのは、どこか事務的?
だからといって、「どうでもいい」ということではない。
これは子どもの入学と似ている。

最初の子どものときは、あれこれと気を使うものだが、2人目となると、心に余裕が
できる。
その余裕が、サバサバした感じを作る。
つまり大切なのは、「結婚」というその(時点)ではなく、この先のプロセス。
わかりやすく言えば、結婚するのは簡単。
「好きだ」「好きよ」で、結婚できる。
しかしこれから先が、たいへん。
その(たいへんさ)を知っているから、その心配の方が先に来てしまう。
「何とか、うまくやってほしい」と願うだけ。
つまり親が介入できることは、そこまで。
あとは本人たちの問題。

もちろん何か問題が起きれば、私もワイフも、身を投げ打ってでも助ける。
(少しおおげさかな?)
しかし今は静観するしかない。
「ま、どうぞ、ご勝手に」と。

●さみしさ

こうして息子たちは、巣だっていく。
「いつかは……」と覚悟はしていたが、これほどまでにさみしいものとは思っていな
かった。
息子たちが去っていくのが、さみしいのではない。
いや、それもあるが、私自身が、用なしになっていくのが、さみしい。
この先、私たちを待っているのは、老後。
ちょうどベンチの席をつぎの人に明け渡すように、私たちは席を譲らねばならない。
この地球に住める人間の数にも限界がある。

やがて三男夫婦も、子どもをもうけるだろう。
そのとき私たちがこの世界にのさばっていたら、子どもたち、つまり孫たちの座る
席がなくなってしまう。

私たちのほうが先に腰をあげ、「さあ、どうぞ!」と言ってあげねばならない。
が、その先、私たちの座る場所がない。
それがツンとしたさみしさとなって、心を包む。

●気楽に

三男夫婦を見ながら、「では、私たちができることは何だろう」と、しばしば考える。
第一にしてあげられることは、私の家を、「羽を休める場所として提供する」こと。
この先、いろいろなことがあるだろう。
そのとき三男夫婦も、疲れ、ときには羽を休めたくなるだろう。
そういうときは、我が家へ帰ってきて羽を休めればよい。

しかし……。

我が家は、それにふさわしい家なのだろうか。
三男夫婦は、私の家にやってきて、羽を休めることができるのだろうか。

実のところ、自信がない。
三男夫婦は、ある種の義務感を覚えて、私の家に帰郷した。
何もない家だから、楽しいはずはない。
私もワイフも、あまり楽しい人間ではない。

ま、オーストラリア流でいけば、何もしないことこそ、よいのかもしれない。
三男夫婦が、したいことができるようにしてやる。
何も考えず、ただひたすら気楽に!

●まねごと

ひとつだけ三男夫婦を見ていて学んだことがある。
仲のよいカップルを見ていると、こちらまで照れくさくなる。
三男は、嫁さんにラブラブ。
嫁さんも、三男を、好きで好きでたまらないといったふう。
並んで座っていても、たがいに体が自然に傾いていく。
いつの間にか、寄り添っている。

そういう姿を見ていると、私の方まで気が若くなる。
思わずワイフの手を握ったりする。
「お前ら、若いものに負けてたまるか!」という競争心からかもしれない。
あるいは「私たちも私たちなりに、人生を楽しもう」という思いがあるからかも
しれない。

どうであるにせよ、何もラブラブは、若い人たちだけの特権ではない。
私たちは私たち。
ハハハ。
どうせ勝ち目のない戦いだが、せめてまねごとだけはしてみたい。
ハハハ。

●だいじょうぶかな?

しかしおかしなもので、三男は三男。
幼いころのあの三男。
「あいつが、本当に結婚するのだろうか」と、いまだに信じられない。
そんな思いが残っているから、どこか不安。
どこか心配。

で、そのつど三男の心を確かめるのだが、私の若いころより、ずっとしっかりしている。
それをやはりそのつど確かめながら、自分を納得させる。
「だいじょうぶかな?」「これならだいじょうぶ」と。
そんな会話を、心の中でザワザワと繰り返す。

●親は脇役

しかしそれは私たちの気持ち。
相手の両親は、もっとさみしい思いをしているはず。
それを思うと、なんとかしなければと思う。
なにかよい方法はないものか……。

しかしその一方で、私たち夫婦にしても、できることはほとんどない。
結婚は、あくまでも当事者の問題。
三男夫婦の考えに従うしかない。
三男夫婦が、「こうしてくれ」と言えば、それに従う。
「ああしてくれ」と言えば、それに従う。

これは私たち夫婦もそうだったが、夫婦の絆のほうが、親子の絆より、はるかに
太く、しっかりとしたものになる。
親というのは、いつも脇役でしかない。
また脇役で甘んじるしかない。

繰り返しになるが、私たちは(去りゆく者)。

●プロセス

結婚は、プロセス。
これから先、ゆっくりと時間をかけて、少しずつ、人間関係を作っていけばよい。
ワーワー騒いで、急速に接近したところで、それほど意味はない。
嫁さんにしても、少しずつ時間をかけて、人間関係を作ればよい。
1年とか、2年とか……。
その時点、時点で、静かに過去を振り返りながら、地盤を固めていく。

その結果として、10年後がやってくる。
20年後がやってくる。

そのときは、私たち夫婦も、ボケてしまって、何もわからなくなるかもしれないが、
そのときはそのとき。
私たちの時代は終わった。
生まれてくる孫にしても、それほど長く、顔を見ることはできないだろう。
せいぜい、孫が、中学生か高校生になるころまで。
いや、そのころまで生きていられれば、御の字。

この先、この世界を生きていくのは、三男たち。
三男の家族たち。
今の私たち夫婦を見れば、それがわかる。
今では、家族と言っても、私とワイフだけ。

●結婚式

ふつう息子が結婚したというと、何かの達成感があるものではないかと思っていた。
しかしそんな達成感など、どこにもない。
「子どもを育て上げた」という充実感もない。

先にも書いたように、結婚は、プロセス。
どこかの標識を過ぎたからといって、それで旅が終わるわけではない。
簡単に言えば、結婚式をすませたからといって、それで終わるわけではない。

……しかし、三男夫婦は、結婚式をどう考えているのだろう。
いろいろと考えているようだが、イマイチ、「?」。
まあ、そのうち何かの連絡があるだろう。
私の方から、あれこれと言うのは、私のやり方ではない。
三男が責任をもって、自分たちのしたいようにすればよい。
私たち夫婦は、それに従うだけ。

やりたければやればよい。
やりたくなければ、やらなくてもよい。

私は前から、「相手の両親の意向だけを大切にしろ」と、三男には教えてきた。
私たちのほうは、どうでもよい。
だいたい、偉そうなことは、言えない。

私たち夫婦は、お金がなくて、結婚式すら、していない。
10万円の貯金がやっとできたときで、今のワイフに、「このお金で結婚式をするか、
それとも香港へいっしょに旅行するか」と聞いたときのこと。

ワイフは「香港へ行きたい」と。
それで2人で、香港へ行った。
それでおしまい。

そんな私がどうして三男に、「立派な結婚式をしろ」と言うことができるのか。

●金食い虫

どうであるにせよ、この先、三男夫婦が、幸福な家庭を築くことこそ、大切。
形ではない、中身。
中身だけを考えて、一歩、一歩、前に進めばよい。
結果はあとからついてくる。
あせらなくても、ついてくる。

最後まで見届けることは、私たち夫婦には、もうできない。

そうそう、三男について心配なこと。

昔から私は、「口臭男」と呼んでいた。
歯を磨かない。
そのためいつも口臭がしていた。
それを指摘すると、いつも三男は怒った。
口臭だけは、自分で気がつかない。
(そう言えば、おとといも、歯垢の臭いがプンとしたぞ!)

それに金遣いが荒い。
私とワイフは、内々では、三男を、「あの金食い虫」と呼んでいた。
交際費、つまり友人のためなら、惜しみなく(多分?)、金を」使う。
だから嫁さんには、こう言った。

「給料は、あなたがしっかりと管理するんですよ」と。
そうすれば三男も、少しは、おとなしくなるだろう。

●負けないぞ!

浜松には3泊して、明日、千葉へ帰るという。
また長い空白期間が生まれる。
しかしそんなことは気にしない。
私は私で、明日からまた私の生活を始める。

映画も見るぞ!
運動もするぞ!
仕事もするぞ!
原稿も書くぞ!
講演もするぞ!

だれにも遠慮しない。
ジジ臭い生き方など、まっぴらごめん。
一応70歳まで働くと心に決めているが、そこで仕事をやめるわけではない。
余力があれば、80歳までだって、現役で仕事をしてやる!

……そのとき、三男は47歳。
嫁さんは、45歳。
そのころ、三男夫婦は、幸福になっていればよい。
それを見届けられたら、御の字。
あとに思い残すことは、何もない。

そんなわけで、幸福宣言!

お前も幸福になれ!
私たちも、負けずに幸福になる!

負けないぞ!
……とまあ、力んでみたところで、今日はここまで。
ま、いつでも、戻っておいで、
待っているよ。
(2009年5月6日)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●日本に希望はあるのか?(Can we share hopes in Japan?)
(超管理社会)

++++++++++++++++++++

資格と規則で、がんじがらめ。
何をするにも、許可だの認可だのが必要。
地方の小さな町で、観光ガイドをするにも必要。
祭りにさえ、自由に出られない。
服装から持ち物まで決められ、許可証まで必要。
こんな国で生きていこうと思ったら、
小さく、狭い世界で、閉じこもるしかない。

ここまで書いて、以前、こんなことを
書いたことがある。

++++++++++++++++++++

●日本は超管理型社会

 最近の中学生たちは、尾崎豊をもうすでに知らない。そこで私はこの歌を説明したあと、中学
生たちに「夢」を語ってもらった。私が「君たちの夢は何か」と聞くと、まず一人の中学生(中2女
子)がこう言った。「ない」と。

「おとなになってからしたいことはないのか」と聞くと、「それもない」と。「どうして?」と聞くと、「ど
うせ実現しないから」と。もう1人の中学生(中2男子)は、「それよりもお金がほしい」と言った。
そこで私が、「では、今ここに1億円があったとする。それが君のお金になったらどうする?」と
聞くと、こう言った。

「毎日、机の上に置いてながめている」と。ほかに5人の中学生がいたが、皆、ほぼ同じ意見だ
った。今の子どもたちは、自分の将来について、明るい展望をもてなくなっているとみてよい。
このことは内閣府の「青少年の生活と意識に関する基本調査」(2001年)でもわかる。

 15〜17歳の若者でみたとき、「日本の将来の見とおしが、よくなっている」と答えたのが、4
1・8%、「悪くなっている」と答えたのが、46・6%だそうだ。

●超の上に「超」がつく管理社会

 日本の社会は、アメリカと比べても、超の上に「超」がつく超管理社会。アメリカのリトルロック
(アーカンソー州の州都)という町の近くでタクシーに乗ったときのこと(01年4月)。タクシーに
はメーターはついていなかった。料金は乗る前に、運転手と話しあって決める。しかも運転して
くれたのは、いつも運転手をしている女性の夫だった。「今日は妻は、ほかの予約で来られな
いから……」と。

 社会は管理されればされるほど、それを管理する側にとっては便利な世界かもしれないが、
一方ですき間をつぶす。そのすき間がなくなった分だけ、息苦しい社会になる。息苦しいだけな
らまだしも、社会から生きる活力そのものを奪う。尾崎豊の「卒業」は、そういう超管理社会に
対する、若者の抗議の歌と考えてよい。

(参考)

●新聞の投書より

 ただ一般世間の人の、生徒の服装に対する目には、まだまだきびしいものがある。中日新
聞が、「生徒の服装の乱れ」についてどう思うかという投書コーナーをもうけたところ、一一人の
人からいろいろな投書が寄せられていた(2001年8月静岡県版)。それをまとめると、次のよ
うであった。

女子学生の服装の乱れに猛反発     ……8人
やや理解を示しつつも大反発      ……3人
こうした女子高校生に理解を示した人  ……0人

投書の内容は次のようなものであった。

☆「短いスカート、何か対処法を」……学校の校則はどうなっている? きびしく取り締まってほ
しい。(65歳主婦)
☆「学校の現状に歯がゆい」……人に迷惑をかけなければ何をしてもよいのか。誠意と愛情を
もって、周囲の者が注意すべき。(40歳女性)
☆「同じ立場でもあきれる」……恥ずかしくないかっこうをしなさい。あきれるばかり。(16歳女
子高校生)
☆「過激なミニは、健康面でも問題」……思春期の女性に、ふさわしくない。(61歳女性)

●学校教育法の改正

 校内暴力に関して、学校教育法が2001年、次のように改定された(第26条)。
 次のような性行不良行為が繰り返しあり、他の児童の教育に妨げがあると認められるとき
は、その児童に出席停止を命ずることができる。

一、 他の児童に傷害、心身の苦痛または財産上の損失を与える行為。
二、 職員に傷害または心身の苦痛を与える行為。
三、 施設または設備を損壊する行為。
四、 授業その他の教育活動の実施を妨げる行為、と。

文部科学省による学校管理は、ますますきびしくなりつつある。

++++++++++++++++++

 新聞社への投書の中で、16歳の少女が、「同じ立場でもあきれる。恥ずかしくないかっこうを
しなさい。あきれるばかり」と書いている点が、気になる。が、私に言わせれば、こういう優等生
のほうに、あきれる。「恥ずかしくないかっこうって何か」と。「まただれに対して、恥ずかしくあっ
てはいけないのか」と。

 顔のある子どもは、その顔を大切にすればよい。幸せな子どもだ。しかし顔のない子どもは、
どうやって生きていけばよいのか。

 あえて告白しよう。最近、……といっても、この5、6年のことだが、私はあのホームレスの人
たちを見ると、言いようのない親近感を覚える。ときどき話しかけて、冗談を言いあうこともあ
る。そのホームレスの人たちというのは、その少女の感覚からすれば、「恥ずかしい部類の人
間」ということになる。

 しかしどうしてそういう人たちが、恥ずかしいのか。多分、その投書を書いた少女は、そういう
ホームレスの人たちを見ると、あきれるのだろう。もしそうなら、どうして、その少女は、あきれ
るのか。私には、よく理解できない。

 そう、私は、子どもたちを教えながらも、その優等生が、嫌い。ぞっとするほど、大嫌い。以
前、こんな原稿も書いたことがある。それを掲載しておく。少し話が脱線するが、許してほしい。

+++++++++++++++++++

【世間体】

●世間体で生きる人たち

 世間体を、おかしいほど、気にする人たちがいる。何かにつけて、「世間が……」「世間が…
…」という。

 子どもの成長過程でも、ある時期、子どもは、家族という束縛、さらには社会という束縛から
離れて、自立を求めるようになる。これを「個人化」という。

 世間体を気にする人は、何らかの理由で、その個人化の遅れた人とみてよい。あるいは個
人化そのものを、確立することができなかった人とみてよい。

 心理学の世界にも、「コア(核)・アイデンティティ」という言葉がある。わかりやすく言えば、自
分らしさ(アイデンティティ)の核(コア)をいう。このコア・アイデンティティをいかに確立するか
も、子育ての場では、大きなテーマである。

 個人化イコール、コア・アイデンティティの確立とみてよい。

 その世間体を気にする人は、常に、自分が他人にどう見られているか、どう思われているか
を気にする。あるいはどうすれば、他人によい人に見られるか、よい人に思われるかを気にす
る。

 子どもで言えば、仮面をかぶる。あるいは俗にいう、『ぶりっ子』と呼ばれる子どもが、このタ
イプの子どもである。他人の視線を気にしたとたん、別人のように行動し始める。

 少し前、ある中学生とこんな議論をしたことがある。私が、「道路を歩いていたら、サイフが落
ちているのがわかった。あなたはどうするか?」という質問をしたときのこと。その中学生は、
臆面もなく、こう言った。

 「交番へ届けます!」と。

 そこですかさず、私は、その中学生にこう言った。

 「君は、そういうふうに言えば、先生がほめるとでも思ったのか」「先生が喜ぶとでも思ったの
か」と。

 そしてつづいて、こう叱った。「サイフを拾ったら、うれしいと思わないのか。そのサイフをほし
いと思わないのか」と。

 するとその中学生は、またこう言った。「そんなことをすれば、サイフを落した人が困ります」
と。

私「では聞くが、君は、サイフを落して、困ったことがあるのか?」
中学生「ないです」
私「落したこともない君が、どうしてサイフを落して困っている人の気持ちがわかるのか」
中「じゃあ、先生は、そのサイフをどうしろと言うのですか?」
私「ぼくは、そういうふうに、自分を偽って、きれいごとを言うのが、嫌いだ。ほしかったら、ほし
いと言えばよい。サイフを、もらってしまうなら、『もらうよ』と言えばよい。その上で、そのサイフ
をどうすればいいかを、考えればいい。議論も、そこから始まる」と。

 (仮に、その子どもが、「ぼく、もらっちゃうよ」とでも言ってくれれば、そこから議論が始まると
いうこと。「それはいけないよ」とか。私は、それを言った。決して、「もらってしまえ」と言ってい
るのではない。誤解のないように!)

 こうして子どもは、人は、自分を偽ることを覚える。そしてそれがどこかで、他人の目を気にし
た生きザマをつくる。言うまでもなく、他人の目を気にすればするほど、個人化が遅れる。「私
は私」という生き方が、できなくなる。
 
 いろいろな母親がいた。

 「うちは本家です。ですから息子には、それなりの大学へ入ってもらわねば、なりません」

 「近所の人に、『うちの娘は、国立大学へ入ります』と言ってしまった。だからうちの娘には、
国立大学へ入ってもらわねば困ります」ほか。

 しかしこれは子どもの問題というより、私たち自身の問題である。

●他人の視線

 だれもいない、山の中で、ゴミを拾って歩いてみよう。私も、ときどきそうしている。

 大きな袋と、カニばさみをもって歩く。そしてゴミ(空き缶や、農薬の入っていたビニール袋な
ど)を拾って、袋に入れる。

 そのとき、遠くから、一台の車がやってきたとする。地元の農家の人が運転する、軽トラック
だ。

 そのときのこと。私の心の中で、複雑な心理的変化が起きるのがわかる。

 「私は、いいことをしている。ゴミを拾っている私を見て、農家の人は、私に対して、いい印象
をもつにちがいない」と、瞬間だが、まず、そう考える。

 しかしそのあとすぐに、「何も、私は、そのために、ゴミを拾っているのではない。かえってわ
ざとらしく思われるのもいやだ」とか、「せっかく、純粋なボランティア精神で、ゴミを集めている
のに、何だかじゃまされるみたいでいやだ」とか、これまた瞬間だが、思いなおす。

 そして最後に、「だれの目も気にしないで、私は私がすべきことをすればいい」というふうに考
えて、自分を納得させる。

 こうした現象は、日常的に経験する。こんなこともあった。

 Nさん(40歳、母親)は、自分の息子(小5)を、虐待していた。そのことを私は、その周囲の
人たちから聞いて、知っていた。

 が、ある日のこと。Nさんの息子が、足を骨折して入院した。原因は、どうやら母親の虐待ら
しい。……ということで、病院へ見舞いに行ってみると、ベッドの横に、その母親が座っていた。

 私は、しばらくNさんと話をしたが、Nさんは、始終、柔和な笑みを欠かさなかった。そればか
りか、時折、体を起こして座っている息子の背中を、わざとらしく撫でてみせたり、骨折していな
い別の足のほうを、マッサージしてみせたりしていた。
代理ミュンヒハウゼン症候群によるものとまでは断言できないが、それに近かった。

 息子のほうは、それをとくに喜ぶといったふうでもなく、無視したように、無表情のままだっ
た。

 Nさんは、明らかに、私の視線を気にして、そうしていたようである。
 
 ……というような例は、多い。このNさんのような話は別にして、だれしも、ある程度は、他人
の視線を気にする。気にするのはしかたないことかもしれない。気にしながら、自分であって自
分でない行動を、する。

 それが悪いというのではない。他人の視線を感じながら、自分の行動を律するということは、
よくある。が、程度というものがある。つまりその程度を超えて、私を見失ってしまってはいけな
い。

 私も、少し前まで、家の近くのゴミ集めをするとき、いつもどこかで他人の目を気にしていたよ
うに思う。しかし今は、できるだけだれもいない日を選んで、ゴミ集めをするようにしている。他
人の視線が、わずらわしいからだ。

 たとえばゴミ集めをしていて、だれかが通りかかったりすると、わざと、それをやめてしまう。
他人の視線が、やはり、わずらわしいからだ。

 ……と考えてみると、私自身も、結構、他人の視線を気にしている、つまり、世間体を気にし
ている人間ということがわかる。

●世間体を気にする人たち
 
 世間体を気にする人には、一定の特徴がある。

その中でも、第一の特徴といえば、相対的な幸福観、相対的な価値観である。

 このタイプの人は、「となりの人より、いい生活をしているから、自分は幸福」「となりの人より
悪い生活をしているから、自分は不幸」というような考え方をする。

 そのため、他人の幸福をことさらねたんでみたり、反対に、他人の不幸を、ことさら喜んでみ
せたりする。

 20年ほど前だが、こんなことがあった。

 Gさん(女性、母親)が、私のところにやってきて、こう言った。「Xさんは、かわいそうですね。
本当にかわいそうですね。いえね、あのXさんの息子さん(中2)が、今度、万引きをして、補導
されてしまったようですよ。私、Xさんが、かわいそうでなりません」と。

 Gさんは、一見、Xさんに同情しながら、その実、何も、同情などしていない。同情したフリをし
ながら、Xさんの息子が万引きしたのを、みなに、言いふらしていた!

 GさんとXさんは、ライバル関係にあった。が、Gさんは、別れぎわ、私にこう言った。

 「先生、この話は、どうか、内緒にしておいてくださいよ。Xさんが、かわいそうですから。Gさん
は、ひとり息子に、すべてをかけているような人ですから……」と。

●作られる世間体

 こうした世間体は、いつごろ、どういう形で作られるのか? それを教えてくれた事件にこうい
うことがあった。

 ある日のこと。教え子だった、S君(高校3年生)が、私の家に遊びにきて、こう言った。(今ま
で、この話を何度か書いたことがある。そのときは、アルファベットで、「M大学」「H大学」と、伏
せ字にしたが、今回は、あえて実名を書く。)

 S君は、しばらくすると、私にこう聞いた。

 「先生、明治大学と、法政大学、どっちがかっこいいですかね?」と。

私「かっこいいって?」
S「どっちの大学の名前のほうが、かっこいいですかね?」
私「有名……ということか?」
S「そう。結婚式の披露宴でのこともありますからね」と。

 まだ恋人もいないような高校生が、結婚式での見てくれを気にしていた!

私「あのね、そういうふうにして、大学を選ぶのはよくないよ」
S「どうしてですか?」
私「かっこいいとか、よくないとか、そういう問題ではない」
S「でもね、披露宴で、『明治大学を卒業した』というのと、『法政大学を卒業した』というのは、
ちがうような気がします。先生なら、どちらが、バリューがあると思いますか」
私「……」と。

 このS君だけではないが、私は、結論として、こうした生きザマは、親から受ける影響が大き
いのではないかと思う。

 親、とくに母親が、世間体を気にした生きザマをもっていると、その子どもも、やはり世間体を
気にした生きザマを求めるようになる。(あるいはその反動から、かえって世間体を否定するよ
うになるかもしれないが……。)

 生きザマというのは、そういうもので、無意識のまま、親から子へと、代々と引き継がれる。S
君の母親は、まさに世間体だけで生きているような人だった。

++++++++++++++++++++

 これからますます、「顔」が問題になってくる。それともほとんどの人たちは、老齢になるととも
に、その顔を、放棄してしまうのか。これから先、私自身がどう変化していくか、それを静かに
観察してみたい。
(はやし浩司 個人化 アイデンティティ コアアイデンティティ コア・アイデンティティ 顔 顔の
ない子供 ペルソナ 仮面 はやし浩司 代理ミュンヒハウゼン 超管理社会 
はやし浩司 タクシー 白タク)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司※

●英語の発音

+++++++++++++++++++++

日本人の話す英語は、ソフトすぎて、聞きづらい
と、よく外国の人は言う。
子音の使い方が違うことによる。
日本語では、子音をほとんど使わない。
使わなくても、音がわかる。
言うなれば、日本語の子音は、おかずのようなもの。
一方英語の子音は、それ自体が、「音」になっている。
たとえば、「バス」にしても、英語では、「バS」になる。
「S」の発音も、その前の「バ」ほど強く発音しなければ
ならない。
このちがいを教えるのは、むずかしい。

+++++++++++++++++++++

昨日、小学生(小4、3人)に、「子音」を教えてみた。
YOUTUBEに、その様子をUPLOADしてみたので、興味のある人は、
見てほしい。

少しはげしいレッスンだが、ひとつの参考にはなると思う。

http://www.youtube.com/watch?v=vJr5jl9MCJc

http://www.youtube.com/watch?v=NEU9ha5MWss

http://www.youtube.com/watch?v=dx1trqugs3s

もっと見てくださる方は……

http://bwhayashi.ninja-web.net/index.html


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
英語教育 英語の発音教育 発音教育)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

【BW公開教室】(特集)

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子どもたちのそのままの様子を、紹介しています。
YOUTUBEのビデオと合わせて、お読みいただくと
よいかと思います。

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●頭のよい子(恵まれた子どもたち)

子どもの頭のよさは、(1)集中力と、(2)思考の柔軟さで決まりますが、
それ以上に重要なのが、(3)思考回路ということになります。

与えられた命題を分析し、頭の中でそれを論理化していく。
その思考回路がしっかりしている子どもは、頭のよい子どもということに
なります。
頭のよい子どもは、そのように考えるか。
それをビデオに収めてみました。
英語で言えば、「gifted children(恵まれた子ども)」ということになります。
このタイプの子どもは、生涯にわたって、日本の(世界の)リーダーとして
活躍していくことになるでしょう。

(1)小3のN君が、勝手に小5の教科書を取り出して、分数の学習を始めました。
そこから始まって、「4時から5時までの間で、長い針と短い針がまっすぐ並ぶ
のは、何時何分か」という問題を出してみました。

BW教室では、学校の進度を無視して、そのつど分数の話をしたりしていますが、
N君の(力)には、驚きました。
チョンチョンとそのつど教えたことを、そのまま身につけてしまっていました。
頭のよい子どもというのは、そういう子どもをいいます。
子どもが、どのように考え、答えを出していくか、その過程を見てください。

http://www.youtube.com/watch?v=vmEASfW42Ko
http://www.youtube.com/watch?v=koccVzx1GU8
http://www.youtube.com/watch?v=sfOHC5cjVAc

(2)同じく、小3のM君に、立体図形の開いた図(展開図)を描いてもらいました。

http://www.youtube.com/watch?v=LfgnYdAu8Dc

M君も、そのつど雑談的に話したことを、そのまま身につけてしまっていました。
「学ぶことは楽しい」という無意識下の意識をもっている子どもは、自ら、こうして
伸びていきます。


●伸びやかな子ども(すばらしい子どもたち)

「すなおな子ども」というときには、2つの意味があります。
(1)心の状態(=情意)と、表情が一致している。
(2)いじける、ひがむ、こだわる、すねるなどの(心のゆがみ)がないこと。

ここに紹介する子どもたちは、たいへん伸びやかな子どもということになります。
ビデオの中で、子どもたちが、(1)言いたいことを言い、(2)したいことをしている
ことに注目してください。

「理想的な子どもとは、どんな子どもか」と聞かれたら、私は迷わず、このタイプの
子どもをあげます。
なお誤解がないように言っておきますが、子どもというのは、抑えるのは簡単です。
しかし伸ばすのは難しい。
一見生意気に見える子どもたちですが、人格の「核」がしっかりしている分だけ、
聞きわけもよく、抑えるのは簡単です。
幼児期は、「伸ばす」ことだけを考え、抑えるのは、最小限にしたいですね。

このビデオの中で、子どもたちがさかんに自己主張している部分に注目してください。
こういう子どもを「すなおで、伸びやかな子ども」と言います。

http://www.youtube.com/watch?v=IXYpvCtCIu0


●子どもを伸ばすコツ

子どもを伸ばそうと考えたら、まず、あなた自身が、それを楽しむことです。
(教える側が楽しくなくて、どうして子どもが楽しむことができるでしょうか?)

私の教室では、レッスンに先立って、5〜10分ほど、(遊び)を取り入れています。
1〜2週間ごとに、遊びの内容を変えていきます。
こうすることによって、子どもの脳内に、カテコールアミン(脳内ホルモン)を
充満させることができます。
あとはその状態で、そのまま学習へと移行していきます。
脳内にカテコールアミンが充満していますから、学習も、前向きにしてくれます。
(脳内ホルモンは、すぐにはフィードバック※されませんので……。)

そんな遊びを紹介します。

http://www.youtube.com/watch?v=gAu3lim2n-Q
http://www.youtube.com/watch?v=DIgoYwsCwrI&feature=channel_page
http://www.youtube.com/watch?v=LTK9D8m3VlE&feature=channel_page

私自身は、無数の市販教材(全国販売用)の教材を制作、指導してきた経験が
あります。
しかし子どもの心をつかむには、手製の教材がいちばん、ですね。
そんなわけで、教室では、手製の教材で、指導しています。
その様子は、以下のHPでご覧いただけます。

http://bwhayashi.ninja-web.net/


●刺激教育

「毎回、いろいろな角度から、子どもの脳を刺激する」。
それが私のやり方です。

(できる・できない)ではなく、子どもが楽しんだかどうかを大切にします。
とくに(笑い)を、私は大切にしています。
『笑えば子どもは伸びる』というのが、私の40年来の教え方の基本になっています。

ゲラゲラと腹をかかえて笑わせる……こういう言い方は、教育の世界ではタブー視されて
いますが、たとえば何かの情緒障害がある子どもでも、笑わせることによって
なおって(=治って?、直って?)しまいます。
(もちろん親たちに、そういう障害があることを指摘することはありません。
病名を出すこともありません。
それがわかるのは、この私だけということになります。)

ともかくも、いろいろな角度から、子どもの脳を刺激していきます。
こうすることで、子どもの脳を柔軟(=しなやか)にすることができます。

一例を示します。
粘土で、四角を作る指導をしてみました。
この中で、私はわざと失敗してみせますが、大切なことは、おとなの優位性を押しつけ
ないこと。
「ぼくのほうが先生より、うまくできる」と思わせるようにします。
子どもたちの声の様子から、子どもたちが楽しんでいる様子をわかっていただければ、
うれしいです。

http://www.youtube.com/watch?v=AHpNQnsMswc


以上、ほんの一部ですが、BWの指導風景を紹介してみました。
ご家庭でも、そのままお子さんの指導に利用していただけるようにしてあります。
どうか、ご利用ください。

(注※)フィードバック……ある種の脳内ホルモンが分泌されると、それを打ち消す
ために、その反対の作用のある脳内ホルモンが分泌されることをいう。
このためある程度の時間がたつと、先に分泌された脳内ホルモンが、無力化する。)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司※

●お金(マネー)では、人の心は買えない

+++++++++++++++++++++++++

まずお金の限界を知ること。
それが賢いお金の使い方ということになる。
その原則、第一。

お金をばらまいて、けっして、いいかっこうをしてはいけない。
お金で人の心を買うことはできない。
これには国も、政府も、個人もない。
ねたみを買うことはできても、感謝を買うことはできない。
だからいくらあなたが金持ちでも、けっしてお金を見せびらかせては
いけない。
いわんや、そのお金で、安易に、人を助けてはいけない。

+++++++++++++++++++++++++

●欲望

お金イコール、欲望。
現代社会では、欲望イコール、お金。
欲望を満たす快感は、アルコール中毒者が、アルコールを
口にしたときを想像すれば理解できる。
ニコチン中毒者が、タバコを吸ったときでもよい。
脳内の視床下部の命令によって、ドーパミンが放出される。
それが線条体にある受容体を刺激する。
とたん、猛烈な欲望となって、その人を襲う。
それが欲望の根源と考えてよい。

アルコール中毒者に酒を渡したところで、感謝されるのは一時的。
ニコチン中毒者にタバコを渡したところで、感謝されるのは一時的。
相手の欲望を満たしてあげたからといって、それで相手の心をとらえた
と考えるのは、あまりにも短絡的。
論理的に考えても、ありえない。
一方、「感謝」などという高度な知的な反応は、大脳の連合野が担当する。
その反応が辺縁系あたりに伝えられ、そこで感謝の念となる。
脳のどこかに、記憶として、深く刻まれる。

むしろ欲望を満たすことによって、(与えられるほう)には、依存性が
生まれる。
アルコール依存、ニコチン依存を例にあげるまでもない。
そして一度、この依存性ができてしまうと、お金に関していえば、(援助する側)と、
(援助される側)は、つねに一方的な関係になる。

●依存される者

R夫婦は、夫婦で、医院を開業していた。
夫が外科医で、妻が内科医をしていた。
そのため、かなりの収入があった。

で、そのR夫婦に、親類一同が群がった。
まさに「群がった」というにふさわしい。
出は東北地方の某都市だったが、兄弟姉妹はもとより、叔父、叔母まで、この
H市に移り住んできた。
R夫婦は、気の優しい人たちだった。
いつしか兄弟姉妹はもちろん、甥や姪の学費から、生活費までめんどうをみる
ようになった。

が、感謝されたのは、最初だけ。
半年もすると、それが当たり前になり、さらに1年もすると、相手のほうから生活費を
請求するようになってきたという。
そのつど、「お金がないと、一家心中しなければならない」「息子の学費を出して
やらないと、息子の将来がなくなる」「暴力団に借金の返済を迫られている」と。

R夫婦は、そうした言葉に脅されて、費用を負担つづけた。
そうして20年が過ぎ、30年が過ぎ、40年が過ぎた。
が、である。
数年前、R夫婦の、夫のほうが他界した。
突然の死だった。
享年87歳。

私もその葬儀に直接出ているので、そのときの様子は、よく知っている。
R氏の妻は、私にこう言った。
「甥や姪はもちろんのこと、東北の親類から来た人は、だれもいません」と。

恐らく甥や姪は、生活費や学費が、R夫婦から出ていると聞かされていなかったのでは?
こうした話は、親は、自分の息子や娘たちには話さない。
「貯金があった」「仕事で得たお金」と言っていたにちがいない。
R夫婦の妻にしてみれば、納得のいかない葬儀だった……らしい。
「あれだけお金を出してやったのだから、葬式くらい、顔を出すべき」と。
R氏の妻は、私にそう言った。

●あなたが金持ちなら……

もしあなたが幸運なことに、お金持ちなら、これだけは覚えておくとよい。

(1)ぜったいに、札束を見せびらかすようなことをしてはいけない。
(2)ぜったいに、札束で相手の頬を切るようなことをしてはいけない。
(3)ぜったいに、安易に金銭を与えたり、負担してはいけない。
(4)ぜったいに、いいかっこうをしてはいけない。
(5)ぜったいに、お金を安易に渡してはいけない。

依存性ができたとたん、「感謝」の念など、どこかへ吹き飛んでしまう。
アルコール中毒者に酒を、ニコチン中毒者にたばこを与えるようなもの。
それで終わるということは、ぜったいに、ない。
しばらくすると、今度は相手のほうから求めてくる。

●ねたみ

(ねたみ)ほど、その人の心を狂わすものはない。
それがわからなければ、逆の立場で、ものを考えてみたらよい。

あなたはその日の生活費にすら、困っている。
子どもの学費にも、困っている。
が、あなたの近くに、たいへんな金持ちがいて、好き勝手なことをしている。
その人の一日の遊興費だけで、あなたは一か月分の生活に相当する。

そういうとき、その金持ちが、かなりまとまったお金をくれたとする。
そういうとき、あなたはどう感ずるだろうか。
一応、その金持ちに感謝の念を示しながらも、あなたはその一方で、
相手をねたむはず。
「お前らのおかげで、私たちはこんなに貧乏なのだ」と思うかもしれない。
先にも書いたように、(ねたみの感情)と、(感謝の念)は、脳の中でも、まったく
別の部分が担当する。
とくに(ねたみ)、つまり嫉妬は、原始的な感情であるだけに、扱い方がむずかしい。
感謝の念でねたみを打ち消すことは、不可能と考えてよい。

だからお金で、人の心をもてあそぶようなことはしてはいけない。
かえって反感を買うだけ。
もしもあなたが金持ちなら、じゅうぶん、注意したらよい。

(付記)

現在、日本のAS首相は、狂ったように世界中に、お金(マネー)をばらまいている。
まず手持ちの印刷機で、円札をどんどんと印刷する。
仮にその額を10兆円としよう。
その10兆円で、外貨として蓄えたドル紙幣と交換する。
外貨は、日銀の金庫に山積みになっている。
10兆円は、1000億ドルに相当する。
そのドルを世界中にばらまく。
一方、日銀の金庫の中に入った円は、国内銀行を通して、日本中にばらまく。

こうして日本は外国ではドルをばらまき、国内では円をばらまく。
一見、一石二鳥のようにも見える政策だが、そのあとに待っているのは、
インフレ。
ハイパーインフレ。
今に、ラーメン一杯が、2000円になるぞ!
3000円になるかもしれない。

AS首相としては、そういう方法でも、人の心をつかみたいのかもしれない。
が、そんな方法では、人の心はつかめない。
繰りかえすが、相手の欲望を満たしてやったからといって、相手に感謝される
ということは、論理的に考えても、ありえない。
感謝されるとしても、一時的。
わかりやすく言えば、お金では人の心は買えない。
かえって反発を買うだけ。


Hiroshi Hayashi++++++++May・09++++++++++++はやし浩司

●何でも否定する子ども(拒否児)

++++++++++++++++++++++

私の近くに、何でも否定する子ども(小5女児)がいる。

「これはいい本だよ」と声をかけると、「そんな本、おもしろくない」と。
「今日はいい天気だね」と声をかけると、「寒いから、いい天気ではない」と。
「こんにちは!」と言って、肩でもポンと叩こうものなら、「このヘンタイ!」と叫んで、
足蹴りを入れてくる。

私が何をしても、おもしろくないらしい。
そこで私が、「そんなに何でも拒否しなくてもいいじゃないか」と声をかけると、
「私は何も拒否していない」「本当のことを言っているだけ」と言い返してくる。

私「逆らうな!」
女「逆らっていない!」
私「逆らっていないって言いながら、逆らっている」
女「じゃあ、どう言えばいいのヨ」と。

このタイプの子どもに一度からまれると、こちらのほうが気がへんになる。
が、当人には、その自覚はない。

類型的には、他責型人間ということになる。
心の奥深いところに、欲求不満が、海の底にたまったヘドロのように、
たまっている。

特徴としては、

(1)感情の発露が見られない。何を考えているかわからない。
教える側からすると、心が読めない。
(2)がまん強く、表面的には、おだやかな性格に見える。
いやなことがあっても、内へ内へとためこんでいく。
(3)表情と心の状態が一致していないことが多い。
うれしいはずなのに、笑みが浮かばない、など。
(4)自分の失敗でも、すかさず他人の責任にする。
自分でお茶をこぼしても、「あなたがそこへ置いておくから悪い」とやり返す。
(5)あとから理由(=こじつけ)が、うまい。
「先生が、いつも急げというから、お茶をこぼした」などと行為を正当化する。
(6)心が冷たい。豊かな感情表現が苦手。
みなが涙をポロポロ流すような映画を見ても、平然としている、など。

俗にいう、「ヒネクレ症状」が見られる。
あるいは、他人からは、「ヘソ曲り」と呼ばれる。
では、どうするか?

●自分に気づかせる

何よりも大切なのは、子ども自身に自分に気づかせること。
静かなカウンセリングが効果的だが、やり方をまちがえると、かえってかたくなになり、
自分の殻(カラ)に閉じこもってしまう。
つまりますますがんこになる。

原因は乳幼児期の不適切な育児姿勢、愛情飢餓、経済的貧困などがある。
そのため、「根」は深い。
叱ったりすれば逆効果。
また説得しても、効果は一時的。
意識的な行動というよりは、無意識下で起こる反応とみる。
よく観察すると、融通がきかず、臨機応変に行動ができないなどの特徴も見られる。
が、最大の問題は、心を開かないこと。
発達心理学的には、『基本的不信関係』ということになる。
先にも書いたように、乳幼児期における母子関係の不全が原因と考えてよい。

●印象

私はそういう子どもを見ると、同情のほうが、先にきてしまう。
「かわいそうな子どもだな」と思うと同時に、「これから先、たいへんだろうな」と。
思春期前夜の反抗期の反抗とちがうのは、反抗の向こうに、ポリシーを感じないこと。

思春期前夜の反抗には、そこに子どもらしいポリシー、つまり理由を感ずる。
「私はこうしたい」「ぼくはこうありたい」という目的性を感ずる。
しかしこのタイプの子どもには、それがない。
何もかもが、おもしろくない。
おもしろくないから、反抗するというよりは、あらゆるものを拒否する。

現実問題としては、一度、こうした否定的態度が身についてしまうと、よほどのことが
ないかぎり、そうした態度は一生、つづく。
「よほどのこと」というのは、結婚、出産、育児……などのような、一大事をいう。
しかしそれでも、「直る」ということは、まず、ないと考えてよい。
が、方法はないわけではない。

もしあなたが今、ここに私が書いているような、「拒否児」、あるいはその延長線上に
いると感ずるなら、静かに自分を反省してみること。
まず、自分に気づく。
すべてはそこから始まる。
あとは時間が解決してくれる。
10年単位の時間がかかるかもしれないが、時間に任す。

まずいのは、そういう自分であることに気づかず、いつまでも同じ失敗を繰り返すこと。
他人と衝突しやすい、夫婦げんかが絶えない、親子関係がしっくりしない、あるいは
反対に、他人と接すると疲れやすい、家庭でも落ち着かない、他人を信じられないなど。
そういう失敗を繰り返すこと。

「拒否児」の問題は、そういう問題である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
拒否児 拒否的態度 拒否的姿勢 ひねくれ ひねくれた子ども へそ曲がり ヒネクレ
ヒネクレ症状 はやし浩司 基本的不信関係 他責型人間)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●認知的不協和から合理化へ(「私は夫を愛しています」)
Rationalization of the Mind

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会って話をするたびに、「私の夫はすばらしい人です」
「私は夫を愛しています」「今の夫と結婚できて幸福です」
などと、ことさら自慢げに口にする人がいる。

そういう話を聞くと、だれしも、そういう夫婦について、
「さぞかしすばらしい夫婦なんだなあ」と思うかもしれない。
うらやましいと思うかもしれない。

事実、私など、そういうことを言葉として、他人に言った
ことはない。
私のワイフについては、さらにない。

が、待ったア!
この話は、おかしい!

実際には、このタイプの夫婦ほど、実はあぶない。
自分の中の心の矛盾(=認知的不協和)を合理化する
ために、そう言う。
そういうケースのほうが、多い。
もっとわかりやすく言えば、日頃から、「いやだ、いやだ」と
思っているから、そういう言葉を口にする。
することによって、自分の心をごまかす。

++++++++++++++++++++

●反動形成

先日、1年ぶりに、Mさん(65歳)に会った。
見た目には、明るく朗らかな人である。
ケラケラとよくしゃべり、話題も豊富。
が、どこか不自然。
演技ぽい。
身についていない。

「無理をしているな」と、私は感じた。
私はその女性が、うつ病の薬を常用しているのを、
ワイフから聞いて知っていたこともある。

このタイプの人は、外の世界では、本来の自分とは正反対の
自分を演ずることが多い。
こういうのを、「反動形成」という。
子どもの世界でも、よく観察される。
たとえば弟や妹が憎くてたまらないはずなのに、親の前では、
よくできた、ものわかりのよい兄や姉を演ずる、など。

それがおとな、さらには老人期に入ると、反動形成そのものが、
その人の(人格?)として定着する。
古いキズの上にできたカサブタが、無数に固まり、分厚い皮となる。
つまりちょっとやそっとでは、ボロを出さない。
Mさんは、だれからも、明るく、朗らかな人と見られていた。

●認知的不協和

こんなことがあった。

よいと思って買ったパソコンだったが、使ってみると、あれこれと
不便なことが生じてきた。
実は最近買った、ミニパソコンのMがそうだ。

タッチパッドの感度がよすぎて、指を近づけただけで、勝手に反応
してしまう。
そのため、ワープロとして使っていると、突然、カーソルの位置が、
とんでもないところにジャンプしてしまう。
使いにくい。
それが頻繁につづくと、イライラする。

そこでショップの人に相談すると、タッチパッドに紙を張って使いなさい
とのこと。
しかしそれも不便……。

こういうとき、心の中で、認知的不協和という特殊な反応が起きる。
もっとわかりやすい例では、こんな例もある。

「すてきな女性」と思って結婚してみたが、結婚生活が始まると、あれこれ
不満だらけ……。
「こんなはずではなかった」というのが、それ。
私もミニパソコンのMを買って、「こんなはずではなかった」と思った。

●合理化

しかし人間の心は、こうした矛盾には、それほど耐えられない。
矛盾を感ずると、心は葛藤状態になり、つづいて緊張状態を強いられる。
この緊張状態に弱い。

そこで心は、自分を防衛するために、さまざまな反応を示す。
その一つが、合理化。
何かの理由をこじつけて、今のその状態を合理化する。
たとえば釣りをしていて、魚を取り逃がしたとする。
そういうとき、「どうせあの魚は、病気だった」とか、自分に言い聞かせることで、
取り逃がしたという悔しさを、解消しようとする。

こうした一連の心理的操作、つまり(認知的不協和)から(合理化)という
操作は、日常的に、私たち自身が、よく経験する。
冒頭にあげたMさんも、その1人。

Mさんにしてみれば、望まない結婚だった。
夫に対する不満もつづいた。
しかし世間体もあり、離婚することもできなかった。
そういう生活が、40年間もつづいた。
その結果が(今)ということになる。
Mさんは、ことあるごとに、こう言う。

「私は今の夫と結婚できたことを、喜んでいます」と。
しかしこうした言葉は、そのまま受け取ってはいけない。
裏から読む。
「今の結婚は、不満です」と。

しかしそれを認めることは、そのまま自己否定につながる。
人生も晩年になって、何がこわいかといって、「自分の人生は
まちがっていたかも?」という疑問をもつことほど、こわいものはない。
その自己否定がこわいから、ほとんどの人は、合理化することによって、
自分の心を防衛する。
「防衛すること」から、こうした心理操作を、心理学の世界では、「防衛機制」という。

●退職者の悲哀

こうした現象は、何も妻だけの問題ではない。
定年退職した男たちが、みな共通にもつ問題と言ってもよい。
とくに私たちの世代は、現役時代には、「企業戦士」と言っておだてられ、
一社懸命、一所懸命と、身を粉にして会社という企業のために尽くしてきた。

本当は自分のためにそうしたのだが、結果として、自分の夢や希望を犠牲にした。
家族を犠牲にした。

が、結末はあわれ。
本当にあわれ。
民間企業でそれなりの地位についた人も、50歳を回るころにはリストラされ、
関連会社や子会社へ。
あるいはリストラ→求職活動→再就職、と。

こうした人たちの落胆感には、ものすごいものがある。
しかしそれを認めることは、先に書いた「自己否定」につながる。
そこでこのタイプの人たちは、過去の経歴にしがみつく。
あるいはそれ以前の学歴にしがみつく。

言うなれば、これも「合理化」の変形ということになる。

●再び、Mさん

Mさんは、先にも書いたように、見た目には、明るく朗らかな人である。
私たちと話すときも、何かとよく気がつき、あれこれと仕事をしてくれる。
だから私たちも、その範囲で、Mさんと交際している。
問題はない。
一応、よき人間関係ということになる。

しかしどこかで違和感を覚えるのも、これまた事実。

私「お前さア、他人に、『浩司さんと結婚できて幸福』って、言ったことあるか?」
ワ「ないわねエ〜」
私「だろ……。本当に幸福なら、そんな言葉など使わないぞ」
ワ「そうねエ。夫婦なんて、空気のようなものだから……」

私「でも、Mさんは、ぼくにも、そう言った。お前にも、そう言った」
ワ「どうしてそんなことを言うのかしら?」
私「つまり、それだけ今の夫に不満があるからだよ。自分の心をごまかすために、
そう言う」
ワ「そうねエ……」と。

何も私たち夫婦が仲がよいというわけではない。
ないが、他人に夫婦の間のことを話すことは、めったにない。
話しても意味がない。
無駄。
言うとしても悪口のほうが、多い。
「ぼくのワイフは、頑固」「融通がきかない」「まじめすぎる」と。
いわんや、他人に、「ぼくはワイフを愛しています」などとは、言ったことがない。
最近の若い人たちのことは知らないが、私たちの世代には、「愛」という言葉には、
ある種の照れくささを覚える。

●晩年

しかし人生も晩年に近づくと、この合理化がふえてくる。
「ぼくの人生はこんなものだ」という、あきらめとも、居直りともわからない
複雑な気分が、身を包む。
それが合理化に拍車をかける。

私の人生を振り返っても、釣った魚よりも、釣り逃した魚の方が、はるかに多い。
「あのときの魚は、こうだった」「ああだった」と、自分をなぐさめる。
結婚生活にしても、また私のワイフにしても、そういう思いがどこかにないとは
言わない。
しかしそれこそ、(お互い様)。

私だって、欠陥だらけの人間。
とても人に誇れるような人間ではない。
そんな私に、40年も付き添ってくれた。
私がワイフなら、私のような男とは、とっくの昔に離婚していただろう。
それが自分でもよくわかっているから、偉そうなことは言えない。

ただ幸いなことに、自己否定に陥ることは、死ぬまでないだろうということ。
私は、ささやかだが、自分なりに、自分の人生を歩むことができた。
どこの世界で、どのようにがんばったところで、私は今程度の人間でしか
なかっただろう。
やり残したと思うようなことも、ほとんどない。
だからあとは、このまま死ぬまで、突っ走るだけ。

そんな私だが、ワイフに、「愛している」と言われることくらい、うれしいことはない。
めったに言わないが……。

さて、この文章を読んでいるあなたは、どうか?
余計なお節介かもしれないが……。(失礼!)


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
認知的不協和 防衛機制 合理化 自己正当化)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●運動(Exercise)

+++++++++++++++++++++

昨夜は、オーストラリアの友人への誕生日プレゼントを
送るため、片道約5キロを歩いた。
西郵便局まで、歩いた。
今日も、近くのショッピングセンターまで、約6キロを
歩いた。
そのため、私もワイフも、疲れた〜〜〜ア。

帰ってきて、そのまま昼寝。
目をさましたのが、午後4時ごろ。
2人も、2時間近くも眠ったことになる。

が、起きてみて、ビックリ。
居間から寝室まで、漢方薬の焦げた臭い。
ワイフが、ヨクイニン湯をつくりかけて、火を消すのを
忘れてしまったためらしい。

ヨクイニン湯……肌をなめらかにする。
イボの特効薬でもある。
私たちは、ヨクイニンに、甘草(カンゾウ)を、4対1の割合で
煎じて飲んでいる。
甘草を混ぜるのは、薬効をおだやかにするため。
それにのみやすくなる。
それにセンナの葉を、5〜6枚入れると、便秘薬にもなる。

+++++++++++++++++++++

このところ「運動」といっても、どこかに悲壮感が漂うようになった。
「楽しむ」というよりは、何かに追い立てられているといった感じ。
とくに土日にしっかりと運動をしておかないと、つづく月曜日からの
仕事にさしさわりが出る。

が、そこは私。
それなりに楽しむ工夫はしている。
その一。
いつもデジタルカメラをもち歩く。
最近はビデオカメラを持ち歩くことも多い。
そのつど美しい花を見かけたりすると、それを写真に収める。
今日も、ショッピングセンターまで歩くとき、30枚ほど、写真に撮った。

あとはただひたすら、おしゃべり。
ワイフとペチャペチャとしゃべりながら、歩く。
これが結構楽しい。

●墓穴

アメリカにも、「墓穴」という言葉があるらしい。
クリントン国務長官が、「K国は、ますます墓穴を掘っている」というような表現で、
K国を非難した。

(「墓穴」……?
英語で、何と言うのだろう。
suicidal=自殺行為、disastrous=破滅的、という単語は、よく使うが、grave=墓穴
とういのはどうか?)

ともかくも、K国は墓穴を掘りつづけている。
だいたい言うこと、なすこと、すべてがメチャメチャ。
先の国連安保理の決定を撤回しろとか、謝罪しろとか、さもなければ、ICBMの
実験をするとか、核実験をするとか……。

それに対してアメリカは、『無視と圧迫』作戦を展開中。
K国が何を言っても、無視。
K国への援助予算も全額カット。
議会への報告書からも、K国という文言を消した。

要するに、「ご勝手にどうぞ」と。

が、日本として、もっとも警戒しなければならないのは、あのB氏。
電撃的な米朝会談。
前例がないわけではない。
先のC・ヒルには、日本は、さんざん煮え湯を飲まされた。
また今回K国の特命大使に任命された、B氏は、大の韓国びいきときている。
「日本はずし」も、ありえないわけではない。
もしそんなことにでもなったら、一大事。
日本は国運を賭けてでも、それに抵抗しなければならない。

警戒すべきは、B氏。
このB氏の動きと言動を、注意深く見守っていこう!


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●5月10日(人生は選択の問題)

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このところフルハイビジョンテレビの迫力に
押されて、映画館へは足を運んでいない。
(見たい映画がないということもあるが……。)
そのかわり、家でビデオを見ることが多くなった。
で、昨夜は、スティーブン・スピルバーグ監督の
『アメージング・ストーリー』。
たいへん古い映画である。
雰囲気からして、20〜30年くらい前の映画ではないか。
私はその映画が好きで、ビデオで公開されるたびに、
それを借りてきた。
全部、見た……はず。

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●記憶

DVDは2本、借りてきた。

短編が3作ずつ収録されているから、計6作ということになる。
が、うち4作ほどは、おぼろげながらも、内容を覚えていた。
しかし残り2作は、はじめて見たと言ってよいほど、内容を覚えていなかった。
どういうことだろう?
見ていなかったのか?
それとも忘れてしまったのか?

DVDを見ながら、自信がゆらいできた。
単純に計算すると、こうなる。

仮に私がその映画を、40歳のときに見たとしよう。
この計算によれば、その時代の6分の2、つまり3分の1は、記憶から完全に
消えてしまったことになる。
あの時代の1年のうち、約4か月は、完全に記憶から消えてしまったことになる(?)。
(こんなふうに、単純に計算することは、正しくないことは、よく知っているが……。)

40歳のころ、私はたしかに生きた。
しかしそのうちの3分の1の時間は、「生きた」という実感もないまま、どこかへ
消えてしまった?
……というふうにも、理解できる。
さらに言えば、その時間の中の私は、私は死んだも同然ということにもなる。
(少し、大げさかな?)

●無益に100年生きるよりも……

が、人生というのは、おおむね、そんなもの。
「今」という時にしても、10年後に残る時間など、3分の1もない。
(3分の1も残れば、御の字かも。)
実際には、加齢とともに、人生の密度は薄くなるから、5分の1とか、10分の1
とかになる。

言い換えると、人生というのは、過ごし方の問題。
過ごし方によって、2倍にも、3倍にもすることができる。
反対に過ごし方をまちがえると、(死んだも同然)となる。
そこで結論。

大切なことは、長生きをすることではない。
今のこの時を、2倍、3倍にして生きる。
そうすれば同じ10年でも、それを20年、30年にして生きることができる。
『人生は長さではなく、密度の問題』。

さらに言えば、『無益に100年生きるよりも、有益に1年を生きたほうがよい』と
いうことになる。
『朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり(子曰、朝聞道、夕死可矣)』というのも、
同じ意味である。
論語の中の一節である。
つまり「その日の朝に真実を知れば、それ以上長生きしたところで意味はない。
夕方に死ぬことになっても後悔はしない」と。

●日々を選ぶ

このことは私たちに重要な教訓を残している。
つまり与えられた時間は同じでも、使い方によって、それを2倍にすることもできるが、
反対に半分にしてしまうこともあるということ。
人生というのは、「使い方」というよりは、「選択の問題」ということになる。

たとえば同じDVDを見るにしても、印象に残らないような、くだらないのを見ても、
意味はないということ。
時間の無駄。
人生の無駄。
時間つぶしにもならない。
自分を殺しながら、殺しているという事実にすら、気がつかない。

よい例が、あのバラエティ番組。
見るからにその程度の人たちが、意味のないことを言いあいながら、ゲラゲラ、
ギャーギャーと騒いでいる。
そのときはそれなりに結構楽しいが、そういうのを見ている時間というのは、
結局は、(死んだも同然)ということになる。

そこでどうせ見るなら、10年後、20年後に、しっかりと記憶に残るものがよい。
それが時間を有効に使うということになるし、人生を長く生きるということになる。
つまり「選択の問題」ということになる。

DVDやテレビにかぎらない。
仕事にしても、人と会うにしても、また交際するにしても、そのつど「選ぶ」。
その選び方を誤ると、10年後には、何も残らない人生を送ってしまうことになる。

要するに日々の選択にこそ、人生をどう生きるかの知恵が隠されている。

●再び、選択

同じ映画でも、強烈な印象を受けた映画は、よく覚えている。
たった1度しか見ていない映画でも、よく覚えている。
そうでない映画は、そうでない。

が、ここでまた別の問題にぶつかる。
映画にせよ、人生にせよ、どう選ぶかという問題である。
中には、「娯楽なのだから、楽しめばいい」と考える人もいるかもしれない。
「見て、すぐ忘れたからといって、無駄になったということではない」と。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。

若いときのように、死がはるか遠くにあって、それを気にしないというのであればよい。
しかし50歳、60歳となると、死をすぐ近くに感ずるようになる。
親しかった人も、つぎつぎと死んでいく。
そうなると、「楽しめばいい」という考え方は、どこかへ吹き飛んでしまう。

そこで大切なことは、やはり、「選択」ということになる。
言い換えると、これから先は、「どう生きるか」ではなく、「どう選択するか」ということ。

人を選ぶ。
仕事を選ぶ。
行動を選ぶ。
常に選びながら、生きる。

年数は正確には計算できないが、スティーブン・スピルバーグの『アメージング・
ストーリー』を見ながら、そんなことを考えた。

(付記)

実のところ、この1週間、原稿をほとんど書いていない。
……書けなかった。
スランプ状態になってしまった。
第一の原因は、電子マガジンの読者が、この数か月以上、ほとんどふえなかった。
毎日が、苦しかった。
「しばらく休刊にしよう」と、何度も考えた。
ワイフもそう言った。
「そんなに苦しいのなら、休刊にしたら」と。

もちろん中には、毎回読んでくれている読者もいる。
ときどきだが、そういうメールをもらう。
しかし90%以上の読者は、(あるいは99%以上の読者は)、軽く目を通して、
そのまま削除。
私自身も、他人のマガジンをそのようにして読んでいるので、その気持ちがよくわかる。
読者の方を責める気持ちは、まったくない。
しょせん電子マガジンというのは、そういうもの。

「何かしら、壮大な無駄をしているのでは?」という、疑問がムラムラと胸をふさいだ。
とたん書く気が半減、喪失した。
「こんなことをしていて、何になるのだろう?」と。

さらに一言、付け加えるなら、私の読者は、そのほとんどが女性。
母親。
よけいに、むずかしい。

女性というのは、情報を得ても、それを自分だけの世界に閉じ込めてしまう。
けっして、外の世界に広めてくれない。
何かよい情報を手に入れたりしても、こっそりと自分のものにして、それでおしまい。
男性のように、他人に向かって、「これはおもしろいから、お前も読んでみろ」という
ようなことをしてくれない。
(もちろんそうでない女性もいるが、しかし私が知るかぎり、そういう女性は少数派。)

ほかにもたとえば子育て相談などにのってやっても、女性のばあいは、たいてい、
「はい、ありがとう」だけですんでしまう。
男性のばあいは、そのあと、何らかのアクションが、かならずといってよいほど、ある。

女性、つまり母親たちとは、もう何十年もつきあってきたから、そういう女性特有の
心理がよくわかっている。
女性を責めているわけではない。
ただ、こういうことは言える。

女性も、そのあたりから自分を基本的に見直さないと、真の意味での男女同権を
達成することはできないのではないか、と。
というのも、こうした女性独特の心理の奥底には、ぬぐいがたい(女性特有の依存性)の
問題が潜んでいる。
どこか男性社会に甘えて生きている。
その(甘え)がなくならないかぎり、真の意味での男女同権はない。

ともかくも、1週間の空白期間を通り抜けて、今、また原稿を書き始めている。
こういうとき私は、自分にこう言って聞かせる。

「こうしてものを書くのは、だれのためでもない。自分のため」と。
言うなれば、肉体を鍛えるジョギングのようなもの。
自分の健康のため。
脳みその健康のため。

もう女性にも、また母親と呼ばれる人たちにも、期待はしない。


Hiroshi Hayashi++++++++May・09++++++++++はやし浩司

●嫉妬(ねたみ)(Jealousy)

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嫉妬深い人には、ひとつの特徴がある。
嫉妬深い人は、当然のことながら、他人の幸福や成功を喜ばない。
喜ばない分だけ、その反射的反応として、人の悪口や中傷を好む。

言いかえると、日常の会話の中に、人の悪口や中傷が多い人は、
それだけ嫉妬深い人とみてよい。

+++++++++++++++++

概して人は、つぎの2つのタイプに分けられる。

(1)他人のよいところだけを見ながら、それを前向きに評価していくタイプ。
(2)他人の欠点だけを問題にし、それを批判したり、悪口や中傷につなげていくタイプ。

後者のタイプの人は、それだけ嫉妬深い人ということになる。
つまりそれだけ心の部屋が、狭い。
見かけの様子にだまされてはいけない。
多くの人は、自分の欠点に気づくと、その反対側の自分を演ずることがある。
明るく、朗らかな人が、実はその裏で、うつ病で、通院治療を受けていたりするなど。
そういうケースは、たいへん多い。

嫉妬深い人もそうで、表面的には、寛大な様子を、ことさら演じてみたりすることが多い。
「私は世界中の人がみな、幸福になればいいと思っています、ハハハ」と。
表面的な様子だけでは、判断できない。
だからこれは他人の問題というよりは、私やあなたの問題ということになる。

あなたはだれかと会話をするとき、上の(1)のタイプだろうか。
もし、そうなら、それでよし。
もし(2)のようなら、あなたは、心のかなりゆがんだ人とみてよい(失礼!)。
原因や理由はいろいろ考えられるが、嫉妬深い人は、それだけ自らの人生を
重く、暗いものにする。
長い時間をかけて、そうなる。

とくに(2)のタイプの人は、教師には向かない。
そういう教師に当たったら、生徒がかわいそう!
……と考えて、一度、自分を深〜〜ク、反省してみる必要がある。

嫉妬は、原始的な感情の一つであるだけに、扱い方もむずかしい。
扱い方をまちがえると、それこそ、相手を殺す……というところまでしてしまう。
つまり嫉妬がからむと、人間が人間でなくなってしまう。
行動そのものが、動物的になる。

嫉妬を感じたら、じゅうぶん、注意したらよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
嫉妬 ねたみ 嫉妬論)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司※

【今日のニュースから】

●プリチャード氏の二枚舌(more and more Japanese are becoming anti-USA now)

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どちらが本当のなのだろう?
プリチャード氏は、韓国と日本で、
まったくちがうことを発言している。

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アメリカのジャック・プリチャード元韓半島(朝鮮半島)和平担当特使は、
韓国の中央N報の取材に応じ、「6か国協議は終わった」と明言したあと、
つぎのように答えている。

「6カ国協議が再開されるのは難しいと思うか」という質問に対して、

 「6カ国協議はすでに役目を終えたと思われる。今の状況で6カ国協議が再開されると
いう兆候はどこにも見られない。クリントン国務長官も、議会での聴聞会で6カ国協議に
ついて明言していない」』(中央N報・5月7日)と。

そのあとプリチャード氏は日本へ立ち寄り、まったく逆のことを述べている。

「米朝の2国間協議は、あくまでも6か国協議の枠内でする」(NHK定時ニュース・
5月11日)と。

クリントン国務長官は、基本的には、日本を完全に切り捨てている。
こうしたクリントン国務長官の外交姿勢を、プリチャード氏の発言に重ね合わせてみると、
アメリカがこの先、この極東アジア情勢をどうコントロールしようとしているかが、よく
わかる。

この先、反米感情が高まることはあっても、低くなることはないだろう。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●M党OZ氏の辞任(Mr . Ozawa resigned his post. Taking the blame against him, but it 
is too late!)

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見苦しいぞ、OZ氏。
この場に及んでも、「議員辞職はしない」
「離党はしない」は、ない。

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スポーツ報日は、つぎのように伝えている。

『民主党の小沢一郎代表(66)が、11日、民主党本部で会見し、代表を辞任する意向
を表明した。自身の公設第1秘書が起訴された西松建設の巨額献金事件後も、一貫して「国
民に理解を得られる」と強気に続投を表明していた姿勢から一変。総選挙に向け、党内の
結束のために辞任するとした。ただし、求められ続けていた、事件についてのさらなる説
明責任は果たさないまま。"辞任するのはメディアのせい"との主張も展開。議員辞職や離
党は否定した。民主党幹部は16日か17日に後継を決める代表選を行う意向を明らかに
した』(5月12日)と。

整理してみる。

(1)OZ氏は代表を辞任する(当然である。しかし遅すぎた!)。
(2)巨額献金事件についての説明はじゅうぶんではない(みな、そう思っている)。
(3)「辞任するのはメディアのせい」は、おかしい(責任回避?)。
(4)議員辞職や離党は否定した(形だけの「辞任」か?)。

OZ氏が、「続投」を表明したとき、M党による政権交代は、ツユと消えた。
で、今回の辞任劇。
OZは、「議員辞職や離党は否定した」という。
であるなら、さらに政権交代は絶望的!

OZ氏ただひとりが、M党のイメージを悪くしている。
どうしてOZ氏は、それに気がつかないのだろう。
「自己愛者」というのは、OZ氏のような人のことをいう。
自己中心性だけが、極端に肥大化している。
もっとわかりやすく言えば、まさに権力の亡者。
あの顔を見ていると、不快感を通り越して、吐き気すら覚える。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●韓国の情報操作

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韓国中央N報は、 『現代(ヒョンデ)・起亜(キア)自動車が、
第1四半期に乗用車を約90万台販売し世界6位となった。
5位のフォードとは7万台差まで追い詰めた』(5月11日)
と報道している。

本当に、そうか?

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私にはどういう売り方をしたのかわからないが、昨年後半、現代自動車は
山のような在庫車をかかえていたはず。
そうでなくても、韓国車のダンピング販売には、すさまじいものがある。
同一車でも、海外販売車は、国内販売車よりも、20〜30%は安い。
「国内販売で儲けて、海外では、損をしてでも売る」と。

国策企業だから、こういう芸当ができるのだろう。
しかし実際には、どうか?
これから先が、韓国の常とう手段。

つごうのよいときは、ウォン建てで計算し、つごうの悪いときは、ドル建てで
計算する。

中央N報の記事をよく読んでみてほしい。

『同研究院は経済専門紙フォーブスが選んだ主要2000社を対象に分析を行った。自国通貨
ベースで韓国企業の前年比の増収率は、2007年の13.2%から08年は24.3%へと上昇した。
これに対し、円高のあおりを受けた日本企業の増収率は6.9%から0.5%に低下した。米国企
業の増収率は8.5%から7.8%に、欧州企業の増収率は7.3%から5.4%にそれぞれ鈍化した」
と。

つまりこの記事だけを読むと、韓国だけが、ひとり勝ちしているような印象を受ける。
が、同じ数字を、今度は、ドル建てで計算すると、内容は一変する。

『しかし、為替要因を除いたドルベースでは状況が一変する。韓国企業の増収率は16.4%から
5.1%に大きく低下したのに対し、日本企業は5.6%から14.4%へと上昇。欧州企業は17.0%か
ら13.1%に鈍化したものの、韓国企業よりは好業績だった』と。

わかるかな?

今回は、中央N報も、さすがに気がひけたのだろう。
ドル建てでの報告も併記している。
それによっても、『韓国企業の増収率は16.4%から5.1%に大きく低下した』という。
こうした情報操作は、韓国政府というより、韓国のお家芸。
そのつど、自分たちのつごうのよい尺度を使って、世界を煙に巻く。

ふつう、韓国のようなマイナー国は、貿易収支は、ドル建てで計算する。
対外的には、とくにそうである。
その国の通貨で、「〜〜ウォン、儲かりました」と言われても、世界の人にはわからない。
国内だましとしては通用しても、世界には通用しない。

それにしてもあの(山のような在庫)は、どうなったのだろう?
現代車が、生産調整に入ったというニュースはあまり伝わってこない。
利益を度外視し、販売実績だけを伸ばす、つまり、メチャメチャな
ダンピング販売を重ねているようにしか、私には、思えないのだが……。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●K国問題(North Korea)

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K国は、対米批判のボルテージをますますあげている。
まさに言いたい放題!
それに対して、アメリカ政府は、ダンマリ、無視。

何もアメリカに追従しろというわけではないが、
日本も、ここはダンマリ、無視するのがよい。

やりたいようにやらせ、自ら、墓穴を掘らせる。
6か国協議といっても、中国やロシアがK国の
肩をもつようでは、意味がない。
K国と中国をまず、離反させなければならない。
そのためにも、ダンマリ、無視。

核実験でも何でも、やりたければ、やればよい。
が、やったら最後。
またまた国連を舞台に、ガンガンとK国を攻撃すれば
よい。
ついでにK国を支える、中国やロシアを攻撃すればよい。

K国をかばえばかばうほど、中国やロシアは孤立する。
つまりそのとき、6か国協議は、再び動き出す。

ただし日本としては、米朝直接会談には警戒した方がよい。
仮に米朝間で、米朝友好条約、あるいは相互不可侵条約
のようなものが結ばれたら、そのときこそ、日本は万事休す。

その条約を基に、K国は日本に対して、したい放題のことを
してくるだろう。
「1000兆円の戦後補償」を求めてくる可能性も
ないとは言えない。
「1000兆円払え、さもなくば戦争!」と。

K国の最大のねらいは、日本からアメリカを取り除くこと。
日米安保条約を死文化すること。
その動きもないわけではないので、ここは警戒した方がよい。

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以上、5月12日朝のニュースより。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●5月11日

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昨日、群馬県のある町では、気温が33・5度
になったという(5月11日)。
真夏日である。
「5月に33・5度とはねエ」と。
何度も同じ言葉を、ワイフと繰り返す。

この浜松市でも、けっこうな暑さだった。
昼ごろ散歩から帰ってきたが、2人もげんなり。
そのまま倒れるようにして、昼寝をしてしまった。

原因は、「太平洋上の高気圧が……」(NHK)という。
が、そんなことはどうでもよい。
地球が温暖化しているのはだれの目にも明らか。
それを疑う人は、もうだれもいない。
しかし……。
どうして「地球温暖化のため」とは言わないのだろう?
言うと、何かまずいことでもあるのだろうか。

私たちが子どものころには、気温が30度を超えるのは、
梅雨が明けた7月中旬以後のことだった(岐阜県)。
そのころから夏休みが始まった。
それが今では、5月!

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●二男の仕事

先日三男がアメリカから帰ってきた。
アメリカでは、二男の家に世話になった。
その二男の話をした。
「あいつはどんな仕事をしているんだ」と聞くと、三男は、目を輝かせてこう言った。
「S君(=二男)は、すごい仕事をしているんだよ、パパ」と。

二男の嫁は、現在、インディアナ大学のロースクールに通っている。
昨年、日本でいう司法試験に合格した。
夫の二男は、同じ大学で、コンピュータ技師をしている。
自宅から、ロースークールまでは近いらしいが、そのロースクールから
二男の職場までは、車で2時間ほどもかかるという。

2時間!
大学の中を、車で2時間!

私が驚いていると、「町全体が大学のようになっている」と、二男が教えてくれた。
日本人の私たちには想像もつかない広さである。
「車で、2時間ねエ〜?」と。

「現在、S君(=二男)は、2つの仕事をしているんだよ。
ひとつは、全世界のスーパーコンピュータをネットでつなぐという仕事。
もうひとつは、今度EUが開発した量子加速器のデータを、衛星通信で得て、解析する
という仕事」
「あいつは学生時代、10台くらいのパソコンをつないで、超高速パソコンを作って
遊んでいたからな。
それが役立っているのかな?」と話をつなげると、「S君は、簡単な仕事だと言っている
けど……」と。

三男は二男のことを、いつも、「S君」と、尊敬の念をこめて、「君」づけで呼んでいる。
子どものころから、三男にとっては、二男はよき兄だった。

で、勤務は、週1回。
残りの仕事は、家でしている、と。

「それで給料が出るのか?」と聞くと、「出るみたいだよ」と。
「週に一度くらい会議があってね、そこで仕事をいろいろと指示されるみたい。
大学へ行くと、交通費が5000円、支給されるそうだよ」とも。

話を聞けば聞くほど、脳みその中で、火花が飛ぶ。
私の常識では、理解できない。

大学構内を車で、2時間?
週1回の勤務?
あとは家で仕事?
それでちゃんと給料が出る?
量子加速器のデータを分析?
世界中のスーパーコンピュータをネットでつなぐ?

「全世界のスーパーコンピュータをつなぐっていうけど、多くは国家機密に
なっていると思うよ。
S(=二男)のような外国人に、そんな重要な仕事を任せて、アメリカ政府は
平気なのかな」と聞くと、「平気みたいだよ」と。

こういう時勢である。
仕事があるというだけでも、御の字。
感謝しなければならない。
今、現在、仕事がなくて困っている人には申し訳ないが、とりあえず、我が家は平和。
3人息子たちは、それぞれにがんばっている。

その三男も、今月の中旬からいよいよB777の操縦訓練に入る。
日本ではB747と並ぶ、大型最新鋭機。
言い忘れたが、長男も、社長の片腕として、中堅だが、製造会社で自分の地位を確保
しつつある。

で、残ったのは、私たち夫婦。
現状維持が精一杯。
健康を大切にし、息子たちには心配をかけないよう、何とか今のこの不況を自力で、
乗り切りたい。

(付記)

二男を通して、アメリカの教育制度を知るたびに、驚く。
自由というより、実にフレキシブル。
その分だけ競争もはげしいのだろうが、(力)さえあれば、まわりがそれを認め、
どんどんとその人を起用していく。
このダイナミズムこそが、アメリカの底力ということになる。
改めて……、「アメリカって、すごい国だなあ」と感心する。

●二男の経歴

小学3年生のときに、BASIC言語をマスター。自分でゲームを作って遊んでいた。
市販のゲームソフトを、自分で改造して遊んでいた。
中学生になるころには、C++言語をマスター。当時、中学校でもやっとパソコンが
並び始めたころで、二男は、学校の先生たちにパソコンの使い方を教えていた。
ヘンダーソン州立大学を学位卒。
州内のコンピュータソフト会社に入社。
大学の教授の推薦文には、「この男はNASAでも通用する」とあった。
現在、インディアナ大学、コンピュータ技師。

私は二男には、惜しみなく、そのつど、最高性能のパソコンを買い与えた。
しかしもし二男が日本へ戻っていたら、日本では、パソコンショップの店員程度の
就職先しか見つからなかっただろう。
(だからといって、パソコンショップの店員の仕事が上とか、下とか、そういうことを
言っているのではない。
パソコンショップの店員の中には、大学の教授よりも、すぐれた能力をもっている
人も多いはず。
一方、大学は大学で、学閥と学歴で、たがいに自分たちの職場を守りあっている。
つまりそういうすぐれた能力を個人がもっていても、日本の社会は、それを見出し、
伸ばすことができない。
私はそういう日本の社会のしくみそのものが、おかしいと言っている。
どうか誤解のないように!)


Hiroshi Hayashi++++++++May・09++++++++++はやし浩司

【私の母】(My Mother)

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私の母は、ああいう女性だったが、今さら母の批判などしても意味はない。
したくも、ない。
母は、私の母だったが、それをのぞけば、どこから見ても、ふつうの女性だった。
特別な女性ではなかった。
よい意味においても、また悪い意味においても、どこにでもいるような女性だった。
そういう母のことを、あれこれ書いても、意味はない。

ただ、どうして私の母は、ああいう女性になったかという点については、興味がある。
ずっと、それを考えてきた。
今も、考えている。

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●最後の会話

2008年、11月11日、夜、11時を少し回ったときのこと。
ふと見ると、母の右目の付け根に、丸い涙がたまっていた。
宝石のように、丸く輝いていた。
私は「?」と思った。
が、そのとき、母の向こう側に回ったワイフが、こう言った。
「あら、お母さん、起きているわ」と。

母は、顔を窓側に向けてベッドに横になっていた。
私も窓側のほうに行ってみると、母は、左目を薄く、開けていた。

「母ちゃんか、起きているのか!」と。
母は、何も答えなかった。
数度、「ぼくや、浩司や、見えるか」と、大きな声で叫んでみた。
母の左目がやや大きく開いた。

私は壁のライトをつけると、それで私の顔を照らし、母の視線の
中に私の顔を置いた。
「母ちゃん、浩司や! 見えるか、浩司やぞ!」
「おい、浩司や、ここにいるぞ、見えるか!」と。

それに合わせて、そのとき、母が、突然、酸素マスクの向こうで、
オー、オー、オーと、4、5回、大きなうめき声をあげた。
と、同時に、細い涙が、数滴、左目から頬を伝って、落ちた。

ワイフが、そばにあったティシュ・ペーパーで、母の頬を拭いた。
私は母の頭を、ゆっくりと撫でた。
しばらくすると母は、再び、ゆっくりと、静かに、眠りの世界に落ちていった。

それが私と母の最後の会話だった。

●男尊女卑思想

男尊女卑思想というと、男性だけがもっている女性蔑視思想と考えられがちである。
しかし女性自身が、男尊女卑思想をもっているケースも多い。
「女は家庭を守るべき」とか、「夫を助けるのが妻の仕事」と。
「男は仕事、女は家庭」とか、「子育ては女の仕事」というのでもよい。
それをそのまま受け入れてしまっている。
私の母もそうだった。

印象に残っているのは、私が高校生のときのこと。
私が何かの料理がしたくて、台所に並んだときのこと。
母は、こう言った。
「男が、こんなところに来るもんじゃ、ない!」と。
ものすごい剣幕だった。
だから私は大学を卒業するまで、料理という料理を経験したことは、ほとんどなかった。

●実家意識

今から思うと母にとっての「家」は、母が嫁いできた「林家」ではなく、実家の「N家」
だった。
「林家」にいながら、いつも心、この家にあらずといった雰囲気だった。

母は、農地解放で農地の大半を没収されるまでは、その村では、1、2を争う地主だった
という。
しかしそれも終戦までの話。
母の実家は、「畑農家」と呼ばれていた。
農家にも2種類あって、「山農家」と「畑農家」。
それだけに農地解放で失った財産も、大きかった。

そのあと、戦後の「N家」は、没落の一途をたどった。
が、気位だけは、そのままだった。
母は子どものころ、その村では、「お姫様」と呼ばれていた。
13人兄弟の中の長女。
10番目に生まれた女児ということで、それこそ蝶よ花よと、親にでき愛されて育った。
言い忘れたが、母は大正5年生まれ。

●不運な結婚

2度目の顔合わせで、母は、私の父と結婚した。
父の父、つまり私の祖父と母の父との間の話し合いで、結婚が決まってしまったという。
母は、父に見初められたというよりは、私の祖父に見初められた。
今にして思うと、そのとおりだったと思う。
母と私の祖父は、まるで恋人どうしのように仲がよかった。
その一方で、父とは仲が悪かった。
「悪い」というより、たがいの会話もなく、関係は冷え切っていた。
私の記憶のどこをどうさがしても、母と父が何か、しんみりと話しあっている姿など、
どこにない。
いっしょに歩いている姿さえない。
そんなわけでいつ離婚してもおかしくない関係だった。
が、父と母の間をつないでいたのは、祖父だった。

●貧乏

私が中学生になるころには、稼業の自転車屋は斜陽の一途。
遅くとも私が高校生のときには、いつ廃業してもおかしくない状態だった。
そんなあるとき、私は1か月に、自転車屋が何台売れたか計算したことがある。
そのときの記憶によれば、中古自転車が数台のほか、新車も数台だけだった。
その数台でも、よく売れたほうだった。
あとはパンク修理だけ。
それで、何とか生活を維持していた。
貧乏といえば貧乏だった。

しかし母は、けっしてそういう様子を外の世界では見せなかった。
『武士は食わねど……』というが、母のそれはまさにそれだった。
家計などあって、ないようなもの。
しかしそれでも母は、姉を日本舞踊に通わせたりしていた。
琴も習わせていた。
当時、日本舞踊や琴を習っている娘というのは、酒屋か医者の娘と、相場は決まっていた。

●自己中心性

私はM町という、田舎の町だが、昔からの町で生まれ育った。
岐阜県に当初、3つの高等学校(=旧制中学校)ができたが、そのひとつが、
私の町にできた。
明治時代の昔には、それなりの町だったということになる。
で、母は、そういう意識を強くもっていた。
「M町こそ、世界の中心」と。
その意識がこっけいなほど、強かった。

だから何かの事情で、M町から岐阜などの都会へ引っ越していく人がいるたびに、
「あの人は出て行った」と言った。
母が「出て行った」というときは、そこには「敗北者」というニュアンスが
こめられていた。
さらに言えば、「軽蔑の念」がこめられていた。
だからあるとき、私にこう反論したことがある。
「M町からG市へ引っ越したということは、成功組ではないか!」と。

●恩着せと脅し

母の子育ての基本は、恩着せと脅しだった。
「産んでやった」「育ててやった」が、恩着せ。
同時にことあるごとに、「お前を捨てる」とか、「家を継げ」とか言った。
それが「脅し」。
当時の私には、稼業の自転車屋を継げという言葉は、「死ね」と言われるのと同じくらい、
恐ろしいことだった、

私はこれらの言葉を、それこそ耳にタコができるほど聞かされて育った。
だからあるとき私は、反発した。
高校1年生か2年生のときのことだったと思う。
「だれが、いつ、お前に産んでくれと頼んだア!」と。

しかしそれは同時に、私と母の間に、決定的なキレツを入れた。
いや、そのときはわからなかったが、ずっとあとになって、それがわかった。
私にとっては、母は母だったが、母にすれば、私は他人になった。

●帰宅拒否児

私は今で言う、帰宅拒否児だったと思う。
もちろんそのとき、それを意識したわけではない。
今にして振り返ってみると、それがよくわかる。
私は毎日、ほとんど例外なく、学校からまっすぐ家に帰ったことはない。
「寄り道」という言葉があるが、寄り道するのが当たり前。
寄り道しないで家に帰るということそのものが、考えられなかった。

寺の境内で遊んでいるときも、そうだった。
毎日、真っ暗になるまで、そこで遊んでいた。
そういう自分を振り返ってみると、「私は帰宅拒否児だった」とわかる。

原因は、これも今にしてわかることだが、私の家には、私の居場所すらなかった。
町中の小さな自転車屋で、「家庭」という雰囲気は、どこにもなかった。
居間の横が、トイレにつながる土間。
学校から帰ってきても、体を休める場所すらなかった。
加えて父の酒乱。
父は数日置きに酒を飲み、家の中で暴れた。
そのつど私は、近くに住む伯父の家に逃げた。

●親絶対教

私の生まれ育った地方には、「M教」という、親絶対教の本部がある。
私の父がまずその教団に入信。
それがそのまま、私の家の宗教になってしまった。

もっともM教というのは、仏教とかキリスト教とかいうような宗教とは一線を画して
いた。
冠婚葬祭には、ノータッチ。
そのため「道徳科学研究会」というような名前がついていた。
そのM教では、つねに「親」「先祖」、そして「天皇」を、絶対的な権威者として教える。
親や先祖、天皇に反抗するなどということは、もってのほか。
天皇を神格化すると同時に、先祖を神格化し、ついで親を神格化した。
子どもながらに私は、「ずいぶんと親にとっては、つごうのよい宗教だなあ」と思った。
で、ある夜、こんなことがあった。

M教では、毎月(毎週だったかもしれない?)、それぞれの家庭で、持ちまわり式に会合
を開いていた。
その夜も、そうだった。
私の家で、それがあった。

講師の男性が、声、高々に、こう言った。
「親の因果、子にたたり」と。
で、そうした話をしたあと、末席に座っていた私に向かって、その男性がこう言った。

「そこに座っているボーヤ(坊ちゃん)、君は、どう思うかね」と。

私はその夜のことをはっきりと覚えている。
私が小学3年生だったとことも、よく覚えている。
私はこう言った。
「たたりなんて、ない!」と。

そのあとのことはよく覚えていないが、私はその場から追い出された。
母がその場を懸命にとりつくろっていた。
そうした姿だけは、おぼろげながら記憶に残っている。

●母の葛藤

私は母にとっては、自慢の息子だった。
私は勉強もよくでき、学校でも目立った。
そのこともあって、母は、私をでき愛した。
小学3、4年生ごろまで、毎晩、私を抱いて寝た。
私がそれを求めたというよりは、習慣になっていた。
そういう姿を覚えている人は、ずっとあとになってから、私によくこう言った。
「お前は、母親にかわいがってもらったではないか。そういう恩を忘れたのか」と。

忘れたわけではない。
しかし母が本当に私を愛していたかというと、それは疑わしい。
母は、私が母から離れていくのを、何よりも許さなかった。
口答えしただけで、そのつど、ヒステリックな声を張り上げて、こう言った。
「親に向かって、何てことを言う!」「親に逆らうような子どもは、地獄へ落ちる」と。

そして私は中学2、3年になるころ、母は、大きなジレンマに陥った。
「進学校は地元の高校にしろ」「家のあとを継げ」「大学は国立大学以外はだめ」と。
一方で「勉強しろ」と言いながら、「家から出るな」と。

国立大学といっても、当時は一期校と二期校という名前で分類され、倍率はどこも10倍
前後はあった。
私が受験した金沢大学の法文学部法科にしても、倍率は、8・9倍だった。
「国立大学しかだめ」というのは、事実上、「大学へは行くな」という意味だった。

●演技性人格障害者

母は今にして思えば、演技性人格障害者ではなかったか。
極端にやさしく、善人の仮面をかぶった母。
しかしそれは表の顔。
が、その実、その裏に、猛烈にはげしい、別の顔を隠し持っていた。
今でも、母の評価について、「仏様のように、穏やかでやさしい人でした」と言う人は多い。
たしかにそういう面もあった。
私は否定しない。
そういうことを言う人に対しては、「そうです」と言って、それで終わる。
あえて私のほうから、「そうではなかったです」と言う必要はない。
言ったところで、理解してもらえなかっただろう。

しかし私たち子どもに対しては、ちがった。
母は自分に対する批判を、許さなかった。
他人でも母を批判する人を許さなかった。
ジクジクと、いつまでもその人をうらんだりした。

●仕送り

今のワイフと結婚する前から、私は収入の約半分を母に送っていた。
結婚するときも、それを条件に、結婚した。
だからワイフは何も迷わず、毎月、母への仕送りをつづけてくれた。
額にすれば、3万円とか4万円だった。
当時の大卒の初任給が、5〜6万円前後の時代だったから、それなりの額だった。
母はそのつど、「かわりに貯金しておいてやる」「あとで返す」とか言った。
が、それはそのまま、やがて実家の生活費に組み込まれていった。

母は、たくみに私を操った。
私が電話で、「生活できるのか?」と聞くと、いつも涙声で、こう言った。

「母ちゃんは、ダイコンを食っているから、心配せんでいい。
近所の人が、野菜を届けてくれるし……」と。

だからといって、私がとくべつに親孝行の息子だったとは思っていない。
当時はまだ「集団就職」という言葉が残っていた。
都会へ出た子どもが、実家にいる親に金銭を仕送りするというようなことは、ごく
ふつうのこととして、みながしていた。
が、こんなこともあった。

●長男の誕生

長男が生まれたときのこと。
そのとき私たちは、6畳と4畳だけのアパートに住んでいた。
母は一週間、ワイフの世話をしてくれるということでやってきた。
しかしその翌日、母は私にこう言った。
「貯金は、いくらあるか?」と。
私は正直に、「24万円、ある」と答えた。
が、それを知ると母は、私にこう言った。
「その金を、私によこしんさい(=よこせ)。私が預かってやる」と。

ワイフは少なからず抵抗したが、私はその貯金をおろして、母に渡した。
が、それを受け取ると、母は、その翌日の朝早く、実家へ帰ってしまった。

以後、こういうことがしばしばあった。
が、母がお金を返してくれたことは、一度もない。
最後の最後まで、一度もない。

●金づる

話が入れ替わるが、今でもなぜ母が、私から貯金を持ち去ったかについて理由がよく
わからない。
実家は貧乏だったが、長男が生まれた当時はまだ父も生きていた。
祖父も生きていた。
兄も、それなりに稼業の自転車屋を手伝っていた。
お金には困っていなかったはず。

一方、そういうことをされながらも、私は母の行為を批判したりはしなかった。
「かわりに貯金しておいてやるで」という言葉を、まだ私は信じていた。
が、今になってみると、つまりこうして母のあのときの行為を書いてみると、
言いようのない怒りが胸に充満してくる。
「私はただの、金づるだったのか」と。

●逆の立場に立たされてみて

私の二男に子どもができた。
私にとっては、はじめての孫だった。
そのときのこと。
私は二男にお祝いのお金を渡すことは考えた。
しかしその二男からお金を取ることは考えなかった。
いわんや貯金を吐き出させて、自分のものにするなどという考えは、みじんも
考えなかった。
そのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

「あなたのお母さんは、特別よ」と。
その言葉を聞いたとき、ムラムラと怒りが私の心の中に充満するのを感じた。
が、私の母は、私に対して、それをした。
してはいけないことを、した。
ふつうの親なら、できないことをした。
それが逆の立場になってみたとき、私にわかった。

●逆の立場

それ以後も、母は、容赦なく、私からお金を奪っていった。
「奪う」という表現に、いささかの誇張もない。
あれこれ理由をつけて、奪っていた。
その行為には、情け容赦がなかった。

「近所の○○さんが、亡くなった。(だから香典を送ってくれ)」
「今度、M(=姉)の娘が結婚することになった。(だから祝儀を送ってくれ)」と。
多いときは、それが月に数度になった。

半端な額ではない。
叔父の葬儀には、50万円。
叔母の葬儀には、15万円。
伯父の葬儀には、30万円、と。

冠婚葬祭だけは派手にやる土地柄である。
私はそう思って仕送りをつづけたが、これにはウラがあった。
実際には、その大部分を母が自分のものにし、相手にはその何分の1も渡していなかった。
やがて私は、そうした母のやり方を知るところとなった。

●「悔しい」

問題は、なぜ、母は、私にそこまでしたかということ。
できたかということ。
それについては、名古屋市に住む従姉(いとこ)が、ずっとあとになって教えてくれた。

その従姉はこう話してくれた。
私が今のワイフと結婚届けを出した夜のこと。
母は親戚という親戚すべてに電話をかけ、「(息子を)取られた」「悔しい」と、
泣きつづけたという。
従姉もその電話を受け取っていた。

母は、私の前ではそういった様子を、おくびにも出さなかった。
私たちの結婚を祝福してくれたように、私は理解していた。
が、そうではなかった。
母は、私という息子を、ワイフに「取られた」と感じたらしい。
つまりそれが母の心の底にあって、その(恨み)が、私からお金を奪うという
行為につながっていった。
「大学まで出してやったのに、恩知らず」と。

今にして思うと、そう解釈できる。

●ダカラ論

『ダカラ論』ほど、身勝手な論理もない。
「親だから……」「子だから……」「男だから……」「女だから……」と。
ダカラ論を振りかざす人たちは、過去の伝統や風習、習慣を背負っているから強い。
問答無用式に、こちらをたたみかけてくる。

一方、それを受け取る側はどうかというと、反論するばあいも、その何十倍も、
理論武装しなければならない。
過去の伝統や風習、習慣と闘うというのは、それ自体、たいへんなことである。
それに相手は多勢。
こちらは無勢。
そういう相手が、どっと私に迫ってくる。
で、結局、『長いものには巻かれろ』式に、妥協するしかない。
「どんな親でも、親は親だからな」と言われ、「そうですね」と言って、そのまま
引きさがる。
いらぬ波風を立てるくらいなら、穏やかにすませたい。
いつしか私と母の関係は、そういう関係になっていった。

●バネ

しかし実際には、これがたいへんだった。
金銭的な負担感というよりは、社会的な負担感。
それがギシギシと、私の心を蝕(むしば)み始めた。
私が仕送りを止めたら、母と兄は、それこそ路頭に迷うことになる。
重圧感を覚えながらも、仕送りを止めるわけにはいかなかった。

が、幸いなことに、私の仕事は順調だった。
家族、みな、健康だった。
それに私は、戦後生まれの団塊の世代として、たくましかった。
あのドサクサの時代の中で、そう育てられた。
だから私は、母にお金を取られるたびに、それ以上のお金を稼いだ。
「畜生!」「畜生!」と、歯をくいしばって、そうした。
だからワイフは、ときどきこう言う。

「かえってそれがバネになったのよ」と。

●家族自我群

人間にも、鳥類に似た、「刷り込み」があるのが、最近の研究でわかってきた。
生後まもなくから、7か月前後までと言われている。
この時期を、「敏感期」と呼んでいる。
この敏感期に、親子の関係は、本能に近い部分にまで、徹底的に刷り込みがなされる。

もっとも親子関係が良好な間は、こうした刷り込みも、それなりに有用である。
親子の絆も、それでしっかりとしたものになる。
しかしその関係が一度崩壊すると、今度はそれが家族自我群となって、その人を苦しめる。

ふつうの苦しみではない。
何しろ本能に近い部分にまで、刷り込まれる。
だから心理学の世界でも、そうした苦しみを、「幻惑」と呼んでいる。
特別なものと考える。
私は、その幻惑に苦しんだ。

記憶にあるのは、40代のはじめのころのこと。
私はいつも電車を乗り継いで郷里へ帰ったが、実家が近づくたびに、電車の中で、
法華経の経文を唱えた。
またそうでもしないと、自分の心を落ち着かせることができなかった。

●兄のこと

兄についても書いておかねばならない。
兄は昭和13年生まれ。
私より9歳、年上だった。

ずっとあとになって、……というより亡くなる数年前に、専門医に自閉症と診断
されている。
そう、自閉症だった。
が、軽重を言えば、軽いものだった。
少なくとも中学校を卒業するまでは、そうだった。
アルバムの中の兄を見ても、ごくふつうの中学生だった。
その兄が大きく変化したのは、兄が中学を卒業し、稼業の自転車屋を継ぐようになって
からである。

父は兄を毎日のように、叱り、罵倒した。
本来なら母が間に入って、その関係を調整しなければならなかったが、母までが、
兄を毛嫌いし、兄を突き放した。
兄の精神状態がおかしくなり始めたのは、そのころのことだった。

自分の部屋に閉じこもり、レコードを聴いて過ごすことが多くなった。
あるいはニタニタと意味のわからない笑みを浮かべ、独り言を口にしたりした。

●干渉

田舎という地方性があったのかもしれない。
あるいは私の実家だけが、とくに同族意識が強かったのかもしれない。
実家が、「林家」という本家だったこともあり、叔父叔母、伯父伯母は言うに及ばず、
従兄たちまでもが、そのつど、私や私の家族に干渉してきた。

うるさいほどだった。

私の事情も知ることなく、また経緯(いきさつ)を知ることもなく、安易に、ダカラ論
をぶつけてきた。
干渉するほうは、親切心(?)から、そうしてくるのかもしれない。
あるいは好奇心からか?
事実、叔父、叔母も含めて、もちろん従兄弟たちも含めて、私は生涯にわたって、
1円たりとも金銭的援助を受けたことはない。

しかし干渉されるほうは、たまったものではない。
そのつど私は真綿で首を絞められるような苦しみを味わった。

が、いちいち説明することもできない。
私と母の関係を説明することもできない。
何しろ、親絶対教の信者たちばかりである。
そういう世界で、親の悪口を言えば、逆にこちらのほうが寄ってたかって、
袋叩きにされてしまう。

面従腹背というのは、まさにそれをいう。
私は心の奥では運命をのろい、外では、できのよい息子を演じた。
しかしこうした仮面をかぶるのも、疲れる。
一度だけだが、節介焼きの従兄と、喧嘩したこともある。

●従兄

その従兄は、ネチネチとした言い方で、いつも私を揶揄(やゆ)した。
用もないのに、「ゆうべ、浩司クンの夢を見たから……」と。

「Jちゃん(=私の兄名)が、入院したぞ」
「Jちゃんが、ものすごいスピードで、自単車で走っていたぞ」
「親は、どんな親でも、親だかなあ、ハハハ」と。

だから最後の電話で、こう叫んだ。

「偉そうなことを言うな。お前が、ぼくと同じように、20代のときから実家に
仕送りでもしていたというのなら、お前の話を聞いてやる。しかしそういうことも
ロクにせず、偉そうなことを言うな!」と。

それでその従兄とは、縁を切った。
「たがいに死ぬまで、連絡を取らない」と心に決めた。
昔の話ではない。
今から10年ほど前のことである。

●母の悪口

親絶対教の信者でなくても、親の悪口を書くのは気が引ける。
どこかに「書くべきでない」という不文律さえある。
しかし親といえども、1人の人間。
いつか息子や娘に、1人の人間として、評価を受けるときがやってくる。
大切なのはそのとき、その評価に耐えうる親になっているかどうかということ。
「親である」という立場に甘えてはいけない。
「親だから」という理由だけで、子どもの上に君臨してはいけない。

世の中には、親をだます子どもはいくらでもいる。
しかし同時に、子をだます親だっている。
悲しいことに、私の母が、そうだった。

私をだましてお金を奪うなどということは、朝飯前だった。
が、問題は、なぜ、そうだったかということ。
なぜ、母は、そうなったかということ。

●母の奴隷

稼業は自転車屋だったが、生涯において、母は、一度もドライバーを握ったことがない。
手を油で汚したことはない。
店先に立って、客の応対をしたことはよくあるが、それでも手を汚したことはない。

父や兄は仕事が終わると、一度、道路に出て、外付けの水道で手を洗った。
そして裏口から家に入ると、そこでもう一度、手を洗った。
ふつう自転車屋というと、どこも、裏の裏の、トイレのノブまで油で黒くなっている。
が、私の家ではちがった。
母がそれを許さなかった。

そんなこともあって、家の中の掃除は母がしたが、土間の掃除は、兄がした。
窓拭きも、道路掃除も、兄がした。
母はしなかった。
姉もしなかった。
すべて兄がした。
兄は、死ぬまで、ずっと母の奴隷のような存在だった。

●仮面

私の母をさして、「いい人だった」と言う人は、多い。
「あなたのお母さんは、やさしく、親切な人だった」と言う人も、多い。
事実、母は、実にこまめな人だった。
人が来るとお茶を出し、始終、やさしい言葉をかけた。
食事も出し、めんどうもみた。
そしてことあるごとに、相手や相手の家族を気遣った。

「○○さんは、お元気ですかね」と。
穏やかな慈愛に満ちた言い方が、母の特徴だった。
しかし本心で気遣ったわけではない。
母はそういう言い方をしながら、相手の家の内情をさぐった。
だからその人が帰ると、いつもこう言って笑った。

「あの家の嫁さんは、鬼や。株で損して、家計は火の車や」と。

いつしか母は、仮面をかぶったまま、その仮面をはずせなくなってしまった。
恐らく母も、どれが本当の自分の顔かわからなくなってしまっていたのではないか。
自分では、「私は苦労した」「よくできた人間」と、言っていた。
本気でそう思い込んでいた。
で、その一方で、心に別室を作り、邪悪な自分をどんどんとそこへ押し込んでいった。

●仮面

兄もそうだったが、母は、相手の視線を感じたとたん、態度を変えた。
それは天才的ともいえるほどの技術だった。
こんなことがあった。

10年ほど前のこと。
兄、姉、それに私たち夫婦で、いっしょに食事に行ったことがある。
私は久しぶりに母に会った。
が、驚いたことに母は、ほとんど歩けなかった。
で、食事がすんで駐車場に向かうとき、そこまでは10メートル前後だったと思うが、
私とワイフが両側からから、母を支えた。
母は、ほんの数10センチほどずつ、ヨボヨボと歩いた。

で、そのあと、母がいないとき、それについて姉にたずねると、姉は、何かしら
意味のわからない笑みを浮かべた。
私には、その意味がわかった。
事実、その数日後、母は、クラブの仲間と、実家から2キロ戦後もある小間物屋まで
歩いて行っている。

●同情と依存

老人がまわりの人たちの同情を買うため、わざと弱々しい老人を演じてみせることは
よくある。
中にはわざとヨロけてみせたり、ものを食べられないフリをしてみせたりする。
兄にしても、よく道路でころんでみせたりした。
しかしそれとて、まわりの人たちの同情を買うため。
その証拠に、兄にしても、自分の身に危険が及ぶようなところでは、けっして
ころばなかった。

母もそうで、自分のプライドが傷つくようなところでは、けっして弱みをみせなかった。
たとえば病院の待合室など。
それまではヨボヨボしていても、廊下の向こうから知人が歩いてきたりすると、とたん、
背筋をピンと伸ばしたりした。
話し方までも変えた。

●ものすごい人

それでも私の母を評して、「すばらしい女性」と言う人は多かった。
私も、あえて、それには反論しなかった。
だれしも、表の顔もあれば、裏の顔もある。
私にだって、ある。
が、母のばあい、息子の私ですら、裏の顔を見抜くのに、30数年もかかった。
「どうもおかしい?」と思い始めたのが、そのときだった。
いわんや、他人をや。
「私にだって見抜けなかった。どうしてあなたに……!」と、そのつど思った。

そういう意味では、私の母は、ものすごい女性だった。
尋常の神経の持ち主ではない。
また常識で理解できるような女性でもない。
ワイフもそのつど、こう言った。
「あなたのお母さんは、ものすごい人ね」と。
けっして尊敬していたから、そういったのではない。
「あきれてものも言えない」という意味で、そう言った。

●遊離

心の状態、これを情意という。
その情意と、外に現れた表情が、まったくズレていた。
心理学的には、そういう状態を、「遊離」と呼ぶ。
母を一言で評すると、そういうことになる。

息子の私ですら、母がそのとき何を考えているか、さっぱり理解できないことが多かった。
ウソと虚飾のかたまり。
それが母のすべてだった。

母がまだ私に気を許しているとき、よく叔父や叔母の悪口を言った。
口が枯れるまで、叔父や叔母を、口汚くののしった。
が、そこに叔父や叔母がいると、態度が一変した。
そういう姿を、私はよく見ていた。
だから何度も私は、こう言った。
「そんなにイヤな奴なら、つきあうな」と。
が、母には、それができなかった。
つぎに会うと、再び、何ごともなかったかのように、親しげに話し込んだりしていた。
私が子どものころには、そういう母を、尊敬したこともある。
「商売というのは、そういうもの」と、母を通して、感心したこともある。

どんなに虫の居所が悪くても、瞬時に笑顔に変えて、客と接する、と。
しかしそれも度を越すと、「遊離」となる。
へたをすれば、心がバラバラになってしまう。
そういう意味では、母は、不幸な女性だった。
どこにも自分がなかった。

●信じられるのは、お金だけ(?)

