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最前線の子育て論byはやし浩司
(09年3月10日 〜 )

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**********2009年3月10日より**************

幼児の学習指導byはやし浩司 BW教室How to cope with pre-school children at homes by Hiroshi Hayashi Hamamatsu-city Japan
2009 子育てポイントを解説

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Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090310)

【子どもと笑い】

●笑うと健康」裏づけ(組織刺激され血行増進)

 笑うと、血液の流れがよくなるそうだ。それだけではないと思うが、「笑うこと」には、不思議な
力がある。それは私自身が、幼児教育の場で、日常的に実感していることでもある。

今度、アメリカ・メリーランドのマイケル・ミラー医師らが、こんな発表をした。

いわく、「血管の内側にある組織が刺激を受けて、血液の流れがよくなることが、調査で明らか
になった。『笑いは健康にいい』との説が医学的にも裏づけられた形だ。なぜ笑うとこの組織が
活性化されるのかまでは突きとめられなかったが、同医師は『ストレスからくる血行障害のリス
ク、減らすことができる』と、笑いの効用を力説している」と。  
(時事通信・05年3月15日 )

+++++++++++++++++++++

教室での笑いについては、たびたび、書いてきた。

+++++++++++++++++++++

●笑えば、伸びる

 言いたいことを、言う。したいことを、する。これが幼児教室の基本である。おさえるのは、簡
単。その時期がきたら、少しずつ、しめていけばよい。

 今週は、(数)をテーマにした(月曜日クラス)。

 この時期は、(教えよう)(教えてやろう)という気持ちは、控えめに。大切なことは、子ども自
身が、数を好きになること。数を、楽しいと思うようになること。が、それ以上に、大切なことは、
子どもが、自信をもつこと。決して、おとなの優位性をおしつけてはいけない。

 7個のリンゴを、わざとまちがえて数えてみせる。すると子どもたちは、「ちがう、7個だ!」と
叫ぶ。そこで改めて、数えてみせる。そして「ああ、7個だったのかあ?」と、とぼけてみせる。

 が、その日は、それですんだわけではない。さらに、私を責めた子どもがいた。「あんた、先
生でしょ!」と。そこで私は、こう言ってやった。

 「君、まだ幼稚園児だろ。だったら、そんなにしっかりと勉強しなくていい。もっと、ぼんやりと
勉強しなさい。あのね、幼稚園児というのは、指をしゃぶって、おしりからプリプリと、出しながら
勉強するものだよ。わかっている?」と。

 すると子どもたちが、ワイワイと反発した。しかしその反発こそが、私のねらいでもある。

 「あのね、わかっていないな。勉強なんてものはね、適当にやればいいの。そんなにしっかり
やると、頭がへんになるよ!」と。

 すると子どもたちは、「ちがう、ちがう」と叫ぶ。つまりそうやって、子どもを、こちらのペースに
のせながら、指導していく。あとは、子ども自身がもつ、伸びる力に任せればよい。

 だいたいにおいて、子どもというのは、伸ばそうと思っても伸びるものではない。大切なこと
は、子ども自身がもつエネルギーを、うまく利用すること。それをうまく利用すれば、子どもは、
伸びる。

 さて、子どもを明るい子どもにするには、方法は、一つしかない。つまり、笑わせる。大声で、
笑わせる。それにまさる方法はない。だから私の教室では、子どもを笑わせることを、何よりも
大切にしている。1時間なら1時間、笑わせぱなしにすることも、珍しくない。

 笑うことにより、子どもの心は、開放される。前向きな、学習態度も、そこから生まれる。『笑
えば、伸びる』、それが私の、この39年間でつかんだ、幼児教育の真髄である。

【追記】

 最近の研究では、ストレスと免疫系の関係などが指摘されているが、それと反対に、「笑い」
には、不思議な力が隠されている。これから先、大脳生理学の分野で、少しずつ、その「力」が
解明されていくだろうと思う。

+++++++++++++++++++++++

●私の実験教室「BW教室」

 幼児を教えるようになって、35年になる。この間、私は4つのことを、守った。(1)すべて授業
は公開し、親の参観をいつでも自由にした。(2)教材はすべて手作り。市販の教材は、いっさ
い使わなかった。(3)同じ授業をしなかった。(4)新聞広告、チラシ広告など、宣伝をしなかっ
た。

 まず(1)授業の公開は、口で言うほど、楽なことではない。公開することによって、教える側
は、手が抜けなくなる。教育というのは、手をかけようと思えばいくらでもかけられる。しかし手
を抜こうと思えば、いくらでも抜ける。それこそプリントを配って、それだけですますこともでき
る。そこが教育のこわいところだが、楽でない理由は、それだけではない。

 授業を公開すれば、同時に子どもの問題点や能力が、そのまま他人にわかってしまう。とく
にこのころの時期というのは、親たちが神経質になっている時期でもあり、子どもどうしのささ
いなトラブルが大きな問題に発展することも珍しくない。教える側の私は、そういうとき、トコトン
神経をすり減らす。

 (2)の教材についてだが、私は一方で、無数の市販教材の制作にかかわってきた。しかしそ
ういう市販教材を、親たちに買わせたことは一度もない。授業で使ったこともない。出版社から
割引価格で仕入れて、親たちに買わせれば、それなりの利益もあったのだろうが、結果として
振り返ってみても、私はそういうことはしなかった。本もたくさん出版したが、売るにしても、希望
者の親のみ。しかも仕入れ値より安い値段で売ってきた。

(3)の「同じ授業をしない」については、二つの意味がある。年間を通して同じ授業をしないと
いう意味と、もう一つは、毎年、同じ授業をしないという意味である。

この10年は、何かと忙しく、時間がないため、年度ごとに同じ授業をするようになった部分もあ
るが、それでもできるだけ内容を変えるようにしている。ただその年の授業の中では、年間をと
おして同じ授業をしない。これには、さらに二つの意味がある。

 そういう形で子どもの心をひきつけておくということ。同じ授業をすれば、子どもはすぐあき
る。もう一つは、そうすることによって、子どもの知能を、あらゆる方向から刺激することができ
る。

 最後に(4)の宣伝については、こうしてインターネットで紹介すること自体、宣伝ということに
なるので、偉そうなことは言えない。それに毎年、親どうしの口コミ宣伝だけというのも、実のと
ころ限界がある。

ある年などは、1年間、生徒(年中児)はたったの3人のままだった。例年だと、親がほかの親
を誘ってくれたりして、生徒が少しずつふえるのだが、その年はどういうわけだかふえなかっ
た。

 私の実験教室の名前は、「BW(ビーダブル)教室」という。「ブレイン・ワーク(知能ワーク)」
の頭文字をとって、「BW」とした。「実験」という名前をつけたのは、ある時期、大きな問題のあ
る子どもだけを、私の方から頼んで、(そのため当然無料だったが)、来てもらったことによる。

私の教室は、いつも子どもたちの笑い声であふれている。「笑えば伸びる」が、私の教育モット
ーになっている。その中でも得意なのは、満四・五歳から満五・五歳までの、年中児である。興
味のある人は、一度訪れてみてほしい。ほかではまねできない、独自の教育を実践している。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもへの禁止命令 
 
 「〜〜をしてはダメ」「〜〜はやめなさい」というのを、禁止命令という。この禁止命令が多け
れば多いほど、「育て方」がヘタということになる。イギリスの格言にも、『無能な教師ほど、規
則を好む』というのがある。家庭でいうなら、「無能な親ほど、命令が多い」(失礼!)ということ
になる。

 私も子どもたちを教えながら、この禁止命令は、できるだけ使わないようにしている。

たとえば「立っていてはダメ」というときは、「パンツにウンチがついているなら、立っていてい
い」。「騒ぐな」というときは、「ママのオッパイを飲んでいるなら、しゃべっていい」と言うなど。ま
た指しゃぶりをしている子どもには、「おいしそうだね。先生にも、その指をしゃぶらせてくれな
いか?」と声をかける。禁止命令が多いと、どうしても会話がトゲトゲしくなる。そしてそのトゲト
ゲしくなった分だけ、子どもは心を閉ざす。

 一方、ユーモアは、子どもの心を開く。「笑えば伸びる」というのが私の持論だが、それだけで
はない。心を開いた子どもは、前向きに伸びる。イギリスにも、『楽しく学ぶ子どもは、もっとも
学ぶ』(Happy Learners Learn Best)というのがある。

心が緊張すると、それだけ大脳の活動が制限されるということか。私は勝手にそう解釈してい
るが、そういう意味でも、「緊張」は避けたほうがよい。禁止命令は、どうしてもその緊張感を生
み出す。

 一方、これは予断だが、ユーモアの通ずる子どもは、概して伸びる。それだけ思考の融通性
があるということになる。俗にいう、「頭のやわらかい子ども」は、そのユーモアが通ずる。以
前、年長児のクラスで、こんなジョークを言ったことがある。

 「アルゼンチンの(サッカーの)サポーターには、女の人はいないんだって」と私が言うと、子ど
もたちが「どうして?」と聞いた。そこで私は、「だってアル・ゼン・チン!、でしょう」と言ったのだ
が、言ったあと、「このジュークはまだ無理だったかな」と思った。

で、子どもたちを見ると、しかし一人だけ、ニヤニヤと笑っている子どもがいた。それからもう四
年になるが、(というのも、この話は前回のワールドカップのとき、日本対アルゼンチンの試合
のときに考えたジョーク)、その子どもは、今、飛び級で二年上の子どもと一緒に勉強してい
る。反対に、頭のかたい子どもは、どうしても伸び悩む。
 もしあなたに禁止命令が多いなら、一度、あなたの会話術をみがいたほうがよい。
 

Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

【自尊教育】

++++++++++++++++

東京都教育委員会は、今度、自尊教育を始めるそうです。
どんな教育を考えているのかは知りませんが、しかし自尊教育ほど、
簡単なものはありません。
「ほめる」。
たったそれだけのことで、子どもは、自分に対して肯定的な
評価をくだすようになります。

が、そうでない子どもが多い。
発達心理学的に言えば、「自我の同一性(アイデンティティ)」の
構築に失敗したということになります。

さらに最近では、それが大脳生理学の分野でも、証明されています。
そのカギを握るのが、辺縁系にある、扁桃核(扁桃体)ということに
なります。
「教育」でできる……というよりは、これは「家庭」の問題かな。
さらに言えば、幼児期から少年少女期への移行期(4・5〜5・5歳)
における指導が重要ということになります。

それを書く前に、産経新聞の記事から抜粋させてもらいます。

+++++++++++++以下、産経新聞・090310++++++++++

 日本の子供たちは自分が嫌い−。東京都教育委員会が公立の小中学生、都立高校生を対
象に「自尊感情」について調査したところ、中高生の5〜6割が「自分」を好意的にとらえていな
いことが10日、分かった。日本の子供たちの自尊感情の低さはこれまでも指摘されてきた
が、自治体レベルで大規模な調査が行われたのは初めて。都教委は現状を深刻に受け止
め、「自分の存在や価値を積極的に肯定できる子供を育てる」とし、4月から小学校で試験的
に"自尊教育"を実施する。

 都教委は昨年11〜12月、都内の小学生4030人、中学生2855人、高校生5855人を対
象に、自尊感情や自己肯定感をテーマにしたアンケートを行った。 

 調査結果によると、中学生では「自分のことが好きだ」との問いに、「そう思わない」「どちらか
というとそう思わない」と否定的に回答した割合が、中1=57%、中2=61%、中3=52%に
上り、全学年で「そう思う」「どちらかというとそう思う」と肯定的に答えた割合を上回った。高校
生でも否定的な考えが目立ち、高1=56%、高2=53%、高3=47%だった。

 小学生では、小1の84%が肯定的な回答をしたが、学年が上がるにつれてその割合は低下
し、小6では59%となっている。

 このほか、国内外の青少年の意識などを調査・研究している財団法人「日本青少年研究所」
の国際調査(平成14年)でも「私は他の人々に劣らず価値のある人間である」との問いに「よく
あてはまる」と回答した中学生が、アメリカ51・8%、中国49・3%だったのに比べ、日本は8・
8%と極端に低かった。

+++++++++++++以上、産経新聞・090310++++++++++

数字が並んでいるので、整理させてもらう。

中学生
「自分のことが好きだ」
「そう思わない」「どちらかというとそう思わない」と答えた子ども
中1……57%、
中2……61%
中3……52%

高校生でも否定的な考えが目立ち、高1……56%
高2……53%
高3……47%

小学生では、小1……84%が肯定的な回答をしたが、学年が上がるにつれてその割合は低
下し、小6では59%となっている。

++++++++++++++++++

以上の数字をまとめると、こうなります。
小学1年生では、84%が、「肯定的だが」、学年が進むと、小学6年生では、それが
59%に低下する。
さらに中学生になると、50%台、高校生になると、40%台に低下するということ。

しかしこの数字を見て私が驚いたのは、小学1年生で、84%しかいないということ。
「小学1年生で、もう84%!」と。
その入口にいる子どもですら、肯定的に自分をとらえている子どもが、84%しかいない
ということに注目してください。

しかし「自尊教育」ほど、簡単なものはないのです。
順に説明してみましょう。

+++++++++++++++++++

「私はこうありたい」「こうあるべき」という(像)を、
「自己概念」といいます。
おとなだけではなく、子どももみな、この自己概念を
描きながら生きています。

それに対して、そこに(現実の自分)がいます。
これを「現実自己」といいます。

この両者が一致した状態を、「自我の同一性が確立した状態」と
いいます。
このタイプのおとなは、(もちろん子どもも)、
外界からの誘惑に対しても、強い抵抗力を示します。
もちろん、自尊感情も強く、現実感覚もしっかりと
しています。

それについて書いたのが、つぎの原稿です。
少し余計なことも書いていますが、どうか
がまんして読んでください。


++++++++++++++++++++

●自我の同一性(アイデンティティ)の確立

●世間的自己

 少し前、(自己概念)と(現実自己)について、書いた。「自分は、こうあるべきだという私」を
(自己概念)といい、「現実の私」を(現実自己)という。

 これら二つが近接していれば、その人は、落ちついた状態で、自分の道を進むことができ
る。しかしこれら二つが遊離し、さらに、その間に超えがたいほどの距離感が生まれると、その
人の精神状態は、きわめて不安定になる。劣等感も、そこから生まれる(フロイト)。

 たとえば青年時代というのは、(こうであるべき自分)を描く一方、(そうでない自分)を知り、
その葛藤に(かっとう)に苦しむ時代といってもよい。

 そこで多くの若者は、(そうであるべき自分)に向って、努力する。がんばる。劣等感があれ
ば、それを克服しようとする。しかしその(そうであるべき自分)が、あまりにもかけ離れていて、
手が届かないとわかると、そこで大きな挫折(ざせつ)感を覚える。

 ……というのは、心理学の世界でも常識だが、しかしこれだけでは、青年時代の若者の心理
を、じゅうぶんに説明できない。

 そこで私は、「世間の人の目から見た私」という意味で、(自己概念)と(現実自己)にほかに、
3つ目に、(世間的自己)を付け加える。

 「私は世俗的他人からどのように評価されているか」と、自分自身を客観的に判断すること
を、(世間的自己)という。具体的に考えてみよう。

+++++++++++++++++

 A子さん(19歳)は、子どものころから、音楽家の家で育ち、持ち前の才能を生かして、音楽
学校に進学した。いつかは父親のような音楽家になりたいと考えていた。

 しかしこのところ、大きなスランプ状態に、陥(おち)いっている。自分より経験の浅い後輩よ
り、技術的に、劣っていると感じ始めたからだ。「私がみなに、チヤホヤされるのは、父親のせ
いだ。私自身には、それほどの才能がないのではないか?」と。

 ここで、「父親のような音楽家になりたい」というのは、いわば(自己概念)ということになる。し
かし「それほどの才能がない」というのは、(現実自己)ということになる。

 しかしAさんは、ここでつぎの行動に出る。自分の父親の名前を前面に出し、その娘であるこ
とを、音楽学校の内外で、誇示し始めた。つまり自分を取り囲む、世間的な評価をうまく利用し
て、自分を生かそうと考えた。「私は、あの○○音楽家の娘よ」と。

 これは私がここでいう(世間的自己)である。

+++++++++++++++++++

 少し話がわかりにくくなってきたので、もう少しかみくだいて説明してみよう。

 世の中には、世間体ばかりを気にして生きている人は、少なくない。見栄、メンツに、異常な
までに、こだわる。名誉や地位、肩書きにこだわる人も、同じように考えてよい。自分の生きザ
マがどこにあるかさえわからない。いつも他人の目ばかりを気にしている。

 「私は、世間の人にどう思われているか」「どうすれば、他人に、いい人に思われるか」と。

 そのためこのタイプの人は、自分がよい人間に見られることだけに、細心の注意を払うよう
になる。表と裏を巧みに使い分け、ついで、仮面をかぶるようになる。(しかし本人自身は、そ
の仮面をかぶっていることに、気づいていないことが多い。)

 これは極端なケースだが、こういう人のばあい、その人の心理状態は、(自己概念)と(現実
自己)だけは、説明できなくなる。そもそも(自己)がないからである。

++++++++++++++++++++

 そこで(私)というものを考えてみる。

 (私)には、たしかに、「こうでありたいと願っている私」がいる。しかし「現実の私はこうだとい
うことを知っている私」もいる。で、その一方で、「世間の人の目を意識した私」もいる。

 これが(自己概念)(現実自己)、そして(世間的自己)ということになる。私たちは、この三者
のはざまで、(私)というものを認識する。もちろん程度の差はある。世間を気にしてばかりして
いる人もいれば、世間のことなど、まったく気にしない人もいる。

 しかしこの世間体というのは、一度それを気にし始めると、どこまでも気になる。へたをすれ
ば、底なしの世間体地獄へと落ちていく。世間体には、そういう魔性がある。気がついてみた
ら、自分がどこにもないということにもなりかねない。

 中学生や高校生を見ていると、そういう場面に、よく出あう。

 もう15年ほど前のことだが、ある日、1人の男子高校生が私のところへやってきて、こう聞い
た。

 「先生、東京のM大学(私立)と、H大学(私立)とでは、どっちが、カッコいいでしょうかね。
(結婚式での)披露宴でのこともありますから」と。

 まだ恋人もいないような高校生が、披露宴での見てくれを心配していた。つまりその高校生
は、「何かを学びたい」と思って、受験勉強をしていたわけではない。実際には、勉強など、ほと
んどしていなかった。その一方で、現実の自分に気がついていたわけでもない。

 学力もなかったから、だれでも入れるような、M大学とH大学を選び、そのどちらにするかで
悩んでいた。つまりこれが、(世間的自己)である。

+++++++++++++++++++++++

 これら(自己概念)(現実自己)(世間的自己)の三者は、ちょうど、三角形の関係にある。

 (自己概念)も(自己評価)も、それほど高くないのに、偶然とチャンスに恵まれ、(世間的自
己)だけが、特異に高くなってしまうということは、よくある。ちょっとしたテレビドラマに出ただけ
で、超有名人になった人とか、本やCDが、爆発的に売れた人などが、それにあたる。

 反対に(自己概念)も(自己評価)も、すばらしいのに、不運がつづき、チャンスにも恵まれ
ず、悶々としている人も、少なくない。大半の人が、そうかもしれない。

 さらにここにも書いたように、(自己概念)も(現実自己)も、ほとんどゼロに等しいのに、(世
間的自己)だけで生きている人も、これまた少なくない。

 理想的な形としては、この三角形が、それぞれ接近しているほうがよい。しかしこの三角形が
肥大化し、ゆがんでくると、そこでさまざまなひずみを引き起こす。ここにも書いたように、精神
は、いつも緊張状態におかれ、ささいなことがきかっけで、不安定になったりする。

++++++++++++++++++++++

 そこで大切なことは、つまり親として子どもを見るとき、これら三者が、子どもの心の中で、ど
のようなバランスを保っているかを知ることである。

 たとえば親の高望み、過剰期待は、子どものもつ(自己概念)を、(現実自己)から、遊離させ
てしまうことに、なりかねない。子ども自身の自尊心が強すぎるのも、考えものである。

 子どもは、現実の自分が、理想の自分とあまりにもかけ離れているのを知って、苦しむかもし
れない。

 さらに(世間的自己)となると、ことは深刻である。もう20年ほど前のことだが、毎日、近くの
駅まで、母親の自動車で送り迎えしてもらっている女子高校生がいた。「近所の人に制服を見
られるのがいやだから」というのが、その理由だった。

 今でこそ、こういう極端なケースは少なくなったが、しかしなくなったわけではない。世間体を
気にしている子どもは、いくらでもいる。親となると、もっといる。子どもの能力や方向性など、
まったく、おかまいなし。ブランドだけで、学校を選ぶ。

 しかしそれは不幸の始まり。諸悪の根源、ここにありと断言してもよい。もちろん親子関係
も、そこで破壊される。

 ……と話が脱線しそうになったから、この話は、ここまで。

 そこであなた自身は、どうか。どうだったか。それを考えてみるとよい。

 あなたにはあなたの(自己概念)があるはず。一方で、(現実自己)もあるはず。その両者
は、今、うまく調和しているだろうか。もしそうなら、それでよし。しかしもしそうでないなら、あな
たは、今、ひょっとしたら、悶々とした毎日を過ごしているかもしれない。

 と、同時に、あなたの(世間的自己)をさぐってみるとよい。「私は世間のことなど、気にしな
い」というのであれば、それでよし。しかしよくても悪くても、世間的自己ばかりを気にしている
と、結局は、疲れるのは、あなた自身ということになる。

 (私)を取りもどすためにも、世間のことなど、気にしないこと。このことは、そのままあなたの
子育てについても、言える。あなたは自分の子どものことだけを考えて、子育てをすればよい。
すべては、子どもから始まり、子どもで終わる。

 コツは、あなたが子どもに抱く(子どもの自己概念)と、子ども自身が抱く(現実自己)を、遊離
させないこと。

その力もない子どもに向かって、「もっと勉強しなさい!」「こんなことで、どうするの!」「AA中
学校へ、入るのよ!」では、結局は、苦しむのは、子ども自身ということになる。
(はやし浩司 現実自己 自己概念 世間的自己 世間体)


++++++++++++++++++++

自我の同一性(アイデンティティ)の構築に失敗すると、
いろいろな場面で、不適応症状を示すようになります。

「こんはずではない」「これは私のしたいことではない」と。
それが進むと、自我の不一致が起こり、さらに進むと、
自我の崩壊が始まります。

最悪のばあいは、無気力症候群に襲われ、ニタニタと
意味のない笑いだけを浮かべながら生活する、など。

では、どうすればよいのでしょうか。
自我の同一性を確立するためには、どうすればよいのでしょうか。

それが「私らしく生きる」ということになります。

つぎの原稿がそれですが、一部、内容がダブりますが、
許してください。

++++++++++++++++++++

●私らしく生きるために……

●不適応障害

 「私は私」と、自分に自信をもって、生活している人は、いったい、どれだけいるだろうか。実
際には、少ないのでは……。

+++++++++++++++++

 「私は、こうでなければならない」「こうであるべきだ」という輪郭(りんかく)を、「自己概念」とい
う。

 しかし、現実には、そうはいかない。いかないことが多い。現実の自分は、自分が描く理想像
とは、ほど遠い。そういうことはよくある。

 その現実の自分を、「現実自己」という。

 この(自己概念)と(現実自己)が、一致していれば、その人は、「私は私」と、自分を確信する
ことができる。自分の道を、進むべき道として、自信をもって、進むことができる。そうでなけれ
ば、そうでない。

不安定な自分をかかえ、そのつど、道に迷ったり、悩んだりする。が、それだけではすまない。
心の状態も、きわめて不安定になる。

++++++++++++++++++

 Aさん(女性)は、財産家の両親をもつ、夫のB氏と結婚したつもりだった。B氏の両親は、そ
の地域でも、昔からの土地持ちという話を聞いていた。

 が、実際には、B家は、借金だらけ。しかも大半の土地は、すでに他人のものになっていた。
ここでAさんの夢は、大きく崩れた。

 Aさんは、B氏の夫として、そして良家の奥様として、優雅な生活を設計していた。とたん、つ
まり、そういう現実を目の前につきつけられたとき、Aさんの情緒は、きわめて不安定になっ
た。

 良家の奥様にもなりきれず、さりとて、商家のおかみさんにも、なりきれず……。

 毎晩のように、夫と、はげしい夫婦げんかを繰りかえした。

 ……というような例は、多い。似たようなケースは、子どもの世界でも、よく起こる。

 (こうでなければならない自分=自己概念)と(現実の自分=現実自己)。その両者がうまくか
みあえば、それなりに、子どもというのは、落ちついた様子を見せる。

 しかし(こうでなければならない自分)と(現実の自分)が、大きく食い違ったとき、そこで不適
応症状が現れる。

 不適応症状として代表的なものが、心の緊張感である。心はいつも緊張した状態になり、ささ
いなことで、カッとなって暴れたり、反対に、極度に落ちこんだりするようになる。

 私も、高校2年から3年にかけて、進学指導の担任教師に、強引に、文科系の学部へと、進
学先を強引に変えられてしまったことがある。それまでは、工学部の建築学科を志望していた
のだが、それが、文学部へ。大転身である!

 その時点で、私は、それまで描いていた人生設計を、すべて、ご破算にしなければならなな
かった。私は、あのときの苦しみを、今でも、忘れない。

……ということで、典型的な例で、考えてみよう。

 Cさん(中2.女子)は、子どものころから、蝶よ、花よと、目一杯、甘やかされて育てられた。
夏休みや冬休みになると、毎年のように家族とともに、海外旅行を繰りかえした。

 が、容姿はあまりよくなかった。学校でも、ほとんどといってよいほど、目だたない存在だっ
た。その上、学業の成績も、かんばしくなかった。で、そんなとき、その学校でも、進学指導の
三者面談が、始まった。

 最初に指導の担任が示した学校は、Cさんの希望とは、ほど遠い、Dランクの学校だった。
「今の成績では、ここしか入るところがない」と、言われた。Cさんは、Cさんなりに、がんばって
いるつもりだった。が、同席した母親は、そのあとCさんを、はげしく叱った。

 それまでにも、親子の間に、大きなモヤモヤ(確執)があったのかもしれない。その数日後、
Cさんは塾の帰りにコンビニに寄り、門限を破った。そしてあとは、お決まりの非行コース。

 (夜遊び)→(外泊)→(家出)と。

 中学3年生になるころには、Cさんは、何人かの男とセックスまでするようになっていた。こう
なると、もう勉強どころではなくなる。かろうじて学校には通っていたが、授業中でも、先生に叱
られたりすると、プイと、外に出ていってしまうこともある。

 このCさんのケースでも、(Cさんが子どものころから夢見ていた自分の将来)と、(現実の自
分)との間が、大きく食い違っているのがわかる。この際、その理由や原因など、どうでもよい。
ともかくも、食い違ってしまった。

 ここで、心理学でいう、(不適応障害)が始まる。

 「私はすばらしい人間のはずだ」と、思いこむCさん。しかし現実には、だれも、すばらしいと
は思ってくれない。

 「本当の私は、そんな家出を繰りかえすような、できそこないではないはず」と、自分を否定す
るCさん。しかし現実には、ズルズルと、自分の望む方向とは別の方向に入っていてしまう。

 こうなると、Cさんの生活そのものが、何がなんだかわからなくなってしまう。それはたとえて
言うなら、毎日、サラ金の借金取りに追い立てられる、多重債務者のようなものではないか。

 一日とて、安心して、落ちついた日を過ごすことができなくなる。

 当然のことながら、Cさんも、ささいなことで、カッとキレやすくなった。今ではもう、父親です
ら、Cさんには何も言えない状態だという。

日本語には、『地に足のついた生活』という言葉がある。これを子どもの世界について言いか
えると、子どもは、その地についた子どもにしなければならない。(こうでなければならない自
分)と(現実の自分)が一致した子どもにしなければならない。

 得てして、親の高望み、過剰期待は、この両者を遊離させる。そして結局は、子どもの心を
バラバラにしてしまう。大切なことは、あるがままの子どもを認め、そのあるがままに育てていく
ということ。子どもの側の立場でいうなら、子どもがいつも自分らしさを保っている状態をいう。

 具体的には、「もっとがんばれ!」ではなく、「あなたは、よくがんばっている。無理をしなくてい
い」という育て方をいう。

子どもの不適応障害を、決して軽く考えてはいけない。

+++++++++++++++++++++

 「私らしく生きる……」「私は私」と言うためには、まず、その前提として、(こうでなければなら
ない自分=自己概念)と(現実の自分=現実自己)、その両者を、うまくかみあわせなければな
らない。

 簡単な方法としては、まず、自分のしたいことをする、ということ。その中から、生きがいを見
つけ、その目標に向って、進んでいくということ。

 子どもも、またしかり。子どものしたいこと、つまり夢や希望によく耳を傾け、その夢や希望に
そって、子どもに目的をもたせていく。子どもを伸ばすということは、そういうことをいう。
(はやし浩司 子どもの不適応障害 子どもの不適応障害 現実自己 自己概念)

(注)役割混乱による、不適応障害も、少なくない。


++++++++++++++++++++++

子どもの自尊感情を育てるためには、どうしたらよいか?
もうそろそろその輪郭が見えてきたことと思います。

しかしこれは何も、子どもだけの問題ではありませんね。
私たちおとなも、実は、自尊感情のあるなしで、
毎日、悩み、もがいているのです。

もう一度、自己概念について考えてみたいと思います。

++++++++++++++++++++++

●自己概念

 「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どんな人間に
思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念ということになる。

 この自己概念は、正確であればあるほどよい。

 しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。悪い面
については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。

 一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自分が
そうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズレる。

 こんなことがあった。

 ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。

 「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。

 つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な夫の妻と
して、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。

 事実、その通りだから、反論のしようがない。

 で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、すばら
しい女性になりますよ」と。

 ここで自己概念という言葉が、出てくる。

 私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)だから「私のそばにいれば、ど
んな女性でも、すばらしい女性になる」と。そういう思いで、そう言った。

 しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿しか、
知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、笑った。そして
その意識の違いがわかったから、私も笑った。

 みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。

 ……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、私たち
はいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目を気にせ
よ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも正確にとらえて
いく必要があるということ。

 その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。

 その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。

自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。

 しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、そ
の他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。

 たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いてみる。
そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡単なので、少し
訓練すれば、だれにでもできるようになる。

 もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。

 あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから見て、どん
な母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐためにも、重要な
ことである。

 ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思いこんでいるだけ
かもしれない。どうか、ご注意!
(はやし浩司 自己概念)


+++++++++++++++++++++++

そこで登場するのが、『マズローの欲求段階説』です。
「私は私らしく生きたい」。
そのためには、どうすればよいのか。

ポイントは、「現実的に生きる」ということです。
この(現実性)を喪失すると、おとなも、子どもも、
非現実的な世界で生きるようになります。

昨今のスピリチュアル・ブームも、その流れの中に
あると考えてよいでしょう。

(自我の同一性の確立ができない)→(現実から逃避する)
→(非現実的な世界に生きようとする)、と。

生き方のひとつのヒントになると思いますので、
紹介します。

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【私らしく生きるための、10の鉄則】(マズローの「欲求段階説」を参考にして)

●第1の鉄則……現実的に生きよう

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●マズローの欲求段階説

 昨日、「マズローの欲求段階説」について書いた。その中で、マズローは、現実的に生きるこ
との重要性をあげている。

 しかし現実的に生きるというのは、どういうことか。これが結構、むずかしい。そこでそういうと
きは、反対に、「現実的でない生き方」を考える。それを考えていくと、現実的に生きるという意
味がわかってくる。

 現実的でない生き方……その代表的なものに、カルト信仰がある。占い、まじないに始まっ
て、心霊、前世、来世論などがもある。が、そういったものを、頭から否定することはできない。

ときに人間は、自分だけの力で、自分を支えることができなくことがある。その人個人というよ
りは、人間の力には、限界がある。

 その(限界)をカバーするのが、宗教であり、信仰ということになる。

 だから現実的に生きるということは、それ自体、たいへんむずかしい、ということになる。いつ
もその(限界)と戦わねばならない。

 たとえば身近の愛する人が、死んだとする。しかしそのとき、その人の(死)を、簡単に乗り越
えることができる人というのは、いったい、どれだけいるだろうか。ほとんどの人は、悲しみ、苦
しむ。

いくら心の中で、疑問に思っていても、「来世なんか、ない」とがんばるより、「あの世で、また会
える」と思うことのほうが、ずっと、気が楽になる。休まる。

 現実的に生きる……一見、何でもないことのように見えるが、その中身は、実は、奥が、底な
しに深い。

●あるがままに、生きる

 ここに1組の、同性愛者がいたとする。私には、理解しがたい世界だが、現実に、そこにいる
以上、それを認めるしかない。それがまちがっているとか、おかしいとか言う必要はない。言っ
てはならない。

 と、同時に、自分自身についても、同じことが言える。

 私は私。もしだれかが、そういう私を見て、「おかしい」と言ったとする。そのとき私が、それを
いちいち気にしていたら、私は、その時点で分離してしまう。心理学でいう、(自己概念=自分
はこうであるべきと思い描く自分)と、(現実自己=現実の自分)が、分離してしまう。

 そうなると、私は、不適応障害を起こし、気がヘンになってしまうだろう。

 だから、他人の言うことなど、気にしない。つまりあるがままに生きるということは、(自己概
念)と、(現実自己)を、一致させることを意味する。が、それは、結局は、自分の心を守るため
でもある。

 私は同性愛者ではないが、仮に同性愛者であったら、「私は同性愛者だ」と外に向って、叫
べばよい。叫ぶことまではしなくても、自分を否定したりしてはいけない。社会的通念(?)に反
するからといって、それを「悪」と決めつけてはいけない。

 私も、あるときから、世間に対して、居なおって生きるようになった。私のことを、悪く思ってい
る人もいる。悪口を言っている人となると、さらに多い。しかし、だからといって、それがどうなの
か? 私にどういう関係があるのか。

 あるがままに生きるということは、いつも(自己概念)と、(現実自己)を、一致させて生きるこ
とを意味する。飾らない、ウソをつかない、偽らない……。そういう生き方をいう。


+++++++++++++++++++

では、どうすれば、私は私らしく生きることが
できるか。
子どもは、子どもらしく生きることができるか。

+++++++++++++++++++

●自然で自由に生きる

 不規則がよいというわけではない。しかし規則正しすぎるというのも、どうか? 行動はともか
くも、思考については、とくに、そうである。

思考も硬直化してくると、それからはずれた思考ができなくなる。ものの考え方が、がんこにな
り、融通がきかなくなる。

 しかしここで一つ、重要な問題が起きてくる。この問題、つまり思考性の問題は、脳ミソの中
でも、CPU(中央演算装置)の問題であるだけに、仮にそうであっても、それに気づくことは、ま
ず、ないということ。

 つまり、どうやって、自分の思考の硬直性に、気がつくかということ。硬直した頭では、自分の
硬直性に気づくことは、まず、ない。それ以外のものの考え方が、できないからだ。

 そこで大切なのは、「自然で、自由にものを考える」ということ。そういう習慣を、若いときから
養っていく。その(自由さ)が、思考を柔軟にする。

 おかしいものは、「おかしい」と思えばよい。変なものは、「変だ」と思えばよい。反対にすばら
しいものは、「すばらしい」と思えばよい。よいものは、「よい」と思えばよい。

 おかしなところで、無理にがんばってはいけない。かたくなになったり、こだわったりしてはい
けない。つまりは、いつも心を開き、心の動きを、自由きままに、心に任せるということ。

 それが「自然で、自由に生きる」という意味になる。
 

+++++++++++++++++++++

しかし現実には、子どもの自尊感情を
傷つけるだけではなく、破壊する親も少なくないですね。
破壊しながら、破壊しているという事実にすら、
気がついていない。

それについて書いたのが、つぎの原稿です。

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親の希望 vs 現実の子ども

 親が、心の中で希望として描く、子ども像。これを(子ども概念)と呼ぶ。一方、そこには、現
実の子どもがいる。それを(現実子ども)と呼ぶ。心理学でいう、(自己概念)と、(現実自己)と
いう言葉にならった。

 そこで私は、この(子ども概念)と(現実子ども)のほかに、もう一つ、(世間評価)を加える。こ
れも、(自己概念)と(現実自己)のほかに、もう一つ、(世間評価)を、加えたことに、まねる。他
人から見た子ども像ということで、「世間評価」という。

 親が、「うちの子は、こうであってほしい」と願いながら、心の中に描く、子ども像を、(子ども概
念)という。

 勉強がよくできて、スポーツマンで、よい性格をもっていて、人にも好かれる。集団の中でもリ
ーダーで、できれば、ハンサム。自分という親を尊敬してくれていて、親の相談相手にもなって
くれる……、と。

 しかし現実の子どもは、そうでないことが多い。問題だらけ。園でも学校でも、何かとトラブル
をよく起こす。成績もかんばしくない。できも悪い。性格もいじけているし、反抗ばかりしている。
このところ、勉強、そっちのけで、遊んでばかりいる。

 しかし子どもの姿というのは、それだけでは決まらない。親が知らない世界での評価もある。
家の中では、ゴロゴロしているだけ。生活態度も悪い。親を親とも思わない言動。しかしスポー
ツクラブでは、目だった活躍をしている、とか。

 こういうケースは、よくある。

 そこで、(子ども概念)と、(現実子ども)が、それなりに一致していれば、問題はない。(子ども
概念)と(世間評価)も、それなりに一致していれば、問題はない。しかしこの三者が、よきにつ
け、悪しきにつけ、距離を置いて、遊離すると、そこでさまざまな問題を引き起こす。

【例1】(以下の例は、すべてフィクションです。実際にあった例ではありません。)

 ある日、小学1年生になったS君のバッグの中を見て、私は驚いた。そうでなくても、これから
先、たいへんだろうなと思っていた子どもである。今でいうLD(学習障害児)であったかもしれ
ない。そのバッグの中には、難解なワークブックが、ぎっしりと入っていた。

 このケースでは、親は、S君に対して、過大な期待を抱いていたようである。そのため、「やら
せれば、できる」という信念(?)のもと、難解なワークブックを、何冊も買いそろえた。そして毎
日、S君が学校から帰ってくると、最低でも、2時間は、勉強を教えた。

 このS君のケースでは、ここでいう親が心の中で描く(子ども概念)と、(現実子ども)が、大き
くかけ離れていたことになる。

【例2】

 B君は、中学1年生。勉強は嫌い。ときどき、学校もサボる。しかし小学生のときから、少年
野球クラブでは、ずっと、レギュラー(ピッチャー)を務めてきた。その地区では、B君にまさるピ
ッチャーはいなかった。

 年に4回開かれる、地区大会では、B君の所属するチームは、たいてい優勝した。市の大会
で、準優勝したこともある。

 しかし母親との間では、けんかが絶えなかった。「勉強しなさい!」「うるさい!」と。あるとき、
母親は、「勉強しなければ、野球チームをやめる」とまで言った。が、B君は、その夜、家を出て
しまった。B君が、6年生のときのことである。

 中学生になってから、B君は、部活に野球部を選んだ。しかしその直後、B君は、監督の教
師と衝突してしまい、そのまま野球部をやめてしまった。B君が、グレ始めたのは、そのときか
らだった。

 このB君のケースでは、(子ども概念)と(現実子ども)は、それほど遊離していなかったが、
親が子どもに対してもっている(子ども概念)と、(世間評価)は、大きくズレていた。

【例3】

 私の実家は、以前は、いくつかの借家をもっていた。その中の一つは、表が駐車場で、裏が
一間だけの家になっていた。

 その借家には、父と子だけの二人が住んでいた。母親は、どうなったか知らない。が、その
子というか、高校生が、国立大学の医学部に合格した。父親は、酒に溺れる毎日だったとい
う。

 しばらくしてその父子は、その借家を出たが、私は、その話を、母から聞いて、心底、驚い
た。借家を訪れてみたが、酒のビンがいたるところに散乱していた。

 私が、「どんな子どもでしたか」と近所の人に聞くと、その人は、こう言った。「本当にすばらし
い息子さんでしたよ。毎日、父の酒を買うために、自転車で、酒屋へ通っていました」と。

 この父子の関係では、父親に、そもそも(子ども概念)があったかどうかは、疑わしい。放任と
無責任。しかしその子どもの(現実子ども)は、父親のもっていたであろう(子ども概念)を、は
るかに超えていた。(世間評価)も、である。

【例4】

 新幹線をおりて、バスで、友人の家に向かうときのこと。うしろの席で、あきらかに母と娘と思
われる二人が、こんな会話を始めた。母親は、45歳くらいか。娘は、20歳そこそこ。母親とい
うのは、どこかの大病院の院長を夫にもつ、女性らしい。どうやら、娘の結婚相手をだれにす
るかという相談のようだった。

母親「Xさんは、いい人だけど、私大卒でしょう。出世は望めないわね」
娘「それにXさんは、もう30歳よ」
母親「Yさんは、K大学で、4年間、講師をしていたそうよ。でもね、ああいう性格だから、お母さ
んは、薦めないわ」
娘「そうね。同じ意見よ。あの人は、私のタイプじゃないし……」
母親「Zさんは、どう? 患者さんの評判も、いいみたいだし……」
娘「そうね、一度、Zさんと、食事をしてみようかしら。でもZさんには、もう恋人がいるかもしれな
いわ」と。

 話の内容はともかくも、二人の会話を聞きながら、私は、いい親子だなあと思ってしまった。
呼吸が、ピタリとあっている。

 最後のこのケースでは、母のもつ(子ども概念)と、(現実子ども)は、一致している。大病院
の後継者を、二人でだれにするか、相談している。このばあいは、(世間評価)は、ほとんど、
問題になっていない。

 ふつう、この三者が、ともに接近していれば、親子関係は、スムーズに流れる。しかしこの三
者が、たがいに遊離し始めると、先に書いたように、親子関係は、ギクシャクし始める。

 何が子どもを苦しめるかといって、親の高望み、つまり過剰期待ほど、子どもを苦しめるもの
は、ない。

 一方。その反対のこともある。すばらしい子どもをもちながら、「できが悪い」と悩んでいる親
である。こういうケースは、少ないが、しかしないわけではない。

 そこであなた自身のこと。

 あなたは今、どのような(子ども概念)をもっているだろうか。そしてその(子ども概念)は、(現
実子ども)と一致しているだろうか。もし、そうならあなたは、今、すばらしい親子関係を築いて
いるはず。

 が、反対に、そうでなければ、そうでない。やがて長い時間をかけて、あなたの親子関係は、
ギクシャクしたものになる。気がついてみたら、親子断絶ということにもなりかねない。一度、
(世間評価)も参考にしながら、あなた自身のもっている(子ども概念)を、修正してみるとよい。


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子どもの自尊感情を育てるために、
家庭教育はどうあったらよいのか。
それについて書いたのが、つぎの
原稿です。

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【特集・子どもの自尊感情を育てるために】

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子どもからやる気を引き出すには
そうしたらよいか?

そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織ということになる。

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●やる気論

 人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の中の辺
縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。

 この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが自分に
とって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モルヒネ様の物質を
分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。

たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに包まれる。そ
れはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけではないようだ。こんな実験
がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。

 サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除してし
まうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。

 つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているというわけ
である。

 そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなものを好
きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝手に決めてし
まうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、そうした感情ができてし
まうと、簡単には変えられないということになる。

 そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。

 最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反応を
示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教室を訪れたと
しよう。

 そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をもつよ
うになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印象をもつよ
うになる。

 あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子ども
は、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、ますま
すその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。

 心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」という言
葉もある。

 つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしていく。反対
に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってしまい、努力の割
には、効果があがらないということになる。

 このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。

 何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が分泌され
る。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみよう。

 このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があるという。

 ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミンにも、同
じような作用があるという。

 「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアドレナリンを
分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P59)とのこと。

 わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まるという
こと。

 そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚えた
か)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(どれだけ楽しん
だかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。

 これはたいへん重要なことである。

 というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁桃体が、
いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると考えてよい。「好
きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。

 実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、その子
どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、その向こうにある
隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。

 たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしている。何
かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせる。そういう印
象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が芽生えていくのを、静
かに待つ。

 (このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすることがある。
多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児教育と考えてい
る。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)

 しかしカテコールアミンとは何か?

 それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせている
その物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)

【補記】

 一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずない。
(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育のリズ
ムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)

 それにはいくつか、理由がある。

 勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。借金に
たとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。

 あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる気を
見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、子どもを追
いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものがない。

 本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。しかし
この日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、たいていの親
は、パニック状態になってしまう。

 かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)

【補記】

 子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早い時期
に、それに気づき、対処するのがよい。

 私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉強
はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、その子
どもにとっても、幸福なことかもしれない。

 しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少しでも伸び
る姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。

 大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわないというこ
と。


+++++++++++++++++++++++

もうおわかりのことと思います。
自尊感情とやる気は、紙にたとえるなら、表と裏のような
ものです。

自分を肯定的にとらえるところから、やる気は生れ、
そのやる気が、また自尊感情を育てていきます。

では、どうすればよいか。
ここに書いたように、「ほめる」です。
ほめて、ほめて、ほめまくる。
それだけでよいのです。
子どもは、(おとなもそうですが)、ほめることによって、
前向きな姿勢をもつようになります。

たとえば子どもがはじめて、文字らしきものを書いたら、
すかさず、ほめる。
へたでも、読めなくても、それでもほめる。
「すごいわね!」と。
そして子どもの書いたものを、一生懸命、読んであげる。
そのとき子どもの脳の中で起きる反応については、
ここに書いたとおりです。

で、こうした方向性をつくるのは、時期的には、
少年少女期に入る前、年齢的には、4・5〜5・5歳まで
ということになります。

つまりこの時期までの教育が、きわめて重要だという
ことです。

小学校1年生で、「84%」しかいないことに驚いた
私の気持ちを理解していただけましたか?
言いかえると、すでにこの段階で、16%の子どもが、
自分を見失っている?
本来なら、この時期なら、100%が、そうであっても
おかしくないのです。

「ほら、音楽教室!」
「ほら、英語教室!」
「ほら、体操教室!」と、子どもを追い立てることによって、
子どもの心をつぶしていることに、じゅうぶん、注意して
ください。

今、年中児でも、ハキがなく、集団の中でも、グズグズしている
子どもが、5〜6人に1人はいます。
中には、そういう子どもほど、「できのいい子ども」と誤解して
いる親さえいます。

おかしいですね。

+++++++++++++++++++++++++

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
現実自己 自己概念 自己の同一性 自我の同一性 やる気 マズロー 欲求段階説
はやし浩司 自尊感情 ほめる 強化の原理 弱化の原理 不適応 不適応障害 
燃え尽き 無気力 現実逃避 スピリチュアル スピリチュアルブーム はやし浩司
現実逃避する若者 現実逃避する子供)


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司※

●就任式会場に、UFO?

+++++++++++++++++++++++

今日、週刊誌と月刊誌を、コンビニで買った
1冊は週刊誌の、「プレイボーイ」。
もう1冊は月刊誌の、「プレジデント」。

どうしてプレイボーイかって?
何でもオバマ大統領の就任式会場の上に、UFOが現れたという。
その記事が載っているというので、買った。

プレジデントは、「日本人の給料」というのが、気になった。
知ったところで、どうということはないのだが、気になった。
何の役にもたたない。
どうでもよい。
しかし現状が知りたかった。
「今、この日本は、どうなっているのか」と。

+++++++++++++++++++++++

プレイボーイ誌のUFOに関する記事は、とくに目新しい内容はなかった。
ただひとつ興味深かったのは、UFOというのは、人間の目には見えないように、
機体そのものを、何らかの方法で、カモフラージュしているらしいということ。
目には見えないが、カメラには写る。
では、なぜ、そのとき人間に目撃されたのか?

透明だったが、周囲の雲を反射して、遠くからは、白く見えたらしい。
つまり就任式会場の人たちには見えなかったが、遠くから見ていた人には、見えた。

ありえる話である。

というのも、私が見たUFOもそうだったが、私が見たのと同じUFOを
見たという人も、UFOは、空に溶け込むかのようにして消えていったと言った。
ふつうの飛行機のように、遠ざかって視界から消えたのではなく、「溶け込む
かのようにして」、その向こうの景色と混ざり合って、消えた。
そんなわけで、UFOが、透明であると言っても、私は、驚かない。
そこで私は、考えた。

もし全面が鏡でできた球体を、空高くに浮かべたら、その球体は、
人間の目には、どう見えるかということ。
理屈で考えれば、周囲の空の色をそのまま反射するから、人間の目には
見えないはず。
しかし実際には、太陽の位置によっては、黒い球、もしくは白い球となって、
見えるはず。
金属製の飛行機が、黒く見えたり、白く見えたりするのと同じ。

では空の色と同じ風船では、どうか?
やはり黒い球か、もしくは白い球となって見えるはず。

さらにその風船の中で、電気を灯したらどうか?
空の明るさと同じ強さの電気を灯す。
このばあいは、球は、人間の目には見えないはず。
一度、暇な人は、実験してみたらよい。

では、どうして就任式会場から遠く離れた人には、それが見え、就任式会場の
人たちには、それが見えなかったのか(同誌)?
写真で見るかぎり、結構大きなUFOである。
飛行船のような形をしていて、一方の側には、尾翼や垂直尾翼らしいものがある。
それについて、『プレイボーイ』誌の中で、ある研究家は、こう説明している。
「可視光線をうまくはずしているから」と。
「人間が見ることのできない光で、UFOを包んでいた」と。

なるほど!

私たち人間とは比較にならないほど、高度な知的能力をもった宇宙人である。
それくらいの技術をもっていても、おかしくはない。

で、あくまでも本当に、それがUFOだったという仮定での話だが、ではどうして
オバマ大統領の就任式会場に、UFOが、現れたかということ。
当然何らかの関心があったらから、現れたということになる。
が、ここでまた別の疑問が、いくつかわいてくる。

どうしてそんなことをする必要性があったかということ。
また就任式の日時、場所などの情報を、どうやって手に入れたかということ。

この2つを考え合わせてみると、UFOを操っている宇宙人たちは、
地球上のできごとに、あれこれと気をつかっているということがわかる。
(それとも興味本位かな?)

地球人に見つからないように、こっそりと偵察に来るところが、ニクイ!
どうであるにせよ、このあたりに、宇宙人の(限界)があると考えてよい。
宇宙人といっても、けっして、オールマイティ(全知全能)ではない。
人間が、南極に観測隊を送るように、彼らもまた、地球にそのつど、
観測隊を送り込んできている。

そのことを話すと、ワイフがこう言った。
「だったら、地球温暖化のことも気がついているはず。どうしてそれを
人間に止めさせないのかしら?」と。

私「今は、まだそこまで温暖化が深刻にはなっていないからさ。
しかしいよいよとなったら、宇宙人だって、人間の前に姿を現す。
もっとも、そのときは、人間にとっても、最後のときだろうけどね」
ワ「最後って?」
私「宇宙人は、地球を選ぶか、人間を選ぶかという選択に迫られる。
そのとき宇宙人は、地球を選ぶ可能性が高い。
人間を滅ぼして、地球を救う」
ワ「どうして?」
私「人間は、邪悪だからさ。宇宙人の仲間としては、ふさわしくない。
たぶん彼らなら、そう判断するだろうね」と。
(090309記)

(追記)

YOU TUBEのほうで、そのときのUFOが、画像として紹介されている。
「オバマ就任式 UFO」で検索してみるとよい。

それを見ると、一度、画面を左から右へ、猛スピードで横切っていて、再び、右から
左へと移動しているのがわかる。

白い雲の間をスーッと抜けるように、見え隠れしながら移動している。
もちろん飛行機の類ではない。
が、形がはっきりとしているわけでもない。
ボヤーッとした、モヤのような感じ。
動きを止め、形を分析したYOU TUBEもある。
それを見ると、YOU TUBEのほうでは、飛行船型ではなく、
下の段が黒い影になった、ハンバーガータイプのUFOであることが
わかる。

どうして形が、こうまでちがうのだろう?
プレイボーイ誌は、どこでその写真を入手したのだろう。

(補記)
性善説、性悪説が、よく話題になる。
そのとき、こう考えてみたらどうだろうか。

あなたは、宇宙のどこかで平和に暮らす宇宙人である。
銀河系から銀河系へと、自由に航行する能力ももっている。
その気になれば、太陽のような星など、一瞬にして破壊するだけの能力ももっている。

そんな宇宙人であるとして、もしあなたが、「人間を自分たち宇宙人の仲間として加えるか
どうか」という選択を迫られたら、あなたなら、どう判断するだろうか。
人間を、自分たちと同じ宇宙人の仲間に加えるだろうか。
そして高度な技術や知識を、人間に分け与えるだろうか。
もしそうなら、人間は、「善なる存在」ということになる。

それとも反対に、「人間を仲間に加えるのは危険。人間に、高度な知識や技術を分け与えて
はいけない」と判断するかもしれない。
もしそうなら、人間は、「悪なる存在」ということになる。

さて、あなたの判断は、どちらだろうか。
人間を自分たちの仲間に加えるだろうか。
それとも加えないだろうか。
それで性善説、性悪説の結論は出ると思う。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 子供 子供の問
題 家庭教育 性善説 性悪説 オバマ大統領の就任演説会場 UFO)


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●3月10日

●不安の構造(Panic Disorder)

「私はこうありたい」「こうあるべき」と描く、(自分像)を、「自己概念」という。
「〜〜をしたくない」というのも、それに含まれる。
その自己概念に対して、現実の私がいる。
これを「現実自己」という。
「自己概念」と「現実自己」が、不一致を起こすと、心は緊張状態になり、
不安定になる。

フロイトの説によれば、こうだ。

これら二つが近接していれば、その人は、落ちついた状態で、自分の道を
進むことができる。しかしこれら二つが遊離し、さらに、その間に超えがたい
ほどの距離感が生まれると、その人の精神状態は、きわめて不安定になる。
ついでに劣等感も、そこから生まれる(フロイト)、と。


不安定になると、ものの考え方が、定まらなくなる。
「自我の同一性」というときは、この両者の同一性をいう。
両者が一致しているときは、その人は安定している。
強い。
が、そうでなければ、心はボロボロの状態になる。
何をしても、落ち着かない。
不安定イコール、不安と考えてよい。

不安は、つぎの4つに分けて考えることができる。

心因的不安(心に何か問題があって起こる不安)
外因的不安(外からの働きかけがあって起こる不安)
身体的不安(身体的に何か問題があって起こる不安)
社会的不安(社会情勢に応じて起こる不安)

……というように、教条的に分けて考えるのは、実のところ、私はあまり好きではない。
たとえば今、多くの人が、自分の生活に不安感を覚えている。
この不況で、財産や職を失った人多い。
そういう人は、「明日はどうなるのだろう」と悩む。
心配だ。
何をしても、手につかない。
足元がすくわれたような状態になる。

●取り越し苦労(予期不安)

同じ不安でも、心に何らかの問題のある人は、取り越し苦労をしやすい。
ああでもない、こうでもないと、先のことばかり心配する。
ふつうの心配とちがうところは、妄想が入り込むということ。
妄想が妄想を呼び、自分でも収拾がつかなくなる。
人によっては、パニック状態(パニック発作)になる。

(うつ)があるから、取り越し苦労するのか、
それとも取り越し苦労をするから、(うつ)になるのかは、わからない。
パニック障害からうつに発展したばあいを、「二次的うつ」という。
あるいは同時進行の形で、(うつ)と取り越し苦労が進行することがある。
どちらにせよ、(うつ)は(うつ)として、別に考える。

が、そういう状態にある人に、「取り越し苦労ですよ」と言っても意味はない。
かえって反発し、あなたの意見を遠ざけてしまう。
コツは、相手に言いたいだけ言わせること。
こちらは聞き役に回り、「そうですね」だけを繰り返す。
反論、否定、注釈は、タブー。
さらにひどくなると、家の中にとじこもったり、部屋の中から出られなくなったり
する(広場恐怖)。
こんなことがあった。

ある女性(65歳)には、2人息子がいたのだが、いろいろあって、
2人とも、離婚してしまった。
昔からの農家ということもあった。
その女性は、「家系が途絶える」と悩み出した。
さらにそれぞれの息子に、2〜3人の子ども(孫)がいたが、
その孫についても、「みなに遺産相続を請求されたら、財産がなくなってしまう」と。

あとは妄想に妄想が重なって、「どうしたらいい」「どうしたらいい」と。
電話がかかってきても、手が震えて受話器さえあげることができなくなってしまった。
夫に理由を聞くと、夫は、こう言った。

「(別れた)嫁から、養育費の請求が来るのではないかと心配している」と。
2人の息子は、家庭裁判所で決められた養育費を、まともに払っていなかった。

●不安は病気

心だって、病気になる。
不安神経症も、その一つ。
いまではパニック障害と呼ぶ。
そういう前提で、「不安」を考えたらよい。

今ではよい薬もある。
治療法も確立している。
不安が抜けないようだったら、近くの心療内科で相談してみたらよい。
私のばあいは、かかりつけのドクター(内科医)から、精神安定剤を
もらっている。
「セxゾx」という名前の、もともとは女性専用の精神安定剤という。

それをときとばあいに応じて、半分に割って、口の中で溶かしてのんでいる。
定量は、1錠もしくは、2錠だそうだが、今のところ半分でよく効く。
「ときとばあい」というのは、軽い片頭痛が起きたようなとき、辺頭痛薬だけでは
効きが悪いようなので、精神安定剤を併用している。
(辺頭痛薬も、定量の半分にして、のんでいる。)

こうした心の病気は、「治そう」と思わないこと。
まずそれに気づいて、あとは、「仲よくつきあう」。
どうせ治らない。
どれも深刻なものはないが、私は自分では、「精神病のデパート」と思っている。
そのつど、いろいろな病気を経験する。
不安神経症(パニック障害)もそのひとつ。

(補記:ウィキペディア百科事典より)

主な症状として、つぎのようにある。
『定型的なパニック障害は、突然生じる「パニック発作」によって始まる。続いてその発作が再
発するのではないかと恐れる「予期不安」とそれに伴う症状の慢性化が生じる。さらに長期化
するにつれて、症状が生じた時に逃れられない場面を回避して、生活範囲を限定する「広場恐
怖症」が生じてくる』(ウィキペディア百科事典より)


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●『パッセンジャーズ』を見る

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昨夜、仕事の帰りに深夜劇場に足を運んだ。
『オーストラリア』を見たかったが、時間帯が合わなかった。
それで見たのが、『パッセンジャーズ』。

星は2つの、★★。
『シックス・センス』の前に出ていたら、大ヒットしただろう。
しかし『シックス・センス』の焼き直し版といったところ。
『ミラーズ』のときに感じたような新鮮さも、なし。
だから星は、2つ。

途中、居眠りしそうなほど、かったるかった。
「オカルト映画かな?」と思っていると、やはりオカルト映画だった。
そんな映画。
劇場で見るには、つまらない。
せっかくプレミア・スクリーンで見たのだが……。

さあ、今日も、がんばるぞ!

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最前線の子育て論byはやし浩司(090311)

●K国のミサイル(K国の陽動作戦)
(A Feint Operation of North Korea)

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日本政府は、「K国のミサイル発射は、さしせまった
ものではない」(3月11日)と発表した。

しかし、本当にそうか?
そんなのんきなことを言っていて、だいじょうぶか?

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私があの金xxなら、陽動作戦を取る。
陽動作戦……真の意図を隠し、別の行動に出て、敵を
安心させる作戦をいう。
敵の裏をかいて、別の行動に出る。

今回のミサイル発射のための準備行動が、それ。
私が推察するところ、K国は、別のところで、
別のミサイル発射の準備をしている。
たとえばどこか山の奥とか、穴の中とか、で。

CNNは、つぎのように伝える。

『南北関係は、韓国の李明博大統領が従来の政権の、対北朝鮮ゆう和策を後退させる政策を
打ち出してから悪化。K国はこれを受け、韓国と結んだ「政治・軍事の対決状態を解消する全
合意」を無効にするなどと宣言し、敵対姿勢を深めている。また、長距離弾道ミサイルの発射
実験準備を進めているともされ、日米当局が事態によっては撃墜させる考えを示したことを受
け、K国人民軍当局者は「人工衛星」が迎撃された場合は、報復するとの声明も発表してい
る』(以上、CNN・090311)。

その一方で、K国はすでに小型核の開発に成功したというニュースも
伝わってきている。

そこで陽動作戦?

逆の立場で考えてみれば、それがわかる。

今では宇宙から、発射場はもちろん、ミサイルの設置、燃料の注入、
発射など、すべて監視されている。
そんなとき、おめおめと、発射場から、ミサイルなど打ち上げるだろうか。
またそんな発射場など、戦略的に、まったく意味がない。
「戦争」ということになれば、イのイチバンに、攻撃目標にされる。
ものごとは常識で考えたらよい。

私が金xxなら、どこか山奥の、その地下にミサイル発射基地をつくる。
現にほかの中距離ミサイルの発射基地は、そのほとんどが地下にある。

近くK国は、成功するかしないかは別として、ミサイルを打ち上げる。
そのときそのミサイルは、別のところから打ち上げる。
「迎撃されれば、恥をかくだけ」(韓国紙)と。

もし現在、予想されている場所からミサイルを打ち上げるとしたら、
迎撃覚悟の打ち上げとみてよい。
アメリカ軍は、「99%、迎撃可能」と断言している(3・11)。

となると、K国の目的は、それを口実に、日米韓の3国に、報復
攻撃をしかけること。
全面戦争をするだけの力も、度胸もない。
しかし「適度な報復攻撃」でじゅうぶん。
それでもって国内の緊張感を高め、金xx体制を強化する。

私の予想では、K国のミサイル発射実験は、失敗する。
理由がある。

何も迎撃ミサイルだけが、「迎撃方法」ではない。
ミサイルというのは、一時的には、燃料で飛ぶものだが、二次的には、
電波誘導で飛ぶもの。
その電波誘導をかく乱したり、妨害電波を発射したり、さらには
ニセ電波を飛ばしたりして、ミサイルを航行不能にすることができる。

K国がミサイルを発射した直後、ミサイルに向けて、妨害電波を
発射する。
それで、ドカ〜〜ン!
見た目には、実験失敗ということになる。
(ひょっとしたら、前回もそうだった可能性がある。)

ともあれ、油断は禁物。
K国の思考回路は、私たちのもっているそれとは、まったくちがう。
私たちがもっている常識で理解できるような国ではない。

原油も食料も、世界から援助してもらいながら、その
一方で、その世界に対して、ミサイルや核兵器で脅す。
私なら、自分に恥じて、とてもそういう行動などできないのだが……。

可能性のひとつとして、K国の陽動作戦に警戒したほうがよい。
あくまでも可能性のひとつとして……。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

【シャドウ論】

●仮面(ペルソナ)

++++++++++++++++++++

ペルソナ(仮面)そのものを、職業にしている人たちがいる。
いわゆる「俳優」という人たちが、それである。

で、あくまでも一説だが、あの渥美清という俳優は、本当は気難し屋で、
人と会うのをあまり好まなかったという(某週刊誌)。
自宅のある場所すら、人には教えなかったという(同誌)。
が、その渥美清が、あの『寅さん』を演じていた。
寅さんを演じていた渥美清は、ペルソナ(仮面)をかぶっていたことになる。

といっても、ペルソナ(仮面)が悪いというのではない。
私たちは、例外なく、みな、仮面をかぶって生きている。
私もそうだし、あなたもそうだ。

++++++++++++++++++++

●みな、かぶっている

たとえばショッピングセンターで、深々と頭をさげる女子店員を見て、
「人間的にすばらしい人」と思う人は、まずいない。
顔には美しい笑みを浮かべている。
何か苦情を言ったりしても、おだやかな口調で、「すみません。ただ今、
お調べいたします」などと答えたりする。
彼女たちは、営業用のペルソナ(仮面)をかぶって、それをしている。
同じように、教師だって、医師だって、みな、ペルソナ(仮面)を
かぶっている。

最近では、さらにそれが進化(?)した。
インターネットの登場である。

今、あなたは、私が書いたこの文章を読んでいる。
で、あなたはそれを読みながら、「はやし浩司」のイメージを頭の中で
作りあげている。
心理学の世界では、これを「結晶」と呼んでいる。
そのあなたが作りあげているイメージは、どんなものだろうか。

私にはわからない。
それに結晶といっても、その中身は、みなちがう。
ある人は、「林って、理屈っぽい、気難しい男だな」と思うかもしれない。
また別のある人は、「わかりやすい、単純な男だな」と思うかもしれない。
文章を読む人の、そのときの気分によっても、左右される。

映画なら、まだそこに「像」を見ながら、相手のイメージを頭の中で
作りあげることができる。
しかし文章だけだと、それがさらに極端化する。
それがこわい。

●相手の見えない世界

以前にも書いたが、たとえばメールで、「お前はバカだなあ」と書いたとする。
書いた人は、半ば冗談のつもりで、つまり軽い気持ちでそう書いた。
しかし受け取る側は、そうではない。
そのときの気分で、読む。
たとえば何かのことで、その人の心が緊張状態にあったとする。
だから、それを読んで激怒する。
「何だ、バカとは!」となる。

もっとも小説家といわれる人たちは、こうした結晶を逆手に利用しながら、
読者の心を誘導する。
よい例が、スリラー小説ということになる。
恋愛小説でもよい。

たとえば「A子は、みながうらやむほどの、色白の美人であった」と書いてあったとする。
それぞれの人は、それぞれの美人を空想する。
その美人の姿は、それぞれの人によって、みなちがう。

●現実

が、ここで重要なことは、ペルソナ(仮面)は、ペルソナ(仮面)として、
(現実)とは、しっかりと切り離すこと。

たとえば学生時代、私にとっては、「ベン・ハー」イコール、
「チャールトン・ヘストン」であり、「チャールトン・ヘストン」イコール、
「ベン・ハー」であった。
私には区別がつかなかった。

しかしこうした現象は、何も私だけに起きた特殊なものではない。
映画ドラマの中の主人公を、(現実の人)と思いこんでしまう現象は、
よく見られる。
しかも若い人たちだけではない。
40歳前後の女性ですら、それが区別できなくて、韓国の俳優を追いかけたり
する。

が、相手を見るときはもちろんのこと、自分自身に対してもである。
ペルソナ(仮面)と(現実)は切り離す。
とくに、自分がかぶっているペルソナ(仮面)には、警戒したほうがよい。
この操作を誤ると、自分で自分がわからなくなってしまう。
欧米では、牧師に、そのタイプの人が多いと言われている。
みなの前で、神の言葉を語っているうちに、自分自身が(現実)から遊離してしまい、
自分のことを(神)と思いこんでしまう。

が、それだけではすまない。

●シャドウ

このとき同時に、自分の中にある(邪悪な部分)を、心の中に別室に閉じこめて
しまう。
閉じこめながら、自分を善人と思いこんでしまう。
こうした現象を、あのユングは「シャドウ(影)」という言葉を使って説明した。
このシャドウが、別のところで、別人格となって、その人を裏から操る。
大教会の神々しいほどまでの牧師が、その裏で、少年や少女を相手に、性犯罪を
繰り返していたという例は、欧米では、たいへん多い。

が、さらに恐ろしいことが起きる。

このシャドウは、ときとして、そっくりそのまま子どもに伝わることがある。
心理学の教科書に出てくる例として、あの映画『復讐するは、我にあり』がある。
それについては以前にも書いたので、このあとに、そのとき書いた原稿を添付
しておく。

こういう例は極端な例であるとしても、親子の間でも、こうした現象はよく
観察される。

●シャドウを受けつぐ子ども

ある母親は、世間では「仏様」と呼ばれていた。
しかし2人の息子は、高校時代、ともに犯罪行為を犯し、退学。
周囲の人たちは、「どうしてあんないい母親なのに、息子さんたちは……?」と
言っていた。
が、こうした現象も、シャドウ論をあてはめてみると、説明がつく。
母親は、邪悪な部分、たとえば嫉妬、ねたみ、恨み、不満などを、心の中の別室に
閉じことによって、善人を演じていただけである。

そのシャドウを、いつも近くで見ていた息子たちが、受けついでしまった。

では、どうするか。

私たちはいつもペルソナ(仮面)をかぶっている。
それはそれでしかたのないこと。
ショッピングセンターの女子店員が、客に向って、「オイ、テメエ、そこの客、
泥靴なんかで、この店に来るなよ!」と叫べば、その女子店員は、そのまま解雇。
職を失うことになる。

この私だって、そうだ。

で、大切なことは、それをペルソナ(仮面)と、はっきりと自覚すること。
そして脱ぐときは、脱ぐ。
脱いで、自分に戻る。
ありのままの自分に戻る。
それをしないでいると、それこそ人格そのものが、バラバラになってしまう。
これはたいへん危険なことと考えてよい。

+++++++++++++++++

シャドウについて書いた原稿を
添付します。

+++++++++++++++++

【シャドウ論】

++++++++++++++++

仮面をかぶっても、仮面をぬぐことも
忘れないこと。

その仮面をぬぎ忘れると、たいへんな
ことになりますよ!

++++++++++++++++

●自分の中の、もう1人の自分

 もともと邪悪な人がいる。そういう人が仮面をかぶって、善人ぶって生きていたとする。すると
やがて、その人は、仮面をかぶっていることすら、忘れてしまうことがある。自分で、自分は善
人だと思いこんでしまう。

 このタイプの人は、どこか言動が不自然。そのため簡単に見分けることができる。さも私は
善人……というように、相手に同情して見せたり、妙に不自然な言い方をする。全体に演技ぽ
い。ウソっぽい。大げさ。

 こういう話は、以前にも書いた。

 そこでこのタイプの人は、長い時間をかけて、自分の中に、もう1人の自分をつくる。それが
シャドウである。ユングが説いたシャドウとは、少し意味がちがうかもしれないが、まあ、それに
近い。

 このシャドウのこわいところは、シャドウそのものよりも、そのシャドウを、時に、身近にいる
人が、そっくりそのまま受けついでしまうこと。よくあるのは、子どもが、親の醜いところをそっく
りそのまま、受けついでしまうケース。

●仮面(ペルソナ)をかぶる女性

 ある母親は、近所の人たちの間では、親切でやさしい女性で通っていた。言い方も、おだや
かで、だれかに何かを頼まれると、それにていねいに応じていたりした。

 しかし素性は、それほど、よくなかった。嫉妬深く、計算高く、その心の奥底では、醜い欲望
が、いつもウズを巻いていた。そのため、他人の不幸話を聞くのが、何よりも、好きだった。

 こうしてその女性には、その女性のシャドウができた。その女性は、自分の醜い部分を、そ
のシャドウの中に、押しこめることによって、一応は、人前では、善人ぶることができた。

 が、問題は、やがて、その娘に現れた。……といっても、この話は、20年や30年単位の話
ではない。世代単位の話である。

 その母親は、10数年前に他界。その娘も、今年、70歳を超えた。

●子に世代連鎖するシャドウ

 その娘について、近所の人は、「あんな恐ろしい人はいない」と言う。一度その娘にねたまれ
ると、とことん、意地悪をされるという。人をだますのは、平気。親類の人たちのみならず、自分
の夫や、子どもまで、だますという。

 その娘について、その娘の弟(現在67歳)は、こう教えてくれた。

 「姉を見ていると、昔の母そっくりなので、驚きます」と。

 話を聞くと、こうだ。

 「私の母は、他人の前では、善人ぶっていましたが、母が善人でないことは、よく知っていまし
た。家へ帰ってくると、別人のように、大声をあげて、『あのヤロウ!』と、口汚く、その人をのの
しっていたのを、よく見かけました。ほとんど、毎日が、そうではなかったかと思います。母に
は、そういう2面性がありました。私の姉は、その悪いほうの一面を、そっくりそのまま受け継い
でしまったのです」と。

 この弟氏の話してくれたことは、まさに、シャドウ論で説明がつく。つまり、これがシャドウのも
つ、本当のおそろしさである。

●こわい仮面

 そこで重要なことは、こうしたシャドウをつくらないこと。その前に、仮面をかぶらないこと。と
いっても、私たちは、いつも、その仮面をかぶって生きている。教師としての仮面。店員として
の仮面。営業マンとしての仮面。

 そういう仮面をかぶるならかぶるで、かぶっていることを忘れてはいけない。家に帰って家族
を前にしたら、そういう仮面は、はずす。はずして、もとの自分にもどる。

 仮面をとりはずすのを忘れると、自分がだれであるかがわからなくなってしまう。が、それだ
けではない。こうしてできたシャドウは、そのままそっくり、あなたの子どもに受けつがれてしま
う。
(はやし浩司 仮面 ペルソナ シャドウ)

++++++++++++++++++

少し前に書いた、「シャドウ論」を、
もう一度、ここに添付しておきます。
内容を少し手なおしして、お届けします。

++++++++++++++++++

●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、夫として
の仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。商売では、いくら客に怒鳴られても、にこ
やかな顔をして、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。これを
「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよい。ねたみ、うら
み、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事件を起
こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないことがわか
る。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

●凶悪事件の裏に

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンションに
住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育にも熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに(仮面とシャドウの問題)が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言ったとする。
「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思って、そ
う言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウがつきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断して
いる人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところがある。「あ
の人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですってねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。身分制度が、そのまま
学歴制度になり、さらにそれが、出身高校へと結びついていった(?)。街道筋の宿場町であっ
たがために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。その人を判断する基準が、出
身高校へと結びついていった(?)。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

●ドロドロとした人間関係

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きついでしま
う。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れようとしている」
と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる基盤となってしまう。

 よくシャドウ論で話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』である。
佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みごとな演技をし
ている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさることなが
ら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、榎津鎮雄と
の、葛藤(かっとう)である。榎津厳自身が、「あいつ(妻)は、おやじにほれとるけん」と言う。そ
んなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た人
なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印象を与
える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握らせる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャン。それを仮面とするなら、息子の嫁と不倫関
係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、そっくりその
まま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげる原動力になっ
た。

●いつのありのままの自分で

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、その仮面
を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。見抜くだけならまだしも、そ
のシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言える。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのままの自分
を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、まし。もっと言
えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子どもにとっては、好ましい
ということになる。
(はやし浩司 ペルソナ 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし
浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 結晶 はやし浩司 復讐するは我にあり シャドウ論 参考文
献 河出書房新社「精神分析がわかる本」)


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

















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3月12日(木曜日)2009年

++++++++++++++++++++

今日は、自宅から教室まで、歩いた。
たった今、教室に着いたところ。
途中で、Dズというレストランで昼食。
それもあって、2時間15分も、かかった。

そのDズで、奇妙な光景を目にした。
3組の女性たちが座って、それぞれが相手の女性に、
何やら、懸命に説明していた。

大きな声だったので、やがて話の内容がわかった。
それぞれが、何かの健康食品を勧めていた。
それを聞きながら、ワイフが「マルチ商法よ」と言った。
あえて説明はいらなかった。
たしかにマルチ商法の勧誘だった。

トイレに立ったとき、ひとつのテーブルを見たら、
家系図のようなものが、広げてあった。
縦、横に、20〜30個の四角が並んでいて、
それぞれに名前らしきものが書きこんであった。
相手の女性から、家族関係、親戚関係を
聞き出しているようだった。

「どうしてそんなものを調べるのだろう?」と
思ったが、そこで思考停止。

マルチ商法では、常に被害者が加害者となり、
また新たな被害者を作る。
あとはこの繰りかえし。
しかしこれだけ騒がれても、まだマルチ商法は
健在らしい。

+++++++++++++++++++++

●被害者は加害者に

以前、ある宗教団体から脱会した人がいた。
年齢は、当時45歳くらいではなかったか。
その宗教団体に疑問をもち、脱会したということだった。
で、その人がそれで宗教から遠ざかったかというと、そうではない。
自分で新しい教団を開いた。
教祖になった。
で、ある日、その人に呼ばれて行くと、その人はこう言った。
「100人も信者がいれば、一応、食べていかれますよ」と。

そういう人は珍しいとしても、たいていの人は、宗教から宗教へと
渡り歩くようになる。
一度身についた信仰心(宗教心ではない)は、なかなか消えない。
思考回路というのは、そういうもの。
私は、Dズで、その光景を見たとき、それを思い出した。

マルチ商法。
マルチ商法があるから、被害者がいるのではない。
マルチ商法を支える加害者がいるから、マルチ商法がある。
で、マルチ商法がマスコミなどで叩かれたからといって、
それらの人が、それに気づくわけではない。
むしろ現実は、逆。

マルチ商法で、一度味をしめた人は、つぎのマルチ商法を考える。
あるいは新しいマルチ商法が現れると、イの一番に飛びつく。
マルチ商法というのは、早く飛びついた人ほど、儲かる。
そういう旨味(うまみ)をよく知っている。
そういうしくみになっている。

だからマルチ商法はなくならない。
被害者が加害者となり、新たな被害者をつくる。
最後にババを引いた人だけが、損をする。

しかしどうして家系図を調べていたのだろう?
(家系図だったかどうかは、わからないが・・・。)
その中の金持ち(=カモ)をさがすためだろうか。
それとも別の目的があるのだろうか。
あるいは今、流行しているスピリチュアル(霊感)商法の
ひとつなのだろうか。
私にはわからないが、あやしげなグループだったことにはちがいない。

Dズを出るとき、もう一度、そのグループをながめた。
相変わらず大声で、相手の女性に向かって、何やら説明していた。
まわりの人のことなど、まったく気にならないといったふうだった。

(補記)
マルチ商法が摘発されるとき、いつもトップ、もしくはその直接の
部下だけ。
そこでストップ。
しかしこの方法では、マルチ商法は、なくならない。
本気でなくそうとするなら、そのつぎの段階にいる人たち、つまり
マルチ商法で、だれかを勧誘した人たちまで、逮捕しなければならない。
マルチ商法では、勧誘者イコール、加害者。
そういう人たちは、「私も被害者でした」と主張するだろう。
が、これだけマルチ商法がつづいているのだから、今さら、「知らなかった」
ですまされない。

私も2年ほど前、近M通信事件にからんで、あやうく、その
被害者になるところだった。
私を勧誘したのは、大学の1年、先輩だった。
もしあのときあの話に乗っていたら、私もだまされた。
が、そのとき、その先輩が、「ぼくも被害者だ」では、すまされない。
またそれですんではいけない。
言うなれば、詐欺未遂。
そういう認識を、みなが、もっとしっかりともつべきではないのか。


70歳まで、現役

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先日、ワイフとこんな会話をした。
「ぼくは70歳まで、現役で働く。協力してくれるか」と。
ワイフは、快く承知してくれた。

「で、そのために体力づくりをしよう」と声をかけると、
それにも快く承知してくれた。

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少し前まで、「65歳まで働こう」と思っていたが、
それを「70歳」にした。
年金など、アテにしていない。
それよりも大切なのは、健康で楽しく仕事ができること。
若いとき、何度か失業保険金をもらえる立場になったことがあるが、
私はもらわなかった。
私のプライドが許さなかった。
たぶん65歳になったときも、同じように考えるだろう。
自信はないが・・・。

ともかくも、今の調子なら、何とか70歳までがんばれそう。
50歳になったときよりも、体の調子はよい。
頭のボケも、今のところ、心配ない。
疲れやすく、昼になると眠くなるが、それは何とかできる。
あとは、今の調子を崩さないようにする。
それだけを考えて、前に進む。

(補記)
「あなたには、もう用はありません。静かに遊んでいてください」と
言われることくらい、つらいことはない。
ほかの人にはどうか知らないが、私には、そうだ。
だから私は健康がつづくかぎり、働く。
働いて、社会との接点を保つ。
もしそれがなくなったら、そのときこそ、私は、ほんとうにおしまい。
何も、肉体の「死」だけが、死ではない。
魂の「死」だってある。
その死とは、闘う。
闘える相手だから、闘う。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●午前3時

今朝は、午前3時起き。
昨夜、頭痛がしたので、午後8時ごろ、眠った。
計算してみると、7時間は、眠ったことになる。
時折、ザーッ、ザーッと雨が降っているのがわかる。
窓の外から、それが聞こえてくる。

このところ「寒い」と感ずることが多いが、それでも、
花の開花などは、全体的に見ると、2週間ほど早いとか。
今さら「暖冬」という言葉など、使いたくない。
先日も、長野の友人が、こう言っていた。
「最近では、めったに雪かきをしなくなりました」と。
子どものころは、毎日のように雪かきをしていたそうだ。

そう言えば、今年は、雪をまったく見ていない。
例年だと、チラチラとだが、1、2度は、雪が降るのだが・・・。


はやし浩司+++March 09+++Hiroshi Hayashi

●がんこな女性

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がんこな女性がいる。
年齢は、今年、45歳になるという。
夫であるその男性に話を聞くと、
こう話してくれた。

「結婚して20年近くになるが、
自分のほうから、『ごめん』とか、
『そうだね』とかいう言葉を言ったことが、
ない」と。
「一度もないのですか?」と念を押すと、
「ないです」と。
かなりがんこな女性らしい。

子どもでも、似たような症状を示す子どもがいる。
アスペルガー児と呼ばれる子どもなどがそうである。
症状が軽いばあいは、意地っ張りな子ということになる。
何かのことで、殻(から)に入ると、その中に、
閉じこもってしまう。
そのまま固まってしまう。
あとはお決まりの、押し問答。

私「君がしたことだから、謝りなさい」
子「どうして、ぼくが謝らなければならないんだ」
私「自分でしたんだから、謝るべきだ」
子「わざとしたんじゃないから、しかたない」
私「わざとでなくても、君がしたことにはちがいない」
子「先生が、そんなものを、ここに置いておくから悪い」

私「それとこれは、話が別」
子「どこがちがうよ」
私「あのね、こういう話は、『ごめん』と言えば、それですむの」
子「ごめんと言えばいいのか」
私「はいはい、わかりました。ごめん、・・・このバカ!」と。

男児に多いと言われるが、女児にもアスペルガー児の子どもはいる。
頭はよいし、そうでないときは、それなりの常識は通ずる。
が、どこか自己愛者的な自己中心性があり、自分のまちがいや、
ミスを指摘されると、とたんに殻にこもってしまう。
その男性の妻がそうであったというわけではないが、症状から
すると、その可能性がある。

もっともおとなになると、診断名をくだすのは、たいへんむずかしい。
アスペルガーにしても、思春期を境に、外からは症状が、わかりにくくなる。
子ども自身が、自分で自分をコントロールするようになる。
が、その残像のようなものは、残る。

思考の融通性が利かない。
冗談が通じにくい。
がんこになりやすい。
心を許す相手と、そうでない相手を峻別する。
自分のミスや失敗を、認めない。
何か言うと、すぐ切り返してくる、など。

だからその男性は、こう言った。

「一度夫婦喧嘩が始まると、ネチネチといつまでもつづくように
なりました。
妻は私の性格が悪いと言いますが、そうなってしまいました。
ふつうの人なら、『あら、ごめん』ですむような話でも、その場で、
固まってしまうため、あとは私が何を言っても、無視、無視・・・。
そういった状態になります。
先日も、さんざん言い争ったあと、私に、こう言いました。
『ごめん、ごめん、この気ちがい!』と。

同じ夫婦喧嘩でも、いつも同じパターンで始まり、同じパターンを
繰りかえすというようであれば、どちらかの性格的な欠陥に原因が
あるとみてよい。
しかしどちらか一方の側だけに、責任があるというわけではない。
夫婦というのは、長い年月をかけて、たがいに相手の心を作る。

妻のほうは、「私はこういう性格だから、あきらめてよ」と言っている
らしい。
しかし夫のほうは、「無視されたとたん、カッとなります」と言っている。
たがいにたがいのトラウマを作ってしまった。

・・・といっても、この問題は、簡単には解決しない。
その男性の妻が、アスペルガー児であったかどうかはわからないが、
仮にそうであったとしても、それはその女性自身の責任ではない。
恐らくその女性自身も、自分自身のそうした(性格)に気づいていなかった。
今も気づいていない。
また20年前の当時には、「アスペルガー」という言葉すらなかった。
似たような症状の子どもはいるにはいたが、「がんこな子ども」
というような言い方で、教育の世界では処理していた。

最後に、その男性は、こう言った。
「ぼくたちは見合いで結婚しましたが、あんながんこな女とわかっていたら、
結婚はしなかったと思います」と。
言い忘れたが、現在、その夫婦は、離婚の危機に立たされている。


はやし浩司+++March 09+++Hiroshi Hayashi

●20万円の損?

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数日前、テレビ(NHK)を見ていたら、
こんなことを言っていた。

「今度の株価の暴落で、国民1人当たり、
約20万円の損失をしたことになります」と。

20万円?
・・・とんでもない!

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同じ番組の中で、最近、退職し、そのとき得た退職金で
株式投資をした男性が紹介されていた。
その男性にしても、400万円以上もの損をしたという。

で、こういうばあいの平均値というのは、意味がない。
幼児も老人も含めて、「1人当たり・・・」となる。
一家の世帯主当たりで計算すると、その数倍〜10倍程度になるのでは。
「一世帯あたり、200万円」と聞いても、私は驚かない。
それに今回の暴落は、何も、株だけではない。
債権全般にも、及んでいる。
為替差損を加えると、損をした人は、もっとふえる。
すでに近くに、一財産を失い、家を明け渡した人さえいる。
これから先、こうした人たちは、爆発的にふえるはず。

が、おかしなことに、危機感と言うか、損失感が、あまりない。
日本中というより、世界中が、ジュータン爆撃を受けたようなもの。
「うちは損をした」という話し方よりも、「うちは被害が少なくてすんだ」という
ような話し方をする。

おかしな話し方である。

数日前も韓国の新聞を読んでいたら、こうあった。
「経済危機度は、韓国のほうが、イギリス、イタリアより下。だから
韓国はだいじょうぶ」と。

「?」。

つまり韓国がデフォルト(債務不履行=国家破綻)するよりも先に、
イギリスやイタリアのほうが先に、デフォルトするから、韓国は、
だいじょうぶ、と。
言うなれば、「隣の家のほうが貧乏だから、うちのほうが金持ち」と言うのに
似ている?
どこかおかしいが、そのおかしさがわからないほどまで、不況が深刻化している。

で、先に話を戻す。

「1人当たり、20万円」という平均値は、まさに国民だましの数字である。
「20万円」と聞けば、ほとんどの人は、こう思うにちがいない。
「何だ、その程度か」と。
しかし先ほども書いたように、その中には、幼児から老人まで含まれている。
幼稚園の幼児から、介護施設にいる老人までも、だ。
実際に、私の知っている人の中には、1億円の債権を、数か月で、1000万円
にしてしまった人がいる。
その人は、さらに債権を減らしているはず。
その人がもっていた株の株価は、この1年だけでも、20分の1以下になっている。
そういう人も含めて、「1人当たり20万円」は、どう考えてもおかしい。

が、こうした平均値というマジックは、教育の世界にも、よく見られる。
たとえば「中学生は、1人当たり、平均2時間のテレビを見ている」とか、など。
(この「2時間」という数字は、不正確。)

「2時間」と聞くと、ほとんどの人は、「そんなものかなあ?」と思う。
しかし実際には、まったくテレビを見ない子どもがいる一方で、
一日中テレビ漬けの子どもも少なくない。
あるいは50%の子どもが、まったくテレビを見ていなくて、50%の
子どもが4時間見ていても、平均値は、「2時間」となる。
問題は、1日、4〜6時間もテレビを見ている子どもがいるということ。
「2時間」という数字だけを聞くと、その問題の深刻さがわからなく
なってしまう。

同じように、「20万円」という数字だけを見ていると、現在の経済危機の
深刻さがわからなくなってしまう。
が、実際には、今、たいへんなことになっている。
しかもそれが、この先、1年以上もつづきそうな気配になってきた。
(昨年の8月ごろは、今年になれば景気は回復すると言っていた。
昨年の12月には、それが今年の4月ごろになった。
さらに今年になってからは、さらに「1年以上」となった。)

どうでもよいが、今は、みな、あきらめムード。
「お宅は、1000万円ですかア。それはよかったですね。
うちは2000万円の損ですよ」と。

だから私は「20万円」という数字のあとに、「?」をつけた。


はやし浩司+++March 09+++Hiroshi Hayashi

●嵐

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夕方遅くから、季節はずれの嵐になった。
台風並みの強い風と雨。
窓を打ちつける木立の木々の枝。

例年だと今ごろの1〜3月期は、水の渇水期。
山荘の近くの村々では、「もらい水」といって、
水の出ないところは、水のあるところへ、
水をもらいに行く。
ついでに風呂にも入らせてもらう。

が、今年は、雨が豊富にあるという。
今日の雨で、当分は水の心配もなさそう。

よかった!

+++++++++++++++++

●夢

たった今、うたた寝をした。
夢を見た。
どこかの劇場で、映画を見ていた。
わけのわからない日本映画だった。
それが終わると講演会ということだったが、
私は外に出た。
ゾロゾロと人が歩いていた。
それについていくと、小高い山の上にやってきた。
そこから観覧車が出るところだった。
観覧車といっても、円形の観覧車ではなく、
長くつづいたトロッコのような観覧車だった。
それに乗って山をくだるところで、目が覚めた。

+++++++++++++++++

どうして人は夢を見るのか。
中には夢を見ないという人もいる。
いつも同じような夢を見るという人もいる。
しかし私のばあいは、一度とて、同じ夢を見たことがない。
自分でも感心するほど、奇想天外というか、想像もつかないような
夢を見る。
これは私のどういう精神状態によるものなのか。

あの劇場で見た映画は、どんな映画だったのか。
そのときは、ストーリーらしきものを感じたが、
今は、覚えていない。
夢の内容は、すぐ忘れる。
そのあとトロッコのような観覧車に乗って山をくだったが、
そのとき私は両手に、猫をかかえていた。
よく慣れた頭のよい猫で、人間の子どものようでもあった。
それに映画館へ入る前にも、何かあったようだが、それも思い出せない。

夢というのは、いわば脳の遊びのようなもの。
無意識の世界から、ちょうど池の底からメタンガスがボコボコと
出てくるように、湧いてくる。
どこから出てくるか、わからない。
だからどんな夢を見るかは、そのときの脳の状態による。

またはっきりとした実体験をともなわないから、すぐ忘れる。
こうしてメモにしたときだけ、記憶に残る。
そこで中には、「夢日記」なるものをつけている人がいる。
つまらない実生活の日記を書くよりは、そのほうが楽しいかもしれない。

で、私の夢分析。

映画館にいたとか、観覧車に乗ったというのは、あまり意味がない。
どんな映画だったかが、問題。
それに猫の嫌いな私が、猫をかかえていた?
これは不思議なことだ。
あるいは人間の子どもだったかもしれない。
大きさは、小猫くらい。
茶色い色をしていた。
今の私はきっと、愛情飢餓の状態なのかもしれない。

で、映画の内容は、どうしても思い出せない。
何かの社会映画だったと思う。
私好みの、理屈ぽい映画だった。
「自由になるのだ」というようなことを言いながら、
1人の少女が、クルクルと体を回転させながら、踊っていた。


はやし浩司+++March 09+++Hiroshi Hayashi

●自由

今度三男が、友だち5、6人と、カナダのどこかまで、
オーロラを見に行くという。
「オーロラねえ」と思ったところで、思考停止。
フ〜ンと思ったが、うらやましいとは思わなかった。
「寒いところはいやだ」と思った。

そのうち毎週のようにオーロラを見ることができるようになるだろう。
どうして今、わざわざ見に行くのかな?

で、改めて自由とは何か、考えてみる。
自由にも、大きく分けて3つ、ある。
肉体の自由、(2)行動の自由、(3)精神の自由。

肉体の自由といっても、人間の肉体には、いつも限界がある。
たとえば鳥のように、空を飛べるような構造にはなっていない。
反対に、足の骨でも折れば、そのまま歩けなくなる。
しかし歩けないからといって、自由を失ったことにはならない。
歩ける人も、歩けない人も、生物全体からながめれば、たいした
ちがいはない。

つぎに行動の自由。
人間というのは、身勝手な生き物かもしれない。
私だって、カナダまで行って、オーロラを見ることができる。
しかし今は、その気はない。
が、もし、だれかに「君はカナダへ行ってはいけない」と言われたら、
それに対しては、猛反発するかもしれない。
「いつでも行こうと思えば行けるが、行かない」と思うのは、心の余裕。
が、行くつもりはないが、「行ってはダメだ」と言われると、とたんに
窮屈になる。
行動の自由というのは、結局は、その「心の余裕」ということになる。

が、何よりも大切なのは、精神の自由。
魂の自由。
思想の自由。
そして言論の自由。
私のばあい、何でも好き勝手なことを書けることにまさる解放感はない。
言い換えると、好き勝手なことを書いているときの解放感に、まさる解放感
はない。
もしこの解放感を奪われたら・・・。
私はその相手と、命をかけて戦う。
というのも、この解放感を奪われたら、私は死んだも同然。
この先、何を書くか決まっているわけではない。
書きたいことすら、何であるかわからない。
しかしそれでも、命をかけて戦う。

「書こうと思えば、何だって書ける」と思うのは、心の余裕。
それこそが、私の命。
(少し力みすぎかな?)


はやし浩司+++March 09+++Hiroshi Hayashi



●3月11日

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今日は、山荘にある、ろ過器の修理をするつもりだった。
ろ過器というのは、山の水を一度、ろ過するためのもの。

山の水は、自然の水。
どうしてもゴミが混入する。
それで、ろ過器が取り付けた。
そのろ過器のレバーが折れた。
中の芯で折れたから、簡単には直らない。
で、その修理ということになった。
部品を取り寄せてもらい、代金は、7000円弱。

が、その会社の浜松出張所は、浜松市でも、私の家からは
正反対のところにある。
車で行っても、1時間半はかかる。
往復、3時間。
実際には、途中で昼食をとったので、半日かかってしまった。
しかたないので、そのまま帰宅。
プラス昼寝。

ろ過器の修理は、今度の日曜日にすることにした。
こうした作業をいやがる人も多い。
が、私には、楽しい。
無我夢中でできる。
我を忘れて、できる。

……ところで、おととい、庭に畑を作った。
ネギとかいろいろな野菜を植えた。
もう少しすると、ナスとかトマトの苗も売りに出される。
これから春にかけて、何かと忙しい。

そうそう来週、熱海の先にある、初島まで行ってくる。
ワイフも行く。
楽しみ。

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●ハナ

うちのハナ(犬)は、バカのような顔をしていて、それでいて、結構、賢い。
約束は守るし、私に忠実。
しっかりとした信頼関係で結ばれている。
私は、ハナにはウソをつかない。
どんな約束も、守る。
(人間の言葉を理解できるとは思わないが、私はそうしている。)

ハナはハナで、私に嫌われるのを、何よりも心配しているといったふう。
強い声で、「ハナ!」と叱ったりすると、そのままシッポをさげて、
小屋に入っていく。

畑を作るときも、「ここには入ってはだめだよ」と、2、3度話しただけで、
それ以後、畑には近寄ろうともしない。
いつもなら、私の目を盗んで、庭中を掘り返すのだが……。

そのハナも、人間にたとえるなら、もう80〜90歳。
このところ急速に、元気がなくなってきた。
ちょっとさみしい。


●水の惑星

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水(H2O)は、温度が、0度〜100度の
範囲では、水だが、それ以下の温度だと、
氷という固体になってしまう。
それ以上だと、水蒸気という気体になってしまう。
もちろん気圧によっても、影響を受けるが、
0〜100度と考えてよい。

が、宇宙の温度には、キリがない。
下はマイナス270度前後。
上は数千度。
太陽の表面温度は、約4000度。
そういう中で、0〜100度という幅は、きわめて狭い。
宇宙的規模で見ると、この地球に水があるということ自体、
奇跡に近い。

……と考えるのは、正しくない。
少し話が脱線するが、許してほしい。

たまたま人間が、水なしでは生きていかれないという事実を先に
もってきて、「水があるのは奇跡」というのは、あまりにも後から理由。
水がなかったら、人間はいなかったことになる。

それに水でなくても、どこかの惑星には、硫黄(いおう)の海で生まれ育った
生物だっているかもしれない。
硫化水素(硫酸)の海でもよい。
二酸化炭素の海でも、液体窒素の海でもよい。
そういうところで生まれ育った生物は、そういう惑星が、もっとも住みやすい
環境ということになる。

そういう惑星に住んでいる生物が、「硫化水素の海があるのは奇跡」とか、
「液体窒素のある海は奇跡」とか言っても、それは後から理由。
こじつけ。

最初に水があって、そこから人間は、何十万年という年月を経て、生まれた。
人間が水を求めて、この地球にやってきたわけではない。
だから「この地球に、水があるのは奇跡」と考えるのは、まちがっている。

話を戻す。

今度、アメリカが、水のある惑星を求めて、探査衛星を飛ばしたという。
つまり目的は、人間のような仲間さがしと考えてよい。
それもそのはず。
液体窒素の海で生まれ育ったような生物とは、いくら知的能力にすぐれていた
としても、仲間にはなれない。(……だろう。)
もし宇宙人が、映画『プレデター』に出てくるような昆虫のような顔をしていたら、
私なら、真っ先に、逃げ出す。
そのプレデターにしても、宇宙的な規模で見れば、人間と同じ。
たとえば珪素を基本にした生物から見れば、区別はつかないだろう。
人間は、炭素を基本にした生物である。

だからやはり、「水の中で生まれ育った生物」ということになる。

が、このことは、ひとつの重大な教訓を、私たちに与えている。

「水」ということを考えるなら、動物はもちろんのこと、植物ですら、
私たちの仲間ということになる。
生物学的な距離をいうなら、きわめて近い。
DNAの構造にしても、(ちがう)というより、ちがいそのものが、ない。
「何も宇宙のかなたまで仲間をさがしに行かなくても……」ということに
なってしまう。

が、それでは、あまりにも夢がない。
科学はロマン。
ロマンなくして、科学はない。
ロマンが、科学の原動力と考えてよい。

宇宙のかなたに水のある惑星が見つかったら、人間は、そこへ移住することが
できるかもしれない。
コロンブスがアメリカ大陸へ向かったように、いつか、新しいコロンブスが、
水の惑星を求めて航海に出るかもしれない。
想像するだけも、楽しい。

が、ここでまたまた考えてしまった。
人間がそれをするのは人間の勝手だが、その逆はないのか、と。
相手の宇宙人だって、(宇宙人がいればという仮定での話だが……)、
同じことを考えているはず。
であるなら、そういう探査機が、地球へ飛んできた可能性もないわけではない。
まだ人間はそこまではしていないが、それには、(生物の種)が積んであった
かもしれない。
その(種)が地球上にばらまかれ、何億年も経て、今のような地球になった(?)。
人間も、そこから生まれた。

またまた楽しくなってきた。

だったら、人間も、生命の(種)を、宇宙中にばらまけばよい。
耐熱性、耐寒性、耐気性……のあるバクテリアのようなものを、小さな金属に
入れて、宇宙のあちこちに飛ばす。
アミノ酸のようなものでもよい。
10万年後とか、100万年後に、それがどこかの惑星にたどりつき、
さらにその数億年後に、ちゃんとした生物になるかもしれない。

つまり私たち人間も、そうして生まれた可能性がないとはいえない。

楽しい。
楽しい。
本当に楽しい。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●「運命は、受け入れる」

●We cannot change anything until we accept it.
  Condemnation does not liberate, it oppresses.
  (C.G.Jung) 

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それを受け入れるまで、私たちは何も変えることはできない。
非難したところで、心は解放されない。
それは私たちをかえって苦しめるだけ。
(C.G.ユング)

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YOU TUBEを楽しんでいたら、こんな言葉が目に入った。
もう少し訳をやさしくすると、こういうことになる。

「ものごとを変えようと思ったら、運命は、受け入れる。
境遇をのろってばかりいても、心は解放されない。
かえって、それに苦しむだけ」と。

「運命」という言葉は、私が勝手に挿入した。
が、運命といっても、私がいう「運命」は、今、はやりのスピリチュアル(霊的)な
運命をいうのではない。
私たちの体や心にからみついている、無数の「糸」をいう。
日本語では、「しがらみ」という。
その糸が、ときとして私たちを、私たちの望む方向とは別の方向へ、私たちを
引っ張っていく。
それを私は「運命」という。

以前、こんな女性(当時60歳くらい)がいた。
その女性が、少し認知症になりかけた実父を介護することになった。
かなりのファザコンだったらしく、自分の父親が、認知症になることを受け入れら
れなかった。

それまで父親は、ひとり暮らしをしていた。
年金も、そこそこにあったので、生活には困らなかった。
が、何かと問題が起きてきた。

コンロの火を消し忘れる。
風呂の湯を止め忘れる、など。
それでその女性が、実父を引き取って、自宅で介護することになった。
が、それからがたいへんだった。
いや、父親がたいへんだったというのではない。
父親は、もともと静かな男性だった。

その女性は、何か問題が起きるたびに、大騒ぎ。
「内職ができなくなった」
「廊下で、便をもらした」
「入れ歯をなくした」と。

そのつどパニック状態になり、あちこちへ電話をかけて、愚痴を言いつづけた。
「言う」というよりは、一方的に、ギャーギャーと騒ぐといった感じ。

さらには「夫が、町内の役員の仕事を断らねばならなかった」とか。
さらには、「ストーブを2つもつけていた」とか、まで。

その話を間接的に聞いたので、私はそれを話してくれた人に、「運命は受け入れるしか
ないですね」と話した。
が、この話が、相手の女性に伝わってしまった。
その女性から怒りの電話があったのは、その直後のことだった。
その女性は、電話口の向こうで、こう怒鳴った。

「あんたは、他人だから、言いたいことを言うが、運命を受け入れろというのは、
どういうことよ!」と。
私にはそんなつもりはなかった。
ただひたすら、謝るしかなかった。

が、やはり、「運命は受け入れるしかない」。
それを教えるのが、冒頭にあげた言葉ということになる。

『それを受け入れるまで、私たちは何も変えることはできない。
非難したところで、心は解放されない。
それは私たちをかえって苦しめるだけ』と。

「私と同じように考えた人がいるのだなあ」と思いながら、この格言を読んだ。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●日本は、よい国だった

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こういう大不況になってみて、はじめてわかったことがある。
それは「日本は、よい国だったなあ」ということ。

ほんの1年前には、仕事も、選ぶほどあった。
ハローワークへ足を運べば、だれだって、2つや3つの仕事を紹介された。
アルバイトも豊富だった。
派遣労働者にしても、「自由に仕事が選べる」と喜んでいた。
が、それが一転!

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私の知人の息子(現在、40歳)にしても、学歴は中卒。
高校生のとき、障害事件を起こし、退学。
以来、いろいろな仕事を転々としている。
しかし生活には困らなかった。
そのつどハローワークへ足を運べば、それなりの仕事が見つかった。
派遣労働者として働いているときも、仕事が途切れることはなかった。

こういう大不況になってみると、「そんなことができたの?」と、
かえってそういう時代があったことを疑ってしまう。
しかし、たった1年前には、そうだった。
それが今は、一転。

どこへ行っても、耳にするのは、不況の話ばかり。
不況、不況、不況……。

私の3人の息子たちにしても、今は、まだ何とかクビをつないでいるが、
この先のことは、わからない。
私だって、あぶない。
もうそろそろこのあたりで、底入れをしてくれないと、日本は、ほんとうに沈没
してしまう。
失業保険にしても、いつまでも支払われるわけではない。
貯金を取り崩して生活している自営業者だって、いつまでももつわけではない。
「いったい、どうなってしまったのだ」と思うと同時に、
「日本は、よい国だったのだなあ」と。
1年前が、なつかしい。

しかし人は、それを失って、はじめてその失ったものの価値を知る。

たとえば今、ショッピングセンターなどに行くと、食料が山のように積んである。
食べたいものは、何でも手に入る。
しかしもし、その食料が、ショッピングセンターから消えてなくなってしまったら、
どうだろう。
私たちは、同じように思うのだろうか。
「日本は、よい国だったのだなあ」と。

まあ、そんなわけで、私も愚人の1人。
『賢人は、それを失う前に、その価値を知り、愚人は、それを失ってから、
はじめて、その価値を知る』。

結局、こういう不況になると、まっさきに影響を受けるのは、弱者。
知人の息子にしても、毎月のように知人(親)のところへ、生活費をせびりにくるという。
が、それだけではない。
現在、2人の子ども(中学生と小学生)がいるが、離婚話までもちあがっているという。
妻のほうが、2人の子どもを連れて、実家に身を寄せてしまった。
この先、さらに数か月、今の状態がつづいたら、本当に離婚ということになりかねない。
知人は、以来、体重を、5〜6キロも減らしてしまったという。

……というような話は、今、ゴマンとある。
どこも、かしこも、そんな話ばかり。
不況がこわいのは、何も、経済だけの問題ではない。
たとえて言うなら、不況というのは、池の中に放り込まれた石のようなもの。
その余波というか、波が、周辺にジワジワと伝わっていく。
これからその影響が、私たちの生活全般に及んでくる。

某経済誌(今月号)にも、こうあった。
「貧困層の増大は、中産階級層にも、影響を与える」と。
詳しくは読まなかったが、どうやらそういうことらしい。

で、「一億総中流」などと言われた時代は、今は昔。
貧困層とランクづけられている人たちが、増大しているという。
年収が230円前後以下を、貧困層というらしい(注※1)。
貧困層の割合は、先進国の中では、2番目に高いという(注※2)。
しかもその層が、アメリカとそれほどちがわないという(前述、某経済誌)。

(注※1)日本の一世帯当たり年間所得の中央値(476万円)の半分(238万円)以下が、貧困
率の対象である(2002年・厚生労働省)。

(注※2)(All Aboutより、抜粋)
『日本における子供の貧困層の割合は、2000年の時点で、14.3%とOECD平均の12.2%より高
くなっています。日本の子供の貧困層の特徴として、両親に仕事があるのに貧困になっている
家庭の割合が高いことがあります。これが他の国だと、貧困の一番の原因は失業なのです。
こうなってしまう原因は、日本における教育費の高騰があります。教育費がかさむので、両親
が働いていても貧困層に位置してしまうのです。

もう1つの特徴は、社会支出が子供の貧困解消に役立っていないことがあります。日本以外の
OECD加盟国は全て、税金や社会支出などで調整されると、調整前よりは子供の貧困割合が
大きく下がります。例えばOECD平均では、調整前の約20%に対して、調整後はすでに述べた
12.2%です。しかし日本だけは、税金と社会支出で調整をした後でも、なぜか子供の貧困層の
割合が高まっています。つまり、税金や社会支出が子供たちのために使われていないという意
味になります』(以上、All Aboutより)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
不況と貧困率 貧困層)


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司※

●散歩

++++++++++++++++++

今日は、自宅から一度佐鳴湖(さなるこ)へ出て、
そこから旧雄踏(ゆうとう)街道沿いに、街まで
歩いた。
途中、佐鳴湖の湖畔には、何十本もの桜の苗木が
新しく植えられていた。
前回通ったときには、それを予告する立て札が立っていた。

「○月○日、河津桜を植えます。○○クラブ」と。
その立て札にあった、河津桜の苗木らしい。
ワイフがそれを見て、「楽しみね」と言った。
私も、「ここなら桜も美しく映えるね」と言った。

++++++++++++++++++

●河津(かわづ)桜

河津桜というのは、伊豆半島にある河津の、そこで咲く早咲き桜のことをいう。
開花の時期が、ふつうの桜より2か月程度、早い。
私も先月(2月中旬)に、その河津まで桜を見に行ってきた。
が、すでに葉桜になるところだった。
色や形は、ふつうの桜といった感じだった。

しかし河津のみなさん、
ここ佐鳴湖のほうが、ローケイションが、はるかによい。
ここで河津桜が満開・・・ということにでもなったら、少なくとも
この浜松から、河津までわざわざ河津桜を見に行く人はいなくなるだろう。
で、やがて河津のみなさんは、こう気がつく。
「浜松に河津桜の苗木を売り渡したのは、失敗だった」と。

●うどん屋

途中で、うどんを食べた。
「花○」という名前の、うどん屋だった。
全国チェーンで、店を展開している。
うまい。
安い。
サービスもよい。

が、そこで私は、ドキッとするようなマジックを見た!
うどんを頼むと、店員さんが、その場でうどんを湯に通してくれるのだが、
その湯船というか、湯槽が、ゴボゴボと沸騰しているのがわかった。
ゴボゴボというよりは、強い火で、ゴーゴーと流れるように、である。
湯槽の幅は1メートル近くある。
その中に店員さんが、生うどんを入れた金網製のこし器をさっと入れる。
そのときのこと。
店員さんが、ときどき手首あたりまで、その湯の中に手を入れる。
「アッ!」「エッ!」と思う間もなく、店員さんは、こし器を手際よく
丼鉢(どんぶりばち)に盛った。

ゾーッ!

