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最前線の子育て論byはやし浩司
(09年 1月 30日 〜 )

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Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090130)(09年1月30日〜)

●迷惑メール

一時は、迷惑メールだけでも、1日、300〜400通を超える
ようになった。
で、そのあと、プロバイダーのほうでもフィルターをかけてくれるようになった。
私のほうでも、フィルターをかけるようにした。
ということもあって、このところ、迷惑メールは、ほとんどこなくなった。

しかし敵もさるもの。
(「さるもの」というのは、「然(さ)るもの=さすが」という意味だが、
「猿」にかけている。正しくは、「敵もさるもの、ひっかくもの」と言う。)

差出人をフィルターに登録しても、すり抜けてくる。
たいていは個人名でくる。
おそらく似たような漢字を使うことによって、フィルターをすり抜けているのではないか。
「斉藤」を「齊藤」と表記するなど。

それがしつこいほど、毎日のようにつづく。

件名:連絡は届きましたか。
件名:これが最後です。
件名:チャンスを逃さないように。
件名:連絡、ありがとうございました、などなど。

片っぱしから削除しているが、これがなかなかたいへん。
追いつかない。
何のメールかわからないから、それだけに不気味。

が、そのうちボロが出る。
件名:今なら、2時間以内に、Sxxできます、とか。

で、そんな話をしていたら、ある人と話していたら、その人がこう言った。
メールもうるさいが、電話もうるさい、と。

最近多いのが、電話回線の乗り換え。
「○○光通信の者です」とか言って、電話がかかってくる。
で、その人のばあい、こう言って、相手を撃退しているそうだ。

知「……なんですか、そのヒ・カ・リ・通信というのは?」
相「お宅では、今、インターネットをなさっていますか?」
知「名前だけは聞いたことがありますが……。していません」と。

その知人が言うには、ボケたフリをするのも、よいそうだ。
相手はそのまま、あきれたような声で、電話を切る。

で、私のばあいは、今まで、まじめに応答していた。
しかしこれからは、そういう手もありかなと思うようになった。


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●いじけた心

++++++++++++++++++++

あのK国が、またまた対韓国非難をエスカレート
させている。

いろいろ騒ぐのだが、相手にされない。
そこでまたまた騒ぐ……。
あとはこの悪循環。
子どもの世界ではよく見られる現象だが、それを
一国の独裁者がしているところが、おもしろい。

TBSニュースは、つぎのように伝えている。

+++++++++以下、TBS−i・newsより++++++++++

K国は30日、南北間の政治軍事的対立の解消にかかわる「全ての合意事項を無効にする」と
の声明を発表、韓国側との対決の姿勢をさらに強めました。

 「逆徒一味により、これまで北南間で採択された合意はすでに死文化され、白紙化された」
(K国中央テレビ午後5時すぎ放送)と。

+++++++++以上、TBS−inewsより++++++++++

自分の意にかなわないからといって、「逆徒」と呼ぶのは、どうか?
もし韓国政府なり日本政府が、類似した言葉を使ったら、どうなるか?
彼らのことだから、「このときぞ」とばかり、ギャーギャーとわめき散らすにちがいない。
つまり自分たちは言いたい放題のことを言いながら、相手がそれを口にするのを許さない。
身勝手きわまりないとは、このことを言う。

これについて、韓国系の新聞各紙は、「脅し」と報道している。
韓国政府も、本気では相手にしていないようだ。
「オバマ政権に対する、ラブコール」という意見もある。
だれにも相手にされないから、ますますいきり立つ。

で、危ないのは、黄海(朝鮮半島の西側)。
しかしそれについても、K国の海軍では、どうしようもない。
2隻、フリゲート艦がもっているが、以前私が調べたところ、
どれも旧ソ連からの払い下げ。
写真で見るかぎり、サビついている。
「動いた形跡なし」と、どこかに書いてあったのも記憶している。

つまりゼンゼン、問題外。

しかしもちろん楽観視していてよいわけではない。
小競(こぜ)り合いが、そのまま戦争に、ということもありえないわけではない。
そうなれば、双方に、甚大な被害が出る。
もちろん日本も、無傷(むきず)では、すまない。
核兵器を使われたら、さらに困る。
それだけはぜったいに、容認できない。

韓国側が、冷静なのはよい。
……というより、今は、それどころではない。
韓国自体が、経済危機という巨大な津波に包まれようとしている。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●矛盾
(45% of the people in the world are working with only 2 dollars payment a day. Ans acording 
to the newspaper of today, an old man of the age 80 had been stolen money of 360000000 
yen. The money is equivalent to the payment of 5500 years to one poor man.)
++++++++++++++++

世界で45%の人が、1日2ドルで
働いているという。
一方、日本で、4億円近い現金を
盗まれた人がいた。

++++++++++++++++

今朝の朝刊に、お金にまつわる、2つのニュースが載っていた。
ひとつは、世界の45%の人が、1日2ドル以下で働いているというニュース。
そういう人たちが、14億人にもなるという(ILO・090128)。

もうひとつは、ある県の老人が、庭に埋めておいた、4億円※近い現金を
盗まれたというニュース(以上、中日新聞)。
盗まれたのは、80歳の老人だったという。
(しかもそのあとまもなく、亡くなっているという。)

これら2つのニュースを並べて読んでいると、あまりにも両極端すぎて、どう理解したら
よいか、わからなくなる。
たったの2ドル!、と思ったあとに、4億円も!、となる。

そこで……。

4億円(警察の発表では、3億6000万円)を、ドルに換算すると、約400万ドル。
400万ドルを2ドルで割ると、200万日分。
200万日を365日で割ると、約5500年分。
このあたりまでくると、少し、理解できるようになる。

つまり貧しい人が、5500年働いて稼ぐお金を、どこかの1人の老人が、
盗まれた。

5500年分だぞ!

ところがおかしなことに、こうして考えていくと、その老人のほうが、まちがっている
ように思ってしまう。
老人というより、世界のしくみのほうが、まちがっているように思ってしまう。
もちろんだからといって、盗まれてよかったと書いているのではない。
それはそれ。
しかし同情すべきなのだろうが、正直に書くが、その同情心が、わいてこない。
むしろ「80歳の老人が、4億円ももっていて、どうするの?」と、そんなふうに、
考えてしまう。

実際、この日本では、お金をもっている人は、もっている。
10億円単位でもっている。
しかしその一方で、月額20万円以下の給料で働いている人も多い。
そういう人たちは、毎日、爪に灯をともすような生活を強いられている。
これを社会の矛盾と言わずして、何と言う?

……というような話をしていたら、こんな広告が目に留まった。
何でも、今度、有料の老人ホームができたという。
介護度が4とか5の老人でも、入居できるという。
それを見ると、入居金が500万円。
月々の費用が、部屋代、食事代を含めると、約20万円。
私とワイフが、2人で入居したとすると、入居金が1000万円。
月々の費用が、40万円。
ほかに医療費などもある。

そういう計算をしながら、「死ぬのも楽ではないな」と、まあ、
そんなような会話を、ワイフと交わす。
何かおかしいが、こればかりはどうしようもない。
これでいいとは思わないが、だからといって、何ができるのか。
先の2つのニュースを読んだ直後だけに、矛盾だけが、あとに強く残った。

私「それにしてもさあ、だれが盗んだのだろう?」
ワ「そこに現金が埋まっていると知っていた人よ」
私「どこかで見ていたのだろうか?」
ワ「どこかで見ていたのよ、きっと……」

私「そのあとすぐ、その老人は亡くなったそうだ」
ワ「おかしいわね。何か、事件性を感ずるわ」
私「ぼくも、そう。感ずる、感ずる……。」
ワ「そのあたりも、警察は調べていると思うわ」と。

実は、お金というのは、稼ぎ方よりも、使い方のほうが、むずかしい。
ところがほとんどの人は、どう稼ぐかということばかりを考える。
どう使うかということは、あまり考えない。
「お金は、あればあるほどいい」と考えて、そこで思考を停止してしまう。
その老人がそうだったとは言わないが、やはり結論は、先の話に戻って
しまう。

「そんな老人が、4億円ももっていて、どうするの?」と。
しかしこれは、私のひがみか?

(注※)警察が追認できた金額が、3億6000万円。
盗まれた金額は、それ以上と考えられる。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●おわび
(When I write essays I have to pay much attention not to offend or insult people in the 
essays, and therefore I write like this way: in most cases I change names and their relations 
with me, or stories themselves as fictions. Otherwise I am to get involved in unexpected 
troubles. Please understand this when you read my esseys for which I thnak you very much.)
+++++++++++++++++++++

定期的に、こうしたおわび文を掲載しています。

+++++++++++++++++++++

私が書くエッセー(文章)について、つぎのことを、どうか、
ご理解ください。

こうしたエッセーでは、他人の話を、身内の人の話にしたり、
1つの話を2つに分けたり、あるいは反対に、2つの話を
1つの話にしたりすることは、よくあります。
もちろん身内の話を、他人の話にすることもあります。

またそれをしないと、たいへんなことになるからです。

ほかに、その人から聞いた話でも、その人とわからないように、
別のストーリーを組み立てることもあります。

さらに過去の話を現在風に仕立てたり、現在の話を、過去の話に
仕立てたりするときもあります。
その人の家族構成を変えたり、職業を変えたりすることは、
この世界では常識です。

ただ現在、私と交友関係にある人については、原則として
その人については、書きません。
批判も、しません。
またそういうことのために、(ものを書く)という手段を、
使いたくありません。
ものを書くことによって、交友関係を破壊したくないからです。

一方、一度でも批判したことがある人とは、交際しないことに
しています。
これは私が決めた、信義則のようなものです。
一方でその人を批判しながら、他方でにこやかな笑みを浮かべてつきあう
というような芸当は、私にはできないからです。

ただし政治家などの公人は、別です。
しかしそのばあいでも、できるだけ実名は避けています。
「麻生総理大臣」は、「AS総理大臣」と表記しています、など。

というわけで、中には、「あの林は私のことを書いた」とか、何とか
言って、不愉快に思う人もいらっしゃるかもしれません。
しかしそれは誤解です。

私は、個人攻撃はしませんし、そういうことをしても意味がないことを、
よく知っています。
せっかく私の文章を読んでくれる人にも、それでは申し訳ありません。
そういう人を、利用することになるからです。

以上のことを、どうかご理解の上、私の書いたエッセーを
読んでくだされば、うれしいです。
よろしくお願いします。

                 はやし浩司



Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●従順な子ども(Obedient Children)
(Has the Japanese education changed a lot since the end og the WW2? The answer should 
be "No". Still now most of the teachers want more obedient children, so-called "obedient 
children without mouths". The biggest problem we have is that there is only one course 
provided for children in Japan.

++++++++++++++++++++++

日本の学校、つまり日本の教育は、基本的に、
「もの言わぬ、従順な子ども」ほど、いい子と考える。
またそういう子どもにすることを、教育の(柱)に
している。

(少し過激かな?
しかしこれくらい過激に書かないと、みな、
目を覚まさない。)

明治以来、国策としてつづけられてきた、こうした
教育観は、ほとんど変わっていない。
代々、教師から生徒、さらにつぎの生徒へと、
受け継がれている。

こう書くと、「私はちがう」と反発する教師も
いるかもしれない。
しかし反発する前に、外国の学校と、比較して
みたらよい。
あるいはあなたが入学試験の試験官だったら、
どういう生徒を望むか、それをほんの少しだけ、
考えてみたらよい。
直接、日本人を、外国の子どもたちと比較してみるのも
よいかもしれない。
私がここに書いていることが、大筋ではまちがっていない
ことを、あなたは知るはずだ。

+++++++++++++++++++++++

●一定のワク

幼稚園教育には、「6領域」という言葉がある。
「健康」「社会」「自然」「言語」「音楽リズム」「絵画制作」の
6つを、「6領域と」いう。
「6つの分野にわたって子どもを指導する」というものだが、
要するに、何を教えてもよいということ。

が、この「6領域」という言葉は、日本人が考えたものではない。
アメリカの学校にも、同じ言葉がある。
しかも小学校で、それを使っている。

アメリカが日本の教育のまねをした形跡はないから、
日本がアメリカのまねをした。
あるいは戦後、GHQとともに、日本へもたらされた。
そう考えてよい。

要するに、アメリカの小学校では、何を教えてもよい
ということになっている。
「州政府の指導はきわめて緩やかなものです」と、
ある小学校の校長が、私に、話してくれた(アメリカ・A州S小学校)。
(念のため申し添えると、その校長の部屋の前には。
鯉のぼりが飾ってあった。
日本の学校を視察したこともあるという。
そういう立場、つまり日本の教育がどういうものであるかを
知った上で、そう言った。)

言うなれば、日本の教育には、メニューはひとつしかない。
一方、アメリカの小学校には、メニューがいくつもある。
入学年度すら、それぞれの小学校が、自由に決められる。

だから教師にしても、日本では、与えられたワクの中に、
子どもに押し込めようとする。
またそれからはずれる子どもは、嫌われる(?)。
嫌われるという言葉がきついなら、敬遠される。
アメリカには、最初から、そのワクそのものがない。
だったら、どうするか?

教育を自由化する。
自由化に始まって、自由化で終わる。
「それでは国がバラバラになってしまう」と考える人が
いるかもしれない。
もしそうなら、それこそ全体主義。
中国やK国の指導者がそう言うなら、まだわかる。
が、どうしてこの日本が、そんなことを心配するのか。

あるいは、以前、私にこう反論した教師がいた。
「日本は、まだそのレベルに達していない」と。
「自由化してよいほど、日本人の教育観は熟成していない」と。

しかし本当にそうだろうか?
あるいは、そう思い込んでいるだけではないのか?
もしそうなら、文部科学省が、率先して、教育の
自由化を推し進めたらよい。
それでこそ、「教育」である。

アメリカでは、学校の設立そのものが、自由化されている。
さらに進んで、カナダでは学校で使う言語すら、自由。
(アメリカの学校は、英語で教えるが基本になっている。)

カリキュラムにしても、「6領域」※を定める程度にする。
もちろん教科書の検定などというものは、廃止。
もとからあのようなバカげた制度があるほうが、おかしい。
もうやめたらよい。
現在、教科書の検定制度をもっている国は、欧米先進国
の中では、この日本だけ。
どうしてそういう事実に、日本人は、もっと目を向けないのか。

子どもたちが学校で使うテキストにまちがいがあるなら、
そのつど、教師がそれを正せば、それですむこと。
それに今は、インターネットという、すばらしい文明の
利器がある。
やがてコンピュータも、ノート大になり、ノートの
ように気軽に使える時代がやってくる。
言うなれば、巨大な図書館が、ノートの中に、
収まることになる。
教科書に書いてあることが正しいかどうかは、瞬時に、
自分で判断できるようになる。
そういう時代も想定して、では教育はどうあるべきかを、
考えたらよい。

人間の生き方は、けっして、ひとつではない。
同じように、子どもの教育も、けっして、ひとつで
あってはいけない。
多様な道を用意することこそ、教育者の義務では
ないのか。

たまたま今も、窓の外に、学校の校舎が見える。
真四角の箱にしか見えない校舎である。
あの箱の中で、今、どんな教育がなされているのか。
またなされていないのか。

ふと手を休めて、私はそんなことを考えた。
かなり過激な書き方をしたが、しかしこれくらい
過激に書かないと、みな、目を覚まさない。
私自身も、一足飛びに自由化せよと考えているわけではない。
ひとつの努力目標として、前にかかげるべきではないかと、
考えている。

(補記※)「幼稚園教育の六領域」(以下、文部科学省HPより抜粋・転載)
●幼稚園教育要領の制定 
文部省は保育要領実施後の経験と、研究の結果に基づき、また現場の要望にこたえて、昭和
三十一年度に「幼稚園教育要領」を作成した。幼稚園教育要領においては、教育内容を「健
康」、「社会」、「自然」、「言語」、「音楽リズム」、「絵画制作」の六領域に分類し、さらにその領
域区分ごとに「幼児の発達上の特質」およびそれぞれの内容領域において予想される「望まし
い経験」とを示した。さらに、三十九年度には、それまでの経験や研究の結果を生かして、教
育課程の編成や指導計画の作成をよりいっそう適切にするために「幼稚園教育要領」の改訂
を行ない、小・中・高校と同様、文部省告示をもってこれを公示し現在に至っている。 
(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
幼稚園教育 幼児教育 六領域 6領域 教育の自由化 教育自由論)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●文字と思考
(The invention of letters has changed the world a lot and so did in Japan, too.)
+++++++++++++++++++

文字は、論理を組み立てる上において、
必要不可欠なものである。
言うなれば、子どもが遊ぶ、ブロックのようなもの。
そのブロックを組み合わせて、人は、論理の世界をつくる。

つまり(言葉)という抽象的概念を、(文字)化することによって、
人はそれを、(思考)(思想)にまとめることができる。

たとえば「怒り」。
カーッとなって不愉快な状態になったことを、(怒り)という。
それを「怒り」という言葉を使って、表現する。
「私は怒っている」と。

が、そのままでは、怒りを分析したり、論理的に
解明したりすることはできない。
「なぜ私は怒っているのか」「怒りを静めるためには、
どうすればいいのか」と。

そこで「怒っている」という言葉を、「怒り」という
文字に置き換える。
文字にすれば、遠く離れた人に、自分の感情を伝える
ことができる。
「私はあなたを怒っています」と。
が、それだけではない。
理由も、書くことができる。
「あなたは、私をだましました。それで怒っているのです」と。

こうして人は文字を使って、情報の伝達を行い、感情を
共有することができる。

++++++++++++++++++++++

●万葉仮名

あなたは、つぎの漢字をどう読むだろうか。

『皮留久佐乃皮斯米之刀斯』

ウ〜〜ン!

謎解きのような文章である。
しかしこれは、「はるくさのはじめのとし」(春草の始めの年)と読むのだそうだ
(「日本古代史・謎とミステリー」・リイド社)。

2006年10月、大阪中央区の難波宮(なにわのみや)跡で見つかった、
木簡に、そう記されていたという(同)。

文字は漢字を使い、読みと文法は、日本語に従った。
こういうのを、万葉仮名という。

そこで私も考えてみた。







上から、「あいうえお」と読む。
その万葉仮名から、平仮名やカタカナが生まれた。
今さら説明するまでもないことである。

「は」は、「波」から生まれた?
「や」は、「矢」から生まれた?
「し」は、「氏」から生まれた?

よく平仮名やカタカナは、日本人の発明したすばらしい文字であると
説く人がいる。
しかし本(もと)を正せば、中国語。
それを簡略化したにすぎない。
いちいち漢字で書いていたら、それこそたいへん。
時間の無駄。
だれだって、簡略化することを考えただろう。
「日本人の発明」というような、おおげさなものではない。

……で、今、改めてしげしげと、自分の書いた文章を見つめなおす。
そこには平仮名と漢字が入り交ざった文章が、並んでいる。
当たり前のようにして使っている(文字)だが、それにもいろいろな歴史があるらしい。

たまたま横で別の本(「日本史」・河出書房新社)を読んでいたワイフが、こんな
おもしろい事実を話してくれた。

あの紀貫之(きのつらゆき)の幼名は、「阿古久曽麻呂(あこのくそまろ)」と
言ったそうだ。
「くそ」は、そのままズバリ、「ウンチ」のこと。
そんな名前をつける親も親だが、まだ名前があっただけ、よかったほうなのかもしれない。
これも万葉仮名ということになるが、「阿」が、「あ」になり、一部を取って、「ア」
になった。
「久」は、わかりやすい。
「久」が、「く」になり、「ク」になった。

難波宮跡で見つかった木簡でも、「久」が、「く」と読まれていた。

……しかしこういう話は、あまり深入りしないほうがよい。
へたなことを書くと、その道の専門家たちの袋叩きにあう。
こういうことを一生懸命調べている人もいるわけだから、ここは謙虚になったほうがよい。

で、話を戻す。
(戻すといっても、どこへ戻したらよいか、わからないが……。)

●文字

文字を知って、日本人は、飛躍的に進歩した。
文字があるからこそ、人から人へと、情報を伝えることができる。
言いかえると、もし文字がなかったら、……というよりそれ以前の日本人は、
きわめて原始的な民族だったということになる。
進歩をしたくても、進歩のしようが、ない。

私の近辺にも、本をほとんど読んだことがないという人がいる※。
率直に言って、そういう人は、どこか変?
だから私は、こう推察する。
(文字を読んだり書いたりすること)で、脳のある部分が
刺激され、それが(思考力)に結びついているのではないか、と。

だから文字を読んだり書いたりすることがない人は、思考力そのものが、育たない。
私自身も、こうしてパソコンに向かっていないときは、深くものを
考えることができない。
こうして文字を打ち始めて、はじめて脳みそのある部分が、アクティブになる。
そのとき思考力が働き始める。

もう少し、わかりやすく説明しよう。

たとえばあなたが、何かのことでだれかに、怒りを感じたとしよう。
怒りそのものは、悶々とした感情で、それには(形)はない。
その(怒り)に形を与えるのが、言葉ということになる。

「なぜ私は怒っているのか」と。

つまり言葉で表すことによって、人間は感情的感覚を、抽象的概念にする。
そしてそのとき、それを(文字)で表現することによって、(怒り)を
分析し、内容を論理的に考えることができる。
もちろん他人に伝えることもできる。

が、それはかなりめんどうな作業である。
たいていの人は、できるならそれを避けようとする。
難解な数学の問題を押しつけられたときの状態に似ている。
もし文字を書くことがなかったら、「バカヤロー」「コノヤロー」程度の、
感情的表現で、終わってしまっていたかもしれない。
またそのほうが、ずっと楽(?)。

事実、本を読んだことがないという人は、情報だけが脳みその表面をかすっている
といったような印象を受ける。
感情のおもむくまま行動しているといった感じもする。
言葉にしても、頭の中で反すうするということを、しない。
そういう意味で、(文字)には、特別の意味がある。

ただ「使う」とか「使わない」とかいうレベルの問題ではない。
万葉仮名を使うことによって、日本人は、日本人としての「個」を確立した。
また文字を使ったからこそ、その時代を今に、伝えることができた。
だからこそ、その時代を、私たちは「個」としてとらえることができる。

冒頭にあげた難波宮跡から見つかった木簡は、7世紀中ごろのものとみられている(同書)。
つまり日本人が日本人としての「個」をもち始めたのも、そのころと考えてよい。

それまでの日本人は、言うなれば、「個」のない、ただの原住民に過ぎなかった。
……というのは言い過ぎかもしれないが、隣の中国から見れば、そう見えたにちがいない。
そのころすでに中国では、何千もの漢字を自由に操って、文学や思想の世界だけではなく、
科学や医学の分野においても、世界をリードしていた。

(※付記)

昔、私の知っている女性に、こんな人がいた。
口は達者で、よくしゃべる。
情報量も多く、何かを質問すると、即座に答がはね返ってくる。
が、その女性(当時、50歳くらい)の家を訪れてみて、驚いた。
新聞はとっているようなのだが、本とか、雑誌が、ほとんどなかった!

で、ある日のこと。
その女性が、ある問題で困っているようだったので、私は資料を届けることにした。
本をコピーしたので、それが20〜30枚になった。
ところが、である。
私がその資料をテーブルの上に置いたとたん、その女性はヒステリックな声を
あげて、こう叫んだ。

「私は、そんなものは、読みません!」と。

で、そのときは、そのまま私のほうが引きさがった。
私のほうが何か悪いことでもしたような気分になった。

が、そのあとも、似たようなことが、2度、3度とつづいた。
私は、その女性が、何かの障害をもっているのではないかと疑うようになった。

識字能力……読み書きできる人のことを、識字者という。
それができない人を、非識字者という。
ユネスコ(国際連合教育科学文化機関=UNESCO)では、識字について、
「日常生活における短い簡単な文章の読み書きができる人を識字者、できない人を非識字者」
と定義している。

日本では、昔、文字を読めない人を、「文盲」と呼んだ。
しかしその後の教育の整備が進んで、今では、文盲の人はいないということになっている。
そこで近年では、(1)文字は読めても、(2)それを理解できない人を、非識字者と
位置づける学者も多い。

ポイントは、一応の読み書きはできる。
しかし読んでも、それを理解することができない、というところにある。

で、たとえばその女性のばあい、(1)文字を目で拾って、読むことはできる。
簡単な手紙を書くことはできる。
しかし、(2)論説的な文章になると、それを理解することができない。
それができる人には、何でもないことかもしれないが、文字が活字として、
こうまで一般に普及したのは、ここ100年前後のことである。
能力が、それについていないという人がいたとしても、おかしくない。

たとえば工事中の現場を見たとする。
地面が掘り返され、工事車両が並んでいる。
私たちは、そうした様子から、そこが工事中であると知る。

が、「工事中」という文字を見たときはどうだろうか。
大脳後頭部の視覚野に映し出された映像の中から、まず文字だけを選び出さなければ
ならない。
つづいてその情報を、今度は、側東部や頭頂部が、
そこでそれまでに蓄積してあった情報と照合する。
さらに記憶となって残っている情報と照合する。
そこではじめて「工事中」という文字の意味を知る。
つまり文字を理解するというのは、それまでにたいへんなことだということ。
それができる人には、何でもないことかもしれないが、そうでない人にはそうでない。

このことは、LD児(学習障害児)をみると、わかる。
ある一定の割合で、文字を読んでも理解できない子どもがいる。
たとえば算数の応用問題が、できない、など。
そこで私が「声を出して読んでいい」と言って、声を出して読ませたり、
別の紙に書き写させたりすると、とたん、「わかった!」とか、言う。
一度、自分の声で読み、それが耳を経由すれば、理解できるというわけである。

ただし程度の差もあり、また診断方法も確立されていないため、このタイプの
子どもが、どれくらいの割合でいるかということについては、わからない。

さらに言えば、文字を読んでも理解できない点について、識字能力に問題があるのか、
それとも、知的能力そのものに問題があるのか、その判別もむずかしい。

しかしそういう子どもがいるのは、事実。
20人に1人くらいではないか。
だとするなら、その延長線上に、文字を読んでも理解できないおとながいると考えても、
おかしくない。

私は、その女性が、そうではないかと疑った。
と、同時に、いろいろな面で、思い当たることがあった。
先に書いたように、その女性の周辺には、本だとか雑誌など、そういったものが、
ほとんどなかったということ。
反対に、私のばあい、本に埋もれて生活をしているので、そういう生活そのものが、
たいへん奇異に見えた。

またビデオ・デッキも、なかった。
「ビデオは見ないのですか?」と聞くと、「ああいうものは、疲れるだけ」と。
とくに洋画は、まったく見ないと言った。
あとから思うと、字幕を読むのが苦痛だったためではないか。

……そうこうしながら、それから10年ほど、たった。
話を聞くと、その女性は、この10年間、ほぼ同じような状態ということがわかった。
が、そこに認知症が加わってきた。
周囲の人たちの話では、的をはずれた言動や、はげしい物忘れが目立つようになってきた
という。
今のところ、日常の生活に支障をきたすようなことはないそうだが、「どこか、
おかしい?」と。

となると、当然のことながら、識字力は、衰退する。
(文字を読まない)→(文字から遠ざかる)の悪循環の中で、文字を読んでも
ますます理解できなくなる。

ワイフはその女性について、最近、こう言った。
「あの人には、文化性を感じないわ」と。
文化性というのは、生活を心豊かに楽しむための、高い知性や理性をいう。
その逆でもよい。
高い知性や理性をもった人は、生活を心豊かに楽しむことができる。
つまり文化性のある人は、音楽を楽しんだり、本を読んだりする。
それがその女性には、「ない」と。

私もそう感じていたので、本文の中で、「率直に言って、そういう人は、どこか変?」
と書いた。

なおあのモンテーニュ(フランスの哲学者、1533〜92)も、こう書いている。

「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほか、
考えたことはない」(随想録)と。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 識字
識字者 非識字者 文字 文盲 文章の読めない子ども 文を理解できない子供)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090130)

●ネットブック

+++++++++++++++++

ネットブックが、3台になった。
HPの2133、ACERのASPIRE(1)、
それにMSIのU100。

U100は、今夜、買った。
緊急値下げということで、4万2700円。
ネット販売の価格より、ほんのわずか高かったが、
即、手に入るということで、近くの店で買った。

+++++++++++++++++

●日本勢、敗れたり

台湾製のネットブックが、日本で席巻きしている。
売れ筋のネットブックは、HP社、DEL社をのぞいて、すべて台湾製。
HP社のパソコンも、DEL社のパソコンも、中身は、台湾製。

そのあとを日本勢が追いかけている。
エプソン、東芝、NEC……。
エプソンをのぞいて、どれもパッとしない。
今のところ、日本勢に、勝ち目はない。

その第一。
性能はほとんど変わらないのに、値段が、2〜3万円も割高。
無駄なものばかりくっついて、値段が高い。
(付加価値をつけて、利益をあげようという意図が見え見え。)

その点、MSIのU100には、無駄なものは、いっさい、なし。
XPにしても、セットアップから、自分でする。
おまけのソフトも、なし。
包装も、簡単なもの。

その代わり、うれしかったのは、バッグが付属していたこと。
(ACERのASPIRE(1)も、バッグが付属していた。)
こういう気配りが、うれしい。

で、近く、ソニーのネットブックが発売になるという。
すでに店には見本が並んでいる。
大きさは、ちょうどASPIRE(1)や、U100を、上下に半分に
割った大きさ。
キーボードの配列、大きさは、ほぼ同じ。
それを見た私の感想は、「これでは売れない」。
理由がある。

第一に、値段が高すぎる。
実売価格は、7万円前後。
若い人が、おいそれと買える値段ではない。
が、最大の理由は、日本の会社の悪い癖というか、差別化意識が強すぎる。
ソニーはソニーの独自色を出したいのだろうが、出しすぎ。
売れ筋の後を追ってでもよいから、どうして(売れるもの)を作らないのか?

「どうだい、うちのソニーは、こんなものを作れるんだぞ」というような
傲慢さが、かえってユーザーの購買意欲を退けてしまう。

今、売れ筋は、(1)値段が安く、(2)持ち運びができて、(3)そこそこに
機能するパソコンである。
小さければ小さいほどよいというわけではない。
小さくてよければ、KOJINSHAのが、2万9000円から出ている。
無駄なものは、必要ない。
それに日本勢は、サービス過剰。
包装もマニュアルも、バカていねい。

ショップにあるカタログによれば、おしりのポケットに収まるという雰囲気だが、
どこのだれが、おしりのポケットに、パソコンなど入れるだろうか。
仮に入ったとしても、そんなところへは入れない。

が、何よりも致命的なのは、バッテリーのもち時間が短い。

本体が小さいから、バッテリーも小さくなったのだろうが、今どき3時間程度
しかもたないネットブックなど、だれが買うだろうか?
画面は高精細で美しいが、必要以上に高精細であっても、老眼ぎみの人には、
かえって見づらい。

日本のメーカーも、一度、ものづくりの原点に立ち返るべきである。
安くて、よいものをめざす。
(飾り)よりも(中身)。
言うなれば日本製は、盆暮れの付け届けで届く、海苔の化粧箱のよう。
見た目には豪華だが、中身がない。
一方、台湾製は、中身だけを売るといった感じ。
ユーザーの身になって、製品を開発している。

では、どうするか?

(1)おかしなプライドは捨てて、売れ筋のパソコンで勝負する。
(2)台湾製が5万円なら、4万5000円で出す。

少しきびしい意見だが、日本の再興を願って、一言。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

【長いトンネル】(息子の引きこもり)

●パパ、もうだめだ

 「日本には、2度と帰って来ない」と。C雄は、そう言って、伊丹空港から、オーストラリアへと
旅立っていった。友人のT君もいっしょだった。
 が、それから1年、そして2年が過ぎた。1年目は、キャンベラにある、C大学、2年目は、メル
ボルンにある、L工科大学に席を移して、専門学部への進学に備えていた。
 あまり勉強しているふうでもなかったが、私もそれほど期待はしていなかった。専門学部へ入
学し、学士号(バッチャラー)を取得するのは、オーストラリア人の学生でもむずかしい。日本人
の留学生のばあい、20人に1人以下と聞いていた。「数年オーストラリアにいて、それなりの力
をつけて帰ってくれば、それでいい」と、私は考えていた。それ以上に、広い世界を見ることが、
何よりも大切と考えていた。
 が、そのC雄から、ある夜電話がかかってきた。受話器を取ると、電話口の向こうで、「パパ、
もうだめだ」と言った。暗く沈んだ声だった。私は異常さを察知して、「すぐ帰って来い」と言っ
た。その少し前、専門学部に進学できそうだと言っていた矢先のことだった。
 が、まさか、その翌々日の夜に帰ってくるとは思っていなかった。勝手口で物音がするので、
そちらを見たら、C雄が、そこに立っていた。大きなカバンを2個、横に置いていた。

●私の夢

「日本の大学……」ということも考えた。しかし私は、C雄が小学生のころから、オーストラリア
へ留学させることだけを考えていた。私は、オーストラリアですばらしい経験をした。同じ経験
を、C雄にもさせたかった。
 今にして思うと、それは私という親の、身勝手な願いであった。C雄がそれをしたいと言った
わけではない。C雄の心を確かめたわけでもない。私は妄信的に、それがC雄にとっても、いち
ばん好ましいことだと思った。
 何人かの知り合いのつてを頼りに、C雄をオーストラリアへ送った。下宿先も、元高校教師と
いう人に頼んだ。が、何よりも心強かったのは、もし万が一のときでも、オーストラリアの友人た
ちが、そこにいたことだった。みな、協力を、快く申し出てくれた。
 しかしC雄には、何もかも、合わなかった。水も空気も食べ物も、そして生活も。

●引きこもりの始まり

 家に帰ってから、C雄は、私たちとはほとんど口をきかなかった。食事ときだけ、食堂へ下り
てきたが、それが終わると、また自分の部屋へそのまま戻っていった。「まさか……」とは思い
ながらも、日増しに不安は大きくなっていった。C雄の生活が、大きく乱れ始めたのは、帰国し
てから、1〜2週間目くらいからではなかったか。
 朝、起きてきない。夜更かしがつづく。食事の時間が、混乱する。が、やがて昼と夜が逆転し
始めた。
 昼間は一日中、引きこもったまま。夜になるとノソノソと動き出した。しばらく観察してみると、
毎日、約1時間ずつ時間がずれていくのがわかった。C雄にとっては、1日が25時間ということ
になる。前々日は、午後4時ごろ眠り始める。前日は、午後5時ごろ眠り始める。そして今日
は、午後6時ごろ眠り始める。

●引きこもり

 幸いというべきか、私には、それまでに、10例以上も、このタイプの子どもを指導してきた経
験があった。早くは20数歳のときに経験した。が、当時は、「引きこもり」という言葉すらなかっ
た。家庭内暴力についても、そうだった。多くの人は、専門家とよばれる人たちも含めて、引き
こもりは、子どものわがまま、家庭内暴力は、親の甘やかしが原因と考えていた。
 21世紀に入ってからも、引きこもりや不登校を、強引な方法で治す(?)女性が、愛知県に
現れた。マスコミでも話題になった。その女性のばあい、その子どもや親に罵声を浴びせかけ
て治す(?)というものだった。
 それ以前にも、Tヨットスクールという、これまたあやしげな団体があった。そのスクールで
は、わざと転倒するヨット(セールボート)を子どもに操縦させ、それでもって子どもの情緒障害
を治す(?)というものであった。
 しかしこんな方法で、子どもの心の問題が、解決するはずはない。

●M君のケース

 が、私が最初に、というか本格的にこのタイプの子どもを指導をしたのは、30歳も過ぎてか
らのことだった。名前をM君としておく。
 M君は当初、不登校から始まった。中学2年のときのことである。親か相談があったので、私
はM君の家まで出向いた。M君はふとんの中にもぐったまま、返事もしなかった。私が体を引
きずりだそうとしても、ビクともしなかった。そばにいた父親と母親は、あきれ顔でそれを見てい
た。
 それがはじまりで、そのあと私はM君と、5年間、つきあうことになった。いろいろあったが、
それを書くのは、ここでの目的ではない。で、私の結論は、こうだ。この問題だけは、簡単には
解決しない。まわりの人たちがあせればあせるほど、逆効果。むしろ症状をこじらせてしまう。
何よりも大切なのは、(時間)である、と。
 このことは話が飛ぶが、それから10年後、M君と街角で会って確信した。「先生!」と声をか
ける男性がいたので、見るとM君だった。そのM君は、いきなり私にこう言った。「先生、ぼくの
ほうが先生より稼いでいるよね」と。話を聞くと、ゴルフのプロコーチをしているということだっ
た。
 中学時代からM君は、学校をさぼって、近くの公園でゴルフばかりしていた。

●覚悟を決める 

 私とワイフは覚悟を決めた。「なるようになれ」「なるようにしかならない」と。しかしそれは苦し
い決断だった。私の立場では、つまり私の職業からして、これほどまでに大きな敗北感はなか
った。事実、それから数か月、自信をなくした私は、今の仕事をやめることまで考えた。
 が、そんな私を救ってくれたのが、もう1人の息子だった。同じころ、中学校で、学年でも1、2
位の成績を修める一方、生徒会長に立候補して、当選した。成績がよかったから……とか、生
徒会長になったから……とかいうわけではなかったが、暗い袋小路の中で、一筋の光明を見
たことは事実。
 私とワイフは夜中にこっそりとドライブに出かけ、山の中に車を止め、そこで泣いた。

●許して忘れる

 オーストラリアで学生生活を送っていたころ、私の友人は、よくこう言った。「ヒロシ、許して忘
れろ」と。英語では、「forgive & forget」という。この単語をよく見ると、「フォ・ギブ」は、「与える
ため」とも訳せる。「フォ・ゲッツ」は、「得るため」とも訳せる。
 そのとき私は、その言葉の意味がわかった。……と書くと少しおおげさに聞こえるかもしれな
いが、そのとき、大粒の涙がいく筋も、頬を伝って落ちた。
「フォ・ギブ&フォ・ゲッツ」というのは、「愛を与えるために許し、愛を得るために忘れる」と意味
になる。
 つまり「愛」ほど、実感のしにくい感情はない。しかし「いかに相手を許し、いかに相手を忘れ
るか」、その度量の深さで、愛の深さが決まる。他人の子どもなら、「はい、さようなら」で別れる
こともできる。しかし自分の子どもでは、それができない。だったら、許して忘れるしかない、と。

●ほどよい親、暖かい無視

 C雄に接する上において、私たち夫婦は、つぎの2つのことを頭に置いた。(1)ほどよい親で
あること、(2)暖かい無視を繰り返すこと。
 これはこうした子どもと接するときの、家族の鉄則。あれこれ気を使えば使うほど、また何か
をすればするほど、子ども自身を追い込んでしまう。それもそのはず。親以上に、子どものほう
が、苦しんでいる。
 が、それから3、4年にわたって、闘病生活がつづいた。一時は心療内科に通い、精神薬を
処方してもらったこともある。が、C雄には、合わなかった。副作用が強く、吐き気を催したり、
腹部の不快感を訴えたりした。また一時的に快方に向かう様子を見せたあと、その反動から
か、どっと落ち込むこともあった。
 私たち夫婦にしても、まるで腫れ物に触れるかのような接し方をしなければならなかった。表
面的には静かでも、C雄の心は、いつも緊張していた。言い方をまちがえると、C雄はそれに過
剰なまでに反応した。

●友人のZ君

 その間、C雄には、友人は1人しかいなかった。が、その1人でも、ありがたかった。名前をZ
君という。小学校からの友人で、彼が週に1、2度、C雄を訪問してくれた。C雄も、彼だけに
は、心を許していたようである。もちろん部屋の中で、彼ら2人が何をし、どんな会話をしている
かは、知らない。
 しかしZ君だけが、C雄の心の窓口となった。私はZ君には、感謝した。またZ君が訪問してく
れるよう、私たちなりに努力した。たまたまZ君の両親が、土建の仕事をしていたので、そうい
った仕事は、Z君の両親に頼んだりした。
 ただふつうの引きこもりよりは、やや症状は軽かったと思う。C雄は、ときどきはアルバイト的
な仕事はした。すし屋の小僧、デパートの玩具売り場の店員など。しかし長くはつづかなかっ
た。運も悪かった。C雄が勤める店や職場が、閉店になったり、閉鎖されたりした。
 が、ある日、突然、こんなことを言い出した。「旗振りの仕事をやってみる」と。

●旗振りの仕事
 
 旗振りの仕事というのは、道路の建設現場などで、交通整理のためなどに、旗を振る仕事を
いう。夏の暑い日だった。「何もそんなきびしい仕事でなくても……」と言ったが、C雄は、「そう
いう仕事で、自分を試してみたい」と。
 引きこもりを始めてから、3年目のことだった。
 私たちができることといえば、日焼け止めのクリームを、C雄の部屋の前に置いておくことくら
いでしかなかった。言い忘れたが、私たちはどんなことがあっても、C雄の部屋には入らないと
心に決めていた。のぞくことも、しなかった。
 C雄は自分の部屋で、心を休めていた。……というより、原因は、心の緊張感から解放され
ないこと。いつも心は、ピンと張りつめたような状態にある。言い方を変えると、一触即発の状
態。見た目の静かさにだまされてはいけない。
 ともかくも、C雄は、旗振りの仕事を始めた。長くはつづかないだろうと思っていたが、それを
6か月もつづけた。
 で、ある日のこと。C雄がどんな仕事をしているかと、私とワイフの2人で見に行こうとしたこと
がある。そのときC雄は、車で1時間ほどのところにある現場で、旗を振っていた。
 が、途中で、何かの拍子に車を止めたときのこと。ワイフがふと、こう言った。「やめましょう」
と。見ると、ワイフの頬に、涙が流れていた。

●トイレ通信

 私には3人の息子がいる。その中でもC雄だけは、子どものころから、私との相性があまりよ
くなかった。理由はいろいろある。あるが、ここに書いても意味はない。親子といっても、みなが
みな、よき関係を築けるものではない。子どもによっても、異なる。
 最初は、どこかで歯車がズレる。小さなズレかもしれないが、長い年月を経て、それが大きな
亀裂となる。断絶につながることもある。親子であるがゆえに、確執も大きくなる。他人のよう
に、間に距離を置くことができない。
 私とC雄の関係もそうだった。C雄のため……と思って口にしたことが、かえってC雄を激怒さ
せたこともある。だから、私のほうは、黙るしかない。しかしそれでも……というときがある。
 C雄ののむタバコの量がふえたと感じたときもそうだ。一度、ワイフがそれをたしなめたこと
がある。が、C雄は、「オレには、これしか楽しみがない」とか、「気分を落ち着かせるためには
タバコしかない」と言った。
 で、そういうときは、つまりC雄とのコミュニケーションがうまく取れないときは、(トイレ通信)と
いう方法を用いた。
 トイレの中にメモ用紙とペンを置いた。私の言いたいことを、それに書いた。それにC雄が返
事を書いた。
 「タバコがふえたように思うが、減らしたらどうか」「わかった」と。
 メモによる交信のため、たがいに冷静に話せる。
 で、ついでながら、私もC雄が喫煙を始める前までは、禁煙運動に参加していた。しかしC雄
が喫煙するようになってからは、それはC雄が高校3年生のときのことだったが、禁煙運動は
やめた。「自分の子どもの喫煙すら止めることができなかったのに……」と。

●一進一退

 それでC雄の症状が、快方に向かったというわけではない。全体の流れからみると、数か月
から半年単位で、症状は一進一退を繰り返した。仕事も、やったり、やらなかったりがつづい
た。
 が、その中でも、ある授産施設での仕事は、1年近く、つづいた。その会社はいくつかの部門
に分かれていて、そのひとつに、知的障害のある人たちが集まっていた。C雄は、そういう人た
ちをまとめる仕事をしていた。
 尊い仕事である。が、ある日突然、その仕事をやめると言い出した。話を聞くと、設計士の資
格を取りたい、と。設計士といっても、パソコンを使ったCADの仕事をいう。そのために専門学
校に通いたい、と。
 私は賛成したが、ワープロが使えるようになったからといって、文章が書けるようにはならな
い。同じように、設計士とCAD技術者の間には、越えがたい壁がある。しかしCADが使えるよ
うになれば、設計士になれると、C雄は信じていた。
 ともかくも私としては、反対する理由はなかった。

●重なる挫折

 運が悪かったのか、それともC雄に忍耐力がなかったのか、それはわからない。しかしC雄
のすることは、いつも裏目、裏目と出た。専門学校との教師とのトラブルもつづいた。原因の大
半は、C雄にあっただろうと思う。C雄には、相手に合わせて行動するという包容力に欠けてい
た。
 C雄は学校へ行くといっては、家を出た。しかしその足で、一日中、街をぶらついたり、映画
を見たりして過ごしていたらしい。C雄のつらい気持ちがよくわかっていた。だから私たちは、何
も言わなかった。C雄のしたいようにさせていた。
 そう、C雄は、挫折感といつも闘っていた。オーストラリアでの留学生活を頓挫したことによる
挫折感が大きかったと思う。C雄がそれを直接言ったわけではないが、私はそう感じていた。

●だらしない生活

 C雄の生活の特徴は、だらしないこと。電気はつけっぱなし、ドアはあけっぱなし、裏の木戸
の鍵も、あけっぱなし……、など。しかしこれはC雄の責任というよりは、C雄自身でもコントロ
ール不能の部分が、そうさせていると私は考えた。万事に投げやりというか、神経の向く方向
が、極端にどこかに偏(かたよ)っていた。
 こまかいことにピリピリしている半面、別のところでは、おおざっぱだった。ときに腹立たしい
こともあった。たとえば夏など、一日中、いてもいなくても、クーラーをかけっぱなしにしたりした
こともあった。
 そういう点では、このタイプの子どもと接するときは、一に忍耐、二に忍耐ということになる。
私とワイフは、その忍耐をC雄から学んだ。

●再び、授産施設で

 C雄は、ときどきどこかの会社の面接試験を受けていたようだ。ハローワークにも通ったこと
がある。が、中には辛らつな言葉を浴びせかける面接官もいたようだ。ある会社で面接を受け
たとき、その面接官は、C雄にこう言ったという。
 「お前のような人間がいるから、この日本はだめになるのだ」と。
 これは事実である。
 で、いくつか面接試験を受けたあと、以前働いたことのある授産施設での入社が、再び決ま
った。社長以下、みながC雄のことを覚えていたという。それで「お帰りなさい」ということになっ
たらしい。
 最初は迷っていたようだったが、日増しに、C雄の表情が明るくなっていくのがわかった。「オ
レも、障害者のようなものだからなあ」と。つまり「みんなの気持ちが、よくわかる」と。

●励まし

 直接的には、ほかの2人の兄弟。少しワクを広くして、高校の同級生たち。C雄にはC雄なり
に、自分を卑下していた。二男が結婚し、子どもをもうけたときも、「オレは、だめな兄」と、ふと
漏らしたことがある。
 そういう気持ちがよくわかったから、折につけ、私たちはC雄を励ました。その第一は、仕事。
 「お前のしている仕事は、そこらの銀行マンのしている仕事より、はるかに気高いものだ。障
害のある人にやさしくするというのは、銀行マンたちには逆立ちしても、できない仕事だ」と。
 私は心底、そう思っているから、そう言った。というのも、満60歳が近づいてくると、多くの同
窓生たちは、退職したり、リストラされたりして、それぞれの会社を離れ始めていた。銀行マン
になった友人も、10人前後いた。その最中はともかくも、そうして人生を半ば終わってみると、
仕事のもつ空しさというか、無意味がよくわかる。「私たちは、結局は、企業戦士としておだてら
れ、もてあそばれただけ」と。
 大切なのは、「何かをしてきた」という実感である。その実感が残る仕事を、よい仕事といい、
そうでない仕事を、そうでないという。
 
●マラソン大会

 それから何年も過ぎた。現在、C雄は、33歳。こういう大不況という時世にあっても、授産施
設というのは、保護されているらしい。今のところ、リストラの話は伝わってこない。そればかり
か、たいへん温かい職場らしい。毎月のように親睦会があり、定期的に何かの行事がある。
 今度は、専務とほかにもう1人と、市が主催するマラソン大会に出るという。10キロの距離を
1時間で走れば、新聞に名前が載るとか。そのこともあって、このところ、週に2回ほど、同じコ
ースを走っているという。
 私はその話を聞いて、あのころのC雄を思い出しながら、「これでよかった」と思っている。う
れしかった。そのときは、遅々として進まない境遇に、イライラしたこともある。「どうして私の息
子が」と、自分を恨んだこともある。C雄の将来を心配して、不安になったこともある。しかし
今、その先に、かすかだが、光を見ることができるようになった。私から見れば、まだまだ半人
前だが、C雄はけっしてそうは思っていないらしい。相変わらず生意気なことを口にして、ああ
でもない、こうでもないと言っている。

●引きこもり

 2005年3月、国会内の答弁において、南野国務大臣は、つぎのように答弁している。

『青少年の引きこもり、これは最近の青少年を取り巻く環境の変化により深刻化している問題
の一つであり、各種の調査によりますと、例えば、何が根拠で私がそう申し上げているかとい
いますのは、厚生労働省の研究班の調査によりますと、平成15年度におきまして、20歳から
49歳の引きこもりの状態にある者が約24万人に上ると推計されている。また、2番目といたし
ましては、厚生労働省の別の研究班の調査によりますと、平成14年度におきまして、引きこも
り状態である子供が存在する家庭は、世帯といいますか、これが41万世帯に上るとも推計さ
れております』(衆議院青少年問題特別委員会会議録)と。

 厚生労働省の調査によれば、20歳から49歳までの、引きこもりの状態にある青年が、24
万人〜41万人いるということだそうだ。しかし実際には、この倍の人たちがいると考えてよい。
C雄が引きこもるようになって、私も同じようなタイプの子どもを注意してみるようになった。そ
の結果だが、私の家の近辺だけでも、そういった子どもが、数名はいる。けっして、少ない数で
はない。
 家族に引きこもる人がいても、家族は、それを隠そうとする。しかも診断基準がない。心療内
科でも、うつ病と診断されるケースが多い。またうつ病に準じて、薬物が処方される。引きこも
っている青年が、100万人いると聞いても、私は、驚かない。

●原因

 引きこもりも含めて、うつ病の原因は、その子どもの乳幼児期にあると考える学者がふえて
いる。たとえば九州大学の吉田敬子氏は、母子の間の基本的信頼関係の構築に失敗すると、
子どもは、「母親から保護される価値のない、自信のない自己像」(九州大学・吉田敬子・母子
保健情報54・06年11月)を形成すると説く。さらに、心の病気、たとえば慢性的な抑うつ感、
強迫性障害、不安障害の(種)になることもあるという。それが成人してから、うつ病につながっ
ていく、と。
 C雄についても、思い当たるフシがいくつかある。結婚当初の私たちは、夫婦喧嘩ばかりして
いた。それに私は仕事第一主義で、ワイフに子育てを押しつけ、仕事ばかりしていた。ワイフ
のみならず、C雄にまで、仕事からくるストレスをぶつけていた。
 C雄にしてみれば、暗くて、憂うつな乳幼児期だったかもしれない。そしてそれが原因となっ
て、青年期の引きこもりへとつながっていった(?)。
 しかしこの問題だけは、原因さがしをしても、あまり意味はない。意味があるとすれば、C雄
がそうなったのも、私たち夫婦に責任があるということ。その責任をさておいて、C雄ばかりを
責めても意味はない。こういうケースでは、親がまず謙虚になること。子どもは、家族の代表者
にすぎない。子どもに何か問題が起きれば、それは家族の問題であり、家族全体でかかえる
問題である。そういう視点を、踏みはずしてはいけない。

●私たちの経験から

(1)まず自分を知る……だれしも、ひとつやふたつ、暗い過去を背負っている。暗い過去のな
い人など、いない。だからだれしも心の傷を負っている。傷を負っていない人などいない。大切
なことは、その傷に早く気がつくこと。まずいのは、傷があることに気がつかないまま、その傷
に振り回されること。私のばあいも、あの戦後直後という時代に生まれ、家庭教育の「カ」の字
もないような家庭環境で育った。そのため「家庭」というものを知らず、家庭のもつ(温かさ)に、
飢えていた。そしてその(飢え)が、気負いとなり、私の家庭をぎくしゃくしたものにしていた。C
雄は、その犠牲者に過ぎなかった。

(2)暖かい無視……子どもが引きこもるようになったら、暖かい無視に心がける。最近になっ
てC雄もこう言っている。「親たちが、ぼくを無視してくれたのが、いちばんよかった」と。とにかく
何も言わない。小言も言わない。生活態度がだらしなくなるから、それなりに、そのつど、言い
たいことはあった。しかしそこはがまん、またがまん。いちばん苦しんでいるのは、C雄自身で
あることを理解する。寝たいときに寝る。起きたいときに起きる。そういう生活が、2年とか3年
つづいても、無視する。暖かく無視する。

(3)ほどよい親である……やりすぎない。しかし何もしないというわけではない。子どものほう
から何かを求めてきたら、そのときはていねいに答えてやる。C雄のばあいも、一度、専門学
校への再入学を考えた。私たちは資料を集め、C雄が望むようにした。内心では、「無駄にな
るだろうな」と感じていたが、それは言わなかった。「がんばれ」とか、「しっかりやれ」とも言わ
なかった。淡々と事務的に協力し、それですました。

(4)精神薬……現在もC雄は内科で処方してくれる(軽い薬)をのんでいる。しかしこうした精神
薬の投与は、慎重であったほうがよい。副作用も強いが、それをやめたときの反作用も強い。
かえって症状が以前よりひどくなるということも、よくある。また個人差がはげしく、個人によって
効果の現れ方が大きく異なる。私自身は、時間がかかっても、当人がもつ自然治癒力を信じ
た方がよいと考えている。その点、心療内科にせよ、精神科にせよ、投薬しないと収入につな
がらないため、何らかの薬を処方したがる(ようだ)。

(5)時間……この病気だけは、(病気と言ってさしつかえないと思うが)、5年単位、10年単位
の根気が必要である。C雄のばあいも、一進一退を繰り返した。ぬか喜び、取り越し苦労は禁
物。親の方が動じない。今、その最中にある人にはつらいことかもしれないが、5年単位、10
年単位の忍耐が必要である。あせればあせるほど、一時的な効果は得られるが、かえって症
状をこじらせてしまう。説教などは、しても意味はない。本人が自分で考え、自分で行動するよ
うにしむける。なおC雄について言えば、自分からマラソン練習を始めたとき、私たちは、はじ
めてC雄が回復したと実感した。オーストラリアから帰ってきて、13年目のことである。

(6)幼児返り……回復に向かうとき、特異な現象がいくつか見られた。たとえば幼児返りもそ
のひとつ。幼児期からもう一度、自分を再現するような行動が、順に見られた。最初は幼児
期、そして小学生のころ……、と。そのころC雄がしていた遊びなどを、C雄は繰り返した。バラ
バラになっていた過去を、積み木を積み重ねるように、C雄なりのやり方で、再構築したのでは
なかったのか。が、それが終わったからといって、すぐに回復に向かったというわけではない。

(7)退屈作戦……「作戦」と呼ぶのは、C雄には失礼な言い方になるが、しかし私たち夫婦は、
こう決めた。C雄が退屈に耐えられなくなるまで、退屈にするしかない、と。しかし引きこもりを
する子どもというのは、その退屈をしない。そこでまた根競べが始まる。「ふつうの人なら耐えら
れないだろうな」と思うような生活を、平気で繰り返す。それが5年とか10年もつづく。しかしこ
こであせってはいけない。脳の機能が正常に近づいてくると、子どもは退屈を覚える。覚えたと
たん、行動を開始する。

(8)前向きに考える……引きこもりは悪いことばかりではない。引きこもる子どもは、人生を内
側からいつもしっかりと見つめている。ふつうの人にはない人生観を手にすることもある。C雄
についても、こう感じたことがある。「まったく世間と接していないはずなのに、どうしてこうまでし
っかりとした人生観をもっているのだろう」と。むしろ私の方が、いろいろ教えられたほどであ
る。

●最後に……

 どの家庭も外から見ると、何も問題がないように見える。しかし問題のない家庭など、ない。
いわんや、子どもをや。だから子どもに問題があったとしても、「どうしてうちの子だけが」とか、
そういうふうには、考えてはいけない。
 平凡は美徳だが、平凡な人生からは、何も生まれない。ドラマも生まれない。子育てもまた、
しかり。「ようし、十字架のひとつやふたつ、背負ってやる」と覚悟したときから、前に道が見え
てくる。その道を子どもといっしょに歩むつもりで、あとは前に向って進む。そこに子どもがいる
という事実だけを受け入れる。子どものよい面だけを見ながら、それを信ずる。
 そう、昔の人はこう言った。『上見てきりなし、下見て切りなし』と。C雄についていうなら、C雄
は他人に対しては、やさしすぎるほど、やさしい心をもっている。(私たち夫婦には冷たいが…
…。)健康だし、それなりの人生観ももっている。タバコは吸うが、酒は飲まない。麻薬などと
は、まったく無縁の世界にいる。が、何よりもすばらしいのは、まじめなこと。
 今でも仕事の勤務時間は不規則だが、不平不満を口にすることもなく、がんばっている。そ
の(まじめさ)にまさる価値があるだろうか。
 まだまだドラマはつづきそう。しかしそのドラマを楽しむ心を忘れたら、C雄も行く道を見失う。
私たちは、これからもC雄とともに、そのドラマを楽しみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 引き
こもり 子どもの引きこもり 引き籠り 引き篭もり NEET ニート)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

●1月4日

●OPEN OFFICE

++++++++++++++++++

数日前、「OPEN OFFICE」という
総合ソフトをインストールして、使ってみた。
MS社のワード、エクセルと互換性のある、
無料ソフトである。

以前から二男が、「使ってみたら?」と勧めて
くれていたこともある。
が、使ってみて、ビックリ!
これほどまでに快適に動作するとは、思っても
みなかった。

ワードの文書を自由に読みだせる。
それを編集。
そのあとも、またワード形式で、保存できる。
何よりも、無料という点がすばらしい。
と、同時にこう思った。
「では今までの、MS社の製品は何だったのか」と。

MS社のOfficeは、現在、2万円前後で
売られている。
(最近、1万円前後の廉価版が売りにだされた
という話も聞いているが……。)

現在、ミニパソ(ネットブック)を3台もって
いるが、すべてに、Open Officeを
インストールするつもり。

これならいける!

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●花粉症対策

(このエッセーは、自己責任で読んでほしい。)

先週の土曜日、山荘へ行ったついでに、杉の木から杉の実を両手にいっぱい取ってきた。
私が子どものころは、「杉ボボ」と呼んでいた。
杉鉄砲の弾(たま)にして、遊んだ。

で、いつかどこかで、杉の花粉症には、杉の実を煎じてのむとよいという話を聞いた。
理屈は、合っている。
前もって、少しずつ体を、杉の花粉に慣らしておく。
減感療法(?)というのである。

家に帰って、それをそのままガラス製の湯沸かし器に入れて、煎じてみた。
が、なかなか色が出てこない。
スギの実も、今ごろはまだ、硬い。
熱湯でグツグツと30〜40分ほど煎じてみた。

が、そのあたりで、「飲んでみようか?」ということになり、湯呑に移した。
それを見てワイフが心配そうに、「だいじょうぶかしら?」と。
胃か腸がアレルギー反応を起こすことを心配した。

私「ぼくが飲んでみるよ」
ワ「少しにしておきなよ」
私「わかった……」と。

飲んでみると、杉の木特有の、あの木の香りがプンと鼻をついた。

私「ほら、檜風呂とか何とかいうのがあるだろ。あの香りだよ」
ワ「あら、本当ね。これなら飲めるかもね」
私「今度煎じるときは、一度、杉の実をつぶしてから煎じてみるよ」と。

……ということで、私とワイフで、半分ずつ、飲んでみた。
「おいしい」とは、とても言えないが、飲めないほど、まずくはない。

今日も午前中、少し時間があるから、近くの杉林まで行って、杉の実を取ってくるつもり。
この数日間、毎日湯呑一杯程度飲んでいるが、今のところ異変はない。
ただワイフのほうが、鼻水が出るようになったと言っている。
風邪からそうなったのか、アレルギー反応が起きてそうなったのかはわからない。
が、ここは慎重に。
素人療法ほど、こわいものはない。

この実験結果は、追って報告。
2月……今年は花粉の飛散量が多いそうだ。
花粉症の人には、ゆううつな季節がやってきた。


●今朝のニュースから

●テポドン2号

朝起きると、まずパソコンに電源を入れて、いくつかのニュースサイトに目を通す。
その中でもまず目を引いたのが、「テポドン2号発射準備の兆候」というニュース。
またまたあのK国が、ミサイルの発射実験をするかもしれないという。
今度はテポドン2号の改良型とか。
射程距離は、6000キロ。
アメリカ本土も射程範囲に入るという。

K国は、まるで一人芝居をしているかのよう。
だれにも相手にされないから、一人でワーワーとわめき散らしている。
かわいそうというより、こっけい。
その(こっけいさ)に、K国の指導者たちは、気がついていない。
私には、そんな感じがする。

●L社による巨額詐欺事件

つぎに、目を引いたのが、L社による巨額詐欺事件。
TBS−iニュースは、つぎのように伝える。
『全国の5万人から2200億円を集めたとされる、東京の健康商品販売会社「L社」に
ついて、警視庁は破綻を認識したあとも出資を募り、1億1800万円をだましとった疑
いで、NK会長と、全国10の都道府県に住む営業や経理担当者、合わせて22人の逮捕
状を取りました』と。

私はこういうニュースを読むと、すぐ割り算をしてみる。
2200億円÷5万人、と。
小さな電卓では計算できない。
コンピュータの中にある電卓(アクセサリーの中の電卓)で計算してみると、1人当たり、
440万円という数字が出てきた。
が、それよりも驚いたのは、主犯格(?)のNKという男性の年齢が、75歳ということ。
どうしてか、年齢が気になる。
「75歳でもそんなことができるのか?」という思いと、「75歳になっても、マネーに
そこまで執着するのかなあ?」という思い。
この2つが複雑に交錯する。

ただこういうことは言える。

人は加齢とともに、脳みそのキャパシティ(容量)を、急速に失っていくということ。
高齢者イコール、人格者というのは、まったくの幻想。
「ウソ」と断言してもよい。
知識や知恵、それに経験というものは、穴のあいたバケツから、水が漏れ出るように、
ボロボロと消えていく。
残ったのは、カス。
カスだけが、表に出てくる。
報道によると、NKという男性は、若いころからあやしげな商売を繰り返していたという。
逮捕歴もある。
言うなればその男性の頭の中には、カスだけが残り、その男性は、そのカスのような
人間になった。

実は、加齢の恐ろしい点は、ここにある。
何かの認知症が加われば、なおさらである。
だから精進、また精進。
精進あるのみ……ということになるが、この先は繰り返しになるので、ここまで。

●ジョンベネちゃん事件、再捜査を開始

1996年に、アメリカ・コロラド州で、ジョンベネ・ラムジーちゃんが、
自宅で殺害されたという事件があった。
いわゆる「ジョンベネ事件」というのが、それ。
ジョンベネ・ラムジーちゃんは、美少女コンテストの常連だったという。
その事件について、地元警察は、改めて捜査を開始したと発表した(TBS−i)。

当初、両親(とくに父親)が疑われたというが、DNA鑑定の結果、シロ。
事件は迷宮入りということになった。

が、私は以前から、もう一人忘れてはならない人物がいることを指摘してきた。
私なら、まずその人物を疑ってみる。
事件のあらましは、こうだ。

(1)ジョンベネちゃんが、性的暴行を受けた上、殺害される。
(2)外部から侵入者が入った形跡はなし。
(3)両親は、偽の手紙を書くなど、だれかをかばった形跡がある。
(4)両親の捜査への非協力的な姿勢が問題になったこともある。

が、その人物は、どういうわけか、捜査の対象になっていない。
「まさか!」ということで、見過ごしてきてしまった人物である。

今回捜査当局は、『これまで検察主体だった捜査が警察主導に戻ることになり、警察幹部は
「最先端の科学的手法で証拠を洗い直し、事件解決につなげたいと」決意を示しました』(同)
と。

DNA鑑定も、より精密なものになっている。
捜査の結果に注目したい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●長生きは得か?