ある日、母から電話がかかってきた。
「(実家の伯父の)、Sを助けてやってほしい」という電話だった。
「今度、(Sの)二男が結婚することになった。ついては、金を貸してやってほしい」と。
私が30歳になったころのことだった。

私は金の貸し借りは、しないと心に決めていた。
で、断った。
が、1週間もしないうちにまた電話があり、「では、山を買ってやってほしい」と。
私は即座に値段を交渉し、その数日後には、x00万円をもって、伯父の家に向かった。

母が先にそこに来ていた。
……ということで、当時ですら、相場の10倍以上の値段で、その山を買わされるハメに
なった。
これはあとで聞いたことだが、伯父にしても、その直前、120万円で購入した山だった。
そればかりか、伯父はその後、10年近く、管理費と称して、私に現金を請求してきた。

以後、伯父からはいっさいの連絡はなし。
「山を買い戻してほしい」と何度も手紙を書いたが、それにも返事もなかった。

母はその伯父とは、一卵性双生児と言われるほど、仲がよかった。
一時は伯父を詐欺罪で告発する準備もしたが、母が間に入っているため、それも
できなかった。

●世間体

母の人生観の基本にあったのが、「世間体」だった。
それが人生観といえるほどの「観」といえるかどうかは、疑問だが、母はあらゆる場面で、
世間体を気にした。

「世間が笑う」
「世間が許さない」
「世間体が悪い」など。
そのつど「世間」という言葉をよく使った。

こうした生き様は、江戸時代の、あの封建主義時代の亡霊そのものと断言してよい。
「みなと同じことをしていれば安心」、しかし「それからはずれると、容赦なく叩かれる」。
没個性の反対側にある生き方、それが母の生き方だった。
だから私も、子どものころから、いつもみなと同じように生きることを強いられた。
服装にしても、そうだった。
髪型にしても、そうだった。
……といっても、当時は、それほどバリエーションがあったわけではない。
が、それでも私が、ふつうの子どもとちがったかっこうをするのを、許さなかった。

母自身にしても、そうだ。
自転車屋の女主人でありながら、生涯にわたって、ただの一度も、自転車にまたがった
ことがない。
「女は自転車に乗ってはいけない」という、いつかどこかで学んだ教え(?)を、
かたくなに守った。
1年のほとんどを、和服で過ごしていたこともある。

●母の苦労

母は、ことあるごとに、「私は苦労した」と言った。
祖父母の介護で、苦労した。
夫の世話で苦労した。
兄で苦労した。
私のことで苦労した、と。
だから近所でも、また親戚中でも、母は、苦労人で通っていた。
だからみなは、こう言う。
「あなたのお母さんは、苦労をなさったからねえ」と。

もし母に苦労があったとするなら、それは運命との戦いだった。
母は、つねに運命と戦った。
不本意な結婚。
病弱な父と兄。
気の強い姑。
その介護。

しかし運命というのは、受け入れてしまえば、何ともない。
運命のほうからシッポを巻いて逃げていく。

その第一。
母は、自転車屋の父と結婚したが、商人の女将にもなりきれなかった。
かといって、金持ちの奥様にもなれなかった。
だからたいへんおかしなことに、最後の最後まで、自分は自転車屋の女将とは、
思っていなかった。
それを認めていなかった。
だからたとえば、近所の人たちの職業を、よくけなした。
「あそこは、どうの」「ここは、どうの」と。
「ロクでもない仕事」という言葉もよく使った。
で、ある日、私はこう言ったことがある。
「うちだって自転車屋だろ。そう、いばれるような職業ではないだろ」と。
それを言ったとき、母は、「うちは、ちがう!」と、血相を変えて怒った。

母にしてみれば、死ぬまで、母はN家という名家の出だった。
またその世界から一歩も、外に出ることがなかった。

また他人は、母のことを苦労人と思っていたが、そう思わせたのは、実は母自身だった。
母は、そういう点でも、口のうまい女性だった。

●祖父の財産

母について、理解できない点もいくつかある。
たとえば私が毎月仕送りをつづけていたことについても、母は、それをだれにも
話していなかった。
私の姉にすら、話していなかった。
だからあるとき、そのことを姉に話すと、姉はたいへん驚いた様子をしてみせた。
「そんな話は聞いていなかった!」と。
(あるいはそう言って、とぼけただけだったかもしれない。)

それとて私が40歳を過ぎてからのことだった。
私は当然、姉だけは、私がしていることを知っていると思っていた。
姉だけには、母は、私がしていることを話していると思っていた。
が、姉ですら、知らなかった。

で、母は、ことあるごとに、また周囲の人たちには、こう言っていた。
「おじいちゃん(=私の祖父)の残してくれた財産で、生活している」と。
つまり祖父の残した遺産がたくさんあったから、生活には困らない、と。
他人にはともかくも、身内の姉や私にそんなウソを言っても意味はない。
が、それでも私は、姉だけには話していると思っていた。……思い込んでいた。

実際には、祖父の残した財産は、いくつかの不動産をのぞいて、まったくなかった。
私が中学生のときには、我が家はまさに火の車。
自転車操業。
それに祖父はすでにそのとき、隠居の身分だった。
バイクをいじるのが趣味で、それをいじって遊んでいた。
収入はなかった。
小銭をもっていたとすれば、むしろ祖母のほうだった。
祖母は株の売買をしていた。
が、それとて、「端株(はかぶ)」といって、証券会社からのおこぼれ株だった。
10株とか、20株単位の株を売買していた。

今にして思えば、母には親としてのプライドがあったのだろう。
「息子から奪ったお金で、生活をしている」とは、とても言えなかった。

●私が悪者

遠くに住んでいることをよいことに、母は、私を悪者に仕立てた。
何かにつけ、自分にとって都合の悪いことは、すべて私のせいにした。
父が他界し、私の家でも遺産相続問題が起きたときも、そうだ。

そのときのこと。
祖父の残した土地が、3筆あった。
その相続についても、母は、叔父、叔母のところを回りながら、こう言った。
「浩司がうるさいから、(相続放棄の)書類に判を押してほしい」と。
母は、私に追いつめられたから、いやいやながらも、判を集めているのだと言った。

が、実際には、これもちがった。
私は一言も、相続について口をはさんだことはない。
母から手続きの相談を受けたことはあるが、それ以上の記憶はない。
むしろ事実は逆で、祖父の財産は、叔父、叔母で分けるのが筋道と考えていた。
祖父は生前、いつも口癖のようにこう言っていた。
「Y町のあの土地は、S(=叔母)のものだ」と。
で、これについてはこんなエピソードがある。

母の話を真に受けた叔父が、ある日、突然、私の家にやってきた。
「貴様!」と怒鳴ったあと、私を殴り飛ばした。
パシッ、パシッと、叔父の拳が顔面ではじけるのを私は感じた。
そのとき私はたまたま実家に帰省していた。
叔父はそれを聞きつけて、私の家にやってきた。
私は殴られるまま、反論することもできなかった。
なぜ私が叔父に殴られるか……。
私も、そして母も、その理由がわかっていた。
しかし母は、別の部屋で静かにその様子を見ていた。
息をひそめて、静かにそれを見ていた。

●一事が万事

そんなわけで、母との思い出は、ほとんどない。
浜松に移り住んでからも、お金を奪いに来たことはあるが、たとえば私の息子たちの
ために何かをしてくれたことは一度もない。
で、三男が小学6年生になったときのこと。
私は「一度でいいから、参観日に来てやってほしい」と懇願したことがある。
「これが最後になるから……」と。

その電話を受けて、母は、オイオイと電話口の向こうで泣いた。
「浩ちゃん、ごめんな……。母ちゃんは行ってやりたいけど、足が痛いのや……」と。

私はそれを聞いてあきらめたが、この話は、ウソだった。
その日母は、クラブの仲間たちと、一泊旅行に出かけていた。
あとで私がそれを知り、母を責めると、母は悪びれた様子もなく、ケラケラと笑いながら、
こう言った。
「ハハハ、バレたかなも」と。

そんなこともあって、私は母から受け取ったものは、何もない。
私が結婚したとき、親戚の中には、私に祝いを届けてくれた人もいたらしいが、
そういったお金は、すべて、1円残らず、すべて母が自分のふところに入れてしまった。

で、それについても、ずっとあとになってから、私が母に、「お前からもらったものは
何もないなア……」とこぼすと、母は、こう言った。
「そんなこと、あらへん。(二男が生まれたとき)、(二男に)ふとんを送った」と。

私はそれを忘れていた。
で、その話をすると、ワイフはそう言えば……と、そのふとんのことを思い出してくれた。
が、そのふとんというのは、私が幼児のころ使っていたふとんである。
ふとんの絵柄に思い出が残っていた。

まさに一事が万事、万事が一事だった。

●決裂

私が母と決裂したのには、いくつかの理由がある。
理由というより、段階がある。
そのつど、私は母にだまされ、そのつど、それを乗り越えた。
が、最後に決裂したのは、こんな事件があったから。

そのとき私は、母に土地の権利書を渡した。
実家を改築するときに、担保として、私が譲り受けたものである。
実家の改築に1800万円程度の費用がかかった。
大半をローンでまかなった。
そのとき、母名義の土地を、私が譲り受けた。
坪数は30坪前後。
当時の価格からしても、500万円にもならなかった。
銀行に相談しても、「その土地では、金を貸さない」と言われた。

で、そのままその権利書は、私が預かった。
しかたないので、私は私の自宅の土地を担保にして、お金を借りた。

が、その土地を、私が知らないときに、言葉巧みに権利書を自分のものにすると、
それをそのまま他人に転売してしまった。
泣いて私がそれに抗議すると、母は、平然とこう言ってのけた。

「親が先祖を守るために、子の金を使って、何が悪い!」と。
罵声以上の怒鳴り声だった。

●煩悶

それから10か月。
私はワイフの介抱なくして眠られなかった。
夜、床に就くたびに、体中がほてり、脈がはげしくなった。
ワイフはそのつど、氷で頭を冷やしてくれた。

あるいは夜中に、うなされることもつづいた。
突然、飛び起きて、ウォーと声を張り上げることもあった。
しかし夢となると、もっと多かった。
朝起きると、ワイフは、よくこう言った。

「あなた、昨夜も、うなされていたわ。お母さんと喧嘩していたわ」と。

●干渉

が、数か月もすると、伯父から電話がかかってきたりした。
説教がましい電話だった。
裏で、母がどのように伯父に泣きついていたかは、容易に察しがついた。
叔父は、そのつど、こう言った。

「姉を大切にしろよ。親は親だからな」「親の恩を忘れるな」と。

そのうち従兄たちからも電話がかかってくるようになった。
「おばちゃんが、ころんだぞ」
「おばちゃんが、入院したぞ」と。

従兄たちも、母に、よいように操られていた。

私には知ったことではなかった。
実際には、そのつど姉の方から電話を受けて、それを知っていた。
しかし新類は、それを許してくれなかった。
私はそのつど、身をひきちぎる思いで、それに妥協した。

●人間不信

母がああいう母であったことについては、それが運命であるなら、しかたない。
母は母で、あの時代の申し子。
母のような人は、あの時代には、珍しくなかった。
「江戸時代」というと、遠い昔のことのように思う人もいるかもしれない。
しかし母の時代にしてみれば、江戸時代といっても、ほんの一世代前のことだった。
「家」意識にしても、逆に、1世代や2世代くらいで、消えるような意識ではない。
母は、それを引きずっていた。

母だけではない。
どこにでもいるとまでは言わない。
が、似たような人は、いくらでもいた。
今でもいる。

が、私にとって何よりもつらかったのは、そうした母をもったことによって、
人を信じられなくなってしまったこと。
「女はみな、そういうもの」という意識は、「ワイフも似たようなもの」という
意識に、そのつど、変化した。
しかし私がそういう意識をもつことで、いちばん苦しんだのは、結局は、私の
ワイフということになる。

●母の孤独

一方、母の孤独については、とくに晩年、それが痛いほど、よくわかった。
母はちぎり絵に没頭したが、楽しかったから、没頭したわけではない。
何かに取りつかれたかのように没頭した。
楽しんでいるというよりは、何かから逃れるために、そうした。
私にはそれがよくわかったが、しかしどうすることもできなかった。

何度か、まわりの人たちに、「一度でいいから、私に謝罪してほしい」と伝えた
ことがある。
しかしどの人もこう言った。
「親が、子に謝るなどいうことは、あってはならない」
「親は親だから、どんな親でも、親は子に謝る必要はない」と。

親絶対教というのは、そういうのをいう。
しかし私は一度でも母が、「私が悪かった」と言ってくれれば、それで許すつもりでいた。
この小さな地球上の、そのまた小さな国で、近親者が憎しみあって、どうする?
この世に生を受けたこと自体が奇跡。
この地球上に何十億人という人たちがいるが、生涯にわたって交際する人となると、
ほんの数えるほどしかいない。

ウソではない。
私は、一度でも母が、「私が悪かった」と要ってくれれば、それを許すつもりでいた。
が、母は、そういう人ではなかった。
それができる人でもなかった。
もしそれをすれば、母は、それまでの自分に生き様を否定することになる。
母としてそれができなかった。
それも、私にはよくわかっていた。

●母の見栄

晩年になればなるほど、母の見栄は、はげしくなった。
ますます世間体を気にするようになった。
これは姉から聞いた話だが、買い物に行くときも、千円札を、何十枚か重ね、両端を
1万円札ではさんでサイフに入れ、もち歩いていたという。
そしてレジでお金を出すとき、わざとサイフを開いて、その札たばを店員に
見せつけていたという。
またこんなこともあったという。

姉の家で何かの祝いごとがあった。
姉は母を家へ連れていくことにした。
そのときも、母は、美容院で髪を染め、パーマをかけていたという。
姉の家の近所の人たちに、それなりのかっこうづけをするためだったという。
その日の生活に困っているはずの母が、姉の家に行くのに、1万円前後もかけて、
髪をセットする……。

当時、母はすでに80歳を過ぎていた。
そうした母の行為は、私の常識とは、かけ離れたものだった。

●10年のブランク

私は母との関係を切った。
それが10年近く、つづいた。
その間、冠婚葬祭、親族会などをのぞいて、私は郷里へは戻らなかった。
お金の仕送りも止めた。

が、その間に、母はいろいろな病気を繰り返した。
骨折して入院もした。
またそれがはじまりで、そのあとは、歩くのもままならなくなった。
介護が必要となった。

母は姉の家に2年いたあと、今度は、私が引き取ることになった。
そして同じく私の家に2年いたあと、他界した。

●母の信仰

そういうこともあって、母の信仰の仕方も、これまた一風、変わっていた。
「家にいるときより、寺にいるときのほうが長い」と、みなが、そう言っていた。
こまかい作法にこだわった。
ローソクの立て方、線香の燃やし方、仏具の飾り方などなど。
また親類、縁者たちの命日供養については、毎月、それをしていた。
毎年、年1回ではなく、毎月だぞ!

ここで注意しなければならないことは、宗教心と信仰心はちがうということ。
宗教は、「教え」に従ってするもの。
現実のこの世界で、よりよく生きるために、宗教はある。
一方、信仰心にはそれがない。
そこはまさに、「イワシの頭」。
対象は、キツネでもタヌキでも、何でもよい。
そこに(思い込み)を凝縮させる。

それをなじると母はいつも決まってこう言った。
「人がいいということをして、悪いことにはならない」と。
つまりどんな信仰でも、信仰して悪いということはない、と。

●迷信

こうした母の一連の行為は、一言で説明すれば、「哲学の欠落」ということになる。
権威主義のかたまりのような人だったが、それを支える哲学がなかった。
それがもっともよく現れていたのが、迷信だった。

「夕方に履物を買ってはだめ」
「玄関で脱いだ靴は、裏で履いてはだめ」などなど。
あらゆる行動を、その日の運勢にしたがって決めていた。
「今日は、日が悪いから、靴を買ってはだめ」
「明日は、日がよいから、服を買ってもよい」などなど。

食べ物についても、そうだった。
「梅干と、うな丼と、いっしょに食べてはだめ」
「風邪をひいたときは、豆を食べてはだめ」などなど。

子どものころは私もそれに従っていたが、中学生になるころには、それに耐えられ
なくなった。
あまりにも息苦しかった。

こうした迷信は、一度気にすると、それがずっと気になる。
それを続けていると、やがてそのワナにはまって、そこから抜け出せなくなる。
だから「ナッシング・オア・オール(ゼロかすべてか)」となる。
私は「ゼロ」のほうを選んだ。
今の今でも、迷信なるものは、いっさい、信じていない。
その種の話には、はげしい拒絶反応が起きる。

が、私の知っている人にこんな人がいた。

新車を購入したのだが、その車を納入させるとき、日時はもちろん、納入のための
道順まで、ディーラーに指示したという。
「一度、北に出て、それから西まわりで、車を届けてほしい」と。
迷信を気にするひとは、そこまで気にする。

母も、似たようなことを、よく口にした。

●姉との確執

そんな母が姉の家に2年間いた。
そのあと、私の家に来た。
来たというよりは、私が母を抱きかかえ、車に、無理やり乗せて連れてきた。

それまでの姉との経緯(いきさつ)については、ここには書けない。
いろいろ書きたいことはあるが、やはりここには書けない。
ただ言えることは、事実として、私と姉はその前後に、断絶状態になっていたこと。
姉はそのつど私をはげしくののしった。
そういうことが重なり、私は母を引き取ることにした。

その前日は、M町の旅館で一泊。
朝早く起きて、姉の家に向かった。
重い雲が山々の尾根を覆い隠し、かすかに見える山も、白いモヤにかすんでいた。
M町から姉の家まで、車で、20分足らず。
私は姉とは会話らしい会話もせず、そのまま母を車に乗せ、浜松に向かった。

最初母は、少なからずそれに抵抗したが、私が強く抱きかかえると、力を抜いた。
軽かった。
母は、信じられないほど、軽かった。
私は用意してきた毛布を、幾重にも積みあげ、その上に母を置いた。
そしてその上に、分厚いふとんをかけた。
そしてそのままあいさつもそこそこに、姉と別れ、浜松へと向かった。
まだ正月気分の残る、1月4日のことだった。

●家庭の内情

それぞれの家庭には、それぞれの言うに言われない事情というものがある。
私の家にもあるし、あなたの家にもある。
そういった事情も知らないで、他人が自分の推察だけでものを言うのは、たいへん危険。
ばあいによっては、その相手を深く、傷つける。
最近も、ある人から、こんな話を聞いた。

A氏(80歳)には、3人の息子がいる。
が、外に出た二男や三男が、A氏が住む実家に寄りつかないという。
二男や三男は、実家の近くに来ることはよくあるのだそうだが、そのまま実家には
寄らず、帰ってしまうという。

それを知った叔母(父親の妹)が、二男や三男に向かって、こう言って叱ったという。
「いくら父親が嫌いだからといって、あいさつもしないで帰るのはおかしい。
実家に寄って、あいさつをするのは当然。
実家にはまだ母親もいるのだから……」と。

しかし事情はちがう。
二男や三男が実家に立ち寄らないのは、長男との確執があったからだ。
そのつど長男は、介護費用の分担を迫った。
が、二男と三男にはその経済的余裕がなかった。
だから二男と三男は、父親との確執をそれとなく臭わせることによって、自分たちの
責任を回避していた。
「介護費用を分担したくないから、実家には寄らない」と人に思わせるよりは、
「父親に会いたくないから、実家には寄らない」と他人に思わせたほうが、
自分たちの立場を守ることができる。

事情というのは、そういうもの。
そういった事情が複雑にからんで、その家庭の事情を作る。
他人が自分の頭で、理解できるようなことではない。

だから……よほどのことがないかぎり、他人の家の問題には、口を出さないこと。
相手のほうから相談でもあれば、話は別だが、それがないなら、そっとしておいてやる
ことこそ、懸命。

●決別

イギリスの格言にも、『2人の人には、よい顔はできない』というのがある。
日本にも、『八方美人』という言葉がある。
軽蔑すべき人という意味で、『八方美人』という。

私もあるときから、自分の身辺を整理し始めた。
いろいろ誤解はあるにせよ、そういった誤解を解くのも疲れる。
離れて住んでいればなおさらである。
中には、こちらの事情も知らず、「浩司は親を捨てた」「親不孝者」と言っている
人もいた。
最初は、私なりに誤解を解こうとしたこともある。
しかしここにも書いたように、それにも疲れた。
だからあるときから、居直って生きるようにした。
「思いたければ、どうとでも思え」と。

しかしそれは同時に、そういう人たちとの決別を意味する。
そういう人たちとだけではない。
その周囲の人たちとの決別も意味する。
さらに言えば、故郷そのものとの決別を意味する。
会う回数が、数年に一度とか二度とかになれば、互いの関係そのものが、疎遠になる。
誤解がそのまま定着する。

こうなると残された選択肢は、ただ一つ。
決別ということになる。
またそこまで割り切らないと、幻惑という呪縛感から、自分を解放させることはできない。

親を捨てたわけではないが、そこまで割り切らないと、心の重圧感を晴らすことは
できない。

●最後の会話

2008年、11月11日、夜、11時を少し回ったときのこと。
ふと見ると、母の右目の付け根に、丸い涙がたまっていた。
宝石のように、丸く輝いていた。
私は「?」と思った。
が、そのとき、母の向こう側に回ったワイフが、こう言った。
「あら、お母さん、起きているわ」と。

母は、顔を窓側に向けてベッドに横になっていた。
私も窓側のほうに行ってみると、母は、左目を薄く、開けていた。

「母ちゃんか、起きているのか!」と。
母は、何も答えなかった。
数度、「ぼくや、浩司や、見えるか」と、大きな声で叫んでみた。
母の左目がやや大きく開いた。

私は壁のライトをつけると、それで私の顔を照らし、母の視線の
中に私の顔を置いた。
「母ちゃん、浩司や! 見えるか、浩司やぞ!」
「おい、浩司や、ここにいるぞ、見えるか!」と。

それに合わせて、そのとき、母が、突然、酸素マスクの向こうで、
オー、オー、オーと、4、5回、大きなうめき声をあげた。
と、同時に、細い涙が、数滴、左目から頬を伝って、落ちた。

ワイフが、そばにあったティシュ・ペーパーで、母の頬を拭いた。
私は母の頭を、ゆっくりと撫でた。
しばらくすると母は、再び、ゆっくりと、静かに、眠りの世界に落ちていった。

それが私と母の最後の会話だった。

●あごで呼吸

朝早くから、その日は、ワイフが母のそばに付き添ってくれた。
私は、いくつかの仕事をこなした。
「安定しているわ」「一度帰ります」という電話をもらったのが、昼ごろ。

私が庭で、焚き火をしていると、ワイフが帰ってきた。
が、勝手口へ足を一歩踏み入れたところで、センターから電話。
「呼吸が変わりましたから、すぐ来てください」と。

私と母は、センターへそのまま向かった。
車の中で焚き火の火が、気になったが、それはすぐ忘れた。

センターへ行くと、母は、酸素マスクの中で、数度あえいだあと、そのまま
無呼吸という状態を繰りかえしていた。
「どう、呼吸が変わりましたか?」と聞くと、看護婦さんが、「ほら、
あごで呼吸をなさっているでしょ」と。

私「あごで……?」
看「あごで呼吸をなさるようになると、残念ですが、先は長くないです」と。

私には、静かな呼吸に見えた。

私はワイフに手配して、その日の仕事は、すべてキャンセルにした。
時計を見ると、午後1時だった。

●血圧

血圧は、午前中には、80〜40前後はあったという。
それが午後には、60から55へとさがっていった。
「60台になると、あぶない」という話は聞いていたが、今までにも、
そういうことはたびたびあった。
この2月に、救急車で病院へ運ばれたときも、そうだった。

看護婦さんが、30分ごとに血圧を測ってくれた。
午後3時を過ぎるころには、48にまでさがっていた。
私は言われるまま、母の手を握った。
「冷たいでしょ?」と看護婦さんは言ったが、私には、暖かく感じられた。

午後5時ごろまでは、血圧は46〜50前後だった。
が、午後5時ごろから、再び血圧があがりはじめた。

そのころ、義兄夫婦が見舞いに来てくれた。
私たちは、いろいろな話をした。

50、52、54……。

「よかった」と私は思った。
しかし「今夜が山」と、私は思った。
それを察して、看護士の人たち数人が、母のベッドの横に、私たち用の
ベッドを並べてくれた。
「今夜は、ここで寝てください」と。

見ると、ワイフがそこに立っていた。
この3日間、ワイフは、ほとんど眠っていなかった。
やつれた顔から生気が消えていた。

「一度、家に帰って、1時間ほど、仮眠してきます」と私は、看護婦さんに告げた。
「今のうちに、そうしてください」と看護婦さん。

私は母の耳元で、「母ちゃん、ごめんな、1時間ほど、家に行ってくる。またすぐ
来るから、待っていてよ」と。

私はワイフの手を引くようにして、外に出た。
家までは、車で、5分前後である。

●急変

家に着き、勝手口のドアを開けたところで、電話が鳴っているのを知った。
急いでかけつけると、電話の向こうで、看護婦さんがこう言って叫んだ。
「血圧が計れません。すぐ来てください。ごめんなさい。もう間に合わないかも
しれません」と。

私はそのまままたセンターへ戻った。
母の部屋にかけつけた。

見ると、先ほどまでの顔色とは変わって、血の気が消え失せていた。
薄い黄色を帯びた、白い顔に変わっていた。

私はベッドの手すりに両手をかけて、母の顔を見た。
とたん、大粒の涙が、止めどもなく、あふれ出た。

●下痢

母が私の家にやってきたのは、その前の年(07年)の1月4日。
姉の家から体を引き抜くようにして、抱いて車に乗せた。
母は、「行きたくない」と、それをこばんだ。

私は母を幾重にもふとんで包むと、そのまま浜松に向かった。
朝の早い時刻だった。

途中、1度、母のおむつを替えたが、そのとき、すでに母は、下痢をしていた。
私は、便の始末は、ワイフにはさせないと心に決めていた。
が、この状態は、家に着いてからも同じだった。

母は、数時間ごとに、下痢を繰り返した。
私はそのたびに、一度母を立たせたあと、おむつを取り替えた。

母は、こう言った。
「なあ、浩司、オメーニ(お前に)、こんなこと、してもらうようになるとは、
思ってもみなかった」と。
私も、こう言った。
「なあ、母ちゃん、ぼくも、お前に、こんなことをするようになるとは、
思ってもみなかった」と。

その瞬間、それまでのわだかまりが、うそのように、消えた。
その瞬間、そこに立っているのは、私が子どものころに見た、あの母だった。
やさしい、慈愛にあふれた、あの母だった。

●こだわり

人は、夢と希望を前にぶらさげて生きるもの。
人は、わだかまりとこだわりを、うしろにぶらさげながら、生きるもの。
夢と希望、わだかまりとこだわり、この4つが無数にからみあいながら、
絹のように美しい衣をつくりあげる。

無数のドラマも、そこから生まれる。
私と母の間には、そのわだかまりとこだわりがあった。
大きなわだかまりだった。
大きなこだわりだった。

が、それがどうであれ、現実には、その母が、そこにいる。
よぼよぼした足で立って、私に、尻を拭いてもらっている。

●優等生

1週間を過ぎると、母は、今度は、便秘症になった。
5、6日に1度くらいの割合になった。
精神も落ち着いてきたらしく、まるで優等生のように、私の言うことを聞いてくれた。

ディサービスにも、またショートステイにも、一度とて、それに抵抗することなく、
行ってくれた。
ただ、やる気は、失っていた。

あれほどまでに熱心に信仰したにもかかわらず、仏壇に向かって手を合わせることも
なかった。
ちぎり絵も用意してみたが、見向きもしなかった。
春先になって、植木鉢を、20個ほど並べてみたが、水をやる程度で、
それ以上のことはしなかった。
一方で、母はやがて我が家に溶け込み、私たち家族の一員となった。

●事故

それまでに大きな事故が、3度、重なった。
どれも発見が早かったからよかったようなもの。
もしそれぞれのばあい、発見が、あと1〜2時間、遅れていたら、母は死んでいた
かもしれない。

一度は、ベッドと簡易ベッドの間のパイプに首をはさんでしまっていた。
一度は、服箱の中に、さかさまに体をつっこんでしまっていた。
もう一度は、寒い夜だったが、床の上にへたりと座り込んでしまっていた。

部屋中にパイプをはわせたのが、かえってよくなかった。
母は、それにつたって、歩くことはできたが、一度、床にへたりと座ってしまうと、
自分の手の力だけでは、身を立てることはできなかった。

私とワイフは、ケアマネ(ケア・マネージャー)に相談した。
結論は、「添い寝をするしかありませんね」だった。
しかしそれは不可能だった。

●センターへの申し込み

このあたりでも、センターへの入居は、1年待ちとか、1年半待ちとか言われている。
入居を申し込んだからといって、すぐ入居できるわけではない。
重度の人や、家庭に深い事情のある人が優先される。
だから「申し込みだけは早めにしておこう」ということで、近くのMセンターに
足を運んだ。
が、相談するやいなや、「ちょうど、明日から1人あきますから、入りますか?」と。

これには驚いた。
私たちにも、まだ、心の準備ができていなかった。
で、一度家に帰り、義姉に相談すると、「入れなさい!」と。

義姉は、介護の会の指導員をしていた。
「今、断ると、1年先になるのよ」と。
これはあとでわかったことだったが、そのとき相談にのってくれたセンターの
女性は、そのセンターの園長だった。

●入居

母が入居したとたん、私の家は、ウソのように静かになった。
……といっても、そのころのことは、よく覚えていない。
私とワイフは、こう誓いあった。

「できるだけ、毎日、見舞いに行ってやろう」
「休みには、どこかへ連れていってやろう」と。

しかし仕事をもっているものには、これはままならない。
面会時間と仕事の時間が重なってしまう。
それに近くの公園へ連れていっても、また私の山荘へ連れていっても、
母は、ひたすら眠っているだけ。
「楽しむ」という心さえ、失ってしまったかのように見えた。

●優等生

もちろん母が入居したからといって、肩の荷がおりたわけではない。
一泊の旅行は、三男の大学の卒業式のとき、一度しただけ。
どこへ行くにも、一度、センターへ電話を入れ、母の様子を聞いてからに
しなければならなかった。

それに電話がかかってくるたびに、そのつど、ツンとした緊張感が走った。
母は、何度か、体調を崩し、救急車で病院へ運ばれた。
センターには、医療施設はなかった。

ただうれしかったのは、母は、生徒にたとえるなら、センターでは
ほとんど世話のかからない優等生であったこと。
冗談好きで、みなに好かれていたこと。
私が一度、「友だちはできたか?」と聞いたときのこと。
母は、こう言った。
「みんな、役立たずばっかや(ばかりや)」と。
それを聞いて、私は大声で笑った。
横にいたワイフも、大声で笑った。
「お前だって、役だ立たずやろが」と。

加えて、母には、持病がなかった。
毎日服用しなければならないような薬もなかった。

●問題

親の介護で、パニックになる人もいる。
まったく平静な人もいる。
そのちがいは、結局は(愛情)の問題ということになる。
もっと言えば、「運命は受け入れる」。

運命というのは、それを拒否すると、牙をむいて、その人に襲いかかってくる。
しかしそれを受け入れてしまえば、向こうから、尻尾を巻いて逃げていく。
運命は、気が小さく、おくびょう者。

私たちに気苦労がなかったと言えば、うそになる。
できれば介護など、したくない。
しかしそれも工夫しだいでどうにでもなる。

加齢臭については、換気扇をつける。
事故については、無線のベルをもたせる。
便の始末については、私のばあいは、部屋の横の庭に、50センチほどの
深さの穴を掘り、そこへそのまま捨てていた。
水道管も、そこまではわせた。

ただ困ったことがひとつ、ある。
我が家にはイヌがいる。
「ハナ」という名前の猟犬である。
母と、そしてその少し前まで私の家にいた兄とも、相性が合わなかった。
ハナは、母を見るたびに、けたたましくほえた。
真夜中であろうが、早朝であろうが、おかまいなしに、ほえた。

これについても、いろいろ工夫した。
たとえば母の部屋は、一日中、電気をつけっぱなしにした。
暖房もつけっぱなしにした。
そうすることによって、母が深夜や早朝に、カーテンをあけるのをやめさせた。
ハナは、そのとき、母と顔を合わせて、ほえた。
いろいろあったが、私とワイフは、そういう工夫をむしろ楽しんだ。

●あんたら、鬼や

それから約1年半。
母の92歳の誕生日を終えた。
といっても、そのとき母は、ゼリー状のものしか、食べることができなくなっていた。
嚥下障害が起きていた。
それが起きるたびに、吸引器具でそれを吸い出した。
母は、それをたいへんいやがった。
ときに看護士さんたちに向かって、「あんたら、鬼や」と叫んでいたという。

郷里の言葉である。

私はその言葉を聞いて笑った。
私も子どものころ、母によくそう言われた。
母は何か気に入らないことがあると、きまって、その言葉を使った。
「お前ら、鬼や」と。

●他界

こうして母は、他界した。
そのときはじめて、兄が死んだ話もした。
「Jちゃん(=兄)も、そこにいるやろ。待っていてくれたやろ」と。
兄は、2か月前の8月2日に、他界していた。

母の死は、安らかな死だった。
どこまでも、どこまでも、安らかな死だった。
静かだった。
母は、最期の最期まで、苦しむこともなく、見取ってくれた看護婦さんの
話では、無呼吸が長いかなと感じていたら、そのまま死んでしまったという。

穏やかな顔だった。
やさしい顔だった。
顔色も、美しかった。

母ちゃん、ありがとう。
私はベッドから手を放すとき、そうつぶやいた。

2008年10月13日、午後5時55分、母、安らかに息を引き取る。


Hiroshi Hayashi++++++++May・09++++++++++はやし浩司※

●田丸謙二先生

++++++++++++++++++++++++

今度、恩師の田丸謙二先生が、化学会の化学遺産委員会の
ほうで、インタビューを受けました。
田丸謙二先生の生涯の履歴書のようなものです。
先生から原稿を送ってもらいましたので、そのまま紹介
させてもらいます。

+++++++++++++++++++++++

林様:

  例の「名士インタビュー」の最終原稿です。 どうせ文部科学省の連中は読んでくれない
と思いますので、「要約」をつけました。 私は大変に大事な教育改革だと思いますが、最近の
様子を知らせてください。 日本人は自分の意見を自立して考えて外国人と討論でき、debate 
ができるようになれるにはどうしたらいいのでしょうか。特に外務省の役人の人たちなど、矢張
り小学校の頃から訓練しないといけないのではないでしょうか。
  率直なご意見お待ちしています。
                                               
  田丸謙二

  この原稿に写真がつきます。どんなのがつくか分かりませんが。
(2009年5月16日)

*****************************

【田丸謙二先生へ】

おはようございます!
ひざの関節のぐあいは、いかがですか?
たった今、送っていただいた原稿を、再度、読ませていただきました。
(先日、プロトタイプの原稿を送っていただきましたので、今回が、2回目という
ことになります。)

Independent Thinkerについてですが、まず第一に、日本の社会のしくみそのものが、
独立してdebateできるようなしくみになっていないということです。
「もの言わぬ従順な民づくり」が、今でも、教育の基本です。
それではいけないと考えている教師も多いようですが、結局は押さえこまれてしまって
います。
あるいは限られたワクの中に、安住してしまっている(?)。
ワーワーと自己主張するような子どもは、集団教育の場では、やりにくいというわけ
です。

これについては、江戸時代の寺子屋教育、さらには明治に入ってからの国策教育が
原点になっていますから、改めるのは容易なことではないでしょうね。
「もの言わぬ従順な民」に教育させられながら、またそういう教育を繰り返しながら、
当の本人たちが、それに気づいていないのですから。

第二に、私自身が、そういう世界に生きてみて実感しているのですが、この日本では、
(力のある子ども)(力のある人)を、どんどんと登用していくというシステム、
そのものが、できていません。
先生がいつもおっしゃっているように、トコロテンのように(流れ)に乗った人は、
それなりのコースを歩くことができますが、そうでない人は、そうでない。

たとえば私の息子たちですが、二男は、現在、インディアナ大学(IU)で、スーパー
コンピュータの技師として働いています。
キャンパスを車で行くだけで、2時間もかかるという広大な大学です。
(多分、先生もご存知かと思いますが……。)

二男はそれを操って、世界中のスパコンをリンクさせるというような仕事をしています。
で、今は、EUが開発した量子加速器(映画『天国と地獄』にも一部、出てきましたが)、
そこから衛星を使って送られてくるデータの分析をしているそうです。

浜松のランクの低い高校を出て、アメリカへ渡り、ワチェタ大学→ヘンダーソン州立大学、
コンピュータ・ソフトウェア会社を経て、IUに移りました。
私はこういうことが自由にできるアメリカのものすごさに、驚いています。

一方、二男の嫁は、ヘンダーソン大学のアメリカ文学部を、主席で卒業したこともあり、
2年前、日本でいう司法試験に合格。
全額奨学金を得て、同じIUに通っています。
2児の母親が受験勉強をして、です。
これもまた日本では考えられないしくみです。

で、三男はどうかというと、横浜国大をセンター試験2位の成績で入学しながら、中退。
オーストラリアのフリンダース大学の語学校を卒業、(つまり卒業ということは、大学の
専門学部への入学資格を取得したという意味です。たいはんの留学生は、入学資格を
取得できないまま、帰国しています。)
そのあと航空大学に入学、現在は、J社で、B-777の最終操縦訓練を受けています。

で、この三男でおもしろいのは、学生時代に、世界的規模のアマチュアビデオコンテスト
(英語名:Fish-eye)で、グランプリ(第一位)を獲得したという点です。
表彰式はロシアのモスクワでありました。

しかし、です。
ここからが日本です。
三男は自分で制作したビデオ類を、昨年、すべてYOUTUBEから取り下げて
しまいました。
詳しくは書けませんが、そういった圧力を、どこかで感じたのでしょう。
つまりこの日本では、(力のある人)が伸びることもできず、「型」にはめられ、
押し殺されてしまうのです。
で、今は、ビデオ制作から、完全に遠ざかってしまっています。

こうした(しくみ)は、私も自分の人生を通して、いやというほど、思い知らされて
います。
なんせ、そこらの出版社の編集部員ですら、そういう(しくみ)に迎合しているのです
からおかしいですね。
(東京の出版社からときどき、客がきますが、みな、手ぶら。
駅からの送り迎えにあわせて、食事の接待などを、平気で私たちにさせたりします。
「ああ、この男は、私をそういうふうに見ているのだな」ということが、それでよく
わかります。)

こういった(しくみ)を変えていくのは、たいへんなことです。
それこそ教育のしくみ、そのものを、根底から変えていかねばなりません。
端的に言えば、現在のように、学校しか道がなく、学校を離れて道がないという(しくみ)
を変えていかねばなりません。

ご存知のように、大学では、EUのように単位の共通化をするという方法もありますが、
たとえば小中学校レベルでは、ドイツやフランス、イタリアのように、「クラブ制」を
もっと導入していきます。
日本でも、あちこちで始まりつつありますが、官製クラブでは、意味がありません。
学校教育そのものが、現在、教育機関として満足に機能できない状態にあります。
教師たちが忙しすぎるというのも、深刻な問題です。
どうしてその上、「クラブ」?、ということになります。
民間に委譲できる部分は、思いきって移譲すればよいのです。

そのEUでは、クラブ制を活用し、その費用は国が負担しています。
(額は、国によってちがいますが、同じくクラブの費用も国によってちがいます。)
もっとも現在のままクラブ制を日本で導入したら、進学に有利なクラブのみが繁盛する
という結果になってしまうと思いますが……。

つまりこの日本では、debateできる国民は求められていないということです。
自分の意見を、自分の名前で発表していく……。
何でもないことのようですが、それができません。
この私についても、「あの林は、共産党員だ」と書いているBLOGもあります。
政治を批判したら、共産党員というわけです。
(最近では、「北朝鮮のミサイル迎撃反対」という意見を書いたら、即刻、「売国奴
BLOG」なるもののリストに、私の名前が載ってしまいました。)

まるで日本全体が、歌舞伎か相撲、茶道、華道、さらには、能の世界みたいです。
が、もちろんこれではdebateなど、求むべくもありません。
Debateしたくても、相手が逃げてしまいます。
毛嫌いされてしまいます。

……とまあ、愚痴ぽくなってしまいました。
で、自分の人生を振り返ってみて、こうも思います。
「私はたしかに自由を求めて生きてきたが、本当にこれでよかったのか?」とです。
あのままどこかの大学に入り、研究者としての道を歩んだほうがよかったかもしれない、
とです。
ワイフもときどき、そう言います。
そのほうがこの日本では、生きやすかったのかもしれません。

しかし悪いことばかりではありません。
この40年間だけをみても、日本は大きく変わりました。
今の今も、変わりつつあります。
不十分かもしれませんが、やっと日本も、民主主義に向けて産声をあげつつあるという
ところではないでしょうか。
(その一方で、復古主義的な動きもありますが……。)

その私も満61歳。
先生が東京理大へ移られた年齢です。
で、もう遠慮はしない。
言いたいことを言い、書きたいことを書く。
そういう姿勢に変わってきました。
「自由」を満喫できるのは、これからだと思っています。

最後になりますが、先生にはいつも、本当に励まされます。
私の知人の中には、(そのほとんどがそうですが……)、定年退職と同時に、
ジジ臭くなってしまい、隠居だの、旅行だの、畑作だの、そんなことばかりして
いる人がいます。
そういう人たちを見るにつけ、「どうしてこの人たちは、もっと天下国家を論じ
ないのだろう」と不思議でなりません。
残り少ない人生を、若い人たちに還元していく。
それこそが私たちの世代の者の使命だと私は思うのですが……。

言いかえると、長い人生の中で、日本という組織の中で、そのように(飼い殺されて
しまった)ということにもなりますね。
「牙を抜かれてしまった」と言い換えてもよいかもしれません。
そしてなお悪いことに、今度はそういう人たちが、保守主義、あるいは保身主義に
陥ってしまっている!
過去を踏襲しながら、踏襲しているという意識そのものがない。

もっともそれをしないと、自己否定の世界に陥ってしまいますから……。
だから私のような人間は、嫌われるのです。
私のような人間に、成功(?)してもらっては、困るのです。
そういう一般のサラリーマンたちがもっている潜在的な意識は、あちこちで、
よく感じます。

またまた愚痴ぽくなってきました。
実のところ、この2週間ほど、スランプ状態で、脳みそが思考停止状態にありました。
思考停止というより、「もうどうでもよくなってしまった」という感じでした。
「どうしてこの私が、日本や、人間や、地球の心配をしなければならないのだ」と、です。
「どうせ私は、だれにも相手にされていないではないか」と、です。

しかしまたまた先生からのメールをもらって、元気100倍!
一気に、ここまで(計6ページ)も書いてしまいました。
今朝は指の動きも軽快です。
久しぶりです。
ありがとうございました。

なおいただいたインタビュー記事ですが、先生のおもしろさが、まったくなく、
私はつまらないと思います。
先生がいつか話してくださった、紅衛兵時代の中国や、東大紛争時代の理学部の話
のほうが、ずっとおもしろいです。
プリンストン大学のアインシュタイン博士の話でもよいです。
先生の父親が、理学研究所でシャワールームを作った話でもおもしろいです。
あるいは東京理大の入試問題の話とか、不合格になった学生の親から抗議を受けた
話とか……など。

私が先生なら、そういう話をまとめて自伝にします。
あらいざらい、この際、世界を蹴とばすようなつもりで書きます。
(私も、現在、そういう心境になりつつあります。)
つまりこの記事は、たしかに「遺産」ですが、(まだ生きている人に向って、
「遺産編集」というのも失敬な話だと思いますが……)、先生はまだ遺産ではない。
「現役」です。
その現役であることに感動しています。

実のところ、先生が数年前、アメリカの化学の教科書を翻訳出版したと聞いたとき、
あるいは50歳を超えて、中国語を勉強し始め、中国科学院で中国語で講演をした
と聞いたとき、そのつど、私は心底、励まされました。
「人間は、やる気になれば、できるのだ」と、です。

先生と私とでは、月とスッポンですが、いつも月をながめてがんばっています。
(実のところ、今のこの日本で認められるということは、あきらめています。
だいたい、この日本を相手にしていないのですから……。)

どうかお体を大切に!
関節の具合はいかがですか?
血栓も無事防げたということは、メールを読んでわかりました。
よかったですね。

では……。

先生からいただいたインタビュー記事は、そのままBLOGなどに収録しますが、
よろしいですか。
不都合な点があれば、知らせてください。

なおたびたびですみませんが、先生から預かっている原稿が、山のようになっています。
こうした原稿も、随時、私のHPやBLOGなどで掲載してもよろしいでしょうか。
(現在、掲載しているのは、許可をいただいた分のみです。)

また気分のよいとき、返事をください。
待っています。

林 浩司


***********以下、田丸謙二先生より***************


1:はじめに
○インタビュアー:田丸先生、今日は土曜日で、先生おくつろぎのところ、わざわざ私ども化学
遺産委員会のためにお時間を割いていただきまして誠にありがとうございます。
 私ども化学遺産委員会、日本化学会、もちろん先生は会長を以前にしていただいておりまし
てよくご存じのところでございますが、化学遺産委員会というものを昨年3月に立ち上げまし
て、その以前には化学アーカイブズという形で3年ぐらい事業を続けたんですが、化学遺産委
員会というわかりやすい名前に変えまして、そこでいろいろな事業を行っているわけですが、そ
の中の一つに、化学における立派なご業績を残された先生方、あるいは企業で立派な仕事を
なさった方々、そういった方々の人となりを声と映像で残そうという事業を一つ行っております。
○田丸先生:先生は最初からご関係なんですか。
○インタビュアー:はい、一応やらされて。私、一応、今、化学遺産委員会委員長を引き受けて
おります植村でございます。
 それで、今日は、先生がご幼少のころからずっと今まで、どういうふうにして化学の道に入っ
てこられて、どのような人生を歩んでこられたのか、それを先生にご自由にお話ししていただけ
たらと思っております。

2:生まれ育ちについて
 まず、どういうところからでも結構なんですが、一応、先生の簡単な生い立ちというもの、先生
は、まさにここ鎌倉でお生まれになったんですか。
○田丸先生:この家で生まれました。
○インタビュアー:そうでございますか。それでずっとここで育たれて、大学は東京大学。そのと
きは先生、まだ東京帝国大学ですね。
○田丸先生:はい。
○インタビュアー:帝国大学の理学部化学科に行かれたとお聴きしておりますが、そのあたり
までのところで、何か先生、ちょっとお話していただけますとありがたいんですが。
○田丸先生:その辺りのことは私のホームページ(http://www6.ocn.ne.jp/~kenzitmr)にも書い
てあるんですけれども。小学校のときは、ここの鎌倉師範の附属に行っていて、そこを出て神
奈川県立湘南中学校という、今の湘南高校ですけれども、旧制の中学に入って、それで、そこ
では化学が一番嫌いだったんですよ。成績も他の科目に比べて悪かったんです。
 私の成績のことをふだん言う人ではなかった父だったんですけれども、父が、やっぱり自分
が化学をやっていたせいか、「化学の何がわかんないの?」と聞かれて、返事に困ったことが
あるんです。要するに分からないというよりも、全くの暗記物だったんです、そのころですね。だ
から毎週、もう「これ暗記したか」、「これ暗記したか」とばかり教えられて、要するにつまらなか
ったわけですね。ただ、父が言った一言を覚えているのは、「大学に行くと、化学は今のと随分
違うんだよ」というのは、ちょっと頭の隅に残ってはあったんですね。
 とにかく大嫌いな化学だったのが、旧制高校に入りまして化学を学ぶと、もう全然違うんです
ね。それこそ、なるほど、なるほどという話になって、今までのただ暗記すればいい化学とは全
然違って、「これはなかなか面白いな」と考えが変わったのです。
 ちょうど大学の入学試験に、僕の年まで分析実験の試験があったんです。未知試料をもらっ
て、これは何かという答えを2時間で分析して、そのレポートを書く。その練習まで特別にさせ
てもらって、それで、なかなか面白いなと思って。今まで嫌いだったのが、その時点で切り替わ
りました。やはり、なるほどというか、化学って考えてやるもんだなという因子がそこで入ってき
たわけです。
 そのころは、戦争中でしたから、勤労動員に行ったりしてなかなか勉強しにくかったんですけ
れども、私が大学を卒業したのが昭和21年で、終戦の翌年ですね。その頃は東京の相当部分
が焼け野原でしたし、財閥は賠償に取られるんだとかいろいろの噂があり、もういい就職口な
んか全然なかったんです。ただ、戦争中に特別研究生と言って、助手並みの給料をもらいなが
ら研究をする、そういう理系の学生を育てるというシステムが終戦後も残っていたんですね。
○インタビュアー:聞いたことがございますね。大学院入学から学位をもらうまで
○田丸先生:それで、そのいわゆる特研生にしていただけたものですから大学に残れて、おか
げさまで人生がそこである程度決まったわけです。
○インタビュアー:今、先生が言われましたが、お父様が化学をやっておられて、高名な、後で
またお話ししていただくと思うんですが、非常に高名な、私が聴いたところによると、日本化学
会の会長先生がこの家から2人出ているというような、お父さんと息子さんでという、そういうこ
とをちょっと耳に挟んだことがありますけれども。
○田丸先生:そうですね。偉はそうえらそうなことを言うのではなくて、医者の子どもが医者にな
りたがるのと似たような、余り深い哲学もなくて継いだという面もなくはないと思うんです。
○インタビュアー:物すごくいい親孝行を先生はされたんですね。

3:大学院時代と就職
○田丸先生:いやいや。
 それで、私が後で考えて、一番大事だったと思うのは、大学院に行きまして、鮫島実三郎先
生のところに研究テーマをもらいに行ったわけです。何をしたらいいでしょうかと。そうしたら鮫
島先生が一言、「触媒をおやりになったらどうですか」と言われたんです。そのころ、もっとずう
ずうしければ、触媒をどういうふうにすればいいんですかと質問してもよかったかもしれないん
ですけれども、そのころは、先生は偉い人で、そういう一言をいただいて、「はい」と言って引き
下がってきたんです。
 ところが、鮫島研究室の中には、例えば助教授の赤松秀雄先生は炭素の電気伝導度、あれ
は後で学士院賞になった有機半導体の研究、それから後にお茶大に移られた立花太郎先生
が煙霧質といって煙のことをやっていらしたし、それから、中川鶴太郎さんという後に北大に行
かれた人は液体の粘弾性というのをやっていたり、みんな違うことを勝手にやっているんです
よね。だから、誰に聴こうが、教わる先輩が全然いないんです。「触媒をおやりになったら」と言
われてもね。今、何が面白いんでしょうとか、普通は同じ研究室にみんな先輩がいて相談に乗
ってくれるんですけれども研究室の中には誰もいない。しかも、化学教室自体が、水島三一郎
先生みたいに分子構造論とか、島村修先生の有機化学なんかがあるんですが、触媒をやって
いる人なんか一人もいないんです。
 しかも、もっと悪いのは、終戦直後ですから外国の文献が全然入ってこなかった。そうする
と、戦前の随分古い文献までしか文献がないんですね。それで、触媒をおやりになったらと言
われても、それからの4〜5カ月というのは、もう本当に苦しかったんです。何をしていいのか
自分で決めなければいけないわけですね。それで、古い本を見ていても、分かったことは書い
てあるんですけれど、研究というのはどういうものかというのは、大学院の入りたてですから全
然そういう下地がなくて、苦しい4〜5カ月に一生懸命考えて、何をしたらいいだろうと迷いに迷
って。1人で考えるものですから全然自信がないんです。
 でも、その迷いが後々まで、自分のやっていることが何か間違っていないだろうか、あるいは
もっと発展するいい考えがないだろうか。それで、どういうふうに考えたらいいんだろうかと、い
つも研究しながら、自分で自分に問いかけながら研究をするという、そういう研究の基本を問
わず語りに教わったわけですね。僕は、非常にいい経験だったなと後になって思います。
 それで、さんざん迷った挙句実際に決めたのは、パラジウムを触媒とするアセチレンの水素
添加反応で、アセチレンからエチレンになって、更にエタンへ行きますよね。そのときに、あの
ころはもう研究費もないものですから、ただの真空ポンプで、反応容器を真空にしてアセチレン
と2倍の水素を入れてやったんですけれども。そうすると、全圧を計っていると、だんだん時間
と共に圧力が減るわけですね、水素化されますから。そうすると、あるところで、何もしないの
に急に反応が早く進むんですよ。「これは何だろう?」とよく調べてみたら、アセチレンのある間
はエチレンからエタンに行く反応が起こらないんです。アセチレンが全部エチレンになったら、
今度はエチレンの水素添加が早く進み始まるんですね。そういう二つの反応が一つの実験の
中に別々にぽんと入っているんですね。
 これは、後で分かったのは、そのころ世界でも誰も知らなかったことだったんです。たまたま
そういうものにぶつかったものでした。そうしたら、パラジウム触媒の分散度を変えたら二つの
水素化反応が如何に変わるか、触媒の担体を変えたらどうなるだろうか、それから、触媒を部
分的に被毒をさせたらどちらがどうなるだろうかと、いろんな実験がどんどん後に続くわけです
ね。
 それで、その結果が数年後にアメリカで「Catalysis」というEmmett(BET吸着式の提唱者の一
人)がつくった本があって、その中に3ページほど引用されていて、結構新しい面白いことだっ
たわけで、それは全く運がよかったわけですよね。
○インタビュアー:先生、そのお仕事は、やはり邦文の論文として。
○田丸先生:欧文誌に出しました。
○インタビュアー:日本化学会の欧文誌に。
○田丸先生:そうです。
○インタビュアー:それは、きちんとエメットなんかが見て、それを。
○田丸先生:そうですね。多分Chemical Abstractsあたりを通したんではないでしょうか。
それでその結果学位をもらえたんです。幾つも印刷発表をしたものですから。そのころはま
だ、本当の大学院が発足していませんでしたけれども、いわゆる論文ドクターで、普通、論文ド
クターは、大学を出て7〜8年してもらうものだったんですね。
○インタビュアー:そうですね、普通は時間がかかりますね。
○田丸先生:「鮫島先生が卒業年度を間違えたんじゃないの?」と言われたくらい、4年でもら
えたんですよ。それで、ひき続き就職の話になるんですけれど、一年先輩の学年の人や兵役
解除された人達が一杯いてトテモ空いた地位がない。そのころはGHQがみんなコントロールし
ていましたから、アメリカと同じに、日本では各県に1つずつ大学をつくるんだよということにな
ったのです。それまで、大学というのは数少なかったわけですね。いわゆる旧制大学だけでし
たから。それからアメリカ式の教育システムになるという話になっていました。丁度その頃横浜
国立大学から人を求めてきたからどうですかと言われたんです。しかしそのころは横浜国大と
言っても、いわゆる横浜高等工業ですよね。研究なんか、全然そんな雰囲気のところではなか
ったわけです。日本のいわゆる新制大学が全部がそうでしたけれども。その上、横浜には夜
学もあって、何か雑用ばかりさせられて、こんなことしてたんじゃとてもいけないなという感じで、
それで、アメリカのPrinceton大学に Sir Hugh Taylorという触媒では世界のリーダー的大物
で、その弟子たちが各国にいる、触媒の分野では本当の泰斗というか、開拓者の一人がおら
れて。

4:アメリカ留学時代
○インタビュアー:Sir Taylor。
○田丸先生:はい、Sir Hugh Taylor。それで、その方に学位論文と自分のことを書いて、留学
できませんかと手紙を直接出したんですね。そうしたら、たまたまテイラー先生がお若いときに
ハーバー(Fritz Haber)の研究室を見に行ったら、私の父とお会いになったのを覚えていらした
んです。それで、ハーバーがアンモニア合成に成功したのは、その下にLe Rossignolとか、田
丸とか、すぐれた人がいたからだよとおっしゃるんです。
つまり、あのころ人類は、人口は増えるけれども、窒素肥料はチリ硝石に主に頼っていたんで
すが、もうそのチリ硝石も枯渇するのが目に見えている、人類の将来は飢餓が訪れるともっぱ
ら前世紀の初めには言われていて、Ramsay(Sir William Ramsay)とか、Ostwald(
Wilhelm Ostwald) とか、Nernst(Walther Nernst)とか、後でノーベル賞をもらった連中がみん
な、一生懸命窒素固定のことをやっていたんですね。中には、空気中で放電して
NOxを作ることをやろうとしていたのもいましたけれども、窒素と水素からアンモニアをつくると
いうのが、本当にどれだけ行く反応なのか、窒素は不活性な気体ですから,平衡定数がよくわ
からないで、みんな暗中模索でやっていたんですね。
 それで、Nernstという人が、高圧がいいに違いないというんで、高圧にして、平衡定数を計ろ
うとしたんですけれども、データが不正確で、ブンゼン学会で1907年に有名な討論があって、ネ
ルンストは、結論として窒素と水素からアンモニアをつくるなんていうのは工業的にも到底でき
ない反応であると言いきったんですね。ハーバーは、実験が正確ではないんだというので有名
な討論があったのです。ハーバーはアンモニアの合成と分解の両方から速度を求めただけで
なく、窒素と水素の混合気体を触媒を通す循環系を使って循環させ、それの途中でアンモニア
を集める工夫をしてやる。そうするとだんだんアンモニアがたまってくる。そういうアイデアでや
ったら、これで行くよという形になって、それで初めて、1909年に、オスミウムを触媒にして、
180 気圧、820 K でうまくやってみせたんですね。
 それで、BASFがそれに乗り出して、Bosch (Carl Bosch)が大変な苦労をして高温、高圧の
条件でスケイルアップし、Mittasch(Alvin Mittasch) がいい触媒を見つけるのに成功したわけで
す。ハーバーは1918年にそれでノーベル賞をもらったんですけれども、ボッシュは高温、高圧
の化学工業を初めて成功させたというので、1931年ですか、ノーベル賞を貰っていますね。。
○インタビュアー:いわゆる我々がハーバー・ボッシュ法と大学で習うあれでございますね。
○田丸先生:そうなんですね。
○インタビュアー:そのときの技術というのは、今の化学工業の一番の礎だ、基礎だというとこ
ろで、いまだに、それがあったからということを聞きますけれども、そうなんですか。
○田丸先生:そうなんですね。Mittasch が、その反応に使ういい触媒がないかといって非常に
たくさんのものを探したんですね。その研究が、触媒の本性というか、それを随分明らかにした
んですね。例えば、その際たまたまスウェーデンから出てきた鉄鉱石がいい触媒だとわかっ
て、それじゃといって、純粋の鉄を使うとだめなんですね。それで、なぜそうなんだろうというの
で、純粋の鉄に微量なものを加えると活性がぐんと上がる。いろんなそういういわゆる助触媒
作用というものとか、もちろん触媒作用の温度の影響や被毒現象なんか、そういう触媒の性質
を非常に明らかにした。ミッターシュ自身もノーベル賞をもらってもいいくらい、本当に触媒の本
性を初めて明らかにしたわけですね。
 テイラー先生はそういうのを見ていらっしゃったから、その田丸の息子なら雇ってもいいと思
われたらしくて、comfortable に生活できるからプリンストンへいらっしゃいと言われて。
○インタビュアー:それは先生、昭和何年ごろですか。
○田丸先生:1953年です。昭和28年ですね。
○インタビュアー:講和条約ができた直後ですか。
○田丸先生:まだ珍しいころです。
○インタビュアー:そうですね。
○田丸先生:ちょうどフルブライトがあったものですから、それで家内と行かせてもらって。日本
じゃ、あのころ、生活費の中で食費が占める割合であるエンゲル係数というのは大体60%、ま
だ食べるのがやっとの時代でした。そのころアメリカに行って、日本にまだなかったスーパーマ
ーケットで、食べたいものをみんな、アイスクリームでも何でもかごに入れられて、それが一番
の感激でした。一桁以上違う生活レベルでしたから。
 それで、実験施設もいいし、テイラー先生がとってもよくしてくださったんです。そこで、いろい
ろの話から問わず語りに、研究というのは頭でするものだよというのを非常に深く教えていた
だきました。実際にテイラー先生の弟子たちが、世界中、方々にいたんです。ですから、後で
方々に行くと、おまえ、「プリンストンの田丸だね」と言って、とてもよくしていただいて。
 例えば、ソ連なんかではボレスコフ(G,K,Boreskov)という大物がいたんです。ノボシビルスクの
触媒研究所の所長で、アカデミシャンで、ソ連の中で触媒関係についていろいろ決めていた。
それが、「テイラーがあなたのことをベストなスチューデントだと言ってたよ」といって、私がいろ
いろな国際会議の議長や国際触媒学会(第9回ICC) (International Congress on Catalysis)
(1956年以来4年毎に開かれている大きな国際触媒学会で、昨年韓国のソウルで第14回が開
催された。第1回からこれまで14回全部のICCに参加したのが世界で私一人だけになってしま
って特別に挨拶させられた)の会長をやっていたときにも、例えば台湾を1国として数えるかど
うかとかいろいろな問題があったんですけれども、米ソの軋轢の中でボレスコフさんはとても協
力的にやってくれました。そういう意味では、テイラー先生のおかげで、随分助かったんです。

5:In-situ dynamic characterizationの始まり
 テイラー先生のところでやった実験というのは、ゲルマニウムの水素化物のゲルマニウムの
上での分解反応なんですけれども、それをやっているときに思いついたのは、触媒反応の反
応中の触媒の表面の反応現場、それがどうなっているかを直接調べたいというアイデアを生ん
だんです。それまでは、触媒というのは微量で反応速度を促進するものということで、いつもブ
ラックボックスの中に入っていて、ブラックボックスの入り口と出口の情報を基にして、例えば反
応速度式の情報から、反応はこういうふうに行くのではないかという推論だけやっていたんで
すね。
 ところが、僕はやっぱり、本当に大事なのは反応をしている最中に触媒表面の現場を見るこ
とである。何がどんな形でくっついているのか、それがどういうダイナミックな挙動をするか、ど
んな反応経路を経て反応が行っているのか、そういうものを、後でisotope jump method と称し
たんですが、定常的に反応が進んでいる最中に、ある反応物を同位元素で印を持ったものに
ぽっと置き換えるんですね。その同位元素が吸着種の中に現れてきて、それからこっちへ行っ
て最後に反応生成物に行くという、その反応経路もわかるようになるわけです、 
 それで、兎に角触媒反応が進んでいる状態で触媒表面を直接調べようということをテイラー
先生に申し上げたんです。まず触媒を普段よりうんと多くして、閉じた循環系で
反応速度を測りながらやりますと吸着種とその量が分かるのです。そうしたら、先生はそのと
きに、直ぐにその意味を分かってくださり、「You are very ambitious」更にもう一度「You are 
very ambitious!」とため息混じりに二度繰り返されました。でも、まだ世界中でそれまで誰もした
ことがないのに、そんなこと果たして本当にできるのかと先ず仰いました。じゃ、その計画を持
っていらっしゃいというので、翌日、触媒をこれだけ入れて、こうやって、こうすると、このくらい
できますよといって、「じゃ、やってごらん」というので、そこで触媒反応中の触媒表面の直接の
観察が初めて始まったんです。
○インタビュアー:You are very ambitiousと言われたわけですね。
○田丸先生:はい。それで、パリで1960年に大きな触媒の国際会議(第2回ICC)があって、そ
こでテイラー先生が、僕のアイデアを引用して招待講演をなさったんですけれども、触媒作用
はこれまで反応機構が暗中模索だったけれど、これからは田丸のアイデイアで、新しい頁が開
けるよ。こうやって反応の起こっている現場を調べていくと本当の触媒作用の機構がわかるん
だよと。これから新しい触媒の研究面が生まれて、それを基にして、あとは反応中間体の調べ
方を開拓していけば、ちょうどそのころ、吸着種を調べる赤外分光も出てきたし、それから電子
分光も直ぐに出てきて、そういう新しいアプローチも出てきたころだったからよかったんですけ
れども、いわゆるワーキングステイトの触媒の表面がどうなって、どういう反応経路を経て反応
が行くかというのを調べ始めて、程なく何百という研究報告がその新しい線に沿って出てきて、
いわゆる触媒作用の分野が本当のサイエンスになったんですね。それまでだとただ外側から
推論だけだったのが。
○インタビュアー:今のことは、インサイトーの、インシチユーの、それの中で吸着がどのように
なっているかというようなことを見るというアイデアだったわけですね。
○田丸先生:そうなんですね。触媒のin-situ dynamic characterizationの始まり、つまり、触媒
の表面を反応中に直接調べるという。それで、そういう線に沿ってその後にEXAFSとかいろん
な新しい手法で調べるダイナミックなキャラクタリゼーションを色々の人が始めて、それがだん
だん積み重なって、一昨年、ベルリンのフリッツ・ハーバー研究所のディレクターだったErtl
(Gerhard Ertl)がノーベル化学賞をもらいましたけれども。
○インタビュアー:ドイツの人。
○田丸先生:はい。触媒の基礎としてPhotoemission electron microscope という面白い手法
で、反応中の触媒表面を反応中に調べたんですね。そういうこともあってノーベル賞をもらいま
したけれども、私が言い出してからの50年間というのが、そういう触媒のサイエンスが飛躍的
に進歩発展していった時代で。
○インタビュアー:要するに、先生が、そのノーベル賞につながった一番最初のところの提案者
というか、そういう感じでございますね。
○田丸先生:そうですね。ちょっと言い過ぎかもしれないですが。
 
6:Princetonからの帰国
それで、1956年にプリンストンから日本へ帰ってきて、触媒討論会で初めてそれの反応例を、
タングステンによるアンモニアの分解の結果を発表したんですね。そうしたら、堀内寿郎先生と
いう当時北大の触媒研究所の所長さんで、後で総長になられましたけれども、その先生はい
つもスピーカーのすぐ前に座っていらっしゃるんですよ。それで、僕の話が終わったら、すっくと
立ち上がって、本当に言葉を尽くして褒めてくださいました。これはすばらしい研究だと。触媒
の研究が、これでこれからは本当のサイエンスになるんだと。
 それで、私についていらっしゃいと仰るんです。どこへ行くのかなと思ってついて行ったら、文
部省に行かれて、文部省の研究助成課の課長、中西さんとそのころ言った、その人に会って、
堀内先生だからそういうところへ行って、会えたんですね。田丸は今将来学士院賞をもらうほ
どの素晴らしい新しい研究をやっているから、是非幾らかでも補助してあげられないかと個人
的に交渉なさって、当時、特別に15万円もらって。15万円って少額ですけれども、そのころ私は
横浜の助教授の、まだ30歳ちょっと超えたころで、もう本当に真空ポンプ一つ買うにも苦労して
いたものですからとっても助かりましたし、そのように励ましていただいたということですね。堀
内先生とは師弟関係があったわけじゃなかったんですけれども、そうやって特別に褒めていた
だいたのは、とてもありがたかったなと思うんですね。
○インタビュアー:見抜かれる方もそうですが、見抜く方もすごいもんですね、やはり。立派なも
のですね。
○田丸先生:それで、これは学士院賞に値すると褒めてくださったんですが、本当にもらったの
は何十年か後でしたけれども。
○インタビュアー:先生は学士院賞もいただきましたですね。
○田丸先生:だから、触媒が新しいサイエンスとなった、新しいページを開いた時代でしたか
ら、やること、なすことみんなexcitingで、面白いんですね。基本的な触媒反応について、この反
応の中間体は、今まで教科書なんかに書いてあることと全然違うことも出てくるんですね。学生
たちも非常によく働いてくれたものですから、新しいことが沢山出てと来てとても面白かった時
代です。
○インタビュアー:先生はプリンストンには2年ぐらいいらっしゃったわけですか。
○田丸先生:3年近くいました。あちらで双生児が生まれましてね、おしめのことなどあり,まだ
その頃は長旅はすぐ帰れませんからというので、双生児を理由にして1年延ばしてもらって。双
生児のおかげでよかったんですけれども。 (その双生児が生まれた病院で一ヶ月後にアイン
シュタインが亡くなりました)
○インタビュアー:それは、横浜国大に籍を置いたままやらせていただく。
○田丸先生:そうです。それで、横浜の方では、(当然のことながら)人手が足りなくて困って大
分冷たいことを言われましたけれども、双生児で今本当に困っているんだから、長旅はちょっ
と待ってよということで。だから、帰国までにいい実験結果もまとまりましたし、帰国後も学生に
本当に新しい局面の実験をさせることができたんですけれども。
 私がいつも口癖のように言っていたのは、「せっかくいい頭をお持ちなんだから、よく考えなさ
い」と。よく偉い先生が、アイデアがたくさんあって、おまえはこれやりなさい、おまえはこれやり
なさいと先生からテーマをもらって、院生は人手として実験して、確かにいい仕事ができるんで
すけれども、研究テーマをもらってやっただけでは、その後、独立すると育たないんですね。そ
れじゃいけないからと思って、テイラー先生のやり方もそうだったんですが、とにかく研究は頭
でするものだというフィロゾフィーですね。
 「せっかくいい頭をお持ちなんだからよく考えなさい」と、ここにいる人たちも言われたと思うん
です。ただ、初め、みんな皮肉を言われたと思うんですね。ところが、僕にしてみれば、頭は使
えば使うほどいい頭になるんですよね。そういう基本があったものですから、みんなやはり研究
は何か新しいことを、先生からもらったテーマだけじゃなくて、それをいかに発展させるかという
のを考えてくれたというのがあります。そうやって考えに考えて自分で新しいアイデイアを考え
付く体験はその人の一生の宝になるものです。
○インタビュアー:それは、先生も、鮫島先生からそういうご指導を受け、またテイラー先生か
ら受けられたという、それがきちんと身になって。

7:Independent thinker について
○田丸先生:それが基本になっているのではないかと思いますね。ですから、口の悪いのが冗
談半分に、私がいつもそう言っているのは、「あれは先生にアイデアがないからだよ」と言った
人もいるんですけど、必ずしもそうではなくて、学生によると、僕が例の通りそう言うと、これは
自分で考えに考えてこう考えるのです、と言うから、それじゃやっぱり足りないよ。こういうことも
あるだろう、ああいうアプローチもあるだろうと、やはりそのくらい言える準備はしていないとい
けないんですけれども。
○インタビュアー:学生が、本当は先生もわかってるんだなと思うわけですね。
○田丸先生:それで皆さん、自分でよく考えていただいて。だから、例えばここにいる人たち
は、みんな東大の名誉教授と東大教授ですけれども、その前は、田中虔一君は北大から東大
に呼ばれたし、川合真紀さんは理研から、それから堂免一成君は東工大からとか、初めいろ
いろなところへ就職させても、その先々で自分で考えていい仕事をしてくれたものですから、そ
の結果として東大に招かれて。だから、僕は別に東大で政治的にどうしたということは全然なく
て、そういう仕事を通して研究室の卒業生の中から東大に8人も集まったということだと思うん
です。その他、京大、阪大、東工大などなどにもいますし、私の研究室を出て大学教授になっ
た連中はざっと数えても40人近くおりますし、国立の研究所や企業でも活躍している人達も少
なくありません。そういうお弟子さんのおかげで、それこそ弟子でもってるねというのがそれな
んですけれども。
○インタビュアー:今日はちょうどそのお三人の先生方もいてくださっているので、先生は心強く
話していただけると。
○田丸先生:お蔭様で、しかし間違ったことを言ったら言ってください。
○インタビュアー:いやいや、それは本当です。
○田丸先生:考えるに、大学院の時代でも、よく考えろ、考えろと言われると、考えるようになる
もんだなという感じがしますね。
 本当は、日本の教育が、自分で自立して考える教育というのが大変に乏しい。先生も生徒
も、自分の考えが足りないことは自分では気がつかないものなんです。外国ではもう幼稚園、
小学校からやるんですよね。「お前はどう考えるか」、と。そうしてお互いに議論し合うことを通し
て自分の考え方を作り上げるのです。
私の孫で大山令生(レオ)というのは、アメリカで小学校2年までやって日本に帰ってきたんで
すね。それで、何をするかいうと、コップに水を入れて、自分の腕時計を水の中に入れている
んですよ。「おまえ、何してんのよ!」と言ったら、「これ、防水って書いてある」と。実験している
んですね。
 それから、「救急車がこっちへ来るときは高い音で、向こうへ行くとき低い音になるのはな
ぜ?」とか、「台風のメってどんなものなの?」とか、小学校2年生のくせに自分で考えてどんど
ん質問するんですよね。それで、彼の小学校の先生が、私は長い間先生をしていたけれど、こ
んな利口な子、見たことないと言いました。それが、どうでしょう、日本にいるともう見る見るうち
に質問しなくなりましたね。普通の子になってしまいました。
○インタビュアー:日本に帰ってこられてからですか。
○田丸先生:そうです。日本の教育は教科書を覚えさせられて、入学試験の準備をさせられ
て、ということで、自分で考える教育が殆どない。もう本当に見る見るうちに普通の子になりまし
た。日本の教育は生まれつき才能を持っている子供たちでもその才能を引き出して(educeし
て)育てることなしにみな普通の子にしてしまうんですよね。個性を育てる本当のeducation が
存在していないのです。
そういう個性を伸ばす教育は、小学校時代からちゃんとしないといけないんだなという、そうす
るのが本当の教育だなという感じがいたしますね。
○インタビュアー:先生、教育については、日本化学会の雑誌の『化学と工業』とか『化学と教
育』とかにもしばしばエデュースということについて書いていただいていますね。○田丸先生:ア
メリカで母親として子供を育てた娘も一緒に書いてくれましたが、小学校の校長先生にどんな
子供を育てるのかと尋ねると、アメリカではindependent thinkerと言って、自分で考えさせると
いう基本を小学校時代から心がけるのです。お前はどう考えるか、の繰り返しで、debateしな
がら、各人がそれぞれ生来持っている異なった個性を伸ばしながら、みんなで協力して民主主
義が育つんだという哲学ですね。日本の小学校の先生でindependent thinker を育てようとして
いる先生が何人いるでしょうか。日本だと、何かみんなと違う考えだと村八分になったりして、
みんなと協力するという、「和をもって貴しとなす」という、いい面もあるんですけれども、逆に言
うと、個が育つ環境がないわけですね。
 本当に日本はこれから、殊にコンピューターの時代に、時代の変化が加速度的にどんどん
速くなっていきますね。そういうときに、「教え込み教育」を通して単なる物知りなどをつくってい
る教育ではだめなんで、やはり自分で考えられる、そういう変化の激しい時代をリードできる人
間というのは、やっぱりそういうindependent thinkerとして、自分で考えるクリエイテイブな教育
を受けさせることが必要で、これから日本は教育を基本的に変えていかなければいけないの
ではないかなという感じがします。私の院生の連中は電子供与体と電子受容体とを組み合わ
せて所謂「EDA錯体の触媒作用」もやっていたのもいましたが、両者の組み合わせでそれぞれ
と全く異なった触媒作用が現れるのです。鉄フタロシアニンとカリウムの錯体など、アンモニア
合成を室温で進ませるものもでてきたりして、沢山のデータを集めて「EDA錯体の触媒作用」と
して一冊の本に纏めてあります。
 私の経験からも、特に大学院に入って最初の1−2年に知的体力を蓄えることが非常に大事
なんですね、研究とは如何なることをするものかという正しい概念を身につけることですが、な
かなか難しいことですけれど。現在の一つの現実的な問題は近視眼的な成果を求める傾向も
あって、日本学生支援機構(旧育英会)からの奨学金返済のシステムの変更がありますが、学
問する上で学生にとっては大変に重要な問題になっているようです。
一方研究費については昔に比べると場所によっては近頃研究費は随分増えましたね。堂免君
のところなんて30人近くも抱えている。よくやっているとは思いますが。研究費では、僕なんて
いつも研究費が足りないので苦しみ、苦しみしてやってきたものですけれども。ただ、そういう
十分になってきた研究費が、さっきのように、本当に研究というのは、自分でいつも考えに考え
てやるものだという、それで練習問題的なことでなく、新しいことをやらなければいけないという
基本的な厳しい考え方が薄れて、イージーになってくる恐れを感じるのですが。研究費の出し
方も同様ですが。
 勝手な考え方ですけれども、やはり、殊に大学院に進んで最初の数カ月、テーマをいただい
てからの苦しみというか、厳しさというか、本当に研究って何をするんだろう?何をやっても、も
っといい考えがないかとしょっちゅう自分で悩みながら研究をするものだということを実際に教
えていただくという、それは、研究者として基本的な大事なことだと思います。
○インタビュアー:それが先生の仕事の本当の原点になっているんですね。
○田丸先生:大学院生なんかは、人手として使って、仕事をさせて、ペーパーは出るかもしれ
ないけれども、本当に研究の基本というものを、大学院生になって初めて研究に携わるとき
に、研究とは何をするのか、independent thinkerとして、自分で考えに考えて自立した研究者
になってくれればいいんですけれどもね。それが「知的体力」作りなんですね。
それをしないと、大学以下の受け取るだけの教育の延長では駄目なので、殊に新しく大学院に
入ってきた連中の研究者としての才能を育てていない感じがします。
○インタビュアー:そういう指導者であるべきだということですね。だから、先生のお弟子さん
は、そういう姿を見ておられるので、そういう感じの指導者になっていっておられるんだと私は
思いますね。
○田丸先生:私のところから出て独立すると、みんなそれぞれ独立して立派な仕事をしてくれて
いますから、そこが少し違うのではないかという気がいたします。
○インタビュアー:確かに、最近ですと、大学院もきちんと充実してきて、例えば学部制で入っ
てきても、テーマも上の先輩がやっているものの、まずは手助けぐらいから入ったりして、余り
考えなくてもごく自然にやる。上の人がある程度仕事をやっていると、論文として名前が出たり
とか、「研究ってこんなものかな」と思いがちなところがございますよね。
○田丸先生:そうなんです。新しく「研究」と言うものを学ぶときに、いい加減なことを研究だと思
い込ませるとその人の研究者としての才能を一生つぶすことになるわけです。
○インタビュアー:それは、一つは有能な方々が集まってきていたということはあったでしょう
ね。ほとんど小中高校ぐらいの本当のトップだけが集まっていっているようなところですから、
先生もそういう指導がいいと思われたのかもしれないですね。
○田丸先生:でも、いわゆる秀才と、それからそういう新しいことを考えれる独創性とは、やは
り根本的に違うんですね。教えられたことを全て答えられる、そういう秀才だからいい研究者と
いうわけではないんですね。その辺の、習ったことを理解して覚えるだけではなくて、
independent thinkerとして、自分で新しいことをcreativeに考える努力をするという、人によって
才能も違いますけれども、皆さん、そういう意味で努力してくれた結果だと思うんです。出藍の
誉れというのはみんな。

卒業生の活躍
○インタビュアー:先生もそうでしたし、先生のお弟子さん方も皆、やはり能力ある上に、よく考
えるということをされた方々が、その結果として、先生がおっしゃったように、40人近い弟子たち
が大学教授となり、中には東京大学だけでも8人も教授がいらっしゃる、あるいは京大や阪
大、東工大、北大にもいらっしゃると言うことですが、そういう人たちが、また次の世代を先生
の思想をもとに教えていっているというのは、非常にありがたいことですね。うれしいことです
ね。
○田丸先生:そうですね、今、弟子の弟子、つまり孫弟子を育てていますからね。少なくとも、
孫の育て方を厳しくきちんと考えてやりなさいという考え方を伝えてほしいなと思うのです。さっ
き言ったように、時代の変化がますます激しくなってくる、そういう変化の激しい時代をリードで
きるには、やはり自分で考えないといけないんですね。コンピューターができる物知りだけで
は、これからはますますいけなくなるのではないかと。僕も、先が短いですけれども、とにかくそ
ういう、みんなが、もう少し日本人の教育全体的に、independent thinkerとして、そういう個性を
育てる教育がこれからますます必要になるのではないかと。
○インタビュアー:ちょっともとへ戻りますが、横浜国大で何年間かいらっしゃった後、古巣へ戻
るというか、先生はまた東京大学へ移られたわけでございますね。それで、そこでまた20年ぐ
らいいらっしゃったのでしょうか。
○田丸先生:そうです。東大の教授になったのが40ちょっと前ですから教授として20年いまし
た。その前に横浜に教授として4年半いたんです。そのときは僕も一生懸命実験をしたし、そ
れなりに新しいやり方をやってもらったり、したりして、4年半教えた研究室に毎年4人くらい来
ましたか、その中から3人東大教授が出ましたし、大学教授になった連中も幾人もいます。学
生の質もよかったんですけれども、そのころから人が育ち始めて。夜学なんかは随分つらかっ
たけれども、学生がよくできて、そういう意味では、本当に私は幸せだったと思います。

8:アドミニストレイションについて
○インタビュアー:先生、東京大学の方に戻られてからは、結構、学内のいろいろなアドミニス
トレーション的なお仕事も大分していらっしゃるのではないですか。
○田丸先生:それは、ちょっと話があるのですけれども、プリンストンに小平邦彦先生というフィ
ールド賞をもらわれた有名な数学の先生がいらして。
○インタビュアー:小平先生、数学者。
○田丸先生:あの方がプリンストンに一番最初からいらして、日本人の仲間の村長さんみたい
だったんですけれども、その100メートルぐらいのところに私たちは住んでいて、しょっちゅうお
邪魔に上がり、先生も僕たちとはとてもよく話してくださって、小平式の考え方がとても勉強にな
りました。
 小平先生が帰国されて程なく、紛争の直後だったわけですよ。それで、事もあろうに、理学部
の教授会が小平先生を理学部長に選んだんですよね。それで、小平先生はもう絶対に嫌だ、
そんなために日本に帰ってきたのではないから絶対に嫌だと言われて。だけれども、教授会で
一旦選ばれて断れるという前例をつくられると、あの時代に、なる人がいなくなりますでしょう。
だから、みんなで助けるから是非断らないでくれと言って。そうしたら、化学では田丸さんを知っ
ていると言うんですね。それで僕が学部長補佐の中に入れられて、学生とごたごたさせられ
て。あのころ、いろいろ大変だったでしょう。
○インタビュアー:そうですね。
○田丸先生:もうそれこそ学生が、先生たちは「専門ばか」だと言って。小平先生が、「先生は
「専門ばか」と言われるけど、学生はただの「ばか」だね」と(笑)。小平語録という、そういう面
白い話がたくさんあるんです。そんな形で、そういうアドミニストレーションに引っ張り込まれた
わけです。それまではもう研究しかやっていなかったんですけれども。
○インタビュアー:それから後、もちろん研究者としては、我々は日本化学会ですから、化学会
賞も先生に取っていただいていますし、化学会の会長にもなってご尽力していただきましたね。
いろいろあるんですが、先生は、東京大学をご退官になってから、たしか、今、山口東京理科
大という、最初からそうだったんでしたか。

9:東京理科大時代と新しい大学作り
○田丸先生:東大を辞めて、東京理科大にまず行ったわけですね。理科大で呼んでくださっ
て、そこに11年いました。神楽坂のあそこへ。でも、その終わりのころは、山口に短大があった
んですね。それを4年制にするから大学づくりを手伝ってくれと。僕は、まずよい大学を作るの
には人集めが大切だからといって。でも、田舎の小さい大学なのに、随分いい人が来てくれま
した。僕が言うと変ですけれども、田丸先生だからあれだけ集まったんですねと言われ、例え
ば、木下実さんという学士院賞を後でもらった人も来てくれたし、東大からは化学会で賞をもら
った戸嶋直樹さんとか、清水忠二先生とか、東工大から山本経二さんとか、いろいろないい人
が随分来てくれて。ただ、残念ながら、今はもうほとんど定年になって辞めていきますけれど
も。だから今、大分苦しい立場らしいですけれども。
 そのころは、新しい大学とはどういうものであるべきかというので、初め東京理科大の中で、
橘高先生という偉い理事長さんが、「理科大の教育を高度化する委員会」をつくって、その委
員長をさせられたんです。それで私は、まず、アメリカ式に、教育を充実させよう、先生の講義
に学生が意見を出すべきだと、いろいろなそういう話をしたら、皆さん、そのときはもう、「とんで
もない、学生の分際で先生の講義を……」と、そういう雰囲気だったんです。それで、その新し
い考え方を山口で実施したわけです。ですから、そのころの一部の人は知っていますけれど
も、要するに、理科大はこうあるべきだというモデルをそこにつくって、例えば人事をするとき
は、自分たちだけではなくて、その分野の専門家も学外から入れて決めるべきだとか、カリキ
ュラム自体も、例えば数学の先生が書いてくるものをそのまま受け取るのではなくて、やはり
全体的に客観的な意見を学外からも求めて、全体的にきちんとしたカリキュラムをするべきだ
とか、今まで習慣的にやってきた大学のあり方を大きく変えて、山口で始めました。今どうなっ
ているか知りませんけれども。

10:大学入試について
○インタビュアー:少し戻りますが、先生は、山口東京理科大で、モデルケースをつくろうという
か、一つの実験をしようという感じだったと思うんですが、入学試験の制度を変えたらどうかと
いうことを、私、何か先生のお話を聴いたことがあるんですが、それはどんなものだったんでし
ょうか。
○田丸先生:さっき言ったように、これからあるべき大学の姿をつくりたいといって、入学試験
を面接に加えて教科書持参で筆記試験をやったんです。高校以下の教育を改善するには大
学の入試を改善することが大事なんですね。福井謙一先生も何時も言っておられました、「今
の大学の入試はどうでもいいこまかいことまで覚えさせられて、あれは若い人の芽を摘んでい
るんですよ」と。
○インタビュアー:教科書持参ですか。なるほど。
○田丸先生:文部省検定の教科書を持ってきていいよ。すると、教科書を持っているから、「こ
れ覚えているか?」式の暗記問題はできないんですよね。教科書を本当に理解しているか、こ
ういう場合はどうすればいいのか、という考える問題にしたのです。福井先生がそれを聞かれ
て大変に褒めていただきました。その大学の開学式にご挨拶してくださり、その冒頭に入試に
ついてお褒めの言葉を頂きました。
 ですから、例えば、塩と砂糖と白い砂がまざっているものがある。それがどのくらいの割合で
あるかどうやって調べればいいか、そうやって教科書には全然出ていない考え方を聞くわけで
すね。そうすると、実によくわかりますね、この子は考えることができる子か、たとえ結論が間
違っていても、ちゃんと食いついてくる子かどうかというのが、非常によくわかります。
 だから、ああいうのは、入学試験で、例えば大学院の試験でもそうかもしれないんですけれど
も、普通の講義の試験になっていると、要するに入学試験の準備で、日本は高等学校の理科
を見ても、「わかったか、覚えておけ」、そういう一方的な教え込む授業ばかりですよね。またそ
れが入試対策にはいい教え方なんです。それで、大学へ来ても、そういう延長ですから、生徒
から先生に質問がろくにないわけです。アメリカだと、極端な場合は、講義の後、先生の部屋
の前に並んで待っていますよ、ディスカッションするために。日本じゃ、ただ受け取るだけの話
で、それで大学院へ来るわけですね。それでクリエイティブなことをしろと言ったって自立してい
ないからできない。ついイージーな教育になってしまうので、ほんとうの「研究」から大きく外れ
て一生損をします。 
 本当に、さっきの私が経験したような辛い思いを大学院に入って数カ月、「おまえ考えろ」だ
けでもいいです。何をすればいいかね。そうやって、やはり研究というのは考えるものだと。そ
れが知的体力を鍛えるのです。そうして人生全体に、independent thinkerとして、やはり考える
自立した人間をつくらなければいけないんだということで、入試を変えないといけないですね。
○インタビュアー:それは、先生がそう言われても、例えば入学試験の問題をつくるのは、今ま
でいた教官なわけですね。そうするとなかなか。
○田丸先生:それが見えてくる。非常にはっきり分かれるんです。「先生、問題をつくれません」
と。確かに容易ではないんですけれどもね。だけども、本当に考えられる人は研究も立派に出
来ます。或いは研究の優れた人は自分で独自に考えることができますし問題も作れます。きち
んと考えますから。だから、僕は、大学院の試験でも同じように、講義の試験をするようなこと
ではなくて、例えば、高等学校のときに習って覚えている話がありますけれども、例えばアボガ
ドロの法則といったようなものを、気体の体積、圧力が同じで同じ数の分子があるとか、そうい
うものを習いますよね。それから、食塩はイオン結晶だよとか、水素と塩素の反応は連鎖反応
だとか教わりますよね。だから、そういう三つのことをみんなよく知っているんだけれども、で
は、それぞれを実験的に証明する仕方を述べなさいと出題するわけです。そうすると、よくわか
るんですよね。よく知っていることを、どうしてそうなのか実験的に証明しろと言われると、本当
にその人の考える力がわかるんですね。
 そういう意味で、教育自体が、入学試験を含めて自分で考えてやるものだという。ただ、先生
がこう言ったから、はいわかりましたと覚えて、物知りになって出てくる、そうやって育ってくる人
間ではなくて、「先生そう言うけど、これはなぜ?」とか、さっきの小学校2年の孫が聞いたのと
同じことなんです。そうやって、それぞれの事柄が、バックがきちんとあるのを、みんなただ教
科書を覚えさせられてもだめなんですよね。
○インタビュアー:先生、試験のそういう試みをされたときは、全学の受験生に対してそれをさ
れたわけですか、それともある学科だけ。
○田丸先生:いや、全部。全部といっても、学部は1つしかなかった小さい大学ですから。
○インタビュアー:その結果は、先生、どんな感じ、何年間ぐらい続くことが可能でございました
か。
○田丸先生:だから、時々そうやって選んだ生徒はどうなっていますかと言われるんです。あと
よくわからないんですけれども、一つは、初めから受験生の質の問題もありますからわかりま
せんが、日本全体の入学試験自体が問題で。アメリカ辺りでも、有名大学によってはクリエイ
ティビティーとリーダーシップを見て選ぶとか言いますね。そうやって人の上にたつ人を資料や
面接を通してきちんと見るんですね。ケンブリッジでもそうです。教科書を丸暗記しているような
子は採らない。やはり自分で考えられる将来のリーダーを選ぶんですね。
 本当は東大でも、そういう意味で、将来のリーダーを選ぶクリエイテイブな入学試験を、面接
などに時間がかかるかもしれないけれども、2倍ぐらいに絞ってからでもいいですが、そういう
自分で考えられる人間を選び育てるんだという姿勢で、それこそ京大でも、東大でもみんなそう
いうことにいたしますと、高等学校以下でもそれに備えてそういう準備教育をいたしますから、
だんだん自分で考える人間が育ってくるわけですね。そういうのが私の意見です。
○インタビュアー:山口理科大で先生がそういう試みをされたときは、そのころは文部省でしょ
うか、それは別に、「どうぞやってください」という、それに対して何らか規制というか抵抗は別に
なかったわけですね。
○田丸先生:私立ですし、理事長さんが僕の意見を入れてくださったからよかったんです。で
も、教科書持参の試験を一部でいいですからやるのもアイデアだと思うんです。
○インタビュアー:そうですね。
○田丸先生:例えばサッカーの選手だって、練習で余りこまかい受験準備はできなかったけれ
ども、そういう考え方には自信があるよというのは、そっちの方へ行って受けるとかね。しかし
本当に問題づくりが難しいんですよ。だから、要するに先生のクリエイティビティーの問題なん
ですよね。
○インタビュアー:そんな感じはしますね。
○田丸先生:ですから、逆に言うと、先生を選ぶ人事のときも、そういうことができる人間を大
学として大事にする、またそういう人は研究面でも必ず優れています。そういうことをしないと、
ただ知識を教えるだけなら、教科書に書いてあるのを説明するだけで、「わかったか、おい」と
かというだけの話ですから自分で考えるようには育たないですね。
11:父親、田丸節郎について
○インタビュアー:先生、ちょっと話が変わりますが、一番最初のころに出ました先生のお父
様、何といってもハーバーとの関係で、我々、表面だけなんですが非常によく存じ上げている
のですが、そのあたりのことをちょっとお伺いしておければありがたいと思うんですが、お父様
は、やはり東京大学をご卒業されてから向こうに行かれたわけですか。
○田丸先生:そうです。(亡父の兄は田丸卓郎で、東大の物理の教授で寺田寅彦の先生とし
て、またローマ字論者として知られている)
○インタビュアー:第一次世界大戦の前。
○田丸先生:文部省の留学生としてハーバーのところに行ったんですね。それで、カールスル
ーエでアンモニア合成をやって、40人もいたそうですけれども、ハーバーがベルリンの新しい研
究所(現 Fritz-Haber-Institut der Max-Planck-Gesellshaft,Berlin)の所長に選ばれたときに、
その中から父を選んで連れていって研究職員にしたんですね。その研究所が世界一の研究所
で、アインシュタイン(Albert Einstein)などもいたし、日本人も随分そこに留学に行っています。
○インタビュアー:何年間ぐらいドイツというか、いらっしゃったんですか。
○田丸先生:合計8年ぐらいだったと思います。だから、ベルリンにいた日本の大使が父に、
「日本からどんないい職が来ても、私が断ってあげますよ」と言ったそうだけれども、それだけ
日本人として大変に珍しく重要な地位だったらしいのですが、世界大戦が始まると、ドイツは日
本の敵ですからおれなくなって。   
○インタビュアー:第一次世界大戦ですね。
○田丸先生:それでニューヨークに行って、高峰さんなんかと一緒にいて、日本に理研をつくろ
うじゃないかと話し合ったりして。ハーバードにもいましたけれども。
○インタビュアー:それで高峰譲吉先生とか
○田丸先生:はい。理研も最初、化学の研究室は父が責任を持ってつくって、日本に初めて本
式の化学の実験室というのをつくりたいというので、相当無理したらしいです。その頃日本には
なかった本当の化学の研究室のモデルをつくりたいと。それで多分、費用もかかって大分言わ
れたらしいのですが、大震災で他の建物は大分つぶれてしまったのにその建物はガラス1枚
割れなかったというので大変に評価されたらしいんです。
○インタビュアー:震災というと、それは関東大震災ですか。
○田丸先生:そうです。
○インタビュアー:ああ、そうなんですか。
○田丸先生:大正12年のね。僕が生まれる前です。
 父が一番最後に努力したのは、学術振興会をつくることでした。昭和一桁の時は、ご存じの
ように、日本の経済は非常に悪かったので、せっかく理研なんかをつくっても、研究費が削られ
ることはあっても、来にくかったんですね。大学でもほとんど研究費が乏しくて、これではとても
いけないからというので、桜井錠二先生を担いで、父も必死になって学術振興会をつくる運動
をしました。身体が悪かったんですけれども無理をしながら。結局、一番最後は、手回ししたん
でしょうが、昭和天皇が、私の身の回りのことは幾ら節約してもいいから、学術振興のために
お金を出してくれとおっしゃってくださったんですね。それで、昭和7年かにできて、それで、そ
れから急に論文の数が日本で倍くらいに増えて、論文だけじゃなくて、それで人材が育ったん
ですね。その人材が次の代を育てて日本が発展していった、それが父の一番の苦労でした。
 ○インタビュアー:櫻井錠二先生。お名前は。
○田丸先生:先生の残された遺言書に書いてありますけれども、学術振興会なんかでも、本当
に田丸のおかげでできたと。
○インタビュアー:そうですか、立派なことをなさったんですね。
○田丸先生:それが、日本を欧米並みにしようという努力ですね。理研を作り、理研の実験室
をつくること自体も、そういう意味で大分努力したのではないかと思います。
 ハーバーがベルリンに連れていってくれたときも、よく、「田丸は死ぬほど働くから」と言ったそ
うなんですけれども、何か死ぬほど働いたらしいんですね。アンモニアの合成なんかにできる
かどうかというのが。それで、死ぬほど働いてどうにかなった。だから、テイラー先生も、田丸の
息子だからというので、何かにも書いてありましたが、「父親の素質を受け継いでよくやってくれ
た」と。
○インタビュアー:先生もお父さんと同じように、死ぬほどテイラー先生のところで働かれたんで
すね。
○田丸先生:いいえ、僕はそれほど勤勉ではありません、死ぬほどなどしなかったです。
○インタビュアー:いやいや、周りのアメリカ人とかイギリス人は結構、lazy で、だから先生を見
たらもう脅威だったのではないですか。
○田丸先生:そうですね。そういえば、一緒にいたイギリス人が「ケンジは一日16 時間実験す
る」と言ったことはあります。家との通勤が片道車でほんの5分くらいでしたし、実験の合間に食
事に帰って、新しい方法で、新しいexciting な興味あるデータがどんどん出てきて研究がとても
面白かったですから。
○インタビュアー:ブラックボックスを先生がちょっと開けて見られたわけで、そういう感じです
ね。
○田丸先生:そうですね。でも、その結果というか、それからの50年間が、そういう意味で触媒
の分野が本当に進歩したんですね。反応最中の表面を調べ始めましたから。それで、いろい
ろな機器もどんどん進歩しましたから。それで、結論的に、一昨年ノーベル賞をもらっていま
す。そういう基本的な分野が今、日本で案外なほど少ないんですよ。大学院生をこれできちん
と育てないとという心配もありますね。
○インタビュアー:先生のおっしゃることはよくわかります。私は一応これでも京都で福井謙一
先生の門下生の端くれなんですけれども、福井先生も先生と同じようなことをいつも考えておら
れて、「サイエンスそのものを考えるのが大切だ。その根本を考えろ」といつも言われていまし
たね。それはなかなかわからなかったんですけれども、先生のおっしゃるのと、やはりそうなん
ですね。

12::Catalysis Letters に載った写真について 
○田丸先生:先生に一つ見ていただきたいのは、これは、2000年に出たCatalysis Lettersでそ
んなに昔の話ではないんですけれども、触媒の歴史をまとめて、例えばベルツェリウス(Jons 
Jacob Berzelius)が「触媒」という言葉を初めて言い出して、ファラデー(Michael Faraday)が出
てきて、そしてハーバーが出ているんですけれども、その中にこういう、この写真を勝手に使っ
たんですよ。僕の許しを得ないで出していて。
○インタビュアー:どこからこういうのが手に入っていったんですか。先生がどこかに出された
んですか。       
○田丸先生:ここの家の前で撮った写真ですよ。
○インタビュアー:それを誰かから手に入れているわけですか。
○田丸先生:もう一枚、現在の私のと。あなたの写真を2枚入れたよと言ってくれたんですが、
他人の写真を、これは1984年にベルリンで大きな触媒の学会(第8回ICC)があったときに、ハ
ーバーの展示コーナーをつくったんです、ハーバーが初めてアンモニア合成したときの装置な
んかを出して見せて。それで、僕のところに、何かハーバーに関連したものを送ってくれないか
というので、それまでほとんど出さなかったんですけれども、その写真を送ったんですよ。そうし
たら、ケンブリッジの教授のジョン・トーマスさんが、僕に是非このコピーをくれと言って、それで
上げたのをオフィスに飾って、日本人が来ると、この赤ん坊が謙二なんだよと言って。
○インタビュアー:そうですよ、先生、これとこれなんですね。
○田丸先生:この赤ん坊なんですよ。ハーバーに会っている証拠の写真です。
○インタビュアー:だから二つ載っていると、そういう意味ですね。現在のとで二枚。
○田丸先生:そうなんです。そういう、大げさに言えば、化学者になるように運命づけられてい
たということかもしれないんですけれども。
○インタビュアー:すばらしいな。

13:アインシュタインからの手紙について
○田丸先生:それから、私の家宝の一つなんですけれども、これは、この人の手紙ですよ。
○インタビュアー:アインシュタインですね。
○田丸先生:田丸あてですよ。
○インタビュアー:1949年、すごいですね。
○田丸先生:アインシュタインが、そのころは世界が、第二次大戦が終わって、もう日本もめち
ゃくちゃになっちゃったし、ヨーロッパも戦争でめちゃくちゃになって。でも原爆ができて、だか
ら、トルーマンがスターリンに、もう一回、今米ソでやれば必ず勝つというわけですね。
○インタビュアー:アメリカがソ連にですね。
○田丸先生:いわゆる緊張した時代だったんです。私の父はアインシュタインと同じ研究所で
知っていましたから、その息子なんだけれども、世界がこんなんでいいんだろうかという、若気
の過ちで手紙を出したら、きちんと返事が来ましてね。
 しかも、面白いのは、世界が平和になるのは、アンダーラインをして、1つの方法しかないと
いうんです。それはもう世界連邦しかないと。それから今まで60年ですか、随分たっていますけ
れども、今ヨーロッパに行くと、もう本当にそういう感じがしますものね。各国が同じお金を使う
し、パリみたいに、昔は英語なんか全然しゃべらなかった所が、英語もどうにか通じるようにな
るし、いわゆる連邦という感じがしますでしょう。
 それで、僕は、これから50年のうちには東洋もそうなると思うんですけどね。コンピューターの
時代になって、国や宗教、人種の違いを超えてお互いのcommunicationも加速度的に自由に
なって増えてきますし、だんだん世界中そういう連邦になるのではないかと思って。その方向
に。要するにワンウェイしかないと。アインシュタインが自分でサインして田丸あてにくれたとい
うのが。
○インタビュアー:湯川秀樹先生も書いているんですね。オール……(以下、アインシュタイン
からの手紙を読む)……すごいな。
○田丸先生:アインシュタインの言葉が、今の現実を見るとき、あのときにはもう全然考えられ
ない時代でした。フランスとドイツだってお互いに殺し合いをしていた直後でしょう。だけれど
も、それからもう50年、60年たつと、そういう方向にどんどんなっていっているというので……。
○インタビュアー:これは先生、是非この冊子に載せさせてくださいね、この言葉はね。
○田丸先生:はい。
○インタビュアー:これはすごいですね。
○田丸先生:僕は、そういう意味で、このアインシュタインの言葉と今の現実とを対比すると、
本当にそうだなという感じがいたしますね。
○インタビュアー:湯川先生も一生懸命、世界連邦をつくるということを言っておられましたけれ
どもね。
○田丸先生:そうですね。
○インタビュアー:早くからそういうふうにね。
○田丸先生:実際に、田丸謙二あてに書いてくれたというのが、僕としてはありがたい言葉で。
それで、僕はある高等学校で化学の話をさせられて、普通の話をして、そのときにアインシュタ
インのこの話を一寸出したんです。そうしたら、何かすごくみんなショッキングで、それで、質問
が幾つか来て、「どうしたらああいう手紙をもらえるんでしょうか」と。(笑)
○インタビュアー:なるほど、そうですか。やはり純粋な心を持つということでしょうか。
○田丸先生:つまらない話ばかりして申し訳ないんですけど。
○インタビュアー:いやいや貴重な話ですよ。いろいろお話いただいてお疲れでしょうが、いろ
いろ先生からお話を伺って、今、先生はもう満85歳におなりですし、大体、若者に対しての言葉
というものもいただいて、「考えろ」というふうなことなんですが、あとほんの少し、何か先生、も
うちょっとこれだけ言っておきたいということがございましたら、少しだけでも何かありましたら。

14:日米の教育の差について
○田丸先生:繰り返しになりますが、やはり教育界全体が問題で、例えば20年近い前かな、ア
メリカでは、アカデミーを中心にして、これからの子供の教育は、コンピューターの時代になる
し、大幅に変えなければいけないというので、それまでは理科でも、クジラの種類を覚えさせた
り、そういう理科の授業だった。それではいけないというので、そんなのは全部やめて、
science inquiry という、科学の考え方ですね。さっきのように、「なぜこうなのか?」という理科
に変えるんだといって猛烈な努力をしたんです。もう全国で150 回ぐらい講習会を開いて、それ
から、教育関係学会とも協力し、最後は4万冊刷ってみんなに配って意見を求めて広め、理科
を基本的に変えるという時代でした。
 ちょうどそのころですよ、日本の化学教育の関係者が集まって、文部省の教科書検定に、高
等学校から「平衡」という言葉を消したんですよ。「平衡」なんていうのは、ものを考える一番基
本ですよ。例えば蒸気圧一つにしても、平衡で蒸気圧降下はなぜ起こるかとか、それから、沸
点上昇でも、凝固点降下でも、浸透圧でもみんな平衡をもとにして考え方が出てくるわけです
ね。それで日本は、むしろ考えない方向にした時代です。今は直りましたからいいのですけれ
ど。日米の教育関係者の知的レベルの差はこれほど大きいのです。
 大事なことは、そういう日本の教育関係者たちが、本当のことを全くわかっていないということ
ですね。それで、文部省も有名人を集めて平衡をなくしたわけです。そのくらいの知的レベルな
んですね。それで、アメリカの方ではそういう画期的な努力をして、新しいものをつくって、それ
がヨーロッパに広まって、かえってそれが日本に入ってきて、「ゆとり教育」を始めようと言い出
すわけです。
ゆとり教育というのは、覚えることを少なくさせるための教育ではなくて、考える教育を育てると
いうのが基本なんですけれども、日本にそういう基盤がないんですよね。ろくな準備もしてない
で入れるものですから、ますます駄目なのです。本当は知識は基本的なものに限り、互いに 
debate し合いながら、それを基に各人が十二分に自立して「考える教育」に切り替える訓練を
して、新しい時代に向けての「考える教育」をするために非常な努力をしなければいけなかった
のです。「化学と教育」誌57巻3号(2009年)に日本化学会会長の中西宏幸さんがお書きになっ
ています。「イノベーションを推進するためにはこれを担う人材の育成が急務であるが、残念な
がら、わが国の人材育成は多くの問題を抱え危機的な状況にあると言わざるをえない。コミュ
ニケーション能力の不足、専門以外の基礎学力の不足、自分で考える力あるいは意欲の低下
といった問題が感じられるのは私だけではないと思う。」要するに「ゆとり教育」が「教える知識
の減少」のみが実際に実施され、最も肝心な「考える教育」の育成は文科省も教師も全く受け
入れる基盤のない結果として、単に「学力の低下」になってしまった。一番の被害者は生徒た
ちで、一番大事な考える重要性も、考え方も教わらず、肝心なその訓練もなく、単に教わる項
目が減ったと言うことで、「実力が下がった」と言われる結果となってしまった。時代の大きな新
しい流れに乗って世界的に教育改革をする折角のいい機会だったのに自国の「考えない入試
本位の教育の基本的欠点を改めようともせずに、国を損なった文科省を初めとする教育関係
者の罪は大変に重いといわざるを得ないのではないでしょうか。
考える範囲を限るという考え方は、学術の健全な姿ではないんです。「ゆとり教育」の初期の議
論で再三問われたのは「最低限教える必要のある項目を精査する」ことだったはずがどこかで
「必要十分条件」とすりかえられてしまったことが不幸の始まりだったと思います。自分で考え
ようとする姿勢を持っている子供たちには、その知的好奇心に答えるための教育であるべきで
す。先程の私の孫の例でもよい参考になりますが。子供の数が激減している現状では、少人
数学級や副主任などの制度が整備されれば、各人の個性に応じた個別教育に近い対応も可
能なのではないかと、思いますが。
○インタビュアー:「ゆとり教育」も何か妙になってしまったんですね、あれも。
○田丸先生:そうなんですね。やはり学力が低下したとかなんか言うんだけれども、本当の話
は、考える教育が世界中に広まってきて、日本だけがそうやって手遅れになってしまうというこ
とです。
 それが、大事なことは、文部科学省をはじめとして教育関係者がわかっていないということで
すね。それで、小学生にindependent thinkerに教育をするんだと思っている先生なんて、日本
にどれだけいるでしょうか!小学生は何も知らないで入ってくるから教えるんだという、教え込
むことだけでやっていますね。最近少しずつ変わってきているようですが。教え込む方が楽で
すし、入学試験もそれでいくし。だから、何かそういう、さっきのケンブリッジでもそうですけれど
も、将来のリーダーを育てるという教育が、日本には、差別というのはいかんという形ですが、
差別という意味ではなくて、各人の異なった資質を区別しながら才能を伸ばす教育、各人が自
分の個性を育てるように自分で考える、要するに個性を育てる教育に切り替えないと。これは
先生からそうだと思う。やはり生徒は先生の背を見て育ちますから、先生がそうやって自分で
考える教育をすると、生徒も考えなければいけないんだなということがわかってくると思うんで
す。
○インタビュアー:先生まで変えていかなければいかんので、これからも時間がかかりますね。
○田丸先生:それがいい方向に向かっていればまだいいんだけれども、どうも時代はどんどん
加速度的に変化していきますよね。日本では、それについていけるかどうか。
○インタビュアー:いえいえそんなことは。そうならないようにね。
○田丸先生:政治家でも何でもそうですけれども、立花隆が『天皇と東大』という本を書きまし
たが、あれにも書いてあるんですけれども、東大生は習ったことをそのまま理解してはき出す、
そういう能力は非常に高い者が多いけれども、要するに自分で考えるクリエイティブな人は必
ずしも多くない。クリエイティビティーで試験をしていませんから。それで、それが大学を出て、
公務員試験などを経て、必ずしもクリエイテイブでないリーダーになるわけですね。それが日本
の国策を決めていくわけです。ですから、やはり基本は考えることが大事だ、と。それで、そう
いう人材のつくり方をきちんとしていかないといけないのではないかと思うんですけどね。国の
将来は教育が決めるんです。
○インタビュアー:それについて、京都でも考えるんですけれど、私を見てもわかりますように、
大したものがなかなか出ていないというのもあるんですね。
○田丸先生:本当は先生がきちんとすべきなんですよね。先生の再教育のための講習会を開
いても、来る先生はまあいいんだけれども、むしろ来ない先生の方が問題でね。やはり先生の
再教育ということは、本当に大事なことだと思いますね。
○インタビュアー:先生ありがとうございます。

15::テニスと天皇・皇后両陛下について
 最後に、全然関係ないですが、先生はお忘れでしょうが、私は昔、先生とテニスをさせていた
だいたこと、覚えているんですけれども、先生はそのとき、鎌倉のこのあたりのローンテニスク
ラブか何かの会長か何かをしているとおっしゃっていた。もうこのごろは、テニスなんかは全然
していらっしゃらない。
○田丸先生:もう今はひざが痛くてできないんですけれどね。会長も、それこそ早稲田のテニス
部の元キャプテンだったなんていううまい人がたくさんいるクラブで、当時六百人以上のクラブ
なんです。ただ、そのテニスコートをつくった隣に頼朝がつくったというお寺があって、それを鎌
倉市はもとのお寺に復興させようと。そうすると、そのテニスコートがそのお寺の庭になってつ
ぶれる恐れがあるんですよね。鎌倉市は世界史跡都市とかになりたいというので一生懸命で、
そうしたいと言っていて、2年のうちにそういうふうにするという時代があったんです。
 ちょうど景気の悪くなるちょっと前でしたか。それで、その費用の8割を出す文化庁に一寸で
も顔のきく人がいないか、と。僕は全然だめよと繰り返し言ったんだけれども、会長にさせられ
ちゃって。そうしたら、ちょうど私が東大の総長特別補佐(副学長)をやらせてもらったときに、
文部省から東大の法学部を出た女の人が学務課長に来ていたんです。それが文化庁へ戻っ
て、文化庁でその問題を取り扱う隣の課長になっていた。それでもうその人を頼みにするしか
ないというので行ったら、とてもよくしてくれて、その係の人たちを集めて僕の説明を聞いてくれ
たり、それで予算のときでも考慮に入れてくれ、それで一番の危ないときを乗り越えまして、と
てもありがたかったんです。
 天皇陛下が葉山にいらっしゃるときに、御用邸がありますでしょう、天皇。皇后両陛下がテニ
スをしに時々いらっしゃるんですよ。それでそのときに僕は、侍従なんかに言ったら絶対にだめ
なんですけれども、天皇陛下に、「ここのクラブの特別名誉会員になっていただけますか」と直
接お願いしたんです。そうしたら、まんざらでもないお言葉があったんですよ。それで、「天皇陛
下がいいっておっしゃったよ」とみんなに言いふらして。そうしたら、本当にそういう手続を一応
して、そうなったんです。
 天皇。皇后両陛下とも素晴らしいお二人です。形式抜きにおもてなしして、気楽にお話し下さ
るようにするんですけれど、本当に素晴らしいご夫婦ですね。ご結婚50周年で新聞にも出てい
ましたが、テニスコートにいらっしゃると、テニスだけでなく、お気楽にお話になる雰囲気がお好
きなんですよね。特別名誉会員になっていただいた次のときにいらしたときに、お帰りになると
きに、「おたくのクラブの特別名誉会員にしていただいてありがとうございました」とお礼をおっ
しゃるじゃないですか。普通、お礼を言われると、「どういたしまして」と言うんですけれど、こう
いうとき何て言っていいかわからないで、もうまごまごしてしまったんですけれども。
○インタビュアー:先ほど、先生の写真がね、天皇・皇后両陛下とご一緒に写った写真を拝見
しましたから、ふと、ああ、そうだ、先生テニスをされていたなと思い出したので。
○田丸先生:でも、気楽にお話をすると、とても素晴らしい方々ですよ。皇后陛下もお利口さん
だし、お心遣いもなさり、本当によくできた素晴らしいお二人です。
○インタビュアー:私は、化学会としては6年前に125周年のときに陛下に来ていただいて。
○田丸先生:そうなんですよね。その前に前立腺の手術をなさったでしょう。そのときに僕はお
見舞い状を出そうやと言ってお見舞い状を出したんです。またお元気になられてテニスをしに
いらっしゃいということで。そうしたら翌日、侍従から直接電話が来てね、陛下がとてもお喜び
になりました、と。その時は本当にごらんになったのかなと半信半疑に思って。だって、沢山の
人が祈念しに行ったときでしょう。そうしたら、その後退院されて初めての公務として化学会に
いらしたでしょう。
○インタビュアー:そうです。来ていただいたんですよ。
○田丸先生:それで、立派なお言葉を賜り、その後でレセプションがあったときに、陛下が僕の
顔を見て、いらして、「その節はお見舞いありがとうございました」ってお礼を言われたんです
よ。天皇陛下がそこまで細かいことにまで気を遣われるとは夢にも思わなかったんですけれど
も、僕の顔を見て、お礼をおっしゃいました。
○インタビュアー:先生、本当にいいお話を聞かせていただきました。
○田丸先生:いやいやとんでもないです。つまらない話ばかりで。

16:「サロン・ド・田丸」について
○インタビュアー:今日は、先生のお弟子さんの先生方が沢山お宅に来ていらして。
○田丸先生:そうですね。昨年11月に田丸研究室の出身者の集まりを東京でしたんですけれ
ど、皆が来ますと限られた時間内ではお互いにゆっくりと話し合えなかったんですね。そうした
ら、もっと先生と親しくしゃべりたいというので、有志が「サロン・ド・タマル」というのをつくって、
早速12月にやろうというので、もう勝手に企画して、鎌倉駅に早めに集まって食べるもの飲む
ものなど全部買い集めて、しかも集まる人数はなるべく10人以下にしたいというのですが、実
際にやって、見ると数名の幹事役を除いても優にその二倍にもなったりして、私の家で僕を囲
んでしゃべるというんです。僕は、その会の幹事役に任せてあるんですけれど、僕の会費分は
僕に払わせてもらって、ただ皆さんが楽しくしゃべっているのを聴いて楽しむだけが主な役なん
ですけれど、今日は午後その日に当たっているのです。場合によってはわざわざ大阪からそ
の為に来る人もいます。
 研究室として、以前はしょっちゅうここの庭でバーベキューなど集まりをしまして、みんな仲が
いいものだから、一緒に来た外邦人なんかも驚くんですね。アメリカなんかでは考えられない、
と。だから、いつまでも家族的に皆さん仲よくやってくれるという、それは、とても素晴らしいこと
ですね。日本的なところでもありますけれども。
○インタビュアー:それは、日本的であると同時に、やはり先生のご人徳であり、一つの教育
を、その場でやはり教育になっているんでしょうね。
○田丸先生:そうですね。出世した弟子たちに今更わたくしからの教育でもないのですが、意
見があれば伝えますが、逆に現役の連中から近頃の様子を教えてもらったり、(折に触れて彼
らの研究室のゼミに出させてもらっていますが)前回は化学会学会賞が今度3月末かな、川合
真紀さんがもらいますから、それをこのサロンで皆でお祝いし、それから、今日の午後には、
触媒学会賞を今度もらう内藤周弌君夫妻が来ます。お祝いも忙しいですが、皆さん、弟子の
方々がだんだん偉くなって、紫綬褒章も、今までもらった人は研究室出身者の中から4人です
けれども、将来多分もっと増えるのではないでしょうか。
○インタビュアー:先生、それをいつまでも見届けるように頑張ってください。是非長生きしてい
ただいて。
○田丸先生:それが私の毎日の楽しみの一つなんです。卒業生の皆さんがメールや電話でよ
くお見舞いなどしてくれ有難いことです。一人住まいで不便の面もありますけれど、けれど毎日
がお蔭様で、ありがたく、楽しく、感謝しています。
○インタビュアー:それは、これから元気でいらっしゃる大きなドライビングフォースですね。 今
日は先生、本当にありがとうございました。


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(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
田丸謙二 田丸先生 Kenzi Tamaru Kenji Tamaru)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●神になったテレビタレントたち

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どこへ行っても、取り巻きのファンたちが歓声をあげる。
特別扱いを受ける。
もちろんお金にも困らない。
ワン・ステージ、100万円〜200万円。
あるいはそれ以上。
1、2度、コマーシャルに出るだけで、ふつうの人の年俸ほどの
収入を稼ぐ。

そんな生活をつづけていると、自分が神様か何かに選ばれた人間と
思うようになるらしい。
さらに自分が神様か何かと錯覚する人も出てくる。
自己中心性が肥大化すると、自分の姿が見えなくなる。
自分が人間であることを忘れてしまう。
その結果として、自分を神様と思うようになる。

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で、先ごろ、若い人たちの間で絶大な人気を誇る、Kなぎ(34)が、
どこかの公園で素っ裸になり、公然わいせつ罪で逮捕された。
それについて、同じくSMAP仲間の、NMというタレントが
こう述べている。

『これは僕たち、Kなぎ本人が、越えることのできる、越えなければならない、越えるべ
きであろう試練を、神様が与えてくれたんだな、と前向きにとらえています』(サンケイス
ポーツ・5月14日)と。

こういうところで、「神様」という言葉が出てきたのには、驚いた。
こういう言葉は、自分自身がその神様か、あるいは仲間が神様か何かと思って
いなければ出てこない言葉である。
「素っ裸になって逮捕されたことを、神様が与えてくれた試練」とは?