手を見ると、それほど赤くない。
やけどをしたふうでもない。
「?」と思っているうちに、気がついた。

そのゴーゴーと沸き立っているのは湯ではなかった。
下のほうからモーターか何かで、湯をかき回していた。
湯の温度は、それほどないはず。

ナーンダと思ったところで、この話は、おしまい。
「なかなか、やるな!」と。

●ビデオカメラ

万歩計を見ると、7000歩ほどになっていた。
「今日は、これくらいでいいだろう」と自分に言ってきかせて、
そこからはバスに乗った。

あとはいつもの通勤。
とくに変わったことはなし。
書くこともなし。
見慣れた景色をぼんやりとながめている間に、バスは、駅前まで着いた。

駅まで行ったのは、少し時間があったから。
駅前のパソコンショップに寄りたかった。

このところねらっているのが、ビデオカメラ。
今は、デジタルカメラで代用しているが、ビデオ撮影用としては、
物足りない。

この世界も、しばらく遠ざかっている間に、格段の進歩を遂げた。
手ぶれ防止付きは、当たり前。
ハイビジョン撮影も、常識。
今ではねらった被写体が動いても、それを自動で追尾してくれるカメラもある。
カタログを見くらべているだけで、楽しい。


はやし浩司+++March 09+++Hiroshi Hayashi

●この世vsあの世

+++++++++++++++

またまた同じ話で、ごめん。
前にも書いたが、仮にあの世があるとするなら、
私は、私たちが「この世」と呼んでいる、この世界のほうが、
実は「あの世」ではないかと思っている。
そして私たちが「あの世」と呼んでいる、死後の世界のほうが、
「元の世界」ではないかと思っている。

というのも、私たちが住んでいるこの世のほうにこそ、
天国もあり、地獄もあるからだ。

+++++++++++++++

●あの世がこの世?

人は死んだら、あの世へ行くと言う人がいる。
私は信じていない。
いないが、仮に、「あの世」があるとするなら、
ここでひとつの矛盾が生まれてくる。

あの世には、天国があり、地獄があるという。
ならば、なぜ、今、この世界で、地獄以上の地獄があり、
天国以上の天国があるのか、ということになる。
今さら地獄がどんな世界で、天国がどんな世界かを、
ここに書く必要はない。

そこで私たちが言う「あの世」について考えてみる。
一般的には、「あの世は広大無辺に広く、時の流れもない」という。
となると、そんな世界から見ると、人間が今住んでいるこの世界など、
ちっぽけなもの。
100歳まで生きたとしても、宇宙的規模で見るなら、星のまばたきの
一瞬にもならない。
人類の歴史を、20万年にしても、同じようなもの。

となると「あの世」のほうこそ、「元の世界」と考えたところで、何ら、
おかしくない。
私たちは、「あの世」から「この世」へやってきて、地獄や天国を、
この世で経験している。

●あの世の矛盾

空想の世界で、「あの世」を考えてみる。
が、それは、択一的に考えるなら、
(1)想像を絶するほど、この世とちがう世界。
(2)あるいは、この世とかぎりなく似ているか、同じ世界、ということになる。

中間というのは、考えられない。
人間だけを中心にして、(命)を考えてはいけない。
魚なだって、鳥だって、命。
バクテリアだって、虫だって、命。
人間にだけあの世があると考えてはいけない。
もしそうなら、いつからあの世ができたかという問題に直面する。
1000年前なのか、それとも10万年前なのか?

・・・と、まあ、考えれば考えるほど、矛盾に満ちてくる。

が、逆に、あの世こそが、元の世界で、この世があの世と考えると、
かなりの矛盾が解消される。
どこかの世界に、私たちの知らないまったく異質の世界がある。
その世界から、ときどき、あたかも旅行でもするかのように、
この世に(命)がやってきて、それぞれの世界を体験する。

頭のどこかに、映画『マトリックス』に出てきたような世界を思い浮かべてもらえばよい。

●実益

こんなことを考えて、何の役に立つのかと思う人もいるかもしれない。
しかしそう考えると、この世の見方そのものが、大きく変わる。
たとえば「この世はすべて、幻覚」「大切なのは、この世を生きる、
私やあなたの命」と。

あるいはモノのもつ、無意味さというか、それがよくわかる。
私たちが懸命に追い求めている名誉や地位や財産にしても、命の前では
カスミのようなもの。
カスミにもならないかもしれない。

が、何よりもすばらしいのは、ほんとうに大切にしなければならないものと、
そうでないものを、区別することができるようになること。

さらに言えば、自分の住んでいる世界を地獄にするのも、天国にするのも、
私たちの考え方しだいということになる。

話が飛躍したので、順に説明する。

●希望論

こんな例で考えてみよう。
私の知人の中に、現在、地獄のような(?)、経験をしている人がいる。
ことの発端は、2人の息子の離婚である。

2人の息子が、あいついで離婚した。
詳しい原因はともかくも、それぞれに2人ずつの子ども(孫)がいた。
まだ養育費が必要な子ども(孫)たちであった。

そこで2人の息子は、養育費を毎月支払うことで合意した。
同時に、私の知人(父親)が、その連帯保証人になった。
2人の息子たちが養育費を払えないときは、知人がそれを払うことになった。

が、この不況。
2人の息子は、職を失ってしまった。
養育費が払えなくなった。
とたん、その支払い請求書が、知人のほうに回ってくるようになった。
家庭裁判所で作成した連帯保証契約である。
「払えません」「お金がありません」では、通らない。
最終的には、強制執行力のある請求書である。

知人は、こう言ってがんばっている。
「私は年金生活者だ」「収入がない」と。
さらに「家屋敷を取られたら、何代にもわたってつづいたM家が、
断たれてしまう」と。
しかし土地や家、借家がある以上、こういう言い逃れはできない。
それでその知人は、「地獄のような(?)、経験をしている」、ということに
なる。

しかしこう考えたら、どうだろうか。

大切なのは、命のつながった孫たちの幸福、と。
その幸福を前にしたら、「家」の価値など、取るに足らないもの。
家や財産にこだわるほうが、おかしい。
あるいは自分の息子や娘が、困窮していたら、あなたはどうするだろうか?
それでも、「息子や娘の幸福より、家のほうが大切」と、あなたはがんばる
だろうか。
もしあなたがそう考えるとしたら、
私は「?」マークを100個くらい、並べたい。
相手が孫でも、同じ。
離婚して、連絡が途絶えたとしても、孫は孫。

どうせこの世は、幻覚。
目に見えるすべてのモノは、幻覚。
「命」至上主義で考えれば、モノのもつ空しさ、はかなさが、よくわかる。
それもそのはず。
この世そのものが、あの世、つまり元の世界から見れば、幻覚。
そんな幻覚に心を奪われ、命を粗末にするほうが、どうかしている。

知人は地獄のような経験をしているが、ものの考え方をほんの少し
変えれば、今の世界を、天国にすることもできる。

●研ぎ澄まされた現実論

こう書くと、「林の考え方は、現実的ではない。むしろ現実から遊離している」と
批判されそうである。
しかし実際には、その逆。

私たちは、この現実世界にありながら、あまりにも非現実的なものに毒されすぎている。
たとえばものの価値観、幸福観、人生観、成功・失敗論などなど。
中身にある(現実)を見る前に、外観である(非現実)に、心を奪われてしまっている。
もっと言えば、先にも書いたように、「大切なものを、大切でないと思い込み」「大切で
ないものを、大切」と思い込んでしまっている。

その一例として、「モノ」をあげた。

今では、どの家にも「モノ」があふれかえっている。
モノ、モノ、モノ……で足の踏み場もないような家も多い。
中には、そういう家ほど、「豊か」と誤解している人もいる。
さらに言えば、金持ちイコール、成功者イコール、人格者と誤解している人もいる。
私は、そういう人たちこそ、現実離れしていると言っている。

が、この世を(あの世)と考えることによって、(あくまでも空想の世界での話だが)、
こうした現実から、一度、目をそらすことができる。
そして今一度、何が、本当に大切なのかを知ることができる。
そう、私たちが今、「現実」と思っている世界こそのほうが、「非現実」の世界という
ことになる。
それを知るためにも、一度、「この世」と「あの世」を置き換えてみる。
とたん、その向こうに、「研ぎ澄まされた現実」が見えてくる。

●無

私たちは、「幻想という現実」の中で生きている(?)。
仏教者の中には、それを「無」と表現した人もいる。
「この世はすべて無である」と。
この私にしても、光と分子の織りなす世界で、ただ踊らされているだけ(?)。

そんなわけで、「あの世」こそ、実は、「元の世界」であり、「この世」こそが、
「仮の世界」と考えても、何もおかしくない。

あくまでも「あの世」があるとするなら、という前提での話だが……。
しかしそう考えると、また別の世界が、その向こうに見えてくる。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●エリクソンの心理発達段階論

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エリクソンは、心理社会発達段階について、
幼児期から少年期までを、つぎのように
区分した。

(1)乳児期(信頼関係の構築)
(2)幼児期前期(自律性の構築)
(3)幼児期後期(自主性の構築)
(4)児童期(勤勉性の構築)
(5)青年期(同一性の確立)
(参考:大村政男「心理学」ナツメ社)

++++++++++++++++++++

●子どもの心理発達段階

それぞれの時期に、それぞれの心理社会の構築に失敗すると、
たとえば子どもは、信頼関係の構築に失敗したり(乳児期)、
善悪の判断にうとくなったりする(幼児期前期)。
さらに自主性の構築に失敗すれば、服従的になったり、依存的に
なったりする(幼児期後期)。

実際、これらの心理的発達は4歳前後までに完成されていて、
逆に言うと、4歳前後までの育児が、いかに重要なものであるかが、
これによってわかる。

たとえば「信頼関係」にしても、この時期に構築された信頼関係が
「基本的信頼関係」となって、その後の子ども(=人間)の生き様、
考え方に、大きな影響を与える。
わかりやすく言えば、基本的信頼関係の構築がしっかりできた子ども
(=人間)は、だれに対しても心の開ける子ども(=人間)になり、
そうでなければそうでない。
しかも一度、この時期に信頼関係の構築に失敗すると、その後の修復が、
たいへん難しい。
実際には、不可能と言ってもよい。

自律性や自主性についても、同じようなことが言える。

●無知

しかし世の中には、無知な人も多い。
私が「人間の心の大半は、乳幼児期に形成されます」と言ったときのこと。
その男性(40歳くらい)は、はき捨てるように、こう反論した。
「そんなバカなことがありますか。人間はおとなになってから成長するものです」と。

ほとんどの人は、そう考えている。
それが世間の常識にもなっている。
しかしその男性は、近所でも評判のケチだった。
それに「ためこみ屋」で、部屋という部屋には、モノがぎっしりと詰まっていた。
フロイト説に従えば、2〜4歳期の「肛門期」に、何らかの問題があったとみる。

が、恐らくその男性は、「私は私」「自分で考えてそのように行動している」と
思い込んでいるのだろう。
が、実際には、乳幼児期の亡霊に振り回されているにすぎない。
つまりそれに気づくかどうかは、「知識」による。
その知識のない人は、「そんなバカなことがありますか」と言ってはき捨てる。

●心の開けない子ども

さらにこんな例もある。

ある男性は、子どものころから、「愛想のいい子ども」と評されていた。
「明るく、朗らかな子ども」と。
しかしそれは仮面。
その男性は、集団の中にいると、それだけで息が詰まってしまった。
で、家に帰ると、その反動から、疲労感がどっと襲った。

こういうタイプの人は、多い。
集団の中に入ると、かぶらなくてもよい仮面をかぶってしまい、別の
人間を演じてしまう。
自分自身を、すなおな形でさらけ出すことができない。
さらけ出すことに、恐怖感すら覚える。
(実際には、さらけ出さないから、恐怖感を覚えることはないが……。)
いわゆる基本的信頼関係の構築に失敗した人は、そうなる。
心の開けない人になる。

が、その原因はといえば、乳児期における母子関係の不全にある。
信頼関係は、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)の上に、
成り立つ。
「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味。
「私は何をしても許される」という安心感。
親の側からすれば、「子どもが何をしても許す」という包容力。
この両者があいまって、その間に信頼関係が構築される。

●自律性と自主性

子どもの自律性や自主性をはばむ最大の要因はといえば、親の過干渉と過関心が
あげられる。
「自律」というのは、「自らを律する」という意味である。
たとえば、この自律性の構築に失敗すると、子どもは、いわゆる常識はずれな
言動をしやすくなる。

言ってよいことと悪いことに判断ができない。
してよいことと、悪いことの判断ができない、など。

近所の男性(おとな)に向かって、「おじちゃんの鼻の穴は大きいね」と
言った年長児(男児)がいた。
友だちの誕生日に、バッタの死骸を詰めた箱を送った小学生(小3・男児)が
いた。
そういう言動をしながらも、それを「おもしろいこと」という範囲で片づけて
しまう。

また、自主性の構築に失敗すると、服従的になったり、依存的になったりする。
ひとりで遊ぶことができない。
あるいはひとりにしておくと、「退屈」「つまらない」という言葉を連発する。
これに対して、自主性のある子どもは、ひとりで遊ばせても、身の回りから
つぎつぎと新しい遊びを発見したり、発明したりする。

●児童期と青年期

児童期には、勤勉性の確立、さらに青年期には、同一性の確立へと進んでいく
(エリクソン)。

勤勉性と同一性の確立については、エリクソンは、別個のものと考えているようだが、
実際には、両者の間には、連続性がある。
子どもは自分のしたいことを発見し、それを夢中になって繰り返す。
それを勤勉性といい、その(したいこと)と、(していること)を一致させながら、
自我の同一性を確立する。

自我の同一性の確立している子どもは、強い。
どっしりとした落ち着きがある。
誘惑に対しても、強い抵抗力を示す。
が、そうでない子どもは、いわゆる「宙ぶらりん」の状態になる。
心理的にも、たいへん不安定となる。
その結果として、つまりその代償的行動として、さまざまな特異な行動をとる
ことが知られている。

たとえば(1)攻撃型(突っ張る、暴力、非行)、(2)同情型(わざと弱々しい
自分を演じて、みなの同情をひく)、(3)依存型(だれかに依存する)、(4)服従型
(集団の中で子分として地位を確立する、非行補助)など。
もちろんここにも書いたように、誘惑にも弱くなる。
「タバコを吸ってみないか?」と声をかけられると、「うん」と言って、それに従って
しまう。
断ることによって仲間はずれにされるよりは、そのほうがよいと考えてしまう。

こうした傾向は、青年期までに一度身につくと、それ以後、修正されたり、訂正されたり
ということは、まず、ない。
その知識がないなら、なおさらで、その状態は、それこそ死ぬまでつづく。

●幼児と老人

私は母の介護をするようになってはじめて、老人の世界を知った。
が、それまでまったくの無知というわけではなかった。
私自身も祖父母と同居家庭で、生まれ育っている。
しかし老人を、「老人」としてまとめて見ることができるようになったのは、
やはり母の介護をするようになってからである。

センターへ見舞いに行くたびに、あの特殊な世界を、別の目で冷静に観察
することができた。
これは私にとって、大きな収穫だった。
つまりそれまでは、幼児の世界をいつも、過ぎ去りし昔の一部として、
「上」から見ていた。
また私にとっての「幼児」は、青年期を迎えると同時に、終わった。

しかし今度は、「老人」を「下」から見るようになった。
そして自分というものを、その老人につなげることによって、そこに自分の
未来像を見ることができるようになった。
と、同時に、「幼児」から「老人」まで、一本の線でつなぐことができるようになった。

その結果だが、結局は、老人といっても、幼児期の延長線上にある。
さらに言えば、まさに『三つ子の魂、百まで』。
それを知ることができた。

●では、どうするか?

私たちはみな、例外なく、乳幼児期に作られた「私」の上に載っている。
「乗っている」と書くほうが正しいかもしれない。
そのために、「私」を知るためには、まず自分自身の乳幼児期をのぞいてみる。

ほとんどの人は「乳幼児には記憶はない」と思っているが、これはとんでもない誤解。
あの赤ん坊にしても、外の世界から、怒涛のように流れ込んでくる情報をすべて、
記憶している(ワシントン大学、メルツォフ、ほか)。
「記憶として取り出せないだけ」で、記憶として、ぎっしりと詰まっている。
言い換えると、あなたや私は、そのころ作り上げた(自分)に、それ以後、
操られているだけと考えてよい。
自分を知れば知るほど、それがわかってくる。

たとえば先にあげた、「子どものころから、だれにも愛想のいい子」と評されて
いた子どもというのは、私自身のことである。
私は、子どものころ、だれにでもシッポを振り、そのつど、「いい子」と思われる
ことで、自分の立場を取りつくろっていた。
中学へ入ってから猛烈に勉強したが、好きだったからしたわけではない。
どこか自虐的だった。
先にあげた、(1)攻撃型の変形と考えられる。
本来他人に向かうべき攻撃性が、自分に向かった。
が、それは「私」であって、「私」ではなかった。

私自身は、疑い深く、嫉妬深く、それだけに、だれにも心を許さないタイプの
子どもだった。
おとなになってからも、そうだった。
表面的には、だれとでもうまく交際したが、それはあくまでも表面的。
相手が一線を越えて、私の中に踏み込んでくるのを許さなかった。
また相手がたとえ心開いていても、それを理解できなかった。
あるいはその下心を疑った。

そんな私が現在の仕事を通して、自分に気づき、そしてやがてどうあるべきかを
知った。
教えている幼児の中に、自分に似た幼児を発見したのが、きっかけだった。
それが「自己開示」という方法である。

●自己開示

「自分のことを、他人に開示していく」。
「あるがままの自分を、まず他人に語っていく」。
「偽らず、思ったことを言い、文章にして書いていく」。

自己開示にも段階論がある。
最初は、自分の過去から話す。
つづいて心の中を話す。
最終的には、自分にとって、もっとも恥ずかしい話や、さらには性遍歴まで
開示していく。
(もっともそれは、他人といっても、身内のごく親しい人に対してで、
じゅうぶんだが……。)
その段階まで開示してはじめて、それを「自己開示」という。

私のばあいは、こうして文章にすることによって、自己開示をしている。
最初は、家族のことを書き、やがて自分のことを書いた。

……といっても、それにも、10年単位の時間が必要である。
「今日、気がついたから、明日から……」というわけには、いかない。
この問題は、「根」が深い。
乳幼児期の発達心理段階が、「本能」に近いレベルまで、脳の奥にまで
刻み込まれている。
自分の意思や理性の力で、コントロールできるようなものではない。

だから……と書けば、あまりにも見え透いているが、乳幼児期の子育てというのは、
一般で考えられているよりも、はるかに奥が深く、重要である。
それに気がつくかどうかは、ひとえに、「知識」による。
言い換えると、こと子育てに関して言えば、無知そのものが、罪と考えてよい。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 子供 子供の問
題 家庭教育 エリクソン 社会心理学 発達段階論 幼児の自立性 
幼児の自主性 信頼関係 基本的信頼関係 自己開示)

(補記)
こうした発達段階には、連続性がある。
(信頼性の構築)→(自律性の構築)→(自主性の構築)→(勤勉性の構築)
→(自我の同一性の構築)へ、と。
そして青年期前期の(親密性の構築)→後期の(生殖性の構築)→老年期の
(統合性の構築)へとつながっていく。

当初の(信頼性の構築)に失敗すると、自律性、自主性がそこなわれる。
自主性がなければ、勤勉性は生まれない。
さらに(親密性の構築)に失敗しやすくなる。
具体的には、恋愛、結婚へと、自然な形で進めなくなる。
が、最大の問題は、老年期の(統合性の構築)ということになる。
人は、最終的に、(人間としてすべきこと)を発見し、そこへ自分を統合させていく。
この(統合性の構築)に失敗すると、老後そのものが、あわれでみじめなものになる。
悶々とした孤独感と悲哀感を闘いながら、それこそ1年を1日にして過ごすようになる。
何度も書くが、孫の世話と庭いじり。
それがあるべき老後の姿ではない。
理想の老後でもない。

私たちは、命の最後に、その「命」を、つぎの世代の人たちのためにつなげていく。
具体的には、真・善・美の追求がある。
その真・善・美の追求には、(終わり)はない。
それこそ死ぬまで、ただひたすら、精進(しょうじん)あるのみ。
「死」は、その結果としてやってくる。

(補記2)
私たちの世界から見ると、小学1年生ですら、大きな子どもに見える。
いわんや中学生や高校生ともなると、おとなというより、反対に若い父親や母親を
見ていると、高校生と区別できないときがある。
それはともかくも、そうした若い人たちが、たとえば異性との間でうまく恋愛感情が
育てられないとか、あるいは結婚までもちこめない、さらには、夫婦の性生活が
うまく営めないというのは、こうした心理発達段階の過程で、何らかの障害があった
ためと考えてよい。

が、こうした問題(障害)が起きると、どの人も、その時点での修復を試みる。
しかし先ほども書いたように、「根」は、もっと深いところにある。
その「根」まで掘り起こさないと、こうした問題の本質は見えてこない。
また本質を見ることによって、問題の解決の糸口を手にすることができる。
まずいのは、そうした「根」に気づかず、ただいたずらに、振り回されること。

というのも、愛情豊かで、かつ恵まれた環境の中で、スクスクと(?)、
心理的発達を遂げる人のほうが、実際には、少ない。
ほとんどの人が、それぞれの立場で、それぞれの環境の中で、何らかの問題を
かかえながら、おとなになっている。
問題のないおとなのほうが、少ない。
だから問題があるからといって、自分を責める必要もないし、過去をのろう必要も
ない。
(私も一時期、父や母をうらんだことがあるぞ。)

大切なことは、まず、「私」に気がつくこと。
あとは時間が解決してくれる。
「すぐに……」というわけにはいかないが、あとは時間が解決してくれる。

(補記3)
そういう意味でも、幼児教育のおもしろさは、この一点に凝縮される。
子どもを見ながら、いつもそこに「私」を見る。
「私の原点」を見る。
が、幼児を未熟で未完成な人間と見るかぎり、それはわからない。
幼児を「上」からだけ見て、「こうしてやろう」「ああしてやろう」と考えて
いる間は、それはわからない。
幼児に対して謙虚になる。
1人の人間として、認め、そこから幼児を見る。
すると幼児のほうから、「私」を語ってくれる。
「あなたは、こうして『私』になったのですよ」と、幼児のほうから話してくれる。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●Who wants to live forever?

++++++++++++++++++

よく知られた曲に、「Who wants to live forever?(だれが永遠に生きたいか?)」
というのがある。
いろいろなシンガーが歌っているが、私はグレゴリアンが歌うのが、好き。
おごそかで、それに重みがある。

++++++++++++++++++

●どう死ぬか

「だれが永遠に生きたいか?、いや、だれもそんなことを望んでいない」と。
が、もし、私から(考える力)が消えたとしたら……。
「死んでもいい」とは思わないかもしれないが、「生きていても意味はない」と
思うかもしれない。
どこかのオバチャンと、意味のない会話をつづけるようになったら……。
(オバチャンでなくても、オジチャンでもよいが……。)
考えるだけでもゾッとする。

それにいつまでも無駄に生きて、ワイフや息子たちや、その家族の死を見るように
なったら、たぶん、今の私なら、それに耐えられないだろう。
生きていることをのろうようになるかもしれない。

人は、いつも、どう生きるか考える。
しかしそれではいつまでたっても、結論は出てこない。
そこで発想を変えて、どう死ぬかを考える。
その結果として、どう生きるかが決まってくる。

「永遠に生きよう」と思うから、苦しむ。
悩む。
しかし「永遠に生きても無駄」と考えることによって、その先に、生き様(ざま)が
見えてくる。

それがわからなければ、あのオバチャンたちの、とりとめのない、いつまでも
つづく無意味な会話に耳を傾けてみることだ。
(繰り返すが、オバチャンでなくても、オジチャンでもよい。
以下、すべて同じ。)
ペチャペチャ、クチャクチャ……と。
人生の晩年にあって、しかも人生の完成期にあって、その程度の会話しかできない。
そういう自分に恥じることもなく、ただしゃべりつづける。

「隣の息子がね……」「うちのダンナがね……」「娘の婿がね……」と。

●脳みその穴

ある年齢になると、脳みその下に、穴があく。
その穴から、知識や知恵、経験が、ボロボロとこぼれ落ちていく。
もっとも私がそれに気づいたのは、50歳も過ぎてからのことだった。
当時、こんなことがあった。

何かの原稿を書いているとき、「?」と思った。
「以前にも、同じことを書いたことがあるぞ」と。
そこで自分の原稿集をさがしてみると、ほとんど同じ内容の原稿があることを知った。
しかも私にとってショックだったのは、「遠い昔に書いた原稿」と思っていた
その原稿が、ほんの、その数年前に書いた原稿だったことだ。
つまりその数年の間に、自分が書いた原稿の内容すら、忘れてしまっていた。

以来、私はいつも自分の脳みそを疑ってみるようになった。
つまりそれまでの私は、脳みそというのは、進歩することはあっても、退化する
ことはないと信じていた。
とくに私が考えて、自分で書いた文章については、そうだった。
しかし実際には、書いた先から、ボロボロとこぼれ落ちていく。

●穴との戦い

脳みその穴にパッチを当てる方法は、残念ながら、ない。
それは健康法と似ている。
運動をやめたとたん、肉体は衰え始める。
不健康になっいくのを止める方法はない。
それと同じように、穴は穴として認める。
その穴からは、常に一定の知識や知恵、経験は、ボロボロとこぼれ落ちていく。
であるとするなら、それ以上のものを、上から補充していくしかない。
これも健康法と似ている。

放っておいたら、肉体の健康はどんどんと衰えていく。
であるとするなら、それ以上の運動をして、自分の体を鍛えるしかない。
日々の鍛錬こそが、健康法の秘訣ということになる。

が、それには常に、ある種の苦痛がともなう。
寒い朝に、ジョギングに出かけるような苦痛である。
あるいは難解な数学の問題を与えられたときのような苦痛である。
その(苦痛)を乗り越える勇気と努力が必要。
それがなければ、人間は、どんどんと、あのオバチャンになっていく。

●「♪だれが永遠行きたいか?」

「♪だれが永遠に生きたいか?」は、もともとは、SF映画の主題歌では
なかったか。
時代を超えて戦う、勇者と悪魔の戦いの映画だった思う。
映画そのものは、見るに耐えないというか、駄作(失礼!)。
で、主題歌だけが、ひとり歩きの形で、よく知られるようになった。

で、その曲を聴きながら、私はこう考えた。
「オバチャンのようになって、だれが永遠に生きたいか?」と。

……こう書くと、世のオバチャンたちは、怒るかもしれない。
しかしあえて言うなら、私が言うオバチャンというのは、こうした文章を
ぜったいに読まない。
電車やバスの中で、大声で、ギャーギャー、キャハハハと騒ぐことはあっても、
こうした文章は、読まない。
そもそも、そういう向上心をもっていない。
向学心もない。
あるいは、こういう文章を見せても、手で払いのけてしまう。
「私には、そういうものを読んでも、わかりません!」と。

(追記)
先日も、電車の中で、実にそれらしいオバチャンが、2人、こんな会話をしていた。
一部だけだが、こう言った。
「うちのあのバカ○(=弟の名前らしい)ったら、親の一周忌にも来なかった。
親の葬式に来ないようなヤツは、地獄よねエ」
「そうよ。親の一周忌くらい、どんなことがあっても、来るべきよねエ」と。

私の頭の中で、脳細胞がショートするのを感じた。
バチバチ、と。
それでその女性たちの会話に、耳を傾けた。
けっして盗み聞きしたわけではない。
向こうのほうから声が聞こえてきた。

……が、話の内容をコメントするつもりは、まったくない。
あまりにも愚劣で低劣。
言い忘れたが、年齢は2人も50歳くらい。

その話を電車を降りてからワイフにすると、ワイフはこう言った。
「ああいう人たちが、古い常識を、つぎの世代に伝えていくのね」と。
そう、そういう人たちが、(大勢)を作っていく。
そしてそれが大きな流れとなって、つぎの世代に伝わっていく。
が、この(大勢の流れ)を変えることは容易なことではない。
巨大な流れである。

私「そういう流れを変えないかぎり、日本は変わらないよね」
ワ「そうよね。100年後も、200年後も、同じようなことを言う人が
出てくるわ」
私「しかしいつも不思議だと思うのは、そういう女性たちでも、若いときがあった
と思う。そういう若いとき、何をしていたんだろう」
ワ「自分を変える暇など、なかったのよね」と。

本来なら、若い人たちが問題意識をもって、古い因習やタブー、それにカビの生えたような常
識を変えていかねばならない。
しかしそれをしないまま、歳だけは取っていく。
そして大半の女性たちは、私が見たようなオバチャンになっていく。

それでいいのか、世の女性たち!
このままでいいのか、世の女性たち!


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●H−島

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今日は、静岡県熱海市の沖合い、連絡船で
25分ほどのところにある、H−島へ行ってきた。
島の周囲、約4キロを、ワイフと歩いた。
ゆるい山坂があり、ちょうど季節もよく、
たいへん気持ちよくウォーキングができた。

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熱海へはときどき、来る。
講演で来るときは、熱海で、電車を乗り換えることが多い。
が、いつも熱海へ来るたびに、こう思う。
「高いなあ」と。

H−島で、刺身定食を食べた。
それが2000円。
ワイフは、海苔丼を食べた。
それが1000円。
プラス、イカの丸焼き。
それが800円。

観光地とはいえ、まさに東京価格。
食べ物の値段が高いと、急速にその場所への親近感が失せる。
「二度と来ないぞ!」と。

要するに、観光客から、取れるだけ取れ、という発想らしい。
それがわかったとたん、心がそのままスーッと冷える。
食い物のうらみは、恐ろしい!

なお、H−島では、住民の世帯数と人数は、限られているそうだ。
ガイドの女性が、そう話してくれた。
正確な数字は忘れたが、40数世帯と限られていて、跡を継ぐ
長男だけが、島に残ることができるそうだ。
それ以外は、島を出ていかねばならない、と。
つまりそういう形で、住民の数を限定することにより、島民のもつ
既得権を守ろうというわけである。

しかしもしこれが事実とするなら、この「掟(おきて)」は、どう考えても、おかしい。
憲法違反に抵触する可能性すらある。
もし逆に、日本中の村々が、そういう「掟」を作ったら、どうなる?

私はその話を聞いたとき、「憲法違反で訴える人はいないのか?」と思った。
しかし訴えたら、今度は、そういう社会だから、訴えた人は、村八分に遭遇するに
ちがいない。
そういう意味では、日本は、まだ原始国家に近い。
外観だけは近代国家になった。
しかし中身は、昔のまま。

現実に、小さな村になると、外からの移住者を認めないところが多い。
ほとんどの村が、暗黙のうちに、そういう「掟」を定めているのではないのか。
外部からの移住者たいして、いやがらせや、意地悪をするという話は、
私も今まで、たくさん聞いた。

H−島の人にはきびしい意見になるが、「もし、ガイドの言ったことが事実とするなら、
あなたたちがしていることは、日本国憲法で定められた、居住の自由権を侵害している」。
その結果として、刺身定食が2000円であるとするなら、私は抗議したい。

……とまあ、ひとりでがんばっても、どうしようもない。
そんな「掟」があるなら、私は、そんな島に移住したいとは、思わない。
窮屈で、窮屈で、そのうち窒息してしまうだろう。

帰りのバスの中で、ガイドの女性がこう聞いた。
「H−島に住んでみたいと思う人は、いますかア?」と。
しかしそれに答えて、だれも、手をあげなかった。
当然である!

(補記)
日本国憲法・第22条、『何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自
由を有する』


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●従兄弟(いとこ)
My Cousin

私の従兄弟に、ものすごく頭のよい人がいる。
超一級の頭脳の持ち主である。
私は子どものころから、その人だけには、一目置いている。
たとえば子どものころ、みなで集まって、小型のモーターを作ったことがある。
7〜8人の従兄弟で、それぞれが1つずつ、作った。
しかし電池をつないだとき、回ったのは、その従兄弟のモーターだけだった。
たぶん、その従兄弟はモーターを作りながら、その原理を解明していたに
ちがいない。

が、学歴はない。
G県の山奥で生まれ育った。
家庭も貧しかった。
が、もしその従兄弟が、都会に住み、それなりに恵まれた環境で
育っていたら、彼はまちがいなく、ドクターになっていただろう。
へき地(当時)に住んでいただけでに、独学で医学を学んでしまった。
私はその従兄弟を、陰ながら尊敬してきた。

「陰ながら」というのは、歳が私より、5〜6歳、年上で、
親しくつきあうには、恐れ多い相手だった。
その従兄弟と、このところ、電話でよく話す。
昨夜も、電話で1時間ほど、話した。

心理学にせよ、教育学にせよ、要点をズバズバ見抜いているのには、
いつもながら驚く。
で、私はこう考えた。
今の今も、こうしたすぐれた人材が、その環境に恵まれなかったというだけで、
社会の隅に埋もれてしまっているのではないか、と。
本来なら、こういう人材を学校の教師が見出し、家庭環境に関係なく、
学歴を身につけさせることこそ、重要。
これを日本の損失と言わずして、何と言う。

昨夜も、電話で話しながら、こう思った。
「今、この従兄弟が、大都市の大病院の院長をしていても、おかしくない」と。
もちろん、それは言わなかったが、従兄弟は従兄弟で、懸命にあれこれ話して
くれた。
その懸命さが、私はうれしかった。

沼津から礼のつもりで、海産物を送った。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

【ある相談より】

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京都市に住んでいる、KHさん(母親)から、
こんなメールが届いています。
掲載の許可がもらえましたので、掲載します。
学校の先生とのトラブルに悩んでいる人たちの
ために、参考になれば、うれしいです。

++++++++++++++++++++

【KHさんより、はやし浩司へ】

先日、いつものように、STさんが、私の家に長女(小5)を迎えに来ました。
STさんとは、転勤で近くに越してきてから、もう3年のつきあいになります。
見ると、私の家の玄関先で熱があると言って、ふらふらしていました。
長女が、「大丈夫? 帰ったほうがいいんじゃないの? それに、もしインフルエンザだったら、
みんなに移すから、帰ったほうがいいよ」と言っていましたが、そのままSTさんは、登校してい
きました。

すると、そういうやり取りをしながら、お互いヒートアップし、学校に着くころには、長女も、「みん
なに移ったら、責任取れるの?」と強い口調になり、その友達は「うるっせー!うちが、インフル
エンザでも、みんなに移したって、かまわんやんか!!」と言い放ち、長女とけんかになってし
まいました。

周りにいた子は、「帰れよ、みんなに移ったらどうするんだよ」「帰ったほうがいいよ、今日は新
入生を迎えるための準備集会があるから、余計みんなに広がるから」と、それぞれに、言いだ
して大騒ぎになってしまいました。

そこへ、やってきた担任の先生(40歳、女性)が、「なに、やってるんですか? みんなでSTさ
んをいじめて」と、長女だけ残され、説教されて、集会にも遅れて参加となりました。

集会の間も、長女は担任にずっと、にらまれて、楽しいだしものも、全く楽しめなかったそうで
す。

その日の放課後、長女たちは、友達数人と、公園に遊びに行きましたが、その時点で私はそ
んなことがあったなどと全く知りませんでした。

翌日、学校の帰りがすごく遅かったので、聞いてみると「先生に、ずっと叱られていた。今日電
話がある」と言うのです。

聞くと、昨日、STさんに、長女がみんなでいじめをしたから、先生がクラス皆の前で立たせて、
叱られたと言います。

しかも、今までのつきあいの中で、今まで、うちの長女にされて嫌だったこと、傷つけられたこと
を、紙に書き出させて、レポート1枚ほどを、みんなの前で読み上げさせられたといいます。

長女とSTさんは、お互い勝ち気で激しい喧嘩もよくしますが、毎日のように約束もして遊んだ
り、うちにもよくあそびにきていました。
STさんの家族もよく知っています。
さっぱりと仲直りをするところが、とてもいい関係だと、私も長女も、思っていました。
STさんのお母さんも、いつもそうおっしゃっていました。

ですから、その時は、腹が立ったり、傷つくことがあったとしても、そのつど切り捨てて、割り切
ってつき合ってきたつもりです。

でも、長女が覚えていない過去のけんかを、長々と書いてあり、しかも「こう言われたので傷つ
いた」「こういわれて、いやだった」と、結果だけを書いてあるので、長女も全く、理不尽で、自分
の意見を述べようとしても、「言いわけがましい!」と、全く聞き入れてもらえなかったとのことで
す。

言い争いは、星の数ほどしていますから、長女も言い分があったのだと思います。
でも、一言も聞き入れられず、帰ってきたようです。

先生は、その手紙を読み「あなたは、そんなことをして楽しいんですか?」「皆の圧力を使って、
そこまでして、STさんを家に帰らせたかったんですか? 新入生を祝う会に出させたくなかった
んですか?」と、言ったそうです。

STさんは、声をあげて泣きわめき、長女にいじめられていたと、答えたそうです。
それを見て、長女はものすごく・・ショックを受けてきたようです。

完全に、一方的な展開で、長女が加害者で、STさんは被害者みたいな図式になり、周りのク
ラスメイトも親しい子は、理解して支えてくれましたが、よく事情を知らない子は、長女を白い目
で見たり、無視をするようになりました。

これを聞き、すぐSTさんの家に電話し、言葉で傷つけていたことは、こちらにも非があると思
い、お詫びをしました。
すると、「みんな今学期も最後だし、別にね、移したっていいと思って、最後の集会だったから
本人も行きたがったので、行かせたのよ」とのこと。

結局、過去のけんかのことまで全部書かせていたのは、このお母さんだったということがわか
りました。

しかも、仲良く公園で遊んだ日の夜に、です。

STさんは、どんな気持ちで長女の悪口をあれだけ書いたのかと思いました。

そのあと、先生に電話して事情を聞くと、みんなでよってたかって、STさんに帰れといって、い
じめていたということでした。

今回のことと、過去のけんかと何が関係ありますか?、と聞いたら、担任は黙っていました。

その後、いつもは、精神的に強い長女もあまりにショックが大きく、何を聞いても、激しく怒鳴ら
れた時のことはあまり覚えておらず、ただみんなの前で「私は人間として最低なことをしてしま
いました。ごめんなさい」と、詫びさせられたそうです。
「私がぜんぶ、悪者でいいんだよ、もう・・おかあさんと・・」と、うちで、泣きじゃくりました。

翌日、主人と校長先生と担任に話を聞きに行きました

どうしてこういうことになっているのか、本当にことが知りたかったからです。
あくまで、感情を抜いて冷静に・・・気持ちを保って行きました。
すると、校長先生は、担任の言葉に絶句されました。
「あなた、そんなことを言ったのですか?」と・・。

主人が、「長女が言ったことが間違いならば、熱があるとわかって学校に来ていた子供への対
応の仕方を教えて下さい。熱がある人に、帰ったほうがいいよということが、間違いだったと長
女はとらえています。
私は、長女の言葉の使い方は、間違いがあったかもしれませんが、方向として正しかったので
はないかと思います」と。

そのあと、担任からは、本人の前でと、みんなの前で謝罪がありましたが、なぜここまでのこと
になったのか、理解できないです

ただ、長女に関して、先生は、最初から否定的な目で見ていたということなのでしょうか。

ちなみに、今は元気に学校に通っていますが
STさんは、何もなかったように話しかけてくるそうです。
長女は、「STさんにすぐ殴られたり、乱暴なことを言われたりも、今まで通りあるけど、言い返
すと先生にまた怒られるし、STさんにも、またあとから何か言われるから我慢している、もう本
当は、しゃべりたくないけど、しゃべらないとまた言われるから」と、話しています。
でも、プライベートでは、完全に距離を置くようになってしまったようです。

とはいえ、長女も反省すべき点は多々あり、主人と3人で何日も話し合いを重ね、なにを気を
つけていかねばならないかと・・話しあい、これを学びととらえ、前向きにやっと元気を取り戻し
ました

周りに、「おまえは間違ってないぞ」と言ってくれる男の子がいたことも、心強かったと言ってい
ます。

この担任の先生は、京都でも一番の大学を出ていて、プライドが高いことで有名でしたが、過
去にも何度か失言でトラブルを起こしていると聞きました。

こんな先生が担任になったのも、なにか意味があるのだろうと、前向きにとらえ、学びにつなげ
たいと思いましたが、他のクラスにまで、学級崩壊したとうわさが飛んで、長女が白い目で見ら
れるのが少し心配です。

【はやし浩司より、KHさんへ】

担任の先生の、(思い込み)(独断)(偏見)(過剰反応)(一人芝居)などなど。
そればかりが目立ち、たいへん残念な事件ですね。
担任の先生に、もう少し思慮深さがあったら……と、つい考えてしまいます。

ただ、あえて擁護するなら、この時期、学校の教師は、たいへん忙しい。
目が回るどころか、あたふたするだけで、息つく暇もないといった状況です。
その忙しさは、たぶん、親たちはもちろん、外部の人たちには、理解しがたいものです。
そういう中、今回のような事件が起きた。
担任の先生は、「いじめ!」と、身を固めてしまったのかもしれません。
(どこの学校でも、いじめ問題、体罰問題については、みな、過剰反応する傾向が
あります。)
「一人ひとりの児童の心を大切に」と思っていても、現実にはむずかしい……というより、
不可能と考えてもよいのではないでしょうか。
このあたりでも、文科省の指導通りに教育をしたら、一週間の間に、(空き時間=休める
時間)は、2〜3時間しかないというのが、現状です。

言いかえると、子どもの心を守るのは親と考えて、今回、KHさんが取られた行動は、
適切だったということになります。
冷静に校長と話し合いができた点が、何よりもすばらしいです。
また問題そのものは解決したと考えて、あとは(時の流れ)に任すことです。
ジタバタしたり、騒いでも、この種の問題は、どうにもなりません。
KHさんとしては、納得のいかない点や、不快な思いもあると思いますが、
ここはひたすら、(がまん)。

「白い目で見られること」についても、(時の流れ)に任すことです。
こういうケースでは、騒いだ人ほど一見、得をするように見えますが、実際には、
それを判断するのは、周囲の人たちです。
私も、母の介護をしているとき、あれこれと私を批判している人もいましたが、
結果としてみると、かえってそういう人のほうが、今は、だれにも相手にされて
いません。
やるべきことを、淡々とやって、あとは(時の流れ)に任す、です。

またSTさんや、STさんの母親との関係についても、同じようなことが言えます。
私もこういった仕事をしている関係上、そのつど、いろいろなトラブルに巻き込まれます。
こちらにそのつもりはなくても、向こうから、トラブルが襲いかかってくることも
あります。

ですから、いつも「如水淡交」。
水のようにサラサラと、淡く交際するという意味です。
みながみなというわけではありませんが、一部に、そういった親がいるのも事実です。
表では親しくしていても、裏では、足を引っ張るような親です。
そういう意味では、親というより、教育の底流では、ドス黒い人間の欲望が、渦を
巻いている(?)。
その渦に巻き込まれてしまうと、とんでもないことになります。
子どもはともかくも、あなたがSTさんと距離を置くようになったことについても、
当然の結果かと思います。
私なら、そういう親とは、つきあいません。

大切なことは、娘さんが、これから先も、楽しく学校へ通うことです。
そのためにも、ここは一度、身を引いて、(がまん)。
静かに、(時の流れ)に身を任せます。

が、あえて言えば、KHさんには、大事件だったかもしれませんが、この種の事件は、
まさに日常茶飯事。
近くの学校でも、言ったの、言わないのがこじれて、裁判沙汰になった事件もあります。
その裁判が数年もつづいたといいます。
どちらが正しいとか、正しくないとかということではなく、そうした騒動の中で、
いかに子どもたちの心に傷がついたことか。
それを思うと、やはりとても残念な事件だったということになります。

あとは娘さんとおいしいものでも食べて、早く忘れましょう!
「みなにいい顔はできない」(イギリスの教育格言)と。

(追記、KHさんより)

原稿を読ませていただきました。
お忙しいのに、本当にありがとうございます。
感謝いたします。

載せていただいても、結構です
どなたかの、役に立てれば幸いに思います。

はやしさんの、アドバイスも、大変ありがたいです。
本当にうれしかったです。
心から感謝しています。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●3月19日

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春のような陽気。
鴨江寺(かもえじ)の彼岸会も始まった。
こういう日は、心までウキウキしてくる。

+++++++++++++++++++++

●Goo−Blog

このところGoo−Blogだけでも、アクセスが、毎日、1500〜2000件
もある。
数10万もあるBLOGの中でも、アクセス数順位で、1000〜2000番前後を
キープしている。
今週中には、1000番以内に入るかもしれない。
Goo−Blogでは、毎日の集計のほかに、週ごとの集計もしてくれる。
週ごとの順位でも、1000番以内に入るかもしれない。

ほかに、「はてなBLOG」「楽天BLOG」も、発行している。
こちらのほうは、アクセス数は、Goo−Blogの、約半数というところか。
それでも合計すると、1日、3000件程度となる。
これにHPへのアクセス数を加えると、1日、5000〜6000件。
実際には、HPのトップページを経由しないでアクセスしてくる人も多いので、
(むしろ、そちらのほうが多いのでは?)、
1日、1万件前後ということになる。

がぜん、やる気が出てきた。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●経済危機のつぎは、食糧危機?

どこかの週刊誌の見出しに、こうあった。
『経済危機のつぎは、食糧危機』と。

私も、以前からそれを心配していた。
というのも、食料不足は、すでに1970年当時から予想されていた。
当時は、気候変動よりも、食料不足のほうが、危惧されていた(ローマ会議)。
それが地球温暖化によって、さらに現実味を帯びてきた。
今の今でさえ、食糧は、絶対的に不足している。
地球の人類の3分の1が、飢餓状態にある。

食糧危機……現実には、食糧の値段が高騰する。
世界的な水不足が、それに拍車をかける。
貧しい国々では、さらに飢餓が広がる。
社会が不安定になる。
人心が荒廃する。
あとはこの悪循環。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●アルツハイマー病

知人の妻が、アルツハイマー病と診断された。
数日前、夫である知人が、そう話してくれた。
妻の年齢は、65歳。
65歳でも「若年性アルツハイマー病」と呼ぶのだそうだ。

が、「おかしい?」と思い出したのは、知人にしても、ここ1、2年とのこと。
それまでは、おかしいと思っても、それを認めたくないという思いが働いて、
自分でそれを打ち消してしまっていたという。
また妻にしても、「お前、最近、おかしいぞ」と声をかけただけで、
激怒し、パニック状態になってしまったという。
夫である知人の言葉を借りるなら、そういうとき、「手がつけられない状態になった」
らしい。

が、会って話をするかぎり、今でも、私のような素人には、ごくふつうの女性に
見える。
とくに大きな変化はない。

最後に会ったのは、昨年の12月(08年)のことだった。
が、そのときも、私とワイフは、ふだんどおりの会話をして、ふだんどおりに別れた。
「本当ですか?」と聞くと、「本当です」と。
「私にはふつうの人に見えます」と言うと、「それがちがうのです」と。
たとえばいっしょに映画を見に行っても、その翌日には、映画の内容はもちろん、
映画に行ったことすら、忘れてしまう、と。

そう言えば……?
思い当たることは、いくつかある。

私が最初におかしいと感じたのは、もう3年近くも前になる。
その女性の名前をMさんとしておく。
いろいろな約束をするのだが、約束を守らないばかりか、約束したこと自体を
忘れてしまう。
私は、当初、「自分に都合が悪いから、忘れたフリをしているのかな?」と思った。
一度は、私のほうが、怒ってしまったこともある。

つぎに、何かのことで、電話番号を電話で伝えたときのこと。
私が、「053−452−80XX」と言ったのだが、受話器の向こうで、
あたふたしている様子が、よくわかった。
何かにメモをしている様子なのだが、そのメモに手間取った。
私は、何度も、ゆっくりと数字を繰り返した。

が、驚いたことに、その翌日、自宅のほうに電話が入り、Mさんは、こう言った。
「昨夜は、息子のことで気が動転していて、電話番号がよく聞き取れませんでした」と。
どこかつっけんどんな言い方だった。

が、それから3年。
病状が少しずつ悪化したらしい。
それが夫である知人の目にも、はっきりとわかるようになった。
知人は、こう言った。
「M(妻)は、あれほどしっかりした女性だったのに……」と。

そう、30代のころのMさんを私はよく知っている。
セカセカとしたところはあったものの、よく気がつき、よくしゃべる人だった。
機転もきき、反応も速かった。
そのMさんが、アルツハイマー病?

この病気だけは、相手を選ばないようだ。
また「今はだいじょうぶ」と思っていても、明日のことはわからない。
東大で、○○部長をしていたような研究者でも、なる人は、なる。
ならない人は、ならない。

で、そういう話を聞くと、私はいつも、「私はだいじょうぶか?」と
考えてしまう。
現在、私は61歳。
その女性も、60歳ごろから、どこかおかしくなったという。
「私には、そういうところがないか?」と。

そこで、先週からの行動を思い出してみる。
先週の土日は、ろ過器の部品を、販売店まで取りに行った。
ろ過器の修理を試みたが、失敗した。
土曜日夜は、山荘に泊まった。
そのときワイフは、ビデオを見ていた。
名前も内容も、思い出せない。
何だったかな?
(この間、数分……。)
ああ、そうだ。
1人のドイツ軍捕虜が、ソ連の強制収容所から脱獄したという映画だった。
数年かけて、9000キロの距離を逃げた。
どこかかったるい映画だった。

で、翌日の月曜日は、町まで歩いたが、途中で疲れて、バスに乗った。
いや、あれは火曜日だったかもしれない。
水曜日は、ワイフと2人で、熱海まで行ってきた。
食べた料理は、私は刺身定食。
ワイフは海苔丼。
ほかにイカの姿焼き。
しめてちょうど、4000円。

……何か記憶が抜けていないだろうか。
あれこれと頭の中をさぐってみる。
もしアルツハイマー病なら、どこかで記憶が抜けているはず。
あるいは抜けていても、それに気がつかないはず。

そこでさらに順を追って、思い出してみる。
「ろ過器の修理をしたあと、何をしたか?」と。

そのあと、朝風呂に入り、朝食を食べた。
朝食は、その前の晩の残りのパンだったかな?
いや、その帰り道、国道沿いにあるファースト・フード店で、私は、
ブタ丼を食べた。
ワイフは、サケ定食を食べた。
そのあと、パソコンショップへ行って、SDカードを2枚、買った……。

抜けた記憶はないだろうか?
いろいろ思い出しているだけで、不安になる。
それにいくら自分ではだいじょうぶと思っていても、他人の脳みその中を
のぞくことはできない。
他人は、もっと鮮明に、覚えているかもしれない。
その基準がわからない。
わからないから、不安になる。

……とまあ、自分のことばかり書いたが、本当の被害者は、夫であるその
知人ということになる。
これから先のことを思うと、私のほうまで気が重くなる。
「たいへんですね」とまでは言うことはできても、その先が言えない。
「がんばってください」と言うのも、失礼。
いいかげんな同情や約束は禁物。
ただこういうことは言える。

アルツハイマー病の初期症状のひとつとして、繊細さが消えるというのがある。
そのため他人に対して、暴言を吐いたりしやすくなるという。
そのため、その周囲の人が、傷つくということも珍しくない。

知人の妻にしても、あるとき、こんなことがあった。
私が、「あなたが先日、○○市とおっしゃったから、○○市のほうへ、連絡
してみましたが……」と言ったときのこと。
突然、その女性は金切り声をあげて、こう叫んだ。
「私は、○○市などとは、一言も言っていません! △△市です。どうして
そういうウソをつく!」と。

私はあまりの過剰反応に、驚いてしまった。
ふつうならそういうとき、「あら、そう? 私、○○市って、言いました? あら、
ごめんなさい。△△市のまちがいです」というような言い方をする。
また、それですます。
それほど、大げさな話ではない。
心の余裕がないというか、その余裕を感じることができなかった。

だから身内にそうした病気の人がいたら、できるだけ早く、親しい人たちには、
それを伝えておいたほうがよい。
それが原因で、それまでの人間関係が破壊されてしまうこともある。

ともあれ、「明日はわが身」。
自分の心配ばかりしていて恐縮だが、この病気ほど、周囲の人たち、とくに
家族に迷惑をかける病気はない。
そのために私は自分の心配をする。
自分がアルツハイマー病になるのは、それはそれでしかたない。
自分でも訳がわからなくなる。
自分が病気ということすら、わからなくなる。
が、周囲の人たちは、ちがう。
それによって、迷惑を受ける。
今の私は、そのほうがつらい。
とくに家族のみなには、迷惑をかけたくない。
だから、自分のことを心配する。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●You'll never walk alone(あなたはけっして、ひとりぼっちではない)

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外国で、いろいろな歌手が、この歌を歌っている。
坂本九の歌った、『上を向いて歩こう』に、どこか似ている(?)。

+++++++++++++++++++++

When you walk through a storm
Hold your head up high 
And don't be afraid of the dark
At the end of the storm
There's a golden sky
And the sweet silver song of a lark.

嵐の中を歩くときも、頭を高くあげよう。
暗闇を恐れてはいけない。
嵐のあとには、金色の空が待っている。
ヒバリの澄んださえずりが待っている。

Walk on through the wind
Walk on through the rain
Though your dreams be tossed and blown
Walk on, walk on
With hope in your heart
And you'll never walk alone
You'll never walk alone

風の中を歩きつづけよう。
雨の中を歩きつづけよう。
夢が破れても、歩きつづけよう。
どんどんと歩きつづけよう。
心に希望をもって。
あなたはけっして、ひとりで歩くのではない。
あなたはけっして、ひとりで歩くのではない。

Walk on, walk on
With hope in your heart
And you'll never walk alone
You'll never walk alone

歩きつづけよう。
心に希望をもって。
あなたはけっして、ひとりで歩くのではない。
あなたはけっして、ひとりで歩くのではない。

++++++++++++++++

以下、YOU TUBEの中から、
シゼールと、キャサリン・ジェンキンスが歌っている「You'll never walk alone.」
を収録してみた。

さあ、みなさん、がんばろう!
不況など、ものともせず!

(アクセス)
http://www.youtube.com/watch?v=aJ3hm6io9ow
http://www.youtube.com/watch?v=ffBIOTP5vtg

++++++++++++++++++++

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Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

【韓国・3月危機説】(Economy Crisis of South Korera)

++++++++++++++++++++++++++++

アジアでいちばんあぶない国。
それが韓国。
経済専門家で、それを疑う人は、だれもいない。
つい先日には、イギリスのエコノミスト誌は、
「韓国の外貨準備高に対する短期外債の割合は、
102%に達する」と報道した。
ウォン安、輸出の減少、外国投資家の逃避などなど。
韓国経済は、今、急速に悪化している。

そこでささやかれているのが、韓国・3月危機説。
もちろん韓国政府は、その(うわさ)の否定に
躍起になっている。

わかりやすく言えば、Kさんの金融資産が100万円
とすると、1年以内に返済しなければならない借金が、
102万円あるということ(エコノミスト誌)。
差し引き、2万円の負債ということになる。

これに対して、韓国の中央N報は、「まちがった報道である」
とかみついた(09・3・13)。

本当かな?
もう一度、中身を見てみよう。

+++++++++++++++++++++++++++

中央N報は、こう反論する。

『英フィナンシャルタイムズの記事も外債の内容を考慮しない単純計算から出てきたものだ。
造船業界など為替リスクヘッジのために借り入れたドル(390億ドル)は借金ではないのに、フ
ィナンシャルタイムズはこれを外債に含めて計算した。これを除けば外貨準備高に対する流動
外債の割合は77%になる』と。

つまり造船業界などが、為替リスクヘッジのために借り入れたドルまで、
借金に組み込んだから、102%になった。
しかしそれは借金ではない、と。

が、現実はどうか。
今年に入って、韓国の造船業界は、キャンセルにつぐキャンセルで、受注ゼロという
状態がつづいている。

それはさておき、こういうことらしい。
造船会社は、将来的に受け取るであろう代金を、ドル建てで先に借りておく。
あとで代金が支払われたら、それで返済すればよい。
そうすれば、仮にウォン安になっても、反対にウォン高になっても、造船会社は、
予定した金額を受け取ることができる。

わかりやすく説明しよう。

あなたはイギリスから、船を建造してくれと頼まれた。
代金は、1億ドル。
1ドルを1000ウォンで計算すると、1000億ウォンとなる。

しかし建造している間に、ウォンが、1ドル900ウォンにまであがったとする。
すると、あなたが受け取る金額は、900億ウォンになってしまう。
つまり100億ウォンの損。

そこであなたは、こうした為替リスクを避けるため、あらかじめ、1億ドルを
外国の銀行から借りておく。
1ドルが1000ウォンのときに借りておけば、1000億ウォンで借りられる。
そして船が完成し、イギリスに引き渡せば、その時点で1億ドルが手に入る。
その1億ドルを、そっくりそのまま外国の銀行へ返せば、為替の変動に関係なく、
あなたは予定どおり、1000億ウォンを手にすることができる。

中央N報は、「そうして借りたお金まで、390億ドルまで、外債(=借金)に
含めるのは、おかしい」と。

ここに韓国の大きな認識のズレがある。
わかるかな?

韓国では、こうして借りた外債は、「投資」と位置づけている。
「これから1億ドルの船を建造する。
そのために1億ドルを、外国の銀行から借りる。
しかしその1億ドルは、借金ではない。
必ず返せるお金である。
つまり投資である」と。

そこで韓国式の統計方法によれば、こうした外債は、資本収支の中では、
「投資」つまり「収入」として組み込まれることになる。
日本式に考えれば、「借金」まで「収入」に組み込んでしまうことになる。

しかし借金は、借金。
投資ではない。
「投資」というのは、投資家が、リスクを負担する。
「借金」というのは、借り手が、リスクを負担する。

たとえばあなたが銀行から1000万円借りて、家を建てたとする。
そしてその家が完成したとき、別人に、1200万円で売却したとする。
銀行へは、売却した1000万円を返せばよい。
200万円の儲けということになるが、銀行から借りた1000万円を、
あなたは「投資」と呼ぶだろうか。

仮に100歩譲って、それを「投資」としたとしよう。
そして中央N報が報ずるように、390億ドルを短期外債(=借金)から
はずしたとしよう。

それでも「韓国の外貨準備高に対する短期外債の割合は、77%に達する」
(韓国政府発表)という。
が、それだけではない。
韓国政府が外国から借り入れている、流動性外債(=借金)も含めると、
その割合は96%にもなるという(中央N報)。
韓国政府は、「為替ヘッジ用のドルを、(流動性外債から)除外すべき」と
主張しているが、そうでも言わないと、それこそ100%を超えてしまうからである。

こういう(現実)を前にして、我が国のAS首相は、頼まれもしないのに韓国まで
のこのこと出かけて行って、総額600億ドルのスワップ協定を結んでしまった。
「韓国が通貨危機に陥っても、600億ドルまで、日本が保証しますよ」と
言ったに等しい。

日韓関係が重要なことは、私にもわかる。
わかるが、一度は、彼らに、頭をさげさせるべきではないのか。
先のWBCの日韓戦でも、韓国は日本に勝つたびに、マウンドに韓国旗を立てた。
「日本、憎し」の気持ちはよくわかる。
わかるが、しかしその一方で、日本の(お人好しぶり)には、あきれてものが言えない。
日本は韓国と、いっしょに心中するつもりでいるのか。
いくら大統領が自由貿易主義派になったからといって、金大中元大統領、ノ前大統領
らの見せたあの露骨な反日政策で、傷ついた私たち日本人の心はどうなるのか。
それでいやされるとでもいうのか。
「いったい、この怒り、どこへ向かうべきなのか」(尾崎豊「卒業」)。

日韓経済戦争は、今の今も、つづいている。
その緊張感だけは、忘れてはいけない。
(09年3月20日記)


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

【BW公開教室】****************************

BWの様子をどうぞ!
子どもたちvsはやし浩司

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YOU TUBEへのアクセスは、

http://www.youtube.com/watch?v=WCSZx6d1fms

さらにご覧になってくれる人は、
「はやし浩司の公開教室」へ、どうぞ!

http://bwhayashi.ninja-web.net/

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●3月21日

++++++++++++++++++

昨夜、深夜劇場に行こうと思ったが、
疲れていたので、とりやめ。
夜8時50分〜からの『オーストラリア』が、
見たかった。
で、今夜、見に行くつもり。
それに『ワルキューレ』も見たい。

ところで首のうしろが、「凝る」というのは、
よくないそうだ。
それが原因で脳梗塞を起こすこともあるという。
動脈剥離(はくり)といって、動脈の
内側のカスのようなものが、脳に入って、
そこで血管を詰まらせる(用語は、不正確)。
その前兆症状として、後頭部の首の付け根
あたりに、「異変」を感ずるようになるという。

このところ、後頭部の首の付け根あたりを、
重ぼったく感ずることかある。
どの程度を「異変」というのかよくわからないが、
注意しよう。

+++++++++++++++++++

●重ぼったい頭

今朝は、4時ごろ目が覚めたと思う。
ふだんなら、そのまま起きて書斎へ入るのだが、今朝は、そのまま目を閉じていた。
1時間ほど、眠れなかった。
が、そのあと、断続的に2度ほど、眠った。
床から出たのが、午前8時。
そのせいか、頭が重ぼったい。
いや、重ぼったいのは、夢のせいかもしれない。
こういう眠り方をした朝というのは、私はたいへん理屈ぽい夢を見る。
夢の中で、あれこれ考える。
それでその疲れが、残ってしまう。

今朝のは、どこかのショッピングセンターで、ものを買う夢だった。
店全体が、プレイランドのようになっていて、何でも売っていた。
複雑に入り組んだ店だった。
迷路のようになっていたり、その間にエスカレーターがあったり……。
よく「夢には色がない」と言う人がいる。
あるいは「色のついた夢を見る人は、精神がおかしい」と言う人もいる。
が、私の夢は、たいてい色がついている。
今朝のも、赤や青など、色とりどりで、うつくしい夢だった。
たぶん、眠っていながらも、脳細胞は、フル回転していたのだと思う。
だから、疲れが残った。

こういうときは、新しい電子製品を買うのがよい。
脳みそが、フラストレーションを起こしている。
新しい電子製品をいじっていると、頭がスッキリとする。
あとでワイフに相談してみよう。
今、ほしいのは、フルハイビジョン・タイプの、ビデオカメラ。
小型のものが、よい。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司※

●老後なんて、クソ食らえ!

++++++++++++++++++

私はそのつもりはなくても、まわりの
人たちが、私を、「老人」と決めてかかる。
「老人」「老人」と。
いくら「私はちがう!」と叫んでも、
そういう声は、みなの耳には入らない。
反対に、こう言い返される。
「あなたは還暦を過ぎた」「あなたは退職者だ」
「もうすぐ年金族だ」と。

60歳になるとき、小学生たちですら、
私にこう言った。
「先生も、退職だね」と。
たぶん親たちから、そう聞かされていたのだろう。
しかし、だ。
老後なんて、クソ食らえ!

どうしてこの私が老人にならなければ
ならないのか。
老人でなければならないのか。
まだ61歳だぞ!

++++++++++++++++++

●仕事をふやす

ここ4〜5年、半分は意図的に、しかし半分は、体力の限界を感じた
こともあり、仕事の量を減らしてきた。
講演にしても、遠方の講演は、断ってきた。
しかし、どうして?

私の結論は、こうだ。
私は、死ぬまで仕事をする。
「悠々自適な老後生活」とは、いったい、何だ!
何をすればよいのだ!
どうやって時間を過ごせばよいのだ!

私の実家の近くに、満55歳で定年退職したあと、ほぼ30年間、
遊んで暮らしている人がいる。
(本当に、遊んでばかりいる!)

人には、それぞれの生き方がある。
その人の生き様に干渉するつもりはない。
批判するつもりもない。
しかしこの30年間を振り返ってみて、その老人は、(まさにそういう人の
ことを「老人」と呼ぶにふさわしいが)、30年間を1日にして生きてきただけ。

人づきあいも、ほとんどしない。
外出も、ほとんどしない。
近所の仕事も、ほとんどしない。

娘が1人いるが、近所の人の話でも、この30年間、その娘は、一度も、
実家へ帰っていないという。
親子の間で、何か大きな確執があったらしい。

いくら(遊んで暮らす)といっても、それでよいのか。
それがあるべき老後の姿なのか。

●老後の放棄

そこにある老後を認め、自ら老人になるか。
それとも老後を放棄して、生涯、現役で通すか。
結局は、択一の問題ということになる。

で、この数年、私は、擬似老後を体験してきた。
老後を予想しながら、その生き方を模索してきた。
数年、年上の人たちや、あるいはさらにその年上の人たちの生き様を
観察させてもらった。
その結果だが、私には、やはり「老後は、向かない」。
「老人らしく生きろ」と言われても、私にはできない。
だから「老後を放棄する」を選んだ。

具体的には、この4月から、再び仕事量をふやした。
2008年度を、100とするなら、2009年度は、120くらいにする。
さらに2010年度は、140くらいにまで、もっていく。

「人生、50年」ではなく、「人生は、60歳から」。
だからときどき、ワイフにこう言う。
「仕事の最中に、くも膜下出血か、心筋梗塞、あるいは脳梗塞で
倒れても、ぼくには、延命処置は不要」と。

それまで現役で働ければ、御の字。
それ以上に、何を望むのか。
何を望むことができるのか。

●健康

本当にラッキーなことに、繰り返すが、本当にラッキーなことに、私は健康だ。
昨日も、OZ先生(医大の泌尿器科の権威)に会ったとき、
「0・7でした」と告げると、OZ先生は、こう言ってくれた。
「じゃあ、この2、3年は、検査を受けなくてもいいですね」と。

OZ先生というのは、前立腺がんのPSA検査法を
日本に広めたドクターである。
「0・7」というのは、「まったく異常がない」という数値らしい。

で、あと心配なのが、大腸がんだが、それも今回、(−)だった。

とたん、元気がモリモリとわいてきた。
やる気が出てきた。
考えようによっては、30歳のころより、健康かもしれない。
仕事だって、今のほうが、しやすい。
子育てからも、親の介護からも、実家のめんどうからも、解放された。
みな、「はやし浩司」という名前を出すだけで、私がどんな仕事を
しているか、わかってくれる。

私にとって、「現役」ということは、「健康」ということになる。

●墓石

もちろん仕事だけが人生ではない。
「生きる」ということは、ただ「息(いき)る」ことではない。
「生きる」ということは、私のばあい、生きた証(あかし)を、つぎの世代に
残すことを意味する。

そのために墓石を残すこともよいだろう。
しかし私は、それでは満足できない。
墓石に刻まれた名前だけが、「私」ではない。

私は私。
だれにも束縛されず、自由に生きてきた。
たいしたことはできなかったが、自分だけの道を歩いてきた。
あとに残ったのは、細い道かもしれないが、それが私の道。
この道が、何かの役に立つようなら、それを残したい。
それが私の墓石ということになる。
目には見えないが、それが墓石ということになる。

……その墓石を、自分なりにどうやって作っていくか?
それもこれからの人生の中で、やり遂げていかねばならない。

●再び、「老後なんて、クソ食らえ!」

老後を急ぐ人も、多い。
満60歳で、隠居生活に入った人もいる。
旅行三昧(ざんまい)の人もいる。
孫の世話に明け暮れている人もいる。

これも繰り返しになるが、私は私、人は人。
その人が、それでハッピーなら、それはそれでよい。
私やあなたが、「それはおかしい」とか、「まちがっている」などとは、
口が裂けても言ってはならない。

また私の生き方が正しいとか、そういうことでもない。
私には、私の無数の(糸)がからんでいる。
その中でもとくに太い糸は、私の(過去という糸)である。
私は子どものころ、(貧乏)を何よりも、恐れた。
(貧乏になっていく)という恐怖感をいつも感じていた。
だから、それが転じて、私は(仕事の虫)になった。
今も、その亡霊は、色濃く残っている。

だから「生涯、現役」というと、かっこよく聞こえるかもしれないが、
本当のところ、人生が下り坂になるのが、こわいだけなのかもしれない。
収入が減少し、まわりの世界が小さくなっていく……。
それがこわいだけなのかもしれない。

しかしそれが私の(糸)なら、受け入れるしかない。
まちがっているとか、正しいとか言う前に、(おかしいことは事実だが)、
それも私の一部。
今さら、フランス人がバカンスを過ごすように、のんびりと生きろと
言われても、私には、できない。

だからあえて再び、こう叫ぶ。
「老後なって、クソ食らえ!」と。

「クソ、食らえ!」という言葉は、尾崎豊が「卒業」の中で使った
言葉である。
私よりずっと若い人だったが、あの人の歌には、いろいろと教えられた。
これは余談。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●ボケの恐怖

++++++++++++++++

このところ、ときどき、自分の脳みそが
信じられなくなるときがある。
「本当に信じていいのだろうか?」と、
自分でそう思うときがある。

たとえば、つい先ほども、明日の計画を
立てた。
そのときも、「明日まで、覚えているだろうか」と。

そこでそれをメモにして、そこに残す。
「○○を修理、△に電話、□をする」と。

若いころは、こんなことはしなかった。
メモなどというものは、まったく必要なかった。
が、それを忘れるということでもないが、
ふと、不安になる。
「忘れるんじゃないか」と。

+++++++++++++++++

●ボケの始まり?

だからといって、具体的に何かを失敗したということではない。
今のところ、そういう失敗は、していない。
しかしこのところ、自分で自分の脳みそが信じられなくなってきた。

近くにボケ老人や、認知症、さらにはアルツハイマー病の人がいるせいかも
しれない。
脳みその構造やしくみが、若いころよりも、よくわかってきた。
それでそう思うようになった(?)。

たとえて言うなら、だれかに「明日、20キロ歩いてみませんか?」と
声をかけられたときのような気分に似ている。
「10キロはだいじょうぶと思うが、20キロとなると……」と。

歩こうと思えば、20キロくらいなら歩ける。
しかし仮に、その前夜、眠られなかったら、どうするのか?
風をひいたら、どうするのか?
体の調子が悪かったら、どうするのか、と。

同じように、頭を使うときも、「ぜったい、だいじょうぶ」という
確信がもてなくなった。
それがそのまま不安感となって、戻ってくる。

●ボケとの戦い

私は子どもたちと、よく競争をする。
算数や数学の問題を解きあったりする。
パズルを解きあうことも、多い。

昔は遊び半分だったが、今は、ちがう。
どこか真剣勝負。
が、ここで誤解してはいけないのは、そういう問題が解けるからといって、
だいじょうぶということにはならない。

数学の先生だって、認知症になる人は、なる。
では、どこがちがうか。

たとえばアルツハイマー病のばあい、その前兆症状として、(1)繊細さが
なくなる、というのがある。
繊細な会話ができない、繊細な感情表現ができない、など。
(2)怒りっぽくなり、暴力や暴言が多くなるというのもある。
要するに、心の余裕を失うということらしい。
むしろ、そちらのほうが、心配。

たとえば私の知人の妻(現在、65歳くらい)は、最近、アルツハイマー病
と診断されたという。
その女性のばあい、電話で話しても、会話はいつも一方的。
自分の言いたいことだけを、繰り返し、しかもくどくどと言って、それで
おしまい。
こちらの話には、耳も傾けようとはしない。
どうしても(3)ものの考え方が、自己中心的になる。

では、どうすればよいのか。

数学の問題を解くような知的な作業はともかくも、繊細さや、心の余裕、
さらには自己中心的になることから、自分を守るためには、どうしたら
よいのか。
また仮にそうした能力が低下しているとしたら、それを知る方法は、
あるのか。

●繊細さ

……目の前には、春の陽光を浴びた、森の木々が、白い光をあたりに
反射させている。
葉にあたる白い光が、まぶしい。
そういう景色を見ながら、「繊細さとは何か」を考える。

で、ひとつのヒントだが、ここに書いた妻のばあい、昔から気になっている
ことがある。
ひとつは、本を読まないこと。
DVD(ビデオ)を見ないこと。
もちろん映画館へ足を運ぶことはない。
ゆいいつ文化的なこととしては、布を切りつないで描く、パッチワーク
(キルト)を趣味にしていたことがある。
しかし展覧会に作品を出すとか、そういうことはしなかった。
いつも「私には時間がない」と言っていた。

そういう生活習慣が、その妻をして、アルツハイマー病にしたとも考えられる。
最近読んだ本の中でも、「アルツハイマー病は、生活習慣病と考えていい」※と
いうようなことが書いてあった。
(あるいは、その反対も考えられる。
アルツハイマー病の初期の、そのまた初期症状として、(4)がんこになったり、
(5)興味や好奇心を失うということもある。)

言い換えると、こうは言えないだろうか。
たとえばすばらしい映画を見ても、感動しなくなったら、おしまい。
逆に言えば、すばらしい映画などを見て、おおいに感動する。
そうすることによって、繊細さを維持する。

映画でなくても、美しい景色でもよい。
他人の話でもよい。
そういうものを見たり聞いたりしながら、そのつど感動していく。
つまり数学の問題やパズルで、知的能力を刺激するように、
感情もまた、そのつど刺激する。
そういう形で、繊細さを維持する。

その結果として、がんこになったり、自己中心的なったりすることから、
自分を守ることができる。

が、「心の余裕」については、どうか?
それについては、また別の機会に考えてみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●心の余裕

+++++++++++++++++++

先日、観光バスで旅行をしたときのこと。
うしろの席の女性が、ペチャペチャとしゃべり始めた。
甲高い声だから、かなり気になった。

で、バスが高速道路に入ってしばらくしたあと、
私は、ていねいな言い方で、こう言った。
「もう少し、小さい声で話していただけると、うれしいのですが」と。

これは余談だが、こういうばあい、男性というのは、すかさず、
「すまん、すまん」とか言って、それを改めてくれる。
が、女性というのは、そうでない。
たいてい気分を悪くしたというような表情をしてみせ、逆にこちらをにらみ返してくる。

そのときもそうだった。

で、一日の観光も終わり、帰りのバスになった。
そのときも、その女性たちは、しゃべりつづけていた。
口先だけで軽く話すため、男性のように、いくら話しても
喉が枯れるということはないらしい。

が、今度は、私は、ややきつい言い方をして、それを注意した。

「バスの中で、静かに休んでいる人もいます。
もう少し小さい声で話してください」と。

すると、すかさず1人の女性が、こう言った。
「私ら、おしゃべりが楽しみで、旅行、来ているのよ、ねエ〜?」と。

私は無視した。
それまでの会話の内容からして、相手にするような人たちではなかった。
相手にもならなかった。
それに私は「しゃべってはいけない」と言っているのではない。
「小さい声でしゃべってほしい」と言っただけである。

心に余裕のない人というのは、そういう女性たちをいう。
やわらかさが、ない。
ユーモアのセンスも、ない。
少し批判めいたことを言われただけで、カッとなる。

で、問題は、どうして、そうなるか、ということ。
ふつうなら、(つまり私なら?)、そういうふうに注意されたら、すかさず、
「ああ、ごめんなさい」と言って、笑い返すだろう。
以後、おしゃべりを慎むだろう。
しかし心に余裕のない人は、そうでない。

どこかギスギスしている。
ピリピリしている。
カリカリしている。
相手をやさしくする、包容力がない。
しかもそういうタイプは、女性に、多い。

●低劣なオバチャン

一方、いやみを言われた私は、どうか?
実は、私もそれほど心の余裕のある人間ではない。
子どものころは、喧嘩早いということで、通っていた。
が、そのばあいは、笑って、無視することができた。
(もう少し若ければ、喧嘩していたかもしれない。)
が、喧嘩はしなかった。

それには、先にも書いたように、それまで彼女たちの会話を聞いて
いたからである。

あまりにも低俗。
あまりにも低劣。
かいま聞こえてくる話の内容に、ただただあきれるばかり……。

一言ごとに、そう感じていた。
はっきり言えば、英語で言えば、「ノー・ブレイン」。

「世の中には、こういう低劣な人もいるんだな」と、むしろ、そちらの
ほうに感心していた。
つまりその時点で、私は、「彼女たちを相手にしない」という姿勢が
作られていた。
だから気にしなかった。

最後にバスをおりるときも、その女性は、私にこう言った。
「おだいじに、さようなら」と。
再び、イヤミである。
強い視線を感じたが、私は無視した。
完全に無視した。

私が相手にしなければならないような人たちではない。
が、これが(心の余裕)ということか。

●昇華する

要するに、心の余裕をつくるためには、自分自身を昇華させるしかない。
わかりやすく言えば、相手を飲み込めるほどまで、自分を高める。
その結果として、包容力をもつ。

言い換えると、心の余裕というのは、その人のもつ徳性と深く結びついている。
そしてその徳性というのは、日々の研鑽の中で養われるもの。
で、これも健康論と似ている。
健康のための運動を怠ったとたん、その人はその時点から不健康になっていく。
同じように、日々の研鑽を怠ったとたん、その人はその時点から、特性を
失っていく。

で、日々の研鑽とは何か。
いつも智力の窓をあけ、考えること。
自ら考えること。
相手が、取るに足らない、つまらない人間に見えるまで、自分を高めること。
それができたとき、心の余裕が生まれる。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●映画『ワルキューレ』

++++++++++++++++

昨夜遅く、トム・クルーズ主演の『ワルキューレ』を見てきた。
星は4つの★★★★。
暗殺映画に必要な緊迫感が、やや欠けるかなという点で、
星を4つにした。

映画を見ながら、「では、この日本ではどうだったのか」と、
そればかりを考えていた。
ドイツには、ヒットラーという独裁者を生んだが、それまでに培(つちか)った
文化というものがある。
シラー、ベートーベン、ゲーテなどなど。
ワーグナーもその1人。
「ワルキューレ」は、そのワーグナーが作曲した曲名。
そこからヒットラー暗殺計画が始まる。

その文化の蓄積が、ヒットラーの独裁にブレーキをかけようとした。
そのようにも解釈できる。
が、ここから先が、日本とはちがうところ。
暗殺計画は失敗し、トム・クルーズが演ずるクラウス・フォン・シュタウフェンベルク
は処刑される。
が、現在、そのシュタウフェンベルクは、ドイツでは英雄視されているという。
そののちドイツは廃墟と化し、350万人ものドイツ人が死んでいる。
ユダヤ人を虐殺したという汚名は、今の今も消えていない。

日本ではこうした暗殺計画は生まれなかったし、また残念ながら、
それだけの周囲文化というか、そういうものがなかった。
また仮にあったとしても、そういう人たちは逆族として、排斥されていただろう。

映画を見ながら、別の心でそんなことを考えていた。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●野次馬

+++++++++++++++++++++

他人の失敗談ほど、役に立つものはない。
それは認める。
しかしその失敗談を、けっして「酒の肴」、つまり、
話の種にしてはいけない。
それが相手の耳に入ったとき、それはそのまま
その人との人間関係の終焉を意味する。

そこで、この世界の大鉄則。
『他人の不幸について、ぜったいに野次馬になっては
いけない』。

その不快感というより、悲しみは、それをされたもので
ないとわからない。

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どんな人にも、ぜったいに他人に触れられたくない問題というのがある。
ない人は、ない。
たいていはその奥で、深い悲しみや苦しみに結びついている。
が、世の中には、無神経な人というのがいる。
用もないのに電話をかけてきたりして、こちらの内情をさぐろうとする。
さぐっては、それをおもしろおかしく脚色し、他人に伝える。

それをするのは、その人の勝手かしれない。
しかしそれをされた者の怒りや絶望感は、想像を絶する。

だからそこに不幸な人がいたら、そっとしておいてやることこそ、肝要。
相手から相談でもないかぎり、ぜったいに首をつっこんではいけない。
聞き出そうとしてもいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●それをしたら、おしまい

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世の中には、「それをしたら、おしまい」と
いうような話は、多い。
その中のひとつが、これ。
農家の人が栽培している農作物を盗むこと。

しかし現実には、いる。
今日、ドライブの途中で、道路わきに車を
止め、畑から、甘夏(みかん)を盗んで
いる人を見かけた。
「まさか!」「ありえない!」と思ったが、
雰囲気からして、その土地の持ち主では
ないことはわかった。

急いで3つ、4つと取り、それを上着のジャンパーで
包んでいた。

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私も山荘に住むようになって、13年になる。
その間、「これだけは……」と思って、守っていることがある。
それはどんなことがあっても、またどんなばあいでも、
農家の人たちの作った農作物には、手をつけないということ。
農作物だけではない。
農家の人たちは、空いた土地に、いろいろな果物の木を植える。
その時期になると、それが実をつける。
ときには、(たいていそうだが)、そのまま実が熟し、地面に落ちる。

こういう土地では、農家の人が切った木一本、手をつけてはいけない。
花一輪、ちぎってはいけない。
不文律というよりは、常識。
その常識を破ったら、おしまい。

仮に、……というより、近所の人たちはよく私にこう言う。
「林さん、ポンカンが熟したら、取って食べていいですよ」と。
しかし私はそういう申し出には、ありがとうとは言っても、
応じたことは一度もない。

たとえばこんなケースで考えてみよう。
Aさんの畑の横には、ビワの木がある。
そのAさんが、「ビワを取ってもいい」と言う。
そういうとき、もし私がビワを取っている姿を、Bさんが見たら、
Bさんは、どう思うだろうか。
私は許可をもらっているから……と思っていても、Bさんの目には、
盗んでいるように見える。
またそう誤解されても、文句は言えない。

だから、ぜったいに、手をつけてはいけない。
木一本、花一輪、手をつけてはいけない。
「それをしたら、おしまい」。
私はそのまま、村の社会から、はじき飛ばされてしまう。
もともとそういう気持ちは、みじんもないが、さらに心して、その常識を
守っている。

が、である。
今日、その畑から、甘夏を盗んでいる人を見かけた。
年齢は40歳くらいか。
男性である。
車の中には、妻らしき女性も乗っていた。

通りすがりだったので、私が見たのはその瞬間だけだったが、しかし思わず
こう言った。
「それをするようになったら、世の中も、おしまい」と。

農家の人たちは、私たちを信頼して、農作物を作っている。
その気になれば、私たちは、何だって盗める。
野菜にしても、果物にしても、あるいは農業用の道具にしても……。
しかし私たちは、それをしない。
しないから農家の人たちは、安心して、作物を作ることができる。
それは人間が最低限守らなければならない、常識である。

しかしこうした常識が破られるようになったら……。
農家の人たちは、私たちに対して自衛をしなければならない。
フェンスを建てたり、するなど。
しかしそれをすれば、不信感が不信感を呼ぶ。
人間関係そのものが、破壊される。
さみしい社会になる。
つまり「おしまい」。

もう少し早く気がつけば、私は車をおりて、その男性に問いただして
いたかもしれない。
「盗んでいる」と気がついたときには、かなり離れてしまっていた。
しかし……。
盗んだ人は、「得した」と思っているかもしれないが、同時に、もっと
大切なものを失っている。
それに気づくかどうかは、その人の問題だが、もし気づかなければ、
その人の人生の末路は、あわれ。
そういうことが平気でできる人は、そうはいない。
まさに一事が万事。
そういう人生を送る。

ところで、よく道路端で、「一袋、100円」とか、「300円」とかいう、
果物を売っている無人の店を見かける。
箱だけの小さな店である。
今ごろだと、レモンやポンカンなどを売っている。
ほしい人は、小銭を横の缶に入れ、それをもっていく。

そこで一度、そういう店を出している農家の人に、こう聞いたことがある。
「正直に払っている人は、どれくらいですか」と。
すると、その人(=私が親しくしている農家の友人)は、こう話してくれた。
「だいたい、7割ですよ」と。

つまり1000円分の野菜などを置いておいても、実際、払っていくのは、
700円と。
残りの300円は、つまり「盗み」の被害ということになる。
私はその話を聞いて、「そんなものだろうな」と思った。

が、もしその被害が、500円とか、700円とかになったら、そういう店も
消えるだろう。
店を出す人がいなくなる。
が、反対に、それが1000円そのままになったら、そのときこそ、
この日本は、本当にすばらしい国ということになる。
またそういう国をめざさねばならない。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●パソコンの不調

MSIのミニパソが、ずっと調子が悪かった。
それについては、少し前に書いた。
文字入力が、混乱する。
カーソルの位置が、混乱する。
が、原因がわかった。
つまり、タッチパッドの感度がよすぎた。
手を近づけただけで反応してしまう。
指が触れなくても、たとえば手の魚腹(親指の付け根)が
近づいただけで、反応してしまう。
ナルホド!
たった今、パソコンショップの店員さんに、
(敬意をこめて、「店員さん」と呼ぶ)、
そう教えてもらった。

謎が解けた。
ほっとした。
と、同時に、みんなに知らせてやらなければならないという
思いにかられた。

【MSI Wind Notebookの不調について】

(症状)

「た」と打ちたくて、ローマ字入力すると、「tあ」となってしまう。
ときどき「ENTERキー」を叩くと、カーソルの位置が、とんでもないところに
飛んでしまう。

(原因)

タッチパッドの感度がよすぎて、手が静電気を帯びていたりすると、それに勝手に
タッチパッドが、反応してしまう。

(対処方法)

MSIのミニパソには、タッチパッドの感度調整機能がないので、薄い紙をあてて使う。

(MSI Wind Notebook 不調 文字 文字入力 カーソルの飛び
 ローマ字入力 不具合 msi U100 タッチパッド 感度 感度調整)


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●愛すること

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人は、だれかに愛されて、「愛」を知る。
不幸にして、不幸な環境に生まれ育ち、
愛されることを知らずに育った人は、
人を愛することができない。
「愛」というおおげさなものでなくてもよい。
「好き」という感情でもよい。
だれかを好きになっても、すなおな気持ちで、
「好きです」と言えない。

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●実感しにくい感情

「愛」ほど、実感しにくい感情はない。
「喜・怒・哀・楽」の4つの感情と比較してみても、それがわかる。
「愛」はいつもそこにあるのだが、そこにあるときは、空気のようなもの。
それに気づくこともない。

子どもにしても、何か問題が起きたとき、とたん、愛の感情が爆発する。
ふだんは、騒々しくて、わずらわしい子どもでも、病気になったとたん、
その(思い)は、一変する。

で、夫婦のばあいは、どうか。
いっしょにいるときは、口争いばかりしている。
いがみあっている。
しかしそんな夫婦でも、相手が病気になったり、事故にあったりすると、
とたんに、相手のことを心配したりする。

「愛」というのは、相手を「許し、忘れる」こと。
その度量の深さによって、愛の深さが決まる。

●愛はたがいに深めあうもの

そんなわけで、(少し結論が性急すぎると思うが)、人はたがいに愛され、愛しあい
ながら、「愛」を深めていく。
言い換えると、人に愛してもらいたかったら、まず先に、人を愛する。
「好き」という感情でもよい。
みなに好かれたかったら、まず、好きになる。
私は、このことを幼児を教えていて、知った。

幼児というのは、心の鏡(かがみ)のようなもの。
心理学の世界にも、「好意の返報性」という言葉がある。
日本語のことわざにも、「魚心あれば、水心」というにがある。

「この子はいい子だ」と思っていると、子どものほうも、私のことを「いい人だ」と
思う。
子どもを好きになれば、子どもも私を好きになる。
ほかにもたとえば、子どもを指導するとき、指導そのものを、楽しむ。
私が「楽しい」と思っていると、子どものほうも、「楽しい」と思う。
そんなわけで、まず、自分が楽しむ。
子どもは、あとからついてくる。

●愛が通じない人

しかし中には、愛が通じない人もいる。
私たちが「自己愛者」と呼んでいる人たちである。
あるいは「偽善者(愛他的自己愛者)」でもよい。

このタイプの人は、他人の愛を、自分の利益に結びつけてしまう。
あるいは自分を飾るための道具として、利用してしまう。
言うなれば、心のさみしい人ということになる。
が、さらに、最近、こんなことを発見した。

愛を熟成するにも、賞味期限(?)がある、と。
つまりある年齢以上になると、その人自身がもつ情感が硬直し、
愛を熟成できなくなる。
そればかりか、かえって退化することもある。
認知症などの脳の病気にかかると、さらにその傾向がはっきりしてくる。
私の母にしても、晩年は、口癖のように、「ありがとう」「ありがとう」と
言っていた。
が、それは口癖。
そこに(感謝の念)があって、そう言っていたわけではない。

だから「愛」を熟成させるなら、若ければ若いほど、よい。
年齢的には、思春期前後まで。
とくに大切なのが、乳幼児期ということになる。
そのころ周囲の人たちに深く愛された人は、自らも愛を熟成させることができる。
そうでなければそうでない。
いわゆる心の冷たい人になる。

相手の話に同情したフリをする。
相手の話を理解したフリをする。
しかし心の中では、乾いた風が吹いているだけ。

そこでこんなことが言える。

50歳を過ぎたら、つねに相手を選んで話す、ということ。
それを誤ると、かえってこちらのほうが、相手にもてあそばれてしまう。
あるいはときに、傷つくこともある。
またそういう人ほど、口がうまい。
長い時間をかけて、自分をよい人間に見せるための方法を身につけている。
何かを相談したりすると、同情したフリをして、「それはたいへんですねエ〜」と、
言ったりする。
私はこのことを、母の介護を通して、知った。

●Yさん(60歳、女性)

こう書くからといって、Yさんを責めているのではない。
YさんはYさんなりに、力になってくれた。
それには感謝している。
しかしこんなことがあった。

私が母の介護のことを話すと、Yさんは、こう言った。
「親の介護は、たいへんですから。本当に、そうですよ」と。

私はよき理解者を得たような気分になり、あれこれ相談した。
が、である。
そのあと私は、ふと気がついたが、Yさん自身は、親の介護を経験していないはず。
父親は脳内出血で、倒れてから数日後に他界している。
母親も同じようにして他界している。
そのときYさんは、遠くにいて、看病もしていなかったはず。
どうしてそういう人が、親の介護のたいへんさを理解できるのか。

やがて私はYさんが、私から聞きだした話を、あちこちの人に話しているのを知った。
言うなれば、私の家の不幸話を、「酒の肴(さかな)」にしていた。
それを知ったとき、私は、大きなショックを受けた。
Yさんは、たいへん心のさみしい女性ということになる。
どうしてそうなったかはわからないが、ともかくも、そういう女性である。

●愛は捨て身

が、希望がないわけではない。
他人は他人。
しかし私やあなた自身は、30歳を過ぎてからでも、また40歳を過ぎてからでも、
「愛」を深めることができる。
大切なのは、「自分に気がつくこと」。

人から愛されない。
人を愛することができない。
どうであるにせよ、そういう自分であることに気がつくこと。
すべてはここから始まるが、それに気がついたとたん、その先に道が見えてくる。

方法は簡単。
まず、人を愛すること。
「許して、忘れる」こと。
最初は犠牲的であっても、かまわない。
形だけでも、かまわない。
見返りを求めず、ただ一方的に「許して、忘れる」。
それだけを繰り返す。

相手が夫や妻なら、それを実行しやすい。
息子や娘、さらには家族なら、実行しやすい。
それを繰り返していると、5年単位、10年単位で、あなたの周辺の人たちの様子が
変わってくる。
それは根気比べのようなもの。
とくに相手が家族なら、裏切られても、裏切られても、ただひたすら、がまん。
そのおおらかさが、相手の心を溶かす。
ついで、あなたの心を溶かす。

●愛することのすばらしさ

私はキリスト教徒ではない。
またキリスト教でいう「愛」とは、ちがったものかもしれない。
しかし人を愛するすばらしさは、愛することよりも、愛されたときの喜びとなった
とき、わかる。
人を深く愛することができる人は、人に愛されたとき、その愛を、何倍も、何十倍も
温かく感ずることができる。
その喜びは、ほかの世界で得られる喜びとは、まったくちがったもの。
ほかの世界では、ぜったいに、味わうことのできないもの。
生きる喜びに、直接つなげることができる。
そういう喜びである。

さらに……。

その喜びだけは、より深くなってはじめて、それまでの喜びが薄っぺらいものであった
ことを知る。
深くなればなるほど、そうで、それには際限がない。
(そこまで言い切る自信は、まだないが、私はそう確信している。)

裏を返して言うと、「私は愛されている」「私は人を愛している」と思っている人でも、
さらに努力によって、その「愛」を、よりすばらしいものにできるということ。
今の(状態)に、けっして満足していてはいけない。
「いけない」というよりは、「それでは、もったいない」。

たった一度しかない人生。
繰り返しができない人生。
だったら奥の奥まで、歩いて行ってみる。
生きる醍醐味は、そういうところから、生まれる。

「愛」というのは、「生きるテーマ」にして、なんら遜色がない。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●できそこないの息子や娘をもった幸せ

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ソクラテスは、こう言った。
「悪妻をもつと、夫は哲学者になる」と。

これをもじると、こうなる。
「愚息をもつと、親は、勤勉家になる」と。

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妻が悪妻だと、夫は人生を悩み、苦しむ。
毎日のように、人生を後悔し、反省する。
その結果、夫は、人生を見つめ、命を見つめ、心を見つめる。
つまり哲学者になる。

言い換えると、ソクラテスの妻は、かなりの悪妻だったらしい。
が、それはさておき、「愚息をもつと、親は、勤勉家になる」というのも、
これまた正しい。

愚息かどうかは別にして、私がもっとも仕事に励んだのは、息子たちが
大学生のころのことだった。
学費が、20万円〜30万円単位で、毎月のようにどこかへ消えていった。
で、そのたびに、私は「歯をくいしばって、がんばった」。
もう少し正直に書くと、そのつど、「ちくしょう」「ちくしょう」と思って仕事をした。

私にはたいへんな時期だったが、言い換えると、そうした逆境(?)が、
かえって仕事をするバネ(原動力)になった。
もしそういうことがなければ、私は、ああまで仕事をしなかっただろう。

……というような話を、学生時代からの友人からも聞いた。

その友人には、2人の子ども(長男、長女)がいる。
長男は、結婚して東京に住んでいるが、長女のほうは結婚をせず、友人夫婦と同居して
いる。
それだけではない。
一応キャリアウーマンとして働いているが、給料は1円も、家には入れていないという。
すべて遊興費+衣服代+化粧代に使っている。

ときどき娘を説教するらしいが、実際には、娘の収入を、友人のほうが補っているという。
それについて、友人は、こう言った。

「林君、そんなわけで、ぼくも70歳まで働くことにしたよ」と。
私が「ぼくは70歳まで、現役」と宣言したときのことである。

わかるかな?

「愚息をもてば、親は勤勉家になる」の意味?

平凡は美徳だが、平凡な生活からは何も生まれない。
同じように、平和は美徳だが、平和な生活からは、緊張感そのものが生まれない。
私もワイフとときどき、こんな会話をする。

「もし息子たちがみな、近くに住んでいて、『お父さん』『お母さん』と、いろいろ
世話をしてくれたら、ぼくたちは、それに甘えて、仕事をしなくなってしまう
だろうね」と。
「早めにボケてしまうかもしれない」とも。

それが期待できないから、私はがんばる。
がんばるしかない。
つまりそれが生きるバネになっている。
だから少しきびしい言い方をすると、こうなる。

『人は追い詰められてはじめて、生きるパワーを発揮する』と。
英語の格言にも、『空の飛び方は、崖から突き落とされてから学べ』というのがある。
ぬるま湯につかっていたら、人生はそこまで。

だから、みなさん!

みなさんの息子や娘が、できの悪い息子や娘であったら、それを喜ぼうではないか。
感謝しようではないか。
そういう息子や娘をもったおかげで、私たちは、がんばることができる。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●3月22日(日曜日)(North Korean's Missile)
We will not let ourselves shoot down the North Korean's Missile, which they want us to do 
so. It is a kind of trap. Or a war will break out between two countries, which we do not want.

++++++++++++++++

朝から雨の、冴(さ)えない日曜日。
気温も一転、冬に逆戻り。
寒い!

朝風呂に入って、食事をする。
ところで今は、たまねぎの収穫期。
このあたりは、生のたまねぎに、醤油や
かつお節をかけて食べる。
それがおいしい。
昨夜から立てつづけに、食べている。

+++++++++++++++++

●パソコンの修理

数か月前に購入した、MSIのミニ・パソコンの調子が、どうもよくない。
かたかな変換が、うまくできない。
たとえば、「たちつてと」と打とうとすると、
「tあtいtうtえtお」となってしまう。

先ほど、ディスクのエラー・チェックをすましたところ。
ほかにもいろいろしてみた。

「T」のキーが、不良なのかもしれない。
あまりこんな状態がつづくようなら、一度、ショップへ
もっていくつもり。
今しばらく、様子をみることにしよう。

●K国のミサイルを迎撃してはいけない!

もしK国のミサイルを迎撃したら、それこそ、彼らの思うツボ。
彼らはそれを利用して、国内を引き締める。
が、それだけではすまない。
彼らに、日本攻撃の口実を与えてしまう。
つまり日本とK国は、戦争状態に突入する。

もちろん「力」の差は歴然としている。
勝つか、負けるかという話ではない。
日本は、あんな国を相手にしてはいけないということ。
戦争など、してはいけないということ。
仮に東京に、一発でもミサイルが撃ちこまれたら、
それがただのカラのミサイルであっても、日本の経済は、
その時点から、マヒする。

日本の経済構造というより、日本の国家構造は、それほどまでに
ぜい弱。
たとえて言うなら、無菌状態。
美しいドレスを着た女性が、インクの瓶を投げつけられたような
ばあいを考えてみればよい。
日本中が、パニック状態になってしまう。
今の日本には、そうしたパニックをはね返すだけの耐性はない。

一方、K国は、それを口実に、何をしてくるかわからない。
報復にと、種子島の宇宙開発センターに、ミサイルを打ち込んでくる
可能性も高くなる。
彼らは、核兵器はもちろん、生物兵器、化学兵器ももっている。
が、それ以上に警戒しなければならないのは、
彼らの思考回路が、私たちの思考回路とはちがうということ。
私たちが考える論理が、そのまま通ずる相手ではない。

またAS首相は、こうした危機をうまく利用して、再々度、権力の維持を
図ろうとしている。
愛読書が、『ゴルゴ13』であることを、忘れてはいけない。
まともな思考能力がないことは、数々の失言で、すでに実証済み。
おまけに支持率は10%そこそこ。
そんなK国と、AS首相がまともにぶつかったら、この日本は、
どうなる?
今、日本は、戦後最大の危機を迎えつつある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
K国のミサイル 北朝鮮ミサイル 迎撃 反対 報復 過剰反応 戦争)
09年3月22日記―ミサイルの発射は、4月4日と予想されている。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司※

●外国人労働者(Foreign Workers in Japan)

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日本には不法就労者も含めて、約90万人の
外国労働者がいると推計されている(「朝日キーワード」)。
経済協力開発機構(OECD)によると、
「人口減の進む日本の現状の労働力人口を維持するために
は、年間50万人の外国人労働者の受け入れが必要」
(同)という。

そこで「外国人労働者」について、基礎的な部分から、
学習しなおしてみたい。

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●「朝日キーワード」(2009年→10)より

(1)本来政府は、「単純労働者には外国人の雇用を認めない」という方針を堅持してきた。
しかし実質的な単純労働者である、(1)研修、技能実習生や、(2)日系人へ依存度の
高まりが、「開国」論を後押ししている。

(2)しかし建前はどうであれ、1980年以降、国内の労働者不足を背景に、
いわゆる3K(汚い、危険、きつい)の仕事を中心に、(1)観光ビザや、(2)
学生ビザ、(3)研修ビザによる入国が目立つようになった。

(3)日本経団連の考え方……単純労働者については慎重だが、高度人材や留学生、
看護婦など一定の資格をもつ「中度人材」の活用を提言している。

(4)日本商工会議所の基本的な考え方……単純労働者を認める新たな制度が必要と
提言。それを受けて、自民党内では、(1)3年に限って単純労働者を受け入れ、
再入国は認めない制度の創設、(2)移民庁を新設して、1000万人程度の移民を
目指し、定住を認めるの、2つの提言がなされている。

(5)現実問題として、外国人労働者を抜きにして、製造業現場は成りたたない。
劣悪、低賃金の温床となっている、研修・技能実習制度を見直すことの必要性では、
各界の主張は一致している。

(6)しかし外国人労働者が増加すると、(1)社会的コストが増大する。(2)賃金
低下や失業者の増大につながる。(3)将来的には社会保障費の負担も増大するなどの
問題点もある。

(7)欧米諸国では、労働力の不足を補おうと、外国人労働者を積極的に受け入れた
時期もあるが、行動経済成長が終わると、一転、規制に転じている。しかし流入は
つづき、結果として不法滞在者がふえる結果となった。このため外国人労働者に頼る
よりは、(1)女性や、(2)高齢者の活用を優先すべきという意見が根強くある。

(8)移民に関する問題は、国民の合意が必要であるから、性急な結論は出せない。

以上が、「朝日キーワード」の要旨である。

++++++

用語の解説

++++++

外国人労働者の問題を考えるにあたって、専門用語の解説をしておきたい。

●外国人研修制度・技能実習制度

本来は、外国人労働者の技能の研修を目的としたものであった。
当初は大企業を中心に活用されたが、1990年以降は、中小企業へと
ワクが広げられた。
1年目は研修。
2〜3年目は、実習生として働く。
実習生については、低賃金で雇用できるため、中小企業を中心に、拡大したが、
その一方で、劣悪な労働環境、賃金の不払いなどの問題が増加した。
短銃労働者を受け入れる、合法的な手段として使われている(以上、同書、参考)。

●実数

2006年度に来日した研修生は、9万3000人
うち中国人が、6万2000人で、7割を占める。
ベトナム、インドネシアからの研修生が、これにつづく(同書)。

●インドネシアからの介護士の受け入れ

07年に調印された、日本・インドネシアの経済連携協定(EPA)により、
インドネシア人の介護福祉士、看護師の約200人が、08年8月に来日。
いずれも、インドネシアの介護士や看護師の有資格者。
東京、大阪など5か所の研修所で、半年間研修を受けたのち、全国の病院や
介護施設で、国家試験合格を目指す。
3年以内に合格すれば、無制限で日本で働くことができる。
不合格のばあいは、帰国が条件となっている。
介護士不足という現状の中で、歓迎するムードもあるが、教育の負担が大きく、
敬遠される傾向もある。

●日系人労働者

1989年に、入管法が改正された。
それによって、日本人移民の子、孫らが取得できる、勤労制限のない「定住者」の
資格が認められた。
定住者は、それまで認められなかった工場作業などへの就労が可能になった。

●日系人労働者の数

06年末、ブラジル国籍者の数……約31万人。
自動車工場が集積する、(1)群馬県太田市、大泉町、(2)静岡県浜松市、
(3)愛知県豊田市などでは、地域に欠かせない労働力となっている。

●不安定な職場

大半は派遣労働者である。
日本語も母国語も両方とも、じゅうぶん取得できない子どもの増加。
生活習慣をめぐる地域社会の人たちとの摩擦。
地方税や社会保険の未納などが、問題となっている。
(以上、「朝日キーワード」を要約)

++++++++++++++++++

●教育現場より

教育現場では、外国人労働者の子弟への評判は、残念ながら、たいへん悪い。
「教育」に対する基本的な認識のちがいがある。
外国人労働者は、ある日、突然、子どもを学校へ連れてくる。
「日本語を教えてやってほしい」というのが、その理由である。

しかしどんなに急いでも、各種手続きで、1週間ほどかかる。
また外国人労働者の子弟用のカリキュラムは用意されていない。
特別教室を組むなどの予算も用意されていない。

したがって、現状の教育システムの中で、普通学級に編入させるという方法で
対処している。
が、静岡県の菊川町などでは、約8〜10%の児童が、外国人労働者の
子弟である。
こうなると、「授業そのものが、成りたたなくなる」(K小学校校長談)。

が、「やめるのも早い」と。
ある日突然、生徒が消えることも珍しくない。
そこで担任があれこれ連絡を取ってみると、「新潟へ引っ越した」とか、など。

こうした無神経な入学、転向は、日本の教育的風土になじまない。
またそれによって受ける、教師の負担感、挫折感には、相当なものがある。

+++++++++++++++++

2年ほど前(2007)に書いた
原稿を、再掲載する。

+++++++++++++++++

●8〜10%が、外国人の子ども(Foreign Workers in Japan)

 先日、静岡県のK町にある小学校で、講演をさせてもらった。そこで聞いた話だが、その小学
校では、8〜10%の子どもが、外国人という。

The school master of the school, where I made a speech, told me that 8~10% of its school 
children are foreigners.