+++++++++++++++

昔、こう言っていた老人(男性)がいた。
年齢は、80歳を過ぎていたのではなかったか。
「あいつが死ぬのを見届けるまで、オレは死ねない」と。
「あいつ」というのは、その老人の長年のライバルだった人をさす。
子どものころから、たがいにいがみあっていた。

+++++++++++++++

60歳を過ぎると、まわりの人たちが急に、ポツポツと亡くなっていく。
「どこへ消えたのだろう」と、さみしがっている暇はない。
そう思っている最中に、またつぎの人が、亡くなっていく。
死は、身分、貧富、名誉、地位に関係なく、やってくる。
そういうときふと、「私でなくてよかった」という悪魔のささやきが聞こえてくる。
しかしすぐ、「つぎは、お前だろ」という声がつづく。
だからどんなばあいも、他人の死を願ってはいけない。
願えば願うほど、心が腐る。
しかしこんなことを考えることはある。

「長生きは得か、損か」と。

ほとんどの人は、長生きすればするほど、得と考えている。
私も、その1人かもしれない。
しかし大切なのは、長生きすることではなく、どう生きるかである。
その生き様さえ確立できれば、「たとえ夕べに死んでも、悔いはない」ということになる。
またそういう状態であるなら、できるだけ長生きをしたい。
そうでなければ、そうでない。
無駄に醜態をさらけ出して生きるくらいなら、その場で命を断ったほうが、マシ。
命を断つのがむずかしいのなら、少なくとも、だれにも会わず、ひっそりと暮らしたい。
だから私はいつも、ワイフや息子たちには、こう言っている。

「ぼくが死んでも、だれにも知らせなくてもいい」
「葬式など、ぜったいにするな」と。

それには、もうひとつの願いがこめられている。
「私の無様(ぶざま)な老後をさらけ出したくない」という願いである。
というのも、私は、基本的には、他人を信じていない。
『人を見たら、泥棒と思え』とまではいかないが、私という人間は、
他人を信じやすく、また、だまされやすい。
そういうタイプの人間である。

60年というこの人生においても、「この人だけは……」と思っていた人にさえ、何度か
裏切られたことがある。
そういう苦い経験があるから、この10年間は、自分にブレーキをかけるという意味に
おいても、できるだけ他人を信じないようにしている。
(それでも、信じてしまうが……。)

だからこう思う。
「私が倒れたら、それを喜ぶ人はいても、悲しんでくれる人はいないだろう」と。
だから身近な人が亡くなっても、こう思う。
「悲しんでいるフリをするのは、いや」と。
またそういうフリをしなければならないような葬式には、出ないようにしている。
自己欺瞞もよいところ。
また相手がだれであれ、他人の死を、そういうふうにして、もてあそぶのは避けたい。
さみしい人生観と自分でもわかっているが、こればかりは、どうしようもない。

……ということで、冒頭の話に戻る。

あの老人は、私たちとはちがった死生観をもっていた。
そのため自分が病気で倒れたりすることを、何よりも警戒していた。
いや、一度、こんなことがあった。
その老人が、家で倒れた。
が、その老人は、隣人宅(医師)の家にやってきて、「病院へ連れていってほしい」と。
そこでその隣人が、「救急車を呼びましょうか?」と声をかけると、その老人はこう
言ったという。

「それだけは、恥ずかしいから、ぜったいにやめてくれ!」と。

その老人にはその老人なりの一貫性がある。
「あいつが死ぬのを見届けるまで、オレは死ねない」という言葉と、「それだけは、
恥ずかしいから、ぜったいにやめてくれ」という言葉は、その底流で、
しっかりとつながっている。
が、では、私はどうか?
私も一方で、「他人を信じない」と言いつつ、「無様な様子は見せたくない」と言う。
似たようなものだ。
つまりこう考えていくと、私とその老人は、それほど違わないということになる。
その老人は、私の近未来像そのものと考えてもよい。
……ということは、私の考え方は、まちがっている。
ゆがんでいる。
いじけている。

フ〜〜〜ン……。

どこがまちがっているのだろう?
いや、私は、いつも他人は他人、私は私と考えている。
その人がどんな人生を送っていようとも、その人はその人。
「あいつが死ぬまでは……」というような、(あいつ)はいない。
気になる人は何人かはいるが、その人の不幸や死を願っているわけではない。
そう思うときもあるが、「あんな人、相手にしてもしかたない」と考えなおすことで、
いつも乗り越えている。

で、ここでの結論は、こういうことになる。
要するに、「私は私」ということ。
生きるにしても、また死ぬにしても、他人の目など気にしてはいけない。
最後の最後まで、「私は私」と。

……そう考えると、私の考えには、矛盾が生じてくる。
「私は私」を貫くなら、私が死んだときのことまで心配するほうがおかしい。
私は「私の無様(ぶざま)な老後をさらけ出したくない」と書いた。
しかしそう考えること自体、まちがっている。

……ということで、この話は、ここまで。
これから先、この問題については、ゆっくりと考えてみたい。
まだ時間もある。
10年くらいかけて結論を出そう。
(もし運がよければの話だが……。)
それまで「乞う、ご期待!」ということになるのか。
そういう言い方も、どこかおかしい……?


はやし浩司+++++++++09+++++++++Hiroshi Hayashi

●2月3日

映画『マンマ・ミーア』

++++++++++++++++++++++

星は3つの★★★。
最初から最後まで、ドンチャカ・パーティ。
その連続。
ABBAのファンなら、星を5つ、つけたかも。
ギリシアの夢のような景色を背景に、夢のような
数日が過ぎる。
意味のない、まったく意味のない映画だが、
思わず体が動き出すほど、楽しい映画。
一方、ABBAを知らない世代には、退屈な
映画かも。
団塊の世代、ご用達映画というところか。
それで間をとって、星は3つ。

+++++++++++++++++++++

●『ワルキューレ』

予告編で見た『ワルキューレ』。
トム・クルーズ主演。
ヒットラーの暗殺計画映画。
おもしろそう。
私には、そういう映画のほうが、合っている。

で、今夜見た『マンマ・ミーア』は、私向きではない。
もともとああいう騒々しいパーティが好きではない。
映画を見ながら、「本当にみんな、あんなふうに楽しむのかなあ」と、思った。
無理をしているのではないか、とも。
私なら、20〜30分で疲れてしまうだろう。
パーティが終われば、ヘトヘトになるにちがいない。
理由がある。

私は子どものころから、集団の中へ入るのが苦手だった。
だれにでもシッポを振る半面、他人に心を許さなかった。
みなは、「浩司は、明るく朗らかな子だ」と言ったが、それは仮面。
私はいつもその仮面をかぶっていた。
乳幼児期に、母親との間で、基本的信頼関係がうまく結べなかったためと
考えている。
だから孤独な半面、集団の中に入ると、疲れた。
ショーペンハウエルという心理学者は、そういう状態を、「二匹の
ヤマアラシ」という言葉を使って説明した。
遠ざかれば寒い(=孤独)。
しかし近づきすぎると、たがいの針が痛い。
今でも、その状態は基本的には、変わっていない。
だから映画を見ながら、ふとそう思った。
「本当にみんな、あんなふうに楽しむのかなあ」と。

で、映画の中では、ABBAの往年の曲がつぎつぎと披露された。
が、私がよく聴くのは一曲だけ。
『I have a dream』。
あの曲は好きだ。
プラス、好きだった。


はやし浩司+++++++++09++++++++H.Hayashi

●新聞の投書を読む

(能力主義vs年功序列主義)

新聞(C新聞)を読む。
投書欄に目を通す。
そこに50代のある女性が、こう書いていた。
「こういう不況の時代になると、日本型の年功序列主義のありがたさが
よくわかる。
アメリカ追従の、能力主義、効率主義がよいわけではない。
日本型の年功序列主義のよさを見直そう」と。
中学生や高校生の意見なら、「よく書けている」と評価したかもしれない。
しかし50代の女性の意見としては、「?」。
年功序列主義にしても、能力主義にしても、それは択一の問題ではない。
年功序列主義の中に、能力主義があり、能力主義といっても、そこには、
ある程度の年功序列主義がある。
この大不況の中にあって、「私たちだけはだいじょうぶ」と喜んでいるのは、
おそらく公務員の人たちだけではないのか。
公務員の世界では、完全に近いほど、年功序列主義が徹底している。
そういう人なら、この女性のような意見をもつかもしれない。

それにこの女性の意見には、基本的な部分で、事実認識にまちがいがある。
「こういう時代」とは、現在の大不況のことをいうのだろう。
であるならなおさら、こういう時代に、年功序列主義を貫いていたら、その会社は、
あっという間に倒産してしまう。
あのトヨタだって、あぶない。
つまり「年功序列主義だから、安心」「能力主義だから、仕事を失った」という
視点が、的をはずれている。
またどうしてここに「アメリカ」が出てくるのか?
大不況だからみな、職を失っている。
能力主義だから、職を失っているわけではない。
どうしてそんな簡単なことがわからないのだろう、とまあ、辛らつな批評をしたところで、
この話はおしまい。

繰り返すが、50代の女性の意見としては、「?」。

ついでに言うなら、こういう意見を、私たちの世界では、「つっこみが甘い」という。
俗な言い方をすれば、「浅い」。
ありきたりの意見で、深みがない。
思想として、熟成されたものを感じない。
先にも書いたように、私はこれを書いた女性は、(あるいはその女性の夫は)、
公務員ではないかと思う。
あのバブル景気が崩壊したときも、デフレが進んだときも、また今回の大不況になった
ときも、彼らだけは守られた。
「大不況、どこ吹く風」と。
そういう人たちを守るための年功序列主義であるなら、私はあえて、年功序列主義に
反対したい。


はやし浩司+++++++++09+++++++++Hiroshi Hayashi

【欲望と知覚】

●お金と「知覚」

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こんな興味深い実験がある。
子どもたちにコイン(1、5、10、25、50セント)を見せ、
それを子どもたちに、紙に描かせてみたという。
すると貧しい家庭の子どもたちは、コインを実際よりも大きく描き、
裕福な家庭の子どもたちは、実際よりも小さく描いたという。
(アメリカ・心理学者のブルーナーとグッドマンの研究、出典
「心理学のすべて」(日本実業出版社))

++++++++++++++++++

●「感覚」→「知覚」→「認知」

目から入ってきた情報は、一度、大脳後頭部にある視覚野に映し出される。
言うなれば、ここがモニター画面ということになる。
が、それだけではただの映像。
心理学の世界では、これを「感覚」と呼ぶ。

その映像の中から、意味のあるものと、そうでないものを、まずよりわける。
これを心理学の世界では、「知覚」と呼ぶ。
その知覚がどういうものであるかを知りたかったら、ぼんやりと外の景色を
ながめてみればよい。

庭が見える。
木々が見える。
畑の一部も見える。
全体の景色が意味もなく、目に飛び込んでくる。

が、その庭の中で、今動くものが見えた。
鳥だ。
野生のドバトだ。

つまりこうして私たちは、ぼんやりとした映像の中から、ハトを選び出す。
そしてそれがドバトと知る。
これが「知覚」である。

が、そこで終わるわけではない。
知覚したあと、それにさまざまな思考を加える。
たとえば私はふと我に返り、庭に餌をまいてないことを知る。
2〜3月は、野生の鳥たちにとっては、もっともきびしい時期。
昨日までは雨が降っていた。
私はドバトに餌をあげるのを忘れていた。
ドバトはどこか心配そうな顔をして、枝の上から庭を見つめている。
……とまあ、あれこれと考える。
これが「認知」ということになる。

文字で考えると、さらにわかりやすい。

たとえば今、私は自分の書いた文章を、パソコンのモニター上でながめている。
ぼんやりとながめれば、ただの線。
無数の線が、いろいろと交差している。
これが「感覚」。

その中から、私は「文字」を選び、順にそれを目で追っていく。
これが「知覚」。
が、そのままでは意味をもたない。
大脳の側頭部や頭頂部が、それを解読する。
意味のある文として理解しようとする。
これが「認知」。

●知覚は影響を受ける

そこで最初の実験。

同書(「心理学のすべて」)によれば、「貧しい家庭の子どものほうが、コインが大きく
見えるのは、お金に対する欲求が強いためと考えられます」(P43)とある。

知覚は欲求に左右される例として、同書は、ブルーナーとグッドマンによる実験をあげた。

で、同じような経験を、私もしている。

たとえば年中児(4〜5歳児)に、「お父さんとお母さんの顔を描いてごらん」と言って、
白い紙を渡す。
私が「お父さんとお母さん」と言ったにもかかわらず、半分以上の子どもたちは、
母親のほうから描き始める。
しかもたいてい母親のほうが、父親よりも大きい。
つまり子どもにとっては、それだけ母親の存在感が大きいということになる。
このばあいは、知覚が、印象に左右されたということになる。

さらにこんなこともある……。

●性欲からの解放

話はぐんと生臭くなるが、許してほしい。

私が55歳前後のときのことだった。
(正確には年齢を覚えていない。)
あとでいろいろな人に話を聞くと、それが男の更年期症候群のひとつと知った。
つまりそのころ、私は、男性と女性の区別がつかなくなってしまった。
だからある日、ふとこう思った。
「今なら、女性と混浴風呂に入っても、平気で入れるだろうな」と。
それをワイフに告げると、ワイフはこう言って笑った。
「相手がいやがるわよ」と。

それを喜んでよいのか悪いのかは、わからない。
が、そのとき生れてはじめて、私は、「性欲からの解放」を味わった。
というのも、フロイト学説を借りるまでもなく、私たち人間は、性欲の奴隷と
いっても過言ではない。
ありとあらゆる行動や心理が、心の奥底で、性欲と結びついている。

つまり感覚として得た情報を、つぎの知覚というレベルで判断するとき、
どうしても(性欲)というものが、そこに混入してくる。
たとえば同じ母親と呼ばれる人たちでも、その美貌や雰囲気、年齢やスタイルで、
おおまかな判断をくだしてしまう。
ときに色気を感ずることもあるし、反対に、「この人は私のタイプではないな」と
思ってしまうこともある。
(居直るわけではないが、健康な男性なら、みなそうだ。)

が、そのとき、つまり性欲からの解放を味わったとき、母親たちを、女性として
ではなく、それぞれを1人の人間として見ることができるようになった。
心理学的に言えば、冷静に感覚を判断し、それを知覚につなげることができる
ようになった。
(少し、大げさかな?)

ともかくも、性欲からの解放は、悪いものではない。
そのころの私は、参観に来ている母親を、女性として意識しなくなった。
子どもたちを教えながらも、好き勝手なことを言ったり、したりすることが
できるようになった。

●体制化

さらに同書(「心理学のすべて」)によれば、感覚で得た情報は、さまざまな形で、
脳の中で処理されるという。
そのひとつが、「体制化」。
つまり「感覚が得た情報の中から、自分にとって重要な意味をもつものと、
さして意味のもたないものに選択する『体制化』も行われています」(P42)
と。

このことも、子どもの世界に当てはめてみると、理解しやすい。

たとえば小学3年生くらいに、角度というものを教えてみる。
しかし大半の子どもは、最初の段階で、すでにほとんど興味を示さない。
分度器の使い方を教えても、どこ吹く風といった感じになる。
つまりこの段階では、子どもにとって、角度などという話は、どうでもよい
ことということになる。

心理学的に言えば、子ども自身が、「さして意味のもたないもの」と判断している
ということになる。

そこで私のばあい、プラスチック(下敷き)で、10〜15枚の三角形をつくり、
その三角形を見せながら、子どもたちにこう問いかける。

「この中で、一番角がツクンツクンとして、痛いところはどこかな?」と。
自分のてのひらを、その先で突き刺すしぐさをして見せる。
するととたん、子どもたちの目が輝き始める。
(痛いところ)→(角がとがっているところ)→(角)→(角度)と、頭の中で、
情報をつなげていく。
つまりそれを「自分にとって重要な情報」と位置づける。

●知覚

何気なく見ている情報だが、常に私たちは、それを脳の中で、加工している。
加工しながら、自分というものを、その中でつくりあげている。
が、それは本当に「私」によるものかというと、それは疑わしい。
冒頭にあげた実験を例にあげるまでもなく、私たちはそのつど、欲望という
エネルギーによって影響を受ける。
性欲もそのひとつだし、金銭欲もそのひとつということになる。

さてあなたも、ひとつの実験として、ここで1000万円の札束を、
紙に描いてみてはどうだろうか。
(男性であれば、女体、女性であれば、男体でもよい。)
そしてそのあと、実際の札束よりも大きく描けば、あなたは慢性的に貧困状態にある
ということになる。
そうでなければ、お金に困らない生活をしていることになる。
(男性であれば、その描いた絵で、どこにどのような不満を妻に感じているかが、
わかるかも?)

実験結果については、ブルーナとグッドマンに、責任を取ってもらう。

なお性欲からの解放について、一言。
現在私は満61歳だが、そのあと少しずつだが、再び、性差意識が呼び戻されて
きたように思う。
美しい母親を前にしたりすると、ドキッとすることが、このところよくある。
正常に戻ったというべきか、それとも再び、性の奴隷になったというべきか。
現在の私なら、たとえば混浴風呂などには、とても平然としては入れないだろう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 感覚
 知覚 認知 体制化 ブルーナー グッドマン 性の奴隷)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

●喪失の時代

++++++++++++++++++++++++++

老齢期を「喪失の時代」ともいう。
それは主に、つぎの4つからなるという(堀井俊章著「心理学」PHP)

(1)心身の健康の喪失
(2)経済的基盤の喪失
(3)社会的役割の喪失
(4)生きがいの喪失、と。

どれも重要なものだが、これら4つの(喪失)を裏返すと、こうなる。

(1)病気との闘い
(2)貧困との闘い
(3)自己否定との闘い
(4)絶望との闘い。

が、私は、これら4つのほかに、もうひとつの項目があると考える。
これら4つだけでは、あまりにもさみしい。
だから「第五番目の項目」ということにしておく。
順に考えてみたい。

++++++++++++++++++++++++

(1)病気との闘い

私は最近、30代、40代の人と話すたびに、こう言っている。
「持病だけは、つくらないように」と。
成人病はもちろんのこと、持病というと、足腰や関節に関するものが多い。
が、30代、40代のころは、体力もそこそこにあり、こうした持病を肉体の奥に
押し隠すことができる。
しかし50代、60代になってくると、体力そのものが衰えてくる。
とたん、それまで隠れていた持病が、表に出てくる。
心の病気も同じ。
若いころは気力で、それをごまかすことができる。
しかし50代、60代になってくると、気力そのものが衰えてくる。
とたん、それまで隠れていた精神的、情緒的もろさが、表に出てくる。

(2)貧困との闘い

老後イコール、貧乏と考えてよい。
収入そのものが、極端に少なくなる。
そのため生活の規模そのものが、縮小する。
活動の範囲も、狭くなる。
加えて気力も弱くなる。
「何かをしたい」という思いがあっても、根気がつづかない。
やがてすぐ、乾いた風の中に、そのまま消えてしまう。

(3)自己否定との闘い

「あなたには、もう用はない」
「あなたは役立たず」と言われることほど、つらいことはない。
存在性そのものを否定される。
多くの人は、それを知ったとき、「私は何をしてきたのだ」という自己嫌悪感に襲われる。
が、それならまだよいほう。
中には、「あなたはまちがったことをしてきたのだ」と、教えられる人もいる。
そういう立場に立たされたとき、人は、つぎの2つのうちから、1つを選ぶ。
過去に盲目的にしがみつくか、あるいは自己否定の泥沼に入っていくか。
しかし「自己否定」というのは、まさに自分の人生の否定そのものと考えてよい。
だからほとんどの人は、過去にしがみつく。
過去の地位や名誉、学歴や業績などなど。

(4)絶望との闘い。

そこで人は、老後に向けて、生きがいを模索する。
しかし(生きがい)というのは、一朝一夕に確立できるものではない。
それまでの熟成期間が必要である。
10年とか、20年とか、そういう長い年月を経て、自分の中で熟成される。
「老後になりました。明日からボランティア活動を始めます」というわけにはいかない。
生きがいには、その人の人生そのものが集約される。
が、その(生きがい)の構築に失敗すればどうなるか。
その先に待っているのは、(絶望)ということになる。

が、老後の最大の問題は、これら4つではない。
これら4つも、つぎの問題を前にしたら、幼稚園児が解く知恵パズルのようなもの。
つまり老後の最大かつもっとも深刻な問題は、「死の受容」である。

この死の受容には、(1)他者の死(肉親、配偶者、友人の死)の受容と、(2)自分自身
の死の受容がある。
だれしも死と無縁であることはできない。
死は現実であり、いつもそこにある。
その(死)といかに闘うか。
それこそがまさに、私たちに最後に残された最大の問題ということになる。
が、この問題は、おそらく個人の力では、どうにもならない。
それにはこんな話がある。

恩師の田丸謙二先生の隣家に、以前、中村光男という、戦後の日本を代表する文芸評論家
が住んでいた。
ビキニで被爆した第五福竜丸事件をきっかけに、先頭に立って、核兵器廃絶運動を
推し進めた人物である。
その中村光男は、……というか、あの中村光男ですら、死の直前には妻の手引きで、
教会で洗礼を受けている。
雑誌の記事によると、死の一週間前のことだったという。
その話を田丸先生に話すと、先生は感慨深そうにこう言った。
「知りませんでした。……あの中村さんがねえ……」と。

死の恐怖を目前にしたとき、それと自前で闘える人というのは、いったい、どれだけいるだろう
か。
私は中村光男の話を聞いたとき、さらに自信を失った。
「私にはとても無理だ」と。

……ということもあって、60代になってさらに宗教に興味をもつようになった。
私のワイフもそうで、あちこちで話を聞いてきては、そのつど私に報告する。
しかしこれにも、段階がある。

(1)死の恐怖は克服できるものなのかという疑問。
(2)克服できないとするなら、どうすればよいのかという疑問。
(3)臨終を迎えた人は、どのように死を受容していくかという疑問。
(4)宗教で、それを克服できるかという疑問。
(5)できるとするなら、その宗教とは何かという疑問。

キューブラー・ロスの『死の受容段階論』もあるが、今の私には現実的ではない。
だれしも、(こんな書き方は失礼な言い方になるかもしれないが……)、死を目前に
すれば、いやおうなしに、死の受容に向かって進むしかない。

問題は、健康である(今)、どう(死にまつわる不条理)を克服したらよいかということ。
この問題を解決しないかぎり、真の自由を、手に入れることはできない。
それこそ老後の残り少ない時間を、死の影におびえながら、ビクビクして生きて
いかねばならない。

が、ものごとは悲観的にばかり考えてはいけない。
死という限界があるからこそ、私たちはさらに真剣に自分の人生を見つめなおすことが
できる。

「心理学」(同書)の中には、こうある。

「エリクソンは老年期を(統合対絶望)と考え、心身の老化や社会的なさまざまな喪失を
受容し、これまでの人生を振り返り、1人の人間としての自分を統合する時期と考えて
います。
エリクソンは、『自分の唯一の人生周期を、そうあらねばならなかったものとして、
またどうしても取り替えを許されないものとして、受け入れること』が必要であると述べ、
人間としての完成期を老年期におきます」(P76)と。

つまりいかに死ぬかではなく、いかに自分の人生を完成させるか、と。
老後は終わりではなく、完成の始まりと考える。
これが先に書いた、第5番目の項目ということになる。

(5)人生を完成させるための闘い、と。

老後を感じたら、テーマを広げてはいけない。
テーマをしぼる。
何をしたいか、何をすべきか、何ができるか……。
その中から、自分を選択していく。
だれしも、それまでにしてきたことがあるはず。
たとえそれが小さな芽であっても、そこに自分を集中させる。
それを育てる。
伸ばす。
ちょうど幼い子どもの中に、何かの才能を見つけたときのように。

無駄にできる時間は、ない。
一瞬一秒も、ない。
最期の最後まで。
そうあのゲオルギウは、こう言った。

ゲオルギウ……ルーマニアの作家である。
1901年生まれというから、今、生きていれば、108歳になる。
そのゲオルギウが、「二十五時」という本の中で、こう書いている。

 「どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっ
ていても、今日、リンゴの木を植えることだ」と。

さあ、私にできるだろうか……?
4年前に、こんな原稿を書いたのを思い出した。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●夢、希望、目的

 子どもを伸ばすための、三種の神器、それが「夢、希望、そして目的」。

 それはわかるが、これは何も、子どもにかぎったことではない。おとなだって、そして老人だっ
て、そうだ。みな、そうだ。この夢、希望、目的にしがみつきながら、生きている。

 もし、この夢、希望、目的をなくしたら、人は、……。よくわからないが、私なら、生きていかれ
ないだろうと思う。

 が、中身は、それほど、重要ではない。花畑に咲く、大輪のバラが、その夢や希望や目的に
なることもある。しかしその一方で、砂漠に咲く、小さな一輪の花でも、その夢や希望や目的に
なることもある。

 大切なことは、どんなばあいでも、この夢、希望、目的を捨てないことだ。たとえ今は、消えた
ように見えるときがあっても、明日になれば、かならず、夢、希望、目的はもどってくる。

あのゲオルギウは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅう
えん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』(二十五時)という名言を残して
いる。

 ゲオルギウという人は、生涯のほとんどを、収容所ですごしたという。そのゲオルギウが、そ
う書いている。ギオルギウという人は、ものすごい人だと思う。

 以前書いた原稿の中から、いくつかを拾ってみる。


●希望論

 希望にせよ、その反対側にある絶望にせよ、おおかたのものは、虚妄である。『希望とは、
めざめている夢なり』(「断片」)と言った、アリストテレス。『絶望の虚妄なることは、ま
さに希望と相同じ』(「野草」)と言った、魯迅などがいる。

さらに端的に、『希望は、つねに私たちを欺く、ペテン師である。私のばあい、希望をな
くしたとき、はじめて幸福がおとずれた』(「格言と反省」)と言った、シャンフォールがい
る。

 このことは、子どもたちの世界を見ているとわかる。

 もう10年にもなるだろうか。「たまごっち」というわけのわからないゲームが、子ども
たちの世界で流行した。その前後に、あのポケモンブームがあり、それが最近では、遊戯
王、マジギャザというカードゲームに移り変わってきている。

 そういう世界で、子どもたちは、昔も今も、流行に流されるまま、一喜一憂している。
一度私が操作をまちがえて、あの(たまごっち)を殺して(?)しまったことがある。そ
のときその女の子(小1)は、狂ったように泣いた。「先生が、殺してしまったア!」と。
つまりその女の子は、(たまごっち)が死んだとき、絶望のどん底に落とされたことになる。

 同じように、その反対側に、希望がある。ある受験塾のパンフレットにはこうある。

 「努力は必ず、報われる。希望の星を、君自身の手でつかめ。○×進学塾」と。

 こうした世界を総じてながめていると、おとなの世界も、それほど違わないことが、よ
くわかる。希望にせよ、絶望にせよ、それはまさに虚妄の世界。それにまつわる人間たち
が、勝手につくりだした虚妄にすぎない。その虚妄にハマり、ときに希望をもったり、と
きに絶望したりする。

 ……となると、希望とは何か。絶望とは何か。もう一度、考えなおしてみる必要がある。

キリスト教には、こんな説話がある。あのノアが、大洪水に際して、神にこうたずねる。
「神よ、こうして邪悪な人々を滅ぼすくらいなら、どうして最初から、完全な人間をつ
くらなかったのか」と。それに対して、神は、こう答える。「人間に希望を与えるため」
と。

 少し話はそれるが、以前、こんなエッセー(中日新聞掲載済み)を書いたので、ここに
転載する。

++++++++++++++++++++

【子どもに善と悪を教えるとき】

●四割の善と四割の悪 

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさない
で、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、
「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をす
る者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマり
やすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生
徒を、プールの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対しては
どうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強して
いる親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動
物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界にな
ってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の
世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書
についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希
望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それ
がわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世
界だけをどうこうしようとしても意味がない。

たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう
環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの
仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそ
れと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校
生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際を
していたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手
の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それ
が問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけで
もない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社
会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。(中日新聞投稿済み)

++++++++++++++++++++++

 このエッセーの中で、私は「善悪論」について考えた。その中に、「希望論」を織りまぜ
た。それはともかくも、旧約聖書の中の神は、「もし人間がすべて天使のようになってしま
ったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこと
もするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。それ
が希望だ」と教えている。

 となると、絶望とは、その反対の状態ということになる。キリスト教では、「堕落(だら
く)」という言葉を使って、それを説明する。もちろんこれはキリスト教の立場にそった、
希望論であり、絶望論ということになる。だからほかの世界では、また違った考え方をす
る。

冒頭に書いた、アリストテレスにせよ、魯迅にせよ、彼らは彼らの立場で、希望論や絶
望論を説いた。が、私は今のところ、どういうわけか、このキリスト教で教える説話にひ
かれる。「人間は、努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 もちろん私は神を知らないし、神のような人間も知らない。だからいきなり、「そういう
人間になるのが希望だ」と言われても困る。しかし何となく、この説話は正しいような気
がする。言いかえると、キリスト教でいう希望論や絶望論に立つと、ちまたの世界の希望
論や絶望論は、たしかに「虚妄」に思えてくる。つい先日も、私は生徒たち(小四)にこ
う言った。授業の前に、遊戯王のカードについて、ワイワイと騒いでいた。

 「(遊戯王の)カードなど、何枚集めても、意味ないよ。強いカードをもっていると、心
はハッピーになるかもしれないけど、それは幻想だよ。幻想にだまされてはいけないよ。
ゲームはゲームだから、それを楽しむのは悪いことではないけど、どこかでしっかりと線
を引かないと、時間をムダにすることになるよ。カードなんかより、自分の時間のほうが、
はるかに大切ものだよ。それだけは、忘れてはいけないよ」と。

 まあ、言うだけのことは言ってみた。しかしだからといって、子どもたちの趣味まで否
定するのは、正しくない。もちろん私たちおとなにしても、一方でムダなことをしながら、
心を休めたり、癒(いや)したりする。が、それはあくまでも「趣味」。決して希望ではな
い。またそれがかなわないからといって、絶望する必要もない。大切なことは、どこかで
一線を引くこと。でないと、自分を見失うことになる。時間をムダにすることになる。

●絶望と希望

 人は希望を感じたとき、前に進み、絶望したとき、そこで立ち止まる。そしてそれぞれ
のとき、人には、まったくちがう、二つの力が作用する。

 希望を感じて前に進むときは、自己を外に向って伸ばす力が働き、絶望を感じて立ち止
まるときは、自己を内に向って掘りさげる力が働く。一見、正反対の力だが、この二つが あっ
て、人は、外にも、そして内にも、ハバのある人間になることができる。

 冒頭にあげた、「子どもの受験で失敗して、落ちこんでしまった母親」について言うなら、
そういう経験をとおして、母親は、自分を掘りさげることができる。私はその母親を慰め
ながらも、別の心で、「こうして人は、無数の落胆を乗り越えながら、ハバの広い人間にな
るのだ」と思った。

 そしていつか、人は、「死」という究極の絶望を味わうときが、やってくる。必ずやって
くる。そのとき、人は、その死をどう迎えるか。つまりその迎え方は、その人がいかに多
くの落胆を経験してきたかによっても、ちがう。

 『落胆は、絶望の母』と言った、キーツの言葉の意味は、そこにある。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●孤独

 孤独は、人の心を狂わす。そういう意味では、嫉妬、性欲と並んで、人間が原罪としてもつ、
三罪と考える。これら三罪は、扱い方をまちがえると、人の心を狂わす。

 この「三悪」という概念は、私が考えた。悪というよりは、「罪」。正確には、三罪ということにな
る。ほかによい言葉が、思いつかない。

孤独という罪
嫉妬という罪
性欲という罪

 嫉妬や性欲については、何度も書いてきた。ここでは孤独について考えてみたい。

 その孤独。肉体的な孤独と、精神的な孤独がある。

 肉体的な孤独には、精神的な苦痛がともなわない。当然である。

 私も学生時代、よくヒッチハイクをしながら、旅をした。お金がなかったこともある。そういう旅
には、孤独といえば孤独だったが、さみしさは、まったくなかった。見知らぬところで、見知らぬ
人のトラックに乗せてもらい、夜は、駅の構内で寝る。そして朝とともに、パンをかじりながら、
何キロも何キロも歩く。

 私はむしろ言いようのない解放感を味わった。それが楽しかった。

 一方、都会の雑踏の中を歩いていると、人間だらけなのに、おかしな孤独感を味わうことが
ある。そう、それをはっきりと意識したのは、アメリカのリトルロック(アーカンソー州の州都)と
いう町の中を歩いていたときのことだ。

 あのあたりまで行くと、ほとんどの人は、日本がどこにあるかさえ知らない。英語といっても、
南部なまりのベラメー・イングリッシュである。あのジョン・ウェイン(映画俳優)の英語を思い浮
かべればよい。

 私はふと、こう考えた。

 「こんなところで生きていくためには、私は何をすればよいのか」「何が、できるのか」と。

 肉体労働といっても、私の体は小さい。力もない。年齢も、年齢だ。アメリカで通用する資格
など、何もない。頼れる会社も組織もない。もちろん私は、アメリカ人ではない。市民権をとると
いっても、もう、不可能。

 通りで新聞を買った。私はその中のコラムをいくつか読みながら、「こういう新聞に自分のコ
ラムを載せてもらうだけでも、20年はかかるだろうな」と思った。20年でも、短いほうかもしれ
ない。

 そう思ったとき、足元をすくわれるような孤独感を覚えた。体中が、スカスカするような孤独感
である。「この国では、私はまったく必要とされていない」と感じたとき、さらにその孤独感は大
きくなった。

 ついでだが、そのとき、私は、日本という「国」のもつありがたさが、しみじみとわかった。で、
それはそれとして、孤独は、恐怖ですらある。

 いつになったら、人は、孤独という無間地獄から解放されるのか。あるいは永遠にされない
のか。あのゲオルギウもこう書いている。

 『孤独は、この世でもっとも恐ろしい苦しみである。どんなにはげしい恐怖でも、みながいっし
ょなら耐えられるが、孤独は、死にも等しい』と。

 ゲオルギウというのは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(し
ゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』(二十五時)という名言を残
している作家である。ルーマニアの作家、1910年生まれ。

+++++++++++++++++++++

●私に夢、希望、目的

 そこで最後に、では、私の夢、希望、目的は何かと改めて考えてみる。

 毎日、こうして生きていることに、夢や希望、それに目的は、あるのだろうか、と。

 私が今、一番、楽しいと思うのは、パソコンショップをのぞいては、新製品に触れること。今は
(2・18)は、HPに音やビデオを入れることに夢中になっている。(いまだに方法は、よくわから
ないが、このわからないときが、楽しい。)

 希望は、いろいろあるが、目的は、今、発行している電子マガジンを、1000号までつづける
こと。とにかく、今は、それに向って、まっすぐに進んでいる。1001号以後のことは、考えてい
ない。

 毎号、原稿を書くたびに、何か、新しい発見をする。その発見も、楽しい。「こんなこともある
のか!」と。

 しかし自分でも、それがよくわかるが、脳ミソというのは、使わないでいると、すぐ腐る。体力
と同じで、毎日鍛えていないと、すぐ、使いものにならなくなる。こうしてモノを毎日、書いている
と、それがよくわかる。

 数日も、モノを書かないでいると、とたんに、ヒラメキやサエが消える。頭の中がボンヤリとし
てくる。

 ただ脳ミソの衰えは、体力とちがって、外からはわかりにくい。そのため、みな、油断してしま
うのではないか。それに脳ミソのばあいは、ほかに客観的な基準がないから、腐っても、自分
ではそれがわからない。

 「私は正常だ」「ふつうだ」と思っている間に、どんどんと腐っていく。それがこわい。

 だからあえて希望をいえば、脳ミソよ、いつまでも若くいてくれ、ということになる。
(050218)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

●品質保持というウソ

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テレビを見ていたら、こんなことを言っている人がいた。
あるパソコンメーカーの社員だった。
「安い台湾製のパソコンをどう思うか?」と聞かれたのに
対して、「日本は、品質で勝負する」と。

その社員はこう説明していた。
「どうして台湾製のパソコンは安いか、パソコンを分解して
調べている」「しかし台湾製は、あやしげな部品を多く使って
いる」「日本ではそういう部品は使わない」「だから日本は
品質で勝負する」と。

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しかしこの話は、どう考えてもおかしい。

何も台湾製のパソコンの肩をもつわけではないが、パソコンは
品質ではない。
サービス。
サービスで買う。
故障したら、修理してもらえばよい。
内部にどんな部品を使っていようが、パソコンとして機能すれば、
あとは値段。
値段が安ければ、それでよい。

というのも、日本製のパソコンは、同じレベルのものなら、台湾製より、
値段は、5割は高い。
だいたい2倍、とみる。
だったら、日本製のパソコンを1台買うお金で、台湾製のパソコンを
2台、買ったほうがよい。
たとえ寿命が半分でも、そのほうが得。
私も現在、ACERのASPIRE、MSIのU100、それに
HPの2133(中身は台湾製)の3台を使っている。
それぞれにクセはあるが、今のところすべて快適に動作している。
中には、「3台も!」と思う人がいるかもしれないが、ASPIREは、
5万4000円、U100は、4万2000円、2133は、6万8000円。
計16万4000円。
それでも日本のT社のダイナブックの約半額である。

加えてパソコンの世界は、日進月歩。
品質を問題にする前に、たいていの人は、つぎの新機種へと乗り換えていく。
ふつう2〜3年で、買い換えていく。
さらに言えば、品質を問題にするなら、こうも言える。
「日本製だって、故障だらけではないか」と。

それもそのはず。
今、ハードディスクも含めて、ほとんどが輸入品。
何をもって日本製というのか。

つまりこういうトンチンカンなことを言っているから、日本製は
台湾製のパソコンに市場を奪われていく。
現在、日本市場を席巻きしているパソコンの30〜40%は、
台湾製と言われている。
その社員は、こういう現実を、どう考えているのか。

さらに付け加えれば、パソコンはすでに生活の一部になりつつある。
品質よりも使い勝手、仕事の内容で選ぶ。
私のばあい、ミニパソコンは、ワープロ専用。
一般の人は、インターネットとメール専用。
それだけできれば、じゅうぶん。
棚に飾っておく時代から、気軽に、ノートのように
使う時代になった。
日本製のようにゴチャゴチャと余計なものばかりついて、それで
値段が高いとしたら、それこそ無駄。
私たちは無駄な買い物は、しない。

がんばれ、日本!
発想を変えろ、日本!
でないと、本当に日本は沈没してしまうぞ!


Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

●BW公開教室(2)

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BW公開教室を開設して、1週間になる。
初日のアクセス数は、30件前後。
昨日のアクセス数は、70件前後。
まあまあの出だしである。
悪くない。
アクセス件数を見ていたら、やる気が出てきた。
今日も、6作ほど、子育てのポイントを
収録した。

++++++++++++++++++++

BW公開教室を通して、私はありのままの「私」を出していく。
今さら飾るものはない。
飾っても意味はない。
それよりも、私は今の「私」を、こういう形で残しておきたい。
たぶん、(あくまでも私の夢だが)、こうすることによって、私が死んだあとも、
「私」は残るだろう。
墓石で自分を残すという方法もあるかもしれない。
が、墓石にしたところで、50〜100年はもたない。
墓石がどうのこうのいうのではない。
ただ墓石よりは、長く残ればよい。
100年後の人が、1文でも、1人でも、読んでくれれば、それでよい。
だから私は書く。
書きつづける。
私の計算によれば、こうだ。

仮に私が、3万ページの原稿を書いたとする。
で、私の死後、1年ごとに、50%の文が削除されるとする。
2年目には、15000ページ。
3年目には、7500ページ。
4年目には、約3800ページ。
5年目には、約1900ページ。
6年目には、約1000ページ。
7年目には、約500ページ。
8年目には、約250ページ。
9年目には、約125ページ。
10年目には、約60ページ。

10年後に、60ページも残れば、感謝しなければならない。
が、ほかに方法がないわけではない。
有料のプロバイダーに前もって、代金を先払いしておく。
100年分は無理としても、50年分くらいなら、何とかなる。
あるいは、元から無料のHPサービス会社に、原稿を分散して残しておく。
その会社が残るかぎり、原稿は残る。

それにこんな方法もある。
3万ページでも、10万ページでもよい。
それをDVDに焼いておく。
いつか私の子孫が、それをその時代のインターネットにアプロードしてくれればよい。
今は無理かもしれないが、100年後には、10万ページでも、瞬時に
アプロードできるようになるはず。

どうであるにせよ、私にとっての墓石は、このインターネットである。
今書いているこの文章こそが、私の遺骨である。
いや、遺骨など残しても意味はない。
まったく意味はない。
残すなら、脳みそということになるが、しかし保存には向かない。
それに脳みそから、(その人)を取り出すのは、むずかしい。
いくら解剖しても、そこにあるのは、神経細胞とそれから延びるシナプスだけ。

(その人)が(その人)なのは、思想であり、哲学であり、生き様ということになる。
生きた記録でもよい。
だとするなら、やはりインターネット上に、自分の書いたものを残すのが、いちばんよい。
私は文章がよいと思うが、文章でなくてもかまわない。
絵でも写真でも声でも作品でも、何でもよい。

……という思いをこめて、「芽衣の部屋」の制作に夢中になっている。
BW教室をそのまま紹介している。
自分でも、バカなことをしていると思っている部分もないわけではない。
しかしそれも私。
あれも私。
あとの判断は、それを見た人に任せればよい。
私の知ったことではない。
残るものは残る。
残らないものは残らない。
万事、人任せ。
風任せ。

しかし楽しい。
ここしばらくは、芽衣の部屋にのめりこみそう。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(090206)

●本能

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私たち人間の行動、心理、精神作用を
ながめていると、どこからどこまでが
本能で、どこから先が本能でないか、
それがわからなくなる。

まず、本脳について、調べてみる。

+++++++++++++++++

深堀元文著「心理学のすべて」(日本実業出版社)によれば、本脳は、つぎの4つに分類
されるという。

(1)種別性(種のちがいによって、本脳の内容が異なる。)
(2)生得性(生まれながらにしてもっている。)
(3)固定制(学習性がない。)
(4)不可逆性(順序が変わると、できなくなる。)(かっこ内は、私のコメント。)

同書は、具体的に、つぎのような例をあげている。

(1)種別性(種のちがいによって、本脳の内容が異なる。)
同じヒナでも、ニワトリのヒナは水に入ることを嫌がるが、アヒルのヒナは、
水に入ることをいやがらない。このように同じ鳥の、同じヒナでも、種の
ちがいによって、本脳の内容も異なる。

(2)生得性(生まれながらにしてもっている。)
同書は、クモの巣づくりを例にあげて、説明している。
クモはだれに教わったわけでもないのに、精巧な巣を自分で作ることができる。
生まれながらにして、そういう本脳を身につけている。

(3)固定制(学習性がない。)
本能と学習はいつも対比して考えられている。人間は学習によって、自らを
進歩させることができる。
しかし本脳には、それがない。
同書は、こんな興味深い例をあげている。
たとえばカモメは、貝殻を拾うと、それを空中から落とす習性があるそうだ。
私自身は、そういう光景を見たことがないので、同書の説明に従うしかない。
で、そのとき、落とした貝殻のうち、岩場などに当たった貝殻が割れる。
そうでない、たとえば砂浜に落とした貝殻などは、割れない。
が、カモメはそれを見ながらも、拾った貝殻を、無分別に、地面に落とし
つづけるという。
もしカモメに学習能力があるなら、つぎに落とすときは、岩場をめざして
落とすはず。

(4)不可逆性(順序が変わると、できなくなる。)(かっこ内は、私のコメント。)
「産卵前のジバチは、地面に穴を掘り、アオムシを見つけると、麻酔で眠らせ、
穴に引き入れる。
その体内に産卵し、穴を埋めてしまう」
「(しかしその作業の途中で、ほかの虫などのよる)妨害を受けると、(作業を)
継続できなくなる。つまり順序を変えて行動できない」(同書P63)と。
わかりやすく説明すると、ジバチは、(穴を掘る)→(アオムシを麻酔で
眠らせる)→(アオムシの体内に産卵する)→(穴を埋める)という一連の
行動をする。
しかしその途中で、ほかの虫などの妨害が入ると、そこで作業を中断してしまい、再び、途中
から作業をすることができなくなるという。
たとえば(アオムシを麻酔で眠らせた)とき、ほかの虫の妨害が入ったとする。
するとジバチは、その虫と対峙するが、それが終わったとき、その途中から
もとの作業に戻ることができない、と。

以上の話を、「では、人間なら……」と、自分に当てはめて考えてみると、おもしろい。

(1)人間だから水の中に入るのを嫌がるとか、嫌がらないとかいうことはない。

(2)クモは、精巧な巣づくりをするというが、人間にも似たような習性がある。
これは哺乳動物一般に共通する本脳だそうだが、巣づくりをするときは、中央に自分の
巣をつくり、余計なものを周囲に積み重ねる。
イヌもネコも似たような行動をする。
人間も、モノを壁にそって周囲に置く。

(3)人間なら、貝殻の殻がどういうときに割れて、どういうときに割れないかを
観察して、そこで学習をする。
そしてつぎに貝殻を落とすときは、岩場に向けて落とす。

(4)何が本当的な作業で、また何が本能的な作業でないのか、人間自身もよくわかって
いないので、安易に「人間なら……」とは、書けない。
書けないが、作業が途中で中断しても、人間なら、つぎは、途中からまた作業を再開
するだろう。
たとえばワイフとセックスをしている最中に、電話がかかってきたようなばあいを、
考えてみればよい。
(電話の内容にもよるだろうが……。)

●本脳論

ここまで予習して、さて本脳論。
先にも書いたように、本脳と学習は、常に対比して考えられていれる。
しかし(学習)といっても、個人差がはげしい。
歳をとればとるほど、学習能力も劣ってくる。
脳は柔軟性を失い、それまでにできあがった固定観念に、より固着するようになる。
しかも人間の行動、心理、精神作用のほとんどが、実は本脳に根ざしている。
「性」を例にあげるまでもない。

これも順に考えてみよう。

(1)人間の男性は、女性の裸体を見ると、性的に興奮する。
しかしイルカの裸体を見て、興奮する人はいない。
これなどは、「種のちがい」とは、言わないのだろうか。

(2)人間は自分の住居を構えるとき、四角形、もしくは円形の住居にする。
これに対して、ハチなどは、六角形を基本とする。
これなどは、「本能」とは、言わないのだろうか。

(3)基本的には、人間は怠け者である。
「学習」にしても、そこに至る過程で、ものごとを分析しなければならない。
分析したものを、つぎに論理的に組み立てなければならない。
これがけっこう、めんどうな作業で、たいていの人は、できるならそうした
作業を避けようとする。
そのかわり、てっとり早く、だれかに方法だけを教えてもらおうとする。
子どもに例えるなら、解答用紙だけをまる写しにして、宿題をすますようなことを、
平気でする。

では、(4)の不可逆性はどうか?
ジバチは、途中で作業が妨害されると、その作業を中断してしまうという。
そしてまたイチから作業を始めるという。
要するにジバチには、脳の柔軟性がないということになる。
しかしこれも程度の差こそあれ、人間も共通して経験することである。
とくに思想の世界で、それを経験する。

たとえば私の近くに、「親は絶対」と説く人がいる。
が、何度話を聞いても、同じ話を最初から、する。
時間がないので、途中で話をやめて別れるが、つぎに会ったときも、また同じ話を
最初からする。
「この前は、ここまで話したから、今日はここから話しましょう」ということが、
できない。
あるいは「親は絶対」という話を基盤にして、「親孝行論」を説いたり、「最近の
若者は……」とか言ったりする。
そういう人は、先にあげたジバチと、どこがどうちがうのかということになる。
あるいは話が、少し脱線しているかな?
しかしこういうことは言える。

私のような年齢になると、性欲からかなり解放される。
と、同時に、性欲といったものが、どういうものか、それがわかるようになる。
そういう視点で自分の過去を振り返ってみると、逆に私の人生のほとんどが、
その性欲に支配されていたことを知る。
学生時代には、1日24時間のち、20時間以上は、女性のことを考えていた。
(性欲)、さらにはその基盤になっている(種族保存)のための本脳は、まさに本脳。
自分からそれを取り除いたら、(私)と言えるものが、ほとんど残っていないのを
知る。
タマネギの皮を順にむいていったら、最後には何も残らない……といったことが、
自分の中でも起こる。

つまり私たちは動物の本能を知ることで、「私たち人間はちがう」と思うかもしれないが、
私たち人間も、やってきることと考えていることは、そこらの虫と同じ。
ちがうと考える方が、おかしい。
脳みそにしても、「昆虫のような脳みそ」(田丸先生弁)をもった人間は、いくらでもいる。
そこで(学習)ということになる。

人間は学習によって、本脳から自分を解放させることができる。
またそれができる人を、(人間)という。
釈迦も、それを「精進」という言葉を使って、説明した。
が、その力は、弱い。
本脳のもつ力を巨大なブルドーザーにたとえるなら、(学習)がもつ力は、
スコップで穴を掘る程度の力しかない。

だから誤解がないように言っておくが、(性欲からの解放)は、けっして悪いものでは
ない。
私も50代の半ばごろ、男性の更年期症候群とやらで(?)、一時、性欲から解放された
気分を味わったことがある。
そのとき感じた軽快感というか、総快感は、いまだに忘れない。
私が(私)に、ぐんと近づいたような気分になった。

……本能、されど本能ということか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
本脳論 本脳 本脳と学習)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

●金を受け取った人も逮捕?

++++++++++++++++++++

少し前、浜松市で、郵便局強盗がつづいた。
その事件に関して、2人の男性が、逮捕された。
2人は、共同で郵便局強盗を働いた。
強盗罪の適応は、当然である。

しかし、である。
新聞の報道によれば、その強盗犯から、
お金を受け取った別の男性まで、今回、
いっしょに逮捕されたという。
相手が強盗で得たお金であることを
知りつつ受け取ったのが、その理由で
あるという。

が、これはおかしい!

++++++++++++++++++++

古物に関しては、古物営業法というのがある。
最近では、古物のほか、商品券や乗車券、それにチケットなども含まれるようになった。
こういった商品を、盗品と知りつつ、古物商が受け取ったり、買い取ったりしたら、
古物営業法により処罰される。
それはわかる。
しかし古物でなく、現金だったら、どうなのか。
さらに古物営業法になじまない、個人であったらどうなのか。

今回の事件は、あくまでも新聞によって報道された範囲での話だが、こういうことだ。

郵便局で強盗を働いた犯人の1人が、強盗で得たお金であることを話しつつ、別の
男性に、お金を渡した。
その別の男性は、相手が、郵便局強盗で得たお金と知りつつ、それを受け取った。
で、今回の逮捕劇へとつながっていった。
しかし、どうして?

その第一、お金を受け取った男性に、警察への通報義務はない。
郵便局強盗をしたのがだれか知っていたとしても、それはその人たちの範囲での話。
通報しなかったからといって、罪に問われることはない。

その第二、古物のばあいは、そのモノが特定できる。
カメラにせよ、絵画にせよ、ほかに2つとて、同じものはない。
しかし現金のばあいは、それはどうか。
だいたい、どれがどのお金か、特定できない。
仮にお金を受け取ったとしても、そのお金はべつのところから得たお金かもしれない。
たとえば郵便局で強盗を働いた男に、それなりの貯金があったばあいを考えてみれば
よい。
いくら相手が、「これは強盗で得たお金だ」と言っても、お金に名前があるわけではない。
札の番号を照合することもできない。

百歩譲って、現金を受け取った男性が、「あれは冗談だと思いました」と法廷で述べたら、
どうなのか?
それですべておしまい。
それとも刑法が改正になったのだろうか。
大学を卒業して以来、それなりにつきあったのは、民事訴訟法だけ。
もしこんなことで逮捕されるようになったら、世の中はメチャメチャになってしまう。
それこそ連座制にまで発展してしまう。

たとえば夫が銀行強盗を働いたとしよう。
妻はそのときは、まったく知らなかった。
関係もしていなかった。
しかしあとになって、それを夫から告白されたとする。
「なあ、お前、このお金はなあ、オレが銀行から強盗したものだよ」と。
ついでに息子に、「お前の学費は、オレが銀行から強盗したものだよ」と。

妻も息子も、それをだれにも告げないで、だまっていた。
そしてしばらくして、夫は、銀行強盗で逮捕された。
容疑も固まった。

こういうケースのばあい、妻も息子も逮捕されることになる。

フ〜〜〜ン?

今度金沢で同窓会があるから、弁護士をしているK君に、聞いてみる。
どうも納得できない。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

●2月6日(Feb. 6th, 2009)

X日、近江八幡から、私は安土城跡をめざして、10キロの道のりを歩く。
10キロといえば、中級コース。
そのため今週は、2度、7〜8キロの距離を歩いてみた。
万歩計で、約1万2000歩。
10キロともなると、1万5000歩を超える。
だいじょうぶかな?
途中で疲れたら、タクシーにでも乗ろうと、まあ、そんなずるいことを、
今、考えている。

●地球温暖化一考(Global Warming)

オーストラリアでも、100年来の〜〜、中国でも、100年来の〜〜という、
異常気象がつづいている。
オーストラリアでは熱波と大洪水、中国では干ばつなどなど。
その深刻さは、ひょっとしたら日本という島国に住んでいる私たちには、
理解できないかもしれない。
熱波で家が焼かれていく。
干ばつで、家畜がつぎつぎと死んでいく。
世界各地で、今、生き地獄というにふさわしい現実が、進行している。

が、その半面、ラッキーなことに、本当にラッキーなことに、日本は四方を海に囲まれ、
そこを南北に、3000メートル級の山脈が貫いている。
四方を海に囲まれているため、気候の変動を受けにくい。
3000メートル級の山脈が貫いているため、雨が降り、干ばつになりにくい。

世界が滅んでも、日本は最後の最後まで、生き残る。

それを喜ぶわけではないが、そのため日本がすべきことは、多い。
言うなれば、まわりの国々がみな、家庭騒動でゴタゴタしている。
が、日本だけが、夫婦円満、家族円満。
あまりたとえはよくないかもしれないが、であるからこそ、日本は世界の国々に対して、
よきアドバイザーとなる。
それを目指す。

ところで今回の大不況は、地球温暖化の伏線と考えたらよい。
モノ、モノ、モノ……。
あふれかえるモノ、モノ、モノ……。
そのモノが一方で、地球温暖化の原因となり、そのモノが売れなくなって、今回の
大不況を引き起こした。
(モノ)を間において、地球温暖化と大不況が、つながっている(?)。

少し飛躍した考えに聞こえるかもしれないが、しかし地球温暖化がさらに進めば、
その深刻さは、大不況どころではなくなる。
貯金通帳がゼロになる程度ですめば、まだよいほう。
家ごと、山火事に燃やされたり、洪水で流されたりする。
命だって奪われるかもしれない。
「火災保険に入っているから、だいじょうぶ」などとあなたが考えているとしたら、
とんでもないまちがい。
その前に保険会社が、消えてなくなる。

もちろんだからといって、大不況がよいというわけではない。
しかしこんなのは、まだ序の口。
地球温暖化が、やがて人々の心を不安にし、それが社会を混乱させる。
暴動や戦争を引き起こす。
が、私が心配するのは、地球温暖化そのものではない。
そこに至るプロセス。
過程。
略奪、暴行、犯罪が頻発するようになる。
それがこわい。

簡単に言えば、人間には、その心の準備ができていない。
ガソリンの値上がりについては心配するが、ガソリンの消費が引きこす地球温暖化
にまでは、まだ気が回らない(?)。
その視野の未熟さこそが、問題と考えてよい。

もちろん今回の大不況も、大不況とはいうものの、一時的なもので終わる。
1〜2年もすれば、過去の笑い話となるだろう。
しかしこうした大不況は、そのあとも頻繁に起こるようになる。
繰り返し起こるようになる。
50年来の大不況、100年来の大不況、さらには有史始まって以来の大不況、と。

理由は明白。

地球あっての人間。
人間あってのモノづくり。
モノづくりが地球を滅ぼすとしたら、モノづくりにブレーキをかけるしかない。


●宇宙人一考

宇宙人は、たしかにいる。
もしいないというなら、私とワイフがあの夜見た、巨大なUFOは、いったい
何かということになる。
目撃例がないわけではない。

クラリオン星人、金星人オーソン、プレアデス星人、宇宙人ラーマなどなど。
こうした名前は、その種の本に、よく登場する。
昔から知られているのに、火星人というのもいる。
真偽のほどはともかくも、地球人だけがこの宇宙の、(太陽系でもよいが)、
住人と考えるほうが、おかしい。

私は、自分が死ぬまでに、あの夜見た巨大なUFOの正体を知りたい。
何としても、知りたい。
当時、みなが私たちに、こう言った。
「飛行機の見まちがいではないか」と。
さらに「君は教育評論家を名乗っているから、そういうことは口にしないほうがいい」と
言った人もいた。

しかしあれは飛行機などというものではない。
飛行機はそれ以前も、そのあとも、毎日のように見ている。
見まちがえるはずがない。

それに見たものは、見た。
ブーメラン型のもので、幅だけでも、数キロはあった。
しかも飛び去るとき、飛び去りながら消えたというよりは、少しずつ透明になって、
まるで空に溶け込むかのようにして消えていった。
とても人間が作った飛行体には、見えなかった。
が、あれは何だったのか?
私自身の名誉を回復するためにも、あのUFOの正体を知りたい。

……ということで、私とワイフは、そのつど夜空を見あげている。
このところ澄んだ夜空がつづいている。

ただしUFOを見たり、宇宙人を見たら、逃げたほうがよいそうだ。
過去にも、いろいろな人がいわゆる第三種接近遭遇というのを経験しているというが、
みな、ひどいめにあっている。
殺された人もいる。
向こうは向こうで、人間をこわがっているらしい。
100にひとつでも、その危険性があるなら、逃げたほうがよい。


●巨額詐欺事件

数年前、近未来通信という名前の、あやしげな通信会社が、巨額の投資詐欺事件を
引き起こした。
実は、私も、ある人に、その投資に強く勧誘されたという経緯がある。
一口、1000〜1200万円ではなかったか。
投資すれば、私の地域の中継局を任してもらえるという話だった。
しかし、最初からこの話は、おかしい。

中身は、IP電話。
テレビ電話もできるという。
しかし当時すでに、IP電話は常識。
プロバイダー(サーバー)に申し込めば、だれでも簡単にでできた。
テレビ電話については、SKYPE(スカイプ)があった。
こちらは無料。
どうしてそんなときに、有料で、しかも別枠で、IP電話に加入する人がいるだろうか。
何よりもおかしいのは、中継局。
インターネットを利用したIP電話に、中継局は必要ない。

で、その投資に私を勧誘したのは、大学の1年先輩のX氏。
今から思うと、とんでもない先輩である。
あのころの時計を逆に回してみると、すでにそのとき、近未来通信は、
あやしげな経営を繰り返していた。
そういうときに私を勧誘した。
つまりその先輩は、私を投資に誘うことで、自分の投資を救済しようとした(?)。

……ということで、これからもこうしたあやしげな投資に関する話は、つぎつぎと
飛び込んでくるだろう。
その第一に選ばれるのが、健康食品。
カモとして選ばれるのが、老人。

今回のL社による巨大詐欺事件にしても、もとはといえば、健康食品の販売が
ベースになっていたという。
しくみは、こうだ。

10万円投資すれば、10万円分の買い物ができる電子マネー(「円天」という
名前のカード)を送ってくる。
投資した人は、そのカードを使って、買い物をする。
しかし1年後、また10万円がそのカードに振り込まれ、投資した人は、また
10万円分に買い物ができる。
こうして不思議なことに、そのカードをもっている人は、永遠にそのカードを
使うことができる。

しかしどこでもそのカードが使えるわけではない。
その会社が指定した提携ショップのみ。
しかもその提携ショップにしても、L社に請求をしても、25%しかお金が戻って
こなかったという。
だからどの店も、そのカードで買い物をする人には、4倍の値段をつけていたという。
わかるかな?
しくみは、こうだ。

だれかがあなたのショップにやってきて、10万円の買い物をしたとする。
あなたは10万円分の商品を渡す。
で、そのあと、L社に払い戻しの請求をする。
当然、あなたは10万円、払い戻してもらえると思うかもしれない。
しかし答は、NO!
請求しても、売上代金の25%、つまり2万5000円しか返ってこない。
あなたは7万5000円の損ということになる。
そこであなたは、そのカードで買い物をする客については、4倍の値段で売る。
カードを使う側にすれば、10万円のカードで、2万5000円分の買い物しか
できない。
健康食品というのは、もともと値段があってないようなもの。
だから4倍の値段で売ったところで、客には、それがわからない。

では、どうやってL社は、経営をつづけるか。

単純に計算すれば、10万円の投資家に対して、10万円分の商品を渡すのに、
4年の猶予があることになる。
(毎年、2万5000円ずつ、返すことになるから、4年間。)
その4年間に、さらに会員をふやせばよい。
(実際には会員に、会員を勧誘させる。)
1人の会員が毎年、さらに1人の会員を連れてくればよい。
つまりここでネズミ講方式の詐欺が始まる。
新たに会員を連れてきた人には、ボーナスを支払う。
こうして勧誘を奨励する。
が、この方式は、やがて行きづまる。

……しかし、こういうことを考える人も、頭がよい。
それを実行するのだから、行動力もある。
ある週刊誌にはこう書いてあった。
「そうした能力をもっと別の方面に使えば、あの人(主犯格の男)も、すばらしい人物に
なっていただろう」と。

が、同じ報道によると、その男は、若いときから詐欺事件を繰り返していたという。
金の亡者というのは、そういう男をいう。


●今朝は5時起き(2月7日)

今朝は、5時起き。
私とワイフは、結婚以来、ひとつのふとんの中で寝ている。
そのこともあって、たがいに、ひとりでは寝られない。
とくに冬場は、そうだ。

が、ときどき体が離れるときがある。
そういうとき、私は、恐ろしい夢を見る。
今朝の夢は、どこかの宇宙人に追いかけられるという夢だった。
ギコギコと機械じかけのロボットが、どこまでも私を追いかけてくる。
私は知恵をふりしぼって、あちこちに隠れる。
しかしロボットは、私の行動を先に読んで、どこまでも追いかけてくる……。
(このあたりは、映画『ターミネーター』の影響かな?)