だからといって、Kなぎというタレントがどうのこうのと言っているのではない。
一般論として、人は、自分が有名になればなるほど、また権力者になればなるほど、
自分を「神様」と錯覚するようになる。
隣のK国の独裁者を例にあげるまでもない。
どこかの宗教団体の長は、自分のことを「釈迦の生まれ変わり」と説いている。
それもそのひとつ。

こうした感覚は、私たち庶民のそれから、かなりかけ離れているため、私たちには
理解できない。
が、無罪とは言えない。
中にはファンとして取り巻いている若い人たち自身が、「神様」と認めてしまう人も
いる。
ごくふつうの、力もなく、お金もなく、名もない若い人たちが、である。

が、人間に神様も、仏様もない。
仮にいるとしても、まったくそれらしくない人の姿をしているはず。
私やあなたのそばにいて、目立たす、ひっそりと暮らしている。

人間をはるかに超越した神様や仏様が、人間社会に君臨して、「私は神様だ」とか、
「私は釈迦の生まれ変わりだ」とかなど、言うだろうか。
言っても意味はない。
それがわからなければ、一度、どこかのモンキーセンターで、サルたちと一緒に
暮してみることだ。
あなたはそういった世界では、神様以上の神様になる。
が、あんな世界で、サルたちを相手に、「私は神様だ」と言ったところで、意味はない。
意味はないことは、あなたにだってわかるはず。

それにしても、「神様」とは?
そこらのテレビタレントですらも、「神様」という言葉を使うようになった?
それはともかくとして、こういうことは言える。
「神の与える試練」というのは、その先で、「愛」や「慈悲」とつながるもの。
試練を乗り越えて、人は、深い愛や慈悲にたどりつく。
「金儲け」や「名声」につながるとしたら、それは試練でも何でもない。
ただの(お騒がせ)。

なお、今回の事件で、Kなぎというタレントは家宅捜査まで受けている。
これについては国会でも問題となった。
しかしあえて捜査令状を請求した警察側を弁護するなら、こういうことは言える。
つまり家宅捜査をしたということは、その背景に、何かあったとみるべき。
裁判所だって、むやみやたらに、令状など発行しない。

なぜ家宅捜査したか……ということについては、それをするだけの何らかの理由が
あったとみるべきではないのか。
それが何であったかは、私には知る由もない。
わからない。
また警察側もそれを開示することはないだろう。
その義務もない。
また開示すれば、かえってやっかいなことになる。

つまり、「有名なタレントだから、家宅捜査した」と考えるのは、思いすごしと考えてよい。
ファンの人たちには神様のような人間かもしれないが、私たちのように一歩退いた
世界にいる者にとっては、ただのタレント(失礼!)。
有名なタレントだからという理由だけで、特別扱いすることは、私たちの常識から考えて、
ありえない。

それにしても「神様が与えた」?
神様もそんなヒマではないと、私は思う。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●田丸謙二先生

++++++++++++++++++++++++

今度、恩師の田丸謙二先生が、化学会の化学遺産委員会の
ほうで、インタビューを受けました。
田丸謙二先生の生涯の履歴書のようなものです。
先生から原稿を送ってもらいましたので、そのまま紹介
させてもらいます。

+++++++++++++++++++++++

林様:

  例の「名士インタビュー」の最終原稿です。 どうせ文部科学省の連中は読んでくれない
と思いますので、「要約」をつけました。 私は大変に大事な教育改革だと思いますが、最近の
様子を知らせてください。 日本人は自分の意見を自立して考えて外国人と討論でき、debate 
ができるようになれるにはどうしたらいいのでしょうか。特に外務省の役人の人たちなど、矢張
り小学校の頃から訓練しないといけないのではないでしょうか。
  率直なご意見お待ちしています。
                                               
  田丸謙二

  この原稿に写真がつきます。どんなのがつくか分かりませんが。
(2009年5月16日)

*****************************

【田丸謙二先生へ】

おはようございます!
ひざの関節のぐあいは、いかがですか?
たった今、送っていただいた原稿を、再度、読ませていただきました。
(先日、プロトタイプの原稿を送っていただきましたので、今回が、2回目という
ことになります。)

Independent Thinkerについてですが、まず第一に、日本の社会のしくみそのものが、
独立してdebateできるようなしくみになっていないということです。
「もの言わぬ従順な民づくり」が、今でも、教育の基本です。
それではいけないと考えている教師も多いようですが、結局は押さえこまれてしまって
います。
あるいは限られたワクの中に、安住してしまっている(?)。
ワーワーと自己主張するような子どもは、集団教育の場では、やりにくいというわけ
です。

これについては、江戸時代の寺子屋教育、さらには明治に入ってからの国策教育が
原点になっていますから、改めるのは容易なことではないでしょうね。
「もの言わぬ従順な民」に教育させられながら、またそういう教育を繰り返しながら、
当の本人たちが、それに気づいていないのですから。

第二に、私自身が、そういう世界に生きてみて実感しているのですが、この日本では、
(力のある子ども)(力のある人)を、どんどんと登用していくというシステム、
そのものが、できていません。
先生がいつもおっしゃっているように、トコロテンのように(流れ)に乗った人は、
それなりのコースを歩くことができますが、そうでない人は、そうでない。

たとえば私の息子たちですが、二男は、現在、インディアナ大学(IU)で、スーパー
コンピュータの技師として働いています。
キャンパスを車で行くだけで、2時間もかかるという広大な大学です。
(多分、先生もご存知かと思いますが……。)

二男はそれを操って、世界中のスパコンをリンクさせるというような仕事をしています。
で、今は、EUが開発した量子加速器(映画『天国と地獄』にも一部、出てきましたが)、
そこから衛星を使って送られてくるデータの分析をしているそうです。

浜松のランクの低い高校を出て、アメリカへ渡り、ワチェタ大学→ヘンダーソン州立大学、
コンピュータ・ソフトウェア会社を経て、IUに移りました。
私はこういうことが自由にできるアメリカのものすごさに、驚いています。

一方、二男の嫁は、ヘンダーソン大学のアメリカ文学部を、主席で卒業したこともあり、
2年前、日本でいう司法試験に合格。
全額奨学金を得て、同じIUに通っています。
2児の母親が受験勉強をして、です。
これもまた日本では考えられないしくみです。

で、三男はどうかというと、横浜国大をセンター試験2位の成績で入学しながら、中退。
オーストラリアのフリンダース大学の語学校を卒業、(つまり卒業ということは、大学の
専門学部への入学資格を取得したという意味です。たいはんの留学生は、入学資格を
取得できないまま、帰国しています。)
そのあと航空大学に入学、現在は、J社で、B-777の最終操縦訓練を受けています。

で、この三男でおもしろいのは、学生時代に、世界的規模のアマチュアビデオコンテスト
(英語名:Fish-eye)で、グランプリ(第一位)を獲得したという点です。
表彰式はロシアのモスクワでありました。

しかし、です。
ここからが日本です。
三男は自分で制作したビデオ類を、昨年、すべてYOUTUBEから取り下げて
しまいました。
詳しくは書けませんが、そういった圧力を、どこかで感じたのでしょう。
つまりこの日本では、(力のある人)が伸びることもできず、「型」にはめられ、
押し殺されてしまうのです。
で、今は、ビデオ制作から、完全に遠ざかってしまっています。

こうした(しくみ)は、私も自分の人生を通して、いやというほど、思い知らされて
います。
なんせ、そこらの出版社の編集部員ですら、そういう(しくみ)に迎合しているのです
からおかしいですね。
(東京の出版社からときどき、客がきますが、みな、手ぶら。
駅からの送り迎えにあわせて、食事の接待などを、平気で私たちにさせたりします。
「ああ、この男は、私をそういうふうに見ているのだな」ということが、それでよく
わかります。)

こういった(しくみ)を変えていくのは、たいへんなことです。
それこそ教育のしくみ、そのものを、根底から変えていかねばなりません。
端的に言えば、現在のように、学校しか道がなく、学校を離れて道がないという(しくみ)
を変えていかねばなりません。

ご存知のように、大学では、EUのように単位の共通化をするという方法もありますが、
たとえば小中学校レベルでは、ドイツやフランス、イタリアのように、「クラブ制」を
もっと導入していきます。
日本でも、あちこちで始まりつつありますが、官製クラブでは、意味がありません。
学校教育そのものが、現在、教育機関として満足に機能できない状態にあります。
教師たちが忙しすぎるというのも、深刻な問題です。
どうしてその上、「クラブ」?、ということになります。
民間に委譲できる部分は、思いきって移譲すればよいのです。

そのEUでは、クラブ制を活用し、その費用は国が負担しています。
(額は、国によってちがいますが、同じくクラブの費用も国によってちがいます。)
もっとも現在のままクラブ制を日本で導入したら、進学に有利なクラブのみが繁盛する
という結果になってしまうと思いますが……。

つまりこの日本では、debateできる国民は求められていないということです。
自分の意見を、自分の名前で発表していく……。
何でもないことのようですが、それができません。
この私についても、「あの林は、共産党員だ」と書いているBLOGもあります。
政治を批判したら、共産党員というわけです。
(最近では、「北朝鮮のミサイル迎撃反対」という意見を書いたら、即刻、「売国奴
BLOG」なるもののリストに、私の名前が載ってしまいました。)

まるで日本全体が、歌舞伎か相撲、茶道、華道、さらには、能の世界みたいです。
が、もちろんこれではdebateなど、求むべくもありません。
Debateしたくても、相手が逃げてしまいます。
毛嫌いされてしまいます。

……とまあ、愚痴ぽくなってしまいました。
で、自分の人生を振り返ってみて、こうも思います。
「私はたしかに自由を求めて生きてきたが、本当にこれでよかったのか?」とです。
あのままどこかの大学に入り、研究者としての道を歩んだほうがよかったかもしれない、
とです。
ワイフもときどき、そう言います。
そのほうがこの日本では、生きやすかったのかもしれません。

しかし悪いことばかりではありません。
この40年間だけをみても、日本は大きく変わりました。
今の今も、変わりつつあります。
不十分かもしれませんが、やっと日本も、民主主義に向けて産声をあげつつあるという
ところではないでしょうか。
(その一方で、復古主義的な動きもありますが……。)

その私も満61歳。
先生が東京理大へ移られた年齢です。
で、もう遠慮はしない。
言いたいことを言い、書きたいことを書く。
そういう姿勢に変わってきました。
「自由」を満喫できるのは、これからだと思っています。

最後になりますが、先生にはいつも、本当に励まされます。
私の知人の中には、(そのほとんどがそうですが……)、定年退職と同時に、
ジジ臭くなってしまい、隠居だの、旅行だの、畑作だの、そんなことばかりして
いる人がいます。
そういう人たちを見るにつけ、「どうしてこの人たちは、もっと天下国家を論じ
ないのだろう」と不思議でなりません。
残り少ない人生を、若い人たちに還元していく。
それこそが私たちの世代の者の使命だと私は思うのですが……。

言いかえると、長い人生の中で、日本という組織の中で、そのように(飼い殺されて
しまった)ということにもなりますね。
「牙を抜かれてしまった」と言い換えてもよいかもしれません。
そしてなお悪いことに、今度はそういう人たちが、保守主義、あるいは保身主義に
陥ってしまっている!
過去を踏襲しながら、踏襲しているという意識そのものがない。

もっともそれをしないと、自己否定の世界に陥ってしまいますから……。
だから私のような人間は、嫌われるのです。
私のような人間に、成功(?)してもらっては、困るのです。
そういう一般のサラリーマンたちがもっている潜在的な意識は、あちこちで、
よく感じます。

またまた愚痴ぽくなってきました。
実のところ、この2週間ほど、スランプ状態で、脳みそが思考停止状態にありました。
思考停止というより、「もうどうでもよくなってしまった」という感じでした。
「どうしてこの私が、日本や、人間や、地球の心配をしなければならないのだ」と、です。
「どうせ私は、だれにも相手にされていないではないか」と、です。

しかしまたまた先生からのメールをもらって、元気100倍!
一気に、ここまで(計6ページ)も書いてしまいました。
今朝は指の動きも軽快です。
久しぶりです。
ありがとうございました。

なおいただいたインタビュー記事ですが、先生のおもしろさが、まったくなく、
私はつまらないと思います。
先生がいつか話してくださった、紅衛兵時代の中国や、東大紛争時代の理学部の話
のほうが、ずっとおもしろいです。
プリンストン大学のアインシュタイン博士の話でもよいです。
先生の父親が、理学研究所でシャワールームを作った話でもおもしろいです。
あるいは東京理大の入試問題の話とか、不合格になった学生の親から抗議を受けた
話とか……など。

私が先生なら、そういう話をまとめて自伝にします。
あらいざらい、この際、世界を蹴とばすようなつもりで書きます。
(私も、現在、そういう心境になりつつあります。)
つまりこの記事は、たしかに「遺産」ですが、(まだ生きている人に向って、
「遺産編集」というのも失敬な話だと思いますが……)、先生はまだ遺産ではない。
「現役」です。
その現役であることに感動しています。

実のところ、先生が数年前、アメリカの化学の教科書を翻訳出版したと聞いたとき、
あるいは50歳を超えて、中国語を勉強し始め、中国科学院で中国語で講演をした
と聞いたとき、そのつど、私は心底、励まされました。
「人間は、やる気になれば、できるのだ」と、です。

先生と私とでは、月とスッポンですが、いつも月をながめてがんばっています。
(実のところ、今のこの日本で認められるということは、あきらめています。
だいたい、この日本を相手にしていないのですから……。)

どうかお体を大切に!
関節の具合はいかがですか?
血栓も無事防げたということは、メールを読んでわかりました。
よかったですね。

では……。

先生からいただいたインタビュー記事は、そのままBLOGなどに収録しますが、
よろしいですか。
不都合な点があれば、知らせてください。

なおたびたびですみませんが、先生から預かっている原稿が、山のようになっています。
こうした原稿も、随時、私のHPやBLOGなどで掲載してもよろしいでしょうか。
(現在、掲載しているのは、許可をいただいた分のみです。)

また気分のよいとき、返事をください。
待っています。

林 浩司


***********以下、田丸謙二先生より***************


1:はじめに
○インタビュアー:田丸先生、今日は土曜日で、先生おくつろぎのところ、わざわざ私ど
も化学遺産委員会のためにお時間を割いていただきまして誠にありがとうございます。
 私ども化学遺産委員会、日本化学会、もちろん先生は会長を以前にしていただいており
ましてよくご存じのところでございますが、化学遺産委員会というものを昨年3月に立ち
上げまして、その以前には化学アーカイブズという形で3年ぐらい事業を続けたんですが、
化学遺産委員会というわかりやすい名前に変えまして、そこでいろいろな事業を行ってい
るわけですが、その中の一つに、化学における立派なご業績を残された先生方、あるいは
企業で立派な仕事をなさった方々、そういった方々の人となりを声と映像で残そうという
事業を一つ行っております。

○田丸先生:先生は最初からご関係なんですか。

○インタビュアー:はい、一応やらされて。私、一応、今、化学遺産委員会委員長を引き
受けております植村でございます。
 それで、今日は、先生がご幼少のころからずっと今まで、どういうふうにして化学の道
に入ってこられて、どのような人生を歩んでこられたのか、それを先生にご自由にお話し
していただけたらと思っております。

2:生まれ育ちについて
 まず、どういうところからでも結構なんですが、一応、先生の簡単な生い立ちというも
の、先生は、まさにここ鎌倉でお生まれになったんですか。

○田丸先生:この家で生まれました。

○インタビュアー:そうでございますか。それでずっとここで育たれて、大学は東京大学。
そのときは先生、まだ東京帝国大学ですね。

○田丸先生:はい。

○インタビュアー:帝国大学の理学部化学科に行かれたとお聴きしておりますが、そのあ
たりまでのところで、何か先生、ちょっとお話していただけますとありがたいんですが。

○田丸先生:その辺りのことは私のホームページ(http://www6.ocn.ne.jp/~kenzitmr)に
も書いてあるんですけれども。小学校のときは、ここの鎌倉師範の附属に行っていて、そ
こを出て神奈川県立湘南中学校という、今の湘南高校ですけれども、旧制の中学に入って、
それで、そこでは化学が一番嫌いだったんですよ。成績も他の科目に比べて悪かったんで
す。
 私の成績のことをふだん言う人ではなかった父だったんですけれども、父が、やっぱり
自分が化学をやっていたせいか、「化学の何がわかんないの?」と聞かれて、返事に困った
ことがあるんです。要するに分からないというよりも、全くの暗記物だったんです、その
ころですね。だから毎週、もう「これ暗記したか」、「これ暗記したか」とばかり教えられ
て、要するにつまらなかったわけですね。ただ、父が言った一言を覚えているのは、「大学
に行くと、化学は今のと随分違うんだよ」というのは、ちょっと頭の隅に残ってはあった
んですね。
 とにかく大嫌いな化学だったのが、旧制高校に入りまして化学を学ぶと、もう全然違う
んですね。それこそ、なるほど、なるほどという話になって、今までのただ暗記すればい
い化学とは全然違って、「これはなかなか面白いな」と考えが変わったのです。
 ちょうど大学の入学試験に、僕の年まで分析実験の試験があったんです。未知試料をも
らって、これは何かという答えを2時間で分析して、そのレポートを書く。その練習まで
特別にさせてもらって、それで、なかなか面白いなと思って。今まで嫌いだったのが、そ
の時点で切り替わりました。やはり、なるほどというか、化学って考えてやるもんだなと
いう因子がそこで入ってきたわけです。
 そのころは、戦争中でしたから、勤労動員に行ったりしてなかなか勉強しにくかったん
ですけれども、私が大学を卒業したのが昭和21年で、終戦の翌年ですね。その頃は東京の
相当部分が焼け野原でしたし、財閥は賠償に取られるんだとかいろいろの噂があり、もう
いい就職口なんか全然なかったんです。ただ、戦争中に特別研究生と言って、助手並みの
給料をもらいながら研究をする、そういう理系の学生を育てるというシステムが終戦後も
残っていたんですね。

○インタビュアー:聞いたことがございますね。大学院入学から学位をもらうまで

○田丸先生:それで、そのいわゆる特研生にしていただけたものですから大学に残れて、
おかげさまで人生がそこである程度決まったわけです。

○インタビュアー:今、先生が言われましたが、お父様が化学をやっておられて、高名な、
後でまたお話ししていただくと思うんですが、非常に高名な、私が聴いたところによると、
日本化学会の会長先生がこの家から2人出ているというような、お父さんと息子さんでと
いう、そういうことをちょっと耳に挟んだことがありますけれども。

○田丸先生:そうですね。偉はそうえらそうなことを言うのではなくて、医者の子どもが
医者になりたがるのと似たような、余り深い哲学もなくて継いだという面もなくはないと
思うんです。

○インタビュアー:物すごくいい親孝行を先生はされたんですね。

3:大学院時代と就職
○田丸先生:いやいや。
 それで、私が後で考えて、一番大事だったと思うのは、大学院に行きまして、鮫島実三
郎先生のところに研究テーマをもらいに行ったわけです。何をしたらいいでしょうかと。
そうしたら鮫島先生が一言、「触媒をおやりになったらどうですか」と言われたんです。そ
のころ、もっとずうずうしければ、触媒をどういうふうにすればいいんですかと質問して
もよかったかもしれないんですけれども、そのころは、先生は偉い人で、そういう一言を
いただいて、「はい」と言って引き下がってきたんです。
 ところが、鮫島研究室の中には、例えば助教授の赤松秀雄先生は炭素の電気伝導度、あ
れは後で学士院賞になった有機半導体の研究、それから後にお茶大に移られた立花太郎先
生が煙霧質といって煙のことをやっていらしたし、それから、中川鶴太郎さんという後に
北大に行かれた人は液体の粘弾性というのをやっていたり、みんな違うことを勝手にやっ
ているんですよね。だから、誰に聴こうが、教わる先輩が全然いないんです。「触媒をおや
りになったら」と言われてもね。今、何が面白いんでしょうとか、普通は同じ研究室にみ
んな先輩がいて相談に乗ってくれるんですけれども研究室の中には誰もいない。しかも、
化学教室自体が、水島三一郎先生みたいに分子構造論とか、島村修先生の有機化学なんか
があるんですが、触媒をやっている人なんか一人もいないんです。
 しかも、もっと悪いのは、終戦直後ですから外国の文献が全然入ってこなかった。そう
すると、戦前の随分古い文献までしか文献がないんですね。それで、触媒をおやりになっ
たらと言われても、それからの4〜5カ月というのは、もう本当に苦しかったんです。何
をしていいのか自分で決めなければいけないわけですね。それで、古い本を見ていても、
分かったことは書いてあるんですけれど、研究というのはどういうものかというのは、大
学院の入りたてですから全然そういう下地がなくて、苦しい4〜5カ月に一生懸命考えて、
何をしたらいいだろうと迷いに迷って。1人で考えるものですから全然自信がないんです。
 でも、その迷いが後々まで、自分のやっていることが何か間違っていないだろうか、あ
るいはもっと発展するいい考えがないだろうか。それで、どういうふうに考えたらいいん
だろうかと、いつも研究しながら、自分で自分に問いかけながら研究をするという、そう
いう研究の基本を問わず語りに教わったわけですね。僕は、非常にいい経験だったなと後
になって思います。
 それで、さんざん迷った挙句実際に決めたのは、パラジウムを触媒とするアセチレンの
水素添加反応で、アセチレンからエチレンになって、更にエタンへ行きますよね。そのと
きに、あのころはもう研究費もないものですから、ただの真空ポンプで、反応容器を真空
にしてアセチレンと2倍の水素を入れてやったんですけれども。そうすると、全圧を計っ
ていると、だんだん時間と共に圧力が減るわけですね、水素化されますから。そうすると、
あるところで、何もしないのに急に反応が早く進むんですよ。「これは何だろう?」とよく
調べてみたら、アセチレンのある間はエチレンからエタンに行く反応が起こらないんです。
アセチレンが全部エチレンになったら、今度はエチレンの水素添加が早く進み始まるんで
すね。そういう二つの反応が一つの実験の中に別々にぽんと入っているんですね。
 これは、後で分かったのは、そのころ世界でも誰も知らなかったことだったんです。た
またまそういうものにぶつかったものでした。そうしたら、パラジウム触媒の分散度を変
えたら二つの水素化反応が如何に変わるか、触媒の担体を変えたらどうなるだろうか、そ
れから、触媒を部分的に被毒をさせたらどちらがどうなるだろうかと、いろんな実験がど
んどん後に続くわけですね。
 それで、その結果が数年後にアメリカで「Catalysis」というEmmett(BET吸着式の提唱
者の一人)がつくった本があって、その中に3ページほど引用されていて、結構新しい面白
いことだったわけで、それは全く運がよかったわけですよね。

○インタビュアー:先生、そのお仕事は、やはり邦文の論文として。

○田丸先生:欧文誌に出しました。

○インタビュアー:日本化学会の欧文誌に。

○田丸先生:そうです。

○インタビュアー:それは、きちんとエメットなんかが見て、それを。

○田丸先生:そうですね。多分Chemical Abstractsあたりを通したんではないでしょうか。
それでその結果学位をもらえたんです。幾つも印刷発表をしたものですから。そのころは
まだ、本当の大学院が発足していませんでしたけれども、いわゆる論文ドクターで、普通、
論文ドクターは、大学を出て7〜8年してもらうものだったんですね。

○インタビュアー:そうですね、普通は時間がかかりますね。

○田丸先生:「鮫島先生が卒業年度を間違えたんじゃないの?」と言われたくらい、4年で
もらえたんですよ。それで、ひき続き就職の話になるんですけれど、一年先輩の学年の人
や兵役解除された人達が一杯いてトテモ空いた地位がない。そのころはGHQがみんなコ
ントロールしていましたから、アメリカと同じに、日本では各県に1つずつ大学をつくる
んだよということになったのです。それまで、大学というのは数少なかったわけですね。
いわゆる旧制大学だけでしたから。それからアメリカ式の教育システムになるという話に
なっていました。丁度その頃横浜国立大学から人を求めてきたからどうですかと言われた
んです。しかしそのころは横浜国大と言っても、いわゆる横浜高等工業ですよね。研究な
んか、全然そんな雰囲気のところではなかったわけです。日本のいわゆる新制大学が全部
がそうでしたけれども。その上、横浜には夜学もあって、何か雑用ばかりさせられて、こ
んなことしてたんじゃとてもいけないなという感じで、それで、アメリカのPrinceton大
学に Sir Hugh Taylorという触媒では世界のリーダー的大物で、その弟子たちが各国にい
る、触媒の分野では本当の泰斗というか、開拓者の一人がおられて。

4:アメリカ留学時代
○インタビュアー:Sir Taylor。

○田丸先生:はい、Sir Hugh Taylor。それで、その方に学位論文と自分のことを書いて、
留学できませんかと手紙を直接出したんですね。そうしたら、たまたまテイラー先生がお
若いときにハーバー(Fritz Haber)の研究室を見に行ったら、私の父とお会いになったのを
覚えていらしたんです。それで、ハーバーがアンモニア合成に成功したのは、その下にLe 
Rossignolとか、田丸とか、すぐれた人がいたからだよとおっしゃるんです。
つまり、あのころ人類は、人口は増えるけれども、窒素肥料はチリ硝石に主に頼ってい
たんですが、もうそのチリ硝石も枯渇するのが目に見えている、人類の将来は飢餓が訪
れるともっぱら前世紀の初めには言われていて、Ramsay(Sir William Ramsay)とか、
Ostwald(
Wilhelm Ostwald) とか、Nernst(Walther Nernst)とか、後でノーベル賞をもらった連中
がみんな、一生懸命窒素固定のことをやっていたんですね。中には、空気中で放電して
NOxを作ることをやろうとしていたのもいましたけれども、窒素と水素からアンモニ
アをつくるというのが、本当にどれだけ行く反応なのか、窒素は不活性な気体ですから,
平衡定数がよくわからないで、みんな暗中模索でやっていたんですね。
 それで、Nernstという人が、高圧がいいに違いないというんで、高圧にして、平衡定数
を計ろうとしたんですけれども、データが不正確で、ブンゼン学会で1907年に有名な討論
があって、ネルンストは、結論として窒素と水素からアンモニアをつくるなんていうのは
工業的にも到底できない反応であると言いきったんですね。ハーバーは、実験が正確では
ないんだというので有名な討論があったのです。ハーバーはアンモニアの合成と分解の両
方から速度を求めただけでなく、窒素と水素の混合気体を触媒を通す循環系を使って循環
させ、それの途中でアンモニアを集める工夫をしてやる。そうするとだんだんアンモニア
がたまってくる。そういうアイデアでやったら、これで行くよという形になって、それで
初めて、1909年に、オスミウムを触媒にして、180 気圧、820 K でうまくやってみせたん
ですね。
 それで、BASFがそれに乗り出して、Bosch (Carl Bosch)が大変な苦労をして高温、
高圧の条件でスケイルアップし、Mittasch(Alvin Mittasch) がいい触媒を見つけるのに成
功したわけです。ハーバーは1918年にそれでノーベル賞をもらったんですけれども、ボッ
シュは高温、高圧の化学工業を初めて成功させたというので、1931年ですか、ノーベル賞
を貰っていますね。

○インタビュアー:いわゆる我々がハーバー・ボッシュ法と大学で習うあれでございます
ね。

○田丸先生:そうなんですね。

○インタビュアー:そのときの技術というのは、今の化学工業の一番の礎だ、基礎だとい
うところで、いまだに、それがあったからということを聞きますけれども、そうなんです
か。

○田丸先生:そうなんですね。Mittasch が、その反応に使ういい触媒がないかといって非
常にたくさんのものを探したんですね。その研究が、触媒の本性というか、それを随分明
らかにしたんですね。例えば、その際たまたまスウェーデンから出てきた鉄鉱石がいい触
媒だとわかって、それじゃといって、純粋の鉄を使うとだめなんですね。それで、なぜそ
うなんだろうというので、純粋の鉄に微量なものを加えると活性がぐんと上がる。いろん
なそういういわゆる助触媒作用というものとか、もちろん触媒作用の温度の影響や被毒現
象なんか、そういう触媒の性質を非常に明らかにした。ミッターシュ自身もノーベル賞を
もらってもいいくらい、本当に触媒の本性を初めて明らかにしたわけですね。
 テイラー先生はそういうのを見ていらっしゃったから、その田丸の息子なら雇ってもい
いと思われたらしくて、comfortable に生活できるからプリンストンへいらっしゃいと言
われて。

○インタビュアー:それは先生、昭和何年ごろですか。

○田丸先生:1953年です。昭和28年ですね。

○インタビュアー:講和条約ができた直後ですか。

○田丸先生:まだ珍しいころです。

○インタビュアー:そうですね。

○田丸先生:ちょうどフルブライトがあったものですから、それで家内と行かせてもらっ
て。日本じゃ、あのころ、生活費の中で食費が占める割合であるエンゲル係数というのは
大体60%、まだ食べるのがやっとの時代でした。そのころアメリカに行って、日本にまだ
なかったスーパーマーケットで、食べたいものをみんな、アイスクリームでも何でもかご
に入れられて、それが一番の感激でした。一桁以上違う生活レベルでしたから。
 それで、実験施設もいいし、テイラー先生がとってもよくしてくださったんです。そこ
で、いろいろの話から問わず語りに、研究というのは頭でするものだよというのを非常に
深く教えていただきました。実際にテイラー先生の弟子たちが、世界中、方々にいたんで
す。ですから、後で方々に行くと、おまえ、「プリンストンの田丸だね」と言って、とても
よくしていただいて。
 例えば、ソ連なんかではボレスコフ(G,K,Boreskov)という大物がいたんです。ノボシビ
ルスクの触媒研究所の所長で、アカデミシャンで、ソ連の中で触媒関係についていろいろ
決めていた。それが、「テイラーがあなたのことをベストなスチューデントだと言ってたよ」
といって、私がいろいろな国際会議の議長や国際触媒学会(第9回ICC) (International 
Congress on Catalysis)(1956年以来4年毎に開かれている大きな国際触媒学会で、昨年
韓国のソウルで第14回が開催された。第1回からこれまで14回全部のICCに参加したの
が世界で私一人だけになってしまって特別に挨拶させられた)の会長をやっていたときに
も、例えば台湾を1国として数えるかどうかとかいろいろな問題があったんですけれども、
米ソの軋轢の中でボレスコフさんはとても協力的にやってくれました。そういう意味では、
テイラー先生のおかげで、随分助かったんです。

5:In-situ dynamic characterizationの始まり
 テイラー先生のところでやった実験というのは、ゲルマニウムの水素化物のゲルマニウ
ムの上での分解反応なんですけれども、それをやっているときに思いついたのは、触媒反
応の反応中の触媒の表面の反応現場、それがどうなっているかを直接調べたいというアイ
デアを生んだんです。それまでは、触媒というのは微量で反応速度を促進するものという
ことで、いつもブラックボックスの中に入っていて、ブラックボックスの入り口と出口の
情報を基にして、例えば反応速度式の情報から、反応はこういうふうに行くのではないか
という推論だけやっていたんですね。
 ところが、僕はやっぱり、本当に大事なのは反応をしている最中に触媒表面の現場を見
ることである。何がどんな形でくっついているのか、それがどういうダイナミックな挙動
をするか、どんな反応経路を経て反応が行っているのか、そういうものを、後でisotope jump 
method と称したんですが、定常的に反応が進んでいる最中に、ある反応物を同位元素で印
を持ったものにぽっと置き換えるんですね。その同位元素が吸着種の中に現れてきて、そ
れからこっちへ行って最後に反応生成物に行くという、その反応経路もわかるようになる
わけです、 
 それで、兎に角触媒反応が進んでいる状態で触媒表面を直接調べようということをテイ
ラー先生に申し上げたんです。まず触媒を普段よりうんと多くして、閉じた循環系で
反応速度を測りながらやりますと吸着種とその量が分かるのです。そうしたら、先生はそ
のときに、直ぐにその意味を分かってくださり、「You are very ambitious」更にもう一度
「You are very ambitious!」とため息混じりに二度繰り返されました。でも、まだ世界中
でそれまで誰もしたことがないのに、そんなこと果たして本当にできるのかと先ず仰いま
した。じゃ、その計画を持っていらっしゃいというので、翌日、触媒をこれだけ入れて、
こうやって、こうすると、このくらいできますよといって、「じゃ、やってごらん」という
ので、そこで触媒反応中の触媒表面の直接の観察が初めて始まったんです。

○インタビュアー:You are very ambitiousと言われたわけですね。

○田丸先生:はい。それで、パリで1960年に大きな触媒の国際会議(第2回ICC)があっ
て、そこでテイラー先生が、僕のアイデアを引用して招待講演をなさったんですけれども、
触媒作用はこれまで反応機構が暗中模索だったけれど、これからは田丸のアイデイアで、
新しい頁が開けるよ。こうやって反応の起こっている現場を調べていくと本当の触媒作用
の機構がわかるんだよと。これから新しい触媒の研究面が生まれて、それを基にして、あ
とは反応中間体の調べ方を開拓していけば、ちょうどそのころ、吸着種を調べる赤外分光
も出てきたし、それから電子分光も直ぐに出てきて、そういう新しいアプローチも出てき
たころだったからよかったんですけれども、いわゆるワーキングステイトの触媒の表面が
どうなって、どういう反応経路を経て反応が行くかというのを調べ始めて、程なく何百と
いう研究報告がその新しい線に沿って出てきて、いわゆる触媒作用の分野が本当のサイエ
ンスになったんですね。それまでだとただ外側から推論だけだったのが。

○インタビュアー:今のことは、インサイトーの、インシチユーの、それの中で吸着がど
のようになっているかというようなことを見るというアイデアだったわけですね。

○田丸先生:そうなんですね。触媒のin-situ dynamic characterizationの始まり、つま
り、触媒の表面を反応中に直接調べるという。それで、そういう線に沿ってその後にEXAFS
とかいろんな新しい手法で調べるダイナミックなキャラクタリゼーションを色々の人が始
めて、それがだんだん積み重なって、一昨年、ベルリンのフリッツ・ハーバー研究所のデ
ィレクターだったErtl(Gerhard Ertl)がノーベル化学賞をもらいましたけれども。

○インタビュアー:ドイツの人。

○田丸先生:はい。触媒の基礎としてPhotoemission electron microscope という面白い
手法で、反応中の触媒表面を反応中に調べたんですね。そういうこともあってノーベル賞
をもらいましたけれども、私が言い出してからの50年間というのが、そういう触媒のサイ
エンスが飛躍的に進歩発展していった時代で。

○インタビュアー:要するに、先生が、そのノーベル賞につながった一番最初のところの
提案者というか、そういう感じでございますね。

○田丸先生:そうですね。ちょっと言い過ぎかもしれないですが。
 
6:Princetonからの帰国
それで、1956年にプリンストンから日本へ帰ってきて、触媒討論会で初めてそれの反応
例を、タングステンによるアンモニアの分解の結果を発表したんですね。そうしたら、
堀内寿郎先生という当時北大の触媒研究所の所長さんで、後で総長になられましたけれ
ども、その先生はいつもスピーカーのすぐ前に座っていらっしゃるんですよ。それで、
僕の話が終わったら、すっくと立ち上がって、本当に言葉を尽くして褒めてくださいま
した。これはすばらしい研究だと。触媒の研究が、これでこれからは本当のサイエンス
になるんだと。
 それで、私についていらっしゃいと仰るんです。どこへ行くのかなと思ってついて行っ
たら、文部省に行かれて、文部省の研究助成課の課長、中西さんとそのころ言った、その
人に会って、堀内先生だからそういうところへ行って、会えたんですね。田丸は今将来学
士院賞をもらうほどの素晴らしい新しい研究をやっているから、是非幾らかでも補助して
あげられないかと個人的に交渉なさって、当時、特別に15万円もらって。15万円って少額
ですけれども、そのころ私は横浜の助教授の、まだ30歳ちょっと超えたころで、もう本当
に真空ポンプ一つ買うにも苦労していたものですからとっても助かりましたし、そのよう
に励ましていただいたということですね。堀内先生とは師弟関係があったわけじゃなかっ
たんですけれども、そうやって特別に褒めていただいたのは、とてもありがたかったなと
思うんですね。

○インタビュアー:見抜かれる方もそうですが、見抜く方もすごいもんですね、やはり。
立派なものですね。

○田丸先生:それで、これは学士院賞に値すると褒めてくださったんですが、本当にもら
ったのは何十年か後でしたけれども。

○インタビュアー:先生は学士院賞もいただきましたですね。

○田丸先生:だから、触媒が新しいサイエンスとなった、新しいページを開いた時代でし
たから、やること、なすことみんなexcitingで、面白いんですね。基本的な触媒反応につ
いて、この反応の中間体は、今まで教科書なんかに書いてあることと全然違うことも出て
くるんですね。学生たちも非常によく働いてくれたものですから、新しいことが沢山出て
と来てとても面白かった時代です。

○インタビュアー:先生はプリンストンには2年ぐらいいらっしゃったわけですか。

○田丸先生:3年近くいました。あちらで双生児が生まれましてね、おしめのことなどあ
り,まだその頃は長旅はすぐ帰れませんからというので、双生児を理由にして1年延ばし
てもらって。双生児のおかげでよかったんですけれども。 (その双生児が生まれた病院で
一ヶ月後にアインシュタインが亡くなりました)

○インタビュアー:それは、横浜国大に籍を置いたままやらせていただく。

○田丸先生:そうです。それで、横浜の方では、(当然のことながら)人手が足りなくて困
って大分冷たいことを言われましたけれども、双生児で今本当に困っているんだから、長
旅はちょっと待ってよということで。だから、帰国までにいい実験結果もまとまりました
し、帰国後も学生に本当に新しい局面の実験をさせることができたんですけれども。
 私がいつも口癖のように言っていたのは、「せっかくいい頭をお持ちなんだから、よく考
えなさい」と。よく偉い先生が、アイデアがたくさんあって、おまえはこれやりなさい、
おまえはこれやりなさいと先生からテーマをもらって、院生は人手として実験して、確か
にいい仕事ができるんですけれども、研究テーマをもらってやっただけでは、その後、独
立すると育たないんですね。それじゃいけないからと思って、テイラー先生のやり方もそ
うだったんですが、とにかく研究は頭でするものだというフィロゾフィーですね。
 「せっかくいい頭をお持ちなんだからよく考えなさい」と、ここにいる人たちも言われ
たと思うんです。ただ、初め、みんな皮肉を言われたと思うんですね。ところが、僕にし
てみれば、頭は使えば使うほどいい頭になるんですよね。そういう基本があったものです
から、みんなやはり研究は何か新しいことを、先生からもらったテーマだけじゃなくて、
それをいかに発展させるかというのを考えてくれたというのがあります。そうやって考え
に考えて自分で新しいアイデイアを考え付く体験はその人の一生の宝になるものです。

○インタビュアー:それは、先生も、鮫島先生からそういうご指導を受け、またテイラー
先生から受けられたという、それがきちんと身になって。

7:Independent thinker について
○田丸先生:それが基本になっているのではないかと思いますね。ですから、口の悪いの
が冗談半分に、私がいつもそう言っているのは、「あれは先生にアイデアがないからだよ」
と言った人もいるんですけど、必ずしもそうではなくて、学生によると、僕が例の通りそ
う言うと、これは自分で考えに考えてこう考えるのです、と言うから、それじゃやっぱり
足りないよ。こういうこともあるだろう、ああいうアプローチもあるだろうと、やはりそ
のくらい言える準備はしていないといけないんですけれども。

○インタビュアー:学生が、本当は先生もわかってるんだなと思うわけですね。

○田丸先生:それで皆さん、自分でよく考えていただいて。だから、例えばここにいる人
たちは、みんな東大の名誉教授と東大教授ですけれども、その前は、田中虔一君は北大か
ら東大に呼ばれたし、川合真紀さんは理研から、それから堂免一成君は東工大からとか、
初めいろいろなところへ就職させても、その先々で自分で考えていい仕事をしてくれたも
のですから、その結果として東大に招かれて。だから、僕は別に東大で政治的にどうした
ということは全然なくて、そういう仕事を通して研究室の卒業生の中から東大に8人も集
まったということだと思うんです。その他、京大、阪大、東工大などなどにもいますし、
私の研究室を出て大学教授になった連中はざっと数えても40人近くおりますし、国立の
研究所や企業でも活躍している人達も少なくありません。そういうお弟子さんのおかげで、
それこそ弟子でもってるねというのがそれなんですけれども。

○インタビュアー:今日はちょうどそのお三人の先生方もいてくださっているので、先生
は心強く話していただけると。

○田丸先生:お蔭様で、しかし間違ったことを言ったら言ってください。

○インタビュアー:いやいや、それは本当です。

○田丸先生:考えるに、大学院の時代でも、よく考えろ、考えろと言われると、考えるよ
うになるもんだなという感じがしますね。
 本当は、日本の教育が、自分で自立して考える教育というのが大変に乏しい。先生も生
徒も、自分の考えが足りないことは自分では気がつかないものなんです。外国ではもう幼
稚園、小学校からやるんですよね。「お前はどう考えるか」、と。そうしてお互いに議論し
合うことを通して自分の考え方を作り上げるのです。
私の孫で大山令生(レオ)というのは、アメリカで小学校2年までやって日本に帰っ
てきたんですね。それで、何をするかいうと、コップに水を入れて、自分の腕時計を
水の中に入れているんですよ。「おまえ、何してんのよ!」と言ったら、「これ、防水
って書いてある」と。実験しているんですね。
 それから、「救急車がこっちへ来るときは高い音で、向こうへ行くとき低い音になるのは
なぜ?」とか、「台風のメってどんなものなの?」とか、小学校2年生のくせに自分で考え
てどんどん質問するんですよね。それで、彼の小学校の先生が、私は長い間先生をしてい
たけれど、こんな利口な子、見たことないと言いました。それが、どうでしょう、日本に
いるともう見る見るうちに質問しなくなりましたね。普通の子になってしまいました。

○インタビュアー:日本に帰ってこられてからですか。

○田丸先生:そうです。日本の教育は教科書を覚えさせられて、入学試験の準備をさせら
れて、ということで、自分で考える教育が殆どない。もう本当に見る見るうちに普通の子
になりました。日本の教育は生まれつき才能を持っている子供たちでもその才能を引き出
して(educeして)育てることなしにみな普通の子にしてしまうんですよね。個性を育てる
本当のeducation が存在していないのです。
そういう個性を伸ばす教育は、小学校時代からちゃんとしないといけないんだなという、
そうするのが本当の教育だなという感じがいたしますね。

○インタビュアー:先生、教育については、日本化学会の雑誌の『化学と工業』とか『化
学と教育』とかにもしばしばエデュースということについて書いていただいていますね。

○田丸先生:アメリカで母親として子供を育てた娘も一緒に書いてくれましたが、小学校
の校長先生にどんな子供を育てるのかと尋ねると、アメリカではindependent thinkerと
言って、自分で考えさせるという基本を小学校時代から心がけるのです。お前はどう考え
るか、の繰り返しで、debateしながら、各人がそれぞれ生来持っている異なった個性を伸
ばしながら、みんなで協力して民主主義が育つんだという哲学ですね。日本の小学校の先
生でindependent thinker を育てようとしている先生が何人いるでしょうか。日本だと、
何かみんなと違う考えだと村八分になったりして、みんなと協力するという、「和をもって
貴しとなす」という、いい面もあるんですけれども、逆に言うと、個が育つ環境がないわ
けですね。
 本当に日本はこれから、殊にコンピューターの時代に、時代の変化が加速度的にどんど
ん速くなっていきますね。そういうときに、「教え込み教育」を通して単なる物知りなどを
つくっている教育ではだめなんで、やはり自分で考えられる、そういう変化の激しい時代
をリードできる人間というのは、やっぱりそういうindependent thinkerとして、自分で
考えるクリエイテイブな教育を受けさせることが必要で、これから日本は教育を基本的に
変えていかなければいけないのではないかなという感じがします。私の院生の連中は電子
供与体と電子受容体とを組み合わせて所謂「EDA錯体の触媒作用」もやっていたのもいまし
たが、両者の組み合わせでそれぞれと全く異なった触媒作用が現れるのです。鉄フタロシ
アニンとカリウムの錯体など、アンモニア合成を室温で進ませるものもでてきたりして、
沢山のデータを集めて「EDA錯体の触媒作用」として一冊の本に纏めてあります。
 私の経験からも、特に大学院に入って最初の1−2年に知的体力を蓄えることが非常に大
事なんですね、研究とは如何なることをするものかという正しい概念を身につけることで
すが、なかなか難しいことですけれど。現在の一つの現実的な問題は近視眼的な成果を求
める傾向もあって、日本学生支援機構(旧育英会)からの奨学金返済のシステムの変更があ
りますが、学問する上で学生にとっては大変に重要な問題になっているようです。
一方研究費については昔に比べると場所によっては近頃研究費は随分増えましたね。堂
免君のところなんて30人近くも抱えている。よくやっているとは思いますが。研究費で
は、僕なんていつも研究費が足りないので苦しみ、苦しみしてやってきたものですけれ
ども。ただ、そういう十分になってきた研究費が、さっきのように、本当に研究という
のは、自分でいつも考えに考えてやるものだという、それで練習問題的なことでなく、
新しいことをやらなければいけないという基本的な厳しい考え方が薄れて、イージーに
なってくる恐れを感じるのですが。研究費の出し方も同様ですが。
 勝手な考え方ですけれども、やはり、殊に大学院に進んで最初の数カ月、テーマをいた
だいてからの苦しみというか、厳しさというか、本当に研究って何をするんだろう?何を
やっても、もっといい考えがないかとしょっちゅう自分で悩みながら研究をするものだと
いうことを実際に教えていただくという、それは、研究者として基本的な大事なことだと
思います。

○インタビュアー:それが先生の仕事の本当の原点になっているんですね。

○田丸先生:大学院生なんかは、人手として使って、仕事をさせて、ペーパーは出るかも
しれないけれども、本当に研究の基本というものを、大学院生になって初めて研究に携わ
るときに、研究とは何をするのか、independent thinkerとして、自分で考えに考えて自立
した研究者になってくれればいいんですけれどもね。それが「知的体力」作りなんですね。
それをしないと、大学以下の受け取るだけの教育の延長では駄目なので、殊に新しく大学
院に入ってきた連中の研究者としての才能を育てていない感じがします。
○インタビュアー:そういう指導者であるべきだということですね。だから、先生のお弟
子さんは、そういう姿を見ておられるので、そういう感じの指導者になっていっておられ
るんだと私は思いますね。

○田丸先生:私のところから出て独立すると、みんなそれぞれ独立して立派な仕事をして
くれていますから、そこが少し違うのではないかという気がいたします。

○インタビュアー:確かに、最近ですと、大学院もきちんと充実してきて、例えば学部制
で入ってきても、テーマも上の先輩がやっているものの、まずは手助けぐらいから入った
りして、余り考えなくてもごく自然にやる。上の人がある程度仕事をやっていると、論文
として名前が出たりとか、「研究ってこんなものかな」と思いがちなところがございますよ
ね。

○田丸先生:そうなんです。新しく「研究」と言うものを学ぶときに、いい加減なことを
研究だと思い込ませるとその人の研究者としての才能を一生つぶすことになるわけです。

○インタビュアー:それは、一つは有能な方々が集まってきていたということはあったで
しょうね。ほとんど小中高校ぐらいの本当のトップだけが集まっていっているようなとこ
ろですから、先生もそういう指導がいいと思われたのかもしれないですね。

○田丸先生:でも、いわゆる秀才と、それからそういう新しいことを考えれる独創性とは、
やはり根本的に違うんですね。教えられたことを全て答えられる、そういう秀才だからい
い研究者というわけではないんですね。その辺の、習ったことを理解して覚えるだけでは
なくて、independent thinkerとして、自分で新しいことをcreativeに考える努力をする
という、人によって才能も違いますけれども、皆さん、そういう意味で努力してくれた結
果だと思うんです。出藍の誉れというのはみんな。

卒業生の活躍
○インタビュアー:先生もそうでしたし、先生のお弟子さん方も皆、やはり能力ある上に、
よく考えるということをされた方々が、その結果として、先生がおっしゃったように、40
人近い弟子たちが大学教授となり、中には東京大学だけでも8人も教授がいらっしゃる、
あるいは京大や阪大、東工大、北大にもいらっしゃると言うことですが、そういう人たち
が、また次の世代を先生の思想をもとに教えていっているというのは、非常にありがたい
ことですね。うれしいことですね。

○田丸先生:そうですね、今、弟子の弟子、つまり孫弟子を育てていますからね。少なく
とも、孫の育て方を厳しくきちんと考えてやりなさいという考え方を伝えてほしいなと思
うのです。さっき言ったように、時代の変化がますます激しくなってくる、そういう変化
の激しい時代をリードできるには、やはり自分で考えないといけないんですね。コンピュ
ーターができる物知りだけでは、これからはますますいけなくなるのではないかと。僕も、
先が短いですけれども、とにかくそういう、みんなが、もう少し日本人の教育全体的に、
independent thinkerとして、そういう個性を育てる教育がこれからますます必要になるの
ではないかと。

○インタビュアー:ちょっともとへ戻りますが、横浜国大で何年間かいらっしゃった後、
古巣へ戻るというか、先生はまた東京大学へ移られたわけでございますね。それで、そこ
でまた20年ぐらいいらっしゃったのでしょうか。

○田丸先生:そうです。東大の教授になったのが40ちょっと前ですから教授として20年
いました。その前に横浜に教授として4年半いたんです。そのときは僕も一生懸命実験を
したし、それなりに新しいやり方をやってもらったり、したりして、4年半教えた研究室
に毎年4人くらい来ましたか、その中から3人東大教授が出ましたし、大学教授になった
連中も幾人もいます。学生の質もよかったんですけれども、そのころから人が育ち始めて。
夜学なんかは随分つらかったけれども、学生がよくできて、そういう意味では、本当に私
は幸せだったと思います。

8:アドミニストレイションについて
○インタビュアー:先生、東京大学の方に戻られてからは、結構、学内のいろいろなアド
ミニストレーション的なお仕事も大分していらっしゃるのではないですか。

○田丸先生:それは、ちょっと話があるのですけれども、プリンストンに小平邦彦先生と
いうフィールド賞をもらわれた有名な数学の先生がいらして。

○インタビュアー:小平先生、数学者。

○田丸先生:あの方がプリンストンに一番最初からいらして、日本人の仲間の村長さんみ
たいだったんですけれども、その100メートルぐらいのところに私たちは住んでいて、し
ょっちゅうお邪魔に上がり、先生も僕たちとはとてもよく話してくださって、小平式の考
え方がとても勉強になりました。
 小平先生が帰国されて程なく、紛争の直後だったわけですよ。それで、事もあろうに、
理学部の教授会が小平先生を理学部長に選んだんですよね。それで、小平先生はもう絶対
に嫌だ、そんなために日本に帰ってきたのではないから絶対に嫌だと言われて。だけれど
も、教授会で一旦選ばれて断れるという前例をつくられると、あの時代に、なる人がいな
くなりますでしょう。だから、みんなで助けるから是非断らないでくれと言って。そうし
たら、化学では田丸さんを知っていると言うんですね。それで僕が学部長補佐の中に入れ
られて、学生とごたごたさせられて。あのころ、いろいろ大変だったでしょう。

○インタビュアー:そうですね。

○田丸先生:もうそれこそ学生が、先生たちは「専門ばか」だと言って。小平先生が、「先
生は「専門ばか」と言われるけど、学生はただの「ばか」だね」と(笑)。小平語録という、そうい
う面白い話がたくさんあるんです。そんな形で、そういうアドミニストレーション
に引っ張り込まれたわけです。それまではもう研究しかやっていなかったんですけれども。

○インタビュアー:それから後、もちろん研究者としては、我々は日本化学会ですから、
化学会賞も先生に取っていただいていますし、化学会の会長にもなってご尽力していただ
きましたね。いろいろあるんですが、先生は、東京大学をご退官になってから、たしか、
今、山口東京理科大という、最初からそうだったんでしたか。

9:東京理科大時代と新しい大学作り

○田丸先生:東大を辞めて、東京理科大にまず行ったわけですね。理科大で呼んでくださ
って、そこに11年いました。神楽坂のあそこへ。でも、その終わりのころは、山口に短大
があったんですね。それを4年制にするから大学づくりを手伝ってくれと。僕は、まずよ
い大学を作るのには人集めが大切だからといって。でも、田舎の小さい大学なのに、随分
いい人が来てくれました。僕が言うと変ですけれども、田丸先生だからあれだけ集まった
んですねと言われ、例えば、木下実さんという学士院賞を後でもらった人も来てくれたし、
東大からは化学会で賞をもらった戸嶋直樹さんとか、清水忠二先生とか、東工大から山本
経二さんとか、いろいろないい人が随分来てくれて。ただ、残念ながら、今はもうほとん
ど定年になって辞めていきますけれども。だから今、大分苦しい立場らしいですけれども。
 そのころは、新しい大学とはどういうものであるべきかというので、初め東京理科大の
中で、橘高先生という偉い理事長さんが、「理科大の教育を高度化する委員会」をつくって、
その委員長をさせられたんです。それで私は、まず、アメリカ式に、教育を充実させよう、
先生の講義に学生が意見を出すべきだと、いろいろなそういう話をしたら、皆さん、その
ときはもう、「とんでもない、学生の分際で先生の講義を……」と、そういう雰囲気だった
んです。それで、その新しい考え方を山口で実施したわけです。ですから、そのころの一
部の人は知っていますけれども、要するに、理科大はこうあるべきだというモデルをそこ
につくって、例えば人事をするときは、自分たちだけではなくて、その分野の専門家も学
外から入れて決めるべきだとか、カリキュラム自体も、例えば数学の先生が書いてくるも
のをそのまま受け取るのではなくて、やはり全体的に客観的な意見を学外からも求めて、
全体的にきちんとしたカリキュラムをするべきだとか、今まで習慣的にやってきた大学の
あり方を大きく変えて、山口で始めました。今どうなっているか知りませんけれども。

10:大学入試について
○インタビュアー:少し戻りますが、先生は、山口東京理科大で、モデルケースをつくろ
うというか、一つの実験をしようという感じだったと思うんですが、入学試験の制度を変
えたらどうかということを、私、何か先生のお話を聴いたことがあるんですが、それはど
んなものだったんでしょうか。

○田丸先生:さっき言ったように、これからあるべき大学の姿をつくりたいといって、入
学試験を面接に加えて教科書持参で筆記試験をやったんです。高校以下の教育を改善する
には大学の入試を改善することが大事なんですね。福井謙一先生も何時も言っておられま
した、「今の大学の入試はどうでもいいこまかいことまで覚えさせられて、あれは若い人の
芽を摘んでいるんですよ」と。

○インタビュアー:教科書持参ですか。なるほど。

○田丸先生:文部省検定の教科書を持ってきていいよ。すると、教科書を持っているから、
「これ覚えているか?」式の暗記問題はできないんですよね。教科書を本当に理解してい
るか、こういう場合はどうすればいいのか、という考える問題にしたのです。福井先生が
それを聞かれて大変に褒めていただきました。その大学の開学式にご挨拶してくださり、
その冒頭に入試についてお褒めの言葉を頂きました。
 ですから、例えば、塩と砂糖と白い砂がまざっているものがある。それがどのくらいの
割合であるかどうやって調べればいいか、そうやって教科書には全然出ていない考え方を
聞くわけですね。そうすると、実によくわかりますね、この子は考えることができる子か、
たとえ結論が間違っていても、ちゃんと食いついてくる子かどうかというのが、非常によ
くわかります。
 だから、ああいうのは、入学試験で、例えば大学院の試験でもそうかもしれないんです
けれども、普通の講義の試験になっていると、要するに入学試験の準備で、日本は高等学
校の理科を見ても、「わかったか、覚えておけ」、そういう一方的な教え込む授業ばかりで
すよね。またそれが入試対策にはいい教え方なんです。それで、大学へ来ても、そういう
延長ですから、生徒から先生に質問がろくにないわけです。アメリカだと、極端な場合は、
講義の後、先生の部屋の前に並んで待っていますよ、ディスカッションするために。日本
じゃ、ただ受け取るだけの話で、それで大学院へ来るわけですね。それでクリエイティブ
なことをしろと言ったって自立していないからできない。ついイージーな教育になってし
まうので、ほんとうの「研究」から大きく外れて一生損をします。 
 本当に、さっきの私が経験したような辛い思いを大学院に入って数カ月、「おまえ考えろ」
だけでもいいです。何をすればいいかね。そうやって、やはり研究というのは考えるもの
だと。それが知的体力を鍛えるのです。そうして人生全体に、independent thinkerとして、
やはり考える自立した人間をつくらなければいけないんだということで、入試を変えない
といけないですね。

○インタビュアー:それは、先生がそう言われても、例えば入学試験の問題をつくるのは、
今までいた教官なわけですね。そうするとなかなか。

○田丸先生:それが見えてくる。非常にはっきり分かれるんです。「先生、問題をつくれま
せん」と。確かに容易ではないんですけれどもね。だけども、本当に考えられる人は研究
も立派に出来ます。或いは研究の優れた人は自分で独自に考えることができますし問題も
作れます。きちんと考えますから。だから、僕は、大学院の試験でも同じように、講義の
試験をするようなことではなくて、例えば、高等学校のときに習って覚えている話があり
ますけれども、例えばアボガドロの法則といったようなものを、気体の体積、圧力が同じ
で同じ数の分子があるとか、そういうものを習いますよね。それから、食塩はイオン結晶
だよとか、水素と塩素の反応は連鎖反応だとか教わりますよね。だから、そういう三つの
ことをみんなよく知っているんだけれども、では、それぞれを実験的に証明する仕方を述
べなさいと出題するわけです。そうすると、よくわかるんですよね。よく知っていること
を、どうしてそうなのか実験的に証明しろと言われると、本当にその人の考える力がわか
るんですね。
 そういう意味で、教育自体が、入学試験を含めて自分で考えてやるものだという。ただ、
先生がこう言ったから、はいわかりましたと覚えて、物知りになって出てくる、そうやっ
て育ってくる人間ではなくて、「先生そう言うけど、これはなぜ?」とか、さっきの小学校
2年の孫が聞いたのと同じことなんです。そうやって、それぞれの事柄が、バックがきち
んとあるのを、みんなただ教科書を覚えさせられてもだめなんですよね。

○インタビュアー:先生、試験のそういう試みをされたときは、全学の受験生に対してそ
れをされたわけですか、それともある学科だけ。

○田丸先生:いや、全部。全部といっても、学部は1つしかなかった小さい大学ですから。

○インタビュアー:その結果は、先生、どんな感じ、何年間ぐらい続くことが可能でござ
いましたか。

○田丸先生:だから、時々そうやって選んだ生徒はどうなっていますかと言われるんです。
あとよくわからないんですけれども、一つは、初めから受験生の質の問題もありますから
わかりませんが、日本全体の入学試験自体が問題で。アメリカ辺りでも、有名大学によっ
てはクリエイティビティーとリーダーシップを見て選ぶとか言いますね。そうやって人の
上にたつ人を資料や面接を通してきちんと見るんですね。ケンブリッジでもそうです。教
科書を丸暗記しているような子は採らない。やはり自分で考えられる将来のリーダーを選
ぶんですね。
 本当は東大でも、そういう意味で、将来のリーダーを選ぶクリエイテイブな入学試験を、
面接などに時間がかかるかもしれないけれども、2倍ぐらいに絞ってからでもいいですが、
そういう自分で考えられる人間を選び育てるんだという姿勢で、それこそ京大でも、東大
でもみんなそういうことにいたしますと、高等学校以下でもそれに備えてそういう準備教
育をいたしますから、だんだん自分で考える人間が育ってくるわけですね。そういうのが
私の意見です。

○インタビュアー:山口理科大で先生がそういう試みをされたときは、そのころは文部省
でしょうか、それは別に、「どうぞやってください」という、それに対して何らか規制とい
うか抵抗は別になかったわけですね。

○田丸先生:私立ですし、理事長さんが僕の意見を入れてくださったからよかったんです。
でも、教科書持参の試験を一部でいいですからやるのもアイデアだと思うんです。

○インタビュアー:そうですね。

○田丸先生:例えばサッカーの選手だって、練習で余りこまかい受験準備はできなかった
けれども、そういう考え方には自信があるよというのは、そっちの方へ行って受けるとか
ね。しかし本当に問題づくりが難しいんですよ。だから、要するに先生のクリエイティビ
ティーの問題なんですよね。

○インタビュアー:そんな感じはしますね。

○田丸先生:ですから、逆に言うと、先生を選ぶ人事のときも、そういうことができる人
間を大学として大事にする、またそういう人は研究面でも必ず優れています。そういうこ
とをしないと、ただ知識を教えるだけなら、教科書に書いてあるのを説明するだけで、「わ
かったか、おい」とかというだけの話ですから自分で考えるようには育たないですね。

11:父親、田丸節郎について

○インタビュアー:先生、ちょっと話が変わりますが、一番最初のころに出ました先生の
お父様、何といってもハーバーとの関係で、我々、表面だけなんですが非常によく存じ上
げているのですが、そのあたりのことをちょっとお伺いしておければありがたいと思うん
ですが、お父様は、やはり東京大学をご卒業されてから向こうに行かれたわけですか。

○田丸先生:そうです。(亡父の兄は田丸卓郎で、東大の物理の教授で寺田寅彦の先生とし
て、またローマ字論者として知られている)

○インタビュアー:第一次世界大戦の前。

○田丸先生:文部省の留学生としてハーバーのところに行ったんですね。それで、カール
スルーエでアンモニア合成をやって、40人もいたそうですけれども、ハーバーがベルリン
の新しい研究所(現 Fritz-Haber-Institut der Max-Planck-Gesellshaft,Berlin)の所
長に選ばれたときに、その中から父を選んで連れていって研究職員にしたんですね。その
研究所が世界一の研究所で、アインシュタイン(Albert Einstein)などもいたし、日本人も
随分そこに留学に行っています。

○インタビュアー:何年間ぐらいドイツというか、いらっしゃったんですか。

○田丸先生:合計8年ぐらいだったと思います。だから、ベルリンにいた日本の大使が父
に、「日本からどんないい職が来ても、私が断ってあげますよ」と言ったそうだけれども、
それだけ日本人として大変に珍しく重要な地位だったらしいのですが、世界大戦が始まる
と、ドイツは日本の敵ですからおれなくなって。
   
○インタビュアー:第一次世界大戦ですね。

○田丸先生:それでニューヨークに行って、高峰さんなんかと一緒にいて、日本に理研を
つくろうじゃないかと話し合ったりして。ハーバードにもいましたけれども。

○インタビュアー:それで高峰譲吉先生とか

○田丸先生:はい。理研も最初、化学の研究室は父が責任を持ってつくって、日本に初め
て本式の化学の実験室というのをつくりたいというので、相当無理したらしいです。その
頃日本にはなかった本当の化学の研究室のモデルをつくりたいと。それで多分、費用もか
かって大分言われたらしいのですが、大震災で他の建物は大分つぶれてしまったのにその
建物はガラス1枚割れなかったというので大変に評価されたらしいんです。

○インタビュアー:震災というと、それは関東大震災ですか。

○田丸先生:そうです。

○インタビュアー:ああ、そうなんですか。

○田丸先生:大正12年のね。僕が生まれる前です。

 父が一番最後に努力したのは、学術振興会をつくることでした。昭和一桁の時は、ご存
じのように、日本の経済は非常に悪かったので、せっかく理研なんかをつくっても、研究
費が削られることはあっても、来にくかったんですね。大学でもほとんど研究費が乏しく
て、これではとてもいけないからというので、桜井錠二先生を担いで、父も必死になって
学術振興会をつくる運動をしました。身体が悪かったんですけれども無理をしながら。結
局、一番最後は、手回ししたんでしょうが、昭和天皇が、私の身の回りのことは幾ら節約
してもいいから、学術振興のためにお金を出してくれとおっしゃってくださったんですね。
それで、昭和7年かにできて、それで、それから急に論文の数が日本で倍くらいに増えて、
論文だけじゃなくて、それで人材が育ったんですね。その人材が次の代を育てて日本が発
展していった、それが父の一番の苦労でした。

○インタビュアー:櫻井錠二先生。お名前は。

○田丸先生:先生の残された遺言書に書いてありますけれども、学術振興会なんかでも、
本当に田丸のおかげでできたと。

○インタビュアー:そうですか、立派なことをなさったんですね。

○田丸先生:それが、日本を欧米並みにしようという努力ですね。理研を作り、理研の実
験室をつくること自体も、そういう意味で大分努力したのではないかと思います。
 ハーバーがベルリンに連れていってくれたときも、よく、「田丸は死ぬほど働くから」と
言ったそうなんですけれども、何か死ぬほど働いたらしいんですね。アンモニアの合成な
んかにできるかどうかというのが。それで、死ぬほど働いてどうにかなった。だから、テ
イラー先生も、田丸の息子だからというので、何かにも書いてありましたが、「父親の素質
を受け継いでよくやってくれた」と。

○インタビュアー:先生もお父さんと同じように、死ぬほどテイラー先生のところで働か
れたんですね。

○田丸先生:いいえ、僕はそれほど勤勉ではありません、死ぬほどなどしなかったです。

○インタビュアー:いやいや、周りのアメリカ人とかイギリス人は結構、lazy で、だから
先生を見たらもう脅威だったのではないですか。

○田丸先生:そうですね。そういえば、一緒にいたイギリス人が「ケンジは一日16 時間実
験する」と言ったことはあります。家との通勤が片道車でほんの5分くらいでしたし、実験
の合間に食事に帰って、新しい方法で、新しいexciting な興味あるデータがどんどん出て
きて研究がとても面白かったですから。

○インタビュアー:ブラックボックスを先生がちょっと開けて見られたわけで、そういう
感じですね。

○田丸先生:そうですね。でも、その結果というか、それからの50年間が、そういう意味
で触媒の分野が本当に進歩したんですね。反応最中の表面を調べ始めましたから。それで、
いろいろな機器もどんどん進歩しましたから。それで、結論的に、一昨年ノーベル賞をも
らっています。そういう基本的な分野が今、日本で案外なほど少ないんですよ。大学院生
をこれできちんと育てないとという心配もありますね。

○インタビュアー:先生のおっしゃることはよくわかります。私は一応これでも京都で福
井謙一先生の門下生の端くれなんですけれども、福井先生も先生と同じようなことをいつ
も考えておられて、「サイエンスそのものを考えるのが大切だ。その根本を考えろ」といつ
も言われていましたね。それはなかなかわからなかったんですけれども、先生のおっしゃ
るのと、やはりそうなんですね。

12::Catalysis Letters に載った写真について
 
○田丸先生:先生に一つ見ていただきたいのは、これは、2000年に出たCatalysis Letters
でそんなに昔の話ではないんですけれども、触媒の歴史をまとめて、例えばベルツェリウ
ス(Jons Jacob Berzelius)が「触媒」という言葉を初めて言い出して、ファラデー(Michael 
Faraday)が出てきて、そしてハーバーが出ているんですけれども、その中にこういう、こ
の写真を勝手に使ったんですよ。僕の許しを得ないで出していて。

○インタビュアー:どこからこういうのが手に入っていったんですか。先生がどこかに出
されたんですか。    
   
○田丸先生:ここの家の前で撮った写真ですよ。

○インタビュアー:それを誰かから手に入れているわけですか。

○田丸先生:もう一枚、現在の私のと。あなたの写真を2枚入れたよと言ってくれたんで
すが、他人の写真を、これは1984年にベルリンで大きな触媒の学会(第8回ICC)があった
ときに、ハーバーの展示コーナーをつくったんです、ハーバーが初めてアンモニア合成し
たときの装置なんかを出して見せて。それで、僕のところに、何かハーバーに関連したも
のを送ってくれないかというので、それまでほとんど出さなかったんですけれども、その
写真を送ったんですよ。そうしたら、ケンブリッジの教授のジョン・トーマスさんが、僕
に是非このコピーをくれと言って、それで上げたのをオフィスに飾って、日本人が来ると、
この赤ん坊が謙二なんだよと言って。

○インタビュアー:そうですよ、先生、これとこれなんですね。

○田丸先生:この赤ん坊なんですよ。ハーバーに会っている証拠の写真です。

○インタビュアー:だから二つ載っていると、そういう意味ですね。現在のとで二枚。

○田丸先生:そうなんです。そういう、大げさに言えば、化学者になるように運命づけら
れていたということかもしれないんですけれども。

○インタビュアー:すばらしいな。

13:アインシュタインからの手紙について

○田丸先生:それから、私の家宝の一つなんですけれども、これは、この人の手紙ですよ

○インタビュアー:アインシュタインですね。

○田丸先生:田丸あてですよ。

○インタビュアー:1949年、すごいですね。

○田丸先生:アインシュタインが、そのころは世界が、第二次大戦が終わって、もう日本
もめちゃくちゃになっちゃったし、ヨーロッパも戦争でめちゃくちゃになって。でも原爆
ができて、だから、トルーマンがスターリンに、もう一回、今米ソでやれば必ず勝つとい
うわけですね。

○インタビュアー:アメリカがソ連にですね。

○田丸先生:いわゆる緊張した時代だったんです。私の父はアインシュタインと同じ研究
所で知っていましたから、その息子なんだけれども、世界がこんなんでいいんだろうかと
いう、若気の過ちで手紙を出したら、きちんと返事が来ましてね。
 しかも、面白いのは、世界が平和になるのは、アンダーラインをして、1つの方法しか
ないというんです。それはもう世界連邦しかないと。それから今まで60年ですか、随分た
っていますけれども、今ヨーロッパに行くと、もう本当にそういう感じがしますものね。
各国が同じお金を使うし、パリみたいに、昔は英語なんか全然しゃべらなかった所が、英
語もどうにか通じるようになるし、いわゆる連邦という感じがしますでしょう。
 それで、僕は、これから50年のうちには東洋もそうなると思うんですけどね。コンピュ
ーターの時代になって、国や宗教、人種の違いを超えてお互いのcommunicationも加速度
的に自由になって増えてきますし、だんだん世界中そういう連邦になるのではないかと思
って。その方向に。要するにワンウェイしかないと。アインシュタインが自分でサインし
て田丸あてにくれたというのが。

○インタビュアー:湯川秀樹先生も書いているんですね。オール……(以下、アインシュ
タインからの手紙を読む)……すごいな。

○田丸先生:アインシュタインの言葉が、今の現実を見るとき、あのときにはもう全然考
えられない時代でした。フランスとドイツだってお互いに殺し合いをしていた直後でしょ
う。だけれども、それからもう50年、60年たつと、そういう方向にどんどんなっていって
いるというので……。

○インタビュアー:これは先生、是非この冊子に載せさせてくださいね、この言葉はね。

○田丸先生:はい。

○インタビュアー:これはすごいですね。

○田丸先生:僕は、そういう意味で、このアインシュタインの言葉と今の現実とを対比す
ると、本当にそうだなという感じがいたしますね。

○インタビュアー:湯川先生も一生懸命、世界連邦をつくるということを言っておられま
したけれどもね。

○田丸先生:そうですね。

○インタビュアー:早くからそういうふうにね。

○田丸先生:実際に、田丸謙二あてに書いてくれたというのが、僕としてはありがたい言
葉で。それで、僕はある高等学校で化学の話をさせられて、普通の話をして、そのときに
アインシュタインのこの話を一寸出したんです。そうしたら、何かすごくみんなショッキ
ングで、それで、質問が幾つか来て、「どうしたらああいう手紙をもらえるんでしょうか」
と。(笑)

○インタビュアー:なるほど、そうですか。やはり純粋な心を持つということでしょうか。

○田丸先生:つまらない話ばかりして申し訳ないんですけど。

○インタビュアー:いやいや貴重な話ですよ。いろいろお話いただいてお疲れでしょうが、
いろいろ先生からお話を伺って、今、先生はもう満85歳におなりですし、大体、若者に対
しての言葉というものもいただいて、「考えろ」というふうなことなんですが、あとほんの
少し、何か先生、もうちょっとこれだけ言っておきたいということがございましたら、少
しだけでも何かありましたら。

14:日米の教育の差について

○田丸先生:繰り返しになりますが、やはり教育界全体が問題で、例えば20年近い前か
な、アメリカでは、アカデミーを中心にして、これからの子供の教育は、コンピューター
の時代になるし、大幅に変えなければいけないというので、それまでは理科でも、クジラ
の種類を覚えさせたり、そういう理科の授業だった。それではいけないというので、そん
なのは全部やめて、science inquiry という、科学の考え方ですね。さっきのように、「な
ぜこうなのか?」という理科に変えるんだといって猛烈な努力をしたんです。もう全国で
150 回ぐらい講習会を開いて、それから、教育関係学会とも協力し、最後は4万冊刷って
みんなに配って意見を求めて広め、理科を基本的に変えるという時代でした。
 ちょうどそのころですよ、日本の化学教育の関係者が集まって、文部省の教科書検定に、
高等学校から「平衡」という言葉を消したんですよ。「平衡」なんていうのは、ものを考え
る一番基本ですよ。例えば蒸気圧一つにしても、平衡で蒸気圧降下はなぜ起こるかとか、
それから、沸点上昇でも、凝固点降下でも、浸透圧でもみんな平衡をもとにして考え方が
出てくるわけですね。それで日本は、むしろ考えない方向にした時代です。今は直りまし
たからいいのですけれど。日米の教育関係者の知的レベルの差はこれほど大きいのです。
 大事なことは、そういう日本の教育関係者たちが、本当のことを全くわかっていないと
いうことですね。それで、文部省も有名人を集めて平衡をなくしたわけです。そのくらい
の知的レベルなんですね。それで、アメリカの方ではそういう画期的な努力をして、新し
いものをつくって、それがヨーロッパに広まって、かえってそれが日本に入ってきて、「ゆ
とり教育」を始めようと言い出すわけです。
ゆとり教育というのは、覚えることを少なくさせるための教育ではなくて、考える教
育を育てるというのが基本なんですけれども、日本にそういう基盤がないんですよね。
ろくな準備もしてないで入れるものですから、ますます駄目なのです。本当は知識は
基本的なものに限り、互いに debate し合いながら、それを基に各人が十二分に自立
して「考える教育」に切り替える訓練をして、新しい時代に向けての「考える教育」を
するために非常な努力をしなければいけなかったのです。「化学と教育」誌57巻3号
(2009年)に日本化学会会長の中西宏幸さんがお書きになっています。「イノベーショ
ンを推進するためにはこれを担う人材の育成が急務であるが、残念ながら、わが国の
人材育成は多くの問題を抱え危機的な状況にあると言わざるをえない。コミュニケー
ション能力の不足、専門以外の基礎学力の不足、自分で考える力あるいは意欲の低下
といった問題が感じられるのは私だけではないと思う。」要するに「ゆとり教育」が「教
える知識の減少」のみが実際に実施され、最も肝心な「考える教育」の育成は文科省
も教師も全く受け入れる基盤のない結果として、単に「学力の低下」になってしまっ
た。一番の被害者は生徒たちで、一番大事な考える重要性も、考え方も教わらず、肝
心なその訓練もなく、単に教わる項目が減ったと言うことで、「実力が下がった」と言
われる結果となってしまった。時代の大きな新しい流れに乗って世界的に教育改革を
する折角のいい機会だったのに自国の「考えない入試本位の教育の基本的欠点を改め
ようともせずに、国を損なった文科省を初めとする教育関係者の罪は大変に重いとい
わざるを得ないのではないでしょうか。
考える範囲を限るという考え方は、学術の健全な姿ではないんです。「ゆとり教育」の
初期の議論で再三問われたのは「最低限教える必要のある項目を精査する」ことだった
はずがどこかで「必要十分条件」とすりかえられてしまったことが不幸の始まりだっ
たと思います。自分で考えようとする姿勢を持っている子供たちには、その知的好奇
心に答えるための教育であるべきです。先程の私の孫の例でもよい参考になりますが。
子供の数が激減している現状では、少人数学級や副主任などの制度が整備されれば、
各人の個性に応じた個別教育に近い対応も可能なのではないかと、思いますが。

○インタビュアー:「ゆとり教育」も何か妙になってしまったんですね、あれも。

○田丸先生:そうなんですね。やはり学力が低下したとかなんか言うんだけれども、本当
の話は、考える教育が世界中に広まってきて、日本だけがそうやって手遅れになってしま
うということです。
 それが、大事なことは、文部科学省をはじめとして教育関係者がわかっていないという
ことですね。それで、小学生にindependent thinkerに教育をするんだと思っている先生
なんて、日本にどれだけいるでしょうか!小学生は何も知らないで入ってくるから教える
んだという、教え込むことだけでやっていますね。最近少しずつ変わってきているようで
すが。教え込む方が楽ですし、入学試験もそれでいくし。だから、何かそういう、さっき
のケンブリッジでもそうですけれども、将来のリーダーを育てるという教育が、日本には、
差別というのはいかんという形ですが、差別という意味ではなくて、各人の異なった資質
を区別しながら才能を伸ばす教育、各人が自分の個性を育てるように自分で考える、要す
るに個性を育てる教育に切り替えないと。これは先生からそうだと思う。やはり生徒は先
生の背を見て育ちますから、先生がそうやって自分で考える教育をすると、生徒も考えな
ければいけないんだなということがわかってくると思うんです。

○インタビュアー:先生まで変えていかなければいかんので、これからも時間がかかりま
すね。

○田丸先生:それがいい方向に向かっていればまだいいんだけれども、どうも時代はどん
どん加速度的に変化していきますよね。日本では、それについていけるかどうか。

○インタビュアー:いえいえそんなことは。そうならないようにね。

○田丸先生:政治家でも何でもそうですけれども、立花隆が『天皇と東大』という本を書
きましたが、あれにも書いてあるんですけれども、東大生は習ったことをそのまま理解し
てはき出す、そういう能力は非常に高い者が多いけれども、要するに自分で考えるクリエ
イティブな人は必ずしも多くない。クリエイティビティーで試験をしていませんから。そ
れで、それが大学を出て、公務員試験などを経て、必ずしもクリエイテイブでないリーダ
ーになるわけですね。それが日本の国策を決めていくわけです。ですから、やはり基本は
考えることが大事だ、と。それで、そういう人材のつくり方をきちんとしていかないとい
けないのではないかと思うんですけどね。国の将来は教育が決めるんです。

○インタビュアー:それについて、京都でも考えるんですけれど、私を見てもわかります
ように、大したものがなかなか出ていないというのもあるんですね。

○田丸先生:本当は先生がきちんとすべきなんですよね。先生の再教育のための講習会を
開いても、来る先生はまあいいんだけれども、むしろ来ない先生の方が問題でね。やはり
先生の再教育ということは、本当に大事なことだと思いますね。

○インタビュアー:先生ありがとうございます。

15::テニスと天皇・皇后両陛下について

 最後に、全然関係ないですが、先生はお忘れでしょうが、私は昔、先生とテニスをさせ
ていただいたこと、覚えているんですけれども、先生はそのとき、鎌倉のこのあたりのロ
ーンテニスクラブか何かの会長か何かをしているとおっしゃっていた。もうこのごろは、
テニスなんかは全然していらっしゃらない。

○田丸先生:もう今はひざが痛くてできないんですけれどね。会長も、それこそ早稲田の
テニス部の元キャプテンだったなんていううまい人がたくさんいるクラブで、当時六百人
以上のクラブなんです。ただ、そのテニスコートをつくった隣に頼朝がつくったというお
寺があって、それを鎌倉市はもとのお寺に復興させようと。そうすると、そのテニスコー
トがそのお寺の庭になってつぶれる恐れがあるんですよね。鎌倉市は世界史跡都市とかに
なりたいというので一生懸命で、そうしたいと言っていて、2年のうちにそういうふうに
するという時代があったんです。
 ちょうど景気の悪くなるちょっと前でしたか。それで、その費用の8割を出す文化庁に
一寸でも顔のきく人がいないか、と。僕は全然だめよと繰り返し言ったんだけれども、会
長にさせられちゃって。そうしたら、ちょうど私が東大の総長特別補佐(副学長)をやら
せてもらったときに、文部省から東大の法学部を出た女の人が学務課長に来ていたんです。
それが文化庁へ戻って、文化庁でその問題を取り扱う隣の課長になっていた。それでもう
その人を頼みにするしかないというので行ったら、とてもよくしてくれて、その係の人た
ちを集めて僕の説明を聞いてくれたり、それで予算のときでも考慮に入れてくれ、それで
一番の危ないときを乗り越えまして、とてもありがたかったんです。
 天皇陛下が葉山にいらっしゃるときに、御用邸がありますでしょう、天皇。皇后両陛下
がテニスをしに時々いらっしゃるんですよ。それでそのときに僕は、侍従なんかに言った
ら絶対にだめなんですけれども、天皇陛下に、「ここのクラブの特別名誉会員になっていた
だけますか」と直接お願いしたんです。そうしたら、まんざらでもないお言葉があったん
ですよ。それで、「天皇陛下がいいっておっしゃったよ」とみんなに言いふらして。そうし
たら、本当にそういう手続を一応して、そうなったんです。
 天皇。皇后両陛下とも素晴らしいお二人です。形式抜きにおもてなしして、気楽にお話
し下さるようにするんですけれど、本当に素晴らしいご夫婦ですね。ご結婚50周年で新聞
にも出ていましたが、テニスコートにいらっしゃると、テニスだけでなく、お気楽にお話
になる雰囲気がお好きなんですよね。特別名誉会員になっていただいた次のときにいらし
たときに、お帰りになるときに、「おたくのクラブの特別名誉会員にしていただいてありが
とうございました」とお礼をおっしゃるじゃないですか。普通、お礼を言われると、「どう
いたしまして」と言うんですけれど、こういうとき何て言っていいかわからないで、もう
まごまごしてしまったんですけれども。

○インタビュアー:先ほど、先生の写真がね、天皇・皇后両陛下とご一緒に写った写真を
拝見しましたから、ふと、ああ、そうだ、先生テニスをされていたなと思い出したので。

○田丸先生:でも、気楽にお話をすると、とても素晴らしい方々ですよ。皇后陛下もお利
口さんだし、お心遣いもなさり、本当によくできた素晴らしいお二人です。

○インタビュアー:私は、化学会としては6年前に125周年のときに陛下に来ていただい
て。

○田丸先生:そうなんですよね。その前に前立腺の手術をなさったでしょう。そのときに
僕はお見舞い状を出そうやと言ってお見舞い状を出したんです。またお元気になられてテ
ニスをしにいらっしゃいということで。そうしたら翌日、侍従から直接電話が来てね、陛
下がとてもお喜びになりました、と。その時は本当にごらんになったのかなと半信半疑に
思って。だって、沢山の人が祈念しに行ったときでしょう。そうしたら、その後退院され
て初めての公務として化学会にいらしたでしょう。

○インタビュアー:そうです。来ていただいたんですよ。

○田丸先生:それで、立派なお言葉を賜り、その後でレセプションがあったときに、陛下
が僕の顔を見て、いらして、「その節はお見舞いありがとうございました」ってお礼を言わ
れたんですよ。天皇陛下がそこまで細かいことにまで気を遣われるとは夢にも思わなかっ
たんですけれども、僕の顔を見て、お礼をおっしゃいました。

○インタビュアー:先生、本当にいいお話を聞かせていただきました。

○田丸先生:いやいやとんでもないです。つまらない話ばかりで。

16:「サロン・ド・田丸」について

○インタビュアー:今日は、先生のお弟子さんの先生方が沢山お宅に来ていらして。

○田丸先生:そうですね。昨年11月に田丸研究室の出身者の集まりを東京でしたんですけ
れど、皆が来ますと限られた時間内ではお互いにゆっくりと話し合えなかったんですね。
そうしたら、もっと先生と親しくしゃべりたいというので、有志が「サロン・ド・タマル」
というのをつくって、早速12月にやろうというので、もう勝手に企画して、鎌倉駅に早め
に集まって食べるもの飲むものなど全部買い集めて、しかも集まる人数はなるべく10人以
下にしたいというのですが、実際にやって、見ると数名の幹事役を除いても優にその二倍
にもなったりして、私の家で僕を囲んでしゃべるというんです。僕は、その会の幹事役に
任せてあるんですけれど、僕の会費分は僕に払わせてもらって、ただ皆さんが楽しくしゃ
べっているのを聴いて楽しむだけが主な役なんですけれど、今日は午後その日に当たって
いるのです。場合によってはわざわざ大阪からその為に来る人もいます。
 研究室として、以前はしょっちゅうここの庭でバーベキューなど集まりをしまして、み
んな仲がいいものだから、一緒に来た外邦人なんかも驚くんですね。アメリカなんかでは
考えられない、と。だから、いつまでも家族的に皆さん仲よくやってくれるという、それ
は、とても素晴らしいことですね。日本的なところでもありますけれども。

○インタビュアー:それは、日本的であると同時に、やはり先生のご人徳であり、一つの
教育を、その場でやはり教育になっているんでしょうね。

○田丸先生:そうですね。出世した弟子たちに今更わたくしからの教育でもないのですが、
意見があれば伝えますが、逆に現役の連中から近頃の様子を教えてもらったり、(折に触れ
て彼らの研究室のゼミに出させてもらっていますが)前回は化学会学会賞が今度3月末か
な、川合真紀さんがもらいますから、それをこのサロンで皆でお祝いし、それから、今日
の午後には、触媒学会賞を今度もらう内藤周弌君夫妻が来ます。お祝いも忙しいですが、
皆さん、弟子の方々がだんだん偉くなって、紫綬褒章も、今までもらった人は研究室出身
者の中から4人ですけれども、将来多分もっと増えるのではないでしょうか。

○インタビュアー:先生、それをいつまでも見届けるように頑張ってください。是非長生
きしていただいて。

○田丸先生:それが私の毎日の楽しみの一つなんです。卒業生の皆さんがメールや電話で
よくお見舞いなどしてくれ有難いことです。一人住まいで不便の面もありますけれど、け
れど毎日がお蔭様で、ありがたく、楽しく、感謝しています。

○インタビュアー:それは、これから元気でいらっしゃる大きなドライビングフォースで
すね。 今日は先生、本当にありがとうございました。


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(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
田丸謙二 田丸先生 Kenzi Tamaru Kenji Tamaru)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司※

【私の母】(追加)

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前回書いた、「私の母」の追加原稿です。
本文全体は、HPのほうに、近く掲載します。
時間的推移(前後関係)は、バラバラになっています。

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●祖父の財産

母について、理解できない点もいくつかある。
たとえば私が毎月仕送りをつづけていたことについても、母は、それをだれにも
話していなかった。
私の姉にすら、話していなかった。
だからあるとき、そのことを姉に話すと、姉はたいへん驚いた様子をしてみせた。
「そんな話は聞いていなかった!」と。
(あるいはそう言って、とぼけただけだったかもしれない。)

それとて私が40歳を過ぎてからのことだった。
私は当然、姉だけは、私がしていることを知っていると思っていた。
姉だけには、母は、私がしていることを話していると思っていた。
が、姉ですら、知らなかった。

で、母は、ことあるごとに、また周囲の人たちには、こう言っていた。
「おじいちゃん(=私の祖父)の残してくれた財産で、生活している」と。
つまり祖父の残した遺産がたくさんあったから、生活には困らない、と。
他人にはともかくも、身内の姉や私にそんなウソを言っても意味はない。
が、それでも私は、姉だけには話していると思っていた。……思い込んでいた。

実際には、祖父の残した財産は、いくつかの不動産をのぞいて、まったくなかった。
私が中学生のときには、我が家はまさに火の車。
自転車操業。
それに祖父はすでにそのとき、隠居の身分だった。
バイクをいじるのが趣味で、それをいじって遊んでいた。
収入はなかった。
小銭をもっていたとすれば、むしろ祖母のほうだった。
祖母は株の売買をしていた。
が、それとて、「端株(はかぶ)」といって、証券会社からのおこぼれ株だった。
10株とか、20株単位の株を売買していた。

今にして思えば、母には親としてのプライドがあったのだろう。
「息子から奪ったお金で、生活をしている」とは、とても言えなかった。

●私が悪者

遠くに住んでいることをよいことに、母は、私を悪者に仕立てた。
何かにつけ、自分にとって都合の悪いことは、すべて私のせいにした。
父が他界し、私の家でも遺産相続問題が起きたときも、そうだ。

そのときのこと。
祖父の残した土地が、3筆あった。
その相続についても、母は、叔父、叔母のところを回りながら、こう言った。
「浩司がうるさいから、(相続放棄の)書類に判を押してほしい」と。
母は、私に追いつめられたから、いやいやながらも、判を集めているのだと言った。

が、実際には、これもちがった。
私は一言も、相続について口をはさんだことはない。
母から手続きの相談を受けたことはあるが、それ以上の記憶はない。
むしろ事実は逆で、祖父の財産は、叔父、叔母で分けるのが筋道と考えていた。
祖父は生前、いつも口癖のようにこう言っていた。
「Y町のあの土地は、S(=叔母)のものだ」と。
で、これについてはこんなエピソードがある。

母の話を真に受けた叔父が、ある日、突然、私の家にやってきた。
「貴様!」と怒鳴ったあと、私を殴り飛ばした。
パシッ、パシッと、叔父の拳が顔面ではじけるのを私は感じた。
そのとき私はたまたま実家に帰省していた。
叔父はそれを聞きつけて、私の家にやってきた。
私は殴られるまま、反論することもできなかった。
なぜ私が叔父に殴られるか……。
私も、そして母も、その理由がわかっていた。
しかし母は、別の部屋で静かにその様子を見ていた。
息をひそめて、静かにそれを見ていた。

●母の見栄

晩年になればなるほど、母の見栄は、はげしくなった。
ますます世間体を気にするようになった。
これは姉から聞いた話だが、買い物に行くときも、千円札を、何十枚か重ね、両端を
1万円札ではさんでサイフに入れ、もち歩いていたという。
そしてレジでお金を出すとき、わざとサイフを開いて、その札たばを店員に
見せつけていたという。
またこんなこともあったという。

姉の家で何かの祝いごとがあった。
姉は母を家へ連れていくことにした。
そのときも、母は、美容院で髪を染め、パーマをかけていたという。
姉の家の近所の人たちに、それなりのかっこうづけをするためだったという。
その日の生活に困っているはずの母が、姉の家に行くのに、1万円前後もかけて、
髪をセットする……。

当時、母はすでに80歳を過ぎていた。
そうした母の行為は、私の常識とは、かけ離れたものだった。

●迷信

こうした母の一連の行為は、一言で説明すれば、「哲学の欠落」ということになる。
権威主義のかたまりのような人だったが、それを支える哲学がなかった。
それがもっともよく現れていたのが、迷信だった。

「夕方に履物を買ってはだめ」
「玄関で脱いだ靴は、裏で履いてはだめ」などなど。
あらゆる行動を、その日の運勢にしたがって決めていた。
「今日は、日が悪いから、靴を買ってはだめ」
「明日は、日がよいから、服を買ってもよい」などなど。

食べ物についても、そうだった。
「梅干と、うな丼と、いっしょに食べてはだめ」
「風邪をひいたときは、豆を食べてはだめ」などなど。

子どものころは私もそれに従っていたが、中学生になるころには、それに耐えられ
なくなった。
あまりにも息苦しかった。

こうした迷信は、一度気にすると、それがずっと気になる。
それを続けていると、やがてそのワナにはまって、そこから抜け出せなくなる。
だから「ナッシング・オア・オール(ゼロかすべてか)」となる。
私は「ゼロ」のほうを選んだ。
今の今でも、迷信なるものは、いっさい、信じていない。
その種の話には、はげしい拒絶反応が起きる。

が、私の知っている人にこんな人がいた。

新車を購入したのだが、その車を納入させるとき、日時はもちろん、納入のための
道順まで、ディーラーに指示したという。
「一度、北に出て、それから西まわりで、車を届けてほしい」と。
迷信を気にするひとは、そこまで気にする。

母も、似たようなことを、よく口にした。

●母の信仰

そういうこともあって、母の信仰の仕方も、これまた一風、変わっていた。
「家にいるときより、寺にいるときのほうが長い」と、みなが、そう言っていた。
こまかい作法にこだわった。
ローソクの立て方、線香の燃やし方、仏具の飾り方などなど。
また親類、縁者たちの命日供養については、毎月、それをしていた。
毎年、年1回ではなく、毎月だぞ!

ここで注意しなければならないことは、宗教心と信仰心はちがうということ。
宗教は、「教え」に従ってするもの。
現実のこの世界で、よりよく生きるために、宗教はある。
一方、信仰心にはそれがない。
そこはまさに、「イワシの頭」。
対象は、キツネでもタヌキでも、何でもよい。
そこに(思い込み)を凝縮させる。

それをなじると母はいつも決まってこう言った。
「人がいいということをして、悪いことにはならない」と。
つまりどんな信仰でも、信仰して悪いということはない、と。

●姉との確執

そんな母が姉の家に2年間いた。
そのあと、私の家に来た。
来たというよりは、私が母を抱きかかえ、車に、無理やり乗せて連れてきた。

それまでの姉との経緯(いきさつ)については、ここには書けない。
いろいろ書きたいことはあるが、やはりここには書けない。
ただ言えることは、事実として、私と姉はその前後に、断絶状態になっていたこと。
姉はそのつど私をはげしくののしった。
そういうことが重なり、私は母を引き取ることにした。

その前日は、M町の旅館で一泊。
朝早く起きて、姉の家に向かった。
重い雲が山々の尾根を覆い隠し、かすかに見える山も、白いモヤにかすんでいた。
M町から姉の家まで、車で、20分足らず。
私は姉とは会話らしい会話もせず、そのまま母を車に乗せ、浜松に向かった。

最初母は、少なからずそれに抵抗したが、私が強く抱きかかえると、力を抜いた。
軽かった。
母は、信じられないほど、軽かった。
私は用意してきた毛布を、幾重にも積みあげ、その上に母を置いた。
そしてその上に、分厚いふとんをかけた。
そしてそのままあいさつもそこそこに、姉と別れ、浜松へと向かった。
まだ正月気分の残る、1月4日のことだった。

●家庭の内情

それぞれの家庭には、それぞれの言うに言われない事情というものがある。
私の家にもあるし、あなたの家にもある。
そういった事情も知らないで、他人が自分の推察だけでものを言うのは、たいへん危険。
ばあいによっては、その相手を深く、傷つける。
最近も、ある人から、こんな話を聞いた。

A氏(80歳)には、3人の息子がいる。
が、外に出た二男や三男が、A氏が住む実家に寄りつかないという。
二男や三男は、実家の近くに来ることはよくあるのだそうだが、そのまま実家には
寄らず、帰ってしまうという。

それを知った叔母(父親の妹)が、二男や三男に向かって、こう言って叱ったという。
「いくら父親が嫌いだからといって、あいさつもしないで帰るのはおかしい。
実家に寄って、あいさつをするのは当然。
実家にはまだ母親もいるのだから……」と。

しかし事情はちがう。
二男や三男が実家に立ち寄らないのは、長男との確執があったからだ。
そのつど長男は、介護費用の分担を迫った。
が、二男と三男にはその経済的余裕がなかった。
だから二男と三男は、父親との確執をそれとなく臭わせることによって、自分たちの
責任を回避していた。
「介護費用を分担したくないから、実家には寄らない」と人に思わせるよりは、
「父親に会いたくないから、実家には寄らない」と他人に思わせたほうが、
自分たちの立場を守ることができる。

事情というのは、そういうもの。
そういった事情が複雑にからんで、その家庭の事情を作る。
他人が自分の頭で、理解できるようなことではない。

だから……よほどのことがないかぎり、他人の家の問題には、口を出さないこと。
相手のほうから相談でもあれば、話は別だが、それがないなら、そっとしておいてやる
ことこそ、懸命。

●決別

イギリスの格言にも、『2人の人には、よい顔はできない』というのがある。
日本にも、『八方美人』という言葉がある。
軽蔑すべき人という意味で、『八方美人』という。

私もあるときから、自分の身辺を整理し始めた。
いろいろ誤解はあるにせよ、そういった誤解を解くのも疲れる。
離れて住んでいればなおさらである。
中には、こちらの事情も知らず、「浩司は親を捨てた」「親不孝者」と言っている
人もいた。
最初は、私なりに誤解を解こうとしたこともある。
しかしここにも書いたように、それにも疲れた。
だからあるときから、居直って生きるようにした。
「思いたければ、どうとでも思え」と。

しかしそれは同時に、そういう人たちとの決別を意味する。
そういう人たちとだけではない。
その周囲の人たちとの決別も意味する。
さらに言えば、故郷そのものとの決別を意味する。
会う回数が、数年に一度とか二度とかになれば、互いの関係そのものが、疎遠になる。
誤解がそのまま定着する。

こうなると残された選択肢は、ただ一つ。
決別ということになる。
またそこまで割り切らないと、幻惑という呪縛感から、自分を解放させることはできない。

親を捨てたわけではないが、そこまで割り切らないと、心の重圧感を晴らすことは
できない。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●映画『天使と悪魔』

++++++++++++++++++

おとといの夜、映画『天使と悪魔』を見てきた。
星は、★★★の3つ。
おもしろかったが、少し技巧的すぎる?

原作は、ダン・ブラウン著『天国と地獄』。
実は映画に先立って、先週、その単行本を買ってきた。
(上)(中)(下)の3巻に分かれていた(角川文庫)。
しかし私が買ったのは、(上)だけ。
そのときすでに映画を見ようと心に決めていたので、
結末まで知ってしまったのでは、おもしろくない。
それで(上)だけ。

が、本の内容と映画の内容が、あまりにもちがって
いたのには驚いた。
本のほうは、どこかSF的。
つまりSFと、オカルトと、推理。
この3つを兼ね備えた内容。
その分だけ、映画への期待は大きかった。
が、映画のほうは、ただの推理+アクション映画。
そんなわけで、かなりガッカリ!
せめてX−33という、UFOのような飛行機くらいは
登場させてほしかった。
で、星は3つ。

(先に本を読んでいなければ、星は4つだったかもしれない。)

で、バチカン内部で殺人事件?
カトリック教徒の人には、不愉快な映画にちがいない。
が、そこは映画。
理性のある人は、一線を引くことができる。
が、これがもし、イスラム教のメッカが舞台だったら、
どうか?
メッカ内部で殺人事件?
もしそんな映画だったら、イスラム教徒による暴動が起きるかもしれない。
映画館を襲撃して、爆破するとか……?

つまり同じ宗教を信じていても、その一線が引けるかどうかで、
その宗教の理性度を知ることができる(?)。
だからといってイスラム教の理性度が低いということではない。
しかしこの日本にも、ほんの少し批判されただけで、
つぎつぎと相手を裁判所へ訴えている宗教団体がある。
窮屈といえば、窮屈。
宗教には、ある種の(窮屈さ)がつきものだが、
その窮屈さが、かえって一般の人を遠ざけてしまう。

で、映画を見終わったあと、「カトリック教って、結構わかりやすいな」と
感じた。
言いかえると、「結構心が広いな」と。

「バチカン内部」といっても、もちろん、すべてセット。
あるいはCG合成(?)。
が、それでもバチカン内部の様子がわかって、おもしろかった。
私の知らない世界だけに、おもしろかった。

つぎはいよいよ『スタートレック』!
待ってましたア!

++++++++++++++++++++

●識字能力

++++++++++++++++++

少し前、識字能力について書いた。

識字能力……読み書きできる人のことを、識字者という。
それができない人を、非識字者という。

ユネスコ(国際連合教育科学文化機関=UNESCO)では、識字について、
「日常生活における短い簡単な文章の読み書きができる人を識字者、
できない人を非識字者」と定義している。

日本では、昔、文字を読めない人を、「文盲」と呼んだ。
しかしその後の教育の整備が進んで、今では、文盲の人はいないということになっている。
そこで近年では、(1)文字は読めても、(2)それを理解できない人を、非識字者と
位置づける学者も多い。

ポイントは、一応の読み書きはできる。
しかし読んでも、それを理解することができない、というところにある。

++++++++++++++++++

●言葉と文字

言葉の発達が、人類を飛躍的に進化させた。
しかしその人類をさらに文明人へと進化させたのは、文字の発達ということになる。
人類は文字を使うことで、過去を未来へ伝えることができるようになった。
遠く離れた人に、そのときの感情を伝えることができるようになった。
言いかえると、(言葉)と(文字)、この2つが、人類と動物の分かれ目ということになる。

●文字を読まない人

その文字について、会話程度の簡単な文章を読むことはできても、やや難解な
文章になると、それを読んで理解できない人は多い。
程度の差もある。
だから、どの程度理解できれば問題なく、どの程度理解できなければ
問題と、一概に言うことはできない。
しかし現実には、文字という文字を、ほとんど読まない人は多い。
その人の周辺をさぐってみれば、それがわかる。

文字を読まない人の周辺には、当然のことながら、本という本が、ほとんどない。
雑誌もない。
50代、60代の人に多いが、30代、40代の人にも、ときどき見られる。
日常的に文字をよく読んでいる人には、信じがたいことかもしれないが、
現実にはいる。

●非識字者

映画俳優のトム・クルーズが、そのタイプのLD児であったことは、よく
知られている。
本人自身がそれを告白している。
だからトム・クルーズのばあいは、台本は、だれかに読んでもらい、それを耳で
聞いて覚えるのだそうだ。

で、そんな話をしていたら、A氏(60歳、長い間の仕事仲間)が、こう言った。
「実は私の姉がそうです」と。
「簡単な手紙の読み書きはできますが、少し難解な文章になると、読んで理解しよう
ともしません」と。

具体的には、書類を目の前に置いただけで、「私にはそんなもの、読んでもわからない!」
と言って、手で払いのけてしまうという。

私「文字は書けるのですか?」
A「簡単な手紙なんかは、ときどき書いてきます」
私「難解な文章といっても、どの程度の文章ですか?」
A「役所から来るような公文書などは、だめですね」
私「家庭医学書なんかは、どうですか?」
A「ぜったいに、だめですね」と。

●LD児

子どもの世界にも、文字を読めない子どもというのは、いる。
最近では、LD児(Learning Disability=学習障害児)と位置づけられている。
LD児といっても、症状はさまざまで、集中力が極端に低下している子どもから、
計算なら計算というように、ある特殊な分野のみ苦手という子どももいる。
もちろん文章を読み切れない子どもも、多い。
具体的には、算数の文章問題が理解できないというような症状となって表れる。

こうした子どものばあい、指導といっても、脳の機能に関する問題であるだけに、
それがむずかしい。
一般的には、(学校教育の現場では)、「苦手分野には目をつぶり、得意分野を伸ばす」
(某小学校校長談)という方法で対処する。
苦手分野だけを集中的に指導していると、子どもが神経質になってしまう。
「だれにでも、得意、不得意がある」というおおらかさが、このタイプの子どもを
伸ばす。

●大切なのは訓練(?)