 現在、この日本には、80万人(04年、厚生労働省)の外国人がいるという。これ以外に、相
当数の、不法入国者がいると言われている。が、こうした労働者を、責めることはできない。

Now we have 800 thousand foreign workers in Japan according to the government 
statistics, and more we have so-called illegal immigrants.

 2020年には、日本の労働者は、12%前後、減少すると言われている(OECD)。日本の産
業構造そのものが、大きく変化する。つまり日本は、こうした外国からの労働者を必要とする。
またそういう前提で、外国労働者を考えなければならない。

By the year of 2020, we would have lost 12% workers and suffer from the lack of workers, 
which might cause a serious social problem. We need foreign workers and we have no choice 
but welcome them for us.

 が、問題がないわけではない。

But there are some problems.

 多くは「研修生」の名目で日本へやってくるが、実際には、さらに安い賃金で、働かされてい
る。検定試験に合格すれば、今度は「実習生」となるが、その段階で、会社をクビになるという
ケースもある。

In most cases the come to Japan as "trainees students" but as a matter of fact they are 
forced to work as a labor with less (in most cases, half) payment. After one year course of 
training, they meet a test and if the can pass it, they are admitted as a "Worker", but some 
of them are fired and forced to go back to their countries.

 彼らの間では、「日本人はずるい」と、言われている。ちなみに、「人身売買報告書」(アメリカ
国務省発行、07年度版)によれば、日本だけが先進国の中で、上から2番目の「Tiel2」になっ
ているそうだ(「日本の論点08」)。外国人に対する法整備や対策が、それだけ遅れているとい
うこと。

They say "Japanese are sneaky". According to the Tiel Standard, issued by USA 
government, Japan is ranked as a second. Japan is only one country among leading 
countries of the world because of the lack of legal services and etc.

 一方、学校教育という現場での対応も、後手後手に回っている。外国人専用の指導者を置
いている学校は、大規模校にかぎられている。そのほかは、特別なカリキュラムすら用意して
いない。

Also at schools there are few schools which prepares them with special teaching programs 
for those children. (Only some big schools with a big number of children have special 
trainers for those children.)

 講演をさせてもらったK町の小学校にしても、「何ら対策をとっていません」とのことだった。つ
まり日本語を話せない外国人を、そのまま普通学級に編入させている。外国人の子どもにして
も不幸なことだが、同時に、教育レベルの低下は、避けられない。

As to the school where I made a speech last time, there is no such a program for those 
children. Foreign childrens who have no knowledge of the Japanese language are also being 
taught as a normal children at usual classes. This may cause a kind of teaching troubles as 
well as to cause to lower the level of education.

 これから先、日本の少子高齢化は加速する。それが是か非かと、論じているヒマはない。私
たちは、外国人労働者を必要とする。また外国人労働者がいなければ、日本そのものの存在
が、おびやかされる。

We would have more and more aged people together with less and less young people in the 
near future. We need therefore more and more foreign workers soom and without them 
Japan would meet the crisis of collapse.

 2020年まで、あと12年。間に合うか、日本!

We have only 12 years before the year of 2020. Are we ready?

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【現状の把握】

浜松市における外国人労働者の現状については、把握していない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
外国人労働者 研修生 技能研修生 日系人労働者 はやし浩司 菊川町 教育現場)


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●イヤ〜ナ気分

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たった今、書店から帰ってきたところ。
イヤ〜ナ気分。
本当に、イヤ〜ナ気分。
経済雑誌コーナーに並ぶ雑誌の表題を見ただけで、
気が滅入った。

「証券業界、金融業界の危機」
「不動産大不況」
「淘汰されるホテル・旅館業」
「マンション業界、総崩れ」などなど。

つまり、みーんな、ダメということらしい。

こうなったら、ヤケクソ。
貯金をはたいてでも、遊びまくってやる!、と。

まあ威勢はいいが、すぐ声はしぼんでしまう。
そんなとき、行きつけの弁当屋で新聞を見ると、
「10兆超の追加経済対策として財政出動」(C新聞トップ)とあった。

「10兆円を超える、お金をバラまく」という意味。
わかりやすく言えば、10兆円分、インフレが
進むということ。
この先、日銀の印刷機だけが、フル回転で回り始める。
世界中が、我も我もと、印刷機を回し始めた。
日本も、負けじと印刷機を回し始めた。

気がついてみたら、お金の価値が半分になっている。
この数年で、そうなる可能性は高い。

「うちはタンス預金だから、だいじょうぶ」などと
言っている人も、結局は、半分は、政府に
吸い取られることになる。

お金があっても地獄。
なければ、さらに地獄。
別の雑誌には、こうあった。
「これから景気は、二番底に向かう」
「アメリカの不況は、20年つづく」と。

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●自転車店業界

私の実家は、自転車屋だった。
だからどうしても、自転車屋に、ひいきしたくなる。
がんばってほしいと思う。
しかし、今、どこも元気がない。
人影もなく、暗く沈んでいる。
こういう時代だから、自転車がもっと売れてよいはず。
健康にも、よい。
しかし実際に売れているのは、大型店のみ。
大量生産の安い自転車のみ。
個人の自転車屋は、どこも、青息吐息。
この浜松でも、店じまいするところが、ふえてきた。

今になって、大型店を規制する県も出てきた(G県G市ほか)。
しかし遅すぎた。
今度の大不況を乗り切れる自転車店は、いったい、どれだけあるというのか。
仮に生き残ったとしても、あとは鉄がさびるように、少しずつ衰退していくだけ。

私の父は、客が来ても、その客を平気で待たせて、別の客と将棋をさしていた。
当時は「盆暮れ払い(8月と12月にツケを払う)」が、常識だった。
そんな牧歌的な温もりが、今は、消えた。
それでよいのか?
それでよかったのか?

多くの個人商店が姿を消した今、最期の砦(とりで)が、自転車屋だった。
その自転車屋まで、今、最後のともし火を消そうしている。
切なくも、言いようのないさみしさ。
このさみしさは、いったい、どこから来るのか。
祖父や父ががんばって守ってきたものは、何だったのか。
今、そんなことを改めて考える。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
不況下の自転車店業界 自転車屋 街の自転車屋 自転車屋不況 消える自転車店)

(追記)
死んで残るもの、死んで残らないもの。
私の実家は、祖父、父、兄と、三代つづいた自転車屋だが、残ったものは何か。
今、そんなことを考えている。
もともと小売業だから、祖父や父が、創造的に作り上げたというものは、何もない。
四輪自転車を開発したとか、新型の高速自転車を開発したとか、そういうことで
あれば、話は別。
またそういうものであれば、残る。
が、何もない。
その点が、こうした小売業の悲しいところ。
ただひたすら問屋から商品を卸してもらい、それを店先に並べる。
店にやってきた客に、それを売る。
この繰り返し。

が、何もないわけではない。
実は、もっと大切なものを、祖父や父は、残した。
それが「街の文化」ということになる。
私が子どものころ感じた、あの祭りの(楽しさ)と言い換えてもよい。
町内の旅行会で感じた、あの(温もり)と言い換えてもよい。
町内で、組ごとに道路に店を出した。
盆踊りをした。
あの(にぎわい)こそが、町の文化ということになる。

みながそれぞれの人たちと、有機的につながっていて、たがいに
助けあったり、慰めあったりしていた。
祖父や父は、それを残した。

残念ながら、兄を最後に、私の実家の自転車屋はつぶれた。
しかしその文化は、残っている。
もしその文化まで消してしまうようなことになったら、本当に、祖父や父の人生は、
ムダになってしまう。
何としても、それだけは、避けたい。
でないと、……つまり今、この世界を生きている人たちの人生まで、
ムダになることになる。

さあ、あなたも勇気を出して、自分にこう問いかけてみよう。
「私は、何のために生きているのか」と。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●心の盲点

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信仰の自由とはいうが、その信仰にも
いろいろある。
特定の宗教団体を攻撃するためではないので、
数値などは、おおまかなものにとどめる。

つまり精神病の患者を調べてみたら、
M教というカルト教団に属する信者の罹患率が、
そうでない人たちの、3〜4倍前後もあったという※。

またあるアメリカの研究者が、内々に調査した
ところ、M教というカルト教団の信者のうち、
16%が「入院が妥当」な状態である。
さらにそのうちの44%が精神病であり、
50%が慢性的な精神病と診断されたという※。

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これについては、2つのケースが考え方ができる。
もともと精神に何らかの問題がある人たちが、より多く、その教団に入信したという
ケース。
もうひとつは、その教団で信仰するうちに、より多くの信者が、精神を病むようになった
というケース。
そのレポートは、その両方の可能性があると、レポートを結んでいる。

ただE教では、身内にそうした患者が出るのを隠そうとする傾向が強いので、
実際には、患者はもっと多いはず、とも。
E教というのは、日本でも多数の信者をかかえ、いろいろな問題を引き起こしている。
が、身内で、たとえば夫や妻が、そうした宗教に走ることによる悲劇には、想像を
絶するものがある。
最悪のばあいは、離婚もしくは、どちらか一方の自殺ということにもなりかねない。
あるいは家庭内の争いが原因で、どちらか一方が、重篤な病気になるというケースも
ある。
私の知っている人(夫)に、妻がE教の熱心な信者になったあと、まもなく、
くも膜下出血で急逝した人がいる。
その話を聞いたとき、その向こうに、壮絶な家庭内宗教戦争を想像した。
けっして、軽く考えてはいけない。
「宗教戦争」であるだけに、たがいに「命」までかける。

で、これは私の意見だが、こうした宗教に走る人というのは、特殊な人たちではない。
ごくふつうの、どこにでもいるような、そしてしっかりとした常識をもっていそうな
人たちが、ある日突然、入信したりする。
そして一度、入信してしまうと、視野が極端に狭くなる。
(これに対して、入信した人本人は、たいてい「世界が広くなった」と言う。)

私はいろいろあって、そういう信者たちを何百例も見てきた。
けっして大げさなことを書いているのではない。
私は過去に、その種の本を、何冊も書いてきた。
で、その結果だが、私は脳みその中に、人間にはもともとそういう欠陥というか、
ポケットのようなものがあるのではないかと考えるようになった。
脳のほかの部分とは隔離された、別の小部屋か、思考回路のようなもの。
ある日突然、そのポケットの中に、スポンと入ってしまう。

くだらない例としては、血液型による性格判断がある。
最近では、スピリチュアルブームというのがある。
占いや、まじないを信じている人となると、何百万人もいる。

こうした(信仰)が基礎となって、それがその先で、カルトと結びついていく。
きっかけは、いろいろある。
たいていは何らかの不幸が、きっかけとなることが多い。
ここで「家庭内宗教戦争」という言葉を使ったが、どちらか一方が宗教に走ったから、
家庭が崩壊したというよりは、もともと崩壊状態だったとも考えられる。
そういう家庭を立て直そうと、どちらか一方が必死になった結果、宗教に走るという
ケースもある。

が、一度入信してしまうと、あとは人間ロボットとして、その教団の言いなりとなって
働く。

そこで最初のレポートに話を戻す。

オーストラリアという国を考えるなら、キリスト教徒といっても、カトリック系もあれば、
プロテスタント系もある。
そういう中でも、M教だけの信者だけに、特異な(差)が見られたという。
その教団では自殺を禁止しているにもかかわらず、自殺者もそうでない人たちより多いと
いう。
さらに驚いてはいけないのは、その教団では、医師による治療を拒否しているため、
そのため年間約3000人の人たちが、死んでいるという。
もちろんその中には、子どもも多い。

では、どうするか?

私たちの脳みその中には、そういうポケットがあることを、前もって知っておく
ということ。
それを知っておくだけでも、予防にはなる。
そして自分が入りそうになったら、「これがポケット」と、自分で自分をコントロールする。

それにしても罹患率が3〜4倍というのは、見過ごせない。
この点から考えても、あのM教なる宗教団体には、じゅうぶん、注意した方がよい。

(注※:参考資料)(日本M協会の案内書より抜粋)
「……M教団の精神疾患罹患率に関する5つのオリジナルな既刊の研
究のうち、最も新しいのがスペンサー(1975)である。スペンサーは、
西オーストラリアの精神病院に入院した全患者7,546人について、1971年
1月から1973年12月までの36ヶ月間調査した。患者が自己申告した宗教の加
入状況のデータから、活発なM教団の50人が含まれているという数字
を得た。M教団の統計によれば、西オーストラリアには1974年
には約4,000人の信者が居住している。1974年の人口総計は1,068,500人
である。スペンサーはこれらの数値を用いて、一般の入院者数の比率と
M教団の入院者数の比率を比較した。全疾患について見ると、人口全
体に対して一年あたり1000人中2.54人の比率であるのに対し、M教団
1,000人中4.17人、つまりM教団が1.54倍高いという結果に
なった。妄想性分裂病のレベルは人口全体では0.38、M教団では
1.4であり、一般と比較すると3.68倍高いことが分かる。神経症は人口
全体に対する増加数が一番小さく、人口全体に対する比率は0.39であった
が、M教団に対する比率は0.76(1.95倍)であった。つまり、こ
れらの数値によれば、分裂病の発病率はM教団の場合、一般と比べ
てほぼ3倍、妄想型分裂病は約4倍高いと言える」(1975・スペンサー)。

(注※)
「……(M教団の信者のうち)、16%が「入院が妥当」な状態である。さらにそのうちの
44%が精神病であり、50%が慢性的な精神病と診断された」(1949・ペスカー)


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●仮面(ペルソナ)の下に

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世の中には、「いかにも私はよくできた人間でございます」というような、
様子をして見せる人がいる。
穏やかな表情、やわらかい物腰、控え目な態度、やさしいものの言い方……。
しかしそういう人は、たいてい仮面をかぶっていると思ってよい。
そういう人はそういう人で、年季が入っている。
簡単には見抜けない。
そういう人間に見せかけるために、10年単位の積み重ねをしている。
が、仮面は仮面。
しかしこれは本人自身の問題でもある。

脱ぎ方を忘れると、精神そのものが、バラバラになってしまう。
若いうちはともかくも、やがて歳を取り、気力が弱くなってくると、ボロが出る。
そういう人は、多い。

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子どもでも、(いい子)ほど、要注意。
集団の中では、おとなしく、目立たない。
幼稚園でも、先生の指示にはすなおで、だまってそれに従う。
自分から声をあげて騒ぐといったこともない。
まさに(いい子)といった様子をして見せる。
意図的にそうしているというよりは、そういう様子が定着してしまっている。

で、心理学には、「抑圧」という言葉がある。
子どもは、(おとなもそうだが)、心理的な抑圧状態がつづくと、心の中に別室をつくり、
そこへ不満や怒り、悲しみや苦しみを閉じこめる。
閉じこめることによって、心のバランス(?)を保つ。

だから幼児期に(いい子)だった子どもほど、思春期前夜くらいから、別人のように、
暴れたり、暴言を吐いたりするようになる。
「こんなオレにしたのは、テメエだろう!」「コノヤロー!」と。
おとなだと、20年前、30年前の話を、つい先日のできごとのようにして、
怒ったりする。
「あのとき、お前はア!」と。
その典型的な例が、家庭内暴力である。

思春期に激しい家庭内暴力を繰り返す子どもほど、幼児期には(いい子)だったという
ケースが多い。
ほとんどがそうであると、断言してよい。
だから子どもでも、表面的な様子だけを見て、判断してはいけない。
だいたい5歳や6歳の子どもに、(よくできた子)など、いるはずがない。
いたら、仮面をかぶっていると考えてよい。

おとなも、またしかり。

「いかにも私はよくできた人間でございます」として見せる人ほど、要注意。
しかし人格の完成度は、別の尺度で測る。
そういう姿を見て、「この人はすばらしい人」と思ってはいけない。
よい例が、どこかのカルト教団の信者たちである。
ああいう人たちもまた、「いかにも私はよくできた人間でございます」というような
様子をして見せる。

どこかへん?
どこかおかしい?
どこか不気味?

しかし心に別室を作ると、その程度では、すまない。
それが高ずると、二重人格性をもつようになる。
どちらの自分が本当の自分か、わからなくなってしまうこともある。
ふだんは、「別室の中の自分は、ニセモノ」と思う。
しかし別室の中の自分が優勢になってくると、「ふだんの自分は、ニセモノ」と思う。
これを繰り返しているうちに、人格がバラバラになってしまう。

「よくできた人」というのは、人格の完成度の高い人のことをいう。
が、人格を完成させるというようなことは、簡単にはできない。
研鑽に研鑽を重ね、日々にその努力をした人だけが、人格を完成させることができる。
しかしそういう人は少ない。
はっきり言えば、私も含めて、そこらのオジチャンやオバチャンが、仮面を
かぶったところで、それは化けの皮。
見る人が見たら、すぐわかる。

……ここまでこの原稿を読み聞かせたら、ワイフがこう言った。
「音楽でも美術でも、本物を知っている人は、ニセモノにだまされないわ。
それと同じじゃ、ないかしら?」と。

まったく、同感。
だったら、自分を飾ることはない。

やはり人間は、自然体で生きる。
ありのままをさらけ出して生きる。
よくても、悪くても、それが「私」ということになる。

ついでに言うなら、これはこわいことでもある。
(さらけ出して生きる)に足りる(自分)を、どこかで作りあげて
いかねばならない。
その努力を怠ると、それこそ、それだけの人間になってしまう。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●消息

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若いときは、前しか見なかった。
前しか見えなかった。
しかし最近は、その様子が大きく
変わってきた。
友人と話していても、いろいろな
人たちの消息が話題になる。
「あの人は、どうなった」
「この人は、どうなった」と。

が、それだけではない。
私たちには、「先」がない。
先がない分だけ、(消息)イコール、
(その人の人生の結末)ということになる。
その(結末)だけが、大きく、
浮かびあがってくる。

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●行方不明

ことの発端は、同窓会名簿の知らせだった。
「名簿を編集するにあたって、消息不明の人の情報を知らせてほしい」と。
見ると、そこには、数名の名前が連ねてあった。
私がよく知っていた女性の名前も、そこにあった。
一時は、この浜松市にも住んでいたこともある。
が、それも、30年以上も前の話。
今は、知らない。
10年ほど前、同窓生に会ったとき、その女性の名前も出たが、みな、
「今は、どうしているか知らない」と。
今、生きていれば、私と同じ年齢の、満61歳。
夫は、6歳年上と聞いていたから、満67歳。

しかし私が書けるのは、ここまで。
消息を調べようと思えば、できるが、それは相手の女性に対して、
失礼というもの。
世の中には、そっと生きていたいと願っている人も多い。
他人である私が、それを調べて、どうなる?
どうする?
またみなが、住所や連絡先を知ったところで、どうなる?
どうする?

逆の立場でそれを考えてみれば、わかる。

私は死んでも、だれにもそれを知らせたくない。
親戚にも、知らせたくない。
そのようにワイフや息子たちには伝えてある。
消息にしても、そうだ。

母の介護をしていたときも、そうだ。
ある人から電話があった。
母の様子を詳しく知っていた。
「どなたに聞きましたか?」とたずねると、
「Mさんから……」と。
Mさんは、毎日のように私のHPをのぞいては、みなに連絡していた。

こんなことを書くと、矛盾しているように思う人もいるかもしれない。
私は、自分の消息をたずねられるのが、いやだ。
だからHPやBLOGで、自分の現状を公開しながらも、いわゆる
(スパイ)のために、私のHPやBLOGをのぞかれるのが、
不愉快でならない。

中には、そういう人がいる。
用もないのに、私のHPやBLOGをのぞいては、私の内情をさぐろうとする。
さぐっては、それを、たがいに話題にしあっている。

私のHPやBLOGは、私の書いたことを必要とする人たちのためのもの。
もし、今、あなたがスパイ目的で、私のHPやBLOGをのぞいているとするなら、
そういうハレンチなことは、即刻、やめてほしい。

つまりそういう気持ちがあるから、私は、他人の人生はのぞきたくない。
関心はあるが、しかしそこまで。

●死者に時間はない

それでも何かの話題の中で、その人の消息を耳にすることはある。
メルボルン大学にいたころ、領事のI氏には、たいへん世話になった。
で、たまたま外務省の役人にそのことを話すと、あとでこう教えてくれた。
「あの方は、在フィリッピンの日本大使館の大使を最後に、19xx年に、
亡くなっています」と。

あるいは最近も、学研で世話になった、NN氏に電話で連絡を取ると、
「FKさんは、2年前に亡くなりました」と。

年数という数字の上では、「10年」「20年」ということになる。
しかしその実感が、ほとんど、ない。
死んだ人にとっては、10年も20年も同じ。
1年でも30年でも同じ。
時間が、そこで止まってしまう。
それを聞く私たちにしても、そうだ。
10年も20年も同じ。
1年でも30年でも同じ。

同じように、私が死んだときもそうだ。
だれかが私の死を、5年後に知ったところで、また10年後に知ったところで、
同じ。
死んだ人には、時間はない。
死んだ人は、死んだ人。

だったら、あえて知らせなくても、相手が知ったときが、私が死んだときと
考えてくれればよい。

●人生の結論

ともあれ、繰り返しになるが、(先)がないという点で、(消息)イコール、
(人生の結末)ということになる。
映画にたとえるなら、ラストシーン。
観客も疲れてきたころの、ラストシーン。
「まだつづきがあります」と言ったところで、みなが席を立ち始める。
60代という年齢は、そういう年齢である。

経済的に成功した人。
失敗した人。
家族に恵まれた人。
恵まれなかった人。
世界へ出て行った人。
ずっと地元に残った人、などなど。
その中には、もちろん消息不明の人たちもいる。

ただ誤解してはいけないのは、消息不明だから、敗残者というわけではない。
実は、私も30代のはじめまで、同窓生の間では、「消息不明」となっていた。
それもそのはず。
私の住所の番号がちがっていた。
(住所も、「入野町」ではなく、「八野町」になっていた。)
私の住所の番号は、5桁。
このあたりでは、いまだに昔の農地番号を使っている。
地番が、届け順になっている。
だから番号からは、場所がわからない。
その番号が、名簿上では、4桁になっていた。

が、同窓生イコール、みな仲間というわけではない。
とくに進学校のような学校ではそうだ。
私はやがて、中に、「あの林は、行方不明だ」と、半ば喜んでいた人たちがいたのを
知り、がく然としたことがある。

そういうこともあって、それぞれの人には、それぞれの事情があると思うようになった。
同時に、行方不明だからといって、その人を詮索するのは、正しくない。
そう思うようになった。

冒頭に書いた女性にしてもそうだ。
消息を知ったからといって、連絡を取るつもりはない。
これから先、旧交を温めるつもりもない。
どちらが先に死ぬかは知らないが、静かにたがいの最期を迎えるだけ。

しかし、だ。
みなさん!
私の人生は、これから!
ハハハ。
まだまだ結末を迎えたわけではない。
ジジ臭い話は、ここまで。
私の人生の結論は、まだ出たわけではない。
これから先、もうひと暴れする。
消息をたずねてくれる人がいたら、そのあとでよい。

だから、もう一度。
ハハハ。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●3月24日(火曜日)

●WBC

今日、WBC戦で、日本が韓国に勝ち、優勝した。

よかった!
うれしかった!
涙が出てきた!

10回の表。
ランナーを2人置いて、バッターボックスにイチロー。
ツーストライクと追い込まれたあと、イチローが、ピッチャーの右を抜けるヒット。
痛快なヒット。
日本が、2点勝ち越して、優勝!

私はプロ野球はあまり見ないが、生涯に置いて、
2度、感動して、涙を出した。
イチローが、マリナーズで、ヒット最多数を記録したとき。
そして、今回!

よかった!
うれしかった!
涙が出てきた!

今回、日本チームは、「侍・ジャパン」と名づけられた。
「侍」というのは、もちろんイチローをさす。
「原・ジャパン」でもなく、「長島・ジャパン」でもなく、「侍・ジャパン」。

そのイチローは、今回のWBCで、不調に苦しんだ。
それがよくわかった。
しかし最初から最後まで、イチローあっての、「侍・ジャパン」。
あのバットの構えは、まさに侍を連想させる。

が、「イチロー・ジャパン」では、原監督に、失礼。
だから「侍・ジャパン」になった(?)。

が、イチローに対する風当たりは、強かった。
元阪神監督の、NM氏は、「イチローをはずせ」「イチローがチームの
重荷になっている」などというようなことを言っていた(ネット・ニュース)。
さらに「イチローはマリナーズの中では、嫌われ者」「口をきいてくれる人も
いない」とまで!

私は昔から、あのNM氏の発言には、いつも嫌悪感を覚える。
ついでにMN氏の妻には、さらに強い嫌悪感を覚える。
が、今回、NM氏の暴言には、(まさに暴言と断言してもよいが)、あきれた。

勝っても負けても、イチローあっての、「侍・ジャパン」。
だれしもイチローを見たかった。
イチローの活躍を見たかった。
不調でも、何でもよい。
イチローを見たかった。
そのイチローが不調で、日本が負けたとしても、だれも文句は言わない。

が、その不調を、最後の最後で、イチローは、みごとに吹き飛ばしてくれた。
日本を優勝に導いてくれた。
しかも相手は、敵意丸出しの韓国。
いくら反日国家とはいえ、あそこまで露骨に敵意をむき出しにされると、
見ているほうも、不愉快。
もし日本が負けていたら、「勝った」「勝った」と騒ぐ以上に、「日本をやっつけた!」と、
国をあげて狂喜したにちがいない。

しかし日本が、勝った。
インチキなし。
掛け値なし。
正真正銘の実力。
イチローには、心から感謝したい。

よかった!
うれしかった!
涙が出てきた!

そんなわけで、今日一日、本当に気分がよかった。
元気がわいてきた。

ありがとう!

しかし一言。
「侍」という言葉は、あまり好きではない。
何かもっと、別のネーミングななかったのか。
野球を通して、封建時代の昔に、引きずりこまれるような錯覚を覚える。
どうして今、この時代に、「侍」なのか?
けっして、あの時代を美化してはいけない。
50年後のWBCで、「官僚・ジャパン」と言うのと、同じ!
(ちょっと言いすぎかな?)

……それにしても、球史に残る名勝負だった。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●「あなたを訴えます」

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先週、「あなたを訴えます」というメールが届いた。
読むと、「マルチ商法は、詐欺商法ではない。
マルチ商法を詐欺商法と決めてかかる
あなたの原稿は、営業妨害である。よって、訴えます」と。

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そこで調べてみると、ウィキペディア百科事典には、こうあった。
「……マルチ商法は、違法ではないが、政府の監視対象になっている」と。
「一般世間では、マルチ商法とネズミ講商法と混同している人が多い」とも。

私もその1人。
(マルチ商法)イコール、(ネズミ講商法)と思っていた。
マルチ商法そのものは、違法ではない。
誤解していた。
それは認める。
が、ウィキペディア百科事典によるまでもなく、その(差)は、紙一重。
マルチ商法でも、会員が、さらにその下に会員を呼び込むことによって、
利益をあげる。

で、その私を訴える?
「どうぞご勝手に!」と思ったが、返事は書かなかった。
私が書いたことが、刑事訴訟法が定めるところの構成要件に該当するならともかくも、
私は……、

(1)個々の企業を特定したわけではない。
(2)個々の企業に、具体的に損害を与えたわけではない。
(3)マルチ商法は、違法ではないが、監視対象になっているのは、事実。
私は「違法」とは、どこにも書いてない。
(4)どこの企業であるにせよ、自ら、「うちの商法は、マルチ商法です」と、自ら公表
   している企業は、ない。
(4)原稿の中で、「健康食品」という言葉を使ったが、どういう健康食品か、それを特定したわ
けではない。
(5)そうした商法で、法外な利益を取られ、被害者が出ているのは、事実。
その原稿は、先日、経営者らが逮捕された、「円T」事件にからんで、
書いたもの。
「円T」事件では、経営者らが、健康食品を使って、詐欺商法を繰り返していた。

が、私の原稿を読んだその人物は、かなり頭に来たらしい。
が、もしそうなら、その人物は、自分のしていることを、マルチ商法と、
自認したことになる。
それともどこかで火がつくのを、恐れている?
どうであるにせよ、こんなことで「訴えます」とは?

で、今のところ、訴状は届いていない。
弁護士に相談したところで、取り合ってもらえるはずがない。
こう見えても、私は一応、法科出身。
そのあたりの心得は、じゅうぶん、もっている。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司※

●権力の魔力(Power of Devil)

+++++++++++++++++++++

M党のOZ氏が、「続投する」と言っている。
いわく、
「自身が収賄罪など犯罪に手を染めたという事実はないと申し上げてきた。主張してきた
ことが事実であると明らかになった」(Nikkei)と。

本当かな?

一方、側近中の側近であった、第一秘書は、そのまま起訴。
それについて、T次席検事は、「ダミー団体の名義を利用する巧妙な方法で、国会議員の政
治団体が建設業者から多額の寄付を受けてきた事実を国民の目から覆い隠した重大、悪質
な事案」と説明。

わかりやすく言えば、OZ氏は、「私は関係ない」と。
が、こんな言葉でだまされるほど、国民は、バカではない。
第一秘書のした「巧妙な行為」(T次席検事)を指示したのは、だれか?
そんなことは、その(マネー)が、最終的にすべて、どこへ向かったかをみれば
わかるはず。
N建設からだけでも、何しろ3億円近い献金である。
そんな献金の流れを、「知らなかった」では、すまされない。
つまりOZ氏のイメージは、それほどまでに、悪い。
悪いにもかかわらず、「続投する」と。

これではますます、M党イコール、OZ氏というイメージが定着してしまう。
同時に、今、あのOZ氏に、さわやかな清潔さを感ずる人がいるだろうか。
当の本人は、街頭に出て、笑顔を作りながら握手戦術を繰り返している。
「涙までこぼして、無実を訴えている」(C新聞)という。
言いかえると、それほどまでに(権力の座)は、おいしいものなのか?

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●権力

昔、何かの講義の場で、ある教授がこう言った。
「金がほしかったら、弁護士になれ。勉強したかったら、裁判官になれ。権力が
ほしかったら、検事になれ」と。

この3職をまとめて、「法曹(ほうそう)」という。

検事がどのように権力を行使しているかは知らないが、しかし検事ともなると、
電話一本で、警察を自由に動かすことができる。
暴力団の親分でも、検事の前では、借りてきた猫の子のようにおとなしい。
が、政治の世界ともなると、こうした「力」が、何十倍、何百倍も強くなる。
今回、AS首相は外遊を繰り返しているが、一回の外遊で、5〜7億円の費用が
かかるという。
もちろん飛行機は、政府専用機。

そういう世界にいる人から見れば、N建設からの献金、3億円など、まさにハシタ金。
OZ氏自身も、実はそう思っているのではないか?
「どうして、それっぽっちで?」と。
あるいは「みんなやってるじゃ、ないか?」と。

●物欲

話はそれるが、物欲を満たしたからといって、それで精神が高揚するということは
ありえない。
大脳生理学上で考えても、ありえない。
たとえば今、あなたが欲しいものをどんどんと手に入れたとする。
しかしそのことと、精神の高揚とは、まったく関係ない。
「私はすばらしい人間になった」と思ったとしても、それは錯覚。

物欲というのは、あくまでも脳の中のホルモンの作用によるもの。
ドーパミンが線条体を刺激して、条件反射が起きる。
物欲が起きる。
が、それを満たしたところで、いい気分にはなるかもしれないが、大脳の精神活動に
影響を与えるなどということは、大脳生理学で考えても、ありえない。

ひとつの例として、超高級な衣服を着た、女性を見ればよい。
超高級車に乗っている、男性を見ればよい。
さらに、古今東西の独裁者たちを見ればよい。
すべての物欲を満たしたはずなのに、ロクなのが、いない。

権力、またしかり。

●誤解と錯覚

もうおわかりのことと思う。
権力者イコール、人格者ではない。
ないが、みな、権力者イコール、人格者と誤解してしまう。
錯覚してしまう。
金持ちイコール、成功者と誤解するのに似ている。
一般世間の人たちだけではない。
当の本人ですら、誤解してしまう。
錯覚してしまう。

ふつうなら自分の側近中の側近が、逮捕、起訴されたら、それに恥じて、
……というより、その側近の罪をかぶってでも、身を引く。
「部下に責任をかぶせるのは、つらい。私がかぶります」と。
それを「私は知らなかった」「私は関係ない」と、別のところでは笑顔を
ふりまく。
このおかしさ。
この異常さ。
権力の魔力にとりつかれると、そういう常識まで失ってしまう。
OZ氏がどうのこうのというよりは、その向こうにある権力の魔力に、改めて、
驚く。

「AS首相よ、OZ氏よ、そうまでしても、権力の座にしがみつきたいか!」

しかし考えようによっては、かわいそうな人たちである。
あれほどまでの人たちに囲まれながら、心の中は、カラッポ。
まわりの人たちの心も、カラッポ。
そこにあるのは、孤独だけ。
みながチヤホヤするのは、そのオコボレがほしいから。
チヤホヤする人たちにしても、その程度の人。
だからそこにあるのは、孤独だけ。

誤解と錯覚の世界だけに住んでいると、そういう人の心までわからなくなる(?)。

まあ、あえて言うなら、OZ氏よ、引退しなさい。
M党の未来のために、引退しなさい。
あなたが続投すればするほど、結局は、J党のAS首相を勢いづかせるだけ。
人間の心の醜さを、世に残すだけ。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●映画『オーストラリア』(Ausutralia)

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昨夜、わざわざ隣町まで行って、
映画『オーストラリア』を見てきた。
浜松の映画館でも上映していたが、先週で打ち切り。
それで隣町まで。

で、星はもちろん5つの、★★★★★。
職業がら、子どもが救出されるシーンに、私は弱い。
涙、ポロポロ。
みなが再会して、さらに涙、ポロポロ。
このところ、何かにつけて、涙もろくなった。
(「肝」機能が衰退しているためかもしれない。東洋医学。)

オーストラリア英語といっても、州によってちがう。
『オーストラリア』の中で使われていた英語は、
北部オージィ?
NSW英語ともちがったし、メルボルン郊外の
カントリー英語ともちがった。
しかし久々に、生の(?)、オーストラリア英語を
耳にして、うれしかった。

ところでオーストラリアでは、
「牛や羊を、(追う)」ことを、droveという。
「drive」の過去形ということになるが、「drove」は、
現在形として使う。
そこで「牛や羊を追う人」を、「drover」という。
主人公の男の名前が、その「ドローバー」だった。

その英語を聞きながら、昔、その単語の意味を
一生懸命教えてくれた、友人のことを思い出していた。
……というより、友人の顔が浮かんできた。

ところどころに、オーストラリアのブッシュ・ソング
が流れ、気分は、最高!
それで星は、5つ。
オーストラリアに何かの思い出のある人には、
たまらない映画だと思う。

家に帰ってきたのが、夜中の11時半過ぎ。
そのまま床に入って、眠った。

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●Acid Milk

映画館から帰ってくるとき、大きく「Acid Milk, YY」と書いた車と
すれちがった。
それを見て、ワイフと2人で笑った。

英語で、「Acid Milk」というと、「覚せい剤」を意味する。
それについては、こんな思い出がある。

学生時代、メルボルン港に、サクラ丸という、日本商品の見本市船が入港した。
三井物産の支店長から、アルバイトの学生を、30人ほど集めてほしい
という依頼を受けた。
もちろん私も、アルバイトをさせてもらった。
そこでのこと。

あの「カルピス」の試飲コーナーもあった。
しかしみな、遠巻きにしてながめているだけで、だれも飲まない。
それもそのはず。
「ピス」は、そのまま「小便」を意味する。
だから「カルピス」は、「牛の小便」となる。
さらに「これは何だ?」と聞かれたとき、「乳酸飲料」を直訳すると、
やはり、「Acid Milk」となる。
オーストラリア人が、飲むわけがない!

これは余談。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

【年齢論】

●ニコール・キッドマン

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ニコール・キッドマンの美貌については、
今さら、語るまでもない。
しかし映画『オーストラリア』の中の
ニコール・キッドマンは、円熟した女性の美しさ
というか、これからの大女優への変身を
期待させるような美しさを、たたえていた。

女性が本当に美しくなるのは、やはり
30〜35歳前後ではないか。
ニコール・キッドマンもそれくらいの
年齢だと思うが、確かなことはわからない。
たいていの女優は、この年齢を境に、
スクリーンから消えていく。
若さと肉体だけを売り物にしている女優ほど、
そうだ。
が、この年齢をうまく通り過ぎた女優は、
そののち、大女優へと変身していく。
メリル・ストリープも、その1人。
ニコール・キッドマンは、その年齢を
うまく通り過ぎた。

つぎの作品も、かならず、見る。

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●35歳という年齢

男性のことは、よくわからない。
しかし女性は、35歳を過ぎると、急速に老けていく。
40歳になるころには、老人顔になる。
もう少しわかりやすく言うと、40歳を過ぎると、
その女性が老人になったとき、どんな顔になるか、
それが簡単に想像できるようになる。
30歳以前の女性では、それがわからない。
(何も老人顔になるのが、悪いと言うのではない。
どうか、誤解のないように!)

で、この時期、その女性が、いわゆるオバチャンに
なるかどうかが、決まる。
(もちろんオバチャンにならないほうが、よいに
決まっているが……。)

教養があるとかないとか、文化性があるとかないとか、
そういうことではない。
その方向づけがあるかどうかということ。
つまりこの時期からの方向づけが、その女性のそれからを
決める。
この時期に、本を読んだり、美術を鑑賞したり、
より広い世界を見たりする習慣があるかないかということ。
その習慣がしっかりしている人は、そののち、高い
知性と理性を光らせることができる。
そうでなければ、そうでない。
そのまま、あのオバチャンになっていく。

つまらない世間話にうつつを抜かし、家族のグチを
いつまでも話しつづける。
厚化粧ばかりを塗り重ねるが、頭の中は、カラッポ。
電車やバスの中でも、まわりの人にお構いなく、
ペチャクチャ・ペチャクチャ、ゲラゲラ、ギャーギャー、と。
物欲と食欲と性欲のかたまり。
そんなオバチャンになっていく。

で、あとはお決まりの老人コース。
つまり女性にとっては、(男性にとっても、そうかも
しれないが……)、35歳から40歳までが、人生の
大きな節目になっている。
言うなれば、それまでの年代は、その時期の基礎づくり
の年代ということになる。

●品性

ついでに、品性というのは、(落差)の問題。
自分がより高い品性をもって、それまでの自分が低かったことを知る。
が、その品性には、上限はない。
(現在の自分)に、けっして満足してはいけない。
満足したとたん、その日を境に、品性は、下落する。
それはちょうど健康論に似ている。

健康のための運動をやめたとたん、その人の健康は下落する。

が、(そこにいる人)には、それがわからない。
知性も理性も、そして品性も、より高い人からは、低い人がわかる。
しかし低い人からは、高い人がわからない。
わかりやすく言えば、賢い人からは、バカがわかる。
が、バカからは賢い人がわからない。
(ここでいう「バカ」とは、「バカなことをする人のこと」(「フォレスト・ガンプ」)
をいう。知的な意味で、バカというのではない。誤解のないように!)

先日もある女性と、電話で話していたときのこと。
このところどこか認知症気味(?)。
どうでもよい家族のグチを、何度も繰り返し話していた。
そこで私が、「ぼくは、そんなバカではないと思います」と言うと、
何を勘違いしたのか、突然金切り声で、こう叫んだ。
「私だって、バカではありません!」と。

そこで釈迦は。「精進(しょうじん)」という言葉を使って、
日々の弛(たゆ)まぬ研鑽(けんさん)の重要性を説いた。
その努力を怠ったとたん、その人は、そのまま元の
世界に逆戻りしてしまう。

……と書くと、「そんなたいへんなこと、できない!」と
思う人もいるかもしれない。
しかし実は、それは楽しいことでもある。
たとえて言うなら、心の旅。
未知の世界を、ひとりで旅をするような、そんな感じがする。
その旅に出るか出ないかは、あとは、勇気だけ。
一歩、踏み出してみれば、あとは、なんでもない。

『心を解き放て! 体はあとからついてくる!』(アメリカの格言)。

……と書くと、「じゃあ、林、あなたはどうなのだ!」と言われそうな
気がする。
「お前だって、偉そうなこと言えるクチではないだろ!」と。

そう、その通り。
が、海抜3000メートルの山から、4000メートルの山には登ることは
できないが、300メートルの山から、400メートルくらいの山なら、
登ることができる。
無理はしていないし、無理をする必要もない。

それに品性を磨くということは、だれのためでもない。
自分のためである。
たとえばそうでない人たちから、一歩抜き出ると、そういう人たちが、
低いところにいるのが、たしかにわかる(失礼!)。
しかしそのために品性を磨くのではない。
またそれがわかったところで、意味はない。
というのも、高低といっても、あくまでも相対的なもの。
自分より、より高い品性をもった人は、いくらでもいる。

つまり品性を磨くといっても、それは、あくまでも自分のため。
他人を見下すため、ではない。
またそういうふうに見下してはいけない。
人は人、私は私。

ただ、相手にしないというようなことは、ある。
相手にならないというようなことも、ある。
つきあいたくないというか、つきあっても、ムダというように、
考えることはある。

で、数日前には知らなかったことを、今日、知る。
数日前にはわからなかったことが、今日、わかる。
それは原野で、小さな宝石を見つけるのに似ている。
それがまた「心の旅」を楽しくさせる。

その人の品性は、あくまでも、その結果。
結果として、その人の身につく。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●新年度(2009年度)

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毎年、1月1日を、新年度としている
人は多い。
しかし私にとっては、4月1日が、
新年度。
毎年、4月1日を迎えると、緊張感が
ググーッとわいてくる。
今が、そうだ。

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●2009年度

前にも書いたが、私は55歳を過ぎるころから、60歳に向けて、
仕事を縮小することばかりを考えていた。
楽隠居とまではいかなくても、60歳を過ぎたら、仕事もほどほどに、
と考えていた。

が、その考え方は、まちがっていた。
その第一。
満60歳の誕生日を迎えた、その翌日のこと。
その日が、それまでの日々と、どこもちがわないことに驚いた。
(ちがうわけはないのだが……。)
満60歳の誕生日に向けて、自分の体が、どんどんと締めつけられて
いくように感じた。
「還暦だ」「退職だ」と。

いくら「私はちがう!」と叫んでも、そういう声は、弱い。
「あと1か月……」「あと10日……」「あと1日……」と。

で、その翌日、何も変わらなかった。
まったくいつもと同じように、その日が始まった。
だからうれしかった。

その第二。

今度は、満61歳の誕生日を迎えたときのこと。
ワイフと長男が、誕生日を祝ってくれた。
ささやかな3人だけのパーティだった。
そのとき、私は、はっきりと実感した。
「1年、得した!」と。

満60歳で私の人生が終わったとする。
(何も終わったわけではないが……。)
その満60歳から、それまでと同じように仕事ができた。
1年間、何も変わらず、仕事ができた。
だから「得した!」と。

友人のS君は、ちょうど満50歳のときにがんを患い、
それ以後、ずっと、闘病生活をつづけている。
そのS君も、同じようなことを言った。

「林君、人生は50年だよ。だからそれからの1年、1年は、
もうけものなんだよ」と。
そのときは、「そんなものかなあ」と思っていたが、満61歳の
誕生日のとき、S君の言った意味が、しみじみと理解できた。

これからは、1年、1年が、もうけもの、と。

●さて新年度!

もうけものの1年。
その1年を、どう使うか。
あとは、使い方の問題ということになる。
ぼんやりと過ごすのも、1年。
あと1年しかないと思って生きるのも、1年。

しかし1年たってみたとき、「得した!」と言えるようにするためには、
やはり緊張感をもって生きたほうがよい。
明日も、今日と同じ。
来週も、今週と同じ。
来月も、今月と同じ……。
そんな1年に、どんな意味があるというのか。
そんな1年を過ごして、そのあと、「得した!」と言えるのか。

……ということで、2009年度を迎えた。
今年度も、同じように、迎えることができた。
その2009年度にあたって、今、私は誓う。

2008年度よりも、暴れてやる!、と。

2009年、新しくBW教室へ入ってくるみなさんへ、

どうか期待していてください。
今までの経験すべてを、惜しみなく、みなさんのお子さんに注ぎます。
みなさんのお子さんを、すばらしい子どもに、します。
まあ、見ててください、はやし浩司の実力。
40年、ダラダラと生きてはこなかった。

お任せください。
約束します。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●実家への仕送り

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現在、東南アジアや南米からの労働者たちは、
収入の多くを、故郷の実家へ仕送りしているという。
学生時代からの友人であるM君が、そう言った。
しかし本当に、そうだろうか?
そういう話を聞くと、「すごいことだ」と、
みな思う。
しかし本当にそう思ってよいのだろうか。

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10年前、20年前なら、そうだったかもしれない。
しかし今は、時代が変わった。
世界も変わった。
そういうこともあって、私は「?」と思っている。
いったい、何パーセントの人が、平均、いくら
仕送りしているというのか?

それに南米からの労働者といっても、ほとんどが、家族連れ。
私が知る限り、単身で出稼ぎに来ている人は、ゼロ。
あの人たちの家族観には独特のものがあり、離れて暮らす
ということは、ありえない。
「家族あっての仕事」と考えている。

が、中には、故郷の両親に……という人もいるかも
しれない。
とくに中国系の労働者たちは、そうかもしれない。
結婚前の独身の労働者たちも、そうだ。
しかし、そういう人たちも、今では、意外と少ないのではないか?
故郷の実家に送金するというよりは、故郷の自分の銀行に
送金している?
私には、そう見える。

で、同時に、こう思う。
「そういう話を美化してはいけない」と。

仕送りをしたことがある人ならともかくも、
一度も仕送りをしたことがない人は、
こういう話を美化してはいけない。

実家への仕送りなど、美談でも何でもない。
若いときから、収入の約半分を、実家に
仕送りをつづけてきた私が、そう言うのだから、
まちがいない。

だれが送りたくて、送るかア!
金銭的負担というより、その社会的負担感には
相当なものがある。
重圧感と言ってもよい。

あなたが親なら、子どもに仕送りなど、させてはいけない。
あなたが子どもなら、親に仕送りなど、してはいけない。
そんなことをしても、無駄。
最初は感謝し、感謝されるが、それも時間の問題。
1年、2年とたつと、それが当たり前になる。
5年、10年とたつと、逆に、親のほうが子に、
請求するようになる。
子は親に、請求されるようになる。

こうした依存、被依存関係ができたら最後、
(仕送り)は、仕送りでなくなってしまう。
義務になってしまう。

私のばあいも、最初のころはともかくも、
やがてそれが当たり前になり、実家の母たちも、
私からの仕送りを前提にして、生活を考えるようになった。

しかも母には母のプライドがあったのだろう。
私が送ったお金で生活しながら、親類や近所の
人たちには、「先祖からの財産で生活している」と
言っていた。

が、それだけではない。

実家からさらに、母の実家へと、お金が流れるようになった。
母の実家を継いだ、母の弟氏(=伯父)には、定職がなかった。
こんなことを書くと、伯父は怒るかもしれないが、事実は事実。
母の直筆のメモも残っている。

また、それで親の子の絆が太くなるということは、まずない。
世の中には、親をだます子どもは多いが、子をだます親もいる。
マネーがからんでいるから、親子でも、人間関係は
ドロドロとしたものになる。

親は親で生きる。
子どもは子どもで生きる。
子どもを出稼ぎの道具として使うくらいなら、もとから子どもなど
生まないこと。

子どもに生活費を仕送りさせながら、「私はいい息子をもって、
幸せ」は、ない!
よい人間関係があれば、まだ救われる。
しかし親子関係だって、壊れるときには壊れる。
壊れても、そこで仕送りを止めるわけにはいかない。
あとに残るのは、その重圧感だけ。
その重圧感と、闘わねばならない。

一方、欧米では、親子でも、経済は他人と考える。
夫婦でも、他人と考える。
それがよいことなのか、悪いことなのか、わからない。
議論もあると思うが、こと「実家への仕送り」という話については、
私は聞いたことがない。
中にはあるかもしれないが、私は聞いたことがない。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●老後の統合性

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老後の統合性については、何度も
書いてきた。
(すべきこと)と、(していること)を
一致させる。
それを「統合性」という。
(したいこと)ではない。
(すべきこと)。
それをする。

が、「退職しました。これからゴビの砂漠へ
行って、ヤナギの木を植えてきます」と
いうわけにはいかない。
そんな取って付けたようなことをしても、
身につかない。
長つづきしない。
生きがいも生まれない。

その統合性の準備は、満40歳くらいから
始めるとよいという。
「40歳は、人生の正午」と言われている。
が、それでも遅いかもしれない。

統合性の下地を作るだけでも、10年とか
20年とか、かかる。
そうした地道な下地があってはじめて、統合性の
確立ができる。

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●愛他的自己愛者(偽善者)

それにしても愛他的自己愛者が多いのには驚かされる。
つまり偽善者。
自分をよく見せるために、ボランティア活動や、慈善事業をしたりする。
派手なパフォーマンスを繰り返す。
が、見抜くのは、簡単。
どこかへん?
どこか矛盾している?
そう感じたら、愛他的自己愛者と考えてよい。

たとえばもう25年近くも前になるだろうか。
田丸謙二先生の家に遊びに行ったら、1人の女性がたまたま、遊びに来ていた。
当時、50歳くらいではなかったか。
話を聞くと、東南アジアの難民キャンプで、難民たちの世話をしているという。
その女性といっしょに、私のワイフも含めて、みなで夕食を食べた。
そういう(本物の女性)に一度でも会うと、「私はアフリカで……」というような
人が、いかにインチキかわかる。
本物の絵を見たあと、夜店で売っているような絵を見るようなもの。

その女性のばあいも、日本にいたのは数日だけ。
たしかそのつぎの日には、カンボジアだったか、タイへ戻るということだった。
つまりそういう人には、一貫性がある。
すご味がある。
その人の人生を貫く、太い柱のようなものを感ずる。

言い忘れたが、その女性は、左手に大きな包帯を巻いていた。
何かの活動をしているときに、怪我したということだった。
(今、思い出したが、怪我したから、一時帰国したということだった。
ワイフにこの話をしたら、ワイフが、「お医者さんだったわね」と言った。
そう、医師だった。)

が、世の中には、一方でテレビのタレントをしながら、こうしたボランティア活動(?)
を売り物にしている人たちがいる。
そこに至るプロセスがあれば、まだ理解できる。
若いころからホームレスの世話をしてきたとか、孤児のめんどうをみてきたとか、など。
が、そうした人たちは、ある日突然、降ってわいたような話に乗って、難民救済運動
を始めたりする。
団体は団体で、そういう人たちを利用して、募金を集める。

しかし難民救済という活動がいかにたいへんなものであるかは、恐らく、それを実際に
したことがある人でないとわからないだろう。
私にもわからない。
しかし難民キャンプにいる人たちは、私たちが想像を絶するような生活をしている。
多くはやせこけ、重い皮膚病にかかり、体の一部はすでに腐り始めている……。
そういう人たちを素手で抱きあげ、体を湯で洗ってやる……。
きれいごとだけで、できるような活動ではない。
それが救済活動である。

さらに言えば、一方で数十万円もするような衣装で身を包みながら、
他方で、難民救済活動をしているだと?

テレビに出るたびに、2時間近くもかけて化粧をしながら、他方で、
難民救済活動をしているだと?

中には、写真撮影のためだけに、難民キャンプで子どもを抱いた人もいた。
その人は、写真撮影が終わるとすぐ、手や体を消毒していたという。
ある週刊誌にそれがすっぱ抜かれ、問題になったことがある。

もしふつうの人が、まともな神経で、そんなことを繰り返していたら、
それだけで精神がバラバラになってしまうはず。
つまり偽善をつづけるにも、それなりの体力と気力がいる。
好きでもない相手と、ともに生活するようなもの。
ストレスがたまって、気がへんになる。

で、身近でもこんなことがあった。
その女性は、ボランティア活動として、近所の独居老人の世話をしている
ということだった。
しかしその一方で、ある日、私の知人の家に怒鳴り込んできたという。
何でも知人の家にある高い木から落ちる枯れ葉で、樋(とい)が詰まって
しまうというのだ。

その知人は、こう言った。
「独居老人の世話をするという高邁な精神の持ち主が、他方で、枯れ葉程度の
ことで、大騒ぎする。
矛盾しているとは、思いませんか」と。

そう、矛盾している。
たしかに矛盾している。
そういう矛盾を感じたら、ここでいう愛他的自己愛者と考えてよい。
つまり自分を飾るために、また人からよい人と思われたいがために、
ボランティア活動をしているだけ。
ボランティア活動を利用しているだけ。

で、この話には、まだつづきがある。
この女性が、やがて実父の介護をするようになった。
が、表ではすばらしい娘を演じながら、その裏で、実父を虐待していた。
毎度、食事は、ご飯と味噌汁だけ。
昼間は、部屋に鍵をかけて閉じ込めていた。
が、親類の人が見舞いに来たりすると、みなの前で実父の背中をさすって
みせていた。
すばらしい娘を演じてみせていた。
代理ミュンヒハウゼン症候群というと、母親と子の関係を想像するかもしれないが、
何も、母親と子の関係だけではない。
場所も、病院内だけとは、かぎらない。
陰で親を虐待しながら、すばらしい娘を演じている女性となると、
それこそゴマンといる。

だからその知人は、こう言った。
「ああいうのを化けの皮をかぶった、タヌキというのです」と。

話を戻す。

愛他的自己愛者は、悪人より、タチが悪い。
悪人は、人をだまして、お金を奪う。
愛他的自己愛者は、善人ぶって、人の心を奪う。
弱い人を利用しながら、それを自分の名声や利益につなげていく。
何もアフリカまで行かなくても、本当にボランティア活動なるものがしたかったら、
まず身近なところから、始めてみたらよい。
街中で寝泊りするホームレスの人たちの世話でもよい。
孤児の世話を、親代わりになってしてみるのもよい。
そういう積み重ねをしたあと、アフリカへ行けばよい。
それができないというのなら、つまり、見せかけだけのボランティア活動なら、
すぐやめたらよい。

(補記)
世の中には、「やらないよりは、やったほうがいい」という意見もある。
「偽善であろうがなかろうが、やらないよりは、やったほうがいい」という意見もある。
が、偽善は偽善。
偽善が本物に変わることは、まず、ない。
偽善が本物になるためには、まずドス黒い心を、一度、真っ白にしなければならない。
だったら最初から真っ白な人のほうが、まだよい。
何もしないで、遠くからながめている人のほうが、まだよい。
できなければできないと、正直に言っている人のほうが、まだよい。
そういう人たちのほうが、より(善)に近いことになる。

この世で最大の罪は、弱者を利用して、それを食い物にすること。
偽善者が、そうだ。
そういう人たちがいるから、戦争が始まり、犠牲者が生まれる。
難民が生まれる。
言うなれば、偽善者たちが、その一方で、別の新たな犠牲者を生み出しているようなもの。
私たちは、見かけの(善)に、だまされてはいけない。

先に書いた、写真撮影のあと、手や体を消毒した人にしても、いまだに
看板だけは背負っているらしい。
が、そのあと、何らかの活動をしているという話は聞いたことがない。
「私財を投げ打って……」という話も、聞いたことがない。

私たちは、だまされただけなのか?
また、それで終わってよいのか?


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●ミサイルを迎撃してはいけない!(Urgent Warning)
(We should NOT intercept the North Korean's Missile!)

+++++++++++++++++

あんなK国など、相手にしては、いけない。
国力は山陰地方の小さな県ひとつにも及ばない。
小さな国である。
アジアのみならず、世界でも最貧国のひとつに
なっている。

そんな国と、日本は、心中するつもりなのか。
しかも相手は、すでにまともな論理が通ずる
国ではない。

今ここで、それがミサイルであるにせよ、
それを迎撃すれば、日本とK国は、
そのまま交戦状態に入る。

たとえば漁船で、核爆弾を東京湾へ持ち込まれたら、
そのあと、日本は、どうなる?

カラのミサイル一発でも、東京の中心部に
撃ち込まれたら、日本は、どうなる?

そのときから日本は、大混乱。
日本の経済は、マヒ状態になる。

人工衛星のはずは、ない。
世界中の人は、それを知っている。
しかし彼らは、異常な思い込みによって、
それを「人工衛星」と主張している。
つまりその(思い込み)を基に、
日本に戦争をしかけてくる。

少し前、アメリカの政府高官は、K国を
「Mad Dog(狂った犬)」と
評した。

だったら、なおさら、相手にしてはいけない。

ミサイルにはまだ、核弾頭は積んでいない。
だったら、彼らのやりたいようにさせ、
そのあと、国際世論を、反K国に誘導する。
彼らを、国際世論で、兵糧攻めにする。

あんなガラクタに近いミサイルのために、
数100億円〜もかけた、迎撃ミサイルを
撃って、どうする?

相手は、「相手にしてほしい」「相手にしてほしい」
と、駄々をこねている子どもと同じ(ライス)。

ここは、冷静になろう。
一度、迎撃したら、日本もあとへ引けなくなる。
ブッシュのイラク戦争を見れば、それがわかる。

だから、迎撃、反対!
あんな国は、本気で相手にしてはいけない。
また、その価値もない。

さあ、日本人よ、おとなになろう!

2009−3−27記


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【田丸謙二先生より】(09年3月27日)

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先日、田丸謙二先生の自宅を訪れたとき、
先生が、「録画」の話をしてくれた。
先生の姿や声が、映像として記録されたという。
そのときの原稿が、先生より、送られてきた。

++++++++++++++++

○インタビュアー:田丸先生、今日は土曜日で、先生おくつろぎのところ、わざわざ私ども化学
遺産委員会のためにお時間を割いていただきまして誠にありがとうございます。
 私ども化学遺産委員会、日本化学会、もちろん先生は会長を以前にしていただいておりまし
てよくご存じのところでございますが、化学遺産委員会というものを昨年3月に立ち上げまし
て、その以前には化学アーカイブズという形で3年ぐらい事業を続けたんですが、化学遺産委
員会というわかりやすい名前に変えまして、そこでいろいろな事業を行っているわけですが、そ
の中の一つに、化学における立派なご業績を残された先生方、あるいは企業で立派な仕事を
なさった方々、そういった方々の人となりを声と映像で残そうという事業を一つ行っております。

○田丸先生:先生は最初からご関係なんですか。

○インタビュアー:はい、一応やらされて。私、一応、今、化学遺産委員会委員長を引き受けて
おります植村でございます。
 それで、今日は、先生がご幼少のころからずっと今まで、どういうふうにして化学の道に入っ
てこられて、どのような人生を進んでこられたのか、歩んでこられたのか、それを先生にご自由
にお話ししていただけたらと思っております。
 まず、どういうところからでも結構なんですが、一応、先生の簡単な生い立ちというもの、先生
は、まさにここ鎌倉でお生まれになったんですか。

○田丸先生:この家で生まれました。

○インタビュアー:そうでございますか。それでずっとここで育たれて、大学は東京大学。そのと
きは先生、まだ東京帝国大学ですね。

○田丸先生:はい。

○インタビュアー:帝国大学の理学部化学科に行かれたとお聴きしておりますが、そのあたり
までのところで、何か先生、ちょっとお話していただけますとありがたいんですが。

○田丸先生:これを拝見していて、一言で言えば、私のホームページに全部書いてあることば
かりなんですけれども、私は、そこに「なぜ化学を選んだか」というのが書いてありますけれど
も、小学校のときは、ここの鎌倉師範の附属に行っていて、それを出て湘南中学校という、今
の湘南高校ですけれども、旧制の中学に入って、それで、そこでは化学が一番嫌いだったんで
すよ。成績も他の科目に比べて一番悪かったんです。

 私の成績のことをふだん言う人ではなかった父だったんですけれども、父が、やっぱり自分
が化学をやっていたせいか、「化学の何がわかんないの?」と聞かれて、返事に困ったことが
あるんです。要するに全くの暗記物だったんです、そのころですね。だから毎週、もう「これ暗
記したか」、「これ暗記したか」とばかり教えられて、要するにつまらなかったわけですね。た
だ、父が言った一言を覚えているのは、「大学に行くと、化学は今のと随分違うんだよ」というの
は、ちょっと頭の隅に残ってはあったんですね。

 とにかく大嫌いな化学だったのが、旧制高校に入りまして化学を学ぶと、もう全然違うんです
ね。それこそ、なるほど、なるほどという話が来て、今までのただ暗記すればいい化学とは全
然違って、「これはなかなか面白いな」と考えが変わったことがあります。

 ちょうど大学の入試試験に、僕の年まで分析実験の試験があったんです。未知試料をもらっ
て、これは何かという答えを2時間で分析レポートを書く。その練習まで特別にさせてもらって、
それで、なかなか面白いなと思って。今まで嫌いだったのが、その時点で切り替わりました。や
はり、なるほどというか、化学って考えてやるもんだなという因子がそこで入ってきたわけです。

 そのころは、戦争中でしたから、勤労動員に行ったりしてなかなか勉強しにくかったんですけ
れども、私が大学を卒業したのが昭和21年で、終戦の翌年ですね。その頃は東京の相当部分
が焼け野原でしたし、財閥は賠償に取られるんだとかいろいろの噂があり、もういい就職口な
んか全然なかったんです。ただ、戦争中に特別研究生と言って、助手並みの給料をもらいなが
ら研究をする、そういう理科の学生を育てるというシステムが終戦後も残っていたんですね。

○インタビュアー:聞いたことがございますね。

○田丸先生:それで、そのいわゆる特研生にしていただけたものですから大学に残れて、おか
げさまで人生がそこである程度決まったわけです。

○インタビュアー:今、先生が言われましたが、お父様が化学をやっておられて、高名な、後で
またお話ししていただくと思うんですが、非常に高名な、私が聴いたところによると、日本化学
会の会長先生がこの家から2人出ているというような、お父さんと息子さんでという、そういうこ
とをちょっと耳に挟んだことがありますけれども。

○田丸先生:そうですね。偉そうなことを言うのではなくて、医者の子どもが医者になりたがる
のと似たような、余り深い哲学はなくて継いだという面もなくはないと思うんです。

○インタビュアー:物すごくいい親孝行を先生はされたんですね。

○田丸先生:いやいや。
 それで、私が後で考えて、一番大事だったと思うのは、大学院に行きまして、鮫島先生のとこ
ろに研究テーマをもらいに行ったわけです。何をしたらいいでしょうかと。そうしたら鮫島先生が
一言、「触媒をおやりになったらどうですか」と言われたんです。そのころ、もっとずうずうしけれ
ば、触媒をどういうふうにすればいいんですかと聴いてもよかったかもしれないんですけれど
も、そのころは、先生は偉い人で、そういう一言をいただいて、「はい」と言って引き下がってき
たんです。

 ところが、鮫島研究室の中には、例えば助教授の赤松先生が炭素の電気伝導度、あれは後
で学士院賞になった有機半導体の研究、それから後でお茶大に移られた立花先生が煙霧質
といって煙のことをやっていらしたし、それから、中川鶴太郎さんという後に北大に行かれた人
は粘弾性というのをやっていたり、みんな違うことを勝手にやっているんですよね。だから、誰
に聴こうが、先輩が全然いないんです、触媒をおやりになったらと言われてもね。今、何が面
白いんでしょうとか、普通は同じ研究室にみんな先輩がいて相談に乗ってくれるんですけれど
も研究室の中には誰もいない。しかも、化学科自体が、水島先生みたいに分子構造とか、島
村先生の有機なんかがあるんですが、触媒をやっている人なんか一人もいないんです。

 しかも、もっと悪いのは、終戦直後ですから外国の文献が全然入ってこなかった。そうする
と、戦前の随分古い文献までしか文献がないんですね。それで、触媒をおやりになったらと言
われても、それからの4〜5カ月というのは、もう本当に苦しかったんです。何をしていいのか
自分で決めなければいけないわけですね。それで、古い本を見ていても、分かったことは書い
てあるんですけれど、研究というのはどういうものかというのは、大学院の入り立てですから全
然そういう下地がなくて、苦しい4〜5カ月に一生懸命考えて、何をしたらいいだろうと迷いに迷
って、1人で考えるものですから全然自信がないんです。

 でも、その迷いが後々まで、自分のやっていることが何か間違っていないだろうか、あるいは
もっといいいい考えがないだろうか。それで、どういうふうに考えたらいいんだろうかと、いつも
研究しながら、自分が自分に問いかけながら訓練されたという、そういう研究の基本を問わず
語りに教わったわけですね。僕は、非常にいい経験だったなと後では思います。

 それで、実際に迷って決めたのは、パラジウムを触媒とするアセチレンの水素添加で、アセ
チレンからエチレンへ行って、更にエタンへ行きますよね。そのときに、あのころはもう研究費
もないものですから、ただの真空ポンプで、真空にしてアセチレンと2倍の水素を入れてやった
んですけれども、そうすると、全圧をはかっていると、だんだん圧力が減るわけですね、水素化
されますから。そうすると、あるところで、何もしないのに急に反応が早く行くんですよ。「これは
何だろう?」とよく調べてみたら、アセチレンのある間はエチレンからエタンに行く反応が起こら
ないんです。アセチレンが全部エチレンになったら、今度はエチレンの水素添加が早く進み始
まるんですね。そういう2つの反応が1つの実験の中にぽんと入っているんですね。

 これは、後で分かったのはそのころ世界でも誰も知らなかったことだったんです。たまたまそ
ういうものにぶつかったものでした。そうしたら、パラジウム触媒の分散度や担体を変えたらど
うなるだろうか、それから、部分的に被毒をさせたらどちらがどうなるだろうかと、いろんな実験
がどんどん後に続くわけですね。
 それで、その結果が2〜3年後にアメリカで「Catalysis」というエメットがつくった本があって、
その中に3ページほど引用されていて、結構新しい面白いことだったわけで、それは全く運が
よかったわけですよね。

○インタビュアー:先生、そのお仕事は、やはり邦文の論文として。

○田丸先生:欧文誌に出しました。

○インタビュアー:日本化学会の欧文誌に。

○田丸先生:そうです。

○インタビュアー:それは、きちんとエメットなんかが見て、それを。

○田丸先生:そうですね。
それで学位をもらえたんです。たくさん印刷発表したものですから。そのころはまだ、本当の大
学院が発足していませんでしたけれども、いわゆる論文ドクターで、普通、論文ドクターは、大
学出て7〜8年してもらうものだったんですね。

○インタビュアー:そうですね、普通は時間がかかりますね。

○田丸先生:「鮫島先生が卒業年度を間違えたんじゃないの?」と言われたくらい、4年でもら
えたんですよ。それで、就職の話になるんですけれど、そのころはGHQがみんなコントロール
していましたから、アメリカと同じに、日本では各県に1つずつ大学をつくるんだよということに
なったのです。それまで、大学というのは数少なかったわけですね。いわゆる旧制大学だけで
したから。それからアメリカ式の教育システムになるという話になっていました。 丁度その頃
横浜国大から人を求めてきたからどうですかと言われたんです。 しかしそのころは横浜国大
と言っても、いわゆる横浜高等工業ですよね。研究なんか、全然そんな雰囲気のところではな
かったわけです。日本のいわゆる新制大学が全部がそうでしたけれども。その上、夜学もあっ
て、何か雑用ばかりさせられて、こんなことしてたんじゃいけないなという感じで、それで、アメリ
カのPrinceton大学に Sir Hugh Taylorという触媒では世界のリーダー的大物で、その弟子た
ちが各国にいる、触媒の分野では本当に泰斗というか、開拓者の一人がおられて。

○インタビュアー:Sir Taylor。

○田丸先生:はいSir Hugh Taylor。それで、その方に自分のことを書いて直接留学できません
かと手紙を書いたんですね。そうしたら、たまたまテイラー先生がお若いときにハーバーの研
究室を見に行ったら、私の父と会ったのを覚えていらしたんです。それで、ハーバーがアンモニ
ア合成に成功したのは、その下にLe Rossignolとか、田丸とか、すぐれた人がいたからだよとお
っしゃるんです。

つまり、あのころ人類は、人口は増えるけれども、窒素肥料が、チリ硝石を主にして取っていた
んですが、もうチリ硝石も枯渇するのが目に見えている、人類の将来は飢餓が訪れるともっぱ
ら前世紀の初めには言われていて、Ramsayとか、Ostwaldとか、Nernstとか、いわゆる後でノ
ーベル賞をもらった連中がみんな、一生懸命窒素固定のことをやっていたんですね。中には、
空気中で放電してNOxをつくったものをやろうとしていたのもいましたけれども、窒素と水素か
らアンモニアをつくるというのが、本当に行く反応なのか、窒素は不活性な気体ですから,平衡
定数がよくわからないで、みんな暗中模索でやっていたんですね。

 それで、Nernstという人が、高圧がいいに違いないというんで、高圧にして、平衡定数を計ろ
うとしたんですけれども、データが不正確で、ブンゼン学会で1907年に有名な討論があって、ネ
ルンストは、結論として窒素と水素からアンモニアをつくるなんていうのは工業的にも到底でき
ない反応であると言ったんですね。ハーバーは、実験が間違っているんだというので有名な議
論があったのです。ハーバーはアンモニアの合成と分解の両方から速度を求めただけでなく、
窒素と水素の混合気体を触媒を通す循環系を使って循環させ、それの途中でアンモニアを集
める工夫をしてやる。そうするとだんだんアンモニアがたまってくる。そういうアイデアでやった
ら、これで行くよという形になって、それで初めて、1909年に、オスミウムを触媒にして、180気
圧、820K でうまく行ったんですね。

 それで、BASFがそれに乗り出して、大変な苦労をしてスケイルアップし、いい触媒を見つけ
るのに成功したわけです。それはBoschという人が大変な努力をしてやって。ハーバーは1918
年にそれでノーベル賞をもらったんですけれども、ボッシュは、高圧の化学工業を初めて成功
させたというので、1931年ですか、ノーベル賞を貰っていますね。。

○インタビュアー:いわゆる我々がハーバー・ボッシュ法と大学で習うあれでございますね。

○田丸先生:そうなんですね。

○インタビュアー:そのときの技術というのは、今の化学工業の一番の礎だ、基礎だというとこ
ろで、いまだに、それがあったからということを聞きますけれども、そうなんですか。

○田丸先生:そうなんですね。 もう1人、Mittaschという人が、その反応に使ういい触媒がない
かといって非常にたくさんのものを探したんですね。その研究が、触媒の本性というか、それを
随分明らかにしたんですね。例えば、その際たまたまスウェーデンから出てきた鉄鉱石がいい
触媒だとわかって、それじゃといって、純粋の鉄を使うとだめなんですね。それで、なぜそうな
んだろうというので、純粋の鉄に微量なものを加えると活性がぐんと上がる。いろんなそういう
いわゆる助触媒作用というものとか、もちろん被毒現象なんか、そういう触媒の性格を非常に
明らかにした。ミッターシュ自身もノーベル賞をもらっていいくらい、本当に触媒の本姓を初め
て明らかにしたわけですね。

 テイラー先生はそういうのを見ていらっしゃったから、その田丸の息子なら雇ってもいいと思
われたらしくて、comfortable に生活できるからプリンストンへいらっしゃいと言われて。

○インタビュアー:それは先生、昭和何年ごろですか。

○田丸先生:1953年です。昭和28年ですね。

○インタビュアー:まだ、講和条約ができた後か。

○田丸先生:まだ珍しいころです。

○インタビュアー:そうですね。

○田丸先生:それで、ちょうどフルブライトがあったものですから、それで家内と行かせてもらっ
て。それで、日本じゃ、あのころ、生活費の中で食費が占める割合であるエンゲル係数という
のは大体60%、まだ食べるのがやっとの時代でした。そのころアメリカに行って、日本にまだな
かったスーパーマーケットで、かごに食べたいものをみんな、アイスクリームでも何でも入れら
れて、それが一番の感激でした。1けた以上違う生活レベルでしたから。

 それで、実験施設もいいし、テイラー先生がとってもよくしてくださったんです。そこで、問わず
語りに、研究というのは頭でするものだよというのを非常に深く教えていただきました。実際に
テイラー先生の弟子たちが、世界中、方々にいたんです。ですから、方々に行くと、おまえ、「プ
リンストンの田丸だね」と言って、とてもよくしていただいて。

 例えば、ソ連なんかではボレスコフという大物がいたんです。ノボシビルスクの触媒研究所の
所長で、アカデミシャンで、ソ連の中で何でもいろいろ決めていた。それが、「テイラーがあなた
のことをベストなスチューデントだと言ってたよ」といって、私がいろいろな国際会議の議長や会
長をやっていたときにも、例えば台湾を1国として数えるかどうかとかいろいろな問題があった
んですけれども、とてもボレスコフは協力的にやってくれました。そういう意味では、テーラー先
生のおかげで、随分助かったんです。

 テーラー先生のところでやった実験というのは、ゲルマニウムの水素化物のゲルマニウム上
での分解反応なんですけれども、それをやっているときに思いついたのは、触媒反応の反応
中の触媒の表面の現場、それがどうなっているかを直接調べたいというアイデアを生んだんで
す。それまでは、触媒というのはいつもブラックボックスの中に入っていて、ブラックボックスの
入り口と出口の情報を基にして、例えば反応速度論的な情報から、反応はこういうふうに行く
のではないかという推論だけやっていたんですね。

 ところが、僕はやっぱり、本当に大事なのは反応をしている最中に触媒表面の現場を見るこ
とである。何がどんな形でくっついているのか、それがどういうダイナミックな挙動をするか、ど
んな反応経路を経て反応が行っているのか、そういうものを、後でisotope jump method と言っ
たんですが、定常的に反応が進んでいる最中に、ある反応物を同位元素で印を持ったものに
ぽっと置き換えるんですね。その同位元素が吸着種の中に現れてきて、それからこっちへ行っ
て反応生成物に行くという、その反応経路もわかるように、なったわけです、

 それで、兎に角触媒反応が進んでいる状態で触媒表面を直接調べようということをテイラー
先生に言ったんです。まず触媒を普段よりうんと多くして、閉じた循環系でやりますと吸着種と
その量が分かるのです。そうしたら、先生はそのときに、直ぐにその意味を分かってくださり、
「You are very ambitious; You are very ambitious」とため息混じりに2度繰り返されました。ま
だ世界でそれまで誰もしたことがないのに、そんなことできるのかと先ず仰いました。じゃ、そ
の計画を持っていらっしゃいというので、翌日、触媒をこれだけ入れて、こうやって、こうする
と、このくらいできますよといって、「じゃ、やってごらん」というので、そこで始まったんです。

○インタビュアー:You are very ambitiousと言われたわけですね。

○田丸先生:はい。それで、パリで1960年に大きな触媒の国際会議があって、そこでテーラー
先生が、僕のアイデアを含めて招待講演をなさったんですけれども、触媒はこれまで反応機構
が暗中模索だったけれど、これからは新しい頁が開けるよ。こうやって反応の起こっている現
場を調べていくと本当のことがわかるんだよと。今までは、暗中模索で推論だけしていたわけ
ですね。速度論だけで。だけども、これから新しい触媒の研究面が生まれて、それを基にして、
あとは反応中間体の調べ方を開拓していけば、ちょうどそのころ、赤外分光も出てきて、それ
から電子分光も直ぐに出てきて、そういう新しいアプローチも出てきたころだったからよかった
んですけれども、いわゆるワーキングステイトの触媒の表面がどうなって、どういう反応経路を
経て反応が行くかというのを調べ始めて、いわゆる触媒の分野が本当のサイエンスになったん
ですね。今までだと推論だけだったのが。

○インタビュアー:今のことは、インサイトーの、インシトーとインサイトー、それの中で吸着がど
のようになっているかというようなことを見るというアイデアだったわけですね。

○田丸先生:そうなんですね。触媒のin-situ dynamic characterizationの始まり、つまり、触媒
の表面を反応中に直接調べるという。それで、そういう線に載ってEXAFSとかいろんな新しい
手法で調べるダイナミックなキャラクタリゼーションを色々の人が始めて、それがだんだん積み
重なって、一昨年、ベルリンのハーバー研究所の所長だったErtlがノーベル化学賞をもらいま
したけれども。

○インタビュアー:ドイツの人。

○田丸先生:はい。触媒の基礎としてPhotoemission electron microscope という面白い手法
で、反応中の触媒表面を反応中に調べたんですね。そういうこともあってノーベル賞をもらいま
したけれども、私が言い出してからの50年間というのが、そういう触媒のサイエンスが非常に
発展していった時代で。

○インタビュアー:要するに、先生が、そのノーベル賞につながった一番最初のところの提案者
というか、そういう感じでございますね。

○田丸先生:そう言うとちょっと言い過ぎかもしれないですが。
 それで、1956年にプリンストンから日本へ帰ってきて、触媒討論会で初めてそれの反応例
を、タングステンによるアンモニアの分解でした結果を発表したんですね。そうしたら、堀内先
生という北大の触媒研究所の所長さんで、後で総長になられましたけれども、その先生はいつ
もスピーカーのすぐ前に座っていらっしゃるんですよ。それで、僕の話が終わったら、すっくと立
って、本当に言葉を尽くして褒めてくださいました。これはすばらしい研究だと。触媒の研究が、
これで本当のサイエンスになるんだと。

 それで、私についていらっしゃいと仰るんです。どこへ行くのかなと思ってついて行ったら、文
部省へ行かれて、文部省の研究助成課の課長、中西さんとそのころ言った、その人に会って、
堀内先生だからそういうところへ行って、会えたんですね。田丸は今、すばらしい新しい研究を
やっているから、是非幾らかでも補助してあげられないかと個人的に交渉なさって、当時、特
別に15万円もらって。15万円って少額ですけれども、そのころ私は横浜の助教授の、まだ30歳
ちょっと超えたころで、もう本当に真空ポンプ一つ買うにも苦労していたものですからとっても助
かりましたし、そういう励ましていただいたということですね。堀内先生とは師弟関係があった
わけじゃなかったんですけれども、そうやって褒めていただいたのは、とてもありがたかったな
と思うんですね。

○インタビュアー:見抜かれる方もそうですが、見抜く方もすごいもんですね、やはり。立派なも
のですね。

○田丸先生:それで、これは学士院賞に値すると褒めてくださるんですよ。本当にもらったのは
何十年か後でしたけれども。

○インタビュアー:先生は学士院賞もいただきましたですね。

○田丸先生:だから、触媒が新しいサイエンスとなった、新しいページを開いた時代でしたか
ら、やること、やることみんな面白いんですね。この反応の中間体は、今まで教科書なんかに
書いてあることと全然違うことも出てくるんですね。学生たちも非常によく働いてくれたものです
から、とても助かりました。

○インタビュアー:先生はプリンストンには2年ぐらいいらっしゃったわけですか。

○田丸先生:3年近くいました。双生児が生まれましてね、まだすぐ帰れませんからというの
で、双生児を理由にして1年延ばしてもらって。双生児のおかげでよかったんですけれども。 
(その双生児が生まれた病院で一ヶ月後にアインシュタインが亡くなりました)

○インタビュアー:それは、横浜国大に籍を置いたままやらせていただく。

○田丸先生:そうです。それで、横浜の方では、人手が足りなくて困って大分冷たいことを言わ
れましたけれども、双生児で今困っているんだから、ちょっと待ってよということで。だから、帰
国してそういう意味で、学生に本当に新しい局面の実験をさせることができたんですけれども。

 私がいつも口癖のように言っていたのは、「せっかくいい頭をお持ちなんだから、よく考えなさ
い」と。よく偉い先生が、アイデアがたくさんあって、おまえはこれやりなさい、おまえはこれやり
なさいと先生からテーマをもらって、院生は人手として実験して、確かにいい仕事ができるんで
すけれども、研究テーマをもらってやっただけでは、その後、独立すると育たないんですね。そ
れじゃいけないからと思って、テイラー先生のやり方もそうだったんですが、とにかく研究は頭
でするものだというフィロゾフィーですね。

 「せっかくいい頭をお持ちなんだからよく考えなさい」と、ここにいる人たちも言われたと思うん
です。ただ、初め、みんな皮肉を言われたと思うんですね。ところが、僕にしてみれば、頭は使
えば使うほどいい頭になるんですよね。そういう基本があったものですから、みんなやはり研究
は何か新しいことを、先生からもらったテーマだけじゃなくて、それをいかに発展させるかという
のを考えてくれたというのがあります。
そうやって自分で新しいアイデイアを考え付く経験はその人の一生の宝になるのです。

○インタビュアー:それは、先生も、鮫島先生からそういうご指導を受け、またテイラー先生か
ら受けられたという、それがきちんと身になって。

○田丸先生:それが基本になっているのではないかと思いますね。ですから、口の悪いのが冗
談半分に、私がいつもそう言っているのは、「あれは先生にアイデアがないからだよ」と言う人
もいるんですけど、必ずしもそうではなくて、学生によると、僕がそう言うと、これは僕が、考え
に考えてこう考えるのです、と言うから、それじゃやっぱり足りないよ。こういうこともあるだろ
う、ああいうアプローチもあるだろうと、やはりそのくらい言える準備はしていないといけないん
ですけれども。

○インタビュアー:学生が、本当は先生もわかってるんだなと思うわけですね。

○田丸先生:それで皆さん、自分でよく考えていただいて。だから、例えばここにいる人たち
は、みんな東大の名誉教授と東大教授ですけれども、その前は、田中虔一君は北大から東大
に呼ばれたし、川合真紀さんは理研から、それから堂免一成君は東工大からとか、初めいろ
いろなところへ就職させても、その先々でいい仕事をしてくれたものですから、それで東大に招
かれて。だから、僕は別に東大で政治的にどうしたということは全然なくて、そういう仕事を通し
て研究室の卒業生の中から東大に8人も集まったというのが結果だと思うんです。その他、京
大、阪大、東工大などなどにもいます。そういうお弟子さんのおかげで、それこそ弟子でもって
るねというのがそれなんですけれども。

○インタビュアー:今日はちょうどそのお3人の先生方もいてくださっているので、先生は心強く
話していただけると。

○田丸先生:間違ったことを言ったら言ってください。

○インタビュアー:いやいや、それは本当です。

○田丸先生:考えるに、大学院の時代でも、よく考えろ、考えろとすると、考えるようになるもん
だなという感じがしますね。

 本当は、日本の教育が、自分で自立して考える教育というのは、外国ではもう幼稚園、小学
校からやるんですよね。さっき会った令生(レオ)という孫は、アメリカで小学校2年までやって
帰ってきたんですね。それで、何をするかいうと、コップに水を入れて、自分の腕時計を水の中
に入れているんですよ。「おまえ、何してんのよ」と言ったら、「これ、防水って書いてある」と。実
験しているんですね。

 それから、「救急車がこっちへ来るときは高い音で、向こうへ行くとき低い音になるのはな
ぜ?」とか、「台風のメってどんなものなの?」とか、小学校2年のくせに自分でどんどん質問す
るんですよね。それで、小学校の先生が、私は長い間、先生していたけど、こんな利口な子、
見たことないと言った。それが、日本にいるともう見る見るうちに質問しなくなりましたね。普通
の子になってしまいました。

○インタビュアー:日本に帰ってこられてからですか。

○田丸先生:日本の教育、教科書を覚えさせられて、入学試験の準備をさせられてでやってい
ると、もう本当に見る見るうちに普通の子になりました。
 やはり、本当はエデュケーション、エデュースというのは「個性を引き出す」ということですね。
そういう個性を伸ばす教育は、小学校時代からちゃんとしないといけないんだなという、そうす
るのが本当の教育だなという感じがいたしますね。

○インタビュアー:先生、教育については、日本化学会の雑誌の『化学と工業』とか『化学と教
育』とかにもしばしばそういうことを書いていただいていますね。エデュースというね。

○田丸先生:アメリカで母親として子供を育てた娘も一緒に書いてくれましたが、小学校の校長
先生にどんな教育をするかと聞くと、アメリカではindependent thinkerと言って、自分で考えさせ
るという基本を心がけるのです。各人がそれぞれ異なった個性を伸ばしながら、みんなで協力
して民主主義が育つんだという哲学ですね。

 日本だと、何かみんなと違う考えだと村八分になったりして、みんなと協力するという、「和を
もって貴しとなす」という、いい面もあるんですけれども、逆に言うと、個が育つ環境がないわけ
ですね。

 やはり本当に日本はこれから、殊にコンピューターの時代、これからはもう時代の変化が加
速度的にどんどん速くなっていきますね。そういうときに、単なる物知りなどをつくっている教育
ではだめなんで、やはり自分で考えられる、そういう変化の激しい時代をリードできる人間とい
うのは、やっぱりそういう自分で考える教育を受けさせることが必要で、これから日本は教育を
基本的に変えていかなければいけないのではないかなという感じがします。

 昔に比べると近頃研究費は随分増えましたね。みんな現役の立場で、もう堂免君のところな
んて30人も抱えている。 研究費では、僕なんていつも科学研究費が足りないので苦しみ、苦
しみしてやってきたものですけれども。ただ、そういう十分になってきた研究費が、さっきのよう
に、本当に研究というのは、自分でいつも考え、考えてやるものだという、それで新しいことを
やらなければいけないという基本的な考え方が薄れてイージーになってくるような感じがするも
のですが。

 勝手な考え方ですけれども、やはり自分で、殊に最初の数カ月、テーマをいただいてからの
苦しみというか、悩みというか、本当に研究って何するんだろう? 何をやっても、これは何か
間違いをしているのではないか、もっといい考えがないかとしょっちゅう自分で悩みながら研究
をするものだということを実際に教えていただいたという、それは、研究者として基本的な大事
なことだと思います。

○インタビュアー:それが先生の仕事の本当の原点になっているんですね。

○田丸先生:大学院生なんかは、人手として使って、仕事をさせて、ペーパーは出るかもしれ
ないけれども、本当に研究の基本というものを、大学院生で初めて研究に携わるときに、なる
ほどと納得してもらって、後は自分で考えて自立した研究者になってくれればいいんですけれ
どもね。

○インタビュアー:そういう指導者であるべきだということですね。だから、先生のお弟子さん
は、そういう姿を見ておられるので、そういう感じの指導者になっていっておられるんだと私は
思いますね。

○田丸先生:出藍の誉れで、もう今は本当に、折に触れて堂免君なんかの研究室のゼミに出
させてもらうんですけれども、よくやっていると思うのですけれど、私から余計なことを言っては
いけないですが、やはり基本は、「もっと考えなさい」ということです。
インタビュアー;でも、いまだに堂免先生とか川合先生にしたら、田丸先生は、ご立派だけれど
も、まだ少し煙たいなというところがあるんでしょうか。そういうことはもう絶対ないんでしょうか
ね。煙たい存在だなと、そういうことはございませんか。

○田丸先生:僕は、研究室でいつも、せっかくいい頭を持ってるんだから、もっと考えなさい、も
っぱらそれを繰り返していたという、それだけの話なんですけれども、後で考えると、やはりい
つもそう言われていると、何となく研究というのは考えてやるもんだなという、時代の流れに合
わせてやっているだけじゃいけないんだという、そういう基本が少しでもわかってくれていたの
ではないかなという気持ちはしますね。

 私のところから出て独立すると、みんなそれぞれ独立して立派な仕事をなしてくれていますか
ら、そこが違うのではないかという気がいたします。

○インタビュアー:確かに、最近ですと、大学院もきちんと充実してきて、例えば学部制で入っ
てきても、テーマも上の先輩がやっているものの、まずは手助けぐらいから入ったりして、余り
考えなくてもごく自然にやる。上の人がある程度仕事をやっていると、論文として名前が出たり
とか、「研究ってこんなものかな」と思いがちなところがございますよね。

○田丸先生:そうなんです。やはり人手として使われて。イージーですから、それでdegreeをも
らえてこう行くということになっていると、やはり研究というのは苦しいものだ、つらいものだとい
うことを一番基本に経験させられたというのは、私は非常にありがたかったと思うんです。で
も、本当に何も知らなくて、研究はどうあるべきかも、一生懸命その初めの4〜5カ月というの
は、鮫島先生から言われてから、本当に苦しかったんですけれども、それで古い文献をもとに
して考えるというのが。でも、たまたまそれが結果的に運良く、反応が面白い反応だったもので
すからよかったのですけれども。あれが当たらなかったらどうなりましたかね。

 ですけれども、やっぱりいろいろ考えてやると、何かそういう、ほかからも評価されるような結
果が出てくると、全く個人的にやったわけですよね。あれは、そういう意味では鮫島先生の一つ
の天才教育というのかな、それなりに自分で考えなさいという考えさせ方で。

○インタビュアー:それは、一つは有能な方々が集まってきていたということはあったでしょう
ね。ほとんど小中高校ぐらいの本当のトップだけが集まっていっているようなところですから、
先生もそういう指導者がいいと思われたのかもしれないですね。

○田丸先生:でも、いわゆる秀才と、それからそういう独創性とは、やはり違うんですね。出題
問題に全て答えられる、そういう秀才だからいい研究者というわけではないんですね。その辺
の、習ったことを理解するだけではなくて、自分で新しいことを考える努力をするという、人によ
って才能も違いますけれども、皆さん、そういう意味で努力してくれた結果だと思うんです。出藍
の誉れというのはみんな。

○インタビュアー:先生もそうでしたし、先生のお弟子さん方も皆、やはり能力ある上に、よく考
えるということをされた方々が、その結果として、先生がおっしゃったように、各大学で立派な教
授となり、東京大学に8人もいらっしゃる、あるいは京都や大坂、東工大にもいらっしゃるし、北
大にもいらっしゃったと言っていただきましたが、そういう人たちが、また次の世代を先生の思
想をもとに教えていっているというのは、非常にありがたいことですね。うれしいことですね。

○田丸先生:そうですね、今、弟子の弟子、つまり孫弟子を育てていますからね。少なくとも、
孫の育て方を厳しくきちんと考えてやりなさいという考え方を伝えてほしいなと思うので、さっき
言ったように、時代の変化がますます激しくなってくる、そういう変化する時代にリードできるに
は、やはり自分で考えないといけないんですね。コンピューターができる物知りだけでは、これ
からはますますいけなくなるのではないかと。僕も、先が短いですけれども、とにかくそういう、
みんなが、もう少し日本人の教育全体的に、そういう個性を育てる教育がこれからますます必
要になるのではないかと。

○インタビュアー:ちょっともとへ戻りますが、横浜国大で何年間かいらっしゃった後、古巣へ戻
るというか、先生はまた東京大学へ移られたわけでございますね。それで、そこでまた20年ぐ
らいいらっしゃったのでしょうか。

○田丸先生:そうです。東大の教授になったのが40ちょっと前ですから教授として20年いまし
た。その前に横浜に教授として4年半いたんです。そのときは僕も一生懸命実験をしたし、そ
れなりに新しいやり方をやってもらったり、したりして、4年半教えた研究室に毎年4〜5人来ま
したか、そのうちから3人、東大教授が出ました。学生の質もよかったんですけれども、そのこ
ろから人が育ち始めて。夜学なんかは随分つらかったけれども、学生がよくできて、そういう意
味では、本当に私は幸せだったと思います。

○インタビュアー:先生、東京大学の方に戻られてからは、結構、学内のいろいろなアドミニス
トレーション的なお仕事も大分していらっしゃるのではないですか。

○田丸先生:それは、ちょっと話があれですけれども、プリンストンに小平先生という有名な数
学の先生がいらして。

○インタビュアー:小平先生、数学者。

○田丸先生:あの方がプリンストンに一番最初からいらして、日本人の仲間の村長さんみたい
だったんですけれども、その100メートルぐらいのところに私たちは住んでいて、しょっちゅう行
っていて、僕たちにはとてもよく話してくださって、小平式の考え方がとても参考になりました。

 小平先生が帰国されて程なく、紛争の直後だったわけですよ。それで、事もあろうに、理学部
の教授会が小平先生を理学部長に選んだんですよね。それで、小平先生はもう絶対嫌だ、そ
んなために日本に帰ってきたのではないから絶対嫌だと言われて。だけれども、教授会で一旦
選ばれて断れるという前例をつくられると、あの時代に、なる人がいなくなりますでしょう。だか
ら、みんなで助けるから是非断らないでくれと言って。そうしたら、化学では田丸さんを知ってい
ると言うんですね。それで僕が学部長補佐の中に入れられて、学生とごたごたさせられて。あ
のころ、いろいろ大変だったでしょう。

○インタビュアー:そうですね。

○田丸先生:もうそれこそ学生が、先生たちは専門ばかだと言って。小平先生が、「先生は専
門ばかと言われるけど、学生はただのばかだね」と(笑)。小平語録という、そういう面白い話
がたくさんあるんです。そんな形で、そういうアドミニストレーションに引っ張り込まれたわけで
す。それまではもう研究しかやっていなかったんですけれども。

○インタビュアー:それから後、もちろん研究者としては、我々は日本化学会ですから、化学会
賞も先生に取っていただいていますし、化学会の会長にもなってご尽力していただきましたね。
いろいろあるんですが、先生は、東京大学をご退官になってから、たしか、今、山口東京理科
大という、最初からそうだったんでしたか。

○田丸先生:東大を辞めて、東京理科大にまず行ったわけですね。理科大で呼んでくださっ
て、そこに11年いました。神楽坂のあそこへ。でも、その終わりのころは、山口に短大があった
んですね。それを4年制にするから大学づくりを手伝ってくれと。僕は、まず人集めが大切だか
らといって。でも、随分いい人が来てくれました。僕が言うと変ですけれども、田丸先生だから
あれだけ集めたんですねといって、木下実さんという学士院賞を後でもらった人も来てくれた
し、東大から戸嶋直樹さんとか、東工大から山本経二さんとか、いろいろないい人が随分来て
くれて。ただ、残念ながら、今はもうほとんど定年になって辞めていきすけれども。だから今、大
分苦しい立場らしいですけれども。

 そのころは、新しい大学とはどういうものであるべきかというので、初め東京理科大の中で、
橘高先生という偉い理事長さんが、理科大の教育を高度化する委員会をつくって、その委員
長をさせられたんです。それで私は、まず、アメリカ式に、教育を充実させよう、先生の講義に
学生が意見を出すべきだと、いろいろなそういう話をしたら、皆さん、そのときはもう、「とんでも
ない、学生の分際で先生の講義を……」と、そういう雰囲気だったんです。それで、その新しい
考え方を山口で実施したわけです。ですから、そのころの一部の人は知っていますけれども、
要するに、理科大はこうあるべきだというモデルをそこにつくって、例えば人事をするときは、
自分たちだけではなくて、その分野の専門家も外側から入れて決めるべきだとか、カリキュラ
ム自体も、例えば数学の先生が書いてくるものをそのまま受け取るのではなくて、やはり客観
的な意見を求めて、全体的にきちんとしたカリキュラムをするべきだとか、今まで習慣的にやっ
てきた大学のあり方をすっかり変えて、山口で始めました。今どうなっているか知りませんけれ
ども。

○インタビュアー:少し戻りますが、先生は、山口東京理科大で、モデルケースをつくろうという
か、一つの実験をしようという感じだったと思うんですが、入学試験の制度を変えたらどうかと
いうことを、私、何か先生のお話を聴いたことがあるんですが、それはどんなものだったんでし
ょうか。

○田丸先生:さっき言ったように、これからあるべき大学の姿をつくりたいといって、入学試験
を面接に加えて教科書持参でやったんです。

○インタビュアー:教科書持参でですか。なるほど。

○田丸先生:文部省検定の教科書を持ってきていいよ。すると、教科書を持っているから、「こ
れ覚えているか?」の問題はできないんですよね。
 ですから、例えば1つは、塩と砂糖と白い砂がまざっているものがある。それがどのくらいの
割合であるかどうやって調べればいいか、そうやって教科書には全然出ていない考え方を聞く
わけですね。そうすると、実によくわかりますね、この子は考える子か、たとえ結論が間違って
いても、ちゃんと食いついてくる子かどうかというのが、非常によくわかります。

 だから、ああいうのは、入学試験で、例えば大学院の試験でもそうかもしれないんですけれど
も、普通の講義の試験になっていると、要するに入学試験の準備で、日本は高等学校の理科
を見ても、「わかったか、覚えておけ」、そういう授業ばかりですよね。またそれが入試対策に
はいい教え方なんです。 それで、大学へ来ても、そういう延長ですから、生徒から先生に質問
がろくにないわけです。アメリカだと、極端な場合は、先生の部屋に並んで待っていますよ、デ
ィスカッションするのに。日本じゃ、ただ受け取るだけの話で、それで大学院へ来るわけです
ね。それでクリエーティブなことをしろと言ったって自立していないからできない。ついイージー
な教育になってしまうので。

 本当に、さっきの私が経験したようなつらい思いを大学院に入って数カ月、「おまえ考えろ」だ
けでもいいです。何をすればいいかね。そうやって、やはり研究というのは考えるものだと。そ
れが人生全体に、やはり考える人間をつくらなければいけないんだということで、入試を変えな
いといけないですね。

○インタビュアー:それは、先生がそう言われても、例えば入学試験の問題をつくるのは、今ま
でいた教官なわけですね。そうするとなかなか。

○田丸先生:それが見えてくる。非常にはっきり分かれるんです。「先生、つくれません」と。確
かに難しいんですけれどもね。だけども、本当に考えられる人はきちんと考えますから。だか
ら、僕は、大学院の試験でも同じように、講義の試験をするようなことではなくて、高等学校の
ときに習って覚えている話がたくさんありますけれども、例えばアボガドロの法則といったような
ものを、気体の体積、圧力で同じ数の粒があるとか、そういうものを習いますよね。それから、
食塩はイオン結晶だよとか、水素と塩素の反応は連鎖反応だとか教わりますよね。だから、そ
ういう3つのことをみんなよく知っているんだけれども、では、それを実験的に証明する仕方を
述べなさいと言うわけです。そうすると、よくわかるんですよね。よく知っていることを、どうして
そうなのか実験的に証明しろと言われると、本当にその人間の考える力がわかるんですね。

 そういう意味で、教育自体が、入学試験を含めて自分で考えてやるものだという。ただ、先生
がこう言ったから、はいわかりましたと覚えて、物知りになって出てくる、そうやって育ってくる人
間ではなくて、「先生そう言うけど、なぜ?」とか、さっきの小学校2年の孫が聴いたのと同じこ
となんです。「救急車がこっちへ来るときは高い音で、向こうへ行くときは低いのはなぜ?」と
か、そうやって、それぞれの事柄が、バックがきちんとあるのを、みんな、「それはそういうこと
になっているんだよ」とただ教科書を覚えさせられてもだめなんですよね。

○インタビュアー:先生、試験のそういう試みをされたときは、全学の入試者に対してそれをさ
れたわけですか、それともある学科だけ。

○田丸先生:いや、全部。全部といっても、学部は1つしかなかった大学ですから、小さい大学
で。

○インタビュアー:その結果は、先生、どんな感じ、何年間ぐらい続くことが可能でございました
か。

○田丸先生:だから、時々そうやって選んだ生徒はどうなっていますかと言われるんです。あと
よくわからないんですけれども、1つは、初めから受験生の質の問題もありますからわかりませ
んが、日本全体の入学試験自体が、アメリカ辺でも、大学によってはクリエーティビティーとリー
ダーシップを見るんだとか言いますね。そうやって資料や面接を通してきちんと見るんですね。
ケンブリッジでもそうです。教科書を丸暗記しているような子は採らない。やはり自分で考えら
れる将来のリーダーを選ぶんですね。

 本当は東大でも、そういう意味で、将来のリーダーを選ぶ入学試験を、面接に時間がかかる
かもしれないけれども、2倍ぐらいに絞ってからでもいいですが、そういう自分で考えられる人
間を育てるんだという姿勢で、それこそ京大でも、東大でもみんなそういうことにいたしますと、
高等学校でもそういう準備をいたしますから、だんだん自分で考える人間が育ってくるわけです
ね。そういうのが私の意見です。

○インタビュアー:山口理科大で先生がそういう試みをされたときは、そのころは文部省でしょ
うか、それは別に、「どうぞやってください」という、それに対して何らか規制というか抵抗は別に
なかったわけですね。

○田丸先生:私立ですし、理事長さんが僕の意見を入れてくれたからよかったんです。でも、教
科書持参の試験を一部でいいですからやるのもアイデアだと思うんです。

○インタビュアー:そうですね。

○田丸先生:例えばサッカーの選手だって、練習で余り受験準備できなかったけれども、そう
いう考え方には自信があるよというのは、そっちの方へ行って受けるとかね。しかし本当に問
題づくりが難しいんですよ。だから、要するに先生のクリエーティビティーの問題なんですよね。

○インタビュアー:そんな感じはしますね。

○田丸先生:ですから、逆に言うと、先生を選ぶ人事ときも、そういうことができる人間を大学と
して大事にする、そういうことをしないと、ただ知識を教えるだけなら、教科書に書いてあるのを
説明するだけで、「わかったか、おい」とかというだけの話ですから自分で考えることが育たな
いですね。

○インタビュアー:先生、ちょっと話が変わりますが、一番最初のころに出ました先生のお父
様、何といってもハーバーとの関係で、我々、表面だけなんですが非常によく存じ上げている
のですが、そのあたりのことをちょっとお伺いしておければありがたいと思うんですが、お父様
は、やはり東京大学をご卒業されてから向こうに行かれたわけですか。

○田丸先生:そうです。

○インタビュアー:第一次世界大戦の前。

○田丸先生:文部省の留学生としてハーバーのところに行ったんですね。それで、カールスル
ーエでアンモニア合成をやって、40人もいたそうですけれども、ハーバーがベルリンの研究所
の所長に選ばれたときに、その中から父を選んで連れていって研究職員にしたんですね。そ
の研究所が世界一の研究所で、アインシュタインやラウエなどもいたし、日本人も随分そこに
留学に行っています。

○インタビュアー:何年間ぐらいドイツというか、いらっしゃったんですか。

○田丸先生:合計8年ぐらいだったんです。だから、ベルリンにいた日本の大使が父に、「日本
からどんないい職が来ても、私が断ってあげますよ」と言ったそうだけれども、それだけ一応重
要な地位だったらしいのですが、世界大戦が始まると、ドイツは日本の敵ですからおれなくなっ
て。

○インタビュアー:第一次世界大戦ですね。

○田丸先生:それでニューヨークに行って、高峰さんなんかと一緒にいて、ハーバードにもいま
したけれども、それで理研をつくろうじゃないかと、そこいらから……。

○インタビュアー:それで高峰譲吉先生とか

○田丸先生:はい。理研も最初、化学の研究室は父が責任を持ってつくって、日本に初めて本
当の化学の実験室というのをつくりたいというので、相当無理したらしいです。研究所のモデル
をつくりたいと。それで多分、費用もかかって大分言われたらしいのですが、、大震災で他の建
物は大分つぶれてしまったのにその建物はガラス1枚割れなかったというので大変に評価され
たらしいんです。

○インタビュアー:震災というと、それは関東大震災ですか。

○田丸先生:そうです。

○インタビュアー:ああ、そうなんですか。

○田丸先生:大正12年のね。僕が生まれる前です。
 父が一番最後に努力したのは、学術振興会をつくることでした。昭和1桁の時は、ご存じのよ
うに、日本の経済は非常に悪かったので、せっかく理研なんかをつくっても、お金が削られるこ
とはあっても、お金は来にくかったんですね。大学でもほとんど研究費が乏しくて、これではとて
もいけないからというので、桜井錠二先生を担いで、父も必死になって学術振興会をつくる運
動をしました。体が悪かったんですけれども、結局、一番最後は、手回ししたのでしょうが、昭
和天皇が、私の身の回りのことは幾ら倹約してもいいから、学術振興に金を出してくれとおっし
ゃってくださったんですね。それで、昭和7年かにできて、それで、それから急に論文の数が日
本で増えた。論文だけじゃなくて、それで人材が育ったんですね。その人材が次の代を育てて
日本が発展していった、それが父の一番の苦労でした。

○インタビュアー:櫻井錠二先生。お名前は。

○田丸先生:先生の残された遺言書に書いてありますけれども、学術振興会なんかでも、本当
に田丸のおかげでできたとい。

○インタビュアー:そうですか、立派なことをしていたんですね。

○田丸先生:それが、日本を欧米並みにしようという努力ですね。理研の建物をつくること自体
も、そういう意味で大分努力したのではないかと思います。

 ハーバーがベルリンに連れていってくれたときも、よく、「田丸は死ぬほど働くから」と言ったそ
うなんですけれども、何か死ぬほど働いたらしいんですね。アンモニアの合成なんかにできる
かどうかというのが。それで、死ぬほど働いてどうにかなった。だから、テイラー先生も、田丸の
息子だからというので、何かにも書いてありましたが、「父親の素質を受け継いでよくやってくれ
た」と。しかも、いいアイデアを出したものですから、「彼はベストなスチューデントだ」という話に
してくださったんですけれども。

○インタビュアー:先生もお父さんと同じように、死ぬほどテイラー先生と一緒に働かれたんで
すね。

○田丸先生:いおえ、僕はそれほど、死ぬほどしなかったけれども。

○インタビュアー:いやいや、周りのアメリカ人とかイギリス人は結構、レイジーがいたら、先生
を見たらもう脅威だったのではないですか。

○田丸先生:そうですね。だけど、長い目で見て、やはり固体触媒の分野があれでサイエンス
になったという感じですね。それまでは全然、外側からの速度論だけで、こうなっているのでは
ないか、こういうことが起こっているのではないか、推測ばかりでしたから。

○インタビュアー:ブラックボックスを先生がちょっと開けて見られたわけで、そういう感じです
ね。

○田丸先生:そうですね。でも、その結果というか、その50年間が、そういう意味で触媒の分野
が本当に進歩したんですね。反応最中の表面を調べ始めましたから。それで、いろいろな機械
もどんどん進歩しましたから。それで、結論的に、一昨年ノーベル賞をもらっています。そういう
分野が今、日本でそんなにないんですよ。大学院生をこれできちんと育てないとという心配もあ
りますね。

○インタビュアー:先生のおっしゃることはよくわかります。私は一応これでも京都で福井謙一
先生の門下生の端くれなんですけれども、福井先生も先生と同じようなことをいつも考えておら
れて、「サイエンスそのものを考えるのが大切だ。その根本を考えろ」といつも言われていまし
たね。それはなかなかわからなかったんですけれども、先生のおっしゃるのと、やはりそうなん
ですね。