で、5時起き。
昨夜は、午前1時ごろまで、ワイフと雑談をしていたので、睡眠時間は、
たったの4時間。
あとで朝風呂に入って、もう一度寝なおすつもり。
しかしそれにしても、静かな朝だ。
遠くで、カラスが鳴いた。
あとはいつもの耳鳴り。
どこか風邪ぽくなると、耳鳴りがひどくなる。
そういえば、この数日、鼻水が出る。
ほかに症状はない。

P.S.

私のワイフについて、常々、うらやましいと思うのは、ワイフは、一度眠ったら、
ぐっすりと、朝まで目を覚まさないということ。
不眠症という言葉は、ワイフには、ない。
夢も見ないという。
見た目はともかくも、ほんとうにのんきな性格と思う。


●パソコン中毒

私は、いつも近くにパソコンがないと、落ち着かない。
が、私がパソコン中毒と考えるのは、少し待ってほしい。
もう少し詳しく分析すると、私の指先が、(指先が、だぞ!)、パソコンを求めている。

これは一種の神経症のようなもの。
子どものモノいじりに、似ている。
指しゃぶりに始まって、毛布の先をいじったり、ボタンをいじったり、
さらにひどくなると、髪の毛をいじったりする。
鉛筆の先をかんだり、自慰をするのもその仲間に入る。

指先からの刺激が、脳内に作用して、エンケファリン系、エンドロフィン系の
脳内ホルモンを分泌すると考えてよい。
わかりやすく言えば、モルヒネ系の物質が脳内を満たす。
そのことは、それをしている子どもたちの表情を見ればわかる。
うっとりとした、陶酔感に浸っている。

で、私も、指先でパソコンのキーボードをいじっていると、気分が落ち着く。
気持ちよい。
 
が、悪いばかりではない。
中国では、昔から、老人たちはモノをいじることで、ボケ防止をしている。
石や金属でできた丸い玉を、手の中でクルクルといじって、それをしている。
指先からの刺激は、脳みそを活性化させるという。

だからパソコンでものを書くというのは、あくまでもその結果でしかない。
ピアノの演奏家の中には、いつも鍵盤に指が触れていないと落ち着かないという人も
いるそうだ。

何かの本で、ある演奏家が、鍵盤の材質にこだわっているという話を読んだことがある。
材質というよりは、感触か?

私もパソコンを選ぶときは、キーボードの感触を大切にしている。
いくら性能がよくても、キーボードの感触の悪いのは、だめ。
その点、最近のパソコンは、とくにミニやノートは、キータッチがソフトすぎて、
物足りない。
もう少し、歯ごたえのあるものにならないものか。
そのほうがキーを叩いていて、気持ちよい。


●テポドン2号(A Missile of North Korea)

もし私がAS首相なら、今ごろオバマ大統領に、こんな電話をしているだろう。

「Mr. President, as to the missile of North Korea, the best choice we can do is just to ignore 
it whatever it is. But if you want to shoot it down, we would cooperate with you to do so. If 
not, what we can do is just to ignore it, since we have no power or ability to shoot it down 
by ourselves. They would probably insist it IS a satellite and it is not a Missile. But how can 
we distinguish a satellite from a missile, at the initial stage of the launch while it flies over 
the Japan Sea? If we shoot it down they will be crazy and noisy against us. Now is not the 
time, however, when we can cope with such and such tiny problem of a tiny nation. Again 
therefore I think the best way is just to ignore it, which will work most effective against 
them. What do you think about this?

久しぶりに、英文のほうを先に考えた。
ふだんは日本語で書いてから、それを英文に翻訳する。
こう書いた。

「K国のミサイルについて、それが何であれ、今は無視するのが、最善かと思います。
が、もし貴殿がそれを迎撃するというのであれば、協力いたします。
ただ日本としては、単独で迎撃することはできません。
K国はそれを衛星と主張し、ミサイルではないと主張するかもしれません。
発射初期の段階で、つまり日本海を飛んでいるときに、それを見極める方法はあるの
でしょうか。
もしわれわれが迎撃すれば、K国は発狂するでしょう。
しかし今は、小さな国のこうした問題にかまっているべきときではありません。
それゆえに、もっとも効果的な方法は、やはり無視することです。
どうお考えですか」と。

+++++++++++++++++++

私のHPへのアクセスについては、どこのだれが、いつ、何時にアクセスしてきたが、
それがわかるようになっている。
その中でも、最近多くなったのが、「アメリカ軍」。
ズバリ、「アメリカ軍」(FC2)と、日本語で表記してある。
つまり私のHPやBLOGを、アメリカ軍が見ている(=監視している?)。

だったら英語で書かない手はない。
うまくいけば、私の書いたことが、オバマ大統領に、直接、伝わる。
イヒヒヒ……。
これは楽しい。


●YOU TUBE

++++++++++++++++++

このところ毎日のように、YOU TUBEに
動画をアプロードしているが、無制限なのが
驚き。
1回に10本までとか、一本につき1GBまでとか
いう制限はあるが、その気になれば、無制限。
どういうしくみになっているのだろう。
おそらくYOU TUBE社のほうへは、毎分、毎時間、
大河のように情報が流れ込んでいるはず。
それを蓄積する能力もすごいが、逆に瞬時にファイルを
呼び出せるしくみも、すごい!

あるいはそのうち、制限が加えられるようになるかも
しれない。
が、ともかくも今は、無制限。
だから今のうちに、動画をどんどんとアプロードしていく。

++++++++++++++++++++

●新しい試み

書店へ行けば、当然そこには本しかない。
育児本については、さらにそうである。
(CDブックというのはあるが……。)

そこで新しい試み。
育児書を音声で作る。
しかもインターネットを利用すれば、自分の
聞きたいところだけを、選択して聞くことが
できる。

これはおもしろい!
未来性を秘めている!
これからはそういう時代になるかもしれない。

問題は、それをどうやって収入につなげて
いくかだが、私のばあい、もとから収入は
考えていない。

私が楽しければ、それでよい。
それにまさる目的はない。

が、受け取る側の人たちは、どうなのだろう?
どんな思いで、見たり、聞いたりしてくれるのだろう。
それを知るひとつの方法が、アクセス数という
ことになる。
アクセス数がふえれば、よし。
そうでなければ、そうでない。
しかしとにかく、この1年は、それをつづけてみよう。
そこに何があるかわからない。
未知の世界。
言うなれば、これは冒険の旅。

どうか読者のみなさん、私のHPをのぞいてみて
ください。
HPのトップページから、『芽衣の部屋』へ
進んでみてください。

(付記)

だれも行ったことのない世界へ、自分だけが行ってみる。
そこに何があるかわからない。
何が待っているかもわからない。
それを「冒険」という。

生きる楽しさは、その冒険をするところにある。
またそれで失敗しても、悔いはない。
しないで後悔するよりも、そのほうが、ずっと楽しい。

他人のうしろについて、コソコソと歩くのは簡単なこと。
他人の失敗を見ながら、それを笑いながら生きるのも、
これまた簡単なこと。
しかしそんな人生に、どんな意味があるというのか。

私は私だけの道を歩いてきたし、これからも歩いていく。
そうそう言い忘れたが、冒険といっても、何も、
旅行だけが冒険ではない。
本当の冒険は、その人の生きざまの中にある。
思考の中にある。

さあ、あなたも勇気を出して、冒険の旅に出てみよう。
未知なる世界へ、飛び出してみよう。
すべての束縛から、解放されて!


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

●映画『アフター・デイズ(After Days)』

+++++++++++++++++++++

人類すべてが、ある日突然、消えていなくなったら……、
という映画が、これ。
主演者ゼロ、脇役ゼロという、どこかSF的、しかし
どこかドキュメンタリー風の映画。

おもしろくはないが、それでいておもしろい映画。
星はつけようがないが、あえてつければ2つの、★★。

要するに人間などいなくても、かまわないという映画。
「地球は人間必要としない。
しかし人間は地球を必要とする」と。

「そういうものだろうな」というのが、見終わったあとの
感想。

+++++++++++++++++++++

●私の偏見?

DVD「アフター・デイズ」は、要するに「人間などいなくても、地球は困らない」
という映画である。
だから「地球を大切にしろ」ともとれるが、しかしその一方で、その底流に、
強烈なニヒリズムが流れているのがわかる。
「人間どもよ、自らの愚かさを知れ」と。

しかしこれは私の偏見かもしれない。
現在、地球温暖化の問題は、深刻さをましている。
心のどこかで、私たち人間は、罪の意識というか、うしろめたさを感じている。
そうした心情に、この映画が重なった。

この映画の本当のねらいは、(監督はそういう意図で、この映画を制作したのだろうが)、
「もっと地球を大切に」というところにあるのかもしれない。
しかしその力は、あまり強くない。
それで私は、「強烈なニヒリズム」を感じてしまった。

●ニヒリズム

ニヒリズムといえば、ニーチェ。
1844〜1900年の人物である。
名前を、フリ−ドリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェという。

彼の思想の特徴といえば、恨み(ルサンチマン)ということになる。
つまり恨みが積もりに積もって、それがやがて虚無主義へとつながっていく。
が、よく誤解されるように、だからといってニーチェは、「生きることが空しい」と
説いたわけではない。
むしろ逆。

こうした虚無主義と闘うためには、人間は「超人」であるべきと、ニーチェは説いた。
超人というのは、強靭な精神力をもった、スーパーマンのような人物をいう。
もちろんその背景には、キリスト教的な理想郷の否定がある。
「天国などはない」「そういうものに救いを求めてはいけない」と。
だから繰り返すが、ニヒリズム、イコール、現実の否定ではない。
むしろ現実を徹底的に肯定するところに、(当然、自分の存在を解放するところに)、
ニヒリズムの原点がある。

●恨み(ルサンチマン)の増大

地球温暖化が進めば進むほど、人々の心の奥に、恨みが増大する。
やりようのない恨みである。
怒りの矛先を向けたくても、その向け先すらわからない。
ニーチェの時代には、それはキリスト教的な呪縛感を言った。
が、今は、地球温暖化。
ニヒリズムが生まれる土壌は、じゅうぶんある。
そしてそれが今、熟成されつつある。

そこで重要なのは、まず私たち人間は、自分の弱さと不完全さを再認識すること。
いくらがんばったところで、神の世界はやってこないし、またそういうものに
期待を寄せたところで、何一つ、問題は解決しない。
そこで私たちは今、どんな現実に直面しているかを知る。

しかしそれは言うまでもなく、このままでも、またこのままでなくても、
人類はやがてすぐ滅亡するという現実である。

●地球温暖化(地球火星化)

地球温暖化は、いわゆる温室効果によってもたらされる。
映画『アフター・デイズ』の中では、人間が消えれば、地球は元にもどるという
ような筋書きになっている。
が、実際には、そうではない。

温室の原因となっている、温室そのものは、仮に今、世界中の人間が化石燃料の
使用をやめたところで、消えるわけではない。
このまましばらく、(「しばらく」といっても、地球的規模の時間をさすが)、地球を
覆いつづける。
その結果、地球の気温は、2100年以後も、2200年以後も、上昇しつづける。

2100年までに、地球気温は平均して4〜5度上昇すると言われている。
が、それで止まるわけではない。
一説によれば、それはいつのことかはわからないが、最終的には、地球の気温は、
400度近くにまで上昇すると言われている。

400度と言えば、「何とかなるような温度」ではない。

●では、どうするか?

…………?

この宇宙空間に放り出された人間には、もともと始まりはない。
そのため終わりもない。
ニーチェの思想によれば、われわれは神によって創造された特別な存在ではない。
無数の生き物の、ワンオブゼム(生き物の一部)でしかない。
まず、それを認める。
もっとわかりやすく言えば、滅亡することを恐れる必要はない。
仮に人類が滅亡し、やがて地球の気温が400度になったところで、それは地球の
歴史からみれば、「ほんのまばたきの瞬間」(「アフター・デイズ」)でしかない。
やがて地球に氷河期が訪れ、そのあと地球は、再生される。

そのとき人間でない人間が、再びこの地球に、誕生する可能性は、じゅうぶんある。
今は微生物かもしれないが、100万年後には、小さな哺乳動物のようになる。
さらに100万年後には、姿形は、まったくちがうかもしれないが、「人間」を
名乗るようになる。

これはあくまでもニーチェ思想に従えばという話になるが、個人という人間が、
いつかかならず(死)を受け入れるように、人類もまた、(全体としての死)を
受け入れる。

それがニーチェが説く、二ヒリズム、またそれができる人が、
「超人」ということになる。

●ニヒリズムの否定

私が感じた、強烈な二ヒリズムについて、ニーチェの思想に準じて、
私なりに解釈を加えてみた。
しかしニーチェ思想が、正しいわけではない。
また哲学にしても、ニーチェで完成されたわけではない。
少し辛辣(しんらつ)な言い方になるが、ニーチェは、「哲学の破壊者」にすぎない。

ニーチェのあと、ハイデッガー、サルトル……とつづいたように、私たちは
別の、(生きるための哲学)を模索している。
それについてはまた別の機会に書くとして、映画『アフター・デイズ』を見るときは、
そのニヒリズムに陥らないように注意する。
ニヒリズムはニヒリズムとして、一歩退いたところからながめる。

で、やはりここは、「自然を大切に」というテーマで、この映画に対する感想をしめくくり
たい。
けっして「生きるのは無駄」と思ってはいけない。
また最後の最後まで、夢と希望をあきらめてはいけない。
それができる間、私たちは人間として生き残ることができる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
ニヒリズム ニーチェ 超人 哲学の破壊者 恨み ルサンチマン)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090208)

●失錯行為

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思わず本音がポロリと出る……ということは、
よくある。
口にしてはいけないと思っていると、かえって
それが口から出てきてしまうこともある。
たとえば話している相手が、かなりの肥満体で、
内心では、「肥満の話はしてはいけない」と
思っていても、ふと話題が肥満に向いてしまう、など。

こういう行為を、失錯行為という。
私も、最近、この種の失敗をよくする。
脳みその緊張感が、それだけゆるんできたという
ことか?
が、これは、老後を迎える私たちにとっては、
深刻な問題と考えてよい。

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●緊張感の減退

子どもとこんな会話をしたことがある。

ある日、デスクの上を見ると、昨日までそこにあったビーズ玉で作った
ネックレスがない。
「?」と思いつつも、ネックレスのことは忘れた。
が、レッスンが終わって、あいさつがすんだときのこと。
A子さん(小2・女児)に、「A子さん……」と声をかけた。
私はそのとき何か別の用があって、そう声をかけた。
が、A子さんは、すかさず、こう言い返した。
「私、何ももっていっていません」と。

瞬間、何のことかわからなかったが、ネックレスをもっていったのは、
A子さんと、私はわかった。
こういうのを失錯行為という。
A子さんは、私が声をかけたとたん、思わず、そう言い返してしまった。
そのとき私は、「子どもでも、失錯行為をするんだなあ」とまあ、へんな感心をした。

……ということだが、私自身も最近、ときどきこの失錯行為を経験する。
先にも書いたように、それだけ脳みその緊張感がゆるんできたということになる。
が、こうした傾向は、加齢とともに、ますます大きくことはあっても、小さくなる
ことはない。
自己管理能力そのものが、衰退する。

たとえば講演をしているようなとき、私は同時に脳みそが2つの部分で機能して
いるのを感ずる。
ひとつは、話している内容について機能している部分。
もうひとつは、そういう自分を別のところから客観的に判断している部分。
「残りの時間は、あと15分だぞ。そろそろまとめに入れ」とか、など。

コンピュータにたとえるなら、デュアル・コアということになるのか。
2つの仕事を、脳みそが同時進行の形で、処理している。
つまりその客観的に判断している部分の昨日が衰退する。
だから「思わず……」ということが多くなる。
が、この程度ですめば、まだよいほう。
もう少し進むと、いわゆるボロが出る、ということになる。

●ボロが出る

私の中心部に、(私の人間性)があるとする、
その(私の人間性)を包むように、無数の(私)がある。
中心部にある私を(芯)とするなら、まわりの私は、(皮)ということになる。
タマネギを想像すると、わかりやすい。

たとえば教室で美しい母親を見たとする。
そういうとき、「美しい人だな」と思う。
裸で肌をこすり合わせたら、さぞかし気持ちよいだろうなと思う。
思うが、そういうふうに思っていることを、相手の母親に悟られてはならない。
つまりそういうふうに思っていることを悟られないように、自分をコントロールする。
そういう力を、自己管理能力という。
(発達心理学でいう「自己管理能力」とは、少し意味がちがうかもしれない。)

その自己管理能力の元になっている力が、「気力」ということになる。
私はさも聖人であかのようなフリをして、「そういうことには興味はありません」
というような様子をしてみせる。

そういうふうに自分を隠す部分が、先に書いた、タマネギの皮の部分ということになる。
このタマネギの皮の部分ばかりが肥大化すると、仮面、つまりペルソナということに
なるが、そこまで深刻な問題ではない。
だれしも、その程度の(皮)はかぶる。
タクシーの運転手が、客に愛想がよいのも、店の若い女性が、ていねいな言い方を
するのも、多かれ少なかれ、この(皮)による。
わかりやすく言えば、「営業用の顔」。

しかし加齢とともに、その(皮)が薄くなる。
薄くなって、ボロが出る。
もしそれがわからなければ、老人ホームにいる老人たちを見ればよい。
彼らの多くは、自分をむき出しにして生きている。

●奥の人間性

だれしもタマネギの芯のような部分をもっている。
それはそれとして、その(芯)がよいものであれば、それでよし。
そうでなければ、かなり警戒したほうがよい。
加齢とともに、その(芯)が、だれの目にもわかるようになる。

たとえばこの私は、芯となる素性が、あまりよくない。
自分でもそれがよくわかっている。
よく誤解されるが、(芯)は、人間性の問題。
生き様の問題。
経歴や学歴では決まらない。
頭のよさとも関係ない。
しかも長い年月をかけて、自分の中で熟成されるもの。

善人ぶることは簡単なこと。
それらしい顔をして、それらしい話をして、それらしく行動すればよい。
政治家の中には、この種の人間は、いくらでもいる。
しかし一度自分の中にしみついた(悪)を、自分から取り除くのは、
容易なことではない。

ほとんどのばあい、一生、残る。
死ぬまで残る。

それはちょうど健康論に似ている。
若いころは持病があっても、体力でそれをごまかすことができる。
しかしその体力が弱くなってくると、持病がドンと前に出てくる。

●では、どうするか?

若いころから、しかしできれば幼児期から、自分の人間性を磨くしかない。
「幼児期から?」と思う人もいるかもしれないが、幼児を見れば、すでに
その幼児の中に、どんな(芯)ができているかがわかる。

もちろんその(芯)を作るのは親ということになる。
とくに母親から受ける影響が大きい。
母親が正直で、まじめな人だと、子どもも、正直で、まじめになる。
しかもこうした連鎖は、教えずして、子どもに伝わる。

たとえば車の運転中に携帯電話がかかってきたとする。
そういうとき賢い母親は、そばにいる子どもに、代わりに電話に出させる。
「あなた、電話に出て。ママは運転中だから」と。
しかしそうでない母親は、そうでない。
子どものいる前でも、平気でルールを破る。
何気なく、破る。
携帯電話を片手に、平気で運転をつづける。
そういう姿を見て、子どもは、自分の中に(芯)を作っていく。

もう、答はおわかりかと思う。

私たちの中にある(芯)、つまり人間性は、日々の研鑽のみによって、作られる。
一瞬一瞬の行為が積み重なって、その人の人間性を作る。
といっても、これは難しいことではない。

約束を守る。
ウソをつかない。
この2つだけを積み重ねていく。
どんなばあいにも、子どもがいても、いなくても、それを守る。
こうした努力が、10年、20年……とつづいて、芯をつくる。
またそういうよい芯がしっかりしていれば、老後になっても、何も恐れる必要はない。

が、いくつかのコツがある。

私も努めてそうしているが、40歳を過ぎたら、つきあう人をどんどんと選択する。
とくに小ズルイ人は、避けたほうがよい。
もちろん悪人とはつきあわない。
そういう人と接していると、こちらの人間性までゆがんでくる。
若いときならまだしも、そういう人たちと交際して、無駄にできる時間は、もうない。
小ズルイ人とつきあっていると、そのつど、自分の人間性が逆戻りしていくのが
わかる。
とくに私のように、もともと素性がよくない人間はそうである。

で、あとは自然体。
なりゆきに任す
『類は友を呼ぶ』の格言どおり、あなたのまわりには、そういう人たちが集まってくる。
そうでない人は、あなたから遠ざかっていく。
人間性を磨くとは、そういうことをいう。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 失錯
失錯行為 ボロ 人間性)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●無意識下のウソ

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ウソにもいろいろある。
その中でも本心から、ウソをつくときがある。
「本心から」というのも、おかしな言い方に
聞こえるかもしれない。
しかし自ら本心を偽りながら、ウソをつく。
もちろんウソという認識はない。
本人は、自分の心を作り変えることで、
ウソをウソと思わなくなる。

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●子ども二態

こんな現象がある。
これはあくまでも一般論だが、どこかの試験会場のようなところで試験を受けて
きたような子どもに、こう聞く。
「どう、できた?」と。

そのとき、「うん、まあまあできたよ」と言う子どもは、たいてい結果がよくない。
「むずかしかった」「できなかった」と言う子どもは、たいてい結果がよい。

理由がある。

試験を受けてみて、むずかしい点がわかる、できなかったところがわかる、というのは
それだけ試験の内容が理解できたことを意味する。

むずかしかったところや、できなかったところを、集中的に気にする。
だから「できなかった」と言う。
一方、それすらもわからない子どもは、つまり自分ができなかったことすらわからない
そこで子どもは、「まあまあ、できた」と言う。
自分ができたところだけを過大に評価する。

ともにウソを言っているわけではない。
自分でそう思い込んでいるから、そう言う。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

【本心論】

●認知的不協和理論

さて、本心論。
心理学の世界に、「認知的不協和理論」という理論がある。
アメリカの心理学者のフェスティンガーの発表した理論である。
人は自分の中に矛盾を感じたとき、どちらか一方を否定し、どちらか一方を合理化
することによって、その矛盾を解消しようとする。
その中間状態、つまり中途半端な状態にあるとき、人間の心理はたいへん不安定に
なる。
こうした不安定な状態は、『フリップ・フロップ理論』という理論で、説明される。

箱でもどちらか一方に倒れているときは、安定する。
しかし角で立てるなど、中途半端な状態だと、フラフラして落ち着かない。
「フリップ・フロップ」というのは、「フラフラしている」という意味である。
人間の心理もまた、同じ。
どちらかに心を決めてしまえば、落ち着く。
しかし中途半端だと、ずっと不安定なまま。
よくある例は、無神論の人が、有神論になるとき。
あるいは有神論の人が、無神論になるとき。
人間の心は、きわめて不安定になることが知られている。

が、このようにわかりやすいケースのほうが、少ない。
認知的不協和理論を説明するとき、心理学のテキストによく登場するのが、喫煙。
「タバコを吸うのは、体に悪い」、しかし「タバコを吸わざるをえない」と。
こういうばあい、その人は、(吸ってはだめ)(吸いたい)という矛盾の世界で、
葛藤する。
が、タバコを吸うのをやめることはできない。
そこでタバコを吸っていても元気な、80歳や90歳の人がいることを理由に、
自分を合理化しようとする。
「タバコを吸っていても、元気な人はいくらでもいる」と。

子どもの世界でもで、認知的不協和の状態は、よく観察される。
たとえばこんな例がある。

A君(中3)は、3日後に、大きなテストを控えている。
そんなとき、仲のよい友人が、遊びに来た。
A君は、テスト勉強をしなければならない。
しかし友人と遊んでいると楽しい。
こういうとき、A君は心理は、認知的不協和状態になる。

が、その状態を長く保つのは、むずかしい。
そこでA君は、テスト勉強があるから、友人に帰ってもらうか、
さもなければ、「テストはだいじょうぶ」と自分に言い聞かせることで、
友人と遊びつづけるかの、選択に迫られる。

で、A君は、後者のほうを選択した。
「今度のテストは簡単なものだ」という、別の友人の言葉を何度も頭の中で
繰り返すことで、自分を安心させた。

●深刻な例

B氏(40歳・男性)は学生時代から、無神論者だった。
無神論にもいろいろな程度があるが、B氏のばあいは、完全な無心論者だった。
しかし妻のほうは、そうではなかった。
どこかにそういう下地があったのだろう。
妻の家族はみな、急進的な宗教団体として知られているX教団の信者だった。
ある日突然、(本当はそれ以前から、夫に隠れて信仰していたのだが)、
X教団に入信してしまった。

X教団では、離婚することを強く戒めていたが、B氏は、そこで大きな選択を
迫られることになった。
B氏自身も入信するか、さもなければ、離婚か、と。
先にあげたフリップ・フロップ理論を借りるまでもなく、B氏の心理状態は、きわめて
不安定になった。
不安定ということは、心の緊張状態が取れないことをいう。
人間の心理は、緊張状態の程度にもよるが、それほど長くは、その緊張状態に
耐えられない。

結果、A氏はこう考えた。

「私の妻は、20年近く、私のためにがまんしてくれた。
つぎの20年は、私が妻のためにがまんする番だ」と。
B氏も、つづいてX教団に入信した。

●合理化

認知的不協和理論を考えていくと、何が本心で、何が本心でないかが、
よくわからなくなってくる。
本心と思っている(心)にしても、そのときの状況や雰囲気、環境によって、
自らがそう思い込んでいるだけというケースも少なくない。

心理学でいう(合理化)も、そのひとつということになる。

たとえば買ったばかりの宝くじの券を、どこかで落としてしまったとする。
そういうときその人は、「どうせあのクジははずれ券」と、自分をなぐさめる。
なぐさめることによって、損をしたという思いを打ち消す。

こうした心理操作は、私たちは日常の生活の中で、連続的にしている。
連続的にしながら、自分の本心(?)を作り上げていく。

子どもの世界でも、よくある。

先日も、C子さん(小6・女児)が、「私はおとなになったら、弁護士になる」と言った。
そこで私が、「本当になりたいの?」と何度も念を押したのだが、C子さんは、その
つど、しっかりと、「そうです」と答えた。

私「本心から、そう思っているの?」
C「もちろん」
私「でもどうして弁護士なの?」
C「弱い人の味方になりたいから」
私「じゃあ、どうやって、弱い人の味方になるの?」
C「……それは、わからない」と。

C子さんは、「弁護士になる」ということを口にしながら、家で、自分の立場を確保していた。
それを口癖にすれば、家で、わがままを通すことができた。
家事も手伝わないですんだ。

つまり「わがままを言いたい」「家事を手伝いたくない」という思いが別にあって、
C子さんは、「弁護士」という言葉を使うことを選んだ。
「弁護士になるために勉強する」と言えば、すべての手伝いや家事から解放された。
ほしいものは、何でも買ってもらえた。

●タバコ

こんな例もある。

Dさん夫婦は、Y教という、あるカルト教団の熱心な信者だった。
Y教というのは、手かざしで病気を治すという話で、よく知られている教団である。
が、10歳になった息子が、ある日、病気になってしまった。
どんな病気だったかは知らないが、Dさん夫婦は、病院へは連れていかなかった。
そのかわり、Y教の支部へ連れていった。
手かざしで息子の病気を治そうとした。
が、残念なことに、手かざしで治るような病気ではなかった。
息子はそれからしばらくして、死んでしまった。

ふつうならDさん夫婦は、Y教のインチキに気づき、Y教から離れる。
が、離れなかった。
離れられなかった。
かえってDさん夫婦は、さらに熱心な信者になってしまった。
しかし、これも認知的不協和理論を当てはめて考えてみると、理解できる。

もしY教がインチキだとするなら、息子を殺したのは、Dさん夫婦と自身いうことに
なってしまう。
そのとき病院へ連れていけば、治ったような病気である。
あとでそれがわかったが、Dさん夫婦がおかしな宗教を信じたために、息子は死んでしまった。
が、この事実を受け入れるのは、Dさん夫婦には、たいへんむずかしい。
そこでDさん夫婦は、より熱心な信者になることによって、その罪の意識から
逃れようとした。
「息子が死んだのは、私たちの信仰が足りなかったから」と。

●本心論

さて、本心論。
しかしこの「本心」ほど、アテにならないものはない。
卑近な例で考えてみよう。
私のワイフは、「お前は、ぼくのような男と結婚して、後悔していないか?」と
聞く。
するとかならず、「後悔していない」と答える。
そこで私が、「それはお前の本心ではないと思う」と言うと、「本心よ」と答える。
しかしこういう本心(?)は、まず、疑ってかかってみたほうがよい。

ワイフはワイフで、いろいろな場面で、認知的不協和状態になり、それを打開する
ために、私との関係を合理化してきた。
若いころの私は、男尊女卑的な思想をかなり強くもっていた。
仕事ばかりしていて、家庭を顧みなかった。
ワイフはそのつど、私との結婚に、疑問をもったにちがいない。
それをワイフは、心のどこかで感じていた(?)。
そのつど、自分を合理化することで、矛盾を別の心の中で、押しつぶしてきた(?)。

その結果が(今)であり、(ワイフの本心?)ということになる。
だからこの段階で、「後悔している」と認めることは、結婚生活そのものの否定につながる。
離婚程度で解決するような問題ではない。
その苦しさに耐えるくらいなら、自分の心をごまかしてでも、合理化したほうが得(?)。
だから「本心よ」と答える。

……と考えていくと、本心とは何か、ますますわからなくなってくる。
しかもこの本心というのは、他人によって作られるものではなく、自分によって
作られるもの。
だからよけいに、タチが悪い。
わけがわからなくなる。

実のところ私の中にも、本心と言ってよいものが、無数にある。
しかしその中でも、本当に、これが本心と言えるものは、ひょっとしたら、
ほとんどないのではないか。
「本心」というものは、そういうもの。
つまりずいぶんといいかげんなもの。
本心論を考えていると、そういう結論になってしまう。
さて、あなたはどうか?

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
本心論 認知的不協和理論 フェスティンガー 合理化 正当化 自己正当化)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●道の駅(公共施設)に異議あり!

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私たち夫婦は、月に2、3度、地元のバス会社が
運営する旅行会に参加している。
最近は「歩こう会」が楽しい。
旅行先はいろいろだが、旅先で、7〜10キロを歩く。
そこでのこと。

その旅行会では、出発点は、たいていどこかの
観光地。
しかしゴールは、どこかの(道の駅)と設定されている。
バスを停車させることができる場所ということで、
そう設定されているのだと思う。

その道の駅について。
ほとんどが公共の建物である。
自治体が運営している。
が、その道の駅。
昨年から今日までに、10数か所以上、利用させてもらったが、
こういうこと。

(1)建物だけは、やたらと立派。超豪華。
(2)システムは、セルフサービス。
(3)レストランの料理は、まずくて、高い。
(4)店員(職員と書くべきか)のやる気のなさだけが目立つ。

この文を今、私は帰りのバスの中で書いている。
たった今、A町の「XXの館」の裏にあるレストランで食事をしたところ。
建物からして、公営。
まちがいない。
ここから先は、施設の名誉にもかかわることだから、正確に書く。

(1)日曜日の午後というのに、主だったメニューは売り切れマーク。
残っていたメニューは、麺類のみ。
(私たちがレストランに入ったのは、午後2時ごろ。
このレストランでも、食券を先に買い求めるシステムになっていた。)
(2)やる気なさそうな、40歳前後の女性が3人、カウンターの向こうでうろうろ
しているといった感じ。
愛想も悪い。
(3)私はラーメン、ワイフはうどんを食べた。
値段は、ともに650円。
値段だけは、平均的。
しかし味がひどい!
私が食べたラーメンは、ラーメンの味がするというだけのラーメン。
醤油と化学調味料だけで作ったようなスープに、ショッピングセンターでも
売っているような細身の麺が、つっこんであった。
原価は、50〜70円もかかっていないだろう。
まずくて、まずくて、どうしようもなかった。

食器をカウンターに返すとき、一言、苦情を言おうと思ったが、女性たちは奥に
ひっこんでまま。
「ありがとう」も言わなかった。

ワ「建物だけ、こんなに立派でも、そこで出しているものがこれではねエ……」
私「お役所仕事を、象徴しているみたいだね」
ワ「ホント!」と。

これはワイフの意見だが、こうしたレストランは、入札か何かをして、民間に
委託したほうがよい。
私の自宅近くにあるレストランでは、何十種類ものメニューを用意している。
昼の定食にしても、同じ値段の650円。

それにしても、大理石張りの豪華なレストランに入ったら、ラーメン(1種類)と、
うどん(2種類)しかないというのは、どう考えてもおかしい!

たまたま現在、元郵政省が建てた、全国のxx宿泊会館が、信じられないような
安値で、払い下げられているという問題が起きている。
数10億円で建てた建物が、わずか数万円で、とか、など。
「職員つき」ということで、そうなった。
しかし、である。

先ほど食事をしたレストランの女性たちも、身分は公務員なのだろうが、
しかしあんな店員(職員)なら、即刻クビにしたらよい。
少なくとも民間のレストランなら、とっくの昔に閉店している。
クビにしなくても、職場を失っている。
そんな店員(職員)でも、最後の最後まで保護しなければならないとしたら、
それはおかしい。
まちがっている。

あんなまずいラーメンを食べさせて、みじんも恥じない。
味の研究すら、していない。
サービスは最悪。
加えて、今どき、セルフサービスとは!
お茶も、水も、セルフサービス!
食事が終わったら、別のカウンターまで食器を運ぶ!
こんなバカげたレストランが、ほかのどこにある?

私たちがレストランに入ったのは、午後2時ごろ。
店内には、30前後のテーブルがあったが、客は、私たちを含めて、
3組だけ。
ガラガラ。
帰り際、私たちが開けたドアをくぐりぬけるように、別の客が入ってきた。
その客を見て、私は思わずこう言いそうになった。

「こんなレストラン、やめたほうがいいですよ」と。

しかしこのレストランにかぎらない。
どこの道の駅も、似たようなもの。
まずくて、高い。
サービスは最悪。
しかし建物だけは、超豪華!
超立派。
今日入ったレストランも、鉄筋造り。
床も壁も、大理石。

バカヤロー!


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●現実的に生きる
(To live practically when we meet the old ages is essential to live our lives more fruitful. Don'
t be escapists.)

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老齢になればなるほど、言動が幼稚化する。
私が言っているのではない。
(幼稚化といっても、幼稚になるということではない。
幼児と同じような思考形態をもつようになるという意味。)
あのユングがそう言っている。
ユングはそれを元型(アーキタイプ)という
言葉を使って説明した(「心理学」php)。

が、そんな難しい話は、どうでもよい。
わかりやすく言えば、幼児期と老年期においては、
ものの考え方が、幻想的、夢幻的になりやすいということ。
より現実離れしやすいということ。
(これに対して、青年期、中年期においては、
ものの考え方が、現実的。)

言いかえると、いくら歳をとっても、
私たちは現実的なものの考え方をする。
またそれが老年期と闘うためのコツという
ことになる。

新しい考え、ゲット!

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●幼児と老人の共通点

ユングの理論をあれこれと頭の中でひねってみると、こういうことも言えるのでは?
つまり幼児と老人は、おとぎ話が好き、と。
よい例が、『ハリーポッター』。

「ハリーポッターが好き」と言う子どもは、年齢的にも上限がある。
本に関していうなら、小学3年生前後から高学年。
中学生になると、「あんな本、くだらない」と言う。
(実際、くだらない本だが……。)

ああいう突飛もない、つまり現実離れした物語が好きな層というのは、年齢的にも、
ある範囲に限られてくる。
ユングは、それをどこかで知った。

一方、老人たちはどうか。

私の母方の祖母は、いつも「天竺(てんじく)」という言葉を口にした。
天竺というのは、今のインド。
しかしインドではない。
釈迦の生まれ故郷をいう。
善と徳の満ちあふれる、理想郷。
祖母はその天竺に、かぎりないあこがれを抱いていた。
当時私は小学生だったが、その私にも、祖母のその気持ちがよくわかった。

ハリーポッターと天竺。
共通点はといえば、現実離れしているということ。

●突飛もない夢想

一方、この私はどうか?
私も子どものころ、非現実的な世界に、あこがれた。
たとえば当時、忍術というのが、大流行した。
私が小学3〜4年生くらいのことではなかったか。
映画の影響もあった。
忍者が大蛇に変身したり、大ガマに変身したりした。

そんな私でも、中学生や高校生になるころには、現実主義者へと
変化していった。
それを進歩ととらえるか、退化ととらえるか。
少なくとも、現実の世界と、夢想の世界を、はっきりと区別するようになった。
で、今もそうである。
私はいつも現実的なものの考え方をしている。

が、である。
老年期に近づいてきたためか、それとも現実社会での限界を感ずるようになった。
そのせいか、このところ夢想の世界にふけることが、ときどきある。
実は、今日もワイフと散歩をしながら、こんなことを考えた。

「地球温暖化はどうしたらいい?」と考えていたときのこと。
ふと「宇宙人に助けてもらえばいい」と。

私が宇宙人に、直談判する。
そして巨大な宇宙船を貸してもらう。
その宇宙船を使って、子どもたちを指導する、と。

地球を宇宙から見るだけでも、私たちのものの考え方は変わるかもしれない。
私はその宇宙船に、中学生や高校生を乗せて、遠くは土星まで旅をする。
つまり宇宙から地球を見せながら、子どもたちを指導していく。

……突飛もないことを考えたが、この突飛もないことが、ひょっとしたら、
老年期の思考の特徴かもしれない。
天竺を夢想した私の祖母と、どこもちがわない。

●元型(アーキタイプ)

そこで重要なのは、私たちはいかに老人になろうとも、現実との接点を見失っては
いけないということ。
あるいは現実的なものの考え方を、見失ってはいけないということ。
またそのための努力を、怠ってはいけない。

私の知る範囲でも、最近、墓参りばかりしている男性がいる。
年齢はまだ70歳前である。
名前をR氏としておく。
若いころには、そんなことをするような人には、とても見えなかった。
が、今は、ことあるごとに墓参りばかり。
今度は、父親の33回忌をするという。

なぜだろう?

単純に考えれば、それだけ死を意識するようになったということになる。
が、どうもそれだけではないようだ。
そこで再び、ユングに登場してもらう。
彼は「元型(アーキタイプ)」という言葉を使った。
元型というのは、人類が進化の過程で、集合的に身に着けたイメージのようなもの。
それが神話になったり、おとぎ話になったりした。
伝説や、昔話にもなったりした。
わかりやすく言えば、非現実の世界の源泉ということになる。

ひょっとしたら、宗教も、そこから生まれたかもしれない。
つまりはイメージの世界の源泉、それが元型ということになる。

この元型が、幼児期や老人期には、優勢になる。
その結果として、幼児は夢幻の世界に自分を置き、老人は、(死)の向こうにある
世界に、回帰するようになる。
R氏が墓参りばかりをするようになったのも、そのひとつと考えられなくもない。

●現実

現実世界に自分をしばりつけておく方法は、いろいろある。
その第一は、現役で仕事をすること。
第二は、夢幻世界と、常に闘っていくこと。
第三に、若い人たちとの関わりを、失わないこと。

結論を先に書いてしまったので、この先をどう書いたらよいかわからない。
が、この中でとくに大切なのが、現役で仕事をすること。
今、とりあえずできることと言えば、それしかない。

……ということで、今朝(2月9日)も始まった。
がんばるぞ!

ところで昨日、BLOGへのアクセス数を合計してみた、4000件を超えた。
1日だけで、4000件だぞ!
もちろんその中には、重複してアクセスしてくれた人も多い。
4000件イコール、4000人ということではない。
しかしそれにしてもすごい。
それにHP(ウェブサイト)などへのアクセス数を加えたら、軽く1万件を超える。
1日だけで、1万件だぞ!
すごい!
本当にすごいが、現実感があまり伴わない。
これはどうしたことか?
あるいはその数字に現実味をもたせるには、どうしたらよいのか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
元型 ユング 現実的な生き方)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090209)

【子育て失敗危険度】
あなたは、だいじょうぶ?


                     はやし浩司

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「狂騒する子どもの世界」

狂った親たちの世界をえぐりだしながら、新しい教育観を提言。このままでは本当に日本はだ
めになる。そういう切実な危機感からこの本を書いた。

第一章……常識からはずれる親たち
第二章……子どもをダメにする親たち
第三章……親バカにならないために

はじめに……

この原稿は、2000年ごろ、今から9年前に書いたものです。
ある出版社からの依頼があり、それで書き始めたものです。
が、当時、この原稿を世に発表する勇気がなく(?)、
今日に至ってしまいました。

もう一度、(現在)という視点で、書き直しながら、
子育ては今、どうあるべきかを考え直してみたいと願っています。
なおこの種の原稿の常として、登場する人物、話の内容は、
すべてフィクションです。

他人から聞いた話を、自分のエピソードに仕上げたり、
反対に自分のエピソードを、他人から聞いた話に仕上げたりしています。
あるいは2つの話を1つにまとめたり、1つの話を2つに分けたり
した部分もあります。
親類の話を他人の話にしたり、その逆のこともあります。

そんなわけで、もし読者の方の中に、「これは私の話だ」と思う人がいても、
どうか、それは誤解であることを、ご理解ください。
私はいかなるばあいも、現在、関わりのある人や、交際している人の話を
書くということはしません。

                     はやし浩司


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

第一章……常識からはずれる親たち

 子育てはまさに迷いの連続。迷いのない子育てはないし、迷って当たり前。しかし迷っている
うち、ふと袋小路に入ってしまうことがある。問題はそのとき。

 迷いながらも、どこかに指針があれば、その方向に出口を見出すことができる。しかしその
指針がないと、迷うまま、まっ暗な世界に入ってしまう。そしていつの間にか、とんでもない非常
識なことをしながら、それが非常識だとさえわからなくなってしまう。そんな失敗例を集めたの
が、第一章、「常識からはずれる親たち」。

 私はそれを皆さんに伝えながらも、こうした非常識な親を笑っているのではない。楽しんでい
るのでもない。こうした失敗は(失敗という言葉は好きではないが……)、だれにでもあるもの。
まただれにでも起こりえるもの。決して他人のことではない。第一章は、そんなあなたの指針と
なることを願って書いた。
 

はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

第二章……子どもをダメにする親たち

 放任がよいわけではないが、子どもというのは、親が子どもに向かって何かをすればするほ
ど、別の方向に行く。そこで親は、また子どもに向かって何かをする。あとはこの悪循環。気が
ついたときには、親も子どももにっちもさっちもいかない状態になる。

 が、問題は、この悪循環ではない。問題は、その途中でそれに気がつく親はまずいないとい
うこと。たいていの親は、「まだ何とかなる」「こんなはずはない」「うちの子にかぎって」と無理に
無理を重ねる。これが子どもをますます悪い方向においやる。そんな失敗例を集めたのが、第
二章、「子どもをダメにする親たち」。

今、あなたの子どもが幼児なら、これから先、失敗しないため。今、何か問題があるなら、これ
以上その問題を悪くしないため。そそして今、その問題の最中にあるなら、その問題を解決す
るため。第二章は、それをあなたに知ってほしくて書いた。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

第三章……親バカにならないために

 ほとんどの親にとっては、子育てははじめて。しかも一人だけ。多くても、二人、あるいは三
人。ある母親はこう言った。「やっと親らしくなれたと思ったときには、子育てはもう終わってい
た」と。

 そこで私が登場……、というと、何とも手前ミソのような感じがしないでもない。しかし私ほど、
子育ての最前線で数を踏んだ人間もいない。私の頭の中には、無数の成功例と、同じ数だけ
の失敗例が入っている。そういう経験から得た知識をまとめたのが、第三章、「親バカにならな
いために」。

 本来ならこうした子育て論こそ、私が書きたいところ。私の子育て論というより、私の前を通り
すぎた無数の親や子どもの経験といたほうがよいかもしれない。そこには無数の汗と涙が凝
縮している。第三章はそれをあなたに伝えたくて書いた。
 
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

給食もレストラン感覚で!
非常識が常識(失敗危険度★★★)

●「足の裏をみるのですかア」
 「最近の母親たちはバッグを平気でベッドの上に置く」と、ある小児科の医師が怒っていた。
が、それだけではない。「子どもをベッドに寝させてください」と言うと、今度はスリッパをはかせ
たままベッドの上に……! そこで看護婦が、「スリッパをぬがせてください」と言うと、その母
親は、「足の裏をみるのですかア」と。

●最近の親たち
 こういう非常識な母親はいくらでもいる。幼稚園へ入園するについても、最近の母親で、「入
れていただけますか?」と聞く親はまずいない。当然入園できるという前提で、幼稚園へやって
くる。中には幼稚園へやってきて、見学だの、体験学習だの、さらには給食の試食までしていく
親がいるという。帰りぎわに主任の教師が、恐る恐る、「入園はどうしますか?」と聞くと、「もう
二、三か所、あちこちの幼稚園を回って決めるワ」と。私にもこんな経験がある。

●「一回休みましたから」
 そのころ園長の指示で、希望者だけを集めて特別講座を開いていた。わずかだったが、別
に講座費(月額三〇〇〇円)をとっていた。が、それがよくなかった。五月の連休が重なって、
その子ども(年中女児)のクラスだけが、月三回になってしまった。それについて、その母親か
ら、「補講してほしい」と。しかしたまたま月三回になったのは、私の責任ではない。そこで「補
講はしません」というと、今度はその父親が電話に出てきて、こう言った。「月四回ということで、
講座費を払っている。三回しかしないというのは、サギだ。ついては、お前をサギ罪で訴える」
と。市内で歯科医師をしている父親からの電話だった。

 あるいは同じころ、たまたま月一回を病気か何かで休んだ子ども(年長男児)がいた。よくある
ことだが、あとでみると、講座費がちょうど四分の三の、二二五〇円になっていた。いや、その
ときはそれに気づかず、「お金が足りませんが……」と言うと、その母親は平然とこう言った。
「一回休みましたから」と。

●給食もレストラン感覚で
 もっともこの程度の非常識はこの世界では常識。先日も神奈川県のU幼稚園で講演をさせて
もらったのだが、その園長がこっそりとこう教えてくれた。「今では、昼の給食もレストラン感覚
で出してやらないと親は納得しないのですよ」と。「子どもに給仕をさせないのですか?」と聞く
と、「とんでもない! スープでヤケドでもしようものなら、親が怒鳴り込んできます」と。

 今、子育ての世界では、非常識が常識になってしまっている。しかも何が常識で、何が非常
識なのか、それさえわからなくなってきている。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

何をお高くとまってんの!
神経質になる母親たち(失敗危険度★★★★)

●「あなたの教育方針は何か」
 ある日一人の母親が四歳になる息子をつれて音楽教室の見学にやってきた。音楽教室の先
生は、三〇歳そこそこの若い先生だった。音大を出たあと、一年間ドイツの音楽学校に留学し
ていたこともある。音楽教室の中では、そこそこに評価の高い先生だった。しかしその母親
は、その先生にこう食いさがった。「あなたの教育方針は何か」「子どもの未来像をどう考えて
いるか」「あなたの教育理念をしっかりと話してほしい」と。

●幼児と教育論?
 「たかが……」と言うと叱られるが、「たかが週一回の音楽教室ではないか」と、その音楽教
室の先生は思ったという。が、こうした質問にていねいに答えるのも仕事のうち、と考えて、あ
れこれ説明した。が、最後にその母親はこう言って、その教室をあとにしたという。「これから家
に帰って、ゆっくり息子と話しあってきます」と。まさか四歳の息子と教育論?

●「失礼」を知らない母親たち
 私のところにも、こんなことを相談してきた親がいた。「うちの子は今度、E英会話教室に通う
ことにしましたが、先生がアイルランド人だというではありませんか。ヘンなアクセントが身につ
くのではないかと心配です」と。さらに中には電話で、私に向かって、「あなたの教室と、K式算
数教室とでは、どちらがいいでしょうか?」と聞いてきた母親さえいた。

さらに「うちの子はBW(私の教室の名前)に入れたくないのですが、どうしても入りたいと言う
のでよろしく」と言ってきた母親もいた。こういう母親には、「失礼」とか「失敬」という言葉は通じ
ない。で、私は私で、そういう失敬さを感じたときは、入会そのものを断るようにしている。が、
それすら口で言うほど簡単なことではない。

●「フン、何をお高くとまってんの!」
 こうした母親に入会を断ろうものなら、デパートで販売拒否にでもあったかのように怒りだす。
「どうしてうちの子は入れてもらえないのですか!」と。「紹介? あんたんどこは紹介がないと
入れないの? フン、何をお高くとまってんの! そんな偉そうなこと言える教室じゃないでし
ょ」と悪態をついて電話を切った母親すらいた。つい先日もこんなことがあった。

●初対面のときとは別人
 父親と母親につれられて中学一年生になったばかりの男子がやってきた。見るからにハキ
のなさそうな子どもだった。いやいや両親につれられてやってきたということがよくわかった。会
うと父親は、「どうしてもA高校へ入れてほしい」と言った。ていねいな言い方だったが、どこかイ
ンギン無礼な言い方だった。で、一通り話は聞いたが、私は「返事はあとで」とその場は逃げ
た。親の希望が高すぎるときは、安易に引きうけるわけにはいかない。

で、その数日後、私がファックスで入会を断ると、父親がものすごい剣幕で電話をかけてきた。
「貴様は、うちの息子は教えられないというのか。A高校が無理なら無理と、はっきりといったら
どうだ!」と。初対面のときとはうって変わった声だった。私が「息子さんの能力とは関係ありま
せん」と言うと、さらにボルテージをあげて、「今に見ろ。ちゃんとうちの子をA高校に入れてみ
せる!」と怒鳴った。もっともこの父親は、それから半年あまりあとに、脳内出血でなくなってし
まったという。私と女房は、妙にその事実に納得した。「うむ……」と。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

私の考えが絶対に正しい!
自分の世界で子育てをする母親たち(失敗危険度★★)

●「林先生は、ちゃんと指導していない」
 年中児になると、子どもというのは、とくに教えなくても文字を書けるようになる。もちろん我流
だが、それはそれとしてこの時期はおお目に見る。で、ある日私が子ども(年中男児)の書いた
文字に大きな花丸をつけて返したときのこと。その日の夕方、母親から抗議の電話がかかって
きた。「あんなメチャメチャな字に、花丸などつけないでください!」と。そしてその電話のあと園
長にまで電話をかけ、「林先生は、ちゃんと指導していない。どうしてくれるのか」と迫った。

●祖父が教師へ飛び込んできた
 これに宗教がからむと、さらにやっかいなことになる。ある日赤ペンで、その子ども(年中女
児)の名前を書いたときのこと。あとからその子どもの祖母から抗議の電話があった。いわく、
「赤字で名前を書くとはどういうことですか。もし万が一、うちの孫に何かあったら、あなたのせ
いですからね!」と。何でも赤字で名前を書くのは、不吉なことなのだそうだ。またこんなこと
も。

 ある日、私が肩が痛いと言うと、「なおしてあげる」と申しでてきた子ども(小五男児)がいた。
「ありがたい」と思って頼むと、その子どもは私の肩に手をかざして、何やらを念じ始めた。で、
私が「そんなのならいい。どうせなおらないから」と言うと、その子どもは笑いながら手を離し
た。私も笑った。

が、その翌日、まず祖父が教室へ飛び込んできた。「貴様は、うちの孫に何てことを教えるの
だ!」と。つづいて母親までやってきて、「うちの宗教を批判しないでください!」と。その家族は
ある宗教団体の熱心な信者だった。さらに……。

●「あなたはせっかくのチャンスをムダにした」
 クラスの生徒の家庭に不幸があるたびに、「私なら何とかできます」と申し出てきた女性(四
一歳)がいた。私の知人の姉にあたる人だった。話を聞くと、「私なら救うことができます」と。そ
のときもそうだった。子ども(小二)が、重い小児ガンになっていた。私も何とかしたいと思って
いたので、つい気を許して、「お願いします」と言ったが、それからがたいへんだった。

その女性はまず箱いっぱいの書籍をもってきた。みるとその教団の教祖が書いた本だった。
が、それで終わらなかった。ついで、そのガンの子どもの家を紹介してほしいと迫ってきた。し
かし、それはまずい。相手の人は、相手の人で、毎日壮絶な苦しみと戦っている。そういう家族
に、本当に救えるのならまだしも、宗教をすすめるのは、まずい。しかしその女性にはそれが
わからない。私はていねい断ったのだが、こう言った。「あの子は私の力で治せる。あなたはせ
っかくのチャンスをムダにした」と。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

うちの子はやればできるはず!
身のほど知らず(失敗危険度★★★★★)

●それを言ったら、おしまい
 子どもを信ずるのは大切なことだが、それにも限度がある。その能力のない子どもの親か
ら、「何とかしてほしい」と言われることぐらい、つらいことはない。思わず「遺伝子の問題もあり
ますから」と言いそうになるときもある。が、それを言ったら、おしまい。

●三割削減
 最近だと、学習内容が全体で三割程度削減されることになった。それについて、「このあたり
には私立の小学校がないが、どうしたらよいか」と相談してきた親がいた。私立の小学校で
は、今までどおりの授業をすると思っているらしい。が、それはそれとして、その子ども(年長男
児)は私がみたところでも、学校の授業についていくだけでもたいへんだろうな思われる子ども
だった。そういう子どもの親が三割削減の心配をする? むしろ三割削減を喜ぶべきではない
のか。そう言えば、名古屋市で学習塾を開いているY氏も同じようなことを言っていた。「クラス
でも中位以下の子どもの親から、(最上位の)S高校へ入れてくれと言われるくらい、困ること
はないよ」と。

●親の過剰期待
 が、この期待が子どもに向かうと、過剰期待になる。何が子どもを苦しめるかといって、親の
過剰期待ほど子どもを苦しめるものはない。たいていの親は、「うちの子はやればできるはず」
と思っている。事実そのとおりだが、やる、やらないも力のうち。「やればできる」と思ったら、
「やってここまで」とあきらめる。が、これがむずかしい。

 誤解、その一……むずかしいワークをやればやるほど、勉強ができるようになるという誤解。
しかし事実はまったく逆。無理をすればそのときは多少の力はつくかもしれないが、しかしそう
いう無理は長続きしない。(勉強から逃げる)→(親がますます無理をする)の悪循環の中で、
子どもはますますできなくなる。

 誤解、その二……勉強の量(勉強時間)をふやせばふやすほど、勉強ができるようになると
いう誤解。しかしダビンチもこう言っている。「食欲がない時に食べれば、健康をそこなうよう
に、意欲をともなわない勉強は、記憶をそこない、また記憶されない」と。意欲をともなわない勉
強は、身につかないということだが、実際には逆効果。子どもは時間ツブシや、フリ勉がうまく
なるだけ。しかも小学校の低学年で一度、勉強から逃げ腰になると、以後、それをなおすのは
不可能といえるほど、なおすのがむずかしくなる。

 誤解、その三……訓練すればするほど、勉強ができるようになるという誤解。たしかに計算
や漢字の学習は、訓練すればするほど、それに見合った効果が期待できるときもある。しかし
計算力があるからといって、算数の力があることにはならない。漢字をよく知っているからとい
って、国語(作文)の力があることにはならない。もう少しわかりやすい例では、年中児ともなる
と、ペラペラと本を読む子どもが出てくる。しかしだからといって、その子どもは国語の力がある
ということにはならない。たいていは文字を音に変えているだけ。

●一人の母親がやってきた
 しかし母親にはそれがわからない。夏休みになる少し前、一人の母親が私をたずねてきた。
私の本の読者だというので、私もその気になっていたが、会うとこう言った。「うちの子は言葉も
遅れた。二年生になるとき、特別学級(養護学級)をすすめられているが、今のところ何とか断
ることができた。何とか学校の勉強についていきたいので、先生(私)のところで夏休みのあい
だだけでもいいから、めんどうをみてくれないか」と。

●ワークブックがぎっしり!
 で、その子どもに会うと、カバンの中に難しいワークブックがぎっしりと詰まっていた。ふつうJ
社、G研、O社のワークブックは買ってはいけない。J社のワークブックは、難解な上に、問題
がひねってある。G研やO社のワークブックは、問題の「落差」が大き過ぎる。たとえば同じ見
開きのページの中でも、左上の一番の問題は、眠っていてもできるような簡単な問題。が、右
下の最後の問題は、「こんな問題、できる子どもがいるのだろうか?」と思うほどむずかしい問
題であったりする。つまり落差が大き過ぎる。

こうしたワークをかかえたら最後、子どもの学習はそこでストップしてしまう。その子どものワー
クブックはそのJ社のものばかりだった。しかも、問題量が多いというか、こまかい字のものば
かり! 親としては、問題量が多いということは、それだけ「割安」と考えるのかもしれないが、
それも誤解。ワークブックはスーパーで買う食品と同じに考えてはいけない。

●ワークブックが足かせに
 ついでながら、子どものワークブックを選ぶときは、(1)動機づけ、(2)達成感の二つを大切
にする。動機づけというのは、子どもをその気にさせること。達成感というのは、いわば満足感
のことだ。この二つをクルクルまわりながら、子どもは勉強好きになる。

 私が「ワークブックはすべて捨てなさい」と言うと、その母親は目を白黒させて驚いた。さらに
私が、「子どもには内緒で、幼児用のワークブックを使わせます」と言うと、さらに白黒させて驚
いた。そして「では、指導していただかなくて結構です」と言って、そのまま去っていった。
 

はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

勉強だけできればいいの!
ガツガツママのモチ拾い(失敗危険度★★★★)

●基礎教養
 「教育」をどうとらえるかは、人それぞれ。そのハバもその深みも、その人によって違う。ある
母親は娘(小二)を育てながら、一方で本の読み聞かせ会を指導し、乳幼児の医療問題研究
会を組織し、議会運動までしていた。母親教室にも通っていたし、学校のPTAの役員もし、クラ
ス対抗のお母さんバレーも指導していた。そういうのを「基礎教養」と私は呼んでいるが、その
母親のまわりには、その基礎教育があった。が、一方、その基礎教養がまったくない親がい
る。ないまま、受験教育だけが「教育」と信じ、それだけに狂奔する。Rさん(三五歳)がそうだ。

●なりふりかまわない子育て
 Rさんは、夫の実家が裕福なことをよいことに、家計にはほとんど関心をもたなかった。夫は
ある運送会社で荷物の仕分け作業の仕事をしていた。が、Rさんは、子ども(小二男児)の教
育には惜しみなく、お金を注いだ。おけいこ塾も四つをかけもちした。空手道場、ピアノ教室、
英語教室、それに水泳教室、と。水泳教室にかよわせたのは、子どもに喘息があったからだ
が、当然のことながら家計はパンク状態。そのつど夫の実家から援助を受けていた。が、それ
だけではない。夫の一か月の給料でも買えないような学習教材を一式買ったこともある。最近
では子どもの学習用にと、中古だがコピー機まで購入している。

●モチまきのモチ?
 Rさんのような母親を見ていると、教育とは何か、そこまで考えてしまう。不快感すら覚える。
それはちょうど、バイキング料理で、「食べなければ損」とばかり、つぎからつぎへと、料理をた
いらげている女性のようでもある。あるいは、モチ投げのとき、なりふり構わずモチを拾ってい
る女性のようでもある。「教育」と言いながら、その人を包み込むような高い理念がどこにもな
い。いや、そういう人にしてみれば教育とは、まさにモチまきのモチでしかないのかもしれない。

●私はハタと困った
 私はそのRさんのことをよく知っていた。が、あろうことか、ひょんなところから、そのRさんか
ら子どもの教育の相談を受けるハメになってしまった。最近、子ども(小二男児)が、Rさんの言
うことを聞かなくなったというのだ。そこで一度、面接してみると、その子どもには、いわゆるツ
ッパリ症状が出ていた。すさんだ目つき、乱暴な言葉、キレやすい性格など。動作そのものま
で、どこか野獣的なところがあった。ほうっておけば、まちがいなく非行化する。

●私は超能力者?
私のばあい、数分も子どもと接すると、その子どもの将来が手に取るようにわかる。今、どうい
う問題をかかえ、これからどういう問題を起こすようになるかまでわかる。よく「超能力者のよう
だ」と言われるが、三〇年も毎日子どもたちと接していると、それがわかるようになる。方法は
簡単。まず今までに教えた子どもの中から、その子どもに似た子どもをさがす。そしてその子
どもがその後どうなっていったかを知る。

さらに私のばあい、幼稚園の年中児から高校三年生まで、教えている。しかも問題のあった子
どもほど、印象に強く残っている。あとはそれを思い出しながら、親に話せばよい。そういう意
味では、この世界では経験がモノを言う。が、この段階で、私はハタと困ってしまった。「それを
親に言うべきか、どうか」と。

●間の距離が遠すぎる
 ここで出てくるのが、「基礎教養」である。もしRさんに豊かな教養があれば、私は迷わず、そ
の子どもの問題点を話すであろう。話すことができる。しかしその教養のない親には、話しても
ムダなばかりか、かえって大きな反発を買うことになる。それだけの教養がないから、説明のし
ようがない。それはちょうどバイキング料理をむさぼり食べている女性に、栄養学の話をするよ
うなものだ。もっと言えば、掛け算もまだわからない子どもに、分数の割り算の話をするような
ものだ。間に感ずる距離が、あまりにもある!