問題は、実は、私たち。
加齢とともに、どうしても集中力が鈍くなる。
その分だけ、読解力が弱くなる。
識字能力が弱くなる。
新聞程度は読むことはできても、小説となると、とたんに弱くなる。
しかしこれも肉体の健康論と、似ている。

歩くことはできても、しばらく乗っていないと、自転車に乗れなくなる、など。
わかりやすく言えば、識字能力も、訓練によって維持できるのでは?
訓練しなければ、そのまま衰退する。
しかも加齢とともに、衰退するスピードが、加速度的に速くなる。
小説にしても、しばらく読んでいないと、最初のとっかかりのところで、苦労する。
(というのも、小説というのは、作者の癖によって、書き方がみなちがうから。)
その作者の文体になれるのに、しばらく時間がかかる。

私「ところであなたの姉さんは、おいくつですか?」
A「今年、70歳になります」
私「それじゃあ、まあ、歳相応ってことじゃ、ないですか?」
A「それがですね、このとことますますひどくなってきたようです」
私「ひどいって?」
A「新聞にも目を通さなくなってきました」と。

●模擬体験

では、非識字者というのは、どういう人をいうのか。
たまたま今、私の目の前には、新聞の切り抜きがある。
何枚か無造作に置いてあるが、その一枚が、さかさまになっている。
私はそれをぼんやりと眺めている。
が、眺めているだけで、内容が伝わってこない。
並んでいる文字全体が、何かの模様のようですらある。

もちろんこのとき、目を凝らして、逆に読めば意味はわかる。
しかしぼんやりと眺めていると、意味がわからない。
非識字者の目に映る文字というのは、たぶん、そういうものではないか。
頭の中で、文字の意味が論理的につながっていかない……(?)。

●やはり訓練

言葉と文字が、人間と動物の分かれ目ということなら、識字能力を失うということは、
人間が人間でなくなってしまうことを意味する。
(それほど大げさな問題ではないかもしれないが、深刻な問題であることは事実。)
そこで大切なのが、訓練ということになる。
肉体の訓練をするためにジョギングに出かけるように、あえて書店へでかけ、本を
買う。
買って読む。
こうした努力が、識字能力を高める。
で、もしその能力が低下してきたら、どうなるか?
それについては、A氏がこう話してくれた。
それを箇条書きにまとめてみる。

(1)電話で話していても、要点がよくわからない。(何を言いたいか、よくわからない。)
(2)言葉の使い方が、不適切で、文章になっていない。(感情的な言い方が多い。)
(3)思慮深さが衰えてきた。(こちらの言うことを、深く理解できない。)
(4)繊細な会話ができない。(言葉をぶつけるように話す、など。)
(5)グチが多くなり、そのグチを自分でコントロールできない。
(6)思考の一貫性がなくなってきた。(会うたびに、話しの内容が変化する。)

この中でとくに重要なのが、(3)の思慮深さ。
人間は文字を読み書きすることによって、思慮深さを養う。
それをやめたとたん、その時点から、思慮深さは衰退する。
識字能力には、そういう問題も含まれる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
識字能力 非識字者 文章を理解できない はやし浩司 識字能力 思慮深さ)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●2つの事件(Two News)

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最近、我が家に2つの事件が起きた。

(1)私の家にも、「振り込め詐欺(オレオレ詐欺)」の電話がかかってきた。
(2)Blogger Blogが、何者かによって、荒らされた。

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●振り込め詐欺(オレオレ詐欺)

ワイフが受話器を取ると、相手の男はこう言った。
「お母さん、S……」と。

しかしワイフには、それが即座に、S(=長男)からの電話ではないとわかった。
声がちがった。
それに息子たちは、みな、「ママ」とは言うが、「お母さん」とは言わない。

ワイフがあきれた声で、「ハア〜〜〜?」と言っていると、相手は
感づいたのか、そのまま電話を切ってしまった。

で、こうした振り込め詐欺をしかけてくる連中は、まず、息子たちの情報を
手に入れようとする。
私の家のばあいも、ちょうどその1月前、おかしな電話がかかってきた。
若い女の声で、「Sさん、いますウ?」と。

で、こうした電話のばあい、こちらが相手の名前を聞いても、たいてい、
「スズキです」などとしか言わない。
「折り返し電話しますから、電話番号を教えてください」と言うと、そのまま電話を
切ってしまう。

そういう電話が、数か月に1度くらいはかかってくる。
で、そのうちまじめに応対するのがめんどうになった。
いつも適当な返事をしてすますようにした。
そのときも、私はこう言った。

「今、うちにいません。東京か、どこかに行っています」と。

それでその電話がかかってきた(多分?)。
もっとも、それが振り込め詐欺の電話だったとは、確定できない。
それに「そうでないかな?」と思い始めたのは、ワイフが受話器を置いて、しばらくして
からのこと。
ワイフはこう言った。

「うまく引っかかったフリをして、警察に電話してやればよかったわ」と。

……しかし、そんなふうにして人をだまして、どうするのだろう?
いくらかのお金は手に入るかもしれないが、もっと大切なものを失う。
「人生」という「時」を失う。
そのほうが、よほど損だと私は思うのだが……。


(2)Blogger Blogが荒らされる

外国向けに、英語で発行していたBLOGが、突然、閉鎖された。
いろいろ問い合わせてみると、「Spam Blogになったから」という。
どこかでだれかが私のパスワードを手に入れ、BLOGの中に、Spamを
仕込んだためらしい。(確信はもてないが……。)

Spamが仕込んであると、だれかが私のBLOGを見たとき、それを見た人のパソコンに
最悪のばあい、ウィルスが侵入することになる。
それで閉鎖となった。

さっそくパスワードを変更して、新規にBlogger Blogを開設した。
が、今まで書いた原稿は、アクセス不能になってしまった。
2年以上つづけてきたBLOGだけに、残念!

そういうこともあるから、

(1)BLOGのパスワードはこまめに変更した方がよい。
(2)BLOGはひとつではなく、複数本発行したほうがよい。
(3)原稿はつねに、どこかにまとめてSAVEしておいたほうがよい。
(4)英語版のBLOGのほうが、悪意をもった連中にねらわれやすい。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●投資

++++++++++++++++++

5月のはじめから、ひどいスランプ状態になってしまった。
パソコンに向かっても、いつもなら浮かんでくるはずの
文章が浮かんでこない。
書きたいという意欲そのものが、消えうせた。

そんなとき近くのパソコンショップへ行くと、T社製だが、
宝石のように美しいパソコンが並んでいた。
値段は、9万7000円。
安い!
「ほしい」と思ったが、同時に「買ってもしかたない」という
思いが、胸をふさいだ。

で、今、再び、少しずつだが、調子が戻りつつある。
今朝も、2時間近く、パソコンのキーボードを叩いた。
調子は悪くない。
そんな今、あのパソコンが、思いだされる。
そしてこう思う。
「パソコンというのは、ほしいと思ったときが、花」と。

少しわかりにくい話になるかもしれないが、こういうこと。

「書きたい」という思いがあるから、パソコンがほしくなる。
反対に新しいパソコンを買えば、「書きたい」という意欲がわいてくる。
もし今の私から、(ものを書く)という趣味(仕事でも、道楽でもよいが……)を
取り除いたら、私はただの抜け殻(ぬけがら)。
抜け殻になるくらいなら、パソコンは買ったほうがよい。
9万7000円など、それを思えば安いもの。
だから「ほしいと思ったときが、花」と。

それを私は「投資」と呼んでいる。
言うなれば、脳みその健康のための投資。
ずいぶんと勝手な解釈だが、そんなにまちがってはいないと思う。

が、ここはがまん。
ぐっとがまん。
夏から秋にかけて、いよいよ64ビットマシンが、登場してくる。
WINDOW7も発売になる。
それを待とう!


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●新たな挑戦

++++++++++++++++++++++

「lingoes」というサービスがある。
ある雑誌に紹介されていた。
いわゆる翻訳サービスである。
無料。
これを使えば、いろいろな言語から、
いろいろな言語へと、自由に翻訳できる。

すごい!

……ということで、この1時間、それで
遊んだ。

++++++++++++++++++++++

I am Hiroshi Hayashi.(英語)
Estou Hiroshi Hayashi.(ポルトガル語)
Je suis Hiroshi Hayashi.(フランス語)
Ich bin Hiroshi Hayashi.(ドイツ語)
?? ??? ???.(韓国語)
我林浩司。(中国語)
??? ?????? ?????.
(上はアラビア語)
Aku Hiroshi Hayashi.(インドネシア語)
??? Hiroshi Hayashi ???.(ヒンディー語)
Estoy Hiroshi Hayashi.(スペイン語)ほか。

つぎにHPを更新するときは、HPに、世界の言語をまぶしてみよう。
私のHPがますます国際的になる。
おもしろそう!
+楽しみ!

……インターネットの世界に、改めて驚く。
このlingoesには、翻訳サービスだけではなく、辞書サービスも付録でついている。
その国の言語を、家庭に居ながらにして学ぶことができる。
興味のある人は、「lingoes」を検索し、ソフトをダウンロードしてみるとよい。

大手の雑誌に紹介されていたので、問題はないと思うが、ただし自己責任で!


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●強化の原理



 (ほめられる)→(ここちよい)→(やる気が出てくる)という、一連の心の動きを、「強化の原
理」(「強化原理」と呼んでいる人もいる)という。



 最近の研究で、こうした(ここちよい感覚)は、脳の中でも、辺縁系と呼ばれる組織の中で、モ
ルヒネ様の物質(エンドロフィン系、エンケファリン系の物質)が放出されるためということが、
わかってきた。



 昔は、この辺縁系という組織は、原始脳で、働きはないと考えられていた。「太古の昔には働
きはあったが、その働は、もうなくなってしまった」と。少なくとも私は、学生時代、そう習った。



 しかしこれはとんでもない誤解だった。



 知的な活動は、脳の中でも、大脳連合野全体でなされるが、基本的な感情は、どうやら辺縁
系がつかさどっているというのだ。



 このことは、二つのことを意味する。



 一つは、イヌや、ネコにも、感情はあるということ。たとえばイヌでも、ネコでも、何かをしたと
き、ほめてやると、やはりモルヒネ様の物質が放出され、ここちよい感覚を生み出すというこ
と。つまり彼らだって、気持ちよいのだ。



 もう一つは、知的活動だけでは、感情は生まれないということ。たとえて言うなら、知的活動
は、コンピュータの働きに似ている。いくら恐ろしい文章を、ワープロに打ちこんでも、コンピュ
ータ自身は、少しもこわがらない。それと同じように、数学の問題を解くとか、作文を書くとかい
うのは、知的な活動だが、それ自体は、感情を生み出さない。



 むずかしい数学の問題を解いたとき、「ああ、おもしろかった」と思うのは、脳の辺縁系の中
で、モルヒネ様の物質が放出されるためである。



 (ただし、反対に、叱られたとき、不愉快になるのは、どういう働きによるものかは、私にはわ
からない。あちこちの本を読んでみたが、それについて書いたのは、なかった。これは私の不
勉強によるものか。そのうち、一度、調べてみて、わかりしだい、皆さんに報告する。)



 そこでこの辺縁系が機能を失うと、感情そのものがなくなることも、考えられる。あるいはやる
気をなくしたり、感情をコントロールできなくなったりする。



 しかし反対に、こうしたメカニズムをうまく利用すると、子どもを、前向きに伸ばすことができ
る。それを心理学の世界では、「強化の原理」という。



 これは多分に、コンピュータの影響かもしれない。私は、二七歳くらいのとき、コモドール社の
PET2000という、コンピュータを買った。それ以来、もう三〇年近く、コンピュータとつきあって
いる。



 そのためものの考え方が、どこかコンピュータ的になってきた。考え方がコンピュータ的にな
ったというよりは、人間の脳の働きも、そのコンピュータによく似ていると思うようになってきた。
(あるいは、同じなのかもしれない。)



 とくに子どもたちを観察していると、そう思う。が、それはそれとして、もしコンピュータに感情
をもたせたかったら、もう一つ、コンピュータ内部に、感情をつかさどる部分を、新設すればよ
い。人間の脳にたとえていうなら、辺縁系に似た部分である。



 処理をスムーズにできたら、コンピュータ内部で、コンピュータ自身が、ここちよく感ずる物質
を放出する、とか。そうすればコンピュータがそれを感知して、「ああ、楽しかった」と思うように
なるかもしれない。



 ずいぶんと回り道をしたが、要するに、子どもを伸ばそうと考えたら、子どもの脳の中で、こ
のモルヒネ様の物質が放出するように、しむければよい。



 方法は簡単。



子どもは、ほめれば、よい。すべては、そこから始まり、そこで終わる。つまり、じょうずにほめ
ること。これが子どもを伸ばす、秘訣の一つということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
強化の原理 子どものやる気 子供のやる気)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司※

【老人心理】

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キューブラー・ロスの『死の受容段階論』は、よく知られている。
死を宣告されたとき、人は、(否認期)→(怒り期)→(取り引き期)
→(抑うつ期)→(受容期)を経て、やがて死を迎え入れるように
なるという。

このロスの『死の受容段階論』については、すでにたびたび書いてきた。
(たった今、ヤフーの検索エンジンを使って、「はやし浩司 死の受容段階」
を検索してみたら、113件もヒットした。)

で、またまた『死の受容段階論』(死の受容段階説、死の受容過程説、
死の受容段階理論などともいう)。

その段階論について、簡単におさらいをしておきたい。

●キューブラー・ロスの死の受容段階論(「発達心理学」山下冨美代著、ナツメ社より)

(第1期)否認……病気であることを告知され、大きなショックを受けたのち、自分の病気は死
ぬほど重いものではないと否認しようとする。

(第2期)怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の健康な
人、家族で、医療スタッフに対する不平不満としても生ずる。

(第3期)取り引き……回復の見込みが薄いことを自覚すると、神や医者、家族と取り引きを試
みる。祈ることでの延命や、死の代償として、何かを望む。

(第4期)抑うつ……死期が近づくと、この世と別れる悲しみで、抑うつ状態になる。

(第5期) 受容……最後は平静な境地に至という。運命に身を任せ、運命に従い、生命の終わ
りを静かに受け入れる。(以上、同書より)

●老人心理

老人心理を一言で表現すれば、要するに、キューブラー・ロスの『死の受容段階論」に、
(第0期)を加えるということになる。

(第0期)、つまり、不安期、ということになる。

「まだ死を宣告されたわけではない」、しかし「いつも死はそこにあって、私たちを
見つめている」と。
不治の病などの宣告を、短期的な死の宣告とするなら、老後は、ダラダラとつづく、
長期的な死の宣告と考えてよい。
「短期」か「長期」かのちがいはあるが、置かれた状況に、それほど大きなちがいは
ない、。

ロスの説く、(第1期)から(第5期)まぜが混然一体となって、漠然とした不安感
を生みだす。
それがここでいう0期ということになる。
そしてそれが老人心理の基盤を作る。

●死の受容

死の宣告をされたわけではなくても、しかし死の受容は、老人共通の最大のテーマ
と考えてよい。
常に私たちは「死」をそこに感じ、「死」の恐怖から逃れることはできない。
加齢とともに、その傾向は、ますます強くなる。
で、時に死を否認し、時に死に怒りを覚え、時に死と取り引きをしようとし、時に、
抑うつ的になり、そして時に死を受容したりする。

もちろん死を忘れようと試みることもある。
しかし全体としてみると、自分の心が定まりなく、ユラユラと動いているのがわかる。

●「死の確認期」

この「0期の不安期」をさらに詳しく分析してみると、そこにもまた、いくつかの
段階があるのがわかる。

(1)老齢の否認期
(2)老齢の確認期
(3)老齢の受容期

(1)の老齢の否認期というのは、「私はまだ若い」とがんばる時期をいう。
若いとき以上に趣味や体力作りに力を入れたり、さかんに旅行を繰り返したりする時期
をいう。
若い人たちに対して、無茶な競争を挑んだりすることもある。

(2)の老齢の確認期というのは、まわりの人たちの「死」に触れるにつけ、自分自身
もその死に近づきつつあることを確認する時期をいう。
(老齢)イコール(死)は、避けられないものであることを知る。

(3)の受容期というのは、自らを老人と認め、死と共存する時期をいう。
この段階になると、時間や財産(人的財産や金銭的財産)に、意味を感じなくなり、
死に対して、心の準備を始めるようになる。
(反対に、モノや財産、お金に異常なまでの執着心を見せる人もいるが……。)

もっともこれについては、「老人は何歳になったら、自分を老人と認めるか」という問題も
含まれる。

国連の世界保健機構の定義によれば、65歳以上を高齢者という。
そのうち、65〜74歳を、前期高齢者といい、75歳以上を、後期高齢者という。
が、実際には、国民の意識調査によると、「自分を老人」と認める年齢は、70〜74歳が
一番多いそうだ。半数以上の52・8%という数字が出ている。(内閣府の調査では
70歳以上が57%。)

つまり日本人は70〜74歳くらいにかけて、「私は老人」と認めるようになるという。
そのころから0期がはじまる。

●「0期不安記」

この0期の特徴は、ロスの説く、『死の受容段階論』のうち、早期のうちは、(第1期)
〜(第3期)が相対的に強く、後期になると、(第3期)〜(第5期)が強くなる。

つまり加齢とともに、人は死に対して、心の準備をより強く意識するようになる。
友や近親者の死を前にすると、「つぎは私の番だ」と思ったりするのも、それ。
言いかえると、若い人ほど、ロスの説く(否認期)(怒り期)(取り引き期)の期間が
長く、葛藤もはげしいということ。

しかし老人のばあいは、死の宣告を受けても、(否認期)(怒り期)(取り引き期)の
期間も短く、葛藤も弱いということになる。
そしてつぎの(抑うつ期)(受容期)へと進む。

が、ここで誤解してはいけないことは、だからといって、死に対しての恐怖感が
消えるのではないということ。
強弱の度合をいっても意味はない。
若い人でも、また老人でも、死への恐怖感に、強弱はない。
(死の受容)イコール、(生の放棄)ではない。
老人にも、(否認期)はあり、(怒り期)も(取り引き期)もある。
それゆえに、老人にもまた、若い人たちと同じように、死の恐怖はある。
繰り返すが、それには、強弱の度合は、ない。

●死の否認期

第0期の中で、とくに重要なのは、「死の否認期」ということになる。
「死の否認」は、0期全般にわたってつづく。
が、その内容は、けっして一様ではない。

来世思想に希望をつなぎ、死の恐怖をやわらげようとする人もいる。
反対に、友人や近親者が死んだあと、その霊を認めることによって、孤独をやわらげ
ようとする人もいる。
懸命に体力作りをしたり、脳の健康をもくろんだりする人もいる。
趣味や道楽に、生きがいを見出す人もいる。

が、そこは両側を暗い壁でおおわれた細い路地のようなもの。
路地は先へ行けば行くほど、狭くなり、暗くなる。
そしてさらにその先は、体も通らなくなるほどの細い道。
そこが死の世界……。

老人が頭の中で描く(将来像)というのは、おおむね、そんなものと考えてよい。
そしてそこから生まれる恐怖感や孤独感は、個人のもつ力で、処理できるような
ものではない。
つまりそれを救済するために、宗教があり、信仰があるということになる。
宗教や信仰に、救いの道を見出そうという傾向は、加齢とともにますます大きくなる。

●老後の生きざま

死は恐怖そのものだが、おおまかに分ければ、その捕らえ方には2つある。
死を限界状況ととらえ、その中で、自分を完全燃焼させようとする捕らえ方。
これを「現世限界型」とする。
もうひとつは来世に希望をつなぎつつ、享楽的に生きようとする捕らえ方。
これを「来世希望型」とする。

これらは両極端な捕らえ方だし、その折衷的な生き方も当然、ある。
程度のちがいもある。
あるいはその2つの捕らえ方に、そのつど翻弄されながら生きる人もいる。
どうであるにせよ、老人心理は死と切り離しては考えられない。

●限界状況

現世限界型の人たちは、「死」を「消滅」ととらえる。
それを認識する肉体そのものが消滅するわけだから、当然のことながら、(個体の
死)イコール、(全宇宙の消滅)ということになる。
わかりやすく言えば、私たちは死ねば、この宇宙もろとも、消滅する。
あとかたもなく、消えてなくなる。

これに対して来世希望型の人たちは、死んでも魂(スピリッツ)は残り、それが
別の世界、あるいは同じこの世で、生まれ変わると考える。
輪廻思想もそのひとつ。
ほとんどの宗教は、来世に希望をつながせることで、魂の救済を図る。

というのも、どちらの型であるにせよ、死は恐怖以外の何ものでもない。
死の恐怖と闘うといっても、個人の力には、限界がある。
とくに現世限界型の人は、それを選択したときから、限りない無間の孤独地獄に
苛(さいな)まされることになる。

●折衷型

私は基本的には、折衷型をとる。
一応、あの世は存在しないという現世限界型を選択しつつ、死んだあと、あの世が
あれば、もうけものという生き方をいう。
あるかないか、はっきりしないものに希望を託して、今、こうして生きている時間を、
粗末にしたくはない。

それはちょうど宝くじのようなもの。
当たるか当たらないか、はっきりしないものをアテにして、それでローンを組んで
家を建てる人はいない。
当たればもうけもの。
そのときはその当選したお金で、家を建てればよい。

つまり死ぬまで、ともかくも、あの世はないという前提で、懸命に生きる。
生きて生きて、生き抜く。
この世に悔いを残さないよう、自分を完全燃焼させる。
その結果として、つまり死んだとき、あの世があればもうけもの。
そこに神や仏がいるなら、それから神や仏の存在を信じても遅くはない。

●あの世論

あの世があるのか、ないのか、私にもわからない。
あることを証明した人はいない。
(「ある」と断言する人は、どこかの頭のおかしい人と考えてよい。)
ないことを証明した人もいない。
常識で考えれば、人間だけにあの世があるはずがない。
虫や魚には、どうしてないのか。
さらに恐竜や、1億年後にこの地球を支配するであろう知的生物には、
どうしてないのか。
人間だけが、(生き物)と考えるのは、どう考えても、おかしい。

で、仮に100歩譲って、「ある」とするなら、私は今、私たちが住んでいる
この世こそが、(あの世のあの世)ではないかと思っている。
あの世のほうが永遠というのなら、私たちが住んでいるこの世のほうが、
サブ、つまり(従)で、あの世のほうが、メイン(主)ということに
なる。

どうであるにせよ、論理的に考えれば考えるほど、あの世があるという
話には矛盾が生じてくる。

●完全燃焼

話がそれたが、老後は、完全燃焼をめざす。
私の考え方が正しいというわけではない。
自信もない。
仮に自信があったとしても、いつまでつづくか、わからない。
しかし、今は今。
その今の私は、そう思う。
そう願う。

したいことをし、言いたいことを言い、書きたいことを書く。
いつか頭の中がからっぽになるまで、それをする。
その結果、私がどうなるか、それもわからない。
具体的には、今できることは、先に延ばさない。
今日できることは、明日に延ばさない。
先手、先手で、ものごとを処理していく。

今の私には隠居など、考えられない。
隠居したところで、何もやることができない。
また今の私が仕事をやめたら、どうなる?
恐らくそのままボケてしまうだろう。
育児論など、書けなくなってしまうだろう。
そうなったら、私は、おしまい!

だから自分を燃焼させる。
燃焼させるしかない。

●最後に……

多くの人は、(私もその1人かもしれないが)、認知症か何かになって、頭の機能が
鈍くなった老人を見ながら、老人心理を推察するかもしれない。
「老人というのは、感覚も感情も、またそれに対する反応も鈍くなって、その結果
として死に対して鈍感になる」と。

が、これは誤解である。
先にも書いたように、死への恐怖感、そしてそれから生まれる孤独感には、強弱はない。
どんな人も、どんな年齢の人も、みな、共通にもっている。
生きている人は、みな、(生きたい)と思っている。
これには老若男女のちがいは、ない。
で、その反対側にあるのが、死への恐怖感であり、それから生まれる孤独感という
ことになる。

私の知人も、昨年、80数歳でこの世を去った。
最後は、家族の顔すら認識できなくなっていたが、それでも毎日、毎晩、死の恐怖に
おののいていた。
ときどき施設内の柵や塀を乗り越えて、外へ出ようとしたこともある。
それだって、死の恐怖から逃れようとしてそうしたとも解釈できる。

80歳になったから、死んでもよいと考えるようになるのではない。
90歳になったから、死の恐怖がなくなるというのでもない。
生きている以上、人は、老若男女に関係なく、みな、平等に死の恐怖を感ずる。
それから生まれる孤独を感ずる。

老人を見るとき、どうかそれだけは、誤解しないでほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
死の受容段階論、死の受容段階説、死の受容過程説、死の受容段階理論 はやし浩司
老人心理 死への不安 死の受容)

+++++++++++++++++

5年前に書いた、こんな原稿が
見つかりました。

+++++++++++++++++

【老後は、どうあるべきか】

+++++++++++++++++

年をとればとるほど、戦わねば
ならないもの。

それが「回顧性」。

人間も、過去ばかりみて生きるように
なったら、おしまい。

半分、棺おけに足をつっこんだような
もの。

この4年間、私は、この問題を、ずっと
考えてきた。

最初は、(老後の準備)を考えた。
しかしやがて、そういう考え方、つまり、
老後を意識した考え方は、まちがって
いることに、気がついた。

++++++++++++++++++

●分岐点は、満55歳前後

 年齢とともに、人は未来をみることよりも、過去をみるようになる。過去をなつかし
んで、その過去に浸(ひた)るようになる。

 心理学などの本によると、その分岐点は、満55歳前後だという。つまりこの年齢を
境にして、人は、未来をみることよりも、過去をみるようになる。同窓会や同郷会、さら
には「法事」に名を借りた親族会も、この年齢を境に、急に多くなる。

 要するに、満55歳を境に、人は、自らジジ臭くなり、ババ臭くなるということ。が、
それだけでは終わらない。

 回顧性が強くなればなるほど、思考力そのものが退化する。そのためその人は、融通
性を失い、がんこになる。過去を必要以上に美化し、心のよりどころを、そこに求めるよ
うになる。

 つまり回顧性などといったものは、それが肥大化すればするほど、魂の死につながる
と考えてよい。過去を懐かしんでばかりいる人は、いくら肉体は健康でも、魂は、すでに
半分、棺おけに足をつっこんだようなもの。

 そこで重要なことは、自分の中に、回顧性の芽を感じたら、それとは徹底的に戦う。
戦いながら、いつも目を未来に向ける。あの釈迦自身も、『死ぬまで精進せよ』(法句教)
というようなことを言っている。

 わかりやすく言えば、死ぬまで、前向きに生きろということ。

 2年半前に、こんな原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●回顧性と展望性

 過去をかえりみることを、「回顧」という。未来を広く予見渡すことを、「展望」とい
う。

 概して言えば、若い人は、回顧性のハバが狭く、展望性のハバが広い。老人ほど、回
顧性のハバが広く、展望性のハバが、狭い。

 幼児期から少年、少女期にかけて、展望性のハバは広くなる。数日単位でしか未来を
見ることができなかった子どもでも、成長とともに、数か月後、数年後の自分を見渡すこ
とができるようになる。つまりそのハバを広げていく。

 言いかえると、展望性と回顧性のバランスを見ることによって、その人の精神年齢を
知ることができる。つまり未来に夢や希望を託す度合が、過去をなつかしむ度合より大き
ければ、その人の精神年齢は、若いということになる。そうでなければ、そうでない。

 ある女性(80歳くらい)は、会うと、すぐ、過去の話をし始める。なくなった夫や、
その祖父母の話など。こうした行為は、まさに回顧性の表れということになる。が、こ
うした回顧性は、老人の世界では、珍しくない。ごくふつうのこととして、広く見られる。


 一方、若い人は、未来しかみない。時間は無限にあり、その未来に向かうエネルギー
も、永遠のものだと思う。それは同時に、若さの特権でもあるが、問題は、そのハバであ
る。

 自分の未来を、どの範囲まで、見ているか? 1年後はともかくも、20年後、30
年後は、見ているか?

 いくら展望性があるといっても、それが数か月どまりでは、どうにもならない。「明日
も何とかなる」では、どうにもならない。

 そこで、このことをもう少しわかりやすくまとめてみると、こうなる。

(1) 回顧性と展望性のハバが広い人……賢人
(2) 回顧性のハバが広く、展望性のハバが狭い人……老人一般
(3) 回顧性のハバが狭く、展望性のハバが広い人……若い人一般
(4) 回顧性と展望性のハバが狭い人……愚人(失礼!)

 (1)〜(3)は、比較的、わかりやすい。問題は(4)の愚人である。

 過去を蹴(け)散らし、その場だけの享楽に身を燃やす人は、ここでいう愚人という
ことになる。

 このタイプ人は、過去に対して、一片の畏敬(いけい)の念すらない。同時に、明日
のこともわからない。気にしない。その日、その日を、「今日さえよければ」と生きる。健
康も、またしかり。

 暴飲暴食を繰りかえし、今だけよければ、それでよいというような考え方をする。も
ちろん運動など、しない。まさにしたい放題。

 で、問題は、どうすれば、そういう子どもにしないですむかということ。一歩話を進
めると、どうすれば、子どもがもつ展望性のハバを、広くすることができるかということ。

 ためしに、あなたの子どもと、こんな会話をしてみてほしい。

親「あなたは、おとなになったら、どんなことをしないか?」
親「そのために、今、どんなことをしたらいいのか?」
親「で、今、どんなことをしているか?」と。

 以前、こんな女の子がいた。小学3年生の女の子だった。たまたまバス停で会ったの
で、近くの自動販売機で、何かを買ってあげようかと提案したら、その女の子は、こう言
った。

 「私、これから家に帰って夕食を食べます。今、ジュースを飲んだら、夕食が食べら
れなくなるから、いいです」と。

 その女の子は、自分の未来を、しっかりと展望していた。で、その女の子で、もう一
つ、印象に残っていることで、こんなことがあった。

 正月のお年玉として、かなりのお金を手にしたらしい。その女の子は、それらのお金
をすべて貯金すると言う。

 そこで私が、その理由を聞くと、「お金を貯金して、フルートを買う。そのフルートで、
音楽を練習して、私はおとなになったら、音楽家になる」と。

 一方、そうでない子は、そうでない。お金を手にしても、すぐ使ってしまう。浪費し
てしまう。飲み食いのために、使ってしまう。

 少し前だが、タバコを吸っている女子高校生とこんな会話をしたことがある。

私「タバコって、体に悪いよ」
女「知ってるヨ〜」
私「ガンになるよ」
女「みんな、なるわけじゃ、ないでしょう……?」

私「奇形出産のほとんどは、タバコが原因でそうなるっていう話は、どう?」
女「でも、そんな出産したという話は、聞かないヨ〜」
私「みんな、流産という形で、処置してしまうから……」
女「結婚したら、やめるヨ〜」

私「で、タバコって、おいしいの?」
女「別においしくないけどサ〜。吸ってないと、何となく、さみしいっていうわけ」
私「だったら、やめればいいじゃん」
女「また、病気にでもなったら、そのときはそのとき。そのとき、考えるわ」と。

 先の「フルートを買う」と答えた子どもは、ハバの広い展望性をもっていることにな
る。しかしタバコを吸っていた子どもは、ほどんど、その展望性のハバがないことになる。

 こうしたちがいが、なぜ起きるかと言えば、結局は、私の説く「自由論」に行き着く。
「自らに由(よ)る」という意味での、自由論である。

 それについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。しかし結局は、
子どもは、(自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとれる子ども)にする。展望性のハ

の広い子どもになるかどうかは、あくまでもその結果の一つでしかない。
(040125)(はやし浩司 回顧 展望 老後論 自由論)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 ちょうど57歳のとき、私も、中年期クライシスなるものを経験した。今から思うと、
あのときが、回顧性と展望性が、自分の中で交差するときではなかったと思う。その前後、
私の考え方が、急速にうしろ向きになっていったのを覚えている。

 そのとき書いた原稿が、つぎのものである。かなり暗い内容だが、少しがまんして読
んでほしい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●中年期クライシス(危機)

 若い人たちを見ていると、「いいなあ」と思うことがある。「苦労がなくて」と。しか
し同時に、「いいのかなあ?」と思うときもある。目の前に、中年の危機がすぐそこまでき
ているのに、それに気づいていない?

 危機。「クライシス」という。そして中高年の男女が感ずる危機を、総称して、「中年
期クライシス」という。

 健康面(心臓疾患、高血圧症、糖尿病などの、生活習慣病)、精神面(抑うつ感、うつ
病)のクライシス。仕事面、交遊面のクライシスなど。もちろん夫婦関係、親子関係のク
ライシスもある。

 こうしたクライシスが、それこそ怒涛(どとう)のように押し寄せてくる。若い人は、
遠い未来の話と思うかもしれないが、そのときになってみると、あっという間に、そうな
る。それがまた、中年期クライシスのこわいところでもある。

●中年期クライシス、私のばあい

 私は、もうそろそろ中年期を過ぎて、初老期にさしかかっている。もうすぐ満57歳
になる。

 まず健康面だが、このところ、ずっと、どうも心が晴れない。軽いうつ状態がつづい
ている。それに仮性うつ病というか、頭が重い。ときどき偏頭痛の前ぶれのような症状が
起きる。

 仕事は楽で、ほどほどに順調だが、何かと悩みごとはつきない。ときどき「私は、も
う用なしなのか」と思うことがある。息子たちも、ほぼ、みな、巣立った。ワイフも、あ
まり私の存在をアテにしていないようだ。「あんたが死んだら、私、息子といっしょに住む
わ」などと、平気で言う。

 私を心配させないためにそう言うのだろう。が、どこかさみしい。

 性欲は、まだふつうだと思うが、しかしここ数年、女性が、急速に遠ざかっていくの
が、自分でもわかる。若い母親たちのばあい、(当然だが……)、もう私を「男」と見てい
ない。それが自分でも、よくわかる。

 だから私も、気をつかうことが、ぐんと少なくなった。「どうせ私を男とみてくれない
なら、お前たちを、女とみてやるかア!」と。

 しかしこの世の中、「女」あっての、「男」。女性たちに「男」にみてもらえないのは、
さみしい。

 そう、中年期クライシスの特徴は、この(さみしさ)かもしれない。

 たとえばモノを買うときも、「あと○○年、もてばいい」というような考え方をする。何
かにつけて、未来的な限界を感ずる。

 あるいは今は、ワイフも私も、かろうじて健康だが、ときどき、「いつまで、もつだろ
うか?」と考える。「そのときがきても、覚悟ができているだろうか?」と。そういう私の
中年期クライシスをまとめると、こうなる。

(1) 健康面の不安……体力、気力の衰え。自信喪失。回復力の遅れなど。
(2) 精神面の不安……落ちこむことが多くなった。うつ状態になりやすい。
(3) 家族の不安……子どもたちがみな、健康で幸福になれるだろうかという心配。
(4) 老後の不安……収入面、仕事面での不安。何か事故でもあれば、万事休す。
(5) 責任感の増大……「私は倒れるわけにはいかない」という重圧感。

 こうしたもろもろのストレスが、心を日常的に、おしつぶす。そしてそれが、食欲不
振、頭重感、抑うつ感、不安神経症へとつながる。「心が晴れない」というのは、そういう
状態を、総合していう。

●何とかごまかして、前向きに生きる

 自分の心を冷静に、かつ客観的にみることは大切なことだが、ときとして、自分の心

をだますことも必要なのかもしれない。
 楽しくもないのに、わざと楽しいフリをしてみせて、まわりを茶化す。おもしろくも
ないのに、わざとおもしろいと騒いでみせて、まわりをごまかす。

 しかしそれも、疲れる。あまりひどくなると、感情が鈍麻することもあるそうだ。よ
く言われる、「微笑みうつ病」というのも、それ。心はうつ状態なのに、表情だけはにこや
か。いつも満足そうに、笑っている。

 そう言えば、Mさんの奥さん(60歳くらい)も、そうかもしれない。通りであって
も、いつも、ニコニコと笑っている。が、実際、話してみると、どこか上(うわ)の空。
会話が、まったくといってよいほど、かみあわない。

 ただ生きていくことが、どうしてこんなにも、つらいのか……と思うことさえ、ある。
ある先輩は、ずいぶんと昔だが、つまりちょうど今の私と同年齢のときに、こう言った。

 「林君、中年をすぎたら、生活はコンパクトにしたほうがいいよ。それに人間関係は、
簡素化する」と。

 生活をコンパクト化するということは、出費を少なくするということ。60歳を過ぎ
たら、広い土地に大きな家はいらない。小さな家で、じゅうぶん。

 人間関係を簡素化するということは、交際範囲を狭くし、交際する人を選ぶというこ
と。ムダに、広く浅く交際しても、意味はない。

 が、なかなか、その切り替えができない。「家を小さくする」といっても、実際には、
難題である。心のどこかには、「がんばれるだけ、がんばってみよう」という思いも残って
いる。

 交際範囲については、最近、こう思うようになった。

 親戚や知人の中には、私のことを誤解して、あれこれ悪く言っている人もいる。若い
ころの私だったら、そういう誤解を解くために、何かと努力もしただろうが、今は、もう
しない。「どうでも勝手に思え」という、どこか投げやり的な、居なおりが、強くなった。

 どうせ、みんな、私も含めて、あと20年も生きられない。そういう思いもある。

 が、考えたところで、どうにかなる問題ではない。だから結論はいつも、同じ。

 そのときまで、前向きに生きていこう、と。生きている以上、ここで死ぬわけにはい
かない。責任を放棄するわけにもいかない。だから生きていくしかない。自分をごまかし
ても、偽っても、生きていくしかない。

 そしてそれが中年期クライシスにある私たちの、共通の思いではないだろうか、……
と、今、勝手にそう思っている。
(040619)
(はやし浩司 中年期クライシス 中年クライシス 中年期の危機)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 しかし私は、まちがっていた。やがてそれに気がついた。人は年をとっても、コンパクトに生き
る必要はない。またコンパクトな生き方をしてはいけない。

 何も、自ら好き好んで、死ぬための準備など、する必要はない。最後の最後まで、自分をま
っとうさせる。

 そうした変化を自分の中で感じたのが、つぎの原稿を書いたときである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●小さく生きる人、大きく生きる人

+++++++++++++++

老人になると、小さくなっていく
人と、大きくなっていく人がいま
すね。

+++++++++++++++

 人は、人、ぞれぞれ。生き方も、人、それぞれ。最近、老人観察をつづけている。こ
のところ、老人の生き様が、気になって、しかたない。それについては、少し前にも、書
いた。

 で、大別して、老人になればなるほど、より小さく生きる人と、より大きく生きる人
がいることがわかる。その間にあって、(その日、その日を、ただ生きている人)もいるが、
そういう老人は、ここでは考えない。

【より小さく生きる人】

 より小さく生きる人は、生活そのものを、コンパクトにしようとする。しかしそれは
それで賢明なことかもしれない。欧米人でも、高齢化すればするほど、そういう生き方を
するのが、ふつうのようである。

 たとえば、住環境を縮小したり、人間関係を整理したりするなど。収入も減り、健康
にも自信がなくなれば、それは当然のことかもしれない。

 しかしそれにあわせて、自分という人間そのものまで、小さくしてしまう人がいる。
わかりやすく言えば、より自己中心的になる。

 より利他的な生き方をする人を、人格のより完成した人とみるなら、より自己中心的
になるということは、それだけ、人格が後退したとみる。より自己中心的になれば、やが
て、自分のことだけしかしなくなる。自分さえよければというような、考え方をするよう
になる。

 たとえば世間的な活動には、まったく参加せず、個人的な趣味だけしかしないという
老人は、少なくない。で、このタイプの老人にかぎって、少しでも、自分の生活圏が侵さ
れたりすると、猛烈に反発したりする。

【より大きく生きる人】

 これに対して、自分の生活を、より大きくしようとする人がいる。「大きい」といって
も、住環境を拡大したり、新しい人間関係を求めるというのではない。ある男性は、いつ
も口ぐせのように、こう言っている。

 「私は今まで、こうして無事に生きてくることができた。それを最後には、社会に還
元するのが、私の最後の務めである」と。すばらしい生き方である。

 つまりこのタイプの人は、より、利他的になることによって、人格の完成度を高めよ
うとする。ある女性は、80歳をすぎてからも、乳幼児の医療費、完全無料化のための運
動をつづけていた。「どこからそういうエネルギーがわいてくるのですか?」と私が聞くと、
その女性は笑いながら、こう言った。「私は、ずっと保育士をしてきましたから」と。

 その人の人生は、その人のもの。だから他人がとやかく言ってはいけない。最近の私
は、「とやかく思ってもいけない」と、考え始めている。仮にあなたの隣人が、優雅な年金
生活をしていたとしても、それはその人の人生。批判したり、批評したりすることも、い
けない。

 反対の立場で言うなら、他人にどう思われようが、気にすることはない。

 大切なことは、私は私で、納得のできる老後の道をさがすこと。あくまでも、私は、
私。が、これだけは、言える。

 愚かな人からは、賢明な人がわからない。しかし賢明な人からは、愚かな人がよくわ
かる。同じように、人格の完成度の低い人からは、完成度の高い人はわからない。しかし
完成度の高い人からは、、完成度の低い人がよくわかる。

 それはちょうど、山登りに似ている。低いところにいる人は、高いところから見る景
色がどんなものか、わからない。しかし高いところにいる人は、低いところにいる人が見
ることができない景色を見ることができる。

 そしてより広い景色を見た人は、きっと、こう思うだろう。「今まで、こんな景色を知
らなかった私は、愚かだった。損をした」と。

 ……といっても、それはあくまでも、相対的なもの。こんなことがあった。

 私が、地域の公的団体の主催する講演会で、講師をしたときのこと。少し自慢げに、
恩師のT先生にそのことを話したら、T先生から、すかさず、一枚の写真が送られてきた。
その写真というのは、T先生が、「中国化学会創立50周年記念」で、記念講演をしている
ときの写真だった。しかも添え書きには、「中国語でしました」とあった。

 T先生は、いつも私が見たこともない世界で、仕事をしている。だから私ができるこ
とといえば、先生の言葉の断片から、その見たこともない世界を想像するだけでしかない。
そのT先生から見れば、私の住んでいる世界などというものは、まるでおもちゃの世界の
ようなものかもしれない。

 そうそう、もう一人、別の恩師は、こうメールを書いてきた。その恩師も、世界を舞
台に、あちこちで、講演活動をしている。いわく、「林君、田舎のおばちゃんたちなんか、
相手にしていてはだめだ」と。

 ずいぶんときつい言葉である。そのときは、「そんなことを女性たちが聞いたら、怒る
だろうな」と思った。しかし同時に、「そういうものかなあ?」と思った。その恩師にして
も、私の世界をはるかに超えた世界で、仕事をしている。

 まあ、このところ、私の限界も、はっきりしてきた。「私の人生は、こんなもの」と、
心のどこかで、ふんぎりをつけるようになった。だから後悔はしないが、しかしこれで私
の人生が終わったわけではない。

 できれば、これから先、ここに書いた、(より大きく生きる老人)になりたいと願って
いる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

ちょうど上の原稿を書いたころ、こんな原稿も書いた。

内容が少しダブるかもしれないが、ここに掲載する。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●過去と未来

 未来を思う心と、過去をなつかしむ心は、満55歳くらいを境にして、入れかわると
いう。ある心理学の本(それほど権威のある本ではない)に、そう書いてあった。しかし
これには、当然、個人差がある。

 70歳になっても、あるいは80歳になっても、未来に目を向けている人は多い。反
対に、40歳の人でも、30歳の人でも、過去をなつかしんでいる人は多い。もちろんど
ちらがよいとか、悪いとかいうのではない。ただ満55歳くらいを境に、未来を思う心と、
過去をなつかしむ心が半々くらいになり、それ以後は、過去をなつかしむ心のほうが大き
くなるということらしい。

 が、私のばあい、過去をなつかしむということが、ほとんど、ない。それはほとんど
毎日、幼児や小学生と接しているためではないか。そういう子どもたちには、未来はあっ
ても、過去は、ない。

が、かといって、その分私が、未来に目を向けているかというと、そういうこともない。
今度は、私の生きザマが、それにかかわってくる。私にとって大切なのは、「今」。10年
後、あるいは20年後のことを考えることもあるが、それは「それまで生きているかなあ」
という程度のことでしかない。

 ときどき、「前世や来世はあるのかなあ」と考えることがある。しかし釈迦の経典※を
いくら読んでも、そんなことを書いてあるところは、どこにもない。イエス・キリストも、
天国の話はしているが、ここでいう前世論や来世論とは、異質のものだ。

(※釈迦の生誕地に残る、原始仏教典『スッタニパータ』のこと。日本に入ってきた仏
教典のほとんどは、釈迦滅後4、500年を経て、しかもヒンズー教やチベット密教とミ
ックスされてできた。とくに輪廻転生、つまり生まれ変わり論を、とくに強く主張したの
が、ヒンズー教である。)

 今のところ、私は、「そういうものは、ない」という前提で生きている。あるいは「あ
ればもうけもの」とか、「死んでからのお楽しみ」と考えている。本当のところはよくわか
らないが、私には見たこともない世界を信じろと言われても、どうしてもできない。

 本来なら、ここで、「神様、仏様、どうか教えてください」と祈りたいところだが、私
のようなものを、神や仏が、相手にするわけがない。少なくとも、私が神や仏なら、はや
し浩司など、相手にしない。どこかインチキ臭くて、不誠実。小ズルくて、気が小さい。
大きな正義を貫く勇気も、度胸もない。小市民的で、スケールも貧弱。仮に天国があると
しても、私などは、入り口にも近づけないだろう。

 だからよけいに未来には、夢を託さない。与えられた「今」を、徹底的に生きる。そ
れしかない。それに老後は、そこまできている。いや、老人になるのがこわいのではない。
体力や気力が弱くなることが、こわい。そしてその分、自分の醜いボロが、表に出てくる
のがこわい。

 個人的な意見としては、あくまでも個人的な意見だが、人も、自分の過去ばかりをな
つかしむようになったら、おしまいということ。あるいはもっと現実的には、過去の栄華
や肩書き、名誉にぶらさがるようになったら、おしまいということ。そういう老人は、い
くらでもいる。が、同時に、そういう老人の人生観ほど、人をさみしくさせるものはない。

 そうそう釈迦は、原始仏教典の中でも、「精進」という言葉を使って、「日々に前進す
ることこそ、大切だ」と教えている。しかも「死ぬまで」と。

わかりやすく言えば、仏の境地など、ないということになる。そういう釈迦の教えにコ
メントをはさむのは許されないことだが、私もそう思う。人間が生きる意味は、日々を、
懸命に、しかも前向きに生きるところにある。過去ではない。未来でもない。「今」を、だ。

 一年前に書いた原稿だが、少し手直しして、ここに掲載する。

++++++++++++++++++++++++

●前向きの人生、うしろ向きの人生

●うしろ向きに生きる女性

 毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、人生はおしま
い。偉そうなことは言えない。しかし私とて、いつそういう人生を送るようになるかわか
らない。しかしできるなら、最後の最後まで、私は自分の人生を前向きに、生きたい。自
信はないが、そうしたい。

 自分の商売が左前になったとき、毎日、毎晩、仏壇の前で拝んでばかりいる女性(7
0歳)がいた。その15年前にその人の義父がなくなったのだが、その義父は一代で財産
を築いた人だった。くず鉄商から身を起こし、やがて鉄工場を経営するようになり、一時
は従業員を五人ほど雇うほどまでになった。

が、その義父がなくなってからというもの、バブル経済の崩壊もあって、工場は閉鎖寸
前にまで追い込まれた。(その女性の夫は、義父のあとを追うように、義父がなくなってか
ら2年後に他界している。)
 
 それまでのその女性は、つまり義父がなくなる前のその女性は、まだ前向きな生き方
をしていた。が、義父がなくなってからというもの、生きザマが一変した。その人には、
私と同年代の娘(二女)がいたが、その娘はこう言った。

「母は、異常なまでにケチになりました」と。たとえば二女がまだ娘のころ、二女に買
ってあげたような置物まで、「返してほしい」と言い出したという。「それも、私がどこに
あるか忘れてしまったようなものです。値段も、2000円とか3000円とかいうよう
な、安いものです」と。

●人生は航海のようなもの

 人生は一人で、あるいは家族とともに、大海原を航海するようなもの。つぎからつぎ
へと、大波小波がやってきて、たえず体をゆり動かす。波があることが悪いのではない。
波がなければないで、退屈してしまう。船が止まってもいけない。航海していて一番こわ
いのは、方向がわからなくなること。同じところをぐるぐる回ること。もし人生がその繰
り返しだったら、生きている意味はない。死んだほうがましとまでは言わないが、死んだ
も同然。

 私の知人の中には、天気のよい日は、もっぱら魚釣り。雨の日は、ただひたすらパチ
ンコ。読む新聞はスポーツ新聞だけ。唯一の楽しみは、野球の実況中継を見るだけという
人がいる。しかしそういう人生からはいったい、何が生まれるというのか。いくら釣りが
うまくなっても、いくらパチンコがうまくなっても、また日本中の野球の選手の打率を暗
記しても、それがどうだというのか。そういう人は、まさに死んだも同然。

 しかし一方、こんな老人(尊敬の念をこめて「老人」という)もいる。昨年、私はあ
る会で講演をさせてもらったが、その会を主宰している女性が、80歳を過ぎた女性だっ
た。乳幼児の医療費の無料化運動を推し進めている女性だった。私はその女性の、生き生
きした顔色を見て驚いた。

「あなたを動かす原動力は何ですか」と聞くと、その女性はこう笑いながら、こう言っ
た。「長い間、この問題に関わってきましたから」と。保育園の元保母だったという。そう
いうすばらしい女性も、少ないが、いるにはいる。

 のんびりと平和な航海は、それ自体、美徳であり、すばらしいことかもしれない。し
かしそういう航海からは、ドラマは生まれない。人間が人間である価値は、そこにドラマ
があるからだ。そしてそのドラマは、その人が懸命に生きるところから生まれる。人生の
大波小波は、できれば少ないほうがよい。そんなことはだれにもわかっている。しかしそ
れ以上に大切なのは、その波を越えて生きる前向きな姿勢だ。その姿勢が、その人を輝か
せる。

●神の矛盾

 冒頭の話にもどる。
 
信仰することがうしろ向きとは思わないが、信仰のし方をまちがえると、生きザマがう
しろ向きになる。そこで信仰論ということになるが……。

 人は何かの救いを求めて、信仰する。信仰があるから、人は信仰するのではない。あ
くまでも信仰を求める人がいるから、信仰がある。よく神が人を創(つく)ったというが、
人がいなければ、神など生まれなかった。もし神が人間を創ったというのなら、つぎのよ
うな矛盾をどうやって説明するのだろうか。これは私が若いころからもっていた疑問でも
ある。

 人類は数万年後か、あるいは数億年後か、それは知らないが、必ず絶滅する。ひょっ
としたら、数百年後かもしれないし、数千年後かもしれない。しかし嘆くことはない。そ
のあと、また別の生物が進化して、この地上を支配することになる。たとえば昆虫が進化
して、昆虫人間になるということも考えられる。その可能性はきわめて大きい。となると、
その昆虫人間の神は、今、どこにいるのかということになる。

 反対に、数億年前に、恐竜たちが絶滅した。一説によると、隕石の衝突が恐竜の絶滅
をもたらしたという。となると、ここでもまた矛盾にぶつかってしまう。そのときの恐竜
には神はいなかったのかということになる。

数億年という気が遠くなるほどの年月の中では、人類の歴史の数10万年など、マバタ
キのようなものだ。お金でたとえていうなら、数億円あれば、近代的なビルが建つ。しか
し数10万円では、パソコン1台しか買えない。数億年と数10万年の違いは大きい。モ
ーゼがシナイ山で十戒を授かったとされる時代にしても、たかだか5000年〜6000
年ほど前のこと。たったの6000年である。それ以前の数10万年の間、私たちがいう
神はいったい、どこで、何をしていたというのか。

 ……と、少し過激なことを書いてしまったが、だからといって、神の存在を否定して
いるのではない。この世界も含めて、私たちが知らないことのほうが、知っていることよ
り、はるかに多い。だからひょっとしたら、神は、もっと別の論理でものを考えているの
かもしれない。そしてその論理に従って、人間を創ったのかもしれない。そういう意味も
ふくめて、ここに書いたのは、あくまでも私の疑問ということにしておく。

●ふんばるところに生きる価値がある

 つまり私が言いたいのは、神や仏に、自分の願いを祈ってもムダということ。(だから
といって、神や仏を否定しているのではない。念のため。)仮に百歩譲って、神や仏に、奇
跡を起こすようなスーパーパワーがあるとしても、信仰というのは、そういうものを期待
してするものではない。ゴータマ・ブッダの言葉を借りるなら、「自分の中の島(法)」(ス
ッタニパーダ「ダンマパダ」)、つまり「思想(教え)」に従うことが信仰ということになる。
キリスト教のことはよくわからないが、キリスト教でいう神も、多分、同じように考えて
いるのでは……。

生きるのは私たち自身だし、仮に運命があるとしても、最後の最後でふんばって生きる
かどうかを決めるのは、私たち自身である。仏や神の意思ではない。またそのふんばるか
らこそ、そこに人間の生きる尊さや価値がある。ドラマもそこから生まれる。

 が、人は一度、うしろ向きに生き始めると、神や仏への依存心ばかりが強くなる。毎
日、毎晩、仏壇の前で拝んでばかりいる人(女性70歳)も、その1人と言ってもよい。
同じようなことは子どもたちの世界でも、よく経験する。

たとえば受験が押し迫ってくると、「何とかしてほしい」と泣きついてくる親や子どもが
いる。そういうとき私の立場で言えば、泣きつかれても困る。いわんや、「林先生、林先生」
と毎日、毎晩、私に向かって祈られたら、(そういう人はいないが……)、さらに困る。も
しそういう人がいれば、多分、私はこう言うだろう「自分で、勉強しなさい。不合格なら
不合格で、その時点からさらに前向きに生きなさい」と。
 
●私の意見への反論

 ……という私の意見に対して、「君は、不幸な人の心理がわかっていない」と言う人が
いる。「君には、毎日、毎晩、仏壇の前で祈っている人の気持ちが理解できないのかね」と。
そう言ったのは、町内の祭の仕事でいっしょにした男性(75歳くらい)だった。が、何
も私は、そういう女性の生きザマをまちがっているとか言っているのではない。またその
女性に向かって、「そういう生き方をしてはいけない」と言っているのでもない。その女性
の生きザマは生きザマとして、尊重してあげねばならない。

この世界、つまり信仰の世界では、「あなたはまちがっている」と言うことは、タブー。
言ってはならない。まちがっていると言うということは、二階の屋根にのぼった人から、
ハシゴをはずすようなもの。ハシゴをはずすならはずすで、かわりのハシゴを用意してあ
げねばならない。何らかのおり方を用意しないで、ハシゴだけをはずすというのは、人と
して、してはいけないことと言ってもよい。

 が、私がここで言いたいのは、その先というか、つまりは自分自身の将来のことであ
る。どうすれば私は、いつまでも前向きに生きられるかということ。そしてどうすれば、
うしろ向きに生きなくてすむかということ。

●今、どうしたらよいのか?

 少なくとも今の私は、毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようにな
ったら、人生はおしまいと思っている。そういう人生は敗北だと思っている。が、いつか
私はそういう人生を送ることになるかもしれない。そうならないという自信はどこにもな
い。保証もない。毎日、毎晩、仏壇の前で祈り続け、ただひたすら何かを失うことを恐れ
るようになるかもしれない。私とその女性は、本質的には、それほど違わない。

しかし今、私はこうして、こうして自分の足で、ふんばっている。相撲(すもう)にた
とえて言うなら、土俵際(ぎわ)に追いつめられながらも、つま先に縄をからめてふんば
っている。歯をくいしばりながら、がんばっている。力を抜いたり、腰を浮かせたら、お
しまい。あっという間に闇の世界に、吹き飛ばされてしまう。

しかしふんばるからこそ、そこに生きる意味がある。生きる価値もそこから生まれる。
もっと言えば、前向きに生きるからこそ、人生は輝き、新しい思い出もそこから生まれる。
……つまり、そういう生き方をつづけるためには、今、どうしたらよいか、と。

●老人が気になる年齢

 私はこのところ、年齢のせいなのか、それとも自分の老後の準備なのか、老人のこと
が、よく気になる。電車などに乗っても、老人が近くにすわったりすると、その老人をあ
れこれ観察する。先日も、そうだ。「この人はどういう人生を送ってきたのだろう」「どん
な生きがいや、生きる目的をもっているのだろう」「どんな悲しみや苦しみをもっているの
だろう」「今、どんなことを考えているのだろう」と。そのためか、このところは、見た瞬
間、その人の中身というか、深さまでわかるようになった。

で、結論から先に言えば、多くの老人は、自らをわざと愚かにすることによって、現実
の問題から逃げようとしているのではないか。その日、その日を、ただ無事に過ごせれば
それでよいと考えている人も多い。中には、平気で床にタンを吐き捨てるような老人もい
る。クシャクシャになったボートレースの出番表を大切そうに読んでいるような老人もい
る。

人は年齢とともに、より賢くなるというのはウソで、大半の人はかえって愚かになる。
愚かになるだけならまだしも、古い因習をかたくなに守ろうとして、かえって進歩の芽を
つんでしまうこともある。

 私はそのたびに、「ああはなりたくはないものだ」と思う。しかしふと油断すると、い
つの間か自分も、その渦(うず)の中にズルズルと巻き込まれていくのがわかる。それは
実に甘美な世界だ。愚かになるということは、もろもろの問題から解放されるということ
になる。何も考えなければ、それだけ人生も楽?

●前向きに生きるのは、たいへん

 前向きに生きるということは、それだけもたいへんなことだ。それは体の健康と同じ
で、日々に自分の心と精神を鍛錬(たんれん)していかねばならない。ゴータマ・ブッダ
は、それを「精進(しょうじん)」という言葉を使って表現した。精進を怠ったとたん、心
と精神はブヨブヨに太り始める。そして同時に、人は、うしろばかりを見るようになる。
つまりいつも前向きに進んでこそ、その人はその人でありつづけるということになる。

 改めてもう一度、私は自分を振りかえる。そしてこう思う。「さあて、これからが正念
場だ」と。
(030613)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

そして昨年(05年)の1月に、つぎのような原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●心に残る人たち

 個性的な生き方をした人というのは、それなりに強く印象に残る。そしてそれを思い
出す私たちに、何か、生きるためのヒントのようなものを与えてくれる。

 たとえば定年で退職をしたあと、山の中に山小屋を建てて、そこに移り住んだ人がい
た。姉が中学校のときに世話になった、Nという名前の学校の先生である。その人が、こ
とさら印象に強く残っているのは、郷里へ帰るたびに、姉が、N先生の話をしたからでは
ないか。

 「N先生が、畑を作って、自給自足の生活をしている」
 「半地下の貯蔵庫を作って、そこできのこの栽培をしている」
 「教え子たちを集めて、パーティを開いた」など。

 ここまで書いたところで、つぎつぎと、いろいろな人が頭の中に浮かんでは消えた。

 G社という出版社で編集長をしていた、S氏という名前の人は、がんの手術を受けた
あと、一度、元気になった。その元気になったとき、60歳になる少し前だったが、自動
車の運転免許証を手に入れた。車を買った。そしてこれは、あとから奥さんから聞いた話
だが、毎週、ドライブを繰りかえし、なくなるまでの数年間、1年で、10万キロ近く、
日本中を走りまわったという。

 またS社という、女性雑誌社に勤めていた、I氏という名前の人は、妻を病気でなく
したあと、丸1年、南太平洋の小さな島に移り住み、そこで暮らしたという。一時は、行
方不明になってしまったということで、周囲の人たちはかなり心配した。が、1年後に、
ひょっこりと、その島から戻ってきた。そしてそのあとは、何ごともなかったかのような
顔をして、10年近くも、S社の子会社で、また、健康雑誌の編集長として活躍した。

 で、それからもう20年近くも過ぎた。山の中に山小屋を建てて住んだNという先生
は、とっくの昔に、なくなった。G社の編集長をしていたS氏も、なくなった。女性雑誌
社に勤めていたI氏は、私が知りあったとき、すでに50歳を過ぎていた。私が、25歳
のときのことだった。だから今、生きているとしても、80歳以上になっていると思う。

 I氏からは、あるときまでは、毎年、年賀状が届いた。が、それ以後、音信が途絶え
た。住所も変わった。

 そうそうG社という出版社に、Tさんという女性がいた。たいへん世話になった人で
ある。そのTさんは、G社を定年で退職したあとまもなく、大腸がんで、なくなってしま
った。

 その葬式に出たときのこと。こんな話を聞いた。

 そのとき、私は、そのTさんにある仕事を頼んでいた。その仕事について、ある日の
昼すぎに、電話がかかってきた。Tさんが病気だということは知っていた。が、意外と、
明るい声だった。Tさんは、いつものていねいな言い方で、私の頼んだ仕事ができなくな
ったということをわびた。そして何度も何度も、「すみません」と言った。

 そのことを葬儀の席で、Tさんをよく知る人に話すと、その人は、こう言った。「そん
なはずはない。Tさんが、あなたに電話をしたというときには、Tさんは、すでに昏睡状
態だった。電話など、できるような状態ではなかった」と。

 おかしな話だなと、そのときは、そう思った。あるいはそういう状態のときでも、ふ
と、意識が戻ることもあるそうだ。Tさんは、そういうとき、私に電話をかけてくれたの
かもしれない。

 親類の人たちや、友人は別として、その生きザマが、印象に残る人もいれば、そうで
ない人もいる。言うなれば、平凡は美徳だが、平凡な生活をした人は、あとに、何も残さ
ない。だからといって、平凡な生活をすることが悪いというのではない。「私らしい生きザ
マ」とは言うが、しかしそれができる人は、幸せな人だ。

 たいていの人は、世間や家族、さらには親類などのしがらみに、がんじがらめになっ
て、身動きがとれないでいる。いまだに「家」を引きずっている人も、少なくない。そう
いう状況の中で、その日、その日を、懸命に生きている。

 それにこうした個性的な生きザマを残した人にしても、私たちに何かを(残す)ため
に、そうしたわけではない。私たちに何かを教えるために、そうしたわけでもない。結果
として、私たちが、勝手にそう思うだけである。

 ただ、こういうことは言える。

 それぞれの人は、それぞれの人生を懸命に生きているということ。悲しみや苦しみと
戦いながら、懸命に生きているということ。その懸命に生きているという事実が、無数の
ドラマを生み、そのドラマが、そのあとにつづく私たちに、ときに、大きな感動を残して
くれるということ。

 で、かく言う私はどうなのかという問題が残る。

 ここ数か月以上、私は、「老人観察」なるものをしてきた。その結論というか、中間報
告として、ここで言えることは、私は、最後の最後まで、年齢など忘れて、がんばって生
きてみようということ。

 ときに、「生活をコンパクトにしよう」とか、「老後や、死後に備えよう」などと考え
たこともあるが、それはまちがっていた。エッセーの中で、そう書いたこともある。まだ、
その迷いから完全に抜けきったわけではないが、私は、そういう考え方を捨てた。……捨
てようとしている。

 つまりそういう生きザマを、こうした人たちが、私に教えてくれているように思う。
私たちはその気にさえなれば、最後の最後まで、何かができる。それを教えてくれている
ように思う。

 N先生……私自身は一面識もないが、心の中では、いつも尊敬していた。
 S氏……そのS氏が、私にエッセーの書き方を教えてくれた。
 I氏……いっしょに健康雑誌を書いた。……I氏の実名を出してもよいだろう。I氏は、
主婦と生活社の編集長をしていた、井上清氏をいう。健康雑誌の名前は、『健康家族』とい
う雑誌だった。その名前を覚えている人も、中にはいると思う。

 そしてTさん。電話では、自分の病状のことは、何も言わなかった。それが今になっ
て、私の胸を熱くする。私は、そのTさんの葬儀には、最後の最後まで、つきあった。藤
沢市の会館で葬儀をし、そのあと、どこかの火葬場で、火葬にふされた。アメリカ軍の基
地の近くで、ひっきりなしに、飛行機の爆音が聞こえていた。私は、Tさんが火葬されて
いる間、何度も何度も、その飛行機を見送った。

 遠い昔のことのようでもあるし、つい先日のことのようにも思う。みなさん、私に生
きる力を与えてくれてありがとう。私も、あとにつづきます!

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●終わりに……

 老後の敵、それはここに書いた「回顧性」ということになる。その回顧性を感じたら、
すでにあなたも、老人の仲間入りをしたということになる。

 もし、それがいやなら、つまりジジ臭くなったり、ババ臭くなるのがいやだったら、
回顧性とは、戦うしかない。

 私は死ぬまで、現役。あなたも、死ぬまで、現役。いつまでも、若々しく、前向きに
生きていく。

 繰りかえすが、毎日、過去をなつかしみながら、仏壇の金具を磨きながら日を過ごす
ようになったら、その人も、おしまい。そういうこと。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
回顧性と展望性 展望性と回顧性)

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【補足】輪廻思想について

●輪廻(りんね)

++++++++++++++

生まれ変わることができるというのは、
たしかに希望である。

生まれ変われないにしても、30歳とか、
40歳、突然、若くなれるとしたら……。

が、ここで私は、ふと、思いとどまる。

生まれ変わるとしても、条件がある。
今の生活環境以上に、よい生活環境
に生まれ変わるとしたら、それはそれで
よい。

しかしそうでなければ、どうするか?
たとえば現在のK国のような国で
生まれ変わるとしたら、私はごめん。

戦前の日本のような国も、いや。

さらに、だれかが、こう言ったとしたら、
私は、たぶん、それを断るだろう。

「林、もう一度、20歳に戻してやる。
同じ人生を歩んでみろ」と。

人生は一度でたくさん。私はそこまで
は思わないが、中には、こりごり
という人だっているかもしれない。

そんなふうに考えていくと、こうした生まれ
変わり、つまり輪廻(りんね)思想の生まれた
インドでは、輪廻そのものを、大衆は
支持していなかったのではないか?、という
疑問がわいてくる。

カースト制度というきびしい身分制度。その
身分制度の中で、奴隷(シュードラ)は
生まれながらにして奴隷であり、一生、
死ぬまで、奴隷であった。

そんな奴隷の1人に、輪廻思想を説いても、
はたしてその奴隷は、その思想を受け入れる
だろうか。たぶんその奴隷は、こう言うだろう。

「人生なんて、一度で、こりごり」と。

そこでウパニシャッド哲学(インド哲学)では、
輪廻転生から離脱し、宇宙(神)と一体化する
ことを、「解脱(げだつ)」と呼んだ。

(ちゃんと逃げ道が用意してあるところが、
すごい!)

私たちの魂は、生きたり死んだりを繰り返す。
その魂を、瞑想、つまりヨーガによって、宇宙の
神と一体化させる。

そうすればだれでも、解脱の境地に達する
ことができる。つまり、輪廻転生の輪から、
自分を解放させることができる。

+++++++++++++++

 インド哲学を理解するときは、一度、私たちを文明の世界から切り離さなければなら
ない。私たちが現在もっている常識で、インド哲学を理解しようとしても、理解できない。
そういう部分は、多い。

 これはあくまでも私の推察だが、当時のインドでは、時間についての観念そのものが
今とはちがっていたのではないか。たとえば30年、一昔というが、当時のインドでは、
100年単位、200年単位で、時代が動いていた。

 あるときあなたはひとつの村を訪ねる。そこで何人かの村人に会う。が、それから3
0年後。再び、あなたはその村を訪ねる。あなたはそこにいる人たちを見て、驚く。生活
もしきたりも、30年前とまったく同じ。

 生活やしきたりばかりではない。そこに住んでいる人たちも、30年前とまったく同
じ。30年前に会った人たちが、そっくりそのまま新しい人たちと置き換わっている。

 私は輪廻思想が生まれた背景には、そういった時代的背景があったと思う。つまりあ
なたから見れば、時間の流れというのが、くるくると回っているかのように見える。その
くるくると回っているという部分から、「輪廻」という言葉が生まれた。

 それについて以前、書いた原稿が、つぎのものである。一部、重複するが許してほし
い。

+++++++++++++++++

【過去、現在、未来】

●輪廻(りんね)思想

+++++++++++++++++++++

過去、現在、未来を、どうとらえるか?

あるいは、あなたは、過去、現在、未来を、
どのように考えているか?

どのようなつながりがあると、考えているか?

その考え方によって、人生に対する
ものの見方、そのものが変わってくる。

+++++++++++++++++++++

 時の流れを、連続した一枚の蒔絵(まきえ)のように考えている人は、多い。学校の
社会科の勉強で使ったような歴史年表のようなものでもよい。過去から、現在、そして未
来へと、ちょうど、蒔絵のように、それがつながっている。それが一般的な考え方である。

 あるいは、紙芝居のように、無数の紙が、そのつど積み重なっていく様(さま)を想
像する人もいるかもしれない。過去の上に、つぎつぎと現在という紙が、積み重なってい
く。あるいは上書きされていく。

 しかし本来、(現在)というのは、ないと考えるのが正しい。瞬間の、そのまた瞬間に、
未来はそのまま過去となっていく。そこでその瞬間を、さらに瞬間に分割する。この作業
を、何千回も繰りかえす。が、それでも、未来は、瞬時、瞬時に、そのまま過去となって
いく。

 そこで私は、この見えているもの、聞こえているもの、すべてが、(虚構)と考えてい
る。

 見えているものにしても、脳の中にある(視覚野)という画面(=モニター)に映し
出された映像にすぎない。音にしても、そうだ。

 さらに(時の流れ)となると、それが「ある」と思うのは、観念の世界で、「ある」と
思うだけの話。本当は、どこにもない。つまり私にとって、時の流れというのは、どこま
でいっても、研(と)ぎすまされた、(現実)でしかない。

 その(時の流れ)について、ほかにもいろいろな考え方があるだろうが、古代、イン
ドでは、それがクルクルと回転していくというように考えていたようだ。つまり未来は、
やがて過去とつながり、その過去は、また未来へとつながっていく、と。ちょうど、車輪
の輪のように、である。

 そのことを理解するためには、自分自身を、古代インドに置いてみなければならない。
現代に視点をおくと、理解できない。たとえば古代インドでは、現代社会のように、(変化)
というものが、ほとんどなかった。「10年一律のごとし」という言葉があるが、そこでは、
100年一律のごとく、時が過ぎていた。

 人は生まれ、そして死ぬ。死んだあと、その人によく似た子孫がまた生まれ、死んだ
人と同じような生活を始める。同じ場所で、同じ家で、そして同じ仕事をする。人の動き
もない。話す言葉も、習慣も、同じ。

 そうした流れというか変化を、一歩退いたところで見ていると、時の流れが、あたか
もグルグルと回転しているかのように見えるはず。死んだ人がいたとしても、しばらくし
てその家に行ってみると、死んだ人が、そのまま若返ったような状態で、つまりその子孫
たちが、以前と同じような生活をしている。

 死んでその人はいないはずなのに、その家では、以前と同じように、何も変わらず、
みなが、生活している。それはちょうど、庭にはう、アリのようなもの。いつ見てもアリ
はいる。しかしそのアリたちも、実は、その内部では、数か月単位で、生死を繰りかえし
ている。

 こうして、多分、これはあくまでも私の憶測によるものだが、「輪廻(りんね)」とい
う概念が生まれた。輪廻というのは、ズバリ、くるくると回るという意味である。それが
輪廻思想へと、発展した。

 もちろん、その輪廻思想を、現代社会に当てはめて考えることはできない。現代社会
では、古代のインドとは比較にならないほど、変化のスピードが速い。10年一律どころ
か、数年単位で、すべてが変わっていく。数か月単位で、すべてが変わっていく。

 住んでいる人も、同じではない。している仕事もちがう。こうした社会では、時の流
れが、グルグルと回っていると感ずることはない。ものごとは、すべて、そのつど変化し
ていく。流れていく。

 つまり時の流れが、ちょうど蒔絵のように流れていく。もっとわかりやすく言えば、
冒頭に書いたように、社会科で使う、年表のように、流れていく。長い帯のようになった
年表である。しかしここで重要なことは、こうした年表のような感じで、過去を考え、現
在をとらえ、そして未来を考えていくというのは、ひょっとしたら、それは正しくないと
いうこと。

 つまりそういう(常識?)に毒されるあまり、私たちは、過去、現在、未来のとらえ
かたを、見誤ってしまう危険性すら、ある。

 よい例が、前世、来世という考え方である。それが発展して、前世思想、来世思想と
なった。

 前世思想や、来世思想というのは、仏教の常識と考えている人は多い。しかし釈迦自
身は、一言も、そんなことは言っていない。ウソだと思うなら、自分で、『ダンマパダ(法
句)』(釈迦生誕地の残る原始仏教典)を読んでみることだ。

 ついでに言っておくと、輪廻思想というのは、もともとはヒンズー教の教えで、釈迦
自身は、それについても一言も、口にしていない。

 言うまでもなく、現在、日本にある仏教経典のほとんどは、釈迦滅後、4〜500年
を経てから、「我こそ、悟りを開いた仏」であるという、自称「仏」(仏の生まれ変わりた
ち)によって、書かれた経典である。その中に、ヒンズー教の思想が、混入した。
 
 過去、現在、未来……。何気なく使っている言葉だが、この3つの言葉の中には、底
知れぬ謎が隠されている。

 この3つを攻めていくと、ひょっとしたら、そこに生きることにまつわる真理を、発
見することができるかもしれない。

 そこでその第一歩。あなたは、その3つが、どのような関連性をもっていると考えて
いるか。

 一度、頭の中の常識をどこかへやって、自分の頭で、それを考えてみてほしい。

+++++++++++++++++

●再び輪廻について。

 たとえば輪廻というほどではないにしても、毎日が毎日の繰り返し……という人生に、
どれほどの意味があるというのか。そのことは、老人介護センターにいる老人たちを見れ
ばわかる。(だからといって、そこに住む老人たちの人生に意味はないと言っているのでは
ない。誤解のないように!)

 毎日、毎日、同じことを繰り返しているだけ。同じ時刻に起きて、同じ時刻に食事を
して、あとは一日中、テレビの前に座っているだけ。

 これは老人介護センターの中の老人たちの話だが、私たちの生活にしても、似たよう
なもの。今日は、昨日と同じ。今年は、去年と同じ、と。

 これもひとつの輪廻とすると、私たちがつぎに考えなければならないことは、どうす
れば、この輪廻を断ち切ることができるかということ。

 まさか瞑想(ヨーガ)をすればよいと説く人はいないと思う。(ヨーガというと、あの
O真理教を連想し、どうもイメージがよくない。)しかしだれも、このままでよいとは思っ
ていない。

 そこでひとつのヒントとして、サルトルは、こう説いた。「自由なる意思で、自由を求
め、思考し、自ら意思を決定していくことこそ重要」と。つまりこの輪廻を断ち切るため
には、「私は私」と、その「輪」の中から飛び出すことではないか。

……と書いたところで、「ウ〜ン」とうなって、筆が止まってしまった。そのことをワイ
フに話すと、ワイフも、そう言った。

私「思いきって、オーストラリアへ移住しようか?」
ワ「移住でなくても、2〜3年なら、いいわ」
私「このままだと、ぼくたちの人生も、このまま終わってしまう」
ワ「そうね。自分たちがどうあるべきか、まず、それを考えなくては……」と。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司※

【心の部屋論】(道徳完成論)

++++++++++++++++++

人間の心には、いくつかの部屋がある。
言うなれば、どこかの大学のようなもの。
事務室もあれば、講義室もある。
講義室にしても、大講堂もあれば、研究室もある。
研究室といっても、ひとつではない。
哲学を研究する研究室もあれば、化学を研究する
化学室もある。
もちろん教会もあれば、博物館もある。
サッカー場もあれば、パチンコ店もある。
それぞれが有機的につながりながら、独自の
活動をしている。

たとえば今、私は、私の心の中の心理学の
研究室にいる。
「脳みそ」を大学に例えるなら、その総合的な
機能を研究するのが、心理学の研究室である。
この研究室からは、大学全体を見渡せる。
近くには政治学部があり、その向こうには
美術学部がある。

こうした大学は、人によって大きさも、構成の
しかたも、みなちがう。
中には、コンピュータ研究室が特異に大きな
大学に住んでいる人もいるだろう。
あるいは音楽学部が特異に大きな大学に住んでいる
人もいるだろう。

私はそれぞれの学部や研究室で、ときに教授に
なりながら、またときに、学生になりながら、
そのときどきを過ごす。

が、こわいのは、つまり私たちがもっとも警戒
しなければならないのは、心の闇の部分に相当
する、地下室である。
外からは見えないが、そこには、ありとあらゆる
ゴミがたまっている。
ゴミといっても、邪悪なゴミだ。
ウソ、インチキ、ごまかし、嫉妬、怒り、不満、
ウラミ、などなど。

私たちは日常的にゴミを出しながら、それを
捨てた段階で、そのゴミのことを忘れる。
(……意図的に忘れる。)
しかしゴミは確実にたまり、やがて大学の運営
そのものに、影響を与えるようになる。

あのユングという学者は、それを「シャドウ」と
いう言葉を使って説明した。
大切なことは、ゴミを作るとしても、最小限に!
できればゴミを出さない。
日々に、明るく、朗らかに、かつさわやかに……、
ということになる。

さあ、今日も一日、始まった。
今朝はたっぷり熟睡して、今は、午前7時35分。
今の私は大学の学長だ。
まずいくつかの学部を訪れてみる。
とりあえずすぐ隣の心理学部では、「心の広さ」に
ついて研究しているようだ。
そこをのぞいてみる。

みなさん、おはようございます!
5月21日、木曜日!

+++++++++++++++++++++

●心の広さ

「心の広さ」を知るときは、反対に心の狭い人をみればよい。
俗にいう、「心に余裕のない人」である。
私はこのことを、母の介護をしているときに、知った。

同じ親の介護をしながら、明るく、ほがらかに、かつさわやかに
介護している人もいれば、反対に、暗く、つらそうに、かつ
グチばかり並べてしている人もいる。

「老人臭がする」
「町内会に出られなくなった」
「内職の仕事ができなくなった」
「コンロの火がつけっぱなしだった」
「廊下で、母が便をした」などなど。

このタイプの人のグチには、「では、どうればいいのか?」という部分がない。
ないまま、いつまでも同じグチを繰り返す。
ネチネチとグチを繰り返す。

私なら、……実際、そうしてきたが、老人臭が気になれば、換気扇をつければよい。
町内会など、出なければならないものではない。
みな、事情を話せば、わかってくれる。
内職の仕事にしても(やりくり)の問題。
老人が家にいるからといって、できなくなるということはない。
コンロの火が心配なら、自動消火装置つきのコンロにすればよい。
廊下で便など、子どもの便と思えばよい。
私の息子たちはみな、こたつの中で便をしていたぞ!

要は、心の広さの問題ということになる。

●道徳の完成度

心の広さを、お金(マネー)にたとえるのも、少し気が引ける。
しかし似ている。

たとえばふところに、10万円もあれば、どこのレストランへ行っても、安心して
料理を楽しむことができる。
が、それが1000円とか2000円だったりすると、とたんに不安になる。
では、心の広さのばあいは、どうか。
どうすれば、心の余裕を作ることができるか。
心を広くすることができるか。

ひとつのヒントとして、コールバーグが説いた「道徳の完成度」というのがある。
つまり、道徳の完成度は、(1)いかに公正であるか、(2)いかに自分を超えたもの
であるか、その2点で判断される、と。

(1)いかに公正であるか……相手が知人であるとか友人であるとか、あるいは自分が
その立場にいるとかいないとか、そういうことに関係なく、公正に判断して行動
できるかどうかで、その人の道徳的完成度は決まる。

(2)いかに自分を超えたものであるか……乳幼児が見せる原始的な自己中心性を原点と
するなら、いかにその人の視点が、地球的であり、宇宙的であるかによって、
その人の道徳的完成度は決まる。

心が広い人イコール、道徳の完成度の高い人ということにはならない。
しかし道徳の完成度の高い人イコール、心の広い人と考えてよいのでは?
異論、反論もあろうかと思うが、その分だけ、そのときどきの(縁)に翻弄(ほんろう)
されるというこが少なくなる。
心理学的には、自己管理能力の高い人ということになる。
大脳生理学的には、前頭連合野の活動が、すぐれている人ということになる。
そういうものが総合されて、その人の心の広さを決定する。
が、何よりも大切なことは、運命を受け入れて生きるということ。

●運命論

どんな人にも、まただれにも、無数の糸がからんでいる。
生い立ちの糸、家族の糸、社会の糸、能力の糸、人間関係の糸、健康の糸、
性質の糸、、性格の糸、環境の糸などなど……。
そういった糸が無数にからんできて、ときとして私やあなたは、自分の意図する
のとは別の方向に、足を踏み入れてしまうことがある。

いや、そのときはそれに気がつかない。
あとで振り返り、そのうしろの足跡を見て、それに気づく。
運命というのがあるとすれば、運命というのは、そういうもの。

その運命を心のどこかで感じ、そしてそれが抵抗しても意味のないものと
知ったら、運命は受け入れる。
すなおに受け入れる。
そのわかりやすさが、私やあなたの心を広くする。

私も母の介護をするようになって、はじめてその運命のもつ力というか、
ものすごさを知った。
ふつうの母と子の関係なら、それほど苦しまなかったかもしれない。
しかし私のばあい、そうではなかった。
だからこそ、苦しんだ。

が、母が、私の家にやってきたとき、それは一変した。
下痢で汚れた母の尻を拭いてやっているとき、それまでのわだかまりや、こだわりが、
ウソのように消えた。
そこに立っているのは、どこまでもか弱い、そしてどこまでもあわれな、1人の
老婆にすぎなかった。
体の大きさも、小学生ほどになっていた。
それを知った、その瞬間、私は運命を受け入れた。

そう、運命というのは、そういうもの。
それに逆らえば、運命は、キバをむいて、私やあなたに襲いかかってくる。
しかし一度それを受け入れてしまえば、運命は、シッポを巻いて、向こうから逃げていく。

●生きる醍醐味

「生きる醍醐味は何か?」と問われれば、この心の部屋論にたどりつく。
大豪邸に住み、ぜいたくな生活をするのが、醍醐味ということではない。
(もちろんそういう人の心は、狭いということではない。誤解のないように!)

しかしいくらボロ家に住んで、つつましやかな生活をしていても、
心の部屋まで狭くしてしまってはいけない。
こんな例が参考になるかどうかは、わからないが、最近も、こんなことがあった。

私たち夫婦は、今年、H社のハイブリッド・カーを購入するつもりでいた。
何度もショールームに足を運んだ。
T社のハイブリッド・カーも魅力的だった。
何でも燃費が、リッターあたり、38キロ!
驚異的な数字である。
迷ったが、地元の会社であるT車のハイブリッド・カーに決めた。……決めていた。

で、その時期をねらっていたら、三男が結婚して、車がほしいと言い出した。
給料はかなり安いらしい。
しかも電車を乗り継いで通勤できるようなところではないらしい。
そこで私たちは、ギブアップ。
そのお金を三男に回した。
今しばらく、T社のビッツに乗りつづけることにした。
T社の車の中では、最安値の車である。

が、ビッツに乗っていても、卑下感は、まったくない。
大型高級車を見たりすると、ホ〜〜ッとため息をつくことはあるが、そこまで。
けっして負け惜しみではない。

私たち夫婦は、いつもこう言っている。
「車はビッツでも、肉体はベンツ」と。
そういうこともあって、このところ毎日、2人で、10キロは歩くようにしている。
プラス、ワイフは、週2回のテニスクラブ。
私は週4〜5単位のサイクリング。
(1単位=40分の運動量をいう。)

つまりこれが心の余裕ということになる。
さて、ここで究極の選択。

「肉体はビッツで車はベンツ、あるいは肉体はベンツで車はビッツ。
あなたはどちらを選ぶか?」

あるいは、
「豪華な生活をしながら心は4畳半、あるいは4畳半に住みながら、心は
大豪邸。あなたはどちらを選ぶか?」でもよい。

もっとも私のばあい、本音を言えば、大豪邸に住んで、心も大豪邸。
できれば超大型のベンツにも乗りたい。
そういう人も、知人の中には、いないわけではない。

まっ、がんばろう。
ここはがんばるしかない。

隣の心理学部を出て……。
その横には銭湯がある。
これから朝風呂を浴びてくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
コールバーグ 道徳の完成度 道徳完成度 はやし浩司 道徳の完成度 完成論 
はやし浩司 心の部屋論 運命論 無数の糸)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

【子どもの道徳・道徳の完成度】

●地球温暖化

+++++++++++++

子どもたちほど、地球温暖化の
問題を真剣に考えているという
のは、興味深い。

他方、おとなほど、この問題に
関して言えば、無責任(?)。

「何とかなるさ」という言い方をする
おとな。「だれかが何とかしてくれ
る」とか、「私ひとりが、がんばって
も、どうしようもない」とか。

そんなふうに考えているおとなは、
多い。

+++++++++++++

 道徳の完成度は、(1)いかに公正であるか、(2)いかに自分を超えたものであるか、
その2点で判断される(コールバーク)。

 いかに公正であるか……相手が知人であるとか友人であるとか、あるいは自分がその立
場にいるとかいないとか、そういうことに関係なく、公正に判断して行動できるかどうか
で、その人の道徳的完成度は決まる。

 いかに自分を超えたものであるか……乳幼児が見せる原始的な自己中心性を原点とする
なら、いかにその人の視点が、地球的であり、宇宙的であるかによって、その人の道徳的
完成度は決まる。

 たとえばひとつの例で考えてみよう。

 あなたはショッピングセンターで働いている。そのとき1人の男性が、万引きをしたと
する。男性は品物をカートではなく、自分のポケットに入れた。あなたはそれを目撃した。

 そこであなたはその男性がレジを通さないで外へ出たのを見計らって、その男性に声を
かけた。が、あなたは驚いた。他人だと思っていたが、その男性は、あなたの叔父だった。

 こういうケースのばあい、あなたなら、どう判断し、どう行動するだろうか。「叔父だか
ら、そのまま見過ごす」という意見もあるだろう。反対に、「いくら叔父でも、不正は不正
と判断して、事務所までいっしょに来てもらう」という意見もあるだろう。

 つまりここであなたの公正さが、試される。「叔父だから、見過ごす」という人は、それ
だけ道徳の完成度が低い人ということになる。

 またこんな例で考えてみよう。

 今、地球温暖化が問題になっている。その地球温暖化の問題について、いろいろな考え
方がある。コールバークが考えた、「道徳的発達段階」を参考に、考え方をまとめてみた。

(第1段階)……自分だけが助かればばいいとか、自分に被害が及ばなければ、それでい
いと考える。被害が及んだときには、自分は、まっさきに逃げる。

(第2段階)……仕事とか、何か報酬を得られるときだけ、この問題を考える。またその
ときだけ、それらしい意見を発表したりする。

(第3段階)……他人の目を意識し、そういう問題にかかわっていることで、自分の立場
をつくったりする。自分に尊敬の念を集めようとする。

(第4段階)……みなでこの問題を考えることが重要と考え、この問題について、みなで
考えたり、行動しようとしたりする。

(第5段階)……みなの安全と幸福を最優先に考え、そのために犠牲的になって活動する
ことを、いとわない。日夜、そのための活動を繰りかえす。

(第6段階)……地球的規模、宇宙的規模で、この問題を考える。さらに、人類のみなら
ず生物全体のことを念頭において、この問題を考え、その考えに沿って、行動する。

 この段階論は、子どもたちの意見を聞いていると、よくわかる。「ぼくには関係ない」と
逃げてしまう子どももいれば、とたん、深刻な顔つきになる子どももいる。さらに興味深
いことは、幼少の子どもほど、真剣にこの問題を考えるということ。

 子どもも中学生や高校生になると、「何とかなる」「だれかが何とかしてくれる」という
意見が目立つようになる。つまり道徳の完成度というのは、年齢とかならずしも比例しな
いということ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
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道徳完成度 完成度段階説)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●道徳の完成度(2)

+++++++++++++++++++

道徳の完成度は、(1)いかに公正であるか、
(2)いかに自分を超えたものであるか、
その2点で判断される(コールバーク)という。

 いかに公正であるか……相手が知人である
とか友人であるとか、あるいは自分がその立場
にいるとかいないとか、そういうことに関係なく、
公正に判断して行動できるかどうかで、その人の
道徳的完成度は決まる。

 いかに自分を超えたものであるか……乳幼児
が見せる原始的な自己中心性を原点とするなら、
いかにその人の視点が、地球的であり、宇宙的
であるかによって、その人の道徳的完成度は決
まる。

+++++++++++++++++++

 この2日間、「道徳の完成度」について、考えてきた。「言うは易(やす)し」とは、よ
く言う。しかし実際に、どうすれば自己の道徳を完成させるかということになると、これ
はまったく別の問題と考えてよい。

 たとえば公正性についても、そのつど心の中で揺れ動く。情に動かされる。相手によっ
て、白を黒と言ってみせたり、黒を白と言ってみせたりする。しかしそれでは、とても公
正性のある人間とは言えない。

 またその視野の広さについても、ふと油断すると、身近なささいな問題で、思い悩んだ
り、自分を取り乱したりする。天下国家を論じながら、他方で、近隣の人たちとのトラブ
ルで、醜態をさらけだしたりする。

 コールバークの道徳論を、もう一度、おさらいしてみよう。

(1)「時、場所、そして人のいかんにかかわらず、公正に適応されるという原則」
(2)「個人的な欲求や好みを超えて、個人の行為を支配する能力」(引用文献:「発達心理
学」ナツメ社)。

 そこで重要なことは、日々の生活の中での心の鍛錬こそが重要、ということになる。常
に公正さを保ち、常に視野を広くもつということ。が、それがむずかしい。ときとして問
題は、向こうから飛びこんでくる。こんな話を聞いた。

 よくある嫁―姑(しゅうとめ)戦争だが、嫁の武器は、子ども。「孫がかわいい」「孫に
会いたい」という姑の心を逆手にとって、その嫁は、姑を自分のよいように操っていた。
具体的には、姑のもつ財産をねらっていた。

 いつしか姑が、息子夫婦の生活費を援助するようになっていた。嫁の夫(=姑の息子)
の給料だけでは、生活が苦しかった。質素に生活すれば、できなくはなかったが、嫁には、
それができなかった。嫁は、派手好きだった。

 そのうち、姑は、孫(=嫁の息子、娘)の学費、教育費まで負担するようになった。し
かし土地などの財産はともかくも、現金となると、いつまでもつづくわけではない。そこ
で姑が、支出を断り始めた。「お金がつづかない」とこぼした。とたん、嫁は、姑と息子と
娘(=姑の孫)が会うのを禁止した。

息子(小4)と娘(小1)は、「おばあちゃんに会いたい」と言った。
嫁は、「会ってはだめ」「電話をしてもだめ」と、自分の子どもにきつく言った。
姑は「孫たちに会いたいから、連れてきてほしい」と、嫁に懇願した。
嫁は間接的ながら、「お金がなかったら、土地を売ってお金をつくってほしい」と迫った。

 ……という話を書くのが、ここでの目的ではない。こういう話は、あまりにも低レベル
というか、あさましい。できるなら、こういう話は聞きたくない。話題にしたくもない。
が、現実の世界では、こうした問題が、つぎからつぎへと起きてくる。いくら道徳的に高
邁(こうまい)でいようとしても、ふと気がつくと、こうした問題のウズの中に巻き込ま
れてしまう。

 言いかえると、道徳の問題は、頭の中だけで論じても、意味はないということ。この私
だって、偉そうなことなら、いくらでも言える。それらしい顔をして、それらしい言葉を
口にしていれば、それでよい。それなりの道徳家に見える。

 しかし実際には、中身はガタガタ。私はその嫁とはちがうと思いたいが、それほどちが
わない。そこで繰りかえすが、「日々の生活の中での心の鍛錬こそが重要」ということにな
る。

 私たちは常に試される。この瞬間においても、またつぎの瞬間においても、だ。何か大
きな問題が起きれば、なおさら。そういうときこそ、日々の鍛錬が、試される。つまりそ
の人の道徳性は、そういう形で、昇華していくしかない。

(道徳性について、付記)

 高邁な道徳性をもったからといって、どうなのか……という問題が残る。たとえばこん
な例で考えてみよう。最近、実際、あった事例である。

 あなたは所轄官庁の担当部長である。今度、遠縁にあたる親類の1人が、介護施設を開
設した。あなたは自分の地位を利用して、その親類に、多額の補助金を交付した。その額、
数億円以上。

 そのあなたが、ある日、その親類から、高級車の提供をもちかけられた。別荘の提供も
もちかけられた。飲食して帰ろうとすると、みやげを渡された。みやげの中には、現金数
百万円が入っていた。
(お気づきの人もいるかと思うが、これは実際にあった事件である。)

 こういうケースのばあい、あなたならどう判断し、どう行動するだろうか?

 「私はそういう不正なことは、しません」と、それを断るだろうか。その勇気はあるだ
ろうか。また断ったところで、何か得るものは、あるだろうか。

 私はそういう場に立たされたことがないので、ここでは何とも言えない。しかし私なら、
かなり迷うと思う。今の私なら、なおさらそうだ。いまだに道路にサイフが落ちているの
を見かけただけで、迷う。

不運にも(?)、この事件は発覚し、マスコミなどによって報道されるところとなった。
しかしこうした事例は、小さなものまで含めると、その世界では、日常茶飯事。それこ
そ、どこでも起きている。

 つまり道徳性の高さで得られるものは、何かということ。それがこの世界では、たいへ
んわかりにくくなっている。へたをすれば、「正直者がバカをみる」ということにもなりか
ねない。

 ところで、少し前、中央教育審議会は、道徳の教科化を見送ることにしたという。当然
である。
 道徳などというものは、(上)から教えて、教えられるものではない。だいたい道徳を教
える、長の長ですら、あの程度の人物。公平性、ゼロ、普遍性、ゼロ。どうしてそんな人
物が、道徳を口にすることができるのか。

 「学習指導要領の見直しを進めている中央教育審議会は、18日、道徳の授業を教科と
しない方針を固めた。政府の教育再生会議は、規範意識の向上を目的に、第二次報告で道
徳を『徳育』としたうえで、教科化するよう求めていた。もともと中教審の内部では、教
科化に慎重な意見も強かったが、安倍首相の辞任後、『教育再生』路線との距離の置き方も、
明確になった格好だ」(中日新聞)とある。

 わかりやすく言えば、安倍総理大臣が辞任したこともあり、安倍総理大臣が看板にして
いた徳育教育(?)が、腰砕けしたということ。

 閣僚による数々の不祥事。加えて、安倍総理自身も、3億円の脱税問題がもちあがって
きている。「何が、道徳か!」、ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
道徳 道徳教育 徳育 徳育教育 教育再生会議 中央教育審議会)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●美人論

++++++++++++++++++

食事をしながら、ワイフとこんな会話をした。
ワイフが突然、「クレオパトラも、楊貴妃も、
それほど美人じゃあ、なかったってエ」と。

ついでに「小野小町も、紫式部も……」と。

現代人の美的感覚によれば、そうかも
しれない。
たとえばあのオカメさんが、いる。
「オカメ、ヒョットコ」のオカメさんである。
あのオカメさんは、昔は美人の代名詞だった。
今風に言いかえると、「美女と野獣」という
関係になる。

私「昔はね、しもぶくれの顔が美人顔だった。
巻物などに描かれている女性たちも、
みなそうなっている。
オカメさんもそうだ。
しかし今は、あごが細く、とがっている女性ほど
美人ということになっている」
ワ「フ〜〜ン」
私「昔は昔で、そういう女性を、男たちは
追い求めたんだろうね」
ワ「……?」と。

あと1000年もすると、あごがさらに細くなり、
額が大きく、頭のふくらんだ女性が美人顔と
いうことになるかもしれない。
目の大きさも、今よりも、数倍は大きくなる。
それをワイフに話すと、「気味が悪いワ。
それって、宇宙人顔じゃ、ない?」と。

そう宇宙人顔。
やがて人類は、そういう顔になる。
またそういう顔を基準にして、女は男を見、男は女を見る。
そうなれば、今、私たちがもっている美人像という
のは、どこかへ吹き飛んでしまう。
そして同じように、こう言う。

「吉永小百合も、小雪も、それほど美人じゃなかった
てエ」と。
そしてあとは、今と同じ会話を繰り返す。

+++++++++++++++++++++

●あのK国が……

あのK国が言うにこと欠いて、今度はこんなことを言い出した。

「(開城工業団地の)道路を傷つけたら、罰金1万ドル」と。

まあ、よくもこういうアホなことを、つぎからつぎへと言うものだ。
道路どころか、建物、インフラ(電気、ガス、下水道)すべてを韓国に作らせて
おきながら、それを傷つけたら、「罰金、1万ドル」とは!

(1万ドルという罰金も、法外! 日本円に価値換算すると、1億円!)

中央N報によれば、「賃上げなどに応じない企業をねらいうちにするための措置」とか。
記事の一部を紹介する。

『……中央日N報が入手した計44条項にのぼる細則の草案は、「民族経済、道路運輸に向
けたもの」としている。しかし「道路の建設・管理・利用における制度・秩序を厳しく決
める」と明記し、目的が統制・制裁にあることを暗示している。また、大半の条項が、韓
国側が守るべき義務とそれを違反した場合に科する罰金に関する内容だ。 

  したがってK国が各種の規制で韓国側に圧力を加えると同時に同団地への統制権を強化
し、韓国側がこれを拒んだ場合、団地の存廃に触れる狙いだと懸念する声があがっている。
細則の草案は「乱れている車、環境を汚染する車、道路に損傷を与えうる車」の運行を禁
止し、「車両の運行に支障をもたらす行動」を禁止するとした。 

  K国にとって都合のいい解釈が可能な部分だ。最高1万ドル(約96万円)にのぼる罰金
条項も新設した。入居企業にも、道路建設への投資を拡大し、管理委員会に道路使用料を
納めるよう求め、企業の負担が増えるものとみられる。自転車道と芝・街路樹などを備え
た「最上級」の道路の建設も求めた……』
『…… ある入居企業の関係者は「草案通りならK国側が突然一斉取締りを行い、統制に乗
り出すことができるということだが、賃上げなどを受け入れない企業をターゲットにした
取締りで圧力を加えることができる」と懸念した』
(09年5月21日)と。

つぎからつぎへと、無理難題をふっかけてくるK国。
でたらめばかり言ってくるK国。
韓国側が見るに見かねて、助けているのにもかかわらず、この調子。
『……自転車道と芝・街路樹などを備えた「最上級」の道路の建設も求めた』という
部分も、笑えてくる。
そんなに「最上級の道路」とやらがほしければ、自分たちで建設したらよい。

が、これは何も韓国とK国の間の問題ではない。
やがて日本も、巨額の戦後補償費をK国に支払わねばならないときがやってくる。
そのとき同じような問題が、起きてくる。

約束など、あってないようなもの。
条約や取り決めですら、平気で反故(ほご)にする。
そしてやさしくしてやると、どこまでもつけあがる。
それがK国の本質と考えてよい。

まあ、いろいろ言いたいことはあるが、ここまで。
何からなにまで、あの国は、常識をはずれている。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●雑感

●消えた手続き記憶

FLASHというのが、ある。
HPなどの上で、勝手に画像をパッパッと切り替え、まるでビデオの
ように見える、あれである。
私のHPの最上段でもそれを利用している。

で、そのFLASH使うようになって、もう3年近くになる。
買った当時、あれこれと悪戦苦闘したものの、なんとか、使いこなせるまでになった。
いろいろなFLASHを、自分で制作した。
HPのFLASHも、自分で制作した。
(「制作した」と言えるような大げさなものではないが……。)

で、昨日の夜、再度挑戦してみた。
3年ぶりである。
ところが、である。
「こんなのはビデオの編集と同じ」と思って始めてみたが、それが???の連続。
どうもうまくいかない。
「どうしてだろ?」と思いつつ、30分ほどが過ぎたところで、ギブアップ。

ちょうど床に就く時刻だったので、ガイドブックを片手に、ふとんの中へ。
それを読みながら、軽い敗北感のようなものを味わった。
「記憶というのは、そういうものか?」と。

幸いなことにガイドブックをながめていたら、おぼろげながら使い方を思い出した。
もともと不親切なガイドブックである。
できの悪いガイドブックである。
そのことも思い出した。

「今度の日曜日に、再挑戦してみよう」ということで、そのまま眠った。
これから先、こういうことが多くなる……?
新しいことを覚えても、一方で、どんどんと忘れていく。
そんなわけで、脳みそというのは、常に鍛える。
それを怠ったとたん、あとは後退の一途。
私の年齢では、とくにそうである。


●ショッパーの広告

昨日、中日ショッパーのT氏からメールが入っていた。
「5月2x日号に、あきができましたから、無料で掲載してあげますよ」と。

中日ショッパーというのは、中日新聞社が母体の広告紙である。
このあたりでは、月に8回前後、発行されている。
地域の広告媒体としては、絶対的な影響力をもっている。
さっそくお願いする。
同時に、次回からモデルとして使っている孫の誠司の写真の変更をお願いする。

キャッチは、「BW幼児教室、ネットで無料体験」とした。
この数か月、もっとも力を入れているのが、「無料体験教室」。
毎日教室でビデオを撮影し、そのままYOUTUBEにアップロードしている。

家にいながら、BW教室の雰囲気をそのまま楽しめる(多分)。
子どもも、学習できる(多分)。

ぜひ、この機会に、体験教室に目を通してほしい。
「BW体験教室」へは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より。
ほかの幼児教材にはない、生(なま)のおもしろさがある(多分)。
ビデオを見ながら、あなたの子どもと笑ってもらえれば、うれしい。

(付記)
まだ正確にカウントしたわけではないが、BLOGやHPなどへの
アクセス数が、月間ですでに30万件を超えているのではないか。
おおざっぱな計算だが、そういう数字が出てきた。
昨年の2月に10万件を超えたばかりだから、これはものすごいことだと思う。

読者のみなさん、ありがとう!
私はみなさんに情報を提供する。
みなさんは、私に生きがいをくれる。
だから、ありがとう!


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●さわやかな風

+++++++++++++++++++++++

5月のさわやかな雨上がりの朝、ガーデン・パークに
来てみた。
(ガーデン・パーク……浜名湖の北にある、無料公園。)
ライトブルーの空を背景に、若葉の輝く景色が美しい。
それをぼんやりと眺めていると、やさしい風が
汗ばんだ頬や顔を、静かに冷やしてくれる。

もし「天国」と呼ばれる世界があるなら、きっと、
こんな世界をいうにちがいない。
「極楽」でもよい。

そう、ここはまさに天国だ。

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●休息

デジタルカメラで、花の写真を撮る。
そういうときの私は、無我夢中。
「きれい!」と思ったつぎの瞬間には、シャッターを切る。
パシャ、パシャ、パシャ……と。

こう書くと、花を楽しむ時間がないのではと心配する人もいるかもしれない。
が、心配ご無用!

たった今も軽い食事を終えて、屋根のある小さなベンチに座って、この
文章を書いている。
木々の小枝が、音もなく、たがいにせわしく、こすりあっている。
遠くで子どもの声もする。
鳥のさえずり。
もう30分以上も、こんなことをしている。
言い忘れたが、たった今、お茶を飲んだところ。

●雑念

こういうときというのは、無数の雑念が、つぎからつぎへとわいては消える。
思いつくまま、書き留めてみる。

……たった今、目の前を通り過ぎた、4人組の女性たち。
いつものように、ペチャペチャと、おしゃべり。
女性がグループをつくると、どうしてこうまでおしゃべりになるのだろう。

……チチ、ピピピッと小鳥の声。
コジュウカラか、コガラか?

……大手を振って歩く男。
太りすぎもよくないが、足が、鳥のガラのようでも困る。
先ほど通り過ぎた男の足は、鳥のガラみたいだった。
今、通り過ぎた男は、太りすぎ。
ダイナミックな歩き方からみると、体力にはかなり自信があるらしい。
年齢は、40歳くらいか。

……ワイフが鏡をのぞいて、なにやら気にしている。
あの年齢になっても、女な女かな?

……我が家の庭も、庭園風にしようか。
それとも一面、すべて畑にしようか。
頭の中で、設計図をいろいろと考える。

そんなことを考えていたら、背中の力が抜け始めた。
脳みそは、うたた寝モード。
目を開いているだけでも、つらい。

それに気づいたのか、今、ワイフがこう言った。
「そこで横になったら?」と。

(このあとワイフのひざ枕で、30分ほど、昼寝。)


Hiroshi Hayashi++++++++May・09++++++++++はやし浩司

「生きること」を考える

●観念論vs実存論

おおざっぱに言えば、世の中には、2つの大きな考え方がある。
ひとつは、(1)「私は親に産んでもらった」「先祖があるから、私がいる」
という考え方。
もうひとつは、(2)「私が生まれたら、親がいた」「生まれてみたら先祖がいた」と
いう考え方。
前者は、観念論ということになるし、後者は、実存論ということになる。

おもしろいことに、私の母は、根っからの観念論者だったが、父は、どちらかというと、
実存論者だった。
母は熱心な信者だったが、私は父が仏壇に手を合わせたり、墓参りをしたのを
見たことがない。
天皇を、「天皇」と呼び捨てにしただけで、殴られたことはあるが、それ以外に
信仰らしい信仰はしていなかった。……ようだ。

で、この両者のばあい、とくに大きくちがってくるのが、神や仏の捕らえ方。
神や仏に対する考え方で、2つのうちどちらをとるかで、生き様は決定的に分かれる。
前者は、「神によって、私たちは作られた」と考える。
後者は、「人間が神を作った」と考える。
(実際には、仏教でいう仏というのは、心の中に存在する善なる概念をいう。
キリスト教でいう神のような存在を、仏教では認めない。)

こうしたちがいは、「死」についての考え方に、大きな影響を与える。

前者は、「死んでも魂(霊)は残り、現世と何らかの関係を保つ」と考える。
後者は、「死んだら、自分の肉体、精神とともに、この宇宙すべてが消えてなくなる」と
考える。
「この宇宙すべてが消えてなくなる」というのは、それを認識する「私」という母体が
消滅するのだから、少なくとも私は認識でない。
たとえて言うなら、熟睡しているときの自分を思い出せばよい。
熟睡しているときに、宇宙を認識することなど、できるだろうか。
夢で宇宙らしいものを見ることはあるが、死ねば、その夢も見ない。
だから「消えてなくなる」ということになる。
では、どちらが正しいのか。

●生まれる前

そのヒントとなるのが、生まれる前。
「私」が生まれる前は、どうであったかということ。
死んだあとは、生まれる前と同じ状態と考えるのは、それほどまちがっていない。
もし死んだあと、あの世に行って、この世のことがわかるとするなら、
生まれる前にだって、この世のことがわかるはず。

たとえば私は戦後の生まれだから、あの戦争を知らない。
母の話によれば、岐阜市が大空襲にあったとき、空は真っ赤に燃えあがり、みな
家財道具を乳母車に積み、あちこちを逃げ回ったという。
母は、そのとき死を覚悟したという。
しかしもちろん、私にはその記憶はない。
どこかにその記憶あれば、私は生まれる前から、どこかに存在したということになる。
何しろ、強烈な印象である。
私が生まれる前から、私は存在していたとするなら、そうした記憶の片鱗くらい、
記憶の中に残っていても、おかしくない。

が、何も残っていないということは、やはり生前の私は、この世界に存在しなかった
ことになるのでは……?

さらに言えば、地球の歴史は60億年ともいうが、その60億年の記憶すらない。
その実感となると、これまた、まったく、ない。

私が生まれる前には、この宇宙は存在したのか?