○田丸先生:先生に一つ見ていただきたいのは、これは、2000年に出たCatalysis Letterでそ
んなに昔の話ではないんですけれども、触媒の歴史をまとめて、例えばベルツエリウスという
のは「触媒」という言葉を初めて言い出して、ファラデーが出てきて、そしてハーバーが出てい
るんですけれども、その中にこういう、この写真を勝手に使うんですよ。僕の許しを得ないで出
ていて。

○インタビュアー:どこからこういうのが手に入っていったんですか。先生がどこかに出された
んですか。

○田丸先生:ここの家の前で撮った写真ですよ。

○インタビュアー:それを誰かから手に入れているわけですか。

○田丸先生:もう一枚、あなたの写真を2枚入れたよと言ってくれたんですが、人の写真を、こ
れは1984年にベルリンで大きな触媒の学会があったときに、ハーバーのエキジビションのコー
ナーをつくったんです、ハーバーが初めてアンモニア合成したときの装置なんかを出して。それ
で、僕のところに、何かハーバーに関係したものを送ってくれないかというので、それまでほと
んど出さなかったんですけれども、その写真を送ったんですよ。そうしたら、ケンブリッジの教授
のジョン・トーマスさんが、僕に是非このコピーをくれと言って、それで上げたのをオフィスに飾
って、日本人が来ると、これが謙二なんだよと、赤ん坊が。

○インタビュアー:そうですよ、先生、これとこれなんですね。

○田丸先生:この赤ん坊なんですよ。

○インタビュアー:だから2つ載っていると、そういう意味ですね。現在の私とで二枚。

○田丸先生:そうなんです。そういう、大げさに言えば、化学者になるように運命づけられてい
たということかもしれないんですけれども。

○インタビュアー:すばらしいな。

○田丸先生:それから、私の家宝の一つなんですけれども、これは、この人の手紙ですよ。

○インタビュアー:アインシュタインですね。

○田丸先生:田丸さんあてですよ。

○インタビュアー:1949年、すごいですね。

○田丸先生:アインシュタインが、そのころは世界が、第二次大戦が終わって、もう日本もめち
ゃくちゃになっちゃったし、ヨーロッパも戦争でめちゃくちゃになって。でも原爆ができて、だか
ら、トルーマンがスターリンに、もう一回、今米ソでやれば必ず勝つというわけですね。

○インタビュアー:アメリカがソ連にですね。

○田丸先生:いわゆる緊張した時代だったんです。私の父はアインシュタインと同じ研究所で、
知っていましたから、その息子なんだけれども、世界がこんなでいいんだろうかという、若気の
過ちで手紙を出したら、きちんと返事が来ましてね。

 しかも、面白いのは、世界が平和になるのは、アンダーラインをして、1つの方法しかないと
いうんです。それはもう世界連邦しかないと。それから今まで60年ですか、随分たっていますけ
れども、あれから見ると、今ヨーロッパに行くと、もう本当にそういう感じがしますものね。同じお
金を使うし、パリみたいに、前は英語なんか全然しゃべらなかった国が、きちんと英語もどうに
か通じるようになるし、いわゆる連邦という感じがしまでしょう。

 それで、僕は、これから50年のうちには東洋もそうなると思うんですけどね。だんだん世界中
そういう連邦になるのではないかと思って。その方向に。要するにワンウェイしかないと。アイン
シュタインが自分のサインで田丸さんあてにくれたというのが。

○インタビュアー:湯川先生も書いているんですね。オール……(以下、アインシュタインからの
手紙を読む)……すごいな。

○田丸先生:アインシュタインの言葉が、今の現実を見るとき、あのときにはもう全然考えられ
ない時代でした。フランスとドイツだってお互いに殺し合いをしていた直後でしょう。だけれど
も、それからもう50年、60年たつと、そういう方向にどんどんなっていっているというので……。

○インタビュアー:これは先生、是非この冊子に載せさせてくださいね、この言葉はね。

○田丸先生:はい。

○インタビュアー:これはすごいですね。

○田丸先生:僕は、そういう意味で、このアインシュタインの言葉と今の現実とを対比すると、
本当にそうだなという感じがいたしますね。

○インタビュアー:湯川先生も一生懸命、世界連邦をつくるということを言っておられましたけれ
どもね。○田丸先生:そうですね。

○インタビュアー:早くからそういうふうにね。

○田丸先生:実際に、田丸謙二さんあてに書いてくれたというのが、僕としてはありがたい言葉
で。それで、僕はある高等学校で化学の話をさせられて、普通の話をして、そのときにアインシ
ュタインのこの話を一寸出したんです。そうしたら、何かすごくみんなショッキングで、それで、
質問が幾つか来て、「どうしたらああいう手紙をもらえるんでしょうか」と。(笑)

○インタビュアー:なるほど、そうですか。やはり純粋な心を持つということでしょうか。

○田丸先生:つまらない話ばかりして申し訳ないんですけど。

○インタビュアー:いやいや貴重な話ですよ。いろいろお話いただいてお疲れでしょうが、いろ
いろ先生からお話を伺って、今、先生もう満85歳におなりですし、大体、若者に対しての言葉と
いうものもいただいて、「考えろ」というふうなことなんですが、あとほんの少し、何か先生、もう
ちょっとこれだけ言っておきたいということがございましたら、少しだけでも何かありましたら。

○田丸先生:やはり教育界全体が、例えば17年ぐらい前かな、アメリカでは、アカデミーを中心
にして、これからの教育は、コンピューターの時代になるし、大幅に変えなければいけないとい
うので、それまでは理科でも、クジラの種類を覚えさせたり、そういう理科の時間だった。それ
ではいけないというので、そんなのは全部やめて、science inquiryという、科学の考え方です
ね。さっきのように、「なぜこうなのか?」という理科に変えるんだといって猛烈な努力をしたん
です。もう全国で150回ぐらい講習会を開いて、それから、教育関係学会とも協力し、最後は4
万冊刷ってみんなに配って意見を求めて、理科を基本的に変えるという時代でした。

 ちょうどそのころですよ、日本の化学会で、教育の関係者が集まって、文部省の教科書検定
に、高等学校から「平衡」という言葉を消したんですよ。「平衡」なんていうのは、ものを考える
一番基本ですよ。例えば蒸気圧一つにしても、平衡で蒸気圧降下はなぜ起こるかとか、それ
から、沸点上昇でも、凝固点降下でも、みんな平衡をもとにして考え方が出てくるわけですね。
それで日本は、むしろ考えない方向にした時代です。今は直りましたからいいのですけれど。 
日米の教育関係者の智的レベルの差はこれほど大きいのです。

 大事なことは、そういう教育関係者というか、リーダーたちが、本当のことをきちんとわかって
いないということですね。それで、そういう人たちが、リーダーが、文部省も有名人を集めて平
衡をなくしたわけです。そのくらいのレベルなんですね。それで、アメリカの方ではそういう画期
的な努力をして、新しいものをつくって、それがヨーロッパに広まって、かえってそれが日本に
戻ってきて、ゆとり教育を始めようと言い出すわけです。ゆとり教育というのは、覚えることを少
なくさせるための教育ではなくて、考える教育をつくるんだというのが基本なんですけれども、
日本にそういう基盤がないんですよね。

○インタビュアー:何か妙になってしまったんですね、あれも。

○田丸先生:そうなんですね。やはり学力が低下したとかなんか言うんだけれども、本当の話
は、考える教育が世界中に広まってきて、日本だけがそうやって手遅れになってしまうというこ
とです。

 それが、大事なことは、教育関係者がわかっていないということですね。それで、小学生に
independent thinkerに教育をするんだと思っている人なんて、日本にいないでしょう! 小学生
は何も知らないで入ってくるから教えるんだという、教え込むことだけでやっていますね。入学
試験もそれでいくし。だから、何かそういう、さっきのケンブリッジでもそうだけれども、将来のリ
ーダーを育てるという教育が、日本には、差別というのはいかんという形ですが、差別という意
味ではなくて、区別しながら才能を伸ばす教育を、各人が自分の個性を育てるように自分で考
える、要するに自分で育てる教育に切り替えないととても、これは先生からそうだと思う。やは
り生徒は先生の背を見て育ちますから、先生がそうやって考える教育をすると、生徒も考えな
ければいけないんだなということがわかってくると思うんです。

○インタビュアー:先生まで変えていかなければいかんので、これからも時間がかかりますね。

○田丸先生:それがいい方向に向かっていればまだいんだけれども、どうも時代はどんどん加
速度的に変化していきますよね。日本では、それについていけるかどうか。

○インタビュアー:いえいえそんなことは。そうならないようにね。

○田丸先生:政治家でも何でもそうですけれども、立花隆が『天皇と東大』という本を書きまし
たが、あれにも書いてあるんですけれども、東大生は習ったことをそのまま理解して出す、そう
いう能力は非常に高い者が多いけれども、要するにクリエーティブな人は必ずしも多くない。ク
リエーティビティーで試験をしていませんから。それで、それが大学を出て、いわゆるリーダー
になるわけですね。それが日本の国を変えていくわけです。ですから、やはり基本は考えるも
のだという、それで、そういう人材のつくり方をきちんとしていかないといけないのではないかと
思うんですけどね。

○インタビュアー:それに対して、京都がすべてそういうことを考える、ちょっとレベルは低いけ
れども、考えるやつがたくさんいるんだぞというところぐらい、安定的にきちんとこれがしっかり
すればいいんですが、私を見てもわかりますように、大したものがなかなか出ていないというの
もあるんですね。

○田丸先生:本当は先生がきちんとすべきなんですよね。先生の再教育のための講習会を開
いても、来る先生はまあいいんだけれども、むしろ来ない先生の方が問題でね。やはり先生の
再教育ということは、本当に大事なことだと思いますね。

○インタビュアー:先生ありがとうございます。
 最後に、全然関係ないですが、先生はお忘れでしょうが、私は昔、先生とテニスをさせていた
だいたこと、覚えているんですけれども、先生はそのとき、鎌倉のこのあたりのローンテニスク
ラブか何かの会長か何かをしているとおっしゃっていた。もうこのごろは、テニスなんかは全然
していらっしゃらない。

○田丸先生:もう今はひざが痛くてできないんですけどね。会長も、それこそ早稲田のテニス部
の元キャプテンだったなんていううまい人がたくさんいるクラブで、六百何十人かのクラブなん
です。ただ、そのテニスコートをつくった隣に頼朝がつくったというお寺があって、それを鎌倉市
はもとのお寺に復興させようと。そうすると、そのテニスコートがその庭になってつぶれるんで
すよね。それで、鎌倉市は世界史跡都市とかになりたいというので一生懸命で、そうしたいと言
っていて、2年のうちにそういうふうにするという時代があったんです。

 ちょうど景気の悪くなるちょっと前でしたか。それで、その費用の8割を出す文化庁に一寸でも
顔のきく人がいないかと。僕は全然だめよと繰り返し言ったんだけれども、させられて。そうし
たら、ちょうど東大の総長特別補佐(副学長)をやらせてもらったときに、文部省から来ていた
女の東大の法学部を出た人が課長に来ていたんです。それが文化庁へ戻って、文化庁のそ
の問題の隣の課長になっていた。それでもうその人を頼みにするしかないというので行ったら、
とてもよくしてくれて、その係の人を集めて僕の説明を聞いてくれ、それで予算のときでも押さえ
てくれて、それで一番の危ないときは乗り越えまして、とてもありがたかったんです。

 天皇陛下が葉山にいらっしゃるときに、御用邸がありますでしょう、時々いらっしゃるんです
よ。それでそのときに僕は、侍従なんかに言ったら絶対にだめなんですけれども、天皇陛下
に、「ここのクラブの特別名誉会員になっていただけますか」と直接お願いしたんです。そうした
らね、まんざらでもないお言葉があったんですよ。それで、「天皇陛下がいいっておっしゃった
よ」とみんなに言いふらして。そうしたら、本当にそういう手続を一応して、そうなったんです。

 天皇もテニスコートにいらっしゃると、とっても気楽で、お好きなんですよね。それで次のとき
にいらしたときに、お帰りになるときに、「おたくのクラブの特別名誉会員にしていただいてあり
がとうございました」とお礼をおっしゃるじゃないですか。普通、お礼を言われると、「どういたし
まして」と言うんだけど、こういうとき何て言っていいかわからんと思って、もうまごまごしてしまっ
たんですけれども。

○インタビュアー:先ほど、先生の写真がね、天皇・皇后両陛下とご一緒に写った写真を拝見
しましたから、ふと、ああ、そうだ、先生テニスをされていたなと思い出したので。

○田丸先生:でも、お話をすると、とてもいい方ですよ。皇后陛下もお利口だし、本当によくでき
た方です。

○インタビュアー:私は、化学会としては6年前に125周年のときに陛下に来ていただいて。

○田丸先生:そうなんですよね。前に前立腺の手術をなさったでしょう。そのときに僕、は、お
見舞い状を出そうやと言って見舞い状を出したんです。またお元気になられてテニスにいらっし
ゃいということで。そうしたら翌日、侍従から直接電話が来てね、陛下がとてもお喜びになりまし
たと。本当にごらんになったのかなと思って。だって、何万人かが祈念しに行ったときでしょう。
そうしたら、その退院されて初めての公務として化学会にいらしたでしょう。

○インタビュアー:そうです。来ていただいたんですよ。

○田丸先生:それで、そのご講演の後でレセプションがあったときに、陛下が僕の顔を見て、
いらして、「あのお見舞い状ありがとうございました」ってお礼を言われたんですよ。天皇陛下が
そこまで細かいことを覚えていらっしゃるとは夢にも思わなかったんですけれども、僕の顔を見
て、その節はありがとうございましたとおっしゃいました。

○インタビュアー:先生、本当にいいお話を聞かせていただきました。

○田丸先生:いやいやとんでもないです。つまらない話ばかりで。

○インタビュアー:今日は、先生のお弟子さんの先生方が来ていらして。

○田丸先生:昨年11月に田丸研の出身者の集まりをしたんですけれど、皆来ますと限られた
時間内ではお互いにゆっくりと話し合えなかったんですね。そうしたら、もっと先生と親しくしゃ
べりたいというので、有志が「サロン・ド・タマル」というのをつくって、早速12月にやろうというの
で、もう勝手に企画して、鎌倉駅で集まって食べるもの飲むものなど全部買い集めて、しかも
集まる人数はなるたけ10人以下にしたいというので、私の家で僕を囲んでしゃべるというんで
す。僕は、ただ皆さんが楽しくしゃべっているのを聴いて楽しむだけの役なんです。 今日はそ
の日に当たっているのです。場合によってはわざわざ大阪からその為に来る人もいます。

 研究室として、しょっちゅうここの庭で集まりなどをしまして、みんな仲がいいものだから、一
緒に来た外人なんかも驚くんですね。アメリカなんかは、極端に言うと、卒業生はもうライバル
になるわけですね。だから、いつまでも家族的に皆さん仲よくやってくれるという、それは、とて
も印象的らしいですね。日本的なところですけれども。

○インタビュアー:それは、日本的であると同時に、やはり先生のご人徳であり、一つの教育
を、その場でやはり教育になっているんでしょうね。

○田丸先生:そうですね。 化学学会賞が今度3月末かな、川合真紀さんがもらいますから。 
それから、今日の午後来るのには、触媒学会賞を今度もらう内藤君夫妻という人が来ます。皆
さん、弟子の方がだんだん偉くなって、紫綬褒章も、今まで4人だけれども、川合真紀さんなん
かでも多分もらうのではないかと思うんだけど。

○インタビュアー:先生、それをいつまでも見届けるように頑張ってください。是非長生きしてい
ただいて。

○田丸先生:それだけが楽しみなんです。
○インタビュアー:それは、これから元気でいらっしゃる大きなドライビングフォースですね。
 今日は先生、本当にありがとうございました。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司※

●3月27日

【家族】

++++++++++++++++++++++

今朝は、どこかの男と、言い争っている夢を見た。
私はかなり興奮していた。
そのせいか、起きると、軽い頭痛がした。
今、あまり精神状態は、よくないようだ。
理由はわかっている。

近く、実家の寺で、法事がある。
父の33回忌である。
私は若いころから、「実家へ帰る」となっただけで、
精神状態が、たいへん不安定になる。
家族自我群による「幻惑」によるものと考えてよい。
本能に近い部分にまで、「刷り込み」がなされて
いるため、それを克服するのは、容易なことではない。

満61歳になった今でも、その「幻惑」はつづく。

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●家族自我群

今の今も、家族による束縛感、呪縛感に苦しんでいる人は多い。
家族であるがゆえに、わだかまりや、こだわりも、増幅する。
またそれから逃れることもできない。
できないから、悶々と、いつ晴れるともない、苦しみの中でもがく……。
こうした呪縛感を総称して、「家族自我群」という。
またそれから生まれる苦しみを総称して、「幻惑」という。
先にも書いたように、本能に近い部分にまで刷り込みがなされているため、
その自我群から、自ら解放することは、容易なことではない。

●家族

「家族」というと、甘い響きがそこに漂う。
そうである人には、そうかもしれない。
しかしその家族も、どこかで歯車が狂うと、そのままバラバラになる。
なって、今度は、重圧感となって、その人を襲う。
家族イコール、「安住の場」とは、かぎらない。
「家族である」という、安易な『デアル論』だけで、
容赦なく、その人を攻撃する。
幸運にしても、そういった苦しみを知らない人には、
自我群の説明をしても、意味はない。
理解することすら、むずかしい。

●入浴

……ここまで書いて、朝風呂に入ってきた。
軽い偏頭痛のばあい、朝風呂に入ると、そのまま治る。
これにも、理由がある。
偏頭痛は、血管が拡張して起こる。
拡張した血管が、その周囲を取り巻く神経を圧迫する。
それで偏頭痛が起こる。

若いころは、このメカニズムがわからず、苦労した。
プラス苦しんだ。
ひどいときには、「頭を切り落としてくれ!」と叫ぶほど、
痛かった。
が、メカニズムがわかれば、対処の仕方もわかる。

やや熱めの風呂に入って、一度、血圧をあげる。
瞬間、偏頭痛はひどくなるが、5〜10分もすると、今度は
血管が収縮を始める。
それで偏頭痛は、消える。
今朝、目が覚めたときの頭痛は、偏頭痛だった。

●自我群と闘うために

家族自我群と闘うためには、まず、そのメカニズムを知る。
何度も書くが、これは本能に近い部分にまで刷り込みがなされているから、
それと闘うのは、容易なことではない。
理性や知性で、割り切ることはむずかしい。
が、「幻惑」は、読んで字のごとく、「幻惑」。
「幻(まぼろし)」。
実体があるわけではない。

私のばあい……という言い方はおかしいが、あるときから、そこにある
運命を受け入れることにした。
自分の境遇をのろっても、しかたない。
嘆いても、始まらない。
だったら、そこにある運命を、そのまま受け入れる。
とたん、心が、ウソのように軽くなったのを覚えている。

●今……

今、私が苦しんだ、家族自我群による幻惑は、ウソのように消えた。
母が他界し、つづいて兄が他界し、「家」そのものが、消えた。
残るのは、実家という「古家」と「法事」のみ。
しかしそれらは、もう(心の問題)ではない。

が、すべての呪縛から解放されたというわけではない。
実家の周辺には、親類が住んでいる。
近所の人たちとのつきあいもある。
伯父、伯母、それに叔母もいる。
しかし我が身を振り返ってみれば、その私も61歳。
正直なところ、「もう、いいかげんにしてほしい!」と叫びたい。
が、こうなったら、居直って生きるしかない。
「どうでもなれ」と、投げ捨てて生きるしかない。

●幻惑に苦しんでいる人へ

私のBLOGへの検索・ワードを見ると、「家族による苦しみ」
についてのものが、多い。
(BLOGによっては、どんな言葉を検索して、アクセスして
きたかが、わかるようになっている。)

つまりそれだけ、この問題は、深刻ということ。
またそれで悩んでいる人も、多いということ。
逆に、そういう人たちをアクセスしてみると、そのBLOGには、
こう書いてあったりする。
「親を殺してやりたい!」と。

それは殺意というよりは、自分の体にしみ込んだ(体質)そのものを
消し去りたいという思いから、発するものと考えてよい。
あえて言うなら、自己嫌悪。
はげしい自己嫌悪。
それが転じて、「殺してやりたい!」となる。

しかしけっして、あせってはいけない。
時間はかかるかもしれないが、この問題は、時間が解決してくれる。
時間がたてば、かならず、解決する。
だから……。
それまでがんばって、がんばって、生き抜くこと。
健康だけを大切に、生き抜くこと。
それで解決する。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
家族自我群 自我群 幻惑 家族とのわだかまり こだわり はやし浩司 確執 
親子の確執。)


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(090328)

●3月28日(M党のOZ党首、立ち木問題)

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●M党のOZ党首

M党のOZ党首が、「続投する」と、自らの意思を表明した。
しかしこの表明で一番、胸をなでおろしているのが、J党。
M党による政権交代は、これで事実上、不可能になった。
国民の約80%は、OZ党首の「説明」に納得していない(C新聞)。
私も納得していない。

さらに驚くべき発言がつづいた。

M党内部で、公然とOZ氏批判をした国会議員がいた。
それに対して、OZ派の国会議員(M党)が、「自分を何様だと思っているのか」と、
かみついた(テレビ報道)。

ヘ〜〜エ?

M党という政党は、そういう政党だったの?
同僚の国会議員に対して、「何様だと思っているのか」は、ない。
要するに、「だれのおかげで国会議員になれたと思っているのか。
生意気言うな!」という意味らしい。
この言葉は、そっくりそのまま、M党・OZ派のみなさんに送りたい。


●立ち木問題で、知事が辞任(?)

これまたおかしな、前代未聞のできごとが、この静岡県で起きた。
たかが(失礼!)、立ち木問題程度のことで、知事が辞任を表明した。
ことの発端は、立ち木。
はじめから終わりまで、立ち木。

今度開港する静岡空港の滑走路の先に、150本程度の立ち木がある。
滑走路の、ちょうど真正面に、である。
(その周辺の場所には、木はなく、その部分だけに、剃り残したヒゲのように
立っている。)
そのため開港は遅れ、プラス1億円程度の改修費がかかった。
それについて、立ち木の地権者のO氏は、「知事の辞任が条件」と、静岡県側に迫った。
つまり「知事が辞任しないかぎり、立ち木は切らない」と。
それを受けて、静岡県知事が辞任を表明した。

ここで再び、民主主義・論。
私権の保護は、民主主義の根幹である。
それは認める。
しかし私権とっても、絶対的なものではない。
(保護しなければならないものかどうか)という観点から、フィルターがかかる。
そのフィルターをくぐりぬけないかぎり、世論の支持を得ることはできない。
もし私権を無制限に保護するとなると、空港どころか、道路一本、建設できなくなって
しまう。

そこで立ち木。
たかが立ち木(失礼!)。
その立ち木を切ることで、地権者にどんな被害が及ぶというのか。
地権者の生活に、どれほどの損害を与えるというのか。

一方、静岡県側は、すでに改修費に、県は1億1000万円も支出している。
この先、さらに1億円程度の追加費用が見込まれている(C新聞)。
開港の遅れによる被害も、相当な額に達している。

それについて、地権者のO氏は、こう述べているという。

「週明けの30日に、実務レベルの話し合いに入りましょう」と。
つまり「立ち木をこちらが切るか、県に切ってもらうか。切り方はどうするか。
そんな具体的な話を詰めていきたい」(C新聞・09・3・28)と。

「実務レベルの話し合い」(?)。
たかが立ち木、150本を切り倒すために、「実務レベルの話し合い」(?)。
どこか、「?」。
私には、理解できない。

繰り返すが、たかが立ち木(失礼!)。
その上で、「(立ち木を切るには)、知事の辞任が条件」とは!

静岡空港には、いろいろ問題はある。……あった。
当初、はげしい反対運動が起きたのも事実。
その間に、いろいろな(わだかまり)ができたのも、わかる。
ここまでこじらせてしまった県側にも、問題がないとは言わない。
しかし空港は、完成した。
……してしまった。

で、やはりどう考えても、たかが立ち木(失礼!)。
私も、農地を一度、宅地に転換するとき、杉の木を、数百本植えた経験がある。
そしてその6年後、5〜8メートルを超える杉の木を、切り倒した経験がある。
切り倒すだけなら、半日でできる。
また立ち木そのものには、それほどの財産的価値はない。
このあたりでも、20〜30年木で、一反(300坪)、50〜70万円が相場。

いろいろ言いたいことはあるが、ここまで。
「こんなことがあっていいのかなあ?」と思ったところで、おしまい。
あとは、みなさんが胸の奥で考えていることと、同じ。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●態度の類似性

+++++++++++++++++

『類は友を呼ぶ』という。
『似たもの夫婦』ともいう。
人を、たがいに親近させるものは、
「類似性」ということになる。

その類似性について、シュプランガー
という学者は、つぎの6つのもの(「態度」)
に分けて考えた(参考:「性格心理学」
ナツメ社)。

(1)理論型
(2)審美型
(3)社会型
(4)経済型
(5)政治型
(6)宗教型

つまり同じ「型」が同じ者どうしは、
それぞれ、親しくなりやすいということ。
わかりやすく言えば、科学者は科学者
どうし。
芸術家は芸術家どうし、それぞれ
親しくなりやすいということ。

が、「型」がちがうと、親しくなるといっても、
そこには限界があるということらしい。
(型がちがっても、親しく交際している人も
いるが……。)

要するに、まとめて簡単に言えば、
やはり『類は友を呼ぶ』ということになる。

で、私はこれらのほかに、
親しくなる要因として、(あくまでも
親しくなる要因としてだが、)

(7)趣味型(趣味が同じ)
(8)同族型(同族意識、同窓意識)
(9)同目的型(同じ目的をもっている)

の3つを付け加えたい。

+++++++++++++++++

もっとも親近性といっても、内容もレベルも異なる。
「近所づきあい」程度のレベルから、「命を分けあう」レベルまである。
また器用な人になると、それぞれの人と、別の顔を使い分けながら、
親しくなることもある。
おそらくシュプランガーという学者は、きわめて高度な親近性を
問題にしたのだろう。
私のような凡人がつくる人間関係とは、レベルがちがう(?)。

が、ここでふと考えが止まってしまう。
では、いったい、「親友とは何か?」と。
さらに「友とは何か?」と。
あるいは、「妻は、友なのか」と。
(もちろんその反対に、「夫は、友なのか」でもよい。)

ちょうど1年前に、こんな原稿を書いた。

+++++++++++++++++

●夫婦円満のコツ

+++++++++++++++++

夫婦も長い間いっしょにいると、
たがいに相手に合わせようとする。
いがみあっているよりは、妥協できる
ところは妥協し、相手に合わせたほうが
よいと考えるようになる。
そのほうがストレスもたまらない。

こうして夫婦の間には、同調関係
が生まれる。

+++++++++++++++++

仲がよい夫婦でいるためには、たがいに好感をもっていなければならない。
これは必要条件だが、しかしそれだけではじゅうぶんではない。

たとえばこんな例で考えてみよう。

夫は、岐阜県出身で、岐阜S高校の野球チームを応援。
妻は、静岡県出身で、静岡A高校の野球チームを応援。

夏の甲子園で、岐阜S高校と静岡A高校が対戦することになった。

こういうとき夫婦として、いろいろな解決策が考えられる。

(1) 妥協…どちらかがどちらかに、合わせる。
(2) 合理化…「たかが高校野球」と考え、対立を避ける。
(3) 受容…たがいにたがいを認めあう。

これは実際、ある知人から聞いた話だが、日本人男性と結婚した
ブラジル人女性がいた。
その夫婦のばあい、ワールドカップで日本とブラジルが対戦したとき、
そのまま対立関係になってしまったという。
(実際には、妻は、ブラジル人が集まる会場で、ブラジルを応援し、
夫は家で、子どもたちと日本を応援したという。)

が、スポーツならまだしも、宗教がからむと、ことは簡単ではない。
とくに妻が、どこかのカルト教団(狂信的な信仰をする団体)に
入信したようなばあい、である。

こういうケースのばあい、(2)の合理化は、むずかしい。(3)の
受容についても、たいてい妻のほうが一方的に夫の価値観を否定する
ようになるので、それもむずかしい。

残るのは、(1)の妥協ということになるが、妻のほうが夫に妥協する
ということは、信仰そのものがもつ性質上、ありえない。
夫の側の一方的な妥協が強いられる。

が、その妥協に失敗すると、ストレスは急速に増大し、やがて限界を超える。
具体的には、「離婚」という言葉が、夫婦の間から出てくるようになる。
これは夫だけの問題ではない。
中には、「離婚はぜったいだめ」と教えるカルト教団もある。
妻自身も、信仰と離婚のはざまで、もがき苦しむことになる。

実際、その処理に失敗して、42歳という若さで、亡くなってしまった
男性がいる。
くも膜下出血だったという。
その話を聞いたとき、私はその背後で起きた、壮絶な家庭内宗教戦争を想像した。

さらによくあるケースとしては、不倫がある。

夫婦、どちらか一方の不倫が発覚したようなばあいを考えてみよう。

こういうケースでは、(1)の妥協ということは考えられない。
「あなたが不倫をしたから、私も不倫をしてきます」というわけにはいかない。
そこで(2)の合理化、もしくは(3)の受容ということになる。

合理化というのは、高校野球と同じように、「たかが不倫ではないか」と考え、
自分を納得させることをいう。
受容というのは、「夫婦といっても、たがいに束縛しあうのはよくない」などと
考えて、相手の行為を認めることをいう。
しかしそれにはかなり高度な、精神的操作が必要である。
昔、見たフランス映画に、そういうテーマを扱ったのがあった。

晩年に近づいた男性が、若い女性と結婚した。
しかし男性は、性的な満足感を妻に与えることができなかった。
そこで男性は妻の不倫を容認することによって、夫婦の愛情をさらに昇華させた。

……以上のケースは、いわば特殊な例ということになる。
こういうケースは別として、私たちは日常生活において、つねに、選択を迫られる。
妥協か、合理化か、さもなくば受容か、と。

それがじょうずに処理できる夫婦を、(仲のよい夫婦)といい、そうでない
夫婦を、そうでないという。
表面的な様子だけを見て、たとえば夫婦げんかが少ないから、仲がよいとか、
少ないからそうでないとか判断してはいけない。

あとは、たがいに前だけを見ながら、前に向かって進む。
夫婦というのは、けっして見つめあってはいけない。
それが夫婦円満のコツということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 夫婦論 夫婦円満)

+++++++++++++++++++

しかしやはり長い目で見ると、「態度の類似性」が、親近感の基本になっているのが、
わかる。
夫や妻にしてもそうで、もし夫婦円満をめざすなら、「類似性」の追求が、
そのカギを握ることになる。
だから西洋ではこう言う。

『夫婦はけっして、見つめあってはいけない。互いに手を取り、前を見て歩く』と。

で、私も今や、満61歳。
ジー様になってしまった。
そういう自分を振り返ってみると、いつも孤独との闘いだったような気がする。
友といっても、数えるほどしかいない。
「命を分かちあえる友」となると、ワイフくらいしかいない。
しかしワイフは、シュプランガーの説く「態度の類似性」の「型」の
どれにも当てはまらない。
私が考えた3つの「型」にも、当てはまらない。
あるいは「友」と考えているのは、私の思いあがりにすぎないのかもしれない。

実際には、相互に依存しているだけ。
あるいはひょっとしたら、「共依存関係」かもしれない(ゾーッ!)。
さらに「支配と服従関係」かもしれない(さらに、ゾーッ!)。

が、さらに恐ろしいことに、このところ孤独感が和らぐどころか、強くなって
いるように感ずる。
だれと話していても、「そんなことは、Aという学者が、遠い昔に説明しているの
になあ」とか、「その問題の奥には、もっと別の問題があるのになあ」と、
そんなふうに考えてしまう。
とたん、その人との間に、(距離)を感じてしまう。
ときに、その人を、超え難いほど遠くに感ずることもある。
「この人に、私の考えを説明したら、10年はかかるだろうな」と。
あるいは「分かりあうのは、永遠に不可能だろうな」と。

だからやはり、「型」ということになる。
おもしろい考え方だと思う。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
シュプランガー 態度 態度の類似性 夫婦円満 親友論 親しみ)


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●09年3月28日

++++++++++++++++++++

BW教室にもテーマ音楽がある。
私のHPの、トップページに収録してある。
(あるいは「BW公開教室」より。)

私の二男が高校生のとき、作曲、演奏したものである。
短いが、すばらしい曲である。
(多分に親バカ的評価だが……。)
何度聴いてもあきないし、聴けば聴くほど、
心が温まってくる。

で、勝手に、私が私のHPのテーマ音楽にして
しまった。
一度、二男に、「いいか?」と聞くと、「いいよ」
と言ってくれた。

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●親の後悔

その曲を聴くたびに、息子がもっていた感性に、驚く。
薄々は気がついていたが、そのときは、私のほうに、それだけの理解力がなかった。
作曲は息子の趣味だったし、息子はその範囲で遊んでいるだけと思っていた。
が、私はまちがっていた。
先にも書いたように、聴けば聴くほど、その向こうにすばらしい感性が光っているのを
知る。
今の私なら、もし身近に、そういう高校生がいたら、迷わず作曲家の道を進むよう、
アドバイスするだろう。
親も説得する。
しかし私は、それをしなかった。
息子の将来にしても、ありきたりのものしか考えていなかった。
「大学を出て……」「就職して……」と。
が、私は、息子のそういう感性を、もっと伸ばすべきだった。
またその努力すべきだった。
今、そういう後悔が、シクシクと胸をしめつける。
HPのテーマ音楽として使っているが、実のところ、聴くたびに申し訳ないことをした
という気分に襲われる。

【HPのテーマ・音楽は、以下のアドレスから……】

http://www.youtube.com/watch?v=akhdJvb4pkM

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/akhdJvb4pkM&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></
param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://
www.youtube.com/v/akhdJvb4pkM&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" 
allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></
object>


●説明会

今日は、幼児教室の説明会をした。
「中日ショッパー」という広告紙が、たびたび無料で教室の宣伝してくれた。
そのこともあって、今年は例年の2倍の親たちが、説明会に来てくれた。
うれしかった。
プラス、疲れた。
40回も経験しているはずなのに、説明会だけは、いまだに疲れる。

で、その中に、1人、孫の芽衣そっくりな女の子がいた。
名前をOさんといった。
最初から最後まで、ずっと気になっていた。
「入ってくれればいいな」と思いながら、私の教育方針を説明した。
ともかくも、この1年は、(もうけもの)。
仕事ができるだけでも、御の字。
感謝しなければいけない。

で、Oさんは入会してくれた。
うれしかった。
お母さんはどこか心配そうだったが、私が「いい子ですよ」と言うと、
安心したような表情を浮かべてくれた。
「すばらしい子にしますよ」と言いかけたが、それは言わなかった。
そんなことは、当然のこと。
だから言わなかった。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●口のうまい人(Those who flatter)

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ふつう、「口のうまい人」というときは、
つぎの2つの意味が含まれる。

ひとつは、(自分のことをよく思わせるために)、
口がうまいことをいう。

もうひとつは、(他人の悪口を言うのに)、
口がうまいことをいう。

ほかにも、お世辞がうまい、おじょうずがうまい、
おだてる、へつらう、など。
ぺらぺらとしゃべって、相手の心を、自分の
思うがまま、誘導していく。

最近、こんな会話を、ある女性(60歳)とした。
その女性が、こう言った。

「あのAさん(65歳)って、義母の介護では
苦労なさったんですってねエ……。何でも
献身的な介護だったそうですよ」と。

そこですかさず私が、「その話は、だれに聞きましたか?」
と聞くと、「Aさんです」と。

Aさんという女性は、私もよく知っている。
口のうまい人で、たとえば他人の悪口を言うときも、
さも同情しているかのような言い方で、言う。

「Bさんって、本当に、かわいそう……。
私、もう、かわいそうで、その話を聞いて、涙が
出そうになりましたア……。
いえね、ひとり息子のX男君がね、無免許で
車を運転して、逮捕されてしまったんですって……。
あんな若いのに、もう前科がついてしまったんですって……。
私、かわいそうで、かわいそうで……」と。

涙声にはなるが、しかし涙は、ぜったいに出さない。

そんな人の話を真に受けて、「苦労なさったんですってね」は、
ない。
つまり、ウソ!

++++++++++++++++++

口のうまい人には、注意したほうがよい。
それだけ悪口を言うのにも、たけている。
つまり両刃の剣(?)。

だからあなたの近くに、口のうまい人がいたら、すかさず、こう思ったらよい。
「別のところでは、私の悪口を言っているぞ」と。
それには、理由がある。

口のうまい人は、つねに、自分の心を偽っている。
あるいは自分の心が、どこにあるかもわからない。
(口がうまい)という能力には、たけているが、その分だけ、思考力が浅い。
ものの考え方が、享楽的、刹那(せつな)的、欲望的。
その場の雰囲気に合わせて、言っていることの内容が、クルクル変化する。
もちろんウソも多い。
あるいは事実とウソを、巧みに混ぜる。

だから相手によっては、今度は、あなたを、酒の肴(さかな)にする。
悪口だろうがなんだろうが、知っていることは、何でも利用する。

心理学的に言えば、心の開けない人、つまり基本的不信関係にある人とみてよい。
他人と良好な人間関係を結べない。
結べない分だけ、孤独。
だから外の世界へ出て行っては、そこでシッポを振る。
見た目は、社交的で、派手。
しかしれは、あくまでも仮面。
そのため当の本人は、疲れる。
神経疲れを起こす。
あとは、この繰り返し。

このことは、その反対の位置にいる人を見れば、わかる。
たとえば私のワイフ。
私のワイフほど、口べた女性は、そうはいない。
真正直というか、バカ正直というか……?
私のほうが、今でも、ときどきワイフにこう言うときがある。
「もう少し、おじょうずを言ったらどうだ!」と。

この世の中、ある程度は、口がうまくないと、うまく生きていかれない。
とくに商売の世界では、そうである。
それはわかるが、ことプライベートな世界では、やはりあるがままに生きた方が
よい。
そのほうが楽。
言うなれば、口のうまい人は、心の中は、ゴミだらけ。
ゴミがない分だけ、心が軽い。

で、先に書いたAさんだが、今では、だれにも相手にされていない。
みな、(私も含めて)、適当に調子を合わせているだけ。
どこまでも、どこまで、あわれで、かわいそうな女性である。
それを感じているのか、Aさんは、ますます口がうまくなる。
あとは、この悪循環。
自分で自分の墓穴を、どんどんと深くしていく。

(付記)

口のうまい人には、いろいろな特徴がみられる。
「布石」「玉石混交」が、それら。

「布石」というのは、あからじめ、別の話題の中に、重要なキーワードを混ぜる
ことをいう。
ちょうど碁に例えるなら、周辺に、ポンポンと言葉をはさんでおく。
どうでもよいような話をしながら、その間ごとに、こう言う。
「近所に、ひとり暮らしの老人がいましてね……」
「私、見るにみかねて……」
「その老人の息子がね、勝手に借家を売ってしまったんですって……」と。
そしておもむろに、こう切り出す。
「だから私、その老人のために、必要な仕事を、してあげてますのよ」と。

「玉石混交」というのは、ペラペラとどうでもよい話をしながら、その中に、
重要な話を混ぜていく。
相手が反論したり、質問できないような状態を作っておいて、それで了解を
取りつけたようにして、会話を終える。
そしてあとになって、その相手が、「話がちがいますよ」などと言ったりすると、
「あら、あなた、この前、了解してくれたではありませんか。
それを今になって、ダメだと言われても、私は困ります……」と。

こうした口のうまい人への対処方法は、ただひとつ。
そのつど会話をさえぎりながら、自分の意見をしっかりと伝えること。
けっして遠慮してはいけない。
ためらってはいけない。
それができないなら、そういう口のうまい人とは、話はしないこと。
あるいは徹底して聞き役に回り、あとは無視してすます。

私のばあいは、「ちょっと待ってくださいよ」というような言い方をして、
その人の意思や、思惑を確認するようにしている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
口のうまい人 お世辞のうまい人 へつらう人 基本的不信関係)


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●通俗性

+++++++++++++++++++++

通俗的な人は多い。
多いだけではない。
加齢とともに、さらに多くなる。
パワーをましてくる。

たとえば主夫業についても、問答無用式にこう言う。
「そりゃあ、林君、男は仕事だよ。仕事をしてこそ、
男だよ」と。

父親像についても、「父親というのはね、家の中で
デンとしているのがいいんだよ。一家の大黒柱
なんだから」と。

親論についても、「親は親だからな。どんなことがあっても、
親には逆らっちゃいけないよ。生んで育ててくれたんだからさ」と。

国家論についても、「国あっての民だろ。日本は、一民族、
一国家。この純潔さこそが、大切なんだよ」と。

こうした通俗性とは、どう闘えばよいのか。
またどうして人々は、加齢とともに、ますます通俗的に
なっていくのか。

通俗性を主張する人は、「過去」「伝統」を背負っているから強い。
自分で考えて、そう言うのではない。
「昔から、人間はこうだ」という論陣を張る。
それが転じて、「人間は、こうあるべきだ」となる。

++++++++++++++++++++++

●通俗的になる人たち

60歳を過ぎると、とたんに多くなるのが、通俗的な人たち。
思考回路そのものが、過去へ過去へと、回帰していく。
その理由として、最大のものは、脳みその退化である。
こんな例で考えてみよう。

たとえば英単語。
20代のころまでに覚えた英単語というのは、しっかりと脳みその中に残っている。
今でも、即座に、思い出せる。
しかし50代ともなると、そうはいかない。
覚えるのもたいへんだが、すぐ忘れる。
記銘力、保持力、その双方が衰える。
衰えるならまだしも、バケツの底に穴があいたような状態になる。
その穴から、知恵や知識が容赦なく、流れ出ていく。
英単語もそうだ。

それもたとえるなら、タマネギの皮のようなもの。
外側からどんどんと、はがれて落ちていく。
つまり新しい記憶ほど、早く、はがれ落ちていく。

最後に残るのは、中心部にある、古い記憶のみということになる。
このことは、介護センターにいる老人たちを見ればわかる。
あの人たちはみな、過去の話ばかりしている。
子どものころの話とか、若いころの話ばかりしている。

●例外はない

こうして考えてみると、人は、加齢とともに、通俗的になるのではなく、
若いころ身につけた、(常識?)に戻っていくということがわかる。
あるいはそのあと身につけた、知識や知恵が、はがれ落ちてしまう。
わかりやすく言えば、バカになっていくということだが、それではあまりにも失礼。
しかしそれほど、まちがってはいない。

というのも、20代以後、結構、国際的な場で活躍した人ですら、通俗的になって
いく人は、いくらでもいる。
大企業で、要職を経験したような人でも、通俗的になっていく人は、いくらでも
いる。
もちろん、小さな世界だけで生きてきた人ほど、通俗的になる。
が、やはり特別な人だけが、通俗的になっていくわけではない。

●精進(しょうじん)

では、通俗性と闘うためには、どうすればよいのか。
そのためには、何が通俗的で、何が通俗的でないかを、判断しなければならない。
たとえば「男は仕事だよ。女が仕事に口を出すのは、まちがっている」と主張する
人がいる。
「どんな親でも、親は親だからな。逆らうのはよくない」と主張する人でもよい。
(今でも、ちゃんと、いるぞ!)

そういった通俗的なものの考え方をする人に出会うと、私のばあい、絶望感に近い
ものを感じてしまう。

そういう人たちの、ガリガリになった石頭を変えるのは、まず不可能。
順に説明しようにも、それよりも早く、脳みその老化が進んでしまう。
仮に新しい思想を話しても、そういったものほど、早く、忘れてしまう。
だから、私のばあい、「そうですねエ〜」とか言って、逃げてしまう。

が、他人は他人、私は私。

では、あなたはどうか?
この文章を読んでいる、あなたは、どうか?

そこで出てくる言葉が、「精進(しょうじん)」。
私たちは常に、前に向かって進む。
脳みその底に穴があき、そこから知識や知恵が流れ出ていくなら、それ以上のものを、
毎日補充していく。
通俗性と闘うには、それしかない。
けっして通俗的であることに甘んじてはいけない。
甘んじたとたん、あなたの思想は後退する。
つまりそれ自体が、一歩、死に近づいたことを意味する。

●息(いき)ると、生(い)きる

60歳を過ぎて、「ただ息(いき)ているだけ」という人は、少なくない。
またそういう生き方を、理想の生き方と誤解している人は、多い。
ほとんどが、そうではないか。
「老後は、旅行を楽しむよ」
「孫の成長を見守るよ」
「思う存分、庭いじりをしてみたい」と。

しかしこの年齢になると、仮に1年も遊んでしまうと、もう元(もと)に戻れなくなる。
1年遊んだあと、「仕事に復帰」ということは、まずありえない。
つまり脳みその硬直化は、それくらい早いスピードで、その人を襲う。
息(いき)始めたとたん、その人は、ただ息(いき)る人になってしまう。
この私も、こうして何らかの形で、毎日文章を書いているからこそ、書ける。
が、数日も書かないでいたりすると、調子を取り戻すのに苦労する。
今年の正月がそうだった。

私は、あの恐ろしい、三日酔いにかかった。
暮れの12月30日の午後から、正月2日まで、はげしい頭痛と吐き気に苦しんだ。
体重が、62キロ台まで減ってしまった。
(ふだんは、64〜66キロ台。)

で、正月だから……ということで、そのあとパソコンに向かったが、頭の中が
モヤモヤするだけで、どうしても文章が書けなかった。
さらにこんなこともある。

私にも夏休みや春休みがある。
その休みの間、たった1週間でも、子どもたちから離れると、育児論が書けなく
なってしまう。
これは本当のことである。
けっしてオーバーなことを言っているのではない。

子育て論というのは、毎日子どもを見ていてはじめて、書ける。

●「損」

私も、考えることをやめたとたん、その時点から、通俗的になっていく。
というのも、これは、大脳連合野が司る、(思考)の問題ではないからである。
脳みそそのものの、器質的変化によるものだからである。

そういう意味では、老化は、例外なく、だれのところにもやってくる。
今、「私はだいじょうぶ」などと、高をくくっているあなたのところにも、やってくる。
ひょっとしたら、肉体の老化よりも、脳みその老化のほうが、早いのでは?
体はピンピンとしているのに、考え方そのものが、通俗性のかたまりといった人は、
少なくない。

何らかの形で、若い人たちと接点をもっている人は、まだよい。
しかしその接点をなくすと、さらに老化は進む。
それがよいことなのか、悪いことなのかということになれば、悪いことに決まっている。
「悪い」というより、「損」と考えたほうがよいかもしれない。
与えられた時間は同じでも、その時間を2倍、3倍として生きることもできる。
が、老化に身を任せてしまうと、それこそ、10年を1年にして生きるようになって
しまう。
だから、「損」。

たった一度しかない人生。
だったら、思う存分、密度の濃い人生を生きる。

●さあ、通俗性と闘おう

通俗的に生きることは、楽なこと。
みなと同じことを考え、同じことをすればよい。
しかし、まだあなたの人生が終わったわけではない。
60歳であれば、20年は、ある。
50歳であれば、30年は、ある。

20年といえば、生まれてから、成人するまでの年月に等しい。
生き方によっては、あなたは、もう一度、青春時代を経験することもできる。
あの世で生まれ変わることを願うくらいなら、現実にそこにある20年を
大切にしたほうがよい。
あの世などという、あるともないともわからないものに、希望を託すほうが、
どうかしている。

さあ、あなたも勇気を出して、通俗性と闘おう。
そういう前向きな姿勢の中から、生きるエネルギーもわいてくる。
そしてあなたの周囲で通俗的なことを口にする人がいたら、あなたは鼻先で、
フンと笑ってやればよい。

今の私が、そうしている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
通俗性 通俗的な生き方 通俗的な考え方 通俗的な人たち はやし浩司 人生論 
老後の人生論)


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

●認知症の問題
 
++++++++++++++++

認知症というと、認知症になった人だけが
問題になる。
気の毒なこととは、思う。
かわいそうとは、思う。
「私はなりたくない」とは、思う。
しかし我らその年齢の者たちは、認知症に
なることによって、周囲の人たちに、
多大な迷惑をかけることを忘れてはいけない。

++++++++++++++++

●たいへんな被害!

A氏(今年55歳)の近くに、認知症の老人(男性)が、1人住んでいる。
はっきりとした診断名はわからないが、Aさんは、「ピック病ではないか」と言っている。
アルツハイマー病に似ているが、脳のある部分だけは、そのまま。
会って話をしてみると、ふつうの人と、とくに大きなちがいは感じない。
しかし、やること、なすこと、これが、めちゃめちゃ。

道路に車を止めておいたりすると、クギかコインで、傷をつける。
ナンバープレートに、落書きする。
あるいはすぐパトカーを呼ぶ。

さらにパチンコを使って、窓ガラスを割る。
自転車のタイヤに穴をあける。
飼い犬に石を投げる。
屋根に牛乳瓶を投げる、などなど。

一度は、庭先に放火されたこともあるという。
このときはさすがのAさんも、堪忍袋の緒が切れて、警察を呼んだという。

ほかにもいろいろあるが、Aさんは、こう言う。
「犯人は、隣のX氏(今年83歳)ということはわかっているのですが、
なにしろ、証拠がないのです」と。

X氏は、毎日、毎晩、Aさんの家をのぞいているらしい。
そしてスキをうかがって、その間に、悪さをするらしい。
Aさんは、防犯用のカメラをつけたが、電源を入れていないときを見計らって、
するという。
先ほども書いたように、脳のある部分は、かなり正常(?)ということになる。

で、一度、Aさんは、息子氏(現在40歳、独身、同じH市に住む)に
相談したことがある。
が、かえってその息子氏は、怒ってしまったという。
「うちの親父はがんこだが、そんなことをするような人ではない。
親の悪口を言うやつは、許さない」と。

私自身も、認知症になるのはいやだが、しかしなったらなったとき。
が、それ以上にいやなのは、認知症になることによって、みなに、迷惑をかけること。
私のばあい、こうしてものを書くのを趣味(道楽?)にしているから、
そのうち、とんでもないことを書くようになるかもしれない。
四方八方から、名誉毀損で訴えられるようになるかもしれない。
そうなったら、どうしたらよいのか。

怒った息子たちが、私のパソコンを、片っ端から破壊するかもしれない。
想像するだけでも、ゾーッとすることだが、ありえない話ではない。

認知症というと、それにかかった人だけが問題になるが、その人によって
迷惑を蒙る人たちもいるということ。
それを忘れてはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司※

●ミサイル迎撃、反対!(改)(I am NOT a traitor to my country!)
(私は、売国奴ではない!)(Just ignore North Korea, which is the best policy!)

North Korea in NOT at all worth enough, or NOT such a country that we should treat as a 
normal country. Who in the hell shouts back to a mad dog? Therefore I am against 
shootong down the missile.

++++++++++++++++++++

K国など、相手にしてはいけない。
また相手にする価値もない。
日本は、あんな国を本気で相手にしてよいのか。
あんな国と、心中するつもりなのか。

日本よ、日本人よ、おとなになろう。
国力は、山陰地方の1県分もない。
国民は飢え、経済は壊滅状態。
頭のおかしい独裁者に率いられた、どこまでも
あわれで、どこまでも、悲しい国。
それがK国。

+++++++++++++++++++++

どこかのBLOGで、とうとうこの私が、「売国奴」に指名された。
「ミサイル迎撃反対」を唱えると、この国では、自動的に、売国奴になるらしい。
しかしあえて、繰り返す。
ミサイル迎撃、反対!

今、ここでミサイルを迎撃すれば、日本はそのままK国と、交戦状態に突入する。
すかさず彼らは、中距離ミサイルを日本へ撃ち込んでくる。
その可能性は高い。
その口実を与える。
仮にカラのミサイルであったにせよ、日本はそのまま大混乱。
日本の経済は、奈落の底へと叩き落とされる。

忘れてならないのは、K国は、まともな論理の通ずる、まともな国ではない
ということ。
「Mad Dog(狂った犬)」(アメリカ政府高官)である。
「だだをこねる子ども」(ライス前国務長官)である。
さらに言えば、「チンピラ国家」。

勇ましい好戦論にまどわされてはいけない。
日本人の怒りもわかる。
私も怒っている。
拉致問題で見せた、あの態度は、人間として許せない!
しかしここは、がまん。
ひたすら、がまん。
今まで、ずっとがまんしてきたではないか。

やりたいようにさせながら、日本は国際世論で、締めあげる。
K国を兵糧攻めにする。
一気に兵糧攻めにする。
K国を、自己崩壊へと導く。
中国や韓国はそれを恐れているが、日本にとっては、それが最善。
金xxの命も、それほど長くはない。
が、今、ここで日本が手を出せば、あとへ引けなくなる。
戦争というのは始めるのは簡単だが、終えるのは、難しい。
ブッシュのイラク戦争を例にあげるまでもない。

だいたい、あんなガラクタのようなミサイルを撃ち落とすために、
何百億ドルもかけた迎撃システムを使うこと自体、バカげている。
これを税金のムダづかいと言わずして、何という!

日本は、まだ、世界の経済大国である。
超大国である。
そんな大国が、世界でも最貧国の、暴力団国家を相手にして、どうする?
どうなる?
「正義」を説くなら、相手を選んで、説こうではないか。
あんなチンピラ国家を相手に、正義を説いても意味はない。
頭のおかしな国を相手に、正義を説いても意味はない。
説く価値もない。

だから、ミサイル迎撃反対!

繰り返す。
私は売国奴では、ない!
心底、この国を愛している!

(補記)
韓国の世論調査によると、「日本がミサイルを撃ち落としてくれればいい」を、
ほとんどの人が支持しているという(韓国紙)。
なぜか?
わかるか?

何も日本を支持しているわけではない。
もちろん日本のことを心配して、そう言っているのでもない。
K国の攻撃の矛先を、韓国から日本へかわすことができる。
日本の経済を混乱の渦の中に、巻き込むことができる。
つい去年まで、韓国は、日本にとって、最悪の反日国家だった。
それを忘れてはいけない。
つまりは、自国エゴ。

しかしここで日本が、K国のミサイルを迎撃すれば、それこそ、韓国の
思うつぼ。
K国の思うつぼ。
日本は、その術にはまってはならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
ミサイル迎撃反対 戦争反対 ミサイル迎撃 反対)


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●ビデオカメラ

+++++++++++++++++

今日、ビデオカメラを買った。
帰るとき、ワイフに、「これでお前のヌードを
たくさん撮ってあげるよ」と言うと、
「あら、いやだ。バーさんのヌードなんて、
だれが見るの?」と。

私「ぼくが、90歳になったら、見るよ。
60歳の女性のヌードだったら、感じるかも」
ワ「そのころ、あなたのモノ、役立つかしら?」
私「だいじょうぶ。自転車で、ちゃんと鍛えて
あるから」と。

で、あちこちを試し撮り。
しかしおかしなものだ。
撮るたびに、「フィルムがもったいない」という、
へんな感覚が、じゃまする。
フィルムなんか、使っていないのに……。

で、なぜ、今、ビデオカメラかって?
実は、今、YOU TUBEに凝っている。
デジタルカメラで動画を撮っている。
しかしこれが結構、不便。
どんな画像が撮れているか、撮影中はわからない。
シャッターを押しまちがえて、
動画が撮れていないことも、たびたびある。

もちろん画質も悪い。
音も悪い。

で、ビデオカメラということになった。
買ったのは、ビクターのEverio。
SDカードと、ハードディスクの両方で、
記録できる。
リモコン付き。
これなら、今までの不便がすべて解消できる。

4年間保証に入ったので、使って使って、使いまくる。
……ということで、今夜見たら、もうキズまるけ。
「どこでキズがついたのだろう?」と思ったところで、
この話は、おしまい。

みなさん、どうか、YOU TUBEを見てください。
新作を、どんどん発表していきます。

+++++++++++++++++

●脳の分化

男と女を論じるとき、意外と知られていないのが、「脳の分化」。
男は男らしい体つきになる。
女は女らしい体つきになる。
同じように、脳もまた、男性ホルモンの影響を受けて、男は、男として分化していく。

つまり基本的には、人間は、みな「女」。
それが男性ホルモンの影響を受けて、「男」へと分化していく。

では、その分化がじゅうぶんでなかったばあいには、どうなるのか。
そのばあいは、男女の(差)が、不完全なまま、おとなになる。
しかしここで最大の問題に、ぶつかる。

「男らしさとは何か」「女らしさとは何か」という問題である。

いまだかって、この命題に、明確な答を出した人はいない。
あるいは「……らしさ論」を論ずることは、まちがっているのかもしれない。
かりにあったとしても、時代、地域、国によって、(らしさ)は、みなちがう。
一般論から言えば、日本人は、(らしさ)について、きびしい。
はっきりとした(差)を求めやすい。

たとえば今はやりの「武士道」にしても、「武士」という言葉から
男をイメージすることはあっても、女をイメージする人は、まずいない。
その反対側に位置するのが、「大和なでしこ」ということになる。
広辞苑には、「日本女性の美称」とある。

武士と大和なでしこ。
この(差)こそが、日本人が考える、(らしさ)ということになる。
しかし先にも書いたように、それはけっして、世界の標準ではない。
基準でもない。

では、脳の分化とは何か。
またどういう脳を、「男性脳」といい、どういう脳を、「女性脳」というのか。
これも一般論だが、男性脳のほうが、女性脳より、やや大きいという。
また最近わかってきたことだが、女性のばあい、右脳にも言語中枢があるという。
だから女性には、おしゃべりな人が多いということにもなるが、しかし
男性でも、おしゃべりの人は多い。

ただし(性)の世界では、ちがいが大きく現れる。
たとえば、男は女のヌードを見て、性的に興奮するが、女は男のヌードを
見ても、あまり興奮しない。
ビデオカメラで女の体を撮る人の話は聞いたことはあるが、その反対の話は、
聞いたことがない。
女が男のトイレをのぞいたという話も、聞いたことがない。
ビデオショップで、エロビデオを借りる人は、男ばかり。
だいたい、ビデオショップにあるのは、男用のものばかり(?)。

そうした(ちがい)はあるが、それが脳の分化によるものと考えるには、
少し無理がある。
一度興奮状態になると、もう、男も、女もない。
そのうち女用のエロビデオも、出てくるかもしれない。
世の中には、男のヌードを撮って、楽しんでいる女もいるかもしれない。

……ともかくも、脳の分化は、その国、その時代の(文化)によって、
作られていくということ。
(分化)と(文化)。
分化と文化によって、男は男らしくなり、女な女らしくなっていく……。

ナルホド!

……と書いたが、今は、男らしさ、女らしさを、論ずる時代ではない。
男だろうが、女だろうが、人間は、みな同じ。
平等。
そういう視点から、ものを考える。
結果として、男らしくなったり、女らしくなったとしても、それはあくまでも、
「結果」。
結果を先にもってきて、それを男や女に、(そうであるべき)と、その結果を
求めてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
男女 男女の差 ジェンダー 男性脳 女性脳 男らしさ 女らしさ 脳の分化)


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090330)

●上司の死

++++++++++++++++++

昨夜、長男が固い表情で、食卓へやってきた。
「上司が急死した」と言った。
「脳内出血が原因だった」と言った。

「その2時間前には、元気でぼくと会話をしていた。
そのあと会議の席で倒れ、そのまま死んでしまった」と。

長男は、あまりにもあっけない人の死を見て、
かなりのショックを受けたらしい。
が、それ以上に、長男は、自分の心にショックを
受けたようだ。

「それがね、おかしなことに、ぜんぜん、悲しく
ないんだよ」と。

それを聞いて、私は、「そういうものかなあ?」と
思ったり、「そういうものだろうなあ」と思ったりした。

++++++++++++++++++

●「無」から「無」へ

4月に三男が結婚することになった。
そのことはともかくも、私は今、ふとこんなことを考える。
「孫たちは、今、どこにいるんだろう?」と。

結婚して子どもをつくる。
三男には、息子や娘ということになる。
私にとっては、孫ということになる。
その孫たちは、今、どこにいるのか。

人は死んで、この世から去っていく。
では反対に、今はいない、孫たちは、いったいどこから
やってくるのか。
つぎの瞬間には、今までの人生がそうであったように、
当たり前のような顔をして、孫たちは、そのあたりを
孫が遊ぶようになるだろう。
が、今は、いない。

しかし、それはそのまま私自身の問題でもある。
私は(無)の世界から生まれ、やがて死んでまた(無)の世界に
戻っていく。
100年前には、私は、たしかに(無)だった。
三男の息子や娘のように、この世には、まだいない。
そして100年後、私は、確実に(無)に戻る。
長男の上司のように、跡形(あとかた)もなく、消えてなくなる。

となると、いったい、(私)は何かということになってしまう。
長くて、100年。
100年といっても、この宇宙の中では、星がまばたきする、
その瞬間にもならない。
地球にしても、この宇宙の中では、ゴミの、そのまたゴミのようなもの。
その地球で(生)を受け、その瞬時に生き、そして死ぬ。

考えてみれば、いちいち悲しんでいるヒマさえない。
それがだれの死であっても、つぎの瞬間には、それがそのまま(私)の
死になる。

いや、そのときは長く感ずるかもしれないが、終わってみると、
みな(瞬間)。
私の母にしても、この浜松市に2年間いたはずなのに、その実感が
まるでない。
そして死んでから、もう半年。
その実感も、まるでない。
振り返ってみると、すべてが(瞬時)に終わってしまった。
が、それだけではない。

おかしなことに、本当におかしなことに、今では、「いなかったことが、
当たり前」というふうになってしまった。
「本当に母は、この世にいたのだろうか」と。

やがて孫たちは、わがもの顔で、この世をかっ歩するようになるだろう。
そしていつか、今の時代を振り返りながら、こう思うにちがいない。
「本当にぼくには、おじいちゃんがいたのだろうか」と。

こうして無数の(私)が、現れては消え、現れては消えを繰り返す。
今の(私)は、ほんのその一部でしかない。
この不思議さ。
この不可思議さ。
それを考えていると、気が遠くなるほど、自分がどんどんと小さくなって
いくのがわかる。


●ある女性の葛藤

数日前、ある女性から10年ぶりにメールが届いた。
「たいへんな」というより、「たいへん悲惨な」というべきか。
たいへん悲惨な家庭環境の中で、生まれ育った方である。
親の離婚のあと、里子に出され、そこで性的虐待、家出、放浪……。
さらに近親者の自殺などなど。

その女性の母親が、介護が必要な状態になったという。
母親といっても、その女性にしてみれば、母親の存在そのものを忘れて
しまいたいような母親である。
その女性は、忌まわしい過去を、一日でも早く忘れたいと願っている。
あるいは過去から解放されたいと願っている。

そんなとき郷里の人たちから、母親のことを知らされたらしい。
で、その女性は、その連絡を無視。
返事をしなかった。
恐らく郷里の人たちは、その女性のことを、「何という娘だ」と、
非難しているにちがいない。
そのことを気にしているわけではないだろうが、その女性は、今、
苦しんでいる。

が、この(苦しみ)だけは、それを経験したものでないとわからない。
本脳に近い部分にまで、刷り込みがなされているから、それを
(私)から切り離すのは、容易なことではない。
まさに「身を切り裂くような」苦痛と闘わねばならない。

私も、似たような状況に置かれたことがある。
で、そのときは、10か月近く、毎晩床に就くたびに、発熱が
始まり、ワイフの看病なくして、眠られなかった。
「家族自我群(=呪縛感)」による「幻惑(=苦しみ)」と闘うということは、
そういうもの。

そういうとき私にしても、「お前は息子だろ」「産んでもらったのだろ」
と言われることくらい、つらいことはなかった。
いや、世の中には、無神経なバカが多いのも事実で、表面的な部分だけを
見て、あれこれ言ってくる人もいた。
たいした用もないのに、さぐりの電話をかけてきたり、手紙を書いてきたりした
人もいる。

それでも親は親なのか。
子は子なのか。
産んでもらった恩(?)は、どこまでもついて回るものなのか。

しかしこういうこともある。
私と母の間にしても、いろいろあった。
しかし母が私の家に来て、最初の日。
私が母の下痢で汚れた尻を拭いてやったその瞬間、すべての(わだかまり)が、
煙のように消えた。
そこで手すりにつかまって立っている母は、どこまでもあわれな、か弱い
老人に過ぎなかった。

だからその女性への返事には、こう書いた。
そのまま転載する。

『こんにちは、Mさん!

苦しいお気持ち、察しいたします。
「家族」のもつ呪縛というか、それから逃れるのはたいへんなことです。
骨の髄まで燃やしつくしますから……。
しかしこの問題だけは、逃れることはできません。
まだ間にあうようでしたら、運命を受け入れて、やるべきことはやる……
ということはできませんか?
介護にしても、今は、意外なほど、楽です。
ケアマネに相談すれば、いろいろな道がありますよ。

もしそれができないというのであれば、生涯、悶々とした気分で
過ごすことを覚悟することです。
「幻惑」には、それほどまでに強い力があります。

私も苦しみました。
10か月間、ワイフに、毎晩看病してもらったほどです。
夜、床に就くと、熱が出て、うなされました。
10か月、です。
しかし母が私の家に来て、最初に、下痢の便を始末したとき、
わだかまりがウソのように消えました。

あなたのような人のほうが、(真理)に近いのですよ。
苦しむが故に、そこに(真理)があることを知るのです。

できれば『許して、忘れなさい』。
まだ間に合うよでしたら、明るい声で、電話をかけてあげなさい。
あなたも人を愛することの喜びというか、すがすがしさを覚えるはずです。

心を解き放ちなさい。
体はあとからついてきます。
この世の中、悪い人ばかりではない。
みんなが助けてくれますよ。

そしていつか、あなたも、人を助けるのです。

あなたの過去のことは、よく覚えています。
別離、離婚、身内の自殺などなど。
(もしまちがっていたら、ごめんなさい。
M様の記録は残してありませんので……。)

家族自我群(=呪縛)の苦しみは、ものすごいものです。
本脳に近い部分にまで、刷り込まれていますから……。
私が経験しましたから、これは事実です。
恨めば恨むほど、身が焼けます。

だったら、受け入れてしまうのです。
介護がたいへんだったら、そのように先方に伝えればよいでしょう。
いやだったら、正直に、「いやだ」と言えばよいのです。
逃げてはいけません。
正直に、生きるのです。

方法は、いくらでもあります。
もうあなたはじゅうぶん、苦しみました。
ここらでケリをつけたらどうでしょうか』(原文のまま)と。

親は、子を産むことで親になるが、
そのあとよき親子関係を築けるかどうかは、
まったくの別問題である。
たいていの親は、(若い親は)、「私はだいじょうぶ」と高をくくっている。
この文章を読んでいる、あなただって、そうかもしれない。
しかしよき親子関係を築ける人は、10人に1人もいない。
つまり、それくらい、むずかしい。

親友ならまわりの友人の中から選んで、作ることができる。
しかし(子)は選ぶことができない。
だからむずかしい。
この世界で、『親だから……』『子だから……』という、(ダカラ論)ほど、
アテにならないものはない。
そんな(ダカラ論)に甘えて、子の人格を無視すると、たいてい失敗する。

ともかくも、私はその女性からのメールを読んで、久しぶりに
一度は忘れた自分の過去を思い出した。
とても他人ごとには、思えなかった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
親子の確執 葛藤 親子の問題 呪縛 苦悩)


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●通俗性(続編)

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数日前、「通俗性」について書いた。
それについて、ある読者(男性)から、
こんなコメント(書き込み)があった。
何でも、その地方では、ことあるごとに、
村の長老たちが、「お前も、男だろ!」
「男らしくしろ!」と言うという。
その男性は、それが不愉快でならない、と。

これも立派な(?)、通俗性である。

++++++++++++++++

●「お前も、男だろ!」

私も若いころ、よくそう言われた。
今でも、ときどき、そういう言葉を耳にする。
「お前も、男だろ!」と。
しかしそのたびに、「だから、どうなの?」と聞き返したくなる。
「だから、それがどうしたの?」と。

こんな論理(=非論理)がまかり通るところに、日本に後進性が残っている。
日本が世界の人たちに、「奇異なる国」と呼ばれる理由がある。
が、その前に、この日本では、「男」を、どう考えているのか?
そのあたりから話を聞きたくなる。

●「男らしくしろ!」

「男らしくしろ!」という言葉も、同じ。
実は、つい昨年、私も、この言葉を言われた。
いきさつを話すと長くなるが、こうした言葉を平気で口にする人というのは、
要するに、その程度の人でしかない。

私はその言葉を言われたとき、すかさず、「じゃあ、あなたはどうなの?」と
言いそうになった。
「偉そうなことを言う前に、自分自身は、どうなの?」と。
が、相手にしなかった。
見るからに、そのレベルの人だったからである。

●男尊女卑

そこはまさに男尊女卑の世界。
いまだに武士道なるものを礼賛する人や団体は多いが、武士道なるものの負の
遺産を説くことなしに、武士道を礼賛してもらっては困る。
この武士道のおかげで、日本は、世界でも類を見ないほどの、たとえばその
ひとつとして、男尊女卑思想をもってしまった。

「男は仕事、女な家庭」という、あれである。
「内助の功」という言葉でもよい。

私が子どものころでさえ、男尊女卑思想は、まだ色濃く残っていた。
女性が今の(地位)を確立したのは、戦後のことである。
ウソだと思うなら、現在、70代、80代の人たちの考え方に、
静かに耳を傾けてみたらよい。
あなたも化石のような思想に、驚くはずである。

●孤独な世代

しかし安心してほしい。
新しい世代、若い人たちから、どんどんと(変化)が始まっている。
「仕事より家庭」と考えている人が、80%前後はいる。
出世主義も、崩壊した。
さらに「主夫業」という言葉も、日常的になってきている。
今では、料理を趣味にする男性も、多い。

つまり「お前も、男だろ!」とか、「男らしくしろ!」などと言っている人は、
その年齢の、しかもノーブレインな人(=脳みそのない人)たちである。
まともな人たちは、こういう言葉を使わない。
使ったとたん、若い人たちから、はじき飛ばされてしまう。
つまり相手にされない。

だからそういう人たちは、そういう人たちで集まり、具体的には、若い人たち
とは距離を置いた世界で集まり、たがいに慰めあう。

ただ我慢ならないのは、彼らは、私もその仲間(?)と、決めてかかってくること。
数年前も、(たった数年前だぞ)、「今の若いやつらは、先祖を粗末にする。
許せないよな、林君」と、同意を求めてきた人(当時、70歳くらい)がいた。

つまりは孤独な世代ということになる。

●ダカラ論

何をもって、「男らしく……」と言うのか、そんなことを論じても、意味はない。
「男とは何か」を論じても、意味はない。
もともと論ずる価値もない。
こういうのを総じて、『ダカラ論』という。

「親だから……」「子なんだから……」「夫なんだから……」「身内なんだから……」
「親類なんだから……」「男なんだから……」と。

そのつど使い方によっては、便利な論法だが、もともと根拠があるわけではない。
つまり一定の「型」を決めて、それを押しつけてくる。
昨日、メールをくれた女性も、そうだ。
その『ダカラ論』で苦しんでいる。

●親にもいろいろ

事情は複雑。
自分を、幼女のときに捨てた母親がいる。
その女性はそのあと、悲惨な少女期、成人期を迎えて、やっと今になって、
ささやかな「幸福」をつかんだ。
その最中、郷里の人たち(=母親が属する宗教団体の人たち)から、連絡があった。
そのあたりのことは詳しく書いてないが、きっとその人たちは、こう言って、
その女性に迫ったにちがいない。

「あなたは、娘なんだから、(親のめんどうをちゃんと、みろ!)」と。

親にもいろいろいる。
自分の親がそうであるかといって、その親像を、他人に押しつけてはいけない。
また安易に、「そうであるべき」と考えてはいけない。
事情がわかったら、そっとしておいてやるのも、周囲の人たちの思いやりという
ものではないのか。

●男女の差

前にも書いたが、日本人ほど、(男女の差)を、色濃くもっている民族というのは、
そうはいない。
日本人というのは、相撲や歌舞伎を例にあげるまでもなく、何でも「型」に
はめないと、気がすまないらしい。
男や女についても、そうである。
男や女にも、「型」がある?

しかしこれほどバカげた「型」も、そうはない。
世界には、日本でいう男女観が逆転している民族となると、いくらでもいる。
男が留守を守り、女が狩猟に出かける民族だっている。

●結論

あとはそれに気づくかどうかということ。
狭い世界だけで、ずっとその世界だけに生きてきた人には、わからない。
そういう人というのは、先にも書いたように、「化石」のようなもの。
相手にしても、しかたない。
化石のようになった石頭を、変えることなど、不可能。

だから私のばあいは、相手にしないという方法で、対処している。
相手にしたところで、どうしようもない。
それだけの向学心もない。
あるいはへたに説明したりすると、猛烈に反発してきたりする。
それ自体が、人生観になっているから、自分の人生を否定されたかのように
感ずるらしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
原始的な男女観 男女の分化 男尊女卑 男尊女卑思想 男らしく お前も男だろ
はやし浩司 だから論 ダカラ論)


Hiroshi Hayashi++++++++March・09++++++++++はやし浩司

【日本が、あぶない!】

******マガジン・臨時号*******

長い間、朝鮮問題を取り上げてきましたが、
緊急を要するので、ここに臨時号を送ります。

どうか、参考にして、みなさんは、ご自身で
お考えの上、行動してください。

*********************

【ミサイル、迎撃、反対!】

●ならず者(チンピラ)国家

++++++++++++++++++++++

今日(3−31)の外電によると、あのならず者(チンピラ)
国家は、小型核の開発に、すでに成功したらしい。
「中距離ミサイルへの搭載も、可能になった」と。

だから言わないことではない。
あのおバカ外交官のC・ヒルが、マネーに合わせて、
5年という開発年月を、K国に与えてしまった。

この先、日本は、K国の核兵器にビクビクしながら、
生きていかねばならない。

++++++++++++++++++++++

●パラドックス

「日本が何もしなければ、相手も何もしてこないだろう」と考えるのは、甘い。
相手は、そういう常識の通ずる国ではない。
スターリンでも、そこまではしなかったというような、幻想と妄想にとりつかれている。

プライドだけは、異常なまでに強い。
そのプライドが、カプセルの中で、極端に肥大化してしまった。
(子育ての世界でも、似たような現象が見られることがある。)
本来なら、風通しをよくしなければならないのだが、その風通しもしない。
だから私は、あの金xxに、こう言いたい。

「あなたの国がそんなにすばらしい国なら、世界に公開したらいい。
あなたの国がそんなにすばらしい国なら、自国の人たちに世界を見せたらいい」と。
このパラドックスに、金xxは、どう答えるつもりだろうか。

●それにしても……?

それにしても腹立たしいのは、世界の人たち。
あのバブル経済がはじけたときも、そうだった。
日本が経済的に瀕死の重傷を負ったときも、この日本に助け舟を出してくれた
国は、ひとつもなかった。
これほどまで、毎年、世界中に、援助金をばらまいているのに、その(恩)は、
どこへ消えていくのか。

今回もそうだ。

まず、アメリカが抜けた。
つづいて韓国が抜けた。
中国、ロシアは、知らん顔。
アフリカ諸国は遠いからしかたないとしても、冷たいのはアジア諸国。
だれひとり、日本の味方になってくれる国は、ない。
国連にしても、日本の分担金ばかりが巨額で、日本にとってのメリットは、
ほとんどない。

だったら、日本政府よ、もうやめよう。
日本人の税金を削ってまで、世界を援助するのは!
OECDだか、なんだか、知らないが、あんなのはムダ。
韓国にいたっては、その金を使って、日本の追い落としばかりを画策していた。

(韓国は「自力でここまで来た」と威張っているが、韓国が得意とする、
自動車産業、電子産業、造船業などなど、すべて、もとはと言えば、日本が得意と
していたもの。
鉄鋼業にしても、そうだ。
それ以外には、何もない。)

●人権で攻める

話がそれたが、アメリカだって、もうアテにならない。
アテにしても、いけない。
今しばらくは、日米関係は国際外交の基軸だが、そればかりにこだわっていると、
日本は、本当に沈没してしまう。

早ければ早いほど、よい。
私がすでに9年前から説いているように、K国は兵糧攻めにして、自滅させる。
ゆいいつの武器は、人権外交である。
「人権」を旗印に、K国を攻めて攻めて、攻めまくる。
もちろんその中には、拉致問題も含まれる。

K国の人権がどうなっているか、それを徹底的に調べて、世界に向けて発信する。
(これも今となっては、遅すぎた感もないわけではないが……。)
が、どうしてK国の人権会議が、ヨーロッパやオーストラリアでなされるのか。
どうしてこの日本では、なされないのか。

経済(=制裁)や、軍事で攻めてはいけない。
そんなことをすれば、かえって彼らは結束してしまう。
逆効果。
今が、その(結果)と考えてよい。

●では、どうするか

ここまで来たら、ポスト金xxを念頭に置きながら、その布石をしていくしかない。
金xxは、現在、重病である。
先は長くない。
そのときをにらみながら、K国が、自滅するのを待つ。
制裁するのではない。
無視する。

そのあと、K国が門戸を開いたとき、日本が「人権」という正義のために闘って
きたことを、K国の人たちに示せばよい。
だから現在のミサイル問題にしても、迎撃など、もってのほか。
仮に打ち落としても、その破片が、日本中に散らばるだけ。
そのあと、K国に、日本攻撃の口実を与えてしまう。
もしそうなら、何のための迎撃かということになる。

もともと日本が相手にしなければならないような国ではない。
警戒すべきは、核兵器のみ。
今では、そうなった。
おのおバカ外交官のせいで……。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

【4月4日、東京があぶない】(改2)
Tokyo under Attack by North Korea

++++++++++++++++++

迎撃態勢に入った日本。
それから逃げた、韓国とアメリカ。
K国は、ミサイル発射に失敗しても、
異常な思い込みによって、それを
日本のせいにするだろう。
そして3月31日、「迎撃すれば、
日本に報復する」と、日本に警告した。

K国は、テポドンに並行して、ノドンの
発射準備も始めた。
K国内、数か所で、発射準備がなされているのが、
確認されている。
その数、数百発。
すべて日本を射程に収めている。

日本がもっとも恐れるシナリオに
向って、極東アジア情勢は、今、まっしぐらに
進んでいる。

私は4月4日に、東京で人に会う約束を
していたが、キャンセル。
また東京に住む息子には、4日は、別の場所に
疎開するように指示した。

つぎの記事を順に読んでみてほしい。
それでもあなたは、「だいじょうぶ」と
思えるだろうか。

10に1つの可能性かもしれないが、
今、東京があぶない!

++++++++++++++++++

●NIKKEI(北朝鮮、ミサイル迎撃なら「本拠地(東京)を粉砕」

【ソウル=尾島島雄】北朝鮮の朝鮮中央通信は31日、「人工衛星」名目で発射した長距離
弾道ミサイルの迎撃を日本政府が検討していることに関して「日本があえて迎撃する場合、
最も威力のある軍事的手段によってすべての迎撃手段とその本拠地を、無慈悲に粉砕する
だろう」と強調した。迎撃すれば報復するとの姿勢を、これまでより強い調子で警告した
ものだ。「(迎撃は)第二次世界大戦後、60余年ぶりに鳴らす再侵略戦争の砲声とみなす」
とも断じた。(01:16) 


●聯合(日本を、粉砕する!)

【ソウル31日時事】朝鮮中央通信は31日の論評で、北朝鮮が「人工衛星」と称して発
射の準備を進めている長距離弾道ミサイルを、日本が迎撃した場合、北朝鮮は「再侵略戦
争の砲声」とみなし、「最も強力な軍事的手段によってすべての迎撃手段と、その牙城を無
慈悲に粉砕する」と警告した。韓国の聯合ニュースが伝えた。


●時事通信(戦争、前夜だ!)

【ソウル31日時事】韓国の対北朝鮮人道支援団体「良き友達」は、31日発行のニュー
スレターで、北朝鮮は「人工衛星」と称した長距離弾道ミサイルの発射を控え、緊迫した
空気に包まれていると伝えた。

それによると、民間兵力に当たる労農赤衛隊のほか、地方軍や予備役も「戦闘準備」に入
ったほか、男性は基本的に移動が禁じられ、人民軍兵士も外出が認められていないという。

北朝鮮政府当局者は地方の幹部らに対し、発射前の「緊張した情勢」を説明している。平
壌北方の平城市に住む40代男性は「戦争前夜のようだ」と話している。


●時事通信(小型核、保持!)

【ソウル31日時事】国際的な非政府組織(NGO)「国際危機グループ」(ICG)によると、
北朝鮮がプルトニウムを使用した核爆弾の小型化に成功し、中距離弾道ミサイル「ノドン」
(射程1300キロ)用の核弾頭を製造した可能性があると、米韓情報当局が分析しているこ
とが31日、明らかになった。

日本のほぼ全土を射程圏内に収めるノドンは、北朝鮮国内に多数実戦配備されており、日
本にとっては直接的な脅威となる。 


●イザ・ニュース(ノドンは、320基)

北朝鮮が実戦配備した中距離弾道ミサイル「ノドン」が最大で320基に上る可能性があ
ることが1日分かった。国際研究機関「インターナショナル・クライシス・グループ」が
3月31日に発行した北朝鮮ミサイル問題に関する報告書の中で、関係国政府の内部資料
に基づく内容として明らかにした。


●イザ・ニュース(生物・化学兵器も!)

【ベルリン=黒沢潤】北朝鮮が2008年に、生物・化学兵器への転用が可能な機器をド
イツ国内で調達しようとして、阻止されていたことが31日までに分かった。ドイツの情
報機関「連邦憲法擁護庁」のフロム長官が産経新聞の取材に対して明らかにした。


●毎日新聞(ミサイルではなく、衛星だ!)

27日には、日米韓の首席代表がワシントンで会合を開く予定だが、ミサイル発射問題で
あくまでも強硬姿勢を取る日本と米韓が足並みをそろえることができるかが焦点となる。

これに対し、北朝鮮は強硬発言を繰り返している。

朝鮮中央通信によると、北朝鮮外務省報道官は26日、「安保理で衛星打ち上げを非難する
文書の採択や取り扱いがあれば、朝鮮半島の非核化に向けたプロセスは元の状態に戻る」
と述べ、6カ国協議からの離脱や核開発再開も辞さない構えを見せた。

6カ国協議の議長国・中国にとっても北朝鮮の離脱は絶対に回避しなければならないシナ
リオだ。中国外務省の秦剛副報道局長は26日の定例会見で、「人工衛星打ち上げ」として
国際組織に通報した北朝鮮の対応に一定の理解を示しながら、「関係各国は冷静さを保ち、
6カ国協議を守っていくようにしてほしい」と述べ、安保理決議違反と主張する日米韓を
けん制した。


●朝鮮N報(韓国は、イチ、逃げた!)

北朝鮮が4月4〜8日と予告したミサイル発射の予定日が差し迫るにつれ、韓半島をめぐ
る各国の動きがあわただしくなっている。 

 周辺諸国の阻止にも関わらず、北朝鮮は連日で「宇宙の利用権」に触れ、発射に踏み切る
構えを見せている。韓日米3カ国は国連安保理で対北朝鮮制裁決議案を協議するというこ
とで一致した。しかし北朝鮮は「安保理で制裁協議をすれば、それだけで6カ国協議はな
くなる」とし、強硬策を予告している。 

 こうなる場合、北朝鮮の核問題をめぐる6カ国協議が長引き、韓半島をめぐる軍事的な緊
張は高まるほかない。こうした中、李明博(イ・ミョンバク)大統領が30日「北朝鮮の
ミサイル問題に対し、軍事的に対応することに反対する」と述べた。「迎撃しない」として
一歩後退した米国の立場と同じ脈絡だ。


●朝鮮N報(アメリカも、ニ、逃げた!)

米国は、今月27日にワシントンで開催した韓米日3カ国の対北朝鮮政策協議の前後から、
こうした政策基調を確定した。この協議に先立ち先月12日には、ロバート・ゲーツ国防
長官が北朝鮮のミサイルに対する迎撃の可能性を示唆し、強硬な対応を確約していた。し
かしゲーツ長官は、それから50日もたたない今月29日、メディアのインタビューで「北
朝鮮のミサイルを迎撃する計画はない」と表明、これにより自分の発言を事実上翻した。
ヒラリー・クリントン国務長官も、二日前の27日に迎撃計画を否定した。


●NIKKEI(日本は、迎撃する)

浜田靖一防衛相は27日、北朝鮮が「人工衛星」名目で発射した長距離弾道ミサイルが日
本領土・領海に落下した場合に迎撃する「破壊措置命令」を初めて発令した。自衛隊は同
日夜からミサイル防衛(MD)関連の部隊移動に着手。月内に配備を終え「万が一」に向
けた初の実戦運用の態勢を整える。政府は北朝鮮のミサイル発射後、5〜10分で発射の
事実を一般に通知する方針だ。


●NIKKEI(東京都は、警戒態勢)

衆参両院は31日の本会議で、北朝鮮が「人工衛星」名目で弾道ミサイルの打ち上げを準
備している問題を巡り、発射の自制を求める決議を全会一致で採択した。

一方、北朝鮮の「ミサイル」問題を受け、東京都は同日、発射時に迅速に対応できるよう、
都内の全区市町村に緊急情報を伝達する訓練を行った。

訓練は午前11時に都庁9階の指令情報室で始まった。国から発射情報の連絡が入ると、
担当者が防災行政無線とファクスで各区市町村に一斉に伝達。防災服姿の職員は緊急連絡
の段取りを確認した。都庁舎内には訓練であることを告げたうえで一斉放送を流した。


●TBS(東京とは、警戒態勢)

東京都は、北朝鮮が「人工衛星」として弾道ミサイル発射の準備を進めていることをめぐ
り、政府からの情報を都内の62の区市町村に一斉連絡する訓練を行いました。

訓練は、「『北朝鮮が飛翔体を発射した』という緊急情報を政府が11時5分に都道府県に
対して通報した」という想定で行われました。


●読売新聞(人工衛星に、カモフラージュ)

【ワシントン=宮崎健雄】北朝鮮が舞水端里(ムスダンリ)のミサイル基地に設置した発
射体の先端部は、先が細くなった円すい形ではなく、人工衛星を収納する際に使用される
球根型の形状であることが30日、米軍事研究機関「グローバル・セキュリティー」のミ
サイル専門家、チャールズ・ビック上級研究員の分析で分かった。

北朝鮮は、通信衛星を4月4〜8日の間に打ち上げると主張しており、実際に衛星を搭載
する可能性がある。

ビック氏は、米デジタルグローブ社が29日に撮影した衛星写真などを分析した。それに
よると、先端部は弾道ミサイルに使用される円すい形ではなく、大気圏に再突入する際に
必要となる姿勢制御には適していない構造だという。長さは2006年に発射されたテポ
ドン2の35メートルより、5メートルほど長いとの情報もあるという。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司※

●不気味な静けさ(ミサイル迎撃、反対!)
I am against shooting down the Missile!

++++++++++++++++++

戦争というのは、いつも、脅しあいから始まる。
「お前が、こうしたら、俺たちも、こうする」
「お前が、ああしたら、俺たちも、ああする」と。

これを繰り返しながら、互いの家にガソリンを
ぶっかけあう。
あとはどこかで火がついたら、最後。
ドカーンと爆発する。
今が、その状況と考えてよい。

++++++++++++++++++

●集団性と依存性

「みんなと行動を共にしていれば、安心」「だれかが何とかしてくれる」と。
こうした集団性と依存性は、人間が本来もっている、本脳のようなものかもしれない。
日本人は、とくにその意識が強い。
魚だって、集団で行動するのは、いくらでもいる。
哺乳類動物でもいる。
サルでもいる。
人間も、その延長線上にいる。

で、私はこれから食料の買いだめに行ってくる。
予算は、○万円。
量にして、1か月分。
この先、この日本で、何が起こるかわからない。
10に1つでも、戦争の可能性があるなら、その準備だけはしておいたほうがよい。

生き残るためには、いつも集団性と依存性と闘わねばならない。
いや、恐ろしいのは、この(静けさ)。
この(静けさ)は、いったい、どこから来るのか?
つい先日、東京都のI知事は、「もっと緊張感をもつべき」と発言した。
当然である。
また常に一匹オオカミで生きてきた人物であるが故の、発言と考えてよい。

●金xxの戦略

これはあくまでも最悪のケースにおけるシナリオである。
あくまでもシナリオ。
しかし(現実)は、そこまでひっ迫している。

(1)ミサイル(K国は人工衛星と主張)の迎撃を突破口として、宣戦布告する。
(2)同時に間髪を入れず、日本の主要基地と空港を攻撃する。
(3)同時に韓国の主要基地と空港を攻撃する。
(4)同時に、100万人の陸上部隊を、一気に南下させる。

日米韓が反撃の態勢をとるまでに、1週間はかかると言われている。
その間に、金xxは、軍隊をプサンまで南下させる。
両軍が混在しあえば、アメリカ軍といえども、手を出せなくなる。
また今回は、アメリカ軍も、地上軍を派遣するようなことまでは、しないだろう。

こうした(現実)を見据えて、韓国もアメリカも、現実的なものの考え方に転向した。
「ミサイルを撃ちあげても、軍事的な制裁はしない」と。
ただ日本だけが、「自国を防衛する権利はある」と、迎撃態勢をとった。
それを受けて、アメリカのクリントン国務長官は、すかさず、「(日本を)支持する」と。

実に狡猾(こうかつ)な「支持」である。
支持といっても、裏付けのまったくない支持。
つまりカラ手形。

こんなものを信じて、日本は、迎撃に走ってはいけない。
何度も繰り返すが、日本は、あんな狂った国を、本気で相手にしてはいけない。
その価値もない。
それとも日本は、あんな国と、心中でもするつもりでいるのか。

日本がK国と交戦状態に入れば、それを喜ぶのが、ロシアであり、中国ということに
なる。
アメリカも韓国も、喜ぶ。

昨日の中央N報の社説を読んだか?
そこにはこうある。

「今こそ、現代(自動車)が、トヨタに追いつく絶好のチャンス」(3・31)と。
円高、ウォン安を利用して、「トヨタを追撃せよ」と。

迎撃態勢をとってしまった以上、もう何とも言えないが、(態勢)だけで、ここは
矛(ほこ)を収める。
情報だけ収集して、次回に備える。

●心配な、ASO首相

心配なのは、あのASO首相。
頼まれもしないうちに、アメリカまでのこのこと出かけていって、「ドル基軸通貨支持」を
表明した。
頼まれもしないうちから、韓国までのこのこと出かけていって、総額600億ドルの
スワップ協定を結んでしまった。

日本人特有の、(お人好し外交)である。
「これだけのことをしてあげたのだから、相手は感謝しているハズ」と。
しかしこんな外交政策は、世界には通用しない。
とくにアメリカ人には、通用しない。
そういう発想そのものが、ない。

本来なら、日本が、最後まで外交カードとしてもっていなければならないカードを、
相手に見せるだけならまだしも、先に与えてしまった。
こんなおバカな外交政策が、どこにある?

そして今は、クリントン国務長官の(支持?)に気をよくして、ミサイル迎撃に
突っ走っている。
「支持してくれたのだから、何かをしてくれるハズ」と。

待て、ASO首相!

まず、中身を確かめろ。
中身を見極めろ。
『ハズ論』だけで、ぜったいに日本の外交方針を決めてはいけない。

実はこの『ハズ論』にしても、つまるところ、集団性と依存性の変形とみてよい。
昔、私にこんなことを言った小学生(女児、5年生)がいた。

「明日、遠足を休む」と。

それで私が、「学校の先生に連絡したの?」と聞くと、その小学生は、こう言った。
「今日、学校を早引きしたのだから、先生はわかっていてくれるハズ」と。

●ともかくも、単独行動

これからやるべきことが、いくつかある。
食料の買いだめについては、先に書いた。
ほかに、

(1)発電機の点検(ちゃんと動くかどうか、テスト)
(2)ガソリンの買い置き
(3)通帳など、重要書類の保管(いつでも持ち出しできるようにしておく)

私はこうしていままで、一匹オオカミとして、生き延びてきた。
これからも一匹オオカミとして、生き延びてやる。

実のところ、この浜松基地もあぶない。
K国はミサイルを使うとしたら、初期の段階で、全発、使うだろう。
(残しておいても、意味はない。)
300数十発が、臨戦態勢に入っているということだから、日本本土に150発前後
とみてよい。
150発なら、当然、この浜松基地も、その中に入る。

細菌兵器にせよ、化学兵器にせよ、1発で、約20万人が死傷すると計算されている。
都会の密集地なら、もっと多くなる。

「私は田舎に住んでいるからだいじょうぶ」などと、もしあなたが考えているとしたら、
甘い。

仮に原子力発電所近辺に、ミサイルが落ちれば、そのまま発電所は、ノーコン
の状態になる。
その結果、メルトダウンを起こせば、日本中で、あのチェルノブイリで起きたのと
同じことが起きる。
福井県の原子力発電所一基が、メルトダウンを起こせば、中部地方には、人は
だれも住めなくなる。

だから繰り返す。
日本よ、日本人よ、おとなになろう。
あんな国を、本気で相手にしてはいけない。
またその価値もない。
街のチンピラに因縁をつけられても、あなたは無視するだろう。
同じように無視すればよい。

だからミサイル、迎撃反対!
(2009−4−1記)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●4月1日

++++++++++++++++++

今日は、朝から頭痛。
悪寒。
それで朝風呂に入った。
が、これがよくなかった。
今度は熱が出てきた。
……ということで、昼過ぎまで、
床の中。

布団乾燥機をつけて、汗を
タラタラかいた。

あとは気力。
「ええい、ままよ!」と起きて、
庭木の枝切り。
どこかフワフワする体を
だまし、だまし、作業は終了。

夕方、食料の買い出し。
店に並んでいる缶詰類が、
いつもより少なく感じたのは、
気のせいか?

戦争になったら、みな、我も、我もと、
買い出しにくるにちがいない。

何ごともなければ、そのほうが
よいに決まっている……。

ところでまだ2009年なのに、
2010年の講演依頼が、2本、
今日、入った。

内心では、「だいじょうぶかなあ?」と
思ったが、それは言わなかった。

生きているとは思うが、脳梗塞か何かに
なっているかもしれない。
あるいは認知症か何かになって
いるかもしれない。

このところ、そんな心配が、脳を
かすめることが多くなった。

どうも自分に自信がもてない。
困ったことだ。

+++++++++++++++++

●疎開

その三男に、昨夜電話した。
「4日は、東京から離れろ」と。

日本人はよく、平和ボケしていると言われる。
三男は、とくに平和ボケしている。
あの世代は、「戦争なんてあるわけがない」と信じ込んでいる。
まさに逆カルト。
信じすぎるのもよくないが、信じすぎないのもよくない。
だから、「逆カルト」。

私がいろいろ説明しても、上(うわ)の空(?)。
しかたないので、メールで、資料を送ってやった。

まっ、それで死んでも、私のせいではない。
私はちゃんと警告したぞ!

K国の軍部たちは、あせっている。
金xxの命が長くないことを知っている。
だから、やけのやんぱちで、戦争に打って出る。
私は、そう読んだ。

4日は、私も浜松市から離れる。
この浜松市も、あぶない。
浜松の航空自衛隊には、エイワックス、早期レーダー
監視機が常駐している。


●1発で、20万人が死傷

核兵器も、化学・生物兵器も、ほぼ同じような被害をもたらす。
一般的には、ノドン一発で、約20万人の人が死傷すると言われている。
たとえば、仮に1キロトンの核兵器が、東京都内(霞が関)で炸裂したばあい、

(1)昼間であれば、4シーベルト以上の放射能を浴びて、約9万人がほぼ即死。
(2)1シーベルト以上の放射能を浴びて、15万人が、深刻な障害、後遺症を残す。
(3)風速、風向きによってもちがうが、97万人が、胎児影響など、後遺症が残すと
推計されている(高田純著、「東京に核兵器テロ」)。

ついでながら、広島へ落とされた原爆は、15キロトン。

化学・生物兵器も、ほぼ同じ程度の被害をもたらすと考えられている。
で、あのイスラエルでは、主に化学兵器を想定した訓練を、国内で頻繁に行っている。

もしK国のミサイルを迎撃するのであれば、(1)国民全員に、ガスマスクを配布する。(2)
地下シェルターを用意する。
そうした準備や用意もないまま、「ミサイル迎撃」は、ない。
あまりにも無謀、無防備。

とにかくここは、逃げるしかない。
そのとき、その日の風向きを見ながら、風上に逃げる。
部屋に閉じこもるときは、隙間をガムテープなどで、埋める。
イスラエルで配布されている冊子によると、

(1)家の中でも、窓の小さい(あるいは少ない)部屋にいる。
(2)ドアなどの隙間を、粘着テープで埋める。
(3)窓を爆風などに対して、補強する、とある。

K国が日本へ、ノドン型のミサイルを撃ち込んでくるとしたら、弾頭には、
化学兵器を積んでいると考えるべき。

その恐ろしさは、あの地下鉄サリン事件で、実証済み。

4月4日は、日本にとって、たいへんな日になりそうである。
そうならないことを願っているが、油断大敵。
つねに最悪のばあいを想定しながら、行動する。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●ミサイル、迎撃、反対!
I am against shooting down the Missile from North Korea!
『But on that September day we were unprepared. We
did not grasp the magnitude of a threat that had
been gathering over time. As we detail in our report,
this was a failure of policy, management, capability,
and - above all - a failure of imagination』
Commission Report of USA)

++++++++++++++++++

「やれ、やれ、やっちまえ! ケリをつけろ!」
という意見は論外であるとしても、こんな意見も
あった。

「ミサイル迎撃反対という意見があるのには、
驚きました。あなたはミサイルが落ちてきてら、
死ねというのですか。あなたは死ぬ覚悟が
できているのですか」(女性?)と。

++++++++++++++++++

相手がまともな国であるなら、そういう意見も、
よいだろう。
通るだろう。
「驚きました」と書くのも、よい。
しかしまともでないから、私は反対する。
ここで迎撃すれば、日本とK国は、そのまま
交戦状態へと突入する。

戦争というのは、何度も書くが、始めるのは簡単。
しかし終えるのは、むずかしい。
たいへん、むずかしい。
ブッシュのイラク戦争を見れば、それがわかるはず。
仮に戦争ということにでもなれば、たとえ被害は
なくても、日本の経済は、そのまま奈落の底に。
今の今ですら、日本は、薄氷の上を歩くような国家運営を
強いられている。

わかるか?
K国は、日本を攻撃することはできても、
日本はK国を攻撃することができないのだぞ!
その武器もない。

「アメリカが何とかしてくれる」という意見もあるが、
それは甘い。
アメリカには、もうその力はない。
余力もない。
アメリカ人の立場になってみれば、それがわかるはず。
「どうして日本を守る義務が、アメリカにあるのだ」と。

で、日本は、あんな国と、心中などしてはいけない。
その価値もない。
また「正義」を説くなら、相手を選ぶ。
あんな国を相手に、正義を説いても意味はない。
「狂った犬」(アメリカ政府高官)を相手に、
正義を説いて、どうする?
どうなる?

私が「ミサイル迎撃、反対」を唱えるのは、
何もK国に味方しているからではない。
日本がどうなってもよいと考えているからでもない。
日本がたいへん危険な状況に立たされることになるから、
「反対!」と言っている。

何もテポドンだけが、K国のミサイルではない。

テポドン1、テポドン2のほかに、
最近開発したと言われている、新型IBM、
ノドン、スカッドB、スカッドCなどがある。
ノドンについては、320基。
すべてに生物・化学兵器が搭載されている。
爆弾ではない。
爆弾など積んでも意味はない。
ノドン1基で、せいぜい小さなビルを1個破壊できる程度。
320基、すべてを発射したとしても、
アメリカの戦略爆撃機12機分の搭載量にもならない。
(ノドンの弾頭は、1トン程度。B52の積載能力は、27トン。)

しかし生物・化学兵器なら、1基分で、約20万人の
人間を、殺傷できる。
それでも「迎撃!」というのなら、イスラエルのように、
国民全員に、ガスマスクを配布してからにしてほしい。
国民全員が入れる、地下シェルターを用意して
からにしてほしい。

そういうことを何もせず、ただ「迎撃!」というのは、
あまりにも危険すぎる。
無謀!
バカげている!

私が主張するのは、「彼らに開戦の口実を与えては
ならない」ということ。
日本では昔から、こう言うではないか。
『触(さわ)らぬ神に、たたりなし』と。

「ならば正義はどうなるか」と質問する人も
いるだろう。
しかし何度も繰り返すが、あんな国を相手に、
正義を説いても、意味はない。

さらに言えば、あの独裁者の思考回路は、私たち
日本人のそれとは、まったくちがうということ。

中身は、妄想のかたまり。
被害妄想という、妄想のかたまり。
かつてのスターリンそっくり!
「国が貧しいのも、みんな、日本のせい。
アメリカのせい」と。
加えて彼らの反日感情には、ものすごいものがある。
現在の今の今も、あの韓国においてですら、「K国より、
日本のほうが恐ろしい」と、考えている人のほうが
多いことを忘れてはいけない。

今、ここで日本が、ミサイルを迎撃すれば、
そのあと日本がどうなるか、それをほんの少しだけでも、
想像してみればよい。
「想像」だ。
その想像力こそが、重要。

一説によれば、(あくまでも一説だが)、
すでにこの日本には、1000人単位の、K国の
工作員が潜入しているという。
「1万人」という説もある。
それについても、きちんとした対策ができているなら、
「迎撃」もよいだろう。

さらに海岸に点在する、原子力施設の防御は、どうする?
どうなっている?
ウラン燃料加工施設などの防御は、どうする?
どうなっている?
どの一つでも破壊されたら、その周辺数百キロは、
そのまま汚染されてしまう。

で、今、ここで日本がミサイルを迎撃すれば、
ロシア、中国が喜ぶ。
つい先日、中国の高官は、こう言った。
「(日朝が開戦しても)、(遠い海の向うの話だから)、私たちには
関係ない」と。

アメリカも喜ぶ。
迎撃ミサイル1発、170億円。
10発撃てば、1700億円。
日本中に迎撃ミサイルを配備すれば、???兆円!
ゼーンブ、アメリカ製!
(実際には、その周辺装備も必要なので、
その金額は天文学的数字になる。)

が、一番喜ぶのは、韓国。
「これで日本を太平洋の海溝に沈めることができる」
(ノ前大統領)と。
先日の世論調査でも、「日本の迎撃、賛成」という人が、
大半を占めた。

何も日本のことを心配して、そう言っているのではない。
それによって、K国の敵意を、日本へかわすことができる。
つづく社説(中央N報)には、こうあった。
「現代(自動車)が、トヨタを追い落とすチャンス」と。
この社説は、「円高・ウォン安」について書いたものだが、
しかしそれが韓国の人たちの本音と考えてよい。

日本の敵(?)は、何もK国だけではない。
日本人の私たちにはその意識はなくても、
日本は、先の大戦で、そういう反日感情ができても
しかたないようなことを、してしまった。
いまだにその責任すら、日本は、公式には認めていない。
が、それはそれとして、今、ここでK国に手を
出してはいけない。
迎撃態勢の構えだけは見せても、手を出してはいけない。

あまりにも危険だから、手を出してはいけない。
だから、ミサイル迎撃、反対!

ついでに、想像力について、総務省・消防局の
HPに、こんな一文が載っていた。
そのまま引用させてもらう。

『But on that September day we were unprepared. We
did not grasp the magnitude of a threat that had
been gathering over time. As we detail in our report,
this was a failure of policy, management, capability,
and - above all - a failure of imagination.
(9・11調査委員会報告書・総務省消防庁HPより)
その9月の日、我々は侮っていた。我々は、情報はあった
が、その脅威の大きさを把握していなかった。それは、政策、
運営、能力の問題でもあったが、何よりも指摘しなくてはな
らないのは、想像力の欠如だった』と。

いろいろと考えさせられる文章である。

で、最後に、冒頭に載せた女性(?)へ、一言。

あなたの怒りもわかる。
私も怒っている。
しかしあなたが思っている以上に、
この日本のことを心配している。

仮に20万人の死傷者が出たとき、どうする?
その対策はきちんとできているのか?
それが200万人になったら、どうする?
その対策はきちんとできているのか?

「まさか、いくらなんでも、K国でも
そこまではしない」と考えているとしたら、
あなたは、甘い。
そういう(常識)が通らない国、それが
K国である。

だからこそ、私は、こう主張している。
「あんな国を、本気で相手にしてはいけない」と。
ここで相手にすれば、それこそまさに、
K国の思うつぼ。
中国、ロシアの思うつぼ。
アメリカ、韓国の思うつぼ。
そのワナにはまってはいけない!

だから、ミサイル迎撃、反対!
(09−4−2記)

(補記)
ロンドンで今開かれている、先進20か国による「金融サミット」の席で、
我が国の「おバカ首相」(週刊文春)は、「(ミサイル迎撃を韓国に)、容認してもらった」
「(アメリカに)支持してもらった」と、ひとり、はしゃいでいる。

こういう発想そのものが、恐ろしい。
まず迎撃ありきという発想が、恐ろしい。
持てる武器を、すべて使うという発想が、恐ろしい。
さらに言えば、すべてカラ手形。
「容認」にせよ、「支持」にせよ、確固たる裏付けがあるわけではない。
彼らが、(そのあと)、何をしてくれるというのか?

だいたいこの国家存亡の危機の最中に、どうして我が国の宰相が、外国にいるのか?
私が首相なら、日本に帰って陣頭指揮をとる。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●ミサイル迎撃、反対!(4−2、夕方)
We never shoot down the Missile. It is a TRAP!

++++++++++++++

現在、K国、国内は、
統制がきかないほどまでに、
秩序が崩壊している。
経済も、壊滅状態。

こういう状況のとき、独裁者は、
何を考えるか?