Rさんはさかんに、それも一方的に、「はやし先生にみてもらえるようになって、うれしいです。
よかったです」と言っていたが、私は私で、「少し待ってください」とそれを制止するだけで、精一
杯だった。私の話すら、ロクに聞こうとしない。それだけではない。このタイプの親というのは、
もともと一本スジの通った哲学がないから、成績がさがったらさがったで、今度は私の責任を
おおげさに追及する。それがわかっているから、その子どもの指導を引き受けることができな
い。で、案の定というか、私が数日後、電話で、力にはなれないと告げると、私の説明を半分も
聞かないうちに、携帯電話をプツンと切ってしまった。
 

はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

昔は子殺しというのも、あったからねえ!
女性の三悪(失敗危険度★★★★)

●人間そのものを狂わす
嫉妬、虚栄心、母性本能を、女性の三悪という。ここで母性本能を悪と決めつけるのは正しく
ないかもしれないが、性欲や食欲と同じように考えてよい。この本脳があるからこそ、親は子を
育てるが、使い方をまちがえると、人間そのものを狂わす。そういう意味で、三悪のひとつに加
えた。

(1)まず嫉妬……こういう話は、プライバシーの問題がからむため、ふつうは正確には書かな
い。しかしそれにも限度がある。あまりにもふつうでない話のため、あえて事実を正確に書か
ねばならないときもある。こんな話だ。

●ライバルの子どもを足蹴り
 H市の郊外にU幼稚園という小さな幼稚園がある。あたりは高級団地で、そのレベルの家の
子どもたちがその幼稚園に通っていた。そこでのこと。その母親は自分がPTAの会長であるこ
とをよいことに、いつもその幼稚園に出入りしていた。そして自分のライバルの子ども(年中女
児)を見つけると、執拗ないじめを繰り返していた。手口はこうだ。まずその女の子の横をそれ
となく通り過ぎながら、足でその女の子を蹴飛ばす。その勢いで倒れた女の子を、「どうした
の?」と言いながら抱くフリをしながら、またカベに投げつける……。年中児なら、かなり詳しく
そのときの状況を話すことができる。

 その女の子は、その母親の姿を見ただけで、まっさおになっておびえるようになったという。
当然だ。そこでその女の子の母親が「どうしたらいいか」と相談してきた。いや、その前に、そ
の母親は相手の母親に、それとなく抗議したというが、相手の母親は、とぼけるだけで、話にな
らなかったという。しかも相手の母親の夫というのは、ある総合病院の外科部長。自分の夫
は、同じ病院でもヒラの外科医。夫の上司の妻ということで、強く言うこともできなかったという。

●珍しい話ではない
 こういう話は、この世界では珍しくない。嫉妬がからむと、人間はとんでもないことをする。脳
のCPU(中央演算装置)そのものが、狂うときがある。これも実話だが、ある母親は同じ団地
に住む別の母親の子ども(四歳児)を、エレベータの中で見つけると、いつも足蹴りにしていじ
めていた。そのためその子どもは、エレベータを見るだけでおびえるようになったという。

問題は、なぜ、そこまで母親というのは狂うかということ。先にあげた母親は、幼稚園でもPTA
の会長をしていた。多分会合の席なのでは、それらしい人物として振舞っていたのだろう。考え
るだけでもぞっとするが、しかし人には、その人でない部分がある。この話を叔母にすると、叔
母はこう言った。「昔は子殺しというのもあったからねえ」と。母親も嫉妬に狂うと、相手の子ど
もを殺すことまでする……?

 つぎに(2)虚栄心。「世間」という言葉を日常的に使う人ほど、虚栄心の強い人とみる。いつ
も他人の目の中で、自分を判断する。価値観というのが、いつも相対的なもので、他人より財
産があれば、豊かと感じ、そうでなければ貧しいと考える。子どもにしても、このタイプの母親に
は、「飾り」でしかない。もともと自己中心性が強いため、親意識も強い。「私は親だ」と。そして
その返す刀で、子どもに向っては、「産んでやった」「育ててやった」と恩を着せる。

●他人の不幸を喜ぶ親
 このタイプの母親には、他人の不幸ほど、楽しい話はない。ここに書いたように価値観が相
対的であるため、他人が不幸であればあるほど、自分がより幸福ということになる。Tさん(三
五歳女性)がそうだった。幼稚園へはいつも、ものすごい着物でやってきた。そして若い先生に
会ったりすると、その場できどった言い方で、こう言った。「アーラ、先生、お元気そうザーます
ね。まあ、すてきな香り、よいご趣味ザーますわね」と。私はてっきりすごい家柄の母親だとば
かり思っていた。そしてこんなこともあった。

 幼稚園で遠足に行くことになったときのこと。母親たちの間で、昼の弁当はどうするかという
話がもちあがった。二、三人の親が、サンドイッチはどうかしらと提案したそのとき、Tさんはあ
たりをおさえるようにして、こう言った。「ア〜ら、(幼稚園生活で)最後の遠足ザーますから、皆
さんで仕出し弁当か何かを頼んだら、いかがザーますかしら」と。

 で、どういうわけだかそのときは反対する人もなく、その仕出し弁当になってしまった。何でも
Tさんの知人がそのお弁当を作ってくれるという。値段は「割安」とは言ったものの、当時の平
均的な弁当の二倍以上の値段だった。私はそのとき三〇歳少し前。年上の母親には何も言え
なかった。

●豪華な着物
 そのTさんだが、子どもへの執念にも、ものすごいものがあった。たとえば誕生会は、市内の
レストランで開いていた。しかも招待するのは、そのレベルの人たちばかり。私にも招待の声
がかかったが、何を着ていこうかと迷ったほどである。そしてさらに秋の遊戯会でのこと。その
クラスで、浦島太郎をすることになった。が、Tさんは、「どうしてもうちの息子に、乙姫様をやら
せたい」と申し出てきた。男の子が乙姫様というのもおかしいという声もあったが、結局Tさんに
押し切られてしまった。が、驚いたのは最後のリハーサルの日のこと。Tさんがもちこんだ着物
は、日本舞踊で使うような、これまた豪華な着物だった。これには担任の若い先生も驚いて、
「そこまではしない」ということになったが、Tさんは悪びれる様子もなく、こう言った。「うちには
昔からのこういった着物がありますザーますの。皆さんにもお貸ししましょうかしら、ホホホ」と。
Tさんは、ただ着物をみせびらかしたかっただけだった。

●私はわが目を疑った!
 私は少なからずTさんに興味をもった。大会社の社長の夫人か。それとも大病院の院長の夫
人かと思った。が、ある日のことだった。それは偶然だった。私が何かの用事で、ふらりとある
大型スーパーの、そのまたある売り場へ行ったときのこと。そこで私はわが目を疑った。(こう
書くからといって、そういう人がザーます言葉を使ってはだめだと言っているのではない。誤解
がないように!)何とそのTさんが、頭にタオルを巻いて、その店で裏方の仕事をしていたの
だ。髪の毛も、幼稚園へくるときとは、まったく違っていた。それに目がねまでかけていた。それ
を見て、私は声をかけることもできなかった。何か悪いものをみたように感じ、その場をそそく
さと離れた。

 そして(3)母性本能……前にも書いたが、母性本能があるから悪いといっているのではな
い。この本脳というのは、扱い方が本当にむずかしい。母親自身もそうなのだろうが、まわりの
ものにとっても、である。この母性本能が狂い始めると、親と子が一体化する。これがこわい。

●子どもは芸術品
 母親にとっては、子どもは芸術品。それはわかる。だから子どもを批評したり、けなしたりす
ると、子ども以上に、母親はそれを不愉快に思う。それもわかる。が、それにも限度がある。こ
んなことがあった。

 M君(年中男児)は、かん黙症の子どもだった。かん黙症といっても、全かん黙と、場面かん
黙がある。私はこのほか、条件かん黙というのも考えている。ある特定の条件下になると、か
ん黙してしまうのである。M君もそんなタイプの子どもだった。何かの拍子に、ふとかん黙の世
界に入ってしまった。そのときもそうだった。順に何かの発表をさせていたのだが、M君の番に
なったとたん、M君はだまりこくってしまった。視線をこちらに合わせようともしない。やさしく促
せば促すほど、逆効果で、柔和な笑みを一方で浮かべながら、ますますかたくなに口を結んで
しまった。

●M君の問題点
 実はそのとき私はM君の母親に、それとなくM君の問題点を見てもらうつもりでいた。教育の
世界では、ドクターが患者を診断して診断名をくだすような行為はタブー。こういうケースでも、
「あなたの子どもはかん黙児です」などとは、言ってはならない。わかっていても、知らぬフリを
する。フリをしながら、それとなく親に悟ってもらうという方法をとる。M君のケースでも、私はそ
う考えた。で、その少し前、M君の母親に会ったとき、そのことについて話すと、M君の母親は
そのまま激怒してこう言った。「うちではふつうです。うちの子は、新しい環境になじまないだけ
です!」と。それで私はその日は母親に参観に来てもらうことにした。が、その日にかぎって、
ほかに三、四人の母親も参観に来ていた。それがまずかった。

 じりじりとした時間が流れていくのが、私にはわかった。ふつうならそこで隣の子にバトンタッ
チして、その場を逃げるのだが、そういう問題点を母親にも見てほしかった。それでいつもより
時間をかけた。私「あなたの番だよ、どうかな?」、M「……」、私「こちらを見てくれないか
な?」、M「……」、私「もう一度言うから、よく聞いてね?」、M「……」と。

●激怒したM君の母親
こういうとき親のほうから、「どうしてでしょう?」という問いかけがあれば、そのときから指導が
できる。問いかけがなければそれもできない。少し時間はかかるが、親自身が子どもの問題点
に気づくのを待つしかない。私はM君の母親の心の中を思いやりながら、時間が過ぎるのを待
った……。が、そのときだった。

M君の母親がものすごい勢いで子どもたちのほうの席へやってきた。そしていきなりM君の腕
をつかむと、M君をそのままひきずるようにして、部屋の外へ出て行ってしまった。本当にあっ
という間のできごとだった。ただ最後に、M君の母親が、「M! 行くのよ!」と言ったのだけ
は、よく覚えている。

 が、それですんだわけではない。M君の母親からその夜、猛烈な抗議の電話がかかってき
た。「あなたの指導方法はうちの子にあっていません」と。私は平謝りに謝るしかなかった。M
君の母親は、こう言った。「うちの子をあんな子にしたのは、あなたの責任です。ちゃんと話せ
ていたのに、話せなくなってしまった。どうしてくれるんですか! 明日園長に話して、責任をと
ってもらいます」と。いろいろあって、私にも微妙な時期だったので、私は「それだけは勘弁して
ください」としか、言いようがなかった。

●自分で行き着くところまで行くしかない
 しかし今でもときどきあのM君を思いだすときがある。そしてこう思う。親というのは、結局自
分で行き着くところまで行って、はじめて、自分に気がつくしかない、と。またその途中で、それ
に気づく親はいない。いても、「まだ何とかなる」「そんなはずはない」と無理をする。「うちの子
に限って、問題はない」と思う親もいる。子育てにはそういう面がいつもついて回る。それは子
育ての宿命のようなものかもしれない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

あんたはそれでも日本人ですかア!
アルツハイマー病(失敗危険度★)

●アルツハイマー病という病気
 アルツハイマー病(アルツハイマー型痴呆症)という恐ろしい病気がある。近年、急速にその
原因が究明されてきて、その治療薬もどんどん進歩している。だから以前ほど深刻に考える人
は少ないかもしれない。しかし恐ろしい病気であることには違いない。

 そのアルツハイマー病の初期症状は、記憶力低下、被害妄想、短気、人格の変化などだそ
うだ(東京慈恵会医科大学・笠原洋勇氏)。が、その初期症状の、そのまた初期症状というの
もあるそうだ。たとえばがんこになる、自己中心性が強くなる、繊細さが消えて、ズケズケとも
のを言うなど。アルツハイマー病になる人はともかくも、(案外、本人はハッピーな気持ちかもし
れないが)、その周囲の人が迷惑をする。いや、家族はそれなりに納得してつきあうが、そのま
た周囲というか、親しくもないが、他人とも言えない人たちが迷惑をする。たとえば学校の先
生。ふつうの迷惑ではない。ズケズケとものを言うのは、本人の勝手だが、言われたほうはキ
ズつく。Jさん(四五歳)という母親がいた。

●飛躍する論理
 ある日Jさん(四〇歳女性)が、血相を変えて私の事務所へやってきた。そしてこう言った。
「私、頭にきたから、三〇年来の友人と今度、絶交した」と。よほどのことがあったのだろうと思
って理由を聞くと、こう言った。「Uさんは日本人のくせに、エトロフ島はロシアの領土だと言うの
よ。許せない」と。私はとっさに「そんなことで!」と思ったが、つづけてJさんは、「エトロフ島に
は、アイヌ民族の墓があるのよ。日本人の祖先でしょ」と。

 論理がどんどんと飛躍していって、つかみどころがない。が、私が「まあ、どうでもいい問題で
すね」と言うと、今度は私に向かって、「先生、あんたはあちこちで講演なさっているということで
すが、それでも日本人ですかア!」と食ってかかってきた。私は「人にはそれぞれ違った考え方
があるから、それはそれとして尊重してあげればいい」という意味でそう言っただけなのだが…
…。

●発症率は五%
 問題は発症率だが、四〇歳前後で発症し始め、五%前後というのが通説になっている。五%
といえば、二〇人に一人ということになる。それに四〇歳前後といえば、ちょうど子どもが中学
生くらいになった年齢に相当する。ということは、仮に三〇人クラスで計算すると、親の数は六
〇人。何と一クラスに、三人はそういう症状をもった親がいるということになる。

実際、このタイプの親にかかわると、かなりタフな神経をもっている教師でも、かなり痛めつけ
られる。ある中学教師は、父母懇談会の席で、ある母親に、「あんたのような教師が教師をし
ていると、日本が滅ぶ」と言われた。あるいは「最近の子どもたちが荒れるのは、先祖を粗末
にする教師がふえたからだ。学力がさがったのも、そこに原因がある。あなたにも責任をとって
ほしい」とも。

●私の経験から
 このタイプの母親は(父親もそうだが、私は職業上、圧倒的に母親に接する機会のほうが多
いので、父親のケースは、ほとんど知らない。またことアルツハイマー病についていうなら、女
性の発症率は男性の三〜四倍だそうだ)、どこか心がかよいあわないといった感じになる。こ
ちらが親密な話をしようとしても、うわの空。何か質問をしても、不自然で、ぶっきらぼうな反応
しかない。

 私「夏休みには、どこかへ行くのですか?」、母「主人の稼ぎしだいですわ」、私「計画は…
…?」、母「計画なんてものはね、破るためにつくるものでしょ。あんた先生なのに、そんなこと
もわからないの!」、私「……?」と。

●突然解雇!
 そんなある日、一人の女性教師から電話がかかってきた。何でも突然クビを切られたという
のだ。話を聞くと、庭で園児を指導していると、園長が突然やってきて、「あんたは来週から、も
うこの園にはこなくていい」と言ったという。その教師は興奮してそのときの状況を話してくれ
た。よほど悔しかったのだろう。自分のほうから過去の業績をあれこれ話してくれた。

しかしこういう解雇のし方は、労働基準法に照らすまでもなく不当である。で、私もそのことが気
になって、別の幼稚園の園長に電話をかけ、その女性教師の勤める幼稚園の園長の様子を
聞くことにした。が、電話をかけると、その園長はこう教えてくれた。「あの、D幼稚園のD園長
ね、あの園長、最近少し様子がおかしいですよ。まともに相手にしてはいけません」と。そういう
こともある。

●それでもやけどする
 もっともこういう仕事を三〇年以上もしていると、問題のある母親は、直感的にかぎ分けるこ
とができる。昔から『さわらぬ神にたたりなし』というが、かかわらないことこそ賢明。ただ淡々
と、事務的に会って別れる。へたに首をつっこむと、それこそおおやけどをする。……と言いつ
つ、そのおおやけどをすることが多い。

●印象に残ったSさん
 私がSさん(四二歳女性)をおかしいと最初に思ったのは、私がトイレから出たときのことだ。
Sさんはトイレのドアの外で立って私を待っていた。まだ洗った手から水がポタポタと落ちるよう
な状態だったし、トイレの中の臭いが体にまとわりついているような状態だった。私なら人を待
つとしても、そういうところでは待たない。相手が当惑することが、簡単に予想できるからだ。
が、Sさんは、そのトイレのドアのところで私を待っていた。そして「このワークでいいか」と聞い
てきた。「子どもに与えるワークは、これでいいか」ということだった。私はSさんをすぐ別の部
屋に招いたが、そのとき感じた不快感は、Sさんと別れるまでずっと消えなかった。

●奇怪な行動
 そのSさん。大病院の精神科の医師を夫にもっていたが、それ以後、信じられないような奇
異な行動が目だった。あとでこの話を別の友人に話すと、「まさかア」と絶句してしまったが、た
とえば……。

事務所でひとりで待たせておいたりすると、インスタントコーヒーなどを盗んでもって帰ってしまう
のである。それも封を切ったようなコーヒーをである。あるいは懇談会の席で、「Gさんのダンナ
さんは、この前飲酒運転をして、警察に逮捕されたんですってね」とか言ったりしたこともある。
この事件のときは、さすがのGさんも堪忍袋の緒が切れて、裁判ザタになる寸前まで、話がこ
じれた。
 
が、こういうSさんのような母親が、父母会などに出てくると、それこそ話がめちゃめちゃになっ
てしまう。いろいろなことがあった。

●Sさん語録
そのSさんは無数の「Sさん語録」を私に残してくれた。

○子どもは一人。多くて二人。三人以上はダ作。日本人の平均的給与でカバーできるのは、
二人まで。三人以上は、国が預かるようにすればよい。
○コンピュータ教育は人間をダメにする。コンピュータに頼れば頼るほど、人間の思考と記憶
は退化する。
○幼児期からしっかり教育すれば、どんな子どもでも東大へ入れる。入れないのは、幼児期の
教育がまちがっているから。
○サッカーは、人間をダメにする。ボールと能力はよく似ている。能力を左右に動かしても、人
間の能力は向上しない。
また政治問題にも詳しく(?)、こんなことも言った。
○韓国や中国の現在の繁栄は、日本のおかげだ。日本が指導したから、今のように繁栄でき
るようになった。韓国や中国は日本の占領に感謝すべきだ。
○アメリカは日本を植民地化しようとしている。一方、日本政府は、アメリカの六〇番目の州に
立候補している。
○日本は満州を占領したが、もともとあの土地には人は住んでいなかった。だから占領しただ
け。だれも文句を言うべきではない。
○太平洋の半分は日本のものだ。アメリカと日本で半分ずつ分けるべきだ。太平洋の中央に
境界線を引けばよい、ほか。

●人格障害
ある時期Sさんは、毎日のように私のところへやってきて、とっぴもない議論をふっかけてき
た。が、そのうち私のほうが疲れてしまい、逃げ腰になった。が、そういう私の姿勢を敏感に察
知して、こなくなったと同時に、今度は私の悪口を言いふらすようになった。Sさんの友人のTさ
ん(三七歳)はこう言った。

 「Sさんに反論すると、Sさんは苦り虫をつぶしたような顔をして、怒りだします。だからこわく
て反論できません。機嫌をそこねないように、こちらも『そうです、そうです』とだけしか言いよう
がないです」と。

 それからほぼ一五年。聞くところによると、Sさんは自宅のマンションに閉じこもったまま、一
歩も外へ出てこないという。あれこれトラブルを引き起こすので、夫が外へ出したがらないとの
こと。どういう病気であるかは断定できないが、しかしおおよその推察はつく。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

やめるということは、クビ切りだ!
去り際の美学(失敗危険度★)

●リセット症候群
 この世の中、人との出会いは、意外と簡単。その気になれば、それこそ掃いて捨てるほど
(失礼!)ある。携帯電話やインターネットの普及が、その背景にある。しかし問題は別れると
きだ。別れるときに、その人の真価がためされる。

 もっとも今は、その別れ方も電子化している。ちょうどパソコンのスイッチを消すかのように、
まったくゼロに戻して別れてしまう。こういった別れ方を「リセット症候群」と呼ぶ人もいる。別れ
方そのものが、サバサバしている。たとえば卒業式にしても、昔は皆が泣いた。先生も生徒
も、そして親たちも泣いた。しかし今はそれがすっかりさま変わりした。

 もっともドライといえばドライなのが、ブラジルからやってきた日系人家族だそうだ(K小学校
校長談)。ある日突然学校へやってきて子どもを入学させる。そしてある日突然、同じようにい
なくなる、と。日本人もドライになったとはいえ、まだそこまでドライではない。ないが、それに近
い状態になりつつある。

●「怒りで手が震えたよ」
 私と二〇年来の友人に、学習塾を経営しているF君がいる。ちょうど同じ年齢で、あれこれ情
報をもらっている。そのF君は温厚な人物だが、そんなF君でも、しばしば憤まんやるかたなしと
いったふうに電話をかけてくることがある。いわく、「月末の最後の最後の授業が終わって、さ
ようならとあいさつをしたとたん、生徒から紙切れを渡された。見ると、『今日でやめます』と母
親の字でメモ書き。怒りで手が震えたよ」と。

 この世界の外の人にはわからないかもしれないが、「やめる」という話は、塾の教師にとって
は、クビ切り以外の何ものでもない。そういう話をメモですまそうとする母親たちの心理が、F君
には理解できない。生まじめな男だけに、ショックも大きいのだろう。いや、私にも似たような経
験はあるが、しかしこの世界はそういう世界だと割り切ってつきあっている。いちいち目くじらを
立てていたら、精神がもたない。F君もそう言っているが、しかしこちら側にもこちら側のやり方
がある。そういうふうにやめた生徒は、一切、アフターケアはしない。それはまさに人間関係の
リセット。ゼロにする。メールがこようが、電話がかかってこようが、そういったものには一切、
答えない。

●皆はどうなのか?
 ……と考えて、ふと今、医院を経営するドクターたちのことが頭を横切った。考えてみればド
クターたちも、同じ立場ではないか。患者である私たちは、必要なときに医院へ行き、必要でな
ければ、たとえ「また来い」と言われていても、行かない。あのドクターたちは、私のような患者
のことをどう思っているのだろうか。怒っているのだろうか、それとも平気なのだろうか。もっと
もドクターと塾の教師は、立場がまったく違う。ドクターは、その身分や収入がしっかりと公的に
保証されている。しかし塾の教師はそうでない。

……と考えて、今度は理容店を経営するいとこのことを思い浮かべた。客とはいいながら、そ
の客ほど、浮気な客はいない。毎月定期的に来るともかぎらないし、メモどころか、何も連絡し
ないまま、別の店に乗りかえていくことだってある。いくらそれまでていねいに散髪していたとし
ても、だ。そのいとこは、そういう客をどう思うのだろうか。怒っているのだろうか、それとも平気
なのだろうか。

●塾は人間関係で決まる
 考えてみれば、塾の教師たちがどう感じようとも、子どもを塾へやるというのは、親たちから
すれば、医院や理容店へ足を運ぶようなものかもしれない。「入るのも親の自由。やめるのも
親の自由」と。となると、F君のように、怒るほうがおかしいということになる。が、教育は病気や
商売とは違う。どこか違う。

 いくら「塾」といっても、そこは教師と生徒の人間関係で成りたつ。この「関係」があるため、医
院や理容店とは、違って当然。また「やめる」という感覚が、これまた違って当然。いやいやそ
ういうふうに「違う」と思うこと自体、手前ミソかもしれない。医院のドクターだって怒っているかも
しれない。理容店のいとこだって怒っているかもしれない。怒っていても、皆、平静を装っている
だけかもしれない。

●非常識な別れ方
 で、非常識な別れ方を列挙してみる。私の経験から……。
 私に、「今度、BW(私の幼児教室)から、K式幼児教室に移ろうと思いますが、先生、あのK
式幼児教室をどう思いますか?」と聞いてきた母親がいた。私ははじめ、冗談を言っているの
かと思ったが、その母親は本気だった。

 別の教室にすでに入会届けを出したあと、(そういう情報はあらゆるところからすぐ入ってくる
が……)、私に「先生、来月からどうしたらよいか、一度相談にのってくださいな」と言ってきた
母親がいた。

 「私は息子に、何度もBW(私の教室名)をやめるように言っているのですが、どうしてもいや
だと言っています。先生のほうからもやめるように言ってくださいませんか」と電話で言ってきた
母親もいた。

 反対にある日突然、道路ですれ違いざま、「今週でBWをやめます」と言っておきながら、そ
の一か月後、また電話がかかってきて、「来週からまた行きますから」と言ってきた母親もい
た。

●美しく別れる
 こうした母親たちからは、私は神様に見えるらしい。喜んでいいのか悪いのか……。どんなこ
とをしても、また言っても、私は許すと思っているらしい。しかし私とて、生身の人間。生きる誇
りも高い。だからこうした母親たちとは、その後、交友を再開したということはない。(だからこう
してここに書いているのだが……。)またこれから先も、何らかのかかわりをもつということもな
い。(だからこうしてここに書いているのだが……。)

 何ともきわどい話を書いてしまったが、こと子どもの教育については、いかに美しく分かれる
かについて、親はもう少し慎重であってもよいのではないか。塾のみならず、今では教育その
ものが自動販売機になりつつある。「お金を入れれば、だれでも買える」と。しかしこうしたドラ
イな見方は、結局は教育そのものまでドライにする。そしてそれは結局は、子ども自身をドライ
にし、人間関係までドライにする。そうなればなったで、さらに結局は、子ども自身が何か大切
なものを失うことになる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

子どもにはナイフを渡せ!
誤解と無知(失敗危険度★★★)

●墓では人骨を見せろ?
 ある日、一人の母親(三〇歳)が心配そうな顔をして私のところへやってきた。見ると一冊の
本を手にしていた。日本を代表するH大学のK教授の書いた本だった。題は「子どもにやる気
を起こす法」(仮称)。

 そしてその母親はこう言った。「あのう、お墓で、故人の遺骨を見せたほうがよいのでしょう
か」と。私が驚いていると、母親はこう言った。「この本の中に、命の尊さを教えるためには、お
墓へつれていったら、子どもには遺骨を見せるとよい」と。その本にはほかにもこんなことが書
いてあった。

●遊園地で子どもを迷子にさせろ?
 親子のきずなを深めるためには、遊園地などで、子どもをわざと迷子にさせてみるとよい。家
族のありがたさを教えるために、子どもは、二、三日、家から追い出してみるとよい、など。本
の体裁からして、読者対象は幼児をもつ親のようだった。が、きわめつけは、「夫婦喧嘩は子
どもの前でするとよい。意見の対立を教えるのによい機会だ」と。これにはさすがの私も驚い
た。

●子どもにはナイフをもたせろ?
 その一つずつに反論したいが、正直言って、あまりのレベルの低さに、どう反論してよいかわ
からない。その前後にこんなことを書く別の評論家もいた。「子どもにはナイフを渡せ」と。「子
どもにナイフを渡すのは、親が子どもを信じている証(あかし)になる」と。そのあとしばらくして
から、関東周辺で、中学生によるナイフ殺傷事件がつづくと、さすがにこの評論家は自説をひ
っこめざるをえなかったのだろう。彼はナイフの話はやめてしまった。しかし証拠は残った。そ
の評論は、日本を代表するM新聞社の小冊子として発行された。その小冊子は今も私の手元
にある。

●ゴーストライターの書いた本
 これはまた元教師の話だが、数一〇万部を超えるベストセラーを何冊かもっている評論家が
いた。彼の教育論も、これまたユニーク(?)なものだった。「子どもの勉強に対する姿勢は、筆
箱の中を見ればわかる」とか、「たまには(老人用の)オムツをして、幼児の気持ちを理解する
ことも大切」とかなど。「筆箱の中を見る」というのは、それで子どもの勉強への姿勢を知ること
ができるというもの。たしかにそういう面はあるが、しかしそういうスパイのような行為をしてよ
いものかどうか? そう言えば、こうも書いていた。「私は家庭訪問のとき、必ずその家ではトイ
レを借りることにしていた。トイレを見れば、その家の家庭環境がすべてわかった」と。たまたま
私が仕事をしていたG社でも、彼の本を出した担当者がいたので、その担当者に話を聞くと、
こう教えてくれた。

 「ああ、あの本ね。実はあれはあの先生が書いた本ではないのですよ。どこかのゴーストライ
ターが書いてね、それにあの先生の名前を載せただけですよ」と。そのG社には、その先生専
用のライター(担当者)がいて、そのライターがその評論家のために原稿を書いているとのこと
だった。もう二〇年も前のことだが、彼の書いた(?)数学パズルブックは、やがてアメリカの雑
誌からの翻訳ではないかと疑われ、表に出ることはなかったが、出版界ではかなり話題になっ
たことがある。

●タレント教授の錬金術
 先のタレント教授は、つぎのようにして本を書く。まず外国の文献を手に入れる。それを学生
に翻訳させる。その翻訳を読んで、あちこちの数字を適当に変えて、自分の原稿にする。そし
て本を出す。こうした手法は半ば常識で、私自身も、医学の世界でこのタイプのゴーストライタ
ーをした経験があるので、内情をよく知っている。

 こうした常識ハズレな教授は、決して少数派ではない。数年前だが私がH社に原稿を持ちこ
んだときのこと、編集部の若い男は遠慮がちに、しかしどこか人を見くだしたような言い方で、
こう言った。「あのう、N大学のI名誉教授の名前でなら、この本を出してもいいのですが……」
と。もちろん私はそれを断った。

が、それから数年後のこと。近くの本屋へ行くと、入り口のところでH社の本が山積みになって
いた。ワゴンセールというのである。見ると、その中にはI教授の書いた(?)本が、五〜六冊あ
った。手にとってパラパラと読んでみたが、しかしとても八〇歳を過ぎた老人が書いたとは思わ
れないような本ばかりだった。漢字づかいはもちろんのこと、文体にしても、若々しさに満ちあ
ふれていた。

●インチキと断言してもよい
 こうしたインチキ、もうインチキと断言してよいのだろうが、こうしたインチキは、この世界では
常識。とくに文科系の大学では、その出版点数によって教官の質が評価されるしくみになって
いる。(理科系の大学では論文数や、その論文が権威ある雑誌などでどれだけ引用されてい
るかで評価される。)だから文科系の教官は、こぞって本を出したがる。そういう慣習が、こうし
たインチキを生み出したとも考えられる。が、本当の問題は、「肩書き」に弱い、日本人自身に
ある。

●私の反論
 私は相談にやってきた母親にこう言った。「遺骨なんか見せるものではないでしょ。また見せ
たからといって、生命の尊さを子どもが理解できるようにはなりません」と。一応、順に反論して
おく。

 生命の尊さは、子どものばあいは死をていねいに弔うことで教える。ペットでも何でも、子ども
と関係のあったものの死はていねいに弔う。そしてその死をいたむ。こうした習慣を通して、子
どもは「死」を知り、つづいて「生」を知る。

 また子どもをわざと遊園地で迷子にしてはいけない。もしそれがいつか子どもにわかったと
き、その時点で親子のきずなは、こなごなに破壊される。またこの種のやり方は、方法をまち
がえると、とりかえしのつかない心のキズを子どもに残す。分離不安にさえなるかもしれない。
親子のきずなは、信頼関係を基本にして、長い時間をかけてつくるもの。こうした方法は、子育
ての世界ではまさに邪道!

 また子どもを家から二、三日追い出すということが、いかに暴論かはあなた自身のこととして
考えてみればよい。もしあなたの子どもが、半日、あるいは数時間でもいなくなったら、あなた
はどうするだろうか。あなたは捜索願だって出すかもしれない。

 最後に夫婦喧嘩など、子どもの前で見せるものではない。夫婦で哲学論争でもするならまだ
しも、夫婦喧嘩というのは、たいていは聞くに耐えない痴話喧嘩。そんなもの見せたからといっ
て、子どもが「意見の対立」など学ばない。学ぶはずもない。ナイフをもたせろと説いた評論家
の意見については、もう書いた。

●批判力をもたない母親たち
 しかし本当の問題は、先にも書いたように、こうした教授や評論家にあるのではなく、そういう
とんでもない意見に対して、批判力をもたない親たちにある。こうした親たちが世間の風が吹く
たびに、右へ左へと流される。そしてそれが子育てをゆがめる。子どもをゆがめる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

あんたさ、英語教育に反対してよ!
おめでたママ(失敗危険度★★★★★)

●「どうやって補充するか」
 自分の子どものことがまったくわかっていない親というのは、多い。わかっていないと言って
も、それが度を超えている。先日もある母親から電話がかかってきた。受話器をとると、「どうし
ても相談したいことがある」と言ったので、会うことにした。見知らぬ人だった。で、会うと、こう
言った。「今度、学習内容が三割削減されるというではありませんか。親としてどうやって補充
したらよいでしょうか」と。その母親はこう言った。

「うちの子のように、学校の勉強についていくだけでも精一杯という子どもから、その上、三割も
内容が減らされたら、どうしたらいいのですか?」と。その母親は「(三割も学習量が減ったら)
ますます学力がさがる」と考えたようだ。しかしもしそうなら、つまり「ついていくだけでも精一杯」
という状態なら、三割削減されたことを、まっさきに喜ばねばならないはずである。それをその
母親は、「どうやって補充するか」と。私は頭の中で、脳細胞がショートして火花を散らすのを感
じた。

●英語教育は日本語をだめにする?
 同じような例だが、こんな相談も。「今度うちの小学校でも英語教育が始まったが、今、英語
なんか教えてもらったら、うちの子(小三男児)の日本語がおかしくなってしまう。英語教育には
反対してほしい」と。こう書くと、まともな日本語で母親が話したかのように思う人がいるかもし
れないが、実際にはこうだ。「今度、英語ね、ほら、小学校で、英語。ありゃ、うちの子に、必要
ないって。あんな英語やらやあ、さあ、かえって日本語、ダメになるさ。あんたさ、評論家なら
さ、反対してよ」と。日本語すらまともに話せない母親が、子どもの国語力を心配するから、お
かしい。

●この子には、力があるはずです
 が、子どもの受験のことになると、ほとんどの親は自分の姿を見失う。数年前だが、一人の
中学生(中一男子)が、両親に連れられて私のところにやってきた。両親は、ていねいだが、こ
う言った。「この子には、力があるはずです。今までB教室といういいかげんな塾へ行っていた
ので、力が落ちてしまった。ついては、先生に任せるから、どうしてもS高校へ入れてほしい」
と。

S高校といえば、この静岡県でも偏差値が最上位の進学高校である。そこで私は一時間だけ
その中学生をみてみることにした。が、すわって数分もしないうちに、鉛筆で爪をほじり始め
た。視線があったときだけ、何となく頭をかかえて、勉強しているフリはするものの、まったくは
かどらない。明らかに親の過関心と過干渉が、子どものやる気を奪ってしまっていた。私は隣
の部屋に待たせていた両親を呼んで、「あとで返事をする」と言って、その場は逃げた。

●「はっきり言ったらどうだ」
 数日置いて、私はていねいな手紙を書いた。「今は、時間的に余裕もないから、希望には添
えない」という内容の手紙だった。が、その直後、案の定、父親から猛烈な怒りの電話が入っ
た。父親は電話口の向こうでこう怒鳴った。「お前は、うちの子は、S高校は無理だと思ってい
るのか。失敬ではないか。無理なら無理と、はっきり言ったらどうだ」と。

●デパートの販売拒否
 本当にこのタイプの親は、つきあいにくい。どこをどうつついても、ああでもない、こうでもない
とつっかかってくる。公立の、つまり税金で動いている学校ですら、選抜試験をするではない
か。私のような、まったく私立の、一円も税金の恩恵を受けていない教室が、どうしてある程度
の選抜をしてはいけないのか。

ほとんど親がそうだが、私が入会を断ったりすると、まるでデパートで販売拒否にでもあったか
のように、怒りだす。気持ちはわからないわけではないが、つまりは、それだけ私たちは「下」
に見られている。しかし昔からこう言うではないか。『一寸の虫にも五分の魂』と。そういうふう
にしか見られていないとわかったとたん、私たちだって、教える気はうせる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

学校の先生が許せない!
自分を知る、子どもを知る(失敗危険度★★★★)

●汝自身を知れ
 自分を知ることはむずかしい。スパルタの七賢人の一人、キロンも、『汝自身を知れ』という
有名な言葉を残している。つまり自分のことを知るのはそれほどむずかしい。理由はいくつか
あるが、それはさておき、自分の子どものことを知るのは、さらにむずかしい。

 一般論として賢い人には、愚かな人がよく見える。しかし愚かな人からは賢い人が見えない。
もっと言えば、賢い人からは愚かな人がよく見えるが、愚かな人からは賢い人が見えない。か
なり心配な人(失礼!)でも、自分が愚かだと思っている人はまずいない。さらにタチの悪いこ
とに、愚かな親には、自分の子どもの能力がわからない。これが多くの悲喜劇のモトとなる。

●「ちゃんと九九はできます」
 学校の先生に、「どうしてうちの子(小四男子)は算数ができないのでしょう」と相談した母親
がいた。その子どもはまだ掛け算の九九すら、じゅうぶんに覚えていなかった。そこで先生が、
「掛け算の九九をもう一度復習してください」と言うと、「ちゃんと九九はできます」と。掛け算の
九九をソラで言えるということと、それを応用して割り算に利用するということの間には、大きな
へだたりがある。が、その母親にはそれがわからない。九九がソラで言えれば、それで掛け算
をマスターしたと思っている。子どもに説明する以上に、このタイプの親に説明するのはたいへ
んだ。その先生はこう言った。

 「親にどうしてうちの子は勉強ができないかと聞かれると、自分の責任を追及されているよう
で、つらい」と。私もその気持ちはよく理解できる。

●神経質な家庭環境が原因 
が、能力の問題は、まだこうして簡単にわかるが、心の問題となるとそうはいかない。ある日、
一人の母親が私のところへきてこう言った。「うちの子(小一男子)が、おもらししたのを皆が笑
った」というのだ。母親は「先生も一緒に笑ったというが、私は許せない」と。だから「学校へ抗
議に行くから、一緒に行ってほしい」と。もちろん私は断ったが、その子どもにはかなり強いチッ
ク(神経性の筋肉のけいれん)もみられた。その子どもがおもらしをしたことも問題だが、もっと
大きな問題は、ではなぜもらしたかということ。なぜ「トイレへ行ってきます」と言えなかったのか
ということだ。もらしたことにしても、チックにしても、神経質な家庭環境が原因であることが多
い。

●ギスギスでは教育はできない
学校という場だから、ときにはハメをはずして先生や子どもも笑うときがあるだろう。いちいちそ
んなこまかいことを気にしていたら、先生も子どもも、授業などできなくなってしまう。また笑っ
た、笑われたという問題にしても、子どもというのはそういうふうにキズだらけになりながら成長
する。むしろそうした神経質な親の態度こそが、もろもろの症状の原因とも考えられる。が、そ
の親にはわからない。表面的な事件だけをとらえて、それをことさらおおげさに問題にする。

●子どもを知るのが子育ての基本
 まず子どもを知る。それが子育ての基本。もっと言えば子どもを育てるということは、子どもを
知るということ。しかし実際には、子どもを知ることは、子育てそのものよりも、ずっとむずかし
い。たとえば「あなた」という人にしても、あなたはすべてを知っているつもりかもしれないが、実
際には、知らない部分のほうがはるかに多い。「知らない部分のほうが多い」という事実すら、
気がついていない人のほうが多い。

人というのは、自らがより賢くなってはじめて、それまでの愚かさに気がつく。だから今、あなた
が愚かであるとしても、それを恥じることはないが、しかし、より賢くなる努力だけはやめてはい
けない。やめたとたん、あなたはその愚かな人になる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼくを怒った
汝(なんじ)自身を知れ(失敗危険度★★★★)

●自分を知ることの難しさ
自分を知ることは本当にむずかしい。この私も、五〇歳を過ぎたころから、やっと自分の姿が
おぼろげながらわかるようになった。表面的な行動はともかくも、内面的な行動派、「私」という
より、「私の中の私」に支配されている。そしてその「私の中の私」、つまり自分は、「私」が思う
より、はるかに複雑で、いろいろな過去に密接に結びついている。

●「ぼくは何も悪くなかった」
 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中二男児)がいた。どこがどう問題児だったか
は、ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。「君は、学
校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか」と。するとその子ども
は、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼくを怒っ
た」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子どものことではな
い。自分のことというか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。

●問題の本質は?
ある日一人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな
子どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小一男児)のように、友だちのいない
子はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行っ
てほしい」と。もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあっ
たし、軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」
ということのほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。

●自分であって自分でない部分
話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部
分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに
振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。このタイプの親たちは、なぜそういうことをす
るかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のど
こかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレーキをかけることができない。

「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」というが、そのゆがみに動かされてし
まう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるな
ど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。そ
れに気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつ
までも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

一緒に抗議に行ってほしい!
過関心は百害のもと(失敗危険度★★★★★)

●問題は母親に
 ある朝、一人の母親からいきなり電話がかかってきた。そしてこう言った。いわく、「学校の席
替えをするときのこと。先生が、『好きな子どうし並んでいい』と言ったが、(私の子どものよう
に)友だちのいない子どもはどうすればいいのか。そういう子どもに対する配慮が足りない。こ
ういうことは許せない。先生、学校へ一緒に抗議に行ってくれないか」と。その子どもには、チッ
クもあった。軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、そういうことはこの
母親にはわかっていない。もし問題があるとするなら、むしろ母親のほうだ。こんなこともあっ
た。

●ささいなことで大騒動
 私はときどき、席を離れてフラフラ歩いている子どもにこう言う。「おしりにウンチがついてい
るなら、歩いていていい」と。しかしこの一言が、父親を激怒させた。その夜、猛烈な抗議の電
話がかかってきた。いわく、「おしりのウンチのことで、子どもに恥をかかせるとは、どういうこと
だ!」と。その子ども(小三男児)は、たまたま学校で、「ウンチもらし」と呼ばれていた。小学二
年生のとき、学校でウンチをもらし、大騒ぎになったことがある。もちろん私はそれを知らなか
った。

●まじめ七割
 しかし問題は、席替えでも、ウンチでもない。問題は、なぜ子どもに友だちがいないかというこ
と。さらにはなぜ、小学二年生のときにそれをもらしたかということだ。さらにこうした子どもどう
しのトラブルは、まさに日常茶飯事。教える側にしても、いちいちそんなことに神経を払ってい
たら、授業そのものが成りたたなくなる。子どもたちも、息がつまるだろう。教育は『まじめ七
割、いいかげんさ三割』である。子どもは、この「いいかげんさ」の部分で、息を抜き、自分を伸
ばす。ギスギスは、何かにつけてよくない。

●度を超えた過関心は危険
 親が教育に熱心になるのは、それはしかたないことだ。しかし度を越した過関心は、子どもを
つぶす。人間関係も破壊する。もっと言えば、子どもというのは、ある意味でキズだらけになり
ながら成長する。キズをつくことを恐れてはいけないし、子ども自身がそれを自分で解決しよう
としているなら、親はそれをそっと見守るべきだ。へたな口出しは、かえって子どもの成長をさ
またげる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

勉強だけをみてくれればいい!
何を考えている!(失敗危険度★★★★★)

●アンバランスな生活
 どうしようもないドラ息子というのは、たしかにいる。飽食とぜいたく。甘やかしと子どもの言い
なり。これにアンバランスな生活が加わると、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。「アンバランスな
生活」というのは、たとえば極端に甘い父親と極端に甘い母親で、子どもの接し方がチグハグ
な家庭。あるいはガミガミとうるさい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような環境を
いう。

こういう環境が日常化すると、子どもはバランス感覚のない子どもになる。「バランス感覚」とい
うのは、ものごとの善悪を冷静に判断し、その判断に従って行動する感覚をいう。そのバラン
ス感覚がなくなると、ものの考え方が突飛もないものになったり、極端になったりする。常識は
ずれになることも多い。友だちの誕生日に、虫の死骸を箱につめて送った子ども(小三男児)
がいた。先生のコップに殺虫剤を入れた子ども(中二男子)がいた。さらにこういう子ども(小三
男児)さえいる。学校での授業のとき、先生にこう言った。

●「くだらねえ授業だなあ」
 「くだらねえ授業だなあ。こんなくだらねえ授業はないゼ」と。そして机を足で蹴飛ばしたあと、
「お前、ちゃんと給料、もらってんだろ。だったら、もう少しマシなことを教えナ」と。

 実際にこのタイプの子どもは少なくない。言ってよいことと悪いことの区別がつかない。が、勉
強だけはよくできる。頭も悪くない。しかしこのタイプの子どもに接すると、問題はどう教えるで
はなく、どう怒りをおさえるか、だ。学習塾だったら、「出て行け!」と子どもを追い出すこともで
きる。が、学校という「場」ではそれもできない。教師がそれから受けるストレスは相当なもの
だ。

●本当の問題 
が、本当の問題は、母親にある。N君(小四男児)がそうだったので、私がそのことをそれとなく
母親に告げようとしたときのこと。その母親は私の話をロクに聞こうともせず、こう言った。「あ
んたは黙って、息子の勉強だけをみてくれればいい」と。つまり「余計なことは言うな」と。その
母親の夫は、大病院で内科部長をしていた。
 

はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

いらんこと、言わんでください!
女の修羅場(失敗危険度★★★★)

●子どもは芸術品
 母親たちのプライドというのは、男たちには理解できないものがある。その中でも、とくに子ど
もは、母親にとっては芸術作品そのもの。それをけなすとたいへんなことになる。こんなことが
あった。

 スーパーのレストランで、五歳くらいの子どもが子どもの顔よりも大きなソフトクリームを食べ
ていた。体重一五キロ前後の子どもが、ソフトクリームを一個食べるというのは、体重六〇キロ
のおとなが四個食べる量に等しい。おとなでも四個は食べられない。食べたら食べたで、腹の
調子がおかしくなる。で、その子どもと目が合ったので、思わず私はその子どもにこう言ってし
まった。「そんなに食べないほうがいいよ」と。が、この一言がそばにいた母親を激怒させた。
母親はキリリと私をにらんでこう叫んだ。「あんたの子じゃないんだから、いらんこと、言わない
でください!」と。またこんなことも。

●江戸のカタキを長崎で討つ
 母親というのは、自分で自分の子どもを悪く言うのは構わないが、他人が悪く言うのを許さな
い。(当然だが……。)たとえ相手が子どもでも許さない。これは実際あった話だが、(ということ
を断らねばならないほど、信じられない話)、自分の子ども(年長男児)をバカと言った相手の
子ども(同じ幼稚園の年長男児)を、エレベータの中で足蹴りにしていた母親がいた。そこで蹴
られたほうの母親が抗議すると、最初は、「エレベータが揺れたとき、体がぶつかっただけだ」
と言い張っていた。が、エレベータがそこまで揺れることはないとわかると、こう言ったという。

「おたくの子がうちの子を、幼稚園でバカと言ったからよ」と。江戸のカタキを長崎で討つ、とい
うわけであるが、これに親の溺愛が加わると、親子の間にカベさえなくなる。ある母親はこう言
った。「公園の砂場なんかで、子どもどうしがけんかを始めると、その中に飛び込んでいって、
相手の子どもをぶん殴りたくなります。その衝動をおさえるだけでたいへんです」と。

●「お受験」戦争
 こうした母親たちの戦いがもっとも激しくなるのが、まさに「お受験」。子どもの受験といいなが
ら、そこは女の修羅場(失礼!)。どこがどう修羅場ということは、いまさら書くまでもない。母親
にすれば、「お受験」は、母親の「親」としての資質そのものが試される場である。少なくとも、母
親はそう考える。だから自分の子どもが、より有名な小学校に合格すれば、母親のプライドは
このうえなく高められる。不合格になれば、キズつけられる。

 事実、たいていの母親は自分の子どもが入学試験に失敗したりすると、かなりの混乱状態に
なる。私が知っている人の中には、それがきっかけで離婚した母親がいる。自殺を図った母親
もいる。当然のことながら、子どもへの入れこみが強ければ強いほどそうなるが、その心理
は、もう常人の理解できるところではない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

部屋の中はまるでクモの巣みたい!
砂糖は白い麻薬(失敗危険度★★)

●独特の動き
 キレるタイプの子どもは、独特の動作をすることが知られている。動作が鋭敏になり、突発的
にカミソリでものを切るようにスパスパとした動きになるのがその一つ。

原因についてはいろいろ言われているが、脳の抑制命令が変調したためにそうなると考えると
わかりやすい。そしてその変調を起こす原因の一つが、白砂糖(精製された砂糖)だそうだ(ア
メリカ小児栄養学・ヒューパワーズ博士)。つまり一時的にせよ白砂糖を多く含んだ甘い食品を
大量に摂取すると、インスリンが大量に分泌され、そのインスリンが脳間伝達物質であるセロト
ニンの大量分泌をうながし、それが脳の抑制命令を阻害する、と。

●U君(年長児)のケース
U君の母親から相談があったのは、四月のはじめ。U君がちょうど年長児になったときのことだ
った。母親はこう言った。「部屋の中がクモの巣みたいです。どうしてでしょう?」と。U君は突発
的に金きり声をあげて興奮状態になるなどの、いわゆる過剰行動性が強くみられた。このタイ
プの子どもは、まず砂糖づけの生活を疑ってみる。聞くと母親はこう言った。

 「おばあちゃんの趣味がジャムづくりで、毎週そのジャムを届けてくれます。それで残したらも
ったいないと思い、パンにつけたり、紅茶に入れたりしています」と。そこで計算してみるとU君
は一日、一〇〇〜一二〇グラムの砂糖を摂取していることがわかった。かなりの量である。そ
こで私はまず砂糖断ちをしてみることをすすめた。が、それからがたいへんだった。

●禁断症状と愚鈍性
 U君は幼稚園から帰ってくると、冷蔵庫を足で蹴飛ばしながら、「ビスケットをくれ、ビスケット
をくれ!」と叫ぶようになったという。急激に砂糖断ちをすると、麻薬を断ったときに出る禁断症
状のようなものがあらわれることがある。U君のもそれだった。夜中に母親から電話があった
ので、「砂糖断ちをつづけるように」と私は指示した。が、その一週間後、私はU君の姿を見て
驚いた。U君がまるで別人のように、ヌボーッとしたまま、まったく反応がなくなってしまったの
だ。何かを問いかけても、口を半開きにしたまま、うつろな目つきで私をぼんやりと私を見つめ
るだけ。母親もそれに気づいてこう言った。「やはり砂糖を与えたほうがいいのでしょうか」と。

●砂糖は白い麻薬
これから先は長い話になるので省略するが、要するに子どもに与える食品は、砂糖のないも
のを選ぶ。今ではあらゆる食品に砂糖は含まれているので、砂糖を意識しなくても、子どもの
必要量は確保できる。ちなみに幼児の一日の必要摂取量は、約一〇〜一五グラム。この量は
イチゴジャム大さじ一杯分程度。もしあなたの子どもが、興奮性が強く、突発的に暴れたり、凶
暴になったり、あるいはキーキーと声をはりあげて手がつけられないという状態を繰り返すよう
なら、一度、カルシウム、マグネシウムの多い食生活に心がけながら、砂糖断ちをしてみるとよ
い。効果がなくてもダメもと。砂糖は白い麻薬と考える学者もいる。子どもによっては一週間程
度でみちがえるほど静かに落ち着く。

●リン酸食品
なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸食品を与え
ると、せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ排出してしまう。と言っ
ても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ(弾力性
を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流れ
ず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、歯
ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだや
かにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく溶
けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。かなり本腰を入れて対処しないと、リン酸食品
を遠ざけることはできない。

●こわいジャンクフード
ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み
出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要
なことである」と。つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を
加えた食品(ジャンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャ
ンクフードは)疲労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不
能、アレルギーなどの原因になっている」とも。

●U君の後日談
 砂糖漬けの生活から抜けでたとき、そのままふつう児にもどる子どもと、U君のように愚鈍性
が残る子どもがいる。それまでの生活にもよるが、当然のことながら砂糖の量が多く、その期
間が長ければ長いほど、後遺症が残る。

U君のケースでは、それから小学校へ入学するまで、愚鈍性は残ったままだった。白砂糖はカ
ルシウム不足を引き起こし、その結果、「脳の発育が不良になる。先天性の脳水腫をおこす。
脳神経細胞の興奮性を亢進する。痴呆、低脳をおこしやすい。精神疲労しやすく、回復がおそ
い。神経衰弱、精神病にかかりやすい。一般に内分泌腺の発育は不良、機能が低下する」(片
瀬淡氏「カルシウムの医学」)という説もある。子どもの食生活を安易に考えてはいけない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

こちらの頭のほうがヘンになる
イメージが乱舞する子ども(失敗危険度★★★)

●収拾がつかなくなる子ども
 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、あ
あ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポ
ンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよ
う。動作も一貫性がない。騒々しい。ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突
然神妙な顔をして、直立! そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。
その間に感情も激しく変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こち
らの頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学二、三年になると、症状が
急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。三〇年前に
はこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ一〇年、急速にふえた。小一児で、一〇人
に二人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、一クラスに
数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑
えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級
 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答え
た先生が、六六%もいる(九八年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。「指導の疲れから、病
欠、休職している同僚がいるか」という質問については、一五%が、「一名以上いる」と回答し
ている。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子どもについては、九
〇%以上の先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(七五%)、「友だちをたたく」
(六六%)などの友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(六六%)、「配布物を破ったり捨てたり
する」(五二%)などの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ
 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが
最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。「新しい荒れ」とい言葉を使う人もい
る。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの
教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が九八年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を
感ずる」というのが、二〇%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」
(一四%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(一〇%)と続く。そしてそ
の結果として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、八%、「かなり感ずる」「やや感ず
る」という先生が、六〇%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?
 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲー
ムをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊
家庭は少なくなった。むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子ど
もが、意味もなく突発的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、
アメリカでも起きている。実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期
に、ごく日常的にテレビやゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。「テレ
ビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もしません
でした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。速すぎ
る。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。速すぎ
る。

●ゲームは右脳ばかり刺激する
 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりや
すく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。その
証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くことができ
ない。浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚
が、おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろいが、直
感的で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつか
さどるのは、左脳である(R・W・スペリー)。テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こ
うした今まで人間が経験したことがない新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えている
ことはじゅうぶん考えられる。その一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということにな
る。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊を
あげる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

妻の身分も夫しだい!
銀行寮の掟(おきて)(失敗危険度★★)

●ある銀行の現実
 ここは県庁所在地になっているS市の郊外。不況、不況と言われながらも、大銀行だけは
別。家族寮なども、ちょっとしたホテル並の豪華さを誇る。そこでのこと。部長の息子と、課長
の息子が同じ中学を受験することになった。こういうとき、部長の息子が落ちて、課長の息子
が合格したりすると、さあたいへん。課長の息子は入学を辞退するか、その寮を出なければな
らない。私が「何もそこまで……」と言うと、ある母親はこう言った。「それは現実を知らない人
の言うことです」と。

●夫たちの地位で妻の地位も決まる
 何でもその家族寮では、夫たちの地位に応じて妻たちの地位も決まるという。会合でも、中
央にデ〜ンと座るのが、部長の妻。あとはそれに並んで、次長、課長とつづく。ヒラの妻は一番
ハシ。年齢や教養には関係ない。もちろん容姿も関係ない。また廊下ですれちがうときもそう
だ。相手がどんなに若くても、相手がどんなにそうするにふさわしくない女性(失礼!)でも、夫
の地位が自分の夫の地位よりも高いときには、道をあけなければならない。

 「そういう世界だから、どの母親も、子どもの受験にはピリピリです」と。具体的にはこうだ。ま
ず上司の息子や娘と同じ学校は受験しない。上司の息子や娘が不合格になった学校は受験
しない。受験する学校の名前は最後の最後まで秘密にする、と。

●日本人独特の上下意識
 ……私はこの話を聞いたとき、別のところで、「こんなことをしているから日本の銀行は、国
際競争力をなくした」と思った。日本人のほとんどは、日本は先進国だと思っている。たしかに
豊かで、経済力はある。しかしその中身といえば、アフリカの××部族のそれとそれほど違わ
ない。少なくとも、世界の人はそう見ている。日本の社会の中にどっぷりとつかっている人に
は、それがわからない。その一つが、日本人独特の上下意識。日本人はたった一年でも先輩
は先輩、後輩は後輩と考える。そしてその間にきびしい序列をつける。言いかえると、こうした
意識があるかぎり、日本はいつまでも奇異な目で見られる。日本異質論は消えない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

こんなオレにしたのは、お前だろ!
溺愛ママ(失敗危険度★★)

●子どもを溺愛する母親
 親が子どもを溺愛する背景には、親側の情緒的未熟性や精神的な欠陥がある。つまりそうし
た未熟性や欠陥を代償的に補うために親は子どもを溺愛するようになる。つまり子どもを溺愛
す親というのは、どこかに心の問題をもった人とみてよい。が、親にはそれがわからない。わ
からないばかりか、溺愛を親の深い愛と誤解する。だから人前で平気で、その溺愛ぶりを誇示
する。こんなことがあった。

●溺愛を「愛」と誤解?
 高校のワンゲル部の総会でのこと。指導の教師が父母たちに向かって、「皆さんはお子さん
たちが汚してきた登山靴をどうしてますか?」と聞いたときのこと。一人の母親がまっさきに手
をあげてこう言った。「このクツが無事息子を山から返してくれたと思うと、ただただいとおしくて
頬ずりしています!」と。

あるいは幼稚園で、それはそれはみごとな髪型をしてくる子ども(年中女児)がいた。髪の毛を
細い三つ編みにした上、さらにその、三つ編みを幾重にも重ねて、複雑な髪型をつくるなど。ま
さに芸術的! そこである日、その母親と道路であったので、それとなく「毎日たいへんでしょ
う?」と聞いてみた。が、その母親は何ら臆することなく、こう言った。「いいえ、毎朝、三〇分も
あればすんでしまいます」と。毎朝、三〇分!、である。

●溺愛児の特徴
 親が子ども溺愛すると、子どもは子どもで溺愛児特有の症状を示すようになる。(1)幼児性
の持続(年齢に比して幼い感じがする)、(2)退行的になる(目標や規則が守れず、自己中心
的になる)、(3)服従的になりやすい(依存心が強く、わがままな反面、優柔不断)、(4)柔和で
おとなしく、満足げでハキがなくなるなど。ちょうど膝に抱かれたペットのように見えることから、
私は勝手にペット児(失礼!)と呼んでいるが、そういった感じになる。が、それで悲劇が終わ
るわけではない。

●カラを脱がない子ども 
子どもというのは、その年齢ごとに、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして成長する。たとえば子
どもには、満四・五歳から五・五歳にかけて、たいへん生意気になる時期がある。この時期を
中間反抗期と呼ぶ人もいる。この時期を境に、子どもは幼児期から少年少女期へと移行す
る。しかし溺愛児にはそれがない。ないまま、大きくなる。そしてあるとき、そのカラを一挙に脱
ごうとする。が、簡単には脱げない。たいてい激しい家庭内騒動をともなう。子「こんなオレにし
たのは、お前だろ!」、母「ごめんなさア〜イ。お母さんが悪かったア〜!」と。

しかし子どもの成長ということを考えるなら、むしろこちらのほうが望ましい。カラをうまく脱げな
い子どもは、超マザコンタイプのまま、体だけはおとなになる。昔、「冬彦さん」(テレビドラマ「ず
っとあなたが好きだった」の主人公)という男性がいたが、そうなる。
 
溺愛ママは、あなたの周辺にも一人や二人は必ずいる。いて、何かと話題になっているはず。
しかし溺愛は「愛」ではない。代償的愛といって、つまるところ自分の心のすき間うめるための
愛。身勝手な愛。一方的な愛。もっと言えば、愛もどきの愛。そんな愛に溺れてよいことは、何
もない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

あの思い出を全部消せ!
理由なき怒り(失敗危険度★★)

●原稿を読んでもらったが……
 その母親がどんなメンツにこだわっているか、それは外からではわからない。わからないか
ら失敗もする。しかし今になっても、「どうして?」と首をかしげるような事件もあった。

 ある日のこと。その日はたまたま公開授業の日だった。園長も顔を出していた。で、私は一
通りの授業をほぼ終えたあと、一人の父親に前で助手をしてもらうことにした。その父親は母
親とともに最前列にいた。私はその父親に教材と原稿を渡し、それを子どもたちの前で読んで
もらった。

●執拗な電話
 その授業はその授業なりに、わきあいあいの雰囲気でなされた。その父親は少し照れては
いたが、それは当然のことだ。じょうずかへたかと言われれば、じょうずなはずがない。が、そ
の夜から、母親からものスゴイ剣幕の電話。「よくもうちの主人に恥をかかせてくれたわね!」
と。母親だって一緒に笑っていたはずだ。が、そうではなかった。それはそれで理解できたの
で、私はていねいに謝ったが、その程度では母親の怒りをしずめることはできなかった。

その電話はその夜だけでも、ネチネチと一時間以上もつづいた。翌日の夜もやはり一時間以
上つづいた。三日目になると、さすがに私の女房も電話のベルが鳴るたびに、体を震わせてお
びえるようになった。が、その三日目には電話はなかった。が、そのまた翌日から、ほとんど毎
日、その母親から電話がかかってきた。私が「では、どうすればいいですか」と聞くと、「あの思
い出を全部消せ!」とか、「時間をもとに戻せ!」とか、メチャメチャなことを言いだした。

●電話におびえた女房
 当時の私はまだ二五歳そこそこ。今ならもう少し賢い言い方で電話をかわしたかもしれない
が、そのときはそうではなかった。私はともかくも、女房は電話のベルが鳴るたびに、体をワナ
ワナと震わせた。

●いまだに謎
 ……で、今でも、なぜあの母親がああまで怒ったのか、私には理解できない。ただそのあと
その母親は、ある種の精神病になって入退院を繰り返したという話を風のたよりに聞いたこと
がある。その病気と関係があったのかもしれない。あるいはそれとは別に、うつ状態になって
いたのかもしれない。うつ状態になると、そういったとんでもない被害妄想をもつこともあるとい
う。もっとも今でもその母親がまとも(?)なら、こんな文章はとてもここに書けない。もし私がこ
んな文章を書いたのがわかったら、その母親は私を殺しにくるかもしれない。私の記憶に残っ
ている母親の中でも、最高に恐ろしい母親だった。
美人はとくね


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

インターネットの時代に(失敗危険度★★)

●深刻な話はメールではしない
 インターネットでメール交換している母親がふえている。私の周辺でも、約三〇%の母親たち
が、毎日のようにそれを楽しんでいる(二〇〇二年)。が、そのメール交換にも、いろいろな落
とし穴がある。たとえば文字でメールを送ると、相手は相手の感情でその文字を読む。これが
こわい。冗談のつもりで、「バカだなあ」と書いたとする。が、相手はそのときの気持ちでその文
を読む。読んで「バカとは何だ!」となる。だからメールを書くときは、極力そういう誤解を生じさ
せないような配慮が必要だ。ニコニコ笑ったような絵文字を添えたりするのも、一つの方法だ。
私のばあいは、深刻な話はインターネットではしないようにしている。

●「何だ、こんな失礼なメールは!」
 またメール交換は手軽であるだけに、どうしてもぶっきらぼうになる。手紙だと、相手の名前
を書き、つぎに「拝啓」とか書いたりする。時候のあいさつもする。メールにはそれがない。いき
なり本文に入ったりする。だから相手は相手のそのときの感情でそのメールを読む。たまたま
気分が悪かったりすると、「何だ、こんな失礼なメールは!」となる。

●無断転送はタブー
 が、何といっても、これはあくまでも私の主観的な考えだが、あの「転送」ほど、こわいものは
ない。インターネットでは、手紙の世界ではタブーになっている転送が、それこそクリック一つで
できてしまう。そして一度転送されたメールは、つぎつぎと転送され、あっという間に無数の人
たちの間に流れてしまう。これがこわい。
……というより、転送はタブーだという常識が、まだわかっていない人が多い。中には私からの
私信を平気で転送する人がいる。いや、実際には、他人のメールを平気で転送してくるような
人には、こわくて返事も書けない。「林さんだけにM子のメールを見せてあげますね」と書いて
あったりすると、心底ゾーッとする。「私のメールもこうして転送されるのだろうな」と。こんなこと
もあった。

●こわくて返事も書けない
 私はときどき、自分の書いたエッセイを、不特定多数の人に送っている。そのときもそうだっ
た。私は一人の女性(三九歳)についてのエッセイを送った。その女性は「自分の息子を愛す
ることができない」と言って悩んでいた。そのことについて書いた。

で、私がエッセイを送った読者の中に、Uさん(四一歳・女性)という女性がいた。市役所の職
員ということだった。が、Uさんは、そのエッセイをズタズタに分断し、その分断した個所ごとに、
コメントを添えて、そのまま数人の仲間に転送してしまった。そしてあろうことか、それぞれの仲
間たちがさらにコメントをつけ加え、そして最終的にはそれが私のところに回送されてきた。中
に、「美人はとくね」と、私のエッセイを皮肉ったコメントまで書き添えてあった。

私は回送されてきた自分のエッセイを見て、怒りで体が震えた。私はしがないモノ書きだが、自
分の女房でもここまでさせない……と、そのときはそう思った。で、怒りをそのUさんにぶつけた
かったが、それもできなかった。そういうふうに転送することに罪悪感を覚えない人には、こわく
て返事も書けない。書けば書いたで、またどんなふうに他人に転送されるか、わかったもので
はない。

●「どうして返事をくれないのか!」
 しかしもちろんUさんにはこちらの気持ちなどわかるはずもない。それからたびたびメール
で、「どうして返事をくれないのか!」というようなことを言ってきた。回数にすれば、五〜六回は
あっただろうか。しかし私の怒りが収まったときには、Uさんへの友情はすっかり消えていた。
返事を書いて人間関係を修復しようと思う前に、そういうことがわずらわしくなった。

 もちろんUさんは私の生徒の親ではない。これからもつきあうつもりはない。ないから、ここに
こうしてあえて事実を書いた。

●インターネットの問題点
 話を戻す。メール交換にはまだいろいろ問題がある。北海道に住む読者からのメールでも、
沖縄に住む読者からのメールでも、受け取る段階では、その「距離感」がまったくない。それは
当然のことだが、さらに、親しさにも距離感がない。一〇年前の友人も、つい先日知りあった友
人も、同じようなレベルで接近してくる。何というか友情の蓄積感がない。最初のメールこそて
いねいでも、二度目からのメールでは、一〇年来、あるいは三〇年来の友人のような書き方を
する。(私もそうだが……。)で、そこで人間関係が互いにわからなくなってしまう。

 これは私だけの錯覚かもしれないが、たとえばA出版社のA氏と、B出版社のB氏と交互にメ
ールを交換していたとする。互いに一、二度しか面識がなく、会話もそれほどしたことがないと
する。するとメールを交換しているうちに、A氏とB氏が区別つかなくなってしまうのだ。もしその
上、名字が同じだったりすると、さらに区別つかなくなってしまう。実のところ、多くの母親からメ
ールをもらうと、そういう混乱がよく生ずる。懸命にその母親の顔を思い浮かべながらメールを
書くのだが、それにも限度がある。メール交換にもいろいろな問題があるようだ。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

パンツのウンチで恥をかかせるとは!
結婚するというのは冗談です(失敗危険度★★)

●やがて大騒動になるとは!
 乱暴な子どもというのは、いる。「こんにちは」と言いながら、足でこちらを蹴飛ばしてくる。「さ
ようなら」と言いながら、また蹴飛ばしてくる。丸井さん(年中女児)もそうだった。そこである日、
丸井さんが私をいつものように蹴飛ばしてきたので、すかさずこう言った。「丸井さん、ぼくは君
がおとなになっても、結婚しないからな。結婚するなら、あの大野さんとする」と。たまたま大野
さんの顔が目に入った。だからそう言った。が、この一言が、やがて大問題になるとは!