が、もちろんこの宇宙は存在した。
ビッグバンの時代から、この宇宙は存在した。
となると、「私」という個体は死んでも、この宇宙は存在することになる。
「私」は消えても、この宇宙は存在することになる。
そのことは、周囲で死んでいく人たちをみればわかる。
その人は死んで、跡形もなく消えるが、この宇宙はそのまま。
現に今、そのまま残っている。
ということは、「私が死んだら、私もろとも、この宇宙は消えてなくなる」という
考え方は、合理性を失う。
しかし、だ。
が、ここで、また新しい考え方が登場した。

●大宇宙は、無数にある

S・ホーキング博士という、天才的頭脳をもった科学者が現れた。
その科学者が、こんなことを言った。

実は、私が今住んでいるような宇宙というのは、これまた無数にあって、しかも
ここにも、そこにも、あそこにもあるという。
ぎっしりと、この宇宙の中に詰まっているという。
この世に宇宙は、けっしてひとつではないという。

今、私たちがこの宇宙に住んでいるのは、偶然にそのまま偶然にすぎない。
生まれてみたら、たまたまこの宇宙に生まれていた。
「たまたま」だ。
簡単に言えば、そういうことになる。

そこであたりを見回してみる。
ホーキング博士は、私たちが住んでいるような宇宙は、無数にあるという。
が、ホーキング博士が説くような宇宙を、私は見ることができない。
ここにも、そこにも、あそこにも、広大な宇宙があるというが、それを見ること
ができない。
感ずることさえできない。
たまたま今、夜空を見あげれば、そこにあるのは、この大宇宙。
私たちが今、住んでいる、この大宇宙。
大宇宙だけ。
そこに無数の星が見えるのは、たまたま私が、この大宇宙に生まれたからにほかならない。
たしかにその大宇宙だけは、見ることができる。

しかしその「私」が、もし、どこか別の大宇宙に生まれていたとしたら、どうなのか?

私は今、ここに住んでいる大宇宙を、見ることはできるのか。
こちらから向こうの大宇宙は見ることができない。
だから向こうの大宇宙に生物がいたとしても、こちらを見ることはできない。
そちらの大宇宙に生まれていたら、今のこの大宇宙を、存在しないものとして考えるに
ちがいない。

話が混乱してきたが、私たちが今、「ここに存在する」と断言してはばからない、この
大宇宙にしても、存在していないということになってしまう。
存在しているか、存在していないかということになれば、そういうことになる。

たまたまこの宇宙の中で、生を受けた。
だからたまたまこの宇宙を、認識できる。
仮に、100歩譲って、死んだあとあの世で生まれ変わるとしても、その「あの世」
という宇宙は、「この世」という宇宙とは、似ても似つかない世界と考えるのが
正しい。
しかもどの宇宙で生まれ変わるか、それすらもわからない。

何しろ、そうした宇宙が、ここにも、そこにも、あそこにも、無数にある。
数をあげろと言われたら、「無限大」ということになる。
生まれ変わって、再びこの世にやってくる確率となると、かぎりなくゼロに近い。
1等1億円の宝くじを、数億回つづけて当てる確率より、さらに低い(?)。
しかしこれも(生まれ変わり)があるとするならの話。
もしそれすらもないとしたら、……?

●生まれていない孫から見ると……

反対に、こんなふうに考えてみたら、どうだろうか。
最近、私の三男が結婚した。
まだ新婚ホヤホヤというのに、もう子どもができるのを楽しみにしている。
私にとっては、孫ということになる。

もちろん孫は、まだ存在していない。
三男の嫁の胎内にも、存在していない。
その孫は、今、どこにいるのか。
やがて生まれてくるであろう、その孫は、どこにいるのか。

もし死後の世界があるとするなら、当然、生まれる前の世界もあるはず。
どこかに孫がいて、この世に生まれるのを、その世界で待っていることになる。
この大宇宙の中で、か?
それとも別の大宇宙の中で、か?

で、その孫にしてみれば、こちらから見えないのと同じように、向こうからも、
こちらの世界が見えないはず。
今、この世界に存在していないとするなら、孫から見れば、この世界は存在して
いないことになる。

仮に生まれ変わりがあるとしても、死んだら、この世は存在しなくなる。
ちょうど孫から見たら、今のこの宇宙が存在しないように、この世は存在しなくなる。
まだ生まれていない孫と同じ状態になるとしたら、そういうことになる。

(自分でも何を書いているか、よくわからない……ゴメン!
要するに、今、私たちが、「ある」と主張する、この宇宙にしても、ホーキング博士
が説く宇宙のひとつにすぎない。
つまりほかの無数の宇宙と同じように、この宇宙も、たいへん不可思議な世界だという
こと。
私たちは、光と分子の織りなす世界で、「これが宇宙」と思い込まされているだけ。

さらにたとえて言うなら、パソコンのゲームの世界に入り込んでいるだけ。
そんなふうにも考えられる。)

●孤独の始まり

やはり死んだら、「私」はこの宇宙もろとも、この消滅する。
わかりやすく言えば、母親の胎内に宿ったときを原点とするなら、
その原点よりも、前の世界と同じ世界に戻る。
暗闇すら認識できない、(無)の世界に戻る。
もちろんそこには(時間)もない。
ちょうど私やあなたが、数10億年という気が遠くなるような地球の時間を、
今の今、まったく感じないように、死んだあとは、やはり仮に数10億年たった
としても、それを一瞬にすら感じないだろう。

しかしそう考えることは、同時にこの世との絶縁を意味する。
そこにいるあなたの家族や肉親との、永遠以上の永遠の別れを意味する。
あなたはすべてのものを失う。
財産も地位も名誉も、そして光も音も思い出も……。
それは想像を絶するほど過酷な世界である。
「孤独」という言葉では、ひょっと言い表せないほど、孤独な世界である。

この孤独とどう闘うか。
結局は、実存主義を唱える人たちの問題は、ここに集約される。

そう、私のように、神や仏の存在を信じられない人間は、自由と引き換えに、
孤独の世界に叩き落とされる。

●孤独論

逃げるか、闘うか?
あるいは深く考えないで、適当につきあうか?
孤独というのは、つきつめれば、そういう問題である。

「逃げる」ためのもっとも有効な方法は、「あの世」を信ずること。
思い込みでも何でもよい。
それで気が楽なるなら、それでよい。
どうせ死んだら、(だまされた)ということすら、わからない。

(もし「死んでもあの世など、なかった。オレはだまされた」と言って怒ってくる
人(=幽霊)がいたとしたら、それこそパラドックス。
幽霊になれたということは、あの世があるという証拠。
あの世がなかったら、「だまされた」ということすら、わからない。)

だったら、どうするか?

私のばあい、「あの世はない」という前提で生きている。
「死んだら、私もろとも、この大宇宙もろとも消えてなくなる」という前提で
生きている。
何度も書くが、それは宝くじのようなもの。
あるかないか、わからない世界をあてにして、この世の生活をだらしないもの
にはしたくない。
当たるか当たらないかわからないような宝くじをアテにして、車を買ったり、
旅行をしたりする人はいない。
車を買ったり、旅行をするのは、宝くじが当たってからでよい。

同じように、死んでみて、あの世があれば、もうけもの。
そのときは、そのとき。
あの世はあの世で、楽しく生きればよい。

●祖父の話

私の祖父には、無二の親友がいた。
祖父はいつもそう言っていた。
その親友と祖父は、生前、固い約束をかわした。
どちらか一方が先に死んだら、あの世があるかどうか、それを相手に知らせるという
約束だった。

で、親友のほうが、先に死んだ。
が、親友は、祖父のもとには、現れなかった。
そのことを説明しながら、祖父は、あるとき私にこう教えてくれた。

「浩司、あの世なんて、ないよ。
もしあれば、あいつが真っ先に教えてくれたはず。
あいつは、オレを裏切るはずがないから」と。

その話を聞いて、私は子どもながら、「そういうものだろうな」と思った。

●現実主義

こう書くからといって誤解しないでほしいのは、だからといって、この世に
生きるのはつまらないとか、無意味とか言っているのではない。

私が書きたいのは、むしろ、その逆。
この宇宙が奇跡であるとするなら、その宇宙で生きている私たちは、さらに奇跡。
生きていること自体が、奇跡。
だったら、その軌跡を大切にしたらよい。
もっとわかりやすく言えば、「たった一度しかない人生なら、思う存分、生きてみよう」
と。

私が言う「現実主義」は、ここから生まれる。
そしてその現実主義は何のためにあるかといえば、名誉や地位のためではない。
もちろんお金のためでもない。

真理探究のためにある。

人間の能力では、(私の能力と言い換えてもよいが)、この先、1万年生きても、
(真理)のふもとにもたどりつけないかもしれない。
しかしそれでもその山に向って歩きつづける。
それが真理探究ということになる。

●完全燃焼

ということで、「生きていること自体が奇跡」(アインシュタイン)というなら、
思う存分、その(生きていること)を、満喫しようではないか。
一瞬だって、一秒だって、無駄にできる時間はない。
燃やして、燃やして、燃やし尽くす。
一縷(いちる)の悔いさえも残さないように、燃やし尽くす。

もし正しい生き方があるとするなら、そういう生き方をいう。
その結果として、その私やあなたがどうなるか、またどういう結末を
迎えることになるか、それはわからない。
しかしそのときは、そのとき。
そのときがくれば、わかる。

今は今として、できることを精一杯する。
やるべきことを、精一杯する。
「たとえ明日、世界が終焉を迎えることになっても」(ゲオルギウ)だ。
それが「生きる」ことの意味だと、私は考える。


Hiroshi Hayashi++++++++May・09++++++++++はやし浩司

●K国情勢

+++++++++++++++++++++

38度線のすぐ北側に、韓国側が出資して作られた
工業団地がある。
その規模、数千億円とも言われている。
開城(ケソン)工業団地である。
その工業団地に、約4万人弱(09年5月)の
K国の労働者たちが働いている。
この工業団地を通して、かなりの現金が、
K国側に渡っている。
その額、毎年、30〜40億円。
経済規模の小さいK国にとっては、かなり
まとまった現金ということになる。
K国国内では、ゆいいつの工業団地と
言ってもよい。
その工業団地の存続が、危ぶまれている。

++++++++++++++++++++

●「出て行ってもいい」

要するにK国側の言い分は、「給料をあげろ」ということ。
これに対して韓国側は、「現在の給料で、精一杯。
給料をあげたら、開城に工場をもつ意味がない」と反論。
そこでK国側は、「(文句があるなら)、出て行ってもいい」と。

私はこの「(文句があるなら)、出て行っていい」という言葉を聞いたとき、即座に
ある知人のことを思い出した。
同じセリフを、その知人が口にしたからである。

その知人が、ある宗教団体に入信したときのこと。
知人の妻は、すぐにはそれに応じなかった。
そのときその知人は、妻にこう言ったという。
「入信するか、しないか。入信しなければ、この家を出て行ってもいい」と。

しかしこれほど乱暴な言葉はない。
妻には職がなく、収入もなかった。
そういう妻に向かって、「出て行ってもいい」は、ない。
で、その妻は、その後しばらくして、同じ宗教に入信した。
知人は、その話を半ば自慢げに話していた。
「オレは、妻よりも、この信心を選んだ」と。

●契約を破棄

開城工業団地は、冒頭に書いたように、韓国側が、そのほとんどを出資して作られた。
インフラ、つまり道路に始まって、電気、ガス、水道、すべて、韓国側が負担した。
K国側にあって、北側の労働者が働いているかもしれないが、韓国の工場団地と考えて
よい。
その工業団地について、K国側は、契約の破棄を一方的に通告してきた。
「賃金をあげろ」「無料で貸していた土地は、有料にする」と。

韓国側は、いつもの瀬戸際戦術とらえている。
イチかパチか、ダメでダメもと、と。
しかしそれに対して、韓国国内で、撤退論がもちあがってきた。
「開城工業団地からの撤退も、やむなし」と。

もし撤退ということになれば、韓国側は、投資分など、丸々損をすることになる。
4万人弱と言われているK国の労働者たちも、職を失うことになる。
「暴動が起きる可能性もある」(某・韓国紙)という。
では、どうなるか?

●日本の本音

アメリカや日本は、現在、K国に経済制裁を加えている。
しかし中国、それに韓国は、それを骨抜きにしている。
とくに中国。
アメリカや日本が手を引いた以上の分の、貿易量をふやしている。
で、韓国だが、脅されても、脅されても、K国の言いなり。
今回も抑留された韓国側社員について、手も足も出せない。

そういう状況のとき、「出て行ってもいい」と。

アメリカにしても、日本にしても、本音を言えば、開城工業団地については、
不快に思ってきた。
K国はそこで得た現金収入をもとに、ミサイルや核兵器の開発をつづけてきた。
しかしK国に遠慮して、(あるいはときの韓国の大統領に遠慮して)、
それを言えなかった。
が、K国側から「出て行ってもいい」というのなら、出て行けばよい。
今すぐ、出て行けばよい。

●K国は困らない

……こう書くと、K国側も困るのだから、最終的には、K国側が折れて出てくるはず
という意見もあるかもしれない。
しかしK国側は、困らない。

理由の第一。
K国側のねらいは、開城工業団地の(乗っ取り)にある。
韓国側の指導者たちが出て行けば、あとは自分たちで好き勝手なことができる。
原材料は、中国から調達すればよい。
完成品は中国へ輸出すればよい。
あるいはそういう話しあいが、すでに中国側とすんでいるのかもしれない。
ともに小ズルさにかけては、世界では1、2を争う国である。

●韓国の弱み

韓国側にも、強く出られない弱みがある。
もともと開城工業団地は、K国を援助するためというよりは、そこをショールームに
して、K国を解放させようという目的で開かれた。
進んだ韓国の工業技術を見せつければ、K国もそれに驚き、門戸を開くだろう、と。
門戸を開かないまでも、人心を動揺させることはできる。
うまくいけば、なし崩し的にK国を、韓国に吸収合併できる。

その隠された意図を見抜かれた今、韓国としても、開城工業団地を存続させる意味がない。
開城工業団地は、韓国側の撤退で、閉鎖される可能性が大きくなってきた。
開城工業団地を取り仕切っている(現代社)の大株主ですら、閉鎖やむなしを公言
するようになった(5月19日)。

●末期

それにしても、K国の言い分は、何かにつけて、常識をはずれている。
韓国側の意図はともかくも、自ら、ひがみ、いじけ、墓穴を掘っていく。
世界中が見るに見かねて、助けの手をのばしているのに、自らそれを拒絶していく。

理由は、明白。
自分たちの悪政を、世界に知られないため。
自分たちの悪政を、自分たちの国民に悟られないため。
だから世界に向かっては、K国内部を隠し、国内に向かっては、世界を隠す。
もちろん独裁制維持のため。

しかしこんな矛盾が、いつまでもつづくはずがない。
人間というのは、緊張感に対して、それほどタフにはできていない。
崩壊するときは、一気に崩壊する。

……ということで、K国はまさに末期的症状。
崩壊寸前の状態で、瀬戸際戦術を繰り返している。
もう、どうしようもない。

開城閉鎖がそのきっかけとなる可能性は、じゅうぶんある。


Hiroshi Hayashi++++++++May・09++++++++++はやし浩司※

●5月22日 (May 22nd)

+++++++++++++++++

先ほど、電子マガジンの6月22日号の
配信予約を入れた。
ほっと一息ついた。
やっと追いついた。
一時は、10日以上も配信予約が遅れた。
電子マガジンは、いつも1か月先のを
配信予約することにしている。

で、この原稿は、6月24日号用ということになる。
だれのためでもない。
私のため。
私の脳みそのため。

しかし本当のところ、今は、「BW公開教室」
のほうがおもしろい。
楽しい。
毎日、アクセス数がどんどんとふえている。
3月に開設したときには、毎日3〜4件足らずだった。
が、今は、1日、120〜130件!
同じ人だったら、何回見ても、1件とカウントされるから、
実際には、その数倍以上のアクセスがあるとみてよい。
うれしい!
プラス、感謝!
(電子マガジンのほうは、この数か月、
ほとんどふえていない。
やる気が、どんどんと減退している。)

やはり生きがいというのは、みなに支えられて
作られるもの(?)。
その(支え)がなかったら、生きがいそのものが、
しぼんでしまう。
だから今は、「BW公開教室」。

大手の幼児教室がつくるビデオのようなスマートさは
ないが、おもしろさという点では、自信がある。
そこらの、(失礼!)、幼児を教えたこともないような
若い女性が講師をするような幼児教室とは、中身がちがう。

どうか、あなたの子どもといっしょに見てほしい。
「BW公開教室」のよさが、理解してもらえるはず。

+++++++++++++++++++

●映画『フロストxニクソン』(Frost x Nixon)

夕食を食べたあと、市内の劇場で、深夜映画を見てきた。
『フロストxニクソン』。
それなりにおもしろかった。
が、星は2つの、★★。
緊張感が売り物の映画のはずだったが、その緊張感が
伝わってこなかった。
(フロスト役の俳優が、少し物足りない。)

で、今夜はプレミア席で観た。
大きなリクライニング・シートが売り物の席である。
(ただし60歳以上は、料金は同じ。)
が、席についたとたん、異様な悪臭!
ななめ左前に座った男からのものと、すぐわかった。
不潔臭と体臭、それに腐敗臭。
10日以上、(あるいはそれ以上)、風呂に入っていない。
私はそう判断した。

映画が始まると同時に、席を移動。
前の方が空いていたので、そこへ座った。
そのため、迫力満点。
見終わったあと、ひどい疲れを覚えた。

映画館では、ときどき、こういうことがある。


●エピソード記憶

映画『フロストxニクソン』の中に、こんなシーンがあった。
第4回目の対談を前にした、その前夜のこと。
ニクソンが、ホテルにいるフロストに電話を入れる。
あれこれしゃべる。
が、その翌日、つまり第4回目の対談の日、ニクソンは、それを忘れてしまっていた。
フロストに電話のことを言われ、ニクソンは、少なからず、うろたえる。
結果的にそれが引き金となって、4回目の対談は、フロストのペースで進むことになる。

この(電話をしたことを忘れる)というのが、(エピソード記憶の喪失)ということになる。
電話の内容を忘れるとか、話に出てきた人の名前を忘れるというのなら、よくあること。
だれにもでもある。
しかし(電話をしたことそのものを忘れる)というのは、アルツハイマー病の
重大な症状のひとつにもなっている。
映画を観終わったあと、ワイフと私はこんな会話をした。
「ニクソンは、アルツハイマー病になっていたのかね?」
「そうかもしれないわ」と。

もちろんだからといって、ニクソンがアルツハイマー病だったというのではない。
映画の中でも、それを匂わせてはいるが、それ以上の説明はない。
また、ほかの脳の病気でも、同じような症状を示すことはある。
しかし附合性はある。
第4回目の対談のとき、ニクソンはそれまでとは違って、感情的になり、自分の罪を
認めるような発言までしてしまう。
日本流に表現すれば、「泣きごと」を口にする。
(あの、ニクソンが!)
私の知っている女性(68歳)も、同じような症状をときどき示す。
その女性は、最近、アルツハイマー病と診断されている。

言うことに節度がない。
ズケズケと言ったかと思うと、とつぜん、しおらしくなったりする。

そんなわけで、ここでは「?」としておく。
この映画のもととなった本を書いた人も、「?」と感じたのではないか。
しかし同時に、私は、こうも考えた。

もしアルツハイマー病だったら、何しろベトナム戦争を指揮した大統領だけに、
ことは重大である。
ウォーターゲート事件より、考えようによっては、さらに深刻な問題である。
そんな大統領の判断に従って、戦争をしたら、それこそ、たいへんなことになる。
(実際、たいへんなことになってしまったが……。)

だから私はかねてより、こう主張している。
この日本でも、首相以下、大臣レベルの閣僚たちはみな、就任する前、脳検査を
受けるべきではないか、と。
運転免許証の更新にすら、いろいろな検査が求めらる。
いわんや、首相職をや!
脳みそのおかしな人物に、国政を任せたら、それこそ、たいへんなことになる。
そういう法律を、今すぐ制定してほしい。
就任時に、健康診断書くらいは、国民に見せてほしい。

AS首相、あなたはだいじょうぶか?


●ダイエット、4日目

先日、油断していたら、体重が68キロ台にまでふえていた。
道理で体が重く感ずるはず。
そこでいつものダイエット。
ダイエット、開始!

小食にして、運動量をふやす。
栄養バランス食に切り替える、など。

で、今朝は、それが65・6キロまでに減っていた。
よかった!

私のばあい、67、8キロを超えると、とたんに体を重く感ずる。
足の裏が痛くなる。

今度も、何とか、64キロ台まで減らしたい。
あと数日、食事を、がまんする。
がんばる。

あ〜あ、それにしてもこの空腹感、なんとかならないものか。
少し甘い飴をなめて、視床下部のセンサーをごまかしてみる。
そこでは血糖値を監視している。
そのセンサーをごまかせば、空腹感は消えるはず。

では、みなさん、おやすみなさい。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●北朝鮮のみなさんへ(To: North Korean People)
??? ????

日本やアメリカのことは気にしないでください。
???? ??? ???? ????.

あなたがたは、あなたがただけのことを考えてください。
???, ??? ??? ??? ??????.

日本はあなたの国を侵略しません。
??? ??? ??? ???? ????.

興味もありません。
???????.

どうか、一人芝居は、やめてください。
??, ?? ??? ?????.

どうか、心安らかにしてください。
??, ?? ???????.

++++++++++++++++++

(付記)

ありもしない外国の脅威を理由に、またまたK国は、ミサイル実験を
しようとしている。
そんなヒマとお金があったら、国民の食糧のことを心配したらよい。
そういう思いを込めて、この文を、朝鮮語を使って書いてみた。

ついでに、
「子育ての最前線」は、

英語では、Forefront of raising children
朝鮮語では、??? ???
中国語では、前列??子女
フランス語では、Avant-garde de l'?ducation des enfants
ドイツ語では、Vorderster Front, die Kinder erziehen,

次回、HPを更新するときは、これらの文字を並べてみよう。
(たった今、試してみたが、英語とドイツ語以外は、私のHPソフトは、
認識しなかった。
こうしてワードで文を書く範囲では、何も問題ないようだが……。)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●趣味(My Hobby)(5月23日)

+++++++++++++++++++++

「パソコンが趣味です」などと言うと、人は、
(たぶん?)、「そのひとつだけ?」と思うかも
しれない。
しかし「パソコン」といっても、ひとつではない。

たとえば私のばあいは、こうだ。

パソコンを使ってものを書く……執筆が趣味
電子マガジンを発行する……編集が趣味
そのための写真を撮る……写真撮影が趣味
写真を加工する……写真加工が趣味
ビデオを撮る……ビデオ撮影、編集が趣味
HPを編集する……デザインが趣味、と。

ときどき頭がからっぽになるときがある。
書きたいテーマが、見つからないときがある。
そういうときは、マイクに向かって、勝手に
しゃべる。
それを編集して、YOU TUBEに
アップロードする。
そういうときは、放送が趣味、となる。

もちろんパソコン自体にも興味がある。
パーツを取り換えて、パソコンを強化する。
最近、メインのパソコンのハードディスクを、
750GBのものに取り換えた。
もろもろの周辺機器を、最新のものにする。
そのときは、パソコンの改造が趣味、となる。

つまり「パソコン」といっても、パソコン
だけではない。

座右には、
デジタルカメラが、3台、
ビデオカメラが、1台、
ボイスレコーダーが、1台、
ソニーのウォークマンが、1台、
イーモバイルの携帯端末が、1台、
もちろん、パソコンが3台に、モニターが2台、
電子辞書が、1台、
プリンターが、2台などなど。

こういうものを駆使して、はじめて「パソコンが
趣味です」と言うことができる。
で、今は、FLASHと、外国語翻訳に興味がある。
たまたま今日は土曜日だから、少しそれに再挑戦
してみたい。

この広がりというか、奥の深さが、パソコンの
魅力でもある。

そうそう昨日、私のHPやBLOGへのアクセス数が、
驚異的な数字を、(大げさかな?)、記録した。
大ざっぱな計算だが、1日で、計1万件を突破した。
考えてみれば、これは、ものすごいこと。

今から6、7年前、HPを開設したときには、
1日、約20〜30件程度のアクセスしかなかった。
(そのうち約半数が、私や家族がしたもの。
あるいは、知人に頼んで、アクセスしてもらった
こともある。ハハハ。)
それが今では、1万件以上!
しかも世界中から、である!

……といっても、悲しいかなその実感が、ほとんどない。
言うなればテレビゲームのようなもの。
「5000ポイント、ゲット!」と喜んでいる子どもと
同じ。

だから「パソコン」に、もうひとつ、趣味を加えたい。
パソコンゲームという趣味である。

さて、今日も始まった。
パソコンゲームが始まった。
5月22日、土曜日。
外は曇天。
秋の終わりのような、空気の冷たさを感じる。

++++++++++++++++++++

●中年期の女性観(異性観抜き)

男性は、(女性もそうだと思うが)、中年期(満40歳)を過ぎたら、
異性を異性と思ってはいけない。
(努力して、そう思わないようにする。)
なかなかむずかしいことだが、相手を異性としてではなく、1人の独立した
人間として見る。

R・C・ベックという学者は、こう言っている。
「(中年期にさしかかったら)、異性を性的対象ではなく、個々の人格、
仲間として認識する」(ナツメ社、「発達心理学」)と。

というのも、私を基準にしてものを書くのは危険なことかもしれないが、
若いころ、私にとって女性というのは、宇宙人ほど、異質な存在だった。
高校生のとき、図書館で女体解剖図を見ただけで、歩けなくなってしまった
ことがある。

こうした異性観は、一度できると、そう簡単には、変えられない。
ばあいによっては、50歳になっても、60歳になってもつづく。
(女性のばあいは、よくわからないが……。)
今でも、ふと油断すると、相手を1人の人間としてというよりは、「女」として
見てしまうことがある。
もっとも、それがあるから、人生も楽しいということになる。
それすらもなくなってしまったら、それこそ人生は、花の咲かない砂漠のように
なってしまう(?)。
ただ、こういうことは言える。

これは私のワイフについてだが、大半の時間は、私のワイフは、私のよき友である。
またそういう目で、ワイフを見ている。
しかしときに、ワイフが、「女」に見えることがある。
胸や体にさわってみたくなるときがある。
そういうふうでも、よいのではないか……ということ。
つまり、異性を1人の人間として見ることも大切だが、同時に、異性と意識することも
大切、と。
それが人生に、イロを添える。
実は、私はこのことを、私が55歳くらいのときに、発見した。

私の職場には、いつも若い母親たちがいる。
そういうこともあったのかもしれない。
あるいは男性にも更年期のようなものがあるという。
そのときがそうだったのかもしれない。
そのころ、私は、女性に対して、興味を失ってしまった。
女性が女性と、見えなくなってしまった。
ある日、相撲を見ながら、「関取の胸の方が、若い女性の胸より、ずっと美しい」
と思ったことさえある。

悪いことばかりではない。
そのとき私は、思春期以来はじめて、性欲からの解放を味わった。
同時に私は、それまでの私が、いかに性欲の奴隷であったかを知った。
で、そのときは意識しなかったが、そのころ、私は、男性、女性を問わず、
1人の人間として見るようになった。
R・C・ベックという学者が説いた、「異性を性的対象ではなく、個々の人格、
仲間として認識する」というのは、そういうことではなかったか。
今にして思うと、それがわかる。

しかし、だ。
その時期も、それほど長くはつづかなかった。
記憶は確かではないが、1、2年くらいではなかったか?
それ以後、また少しずつだが、異性観が戻ってきた。
で、今は、以前ほどではないかもしれないが、異性は異性、つまり女性を
「女」として見ることができるようになった。
若い女性の胸や足を見たりすると、再び、ドキッとするようになった。
が、変化も見られる。

そのときどきにおいて、自分の心を、すっきりと整理することができるようになった。
異性を、異性とみるとき。
異性を、1人の人間としてみるとき。
そういうふうに、自分を整理することができるようになった。

たとえば30〜40代のころは、相手が若くて美しい女性だったりすると、
何かにつけて甘くなったりした。
証券会社の女子店員に手を握られただけで、証券を買い増ししたりするなど。
(実際、デレ〜〜として、買ってしまったことがあるぞ。)
しかし、今は、それがない。
そういうふうに、自分の心を整理することができるようになった。

で、冒頭の話に戻る。

男性もある年齢を過ぎたら、努力して、自分から、(異性観抜き)をしなければ
ならないということ。
(異性観抜き)というのは、異性観からの脱却をいう。
が、これは努力の問題である。
それを怠っていると、いつまでも欲望の虜(とりこ)になって、自分を見失って
しまう。
これはあなた自身にとって、たいへん不幸なことと言ってもよい。

中には、70歳を過ぎても、自分の妻を、ただの女か、召使のようにしか考えて
いない男性もいる。
「男は、家の柱であればよい」などと、時代錯誤的なことを口にして、威張っている。
本人はそれで得意になっているが、まわりの人たちはだれも相手にしていない。
孤独でありながら、孤独が何であるかさえ、わかっていない。
そうなる。

こと子どもについて言うなら、子どもに男も女もない。
区別してはいけない。
とくに50歳を過ぎてからの私は、そういう目で、子どもを指導している。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
異性観 異性とは 異性観抜き)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●退職後の「?」(When we retire the jobs)


+++++++++++++++++


今朝、古いラジオを戸棚から、取りだした。
久しぶりにラジオを聴いた。
俳句についての講座の番組だった。
その中の特選作……。


ひとつは、「給料運搬人……」なんとかというもの。
もうひとつは、「光陰矢の如し……」なんとかというもの。
ほかにもいろいろあった。


共通していたのは、どれも長い間のサラリーマン勤めを終えた
男たちや、それを迎える妻たちの、どこか悲哀感の漂う
俳句だったということ。


ぼんやりと聴きながら、「そういうものかなあ?」
「そういうものでもないような気がする」と、
頭の中で、いろいろな思いが交錯するのを感じた。


+++++++++++++++++


私は俳句については、まったくの素人。
自分で作ったことは、あまりない。
が、どれもすばらしい俳句だった。
それはよくわかった。


で、私が気になったのは、俳句のほうではない。
その批評のほう。
何と呼んだらよいのか。
「俳句の先生」、それとも「指導者」?
「コメンテイター」?
要するに、視聴者からの俳句を選定し、批評を
加える人(女性)。
その人(女性)が、そのつど、こう言っていた。


「これからは、ゆっくりとお休みください」
「長い間、お勤め、ごくろうさまでした」
「退職後は、思う存分、お遊びください」などなど。


その人(女性)は、「私もこの年齢になり、(退職する人たちの気持ちが)、
理解できるようになりました」というようなことも
言っていた(以上、記憶によるものなので、内容は、不正確)。


しかし退職者というと、若い人たちは、どうしてそんなふうに、
とらえるのか。
「退職者は、こう思っているはず」という『ハズ論』だけが
先行している?
私はそう感じた。


とくに気になったのは、「退職後は、思う存分、お遊びください」という言葉。
私はその言葉を聞いたとき、若い人たちが、私たちの
世代を、そのように見ているのかと、がっかりした。


言うまでもなく、私もその世代の人間の1人。
しかし「遊びたい」という気持ちなど、みじんもない。
「遊べ」と言われても、遊ぶ気持ちにはなれない。
……だからといって、その人(女性)を責めているのではない。
それが世間一般の常識的な意見ということは、私にもわかっている。
それに若いときには、私もそう考えていた。
「退職したら、あとは悠々自適の隠居生活」と。


が、今はちがう。
「遊ぶ」ということに、強いむなしさを覚える。
またそんなことで、残り少ない自分の人生を、無駄にしたくない。


もちろん人、それぞれ。
退職の仕方も、人、それぞれ。
退職後の考え方も、人、それぞれ。
もちろん過ごし方も、人、それぞれ。
100人いれば、100通りの考え方がある。
退職の仕方がある。
私の考え方が正しいというわけではない。
中には、「遊びたい」と考えている人がいるかもしれない。
いても、おかしくない。


それはわかる。
しかし……。
私たちが求めるのは、そしてほしいのは、(怠惰な時間)ではない。
遊ぶための時間ではない。
(退職後の生きがい)、それがほしい。
(仕事)でもよい。
が、遊ぶための時間ではない。
だいたい遊ぶといっても、お金がかかる。
それに(遊ぶ)ということには、答がない。
「だからどうなの?」という疑問に対する、答がない。


繰り返す。
「遊んだからといって、それがどうなの?」と。
遊べば遊ぶほど、空しさがつのるだけ。
休むといっても、病院のベッドの上で休むのは、ごめん。
さらに言えば、休んだあと、どうすればよいのか。


退職者の最大の問題。
それは何度も書いてきたように、「自我の統合性」。
その統合性を、いかに確立するか、だ。


(自分がすべきこと)を発見し、そのすべきことに、
(現実の自分)を一致させていく。
(自分がすべきこと)を、「自己概念」という。
(現実の自分)を、「現実自己」という。
この両者を一致させることを、「自我の統合性」、
もしくは「自己の統合性」という。


自我の統合性の確立した老人は、すばらしい。
晩年を生き生きと、前向きに過ごすことができる。
そうでなければ、そうでない。
仏壇の仏具を磨いたり、墓参りだけをして、日々を過ごすようになる。
私の知人の中には、満55歳で役所を定年退職したあと、
ほぼ30年近く、庭いじりだけをして過ごしている人がいる。
年金は、月額にして、27〜8万円もあるという。
しかしそんな老後が、はたして理想的な老後と言えるのだろうか。


その知人は、1年を1日にして、生きているだけ(失礼!)。
10年を、1年にして、生きているだけ(失礼!)。


だから私はその人(女性)にこう反論したい。


「これからは、ゆっくりとお休みください」だと!
バカも休み休み、言え、バカヤロー!、と。
私たちの年齢をバカにするな!
(少し過激かな?)


そのあと、ワイフとこんな会話をした。


私「給料運搬人というのも、かわいそうだね。自分の仕事をそんなふうに
考えていたのだろうか」
ワ「そうよね。さみしいわね。仕事を通して生きがいというのは、なかったの
かしら」
私「ぼくも仕事をしてきたけど、自分が給料運搬人などというふうには、
考えたことはないよ」
ワ「そうねエ……」と。


給料運搬人とその人が、そう感ずるならなおさら、退職後は、そうでない仕事を
したらよい。
生きがいを求めたらよい。
「世のため、人のため」とまではいかないにしても、何かできるはず。
もしここで、その人(女性)が言うように、ゆっくりと休んでしまったら、それこそ
自分の人生は何だったのかということになってしまう。


残り少ない人生であるならなおさら、最後のところで、自分を燃焼させる。
できれば思い残すことがないよう、完全燃焼させる。
それが今まで、無事生きてきた私たちの務めではないのか。
若い人たちに、自分たちがしてきた経験や知恵を伝えていく。
若い人たちが、よりよい人生を歩むことができるよう、その手助けをしてやる。


まだ人生は終わったわけではない。
平均寿命を逆算しても、まだ25年もある。
「遊べ」だの、「休め」と言われても、私は断る。
私には、できない。



Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)
(Do we have what we should do? If you have something that you should do, your life 
after you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a miserable
 age.)

+++++++++++++++++

乳児期の信頼関係の構築を、人生の
入り口とするなら、老年期の自我の
統合性は、その出口ということになる。

人は、この入り口から、人生に入り、
そしてやがて、人生の出口にたどりつく。

出口イコール、「死」ではない。
出口から出て、今度は、自分の(命)を、
つぎの世代に還元しようとする。

こうした一連の心理作用を、エリクソンは、
「世代性」と呼んだ。

+++++++++++++++++

我々は何をなすべきか。
「何をしたいか」ではない。
「何をなすべきか」。

その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。
我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。
が、その「生」には、限界がある。
その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。

その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、
倫理、道徳を、つぎの世代に伝えようとする。
つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。

それが世代性ということになる。

その条件として、私は、つぎの5つを考える。

(1)普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2)没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3)無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4)高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5)還元性(=教育を通して、後世に伝える。)

この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。エリク
ソンは、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。

何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。
言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。「無間地獄」。

つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。
来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。
健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。

大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。

が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。
それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。

「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわ
けにはいかない。
またそうした行動には、意味はない。

さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。
私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないかぎ
り、統合性の確立は不可能と言ってよい。

我々は、何のために生きているのか。
どう生きるべきなのか。
その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人生の統合性 世代性 統
合性の確立)

(追記)

(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40歳
前後である。もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。

その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。

この問題だけは、そのときになって、あわてて始めても、意味はない。
たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなりボラ
ンティア活動をしたところで、意味はない。身につかない。

……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という
問題ではない。
もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。

孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。
中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。
来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。
利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。

しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。
忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。

もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめるこ
とがある。
認知症か何かになって、何も考えない人間になること。
もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。
しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老人像と考えるだろうか。

(付記)

統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自問
してみるという方法がある。

「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。
「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。

ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってくる
ものを感ずるときがある。
真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。

それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。

なおこの使命というのは、みな、ちがう。
人それぞれ。
その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。

大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。
50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。
持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。

60歳をすぎれば、さらにそうである。

我々に残された時間は、あまりにも少ない。
私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。
早ければ早いほど、よい。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司※

【心の原点(心のメカニズム)】

++++++++++++++++

脳の活動は、「ニューロン」と呼ばれる
神経細胞が司っている。
それは常識だが、しかしでは、その
神経細胞が、「心」を司っているかというと、
そうではない。

最近では、心の原点は、脳内の化学物質、
つまり脳内ホルモンであるという説が、
半ば常識化している。
私たちの心は、常に、この脳内ホルモンに
よって、影響を受け、コントロールされて
いる。

その例としてわかりやすいのが、
フェニルエチルアミンというホルモン
ということになる。
そのフェニルエチルアミンについて書いた
原稿がつぎのものである。

+++++++++++++++++

●恋愛の寿命

+++++++++++++++++

心ときめかす、恋心。しかしその恋心
にも、寿命がある。

+++++++++++++++++

 その人のことを思うと、心がときめく。すべてが華やいで見える。体まで宙に浮いたよ
うになる……。恋をすると、人は、そうなる。

 こうした現象は、脳内で分泌される、フェニルエチルアミンという物質の作用によるも
のだということが、最近の研究で、わかってきた。恋をしたときに感ずる、あの身を焦が
すような甘い陶酔感は、そのフェニルエチルアミンの作用によるもの、というわけである。

その陶酔感は、麻薬を得たときの陶酔感に似ているという人もいる。(私自身は、もちろ
ん、麻薬の作用がどういうものか、知らない。)しかしこのフェニルエチルアミン効果の
寿命は、それほど長くない。短い。

 ふつう脳内で何らかの物質が分泌されると、フィードバックといって、しばらくすると
今度は、それを打ち消す物質によって、その効果は、打ち消される。この打ち消す物質が
分泌されるからこそ、脳の中は、しばらくすると、再び、カラの状態、つまり平常の状態
が保たれる。体が、その物質に慣れてしまったら、つぎから、その物質が分泌されても、
その効果が、なくなってしまう。

しかしフェニルエチルアミンは、それが分泌されても、それを打ち消す物質は、分泌さ
れない。脳内に残ったままの状態になる。こうしてフェニルエチルアミン効果は、比較
的長くつづくことになる。が、いつまでも、つづくというわけではない。やがて脳のほ
うが、それに慣れてしまう。

 つまりフェニルエチルアミン効果は、「比較的長くつづく」といっても、限度がある。も
って、3年とか4年。あるいはそれ以下。当初の恋愛の度合にもよる。「死んでも悔いはな
い」というような、猛烈な恋愛であれば、4年くらい(?)。適当に、好きになったという
ような恋愛であれば、半年くらい(?)。(これらの年数は、私自身の経験によるもの。)

 その3年から4年が、恋愛の寿命ということにもなる。言いかえると、どんな熱烈な恋
愛をしても、3年から4年もすると、心のときめきも消え、あれほど華やいで見えた世界
も、やがて色あせて見えるようになる。もちろん、ウキウキした気分も消える。

 ……と考えると、では、結婚生活も、4年程度が限度かというと、それは正しくない。
恋愛と、結婚生活は、別。その4年の間に、その2人は、熱烈な恋愛を繰りかえし、つぎ
のステップへ進むための、心の準備を始める。

 それが出産であり、育児ということになる。一連のこうした変化をとおして、今度は、
別の新しい人間関係をつくりあげていく。それが結婚生活へとつながっていく。

 が、中には、そのフェニルエチルアミン効果による、甘い陶酔感が忘れられず、繰りか
えし、恋愛関係を結ぶ人もいる。たとえばそれが原因かどうかは別にして、よく4〜5年
ごとに、離婚、再婚を繰りかえす人がいる。

 そういう人は、相手をかえることによって、そのつど甘い陶酔感を楽しんでいるのかも
しれない。

 ただここで注意しなければならないのは、このフェニルエチルアミンには、先にも書い
たように麻薬性があるということ。繰りかえせば繰りかえすほど、その効果は鈍麻し、ま
すますはげしい刺激を求めるようになる。

 男と女の関係について言うなら、ますますはげしい恋愛をもとめて、さ迷い歩くという
ことにもなりかねない。あるいは、体がそれに慣れるまでの期間が、より短くなる。はじ
めての恋のときは、フェニルエチルアミン効果が、4年間、つづいたとしても、2度目の
恋のときは、1年間。3度目の恋のときは、数か月……というようになる(?)。

 まあ、そんなわけで、恋愛は、ふつうは、若いときの一時期だけで、じゅうぶん。しか
も、はげしければはげしいほど、よい。二度も、三度も、恋愛を経験する必要はない。回
を重ねれ重ねるほど、恋も色あせてくる。

が、中には、「死ぬまで恋を繰りかえしたい」と言う人もいるが、そういう人は、このフ
ェニルエチルアミン中毒にかかっている人とも考えられる。あるいはフェニルエチルア
ミンという麻薬様の物質の虜(とりこ)になっているだけ。

 このことを私のワイフに説明すると、ワイフは、こう言った。

 「私なんか、半年くらいで、フェニルエチルアミン効果は消えたわ」と。私はそれを横
で聞きながら、「フ〜ン、そんなものか」と思った。さて、みなさんは、どうか?

(はやし浩司 恋愛 恋愛の寿命 フェニルエチルアミン ドーパミン効果 麻薬性 は
やし浩司 恋の寿命 恋の命 恋愛の命 脳内ホルモン フィードバック (はやし浩司 
家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 恋のホルモン)

+++++++++++++++++++++

話を戻す。
ここで「フィードバック」について、もう一度、説明してみたい。

脳というのは、それ自体がいつもカラの状態を保とうとする。
たとえば驚いたようなとき、脳は直接、副腎に作用して、アドレナリンを分泌させる。
ドキドキしたり、ハラハラしたりするのは、そのためである。
発汗を促すこともある。

が、同時に脳の中では別の反応が起こる。
視床下部にある脳下垂体が、それを感知して、副腎に対して、副腎皮質刺激ホルモン
を分泌するようにと、言うなれば、指令ホルモンを分泌する。
このホルモンによって、副腎が刺激を受け、副腎は、副腎皮質ホルモンを分泌する。
わかりやすく言えば、脳内に分泌されたアドレナリンを、副腎皮質ホルモンが
今度は中和しようとする。

こうして脳内はいつもカラの状態、つまり平常な状態を保とうとする。
それをフィードバック(作用)という。

●生殖

(私が男性ということもあって)、私は、男性のことはよく知っている。
女性も、それほどちがわないと思うが、男女の行為の前と後とでは、異性の肉体の見方が、
まったくちがう。

男性のばあいは、180度、変化することも珍しくない。
あれほど狂おしく求めた相手でも、行為が終わったとたん、スーッと興味が
しぼんでいく。
消えていく。
それは満腹感ともちがう。
心そのものが、変化してしまう。
男性のばあい、それがおもしろいほど急激な変化となって現れる。

こうした現象をどう考えたらよいのか。

先に副腎の話を書いたが、脳からの指令を受けてホルモンを分泌する器官は、
ほかにもたとえば、甲状腺や生殖腺などがある。
さらにごく最近の研究によれば、胃や、大腿筋でも、ある種のホルモンが
分泌されることもわかってきた。
肉体、すべてがホルモンの分泌器官と考えてよい。

では、生殖腺でも、副腎と同じような化学変化が起きているとみてよいのか。
というのも、男女の(心)を説くとき、(行為の変化)ほど、顕著に現れる変化は、
ほかにそうはない。

(行為……最近、BLOGでは、使用禁止用語を設定しているところが多いので、
こういう言葉を使う。つまりSxxのことをいう。)

さらに言えば、「私は私」と思っているしている思いや行動といったものも、
実は、脳内ホルモンによってコントロールされているということになる。

その証拠に、先ほども書いたように、(男性のばあい)、行為の前と後とでは、
心の状態が、180度変わってしまう。

●知性と心

たとえばここに難解な数学の問題があるとする。
「1から5ずつふえていく数列がある。この数列の数を、5番目から、20番目まで
を合計すると、いくつになるか」と。

高校で習う公式を使えば、簡単に解ける。
公式を知らない人でも、電卓を片手に、足し算を繰り返せば解ける。
こうした作業を受け持つのは、大脳連合野の中でも、比較的外側にある、皮質部という
ことになる。

一方、(心)というのは、そういう知的な活動とは、異質のものである。
どこかモヤモヤとしていて、つかみどころがない。
ときに理性のコントロールからはずれるときがある。
つまりそれが脳内ホルモンの作用によるものということになる。

たとえば何かよいことをしたとする。
人助けでもよい。
そういうときそういう情報は、辺縁系の中にある扁桃核(扁桃体)に信号として
送られる。
それに応じて、扁桃核は、モルヒネに似たホルモンである、エンケファリン系、
エンドロフィン系のホルモンを分泌する。
それが脳内を甘い陶酔感で満たす。
それが(人助けをした)→(気持ちよい)という感覚へとつながっていく。

こうして考えていくと、(あくまでも私という素人の考えだが)、知的活動は、
ニューロンと呼ばれる神経細胞が司るとしても、心のほとんどは、脳内ホルモンの
作用によるものと考えてよいのではということになる。
またそういうふうに分けることによって、心のメカにズムが理解できる。
しかしこの考え方は、両刃の剣。

●「私は私」

心のメカニズムはそれで説明できる。
それはそれでよい。
が、心が脳内ホルモンによるもの、あるいは脳内ホルモンに大きく影響を受けるものと
すると、(1)「心なんて、ずいぶんといいかげなんなもの」と思う人が出てくる
かもしれない。
さらに(2)「では、私とは何か、それがわからなくなってしまう」と考える人も
出てくるかもしれない。

心をときめかすあの恋にしても、フェニルエチルアミン効果によるものということに
なれば、それにまつわる求愛、デートなどの行動のすべてが、結局は脳内ホルモンに
よって操られているということになってしまう。
(実際に、そうなのだが……。)

となると、つまり(心)を自分から取り除いてしまうと、では、いったい、私は何か
ということになってしまう。
さらにつきつめていくと、私という私がなくなってしまう。
その一例として、先に、男女の行為のあとの、あの変化をあげた。
そこに妻の(あるいは夫の)肉体を見ながら、「行為の前の私は何だったのか?」と。

が、男女の行為だけに終わらない。
実は人間が織りなす行為のほとんどが、またそのほとんどの部分において、こうした
脳内ホルモンの作用に影響を受けているということになる。
どの人も、「私は私」と思って、それぞれの行動をしている。
が、その「私」など、どこにもないということになる。
「私たちの心は、脳内ホルモンに操られているだけ」と。
しかもいいように操られているだけ、と。

……と書くのは、危険かもしれないが、反対に、「どこからどこまでが私で、どこから
先が私でないか」と考えてみると、それがわかる。

「私は私」と思っている部分など、きわめて少ないのがわかる。
さらに言いかえると、人間もそこらに遊ぶ動物と、どこもちがわないということ。
あるいは、そこらの動物と同じということ。
ちがわないというより、ちがいを見つけることのほうが、むずかしい。

●「私」論

たいへん悲観的というか、絶望的なことを書いてしまったが、自分を知るためには、
脳内ホルモンの問題は、避けては通れない。
たとえば今、私は空腹感を覚えている。
この4〜5日、ダイエットをつづけている。
胃袋が小さくなったような感じがする。
それでも空腹感を覚える。
ワイフがまな板をたたく音を聞いただけで、ググーッと、食欲がわいてくる。
条件反射反応が起きている。

恐らく脳内の視床下部にあるセンサーが、血糖値を感知し、ドーパミンンを
放出しているのだろう。
それが線条体にある受容体を刺激し始めている(?)。

その私は、「私は私」と思いながら、これからさまざまな行動を起こすはず。
庭へ出て、畑から、サラダ菜を採ってくる。
それにドレッシングをかける。
食卓に並べる……。

こうした一連の行為にしても、ドーパミンという脳間伝達物質に操られているだけ
ということになる。
もしそこに「私」がいるとするなら、空腹感を抑えながら、サラダ菜だけで、今朝の
食事をすますこと。
体重が適正体重に減るまで、それをつづけること。
つまり「私」というのは、ここでの結論を言えば、脳内ホルモンと闘うところに、ある。
けっして、脳内ホルモンに操られるまま、操られてはいけない。
その意思が、「私」ということになる。

(新しい思想、ゲット!)

……かなり乱暴な結論だが、今の私は、そう考える。

今朝(09年5月24日)も、こうして始まった。
今日はこのことをテーマに、自分の行動を静かに観察してみたい。
つづきは、また今夜!

みなさん、おはようございます!


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●「出世」?

++++++++++++++++++++

昨夜遅く、ワイフと、中国のドキュメンタリー番組を見た。
貧しい少女(18歳)についての番組だった。

その少女は、ホテルでメイドの見習いとして働いていた。
給料は600元。
1元が約14円(09年05月)だから、8400円ということになる。

その少女には、結婚を考えているボーイフレンドがいた。
が、「身分も低く、給料も安い」(少女の姉の言葉)、
だから「(車のセールスでは)、出世もできない」(同)。
で、姉は、「(私たちは貧乏のつらさをよく知っているから)、あなたの結婚には
反対!」と。

姉は、番組の流れからして、けっして妹のためを思って反対しているのではない。
中で、姉は、こんなことも言った。

「あなたが出世して、家族の生活を楽にしてほしい」と。

親が言うならまだしも、私はそれを聞いて、「ずいぶんと身勝手な姉さんだな」と
思った。
もしそうなら、姉であるその女性自身が、出世とやらをしてみせればよい。
家族の生活を楽にしてみせればよい。

が、姉は、一貫して、妹の結婚には反対。
「あんな男のどこがいい?」
「あんな男と結婚しては、だめ」
「貧乏になるだけ」と。
それに答えて、妹は、ただ涙をポロポロと流すだけ……。

そしてテレビのレポータに向って、姉は、こう言う。
「学校もやめてしまった。今では、私の言うことさえ、聞かない」と。

+++++++++++++++++++++

私はその番組を見ながら、私の知人のことを思い出していた。
その知人には、1人の娘と2人の息子がいた。

その娘が結婚相手に選んだのが、自動車の修理工。
中学を出たあと、職業訓練校を経て、現在の職についた。
が、両親が猛反対。
「中卒では、出世は望めない」と。

で、2人はかけおち。
隣町で、自動車屋を開いた。
が、折からの高度成長の波にのり、またその地域でのS社の独占的特約店と
なったこともあり、10年を待たずして、従業員を6〜7人雇うまでの会社に成長した。

一方、2人の息子たちは、どうか?

人づてに聞いたところによると、2人とも高校時代に警察に逮捕されるような事件を
起こしてしまい、強制退学。
身分は、先の両親が言った「中卒扱い」になってしまった。
皮肉と言えば、これほど皮肉なことはない。

(だからといって、私はここで学歴を問題にしているのではない。
中卒だろうが、大卒だろうが、人間の価値には、上下はない。
「中卒」を理由に、娘の結婚に反対した両親の、その古い考え方を問題にしている。
誤解のないように!)

私が言いたいのは、「人の身分を笑ったものは、今度は自分の身分を笑われる」と
いうこと。
また「身分などというものは、そのときどきの(流れ)の中で、いくらでも変化する」
ということ。

(私だって、ある女性と恋愛したとき、相手の母親から、直接、私の母のところに
電話がかかってきたことがある。
「うちの娘は、お宅のような息子とつきあうような娘ではありません。娘の将来に
傷がつきますから、交際をやめさせてください」と。
相手の女性の父親は、従業員が30人前後の製紙工場を経営していた。)

中国のその番組を見ながら、私は、40年前、あるいは50年前の日本を見せつけられて
いるように感じた。
見習いの給料が、1万円前後と言えば、私がちょうど高校生くらいの日本と
いうことになる。
(当時、大卒の初任給が2万円と聞いて、そのころ、驚いたことがある。)

「それにしても、ひどい姉だなあ」と思った。
自分勝手で、わがまま。
ものの価値観が、完全にズレている。
狭い井戸の中からしか、世界を見ていない。
そんな姉が、妹を説教する。
しかも発想そのものが、貧弱。
文化性そのものが感じられない。

最後に番組の中で、荒涼たる黄土地帯が紹介された。
見方によっては、牧歌的なぬくもりのあるすばらしい環境である。
そんな中国の、そんな地方にまで、金(=マネー)に毒された人たちがふえている。
かつての日本のように……。

そうそう先の私のガールフレンドの父親の会社だが、その後、10数年を経て倒産。
ガールフレンドは、どこかの会社の社員と結婚したというが、現在、行方不明。
同窓会名簿では、そうなっている。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●ノ前大統領の自殺

++++++++++++++++++++

昨日、韓国の前大統領であるノ氏が自殺した。
6億円近いワイロの捜査過程で起きた自殺、
ということになる。

そのノ大統領の言動は、あまりにも見苦しかった。
潔白を主張しながら、その一方で、小細工の
連続。
(高額な腕時計を田んぼに捨てたなどという発言、など。)

小悪を自ら暴露して、大悪を隠すというような
行動までして見せた。
(まだ捜査がそこまで及んでいないのに、
妻の罪を暴露して、自分は知らなかったと
主張した、など。)

で、自殺。

痛ましい事件であることにはちがいない。
が、ここにきて理解できないのが、韓国の政情。
追悼集会がそのまま、反政府運動になりそうな
雰囲気になってきた。
「ノ前大統領を追い詰めたのは、現政権」
「現政権に責任がある」と。

++++++++++++++++++++

●だれが悪い

ときどき子どもたちにこんな問題を出す。
何かの心理テストの本に出ていた話を、私が子ども用に書き改めたものである。

【テスト】

うさぎのA子さんの両親は、今夜も、どこかへ遊びに行ってしまった。
家にいてさみしかったうさぎのA子さんは、橋を渡って、川向こうにある、
リスのB君の家に遊びに行った。
うさぎのA子さんは、しばらくリスのB君の家で遊んだあと、
橋を渡って家に帰ろうとした。
が、そこには、恐ろしいオオカミが待っていた。
うさぎのA子さんは、驚いて、リスのB君の家に逃げた。
リスのB君に、「家まで送ってほしい」と頼んだ。
が、リスのB君は、「ぼくもこわいから、いやだ」と言って、それを断った。
しかたないので、うさぎのA子さんは、走って橋を渡ることにした。
が、途中でオオカミに捕らえられてしまい、うさぎのA子さんは、オオカミに
食べられてしまった。

【テスト法】

子どもにゆっくりとこの話を2度、読んで聞かせる。
聞かせたあと、「この話の中で、一番悪い人は誰ですか」と聞く。

【判定法】

子ども(人)が、だれに焦点をあてるかで、判断の内容が異なってくる。

(1)うさぎのA子さんを、ほったらかしにしておいた両親が悪い。
(2)ひとりで夜、遊びに出た、うさぎのA子さんが悪い。
(3)うさぎのA子さんを助けなかった、リスのB君が悪い。
(4)オオカミが悪い。

さて、あなたなら、だれが悪いと答えるだろうか。

年齢が高くなればなるほど、子どもたちは複雑な考え方をする。
しかし年中児〜年長児あたりだと、すなおに、「オオカミが悪い」と答える。

++++++++++++++++++++

●さて本題

韓国では、野党を中心に、政府への抗議行動を、反政府運動に切り替えようとしているという
(某ニュースサイト)。
独特の思考回路をもつ人たちだから、私たち日本人のもつ思考回路では理解できないとき
がある。

たとえば最近でも、Sという自動車製造会社が倒産した。
倒産して、形がなくなってしまった。
にもかかわらず、「再建するのは、政府の義務」と、労働組合が、ストライキを続行して
いる。
あの国を日本から見ていると、ときどき理解できなくなるときがある。
今回も、そうだ。

6億円という巨額のワイロが流れたにもかかわらず、その中心的立場にいたであろう
ノ前大統領が自殺してしまった。
これで「捜査は中止」(韓国検察)。
が、ここから先が問題。
いろいろな意見に分かれる。

(1)捜査をつづけて、ノ前大統領を追い詰めた検察が悪い。
(2)ワイロを渡した実業家が悪い。
(3)ワイロを受け取っていたというノ前大統領の妻子が悪い。
(4)疑惑を招いたノ前大統領が悪い。
(5)小細工を重ねた、ノ前大統領が悪い。
(6)疑惑を晴らさないで自殺してしまった、ノ前大統領が悪い、など。

(まだ、ノ前大統領が、有罪と確定したわけではないので、あいまいな
表現しかできないが……。)

野党側は、(1)を中心に据え、現政権の攻撃に出始めている。
しかし少し冷静になれば、悪いのは、ノ前大統領ということになる。
前大統領ともあろう重要な人物が、とくに(6)の疑惑を晴らさないまま、
その責任から逃れてしまった。
無責任というか、あきれるというか。
飛行機事故が起きたとき、機長がまっさきに逃げたようなもの。
そこが悪い。
常識で考えれば、そうなる。

が、「現政権が悪い」?
私には、どうしてそれが「反政府運動」なるものにつながっていくのか、
理解できない。

ともあれ、K国にせよ、韓国にせよ、あの国の人たちの思考回路は、私たち
日本人のそれとは、ややちがうらしい。
そういう点で、現在の韓国情勢は、たいへん興味深い。

なお、現在のイ大統領政権になったからといって、反日意識が消えたわけではない。
昔も今も、韓国は、日本にとって最悪の反日国家である。
その体質はほとんど、変わっていない。
韓国をながめるときは、それだけは忘れてはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●豊橋(愛知県、Toyohashi Aichi-pref.)

++++++++++++++++++++

今日は散歩のついでに、豊橋まで行ってきた。
ついでというのは、散歩の途中で、私が「豊橋まで
行ってみようか?」と声をかけると、ワイフが、
「うん」と言ったから。
それで、豊橋まで、となった。

自宅から、JR高塚駅(浜松駅のひとつ西隣の駅)
まで歩く。
小雨が降っていたので、傘をさして、歩く。
その駅までが、約20分。
そこから電車に乗って、豊橋まで。
高塚駅から、JRのローカル線で、ちょうど35分。
豊橋というのは、愛知県の東端にある都市である。
私が住む浜松市からみると、西隣の都市ということになる。

++++++++++++++++++++

●豊橋名物

豊橋にもいくつかの名物がある。
ちくわ、ういろう、きしめん、ざるそば、など。
私はその中でも、ざるそばが好き。
豊橋では、ざるそばのツユの中に、ウズラの卵を入れる。
それがおいしい。

で、午後3時ごろ、ひとつのレストランに入った。
私はもちろん、ざるそば。
ワイフは、「天きし」。
天ぷらを盛ったきしめんのことを、豊橋では、「天きし」という。
(浜松には、「天きし」という名前は、ないぞ!)
その2つを分けあって食べた。
おいしかった。

帰りに近くのデパートに寄り、買い物。
北海道製のパン、それに九州のいわし明太、など。
いわしの切り身の中に、明太が詰めてあった。
おいしそうだった。

「ああ、これでぼくのダイエットも、今日まで」と言うと、
ワイフが笑った。
しかし私はがんばる。
がんばるぞ。
今度こそ、目標の63キロ!
63キロの数字を見るまでは、がんばる。
いつも今ぐらいの体重のところで、くじけてしまう。
そしてリバウンド。
毎度、その繰り返し。


●運動

豊橋へ行った目的は、もちろん運動。
体を鍛えるため。
「今日、がんばれば、明日、仕事ができる」が、このところ2人の合言葉。
運動をしなくなったら、その日から健康は下り坂。
体力はどんどんと衰退する。
若いときはそれがわからなかったが、60歳にもなると、それが実感として
わかるようになる。
数日もだらけた生活をしていると、体が動かなくなる。
ほんとうに動かなくなる。

そうそう今夜は、今度の講演会の練習をしなければならない。
県の教育委員会の総会である。
今までの講演会の中でも、もっとも権威ある講演会ということになる。

が、主催者の方から、原稿の大幅な書き直しを申し入れられてしまった。
おもしろい話というよりは、アカデミックな話を求められているようだ。
一度ビデオカメラを相手に、しゃべってみる。
それを見て、どこをどう直したらよいかを反省する。

そのほかにも6月は、いくつかの講演会をひかえている。
しかしそろそろ、講演会は、今度の講演会を最後に、ひとつのピリオドを打ちたい。
代わりに何かをしたいというわけではないが、少し疲れを感ずるようになった。
講演に使う分のエネルギーを今度は何か、ほかのことに使ってみたい。

ともかくも、その日に向けて、体調を整える。
運動量をふやす。
頭の調子を取り戻す。
失敗は許されない。


●帰りの電車の中で

ふと見ると、ワイフはすでに居眠り状態。
私はワイフの横顔を見ながら、こうしてパソコンを開いて、文章を書いている。
今日のお供(とも)は、HP社の2133。

初期のミニノートで、しばらく使っていなかった。
ちなみに現在、私は3台のミニノートを、もっている。
それぞれを、そのときどきに応じて、使い分けている。
昨日までは、MSI社のミニノート。
そのときの気分で、どれにするかを決めている。

この2133の特徴は、キーボードがスベスベしていること。
それにOSは、ビスタ。
ビスタもよしあしで、電源を入れてから、画面が開くまでに時間がかかる。
近くWINDOW7が発売になるとか。
それを見定めてから、つぎのパソコンを買うつもり。
ねらっているのは、64ビットマシン。
メモリーは、16GB。
想像するだけで、ワウワクする。

……こんなときワイフは何を考えているのだろう。
先ほどまで、「今日、食べたきしめんは、おいしかった」
「豊橋は物価が安いわね」
「服なんかも、浜松の半額よ」などと、勝手にしゃべっていた。

窓の外からは、一転、白い光が注ぎ込み始めた。
画面をみつめる顔に、その光が当たる。
まぶしい。
ブラインドを下までおろす。
心地よい疲れが、眠気を誘う。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●5月26日(感覚記憶)

++++++++++++

今日は月曜日。
今週も、始まった。
さわやかな冷気。
乾いた風。
頭はどこか重い。
それをのぞけば、快調。

書斎に入る。
パソコンに電源を入れる。
メールに目を通す。
「公開教室」の
カウント数を見る。
最近は、これが何よりも
楽しみ。

毎日のアクセス数に合わせて、
過去数週分の、平均値が
示される。
それが毎週、どんどんと
ふえている。

その数字を見ていると、
やる気が出てくる。

さあ、今日もがんばるぞ!

+++++++++++++

●記憶

ぼんやりとパソコンの画面をながめる。
ニュースのタイトルが、ズラリと並んでいる。

「?」と思ったり、「!」と思ったり。
タイトルを、そのつどクリックする。
ニュースの内容が表示される。
目を通す……。

バッキンガム宮殿……UAEで新型インフル……厚生省……温室ガス効果……。
未明に火事……日中韓のレベル……シャトル帰還……国民葬……(5・26)。

が、このあとおもしろい現象が起きる。

読んでいるときは、それほど関心を引かなかった記事が、そのあとぐんぐんと脳みその
中でふくらんでくることがある。
そこでもう一度その記事を読みなおしてみたいと思うのだが、それがどこのどの記事
だったかが、思いだせない。
で、またあちこちを開きなおしてみる。
が、見つからない……。
「?」「?」「?」。

つまり私はニュースサイトの記事に目を通したが、記憶として脳に格納するという
操作をしなかった。
心理学的に言えば、「感覚記憶」だけですませてしまった。

●感覚記憶

ふつう感覚記憶というのは、1秒前後で消失すると言われている。
たとえばパソコンの画面を見る。
右横の方には、ガジェットと呼ばれるコーナーがある。
時刻やカレンダー、株価や為替などがそこに表示されている。
が、そのとき特段の注意を払わなければ、そこに表示されている数字は、そのまま
忘れてしまう。
言うなれば、ただの模様。

これが感覚記憶である。

が、もしこの感覚記憶がなかったら……。
「1秒前後で消失する」とはいうものの、その1秒も残らなかったとしたら……。
私はつぎの記憶操作に移れなくなってしまう。
感覚記憶があるから、たとえその1秒でも、その1秒のうちに、それが重要な情報
であるかを判断することができる。
そして「重要」と判断したときには、脳は、つぎの記憶操作に移動する。
「短期記憶」という記憶操作である。

私はパッパッとガジェットを見ながら、その瞬間、(それこそ1秒以内に)、
重要な数字とそうでない数字を、頭の中でより分ける。
カレンダーを見ながら、ふと円ドルの為替相場を思い出す。
「先週は、1ドル、94・787円で終わったのか……」と。

●短期記憶

こうして感覚記憶を、つぎの短期記憶につなげていく。
「円高になっている……」と。
しかし世界的なドル安の可能性もあるとも考えられる。
あるいは世界的な円高かもしれない……。

そこで各国の通貨を、円やドルと比較してみる。
オーストラリア・ドル、ニュージーランド・ドル、韓国ウォン……。
その結果として、円もドルも下落傾向にあり、相対的にドルのほうが、円よりも
下落率が高いことを知る。

こうして1ドル=94円という数字が、記憶の中に残る。
が、この数字とて、明日になれば忘れる。
(今日の午後かもしれない……。)
忘れるというより、新しい数字がその数字の上に、上書きされる。

では、その数字を、さらに長い間記憶させるためには、どうしたらよいのか。
それが長期記憶ということになる。

●長期記憶

長期記憶は、(記銘)→(保持)→(想起)という3つの段階を経て、脳みその中に
刻みこまれる。
長期記憶として残る。
わかりやすく言えば、(1)まず記憶として、頭の中に叩き込む。
つぎに(2)記憶として、保持する。
あるいは保持するための操作を繰り返す。
そして(3)それをじょうずに、思いだす。

記銘力が弱くなれば、記憶は記憶として残らないことになる。
よく老人になると、物忘れがひどくなると言われるが、私はそうではないと考える。
老人になると、記銘力そのものが弱くなる。
「記憶してやろう」という意欲そのものが、減退する。
だから記憶として残らない。
その結果として、物忘れがひどくなる、と。
これは私の体験からの意見である。

つぎに保持だが、それについては、そのつど反復して思い出すことによって、
より確かなものにすることができる。
英語の単語の暗記を例にあげるまでもない。
が、それだけでは足りない。
何かのことと関連づける必要がある。
最近も、私は、こんな経験をした。

コールバーグという学者がいる。
道徳の完成度を、(1)より公平である、(2)より普遍的であるという2点にしぼって、
まとめあげた学者である。
すばらしい意見である。
が、その名前を忘れてしまった。
何かの場でその名前を思い出そうとしたが、どうしても思い出せなかった。

ところが、である。
ある映画を見ていて、だれかかがハンバーグを食べているシーンを見たとき、思いだした。
「コールバーグだ!」と。

私は、そこで「コールバーグ」と「ハンバーグ」を結びつけて、記憶の中に格納した。
で、今では、すぐにその名前を思い出すことができる。……できるようになった。
つまり、「保持」のためには、「反復」「関連づけ」という操作をしなければならない。

●限界はない

では、その長期記憶には、限界があるのか?
私の経験では、加齢とともに、脳みその底に穴があいたような状態になる。
感覚記憶、短期記憶は、どんどんと、下へこぼれ落ちていく。

では、長期記憶はどうか。
一般論としては、長期記憶は一度、記憶されると、ほぼ永遠、つまり死ぬまで
残るとされる。
(ただし想起力が低下すれば、思いだすことができなくなるが……。
また何かの脳の病気になれば、「死ぬまで……」というわけにはいかなくなる。)

また長期記憶には、際限はないとされる。
脳のもつキャパシティには、相当なものがあるらしい。
実感として、100の英語の単語を記憶すれば、一方で100の英語の単語を
忘れてしまうのではないかと思う。
しかし実際には、そういうことはない。
「限界はない」というのが、定説になっている。

新しい長期記憶ができたからといって、別の長期記憶が消えていくなどということは、
ないということ。
だからどんどんと記憶していく。
遠慮なく、記憶していく。

●思考

こうして今、一通り、ニュースサイトを読み終えた。
が、ここからが、私の出番(?)。

ニュースにしても、ただ読んだだけでは、記憶として残るだけ。
もしその段階で終わってしまったら、それこそ、ワイフとの茶飲み話で終わってしまう。
そこで大切なことは、それを思考につなげていくという操作。
それをしないと、私はただの情報人間になってしまう。
またそうすることによって、長期記憶を、より確かなものにすることができる。

たとえば……。
どこかを旅しても、車窓から外をながめていただけでは、長期記憶としては
記憶に残らない。
何かのエピソードと結びつけば、その段階で、短期記憶として残る。
が、さらにしっかりとした長期記憶として残したいと思うなら、
(これはあくまでも私の意見だが)、絵に描いてみるとよい。
あるいはその瞬間に、旅行記を書いてみるとよい。
簡単なメモでもよい。
そうすれば、脳の中に、記憶として、しっかりと(記銘)することができる。

そういう視点で、今日も、いくつかのニュースに興味をもった。
それについては、このあと書いてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi Hama 感覚記憶 短期記憶 長期記憶 記銘 保持 想起 記憶の
メカニズム 林浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●金相場

金(ゴールド)の現物売買をしている人が
ふえているという。

そこで今朝の相場(田中貴金属)のHPで
調べてみると、1グラムあたり、3088円(買い)
ということがわかった。
このところ、円高に振れているにもかかわらず、
少しずつ価格が上昇している。

こういうときは、ニューヨーク金の相場が
参考になる。
昨年末(08)には、1000〜1039ドル
(1オンス)だったが、今は6月先物相場で、
960ドル前後。
……よくわからない。
そこでもうひとつの手がかり。
他の金属相場を調べてみる。

ニッケル、アルミとも、この3か月では、現在、最高値
を記録している。
銅だけは、4月の相場より、やや値がさがっている。
が、全体に、やや下降気味。
そこで、もうひとつ。
原油価格も参考になる。

最後は、円ドルの為替相場。
円高になれば、当然、金価格も連動してさがる。

で、「買うか、売るか?」と。
……ウム〜〜?

こういうふうに迷ったときは、動かない方がよい。
(これはあくまでも私の考え方。)
買うべきときには、「買いたい」という意思が大きくなる。
売るべきときには、「売りたい」という意思が大きくなる。

つまりこうしてあちこちの数字をながめていると、
そうした意思が、あたかも本脳のように、自然とわいてくる。
あとは自然体。
自然にわいてくる意思に従えばよい。

「買いたい」と思えば、さっさと買えばよい。
「売りたい」と思えば、さっさと売ればよい。
短期的に、「損をしたな」と思っても、やがて自分の
思い通りに、相場は動いていく。

なお、今ではこうした情報が居ながらにして、しかも
リアルタイムで入手できる。
インターネットのおかげだが、考えてみれば、これは、
ものすごいことではないか。

10〜20年前には、いちいち電話をかけたり、店頭まで
出向いていかなければならなかった。
こうした情報を手に入れることができなかった。
それが今は、瞬時、瞬時!

それにしても、すごい!


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●大国の謙虚さ

+++++++++++++++++++++++

大国と呼ばれる国が、自らの謙虚さを忘れたら、
それこそ世界は闇。

たった40年前のことだが、日本はまだ貧しかった。
その貧しさを知っているからこそ、私はそう思う。

+++++++++++++++++++++++

●大国

今でこそ、この日本は経済大国になった。
金持ちになった。
経済大国として、世界の上に、君臨している。
(すでに中国に追い抜かれたという説もあるが、今のところまだ、
かろうじてだが、その地位を保っている。)
しかし、だ。
たった40年前はそうではなかった。
私がオーストラリアへ渡った1970年ごろの日本は、まだ貧しかった。

当時、オーストラリアドルにしても、1ドルが400円。
アメリカドルにしても、1ドルが360円。
具体的には、当時、羽田(日本)⇔シドニー(オーストラリア)間の往復の航空運賃が、
日本円で42万円(日本航空)。
(シドニーからメルボルン間は、往復で、約3〜4万円だったと記憶しているが、
確かではない。)
大卒の初任給が、やっと5万円を超えるか超えないかという時代に、である。

こういう事実を、今の若い人たちは知らない。
今も昔も、日本は豊かな国だったと思い込んでいる。
まるで当たり前のことのように考えている。
修学旅行で外国へ行くということが、どういうことなのか、それすら理解できないでいる。

が、本当のことを言えば、日本が貧しかったのではない。
日本の円の力が、それだけ弱かった。
画家にたとえるなら、日本人の画家は、無名。
いくら描いても、だれも絵を買ってくれない。
どれだけていねいに描いても、だれも買ってくれない。
一方、オーストラリア人の画家は、有名。
簡単な絵を描いただけで、みながほしがる。
描けば描くほど、その一方で、飛ぶように絵が売れていく。
それが(力の差)、ということになる。
こんなことがあった。

一度だが、私は日本の1万円札を、銀行でオーストラリアドルに交換しようと
したことがある。
しかし当時、すんなりとは交換できなかった。
何度も何度もチェックされ、長い時間待たされたあと、やっと交換してもらった。

そんなとき、向こうの農家の人たちの平均年収が、日本円で、1200万円程度
ということを知って、私は驚いた。
日本の大卒の年収(5万x12=60万円)の、約20倍である。
が、農家の人たちがそれだけの高収入を得ていたということではない。
物価も、日本の10倍以上はあったから、農家の人たちにしても、そこそこの
生活しかしていなかった。

つまり、日本の(円)の力が、それだけ弱かったということ。
円という、マネーの力が弱かった。
で、私はそれを知って、強い不公平感を覚えた。

資本主義体制の中では、より力のある通貨をもつ国が、実力以上の
よい生活をする一方、より力のない通貨をもつ国が、実力以下の生活しか
できない。
それを資本主義による「搾取(さくしゅ)」というのなら、搾取でも構わない。
強い国が、弱い国を搾取しながら、よい生活をする……。
そこで私がだれかにそのことを訴えると、その人はこう言った。
「それが戦勝国と敗戦国のちがいだよ」と。

●不公平感

こう書くからといって、何もあのK国の肩をもつわけではない。
あの国は何からなにまで、おかしい。
しかも自国の経済運営の失敗まで、外国の責任にしている。
が、それはそれとして、彼らのおもしろくない気持ちも、これまた私には
理解できる。

現在、K国の開城工業団地における労働者の平均賃金は、月額にして、
8000円〜9000円程度という。
かなりの部分が、K国政府によってピンはねされているから、実際には、
もっと少ない。
が、それでもK国の国内では、破格の高給という。

そこであなた自身を、その団地の労働者の身分に置いてみる。
あなたを開城工業団地の労働者という立場に置いて、考えてみる。
そのあなたは、毎日8〜10時間働いて、給料は、たったの8000円!
月給が、だ。
そのお金を日本へもってきたとしても、1〜2日分の生活しかできない。
日本では、満足に電車にすら乗れないだろう。
が、それはそのまま私がオーストラリアへ渡ったころの、日本とオーストラリア
の関係に似ている。

私は、向こうの人たちが、あのオレンジを、袋単位で買っているのを見て、
驚いたことがある。
当時の日本人の私には、想像もできない買い方だった。
私たちは、店で、一個単位でオレンジを買っていた。

だからあなたは、こう叫ぶ。
「不公平だ」
「働いている時間は同じなのに、日本人は、40万円も稼いでいる」
「おかしい!」と。

が、だれかがあなたにこう言う。
「しかたないではないか。
君たちのウォンなど、紙くず同然。
為替レートなど、あってないようなもの。
そんなウォンを一人前に扱えっていっても、無理」と。

考えようによっては、現在のK国は、そのどん底であえいでいるのかもしれない。
仕事もない。
お金もない。
だから食べ物すら満足に買うこともできない。

で、ここからが、たいへんきわどい話になる。
繰り返すが、だからといって、K国の肩をもつわけではない。
K国がミサイルの発射実験をしてもよいとか、核兵器開発をしてもよいとか、
そんなことを書いているのではない。
もちろん、そんなことを許してはいけない。

が、私がここで言いたいことは、彼らの行動についての責任の一部は、
この私たち日本人にもあるということ。
強い円をよいことに、日本は、世界中から、富を買いあさっている。
国中にモノがあふれ、食糧もあふれている。
その国の通貨が強いということが、どういうことかは、先に私が書いたとおり。
オーストラリアの話を思い出してみればわかるはず。

当時私は一応、全額給費生ということで、小づかいも支給された。
が、たいしたものは買えなかった。
帰国するときみやげを買ったが、買ったものと言えば、小さなコアラの
人形と、ブーメランだけだった。

もう、わかってもらえたと思う。
私たち日本人は、ほとんどそれを自覚していないかもしれないが、実際には、
貧しい国々を犠牲にして、その上で、豊かな生活を楽しんでいる。
実力以上の生活を楽しんでいる。

……が、こう書くと、こう反論する人もいるかもしれない。
「日本は、がんばった。
だから今のような繁栄を築くことができた。
日本のようになりたかったら、君たちもがんばればいいではないか」と。

しかし本当にそうだろうか?
本当にそう言い切ってよいだろうか?
しかし私は、それこそ大国の(おごり)ではないかと思う。
あのころの不公平感を、私はよく知っているからなおさら、そういう意見には、
どうしても素直に従うことができない。

それに……もし大国が、経済大国でも軍事大国でもよいが、そうした大国が
謙虚さを忘れたら、それこそ世界は闇。
闇に向って、つき進んでしまう。
私はそれを心配する。

K国の核兵器問題、ミサイル問題を考えるときは、
心のどこかで、そうした謙虚さを忘れてはいけないと、私は思う。


Hiroshi Hayashi++++++++May 09++++++++++はやし浩司

●脳梗塞

今日、通りを歩いているときのこと。
散歩していて、こんなことに気がついた。
1人、脳梗塞か何かで、半身が不随の人を見かけた。
男性だった。
年齢は私と同じくらい。
杖を片手に、黙りこくったまま歩いていた。

で、ふとそのとき、こう思った。
そういえば、そういうふうにして歩いている人は、
男性ばかりで、女性はいないなあ、と。
記憶の中をさぐってみたが、女性がそういうふうにして
歩いているのを、私は見かけたことがない。
その話をしながら、ワイフに、「お前は見たことがあるか?」と聞くと、
ワイフも、「そう言えば、ないわねエ〜」と。

こうした病気は、男性特有のものなのだろうか。
それとも女性というのは、そういう病気になっても、通りには出てこないもの
なのだろうか。
よくわからないが、男性だけが脳梗塞か何かになるということは、ありえない。
もしそうなら、つまり男性だけの特有な病気とするなら、
とっくの昔に、話題となって、私の耳にも入っているはず。

しばらく歩いていると、ワイフがこう言った。
「そう言えば、1人、見かけたことがあるわ」
「……でも、通りを歩いている人は、見たことはないわね」と。

半身不随といっても、重い症状の人から、軽い症状の人もいる。
脳が受けたダメージの程度によって、ちがう。
が、もし女性に少ないというのなら、その理由を調べてみたい。


●K国の核実験

昼ごろ、あのK国が核実験をしたかもしれないというニュースが
飛び込んできた(5月25日)。
「実験するかもしれない」というニュースはたびたび伝えられていたので、
私はそれほど、驚かなかった。
それに今回は、2度目。

ネットニュースによれば、マグニチュード4・4の威力だったとか。
具体的にどの程度の規模だったのかは、追々、報道されるだろう。
成功だったのか?
失敗だったのか?
あるいは失敗して、暴発したのかもしれない。
その可能性もないわけではない。

しかしあの国は、いったいどこまでツッパルつもりなのだろう。
クリントン国務長官は、「予測不能」と評したが、メチャメチャなことばかり
するという点で、一貫性がある。
つまり予測は可能。
これから先も、メチャメチャなことばかりするだろう。

で、日本としては、ああいう国を、まともに相手にしてはいけない。
まともに相手にしたとたん、相手のワナにはまってしまう。
アメリカと歩調を合わせて、ここは無視するのが、いちばん。
国連という場にもちこんで、集団で、K国を締めあげる。
自己崩壊にもっていく。

で、ここは中国とロシアに責任を取ってもらおうではないか。
それと韓国の金大中と彼を支える、野党のみなさんにも、責任を取ってもらおう
ではないか。。
本当は、ノ前大統領にいちばん責任を取ってもらいたいが、昨日、自殺して
しまった。
(注:私は韓国の前大統領を、ずっと、「ノ大統領」と表記してきた。
強圧的な反日姿勢に抗議の念をこめて、そうしてきた。
その気持ちは、自殺した今も変わっていない。)


●散歩

ところで今日の散歩コースは、一度バスに乗り、(西郵便局)で下車。
そこから(根上がり松)方面に大きく遠回りして、市内まで。
途中で、100円ショップと、郵便局に立ち寄った。

細い路地を歩いてみた。
どこもほぼ10年ぶりという路地だった。
様子はすっかり変わっていた。
豪華な家がふえていたのには、驚いた。
そのうちの一軒は、まるでおとぎの国からでも飛び出したような家だった。
「どんな人が住んでいるのだろう?」と思いながら、その前を通り過ぎた。

この先、日本でも貧富の差が、ますます進むという。
ジニ指数という言葉もあるが、そんな指数など見なくても、こうした路地を
歩いてみると、わかる。
現在の今も、この不況下。
保有している土地を投げ売りしている人は多い。
一方、政府は、ジャブジャブどころか、ゴーゴーとお金を市中にばらまいている。
そのお金が、行く人のところへは行く。
そういう人たちが、そういう土地を買いあさり始めている。

某経済誌によれば、AS内閣は、土地のミニバブルを画策しているとか。
真偽のほどはわからないが、数字だけを見ていると、私にもそんな感じがする。
どん底の不動産業を救済するには、それしか方法がない。
つまりその結果として、貧富の差は広がる。

が、それではすむと考えてはいけない。
その先で待っているのは、猛烈なハイパーインフレ。
それもそのはず。
土地というのは、短期で売買すると、約40%の取得税が課せられる。
つまり1000万円で買った土地なら、最低でも約1666万円で売らないと、
元は回収できない。
(実際には、そんな単純ではないが……。)
土地を買いつづけている人(業者)は、すでにその金額を織り込みながら、
買っているという。

こんなことをしていて、日本の経済が無事ですむはずがない。
人間のもつ欲望のものすごさというか、貪欲さに、改めて驚く。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●65・4キロ

++++++++++++++++++++

今朝、体重を量ったら、65・4キロ!
約3キロの減量、成功!
目標まで、あと2キロ。
今日も、がんばるぞ!

で、たった3キロと思う人も多いかもしれない。
2リットル入りのペットボトル1・5本分。
しかし体の軽さを、実感することができる。
体の各部が、スタスタと動く。
その軽快感が、たまらない。
うれしい。

今日も、歩く。
サイクリングをする。
あとは食事療法。

++++++++++++++++++++

●真の勇者(韓国を尊敬する)
(I respect South Koreans. They know what the Freedom of Speech is.) 

数日前、韓国の前大統領であるノ氏が自殺した。
それについて、その少し前に、ノ氏を批判して、「自殺するか、監獄に行け」※と
書いた、大学の教授がいた。
少し言い過ぎとは、私も思うが、清潔さを売り物にしてきた前大統領の汚職という
ことで、怒りも収まらなかったのだろう。
が、ノ氏が本当に自殺してしまったから、さあ、たいへん。
大騒ぎになってしまった。
ノ氏を支持してきた人たちから、今、猛烈な抗議の嵐が殺到しているという。

それに対して、当の大学教授は、こう述べている。
「この国には、感情と同情しかないのか」と。
つまり「法はないのか」と。
さらに「何十万という抗議のメールが届いても、私は読まない」
「公的な警護を要請しない」とも。

ことの経緯(いきさつ)はともかくも、また抗議を繰り返す支持者たちの気持ちも
理解できないわけではない。
が、そういう教授を、真の勇者という。
またそういう教授が、最前線で、言論の自由を守る。
またそういう教授を生んだ韓国を、少なからずうらやましく思う。
韓国を尊敬する。

一方、今、この日本には、そういう勇者は、いない。
みな、政府に迎合し、さもなくば、マスコミに迎合し、世間の顔色をうかがいながら、
モノを書いている。
金儲けのために、モノを書いている。
週刊誌などにモノを書いている識者(?)と呼ばれている人たちは、
おおかたその種の人たちと考えてよい。
つい先日も、拉致被害者のMさんいついて、「すでに死亡している」と、とんでもない
意見を述べた評論家がいた。
世間の批判にさらされたとたん、自説をひっこめ、あっさりと謝罪。

ア〜ア!

どうかその教授には、がんばってほしい。
その結果として、その教授は、モノを書く勇気を身につけるはず。
抗議などというものは、テレビゲームのポイントのようなもの。
信念がその裏づけにあるなら、何も恐れる必要はない。
「おかしいものは、おかしい」と声をあげることこそ、大切。
それが韓国のみならず、人類の行く手を明るく照らす。

私自身も、2〜3年にわたって、ある宗教団体の攻撃にさらされた経験をもっている。
毎週、毎週、20〜30人のグループに、自宅にまで押しかけられた。
実際のところ、最初のころは恐ろしかった。
身の危険も感じた。
が、それも一巡すると、抗議にやってくる人に向って、笑顔で応対することが
できるようになった。
とたん、相手のほうが、退散していくようになった。

その結果が、今。
私は今、堂々と実名を公表してモノを書いている。……書けるようになった。
そのつど、批判されたり、中傷されたりすることはある。
しかし私は私。
そんなものをいちいち恐れていたら、モノなど書けない。
つまり、その教授とは比較にはならないかもしれないが、その結果として、モノを
書く勇気を身につけた。

だからあえて繰り返す。
私はその教授を尊敬する。
内容はさておき、その信念を支持する。
教授の名前は、金東吉(キム・ドンギル)延世(ヨンセ)大名誉教授。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
金東吉 金東吉延世大学名誉教授)

(注※)【韓国・中央N報の記事より、転載】

『金東吉(キム・ドンギル)延世(ヨンセ)大名誉教授にネットユーザーの非難が殺到した。 

  金東吉教授が先月15日、自分のホームページに盧武鉉前大統領に向かって「自殺するか
監獄に行け」という内容の文を書いたからだ。 

  金教授は「もらったらもらったと言わなければ」という文で「盧武鉉さんが他人の金を一銭もも
らっていないと最後まで言い張るのは難しくなるだろう」とし「一国の大統領を務めた者が、そ
のように卑怯にふるまってどうなるか」と言った。続いて「はじめから検察官に、はい、もらうに
はもらいましたがそんなにはもらいませんでした」と謙遜して言ってもこ憎たらしいのに、そんな
ことはないときっぱりしらを切るからもっと憎く感じる」と言った。 

  それとともに「人間においていちばん大事なのは真実なのに、真実がなければ言いわけでき
ないものと決まっている」とし「そんな者が公職の高い地位に座れば、多くの民が苦労をするほ
かない」と付け加えた。金教授は最後に「彼が5年間やらかしたことは次の政権がどうにか正
すことができると言っても、道徳的な過ちは直すあてがないから国民に謝る意味で自殺をする
とか、それとも裁判を受けて監獄へ行って服役するほかないだろう」と主張した。こうした事実
が伝わり、ネチズンたちは激しく責めはじめた。あるネチズンは「発言が現実になった。自分で
自分の墓でも探しておけ」と興奮を隠せなかった。 

  しかしまた別のネチズンは「一国の前職大統領の逝去は哀悼しなければならないことだ。し
かし一国を統治した国家に影響力ある人物が自殺を選択したということは同情するに値するこ
とではない。理性を取り戻して誰のせいにもせず、冥福を祈らなければならない」と書いた。 

  現在、金教授のホームページはアクセスできない状態だ』(以上、09年5月26日)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司※

●何かの脳の病気?

+++++++++++++++++++

私の年代になると、まず気になるのが、
脳みその状態。
友人と会っても、まず最初に、「お前はだいじょうぶか?」
「あいつはだいじょうぶか?」「ぼくもあぶない……」
というような会話から始まる。

が、この方法は万能ではない。
私自身の脳みそもおかしいばあい、
相手のことを正しく判断することができない。
「お前はだいじょうぶだよ」と言っても、また言われても、
安心はできない。

こうして私たちは、どんどんと、ボケていく。
不可逆的にボケていく。
肉体と同じように、知力、気力ともに衰えていく。

で、こんな話を聞いた。
そのまま紹介するわけにはいかないので、
少し私のほうでアレンジする。

+++++++++++++++++++

●ボイスレコーダー

その知人(男性、50歳)には、10歳ほど年上の姉がいる。
今年、満60歳になるという。
その姉の会話が、このところ、どうもおかしい、と。

その知人によれば、こうらしい。

ある特定のことについては、ことこまかに覚えている。
まるでビデオカメラか何かで撮影でもしたかのように覚えている。
そしてそれについて話し出すと、口が止まらなくなる。
その間、相手の話を聞かない、つまり一方的にしゃべるだけで、会話にならない。

が、何を話したいか、それもつかめない。
話の内容が、とりとめもなくつづき、どんどんと変わっていく。
「だからどうしたらいいの?」という部分がない。
ときにそれがグチになることもある。
ネチネチといつまでもつづく。

が、その一方で、数日前に話したことを、ポンと忘れてしまうことがあるという。
そこでその知人は、自分の姉と話すときは、必ずメモ用紙か、
ボイスレコーダーを用意するという。
そしてその姉がおかしなことを言ったりしたら、すかさず、メモを見せ、
「おまえは、昨日、こう言ったぞ」と言うことにしている、と。

が、この方法も、最近では通用しなくなってきたという。
メモそのものを疑うようになった。
メモを見せたとたん、「そういうウソをつくな!」と、逆に怒鳴られたこともあるという。
で、ボイスレコーダーということになった。

が、これにも猛反発。
声を聞かせようとすると、「あんたは、そんな卑怯なことをするのかア!」と。
で、ボイスレコーダーのほうは、あくまでも内々の記録用にとどめている、とか。

「父親の介護問題、近所のつきあい、実家の税務問題など、このところ金銭問題
がからむ問題が多くなってきたので、そういうやり方でもしないと、話にならない
のです」
「何しろ、つい数日前に約束した話でも、ポンと忘れてしまうのですから」と。

その知人は、私に「何の病気かね?」と聞いた。
私は「わからないです」と答え、「一度、病院で診てもらったほうがいいよ」と
アドバイスした。

●原因

うつ病によるものなのか、それとも認知症によるものなのか?
ある特定のことだけ、ことこまかに覚えているというのは、どういう病気による
ものなのか?

私たちでも何かのことに強いこだわりを覚えると、それについて、こまかいことを
覚えているということは、よくある。
が、それにも程度というものがある。
うつ病患者の主症状のひとつが、「異常なこだわり」となっている。
こまかいことに固執し、いつまでも悶々とそれについて悩む。

一方、「ポンと何かのことを忘れてしまう」(知人の言葉)というのは、アルツハイマー
病などの主症状のひとつにもなっている。
「エピソード記憶の喪失」というのが、それである。
で、その知人の姉のばあい、その2つの病気が、同時進行の形で、起きていることも
考えられなくはない。
私たちの年代になると、ボケがうつ病を併発しているのか、うつ病がボケを併発
しているのか、専門のドクターでもその判断がむずかしいという。

で、その知人には、もうひとつ、心配ごとがある。
その知人の父親も、頭がおかしくなってしまい、今は施設に入っているという。
で、姉もおかしいとなると、「今度は自分」ということになってしまう。

脳の病気には、遺伝性はあるのか。
それとも、ないのか。
だから別れ際、私にこう言った。

「ぼくは、あなた(=私)からみて、おかしくありませんか?」
「おかしいと思ったら、教えてくださいよ」と。
で、私はこう答えた。
「ぼく(=私)もおかしくなったら、どうします」と。

本当にさみしい年代になった。
こんな会話で話が始まり、こんな会話で話が終わる。
そんなことが多くなった。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●介護が終わって、腹黒い人間になってしまった姉(ヤフー知恵袋より)

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ヤフー「知恵袋」にこんな話が載っていた。
一部を抜粋して、紹介させてもらう。
その女性の母親は、1年ほど、義父の介護をした。
で、事件が起きて、義父は、センターへ。
その女性の母親は、介護からは解放されたのだが……。

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『……ある日、お爺ちゃんが兵隊だと言って、暴力をフルおうとしたのがきっかけで、
おじいちゃんは入院することになり、母も介護からやっと解放されました。


本当に母の方がストレスで壊れてしまうところだったので、
こうなって良かったと思いました。

(中略)

しかし、解放されてはや一年。。。
母の性格が、口うるさいおばちゃんというか、
自分の親とは思いたくないぐらいの、腹黒い母になってしまいました。

昔の母は、凄く優しく、悪口を嫌い、正義感あふれる、
お茶目で、かわいい、私の大好きな母でした。


弟夫婦にどなるし、うるさいやんちゃさんがいたら、注意しに行くし、、、
弟夫婦や義父の悪口をその名前が出るたびに、同じ昔の話を何回も愚痴り、
介護をもうこの先しなくてもいいのに、
そして、介護や認知症についてが新聞のテレビ欄にあるたびにそのテレビを見て、
テレビで介護する人たちに共感して、毎回、愚痴愚痴言います……』と。

参考:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1324226598

●抑圧からシャドウへ

こうした心理的変化は、心理学の世界では、「抑圧」という言葉を使って説明される。
義父を介護しながら、その女性(=嫁)は、日頃の不平、不満を、心の中に別室を
作り、そこへ抑圧してしまった。

義父への憎しみ、怒り、不快感など。
が、その一方で、そうした感情を表に出すことを許されなかった。
表面的には、よい嫁を演じ、かいがいしく義父を介護してみせた。
いわば仮面をかぶったことになるが、その仮面を脱ぐことも許されなかった。

本来なら、そうした仮面はどこかで脱ぐべきだった。
思う存分、言いたいことを言い、したいことをすべきだった。
その母親のばあいは、娘(=この原稿の投稿者)に対してグチをこぼすという
方法で、自分の心を調整しようとした。
が、それだけでは足りなかった。

●腹黒い母

心の別室といっても、それにはキャパシティ(容量)というものがある。
それが広い人もいれば、狭い人もいる。
多くは、その人のもつ文化性で、決まる。
文化性の高い人は、そのキャパシティが大きい。
そうでなければ、そうでない。

そのためにも私たちは、日ごろから高い文化に触れ、キャパシティを大きくして
おかねばならない。
音楽、絵画、芸術を楽しむなど。
映画鑑賞もよいだろう。
いろいろな本を読んで、見分を広くしておくこともよい。
もちろん道徳の完成度も、関係してくる。
より公正性があるか、より普遍性があるか(コールバーグ)。
つねに自分を磨いておく。

その容量を超えたとき、今度はその別室に閉じ込められた邪悪な自分が、本来の
自分を侵襲し始める。
人間性をゆがめる。
さらにはシャドウとなって、その人を裏から操るようになる。
その女性は、こう書いている。

「母の性格が口うるさいおばちゃんというか、
自分の親とは思いたくないぐらいの腹黒い母になってしまいました」と。

よくあるケースである。

●子どもの世界でも

こうした現象は、子どもの世界でも、よく観察される。
たびたび取りあげてきたので、ここでは簡単に触れる。

よく「おとなしい子どもほど、心をゆがめやすい」という。
親は、「忍耐力のある、がまん強い子」と喜んでいるが、これはとんでもない誤解。
このタイプの子どもほど、何を考えているか、外からつかみにくい。
先生が何かを指示しても、だまって、それに従ったりする。

このタイプの子どもは、心の中に別室をつくり、そこへ邪悪なものを閉じ込めることに
よって、表面的には、いい子ぶる。
そしてそれがたとえば思春期前夜ごろから、爆発する。
「こんなオレにしたのは、テメエだろオ!」と、母親に向って殴りかかったりする。

●ではどうするか。

だれにでも、心の別室はある。
私にもあるし、あなたにもある。
ない人は、ない。

いやなことがあると、それをその心の別室の中に抑圧する。
こうして私たちは、自分の心を守る。

で、そこで大切なことは、(1)まずその心の別室を認めること。
そして(2)その別室には、自分の中でも、邪悪なものが住んでいることを認めること。
仮面をかぶることが多いようであれば、その仮面を、どこかで脱ぐことも忘れては
いけない。

とくに日頃から善人ぶっている人ほど、要注意。

こわいのは、心の別室に邪悪な部分をすべて抑圧し、表の自分だけを見せて、
それが「私のすべて」と錯覚すること。
あるいは仮面を脱ぎ忘れてしまうこと。
ほうっておけば、確実に、あなたの心はむしばまれる。
ばあいによっては、それがシャドウ(ユング)となって、つぎの世代へと
伝播していく。

で、その女性の母親のばあい、それが期待できるかどうかという問題がある。
年齢は書いてないのでわからないが、おそらく65歳前後ではないか。

が、この年齢になると、自分を静かに見つめるということ自体、できなくなる。
グチがグチをよぶグチ地獄の中に陥ってしまうことが、多い。
というのも、グチそのものが、(こだわり)の一種とみる。
ささいなことにこだわり、それをグチ化する。
そのため、グチがいつまでもつづく。
言いかえると、母親自身が、何らかの心の病をわずらっている可能性がある。

●介護問題の陰で……

介護問題の陰には、こうした問題もある。
「介護」というと、介護だけを考える人は多い。
しかしそれ以上に深刻な問題は、介護疲れもさることながら、それが与える、
精神的、心理的負担。
それが周囲の人たちの心をゆがめる。
ばあいによっては、家族関係を破壊する。

その一例として、ヤフー知恵袋に載っていた相談を、ここで考えてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
林浩司 介護 介護疲れ 介護問題 抑圧 心の別室 シャドウ論)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●2つの記事

+++++++++++++++++

今日(09−05−26)、韓国がPSIに
正式に参加すると表明した。

K国はかねてより、「韓国のPSI参加は、
宣戦布告である」と表明している。
それはそれとして、中国国内での報道と、
韓国国内での報道が、評価のしかたにおいて、
180度違うというのは、たいへん興味深い。

+++++++++++++++++

●まず北京発(NIKKEI NEWS)

北京発のニュースでは、『北東アジアの平和と安定に資する行為を多くなすべきだ」と、
防衛強化の動きに懸念をにじませた』と、「懸念」という表現を用いている。

一方韓国の中央N報は、『K国の攻撃に対抗した防御だ、と評価した』(同日)と報道
している。

「懸念」と「評価」、どちらが正しいのか?
その両者を読み比べてみてほしい。

 【北京=SK】

『……韓国政府が米国が主導する大量破壊兵器の拡散防止構想(PSI)に全面参加する
と発表したことを巡っては「北東アジアの平和と安定に資する行為を多くなすべきだ」と、
防衛強化の動きに懸念をにじませた』(NIKKEI NEWS)と。

【韓国の中央N報】

『中国国際問題研究所の沈世順主任が、韓国政府の大量破壊兵器拡散防止構想(PSI)
全面参加宣言はK国の攻撃に対抗した防御だ、と評価した。 

  沈主任は26日、聯合ニュースとのインタビューで、「北朝鮮の核戦力の強化は攻撃的な
ものであり、韓国が核拡散防止のためにPSIに参加するというのは国民の安全を保護す
るためのものだ」と述べた。 

  沈主任は「K国は以前から韓国のPSI参加に反対してきたが、最近のK国の行動を
見れば、韓国がPSIに参加する口実を提供したとしか考えられない」とし、K国の核
実験に強い不満を表示した』(中央N報)と。

++++++++++++++++++

2つの記事を読み比べたら、だれしも、「どちらが正しい?」と思うにちがいない。
ほかの部分も、かなりちがう。
K国の核実験についても、NIKKEIのほうは、「制裁については、中国側は慎重態度」
と報道しているのに対して、中央N報のほうは、「強い不満を示した」とある。

しかしどちらがどうであるにせよ、こうして世界中の記事を、同時に読み比べることが
できるというのは、すばらしいことではないか。
これもインターネットのおかげということになる。

では、日本での報道は、どうか?
まだ読んでないが、たぶん、今夜の夕刊に、それについての記事があるはず。
あとでそれを読んでみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●【結果主義】(希望と落胆)

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『我らが目的は成功することではない。
失敗にめげず、前に進むことである』(スティーブンソン)。

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●A氏のケース

A氏は、競馬でその日、もっていたお金のほとんどを
すってしまった。

残ったのは、1000円。
食事は、コンビニのパンですまし、おつりで、宝くじを買った。

が、この宝くじがあたった。
X賞で、賞金200万円!

A氏はそのお金で、念願だった、新車を購入した。
が、買ってまもなくのこと、追突事故を起こしてしまった。
幸い、双方ともに軽い損傷程度ですんだ。

が、それが縁で、つまり追突した車を運転していた女性と知りあい、
そのままその女性と結婚してしまった。
電撃結婚だった。

その女性は財産家の1人娘だった。
甘いハネムーンから覚めてみると、その女性は、まったく家事が
できないことがわかった。
食事は、ほとんど外食、あるいは弁当。
洗濯の仕方も知らなかった。

A氏の給料だけでは、生活できなくなってしまった。
その女性は、実家からA氏の給料以上の支援を受けるようになった。
が、そのためA氏と女性の間では、夫婦喧嘩が絶えなかった。

女性が妊娠したところで、女性は「生活ができない」と言って、
実家に帰ってしまった。
そのまま離婚。
A氏は、女性の実家から、かなりの額の慰謝料を受け取った。
女性の実家の両親は、もともと、2人の結婚には、反対していた。

A氏はその慰謝料を元手に、町の中に人材派遣業を開いた。
最初はそれまでの仕事の関係で、けっこう収入があったが、やがてすぐ左前。
半年くらいで、事務所を閉じてしまった。

●大切なのは「今」

A氏の話は、私の作り話である。
(運)と(不運)を交互にまぜてみた。
つまりそのつど(結果)があり、その(結果)が、つぎの(結果)の
始まりであることを、この話を通して理解してもらえれば、うれしい。

このことは、子どもの受験勉強についても言える。

中学受験で合格する。
その喜びも、数か月も過ぎると、消える。
今度は高校受験が始まる。
で、何とか、目的の高校に合格できた。
同じように、その喜びも、数か月も過ぎると、消える。
今度は大学受験が始まる。

このばあいも、(結果)はつぎの、過程への一里塚でしかないことがわかる。
もっと言えば、(結果)は常に、(次の始まり)でしかない。
さらに言えば、(結果)と(始まり)を分けるほうが、おかしい。
またA氏のケースを読んでもわかるように、(もちろん作り話だが)、
結果がよくても、また悪くても、そこで流れが止まるということでもない。

では、どう考えたらよいのか。

結果というのは、「今」のあとに必ず、やってくる。
「結果」という言葉にこだわる必要はない。
「今」のあとには、必ず、「次の今」がやってくる。
私たちがなすべきことがあるとすれば、それは「今」を懸命に生きること。
そのあとのことは、そのあとのこと。
そのときは、また、そのとき懸命に生きればよい。

子どもの受験勉強にしても、そうだ。
子どもがそのとき、生き生きと楽しそうに生活していれば、それでよい。
もちろん懸命に勉強していれば、さらによい。
入学試験という関門はそのつどやってくるが、それはあくまでも関門。
結果がよくても悪くても、一喜一憂しない。
またその価値もない。

この世界でもっとも愚劣な生き方といえば、取り越し苦労に、ヌカ喜び。
結果主義の生き方をしている人は、えてして、そのときどきの結果に、
振り回されてしまう。

……日本の仏教は、結果を重んじ、ともすれば結果主義に走るきらいがある。
『終わりよければ、すべてよし』と。
『死んだ人は、みな仏』というのも、同じように考えてよい。
「死に際の様子を見れば、その人の人生のすべてがわかる」と教える仏教教団も
ある。

こうした仏教的なものの見方は、私たち日本人の骨のズイにまでしみこんでいる。
だからそれを自分の体から抜き出すのは、容易なことではない。
ないが、その努力だけは怠ってはいけない。
怠ったとたん、再び、その流れの中に、体ごと飲みこまれてしまう。

あなたが今、どういう状態であれ、あなたはあなた。
私は私。
そして今は今。
大切なことは、今というこのときを、懸命に生きること。
過去を悔やんでも始まらない。
未来を嘆いても始まらない。
とにかく今を、懸命に生きること。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 結果
主義)

●希望と落胆

++++++++++++++++

希望と落胆は、ある一定の周期をおいて、
交互にやってくる。

希望をもてば、そのあとには、必ず
落胆がやってくる。しかしそこで終わる
わけではない。

朝のこない夜はないように、落胆の
あとには、これまた必ず希望がやってくる。

++++++++++++++++

 最近、何かと落ちこむことが多くなった。失敗(?)も重なった。調子も悪い。何をし
ても、空回りばかりしている。

 で、そういうときというのは、おかしなもので、自分の書いた原稿に慰められる。つま
り自分で書いた原稿を読みながら、自分を慰める。今朝もそうだ。ふと自分に、『私たちの
目的は、成功ではない。失敗にめげず、前に進むことである』と言い聞かせたとき、それ
について書いた原稿を読みたくなった。

検索してみたら、3年前に書いた原稿が見つかった。

++++++++++++++++++

【私たちの目的は、成功ではない。失敗にめげず、前に進むことである】

 ロバート・L・スティーブンソン(Robert Louise Stevenson、1850−1894)と
いうイギリスの作家がいた。『ジキル博士とハイド氏』(1886)や、『宝島』(1883)
を書いた作家である。もともと体の弱い人だったらしい。44歳のとき、南太平洋のサモ
ア島でなくなっている。

そのスティーブンソンが、こんなことを書いている。『私たちの目的は、成功ではない。失
敗にめげず、前に進むことである』(語録)と。

 何の気なしに目についた一文だが、やがてドキッとするほど、私に大きな衝撃を与えた。
「そうだ!」と。

 なぜ私たちが、日々の生活の中であくせくするかと言えば、「成功」を追い求めるからで
はないのか。しかし目的は、成功ではない。スティーブンソンは、「失敗にめげず、前に進
むことである」と。そういう視点に立ってものごとを考えれば、ひょっとしたら、あらゆ
る問題が解決する? 落胆したり、絶望したりすることもない? それはそれとして、こ
の言葉は、子育ての場でも、すぐ応用できる。

 『子育ての目的は、子どもをよい子にすることではない。日々に失敗しながら、それで
もめげず、前向きに、子どもを育てていくことである』と。

 受験勉強で苦しんでいる子どもには、こう言ってあげることもできる。

 『勉強の目的は、いい大学に入ることではない。日々に失敗しながらも、それにめげず、
前に進むことだ』と。

 この考え方は、まさに、「今を生きる」考え方に共通する。「今を懸命に生きよう。結果
はあとからついてくる」と。それがわかったとき、また一つ、私の心の穴が、ふさがれた
ような気がした。

 ところで余談だが、このスティーブンソンは、生涯において、実に自由奔放な生き方を
したのがわかる。17歳のときエディンバラ工科大学に入学するが、「合わない」という理
由で、法科に転じ、25歳のときに弁護士の資格を取得している。そのあと放浪の旅に出
て、カルフォニアで知りあった、11歳年上の女性(人妻)と、結婚する。スティーブン
ソンが、30歳のときである。小説『宝島』は、その女性がつれてきた子ども、ロイドの
ために書いた小説である。そしてそのあと、ハワイへ行き、晩年は、南太平洋のサモア島
ですごす。

 こうした生き方を、100年以上も前の人がしたところが、すばらしい。スティーブン
ソンがすばらしいというより、そういうことができた、イギリスという環境がすばらしい。
ここにあげたスティーブンソンの名言は、こうした背景があったからこそ、生まれたのだ
ろう。並みの環境では、生まれない。

 ほかに、スティーブンソンの語録を、いくつかあげてみる。

●結婚をしりごみする男は、戦場から逃亡する兵士と同じ。(「若い人たちのために」)
●最上の男は独身者の中にいるが、最上の女は、既婚者の中にいる。(同)
●船人は帰ってきた。海から帰ってきた。そして狩人は帰ってきた。山から帰ってきた。(辞
世の言葉)
(03―1―1)

++++++++++++++++++

 希望を高くもてばもつほど、必ずそのあとに、落胆がやってくる。希望通りにものごと
が進む例など、100に1つもない。1000に1つもない。

 しかし希望のない人生は、そのものが闇。だからつぶされても、つぶされても、人は何
かの希望をもとうとする。そして再び、前に進もうとする。朝のこない夜はないように、
落胆のあとには、これまた必ず希望がやってくる。

 こうして人は、希望と落胆を、周期的に繰りかえす。そして歯をくいしばりながら、前
に進む。

 子育ても、また同じ。

 そこで大切なことは、仮に子育てをしていて、落胆したり、ときには絶望感を覚えたと
しても、決して、それがドン底であるとか、終わりであると思ってはいけないということ。

 私たちにとって大切なことは、『私たちの目的は、成功ではない。失敗にめげず、前に進
むことである』。

 今朝は、この言葉に、私は慰められた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
結果主義 林浩司 スティーブンソン はやし浩司 我らが目的 希望論 落胆 希望と
落胆)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●Bツアー

++++++++++++++++++++++

地元に、E鉄道株式会社という運送会社がある。
そのE鉄道が、一方で、Bツアーという、観光バス会社を
運営している。
値段も安く、良心的。
何よりもうれしいのは、目的地まで、そのまま私たちを
運んでくれること。
バスの中では、好き勝手なことができる。
もちろん居眠りも。
昨年は、そのBツアーを、月に2、3度、利用させてもらった。
今年に入ってからも、やはり月に2、3度、利用させてもらった。

++++++++++++++++++++++

が、この2か月ほど、Bツアーに参加していない。
「もうコリゴリ」「うんざり」というのが、その理由。
このあたりの言葉では、「往生こいた」という。
Bツアーに問題があるのではない。
(半分は、あるが……。)
うるさいの、なんのといって、オバチャンたちのおしゃべりには、
そのつど閉口している。

最後に東京の近くにあるI島へ行ってきたが、1組や2組なら
まだ何とかがまんできる。
しかしそんなかしましいオバチャンたちが、何組も乗り合わせたら……!
もう「旅」どころではなくなってしまう。
「我、負けず」とみなが、しゃべり始める。
競いあって、しゃべり始める。

ガチャガチャ、ギャーギャー、ゲラゲラ、ワハハハ……と。
まるで中学校か高校の同窓会のよう。

さらに運の悪いことに、そのときは、これまたレベルの低いバスガイド(失礼!)。
話す内容といえば、テレビのバラエティ番組のことばかり。

「あの店、ほら、あの店……。この前テレビを見ていたら、タレントの
あの○○さんが、行った店ですよ。○○さんは、おいしかったって、
言ってましたよ」と。
(○○なんて、タレント、知るか!)