まさに公式どおりの行動に出る。
「公式どおり」だ。

日本よ、日本人よ、その公式に
はまるな!
ワナだぞ!
彼らは戦争という突突破口を開き、
一気に国内の緊張感を高める。

現在のK国にとって、もっとも
大義名分の立つ国、それが
我が国、JAPAN。

4月2日夕刻、3つの外電が、ネットに
公開された。

この3つをじっくりと読んでほしい。

+++++++++++++++++

 【NIKKEI NET】(迎撃すれば、ただちに報復)

北朝鮮の人民軍総参謀部は2日、国際機関に「人工衛星打ち上げ」と通報した問題に関し
て「重大報道」を発表し「日本が迎撃行為を敢行すれば、我が軍隊はすでに展開している
迎撃手段のみならず、重要対象にも断固たる報復の火の雷を浴びせるだろう」と主張した。
日本が領土・領海に発射物が落下する危険に備えて迎撃態勢を整えたことをけん制する狙
いだ。 

 朝鮮中央放送などの報道をラヂオプレスが伝えた。報道は「宇宙空間の平和利用は主権
国家の合法的権利で、衛星発射は正義の事業だ」と改めて強調。日本を「発射を敵対行為
と決めつけ、騒々しくわめき立てている」と非難した。さらに、米国には「被害を受けた
くなければ展開した武力を遅滞なく撤収させるべきだ」と要求、韓国にも「発射を妨害し
てはならない」と警告した。 (18:47)

【時事通信】(ミグ戦闘機、日本に向け配置)
韓国の聯合ニュースは2日、北朝鮮が長距離弾道ミサイルを発射準備中の咸鏡北道舞水端
里に近い空軍基地に、ミグ23戦闘機を配置したと報じた。日本のミサイル迎撃態勢に対抗
した動きとみられる。韓国政府筋の話として伝えた。 

【朝鮮N報】(ただちに報復する)
北朝鮮の人民軍総参謀部は2日、長距離ミサイルに転用可能なロケット(北朝鮮は人工衛
星と主張)の発射について、韓米日の対応・措置と関連、「われわれの革命武力は高度な戦
闘準備態勢を整えており、敵対勢力がわれわれの平和的な衛星に対しわずかな"迎撃"の
動きでも見せれば、直ちに正義の報復打撃戦を開始する」と主張した。

 総参謀部は「われわれの革命武力は平和的な衛星の迎撃を行う者たちに対し、断固たる
対応打撃を行う。日本が分別なくわれわれの平和的な衛星発射に対し迎撃行為を敢行した
場合、わが人民軍は容赦なく、すでに展開している(日本の)迎撃手段だけでなく、重要
対象にも断固たる報復打撃を行う」と警告した。

 総参謀部は米国について、「われわれの平和的な衛星発射と関連した自分たち(米国)の
立場を明確にしたからには、被害を受けたくなければ、現在展開している兵力を速やかに
撤収させるべきだ」と述べた。

 また韓国に対しては、「米国や日本にこび、民族の誇りであるわれわれの衛星発射を妨害
してはならない」と主張した。

++++++++++++++++++

心配なのは、あのASO首相。
肝心の経済サミットでは、またまた失言し、ドイツを怒らせてしまった(4月2日)。
それはさておき、ASO首相は、いったいどのような訓示を、防衛相に残したのか?
私は、それが心配でならない。

何度も繰り返すが、日本は、あんな国と心中するつもりなのか?
「正義」を説くなら、相手を選んで説け!
あんな国を、まともに相手にして、どうする?
どうなる?

もてる最高度の武器を、迷わず投入する。
その発想は、K国の金xxのそれと、どこもちがわない。

もし迎撃するならするで、その準備を先にしたらよい。
イスラエルのように、国民全員に防毒マスクを用意しろ。
地下シェルターを用意しろ。
迎撃ミサイルを配備するのは、そのあとだ。

K国の戦略は、少しずつ緊張を高め、日本と開戦し、
自国民の不満を、日本にそらすこと。
どうしてその意図が、わからないのか!

日本がK国と戦争状態になれば、まっさきにそれを
喜ぶのが、(喜ぶぞ!)、中国とロシア。
アメリカと韓国。

どうしてそれがわからないのか!

頭のおかしい独裁者を相手に戦争をして、どうする。
どうなる。
日本よ、日本人よ、ここは冷静に!
迎撃態勢をとってしまった以上、それについては
しかたない。
が、けっして、迎撃してはいけない。
たかが1トンにもならない弾頭ではないか。
軽自動車1台分にもならない。

そんな弾頭めがけて、1発170億円もするミサイルを、
バンバンと撃ちあげて、それでよいのか。
そのあと、320発のノドンが追いかけてくるぞ!
それぞれには、化学兵器、生物兵器が満載しているぞ!
その迎撃は、どうするのか!

頭を冷やせ、日本よ、日本人よ!

相手はチンピラ国家。
「ならず者国家」でも構わない。
因縁をつけられたら、無視。
無視するのが、最善。

もし私が金xxと同じ思考回路をもっていたら、
こう考える。

ミサイル(人工衛星でもよい)を、わざと
迎撃コースに乗せて、迎撃高度で飛ばす。
わざと日本に迎撃させる。
これで開戦の大義名分が立つ。

そこでジェット戦闘機を発進させ、緊張を高める。
ジェット戦闘機は、いわば「オトリ」。
日本側は、難なく、それを撃墜するだろう。
が、そのあと、日本にノドンの雨を降らす……。

……どうしてこんな簡単なことがわからないのか!
日本は、そのワナに、今わざわざと飛び込もうと
している。

放っておいても、崩壊→自滅する国ではないか。

で、肝心のASO首相は、日本をこれほどまでの
危険にさらしながら、現在は、イギリス。
またまたおバカな発言で、今度はドイツを
怒らせてしまった。

そんな程度の首相に、日本の命運を任せてよいのか。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

(追伸)【ミサイル迎撃、反対】

+++++++++++++++++++

さらに4月2日、午後8時ごろ、K国は、新たな
声明を出した。

そのまま転載する。

【NIKKEI】(日本を攻撃する!)

北朝鮮の人民軍総参謀部は2日、国際機関に「人工衛星打ち上げ」と通報した問題に関し
て「重大報道」を発表し「日本が迎撃行為を敢行すれば、我が軍隊はすでに展開している
迎撃手段のみならず、重要対象にも断固たる報復の火の雷を浴びせるだろう」と主張した。
日本が領土・領海に発射物が落下する危険に備えて迎撃態勢を整えたことをけん制する狙
いだ。 

++++++++++++++++

 朝鮮中央放送などの報道をラヂオプレスが伝えた。軍総参謀部が「重大報道」を発表し
たのは初めて。報道は「宇宙空間の平和利用は主権国家の合法的権利で、衛星発射は正義
の事業だ」と改めて強調。日本を「発射を敵対行為と決めつけ、騒々しくわめき立ててい
る」と非難した。さらに、米国には「被害を受けたくなければ展開した武力を遅滞なく撤
収させるべきだ」と要求、韓国にも「発射を妨害してはならない」と警告した。 (18:47)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●4月3日(我が国の首相)
The honorable Prime Minister of Japan in London

++++++++++++++++++++

肝心のASO首相は、「迎撃命令」だけ出して、
自分は、今、ロンドンに。
あの首相は、劇画か、ギャグの世界に生きているよう。
現実感が、まるでない。

80%の国民が、「やめろ!」の大合唱をしているのに、
会議(経済サミット)では、始終、意味のわからない
笑みをニタニタと浮かべているだけ。

その様子が、ネット・ニュースでつぎつぎと
配信されている。

(1)もっとも格下扱いを受ける。
(2)失言でドイツを怒らせる。
(3)ミサイル問題、空振り。

以下、IZA・ニュースより、一部を転載。

+++++++++++++++++++++

【IZAニュース】(4・2日)(もっとも格下の扱い)

G20首脳の中で、ASO首相が序列の一番低い扱いを受け、同行の政府関係者らが困惑して
いる。

 金融サミットでは、会議での発言順などが、(1)国家元首(2)「行政府の長」−となっている。
行政府の長の場合は、在任期間の長い順番となっている。

記事本文の続き 麻生首相は「行政府の長」で在任期間もその中で最も短い。このため、金融
サミット関連の行事ではG20の首脳で最初に会場に入り、最後に会場を出る役目になった。

 やきもきする周囲に、当のASO首相は「そういうルールだから」と淡々としているが、同行筋
からは「日本はたくさん金を出しているのになぁ…」とのため息も出ている。(ロンドン 今堀守
通)

+++++++++++++++

【IZAニュース】(4・2日)(ASO首相、失言でドイツを怒らせる)

【ロンドン=藤沢志穂子】1日付の英フィナンシャル・タイムズ(FT)のインタビューでASO首相
が、追加の景気刺激策に消極的とされるドイツを、名指しで「批判」したことが波紋を呼んでい
る。

 インタビューは第2回主要20カ国・地域(G20)金融サミットでの訪英直前に東京で行われた
もの。同紙によると、ASO首相は景気刺激策の需要性について「理解している国とそうでない
国がある。ドイツがそれに当たる」などと発言、わざわざG20の亀裂を表面化させたとしてい
る。

++++++++++++++++

【IZAニュース】(ミサイル問題、空振り!)

ロンドンで開幕した第2回主要20カ国・地域(G20)金融サミット(首脳会合)は、金融経済危
機への対応策がメーンテーマだが、ASO首相(68)だけは、「K国のミサイル発射問題」で孤
軍奮闘を続けている。

記事本文の続き 4月1日午前(日本時間同日夕)に行われた韓国の李明博大統領(66)との
首脳会談。両首脳は、K国が「人工衛星」と称して発射しようとしている、事実上の長距離弾道
ミサイル発射が、明確な国連の安全保障理事会決議違反であり、安保理での対応が必要との
認識で一致した。さらに李大統領は、ミサイルが日本領域に落下する危険性がある場合、自
衛隊は国民を守るためにミサイル防衛(MDシステムで迎撃できるとの考えも表明した。

 ■温度差を露呈

 麻生首相は、3月31日の記者会見でも「K国が発射を強行したら、安保理で決議の可能性
も念頭に置きつつ議論していくのは当然だ」と語っており、ロンドンサミットで、一致結束した「国
際世論」を広げたいところだった。
 だが、それは容易ではなかった。

 李大統領はロンドンサミットに先立ち、3月29日付の英紙「フィナンシャル・タイムズ」のインタ
ビューで、「(自国民保護の目的を超えて)軍事的に対応することは反対だ」と日本のミサイル
迎撃を牽制(けんせい)してみせ、米国すら「(米国を標的としない限り)何らかの対応をする用
意はない」(ゲーツ国防長官)と迎撃しない方針。危機を目の前にした日本政府との温度差は
あらわになっている


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●金(マネー)だけ、バラまけばよいというものではないのだが……

++++++++++++++++

だれからも相手にされない我が国のASO首相は、
せっこらせっこらと、金(マネー)だけバラまいている。
こんなことでよいのか、国際政治?

++++++++++++++++

【ロンドン=尾山宏】ASO首相は2日、第2回金融サミットの一連の会合で、アジア各国に対す
る最大2兆円の政府開発援助(ODA)供与や、自ら指示した日本の追加景気対策などを説明
し、世界経済の回復に向け貢献を続ける方針を表明した。(読売新聞)

【ロンドン=藤沢志穂子】第2回主要20カ国・地域(G20)金融サミット(首脳会合)では、世界
経済の危機脱却と景気の早期回復に向け、各国トップが強い意思を打ち出した。日本も国際
通貨基金(IMF)など途上国支援のために国際機関への資金拠出で一定の存在感を示した。
しかし、肝心の国内の景気回復をめぐって課題は山積している。日本の政府・与党は4月半ば
をめどに追加経済対策を取りまとめる予定だが、どこまで実効性のある対策を示せるかが今
後の焦点となりそうだ。(産経新聞)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●三男が結婚!

三男が結婚することになった。
相手の女性は、K子さんという。
気品のある、理知的な女性である。
明るく、すなお。
私の書斎をのぞいて、「ここで
HPが生まれるのですね」と、
声をかけてくれた。
三男にしては、超・上出来!

「気品」というのは、もって生まれた
性質のようなもの。
英語で言えば、「ソフィスティケイティド」。
「洗練された」という意味。

よかった!
私はガサガサした女性が、あまり好きではない。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●脳の老化

+++++++++++++++++++

パソコンの世界には、デュアルコアとか、
クアッドコアとかいう言葉がある。
わかりやすく言えば、コンピュータに、
脳みそが、2つとか、
4つ、ついていることをいう。

実は人間も、そのときどきおいて、
いくつかの脳みそを同時に使う。
このことは講演をしているときに、よくわかる。

+++++++++++++++++++

●思考の多角性

そこには(話している私)と、(時間をみている私)がいる。

(話している私)は、そこにいる。
そのとき、(時間をみている私)は、「あと15分だ。
結論に話をもっていけ」とかいうように、私に命令くだす。

で、このことを脳の老化に当てはめてみる。
子どもの脳と比較してみると、それがよくわかる。
以下のような能力が、全般に鈍くなる。

(1)柔軟性(臨機応変に、ものごとに対処できる。)
(2)多角性(いろいろな角度から、同時に考えることができる。)
(3)俊敏性(瞬間に判断し、反応できる。)
(4)予見性(あらかじめ相手の先を読む。)

ここでいう(時間をみている私)というのは、(2)の多角性の
問題ということになる。
ひとつのことしながらも、同時に別のことを考える。
たとえば買い物に行くときも、車を運転しながら、
「ほかに必要なものはないか」と考えるなど。
それができなくなると、何かと失敗が多くなる。
ミスが多くなる。

ひとつのことしていると、頭の中は、そのことだけ、
といった状態になる。

●子どもの脳みそ

一方、子どもの脳みそは、これら4つの機能が、同時に働く。
それが速い。
テンポも速い。
切り替えも速い。
いつも、2つ、3つのことを同時に考えている。

幼児にしても、「幼児は幼稚」と考えてはいけない。
全体的に見ても、おとなの能力より、すぐれている。
無知で未経験かもしれないが、それを除けば、
おとなより、すぐれている。

こうした認識不足は、教材制作の世界で、よく見られる。

幼児向けの教材を作るとき、おとなたちは、頭の中で
幼児の姿を想像しながら作る。
そのとき、「幼児というのは、こういうものだろう」
「幼児だから、この程度だろう」と、勝手に想像しながら作る。
だからおもしろくない。
つまらない。
子どもに、あきられる。

子どものCPUのクロック数は、おとなのそれより2倍〜は、速い。
つまり頭の回転が、それだけ速い。
柔軟性、多角性、俊敏性、予見性のあらゆる分野で、速い。
幼児が本来もつテンポが、どういうものか知りたかったら、
私のHPから、「BW公開教室」をのぞいてみてほしい。
それでわかるはず。

それが加齢とともに、つまりそのあたりを頂点に、退化していく。

●退化を防ぐために

では、どうすればよいのか。
私自身についても、このところ、うっかりミスが多くなった。
ときどき自分に自信がもてなくなるときがある。
だから旅行に出かけるときも、あらかじめきちんと用意しておかないと、
落ち着かない。
その日の朝になって、あわてて用意したりすると、たいてい何かを忘れる。

買い物にしても、そうだ。
そして今日も、そういう失敗をした。

●乗りまちがえた電車

今日、岐阜へ行くとき、豊橋で名鉄に乗ってしまった。
ちょうど朝のラッシュアワーで、たいへんな思いをした。
しかしそのことを、私は知っていたはず。

だからこのところ、ずっと、岐阜へ行くときは、JR線に乗っていた。
これだと、浜松から、そのまま→豊橋→岐阜へと行ける。

が、今日は、それを忘れてしまった。
ラッシュアワーの電車に飛び乗ったとき、「しまった!」と思った。
が、問題は、どうしてそれに気がつかなかったかということ。

ほんのもう少し、多角的にものを考えるクセがついていれば、
そんなことは、すぐわかったはず。
が、それがわからなかった。

……ということで、ますます自分に自信がもてなくなった。
これから先、私のコラムは、1人の人間が、徐々にボケていく、
その過程を書くことになるかもしれない。

私のコラムを読んで、「ああ、人間って、こういうふうにしてボケて
いくんだ」と思う人も出てくるかもしれない。


Hiroshi Hayashi++++++++April・09++++++++++++はやし浩司

●法事

今日、郷里で、父の33回忌をすませてきた。
「33回忌!」。
父が死んで、もう33年になる!
実際には、満32年ということか。
法事では、独特の年数の数え方をする。

たとえば母は、昨年、2008年に他界した。
今年、2009年が、一周忌。
が、もう来年、2010には、それが3回忌になる。

こうして毎年、何らかの法事がつづく。


●4月3日

帰り際、住職に、「明日はたいへんな日になるかもしれませんね」と
声をかけると、「???」というような様子。
「へたをすれば、日本が戦争になるかもしれません」と告げると、
「ああ」と言って、笑った。

私は、「みんな、のんきだなあ」と思った。
が、それは言わなかった。

しかしその半面、私が感じている、この胸騒ぎは何なのか。
「あまりにも、みな、のんきすぎる」と。

ただ日本の姿勢が、大きく変わった。
当初、「迎撃、迎撃」と叫んでいたのが、「万が一……」に変わり、
「飛翔物が日本に落ちたばあい……」に変わった。

●再び、テポドン

アメリカの代わりに、テポドンを迎撃して、何になる?
日本にとって怖いのは、テポドンではない。
ノドンである。
テポドンのことは、アメリカに任せておけばよい。

それをあの首相が、早々と「迎撃」を口にするものだから、
日本としては、引っ込みがつかなくなってしまった。
「迎撃」という言葉を使うにしても、最後の最後でよかった!

それにICBMの開発で困るのは、アメリカであって、日本ではない。
日本にとっての脅威は、ノドン。
すでに320基が、実戦配備されている。
どうしてあの首相は、頼まれもしないうちから、何でも先走って
してしまうのだろう?


Hiroshi Hayashi++++++++April・09++++++++++++はやし浩司

●電車の中で

++++++++++++++++++

豊橋からは、名鉄電車に乗った。
午前8時24分発。
いつもはプラットフォームの手前にある発券所で、
指定席を買う。
しかしここでミス。
この時間帯は、通勤客に指定席を取られ、空席はない。

しかたないので、そのまま電車に。
が、そこで、ギョーッ!
すでに客車は、満員状態。
ラッシュアワーだった。

+++++++++++++++++++++

私とワイフは、つり革と、鉄棒にそれぞれ手を延ばして、つかまった。
しばらくすると、電車は走りだした。
「まちがえたね」と言うと、「うん」とワイフ。

この時間帯のときは、JRで、浜松駅からそのまま岐阜行きに乗ったほうがよい。
わかっていたが、それをすっかり忘れていた。
これも脳の老化の始まりか?
ものごとを多角的に考えることができない。

で、その電車の中でのこと。

●空いた席

連結部に近いところは、シルバー・シートになっている。
ちょうど5人が座れるスペースがある。
そこに5人の若い男女が座っていた。
車内は、身動きもままならないほど、混雑していた。

が、2つ目の駅で、目の前の席が空いた。
「……」と思う間もなく、うしろから1人の女性がその席にカバンを置いた。
と、同時に、うしろで2人の女性が、こんなやりとりをした。

「あなた座ってよ」
「いいの、いいの」
「あなた座ってよ」
「私は立っているから、いいの」と。

●余裕のない女性

電車が動き出すと、最初にカバンを置いた女性がその席に座った。
が、始終、落ち着きなく、目を隣にやっている。
隣の席が空くのを待っているよう。
心の動きが、よくわかった。

そうして2つ目、3つ目の駅を通りすぎた。
そのあたりで、その女性が、隣の若い女性に声をかけた。
「どちらまで……」
「金山(かなやま)まで……」と。

車内は名古屋が近づくにつれて、ますます混んできた。
私たちはそこからさらに1人分、中へと押し込まれた。
むっとするような空気。
よどんだ空気。

●もう1人の女性

私はその女性を観察した。
立っているもう1人の女性のことが、よほど、気になるらしい。
ときどき小刻みに、そちらに視線を送る。
と、同時に、隣の席が空くのを待っている。

立っている女性は、親友か?
仕事仲間か?
それとも……?
2人も、年齢は40歳くらいだった。
そのときはじめて、その女性の年齢を推察した。

電車は、金山に近づいてきた。
隣の若い女性が、バッグを手に持ちなおした。
それに合わせて、その女性は、カバンを持ちなおした。
席が空いたらすかさず、カバンを置くつもりらしい。

●緊迫した一瞬(?)

私はその女性に興味をもった。
こういうとき、女性は、どんなことを考えているのだろう、と。

ときどきその女性は、目を閉じた。
しかし眠るふうでもない。
そのつど目を薄くあげ、横目で、チラチラと隣を見ていた。
そして金山……というとき、隣の若い女性が、席を離れる動作をしてみせた。
再びバッグを手に持ちなおし、コートの端をそろえた。

「立つぞ……」と思ったそのとき、もう1人、その横の女性も、席を立った。
ワイフは私のそばに立っていた。
私が「空いたよ」と声をかけると、そのままワイフは着席モードに入った。
同時に、その女性の隣の若い女性も立った。

すかさず、女性は、立っている女性に声をかけた。
「空いたから、いらっしゃい」と。
緊迫した一瞬だった。
(大げさかな?)

が、立っていた女性は、どこか迷惑そう。
ありがた迷惑といったふうだった。
軽く、押し問答が、2、3言、つづいた。

「どうぞ、どうぞ」
「はあ、いいんですよ……」と。

●並んで座る

座っていた女性は、立っていた女性に気をつかっていた。
一方、立っていた女性は、そういうふうに、気をつかわれるのが
いやといった様子だった。
が、先から座っていた女性には、それがわからない(?)。

それが私にも、よくわかった。
だから立っていた女性は、始終、座っていた女性に背を向けていた。
混んではいたが、その気になれば、位置を替えられたはず。

そのことは並んで座ったとき、わかった。
先から座っていた女性が、とたん、ペチャペチャと話し始めた。
あとから横に座った女性は、一方的に、聞き役に回った。

道理で!

のどかな光景だった。
ちょうど町のビルの頭越しに、朝の光が、差し込んでくるころ。
ペチャペチャ、ウンウン、ペチャペチャ、ウンウン……と。

ほんの5,6分で、電車は名古屋駅に着いた。
どっと客が降りた。
その女性たちも降りた。
そのあとすぐ、ガランとした静けさが、車内へ流れ込んできた。
かすかなドラマを洗い流すかのように……。

(09年4月3日記)


Hiroshi Hayashi++++++++APRIL・09++++++++++++はやし浩司

●神と悪魔

+++++++++++++++++

神が、「善」の集合体であるとするなら、
悪魔は、「悪」の集合体ということになる。

つまり人間の脳の中には、無意識のまま集合化された
部分がある(ユング)。
何10万年という長い年月を経て、進化論的に
集合された部分と考えてよい。
それが「善」の根源であり、「悪」の根源と
考えてよいのでは?

++++++++++++++++++++

が、ただの無意識かというと、そうでもない。
ときにこの無意識が「意識」として、具現化することがある。
幻聴、幻視、幻覚でもよい。
健常な人でも、「夢」という形で、それを見ることがある。
ともかくも、人間がそれを意識的にとらえることがある。
それが「神」であり、「悪魔」ということになる。

たとえば熱心な信仰者は、近くに神や、仏を感じることがあるという。
「祈っていたら、神の気配がした」とか、
「読経をしていたら、仏の慈悲に包まれた」とか、など。

これは無意識下の集合体が、意識の世界で認知されたときに起こる
現象と考えられなくもない。

で、さらに最近では一歩、研究が進み、そうした善悪を司って
いるのが、辺縁系の中の扁桃核(扁桃体)ということもわかってきた。
何かよいことをすると、それが扁桃核に伝えられ、そこでの指令に応じて、
モルヒネ様の物質が脳内に分泌される。
それが脳の中を、甘い陶酔感で満たす。
「いいことをすると、気持ちいい」という感覚は、まさに、それによって生まれる。

●性善説

人間が善か悪かということになれば、(今、ここに存在する)という
事実が、(善)の証(あかし)ということになる。
もし人間が、もともと悪であるなら、人間は、とっくの昔に絶滅していたことになる。
たとえば同類の人間を平気で殺したり、食べたりするなど。

この世では、善なるものだけが、自然淘汰の世界で、生き延びることができる。
動物にせよ、植物にせよ、それには例外はない。
言い換えると、無意識下に集合された部分は、基本的には善ということになる。
が、善だけでは生きていかれない。
種族間での闘争、個々の生存競争などなど。
そこから「悪」が生まれた。
言うなれば、心の闇の部分ということになる。

そのため人間は生きる過程の中で、常に、善と悪を戦わせている。
「よりよい自分でいよう」という欲求と、「他人を蹴落としてでも」という欲望。
この2つの欲望のはざまで、人間は、もがき、苦しむ。
が、結果として、いつも「善」が勝ち、人間は、現在に至るまで生き延びてきた。
繰り返すが、もし人間が悪なる存在であったとするなら、人間はとっくの昔に、
自然淘汰されたはずである。
で、こうした闘争は、そのほとんどは無意識下でなされるため、
人間がそれを意識することはない。

が、ここにきて、人間の性善説に対して、大きな疑問が起きてきた。
「このままでは、人類はもちろん、ありとあらゆる生物が死滅するかもしれない」
という可能性である。

さらに深刻なことに、人間は自らを、(自然)から切り離してしまった。
この地球上のありとあらゆる生物は、単独では生きていかれない。
たがいに依存しあいながら、またたがいに連鎖を保ちながら、生きている。
またそれが「善」の証(あかし)ということにもなる。

たとえばオールマイティ(全能)の動物がいたとしよう。
食物連鎖の頂点に立ち、こわいものがない。
他の動物はもちろん、あらゆる植物ですら餌として、食することができる。
もしそんな動物がいたとしたら、その動物は、やがて地球上すべてに
はびこることになり、今度は、絶滅する。
食物をすべて食べつくしてしまうからである。
人間が、そういった動物になりつつある。

●新しい自然論

「自然を大切にする」ということは、自らを、自然の一部として認め、
その中に身を置くことである。
つまり「大切にする」という(対立的)なものではなく、「自然の中で
謙虚に生きる」という、(同調的)なものである。
もっと言えば、私たちとて、「食べられる存在である」という謙虚さ。
その謙虚さを保つことをいう。

この謙虚さを忘れたとき、人間は、そのまままっしぐらに、絶滅へと向かう。
つまりそれが「悪」ということになる。
「悪魔」でもよい。

結論が飛躍するが、その反対にあるものが、「善」の根源ということになる。

(このつづきは、また別の機会に考えてみたい。)
…to be continued


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

【ミサイル迎撃反対!】(4月4日、午前10時)
I am against shooting down the Missile (April 4th)

***************************

みなさん、私たちの子どもを、戦争から守りましょう。
戦争の被害者にしてはなりません!
「臆病者」と言われても、ここは、『負けるが勝ち』。
あんな国を本気で相手にしてはいけません!

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●ワナ(Trap)

++++++++++++++++++++

「ほんの少しでも迎撃すれば、報復する」と
主張する、K国(中日新聞・4・4)。

一方、かなりトーンダウンさせたものの、
いまだに、「落下物は迎撃する」とがんばる、
日本政府。

時事通信は、つぎのように伝える(4・4)。

『政府は4日午前、北朝鮮による「人工衛星」名目での長距離弾道ミサイル発射に備え、
厳戒態勢に入った。「衛星」は東北地方上空を通過する可能性が高いとされるが、日本の領
土・領海に落下する場合は、ミサイル防衛(MD)システムにより初めて迎撃する方針』と。

この2つのニュースを足して読んだら、どうなるか?
日本の命運は、K国のミサイル発射実験結果に、
ゆだねられていることになる。

日本よ、日本政府よ、今ならまだ、間に合う。
迎撃ミサイルは、威嚇だけにして、発射するな。
たとえ落下物が、日本に落ちることになっても、
思いとどまれ。

笑われても、思いとどまれ。
この世界には、『負けるが勝ち』という格言さえある。

韓国の軍事専門家は、「日本が迎撃すれば、
そのあと10〜20発のノドンを、K国は
発射するつもり」(韓国紙)と読んでいる。
もしそうなれば、日本とK国は、そのまま
戦闘状態に突入する。

++++++++++++++++++++

相手は、道理の通ずる国ではない。
道理のわかる国でもない。
しかも今回は、K国も本気だぞ!
そんな国を相手に、日本は心中するつもりなのか?

これはK国がしかけたワナ。
今、そのワナに、日本はまんまとかかろうとしている。
彼らは、自分の権力維持のために、自国民の
目を、外に向けさせようとしている。
標的は、もちろん、このJAPAN!

同じ韓国の軍事専門家は、「テポドンを、わざと
日本本土に向ける可能性もある」と警告している。

そうでなくても、今、日本は、孤立無援。
薄氷の上を歩くような経済運営を強いられている。
こんなとき、ドンと背中をたたかれたら、
日本は、どうなる?
ほんの少しだけ、想像力を働かせば、
だれにだってわかること。

どうしても「迎撃」ということになれば、その前に、
320基と言われる、ノドンは、どうするのか?
すでに日本全土を標的に、実戦配備についている。

もてる最高度の武器を使いたがる……。
その発想は、K国のそれと、どこもちがわない。
まるで子どもの(おもちゃ)。
しかし、1発、170億円だぞ。
システム全体で、1兆円だぞ!
いや、おもちゃで、すまないから、怖い。

今の日本は、あんな国をまともに相手にしてはいけない。
またその価値もない。
世界から笑われてもよいから、今は、がまん。
今まで、がまんしてきたではないか。

あのASO首相は、こう述べている。
「国民が被害を受けることは断固阻止しなければならない。
万全を期して対応してほしい」(IZAニュース)と。

かっこいい!
かっこよすぎる!

が、「国民」という言葉を使うなら、「国民の80%が
不支持」という現実を、ASO首相は、どう考えているのか。
本当に日本のことを考えているなら、まず、自らに恥じて、
辞任すべき。
今回の緊張状態を、まさか、自分の政権維持のために
利用しているとは思いたくはないが、どこかにその意図が、
見え隠れする。

いいのか、日本!
あんな国を本気で相手にしていいのか?
ASO総理に、命運を託していいのか?

この場に及んで、勇ましい主戦論を説く人が多いのには驚いた。
何度も繰り返すが、もしそうなら、まず、
日本人すべてにガスマスクを配布しろ。
地下シェルターを用意しろ。
320基すべてのノドンを迎撃できるようにしろ。
……などなど。

後方の備えをまったくしないで、このまま戦争に突入したら、
日本は、どうなる?
少しは頭を冷やして、ものを考えろ!

……今回ほど、こうした文章を書きながら、自分の書いたことが
的中しないことを願ったことはない。
何ごともなく、無事、終わってほしい。
私が書いたことが、すべて杞憂(きゆう)に終わってほしい。
「あのはやし浩司は、バカなことを書いていた」で、
終わってほしい。

今なら、間に合う!
ミサイル迎撃、反対!

+++++++++++++++++++++++

私は、あのASO首相が、心配でならない。
現実の世界に生きているというよりは、劇画の世界で
生きているような人である。

アメリカのニューヨーク・タイムズ紙でさえ、
「(ASO首相は)、は、扇動的な発言からは誠実さも賢明さもうかがえない」
と酷評した人物である(毎日新聞)※。

どうか、どうか、ひとり、粋(いき)がって、
無茶なことをしないでほしい。

(注※1)アメリカのニューヨーク・タイムズは、日中関係や靖国神社参拝などをめぐる
ASOの歴史認識発言を取りあげ、「扇動的な発言からは誠実さも賢明さもうかがえない」
と批判する社説を掲載したことがある。

社説は「日本の攻撃的な外相」と題し、外相が「天皇陛下の(靖国神社)参拝が一番だ」
と述べたことや、日本の植民地支配下の台湾で教育水準があがったことを指摘した発言を
取りあげ、「一連のがくぜんとする発言により、アジアの人々の反感を買った」と批判。(以
上、毎日新聞)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●逆・大本営発表

+++++++++++++++++++

午前10時、K国中央放送は、ミサイルの
発射を予告した。
「まもなく、衛星を打ち上げる」と。
そのときNHKは、こうもつづけた。
「テレビ、ラジオのニュースに注意してほしい」と。

+++++++++++++++++++

で、私は、その時刻からずっと、ラジオを
つけっぱなしにした。
が、ニュースは、それだけ
そのあとは、ただのトーク番組。
テーマは「俳句づくり」、つづいて「人生の春」。
正午になって、簡単なニュース。
が、その途中で、臨時ニュース。

ギョッとして耳を傾けると、「飛翔体が発射された」と。
しかしそれはすぐ、誤探知と、否定された。
5分後のことだった。

で、そのあともまた、トーク番組。
現在時刻は、午後2時30分。
変化なし。
K国の予告時間帯は、午後4時まで。
「ひょっとしたら、失敗?」という期待が、胸の中でふくらむ。

が、それにしても、そんなわけで、私は、午前中3時間、
午後もほぼ3時間、くだらないトーク番組を聴かされた。
平和時ならまだしも、こういう緊急時に、トーク番組とは!

私たち民衆に、不要な不安と心配を与えたくない?
それはわかるが、あまりにも平和ボケ!

インターネットの海外ニュースのほうでは、K国のみならず、
韓国の動きまで、かなり詳しく伝えられている。
K国の軍隊の動きまで、伝えられている。
が、NHKでは、トーク番組?
この違和感というか、落差に驚く。
いったい、NHKは、どういう情報網をもっているのか?
情報源は、内閣に設置された緊急連絡網のみ。
あとは迎撃ミサイルを設置した自衛隊周辺の様子だけ。
こんな報道が、どこにある?
またそのために、「テレビ、ラジオの情報に注意してほしい」は、ない!

ともかくも、日本人がここまで平和ボケしているとは、思ってもみなかった。
この緊張感のなさ。
この(ゆるみ)。
(たるみ)。

シンガポールでさえ、それぞれの家にシェルターの設置が義務付けられている。
アパートですら、設置が義務付けられている(1994年以後)。
そういった緊迫感が、この日本には、まるでない。

本来ならNHKあたりは、情勢を詳しく分析し、その裏づけとなる
情報を逐一、報道しなければならない。
一日中、臨時ニュースを流したところでおかしくない。
少なくとも、K国の軍事情勢くらいについての解説はしてほしい。

で、今は(午後2時40分)、高校野球の会長へのインタビュー番組。
それがもう40分もつづいている。
中身は、「高校生は学生が本分。文武両道でなければならない」という話。
こんなくだらない話を、長々と聞かされながら、ラジオに耳を傾ける。

……遠い昔、NHKは、大本営発表というウソ放送ばかり流していた。
が、今は、逆。
「なんでもありません」という、ナンセンス番組ばかり。
ウソではないが、何も肝心なことを話さない。
称して、「逆・大本営発表」。
平和ボケするように、NHKが率先して、国民を誘導している(?)。
どうしてこんなときに、高校野球の会長とのインタビュー番組なのか。
疑問、疑問、ただただ疑問。
こんなトーク番組を聞かせるために、「テレビ、ラジオのニュースに
注意してほしい」は、ない。

(付記)

この段階ではまだ何とも言えないが、時刻は、今、午後3時。
どうやら今日は、ミサイルの発射はないようだ。
つまり失敗(?)。
打ち上げる前に、しぼんでしまった(?)。
つまり『大山鳴動して、ネズミ一匹』(?)。
ネズミ一匹も出てこなかった。

今ごろ金xxは、顔を真っ赤にして、怒りまくっているにちがいない。
「技術者は、みな処刑!」と。

あと1時間。
どうなるんだろ?
どうするんだろ?
すでにK国内では、記念切手まで発行している。
金xxは、どうやって、自分を弁解するんだろ?
なお午後3時のNHKニュースは、こう伝えている。
「現地では、風速8〜10メートルの風が吹いている」と。

どうやらK国は、今度の失敗を、風のせいにするつもりらしい。


Hiroshi Hayashi++++++++APRIL・09++++++++++++はやし浩司

●NHKのトーク番組

今日は、8時間近く、NHKラジオを聴いた。
ニュース以外は、みな、トーク番組。
その合間に、音楽。

久しぶりにラジオに耳を傾けたが、あまりのレベルの低さに驚く。
「レベル」といか、制作費がほとんどといってよいほど、かかっていない。
スタジオで、2人前後の人が、たがいに話しているだけ。
午後3時5分以後は、今度は、川柳。

全国から寄せられた川柳を、読み上げては、ゲラゲラ、キャハハハ、と。
それだけ。
その繰り返し。
つまりただの愚民番組。
こんな番組を聴いて、何になるのか?

外へ出て取材したり、あるいは地道な積み重ねをしたという番組は、ゼロ。
土曜日の午後というのに、このお粗末さ。
情報がまるで川のように流れてきて、それがそのまま通り過ぎていくだけ。
原稿の世界で言えば、(つっこみ)が、甘い。
そのときどき、ゲラゲラ、キャハハハと笑って、おしまい。
それでおしまい。

いいのか、日本!
こんなことで!


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●ASO首相(ミサイル迎撃、反対!)

++++++++++++++++++

得意の外交のはずだったが、ASO首相が
動けば動くほど、日本は孤立化していく。

今、日本が嫌われている。
ASO首相という首相を通して、日本が
嫌われている。

世界が日本を見るとき、世界は、国のリーダー、
つまりASO首相を通して、日本を見る。
一国のリーダーの印象が、その国全体の
印象を決めてしまうことがある。

今の今が、そのときかもしれない。

++++++++++++++++++

とても残念なことに、ASO首相の海外での評価は、きわめて低い。
見る人は、ちゃんと見ている。
今回のミサイル問題にしても、日本は、クリントン国務長官に、
完全に嫌われた。
つまり、つまはじき!

もう一度、ASO首相についての、ニューヨーク・タイムズの記事を紹介する。
ASO氏が外務大臣時代のものだが、外国人に与える印象は、おおむね、
こんなものだと思ってよい。

『……アメリカのニューヨーク・タイムズ紙は、2月13日、日中関係や靖国神社参拝な
どをめぐるASO外相の最近の歴史認識発言を取りあげ、「扇動的な発言からは誠実さも賢
明さもうかがえない」と批判する社説を掲載した。

 社説は「日本の攻撃的な外相」と題し、外相が「天皇陛下の(靖国神社)参拝が一番だ」
と述べたことや、日本の植民地支配下の台湾で教育水準があがったことを指摘した発言を
取りあげ、「一連のがくぜんとする発言により、アジアの人々の反感を買った」と批判』(以
上、毎日新聞)と。

頼まれもしないうちから、「迎撃」「迎撃」と騒ぐから、日本は引っ込みがつかなくなって
しまった。
テポドンが発射されて、いちばん困るのは、アメリカ。
ICBMは、日本には、関係ない。
すでに日本を射程に収めるノドンは、すでに実戦配備済み。
その数、320基。

「迎撃」などという、攻撃的な言葉は、最後の最後に使う。
ミサイルを配置するとしても、極秘に行う。
そんなのは、この世界の常識。
どうしてあの首相は、こうまでおバカなのか。

日本人は、「これだけのことをしてあげたのだから、相手は感謝しているハズ」
という『ハズ論』だけで動く。
しかしこんな論理は、世界では通用しない。
とくにアメリカ人には、通用しない。
まったく通用しない。
そういう感覚そのものがない。

ともかくも、明日からも、イヤ〜〜ナ緊張感はつづく。
どうか、どうか、ミサイルなど、迎撃しないでほしい。
たとえ日本に一部が落下してくることになっても、そのままに!
ガラクタを落とすために、1発、170億円もかける必要はない。
一式、1兆円だぞ!

ここは『負けるが、勝ち』。
おとなになって、一歩退く。
それが日本を守ることになる。

繰り返す。
相手は、まともな国ではない。
そんな国を相手に、正義を説いて、どうする?
どうなる?

ミサイル迎撃、反対!


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●攻撃的な産経新聞
(Don't shoot down the Missile! If we do so, it's the beginning of the War! North Korea is 
a very very poor country. We should not start the war, even if we are said "coward". The 
important thing is that we should note let the young boys send to the war-field.)

++++++++++++++++++++++

なぜこの日本が、中国、ロシアに見放され、
ついで韓国、アメリカに見放されるか、
つぎの記事を読めば、あなたにもわかるはず。

産経新聞は、「東京発・特派員」として、きわめて攻撃的な
社説を配信した(4・4・夜)。
K国のミサイルを、断固、迎撃せよという内容のものである。

++++++++++++++++++++++

それをそのまま転載させてもらう。

*************以下、産経新聞より***************

 K国の長距離弾道ミサイル「テポドン2号」の発射が、今日以降に繰り延べされた。全
世界が注視する発射だから、金xx将軍は誰よりも緊張に震えているのだろう。もし、日
本のミサイル破壊命令でテポドン2号が迎撃されでもすれば、北の情勢は劇的に変わる可
能性を秘めている。

 9日は最高人民会議が開かれ、15日は先代の金xxの誕生日だから、発射に成功すれ
ば国威発揚の機会だが、撃墜されればメンツ丸つぶれだ。撃てども逆襲を食らっては、そ
の優劣は明らかだ。発射情報のミスに臆(おく)することはない。

 迎撃されれば、北の"首領"としての地位が揺らぎ、伝えられる後継者指名の思惑だって分
からなくなる。核も弾道ミサイル開発も、将軍様の求心力の源泉であり、威信をかけたプ
ロジェクトである。人々の飢えなど微塵(みじん)も考えず、核とミサイルにカネをつぎ
込んできた。

 だからこそ、日本による迎撃のそぶりには、さすがの将軍様も大あわてだった。朝鮮通
信がわざわざ重大報道と銘打ち、「断固たる報復攻撃を加える」だの「火の雷を浴びせる」
だのと最大限の脅しを繰り返した。あれはむしろ、迎撃回避の懇願に違いない。

 2006年のように発射から40秒で燃え尽きてしまえば技術改良の失敗であり、これ
も将軍様の権威にかかわる。まして、米国のオバマ新政権を挑発して対価を稼ごうとした
思惑がはずれる。実験に立ち会っているというイランへのミサイル技術供与も危うい。

 K国は93年に短距離のノドンを、98年にはテポドン1号を発射して飛距離を伸ばし
てきた。K国はそれ以来、一貫して米国本土に達するミサイルの研究開発と、核弾頭の搭
載を目指してきた。

 過去に、K国が日本列島上空にミサイルを通過させても、日本海に7発連射しても、日
米の報復を受けなかったから今回も遠慮なくやろうとした。K国にとっての発射実験は、
実入りよりリスクの方が大きくなければやめない。だが、ASO首相が意外や「破壊命令」
を出したから将軍様は仰天した。

 それなのに、某官房副長官は愚かにも「ピストルの弾同士が当たるのは難しい」と足を
引っ張った。敵対国に撃墜必至と思わせなければ、発射を躊躇(ちゅうちょ)する抑止に
はならない。安全保障観のない政府高官はごめんこうむる。

 中国とロシアもK国の跳ね上がりに苦虫をかみつぶしている。日本のミサイル防衛(M
D)がうまく機能して、テポドンがイージス艦や地上配備のパトリオットに撃墜されると、
実戦で「MDの有効性」が立証されてしまう。K国の核が無力化するだけでなく、確率が
限定的でも、中国の核もまた対日攻撃に使いにくい兵器になる。

 K国が譲歩するときとは、「体制崩壊」につながる経済制裁か軍事侵攻である。ゲーツ米
国防長官が先月29日の米テレビで、「外交よりも経済制裁の方が成功する」と述べている
のがそれだ。

 各国は粛々と国連安保理決議違反として国連で経済制裁を取りあげればよいのだ。K国
が報復に「6カ国協議を崩壊させる」と息巻いても、あれはすでに崩壊している。援助が
ほしければ、日米韓でも日米韓中露とでも交渉のテーブルに着けばよいだけである。

 日本にとって重要なことは、MD計画の地道な努力があったからこそ、K国の恫喝(ど
うかつ)にもパニックにならずに済んでいることだ。逆説的にいえば、北はまたも「そこ
にある危機」を日本人に気付かせてくれた。

*************以上、産経新聞より***************

以上の内容を、順に吟味してみよう。
産経新聞は、つぎのように伝える。

●撃墜されればメンツ丸つぶれだ。撃てども逆襲を食らっては、その優劣は明らかだ。発
射情報のミスに臆(おく)することはない(産経新聞)。

……迎撃ミサイルを開発したのは、日本ではなく、アメリカ。
そのアメリカから、1兆円近い、お金を出して、買っただけ。
産経新聞は、その上で、「発射情報のミスに臆するな」と説く。


●だからこそ、日本による迎撃のそぶりには、さすがの将軍様も大あわてだった。朝鮮通
信がわざわざ重大報道と銘打ち、「断固たる報復攻撃を加える」だの「火の雷を浴びせる」
だのと最大限の脅しを繰り返した。あれはむしろ、迎撃回避の懇願に違いない(産経新聞)。

……今度ばかりは、K国も本気だぞ。
日本には、その備えがあるのか。


●……だが、ASO首相が意外や「破壊命令」を出したから将軍様は仰天した(産経新聞)。

……こういう言い方は、どうかと思う。
まるで日本中が、自ら、戦争につき進んでいるよう。


●それなのに、某官房副長官は愚かにも「ピストルの弾同士が当たるのは難しい」と足を
引っ張った。敵対国に撃墜必至と思わせなければ、発射を躊躇(ちゅうちょ)する抑止に
はならない。安全保障観のない政府高官はごめんこうむる(産経新聞)。

……「安全保障観のない政府高官は、ごめんこうむる」と切り捨てるところが恐ろしい。


●中国とロシアも北の跳ね上がりに苦虫をかみつぶしている。日本のミサイル防衛(MD)
がうまく機能して、テポドンがイージス艦や地上配備のパトリオットに撃墜されると、実
戦で「MDの有効性」が立証されてしまう。北の核が無力化するだけでなく、確率が限定
的でも中国の核もまた対日攻撃に使いにくい兵器になる(産経新聞)。

……中国は、その分だけ、核ミサイルの数をふやすだけ。
迎撃ミサイルの数以上の、核ミサイルを日本へ撃ち込んでくるだろう。


●援助がほしければ、日米韓でも日米韓中露とでも交渉のテーブルに着けばよいだけであ
る(産経新聞)。

……「援助がほしければ」という言い方は、いくら私でもできない。
「日本は傲慢」と言われる理由は、こんなところにもある。


●日本にとって重要なことは、MD計画の地道な努力があったからこそ、北朝鮮の恫喝(ど
うかつ)にもパニックにならずに済んでいることだ。逆説的にいえば、北はまたも「そこ
にある危機」を日本人に気付かせてくれた(産経新聞)。

……とんでもない!
今、日本中はパニックだぞ。
日本よ、日本人よ、おとなになれ。
謙虚になれ。
マネーだけで、すべてを解決できると思うな。


++++++++++++++++++++++++

【日本人の欠陥】

●弱者の立場で

日本人は、昔から弱者の立場、被害者の立場で、ものを考えることができない。
そういう立場に立たされたことさえ、ない。
昨日も、ある男性(71歳)と、こんな議論をした。
彼らのもつ反日感情について話題になったときのこと。
その男性は、こう言った。

「君は、朝鮮半島を日本が植民地にしたというが、あそこは日本の領土だった。
つまり日本の国内問題だった。
日本に対して、反日感情をもつこと自体、おかしい」と。

で、私はこう反論した。

「それは日本側の論理。
相手の人たちは、そうは思っていない。
日本に植民地にされたと思っている。
蹂躙(じゅうりん)されたと思っている。
そこをわかってあげないと、彼らの気持ちを理解することはできない」と。

●国に優劣はない

強いか弱いかということになれば、(今は)、日本が強いに決まっている。
しかしいくら強いからといって、パワーで相手を、ねじ伏せてはいけない。
『撃てども逆襲を食らっては、その優劣は明らかだ』(産経新聞)とは?
大切なことは、「戦争はしてはいけない」ということ。
「殺し合いをしてはいけない」ということ。
避けられるものなら、避けたらよいということ。
もう一度、その原点に立ち返って、ものを考えてみてほしい。

たまたま今は、日本に経済力があるから、「優劣」という言葉を使うことができる。
もしこんな論理がまかり通るなら、10年後、あるいは20年後、今度は中国に
同じことを言われても、日本は文句を言わないこと。
また言えない。
あと6年で、日本と中国の立場は逆転する。

私はこの社説を読んではじめて、なぜ中国やロシアが、国連安保理のK国制裁に
反対の姿勢を示しているのか、その理由がわかったような気がした。

またなぜ今回のミサイル迎撃から、韓国が逃げ、アメリカが逃げたのか、その
理由がわかったような気がした。

恐らく我が国のASO首相も、同じような論陣を張り、韓国やアメリカに迫ったに
ちがいない。
これから先、どれほど多くの日本の若者たちが戦場に送られ、殺されることか。
あるいはこの日本国内で、どれほど多くの犠牲者が出ることか。

繰り返すが、戦争というのは、始めるのは簡単。
しかし終えるのは、むずかしい。
そのままズルズルと、泥沼へ……。

産経新聞の特派員は、武器をもつことだけが、安全保障と考えている。
「逆襲」「報復」とかいう言葉も並ぶ。
『安全保障観のない政府高官は、ごめんこうむる』(産経新聞)とまで!

しかしそれには条件がある。
あのシンガポールでさえ、それぞれの家に、シャルターを設置している。
アパートですら、シャルターの設置を義務付けている。

が、この日本は、丸裸。
こんな状態で、K国と戦争を始めて、無事ですむはずがない。
少しは頭を冷やせ。
おとなになれ。

あんな国を相手にするな。
どこまでも貧しく、どこまでもあわれで、どこまでも悲しい国ではないか。
日本よ、日本人よ、あんな国と心中してはいけない。
日本の若者たちを、あんな国の犠牲者にしてはいけない。
日本では昔から、『触らぬ神にたたりなし』とか、『負けるが勝ち』とかいうではないか。
相手が愚かなら、笑ってすませばよい。
そういう度量をもってこそ、日本は大国である。
大国になれる。

それにしてもこういう意見を、社説として、堂々とかかげる産経新聞には驚いた。
これではまるで、主戦論。
あの東条英機が、そこに蘇(よみがえ)って返ってきたかのような感じさえする。
(09−4−4−夜、11:00PM)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司※

●何事もなく、無事すんで、よかったア!

++++++++++++++++++++++

テレビでも、ラジオでも、だれも言わないが、
しかし私はこう思う。

何ごともなく、無事すんで、よかった!、と。

もしK国のミサイルが軌道をはずれ、日本に向って
いたとしたら……。
補助エンジンが、日本に向って落下していたとしたら……。

当然日本は、それに向けて迎撃ミサイルを発射していたであろう。
それに対して、K国は、「どんな迎撃でも、報復する」と。
で、そのあとの結果を考えると、「よかった!」と。
もしそんなことになっていたら、それこそ大惨事以上の大惨事に
なっていたはず。

K国は戦闘機を東海岸に集め、ノドンの発射準備までしていた。

K国のミサイル実験が成功したことを喜んでいるのではない。
本当のところ、発射直後に爆発でもしてくれればと願っていた。

が、ともかくも、ここはひとまず無事、終わった。
ほっとした。

安堵したところで、これからどこかのレストランで昼食を
とってくる。

しかしこれで日本の危機が去ったわけではない。
あとは、K国が静かに自滅してくれるのを、待つだけ。
またそういう道筋をつけていく。

私は人間が基本的にもつ良識を信ずる。
「善」の存在を信ずる。
しかし手をこまねいていてはいけない。

これからもがんばります。
いっしょに、がんばりましょう!


はやし浩司


(K国のミサイル実験が終わったあとに……。)

2009年4月5日、午後1:00


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●悲しみの詩

「迎撃」「制裁」「報復」……。
どうしてこういう言葉ばかりが並ぶのだろう?
朝の討論番組(NHKラジオ)を聞いていたら、
ふと、人間であることが、悲しくなった。

何もK国の肩をもつわけではないが、
どうしてこうまで日本が嫌われ、嫌われているのか、
それをほんの少しでも考えたことのある人は、その中に
いるのだろうか。

私がユネスコの交換学生として、韓国に渡ったとき、
私はあの憎悪とも言える反日感情に接して、幾度となく、驚いた。
加害者は、害を与えたことをすぐ忘れる。
一方、被害者は、それをいつまでも心に留める。
日本にも言い分はあるだろうが、しかし平和というのは、
相手の立場で平和を考えてやってこそ、守れる。
たがいに自国の安全を主張したとき、皮肉なことに、
そこで戦争が起きる。
今の今が、そのとき。

迎撃すれば、かえって相手を挑発するだけ。
制裁にしても、あんな国を、これ以上制裁して、何がどうなる?
世界の最貧国ではないか。
悲しいことは、拉致被害者のYさんの妻が、講演で、
K国をもっと制裁しろと激白していたこと。
「政府のやり方は、手ぬるい」と。
それを聞いて、ふと、人間であることが悲しくなった。

テポドンの発射が延期になった(?)。
それについて日本側は、「風のため」とか、「技術的な問題のため」とか、
説明している。
しかし「つぎの段階の準備のため」と考える人は少ない。
つまりK国は、同時にノドンの発射準備に、とりかかっている(?)。
K国は、「どんな迎撃でも、即、報復する」(中日新聞)と言明している。
彼らが言う「報復」とは、ノドンによるミサイル攻撃をいう。
そうでないことを願うが、その可能性がないとは言えない。

大切なことは、日本はこの極東で、地域紛争を起こしてはならないということ。
起こせば、それこそ中国、ロシアの思うつぼ。
アメリカ、韓国の思うつぼ。
日本の経済は、そのまま奈落の底へと、たたき落とされる。
そうでなくても、今、日本の経済は瀕死の重症状態。
いや、経済はともかくも、今のこの状態で戦争を始めたら、
日本はメチャメチャになる。
丸裸も同然。
逃げるといっても、どこへ逃げればよいのか?

燃えさかる炎の中で、「お母さん!」「お母さん!」と
逃げまどう子どもの姿を、ほんの少しでもよいから想像してみることだ。
何十万人という病人が、病院の周辺にあふれかえっている様子を、
ほんの少しでもよいから想像してみることだ。
その上で、日本は、反撃を考えたらよい。
報復を考えたらよい。

しかしこんなことを繰り返していたら、戦争は永遠につづく。
いつまでたっても、終わらない。
先の世界戦争にしても、日本人は、「広島で終わった」と考えている。
「終戦」という言葉も、そこから生まれた。
しかし韓国や中国、さらにはK国では、まだ終わっていない。
そのつづきが、ノドンであり、テポドンということになる。

さあ、日本よ、日本人よ、ここはおとなになろう!
テポドンには、まだ核兵器は積まれていない。
化学兵器も、生物兵器も積まれていない。
ここはあわてないで、慎重に!
もしそれで日本に被害が出れば、そのときはガッポリと、
賠償金をK国に請求すればよい。
払ってはくれないと思うが、それが正攻法。

迎撃ミサイルを丘の上に並べ、「準備は万端」と、得意顔の政治家。
そういう姿を見たとき、ふと、人間であることが、悲しくなった。

あんな国を相手に、正義を説いて、どうする?
どうなる?
放っておいても、やがて自滅する。
金xxの健康問題もある。
あせるな、日本!
がまんしろ、日本!
ここは『負けるが、勝ち』!


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司※

●4月5日(K国による、テポドンミサイル発射実験の日に)

●無事、すむ(?)

+++++++++++++++++++++

「食事に行こう」と外に出て、そのまま
バスに乗って、街まで出た。
「映画をみよう」と言って、そのまま
映画館へ向かった。
見たのは、『ウォッチマン』。
奇想天外な、メチャメチャな映画だったが、
結構、おもしろかった。
星は4つ弱。
ワイフは3つ。
それで、★★★。
長い映画で、途中で眠くなってしまった。
あとで聞いたら、ワイフも眠くなったという。
(最初、20〜30分は、何がどうなっているか、
よく理解できなかった。)

ところでうしろの席に座ったブラジル人カップルが、
途中からおしゃべりを、し始めた。
ペチャペチャと。
英語もわからない。
日本語もわからない。
字幕を懸命に見ている私たちにしても、わかりにくい映画だった。
きっとブラジル人カップルには、何がなんだか、
さっぱりわからなかったのでは……?
たがいに推理し、説明しあっていたのではと思う。

同情して、私たちはだまって、映画を見つづけた。

映画館を出たとき、何ごともなかったかのように、
街はいつものように動いていた。
そこにはいつもと同じ、夕暮れの風景があった。
それを見て、「ホ〜〜〜ッ」と、ため息。
本当に今日は、何ごともなくすんで、よかった。

+++++++++++++++++++++++

●緊迫した一日

夕刻のテレビを見ていたら、東北地方の人たちが、こう言っていた。
「被害がなくてよかった」と。

しかしもし日本が、どんな形であれ、迎撃ミサイルを発射していたら、
K国は、ノドンによる報復を日本に対してしていただろう。
彼らには彼らの論理がある。
日本人の私たちから見れば、おかしな論理かもしれないが、それが
彼らの論理である以上、それを理解して対処するしかない。

そしてもしノドンによる報復攻撃を受けていたら、日本は大惨事以上の
大惨事になっていた。
東北地方の人たちには悪いが、「被害がなかった」という程度では、
すまなかったはず。
韓国の某軍事評論家は、10〜20発のノドンミサイルを、日本に
撃ち込むだろうと予測していた(韓国誌)。
韓国の大統領たちが、地下シェルターへ作戦本部を移していたことでも、
それがわかる。

ともかくも、私は、ホ〜〜〜ッ。


●心の余裕

……というわけで、私はこの数日間、神経がピリピリしていた。
そのこともあって、睡眠時間が短くなっていた。
ずっと頭が重かった。
昨夜は、1か月ぶりに、熟睡剤の世話になった。

で、神経がピリピリしていると、心に余裕がなくなる。
やさしい心が消える。
何でも、けんか腰になる。
しかしこれはよくない。

昨日も、豊橋で、浜松行きの電車に乗り換えたとき、こんなことがあった。
名古屋方面から来た電車は、たいてい一度、豊橋駅で、今度は浜松行きに
乗り換える。

私とワイフが電車に乗り込んだ、その直後のこと。
合い向かいの席が、二列あった。
その1つには、小学5年生くらいの男の子が座っていた。
チョコンとそこに座っている……という感じだった。
駅ではうしろに並んでいたと思うが、乗客のすき間をくぐり抜け、
先にそこに座ったらしい。
私とワイフはその会い向かい席に座ろうとした。
と、そのときうしろから声がした。

「そこは私たち家族が座ります」と。
母親の声だった。
私は、即座に、「それは断ります」と答えた。

それを聞いて、母親はあわてたらしい。
私たちの肩越しに、「どうして席を取っていないの!」と、
その男の子を叱った。
男の子は席を立ち、私たちのうしろへ走った。
代わりに、小学2年生くらいの女の子が、男の子がいた席に座った。

うしろから親子が口論する声が聞こえてきた。
何を言っているか、よく聞こえなかった。
しかし喧嘩に近い、声だった。
母親が男の子を叱った。
それに対して、父親が、母親をなじった。
雰囲気としては、そんな感じだった。

私は「まずいことをしたな」と思った。
しかし私たちがその親子に席を譲るのも、これまたおかしな話。

電車が動き出すころ、女の子の横に、父親が座った。
父親のほうは、むっとした表情だった。
気まずかった。
私は無視した。
が、私は、その女の子が気になった。
私の顔を切り刻むように、にらみつけていた。
鋭い視線だった。
それがずっと、つづいた。

私はことの詳細を、その女の子に説明してやろうかと何度も思った。
一度、心の中で練習した。
「あのね、お嬢さん……。あなたは誤解していると思いますよ……」と。
が、やめた。
女の子は、私たちに席を横取りされたと思っているらしい。

こうして電車は、浜松の1つ手前の駅に着いた。
その家族は、そこで電車を降りた。
緊張感が、スッと消えた。

私「席を譲ってやればよかったね」
ワ「あんな喧嘩をするとは、思っていなかったわ」
私「男の子が、母親に叱られていたよ」
ワ「そうみたいね」と。

しかしそれにしても余裕のない母親だった。
席を取らなかったことくらいのことで、子どもを叱るとは!
いや、そういう母親だから、男の子は、機敏な行動が取れなかったの
かもしれない。
ふつうならそういうとき、持ち物をポンポンと置いて、席を確保する。
親の過干渉が慢性的につづくと、子どもの動作が緩慢になることがある。
母親は、明らかに過干渉ママだった。

やさしい心を忘れたときというのは、そうなる。
私のほうにも余裕がなくなる。
だから思わず、「それは断ります」などと言ったりする。
誤解がないように念を押しておくが、私たちが座ろうとした
その席には、何もなかった。
男の子も何も言わなかった。
またうしろから母親の声がしたときには、私もワイフも、ほぼ
座りかけていた。

どうであるにせよ、あまり気分のよいできごとではない。
ささいなできごとだったが、そのこともあって、夜、床に
就いてからも気分が重かった。

自分の心の余裕のなさが、不愉快だった。


●床に座る

今日は日曜日。
映画館は、人で混雑していた。
で、そこで見かけた光景。
今の若い人たちは、床の上でも平気で座る。
座って、話し込んだり、菓子を食べたりする。
それはそれで、見慣れた光景になりつつある。
が、階段に座っている人たちもいた。
これには驚いた。

同じような光景を、私は、学生のころ、オーストラリアで見た。
40年近くも前のこと。
彼らは、平気で床の上に座った。
道路にも座った。
日本では考えられない光景だったので、私は心底、驚いた。
が、やがて、それは習慣のちがいと関係あるとわかった。

彼らの住居は、日本のように高床式になっていない。
床イコール、座る場所となっている。
だから床に座るということに、抵抗感がない。
また自然な形で、それができる。
が、この日本で、どうして?
階段などに座られたら、歩く人が迷惑する。

若い人たちの心の中までは見えないが、もしそういうことを、
(かっこいい行動)と思っているなら、それこそ自由のはき違え。
もう少し自分の頭で考えながら、行動してほしい。


●退職後の人たち

退職後の人たちの情報が、つぎつぎと入ってくる。
そういう人たちを、おおまかに分けると、おおむね、つぎのようになる。

(1)道楽型(旅行三昧、趣味三昧の生活をする)
(2)ゴロゴロ型(何もしないで、家でゴロゴロする)
(3)挑戦型(若いころできなかったことに、再挑戦する)
(4)隠居型(息子夫婦などと同居。孫の世話などをする。)
(5)奉仕型(何かのボランティア活動に精を出す。)
(6)仕事型(そのまま関連の仕事をつづける。)
(7)運動型(健康のためと称して、あらゆるスポーツをする。)

もちろんこれらの混合型というのも、ある。
しかし主にどれか、ということになると、たいてい1つに絞られる。
またどれがよいとか、悪いとかいうことではない。
人、それぞれ。
それぞれの人が、それでハッピーなら、それでよい。

ただ言えることは、どこかで「統合性の確立」をめざさないと、
老後もつまらないものになるということ。
統合性の確立というのは、(すべきこと)を見つけ、それに自分を
一致させていくことをいう。
(したこと)ではない。
(すべきこと)である。

私たちはみな、何かの義務をもって、この世に生まれている。
義務の内容は、人によって、みなちがう。
退職後は、その義務を果たす。
単純に考えれば、ボランティア活動ということになる。
が、これは一朝一夕には、できない。
「退職しました。明日からゴビ砂漠へ行って、柳の木の苗を
植えてきます」というわけにはいかない。
そんな取って付けたようなことをしても、長つづきしない。
使命感も生まれない。

で、老後というのは、みな、平等にやってくる。
例外はない。
その老後の準備をするのは、50代では遅すぎる。
エリクソンは、「40歳から……」と説く。
「40歳は人生の正午」と。
しかし実際には、40歳でも、遅すぎるのでは?

若いころからの積み重ねがあってはじめて、老後に統合性の確立が
できる。
しかも統合性の確立は、無視、無欲でなければならない。
何らかの利益につなげようと思ったとたん、統合性は霧散する。

で、私自身は、どうなのか?
私はだいじょうぶなのか?
またどの「型」に当てはまるのか?

が、私はまだ退職状態ではない。
あと9年は、現役でがんばる。
そのときまだ頭と体がだいじょうぶなら、さらにもう少し、がんばる。
統合性の確立がうまくできるかどうかについては、本当のところ、自信はない。
ないが、あえて言うなら、今、こうして文章を書くようなことが、
老後の生きがいになりそう。
少しでも多く、ものを書いて、若い人たちの役に立ちたい。


Hiroshi Hayashi++++++++APRIL・09++++++++++++はやし浩司

●風力発電

++++++++++++++++++

浜松の北に、三岳山(みたけさん)という山がある。
標高550メートル前後と聞いている。
三つの岳になっているから、「三岳山」という。
その真ん中の岳の頂上には、昔、城があったという。
今は、「三岳城址」となっている。

その三岳山の右隣の山に、巨大な風力発電の羽が見えるようになった。
はじめて見たときは、ギョッとした。
で、数か月前ころから、私とワイフは、「一度、行ってみよう」と
話し合った。

で、数日前、そこへ行ってきた。

車で行くときは、つぎのようにする。

(浜松市内)→(姫街道)→(引佐町)→(引佐町のセブンイレブンを右折)
→(そのまま三岳城址をめざす)→(三岳城址のふもと)→(さらに
直進)→(やがて右手に巨大な風力発電の羽が見えてくる。)

とにかく驚く。
度肝を抜かれるほど、大きい。
羽の長さだけでも、一枚、20メートルはあるのでは?
高さも、40〜50メートル?
飛行機の翼のよう。
それが三枚、風車(かざぐるま)のように回る。
現在、5基まで完成している。
興味のある人は、一度、行ってみたら?
ただし今は、工事中とかで、許可がないと、近くには行けない。
私たちは特別に許可してもらったが……。
みなが押しかけたら、断られるかも。

私たちはそれを見ながら、弁当を食べた。
その間中、「すごいなあ」「すごいね」を、惜しみなく連発した。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●戦後最大の危機
(The Most Serious Crisis for Japan after the War II was under the Way)

++++++++++++++++++

こうして日本にとって、戦後最大の危機は、
一応、去った。
「一応」というのは、これから先、同じような
危機が、繰り返し日本を襲うということ。

ノー天気な人たちは、「被害がなくてよかった」と
言っている。
しかしもしあのとき日本が迎撃ミサイルで、
K国のテポドンを、どんな形であれ迎撃していたら、
大惨事以上の大惨事が、この日本で、起きていたはず。

もう一度、4月3日以前の外電を、詳しく読んで
みてほしい。
そのときあのK国が何を画策していたか、
それでわかるはず。
(一部を再転載する。)

++++++++++++++++++

●時事通信(戦争、前夜だ!)

【ソウル31日時事】韓国の対北朝鮮人道支援団体「良き友達」は、31日発行のニュー
スレターで、北朝鮮は「人工衛星」と称した長距離弾道ミサイルの発射を控え、緊迫した
空気に包まれていると伝えた。

それによると、民間兵力に当たる労農赤衛隊のほか、地方軍や予備役も「戦闘準備」に入
ったほか、男性は基本的に移動が禁じられ、人民軍兵士も外出が認められていないという。

北朝鮮政府当局者は地方の幹部らに対し、発射前の「緊張した情勢」を説明している。平
壌北方の平城市に住む40代男性は「戦争前夜のようだ」と話している。


●NIKKEI(北朝鮮、ミサイル迎撃なら「本拠地(東京)を粉砕」

【ソウル=尾島島雄】北朝鮮の朝鮮中央通信は31日、「人工衛星」名目で発射した長距離
弾道ミサイルの迎撃を日本政府が検討していることに関して「日本があえて迎撃する場合、
最も威力のある軍事的手段によってすべての迎撃手段とその本拠地を、無慈悲に粉砕する
だろう」と強調した。迎撃すれば報復するとの姿勢を、これまでより強い調子で警告した
ものだ。「(迎撃は)第二次世界大戦後、60余年ぶりに鳴らす再侵略戦争の砲声とみなす」
とも断じた。(01:16) 


●聯合(日本を、粉砕する!)

【ソウル31日時事】朝鮮中央通信は31日の論評で、北朝鮮が「人工衛星」と称して発
射の準備を進めている長距離弾道ミサイルを、日本が迎撃した場合、北朝鮮は「再侵略戦
争の砲声」とみなし、「最も強力な軍事的手段によってすべての迎撃手段と、その牙城を無
慈悲に粉砕する」と警告した。韓国の聯合ニュースが伝えた。


●時事通信(小型核、保持!)

【ソウル31日時事】国際的な非政府組織(NGO)「国際危機グループ」(ICG)によると、
北朝鮮がプルトニウムを使用した核爆弾の小型化に成功し、中距離弾道ミサイル「ノドン」
(射程1300キロ)用の核弾頭を製造した可能性があると、米韓情報当局が分析していること
が31日、明らかになった。

日本のほぼ全土を射程圏内に収めるノドンは、北朝鮮国内に多数実戦配備されており、日
本にとっては直接的な脅威となる。 


●イザ・ニュース(ノドンは、320基)

北朝鮮が実戦配備した中距離弾道ミサイル「ノドン」が最大で320基に上る可能性があ
ることが1日分かった。国際研究機関「インターナショナル・クライシス・グループ」が
3月31日に発行した北朝鮮ミサイル問題に関する報告書の中で、関係国政府の内部資料
に基づく内容として明らかにした。

++++++++++++++++++++

●丸裸

以上を並べて読んでみるとわかるように、K国は、今度ばかりは本気だった。
また忘れてならないのは、日本にとって脅威なのは、テポドンではなく、ノドンである。
そのノドンも、320基(4月6日の報道によれば、800基)が、すでに実戦配備
されている。
そして今回も、K国数か所で、ノドンのミサイル基地が、発射準備態勢に入っていた。

「被害がなかったから、よかった」ではなく、「迎撃ミサイルを発射しなかったから、
よかった」と言うべきではないのか。

●まず防御を!

……こう書くと、「何と弱腰なことを!」と思う人もいるかもしれない。
しかしそれには、まず現実をしっかりと見たらよい。
シンガポールへ行ったことのある人なら、みな知っていることと思うが、
どんなアパートにも、地下シュルターが用意されている。
つまりそうした準備が、この日本ではまったくなされていない。
つまり、「丸裸」。

こんな状態で、ノドンミサイルにせよ、撃ち込まれたら、この日本はどうなるか。
それをほんの少しでもよいから、頭の中で想像してみたらよい。
現在の迎撃システムでは、防げたとしても、せいぜい、数発。
仮に100発ものノドンが日本に撃ちこまれたら、日本には、それこそ「打つ手なし」。

●安易なMD計画は、かえって危険

が、だからといって、迎撃ミサイルをふやせばよいという論理は、まちがっている。
今回のテポドン発射実験でもわかったように、10分足らずで、ミサイルは
飛んでくる。
(テポドンは、7〜8分。)

今回の迎撃ミサイルだけでも、一発、170億円。
システム一式で、1兆円。
迎撃ミサイルを、仮に100倍にふやしたら、100兆円。
国民1人あたり、100万円。
そんなお金、どこにある?

また迎撃ミサイルをふやせばふやすほど、相手は、ノドンの数をふやすだけ。
日本はそのまま、「日本海溝へ」(ノ前大統領)。

●K国のハッタリ

あれはミサイルだった。
人工衛星ではなかった。
それはだれの目にも明らか。

さらに言えば、3段目+弾頭部分は、ハッタリ。
つまり本体は、1段目と2段目だけ。
3段目と弾頭部分は、ハッタリ。
だから2段目以上は、そのままいっしょに、太平洋上に落下した(北アメリカ
航空宇宙防衛司令部(NORAD))。

では、目的は、何だったのか?

ほとんどのニュースメディアは、「祝砲説」を主張する。
「金xxを称えるための祝砲であった」と。
中に、「K国のミサイル技術の高さを、世界に誇示するため」と主張する人もいる。
しかし私は、そうは考えていない。

つぎの2つの記事を並べて読んでみると、その謎が解ける。

●そのとき金xxは、どこにいたか?

韓国中央通信(KCNA)によると、金xxはロケット発射の指令センターで発射を見守ったとい
う。
しかしその一方で、読売新聞は、こう伝える。

『K国の朝鮮中央通信は4日、金正日総書記(67)が、平壌市内の大劇場を視察したと報じ
た。

 同通信が金xxの動静を伝えたのは3月27日以来。視察日時は不明。金xxは過去のミサイ
ル発射の前後には「雲隠れ」しており、今回の発射予告期間中(4〜8日)に、あえて存在を誇
示した真意をめぐり、憶測を呼びそうだ』と。

つまり金xxが、同時に2か所に現れたことになる。
当初の発射予定日には、4日はピョンヤンに。
しかし翌5日には、「発射の司令センター」に。

この矛盾を埋め合わせるため、「発射の司令センター」なるものは、ピョンヤンにある
と、報道機関は伝えている。
しかし今日(6日)の外信を見ると、金xx以下、研究者たち(?)が、「成功を祝って、
記念撮影」までしている。
研究者たちは、発射後、こぞってピョンヤンへやってきたとでもいうのだろうか。

●巧妙な陽動作戦

K国は、彼らのミサイルが、日本に迎撃されたら、即座に日本に対して
報復するつもりだった。
そのことは、先の外信を順に読めばわかる。
が、それをすれば当然、彼らもまた、報復を覚悟しなければならない。
そこで金xxは、陽動作戦を展開して、自分の居場所を、隠す必要があった。

発射実験場にいれば、それこそ狙い撃ちにされてしまう。
そこで4日は、ピョンヤンの大劇場にいることにする。
(本当かどうかは、わからないが……。)
そうすれば自分の居場所についての情報を、かく乱することができる。

このことは言いかえると、日本への報復を本気で考えていたことを示す。

●では、どうするか?

現在、日本とアメリカ、韓国は、国連安保理に、K国制裁決議案を上程しようと
している。
これが「正攻法」である。

日本は世界中を巻き込みながら、K国を締め上げる。
一気に兵糧攻めにする。

中国やロシアはK国をかばう姿勢を見せているが、がんばればがんばるほど、
彼らは浮き上がっていく。
「やはり、中国という国は、そういう国だったのか」と。

わかるかな?

K国は、テロ支援国家ではない。
テロ国家、そのもの。
それを助ける中国こそが、まさにテロ支援国家となる。
そういう印象を世界に与えることを、中国としても望まないだろう。

●韓国が、あぶない!

K国が再度、その矛先を向けるのが、韓国。
何らかのきっかけをつくり、それを大義名分として、韓国に戦争をしかける。
それが何であるか、私にも予測つかないが、あぶないのが、韓国ということになる。

が、今度ばかりは、「日本は関係ありません」では、すまされない。
韓国と歩調を合わせる必要がある。
韓国を孤立させてはならない。
日米韓が、しっかりと結束する。
K国が恐れるのは、その「結束」。
その結束でもって、あの独裁者を締めあげる。

今こそ、日本は、「正義」を前に立て、あの独裁者に立ち向かうべきとき。
それはとりもなおさず、K国の民衆のためでもある。

「戦争はいやです」と言って、逃げ回るのは、平和主義者ではない。
そういうのは、ただの臆病者という。
「いざとなったら、平和を守るために戦います」というのが、平和主義者である。
が、誤解してはいけない。
ミサイルという武器で戦うだけが、「戦い」ではない。
「言論」という武器を使って戦う。
みんなで、寄ってたかって、ワーワーと声をあげる。
力を合わせて、「悪」と立ち向かう。
そういう戦い方もある。

国連での各国の動きに、注視したい。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●4月6日

++++++++++++++++++++++

今朝起きたとき、体重を量ったら、何と、67・5キロ!
ギョッ!
私の適正体重は、63〜4キロ。
何と、4キロもオーバー。
ペットボトル(2リットル)、2本分!
で、さっそく、ダイエット開始。

朝食は、おにぎり一個。
そして午後からは、浜名湖の北にあるガーデンパークへ。
4人乗りの自転車を借りて、サイクリング(?)。
ワイフは、前の席に座って、あたりをのんびり観覧。
私はヒーヒー言いながら、自転車をこいだ。

「ぼくって、本当は、いいダンナなんだよなア」と
思いながら、自転車をこいだ。

帰りに、回転寿司店へ。
「今日は、4皿だけ」と心に決めて、3皿半、食べた。
「半」というのは、ふつう一皿2貫だが、一皿1貫のも
食べたため。

+++++++++++++++++++++++

●激太り

「激やせ」というのがある。
反対に、「激太り」というのもある。
ともに身体的な病気が原因で起こることが多いが、中に精神的な病気が
原因でそうなることもある。

私の知人(女性、55歳)が、この1月からたった3か月で、別人かと
思うほど、太った。
顔つきまで変わってしまった。
うつ病の薬をのんでいるということだったから、
それが関係しているのかもしれない。
しかし心配だ。
見た感じでは、40キロ台のはじめだった人が、50キロ台の中位になった感じ。

そこでネットで検索してみると、いろいろなことがわかった。

一説によると、ふつう、うつ病の人は、やせるのだそうだ。
しかしうち3%くらいの人は、太ることもあるという(数字は伝聞)。
薬の副作用という説もあるし、うつから来るストレスを解消するため、
暴食を繰り返すためという説もある。

ナルホド!

で、私のばあいは、原因は運動不足。
毎日、欠かさず散歩はしているが、その程度。
つまりその程度の運動では、意味がない。
汗をタラタラとかきながら、自転車をこぐ。
それくらいのことをしないと、意味がない。
このところ、その自転車に、あまり乗っていない。

明日から、空腹感との闘いが始まる。
ドーパミンが、線条体にある受容体にどう作用するか、じっくりと
観察してみよう。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●英語教育は、効果がない(?)

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このほど、ベネッセコーポレーションが、こんなおもしろい
調査結果を公表した。
なんでも『小学校からの英語教育の導入について、
中学校の英語教員の7割近くが、「導入しても、
将来、英語を話せるようにはならない」と考えている
ことがわかった』※という。

私も、それを感じている。
というのも、小学校での英語教育は今、どちらかというと、
あいさつ、もしくは単語の暗記に偏(かたよ)りすぎている。
問題は、どうやって(文法)を理解させるかということ。
言葉としての英語を理解させるかということ。
もちろん中学校で教えるような(文法)を、教えては
いけない。
しかしその理解なくして、言葉としての英語を教えることは、
できない。

いろいろな方法がある。
たとえば私は小学生に、既存の英語教育と併せて、
つぎのような教え方をしている。

「私は本を読みます」を→(私)(読む)(本)と、言いかえさせる。
反対に、(私)(読む)(本)を→「私は本を読みます」と、言いかえさせる。
こうした訓練を、その合間に入れていく。

これをさらに進歩させて、たとえば「浦島太郎」の物語を、
つぎのようにして話す。
(もちろん日本語で……。)

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【はやし浩司式、子ども用英語文法・指導例】

(むかし)(そこに)(いた)(男の人)(名前の)(浦島太郎)。
(太郎)(〜〜していた)(歩く)(そば)(海)。
(太郎)(見た)(子どもたち)(いじめている)(一匹の)(カメ)。
(太郎)(言った)(〜〜に)(子どもたち)、「(〜〜するな)(いじめる)(かめ)」。
(子どもたち)(逃がした)(かめ)(〜〜へ)(海)。

(ある日)(太郎)(〜〜していた)(釣り)。
(そこへ)(大きな)(かめ)(来た)。
(かめ)(言った)(〜〜に)(太郎)、「((どうぞ)(乗れ)(私の)(背中)。
(太郎)(乗った)(かめの)(背中)。
(かめ)(連れて行った)(太郎)(〜〜へ)(竜宮城)。

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「ナ〜ンダ、英語の文章の単語を、すべて日本語に置き換えただけではないか」
と思う人もいるかもしれない。
そのとおり。
しかし小学生に英語の文法を、文法として意識させることなく教えるには、
この方法がもっとも、効果的である。

こうした話し方を理解できるようになったら、今度は反対に、ふつうの日本語を、
英語式の言い方に言いなおさせてみる。

こうした指導を、学年を追うごとに、内容を深めていけばよい。

指導の仕方としては、最初は、「正しい日本語に直してごらん」と言って、指導する。

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【小2レベル】(例)

(私)(食べる)(りんご)→「私は、りんごを食べます」
(あなた)(読む)(本)→「あなたは本を読みます」
(私)(です)(男の子)→「私は男の子です」
(あなた)(です)(先生)→「あなたは先生です」

【小3レベル】(例)

(〜〜か)(あなた)(食べる)(りんご)→「あなたはりんごを食べますか」
(私)(〜〜ない)(読む)(本)→「私は、本を読まない」
(ですか)(あなた)(女の子)→「あなたは女の子ですか」
(私)(です)(〜〜ない)(先生)→「私は先生ではありません」

【小4レベル】(例)

(私)(あげる)(私の)(ともだち)(プレゼント)→
「私はともだちにプレゼントをあげる」
(あなた)(行く)(〜〜へ)(公園)(いっしょに)(あなたの)(犬)→
「あなたはあなたの犬といっしょに、公園へ行く」

……こうして現在の英語教育に、言葉としての英語を教えていく。

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誤解があってはいけないので、念を押しておく。
「7割の中学教員が、話せるようにならないと思っているから、小学校での
英語教育は無駄」というふうに考えてはいけないということ。

大切なのは、「ではどうすればよいか」と考えること。
「現在の英語教育を、どう補完していけばよいか」を考えること。
その一例として、私のやり方をここに書いてみた。

ベネッセコーポレーションがいう「中学校との具体的な連携方法」※の一つとして、
参考にしてもらえれば、うれしい。

(注※、産経新聞より)『小学校からの英語教育の導入について、中学校の英語教員の7割近
くが、「導入しても、将来、英語を話せるようにはならない」と考えていることが4日、通信教育
最大手のベネッセコーポレーション(岡山市)の調査で分かった。新学習指導要領にともない、
今年度から5、6年生を対象に先行実施されているが、小、中学校間の認識のギャップが浮か
んだ形だ。

 同社のシンクタンクが昨年7〜8月、全国の公立中学校の英語教員約3600人を対象に実
施。調査対象者の地元の小学校で行われている英語教育について、「知っている」と答えたの
は48・5%と半数を下回り、小学校の英語教員との交流も「集まる機会がある」(28・6%)、
「授業を見に行く」(25・5%)しかなく、小、中学校間でほとんど連携が取れていない実態が目
立った。

 さらに、調査対象の約8割は「聞くことに慣れる」と、小学校での英語教育に一定の効果を認
めながらも、「中学での英語指導がスムーズになる」と受け止めているのは42・1%で、中学で
の教育と切り離している。また、「将来、英語を話せる日本人が増える」と考えているのは24・
3%しかいなかった。

 一方、調査対象の教員自身の指導法については、4割を超える教員が「英語が好きになるよ
うに指導する」ことを大切にしていると答える一方、授業の中心は「音読」「文法の練習問題」
「発音練習」などが占めていることが判明。

 「英語の歌を歌う」「スピーチ」といった実践的な授業は4割程度にとどまり、英語の楽しさを
伝えたいという思いと試験対策用の指導とのジレンマに悩む姿がうかがわれる。

 ベネッセは「小学校での英語の教育効果を上げるためには、中学校との具体的な連携方法
を考える必要がある」と分析している』(産経新聞・09・4・5)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
英語教育 小学校の英語教育 子どもにとっての文法 英語文法 言葉としての英語
言葉 言葉教育 小学校で英語をどう教えるか はやし浩司 児童英語 文法)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●映画『ディファイエンス』(Defiance=抵抗)

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春休みも、残すところ、あと2日。
夕食を用意しているとき、ワイフが
「映画に行こう」と、私を誘った。
ネットで調べると、ちょうどよい時間帯の
映画に、ダニエル・クレイグ主演の
『ディファイエンス』があった。

ダイニエルクレイグ……往年のスティーブ・
マックィーンを思わせる俳優。
「007」の新作以来、私は彼のファンに
なった。
あのクールな表情がよい。

で、星は4つから5つの、★★★★+。
よかった!
感動した。
ポロポロと涙が出た。

『シンドラーのリスト』以来の、秀作。
ただあまり前評判はよくなかったようだ。
深夜劇場ということもあり、客の入りは、チラホラ。
映画というのは、こういうもの。
期待した映画ほど、がっかり。
期待しなかった映画に、ときとして、感動する。

冒頭に、「これは真実の物語です」とあった。
それだけに私はそのまま画面に吸い込まれた。

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●日本も核武装?、国連脱退?
(Nuclear Armament? What's the stupid idea?)
またまたとんでもない意見が、J党から出てきた。
読売新聞は、つぎのように伝える。

『J党の7日の役員連絡会でSG組織本部長がK国のミサイル発射に対し、日本も核武装をす
べきだと述べた。

 SG氏は「向こう(K国)は核を保有している。日本も『核を保有する』と言ってもいいのではな
いか」と述べ、国連脱退にも言及したという。

 SG氏はその後、記者団に、「日本が核武装も国連脱退もできないことはわかっている。た
だ、K国に強く臨むため、例え話をした」と説明した』(090407)と。

どうしてこういう意見が出てくるのか、私には理解できない。
これでは暴力団抗争と、どこもちがわない。
どこがちがうのか。
あまりにもレベルが低い。
低すぎる。
これでは街にたむろするチンピラの意見と同じではないか。
理性や知性は、どこにある?
「本当に、こんな人物が、日本人の代表として国会を運営しているのか?」と、
私は我が耳を疑った。

核武装したところで、また国連を脱退したところで、日本の平和と安全が
守られるわけではない。
日本は、あまりにも小さい。
一説によれば、100メガトン級の水爆であれば、たった3発で、日本人は全滅
すると言われている。
すでに中国は、そうした核兵器とミサイルを、私の推定でも数百発はもっている。
アメリカとロシアは、それぞれ数万発以上、もっている。
今、ここで日本が核兵器をもったところで、どうにもならない。

……ウ〜〜〜ン?

あのマムシにしても、へたに毒をもっているから、人間に見つかると、すぐ
殺される。
スズメバチにしても、そうだ。
毒には、毒をという発想そのものが、まちがっている。

「日本」というより、「日本人」を本当に守る気があるなら、まずすべきことが
山のようにある。
全国、津々浦々に、日本人全員分の核シェルターを用意するとか、など。
それが無理というのなら、核兵器などもってはいけない。
マムシやスズメバチになってはいけない。

あのインドのネール首相が言ったように、『相手の平和と安全を考えてやってこそ、
自国の平和と安全を守ることができる』※である。
中国はまだ道理の通ずる国である。
日本は言論という手段を用いて、彼らの良識に訴えていく。
その場としての「国連」を脱退するなどという意見は、バカげているというより、
あきれてものも言えない。

国連を脱退したら、日本は、いったいどこでどのように自国の正義を主張できる
というのか?

さらに言えば、日本人は、未来を暗く思ってはいけない。
少し前だが、恩師の田丸先生にこのことを聞いたとき、田丸先生は、こう言った。

「情報革命の進歩にはめざましいものがあります。
やがて中国も、国際社会の中で、国際化していきますよ。
そうなれば、日本も中国もなくなりますよ」と。

念を押すなら、K国のような国は、例外。
情報の出入りそのものを、遮断している。
そういう国を相手に、「核武装」だの、「国連脱退」だのというほうが、
おかしい。

SG氏も、K国のあの独裁者も、つまるところレベルは同じということになる。

(注※)

あのインドのネール元首相も、こう書き残している。『ある国が平和であるためには、他
国の平和もまた保障されねばならない。この狭い、相互に結合した世界にあっては、戦
争も、自由も、平和も、すべてたがいに連動している』(「一つの世界をめざして」)と。

Hiroshi Hayashi++++++++APRIL・09++++++++++++はやし浩司

●うつ病の周りで

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うつ病というと、その当人だけの問題と多くの人は考える。
しかし実際には、その周囲の人たちにも、大きな影響を
与える。

たとえばある会社で、ある上司がうつ病になったりすると、
部下に、うつ病患者が続出するようになることもあるそうだ。
何かの本で、そう読んだことがある。

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●パニック

実の母親の介護をするようになって、娘のN子さん(当時60歳)は、
そのつど大騒ぎを繰り返した。
パニック状態になった。

「母が、小便を漏らすようになったア!」
「母が、コンロの火を消し忘れたア!」
「母の介護で、内職ができなくなったア!」と。

で、親戚が相談して、その母親を、グループホームへ入れることにした。
が、それについても、

「費用がかかるウ!」
「旅行にも行けなくなるウ!」
「グループホームを追い出されたら、どうしたらいいイ!」と。

そこでみなが改めて相談して、費用は2人の妹たちが全額負担する
ことにした。
が、それでN子さんのパニック障害が、収まったわけではない。

「つぎの老人ホームが見つからないイ!」
「息子が、盲腸で入院したア!」
「町内会の仕事ができないイ!」と。

N子さんのターゲットは、そのつど変化した。
(「ターゲット」という言い方は、私が考えた。
うつ病の人は、ある特定のことにこだわりを見せることが多い。
そのこだわりの対象を、「ターゲット」という。)

近くに住んでいる妹のK子さん(当時55歳)は、当時、こう言っていた。

「ひとつの問題を解決してやると、それについてはケロッと忘れて、
今度は、別のことを言い出すのです」と。

●それから数年

で、ここまでは、数年前に私が聞いた話である。
私はその話を聞いて、つまり当時、私も母の介護をしていたので、
「そういう人もいるんだなナ」と、どこか「?」に思っていた。

というのも、いやかいやでないかと聞かれれば、いやに決まっている。
しかし割り切ってしまえば、親の介護など、何でもない。
私も親の介護をしながら、「何だ、こんなものだったのか」と、
かえって拍子抜けしてしまったのを覚えている。
少なくとも、赤ん坊の世話よりは、はるかに楽。

で、その後まもなく、その母親は他界。
N子さんは、親の介護から解放されたことになった。
少なくとも周囲の人たちは、N子さんの様子がおかしくなったのは、
親の介護からくる負担のせいと理解していた。
私もそう思っていた。
だから親が他界した今、N子さんは、ずいぶんと気が楽になったのでは、と。
ところがで、ある。

ここからが私の理解できないところだが、N子さんの症状が、
かえって重くなってしまったのである。
現在は、心療内科で、「うつ病」と診断され、家の中に引きこもっている
ことが多いという。

●周りの人

ワイフがこう言った。
「あのN子さん、うつ病なんだってエ……」と。

こういうケースのばあい、いろいろ考えられる。
あくまでもこれは私という素人の判断だが、

(1)親の介護の負担がきっかけとなって、うつ病を引き起こした。
(2)もともとN子さんは、うつ病だった。
(3)あるいは(1)と(2)が、同時進行の形で進んだ。

どうであるにせよ、N子さん自身も気の毒だが、その周りの人たちも、
たいへんな迷惑をこうむったことになる。
先の妹さんのK子さんは、こう言った。

「毎週のように電話がかかってきて、ギャーギャーと、1〜2時間も
グチがつづきました。
ときどき主人(=妹の夫)が、代わりに電話に出て、話を聞いてくれましたが、
主人でさえ、気が変になりそうと言っていました」と。

●迷惑

うつ病というと、当然のことながら、その人自身の問題として考えられる。
またその範囲だけで、ものを考える傾向が強い。
しかしその周辺の人たちのことについて語られることは、まず、ない。
たとえば認知症にしても、その人自身については、たいへん気の毒なこととは思う。
しかしその周辺の人たちも、それによって、たいへんな影響を受ける。
初期の段階では、とくにそうである。
つまりその(影響)という部分については、あまり問題にならない。

N子さんの妹のK子さんについても、結局はN子さん自身の病気に、引きずり回された
ことになる。
もしN子さんの妹のK子さんが、N子さんがそういう病気であると最初から
わかっていたら、対処の仕方も変わっていたかもしれない。
が、そのときはわからなかった。
だから引きずり回された。

同じような話は、認知症になった人の周辺からも聞く。
ささいなことで怒鳴り込まれたとか、屋根に牛乳瓶を投げつけられたとか、など。
会社で上司に、いきなり、「お前はクビだ。明日から(=来月から)会社へ
来なくていい」と言われた人もいる。
その上司は、それからまもなく、認知症と診断された。

●うつ病

うつ病といっても、症状はさまざま。
みながみなそうというわけではない。
しかし、当人が病気になることによって、その周りの人たちが、
たいへんな迷惑を受けることがある。
もちろんだからといって、その病気になった人に、責任があるというわけではない。
しかしこの病気を考えるときは、当人だけの問題と考えてはいけない。

たとえば先のN子さんのケースでも、近くにN子さんの夫がいた。
その夫が、N子さんと周りの人たちとの調整役をすべきだった。
N子さんの異変に早い段階で気づき、手を打つべきだった。
その中には、もちろんN子さんを病院へ連れていくということも含まれるが、
周りの人たちにも、それを知らせることも含まれる。
「うちのN子は、少し様子がおかしいですから、気にしないでください」とか。
そういう一言でもあれば、周りの人たちは救われる。

私「ぼくも似たような経験があるよ。
ほら、Yさんという女性に、事務所まで怒鳴り込まれたことがあるだろ。
あのときも訳がわからなかった。
そこでYさんの家に電話をすると、夫が出て、こう言った。
『どうか気にしないでください。わかっていますから……』とね。
その一言で、ぼくはピンときた。それで救われた」
ワ「私たちもうつ病になったら、注意しなくちゃあ」
私「そうだね」と。

なおこの病気だけは、だれしも、無縁であるというわけいにはいかない。
明日の私、明日のあなたの病気かもしれない。
けっして他人ごとに思ってはいけない。

なおN子さんについて言えば、母親の介護がきっかけでうつ病になったという
よりは、もともとそういう傾向のある人だったということになる。
取り越し苦労と、ぬか喜び……。
この2つを繰り返しながら、N子さんの症状はさらに悪化した(?)。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 子供 子供の問
題 家庭教育 うつ病 鬱病 周辺の人たち 介護 介護疲れ)

(補記)
この話には、裏話がある。
妹のK子さん(=ワイフの古くからの友人)が、こんな話をしてくれたという。

妹のK子さんも「?」に思ったことが何度かあるという。
そこで姉のN子さんの夫に、それとなくその話をしようとしたことがあった。
「あのう、姉のことですが……」と。
が、そのつど剣もほろろに、否定されてしまったという。
「N子は、何ともない!」「だいじょうぶだ」と。
すごい剣幕だったという。
K子さんは、こう言った。

「きっとダンナも薄々、気づいていたのね。
だからああいう反応を示したのね」と。


Hiroshi Hayashi++++++++APRIL・09++++++++++++はやし浩司

●アルツハイマー病

+++++++++++++++++++

人は自分の弱点を指摘されると、過剰に
反応する。
そういう傾向がある。
心がそのことで緊張状態にあるため、
それがきっかけとなって、情緒は一気に
不安定になる。

+++++++++++++++++++

●アルツハイマー病の女性

アルツハイマー病の初期症状のひとつとして、(1)怒りっぽくなる
ということあるそうだ。
「あなたおかしいわよ」と言われただけで、それだけでパニック状態に
なったりする。

こうした現象は、「病識がない」というよりは、「心当たりがある」から
そうなるというふうには、考えられないだろうか。
自分でもおかしい(?)と思っている。
で、何とか自分で解決しようとしている。
そういうとき、だれかからそれを指摘されたりする、カッとなる。
ふつうなら何でもないような、ささいなことでパニック状態になる。

A「……では、下諏訪市ですね」
B「私、下諏訪市なんて、言っていません!」
A「でも、あなた、先ほど、下諏訪市とおしゃいましたよ」
B「上山田市です。諏訪市ではありません!」
A「ああ、そうですか……」
B「どうして、そういうウソをつくんですかア!」と。

これはワイフが、ある女性とした会話である。
ふつうなら、「あら、まちがえました?」と笑ってすむような話でも、
アルツハイマー病の人には、それができない(?)。
何かのミスを指摘しただけで、パニック状態になる。
つまりそれだけ心の余裕がなくなる。
それが外の人には、「怒りっぽくなったように見える」ということになる。

●心の余裕

そこで「心の余裕」ということになる。
それについては、何度も書いてきたので、その先を考えてみたい。

心の余裕を測る方法として、いくつか考えられる。

(1)心の繊細さがあるかどうか。(相手と繊細な会話ができる。)
(2)ジョークが理解できるかどうか。(ジョークが通ずる。)
(3)相手の立場で考えられるかどうか。(よき聞き役になれる。)
(4)おだやかさ、やさしさがあるかどうか。(ピリピリしていない。)

アルツハイマー病になると、こうした心の余裕を失う(?)。
言い換えると、こうした心の余裕があれば、だいじょうぶということになる(?)。
あるいは心の余裕を養えば、ひょっとしたら予防に役立てることができる(?)。

専門のドクターが聞いたら、笑われるかもしれないが、心理学の世界では、
(心の余裕)は、その人の人格の完成度を知るための、重要なバロメーターに
なっている(IQ論、ピーター・サロベイ、ほか)。

もちろんアルツハイマー病の人は、人格の完成度が低いというわけではない。
しかし重度になると、人格そのものが崩壊する。
これもよく知られた事実である。

●心の緊張状態

もっとも気になっていることを指摘されたとき、カッとなるのは、何も
アルツハイマー病の人たちだけにかぎらない。
またアルツハイマー病になった人がみな、そうなるというわけでもない。

私たちだって、(この私にもすでにその初期症状が出ているのかもしれないが)、
気にしていることを指摘されると、カッとなることがある。
たがいに一定の信頼関係で結ばれていれば、まだよい。
それがないと、「何だ!」となる。

つまりそれだけ心の緊張感がつづいているということになる。
その状態のとき、不安や心配ごとが飛び込んでくると、心はそれを
解消しようと、一気に不安定になる。
よい例が、子どもの受験である。

子どもの受験のことで、ハラハラしている親に向かって、不用意なことを
口にすると、たいてい親は混乱状態になる。
だからこの世界では、『受験生をもつ親は、病人家族』という。

病気で苦しんでいる人に向かって、「どんな病気ですか?」「あと余命は
どれくらいですか?」と聞く人はいない。
同じように、受験生をもつ親に、「どこを受験しますか?」「結果は、
いかがでしたか?」と聞いてはならない。
相手のほうから話しかけてくるなら、それはそれでよい。
しかしそっとしておいてやることこそ、思いやりというもの。

話がそれたが、そのためにも、日ごろから私たちは、常に心の余裕を
大切にする。
それには、精進、ただひたすら精進、精進あるのみ!
結論は、そういうことになる。


Hiroshi Hayashi++++++++APRIL・09+++++++++++はやし浩司※

●不安

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80歳をすぎた近所の女性が、
数日前、救急車を呼んだ。

あとで理由を聞くと、便に
大量の血が混ざっていたからだという。

その女性は、自分が、がんになったと早合点して、
そうしたらしい。

しかし、がんではなかった。シロだった。ただ単なる、
切れ痔にすぎなかった。

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 私は知らなかったが、近所に住む女性が、救急車を呼んだという。今年、80歳になる
女性である。

 あとで人づてに理由を聞くと、便に大量の血が混ざっていたからだという。その女性は、
それをがんと早合点してしまったらしい。が、病院での検査の結果は、シロ。がんではな
かった。ただ単なる切れ痔にすぎなかったという。

 最初、この話をワイフから聞いたとき、私は笑ってしまった(失礼!)。その女性のよう
な心気症の人(=大病ではないかと、そのつど、大げさに悩む人)は多い。実は私もその
1人だが、しかし便に血が混ざっていたくらいでは、救急車は呼ばない。

 しかもその女性は、80歳だという。

私「80歳になっても、死ぬのがこわいのかねエ?」
ワ「何歳になっても、こわいみたいよ」
私「そういうものかねエ」と。

 そう言えば、私の母も、89歳のころ、足が思うように動かなくなったとき、それを治
せない医師を、「ヤブ医者」と言って、怒っていた。姉が、「89歳にもなれば、みんなそ
うよ」と懸命になだめていたが、母には、理解できなかったようだ。

 この問題には、つまりその人の生死にかかわる問題には、年齢は関係ないようだ。老齢
になったからといって、死に対する恐怖感がやわらぐということはない。考え方が変わる
ということもない。

 むしろ現実は逆で、老齢になればなるほど、「生」に執着する人は、多い。ほとんどの人
がそうではないか。中に、「私はいつ死んでもいいですよ。覚悟はできていますよ」などと
言う人がいるが、たいていは、そう言いながら、かっこつけているだけ。本心でないと考
えてよい。

 「死」を受け入れるということは、たいへんなことである。

 イギリスのBLOGから、「死」について書いた賢人たちの言葉を、集めてみる。

★ I live now on borrowed time, waiting in the anteroom for the summons that will 
inevitably come. And then - I go on to the next thing, whatever it is. One doesn't 
luckily have to bother about that.

私は借りてきた時間の中で、召喚のための小部屋で待ちながら、生きている。それは避け
られないもの。で、それから私は、どうあっても、つぎの部屋に行く。幸運にも、人は、
それで心をわずらわす必要はない。
Agatha Christie, "An Autobiography"(アガサ・クリスティ「自叙伝」)


★ I shall tell you a great secret my friend. Do not wait for the last judgement, it takes 
place every day.

友よ、私はあなたに偉大な秘密を話してやろうではないか。最後の審判を待ってはいけな
い。それは毎日起きていることなのだから。
Albert Camus

★To the well-organised mind, death is but the next great adventure.

よく準備された心には、死は、ただ単なるつぎの冒険でしかない。
Albus Dumbledore

★Even in the desolate wilderness, stars can still shine.

人に見放された荒野のようなところでも、星はまだ、輝いている。
Aoi Jiyuu Shiroi Nozomi (青い自由、白い望み?)

★ A Lizard continues its life into the wilderness like a human into heaven. Our fate is 
entirely dependent on our life

とかげは、野生の中に向かって生きつづける。人間が天国に向かって生きつづけるように。
我々の運命は、私たちに生命に完全に支配されている。
Andrew Cornish

★ This existence of ours is as transient as autumn clouds. To watch the birth and 
death of beings is like looking at the movements of a dance. A lifetime is a flash of 
lightning in the sky. Rushing by, like a torrent down a steep mountain.

我々の存在は、秋の雲のように、一時的なもの。人の生死を見るということは、踊りの動
きを見ているようなもの。人生というのは、空に光る稲妻の閃光でしかない。あるいは、
急な山を下る急流のようなものでしかない。
Buddha (c.563-c.483 B.C.)(釈迦)

★100 per cent of us die, and the percentage cannot be increased.

私たちのうち100%は死ぬ。そのパーセンテージがふえるということは、ない。
C.S. Lewis, "The Weight of Glory"

★Who chants a doleful hymn to his own death?

だれが、自分の死に際して、悲しげな賛美歌を歌うだろうか。
Shakespeare

★ We are here to laugh at the odds and live our lives so well that Death will tremble to 
take us.

私たちは、おおいに笑い、楽しく生きるために、ここにいる。そうすれば死は、私たちを
連れ去るのを、躊躇(ちゅうちょ)するだろう。
Charles Bukowski

★ All God does is watch us and kill us when we get boring. We must never, ever be 
boring. 