●「もちろん冗談です」
 それからちょうど一週間後のこと、同じクラスの母親の一人に会うと、その母親がこう言っ
た。「先生、大野さんの件ですけどね。何でも大野さんが、私はおとなになったら、林先生と結
婚するんだと、真剣に悩んでいるというのですよ」と。大野さんが私の冗談を真に受けてしまっ
たらしい。「まずかった……」と思っていると、たまたまその日、大野さんの父親が大野さんを迎
えにきていた。そこで立ち話だったが、私はこう言った。「実のところ、大野さんといつか結婚す
ると言ってしまいましたが、あれはもちろん冗談です。ご本人は本気にされてしまったようです
が、どうかお許しください」と。

●私の失敗談
 が、その夜のこと。夕食を終えて、そろそろ風呂の用意をと考えていたら、玄関先で人の気
配が……。出てみると、大野さんの父親と母親がものすごい剣幕で立っているではないか。「ど
うしたのですか?」と声をかけると、「説明してほしい」「どういうことですか」と。父親は、「大野さ
ん」というところを、自分の妻のことだと思ってしまったらしい。私が大野さんの妻に結婚の話を
した、と。

私はこの幼児教育の世界へ入ってからというもの、子どもでもすべて名字で呼んでいる。それ
が誤解を招いた。つまり父親は、私が母親とただならぬ関係にあると誤解した。こんな失敗を
したこともある。

●ウンチのついたパンツ
子どもを指導するとき、「○○をするな」とか「○○をしなさい」とかいう命令は、できるだけ避け
たい。これは私の教育理念の一つでもある。で、たとえば授業中フラフラと歩いているような子
どもには、私はこう言う。「パンツにウンチがついているなら、立っていていい」と。そしてそれで
も立っていたら、さらに「おしりがかゆいのか?」と真顔で聞いたりする。そのときもそうだった。
小学三年生のK君が、フラフラと歩いていた。そこで「ウンチがついているなら、立っていてい
い」と。ところがそのあとハプニングが起きた。私がそう言い終わらないうちに、別の子どもが、
K君のおしりに顔をうずめて、「先生、本当にくさ〜い」と。

 その夜K君の父親から、猛烈な抗議の電話がかかってきた。「息子のパンツのことで、皆に
恥をかかせるとは、どういうことだ!」と。

 これらの話は、この本のタイトルとは関係ない。つまり私の失敗談ということになる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

だれにも迷惑をかけないからいい!
子どもの個性(失敗危険度★★)

●子どもの茶パツ
 浜松市という地方都市だけの現象かもしれないが、どの小学校でも、子どもの茶パツに眉を
ひそめる校長と、それに抵抗する母親たちの対立が、バチバチと火花を飛ばしている。講演な
どに言っても、それがよく話題になる。

 まず母親側の言い分だが、「茶パツは個性」とか言う。「だれにも迷惑をかけるわけではない
から、どうしてそれが悪いのか」とも。今ではシャンプーで髪の毛を洗うように、簡単に茶パツに
することができる。手間もそれほどかからない。

●低俗文化の論理
 しかし個性というのは、内面世界の生きざまの問題であって、外見のファッションなど、個性と
はいわない。こういうところで「個性」という言葉をもちだすほうがおかしい。また「だれにも迷惑
をかけないからいい」という論理は、一見合理性があるようで、まったくない。裏を返していう
と、「迷惑をかけなければ何をしてもよい」ということになるが、「迷惑か迷惑でないか」を、そこ
らの個人が独断で決めてもらっては困る。こういうのを低俗文化の論理という。こういう論理が
まかり通れば通るほど、文化は低俗化する。

文化の高さというのは、迷惑をかけるとかかけないとかいうレベルではなく、たとえ迷惑をかけ
なくても、してはいけないことはしないという、その人個人を律するより高い道徳性によって決ま
る。「迷惑をかけない」というのは、最低限の人間のモラルであって、それを口にするというの
は、その最低限の人間のレベルに自分を近づけることを意味する。

●学校側の抵抗
で、学校側の言い分を聞くのだが、これがまたはっきりしない。「悪いことだ」と決めてかかって
いるようなところがある。中学校だと、校則を盾にとって、茶パツを禁止しているところもある
が、小学校のばあいは、茶パツにするかしないかは親の意思ということになる。が、学校の校
長にしてみれば、茶パツは、風紀の乱れの象徴ということになる。学校全体を包むモヤモヤと
した風紀の乱れが、茶パツに象徴されるというわけだ。だから校長にしても、それが気になる。
……らしい。

●まるで宇宙人の酒場!
 が、視点を一度外国へ移してみると、こういう論争は一変する。先週もアメリカのヒューストン
国際空港(テキサス州)で、数時間乗り継ぎ便を待っていたが、あそこに座っていると、まるで
映画「スターウォーズ」に出てくる宇宙の酒場にいるかのような錯覚すら覚える。身長の高い低
い、体形の太い細いに合わせて、何というか、それぞれがどこか別の惑星から来た生物のよう
な、強烈な個性をもっている。顔のかたちや色だけではない。服装もそうだ。国によって、まる
で違う。アメリカ人にしても……、まあ、改めてここに書くまでもない。そういうところで茶パツを
問題にしたら、それだけで笑いものになるだろう。色どころか、髪型そのものが、奇想天外とい
うにふさわしいほど、互いに違っている。ああいうところだと、それこそ頭にちょうちんをぶらさ
げて歩いていても、だれも見向きもしないかもしれない。

●結局は島国の問題?
 言いかえると、茶パツ問題は、いかにも島国的な問題ということになる。北海道のハシから沖
縄のハシまで、同じ教科書で、同じ教育をと考えている日本では、大きな問題かもしれないが、
しかしそれはもう世界の常識ではない。

 そんなわけでこの問題は、もうそろそろどうでもよい問題の部類に入るのかもしれない。ただ
この日本では、「どうぞご勝手に」と学校が言うと、「迷惑をかけなければ何をしてもよい」という
論理ばかりが先行して、低俗文化が一挙に加速する可能性がある。学校の校長にしても、そ
れを心配しているのではないか? 私にはよくわからないが……。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

乾電池を入れかえれば動く!
死は厳粛に(失敗危険度★★)

●死を理解できるのは、三歳以後
 「死」をどう定義するかによってもちがうが、三歳以前の子どもには、まだ死は理解できない。
飼っていたモルモットが死んだとき、「乾電池を入れかえれば動く!」と言った子ども(三歳男
児)がいた。「どうして起きないの?」と聞いた子ども(三歳男児)や、「病院へ連れて行こう」と
言った子ども(三歳男児)もいた。子どもが死を理解できるようになるのは、三歳以後だが、し
かしその概念はおとなとはかなり違ったものである。三〜七歳の子どもにとって「死」は、生活
の一部(日常的な生活が死によって変化する)でしかない。ときにこの時期の子どもは、家族
の死すら平気でやり過ごすことがある。

●死への恐怖心
 このころ、子どもによっては、死に対して恐怖心をもつこともあるが、それは自分が「ひとりぼ
っちになる」という、孤立することへの恐怖心と考えてよい。たとえば母親が臨終を迎えたとき、
子どもが恐れるのは、「母親がいなくなること」であって、死そのものではない。ちなみに小学五
年生の子どもたちに、「死ぬことはこわいか?」と質問してみたが、八人全員が、「こわくない」
「私は死なない」と答えた。一人「六〇歳くらいになったら、考える」と言った子ども(女子)がい
た。質問を変えて、「では、お父さんやお母さんが死ぬとしたらどうか」と聞くと、「それはいや
だ」「それは困る」と答えた。

●死は厳粛に
 子どもが死を学ぶのは、周囲の人の様子からである。たとえば肉親の死に対して、家人がそ
れを嘆き悲しんだとする。その様子から子どもは、「死ぬ」ということがただごとではないと知
る。そこで大切なことは、「死はいつも厳粛に」である。死を茶化してはいけない。もてあそんで
もいけない。どんな生き物の死であれ、いつも厳粛にあつかう。たとえば飼っていた小鳥が死
んだとする。そのときその小鳥を、ゴミか何かのように紙で包んでポイと捨てれば、子どもは
「死」というものはそういうものだと思うようになる。しかしそれではすまない。

死があるから生がある。死への恐怖心があるから、人は生きることを大切にする。死をていね
いにとむらうということは、結局は生きることを大切にすることになる。が、死を粗末にすれば、
子どもは生きること、さらには命そのものまで粗末にするようになる。

●死をとおして生きることの大切さを
 どんな宗教でも死はていねいにとむらう。もちろん残された人たちの悲しみをなぐさめるという
目的もあるが、死をとむらうことで、生きることの大切さを教えるためと考えてよい。そんなこと
も頭に入れながら、子どもにとって「死」は何であるかを考えるとよい。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

どうして生徒なんか紹介するのよ!
すべて計算づく(失敗危険度★★)

●母親族たち
 母親たちを総称して、「母親族」という。決してバカにしているのでも、また差別しているのでも
ない。一人ひとりの母親をみていると、どの母親もすべて違う。しかし全体としてみると、その母
親にはどこか共通点があるのがわかる。そういう母親像を最大公約数的にまとめて、「母親
族」という。それはちょうど、若者たちをみて、「若者族」、老人たちをみて、「老人族」というのに
似ている。決して気分を悪くしないでほしい。で、その中の一例。

●母親族の特徴
(1)サービスも、三回つづくと、当たり前……ある音楽教室でのこと。レッスン時間はレッスン
時間としてあるのだが、たまたま隣の部屋があいていた。そこで学校帰りの子どもについて、
早く来た子どもはその部屋を自由に使ってもよいということにした。宿題がある子どもは宿題
を、レッスンをしたい子どもはレッスンを、と。最初のころこそ、親も子どももどこか遠慮がちに
その部屋を利用していたが、三か月もすると様子が変わってきた。その日のレッスンでない子
どもまでやってくるようになった。その上、三〇分とか一時間という常識的な時間ではなく、中に
は数時間もいる子どもまで出てきた。そこで半年ぐらいたったある日のこと、その音楽教室の
先生は、その部屋を閉鎖した。が、母親たちは納得しなかった。中には怒って、「約束が違う」
と、音楽教室をやめてしまう母親すらいた。

(2)すべてが計算づく……これはある英会話教室の話だが、この不況下、その教室でも生徒
集めに苦労をしていた。その教室では、生徒数が一〇人前後いないと、講師に払う時間給が
赤字になるのだが、生徒数はたったの四人。が、その講師の先生は、アメリカの州立大学を
優秀な成績で卒業した女性。教え方もうまい。しかし三か月たっても、半年たっても、生徒はふ
えなかった。クラスを閉鎖しようと経営者は何度も考えたが、その講師を手放すのは忍びなか
った。で、結局ほぼ一年間、その状態がつづいたが、やっと一人、新しい生徒が入ってくること
になった。が、そのときのこと。その新しい生徒は、先の四人の中の一人が紹介した子どもだ
ったのだが、生徒の親どうしの間で、争いが起きたというのだ。「どうして新しい生徒なんか紹
介するのよ。生徒がふえれば、それだけうちの子たちがていねいに教えてもらえないでしょ!」
と。親たちは協力しあって、新しい生徒がふえることに抵抗していたのだった。

(3)こまかい授業設定……これは学習塾での話。その塾では、小学五年生のクラスだけで、
それぞれ別々の四クラスがあった。週二回のレッスンだったので、計八クラスということにな
る。が、小学五年のG君だが、ほとんど毎週のようにレッスン日の変更を申し出てきた。「今度
の火曜日に行かれないので、明日の月曜日にしてほしい」とか。受付の女性はそのつど、その
申し出に応じていたが、ある日、出席日数をチェックしてみて驚いた。どの子どもも、週二回、
月八回のレッスンになっていたが、G君だけは、毎月九〜一〇回になっていた。変更をうまくや
りくりしながら、レッスンの回数をふやしていたのだ! つまり塾というところは、月単位で運営
するところが多い。だから月によっては、四週あるクラスと、五週あるクラスがうまれる。五週あ
るときは調整休みをするのだが、その間をうまく行ったり来たりすると、月八回のレッスンを、
九回にしたり一〇回にしたりできる。……とまあ、ふつうの人なら、こんなこまかい計算はしな
い。しかしG君の母親はした。しながらレッスン日をふやしていた。

●母親族こそ犠牲者
 結論から先に言えば、今、子育てそのものが、個人の欲得の追求の場になっている。エゴイ
ズムが、その底流ではげしくぶつかりあっている。「自分の子どもさえよければ、それでいい」
「何とか自分の子どもだけでも」と。そしてそれが日本全体を包む大きな流れであるとするな
ら、その流れの中で翻弄されている母親族こそ、本当の犠牲者なのかもしれない。だれもそう
いう母親族を責めることはできない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

一緒に学校へ抗議に行ってほしい!
親の身勝手(失敗危険度★★★★)

●「しっかりめんどうをみろ」
 三〇人もいれば、いろいろな生徒がいる。たとえあなたの子どもに問題がないとしても、多い
か少ないかと言えば、問題のある子どものほうが多いに決まっている。中には親ですら、手に
負えない子どももいる。そういう子どもを三〇人も一人の先生に押しつけて、「しっかりめんどう
をみろ」はない。もっと言えば、あなたという親から見れば、先生とあなたの関係は一対一かも
しれないが、先生のほうから見れば、一対三〇になる。たとえばあなたは「一〇分くらいの相談
ならいいだろう」と思って電話をするかもしれないが、三〇人ともなると、それだけで計五時間と
なる。五時間である! が、親にはそれがわからない。どの親も、「私だけ」と思って行動する。
あるいは自分や自分の子どものことしか考えない。こんなことがあった。

●一〇〇%完ぺきな授業はない
 ある日一人の母親が血相を変えて私の家にやってきた。そしてこう言った。「今日、学校で席
決めのとき、先生が『好きなどうし並んでもよい』と言ったという。ウチの子(小二男児)のよう
に、友だちがいない子どもはどうしたらいいのか。そういう子どもに対する配慮が足りない。こ
れから学校へ抗議に行くので、一緒に行ってほしい」と。もちろん私は断った。

すべての子どもに対して満点の指導など、実際には不可能だ。九〇%の子どもによかれと思
ってしても、残りの一〇%の子どもにはそうでないときもある。たまには自分の子どもが、その
一〇%に入るときもある。そういうことでいちいち目くじらを立てていたら、学校の先生だって指
導ができなくなる。

●本当の問題
 学校や学校の先生に対して完ぺきさを求める親というのは、それだけで依存心の強い人と
みる。もし教育は親がするもの、その責任は親がとるものという考えがもう少し徹底すれば、こ
うした過関心は、少しはやわらぐはず。このタイプの親は、「何とかせよ」と学校や学校の先生
に迫ることはあっても、その責任は自分にあるとは思わない。席決めを問題にした親にしても、
先生の発言よりも、むしろその子どもに友だちがいないことこそ問題にすべきではないのか。
「なぜ友だちがいないのか?」と。また友だちがいないからといって、それは先生の責任ではな
い。子ども自身が自分で、「ぼくには好きな子がいない」とでも言えば、それはそれでわかる
が、そうでなければ、先生にそこまで把握することは不可能。家へ帰ってから子どもが親に、
「ぼくには友だちがいない」と訴えたとしても、それは子ども自身の問題と考えてよい。

 子どものことに関心をもつのは、それはしかたないことだが、しかしそれが過関心になり、こ
まかいことが気になり始めたら、心の病気の初期症状と思ったらよい。ほうっておけば、あなた
は育児ノイローゼになって、自らの心を狂わすことになる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

ただより高いものはない
親のエゴ、親の計算(失敗危険度★★)

●身内や親戚は教えない
 昔から『ただより高いものはない』という。教育の世界ほどそうで、とくに受験勉強のような「危
険物」は、割り切ってプロに任せたほうがよい。実のところ、私も若いころ、受験塾の講師もし
たことがあるが、身内や親戚、あるいは親しい知人の子どもについては、引き受けなかった。
理由はいくつかある。

 まず受験勉強ほど、その子どものプライバシーに切り込むものはない。学校での成績を知る
ということは、そういうことをいう。つぎに成績があがればよいが、そうでなければ、たいていは
人間関係そのものまでおかしくなる。ばあいによっては、うらまれる。さらに身内や親類となる
と、そこに「甘え」が生じ、この甘えが、金銭関係をルーズにする。私も一度だけ、遠い親戚の
子ども(小二のときから中二まで)預かったことがある。F君という男の子だった。

●F君との出会い
 F君が最初に私のところにやってきたのは、小学一年生のときのことだ。今でいう学習障害
児と言ってもよいような子どもだった。女房の遠い親戚にあたる子どもだったので、頼まれるま
ま引き受けた。いや、本来なら親戚の子どもは引き受けないのだが、母親は私の熱心なファン
だと言った。それで引き受けた。

●月謝は半額
 で、親戚ということで、月謝は当初から半額だった。正確には、当時八〇〇〇円の月謝(一ク
ラス五人程度、週一回)の半額の四〇〇〇円だった。が、そういう子だったから、半年もしない
うちに、母親から「週二回みてほしい」と言ってきた。そこで私は時間を何とかつくり、週二回、
教えることにした。しかし効果はほとんどなかった。こうなると、私のほうが立場が悪くなる。物
価もそれなりに上昇したが、F君だけは月謝を据え置いた。いや、何度か断りたいと思ったが、
親戚ということで、それもできなかった。その状態が三年、四年とつづいた。で、いよいよ中学
というとき、思うような結果が出せなかったので、私のほうから申し出て、週三回にしてもらっ
た。もちろんふやした分は、ただである。母親は感謝したが、しかしそれも最初だけだった。

●通常の月謝で……
 こうして計算してみると、すでにそのころ月謝は、通常の四分の一以下になっていた。が、そ
れでも何とかF君との人間関係はつづいた。が、私を激怒させる事件が起きた。何とF君が、同
じ教室で、数歳年下の子どもをいじめていたのである。そのいじめ方については、ここに書く必
要はないと思う。が、その事件を目撃して、私はF君への思いが消えた。(今から思うと、F君も
犠牲者だったのかもしれない。毎週三回も、いやいやながら私の家に足を運んでいたのだか
ら……。)

で、ある日、母親に、通常の月謝にしてほしいと申し出た。いや、その直前に、たまたま母親の
ほうから、週三回を、さらに週四回にしてほしいという申し出があった。私は、「通常の月謝で
教えさせていただけるなら、引き受ける」というようなことを言った。が、この言葉がどういうわけ
だか、母親を怒らせた。F君の母親は、「それなら結構です」と言って、そのまま私の教室を去
っていった。

 何とも割り切れない別れ方だったが、以後、そのF君の母親もF君も、いっさい音信はない。
葬儀の席か何かで会ったことがあるが、母親は私には視線を合わせようともしなかった。

●無料の受験特訓
 もう一つ、こんなこともあった。

私はほんの数年前まで、高校を受験する受験生については無料で教えていた。受験指導はあ
くまでも「指導」であって、教育とは異質のものと考えていたからだ。方法はこうだ。

 この静岡県では、中学三年が、受験期としてたいへん重要な意味をもつ。だからその時期を
迎えた子どもは、毎年七月から一一月まで、毎晩七時ごろから一一時ごろまで教えた。教えた
といっても、つきっきりで指導したわけではない。ときどき生徒の様子をうかがい、わからないと
ころだけを教えた。

しかしこの方法を長い間つづけていると、どこからか情報がもれて、その教室を目的に私のと
ころへやってくる生徒がふえ始めた。最初のころこそ、気前よく迎えていたが、それが四人、五
人となると、さすがの私も負担に思い始めた。が、ある夜こんなことがあった。

●無料レッスンを請求した子ども
 そろそろ七月という暑い初夏の夜だった。その年は何かとあわただしく、七月からの無料学
習(私は受験特訓と呼んでいたが)、その日程の調整がつかなかった。中学三年生はそのと
き、五人ほどいた。うち一人だけが幼児教室のOBで、残りは中学三年生になってから、入って
きた生徒だった。私は週一回、二時間という教室でそれまで教えていた。その夜のことだ。

 帰りまぎわになって、一人の中学生がこう言った。「今年はいつから受験特訓を始めてくれる
のですか?」と。私は驚いた。私は一度も、私のほうからそういう連絡をした覚えはない。あくま
でも私の好意であって、それをするかしないかは、私が決めるものだとばかり思っていた。そこ
で、「始める? ……どうして?」と聞くと、その中学生はこう言った。「お母さんが聞いてこいと
言った」と。

●ガラガラと音とをたてて……
 とたん、私の中からやる気がガラガラと音をたてて崩れていくのを感じた。この生徒たちは、
(無料の!)受験特訓を目的に、中学三年になってあわてて私のところへきたのだ。しかし毎
晩、四〜五時間の指導を、半年近くもする受験塾がどこにあるだろうか。そのとき生徒五人か
ら手にしていた月謝を合計しても、学生による家庭教師代より少ない。私は思わず、「今年は
忙しいからな……」と言ったのだが、もう一人の中学生も、不機嫌な顔をしていた。見ると「約
束が違う」というような表情だった。

 私はその年は七月になっても、受験特訓を始めなかった。八月になっても、受験特訓を始め
なかった。が、九月になると、その中の三人が私の教室をやめると言い出した。しかたないこと
だ。もともとそういう生徒だった。

 で、九月になった。私は二人の生徒だけで、一一月まで受験特訓をした。一一月というのは、
最後の校内模試が終わる月であった。内申書の成績はこの試験を最後に決まる。静岡県で
は、当時は、この内申書でほとんどが入学先の高校が決まるしくみになっていた。
 その翌年から、私は受験特訓をやめた。おかげで生徒は、一人もいなくなったが……。

●受験勉強はしごき
 受験指導というが、子どもの側からみると、「しごき」以外の何ものでもない。子どもの側で考
えてみれば、それがわかる。勉強がしたくて勉強する子どもなど、いない。偏差値はどうだっ
た、順位はどうだった、希望校はどこにするとやっているうちに、子どもの心はどんどんと離れ
ていく。だからいくら教える側が犠牲的精神をふるいたたせても、率直に言えば、親に感謝され
ることはあっても、子どもに感謝されることは、まずない。受験勉強というのは、もともとそういう
もの。「教育」という名前を使う人もいるが、ここに書いたように、受験指導は「指導」であって、
教育ではない。もともと豊かな人間関係が育つ土壌など、どこにもない。

●受験勉強はプロに任す
 長い前置きになったが、そこで本論。中に子どもの受験勉強を、親類や知人に頼む人がい
る。そのほうが安いだろうとか、ていねいにみてもらえるだろうとか考えてそうする。しかし実際
には、冒頭に書いたように、ただより高いものはない。相手がプロなら、成績がさがれば、「ク
ビ!」と言うこともできるが、親類や知人ではそういうわけにもいかない。ズルズルと指導しても
らっているうちに、あっという間に受験期は過ぎてしまう。そんなわけで教訓。受験勉強は、多
少お金を出しても、その道のプロに任せたほうがよい。結局はそのほうが安全だし、長い目で
見て、安あがりになる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

費用もかえって安いのじゃないかしら?
七五三の祝いを式場で?(失敗危険度★★★)

●費用は一人二万円
 テレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でも今では、子どもの七五三の祝い
を、ホテルかどこかの式場でする親がいるという。見ると、結婚式の花嫁衣裳のような豪華な
着物を着た女の子(六歳ぐらい)が、中央にすわり、これまた結婚式場のように、列席者がそ
の前に並んでいた。費用は一人二万円くらいだそうだ。レポーターが、やや皮肉をこめた言い
方で、「(費用が)たいへんでしょう」と声をかけると、その母親はこう言った。「家でするより楽
で、費用もかえって安いのじゃないかしら」と。

●ため息をついた私と女房
 私と女房は、それを見て、思わずため息をついた。私たちは、結婚式すらしてない。と言うよ
り、できなかった。貯金が一〇万円できたとき、(大卒の初任給がやっと七万円に届くころだっ
たが)、私が今の女房に、「結婚式をしたいか、それとも香港へ行きたいか」と聞くと、女房は、
「香港へ行きたい」と。それで私の仕事をかねて、私は女房を香港へ連れていった。それでお
しまい。実家からの援助で結婚式をする人も多いが、私のばあい、それも望めなかった。反対
に私は毎月の収入の約半分を、実家へ仕送りしていた。

 そののち、何度か、ちょうど私が三〇歳になるとき、つぎに四〇歳になるとき、「披露宴だけ
でも……」という話はあったが、そのつど私の父が死んだり、女房の父が死んだりして、それも
流れてしまった。さすが五〇歳になると、もう披露宴の話は消えた。

●「何か、おかしいわ」
 その七五三の祝いを見ながら、女房がこう言った。「何か、おかしいわ」と。つづけて私も言っ
た。「おかしい」と。すると女房がまたこう言った。「私なら、あんな祝い、招待されても行かない
わ」と。私もそれにうなずいた。いや、それは結婚式ができなかった私たちのひがみのようなも
のだったかもしれない。しかしおかしいものは、おかしい。

 子どもを愛するということ。子どもを大切の思うということ。そのことと、こうした祝いを盛大に
するということは、別のことである。こうした祝いをしたからといって、子どもを愛したことにも、
大切にしたことにはならない。しないからといって、子どもを粗末にしたことにもならない。むし
ろこうした祝いは、子どもの心をスポイルする可能性すらある。「自分は大切な人間だ」と思う
のは自尊心だが、「他人は自分より劣っている」と思うのは、慢心である。その慢心がつのれ
ば、子どもは自分の姿を見失う。こうした祝いは、子どもに慢心を抱かせる危険性がある。

 さらに……。子どもが慢心をもったならもったで、その慢心を維持できればよいが、そうでな
ければ、結局はその子ども自身が、……? この先は、私の伯母のことを書く。

●中途半端な人生
 私の友人の母親は、滋賀の山村で生まれ育った女性だが、気位の高い人だった。自転車屋
の夫と結婚したものの、生涯ただの一度もドライバーさえ握ったことがない。店の窓ガラスさえ
拭いたことがないという。そういう女性がどうこうというのではない。その人はその人だ。が、問
題はなぜその女性がそうであったかということ。その理由の一つが、その女性が育った家庭環
境ではないか。その女性は数一〇〇年つづいた庄屋の長女だった。農家の出身だが、子ども
のころ畑仕事はまったくしなかったという。そういう流れの中で、その女性はそういう女性になっ
た。

●虚栄の世界で
 たとえばその女性は、医師の妻やその町のお金持ちの妻としか交際しなかった。娘と息子が
いたが、医師の娘が日本舞踊を習い始めたりすると、すぐ自分の娘にも日本舞踊を習わせ
た。金持ちの娘が琴を学び始めたりすると、すぐ自分の娘にも琴を習わせた。あとは一事が万
事。

が、結局はそういう見栄の中で、一番苦しんだのはその女性自身ではなかったのか。たしかに
その女性は、親にかわいがられて育ったのだろうが、それが長い目で見てよかったのかどうか
ということになると、それは疑わしい。結局友人の母親は、自転車屋のおかみさんにもなれず、
さりとて上流階級の奥様にもなれず、何とも中途半端なまま、その生涯を終えた。

●子どもはスポイルされるだけ?
 話を戻すが、子どものときから「蝶よ、花よ」と育てられれば、子ども自身がスポイルされる。
ダメになる。それだけの財力と実力がいつまでもともなえば、それでよいが、そういうことは期
待するほうがおかしい。友人の母親のような末路をたどらないとは、だれにも言えない。

 で、その女性にはつづきがある。その女性は死ぬまで、家のしきたりにこだわった。五月の
節句になると、軒下に花飾りをつけた。そして近所に、甘酒を配ったりした。家計は火の車だっ
たが、それでもそういうしきたりはやめなかった。友人から、「ムダな出費がかかってたいへん」
という苦情が届いたこともある。

●子どもというのは皮肉なもの
 子どもというのは不思議なものだ。お金や手間をかければかけるほど、ダメになる。ドラ息子
化する。親は「親に感謝しているはず」と考えるかもしれないが、実際には逆。

 一方、子どもは使えば使うほど、すばらしい子どもになる。苦労がわかる子どもになるから、
やさしくもなる。学習面でも伸びる。もともと勉強には、ある種の苦痛がともなう。その苦痛を乗
りこえる忍耐力も、そこから生まれる。「子どもを育てる」という面では、そのほうが望ましいこと
は言うまでもない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん?
子どもに与えるお金は、一〇〇倍せよ(失敗危険度★★★★)

●年長から小学二、三年にできる金銭感覚
 子どもの金銭感覚は、年長から小学二、三年にかけて完成する。この時期できる金銭感覚
は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。が、それだけではない。子どもはお金で自分の欲望
を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。これがこわい。

●一〇〇倍論
 そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、一〇〇倍にして考えるとよい。一〇〇円のも
のなら、一〇〇倍して、一万円。一〇〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一〇万円と。つまりこ
の時期、一〇〇円のものから得る満足感は、おとなが一万円のものを買ったときの満足感と
同じということ。そういう満足感になれた子どもは、やがて一〇〇円や一〇〇〇円のものでは
満足しなくなる。中学生になれば、一万円、一〇万円。さらに高校生や大学生になれば、一〇
万円、一〇〇万円となる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければ子
どもに安易にものを買い与えることは、やめたほうがよい。

●やがてあなたの手に負えなくなる
子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。あるいは高価
であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。しかしこれはまったくの誤解。あ
るいは実際には、逆効果。一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時的。子
どもはさらに高価なものを求めるようになる。そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあ
なたの手に負えなくなる。

先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でもその朝発売になるゲーム
ソフトを手に入れるために、六〇歳前後の女性がゲームソフト屋の前に並んでいるというの
だ。しかも徹夜で! そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性はこう答えた。
「かわいい孫のためです」と。その番組の中は、その女性(祖母)と、子ども(孫)がいる家庭を
同時に中継していたが、子ども(孫)は、こう言っていた。「おばあちゃん、がんばって。ありがと
う」と。

●この話はどこかおかしい
 一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。つまり一人の祖
母が、孫(小学五年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲーム屋の前に
並んでいるというのだ。その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空のもと、毛布持
参で並んでいるのだろうが、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるかどうか疑わしい。
感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。苦労などというものは、同じような苦労し
た人だけに理解できる。その孫にすれば、その女性は、「ただのやさしい、お人よしのおばあち
ゃん」にすぎないのではないのか。

●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け
 イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。
子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だ
が、これはまさに子育ての核心をついた格言である。少し前、どこかの自動車のコマーシャル
にもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思い出が親子のきずなを太
くする。

●モノに固執する国民性
日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオ
ーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、友
人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイル・
ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、本質
的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。

 さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんな
プレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りかってみてほしい。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

一方的にものを言わないでほしい!
視野のせまい親たち(失敗危険度★★)

●摩擦はつきもの
こういう仕事、つまり評論活動をしていると、いつもどこかで摩擦を生ずる。それは評論の宿命
のようなものだ。たとえば以前、「離婚家庭で育った子どもは、離婚率が高い」ということを、新
聞のコラムに書いたことがある。あくまでもそれはコラムの一部であり、そのコラム自体が離婚
問題を考えたものではない。が、その直後から、一〇人近い人からはげしい抗議が届いた。私
は何も離婚を批判したのでも、また離婚が悪いと書いたのでもない。ただの統計上の事実を
書いた。それに離婚が離婚として問題になるのは、離婚にまつわる家庭騒動であって、離婚そ
のものではない。この騒動が子どもの心に影響を与える。

が、そういう人たちにはそれがわからない。「離婚家庭でもがんばっている子どもがいる」「離
婚者に対する偏見だ」「離婚家庭で育った子どもは幸福になれないということか」など。こうした
コラムを不愉快に思う気持ちはわからないでもないが、どこかピントがズレている。ほかにも似
たような事件があった。

●「一方的にものを言わないでほしい」
同じく本の中で、「公務員はヒマをもてあましている」というようなことを書いた。これはお役所の
外では、常識と言ってもよい。その常識的な意見を書いた。が、それについても、「私の夫は毎
朝六時に起きて……」と、長々と、数ページにもわかって、その夫の生活をことこまかに書いて
きた人がいた。そして最後に、「私の夫のようにがんばっている公務員も多いから、一方的にも
のを言わないでほしい」と。さらにこんなことも。

●いじめられる側にも問題
 二〇年ほど前から、いじめが大きく話題になり始めた。その前は校則が話題になったが、と
もかくもそのいじめが話題になった。私も地元のNHKテレビに二度ほどかりだされて意見を述
べることになったが、そのときのこと。そのいじめを調べていくうちに、当時、いくつかの「おや
っ」と思うような事実に出くわした。もちろんいじめは悪い。許されないことだが、しかしいじめら
れる側にも、まったく問題がないというわけではない。もっともその問題というのは、子ども自身
の問題というよりは、育て方の問題といってもよい。

いじめられっ子のひとつの特徴は、社会性のなさ。乳幼児のときから親子だけのマンツーマン
だけの環境で育てられていて、問題を解決するための技法を身につけていないということがあ
る。いじめられても、いじめられっぱなし。やり返すことができない。たとえばブランコを横取りさ
れても、それに抗議することができない、など。そこで私は「家庭環境にも問題があるのでは」
と言った。が、これがよくなかった。その直後から猛烈な抗議の嵐。ものすごいものだった。(テ
レビの反響は、新聞や雑誌の比ではない!)「あなたは評論家として、即刻筆を折れ!」という
のまであった。

●個人攻撃をしているのではない!
 こうした抗議は、評論活動にはつきもの。いちいちそれで滅入っていては、評論などできな
い。しかしどうしてこうも、こういう人たちは近視眼的なのだろうかと思う。私は全体として、もの
の本質を問題にしているのであって、決して個人攻撃をしているわけではない。いじめにして
も、私はいまだけって一度もそれを是認したことはない。が、こういう人たちは、文の一部に集
中的にスポットをあて、あたかも自分が攻撃されたかのように思うらしい。学校の先生とて、例
外ではない。親たちの執拗な抗議を受けて、精神を病んだり、転校をさせられた先生は少なく
ない。こんなことも……。

●学校の先生もたいへん!
 まだバブル経済、はなやかりしころのこと。ある学校のある先生が、たまたま仕事を手伝い
にきていた一人の母親に、ふとこう口をすべらせてしまった。「塾へ、四つも五つも行かせてい
るバカな親がいる」と。その先生は「バカ」という言葉を使ってしまった。これがまずかった。当
時(今でもそうだが)、子どもを塾へ四つや五つ行かせている親は珍しくなかった。水泳教室、
音楽教室、算数教室、英語教室と。しかしその話は一夜のうちに、父母全員にいきわたってし
まった。そして「Aさんがバカと言われた」「いや、これはBさんのことだ」となってしまった。結局
この問題は教育委員会レベルの問題にまで発展し、その先生は任期半ばで、その学校を去る
ことになってしまった。

 視野が狭くなればなるほど、結局は自分の姿が見えなくなる。そして自分の姿を見失えば見
失うほど、その人は愚かになる。これも子育てでハマりやすいワナの一つということになる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

あなたのご主人は、どちらの大学ですか?
学歴に興奮する親たち(失敗危険度★★★★)

●おもしろい習性(失礼!)
 親というのは、自分で自分の子どもをバカと呼ぶのは平気だが、しかし他人に言われるのを
許さない。それはそうだが、それと同じように、自分の子どもが評価される場に落とされると、
独特の心理状態になる。動物的な嫉妬心や闘争心が刺激されるらしい。

その一つ、親、とくに母親は、学歴の話になると、興奮状態になる。これは親が共通してもつ習
性(?)ではないか。夫の学歴、自分の学歴、さらに子どもの学歴となると、興奮状態になる。
なぜそうなのかということは、別として、これをうまく利用して、金儲けにつなげている人たちが
いる。いわゆる受験屋と呼ばれる人たちである。

●ある教育機器メーカーの戦略
 ある教育機器メーカーの説明会でのこと。私も興味があったので、招待状をもって、その会
にでかけた。予定では九時三〇分に始まるということだったが、行ってきると、黒板に、「一〇
時から」と書いてあった。そこでしばらく待っていると、うしろのほうからヒソヒソ話が聞こえてき
た。サクラである。主催者の教育機器メーカーが送り込んだサクラである。

耳を傾けると、「あなたのご主人は、どちらの大学ですか?」「あなたのお子さんは、将来、公
立、それとも私立?」と。とたん、会場の中におかしな緊張感が漂い始めた。しかしそれこそま
さに、その会社のねらいである。サクラが、「あの中学はむずかしいそうよ」「進学塾では役に
たたないそうよ」と言い出した……。

●親たちは興奮状態に!
 それに拍車をかけるように、一〇時からの説明会では、まずビデオが映し出された。N研とい
う東京の進学塾が制作したビデオだが、子どもの受験勉強の様子、受験会場に行く様子、受
験しているときの様子、そして合否発表の様子がつぎつぎと映し出された。意味のないビデオ
だが、しかし合否発表のところでは、受験に落ちて、泣き崩れる母親や子どもの姿が、これで
もかこれでもかとつづいた。時間にすれば、約一〇分間程度だったが、会場がますます異様な
雰囲気になるのがわかった。しかしそれこそがまさにその会社のねらいでもあった。

 やがてその会社の教育機器の説明会が始まり、それが終わると同時に、ワンセット二四万
円もする教材が、飛ぶように売れていた。驚いたというより、それはあきれんばかりの光景だっ
た。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

近所に人に息子の制服をみられたくナ〜イ!
見え、メンツ、世間体(失敗危険度★★★★★)

●家庭教育の元凶
 見え、メンツ、それに世間体。どれも同じようなものだが、この三つが家庭教育をゆがめる。
裏を返せば、この三つから解放されたら、家庭教育にまつわるほとんどの悩みは解消する。

まず(1)見え。「このH市では出身高校で人物は評価されます」と、断言した母親がいた。「だ
からどうしてもうちの子はA高校に入ってもらわねば、困ります」と。しかし見えにこだわると、親
も苦しむが、それ以上に、子どもも苦しむ。
 
つぎに(2)メンツ。ある母親は中学校での進学校別懇談会には、「恥ずかしいから」と、一度も
顔を出さなかった。また別の母親は、子どもが高校へ入学してからというもの、毎朝、自動車で
送り迎えしていた。「近所の人に、子どもの制服を見られたくないから」というのが、その理由だ
った。また駅の近くの親戚の家で、毎朝、制服に着がえてから、通学していた子どももいた。
が、こういう姿勢は子どもの自尊心を傷つける。
 
最後に(3)世間体。見えやメンツにこだわる親は、やがて世間体をとりつくろうようになる。「ど
うしてもうちの子どもにはA高校を受験してもらいます」と言った親がいた。私が「無理だと思い
ますが」と言うと、「一応、そういうところを受験して、すべったという形を作っておきたいのです」
と。不登校児になった子どもを、親戚の叔父に預けてしまった親すらいた。こうした親は何とか
「形」だけは整えようとするわけだが、ここから多くの悲喜劇が生まれる。私のような立場の人
間が、「世間は、あなたのことを、そんなに気にしていませんよ」と言っても、ムダ。このタイプの
親は、世界は自分を中心にして回っているかのように錯覚している。あるいは世界中が自分に
注目しているようかのように錯覚している。

●「しかたないので、C中学にしました」
 見えやメンツ、それに世間体を気にするということは、結局は自分を飾るということ。そういう
親には共通点がある。自分の周囲をウソで塗りかためる。たとえば……。

「私はどこの中学でもいいと思っているのですが、息子がどうしてもA中学と言いますので、先
生、息子の願いをかなえてあげてください」と。そこでその息子にそれとなく聞くと、「ぼくはどこ
でもいいけど、ママがそうしてもA中学にしろと言ってうるさい」と。あるいは「学校の先生はB中
学でも合格できると言っているのですが、息子はどうしてもC中学のほうがいいと言って私の言
うことを聞きません。しかたないので、C中学にしました」と。このときも息子に聞くと、「先生がB
中学は無理だと言ったので、C中学にした」と。さらにこんな例もある。
 
Tさん親子の間には、息子が中学生になるころから、会話という会話はほとんどなかった。食
事も別々、廊下ですれ違っても目をそむけあう。どんな会話をしても、すべて一触即発。そんな
関係であるにもかかわらず、Tさん(四五歳女性)は、ことあるごとにその息子が東京のT理科
大学に入学したことを自慢していた。「猛勉強をしてくれたおかげで、T理科大学に入ってくれま
してね」と。Tさんの家の居間には、息子の卒業証書が高々とかかげられている。もちろん息子
はほとんど家には帰っていないのだが……。

●私は私、人は人という人生観
他人の目の中で生きれば生きるほど、結局は「自分」を犠牲にすることになる。が、これほどつ
まらない人生もない。自分の人生をドブへ捨てるようなもの。しかしそれは同時に、他人の目か
ら見ても、それほど見苦しい人生はない。笑うとか笑われるとかいうことになれば、そのほうが
笑われる。皮肉といえば、これほど皮肉なことはない。

この見えやメンツ。それに世間体と闘う方法があるとすれば、それは「私は私、人は人」とい
う、人生観をもつこと以外にない。が、これは容易なことではない。人生観というのはそういうも
ので、一朝一夕には確立できない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

でも、あの子はD小学校ですって!
ブランドにこだわる親たち(失敗危険度★★★)

●テーマはブランド
 参観日のあと、母親たちが校門の内側に立ってワイワイと話し合っている。教育の話かとお
もいきや、そうではなかった。一人の母親がもっていたブランドのバッグについてだった。「どこ
で買ったの?」「わあ、ステキ!」「いくらだった?」「あら、いいわネ〜。私もこんなほしいわ」「あ
ら、あなたのも、ステキじゃない」と。

●人間の思考回路
 人間には思考回路というのがある。人というのは、一度自分の頭の中にその思考回路をつく
ると、その思考回路にそって、ものを考えたり、行動したりするようになる。脳の神経細胞のシ
ナプス(神経細胞の接合部)※が、そのようにできあがったためと私は勝手に考えている。たと
えば暴力団の男たちは、何か問題が起きると、暴力を使ってそれを解決しようとする。私のよ
うなモノ書きは、何か問題がおきると、文を書いてそれを解決しようとする。それが思考回路で
ある。

●ブランドで選ぶ幼稚園
 同じように、ブランドにこだわる親というのは、そのときどきにおいて、ブランドにこだわるよう
になる。そのほうが本人も楽ということもある。で、一度その思考回路ができあがると、その思
考回路からはずれたことをするのは容易なことではない。それはそれとして、このタイプの親
は、子どもの教育でもまた、ブランドを重視する。幼稚園でも、学校でも、ブランドで選ぶなど。
中身ではない。あくまでもブランドだ。それはもう信仰のようなもの。理由など必要ない。ブラン
ドのある幼稚園や学校なら、安心し、そうでなければ不安になる。そしてその返す刀で、(子ど
もの中身が変わったわけではないのに)、それ以外の幼稚園や学校へ通っている子どもを
「下」にみる。「うちの子はA小学校よ。でも、あの子はD小学校ですって」と。

●しかし失敗も多い
 が、いつもいつもうまくいくとは限らない。このタイプの親は、反対に自分の子どもが、その
「下」に落とされると、奇怪な行動をとり始める。毎朝、車で自分の息子を送り迎えしていた母
親がいた。息子の学校の制服を近所の人に見られると恥ずかしいというのが、その理由だっ
た。もう一〇年も前のことだが、毎朝、学校の制服を、駅前の喫茶店で着替えさせていた親す
らいた。プライドをキズつけられると、親はそこまでする。こうした親の心理を理解できないわけ
ではないが、その結末はいつもおかしい。そして悲しい。

※……人の大脳には、一〇〇億の神経細胞があると考えられ、その一個ずつの神経細胞
に、約一〇万個のシナプスがあると考えられている。すると大脳全体で、一〇の一五乗のシナ
プスがあることになり、その数はDNAの遺伝子情報の一〇の九乗〜一〇乗を超えることにな
る(新井康允氏)。人間の思考が、DNAの設計図の外にあることがこれでわかる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

A中学では、うちの子は不幸になります!
占いにこる親たち(失敗危険度★★★★)

●かわいそうな人たち
 占いや運勢にこる人というのは、自分で考えることのできない、かわいそうな人とみてよい。
一見、人間は知的な生き物に見えるが、イヌやサルと、それほど違わない。「思考」ということ
になると、「思考していない人」のほうが、「思考している人」より、はるかに多い。

だいたいにおいて、他人の運命が読み取れるような人が、駅前の路地や喫茶店、さらにはデ
パートの通路などで、若い女性を相手に占いなどするだろか。自分で自分を占い、お金をどん
と儲けて、豪邸で遊んで暮らせばよい。自分で自分を占うことはできないというのなら、仲間の
占い師にみてもらえばよい。ああいったものは、一〇〇%インチキ。そう断言して、まちがいな
い。

●私も預言者?
 ただ私は、数一〇分も子どもと接すると、その子どもの能力や性質、さらには問題点やこれ
から先その子どもがそうなり、どういう問題を引き起こすかが手にとるようにわかる。しかしこれ
は超能力のようなものではなく、経験だ。三〇年も毎日子どもをみていると、そういうことができ
るようになる。しかし私は、たとえわかっていても、それは言わない。親に頼まれても言わない。
万が一、まちがっていたら……という迷いがあるからだ。それに治療法も用意しないで、診断
名だけをくだすのは、良心のある人間のすることではない。が、そういった連中は、平気で、相
手の運命を、あたかも知り尽くしたかのように口にする。

先日もテレビを見ていたら、『浄霊』と称して、若い娘にこう言っていたインチキ霊媒師がいた。
「あなたの体に乗り移っている悪霊は悪質です。ほうっておくと、あなたの命すらあぶない」(〇
二年四月)と。こういうことを平気で口にすることができる人は、人格そのものが崩壊した人と
みてよい。

●子どもの教育も占いで……
 若い女性ならまだしも、母親の中にも、いくらでもいる。そして子どもの教育すら、そういう占
いや運勢に頼っている……! こういう親を前にすると、会話そのものがかみ合わない。

 「先生、A中学と、B中学の件ですが、私は息子をB中学へ入れたいのですが……」
 「どうしてA中学ではだめなのですか? 距離も近いでしょう」
 「それが先週、うちの主人がG神社で占ってもらったら、A中学では、子どもが不幸になるとい
うのです」
 「不幸って?」
 「いじめにあったりして、結局は転校することになるって。そういう結果が出ました」と。
 そういうとき、私の頭の中では、私の思考回路がショートを起こす。バチバチと火花が飛び散
る。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

立派な社会人になれ!
いい学校から、いい家庭へ(失敗危険度★★★★)

●いい家庭を!
 「いい学校」を口にする親はいても、「いい家庭」を口にする親は少ない。「いい学校」を誇る
親はいても、「いい家庭」を誇る親は少ない。日本人は伝統的に、仕事第一主義。学歴第一主
義。もっと言えば出世第一主義。しかしその陰で犠牲にしているものも多い。その一つが、「家
庭」であり「家族」。そのよい例が、単身赴任。私が学生時代には、「短期出張」と言った。商社
のばあい、六か月以内の短期出張は、単身赴任が原則。しかし六か月で短気出張が終わると
はかぎらない。いわゆる出張のハシゴというので、一度外国へ出ると、数年は日本へ帰ってこ
られなかった。

それについて、ある日オーストラリアの教授がこう聞いた。「日本には短期出張について、法的
規制はないのか」と。そこで私が「ない」と答えると、まわりにいた学生までもが、「家族がバラ
バラにされて何が仕事か」と騒いだ。日本の常識は、決して世界の常識ではない。が、こんな
家族もある。

●すばらしい家族
 その娘の一人が、やや重い精神病をわずらった。しかし親は、それをすなおに受け入れた。
そして家族が力を合わせてその娘を支えることにした。娘は学校へは行かなかったが、母親
は娘にあれこれ経験させることだけは忘れなかった。その中の一つが、絵画。娘はその絵画
をとおして、やがてろうけつ染に興味をもつようになった。で、中学二年生のときに、市内で個
展を開くまでになった。こういう家族をすばらしい家族という。

●親子関係を破壊する子育て
 一方、こんな親は多い。子どもの受験勉強で無理に無理を重ねて、親子関係そのものを破
壊してしまうような親だ。その日のノルマがやっていないと、その父親は、子どもを真夜中でも
ふとんの中から引きずり出してそれをさせていた。私が「何もそこまで……」と言うと、その親は
こう言った。「いえ、私は嫌われてもかまいません。息子さえいい中学へ入ってくれれば。息子
もそれで私を許してくれるでしょう」と。

このタイプの親の頭の中には、「いい家族」はない。脳のCPU(中央演算装置)そのものがズレ
ているから、私のような意見そのものが理解できない。それはちょうど映画『マトリックス』に出
てくるような世界のようなもの。現実と仮想世界が入れかわり、仮想世界に住みながら、そこが
仮想世界だとすら気がつかない。本来大切にすべきものを粗末にし、本来大切でないものを
大切だと思い込んでしまう。

●友だちの数が財産
 少し前、アメリカ人の友人だが、私にこう言った。「ヒロシ、一番大切なのは、友だちだよ。友
だちの数こそが財産だよ」と。彼のこの言葉を借りるなら、「一番大切なのは、家族だよ。家族
のきずなこそ財産だよ」ということになる。

欧米が何でもよいわけではないが、欧米と日本とでは、家族に対する考え方そのものが違う。
たとえばオーストラリアでは、学校の先生も親も、子どもには、「よき家庭人になれ」と教える。
「よい市民になれ」と言うときもある。カナダでもアメリカでもそうだ。フランスでもドイツでもそう
だ。しかしこの日本では、「社会で役にたつ人」、あるいは「立派な社会人」が教育の柱になって
いる。「社会」という言葉は、「全体」という言葉の代名詞と考えてよい。この違いが積もりに積も
って、日本の単身赴任になり、それに驚いたオーストラリアの学生になった。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

うちの子は、まだ何とかなる!
あきらめは悟りの境地(失敗危険度★★★)

●子育てはあきらめの連続
 親の欲望には際限がない。子どもができなければできないで悩むが、少しでもできるようにな
ると、「もっと……」と考える。たとえば中学への進学。「せめてC中学、それが無理ならD中学」
と言っていた親でも、子どもがC中学へ入れそうだとわかってくると、今度は「B中学」と言い出
す。しかしこういう親はまだラッキーなほうだ。中には、D中学、E中学と、どんどんと志望校をさ
げていかなければならないときがある。しかし一度こういう状態になると、あとは何をしても空回
り。親があせればあせるほど、子どもの力は落ちていく。「そんなはずはない」「まだ何とかな
る」とがんばればがんばるほど、子育ては袋小路に入る。そしてやがてにっちもさっちもいかな
くなる。

要するにどこであきらめるかだが、受験にかぎらず、子育てをしていて、あきらめることを恐れ
てはいけない。子育てはまさに、あきらめの連続。またあきらめることにより、その先に道が開
ける。しかもその時期は早ければ早いほどよい。もともと子育てというのはそういうもの。

●自分で失敗するしかない
 ……と言っても、これは簡単なことではない。どの親も、自分で失敗(失敗という言葉を使うの
は適切でないかもしれないが)とはっきりとわかるまで、自分が失敗するとは思っていない。「う
ちの子にかぎって」「私はだいじょうぶ」という思いの中で、行きつくところまで行く。また行きつく
ところまで行かないと気がつかない。

子どもの限界にできるだけはやく気づくこと。それがわかれば親も納得し、その段階であきら
める。そこで一つの方法だが、子どもに何か問題が生じたら、「自分ならどうか」「自分ならでき
るか」「自分ならどうするか」という視点で考える。あるいは「自分が子どものときはどうだった
か」と考えるのもよい。子どもの中に自分を置いて、その問題を考える。たとえば子どもに向か
って、「勉強しなさい」と言ったら、すかさず、「自分ならできるか」「自分ならできたか」と考える。
それでもわからなければ、こういうふうに考えてみる。

●あなたなら耐えられるか?
 もしあなたが妻として、つぎのように評価されたら、あなたはそれに耐えられるだろうか。「あ
なたの料理のし方、七六点。接客態度、五四点。家計簿のつけ方、八〇点。主婦としての偏差
値四五点。あなたにふさわしい夫は、○○大学卒業程度の、収入四○○万円程度の男」と。ま
たそういうあなたを見て、あなたの夫が、「もっと勉強しろ!」「何だ、この点数は!」とあなたを
叱ったら、あなたはそれに一体どう答えるだろうか。子どもが置かれた立場というのは、それに
近い。

●親は身勝手?
 親というのは身勝手なものだ。子どもに向かって「本を読め」という親は多くても、自分で本を
読んでいる親は少ない。子どもに向かって「勉強しろ」という親は多くても、自分で勉強する親
は少ない。そういう身勝手さを感じたら、あきらめる。そしてここが子育ての不思議なところだ
が、親があきらめたとたん、子どもに笑顔がもどる。親子のきずながその時点からまた太くなり
始める。もし今、あなたの子育てが袋小路に入っているなら、一度、勇気を出して、あきらめて
みてほしい。それで道は開ける。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

字がヘタだから、書道に!
悪筆、言ってなおらず(失敗危険度★)

●年長児でわかる悪筆
 年長児くらいになると、子どもの悪筆が目立ってくる。小学校へ入ると、さらにそれがはっきり
とわかるようになる。手の運筆能力が固定化してくるためと考えられる。その運筆能力は、子
どもに丸(○)を描かせてみるとわかる。運筆能力のある子どもは、きれいな、つまりスムーズ
な丸を描くことができる。そうでない子どもは、多角形に近いぎこちない丸を描く。

ちなみに縦線を描くときと横線を描くときは、指、手、手首の動きは基本的に違う。違うことは
一度、自分で縦線と横線を描き、それらがどう変化するかを観察してみるとわかる。さらに丸を
描くときは、これからがきわめて複雑な動きをするのがわかる。つまりきれいな丸を描くという
のは、それだけたいへんということ。

●書道教室へ行けばうまくなる?
 悪筆が目立ってくると、親はすぐ、「書道教室へ」と考えるが、これは誤解。運筆能力のない
子どもでも、書道をならわせると、見た目にはきれいな文字を書くようになる。が、今度は時間
ばかりかかるようになる。学校の授業でも、先生が黒板に文字を書く速さについていけないな
ど。以前、M君(小二)という男の子がいた。文字はきれいだが、とにかく遅い。皆が書き終わ
っても、まだノロノロと書いている。そこである日、私はきつく注意した。「はやく書きなさい!」
と。とたんM君ははやく書くようになったが、私はその文字を見て驚いた。文字がめちゃめちゃ
なんていうものではなかった。しかしそれがM君の本来の文字だったのだ。

●運筆能力はぬり絵で
 運筆能力を養うためには、ぬり絵がよい。ぬり絵をしながら、子どもは運筆能力を養う。ぬり
絵をしながら子どもは、こまかい四角や丸い部分を、いろいろな線を使って塗りつぶそうとす
る。そうなればしめたもの。(ぬり絵になれていない子どもは、横線なら横線ばかりで色を塗ろ
うとするから、線があちこち飛び出したりする。)文字の学習に先立って、子どもにはぬり絵をさ
せる。あとあと文字がきれいに書けるようになる。

 なおクレヨンと鉛筆のもち方は基本的に違う。クレヨンは三本の指でつかむようにしてもつ。
鉛筆は、親指と人さし指でつかみ、中指でうしろから支えるようにしてもつ。(だからといってそ
れが正しいもち方と決めてかかってもいけないが……。)鉛筆を使い始めたら、一度正しいもち
方を教えるとよい。ちなみに年長児で、鉛筆を正しくもてる子どもは約五〇%。クレヨンをもつ
ようにしてもつ子どもが、三〇%。残りの二〇%は、きわめて変則的なもち方をするのがわか
っている(筆者調査)。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

ああ、運動をつづけてよかった
ふつうこそ最善(失敗危険度★★★)

●なくしてから気づく
 ふつうであることにはすばらしい価値が隠されている。賢明な人はその価値をなくす前に気づ
き、そうでない人はそれをなくしてはじめて気づく。健康しかり、家族しかり、そして子どものよさ
もまたしかり。