で、うしろの席に座ったオバチャンたちは、往復、計4〜5時間、
しゃべりっぱなし。
2度目に注意したら、逆に言い返されてしまった。

「私ら、おしゃべりが楽しみで、旅行に来ているもんねエ〜」と。

ガイドもガイドだ。
一方で、「携帯電話はオフに……」と言っておきながら、自分はマイクを
使って、前列の人たちと個人的な話をする。
しかもマイクのボリュームは最大!

その旅行を最後に、ワイフとこう誓った。
「もう、こんな旅行はやめよう」と。
……ということで、それ以後は、Bツアーはやめた。
もっぱら車や電車を利用している。

●昔はカラオケとタバコの煙

息子たちが子どものころも、ときどきBツアーを利用させてもらった。
そのころは、カラオケが定番。
喫煙は自由。
さらに当時は、バスに乗ると、自己紹介を強いられた。
「私は○○町から参加させてもらいました、▲▲です。
今日は、家族5人で参加させてもらいました」などなど。

私はカラオケもいやだったし、タバコの煙もいやだった。
自己紹介については、それほど抵抗はなかったが、今から振り返ると、バカげたことを
させられたものだと思う。

で、最近は、ガイドのバカ話とビデオ。
それにオバチャンたちのオシャベリ。
そのビデオだが、客の中には、自分でビデオをもってくる人もいる。
ガイドはそういう客を見ると、ホイホイと喜ぶようだが、ちょっと待て!
そのときも、YM興業(お笑いタレント養成学校)制作のビデオだった。
ああいうのを見て笑って喜ぶ人というのは、そのレベルのオバチャンだけ。
「何もこんなところまで持ってきて見ることはないだろ!」と思ったが、
多数決の結果、見るハメに……。

私は耳にイヤホンを詰めなおして、音楽を聴いていたが、あのときも
最悪だった。
旅行というよりは、修行のようなもの。
世俗に慣れる修行のようなもの。
そう思って、じっと我慢した。
つまりこういうことが重なって、もうコリゴリ、となった。

……と悪口(=愚痴)を書いてもしかたない。
実のところ、何度か、E鉄道会社には、メールを出した。
「滋賀県を通り過ぎるたびに、養老の滝の話。
もう今年だけで、10回以上、聞きました」と。

そのつどていねいな返事はもらっているが、改善された様子はなし。
だからもう出さない。
返事もいらない。

が、これはE鉄道会社だけの問題ではない。
私たち日本人がもつ文化性の問題である。
その文化性が高くならないかぎり、こうした問題は解決しない。
が、それには、10年単位の年月が必要である。

カラオケがなくなるのに、10年。
バスが禁煙になるのに、10年。
みながやがて静かな旅行ができるようになるのに、さらに10年。
(あるいは20年、かかるかも?)

日本のレベルがどの程度かを知りたかったら、観光バスに乗ってみるとよい。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●?? ?????(韓国の人たちへ)

●韓国よ、北朝鮮を相手にするな!
??? ??? ????? ??.

+++++++++++++++++++++

あなたは、北朝鮮の挑発に乗ってはいけない。
??? ??? ??? ?? ??.

北朝鮮は、やがて崩壊する。
??? ? ????.

あなたは北朝鮮といっしょに自殺してはいけない。
??? ??? ?? ???? ??.

あなたは北朝鮮を無視する。
??? ??? ??????.

大切なことは、国際協力。
??? ?? ?? ?????.

けっして単独で行動してはいけない。
??? ?? ???? ????.

北朝鮮は、あわれな国。
??? ??????? ?????.

あなたが本気で相手にしなければならないような国ではない。
??? ???? ??????? ?? ??? ????.

北朝鮮は、内部崩壊を恐れている。
??? ?? ??? ??????.

だから北朝鮮は強硬に出てくる。
??? ??? ???? ??????.

負けるが勝ちです。
?? ????.

あんな国を本気で相手にしてはいけない。
?? ??? ???? ???? ??.

いっしょに私たちは、おとなになる。
?? ??? ?????.

貧弱な韓国語を許してほしい。
??? ???? ?????.

5 ? 27 ?(5月27日)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●5月28日(木曜日)(May 28th)

++++++++++++++++++

昨日、「BW公開教室」へのアクセス数が、
460件近くもあった。
その前日の、2倍以上のアクセス数である。
(1人で何度アクセスを繰り返しても、
1回とカウントされるので、実際には、
その数倍のアクセス数ということになる。)

昨日、アクセスしてくれたみなさん、
ありがとう!
がぜん、やる気が出てきた!

理由のひとつに、地元の中日ショッパー紙が、
無料で広告を出してくれたことがある。
誠司(孫)の顔を大きく載せてもらった。
ハガキの約2倍サイズで、かなりのインパクトが
あったらしい。
何人かの知人から、メールをもらった。
「かわいいお孫さんですね」と。
お世辞とわかっていても、うれしかった。

中日ショッパーのTさん、いつもありがとう
ございます!!

++++++++++++++++++

●5月も、もうすぐ終わり

あわただしく過ぎた5月。
その5月も、あと数日で終わり。
同時に、この原稿が、電子マガジンの6月29日号用。
いつもこうして私の頭の中では、2か月が同時に過ぎていく。

しかし楽しい。
いっぱしの編集長になったような気分。
好き勝手なことを書ける。
好き勝手に編集できる。
しかもこのところ、BLOGやHPへのアクセス数を含めると、1日、1万件を
超えることが、たびたびある。
(1日、1万件だぞ!)
雑誌の発行部数としても、悪くない。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●友の夢(I had a dream of my friend.)

古い友に、K君というのがいた。
若いころは、毎日のように会って遊んでいた。
しかし、ある日突然、姿を消した。
仙台のほうへ行ったという話は聞いた。
そのあとまもなく、音信が途絶えた。

それからもう30年以上になる。
正確には34年か?

そのK君が、今朝、夢に出てきた。
K君の夢を見ることですら、何十年ぶりではないか。
ぼくとK君は、電車の最前列に座っていた。
どこかをいっしょに旅行をしていた。
なつかしかった。
楽しかった。
こんな会話をした。

私「お前がくれた、サイフな、あの中に商品券が入っていたぞ」
K「お前へのプレゼントだ」
私「いいのか、もらって?」
K「いいんだよ、使ってくれよ」と。

私はそのサイフを自分のバッグの中に入れた。
電車は古い、木のようなレールの上を、かなりの速度で走っていた。

で、車内アナウンスが流れた。
どこかの駅の名前を言った。
空港へ行くには、その駅で降りなければならない。
別れを告げようとK君のほうを見ると、K君はソファに座っていた。
笑っていたが、どこかさみしそうだった。

「お前、死んだのか?」と私が声をかけると、再び、口元に笑みを浮かべた。
とたん、意識がぼやけた。
そのまま私は目を覚ました。

いつもの夢である。

●死

本当にK君が死んだのか、どうかは、私にはわからない。
ただの夢である。
しかしK君がすでに死んでいると聞いても、私は、驚かない。
12、3年ほど前のことだが、一度、本気でK君の消息をさぐったことがある。
実家のあるN町まで、足を運んだことがある。

しかしもうそこには、K君の実家はなかった。
腹違いの妹がいたということだが、その名前を知っている人もいなかった。
N町といっても、それほど大きな町ではない。
電話帳に載っている、同姓の人に、片っぱしから電話をかけてみた。
が、みな、縁のない人たちばかりだった。

人の死というのは、そういうものか。
仮に10年前に死んだとしても、また10年後に死んだとしても、
そこに大きなちがいはない。
昨日死んだから、大騒ぎするとか、明日死ぬことがわかっているから大騒ぎする
とか、そういうことでもない。
K君が仮に今、生きていたとしても、あるいは私の方が先に死んだとしても、
(時間)には、それほどの意味はない。

で、あえて今朝の夢に意味をもたせるとすると、K君は死んだし、そのことを告げる
ために、私にあいさつに来た。
仮にどこかで生きているとしても、二度と会うことはないだろう。
10年前も、昨日も同じ。
10年後も、明日も同じ。

今は今だが、過ぎ去ってみれば、10年など、まさに光陰。
この先10年にしても、まさに光陰。
こうして1人、また1人と、友は去っていく。
そして順番がきたとき、今度は私が去っていく。

いや、順番など、ない。
そのときが来れば、みな、同時。
同時に去っていく。

朝起きて、ワイフに、「あいつも死んだみたい」と、K君の話をすると、ワイフは、
「あら、そう?」と。
ヌカにクギのような返事をした。

……つぎの何十年ぶりかにK君の夢を見るということは、もうないだろう。
そのころには、私のほうも、確実に死んでいる。
さようなら、K君!
たがいに冥福を祈ろう!


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●おバカ、C・ヒル国務次官補(A Brain-less Diplomat, C.Hill, or Kim Jong-Hill)

++++++++++++++++++++++

1人のハネ上がり国務次官補のおかげで、この
極東アジア情勢は、めちゃめちゃになってしまった。

まず、昨年(08年)の12月に私が書いたBLOGを
読んでみてほしい。

『●Can we trust C. Hill in the 6-nation conference about North Korean nuclear 
weapons development?  The answer should be "No"!

Let's start talking about C. Hill from the basical point of view. Only what he has done in 
the past is that he has just given North Korea, money, oil, music, food and time, while 
he has betrayed Japan each time and at last he rather threatened Japan, saying that 
Japan should join the partnership, or he dissolve the name of North Korea from the list 
of terrorists'nations. And he has done nothing for us. As long as C. Hill who is with 
optimistic lies, hostile to Japan, is a member of the conference, the relation between 
Japan and USA is getting worse and wrose. Therefore we don't hesitate to call him, 
"Kim Jong-Hill".

●私たちは、C・ヒルを信頼できるか? 答は、No」!

C・ヒルは、K国に、マネーと原油と音楽と食糧、それに(時間)を与えただけ。
日本をそのつど裏切りながら、あげくの果てには、日本がK国援助に加わらなければ、K
国をテロリスト支援国家のリストからはずすと、日本を脅した。
彼が日本のためになしたことは、何もない。
希望的憶測だけでものを言い、日本に対する敵対意識をもつC・ヒルが、6か国協議のメ
ンバーである限り、日米関係は、ますます悪化していく。
それ故に私たちは、C・ヒルを、「金・ジョン・ヒル」と呼ぶ』と。

+++++++++++++++++++++++

このころ、(今もそうだが)、「アメリカ軍」が、さかんに私のBLOGを訪れていた。
そのつど、足跡が残るようになっているので、それがわかる。
日本語で、「アメリカ軍」とあるから、在日アメリカ軍か?

で、こうした記事は、そのつど英語で書くようにしている。
直に、(アメリカ軍)を通して、(アメリカ政府)に、私の意見を伝えることができる。

●核実験が、その結果

C・ヒルのおバカ外交を並べたら、キリがない。
先に書いた「マネーと原油と音楽と食糧、それに(時間)を与えた」だけではない。

(1)6か国協議を形骸化してしまった。
(2)拉致問題について、正式に協議した形跡なし。
(3)「K国を援助しろ。さもなくば、テロ支援国家指定から解除する」と日本を脅した。
(4)その結果、K国を、テロ支援国家指定から、電撃的に解除してしまった。
(「電撃的に」というのは、日本の反対を予想して、たった1日で、という意味。)
(5)いつの間にか、C・ヒル自身が、K国の代弁者になってしまった。
(6)すでにジャンク(ガラクタ)と化した、Yの核関連開発施設の一部を爆破して見せ、
自分の成果として、世界中を欺いた。
(7)本人は、スター気取りで、K国の代表と毎晩、北京の街で飲み歩いていた。

K国には最初から、核兵器開発を断念する意思などなかった。
ないばかりか、この5年間、ずっと秘密裏にそれを推し進めてきた。
その結果が、今回の2回目の核実験である。

個人的に日本が嫌いなのはわかる。
が、だからといって、同盟国である日本を裏切ってまで、K国の肩をもつことはない。
現在の今、日米関係は、最悪の状態になっている。
その責任を、いったい、だれが、どう取るのか。

さらに悪夢はつづく。
今度K国特命大使になった、ボズワースにしても、そうだ。
すでに水面下で、K国との直接交渉を画策している。
ミサイルの発射実験があってから後、すでに7、8回、K国と接触したという情報もある。
拉致被害者の方たちへの、冷たい言葉も忘れてはいけない。
C・ライス→C・ヒルへとつづいたアメリカ国務省の流れは、そのまま
ボズワースに引き継がれている。

が、ここにきて、核実験!

いちばん驚いているのが、ボズワース自身ではないのか。
あわよくば自分も名士にと考えているのかもしれない。
退任後、どこかの国の大使になれれば、万々歳!
しかし出鼻をくじかれた(?)。

しかし日本にはこういう諺がある。
『柳の木の下に、二匹のドジョウはいない』。
わかるかな?

(付記)
韓国のネチズンたちは、日本の報道機関が、「盧(の)氏、自殺」と書いていること
について、猛反発している。
「前大統領なのだから、ちゃんと『盧前大統領、ご逝去』と敬え!」と。

しかしこれには一言、私も書きたい。
あれほどまでに反日にこりかたまった大統領を敬えと言われても、それはできない。
日本人の私たちには、できない。
それに、「盧(の)氏、自殺」と書いたところで、けっしてノ前大統領を、粗末に
扱っているわけではない。
事実を、そのまま書いているだけである。

その思考回路は、「将軍様、将軍様」とあの金xxを称えている、K国の国民と同じ。
どこがどうちがうというのか?


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●静岡県県知事選

++++++++++++++++++

I現知事の辞職にともなって、静岡県で
県知事選が始まった。

静岡県元副知事である、SK氏と、元民主党参議院
議員のUN氏の、事実上の一騎打ち。

++++++++++++++++++

●官僚主義

知事選もさることながら、興味深いのは、元副知事である、SK氏の略歴。
C新聞にはこうある。

「……東大法学部から労働省(現厚生労働省)に入省。
1996年7月に県副知事を務め、厚労省職業能力開発局長などを歴任して、
2004年7月の参院選で初当選した」と。

SK氏は、つまり(労働省)と(議員)と(副知事)の間を、行ったり来たり
しているのが、これでわかる。
ご存知の方も多いと思うが、天下りでやってきた官僚知事、副知事、大都市の
市長たちは、任期が切れたり、再選挙で落選したりすると、そのまままた、元の
ポストに戻ることができる。

少し前まで浜松市長をしていたX氏にしても、そうだ。
再選選挙で敗れたあと、現在は、外務省に復帰している。

しかし、だ、こんなバカげた制度がどこにある!
たとえばあなた自身のこととして考えてみればよい。
私のことでもよい。

仮に私が選挙に出たら、その日から仕事はストップ。
会社員であれば、ポストを失う。
で、しばらく副知事なら副知事を務めたとしよう。
その間に、元の職場の人脈は途絶える。

で、そのあと再選選挙で敗れたら、どうなるか?
たいていの議員は、そのまま野に放り出される。
が、官僚たちだけは、別。
別格扱い。
どこまでも手厚く、身分が保障されている。
選挙に敗れても、職(=収入)を失うことはない。
元の役所に戻ればよい。
むしろ以前にもまして、箔がつく。
ほとんどのばあい、そのまま昇格。

こんなところにも、日本の官僚制度がはびこっている!
官僚たちだけは、「はい、行ってきます!」というような気分で、(多分?)、
地方へ天下りすることができる。
選挙といっても、背水の陣で臨む必要はまったく、ない。
その分だけ、官僚に有利!

たまたま昨日、J党とM党の党首討論会がもたれた。
その討論会でも、日本の官僚主義が問題になった。
そう、日本が民主主義国家と思っているのは、日本人だけ。
世界中の、だれも、そんなふうには思っていない。

日本は、世界に名だたる官僚主義国家。
奈良時代の昔から官僚主義国家。
見方によっては、あのK国とどこもちがわない。
制度的には、まったく同じ。

いいのか、日本!
このままで!


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司※

●最悪の食糧危機(The Worst Food Shortage of North Korea)

+++++++++++++++++

K国は現在、1990年以来、最悪の
食糧危機に見舞われているという。

+++++++++++++++++

『国際人権擁護団体アムネスティ・インターナショナル(本部ロンドン)は、5月28日、世界の人
権状況をまとめた年次報告書(2009年度版)を公表。この中でK国について、「1990年代後
半以降で最悪」という危機的なレベルの食料難に直面する一方、当局は人々の生存に最低限
必要な食料を確保する対策さえ怠っていると批判した』(時事通信より抜粋※)と。

同じくWFPも『世界食糧計画(WFP)が北朝鮮の食糧事情が極めて深刻な状態にあるとして、
国際社会に対し約6千万ドル(約65億3000万円相当)の資金援助を要請。過去3週間にわ
たって実施した現地調査で、約半数の世帯が1日2食の生活を強いられる1990年代以降で
は最悪の状況にあるとしていると紹介している」と報告している(※)。

+++++++++++++++++

こうした中、時事通信はさらにこう伝える。

『こうした状況にもかかわらず、K国当局は米国からの食料支援受け取りを拒否した上、昨年3
月末には米国の人道団体の国外退去を命令。食料不足の報が全国に広がるのを防ぐため、
長距離電話回線が遮断されたとも伝えられるとしている』と。

「食料不足の報が全国に広がるのを防ぐため、長距離電話回線が遮断された!」
そういうことを平気でするところが、恐ろしい!
「ここまでやるか!」というのが、私の印象。
人民、つまりK国の国民こそ、えらい迷惑。
迷惑というより、犠牲者。

が、相変わらずの大本営発表を繰り返しているのが、K国の国営通信。
つぎの記事を読んで、笑わない人はいないだろう。

『K国の朝鮮労働党機関紙「労働新聞」は7日の論評で、金xx総書記が経済再建や国民生活
向上のため「昨年末から約2カ月間、家に戻れず列車で生活しながら、人民経済のさまざまな
部門で現地指導を続けている」とする発言を伝えた』(5月7日)と。

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●いっしょに心中してはいけない!

K国が何を画策しているにせよ、またどんな挑発的行為をしてくるにせよ、
日本は、K国を相手にしてはいけない。
あんな国をまともに相手にしてはいけない。
それとも、日本は、あんな国と心中でもするつもりなのか。

ここは無視。
ひたすら無視。
放っていおいても、K国は、自ら墓穴を掘って自滅する。
今朝(5・29)の報道によれば、さらなる挑発的行為として、K国は、今度は
ICBM(大陸間弾道弾)の発射実験をするかもしれないという。

したければさせておけばよい。
自ら、先の「人工衛星発射」が、ウソだったことを暴露させるようなもの。
あのときも、「宇宙開発は、全民族の共通の権利である」というようなことを言っていた。
そして「それを迎撃したら、即、宣戦布告行為とみなす」と、まあ、威勢のよいことを
言っていた。

ICBMともなれば、当然、日本の上空を通ることになると思うが、ここは無視。
ひたすら無視。
負けるが勝ち。
今、日本にとってもっとも重要なことは、K国もさることながら、国際世論でもって、
中国を追い詰めること。
中国に行動させること。
中国が行動すれば、K国は、一気に崩壊に向かう。
決して日本だけが、単独で行動してはいけない。
200〜300発のノドンが、すでに日本をターゲットにしていることを忘れては
いけない。

まず日本の国益を守る。
日本の平和と安全を守る。
今、もし、たとえ1発でも、ノドンが東京の中心に撃ち込まれたら、日本はどうなるか。
日本の経済はどうなるか。
日本は丸裸以上の丸裸。

ここは冷静に。
ただひたすら冷静に。
あんな国を相手にしてはいけない。
またその価値もない。
ないことは、アムネスティの年次報告書を読めばわかるはず。
決して勇ましい好戦論にまどわされてはいけない。

もちろん日本が攻撃されたら、そのときはただではすまさない。
そういう気構えはもつ必要がある。
しかし今は、じっとがまんのとき。

1990年末の食糧危機のときは、金xxは、中国へ亡命する一歩手前だった。
恐らく今回も、それ以上のことを考えているはず。
それがK国軍部のあせりとなって表れている。

人工衛星、核実験、ミサイル発射などなど。
それらを断末魔の叫び声と理解すれば、K国の内部事情もわかろうというもの。

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

(注※1)【ロンドン28日時事】国際人権擁護団体アムネスティ・インターナショナル(本部ロンド
ン)は、28日、世界の人権状況をまとめた年次報告書(2009年度版)を公表。この中でK国に
ついて、「1990年代後半以降で最悪」という危機的なレベルの食料難に直面する一方、当局は
人々の生存に最低限必要な食料を確保する対策さえ怠っていると批判した。

 報告書によれば、K国は「過去10年間で見られなかった規模」の飢餓に見舞われ、何百万人
もが苦境に陥っている。大半は雑穀などで胃を満たすことを余儀なくされ、野草で食いつない
でいる人も多いという。

 こうした状況にもかかわらず、K国当局は米国からの食料支援受け取りを拒否した上、昨年
3月末には米国の人道団体の国外退去を命令。食料不足の報が全国に広がるのを防ぐた
め、長距離電話回線が遮断されたとも伝えられるとしている。(時事通信・5月28日)


Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

(注※2)世界食糧計画(WFP)がK国の食糧事情が極めて深刻な状態にあるとして、国際社会
に対し約6千万ドル(約65億3000万円相当)の資金援助を要請。過去3週間にわたって実施し
た現地調査で、約半数の世帯が1日2食の生活を強いられる1990年代以降では、最悪の状況
にあるとしていると紹介している。食糧事情悪化の原因として、2007年の大規模な洪水被害、
不良な農作物収穫、輸入や援助減少をあげている。(引用:産経新聞、中日新聞)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●今日から、電子マガジン7月号

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この原稿から、電子マガジン7月号用となる。
そこでカレンダーを見ると、7月は、7月1日が、
発行日の水曜日ということがわかった。
電子マガジンは、毎週月、水、金の3回、発行している。
だれに頼まれたわけではない。
自分で、そうしている。

それにしても、日々の過ぎることの速いこと。
これであっという間に5月も終わった。
6月号も終わった。
「もう7月1日号かア〜〜」と。

実際には、今日は6月28日、木曜日。
電子マガジンは、いつも、約1か月前に、発行予約を
入れている。
これもとくに決まっているわけではない。
自分で、そうしている。

+++++++++++++++++++++++

●講演会

講演会での講演の内容が決まらない。
……というか、決めても、あまり意味がない。
その場の雰囲気というものがある。
私のばあい、ふつう、その場の雰囲気を見て、話の内容を変える。

しかし出だしは、どうするか。

「……時の流れは風のようなもの。
どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。
『時間よ、止まれ!』と、こぶしを握ってみても、時間はそのまま指の間から
もれていく……。

私は子どものころからいつも、何かうれしいことがあると、決まってこの歌を口ずさんだ。
♪夕空晴れて、秋風吹き……、と。
息子たちが小さいころも、よく歌った。
ドライブからの帰り道、みなで合唱したこともある。
♪夕空晴れて、秋風吹き、月影、落ちて鈴虫鳴く……」。

●自己紹介

いつも講演会では、最初に短い話を入れて、そのあと自己紹介をする。
自己紹介といっても、名前と住んでいる場所程度。
「はやし浩司と言います。
肩書きは、一応、教育評論家ということになっています。
何もないでは困りますので、そうしています。
住んでいるのは、浜松市です。
浜松市に住むようになって、もう40年近くになります。
今日は、このような席にお招きくださり、ありがとうございます」と。

つづいて、イントロ。
「今日は、3人の息子たちの父親として、子育てとは何か。
子育てはどうあるべきか。
それらについて、ありったけ話すつもりでやってきました。
今日、みなさんにお伝えすることが、家庭や学校で、子どもを見るための
新しい視点になればと願っています。
よろしくお願いします」と。

イントロも、その場の雰囲気で変える。

●本題

「その夜、突然、電話がありました。
受話器を取ると、息子の声でした。
『パパ、もうだめだ』と。
声の調子からして、私は異常なものを感じました。
『どうした?』と聞くこともなく、すかさず、私はこう言いました。
『すぐ、帰ってこい』と。

が、さらに驚いたことに、その翌々日のこと。
ふと私が勝手口を見ると、そこにS男がいるではありませんか。
両手には、バッグをさげていました。

帰ってこいとは言いましたが、まさかそんなに早く帰ってくるとは思っていません
でした。
が、それが、暗いトンネルの始まりでした……」と。

●代表

もちろん講演では、息子のことを話すのが目的ではない。
息子も、それを許さないだろう。
それに話したところで、ただの苦労話に終わってしまう。
私がわざわざ講演する、その意味がない。

ひととおりの症状を話したあと、私は、「代表説」を説明する。
「子どもは家族の代表である」という説である。
もっとも今では、この説は常識。
また教育の現場でも、治療の現場でも、広く採用され、応用されている。
つまり「子どもに何か問題が起きたとしても、それは子どもの問題ではない。
家族全体の問題である。
子どもは家族の代表に過ぎない」という説である。

それはその通りで、子どもに何か問題があったととき、子どもだけに焦点をあてて
解決しようとしても、うまくいくはずがない。
たとえば過干渉児、過保護児にしても、(これらは心理学の世界で、しっかりと
定義された言葉ではないが)、子どもに特有の症状が出ていたとしても、
それは子どもの問題ではない。

過干渉にしても、過保護にしても、それは親の育て方の問題ということになる。
だから親の過干渉が原因で、性格が内閉、萎縮してしまった子どもに向かって、
「もっとハキハキしなさい」と言っても、意味はない。
神経症や情緒障害にしても、そうである。
この世界では、親の無知ほど、恐ろしいものはない。
子どもが恐ろしいというのではない。
子どものために、恐ろしいものはないという意味で、恐ろしいものはない。

たとえばかん黙症の子どもに向かって、「どうしてあなたは手をあげないの!」と
叱っていた母親すらいた。
叱る方が、どうかしている。

●引きこもり

S男が示した症状は、まさに、ひきこもりのそれだった。
回避性障害、対人恐怖症、バーントアウト症候群、あしたのジョー症候群。
診断名は何でもよい。
うつ病だってかまわない。
あえて言うなら、この世の中、まともな人間ほど、そういった病気になる。
子どもがおかしいのではない。
社会のほうがおかしい。

が、私はがけの上から叩き落され、谷底で、さらにその上から叩き潰される
ような衝撃を受けた。
私は無数の子育て相談を受けながら、そういう人たちに、むしろアドバイスを
与えてきた立場の人間である。
その立場の人間の息子が、ひきこもりになってしまった。

が、その一方で、幸いなこともある。
すでにそのとき、私には、何十例という経験があった。
引きこもりで苦しむ親や子どもたちを、指導という形で、見てきた。
だから即座に、対処方法を打ち立てることができた。

●暖かい無視と、ほどよい親

「暖かい無視」というのは、どこかの野生動物保護協会が使っている言葉である。
つまり暖かい愛情を保ちながら、無視すべきところは無視する。

たとえばS男の生活態度は、日増しにだらしなくなっていった。
風呂に入らない、着替えをしない、食事の時間が乱れる。
もちろん睡眠時間も乱れた。
毎日、ちょうど1時間ずつ、睡眠時間と起床時間がずれていった。
一晩中起きているということもつづいた。

が、何も言わない。
何も指示しない。
何も不満を口にしない。
暖かい愛情だけはしっかりともって、見守る。
それが暖かい無視ということになる。

……というより、いつも一触即発。
よく誤解されるが、「情緒不安」というときは、何も情緒が不安定になることを
いうのではない。
精神の緊張状態が取れないことをいう。
その緊張状態のときに、不安や心配ごとが入ると、情緒は一気に不安定になる。
情緒不安というのは、あくまでもその結果でしかない。
S男の精神は、いつもその緊張状態にあった。

そういう衝突が1、2度つづいて、私たち夫婦は、暖かい無視を貫くことにした。

……こうして講演をつなげていく。

今度の日曜日に、このつづきを考えてみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●しつけ(咳について、再考)

日本人は、咳について、あまりにも無頓着。
平気でゴホン、ゴホンと席をする。
ちょうど今、新型インフルエンザが問題になっている。
もう一度、「しつけ」について考えてみたい。
(以下の原稿は、08年12月に書いたものです。)

+++++++++++++++++

「しつけ」というときは、時代を超えた普遍性、
国や民族をこえた国際性がなければならない。

あいさつの仕方など、国によってみなちがう。
時代によってちがうこともある。
さらに軍人には、軍人のあいさつのしかたがある。

そういうのは、「しつけ」とは言わない。
「作法」という。

たとえば最近、こんなことがあった。

++++++++++++++++++

W君(小2男児)は、インフルエンザにかかり、1週間ほど、
学校を休んだ。
その直後、私の教室に来た。
まだ咳が残っていた。
1〜2分おきぐらいに、ゴホゴホと咳をしていた。

こういうケースのばあい、対処の仕方が2つある。

W君にマスクを渡し、マスクをかけさせる。
あるいは全員にマスクを渡し、マスクをかけさせる。

ふつうはW君だけにマスクを渡し、W君だけマスクを
かけさせれば、それですむ。
しかし中に、それをかたくなに拒否する子どももいる。
「罰」か何かのようにとらえる。

そういうときは、全員にマスクを渡し、マスクをかけさせる。

が、である。
そういうふうにしても、W君は、ときどきマスクをはずし、
ゴホゴホと咳をする。
私のところへやってきて、面と向かって、ゴホゴホと咳をする。

だから私はかなりきつくW君を叱った。
「人の顔に向けて、咳をしてはだめだ」と。

するとW君は、「手で(自分の口を)押さえた」とか、
「先生の顔には向けてない」とか言って、反論した。

私「あのなあ、咳というのは、手で押さえたくらいでは
防ぐことができないんだよ」
W「いいから、いいから……」
私「いいから、いいからというような問題ではない。
マスクをちゃんと、しなさい」
W「ぼくはもう、治った」
私「治ってない!」と。

ついでに付記するなら、インフルエンザのウィルスに、
おとなも子どもも、ない。
おとな用のウィルス、子ども用のウィルスというのは、ない。
みな、同じ。
だから目の前でゴホンとやられたら、即、そのまま私に
感染する。
防ぎようがない。

ほとんどの人は、(おとなも子どもも)、咳をすることに
たいへん無頓着。
この日本では、とくに無頓着。
それを悪いことと考えている人は、少ない。
満員電車の中でさえ、平気でゴホゴホと咳をしている人さえ
いる。

しかし相手の顔に向けて咳をするのは、相手を手で殴るのと
同じ、暴力行為。
だから私はW君をさらに強く、叱った。

私「私の言うことが聞けないなら、この教室から出て行きなさい」
W「どうしてヨ〜?」
私「どうしてって、みんなにインフルエンザが移ったら、どうする?」
W「だいじょうぶだよ。移らないよ」
私「……」と。

もうおわかりのここと思うが、こういうのを(しつけ)という。
「咳をするときは、口をハンカチで押さえる」
「マスクをかけるのは、常識」
「マスクをしていても、相手の顔に向けて、咳をしない」

こうした(しつけ)には、時代を超えた普遍性、
国や民族をこえた国際性がある。
わかりやすく言えば、世界の常識。

……では、なぜ、こんなことを書くか?
実は今、あちこちの幼稚園で、「しつけ教室」なるものが、
たいへん流行(はや)っている。
たいていあいさつの仕方から始まって、箸の持ち方、置き方
などを教えている。

私はそうした(しつけ)は無駄とは思わないが、どこか
ピントがズレているように思う。

もっと基本的な部分で、大切にしなければならないことがある。
たとえば、(順番を並んで待つ)(順番を無視して、割り込みしない)
(他人をキズつけるような言葉を口にしない)など。
しかしそういう(しつけ)は、「しつけ教室?」で学ぶような
しつけではない。
私たちおとなが、日々の生活を通して、「常識」として、子どもの
体の中に、しみこませるもの。
先に書いた咳にしても、そうだ。
自分の子どもが無頓着に他人の顔に向けて咳をしたら、すかさず、
子どもを叱る。
その前に、親自身が自分のエリを正さなくてはいけない。
(しつけ)というのは、そういうもの。

ついでに言うなら、(あいさつ)など、どうでもよい。
したければすればよい。
したくなければ、しなくてもよい。
そんなことをいちいち教えている国は、今、ほとんどない。

たとえば韓国でも、数年前から、授業の前とあとのあいさつを
廃止した。
「起立!」「礼!」という、あのあいさつである。
「日本の植民地時代の亡霊」という理由で、そうした。

が、現在、浜松周辺の学校では、ほとんどの学校で、この種のあいさつを
している。
(当番の子どもが、「これから授業を始めます」などと言い、頭をさげるなど。)
国際性がないという点で、これはしつけでもなんでもない。

(参考)

A小学校……当番が「はじめましょう」と小さい声でいう。
それに答えて、全員が「はじめましょう」と合唱して、頭をさげる。

B小学校……当番が「起立!」と言い、先生が「はじめましょう」と答える。
そのとき生徒全員が、頭をさげる。

C小学校……全員が起立したあと、「今から○時間目の授業をはじめます」と
言って、頭をさげる。

D小学校……当番が「起立!」と号令をかけ、「○時間の授業を始めましょう」と
言う。そのとき生徒と先生が、たがいに頭をさげる。

E小学校……学級委員が、「起立」「姿勢はいいですか」と言い、みなが、
「はい!」と答え、学級委員が「今から○時間目の授業をはじめましょう」と
言って、みなが、礼をする。

ついでながら、アメリカやオーストラリアでは、先生が教室へやってきて、
「ハイ!」とか言って、それおしまい。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●仮眠効果(Sleeper Effect)

++++++++++++++++++++++++++++++++++

心理学の世界に、「仮眠効果」という言葉がある。
「スリーパー効果」ともいう。

仮眠効果というのは、脳の中に入った情報が、しばらく仮眠したあと、
効果をもち始めることをいう。
子どもの世界では、こうした現象が、よく観察される。

たとえば子どもをほめたとする。
そのときは、子どもは「フン」と言って、軽く受け流す。
私の言ったことを深く考えない。
が、しばらく時間がたつと、つまりしばらく子どもの脳の中で仮眠したあと、
そのほめた効果が現れたりする。

「あのとき、林先生(=私)が、ぼくにこう言ってくれた!」と。

よく昔の恩師の話をしながら、「あのときあの先生が言ってくれた言葉が、
おとなになってから、ぼくの励みになった」という人がいる。
それも仮眠効果の現れとみてよい。

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●情報の熟成

情報というのは、脳の中に入った段階では、ただの(情報)。
それに加工を加えて、情報は情報としての意味をもつ。
(加工を加えることを、「思考」という。)
それまでは、たとえていうなら、座右に積み上げられた本のようなもの。
必要なときは取り出して読むが、そうでなければ、やがて脳みその中から消えていく。

が、ときとしてその情報そのものが、ひとり歩きすることがある。
ここでいう「仮眠効果」というのも、そのひとつ。
たとえば私が子どもをほめたとする。
そのときは、その子どもはそれを、軽く受け流す。
私が言った言葉に、重きを置かない。
たとえば、「君の空間思考力には、ものすごいものがある」と、私が言ったとする。
そのときは、子どもは、「そんなものかなあ……」と思ってすます。

が、しばらくしたあと、「空間思考力はすばらしい」という情報だけが、
脳みその中で熟成され、それが今度は、子どもの脳みその中で充満するようになる。
そしてこう思うようになる。

「ぼくは、空間思考能力にすぐれている!」と。

これは情報が、(仮眠)というプロセスを経て、効果をもたらしたことを意味する。
言いかえると、つまり教える側からすると、この仮眠効果をうまく使うと、子どもの
指導がうまくできる。

コツは、ポイントをとらえて、うまくほめる。
(叱ったり、欠点を指摘するときは、この方法は使ってはいけない。)
そしてその場では効果を求めない。
(求めても意味はない。)
それをブロックのように組み立てていく。

「君は、コツコツとやるところがすばらしい」
「式なんかも、だれが見ても、わかりやすい」
「考え方が緻密だね」と。

こうした情報は一度仮眠したあと、(私は「熟成」という言葉の方が好きだが……)、
子どもの脳みその中で、大きくふくらんでくる。
子どもの自信へとつながっていく。

もちろんそのとき、子どもは、私に誘導されたということは、覚えていない。
ほとんどのばあい、情報源は忘れてしまう。
だれに言われたかは、たいていのばあい、記憶に残らない。
しかし情報だけが、脳みその中に残り、その子どもを前向きにひっぱっていく。
これを「仮眠効果」という。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
仮眠効果 スリーパー効果 情報の熟成 暗示 子どもの指導 林浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●一周忌

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兄につづいて、母。
昨年(08年)の8月と10月に、それぞれが他界した。
で、一周忌の法要が近づいてきた。

兄も母も、あの世へ行ったわけだが、別の仏教の教えに
よれば、つまり輪廻転生論によれば、死者は死後、即、
人間も含めて、何かの動物に生まれ変わるということに
なっている。
少なくとも、初七日から四九日までの、七法事がすめば、
成仏もすみ(?)、死者への供養は、必要ないという
ことになる。

実は、もともと釈迦は、回忌のことは何も書いていない。
もともと「回忌」というのは、中国の儒教に説かれている
風習によるもの。
それが日本に入り、最終的には、『先代旧事本紀大成経』
という偽経を生みだした。
名前からして、まったくのメイド・イン・ジャパンの偽経である。
著者は、潮音(1628〜95)と言われている。

北川紘洋氏は、こう書いている。

『鎌倉時代から室町時代初期までは三十三回忌までの
十三仏事しかなかったなかったのが、室町時代を過ぎると、
これに十七回忌、二十五回忌が加わり、さらに江戸時代には
五十回忌、六十回忌とふえていった』(「葬式に坊主は不要
と釈迦は言った」・はまの出版)と。

が、それとて、一般庶民とは、無縁のもの。
仏教が大衆の世界に入り込んだのは、親鸞、日蓮らの時代から
である。
こうした法要にしても、武士、なかんずく上級武士たちの
風習であった。

(以上、参考、北川紘洋著「葬式に坊主は不要と釈迦は言った」)

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●亡くなった人たちの死を悼む

何も考えず、何も調べず、何も学ばず、過去を踏襲するのは楽なこと。
大きな川の流れに乗って、みなと同じことをしていれば、これまた楽なこと。
暇なときは、パチンコをしたり、プロ野球の実況中継を見ていればよい。
しかしそれではこの世の中、何も変わっていかない。
また本来なら、そうした流れを変えていくのは、私たち人生の先輩者である。
その先輩者である私たちが、伝統や風習の上にどっかりと腰を据え、
「昔からこうだから……」と、若い人たちを自分たちの世界に引き込んでいく。
おかしなことだが、このおかしさが改まらないかぎり、過去はそのまま意味もなく、
踏襲されていく。

死者を悼む……。
なぜ私たちが死者を悼むかと言えば、死者を悼むことによって、今、こうして
生きている私たちの「命」を大切にするためである。
もしあなたが子どもの前で、死んだペットの小鳥を、紙かなにかにくるんで
ゴミ箱へ捨てるようなことをすれば、子どもは、死というのはそういうものかと
考えるようになる。
ついで生とは、そういうものかと考えるようになる。
ペットが死んで悲しんでいる子どもの心を踏みにじることにもなる。
言いかえると、死者の死を悼むことによって、私たちは生きていることの尊さを学ぶ。
子どもたちにも、それを教えることができる。

が、このことと、法事は、まったく別のもの。
「心」と「儀式」は、まったく別のもの。
心のない儀式は、ただのあいさつ。
あいさつにもならない。
しかし心があれば、儀式は、必要ない。
あっても付随的なもの。
が、この日本では、常に儀式だけが先行し、心がそれについていく(?)。
さらに悪いことに、儀式だけを繰り返して、それでもって、心をごまかしてしまう。
それでよしとして、自分の心を見つめることもしない。
それこそ立派な葬儀だったから、よし。
そうでなかったら、そうでないというような判断をくだして、それで終わってしまう。

●みんな、いっしょに生まれて、いっしょに死ぬ

10年前に亡くなった人を思い浮かべてみよう。
20年前でも、30年前でもよい。
そのときからその人の時計は止まる。
「もう10年!」「もう20年!」「もう30年!」と、そのつど、私たちは驚く。
昨日亡くなった人を、今日、弔(とむら)うのも、10年前に亡くなった人を、
今日、弔うのも、同じ。
20年前に亡くなった人を、今日、弔うのも、同じ。
30年前に亡くなった人を、今日、弔うのも、同じ。

同じように、この先10年、20年、30年など、あっという間に過ぎる。
運がよければ、あなたは10年後も生きている、20年後も生きている、
30年後も生きている。
しかしひょっとしたら、あなたは、明日死ぬかもしれない。
明日、何かの大病を患うかもしれない。
どうであるにせよ、今、生きているとしても、10年後に死ぬのも、20年後に死ぬのも、
30年後に死ぬのも、明日、死ぬのと同じ。
わかりやすく言えば、30年前に亡くなった人も、30年後に死ぬあなたにしても、
その間に、時間的な(差)はない。
元気なうちは、それがわからないかもしれない。
しかし死に直面すれば、だれにでも、それがわかるはず。

そこに待っているのは、10年前、20年前、30年前に亡くなった人たちではない。
「10年」とか、「20年」とか、「30年」とかいう数字は消え、それが「昨日」になる。
つまり、そこで待っているのは、つい先日、つい昨日亡くなった人たちである。
あなたはそういう人たちといっしょに、死を迎える。

そう、私たちはみな、この世の中に、いっしょに生まれて、いっしょに死ぬ。
繰り返すが、その間に、時間的な(差)はない。

●日本仏教の危機

時間と空間を超越したはずの仏教が、回忌にこだわる、このおかしさ。
1年後になったら、どうなのか。
2年後(3回忌は、実質、2年後をいう)になったら、どうなのか。
亡くなった人に、そういう(数字)があること自体、バカげている。
(年齢)があること自体、バカげている。

たとえば愛する子どもを失った母親を考えてみよう。
そういう母親にすれば、毎日が悲しみ。
その悲しみは、1年たったところで、癒されるものではない。
恐らく33年たっても、癒されることはないだろう。
(数字)など、関係ない。
こんなことは、ほんの少し、頭の中で考えれば、だれにでもわかるはず。
それにもし、釈迦がそんなバカげたことを口にしたとしたら、私はまっ先に
仏教を否定する。
いや、その前に、今に至るまで、生き延びることはなかっただろう。

私は仏教徒でも、仏教哲学者でもない。
そんな私ですら、こんなことは、自分でわかる。
いわんや、戒名をや!
そんなもので成仏するのに(差)が出るとしたら、それこそ仏教は邪教。
カルト。
が、いまだにそうした風習が、伝統としてこの日本に残っている。

言うまでもなく、宗教というのは、(教え)に従ってするもの。
その(教え)を踏み外して、宗教は宗教たりえない。
もしそれが面倒というのなら、それこそイワシの頭でも拝んでいればよい。
キツネでもタヌキでもよい。
世界へ行くと、世界の人たちは、実にさまざまな動物を拝んでいる。
もしそれでも、「仏教はカルトではない」と言うのなら、その道のプロたちが、
率先して、私たちにその(道)を示してほしい。
でないと、……というより、このままだと、日本の仏教は宗教としての
意味を見失ってしまうだろう。

兄と母の一周忌を前にして、再び、宗教について考えてみたい。

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7〜10年前に書いた原稿を添付します。

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●生きる意味

 幼児を教えていて、ふと不思議に思うことがある。子どもたちの顔を見ながら、「この子
たちは、ほんの五、六年前には、この世では姿も、形もなかったはずなのに」と。しかし
そういう子どもたちが今、私の目の前にいて、そして一人前の顔をして、デンと座ってい
る。「この子たちは、五、六年前には、どこにいたのだろう」「この子たちは、どこからき
たのだろう」と思うこともある。

 一方、この年齢になると、周囲にいた人たちが、ポツリポツリと亡くなっていく。その
ときも、ふと不思議に思うことがある。亡くなった人たちの顔を思い浮かべながら、「あの
人たちは、どこへ消えたのだろう」と。年上の人の死は、それなりに納得できるが、同年
齢の友人や知人であったりすると、ズシンと胸にひびく。ときどき「あの人たちは、本当
に死んだのだろうか」「ひょっとしたら、どこかで生きているのではないだろうか」と思う
こともある。いわんや、私より年下の人の死は、痛い。つぎの原稿は、小田一磨君という
一人の教え子が死んだとき、書いたものである。

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「ぼくは楽しかった」・脳腫瘍で死んだ一磨君

 一磨(かずま)君という一人の少年が、一九九八年の夏、脳腫瘍で死んだ。三年近い闘
病生活のあとに、である。その彼をある日見舞うと、彼はこう言った。「先生は、魔法が使
えるか」と。そこで私がいくつかの手品を即興でしてみせると、「その魔法で、ぼくをここ
から出してほしい」と。私は手品をしてみせたことを後悔した。

 いや、私は彼が死ぬとは思っていなかった。たいへんな病気だとは感じていたが、あの
近代的な医療設備を見たとき、「死ぬはずはない」と思った。だから子どもたちに千羽鶴を
折らせたときも、山のような手紙を書かせたときも、どこか祭り気分のようなところがあ
った。皆でワイワイやれば、それで彼も気がまぎれるのではないか、と。しかしそれが一
年たち、手術、再発を繰り返すようになり、さらに二年たつうちに、徐々に絶望感をもつ
ようになった。彼の苦痛でゆがんだ顔を見るたびに、当初の自分の気持ちを恥じた。実際
には申しわけなくて、彼の顔を見ることができなかった。私が彼の病気を悪くしてしまっ
たかのように感じた。

 葬式のとき、一磨君の父は、こう言った。「私が一磨に、今度生まれ変わるときは、何に
なりたいかと聞くと、一磨は、『生まれ変わっても、パパの子で生まれたい。好きなサッカ
ーもできるし、友だちもたくさんできる。もしパパの子どもでなかったら、それができな
くなる』と言いました」と。

そんな不幸な病気になりながらも、一磨君は、「楽しかった」と言うのだ。その話を聞い
て、私だけではなく、皆が目頭を押さえた。

 ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の冒頭は、こんな詩で始まる。「誰の死なれ
ど、人の死に我が胸、痛む。我もまた人の子にありせば、それ故に問うことなかれ」と。
私は一磨君の遺体を見送りながら、「次の瞬間には、私もそちらへ行くから」と、心の奥
で念じた。この年齢になると、新しい友や親類を迎える数よりも、死別する友や親類の
数のほうが多くなる。人生の折り返し点はもう過ぎている。今まで以上に、これからの
人生があっと言う間に終わったとしても、私は驚かない。だからその詩は、こう続ける。
「誰がために(あの弔いの)鐘は鳴るなりや。汝がために鳴るなり」と。

 私は今、生きていて、この文を書いている。そして皆さんは今、生きていて、この文を
読んでいる。つまりこの文を通して、私とあなたがつながり、そして一磨君のことを知
り、一磨君の両親と心がつながる。もちろん私がこの文を書いたのは、過去のことだ。
しかもあなたがこの文を読むとき、ひょっとしたら、私はもうこの世にいないかもしれ
ない。しかし心がつながったとき、私はあなたの心の中で生きることができるし、一磨
君も、皆さんの心の中で生きることができる。それが重要なのだ。

 一磨君は、今のこの世にはいない。無念だっただろうと思う。激しい恋も、結婚も、
そして仕事もできなかった。自分の足跡すら、満足に残すことができなかった。瞬間と
言いながら、その瞬間はあまりにも短かった。そういう一磨君の心を思いやりながら、
今ここで、私たちは生きていることを確かめたい。それが一磨君への何よりの供養にな
る。」


 あの世はあるのだろうか。それともないのだろうか。釈迦は『ダンマパダ』(原始経典の
ひとつ、漢訳では「法句経」)の中で、つぎのように述べている。

 「あの世はあると思えばあるし、ないと思えばない」と。わかりやく言えば、「ない」と。
「あの世があるのは、仏教の常識ではないか」と思う人がいるかもしれないが、そうし
た常識は、釈迦が死んだあと、数百年あるいはそれ以上の年月を経てからつくられた常
識と考えてよい。もっとはっきり言えば、ヒンズー教の教えとブレンドされてしまった。
そうした例は、無数にある。

 たとえば皆さんも、日本の真言密教の僧侶たちが、祭壇を前に、大きな木を燃やし、護
摩(ごま)をたいているのを見たことがあると思う。あれなどはまさにヒンズー教の儀
式であって、それ以外の何ものでもない。むしろ釈迦自身は、「そういうことをするな」
と教えている。(「バラモンよ、木片をたいて、清浄になれると思ってはならない。なぜ
ならこれは外面的なことであるから」(パーリ原典教会本「サニュッタ・ニカーヤ」))

 釈迦の死生観をどこかで考えながら、書いた原稿がつぎの原稿である。

「家族の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそ
むける。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚え
る。「私はダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうように
なる。が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな
親子がふえている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶさ
れると、親は、「生きていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなけ
ればいい」とか願うようになる。
 
「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がい
た。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」
と言った父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、や
がてそれが大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どう
して?」と言ったまま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうた
ずねる。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れ
ることができるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。「明日のないことを嘆くな。今日
まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したこ
とがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救われた。そういう言葉を子育てにあてはめ
るのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親をみると、私はこう言うことにし
ている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだではないですか。それ以上、
何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいもの
ばかりではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。
しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐え
るしかない。親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どもの
ために、いつもドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子
先生*は手記の中にこう書いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親
はもうこの世にいないかもしれない。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰
り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学
賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残してい
る。「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけ
れど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜び
を与えられる」と。こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いった
いどれほどいるだろうか。」

 ではなぜ、私たちは生きるか、また生きる目的は何かということになる。釈迦はつぎの
ように述べている。

 「つとめ励むのは、不死の境地である。怠りなまけるのは、死の足跡である。つとめ励
む人は死ぬことがない。怠りなまける人は、つねに死んでいる」(四・一)と述べた上、「素
行が悪く、心が乱れて一〇〇年生きるよりは、つねに清らかで徳行のある人が一日生きる
ほうがすぐれている。愚かに迷い、心の乱れている人が、一〇〇年生きるよりは、つねに
明らかな智慧あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。怠りなまけて、気力も
なく一〇〇年生きるよりは、しっかりとつとめ励む人が一日生きるほうがすぐれている」
(二四・三〜五)(中村元訳)と。

 要するに真理を求めて、懸命に生きろということになる。言いかえると、懸命に生きる
ことは美しい。しかしそうでない人は、そうでない。こうした生き方の差は、一〇年、二
〇年ではわからないが、しかし人生も晩年になると、はっきりとしてくる。

 先日も、ある知人と、三〇年ぶりに会った。が、なつかしいはずなのに、そのなつかし
さが、どこにもない。会話をしてもかみ合わないばかりか、砂をかむような味気なさすら
覚えた。話を聞くと、その知人はこう言った。「土日は、たいていパチンコか釣り。読む新
聞はスポーツ新聞だけ」と。こういう人生からは何も生まれない。

 つぎの原稿は、そうした生きざまについて、私なりの結論を書いたものである。

++++++++++++++++++

●子どもに生きる意味を教えるとき 

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからす
ればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。私たちが
なぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからではな
いのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、
意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自
信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想
的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはな
ぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。それから三〇
年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではな
いが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。
 
生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、
人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸
福になるピエール。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるために
は)、ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。
つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などという
ものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレ
ストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、
(その味は)わからないのよ』と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチ
ャーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。
みんな必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投
げられ、そしてそれが宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだま
する。一瞬時間が止まる。が、そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋
めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみ
あって、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言
うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。言いかえると、
そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘志もない。毎日、
ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわから
ない。さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問
われたとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その
生きざまでしかない。あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりな
がら、適当に試合をしていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほう
も、つまらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれ
と同じ。そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教
えてくれる。」

 私も、つぎの瞬間には、この世から消えてなくなる。書いたものとはいえ、ここに書い
たようなものは、やがて消えてなくなる。残るものといえば、この文を読んでくれた人
がいたという「事実」だが、そういう人たちとて、これまたやがて消えてなくなる。し
かしその片鱗(りん)は残る。かすかな余韻といってもよい。もっともそのときは、無
数の人たちの、ほかの余韻とまざりあって、どれがだれのものであるかはわからないだ
ろう。しかしそういう余韻が残る。この余韻が、つぎの世代の新しい人たちの心に残り、
そして心をつくる。
 
言いかえると、つまりこのことを反対の立場で考えると、私たちの心の中にも、過去に
生きた人たちの無数の余韻が、互いにまざりあって、残っている。有名な人のも、無名
な人のも。もっと言えば、たとえば私は今、「はやし浩司」という名前で、自分の思想を
書いているが、その実、こうした無数の余韻をまとめているだけということになる。そ
の中には、キリスト教的なものの考え方や、仏教的なものの考え方もある。ひょっとし
たらイスラム教的なものの考え方もあるかもしれない。もちろん日本の歴史に根ざすも
のの考え方もある。どれがどれとは区別できないが、そうした無数の余韻が、まざりあ
っていることは事実だ。

 この項の最後に、私にとって「生きる」とは何かについて。私にとって生きるというこ
とは考えること。具体的には、書くこと。仏教的に言えば、日々に精進することという
ことになる。それについて書いたのがつぎの文である。この文は、中日新聞でのコラム
「子どもの世界」の最終回用に書いたものである。

++++++++++++++++++++++

●「子どもの世界」最終回

●ご購読、ありがとうございました。

 毎週土曜日は、朝四時ごろ目がさめる。そうしてしばらく待っていると、配達の人が新
聞を届けてくれる。聞きなれたバイクの音だ。が、すぐには取りにいかない。いや、とき
どき、こんな意地悪なことを考える。配達の人がポストへ入れたとたん、その新聞を中か
ら引っ張ったらどうなるか、と。きっと配達の人は驚くに違いない。

 今日で「子どもの世界」は終わる。連載一〇九回。この間、二年半あまり。「混迷の時代
の子育て論」「世にも不思議な留学記」も含めると、丸四年になる。しかし新聞にものを書
くと言うのは、丘の上から天に向かってものをしゃべるようなもの。読者の顔が見えない。
反応もわからない。だから正直言って、いつも不安だった。中には「こんなことを書いて!」
と怒っている人だっているに違いない。私はいつしか、コラムを書きながら、未踏の荒野
を歩いているような気分になった。果てのない荒野だ。孤独と言えば孤独な世界だが、そ
れは私にとってはスリリングな世界でもあった。書くたびに新しい荒野がその前にあった。

 よく私は「忙しいですか」と聞かれる。が、私はそういうとき、こう答える。「忙しくは
ないですが、時間がないです」と。つまらないことで時間をムダにしたりすると、「しまっ
た!」と思うことが多い。女房は「あなたは貧乏性ね」と笑うが、私は笑えない。私にと
って「生きる」ということは、「考える」こと。「考える」ということは、「書く」ことなの
だ。私はその荒野をどこまでも歩いてみたい。そしてその先に何があるか、知りたい。ひ
ょっとしたら、ゴールには行きつけないかもしれない。しかしそれでも私は歩いてみたい。
そのために私に残された時間は、あまりにも少ない。

 私のコラムが載っているかどうかは、その日の朝にならないとわからない。大きな記事
があると、私の記事ははずされる。バイクの音が遠ざかるのを確かめたあと、ゆっくりと
私は起きあがる。そして新聞をポストから取りだし、県内版を開く。私のコラムが出てい
る朝は、そのまま読み、出ていない朝は、そのまままた床にもぐる。たいていそのころに
なると横の女房も目をさます。そしていつも決まってこう言う。「載ってる?」と。その会
話も、今日でおしまい。みなさん、長い間、私のコラムをお読みくださり、ありがとうご
ざいました。」 
(02−7−23)

Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(090530)

●映画『Star Trek』

++++++++++++++++++

封切りから1日、遅れで、今日、映画『スタートレック』を見てきた。
ウ〜〜〜ン、よかった!
星は4つの★★★★+。

どうして5つ星でなかったかって?
実は、あのテーマ音楽がなかった。
見終わったとき気がついたが、(多分)、あのおなじみのあのテーマ音楽がなかった(?)。
見終わったとき、ワイフと、「あったか?」「なかったは……」と。
そんな会話をした。

家に帰って、公式HPを見たが、やはり、あの音楽はなかった……。
どうしてだろう?
最後のシーンは、あの音楽で締めくくってほしかった。
それが唯一の心残り。

で、うれしかったのは、本物のスポックが、父親役(本当は、未来からやってきた本人)
で、出てきたこと。
顔に無数のしわがあったが、私にはすぐ、スポックとわかった。
その顔をスクリーンで見て、「みんなそんな年齢になったのだな」と。
ほかにも老人役で出てきた人がいたのかもしれないが、私は気がつかなかった。

つぎは、『ターミネーター』『トランスフォーマー』とつづく。
みんな、見るぞ!

++++++++++++++++++++

●新しい挑戦!

++++++++++++++++++++

私はいくつかのBLOGをもっている。
それぞれに特徴があり、使い勝手もちがう。

BLOGによっては、字数制限をしているところがある(楽天など)。
あるいは1日1件の投稿と決まっているところもある(はてな)。
HTMLのタグが挿入できるところもあれば、できないところもある。
また投稿と同時に、ヤフーやグーグルでの検索ができるようになるところもあれば、
そうしたサービスをしてくれないところがある。
さらに毎日のアクセス数をきちんと報告してくれるところもあれば、何も
報告してくれないところがある、などなど。

その中の1つに、つまり私が使っているBLOGの1つに、「Goo Blog」
というのがある。
このBLOGは、毎日、アクセス数をきちんと報告してくれる。
ついでにアクセス数順位も!

で、今朝(09年5月31日)見たら、5月30日のアクセス数について、こうあった。

++++++++++++++++++

閲覧数 1866PV
訪問者数 555IT

ついでにアクセスランキングを見ると、

936位   123万7549ブログ

つまり、123万もあるBLOG(Goo Blog)の中で、936位!
(Goo Blogだけで、123万もあるというのも、驚きだが……。)
ずっと1500〜2000位台をキープしていたが、昨日、1000位台を
突破した。

いまだに受験時代の悪癖が残っているのか、それとも、こういう仕事しているせいなのか、
こうした数字を見ると、ムラムラと闘志がわいてくる。
もっともこのあたりまでくると、マラソンと同じで、順位をあげるのがたいへん
むずかしい。
どの人も真剣にBLOGを書いている。

で、今日の目標!

閲覧数で、2000PV、訪問者数で、1000人、順位で、800番台!
さっそくGoo Blogに、原稿を載せる。

++++++++++++++++++

私のBLOGのばあい、読者のほとんどは、女性。
ふつう土日はアクセス数がふえるものらしいが、私のBLOGでは、減る。
アクセスの時間帯も、子どもたちがちょうど学校へ出かけたあたりに集中する。
(あるいは子どもたちが床についたあとの時間帯。)

だから日曜日という今日(5月31日)は、あまり期待できない。
しかし先に書いたような目標を立てた。
閲覧数で2000件を突破。
月間に換算すると、6万件。
おかしなことに実感はまるでないが、いうなれば、子どものテレビゲームと同じ。
数字の遊びのようなもの。

明日の朝、「2000件、ゲット!」と、子どものように叫んでみたい。
ただそれだけ。
……ということで、今朝も始まった。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●情報革命(K国情報について)

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10年前とちがって、今では居ながらにして、
国際情報を手に入れることができる。
以前はといえば、情報を手に入れるだけで、たいへん!
実際には、不可能。
が、今では、様相が変わった。
インターネットのおかげである。
中国や韓国の新聞ですら、そのまま読むことができる。

そんなわけで、防衛省や外務省あたりから漏れ出てくる
情報は別として、(地方)がもっていたハンディが、
ほとんどなくなった。
(中央)にいる評論家と、ほとんど変わらない情報を、
この(地方)にいても、手に入れることができる。

その上で、K国問題について、もう一度、考えてみる。

(中央)の評論家たちは、みな、こう書いている。
K国が核実験したのも、また現在のように、
つぎつぎと対外的に強硬策をとっているのは、
(1)金xxの健康問題と、(2)後継者問題が
からんでいるから、と。

「金xxの健康問題があり、あせった軍部が、
強硬策を展開している」というわけである。
しかし本当に、そうか?
そう考えてよいのか?

つぎの3つの事実(まさに事実)を、まず並べて
読んでみてほしい。
これらはこの4〜5月中に、私が集めた情報である。

++++++++++++++++++++++

【情報1】

今日、韓国の東亜日報の記事を読んでいたら、こんな記事が
目に留まった。
これはK国でのマンションに建設についての記事だが、
こうあった。

『……同マンションは人気が高く、分譲価格は4万ドルだったが、上乗せして4万500
0ドルで購入した人もいたという。K国で富裕層は、主にドルで取り引きする。1ドル
がK国ウォンで約3700ウォンなので大きな取引の場合かさばらないうえ、K国ウ
ォンは、毎日価値が下がるためだ』(韓国:東亜日報・09年4月23日)

この中で注目してほしいのは、「3700ウォン」という数字。
中朝国境付近での、K国ウォンの、実勢交換レートは、「1ドル=3700ウォン」
という。

つまり公式レートの26分の1!

つまり先に書いた、「国家予算、37億ドル」というのは、実は、100分の1程度
に計算しなおして、読まなければならない。
そのまま26分の1にすれば、日本円で、たったの142億円!
142億円だぞ!
「よくそれで国が成り立つ」と、驚くよりほかにない。

ちなみに、島根県の標準財政規模は、2546億円(平成18年度)。
鳥取県の標準財政規模は、1882億円(平成18年度)。
K国の国家予算は、鳥取県の財政規模の、13分の1!

【情報2】

(注※1)【ロンドン28日時事】国際人権擁護団体アムネスティ・インターナショナル(本
部ロンドン)は、28日、世界の人権状況をまとめた年次報告書(2009年度版)を公表。こ
の中でK国について、「1990年代後半以降で最悪」という危機的なレベルの食料難に直面す
る一方、当局は人々の生存に最低限必要な食料を確保する対策さえ怠っていると批判した。

 報告書によれば、K国は「過去10年間で見られなかった規模」の飢餓に見舞われ、何百
万人もが苦境に陥っている。大半は雑穀などで胃を満たすことを余儀なくされ、野草で食
いつないでいる人も多いという。

 こうした状況にもかかわらず、K国当局は米国からの食料支援受け取りを拒否した上、
昨年3月末には米国の人道団体の国外退去を命令。食料不足の報が全国に広がるのを防ぐ
ため、長距離電話回線が遮断されたとも伝えられるとしている。(時事通信・5月28日)

++++++++++++++++++++

情報1の中で、「国家予算、37億ドル」と書いたが、これですら、K国が
勝手に報道している、いわば公式の額。
実際には、もっと少ないと考えられる。
(というのも、どこの国でも、国家予算というのは、自国の通貨で発表するのが、
常識。
アメリカドルで国家予算を発表しているのは、もちろん、USAだけ。)

で、頭の中でこれら2つの情報を、足して2で割ってみてほしい。
で、それに時事通信社が伝える、つぎの情報を足してみてほしい。

++++++++++++++++

【情報3】『国際人権擁護団体アムネスティ・インターナショナル(本部ロンドン)は、5
月28日、世界の人権状況をまとめた年次報告書(2009年度版)を公表。この中でK
国について、「1990年代後半以降で最悪」という危機的なレベルの食料難に直面する一
方、当局は人々の生存に最低限必要な食料を確保する対策さえ怠っていると批判した』(時
事通信より抜粋)と。

同じくWFPも『世界食糧計画(WFP)が北朝鮮の食糧事情が極めて深刻な状態にあると
して、国際社会に対し約6千万ドル(約65億3000万円相当)の資金援助を要請。過
去3週間にわたって実施した現地調査で、約半数の世帯が1日2食の生活を強いられる1
990年代以降では最悪の状況にあるとしていると紹介している」と報告している

……こうした状況にもかかわらず、K国当局は米国からの食料支援受け取りを拒否した上、
昨年3月末には米国の人道団体の国外退去を命令。食料不足の報が全国に広がるのを防ぐ
ため、長距離電話回線が遮断されたとも伝えられるとしている』

++++++++++++++++

さらに(中央)からは、こんな情報も漏れ伝わっている。
「今回の核実験について、近隣の住民たちに対して、避難指示は出されなかったようで
ある」と。
これを【情報4】とする。

さて、どうなるか?
頭の中で
(1)+(2)+(3)をし、それに(4)を加味する。

私のばあい、その答は、(中央)の評論家たちの意見とは、かなり異なったものに
なってくる。
つまりK国が核実験をしたのも、また今度ICBMのミサイル実験の準備をして
いるのも、(1)金xxの健康問題でもなければ、(2)後継者問題でもない。

ズバリ、国内が崩壊状態にあるから、である。
国の内部的崩壊を防ぐために、K国は、あえて外に向って緊張感を演出し、
日本もしくは、韓国に向かって、戦争をしかけようとしている!
その糸口を懸命にさがしている!
そういう例は、今までに何十例とある。
……というより、これは、こうした独裁国家が最後に取る、常とう手段。

●日本の選択

であるなら、なおさら日本は、あんな国を本気で相手にしてはいけない。
また相手にしなければならないような国ではない。
さらに言えば、あんな国を相手に、正義を説いても意味はない。
その価値もない。
どこまでも、どこまでも、あわれで悲しい国である。

今、K国が準備している、ICBMの発射実験でも、当然、それは日本上空を
通過することになる。
そして次回もまた、「迎撃すれば、報復する」とか何とか言って、K国は騒ぐだろう。
しかし日本は、無視すればよい。
無視、無視、無視……。
迎撃の態勢はジェスチャとして見せるは構わない。
しかしぜったいに、迎撃してはいけない。
迎撃すれば、それこそ、K国の思うつぼ。
そのまま日本はK国のワナにはまることになる。

前回(09年4月)のときは、頼まれもしないうちから、早々と日本は、「迎撃」
という言葉を口にした。
そのため、引っ込みがつかなくなってしまった。
次回は、その愚を繰り返してはいけない。

K国のやりたいようにやらせながら、そのあと国際世論でもって、中国を締め上げる。
(K国ではない、中国を、である。
K国など、相手にしてもしかたない。)

中国が動けば、K国は、崩壊する。
そのため朝鮮半島は混乱するが、もうK国の「ゲームに振り回されるのは、うんざり」
(アメリカ国防省・5月31日)。
あんな国と仲よくしろと言われても、それは無理。
もともと、まともな国ではない。

だからあえて先手で、私はこう主張する。
「ICBM、迎撃、反対!」と。

……ついでに一言。
(中央)の評論家たちの意見は、どこか的をはずれている(?)。
もし私の説を疑う人がいたら、再度、(1)+(2)+(3)を読んでみてほしい。
それに(4)を加味してみてほしい。
たぶん、私と同じ意見になるはずである。

大切なことは、弱虫を酷評されても構わないから、日本を戦争に巻き込んでは
いけないということ。
ここは『負けるが勝ち』。
今こそ、平和を守るための私たちの忍耐力が試されているとき。
けっして、あんな国に手を出してはいけない!
(09年5月31日記)

(追記)(P.S.)

●ミサイル(ICBM)迎撃反対(We just ignore the North Korean's Missile over Japan)

それにしても、K国は、バカな国である。
バカを通り越して、もうあきれるしかない。
つぎの記事を読めば、あなたにもそれがわかるはず。

『テポドン2号の発射費用について、韓国政府高官は3億ドル(約282億円)前後と推
計している。また、韓国紙・中央日報は今回の核実験費用を最低3億ドルと推計。短距離
ミサイルの発射も含めると、総費用は600億円以上にのぼるとみられる。

 韓国政府高官は先月、3億ドルはコメ100万トン分で「1年間の食糧難を解消できる
はずだ」との見方を示した。つまり北は、この2カ月の"火遊び"で食費2年分をぶっ飛
ばしたことになる』(IZA・ニューズ)。

今年、K国国民は、数百万人が餓死状態にあるという。
そういう国民のことは考えず、その費用で、「火遊び」を繰り返している。
こんな国を、まともな国として、相手にしてはいけない。

+++++++++++++++

いいか、またミサイル実験をすることになっても、日本は、あんな国を相手にしては
いけない。

相手にしたとたん、ワナにはまる。
彼らは自滅するか、さもなくば、戦争に打ってい出るか、一か八かの選択に
追い込まれている。

まともな約束さえ、満足にできない国である。
ぜったいに、相手にしてはいけない。
つまり、だから、ミサイル(ICBM)迎撃、反対!
(09年5月31日記)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●5月31日(夜)〜6月1日

++++++++++++++++++

午前中、ワイフと2人で、佐鳴湖を一周した。
歩いて一周した。

途中どこかの団体が、「健走会」を開いていた。
いつもなら静かな佐鳴湖だが、今朝はちがった。
まるで祭の会場のようになっていた。
ワイフと私はその人ごみを避け、「私たちも、
負けじ」と思いながら、歩いた。

佐鳴湖は、以前はといえば、富塚町を出て、医療
センターまで歩く部分は、一般市道を通らないと
一周できなかった。
距離にして、1・5キロはあるだろうか。
それが今度新しく、遊歩道ができ、一般市道を
通ることなく、歩いて一周できるようになった。
富塚町へ出る手前で、佐鳴湖側に橋で渡り、
そのまま湿原を通り抜けて、医療センターの
手前のところまで出る。
ぐんと安全になった。

「いいね」「いいね」と言い合いながら、私たちは
その遊歩道を歩いた。

それを除いて、今日は、おかげでのんびりと
した1日を過ごすことができた。
夜、6月からの講演の練習をした。
6月から、新しい内容で、講演をする。

夜、田丸先生からメールが届いていた。
愛知県のT大学で教授をしている、弟子の方が
亡くなり、葬儀に行って、奥さんと2人で、
お骨を拾ったとか。
さみしい内容のメールだった。


Hiroshi Hayashi+++++++JUNE. 09+++++++++はやし浩司

●アクセス数、3561PV達成!

今朝、Goo−Blogのアクセス数を見たら、何と、3561件(5月31日分のみ)
を達成しているのが、わかった!

閲覧数……3561 PV
訪問者数……639 IP
アクセスランキング……742位/1238180ブログ

ずっと1200〜1400位あたりを、行ったり来たりしていた。
それがこの数日、アクセス数が、ふえつつあった。
順位も、3桁台に入った。
それで「今日あたり、800位台に入るかな」と思っていた。
で、見たら、742位!

123万もあるブロッグの中で、742位。
がぜん、やる気が出てきた。
つぎは、500位台を目標!

それにしても、すごいことだと思う。
639人の人たちが、3561回もアクセスしてくれた。
平均すれば、1人が5回前後、あちこちのページを見てくれたことになる。

Goo−Blogの読者のみなさん、ありがとう!
このところ電子マガジンのほうが低調で、やる気を失っていました。
ここしばらくは、Blogのほうに、力を入れてみます。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●「貯金、10億、自由に使えるお金、10億」

+++++++++++++++++++

どこかの球団の監督が、こう言った。
「貯金、10億、自由に使えるお金、10億。
それを目標にすればいい」と。

発想が貧しいというか、球団の監督ともあろう
人物が、こういう発言を堂々とするところが、
悲しい。

++++++++++++++++++++

●強欲

「強欲」という言葉がある。
欲の皮がつっぱったような人をいう。
いや、欲が悪いわけではない。
みな、ある。
私にもあるし、あなたにもある。
大切なのは、その欲の向け方と使い方。

一般論として、欲の(1)向け方と、(2)使い方は、世代連鎖しやすい。
親が強欲だと、子どもも強欲になる。
中に、反対に親を反面教師として、見た目には正反対の考え方を示す子どももいる。
そのばあいは、多くのばあい、極端な考え方に走るケースが多い。

(1)向け方

欲を何に向けるか。
向ける先には、いろいろある。
仕事、ボランティア活動、趣味、名誉、地位、研究などなど。
もちろん金(マネー)に欲を向ける人も多い。
何に欲を向けるかは、人それぞれ。
みな、ちがう。
大切なことは、それぞれがそれぞれを認めあうこと。
そのバラエティが人間の社会を、うるおい豊かにする。
楽しくする。

で、その欲は、向け方によって、2つに区別することができる。
内面的欲と外面的欲。

「もっといろいろなことを知りたい」「世界中を旅してみたい」と思うのは、
内面的欲ということになる。
「自分に向かった欲」と考えればよい。

一方、他者に働きかけ、「有名になりたい」「名誉や地位がほしい」と思うのは、
外面的欲ということになる。
「自分以外に向かった欲」と考えればよい。

子育てについて言うなら、「子どもは幸せになってほしい」と思うのは、内面的
欲ということになる。
「子どもには、有名大学を出てほしい」と思うのは、外面的欲ということになる。

が、これら2つは、必ずしも択一的なものではない。
それぞれが、たがいに混ざり合うこともある。
中には、「自分を試すためにエベレストに登りたいが、同時に有名になりたい」と
思う人もいるかもしれない。
あるいは「有名大学を出れば、子どもは幸福になれるはず」と思う人もいるかも
しれない。

(2)使い方

欲は言うなれば、自分の中の野生馬のようなもの。
生きる原動力としても働く。
が、うまく使いこなさないと、たいへんなことになる。
強欲な人を例にあげるまでもない。
このタイプの人は、他人の人生など、平気で犠牲にする。

で、それをコントロールするのが、自己管理能力ということになる。
理性や知性ということになる。
一般論として、有名人や、その世界で活躍している人ほど、欲が強いということに
なる。
フロイトの言葉を借りるなら、「性的エネルギーが強い」ということになる。
ユングの言葉を借りるなら、「生的エネルギーが強い」ということになる。
最近の大脳生理学の言葉を借りるなら、「ドーパミンの分泌が激しい」ということになる。

どうであれ、欲というのは、あらゆる方向に作用する。
昔から『英雄、色を好む』という。
それもそのひとつ。

「国家的な英雄になるような人というのは、それだけ欲も強く、その欲は性欲の
ほうに向きやすい」という意味。
が、それをコントロールするのが、先にも書いたように、理性や知性ということになる。

●10億円?

どこかの球団の監督が、こう言った。
「貯金、10億、自由に使えるお金、10億。それを目標にすればいい」と。

発想が貧しいというか、球団の監督ともあろう人物が、こういう発言を堂々とする
ところが、悲しい。

というのも、興業といっても、プロ野球というのは、日本の娯楽以上の娯楽になって
いる。
老若男女、みなが楽しんでいる。
その裏で、札束が乱舞しているとはいえ、その「長」にもあたる人物が、「10億円」
とは!
以前から品格のない人物とは思っていたが、ここまで下品とは思ってはいなかった。
まさに「あの妻にして、この夫」という感じ。

だいたいあの年齢で、20億円も金融資産をもっていて、どうするの?
そういう資産の偏(かたよ)りがあるから、お金に困る人は、困る。
そういう矛盾を、どう考えているのか?

いいのか、日本のスポーツ界?
つい先日は、どこかの相撲部屋の親方が、殺人罪で、実刑判決を受けている。
その少し前は八百長疑惑で、週刊誌が騒いだ。
そういう醜聞はどこの世界にもあるが、いくらなんでも、ケタがちがう。
億単位の金(マネー)が、それこそ春の蝶のように、その上を飛び交っている。

……しかしそういう人物たちこそ、「強欲の人」という。
欲の奴隷になりながら、奴隷になっていることにすら、気づかない。
「私」というものが、どこにもない。
そのため貴重な「命」をどぶへ捨てるようなことを、平気でしている。

たかが球(たま)の投げ合いであはないか。
球の打ち合いではないか。
いや、これはその監督に言っているのではない。
プロ野球を楽しむ、私たち自身への言葉である。
つまりそういう意識をどこかにもって、自分の欲の暴走にブレーキをかけないと、
私たち自身も、その欲の奴隷になってしまう。
そしてこういう監督を「長」にいだきながらも、そのおかしさに気がつかなくなって
しまう。

「いいなあ、オレもプロ野球の監督になって、それくらい稼いでみたい」と、あなたが
思うようだったら、すでに、あなたもその欲の奴隷になっているということ。

どうであるにせよ、監督なら監督らしく、もう少し言葉の使い方を選んで、
ものをしゃべってほしい。
高校野球からプロ野球球団へ。
純粋な心をもって球団へ入ったとたん、あの高校生たちが、欲の奴隷になると考えるのは、
あまりにも悲しい。

そうそうどこかの相撲の親方も、こう言った。
「土俵の中には、札束が埋まっている。
そう考えって、稽古しろ」と。
新弟子の指導のときに放った言葉である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW BW教室 BW子どもクラブ はやし浩司 欲論 人間の欲)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

【子どもの学習指導】

●子どもの集中力

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パッパと始めて、サッサと終わる。
その間、わき目もふらずに勉強する。
作業する。

そういう力を集中力という。

この集中力を養うためには、幼児期が
勝負。

短時間で、濃密な学習をする。
そういった訓練を、週に1度ほどする。
10分とか、20分とかいう、短時間で
よい。

それが子どもの集中力へとつながる。

ダラダラとしたダラ勉は禁物。
かえって、子どもからやる気を奪って
しまう。

++++++++++++++++

 何か作業を与えても、熱くならない子どもというのは、多い。小学1年生レベルでみて
も、10人のうち、3〜4人はいる。

 するでもなし、しないでもなし……というような状態で、時間ばかり、かかる。「ここま
でしないと、終わらないよ」と、軽い脅しをかけても、ニヤニヤと笑っているだけ。症状
としては、つぎのようなものがある。

(1)ダラ勉、フリ勉、時間つぶし

 強制的な学習、あるいは、無理な学習が日常化しているため、学習に対する反応が、き
わめて鈍い。ある子ども(6歳児)は、夏休みの間、午前中の2時間、いろいろな勉強をするこ
とになっているという。

 しかし幼児に2時間は、無理。私の教室(BW)では、50分間のレッスンをするが、
私だからこそ、できること。またそういったレッスンをするためには、その何倍もの時間
をかけて、準備をしなければならない。

 平均的な幼児だったら、30分が限度。しかも30分のうち、10分程度、勉強らしき
ことをしたら、よしとする。それですます。

(2)頭が熱くならない

 ダラダラと時間ばかりつぶす。そのため、頭が熱くなることがない。ジョギングにたと
えて言うなら、走るでもない、歩くでもないといった感じ。道草ばかり食って、前に進ま
ない。

 平均的な子どもは、ここ一番というとき、カッとなって、その作業に夢中になったりす
る。しかしこのタイプの子どもには、それがない。熱くなるということ、そのものがない。
ほかの子どもたち
が、先を争って作業をするようなときでも、柔和な表情を浮かべて、知らぬ顔をしている。
あとをのんびりとついていく。

(3)競争心、闘争心に欠ける

 「勝つ」「負ける」という感覚そのものが、弱い。あるいは負けても、平気。競争心、闘
争心がなく、最初から、万事、あきらめムード。

 では、どうすればよいか。以前書いた原稿の中から、いくつかを拾ってみる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

子どもが勉強から逃げるとき 

++++++++++++++++

やらせればできるはず……と考えたら、
STOP!

中には、「うちの子をもっと、しぼって
ください!」と、頼む親だっている。

しかしこの方法では、子どもは、伸びない。

++++++++++++++++

●フリ勉、ダラ勉、ムダ勉

 子どもは勉強から逃げるとき、独特の症状を示す。まずフリ勉。

いかにも勉強しているというフリをする。頭をかかえ、黙々と問題を読んでいるフリをす
る。しかしその実、何もしていない。何も考えていない。

次にダラ勉。一時間なら一時間、机に向かって座っているものの、ダラダラしているだけ。
マンガを読んだり、指で机をかじったり、爪をほじったりする。

このばあいも、時間ばかりかかるが、その実、何もしていない。ムダ勉というのもある。
やらなくてもよいようなムダな勉強ばかりして、時間をつぶす。折れ線グラフをかくとき
も、グラフばかりかいて時間をつぶすなど。

●一時間で計算問題を数問!

 こういう状態になったら、親は家庭教育のあり方を、かなり反省しなければならない。
こんなこともあった。ある母親から、「夏休みの間だけでも、息子(小二)の勉強をみてほ
しい」と。遠い親戚にあたる母親だった。そこでその子どもを家に呼ぶと、その子どもは
バッグいっぱいのワークブックを持ってきた。

見ると、どれも分厚い、文字がびっしりのものばかり。その上、どれも子どもの能力を超
えたものばかりだった。母親は難しいワークブックをやらせれば、それだけで勉強がよく
できるようになると思っていたらしい。

案の定、教えてみると、空を見つめて、ぼんやりとしているだけ。ほとんど何もしない。
同じ問題を書いては消し、また書いては消すの繰り返し。一時間もかかって、簡単な計算
問題を数問しかしないということもあった。小学低学年の段階で一度こういう症状を示す
と、なおすのは容易でない。

●意欲を奪う五つの原因

 子どもから学習意欲を奪うものに、(1)過負担(長い学習時間、回数の多い塾通い)、(2)
過関心(子どもの側から見て、気が抜けない家庭環境、ピリピリした親の態度)、(3)過
剰期待(「やればできるはず」と子どもを追いたてる、親の高望み)、(4)過干渉(何でも
親が先に決めてしまう)、それに(5)与えすぎ(子どもが望む前に、あれこれお膳立てし
てしまう)がある。

 たくさん勉強させればさせるほど、勉強ができるようになると考えている人は多い。し
かしこれは誤解。

『食欲がない時に食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶を
そこない、また記憶されない』と、あのレオナルド・ダ・ビンチも言っている。あるいは
より高度な勉強をさせればさせるほど、勉強ができるようになると考えている人もいる。
これについては誤解とまでは言えないが、しかしそのときもそれだけの意欲が子どもにあ
ればよいが、そうでなければやはり逆効果。

 要は集中力の問題。ダラダラと時間をかけるよりも、短時間にパッパッと勉強を終える
ほうが、子どもの勉強としては望ましい。実際、勉強ができる子どもというのは、そうい
う勉強のし方をする。私が今知っている子どもに、K君(小四男児)という子どもがいる。
彼は中学一年レベルの数学の問題を、自分の解き方で解いてしまう。

そのK君だが、「家ではほとんど勉強しない」(母親)とのこと。「学校の宿題も、朝、学校
へ行ってからしているようです」とも。

 ついでながら静岡県の小学五、六年生についてみると、家での学習時間が三〇分から一
時間が四三%、一時間から一時間三〇分が三一%だそうだ(静岡県出版文化会発行「ファ
ミリス」県内一〇〇名について調査・二〇〇一年)。

(参考資料)

静岡県の小学五、六年生についてみると、家での学習時間が……

30分から1時間……43%
1時間から1時間30分……31%だそうだ。
(静岡県出版文化会発行「ファミリス」県内100名について調査・2001年)。


●変わる「勉強」への意識

 もっとも今、「勉強」そのものの内容が大きく変わろうとしている。「問題を解ける子ど
も」から、「問題を考える子ども」へ。「知っている子ども」から、「何かを生み出す子ども」
へ。さらには「言われたことを従順にこなす子ども」から、「個性が光る子ども」へ、と。
少なくとも世界の教育はそういう方向に向かって動いている。

そして当然のことながら、それに合わせて教育内容も変わってきている。大学の入学試験
のあり方も変わってきている。だから昔のままの教育観で子どもに勉強させようとしても、
それ自体が今の教育にはそぐわないし、第一、子どもたちがそれを受けいれない。

たとえば昔は、勉強がよくできる子どもが尊敬され、それだけでクラスのリーダーになっ
た。しかし今は違う。「勉強して、S君のようないい成績をとってみたら」などと言うと、
「ぼくらは、あんなヘンなヤツとは違う」と答えたりする。「A進学高校へ行くと勉強させ
られるから、A進学高校には行きたくない」と言う子どもも、珍しくない。それがよいの
か悪いのかは別にして、今はそういう時代なのだ。

 ……などなど、そういうことも考えながら、子どもの勉強を考えるとよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子どもの勉強グセ 勉強嫌い 勉強を避ける子供)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもを本好きにする法

子どもの方向性を知るとき 

++++++++++++++++

子どもを伸ばす最大のコツは、
子ども自身が伸びる方向性に沿って、
子どもを伸ばす。

無理をしない。その一言に尽きる。

++++++++++++++++

●図書館でわかる子どもの方向性
 
子どもの方向性を知るには、図書館へ連れて行けばよい。そして数時間、図書館の中で自
由に遊ばせてみる。そしてそのあと、子どもがどんな本を読んでいるかを観察してみる。

サッカーが好きな子どもは、サッカーの本を読む。動物が好きな子どもは、動物の本を読
む。そのとき子どもが読んでいる本が、その子どもの方向性である。

その方向性にすなおに従えば、子どもは本が好きになる。さからえば、本が嫌いになる。
無理をすれば子どもの伸びる「芽」そのものをつぶすことにもなりかねない。ここでいく
つかのコツがある。

●無理をしない

 まず子どもに与える本は、その年齢よりも、1〜2年、レベルをさげる。親というのは、
どうしても無理をする傾向がある。6歳の子どもには、7歳用の本を与えようとする。7
歳の子どもには、8歳用の本を与えようとする。この小さな無理が、子どもから本を遠ざ
ける。

そこで「うちの子どもはどうも本が好きではないようだ」と感じたら、思いきってレベル
をさげる。本の選択は、子どもに任す。が、そうでない親もいる。本屋で子どもに、「好き
な本を一冊買ってあげる」と言っておきながら、子どもが何か本を持ってくると、「こんな
本はダメ。もっといい本にしなさい」と。こういう身勝手さが、子どもから本を遠ざける。

●動機づけを大切に

 次に本を与えるときは、まず親が読んでみせる。読むフリでもよい。そして親自身が子
どもの前で感動してみせる。「この本はおもしろいわ」とか。これは本に限らない。

子どもに何かものを与えるときは、それなりのお膳立てをする。これを動機づけという。
本のばあいだと、子どもをひざに抱いて、少しだけでもその本を読んであげるなど。この
動機づけがうまくいくと、あとは子どもは自分で伸びる。そうでなければそうでない。こ
の動機づけのよしあしで、その後の子どもの取り組み方は、まったく違ってくる。

まずいのは、買ってきた本を袋に入れたまま、子どもにポイと渡すような行為。子どもは
読む意欲そのものをなくしてしまう。無理や強制がよくないことは、言うまでもない。

●文字を音にかえているだけ?

 なお年中児ともなると、本をスラスラと読む子どもが現れる。親は「うちの子どもは国
語力があるはず」と喜ぶが、たいていは文字を音にかえているだけ。内容はまったく理解
していない。

親「うさぎさんは、どこへ行ったのかな」
子「……わかんない」
親「うさぎさんは誰に会ったのかな?」
子「……わかんない」と。

もしそうであれば子どもが本を読んだら、一ページごとに質問してみるとよい。「うさぎさ
んは、どこへ行きましたか」「うさぎさんは、誰に会いましたか」と。あるいは本を読み終
えたら、その内容について絵をかかせるとよい。

本を読み取る力のある子どもは、一枚の絵だけで、全体のストーリーがわかるような絵を
かく。そうでない子どもは、ある部分だけにこだわった絵をかく。また本を理解しながら
読んでいる子どもは、読むとき、目が静かに落ち着いている。そうでない子どもは、目が
フワフワした感じになる。

さらに読みの深い子どもは、一ページ読むごとに何か考える様子をみせたり、そのつど挿
し絵をじっと見ながら読んだりする。本の読み方としては、そのほうが好ましいことは言
うまでもない。

●文字の使命は心を伝えること

 最後に、作文を好きにさせるためには、こまかいルール(文法)はうるさく言わないこ
と。誤字、脱字についても同じ。要は意味が伝わればよしとする。そういうおおらかさが
子どもを文字好きにする。が、日本人はどうしても「型」にこだわりやすい。書き順もそ
うだが、文法もそうだ。

たとえば小学二年の秋に、「なかなか」の使い方を学ぶ(光村図書版)。「『ぼくのとうさん、
なかなかやるな』と、同じ使い方をしている『なかなか』はどれか。『なかなかできない』
『なかなかおいしい』『なかなかなきやまない』」と。

こういうことばかりに神経質になるから、子どもは作文が嫌いになる。小学校の高学年児
で、作文が好きと言う子どもは、五人に一人もいない。大嫌いと言う子どもは、一〇人に
三人はいる。

(付記)
●私の記事への反論

 「一ページごとに質問してみるとよい」という考えに対して、「子どもに本を読んであげ
るときには、とちゅうで、あれこれ質問してはいけない。作者の意図をそこなう」「本とい
うのは言葉の流れや、文のリズムを味わうものだ」という意見をもらった。図書館などで、
子どもたちに本の読み聞かせをしている人からだった。

 私もそう思う。それはそれだが、しかし実際には、幼児を知らない児童文学者という人
も多い。そういう人は、自分の本の中で、幼児が知るはずもないというような言葉を平気
で並べる。たとえばある幼児向けの本の中には、次のような言葉があった。「かわべの ほ
とりで、 ひとりの つりびとが うつら うつらと つりいとを たれたまま、 まど
ろんでいた」と。

この中だけでも、幼児には理解ができそうもないと思われる言葉が、「川辺」「釣り人」「う
つら」「釣り糸」「まどろむ」と続く。こうした言葉の説明を説明したり、問いかけたりす
ることは、決してその本の「よさ」をそこなうものではない。が、それだけではない。

意味のわからない言葉から受けるストレスは相当なものだ。ためしにBS放送か何かで、
フランス語の放送をしばらく聞いてみるとよい。フランス語がわかれば話は別だが、ふつ
うの人ならしばらく聞いていると、イライラしてくるはずだ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子供の方向性 図書館の活用方法)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもを勉強に向かわせる法

子どもが学習机から離れるとき

●机は休むためにある

 学習机は、勉強するためにあるのではない。休むためにある。どんな勉強でも、しばら
くすると疲れてくる。問題はその疲れたとき。そのとき子どもがその机の前に座ったまま
休むことができれば、よし。そうでなければ子どもは、学習机から離れる。勉強というの
は一度中断すると、なかなかもとに戻らない。

 そこであなたの子どもと学習机の相性テスト。子どもの好きそうな食べ物を、そっと学
習机の上に置いてみてほしい。そのとき子どもがそのまま机の前に座ってそれを食べれば、
よし。もしその食べ物を別のところに移して食べるようであれば、相性はかなり悪いとみ
る。

反対に自分の好きなことを、何でも自分の机に持っていってするようであれば、相性は合
っているということになる。相性の悪い机を長く使っていると、勉強嫌いの原因ともなり
かねない。

●机は棚のない平机

 学習机というと、前に棚のある棚式の机が主流になっている。しかし棚式の机は長く使
っていると圧迫感が生まれる。もう一五年ほども前になるが、小学一年生について調査し
たことがある。結果、棚式の机のばあい、購入後3か月で約80%の子どもが物置にして
いることがわかった。

最近の机にはいろいろな機能がついているが、子どもを一時的にひきつける効果はあるか
もしれないが、あくまでも一時的。そんなわけで机は買うとしても、棚のない平机をすす
める。あるいは低学年児のばあい、机はまだいらない。

たいていの子どもは台所のテーブルなどを利用して勉強している。この時期は勉強を意識
するのではなく、「勉強は楽しい」という思いを育てる。親子のふれあいを大切にする。子
どもに向かっては、「勉強しなさい」と命令するのではなく、「一緒にやろうか?」と話し
かけるなど。

●学習机を置くポイント

 学習机にはいくつかのポイントがある。

(1)机の前には、できるだけ広い空間を用意する。 

(2)棚や本棚など、圧迫感のあるものは背中側に配置する。

(3)座った位置からドアが見えるようにする。

(4)光は左側からくるようにする(右利き児のばあい)。

(5)イスは広く、たいらなもの。かためのイスで、机と同じ高さのひじかけがあるとよ
い。

(7)窓に向けて机を置くというのが一般的だが、あまり見晴らしがよすぎると、気が散
って勉強できないということもあるので注意する。

 机の前に広い空間があると、開放感が生まれる。またドアが背中側にあると、心理的に
落ちつかないことがわかっている。意外と盲点なのが、イス。深々としたイスはかえって
疲れる。ひじかけがあると、作業が格段と楽になる。ひじかけがないと、腕を机の上に置
こうとするため、どうしても体が前かがみになり、姿勢が悪くなる。

中に全体が前に倒れるようになっているイスがある。確かに勉強するときは能率があがる
かもしれないが、このタイプのイスでは体を休めることができない。

 さらに学習机をどこに置くかだが、子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのように
して体を休めるかを観察してみるとよい。好きなマンガなどを、どこで読んでいるかをみ
るのもよい。たいていは台所のイスとか、居間のソファの上だが、もしそうであれば、思
い切って、そういうところを勉強場所にしてみるという手もある。子どもは進んで勉強す
るようになるかもしれない。

(詳しくは、「はやし浩司の書斎」に具体的な配置図とともに、書いてあります。どうか、
ご覧になってください。)

●相性を見極める

 ものごとには相性というものがある。子どもの勉強をみるときは、何かにつけ、その相
性を大切にする。相性が合えば、子どもは進んで勉強するようになる。相性が合わなけれ
ば、子どもは何かにつけ、逃げ腰になる。無理をすれば、子どもの学習意欲そのものをつ
ぶしてしまうこともある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
 子供部屋 子供の学習環境 動機付け 子供部屋のあり方)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもの個性を伸ばす法

教育が型にはまるとき
●「ちゃんと見てほしい」

 「こんな丸のつけ方はない」と怒ってきた親がいた。祖母がいた。「ハネやハライが、メ
チャメチャだ。ちゃんと見てほしい」と。私が子ども(幼児)の書いた文字に、花丸をつ
けて返したときのことである。

あるいはときどき、市販のワークを自分でやって、見せてくれる子どもがいる。そういう
ときも私は同じように、大きな丸をつけ、子どもに返す。が、それにも抗議。「答がちがっ
ているのに、どうして丸をつけるのか!」と。

●「型」にこだわる日本人

 日本人ほど、「型」にこだわる国民はいない。よい例が茶道であり華道だ。相撲もそうだ。
最近でこそうるさく言わなくなったが、利き手もそうだ。「右利きはいいが、左利きはダメ」
と。

私の二男は生まれながらにして左利きだったが、小学校に入ると、先生にガンガンと注意
された。書道の先生ということもあった。そこで私が直接、「左利きを認めてやってほしい」
と懇願すると、その先生はこう言った。「冷蔵庫でもドアでも、右利き用にできているから、
なおしたほうがよい」と。

そのため二男は、左右反対の文字や部分的に反転した文字を書くようになってしまった。
書き順どころではない。文字に対して恐怖心までもつようになり、本をまったく読もうと
しなくなってしまった。

 一方、オーストラリアでは、スペルがまちがっている程度なら、先生は何も言わない。
壁に張られた作品を見ても、まちがいだらけ。そこで私が「なおさないのですか」と聞く
と、その先生(小三担当)は、こう話してくれた。

「シェークスピアの時代から、正しいスペルなんてものはないのです。発音が違えば、ス
ペルも違う。イギリスのスペルが正しいというわけではない。言葉は、ルール(文法やス
ペル)ではなく、中身です」と。

●「U」が二画?

 近く小学校でも、英語教育が始まる。その会議が10年ほど前、この浜松市であった。
その会議を傍聴してきたある出版社の編集長が、帰り道、私の家に寄って、こう話してく
れた。

「Uは、まず左半分を書いて、次に右半分を書く。つまり2画と決まりました。同じよう
にMとWは四画と決まりました」と。私はその話を聞いて、驚いた。英語国にもないよう
な書き順が、この日本にあるとは! 

そう言えば私も中学生のとき、英語の文字は、25度傾けて書けと教えられたことがある。
今から思うとバカげた教育だが、しかしこういうことばかりしているから、日本の教育は
おもしろくない。つまらない。

たとえば作文にしても、子どもたちは文を書く楽しみを覚える前に、文字そのものを嫌い
になってしまう。日本のアニメやコミックは、世界一だと言われているが、その背景に、
子どもたちの文字嫌いがあるとしたら、喜んでばかりはおられない。だいたいこのコンピ
ュータの時代に、ハネやハライなど、毛筆時代の亡霊を、こうまでかたくなに守らねばな
らない理由が、一体どこにあるのか。

「型」と「個性」は、正反対の位置にある。子どもを型に押し込めようとすればするほど、
子どもの個性はつぶれる。子どもはやる気をなくす。

●左利きと右利き

 正しい文字かどうかということは、次の次。文字を通して、子どもの意思が伝われば、
それでよし。それを喜んでみせる。そういう積み重ねがあって、子どもは文を書く楽しみ
を覚える。

オーストラリアでは、すでに10年以上も前に小学3年生から。今ではほとんどの幼稚園
で、コンピュータの授業をしている。10年以上も前に中学でも高校でも生徒たちは、フ
ロッピーディスクで宿題を提出していたが、それが今では、インターネットに置きかわっ
た。先生と生徒が、常時インターネットでつながっている。こういう時代がすでにもう来
ているのに、何がトメだ、ハネだ、ハライだ! 

 冒頭に書いたワークにしても、しかり。子どもが使うワークなど、半分がお絵かきにな
ったとしても、よい。だいたいにおいて、あのワークほど、いいかげんなものはない。そ
れについては、また別のところで書くが、そういうものにこだわるほうが、おかしい。

左利きにしても、人類の約5%が、左利きといわれている(日本人は3〜4%)。原因は、
どちらか一方の大脳が優位にたっているという大脳半球優位説。親からの遺伝という遺伝
説。生活習慣によって決まるという生活習慣説などがある。

一般的には乳幼児には左利きが多く、3〜4歳までに決まるが、どの説にせよ、左利きが
悪いというのは、あくまでも偏見でしかない。冷蔵庫やドアにしても、確かに右利き用に
はできているが、しかしそんなのは慣れ。慣れれば何でもない。

●エビでタイを釣る

 子どもの懸命さを少しでも感じたら、それをほめる。たとえヘタな文字でも、子どもが
一生懸命書いたら、「ほお、じょうずになったね」とほめる。そういう前向きな姿勢が、子
どもを伸ばす。これは幼児教育の大原則。昔からこう言うではないか。「エビでタイを釣る」
と。しかし愚かな人はタイを釣る前に、エビを食べてしまう。こまかいこと(=エビ)を
言って、子どもの意欲(=タイ)を、そいでしまう。

(付記)

●私の意見に対する反論

 この私の意見に対して、「日本語には日本語の美しさがある。トメ、ハネ、ハライもその
一つ。それを子どもに伝えていくのも、教育の役目だ」「小学低学年でそれをしっかりと教
えておかないと、なおすことができなくなる」と言う人がいた。

しかし私はこういう意見を聞くと、生理的な嫌悪感を覚える。その第一、「トメ、ハネ、ハ
ライが美しい」と誰が決めたのか? それはその道の書道家たちがそう思うだけで、そう
いう「美」を、勝手に押しつけてもらっては困る。要はバランスの問題だが、文字の役目
は、意思を相手に伝えること。「型」ばかりにこだわっていると、文字本来の目的がどこか
へ飛んでいってしまう。

私は毎晩、涙をポロポロこぼしながら漢字の書き取りをしていた二男の姿を、今でもよく
思い出す。二男にとっては、右手で文字を書くというのは、私たちが足の指に鉛筆をはさ
んで文字を書くのと同じくらい、つらいことだったのだろう。二男には本当に申し訳ない
ことをしたと思っている。この原稿には、そういう私の、父親としての気持ちを織り込ん
だ。

(参考)

●経済協力開発機構(OECD)が調査した「学習到達度調査」(PISA・2000年調
査)によれば、「毎日、趣味で読書をするか」という問いに対して、日本の生徒(15歳)
のうち、53%が、「しない」と答えている。

この割合は、参加国32か国中、最多であった。また同じ調査だが、読解力の点数こそ、
日本は中位よりやや上の8位であったが、記述式の問題について無回答が目立った。

無回答率はカナダは5%、アメリカは4%。しかし日本は29%! 文部科学省は、「わか
らないものには手を出さない傾向。意欲のなさの表れともとれる」(毎日新聞)とコメント
を寄せている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
日本人の型 型にはめる教育 子供の個性)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもを勉強好きにする法

子どもがワークをするとき 

●西田ひかるさんが高校一年生

 学研に「幼児の学習」「なかよし学習」という雑誌があった。今もある。私はこの雑誌に
創刊時からかかわり、その後「知恵遊び」を10年間ほど、協力させてもらった。

「協力」というのもおおげさだが、巻末の紹介欄ではそうなっていた。この雑誌は両誌で、
当時毎月47万部も発行された。この雑誌を中心に私は以後、無数の市販教材の制作、指
導にかかわってきた。

バーコードをこするだけで音が出たり答えが出たりする世界初の教材、「TOM」(全10
巻)や、「まなぶくん・幼児教室」(全48巻)なども手がけた。

14年ほど前には英語雑誌、「ハローワールド」の創刊企画も一から手がけた。この雑誌も
毎月27万部という発行部数を記録したが、そのときの編集長の大塚K氏が、横浜のアメ
リカンハイスクールで見つけてきたのが、西田ひかるさんだった。当時まだまったく無名
の、高校一年生だった。

●さて本題

 ……実はこういう前置きをしなければならないところに、肩書のない人間の悲しみがあ
る。私はどこの世界でも、またどんな人に会っても、まずそれから話さなければならない。
私の意見を聞いてもらうのは、そのあとだ。

で、本論。私はこのコラム(中日新聞「子どもの世界」)の中で、「ワークやドリルなど、
半分はお絵かきになってもよい」と書いた。別のところでは、「ワークやドリルほどいいか
げんなものはない」とも書いた。

そのことについて、何人かの人から、「おかしい」「それはまちがっている」という意見を
もらった。しかし私はやはり、そう思う。無数の市販教材に携わってきた「私」がそう言
うのだから、まちがいない。

●平均点は六〇点

まず「売れるもの」。それを大前提にして、この種の教材の企画は始まる。主義主張は、次
の次。そして私のような教材屋に仕事が回ってくる。そのとき、おおむね次のようなレベ
ルを想定して、プロット(構成)を立てる。

その年齢の子ども上位10%と下位10%は、対象からはずす。残りの80%の子どもが、
ほぼ無理なくできる問題、と。点数で言えば、平均点が60点ぐらいになるような問題を
考える。

幼児用の教材であれば、文字、数、知恵の三本を柱に案をまとめる。小学生用であれば、
教科書を参考にまとめる。

しかしこの世界には、著作権というものがない。まさに無法地帯。私の考えた案が、ほん
の少しだけ変えられ、他社で別の教材になるということは日常茶飯事。こう書いても信じ
てもらえないかもしれないが、25年前に私が「主婦と生活」という雑誌で発表した知育
ワークで、その後、東京の私立小学校の入試問題の定番になったのが、いくつかある。

●半分がお絵かきになってもよい

 子どもがワークやドリルをていねいにやってくれれば、それはそれとして喜ばねばなら
ないことかもしれない。しかしそういうワークやドリルが、子どもをしごく道具になって
いるのを見ると、私としてはつらい。……つらかった。

私のばあい、子どもたちに楽しんでもらうということを何よりも大切にした。同じ迷路の
問題でも、それを立体的にしてみたり、物語を入れてみたり、あるいは意外性をそこにま
ぜた。たとえば無数の魚が泳いでいるのだが、よく見ると全体として迷路になっていると
か。あの「幼児の学習」や「なかよし学習」にしても、私は毎月300枚以上の原案をか
いていた。だから繰り返す。

 「ワークやドリルなど、半分がお絵かきになってもよい。それよりも大切なことは、子
どもが学ぶことを楽しむこと。自分はできるという自信をもつこと」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子どもの学習 子供の学習 勉強嫌い 子どもの集中力 子供の集中力 学習指導 勉強
指導 学習机 はやし浩司 子供の勉強グセ 勉強癖 やる気 やる気論 子供を伸ばす
法 子供の伸ばし方 家庭学習 子供の方向性)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

【心のキズ】

●子どものうつ病

+++++++++++++++++

うつ病の素因(遠因)は、満5歳から
10歳ごろまでに、つくられるという。

しかもその主なる原因は、離別体験だ
という。

つまり幼少期に親と離別体験を経験した
子どもほど、のちにおとなになって
から、うつ病(抑うつ状態)に
なりやすいということがわかって
いる。

もし今、あなたがうつ病、もしくは
うつ病的な傾向があるなら、まず、
自分の過去をのぞいてみよう。

それがあなたの心を守る第一歩となる。

++++++++++++++++

●幼少期の離別体験

 児童期の喪失体験が、子どもの抑うつ状態と、深く関係しているという(社会精神医学、
7;114―118)。

 いわく「10歳以前の両親のいずれかと死別体験、もしくは、分離体験という喪失体験
が、正常対象群(9%)に対して、患者群(39%)に有意の差をもって多く認められた。

 しかし抑うつ状態の診断下位群、抑うつ状態の臨床結果とは特異な所見を得られなかっ
た。

 さらに5〜10歳までが、喪失体験が抑うつ状態の素因を形成するための臨界期であろ
うと推察した」と。

 わかりやすく言うと、こうなる。

10歳以前に、両親のいずれかと死別、もしくは分離体験をした子どもほど、のちにおと
のなになってから、抑うつ状態になりやすいということ。

 同じような報告は、イギリスのバーミンガム病院でも、報告されている(精神医学、2
8;387〜393、1986)。

 精神障害のある39人の患者について調べたところ、「15歳以前で、12か月以上の離
別体験をもった人」は、そうでない人よりも、明らかに関連性があることがわかったとい
う。

 しかもこの報告で、興味深いのは、異性の親(男児であれば、母親、女児であれば、父
親)との離別体験をもった人ほど、「有意な差」が見られたという。

 さらに報告書は、こう書いている。

 「死別体験は家族歴の有無と、有意の関連を呈さなかったが、離別体験は家族歴の有無
と有意(exact probability test, p=0.026)の関連をもち、この傾向は、離別の対象が異性
の親である際に強いものであった。

 異性親からの離別を体験したものは、家族歴を有する20人のうち、7名(35%)で
あるのに対して、家族歴を有さないもの19名では、皆無(0%)であった。

 このことから、うつ病発症に関与していると考えられる幼少期の離別体験は、一部には、
家族員の精神疾患から発生したものである可能性が示された」(北村俊則)と。

 以上を、わかりやすくまとめると、こうなる。

(1)10歳以前に親との死別体験や離別体験をもった人ほど、うつ病になりやすい。
(2)異性の親との死別体験や離別体験をもった人ほど、うつ病になりやすい。
(3)家族のだれかに精神疾患があった人ほど、うつ病になりやすい。

 かなり乱暴なまとめ方なので、誤解を招く心配もないわけではないが、おおざっぱに言
えば、そういうことになる。そしてこうした調査報告を、裏から読むと、こうなる。

(1)10歳以前に、子どもに、離別体験を経験させるのは、避けたほうがよい、と。

 しかし実際には、たとえば親の離婚問題を例にあげて考えてみると、離婚(離別)その
ものが子どもに影響を与えるというよりは、それにいたる家庭内騒動が、子どもに影響を
与えるとみるべきである。バーミンガム病院での報告書にも、「死別体験は家族歴の有無と、
有意の関連を呈さなかった」とある。

 解釈のしかたにも、いろいろあるが、死別のばあいは、離婚騒動で起きるような家庭内
騒動は、起きない。

 だから離婚するにしても、(それぞれの人たちは、やむにやまれない理由があって離婚す
るので)、子どもとは無縁の世界で、話を進めるのがよいということになる。子どもの目の
前で、はげしい夫婦げんかをするなどという行為は、タブーと考えてよい。

 また、この調査結果は、もうひとつ重要なことを私たちに教えている。

 もし今、あなたがうつ病、もしくはうつ病的な傾向を示しているなら、その原因は、ひ
ょっとしたら、あなた自身の幼少期に起因しているかもしれないということ。(うつ病の原
因が、すべて幼少期にあると言っているのではない。誤解のないように!)