★ すべての神は、私たちをずっと見ていて、私たちがいつ、生きるのに飽きるかを見てい
る。だからそれゆえに、私たちは決して、自分の人生に飽きてはいけない。
Chuck Palahniuk, "Invisible Monsters"

 人生が瞬間的なものなら、80歳になるのも、瞬間にやってくる。若い人たちからみれ
ば、老後は、ありえないほど遠い未来に見えるかもしれないが、その老後は、瞬間にやっ
てくる。それがわからなければ、自分の過去をみることだ。

 少年、少女時代にせよ、青春時代にせよ、「私は生きた」という実感をもっている人は、
きわめて幸福な人だと思う。もし少年、少女時代にせよ、青春時代にせよ、それが何のた
めにあるかといえば、その「生きる実感」をつかむためにある。

 その「実感」が、灯台となって、それからのその人の人生の歩む道を、照らす。

 で、この年齢になってますますはっきりとわかってきたことがある。それは青春時代と
いうのは、人生の出発点ではないということ。青春時代は、人生のゴールそのものである
ということ。それはちょうど、あのサケが、最後には自分の生まれた源流をさかのぼり、
そこで死を迎えるようなもの。

 しかし悲しいかな、少年、少女時代にせよ、青春時代にせよ、その最中にいる人には、
それがわからない。「人生は永遠」と考えるのはまちがってはいないが、「永遠」と思うあ
まり、その時代を浪費してしまう。

 しかしその時代は、1回ポッキリで終わる。……終わってしまう。「まだ先がある……」
と思って、人は、生きていく。が、先は、ない。ないから、その日、その日を、悶々とし
た気分で過ごす。

 それが不完全燃焼感となって、心をふさぐ。悔いとなって、心をふさぐ。老後になれば
なるほど、それがより鮮明になってくる。

 冒頭に書いた女性だが、今回は、シロだった。が、この先、何年、生き延びることがで
きるというのだろうか。5年だろうか。10年だろうか。体の不調が起きるたびに、ビク
ビクしながら生きていくにちがいない。「生きる」といっても、死を先に延ばすだけの人生。
明日、その死がやってくるかもしれない。明日はだいじょうぶでも、あさって、やってく
るかもしれない。

 では、どう考えたらよいのか。どう死をとらえたら、よいのか。生きることを考えたら、
よいのか。

『友よ、私はあなたに偉大な秘密を話してやろうではないか。最後の審判を待ってはい
けない。それは毎日起きていることなのだから』と書いた、Albert Camus。『よく準備さ
れた心には、死は、ただ単なるつぎの冒険でしかない』と書いた、Albus Dumbledore。

 彼らの言葉の中に、その答につながるヒントがあるように、私は思う。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

【世界の賢者・格言集】by はやし浩司(09年4月8日版)

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勇ましい好戦論ばかりが、聞こえてくる。
しかしそれを唱える人にかぎって、自分では
戦争に行こうとしない。

人、とくに若い人たちに向って、「戦え、戦え」
と言いながら、自分では、奥の座敷でそれを
見物している。

愚かな核武装論にしても、そうだ。
もし日本が核武装するなら、一撃で、中国全土、
あるいはロシア全土を廃墟にできるほどの数の
核兵器をもたねばならない。

が、それができないというのであれば、
(できるわけがないのだが……)、
最初からもつのをやめるべきだ。

日本の平和と安全を守りたいなら、まず、
相手に脅威を与えないこと。

かつてあのインドのネール首相は、こう言った。

『ある国が平和であるためには、他
国の平和もまた保障されねばならない。
この狭い、相互に結合した世界にあっては、
戦争も、自由も、平和も、すべて
たがいに連動している』(「一つの世界をめざして」)と。

では、どうすべきか。

今、世界中が、国際化し始めている。
恩師の田丸先生は、こう教えてくれた。

「中国の若い男女を見ていると、日本の男女と
どこも区別がつかなくなってきています。
情報化がたがいに進めば、やがて中国も日本も
なくなりますよ」と。

私たちがめざすべき未来の世界は、けっして
対立する世界であってはいけない。
仮に為政者たちが対立しても、中身の人間が
同じになれば、やがて戦争は必然的に消滅する。

私たちがめざすべき世界は、そういう世界をいう。

戦争について、考えてみたい。

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●戦争について

Allow the President to invade a neighboring nation, whenever he shall deem it necessary to 
repel an invasion, and you allow him to do so, whenever he may choose to say he deems it 
necessary for such a purpose -- and you allow him to make war at pleasure. If today, he 
should choose to say he thinks it necessary to invade Canada, to prevent the British from 
invading us, how could you stop him? You may say to him, 'I see no probability of the British 
invading us' but he will say to you, 'Be silent; I see it, if you don't.'" - 
 Abraham Lincoln(A・リンカーン)
すべての大統領に、彼が侵略を追い払うためにそれが必要と思うなら、隣国を侵略することを
許せ。またその目的のためにそれが必要だというのなら、隣国を侵略することを許せ。そして
大統領が望むまま戦争することを許せ。もし今日、英国がわれわれを侵略することを防ぐた
め、カナダを侵略するのが必要という判断を大統領が下したのなら、だれが彼を止めることが
できるのか? あなたは「英国が我々を侵略する可能性はありません」と言うかもしれないが、
私は、こう言うだろう。「黙っていろ。もしあなたがわからないなら、私がそれを知る」と。


The pioneers of a warless world are the youth that refuse military service. 
Albert Einstein(A・アインシュタイン)

戦争のない世界における囚人は、軍役を拒否する若者たちである。


A country cannot simultaneously prepare and prevent war. 
Albert Einstein(A・アインシュタイン)

国というのは、戦争を準備することと、戦争を防ぐことは、同時にはできないものである。


Never has there been a good war or a bad peace 
Benjamin Franklin(B・フランクリン)

今だかって、よい戦争もなければ、悪い戦争もなかった。


Every gun that is made, every warship launched, every rocket fired signifies, in the final 
sense, a theft from those who hunger and are not fed, those who are cold and not clothed. 
Dwight D. Eisenhower(D・D・アイゼンハウワー)

どんな銃であれ、戦艦であれ、ロケットであれ、つまるところ、それらは、食物を与えられず飢
えている人から、ものを盗むようなもの。衣服がなく、寒さに震えている人から、ものを盗むよう
なもの。


We have to face the fact that either all of us are going to die together or we are going to 
learn to live together and if we are to live together we have to talk. 
Eleanor Roosevelt(E・ルーズベルト)

私たちは、つぎの事実に直面しなければならない。私たちみなは、いっしょに死ぬか、でなけれ
ば、いっしょに生きるかのどちらかである。もしいっしょに生きるならば、まずたがいに対話をし
なければならない。


●恐れについて

Taking a new step, uttering a new word, is what people fear most. 
Dostoyevsky(ドストエフスキィ)

新しい行動に出ること、新しい言葉を発すること……それが人々がもっとも恐れることだ。


Without fear and illness, I could never have accomplished all I have. 
Edvard Munch

恐れと病気がなかったら、私は今私がもっとているものすべてを完遂できなかっただろう。


If someone betrays you once it is their fault, if someone betrays you twice it is your fault. 
Elenor Roosevelt (E・ルーズベルト)

誰かが1度、あなたを裏切ったら、それは彼らの責任だ。しかしもしあなたが2度裏切られたと
するなら、それはあなたの責任だ。


To suffering there is a limit; to fearing, none. 
Francis Bacon(F・ベーコン)

苦しみに対しては、制限がある。しかし恐れることには、制限はない。


I must not fear. Fear is the mind-killer. Fear is the little-death that brings total obliteration. 
I will face my fear. I will permit it to pass over me and through me. And when it has gone 
past I will turn the inner eye to see its path. Where the fear has gone there will be nothing. 
Only I will remain." 
Frank Herbert, Dune ―Bene Gesserit Litany Against Fear

私は恐れてはならない。恐れは、心を殺す。恐れは小さな死であり、それはすべてを忘れさせ
る。私は恐れに立ち向かうだろう。私はそれを私の中を通過するのを許すだろう。そしてそれ
が過ぎ去ったとき、それが通り過ぎた道を見るため、心の中の目に振り向く。恐れが去ったと
き、そこには何もない。ただ私が残っているだけ。


The fear of aesthetics is the first symptom of powerlessness. 
Fyodor Dostoevsky, "Crime and Punishment"(F.ドストエフスキィ・「罪と罰」)

美の哲学としての恐れは、無力の同意語である。


One of the things which danger does to you after a time is -, well, to kill emotion. I don't 
think I shall ever feel anything again except fear. None of us can hate anymore - or love. 
Graham Greene ―The Confidential Agent (1939)

危険というものをしばらく経験したあとにやってくるものの一つは、感情を失うということ。恐れ
以外に再び何も感じないだろう。だれもなにも恨むこともなければ、愛することもない。


War is an ugly thing, but not the ugliest of things. The decayed and degraded state of moral 
and patriotic feeling which thinks that nothing is worth war is much worse. The person who 
has nothing for which he is willing to fight, nothing which is more important than his own 
personal safety, is a miserable creature and has no chance of being free unless made and 
kept so by the exertions of better men than himself. 
John Stuart Mill(J・S・ミル)

戦争は醜いもの。が、もっとも醜いものではない。道徳や愛郷心が腐敗し、堕落すれば、何も
価値がないと思うようになり、それが戦争をさらに悪くする。喜んで戦うべきものをもたない人、
つまり己の安全のみ以上に、大切なものをもたない人は、あわれな生き物であり、もし、今以
上によりよい自分になるためにそうしているのでないというならば、自由の感覚を味わうことは
ない。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●テポドンと平和(09年4月9日)
(North Korean Missile and Peace in Japan)

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あのテポドン騒ぎも一段落。
またすべてのものが、何ごともなかったかのように、
動き出した。

テレビでは相変わらず、バラエティ番組。
その中のひとつで、現在宇宙ステーションにいる、
「Wさん」との交信を中継している番組があった。
私はそれを見ながら、K国の人たちは、
こういう事実をどこまで知っているのだろうかと
思った。

「人工衛星も結構だが、今はもう、そういう時代ではない」と。
つまり国際が協力しあって、宇宙の開発をする。
もし人工衛星なら……。

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●何を学んだか

私たちは、あのテポドン騒動で何を学んだか。
何を私たちに教訓として残したか。
あるいはこのまま、再び、ノー天気な平和主義に溺れてしまってよいのか。
過去の一事件として、忘れてしまってよいのか。
あの4月5日を思い浮かべなら、いろいろ考える。
また考えなければならない。

現実には、まだ何も問題が解決したわけではない。
そこにK国はあり、彼らは核兵器もミサイルももっている。
さらに言えば、彼らには、道理が通じない。
自国民が何百万人も餓死しても、みじんも自らに恥じない国である。
他国民である日本人を、同じように何百万人も殺しても、平気ですますだろう。

束(つか)の間の平和かもしれないが、平和な今だからこそ、
私たちは、平和について考えなければならない。
緊張感を失ってはならない。

●周囲科学

まず、テポドンについて……。

ひとつの科学だけが、ほかの科学を飛び越えて、特異に発達するということは、
ありえない。
ひとつの科学が発達するためには、それを支える周囲の科学の発達がなければ
ならない。
これを「周囲科学」という。

たとえば宇宙工学にしても、それを支えるための無数の周囲科学が必要である。
ロケットを打ち上げれば、それですべてというわけにはいかない。
衛星を軌道に載せるにしても、衛星本体にそういう装置をつけなければならない。
地上からの指令に応じて、姿勢を制御したり、方向を転換したりするなど。
そのためには、通信施設や通信技術も必要となる。
その前に、衛星がどこをどのように周回しているかを知らなければならない。
そういった監視システムも必要である。

つまりそういったものをすべて無視して、「ロケットを打ち上げに、成功した」は、
ない。

●情報遮断とウソ

あのK国を見ていて、悲しくなる理由にはいくつかある。
ひとつは、どうして人間は、ああまで愚かになれるかということ。
一説によると、K国は、今回のテポドンの打ち上げのために、300億円(韓国
情報当局)も費やしたという。
これはちょうど一年分の食糧をまかなえる金額という。

それが人工衛星の打ち上げのためであるならなおさら、そんなお金を衛星のために
費やす方が、どうかしている。
今の今も、多くの民が飢えで苦しんでいる。

それにもうひとつ。
それはつまり、あのK国を見ていると、戦前、戦時中の日本をそのまま見せつけられる
ような思いがするということ。

戦時中の日本人も、今のK国のように、為政者たちによって、よいように操られた。
大本営発表を例にあげるまでもない。
徹底した情報遮断とウソ情報。
今回もK国内部では、「成功」と報ずるだけではなく、「世界中の報道機関が、成功と
報じている」と、国民には教えているようだ。

●戦時中の日本とK国

で、その日本人が、今K国を見ながら、何かを学習しているかというと、そうでもない。
たとえば「K国をやっつけろ!、やっつけろ!」と叫んでいる人たちほど、その一方で、
あの日本の侵略戦争を美化してやまない。

恐らく彼らもまた、K国を見ながら、自己矛盾に陥っているのだろう。
戦前、戦時中の日本と、現在のK国の類似点を求めたら、それこそ山のように出てくる。
しかしそれを認めることは、彼らにしてみれば、自己否定につながってしまう。

が、本当の悲しさは、そのつぎにやってくる。

現在のK国はやがて、自滅する。
今までああした国が生き残ったという例は、ひとつもない。
で、そのとき、犠牲者となった国民は、それに気がつくかどうかということ。
この先50年後でもよい。

恐らく現在の日本人がそうであるように、50年後のK国の人たちもまた、それに
気がつかないだろう。
「私たちは正しかった」「金xxは正しかった」と。
独裁者の犠牲になりながら、犠牲になったことにすら、気がつかない。
毎年、金xxの墓参りをしながら、バンザーイ、バンザーイを繰り返すかもしれない。

●在日朝鮮人の人たち

それにしても理解に苦しむのが、在日の朝鮮S連の人たち。
彼らは今、日本という国の中に住み、K国を私たちと同じように客観的にながめている。
またそれができるはず。

ああいう国が、(まとも)か、そうでないかということになれば、だれが見ても(まとも)
ではない。
K国のミサイルが飛んでくれば、自分たちの命だって、危険にさらされる。
しかし現在は、K国の在日大使館的な役割を担っている。
何かあるたびに、K国を擁護し、日本を非難する。
こうした感覚は、いったい、どこから生まれるのか。
今年も、このままでは、何百万人という(同胞?)が、飢えに苦しむという。

それほどまでに、日本を恨んでいるのか?
それとも、愛国心そのものが、カルト化しているためなのか?

5、6年前のことだが、新潟港を出港したM号(日朝間の連絡船)の中の様子が
紹介されたことがある。
その中で、在日朝鮮人の学生たちが、「♪(日本が)滅ぶ、滅ぶ……」というような
歌を歌っていた。

そういう歌があること自体、信じられなかったが、それをうれしそうに歌う学生たちの
姿もまた、信じられなかった。

●欠陥

これは人間が本来的にもつ「欠陥」のようなものかもしれない。
K国の人たちのことを言っているのではない。
私たち日本人も、同じように、その「欠陥」をかかえている。

私たち日本人も、侵略戦争で、300万人も犠牲になっている。
が、同時に、300万人もの外国の人たちを殺している。
あの南京虐殺事件にしても、一部の人たちは、「日本軍は30万人も殺していない。
せいぜい3万人だ。中国側の卑劣なプロパガンダだ」と息巻いている。

しかし3万人でも、問題である。
3000人でもよい。
300人でもよい。
もし日本が反対に、同じことをされたとしたら、どうなのか。
名古屋のような都市に、ある日、中国軍がやってきて、300人の人を殺したら、
どうなのか?

●人間の攻撃性

人間が本来的にもつ攻撃性は、いつも一方的なものと考えてよい。
攻撃する側は、攻撃することだけを考える。
攻撃される側のことは、考えない。
このことはたとえば、加害者と被害者の立場に分けて考えてみると、よくわかる。

加害者は、多くのばあい、「害を与えた」という意識が薄い。
そういう意識があっても、それをすぐ忘れる。
これは脳の中で、不愉快なことはできるだけ早く忘れたいというメカニズムが
働くためではないか。

一方被害者は、それをいつまでも覚えている。
(被害)を原点として、妄想をふくらますこともある。
「我々の国が貧しいのは、日本のせい」と。

こうした加害者と被害者の間に、ミゾ、つまりギャップが生まれる。
そしてそれが対立関係を生みだす。

●国としての人格

人間の人格は、EQ論で判断される。
その中でも、(1)より自己中心的でない、ということが、ひとつの判断基準になる。
共鳴性でもよい。

つまりより相手の立場に立って、相手の悲しみや苦しみを共有できる人のことを、
人格の完成度の高い人という。

これは人間という、それぞれの個人についていったものだが、それはそのまま「国」
についても当てはまる。
より自己中心的な国は、それだけ完成度の低い国ということになる。
半面、より自己中心的でない国は、それだけ完成度の高い国ということになる。
つまり自分の国の利益しか考えず、自分の国だけがよければそれでよいと考える
国は、それだけ完成度の低い国ということになる。
半面、相手の国のことを考え、相手の国の立場に立って考えられる国は、
それだけ完成度の高い国ということになる。

たとえば戦争と平和という問題にしても、自国の平和と安全が守らればそれでよいと
考えるのは、それだけ完成度の低い国ということになる。
で、どうしても、この問題は、あのインドのネール首相の言葉に行き着いてしまう。
ネール首相は、かつて、こう言った。

『ある国が平和であるためには、他国の平和もまた保障されねばならない。この狭い、相
互に結合した世界にあっては、戦争も、自由も、平和も、すべてたがいに連動している』(「一
つの世界をめざして」)と。

●テポドン

もしあのとき、テポドンの軌道がずれ、それに対して日本が迎撃していたら、
K国は、まちがいなく日本に対して、報復措置を取っていただろう。
中に「いや、あれは脅しにすぎない」と思った人がいるかもしれないが、それは
彼らの憎悪にも似た反日感情を知らない人の言葉と考えてよい。

中身はどうであれ、つまりその後の洗脳教育で増幅された部分もあるだろうが、
戦時中の日本は、そう思われてもしかないようなことを、してしまった。

で、事実、その数日前から、ミグ戦闘機部隊が、東海岸に集結していた。
ノドンミサイルも、臨戦態勢に入っていた。
時事通信(3・31)は、『民間兵力に当たる労農赤衛隊のほか、地方軍や予備役も
戦闘準備に入った』と伝えていた。

幸か不幸か、テポドンミサイルは、中途半端な形かもしれないが、無事(?)、
日本の上空を通過してくれた。
迎撃ミサイルが発射されることはなかった。
が、もしそうでなかったとしたら……。
つまりあのとき迎撃ミサイルが発射されていたとしたら、
今ごろ日本は、大惨事以上の大惨事に見舞われていたにちがいない。

これは私の憶測ではない。
ないことは、最近になって、日本の外務省が私と同じように考えていたことが
わかってきた(週刊誌ほか)。
外務省は、迎撃ミサイルの発射に反対していた。
理由は、ここに書いたとおりである。

●おとなになる

何度も書くが、日本は、あんな国を本気で相手にしてはいけない。
アメリカのある政府高官は、K国をさして、「Mad Dog(狂ったいぬ)」と
評した。
であるならなおさら、相手にしてはいけない。

国力は山陰地方にあるひとつの県にも及ばない、どこまでも貧しく、あわれな国
である。
世界の中でも、最貧国にあげられている。
しかも頭のおかしい独裁者に率いられた、どこまでも悲しい国である。
そんな国を、まともに相手にしてはいけない。
それとも日本は、そんな国を相手に、心中でもするつもりなのか。

おとなになるということは、国としての人格の完成度を高めることをいう。
「ミサイルだ!」「そら、迎撃だ!」と騒いでいるようであれば、人格の完成度は
低いということになる。
「日本も核武装だ」「国連脱退だ」と騒いでいるようであれば、人格の完成度は、
さらに低いということになる。
少なくとも世界の人たちは、「日本もK国も同じ」と見るだろう。
つまり私たちは、あの太平洋戦争での失敗から、何を学んだかということになる。
計600万人もの人たちの犠牲から、何を学んだかということになる。

●では、どうするか?

K国問題を解決するために、そのカギを握るのが中国ということになる。
その中国は、まだ道理の通ずる国である。
改革開放も、急速に進んでいる。
今のこの日本は、その中国をターゲットに、地道に、しかも忍耐強く、
説得に説得を重ねる。
日米韓、それに中国が動けば、K国は崩壊する。

いや、こう書くと、過激な意見に聞こえるかもしれないが、すでにあの国は、
内部的には崩壊している。
韓国に亡命した、K国の元政府高官(主体思想の創案者)は、こう言った。
「K国といっても、金xxのほか、取り巻きが20人程度。多くて100人程度の
独裁国家」(内容は記憶によるものなので、不正確)と。

その100人(たったの100人だぞ!)が、変われば、K国も変わる。
そのためにも、中国の説得に全力を傾ける。
けっして中国と対立してはいけない。
道理をもって当たれば、中国だってわからぬはずはない。
今ここでK国を擁護すれば、中国の歴史にも汚点を残すことになる。
中国だって、それを知っている。

●終わりに……

テポドン騒ぎは、多くの、かつ貴重な教訓を私たちに残した。
その中でももっとも大切なことは、私たちが今感じている(平和)などというものは、
薄いガラスでできた、箱のようなものであるということ。

もろい!
壊れるときには、簡単に壊れる。
しかも今度戦争が起きたら、武器の発達もあるが、想像を絶するほど悲惨なものになる。
ノドンに通常の爆薬が搭載されていると考えるのは、それこそ本当に現実離れしている。

で、この教訓を、この先、どう生かしていくか。
とても残念なことだが、これで危機が去ったわけではない。
K国が核開発や、ミサイル開発をあきらめたわけでもない。
「つぎはいつ?」というふうに考えたらよい。

『平和とは、戦争と戦争の間の、束(つか)の間の一とき』ということになるのか。
アインシュタインも言っているように、人間というのは、『国というのは、
戦争を準備することと、戦争を防ぐことは、同時にはできないものである。
(A country cannot simultaneously prepare and prevent war.)』ということ
らしい。

今こそ、つぎの平和はどうあるべきか、真剣に考えるべきときではないのか。 

(補記)
今まで先の第二次大戦を、私はそのつどいろいろな呼び方をしてきた。
「太平洋戦争」「先の大戦」「第二次大戦」などなど。
オーストラリアなどでは、「ワールド・ウォー(世界大戦)、ザ・セカンド
(World War U)」などと呼んでいる。
しかし今日から私は、「日本の侵略戦争」と呼ぶことにした。
事実、そのとおりなのだから、反対する人はいないはず。

そうそう今朝の新聞によれば、国連という舞台で、K国は語気を強くして、
「あれは人工衛星だった」と主張しているようだ。
その姿勢は、「先の戦争は侵略戦争ではなかった」と主張する日本の姿勢と、
どこか、ヨ〜〜ク似ている。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

【ミサイル迎撃、反対!】

●K国に渡ったマネー

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ノ前大統領の汚職問題が、いよいよ最終局面を
迎えつつある。

「知らぬ」「存ぜず」とシラを切っていたが、
それも限界にきた。
で、ノ前大統領は、自分のHPで、弁解+謝罪。
しかし今や、ノ前大統領の言葉を信ずる者は、
ほとんどいない(韓国紙)。

同じく、あの金大中元大統領。
ノーベル平和賞にしても、日本円にして500〜700
億円で、買ったもの。
それを最近になって、側近(現在、アメリカへ
亡命)が、暴露した。

が、金大中元大統領、ノ前前大統領がなした、
大罪はそれだけでない。
あのK国に、「3000億円近い現金」を
渡していた(朝鮮N報)。

そのお金が核兵器になり、ミサイルになった(?)。
それを知った今、韓国の人たちの落胆+怒りも
頂点に達しつつある。

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朝鮮N報は、つぎのように伝える(09年4月)。

『金大中(キム・デジュン)政権以後、10年間で北朝鮮に公式に渡った金は、
合わせて3兆2000億ウォン(現在のレートで約2360億円、以下同じ)を
超えるものと推定されている。

 8日に本紙が統一部および企画財政部の対北朝鮮支援資料を総合し分析した結果、
人道的支援の名目で政府および民間が北朝鮮に渡した食糧や建設資材などの物資は、
10年間で総額2兆7327億ウォン(約2014億円)相当に上った。

また、現代グループが金剛山観光の代価として北朝鮮に支払ったことが分かっている
現金は、1999年以降2007年まで合わせて4億7528万ドル(約474億円)だった。
9年間の平均為替レート1ドル=1122ウォンを適用すると、5332億ウォン規模となる
双方を合わせると、3兆2659億ウォン(約2407億円)に達する。
北朝鮮の07年度予算(32億2000万ドル=約3212億円)に匹敵する金額だ』と。

しかし実際には、それだけではない。
朝鮮N報が報告する数字を、並べてみる。

『「金大中・盧武鉉(ノ・ムヒョン)両政権時代に政府や民間から訪朝の代価として
支払われた"裏金"が、推定されるだけでも10億ドル(約997億円)に達する」と
語った』と。

訪朝の代価として、1000億円もの現金が使われたというのだ。
1000億円だぞ!
首脳会談をするだけで!
そしてその業績(?)が、評価されて(?)、金大中は、ノーベル平和賞を受賞した!

ほかに、

●金大中政権以降、訪朝の道が開けたことに伴い、親北もしくは左派寄りの諸勢力が
次々と北朝鮮を訪れた。1998年以降の10年間で、社会文化交流を名目として
4万1660人余りが北朝鮮を訪問した。これらのうち相当数が、多かれ少なかれ
裏金を「会談代」形式で渡したと伝えられている。

韓国政府の関係者は「北朝鮮の人物と会談する際に支払う金は、地位によって違った。少なく
とも数十万ドル(約数千万円)で、多ければ100万ドル(約1億円)にもなった」と語った。

●一部の放送局が平壌での公演イベントを中継するに当たり北朝鮮に払った金は、1件当たり
100万ドルほど。12億ウォンに達する。例えばMBCは2002年の平壌公演を生放送する際、北
朝鮮に120万ドル(約1億1970万円)を送金した。

 北朝鮮は今月5日に長距離弾道ミサイルに転用可能なロケットを発射したが、このロケットの
開発費用・発射費用は3億ドルから5億ドル(約299億−498億円)だと思われる。過去10年間、
韓国の人々や団体が北朝鮮幹部と会い、イベントに参加し、そこでこっそりと支払われた10億
ドルは、北朝鮮が長距離ロケット2基を開発してもなお余る金だ、と。
(以上、朝鮮N報より。)

が、この日本にもおバカさんがいた。

K国で餓死者が続出し、金xxが、中国北部への亡命まで画策していたとき、
何と120万トンもの米(このときは、米、ライス、白飯)をK国に提供した
人物がいた。

ときの日本の外務大臣のK氏である。
「これでK国が動かなかったら、責任を取る」とまで豪語したが、ご存知のように、
K国は動かなかった。
K氏も責任を取らなかった。

日本は、K国崩壊のチャンスを、みすみす逃したことになる!
その結果が、今ということになる。
が、そののち、ノ大統領が政権の座を取ると同時に、(太陽政策)なるものが、
韓国の対北政策の(柱)となった。

その毒気に染まったのが、アメリカのC・ヒル国務次官補ということになる。
彼が与えた、マネー、原油、それに5年という歳月は、重い。
さらに日本という同盟国を、何度も裏切った。

その中でも最大のものは、日本に、「拉致問題を一時棚上げして、K国援助に加われ」
「さもなければK国を、テロ支援国家の指定から解除する」と日本を脅したこと。
そして日本がそれを拒否すると、日本の防戦をくじくために、電撃的に、K国を、
テロ支援国家から解除してしまった!

こんな同盟国が、どこにある!

その結果、K国は、何をしたか?
いまさら、ここで説明するまでもない。

中国の軍事評論家の一人は、「ここ3、4か月以内に、K国は、またミサイル実験を
するだろう」と予測している。
今のこの日本の平和は、束の間の(休憩)ということになる。

【補記】

で、私の主張は変わらない。

「あんな国を、本気で相手にしてはいけない」である。

●ミサイルを撃ちあげても、迎撃してはいけない。
●一部が日本に落ちることになっても、大騒ぎしてはいけない。

相手は、とにかく、まともではない。
道理の通ずるような国ではない。
そんな国と、日本は心中してはいけない。

だからここは『負けるが勝ち』。
ノドン320基がすでに日本を射程に収めている今、何が迎撃か?
(別のアメリカの専門家は、800基と推定している。)
それらすべてに、生物、化学兵器が搭載されているとみるべき。

古今東西、戦争というのは、一度始めると、それを収めるのがたいへん。
アメリカのイラク戦争、アフガニスタン処理を見れば、それがわかるはず。
またアメリカが何とかしてくれるなどとは、思ってはいけない。

これについては東京都のI知事がこう言っている。
「アメリカの戦略空軍基地司令部を見たことがあるが、日本は防衛範囲の中に
入っていなかった」(09年4月)と。
オバマ大統領は、すでに日本を見捨てている。
わかるか?

日本は戦争をしてはいけない。
今のように丸裸の状態で、戦争を始めたら、どうなる?
逃げたくても、シャエルターひとつ、用意されていない。
だから『負けるが勝ち』。
「卑怯だ」「バカだ」と言われても、ここはじっとがまん。

やがてK国は、自滅する。
それを静かに、待つ。
相手はワーワーと声をあげるかもしれないが、それも時間の問題。
さあ今こそ、「善」の存在を信じよう。
私たちが根源的にもっている「良識」を信じよう。
それを世界に向けて、発信していこう。

日本は、あんな国と、ぜったいに心中だけはしてはいけない!


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●4月9日

++++++++++++++++++++

長かった春休みも、今日でおしまい。
明日から、忙しくなりそう。
今年度は、地元の中日ショーッパーが、
教室の宣伝をしてくれたこともあり、
昨年よりも、〜教室も、教室がふえた。
ほとんどを、無料でしてくれた。
中日ショッパー様(「様」をつけるのも
おかしいが……)、ありがとうございました!

++++++++++++++++++++

●休み最後の日

ワイフが最後だから、どこかへ行こうと私を誘った。
しかしこのところどうも睡眠調整がうまくいかない。
午前10時には、もう眠気。
まぶたを開けているだけでも、つらい。

が、寝ているわけにはいかない。
いくつか雑用をこなし、郵便局へ。
デジタルカメラの調子が悪かったので、カメラ屋へも。
それからパソコンショップにも立ち寄った。
今使っている、SDのカードリーダーは、2GBまでしか
認識しない。
いろいろと不便を感ずるようになった。
それで新しいのに、買い換えた。
今度のは、32GBまで、認識する。
この世界の進歩には、本当に驚かされる。

で、そのまま山荘へ行ったが、そこでも雑用。
バーベキュー・コーナーの配水管がつまった。
それでその清掃、などなど。
で、そのあとやっと昼寝。
あとで時計を見たら、何と、2時間も眠ってしまった!

人と会う約束もなく、そのまま家に。
書斎にこもって、いくつか、原稿を書いた。

夕方、BW教室のOBのOさんからメールが届いた。
息子さんが、無事、K高校の入試に合格したとあった。
(K高校……静岡県でもNO1の進学校。)
が、BW教室の実力が試されるのは、これから。
「今では、みな、ウソのように、天下のS大やA大に
入学していきますよ」と、返事を書いた。
幼児期に方向性だけ作ってやれば、あとは子どもは
自分の(力)で伸びていく。
その方向性を作るのが、私の役目。


●NINTENDOのDSi

昨日、アメリカにいる孫に、ニンテンドーの
DSiを買って送った。
誕生日が近い。
メールでそのことを知らせると、誕生日には、
フロリダのディズニーランドへ行くとのこと。
「そのとき(DSiを)、もっていく」と。

DSiといっても、カメラにもなる。
ミュージック・プレヤーにもなる。
もちろんゲームもできるが……。
(私も、ごくふつうのジジ・バカ?)


●誠司

HPのトップ画面を飾っている、孫の誠司の
写真を交換した。
私にはかわいく見える孫。
ほかの人が見ても、そうは思わないだろう。
みんな、自分の孫は、かわいく見えるもの。
ときどき、「かわいいお孫さんですね」と言って
くれる人もいる。
お世辞とわかっていても、うれしい。

HPへは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
から!


●畑

庭の隅に、小さな畑がある。
そこに今日、新たに、ピーマンとシシトウの苗を、2本ずつ植えた。
それにキューリの苗、2本も。
その畑から、昨日、ワイフが早々と、レタスの収穫をしてきた。
「まだかわいそうだよ」と言いながら、食べた。
おいしかった。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090409)

●講演会

今度、県の教育委員会主催の、ある総会で基調講演をすることになった。
たいへんな総会で、あとになって、つまり今になって、ジワジワと緊張感が、
わいてきた。
昨日は、「わかりました」と、軽い気持ちで引き受けたのだが……。

最近、脳みその働きが、どんどんと悪くなっていく感じがする。
ボケが始まったのか……?
少し心配。

講演の内容を、少し書いてみる。

++++++++++++++++++++++++++++++++

【心の正体】

●性欲からの解放

54、5歳ごろのことでした。
人は、「男の更年期」と言いましたが、初老性のうつ病だったかもしれません。
ふと気がついてみると、私は女性に「女」を感じなくなってしまっていました。
それは実にサバサバとした気分で、そのころ私は、ワイフにこう言ったのを
覚えています。

「あのなあ、今なら、女性と混浴しても平気だぞ」と。
で、それに答えてワイフがこう言いました。
「どうしてあなたは、そんなにおめでたいの?
相手の女性がいやがるわよ」と。

ナルホド!

ともかくも、私はそのときはじめて、性からの解放を経験しました。
と、同時に、それまでの自分が、いかに性の奴隷であったかを、知りました。

●性の奴隷

私たち人間の行動は、土の中に住むミミズと、基本的には同じ。
どこがちがうかといえば、人間の行動の方が、やや複雑なだけ。
あのジークムント・フロイトが言っているように、私たちの(生命)の
原点になっているのが、「性的エネルギー」。
人間のありとあらゆる行動は、その性的エネルギーの支配下にあると考えて
まちがいないようです。

男性がスポーツか何かで、目立ちたがるのも、また女性が、電車の中で、
せわしく化粧するのも、その原点にあるのが、性的エネルギーということに
なります。

みんな「私は私だ」「自分で考えてそうしている」と思っているかもしれませんが、
つまるところ、私であって私でないものに動かされているだけということに
なります。

最近では、脳科学が急速な進歩を遂げ、科学的にそれが証明されつつあります。
たとえば昨年(08年)、アメリカのサイエンス誌に、こんな興味深い論文が
掲載されました(※1)。

それは人間の、(これは人間にかぎりませんが)、条件反射についての論文ですが、
人間を基本的な部分で動かすシグナルは、どうやら脳下垂体の下部から
発せられているらしいということがわかってきました。
そこからシグナルが発せられると、たとえばドーパミンという神経伝達物質が
放出され、それが線条体を刺激する。
それがどうやら(欲望)の源になっているらしいのです。

わかりやすく言いますと、脳の中心部、奥深くで、(生きるための信号)が
常に発せられ、それが生きることの原点になっているというのです。
で、生きることの原点とは何かといいますと、言わずとしれた、
種族の保持です。
もっとわかりやすく言えば、生殖ということになります。

●作られる意識

さらに興味深い研究結果が公表されました。
それによりますと、私たちの意識にしても、それを意識として意識する前に、
脳の中の別のところで、それが作られているというのです(※2)。

最近では、脳の中をリアルタイムに、その動きを観察することができる
ようになりました。
それでそういうことがわかるようになったのでしょう。
たとえば、こういうことです。

あなたが台所へ行ったとします。
そこであなたは喉の渇きを覚え、冷蔵庫を開け、飲み物を手にしたとします。
そのときあなたは、自分の意思でそうしたいから、そうしたと思うかも
しれません。
しかし実際には、そういう行動に移る前に、脳の別の部分で、別の意識が
作られているのだそうです。

(喉が渇いた)→(台所の冷蔵庫から、何か飲み物を取り出せ)、と。
しかしそのときは、意識として、まだあなたに自覚されることはありません。
あなたは表面的には何も考えず、台所へ行き、そのあたりではじめて、
「喉が渇いた」と思うようになるのです。
そしてつぎに冷蔵庫を開ける……。

つまり私たちが意識と思っている意識にしても、実に怪しげなものだという
ことです。
もっとはっきり言えば、「私は私」と思ってしている行動にしても、そのほとんどが、
実は、脳の中の別の部分で、あらかじめ作られているものだということ。
さらに言えば、私たちは、その別の部分の奴隷にすぎないということです。

ためしに、電車の中でいそいそと化粧を始めた女性にこう聞いてみると
よいと思います。

「あなたは今、化粧をしているが、自分の意思でそれをしていますか?」と。
するとその女性は、まちがいなく、こう答えるでしょう。
「もちろん、そうです! 私の意思です。私がしたいから、しているのです」と。

●性的エネルギー

いくつかの例を出してみましょう。

よく知られた話ですが、あのコカコーラ。
当初は、ほとんどといって、売れなかったそうです。
そこで経営者は、ビンの形を変えてみた。
それまではずん胴だったビンの形を、女性の肉体のように、くびれのある
なまめかしい形にしたのだそうです。
とたん売れ行きが爆発的によくなり、現在のコカコーラになったそうです。

ほかにもビデオ産業があります。
ゲーム産業もそうです。
さらにはインターネットの世界も、そうです。
これらの産業が急速に発展した陰には、(スケベ)があります。
その(スケベ)を、刺激したとたん、ビデオにせよ、ゲームにせよ、
さらにはインターネットにせよ、爆発的に普及しました。

私たちの行動は、すべてどこかで、(性的エネルギー)と結びついている
というわけです。
ただ誤解してはいけないことは、これに対して、あのユングは、(生的
エネルギー)という言葉を使いました。
(性的エネルギー)と(生的エネルギー)。
この解釈の対立により、フロイトとユングは、決定的に対立することになります。

●生的エネルギー

余談になりますが、昨年、私は母を亡くしました。
享年、92歳でした。
で、最後の1年半は、近くの特別養護老人ホームにいましたが、そこでの
ことです。

ときどき見舞いに行って、ほかの老人の方々を観察させてもらったのですが、
みなさん、食欲だけは旺盛でした。
中には、大きな声で、「メシはまだかあ!」と、始終、怒鳴り声をあげている
老人もいました。

ああいうのを見ていると、ひょっとしたら、ユングのほうが正しかったかな
と思います。
あるいは(性的エネルギー)のさらに、その下の原点になっているエネルギー、
それが(生的エネルギー)かな、と。
先ほども書きましたように、なぜ私たちが生きているかといえば、結局は、
種族保持のためです。
ありとあらゆる生物がそのために生きているわけで、人間だけが例外ということは、
ありえません。

どちらにせよ、私たちは、私たちの中の、別の私たちによって動かされて
いるということです。
言い換えると、「私は私」と思っている部分ほど、いいかげんなものはないと
いうことです。

(つづきは、またの機会に……。眠くなった。)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

【心の正体】

●性欲からの解放

54、5歳ごろのこと。
人は、「男の更年期」と言ったが、初老性のうつ病だったかもしれない。
ふと気がついてみると、私は女性に「女」を感じなくなってしまっていた。
それは実にサバサバとした気分で、そのころ私は、ワイフにこう言ったのを
覚えている。

「あのなあ、今なら、女性と混浴しても平気だぞ」と。
で、それに答えてワイフがこう言った。
「どうしてあなたは、そんなにおめでたいの?
相手の女性がいやがるわよ」と。

ナルホド!

ともかくも、私はそのときはじめて、性欲、つまり性からの解放を経験した。
と、同時に、それまでの自分が、いかに性の奴隷であったかを、知った。

●性の奴隷

私たち人間の行動は、土の中に住むミミズと、基本的には同じ。
どこがちがうかといえば、人間の行動の方が、やや複雑なだけ。
あのジークムント・フロイトが言っているように、私たちの(生命)の
原点になっているのが、「性的エネルギー」。
人間のありとあらゆる行動は、その性的エネルギーの支配下にあると考えて
まちがいない。

男性がスポーツか何かで、目立ちたがるのも、また女性が、電車の中で、
せわしく化粧するのも、その原点にあるのが、性的エネルギーということに
なる。

みんな「私は私だ」「自分で考えてそうしている」と思っているかもしれないが、
つまるところ、私であって私でないものに動かされているだけということに
なる。

さらに最近では、脳科学が急速な進歩を遂げ、科学的にそれが証明されつつある。
たとえば昨年(08年)、アメリカのサイエンス誌に、こんな興味深い論文が
掲載された(※1)。

それは人間の、(これは人間にかぎらない)、条件反射についての論文だったが、
人間を基本的な部分で動かすシグナルは、どうやら脳下垂体の下部から
発せられているらしいということがわかってきた。
そこからシグナルが発せられると、たとえばドーパミンという神経伝達物質が
放出され、それが線条体を刺激する。
ドーパミンというのは、人間の欲望と快楽を調整している神経伝達物質をいう。
それがどうやら(欲望)の源になっているらしい。

わかりやすく言うと、脳の中心部、奥深くで、(生きるための信号)が
常に発せられ、それが生きることの原点になっている。
で、生きることの原点とは何かといえば、言わずとしれた、種族の保持。
もっとわかりやすく言えば、生殖ということになる。

●作られる意識

さらに興味深い研究結果が公表された。
それによると、私たちの意識にしても、それを意識として意識する前に、
脳の中の別のところで、それが作られているという(※2)。

最近では、脳の中をリアルタイムに、その動きを観察することができる
ようになった。
それでそういうことがわかるようになったのかもしれない。
たとえば、こういうこと。

あなたが台所へ行ったとする。
そこであなたは喉の渇きを覚え、冷蔵庫を開け、飲み物を手にしたとする。
そのときあなたは、自分の意思でそうしたいから、そうしたと思うかも
しれない。
しかし実際には、そういう行動に移る前に、脳の別の部分で、別の意識が
作られているという。

(喉が渇いた)→(台所の冷蔵庫から、何か飲み物を取り出せ)、と。
しかしそのときは、意識として、まだあなたに自覚されることはない。
あなたは表面的には何も考えず、台所へ行き、そのあたりではじめて、
「喉が渇いた」と思うようになる。
そしてつぎに冷蔵庫を開ける……。

つまり私たちが意識と思っている意識にしても、実に怪しげなものだという
ことになる。
もっとはっきり言えば、「私は私」と思ってしている行動にしても、そのほとんどが、
実は、脳の中の別の部分で、あらかじめ作られているものだということ。
さらに言えば、私たちは、その別の部分の奴隷にすぎないということ。

ためしに、電車の中でいそいそと化粧を始めた女性にこう聞いてみるとよい。

「あなたは今、化粧をしているが、自分の意思でそれをしていますか?」と。
するとその女性は、まちがいなく、こう答えるだろう。
「もちろん、そうです! 私の意思です。私がしたいから、しているのです」と。

●性的エネルギー

いくつかの例を出してみよう。

よく知られた話に、あのコカコーラがある。
当初は、ほとんどといって、売れなかったそうである。
そこで経営者は、ビンの形を変えてみた。
それまではずん胴だったビンの形を、女性の肉体のように、くびれのある
なまめかしい形にした。
とたん売れ行きが爆発的によくなり、コカコーラは、現在のコカコーラになった。

ほかにもビデオ産業がある。
ゲーム産業もそうである。
さらにはインターネットの世界も、そうである。
これらの産業が急速に発展した陰には、(スケベ)がある。
その(スケベ)を、刺激したとたん、ビデオにせよ、ゲームにせよ、
さらにはインターネットにせよ、爆発的に普及した。

私たちの行動は、すべてどこかで、(性的エネルギー)と結びついている
というわけである。
ただ誤解してはいけないことは、これに対して、あのユングは、(生的
エネルギー)という言葉を使った。
(性的エネルギー)と(生的エネルギー)。
この解釈の対立により、フロイトとユングは、決定的に対立することになる。

●生的エネルギー

余談になるが、昨年、私は母を亡くした。
享年、92歳だった。
で、最後の1年半は、近くの特別養護老人ホームにいたが、そこでのこと。

ときどき見舞いに行って、ほかの老人の方々を観察させてもらったのだが、
みなさん、食欲だけは旺盛だった。
中には、大きな声で、「メシはまだかア!」と、始終、怒鳴り声をあげている
老人もいた。

ああいうのを見ていると、ひょっとしたら、ユングのほうが正しかったかな
と思う。
あるいは(性的エネルギー)のさらに、その下の原点になっているエネルギー、
それが(生的エネルギー)かな、と。
先ほども書いたように、なぜ私たちが生きているかといえば、結局は、
種族保持のため。
ありとあらゆる生物がそのために生きているわけで、人間だけが例外ということは、
ありえない。

どちらにせよ、私たちは、私たちの中の、別の私たちによって動かされて
いるということ。
言い換えると、「私は私」と思っている部分ほど、いいかげんなものはないと
いうことになる。

●スズメはスズメ

私はときどき、「私」というのは、タマネギのようなものでないかと思う。
「私」のまわりを、タマネギの皮のように、(私でないもの)がおおっている。
そこでその「私」から、(私であにもの)を取り除いていくと、最後に残るのは、
細い芯(しん)だけ。
あるいはひょっとしたら、何も残らないのではないか?

つまりそれくらい「私」というのは、心細いものということ。
私たちは、私は私と思っているだけ。
実のところ、私など、どこにもない……?

このことは庭に遊ぶスズメたちを見ればわかる。
北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメ。
それぞれがたがいの連絡もなく、勝手に生きているように見えるが、
していることは同じ。
そのワク(=範囲)を超えることはできない。

……こう書くと、「私はちがう」「人間はちがう」と反論する人もいるかもしれない。

一歩人間から退いてみると、それがわかる。

●相対的なちがい

先日も1人の女子中学生とこんな会話をした。
その中学生は、「アリスナイン」や「ガゼット」のファンだという。
その話を聞きながら、私が、「ぼくたちのことは、舟木和夫や、西郷輝彦
だった」と言うと、何を思ったか、ケラケラと笑い出した。

「古〜イ。そんなの知らな〜イ」と。

そこで私は反論してやった。
「中身はちがうかもしれないが、していることは同じだよ。
君たちもやがて歳をとり、ぼくの年代になるときがやってくる。
そのとき、そのときの若い人に、同じことを言われるようになるだろうね。
『古〜イ。そんなの知らな〜イ』とね」と。

若い人たちは、古いものの上に新しいものが積み重なり、ものごとは
すべて「進歩している」と思うらしい。
そして同時に、人間もまた進歩している、と。
つまり私たちの世代より、今の世代のほうが、進歩している、と。
しかし実のところ、中身は同じ。
何もちがわない。
人間は人間。
アメリカの人間も、インドの人間も、人間は人間。
1000年前の人間も、1000年後の人間も、人間は人間。
人間は、そのワクを超えることはできない。

●「ワク」を超える

が、それでは満足できない。
私にしても、そしてあなたにしても、いつもそのワクを超えたいと願っている。
「私は私」と。

仮に一羽のスズメが、ツバメと同居を始めたら、どうなるのだろう。
そのときスズメは、スズメというワクを超えることができる。
人間も、同じようなことができるだろうか。
もしそれができれば、人間は、人間というワクを超えることができる。
そしてそのとき、それを「私」と呼ぶことができる。

はたしてそれは可能なのか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
性からの解放 性欲からの解放 性の奴隷 作られる意識 ドーパミン 神経伝達物質)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●憎しみの向こうに
(Beyond the Hatred. The loser is the Winner. Or we are NOT the losers. They are the 
losers. Millions of people have been dying from hunger. We will never shoot down the Missile 
in any case. )

+++++++++++++++++++++++

危機はこれで去ったわけではない。
K国はすでにつぎの実験を計画しているという。
2、3か月後には、つぎのミサイルが発射されるという。
中国の軍事筋(軍事評論家)は、そう伝えている。

+++++++++++++++++++++++

憎しみは憎しみを生むだけ。(Hatred bring about hatred.)
恨みは恨みを生むだけ。(Grudge brings about grudge.)
あなたは知っているか?(Do you know their eys…)
あの人たちがもつ、燃えるような憎悪の念を。(with full of burning hatred and grudge.)
自分たちの歴史が、日本によって蹂躙(じゅうりん)されたという、(Can we understand…)
あの屈辱感を。(their sense of humiliation we gave during the War?)

加害者は害を与えたということを忘れ、
その分だけ、被害者は、妄想を増幅させる。
私たちの言い分はどうであれ、
彼らがそういう感情をもっている以上、
私たちは謙虚に、それに耳を傾けるしかない。

大切なことは、戦争を起こしてはならないということ。
それが避けられるものであれば、最後の最後まで避ける。
戦争は、始めるのは簡単。
しかし終えるのが、むずかしい。
いまだかって、すっきりと終わった戦争など、一例もない。
泥沼からは、泥沼が生まれ、地獄からは地獄が生まれる。

それがわからなかったら、イスラエルとパレスチナの関係を見ればよい。
ニクソンのベトナム戦争でも、ブッシュのイラク戦争でもよい。

日本よ、日本人よ、あんな国を相手にしてはいけない。
あんな国と心中してはいけない。
どこまでも貧しく、どこまでもあわれな国ではないか。
昨日、彼らが言うところの、衛星発射司令室の写真を見た。
40年前にゴジラ映画ですら、あんなた安っぽいセットは使わなかった。
見えと体裁、虚飾と虚栄。
どこまでも、どこまでも、心の貧しい国である。

準備は、しておけばよい。
「備え」だけは、しっかりしておけばよい。
生物兵器に対する備えは、しておけばよい。
薬品はそろっているか。
救護態勢は整っているか。
化学兵器に対する備えはしておけばよい。
シャルターは確保されているか。
救護態勢は整っているか。
さらに核兵器については、どうか。
救護態勢は整っているか。
治療設備は、整っているか。

すでに国内に潜伏しているという工作員への対策はできているか。
原子力発電所の安全は、確保できているか。

迎撃ミサイルだけを用意ずれば、それでよいという問題ではない。
ミサイルを迎撃すれば、それでよいという問題ではない。
彼らはそのミサイルに「命」をかけている。
こっけいな理屈に聞こえるかもしれないが、それが彼らの論理。
それが彼らの論理である以上、耳を傾けるしかない。

さあ、日本よ、日本人よ、おとなになろう。
今こそ、私たち日本人の良識が試されている。
先の戦争から学んだ教訓が、生かされようとしている。
私たちが前面に打ち出すのは、「良識」という旗印。
その良識を信じて、私たちは前に歩こう。

再び、そして三たび、危機はやってくる。
しかしそれが攻撃用のものでないかぎり、私たちはそれに耐えよう。
もし世界中が、もてる最新の武器を、惜しみなく使うようになったら、どうなる。
そのとき世界は、終わる。
ついでに言えば、迎撃ミサイルは、日本が開発したものでもなんでもない。
アメリカという軍事大国から、買っただけ。
そういう武器を、これ見よがしに並べて、「さあ、来い!」は、ない。

脅威なのは、テポドンではない。
すでに実戦配備されている、ノドン。
その数、320基?
それとも800基?
仮に10発、迎撃できたとしても、残りの数百発は、どうする?

どうであるにせよ、そんなミサイルを、どうやって防ぐ?
4月5日の日も、そうだった。
テポドンを1発撃ち落とせば、そのあと10〜20発のノドンが追いかけてきた。
韓国の軍事専門家は、そう読んでいた。
日本の外務省も、そう読んでいた。

日本は、戦後、勝った。
勝ちつづけた。
それが今の、この繁栄ではないか。
みんな、健康で、文化的な生活をしているではないか。

本当の実力というのは、(作らないこと)で、試される。
核兵器など、いつでも作れるが、作らない。
大陸間弾道ミサイルなど、いつでも作れるが、作らない。
化学兵器や生物兵器など、いつでも作れるが、作らない。
それこそが私たち日本人の、本当の「実力」ではないのか。

が、一方、あの国は、負けつづけた。
10年前には、数百万人が餓死するという事態までになった。
今の今も、食べるものもじゅうぶんにないという。
平均身長で、韓国の若者と比べても、10〜15センチも差がついたという。
ひとつぐらい負けたところで、どうということはない。
昔から、日本ではこう言うではないか。
『負けるが、勝ち』と。

ぜったいに、K国のミサイルを迎撃してはいけない。
構えを見せても、迎撃してはいけない。
相手は、(まともな国)ではない。
頭のおかしな指導者に率いられた、独裁国家である。
まともな思考力そのものを、失っている。
アメリカのある政府高官は、「Mad Dog(狂った犬)」と評した。
であるなら、なおさら、相手にしてはいけない。

ここは冷静に。
ここはがまん。
ひたすら、がまん。
その(がまん)を見せたとき、かならず、世界は動く。
「日本も変わった」と思う。
もしここで日本が軽率に動いたら、それこそ拉致された人たちの命さえあぶない。

そう、今こそ、私たち日本人は、戦前、戦時中の日本人でないことを示すとき。
勇気がいることだが、それが世界に伝わったとき、世界は変わる。
世界中の人たちは、良識のラッパを吹き鳴らす。
それが世界に平和をもたらす。
日本は、その先駆けになろう。

もし、ここで迎撃ミサイルを発射すれば、世界の人はこう思うだろう。
「日本は、何も変わっていない」と。
「やっぱり、戦時中のまま」と。
もちろん手をこまねいていてよいわけではない。
歴史を謙虚に反省し、韓国の人たちや、中国の人たちに、良識を訴えていこう。
頭をさげ、腰を低くして、接していこう。
日本人の私たちにはつらいことかもしれない。
しかし彼らは、まだ良識の通ずる人たちである。
そういう人たちと話し合いながら、あの国を抑えこんでいこう。

さらに言えば、私は「善」の存在を信ずる。
私は人間が本来的にもつ、「良識」を信ずる。
だからぜったいに、戦争だけは起こしてはならない。
叩かれても、蹴られても、最後の最後までふんばる。
大切なことは、ぜったいに戦争だけは起こしてはならないということ。

今の日本は、丸裸。
繰り返す。
迎撃ミサイルがあれば、それでよいと考えるのは、あまりにも短絡的。
劇画の世界では、そういう話も通ずる。
ゴジラ映画の中では、そういう話も通ずる。
しかしこれは劇画の世界の話ではない。
映画の世界の話でもない。
人間が死ぬのだぞ。
日本人が、死ぬのだぞ。
あなたの息子や夫が死ぬのだぞ。
ひょっとしたら、あなた自身も死ぬのだぞ。
何十万人も、何百万人も……。

「攻撃される前に、侵略する……」。
その論理で、日本はあの戦争を始めてしまった。
結果、300万人の日本人が死んだ。
同じく300万人の外国人を殺した。
この事実をもっと、謙虚に、見つめなおそう。
そこを原点として、ものを考えよう。

「あの戦争は正しかった」という論理が、はたして今、正当化されるものだろうか。
もしそれが正しいというのなら、逆のことも正しいと認めなければならない。
いつかすぐ、中国が強大な軍事力をもって、同じことをしても文句は言わないこと。
それがいやなら、ここは、がまん。
ひたすらがまん。

憎しみは憎しみを生むだけ。
恨みは恨みを生むだけ。
だから改めて、ミサイル迎撃、反対!
ぜったいにしてはならない。
つぎに彼らが載せるのは、生物兵器だぞ!
化学兵器だぞ!
核兵器だぞ!

今こそ、私たちの良識が試されようとしている。
そしてもし、この良識が力が証明されたら、そのときこそ、世界に平和が訪れる。
私たち日本人は、その壮大な実験を、今、しようとしている。
この闘いに負けたら、本当に日本は、太平洋の海溝に沈むことになる。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司※

【文明の衝突】



++++++++++++++++



中国や、韓国での根強い、反日感情。


なぜ、今なのか?



それをただ単なる、民族主義の高揚に

よるものと考えると、ますますわけが

わからなくなる。またそう考えたと

ころで、解決策には、結びつかない。



++++++++++++++++



●日本も中国も同じ(?)



 前にもどこかで書いたが、ドイツ人のロシア嫌いには、相当なものがある。一部のドイツ人
が、そうであるというのではない。総じてみれば、みな、そうなのである。



 そういうドイツ人を見ていると、ふと、こう思う。私たち日本人から見ると、ドイツ人もロシア人
も、同じなのに、と。



 しかし同じことが、私たち日本人についても、言える。ヨーロッパの人たちから見ると、日本人
も中国人も同じ。区別できない。だから日本人はともかくも、中国人が日本人を嫌っているとい
う話を聞くと、ヨーロッパの人たちは、みな、こう思うにちがいない。



 私たちから見ると、日本人も中国人も、同じなのに、と。



 なぜか?



●生理的な嫌悪感



 つまり、なぜ、こうした、好きとか嫌いとかいう反応が、生理的な部分で起きてしまうのか。そ
の理由として、よくあげられるのが、民族意識であり、歴史認識の問題である。とくにドイツとロ
シアは、数世紀にまたがって、あるいはそれ以前から、たがいに戦ってきた。



 しかしこのことだけでは、なぜ中国人が、今、日本を嫌っているのか、その説明がつかない。
韓国人にしても、そうである。たしかにこの100年の間に、日本と中国、日本と韓国は、不幸な
戦争を経験した。それは事実である。しかしそれ以前はといえば、日本は極東のアジアの島国
として、中国とも韓国とも、それなりに、仲よくつきあっていた。



 ドイツとロシア、日本と中国、それに日本と韓国は、どこか同じようで、同じではない。そのち
がいは、どこから生まれるのか。



 実は、ここに「文明の対立」の問題がある。



 ヨーロッパは、言うまでもなく、西欧文明圏に属している。一方、ロシアは、スラブ文明圏に属
している。「文明」というのは、民族意識の上にあって、意識として意識されない意識をいう。い
わば無意識下の、帰属意識ということになる。相互帰属意識と言ってもよい。



 で、この日本について言うなら、日本は、敗戦時までは、中国や韓国と同じ、儒教文明圏に
属していた。細部はともかくも、マクロな見方をすれば、そうである。独特の集団意識、上下意
識、帰属意識、相互依存意識、先祖崇拝意識など。そういった意識は、儒教文明圏から生ま
れた、共通の意識と考えてよい。



●アメリカ型西欧文明を受け入れた日本



 が、日本は、アメリカという国に、一度は、すべてを焼き払われてしまった。同時に、それまで
もっていた儒教文明圏の中でもっていた、帰属意識まで、焼き払われてしまった。そしてその
かわりに、いわゆるアメリカ型西欧文明を、移植されてしまった。



 日本人というよりは、日本は、つまり、全体として、敗戦と同時に、儒教文明圏から脱し、アメ
リカ型西欧文明圏へと、移動したことになる。



 このことを如実に例として示しているのが、イタリアを観光旅行する日本人たちである。数年
前だが、イタリアに住む友人(オーストラリア人)が、こんなメールをくれたことがある。



「日本人には、2種類ある。ひとつは、ガイドのもつ旗について、ゾロゾロと観光旅行する日本
人。年配者に多い。もうひとつは、個人、もしくは数人ずつのグループをつくり、自由気ままに
旅をする日本人。若い人たちに多い」と。



 こうしたちがいは、30年前、40年前には、さらに、きわだっていた。



 香港へ来る日本人たちは、みな、ガイドがもつ旗を先頭に、ゾロゾロと並んで旅行をしてい
た。しかし香港へ来るヨーロッパ人たちは、みな、それぞれが単独で行動をしていた。



 こうしたちがいを見ただけでも、戦後、日本は、大きく変わったと言える。そのちがいをすべて
文明のちがいによるものだと言い切るには、少し無理があるかもしれない。が、しかしつぎのよ
うな事実を知れば、みなさんも、私の意見に同意するだろうと思う。



●日本人は、半分は、欧米人?



 ためしにあなたの子どもにこう聞いてみるとよい。



 「あなたは、アジア人か、ヨーロッパ人か」と。



 すると、ほとんどの子どもは、こう答える。「アジア人ではない」「半分、ヨーロッパ人だ」と。事
実、自分をアジア人と思っている子どもは、まず、いない。「君の肌だって黄色いではないか」と
言うと、「ぼくの肌は黄色ではない。肌色だ」と答える(テレビのある討論番組より)。



 ここまで書いたところで、私がこの先、何を書きたいか、もうおわかりのことと思う。つまり日
本人は、アメリカ型西欧文明圏の世界にいる。一方、中国や韓国は、昔も、今も、儒教文明圏
の世界にいる。



 こうした文明の対立は、それぞれが離れているときは、起きない。たがいに接しているところ
で起きる。ドイツとロシアがそうである。そして日本と中国がそうである。日本と韓国がそうであ
る。



 しかし日本とヨーロッパ、日本とロシアの間では、起きない。たがいに離れているからである。
が、ヨーロッパは、スラブ文明圏との対立のほか、アフリカ文明圏、さらにはアラブ文明圏とも
対立している。が、インドを中心とする、インダス文明圏とは対立していない。たがいに離れて
いるからである。



 かなりおおざっぱな、かつ乱暴な説明に聞こえるかもしれないが、そのあたりまで踏みこまな
いと、現在の日中関係、日韓関係を、うまく説明することができない。



 もちろん、日本は、完全にアメリカ型西欧文明圏に属したわけではない。この日本の中にも、
まだ儒教文明圏の亡霊のようなものは、残っている。そしてそれが時おり、顔を出して、世間を
騒がす。



 最近では、日本の文化がもつ「形」や「情緒」こそが、日本の顔だと説く本が、大ベストセラー
になっている。これなどは、いわば、行き過ぎたアメリカ型西欧文明に対する、反作用とも理解
できる。



 一方、中国や韓国の内部にも、アメリカ型西欧文明を受け入れようとする動きがある。儒教
文明圏といっても、決して、儒教一色ではない。アメリカ型西欧主義を取り入れた日本も、儒教
文明圏にいる中国も韓国も、どこか、まだら。



 そういった現象はあるものの、しかし全体としてみると、日本は、アメリカ型西欧文化圏に属
し、中国や韓国は、儒教文明圏に属する。



 この文明のちがいが、対立となって、先鋭化している。それが中国や韓国の、反米、反日運
動の底流にある。



●アリの世界



 ……という私の話を、あなたは、とっぴもない意見だと思うだろう。しかしついでにこんな話も
しておきたい。



 10年ほど前だが、アリの研究では、日本で何本かの指に入るという研究者から、直接、こん
な話を聞いたことがある。



 アリというのは、穴の中に住み、地面をはっている、あのアリである。あのアリには、巨大な
縄張りがあって、それぞれの種族が、日本列島を、何分割かに分けているという。その最前線
では、熾烈(しれつ)な、国境闘争を繰りかえしているという。



 驚いて私が、都市部ではどうですかと聞くと、その研究者は、こう言った。山の中だろうが、町
の中だろうが、それは関係ありません、と。その最前線が、ときに都市部の中央部を横切るこ
ともあるという。



 どこでそういう知識と知恵が働くのだろう。いや、アリ自身は、無意識なまま、たがいに戦って
いるにちがいない。



●帰属意識



 では、こうした文明圏を理解するためには、どうしたらよいのか。それをさらにみなさんにも理
解してもらえるように、私は、人間のもつ相互帰属意識を、つぎの7つの段階に分けてみた。



 家族意識(先祖意識)
    ↓
 同郷意識
    ↓
 同国意識
    ↓
 民族意識
    ↓
 文明意識(無意識)
    ↓
 人間意識(無意識)
    ↓
 生命意識(無意識)



 5番目から下の、「文明意識」「人間意識」「生命意識」というのは、現在は、ほとんど無意識
下にあるとみてよい。相対的に、意識のレベルがあがったときはじめて、その姿を現す。



 たとえば少し話がSF的になるが、もし他の天体から、見るからに気味の悪い宇宙人が地球
を攻めてきたようなばあいを想定してみよう。その宇宙人は、人類を滅ぼし、地球を支配しよう
としている。



 恐らく人間は、民族や、国を忘れて、その宇宙人と戦うにちがいない。



 さらにもし、これまた別の天体から、機械じかけの宇宙人が、私たち生物を襲い始めたような
ばあいを想定してみよう。人間は、今度は、その気味の悪い宇宙人とも手を組んで、その機械
じかけの宇宙人と戦うにちがいない。



 つまり民族や、国を忘れて、宇宙人と戦う意識の底流にあるのが、6番目の、「人間意識」と
いうことになる。さらに気味の悪い宇宙人とも手を組んで戦うという意識の底流にあるのが、7
番目の、「生命意識」ということになる。



 では、文明意識は、どうかということになる。その例として、まずあげられるのが、十字軍であ
る。



 かつてヨーロッパのキリスト教徒たちは、ある時期、国や民族を忘れて、十字軍という名前の
軍隊を、イスラエルに向けて送った。名目上は、聖地奪回だったかもしれないが、それは同時
に文明と文明の対立であったとも考えられる。



 国が侵されたとき、その国の人たちは、国を守るために立ちあがる。

 民族も、そうだ。そして同じように、自分たちが属する文明圏に危機感をいだいたとき、その
文明に属する人たちは、立ちあがる。



 ここから先は、まさにSFの世界の話ということになるが、宇宙人が地球を攻めてきたような
ばあいには、地球人は、地球を守るために、立ちあがる。アメリカ映画にも、そんなような映画
があった。『インディペンデンス・デイ』という映画が、それである。



●終わりに……



 で、なぜ今、韓国で、反米、反日なのか? 中国の人たちは、どうして戦後の日本を受け入
れることができないのか。



 その答は、私は、文明のちがいにあると考える。またそう考えることによってのみ、彼らがも
つ、反米、反日感情を理解できる。彼らは、生理的な部分で、日本がもつ文明に対して、嫌悪
感を覚えている。そしてそれを、反米、反日感情へと結びつけている。



 なおアメリカの文明を、あえてアメリカ型西欧文明としたのは、いわゆるヨーロッパの西欧文
明とは、どこか異質なものであることによる。事実、ヨーロッパ人は、アメリカとは、常に一線を
引いている。



 ご存知の方も多いと思うが、総じてみれば、ヨーロッパ人は、アメリカを嫌っている。オースト
ラリア人にしても、そうだ。私が知るかぎり、アメリカが好きだというオーストラリア人は、1人も
いない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 帰属
意識 儒教文明 アメリカ型西欧文明)



【注】この原稿は、私の考えが、まだ半熟の状態で書いたもの。この問題については、近く、さ
らに掘りさげて考えてみたいと考えている。



 なお「文明の衝突」論者として、よく知られた学者に、サミュエル・ハンティントン(1927〜)が
いる。彼は、儒教文明にせよ、イスラム文明にせよ、西欧文明の優越性を認めておらず、その
ため、いつかこの2大文明が、西欧文明と大衝突をすると予測している。



 そうなってはいけないが、今、世界は、そのハンティントンが予測したとおりの道筋をたどって
いるというのは、不気味なことではないだろうか。つまり私の考えでは、その前哨戦が、今、日
本と中国、日本と韓国の間で、行われているということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 文明
の衝突 儒教文明 西欧文明 イスラム文明)



【補足】



 日本も、「愛国心」とか、「国を愛する心」とか、そんな了見の狭いことを言っていないで、どう
だろう、このあたりで、愛文明心とか、愛人間心、さらには愛生命心とか、言ってみては?



 「愛地球心」でも、よい。しかしこれは愛知万博(05年)のテーマにもなっていたので、ここで
は考えない。(二番煎じは、いやですね!)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●文明の衝突(2)

++++++++++++++++++++

少し前、「文明の衝突」について、書いた。
(原稿は、ここに添付。)
それを読みなおす。
読みなおして、それをワイフに話す。
(090412)

++++++++++++++++++++

●日本vsアジア

「黄色い白人」と呼ばれて、一時、日本人が得意になったことがあった。
日本が高度成長の波に乗り、破竹の進撃をつづけていたときのことである。
事実、当時、日本で、「自分はアジア人」と思っている子どもはいなかった。
「ぼくはアジア人ではない。日本人だ」と。
それについては、先の原稿に書いたとおりである。

しかし私たちは今も昔も、立派なアジア人である。
容姿、顔つき、肌の色、すべてが、立派なアジア人である。
むしろ日本人のほうが、骨相学的には、貧相と言われている。
島国で、長い間、鎖国をつづけ、「血の交流」をしなかったためと考えてよい。

で、昔、こんなことがあった。
私がオーストラリアで学生生活を送っていたときのことである。
中国からの留学生が何人かいた席で、だれかが私にこう言った。
「ヒロシ、君たちは中国人に、どんなイメージをもっているか。
それを絵に描いてみてほしい」と。

で、私は、目が釣りあがり、歯が飛び出た中国人を描いてみせた。
当時、新聞など出てくる中国人は、みな、そのような顔をしていた。
が、それを見て、みなが、ドッと笑った。
「ヒロシ、それは日本人の顔だよ」と。

●異種文明

こうした文明のちがいを克服するためには、どうしたらよいのか。
あるいはどうして文明の対立が起きるのか。
異種文明にも距離感がある。

(1)隣接文明(隣接している文明)
(2)非隣接文明(隣接していない文明)

先の原稿の中で書いたように、ドイツ人のロシア嫌いには定評(?)がある。
「どうしてそんなにも嫌うのか?」と思うほど、嫌う。
同じように、中国人の日本嫌いにも、定評(?)がある。
「どうしてそんなにも嫌うのか?」と思うほど、嫌う。

それには先の侵略戦争が大きく影響している。
が、それだけではないようだ。
「文明の衝突論」を当てはめてみると、それがうまく説明できる。
中国は、儒教文明圏に属する。
一方、この日本は、儒教文明圏に身を置きながら、西洋文明圏に属する。
つまりそこで「文明の衝突」が起きている。

が、日本とロシア、さらに日本とイラク、イランとの対立は生まれない。
(一部、日本とロシアは、対立しているが……。)
ロシアは、スラブ文明圏に属する。
イラク、イランは、アラブ文明圏属する。
なぜか。
それが「文明の距離」ということになる。

わかりやす言えば、文明の衝突は、それぞれの文明が接したところで起こる。
離れたところでは起きない。
たとえば今度は、スラブ文明とアラブ文明については、それぞれが接している。
だからたがいに仲が悪い。
アラブ人のロシア嫌いにも、これまた定評(?)がある。

非隣接文明についていえば、それは(情報)でしかない。
たとえば私たちがアラブ文明に触れたとき、それは(もの珍しさ)でしかない。
そのため文明の衝突は起きない。

●融和

問題はどうやって、隣接文明と融和していくかということ。
国と国の対立は、それぞれの国同士という(単体)の話しあいで解決できる。
しかし文明の対立となると、そうはいかない。

たとえば日本は、自らを西欧文明の中に身を置き、儒教文明と鋭く対立している。
日本は、儒教文明圏に属しながら、その一方で、自らを西欧文明圏に置いている。
この対立構造が、日本を現在の今、孤立させている。

このことは、相手の立場で考えてみると、よくわかる。
一度、ペキン(北京)という、中国の首都に、視点を置いてみるとよい。
日本は、はるか東の海上。
中国から見れば、大陸の端にへばりついているように見える。
それはたとえて言うなら、東京から、佐渡島を見るようなものではないか。

その日本が、ひとり、「私たちは西洋人」と主張している。
それから生まれる違和感というか、(滑稽さ)には、相当なものがある。
中国人が、日本を受け入れない本当の理由は、そんなところにもある(?)。

では、どうするか?

●儒教文明

最初に書いておきたい。
「儒教文明の再構築」といっても、復古主義的なものであってはいけない。
それについては、あとで「情報革命」のところで書く。
私たちはアジア人であることを再確認する。
それが儒教文明の再構築ということになる。

現在の今、私たちがこうして漢字を使っていること自体、その証拠ということになる。
中に「平仮名やカタカナは、日本人すばらしい発明」と書いている人がいる。
しかしそれはどうか?
平仮名にせよ、カタカナにせよ、漢字の簡略版にすぎない。
略字にすぎない。
「発明」などという大げさなものではなく、一バリエーションに過ぎない。
漢字で、「波也此」と書くより、「はやし」と書いたほうが楽に決まっている。
当時の人たちなら、だれしもそう考えただろう。

つまりこと日本人に関して言えば、私たちは、中国文明圏に属している。
まずそれを率直に認めること。
(だからといって、中国に隷属せよと、そういうことを書いているのではない。
誤解のないように!)

●日本史論

ついでに日本史論。
これについては、すでにたびたび書いてきた。
つまり日本では、日本史を東洋史と切り離して教える。
「日本は日本、東洋とは一線を画す」という思想が、その底流にある。
しかしこれがいかに偏狭なものであるかは、アジアの諸国をながめてみれば、わかる。
韓国を例に出すまでもない。

ほかに若いころ、タイへ行ったときにも、それを感じた。
タイという国は、そういう意味では奇異な国と考えてよい。
私たち日本人から見ると、同じ東南アジア諸国の一員ということになる。
しかし彼らは、そうは思っていない。
タイの人たちは、自分たちの歴史を、東南アジア全体から切り離して考えている。

日本史を東洋史と切り離してしまったところに、日本の歴史の悲劇性が潜む。
少し前も、ニセ石器に踊らされ、歴史の本そのものを書き換えてしまったことがある。
そのとき韓国の人たちは、こう言って笑った。
「日本に、韓国(中国)より古い歴史があるわけがない」と。

しかし日本史を東洋史の中に置いてみると、歴史観が一変する。
あの縄文時代にしても、弥生時代にしても、中国からの渡来民が深く関係している。
戦乱を逃れて、多くの民が、中国大陸から流れてやってきた。
そういう人たちが、大陸の文化を、日本に伝えた。

さらに天皇家のルーツにしても、そうだ。
少なくとも隣の韓国では、天皇家の祖先は、朝鮮からの騎馬民族ということになっている。
日本の天皇ですら、「ゆかり」という言葉を使って、それを臭わせたこともある。
しかし日本史を東洋史と切り離している間は、日本はいつまでも日本のまま。
日本が東洋と融和することは、ありえない。

●情報革命

が、悲観的なことばかり言っていてはいけない。
ここで人類は、第二の産業革命とも言える「武器」を手にした。
「情報革命」という武器である。

以前、恩師の田丸先生がこう話してくれたことがある。
「情報革命が進めば、国はなくなりますよ」と。

具体的にはこうだ。
「年々、向こうの若者たちが日本の若者と区別できなくなってきた」と。
「姿、容姿、着ている服装など、「区別ができない」と。
つまりそういう形で、国と国は融合し、やがて文明の対立も解消される、と。
言い換えると、いかにこの情報革命を利用するかという問題に行き着く。

昔は、隣町どうしが、言い争った。
それが県どうしになった。
それが国
さらに文明。

情報革命は、その間を融和させる。
言葉の問題もあるにはある。
しかしたった10年前と比較しただけでも、その進歩にはめざましいものがある。
たとえば私が発行しているHPにしても、外国の人たちが読んでいる。
その中には「米軍」というのもある。
まだ10%程度だが、「10%にしても、すごい!」。

情報革命が進めば進むほど、国どうしの垣根も低くなる。
文明の衝突も、起きにくくなる。
その例が、あのEUである。
ほんの65年前にははげしい戦争を繰りかえしていた。
が、今は、ひとつの国になった!

●文明の衝突

私たちが警戒しなければならないのは、偏狂な民族主義。
その台頭。
「武士道こそ、日本が世界に誇るべき、日本人のアイデンテティ」と説く。
しかし今、どうしてこの日本で、武士道なのか?
仮にそれが「道」であったとしても、それは武士の世界での話。
しかも武士の本質は、軍人。
軍人で悪いなら、官僚。
あるいは警察、役人、特権階級。
何でもよいが、ともかくも支配階級。

私たちの先祖の94、5%は、農民であり、わずかな数の商人、工人であった。
それを忘れて、「武士道」とは?
あの江戸時代にしても、世界でも類を見ないほどの暗黒政治の時代であった。
さらに戦陣訓を例にあげるまでもなく、一方的に礼讃するのはどうか?
「生きて虜囚の……」とかいう、あの戦陣訓は、武士道の精神を拝借している。
そのため、どれだけ多くの日本人が犠牲になったことか!
「負の遺産」に目を当てることもなく、武士道を礼讃するのは、危険なことでもある。

つまり私たちが偏狭な民族主義にこだわればこだわるほど、互いの文明の溝を深くする。
あのアインシュタイン博士も、田丸先生への手紙の中で、「exaggerated nationalism」
という言葉を使って、強く戒めている。
「exaggerated nationalism」、つまり「誇張されたナショナリズム」=「偏狭な
民族主義」ということになる。

●過去から学ぶ

こう書いたからといって、どうか、誤解しないでほしい。
私は何も日本の歴史を否定しているのではない。
歴史は歴史として、当然、評価されなければならない。
しかしここにも書いたように、その「負の遺産」に目をくれることもなく、あの封建時代
を一方的に、美化してはいけない。

もっと言えば、悲しいかな、私たち日本人は、かつてただの一度も、あの封建時代を
清算していない。
たとえば「明治維新」にしても、英語では、「Meiji Restoration」と翻訳されている。
英語で、「レストレーション」というと、「王政復古」をいう。
革命でも、何でもない。
つまり「王政復古」である。
そういうものをもって、日本は近代化の道を歩み始めたとか、さらには江戸時代を清算
したなどとは、思ってはいけない。

清算していないばかりか、ここにも書いたように、むしろ、それを美化している。
この静岡県でも、徳川家康の出身地ということもあるが、徳川家康について悪く書くのは、
いわばタブー視されている。
この静岡県では、敬愛の念をこめて、「家康公」と呼ぶ。

が、こういう姿勢では、私たちは過去から何も学ぶことはできない。
できないばかりか、へたをすれば同じような歴史を繰り返すことになる。
今の今も、国盗り物語よろしく、政治を、己の出世欲を満たすための道具として
利用している人は、いくらでもいる。

●過渡期

話を戻す。
平等という言葉がある。
しかし「平等」というのは、たがいに高い次元で、認めあうことをいう。
民族の融和にしても、さらには文明の融和にしても、その平等感覚がなければならない。

「わが民族は優秀である」と思うのはその人の勝手だが、だからといって、相手に
向って、「あなたがた民族は劣っている」と思ってはいけない。
民族には上下はないし、今はもう民族をうんぬんする時代ではない。
むしろ問題なのは、その上の段階の「文明意識」ということになる。

もう一度、私が書いた、段階論を見てほしい。

家族意識(先祖意識)
    ↓
 同郷意識
    ↓
 同国意識
    ↓
 民族意識
    ↓
 文明意識(無意識)
    ↓
 人間意識(無意識)
    ↓
 生命意識(無意識)

つまり今は、(民族意識)から、(文明意識)への過渡期ということになる。
さらに進めば、(人間意識)→(生命意識)となるが、それはさておき、
この段階あたりで、ウロウロしている。
それがこの極東アジアでも、もろもろの紛争の火種となっている。

●では、どうするか?

言うまでもなく大切なことは、文明の融和である。
そのために第一に、情報の交換をする。

その国の内部の人たちは、外の世界を知る。
外の世界の人たちは、その国の内部を知る。
これを頻繁に、行う。

これができれば文明の融和はできる。
できなければ、できない。
ひとつの例として、あのK国を見ればよい。
今のこの時代にあって、情報を遮断している。
国外に向けてもすらも、ニセ情報を流す。
国内に向けてもすらも、ニセ情報を流す。
その結果、アインシュタインの言った、「exaggerated nationalism」だけが、
異常なまでに肥大化してしまった。

もうおわかりのことと思うが、私たちは、その逆のことをすればよい。
私たちは自分の考えていることを、外の世界に向って、どんどんと発信していく。
と、同時に、外の世界の情報を、どんどんと取り込んでいく。
その結果として、私たちは人間のレベルを、つぎのステージにもちあげることができる。

最後に、よく「インターネットは、第二の産業革命」と言われる。
それが最終的に評価されるのは、もう少し時代を経てからになるが、私はそう断言して
よいほど、インターネットには、秘められた力がある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
民族意識 文明意識 民族主義からの脱却 インターネット 文明の衝突 誇張された
民族主義 はやし浩司 文明論 民族論)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●映画『赤壁(Red Cliff)』(Part2)

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昨夜遅く、映画『赤壁』(2)を見てきた。
第一作と比べると、ウ〜〜ンというところ。
少し劇画ぽくなった。

策略により、矢を10万本手に入れるところ。
策略により、水軍の2人の将軍を殺させるところ。
最後に、「(戦争に)勝者も敗者もない」と、
どこかピントはずれな言葉を発するところ。
「やはり小説だなア」と思った。

で、前作には、星を5つつけたが、今回は、
星4つ、マイナスで、★★★★(−)。

戦闘シーンには迫力があるので、やはりこの
映画は、劇場で見た方がおもしろい。

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●米軍に攻撃してもらう?
(US army will attack North Korea for Japan? The answer is NO!)

ときどきおかしな書き込み(コメント)がつづく。
どこか宙に浮いている。
現実感があまりない(失礼!)。

それをそのまま、つまり原文のまま、紹介する(私のヤフー・ブログへの書き込みより)。

『ASO首相は良くやっていますよね〜 大したものです。捏造された世論調査なんか当てには
なりません。現にネットでの結果は80%がASO首相続投支持ですしね。現に今回の事につい
てもASO首相の点数稼ぎとは見ていない人が周りには多いです。
国が存続して行くに当たってはこういう稚拙な挑発をしてくる輩をほおって置くわけにはいきま
せん。断固迎撃するか、発射した時点で米軍からトマホーク攻撃して貰ってK国の基地を破壊
したらいいと思います』と。

要するに、「ASO首相を支持する」「ミサイル迎撃、賛成」というわけである。
しかし「80%が支持」とは?
どういう方法を使って、この数字を得たのか?

また「米軍からトマホーク攻撃して貰ってK国の基地を破壊したらいいと思います」
という部分が、実に現実離れしている。
つまり劇画的。
たぶん、これを書いた人は若い人だと思うが、しかしこのように考えている人は多い。
私も、すでに何人かに出会った。

で、大切なことは、その結果、この日本はどうなるか?
それをもう少し、思慮深く(失礼!)、考えてみること。

が、これが産経新聞となると、事情は変わってくる。

産経新聞(ネット版)は、「敵地攻撃論」をぶちあげ、こう書いている(4月12日)。

『庭の桜を眺めながら部屋で気持ちよくうたた寝をしていたら、子供や大人を誘拐してきた町内
会の嫌われ者が、ひとの顔の上を土足でまたいでいった−そんな不快感に襲われました。

 そうなんです。北朝鮮が5日、人工衛星の打ち上げと称して長距離弾道ミサイルを発射しまし
た。米本土も攻撃可能な射程6000kmのテポドン2号改良型とみられます。日本にとっての
脅威はむしろ、射程の短い約1300kmのノドンミサイルが200〜300発ほど、日本全土を射
程に照準を定めて実践配備されている事実です』と。

その上で、いろいろな例をあげながら、(すべて手前みそ的な意見だが)、最後を
こう結んでいる。

『北朝鮮だけではありません。ロシア、中国…。日本の周辺には核大国がひしめき合っており
ます。

 今、カッか、カッかと熱くなる必要はないと思いますが、北朝鮮のミサイル発射に対し、国連
安全保障理事会でもなすすべのない日本の外交力を思うとき、敵基地をたたく能力の保持に
ついて、もっと本気で議論するのが日本国民として生まれてくる子孫への責任だと思います』
(SR記者・原文のまま)と。

率直な感想。
産経新聞が、ここまで極右化しているとは、私は知らなかった。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●劇団演技【Play on the Stage】


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テレビのチャンネルを替えるとき、
どこかの劇団が演ずる、舞台劇が目に留まった。
しばらく、それを見た。


++++++++++++++++++++


みなさんは、あの劇団といわれる団体が
演ずる、「劇団演技」というのを知っているだろうか。
要するに、舞台劇。


どこか取ってつけたような不自然な演技、
わざとらしいジェスチャ、声だけをやたらと張り上げて、
セリフだけをペラペラとしゃべる。


それはそれとして構わないが、そういう劇団から
出身した俳優は、これまた独特の演技のし方をする。
劇団、あるいは舞台の上では、それなりに
評価されるかもしれないが、こと映画の世界では
通用しない。


そういう演技を見たとたん、あるいはそういう
演技を感じたとたん、スーッとそのまま興ざめ
してしまう。


かつてピーター・フォーク(刑事コロンボの主役)が、
ニューヨークの演劇学校で演技指導をしている
テレビ番組を見たことがある。
その中で、ピーター・フォークは若い俳優の卵たちに
向って、何度もこう叫んでいた。


「演技は、自然に!」「自然に演じろ!」と。


劇団演技には、それがない。
つまり不自然。


今では小さなマイクがあるのだから、それを使って、
もっと自然な話し方をすればよい。
自然な話し方をすれば、動作も、自然になる。
ついでに、顔の表情も、別の画面に大きく映し出せばよい。
そうすれば、表情も自然になる。
どうしてそういうことを劇団の人たちはしないのだろう?


+++++++++++++++


●焼津・MINATO・マラソン(Yaizu Minato Marathon)


+++++++++++++++


昨日、焼津まで、行ってきた。
息子のマラソンを応援するため。
息子は、10キロコースに出場する。


朝、7時ごろ家を出る。
焼津に着いたのは、8時半ごろ。
焼津駅から港(会場)まで歩く。


が、人の多さにびっくり。
7000人の人が、スタートラインに並んだ。


「これではわからない!」と。


で、「約1時間はかかるだろう」という
ことで、そのまま港祭りの会場へ。
そこにも、かなりの人たちが来ていた。


私とワイフは、マグロ丼と、焼きそばを食べた。
が、再びマラソン会場へ戻る途中、ワイフがトイレへ。
コンビニの中のトイレを使わせてもらったが、
そこでもズラリと人の列。


モタモタしているうちに、時間が過ぎた。
ゴールあたりへきたときには、ちょうど
1時間が過ぎていた。


それから「まだか……」「まだか……」と。
息子をさがしたが、最後まで息子の姿は見えなかった。


「棄権したのだろうか」「だいじょうぶかなあ」とか、
そんなことをワイフと言いあう。
今度のマラソンのためには、ほとんど練習していなかった。


で、そのまま駅に向かって、私たちは家に帰った。


で、夕方、疲れた表情で、息子が帰ってきた。
「どうだった?」と声をかけると、
「53分だった」と。
私たちがゴール付近へ着く前に、息子は
先にゴールしていた。


しばらくマラソンの話で、もりあがった。
みなで焼津のみやげを食べた。


「(会社の)ほかの人はどうだった?」と
聞くと、「社長は、1時間10分くらいだった」と。
会社からは、今度の参加者は、社長と息子の、
2人だけだったとか。
従業員200〜300人程度の小さな会社だが、
それを聞いてうれしかった。


釣りバカ日誌の、浜ちゃんと、スーさんみたいな関係、
と思ったが、それは言わなかった。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司※


最前線の子育て論byはやし浩司(090414)


●時事問題の見方


++++++++++++++++++++++++++++++


「降ってきた火の粉は、振り払う」と言った大臣がいた。
「やられたら、やりかえす」と言った、M党の議員がいた。
私のBLOGに、「ミサイル迎撃反対と言うなら、それで死んでも
あなたは文句を言うな」と書いてきた人もいた。
さらに「ミサイル迎撃反対という意見には賛成だが、日本としての
プライドはどうするのか」と書いてきた人もいた。


++++++++++++++++++++++++++++++


●横軸としての時事問題


時事問題を考えるときは、縦軸と横軸の、その両方から見る。
縦軸だけでもいけない。
横軸だけでもいけない。
たとえばK国のミサイル問題を例にあげてみる。


K国は、今、この時点で、ミサイルをもっている。
それに対して、日本はそれを脅威に感じている。
そしてK国は、日本に向けて、ミサイルの発射実験をした。
そのため日本中が、パニック状態になった。
これが縦軸である。


その縦軸だけを見ると、「火の粉だ」「やりかえす」「文句を言うな」
「プライドはどうなのか」となる。


しかしもう一方で、こうした時事問題は、横軸からも、見る。
それには私のこんな経験がある。


1967年、私はUNESCOの交換学生として韓国に渡った。
日韓の間に、まだ国交が回復されていなかったときである。
私たちは「国連」の名のもとに、韓国に渡った。


その間、たちは、いくつかの大学を回った。
が、行く先々で、日本攻撃の矢面に立たされた。
「反日感情」とはいうものの、現地で肌で感ずるそれには、ものすごいものがあった。
私はやがて、こう思うようになった。
「日本の歴史教育は、まちがってはいない。
しかしすべてを教えていない」と。


そして帰国したが、その少し前のこと。
私は、こう実感した。
それが私の結論ということになる。


「日本がつぎに戦争するとしたら、相手は韓国だな」と。
当時は、K国については、ほとんど知らなかった。
国力も、それほどちがわなかった。
今なら、「相手は、K国だな」と思ったかもしれない。


その1967年から、現在に至るまでの(流れ)の中で、時事問題を考える。
本当はその前から考えるのが正しいが、それには限界がある。
私は戦後生まれの人間で、戦時中、あるいは戦前の日本の様子を知らない。
知っていたかもしれないが、それは一部でしかなかった。


●横軸の中で……


今の日本人の視点の中で、何が欠けるかといえば、つぎのことではないか。
つまり私たち日本人の私たちは、してはいけないことを、してしまった。
これには弁解の余地はない。
それがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。


ある日突然、大量の中国軍が入ってきて、つぎつぎと日本を制圧していった。
日本語を話すことを禁止し、各地に、中国共産党を称える会館までできた。
日本人の私たちは、その会館で思想教育を受けるのを義務づけられた……。
もちろんそれに異議を唱えるものは、問答無用式に投獄、処刑。


それでもあなたは、「あの韓国併合は正しかった」と、胸を張っていえるだろうか。
つまりそこを原点として、その横軸の先に、(現在)がある。
が、その横軸とて、でこぼこだらけ。
戦後日本が、かろうじて、(本当にかろうじて、だぞ)、平和を守ることができたのは、
何も日本人が平和を愛する国民だからではない。
平和を守ったからでもない。


日本が平和を守れたのは、アメリカ軍という強力な軍隊が、日本に駐留していたからに
ほかならない。
もしあのままアメリカ軍がそのまま日本を離れたら、今ごろ日本という国そのものが
なかった。
早くはスターリン・ソ連、毛沢東・中国、李承晩・韓国、それに金日成・K国に、
繰り返し襲われていたことだろう。


こうした横軸を見ながら、(現在)を見ると、見方も大きく変わってくる。
順に反論してみよう。


(1)火の粉は振り払う


敗戦時までさんざん、好き勝手なことをしておきながら、敗戦と同時に、
「日本は平和を愛する国民になりました」は、ない。
そんな身勝手な論理が通ずるはずもないし、世界も、それを受け入れない。
わかりやすく言えば、さんざん、火の粉を振りまいておきながら、相手からの
火の粉は許さないは、ない。


仮にそう言うとしても、それは最後の最後。
今度のミサイル発射実験について、中国は日本に対して、さかんに「冷静に」とか、
「慎重に」という言葉を使った。
私には、それが「謙虚に」と聞こえた。


恐らくアメリカ政府も、同じように感じたのではないか。
アメリカ軍が移動するたびに、日本国内では、「アメリカ軍は出て行け」の大合唱。
沖縄駐留のアメリカ兵にしても、半減されることが、すでに決まってしまった。
私がオバマ大統領なら、こう思うだろう。
「日本は、ずいぶんと自分勝手な国だな」と。


●やられたら、やりかえす?


やりかえすのも結構なことだ。
日本のほうが国力もあり、初期の段階では、勝利(?)を収めるだろう。
しかしそれは一時的。
そのあと日本は、泥沼へと吸い込まれていく。
現在の、イスラエルとパレスチナの関係を例にあげるまでもない。


そうなったとき、残念ながら、今の日本には、それに耐えるだけの力はない。
たとえば銃の使い方ひとつ取りあげても、日本人は、だれもそれを知らない。
一方、韓国にせよ、K国にせよ、国民すべてが徴兵制によって、訓練を受けている。
(韓国は、男子のみ。)
銃の使い方どころか、爆弾の使い方まで、知っている。


さらに韓国は、全土にシャルターを用意し、拠点ごとに武器を蓄えている。
K国は、「全土を要塞化した」(09年4月)と宣言している。
で、かたや、この日本は、どうか?
何も、ない。
まったく、何も、ない。
丸裸以上の「丸裸」。


化学兵器にせよ、生物兵器にせよ、ノドン1発で、約20万人の人が死傷する
と言われている。
もしそうなったとき、日本はどうするのか?
その対策はきちんと、できているのか?


「やられたら、やりかえす」と勇ましいことを口にするのも結構だが、それを言う
人たちは、もっと現実を見たらよい。
相手も、同じ論理を振りかざしてくる!
そうなれば、泥沼どころでは、すまなくなる。


何度も繰りかえすが、戦争というのは、始めるのは簡単。
しかし終えるのがむずかしい。
ニクソンのベトナム戦争や、ブッシュのイラク戦争を見れば、それがわかるはず。


●勝者は日本!


横軸で時事問題を見たばあい、勝者はこの日本である。
日本に決まっている。
今に見る繁栄が、その(結果)である。


一方、K国はどうか?
世界の中でも最貧国。
09年度の国家予算が公表されたが、たったの37億ドル※。
たったの37億ドルだぞ!
日本円で、3700億円弱!


が、この数字とて、彼らがいうところの公式レートで計算したもの。
実際のウォン・レートは、その10分の1とも、20分の1とも言われている。
そんな国が、国防費のほとんどを使って、テポドンを打ちあげた。
日本人の私たちにしてみれば、「一発のミサイル」かもしれない。
しかし彼らにしてみれば、「国運を賭けたミサイル」ということになる。


「迎撃」という言葉が、いかに彼らを刺激したかは、言うまでもない。
仮に迎撃するとしても、それを口にするのは、最後の最後。
迎撃基地をマスコミに公表しながら、何が、迎撃か?
あろうことか、この日本では、迎撃ミサイルの移動状況まで、公開してしまった!


この問題は、「文句を言うな」というレベルの話ではない。
現にあのとき、日本がミサイルを迎撃していたら、そのあと、10〜20発の
ノドンが、日本に向かって発射されていた。
もしそうなっていたら、単純に計算しても、死傷者は数百万人に達していただろう。


●プライドは、どうなるのか?


何度も書くが、相手は、まともな思考力すらない、
「狂った犬」(アメリカ政府高官)である。
そんな国を相手にして、正義とか大義を主張して、どうする?
どうなる?


仮に正義や大義を主張するとしても、そこは大国。
「買ったとか、負けた」とかいう話ではない。
こと「プライド」ということになるなら、あの国こそ、世界の笑いもの。
何百万人もの国民を餓死させながら、「人工衛星」は、ない。
韓国紙の報道によれば、テポドン1発で、1年間、国民の食糧を買うことできる
という。


ここは『負けるが、勝ち』。
相手にしなことこそ、私たち日本人の度量というもの。
もしここで1発でもミサイルが撃ち込まれたら、日本の経済はそのまま、
奈落の底に!
外資は逃避し、株価は急落、円も急落。
そればかりではない。


すでにこの日本には、100〜1000人単位の工作員が潜んでいると言われている。
そういう工作員たちが、何をするかわからない。
いや、工作員が悪いのではない。
そういう工作員の侵入を許してきた日本国政府に、責任がある。
拉致問題にしても、しかり。


もし防衛ということを本気で考えるなら、日本国民全員に防毒マスクを配布しろ。
全国各地、津々浦々の町内にいたるまで、シェルターを用意しろ。


さらに化学兵器にせよ、生物兵器にせよ、10万人単位の被災者が出たら、そのときは
どうする?
救護体勢は整っているのか。
治療体勢は整っているのか。
そういう準備もなしに、「迎撃」は、ない。


日本人としての「プライド」を考えるのは、そのあとでよい。


●K国は自滅する


何も急がなくても、K国は、自滅する。
日本が騒がなくても、国民たちのほうが、やがて臨界点を迎える。
すでに迎えつつあるという説もある。
つまりそのために、K国は、ミサイルを打ちあげた。
目的は、国内の引き締めと、国威発揚のため。
裏から読むと、国内はガタガタ。


そこでK国は、独裁国家の末路の常として、敵を外に求め、戦争をしかけよう
としている。
「相手にしてほしい」と、だだをこねている(ライス前長官)。
だったら、相手にしないことこそ、ベスト。
無視すればするほど、彼らは墓穴を掘る。


が、今ここで日本が迎撃すれば、それこそまさに、彼らの思うツボ。
「ワナ」と言ってもよい。
彼らはそれを利用して、日本に対してしたい放題のことをしてくる。


で、最後に、「あとは、パトリオットミサイルで、K国を叩いてもらう」
という意見について。
私のBLOGへの書き込みに、そうあった。


しかし今のアメリカには、その力はない。
またそのつもりもない。
オバマ政権になって、それがさらに明確になった。
これも反対の立場で考えてみればわかる。


どうしてアメリカが、日本の防衛について、責任を負わねばならないのか?
「日本よ、甘えるのもいいかげんにしておけ」ということになる。
もっとはっきり言えば、「現実をもっと、しっかりと見ろ」ということになる。


そう、私の孫はアメリカ人だが、もしその孫が、日本を守るために
この極東にやって来ると言ったら、私はこう言うだろう。


「来なくていい。私たちで、こっちはこっちで何とかするから」と。


 (注※)(K国の国家経済)(09年度の国家予算、韓国C紙より一部、転載)


『最高人民会議の予算決算を分析した韓国当局は昨年のK国の歳入規模は北朝鮮の通貨で
4588億ウォン、歳出は4510億ウォンと推定した。K国は2004年以降継続して赤字財政を
維持してきたが、2008年は5年ぶりに黒字に転換したというのが当局の判断だ。統一部当局
者は、「2008年のK国の財政構造は、赤字に近い(支出がやや多い)均衡財政となるものと
予想していたが黒字となった。予算収入の源泉となる協同農場の食料生産と、企業の工場稼
働率が高まり、税金収入が予想より拡大したことが理由だ」と話している。当局は今年のK国
の予算は4836億ウォン(約37億ドル)規模になるものと予想している。 

  今年のK国の予算のうち、国防費が占める割合は昨年の16%から0.2ポイント縮小の1
5.8%に削減された。K国の公式為替相場で6億ドル水準となる。しかし専門家らは、国家予
算に国防費が占める割合は実際の国防費とは違いがあるものとみている。』   


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司


【正攻法】


●K国を自己崩壊に!


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読売新聞は、つぎのように伝える。


『K国のミサイル発射を非難し、国連安全保障理事会の制裁決議徹底を求める議長声明採択
を受け、米国が近く安保理の制裁委員会に提出する、K国企業の資産凍結対象リストが14
日、明らかになった』(4月15日)と。


わかるかな?
これが正攻法である。
国際世論を持ちあげていく。
K国を、締めあげていく。


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●『平和の価値のわからぬ者は、武器を使うな』


こうした議長声明に対して、さっそくK国が反応した。


(1)6か国協議からの離脱
(2)核開発の再開宣言、同時に、IAEA監視員の退去命令※などなど。


どうぞ、ご自由に!
どれも自分で自分の首を絞める、愚かな行為である。
つまり、これが正攻法。
ミサイルを日本に向けて発射実験をした代償は大きい。
つまり日本が負けたのではない。
日本が勝った!
ミサイルを迎撃せずして、勝った!


つまりこれから先も、K国は、ミサイルの発射実験を繰り返すだろう。
しかしつぎは、「議長声明」では終わらない。
「決議違反」となる。


が、もしそのとき日本が、迎撃ミサイルを撃ちあげたとしたら……。
こうした(流れ)そのものが、頓挫(とんざ)してしまう。
だからK国のミサイルを、それが兵器を積んだ、日本向けのものでないなら、
迎撃などしてはいけない。
ミサイル迎撃、反対!
『負けるが、勝ち』というのは、そういう意味である。


繰り返す。
武力をもってしても、即決手段としては有効でも、効果は一時的。
そのよい例が、ソマリア沖の海賊たちである。


先週、アメリカ人の船長が、ソマリアの海賊に拉致された。
それに対して、アメリカの海兵隊の精鋭部隊が急襲。
2人を射殺し、1人を捕虜にした。
アメリカ人の船長は、無事救出された。


で、一件落着かと思われたが、(事実、アメリカでは大きく報道され、
オバマ大統領への評価が急上昇したが)、海賊たちは、こう宣言した。
「今後は英米人は、即、殺害する」と。
今後、当地域における紛争が、拡大する様相を見せてきた。


所詮、武力というのは、そういうもの。
その限界を知った上で、「迎撃!」を叫べばよい。


英語の格言に、『沈黙の価値のわからぬ者は、しゃべるな』というのがある。
これをもじると、こうなる。


『平和の価値のわからぬ者は、武器を使うな』と。


(注※)『IAEAに入った連絡によりますと、K国は14日、ヨンビョンに派遣されているIAEAの監
視員に対し、IAEAへの協力を全て拒否すると通告し、核燃料再処理施設にある封印や監視カ
メラなど全ての監視機器も撤去するよう求めました』(読売新聞)。
(090415記)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司


●親子の(きずな)


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親子のきずなとは、何か?


このところ、「家族って、何だろう」と、ときどき考える。
「依存性の集合体」?
「種族保存のための結合体」?


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●スズメの世界


今ごろの季節は、庭に来るスズメたちも単独行動を繰り返す。
それぞれがせわしく庭にまいた餌をついばんでは、そのままどこかへと
飛び去っていく。
どこかで子育てをしているのだろう。
やがてそのうち、親スズメが子スズメを連れてくるようになる。


そういうスズメたちを見ていると、「人間と同じ」というか、
「人間とどこもちがわない」と思ってしまう。
人間の世界は、スズメの世界より、ほんの少し複雑なだけ。


で、興味深いのは、子育てが終わってからのスズメたちである。
スズメどうしには、親子の(きずな)があるのだろうか。
それともないのだろうか。
たとえば半年とか1年とかたったあと、親スズメが子スズメに
会ったようなとき、もちろんその反対でもよいが、
たがいに、「お前エ!」とか、「お父さん!」とか、言いあうのだろうか。


が、私が見たところ、その(きずな)はないようだ。
スズメたちは子育てが終わると、また集団行動に戻っていく。
ザザーッと飛んできては、またどこかへ、ザザーッと飛んでいく。


●きずな


最近の研究によれば、人間にも、(刷り込み)というのがあるということが、
わかってきた。
ある種の鳥類(卵からかえって、すぐ二足歩行する鳥類)は、最初に目に
入ったものを親と思う。
最初に耳にした泣き声で、親と思うのもいるそうだ。
人間にも似たような刷り込みがある。
年齢的には、0歳から生後7か月くらいまでの間をいう。
この時期をとくに、「敏感期」と呼ぶ。


この時期に、親は親として、脳みその中に徹底的に刷り込まれる。


で、スズメの話。
ここで誤解してはいけないのは、「親」といっても、人間のように
上下意識のある「親」ではないということ。
私たちは「親」という言葉を当てはめることによって、人間社会における
親意識をそのまま連想してしまう。
「親スズメ」「子スズメ」という言葉にしても、そうだ。


正確には、(被依存関係)(依存関係)と言うべきではないか。
人間にしても、刷り込みをした人間は、それ以後、親に対して強力な依存性を
もつようになる。
しかもそれは本能に近い部分にまで刷り込まれるため、一度刷り込みが
なされると、それから脱却することは、容易なことではない。


それこそ、50歳になっても、60歳になっても、「♪おふくろんさんよ」
と空を見あげて、涙をこぼすようになる。


では、スズメの世界では、どうなのか。
「人間のように……」とまではいかなくても、サルや他のケモノのように、
上下関係はあるのだろうか。
そのつながりは、(きずな)として、いつまでも残っているものなのだろうか。


●親意識vs子意識


人間社会における(きずな)というのは、当初は(刷り込み)によってできあがる
ものだが、その後、その人の置かれた文化的背景によって、大きく変化する。


たとえば日本人の私たちが感じている(きずな)は、欧米人のそれとは、かなり
異っている。
が、先ほども書いたように、これは本能に近い部分にまで刷り込みがなされている。
そのため、刷り込まれているということそのものに、気づくことはむずかしい。
欧米人のそれが、どのように(ちがう)か、それを知るのもむずかしい。


たいていは、「私が感じている(きずな)のほうが正しい」とか、さらには、
「絶対的」と思ってしまう。
またそういう感覚でもって、「欧米人も同じだろう」と思ってしまう。
またそれで終わってしまう。


たとえば日本には、『親・絶対教』という、カルト教団がある。
親や、さらには先祖を、絶対視する宗教団体をいう。
そういう教団では、親孝行を第一の「徳行」ととらえ、「親に逆らうのは、
もってのほか」とか、信者に教えたりする。


そういうところで観察される(親意識)というのは、人間社会でデフォルメ
(=歪曲化)された、いわゆる(変形)と考えてよい。
もっともそれは極端なケースだが、親を絶対視する人は、少なくない。
それが親子の基本関係になっている家庭となると、それこそゴマンとある。


たとえばサルの世界にも、人間の世界に似た(親子関係)はあるようだが、
それはあくまでも、(力の優劣関係)に過ぎない。
ボスの座を奪うため、子ザルが、親ザルに、戦いをいどむというようなことは、
よくあるそうだ。


一方、親・絶対教などでは、「親は親だから」という『ダカラ論』だけで、
「親がまちがったことをしても、親に従え」などと教えたりする。


●家族自我群


家族というのは、良好な人間関係で成り立っている間は、それなりにうまく
機能する。
しかしひとたび歯車がどこかで狂うと、今度は、その人を押しつぶしてしまう。
それほどまでの魔力をもって、その人を呪縛する。
この呪縛感を、「幻惑」と呼ぶ。
また一連の呪縛性を、「家族自我群」と呼ぶ。


ふつうの呪縛感ではない。
いつ晴れるともわからない、悶々とした気分に襲われる。
ある男性は、母親の葬式に出なかったことだけを理由に、「親捨て」と呼ばれる
ようになった。
その地方では、一度、「親捨て」というレッテルを張られると、親類からは
もちろんのこと、近所の人たちからでさえ、(白い目)で見られるようになるという。
が、その男性には人には言えない事情があった。


その男性は、父親の子ではなかった。
祖父と母親の間にできた、いわゆる(不倫の子)だった。
そのため……というより、そのことから想像できるように、その男性の家族は、
メチャメチャだった。


で、その男性は、60歳を過ぎた今も、その呪縛感の中で、もがき苦しんでいる。


●「産んでやった」


私自身は、親・絶対教の世界で、生まれ育った。
母からも、「産んでやった」「育ててやった」「親の恩を忘れるな」という言葉を、
それこそ耳にタコができるほど、聞かされた。


が、実際には、もう少し巧妙な言い方をする。
わざと私の聞こえるようなところで、親たちが、こう言う。


「○○さんところの息子さんは、立派なもんだ。
今度、親を温泉に連れていってやったそうだ」とか、
「○○さんところの息子さんは、たいしたもんだ。
今度、親のために、庭の端に離れを新築してやったそうだ」とか、など。
あたかも真綿で、首をジワジワと絞めるような言い方をする。


私はそういう環境で生まれ育った。
だからある日、たしか高校1年生か2年生のときだが、私はキレた。
キレて、母に食ってかかった。


「だれが、いつ、お前に産んでくれと頼んだア!」と。


それは同時に、「私」内部の、奥深くから始まった反抗だった。
私自身がもっている(本能)との闘いといっても、過言ではない。
そのため心を、真っ二つに切り裂くような衝撃をともなった。


恐らく母にしても、そうだったのだろう。
その時期を境にして、今にして思うと、母のほうから縁を切ったように思う。
もちろん母は、ああいう人だったから、それを口にすることはなかったが……。


「ああいう人」というのは、「ああいう人」のことをいう。


●恩の押し売り


そのこともあって、私は3人の息子たちを育てながら、(恩の押し売り)だけは、
しないと心に誓った。
事実、「産んでやった」「育ててやった」という言葉については、一度も使った
ことはない。
口から出そうになったことはあるが、しかし言わなかった。
「それを言ったら、おしまい」と。


そのため、(当然の帰結だが)、息子たちは、今の今でも、「親孝行」という
言葉から連想する世界とは、まったく無縁の世界に生きている。
が、これは脳のCPU(中央演算装置)に関する問題。
私には、息子たちの意識を理解することができるが、恐らく息子たちには、
私がもっている意識は、理解できないだろう。
が、このところ、ふと、「それでよかったのか?」と迷うときがある。


●社会の不備


50歳を越えるころから、そこにドンと老後があるのを知った。
60歳を越えると、それはもう予測でも、予想でもない。
私自身が老後に突入していた。
とたん、不安と心配の渦の中に、巻き込まれた。
「これから先、どうやって死ねばいいのだろう」と。


「どうやって生きるか」ではない。
「どうやって死ぬか」である。


こう書くからといって、息子たちを責めているのではない。
そのように育てた私が悪い(?)。
が、息子たちには、私たち夫婦の老後をみるという意識は、ゼロといってよいほど、ない。
「親孝行」という言葉すら、私の家では、死語になっている(?)。
息子たちの心の奥まではのぞけないが、私はそう感ずる。


が、ここで誤解しないでほしいのは、だからといって、親・絶対意識的な発想が
正しいと認めるわけではない。
私の家庭は家庭で、別の新しい親子関係が生まれつつある。


●新・家族主義


日本的な親・絶対意識が消えたからといって、家族がバラバラになるということではない。
もしそうなら、欧米の家族は、とっくの昔にバラバラになっているはず。
が、実際には、その(きずな)は、私たちが想像するよりもはるかに、強い。


10年ほど前の調査でも、「どんなことをしてでも、みる」と答えた日本の若者は、たっ
たの19%しかいなかった(平成9年度、総理府調査)。


この数字がいかに低い数字かは、たとえばアメリカ人の若者の、60数%。さら
に東南アジアの若者たちの、80〜90%という数字と比較してみるとわかる。
しかもこの数字は、その3年前(平成6年度)の数字より、4ポイントもさがっている。


では、どこがどうちがうのか?
おおざっぱにいえば、つぎのようなちがいがある。


(1)平等意識(親子の上下関係がない。命令、服従関係がない。)
(2)対等意識(親でも子どもでも、他人と同等に置く。)
(3)協働意識(たがいに力を合わせて、家族を守るという意識が強い。)
(4)独立意識(ある時期から、親も、私は私という生き方をする。)
(5)老後意識(「子どもの世話にはならない」という老後意識がある。)
(6)神の子意識(子どもといえども、神の子という考え方をする。)


日本も、アメリカも、対GDP比で、子どもにかける社会保障費が、極端に低い。
毎年、4〜5%前後で推移している。
(欧米では、6〜8%前後。ただしここにも書いたように、アメリカは低い。)

で、日本では教育費の負担は、親の責任ということになっている。
その負担感は相当なもので、子どもが大学生になるころ、それは頂点に達する。
で、昔は『子、育ち盛り、親、貧乏盛り』と言った。
今は、『子、大学生、親、貧乏盛り』という。


一方、アメリカでは、大学生でも、親のスネをかじって大学へ通っている学生は、
ほとんどいない。
何らかの奨学金を得ているか、自分でローンを組んで通っている。
つまり先にあげた(1〜(6)の(ちがい)が、こうした形で、結晶している。


その上での(きずな)ということになる。
称して、『新・家族主義』。
わかりやすく言えば、現在の状況が好ましくないからといって、(現在)の否定、
もしくは安易な復古主義に走るのは、正しくない。
(現在)を基盤にして、新しいものを創りあげていく。


では、どうなるか?
この問題だけは、日本の潮流を静かに観察するしかない。
日本人全体が、全体として、その方向性を決めていく。
その結果として、「新・家族主義」が、輪郭を明確にする。
現在は、その過渡期ということになる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
新家族主義 家族主義 親子の絆 親子のきずな 家族の絆 家族のきずな はやし浩司
新・家族主義 家族自我群 幻惑 刷り込み インプリンティング 親子の縁)




Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司


●タレントKTの「不適切発言」?