 私は三人の息子のうち、二人をあやうく海でなくしかけたことがある。とくに二男が助かったの
は奇跡中の奇跡。そういうことがあったためか、それ以後、二男の育て方がほかの二人とは
変わってしまった。二男に何か問題が起きるたびに、私は「ああ、こいつは生きているだけでい
い」と思いなおすようになった。たとえば二男はひどい花粉症で、毎年その時期になると、不登
校を繰り返した。中学二年生のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。しかしそのつ
ど、「生きているだけでいい」と思いなおすことで、私は乗り越えることができた。

●子どもは下から見ろ
 子どもに何か問題が起きたら、子どもは下から見る。「下(欠点)を見ろ」というのではない。
「生きている」という原点から見る。が、そういう視点で見ると、あらゆる問題が解決するから不
思議である。またそれで解決しない問題はない。

 ……と書いて余談だが、最近読んだ雑誌の中に、こんな印象に残った話があった。その男性
(五〇歳)は長い間、腎不全と闘っていたが、腎臓移植手術を受け、ふつうの人と同じように小
便をすることができるようになった。そのときのこと。その人は自分の小便が太陽の光を受け、
黄金色に輝いているのを見て、思わずその小便を手で受けとめたという。私は幸運にも、生ま
れてこのかたただの一度も病院のベッドで寝たことがない。ないが、その人のそのときの気持
ちがよく理解できる。いや、最近になってこんなふうに考えるようになった。

●健康であることの喜び
 私はこの三〇年間、往復約一時間の道のりを、自転車通勤をしている。ひどい雨の日以外
は、どんなに風が強くても、またどんなに寒くても、それを欠かしたことがない。しかし三〇年も
していると、運動をしていない人とは大きな差となって表れる。たとえば今、同年齢の多くの友
人たちは何らかの成人病をかかえ、四苦八苦している。しかし私はそうした成人病とは無縁
だ。そういう無縁さが、ある種の喜びとなってかえってくる。「ああ、運動をつづけてよかった」
と。その喜びは、小便を手で受けとめた人と、どこか共通しているのではないか。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
私は子育てで失敗しました。どうしたらいいか?
それ以上、何を望むか(失敗危険度★★)

●子育てで失敗した
 法句経(ほっくぎょう)にこんな説話がある。あるとき一人の男が釈迦のところへ来て、こう言
う。「釈迦よ、私は死ぬのがこわい。どうしたらこの恐怖から逃れることができるか」と。それに
答えて釈迦はこう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」
と。

 これまで多くの親たちが、こう言った。「私は子育てで失敗しました。どうしたらいいか」と。そう
いう親に出会うたびに、私は心の中でこう思う。「今まで子育てをじゅうぶん楽しんだではない
か。それ以上、何を望むのか」と。

●母親とのきずなが虐待の原因?
 子育てはたいへんだ。こんな報告もある。東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏に調査
によると、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が何ら
かの形で虐待しているという。「愛情面で自分の母親とのきずなが弱かった母親ほど、虐待に
走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。

七%という数字が大きいか小さいか、評価の分かれるところだが、しかし子育てというのは、そ
れ自体大きな苦労をともなうものであることには違いない。言いかえると楽な子育てというの
は、そもそもない。またそういう前提で考えるほうが正しい。いや、中には子どものできがよく、
「子育てがこんなに楽でいいものか」と思っている人もいる。しかしそういう人は、きわめてマレ
だ。

●子育てが人生を豊かに
 ……と書きながら、一方で、私はこう思う。もし私に子どもがいなければ、私の人生は何とつ
まらないものであったか、と。人生はドラマであり、そのドラマに価値があるとするなら、子ども
は私という親に、まさにそのドラマを提供してくれた。たとえば子どものほしそうなものを手に入
れたとき、私は子どもたちの喜ぶ顔が早く見たくて、家路を急いだことが何度かある。もちろん
悲しいことも苦しいこともあったが、それはそれとして、子どもたちは私に生きる目標を与えてく
れた。もし私の家族が私と女房だけだったら、私はこうまでがんばらなかっただろう。その証拠
に、息子たちがほとんど巣立ってしまった今、人生そのものが終わってしまったかのようなさみ
しさを覚える。あるいはそれまで考えたこともなかった「老後」が、どんとやってくる。今でもいろ
いろ問題はあるが、しかしさらに別の心で、子どもたちに感謝しているのも事実だ。「お前たち
のおかげで、私の人生は楽しかったよ」と。

 ……だから、子育てに失敗などない。絶対にない。今まで楽しかったことだけを考えて、前に
進めばよい。
 

はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

いつになったら、できるの! 
己こそ、己のよるべ(失敗危険度★★★)

●自由とは、「己による」こと
 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経
というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、
自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせ
よ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。

●考えさせない過干渉ママ
 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。私、
子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」、母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。
おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」、私、再び、子どもに向かって、「楽し
かったかな」、母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いな
さい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫
と、今でいう「できちゃった婚」をした。どこか不本意な結婚だった。だから子どもが何か失敗す
るたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱ってい
た。

●行動させない過保護ママ
 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で
の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護のもとだけで子育てをするな
ど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもにな
る。外へ出すと、「すぐ風邪をひく」。

●責任をとらせない溺愛ママ
 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親は、「子ども(小六男児)が合宿訓練に
でかけた夜、涙がポロポロと出て眠れなかった」と言った。私が「どうしてですか?」と聞くと、こ
う言った。「あの子は私がいないと何もできない子です。みんなにいじめられているのではない
かと思うと、かわいそうで、かわいそうで……」と。また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害
事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪い
と言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、
ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

口がうまい親ほど、要注意!
あせる親は結論も早い(失敗危険度★★★)

●口がうまい親ほど……?
 あるおけいこ塾の講師が、こんなことを言った。「親の中でもワーワーと騒いで入会してくる親
ほど、要注意。そういう親ほど、やめ方がきたない」と。たとえば「先生の教え方はすばらしい。
うちの子がおとなになるまで、お世話になりますと言う親ほど、ある日突然、ハイ、さようならと
やめていく」と。別の塾の教師も、同じようなことを言っていた。「口がうまい親ほど、気をつけて
いる」と。「どうしてですか?」と聞くと、「口のうまい親は、やめたとたん、今度は悪口をあちこち
で言い始める」と。

私にも、つきあいたい親と、そうでない親がいる。そのキーポイントとなるのが、やはり信頼関
係。この信頼関係があれば、つきあっていても心地よいが、そうでなければそうでない。もっと
も私のばあいは、その信頼関係が切れたとき、それは同時に互いの別れということになる。
が、学校の先生はそうはいかない。中にはその母親からの電話がかかってきただけで、体中
が震えると言う先生もいる。

●教育は人間関係
 ……と書きながら、これ以上書くと、親の悪口になるので、書けない。私の世界では、親はい
つもスポンサーであり、また私のよき理解者である。いわばお客さんのようなもの。そういうお
客さんに向かって、「こういう客はよい客だ。こういう客は悪い客だ」と書いていたら、仕事(商
売)にならない。しかしこれだけは言える。

 教育がふつうの商売と違うところは、そこに太い人間関係ができること。ものの売り買いとは
違う。自動車学校や予備校の指導とも違う。子どもに与える影響は、きわめて大きい。だから
教育を商売と同じように考えることはできない。そこでいくつかのポイントがある。これは親側
からみたポイントということになる。

●先生とつきあうポイント

(1)先生とつきあうときは如水淡交……子どもの教育だけにかかわり、プライベートなことは、
避ける。よく誤解されるが、プライベートなつきあいをしたからといって、信頼関係が深まるとい
うことは、ない。

(2)過剰な期待はしない……教師を聖職者だと思っている人は多い。神様のように思っている
人もいる。そしてそれに甘える形で、やりたい放題のことをする人がいる。しかし先生が聖職者
と思うのはまったくの誤解。子どもを相手に仕事をしているという点をのぞけば、あなたやあな
たの夫と、どこも違いはしない。とくに人間性がすぐれているということもない。怒るときには怒
る。不愉快に思うときは思う。そういう前提で、つまり同じ人間という前提でつきあう。

(3)別れ際を大切に……人間関係は、すべてその別れ際の美学で決まる。出会い以上に、別
れ際を美しくする。美しい別れ方をするということは、つぎの新しい出会いをまた美しくするとい
うことにもなる。教師というのは因果な商売で、その人との出会い方をみると、その別れ方まで
おおよその見当がつくようになる。「ああ、この人は別れ方がきたないぞ」と。しかしそう思った
とたん、信頼関係は半減する。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

あんたの教え方ヘタだって、ママが言っていたよ!
先生の悪口は言わない(失敗危険度★★★)

●良好な人間関係が基本
 教育もつきつめれば人間関係。それで決まる。教師と生徒との良好な人間関係が、よい教
育の基本。この基本なくして、よい教育は望めない。そこで大原則。「子どもの前では、先生の
悪口は言わない」。先生を批判したり、あるいは子どもが先生の悪口を言ったときも、それに
相槌(づち)を打ってはいけない。打てば打ったで、今度は、「あなたが言った言葉」として、そ
れは先生の耳に入る。必ず、入る。子どもというのはそういうもので、先生の前では決して隠し
ごとができない。親よりも、園や学校の先生と接している時間のほうが長い。また先生も、この
種の会話には敏感に反応する。

●先生も人間
 一方、先生もまた生身の人間。中には聖人のように思っている人もいるかもしれないが、そう
いうことを期待するほうがおかしい。子どもと接する時間が長いというだけで、先生とてこの文
を読んでいるあなたと、どこも違わない。そこでこう考えてみてほしい。もしあなたが教師で、生
徒にこう言われたとする。「あんたの教え方ヘタだって、ママが言っていたよ」と。そのときあな
たはそれを笑って無視できるだろうか。中には、「あんたの教え方ヘタだから、今度校長先生
に言って、先生をかえてもらうとママが言っていた」と言う子どもさえいる。あなたは生徒のそう
いう言葉に耐えられるだろうか。

●学校の問題は、先生がいないところ
 教育というのは、手をかけようと思えば、どこまでもかけられる。しかし手を抜こうと思うえば、
いくらでも抜ける。ここが教育のこわいところでもあるが、それを決めるのが、冒頭にあげた
「人間関係」ということになる。実際、やる気を決めるのは、教師自身ではなく、この人間関係で
ある。それを一方で破壊しておいて、「よい教育をせよ」はない。が、それだけではすまない。

●結局は子どもの損に
 あなたが先生の悪口を言ったり、先生を批判したりすると、子ども自身もまた先生に従わなく
なる。一度そうなるとそれが悪循環となって、(損とか得とかいう言い方は好きではないが…
…)、結局は子ども自身が損をすることになる。仮に先生に問題があるとしても、子どもの耳に
入らないところで、問題を処理する。子どもが先生の悪口を言ったとしても、「あなたが悪いか
らでしょ」と言ってのける。これも大原則の一つである。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

学ぶものは山に登るごとし
知識と学力(失敗危険度★★★)

●知識と学力は別
 もの知りの人が、賢い人ということにはならない。知識と学力は本来別のものであり、これを
混同すると、教育そのものが混乱する。たとえば幼稚園児が掛け算の九九をペラペラと口にし
たとしても、その子どもが賢い子どもということにはならない。いわんや算数ができるとか、頭
のよい子ということにもならない。が、もしその子どもが、「車が三台では、そのタイヤの数は一
二」と、即座に計算できれば、算数のできる子どもということになる。その計算方法を自分で考
えだしたとしたら、さらに頭のよい子ということになる。

●知識教育が教育?
 ところがこの日本では、子どもに知識をつけさせることが教育だと思い込んでいる人が多い。
教育の体系そのものがそうなっている。たとえば学校でも、「わかったか」「覚えたか」「ではつ
ぎ……」という教え方が基本になっている。アメリカやオーストラリアでは、「どう思う?」「それは
いい考えだ」という教え方が基本になっている。また入試内容にしても、学力をためすというよ
りは、知識をためすものになっている。いろいろな改善策がこころみられてはいるが、基本的
にはこの構図は明治以来、変わっていない。

その結果というか、今でこそやや少なくなったが、三〇年前にはどこの進学高校にも、いわゆ
る頭のおかしい「勉強バカ」というのがいた。勉強しかしない、勉強しかできない、頭の中は成
績の数字だけという子どもである。しかしそういう子どもほど、スイスイと一流大学の一流学部
(「一流」という言い方は本当にいやだが……)へ進学していった。私は進学塾の講師をしなが
ら、そのときはそのときで、「こんなことでいいのか」と、少なからず疑問に思ったことがある。

●学ぶことは苦しい
 では、学力とは何か。また学力はどうやって養えばよいのか。実はその答はあなた自身が一
番よく知っている。あなたが今、三五歳なら三五歳でよい。あなたは二〇歳のときから今まで
の一五年間で、何かを自ら学ぼうとしたか。あるいは学んだか。何かを発見したとか、何かを
新たにできるようになったとか、そういうことでもよい。

そのとき「知識」は除外する。知識は学力ではない。するとたいていの人は、何もないことに気
づくはず。もともと学ぶということにはある種の苦痛がともなう。美濃部達吉も「語録」の中で、
「学ぶ者は山に登るごとし」と書いている。「学ぶということは楽ではない」と。だからたいていの
人は学ぶことを、自ら避けようとする。私やあなたとて例外ではない。学力とはそういうもので
あり、また学力を養うということはそういう苦痛との戦いでもある。つまりそれだけたいへんだと
いうこと。教育のテーマそのものと言ってもよい。ここでもう一度、あなたにとって子どもの教育
とは何か、それをじっくりと考えてみてほしい。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

私こそ親のカガミ!
代償的過保護(失敗危険度★★★★★)

●代償的過保護
 本来、過保護というのは親の愛がその背景にある。その愛があり、何かの心配ごとが引き金
となって、親は子どもを過保護にするようになる。しかしその愛がなく、子どもを自分の支配下
において、自分の思いどおりにしたいという過保護を、代償的過保護という。いわば自分の心
のスキ間をうめるための、過保護もどきの過保護。親のエゴにもとづいた、自分勝手な過保護
と思えばよい。

 代償的過保護の特徴は、(1)親としての支配意識が強く、(2)子どもを自分の思いどおりに
したいという欲望が強い。そのため(3)心配過剰、過干渉、過関心になりやすい。(4)子どもを
人間というよりは、モノとして見る目が強く、子どもが自立して自分から離れていくのを望まない
などがある。そしてそういう愛を、理想的な愛と誤解することが多い。「私こそ、親のカガミ」と言
った母親すらいた。

●子どもを自分の支配下に
このタイプの親は、一見子どもを愛しているように見えるが、(また親自身もそう思い込んでい
るケースが多いが)、その実、子どもを愛するということがどういうことか、わかっていない。わ
からないまま、さまざまな手を使って、子どもを自分の支配下に置こうとする。もともとはわがま
まな性格の人とみてよいが、それゆえにものの考え方がどうしても自己中心的になる。「私は
絶対正しい」と思うのはその人の勝手だが、その返す刀で、相手を否定したり、人の話に耳を
傾けなくなる。がんこになることも多い。

●お前には学費が三〇〇〇万円かかった!
ある父親は、息子が家を飛び出し、会社へ就職したとき、その会社の社長に電話を入れ、強
引にその会社をやめさせてしまった。またある母親は、息子の結婚にことごとく反対し、そのつ
ど結婚話をすべて破談にしてしまった。息子を生涯、ほとんど家の外へ出さなかった母親もい
るし、お金で息子をしばった父親もいる。「お前には学費が三〇〇〇万円かかったから、それ
を返すまで家を出るな」と。

結果的にそうなったとも言えるが、宗教を利用して子どもをしばった親もいた。ことあるごとに、
「親を粗末にすると、バチが当たるぞ」と教えている親もいる。そうでない親には信じられないよ
うな話だが、実際にはそういう親も少なくない。ひょっとしたら、あなたの周囲にもこのタイプの
親がいるかもしれない。いや、あなたという親にも、いろいろな面があり、その中の一部に、こ
の代償的過保護的な部分があるかもしれない。もしそうならそうで、あなたの中のどの部分が
代償的過保護であり、あるいはどこから先がそうでないかを、冷静に判断してみるとよい。

●自分に気づくだけでよい
この問題は、どこが代償的過保護的であるかに気がつくだけで、問題のほとんどは解決したと
みる。ほとんどの親は、それに気づかないまま、代償的過保護を繰り返す。そしてその結果と
して、親子の間を大きく断絶させたり、反対に子ども自立できないひ弱な子どもにしたりする。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

うちの子は生まれつきそうです!
勉強が苦手な子ども(失敗危険度★★★★★)

●勉強が苦手な子ども
 勉強が苦手な子どもといっても、一様ではない。まず第一に、学習能力そのものが劣ってい
る子どもがいる。専門的には、多動型(動きがはげしい)、愚鈍型(ぼんやりしている)、発育不
良型(知的な発育そのものが遅れている)などに分けて考える。最近よく話題になる子どもに、
学習障害児(LD児)という子どももいる。教えても覚えない。覚えてもすぐ忘れる。覚えても応
用がきかない。集中力がつづかず、教えたことがたいへん浅い段階で止まってしまう、など。

●症状をこじらせない
 しかし実際に問題なのは、能力そのものに問題があるというよりは、たとえば私のようなもの
のところに相談があったときには、すでに手がつけられないほど、症状がこじれてしまっている
ということ。たいていは無理な学習や強制的な学習が日常化していて、学習するということその
ものに、嫌悪感を覚えたり、拒否的になったりしている。中には完全に自身喪失の状態になっ
ている子どももいる。

原因は親にあるが、親自身にその自覚がないことが、ますます指導を困難にする。どの親も、
「自分は子どものために正しいことをしただけ」と思っている。中には私がそれを指摘すると、
「うちの子は生まれつきそうです!」と反論する親さえいる。(生まれた直後から、それがわかる
人などいない!)

●コースからはずれたらダメ人間?
 ……と書きながら、日本の教育はどこかゆがんでいる。日本の教育にはコースというのがあ
って、親たちは自分の子どもがそのコースからはずれることを、異常なまでに恐れる。(「異常」
というのは、国際的な基準からしてという意味。)こういうばあいでも、本来なら子どもの能力に
あわせて、子どものレベルで教育を進めるのが一番よいのだが、日本ではそれができない。ス
ポーツが得意な子どももいれば、そうでない子どももいる。勉強についても、得意な子どもがい
る一方、不得意な子どもがいる。いてもおかしくないのだが、日本ではそういうものの考え方が
できない。勉強ができないことは悪いことだと決めてかかる。このことが、本来何でもないはず
の問題を、深刻な問題にしてしまう。それだけならまだしも、子どもに「ダメ人間」のレッテルを
はってしまう。考えてみれば、おかしなことだが、そのおかしさがわからないほどまで、日本の
子育てはゆがんでいる。

●落第を喜ぶアメリカの親たち
……という問題が、勉強が苦手な子どもの問題にはいつもついて回る。だからといって、勉強
などできなくてもよいと書くのは暴論だが、子どもの勉強は子どもの視点で考える。たとえばア
メリカでは、学校の先生が親に、子どもの落第を勧めると、親はそれに喜んで従う。「喜んで」
だ。ウソでも誇張でもない。事実だ。子どもの成績がさがったりすると、親のほうから落第を頼
みにいくケースも多い。アメリカの親は、「そのほうが子どものためになる」と考える。しかし日
本ではそうはいかない。そうはいかないところに、日本の子育ての問題がある。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

やる、やらないも能力のうち
馬に水を飲ますことはできない(失敗危険度★★)

●無理に水を飲ますことはできない
 イギリスの格言に、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ますことはできない』という
のがある。要するに最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題であって、親の問
題ではないということ。いわんや教師の問題でもない。大脳生理学の分野でも、つぎのように
説明されている。

●動機づけを決める帯状回?
 大脳半球の中心部に、間脳とか脳梁とか呼ばれている部分がある。それらを包み込んでい
るのが、大脳辺縁系といわれるところだが、ただの「包み」ではない。認知記憶をつかさどる海
馬もこの中にあるが、ほかに価値判断をする扁桃体、さらに動機づけを決める帯状回という組
織がある。つまり「やる気」のあるなしも、大脳生理学の分野では、大脳の活動のひとつとして
説明されている。(もともと辺縁系は、脳の中でも古い部分であり、従来は生命維持と種族維
持などを維持するための機関と考えられていた。しかし最近の研究では、それぞれにも独立し
た働きがあることがわかってきた(伊藤正男氏ほか)。)

●やる気が思考力を決める
 思考をつかさどるのは、大脳皮質の連合野。しかも高度な知的な思考は新皮質(大脳新皮
質の新新皮質)の中のみで行われるというのが、一般的な考え方だが、それは「必ずしも的確
ではない」(新井康允氏)ということになる。脳というのは、あらゆる部分がそれぞれに仕事を分
担しながら、有機的に機能している。いくら大脳皮質の連合野がすぐれていても、やる気が起
こらなかったら、その機能は十分な結果は得られない。つまり『水を飲む気のない馬に、水を
飲ませることはできない』のである。

●乗り気にさせるのが伸ばすコツ
 新井氏の説にもう少し耳を傾けてみよう。新井氏はこう書いている。「考えるにしても、一生懸
命で、乗り気で考えるばあいと、いやいや考えるばあいとでは、自ずと結果が違うでしょうし、結
果がよければさらに乗り気になるというように、動機づけが大切であり、これを行っているのが
帯状回なのです」(日本実業出版社「脳のしくみ」)と。
 親はよく「うちの子はやればできるはず」と言う。それはそうだが、伊藤氏らの説によれば、し
かしそのやる気も、能力のうちということになる。能力を引き出すということは、そういう意味
で、やる気の問題ということにもなる。やる気があれば、「できる」。やる気がなければ、「できな
い」。それだけのことかもしれない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

子どものうしろを歩くとイライラする!
子育てじょうずな親(失敗危険度★★★)

●子どものリズムをつかめ
 子どもには子どものリズムがある。そのリズムをいかにつかむかで、「子育てがじょうずな親」
「子育てがへたな親」が決まる。子育てじょうずな親というのは、いわゆる子育てがうまい親を
いう。子どもの能力をじょうずに引き出し、子どもを前向きに伸ばしていく親をいう。

 結果は、子どもをみればわかる。子育てじょうずな親に育てられた子どもは、明るく屈託がな
い。心のゆがみ(ひねくれ症状、ひがみ症状、つっぱり症状など)がない。また心と表情が一致
していて、すなおな感情表現ができる。うれしいときは、うれしそうな顔を満面に浮かべるなど。

●子育てじょうずな親
 子育てじょうずな親は、いつも子どものリズムで子育てをする。無理をしない。強制もしない。
子どものもつリズムに合わせながら、そのリズムで生活する。そのひとつの診断法として、子ど
もと一緒に歌を歌ってみるという方法がある。子どものリズムで生活している人は、子どもと歌
を歌いながらも、それを楽しむことができる。子どもと歌いながら、つぎつぎといろいろな歌を歌
う。しかしそうでない親は、子どもと歌いながら、それをまだるっこく感じたり、めんどうに感じた
りする。あるいは親の好きな歌を押しつけたりして、一緒に歌うことができない。

●リズムは妊娠したときから始まる
 そもそもこのリズムというのは、親が子どもを妊娠したときから始まる。そのリズムが姿や形
を変えて、そのつどあらわれる。ここでは歌を例にあげたが、歌だけではない。生活全般がそ
ういうリズムで動く。そこでもしあなたが子どもとの間でリズムの乱れを感じたら、今日からでも
遅くないから、子どもと歩くときは、子どもの横か、できればうしろを歩く。

リズムのあっていない親ほど、心のどこかでイライラするかもしれないが、しかし子どもを伸ば
すためと思い、がまんする。数か月、あるいは一年のうちには、あなたと子どものリズムが合う
ようになってくる。子どもがあなたのリズムに合わせることはできない。だからあなたが子ども
のリズムに合わせるしかない。そういうことができる親を、子育てがじょうずな親という。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

子どものことは私が一番よく知っている!
子どもの横を歩く(失敗危険度★★★★)

●親意識
 親意識の強い人は、「子どものことは私が一番よく知っている」と、何でもかんでも親が決め
てしまう。子どもの意思など、まったくの無視。たとえばおけいこごとを始めるときも、またやめ
るときもそうだ。「来月から、○○音楽教室へ行きますからね」「来月から、今の教室をやめて、
△△教室へ行きますからね」と。子どもは親の意向に振りまわされるだけ。

●妊娠したときから始まる
 こうした子育てのリズムは、親が子どもを妊娠したときから始まる。ある母親は胎教と称し
て、毎日おなかの子どもに、クラッシックや英会話のテープを聞かせていた。また別の母親は、
時計とにらめっこをしながら、その時刻になると赤ちゃんがほしがらなくても、ミルクを赤ちゃん
の口につっこんでいた。さらにこんな会話をしたこともある。ある日一人の母親が私のところに
きて、こう言った。

 「先生、うちの子(小三男児)を、夏休みの間、サマーキャンプに入れようと思うのですが、どう
でしょうか?」と。その子は、ハキのない子どもだった。母親はそれを気にしていた。そこで私が
「お子さんは行きたがっているのですか?」と聞くと、「それが行きたがらないので、困っている
のです」と。こうしたリズムは、一事が万事。そこでこんなテスト。

●子どもの横を歩く
 あなたの子どもがまだヨチヨチ歩きをしていたころ、(1)あなたは子どもの前を、子どもの手
を引きながら、ぐいぐいと歩いていただろうか。それとも(2)子どものうしろや横に回りながら、
子どものリズムで歩いていただろうか。(2)のようであれば、よし。しかしもし(1)のようであれ
ば、そのときから、あなたとあなたの子どものリズムは乱れていたとみる。今も乱れている。そ
してやがてあなたは子どもとこんな会話をするようになる。

 母、「あんたは、だれのおかげでピアノを弾けるようになったか、それがわかっているの。お
母さんが毎週、高い月謝を払って、あなたを音楽教室へ連れていってあげたからよ」、子、「い
つ、だれが、お前にそんなことをしてくれと頼んだア!」と。

 そうならないためにも、子どもとリズムを合わせる。(子どもはあなたにリズムを合わせること
はできないので。)今日からでも遅くないから、子どもの横かうしろを歩く。たったそれだけのこ
とだが、あなたはすばらしい親子関係を築くことができる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

知識や知恵を身につけさせるのが教育?
早期教育と先取り教育(失敗危険度★★★)

●子育てはリズム
 よく誤解されるが、早期教育が悪いのではない。要は「やり方」の問題。たとえば極端な例と
して、胎教がある。まだおなかの中にいる赤ちゃんに、何らかの教育をほどこすというのが胎
教だが、胎教そのものよりも、問題とすべきは、そうした母親の姿勢そのもの。まだ子どもが望
みもしないうちから(望むわけがないが……)、親が勝手に教育を始める。子どもの意思など、
まったく無視。こういうリズムは一度できると、それがずっと子育てのリズムになってしまう。そ
れが悪い。まだ子どもが興味をもたないうちから、ほら数だ、ほら文字だとやりだす。最近はや
っている英会話もそうだ。こうしたやり方は、子どもに害になることはあっても、プラスになること
は何もない。

●幼稚園児に英語の文法?
 またたいていの親は、小学校でするような勉強を、先取りして教えるのを早期教育と誤解して
いる。年中児に漢字を教えたり、英語の文法を覚えさせたりするなど。「アイは、自分のことだ
から、一人称。わかる? ユーは相手のことだから、二人称。わかる?」と。

もっとも漢字をテーマにすることは悪いことではない。漢字を複雑な図形ととらえると、漢字は
おもしろいテーマだ。それを使った応用はいくらでもできる。私もよく子どもたちの前で、漢字を
見せるが、漢字を教えるのではなく、漢字のおもしろさを教える。たとえば「牛」「馬」という漢字
をみせて、牛の絵や馬の絵を描かせたりするなど。

ここに先取り教育と、早期教育の違いがある。ただこの日本では、「知識や知恵を身につけさ
せるのが教育」ということになっている。そして早期教育とは、知識や知恵をつけさせることだと
多くの親は思っている。これは誤解というよりも、偏見と言ったほうが正しいかもしれない。

●人間の方向性を決めるのが幼児教育
 幼児教育が大学教育より重要であり、奥が深いことは、私にはわかる。それを認めるかどう
かは、幼児教育への理解の深さにもよる。たいていの人は、幼児イコール幼稚、さらに幼稚な
教育をするのが、幼児教育と思い込んでいる。しかしこれは誤解である。……というようなこと
を書いてもしかたないが、その幼児教育をすることは、これは早期教育でも、先取り教育でも
ない。この時期、人間の方向性が決まる。その方向性を決めるのが、幼児教育ということにな
る。その幼児教育が必要か必要でないかということになれば、そういった議論をすること自体、
バカげている。

 こみいった話になったが、幼児の教育を考えるときは、早期教育、先取り教育、それに幼児
教育の三つは、分けて考えるとよい。混同すればするほど、子どもの教育が見えなくなる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

ほら、英語教室、ほら、算数教室!
知識と「考えること(思考)」は別(失敗危険度★★)

●知識と思考は別
 たいていの親は、知識と思考を混同している。「よく知っている」ことを、「頭のよい子」イコー
ル、「よくできる子」と考える。しかしこれは誤解。まったくの誤解。たとえば幼稚園児でも、掛け
算の九九をペラペラと言う子どもがいる。しかしそういう子どもを、「頭のよい子」とは言わな
い。「算数がよくできる子」とも言わない。中には、全国の列車の時刻表を暗記している子ども
もいる。音楽の最初の一章節を聞いただけで、曲名をあてたり、車の一部を見ただけで、メー
カーと車種をあてる子どももいる。しかし教育の世界では、そういうのは能力とは言わない。「こ
だわり」とみる。たとえば自閉症の子どもがいる。このタイプの子どもは、こうしたこだわりをも
つことが知られている。

●考えることは苦痛
 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、考えること自体
を避けようとする。あるいは考えること自体から逃げようとする。一つの例だが、夜のテレビを
にぎわすバラエティ番組がある。ああいった番組の中では、見るからに軽薄そうなタレントが、
思いついたままをベラベラというより、ギャーギャーと言いながら騒いでいる。彼らはほとんど、
自分では何も考えていない。脳の、表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に加工して言
葉にしているだけ。つまり頭の中はカラッポ。

●考えることを奪う教育
 パスカルは「パンセ」の中で、『人間は考えるアシである』と書いている。この文を読んで、「あ
ら、私もアシ?」と言った女子高校生がいた。しかし先にも書いたように、「考える」ということ
は、もっと別のこと。たとえば私はこうして文章を書いているが、数時間も書いて、その中に、
「思考」らしきものを見つけるのは、本当にマレなことだ。(これは多分に私の能力の限界かも
しれないが……。)つまり考えるということは、それほどたいへんなことで、決して簡単なことで
はない。そんなわけで残念だが、その女子高校生は、そのアシですら、ない。彼女もまた、ただ
思いついたことをペラペラと口にしているだけ。

 多くの親は、「ほら、英語教室」「ほら、算数教室」と子どもに知識をつけさせることを、教育と
思い込んでいる。しかし教育とはもっと別のこと。むしろこういう教育観(?)は子どもから「考え
る」という習慣をうばってしまう。そのほうがはるかに損なことだと私は思うのだが……。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

うちの子は頭がいい?
計算力は早数えで(失敗危険度★★)

●計算力は早数えで決まる
 計算力は、早数えで決まる。たとえば子ども(幼児)の前で手をパンパンと叩いてみる。早く数
えることができる子どもは、五秒前後の間に、二〇回前後の音を数えることができる。そうでな
い子どもは、「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」と数えるため、どうしても遅くなる。

●訓練で早くなる
 そこで子どもが一〜三〇前後まで数えられるようになったら、早数えの練習をするとよい。最
初は、「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」でも、少し練習すると、「イチ、ニ、サン……」になり、さらに
「イ、ニ、サ……」となる。さらに練習すると、ものを「ピッ、ピッ、ピッ……」と、信号にかえて数え
ることができるようになる。これを数の信号化という。こうなると、五秒足らずの間に、二〇個く
らいのものを、瞬時に数えることができるようになる。そしてこの力が、やがて、計算力の基礎
となる。たとえば、「3+2」というとき、頭の中で、「ピッ、ピッ、ピッ、と、ピッ、ピッで、5」と計算
するなど。

 要するに計算力は、訓練でいくらでも早くなるということ。言いかえると、もし「うちの子は計算
が遅い」と感じたら、計算ドリルをさせるよりも先に、一度、早数えの練習をしてみるとよい。た
だし一言。

●算数の力は別
 計算力と算数の力は別物である。よく誤解されるが、計算力があるからといって、算数の力
があるということにはならない。たとえば小学一年生でも、神業にように早く、難しい足し算や引
き算をする子どもがいる。親は「うちの子は頭がいい」と喜ぶが、(喜んで悪いというのではな
い)、それは少し待ってほしい。計算力は訓練で伸びるが、算数の力を伸ばすのはそんな簡単
なことではない。子どもというのは、「取った、取られた」「ふえた、減った」「多い、少ない」「得を
した、損をした」という日常的な経験を通して、算数の力を養う。またそういう刺激が、子どもを
して、算数ができる子どもにする。そういう日常的な経験も大切にする。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

心のゆがみのない子どもが、すなおな子ども
家庭教育の誤解(失敗危険度★★★★★)

●誤解
 家庭教育にはたくさんの誤解がある。その中でもとくに目立つ誤解が、つぎの五つ。この誤
解を知るだけでも、あなたの子育ては大きく変わるはず。

(1)忍耐力……よく「うちの子はサッカーだと一日中している。ああいう力を勉強に向けさせた
い」という親がいる。しかしこういう力は忍耐力とは言わない。好きなことをしているだけ。子ど
もにとって忍耐力というのは、「いやなことをする力」をいう。たとえば台所の生ゴミを手で始末
するとか、風呂場の排水口にたまった毛玉を始末するとか、そういうことができる子どもを忍耐
力のある子どもという。

(2)やさしさ……大切にしているクレヨンを、だれかに横取りされたとする。そういうときニッコリ
と笑いながら、そのクレヨンを譲りわたすような子どもを、「やさしい子ども」と考えている人がい
る。しかしこれも誤解。このタイプの子どもは、それだけ」ストレスをためやすく、いろいろな問
題を起こす。

子どもにとって「やさしさ」とは、いかに相手の立場になって、相手の気持ちを考えられるかで決
まる。もっと言えば、相手が喜ぶように自ら行動する子どもを、やさしい子どもという。そのやさ
しい子どもにするには、買い物に行っても、いつも、「これがあるとパパが喜ぶわね」「これを買
ってあげるから、妹の○○に半分分けてあげてね」と、日常的にいつもだれかを喜ばすように
しむけるとよい。

(3)まじめさ……従順で、言われたことをキチンとするのを、「まじめ」というのではない。まじめ
というのは、自己規範のこと。こんな子ども(小三女子)がいた。バス停でたまたま会ったので、
「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、こう言った。「これから家で夕食を食べます
から、いらない。缶ジュースを飲んだら、ごはんが食べられなくなります」と。こういう子どもを「ま
じめな子ども」という。

(4)すなおさ……やはり言われたことに従順に従うことを、「すなおな子ども」と考えている人は
多い。しかし教育の世界で「すなおな子ども」というときは、つぎの二つをいう。一つは、心の状
態(情意)と、顔の表情が一致している子どもをいう。怒っているときには、怒った顔をする。悲
しいときには悲しい顔をする、など。情意と表情が一致しないことを、「遊離」という。不愉快に
思っているはずなのに、笑うなど。教える側からすると、「何を考えているかわからない」といっ
た感じの子どもになる。こうした遊離は、子どもにとっては、たいへん望ましくない状態と考えて
よい。たとえば自閉傾向のある子ども(自閉症ではない)がいる。このタイプの子どもの心は、
柔和な表情をしたまま、まったく別のことを考えていたりする。

 もう一つ、「すなおな子ども」というときは、心のゆがみがない子どもをいう。何らかの原因で
子どもの心がゆがむと、子どもは、ひがみやすくなったり、いじけたり、つっぱたり、ひねくれた
りする。そういう「ゆがみ」がない子どもを、すなおな子どもという。

(5)がまん……子どもにがまんさせることは大切なことだが、心の問題とからむときは、がまん
はかえって逆効果になるから注意する。たとえば暗闇恐怖症の子ども(三歳児)がいた。子ど
もは夜になると、「こわい」と言ってなかなか寝つかなかったが、父親はそれを「わがまま」と決
めつけて、いつも無理にふとんの中に押し込んでいた。

がまんさせるということは、結局は子どもの言いなりにならないこと。そのためにも 親側に、一
本スジのとおったポリシーがあることをいう。そういう意味で、子どものがまんの問題は、決して
子どもだけの問題ではない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

うちの子は何を考えているかわからない!
仮面をかぶらせるな(失敗危険度★★★★)

●仮面をかぶる子ども
 心(情意)と表情が遊離し始めると、子どもは仮面をかぶるようになる。表面的にはよい子ぶ
ったり、柔和な表情を浮かべて親や教師の言うことに従ったりする。しかし仮面は仮面。その
仮面の下で、子どもは親や教師の印象とはまったく別のことを考えるようになる。これがこわ
い。

●心と表情の一致
 すなおな子どもというのは、心と表情が一致し、性格的なゆがみのない子どものことをいう。
不愉快だったら不愉快そうな顔をする。うれしいときには、うれしそうな顔をする。そういう子ど
もをすなおな子どもという。が、たとえば家庭崩壊、育児拒否、愛情不足、親の暴力や虐待が
日常化すると、子どもの心はいつも緊張状態に置かれ、そういう状態のところに不安が入り込
むと、その不安を解消しようと、情緒が一挙に不安定になる。突発的に激怒する子どももいる
が、反対にそうした不安定さを内へ内へとためこんでしまう子どももいる。そしてその結果、仮
面をかぶるようになる。一見愛想はよいが、他人に心を許さない。あるいは他人に裏切られる
前に、自分から相手を裏切ったりする。よくある例は、自分が好意をよせている相手に対して、
わざと意地悪をしたり、いじめたりするなど。屈折した心の状態が、ひねくれ、いじけ、ひがみ、
つっぱりなどの症状を引き起こすこともある。

●言いたいことを言わせる
 そこでテスト。あなたの子どもはあなたの前で、言いたいことを言い、したいことをしているだ
ろうか。もしそうであれば問題はない。しかしどこか他人行儀で、よそよそしく、あなたから見
て、「何を考えているかわからない」といったふうであれば、家庭のあり方をかなり反省したほう
がよい。子どもに「バカ!」と言われ怒る親もいる。しかし平気な親もいる。「バカ!」と言うこと
を許せというのではないが、そういうことが言えないほどまでに、子どもをおさえ込んではいけ
ない。

●子どもの心は風船
子どもの心は風船のようなもの。どこかで力を加えると、そのひずみは、別のどこかに必ず表
れる。で、もしあなたがあなたの子どもに、そんな「ひずみ」を感ずるなら、子どもの心を開放さ
せることを第一に考え、親のリズムを子どもに合わせる。「私は親だ」式の権威主義があれ
ば、改める。そしてその時期は早ければ早いほどよい。満六歳でこうした症状が一度出たら、
子どもをなおすのに六年かかると思うこと。満一〇歳で出たら、一〇年かかると思うこと。心と
いうのはそういうもので、簡単にはなおらない。無理をすればするほど逆効果になるので、注
意する。 


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

あなたはダメな子ネー!
いつも前向きの暗示を(失敗危険度★★★★★)

●前向きの暗示を!
 「あなたはどんどんよくなる」「あなたはさらにすばらしい子になる」という、前向きの暗示が、
子どもを伸ばす。また前向きに伸びている子どもは、ものごとに積極的で攻撃的。何か新しい
ことを提案したりすると、「やる」「やりたい」とか言って、くいついてくる。これは家庭教育の常識
だが、しかし問題は、子どもにというより、親にある。

 親自身がまず子どもを信ずること。「うちの子はすばらしい子だ」という思いが、子どもを伸ば
す。心というのはそういうもので、長い時間をかけて、子どもに伝わる。言葉ではない。そこでテ
スト。

●「年齢はいくつ?」
 あなたが子どもを連れて街の中を歩いていたとする。すると向こうから高校時代の同級生が
歩いてきた。そしてあなたの子どもを一度しげしげと見たあと、「(年齢は)いくつ?」と聞いたと
する。そのときあなたはどのように感ずるだろうか。

 自分の子どもに自信のある親はこういうとき、「まだ」という言葉を無意識のうちに使う。「まだ
五歳ですけど……」と。「うちの子はまだ五歳だけど、すばらしい子どもに見えるでしょ」という気
持ちからそう言う。しかし自分の子どもに自信のない親は、どこか顔をしかめながら、「もう」と
いう言葉を使う。「もう五歳なんですけどねえ」と。「もう五歳になるが、その年齢にふさわしくな
い」という気持ちからそう言う。もちろんその中間ということもあるが、もしあなたが後者のような
なら、あなたの心をつくりかえる。でないと、あなたの子どもから明るさがますます消えていく。
そうなればなったで、子育ては大失敗。ではどうするか。

●うしろ向きに考える中学生
 子どもというのは、一度うしろ向きになると、どこまでもうしろ向きになる。そして自ら伸びる芽
をつんでしまう。こんな子ども(中学女子)がいた。ここ一番というところになると、いつも、「どう
せ私はダメだから」と。そこでどうしてそういうことを言うのかと、ある日聞いてみた。すると彼女
はこう言った。「どうせ、○○小学校の入試で落ちたもんね」と。その子どもは、もうとっくの昔に
忘れてよいはずの、しかも一〇年近くも前のことを気にしていた。こういうことは子どもの世界
ではあってはならない。

 そこでどうだろう。今日からでも遅くないから、あなたもあなたの子どもに向かって、「あなたは
すばらしい子」を言うようにしてみたら……。最初はウソでもよい。しかしあなたがこの言葉を自
然な形で言えるようになったとき、あなたの心は今とは変わっているはずである。当然、あなた
の子どもの表情も明るくなっているはずである。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

あなたには本当のことがわかっていない
子どもの心を大切に(失敗危険度★★★★★)

●無理は禁物
 子どもの心を大切にするということは、無理をしないということ。たとえば神経症にせよ恐怖
症にせよ、さらにはチック、怠学(なまけ)や不登校など、心の問題をどこかに感じたら、決して
無理をしてはいけない。中には、「気はもちようだ」「わがままだ」と決めつけて、無理をする人
がいる。

さらに無理をしないことを、甘やかしと誤解している人がいる。しかし子どもの心は、無理をす
ればするほど、こじれる。そしてその分だけ、立ちなおりが遅れる。しかし親というのは、それ
がわからない。結局は行きつくところまで行って、はじめて気がつく。その途中で私のようなも
のがアドバイスしても、ムダ。「あなたには本当のところがわかっていない」とか、「うちの子ども
のことは私が一番よく知っている」と言ってはねのけてしまう。あとはこの繰り返し。

●こわい悪循環
 子どもというのは、一度悪循環に入ると、「以前のほうが症状が軽かった」ということを繰り返
しながら、悪くなる。そのとき親が何かをすれば、すればするほど裏目、裏目に出てくる。もしそ
んな悪循環を心のどこかで感じたら、鉄則はただ一つ。あきらめる。そしてその状態を受け入
れ、それ以上悪くしないことだけを考えて、現状維持をはかる。よくある例が、子どもの非行。

子どもの非行は、ある日突然、始まる。それは軽い盗みや、夜遊びであったりする。しかしこの
段階で、子どもの心に静かに耳を傾ける人はまずいない。たいていの親は強く叱ったり、体罰
を加えたりする。しかしこうした一方的な行為は、症状をますます悪化させる。万引きから恐
喝、外泊から家出へと進んでいく。

●ウリのつるにナスビはならぬ
 子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎとりながら成長していく。また巣立ちも、決して美
しいものばかりではない。中には、「バカヤロー」と悪態をついて巣立ちしていく子どもいる。し
かし巣立ちは巣立ち。要はそれを受け入れること。それがわからなければ、あなた自身を振り
返ってみればよい。

あなたは親の期待にじゅうぶん答えながらおとなになっただろうか。あるいはあなたの巣立ち
は、美しく、すばらしいものであっただろうか。そうでないなら、あまり子どもには期待しないこ
と。昔からこう言うではないか。『ウリのつるにナスビはならぬ』と。失礼な言い方かもしれない
が、子育てというのは、もともとそういうもの。(


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

うちの子は問題をよく読みません
音読と黙読は違う(失敗危険度★★)

●子どもの読解力
 小学三年生くらいになると、読解力のあるなしが、はっきりしてくる。たとえば算数の文章題。
読解力のない子どもは、問題を読みきれない、読みまちがえる、など。あちこちの数字を集め
て、めちゃめちゃな式を書いたりする。親は「どうしてうちの子は、問題をよく読まないのでしょ
う」とか、「そそっかしくて困ります」とか言うが、ことはそんな簡単なことではない。

●音読と黙読
 話は少しそれるが、音読と黙読とでは、脳の中でも使う部分がまったく違う。音読は、一度自
分の声で文章を読み、その音を聞いて文の内容を理解する。つまり左脳(ウェルニッケの言語
中枢)がそれをつかさどる。一方黙読は文字を図形として認識し、その図形の意味を判断して
文の内容を理解する。つまり右脳がそれをつかさどる。音読ができるから黙読ができるとは限
らない。ちなみに文字を覚えたての幼児は、黙読では文を読むことができない。そんなわけで
子どもが文字をある程度読むことができるようになったら、黙読の練習をさせるとよい。方法
は、「口をとじて本を読んでごらん」と指示する。国立国語研究所の調査によると、黙読にする
と、小学校の低学年児で、約三〇%程度、読解力が落ちるそうだ。

●読解力は、学習の基本
 ではどうするか。もしあなたの子どもの読解力が心配なら、方法は二つある。一つは、あえて
音読をさせてみる。たとえば先の文章題でも、「声を出して問題を読んでごらん」と言って、問題
を声を出させて読ませてみる。読んだ段階で、たいていの子どもは、「わかった!」と言って、
問題を解くことができる。が、それでも効果があまりないときは、こうする。問題そのものを、別
の紙に書き写させる。子どもは文字(問題)を一度文字で書くことによって、文字の内容を「音」
ではなく、「形」として認識するようになる。少し時間はかかるが、黙読が苦手な子どもには、も
っとも効果的な方法である。

 読解力は、すべての科目に影響を与える。文章の読解力を訓練しただけで、国語はもちろん
のこと、算数や理科、社会の成績があがるということはよくある。決して軽くみてはいけない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

隠しごとがないのが、いい親子?
逃げ場を大切に(失敗危険度★★★★★)

●逃げ場で心をいやす
 どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。もちろん人間の子どもにもある。子どもがそ
の逃げ場へ逃げ込んだら、親はその逃げ場を荒らしてはいけない。子どもはその逃げ場に逃
げ込むことによって、体を休め、疲れた心をいやす。たいていは自分の部屋であったりする
が、その逃げ場を荒らすと、子どもの情緒は不安定になる。ばあいによっては精神不安の遠
因ともなる。あるいはその前の段階として、子どもはほかの場所に逃げ場を求めたり、最悪の
ばあいには、家出を繰り返すこともある。逃げ場がなくて、犬小屋に逃げた子どももいたし、近
くの公園の電話ボックスに逃げた子どももいた。

またこのタイプの子どもの家出は、もてるものをすべてもって、一方向に家出するというと特徴
がある。買い物バッグの中に、大根やタオル、ぬいぐるみのおもちゃや封筒をつめて家出した
子どもがいた。(これに対して目的のある家出は、その目的にかなったものをもって家を出る
ので、区別できる。)

●逃げ場は神聖不可侵
 子どもが逃げ場へ逃げたら、その中まで追いつめて、叱ったり説教してはいけない。子ども
が逃げ場へ逃げたら、子どものほうから出てくるまで待つ。そういう姿勢が子どもの心を守る。
が、中には、逃げ場どころか、子どものカバンの中や机の中、さらには戸棚や物入れの中まで
平気で調べる親がいる。仮に子どもがそれに納得したとしても、親はそういうことをしてはなら
ない。こういう行為は子どもから、「私は私」という意識を奪う。

●子どもの人格を守る
 これに対して、親子の間に秘密はあってはいけないという意見もある。「隠しごとがないほど、
いい親子」と言う人さえいる。そういうときは反対の立場で考えてみればよい。いつかあなたが
老人になり、体が不自由になったとする。そういうときあなたの子どもが、あなたの机の中やカ
バンの中を調べたとしたら、あなたはそれを許すだろうか。プライバシーを守るということは、そ
ういうことをいう。秘密をつくるとかつくらないとかいう次元の話ではない。

 むずかしい話はさておき、子どもの人格を尊重するためにも、子どもの逃げ場は神聖不可侵
の場所として大切にする。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

友を選ぶか、親を選ぶか?
友を責めるな(失敗危険度★★★)

●行為を責める
 あなたの子どもが、あなたからみて好ましくない友だちとつきあい始めたときの鉄則がこれ。
「友を責めるな、行為を責めよ」。イギリスの格言だが、たとえばどこかでタバコを吸ったとす
る。そういうときは、タバコは体に悪いとか、タバコを吸うことは悪いことだと言っても、決して相
手の子どもを責めてはいけない。名前を出すのもいけない。この段階で、たとえば「D君は悪い
子だから、つきあってはダメ」などと言うと、それは子どもに、「友を選ぶか、親を選ぶか」の、
二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなた(親)を選べばよいが、そうでなければあ
なたと子どもの間に大きなキレツを入れることになる。あとは子ども自身が自分で考え、その
「好ましくない友だち」から遠ざかるのを待つ。こういうケースでは、よく親は、「うちの子は悪くな
い。相手が悪い」と決めてかかることが多いが、あなたの子どもがその中心格になっていると
考えて対処する。が、それでもうまくいかないときがある。そういうときは、つぎの手を使う。

●信じて伸ばす
 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のよい面を見せようとする。そこであ
なたは子どもの前で、相手の子どもをほめる。○○君は、おもしろい子ね。ユーモアがあって、
お母さんは大好きよ」とか。あなたのそういう言葉は必ず相手の子どもに伝わる。その時点で、
相手の子どもは、あなたの期待にこたえようとし、その結果、あなたの子どもをよい方向に導
いてくれる。いうなればあなたはあなたの子どもを通して、相手の子どもを遠隔操作するわけ
だが、これは子育ての中でも高等技術に属する。

●一度こわれた心はもどらない 
ほとんどの親は、子どもが非行に向かうようになると、子どもを叱ってなおそうとする。暴力や
威圧を加える親もいる。しかし一度こわれた子どもの心は、そんなに簡単にはなおらない。もし
そういう状態になったら、今より症状を悪化させないことだけを考えながら、一年単位で子ども
の様子をみる。あせって何かをすればするほど、逆効果になるので注意する。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

無理をする→ますますさがるの悪循環
子どもを知る(失敗危険度★★★★)

●親の欲目
 「己の子どもを知るは賢い父親だ」と言ったのはシェークスピア(「ベニスの商人」)だが、それ
くらい自分の子どものことを知るのは難しい。親というのは、どうしても自分の子どもを欲目で
見る。あるいは悪い部分を見ない。「人、その子の悪を知ることなし」(「大学」)というのがそれ
だが、こうした親の目は、えてして子どもの本当の姿を見誤る。いろいろなことがあった。

●やってここまで
 ある子ども(小六男児)が、祭で酒を飲んでいて補導された。親は「誘われただけ」と、がんば
っていたが、調べてみると、その子どもが主犯格だった。またある夜一人の父親が、A君(中
一)の家に怒鳴り込んできた。「お宅の子どものせいで、うちの子が不登校児になってしまっ
た」と。A君の父親は、「そんなはずはない」とがんばったが、A君は学校でもいじめグループの
中心にいた、などなど。こうした例は、本当に多い。子どもの姿を正しくとらえることは難しい
が、子どもの学力となると、さらに難しい。

たいていの親は、「うちの子はやればできるはず」と思っている。たとえ成績が悪くても、「勉強
の量が少なかっただけ」とか、「調子が悪かっただけ」と。そう思いたい気持ちはよくわかるが、
しかしそう思ったら、「やってここまで」と思いなおす。子どものばあい、(やる・やらない)も力の
うち。子どもを疑えというわけではないが、親の過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。
そこで子どもの学力は、つぎのようにして判断する。

●子どもを受け入れる
 子どもの学校生活には、ほとんど心配しない。いつも安心して子どもに任せているというので
あれば、あなたの子どもはかなり優秀な子どもとみてよい。しかしいつも何か心配で、不安が
つきまとうというのであれば、あなたの子どもは、その程度の子ども(失礼!)とみる。そしても
し後者のようであれば、できるだけ子どもの力を認め、それを受け入れる。早ければ早いほど
よい。そうでないと、(無理を強いる)→(ますます学力がさがる)の悪循環の中で、子どもの成
績はますますさがる。要するに「あきらめる」ということだが、不思議なことにあきらめると、それ
まで見えていなかった子どもの姿が見えるようになる。シェークスピアがいう「賢い父親」という
のは、そういう父親をいう。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

それでは子どもがかわいそう
負けるが勝ち(失敗危険度★★)

●親どうしのトラブルは日常茶飯事
 この世界、子どもをはさんだ親どうしのトラブルは、日常茶飯事。言った、言わないがこじれ
て、転校ザタ、さらには裁判ザタになるケースも珍しくない。ほかのことならともかくも、間に子ど
もが入るため、親も妥協しない。が、いくつかの鉄則がある。

 まず親どうしのつきあいは、「如水淡交」。水のように淡く交際するのがよい。この世界、「教
育」「教育」と言いながら、その底辺ではドス黒い親の欲望が渦巻いている。それに皆が皆、ま
ともな人とは限らない。情緒的に不安定な人もいれば、精神的に問題のある人もいる。さらに
は、アルツハイマーの初期のそのまた初期症状の人も、四〇歳前後で、二〇人に一人はい
る。このタイプの人は、自己中心性が強く、がんこで、それにズケズケとものをいう。そういうま
ともでない人(失礼!)に巻き込まれると、それこそたいへんなことになる。

●最初に頭をさげる
 つぎに「負けるが勝ち」。子どもをはさんで何かトラブルが起きたら、まず頭をさげる。相手が
先生ならなおさら、親でも頭をさげる。「すみません、うちの子のできが悪くて……」とか何とか
言えばよい。あなたに言い分もあるだろう。相手が悪いと思うときもあるだろう。しかしそれでも
頭をさげる。あなたががんばればがんばるほど、結局はそのシワよせは、子どものところに集
まる。しかしあなたが最初に頭をさげてしまえば、相手も「いいんですよ、うちも悪いですから…
…」となる。そうなればあとはスムーズにことが流れ始める。要するに、負けるが勝ち。

●つきあいの大鉄則
 ……と書くと、「それでは子どもがかわいそう」と言う人がいる。しかしわかっているようでわか
らないのが、自分の子ども。あなたが見ている姿が、子どものすべてではない。すべてではな
いことは、実はあなた自身が一番よく知っている。あなたは子どものころ、あなたの親は、あな
たのすべてを知っていただろうか。それに相手が先生であるにせよ、親であるにせよ、そういう
人たちから苦情が耳に届くということは、よほどのことと考えてよい。そういう意味でも、「負ける
が勝ち」。これは親どうしのつきあいの大鉄則と考えてよい。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

どうしてうちの子を泣かすのですかア!
子育ては子離れ(失敗危険度★★★★★)

●そのうちメソメソと……
 子育てを考えたら、その一方で同時に、子離れを考える。「育ててやろう」と考えたら、その一
方で同時に、「どうやって手を抜くか」を考える。そのバランスよさが子どもを自立させる。こん
なことがあった。

 帰りのしたくの時間になっても、D君(年中児)はそのまま立っているだけ。机の上のものをし
まうようにと指示するのだが、「しまう」という言葉の意味すら理解できない。そこであれこれ手
振り身振りでそれを示すと、D君はそのうちメソメソと泣き出してしまった。多分そうすれば、家
ではだれかが助けてくれるのだろう。が、運の悪いことに、その日にかぎって、たまたま母親が
D君を迎えにきていた。D君の泣き声を聞くと教室へ飛び込んできて、私にこう言った。「どうし
てうちの子を泣かすのですかア!」と。

●遅れる「核」形成
 このタイプの親は、子どもの世話をするのを生きがいにしている。あるいは手をかけること
が、親の愛の証(あかし)と誤解している。しかし親が子どもに手をかければかけるほど、子ど
もはひ弱になる。俗にいう「温室育ち」になり、「外に出すとすぐ風邪をひく」。

特徴としては、(1)人格の「核」形成が遅れる。ふつう子どもというのは、その年齢になるとその
年齢にふさわしい「つかみどころ」ができてくる。しかしそのつかみどころがなく、教える側から
すると、どういう子どもなのかわかりにくい。(2)依存心が強くなる。何かにつけて人に頼るよう
になる。自分で判断して、自分で行動をとれなくなる。先日も新聞の投書欄で、「就職先がない
のは、社会の責任だ」と書いていた大学生がいた。そういうものの考え方をするようになる。
(3)精神的にもろくなる。ちょっとしたことでキズついたり、いじけたり、くじけたりしやすくなる。
(4)全体に柔和でやさしく、「いい子」という印象を与えるが、同時に子どもから本来人間がもっ
ているはずの野生味が消える。

●何でも半分
 人間の世界を生き抜くためには、ある程度のたくましさが必要である。たとえばモチまきのと
き、ぼんやりと突っ立っていては、モチは拾えない。生きていくときも、そうだ。そのたくましさ
を、どうやって子どもに身につけさせるかも、子育てでは重要なポイントとなる。もしあなたの子
どもが、先のD君のようであるなら、つぎのような格言が役にたつ。

 「何でも半分」……子どもにしてあげることは、何でも半分にして、それですます。靴下でも片
方だけはかせて、もう片方は自分ではかせる。あるいは服でも途中まで着させて、あとは子ど
もに任す、など。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

白砂糖は白い麻薬
子どもの体で考える(失敗危険度★★)

●缶ジュースを四本!
 体重一五キロの子どもがかん缶ジュース一本飲むということは、体重六〇キロの人が同じ缶
ジュースを四本飲むのに等しい。いくらおとなでも、缶ジュースを四本は飲めない。飲めば飲ん
だで、腹の中がガボガボになってしまう。しかし無頓着な人は、子どもに平気で缶ジュースを一
本与えたりする。ソフトクリームもそうだ。横からみると、子どもの顔よりも大きなソフトクリーム
を子どもに与えている人がいる。それがいかに多い量かは、一度あなたの顔よりも大きなソフ
トクリームを特別に注文してみればよい。そういうものを一方で子どもに与えておいて、「うちの
子は小食で困ります」は、ない。(ちなみに約半数の親が、子どもの小食で悩んでいる。好き嫌
いがはげしい。食が少ない。ノロノロ食べるなど。)

●「いらんこと、言わんでください!」
 私は職業がら、そういう親子を見ると、つい口を出したくなる。先日もファミリーレストランで、
アイスフロートのジュースを飲んでいる子ども(年長児)を見かけたので、にこやかに笑いなが
らだったが、「そんなにたくさん飲まないほうがいいよ」と声をかけてしまった。が、それを聞い
た母親はこう叫んだ。「いらんこと、言わんでください!」と。いらぬお節介というわけだ。

●砂糖は白い麻薬
 ほかにスナック菓子、かき氷しかり。世界を歩いてみても、日本ほどお菓子の発達(?)した
国は少ない。もっとも味についていえば、アメリカ人のほうが、日本人よりはるかに甘党で、健
康に害があるとかないとかいうことになれば、日本ではそれほど心配しなくてもよいのかもしれ
ない。しかし一時的に甘い食品(精製された白砂糖が多い食品)を大量に摂取すると、インスリ
ンが大量に分泌され、それが脳間伝達物質であるセロトニンの分泌を促し、脳に変調をきたす
ことが知られている。そしてそのため、脳の抑制命令が阻害され、子どもは突発的に興奮しや
すくなったりするという。「白砂糖は白い麻薬」と言う学者もいる。もう二〇年ほど前に、アメリカ
で問題になったことだが、もしあなたの子どもが日常的に興奮しやすく、突発的に暴れたり、ヒ
ステリー状態になることが目立つようだったら、一度砂糖断ちをしてみるとよい。子どもによっ
ては、たった一週間砂糖断ちしただけで、別人のように静かになるということはよくある。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

作文は大嫌い!
こまかい指導は、子どもをつぶす(失敗危険度★★★)

●型にこだわる日本人
 文字を覚えたての子どもは、親から見てもメチャメチャな文字を書く。形や書き順は言うにお
よばず、逆さ文字、左右反対の鏡文字など。このとき大切なことは、こまかい指導はしないこ
と。日本人はとかく「型」にこだわりやすい。トメ、ハネ、ハライがそれだが、今どき毛筆時代の
名残をこうまでこだわらねばならない必要はない。

……というようなことを書くと、「君は日本語がもつ美しさを否定するのか」と言う人が必ずい
る。あるいは「はじめに書き順などをしっかりと覚えておかないと、あとからたいへん」と言う人
もいる。しかし文字の使命は、自分の意思を相手に伝えること。「美しい」とか「美しくない」とい
うのは、それは主観の問題でしかない。また、これだけパソコンが発達してくると、書き順とは
何か、そこまで考えてしまう。

●ルールよりも中味
 一〇年ほど前、オーストラリアの小学校を訪れたときのこと。壁に張られた作文を見て、私は
びっくりした。スペルはもちろん、文法的におかしなものがいっぱいあった。そこで私がそのクラ
スの先生(小三担当)に、「なおさないのですか」と聞くと、その先生はこう言った。「シェークスピ
アの時代から正しいスペルなんてものはないのです。音が伝わればいいのです。またルール
(文法)をきつく言うと、子どもたちは書く意欲をなくします」と。

●「メチャメチャな文字に、丸をつけないでほしい」
 私もときどき、親や祖父母から抗議を受ける。「メチャメチャな文字に、丸をつけないでほし
い。ちゃんとなおしてほしい」と。しかしこの時期大切なことは、「文字はおもしろい」「文字は楽
しい」という思いを子どもがもつこと。そういう「思い」が、子どもを伸ばす原動力となる。このタイ
プの親や祖父母は、エビでタイを釣る前に、そのエビを食べようとするもの。現に今、「作文は
大嫌い」という子どもはいても、「作文は大好き」という子どもは少ない。よく日本のアニメは世
界一というが、その背景に子どもたちの作文嫌いがあるとするなら、喜んでばかりはおれな
い。

 ある程度文字を書けるようになったら、少しずつ機会をみて、なおすところはなおせばよい。
またそれでじゅうぶん間に合う。そういうおおらかさが子どもを勉強好きにする。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

育児から解放されたい!
子どもは甘えるもの(失敗危険度★★★★)

●自然な「甘え」
 スキンシップの重要性は言うまでもない。そのスキンシップと同じレベルで考えてよいのが、
「甘える」という行為である。一般論として、濃密な親子関係の中で、親の愛情をたっぷりと受
けた子どもほど、甘え方が自然である。「自然」という言い方も変だが、要するに、子どもらしい
柔和な表情で、人に甘える。甘えることができる。心を開いているから、やさしくしてあげると、
そのやさしさがそのまま子どもの心の中に染み込んでいくのがわかる。

 これに対して幼いときから親の手を離れ、施設で育てられたような子ども(施設児)や、育児
拒否、家庭崩壊、暴力や虐待を経験した子どもは、他人に心を許さない。許さない分だけ、人
に甘えない。一見、自立心が旺盛に見えるが、心は冷たい。他人が悲しんだり、苦しんでいる
のを見ても、反応が鈍い。感受性そのものが乏しくなる。ものの考え方が、全体にひねくれる。
私「今日はいい天気だね」、子「いい天気ではない」、私「どうして?」、子「あそこに雲がある」、
私「雲があっても、いい天気だよ」、子「雲があるから、いい天気ではない」と。

●抱かれない子ども
こんなショッキングな報告もある(二〇〇〇年)。抱こうとしても抱かれない子どもが、四分の一
もいるというのだ。「全国各地の保育士が、預かった〇歳児を抱っこする際、以前はほとんど
感じなかった『拒否、抵抗する』などの違和感のある赤ちゃんが、四分の一に及ぶことが、『臨
床育児・保育研究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査で判明した」(中日新聞)と。

●原因は「抱っこバンド」?
報告によれば、抱っこした赤ちゃんの「様態」について、「手や足を先生の体に回さない」が三
三%いたのをはじめ、「拒否、抵抗する」「体を動かし、落ちつかない」などの反応が二割前後
見られ、調査した六項目の平均で二五%に達したという。また保育士らの実感として、「体が固
い」「抱いてもフィットしない」などの違和感も、平均で二〇%の赤ちゃんから報告されたという。
さらにこうした傾向の強い赤ちゃんをもつ母親から聞き取り調査をしたところ、「育児から解放
されたい」「抱っこがつらい」「どうして泣くのか不安」などの意識が強いことがわかったという。
また抱かれない子どもを調べたところ、その母親が、この数年、流行している「抱っこバンド」を
使っているケースが、東京都内ではとくに目立ったという。

 報告した同研究会の松永静子氏(東京中野区)は、「仕事を通じ、(抱かれない子どもが)二
〜三割はいると実感してきたが、(抱かれない子どもがふえたのは)、新生児のスキンシップ不
足や、首も座らない赤ちゃんに抱っこバンドを使うことに原因があるのでは」と話している。

 果たしてあなたの子どもはだいじょうぶだろうか。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

わかっていたら、どうしてもっと早くアドバイスしてくれなかったのだ!
行きつくところまで行く(失敗危険度★★★★★)

●「うちの子にかぎって……」
 子育ては、失敗してみて、それが失敗だったとはじめて気づく。その前の段階で、私のような
ものがあれこれ言ってもムダ。ほとんどの親は、「うちの子に限って」とか、「まだ何とかなる」と
考えて、無理に無理を重ねる。が、やがてそれも限界にくる。

●燃え尽きる子ども
 よくある例が、子どもの燃え尽き(バーントアウト)。概してまじめで、従順な子どもがなりやす
い。はげしい受験勉強をくぐりぬけ、やっとの思いで目的の学校へ入学したとたん、燃え尽きて
しまう。浜松市内でも一番と目されている進学校のA高校のばあい、一年生で、一クラス中、二
〜三人。二年生で、五〜六人が、燃え尽き症候群に襲われているという(B教師談)。一クラス
四〇名だから、一〇%以上の子どもが、燃え尽きているということになる。この数を多いとみる
か、少ないとみるか? 