 そこであなたは、自分の過去を、冷静に、かつ客観的に見つめなおしてみる。

 しかし問題は、あなた自身が、そういう過去を経験したということではなく、そういう
過去があることに気がつかないまま、そういう過去の虜(とりこ)となって、その過去に
操られることである。

 そこでまず、自分の過去を知る。

 もしそのとき、あなたが心豊かで恵まれた環境の中で、育てられたというのであれば、
それはそれとして結構なことである。が、反対に、ここでいうような不幸な体験(親との
死別体験や離別体験)を経験しているなら、あなたの心は、何らかの形で、かなりキズつ
いているとみてよ
い。

 しかしそれがこの問題を克服する第一歩である。

 自分の過去を知り、自分の心のキズに気がつけば、あとは、時間が解決してくれる。5
年とか10年とか、あるいはもっと時間がかかるかもしれない。が、あとは、時間に任せ
ればよい。少なくとも、自分の(心の敵)がわかれば、恐れることはない。不必要に悩ん
だり、苦しんだりすることもない。

 うつ病にかぎらず、心の問題というのは、そういうものである。

 私自身の経験を書いたエッセーが、つぎのものである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●心のキズ

 私の父はふだんは、学者肌の、もの静かな人だった。しかし酒を飲むと、人が変わった。
今でいう、アルコール依存症だったのか? 3〜4日ごとに酒を飲んでは、家の中で暴れ
た。大声を出して母を殴ったり、蹴ったりしたこともある。あるいは用意してあった食事
をすべて、ひっくり返したこともある。

私と5歳年上の姉は、そのたびに2階の奥にある物干し台に身を潜め、私は「姉ちゃん、
こわいよオ、姉ちゃん、こわいよオ」と泣いた。

 何らかの恐怖体験が、心のキズとなる。そしてそのキズは、皮膚についた切りキズのよ
うに、一度つくと、消えることはない。そしてそのキズは、何らかの形で、その人に影響
を与える。

が、問題は、キズがあるということではなく、そのキズに気づかないまま、そのキズに振
り回されることである。

たとえば私は子どものころから、夜がこわかった。今でも精神状態が不安定になると、夜
がこわくて、ひとりで寝られない。あるいは岐阜の実家へ帰るのが、今でも苦痛でならな
い。帰ると決めると、その数日前から何とも言えない憂うつ感に襲われる。

しかしそういう自分の理由が、長い間わからなかった。もう少し若いころは、そういう自
分を心のどこかで感じながらも、気力でカバーしてしまった。が、50歳も過ぎるころに
なると、自分の姿がよく見えてくる。見えてくると同時に、「なぜ、自分がそうなのか」と
いうことまでわかってくる。

 私は子どものころ、夜がくるのがこわかった。「今夜も父は酒を飲んでくるのだろうか」
と、そんなことを心配していた。また私の家庭はそんなわけで、「家庭」としての機能を果
たしていなかった。家族がいっしょにお茶を飲むなどという雰囲気は、どこにもなかった。

だから私はいつも、さみしい気持ちを紛らわすため、祖父のふとんの中や、母のふとんの
中で寝た。それに私は中学生のとき、猛烈に勉強したが、勉強が好きだからしたわけでは
ない。母に、「勉強しなければ、自転車屋を継げ」といつも、おどされていたからだ。つま
りそういう「過去」が、今の私をつくった。

 よく「子どもの心にキズをつけてしまったようだ。心のキズは消えるか」という質問を
受ける。が、キズなどというのは、消えない。消えるものではない。恐らく死ぬまで残る。
ただこういうことは言える。

心のキズは、なおそうと思わないこと。忘れること。それに触れないようにすること。さ
らに同じようなキズは、繰り返しつくらないこと。つくればつくるほど、かさぶたをめく
るようにして、キズ口は深くなる。

私のばあいも、あの恐怖体験が一度だけだったら、こうまで苦しまなかっただろうと思う。
しかし父は、先にも書いたように、3〜4日ごとに酒を飲んで暴れた。だから54歳にな
った今でも、そのときの体験が、フラッシュバックとなって私を襲うことがある。

「姉ちゃん、こわいよオ、姉ちゃん、こわいよオ」と体を震わせて、ふとんの中で泣くこ
とがある。54歳になった今でも、だ。

心のキズというのは、そういうものだ。決して安易に考えてはいけない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私の経験から

 私が、自分の過去を冷静にみるようになったのは、私が30歳もすぎてからのことでは
なかったか。それについて書いたエッセーが、つぎのものである。内容的に一部、ダブる
ところがあるが、許してほしい。4年前に書いた原稿である。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【自分を変えるために……】

+++++++++++++++++++++

あなたは本当に、あなたか? 
あなたは「私は私」と、本当にそのように、
自信をもって言えるか?

+++++++++++++++++++++

●私の不安発作

 ときどき、自分が夜の闇に吸い込まれていくように感じて、言いようのない不安に襲わ
れることがある。私は夜が苦手。子どものころから苦手だった。そういう不安に襲われる
と、この年齢(54歳)になっても、ひとりで寝ることができない。ワイフが床に入るの
を待ってから、自分もその床に身をすべらせる。

 夜が苦手になった理由は、父が酒乱だったことによる。私が4,5歳くらいのときから
父の酒グセが悪くなり、父は数日おきに酒を飲んだ。見さかいなく暴れた。ときにはそう
いう騒動を、おもしろおかしく見たこともあるが、私には恐怖だった。

父が酒を飲んで暴れるたびに、そして大声で怒鳴り散らすたびに、私と姉は、2階の奥に
あった物干し台の陰に身を隠し、それにおびえた。今でも、「姉ちゃん、こわいよ」「姉ち
ゃん、こわいよ」と声を震わせて泣いた自分の声を、よく覚えている。姉は私より、5歳
年上だった。

●心のキズにきづいたのは、三〇歳を過ぎてから

 しかし私がこうした自分の心のキズに気づいたのは、私が30歳を過ぎてからだった。
それまでは自分の心にキズがあるなどとは、思ってもみなかった。が、今から思い出すと、
いろいろな症状があった。

たとえば私は酒臭い人が大嫌いだった。近くにいるだけで、生理的な嫌悪感を覚えた。赤
い夕日が沈むのを見ると、ときどき不安になった。暗いトンネルに入ると、ぞっとするよ
うな恐怖感に襲われた。カッとなると、すべてを破壊してしまいたいような衝動にかられ
た。自分を消してしまいたいような衝動で、そのためときどきワイフに暴力を振るったこ
ともある。

父が母に暴力を振るっていたのを見たことがあるためか、自分の暴力は正しいと思い込ん
でいた。そして最大の症状は、ここに書いたように、夜がこわかったということ。

●不安発作の原因

 一度不安発作に襲われると、自分でもどうやって身を守ってよいのかわからなくなる。
たいていはふとんの中で、体を丸めて、ガタガタ震える。あるいはワイフの体にしがみつ
いて眠る。

しかしそれでも、なぜ自分がそういう発作に襲われるのか、理由がわからなかった。が、
ある夜のこと。私がワイフにふとんの中で、私の子どものころの話を語っていたときのこ
と。やがて話が父の酒乱の話しになり、暴力の話になった。そして姉と物干し台で震えて
いたときの話になった。そのときのことだ。突然、私はあの不安発作に襲われた。

 体がガタガタと震えだし、そして自分が夜の闇に吸い込まれていくのを感じた。そして
年甲斐もなく、大声で、「姉ちゃん、こわいよ」「姉ちゃん、こわいよ」と泣き出した。

ワイフは、私を自分の体で包みながら、「あなた、何でもないのよ」となだめてくれたが、
そのときはじめて私はわかった。私が感じる不安は、あの夜感じた不安と同じだった。そ
してそれはあの夜から始まっていたのを知った。

 赤い夕日が沈むのを見ると不安になるのは、そのころ父はいつも近くの酒屋で酒を飲ん
でいたからだ。いつだったか、父が真っ赤な夕日を背景に、フラフラと通りを歩いている
のをみかけたことがある。そのときの光景が、今でもはっきりと覚えている。

 また私が暗いトンネルが苦手なのは、暗闇がこわいということよりも、何らかの恐怖症
が形を変えたためと考えられる。子どもというのは、一度恐怖症になると、その思考プロ
セスだけは残り、いろいろな恐怖症に姿を変える。私のばあいも、暗闇恐怖症が、飛行機
事故で今度は、飛行機恐怖症になったりした。

●私の中の私でない部分

 が、ここで私の中に大きな変化が起きたのを知った。「私は私」と思っていたが、私の中
に、私でない部分を知ったとき、そのときから、本当の自分が見えてきた。私は、私の中
の別の私に動かされていただけだった。

たとえば私が酒臭い人を嫌うのも、赤い夕日が沈むのを見ると、ときどき不安になるのも、
また暗いトンネルに入ると、ぞっとするような恐怖感に襲われるのも、カッとなると、す
べてを破壊してしまいたいような衝動にかられるのも、すべて、私の中の別の私がそうさ
せていることに気づいた。これは私にとっては、大きな発見だった。この先を話す前に、
こんなことがある。

●子どもを見ていて……

 子どもを教えていると、それぞれの子どもが、何らかの問題をかかえている。問題のな
い子どもなどいないと言ってもよい。それほど深刻なケースでなくても、いじけたり、す
ねたり、つっぱったり、ひねくれたり、ひがんだりする子どもは多い。そういう子どもを
観察してみると、子ども自身の意思というよりは、何か別の力によって動かされているの
がわかる。もちろん本人は、自分の意思で行動していると思っているようだが、別の思考
パターンが作動しているのがわかる。

 原因はいろいろある。たいていは家庭環境や家庭教育。年齢が大きくなるにつれて、学
校という場が原因になることもある。私が印象に残っている女の子に、A子さんという子
ども(年長児)がいた。

ある朝、私が園庭でA子さんに、「今日はいい天気だね」と話しかけたときのこと。A子さ
んは、こう言った。「今日は、いい天気ではない。あそこに雲がある」と。そこでまた私が、
「雲があっても、いい天気だよ」と言うと、さらにかたくなな様子になり、「あそこに雲が
ある!」と。ものの考え方がどこかひねくれていた。

で、話を聞くと、A子さんの家は、父子家庭。ある日担任の先生がA子さんの家を訪れて
みると、父親の飲む酒ビンが、床にころがっていたという。

●いつ、それに気づくか?

が、問題はこのことではない。そういう「すなおでない性格」について、子ども自身がい
つ、どのような形で気がつくか、だ。が、このことも、問題ではない。問題は、そういう
自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、自分であって自分でない部分に
引き回されること。そして同じ失敗を繰り返す。これが問題である。

しかしなおす方法がないわけではない。まず、自分自身の中に潜む心のキズがどんなもの
であるかを、客観的に知る。

 私のばあいは、あの夜、ワイフの胸の中で、「姉ちゃん、こわいよ」と泣いたときから、
自分が変わったように思う。それまで心の奥底に潜んでいた「わだかまり」に気づくと同
時に、それを外に吐き出すことができた。

もっともそれですぐすべての問題が解決したわけではないが、少しずつ、そのときからわ
だかまりがこわれていった。同じような症状はそれからも繰り返し出たが、(今でも、出る
が……)、そのつど、なぜ自分がそうなるかがわかり、そしてそれに合わせて、症状も軽く
なっていった。

 そこで……

●自分を変えるために

(1)もしあなたが、いつも同じようなパターンで、同じような失敗を繰り返すようであ
れば、自分さがしをしてみる。どこかにおおきなわだかまりや、心のキズがあるは
ずである。

(2)あなたの過去に問題があることが問題ではない。問題は、そういう問題に気づくこ
とがないまま、その過去に振り回されること。ただし、自分の心の中をのぞくこと
は、こわいことだが、勇気を出して、それをすること。

(3)心の中のキズやわだかまりは、あなたを、無意識のまま、あなたを裏から操(あや
つ)る。ふつうは操られていることに気づかないまま、操られる。たとえば子どもへの暴
力など。親はとっさに暴力を振るうが、あとで「なぜそんなことをしたかわからない」と
いうケースが多いのは、そのため。

(4)しかしあなたが自分の中の、「自分であって自分でない部分」に気づけば、そのとき
から、この問題は解決する。同じような症状(反応)が出たとき、「ああ、これは私
であって、私でない部分」と

(5)自分自身を客観的にみる。あとは時間が解決してくれる。

 これは私の体験からの報告である。

(追記)

 こうした自分自身の体験を公開するのは、一方で、そういう自分と決別するためでもあ
る。自分自身を思いきってさらけ出すのも、ひとつの解決方法かもしれない。

なお私のばあい、それ以上に心がゆがまなかったのは、やさしい祖父母が同居していたた
めと考えられる。もうひとつは、近くに親類が何人かいて、私のめんどうをみてくれた。
ああいう家庭環境で、もし祖父母や親類が近くにいなかったら、今ごろの私は、どうなっ
ていたか……。それを考えると、ぞっとする。

そういう意味で、よく子どもの非行が問題になるが、私はすべて子どもの責任にするのは、
まちがっていると思う。

(02−9−29)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
心の傷 トラウマ うつ病 離婚 離別体験 死別体験 子供の心理 バーミンガム病院 
恐怖症 はやし浩司 離別体験 うつ秒 心の問題)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●同一性の危機

万引き、自転車盗、薬物濫用、暴走、家庭内暴力、校内暴力、性非行、無断外泊、いじめ
を、非行という(会津若松警察書)。子どもは、(自分のしたいこと)と、(現実にしている
こと)の間に遊離感を覚えたとき、無意識のうちにも、その距離を、縮めようとする。子
どもの耐性にもよるが、それが一定の限界(個人差は当然ある)を超えたとき、子どもの
自己の同一性は、危機に立たされる。


●夢・希望・目的

夢・希望・目的は、子どもを伸ばす、三種の神器。これら夢・希望・目的は、(自分のした
いこと)と、(現実にしていること)が一致しているとき、あるいは、そこに一体感がある
とき、そこから生まれる。「ぼくはサッカー選手になる」「私はケーキ屋さんになる」と。
そしてサッカーの練習をしたり、ケーキを自分で焼いてみたりする。「プロの選手になる」
とか、「パン屋さんになる」とかいう目的は、そこから生まれる。


●子どもの忍耐力

同一性が危機に立たされると、子どもは、それを修復しようとする。(自分のしたいこと)
を、別のものに置きかえたり、(現実にしていること)を、修正しようとしたりする。ある
いは「したくないが、がんばってやってみよう」と考えたりする。ここで登場するのが、
忍耐力ということになる。子どもにとって、忍耐力とは、(いやなことをする力)をいう。
この忍耐力は、幼児期までに、ほぼ完成される。


●同一性の崩壊

同一性を支えきれなくなると、そこで同一性の崩壊が始まる。子ども自身、自分が何をし
たいか、わからなくなってしまう。また何をしてよいのか、わからなくなってしまう。「私
は何だ」「私はだれだ」と。「私はどこへ行けばよいのか」「何をすればよいのか」と。それ
は「混乱」というような、なまやさしいものではない。まさに「自己の崩壊」とも言うべ
きもの。当然、子どもは、目的を見失う。


●顔のない自分

同一性が崩壊すると、いわゆる(顔のない自分)になる。で、このとき、子どもは、大き
く分けて、二つの道へと進む。(1)自分の顔をつくるため、攻撃的かつ暴力的になる(攻
撃型)。(2)顔のない自分のまま、引きこもったり、カラに閉じこもったりする(逃避型)。
ほかに、同情型、依存型、服従型をとる子どももいる。顔のない自分は、最悪のケースで
は、そのまま自己否定(=自殺)へとつながってしまう。


●校内暴力

暴力的な子どもに向かって、「そんなことをすれば、君がみなに嫌われるだけだよ」と諭(さ
と)しても、意味はない。その子どもは、みなに嫌われ、怖れられることで、(自分の顔)
をつくろうとする。(顔のない自分)よりは、(顔のある自分)を選ぶ。だからみなが、恐
れれば、怖れるほど、その子どもにとっては、居心地のよい世界となる。攻撃型の子ども
の心理的のメカニズムは、こうして説明される。


●子どもの自殺

おとなは、生きるのがいやになって、その結果として、自殺を選ぶ。しかし子どものばあ
いは、(顔のない自分)に耐えきれず、自殺を選ぶ。自殺することによって、(自分の顔)
を主張する。近年ふえているリストカットも、同じように説明できる。リストカットする
ことで、自分を主張し、他人からの注目(同情、あわれみなど)を得ようとする。「贖罪(し
ょくざい)のために、リストカットする」と説く学者もいる(稲富正治氏ほか)。


●自虐的攻撃性

攻撃型といっても、2つのタイプがある。外に向って攻撃的になる(校内暴力)と、内に
向って攻撃的になる(ガリ勉、猛練習)タイプ。「勉強しかしない」「勉強しかできない」「朝
から寝るまで勉強」というタイプは、後者ということになる。決して、勉強を楽しんでい
るのではない。「勉強」という場で、(自分の顔)をつくろうとしていると考えるとわかり
やすい。近年、有名になったスポーツ選手の中には、このタイプの人は少なくない。


●自我の同一性
 
(子どもがしたがっている)ことに、静かに耳を傾ける。そしてそれができるように、子
どもの環境を整えていく。そうすることで、子どもは、(自分のしたいこと)と、(自分が
していること)を一致させることができる。これを「自我の同一性」という。この両者が
一致している子どもは、夢や希望もあり、当然、目的もあるから、見た目にも、落ちつい
ていて、どっしりとしている。抵抗力もあるから、誘惑にも強い。


●心の抵抗力

「私は〜〜をしたい」「ぼくは〜〜する」と、目的と方向性をしっかりともっている子ども
は、心の抵抗力も強い。外部からの誘惑があっても、それをはねのける。小学校の高学年
から中学校にかけては、その誘惑が、激増する。そうした誘惑をはね返していく。が、同
一性が崩壊している子どもは、生きザマが、せつな的、享楽的になるため、悪からの誘い
があると、スーッとその世界に入ってしまう。


●夢や希望を育てる

たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき重要なことは、親は、
それに答えて、「そうね、花屋さんはすてきね」「明日、球根を買ってきて、育ててみまし
ょうか」「お花の図鑑を買ってきましょうか」と、子どもの夢や希望を、育ててやること。
が、たいていの親は、この段階で、子どもの夢や希望を、つぶしてしまう。そしてこう言
う。「花屋さんも、いいけど、ちゃんと漢字も覚えてね」と。


●子どもを伸ばす三種の神器

子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。
中学生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と
思って、一日を終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学
会」、全国の小学生3226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸
ばすのは、親の義務と、心得る。


●役割混乱

子どもは、成長するにつれて、心の充実をはかる。これを内面化というが、そのとき同時
に、「自分らしさ」を形成していく。「花屋さんになりたい」と言った子どもは、いつの間
にか、自分の周囲に、それらしさを作っていく。これを「役割形成」という。子どもを伸
ばすコツは、その役割形成を、じょうずに育てていく。それを破壊すると、子どもは、「役
割混乱」を起こし、精神的にも、情緒的にも、たいへん不安定になり、混乱する。


●思考プロセス(回路)

しかし重要なのは、「思考プロセス」。幼いときは、「花屋さんになりたい」と思ってがんば
っていた子どもが、年齢とともに、今度は、「看護婦さんになりたい」と言うかもしれない。
しかし幼いときに、花屋さんになりたいと思ってがんばっていた道筋、あるいは思考プロ
セスは、そのまま残る。その道筋に、花屋さんにかわって、今度は、看護婦が、そこへ入
る。中身はかわるかもしれないが、今度は、子どもは、看護婦さんになるために、がんば
り始める。


●進学校と受験勉強

たいへんよく誤解されるが、「いい高校」「いい大学」へ入ることは、一昔前までは、目的
になりえたが、今は、そういう時代ではない。学歴の権威を支える、権威主義社会そのも
のが崩壊してしまった。親は、旧態依然の考え方で、「いい大学へ入ることが目的」と考え
やすいが、子どもにとっては、それは、ここでいう目的ではない。「受験が近いから、(好
きな)サッカーをやめて、受験塾へ行きなさい」と子どもを追うことで、親は子どもの夢
をつぶす。「つぶしている」という意識すらないまま……。


●これからはプロの時代

これからはプロが生き残る時代。オールマイティなジェネラリストより、一芸にひいでた
プロのほうが、尊重される。大手のT自動車の面接試験でも、学歴不問。そのかわり、「君
は何ができるか?」と聞かれる時代になってきている。大切なことは、子どもが、生き生
きと、自分の人生を歩んでいくこと。そのためにも、子どもの一芸を大切にする。「これだ
けは、だれにも負けない」というものを、子どもの中につくる。それが将来、子どもを伸
ばす。


●大学生の問題

現在、ほとんどの高校生は、入れる大学の入れる学部という視点で、大学や学部を選んで
いる。もともと、勉強する目的すらもっていない。そのため、入学すると同時に、無気力
になってしまったり、遊びに夢中になってしまう大学生が多い。燃え尽きてしまったり、
荷おろし症候群といって、いわゆる心が宙ぶらりんになってしまう子どもも多い。当然、
誘惑にも弱くなる。


●自我の同一性と役割形成

子どもをまっすぐ伸ばすためには、(子どもがしたがっていること)を、(現在しているこ
と)に一致させていく。そしてそれを励まし、伸ばす。親の価値観だけで、「それはつまら
ない仕事」「そんなことは意味がない」などと、言ってはいけない。繰りかえすが、子ども
が、「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「それはすてきね」と言ってあげる。
こういう育児姿勢が、子どもを、まっすぐ伸ばす基礎をつくる。

(はやし浩司 子どもを伸ばす 子供を伸ばす 自我の同一性 役割形成 思考プロセス
 子供の非行 子どもの非行 はやし浩司 子供を非行から守る 非行のメカニズム)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司※

【復古主義】

●加齢とともに……

++++++++++++++++++

歳を取ればとるほど、過去がどんどんと
自分に近づいてくる。
向うの方から、近づいてくる。
若いときには遠い昔に思えた、あの江戸時代ですら、
すぐそこに感ずるようになる。
ほんの一昔前のように、である。
これはおもしろい現象と考えてよい。
が、それには、ちゃんとした理由がある。

++++++++++++++++++

●たったの2倍!

 たとえば江戸時代という時代を見てみよう。
あの江戸時代は、大政奉還によって、終わる。
1867年11月9日のことである。

 その江戸時代というと、若い人たちは、遠い昔のことのように思うかもしれない。
1867年……ねえ?、と。
「そんな時代は遠い昔の話で、とっくに終わった」と。
実は、私も、若いころは、そう考えていた。

 そこで、こんな計算をしてみる。
現在は2009年だから、1867年というと、142年前ということになる。
その142年という年数だが、つぎのように計算できる。

20歳の人……142÷20=約7
40歳の人……142÷40=約3・6
60歳の人……142÷60=約2・4
80歳の人……142÷80=約1・8、と。

つまり142年という年数を、それぞれの年代の人の年齢で割ってみた。
そうすることによって、江戸時代という時代が、自分の年齢の、何倍、昔のこと
かがわかる。

この計算によれば、現在20歳の人には、江戸時代というと、自分の人生の7倍も
遠い昔の過去ということになる。
しかし60歳の私には、たったの2倍と少し。
さらの現在80歳の人には、さらにたったの1・8倍!
2倍としても、自分の人生の2倍程度の昔ということになる。
(たったの2倍というところに注意してほしい。)

 そこで自分の人生を振り返ってみる。
私は現在満61歳だが、この61年間を振り返ってみると、いろいろあった。
あったが、その61年間は、あっという間に過ぎた。
その61年間をさらに振り返りながら、江戸時代といっても、私の人生の
たった2倍の昔のことでしかないことを知る。
つまり子どものころは、遠い昔に覚えたあの江戸時代が、加齢ともに、どんどんと
現在の自分に近づいてくる。
向うの方から、近づいてくる。

●そこにも、ここにも、江戸時代

 60年生きたからといって、人生観が、それほど変わるわけではない。
何か特別の努力をした人は別として、そうでなければそうでない。
たいていの人は、満18歳前後までに自分の常識を完成させる(アインシュタイン)。
それがそのまま、その人の常識となって、一生を支配する。

 いや、そうであるなら、まだよいほう。
さらにたいていの人は、加齢とともに、ますます愚かになっていく(失礼!)。
脳みその底に穴があいたようになり、そこから知恵や知識が、外にこぼれ出ていく。
つまり私が言いたいのは、60年と言っても、それほど大きな変化は期待できない
ということ。
そしてそういう(私)が無数に集まって、大きな流れとなる。
その流れ、とくにその民族がもつ意識というのは、それほど変化しない。
変化しないまま、つぎの世代へとバトンタッチされていく。

 で、それが2倍の120年になったからといって、それほど変化するものでは
ない。
あの時代はあの時代のまま。
あそこやここに、私の子ども時代が残っているように、江戸時代も、あそこや
ここに、そのまま残っている。
それが実感として、わかるようになる。

現に私の祖父は明治生まれの人だったが、今から思うと、江戸時代そのものを、
背負っていたように思う。
身分意識、家父長意識、男尊女卑思想、上下意識などなど。

 その祖父は私が25、6歳のときに他界したが、当然のことながら、私はその
祖父の影響を大きく受けた。
受けたまま、現在に至っている。

 ずいぶんと回りくどい書き方をしたが、私の年齢になると、あの江戸時代ですら、
まるで昨日のように、そこに見えてくるようになる。
少なくとも若い人たちが感じているように、「遠い昔」ではない。

●封建主義を清算しよう!

 そこで大切なこと。
それが封建主義の清算ということになる。

忘れてならないのは、悲しいかな私たちは、あの時代をまだ一度も清算していない。
フランス革命のように、民衆がそれに向って、立ち上がったという歴史すらない。
「明治維新」とは言うものの、英語では、「明治王政復古」と翻訳されている。
つまり徳川家から天皇家へと、(頭)がすえ替えられただけ。

清算していないばかりか、むしろあの時代を不必要に美化し、それが日本の原点
であるかのように考えている。
NHKの大河ドラマをその例にあげるまでもない。

が、事実はどうであったのか?
武士はそのまま警官となり、それまでの身分制度は、学歴制度となった。
それが今でも、形こそ、ゆるやかにはなったが、延々とつづいている。

 いいのか、日本、このままで!、とは何度も書いてきたが、さらに悲しいことに、
たいはんの人たちは、加齢とともに、ますます復古主義的なものの考え方に傾いていく。
本来なら、若い人たちの先頭に立ち、古きものを打ち壊し、新しきものを示して
いかねばならない。
その人生の先輩たちが、その逆のことをしている。

たとえば、武士道。
どうして今の、この日本で、武士道なのか?
自分たちの祖先の大半(93〜4%)は、農民や町民だった。
武士に虐げられた民衆たちだった。
そういった事実も忘れて、その子孫が、武士道なるものを説いて、どうする?
どうなる?
刀をもった人間が、いかに恐ろしい存在であったかは、一連の殺傷事件を見れば
わかるはず。

中には「武士道こそ、日本が世界に誇るべき、精神的バックボーンである」と
説く人もいる。
しかし(負の遺産)に目をくれることもなく、一方的に武士道を礼賛することは、
危険なことでもある。
それがわからなければ、福沢諭吉らが参加した、明六社のした運動を、今一度、
振り返ってみたらよい。
江戸時代直後の先人たちが、江戸時代をどう見つめていたかが、それでわかるはず。
それとも、142年もたつと、そういった事実も風化してしまうのか。

 少し頭が熱くなったが、私たちは、人生の先輩者として、若い人たちの前に立たねば
ならない。
前に立って、変えるべきものは、変えていかねばならない。
「退職しました。これからは、思う存分、人生を楽しみます」では、人生の先輩として、
あまりにも、さみしいではないか。

……という提案だけをして、この話はここで終わりたい。

+++++++++++++++++++++

昨年(08)の6月に書いた原稿を添付します。

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●福沢諭吉

……欧米には、こうした権威主義そのものが存在しない。
親子でも、兄弟姉妹でも、名前で呼びあっている。
またそのほうが、人間関係が、スムーズにいく。

反対に権威主義の親ほど、子どもたちから孤立することも
わかっている。
夫婦関係も、おかしくなる。
今どき、「男だから……」「親だから……」「夫だから……」と、
安易な『ダカラ論』を振りかざしているのは、世界広しと
いえども、この日本くらいなもの。

まず日本人の私たちが、それに気づくべき。

Kさんがいう「血」についても、同じ。
それについては、福沢諭吉が、100年前に、こんなことを
書いている。

国際留学協会(IFSA)のHPには、つぎのような一文が
掲載されている。

 『……さらに諭吉を驚かせたことは、家柄の問題であった。

諭吉はある時、アメリカ人に「ワシントンの子孫は今どうしているか」と質問した。そ
れに対するアメリカ人の反応は、実に冷淡なもので、なぜそんな質問をするのかという
態度であった。誰もワシントンの子孫の行方などに関心を持っていなかったからである。

ワシントンといえば、アメリカ初の大統領である。日本で言えば、鎌倉幕府を開いた源
頼朝や、徳川幕府を開いた徳川家康に匹敵する存在に思えたのである。その子孫に誰も
関心を持っていないアメリカの社会制度に諭吉は驚きを隠せなかった。

高貴な家柄に生まれたということが、そのまま高い地位を保障することにはならないの
だ。諭吉は新鮮な感動を覚え、興奮した。この体験が、後に「天は人の上に人を造らず、
人の下に人を造らずと言えり」という、『学問のすすめ』の冒頭のかの有名な言葉を生み
出すことになる』(国際留学協会(IFSA))と。

 それについて書いたのが、つぎの原稿である。

++++++++++++++++++++++

●論語(Why now is Rongo?)

++++++++++++++++

今度、小学校でも、論語の朗読を
するようになったという。

しかし、今、なぜ、論語なのか?

++++++++++++++++

 論語……もともとは、孔子の現行を、弟子や孫弟子たちがまとめたもの。日本には、応
神天皇の時代に、百済の王仁という人物によって伝えられたとされる(ウィキペディア百
科事典)。

 その論語、日本では、律令時代においては、官吏必読の書となった。わかりやすく言え
ば、官僚たちの教科書だった。

 その論語を、今度、小学校でも、朗読するようになったという。しかし、なぜ、今、論
語なのか? 研究家がその範囲で読み、研究し、意見を述べるのなら、それはそれで構わ
ない。またそれまでは、私も否定しない。

 が、どうしてお役人たちの発想は、いつも、こうまでうしろ向きなのか? 私には、ど
うしても、それが理解できない。もし読むべき本があるとするなら、世界の自由と平和の
ために戦った人たちが書いた本である。人間の平等を求めて戦った人たちが書いた本であ
る。

 たとえばアメリカのトーマス・ジェーファーソが書いた独立宣言(1776)でもよい。
それには抵抗感を覚えるというのなら、フランスの人権宣言(1789)でもよい。

 フランスの人権宣言を、ここでおさらいしてみよう(資料、近畿大学・大学院)。

+++++++++++++++++

1条
人は、法律上、生まれながらにして、自由かつ平等である。 社会的差別は、公共の利益に
基づくのでなければ、存在することはできない。

2条
すべての政治的組織の目的は、人間の生まれながらの、かつ取り消し得ない権利の保
全である。 それらの権利は、自由、所有権、安全、及び、圧政に対する抵抗である。

3条
あらゆる主権の原則は、本質的に国民に存する。いかなる集団、いかなる個人も、明
示的に発せられていない権限を行使することはできない。

4条
自由は、他人を害することのないもの全てを、なし得ることに存する。たとえば、各
人の自然権の行使は、それが社会の他の構成員に、これらと同じ権利の享有を確保す
ること以外の限界を持たない。これらの限界は、法律によって定めることができるに
過ぎない。

(以下、つづく)

+++++++++++++++++

 アメリカの独立宣言(前文)でも、「すべての人間は平等に造られている」と説き、不可
侵、不可譲の自然権として、「生命、自由、幸福の追求」の権利をあげている。

 この独立宣言が、明治時代になって、福沢諭吉らに大きな影響を与えたことは言うまで
もない。ついでながら、福沢諭吉が翻訳した、独立宣言を、ここにあげておく。

『天ノ人ヲ生スルハ、億兆皆同一轍ニテ之ニ附與スルニ動カス可カラサルノ通義ヲ以テ
ス。即チ通義トハ人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ他ヨリ如何トモ
ス可ラサルモノナリ。人間ニ政府ヲ立ル所以ハ、此通義ヲ固クスルタメノ趣旨ニテ、政
府タランモノハ其臣民ニ満足ヲ得セシメ初テ眞ニ権威アルト云フヘシ。政府ノ処置此趣
旨ニ戻ルトキハ、則チ之ヲ変革シ、或ハ倒シテ更ニ此大趣旨ニ基キ人ノ安全幸福ヲ保ツ
ヘキ新政府ヲ立ルモ亦人民ノ通義ナリ。是レ余輩ノ弁論ヲ俟タスシテ明了ナルヘシ』(『西
洋事情』初編 巻之二より)』(ウィキペディア百科事典より抜粋)

 この独立宣言から、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(「学問のすすめ」)
という言葉が、生まれた。

 で、結論から先に言えば、今、日本は、再び、儒教文明国家に戻るのか、それとも、ア
メリカ型ではあるにせよ、西欧文明国家に向かってまい進するのか、その瀬戸際に立たさ
れている。

 どちらを選ぶかは、これからつづく若い人たちが決めればよいことかもしれないが、し
かしその(流れ)を決めるのは、あくまでも、若い人たち。その(流れ)を、国が勝手に
つくることは、許されない。

 しかし、どうして今、論語なのか?

【付記】

 日本は自由な国である。平和な国である。しかしこと「平等」ということになると、そ
れを自信をもっていえる人は少ない。

 天皇制という制度がある以上、この日本では、「人は、みな、平等です」とは、言いにく
い。どこか口ごもってしまう。

 が、福沢諭吉は、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(「学問のすすめ」)
と書いた。しかし当時の常識からすれば、これはたいへんな文章と言ってよい。そのまま
読めば、天皇制の否定とも解釈できる。

 そこでときの知識人たちは、天皇制を否定することもできず、またその一方で、福沢諭
吉のような大人物を否定することもできず、大ジレンマに陥ってしまった。

 「人の上の人とは、だれのことか」と。

 で、この文章について、さまざまな解釈が加えられた。

 「人とは、人種のことである」という解釈や、「天皇は人ではないから、問題はない」と
いう解釈など。あるいは「福沢諭吉は、組織の中の上下を言ったものだ」という解釈など
が生まれた。詳しく知りたい人は、インターネットの検索機能を使って、「福沢諭吉 天は
人の」で検索してみればよい。

 しかし福沢諭吉は、天皇も含めて、日本の身分制度について、大いなる疑問を感じてい
た。

 その「天は人の上に……」が、生まれた背景として、国際留学協会(IFSA)は、つ
ぎのような事実を指摘している。そのまま抜粋させてもらう。

 『……さらに諭吉を驚かせたことは、家柄の問題であった。

諭吉はある時、アメリカ人に「ワシントンの子孫は今どうしているか」と質問した。そ
れに対するアメリカ人の反応は、実に冷淡なもので、なぜそんな質問をするのかという
態度であった。誰もワシントンの子孫の行方などに関心を持っていなかったからである。

ワシントンといえば、アメリカ初の大統領である。日本で言えば、鎌倉幕府を開いた源
頼朝や、徳川幕府を開いた徳川家康に匹敵する存在に思えたのである。その子孫に誰も
関心を持っていないアメリカの社会制度に諭吉は驚きを隠せなかった。

高貴な家柄に生まれたということが、そのまま高い地位を保障することにはならない
のだ。諭吉は新鮮な感動を覚え、興奮した。この体験が、後に「天は人の上に人を造
らず、人の下に人を造らずと言えり」という、『学問のすすめ』の冒頭のかの有名な言
葉を生み出すことになる』と。

++++++++++++++++++

もう一作、武士道について。

++++++++++++++++++

●明治の偉勲たち(Great People in Meiji Era)

 明治時代に、森有礼(もり・ありのり)という人がいた。1847〜1889年の人で
ある。教育家でもあり、のちに文部大臣としても、活躍した。

 その森有礼は、西洋的な自由主義者としても知られ、伊藤博文に、「日本産西洋人」と評
されたこともあるという(PHP「哲学」)。それはともかくも、その森有礼が結成したの
が、「明六社」。その明六社には、当時の若い学者たちが、たくさん集まった。

 そうした学者たちの中で、とくに活躍したのが、あの福沢諭吉である。

 明六社の若い学者たちは、「封建的な身分制度と、それを理論的に支えた儒教思想を否定
し、不合理な権威、因習などから人々を解放しよう」(同書)と、啓蒙運動を始めた。こう
した運動が、日本の民主化の基礎となったことは、言うまでもない。

 で、もう一度、明六社の、啓蒙運動の中身を見てみよう。明六社は、

(1)封建的な身分制度の否定
(2)その身分制度を理論的に支えた儒教思想の否定
(3)不合理な権威、因習などからの人々の解放、を訴えた。 

 しかしそれからちょうど100年。私の生まれた年は、1947年。森有礼が生まれた
年から、ちょうど、100年目にあたる。(こんなことは、どうでもよいが……。)この日
本は、本当に変わったのかという問題が残る。反対に、江戸時代の封建制度を、美化する
人たちまで現われた。中には、「武士道こそ、日本が誇るべき、精神的基盤」と唱える学者
までいる。

 こうした人たちは、自分たちの祖先が、その武士たちに虐(しいた)げられた農民であ
ったことを忘れ、あたかも自分たちが、武士であったかのような理論を展開するから、お
かしい。

 武士たちが、刀を振りまわし、為政者として君臨した時代が、どういう時代であったか。
そんなことは、ほんの少しだけ、想像力を働かせば、だれにも、わかること。それを、反
省することもなく、一方的に、武士道を礼さんするのも、どうかと思う。少なくとも、あ
の江戸時代という時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時
代であったことを忘れてはならない。

 その封建時代の(負の遺産)を、福沢諭吉たちは、清算しようとした。それがその明六
社の啓蒙運動の中に、集約されている。

 で、現実には、武士道はともかくも、いまだにこの日本は、封建時代の負の遺産を、ひ
きずっている。その亡霊は、私の生活の中のあちこちに、残っている。巣をつくって、潜
んでいる。たとえば、いまだに家父長制度、家制度、長子相続制度、身分意識にこだわっ
ている人となると、ゴマンといる。

 はたから見れば、実におかしな制度であり、意識なのだが、本人たちには、それが精神
的バックボーンになっていることすら、ある。

 しかしなぜ、こうした制度なり意識が、いまだに残っているのか?

 理由は簡単である。

 そのつど、世代から世代へと、制度や意識を受け渡す人たちが、それなりに、努力をし
なかったからである。何も考えることなく、過去の世代の遺物を、そのままつぎの世代へ
と、手渡してしまった。つまりは、こうした意識は、あくまでも個人的なもの。その個人
が変わらないかぎり、こうした制度なり意識は、そのままつぎの世代へと、受け渡されて
しまう。

 いくら一部の人たちが、声だかに、啓蒙運動をしても、それに耳を傾けなければ、その
個人にとっては、意味がない。加えて、過去を踏襲するということは、そもそも考える習
慣のない人には、居心地のよい世界でもある。そういう安易な生きザマが、こうした亡霊
を、生き残らせてしまった。

 100年たった今、私たちは、一庶民でありながら、森有礼らの啓蒙運動をこうして、
間近で知ることができる。まさに情報革命のおかげである。であるなら、なおさら、ここ
で、こうした封建時代の負の遺産の清算を進めなければならない。

 日本全体の問題として、というよりは、私たち個人々々の問題として、である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 権威主義 福沢諭吉 天は
天の上に 明六社 明治の偉勲 ワシントン)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●1秒は、1秒なのか?(One second for mice is equivalent to 100 seconds for men)

++++++++++++++++++++

今日の夕刊(4月30日、中日新聞)に、
こんな興味ある記事が、載っていた。

『人とマウス、行動似てる』というタイトルの
ものだった。

『(人とマウスに関して)、活動時間
や休息時間について、長いものや短いものが、
どんな頻度で現れるかを分析すると、
パターンはまったく同じで、人の動きを100倍
の速さで早回しすれば、マウスと同じになることが
わかった』と。

大阪バイオサイエンス研究所(大阪府吹田市)と
東京大学の研究チームによる、研究結果である。

記事には、『生物の行動の背後に、種を超えた基本法則
が存在する可能性を示すもの』(同)ともあった。

+++++++++++++++++++++

●庭のスズメ

たとえば庭に遊ぶスズメたちを見てみよう。
小枝から小枝へと、小刻みなリズムで、飛び回っている。

少し前、私は、それを見ながら、こんなことを考えた。

「もし人間が、同じ行動をしようとしたら、
スズメの何倍の時間がかかるだろうか?」と。

スズメたちは、数秒単位で、枝から枝へと、
ピョンピョンと飛び回る。

で、同じような枝を、パイプが何かでつくり、
人間に同じ行動をさせたら、どうだろう?

オリンピックに出るような体操選手ですら、
その10倍の時間は、かかるかもしれない。

またつぎにこんなことを考えたこともある。

一匹の蚊を頭の中で、想像してみてほしい。
その蚊が、人間の足の高さから、頭の高さまで
あがるのに、何秒くらいかかるか、と。

正確に計測したことはないのでわからないが、
ブーンと飛べば、3〜4秒もかからないのでは
ないか?

そこで蚊の体長を、5ミリとして計算すると、人間の
170センチの身長は、蚊の体長の340倍の高さという
ことになる。

そこで身長が1・7メートルの人間の高さに換算すると、
1・7メートルx340=578で、約580メートル
の高さということになる。

つまり蚊は、人間にしてみれば約580メートルの
山を、3〜4秒で登ったり、おりたりすることが
できるということになる。

3〜4秒である。

が、これで驚いてはいけない。

●ハエは、音速の3倍以上!

ときどき家の中を、体長1センチ前後の、大きな
ハエが飛び回ることがある。
私たちが「クソバエ」と呼んでいる、黒いハエである。

あのハエは、7〜8メートル四方の部屋を、
ビュンビュンと飛び回る。

そのハエについても、正確に計測したことがないので
わからないが、やはりブ〜ンと飛べば、7〜8メートルの
部屋を横切るのに、1秒もかからないのではないか。

そこでこれらの数字をもとにして、ハエの速度を計算してみると、
秒速7メートルとして、同じように170倍すると、
秒速1190メートルということになる。
さらにこの数字を、60x60=3600倍すると、
時速になる。
その時速は、何と、4284万000メートル。
キロメートルになおすると、4284キロメートル。

つまりあのハエは、人間の大きさで考えると、
時速4000キロ以上のスピードで、部屋の中を飛び回って
いることになる!

時速4000キロだぞ!

この数字を疑う人は、一度、自分で計算してみるとよい。
つまり音速の約3倍!

こうして考えてみると、スズメにせよ、蚊にせよ、
はたまたあのハエにせよ、私たちとはちがった(時間)を
もっているのがわかる。

前にも書いたが、もしハエが今のまま進化し、
時計を作ったとしたら、秒針のほかに、1秒で1周する
もう一本の針を考えるかもしれない。

つまりスズメにせよ、蚊にせよ、はたまたハエにせよ、
私たち人間がいうところの「1秒」を、10秒とか、
100秒で生きていることになる。

●マウスは、人間の100倍!

・・・というようなことを、今回、大阪バイオサイエンス
研究所というところが、はからずも証明した?

もう一度、新聞記事を読みなおしてみよう。
そこには、こうある。

『(人とマウスに関して)、活動時間
や休息時間について、長いものや短いものが、
どんな頻度で現れるかを分析すると、
パターンはまったく同じで、人の動きを100倍
の速さで早回しすれば、マウスと同じになることが
わかった』と。

もう少し専門的に言えば、「体内のリズムをつくる
時計遺伝子の働きは、マウスのばあい、人間の
それより100倍も速い」ということになる。

だから単純に、「マウスは人間の100倍の
速さで生きている」というふうに考えることは
できないとしても、「少なくともマウスは、
人間とはちがった時間の尺度をもっている」ということだけは
確かである。

同じ1秒を、人間は、それを1秒として生きている。
が、マウスにしてみれば、100秒にして生きている
かもしれない。

だからたとえば、マウスの寿命を仮に1年としても、
それを「短い」と思ってはいけない。
マウス自身が感ずる1年は、ひょっとしたら人間の
100年分に相当するかもしれない。

●幼児の世界でも

実は、私は、このことは幼児を指導している
ときにも、よく感ずる。

私の教室では、常にテンポの速いレッスンに心がけて
いる。
そうでもしないと、子どものほうが、飽きてしまう。
レッスンに乗ってこない。
で、そういうとき、私はよくこう思う。

幼児のもつ体内時計は、おとなのもつ体内時計より、
数倍は速い、と。
わかりやすく言えば、幼児にとっての1分は、
おとなに3〜4分に相当する。
おとなが3〜4分ですることを、幼児は、1分でする、と
言いかえてもよい。

「アウ〜、それでエ〜、エ〜ト・・・」などというような、
どこか間の抜けたようなレッスンをしていたら、
それだけで教室はザワついてしまう。
収拾がつかなくなってしまう。

反対に、老人ホームにいる老人たちを見てみると、
このことがさらによくわかる。

そこにいる老人たちは、1日中、何かをするでもなし、
しないでもなしといった状態で、その日、その日を
過ごしている。
そこにいる老人たちは、明らかに私たちとは、ちがった
体内時計をもっている。

ひょっとしたら、1日を、私たちがいう、1時間、
あるいはそれよりも短く感じながら生きている
かもしれない。

長い前置きになってしまったが、結論を急ぐと、こういう
ことになる。

私たちが感じている1秒、1分、1時間は、
けっして絶対的なものではないということ。
過ごし方によっては、1秒を1時間にして生きることもできる。
反対に、1日を、1分のようにして過ごしてしまう
かもしれない。

つまり(時の長さ)というのは、時計的にはみな、同じでも、
過ごし方によっては、何倍もにして生きることもできる。
反対に、数分の1にして生きることもあるということ。

もっと言えば(時の長さ)には、絶対的な尺度はないということ。
要は、その人の過ごし方、ということになる。

それにしても、『人の動きを100倍の速さで早回しすれば、
マウスと同じになることがわかった』とは!

100倍だぞ!

この「100倍」という数字を読んだとき、私は
改めて、(時間とは何か)、さらには、(生きるとは何か)、
それを考えさせられた。

余計なことかもしれないが、日々を、野球中継だけを見ながら過ごすのも
人生かもしれない。が、それでは、あまりにももったいない。
日々を、パチンコだけをしながら過ごすのも、
人生かもしれない。が、それでは、あまりにももったいない。
あるいは日々を、魚釣りだけをしながら過ごすのも、
これまた人生かもしれない。が、それではあまりにももったいない。

・・・というのが、このエッセーの結論ということになる。

●脳みそのクロック数

ついでに……。

宇宙には、私たちがいう「1秒」の間に、人間の世界でいう数100年、
あるいは数1000年分の人生を生きる生物がいるかもしれない。

あるいは反対に、私たちがいう「1万年」が、寿命という生物も
いるかもしれない。

そういう生物(?)は、指を1本、動かすのに、20年とか、
30年もかかる。
岩石のようなものでできた生物を想像してみればよい。

・・・という話は、どこか荒唐無稽な感じがしないでもない。
しかしこんなことは言える。

脳みそにも、コンピュータでいうところの「クロック数」の
ようなものがあるのではないか、ということ。

たとえばワイフは、8年前に買ったパソコンを使っている。
私は、昨年(07年)に買ったパソコンを使っている。
ワープロとして使っている間は、それほどの(差)を
感じない。
が、画像を表示したり、ゲームをしたりするときには、
はっきりとした(差)となって、ちがいが出てくる。

情報を処理するための基本的な速度、つまりクロック数そのものが
ちがう。

俗な言い方をすれば、(頭の回転の速さ)ということになる。
子どもにしても、頭の回転の速い子どもは、速い。
そうでない子どもは、そうでない。
反応も鈍い。

仮に脳みそのクロック数が、2倍ちがうとすると、クロック数が
2倍速い子どもは、そうでない子どもの、2倍長く時間を使う
ことができるということになる。
全体に、クロック数が速いから、当然、計算するのも速い。
文章を書くのも、速い。
思考する力も、速い。

だからクロック数が2倍速い子どもにとっては、同じ「1秒」でも、
そうでない子どもの、「2秒分」の時間に相当する。
同じ「1年」でも、「2年分」の時間に相当する。

ただし誤解しないでほしいのは、クロック数が速いからといって、
時間を有効に使っているということにはならないということ。

(時間を長く使う)ということと、(時間を有効に使う)という
ことは、まったく別のことである。
そのことは、冒頭に書いたスズメの話を思い出してもらえば、わかる。
庭に遊ぶスズメたちは、目まぐるしく、活動している。
しかし、それだけのこと。
わかりやすく言えば、(中身のない人生)を、忙しそうに
繰りかえしているだけ。

恩師の田丸謙二先生は、いつも口癖のように、こう言っている。
「せっかく、いい頭をお持ちなのですから・・・」と。
私に対して、そう言っているのではない。
東大という大学に入ってくる学生たちに、いつもそう言っている。

先生がいう、「・・・なのですから・・・」というのは、
「もっと自分の頭で考えなさい」という意味だが、
先生の言葉をもう少し、自分なりに解釈すると、こうなる。
「せっかく速いクロック数の頭をもっているのだから、
脳みそを有効に使いなさい」と。

●最後に・・・

脳梗塞のようなダメージを受けないかぎり、実際には、
脳みそのクロック数などというものは、みな、それほどちがわない。
ちがっても、2倍とか3倍とかいうものではなく、
1・1倍とか、1・2倍とかいう範囲の、わずかなものかもしれない。

しかもそのクロック数というのは、訓練によって、速くすることができる。
このことも、子どもの世界を見れば、よくわかる。
言いかえると、同じ人生でも、それを長くして生きるか、
それとも、短くして生きるかは、その人、個人の問題ということ。

そのためにも、頭は使って使って、使いまくる。
そうでなくても、脳みそのクロック数は、加齢とともに、落ちてくる。
老人ホームにいる老人たちにしても、ある日、突然、ああなったのではない。
ある時期から、徐々に、そして少しずつ、長い時間をかけて、
ああなった。

今の私やあなたがそうかもしれない。
クロック数というのは、そういうもの。
全体に脳みその機能が低下していくため、その人自身が、それに気づくと
いうことは、まずない。
知らぬ間に、クロック数は低下し、また低下しながらも、低下したこともわからない。

だから歳をとったら、なおさら、頭は使う。
使って使って、使いまくる。

それがとりもなおさず、私たちの人生を、より長くすることになる。

(付記)

実は、昨日(4月30日)、私は携帯電話を、W社の携帯端末機から、
E社携帯端末機に変更した。
この世界では、「スマートフォン」と呼ぶ。

携帯電話にパソコン機能がついた機種である。

で、そのとき、言いようのない不安感が私を襲った。
「私に使いこなせるだろうか」という不安感である。

この3〜4年の間に、スマートフォンの世界も、格段に進化した。
今度のは、無線LAN、BLUETOOTH、さらにGPS付き!
どこか分厚い説明書を手にしたとき、多量のアドレナリンが、
脳内で分泌されるのを感じた。

が、そのとき、こうも思った。

「同じ人間が作ったもの。私にできないはずはない」と。

それから家に帰って、悪戦苦闘すること、1、2時間。
が、そのうちEメールの送受信まで、何とかできるようになった。

で、そのとき、こんなことに気づいた。
精神状態が、きわめて不安定になっていた。
これは、おそらくそれまで使ったことのない脳みそを使ったために起きた
現象ではないか。
脳みその神経細胞から、新しいシナプスが伸びるときに起きる現象とも
考えられる。

子どもでも、まったく新しい分野の問題を与えたとき、
同じような反応を示す子どもがいる。

問題を解くとき、イライラした様子をして見せる。
中にはピリピリして、一触即発のような状態になる子どももいる。

私も、同じような状態になった。
と、同時に、こうも思った。
「こういうのも、ボケ防止にはよいのでは」と。

E社のスマートフォンは、この3月に新発売になったばかりのもの。
少し高い出費になったが、ボケ防止のためと思えば、安い(?)。
そう思って、自分を納得させた。
プラス、楽しかった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
 Hayashi 林浩司 BW BW教 幼児のクロック数 子どものクロック数)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

【K国の核実験について】
North Korea wants Japan Money. Everything starts from this. Now they are preparing 
launching Nodon (middle-range missiles) as well as an ICBM. The best policy for the 
Japanese is just to igonore them, to keep our peace in Japan.

●後継者問題?

+++++++++++++++++

ミサイル発射実験、それにつづく核実験。
さらにこの数日、K国では、新たなるミサイル発射実験の
動きすら見られるという(09年6月3日)。

注目すべきは、ICBM(大陸間弾道弾)の発射準備に
並行して、ノドン(日本を標的にした中距離ミサイル)の
発射準備もしているという点。

これが何を意味するか?
マスコミ各紙、プラス、評論家たちは、「後継者問題」を、
その理由にあげる。

しかし、それはおかしい……?

+++++++++++++++++

●標的は日本!

一見複雑怪奇に見えるK国の動きも、目的を知れば、すべて道筋を立てて説明がつく。
その目的というのは、ズバリ、お金(マネー)。
K国は、マネーをほしがっている。
しかし6か国協議を通して得るような、「ハシタ金」ではない。
K国の高官自身が、そう言っている。
K国がほしがっているのは、ズバリ、JAPANマネーである。

金大中の時代だったか、ノムヒョンの時代だったか、K国は中国を介して、
日本に対して、戦後補償金(=賠償金)の打診をしてきている。
その額、驚くくなかれ、100兆円!
つまりK国の最終目標は、そこにある。
繰り返す。
100兆円である。
日本の人口の6分の1以下であることを考えるなら、とほうもない額と言ってよい。

●K国の戦略

 その日本からJAPANマネーを得るためには、どうすればよいか。
「得る」というより、「搾(しぼ)り取る」。

日本が提示している、1兆円とか、2兆円など、彼らにしてみれば、ハシタ金。
そんな金額では、国を立て直すことはできない。
彼らが求めているのは、100兆円。
あるいはそれ以上。
1000兆円という説もある。
(日本の国家税収は、40兆円前後。)

 そのためには、日本を脅す必要がある。
「金をよこせ。さもなくば戦争!」と。

が、その日本には、アメリカという後ろ盾がある。
K国にしてみれば、まさに「目の上のタンコブ」。
K国としては、日本とアメリカを何とかして、切り離す必要がある。
つまり日本とアメリカが、軍事同盟関係にある間は、K国は、日本に手を出すことが
できない。

●米朝友好条約

 ときどきK国は、意味不明の言葉を口にする。
「体制存続の保証をしろ」と。
つまり金xx体制を保証しろ、と。

 そんな言葉を聞くと、「だれも体制を脅(おびや)かすようなことはしない」と思う。
「どうしてそんなありもしないことを口にするのだろう」と思う。
「それはK国の、被害妄想」と

が、実は、この言葉の裏には、重大な意味が隠されている。
K国はアメリカに対して、こう言っているのである。

「もしK国がどこかの国と戦争をすることになっても、アメリカは手を出さないでくれ」
「K国の金xx体制が崩壊するようなことは、しないでくれ」と。

 ここでいう「どこかの国」というのは、韓国ではない。
ズバリ、この日本である。
ものごとは常識で考えたらよい。
K国が韓国に戦争をしかけても、得るものは何もない。
が、日本はちがう。
そればかりか、仮に戦争になっても、日本は憲法第九条に制約されて、K国に、
手を出すことができない。
K国は、それをよく知っている。

●何とか、アメリカを……!

 そこでK国としては、何としてもアメリカを、抑えこむ必要がある。
「押さえ込む」でもよい。
その第一の目標が、米朝友好条約。
それさえ結べばよい。

 この条約が結ばれ、発効すれば、たがいに、たがいが攻撃されなければ、軍事的攻撃
をすることができない。
たとえば日本とK国が戦争状態になったとしても、K国がアメリカ本土を攻撃しない
かぎり、アメリカは、K国を攻撃できない。

 もちろん最初から、K国には、アメリカを攻撃する意図など、みじんもない。
アメリカを相手にして、戦争に勝てるわけがない。
そんなことは、K国の末端の兵士ですら、よく知っている。

 だからK国としては、何としても、米朝友好条約、つまり米朝軍事条約を結びたい。
が、それは同時に、日本としては、ぜったいに容認できない条約である。
もしそんな条約が米朝間で結ばれたら、その時点で、日米安保条約は死文化する。
日本は、K国の核の脅威に怯えながら、K国の意のままに操られるようになる。

●崩壊寸前のK国

 K国の内部情報が、つぎつぎと伝わってきている。
その中でもとくに注目すべきことは、今年(09年)、K国は過去最悪の食糧危機に
見舞われているという点である。
今年、数百万人の餓死者が出るのではと予想されている(アムネスティ)。
ガタガタというより、メチャメチャ。

 そんな中、K国としては、何としても、JAPANマネーがほしい。
喉から手が出るほど、ほしい。
またそれだけの金額を請求できるのは、この日本をおいて、ほかにない。
だから何としても、米朝会談を開く必要がある。

 K国が、狂ったように、アメリカに対して米朝交渉を求めてくる理由は、ここにある。
「まずアメリカを抑える」。
「それができたら、つぎに日本!」と。

 が、肝心のアメリカが動かない。
そこでミサイル発射実験、核実験……となる。
「アメリカよ出て来い」
「オレたちと話し合いをしろ!」と。

●K国は、核を手放さない

 K国は、巨大なカルト国家と考えればよい。
金xxを教祖に据えた、カルト国家である。
で、その本尊が、「核兵器」。
力の象徴。

 少しでもカルト教団のことを知っている人なら、私がここでいう「本尊」がどういう
ものであるか、その意味がわかるはず。
本尊あっての、カルト。
だから彼らは手放すつもりなど、毛頭ない。
そんなことは、10年も前から、わかりきっていたこと。
金xxにしても、核兵器があるからこそ、金xxなのである。

 そこへあのおバカ外交官のC・ヒルが、……つまりアジアの「ア」の字も知らない
外交官が、乗り出してきた。
「交渉で解決してみせる」と。
が、結果としてC・ヒルがK国に与えたものといえば、マネー(BDA)、原油、音楽、
それに時間。
今になって、「アメリカはK国にだまされた」(韓国紙)と言っているが、そんなことは、
最初からわかっていたこと。

 この中で、とくに痛いのが、時間。
C・ヒルが無駄にがんばった5年間のうちに、K国は、核兵器を完成させてしまった!

●日本があぶない!

 今回とくに注意しなければならないのは、ICBMの発射準備よりも、中距離
ミサイルの、ノドンである。
ICBM(テポドン)のほうは、アメリカを標的にしたもの。
しかしノドンは、日本を標的にしたもの。
その数、320基とも、800基とも言われている。

 では、なぜこの時期に、K国は、ICBMとノドンの両方の発射準備に
同時にとりかかっているか?
それには前回(09年4月5日)の、テポドン発射実験の失敗がからんでいる。
テポドン発射実験の失敗のことではない。
K国は、当時、こう言っていた。

「日本が(人工衛星?を)迎撃すれば、即、日本を攻撃する」と。

 が、そのとき実は、ノドンの発射準備ができていなかった。
「即、攻撃する」と言いながら、その態勢が整っていなかった。
それが「失敗」であった。

 では、次回はどうか?
今度は、ICBMである。
アメリカは黙っていないだろう。
国務長官ですら、「迎撃する」と、明言している。
となると、K国としては、即、報復攻撃ということになる。
もちろんそのターゲットは、日本。
東京。
そのために、ノドンの発射を、同時に準備しておく必要がある。

●自滅か戦争か

 K国は現在、自滅寸前にまで、追い込まれている。
どうしようもない状態と考えてよい。
国家予算など、あってないようなもの。

 そんなとき一連のミサイル発射実験。
先のテポドン(4月5日)以後のミサイルにかけた総額だけで、2年分の食糧が
まかなえたという(韓国紙)。
つまりそれだけのお金をかけて、花火をあげた。

 目的はもちろん、アメリカを交渉のテーブルに引き出すこと。
が、これが裏目に出てしまった。
K国は、核実験をすれば、アメリカは、在韓米軍のことを心配して、交渉のテーブルに
出てくるものと読んでいた。
が、これは誤算だった。
かえってアメリカの態度を硬化させてしまった。
あろうことか、ロシアも中国も、それに同調する様子を見せ始めた。

 ……ということで、K国は今、自滅か、さもなければ戦争かという、ギリギリの
選択を迫られている。
その心理状態は、まさに(焼けのヤンパチ)。

 そこでK国がとりうるシナリオは、こうだ。

(1)ICBMの発射実験を強行する。
(2)アメリカ(在日米軍)に迎撃させる。
(3)それを口実に、日本に向けてノドンを、20〜40発、発射する(韓国某
軍事評論家)。

 そんなことをK国がすれば、米朝戦争になってしまうと考えるかもしれない。
だからこそ、「一か八か」ということになる。

●では、日本はどうすればよいのか

 今度こそ、ノドンが日本に向けて発射されることを覚悟する。
が、何度も書くように、日本は、あんな国を本気で相手にしてはいけない。
すでに敵地攻撃論などが、国会内部で議論されているが、攻撃する価値もない。

 それよりも忘れてならないのは、日本は丸裸以上の丸裸ということ。
隣の韓国では、小学生にまでガスマスクを供給し、その付け方を訓練している。
防空壕(シャルター)は、いたるところに設置されている。
いざとなれば、高速道路が飛行場として使えるよう、道路そのものが設計されている。

 が、この日本は、どうか?
「日本を守る」と勇ましいことを言う前に、やるべきことは、山のようにある。
それもしないで、「敵地攻撃」はない。

 一方、もし東京の中心部に、たった一発でもノドンが撃ち込まれたら、その瞬間から、
日本の経済は奈落の底に叩き落とされる。
今の今ですら、薄い紙の上を歩いているような状態である。
株価は大暴落、債権も大暴落、ついでに円も大暴落……。

 だからここは冷静に。
ただひたすら冷静に。
すでに「今度こそ、迎撃」などと、勇ましいことを口にしている政治家もいる。
が、迎撃など、ぜったいにしてはいけない。

 無視、ただひたすら、無視。
そしてそのあと、今、国際社会がしているように、国連の場を通して、K国を締めあげる。
自滅に誘導する。

 戦争というのは、始めるのは簡単。
しかしやめるのが、難しい。
すでにこの日本には、最低でも100人、あるいは1000人以上という説もあるが、
K国の工作員が侵入しているという。
そういう工作員が、何をしでかすかわかったものではない。
仮に北陸地方にある原子力発電所が一基破壊されただけでも、中部地方には、人は
だれも住めなくなる。

 こういう状況をつくりあげてしまった政府にも責任はある。
しかし本当の責任は、平和ボケしてしまい、危機意識と想像力を忘れてしまった
私たちにある。

 あのナチスドイツがポーランドに侵攻したとき、だれだったかは忘れたが、
時のイギリスの政府高官は、こう言って嘆いた。
「私たちに欠けていたのは、想像力だった」と。
その(想像力)を、私たち日本人は、忘れてしまった。

●後継者問題ではない!

 マスコミ各紙および評論家たちは、「背後で後継者問題がからんでいる」と、
判で押したように、同じ言葉を繰り返している。
しかし後継者問題くらいのことで、核実験はしない。
ICBMの発射実験はしない。
「後継者のための箔づけ」と、もっともらしい理由を並べているが、私にはどうして
みな、こうまでトンチンカンなのか、その理由がわからない。

 繰り返すが、K国の最終目標は、ズバリ、JAPANマネーである。
そこからものを考え始めれば、K国の一連の動きが、すべて説明できる。

(2009年6月3日朝記)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司※

【子どもの人格】



●幼児性の残った子ども



++++++++++++++++



人格の核形成が遅れ、その年齢に

ふさわしい人格の発達が見られない。



全体として、しぐさ、動作が、

幼稚ぽい。子どもぽい。



そういう子どもは、少なくない。



++++++++++++++++



 「幼稚」という言い方には、語弊がある。たとえば幼稚園児イコール、幼稚ぽいということでは
ない。幼稚園児でも、人格の完成度が高く、はっと驚くような子どもは、いくらでもいる。



 が、その一方で、そうでない子どもも、少なくない。こうした(差)は、小学1、2年生ごろになる
と、はっきりとしてくる。その年齢のほかの子どもに比べて、人格の核形成が遅れ、乳幼児期
の幼児性をそのまま持続してしまう。特徴としては、つぎのようなものがある。



(1)独特の幼児ぽい動作や言動。

(2)無責任で無秩序な行動や言動。

(3)しまりのない生活態度。

(4)自己管理能力の欠落。

(5)現実検証能力の欠落。



 わかりやすく言えば、(すべきこと)と、(してはいけないこと)の判断が、そのつど、できない。
自分の行動を律することができず、状況に応じて、安易に周囲に迎合してしまう。



 原因の多くは、家庭での親の育児姿勢にあると考えてよい。でき愛と過干渉、過保護と過関
心など。そのときどきにおいて変化する、一貫性のない親の育児姿勢が、子どもの人格の核
形成を遅らせる。



 「人格の核形成」という言葉は、私が使い始めた言葉である。「この子は、こういう子ども」とい
う(つかみどころ)を「核」と呼んでいる。人格の核形成の進んでいる子どもは、YES・NOがは
っきりしている。そうでない子どもは、優柔不断。そのときどきの雰囲気に流されて、周囲に迎
合しやすくなる。



 そこであなたの子どもは、どうか?



【人格の完成度の高い子ども】



○同年齢の子どもにくらべて、年上に見える。

○自己管理能力にすぐれ、自分の行動を正しく律することができる。

○YES・NOをはっきりと言い、それに従って行動できる。

○ハキハキとしていて、いつも目的をもって行動できる。



【人格の完成度の低い子ども】



○同年齢の子どもにくらべて、幼児性が強く残っている。

○自己管理能力が弱く、その場の雰囲気に流されて行動しやすい。

○優柔不断で、何を考えているかわからないところがある。

○グズグズすることが多く、ダラダラと時間を過ごすことが多い。



 では、どうするか?



 子どもの人格の核形成をうながすためには、つぎの3つの方法がある。



(1)まず子どもを、子どもではなく、1人の人間として、その人格を認める。

(2)親の育児姿勢に一貫性をもたせる。

(3)『自らに由(よ)らせる』という意味での、子育て自由論を大切にする。



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今までに書いた原稿の中から

いくつかを選んで、ここに

添付します。



内容が少し脱線する部分があるかも

しれませんが、お許し下さい。



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(1)【子どもの人格を認める】



●ストーカーする母親



 一人娘が、ある家に嫁いだ。夫は長男だった。そこでその娘は、夫の両親と同居することに
なった。ここまではよくある話。が、その結婚に最初から最後まで、猛反対していたのが、娘の
実母だった。「ゆくゆくは養子でももらって……」「孫といっしょに散歩でも……」と考えていた
が、そのもくろみは、もろくも崩れた。



 が、結婚、2年目のこと。娘と夫の両親との折り合いが悪くなった。すったもんだの家庭騒動
の結果、娘夫婦と、夫の両親は別居した。まあ、こういうケースもよくある話で、珍しくない。し
かしここからが違った。なおこの話は、「本当にあった話」とわざわざ断りたいほど、本当にあっ
た話である。



 娘夫婦は、同じ市内の別のアパートに引っ越したが、その夜から、娘の実母(実母!)による
復讐が始まった。実母は毎晩夜な夜な娘に電話をかけ、「そら、見ろ!」「バチが当たった!」
「親を裏切ったからこうなった!」「私の人生をどうしてくれる。お前に捧げた人生を返せ!」と。
それが最近では、さらにエスカレートして、「お前のような親不孝者は、はやく死んでしまえ!」
「私が死んだら、お前の子どもの中に入って、お前を一生、のろってやる!」「親を不幸にした
ものは、地獄へ落ちる。覚悟しておけ!」と。それだけではない。



どこでどう監視しているのかわからないが、娘の行動をちくいち知っていて、「夫婦だけで、レス
トランで、お食事? 結構なご身分ですね」「スーパーで、特売品をあさっているあんたを見る
と、親としてなさけなくてね」「今日、あんたが着ていたセーターね、あれ、私が買ってあげたも
のよ。わかっているの!」と。



 娘は何度も電話をするのをやめるように懇願したが、そのたびに母親は、「親に向かって、
何てこと言うの!」「親が、娘に電話をして、何が悪い!」と。そして少しでも体の調子が悪くな
ると、今度は、それまでとはうって変わったような弱々しい声で、「今朝、起きると、フラフラする
わ。こういうとき娘のあんたが近くにいたら、病院へ連れていってもらえるのに」「もう、長いこと
会ってないわね。私もこういう年だからね、いつ死んでもおかしくないわよ」「明日あたり、私の
通夜になるかしらねえ。あなたも覚悟しておいてね」と。



●自分勝手な愛



 親が子どもにもつ愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛。ここでいう
代償的愛というのは、自分の心のすき間を埋めるための、自分勝手でわがままな愛をいう。た
いていは親自身に、精神的な欠陥や情緒的な未熟性があって、それを補うために、子どもを
利用する。子どもが親の欲望を満足させるための道具になることが多い。そのため、子ども
を、一人の人格をもった人間というより、モノとみる傾向が強くなる。いろいろな例がある。



 Aさん(60歳・母親)は、会う人ごとに、「息子なんて育てるものじゃ、ないですねえ。息子は、
横浜の嫁にとられてしまいました」と言っていた。息子が結婚して横浜に住んでいることを、Aさ
んは、「取られた」というのだ。



 Bさん(45歳・母親)の長男(現在18歳)は、高校へ入学すると同時に、プツンしてしまった。
断続的に不登校を繰り返したあと、やがて家に引きこもるようになった。原因ははげしい受験
勉強だった。しかしBさんには、その自覚はなかった。つづいて二男にも、受験期を迎えたが、
同じようにはげしい受験勉強を強いた。「お兄ちゃんがダメになったから、あんたはがんばるの
よ」と。ところがその二男も、同じようにプツン。今は兄弟二人は、夫の実家に身を寄せ、そこ
から、ときどき学校に通っている。



 Cさん(65歳・母親)は、息子がアメリカにある会社の支店へ赴任している間に、息子から預
かっていた土地を、勝手に転売してしまった。帰国後息子(40歳)が抗議すると、Cさんはこう
言ったという。「親が、先祖を守るために息子の金を使って、何が悪い!」と。Cさんは、息子
を、金づるくらいにしか考えていなかったようだ。その息子氏はこう話した。



「何かあるたびに、私のところへきては、10〜30万円単位のお金をもって帰りました。私の長
男が生まれたときも、その私から、母は当時のお金で、30万円近く、もって帰ったほどです。
いつも『かわりに貯金しておいてやるから』が口ぐせでしたが、今にいたるまで、1円も返してく
れません」と。



 Dさん(60歳・女性)の長男は、ハキがなく、おとなしい人だった。それもあって、Dさんは、長
男の結婚には、ことごとく反対し、縁談という縁談を、すべて破談にしてしまった。Dさんはいつ
も、こう言っていた。「へんな嫁に入られると、財産を食いつぶされる」と。たいした財産があっ
たわけではない。昔からの住居と、借家が二軒あっただけである。



 ……などなど。こういう親は、いまどき、珍しくも何ともない。よく「親だから……」「子だから…
…」という、『ダカラ論』で、親子の問題を考える人がいる。しかしこういうダカラ論は、ものの本
質を見誤らせるだけではなく、かえって問題をかかえた人たちを苦しめることになる。「実家の
親を前にすると、息がつまる」「盆暮れに実家へ帰らねばならないと思うだけで、気が重くなる」
などと訴える男性や女性はいくらでもいる。



さらに舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)との折り合いが悪く、家庭騒動を繰り返している家庭となる
と、今では、そうでない家庭をさがすほうが、むずかしい。中には、「殺してやる!」「お前らの前
で、オレは死んでやる!」と、包丁やナタを振り回している舅すら、いる。



 そうそう息子が二人ともプツンしてしまったBさんは、私にも、ある日こう言った。「夫は学歴が
なくて苦労しています。息子たちにはそういう苦労をさせたくないので、何とかいい大学へ入っ
てもらいたいです」と。



●子どもの依存性



 人はひとりでは生きていかれない存在なのか。「私はひとりで生きている」と豪語する人です
ら、何かに依存して生きている。金、モノ、財産、名誉、地位、家柄など。退職した人だと、過去
の肩書きに依存している人もいる。あるいは宗教や思想に依存する人もいる。何に依存する
かはその人の勝手だが、こうした依存性は、相互的なもの。そのことは、子どもの依存性をみ
ているとわかる。



 依存心の強い子どもがいる。依存性が強く、自立した行動ができない。印象に残っている子
どもに、D君(年長児)という子どもがいた。帰りのしたくの時間になっても、机の前でただ立っ
ているだけ。「机の上のものを片づけようね」と声をかけても、「片づける」という意味そのもの
がわからない……、といった様子。そこであれこれジェスチャで、しまうように指示したのだが、
そのうち、メソメソと泣き出してしまった。多分、家では、そうすれば、家族のみながD君を助け
てくれるのだろう。



 一方、教える側からすれば、そういう涙にだまされてはいけない。涙といっても、心の汗。そう
いうときは、ただひたすら冷静に片づけるのを待つしかない。いや、内心では、D君がうまく片
づけられたら、みなでほめてやろうと思っていた。が、運の悪いことに(?)、その日にかぎっ
て、母親がD君を迎えにきていた。そしてD君の泣き声を聞きつけると、教室へ飛び込んでき
て、こう言った。ていねいだが、すごみのある声だった。「どうしてうちの子を泣かすのです
か!」と。



 そういう子どもというより、その子どもを包む環境を観察してみると、おもしろいことに気づく。
D君の依存性を問題にしても、親自身には、その認識がまるでないということ。そういうD君で
も、親は、「ふつうだ」と思っている。さらに私があれこれ問題にすると、「うちの子は、生まれつ
きそうです」とか、「うちではふつうです」とか言ったりする。そこでさらに観察してみると、親自身
が依存性に甘いというか、そういう生き方が、親自身の生き方の基本になっていることがわか
る。そこで私は気がついた。子どもの依存性は、相互的なものだ、と。こういうことだ。



 親自身が、依存性の強い生き方をしている。つまり自分自身が依存性が強いから、子どもの
依存性に気づかない。あるいはどうしても子どもの依存性に甘くなる。そしてそういう相互作用
が、子どもの依存性を強くする。言いかえると、子どもの依存性だけを問題にしても、意味がな
い。子どもの依存性に気づいたら、それはそのまま親自身の問題と考えてよい。



……と書くと、「私はそうでない」と言う人が、必ずといってよいほど、出てくる。それはそうで、こ
うした依存性は、ある時期、つまり青年期から壮年期には、その人の心の奥にもぐる。外から
は見えないし、また本人も、日々の生活に追われて気づかないでいることが多い。しかしやが
て老齢期にさしかかると、また現れてくる。先にあげた親たちに共通するのは、結局は、「自立
できない親」ということになる。



●子どもに依存する親たち



 日本型の子育ての特徴を、一口で言えば、「子どもが依存心をもつことに、親たちが無頓着
すぎる」ということ。昔、あるアメリカの教育家がそう言っていた。つまりこの日本では、親にベタ
ベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とする。一方、独立心が旺盛で、親を
親とも思わない子どもを、「鬼っ子」として嫌う。私が生まれ育った岐阜県の地方には、まだそう
いう風習が強く残っていた。今も残っている。



親の権威や権力は絶対で、親孝行が今でも、最高の美徳とされている。たがいにベタベタの親
子関係をつくりながら、親は親で、子どものことを、「親思いの孝行息子」と評価し、子どもは子
どもで、それが子どもの義務と思い込んでいる。こういう世界で、だれかが親の悪口を言おうも
のなら、その子どもは猛烈に反発する。相手が兄弟でもそれを許さない。「親の悪口を言う人
は許さない!」と。



 今風に言えば、子どもを溺愛する親、マザーコンプレックス(マザコン)タイプの子どもの関係
ということになる。このタイプの子どもは、自分のマザコン性を正当化するために、親を必要以
上に美化するので、それがわかる。



 こうした依存性のルーツは、深い。長くつづいた封建制度、あるいは日本民族そのものがも
つ習性(?)とからんでいる。私はこのことを、ある日、ワイフとロープウェイに乗っていて発見し
た。



●ロープウェイの中で



 春のうららかな日だった。私とワイフは、近くの遊園地へ行って、そこでロープウェイに乗っ
た。中央に座席があり、そこへ座ると、ちょうど反対側に、60歳くらいの女性と、五歳くらいの
男の子が座った。おばあちゃんと孫の関係だった。その2人が、私たちとは背中合わせに、会
話を始めた。(決して盗み聞きしたわけではない。会話がいやおうなしに聞こえてきたのだ。)
その女性は、男の子にこう言っていた。



 「オバアちゃんと、イッチョ(一緒)、楽しいね。楽しいね。お山の上に言ったら、オイチイモノ
(おいしいもの)を食べようね。お小づかいもあげるからね。オバアちゃんの言うこと聞いてくれ
たら、ホチイ(ほしい)ものを何でも買ってあげるからね」と。

 

 一見ほほえましい会話に聞こえる。日本人なら、だれしもそう思うだろう。が、私はその会話
を聞きながら、「何か、おかしい」と思った。60歳くらいの女性は、孫をかわいがっているように
見えるが、その実、孫の人格をまるで認めていない。まるで子どもあつかいというか、もっと言
えば、ペットあつかい! その女性は、5歳の子どもに、よい思いをさせるのが、祖母としての
努めと考えているようなフシがあった。そしてそうすることで、祖母と孫の絆(きずな)も太くなる
と、錯覚しているようなフシがあった。



 しかしこれは誤解。まったくの誤解。たとえばこの日本では、誕生日にせよ、クリスマスにせ
よ、より高価なプレゼントであればあるほど、親の愛の証(あかし)であると考えている人は多
い。また高価であればあるほど、子どもの心をつかんだはずと考えている人は多い。しかし安
易にそうすればするほど、子どもの心はあなたから離れる。仮に一時的に子どもの心をつか
むことはできても、あくまでも一時的。理由は簡単だ。



●釣竿を買ってあげるより、一緒に釣りに行け



 人間の欲望には際限がない。仮に一時的であるにせよ、欲望をモノやお金で満足させた子
どもは、つぎのときには、さらに高価なものをあなたに求めるようになる。そのときつぎつぎとあ
なたがより高価なものを買い与えることができれば、それはそれで結構なことだが、それがい
つか途絶えたとき、子どもはその時点で自分の欲求不満を爆発させる。そしてそれまでにつく
りあげた絆(本当は絆でも何でもない)を、一挙に崩壊させる。「バイクぐらい、買ってよこせ!」
「どうして私だけ、夏休みにオーストラリアへ行ってはダメなの!」と。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●友だちから、孤立する子ども(中1)

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仙台市にお住まいの、KUさん(母親)から、
長男についての相談が届いています。
「学校で、友だちもできず、いつも独り」とか。

++++++++++++++++++

【KUさんより、はやし浩司へ】

はじめまして。突然の相談ですみません。

息子のことで夫婦ともに悩んでいます。アドバイスお願いします。

今年4月から中学になり2か月が経ちましたが、友達もできず、教室ではいつも独りの
ようなんです。

息子は、「今のクラスは嫌、友だちになりたい子がいない」と言います。

私は、無理に友だちを作らなくても自然にできるよ。と考えています。でも、主人は、
嫌でも自分から積極的に話しかけて友だちを作れと考えています。

小学生のころは友だちもいましたが、その友だちが新しい友だちを連れてくると、
急におとなしくなり、黙り込んでしまったりします。

家族で外出した際に学校の友だちを見つけると隠れることもあり、そんな息子を見てつ
い叱ってしまったこともあります。

中学の今でも登校する時、偶然同じ学年の子と会っても挨拶すこともなく、避けるよう
に行ってしまいます。

先生に聞くと、学校では積極的に自分から動くことはなく、授業中もうつむいている
ことが多い、ということです。

そのせいか、先生からも注意されたり、やる気がないようなことを言われたみたいです。

自分に自信がないことがすべてなのかもしれない、自然に友だちができるということでも
ない。もっと自信をつけてあげなければ、と思っていました。

でも、これまで私は息子に口うるさく言いすぎたのかもしれません。

歯磨きしなさい・宿題しなさい・学校の用意をしなさい・早く起きなさい・塾の宿題
は?・・・・

(娘にはあまり言った記憶がない。お兄ちゃんが注意されるのを見て、自分もしなけ
れば・・・と思い、していたからかもしれません。)

息子は周りを気にするあまり、自分が見えていない。主人と話すときも自信がなさそ
うな小さな声でボソボソ話したり、黙り込んでしまいます。
主人がイライラして叱ることもあります。
私から見ると、人の話をちゃんと聞いて、自分の考えを人に伝えることが苦手なように
思えます。

アトピーも中学に入ってひどくなり、授業中も頭をかいたり、目をこすったりしてい
るようなので、薬を飲んで塗りなさいと言うのですが、私たちが言うまで塗りません。

下の娘は明るくともだとも多い方です。娘はお兄ちゃんのこと好きですが、周りの友
だちから「おとなしいお兄ちゃんやな」と、よく言われると言っています。

今、一番息子にとって楽しいのは部活の卓球です。

部活だけは毎日頑張って練習したり、家でも練習したりしています。

このままだと、集団生活ができず、高校・社会人になったときに必ず苦労するから、
いま私たちが夫婦で決めたことは、

私は息子にガミガミ言わず、学校のことは聞かない・言わない。
主人が息子と話すようにし、叱ったり、褒めたり、勉強を見たりしています。

今朝、息子は宿題・時間割をしないで、ダラダラしていたので主人に叱られていました。

いろいろと書きましたが、息子が自分から何でも興味を持って毎日楽しく、学校も友
達も部活も笑顔でできるには何をしてあげたらいいのでしょうか。

【はやし浩司よりKUさんへ】

●K君の問題点

 息子さんの名前を、K君(中1)とします。
そのK君は、今、心の中で、こう叫んでいます。
「ぼくは、どうすればいいのだ!」「どこへ行けばいいのだ!」、とです。
親の過関心と過干渉で、K君の「私」(=自我)は、こなごなにされてしまっている(?)。

 ……いきなりきびしいことを書きましたが、症状としては、回避性障害、対人恐怖症、
あるいは軽い抑うつ状態が考えられます。
アトピーがひどくなったということですから、神経症も疑われます。
ほかにもあれこれ症状が出ているはずですが……。
しかし病名など、どうでもよいのです。

 まずK君の今の状態を、あなたがすなおに受け入れてあげてください。
だれにでも、得意、不得意があります。
「Kにも、不得意なことがあるのだ」と、です。

 またメールを読む範囲では、KUさんの夫は、かなり権威主義的なものの考え方を
しているような印象をもちます。
「男だから……」「長男だから……」「中学生にもなったのだから……」とです。
しかし遠因をさぐれば、KUさんとKUさんの父親の関係、さらにはKUさんの夫と、
母親の関係の不全が疑われます。
それと1、2歳しか離れていない妹さんも、この問題には、からんでいます。
もっとも濃密な愛情を必要とするときに、妹さんが生まれてしまった。
その結果、K君は、愛情飢餓、愛情不足、欲求不満の状態に追い込まれてしまった(?)。
赤ちゃん返りを起こす暇もなく、「お兄ちゃんだから……」と、親の身勝手な
『ダカラ論』をぶつけられてしまったことも考えられます。
K君のさみしさ、悲しさは、そのあたりから出発しています。

 またここにも書いたように、KUさん自身が、KUさんの両親との関係がうまく
いっていなかったことも疑ってみてください。
とくに父親との関係です。
だから男児であるK君の育児に、いつも戸惑いを感じていたし、K君の立場で言うなら、
基本的信頼関係の構築に失敗したというわけです。
時期的には、0歳から2歳前後までです。

 だからK君は、心を開いて、友人の輪の中に飛び込んでいくことができない。
それも実のところ、あなた自身が、心を開くことができなかったからです。
こういうのを世代連鎖といいます。
(妹さんとの人間関係はほどほどにうまくいっているようですが……。)

 K君にしてみれば、つらい毎日です。
さみしいし、孤独だが、しかし人の間に入っていくと疲れる……。
それについて、親が、見るとはなしに見ながら、神経質にあれこれ言う。
干渉する。
「嫌でも自分から積極的に話しかけて友だちを作れ」とは!?
(ゾーッ! 実に乱暴な言葉ですね。暴言と言ってもよいでしょう。)

 発達心理学的には、思春期に入り、自我の同一性をめざす時期に来ています。
(やりたいこと)と、(現実にしていること)を一致させる時期です。
が、K君は、それができないでいる。
役割混乱から、自我の不一致が起きている(?)。
K君にしてみれば、たいへん苦しいことです。
このことをしっかりと、理解してあげてください。

●では、どうすればよいか

 「卓球が好き」ということですね。
だったら、ここは、思う存分、卓球をさせます。
応援します。
励まします。
時間と金(マネー)を、そこへ集中させます。
(ただしやりすぎないように!)

 このタイプの子どもは、人間関係がうまく結べない分だけ、しかし(顔のない
自分)にも耐えられず、(1)攻撃型、(2)同情型、(3)服従型、(4)依存型
のうちの、どれかのパターンをとります。
今のK君には、卓球をすることが、その(顔)ということになります。
卓球を利用して、攻撃型に転ずれば、しめたものです。
(仮にK君から卓球を奪ったら、たいへんなことになりますから、くれぐれも注意して
ください。)

 K君にしてみれば、卓球をしているときだけ、自分を忘れることができる。
また卓球をしているときだけ、自分を主張できる。
で、それをうまく利用すれば、K君は、今の状況(=同一性の危機)から、抜け出る
ことができます。

 このあたりのことは、私は何度も書いてきましたので、(はやし浩司 自我の一致)
(はやし浩司 基本的信頼関係)(はやし浩司 基底不安)(はやし浩司 対人恐怖症)
などを、ヤフーで検索してみてください。
参考にしていただけると思います。

 で、今度は、親子関係です。

(1)『ダカラ論』は意味がありません。

 K君は幼いときから、「あなたはお兄ちゃんだから……」と、耳にタコができるほど、
言われつづけてきたように感じます。
とくに父親からです。
(KUさんの夫の父親を、観察してみてください。
KUさんの夫の父親は、かなりの権威主義者だったように推察されます。
また親が権威主義的であればあるほど、親子関係は断絶しやすくなります。
親が、親風(=悪玉親意識)を吹かせば吹かすほど、子どもは見た目には従順で、
おとなしくなります。
KUさんの夫と、夫の父親の関係は、見た目ほど、うまくいっていなかったと
思うのは、そんな理由によるものです。)

(2)暖かい無視を大切に

 今どき、対人恐怖症など、何でもありません。
まともな人ほど、そうなります。
友だちの数にしても、多ければ多いほどよいというものでもありません。
それともKUさん、あなたには、友だちがいますか?
何でも話したり、相談にのってくれる友だちは、いますか?

 私など、友だちといっても、数えるほどしかいません。
ワイフを含めて、2人とか3人とか、そんなものです。
つまり親の期待を、子どもに求めすぎないこと。
もしそれでも「友だちを!」と考えるなら、あなた自身が交際のワクを広くすれば
よいでしょう。
その輪の中に、子どもを巻き込んでいくのです。

 心というのは、そういうものです。
つまりいくらあなたが親でも、子どもの心の中にまでは、入っていくことはできません。
だからここは、「友だちを作りなさい」ではなく、「お母さんも、集団が苦手よ。あなたも
つらい思いをしているのね」と、K君には話します。

 そういう愛情で子どもを包んであげたあと、無視すべきところは無視します。
あせったところで、逆効果。
この時期、一度、このような症状を示したら、最低でも、今のような状態は、10
年続くと覚悟してください。
対処の仕方をまちがえると、20年どころか、それが引き金となって、引きこもったり、
家庭内暴力へと悪化します。
こうした問題には、必ず2番底、3番底があります。
KUさんは、「今が最悪」と思っているかもしれませんが、まだその下には、2番底、
3番底があるということです。
そのため、コツは、「今の状態を保つこと」です。

(K君は、今、親の前では、静かでおとなしいようですが、その一方で、不平、不満を
心の別室に、「抑圧」という形で、ため込んでいますから、注意してください。
耐えているのでもなければ、それだけ包容力があるからでもありません。
つらいこと、さみしいことを、心の別室に、押し込んでいるだけです。)

で、友だちにしても、1人、2人の友だちを大切に、また家族もそれを応援しながら、
それでよしとします。
それで十分ではないですか?

(3)一芸を伸ばす

 先ほども書きましたが、ここは卓球に望みをつなげてください。
卓球がK君の(命)と思ってください。
今のK君から卓球を奪ったら、それこそ不登校程度ではすまなくなりますよ!
(脅かして、すみません。これもK君のためです。)

 あとは子ども自身がもつ、自然治癒力を信じてください。
やる気についても、最近の大脳生理学では、カテコールアミンというホルモンが
作用していることがわかってきました。
K君の脳の中では、その分泌が何らかの理由で、阻害されているのかもしれません。
慢性的な抑うつ感が、ホルモンの分泌に変調をきたしている……。
だからあとは自然治癒力にゆだねるしかありません。
まだ成長期ですから、時間はそれほどかからないと思います。

 コツは、繰り返しになりますが、「今の状態をこれ以上悪くしないことだけを
考えて、数か月単位で様子をみる」です。

(抑圧がひどいと、いつか爆発する可能性もあります。
母親父親に対して、「こんなオレにしたのは、テメーだろうがア!」とです。)

そんなわけで、「治そう」とか「直そう」などとは、考えないこと。
K君が苦しんでいたら、(まちがいなく苦しんでいますから)、今日、このメールを
読み終えたら、K君にこう言ってあげてください。

 「ごめんね、K。
つらかったのね、K。
苦しかったのね、K。
さみしかったのね、K。

お母さんがあなたの苦しみをわかってあげなくて、ごめんね。
苦しかったのね。
友だちなんかいなくても、気にしてはだめよ。
うるさい友だちなんか、いないほうがいいのよ。
そのかわりにね、お母さんが、あなたの友だちになってあげるからね。
これからもずっと、いっしょに、仲のよい友だちでいましょうね。
ずっと、ずっと、友だちでいましょうね。

本当のところ、お母さんにも友だちがいないのよ。
だからあなたが私の友だちになってね」と。

 あなたが負ければ、この問題は解決します。
負けることの美しさというか、すばらしさを、あなたも実感してみてください。
「私は親だ」という、おかしな親意識は、今すぐ、捨てなさい。
「私は親だ」という気負いも、今すぐ、捨てなさい。
対等の人間として、K君の横に立つのです。
その向こうには、すばらしい親子関係が待っていますよ。
応援します!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW BW教室 友達 子供の友だち 友人問題)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●家庭内暴力

++++++++++++++++++

ますます荒れる子ども(中1)。
そんな子どもをもてあまし、悩んでいる
母親がいる。

掲示板への書き込みから……
(090603)

++++++++++++++++++

【UKさんより、はやし浩司へ】

先生の掲示板を拝読するようになってからもう5年がたちました。いつもなにかに迷ったり辛い
ことがあったときにホームページを開いてきました。そして先生の言葉を心の糧にしてきたこ
と、今までに何度もあります。でも今回だけはどうしても他の方の投稿を読むのではなく自分の
言葉で先生にお話し、先生ならなんとおしゃるのかを聞きたくてメールしました。辛い毎日が続
き誰かに聞いてもらいたい、でも学校にどこまで話していいのかわからない。そんな日が続い
ています。

4月に私立中学に入学した長男のことです。1月に受験も終わり子供の生活が乱れてきたの
はそのころからです。特に春休みはひどいものでした。テレビゲームとカードゲームに明け暮
れ、テレビを見ながらゴロゴロしてばかり。はじめは注意していましたがだんだん反抗がエスカ
レートしてきて、子供の顔色をみて生活をするようになりました。黙ってみていることも結構私に
おは忍耐がいることで、時々やはり口うるさく言ってしまうと、息子はキレて壁に大きな穴を開
けるくらい怒鳴り、ベットの背もたれもパンチで穴を開けました。私が無視をすると2歳違いの
弟に手を出し始めます。私が弟をかばうとまたそれが気に入らないらしくキレて怒鳴りちらしテ
レビやエアコンのリモコンを投げつけます。

息子が穏やかに過ごした日は自分のほしかったカードやゲームを買ってあげた日だけです。
春休み中に「彼方の仕事は勉強だからまずは勉強を決めた時間やってからゲームなりカード
で遊んだらどうか?」と、比較的穏やかのときに話をしたりしましたが、やはりむしゃくしゃする
のか長続きしません。私が無理やりゲームを隠したりしても、結局息子が切れてしまうのが怖く
て出してしまうのが現状です。そばに座って話をしようとしても「うるせぇんだよ、黙ってろ、あっ
ちいけ」と。私のことも興奮しているときは「お前」「あんた」と言います。さすがにショックでした。

先日子供の締めたドアに小指が挟まり爪がはがれました。痛さよりも絶望感が私の中でいっ
ぱいになりました。先生のおっしゃっている「許して忘れる」と言う言葉を何回自分に言い聞か
せたかわかりません。でもズキズキをする指を押さえながら、「あんたなんか死んじゃえばいい
のに」「あなたさえいなかったらこの家は平和なんだ」と、子供に言ってしまいました。あんなに
大切に思ってきた子供に私はこんな言葉を言う親になってしまったのです。大切で大切でだか
らこそ、言いたくないことも言ってきました。でもそれがかえって子供をこんなふうにさせてしま
ったのかと思うと辛いです。自分の思うとおりにいかないとキレてしまう、わがままに育ててしま
ったのは私です。私自身、あの子に少しでも楽しませてやりたい、皆がゲームを持っているの
なら息子にも買ってあげたい。そんなふうにして育てた私が一番悪いことはわかっています。

私立中学に入った以上多少は勉強してくれないと・・・自分で行きたいと望んで入った学校なの
に朝起きれないことから「辞める。あーもう、学校辞めて家でブラブラしているから」と言い出し
ます。やめられたら困ると言う考えが私の中にあり、やっぱり子供の顔色をみています。小学
校のころから朝が弱くなかなか起きないことが悩みの種でした。でも毎朝うるさがられながらも
私が何十分もかけて起こしていました。いつからか私の中でそれがストレスになっていました。
中学に入ったら自分で起きてもらおう。私も仕事があるため、子供に時間を費やしておられず
いっぱいいっぱいになっていることに気がつきました。遅刻させることが怖かった私ももう、い
いや!!、と割り切り一度起こしてだけでやめてみました。案の定遅刻です。子供から「どうし
て起こさなかった!!」と怒りの電話が私の職場にかかってきました。遅刻なら今日は学校行
かない!と結局休んでしまいました。私は自分の感情を抑えるだけで精一杯でした。その日か
らまた時間をかけて起こす日々が始まりました。

もういいかなと思った昨日1度起こして私は職場に向かいました。ところが2度寝をしてしまった
らしく今度は学校から無断欠席の電話です。私は慌てて家に戻りました。居間でテレビを見て
いた息子は学校は行かない!と言い張ります。着信暦を見ると何回も学校から電話が入って
いたようでした。息子は電話にでなかったのです。私がこれから我っこに送っていくと学校に電
話をいれたことでまた息子は怒鳴り始めました。正直に寝坊したと先生に伝えたのがいけなか
ったと言うのです。何で体調が悪いと嘘をいわないんだ!

担任の先生が自分の授業が午後からないので家まで来てくださいましたがとうとう息子はトイ
レに鍵をかけたまま1歩も出てきませんでした。一生懸命呼びかけてくださる先生に対して「明
日は学校にいく」と約束しました。先生が家まで来てくださっているのに申し訳ないと思わない
の?と訊ねると「頼んだわけじゃない!」と言い放ちました。私は悲しくてこんなことを言うような
子供になってしまった息子が情けなくて怒りでいっぱいになり子供に向かってなにか?物を投
げつけました。

もうこうなってしまうと収拾がつかなくて私は家を飛び出ました。でもこのことがあってから担任
の先生に少し家でのことを話すことができました。部活も勝手に休んでいることが多いらしいこ
ともわかりました。二言目には「学校行かない。部活やめる。」でも決してそんなつもりはないの
だと私は感じます。いままで何十回も繰り返しているものの学校には結局行っているんです。

ゲームのこと、朝起きれないこと、今、この場から逃げ出したいと実は本当に思ったりしていま
す。もうどうなってもいいから。次男と一緒に出て行こうかと考えたりしています。
がんばれって自分に言うのですが、夕方になり息子が学校から帰ってくるのが怖いです。朝に
なってカーテンを開けるのが怖いです。

いろいろダラダラととり止めなく書いてすみません。でも先生にメールを送れるようになっただ
けでもここ数日で一番心にゆとりのある日です。先生、私に力を貸してください。がんばれっ
て。

++++++++++++++++++++++

UNKNOWN様へ

お子さんの心理状態は、「抑圧」という言葉を使って説明できます。

幼いころから、(弟が生まれたときから)、「いい兄」を演じながら、欲求不満を別の心の中に押
し込めてきたと考えてください。それが今、思春期で爆発しているのです。つまり今、見せてい
るあなたの子供の姿は、本来の姿ではなく、抑圧され、ゆがんだ姿なのです。ユングは、「シャ
ドウ」という言葉を使ってそれを説明しています。

依存したいという甘え、しかし依存しきれない歯がゆさ、その両者の間で、葛藤している。幼年
期は(いい子)で、思う存分、自己主張できなかった。言いたいことも言えなかった。いつも(が
まん)を強いられた。プラス、弟への憎しみすら、押し殺さねばならなかった。そういう思いが、
抑圧され、別の心にたまってしまったのです。

またこの時期は、(おとな)と(子ども)の間で、ときには「おとなっぽくなり、子ども扱いをされる
と怒り」、反対に「幼児ぽくなり、そういう自分に嫌悪感を覚える」を繰り返します。つまりその両
者を行ったり来たりします。私はこれを(揺り戻し現象)と呼んでいます。

また同一性の確立に失敗し、自分でも何をしたらよいのか、どうしたらよいのか、わからないで
います。楽しくてゲームをしているのではありませんよ。ほかに自分をどうしようもないから、ゲ
ームをしているのです。一番苦しんでいるのは、つまり母親に悲しい思いをさせて苦しんでいる
のは、息子さん自身です。が、それすらも、素直に表現することができない。ではどうするか?

(1)お母さん自身が学歴信仰から抜け出ます。「学校なんか、くそくらえ」(尾崎豊)くらいに思う
ことです。(2)「あなたも苦しんでいるのね」と、子供の苦しみを分かち合います。(3)温かい無
視を大切に。(4)子供のほうから求めてきたときが、求めどきと考えて行動します。

あなたが心のどこかで「学校とは行かねばならないところ」という意識をもっているかぎり、その
意識は子どもに伝わり、子どもはその意識と現実の間で、もがき苦しみます。掲示板を見るか
ぎり、あなたはたいへん強い(学校教)の信者のように感じます。反対に言うと、どうしてそこま
で(学校)にこだわるのですか? 今はかなり時代も変わり、このあたりでも、約60%の中学3
年生は、「勉強でがんばるより、部活でがんばって……」とか、「勉強で苦労したくないから、進
学校には入りたくない……」と考えています。

また言えば、あなた自身が子離れできずにいます。子どもの方はとっくの昔に親離れしていま
すが、それにすら気づいていないように感じます。あなた自身の親意識も強く、中学生のゲー
ムを「隠す」というのも、やりすぎです。つまり一方的に親意識をふりかざし、思うようにならない
と、混乱する。

要するに、子育てに対する期待が強すぎます。「よい家庭を作ろう」「よい親子関係を作ろう」と
です。気負いが強い分だけ、あなたも疲れますが、子どもも疲れます。「どうせ子どもというの
は、去っていく」「去って行きたければ去っていけばいい」「勝手にどうぞ」「私は私で、自分の生
活を楽しみますからね」と、心のどこかで割りきってください。

あなたはもうじゅうぶんがんばってきました。それにお子さんは、中1とはいえ、すでにおとなで
す。長くなりそうなので、つづきは、またマガジンのほうで考えてみます。7月上旬に載せます。
できればその前に、また掲示板のほうに書いておきます。

大切なことは、こうした問題には、まだ二番底、三番底がありますから、今を決して最悪と思っ
てはいけないということです。対処の仕方を間違えると、二番底、三番底へと進んでしまいま
す。中退、非行……と進んでいく可能性もあります。「今の状態をこれ以上悪くしないことだけ」
を考えて対処してください。あまり乱暴がひどいようでしたら、一度、心療内科の先生に相談し
てみるとよいでしょう。こだわりを取り除く、よい精神安定剤を処方してくれるはずです。

『許して、忘れる』は、まちがっていません。どん底から、さらにどん底へ落とされても、この言
葉を心の中で念じてみてください。これは子どもとの闘いというよりも、あなた自身との闘いな
のです。その闘いに勝ったとき、あなたの子どもは、こう言うでしょう。「お母さん、ありがとう」
と。と、同時に、あなたは「子どもを信じきった」という喜び、「子どもを育てた」という満足感を味
わいます。約束します。

で、幸い学校の先生があれこれと心配してくれているようなので、あなたのほうも心を開いて、
相談したらよいでしょう。あなたから見ると、特殊な問題のように見えるかもしれませんが、ケー
スとしては、珍しくありません。そのあたりのことは、学校の先生も、よく知っているはずです。

こうして子どもはおとなになっていきます。それを(巣立ち)と言いますが、巣立ちのしかたは、
みなちがいます。中にはたがいにののしりあいながら、巣だっていく親子もいます。しかしそれ
でも巣立ち。あなたは愛情だけをしっかりともちながら、あとは静かに見送れば、それでよいの
です。あとはやるべきことはやる。またその範囲にとどめる、です。いつか子どもは帰ってきま
す。そのときは、窓をあけ、思いっきり子どもを抱きしめてあげればよいのです。そうそう、悲し
くてつらいときがあったら、アルバムを見るとよいですよ。私もそうしました。

この時期も、その最中の人には長く感じられるかもしれませんが、あっという間に終わります。
本当にあっという間です。今こそ、親は真の愛が試されているときと覚悟して、この時期を乗り
越えてください。あなたはすばらしい女性になりますよ。いいですか、あなたの子どもがあなた
を育てようとしているのです。それに気がついたとたん、心が軽くなります。繰り返しますが、
『許して、忘れる』ですよ。生活態度がだらしなくなっても、許して、忘れる。どうかあきらめず
に、がんばってください。家族がみな、ここにいて、みなががんばっている。そのすばらしさ、尊
さを、すなおに喜んでください。

【UKさんより、はやし浩司へ】

早速返信を頂きありがとうございました。
先生に言われてはっとすることが何か所もありました。
何をしたらいいのかわからなくてもがいていて息子も辛いのかもしれません。お恥ずかしいの
ですがそんなふうに考えたことはありませんでした。私はどうやって息子と向かい合っていいか
わからずに、息子から逃げ出したくて自分がどうやったら毎日生きていけるのかばかり考えて
いました。

単身赴任先でがんばっている主人に現在の子供の状況を話しているとき思わず泣いてしまっ
た私に、背中をさすっている長男がいました。自分の話をしているとわかっていて隠れて聞い
ていたのだと思います。私が泣いているときに顔を覗き込み、心配そうにしていました。でも私
はあまりの子供の態度のギャップに戸惑い、耐えられず「触らないで!」と突き放しました。テ
レビを見ながら私のひざに顔をうずめてきたりしますが、またその後何分か後にキレたりする
事も度々あるからです。私はひどい言い合いをしたときでもしばらく引きずってしまいます。でも
息子はまるで何もなかったかのように甘えてこれる!どうして?と思ったりするのです。本当は
こんなときに受け止めてあげなければいけなかったのですね。私に心の余裕がなくて・・情け無
いです。

ここのところ、本当にこの場からいなくなることばかり考えていました。
逃げちゃいけない、現実から息子から。もう少しがんばらなくては・・
電話で主人に息子の話をしたところ「何のためにがんばっているかわからなくなってしまった。
虚しくなっちゃたよ。」と落ち込まれました。遠く離れた場所で聞くほうが辛いのかも知れませ
ん。帰って来たくてもすぐには駆けつけられないのだからその分辛いと思います。

4年前に十二指腸にガンが見つかり膵臓と胆のう、十二指腸を切除する手術を受けました。5
年間は再発の恐怖におびえながら生活を送っている主人にこんな辛い話を聞かせたことに後
悔しました。でも父親として力を貸してほしかった。私も疲れていたんです。遠いところで長男の
ことを思いため息をついている主人を思うと、私の力のなさが情けないです。2年前単身赴任
が決まったときに再発のことを心配しながらも、男の子2人を私1人で育てていけるだろうか?
 一番父親の力が必要なときに・・・と不安に思っていました。

たまに帰って来る主人のこの家でのポジションを(家長という)確保しておく事の難しさも感じた
りしています。普段父親のいない生活をしているとそれに慣れてしまってペースができてしまう
ので久々に主人が登場すると家の中が乱れるのも事実です。

先生からすぐに返事をいただけて、それだけで私の心がすごく軽くなっています。言葉の力が
ありがたくて感謝の気持ちでいっぱいです。

慌てていてメッセージを読んでいなかったのですが(一般の方)に書き込まないといけなかった
んですね。すみません。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●今日も1日、終わった

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今日、講演の様子を、ビデオに収めた。
県の教育委員会・健全育成会総会での講演である。
舞台のそでから撮ったので、映像はともかくも、
音がどうもよくない。
ゴーッというか、何かの雑音が混ざっている。
空調の音か?

全体で90分の長さがある。
それを9分ごとに分割して、10本のビデオにする。
YOUTUBEでは、10分以上のビデオは
アプロードできない。
ということで、10分割して、10本!