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Kというタレントが、何か「不適切発言」なるものをしたらしい。
それで、現在、謹慎処分を受けているという。


ディリースポーツは、つぎのように伝える。
 

『タレント・KT(50)がラジオで不適切な発言をしたとして、所属する松竹芸能が謹慎処分を検
討していることが11日までに明らかになった。


 現在出演中のABCテレビ「探偵!ナイトスクープ」、読売テレビ「情報ライブミヤネ屋」、テレ
ビ朝日「やじうまプラス」など計5本のレギュラー番組は「降板の方向で放送局と調整中」(松竹
芸能担当者)といい、謹慎期間については「関係各所と話してから決めることなので、現時点で
いつまでとは言えない」と説明。降板の調整が付き次第、当分の間、芸能活動を休止すること
になる。


 KTがパーソナリティーを務めていたABCラジオ「誠のサイキック青年団」は「リスナーに誤解
を与える不適切な発言があった」として、3月16日放送分で突然打ち切りになっていた。発言
内容については「周りに再びご迷惑がかかるので、伏せさせてもらいたい」(関係者)と明らか
になっていない』(ディリースポーツ・4・15)


こうなると、ではKTというタレントが、どんな発言をしたか。
ググーッと知りたくなる。
野次馬根性?
好奇心?


が、今は、情報革命の時代。
30分ほど、ネットサーフィンをしてみたら、その理由がわかった。
YOU TUBEのほうに、書き込みがあった。
信ぴょう性はともかくも、どうやらどこかの宗教団体を批判したらしい。
そのひとつを、そのまま(固有名詞は、伏字で)紹介させてもらう。


『KTさんがラジオで、「HMさんが自分のコネで番組に共演させたタレントを、xxx会にしつこく
勧誘するのはおかしい」と話されたそうです。これが原因で活動休止って・・・・。
正直、みんなでKTさんを助けたいです』(YOU TUBE 「KT」で検索)と。


念のためここに出てくる、「HMさん」というのを調べてみた。
「HMさん」が、本当にその教団の信者だったかどうかまではわからない。
しかし実際、そういうタレントがいることは、確認できた。


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●言論の自由


何度も繰り返して書いてきたが、この日本に言論の自由があると考えるのは、
日本人だけ。
どうでもよいことを、無責任に発言する権利(?)はある。
しかしそのワクを超えると、とたんに目に見えない圧力を感ずる。


2007年度「言論の自由・年例報告書」(Global Press)によれば、
つぎのようになっている。


1 Finland 
 Iceland 


3 Belgium 
 Denmark 
 Norway 
 Sweden 


7 Luxembourg 
 Switzerland 


9 Andorra
 Netherlands 
 New Zealand


12 Liechtenstein 
  Palau 
  Portugal 


15 Jamaica 


16 Estonia 
  Germany 
  Ireland 
  Monaco 
  Saint Lucia 
  United States 


22 Bahamas 
  Barbados 
  Canada 
  Marshall Islands 
  Malta 
  Saint Vincent & the Grenadines 
  San Marino 


29 Czech Republic 
  Lithuania 


31 Latvia 
  United Kingdom 


33 Costa Rica 
  Dominica 
  Micronesia 
  Saint Kitts & Nevis 
  Slovakia 
  Taiwan 


39 Australia 
  Austria 
  Belize 
  France 
  Hungary 
  Japan (我が国日本!) 
  Slovenia 


46 Cyprus 
  Poland 
  Spain 
  Suriname


50 Grenada


日本は、オーストラリア、オーストリア、フランス、ハンガリー、スロバニアと
並んで、39位という。


ついでながら、ここに出てくる、「Belize」とは、どこの国なのか?
辞書を使って調べてみると、「中米のベリーズ」とある。
旧イギリス領のホンジュラスのことだそうだ。
「ホンジュラス」と言えばわかるが、今は「ベリーズ」という。
知らなかった!


1位は、フィンランドとアイスランド。
ではビリは、どこか?
言わずと知れた、あのK国!
何と、195位だそうだ。


こういうのを知ると、「ミサイルを、(人工衛星でも何でもよいが)、打ちあげる前に、
もっとやるべきことがあるのではないのか」と思ってしまう。


それはともかくも、KTというタレントの発言。
やがて事実がもう少し明らかになってくると思う。
その上で、もう一度、言論の自由について書いてみたい。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
言論の自由 言論の自由度 自由度世界ランキング)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司※


●自分を知る


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私の教室(BW教室)のビデオを撮るようになって、
ちょうど2か月。
ほとんど手を加えないで、そのまま紹介している。
「ほとんど」というのは、「選択、カット、編集を
しないで」、という意味。


そのビデオを見ていて、たくさんのことに気づいた。
それまでの私が気がつかなかった部分である。
よい面もあるし、悪い面もある。
ときどき「私って、こうだったんだ」と、自分で
へんに納得することもある。


そういう(私)。
(ジョンハリの窓)理論によれば、私の「盲点領域」と
いうことになる。
それに気づいた。


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●ジョンハリの窓


アメリカの心理学者の、ルフトとイングラムの2人が、こんな学説を提唱した。
つまり「私」というときの「私」は、つぎの4つに区分されるという。


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自分も気がついていて     +     自分が気がついていなくて、
他人も気がついている部分   +     他人が気がついている部分 
(開放領域)         +     (盲点領域)  
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自分は気がついているが、   +     自分も気がついていなくて、
他人が気がついていない部分  +     他人も気がついていない部分 
(隠ぺい領域)        +     (未知領域)
+++++++++++++++++++++++++++++++++++
         (参考:深堀元文監修、「心理学のすべて」(日本実業出版社)


2人の学者の名前を取って、「ジョン・ハリの窓」という。
で、私が自分のビデオを見て、再発見した部分は、このうちの(盲点領域)と、
(未知領域)ということになる。


たとえば癖(くせ)。
ビデオを見ながら、「私にはこんな癖があったのだ」と。
これはジョンハリの窓に従えば、(盲点領域)ということになる。
もちろんジョンハリの窓でいう(盲点領域)は、癖のことを言っているのではない。
心の奥深くに潜む、深層心理を言ったものである。
しかし癖は手がかりにはなる。


たとえば私は子どもたちを指導するとき、すぐ「わかった?」とか、「わかったか?」
と言う。
よい言葉ではない。
私はそう言いながら、わからないでいる子どもを無視して、そのまま先へと進んで
しまう。
この言葉は、そういうときの自己弁解として使われる。
つまり、イヤ〜〜ナ言葉!


で、それを見て、このところその言葉をできるだけ使わないようにしている。
ほかにもある。


●未知領域


自分でも気がついていなくて、他人も気がついていない部分を、「未知領域」
という。
が、中に、「私のことは、私がいちばんよく知っている」と豪語(?)する人がいる。
しかしそういう人ほど、本当のところ、自分のことがまったくといってよいほど、
わかっていない。
というのも、脳みその活動領域をみるまでもなく、私たちが「私」として意識
する部分というのは、恐ろしく小さい。
一説によると、数10万分の1と言われている。


だから謙虚になるのが、よい。
「私は自分のことが何もわかっていない」という前提で、自分を見る。
すべては、ここから始まる。


いろいろな方法がある。
たとえば私のばあい、幼児を教えることによって、始終、自分を見つめることができる。
これには、2つの意味がある。


よく幼児の中から、幼児期の私に似た「私」をさがすことがある。
「私も幼児のころ、こういう子どもだったんだなあ」と。
そういう子どもを手がかりに、自分を知る。
あるいは自分と同じような生い立ちをもった子どもを知る。
そういう子どもを手がかりに、自分を知る。


たとえばこの方法で、私はいつだったか、私も、帰宅拒否児であり、愛情飢餓の状態
だったことを知った。
そしてそれがいまだに尾を引いているのを知った。


もう一つは、相手が幼児のばあい、容赦なく、私を批評する。
「先生の口は臭い(=口臭がする)」に始まって、「先生は、ジジイだ」というのまで
ある。
子どもというのは、そういう意味で正直。
私の盲点を、ズケズケと指摘する。
頭にカチンと来ることもあるが、そこはそこ。


そういう意味では、私は、職場を通して、いつも自分を見つめなおすことができる。


●私を知る


最近の研究によれば、「私」と言える部分は、実はほとんどなく、そのほとんどは、
脳みその中の別の部分に操られているだけということがわかってきた。
条件反射運動を例にあげるまでもない。


愛煙家は、タバコの臭いをかいただけで、あるいはアルコール中毒の人は、
酒のコマーシャルを見ただけで、猛烈な欲求がわくのを感ずる。
そういう人たちは、「私は私だ」「自分で考えて行動している」と思いがちだが、
実際には、ドーパミンという神経伝達物質によって操られているにすぎない。


これが「性欲」となると、人間の活動のほとんどの部分にまで、影響を及ぼしている。
中学生や高校生が、スポーツでがんばるのも、あるいはファッションに興味をもつのも、
その原点にあるのが、「性的エネルギー」(フロイト)ということになる。
私たちは操られるまま、操られているという意識ももたず、操られている。


だから「私」がわからない。
自分の心を解剖してみたとき、どこからどこまでが「私」で、どこから先が「私」
でないか、それがわからない。
実際には、「私」と言える部分というのは、ほんのわずかかもしれない。


話が脱線したが、「私を知る」ということは、それほどまでにむずかしいということ。


●どうすればよいか?


未知領域があるとして、では、どうすればその未知領域を知ることができるか。
このことは、病識のない認知症の人たちを観察してみると、わかる(?)。


私の近くに、このところどうも(?)という女性(60歳くらい)がいる。
……いた。
(最近になって、アルツハイマー病と診断されたようだが……。)
最初は平気で約束を破ることが気になった。
しかしそのうち、その女性は約束を破るのではなく、約束そのものを忘れてしまう
ことに気がついた。


日時を忘れる。
モノを忘れる。
支払いを忘れる。
預かったお金を忘れる。
計画を忘れる、など。


その一方で、その女性は、こまかいことにたいへんうるさく、私にあれこれと
指示をした。
一言ですむような話を、くどくどと1時間くらいかけて話したりした。
で、私がやんわりとその女性の会話をさえぎった。
「私は、そんなバカではないと思います」と。


するとその女性は何を勘違いしたのか、突然、ヒステリックな声を張りあげて、
こう叫んだ。
「私だって、バカではありません!」と。


これには驚いた。
驚くと同時に、「この女性は自分のことがまるでわかっていない!」と。
私は何も、その女性のことをバカと言ったつもりではない。
で、しばらくして、こうも思った。


「この女性が未知領域について気がつくときは、あるのだろうか?」と。


しかし答は、わかっている。
その女性がそれに気がつくよりも早く、認知症は進む。
つまりその女性は生涯、自分の中の未知領域に気がつくこともなく、人生を
終えるだろう。


……と考えたとき、それはとりもなおさず、私自身の問題であることを知った。
認知症にならなくても、この先、脳みその活動は、加齢とともに、ますます
鈍くなる。
(その女性)イコール、(私自身の近未来の姿)と考えてよい。


●心理学の世界では……


「心理学のすべて」(深堀元文監修)によれば、未知領域を知るために、いろいろな心理
テストが用意されている。
しかしここでは割愛させてもらう。
というのも、これはテストによってどうこうという問題ではなく、日頃の私たちの
生き方に、深く関係しているからである。
またこのエッセーを書く、目的でもない。


先にも書いたように、「私の中には、私が知らない部分のほうが多い」を知り、
自分自身に対して、謙虚になる。
それによって、私たちは自分のことをより深く知ることができる。
またそういう視点を常にもつ。
つまりは日頃の心がけの問題ということになる。


繰りかえしになるが、もし今、あなたが、「私のことは、私がいちばんよく知っている」と
思っているなら、あなたは、かなりあぶないと考えてよい。


さらに蛇足になるが、もし今、あなたが、「私の子どものことは、私がいちばんよく
知っている」と思っているなら、それも、かなりあぶないと考えてよい。
それについては、あちこちで何度も書いてきたので、そちらを参考にしてほしい。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
ジョンハリの窓 ジョン・ハリの窓 ジョンハリ学説 心の盲点 盲点領域 未知領域
はやし浩司 私とは 私を知る)



Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司


【極東アジア情勢(常識的な見方)】


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極東アジア情勢について、常識的な見方をまとめると、
つぎのようになる。

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●迎撃ミサイルは無用の長物


テポドンやノドンに対して、現在日本が保有している迎撃ミサイルは、まったくの
無用の長物。
不意打ちをくらったら、おしまい。
仮に迎撃できたとしても、現在の能力では、数発程度。
320〜800基とも言われるノドンに対しては、まさに「打つ手なし」。


金額もバカにならない。
迎撃ミサイル1基、170億円〜。
装備一式(既存設置分)だけでも、7000億円〜1兆円。
今後、その装備費用は、天文学的数字になる可能性がある。
だったら、最初から、(飾り)程度にしておくこと!


●アメリカの対日政策の変更


この10年で、アメリカの対日政策は、大きく変わった。
アメリカにとって、「アジア」といえば、そのまま「中国」をさす。
日本ではない。


やがて日米安保条約も死文化するだろう。
時間の問題と考えてよい。


アメリカにとってK国の核兵器など、痛くもかゆくも、何ともない。
アメリカが心配しているのは、核兵器の拡散。
核兵器が中東の(テロ組織)に流れること。
イスラエル(ユダヤ国家)が危険にさらされること。


アメリカは基本的には、ユダヤ国家と考えてよい。


●6か国協議


アメリカは、結局は米朝会議で決着を図ろうとしている。
しかしこれは日本にとっては、最悪のシナリオ。
仮に米朝間で、「相互不可侵条約」のようなものが結ばれれば、日本は万事休す。
K国は、日本に対してやりたい放題のことができるようになる。


アメリカ本土が攻撃されないかぎり、アメリカはK国に対して何もできなくなる。
仮に日朝戦争が始まっても、傍観するのみ。
が、それこそが、まさにK国の最終目標。
日本が今まで、2国間協議に反対してきた理由は、ここにある。


●K国の国内事情


軍部ですら、すでにガタガタという状態。
そのためK国の金xxは、緊張感を高めるため、外に敵を作る。
挑発をつづける。
崩壊過程国家の常とう手段である。


重要なことは、日本は、そのワナにはまってはいけないということ。
これから先、韓国や日本に対して、局地的な戦闘をしかけてくる可能性がある。


韓国よ、日本よ、その挑発に乗るな!


●K国の核兵器+ミサイル


K国全体が、巨大なカルト国家とみなしてよい。
その本尊が、核兵器ということになる。
金xxによる独裁政治の、力(=パワー)のシンボル。
ミサイルは、その運搬手段。
だからK国は、ぜったいに核兵器を放棄しない。
金xxが政権の座にあるかぎり、放棄しない。


そういう前提で、K国の核兵器開発を考える。
アメリカもまた、それを認める方向で、動きつつある。


●日本の立場


『触らぬ神に、たたりなし』を貫く。
軍事評論家(韓国)たちは、10月までに、2回目の核実験をするだろうと
読んでいる。
ミサイルの発射実験も、そのころ併せてするかもしれない。


で、今となっては、何もかも手遅れ。
C・ヒルという、あの外交官のおかげで、K国に「5年」という年月を与えてしまった。
その間に、K国は、核兵器の小型化に成功し、今度はICBMの実験までしてみせた。


今、日本にできることは、K国の自然死を待つだけ。
ぜったいに、あの国に手を出してはいけない。
ミサイル迎撃など、もってのほか。
ミサイルの発射実験を再度したら、また国連という場で、ワーワーと騒げばよい。


この日本は、丸裸以上の丸裸。
それを忘れてはいけない。
勇ましい好戦論に、まどわされてはいけない。
ここは『負けるが勝ち』。


日本は、あんな国を相手に、ぜったい心中だけはしてはいけない。
「バカだ」「臆病だ」と言われても、気にしてはいけない。


●中国の立場


アメリカに対して巨大債権国となった中国。
その中国にしても、本音を先に言えば、K国の核兵器にせよ、ミサイルにせよ、
そんなものは、痛くもかゆくもない。


中国はこうした危機(?)を、うまく利用して、自国の発言権をましてくるだろう。
言いかえると、日本は、反対に、それを利用する。
K国問題は、中国問題と置き換えて、中国と交渉する。
K国を無視してもよい。


K国を自然死させるにしても、中国の助けが不可欠。
朝鮮半島北部を、中国領にしてもよいという思い切りが、中国を動かす。
(当然、韓国はそれに猛反発するだろうが……。)


事実、中国はK国内の鉱山採掘権のほとんどを、手中に収めている。
中国が心配するのは、K国が崩壊して、それらの既得権を失うこと。
「国境での混乱」は、口実。


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以上、常識的な範囲で、極東アジア情勢をまとめてみた。
(09年4月15日記)



Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司


●前意識(好子vs嫌子)


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先週、近くのパソコンショップで、
アウトレットのデジタルカメラを買った。
1万8000円だった。


P社のFX−500。
現在FX−550というのが売りに出されて
いるので、そのひとつ前の機種ということに
なる。


が、このカメラの頭のよさには、驚いた。
ミニター画面がそのままタッチパネルに
なっていて、ピントや露出を合わせたい
点を指先でタッチすると、タッチした
ところに自動的に、ピントや露出を
合わせてくれる。
それだけではない。


カメラを動かしても、自動的に追尾する!


ほかにもいろいろあるが、デジタルカメラも、
ここまで進化した!
驚いた!


ますますP社のカメラが好きになった。


ところで今、C社のカメラを修理に出している。
そのことで昨日、電話があった。
実にインギン無礼な言い方で、結局、「修理できません」
とのこと。
理由は、「水滴が入ったことが原因です」と。
つまり使用者である私に過失があった、と。


何度も「水をかけた覚えはない」と主張したが、
だめだった。
こういうのを「水かけ論」という。
前回のときも、ああでもない、こうでもない
と理由をつけて、修理してもらえなかった。
よい機会だから、そのカメラを最後に、
C社との縁を切ることにした。


(C社といっても、日本には2社ある。
カタカナで書くと、3文字の会社である。)


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●前意識


意識と無意識。
実際には、その中間に、「前意識」というのがある。
前意識というのは、意識としては自覚しなくても、いつでもスタンバイになっている
意識をいう。
たとえば古いデジタルカメラを手にしたとき、その使い方を思い出すなど。
図示すると、こうなる。


(意識)
  ↓
(前意識)
  ↓
(無意識)


で、人はいやなことや、不愉快なことがあると、それを抑圧し、どんどんと無意識の
世界に放り込んでしまう。
無意識の世界は、いわば、巨大な心のゴミ捨て場と思えばよい。
たまたま昨夜も、ある母親と電話で話した。
その母親が自分の子(小学4年女児)をさして、「あの子は、がまん強い子ですから」
と言った。


しかし子どもの世界では、「がまん強い子」というのは、警戒したほうがよい。
その分だけ、心に別室を作り、そこへ本来の自分を押し込めてしまう。
結果として、心をゆがめてしまう。
が、それだけではない。
何か機会があると、突発的に、キレたりする。
ふつうのキレ方ではない。
たいてい錯乱状態になる。
「どうして、オレをこんなオレにしたア!」と。
それまでにたまった不満を、一気に爆発させる。


教える側からすると、ワーワーと自己主張を繰り返す子どものほうが、教えやすい。
何を考えているか、よくわかる。
そういう意味でも、幼児教育では、(1)まず自分をすなおに表現させるところから、
始める。


「すなお」というのは、(1)心(=情意)と、表情がいつも一致していること。
(2)心のゆがみ(いじける、ひねくれる、つっぱる、ぐずる)がないこと。


具体的には、思っていることを、大声ではき出させる。


一方、前意識は、先にも書いたように、そのつど必要に応じて、意識的に取り出す
ことができる。
「今日は何を食べるかな? 昨日、寿司を食べたので、今日は刺身をやめよう」
とかなど。
あるいは「あの店へ行くのはやめよう。先日行ったとき、女将さんの態度が悪かった」
とかなど。
そのときは意識しなくても、簡単な条件をつけると、そのまま意識として脳の
中に浮かび上がってくる。


で、子ども、とくに幼児の教育では、この前意識がどのように形成されているか、
それにいつも注意を払うことが重要。
(できる・できない)ではなく、(前向きな前意識が育った・育ってない)をみる。
たとえば現在、年中児で、「名前をかいてごらん」と私が言っただけで、体を
こわばらせてしまう子どもが、何割かはいる。
中には、涙ぐんでしまう子どもさえいる。


文字に対して、恐怖感をもっている子どもである。
どうしてそうなったか、理由など、改めて、ここに書くまでもない。


しかし一度、こうした症状を示すようになると、子どもの心をほぐすのは、容易な
ことではない。
発達心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。
一度、嫌子ができてしまうと、それを好子に転換するのは、容易なことではない。
もっとわかりやすく言えば、「子どもをつぶすのは簡単。しかし伸ばすのは難しい」
ということになる。
「つぶれた子どもの心を修復するのは、難しい」でもよい。
いわんや、それが前意識から、無意識の世界に入ってしまったら……!


今、ふえているのが、「おとな恐怖症」の子どもたち。
赤ちゃん返りならぬ、幼児返りを起こす。
中学生とか高校生になっても、幼児期のおもちゃを取り出し、それで遊ぶなど。
一見すると、精神的な未熟性が気になるが、「おとな恐怖症の子ども」と理解すると、
納得できる。


さらにひどくなると、言葉の使い方そのものまで、幼児ぽくなる。
「ドウチェ、ダメだと、言うんデチョ、こんな本は、ダメだと、言うんデチョ」と。


私がその子ども(小6男児)の中に、ボロボロになった雑誌を見つけたときのことだった。
「これは何?」と聞いたとたん、その子どもは、そう言った。
原因は、すぐわかった。
母親に相談すると、中学生の兄がいて、毎晩、父親と、「勉強しろ!」「いやだ!」の
乱闘を繰り返しているという。
その子どもはそれを傍で見ていて、中学生になることに恐怖心を抱いてしまった!


一方、英語には、『Happy Learners learn Best』というのがある。
『楽しく学ぶ子は、よく学ぶ』という意味である。
「楽しい」という思いが、前意識(無意識でもよいが)の中に、「好子」を作る。
この好子が、子どもを前向きに引っ張っていく。


「BW教室(=私の教室)」という名前を聞いただけで、「行きたい!」となる。
またそういうふうに、指導する。


「私」の中に、「私」と言える部分は、ほとんどない。
いつも「私」は、(私でないもの)によって、動かされている。
同じように、「子ども」もまた、(子ども自身でないもの)によって、動かされている。
幼児教育では、その(子ども自身でないもの)を、どう作っていくか。
それが重要なポイントということになる。
「前意識」にからめて、幼児教育はどうあるべきかを考えてみた。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
前意識 好子 嫌子 無意識 幼児返り 幼児がえり がまん強い子 はやし浩司
抑圧 幼児教育の要)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司


●中国のキリスト教信者
(More and more believe in Christianity in Red China, totaling one tenth of the population! 
On the contrary less and less Japanese believe in Buddhism.)


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中国というと、仏教国と思っている人は多い。
しかし実際には、仏教を信じている人は、
驚くほど、少ない。
ほとんどいない?


一度、中国の友人に直接確かめたことがあるが、
そのときは、「中国では黄帝信仰が中心」と
聞いた。
10年ほど前のことである。


が、である。
その中国で、今、キリスト教が急速に勢力を
伸ばしているという。


香港の「南華早報」によれば、中国国内には、
現在、合わせて1億2500万人の
キリスト教信者がいるという。
その数は年々、急速にふえているという。


1億2500万人といえば、
「人口13億人の中国でも、約10%が、
キリスト教信者」ということになる。
そしていわく、「その数は、中国共産党の党員の数、
7400万人よりも多い」と。


ヘ〜〜エ!


無神論が原則の「共産主義」。
その中国で、キリスト教信者の増大。
こうした現象を、いったい、どのように理解
したらよいのか。


かたやこの日本は、仏教国のまま。
釈迦には悪いが、現在、仏教国と言われる国は、
東南アジアのいくつかの国と、この日本だけ。
その日本でも、たとえば近郊の山村では、無住の
寺がふえている。
「経営(?)が成り立たない」のが、その
理由とか。


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●小悪を暴露して、大悪を隠す


小ずるい人がよく使う手が、これ。
『小悪を暴露して、大悪を隠す』。
現在の、韓国前大統領のノ大統領もその一人。
6億円の収賄容疑が身辺に及んでくると、
突然、「妻が……」とHPに書いた。
つづいて、「私は知らなかったが、妻の
したことには、私も責任がある」と、
かっこよく謝罪。
昔、こんなことがあった。


●町内会の旅行で


町内会で、どこかへ旅行に行ったときのこと。
私たちはどこかの寺の本堂に泊まった。
私が小学4年生か、5年生のときのことだった。


朝、私ともう一人が、だれかと積み上げられた
布団の上に登って遊んでいた。
そのとき何かの拍子に、窓ガラスの下のほうが割れた。
バリッと音をたてて、窓ガラスにヒビが入った。


そのあとのことは記憶がぼんやりとしているが、
そのとき世話役の女性(40歳くらい?)が私たちのところへ
やってきて、こう言ったのを覚えている。


「黙っていなさいよ。オバチャンが、何とか
するから」と。


で、そのあと。
寺が出るときになったときのこと。
みなが礼を言っていたと思うが、そのとき、その女性が突然、
住職を呼びとめて、こう言った。
「あの、すみません……。実は……」と。


私は胸がキューンと、凍りつくのを覚えた。
「叱られる……」と思った。
が、その女性は、こう言った。


「実は、本堂にある、〜〜を、子どもたちが、
倒してしまいました。
もとのようにしておきましたが、どうか
許してください」と。
それに答えて住職が、たしか「いいですよ」と
いうようなことを、笑いながら言っていたのを
覚えている。


私はほっとすると同時に、子どもながらに、
その女性の小ずるさに感心した。
つまりその女性は、わざわざ言わなくてもよい
ような小悪を暴露しながら、大悪を隠した。
小悪を暴露しながら、「私は正直な人間です」と
言いながら、「だから大悪をするはずは
ありません」と。


●ノ前大統領


ノ前大統領も、同じ手を使った(?)。
つまり先手を打った。
が、これが裏目に出始めている。
何しろ金額が、6億円。
日本の経済規模に換算すると、10億円以上!
そんな額を妻が受け取って、ダンナである
ノ前大統領が知らなかったでは通らない。


だいたい、どうして妻がそんな現金を、
もらうことができるのか。
大統領の妻だから、もらえた(?)。
聯合ニュースですら、『常識からみて、
家族による(巨額資金の)取引を、
(前大統領が)知らないことがあり
えるのか』(4・17)と書いている※。


隣の韓国の話とはいえ、小ずるさというより、
薄汚さを感じさせる事件である。
前大統領という元最高権力者でも、こんな
姑息(こそく)な手を使う。


が、さらに追い詰められると、今度は、
こう言った。


「事実と違う話が、事実として報道されており、
釈明と防御が必要なようだ」(毎日新聞)と。


かっこいい。
かっこよすぎる。


が、へたにあがくから、墓穴を掘る。
へたに小細工をするから、墓穴を掘る。
しょせん、ノ前大統領という人は、
その程度の人だったということになる。


(注※)毎日新聞より


『韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)前大統領への不正資金提供疑惑を捜査中の検察当局が、逮捕
状を請求する方針を固めたと報道されている問題で、韓国メディアは17日、検察内部に「在宅
起訴して法廷で疑惑を立証すべきだ」との慎重論があることを紹介した。前大統領側は疑惑否
定の姿勢を崩しておらず、今後、長期間の法廷闘争が続く可能性も指摘している。


 報道によると、検察当局は、前大統領の有力支持者から、権良淑(クォン・ヤンスク)夫人や
親類に渡った計600万ドル(約6億円)の資金が、事実上、職務に関連して前大統領に贈られ
たものである可能性が強まったと判断した。


 検察当局は17日、資金の一部を受け取った疑いが持たれる、前大統領の長男、建昊(ゴン
ホ)氏に対する4回目の参考人聴取を実施し、金の流れについて証拠固めを試みた模様だ。


 聯合ニュースは「常識からみて、家族による(巨額資金の)取引を、(前大統領が)知らないこ
とがありえるのか」という検察幹部の発言を紹介し、収賄容疑での立件が近いとの見方を示し
た。


 各メディアは、全斗煥(チョン・ドゥファン)、盧泰愚(ノ・テウ)両元大統領に続き韓国で3人目
となる大統領経験者の逮捕に発展するかどうか、捜査は最終局面を迎えていると報じている。


 一方、前大統領は夫人に資金が渡っていたことは認める一方、自身の関与については全面
否定している。12日に自身のホームページで「事実と違う話が、事実として報道されており、釈
明と防御が必要なようだ」と述べ、疑惑捜査に対し、徹底対決の姿勢を強調している』と。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●スケベ力


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YOU TUBEのほうで、動画を紹介している。
指導風景や子どもたちの様子など。
そのYOU TUBEを使って、ときどき育児論をそのまま、
私の声で話すこともある。
「言葉教育について」とか、「作文指導について」とか、
など。


で、YOU TUBEでは、閲覧してくれた人の数
(=アクセス数)が、そのままわかるようになっている。
いわば、人気投票のようなもの。
その数字が大きければ大きいほど、人気があるという
ことになる。


そのYOU TUBEを通して、改めてスケベ力の
大きさに驚く。
たとえばほかの動画が、1か月で、10回前後しか
アクセスがないのに、たとえば「子どもの自慰について」
というのは、1か月で、200〜300回前後も
アクセスがある。


どういう人たちが、どういう検索ワードを使って、
アクセスしてくるかは、容易に察しがつく。
期待に添えなくて申し訳ないが(?)、それにしても……、
と思う。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090419)

【非行】


【子どもを伸ばすコツ】


子どもを伸ばす最大のコツは、(子どもがしたいと思っていること)と、(子どもが現実にしている
こと)を、一致させてあげることです。とくに乳幼児期は、遊びを通して、それを実現します。


「ぼくは、これをしたい。だからこれをする」「私はこれをしたい。だからこれをする」と。


こうして(子どもの中の私)と、(現実の私)を一致させます。これをアイデンティティの確立とい
います。


こうしてその子どもは、自分の進むべき道を、自分でさがし求めるようになります。


ただ一つ、誤解してはいけないのは、(したいこと)は、そのつど、変化するということです。たと
えば、幼児のことは、「ケーキ屋さんになりたい」と言っていた子どもが、小学生になると、「パン
屋さんになりたい」「お花屋さんになりたい」などと言うようになるかもしれません。


しかしそのときでも、(自分がやりたいことに向って努力する)という、思考プロセス(=思考回
路)は、頭の中に残ります。この思考プロセスこそが重要なのです。


中身は、そのつど、変わります。変わって当然なのです。


ここでは、「非行」をテーマに、この問題について考えてみます。子どもの非行というのは、子ど
も自身が、(やりたいこと)を見つけ出せなくなったとき、その代償的方法(あるいは自己防衛的
方法)として、始まります。


++++++++++++++++++++++


●非行のメカニズム


 子どもの非行。その非行に子どもが走るメカニズムは、意外に単純なもの。言いかえると、
子どもを非行から防ぐ方法も、簡単。


【第一期・遊離】


 (したいこと)と、(していること)が、遊離し始める。「ぼくは、サッカーをしたい。しかし塾へ行
かなければならない」など。「私はケーキ屋さんになりたいのに、親は、勉強をして、いい大学
へ入れと言う」など。


 (〜〜したい)と思っていることと、(現実にしていること)が、遊離し始める。つまり子ども中
で、アイデンティティ(自我の同一性)が、混乱し始める。


 アイデンティティが、混乱し始めると、子どもの心理状態は、不安定になる。怒りっぽくなった
り(プラス型)、反対にふさぎやすくなったりする(マイナス型)。


 この状態を、「同一性の危機」という。


 この段階の状態に対して、抵抗力のある子どもと、そうでない子どもがいる。幼少期から、甘
やかされて育った子どもほど、当然、抵抗力がない。遊離したとたん、一気に、つぎの(同一性
の崩壊)へと進む。


一方、幼少期から、家事の手伝いなどを日常的にしてきた子どもほど、抵抗力が強い。子ども
の世界では、(いやなことをする力)を、「忍耐力」という。その忍耐力がある。


 アイデンティティが混乱したからといって、すぐ、つぎの第二期に進行するわけではない。個
人差は、当然、ある。


【第二期・崩壊】


 (したいこと)と(していること)が、大きくズレてくると、子どもは、まず、自分を支えようとする。
がんばる。努力する。が、やがて臨界点にさしかかる。子ども自身の力では、それを支えきれ
なくなる。


「野球の選手をめざして、もっとがんばりたいのに、毎日、勉強に追われて、それもできない」
「勉強はおもしろくない」「成績が悪く、つまらない」と。


 こうして同一性は、一気に、崩壊へと向う。子ども自身が、「自分は何をしたいのか」「何をす
べきなのか」、それがわからなくなる。


【第三期・混乱】


 アイデンティティが崩壊すると、精神状態は、きわめて不安定になる。ささいなことで、激怒し
たり、突発的に暴れたりする(プラス型)。


 反対に落ち込んだり、家の奥にひきこもったりする(マイナス型)。外界との接触を断つことに
よって、不愉快な気分になるのを避けようとする。このとき、無気力になり、ボーッとした表情
で、一日を過ごすようになることもある。


【第四期・非行】


 アイデンティティが崩壊すると、子どもは、主につぎの5つのパターンの中から、自分の道を
模索する。


(1)攻撃型
(2)同情型
(3)依存型
(4)服従型
(5)逃避型


 このうち、攻撃型が、いわゆる非行ということになる。独特の目つきで、肩をいからせて歩く。
独特の服装に、独特の暴言などなど。暴力行為、暴力事件に発展することも珍しくない。


 このタイプの子どもに、「そんなことをすれば、君は、みなに、嫌われるんだよ」と説いても意
味はない。このタイプの子どもは、非行を通して、(自分の顔)をつくろうとする。顔のない自分
よりは、嫌われても、顔のある自分のほうが、よいというわけである。


 アイデンティティそのものが、崩壊しているため、ふつうの、合理的な論理は通用しない。ささ
いなどうでもよいことに、異常なこだわりを見せたりする。あるいは、それにこだわる。自己管
理能力も低下するため、自分をコントロールできなくなる。


 以上が、非行のメカニズムということになる。


 では、子どもを非行から守るためには、どうすればよいか。もうその答はおわかりかと思う。


 つねに(子どものしたいこと)と、(子どもがしていること)を、一致させるようにする。あるいは
その接点だけは、切らないようにする。


 仮に受験勉強をさせるにしても、「成績がさがったから、サッカーはダメ」式の乱暴な、指導は
しない。受験勉強をしながらも、サッカーはサッカーとして、別に楽しめるワクを用意する。


 言うまでもなく、(自分のしたいこと)と、(していること)が一致している子どもは、精神的に、き
わめて安定している。どっしりしている。方向性がしっかりしているから、夢や希望も、もちやす
い。もちろん、目的もしっかりしている。


 また方向性がしっかりしているから、誘惑にも強い。悪の世界からの誘惑があっても、それを
はねかえすことができる。自己管理能力もしっかりいているから、してよいことと、悪いことの判
断も的確にできる。


 だから……。


 今までにも何度も書いてきたが、子どもが、「パン屋さんになりたい」と言ったら、「そうね、す
てきね」「こんど、いっしょにパンを焼いてみましょう」などと、答えてやる。そういう子どもの夢や
希望には、ていねいに耳を傾けてやる。そういう思いやりが、結局は、自分の子どもを非行か
ら守る最善の方法ということになる。


(はやし浩司 非行 子どもの非行 子供の非行 非行から子供を守る方法 非行防止 アイ
デンティティ アイデンテティ 自我同一性の崩壊 顔のない子ども 子供 はやし浩司 非行
のメカニズム)


●スチューデント・アパシー


 無気力、無表情、無感動の状態を総称して、「アパシー」という。そのアパシーが、若者を中
心に、部分的に現れることがある。とくに、男子学生に多い。それを、「スチューデント・アパシ
ー」(ウォルターズ)という。


 このスチューデント・アパシーが、燃えつき症候群や、荷おろし症候群とちがう点は、ここにも
書いたように、学業なら学業だけというように、アパシーになる部分が、かぎられているという
点。学業面では、無気力でも、アルバイトや、交友、遊びは、人一倍、活発にする。


 が、大学の講義室に入ったとたん、別人のように、無気力状態になる。反応もなく、ただぼん
やりとしているだけ。眠ってしまうこともある。


 こうした症状も、(本人がやりたいこと)と、(現実にしていること)のギャップが、大きいことが
原因でそうなると考えると、わかりやすい。「大学へは入ってみたが……」という状態である。と
くに、目標もなく、ただ点数をあげるためだけの受験勉強をしてきたような子どもに、多く見られ
る。


 このタイプの学生は、まず本人自身が、何をしたいかを正確に知らなければならない。しかし
たいていのケースでは、それを知るという気力そのものすら、消えていることが多い。


 「君は、本当は、何をしたいのか?」
 「わからない」
 「でも、君にも、何か、やりたいことがあるだろ?」
 「ない……」
 「でも、今のままでいいとは、君だって、思っていないだろ?」
 「……」と。


 こうした症状は、早い子どもで、小学校の高学年児でも、見られるようになる。概して、従順
で、まじめな子どもほど、そうなりやすい。友だちと遊ぶときはそれなりに活発なのだが、教室
へ入り、机に向かってすわったとたん、無気力になってしまう。


 こうした症状が見られたら、できるだけ初期の段階で、それに気づき、子どもの心を取りもど
す。よく誤解されるが、「いい高校に入りなさい」「いい大学に入りなさい」というのは、子どもに
とっては、(したいこと)ではない。一見、子どものためを思った言葉に聞こえるかもしれない
が、その実、子どもの心を破壊している。


 だから今、目的の高校や大学へ入ったとたん、燃え尽きてしまったりして、無気力になる子ど
もは、本当に多い。市内の進学高校でも、5〜10%が、そうでないかと言われている(教師
談)。大学生となると、もっと多い。
(はやし浩司 アパシー スチューデントアパシー 無気力な子ども 自我の崩壊 同一性の危
機 同一性の崩壊)


+++++++++++++++++++++


少し前、こんな相談がありました。再掲載します。


+++++++++++++++++++++ 


【E氏より】


甥(おい)っ子についてなんですが、小学二年生でサッカークラブに入っています。ところがこの
ところ、することがないと、ゴロゴロしているというのです。


とくに友だちと遊ぶでもなく、何か自分で遊ぶのでもなく……。サッカーもヤル気がないくせに、
やめるでもない。こういう時は、どこに目を向ければいいのでしょうか。


やる気がないのは、今、彼の家庭が関心を持っている範疇にないというだけで、親自身が持っ
ている壁を越えさせることがポイントかな、と思ったりしたのですが……。 


【はやし浩司より】


●消去法で


 こういう相談では、最悪のケースから、考えていきます。


バーントアウト(燃え尽き、俗にいう「あしたのジョー症候群」)、無気力症候群(やる気が起きな
い、ハキがない)、自我の崩壊(抵抗する力すらなくし、従順、服従的になる)など。さらに回避
性障害(人との接触を避ける)、引きこもり、行為障害(買い物グセ、集団非行、非行)など。
自閉症はないか、自閉傾向はないか。さらには、何らかの精神障害の前兆や、学校恐怖症の
初期症状、怠学、不登校の前兆症状はないか、など。


 軽いケースでは、親の過干渉、溺愛、過関心、過保護などによって、似たような症状を見せ
ることがあります。また学習の過負担、過剰期待による、オーバーヒートなどなど。この時期だ
と、暑さにまけた、クーラー病もあるかもしれません(青白い顔をして、ハーハーあえぐ、など)。


 「無気力」といっても、症状や程度は、さまざまです。日常生活全体にわたってそうなのか。あ
るいは勉強面なら勉強面だけにそうなのか。あるいは日よって違うのか。また一日の中でも、
変動はあるのかないのか。


こうした症状にあわせて、何か随伴症状があるかないかも、ポイントになります。ふつう心配な
ケースでは、神経症による緒症状(身体面、行動面、精神面の症状)が伴うはずです。たとえ
ばチック、夜驚、爪かみ、夜尿など。腹痛や、慢性的な疲労感、頭痛もあります。行動面では、
たとえば収集癖や万引きなど。


さらに情緒障害が進むと、心が緊張状態になり、突発的に怒ったり、キレたりしやすくなりま
す。この年齢だと、ぐずったりすることもあるかもしれません。


こうした症状をみながら、順に、一つずつ、消去していきます。「これではない」「では、これでは
ないか?」とです。


●教育と医療


 つまりいただいた症状だけでは、私には、何とも判断しかねるということです。したがって、ア
ドバイスは不可能です。仮に、そのお子さんを前に置いても、私のようなものが診断名をくだす
のは、タブーです。資格のあるドクターもしくは、家の人が、ここに書いたことを参考に、自分で
判断するしかありません。


 治療を目的とする医療と、教育を目的とする教育とは、基本的な部分で、見方、考え方が違
うということです。


 たとえばこの時期、子どもは、中間反抗期に入ります。おとなになりたいという自分と、幼児
期への復帰と、その間で、フラフラとゆれ戻しを繰りかえしながら、心の状態が、たいへん不安
定になります。


 「おとなに扱わないと怒る」、しかし「幼児のように、母親のおっぱいを求める」というようにで
す。


 そういう心の変化も、加味して、子どもを判断しなければなりません。医療のように、検査だ
けをして……というわけにはいかないのですね。私たちの立場でいうなら、わかっていても、知
らないフリをして指導します。


 しかしそれでは、回答になりませんので、一応の答を書いておきます。


 相談があるということから、かなり目立った症状があるという前提で、話をします。


 もっとも多いケースは、親の過剰期待、それによるか負担、過関心によって、脳のある部分
(辺縁系の帯状回)が、変調しているということ。多くの無気力症状は、こうして生まれると説明
されます。


 特徴としては、やる気なさのほか、無気力、無関心、無感動、脱力感、無反応など。緩慢動
作や、反応の遅延などもあります。こうした症状が慢性化すると、昼と夜の逆転現象や回避性
障害(だれにも会いたがらない)などの症状がつづき、やがて依存うつ病へと進行していきま
す。(こわいですね! Eさんのお子さんのことではなく、甥のことということで、私も、少し気楽
に書いています。)


 ですから安易に考えないこと。


●二番底、三番底へ……


 この種の問題は、扱い方をまちがえると、二番底、三番底へと落ちていきます。さらに最悪の
状態になってしまうということです。たとえば今は、何とか、まだサッカーはしているようですが、
そのサッカーもしなくなるということです。(親は、これ以上悪くならないと思いがちですが……。
決して、そうではないということです。)


 小学二年生という年齢は、好奇心も旺盛で、生活力、行動力があって、ふつうなのです。そ
れが中年の仕事疲れの男のように、家でゴロゴロしているほうが、おかしいのです。どこかに
心の変調があるとみてよいでしょう。


 では、なおすために、どうしたらよいか?


 まず、家庭が家庭として、機能しているかどうかを、診断します。


●家庭にあり方を疑う……


 子どもにとって、やすらぎのある、つまり外の世界で疲れた心と体を休める場所として機能し
ているかどうかということです。簡単な見分け方としては、親のいる前で、どうどうと、ふてぶてし
く、体を休めているかどうかということです。


 親の姿を見たら、コソコソと隠れたり、好んで親のいないところで、体や心を休めるようであ
れば、機能していないとみます。ほかに深刻なケースとしては、帰宅拒否があります。反省す
べきは、親のほうです。


 つぎに、達成感を大切にします。「自身が持っている壁を越えさせることがポイント」というの
は、とんでもない話で、そういうやり方をすると、かえってここでいう二番底、三番底へと、子ど
もを追いやってしまうから注意してください。


 この種の問題は、(無理をする)→(ますます無気力になる)→(ますます無理をする)の悪循
環に陥りやすいので、注意します。一度、悪循環に陥ると、あとは底なしの悪循環を繰りかえ
し、やがて行き着くところまで、行き着いてしまいます。
 

「壁を越えさせる」のは、風邪を引いて、熱を出している子どもに、水をかけるような行為と言っ
てもよいでしょう。仮に心の病にかかっているということであれば、症状は、この年齢でも、半年
単位で推移します。今日、改めたから、明日から改善するなどということは、ありえません。


 私なら、学校恐怖症による不登校の初期症状を疑いますが、それについても、私はその子ど
もを見ていませんので、何とも判断しかねます。


 ただコツは、いつも最悪のケースを考えながら、「暖かい無視」を繰りかえすということです。
子どものやりたいようにさせます。過関心であれば、親は、子育てそのものから離れます。


 多少生活態度がだらしなくなっても、「うちの子は、外でがんばっているから……」と思いなお
し、大目にみます。


 ほかに退行(幼児がえり)などの症状があれば、スキンシップを濃厚にし、CA、MGの多い食
生活にこころがけます。(下にお子さんがいらっしゃれば、嫉妬が原因で、かなり情緒が不安定
になっていることも、考えられます。)


 子どもの無気力の問題は、安易に考えてはいけません。今は、それ以上のことは言えませ
ん。どうか慎重に対処してください。親やまわりのものが、あれこれお膳立てしても、意味がな
いばかりか、たいていは、症状を悪化させてしまいます。そういう例は、本当に多いです。


 またもう少し症状がわかれば、話してください。症状に応じて、対処方法も変わります。あまり
深刻でなければ、そのまま様子を見てください。では、今日は、これで失礼します。

(はやし浩司 バーントアウト 燃え尽き あしたのジョー症候群 無気力症候群 自我の崩壊
 回避性障害 引きこもり はやし浩司 行為障害 買い物グセ 集団非行 非行 学校恐怖
症 初期症状 怠学 不登校の前兆症状)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司※

●4月xx日


++++++++++++++++++++++


昨夜はいろいろあって、午前0時ごろ、床に入った。
うっかりしていたら、時間が過ぎてしまった。
あわてて、寝室へ。


が、午前4時ごろ、目が覚めた。
蚊に刺された。
今年、はじめてのことだった。
昨年も、4月に蚊に刺されたように思う。
(たしかではないが……。)
それにしても、4月に蚊とは!
私が子どものころには、想像もできなかったことである。
「蚊」と言えば、俳句の世界でも、夏の季語になっている。
(夏だぞ!)


で、蚊取り線香に火をつけ、トイレへ。
つづいてワイフも、トイレへ。
そのあとしばらくワイフと、布団の中で雑談。
いろいろな話をした。


やがてワイフは再び深い眠りに……。
私は起きて、そのまま書斎へ……。
作りかけのレジュメ(講演要旨)を完成した。
6月からの講演用である。


よいのができた。
ホ〜〜〜ッ!


こういう仕事で、よい作品ができるときというのは、
作業を進めるにつれて、どんどんと仕事の中に吸い込まれていく。
そうでないときは、そうでない。
その数日前にも数作、試してみた。
そのときが、そうだった。
途中で嫌気がさしてくる。
その嫌気が、どんどんと心の中で、ふくらんでくる。
そういうときは、ボツ。
「ボツ」というのは、物書きの世界の専門用語。
「ゴミ」という意味。


で、ほっと一息ついてとき、時計を見たら、午前9時。
3〜4時間が、あっという間に過ぎていた。


ところで私はレジュメを、「作品」と呼んでいる。
講演の成功、不成功は、このレジュメで決まる。
(いつも失敗ばかりだが……。)
画家が絵を描くように、音楽家が作曲するように、
私にとっては、レジュメが「作品」ということなる。


+++++++++++++++++++++++


●夫婦喧嘩


私たち夫婦は、周期的に喧嘩する。
定期的に喧嘩する。
が、いつもパターンは同じ。
原因は、もちろん、私にある。
自分で自分をコントロールできなくなる。
それでいつも、「もう、お前とは離婚だア!」
「私もオ!」となる。


数日前もそうだった。
フランスのシャンソン歌手に、「Akiko」という人がいる。
ワイフの名前と同じである。
それで、その歌手の歌を何曲か、パソコンに取り込んだ。
それをワイフに話すと、「私は、シャンソンが嫌い」と。
……とまあ、いつもささいなことで、喧嘩は始まる。


私「聴いてみろ!」
ワ「シャンソンは嫌い!」
私「Akikoという名前のシャンソン歌手だ!」
ワ「だったら、よけいに聞かない!」と


で、私はノートパソコンを開いて、曲を出した。
が、ワイフは聴こうともしない。


私「聴いてみろ!」
ワ「いやよ。自分の趣味を押しつけないでよ!」
私「いいから、聴いてみろ!」
ワ「あなたは、どうしてそういうふうに押しつけがましいの!」と。


そういう会話がポンポンとつづいたあと、最後は、
「今度こそ、離婚してやる!」
「あなたがそう望むなら、しかたないわね!」となる。


……それでまあ、いつもの喧嘩になってしまった。
で、その日は、食事なし。
会話もなし。
ゆううつな午後。
軽い頭痛と、重い体。


自分でもよくわかっている。
喧嘩をしている最中でも、それがわかる。
「どうせ明日はまた、手をつないで歩く」と。
おかしな夫婦だが、それが私たち。
私たち夫婦。
こんなことを繰りかえして、もう38年。
自分でも、バカな夫婦と思うが、どうしようもない。


で、今は、こう思う。
「夫婦喧嘩も、生活のスパイスかなア……?」と。
平凡な状態がしばらくつづくと、倦怠(けんたい)期に入る。
倦怠期に入ると、心の中は緊張状態になる。
ささいなことで、衝突し、爆発する。


チャート化すると、こうなる。


(平凡期)→(倦怠期)→(緊張期)→(衝突・爆発期)→(冷却期)
→(愛情期)→(平凡期)→……、と。


今は、(冷却期)が終わって、(愛情期)に入ったところか。
ワイフが新婚期のように、愛くるしく見える。


●ずるい女

新潟県で自分の子どもと、隣の子どもを殺した女性がいた。
H・Sといえば、わからない人はいないと思う。
その女性が、一審、二審とも、「無期懲役」の判決を受けた。
その女性について、どうしても理解できない点が、ひとつ、ある。

たしかH・Sは、裁判中、「極刑(=死刑)でもいい」とか、
「死んでおわびしたい」などと言っていたはず。
その女性が、無期懲役の判決で、どうして最高裁に、上告?

しかも、だ。
4月8日、午前中に検察側が上告を断念したのを、見計らって、である。
期限ギリギリその日の午後、上告した。
このばあい、H・Sの刑は、軽くなることはあっても、重くなることはない。


この話を聞いて、私は、従兄(いとこ)が、少し前、こんな話をしてくれたのを
思い出した。


その従兄が、実父を亡くしたときのこと。
1人実姉がいたのだが、その実姉は、葬儀費用を1円も出さなかったという。
いわく「私は○○家を出た身分」「収入がない」と。
そしてこうも言ったという。
「遺産相続は放棄する。(だから葬儀費用はすべて、あなたが出せ!)」と。


冠婚葬祭だけは派手に行う土地柄である。
葬儀費用だけでも、300万円近く、かかったという。


が、いざ、相続というとき、今度は、「私も子だから」と言い出した。
そこで従兄がキレた。
キレたが、そこで怒らせると、必要な書類が集まらない。


(1)相続財産分割協議書
(2)印鑑証明
(3)謄本など。


が、いくら従兄が頼んでも、その実姉は、必要な書類を送ってこない。
……ということで、従兄は、かなり苦労したらしい。
「姉は昔から小ずるい人でしたが、ああまでずるいとは思っていませんでした」と。


この従兄の話と、H・Sの話は、どこか似ている?
「極刑(=死刑)でもいい」とか、「死んでおわびしたい」と言っていたのは、
あくまでも裁判官向け。
が、ひとたび検察が上告を断念したとみるや、自分だけ上告。
もちろん罪を軽くするためである。


従兄の話を聞いていただけに、H・Sのずるさが、よくわかる。
(だからといって、H・Sが、死刑になればいいと書いているのではない。
どうか誤解のないように。)



Hiroshi Hayashi++++++++APRIL・09++++++++++++はやし浩司


●猛烈なバラマキ行政


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ASO首相は、外国へ行くたびに、お金を
バラまいている。
猛烈というより、メチャメチャ。
が、今度は、それに飽き足らず、さらに15兆円。


わかりやすく言えば、今の今でさえ、稼ぎ(=収入)の
2倍以上の生活をしている。
それに加えて、さらに15兆円!
バケツの底が抜けた!


ASO首相の大暴走に、ブレーキをかける人は、
いないのか?
このあとにやってくるのは、猛烈なインフレ。
貨幣価値の半減。
5年を待たずして、「ラーメン一杯、2000円」の
時代がやってくる。


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●近況


このところ立て続けに、メルボルン大学時代の友人の話が、
2つ、飛び込んできた。


1つは、カレッジにいっしょにいた、P君が、映画監督に
なっていたという話。
オーストラリアを代表する映画監督になっていたという。


もう1つは、同じ名前のP君が、数年前、イギリスで、1台
1億1000万円という、レーシング・カー(L社エリーゼ)を、
10台まとめて買ったという話。


後者のP君は、40代半ばで、全豪イチの大富豪になっている。
ともに仲がよかったので、うれしい。
「みんなそれぞれの人生を、生きたんだなあ」と。
懸命に顔を思い浮かべながら、そんなことを考える。
(もっとも、ネットで見るかぎり、学生時代の面影は、ほとんど残って
いないが……。)



Hiroshi Hayashi++++++++APRIL・09++++++++++++はやし浩司


●韓国の危機(4月19日)


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韓国がPSIに参加すれば、宣戦布告すると、
またまたあのK国が言い出した。
PSIというのは、国際的な臨検制度。
あやしいとにらんだ船を、海上で臨検する。
(PSI…大量破壊兵器拡散防止構想)


で、韓国はこの4月15日にも、PSIへの
正式参加を申し込む予定だった。
それがK国の脅迫で、延期。
その会議が、4月22日に、K国の開城(ケソン)
で行われることになった。
抑留されたままの韓国人の問題もある。


恐らくその席で、「開城存続か、PSI参加断念か」と、
K国側は迫ってくるはず(韓国紙)。
「PSIに参加すれば、開城工業団地を廃止する」と。
が、それだけではない。
K国は、こうも言ったという。
「ソウルが、(K国から)、50キロしか離れていないことを
忘れるな」と。


こうなるともう、立派な脅迫以上の脅迫。
K国の脅迫の矛先が、日本から、今度は韓国に向いた。
「私の知ったことではない」と書きたいが、あえて韓国のために
こうアドバイスしたい。


「あんな国を本気で相手にしてはいけない。
相手にする価値もない」と。


ここは開城工業団地を閉鎖。
そのままの状態で、PSI参加をしばらく見送る。
つまりK国に、肩透かしを食わせる。


「PSIへの参加をしばらく見送る。
同時に、開城工業団地は、閉鎖する」と。


相手は、頭のおかしい「Mad Dog(狂犬)」
(アメリカ政府高官)。
まともに相手にしてはいけない。
まともに相手にしても、意味はない。
戦争など、もってのほか。
K国の言うようにしながら、K国を兵糧攻めにする。
自滅するよう、道筋をつける。


が、しばらくすると、今度はその矛先を日本に向けて
くるはず。
今年2回目のミサイル発射実験かもしれない。
あるいは核実験かもしれない。
何があるかわからないが、重要なことは、K国の
しかけるワナにはまらないこと。


何度も繰りかえすが、日本は丸裸以上の丸裸。
こんな状態で、K国とは、ぜったいに戦争だけは
してはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++APRIL・09++++++++++++はやし浩司


●うつ病の原因(Melancholia)


引きこもりも含めて、うつ病の原因は、その子どもの乳幼児期にあると考える学者がふえてい
る。


たとえば九州大学の吉田敬子氏は、母子の間の基本的信頼関係の構築に失敗すると、子ど
もは、『母親から保護される価値のない、自信のない自己像』(九州大学・吉田敬子・母子保健
情報54・06年11月)を形成すると説く。さらに、心の病気、たとえば慢性的な抑うつ感、強迫
性障害、不安障害の(種)になることもあるという。それが成人してから、うつ病につながってい
く、と。


この論文を読んで、まっさきに思ったのは、「この私が、その証人だ」ということ。
私には、慢性的な抑うつ感、強迫性障害、不安障害の3つとも、備わっている(?)。
ただ母子関係の不全というよりは、家庭不和が原因と思われる。
父と母は、喧嘩こそしなかったが、たがいに心はバラバラ。
父は酒に溺れて、よく家の中で暴れた。


で、今は、うつ病?
心の緊張感が取れないことがよくある。
のんびりしているようなときでも、心の中で細い糸が、ピンと張っているような感じ。
加えて睡眠調整が、うまくできない。
早朝覚醒など、日課。
その分だけ、昼寝も日課。
まだ病院や薬の世話こそなっていないが、それも時間の問題かもしれない。
いよいよ危険年齢に達しつつある。
私の年齢で、うつ病になる人は、多い。
「初老性うつ病」というのである。


あのね、私が狂っているのではない。
社会が狂っている!
この社会、まじめに生きようと思えば思うほど、みな、うつ病になる!


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
うつ病の原因 うつ病と乳幼児期 うつと乳幼児期の関係 うつと母子関係の不全 
うつ病 はやし浩司 子どものうつ病 はやし浩司 うつ病 九州大学 吉田 
母子保健情報)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司


●心の別室と加害意識(Another Room in the Mind and Consciousness of Guilty)


++++++++++++++++++++


カレー・ヒ素混入事件で、現在無実を争って
いる女性が、HM。
地下鉄サリン事件で、これまた無実を争って
いる男性が、OS教のMT。


現在刑事裁判が継続中なので、これらの人たちは
無実という前提で、ものを考えなければならない。
どんな被告人でも、有罪が確定するまで、推定無実。


カレーにヒ素を混入させたのは、別人物かも
しれない。
地下鉄サリン事件には、MTは関与していなかった
かもしれない。
そういう可能性が、1000に1つ、万に1つでも
あるなら、これらの人たちは、無実。
そういう前提で、ものを考えなければならない。


が、同じ無実でも、いまだに納得できないのが、
あの『ロス疑惑事件』。


Kさんの殺害現場に、一台の白いバンがやってきた。
そのバンが走り去ったとき、Kさんは、殺されていた。
Kさんのそばには、MKがいた。


白いバンは、近くのビルにいた男性たちによって
目撃されている。
MK自身が撮った写真の中にも、白いバンの
一部が写っている。
しかしMKは、「白いバンは見ていない」と。


そのMKは、ロス市警へ移送されたあと、留置場の中で
自殺している。
MKは無実だったのか?
無実だったのなら、自殺などしないで、最後の最後まで
闘ってほしかった。
どうもこの事件は、すっきりしない。
いまだにすっきりしない。


++++++++++++++++++++


●心の別室論(Another Room in the Mind)


人間には、自分にとって都合の悪いことがあると、心の中に別室を作り、
そこへ押し込めてしまうという習性がある。
心理学では、こうした心理操作を、「抑圧」という言葉を使って説明する。
「心の平穏を守るために自らを防衛する機能」という意味で、「防衛機制」のひとつ
と考えられている。


その防衛機制は、つぎの7つに大別される。


(1)抑圧
(2)昇華
(3)同一化
(4)投射
(5)反動形成
(6)合理化
(7)白日夢(以上、深堀元文「心理学のすべて」)


この中でも、「不安や恐怖、罪悪感などを呼び起こすような欲求、記憶などを
無意識の中に閉じ込め、意識にのぼってこないようにする」(同書)を、「抑圧」
という。
つまり心の別室の中に、それを閉じ込め、外からカギをかけてしまう。
よく「加害者は害を与えたことを忘れやすく、被害者は害を受けたことを
いつまでも覚えている」と言われる。
(そう言っているのは、私だが……。)
この「加害者は害を与えたことを忘れやすい」という部分、つまり都合の悪いことは
忘れやすいという心理的現象は、この「抑圧」という言葉で、説明できる。


が、実際には、(忘れる)のではない。
ここにも書いたように、心の別室を作り、そこへそれを押し込んでしまう。
こうした心理的現象は、日常的によく経験する。


たとえば教育の世界では、「おとなしい子どもほど、心配」「がまん強い子どもほど、
心配」「従順な子どもほど、心配」などなど、いろいろ言われる。
さらに言えば、「ものわかりのよい、よい子ほど、心配」となる。
このタイプの子どもは、本来の自分を、心の別室に押し込んでしまう。
その上で、別の人間を演ずる。
演ずるという意識がないまま、演ずる。
が、その分だけ、心をゆがめやすい。


これはほんの一例だが、思春期にはげしい家庭内暴力を起こす子どもがいる。
ふつうの家庭内暴力ではない。
「殺してやる!」「殺される!」の大乱闘を繰り返す。
そういう子どもほど、調べていくと、乳幼児期には、おとなしく、静かで、かつ
従順だったことがわかる。
世間を騒がすような、凶悪犯罪を起こす子どもも、そうである。
心の別室といっても、それほど広くはない。
ある限度(=臨界点)を超えると、爆発する。
爆発して、さまざまな問題行動を起こすようになる。


話が脱線したが、ではそういう子どもたちが、日常的にウソをついているとか、
仮面をかぶっているかというと、そうではない。
(外から見える子ども)も、(心の別室の中にいる子ども)も、子どもは子ども。
同じ子どもと考える。


このことは、抑圧を爆発させているときの自分を観察してみると、よくわかる。


よく夫婦喧嘩をしていて、(こう書くと、私のことだとわかってしまうが)、
20年前、30年前の話を、あたかもつい先日のようにして、喧嘩をする人がいる。
「あのとき、お前は!」「このとき、あなたは!」と。


心の別室に住んでいる(私)が外に出てきたときには、外に出てきた(私)が私であり、
それは仮面をかぶった(私)でもない。
どちらが本当の私で、どちらがウソの私かという判断は、しても意味はない。
両方とも、(心の別室に住んでいる私は、私の一部かもしれないが)、私である。


私「お前なんか、離婚してやるウ!」
ワ「今度こそ、本気ね!」
私「そうだ。本気だア!」
ワ「明日になって、仲直りしようなんて、言わないわね!」
私「ぜったいに言わない!」
ワ「この前、『お前とは、死ぬまで一緒』って言ったのは、ウソなのね!」
私「ああ、そうだ、あんなのウソだア!」と。


そこでよく話題になるのが、多重人格障害。
「障害者」と呼ばれるようになると、いろいろな人格が、交互に出てくる。
そのとき、どれが(主人格)なのかは、本当のところ、だれにもわからない。
「現在、外に現れているのが、主人格」ということになる。
夫婦喧嘩をしているときの(私)も、私なら、していないときの(私)も、
私ということになる。
実際、夫婦喧嘩をしている最中に、自分でもどちらの自分が本当の自分か、
わからなくなるときがある。


ともかくも、心の別室があるということは、好ましいことではない。
「抑圧」にも程度があり、簡単なことをそこに抑圧してしまうケースもあれば、
重篤なケースもある。
それこそ他人を殺害しておきながら、「私は知らない」ですませてしまうケースも
ないとは言わない。
さらに進むと、心の別室にいる自分を、まったく別の他人のように思ってしまう。
そうなれば、それこそその人は、多重人格障害者ということになってしまう。


ところで最近、私はこう考えることがある。
「日本の歴史教科書全体が、心の別室ではないか」と。
まちがったことは、書いてない。
それはわかる。
しかしすべてを書いているかというと、そうでもない。
日本にとって都合の悪いことは、書いてない。
そして「教科書」の名のもとに、都合の悪いことを、別室に閉じ込め、
カギをかけてしまっている(?)。


しかしこれは余談。
ただこういうことは言える。
だれにでも心の別室はある。
私にもあるし、あなたにもある。
大切なことは、その心の別室にいる自分を、いつも忘れないこと。
とくに何かのことで、だれかに害を加えたようなとき、心の別室を忘れないこと。
忘れたら、それこそ、その人は、お・し・ま・い!


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
心の別室 防衛機制 抑圧 はやし浩司 心の別室論 人格障害 加害意識)

Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司


【オーストラリアにUFO出現!】


●YOU TUBE


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このところ毎日、少しずつ、動画をYOU TUBE
にアップロードしている。
まずビデオカメラで、風景を撮る。
それをパソコン上で編集。
ファイル形式を変換して、そのままYOU TUBEへ。


で、YOU TUBEに関しては、1作10分以内
というような制限はある。
が、何本でもアップロードできる。
また一度アップロードした動画は、今のところ、
永遠に(?)、公開されるようになっている。
(YOU STREAMのように、一定期間を過ぎると、
削除されるということもない。)
どうしてこんなことができるのだろう?


恐らく現在、毎日、大河を流れる水のように、
YOU TUBEには、動画がアップロードされているはず。
情報量には、ものすごいものがあると思われる。
たとえば動画10本で、1GB(推定)としても、
1万本で、1000GB(=1テラバイト)となる。
全世界の人が、毎日数十万本とか、数百万本、アップロード
しているはず(推定)。
そうなると、それを蓄積していくコンピュータにしても、
巨大なものでなければならない。


一度、二男に、「どうしてこんなことができるのかねエ?」と
聞いたことがある。
二男は、圧縮して、それなりのコンピュータに保存するから、
たいしたことないというようなことを言っていた。


しかし今のところ、YOU TUBEは無料である。
広告も宣伝も、ない。
いったい、YOU TUBEは、どこから収入を得ているのか。
考えれば考えるほど、不思議でならない。


ワイフにそのことを話すと、こう言った。
「YOU TUBEって、宇宙人の出先機関じゃ、ないかしら」と。
つまりどこかの宇宙人が、地球の情報を集めまくっている。
いつかどこかの星で、バーチャル・リアリティの世界を
作るために、と。


ありえない話ではない。


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●オーストラリア・ノーザン・テリトリーにUFO、出現!!!


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09年、4月21日


April 21st, 2009 


A TERRITORY mother has backed up claims unidentified flying objects have returned to the 
Top End after she photographed two "discs of light" in the sky. 


オーストラリアのノーザン・テリトリー州の1人の母親が、2機のUFOを目撃、写真に収めた。


The mother-of-three, who wished only to be known by her first name Kym, took the photo 
as she watched the dark rain clouds roll towards her Palmerston home last month.


3人の子持ちの母親が、名前を、KIMとだけしてほしいということだが、先月、パルマストンの
方角に、重い雨雲を見たとき、空の写真を撮った。


Kym said the image was taken on her mobile phone and that she didn't notice the strange 
lights in the clouds until she downloaded her pictures on to her computer.
She took many photos and even some video footage on her phone but said the UFOs only 
appeared in the one shot.


KIMさんが言うには、写真を撮ったときは、それに気がつかなかったという。コンピュータにダ
ウンロードしたとき、それにはじめて気がついたという。


"It's hard to tell what it is - it's very strange," she said. 
"There was some lightning at the time but the shape of these lights is different."
"If it was streaks you'd think it was lightning but these are circles.
"I thought it could be a street light reflection in the screen of the mobile I took the photo 
with but the street lights aren't on."


「それが何だかわかりません」「そのとき稲妻がありましたが、これらの光はちがうものです」
「これらは丸いものです」「私の携帯電話の反射像かもしれないと思いましたが、それは写真そ
のものに写っていました」


Her story follows that of Territorian Alan Ferguson, who told in the Northern Territory News 
this month how unidentified flying objects had returned to the skies above his Acacia Hill 
home.


彼女の話は、今月になって、ファーガソン氏を経て、「ノーザン・テリトリー紙」に、報告された。


More Territory UFO pictures


Mr Ferguson put the rural suburb, 50km south of Darwin, on the international map last year 
when he first photographed UFOs flying around his home. 
He said he quickly grabbed his camera on seeing a bright silver flickering object in front of a 
cloud last month.


ファーガソン氏自身も、彼の自宅の近くで、UFOを目撃している。
先月、雲の前面で、銀色に光る物体をカメラに収めている。


The skywatcher said the UFOs seemed to appear when it was hot.
"Those aliens - they must have some pretty good airconditioning in those things, hey," he 
said.


UFOは、暑い日に現れやすいという。
宇宙人たちは、たいへんすぐれたエアコンをもっているにちがいない、と。


Kym said she had never had any previous encounters with UFOs.
"I've never really thought about them or had a view on them," she said.
"But my motto is never say never - anything's possible."


KIMさんが言うには、「私は以前、UFOを見たことはありません。それについて考えたこともあ
りません。しかし私の信条は、『ぜったい〜〜ない』とは、ぜったいに言わないことです。何で
も、ありえることです」と。

(以上、ちょうど仕事に出かける前だったので、荒っぽい翻訳で失礼します。
詳しくは、原文(ノーザン・テリトリー紙)のほうを読んでください。


記事および写真は、


http://tools.ntnews.com.au/photos/photo_gallery_popup.php?splash=0&category_id=735
より。


写真を見る限り、これは本物のUFOですね?)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●心の別室(Another Room in the Mind)(補記)


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このところ、「心の別室」について、よく考える。
つまり心の中には、別室があり、人はその別室を
うまく使い分けながら、自分の心をうまく
コントロールしている、と。

たとえば今朝も、世界のニュースサイトに
ひと通り目を通してみた。
いくつか、目に留まった。

ひとつは、あのK国がまたまた、戦時中の日本軍に
よる強制連行を問題にし始めたというニュース。
これをニュースAとする。

もうひとつは、世界で、パソコンの小型化
(ハイブリッド化)が進んでいるというニュース。
これをニュースBとする。

ニュースAについては、私は見出ししか読まなかった。
ニュースBについては、本文を開いて、読んだ。
ニュースAは、日本人の私にとっては、不愉快な話。
できれば早く忘れたい。
「またか……!」という思いが先に立った。

ニュースBは、私の趣味にも関係する。
「どんなことだろう?」と思って、読んだ。


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●抑圧

心理学の世界には、「抑圧」という言葉がある。
心を守るための防衛機制のひとつと考えられている。
たとえばいやなことがあると、人は心の中に別室を作って、その中に、それを
閉じこめようとする。
「忘れたい」「逃げたい」という思いが、心の中に別室を作る。
結果として、心の安定を図る。

子どもの世界で注意しなければならないのは、こうした抑圧が、しばしば子どもの
心をゆがめること。
たとえば、おとなしい子どもがいる。
従順で、静かで、穏やかな子どもをいう。
幼稚園でも学校でも、先生の指示には、すなおに従う。
だれかに自分の持ち物を奪われても、黙っているだけ……。

親は、「我慢強い、できのいい子」と喜んでいるが、これはとんでもない誤解。
このタイプの子どもほど、心のどこかで自分を押し殺す。
この「押し殺す」という心理操作が、「抑圧」ということになる。


●空想的虚言

一方、反対にこんなこともある。
空想の世界に自分を置き、現実と空想の区別がつかなくなってしまう。
このタイプの子どもは、少なくない。
ウソをつくが、本人には、ウソという自覚がない。
あたかも本当のことのようにして話す。
この種のウソを、空想的虚言(妄想)という。

印象に残っている子ども(年長男児)に、F君というのがいた。
F君の母親から、ある日、電話がかかってきた。
「今日、うちの子が教室でおもらししてすみませでした。
ご迷惑をおかけして、すみませんでした」と。
私には何のことか、さっぱり、わからなかった。
その日もF君は、いつものように笑いながら、帰ったはずである。

が、そのあとすぐまた電話がかかってきた、母親がこう言った。
「よく聞いたら、帰りのバス(=園バス)の中で、もらしたそうです」と。

で、翌日、(バスの先生)にそれを確かめると、その先生も、「知らない」と。
結局F君は、バスをおりてから、家に着くまでに、小便をもらしたらしい。

そういうこともあって、私はそれ以後、F君を注意して観察するようにした。


●2種類の別室

F君のウソの特徴は、シャーシャーとウソをつくということ。
あたかも現実に、それがあったかのようにして話す。
それを聞く私の方は、ときに何が現実で、何が空想か、わからなくなることがあった。
頭の中で別の世界を作ってしまい、その中に住んでしまうといった感じ。

原因はやがて、母親の異常なまでの過干渉にあることがわかった。
F君の母親は、こまかいことまでF君に干渉し、また自分の思い通りにならないと、
F君をしつこく叱ったりした。

……と、ここではF君のことを書くのが目的ではない。
(F君については、すでにたびたび書いてきたので、ここでは省略する。)
つまりこういうケースのばあい、子どもは、心に別室を作り、そこへ(いやなこと)を
押し込むのではなく、そこに住んでいるということになる。

つまり「別室」にも、2種類あるということになる。
(新しい考え、ゲット!)

(1)自分を押し殺すための別室、
(2)その中で自分が住むための別室、である。

で、これら2つの別室には、相対性がある。


●別室の相対性

そこで改めて、今朝のニュースについて考えてみる。

先に書いたニュースAだが、私はふと不愉快になった。
なって、そのまま無視した。
この「無視する」という操作が、「抑圧」ということになる。

いろいろ言いたいこともある。
書きたいこともある。
しかしそういう自分を、心のどこかで押し殺す。

で、そのとき、こうも思った。

「反対にK国の指導者たちは、自分たちの経済運営の失敗を棚にあげ、いまだに
それを日本のせいにしているのだなア」と。
つまりK国の指導者たちは、私がした心理操作と反対のことをしている。
私は、心の別室をつくり、そこへ不愉快なニュースを放り込んだ。
一方、K国の指導者たちは、いまだに心の別室に住み、そこから出られないでいる。
「K国が貧しいのは、もとはと言えば、すべて日本のせいだ」と。

もう少しわかりやすい例では、先のF君のケースがある。

F君の母親は、自分では、よく気がつく、よい母親であると信じていたようである。
F君に対して、もちろん、過干渉をしているという意識はない。
都合の悪いことは、すべて心の別室に放り込んでいた。
つまり心の別室に住み、「よい母親である」と思い込んでいた。

そしてその反射的効果として、F君は、心の別室に住むようになった。


●心の別室は作らない

どちらであるにせよ、また、どうであるにせよ、心の別室を作ることは、
好ましいことではない。
それが「抑圧」であるにせよ、「空想的虚言」であるにせよ、避けられるものなら、
避けた方がよい。
とくに子どもの世界においては、そうである。
心そのものを、ゆがめる。

だから……。

もしあなたの子どもが、先に書いたような、(できのよい子)であったとしたら、
それは仮面(ペルソナ)と考えてよい。
できがよいと思っているのは、ひょっとしたら、あなただけ。
子どもの心の奥で、何が起きているか、静かに観察してみたらよい。

一方、あなたの子どもが、シャーシャーと、空想の世界のことを、あたかも現実の
できごとのように話すようなら、それにも、注意したほうがよい。
ついでに書くなら、このタイプの子どもは、ウソを問い詰めても、こと細かいことまで、
つじつま合わせをする。
が、全体として、「?」。
(詳しくは、「はやし浩司 空想的虚言」で検索。)


●すなおな子ども論

で、最後に、「すなおな子ども」論。

何度も書いてきたように、「すなおな子ども」というときには、2つの意味がある。

(1)表情と心(情意)の状態が、一致していること。
(2)心のゆがみ(つっぱる、いじける、ひがむ、ねたむ、ぐずる、こだわる、すねる)
がないこと。

ただし、私にも、あなたにも、だれにでも、部屋の広さはともかくも、心の別室はある。
「強制連行」という言葉を見ただけで、そういったニュースは、読みたくない。
(本当は、そうであってはいけないのだが……。)
損したとか、失敗したとか、あるいは迷惑をかけた、恥をかいたというような話
にしても、そうだ。

大切なことは、そういう心の別室があるということを、いつも知っておくこと。
それだけでも、あなた自身の見方も、また子どもの見方も変わってくる。

ついでに、「すなおな子ども」というのは、どういう子どもをいうか。
それについてはビデオに収めておいたので、参考にしてほしい。
このビデオの中の子どもたちの言動に注意してほしい。
「子どもは、こうでなくてはいけない」と、私は考えている。


http://www.youtube.com/watch?v=0h9Wf17ou9I


もっと見てくださる人は、


http://bwhayashi.ninja-web.net/


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
心の別室 別室論 心の中の別室論 抑圧 空想的虚言 すなおな子ども論 
すなおな子供 素直な子供)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●映画『スラムドッグ$ミリオネア』

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昨夜仕事が終わってから、映画『スラムドッグ$ミリオネア』を見てきた。
何といっても、賞がすごい!

第33回トロント国際映画祭観客賞、第66回ゴールデングローブ賞作品賞 (ドラマ部門)、
第62回英国アカデミー賞作品賞受賞。第81回アカデミー賞では作品賞を含む8部門を受
賞した(ウィキペディア百科事典より)。

で、私も泣いた。
映画が終わってからも、感動は消えなかった。
星は、もちろん、5つの★★★★★。

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●『スラムドッグ$ミリオネア』の謎

この映画で、最大の山場は、主人公のジャマールが、最後の質問に答えるシーン。
しかしここでたぶん、日本人の私たちには理解できない部分があると思う。

ジャマールは、三銃士の3人目の名前を聞かれ、そのボードを見て、大きな笑顔を見せる。
(なぜ、ジャマールは笑ったか?……謎1)

で、ジャマールは、携帯電話に電話をかける。
それをテレビで見て、恋人のラティカが、携帯電話に出る。
ジャマールの質問に対して、ラティカは、思わせぶりな言い方で、こう言う。
「I don't know. (私は答えを知らない)」と。

が、そう言ったことで、ジャマールは、正解を知る。
(なぜ、ジャマールは、それで正解がわかったか?……謎2)

『三銃士』というには、アレクサンドル・デュマ・ペールの小説。
三銃士というのは、アトス、ポルトス、アラミスの3人である。

なぜラティカが、「(答を)知らない」と言ったのに、ジャマールにはその答が
わかったか。
(正解は、「アラミス」。)
その前に、その問題を聞いて、なぜ、ジャマールは笑ったか。

それについて解説しているBLOGがあるかと思って調べてみたが、ここに気がついた
人は、ほかにいない。

なぜか?
繰り返すが、なぜラティカが、「(答を)知らない」と言ったのに、ジャマールには
正解がわかったか。

映画をすでに見た人も多いかと思うが、あなたにはその理由がわかっただろうか。
(私には、わかったぞ!)

……それを解説する前に、一度、オーストラリアの友人にそれについて確認しておかねば
ならないことがあったので、この話は、ここまで。
つづきは、友人からの返事が届いてからにする。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

【身分意識論】


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定年退職になって、それを悲しんでいる人ばかりではない。
中には、「やっとやめられた!」と喜んでいる人もいる。

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●組織意識


私、個人について言えば、今、こうして好き勝手なことを書き、好き勝手な仕事
ができることを、喜んでいる。
仕事の量も内容も、自分で調整できる。
私に命令できる人は、1人もいない。
毎日が、それなりに楽しい。

そんなわけで、「退職」なんて、とんでもない!
今の私から「仕事」を消したら、私に、何が残る?
こうして仕事ができることそのものが、(喜び)につながっている。
これから先、1年1年が、(もうけもの)。
1年生き延びるたびに、「もうけた!」と思う。
そのために体を鍛える。
頭を鍛える。


が、こうした(考え)は、みなに共通しているわけではない。
中には、「やっと会社をやめられた!」「思う存分、朝寝坊ができる!」と喜んで
いる人もいる。
そういう人の話を聞くと、「そういうものかなあ?」とは思う。
が、そういう人がいるのは、事実。
長い間、サラリーマンをしてきた人の中に、多い。

そこで大切なことは、人、それぞれ、ということ。
私は私。
人は、人。
100人いれば、100通りの生き方がある。
100通りの退職の仕方がある。
100通りの老後の過ごし方がある。

ところで、昨日、私はワイフとこんな会話をした。
このところ毎日、私の教室の様子をビデオに撮り、それをYOU TUBEに
アップロードしている。
自分でも、たいした仕事ではないと思っている。
少なくとも、社会的な地位というか、権威は、ゼロ!
「教育」といっても、「番外」。
まさに「吹けば飛ぶような」仕事。

が、このところ、それが楽しい。
60歳を過ぎても、子どもたちを相手に、好き勝手なことができるところが、楽しい。
昨日も、年長児を相手に、プロレスをした。
私は、何とかマンのコスチュームを着た。
1人の年長児と戦った。
もちろん私は負けて見せた。
「降参!」「降参!」と。

大企業やそれなりの肩書のある人たちが見たら、実にバカげた仕事に見えるかも
しれない。
しかし、だ。
あえて私は言う。
それこそ、偏見!
江戸時代の亡霊!
身分制度の名ごり!

中には、退職し、70歳を過ぎても、現役時代の地位や肩書にしがみついて生きている
人がいる。
が、そういう人は、少しは自分に恥じたらよい。
いや、そう書くのは失礼なことかもしれないが、そんな過去を引きずったところで、
得るものは何もない。
そればかりか、退職後、社会に同化できなくなってしまう。
社会から、浮いてしまう。
みなから、相手にされなくなってしまう。
自分では「私は偉い」と思っているかもしれないが、そんなプライドは、使い済みの
トイレット・ペーパーのようなもの。
見るのも、イヤ。
聞くのも、イヤ。

退職と同時に、それまでの地位や肩書は、捨てる。
学歴も捨てる。
自分を、ただの老人と思う。
すべては、そこから始まる。
大切なことは、「今、何が残っているか」ということ。
「今、何ができるか」でもよい。
「今、何をしているか」でもよい。

……というのは、言い過ぎ(?)
それはわかっているが、それくらいのことを言わないと、このタイプの人は、
それに気づかない。
一方、私は、プライドを捨てた。
だからありのままを書く。
ありのままをさらけ出す。
それがYOU TUBEということになる。

「私のことをバカと思いたければ、思えばいい」と。

それをワイフに言うと、「そうよねエ」と。
あのワイフが、意外とあっさりと、同意してくれた。

私「あの林(=私)は、こんなバカなことをしていると思う人もいるよ」
ワ「そうかもしれないわね」
私「それが、自分でもよくわかる」
ワ「でも、気にすることないわよ。思わせておけばいいのよ」
私「ああ、気にしていない。どうせ、付きあわないし……」と。

そこで私の定年退職。
ワイフとあれこれ話したあと、こういう結論になった。

私「ぼくは、職場で、バタンと倒れたときが、退職のときと思う」
ワ「あなたは、そういうタイプね」
私「だから、ぼくが倒れても、延命処置はするな。そのままぼくは死ぬ」
ワ「……」
私「今はまだだいじょうぶだが、70歳を過ぎたら、あぶない」と。

しかし……。
この日本は、ありとあらゆるものが、(組織)で成り立っている。
その組織にいる人たちが、(権威)を利用して、たがいに自分の地位や立場を守り
あっている。
言うなれば、「組織意識」。
組織の中にいる人には、それがわからないかもしれない。
それが(当り前の世界)と思っている。
そういう人に、「組織意識を捨てなさい」といっても、無理かもしれない。
そういう世界しか知らない。

……そう考えると、「やっとやめられた!」と、定年退職する人のほうが、正解かも
しれない。
しょせん、組織意識などというのは、その程度のもの。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司※

●自分を見る


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遠い昔、日本を2分する女性週刊誌に、「女性S」というのがあった。
(今でも、あるかな?)
IKという人が、その週刊誌の編集長をしていた。
そのIK氏の仕事を手伝っているとき、IK氏がこう言った。
その少し前、「バカママ狂騒曲」(仮題)という題のコミックが始まった。
いわゆる常識はずれの母親を、酷評した連載だった。
それに驚いて、私が、「そんな読者を見くだしたような記事を書いたら、
雑誌が売れなくなるのではないですか」と聞いたときのこと。
IK氏は、あのダミ声で、「いいや、だいじょうぶ。女性というのはね、
どんな記事を読んでも、ぜったい、自分のこととは思わないから」と。


女性蔑視!と、どうか怒らないでほしい。
もう30年近くも昔の話である。
まだ女性の地位そのものが、確立されていなかった。
あやふやな状態だった。
また女性蔑視の意見にも聞こえるが、しかしこうした現象は、何も、
女性だけにかぎらない。
「男性も含めて、どんな読者も、ぜったい、自分のこととは思わないから」
というのが正しい。
つまりそれくらい、自分のこと知ることは、むずかしい


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●自己中心性vs客観性の喪失


自己中心性が肥大化すればするほど、同時に、自分の姿が客観的に見えなくなる。
自己中心性と客観性の喪失は、同時進行の形で進む。
言い換えると、その人が自分の姿を客観的に見えるかどうかで、その人の
自己中心性を知ることができる。
自分の姿を客観的に見ることができれば、それでよし。
しかしそうでなければ、あぶない!


ずいぶんと理屈ぽい書き方をしたが、自分を客観的に見ることは、むずかしい。
最近でも、私はこんな経験をした。


●ビデオ撮影


このところビデオ撮影にこっている。
私には周期的、かつ定期的に、趣味を変える。
今は、ビデオ撮影。
これがおもしろい。
毎日何かの動画を撮っては、YOU TUBEにアップロードしている。
そんなある日、庭掃除をしている自分の姿を撮ってみた。


が、その映像を見て、ガックリ!
ショック!
何と、この私が、ジー様歩きをしていた。
ひざをあまりあげず、前かがみに、足を引きずって歩いていた!
ジー様特有の歩き方である!


私は若いときから、そういう歩き方を見るたびに、「どうして
老人は、ああいう歩き方をするのだろう」と思っていた。
が、私がそういう歩き方をするとは!
私は私なりに、結構、運動をしているつもりである。
若い人と同じと思っていた。
が、そうではなかった。
ビデオを見て、それがわかった。


そこでいくつか理由を考えてみた。
第一に、運動はしているものの、ほとんどは座っての仕事。
第二に、体重は適正体重ギリギリの66キロ。
私の年齢では、適正体重x0・8くらいがちょうどよい。
それで計算すると、6キロ以上もオーバーしていることになる。


●自分を知る


同じように、自分が子どもたちを指導している姿を、ビデオに収めてみた。
が、それを見て、ガックリ、ショック!
いろいろあるが、ともかくも、ガックリ、ショック!
(もちろん、よい面も発見したが……。)


そこで改めて、(自分を知る)を、このところ生き様のテーマにしている。
それには、こんなことがあった。


●礼儀


ときどき都会から、この地方へ客が来る。
そんな話を、数日前、郷里の従兄(いとこ)とする。
そのとき、従兄がこう教えてくれた。

その従兄のところにも、都会からよく客が来るそうだ。
仕事関係の人であったり、知人であったりする。
そういう人たちを見ていると、その従兄は、都会人独特の(おごり)のようなものを
感ずるという。
たとえばそういう人たちは、常識的な礼儀に欠けている、と。

客で行くなら、手土産(てみやげ)は常識。
食事など世話になったら、礼の電話や手紙は常識。
……私もそう思っているが、手土産をもってくる人は、まず、いない、と。

会話をしていても、随所に、田舎という地方を、「下」に見る。
地方の文化そのものを認めていない。
どこかに、「来てやった」「ありがたく思え」というような雰囲気さえ感じるという。
都会で、それなりの地位や立場にいる人ほど、そうである。
「大学の後輩が、ここの支店で、支店長をしていますよ」とか何とか言う。
こういうのを「メジャー意識」という。
メジャー意識が強くなると、マイナー・リーグにいる人を、「下」に見る。

また都会へ帰ってからも、何の音沙汰もない。
礼の電話もない。
「どうしたのかな?」と思っているうちに、それで終わってしまう、と。

だから従兄は、ここ10年ほどは、都会から来たからといって、歓待しないとも
言った。


もっとも、だからといってそういう人たちを責めているのではない。
これは個人的な現象というよりは、都会人と言われる人たちが、共通してもって
いる現象である。
この私も、反対に、さらに田舎のほうへ行くと、似たような行動をするときがある。
都会に向かうときは、それなりの緊張感を覚えるが、反対に田舎へ向かうときは、
それがない。
どこか、気楽?
どこか、いいかげん?


あとは油断の問題ということになる。
油断すれば、相手を不愉快にする。
礼儀を忘れる。
そこで私はこう心に決めている。
「田舎のほうへ向かうときは、礼儀を忘れない」と。
もっと言えば、『他人のふりみて、我が身を直せ』ということか。


●客観的に見る


自己中心性の肥大化をいかにして、防ぐか。
それが人格の完成度に深く関係しているとするなら、常に自分を客観的に見る。
その努力を怠ってはいけない。


その訓練法のひとつとして、私が考えたのに、こんなのがある。
以前にも書いたが、相手の脳みその中に、自分を置いてみる。
電車などで、対峙して座った人でもよい。
そういう人を選んで、その人の脳みその中に一度、自分を置いてみる。
そこから自分を見つめてみる。
「あの人から見ると、私はどんな人間に見えるか」と。


私のばあい、職業がら、子どもの脳みその中に自分を置くことが多い。
が、それだけではない。
ときどき、「この子たちがおとなになったら、私という人間は、どのように
彼らの心の中に残っているか」と考えるときがある。
それには、私の過去が役に立つ。


私にも子ども時代があった。
いろいろな先生に、めぐり合った。
よい印象をもった先生もいるが、悪い印象をもった先生もいる。
そういう自分を思い出しながら、「悪い印象だけは、子どもたちに与えたくない」
と。


それはそれとして、いつもそれを繰りかえす。
そうすると、自分の姿が、客観的に見えてくるようになる。
ちょうどビデオカメラか何かで、自分を撮影するように。


●私は(私)を知らない


さらにつづきがある。
この方法で自分を訓練していくと、逆に相手の心の中をのぞくことができるようになる。
「この人は、自己中心的だな」とか、「この人は、こちらの心の中を理解しているな」とか。
その結果、ときとして、ぞっとするほど自己中心的な人に出会うときがある。
そういうときは、そういう人とは、すぐ別れる。
それっきり。


……ということで、改めて自分を知ることの大切さというか、むずかしさを
思い知らされている。
だれしも、(私もそうだったが)、「私のことは私がいちばんよく知っている」と
思っている。
しかしその実、何もわかっていない。
「わかっている」と思い込んでいるだけ。
最後にこんなこともあった。


●AD・HD児だった、G君


G君は、小学校の低学年時まで、どうしようもないような(失礼!)、AD・HD児だった。
(当時はまだAD・HD児という言葉もなかった。)
学校でも、私の教室でも、騒ぎまくった。
そのためG君のために、クラスそのものが崩壊してしまったことが、何度かある。


「崩壊」というのは、つぎつぎとほかの生徒がやめていくことをいう。
経営が成り立たなくなってしまったことをいう。
学校社会でいう、「学級崩壊」とは、少し意味がちがう。
もちろん指導など、不可能。


しかしAD・HD児でも、小学3〜4年生を境に、急速に落ち着いてくる。
自己管理能力が育ってくるためである。
で、そのG君は、もちまえのバイタリティがよいほうに作用して、県下でも
トップクラスの高校に入学した。
そのときのこと。
私はG君に、こう質問してみた。


「君は、幼稚園児や小学1、2年生のとき、クラスでみんなに迷惑をかけたが、
覚えているか」と。
が、それに答えて、G君はこう言った。


「ぼくは何も悪いことをしていないのに、先生も友だちも、みな、ぼくを目の敵
(かたき)にして、いじめた」と。


私はその話を聞いて、何度も念を押した。
「君は、みなに迷惑をかけたという意識が、本当にないのか?」と。
G君は、それに対して、同じ答をそのつど繰り返した。


そのとき私はこう思った。
「自分を知ることは、むずかしい」と。
恐らくG君は、おとなになっても、それに気づくことはないだろう。
教育の世界に入っても、それに気づくことはないだろう。


自分を知ることのむずかしさの一例として、G君をあげた。


Hiroshi Hayashi++++++++APRIL・09++++++++++++はやし浩司

●逆進的歴史観


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宇宙に広がったゴミを観測すると、その様子から、太古の昔の
様子が、わかるそうだ。
たとえば現在の今も、この宇宙は拡大しつづけている。
それを逆回しに過去へ過去へと戻っていくと、太古の昔、この
宇宙は、「ビッグバン」と呼ばれる、爆発で生まれたことが
わかる。
(用語の使い方が、適切でないかもしれないが、そこは許して
ほしい。)


で、同じように、この「社会」も逆回転させることができる。
たとえば現在の今をていねいに観察、分析すると、江戸時代という、
あの封建時代が、どんな時代だったかがわかる。
そのひとつ。
身分による差別意識。


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●退職者のあがき


私の年代の人たちは、今、つぎつぎと退職している。
民間企業に勤めていた人たちの中には、2度目、3度目の退職を繰り返し、
「今度こそ、本当の退職」という人もいる。


私もその中の1人だが、こうして退職していく人たちには、一定のタイプが
あるのがわかる。

(1)悠々自適タイプ
(2)趣味三昧タイプ
(3)勤労タイプ
(4)ボランティア活動タイプ
(5)引きこもりタイプ
(6)真・善・美の追求タイプなど。

それについては前にも書いたので、ここでは省略する。
で、ここではその先について書いてみたい。


●内面世界で分類すると


先のタイプは、いわば外面を分類したタイプだが、内面で分類すると、
つぎのようになる。

(1)過去、決別タイプ
(2)過去、引きずりタイプ

「過去、決別タイプ」というのは、退職と同時に、まったくの別人となって、
新しい人生を歩む人をいう。
「過去、引きずりタイプ」というのは、過去の学歴や職歴、肩書きや名誉に
しがみついて生きる人をいう。


もちろん程度の問題もある。
それほど過去にこだわらない人もいれば、かなり過去にこだわる人もいる。
その一方で、学歴や、職場での肩書きに、異常なまでにこだわる人もいる。
「私は○○会社の、元部長だった」とか、など。


●悪玉プライド


プライドにも2種類ある。
善玉プライドと悪玉プライドである。
「私は自分の過去を汚したくない」「経歴を汚したくない」と思うのは、善玉プライド。
「私は偉い」「だから周りの者たちは、みな、私より下」と思うのは、悪玉プライド。


問題は、この中の悪玉プライド。
どうしてそういうプライドを、日本人はもちやすいかということ。
つまり職種による上下意識。
それに中央集権意識が加わると、その人自身が社会に同化できなくなって
しまう。
具体的には、退職後、だれにも相手にされなくなってしまう。


●差別意識


ではなぜ、こうした職業による差別意識が、この日本で生まれたかということ。
一方、外国には、こうした差別意識は、ほとんどない。
(軍事国家のばあい、軍人の地位が高いということはある。)
反対に、日本では高くても、外国では低いということもある。
(もちろん、そのまた反対もあるが……。)


私が学生時代、オーストラリアへ行って驚いたのは、銀行員の地位が
恐ろしく低かったこと。
「銀行員は、高卒の仕事」ということになっていた(当時)。
また日本では外交官というと、あこがれの職業だった。
が、向こうではちがった。
(あの国は、もともと移民国家だから、「外国へ出る」という意識が、日本人のそれとは、
180度、違っていた。)
一方、ユンボやブルドーザを動かすのは、大卒の仕事ということになっていた。


今でこそ、こうしたバカげた職業観は色あせてきたが、まったくなくなった
とも言えない。
その亡霊のようなものが、退職者の中に、見え隠れする。


●原因は、こだわり


もっともそれぞれの人が、過去のある部分に、強いこだわりをもつのは、
悪いことではない。
たいていは、最終学歴だが、古い世代になると、生まれ故郷や、先祖の血筋など。
生きる誇りも、そこから生まれる。
私のばあいは、高校でも、大学でもない。
留学時代の(私)に、とくに強いこだわりを覚える。


が、そのこだわりが、相手を見くだす道具となったとき、ここでいう悪玉プライド
となる。


この悪玉プライドは、長い時間をかけて、その人を孤独にする。
気がついてみたら、周りに人は、だれもいないという状態になる。
ただ見かけの様子に、だまされてはいけない。
見た感じ、腰の低い人でも、悪玉プライドのかたまりといった人も少なくない。
計算づくで、そう演技しているだけ。
あるいはそういう演技が身についてしまっているだけ。
S氏(70歳)もそうだった。


退職前は、国の出先機関の副長をしていた。
実際の肩書きは、「副局長」だったと記憶している。
そしてS氏にペコペコする人に対しては、必要以上に寛大な様子をしてみせ、
そうでない人には、必要以上に威張ってみせた。
その落差が、極端だった。
そのS氏について、こんなことがあった。
友人のX氏が話してくれた。


たまたまS氏の車と、X氏の車が、細い路地で、正面で向き合ってしまったという。
そのときのこと。
状況から考えて、S氏の車がバックして、道をあけなければならなかった。
が、S氏はそのままの状態で、まったく車を動かそうとしなかったという。
デンというか、ハンドルを握ったまま、車の中でふんぞり返っていた。
X氏はこう言った。
「過去は過去でも、人間って、ああまで威張れるものでしょうかねエ」と。


●過去との決別


退職したら、過去とは決別する。
とくに悪玉プライドは、捨てる。
そんなものを引きずっていたら、それこそ社会のつまはじき。
その先で待っているのは、孤独という無間地獄。


で、ここで本題。


こうした悪玉プライドというのは、若い人たちの世界からは、消えつつある。
権威主義が崩壊し、つづいて職業観も変化した。
中央集権意識も消えつつある。
もちろん上下意識も消えつつある。
で、逆にこうした変化を、過去へさかのぼっていくと、その先に封建時代が
見えてくる。
宇宙のゴミの動きを逆回しにしていくと、太古の昔、ビッグバンがあったことが
わかるように、だ。


恐らくあの時代は、息苦しい時代であったにちがいない。
身分により、着る着物の色まで指定された。
職業による差別感も、当然、あった。
それが今より、何十倍も、何百倍も、強かった。
もちろん武士階級が頂点にあったが、その武士階級の中でも、きびしい上下
関係があった。
制度としてではなく、「意識」として、それがあった。
それが家制度を支えた。


●たった40年前


ここまで書いて思い出したが、こんなドラマが昔、あった。
舟木和夫(歌手)主演の映画にもなったが、京都大学へ入った学生と、
身分の低い(?)女性との恋愛映画だった。
女性の名前は、たしか「小雪」と言った。
恋愛というより、悲恋物語。
たしか最後は、その女性は身分を考え、まわりの人たちが反対する中、病気で死んで
しまったと記憶している。
(調べてまで書くような話ではないので、いいかげんなままで、ごめん。)


40年前後前には、(たった40年前だぞ!)こうした悲恋映画は、
抵抗なく観客に受け入れられた。
今なら、若い人たちは、映画の背景そのものを理解できないだろう。
「身分」と言っただけで、拒絶反応を示すにちがいない。
が、私たちの世代は、そうでない。
身分意識が、いまだに残っている!


●上下意識


一度身にしみついた上下意識というのは、簡単には消えない。
ある男性(当時、50歳くらい)だが、そのときどこからか電話がかかってきた。
受話器を取りながら、まるで米つきバッタのようにペコペコしていた。
が、電話が終わるや否や、私のほうに向いてこう言った。


「ところでねえ、林君……」と。


私を見くだした言い方だったが、私は、その変わり身のほうに驚いた。
その男性は、瞬時に(上下)を判断し、その意識に応じて、話し方まで変えていた。


上下意識の強い人は、独特の雰囲気をもっている。
その上の人にはわかりにくいかもしれないが、下の人には、それがよくわかる。
「自分は重要な人物(VIP)だ」「大切にされて当然」というような態度をとる。
こんなことがあった。


ある日突然、その人から電話がかかってきた。
当時、年齢は60歳くらいだった。
いわく、「浜松へ来たから、ちょっと君の家に寄りたい」と。
場所を聞くと、JRの浜松駅にいるということだった。
それほど親しい人ではなかった。
私が戸惑っていると、こう言った。
「それでね、林君、ぼくには、足がないのだよ……」と。
つまり駅まで車で、迎えに来てほしい、と。


そのとき私は50歳。
その人は、年齢だけで、私を下に見ていた。
それが私にも、ありありと(?)、よくわかった。


●封建時代の負の遺産


世の中には、その負の遺産に目をくれることもなく、あの時代の封建制度を
美化する人がいる。
「武士道こそ、日本が誇る精神的バックボーン」と説く人もいる。
さらには、「恥の文化を子どもに教えれば、学校からいじめはなくなる」と。
一理ある。
いじめを「恥」と位置づければ、たしかにそうなる。
しかし恥を教えたからといって、いじめなど、なくならない。
だいたい、どうやってそれを子どもたちに教えるのか。


今に残る亡霊を寄せ集めていくと、武士道など、日本が誇るべきバックボーン
でも何でもない。
ただの官僚道。
あるいは軍人訓。
私が子どものころには、その武士道なるものが、まだ生き残っていた。
中学校の授業でも、竹刀(しない)をもち歩いていた教師すらいた。
宿題を忘れたりすると、その竹刀で、容赦なく、頭をバシバシと叩かれた。
そんなバカげた教育がどこにある?


それが武士道の亡霊とは言わないが、そうでないとは、もっと言えない。
日本の軍国主義なるものを陰で支えたのも、やはり武士道である。


●福沢諭吉

仕事に上下はない。
よいも悪いもない。
(もちろん犯罪的な職業は別だが……。)
それによって人間の上下が決まるということは、ぜったいにない。
またあってはならない。

ここまで書いて、福沢諭吉を思い出した。

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以前書いた原稿を、そのまま転載します。

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●血統空想

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「私だけは特別でありたい」という
思いは、だれにでもある。そのひとつ
が、「血統」。

「私の血統は、特別だ」「だから私は
特別な人間」と。

あのジークムント・フロイトは、
そうした心理を、「血統空想」という
言葉を使って説明した。

年齢で言えば、満10歳前後から
始まると考えられている。

しかしそう思うのは、その人の勝手。
それはそれでかまわない。しかし、その
返す刀で、「私以外は、みな、劣って
いる」と考えるのは、まちがっている。
自己中心性の表れそのものとみる。

EQ論(人格完成論)によれば、
自己中心性の強い人は、それだけ
人格の完成度の遅れている人と
いうことになる。

わかりやすい例でいえば、今でも
家系にこだわる人は多い。ことあるご
とに、「私の先祖は、○○藩の家老だ
った」とか何とか言う。

悪しき封建時代の亡霊とも考えられる。
江戸時代には、「家」が身分であり、
「家」を離れて、個人として生きていく
こと自体、不可能に近かった。

日本人がいまだに、「家」にこだわる
理由は、ここにある。

それはわかるが、それからすでに、
約150年。もうそろそろ日本人も、
そうした亡霊とは縁を切るべきときに
来ているのではないのか。

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 かつて福沢諭吉は、こう言った。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(「学問
のすすめ」)と。

その「天は人の上に……」という名言が、生まれた背景として、国際留学協会(IFSA)は、つぎ
のような事実を指摘している。そのまま抜粋させてもらう。

 『……さらに諭吉を驚かせたことは、家柄の問題であった。

諭吉はある時、アメリカ人に「ワシントンの子孫は今どうしているか」と質問した。それに対する
アメリカ人の反応は、実に冷淡なもので、なぜそんな質問をするのかという態度であった。誰も
ワシントンの子孫の行方などに関心を持っていなかったからである。

ワシントンといえば、アメリカ初の大統領である。日本で言えば、鎌倉幕府を開いた源頼朝や、
徳川幕府を開いた徳川家康に匹敵する存在に思えたのである。その子孫に誰も関心を持って
いないアメリカの社会制度に、諭吉は驚きを隠せなかった。

高貴な家柄に生まれたということが、そのまま高い地位を保障することにはならないのだ。諭
吉は新鮮な感動を覚え、興奮した。この体験が、後に「天は人の上に人を造らず、人の下に人
を造らずと言えり」という、『学問のすすめ』の冒頭のかの有名な言葉を生み出すことになる』
と。

 意識のちがいというのは、恐ろしい。恐ろしいことは、この一文を読んだだけでもわかる。い
わんや明治の昔。福沢諭吉がそのとき受けた衝撃は、相当なものであったと考えられる。そこ
で福沢諭吉らは、明六社に合流し、悪しき亡霊と闘い始める。

 明六社……明治時代に、森有礼(もり・ありのり)という人がいた。1847〜1889年の人で
ある。教育家でもあり、のちに文部大臣としても、活躍した人でもある。

 その森有礼は、西洋的な自由主義者としても知られ、伊藤博文に、「日本産西洋人」と評され
たこともあるという(PHP「哲学」)。それはともかくも、その森有礼が結成したのが、「明六社」。
その明六社には、当時の若い学者たちが、たくさん集まった。

 そうした学者たちの中で、とくに活躍したのが、あの福沢諭吉である。

 明六社の若い学者たちは、「封建的な身分制度と、それを理論的に支えた儒教思想を否定
し、不合理な権威、因習などから人々を解放しよう」(同書)と、啓蒙運動を始めた。こうした運
動が、日本の民主化の基礎となったことは、言うまでもない。

 で、もう一度、明六社の、啓蒙運動の中身を見てみよう。明六社は、

(1)封建的な身分制度の否定
(2)その身分制度を理論的に支えた儒教思想の否定
(3)不合理な権威、因習などからの人々の解放、を訴えた。 

 しかしそれからちょうど100年。私の生まれた年は、1947年。森有礼が生まれた年から、ち
ょうど、100年目にあたる。(こんなことは、どうでもよいが……。)その100年の間に、この日
本は、本当に変わったのかという問題が残る。反対に、江戸時代の封建制度を、美化する人
たちまで現われた。中には、「武士道こそ、日本が誇るべき、精神的基盤」と唱える学者までい
る。

 こうした人たちは、自分たちの祖先が、その武士たちに虐(しいた)げられた農民であったこ
とを忘れ、武士の立場で、武士道を礼さんするから、おかしい。悲しい。そして笑える。

 武士たちが、刀を振りまわし、為政者として君臨した時代が、どういう時代であったか。そん
なことは、ほんの少しだけ、想像力を働かせば、だれにも、わかるはず。そういったことを、反
省することもなく、一方的に、武士道を礼さんするのも、どうかと思う。少なくとも、あの江戸時
代という時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時代であった
ことを忘れてはならない。

 その封建時代の(負の遺産)を、福沢諭吉たちは、清算しようとした。それがその明六社の啓
蒙運動の中に、集約されている。

 で、現実には、武士道はともかくも、いまだにこの日本に、封建時代の負の遺産を、ひきずっ
ている人は多い。その亡霊は、私の生活の中のあちこちに、残っている。巣をつくって、潜んで
いる。たとえば、いまだに家父長制度、家制度、長子相続制度、身分意識にこだわっている人
となると、ゴマンといる。

 はたから見れば、実におかしな制度であり、意識なのだが、本人たちには、わからない。そ
れが精神的バックボーンになっていることすら、ある。

 しかしなぜ、こうした制度なり意識が、いまだに残っているのか?