●初期症状を見落とすな
 燃え尽きは初期症状を的確にとらえ、その段階で適切に対処することが大切。登校前に体
や心の不調や、無気力、倦怠感を訴えたりする。不登校の初期症状に似た症状を示すことも
ある。そういうとき親が、「そうね、だれだってそういうときがあるよ」と言ってあげれば、どれだ
け子どもの心は救われることか。が、親にはそれがわからない。ある母親はあとになって、私
にこう言った。

「無理をしているという気持ちはどこかにありましたが、目的の高校へ入ってくれれば、それで
問題のすべては解決すると思っていました」と。もっともこういうふうに反省できる親はまだよい
ほうだ。中には、「わかっていたら、どうしてもっと早くアドバイスしてくれなかったのだ」と、私に
食ってかかってきた父親がいた。

●子どもの心を守る大原則
 結論を先に言えば、結局は親というのは、自分で行き着くところまで行かないと、自分で気づ
かない。一度(無理をする)→(症状が悪化する)→(ますます無理をする)の悪循環に入ると、
あとは底なしの泥沼状態に陥ってしまう。これは子育てにまつわる宿命のようなものだ。そこで
大切なことは、いつどのような形で、その悪循環に気づき、それをその段階で断ち切るかという
こと。もちろん早ければ早いほどよい。そしてつぎのことに気をつける。

(1)あきらめる……「あきらめは悟りの境地」という格言を以前、私は考えたが、あきらめる。

(2)今の状態を保つ……「何かおかしい」と感じたら、なおそうと考えないで、今の状態をそれ
以上悪くしないことだけを考える。

(3)一年単位でみる……子どもの「心」の問題は、すべて一年単位でみる。「心」の問題はその
つど一進一退を繰り返すが、それには一喜一憂しない。

 これは燃え尽きに限らず、子どもの心を考えるときの大鉄則と考えてよい。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

何を偉そうなことを!
子どもを叱れない親(失敗危険度★★★★★)

●こわくて叱れない
ある雑誌社から原稿依頼があった。「子どもを叱れない親がふえているが、それについて記事
を書いてほしい」と。それについて……。

子どもをこわくて叱れないというのであれば、すでに断絶状態にあるとみる。原因は(1)リズム
の乱れ(親側がいつもワンテンポ早い)、(2)価値観の衝突(親側が旧態依然の価値観に固執
している)、それに(3)相互不信(「うちの子はダメだ」という思いが強い)。この状態で子どもを
叱れば、あとはドロ沼の悪循環!

●親の三つの役目
親には三つの役目がある。(1)ガイドとして子どもの前を歩く。(2)保護者(プロテクター)として
子どものうしろを歩く。(3)友(フレンド)として子どもの横を歩く。日本人はこのうち三番目が苦
手、……というより、「私は親だ」という親意識だけがやたらと強く、子どもを友として見ることが
できない。

●今の状態をより悪くしない
もしあなたが子どもをこわくて叱れないというのであれば、まず子どものリズムで歩き、親の価
値観を一方的に押しつけるのをやめる。そしてここが重要だが、子どもを対等の友として受け
入れる。英語国では、親子でも「お前はパパに何をしてほしい?」「パパは、私に何をしてほし
い」と聞きあっている。そういう謙虚さが、子どもの心を開く。また一度断絶状態になったら、
「修復しよう」などとは考えないで、今の状態をより悪くしないことだけを考えて対処する。

●叱ることはむずかしい?
 「叱る」というのは、本当のところは、たいへんむずかしい。子どもを叱るというのは、叱る側
にそれだけの「人格」がなければならない。たとえば教える立場でいうと、よく宿題を忘れてくる
子どもがいる。宿題ならまだしも、テキストや鉛筆すら忘れてくる子どもがいる。しかし私は、ど
うしてもそういう子どもを叱ることができない。理由は簡単だ。私自身もよく忘れ物をするから
だ。自分でもできないのに、どうして子どもを叱ることができるのか。それともあなたは、あなた
の子どもに向かって、「正しいことをしなさい」「まちがったことをしてはだめだ」と子どもを叱るこ
とができるとでもいうのか。もしそうなら、きっとあなたはすばらしい人だ。

●何を偉そうなことを!
 私は幼児を教えるようになって、もう三〇年になるが、どういうわけだか「叱る」ということにつ
いて、おおきな抵抗を感ずる。ときどきは叱ることもあるが、そのたびに心のどこかで、「何を
偉そうなことを」と思ってしまう。先日も図書館の中で騒いでいる高校生がいた。その高校生た
ちを注意してやろうと考えたが、たまたま日本がかかえる不良債権のことが頭の中を横切っ
た。「七〇〇兆円とか八〇〇兆円とかいう、ぼう大な借金をつぎの世代に残して、何を偉そうな
ことを言えるのか」と。とたん注意してやろうという気持ちが吹き飛んでしまった。……そういう
意味でも、子どもを叱るというのは、とてもむずかしい。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

核兵器か何かで世界の人口が半分になればいい
自己中心ママ(失敗危険度★★★)

●もともとはわがままな性格
自己中心性の強い母親は、「私が正しい」と信ずるあまり、何でも子どものことを決めてしまう。
もともとはわがままな性格のもち主で、自分の思いどおりにならないと気がすまない。

 このタイプの母親は、思い込みであるにせよ何であるにせよ、自分の考えを一方的に子ども
に押しつけようとする。本屋へ行っても、子どもに「好きな本を買ってあげる」と言っておきなが
ら、子どもが何か本をもってくると、「それはダメ、こちらの本にしなさい」と、勝手にかえたりす
る。子どもの意見はもちろんのこと、他人の話にも耳を傾けない。 

●バランス感覚
 こうした自己中心的な子育てが日常化すると、子どもから「考える力」そのものが消える。依
存心が強くなり、善悪のバランス感覚が消える。「バランス感覚」というのは、善悪の判断を静
かにして、その判断に従って行動する感覚のことをいう。このバランス感覚が欠落すると、言動
がどこか常識ハズレになりやすい。たとえばコンセントに粘土を詰めて遊んでいた子ども(小一
男児)や、友だちの誕生日のプレゼントに、虫の死骸を箱に入れて送った子ども(小三男児)が
いた。さらに「核兵器か何かで世界の人口が半分になればいい」と言った男子高校生や、「私
は結婚して、早く未亡人になって黒いドレスを着てみたい」と言った女子高校生がいた。

●家族のカプセル化
 ところで母親にも、大きく分けて二種類ある。ひとつは、子育てをしながらも、外の世界に向
かってどんどんと積極的に伸びていく母親。もう一つは自分の世界の中だけで、さらにものの
考え方を先鋭化する母親である。外の世界に向かって伸びていくのはよいことだが、反対に自
分のカラを厚くするのは、たいへん危険なことでもある。こうした現象を「カプセル化」と呼ぶ人
もいる。一度こうなると、いろいろな弊害があらわれてくる。

たとえば同じ過保護でも、異常な過保護になったり、あるいは同じ過干渉でも、異常な過干渉
になったりする。当然、子どもにも大きな影響が出てくる。五〇歳をすぎた男性だが、八〇歳の
母親の指示がないと、自分の寝起きすらできない人がいる。その母親はことあるごとに、「生ま
れつきそうだ」と言っているが、そういう男性にしたのは、その母親自身にほかならない。

●悪循環に注意!
 子育てでこわいのが、悪循環。子どもに何か問題が起きると、親はその問題を解決しようと
何かをする。しかしそれが悪循環となって、子どもはますます悪い方向に進む。とくに子どもの
心がからむ問題はそうで、「以前のほうが症状が軽かった」ということを繰り返しながら、症状
はさらに悪くなる。

 自己中心的なママは、この悪循環におちいりやすいので注意する。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

別居か、さもなくば離婚
祖父母との同居(失敗危険度★)

●好かれるおじいちゃん
 祖父母との同居について、アンケート調査をしたことがある。その結果わかったことは、「好
かれるおじいちゃん、おばあちゃん」の条件は、(1)健康であること、(2)やさしいこと、(3)経
験が豊富であること、(4)控えめであることだった(一九九三年・浜松市内で約五〇人の同居
世帯で調査)。

●子どもが生まれる前から同居が望ましい
 反対に同居する祖父母との間のトラブルで一番多いのが、子育て上のトラブル。母親の立場
でいうと、一番苦情の多かったトラブルは、「子どもの教育のことで口を出す」だった。「甘やか
しすぎて困る」というのが、それに続いた。さらに「同居をどう思うか」という質問については、子
どもが生まれる前から同居したばあいには、ほとんどの母親が、「同居はよかった」と答えてい
るのに対して、途中から同居したばあいには、ほとんどの母親が、「同居はよくない」と答えて
いた。祖父母との同居を考えるなら、子どもが生まれる前からがよいということになる。

●たいていは深刻な問題に
 そこで祖父母との間にトラブルが起きたときだが、間に子どもがからむと、たいていは深刻な
嫁姑戦争に発展する。母親もこと自分の子どものことになると、妥協しない。祖父母にしても、
孫が生きがいになることが多い。こじれると、別居か、さもなくば離婚かというレベルまで話が
進んでしまう。そこでこう考える。これは無数の相談に応じてきた私の結論のようなもの。

(1)同居をつづけるつもりなら、祖父母とのトラブルを受け入れる。とくに子どもの教育のこと
は、思い切って祖父母に任す。甘やかしなどの問題もあるが、しかし子育て全体からみると、
マイナーな問題。メリット、デメリットを考えるなら、デメリットよりもメリットのほうが多いので、割
り切ること。

(2)子どもの教育は任せる分だけ祖父母に任せて、母親は母親で、前向きに好きなことをす
る。そうした前向きの姿勢が子どもを別の面で伸ばすことになる。

(3)祖父母の言いたそうなことを先取りして子どもにいい、祖父母には「助かります」と言いな
がら、うまく祖父母を誘導する。

(4)以上の割り切りができなければ、別居を考える。
 大切なことは、大前提として、同居を受け入れるか入れないかを、明確にすること。受け入れ
るなら、さっさとあきらめるべきことはあきらめること。この割り切りがまずいと、母親自身の精
神生活にも悪い影響を与える。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

おとなになりたくない!
すばらしいと言え、親の仕事(失敗危険度★)

●どうしたらいいか
 こんなことがあった。その息子(高一)が、家業である歯科技工士の仕事を継ぐのをいやがっ
て困っているというのだ。そこで「どうしたらいいか」と。

 今、子どもたちの間で、赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりという奇妙な現象が起きている。
自分の将来に不安や恐怖心をもつと、子どもはおとなになるのを無意識のうちにも拒否するよ
うになる。そして幼児期に使ったおもちゃや本を取り出し、それを大切そうにもちあるいたりす
る。一人の小学生(小六男児)が、ボロボロになったマンガの本をかばんの中に入れていたの
で、「それは何だ」と声をかけると、その子どもはこう言った。「どうちぇ、読んではダメだと言う
んでチョ、言うんでチョ」と。この子どものケースでは、父親に原因があった。父親はことあるご
とに、「中学校へ入ると、勉強がきびしいぞ」「毎日五、六時間は勉強しなければならないぞ」
と、その子どもをおどしていた。こうしたおどしが、子どもの心をゆがめていた。

●「ペコペコする仕事なんか、いやだ」
 で、私は先にあげた高校生を家に呼んで、理由をたずねてみた。するとその高校生はこう言
った。「あんな歯医者にペコペコする仕事なんか、いやだ。それにオヤジは、いつも『疲れた、
疲れた』と言っている」と。

 そこで私は母親にこう話した。「これからは子どもの前では、家の仕事は楽しい、すばらしい
と言いましょう」と。結果的にその子どもは今、歯科技工士をしているので、私のアドバイスはそ
れなりに効果があったのかもしれない。

●未来に希望を!
 子どもを伸ばす秘訣は、未来に希望をもたせること。あなたはすばらしい人になる、あなたの
未来はすばらしいものになると、前向きの暗示を与える。幼児でもそうだ。少し前、『学校の怪
談』というドラマがあった。そのため「小学校へ行きたくない」という子どもが続出した。理由を聞
くと、「花子さんがいるから」と。やはり幼児には、「学校は楽しいよ」「友だちがいっぱいできる
よ」「大きな運動会をするよ」と、言ってあげねばならない。そして……。

 子どもには、「お父さんの仕事はすばらしいよ」と言う。いや、言うだけでは足りないかもしれ
ない。生き生きと楽しそうに仕事をしている前向きの姿勢をどんどんと見せる。そういう姿勢が
子どもを伸ばす。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

考えるだけムダ?
思考と情報を混同する日本の教育(失敗危険度★★)

●何も考えていない
 思考と情報の加工は、まったく別のもの。たとえばこんな会話。A「今度の休みにはどこかへ
行くの?」、B「そうだな。伊豆へでも行こうか」、A「伊豆なら、下田まで足をのばしたら」、B「そ
れはいい……」と。

 このAとBは、一見考えているように見えるが、その実、何も考えていない。脳の表層部分に
蓄えられた情報を、そのつど加工して外に出しているにすぎない。しかしふつうの人は、こうい
うのを「思考」と誤解している。錯覚と言ってもよいかもしれない。

●思考には苦痛がともなう
 思考にはある種の苦痛がともなう。それは複雑な数学の問題を解くような苦痛である。だか
らたいていの人は、無意識のうちにも、できるだけ思考するのを避けようとする。あるいは他人
の思考をそのまま受け入れてしまう人がいる。カルト教団の信者がそうである。徹底した上意
下達方式のもと、「上」からの思想をそのまま脳の中に注入され、彼らはそれを自分の思想と
錯覚している。それはちょうど教えられるまま、英会話を暗記している幼稚園児のようなもので
ある。「ハウ・アー・ユー?」と言ったりすると、即座に「アイ・アム・ファイン」と答えたりする。英
語をペラペラと口にすると、見たところ賢い子どもに見えるが、その実、意味など何もわかって
いない。何も考えていない。いわんや英語ができる子どもということにはならない。

●賢い子どもとは
 そういう視点で子どもの世界をのぞくと、また別の見方ができる。たとえば年中児にもなると、
本をスラスラと読む子どもが出てくる。一見、国語力のある子どもに見えるが、その実、その本
の内容はほとんど理解していない。ただ文字を音に変えているだけ。

 あるいはたいへんもの知りの子どもがいたとする。口だけは達者で、まさにああ言えば、こう
言う式の反論もしてくる。しかしだからといって、その子どもは頭のよい子ということにはならな
い。賢い子どもということにもならない。もっと言えば、情報が多いからといって、思考力がある
ということにはならない。

●思想は宝石のようなもの 
先にも書いたように、思考するということは、それ自体たいへんなことである。そして思考をした
からといって、何かの「考え」にたどりつくことができるとはかぎらない。それはちょうど砂場の中
で、小さな宝石を見つける作業に似ている。まさに見つかればもうけものという世界。だからこ
れまたたいていの人は、「考えるだけムダ」と考える前に、考えることをやめてしまう。

 話は飛躍するが、日本の教育の最大の欠陥は、「思考」と「情報」を混同し、情報を与えるこ
とを教育と誤解している点である。このことは日本という島国を一歩離れてみるとすぐわかるこ
とだが、それについてはまた別のところで書く。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

ほら、カバン、カバン!
国語力を豊かにするために(失敗危険度★)

●会話環境と言葉
 「ほら、カバン、カバン! ハンカチは! バス、バス……、ほら、帽子!」と、こんな話し方を
していて、子どもに国語力が育つはずがない。こういうときは、たとえめんどうでも、「あなたは
カバンをもちます。ハンカチはもっていますか。もうすぐバスが来ますから、急いでしたくをしな
さい。帽子を忘れないでください」と。こうした会話環境があってはじめて、子どもは国語力を身
につけることができる。が、こんな方法もある。

●バツグンの表現力
 一人、バツグンの国語力のある子ども(年長女児)がいた。作文力をみたら、小学四〜五年
生程度の力があったのではないか。紙芝居を渡しても、その場でスラスラと物語をつくってみ
せた。そこで母親にその秘訣を聞くと、こう話したくれた。

 母親の趣味はドライブ。そこでほとんど毎日、それもその子どもが乳幼児のときからドライブ
に連れていったのだが、そのとき母親は、自分の声で吹き込んだ物語のテープを聞かせつづ
けたという。物語は、子ども向けのものから、もう少し年齢の大きい子ども向けのものまで、い
ろいろあったという。

 確かにこの方法は効果的である。別の母親は、芥川竜之介の難解な小説(「高瀬舟」)を吹
き込んだカセットテープをその子ども(小一)に、毎晩眠る前に聞かせた。数か月もすると、そ
の子どもはその物語をソラで言えるようになったという。

●読み聞かせのコツ
 この方法にはいくつかのコツがある。テープに録音するにしても、やはり一番よいのは、母親
の声。物語は何でもよいが、読んで聞かせる目的なら、二〜四年レベルの高いものでも構わ
ない。大きな書店へ行くと、いろいろな学校の教科書を売っている。そういうところで、教科書を
手に入れるとよい。値段も安いし、内容もよく吟味されている。また国語にかぎらず、社会や理
科、あるいは道徳の教科書でもよい。子どもが興味をもっていることなら一番よいが、あまりこ
だわる必要はない。

 さて冒頭の話だが、子どもの国語力の基本は、あくまでも親、なかんずく母親の国語力によ
る。あなたも子どもの前では、正しい日本語で話してみてほしい。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

交通事故に気をつけてね
寸劇指導法(失敗危険度★)

●指示は具体的に
 具体性をともなわない指示は、子どもには意味がない。よい例が「友だちと仲よくするのです
よ」とか、「先生の話をよく聞くのですよ」とかなど。こういうことを言っても、言う親の気休め程度
の意味しかない。こういうときは、たとえば「これを○○君にもっていってあげてね。○○君は喜
ぶわ」とか、「今日、学校から帰ってきたら、終わりの会で先生が何と言ったか、あとでママに話
してね」と言いかえる。「交通事故に気をつけるのですよ」というのもそうだ。

●下水溝で遊んでいた子ども
 交通事故について話す前に、こんな例がある。その子ども(年長男児)は何度言っても、下水
溝の中に入って遊ぶのをやめなかった。母親が「汚いからダメ」と言っても、効果がなかった。
そこでその母親は、家庭排水がどこをどう通って、その下水溝に流れるかを説明した。近所の
家からはトイレの汚水も流れこんでいることを、順に歩きながらも見せた。子どもは相当ショッ
クを受けたようだったが、その日からその子どもは下水溝では遊ばなくなった。

●迫真の演技で
 交通事故については、一度、寸劇をしてみせるとよい。私も授業の中で、ときどきこの寸劇を
してみせる。ダンボールで車をつくり、交通事故のありさまを迫真の演技でしてみせるのであ
る。……車がやってくる。子どもが角から飛び出す。車が子どもをはね飛ばす。子どもが苦し
みながら、あたりをころげまわる……と。気の弱い子どもだと、「こわい」と泣き出すかもしれな
いが、子どもの命を守るためと考えて、決して手を抜いてはいけない。迫真の演技であればあ
るほど、よい。たいてい一回の演技で、子どもはこりてしまい、以後道路へは飛び出さなくな
る。

 もしあなたの子どもが、何度注意しても同じ失敗を繰り返すというのであれば、一度、この寸
劇法を試してみるとよい。具体的であるがために、説得力もあり、子どももそれで納得する。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

娘は地元の大学でないと困ります!
設計図タイプの親(失敗危険度★★★★)

●将来は医師か弁護士に
 親が自分の子どもに夢や希望を託すのは、悪いことではない。それがあるから親は子どもを
育てる。子育てもまた楽しい。しかしそれが過剰になったとき、過剰期待となる。が、さらにそれ
が進んで、中には、あらかじめ設計図を用意し、その設計図に子どもをあてはめようとする親
がいる。「やさしくて思いやりのある、スポーツマンタイプの子ども」「高校はS高校で、大学はA
大学。将来は医師か弁護士」と。しかし……。

●独特の話し方
 設計図をもっている親は、独特の話し方をする。たとえばこんな言い方。「私はどこの高校で
もいいと思っていますが、うちの子はS高校へ入りたいと言っています。そんなわけで、どうかう
ちの子の希望をかなえさせてあげてください」と。そこで子ども自身に聞くと、「ぼくはどこでもい
いけど、お母さんがS高校でなくてはダメと言っている」と。

 あるいはこんなことを頼んできた親もいた。いよいよ娘(高三)が大学受験というときになった
ときのこと。私に「娘は地元の大学でないと困ります。私から言っても言うことを聞きませんの
で、先生、あなたのほうから説得してください。なお、私がこうして先生に頼んだことは内密に」
と。

●結局は親のエゴ
 このタイプの親は、自分の頭のどこかに描いた設計図に合わせて、自分の子どもの外堀を
埋めるような形で、子どもをしばりあげていく。そして結果的に、自分の思いどおりの子どもを
つくろうとする。親にしてみれば、自分だけがそういう育て方をしていると思っているが、教える
側は無数の親と接している。そしてそういう親たちをパターン化することができる。その一つ
が、このタイプの親ということになるが、もっともそれでうまくいけばよいが、親の思いどおりに
いくケースは一〇に一つもない。

ある子ども(中三男子)は、ある日母親にこう叫んだ。「ぼくの人生だから、ぼくの好きなように
させてよ!」と。たいていはそんな衝突を繰り返しながら、親子はやがて離れていく。

●子どもは「モノ」にあらず
 子どもはたしかにあなたから生まれ、あなたの子どもかもしれないが、同時に、別個の人間
である。古い世代の人の中には、まだ子どもを「モノ」のように思っている人も多い。が、しかし
こうした意識は、きわめて原始的ですらある。もしあなたがここでいう設計図タイプの親なら、自
分自身の中の原始的な親子観を疑ってみたらよい。子どもはあなたの思いどおりにはならな
いし、ならなくて当たり前。またならなかったからといって、嘆くこともない。現に今、あなただっ
て、あなたの親の設計図どおりにはなっていないはずだ。だったら、自分の設計図を子どもに
当てはめないこと。もともと親子というのは、そういうもの。そういう前提で、自分の子育て観を
改める。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

ちゃんと箸並べと靴並べをしてくれます!
互いに別世界(失敗危険度★★★)

●子育てに尺度はない
 子育てには尺度はない。標準もなければ、平均もない。あるのは「自分」という尺度だけ。そう
いう意味では、親は独断と偏見の世界にハマりやすい。こんなことがあった。

F君(年中児)という、これまたどうしようもないドラ息子がいた。自分勝手でわがまま。ゲームに
負けただけで、机を蹴っておお暴れしたりした。そこである日、私は母親にこう言った。「もっと
家事を分担させ、子どもを使いなさい」と。が、母親はこう言った。「ちゃんとさせています!」
と。そこで驚いて、どんなことをさせていますかと聞くと、こう言った。「ちゃんと箸並べと靴並べ
をしてくれます」と。

●「うちの子は何もしてくれないんですよ」
 一方、こんな子どももいた。ある日道で通りかかると、Y君(年長男児)は、メモを片手に、町
の中を走り回っていた。父親は会社勤め、母親は洋品店を経営していた。だからこまかい仕事
は、すべてY君の仕事だった。が、ある日、私がそのことでY君をほめると、母親はこう言った。
「いいえ、先生。うちの子は何もしてくれないんですよ」と。

 箸並べや靴並べ程度でほめる親もいれば、家事のほとんどをさせながら、「何もしてくれな
い」とこぼす親もいる。たまたま同じ時期に私はF君とY君に接したので、その違いがよけいに
強烈に記憶に残った。つまり、互いに別世界。

●互いに信じられない
 こうした例は幼児教育の世界では、実に多い。たとえばかなり能力的に遅れがある子どもで
も、「優秀な子ども」と親が誤解しているケースがある一方で、すばらしい能力をもっているにも
かかわらず、「うちの子はだめだ」と親が誤解しているケースもある。そして互いに互いのこと
が信じられない。

私が「A君(年長児)は、幼稚園へ行くとき、身の回りのしたくはすべて自分でしているのだそう
ですよ」と言うと、そうでない子どもをもつ親は、「信じられません」と言う。また反対に、「B君
(年長児)は、幼稚園へ行くとき、服をまだお母さんに着せてもらっているそうですよ」と言うと、
そうでない子どもをもつ親も、やはり、「信じられません」と言う。尺度というのはそういうもの
で、親はいつも自分や自分の子どもを基準にして考える傾向がある。言いかえると、いかにし
て自分の尺度を疑ってみるかも、子育てでは重要なポイントとなる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

エサを「ホレホレ」と見せつけて手なずける
恩を着せない(失敗危険度★★★★★)

●日本型子育て法
 日本人の子育てには、ひとつの大きな特徴がある。もう二五年ほど前のことだが、アメリカ人
の教育家が日本人の子育てを批評してこう言った。「日本人は自分の子どもに依存心をもた
せることに、あまりにも無頓着すぎる」と。つまり日本人は子どもを育てるときも、親に依存心を
もたせるように育てる。そしてその結果、親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子イコ
ール、よい子とする。反対に独立心の旺盛な子どもを、「鬼の子」として嫌う。

●ペットを手なずけるように
日本人は、子どもに依存心をもたせるような育て方をする。それはちょうどペットの犬を飼いな
らすような方法と言ってもよい。たとえば犬を飼いならすとき、エサを「ホレホレ」と見せつけな
がら、「(主人の)言うことを聞いたらあげるよ」と言う。同じように日本人も、まず子どもに何か
よい思いをさせたあと、「もっとよい思いをしたかったら、(親の)言うことを聞きなさい」としつけ
る。たとえばある女性(六四歳)は、小学五年生になった孫(男児)に、電話でこう言った。「お
ばあちゃんのところへ遊びにきてくれたら、小遣いをあげるよ。ほしいものを買ってあげるか
ら、おいでよ」と。

こういう言い方になれてしまっている人には、何でもない言葉に聞こえるかもしれないが、そう
でない人には、かなり不愉快な言い方に聞こえるはず。たとえばオーストラリアでもアメリカで
も、こういう言い方はしない。子育てのし方が基本的な部分で違う。相手が子どもでも、「食事
がほしかったら、それなりの仕事をしなさい」としつける。いわんや孫をエサで釣るようなことは
しない。

●「先生はわかってくれているからいい」
 その依存心は、相互的なもの。「産んでやった」「育ててやった」と親は子どもに恩を着せる。
着せながら、親は子どもに依存する。一方子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらっ
た」と恩を着せられる。着せられながら、子どもは親に依存する。

 こうした依存性の強い人は、万事に「甘い」。何かにつけて、してもらうのが当たり前という考
え方をする。考え方も、甘い。ある子ども(小五女児)はこう言った。「明日の遠足は休むと、学
校の先生に連絡したの?」と私が聞くと、「今日、足が痛いと言ったから、先生はわかってくれ
ているはず」と。そこでまた私が、「休むなら休むで、しっかりと連絡したほうがいいんじゃない
の?」と言うと、「先生はわかってくれているからいい」と。

●「だから何とかしてくれ」
 もう一つの特徴として、このタイプの子どもは、「だから何とかしてくれ」言葉をよく使う。たとえ
ば何か食べたいときも、「食べたい」とは言わない。「おなかがすいたア、(だから何とかしてく
れ!)」というような言い方をする。「先生、おしっこオ、(だから何とかしてくれ!)」というのもそ
うだ。

子どもだけではない。ある女性(七〇歳)はことあるごとに、彼女の息子(四五歳)にこう言って
いる。「私も歳をとりましたからね」と。しかも電話でそれを言うときは、今にも消え入りそうな
弱々しい声で言うという。こうした言い方は、先に書いた、「だから何とかしてくれ」言葉そのも
のと言ってよい。その女性は、息子に「歳をとったから、何とかしろ」と言っている。

日本語の特徴ということにもなるが、言いかえると、日本人はそれくらい依存心の強い国民と
いうことになる。長くつづいた封建時代の中で、骨のズイまで、自由(自らに由る力)を奪われ
たためと私は考える。「長いものには巻かれろ」「みんなで渡ればこわくない」と。

●日本人は依存型民族?
 一方、自立心の旺盛な子どもは、攻撃的にものごとに取り組む。生きざまそのものが攻撃的
で、前向き。このことについては前にも書いたので、問題はそのつぎ、つまりどうすれば自立心
の旺盛な子どもにすることができるか、である。

が、この問題は、冒頭にも書いたように相互的なもの。子どもに自立心をもってほしかったら、
親自身が自立しなければならない。が、たいていは親自身に、その自覚がない。親自身が「甘
え」の中にどっぷりつかっているため、自分が依存型の人間であることに気づかないことが多
い。あるいは反対に、依存的であることを、むしろ美化してしまう。よい例が、森進一が歌う『お
ふくろさん』である。大のおとなが、夜空を見あげながら、「ママ〜」と涙をこぼす民族は、世界
広しといえども、そうはない。そういう歌が、国民的な支持を受けているということ自体、日本人
が依存性の強い国民であるというひとつの証拠と考えてよい。

 子育ての目標は、子どもを自立させること。そのためにもまずあなた自身が自立する。その
第一歩として、子どもには恩を着せない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

うちの子はどうして勉強しないのかしら?
母親が一番保守的?(失敗危険度★★)

●ワーク選びの基準
 本来、地位や名誉、肩書きとは無縁のはずの、いわゆるステイ・アト・ホーム・ワイフ(専業主
婦)が、一番保守的というのは、実に皮肉なことだ。この母親たちが、もっとも肩書きや地位に
こだわる。子供向けの同じワークブックでも、四色刷りの豪華なカバーで、「○○大学××教授
監修」と書かれたものほど、よく売れる。中身はほとんど関係ない。中身はほとんど見ない。見
ても、ぱっと見た目の編集部分だけ。子どものレベルで、子どもの立場で見る母親は、まずい
ない。たいていの親は、つぎのような基準でワークブックを選ぶ。

(1)信用のおける出版社かどうか……大手の出版社なら安心する。

(2)権威はどうか……大学の教授名などがあれば安心する。

(3)見た目の印象はどうか……デザイン、体裁がよいワークブックは子どもにやりやすいと思
う。

(4)レベルはどうか……パラパラとめくってみて、レベルが高ければ高いほど、密度がこけれ
ばこいほど、よいと考える。中にはぎっしりと文字がつまったワークブックほど、割安と考える親
もいる。

●インチキ教授たち
 しかしこういうことは大手の出版社では、すでにすべて計算ずみ。親たちの心理を知り尽くし
た上で、ワークブックを制作する。が、ここに書いた(1)〜(4)がすべて、ウソであるから恐ろし
い。大手の出版社ほど、制作は下請け会社のプロダクションに任す。そしてほとんど内容がで
きあがったところで、適当な教授さがしをし、その教授の名前を載せる。この世界、肩書きや地
位を切り売りしても、みじんも恥じないようなインチキ教授はいくらでもいる。出版社にしても、
ほしいのは、その教授の「肩書き」。「中身」や「力」ではない。だいたいにおいて、大学の教授
ともあろう人が、子どものワークブックなどにかかわるはずがない。

●ワークブック選びは慎重に
 今でもときどき、テカテカの紙で、鉛筆では文字も書けないようなワークブックをときどき見か
ける。また問題がぎっしりとつまっていて、計算はおろか、式すら書けないワークブックも多い。
さらにおとなが考えてもわからないような難解な問題ばかりのワークブックもある。見た目には
よいかもしれないが、こういうワークブックを子どもに押しつけて、「うちの子はどうして勉強しな
いのかしら?」は、ない。

 私も長い間、ワークブックの制作にかかわってきたが、結論はひとつ。かなり進歩的と思わ
れる親でも、こと子どもの教育となると、保守的。保守的な面を批判したりしても、「そうは言っ
てもですねエ……」とはねのけてしまう。しかしこの母親たちが変わらないかぎり、日本の教育
は変わらない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

お母さんが苦労するのは、お父さんのせいよ
父親は母親がつくる(失敗危険度★★)

●互いに高次元な立場で!
 こう書くと、すぐ「男尊女卑思想だ」と言う人がいる。しかしもしあなたという読者が、男性な
ら、私は反対のことを書く。

 あなたが母親なら、父親をたてる。そして子どもに向かっては、「あなたのお父さんはすばらし
い人よ」「お父さんは私たちのために、仕事を一生懸命にしてくれているのよ」と言う。そういう
語りかけがあってはじめて、子どもは自分の中に父親像をつくることができる。もちろんあなた
が父親なら、反対に母親をたてる。「平等」というのは、互いに高次元な立場で認めあうことを
いう。まちがっても、互いをけなしてはいけない。中に、こんなことを言う母親がいる。

●父親の悪口を言う母親
 「あなたのお父さんの稼ぎが悪いから、お母さん(私)は苦労するのよ」とか、「お父さんは会
社で、ただの倉庫番よ」とか。母親としては子どもを自分の味方にしたいがためにそう言うのか
もしれないが、言えば言ったで、子どもはやがて親の指示に従わなくなる。そうでなくてもむず
かしいのが、子育て。父親と母親の心がバラバラで、どうして子育てができるというのか。こん
な子どもがいた。

●男を男とも思わない
男を男とも思わないというか、頭から男をバカにしている女の子(小四)だった。M子という名前
だった。相手が男とみると、とたんに、「あんたはダメね」式の言葉をはくのだ。男まさりというよ
り、男そのものを軽蔑していた。もちろんおとなの男もである。そこでそれとなく聞いてみると、
母親はある宗教団体の幹部。学校でもPTAの副会長をしていた。一方父親は、地元のタクシ
ー会社に勤めていたが、同じ宗教団体の中では、「末端」と呼ばれるただの信徒だった。どこ
かボーッとした、風采のあがらない人だった。そういった関係がそのまま家族の中でも反映さ
れていたらしい。

●夫婦像をつくるのは親
 で、それから二〇年あまり。その女の子のうわさを聞いたが、何度見合いをしても、結婚には
至らないという。まわりの人の意見では、「Mさんは、きつい人だから」とのこと。私はそれを聞
いて、「なるほど」と思った。「あのMさんに合う夫をさがすのは、むずかしいだろうな」とも。

 子どもはあなたという親を見ながら、自分の親像をつくる。だから今、夫婦というのがどういう
ものなのか。父親や母親というのがどういうものなのか、それをはっきりと子どもに示しておか
ねばならない。示すだけでは足りない。子どもの心に染み込ませておかねばならない。そういう
意味で、父親は母親をたて、母親は父親をたてる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

日本の子どもは何もしない
使えば使うほどよい子(失敗危険度★★★★)

●子どもは使え
「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。それを一口で言ってくれ。私
は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)父親がいた。「あんたの本を、何冊も読
む時間など、ない」と。私はしばらく間をおいて、こう言った。「使うことです。使って使って、使い
まくることです」と。

 そのとおり。子どもは使えば使うほど、よくなる。使うことで、子どもは生活力を身につける。
自立心を養う。それだけではない。忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。この忍耐力や
根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。

●「日本の子どもはスポイルされている」
 ところでこんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。「日本の子どもたちは、一〇〇%、スポ
イルされている」と。わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。そこで私が、「君
は、日本の子どものどんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼は、こう教えてくれた。

「ときどきホームステイをさせてやるのだが、食事のあと、食器を洗わない。片づけない。シャ
ワーを浴びても、あわを洗い流さない。朝、起きても、ベッドをなおさない」などなど。つまり、
「日本の子どもは何もしない」と。反対に夏休みの間、アメリカでホームステイをしてきた高校生
が、こう言って驚いていた。「向こうでは、明らかにできそこないと思われるような高校生です
ら、家事だけはしっかりと手伝っている」と。ちなみにドラ息子の症状としては、次のようなもの
がある。

●ドラ息子の症状
(1)ものの考え方が自己中心的。自分のことはするが他人のことはしない。他人は自分を喜
ばせるためにいると考える。ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。自分の思い
どおりにならないと、不機嫌になる。あるいは自分より先に行くものを許さない。いつも自分が
皆の中心にいないと、気がすまない。(2)ものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。
目標を定めることができず、目標を定めても、それを達成することができない。あれこれ理由
をつけては、目標を放棄してしまう。ほしいものにブレーキをかけることができない。生活習慣
そのものがだらしなくなる。その場を楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ
消費的な行動が多くなる。(3)ものの考え方が無責任。他人に対して無礼、無作法になる。依
存心が強い割には、自分勝手。わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目
立つ。(4)バランス感覚が消える。ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従って
行動することができない、など。
あなたの子どもをドラ息子、ドラ娘にしたくなかったら、とにかく使うこと。それ以外にあなたの
子どもをよい子にする方法はない。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(090209)

●増大する社会不安(Crisis of Thoughts)

++++++++++++++++++

そのうち何らかの統計的数字が示されるのだろうが、
このところ社会不安が増大しているのを、直接、
肌で感ずることができる(2月10日、09)。

国によっては、すでに臨界点に達しているところもある。
ロシアがあぶない。
中国もあぶない。
アメリカもボヤボヤしてきた。
そしてこの日本も……?

しかしこのモロさは、いったい、何なのか?
たった半年、不景気がつづいたというだけで、
世界はガタガタになってしまった。
経済誌を読んでも、「垂直降下」という文字ばかりが目立つ。
つまり世界の経済は、垂直降下している、と。
まさに底なしの様相を見せ始めた。

精神的なモロさというよりは、思想的なモロさ。
それがこの大不況を機に、一気に噴出してきた。
いったい、私たちは、何をしてきたのだ。
豊かな生活の中で、何をしてきたのだ。
ただそれを楽しんできただけなのか?

何というはがゆさ。
何というやるせなさ。

モノの動きが止まったというだけで、どうして
こうまでガタガタになってしまうのか。
私たちには、(思想)という武器があったはず。
しかしその武器が、まったく機能していない。
人間というのは、それほどまでにモロい生き物だったのか。

+++++++++++++++++++

●日本人の老後vs欧米人の老後(How do we live our old Ages?)

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日本人は、常に残すことを考える。
欧米人は、常に使うことを考える。
こうした(ちがい)が、明確にわかるように
なるのが、老後。

日本では、腰も曲がり、ヨボヨボになったような
老人が、何千万円も、何億円も金融財産を
もっていたりする。
現金でもっている人も多い。
(それが悪いことだと言ってるのではない。
どうか、誤解のないように。)

一方、欧米人は、必要最小限の生活費を確保した
あとは、使う。
「万が一のため」とか、「いざというときのため」とか、
そういう考え方はしない。
使って、老後の人生を楽しむ。

こうした(ちがい)は、生活のあらゆる場面で見られる。
いわんや「家」の心配など、しない。

少し前だが、フランスに住む友人から、こんな
話を聞いた。
何でもその息子氏(フランス人)が、実の母親から、
実家を買わないかという申し出を受けているという。
わかるかな?

実の母親が、自分の息子に、実家を買わないかと
申し出ているというのだ。

私はその話を聞いたとき、軽いカルチャショックを
受けた。
日本人にはない発想である。
日本人なら、自分が住んでいる実家を、息子に売るような
ことはしない。
が、「実家をあなたに売りたいから、買わないか?」と。

もしそのとき息子氏がそれを断れば、母親は別の人(他人)に、
実家を売ることになる。
売って、そのお金で、母親は自分の生活を楽しむことになる。

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国がちがえば、ものの考え方もちがう。
私たちが常識と思っていることでも、外国では非常識となる。
私たちが非常識と思っていることでも、外国では常識となる。
で、最近だが、私たちの世代を中心に、欧米流の考え方をする人がふえてきた。
「子どもたちに財産を残すくらいなら、自分たちで使ってしまおう」と。
「元気で体が動く間に、そのお金で、余生を楽しもう」と。
実は、私たち夫婦も、そうである。
……というより、これはワイフの考え方。
その考え方に、私もこのところ急速に同調するようになってきた。

「家」意識など、もとからない。
私たちは私たち。
息子たちは息子たち。
いまどき「先祖だの」「子孫だの」と言っている人の、気が知れない。
ホント!

ついでに私の先祖について書く。

私の父方の祖父は、貧しい農家に生まれた。
何番目の子どもだったかは知らないが、祖父は10歳くらいのとき、町へ出て、
鍛冶屋の小僧となった。
それから15、6歳まで働き、さらに2年間、礼奉公というのをして独立した。

鍛冶屋で身を起こしたが、いち早く自転車に目をつけ、それ以後は自転車屋を営んだ。
1度、祖父は、祖父が生まれ育った家を見せるため、私をそこへ連れていってくれた
ことがある。
道路から、(道路といっても、当時は農道だったが)、3〜5メートルほど入ったところに、
それはあった。
幅は2間、長さは4間ほどの、土壁むき出しの家だった。
窓はなかったように記憶している。
私が中学生のときのことだった。
私はそのあと、記憶は確かではないが、1週間とか、1か月後ではなかったかと、
思うが、こんどは、ひとりでその家を見に行った。
私はあまりのみすぼらしさに、再度、驚いた。

それだけではないが、そういうこともあって、親類の人たちが、ことあるごとに
「林家」「林家」と、「家(け)」をつけて呼んでいるのを聞くたびに、
大きな違和感を覚えた。

ただ祖父の甥(おい)にあたる人が、そのあと、そのあたりでかなりの財産家に
なったらしい。

立派な家を建て、そこに住んでいる(姉の言葉)。
親類の人たちは、その甥の家を見ながら、祖父の先祖の家と思い込んでいる。
しかし祖父が生まれ育った家は、先に書いたとおりである。

話を戻す。

要するに、「私」を大切にするか、「家」を大切にするか。
それが日本人と欧米人の(ちがい)ではないか。
こと私のオーストラリアの友人たちについて言えば、「家」意識など、もとからない。
おそらく彼らは、日本人がもつ「家」意識そのものを理解できないだろう。
説明するだけ、ムダ。

つまりそのあたりまで掘り起こして考えないと、日本人と欧米人の老後の送り方
の(ちがい)を説明できない。
もちろん宗教観もちがう。
それはあるが、あとはそれぞれ個人の生き方ということになる。
「それでも家は大切」と考える人もいるだろう。
「やはり個人のほうが大切」と考える人もいるだろう。
大切なことは、それぞれの立場の人が、それぞれの立場を尊重すること。

多くのケースでは、保守派の人たちのほうが、力をもっている。
伝統を背中に負っている。
その分だけ、強い。
「昔からこうだ」と言えば、相手を黙らすことができる。
私たちのような改革派を、異端として退けてしまう。
力のバランスにおいては、私たちは弱者でしかない。

そんなわけで、「私は私だア」と叫んだところで、この話は、おしまい。
苦しい戦いは、まだまだつづく。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

●安土城(Azuchi Castle)

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安土城(あづちじょう)といっても、今は三重塔と
二王門をのぞいて、何も残っていない。
天主跡、本丸跡までの山道には、石段が残っているだけ。
そのはずれに、三重塔と二王門がある。
ともに信長が、甲賀から移したものとされる。
「移した」というと聞こえはよいが、本当は略奪したもの(?)。
あるいは戦利品。
しかし行ってみてまず思うのが、「どうしてこんなところに?」と
いう疑問。
が、その謎も、天主跡まで登ってみると、解ける。
天主跡からは、遠く琵琶湖がすっぽりと見える。
入り口でもらった案内書には、こうある。
「現在は四方とも干拓により陸地となっているが、
当時は琵琶湖の内湖に囲まれ、南方のみが開けた地形であった」と。

ナルホド!

「岐阜城よりも京に近い利便性があり、北陸・東海の要所であった」とも。

さらにナルホド!

それにしても入場料の500円は高い。
「国の特別史跡に指定されている」とのことだが、それが理由で、500円?
400段近い石段を上って、下りるだけ。
随所に、「許可なく〜〜するな」の看板だけが、やたらと目立つ。
観光客を、もう少し温かく迎えてほしい。

同じ案内書には、こうある。
「石段は急で、危険な箇所があっても、安全策をほどこすことが
できません。史跡内では、各自、自己責任で御入山ください」と。
こういう文章そのものが、実にお役人らしい。
どこかインギン無礼?

+++++++++++++++++++++

●入場料が500円

安土城の最大の特徴は、日本最古の(?)天守閣を備えた山城であったということ。
案内書にも、「……高さ33メートルの木造高層建築は当時、わが国ではじめてのもの
であった」とある。
つづけて「内部は信長公の御用絵師、狩野永徳の豪壮な障壁画や装飾を配していた」と
ある。
しかし、ちょっと待てエ!

「わが国はじめてのもの」とあるが、何が、その「もの」なのか?
サラッと読むと、「木造高層建築」ということになる。
そのまま読めば、「日本ではじめての城」ということになる。
それで私は、「日本最古の山城」と書いた。
が、こういう内容は、まず疑ってかかってみたほうがよい。
そこで調べてみると……。

日本最古の山城は、『663年、中大兄皇子(天智天皇)が、唐と新羅の連合軍に敗れたとき、
大宰府を守るために築かれた、朝鮮式山城「大野城」である。 今では国の特別史跡に指定さ
れている』(福岡県立四王寺県民の森管理事務所・HP)とある。
さらに高層建築物ということになれば、法隆寺の五重塔がある。
時代は同じく6〜7世紀までさかのぼる。

となると、「33メートルもある建築物が、わが国はじめて……」ということになる(?)。
案内書にも、こうある。
「……5層7階(地上6階地下1階)」と。
つまりそういう高層建築物としては、「わが国はじめて」ということか。

が、安土城は、信長が本能寺で自刃してからまもなく、「一夜にして焼失、落城した」。
信長が本能寺で自刃したのは、天正10年(1582)の6月2日。
安土城が落城したのは、同じ年の6月15日。
「織田信雄が誤って焼き払ったという説や、敗走する明智光秀軍による放火という説など
が有名」(同、案内書)と。
いろいろと説が交錯しているらしい。

どうであるにせよ、今は、何もない。
ないのに、「わが国はじめて……」は、おかしい。
あまりたとえはよくないかもしれないが、パンを買いに行ったら、「これは日本で
はじめてのパンを包んだ包装紙です」と言って、包装紙を買わせられるようなもの。
あとは頭の中で、勝手に想像しろということか。

だとするなら、やはり500円は高い。
浜松城だって、石段を上り下りするのは、ただ。
城の中へ入るときだけ、料金を取られる。
が、安土城では、いちばんふもとの大手道へ入るときに、500円!
信長にしても、どうせ当時の民衆を虐げて作らせた城ではないか。

どうして500円にこだわるかって?
それには理由があるが、ここには書かない。

(付記)
日本人は、自分の家をもつと、こう言う。
「これは私が建てた家です」と。
私も以前、オーストラリアの友人に手紙でそう書いて、失敗したことがある。
友人は、あわてて手紙をくれた。
「ヒロシは、大工だったのか?」と。

正しくは、「私が買った家」、もしくは「大工さんに建ててもてらった家」である。
同じように、案内書には、「信長公が築城した」などとある。
おそらく信長は、木材一本、削っていないだろう。
が、この日本では、「私が建てた家」という。
このあたりにも、日本人独特の「家」意識が隠されている。
その家意識が、そういう表現の仕方につながっている。

繰り返すが、安土城は信長が建てた城ではない。
信長が命令して、建てさせた城である。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090211)


●大不況

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2007年の終わり、つまり今からちょうど
2年前、今回の大不況を予測していた人がいた。
その人は、はっきりと「サブプライム・ローン」という
言葉まで使っていた。
その人が、どこでどういう方法でその言葉を知ったかは、わからない。
しかしちゃんと、そう書いてある。

2007年の終わりといえば、まだ世界の経済は
順調に推移していた。
貴金属の暴騰もなかったし、中国経済もしっかりしていた。
「サブプライム・ローン」という言葉すら、水面下にまだ沈んでいた。
が、「このままではあぶない!」と。

その人というのは、実は、この私である。
今朝、2年前に書いた自分のBLOGの中に、そういう
エッセーがあるのを知った。
それをそのまま紹介する。
原文は、Goo−Blogに収録してある。
日付はあとからは書き改められないようになっている。
だから2年前に私が書いたものということは、確かである。
日付は、2007年8月11日になっている。

++++++++++++++++++++++++

●不思議

2年前の当時、サブプライム・ローンなどという言葉を知っていた人は少ない。
それが2008年の秋口から、世界的な大問題の発端になると知っていた人は、
さらに少ない。
が、私は、どういうわけか、それについて、そのとき書いていた。

++++++++++++++以下、そのまま転載++++++++++++++++

【今朝・あれこれ】(07年8月11日)

+++++++++++++++

毎朝、畑に水をまく。今朝もまいた。
見ると、40センチ以上もある巨大な
キュウリがころがっていた。

驚いた!

ワイフにそれを見せると、「昨日、取った
けど、そこに置き忘れた」と。

それにしても巨大。

それ一本だけでも、ゆうに一食分はある。

+++++++++++++++

●レバレッジ

 私の趣味は、周期的に変化する。昔からそうだ。ある一定期間、ひとつのことに凝(こ)ると、
それに徹底的に没頭する。が、ひととおり、それをやりこなすと、今度は別のものに移動してい
く。

 興味の対象もそうだ。今は、「経済」がおもしろい。私がほとんど経験しなかった分野だけに、
おもしろい。今朝は、「レバレッジ」という単語を覚えた。レバレッジというのは、少ない資金を元
に借り入れを行い、借り入れを使って投資した商品を担保にして、さらに借り入れと投資を繰り
返し、投資額を増やしていく手法だそうだ。

 今回のアメリカで起きた、サブプライム・ローンの焦げつきは、このレバレッジが原因だったと
いう。そう言えば、あのバブル経済のころ、この日本でも、土地投機を舞台に、このレバレッジ
をしていた人が、私のまわりにも、何人かいた。

 G氏という名前の人も、そのうちの1人。私の友人だった。

 そのG氏も、レバレッジなるものをしていた。方法は簡単。まず土地を買う。そこに小さなアパ
ートを建てる。その土地とアパートを担保に、別の土地を買う。同じようにアパートを建てる。そ
の土地とアパートを担保に、さらに別の土地を買う。同じようにアパートを建てる……。

 これを繰りかえす。当時は、毎年のように土地の価格があがっていった。「土地神話」という
のもあった。土地は値下がりしないと、誰もが信じていた。そのため土地を買うたびに、担保価
値が高くなり、G氏は、あれよあれよと思う間もなく、大資産家に変身した。当時、G氏は、43、
4歳ではなかったか。

 超高級車に乗り、浜松市内でも一等地とされる団地に、豪邸を建てた。「高級車に乗るの
は、交通事故から命を守るため」「大きな家に住むのは、経営会議をそこでするため」と、私に
はそう説明した。

 私も、何度か勧められたことがある。私は、「自宅だけは、抵当に入れない」とがんばった。
今も、昔も、私は1円たりとも借金をしたことがない。

 が、土地の価格が下落し始めたとたん、つまりバブル経済が崩壊し始めたとたん、今度は反
対に、ドミノ倒しのドミノのように、つぎつぎと負債が膨らみ、結果的には、会社は倒産。G氏自
身も、自己破産に追いこまれた。

 その当時を思い出しながら、「あれがレバレッジだったのか」と。ひょっとしたら、そういうの
は、レバレッジとは言わないのかもしれない。ともかくも、そういうのが破たんして、結果的に、
今回、世界的な株価暴落を引き起こしたということらしい。

 今のところ、世界の中央銀行が市中にお金をばらまき、銀行の信用不安は沈静化に向かっ
ている(日経新聞)ということだが、まだわからない。日経新聞のコラムニストのY氏は、つぎの
ように書いている。

 「1点目のリスクは、ヘッジファンドなどの投資実態が分からないだけに読みにくいが、市場で
は、今回損失が明らかになったベアスターンズ傘下のヘッジファンドほどの規模でレバレッジを
かけ、サブプライム関連のリスクを抱え込んでいるファンドは少ないとの見方が多い。実際、も
し破綻に瀕した大規模なファンドが数多くあるならば、既に現時点で明らかになっているだろ
う」(8月11日付け)と。

 ついでながら、「レバレッジ」とは、英語ではどう書くのだろう? 手持ちの「Collins Australi
an Pocket Dictionary」をあちこち調べてみたが、わからなかった。……いや、あった! 
「R」ではなく、「L」で始まる単語だった。

 "leverage"とつづるのだそうだ。意味は、"the action of a lever, the mechanical advantage 
gained by using a lever, strategic advantage" (レバーのアクション、レバーを使って得られた
機動的な利益、戦略的な利益)だそうだ。

 ナルホド! 「戦略的な利益」のことか! 今朝も、またまた新しい発見でスタート! ……し
かしレバレッジをしている人たちから見ると、私のようにコツコツと働いている人は、バカに見え
ることだろう。さらに無料でマガジンを発行している人は、バカに見えることだろう。

++++++++++++++以上、そのまま転載++++++++++++++++

「どんなもんだい」と胸を張るようなことはしない。
張っても意味はない。
肝心のその私ですら、かなりの被害を蒙(こうむ)っている。
ワイフもこう言った。
「わかっていたのに、どうして債権なんかに手を出したの?」と。

そう、そのあたりが私の未熟なところ。
頭の中ではわかっていても、行動がそれに伴わない。
ヘマばかりしている。
といっても、つまり被害といっても、全体でならしてみれば、プラスマイナス・ゼロ。
それでも損をしたことは事実。

が、我ながら、よくわかっていたものだと感心する。
自分の原稿を読みながら、感心する。
しかし私は、どこでそういう情報を得たのか。
またどういう経緯でその原稿を書いたのか。
いろいろ思い出してみるが、それがはっきりしない。

それにしても不思議なことがあるものだ。
どうして私は、こんな原稿を、そのとき書いたのだろう。

同じ日(07年8月11日)、韓国の経済についてのエッセーも書いている。
それをそのまま紹介する。
当時の人たちがいかに、ノー天気であったかが、これでわかる。

++++++++++++++以下、そのまま転載++++++++++++++++

●大本営発表

++++++++++++++

今日は、8月13日、月曜日。
朝、5時。

最大の関心ごとは、株価の値動き。
今日の動きを見れば、これから
1週間の、世界情勢のおおかたの
見当がつく。

さあ、どう出るか、アメリカの
サブプライム・ローンの問題!

……ということで、韓国の朝鮮N報の
経済欄をのぞく。

しかし……。こういうのを大本営
発表というのだろう。私のような
ド素人にも、明らかにウソをわかる
記事ばかり。

経済は数字に始まって、数字に
終わる。

++++++++++++++

●朝鮮N法のウソ記事

 まず、朝鮮N法の記事を読んでみてほしい。8月11日付きの記事をそのまま紹介する。(朝
鮮N報の記事のばあい、署名入りの記事は、たいていデタラメなウソ記事と考えてよい。さすが
良心がとがめるのか、あとあとの責任のがれのためにそうするのだろう……と、私は解釈して
いる。)

++++++

 『今回のサブプライム・ショックは、株式や不動産、消費など韓国経済全般に悪影響を及ぼす
ものとみられる。しかし、1997年のアジア通過危機のような大規模危機へと進展する可能性
は低い、という分析が出ている。

 何よりも、問題となったサブプライム・ローンによる韓国の直接的な損失規模がそう大きくは
ない。金融監督院の関係者は10日、「一般投資家が加入した海外の債券ファンドのうち、ごく
少数が、米国のサブプライム・ローンに投資した可能性があるが、分散投資されているため、
特に問題はない」と語った。

 ただ、ウリ・外換・新韓・国民・産業銀行や農協など、一部の銀行と保険会社がサブプライム・
ローン関連の債券に計8億4000万ドル(約994億3080万円)投資しており、6月末基準で
投資額全体の4・5%に当たる約3800万ドル(約44億9800万円)の損失を出した。しかし、
これらの金融機関の資産規模が、それぞれ数十から数百兆ウォンに達するという点を考慮す
ると、大きな打撃にはならないといえる。

 しかし、株式市場は相当な打撃を受けるものとみられる。今回の事態で、世界の投資家たち
が危険を回避し、安全な資産を選好する現象が広がるにつれ、韓国をはじめとする新興市場
で、株式を売りに出す可能性が高いためだ。特に、今年に入り韓国の株式市場の上昇率が相
対的に高かったため、世界の株式市場が下落した場合、韓国はさらに大きな下落率となること
も考えられる。グローバル株の低調が長期化する場合、海外ファンドの加入者も損失を免れな
くなる。

 今回の事態で「円キャリートレード(金利の低い日本で円を借り、海外資産に投資すること)」
の清算が加速化し、各国に投資された円資金が流出する場合、韓国国内の不動産市場にも
影響が及ぶ可能性がある。韓国企業が円資金を借りて不動産に投資したケースが少なくない
ためだ。そのため、内需の景気回復も遅延する可能性がある。

 ただ、円キャリートレードが清算されれば、円高に向かう可能性も残されており、日本企業と
ライバル関係にある韓国企業の輸出にとっては好材料にもなり得る。

 S経済研究所のT副社長は、「米国とヨーロッパの金融当局が積極的に対応していることに
加え、アジア経済が好調を見せ、アジア各国に外貨資産が多く蓄積されているため、通貨危機
のような大規模な危機へと発展する可能性は少ない」と述べた』(I・J記者)と。

++++++

 順に整理してみよう。

(1)大規模危機へと進展する可能性は低い。
(2)韓国の直接的な損失規模がそう大きくはない。
(3)金融機関の資産規模が、それぞれ数十から数百兆ウォンに達するという点を考慮すると、
大きな打撃にはならない。
(4)今年に入り韓国の株式市場の上昇率が相対的に高かった。
(5)円高に向かう可能性も残されており、日本企業とライバル関係にある韓国企業の輸出にと
っては好材料にもなり得る。
(6)アジア各国に外貨資産が多く蓄積されている。

 S経済研究所のT氏が、「米国とヨーロッパ……」と書いて、わざわざ「日本」をはずしているこ
とに注目。世界の新聞は、「日米欧」と、「日本」を入れている。

 これについては毎度のことだから、ここでは目をつぶることにしよう。

 (1)の「大規模危機へと進展する可能性は低い」については、主語が「世界」なのか、「韓国」
なのか、よくわからない。世界的な大規模危機にはならないとは、私もそう思っているが、韓国
にとっては、そうではない。それについては、今まで、たびたび書いてきた。

 (2)と(3)については、なぜこうまで韓国はオメデタイのか、その理由がよくわからない。つぎ
の数字を見てほしい。

 第一銀行  外資比率100% (筆頭株主:スタンダード・チャータード)
 韓美銀行  外資比率 99% (筆頭株主:シティ・グループ)
 国民銀行  外資比率 86% (筆頭株主:バンク・オブ・ニューヨーク)
 外換銀行  外資比率 74% (筆頭株主:ローンスター)
 ハナ銀行  外資比率 72% (筆頭株主:ゴールドマンサックス)

 わかるかな? エッ、まだわからない?