ノーカット、ノー編集。
興味のある方は、どうか見てほしい。

(今回撮った講演は、『BW公開教室』に収録。)

たまたま明後日は、K中学校区の健全育成会で同じ話を
することになっているので、もう一度、録画しなおして
みることにする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
 Hayashi 林浩司 BW BW教室 講演 健全育成会講演 静岡市 あざりあ)


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●嫉妬(しっと)

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私も嫉妬をよく覚える。
「ねたみ」と言った方が、わかりやすい。
「嫉妬」というと、そこに色恋沙汰を感ずる。
しかし何も、色恋沙汰にかぎらない。
その(ねたみ)をよく覚える。
覚えないとは、言わない。
しかし最近は、ぐんとそれが少なくなった。
なぜか?

このところ、「私は私、人は人」と思うことが多くなった。
割り切って考えることが、多くなった。

そういう意味では、「私は私」という思いと、それは反比例の関係にあるのでは?
つまり「私は私」という思いが強くなればなるほど、
人に嫉妬することは、その分だけ、少なくなる。
このことを言いかえると、こうも言えるのでは?
つまり、「私」がない人ほど、人に嫉妬しやすい、と。

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 自己概念(「私はこうありたい」)という思いは、だれにでもある。
人はその自己概念に合わせて、現実の自分を作りあげようとする。
自己概念をもつことは、悪いことではない。
自己概念がないと、それこそ人は、糸の切れた凧のようになる。
フワフワと空中をさまよい、自分でも何をしているのか、わからなくなる。
が、それにも限度がある。
つまり自己概念が肥大化すると、やがてその落差に苦しむことになる。
わかりやすく言えば、「夢は大きい方がよい。しかし大きすぎるのも困る」と
いうことになる。

 嫉妬は、その(落差)の間から生まれる。
が、ここで誤解してはいけないことがある。
「嫉妬」というと、それ自体が「悪」と考える人は多い。
しかしその嫉妬が、生きる原動力として働くこともある。
たとえばすばらしい家を見かけると、「私もほしい」と思う。
それが明日への(やる気)につながることもある。

あるいはスタスタと走っている人を見かけると、「私もああして走ってみたい」と思う。
それが自分の健康法につながることもある。

大切なことは、その嫉妬を、どうコントロールするかということ。
嫉妬を、どう向上心に結びつけていくかということ。
その前に、嫉妬の原点を、もう一度考えてみたい。

●兄弟を殺す

 毎年庭先の木の間に、野生のドバトが巣を作る。
そのドバトには、興味深い習性がある。
たいてい1組のつがいは、2羽の雛(ひな)を孵(かえ)す。
そのあとのこと。
たまに1羽のこともあるが、たいてい2羽である。

 そのときのこと。
その双方がおとなの握りこぶし大くらいにになると、1羽のより強い雛が、もう1羽の
より弱い雛を、巣から追い落としてしまう。
追い落とされた雛のほうは、そのまま犬や猫に襲われて、死んでしまう。
理由はわからないが、空腹感が基本にあって、親が与える餌を独り占めしたいから
ではないか。
私は勝手にそう解釈しているが、私はそこに嫉妬の原点を見る。

 つまり嫉妬の原点には、「生存欲」がからんでいる。
生存欲がからんでいるだけに、原始的な感情と言うこともできる。
それこそ「相手を殺してでも……」という感情に結びつくこともある。
現に嫉妬がからむと、人間関係も陰湿なものになりやすい。
子育ての世界でも、ときどき経験する。

●子どもの世界で

 市内のある幼稚園でこんなことがあった。
その母親は、その幼稚園でPTAの役員をしていた。
その立場をよいことに、いつもその幼稚園に出入りしていたのだが、ライバルの
母親の娘(年中児)を見つけると、その子どもに執拗ないじめを繰り返していた。
手口はこうだ。

その子どもの横を通り過ぎながら、わざとその子どもを足蹴りにして倒す。
そして「ごめんなさいね」と作り笑いをしながら、その子どもを抱きかかえて起こす。
起こしながら、その勢いで、またその子どもを放り投げて倒す。

以後、その子どもはその母親の姿を見かけただけで、顔を真っ青にしておびえるように
なったという。

ことのいきさつを子どもから聞いた母親は、相手の母親に、それとなく話をしてみたが、
その母親は最後までとぼけて、取りあわなかったという。
父親同士が、同じ病院に勤める医師だったということもあった。
被害にあった母親はそれ以上に強く、問いただすことができなかった。

 似たようなケースだが、ほかにマンションのエレベータの中で、隣人の子ども
(3歳男児)を、やはり足蹴りにしていた母親もいた。
この話を、80歳を過ぎた私の母(当時)にすると、母は、こう言って笑った。
「昔は、田舎のほうでは、子殺しというものまであったからね」と。

 子どものいじめとて例外ではない。
Tさん(小三女児)は、陰湿なもの隠しで悩んでいた。
体操着やカバン、スリッパは言うに及ばず、成績表まで隠されてしまった。
しかもそれが一年以上も続いた。
Tさんは転校まで考えていたが、もの隠しをしていたのは、Tさんの親友と思われていた
Uという女の子だった。

それがわかったとき、Tさんの母親は言葉を失ってしまった。
「いつも最後まで学校に残って、なくなったものを一緒にさがしていてくれたのは
Uさんでした」と。
Tさんは、クラスの人気者。背が高くて、スポーツマンだった。
一方、Uは、ずんぐりした体格の、どうみてもできがよい子どもには見えなかった。
Uは、親友のふりをしながら、いつもTさんのスキをねらっていた。
そして最近でも、こんなことがあった。

 ある母親から、「うちの娘(中二)が、陰湿なもの隠しに悩んでいます。
どうしたらいいでしょうか」と。
先のTさんの事件のときもそうだったが、こうしたもの隠しが長期にわたって続くときは、
身近にいる子どもをまず疑ってみる。

 そこで私が、「今一番、身近にいる友人は誰か」と聞くと、
その母親は、「そういえば、毎朝、迎えにきてくれる子がいます」と。
そこで私は、こうアドバイスした。

「朝、その子どもが迎えにきたら、じっとその子どもの目をみつめて、
『おばさんは、何でも知っていますからね』とだけ言いなさい」と。
その母親は、私のアドバイス通りに、その子どもにそう言った。
以後、その日を境に、もの隠しはウソのように消えた。

●では、どうコントロールするか

 繰り返しになるが、嫉妬は、それ自体が問題ではなく、……というのも、
本脳として人間の脳に刻まれているが故に、私たちがもつ知性や理性の力に
は限界があるので……、つまりどう扱うかが問題ということ。
わかりやすく言えば、(扱い方の問題)ということになる。

 もっとも私の年齢になると、限界を感ずることが多くなる。
その限界の中で、「まあ、こんなもの」と思うことが多くなる。
それは心さみしい瞬間でもあるが、同時にこうも思う。
「今、残っているものを大切にしよう」と。

 喪失感といえば、喪失感ということになる。
人生そのものが、どんどんと減っていく。
あといくらがんばってみたところで、10年がよいところ。
それ以後は、あくまでも平均論に従えば、もろもろの病気をかかえ、そのあと
10年くらいをして寿命が尽きる。

 それに諸行無常とまではいかないにしても、常に『だから、それがどうしたの?』
というブレーキが、心の中で働いてしまう。
いい車を買った……だから、それがどうしたの?
いい家を買った……だから、それがどうしたの?
有名になって、名誉や地位を手に入れた……だから、それがどうしたの?、と。

 若い人たちから見れば、ジジ臭い考え方ということになるが、そう決めつけるのは
少し待ってほしい。
だからといって、そこで車を止めてしまうわけではない。
生きるエネルギーはたしかに弱くなるが、なくなってしまったわけではない。
ただその方向性というか、進むべき道を選択するようになる。
その分だけ、「エネルギーを無駄なことはしたくない」とか、
「無駄に時間を過ごしたくない」と考えるようになる。
そう考えた上で、「では、私は何をすべきか」を考えるようになる。

 そんなわけで嫉妬と闘う方法があるとするなら、(1)「私」の確立と、(2)統合性
の確立ということになる。
「統合性」というのは、何度も書いてきたように、(すべきこと)と(現実にしている
こと)を一致させることをいう。
この2つが確立できれば、(まだ私は暗中模索の段階だが……)、おそらく嫉妬という
原始的な感情からは解放されることになる。
そしてそれ自体がもつ、(生きるエネルギー)を、もっと有意義な方向へ、もっていく
ことができる。

 どうであるにせよ、嫉妬に毒されると、人間性まで腐る。
それだけは、何としても避けたい。
そのためにここでこうして2つの方法を考えてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW はやし浩司 嫉妬論)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司※

●もう1人の自分(反動形成)(Another Man in Me)

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 自分にとって、受けいれがたい、
もう1人の自分を感じたとき、
その自分を抑圧するために、人は、
それとは正反対の自分を演ずることがある。
これを「反動形成」という。

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 その中でも、とくによく知られているのが、牧師や教師による、反動形成。
たとえば、牧師や教師の中には、ことさら、セックスの話や、露骨な話を嫌ってみせる人がい
る。

 特徴は、「ことさら」、つまり、不自然なほど、大げさな様子を見せること。
信者や生徒が、「セックス」という言葉を口にしただけで、「オー、NO!」と大声で、叫んでみせ
たりする。

 これは自分の職業観とは相容れない、許しがたい欲望を、自分の中で、抑圧しようとして起
きる現象である。

 ほかに幼児の世界で、よく知られている反動形成の例に、弟(妹)思いの、よい兄(姉)がい
る。本当の自分は、弟や妹を、殺したいほど憎んでいるのかもしれない。
しかしそんな感情を表に出せば、自分の立場がなくなってしまう。

 そこでその兄や姉は、ことさら、人前で、よい兄や姉を演じてみせたりする。
しかしこれは意識的な行為というよりは、無意識下でする行為と考えてよい。本人に、その自
覚はない。

 さらに、その醜い本心を偽るために、仏様のように(できた人)を演ずる人もいる。
老人に多い。
自分自身の醜い素性を、隠すためである。このタイプの人は、何十年もかけて(ニセの自分)
をみがきあげているので、ちょっとやそっとでは、他人には、それを見抜くことができない。
何十年も近くで住んでいる親類にすら、「仏様」と思いこませてしまう。

 反動形成であるかどうかは、先にも書いたように、「ことさらおおげさな」様子を見せるかどう
かで判断する。
反動形成による行為は、どこか様子が不自然で、ぎこちない。ときにサービス過剰になったり
する。

 本当はその客の来訪を嫌っているにもかかわらず、満面に笑顔を浮かべ、愛想よくしてみせ
る、など。

 こうして人は、本当の自分を抑圧するために、その反対側の自分を演ずることがよくある。

 たとえば力のない政治家が、わざとふんぞりかえって歩いて見せるなど。
あるいは体の弱い子どもが、みなの前で、かえって乱暴に振る舞ったりするのも、それ。

 ほかにもいろいろな反動形成がある。

 本当は、たいへんケチな人が、豪快に、人に太っ腹なところを見せる。
 心の中では憎しみを感じている社員が、その上司に、必要以上にへつらう。
 自分に自信のない人が、わざと大型の馬力の大きな車に乗ってみせる、など。
 もう少し、その反動形成を、自分なりに、整理してみる。

(嫉妬、ねたみ)→(見えすいた親切、やさしさ)
(欲望、願望)→(見えすいた禁欲者、謙虚さ)
(悪魔性、邪悪な心)→(見えすいた善人、道徳者)
(闘争心、野心)→(見えすいた謙虚さ、温厚さ)
(ケチ、独占欲)→(見えすいた寛大さ、おおらかさ)
(劣等感、コンプレックス)→(見えすいた傲慢さ、大物)
(だらしない性格)→(見えすいた完ぺき主義者、潔癖主義)など。

 わかりやすく言えば、反動形成というのは、自分の心を偽ることをいう。中には、夫を心の中
で憎みながら、その反動として、つつしみ深く、できのよい妻を演ずることもあるそうだ。(私の
ワイフなどは、その1人かもしれない? ゾーッ!)

 あなたの中には、はたしてその反動形成による部分は、ないか? それを知るのも、また別
の自分を発見することにつながるのではないかと思う。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林
浩司 BW BW教室 はやし浩司 反動形成 仮面 ペルソナ)

(補足)

 たまたま今日、年長児のクラスで、おっぱいの話になった。
そのときのこと。
私が子どもたちに、「君たちは、おっぱいが好きか?」と聞くと、みな、おおげさな言い方で、「嫌
いだヨ〜」と叫んだ。

 これも反動形成の一つと考えてよい。このころになると、子どもは「恥ずかしい」という言葉の
意味がわかるようになる。たとえば、赤ちゃんに見られることは、恥ずかしいことと考える。だか
ら(おっぱいが好き)イコール、(赤ちゃん)と考えて、それをあえておおげさに否定してみせたり
する。

 しかしおっぱいが嫌いな子どもは、いない。とくに男児においては、そうだ。
が、中に、正直な子どもがいたりして、私が、「ウソをついてはダメだ」と、強くたしなめると、小
声で、しかも少し顔を赤らめながら、「好きだよ……」と言う子どももいるにはいる。
しかしそういう子どもは、例外と考えてよい。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●『汝自身を知れ』(Know Yourself)
古代ギリシャの7賢人、アポロン神殿)

++++++++++++++++++++++

おととい講演をしているとき、『汝自身を知れ』という
言葉の話をした。
しかしその場で、それがだれの言葉あるかを忘れて
しまった。
ショックだった。
あれほどまでに有名な言葉の作者を忘れてしまうとは!

スパルタのキロンだったのか?
それともギリシャのターレスだったのか?
スパルタだったのか、それともギリシャだったのか?

ソクラテスはその言葉に、電撃的な衝撃を受け、哲学
の本質を知った。

++++++++++++++++++++++

●ターレス

 私は『汝自身を知れ』というのは、長い間、スパルタのキロンの言葉と思っていた。
あちこちの原稿に、そう書いた。
が、あるとき、掲示板にそのまちがい(?)が指摘されていた。
「キロンではなく、ターレスだ」と。

 そのとき書いた原稿をさがしてみる。
が、便利になったものだ。
いちいち自分の原稿を開かなくても、ヤフーの検索を使えば、即時にそれができる。
検索窓に、「はやし浩司 汝自身を」と記入して、(検索)ボタンをクリックすればよい。

 で、わかったことは、『汝自身を知れ』とは、ギリシャのアポロン神殿に刻まれている、
七賢者の一人、ターレスの格言ということがわかった。

 しかもターレスというのは、『古代ギリシア世界には7人の卓越した賢者がいたといわれ
るが、その7人が誰であるのかについては諸説あり統一的な見解は得られていない。古代
ギリシアの7賢人として一般的に知られている人物は、ターレス(タレス)、ソロン、ペリ
アンドロス、ビアス、ピッタコス、クレオブゥロス、ケイロンである』。

『ターレス(B.C.624−546)は、名門出身だったので、初め政治家としての
道を志すが、その後天文学など自然学の研究に熱意を燃やし、万物の根源(アルケー)
を探求する自然哲学の祖としての思索を行った』(以上、『』内、Biglobe・HP
より、転載)。

 キロンではなく、ターレスだった。
思い出した!
それにターレスというのは、古代ギリシャの7賢人の1人。
スパルタ、ではない。

 で、こうした記憶というのは、しっかりと上書きしておかねばならない。
また時間がたつと、その下の記憶が表に出てきてしまう。
記憶が混乱してしまう。

 古代ギリシャの7賢人の1人、ターレスが、ギリシャのアポロン神殿に残した言葉。
それが結論ということになる。
が、不安が残る。
このところ自分の脳みそが信用できなくなった。
こういうときは、どうするか?
どうすれば、記憶として、脳みその中に残すことができるか?
ウ〜〜ン……。
高校の受験生のように、クソ暗記するしかない。
キーワードは、「古代ギリシャ」「アポロン神殿」「ターレス」である。
どれもよく知っている言葉だが、どうかすると、ポンとそれらの言葉を思い出せ
なくなってしまう。
脳みその老化が進むと、そういう現象はよく起きるという。
「ド忘れ」ともいう。
これから先、そういうことが多くなるだろう。
心して、脳みその中に叩き込もう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW BW教 ターレス はやし浩司 汝自身を知れ 
古代ギリシャ 7賢人 アポロン神殿 はやし浩司 キロン)

こうして(↑)、検索ワードを書き加えておけば、ヤフーもしくは、グーグルでの検索
ができるようになる。
すでに多くの人もしていると思うが、私がオリジナルに考えた方法である。)

 またこういうことも言える。
私はすでに、この5年間だけでも、3万ページ以上(40x36字)の原稿を書いた。
が、2600年後に残る言葉など、一行もないだろう。
しかしたーレスは、アポロン神殿に、『汝自身を知れ』という言葉を残した。
たったの一言である。
しかしその一言が、2600年を経た今、哲学の(柱)になっている。
すごいことだと思う。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW BW教 ターレス はやし浩司 汝自身を知れ 
古代ギリシャ 7賢人 アポロン神殿 はやし浩司 キロン)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●6月6日(土曜日)(June 6th)

+++++++++++++++++

ここ数日、涼しいというよりは、寒い。
ワイフは、「ダイエットをしているせいよ」とも言うが、
それにしても寒い。
4月に30度を超えた地域もあったというが、この寒さは
何か。

地球寒冷化?
……ということはありえないとしても、コタツを早々と
片づけてしまったのを、少なからず、後悔している。

+++++++++++++++++

●三途の川(フブル川)(メソポタミアの死後の世界観)

 三途の川の起源は、古くメソポタミア文明にまでさかのぼることができる(?)。
メソポタミア文明……紀元前3000〜3500年。
今から5500年ほど前ということになる。
また、釈迦が誕生する3000年も前の昔のことである。

 メソポタミア文明といえば、高度に知的であったことで知られる。
同じころ中国の黄河流域では、黄河文明が栄えていた。
ともに周囲の文明(?)とは、かけ離れた文明であったことには、まちがいない。
人間の多くは、まだ火を使って食べ物を調理するいう技術すら、知らなかった。
そういう中にありながら、メソポタミアでは、天文学はもちろん、末端では
メッキ技術も手にしていたという。

 それはともかくも、三途の河に似た話が、メソポタミア文明に中にもあるというのは、
たいへん興味深い。

 学研版『天使と悪魔』によれば、こうある。

『……この地域の世界観では、まず天上には神の世界がある。
人間が住む地表の下には、アプスーと呼ばれる淡水の固まりの神が横たわっており、
その下に「不帰の国」と呼ばれる冥界、すなわち死者の国があるとされた。
つまり現界と冥界の間は、この巨大な川によって隔てられていたわけだ。
いわゆる三途の河で、その原形はすでにこの時代から存在していたのである。

 この不帰の国へ行くには、当時、この三途の川(フブル川という)を渡らねば
ならないわけだが、そのあともさらに死者の旅はつづく。
というのも、それぞれに恐ろしい門番が待機する7つの門をくぐりぬけ、さらに
不帰の国では生前の記録に基づいた審判を受けねばならない。ここまできて、
ようやく冥界に住むことを許されるのだ』(P139)と。

 どこか私たち日本人がもっている(常識?)と似ている。
言いかえると仏教が日本へ伝来する過程で、メソポタミヤ流の世界観が、それに
混入したということは、じゅうぶん考えられる。
こういう例は、たいへん多い。
たとえばあの「盆供養」という儀式にしても、アフガニスタン周辺の「ウラバン」
という儀式がそのまま中国に入り、「盂蘭盆(ウラボン)」となった。
そこから「盂蘭盆経」という偽経が生まれた。
それがそのまま日本へ入り、盆供養という儀式なった、など。
ほかにも中国や日本の仏像が、古代インドの衣服ではなく、古代ギリシャの
衣服をまとっているなども、ある。
だいたい釈迦自身は、(あの世)については、一言も触れていない(法句経)。

 それはともかくも、メソポタミアの世界観をもう一度整理してみると、こうなる。

(天上の神の世界)
   ↓
(人間が住む地表の世界)
   ↓
(アプスーと呼ばれる神の支配する淡水の世界)
   ↓
(冥界)

 人は死ねば、フブル川を渡って、冥界へ入る。
そのとき恐ろしい門番が待機する7つの門をくぐり抜けなければならない。
が、ここで出てくる、「7つ」というもの、心にひかかる。
日本でも、「七七(四九日)の供養」を重要にしている。
「恐ろしい門番」というのは、日本でできた最悪の偽経『地蔵十王経』にも通ずる。
この地蔵十王経によって、「〜〜回忌」という法要儀式が、日本の中に定着した。

フ〜〜ン?

 何か臭いぞ。
におうぞ。
おかしいぞ。
メソポタミアでそういう世界観があったとするなら、シルクロードを経て、
その世界観は、当然のことながら中国にも伝わっていたはず。
そのあと数千年を経て入ってきた仏教に、そうした世界観が混入したと考えても、
何もおかしくない。
 
 ここでもう一度、私が書いた原稿(08年9月)を、読んでみてほしい。

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【堂々たる迷信】(初七日、四十九日の法要)

●地蔵十王経

「地蔵十王経」の由来については、ウィキペディア百科事典が、詳しく書いている。
難解な文章がつづくが、そのまま紹介させてもらう。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++

仏教が中国に渡り、当地の道教と習合していく過程で偽経の『閻羅王授記四衆逆修生七往生
浄土経』(略称として『預修十王生七経』)が作られ、晩唐の時期に十王信仰は成立した。また
道教経典の中にも、『元始天尊説?都滅罪経』、『地府十王抜度儀』、『太上救苦天尊説消愆滅
罪経』という同名で同順の十王を説く経典が存在する。

『預修十王生七経』が、一般的な漢訳仏典と際立って異なっている点は、その巻首に「成都府
大聖慈寺沙門蔵川述」と記している点である。漢訳仏典という用語の通り、たとえ偽経であった
としても、建て前として「○○代翻経三蔵△△訳」のように記すのが、漢訳仏典の常識である。

しかし、こと「十王経」に限っては、この当たり前の点を無視しているのである。この点が、「十
王経」類の特徴である。と言うのは、後述の日本で撰せられたと考えられる『地蔵十王経』の巻
首にも、同様の記述がある。それ故、中国で撰述されたものと、長く信じられてきたという経緯
がある。ただ、これは、『地蔵十王経』の撰者が、自作の経典の権威づけをしようとして、先達
の『預修十王生七経』の撰述者に仮託したものと考えられている。また、訳経の体裁を借りな
かった点に関しては、本来の本経が、経典の体裁をとっておらず、はじめ、礼讃文や儀軌の類
として制作された経緯に拠るものと考えられている。

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++

要するに、「地蔵十王経」というのは、中国でできた偽経の上に、さらに日本でできた偽経とい
うこと。

が、この「地蔵十王経」が、日本の葬式仏教の基本になっているから、無視できない。
たとえば私たちが葬儀のあとにする、初七日以下、四十九日の儀式など、この「地蔵十王経」
が原点になっている。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++

死者の審理は通常七回行われる。没して後、七日ごとにそれぞれ秦広王(初七日)・初江王
(十四日)・宋帝王(二十一日)・五官王(二十八日)・閻魔王(三十五日)・変成王(四十二日)・
泰山王(四十九日)の順番で一回ずつ審理を担当する。

ただし、各審理で問題が無いと判断された場合は次の審理に回る事は無く、抜けて転生してい
く事になるため、七回すべてやるわけではない。一般には、五七日の閻魔王が最終審判とな
り、ここで死者の行方が決定される。これを引導(引接)と呼び、「引導を渡す」という慣用句の
語源となった。

七回の審理で決まらない場合も考慮されており、追加の審理が三回、平等王(百ヶ日忌)・都
市王(一周忌)・五道転輪王(三回忌)となる。ただし、七回で決まらない場合でも六道のいずれ
かに行く事になっており、追加の審理は実質救済処置である。もしも地獄道・餓鬼道・畜生道
の三悪道に落ちていたとしても助け、修羅道・人道・天道に居たならば徳が積まれる仕組みと
なっている。

なお、仏事の法要は大抵七日ごとに七回あるのは、審理のたびに十王に対し死者への減罪
の嘆願を行うためであり、追加の審理の三回についての追善法要は救い損ないを無くすため
の受け皿として機能していたようだ。

現在では簡略化され通夜・告別式・初七日の後は四十九日まで法要はしない事が通例化して
いる。

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++

つまり人は死ぬと、7回の裁判を受けるという。

死後、七日ごとにそれぞれ、

(1)秦広王(初七日)
(2)初江王 (十四日)
(3)宋帝王(二十一日)
(4)五官王(二十八日)
(5)閻魔王(三十五日)
(6)変成王(四十二日)
(7)泰山王(四十九日)の順番で一回ずつ審理がされるという。

ただし、各審理で問題が無いと判断された場ばあいは、つぎの審理に回ることはなく、
抜けて転生していくことになるため、七回すべてやるわけではないという。

一般には、五十七日の閻魔王が最終審判となり、ここで死者の行方が決定される。これを引
導(引接)と呼び、「引導を渡す」という慣用句の語源となったという(参考、引用、ウィキペディ
ア百科事典より)。

わかりやすく言えば、最終的には、五十七目に、閻魔王が、その死者を極楽へ送るか、地獄
へ送るかを決めるという。
私たちも子どものころ、「ウソをつくと、閻魔様に、舌を抜かれるぞ」とよく、脅された。

しかしこんなのは、まさに迷信。
霊感商法でも、ここまでは言わない。
もちろん釈迦自身も、そんなことは一度も述べていない。
いないばかりか、そのルーツは、中国の道教。
道教が混在して、こうした迷信が生まれた。

極楽も地獄も、ない。
あるわけがない。
死んだ人が7回も裁きを受けるという話に至っては、迷信というより、コミック漫画的ですらあ
る。

法の裁きが不備であった昔ならいざ知らず、現在の今、迷信が迷信とも理解されず、葬儀とい
うその人最後の、もっとも重要な儀式の中で、堂々とまかり通っている。
このおかしさに、まず私たち日本人自身が気づべきである。

「法の裁きが不備であった昔」というのは、当時の人たちなら、「悪いことをしたら地獄へ落ち
る」と脅されただけで、悪事をやめたかもしれない。
そういう時代をいう。

「死」というのは、どこまでも厳粛なものである。
そういう「死」が、ウソとインチキの上で、儀式化され、僧侶たちの金儲けの道具になっていると
したら、これは問題である。
このおかしさ。
そして悲しさ。

仏教を信ずるなら信ずるで、もう一度、私たちは仏教の原点に立ち戻ってみるべきではないだ
ろうか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 地蔵十王経 初七日 四十九日
 法要 偽経)

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 が、さらに調べていくと、メソポタミア文明にまで、そのルーツをたどることが
できる(?)。

 「7つの門(メソポタミア)」と、「7回の審理(地蔵十王経)」。
「7」という数字は、偶然の一致なのだろうか?
私にはストーリーの内容からして、偶然の一致とは、どうしても思えない。
が、ここでは「?」としておく。

 もちろんだからといって、何も日本の仏教や宗教を否定しているのではない。
まちがっていたら、正す。
そういう姿勢こそが私は、日本の仏教がこれから先、生き残る唯一の方法だと
確信している。

 日本の仏教界のみなさん、がんばれ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW BW教室 メソポタミア 三途の川 死生観 冥界
あの世論 はやし浩司 地蔵十王経)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●まるでゲーム感覚?

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韓国の中央N報の記事を読んでいて、
ふと「これが現実か?」と、わが目を疑ってしまった。
まるでゲーム感覚。
ゲームそのもの。
ゲームの世界での話ならわかる。
私も、パソコン草創期のころには、ゲームソフト
を買ってきてよく遊んだ。
その中には、「大戦略」というソフトもあった。
武器を配置ながら、戦争をするというゲームである。
それなりに楽しんだが、しかしそれはあくまでもゲーム。
しかし中央N報の記事は(現実)。
まぎれもない(現実)。
だから、わが目を疑ってしまった。
こんな感覚で戦争が始まったら、それこそたいへんな
ことになる。
何も「西海紛争」だけで終わるはずがない。
もしこの通りにして終るとしたら、(終わるはずもないが)、
それこそゲーム。
報復は報復を呼び、やがて引き返しがつかないところまで
進んでしまう。

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●K国軍は、壊滅?

 韓国の中央N報はつぎのように伝える(6月6日)。

『K国の核実験に続くミサイル発射で西海(ソヘ、黄海)北方限界線(NLL)の緊張が高まって
いる。4日にはK国警備艇が西海延坪(ヨンピョン)島付近で中国漁船の取り締まりを口実にN
LLを51分間侵犯した。K国の挑発はミサイル発射とともに西海NLL付近で行われる公算が
大きいものと軍当局は予想している。北東アジアの火薬庫で戦闘力が最も密集された西海NL
Lでの南北戦力を比べてみる。

K国は西海NLL北の沙串(サゴッ)とチョ島などに80〜100隻の哨戒艦と警備艇、魚雷艇を
集結させている。有事時、一挙に下って韓国の海軍を攻撃するものと予想される。またK国は
序盤に韓国艦艇はもちろんペンリョン島、延坪島を制圧するために100丁以上の海岸砲を長
山串と壅津郡に集中配置した。ペンリョン島の海兵隊は地下陣地の中にいるが、K国軍の砲
火は非常に荒いものとみられる。K国軍は初期奇襲に向け、平壌南側の黄州、クァイル、谷山
基地に110機のミグ21とミグ19戦闘機も配置している。 

  K国陸海空軍の奇襲は韓国軍の防御に相当な負担となる。しかし軍当局はK国軍が奇襲す
れば現場指揮官が直ちに強力対応するよう指示した状態だ。特にわが軍は自動化されて正
確度がかなり高い武器で警戒する計画だ。これによって海上戦は3〜4日でK国艦艇がほとん
ど潰滅できるものといわれている。またK国のシルクワームなどの地対艦とSA5などの地対空
ミサイル基地は、F15Kで発射されたスラム−ERが、海岸砲はF15KとF16が投下した合同
直撃弾(JDAM)が精密破壊する。K国空軍機の大規模攻撃は韓国型構築艦に装着された艦
対空ミサイルSM2によってほとんど撃墜されるものとみられている』(以上、中央N報 09年6
月6日)と。

 以上を要約してみると、こうなる。

(1)紛争は西(=黄海)で起こる可能性が高い。
(2)K国軍は、奇襲作戦をとるはず。
(3)K国の兵力は、80〜100隻の哨戒艦と警備艇、魚雷艇。
(4)ほかに、100丁以上の海岸砲、
(5)110機のミグ21とミグ19戦闘機。

これに対して韓国側は、

(1)自動化されて、正確度がかなり高い武器で警戒する計画をもっている。
(2)地対空ミサイル基地は、F15Kで発射されたスラム−ERで攻撃。
(3)海岸砲はF15Kと、F16が投下した合同直撃弾(JDAM)で精密破壊する。
(4)K国空軍機の大規模攻撃は、艦対空ミサイルSM2によってほとんど撃墜する、と。

 こうした記事を読むまでもなく、K国側に勝ち目はまったくない。
たとえて言うなら、弓と矢で機関銃に立ち向かうようなものである。
たとえば数日前、K国側の海岸基地の写真が載っていたが、驚くなかれ、
それは粗末な木造づくり。
まるで壊れたブタ小屋か、犬小屋のようでもあった。
屋根にはトタン板が載せられ、その上に土がかぶせられていた。
今どき信じられないような話だが、私が見たかぎり、これは事実である。

 が、戦争をすれば、韓国側とて、ただではすまない。
またK国側が、そのまま敗退するとは、考えられない。
へたをすれば、そのまま全面戦争へと突入する。
それこそソウルは、火の海となる。
もちろん日本も大きな影響を受ける。

その瞬間から、日本の株価、債権、円は急降下。
ノドンが一発でも日本で爆発すれば、日本の経済はマヒする。
被害を勘案すれば、戦争をしてよいことは、何もない。
けっしてゲーム感覚で、戦争などしてはいけない。

が、もしそれでも……、ということになれば、今まで私が繰り返して書いてきたように、
K国を、自然死にもっていく。
そのためには、K国に対しては、国際的な圧力を加えていく。

 で、これには条件がある。

(1)日本はけっして、単独でK国を相手にしてはいけない。
(2)鍵を握るのが、中国ということになる。
(3)圧力を加えすぎて、K国を暴発させてはいけない。

 圧力というのは、ズバリ兵糧攻めをいう。
食糧、原油、マネーの3方向から、ジワジワと、K国を締めあげる。
……こう書くと、「それでは、日本は日本だけのことを考えれば、それでいいのか」と
反論する人がいるかもしれない。
そう、それでよい。
これは戦争である。
まさに戦争である。
日本は、何も(いい子)ぶることはない。
こちらにはその気はなくても、向うには、その気がある。
その気があって、ミサイルや核兵器を用意している。
そんな国に対して、日本は遠慮する必要は、まったく、ない。
平和もけっこうだが、「戦争はいやだ」と逃げ回るのは、けっして平和主義でも
何でもない。
ただの「おく病」という。

世界はそれほど完成されていない。
日本のように(できのよい国)ばかりでもない。
だったら、日本も腹を据えて、日本の国益を第一に考えて行動する。
日本のことだけを考えて行動する。
それが「戦争」というものである。

大切なことは、ただの1人も、日本人の犠牲者を出さないこと。
ただの一発も、この日本に爆弾を落とさせないこと。
それだけを考えて、あとは、賢く、ただひたすら賢く行動する。
繰り返すが、戦争では、けっして(いい子)ぶってはいけない!
(09年6月6日記)

(付記)
正義はどうなるのかと心配する人もいるかもしれない。
「日本人としての正義はどうするのか」と。
しかしあんな国を相手に、正義を説いても意味がない。
またその価値もない。
相手は頭のおかしい、ただの独裁者。
自国の失敗を他国に押しつけ、ありもしない他国の脅威を勝手に作りあげて、
独りで騒いでいる。
独りで芝居をしている。
どこまでも悲しく、どこまでもあわれな国である。
だから、ここは『負けるが勝ち』。
要するに相手にしないことこそ、懸命。
それがわからなければ、街角で、チンピラに因縁をつけられたときのことを想像して
みればよい。
あなたはそんなチンピラを相手に、正義など説くだろうか。
たぶん鼻先でフンと笑って、無視して通り過ぎるだろう。
が、それでも殴りかかってきたら……。
そのときは警察、つまり国際社会に訴えていけばよい。
正義を説くなら、相手を選ぶ。
それができてこそ、日本は、先進国なのである。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●23%から21%へ

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体脂肪率が、23%から21%にまで減った。
体重は68キロから64キロに。
肥満度表を見ると、まだ軽肥満の範囲だそうだ。
(健康値と軽肥満のちょうど境目あたりかな?)

2%!
たった2%!
それだけ減らすのに、結構、苦労をした。
食事も1日、2食。
運動も、1日、2単位前後。
(1単位は、40分のサイクリングか、強歩。)

苦しい戦いは、あと1、2週間はつづく。
がんばろう。

++++++++++++++++++

●ダイエットの実感

 おかげでここ数日、自分の体を軽く感ずる。
椅子から立ち上がったときなどに、それを強く感ずる。
少し前は、「ヨイ〜〜ショ!」という感じだったが、今は、「ヨイコラサ」
という感じ。

もっとも子どもたちは、こう言う。
「ぼくたちは、自分の体の重さを感じないよ」と。

私「でも、体重ってものがあるよ」
子「ぼくの体は、重さがないよ」
私「そんなことないよ。重いと思わないのか?」
子「ゼンゼン……」と。

 そう言えば、頭蓋骨というのは、結構重いのだそうだ。
体重の3分の1〜4分の1という説もある。
それによれば私の頭蓋骨は、15キロ前後もあることになる。
夏のスイカよりは、重いはず。
が、こと、頭に関しては、その重さを感じない。
きっと子どもたちも、そういう感じなのだろう。

 そう言えば、ワイフも同じようなことを言った。
「自分の体重を感じたことはないわ」と。

 ウラヤマシイ!

 そういう自分になれるように、もう少しがんばってみよう。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●6月4日(木曜日)
【My Class on the Net】
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毎朝、パソコンを立ち上げると、まっ先にみるのが
『BW公開教室』へのアクセス数。
昨日(6月3日)は、約400件を記録した。
1か月前と比較しても、倍増したことになる。
その数字を見ながら、ホ〜〜ッと、一息。
うれしかった。

現在、いちばん力を入れているのが、この『BW公開教室』。
毎晩、仕事から帰ってくると、30〜40分ほど時間をかけて、
ビデオの編集をする。
(YOUTUBEへのアップロードには、30分ほど
かかる。
その間は、別のパソコンで、原稿を書く。
居間へおりていって、テレビを見ることもある。)

ますますやる気が出てきた。
おまけに最近は、親たちのほうから、要望が届くようになった。
「しっかりと撮影日時を入れてほしい」とか、
「ビデオのあとに、レッスンの内容を説明してほしい」とか、など。
「家に帰ってから、復習ができるからいい」とか、「参観できない
父親が見ることができるのでいい」という意見も、ある。

当初は子どもたちの顔を写すことについて、拒絶反応を示していた親たちも、
「子どもの表情を撮ってほしい」と言うようになった。
撮りたいが、今しばらく、それについては待ってほしい。
もう少し、たがいの信頼関係が熟成されてからでないと、これはむずかしい。
それに子どもの(プライバシー)がそのままわかってしまう。
もっともYOUTUBEは、画質が荒いので、顔がはっきりとわかることはない。

ただこれはあくまでも私の希望ということになるが、こうして動画が
いつか楽しい思い出になればよいと願っている。
子どもといっしょに動画を見ながら、「あなたにも、こんなときがあったのね」と。

ともかくも、『BW公開教室』を見てくれるみなさん、ありがとう。
私はみなさんの子どもに、(教室)を提供する。
みなさんは私に、(生きがい)をくれる。
こういうのを、ギブ&テイクという。
これからも、よろしく!

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●講演の出だし(Speech)

今度の講演の出だしが、決まらない。
ハラハラハラ……。
出だしさえ決まれば、あとは楽。
流れに乗って、そのまま話しつづければよい。
が、その出だしでつまると、あとがたいへん。
ときに講演が、支離滅裂になってしまう。

ときに、壇上にあがるまで出だしが決まらないことがある。
で、話を聞きに来てくれた人たちの顔をながめた、その瞬間、
「ええい、ままよ!」とばかり、思いついたことを話す。

講演というのは、そういうもの。
その場の雰囲気で、話の方向が決まる。
予定通りというか、用意していたレジュメ通りにはいかない。
野球で言えば、ピッチャーの投げるボールのようなもの。
ボールが投げられた瞬間に、ボールをどう打つか、決める。


●K国情勢?【Down with Kim Jong-HILL】

現在(09年6月1〜3日)、朝鮮半島で奇妙なことが起きている。
ひとつは、金xxの後継者が、金正雲(三男)に決まったというニュース。
しかしこのニュースの出所が、へん?
おかしい?
韓国政府の中層部の職員が、勝手に(?)、全世界に向けて発信したらしい。
理由はわからない。
韓国政府はあわててそれを否定。
アメリカ政府も、「確認していない」とコメントを発表。
いったい、どうなっている?

もうひとつは、K国はまたICBMの発射実験をするらしい。
その準備に取りかかっているという。
が、それについて、昨日(3日)、在韓米軍の司令官だと思うが、
不快感を表明した。
「アメリカが発表する前に、韓国が勝手に発表してしまった」と。
アメリカ側は、そのニュースを、もう少し伏せておきたかったらしい。
なぜだろう?

こういう世界には、謀略はつきもの。
ときに何が本当で、何がウソがわからなくなる。
同じ首脳会談でも、当事者の国によって、発表内容が異なったりする。
先のボスワース代理大使の発言が、そうだ。
韓国側の報道によれば、「6か国協議は意味がない」と発言したとある。
が、日本側の報道によれば、「米朝協議は6か国協議の範囲でする」とある。

どうであるにせよ、あのボスワースの動きには警戒したほうがよい。
C・ヒルが作った(流れ)を、そのまま踏襲している。
あのミサイル発射実験(4月5日)のあと、すでにK国と、水面下で
数回以上、接触を繰り返したという。
「7回、接触した」という情報も届いている。

それにしても、あのC・ヒルには、言いたいことが山のようにある。
いいかげんな希望的憶測だけで、無意味な米朝会談を繰り返してしまった。
結果、日米関係は、戦後最悪という状態にまでなってしまった。
その間に、K国は、核兵器を完成させてしまった!

それゆえに、日本人はC・ヒルを、人は、キム・ジョン・ヒルと呼ぶ。
(There we never hesitate to call C. Hill "Kim Jong HILL.")

なお、K国は、テロ支援国家ではない。
テロ国家そのものである。


●離別体験

うつ病の患者を調べてみたら、こんなことがわかったという。
そのうち、39%の人たちが、10歳以前に、親との死別体験、分離体験、
もしくは喪失体験をしていることがわかったという。

そうでない人は、9%しかいなかった。
(以上、社会精神医学7:114〜118)。

同じような報告は、イギリスのバーミンガム病院でも報告されている
(精神医学28:387〜393、1986)。

しかもこれらの報告で興味深いのは、「異性の親との離別体験をもった子ども
ほど、有意な差が見られた」という点である。

(1)死別体験
ただし死別体験は、「家族歴の有無と有意の関連性を示さなかった」という。
離別といっても、子どもの心に影響を与えるのは、その過程で生ずる(騒動)
である。
死別のばあい、家族は深い悲しみに包まれるが、騒動につながることはない。
「有意の関連性を示さなかった」というのは、そういう理由からではないか。

(2)分離体験(離別体験)
何かの理由により、親のもとを離れることをいう。
この場合、「異性親である際に、強いものであった」という。
父親と離別すれば、娘のほうが大きな影響を受ける。
母親と離別すれば、息子のほうが大きな影響を受ける。
どうもそういうことらしい。

(3)喪失体験(離別体験)
親の離婚などにより、親から切り離されることをいう。
とくに注意したいのが、愛情の喪失。
子どもというのは、環境の変化には、強い抵抗力を示す。
ばあいによっては、よい影響を与えることもある。
よく「転勤族の子どもは、頭がいい」と言う。
それは、そういう理由による。

が、子どもというのは、愛情の変化には敏感に反応する。
とくに愛情の糸が切れたようなとき、あるいはそれを子どもが感じ取ったとき、
子どもの心には決定的とも言えるほど、大きな影響を与える。
年少であればあるほど、大きな影響を与える。

また異性親からの離別を体験したものを調べてみたところ、
家族歴、つまり両親のどちらかに精神疾患をもっているケースでは、
20人のうち、7人(35%)が、抑うつ症状を示したという。
それに対して、家族歴のないばあいは、19人中、ゼロであったという(同)。

以上のことから、北村俊則氏は、「うつ病発症に関与していると考えられる幼少期
の離別体験は、一部には家族員の精神疾患から発生したものである
可能性が示された」と結論づけている。

わかりやすく言えば、うつ病の多くは、世代連鎖性をともなっているということ。
親が離婚するにしても、「明るくさわやかに」ということになる。
繰り返すが、離婚が子どもの心に影響を与えるのではない。
離婚に至る、ドタバタ劇が、子どもの心に影響を与える。
言い換えると、離婚しなくても、ドタバタ劇があれば、子どもの心に影響を
与えることになるということにもなる。

父親が酒乱で、数日おきに暴れたりすれば、その影響は確実に子どもに及ぶ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
離別体験 死別体験 分離体験 喪失体験 離婚騒動 離婚劇 騒動と子ども心
子供と離婚)


Hiroshi Hayashi++++++++June09++++++++++はやし浩司

●私の近未来像(老後の生きがい)(The Reason for Living)

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昨日、講演をさせてもらった、S小学校の
校長から、こんな話を聞いた。

なんでもその老人は、今年84歳になるという。
元、小学校の教師。
毎月、一回、植物観察会を開いているという。
無料で開いているという。

日時と集合場所が、毎月、決まっている。
が、集まる会員と人数は、そのつどちがうらしい。
雨の日などは、ゼロになることもあるという。
が、その老人は休むということをしない。
雨の中で、会員が来るのをじっと待っているという。
そして時刻になっても、だれも来ないと、それを
確かめたあと、その場を離れて、家に帰る、と。

その話を聞いて、「すばらしい」と思う前に、
私自身の近未来像をみせてもらったようで、
うれしかった。

「多分、私もそうなるだろう」と。

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●老後の生きがい

 私自身もそうだったが、(老後の生きがい)について、みな、あまりにも安易に
考えすぎている。
「安易」というより、「何も考えていない」。

 「老後になったら、休む」とか、「遊ぶ」とか言う人は多い。
しかし「遊べ」と言われても、遊べるものではない。
「休め」と言われても、休めるものではない。
だいたいた、遊んだからといって、それがどうなのか?
休んだからといって、それがどうなのか?
私たちが求めているのは、その先。
「だからそれがどうしたの?」という部分。
つまり、(生きがい)。

 もしそれがないようだったら、私のように死ぬまで仕事をするということになる。
仕事をつづけることによって、老後になるのを、先送りすることができる。
が、仕事がいやなのではない。
仕事ができるということも、喜びなのだ。
その(喜び)を絶やさないようにする。

 目が見える。
音が聞こえる。
ものを考えることができる。
体が動く。
……それらすべてが集合されて、(生きる喜び)につながる。

●自分との戦い

 その老人の気持ちが、痛いほど、私にはよく理解できる。
その老人にしてみれば、それが(生きがい)なのだ。
雨の日に、ひとりで、どこかで待つのはつらいことだろう……と、あなたは
思うかもしれない。
「なんら得にもならないようなことをして、何になるだろう」と思う人も
いるかもしれない。
しかしその老人は、そういう世俗的な同情など、とっくの昔に超越している。
そこらのインチキ・タレントが、名声を利用して開くチャリィティ・コンサートとは、
中身がちがう。
心の入れ方がちがう。
(みなさんも、ああした偽善にだまされてはいけない!)

 その老人にしてみれば、参加者が来ても、また来なくても、かまわない。
たった1人でもよい。
多ければ多いほど、やりがいはあるだろう。
しかし(やりがい)イコール、(生きがい)ということでもない。
つまりそれは他者のためではない。
自分自身のため。
老後の生きがいというのは、つまるところ、(自分自身の生きがい)。
それとの戦いということになる。

●統合性は、無私無欲で……

 まだその芽は、小さいかもしれない。
しかしその心は、私も大切にしたい。

何度も書くが、「老後の統合性」は、無私無欲でなければならない。
そこに欲得がからんだとたん、統合性は意味を失い、霧散する。
仮にその老人が会費なるものを徴収して、観察会を開いていたとしたら、どうだろうか。
最初のうちは、ボランティア(=無料奉仕)のつもりで始めても、
そこに生活がからんできたとたん、(つもり)が(つもり)でなくなってしまう。
「今日は1人しか来なかった……」という思いは、そのまま落胆につながる。
「雨の中で待っていたのに、だれも来なかった。
みな、恩知らず」と思うようになったら、おしまい。

 だったら、最初から、無私無欲でなければならない。
またそうでないと、つづかない。
こうした活動は途切れたとたん、そこで終わってしまう。
生きがいも、そこで消えてしまう。
つまりそれがいやだったら、最初から無私無欲でやる。
何も考えず、無私無欲でやる。

 もちろん私にもいくつかの夢がある。
そのひとつは、「子育て相談会」。
今まで積み重ねてきた経験と知恵を、若い親たちに伝えたい。
もちろん無料で。
もちろん損得を考えることなく。
そうした計画は立てている。

 今は、インターネットを利用して、その(まねごと)のようなことをしている。
しかしそれもやがて限界に来るはず。
無私無欲とは言いながら、いつもどこかで、何かの(得)を考えている。
アクセス数がふえれば、うれしい。
ふえなければ、とたんにやる気を失う。
つまりそれだけ私の心が不純であることを示す。

 もっとも仕事ができるといっても、あと8年。
70歳まで。
そのことまでに、私の統合性を確立したい。
少しずつだが、その目標に向かって、進みたい。
そしていつか……。

 どこかの会場で、ひとりでポツンと、来るか来ないかわからない親を待つ。
そして時間が来て、だれも来なくても、そんなことは気にせず、
鼻歌でも歌いながら、会場を片づける。
そんな日が来ればいい。
そんな日が来るのを目標にしたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
 Hayashi 林浩司 BW 老後の統合性 はやし浩司 統合性の確立 生きがい
老後の生きがい 生き甲斐 生き甲斐論 生きがい論)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

【我ら、ヤング・オールド・マン】(1)

              浜松市 入野町  はやし浩司

●無料の植物観察会

昨日、講演をさせてもらった、S小学校の校長から、こんな話を聞いた。なんでもその老人は、
今年84歳になるという。元、小学校の教師。毎月、一回、植物観察会を開いているという。無
料で開いているという。

日時と集合場所が、毎月、決まっている。が、集まる会員と人数は、そのつどちがうらしい。雨
の日などは、ゼロになることもあるという。が、その老人は休むということをしない。雨の中で、
会員が来るのをじっと待っているという。そして時刻になっても、だれも来ないと、それを確かめ
たあと、その場を離れて、家に帰る、と。
 
その話を聞いて、「すばらしい」と思う前に、私自身の近未来の目標を示してもらったよ
うで、うれしかった。「私もそうしたい」と。

●老後の生きがい

 私自身もそうだったが、(老後の生きがい)について、みな、あまりにも安易に考えすぎ
ている。「安易」というより、「何も考えていない」。

 「老後になったら、休む」とか、「遊ぶ」とか言う人は多い。しかし「遊べ」と言われて
も、遊べるものではない。「休め」と言われても、休めるものではない。だいたいた、遊ん
だからといって、それがどうなのか? 休んだからといって、それがどうなのか? 私た
ちが求めているのは、その先。「だからそれがどうしたの?」という部分。つまり、(生き
がい)。

 もしそれがないようだったら、私のように死ぬまで仕事をするということになる。仕事
をつづけることによって、老後になるのを、先送りすることができる。が、仕事がいやな
のではない。仕事ができるということも、喜びなのだ。その(喜び)を絶やさないように
する。

 目が見える。音が聞こえる。ものを考えることができる。体が動く。……それらすべて
が集合されて、(生きる喜び)につながる。

●自分との戦い

 その老人の気持ちが、痛いほど、私にはよく理解できる。その老人にしてみれば、それ
が(生きがい)なのだ。雨の日に、ひとりで、どこかで待つのはつらいことだろう……と、
あなたは思うかもしれない。「なんら得にもならないようなことをして、何になるだろう」
と思う人もいるかもしれない。しかしその老人は、そういう世俗的な同情など、とっくの
昔に超越している。そこらのだれかが、名声を求めて派手に振る舞う偽善とは、中身がちが
う。心の入れ方がちがう。

 その老人にしてみれば、参加者が来ても、また来なくても、かまわない。たった1人で
もよい。多ければ多いほど、やりがいはあるだろう。しかし(やりがい)イコール、(生き
がい)ということでもない。つまりそれは他者のためではない。自分自身のため。老後の
生きがいというのは、つまるところ、(自分自身の生きがい)。それとの戦いということに
なる。

●統合性は、無私無欲で……

 まだその芽は、小さいかもしれない。しかしその心は、私も大切にしたい。

何度も書くが、「老後の統合性」は、無私無欲でなければならない。そこに欲得がからんだとた
ん、統合性は意味を失い、霧散する。仮にその老人が会費なるものを徴収して、観察会を開
いていたとしたら、どうだろうか。最初のうちは、ボランティア(=無料奉仕)のつもりで始めて
も、そこに生活がからんできたとたん、(つもり)が(つもり)でなくなってしまう。「今日は1人しか
来なかった……」という思いは、そのまま落胆につながる。「雨の中で待っていたのに、だれも
来なかった。みな、恩知らず」と思うようになったら、おしまい。

 だったら、最初から、無私無欲でなければならない。またそうでないと、つづかない。
こうした活動は途切れたとたん、そこで終わってしまう。生きがいも、そこで消えてしま
う。つまりそれがいやだったら、最初から無私無欲でやる。何も考えず、無私無欲でやる。

 もちろん私にもいくつかの夢がある。そのひとつは、「子育て相談会」。今まで積み重ね
てきた経験と知恵を、若い親たちに伝えたい。もちろん無料で。もちろん損得を考えるこ
となく。そうした計画は立てている。

 今は、インターネットを利用して、その(まねごと)のようなことをしている。しかし
それもやがて限界に来るはず。無私無欲とは言いながら、いつもどこかで、何かの(得)
を考えている。アクセス数がふえれば、うれしい。ふえなければ、とたんにやる気を失う。
つまりそれだけ私の心が不純であることを示す。

 もっとも仕事ができるといっても、あと8年。70歳まで。そのころまでに、私の統合
性を確立したい。少しずつだが、その目標に向かって、進みたい。そしていつか……。

 どこかの会場で、ひとりでポツンと、来るか来ないかわからない親を待つ。そして時間
が来て、だれも来なくても、そんなことは気にせず、鼻歌でも歌いながら、会場を片づけ
る。そんな日が来ればよい。そんな日が来るのを目標にしたい。

(注)統合性の確立……(やるべきこと)と(現実に自分がしていること)を一致させる
ことをいう(エリクソン)。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●「抑圧」の恐ろしさ(Another Room in the Mind)

++++++++++++++++++++

よく兵士、あるいは元兵士の残忍行為が問題になる。
最近でも、アメリカの収容所で、アメリカ兵が
イラク軍捕虜に対して暴力、暴行を繰り返したという事件が
問題になった。

こう書くからといって、アメリカ兵を擁護するわけではない。
が、こうした問題は、常に戦争について回る。
戦時中には、日本軍もした。
ドイツ軍もした。
その多くはPTSDに苦しみ、さらには心そのものを
病んでしまう兵士も珍しくない。
昨年見た映画の、『アナザー・カントリー』も、そうした兵士を
題材にした映画だった。

が、こうした問題も、心理学でいう「抑圧」を当てはめてみると、
理解できる。

++++++++++++++++++++

●抑圧

 自分にとって都合が悪い記憶があると、人はそれは心の別室を用意し、そこへそれを
押し込めてしまう。
そうすることで、自分の心が不安定になったり、動揺したりするのを防ぐ。
こうした現象を、心理学の世界では、「抑圧」という。
「隠ぺい記憶」と言う人もいる。

 もともとは乳幼児期の不快な思い出や記憶について起こる現象を説明したものだが、
もちろんおとなになってからも、ある。
何かのことで失敗したり、いやなことがあったりすると、それをできるだけ早く
忘れようと、心の別室を用意し、その中に押し込んでしまう。

●上書きされない

 ふつう記憶というのは、どんどんと上書きされていく。
たとえば不愉快なことがあっても、そのあと楽しいことがつづくと、過去の記憶を
忘れてしまう。

 が、心の別室に入った記憶には、その(上書き)という操作が働かない。
別室に入ったまま閉じ込められているから、修正されるということもない。
だから何かの拍子に表に出てくる。
たとえば高校生になった子どもが、5年前、あるいは10年前にあったことを持ち出し、
「あのとき、テメエは!」と言って、親に対してどなり散らすことがある。

 また最近聞いた話では、ともに70歳前後の夫婦なのだが、喧嘩するたびに、30年前、
40年前の話を持ち出して、たがいに責めあうという。
それを横で聞いていた娘(50歳くらい)は、こう言った。
「どうしてそんな昔の話をして、喧嘩するのでしょう。
頭がボケてきたのでしょうか」と。

 もちろん頭はボケていない。
(あるいはボケとは関係ない。)
抑圧された記憶というのは、そういうもの。

●子どもの世界でも

 「いい子ほど心配」とは、教育の世界では、よく言う。
先生や親の言うことに従順で、すなお。
ハイハイと指示や命令に従う……。
しかしこのタイプの子どもほど、あとあと心をゆがめやすい。
(あるいはその過程で、すでに心をゆがめている。)
思春期前夜、あるいは思春期になると、突然変化することも珍しくない。
はげしい家庭内暴力や、引きこもりにつながることもある。
何かのことで突発的に爆発して、こう叫んだりする。
「こんなオレにしたのは、テメエだろう!」と。

 心の別室には、キャパシティ(容量)というものがある。
そのキャパシティを超えると、隠ぺいされた記憶が、そこから突然、飛び出す。
本人ですらも、コントロールできなくなる。

 そんなわけで、子どもを指導するとき大切なことは、子どもに、
心の別室を作らせないこと。
まず言いたいことを言わせる。
したいことをさせる。
常に心を開放させる。
それが子どもの心をゆがめないコツということになる。

●兵士のばあい

 話を戻す。
もちろん私には戦争の経験はない。
ないが、おおよその見当はつく。
つまり兵士たちは、戦場では、慢性的に恐怖感にさらされる。
そのとき兵士は、その恐怖感を、心に別室を作り、そこへ押し込めようとする。
その上で、勇敢な兵士を演じたりする。

 が、これが心をゆがめる。
何かのきっかけ、たとえば相手が捕虜であっても、敵の顔を見たとたん、隠ぺい
された記憶が暴走し始める。
それは「記憶の暴走」と言うような、簡単なものではないかもしれない。
暴走させることによって、心の別室にたまった、恐怖感を解消しようとするの
かもしれない。
それが捕虜への、暴力や暴行へとつながっていく。

●教授の殺害事件

 今年(09)に入ってから、ある大学で、ある大学の教授が、元学生に殺害
されるという事件が起きた。
動機はまだはっきりしていないが、その学生は教授に対して、かなりの恨みを
もっていたらしい。

 この事件も、「抑圧」という言葉を当てはめてみると、説明できる。
というのも、その元学生のばあいも、元学生とはいっても、大学を卒業してから、
すでに10年近くもたっている。
ふつうなら、いろいろな思い出が上書きされ、過去の思い出は消えていてもおかしく
ない。
が、先にも書いたように、一度心の別室に入った記憶は、上書きされるということは
ない。
いつまでも、そのまま心の中に残る。
そこで時間を止める。

●心の別室

 ところで「心の別室」という言葉は、私が考えた。
心理学の正式な用語ではない。
しかし「抑圧」を考えるときは、「心の別室」という概念を頭に描かないと、どうも
それをうまく説明できない。
さらに「心の別室」という概念を頭に描くことによって、たとえば多重人格性などの
現象もそれで説明ができるようになる。

 人は何らかの強烈なショックを受けると、そのショックを自分の力では処理することが
できず、心の別室を用意して、そこへ自分を押し込めようとする。
「いやなことは早く忘れよう」とする。
しかし実際には、「忘れる」のではない。
(その記憶が衝撃的なものであればあるほど、忘れることはできない。)
だから心の中に、別室を作る。
そこへその記憶を閉じ込める。

●では、どうするか

 すでに心の別室を作ってしまった人は、多いと思う。
程度の差の問題で、ほとんどの人に、心の別室はある。
暗くてジメジメした大倉庫のような別室をもっている人もいる。
あるいは物置小屋のような、小さな別室程度の人もいる。

 別室が悪いと決めつけてはいけない。
私たちは心の別室を用意することによって、先にも書いたように、
自分の心が不安定になったり、動揺したりするのを防ぐ。

 が、その別室の中の自分が、外へ飛び出し、勝手に暴れるのは、よくない。
その瞬間、私は「私」でなくなってしまう。
ふつう心の別室に住んでいる「私」は陰湿で、邪悪な「私」である。
ユングが説いた「シャドウ」も、同じように考えてよい。
あるいはトラウマ(心的外傷)も、同じように考えてよい。
そこで大切なことは、まず自分自身の中にある、心の別室に気がつくこと。
そしてその中に、どんな「私」がいるかに気がつくこと。

 シャドウにしても、トラウマにしても、一生、その人の心の中に残る。
消そうとして消えるものではない。
だったら、あとは、それとうまく付きあう。
うまく付きあうしかない。
まずいのは、そういう自分に気がつかないまま、つまり心の別室にきがつかない
まま、さらにはその中にどんな「私」がいるかに気がつかないまま、その「私」に
振り回されること。
同じ失敗を、何度も繰り返すこと。

 たとえば夫婦喧嘩にしてもそうだ。
(私たち夫婦も、そうだが……。)
もうとっくの昔に忘れてしまってよいはずの昔の(こだわり)を持ち出して、
周期的に、同じような喧嘩を繰り返す。
「あのときお前は!」「あなただってエ!」と。

 もしそうなら、それこそ「愚か」というもの。
が、もし心の別室に気がつき、その中にどんな「私」がいるかを知れば、あとは
時間が解決してくれる。
5年とか、10年はかかるかもしれないが、(あるいは程度の問題もあるが)、
時間が解決してくれる。

 あとは心の別室を静かに閉じておく。
その問題には触れないようにする。
心の別室のドアは、開かないようにする。
対処の仕方は、シャドウ、もしくはトラウマに対するものと同じように考えてよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW BWきょうしつ 心の別室 はやし浩司 抑圧 抑圧と
心の別室 シャドウ はやし浩司 トラウマ)

(付記)

 心の別室といっても、けっしてひとつではない。
そのつど人は、様々な大きさの別室を、作る。
作って、自分の心を救済しようとする。

 ……と考えていくと、心の別室というのは、脳の問題というよりは、習慣の問題
ということになる。
心の別室を作りやすい人と、そうでない人がいるということ。
何かあるたびに、心の別室を作り、そこへ自分を閉じ込めようとする人もいれば、
そのつど自分を発散させ、心の別室を作らない人もいる。
だから「習慣の問題」ということになる。

 もちろんできれば、心の別室など、作らないほうがよい。
そのつど自分を発散させたほうがよい。

(追記)

 同じような原稿を、この3月にも書いた。
あわせて読んでほしい。

『●「抑圧」(pressure)

+++++++++++++

昨日、「抑圧」について書いた。
強烈な欲求不満がつづくと、人(子ども)は、
その欲求不満を、心の中の別室に押し込んで、
それから逃れようとする。
が、それでその欲求不満が解消されるわけではない。
10年とか、20年とか、さらには40年とか、
50年たっても、それが何らかのきっかけで、
爆発することがある。

「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と。

++++++++++++++++++

が、こうした「抑圧」は、形こそちがえ、また
大小のちがいもあるが、だれにでもある。
あなたにもある。
私にもある。

だから、何かのことで不満を感じたら、そのつど、
外に向かって吐き出すのがよい。
けっして、心の中にためこまない。
徒然草の中にも、『もの言わぬは、腹ふくるるわざなれ』※
とある。
「言いたいことも言わないでいると、腹の中がふくれてくる」
という意味である。

が、その程度ですめばよい。
ひどいばあいには、心に別室ができてしまう。
本来なら楽しい思い出が上書きされ、不愉快な思い出は消える。
しかし別室に入っているため、上書きされるということがない。
そのまま、それこそ一生、そこに残る。
そして折につけ、爆発する。

「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と。

そして10年前、20年前の話を持ち出して、相手を責める。

こうした抑圧された感情を解消するためには、2つの
方法がある。

ひとつは、一度、大爆発をして、すべて吐き出す。
もうひとつは、原因となった、相手が消える。
私のばあいも、親に対していろいろな抑圧があるにはあった。
しかし父は、私が30代のはじめに。
母は、昨年、他界した。
とたん、父や母へのこだわりが消えた。
同時に、私は抑圧から解放された。

親が死んだことを喜んでいるのではない。
しかしほっとしたのは、事実。
それまでに、いろいろあった。
ありすぎてここには書ききれないが、それから解放された。
母は母で、私たちに心配をかけまいとしていたのかもしれない。
しかしどんな生き方をしたところで、私たちは、それですまなかった。
「では、お母さんは、お母さんで、勝手に生きてください。
死んでください」とは、とても言えなかった。

人によっては、「朝、見に行ったら死んでいたという状態でも
しかたないのでは」と言った。
が、それは他人のことだから、そう言える。
自分の親のこととなると、そうは言えない。
いくらいろいろあったにせよ、家族は家族。
いっしょに生きてきたという(部分)まで、消すことはできない。

話が脱線したが、抑圧は、その人の心までゆがめる。
そういう例は、ゴマンとある。
大切なことは、心の別室を作るほどまで、抑圧をためこまないこと。
言いたいことも言えない、したいこともできないというのであれば、
すでにそのとき、その人との人間関係は終わっていると考えてよい』。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

● テロ支援国家?(Is North Korea a Terrorists' Support Nation?)

To: Ms. H. Clinton, the Secretary of the United States of America,

Please remember that, first of all, North Korea is not a "Terrorists' Support Nation".
It is NOT. North Korea is a "Terrorists' Nation" itself.
Now you feel terrified and something which is terrifying you by the ICBM's with nuclear 
weapons and can understand how we feel about North Korea.
We have pointed out many times in these past five years, the mistakes made by C. Hill and 
then we hope you would not repeat the same mistakes as C. Hill did through the 6-nation 
conference.
 
ニュースを読んで、いろいろ考える。
その一。
アメリカのクリントン国務長官が、K国を
テロ支援国家に再指定するかもしれないと
言い出した。

テロ支援国家?
とんでもない!
あの国は、テロ支援国家ではない。
テロ国家そのもの!

「あのね、クリントン国務長官、
K国はテロ支援国家ではありませんよ。
テロ国家そのものですよ。
日本を脅し(terrified)、韓国を脅している。
今度はアメリカを脅している。
先のミサイル発射で、日本人は、どれほど
恐怖を感じたことか
つぎは核兵器。
私たちは直接的な恐怖を感じています。
だから、K国は、テロ支援国家ではありません。
テロ国家そのものです。
指定するなら、(テロ国家)そのものと指定してください」。

大切なことは、C. Hill国務次官補がした愚かなまちがいを、繰り返さないこと。
あのC. Hillは、独断と偏見で、極東アジア情勢をめちゃめちゃにしてしまった。
聞くところによると、「私が極東問題を解決してみせる」と、自ら国務省内部で
名乗り出て、あの地位に就いたとか。

その結果が今。
C. Hill氏の息子氏は、韓国のH社製の車を乗り回している。
大の韓国びいきということは、そのことでもわかる。
(ついでに、たいへんな日本嫌いということも、漏れ伝わってきている。)
それはわかるが、しかし当時の大統領は、あのノ氏。
K国の代弁者(スポークスマン)とまで揶揄(やゆ)された、あのノ氏。
結局は、C. Hill氏も、「太陽政策」とやらに乗せられただけ。
つまり、K国にだまされた。
よいように扱われた。
今ごろそれがわかっても、遅いが……。

++++++++++++++++++H.Hayashi

●韓国のみなさんへ

 あんな国を、本気で相手にしてはいけない。
相手にしても意味はない。
アジアどころか、世界でも最貧国のあんな国を、本気で相手にして、どうなる?

 ここ数日、韓国の新聞記事を呼んでいると、勇ましい好戦ばかりが目立つ。
まるで戦争ゲームでも楽しんでいるかのよう。
それもそのはず。
韓国の軍隊は、完全に近代化している。
兵隊の動きを、宇宙から、ひとり残らず、すべて監視している。
かたやK国の軍隊は、終戦直後の日本のまま。
どうあがいても、K国に勝ち目はない。
(だからこそ、核兵器に最後の望みをかけているということにもなるのだが……。)

が、しかしそれでも戦争はしてはいけない。
この話は、勝つとか、負けるとか、そういうレベルの話ではない。
K国は戦争を突破口に、自分たちの悪政を正当化しようとしている。
それがわかったら、あんな国に手を出してはいけない。
そんなことは、ほんの少しだけ想像力を働かせてみれば、わかること。

 韓国とて、無事にすまない。
K国が崩壊すれば、そのまま朝鮮半島は大混乱。
その収拾をするだけでも、たいへん!
戦後処理となると、さらに、たいへん!
核兵器が使われるようなことにでもなれば、それこそ取り返しのつかないことに
なる。
もちろん韓国経済は、奈落の底に。
日本経済も、奈落の底に。

 だったら、ここはK国の友邦国である中国に責任を取ってもらえばよい。
またそういう道筋を立てる。
韓国や日本が、あえて火中の栗を拾う必要はない。
言い換えると、K国問題は、中国問題と考える。
中国が動かないかぎり、K国は動かない。
中国も、そのことを、いちばんよく知っている。

 だからK国が仮に局地的な攻撃をしかけてきても、韓国は、そして日本も、
ノラリクラリと、それをかわせばよい。
そのつど国際社会に訴えていき、その一方で、中国を締めあげればよい。
「あなたの責任で、K国を何とかしろ!」と。

 韓国の国益、そして日本の国益、その第一は、韓国や日本を戦場としないこと。
身勝手とか、臆病者と言われても、気にすることはない。
もともとあんな国、本気で相手にする必要はない。
あんな国を相手に、正義を貫いても意味はない。
その価値もない。

 そう言えば、この日本でも敵地攻撃論が台頭してきた。
「攻撃されれば、反撃する」と。
こういうおバカがいるから、いつまでたっても、戦争は終わらない。
報復が報復を呼び、やがて戦争は泥沼化する。
で、その結果、犠牲になるのは、いつも一般の民衆。

 韓国も日本も、引けるところまで、身を引く。
さらに身を引く。
またさらに身を引く。

今こそ、私たちは、その忍耐力が試されている。
その忍耐力こそが、韓国、ならびに日本の平和と安全を守る。
けっしてうかつに手を出してはいけない。
手を出せば、それこそK国の思うツボ。
そのままK国のワナにかかる。
「待ってました!」とばかり、K国は、韓国や日本に攻撃を拡大してくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
K国のミサイル迎撃反対 ICBM迎撃反対)
(2009年6月8日朝、記)


Hiroshi Hayashi++++++++June09++++++++++はやし浩司

●激太り

+++++++++++++++++++

久しぶりに、ワイフの友人のKさん(女性、68歳)を見て、
驚いた。
ほんの半年前までは、むしろ痩せ型の、ほっそりと
した人だった。
が、先月(5月)に会ってみたら、まるで別人の
ようになっていた。
太っていた。
顔が、お月様のようになっていた。
その直後、私はKさんのうしろ姿を見たが、太って
いるというよりは、体全体が、ポテポテとなったような
感じだった。

言い忘れたが、Kさんというのは、最近、専門医に
アルツハイマー病と診断された女性である。
私のエッセーの中でも、たびたび取りあげてきた。

……と書いても、どうか誤解しないでほしい。
診断名はどうであれ、会って話している間は、Kさんは、
ごくふつうの女性である。
ちゃんとした会話もできる。
道理も通ずる。
ただ、どこかものの言い方もぶっきらぼうで、人の話を聞かない。
一方的にペラペラとしゃべるだけ。
繊細な会話ができない。
そういった特徴はあるにはあるが、ごくふつうの人と、どこも
ちがわない。
それに以前からそうだったといえば、そうだった。
最近になって、とくにそうなったというわけではない。

が、そのKさんが、わずかな期間で、激太りした!

+++++++++++++++++++++

●高齢者の激太りは危険?

 「高齢者の激太りは危険」なのだそうだ。
『アルツハイマー病にならない』(朝日新聞社・井原・荒井著)の中にも、そう書いてある。
いわく「女性が高齢になってから過剰に体重を増すことは、認知症の危険因子と考え
られました」(P114)と。
(ただし正確には、ApoE遺伝子が関連していて、その遺伝子があると、たとえば摂取
脂肪が多いばあい、リスク度が約2・3倍になるという。)

が、因果関係については書いてない。
(認知症になると、激太りすることもあるのか)、それとも(激太りしたから、
そのことによって、認知症が進むのか)。
同書の中では、「肥満は、アルツハイマー病の危険因子のひとつ」とある。
肥満がよくないことは、それでよくわかる。

 で、私の解釈によれば、アルツハイマー病というのが、避けることのできない、
また治療法が確立していない病気であるとするなら、(認知症になると、
激太りすることもある)と考えるほうが、妥当ということになる。
認知症になれば、(アルツハイマー病も当然、それに含まれるが)、当然のことながら、
自己管理能力そのものが低下する。
手当たり次第、そこらにあるものを何でも口の中に入れるようになる。
思い込みも激しくなり、うつ病を併発することもある。
うつ病薬というのは、基本的にはどれにも、食欲増進薬と考えてよい。
うつ病薬を服用したため、劇太りしたという話はよく耳にする。

 つまり、(アルツハイマー病)→(自己管理能力の低下)→(思い込みがはげしくなる)
→(うつ病の併発)→(治療薬の服用)→……と進んで、Kさんは激太りした(?)。

 私が「あんなに変わってしまうと、街ですれちがっても、わからないよ」と言うと、
ワイフも「そうねエ〜」と。
つまりそれくらい、Kさんの顔つきは変わってしまっていた。

 が、この問題だけは、まさに「明日はわが身」。
けっして他人ごとで、すまされない。
仮に健康でこのまま老齢期を迎えたとしても、満80歳を過ぎれば、約80%の
人が、90歳を過ぎれば、約90%の人が、認知症になると言われている(某介護
センター所長の言葉)。
早いか遅いかのちがいがあるだけで、私もあなたも、みな、そうなる。

 加えて現在、私はダイエット中。
毎日が空腹感との闘い。
それだけにKさんの話が、身にしみた。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●自己正当化(Self-Justification)

+++++++++++++++++

なんだかんだと理由をこじつけて、
自分を正当化する。
そういうケースは、多い。
たとえば自分が失敗しても、「もともとは、
あいつが悪いから、こうなった」
「たまたま運が悪かっただけ」と。
が、それを悪いことと決めつけてはいけない。
(よくないことは、確かだが……。)

つまりそうすることで、人は、自分の心を
救済しようとする。
個人的なことというよりは、だれにでも
そういう傾向があるという意味で、
心理学の登場ということになる。

+++++++++++++++++

●投射

 ある夕方、A君(小3)の母親から電話がかかってきた。
話を聞くと、A君が、「林先生(=私のこと)が、ぼくを嫌っている」と言っているという。
しかし私には、そんな気持ちは、まったくない。
そこで話をよく聞くと、こういうことだった。

 A君が勉強から逃げ始めたのは、その数か月ほど前からのことだった。
理由はわからない。
たぶん過剰負担からではなかったか。
学習中も、やる気なさそうに、時間をつぶすことが多くなった。
そこで私はそのつど、こまかく、A君を注意した。
が、それがよくなかった。
A君はやがて私を避けるようになり、ついで、私を嫌うようになった。
A君が、(私ではなく、A君が)、私を嫌った。

 心理学の世界にも、「投射」という言葉がある。
自分の感情を相手に投射させて、「自分が悪いのは、相手のせいだ」と、責任を回避する
ことをいう。

 たとえばこのばあいも、A君は、(勉強がいやだ)→(林先生がぼくにきびしい)
→(だからぼくは、林先生が嫌い)→(林先生がぼくを嫌っているからだ)と、
自分の気持ちを、私に投射してしまった。

 わかりやすく言えば、たとえばあなたがBさんならBさんを嫌いだったとする。
そのときあなたは、こう言って、自分の感情を正当化する。
「私がBさんを嫌いなのは、私が悪いからではない。
Bさんが、私を嫌っているからだ」と。
つまり私には責任はない。
そういうふうに思わせているのは、Bさんのほうだ、と。

●老人心理

 私もその仲間に入って、おもしろいことに気づきつつある。
老人世界という(仲間)である。

 相手が幼児のばあいも、それがよくわかる。
しかし相手が老人だと、さらにそれがよくわかる。
老人になればなるほど、人はまさに、心理学の教科書どおりの行動をするようになる。
それに気づきつつある。

 老人といっても、いろいろある。
老人のなり方も、人によって、みな、ちがう。
しかし老人になればなるほど、その人の内なる「私」が、モロに表に出てくる。
たとえばフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使った。
ユングは、「生的エネルギー」という言葉を使った。
そうしたエネルギーは、老人を見れば、よくわかる。
それこそ車椅子に座ったままの生活をしているような老人が、一日中、「飯(めし)、
よこせエ(=くれ)」と叫んでいる。

 そういう姿を見ていると、生きる力のものすごさを感ずる。
と、同時に、「ああ、これがユングの説いた、生的エネルギーなんだ」とわかる。
もちろん色恋沙汰も、多い。
近くの老人ホームで働く女性が、こう教えてくれた。
「80代の女性たちが、1人の男性を取りあって、とっくみあいの喧嘩を
していますよ」と。
老人だから、そういうことに興味をなくすと考えるのは、まったくの誤解。
むしろ若いときより、はげしくなる。

 つまりこういう形で、老人たちは、人間の心理を、そのまま表現してくれる。
(あるいはフロイトやユングは、老人を見ながら、心理学をまとめたのかもしれない?
今、ふと、そんな疑念がわいてきた。)
ともかくも、老人たちを見ていると、相手が幼児ではわからなかったようなことが、
わかることがある。
「老人」といっても、私自身も含めての話だが……。

●嫌う

 話を戻す。
「嫌う」という感情は、ものすごいエネルギーを消耗する。
仏教の世界には、四苦八苦の一つとして、『怨憎会苦(おんぞうえく)』という言葉
さえある。

 人を嫌うのも、たいへんということ。
疲れる。
扱い方をまちがえると、心が腐る。
それゆえに、人は、(嫌う)という感情を、いろいろな形で、自分から発散させようとする。
そのひとつが、「投射」ということになる。
「私があの人を嫌うのは、私が悪いからではない。あの人が私を嫌っているからだ」と。

 先のA君(小3)のケースでいうなら、「ぼくが勉強を嫌いになったのは、林先生が
ぼくを嫌っているからだ」と。
そこでこういうケースのばあい、たいてい先手を打って、A君は、私の悪口を言い始める。
「林先生は、えこひいきをする」
「林先生は、まちがえると怒る」
「林先生は、ていねいに教えてくれない」と。

 つまりそういう形で、親を誘導する。
親をして、「そんな教室なら、やめなさい」と思うようにしむける。
子どもがよく使う手である。
だからこのタイプの子ども(プラス親)は、やめ方がきたない。
ある日突然、電話一本で、そのままやめていく。
「今日でやめます!」とか、など。

●「私」はどこに?

 こうして人の心というのは、集約され、普遍化される。
つまりどの人も、「私は私」と思って行動しているかもしれないが、その実、
ある一定のパターンで行動しているのがわかる。
それが「普遍化」ということになる。
わかりやすく言えば、北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメ。
同じように、アラスカに住む人間も、タスマニアに住む人間も、人間は人間。
大きく違うようで、それほど違わない。
あるいはまったく同じ。

 言い換えると、その(同じ)という部分を抜け出さないかぎり、人は「私」を
つかむことはできない。
そのためには、まず人間の心理を知り尽くす。
その上で、「では、私はどうあるべきか」を考える。
その操作を怠ると、それこそハイデッガー※の言った、『ただの人』になってしまう。
ハイデッガーは、軽蔑の念をこめて、『ただの人』という言葉を使った。
が、それはとりもなおさず、「個人の死」を意味する。
「人生の敗北」を意味する。
 余計なことかもしれないが……。

(注※)ハイデッガー(マルティン・ハイデッガー)……1889〜1976、
ドイツの哲学者。20世紀最大の哲学者と評されている。
「自分の未来に不安をもたず、自己を見失ってだらだらと生きる堕落人間を、
ひと(das Mann)と呼びました」(「哲学」宇都宮輝夫・PHP)とある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi 
Hayashi 林浩司 BW BW教室 ハイデッガー Das Mann ただの人
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Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●『ただの人(Das Mann)』 

+++++++++++++++++++++++++

「(ハイデッガーは)、自分の未来に不安をもたず、
自己を見失って、だらだらと生きる堕落人間を、
ひと(das Mann)と呼びました」(「哲学」宇都宮輝夫・
PHP)と。

+++++++++++++++++++++++++

●堕落人間

 堕落人間(ハイデッガー)は、いくらでもいる。
ここにも、そこにも、あそこにも……。
年齢が若いならともかくも、60歳代ともなると、言い訳は通用しない。
いまだに「老後は孫の世話と、庭いじり」と言っている人が多いのには、驚かされる。
「晴耕雨読」というのも、そうだ。
そういうバカげた老人像を、いつ、だれが作り上げた?

 私の知人に、公的機関の副長職を、満55歳で定年退職したあと、以後、30年近く、
庭いじりだけをして過ごしている人がいる。
30年だぞ!
年金だけで、毎月30数万円。
妻も公的な機関で働いていたから、2人の年金を合わせると、相当な額になる。

 ここで「庭いじりだけ」と書いたが、本当に庭いじりだけ。
子どもはいない。
孫もいない。
近所づきあいもしない。
まったく、しない。
もともと農家出身だったらしく、裏には、100坪前後の畑ももっている。
そのくせ周囲の家にはうるさく、隣の家にある木の葉が落ちてきただけで、樋(とい)が
つまると、その家に苦情の電話を入れたりする。

 最近、私はそういう老人がいるのを知ると、腹の底から怒りがこみあげてくるように
なった。
加齢とともに、その怒りは、ますます大きくなってきた。
ねたみとか、ひがみとか、そういう低次元な怒りではない。
人気として許せないというか、そういう次元の怒りである。
が、そういう私の気持ちを、あのハイデッガーは、みごとに一言で表現してくれた。
『ただの人(das Mann)』と。

●生きがい

 世の中には、恵まれない老人はいる。
が、その一方で、恵まれすぎている老人もいる。
その知人にしても、介護保険制度が始まって以来、週に2回、在宅介護を受けている。
……といっても、どこか具合が悪いということでもない。
ときどき見かけるが、夫婦で庭の中を、歩き回っている。
元役人ということで、そういう制度の使い方は、よく心得ているらしい。

 その知人をよく知る、同年齢のX氏は、こう皮肉る。
「あれじゃあ、まるで、毎月30数万円の税金を投入して、庭の管理をしてもらって
いるようなものですナ」と。

 が、うらやましがるのは、ちょっと待ってほしい。
いくら年金がそれだけあるといっても、また庭いじりができるといっても、私なら、
そんな生活など、数か月も耐えられないだろう。
何が「晴耕雨読」だ。
自分がその年齢になってみてはじめてわかったことがある。
それがこれ。
「老人をバカにするにも、ほどがある!」と。

 私たち老人が求めるものは、「生きがい」。
わかりやすく言えば、「自分を燃焼させることができる仕事」。
晴れの日に、畑を耕して、それがどうだというのか?
雨の日に、本を読んで、それがどうだというのか?
「だから、それがどうしたの?」という質問に、答のない生活など、いくらつづけても
意味はない。
ムダ。
そういう生活をさして、「自己を見失って、だらだらと生きる」という。

 私はその知人に、こう言いたい。
「お前らのような老人がいるから、ぼくたちは肩身の狭い思いをしているのだ」と。
若い人たちは、そういう老人を見て、老人像を作ってしまう。
誤解とまでは言えないが、しかし懸命に生きている老人まで、同じ目で見てしまう。
だから腹が立つ。

 いいか、老人たちよ、よく聞け。
あのクラーク博士はこう言った。
『少年よ、野心的であれ!』と。
本当は少しちがった意味で、「Boys, be ambitious」と言ったのだが、同じ言葉を、
私はそうした老人たちに言いたい。

『老人よ、野心的であれ!』と。
この意見は、少し過激すぎるだろうか?

(付記)

「少年よ、大志を抱け」で検索してみたら、6年前に書いた原稿が見つかった。
そのまま掲載する。

+++++++++++++++++++++

●納得道(なっとくどう)と地図

●納得道

 人生には、王道もなければ、正道もない。大切なのは、その人自身が、その人生に納得して
いるかどうか、だ。あえて言うなら、納得道。納得道というのなら、ある。

 納得していれば、失敗も、また楽しい。それを乗り越えて、前に進むことができる。そうでなけ
れば、そうでない。仮にうまく(?)いっているように見えても、悶々とした気分の中で、「何かを
し残した」と思いながら生きていくことぐらい、みじめなことはない。だから、人は、いつも自分の
したいことをすればよい。ただし、それには条件がある。

 こんなテレビ番組があった。親の要請を受けて、息子や娘の説得にあたるという番組であ
る。もともと興味本位の番組だから、それほど期待していなかったが、それでも結構、おもしろ
かった。私が見たのは、こんな内容だった(〇二年末)。

 一人の女性(二〇歳)が、アダルトビデオに出演したいというのだ。そこで母親が反対。その
番組に相談した。その女性の説得に当たったのは、俳優のT氏だった。

 「あなたが思っているような世界ではない」「体を売るということが、どういうことかわかってい
るの?」「ほかにしたいことがないの?」「そんなにセックスがしたいの?」と。

 結論は、結局は、説得に失敗。その女性は、こう言った。「私はアダルトビデオに出る。失敗
してもともと。出ないで、後悔するよりも、出てみて、失敗したほうがいい」と。

 この若い女性の理屈には、一理ある。しかし私は一人の視聴者として、その番組を見なが
ら、「この女性は何とせまい世界に住んでいることよ」と驚いた。情報源も、情報も、すべて、だ
れにでも手に入るような身のまわりにあるものに過ぎない。あえて言うなら、あまりにも通俗
的。「したいことをしないで、あとで後悔したくない」というセリフにしても、どこか受け売り的。そ
のとき私は、ふと、「この女性には、地図がない」と感じた。

 納得道を歩むには、地図が必要。地図がないと、かえって道に迷ってしまう。しなくてもよいよ
うな経験をしながら、それが大切な経験だと、思いこんでしまう。私がここで「条件がある」という
には、それ。納得道を歩むなら歩むで、地図をもたなければならない。これには若いも、老いも
ない。地図がないまま好き勝手なことをすれば、かえって泥沼に落ちてしまう。

●地図 

 人生の地図は、三次元で、できている。(たて)は、その人の住んでいる世界の広さ。(横)
は、その人の人間的なハバ。(深さ)は、その人の考える力。この三つが、あいまって、人生の
地図ができる。

 (たて)、つまり住んでいる世界の広さは、視点の高さで決まる。自分の姿を、できるだけ高い
視点から見ればみるほど、まわりの世界がよく見えてくる。そしてそこには、知性の世界もあれ
ば、理性の世界もある。それをいかに広く見るかで、(たて)の長さが決まる。

(横)、つまり人間的なハバは、無数の経験と苦労で決まる。いろいろな経験をし、その中で苦
労をすればするほど、この人間的なハバは広くなる。そういう意味で、人間は、子どものときか
ら、もっと言えば、幼児のときから、いろいろな経験をしたほうがよい。

 が、だからといって、人生の地図ができるわけではない。三つ目に、(深さ)、つまりその人の
考える力が必要である。考える力が弱いと、ここにあげた女性のように、結局は、低俗な情報
に振りまわされるだけということになりかねない。

 で、もう一度、その女性について、考えてみる。「アダルトビデオに出演する」ということがどう
いうことであるかは別にして、……というのも、それが悪いことだと決めてかかることもできな
い。あるいはあなたなら、「どうしてそれが悪いことなのか」と聞かれたら、何と答えるだろうか。
この問題は、また別のところで考えるとして、まず(たて)が、あまりにも狭い。おそらくその女性
は、子どもときから低俗文化の世界しか知らなかったのだろう。テレビを通してみる、あのバラ
エティ番組の世界だ。

 つぎのこの女性は、典型的なドラ娘。親の庇護(ひご)のもと、それこそ好き勝手なことをして
きた。ここでいう(横の世界)を、ほとんど経験していない。そう決めてかかるのは失礼なことか
もしれないが、テレビに映し出された表情からは、そう見えた。ケバケバしい化粧に、ふてぶて
しい態度。俳優のT氏が何を言っても、聞く耳すらもっていなかった。

 三つ目に、(深さ)については、もう言うまでもない。その女性は、脳の表層部分に飛来する情
報を、そのまま口にしているといったふう。ペラペラとよくしゃべるが、何も考えていない? 考
えるということがどういうことなのかさえ、わかっていないといった様子だった。いっぱしのことは
言うが、中身がない。

 これでは、その女性が、道に迷って、当たり前。その女性が言うところの「納得」というのは、
「狭い世界で、享楽的に、したいことだけをしているだけ」ということになる。

●苦労

 納得道を歩むのは、実のところ、たいへんな道でもある。決して楽な道ではない。楽しいこと
よりも、苦労のほうが多い。いくら納得したからといって、また前に別の道が見えてくると、そこ
で悩んだり、迷ったり、ときにはあと戻りすることもある。あえていうなら、この日本では、コース
というものがあるから、そのコースに乗って、言われるまま、おとなしくそのコースを進んだほう
が得。楽。無難。安心。納得道を行くということは、そのコースに背を向けるということにもな
る。

 それに成功するか、失敗するかということになると、納得道を行く人のほうが、失敗する確率
のほうが、はるかに高い。危険か危険でないかということになれば、納得道のほうが、はるか
に危険。だから私は、人には、納得道を勧めない。その人はその人の道を行けばよい。私の
ようなものが、あえて干渉すること自体、おかしい。

 が、若い人はどうなのか。私はこうした納得道を歩むというのは、若い人の特権だと思う。健
康だし、気力も勇気もある。それに自由だ。結婚には結婚のすばらしさがあるが、しかし結婚
には、大きな束縛と責任がともなう。結婚してから、納得道を歩むというのは、実際問題とし
て、無理。だから納得道を歩むのは、若いときしかない。その若いときに、徹底して、人生の地
図を広げ、自分の行きたい道を進む。昔、クラーク博士という人が、北海道を去るとき、教え子
たちに、『少年よ、野心的であれ(Boys, be ambitious!)』と言ったというが、それはそういう意味
である。

 私も若いときには、それなりに納得道を歩んだ。しかしそのあとの私は、まさにその燃えカス
をひとつずつ、拾い集めながら生きているようなもの。それを思うと、私はよけいに、子どもた
ちにこう言いたくなる。「人生は、一度しかないのだよ。思う存分、羽をのばして、この広い世界
を、羽ばたいてみろ」と。つまるところ、結論は、いつもここにもどる。

 この「納得道」という言い方は、私のオリジナルの考え方だが、もう少し別の機会に、掘りさげ
て考えてみたい。今日は、ここまでしか頭が働かない。
(03−1−10)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●認識の甘さ(Overly Optimistic Diplomacy)

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中朝国境付近でK国側に身柄を拘束された、
アメリカ人記者、2人の判決が出た。
「12年の労働教化刑(懲役刑)という。

判決はともかくも、この事件の発端は、2人の
記者の認識の甘さと考えてよい。
報道によれば、2人は一度、K国内に侵入している。
手引きをしたのが、K国側のスパイだったという。
そして中国側に一度出たところで、身柄を拘束
された。
もしそうだとするなら、2人は
まんまとワナにはまったとみてよい。

その結末が、12年の労働教化刑!

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●C・ヒル氏

 この事件を最初に知ったとき、私がまず感じたのが、認識の甘さ。
「アジア情勢をナメている」というか、「甘く見ている」というか。
その心情は、アメリカの前国務次官補のC・ヒル氏のそれと相通ずる。

 あのC・ヒル氏は調子に乗って、ニューヨーク・フィルをピョンヤンまで
連れてくるようなことまでした。
が、K国は、そんな国ではない。
そんな国でないことは、私たち日本人なら、みな、知っている。

 2人の記者への同情心は、残念ながら、私たちには、ほとんどない。
2人の記者は、中朝国境へ向かう前、アメリカ人牧師に警告されていた。
その牧師は一度身柄を拘束されたが、命かながら、K国を脱出した。
そういう経験の持ち主である。
そういう牧師の警告を無視して、2人は、K国領土内に侵入した。

 つまり日本人の拉致問題とは、基本的には、異質の問題である。
入りたくて入ったアメリカ人記者と、行きたくもないのに、誘拐された
日本人被害者。
同じように同情しろというほうが、無理。
そればかりか、その意図が不明。
私には、ハネあがった2人の記者が、自分の名声のために、K国にノコノコと出かけて
いったようにしか思えない。
あのC・ヒル氏のように!

 時事通信は、つぎのように伝える。

【ソウル8日時事】

『K国中央通信は8日、K国の中央裁判所(最高裁に相当)が、拘束中の米国人女性記者2人
に対し、12年の労働教化刑を言い渡したと伝えた。オバマ米政権がK国の核実験を受け、テ
ロ支援国再指定検討など制裁強化の動きを見せている中、米国への挑発を強めた形だ。今
後、米国は身柄解放に向け、K国との交渉を働き掛ける方針だが、難航するとみられる。

(中略)

 判決を受けたのは、米ケーブルテレビ局のローラ・リン、ユナ・リー両記者。2人は3月17
日、中朝国境地帯で脱北者問題を取材中に捕らえられ、その後、「不法入国と敵対行為」など
の罪で起訴。K国中央通信は6月4日に「裁判を4日午後3時から始める」と異例の事前報道
を行っていた。

 今後の日程は明らかとなっていないが、これで判決が確定する可能性が高い。K国の刑法で
は、朝鮮民族敵対罪は5年以上の労働教化刑で、特に、事案が重大な場合は、10年以上とし
ている』(ヤフー・ニュース・09年6月9日)。

 同情はしないが、不幸な事件である。
オバマ大統領も、それをよく知っている。
が、これがもし拉致であったとしたら……。
アメリカのカルフォルニアに在住している女子中学生が、拉致され、K国に連れて
行かれたとしたら……。
オバマ大統領は、海兵隊を派遣してでも、その中学生の奪還を試みるだろう。
またそういうことでもしないかぎり、アメリカの世論は、納得しないだろう。

 あのC・ヒル氏にいたっては、リップサービスだけで、拉致問題について本格的に
話し合った形跡は、ゼロ。
そればかりか、「拉致問題を棚上げして、K国援助に加われ。さもなければ、K国を
テロ支援国家指定から解除する」とまで言い切った。
そして事実、2日をおかないで、電撃的に、指定から解除してしまった。
「日本ロビーが動き出す前に……」と。
 
 こうした認識の甘さは、オバマ大統領にもあるのではないか。
いまだに「話し合いを重視」とか、何とか、夢のようなことを口にしている。
C・ヒル氏がしたのと同じ失敗を繰り返そうとしている。
結局は、彼らは、アジアのことは何もわかっていない。
私には、そうとしか、思えないのだが……。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●善なる存在(goodness in your Mind)

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心の中に、「善」を作る。
作るのがむずかしかったら、想像するだけでよい。
その「善」に、自分の心を集中させる。

信仰者であれば、そこに「神」や「仏」を置くかもしれない。
しかし私のような凡人には、それができない。
だから(善なる存在)ということになる。
それを心の中心に置く。

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●性善説

 もう何度も書いてきたことだが、人間は、基本的には、(善なる存在)である。
人間の心の中には、(善)と(悪)の、その両方が共存している。
が、それでも(善なる存在)である。
少なくとも、(善)のほうが(悪)より、優勢である。
私たちが、今、ここに存在するというのが、その証拠である。
もし私たち人間が、(悪なる存在)なら、人類は、とっくの昔に、絶滅していたはず。
20数万年という長い年月を、生き残ることはできなかったはず。

 その善と悪は、どこでどのようにして決まるか。
最近の大脳生理学の進歩には、ものすごいものがある。
脳の働きを、リアルタイムで把握できる装置もある。
そういう装置を使ったからわかったのかどうかは知らないが、人間の善悪の感覚を
司っているのが、辺縁系の中にある扁桃核(扁桃体)というところらしいということ
までわかってきた。

 たとえば人に親切にしたりすると、その信号は、大脳の連合野から、扁桃核に
伝えられる。
そこで扁桃核は、エンドロフィン系、エンケファリン系のホルモンを分泌する。
モルヒネに似た物質である。
これが脳内を甘い陶酔感で満たす。
「いいことをすると気持ちいい」というのは、そういうメカニズムによる。

●心が壊れた子ども

 これはあくまでも私の仮説だが、何らかの強烈なショックが加わると、
ショックの強弱、内容にもよるが、脳は大きな影響を受ける。
部分的に、たとえば虚血状態になったりして、機能を停止することもある(仮説)。
たとえば短期記憶などは、同じ辺縁系の中にある海馬という組織が担当する。
強烈なショックなどが原因で、その短期記憶に障害が出ることは、よく知られている。

 同じように、扁桃核も影響を受けることがあると考えられる(仮説)。
仮に昨日が停止するということになれば、「いいことをしても、気持ちいい」という
ことがなくなる(仮説)。
ばあいによっては、無感動、無表情、無感覚になることもある(仮説)。

 子どもでも、はげしい家庭騒動を経験したような子どもは、こうした症状を示すことが
ある。
長く飼っていたペットが死んでも、無表情のまま、涙ひとつこぼさないなど。

 で、一度、そうした症状が出たら、以後、その子どもが人間らしい(?)心を
取り戻すのは、容易なことではない。
一度壊れた心は、もとにはもどらない。
そう考えてよい(仮説)。

●年中児から高校3年生まで

私は若いころ、一日というサイクルの中で、幼稚園の年中児から高校3年生まで
教えた経験がある。
午前中は幼稚園で教え、午後は学習塾、夕方からは進学塾、そして夜になって
家庭教師、と。
学習塾や進学塾では、小学1年生から高校3年生までを教えた。

 それだけではない。
30代のころは、(問題のある子ども)にたいへん、興味をもった。
今で言う「AD・HD児」や、「LD児」を、求めて教えたこともある。
「〜〜障害児」と呼ばれる子どもも、求めて教えたことがある。
当時の私は、「教育万能」を信じていた。
子どもにどんな問題があるにせよ、(教える)という力によって、治す(?)
ことができると信じていた。
(結果的に、これはまちがいだったことを知ったが……。)

 そういう流れの中で、子どもたちが、受験期を迎えると、大きく変化することを
知った。

●壊れる子どもの心

 子どもが受験期を迎えるようになると、ほとんど例外なく、子どもの心は大きく
変化する。
当時、この浜松市では、中学2年生から中学3年生が、その時期に相当した。
この時期になると、つぎのような症状が現われる。

(1)ものの考え方が合理的でドライになる。(自分の利益しか考えない。)
(2)自己中心性が肥大化する。(自分勝手でわがままになる。)
(3)点数主義が支配的になる。(それによって人間の価値を決める。)
(4)心のゆとりがなくなる。(ささいなことで、攻撃的になったりする。)
(5)豊かな情感が消える。(人間的に冷たくなる。)
(6)功利的、打算的になる。(「親の恩も遺産しだい」というように考える。)

 こうした現象は、受験期特有のものなのか、それとも思春期特有のものなのか。
当時はその判断に迷った。
が、受験競争を経験しない子どもは、そのままの状態で、思春期を通り過ぎる。
このことは、オーストラリアの学生と比較しても、それがわかる。
たとえばオーストラリアの学生たちは、日本でいう受験競争というのを、
ほとんど経験しない。
そのため、オーストラリアの学生やおとなたちは、日本人にない(温かさ)をもち
あわせている。

 受験競争、とくにはげしい受験競争を経験した子どもほど、心が破壊される。
先に並べた特徴にしても、こんなことは常識で、それを疑う教師はいない。
いないが、日本人全体がそうであるため、たいていの人は、「それが日本人の国民性」
というような形で、そのまま片づけてしまう。

 いろいろなケースがある。

●S君のケース

 とくに印象に残っている子どもに、S君というのがいた。
今で言うLD児(学習障害児)だった。
私はその子どもを、小学1年生のときから、中学3年生までの9年間、教えた。

 母親は教育熱心な人で、S君がはじめて私の教室へ来たときには、かばんの中に、
難解なワークブックがぎっしりと詰まっていた。
S君の能力をはるかに超えたものばかりだった。
が、母親はこう信じていた。
「幼児期からしっかり勉強させれば、東大だって入れるはず」と。
今からもう30年近くの前のことである。
学校神話や学歴信仰が、色濃く残っていた。

 そのS君は、心のやさしい子どもだった。
記憶によれば、少なくとも中学校へ入るまでは、そうだった。
が、中学校に入るころから、様子が一変した。
母親がさらに猛烈に、S君に、勉強を強いるようになった。
入学当時、そこそこの成績を収めたのが、かえってまずかった。
母親は、「うちの子は、やればできるはず」と、それだけを狂信的なまでに
信じていた。

 が、S君には、そうした母親の威圧をやり返すだけの(生命力)をもっていなかった。
母親の前では、借りてきた猫の子のように、従順で、おとなしかった。
が、やがてすぐ問題が起きた。
S君が学校で、いじめの対象になった。
このタイプの子どもは、いじめのターゲットになりやすい。
 
●陰湿ないじめ

 それまで私は、S君は、こころの温かい、やさしい子どもと思っていた。
実際、小学生のときは、そうだった。
みなにバカにされても、「いいんだよ」と言って、笑っていた。
が、学習障害児的な(遅れ)は、いかんともしがたかった。
それゆえに、私はS君を、不憫(ふびん)に思った。
私なりにS君を懸命に守った。

 が、そうした努力が、音を立てて崩れる日がやってきた。

 そのとき私はS君と、数人のほかの生徒とともに、教えていた。
学習の遅れがますます目立ってきた。
私は責任を感じ、月謝を半分から4分の1以下にしていた。
が、母親はそれをよいことに、レッスンの回数を、それまでの週1回から、
週4回へとふやした。
私もかなりの負担を感ずるようになっていた。
が、回数がふえた分だけ、S君にも過負担になった。
授業中も、ぼんやりとした様子で、時間をつぶすことが多くなった。

そこで私は、親にはわからない方法で、2〜3年、下の学年の子どもたちの間に、
S君を入れた。
教室といっても、S君を含めて、4人前後のクラスだった。

 そんなある日のこと。
私がトイレから帰ってきて、教室へ入ったときのこと。
が、そこで私は信じられないような光景を見てしまった。

そのS君が、なんと、ほかの子どもいじめていたのである。
ふつうのいじめ方ではない。
執拗に、かつ陰湿なやり方だった。
ぞっとするような冷たさを、S君の中に、私は感じた。
私はその様子を、うしろから黙ったまま見ていた。

 ショックだった!
本当にショックだった!
学校でいじめのターゲットにされているから、そうした(いじめ)に対しては、
「ぼくはしない」という、抵抗力があるのではないかと考えていた。
が、現実は、逆だった。
それをまじまじと見せつけられたとき、S君を教えたいという気持ちが、プツンと
消えた。

 もちろんS君がそうなったのは、すべて受験競争が原因だったとは思わない。
しかしそうでなかったとは、もっと思えない。
S君は、とくに母親の異常なまでの(熱心さ)の中で、心をゆがめてしまった。
ほかにもいろいろ考えられたが、そのときはそれが、私の結論だった。

●ちがい

 もし私の書いていることについて、疑問をもつ人がいたら、あなたの周囲の人たちを
ほんの少しでもよいから、観察してみたらよい。
いろいろな人がいる。
そういう人の中でも、はげしい受験競争を経験した人ほど、独特の雰囲気をもっている。
総じて言えば、ツンとした器械的な冷たさを感ずる。
受験競争を経験しなかった人ほど、人間的な温もりをもっている。
相手を包み込むような温もりである。

 あるいは、あなた自身はどうか。
もしあなた自身も、はげしい受験競争を経験したことがあるなら、一度静かに自分の
心の中をさぐってみたらよい。
あるいは受験競争を経験しなかった人たちと、自分の心を比較してみるのもよい。
何かがちがうはずである。

 これは私自身のことだが、私もはげしい受験競争を経験している。
そのため先に書いた、6つの特徴を、みなもちあわせていた。
20代、30代のころは、そうだった。
今でも、その亡霊のようなものは残っている。
そのせいもあって、ときどき自分で自分がわからなくなるときがある。
で、結論として、こう思う。

 その結果、私は、(学歴)という切符を手にすることができた。
しかし同時に、今、私はそうでない人なら感じないはずの孤独と闘わねばならない。
一度壊れた心を修復するのは、容易なことではない。
不可能と言ってもよいかもしれない。
しかし全体としてみると、私はあのはげしい受験競争で得たものよりも、失った
もののほうが多いのではないか。

 今にしてみると、それがよくわかる。
だから……。
この先のことは、あなた自身の頭で考えてみてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子どもと受験競争 受験競争 受験勉強 破壊される子どもの心)


Hiroshi Hayashi++++++++June09++++++++++はやし浩司

●特別の日(My Special Day)

++++++++++++++++++++

パジャマを脱いで、
白いシャツを着る。
薄緑の、明るいネクタイを締める。
灰色のズボンをはく。

ひげを剃って、
顔を洗う。
髪をといて、
もう一度、ネクタイを締め直す。

台所に行って、洗い物をしている
ワイフに、声をかける。

「誕生日、おめでとう!」

今日は特別の日。
休みにした。
だれにも会わない。
パソコンも持ち歩かない。

そのときアメリカにいる
二男から電話がかかってきた。

それを受けてワイフは
うれしそうに笑っていた。

+++++++++++++++++++++

●「フライト・シミュレーターX」で、空を飛ぶ

 昨夜、マイクロソフト社の「フライトシミュレーターX」を買ってきた。
ほぼ3年ぶりである。
「3年ぶり」というのは、3年ぶり。
それ以前は毎日のように、そのゲームで空を飛んでいた。
で、今回は、「X」。
最新版である。
つい先日、マイクロソフト社は、フライトシミュレーターの開発部を解散した。
だからこの「X」が、最新版、かつ最終版。

 が、進歩とは、こういうことをいう。
この4〜5年で、フライト・シミュレーターは格段の進歩を遂げた。
雲を突っ切って、空を自由に飛び回る快感は、何物にも代えがたい。

 ゆいいつの難点は、(それ故に、この3年間遠ざかっていたのだが……)、
あまりにもリアルすぎて、しばらく遊んでいると、船酔いならぬ、
空酔いをしてしまうこと。
だから遊んでも、30分程度が限度。
それ以上遊んでいると、吐き気がしてくる。
自分にそう言い聞かせながら、ソフトをインストールする。

 今ごろ三男も、同じようにして空を飛んでいるにちがいない。


●1日、1万件!

 先ほど、アクセスカウンターのついているHPとBLOGのアクセスカンターを
チェックしてみた。
 すべてにカウンターがついているわけではない。
が、それでも、それらを合計すると、昨日のアクセス数は、合計(累計)で、
1万件以上もあった。
このところ毎日、同じような数字が並ぶ。
月間ベースになおすと、30万件!

 30万件だぞ!
これにマガジン読者数を加えると、月間35万件以上!
35万件だぞ!

 現在、とくに力を入れているのが、「BW公開教室」。
このページにはアクセスカンウンターを設置している。
それによれば、このページだけでも、昨日も、400件前後のアクセスがあった。
(実際には、アクセス件数(回数)よりも、ダウンロード量(転送量)のほうが、重要。)

 ますますやる気が出てきた。
この先、プリント教材も公開してみたい。
今朝、試しに、何枚かを公開してみた。
興味のある方は、ぜひ、訪問してみてほしい!


●映画『ダウト(Doubt)』

+++++++++++++++++++

映画『ダウト』を見てきた。
星は2つの、★★。
メリル・リープ演ずるシスターは、疑惑の
牧師にカマをかけて、結果的に、牧師を
学校から追い出すことに成功する。

が、英語には、(カマをかける)という表現は
ないらしい(?)。
何かしら回りくどい説明を繰り返していた。
(日本語なら、「カマをかけた」という、その一言で、
すむのだが……。)

カマをかける……「相手に本音を吐かせるため、
たくみに誘いをかけること」(広辞苑)とある。
カマは「鎌」と漢字で書く。

敬虔なクリスチャンであったがゆえに、そのカマを
かけるということに、宗教的な罪悪感を覚えた
のだろう。
「カマをかける」というのは、「相手にウソをつくこと」
を意味する。
それがまた、この映画の柱になっている。

全体として、何かしら尻切れトンボのような感じの
映画だった。
だから星は2つ。
もう少しハラハラさせてくれたら、星は3つ。
全体の流れが、どこかチグハグだった。

(1)人を疑うというのは、いやなこと。
たいへんなエネルギーを消耗する。
いわんやあそこまで疑いつづけるというのは、
ふつうの神経の持ち主にはできない。
そこが不自然だった。

(2)牧師は果たして性的いたずらを繰り返して
いたのか?
結果的に見ると、「していた」ということに
なる。(オチを話してしまって、ごめん!)
しかしあそこまで、あいまいにしたまま、
映画を終わってしまうというのは、少し
不親切。
難解な文学小説を押しつけられたようで、
不愉快だった。

(3)牧師は(悪)、シスターは(善)という色分けが、
少し濃すぎた。
演技が少し極端すぎた。
たがいにもう少しマイルドに演技したら、もっと
よい映画になった。
本来なら、善であるシスターのほうに感情移入を
すべきなのかもしれないが、それができなかった。
私には、頭がカチンカチンのシスターにしか
見えなかった。

……ということで、やはり星は2つ。
残念!
(090610)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司※

********以上、2009年6月10日まで********





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児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐

阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.

writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ

 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 

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