 理由は簡単である。

 そのつど、世代から世代へと、制度や意識を受け渡す人たちが、それなりに、努力をしなか
ったからである。何も考えることなく、過去の世代の遺物を、そのままつぎの世代へと、手渡し
てしまった。つまりは、こうした意識は、あくまでも個人的なもの。その個人が変わらないかぎ
り、こうした制度なり意識は、そのままつぎの世代へと、受け渡されてしまう。

 いくら一部の人たちが、声だかに、啓蒙運動をしても、それに耳を傾けなければ、その個人
にとっては、意味がない。加えて、過去を踏襲するということは、そもそも考える習慣のない人
には、居心地のよい世界でもある。そういう安易な生きザマが、こうした亡霊を、生き残らせて
しまった。

 100年たった今、私たちは、一庶民でありながら、森有礼らの啓蒙運動をこうして、間近で知
ることができる。まさに情報革命のおかげである。であるなら、なおさら、ここで、こうした封建
時代の負の遺産の清算を進めなければならない。

 日本全体の問題として、というよりは、私たち個人個人の問題として、である。

 ……と話が脱線してしまったが、これだけは覚えておくとよい。

 世界広しといえども、「先祖」にこだわる民族は、そうは、いない。少なくとも、欧米先進国に
は、いない。いわんや「家」だの、「血統」だのと言っている民族は、そうは、いない。そういうも
のにこだわるということ自体、ジークムント・フロイトの理論を借りるまでもなく、幼児性の表れと
考えてよい。つまりそれだけ、民族として、人格の完成度が低いということになる。

(付記)

 この問題は、結局は、私たちは、何に依存しながら、それを心のより所として生きていくかと
いう問題に行き着く。

 名誉、財産、地位、学歴、経歴などなど。血統や家柄も、それに含まれる。しかし釈迦の言葉
を借りるまでもなく、心のより所とすべきは、「己(おのれ)」。「己」をおいて、ほかにない。釈迦
はこう説いている。

『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』(法句経)と。「自由」という言葉も、もともと
は、「自らに由る」という意味である。

 あなたも一言でいいから、自分の子どもたちに、こう言ってみたらよい。「先祖? そんなくだ
らないこと考えないで、あなたはあなたはで生きなさい」と。

 その一言が、これからの日本を変えていく。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
血統空想 封建時代 武士道 はやし浩司 福沢諭吉 はやし浩司 ワシントン はやし
浩司 明六社 森有礼 身分制度)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●K国の実力

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少し前、K国の国家予算について書いた。
現在、K国は、世界の中でも最貧国。
09年度の国家予算が公表されたが、ドルに
換算して、たったの37億ドル。
(K国政府の発表する公式レートによる。)
たったの37億ドルだぞ!
日本円で、3700億円弱!

しかしこの37億ドルにしても、K国側が主張する、
公式レートによるもの。
公式レートは、1ドル=141ウォン(07年、アメリカ
Foreign Policy)ということになっている。
しかし、だ!

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今日、韓国の東亜日報の記事を読んでいたら、こんな記事が
目に留まった。
これはK国でのマンションに建設についての記事だが、
こうあった。

『……同マンションは人気が高く、分譲価格は4万ドルだったが、上乗せして4万500
0ドルで購入した人もいたという。K国で富裕層は、主にドルで取り引きする。1ドル
がK国ウォンで約3700ウォンなので大きな取引の場合かさばらないうえ、K国ウ
ォンは、毎日価値が下がるためだ』(韓国:東亜日報・09年4月23日)

この中で注目してほしいのは、「3700ウォン」という数字。
中朝国境付近での、K国ウォンの、実勢交換レートは、「1ドル=3700ウォン」
という。

つまり公式レートの26分の1!

つまり先に書いた、「国家予算、37億ドル」というのは、実は、100分の1程度
に計算しなおして、読まなければならない。
そのまま26分の1にすれば、日本円で、たったの142億円!
142億円だぞ!
「よくそれで国が成り立つ」と、驚くよりほかにない。

ちなみに、島根県の標準財政規模は、2546億円(平成18年度)。
鳥取県の標準財政規模は、1882億円(平成18年度)。
K国の国家予算は、鳥取県の財政規模の、13分の1!

わかるかな?

私が何度も、「あんな国を本気で相手にしてはいけない」と書いてきた意味が!
「日本は、あんな国と心中してはいけない」
「日本は、あんな国と心中するつもりなのか」
「テポドンなど迎撃してはいけない」。

中に、「日本という国としてのプライドはどうなる?」と書いてきた人もいる。
しかし、だ。
もしそうなら、これらの数字を、もう一度、よく並べて見てほしい。

日本があんな国を相手にして、どうする?
どうなる?

恐ろしい武器はもっているが、ただのマムシ。
本気で相手にしてはいけない!


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●心の緊張感(Tension of the Mind)

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ここ数日間、どうも心の緊張感が抜けない。
自分でもそれがよくわかる。

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●情緒不安

気が抜けないというか、心の余裕がないというか、いつもピンと心が張り詰めている。
そんな印象を与える人がいる。

何かを話しかけると、即座に、あれこれと自分の意見を、それに付け加えたりする。
こまかいことにこだわる。
完璧主義で、まちがいを認めない。
まちがいを許さない。
ときにそれがピリピリすることもある。

こちらはそれでよいとしても、私はそういう人を見かけると、「たいへんだなア」と思う。
心の緊張感が取れないということは、それだけその人の情緒が、不安定であることを示す。

よく誤解されるが、「情緒不安」というのは、あくまでも結果。
心が緊張状態にあるとき、そこに何らかの心配や不安が入り込むと、それを解消しようと、
心は、一気に不安定になる。
その不安定になった状態を、「情緒不安」という。

だからこのタイプの人は、一方で、何らかの情緒不安症状を示す。
私の年齢になると、そのままそれがうつ病につながることもあるという。

が、それはそれとして、このところ、別の意味で、「たいへんだなア」と思う。
つまり、その周辺の人に同情して、「たいへんだなア」と。

たとえばその人の妻が、そうであるとすると、「ダンナさんが、たいへんだなア」と。

●Kさん(架空の女性)のばあい

Kさんと話していて、いつも気になることが、ひとつある。
それは、心に余裕がないということ。
ふつうなら、ハハハと笑ってすますような話でも、Kさんは、そうではない。
こまかいことにこだわり、自分の意見とちがったりすると、あれこれと反論したりする。

たとえば、おいしいラーメン屋の話をしていても、
「あの店の店主は、Xさんという名前で、Yさんではない」
「休みは、毎週水曜日ではなく、第一と第三水曜日だけ」
「本当においしいのは、本店のほう」
「店主がYさんになって、味が落ちた」とかなど。

こまごまと、自分の知っていることを話す。
あまりにもこまかいので、ときにそれを聞いている私の方が、気が変になることもある。
「いや、味は落ちていないと思う」などと言おうものなら、さあたいへん!
それこそ火がついたように、それに反発する。

●うつ病

心の緊張感が取れないというのは、けっして、好ましいことではない。
体の筋肉でいえば、力を入れて硬直した状態ということになる。
その分だけ、精神疲労を起こしやすい。
ものごとに、こだわりやすい。
が、ただの「疲労」ですまないところが、心の緊張感のこわいところ。
へたをすれば、そのまま心の病気、つまりうつ病に……!、ということに。
実際、ここに書いたKさんは、心療内科へ通い、うつ病の薬を処方してもらっている。

本人はそれでよいとしても、周囲の人こそ、えらい迷惑(ごめん!)。
このところKさんというよりは、Kさんのダンナのほうに、同情する。
「ああいう奥さんだと、ダンナもたいへんだろうな」と。

子どもでも、そういう子どもがいる。
先日、バスの中で、こんな経験をした。

●私をにらんだ、女子中学生

そのときバスの最後尾の席があいた。
私とワイフは、その席に座った。
私が中央、ワイフが、私の右側に座った。
一列になった席で、5人が並んで座れる席だった。
が、ふと見ると、私の左側に、1人の女子中学生が座っているのがわかった。
小柄だが、かなり太った中学生でだった。

私は職業柄、子どもの心を読み取るのが早い。
その中学生が、私のほうをチラチラとにらんでいるのがわかった。
その視線を見た瞬間、私はわかった。
状況からして、「そんなところに座ったら、私が出られない」という雰囲気だった。
しかし私は、その中学生をそのまま無視した。

バスが4つ目、5つ目のバス停を通り過ぎたあたりで、それは確信に変わった。
その中学生は、明らかに私に怒っていた。
と、そのとき、「停車ボタン」を押した。
私は体をワイフのほうに寄せ、足を、ぐいと右側に押し込めた。
が、その中学生は、何を思ったか、リュック式のカバンを脱ぐと、わざとらしく
空いている前の席にドサッと置いた。

「通れない!」「どけ!」という合図(?)だった。
ピンと張り詰めた雰囲気になったが、通れなくはない。
私はそう判断した。
だから足を手前に、さらにぐいと引いた。
中学生は、鋭い視線で私をにらみながら、その隙間を通り抜けた。
恐ろしい目つきだった。
その瞬間、右側にいたワイフも、それを感じたらしい。
「どうしたの?」と。

窓の外を見ると、その女子中学生が、うしろのほうへ歩いていくところだった。
鋭い視線で、1、2度、私をにらんだのが、わかった。
細い目の中で、三角形のひとみが、ジロッと動いた。

私「あの中学生、かなり怒っていたみたい……」
ワ「自分が太っていることを、必要以上に気にしているみたいね」
私「ぼくも、そう思う」
ワ「通れなかったら、『すみません、通してください』と一言、言えばいいのよ」
私「あのタイプの子どもには、それができない」と。

●では、どうするか?

心の緊張感を取るためには、酒がよいと説く人は多い。
しかし残念ながら、私は、酒を飲めない。
タバコがよいと説く人もいる。
しかしそれはバカげている。

では、どうするか?

私はハーブ系の精神安定剤をそのつど、服用している。
市販のもので、気休め程度の効果しかないと思うが、その「気休め」が大切。
「のんだ」と思うだけで、気が楽になる。
ひどいときには、「セパxx」という、女性用の安定剤だそうだが、それを服用する。
しかし通常2錠のむのだそうだが、私は1錠を半分に割って、舌の先で溶かしてのむ。
ゆっくりと時間をかけて溶かしてのむ。
しかしそれも1、2週間に1度程度。
私は、そう決めている。

あとは入浴や運動がよい。
で、心が緊張するのは仕方のないこと。
そのつどテンション(緊張)と、リリース(弛緩)を繰り返しながら、みな生きている。
大切なことは、

(1)心の緊張感がどういうものであるかを、まず自分で知ること。
(2)その心をコントロールしながら、心とうまくつきあうこと。

この操作を誤ると、先にも書いたが、そのまま、うつ病に……!、ということに。
とくに私の年代では、あぶないそうだ。
ゾーッ!

……と書きながら、実は、この数日、心の緊張感が取れなくて困っている。
いろいろあった。
疲れた。
おまけにハーブ系の市販薬も切らしてしまった。
セパxxも、切らしてしまった。
ではどうするか?

私には、もうひとつ、奥の手がある!
それがこうしてものを書くということ。
好きなパソコンに向って、指先でパチパチとキーボードを叩く。
それがストレス解消につながる。
文章を書いているときは、それなりに緊張するが、叩き終わったとき、
ホ〜〜ッと息を抜く。
とたん、緊張感が消える。
今が、そのとき。

ホ〜〜ッ!

(しかし今、あまり緊張感が抜けたとは思えない。
今日は土曜日だが、あとで医院まで行って、セパxxをもらってこよう。
みなさん、おはようございます。)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司※

●豚インフルエンザ(So-called in Japan, "Pig Flue" or "Swine Flue")

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「鳥インフルエンザはどうなったか?」と
思っていたら、とんでもない伏兵が現れた。
豚インフルエンザである。

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●パンデミックス(世界的大流行)

「とっくの昔に大流行していても、おかしくない」と思われているのが、
鳥インフルエンザ。
しかしいまだに大流行(=パンデミックス)していない。
ということは、逆説的に考えると、鳥インフルエンザは、今のところ、
心配ないということになる。

が、ここでとんでもない伏兵が現れた。
豚インフルエンザである。

NIKKEI NETニュースは、つぎのように伝える。

『……緊急委に先立ち、WHOのチャン事務局長は同日、電話記者会見を開き、豚インフ
ルエンザは「深刻な状況だ」と指摘。各国当局に対してはインフルエンザが疑われる症例
に注意するよう呼びかけた。米国とメキシコ以外に感染が拡大するリスクについては現段
階では不明とした』(4月26日朝)と。

時事通信によれば、『豚インフルエンザをめぐっては、米国とメキシコで計1000人を超
える症例が報告され、メキシコで60人以上が死亡した疑いがあるとされる』と。

現状でも、死亡率は、6%ということになる。
1000人を超える罹患者が、今後どうなるかによって、死亡率はさらに高くなる
可能性がある。

●日本も警戒態勢

この日本でも、空港でのチェック、さらには相談窓口の設置などが始まっている。
もしこの日本に豚インフルエンザが侵入したら……。

日本人の中には、「日本は衛生状態がいいから、心配ない」と考えている人が多いようだ。
が、どうやら、現実は逆。
「免疫性がない分だけ、かえって大流行しやすい」と。

ともかくも、私の家族も、そして教室も、今週から厳戒態勢に入る。
もし日本でパンデミックス(世界的大流行)が始まれば、通常のインフルエンザ並みの
罹患率としても、約数百万人以上が、豚インフルエンザにかかることになる。
死亡率10%としても、数十万人以上が死ぬ。
その上、やっかいなことに、10代前後の子どもたちのほうが死亡率が高いという。
何としても、大流行させてはいけない。

(1)集団の中では、マスク着用は、常識。
(2)外から帰ってきたら、うがいは、常識。

それをとりあえず、徹底するしかない。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●アメリカの無視作戦(Ignorance is the Best Policy for Japan)

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「あんな国は、まともに相手にしてはいけない」。
それが「無視作戦」ということになる。

現在、アメリカ政府は、K国に対して、徹底した
無視作戦を展開している。

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無視すればするほど、相手は、いきりたつ。
何をしでかすかわからないが、それでも無視。
やがて相手は、自ら墓穴を掘る。

朝鮮N報オンラインは、つぎのように伝える。

『……クリントン長官は23日(現地時間)、米国議会下院聴聞会への報告書から「K国問
題」を完全に削除し、議員からの質問にも、「K国のさまざまな動きに屈服してはならない」
と短く断固とした口調で答えた。キム教授は「ロケット発射などが、基本的に米国に対す
る"早く交渉しよう"というメッセージだということを考慮すると、K国としては、"徹底
した無視"で北に対処する米国の反応に我慢できなくなる」と語った』(4月26日)と。

少し読みづらい文章だが、要するに、『アメリカがK国を無視しつづければ、やがてK国は
がまんできなくなる』と。
『下院聴聞会への報告書から、「K国問題」を完全に削除した』というのは、そういう意味。

相手は、「相手にしてほしい」「相手にしてほしい」と、ダダをこねる子どもと同じ。
だったら、相手にしないことこそ、ベスト。
相手にしたとたん、無理難題をふっかけてきて、こちらを自分たちのペースに
巻き込んでしまう。
よい例が、数日前にK国の開城(ケソン)でもたれた、南北協議。
韓国側は当然のことながら、現在、K国側に抑留されている韓国人についての話かと
思っていたが、結果は、「もっと金(=マネー)、よこせ!」だった。

思考回路が、メチャメチャ。
一般の常識が、まったく通じない。
それをクリントン国務長官は、「予測不能」という言葉を使って表現した。

だから……。
この先も、いろいろと問題が起きてくるはず。
あるいは何かと、ちょっかいを出してくるはず。
しかし日本も、そのつど、無視すればよい。
適当にあしらって、それで終わりにする。

何度も繰り返すが、あんな国を相手に、正義だの大義など、そんなものを説いても
意味はない。
その価値もない。
『無視こそ、最善』(Igonorance is the best policy)ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●ミサイル迎撃、反対!(I am against shooting down the Missile!)

●あまりにも貧しいK国!(4月24日記)(Too much poor, is the North Korea)

先ほど、K国の経済事情について書いた。
それを読んでもらえばわかるが、K国は、あまりにも貧しい。
想像を絶するほど貧しい。
もう一度、数字を並べてみる。

公式レートによっても、K国の国家予算は、たったの37億ドル。
実勢の交換レートは、その26分の1(中朝国境)。
それによれば、さらにたったの……(絶句!)。

K国の人口は、約2330万人だから、日本の人口の約5分の1。
それでも、この数字である。
なぜ、中国や韓国、それにロシアが、K国の崩壊を恐れるか、
これでわかった人も多いかと思う。

(ちなみに、実勢交換レートに従えば、K国の国家予算は、1・42億ドル。
日本円で、142億円。
それを2330万人で割ると、1人あたり、609円!
公式レートに従っても、たったの1万6000円弱!
何度計算しなおしても、そうなる。

一方、島根県の標準財政規模は、2546億円(平成18年度)。
人口は、72・3万人。
同じように2546億円を72・3万人で割ると、1人あたり、35万円。

K国と島根県を比較するのは、以前からよく「K国の国家規模は、人口の
少ない山陰地方の1つの県にも及ばない」と言われているからである。
とくに島根県にこだわっているではない。
どうか誤解のないように!)

こんな国が、まともに(?)崩壊したら、それこそたいへん!
何10万人、何100万人という難民が、それらの国に押し寄せる。
金日成教団の信者かもしれないが、それ以外に、満足な教育を受けていない。
これは韓国へ脱北してくる人についての話だが、「税金」という概念を理解させる
だけでも、たいへんとか。
あとは、推して量るべし。
わかりやすく言えば、韓国や中国は、とんでもない(お重荷)を背負うことになる。

が、皮肉なことに、日本へやってくる難民は、少ないと予想されている。
徹底した反日教育のおかげ(?)、とか。
ある日本のカメラマンが、K国へ行き、「私は日本人だ」と言っただけで、
K国の子どもたちが泣き出してしまったという。
そんなエピソードもある。
それくらい、日本人は、嫌われている(?)。
あるいは元在日朝鮮人の人たちや、日本人妻たちをそれくらい虐待している(?)。
彼らにしてみれば、「日本にだけは、行きたくない」「行けば、仕返しを受ける」となる。

●人間ロボット

異常なまでに虚栄心が強く、見栄っ張り。
加えて異常な思い込み。
それが現在のK国を裏から支えている。
が、しかし一般の人たちはどうかというと、それがよくわからない。
政府関係者は、金太郎飴ならぬ、金xx飴のように、みな、同じ。
同じことしか言わない。
「洗脳」というのは、そういう意味で、恐ろしい。
人間が人間でなくなってしまう。
独裁者のロボットになりながら、「ロボットになっている」という意識さえない。

ためしにK国の人たちに、(あるいは日本に住むK国関係者の人たちでもよいが)、
こう聞いてみたらよい。
(私は聞いたことがないが……。)
「あなたがたは、自分の意思で行動していますか?」と。
するとまちがいなく、彼らは笑いながら、こう言って答えるだろう。
「もちろん、そうです。私たちは、自分の意思で考え、行動しています」と。
洗脳の恐ろしさは、ここにある。

が、そのことは、私たち日本人についても言える。
戦前や、戦時中の日本人ではない。
今の今ですら、カルト教団のロボットになりながら、教団に操られるまま
動いている人は、少なくない。

●本気で相手にしてはいけない

それにしても、貧しい。
K国ウォンは、世界の中でも、もっとも不安定な通貨ということになっている。
わかりやすく言えば、紙くず同然。
だれもほしがらない。
使わない。
K国の国内ですら、みな、K国の人たちはドルをほしがるという。
K国ウォンを信じていない。
そのためマンションなどの高額商品は、「金(=gold)」で取り引きされているという。

そこで改めて、本題。
私も拉致問題については、きわめて激しい(怒り)を覚える。
抗議の念をこめて、金xxと書く。
あの国を「K国」と書くのも、そういう理由による。
しかし「制裁」ということについては、この問題が提起されたときから、一貫して
反対している。
K国と日本の連絡船である、M号の入港禁止措置にしても、反対してきた。

理由は、簡単。
「あんな国を本気で相手にするな」である。

大切なことは、通関をきびしくするということ。
徹底的にきびしくする。
それこそバッグの隅の隅まで、チェックする。
M号の問題は、それで解決したはず。

また制裁しても意味がないことは、現状を見ればわかる。
餓死者が続出しても、あの国は、倒れない。
そこはカルト国家。
自己否定を選ぶくらいなら、「死」を選ぶ。
私たちの常識では理解できないが、現在のK国は、そういう国である。

●しかし……

そのK国も、このところ内部の動きが、たいへん不安定になってきている。
たとえば4月5日に打ちあげられたテポドン(=ミサイル)にしても、
K国国内では、「大成功」「宇宙から電波を傍受した」と報道している。
各国の在P市在住の大使たちが、みな、抗議の意味で、祝賀行事に参加
しなかったにもかかわらず、「各国が賞賛している」と報道している。

つまりすべてが、ウソである。
ウソの上にウソを塗り固めている。
100に1つも、本当がない。
が、問題は、なぜウソをつかねばならないかということ。
この(ウソをつかねばならない)というところに、K国の危機感が表れている。

K国の崩壊は、たいへん近い。
何かのきっかけがあれば、明日にでも……という状況である。
もし開城工業団地から、韓国が手を引いたら……。
それだけでも、K国は、一気に崩壊するかもしれない。
現在は、そういう状況と考えてよい。
たぶんに希望的観測だが……。

●日本の立場

日本としては、K国に(日本攻撃)の口実を与えないこと。
中に「制裁だ!」「迎撃だ!」「日本も核兵器を!」と主張する人たちがいる。
しかしこの日本は、丸裸以上の丸裸。
仮に1発でも日本に発射されたら、日本はそれで万事休す。
化学兵器にせよ、生物兵器にせよ、1発で、約20万人が死傷すると言われている。
その救護態勢も整っていない。
経済活動は、もちろんその日からさらにドン底へ向かう。

だから繰りかえす。
あんな国をまともに相手にしてはいけない。
相手になるような国ではない。
それとも日本は、あんな国といっしょに心中するつもりなのか!

昔からこの日本では、こう言う。
『負けるが勝ち』と。

●日本としてのプライド論

「正義」にせよ、「大義」にせよ、はたまた「プライド」にせよ、それを説くなら、
まず相手を選ぶ。
それなりの相手なら、それなりの意味がある。
しかしあんな国を相手に、正義だの、大義だの、はたまたプライドなど説いて、どうする?
どうなる?

「勝った」「負けた」ということになれば、戦後、日本は勝ちつづけた。
一方、K国は、負けつづけた。
その結果が今である。
忘れてならないのは、まだ日本は、大国である。
経済大国である。
大国なら、大国らしくしよう。

愚かな政治家は、もてる武器を最大限使いたがる。
しかし武器のもつ力を過信してはいけない。
よい例が、あのベトナム戦争。
つづくイラク戦争。
さらにここ数日の報道によれば、アフガニスタンのタリバン勢力は、
パキスタンの首都、イスラマバードに、あと100キロまで迫っているという。

迎撃ミサイルをもったとたん、「迎撃!」「迎撃!」と叫ぶのが、いかに愚かなことか!
報復は報復を呼び、やがて戦争は泥沼化する。
だから……。

私たちは賢くなろう。
「卑怯だ」「弱腰だ」と言われても、ここはじっと我慢。
我慢しながら、K国を、自己崩壊に導く。
いや、導くまでもない。
あの国は、すでに崩壊している。
それが、冒頭に書いた、37億ドルという数字である。

(付記)
こう書くからといって、K国を擁護するわけではない。
しかしK国を理解するためには、K国の立場で、ものを考えてみる必要がある。

経済はメチャメチャ。
国民を満足に食べさせることもできない。
やることなすこと、すべて裏目、裏目……。

あなた自身のこととして考えてみればよい。
たとえばあなたには、家族がいる。
しかし満足に食べさせることもできない。
仕事もない。
家はボロボロ。
雨漏りもする。

しかしふと隣を見ると、そこには、煌々(こうこう)たる光に包まれた大御殿。
このあたりでも評判の金持ち。
みな、腹いっぱい、メシを食べ、好き勝手なことをしている。
収入は、あなたの数百倍!
ときどき隣の金持ちが、見るに見かねて、あなたの子どもたちにチョコパイをくれる。
しかしそんなもので、空腹感を満たすことはできない。

で、いくらあなたに甲斐性(かいしょう)がないといっても、あなたはそれに
納得するだろうか。

そこであなたは、知り合いの暴力団から拳銃を手に入れた。
なけなしの貯金をはたいて、買った。
その拳銃を隣の金持ちに、ちらつかせた。
とたん、隣の金持ちは、パニック。
それを見て、あなたは隣の金持ちに向かって、こう言う。
「拳銃を捨ててほしいなら、金をよこせ!」と。

が、隣の金持ちも考えた。
家の周りを、鉄板でかためた。
さすが金持ち。
やることがちがう。
さらに隣の金持ちは、近所の人たちにも相談した。
みな隣の金持ちに一応同情はしてみせたが、それ以上、何もすることができない。
そこで金持ちは、あなたの周囲の人たちの話しかけて、商売をできないようにした。
「あの人との商売は、やめましょう」と。
けっして好ましい商売ではないが、あなたには、それしか収入源がない。
覚せい剤販売に、偽札づくり。
見ようみまねで、ついでに、拳銃の弾丸づくり。

そこであなたはこう叫ぶ。
畜生!
バカヤロー!、と。
まともな思考力をもてといわれても、無理。
そんな余裕もない。
あんたの妻や子どもは、「父ちゃん、何とかしてよ!」と、ただただあなたに
泣きつくばかり……。

家の中は、真っ暗。
電気もつかない。
あなたができることといえば、拳銃を神棚に置いて、「今に見てろ!」「今に見てろ!」
と手を合わせるだけ。

現在のK国は、今、そういう状態である。
(09年4月26日記)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●4月26日

++++++++++++++++++

今度、実家を売却することにした。
無人の家になって、もう4年以上になる。
5年以上か?
が、伝統的建造物ということで、
解体することもできない。
しかたないので、「古家付」ということになった。

その実家。
土地の坪数は、xx坪弱。
坪単価を、20万円としても、xxx万円。
「こんなものかなあ」とか、「こんなものだろうな」とか、
いろいろ考える。

「こんなものかなあ」というのは、
祖父母の代から、父、兄と引き継いできたものが、
たったのxxx万円(!)。

「こんなものだろうな」というのは、
現在、観光地で売り出してはいるものの、
しょせん、さびれた田舎町(失礼!)。
時代も変わった。
おまけにこのところの大不況。
買う人もいないだろうな、ということで、
そう思った。

+++++++++++++++++++

●田舎の価値

少し前、長野県の田舎に住む友人が、家を建て直そうとした。
そのときのこと。
銀行でローンを組もうとした。
が、評価額のあまりの低さに驚いたという。
「宅地にはなっていますが、300坪で、たったのxx万円!」と。
つまり銀行は、土地を担保にしても、xx万円しか貸さない、と。

その友人も同じようなことを言っていた。
「代々、守り継いだ家の価値が、たったのxx万円とは!」と。
きびしい言い方になるが、たったxx万円のために、代々、その
家の人たちは先祖の土地を守ってきた、ということになる。

あるいはそれ以前の日本は、その程度までに貧しかったのか。
今なら、平均的な労働者が数か月で稼げるような金額で、「家」をもち、
それを守った(?)。

解釈の仕方はいろいろある。
が、もちろんその「家」のもつ価値は、土地の評価額だけで決まるものではない。
そこに住む人の(思い)で決まる。
(思い)があれば、土地の値段など、どうでもよい。

しかしたったの、xxx万円。
売ることができたとしても、20%の税金がそれにかかる。
手取りは、xxx万円。
実兄と母の、葬儀代プラス仏壇代と、ほぼ同額。


Hiroshi Hayashi++++++++APRIL・09++++++++++++はやし浩司

●「FUxx」という卑猥語(ひわいご)

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40年前には、この日本で、「FUxx」(ファxx)という単語の
意味を知っている人は、ほとんどいなかった。
この単語が日本で、ぼちぼち使われるようになったのは、それから
15年ほどもたってからのことである。

+++++++++++++++++++++++++++++++

が、今では、そこらの小学生でも、この単語を使う。
おまけに、あの指を1、2本立てたジェスチャまで!
(手のひらのほうを相手に向けて、指を2本立てれば、ヴィクトリー・
マーク。
手の甲のほうを相手に向けてすれば、まったく別の意味になる。
ふつう「Get Fuxxed」とか、「Get stuffed」とか、
そういう言葉を添えて、そうする。)

そこで私がそれを強く制する。
「子どもがそんなジェスチャをしてはダメだ!」と。
すると子どもたちは、すかさず、「どうしてエ〜〜?」と聞く。
しかし意味など、言えない。
私も、学生時代、その意味を知って驚いた。

少し回りくどい言い方になるが、許してほしい。
インターネットの世界には、使用禁止用語というのがある。
それを使うと、BLOGなどに原稿を掲載するとき、拒否される。
……指を立てる意味は、こうだ。

女性が、自分で自分を慰めるとき、指ですることが多い(そうだ)。
そのとき、指を1、2本だけ伸ばして、それをすることが多い(そうだ)。
あるいは男性が女性を抱いて、女性を慰めるときも、そうである(そうだ)。
それがそのまま指を立てるという、あのジェスチャになった。

ジェスチャだけではない。
「Get Fuxxed」にしてもそうだ。
どう訳すかというよりも、日本語には、そういう言葉すらない。
あえて訳せば、「おxxこ野郎!」という意味か?

先に書いた、「Get stuaffed」(詰めろ!)というのも、
同じような意味で使う。
これは女性の体の中を、「詰めろ」という意味である。
何で、どう詰めるかは、改めて、ここに書くまでもない。
つまり(とんでもない意味)である。
そういうジェスチャや言葉を、最近の子どもたちは、平気で使う。

日本とちがって、外国では、指のジェスチャが、日本人の私たちが
想像する以上に意味をもつ。
そういうジェスチャを外国でして、相手に殴られても、文句は言えない。
つまりそれくらい重大な意味をもつ。
ブラジルでは、本当に、そういう事件があった。

日本のある領事が、リオで、車を運転していたときのこと。
うしろから猛スピードで車が近づいてきた。
そこでその領事は路肩に車を寄せ、窓から手を出し、日本でいう、
「OK」マークを指でつくり、その手を振ってみせた。
「早く追い抜け」という意味で、そうした。

しかし、である。
その車は領事の車の前に突っ込んできた。
車から男が降りてきて、その領事を袋叩きにしてしまった。
ブラジルでは、「OK」マークは、男性が自らを慰めるときに使うジェスチャ。
指を立てるジェスチャと同じ意味をもつそうだ。
で、その男は逮捕されたが、しかしそのまま無罪放免。
そういうジェスチャをした領事のほうが悪い、ということになった。

私はこの話を、領事館に勤務する書記官から直接聞いた。
だから……。
子どもたちがそうした言葉を口にしたり、ジェスチャをしたら、しっかりと
私たちは言おう。

「そういうことをしては、ダメ」と。


Hiroshi Hayashi++++++++APRIL・09++++++++++++はやし浩司

●フルスペック・ハイビジョン

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2011年には、アナログ放送が終了し、
すべて地上デジタル放送に切り替わるという。
そこで我が家でも、今日、テレビ受像機を換えた。
シャープの、フル・ハイビジョンテレビ、である!
サイズは、42インチ。
昨年の秋のモデルらしく、今年の春モデルの価格の
約半額で購入することができた。

それほど期待していなかったが、電源を入れて、仰天。
本当に驚いた。
あまりの美しさに、ただぼう然!
息をのんだ。
そのまま、少し前まで、計5時間もテレビを
見つづけた。

どこかの店頭で見るときは、それほど美しさを
感じなかった。
が、しかしここまで美しいとは……!

ワイフの趣味はビデオ鑑賞。
言うなれば、そういうワイフへのプレゼント。
「これから家でも映画館並みの映像が見られるね」と
声をかけると、うれしそうだった。
ついでに紅茶を作って、ワイフに出してやった。
私としては、大サービス!

「(映画館の)プレミア席でも、紅茶サービスはないよ」と。

+++++++++++++++++++

●目標

私としては、この10月まで待つつもりだった。
この10月から、3D(立体)テレビ放送が始まる。
立体放送が始まったら、テレビを買い替えよう、と。
が、何となく、雰囲気にのまれて、先日、フルHDテレビを買ってしまった。
値段は、今年の春モデルの約半額。
しかしこれには、こんなエピソードがある。

私は当初、「HD」というのは、パソコンの「ハードディスク」のことと思っていた。
チラシなどには、「フルHD」というように、書いてある。
で、「どうしてテレビに、ハードディスクがついているのだろう」と。
で、近くの電気屋、電気屋といっても、駐車場が300台分くらいある大型店だが、
そこへ行って聞いてみた。

「HDって、どういう意味ですか」と。

すると店員が、「ハイビジョンのことです」と言った。
それをていねいに説明してくれた。
「フル」というのは、「フルスペック」という意味だそうだ。
ハイビジョンテレビにも、「ハイビジョン」と、「フルハイビジョン」の2種類がある。
画素数のちがいらしい。
フルハイビジョンは、たしか「画素数が、2000万〜」とか、なんとか言った。

ついでに店員が、「昨年の秋モデルでよければ、安くしますよ」と。
で、そういう話をしているうちに、だんだんと断れなくなった。
それで、まあ、購入することに……。
そのテレビが今日の夕刻、届いた。
そのときの様子は、冒頭に書いたとおり。

しかしここまで美しいとは、私も思っていなかった。
本当に、美しい。
今までも32インチの液晶テレビを見ていたが、美しさがダントツにちがう。
「こんなに美しいものなら、もっと早く買えばよかった」と、今は、そう
思っている。

で、新しい目標(?)ができた。

今度は、フルハイビジョンが撮影できる、ビデオカメラを買う。
それで美しい景色を撮る。
それにブルーレイ・プレイヤーも。
それを買えば、映画館で見るような美しい映像で、映画を見ることができるそうだ。
今すぐには無理かもしれないが、それが今の目標。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●邦画『ALWAYA、3丁目の夕日』

今週は劇場で見たい映画がなかった。
そのこともあって、近くのビデオショップで、邦画を一本
借りてきた。
昨夜、それを見た。
タイトルは、『ALWAYS、3丁目の夕日』。

よかった。
久々に感動した。
笑って泣いて、また笑った。
星は4つの、★★★★。

冒頭部分はともかくも、昭和30年前後の東京の下町の様子が出てきたところから、
ぐんぐんと画面に吸い込まれた。
とくにオート三輪が出てきたときには、大感激!
私たちの世代には、忘れられない乗り物である。

どれもCG(コンピュータ・グラフィックス)で作成した映像なのだが、
そうとわからないほど、よくできていた。
とくに蒸気機関車は、圧巻!
どう見ても、あれは本物(?)。

そんなわけで団塊の世代の私たちには、たまらない映画である。
1958年(昭和33年)の10月14日に東京タワーが完成したというから、
私が10〜11歳(小5、6年生)ごろの話ということになる。
言い忘れたが、ところどころで、工事中の東京タワーが出てきた。
それがシーンごとに、少しずつ高くなっていった。
時間の経過がそれでわかった。
このあたりの表現方法が、すばらしい!

ワイフと、「そうだった」「いや、ここはそうでなかった」と、
ワイワイ、言い合いながら見た。

ほかの俳優はともかくも、小雪さんの演技は、超一流。
「日本にも、ああいうすばらしい俳優がいるんだ」と、再認識。
加えて、日本のCG技術の進歩にも、驚いた。
ああいう技術は、ハリウッドだけにしかないと思っていた。

で、見終わったとき、ほのぼのとした温もりを感じた。
半世紀前の余韻が、そのまま心に響いた。
団塊の世代の人は、ぜひ、一度見たらよい。

(追記)

「Always 3丁目の夕日」には、続編があるそうだ。
それも借りてきて、見るつもり。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●強迫観念(Obsession)

++++++++++++++++++

いつも何かに追い立てられているような感じ。
じっとしていると、それだけで罪の意識を覚える。
「何かをしなければ」とは思うが、それが
何であるか、わからない。
悶々とした閉塞感。
焦燥感。
加えて、時おり胸をふさぐ、妄想。
ひとつのことが気になると、それが心からずっと離れない。
「ああではないか」「こうではないか」と、
心配を繰り返す……。

何かに背後から脅迫されているような感じがする
ところから、こうした心の状態を、「強迫観念」という。

++++++++++++++++++

●封印された記憶

抑圧された記憶は、思いだすこと自体が、苦痛。
そのため心の奥に封印された記憶は、表に浮かびあがってくることは、まずない。
しかしその記憶が、私やあなたを、心の裏側から操る。
強迫観念も、そのひとつ。

●自由連想法

フロイトは、「自由連想法」という言葉を使った。
これは患者に、自由に自分のことを語ってもらい、その中から、病巣となっている
(こだわり)や(わだかまり)を知るという方法である。
この自由連想法を、自分自身に応用できないものか?
それができれば、私たちは自分で、「私」を知ることができる。
たとえばフロイトも、自分の夢判断を、弟子のユングにさせている。

●「時間がない!」

よく人から、「あなたは、忙しいか?」と聞かれることがある。
そういうとき私は決まって、こう答えるようにしている。
「忙しくはないが、時間がない」と。
すると相手の人は、それが理解できなくて、たいてい怪訝(けげん)な顔をする。
そんなことから、「忙しくはないが、時間がない」などと言う人は、
何かの強迫観念の持ち主と考えてよい。
この私がそうであるから、それがよくわかる。

●原因

「暗くて、憂うつな毎日だった」。
それが、私の少年時代である。
稼業は自転車屋だったが、私が思春期に入るころには、すでに開店休業状態。
商売べたの父は、いつ来るともわからない客を待ちながら、じっと店先で
座っていた。
私が今のような強迫観念をもち始めたのは、そのころではなかったか。
そういう父や、そして兄の姿を見ながら、私は毎日が、不安でならなかった。

●父のトラウマ

今にして思うと、父にも深いトラウマがあったように思う。
父は、戦地の台湾で、アメリカ軍と戦い、貫通銃創を受けている。
その後、傷痍(しょうい)軍人として帰国。
やがて酒に溺れるようになった。
つまり父とて、戦争の犠牲者だった。
が、当時、それを理解できる人は、まだだれもいなかった。
「トラウマ」、つまり「精神的外傷」という言葉すら、まだこの日本にはなかった。

●どこも、子どもだらけ。

加えて団塊の世代。
数日前、映画『ALWAYS、3丁目の夕日』を見た。
あの風景が、私たちの少年時代ということになる。
すばらしい映画だったが、が、いくつかの点で、納得できないことがあった。
そのひとつ。
当時は、街角や路地には、子どもたちの姿があふれていた。
どこを見ても、子ども、子ども、また子ども……。
そんな時代だった。

●ボール遊び

私が今のような私になったのは、そのせいかもしれない。
ガツガツしなければ生きていかれなかった。
どこへ行っても、競争と喧嘩。
遊ぶといっても、すぐ場所の取りあいが始まった。

で、私もよく遊んだが、その中でも、ひとつだけ苦手な遊びがあった。
ボール遊びである。
どういうわけか、ボール遊びだけは苦手だった。
理由として思い浮かぶのが、「銃殺刑ごっこ」。
鬼をつくり、その鬼を立たせて、背後からボールを当てるという遊びである。
記憶にはないが、私も何度か、その鬼になった。
それでボールに対して、恐怖心を覚えるようになった。

●だれにでもあるトラウマ

こうして思い出してみると、心というのは、トラウマのかたまりのようなもの。
無数のトラウマが積み重なって、その人を作る。
「私」を作る。
トラウマのない人はいないし、またトラウマを恐れていたら、この世界では、
生きていくことはできない。
子育てもできない。
それが強迫観念に結びついたからといって、それはそれ。
大切なことは、自分にどんなトラウマがあるかを知り、それとうまくつきあうこと。

●「私」さがし

……こうして自由に(?)、私は自分の過去を振り返ってみた。
思いつくまま書いたので、エッセーとしての意味はない。
しかしなぜ今の私が、私なのかは、過去を振り返ってみることによってわかる。
先にも書いたように、私の強迫観念も、どうやらあのころできたらしい、と。
今の今も、それがつづいている。
もし神様か何かがいて、私をもう一度、あの少年時代に戻してやると言ったら、
私は迷うだろう。
私にとっては、いやな時代だった。
あのころのボール遊びが、それを象徴している。

●私もあと10年

加えてこのところ、老いることに恐怖心をもち始めている。
母の介護を通して見た、「老人の世界」、
それは私にとっては、地獄絵図そのものだった。
みながみなそうなるわけではないが、少なくとも特養で余生を過ごす人たちは、
(人間であることをやめた人)と言っても、過言ではない。
中には70代の人もいた。
そんな人たちが、うつろな目つきで、一日中、車椅子に座っている……。
それを知って、「私もよくて、あと10年」と思うようになった。

●強迫観念は悪か?

強迫観念というのがその人にとって好ましいものでないことは、わかる。
が、悪いことばかりではない。
強迫観念があるからこそ、こうして毎日、ものを書いたり運動したりする。
もし強迫観念がなければ、私とて、こうまでがんばることはないだろう。
「そこにある何かを知りたい」。
そういう思いが、私を急(せ)き立てる。

要するに、先にも書いたように、それはそれとして、つまり強迫観念があるなら
あるで構わないが、あとは、それとうまく付きあうこと。
とくに大切なのは、これはあくまでも私の個人的な問題としてとらえ、
それによって、周囲の人たちに迷惑をかけてはいけないということ。
あせるのはあなたの勝手だが、その中に、妻や子どもを巻き込んではいけない。

(付記)

子どもの勉強をみていて、言いようのない不安や心配を覚える人は、
その人自身が、何らかの強迫観念をもっていると考えてよい。
それはそれとして仕方のないことかもしれないが、それを子どもにそのまま、
ぶつけてはいけない。
いわんや、子どもをして、自分の不安や心配を解消するための道具にしては
いけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
強迫観念 不安 心配 焦燥感 焦り あせり)


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●心の開放

++++++++++++++++++

昔、ベトナムへ行った、若いオーストラリアの
兵士が、こんな話をしてくれた。

「みな、サイゴン(南ベトナムの当時の首都)へ
戻ると、いっせいに、女を買いに行った」と。

女を買うといっても、Sxxが、目的ではない。
「みな、一晩中、女の乳房を吸っていた」と。

戦場では屈強な兵士に見える彼らも、
内側の世界では、ただのか弱き(人)でしか
なかった……。

++++++++++++++++++

●ペルソナと開放

人はだれしも、仮面(ペルソナ)をかぶって生きている。
教師は教師の仮面。
医師は医師の仮面。
牧師は牧師の仮面などなど。
私もかぶっている。
あなたもかぶっている。
しかし仮面をかぶっていると、疲れる。
心を偽るということは、そういうこと。
言いたいことも、ぐいとこらえて、笑顔で答える……。

そこで人は、内界に向っては、つまり自分の心に適応するため、心を開放する。
心のバランスを図る。

●マザコン?

このことは、子どもを見ているとわかる。
幼稚園や学校では、(しっかり者)の子どもが、家へ帰ると、まるで赤ちゃんのように
なってしまう子どもは、珍しくない。

ある子ども(小5・男児)は、柔道選手として県の大会に出るような活躍を繰り返して
いた。
が、家に戻ると、まったく別人だった。
食事のときなど、いつも母親のひざに抱かれていた。
風呂も母親といっしょに入っていた。

このタイプの子どもを、私たちは「マザコン」と呼ぶが、このタイプの子どもは、
そういう形で、心の緊張感を解きほぐす。
そういう例は、たいへん多い。

●かん黙児

さらに顕著な形で現れるのが、かん黙児と呼ばれる子どもたちである。
このタイプの子どもは、外の世界では、極度の緊張状態を強いられる。
(表情だけを見て判断してはいけない。
外の世界では、どこか意味のわからない笑みを浮かべていることが多い。
こうした現象は「遊離」(=心と表情が遊離している)という言葉を使って説明される。)

外の世界で「いい子?」ぶる半面、その反動として、家の中では、大声を出して
騒いだり、暴れたりする。

●心の開放

心の中に別室を作り、そこへ自分を逃避させる人もいる。
子どもにも多い。
心理学の世界では、「抑圧」という言葉を使ってそれを説明するが、心の別室は、
心そのものをゆがめることがある。

そこで大切なことは、「開放」ということになる。

したいことをし、言いたいことを言う。
すべてはここから始まり、ここに終わる。
子どもを指導するときもそうで、まず、したいことをさせ、言いたいことを言わせる。
私たちが「すなおな子ども」というときの子どもは、そういう子どもをさす。

同じように、私たち自身も、したいことをし、言いたいことを言う。
最初は勇気がいることだが、一歩、踏み出してしまえば、心はあとからついてくる。
心をすなおにすれば、そこに待っているのは、すがすがしい世界。
すがすがしい人間関係。
私たちは、そのすがすがしい人生をめざす。

その第一歩が、心の開放ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司※

●消える脳みそ

++++++++++++++++++++++++++++

加齢とともに、脳みその底に、穴があいたような状態になる。
知恵や知識、それに経験が、どんどんとそこから外へ、こぼれ落ちて行く。
しかし当の本人が、それに気づくことは、まずない。
というのも、この問題は、脳のCPU(中央演算装置)の問題。
CPUそのものの機能が衰えていくため、論理的に、それに
気づくのは、不可能ということになる。

++++++++++++++++++++++++++++

●うつからボケに

私の年代になると、うつ病になったり、ボケたりする人が、急速に
多くなる。
うつとボケ。
うつからボケになる人もいれば、ボケからうつになる人もいる。
専門家でも、その区別はむずかしいという。
あるいはうつとボケは、同時進行の形で始まると考えてよいのか。

●こだわり

うつになると、こだわりが強くなる。
こだわりが強いから、うつになるとも考えられるし、うつになるから
こだわりが強くなるとも考えられる。
しかしこだわりが強くなると、脳の特定部分のみが活発の働き、ほかの
部分は鈍くなる。
「鈍い」というよりは、「眠ったような状態」になる。
たとえば何かのことに没頭していると、それについては詳しくなるが、
ほかのことについては、忘れてしまう。
そういうことは、私たちも日常的に経験する。

つまりこだわりが強くなればなるほど、同時に、脳のほかの部分が眠ったような
状態になる。

●病識

うつ病にせよ、ボケにせよ、病識をもつことは、簡単なことではない。
病識……「私は病気」と、自らそれを意識することを病識という。
本人の自覚と言い換えてもよい。
それがあれば、まだ救われる。
それがないと、治療もむずかしくなるという。
そんなわけで、「私はだいじょうぶ」とがんばる人ほど、あぶないという
ことになる。

が、中には、本人だけではなく、その周囲の人にも、その病識がないこと
がある。
ある夫(70歳くらい)は、私が、「奥さん、少し心配ですね」と話しかけたとき
のこと、「うちの家内は何も問題はない!」と、大声で叫んだ。
理由はいろいろあるのだろう。
そういうケースもある。

●愚かな人には、賢い人がわからない

幼児の前で、簡単な足し算を、わざとまちがえてみせる。
子どもに自信をもたせるには、この方法が効果的である。
そのときのこと。
ある幼児(年長・女児)は、私にこう言った。
「あんた、それでも先生エ〜?」と。

子どものもつCPUでは、それが理解できなかった。
それでそう言った。

で、言葉はきついが、昔からこう言う。
『賢い人からは、愚かな人がよくわかるが、愚かな人からは、賢い人が
わからない』と。
愚か人は、自分のレベルでものを考える。
またそれしかわからない。
だから賢い人が、理解できない。

同じように、CPUの機能が衰えてくると、それが衰えてきたこと自体が
わからなくなる。

●記憶の欠落

が、方法がないわけではない。
たとえば私のばあい、数年前、あるいは10年前に書いた原稿を読みながら、
それに気づくことがある。
文章そのものは私のものとわかるが、ときに、内容そのものを、すっかりと
忘れてしまっていることがある。
数年を経て、同じことを書くときもある。
そういうとき、背筋が、ゾッと寒くなるのを感ずる。

よくボケの症状のひとつとして、物忘れがあげられる。
私もよく物忘れをするが、それほど気にならない。
というのも、記憶というのは、(記銘)→(保持)→(想起)という
プロセスを経て、記憶として脳みその中から呼び出される。
(記銘)そのものをしっかりしていなければ、脳みその中に記憶として
残らないのは、当然のこと。
これだけ情報が洪水のように押し寄せてくると、選択するだけでもたいへん。
しかし自分が書いた文章の内容を忘れてしまうというのは、「忘れる」
というよりは、「欠落する」に近い。
だからゾッとする。

●特徴

ボケていく人を観察してみると、(というのも、私の周辺にも、そういう
人が、何人かいるので)、興味深いことに気づく。

そのひとつが、初期の段階では、(1)どの人も脳みその異変にある程度、
気づいているのではないかということ。
つぎに(2)そうであることを、それなりに隠そうとすること。
「とりつくろい」や、「弁解」が多くなる。
さらにアルツハイマー型認知症のばあいは、(3)ささいなミスを指摘された
りしただけで、パニック状態になるということも指摘されている。

ふつうなら、「あら、まちがえました。ごめんなさい、ホホホ」と言って
すますような問題でも、ギャーギャーと泣きわめいて、抵抗するなど。
心の余裕そのものが、なくなる。

●私はだいじょうぶか?

そんなわけで、このところ、とみに私は自分の脳みそを疑うことが多くなった。
何かにつけ、「私はだいじょうぶか?」と。

そこでワイフや、生徒たちに、こう聞く。
「最近、ぼくのことだけど、バカになってきたと思わないか?」と。
こういうケースのばあい、ワイフは、あてにならない。
ワイフも同じようにボケているとしたら、ワイフには、それがわからない。

では、生徒たちは、どうか?
私の変化や異変に気づくということはあるのだろうか。
が、生徒たちは、みな、こう言う。

「先生は、昔から頭がおかしいから、わからない」と。

●迷惑するのは、周囲の人

これも何度か書いてきたことである。
うつ病になるにしても、ボケるにしても、当の本人だけの問題ではすまない。
当の家族だけの問題でもない。

周囲の人たちにも、えらい迷惑をかける……ということもある。
(実のところ、私もそういう経験を、何度かしている。)
その人が、そういう状態であることを知っていれば、まだよい。
知らないと、ひどく傷つくということが、よくある。

介護にしても、まともな会話が、ほどほどにできれば、まだ救われる。
そうでなければそうでない。
うつ病にしても、ボケにしても、本人だけの問題と考えている人は多い。
しかしそれ以上にたいへんなのが、家族を含めて、その周りの人たちである。
これからはそういう視点でも、この問題を考えていく必要がある。


Hiroshi Hayashi++++++++April・09++++++++++++はやし浩司

●脳みその緊張と弛緩

緊張と弛緩。
脳みそは常にこれを繰り返す。
緊張状態が長くつづけば、脳みそは疲れる。
脳みそというのは、それほどタフには、できていない。
しかし弛緩状態ばかりがつづけば、思考力そのものが、消えうせる。

というのも、思考力というのは、習慣の問題。
毎日、毎晩、BS放送をつぎからつぎへと見ているからといって、
思考力が養われるわけではない。
「考えるというクセ」、それが思考力ということになる。

で、私のばあい、ものを書いているときは、脳みそは緊張状態になる。
ピンと張りつめた状態になる。
しかし何かを書き終えたとたん、スーッと頭から力が抜けていく。
とたん、弛緩状態。
頭の中が、からっぽになる。
何も考えられなくなる。
で、そのときおもしろい現象が起きる。

これもあくまでも私のばあいだが、脳みそが勝手に乱舞し始める。
冗談がつぎつぎと口から出てくる。
ワイフとの会話にしても、掛け合い漫才のようになる。
ペラペラと軽口が多くなる。
子どもを指導しているときもそうで、レッスンそのものが、メチャメチャになる。
(もともとメチャメチャだが……。)
そういうときの私は、まったくの別人。
(あるいはそちらのほうが、本来の私かもしれないが……。)

で、問題は、弛緩状態から、緊張状態への戻し方。
どうすれば脳みそを、緊張状態に戻すことができるか。
ふつうは何かの記事などを読んでいて、ビビッと火花が飛んだようなとき、
緊張状態に戻る。
カチンときたときでもよい。
が、それもないときは、ダラダラと時間が過ぎる。
たとえば今がそうだ。
先ほどから30分ほどパソコンの前に座っているが、どこへ消えたかと
思うほど、頭の中は、からっぽ。
何も頭の中に浮かんでこない。
知識や情報がどこかにあるはずなのに、それが浮かんでこない。
「いったい、どこへ消えてしまったのか!」
……ということで、この文章を書き始めた。

●息子のE

頭の中に断片的な情報が、少しずつ戻ってきた。
先ほど書店で立ち読みした本の内容。
それに息子たちのこと。
そう、息子のEのこと。

今月、息子のEが結婚した。
そのこともあるのだろう。
今度、Eが息子の友人から、家を借りることになった。
「だいじょうぶかな?」
「素性のわからない人から、家を借りるのはよくない」
「家賃はどうなっている」
……などと、いろいろ考える。
で、そのことをメールに書いた。
昨夜遅く、その返事が届いた。

それによれば、要するに、「心配ない」。
息子のEも、私が思っている以上に、おとなになった。
成長した。
私より、はるかに人格者。
精神力も強いし、情緒も安定している。

私は「おいしい話には、裏があるから気をつけるように」と書いた。
それについても、あれこれとこまかく説明してくれた。
それを読んで、ほっとした。
安堵感に包まれたとき、急に体中から力が抜けた。

●幸福とは

幸福感ほど、実感しにくい感覚もない。
あえて言うなら、今の私のように、何も問題がない状態を、幸福というのか?
もちろん幸福感と、喜びはちがう。
ふつうは何かの欲望を満たされたとき、喜びを感ずる。
が、喜びイコール、幸福ということではない。

このところワイフとは円満な状態がつづいている。
今日も、街までの距離の約半分を、いっしょに歩いた。
腕を組みながら、歩いた。

長男も、やる気を出して仕事をしている。
アメリカに住んでいる二男からも今朝、メールが届いていた。
5月xx日に、ディズニーワールドへ行くと言っていたから、「やめたほうがいい」と
私はメールを書いた。
その返事だった。

三男については、先に書いたとおり。
そうそう、今度の連休には奥さんを連れて、帰ってくるという。

が、今、何よりもうれしいのは、母や兄の介護から解放されたこと。
実家から解放されたこと。
私には重くて苦しい半世紀だった。

●ひとりよがりな考え

ひとつ気になっているのは、仕事のこと。
いや、私の仕事のことではない。
先日、横浜に住む友人が私の家に来て、こう言った。
「ぼくは仕事をやめられて、うれしい」と。
彼はこの春、3度目の退職をして、完全な引退状態になった。

私はこの言葉に、電撃に打たれるようなショックを受けた。
というのも、私は、世の中の人たちはみな、仕事をしたがっているものと
ばかり思っていた。
私もそうで、今、そこに仕事があること。
その仕事ができること。
そういう状態に喜びを覚えていた。
「仕事をやめて喜んでいる人がいる」などということは、思いもつかなかった。

それを知らなかった私自身にショックを受けた。
私の考えは、あまりにもひとりよがりなものだった。
そのひとりよがりな考えの上で、持論を組み立てていた。

●安易な『ダカラ論』

人の心は、本当に複雑。
同じようなショックだが、若いころ、子どもを愛せない母親の話を知って、
驚いたことがある。
実際には、8〜10%の母親たちが、子どもを愛せないと、人知れず、悩んでいる。
「親、なかんずく母親というのは、子どもを愛しているもの」と、私は思い込んでいた。
が、実際には、そうでない。

簡単に言えば、自分がそうだからといって、他人もそうであると思ってはいけない。
また自分を基準にして、心を語ってはいけない。
ほかにもある。

世の中には、親をだます子どももいるが、反対に、子どもをだます親もいる。
叔父や叔母をだます甥や姪もいるが、反対に、甥や姪をだます叔父や叔母もいる。
「身内だから……」という言葉ほど、アテにならないものはない。

さらに言えば、それぞれの家庭問題には、たとえ身内でも、口をはさまないこと。
それぞれの家庭には、それぞれに、人には言えない、複雑な事情というものがある。
周りの人たちに干渉されて、それこそ死ぬほどつらい思いをする人だっている。
ある女性(現在、66歳)は、こう話してくれた。

「母は現在、85歳になります。
口がうまく、外面(そとずら)はいいのですが、家の中では、わがままのし放題。
食事が遅いと言っては怒り、まずいと言っては怒ります。
そんなとき、定期的に伯父(=母親の弟)から電話がかかってきて、『姉を大切に
しろ!』と。
そうした電話がかかってくるたびに、悔しさと悲しさで、手が震えます」と。

が、無神経な人には、それがわからない。
安易な『ダカラ論』だけを振りかざし、「こうあるべき」と決めてかかってくる。

……と、ここまで書いて、やっと少し、頭が熱くなってきた。
脳みそに緊張状態が戻ってきた。
いろいろと書きたいことが、浮かんできた。

よかった!、ということで、今日も始まった。
4月30日、早朝。
おはようございます。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●うれしいメール

+++++++++++++++++

フランス在住のSさんから、
こんなメールが届いている。

フランスの子育て事情がわかっておもしろい。
ドイツでも、フランスでも、子どものための
クラブが発達している。
ドイツなどでは、中学生たちはたいてい、
午前中で授業を終え、午後は、それぞれ
好きなクラブに通っている。

月謝も安い。
「チャイルド・マネー」という補助金が支給され、
それで通うことができる。

++++++++++++++++++

【Sさんより、はやし浩司へ】

私たちは元気で、KT(=長男)もTK(=二男)も毎日自転車で走り回っています。
昨年のオリンピックでBMXの女子の部で、地元のブルターニュの選手が
金メダルをとったので、今年はBMXを始める人が多く、
先日の地方の大会でも400人もの選手が集まりました。

KT(=長男)とTK(=二男)が所属しているクラブも、とても人気があります。
毎週のトレーニングはもちろん、今年からは雨の日は自転車の手入れ?
(というのでしょうか?)、工具を持っていって、ここをまわすと.....とか言っています。
すでに私のわからない世界です。

4歳からクラブに入れるので、小さい子でありながら真剣に走っている姿は、
とても生き生きとしています。
クラブの費用も年間35ユーロ (約4300円)と、とても安いです。
KT(=長男)は今年からチェスを習い始めたのですが、そこも年間30ユーロです。
いろんな事に興味がある子供達には、とてもよい事だと思います。

先生のマガジンでおっしゃれられているように、子供達と一緒にいろいろ体験して、
同じときを過ごしたいと思っています。
先週も家族で、子供の希望で隣町まで往復20km、家族で自転車を走らせました。
健太は毎日したい!!と目をキラキラさせていましたが、私と夫は夜、
ぐったりしていました。

先日のマガジンでYOU TUBEでの先生の教室を子供達と一緒にみました。
え〜すご〜い!数の数え方、.みながらげらげら笑う子供達。
2人とも一緒に数える練習をしていました。
プライベートレッスンのようですね。

【はやし浩司よりSさんへ】

いつも転載許可、ありがとうございます。
「クラブの費用も年間35ユーロ (約4300円)」というのには、驚きました。
ドイツの例ですが、1か月、約1500円程度と聞いていましたので……。
チャイルド・マネーが、毎月、1万5000円程度支給されますので、
単純に計算すれば、子どもは毎週、10前後のクラブに通うことができます。
水泳が好きな子どもは、毎日水泳教室へ通う、ということもできます。

日本も、そうすべきですね!

学校は午前中で終え、午後は、それぞれが好き勝手なことをする。
今の日本のように、「学校だけが道」「学校を離れて道はない」という世界の方が、
異常なのです。

しかし問題もあります。
今の日本のまま、欧米のクラブ制度を取り入れたら、みな、進学塾だけに通うように
なるでしょう。
「算数クラブ」「理科クラブ」「受験クラブ」、とです。
社会の制度そのものが、ゆがんでいます。
こんな話もあります。

2年前、二男の嫁が、日本でいう司法試験に合格しました。
2人の子どもの子育てをしながらの合格です。
しかも嫁は、アメリカ文学部出身です。
で、私はそのニュースに驚きました。
が、それ以上に驚いたのは、アメリカでは、(そういうこと)が、できるということです。
日本では、考えられないことですね。
が、それだけではありません。
さらに驚いたことは、本来なら2年で、ロー・スクールを卒業しなければ
ならないのですが、それを4年にしてもらったということです。
「子育てで忙しいから、授業を半分にしてもらった」ということだそうです。

ものの考え方が、実にフレキシブル。
つまり世界の教育は、今、ここまで進んでいる。
が、この日本はどうか?

少しずつ改革が始まっていますが、日本が一歩前に進んだときには、欧米では、
さらに数歩、前に進んでしまっている……。
そんな感じがします。
本来なら率先して教育改革をし、それをほかの国に示してこそ、日本はアジアの中の
先進国ということになるのです。

が、それが……?
いまだに教科書検定だの、漢字検定だの、バカなことばかりしています。
今度は、「語彙力検定」も始まるとか?
浜松市郊外の小さな町ですら、観光ガイドの認定試験をしていますよ!
自ら「自由」を束縛しながら、その愚かさにすら気づいていない(?)。
日本という国は、ますます息苦しくなっています。

……とまあ、グチはここまで。

YOU TUBEを見てくださり、ありがとうございます。
そのYOU TUBEで、教室を公開するようになって、2か月が過ぎました。
Sさんからのメールが、実のところ、はじめての(見た人からの反応)です。
このところ日増しにアクセス数がふえていますが、はじめての(反応)です。
(この1週間、ユニーク・アクセス数は、100〜150件程度。
1人が10回、あちこちを閲覧しても、数の上では、1件とカウントされますので、
実際にはその数倍のアクセスがあるものと推定しています。)

どうかこれからも、公開教室を利用してください。
今は手が回りませんが、一段落したら、今度はプリント教材も、そのまま公開
するつもりでいます。
もちろん、すべて手作りプリントです。
そうなれば、フランスでも、私のレッスンを受けてもらえるようになりますね。
どうか期待していてください。

では、今日は、これで失礼します。

近く、日本でお会いできることを楽しみにしています。


Hiroshi Hayashi++++++++April. 09+++++++++はやし浩司

●恥(はじ)論

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

「恥」をもって、これこそが日本が世界に誇る、精神的美徳であると説く人は多い。
「恥を教えれば、学校からいじめがなくなる」と説く学者もいる。
しかし本当に、そうか?
そう考えてよいのか?

そのルーツといえば、封建時代の、あの武士道である。
それ以前のことは知らないが、「恥」が、日本の文化の中で立場を定着したのは、
そのころである。

が、封建時代を美化してはいけなのと同じように、「恥」なるものを、
けっして美化してはいけない。
ほんの5〜6%の武士階級(=特権階級)の人たちにとっては、住みやすい
世界だったかもしれないが、あの時代は、世界の歴史の中でも、
類を見ないほど暗黒の時代であった。
それを忘れてはいけない。

それだけではない。
話は飛躍するが、「自立」と「恥」は対立関係にある。
自立できない人ほど、その一方で、恥にこだわる。
恥が日本人の精神的バックボーンであるとするなら、日本人は、それだけ
自立できない、つまりは未成熟な民族ということになる。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●子どもの自立

満4・5歳を過ぎると、子どもは、急速に自立をめざす。
幼児期から少年期への移行期へと入る。
この時期、子どもは、まさに(ああ言えば、こう言う)式の反抗を繰り返すようになる。

母「玄関から、新聞を取ってきて」
子「自分のことは、自分でしな!」と。

子どもは生意気になることで、おとなの世界をコントロールしようとする。
けっしておとなの優位性を、頭から押しつけてはいけない。
おとなは、ときに子どもに負けたフリをしながら、かつ、バカなフリをしながら、
子どもに自信をもたせる。
それが子どもの自立を促す。

●権威主義

が、中には、子どもの反抗を許さない親がいる。
子どもが何かを口答えしただけで、「何よ、親に向って!」と。
たいていは権威主義的なものの考え方をする親と考えてよい。
しかし親が、親風(=悪玉親意識)を吹かせば吹かすほど、子どもは委縮する。
萎縮するだけならまだしも、子どもは、親に「飼殺されたような状態」になる。

たとえば親の優位性を押しつけすぎると、子どもは、(1)権威、権力に従順になる、
(2)ものの考え方が復古主義的になる、(3)「型」にはまった考え方をするようになる、
(4)保守的な生き方をし、非冒険的な生活を好むようになる、(5)依存性が強くなり、
ものの考え方が服従になったり、卑屈になったろする。

が、最大の特徴は、(5)見え、体裁、メンツにこだわり、その結果として、「恥」をより強く意識す
るようになる。

「世間に顔向けができない」
「世間体が悪い」
「世間が笑う」と。

●世間的な自己評価

「私は私」「あなたはあなたは」という生き方の中で、子どもは自立する。
私がどんな人間であっても、構わない。
あなたがどんな人間であっても、構わない。
大切なことは、「私は私で生きる。そしてその分だけ、相手は相手として認める」。
それが「自立」である。
「自律」と言い換えてもよい。

が、「恥」を気にする人は、常に、周りの人たち、つまり世間的な自己評価を気にする。
わかりやすく言えば、他人の目の中で生きる。
しかしこれが実に愚かな生き方であるかは、ほんの50年前を知ればわかる。

たとえば私たちが子どものことのこと。
たとえば「役者」という職業は、番外と言ってもよいほど、「恥ずかしい職業」という
ことになっていた。
あるいは家族の中に、何か障害をもった人(子ども)がいたりすると、その家族は、
必死になって、それを隠そうとした。
私が幼稚園の講師になったときも、母は、電話口の向こうで泣き崩れてしまった。
「浩ちゃん、あんたは道をまちがえたア!」と。

しかしこんなものの考え方は、日本が誇るべき精神的美徳でも何でもない。
幼稚性の表れ、そのものとみる。

●恥ずかしいから、やめよう(?)

もちろん「恥」にも、いろいろある。
「個人の恥」
「家の恥」
「社会の恥」などなど。

こうした「恥」という言葉を使うときは、つねにそこに第三者的な目を想定する。
最近でも、韓国のある新聞に、こんな記事が載っていた。

いわく、「……(韓国人は)、平気で道路につばや痰を吐く。
こうした行為は、(先進国の仲間入りをしようとしている国としては)、恥かしい」と。
今日も、「元大統領、事情聴取、韓国の恥」という見出しをかかげていた新聞があった
(5月1日)。

このばあいは、(外国)という国を意識しながら、「恥ずかしい」と言っているのがわかる。
しかしだからといって、同じ国民に向って、「ツバを吐くのは恥ずかしいからやめよう」と
言うのは、越権行為もはなはだしい。
いらぬ節介。

大切なことは、自分たちの国がまだそのレベルであることを認め、全体として文化を
高めること。
その結果として、みなが、ツバや痰を吐かなくなる。

言いかえると、恥を感ずるたびに、破れた衣服にパッチをあてていても、問題の
解決にはならないということ。
個人についても、同じ。

●大切なのは反省

「何をしてもよい」ということは、けっして、「他人に迷惑をかけてもよい」ということ
ではない。
そんなことは常識で、「恥」という言葉を改めて出すまでもない。
で、ゆいいつ「恥」という言葉が生きる場所があるとするなら、それは「自分に対しての
恥」ということになる。
が、それとて、「後悔」もしくは、「自責の念」という言葉で、置きかえることができる。
「恥は、日本が誇るべき精神的美徳」と、無理に結びつける必要はない。

むしろ「恥」という言葉を先に使うことで、かえって「反省」そのものが、どこかへ
吹っ飛んでしまうことさえある。
たとえばあなたが何かの破廉恥罪を犯したようなばあいを考えてみよう。
電車の中で痴漢行為か何かを働いたようなばあいである。

逮捕され、新聞などに報道されれば、たしかに恥ずかしい。
しかしこのばあいも、「恥」が先に立ってしまうと、反省が後回しになってしまう。
大切なのは、「恥」ではなく、「反省」である。
それがわからなければ、痴漢行為はしたが、発覚しなかったばあいを考えてみればよい。
「恥」だけを考えていたとしたら、あなたは「うまくやった」と喜ぶことになる。
発覚しなかったから、「よかった」、発覚したから、「恥ずかしい」というのは、
あまりにも無責任。
言いかえると、あなた自身が、どこにもない。

●自分に対する恥

もちろん中には、自分のした愚かな行為について、自らに恥じる人もいるかもしれない。
しかしそれとて、その人がより高い境地になったとき、はじめてできることであり、
そうでなければ、自分に恥じるということは、ありえない。
たとえば痴漢行為にしても、自分がより高い境地になったときはじめて、「私は愚かなこと
をした」とわかるようになる。
そのときそれがわかるということはない。
わかれば、そうした行為はしないはず。
つまり発覚する、発覚しないというのは、別次元の話。
発覚しなくても、恥じる人は、恥じる。

そこで「自由論」!

●自由論

長々と話したが、要するに、「恥」という言葉を使うときは、そこにいつも他人の
目がある。
他人の目を意識して、「恥」という。
が、他人の目など、ぜったいに行動の規範にはなりえない。
また行動の規範にしてはいけない。
繰り返すが、「私は私」「あなたはあなた」である。
一言でいえば、「自由」。

その「自由」とは、「自らに由(よ)る」という意味である。
「自分で考え」「自分で行動し」「自分で責任を取る」。
この3者を合わせて、「自由」という。

その自由が達成できたら、(もちろん犯罪は別だが……)、私がどんな私であっても、
またあなたがどんなあなたであっても、私は私、あなたはあなたで、生きていけばよい。
自立というときの「自立」、自律というときの「自律」というのは、それをいう。

さあ、あなたも叫んでみよう。
「恥なんて、クソ食らえ!」と。
子どもに対しては、「あなたはあなた」と教える。
すべてはそこから始まる。

(以上、未完の原稿ですが、一度、このままBLOGに掲載します。)

(付記)

私自身は、「恥」という言葉を生涯にわたって、使ったことはない。
そんな言葉など知らなくても、何も不都合なことはない。
私は私で、それなりにちゃんと生きている。
が、もし「恥ずかしい」と思うようなときがあれば、こんなときだ。

若い母親たちが参観している教室で、立った拍子などに、ブリッと、
おならが出てしまったような場合。

そういうときは、内心では「恥ずかしい」とは思うが、私は知らぬ
顔をしてレッスンをつづける。
「気がついたかな?」「ほかの音とまちがえてくれたかな?」と
思いながら、レッスンをつづける。

つまり「恥」というのは、もともとそのレベルの話。
そのレベルを超えることはない。
少なくとも「日本が誇るべき……」などというレベルの話ではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
恥論 恥とは 恥ずかしい はやし浩司の恥論 恥(はじ)論)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

●国際政治

+++++++++++++++++++++

無視すればするほど、相手は、躍起(やっき)になる。
墓穴を掘る(クリントン国務長官)。

現在のK国が、それ。
今度は、「核実験をする」とか、「ミサイル実験をする」とか、
言いだした。
世界から注目されたいという気持ちはわかる。
「何とかしてほしい」という気持ちもわかる。
しかしやるべきことが、ちがう!
そんなヒマがあったら、国内生産を充実さえ、国民に
与える食糧の心配をしたらよい。

+++++++++++++++++++++

が、ここで「?」と思われるニュース。
何でも非同盟諸国会議の席で、K国支持の採択がなされたという。
聯合ニュース(5月1日)は、つぎのように伝える。

『北朝鮮外務省報道官は1日、先月30日に閉幕した非同盟諸国会議の閣僚級会議で採択
された最終文書で、これまで記載されてきた6カ国協議を含む朝鮮半島関連条項が除外さ
れ、参加国らは6カ国協議に参加しないという北朝鮮の立場に理解を示し、支持したと主
張した』と。

「非同盟諸国首脳会議」、またの名を、「中立諸国首脳会議」という。
英語では、「Nonaligned Summit Conference、Non-Aligned Movement Summit 
Conference 」という。
現在120か国前後が加盟。
国連を舞台として、活躍している。
が、その席で、「K国支持の採択がなされた」という(?)。

K国外務省報道官の発表なので、まともに信じるわけにはいかないが、それにしても、
ヘン?

それはともかくも、アメリカは、現在、K国に対して「無視作戦」を展開中。
何をしても、何を言っても、相手にしない、と。
もちろん援助も、しない。
それに今は、それどころではない。
世界中が、豚インフルで、パニック状態。
「こんな忙しいときに!」というのが、私たちの率直な感想。


●YOU TUBE「BW幼児公開教室」

++++++++++++++++++

この数か月間、電子マガジンの読者が、
ほとんどふえない。
そのこともあって、電子マガジンを発行する
意欲が、日増し、月増しに減退している。

で、その一方で、やる気が出てきたのが、
YOU TUBEの「BW幼児公開教室」。
教室の様子をそのままビデオに収録し、
それをインターネット上に公開している。

今は、これが楽しい。
毎晩、仕事から帰ってくると、1時間ほどを
かけて、YOU TUBEにアップロード
している。
ビデオの編集などは、短時間でできるが、
アップロードに時間がかかる。
で、その間、ぼんやりと画面をながめたり、
別の原稿を書いたり……。
今が、そのとき。

この公開教室のほうは、当初、一日数件程度の
アクセスしかなかったが、2か月後の今、
120件前後にふえた。
(1人の人が、10回アクセスしたとしても、
1件としてカウントされる。)

しかも、数日前、フランス在住のSさんから、
「子どもたちが楽しんでいます」というメールを
もらった。

こうなると、「もう止まらない!」。

興味のある方は、ぜひおいでください。
楽しいですよ。
どこかの教材会社が作る学習教材とは、
また別の(楽しさ)があります。

http://bwhayashi.ninja-web.net/
より。


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司

【板取川】

●岐阜県・板取村へ

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今、ワイフと私は、電車
に乗って、板取村へと
向かっている。

++++++++++++++++++++

●電車の中で

この原稿は、電車の中で書き始めた。
名鉄・豊橋線の中。
土曜日ということもあって、子連れの夫婦が、
前後に何組か座っている。

私は職業柄、子どもたちの顔や姿を、ジロッ、ジロッと見てしまう。
どうしても見てしまう。
長く見る必要はない。
瞬間でよい。
時間にすれば、1秒前後か。
それでわかる。

年齢から、性格、さらには問題点まで。
で、私のばあい、10年〜後の姿まで、見えてくる。
「この子は、こうなって、ああなって……」と。
過去も見えてくる。
「どういう家庭環境で、どう育ったか」と。
どこかの予言者みたいな言い方をするが、これは事実。
しかしスピリチュアル(霊力)などという、インチキなものではない。
経験と知識に基づいている。

診断権こそないが、何か情緒に障害をもっている子どもにしても、
瞬間、垣間見ただけで、それがわかる。
わかるものはわかるのであって、どうしようもない。

もちろんその反対のこともある。
学校で、LD(学習障害児)と判断された子ども(小1男児)がいた。
(学校側が、それをはっきりと示したわけではないが……。)
学校側は親に、特別学級への編入を勧めていた。
が、私は「そうではないと思う」と、母親に告げた。
「〜〜ではないと思う」という診断なら、私にもくだせる。
で、2、3年もすると、その結果が、はっきりとしてくる。
その子どものばあいも、小学4年生になるころから、めきめきと
成績を伸ばし始めた。
現在は小学6年生だが、その学校のクラスでも、トップの成績を修めている。

……しかしそれがわずらわしいから、(子どもがわずらわしいからではない。
誤解のないように!)、本当は、こうした休日には、できるだけ子どもの
そばに、すわらないようにしている。
どうしても気になってしまう。
しかし、この席は、指定席。
車内も、ほぼまんべんなく、混んでいる。
席を移動することはできない。

●診断

ななめうしろの席のA君(小2くらい)。
度の強いメガネをかけている。
A君の遠視に気がついたのは、かなり遅かったのではないか。
年齢相応の人格の完成度に、やや欠ける。
動作が、どこか幼稚ぽい。
時折前の席に座った弟(5歳くらい)に、ちょっかいを出しているのは、
嫉妬からか。
赤ちゃん返りの後遺症も残っている。
弟の横には、母親が座っている。
それで弟の横にいる母親が気になるらしい。

……というようなことを書くのはやめよう。
今日は、一応、「旅行」。
仕事の話はなし!

+++++++++++++++++++++

【板取村・旅行記】

●生老から

「生老」……このあたりでは、「しょうろ」と読む。
その生老から、目的地の民宿「ひおき」まで、約10キロ。
生老で理髪店を営む従兄(いとこ)は、そう言った。

10キロ。
何とか歩けそう……ということで、私たちは歩き始めた。
坂道というほどでもないが、ときどきゆる〜い坂道。
5月の新緑が、まぶしいばかりに美しい。
私はそのつど、風景をビデオや、カメラに収める。

●Yさん

私は従兄のYさんを、尊敬の念をこめて、いつも「Yさん」と「さんづけ」で呼んでいる。
頭がよい。
キレる。
たまたま田舎にいるが、都会に住んでいれば、超一級のドクターになっていたはず。
今とちがって、昔は自分で自分の病気を治さねばならなかった。
それで医学を独学した。

そのYさんが、自力で、囲炉裏小屋を建てた。
それを見せてもらった。
土台から屋根、部屋の造作まで、すべてひとりで作ったという。
道楽に、これ以上の道楽があるだろうか。

「ぼくも山荘を作るとき、家以外は、すべて自分たちでしました」と話したら、
うれしそうだった。
趣味を同じくするものには、相通ずるものがある。

ただし一言。
家作りにせよ、土地作りにせよ、それを作っているときが楽しい。
作り終えたとき、そこでその道楽は終わる。
今の私がそうだ。
終わったとき、また別のものを求めて、さまよい歩く……。
従兄も、同じようなことを言っていた。

●万歩計

万歩計を見ると、すでに1万1000歩になっていた。
家を出るとき、ゼロにセットしたはず。
「それほど歩いていない」と思ったが、それだけ歩いたのだろう。
ふだんなら、一日の運動量としては、じゅうぶん。
それをワイフに告げると、「今日は2万歩を超えるかも……」と言った。

私はところどころでビデオを撮ったり、写真を撮ったりした。
その間にワイフは、100メートルほど先へ。
私は急いで追いつく。
写真を撮っては、追いつく。
その繰り返し。

●門出(かどいで)から、上ヶ瀬(かみがせ)

上ヶ瀬(かみがせ)……なつかしい地名が飛び込んできた。
昔、伯父が、この街道筋で、駄菓子屋を営んでいた。
何度か遊びに来て、菓子を分けてもらったことがある。

風景は、すっかり変わっていた。
洋風の家も、ところどころに見える。
が、何と言っても、道路が立派になった。
見るとワイフは、小さなタオルで額をぬぐいながら歩いていた。
「だいじょうぶ?」と何度も声をかける。
そのつどワイフは、「だいじょうぶ……」と。
歩いてまだ20分ほどなのに、もう無口になってしまった。

で、たしか伯父の店は、その村の中心部にあったはず。
裏から外を見ると、その下に板取川が見えた。
「どこだったのかな」と思っているうちに、上ヶ瀬の村を出てしまった。

●静かな村

5月2日、土曜日。
しかしどこも閑散としていた。
みやげもの屋や、土地の名産品を売る店もいくつかあったが、
客の姿は見えなかった。
今が行楽のベスト・シーズン。
暑くもなく、寒くもなく……。

「きっと不景気だからよ」とワイフは言った。
「そうだね」と私は答えた。

行き交う車の数も、少なかった。
うす曇り。
その雲を通して、日差しは白く、まぶしかった。
春の陽光が私たちの影を、道路にしっかりと作っていた。

その私……。
背中には、大型のリュックサック。
パソコン一式、ペットボトルなど。
10キロ以上はある。
それが少しずつだが、身にこたえるようになってきた。
ズシンズシンと、太ももにひびく。

●加部から生老

話は前後するが、生老のひとつ手前の村が、加部(かべ)。
順に並べてみると、こうなる。
加部→生老→上が瀬。

その加部から杉原(すぎはら)まで、
私は子どものころから、一度は、歩いてみたいと思っていた。
加部というのは、母の実家があるところ。
母は、13人兄弟の長女として、そこで生まれ育った。

その加部から生老までは、歩いて5分くらい。
加部まで車で送ってくれた人に礼を言って、生老まで歩いた。

どうして歩いてみたいかって?
それにはこんな理由がある。

●山の向こう

私は子どものころから、この板取村へ来るたびに、母にきまってこう
聞いたという。
「あの山の向こうは、どうなっている?」と。

母もそのことをよく覚えていて、ずっとあとになって、「浩司は、うるさかった」
と、何度もそう言った。
それがいまだに記憶のどこかに残っていて、この年齢になっても、(山の向こう)の
夢をよく見る。

山の向こうには別の村があって、そこには温泉がある。
温泉には洞窟があって、みながその洞窟の中で温泉につかっている、と。
子どものころには、山の向こうには、キツネが住んでいる部落があると、
本気で私は信じていた。

しかしおとなになってから、私がよく見る夢は、こんな夢だ。

●夢

金沢から富山に抜ける。
そこから山をくだっていくと、板取川の源流にたどりつく。
(実際には、富山から板取川に入る道はないが……。)
私はその源流をくだりながら、上流から下流へと、村々を通り過ぎて、
くだっていく……。
ただの旅行の夢だが、崖の下には、コバルト色の澄んだ川が見える。
ところどころで道は細くなり、農家の軒先を歩く。
どうということのない、たわいもない夢である。

で、その夢のルーツはといえば、幼いころの私に戻る。
私には、周囲の山々が、山というよりは、緑の壁のように見えた。
だからその壁の向こうがどうなっているか、それを知りたくてたまらなかった。
それが今の夢につながっている(?)。
たぶん……?

●アジサイ・ロード

「ぼくは今日、自分の夢を果たしている」
「一度は、歩いてみたかった」
「これでぼくは思い残すことはない」と。

ワイフはすでに何も言わなくなっていた。
下を向いたまま、景色を楽しむという余裕もなさそう(?)。
私にはそう見えた。

ところどころに「アジサイ・ロード」という標識が立っていた。
その標識の立っている周辺には、たしかにアジサイの木があった。
残念ながら、今は、その季節ではない。

で、見ると、ひとつの標識に「岩本(いわもと)」という地名が書いてあった。
とくに思い出はないが、正月の初詣に、母と、この村のお宮様に来たことがある。
このあたりでは、神社のことを、「お宮様」という。
私が小学生くらいのことではないか。

そうそう言い忘れたが、このあたりの人たちの姓は、ほとんどが「長屋」。
だからみな、姓ではなく、名前で呼びあっている。

●長屋氏

みな「長屋氏」を名乗っているが、一族というわけではない。
戦国時代に活躍した長屋氏の子孫でもない。
明治に入ってから、みながいっせいに、「長屋」の姓を名乗るようになったという。
(その昔には、岐阜城が落城したとき、長屋なんとかの守(かみ)が、
落人(おちうど)として、この地に移りすんだという話は聞いたことがある。
不正確な話で、ごめん。)

その昔は、この街道を通る人たちから、通行料を徴収していたという。
「徴収」といえば聞こえがよいが、要するに山賊(?)。
昔それを母に言って、えらく母に叱られたことがある。
「わっち(=私)の先祖は、山賊ではねえ(=ない)!」と。

この街道を抜ければ、岐阜から福井県の大野へ、そしてそのまま
日本海へ行くことができる。
昔は福井で取れた魚や、越中富山の薬売りなどが、この道を通ったという。
日本でも秘境のひとつと言ってもよい。
途中には、落差200メートル近い渓谷がある。
さらにその先では、恐竜の化石が、つぎつぎと発見されている。

●森林

30年ほど前、私は、板取村の中の山林を購入した。
よく調べなかった私が、「ターケボー」ということになる。
ターケボーというのは、このあたりの方言で、「愚か者」という意味である。
「バカ」よりは、ニュアンスが強い。

当時の相場でも、x0万円。
それをその人を信じて、x00万円で購入してしまった。
私にとっては、信じてもおかしくない立場の人だった。
まさかのまさか。
そういう人にだまされた。

で、そのあとも、毎年、言われるまま、管理費なるものを、払っていた。
その額、8〜10万円。

「枝打ちをしたから実費を払え」「下草を刈ったから実費を払え」と。
しかしこれもあとになってわかったことだが、その人は山の管理など、
何もしてくれていなかった。
またこうした管理は、森林組合に申請すれば、組合のほうで、無料でしてくれる。
そういう話も、あとから聞いた。

その森林が、30年を経て、x0万円。
30年前には、x00万円もあれば、家を新築することができた。
x00万円がx0万円!
現在のx0万円では、駐車場をつくるのも難しい。
その手続きをすませ、従兄が住む生老へとやってきた。
従兄が今回の売買では、いろいろと力になってくれた。
その礼を言いたかった。

●類は友を呼ぶ

今回の金融危機で、金融資産を100分の1にした人がいる。
1億円が、100万円。
そういう人の話を、身近で聞いていたので、x00万円くらいなら、
何でもない……と言いたいが、そうはいかない。

相手がそれだけの誠意を見せてくれれば、まだ救われる。
母にも近い人だったが、母の葬儀にも来なかった。
今回も、何も協力してくれなかった。

昔からこう言う。
(私がそう言っているだけだが……。)
『被害者はいつまでも被害を受けたことを覚えている。
しかし加害者には、その意識がない。
あってもすぐ忘れる』と。

「復讐」という言葉もあるが、それを考えるだけで、疲れる。
だから忘れるのが一番。
どうせその程度の人は、その程度の人生しか送っていない。
まさに一事が万事。
万事が一事。
いろいろ噂が耳に入っているが、板取村でも、つまはじき者とか。

さらに言えば、『類は友を呼ぶ』。
その人と親しく交際している人を、私は何人か知っている。
しかしたいへん興味深いことに、どの人も、似たような人。
小ずるくて、どこか薄汚い。

●損論

少なくともこの10年以上、私は悶々とした気分が晴れなかった。
金銭的な損失を問題にしていたわけではない。
事実、それで売れなかったら、山林は、地元の森林組合に寄付するつもりでいた。

それ以上に、信じていた人に裏切られたというのは、信じていただけにショックが大きい。
それに私は、板取の人たち以上に、この村が好きだった。
今も好きだ。

しかしこの村へ来るたびに、ムッとした不快感と闘わねばならない。
それが苦痛だった。
だからはやくスッキリしたかった。
ケリをつけたかった。
山林のことは忘れたかった。
ついでに、それを売りつけた人のことも忘れたかった。

が、悪いことばかりではない。
人は、損をすることで、より大きくなれる。
損を恐れていたら、自分の殻(から)を破ることはできない。
「損をした分だけ、またがんばればいい」と。

人は追いつめられてはじめて、つぎの手を考える。
同じように、損をすることで、より賢くなる。
ちなみに、あなたの周囲で、ケチケチしながら生きている人を見てみるとよい。
そういう人ほど、小さな世界に安住しているのがわかる。

●中切(なかぎり)

母方の兄弟が13人もいる。
そのため、このあたりには、私の従兄弟が、散らばっている。
この中切にもいる。
私たちは、「Mちゃん」と呼んでいた。
当時としては珍しい、背が高く、スラリとした人だった。
夫は長く、中切の郵便局の局長をしていた。

で、ワイフは、相変わらず黙って歩いていた。
距離がわからないから、バス停に来るたびに、バスの時刻表を見た。
朝、7時01分に、板取温泉を出るバスがある。
その時刻は知っていた。
だから、時刻表に、7時05分とあれば、板取温泉からバスで、4分の
距離ということになる。
中切りのバス停では、7時05分となっていた。

「あと4分の距離だから……」と私は言った。
ワイフはウンとだけ、うなずいた。
ワイフはすでに体力の限界を超えていた。
それが私にも、よくわかった。

●絶望

その中切を出たところに、コンビニがあった。
飲み物を買った。
で、そこの若い主人に、「板取温泉まで、あとどれくらいですか」と聞いた。
主人は、「5分……」と言った。

私「歩いていくと、どれくらいですか?」
主「5キロくらいかな……。こ1時間はかかるかな……」と。

私は、この「5キロ」という言葉を聞いて、がく然とした。
「まだ、半分しか来ていない?」「いや、そんなはずはない」と。
「もしそうなら、今までの倍の距離など、とても歩けない」と。

私ははじめて弱音を吐いた。
「従兄に助けに来てもらおうか」と。
ワイフは、その言葉にずいぶんと迷ったらしい。
「そうねえ……」と、小さな声でつぶやいた。

●なしのつぶて

私に山を売りつけた人には、何度か手紙を書いた。
しかしそのつど、返事はなかった。
その私も61歳。
そろそろ身辺の整理をしなければならない。
山林など、もっていても、どうしようもない。
そこで山林を売りに出すことにした。

しかし山林は、町中の宅地のようなわけにはいかない。
売るといっても、その方法がない。
それを扱う不動産屋もない。
しかたないので、私は新聞に、折り込み広告を入れた。
「山林を買ってくれる人はいませんか?」と。
が、この折り込み広告が、その人の逆鱗に触れたらしい。
私のことを、「浜松のターケボー」と、周囲の人たちに言っているのを知った。

「自分に恥をかかせたから、ターケボー」と。

どこまでも、あわれな人である。
心の貧しい人である。
心の髄(ずい)まで、腐っている!

●山林

素人は、そしてその土地の人間でないならば、山林などに手を出してはいけない。
「投資のつもり」と考える人がいるかもしれないが、それもやめたほうがよい。
買うとしても、何町歩単位というように、山ごと買う。
理由がある。

山そのものには、財産的価値はほとんどない。
価値があるとすれば、その上の木。
「立木(たちぎ)」という。
しかしその管理がたいへん。
木の管理もたいへんだが、隣地との境界をどう守るかもたいへん。
10年も放っておくと、境界すらわからなくなる。

加えて買うのは簡単だが、売るのがたいへん。
まず不可能と考えてよい。
山林というのは、地元の知りあいどうしが、内々で売買するのが慣わしになっている。
私はそれを知らなかった。
私はたしかに、ターケボウだった。

●あと2キロ

「もうだめだ……」と、私も思うようになった。
ワイフはひざが痛いと言った。
私も太ももが、引きつったように痛くなり始めていた。

私「きっと10キロではなかったんだよ」
ワ「……」
私「きっと15キロだっただよ」
ワ「……」
私「ぼくの夢につきあわせて、ごめんね」
ワ「毎度のことよ……」
私「うん……」と。

ビデオを撮る回数も少なくなった。
首にぶらさげたカメラが、ベルトのバックルにカチャカチャ当たる。
心の遠くで、「カメラに傷がつく」と思ったが、それをポケットにしまう
元気もなかった。

と、そのとき小さな看板が目についた。
「板取温泉まで、2キロ」と。

とたん元気がわいてきた!
あと2キロ!

「あと2キロだよ。家から、ビデオショップまでの距離だよ」と。

私たちは丘の上を歩いていた。
その向こうに、赤い大きな屋根が見えてきた。

「着いたよ!」と声をあげると、ワイフははじめてニッコリと笑った。

●板取温泉

このあたりでは、ドイツ語が公用語になっている、らしい。
少し前に通り過ぎた、板取中学校にも、ところどころにドイツ語が使われていた。
ドイツのどこかに似せて、村興(おこ)しをした(?)。
板取温泉も、そういう雰囲気を漂わせていた。

それが正解だったのか?
昔からの板取を知る私としては、違和感を覚える。
あちこちに「スイス村」という表示も見える。
しかしどうして板取が、スイス村?
雰囲気からして、カナディアン村のほうが、合っている。

和室の一部を、水色に塗り替えたような違和感である。
スイスは山の上の国。
板取は、深い谷あいの村。

しかしそれを差し引いても、板取温泉は、すばらしい。
美しい自然の中にある。
私自身は、まだ一度も入浴していないが、評判はよい。

●山の宿・ひおき(民宿)

私はこの板取村が好きだが、ここ数年は、板取村へ来るたびに、
いつもこの「ひおき」に泊っている。
板取村では、イチ押しの民宿である。
場所は、板取温泉の、川をはさんで反対側。
歩いて5分ほどのところ。

住所:岐阜県関市板取3752−1
電話:0581−57−2756

四季折々の自然を満喫できる。
1泊10500円(1名のばあい)。
手元の案内書にはそうある(09年5月)。

案内書には、「通気による冷暖対策のため、閉鎖的な客室構造とはなっていませんので、
ご了承くださいませ」とある。
そのポリシーが気に入っている。

のんびりと山間の田舎を満喫したい人には、お勧め。

●小さな村

そのひおきの主人が、私たちの部屋にやってきて、こう言った。
「山のほうは、片づきましたか?」と。

ギョッ!

この言葉には驚いた。
「どうして知っているのだろう」と。

私は折り込み広告を入れた。
それには、「浜松の林」という名前を明記した。
どうやらそれを読んだらしい。
しかしそれにしても……!

もうひとつの可能性は、以前書いた、私の旅行記を読んだ(?)。
その中で、「ひおき」の宣伝をしておいた。
今、ヤフーの検索エンジンなどを使って、「山の宿ひおき」を検索すると、
私のHPが、かなりトップのほうに出てくる。
それで私の名を知っていたのかもしれない。

もともと小さな村である。
折り込み広告にしても、全世帯で、530軒ほど。
動きが止まったような村だからこそ、その内部では、濃密な情報交換が
なされているにちがいない。

私が「実は今日、片づきました」と言うと、うれしそうに喜んでくれた。

●2万6400歩

ひおきに着いてから、万歩計を見ると、2万6400歩。
生老から民宿「ひおき」まで、1万4400歩ということになる。
私の歩幅で、1万歩で、約7・5キロ。
それで計算すると、生老から板取温泉まで、約10キロということになる。
従兄が言ったことは、やはり正しかった。

しかしそれにしてもよく歩いた。
荷物も重かった。
そのこともあって、ひおきでは、ご飯を、3杯も食べてしまった。
いつものことだが、おいしかった。
気持ちよく眠られた。
午後8時に就寝。
起きたのが午前4時。
ワイフは、午前5時。

まだキーボードがよく見えないときから、この原稿をまとめる。
今は午前5時半。
これから近くの川へ行き、ビデオと写真を撮ってくる。
家へ帰ってからの編集が楽しみ。
「どうか期待していてほしい」と、今、ふと、そう思った。

●帰りの電車の中で

帰りも名鉄電車を利用した。
一度JRへ回ったが、あまりの混雑に驚いた。
ワイフが、「名鉄にしましょう」と言った。
名鉄電車なら座席指定券が取れる。
それにシートもよい。

その電車の中。
たった今、電光掲示板に、アメリカ人の子どもに、豚インフルの疑いなし
と出た。
よかった。
昨日のニュースによれば、もう1人、名古屋市に住む人が感染の疑いがあるという。
その人はどうなったのか?

私「山が片づいて、よかったね」
ワ「そうね」
私「これから先、二度とあの家族とはつきあわないよ。
こうして悪口を書いてしまったからね」
ワ「そうね。これからは、あなた自身の板取を、心の中に作ればいいのよ」
私「そうだね」と。

窓の外は、昨日よりもさらに白く景色がかすんでいた。
春がすみ?
それとも黄砂?
ワイフも先ほどから、手帳にメモを書いている。
平和なとき。
おだやかなとき。

時刻は午前9時44分。
明日、三男の嫁さんが遊びにくる。
どこかでご馳走してやろう。
楽しみ!

電車は岡崎に着いた。
先ほど駅で買った、ういろうを、少し食べた。
おいしかった。
名古屋といえば、ういろう。
名古屋の名物。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
はやし浩司 山の宿ひおき 山の宿・ひおき 板取 ひおき 民宿ひおき 関市
板取村 民宿 ひおき 板取温泉 岐阜県関市板取 岐阜県板取村)

YOUTUBE、板取川は、

http://www.youtube.com/watch?v=-YLl-w_rrog
http://www.youtube.com/watch?v=zUpMkDn1UBE


Hiroshi Hayashi++++++++May・09++++++++++++はやし浩司

●情報の洪水(Floods of Information)

++++++++++++++++

数日前、BSアンテナを買った。
テレビ(=フル・ハイビジョン)に接続した。
NHKの視聴料金はずっと払ってきたが、一度、アンテナが
壊れ、そのままになっていた。

その間、数年間。
私は基本的には、テレビはあまり好きではない。
見るとしても、スポーツとかニュースだけ。
あとはDVD再生用。

が、久しぶりにBSを見て、驚いた。
チャンネル数だけでも、10前後ある。
その上、フル・ハイビジョン!
美しさがちがう。
ダントツにちがう。
……ということで、この数日間、テレビに釘付け。

++++++++++++++++

●考える暇

そこは情報の世界。
それが怒涛のように、飛び込んでくる。
つぎからつぎへと、立ち止まって考える暇もない。
チャンネルをあちこちに替えながら見ていると、頭の中が興奮状態になる。
自分でもそれがわかる。

そこでふと考えた。
「選んで見ないと、これはたいへんなことになる」と。

情報の量が多いからといって、それだけ知識が豊富になったということにはならない。
情報というのは、一度、頭の中で、整理されなければならない。
そのつど立ち止まり、思考という形で、脳の中に刻んでこそ、
情報は情報としての意味をもつ。
一方的に情報の洪水の中にいると、それこそ情報の渦の中に巻き込まれてしまう。
具体的には、感覚が麻痺し、思考力を失ってしまう。

たとえて言うなら、薮から棒に、何か専門的なことを質問されたばあいを想像して
みればよい。
1つ2つならまだしも、そういう質問が、4つ5つと重なった場合を想像してみればよい。
1つや2つでも、私たちは、相手の質問の内容を吟味し、ゆっくりと答える。
いいかげんなことを言うと、かえって相手に誤解を招く。
これがここでいう「考える暇」というのが、それ。

もっとわかりやすい例では、落ち着きなく、あたりをキョロキョロと見回している
子どもがいる。
キョロキョロしているから、頭がよいということにはならない。
むしろ、その逆。
キョロキョロしながら、その実、何も考えていない。
その(キョロキョロした状態)になる。

●刺激されるのは右脳だけ

順に考えてみよう。

たとえば昨夜、民放(BS)で、アメリカの自然を特集していた。
ワシントン州の景色である。
私はその美しさに息をのんだが、もしそのとき、「きれい!」「美しい!」だけで
終わってしまったら、思考力ゼロということになる。
が、テレビのほうは、思考することそのものを許してくれない。
こちらが考える間もなく、つぎからつぎへと、画面を変えていく。

空撮から水辺、花畑から森の中、さらには時間を短縮した画像へ、と。
そのつどそれを見ている私たちは、それに振り回されるだけ。
もしそのとき、私たちにできることがあるといえば、即座にそれに反応することだけ。
子どもの世界で言うなら、右脳ばかりが刺激され、それで終わってしまう。

瞬間的な判断力は必要かもしれないが、それが思考力につながるということは、
論理的に考えても、ありえない。

●バラエティ番組

そこで私たちは何かの情報を得たら、それを吟味し、思考に変換していく。
分析し、論理として組み立てていく。
が、情報の洪水の中では、それができない。
その典型的な例が、バラエティ番組と呼ばれる番組である。

けばけばしいスタジオ。
けばけばしい出演者たち。
そういう人たちが、意味のないことをギャーギャーとわめき散らしている。
そういうことをするのが、テレビ番組のあり方とでも思っているよう。
またそういうことができないと、ああした番組には出られない。

ついでながら、もう1つ、気がついたことがある。

ああした番組に出てくる人たちは、それぞれのタレントについて、よく知っている。
「●△□さんねえ……」
「XXYさんねえ……」と。

残念ながら、私はそういう名前を出されても、1人も顔が浮かんでこない。
学者の世界で言うなら、ノーベル賞を受賞した学者の名前とかになるのだろう。
つまりそういう名前を相互に口にしながら、彼らは彼らで、自分たちのステータス
を守りあっている。
またそういう名前を出されたとき、「そんな人、知らない」とでも言おうものなら、
さあ、たいへん。
みなから袋叩きにあう。

そしていつもの自慢話。
「この前、●△□さんと、ドラマをご一緒させてもらいましてね……」
「XXYさんとは、〜〜パーティで、一緒になりましてね……」とか。

まるでテレビという世界を中心にした、特権階級に住んでいるかのよう。
それを見ている視聴者は、指をくわえて見ているだけ。

●かけ合い漫才

話が脱線したが、ああした人たちを見ていると、「この人たちには、静かに考える
時間があるのだろうか」と思う。
が、問題は、それを見ている人たち。
私たちはそうした番組を見ながら、情報に振り回されているだけ。
そのときはそれなりに楽しくても、あとには何も残らない。
残らないばかりか、毎回見ていれば、当然、その影響を受ける。

しゃべり方やジェスチャが似てくるのはしかたないとしても、
考え方まで似てくる。

まず相手をドキッとさせるように、スレスレのことを口にする。
「お前、何や?、そんなアホづらしてエ?」と。

あたかもそう言いあうのが、親しさの表れとでも言わんばかりの言い方である。
それを数回繰りかえしたあと、かけ合い漫才のようになる。
脳の表面に飛来した情報を、ペラペラと口にする。

そこで問題点を整理すると、こうなる。

●問題点

(1)情報の洪水(一方向的な情報の洪水)
(2)思考力の低下(浅薄化)
(3)情報の麻薬性(絶えず情報に接していないと落ち着かない)
(4)禁断症状(情報が切れると、落ち着かない)

(1)情報の洪水。

このばあいも、「だから、どうなの?」と自問してみればよい。
「それがわかったからといって、どうしたの?」と。
それだけでも情報の量は、かなり選択される。

(2)思考力の低下

これはテレビ局側のねらいとも一致する。
間断なく情報を流すと、脳みそはその間、思考停止の状態になる。
つまりカラッポ。
そのあとコマーシャルを流せば、視聴者をそのまま洗脳することができる。
が、視聴者こそ、よい迷惑。
テレビ局側に操られるまま、操られてしまう。

(3)情報の麻薬性

これは私の母や兄を観察していて気がついたことだが、見てもいないのに、
母や兄は、一日中、いつもテレビをつけっぱなしにしていた。
テレビをつけていないと、落ち着かないらしい。
「情報の麻薬性」というのは、それをいう。
が、それは同時に、視聴者の愚民化を意味する。

(考えること)には、ある種の苦痛がともなう。
情報を垂れ流すことによって、その苦痛から、身を守ることができる。

(4)禁断症状

情報に接している間は、安心感を覚える。
が、その情報が途絶えたとたん、不安になる。
こうした視聴者の心理をテレビ局側は知り尽くしている。
だから、愚劣番組を垂れ流す。

見るからにそれらしい出演者たち。
視聴者は、自分よりバカな人間がいることを知り、安心する。
この安心感こそが、テレビ文化の基本になっている。

だから……。
それが途絶えたとたん、視聴者には禁断症状が生まれる。
不安になる。
心配になる。
つまり(テレビ)は(集団)であり、その集団に身を寄せることで、
安心感を覚える。

●選択の問題

否定的な意見ばかり書いたが、だからといって、テレビそのものを否定している
わけではない。
だれの目から見ても、テレビは必要だし、功罪を説けば、「功」のほうが大きい。
だから冒頭に書いたように、これは「選択」の問題ということになる。
「いかに番組を選択して見るか」ということ。
その操作を誤ると、これも先に書いたように、「たいへんなことになる」。

テレビゲームを与えている間は、おとなしい。
しかしゲームを取りあげたとたん、禁断症状が現れる。
テレビ漬けになったおとなも、同じような症状を示す。

「選んで見ないと、これはたいへんなことになる」という意味は、
これでわかってもらえたと思う。


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テレビ テレビ文化 テレビの功罪)


Hiroshi Hayashi++++++++May. 09+++++++++はやし浩司※

**************2009年5月4日まで***************




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阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.

writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ

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