 国策銀行のウリ銀行をのぞいて、韓国の銀行は、すべて、外資の支配下にあるということ。
国民銀行を例にあげてみると、86%が、外資。しかもその筆頭株主は、バンク・オブ・ニューヨ
ーク! アメリカの銀行である。わかりやすく言えば、韓国の銀行は、アメリカの銀行、もしくは
その支店と考えてよい。

 アメリカの銀行が巨大な損失をかかえているのに、その子分である韓国の銀行が、「大きな
打撃にならない」とは! (これに対して、日本の銀行のばあい、役員に外人を置いている銀行
は、ゼロ!)

 「金融機関の資産規模が、それぞれ数十から数百兆ウォンに達する」ということだそうだが、
それはだれのお金か、まず、それを冷静に考えてみること。だいたい「資産規模」というところ
が、恐ろしい! 日本でいう「資産」ということなら、それは株主、つまり投資家のもの。預貯金
額を言うなら、それは預金者のもの。

 (4)の「今年に入り韓国の株式市場の上昇率が相対的に高かった」というのは、どことくらべ
て「相対的に高かった」というのか。

 韓国では、外資が逃げ、個人投資家が逃げても、しかし株価だけはあがるという珍現象が、
続発している。

 株価というのは、だれかが買うからあがる。買わなければ、あがらない。では、だれが買う
か?

 いわずと知れた、「自社」である。株式制度、それに付随する法律は、国によって、すべて異
なる。韓国では、「自社株の売買」が、ごくふつうのこととしてなされている。

(5)「円高になれば、韓国企業にとっては有利」とか?

 ならば聞くが、ではなぜ自国の通貨を、ウォン安にしないのか? きわめて簡単な質問であ
る。そうすれば何も円高を待たなくても、韓国企業にとっては有利になるはず。が、韓国政府
は、つい先週も、2か月連続で、日本でいう政策金利をあげている。(今月、0・25%あげて、
0・5%になった。)

 政策金利をあげれば、世界の投資家たちが、韓国のウォンを買う。そのためウォンが値をあ
げる。ウォン高になれば、輸出企業に不利になる。韓国政府は、自国ガ貿易立国であることを
百も承知の上で、自国の通貨をウォン高に導こうとしている。こういう矛盾を、いったい、この記
事を書いた記者は、どう説明するのか。

 実は、韓国は、ウォン安にできないのである。ウォン安にしたら、それこそ、現在アメリカで起
きている、サブプライム・ローンと同じ問題が、韓国国内で起きてしまう。世界的にみれば、規
模は小さいが、韓国経済を崩壊させるには、じゅうぶん。

 何としてもウォン高を維持して、外資を自国へ呼びこまねばならない。そのことは、つぎの数
字をみればわかる。

 韓国貿易収支    2005年…… 327億ドル
              2006年…… 292億ドル
              2007年…… 100億ドル以下(07年第一四半期より推定)

 つまり毎年、韓国の貿易収支は、見た目よりもはるかに速いスピードで悪化している。2008
年には、赤字に転落するかもしれない。ここ1〜2年、設備投資額も、前年度比、毎年、1〜
2%という、まさにK国並みの低さで推移している。

 こういう状態で、円高になったらどうするか? 韓国は基本技術、および製造機器のほとんど
を、日本に頼っている。「有利」になるどころか、その分だけ、たちまち輸入額に、円高分が上
乗せされてしまう。

 が、何といっても最大のウソは、(6)の「アジア各国に外貨資産が多く蓄積されている(からだ
いじょうぶ)」という部分。

 百聞は一見にしかずという。つぎの数字を見てほしい。

 韓国の所得収支    2005年…… ▲16億ドル(赤字)
                2006年……  ▲ 5億ドル(赤字)
                2007年……  ▲20億ドル以上の赤字(07年第一四半期より推
定)

 所得収支というのは、モノの売買で得るのを「貿易収支」と呼ぶのに対して、債権・債務で発
生する収支のことをいう。

 ここ数年、韓国では、この所得収支が赤字なのである。赤字ということは、「アジア各国にあ
る外貨資産」で得るお金よりも、借金のほうが多いということ。わかるかな? エッ、まだわから
ない?

 では、説明しよう。

 あなたは借家を5軒もっている。そこからの家賃収入は、1軒分10万円として、50万円あ
る。しかし同時に、その借家を建築するために借り入れたお金の返済のため、あなたは、毎月
60万円の利息を支払わねばならない。つまり所得収支でみれば、毎月10万円の赤字という
ことになる。そういう状態でも、あなたは「うちには資産があるから、だいじょうぶ」などと言うだ
ろうか。

 韓国の今の状況を簡単に言えば、そういうことになる。そういう韓国が、「アジア各国に外貨
資産が多く蓄積されているから、(だいじょうぶ)」とは! あいた口がふさがらない!

 私のようなド素人にも、こんな程度のことはわかる。つまりこの記事を書いた、朝鮮N報のI・J
記者は、この私よりも、ド素人ということになる。

 なぜ、こうした記事には、わざわざ署名を入れるか? もうこれで読者の方は、その理由が、
おわかりのことと思う。

 私もこうした記事にはよくだまされた。つい最近まで、だまされた。韓国を代表する新聞社だ
から、だれしも「まさか!」と思う。しかしウソはウソ。読者のみなさんも、くれぐれもご注意のほ
どを!

++++++++++++++以上、そのまま転載++++++++++++++++

国がマスコミをあざむき、マスコミが国民をあざむき、やがて世界は奈落の底へと
落ちていくことになる。

今回の大不況は、まさに人災と言えなくもない面をはらんでいる。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

●依存性(Dependence)

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依存性には中毒性がある。
依存される側を、「主者」とする。
依存する側を、「従者」とする。
一度、二者の間で依存関係ができると、主者はいつも主者となり、
従者は従者となる。
途中で、立場が入れ替わるということはない。
これについては、前にも何度か書いた。
そこでここでは、もう一歩、話を進める。

++++++++++++++++++++++++++++

●親子の依存性

実は、親子関係においても、この依存性が生まれることがある。
親が主者となり、子が従者となるケースが多い。
が、反対に、親が従者となり、子が主者となるケースもある。
一般的に、精神的欠陥、情緒的未熟性があると、従者になりやすい。
親側にそれがあれば、親が従者になる。

で、こうした依存性を、自分の中に感じたら、できるだけ早い時期に、
依存性と決別したほうがよい。
自分の親や、自分の子どもに感じたときも、そうである。
主者はますます主者になり、従者はますます従者になる。

従者は、「助けてもらうのが当たり前」という考え方をする。
そのためお金やモノの流れが、一方的になる。

で、親子のばあいは別として、(親子でもそうなるケースは多いが)、
従者が主者にそれだけ感謝しているかというと、それはない。
立場が逆転したとき、その分だけ、今度は従者が、主者を助けてくれるかというと、
それはない。

こんな例がある。

●麻痺する感覚

A氏(50歳)は、実母の実家ということで、長い間、伯父を財政的に援助してきた。
伯父は実家を守っていたが、定職はなかった。
そこで「小遣い」と称して、実母はそのつど、伯父に渡していた。
もとはと言えば、A氏が実母に渡したお金である。
ハンパな額ではない。
合計すると、年間、数百万円にはなった。
それを10年近く、つづけてきた。

が、A氏が50歳になったとき、A氏の事業が行き詰った。
一時的に多額の借金を負った。
そこでA氏はそれとなく伯父に打診してみたのだが、伯父は、だんまりを決め込んだ。
A氏はこう言った。

「私の窮状を知りつつ、音なしの構え。そればかりか、それとなく『うちは貧乏』と、
そればかりを口にするようになりました。
それもズルイ言い方をするのですね。『この3年間、旅行などしたことがない』とか、
『家の改築費に、600万円かかった。ローンの返済で、たいへん』とかなど。
実際には、町に空き地を買い上げてもらっていたのですが……」と。

だからA氏はこう言う。

「依存関係ができたら、その人を援助しても無意味です。感謝されるのは、最初だけ。
しばらくすると、それが当たり前になり、さらにしばらくすると、援助しないでいると、
逆に請求されるようになります。
それに応じないと、かえって恨まれることもあります」と。

なぜか。

●弱者の立場で

従者の心理を理解するためには、一度、弱者の立場に自分を置いてみる必要がある。
弱者には、弱者の論理がある。
こんな例で考えてみよう。

あなたの隣に、金持ちが住んでいる。
大型の外車に乗り、大きな家に住んでいる。
毎日、ごちそうを食べている。
が、あなたは貧乏。
その日の食費さえ、満足にない。
子どもの学費もままならい。

そんなある日、隣人が、金銭的な援助をしてくれた。
あなたは涙を出して、それを喜んだ。
が、あなたは一時的には感謝するかもしれないが、その気持ちは、いつまでも
つづかない。

あなたはそれまでにも、そしてそのときにも、別の心で、隣人をねたみ、そういった
不公平があることについて、大きな不満を感じていた。
だから「隣人が自分を助けてくれるのは当然」とまでは考えないにしても、
助けてくれたからといって、それまでのねたみや不満が消えるわけではない。
そのねたみや不満が、それまでにもていった慢性的な(怒り)が、
感謝の念を消してしまう。
むしろ助けてもらったことによって、ねたみや不満を増大させてしまうこともある。

●日本政府の援助

よい例が、日本政府が外国に対してする、政府間援助。
日本は毎年、東南アジアを中心に、70〜80億ドル規模の、援助をしている
(政府開発援助・06)。
しかしそういう国々が、日本に対して感謝しているかといえば、それはない。
中国にせよ、韓国にせよ、東南アジアの国々やアフリカ諸国の国々にせよ、
いまだかって、日本に感謝したという例は、ひとつもない。
「援助をやめる」と言っただけで、逆に抗議される。

あのK国にいたっては、核兵器で脅して、日本から援助をとりつけようとしている!

だから冒頭の話に戻る。
依存性には、中毒性がある、と。

が、それでもだれかを助けたくなったら、どうするか?
そういうときは、無私、無欲、自分とは関係のない人に対してしたらよい。
人間関係を破壊したくなかったら、そうする。

そうそうもうひとつ。
援助するならするで、相手をよく見極めてからするのがよい。
「逆の立場だったら、この人は、私を助けてくれるか」と。
そういう目で、相手を見ながら援助するのがよい。

●依存性の内容について

依存性にも、(1)攻撃型と、(2)同情型、(3)服従型がある。
ある親に向って、自分の努力なさを棚にあげて、「こんなオレにしたのは、お前だろ!」と
叫んだ男性がいた。
「だから、オレの責任を取れ」と。
これを攻撃型依存性という。

一方、弱々しい自分を演じながら、相手に依存する人もいる。
相手が援助しなければならないように、相手を追い込んでいく。
ある男性は、「あなたが助けてくれなければ、一家心中です」と言って、相手に
援助させていた。
これを同情型依存性という。

さらに相手に、「あなたにすべてを任せます」といった様子を売りこんで依存する
ケースもあります。
ある女性は、実弟が生活費を渡すたびに、こう言った。
「大切に使わせてもらいます」と。
つまり(もらう)のが当然という考え方をする。
これを服従型依存性という。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
依存性 攻撃型依存性 服従型依存性 同情型依存性)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●リバウンド

++++++++++++++++++++++

正月に、ひどい三日酔いをした。
体重が62キロ台まで落ちた。
三日酔いは苦しかったが、そのあと、自分の体が軽くなったのを、感じた。
実感として、それを楽しむことができた。
しかし、だ。
昨日体重計を見て、ギョーッ!
何と、66.5キロ!
4キロもふえてしまった。

ちゃんと運動はしている。
毎日のサイクリングもしている。
加えて、2、3日おきの散歩。
それでも、体重が増加!

いったい、どうなっているのだ、……ということで、
昨日からダイエット(減食)。
しかしこの空腹感は、どうしたらよいのか。
食べ物を見ただけで、ググーッと、食欲がわいてくる。
ドーパミンが線条体を、ガンガンと刺激する。
喫煙者がタバコのにおいをかいだときの反応。
それが、私の脳みその中で起きている。

しかし、ここはがまんのとき。
この誘惑に負けたら、またまた肥満に逆戻り。

(付記)
私の知人に、夕方の散歩だけで、10数キロも減量に成功した人がいる。
毎日1時間前後の散歩だけで、それを達成したという。
しかも3〜4か月足らずの間に、である。
が、どう考えても、それはおかしい。
自分で散歩してみて、それがわかった。
散歩だけで、そんなに体重を減らすことはできない。
ワイフは、何かほかに病気があるのではないかと疑っている。
しかしそんなことは口に出せない。
相手の人に、失礼。
私も少なからず、心配しているのだが……。

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●加齢臭

私もワイフも、加齢臭なるものを、あたりにまき散らしているはず。
部屋の中も、臭いはず。
しかし自分ではそれがわからない。
(におい)というには、そういうもの。

その加齢臭と闘うためには、つまり他人に不快感を与えないためには、イチに清潔、
ニに清潔。
それしかない。

私も実兄と実母の介護を、自宅でしたことがある。
そのとき、こんな発見をした。
介護というのは、便と加齢臭との闘いである、と。

ある知人も現在、実母の介護で苦労している。
話を聞くと、消臭スプレーを、家中に、10本くらい並べているという。
そのつど、消臭スプレーを、あちこちにまいているという。
「母のパッドや、ときにはお尻に直接かけることもある」と。

実は私にも同じような経験があるので、その話を聞いて、笑った。
しかしこれはそのまま、私たち自身の問題である。

私の実兄も実母も、入浴をいやがった。
寒い冬には、とくにそうだった。
「臭いから……」と言っても、当人たちには、その自覚がない。
自覚がないところが、こわい。
やがて私たち夫婦も、そうなる。

そこで最近、口臭や体臭を測定する器具ができてきた。
薬局などに売っているという話だが、私は見たことがない。
一度、試してみる価値はありそう。

さてさて、今朝も寒い。
寒いが、先ほど、ワイフにこう言った。
「あとで風呂に入ろう」と。
このところ仕事で、帰宅するのがいつも10時前後。
朝風呂に入ることが多くなった。


●ワイフのパーマ

昨日、ワイフが近くの美容院へ行ってきた。
パーマをかけてきた。
このあたりでは、髪の毛が乱れることを、「パーパー」という。
おもしろい言い方と思う。
「髪の毛がパーパーだから、美容院へ行ってくる」というような言い方をする。
で、その美容院から帰ってきた。

ギョーッ!

パーマのかけすぎというよりは、ドライヤーの当てすぎ?
髪の毛がチリジリになって、四方八方へ散っている!
骨だけの大きなちょうちんが、頭に載っているよう。

「何、その頭?」と言うと、ワイフもすでに気がついていたのか、「失敗した……」と。
まるで陰毛のカツラみたい……。

老人の髪の毛はそうでなくても、水分が少ない。
それに強いドライヤーを当てたら、どうなるか?
つまり、ワイフの髪の毛のようになる。

私「あのなあ、パーマ、パーマというけど、それをするのは、50代以上の女性だけだよ」
ワ「……?」
私「今の若い人は、パーマなんか、かけないよ。自然の状態で、うまく髪の毛を
まとめるようにしている」
ワ「……」
私「歳をとったら、髪の毛を大切にしなくちゃあ」と。

ワイフにはワイフの固定観念がある。
美容院では、パーマをかけるものだと思い込んでいる。
結果、あの独特の、バーさんセットができあがる。
バーさん独特の、いかにもパーマをかけましたというセットをいう。
不自然で、ぶかっこう。

「♪パーパー頭が、パーマをかけて、ババーになった」。
私が拍子をつけて言ったら、ワイフが怒った。

「ひどいこと言うわね」と。

今朝の日差しは白い。
ガラス戸の内側にいると、ポカポカと春の陽気。
そういえば、少し花粉症が始まったかな?
今年はあの花粉煎じ茶(杉の実を煎じたお茶)のおかげか、今の
ところ症状は軽い。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

●MSIのミニ・パソコン(U100)

++++++++++++++++++++

先月、MSIのミニパソコンを買った。
値段は4万2700円。
信じられないほど、安い。

で、今のところ、気に入っている。
家の中では、いつももって歩いている。
が、問題がないわけではない。
キータッチがソフトすぎる。
バッテリーのもちが、思ったほどよくない。
つくりが、チャチなど。
そういう欠点はあるにはあるが、
値段からして、文句は言えない。

が、このパソコンで文字を打っていると、
ときどきおかしな現象が起きる。
たとえば「た」を打ちたくて、「t」と入力して、つぎに「a」を入力する。
「a」のキーを叩いた瞬間、「t」の文字を残したまま、とんでもない行へ
カーソルが移動してしまう。

ワードでも、そうなる。
オープン・オフィスのライターでも、そうなる。

今のところ、ソフトに不都合があるのか、ハードに不都合があるのか、不明。
CPUの処理能力が、キータッチに追いつかないためかもしれない。
私は、キーを叩くのが、速い。
で、200〜300文字、日本語を打つたびに、そうなる。
しかしそれではワープロとしては、使いものにならない。
しばらく様子を見てみよう。
そのあと、ショップの人に相談してみよう。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

●レボルーショナリーロード(Revolutionary Road)

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映画『レボルーショナリーロード』を見てきた。
レオナルド・ディカプリオ&ケイト・ウィンスレット主演。
『タイタニック』の再現版……ということで、かなり期待して
見に行った。

が、星は2つの★★。
がっかり。
ワイフの評価は、3つの★★★。
2度目は、ぜったいに見たくない映画。
本当の題名は、『レボルーショナリーロード・燃え尽きるまで』。
しかし何が燃え尽きたのだろう?

++++++++++++++++++++++

平凡なサラリーマンの、フランク(ディカプリオ)。
その夫を家庭で支える、エイプリル(ウィンスレット)。
ともに、どこか不完全燃焼症候群に襲われている。
子育てに追われる、平凡な毎日。
そのエイプリルがある日、パリへの移住を提案する。
一時はフランクもその気になるのだが……。

が、ちょっとしたつまずきが、互いの不協和音となって、やがて増大していく。
ドラマとしては、どこの家庭でもあるような話。
それだけに2人の熱演が大切ということになるが、どうも盛り上がらない。
アメリカ映画にしては、少し力みすぎ。

この映画は、リチャード・イェーツの小説が基(もと)になっているという。
つまり実話とは言わないが、モデルになった夫婦がいたはず。
その夫婦の妻、つまりエイプリルには、何かの情緒的問題があったのではないか。
ウィンスレットが演ずるエイプリルは、そういう点では、まともすぎる。
つまりストーリーから受けるエイプリルの(心の問題)と、ウィンスレットが
演ずるエイプリルの(まともさ)が、どうも一致しない。
もう少し、かみくだいて説明してみよう。

エイプリルという女性は、その年齢にしては、現実感が乏しい。
ふつう、(「ふつう」という言葉は、慎重に使わねばならないが)、人は、成長とともに、
夢幻的なものの考え方から、現実的なものの考え方へと変化していく。
またそれができる人を、「おとな」という。

が、心に何らかの問題をかかえていると、その成長がはばまれる。
わかりやすく言うと、おとなになっても、おとぎの国にでも生きているかのような、
ものの考え方をする。
おそらくリチャード・イェーツは、本の中では、そういう女性を描いたのだろう。
しかし、映画の中のエイプリルは、そういう意味では、(まとも)。
そのまともすぎる点に、違和感を覚えた。

映画を見終わったとき、ワイフはこう言った。
「どこの夫婦も、いろいろな危機を乗り越えながら、成長するものよ」と。
フ〜〜ン?
ワイフも、私の知らないところで、いろいろな危機を経験していたようだ。

全体としては、制作費もそれほどかかっていない、安上がりの映画。
『タイタニック』とは、比較にならない。
が、それ以上に、ケイト・ウィンスレットが、歳をとったのが残念だった。
スタイルはよくなったが、肌が汚いのには、がっかりした。
白人の女性は、スタイルはよいが、近くで見るものではない。
……とまあ、映画を見ながら、昔、オーストラリアの友人がそう言ったのを、
思い出していた。

そうそうこのところ、睡眠不足がつづいていたこともあり、途中、10〜15分ほど、
眠ってしまった。
どちらかというと、私には、退屈な映画だった。

(追記)
年代は、逆算すると、私が満8歳前後の映画ということになる。
私が小学3、4年生のころ。
そのころすでにアメリカは、電算機、つまりコンピュータに向けて動き出していた。
私はむしろそちらのほうが、すごいと思った。
映画とは直接、関係のない話だが……。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

●霊感商法(Spritual Boom)

++++++++++++++++++++

『神奈川県警警視が関与したとされる霊感商法企業「神世界」(山梨県甲斐市)に、
強制捜査のメスが入った。癒やしや霊感ブームに乗って若い女性ら数千人から
100億円以上を集めたとみられるが、「ヒーリングサロン」と称して、セレブ気分が
味わえる高級マンションや邸宅に、被害者たちを誘い込んでいた』(以上、産経新聞・
090211)。

++++++++++++++++++++

この中で注目すべき点は、数千人から、100億円も集めていたということ。
仮に被害者が1000人とするなら、1人当たり、1000万円ということになる。

方法はこうだ。

『……神世界被害対策弁護団によると、最初は1000円の体験ヒーリングや占いで引きつけ、
「霊視鑑定」で「悪行をした先祖が取りついている。今何とかしないと!」と脅し、「力」と大書し
た紙入りのお守り袋(力(ちから)ライセンス)を10万5000万円で買わせる。 
 1万500円の「神書」と称する教典には、「人類が初めて授かった神様からの品で、本来1冊
1兆円以上だが、最低価格に設定」との後書きが。除霊のための玉ぐし料などとして金を吸い
上げ、中には1000万円以上だまし取られた主婦もいた』(同)と。

スピリチュアルブームも結構だが、そういうものに乗せられて、「1000万円以上も
だましとられた主婦もいたという。

霊視ねエ〜〜?
神書ねエ〜〜?
除霊ねエ〜〜?
玉ぐし料ねエ〜〜?

では、本当の加害者はだれかということになる。
産経新聞はつぎのようにしめくくる。

『……紀藤M樹弁護士ら弁護団は江原啓之、美輪明宏両氏が出演する「オーラの泉」や、細
木数子氏出演の「ズバリ言うわよ!」などの番組を挙げ、「ヒーリングサロンの被害はここ1、2
年で激増した。霊感を断定的に放送する番組の影響は明らかにある」と安易な霊感ブームに
警鐘を鳴らしている』(同)と。

実名をそのまま転載させてもらったが、ここに出てくる、江原氏にしても、
美輪氏にしても、加害者ではない。
彼らは、ただの「人」。
彼らはこう言うだろう。
「私たちには関係ありません」と。

そう、関係ない。
その「力」もない。
あるわけがない。
本当の加害者は、実はテレビ局である。
こうしたアホな番組を、何らフィルターにかけることなく、世間に垂れ流す
テレビ局である。

言うなれば、カルト教団の広報宣伝を、無料で請け負っているようなもの。
そしてその結果、「神世界」だけでも、数千人の被害者が出たという。
が、ここで誤解していけないのは、何も「神世界」だけが、霊感商法企業では
ないということ。
現在日本には、宗教法人だけで、20万以上もある。
さらに宗教法人格をもたないまま、個人で活動している人は、その数10倍は、いる。
最近では、町角のあちこちに、占いだの、何だのという、おかしなボックスが、
並ぶようになった。
見ると、たいてい若い女性が、そこへ出入りしている。

では本当の加害者はだれか?

実は考えることを教えない、文部科学省である。
……とまあ、話が飛躍してしまったが、教育にもその責任がないとは言わせない。
ざっとみても、小学生の40〜60%が、占いやまじないを信じている。
中には、真剣にそれと取り組んでいる子どももいる。
「霊」を信じている子どもも、ほぼ同じくらい、いる。
こうした事実を一方で放置しておきながら、何が教育かということになる。
あるいはそれについても、「信仰は個人の自由」とか言って、放任するとでもいうのか。

どうして学校で、もっと(合理)を教えないのか。
あるいは占いやまじないを、否定しないのか。
宗教問題とからんで、むずかしい点はあるということは知っている。
しかし教師が、それ以上の(合理)を子どもたちに語るのは、自由のはず。
一例だが、私は、ときどきこんな指導を、子どもたち(小学高学年児)にしている。

●錯覚(思いこみ)

「みんなは、ハンドパワーというのを知っているか?」と話しかける。
「手のひらからは、オーラが出る。そのオーラで、病気を治したり、精神を
癒したりすることができるよ」と。

中に、とたん、目を輝かせる子どもがいる。

「実は、ぼく(=はやし浩司)にも、そのパワーがある。
あまり強くはないけど、しかし君たちに見せるくらいの力はある。
これから実験してみせてやろう」と。

そこで私は子どもたちの手を、甲を上にして、机の上に並ばせる。
その上から、私の手をかざし、それを子どもたちの手に近づけていく。
そのときコツは、そういうものを信じやすそうな、つまり暗示に弱そうな子どもを、
最初に選ぶこと。

私の手のひらをゆっくりと近づけていくと、その子どもが、「アッ、感じる、
感じる……」と言う。
ふつうの人なら(おとなでも)、熱気というか、圧迫感のようなものを感じるはず。
これは大脳の視覚野から送られてきた情報を、脳みそが勝手に判断するためである。
実際に、熱気や圧迫感を感じるわけではない。
まったくの錯覚である。
すると、つぎつぎと子どもたちは、「感ずる」「感ずる」と言い出す。

で、私は、「なっ、オーラというものはあるんだよ」と言う。
それまでそういうものを信じていなかった子どもでさえ、「本当だ」「知らなかった」と
言って驚く。

多くの霊感商法も、同じような手口を使う。
で、ここで終わったら、私も、その手先ということになる。
そして実験は、つぎのようにしてしめくくる。

「では、これからが本当の実験だ。
A子さん、前に出てきなさい。
今度は、あなたに目を閉じてもらいます。
目を閉じて、ぼくのオーラを感じてもらいます。
あなたはとくに霊感の強い人ですから、ぼくのオーラを強烈に感ずるはずです」と。

A子さんに目を閉じてもらい、私は言葉だけで、こう言う。
実際には、私の両手はポケットにつっこんだまま。

「いいかな、ぼくの手を近づけるよ。
ほら、だんだん近づけていくよ。
今、ぼくの手は、君の額の上にある。
どのあたりでぼくのオーラを感ずるかな……。
ほかの人は、この距離だと、まだ何も感じないはずだ。
しかし君は特別だよ……。
ほら、もっと近づけるよ……」と。

私の両手は、ポケットにつっこんだまま。

するとA子さんは、こう言いだす。
「感じる、感じる、先生! 額が熱くなってきた……」と。

それを見て、ほかの子どもたちが、ゲラゲラと笑いだす。
笑ったところで、A子さんが目をあけ、自分がだまされたことを知る。

そこで私は脳みその構造を簡単に説明する。
思いこみで、感覚が勝手に反応してしまうことを説明する。
最後は、こう言ってしめくくる。

「オーラなんてものは、ないよ。ただの錯覚だよ。
よく駅前などに行くと、そういうことをしている人を見かけるけど、
君たちは近づかないようにね」と。

テレビ局も、そういった「人」を出すだけではなく、一方で科学的知識のある
専門家を登場させるべきである。
これは「べき」である。
つまりバランスのとれた番組づくりをすべきである。
いや、もともと、いくらブームとはいえ、そういう番組など、制作すべきではない。
少しでも知性や理性に恥じるなら、そういう番組など、制作すべきではない。

(「〜〜べきではない」という言い方は不適切かもしれないが、現在のように過剰な
状況を考えるなら、それくらいの覚悟をもって、この問題を考えたらよい。
やがて日本全体が、おかしなカルト教団化することだって、ありえない話ではない。)

プラス、一言!

占いやまじないに凝る前に、若い女性たちよ、もう少し自分の脳みそで、ものを
考えろ!
顔や頭は、飾るためだけにあるのではないぞ!
被害者だ、被害者だと叫ぶ前に、やるべきことがあるはずだ!


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090213)

●激化する社員いじめ

++++++++++++++++++

地元に、Xという自動車会社がある。
そのXに、1、2を争う下請け部品メーカーがある。
そのメーカーに、長年の友人のY氏が務めている。
BLOGを通して、親しくなった。
そのY氏に対して、こんど会社がすべてのBLOGを
閉鎖するように命令してきた。
親会社であるX社の担当者から、不適切な表現があったと
指摘されたのが理由という。
Y氏は、自分の会社名も、またXという自動車会社名も
いっさい、出していない。
また悪口を書いたり、批判記事を書いたわけでもない。
ただ写真を数枚、つまりXという自動車会社とわかる
写真を数枚、掲載しただけである。
その写真に、たまたまX社のマークが入っていた。

Y氏は一応会社に自分の意見を申し立てたというが、
「こういう時期だから……」ということで、
結局、泣く泣く、BLOGを閉鎖。

+++++++++++++++++

●言論の自由

今、この日本には、基本的には言論の自由は、ない。
「社員だから……」という理由で、自分のBLOGすらも、自由に書けない。
身分を隠しても、書けない。
好意的な意見も書けない。
どこも大不況。
それはわかるが、その大不況を理由に、社員へのしめつけが、ますます激しく
なってきている。
「敵は外」なのに、社員どうしが、身内を責めあっている。
つまりそれだけみなが、神経質になっている。
つまり(社員)は、こうして会社に、飼い殺されていく。
電話を切るとき、Y氏はこう言った。
「林さん(=私)は、いいなあ。何でも好きなことを書けるから」と。

自由を確保するためには、それなりの覚悟と、努力が必要である。
言論の自由は、さらにそうである。
いつも批判される。
攻撃される。
匿名でこそこそと、意見を書くのは、簡単だ。
が、それでも制約が入る。

たとえば総選挙で、Xという自動車会社が、政治家のZ氏を推したとする。
そのときXという自動車会社の社員はもちろん、下請けの会社の社員まで、
Z氏の批判はもちろん、ほかの候補を推薦するような文章を書くことすら、
許されない。

今回も、Y氏は、自分の趣味について書いただけである。
「不況で、クラブへの補助金が減った」というようなことを書いただけである。
が、それだけで、BLOGの閉鎖命令。
もちろんそれに逆らえば、クビ!


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

●学ぶ姿勢(Learning Ability of Children)

++++++++++++++++++

学校で、何を学ぶか。
第一義的には、過去の先人たちが学んだ知恵や知識を、
身につけるため。
「教育」というのは、「教えること」。

第二義的には、「自ら学ぶ姿勢を養い育てること:。
「教育」というのは、「自らを育てること」。

++++++++++++++++++

学校で過ごす時間というのは、人生全体からみると、短い。
高校までを、12年間としても、全体の7分の1。
短いから、意味がないというのではない。
若いころの1年は、40代、50代の、5年、あるいは10年に匹敵する。

その学校で学ぶものは多い。
過去の先人たちが身につけた、知識や知恵、経験や技術など。
それを未来に生かすために、学ぶ。

が、もうひとつ忘れてはならない意義がある。
それは「自ら学ぶ姿勢を養い育てる」ということ。
学校を卒業してからは、むしろこの力のほうが役に立つ。
役に立つだけではなく、重要。

私たちは死ぬまで、常に学びつづける。
わからないことがあれば、学ぶ。
自ら学んで、決着をつける。
その姿勢こそが、大切。

このことは中学生や高校生の受験勉強をみていると、わかる。
私は、子どもたちを指導するとき、おおまかに言えば、つぎの
3期+1期に分けている。

(第1期)学ぶことは楽しいということを教える。
年齢的には、年中児から小2、3年生まで。
この時期は、子どもを笑わせ、楽しませる。

(第2期)自学自習を身につけさせる。
自分で教科書を開き、自分で勉強させる。
「わからないところがあったら、もってきなさい」式の教え方に徹底する。
年齢的には、小3〜4年生。

(第3期)学習癖を上級生からもらう。
勉強癖のできた上級生の間に座らせ、勉強癖そのものをもらう。
つまりこうして上級生から下級生へ、勉強癖を順送りに、伝えていく。
自学自習ができるようになったら、そうする。
年齢的には、小5〜6年生。

(第4期)卒業。
たいていの子どもは、小6の終わりころになると、こう思うようになる。
「こんな林に教わるくらいなら、自分で勉強したほうがまし」と。
中には生意気になり、教室を蹴飛ばすようにして出て行く子どももいる。
悪態をつく子どももいる。
が、それこそ私が望むところ。
そのときは私の指導法の価値がわからないかもしれない。
しかし、10年、20年と過ぎたとき、そして今という過去を振り返った
とき、その価値がわかる。

繰り返すが、大切なのは、自ら学ぶという姿勢。
その姿勢だけ育っていれば、あとは子どもは自分で伸びていく。
中学生になっても、高校生になっても、大学生になっても、さらにおとなになっても。
その姿勢のない子どもは、いつも、(そこまで)。
そこで進歩を止める。

で、私自身のことだが、ときどき高校生が学んでいる理科や社会の教科書を見る
ことがある。
今ではチンプンカンプン。
が、高校生のほうは、それを許してくれない。
容赦なく質問を浴びせかけてくる。
そういうとき私は、少し時間をくれと言いながら、その前後をさっと読む。
読みながら、学ぶ。

今のところ、学び取る力は健在のようだ。
たいていそれで生徒たちの質問に答えることができる。
つまりそれこそが、私の(力)ということになる。

そう、わからないことがあれば、自分で学べばよい。
簡単なことだが、それができない人も多い。
勉強とは、他人に教わってするものだと信じている人もいる。
しかし……。
それではいつまでたっても、真理に到達することはできない。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
教育の目的 教育とは 自学自習 学ぶ力 学び取る力)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

【SF小説】

●あの世vsこの世(This World vs. That World)

+++++++++++++++++++

今、1人の老人が、静かに息を引き取ろうと
している。
豊かだった白髪も、今は、それもちぢれ、
乾いた皮膚には、無数の深いシワが刻まれている。
酸素マスクの下で、あごだけがかすかに
動いている。

静かな朝だった。
やわらかい朝の光が、カーテンのすき間から
部屋に流れ、その先にあるテーブルを
浮かび上がらせていた。

看護士が、隣の医局で、家族に電話をしていた。
そしてその老人のいる部屋にもどってくると、こう言った。
「孝太さん、お孫さんがもうすぐ来ますよ。
がんばってね」と。
声をかけたが、すでにその老人には、それに
答える力はない。

酸素マスクのカバーを、白い蒸気で曇らす
こと。
それだけが、その老人が生きているという
証(あかし)だった。

+++++++++++++++++++

(第1話)

老人の名前は、中山孝太といった。
昭和22年生まれ。
西暦1947年。
「団塊の世代、第一号」とよく言われた。
戦後の混乱期に生まれ、それにつづく高度成長期の荒波にもまれた。

家族は、8人。
兄が2人、それに妹。
祖父母と両親。
みなそれぞれに元気だったが、孝太の父親は、フィリッピンで負傷。
右足が不自由だった。

祖父は昔からの呉服屋を営んでいた。
父は、それを手伝っていた。
が、孝太のいちばん上の兄は、孝太が3歳のとき、チフスで死去。
二番目の兄は、小児麻痺をわずらい、それ以後、寝たきりの状態になっていた。
そのこともあって、祖父母、両親の愛は、すべて孝太に注がれることになった。

孝太の下に、歳違いで、妹がいた。
孝太にはよき遊び相手だったが、妹は、生来の障害をかかえていた。
今でいう、多動児だった。
いつも落ち着きがなく、動き回っていた。
よくしゃべるのだが、話の内容には、脈絡がなかった。
思いついたことだけを、ペラペラと口にしていた。
そんな妹だったが、孝太には、よき話し相手だった。

が、やがて父が酒に溺れるようになった。
戦争の後遺症とも考えられた。
ときどき戦争の夢を見て、うなされることもあった。
が、本当の理由は、母、つまり孝太の母の愛情が消えたことではなかったか。
孝太の母は、孝太の父のふがいなさに、失望していた。
その失望感が伝わったとき、孝太の父は、酒に溺れるようになった。
そこに二男の死が重なった。

こうして孝太は、幼児期、少年期を過ごし、高校を卒業すると、京都の
大学に入った。
孝太はそこで理学の勉強をした。
その間、1年間、孝太は奨学金を得て、カナダに渡った。
バンクーバーにある、王立化学アカデミー院に、籍を置いた。
専門は、光合成。
孝太にとって、人生でいちばん輝いていたのは、そのときだった。

大学4年のとき、郷里の長野県での教員採用試験に合格し、当初は、
僻地校と呼ばれた、K高校に赴任した。
研究者の道を選ぶこともできたが、孝太は教育の道を選んだ。

そのとき知り合ったのが、孝太の今の妻。
孝太の妻は、小さなレストランの店員をしていた。

孝太は、それなりの幸福な生活を送っていたが、やがて祖父母がつづいて死去。
父も、酒がたたってか、肝臓を悪くして、そのあとを追うようにして、死去。
残ったのは、母と、それと妹だけとなった。

が、稼業は母という女性の手だけでも何とか、つづけられた。
妹が近くに住んでいて、ときどき商売を手伝っていたこともある。
が、その妹も家を出た。
隣町にある時計屋の主人と結婚した。
遅い結婚だった。
いつしか孝太が、呉服屋と、そして母のめんどうをみるようになった。
何度か、母に同居を求めたが、孝太の母は、それをかたくなに、拒んだ。

こうして10年ほどが過ぎた。
孝太には2人の息子ができた。
その間も、孝太は転勤を繰り返した。
同じ長野県の範囲だったが、そのつど孝太の家族は、引越しをしなければ
ならなかった。
そういうこともあって、孝太が自分の家をはじめてもったのは、
孝太が、40歳をすぎてからのことだった。

が、ここで孝太にとって、最大の不幸が襲いかかる。
中学生になったばかりの二男が、無免許でバイクに乗り、そのまま道路わきの
大木に激突。
死亡してしまった。
原因は、道路にできた穴に、タイヤを取られたためらしい。
そのはずみに、バイクが宙を飛び、そのまま大木に激突。
あっけない死だった。

が、このときから孝太の人生は大きく狂い始めた。
孝太の妻は、そのままうつ病をわずらい、半年後には、精神をおかしくして
しまった。
何度か自殺未遂を起こしたこともある。
が、不幸には不幸が重なるもの。
妹に離婚問題起きた。
そしてそれをきっかけに、遺産相続問題が再燃した。
妹はこう言った。
「あなたが家を継いだわけではないから、おじいちゃんが残した財産の半分は
私のもの」と。

祖父母はその町の中心街に大きな土地をもっていた。
それを母が相続していた。
折からのバブル景気で、値段が高騰していた。
母は土地を売り、妹の言うがまま、それを妹に渡した。
孝太と妹の関係は、それを契機に断絶した。

言い忘れたが、孝太の母が経営していた呉服屋も、近くに大型のショッピングセンター
ができてから、開店休業の状態がつづいていた。
高級呉服店をめざして、店を改築したのも、裏目に出た。
祖父の残した財産も、それで消えた。
やがて母は呉服屋はそのままに、孝太の家に住むようになった。
孝太は拒否できなかった。
土地の名義は、母親のものになっていた。

孝太の長男は、大学を出て、都会で仕事に就いた。
ある造船会社の設計士となった。
1人の子ども(=孝太の孫)が生まれた。
名前を、慶喜(けいき)と言った。
慶喜は孝太を、「おじいちゃん」と言って、よく慕った。

で、15年の年月は流れるように過ぎた。
孝太はそのとき55歳になっていた。
母は、その数年前、80歳で他界していた。
妹との音信はなかった。
が、そのころから孝太の妻は精神を病み、精神病棟に入院することになった。

さらに10年の年月が流れた。
孫の慶喜も、20歳になった。
妻はそのあと、認知症も加わり、孝太の顔も区別できないほどになっていた。
食事は、食道に穴をあけ、そこから摂取していた。
が、孝太が、67歳になったとき、肺炎になり、そのまま死去。
闘病生活が長かったこともあり、孝太は、むしろほっとした気分に包まれた。

孝太の長男と孫の慶喜は、孝太との同居を望んだが、孝太は、それに
応じなかった。
70歳になる少し前、自ら、有料の老人ホームに入居した。
持病の腰痛が悪化し始めたのも、そのころだった。

……孝太の死は静かなものだった。
享年、76歳。
見取る人もなく、看護士がそれに気がついたときには、孝太の皮膚は、
すでに淡いおうど色に変わっていた。

(第2話)

真っ白な部屋だった。
メカニックな動きをするものは、何もなかった。
やわらかい白いモヤに包まれていた。
そのモヤ全体が、光となり、あたりを照らしていた。

1人の若い青年が、白いベッドの上に横たわっていた。
その横に、別の青年が、ベッドの上の青年の頭から、光の輪をはずすところだった。
輪は金色に輝いていた。

ベッドの上の青年は、ゆっくりと目をあけた。
とたん、まばゆいばかりの光が、その青年の目の中に飛び込んできた。
青年には、名前はなかった。
番号で呼ばれていた。
番号といっても、64進法。
いくつかの記号が、ランダムに並んでいた。
「%A&##32……」と。

横に立った青年がこう言った。
「%A&##32さん、いかがでしたか?」と。
とたん、ベッドの上の青年は、ふと我に返った。
が、そこがどこであるかを、すぐ知った。

「結構、長く感じました」と。
それを聞いて、横に立っていた青年が、やさしい笑みを浮かべた。
「そうですか……。こちらでは、25分と30秒でした……」と。

青年は自分の名前を思い出した。
「%A&##32、コータ……」と。
突然、それが引き金となって、それまでの記憶が怒涛のように押し寄せてきた。
妻との思い出、母との思い出、それに孫の慶喜のことなど。
死はつらい経験だったが、その青年にとっては、新鮮な感じがした。

青年はベッドに横たわったまま、窓があるほうの方向を見た。
するとその部分だけ、モヤがはずれ、その向こうに、形の定まらない景色が見えてきた。
おだやかな世界だった。
何色かの淡い光の渦が見え、その先に、丸いカプセルがいくつか見えた。
%A&##32は、今まで自分がいた世界のことを思い浮かべていた。

静かな時間が過ぎた。
この世界には、怒りも、悲しみもない。
苦しみもない。
死の恐怖すら、ない。
すべての人がすべての知識と知恵を分けあっている。
望むなら、広大な土地と、広大な屋敷も、自由に手に入る。
しかしそうした現実的な、あまりにも現実的な財産を求める者は、この世界には、いない。

%A&##32の肉体にしても、自由に取り替えられる。
今は若い青年だが、それよりも若くすることも、あるいは年配にすることもできる。
男性が女性になることも、女性が男性になることもできる。
この世界では、欲望という言葉そのものが、死語。
欲望が何であるかを知りたかったら、あの世でそれを体験するしかない。

%A&##32はゆっくりとベッドから離れ、出口のあるほうへと向かった。
いや、実際には、出口などなかった。
%A&##32が歩く方向に、出口が現れた。
形のないゆがんだ空間で、%A&##32は、すべるようにしてそちらに向かった。

別の若い青年が、あとからつづいた。
今、その別の若い青年が、%A&##32から、情報伝達を終えたところだ。

青「妻が死んだとき、ほっとしたのはなぜですか?」
%「妻が苦しんだからです」
青「そうですか……」
%「それに痛がりました」

青「痛みというのは、どういう感覚でしたか?」
%「あの世では、苦痛の第一です。しかしね、本当の痛みは、心の痛みですよ」
青「心……?」
%「感情の集約かな。悲しみ、さみしさ……。それが集約されたのが、孤独かな」と。

静かな会話がつづいた。

青「今度は、どこへ行くつもりですか」
%「まだ決めていませんが、行くとしても、悲しみレベルを、20%以下にしたい
です。今度のは、少し私には、きつすぎた……」
青「そのようにプログラムするのは、簡単なことです」
%「それと、……夢とはわかっているのですが、孫の慶喜に会いたい……」と。

%A&##32と別の青年は、どれだけの時間をつかって、
どれだけの距離を歩いただろうか。
歩いたといっても、2人は、やわらかい空間を、すべるようにして移動していた
だけだが……。

が、やがて出口に着いた。
そこには、無数の人たちがいた。
しかしどの人も、やわらかいモヤに包まれていた。

%A&##32が、その中の1人に話しかけた。
若い女性だった。
首が長く、皮膚は透き通るように白かった。
衣服は身につけていなかったが、裸ではなかった。
顔から足の先まで、つなぎめのない、なめらかな1枚の皮膚でおおわれていた。

%「楽しかったですよ」
女「1940年代の日本を選ばれたのですね」
%「そうです。私は日本は、これで4505度目ですが、今までの中で、
いちばん楽しかった」
女「私は日本はまだ231回しか行っていませんが、つぎはBC500年ごろの
中国を選んでみたいです」

%「はあ、あそこはいい。で、ポジション(立場)は、どうします?」
女「皇帝のお后(きさき)でもいいですが、身分の低い奴隷でも構いません」
%「そうですね。そのほうが、楽しいかもしれませんよ」
女「じゃあ、あなたの情報を少し分けていただいていいかしら?」
%「いいですよ」と。

%A&##32は静かに目を閉じた。
とたん、若い女性の顔が、さまざまに変化した。
瞬間だが、孝太の妻の顔にもなった。
妹の顔にもなった。
長男の嫁の顔にもなった。

しばらくすると、若い女性は、「ありがとう」と言って、その場を去った。

%A&##32はあの世で見た、カナダの景色を思い浮かべた。
とたん、%A&##32の目の前に、カナダの景色が広がった。
%A&##32は、その景色の中に歩み出た。
そこにはあの世で見た、あのままの世界が広がっていた。
小さな子どもがそこにいた。
子どもが%A&##32のほうを見ると、それが慶喜であることがわかった。
%A&##32は、その子どもを、ゆっくりと抱きしめた。

(第3話)

遠い昔、人間には肉体があった。
が、いつかしか、脳が小さなチップにコピーされるようになった。
人間が、小さなチップになった。
そう考えてよい。

そのチップに、無数の配線が取りつけられ、それぞれのチップが有機的につながった。
いや、そのつながりを決めるのは、別の「大きなチップ」だった。
そのチップを中心に、無数の、数のないチップが取り巻いていた。
チップは、そのつど自分を別のチップにコピーしたり、大きなチップの命ずるまま、
接続したり、断線したりしていた。

それは無数の星のようでもある。
ひとつのチップが瞬間に光ると、それに連動して、別のチップが光る。
こうして光の渦が、その空間全体を満たす。

音はない。
動くものもない。
しかしチップがまばたきするその瞬間、そのチップは、人間が肉体をもっていた
ころの、100年分が過ぎた。
チップの世界では、20数分程度の時間に、延ばされていたが、実際には、
瞬間だった。

%A&##32のチップを見てみよう。
%A&##32のチップは、中央からややはずれた、今は白い輪になっているところ
にあった。
そのチップには、「%A&##32」という文字が刻まれていた。
大きさは、そう肉体をもっていたころの人間の尺度でいえば、数ミリ程度か。
その中に%A&##32のすべてが、詰め込まれていた。

その%A&##32は、たった今、中央の大きなチップから断線し、そこから
それほど遠くないところにある、別のチップとつながった。
そのチップは、(情報チップ)と呼ばれている。
ひとつの宇宙に匹敵するほどの情報が、そこに詰め込まれている。
%A&##32は、その中から、1970年代のカナダを選んだ。
恐らく%A&##32は、今しばらくは、1970年代のカナダの中にいるはず。

しかし……。
チップの集合体は、本当は自分たちがどこにいるか、知らないだろう。
(いる)というよりも、(ある)と言うべきか。

遠い昔、人間は、自分たちの脳を保存するために、それをコンピュータに
コピーした。
「コピー脳」と呼んだ。
それほどおおがかりな装置ではなかった。
人間には、1人あたり、100億個の神経細胞がある。
そこから10万本ずつのシナプスがつながっている。
合計しても、たいした数ではない。
それをすべてコピーいた。

が、まだチップと呼ばれるような段階ではなかった。
最初は、部屋一杯を占めるほどのおおがかりな装置だった。
しかしそれがやがて、小さな箱程度になり、最終的には数ミリ程度の大きさにまで、
縮小された。

それと並行して、コピー脳に、さまざまな感覚機器が取りつけられるようになった。
目の働きをするカメラ、耳の働きをするマイクなど。
しかし実際には、人間との会話は、不可能だった。
コピー脳の回転は、怖ろしく速かった。
コピー脳が、仮に聖書をすべて朗読したとしても、人間の耳には、ピッという信号音
にしか聞こえないだろう。
反対に人間がコピー脳に話しかけたとしても、コピー脳のほうが、それに
耐えられなかった。

こうして当初の計画、つまり人間とコピー脳をつなぐ計画は、頓挫(とんざ)した。
そのかわりに、コピー脳どうしを、(つなぐ)という方法が取られた。
が、その世界で、どんなことが起きているかを知ることは、人間にも不可能だった。
ときどき情報を取り出し、それを分析することも試みられた。
が、コピー脳にとっては瞬間でも、その瞬間を分析するだけでも、
人間には、数十年もの年月が必要だった。

こうして無数のコピー脳が作られ、月の地下、奥深くに埋められるようになった。
月が選ばれたのは、地球から近いこと。
それに何よりも、地殻が安定していた。

広い空間の中央に、それらのチップを管理する中央コントロールセンターが置かれた。
人間は、それを簡単に、「大きなチップ」と呼んだ。
それぞれのチップが仮想現実の中で勝手に創りあげた世界を、大きなチップは、
情報として記録した。
%A&##32、つまり孝太があちこちの仮想現実の中で、積み重ねた経験も、
大きなチップの中に、蓄えられた。
仮想現実の世界とはいえ、そのため、ますますリアルなものへと、それは進化しつづけた。
今では、仮想現実の世界とはいえ、そこに住む(?)人間たちは、それに気づかない。
仮想現実の世界のほうを、「この世」と思い込み、チップの織りなす世界のほうを、
「あの世」と思っている。

が、地球にいた人間に、大きな変化が起きた。
第一回目は、2013年。
つづいて2036年。
二度の大戦争で、人間は、滅亡した。
しばらく宇宙をただよっていた人間も、やがてそこで力尽きて、死に絶えた。

今の今も、地球のまわりを回る月の奥深くには、無数のチップがある。
それらのチップが、整然と並んでいる。
そして音もなく、静かな光だけを、瞬時、瞬時に発しながら、たがいに生きている。
エネルギーは、月の表面から伝わってくる、太陽のぬくもりだけ。
いつ果てるともない、また果てることもないだろう、静かな眠りについている。

静かに、静かに、いつまでも静かに……。

(終わり)

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
小説 「あの世vsこの世」「この世vsあの世」 あの世論 コピー脳 はやし浩司
小説 2009 2月14日記 )


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●ねたみのメカニズム

++++++++++++++++++++

たいへん興味深い記事を見つけた。
まず、その一部を紹介する。

『自分が妬みを持つ相手が不幸になったとき快感を得る、いわば「他人の不幸は蜜の味」と感
じる脳の働きが日本の研究グループの実験で初めて明らかになりました。

 これは、千葉市にある放射線医学総合研究所などのグループが明らかにしたものです。

 大学生19人を対象に、「妬み」を感じるときや「人の不幸を喜ぶ」ときの脳内の働きを画像診
断装置で解析しました。

 研究は、「自分は希望通りにならなかった就職や恋愛が同級生は希望通りになっている」と
いう文章を読ませて、妬みの感情を持たせる手法で行われました。

 その結果、「妬み」の感情が強いときには、体の痛みなどを処理する前頭葉の一部が活発に
なっていることがわかりました。また、「妬んだ相手に事故など不幸が起こった」という文章を読
むと、快感を感じるときの脳の部位が活発になりました。

 「文字どおり『他人の不幸は密の味』というように、密の味をあたかも味わっているかのような
脳活動が認められました」(放射線医学総合研究所 高橋英彦 主任研究員)

 研究グループは、「妬み」に関する脳内の活動が強い人ほど、「不幸を喜ぶ」領域の活動が
活発で、「他人の不幸は蜜の味」と感じやすいことが脳科学的に初めて証明されたとしていま
す』(13日11:09・ヤフー・ニュース)と。

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「やはり他人の不幸話はおもしろい……」と考えてはいけない。
たとえ脳の中の反応がそうであっても、それと闘うのが人間。
人間の理性であり、知性ということになる。
脳の命ずるまま行動していたら、人間はそのまま原始人にまで退化してしまう。

しかし今後こうしたメカニズムは、ますます解明されていくだろう。
ほとんどの人は、脳が命ずるまま、つまり(私であって私でない部分)に
命じられるまま、ものを考え、行動している。
が、自分では、「私は私」と思いこんでいる。
ここでいう「ねたみ」についても、そうだ。
人をねたむこと自体、「私はそう思う」と、「私は」と言う。
しかしそれはけっして、(私であって、私)ではない。

では、「私」とは何か?

むしろ「私」というのは、「私」を否定したところにある。
たとえば腹が減った。
そのとき、「何かを食べたい」と思うのは、(私であって私でない部分)という
ことになる。
が、そのとき、「腹は減っているが、この食べ物をもっと減っている人にあげよう」と
考えて行動したら、それが(私であって、私である部分)ということになる。

そういう意味でも、この記事は、おもしろい。
最近になく、頭の中で火花が飛ぶのを感じた。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
他人の不幸 他人の不幸話)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●雑感・あれこれ

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●眠った置き物

あれこれと置き物が並べてある家がある。
代々とつづいた旧家と言われる家に、そういった家が多い。
鉄製のものであったり、陶器製のものであったりする。
木彫りのものも、多い。

私も若いころは、そういうものを好んで買い求めた。
原石、絵画、彫り物などなど。
外国へ行くたびに、一品豪華主義というか、一品だけ、高価なものを
買い求めるのが、私のやり方だった。
しかしあるときから、パタリと買うのをやめた。
そして今は、「そんなもの、あってもしかたない」というふうに考えるようになった。

どうしてこんなに変わったのだろう?

ひとつには、そういうものは財産にならない、と考えが生まれた。
買うのは簡単だが、売るのはむずかしい。
少なくとも、元の値段では売れない。

つぎにこうした置き物は、見る人がいて、話題になってはじめて価値が出る。
見る人もいない。
価値のわかる人もいない。
であるとするなら、何のための置き物か、ということになる。
もちろんそれなりに意味のあるものなら、価値もある。
それでも、売り先を見つけるのは、むずかしい。

それにこんなこともある。

私は30代のころ、年に2〜3度は、パソコンを買い換えた。
今より値段がずっと高かった。
NECのパソコン(98シリーズ)にしても、当時、40〜50万円はした。
しかしそんなパソコンでも、1、2年もすると、すぐ使い物に
ならなくなってしまった。
よく覚えているのは、当時、Uシリーズというのが出たときのこと。
やや小型で、使いやすそうだった。
値段はやはり40万円前後だった。
で、私はそれで、当時始まったばかりの、パソコン通信というのを始めた。
パソコン通信というのは、現在のインターネットの先駆けようなもの。
が、送受信できるのは、文字情報のみ。
ひらがなか、カタカナ、あるいは英文字と数字のみだった。
やっと漢字の送受信ができるようになったかな、という時代である。
私はそれに挑戦してみたくなった。
が、何度ショップに足を運んでも、それはできなかった。
Uシリーズでは、それができないと、やがて知った。
で、また新しいパソコンを買うハメに!

……というようなことを繰り返してきたので、「何が置き物だ」という
ようになってしまった。

いや、パソコンと置き物は、直接的には関係ない。
しかし置き物も、少しよいものになると、それくらいの値段はした。
が、パソコンは、数年もすると、ガラクタ。
置き物は、ずっとそのまま。
だからパソコンを買うのは無駄と書いているのではない。
私が書きたいのは、その逆。

パソコンは今も昔も、(生きた置き物)。
一方、床の間に飾るような置き物は、(眠った置き物)。
人生も永遠であれば、また私の家も代々とつづくというのであれば、
(眠った置き物)でも、それなりの価値はあるのかもしれない。
しかしだからといって、それがどうなのか?

ここに40万円の現金があるなら、私はそれで(生きた置き物)を買いたい。
何もパソコンにかぎらない。
……とまあ、そういう(思い)が、積もり積もって、冒頭に書いたような
(思い)となっていった。
「そんなもの、あってもしかたない」と。

そうそう、モノの虚しさは、母を通して知った。
私の母は、人一倍というか、あの時代の人の常として、モノにこだわった。
モノ、イコール、財産と考えていた。
猛烈なインフレがつづいていた。
だからあの時代の人たちは、よけいに、モノにこだわった(?)。

そんな母でも、死ぬときは、身の回りには、何枚かの衣類と、コップ類しかなかった。
で、今は、そのあと片づけをしている段階だが、あまりのモノの多さに困っている。
花瓶だけでも、20個前後もある。
掛け軸だけでも、10本以上。
置き物を並べたら、八畳間がいっぱいになってしまった。
それなりに価値のあるものなら、まだよい。
しかしほとんどは、価値のないものばかり。
一部を業者に見てもらったが、「全部で、1〜2万円というところですかねエ」と。
そう言われて、私はそのまま引き下がってしまった。

しょせん、(眠った置き物)というのは、そういうもの。

『お金というのは、そのときの自分を生かしてはじめて、生きる』と。
英語で言えば、『Money can be alive when it makes us be alive.』ということか。
今、自分で、それを発見した。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●約束

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今でこそ「約束」という言葉が、ある。
みな、それがどういう意味かも、よく知っている。
しかし戦前には、どうだったか?
明治時代には、どうだったか?
さらに江戸時代には、どうだったか?

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●死語

これはあくまでも私の印象だが、遠い江戸時代の昔には、「約束」などという
言葉はなかったのではないか。
「約束」の概念すら、なかった(?)。
江戸時代には、すべてが(腹芸)で動いていた。
本音を奥に隠しながら、建前で動いていた。
『ダカラ論』『ハズ論』で動いていた。

このことは、古いタイプの村に住む、古いタイプの人たちを観察してみると、わかる。
たとえば私はG県のM町というところで、生まれ、育った。
小さな町だが、それでは人の出入りは、ほとんどない。
さらに山奥へ行くと、明治時代そのまま、江戸時代そのままというような地域がある。
文化や風習は、昔のまま。
さらにものの考え方まで、昔のまま。

そういう世界では、約束などという言葉は、死語に近い。
約束などというものは、あってないようなもの。
「約束は守らねばならないもの」という意識さえ、薄い。

●邑(むら)社会

いわゆる「邑(むら)社会」というのは、たがいに、阿吽(あうん)の呼吸
で成り立っている。
その分だけ、相互依存性が強い。
よく耳にする言葉が、「あの人は、(こちらの事情を)、わかってくれているはず」
というもの。
ものごとをはっきり言うのを、避ける。
遠まわしな言い方で、自分の意思を伝える。
そしてその結果、「わかってくれているはず」と。

そういう世界では、約束などという行為そのものが、なじまない。
へたに「約束を守ってほしい」などと言おうものなら、それだけで、その
世界から、はじき飛ばされてしまう。

こんな例で考えてみよう。
ただ前もって誤解がないように言っておくが、だからといって、私は姉を
責めているわけではない。
その地域では、みな、そういうものの考え方をする。
こういうことがあった。

●なし崩し

私の実兄の奇行が目立つようになったときのこと。
まず姉が、実兄を引き取った。
実母が骨折で入院したのが、きっかけだった。
12月も終わりごろのことである。

で、私が正月早々、実母を見舞いに行くと、「正月の間だけでも、兄をみて
ほしい」と姉は言った。
姉は「一週間だけでいい」と言った。
そこで私はそのまま実兄を浜松へ連れてきた。
が、実母の入院が長引いた。

「約束」では、「正月だけ」ということになっていた。
しかし姉には、その意識はなかった。
最初は、(母が入院したから、兄のめんどうはあなたがみるべき)と、姉は考えた(?)。
つぎに、(その母の入院が長引いたから、兄のめんどうを、つづけてみるべき)と、
姉は考えた(?)。
が、やがて、(私は嫁いだ身分だから、林家の問題は、あなた(=はやし浩司)が、
みるべき)と(?)。

こうして、なし崩し的に、最初の約束は、反故(ほご)にされた。

で、私の方はどうかというと、そのつど、「事情が変わったのだから、しかたない」
というふうに考えて、それに納得した。

●ナーナー社会

こうした行動パターンは、生活のありとあらゆる場面で、観察される。
つまり邑社会では、何ごとにつけ、白黒を明確にするのをいやがる。
あいまいなまま、つまり灰色のまま、その場その場で、うまくやり過ごすことを、
よしとする。
約束にしても、そのときだけのもの。
事情が変われば、約束の内容も変わる。

先の姉とのケースでも、私が、「正月だけと言ったではないか」と主張すれば、
そのまま大喧嘩になっていただろう。
姉にも、最初から約束を守ろうという意識はなかった(?)。
約束という概念を理解した上で、そう言ったのではない。
で、私は私で、そういう風習というか、風土的な慣習をよく知っている。
だからそのときも、姉が「約束した」とは、思っていなかった。
思っていなかったから、途中でそれが破られたところで、それほど気にしなかった。

●義理・人情の世界

では何が邑社会の秩序を保っているか、ということになる。
そこでは、約束というものが、成り立たない。
常識で考えれば、社会そのものが、バラバラになってしまう。

そこで登場するのが、「義理」「人情」ということになる。
「義理を通す」とか、「義理を欠いた」とかいうような言い方をする。
たとえば先のようなケースで、私が、「一週間の約束だったから」と言って、
実兄を姉のところに送り返したら、「義理を欠いた」ということになる。
(たとえそういう約束であっても、事情が変わった)、(だから事情に合わせて、
約束の内容も変わるのが当然)(それに異議を唱えるとは、何ごとか)と。

●村八分

だから約束を破られたほうも、何も言わない。
約束を破ったほうも、何も言わない。
(もともと約束したという意識すら、もっていない。)
たがいに何も言わないまま、ナーナーでその場をやり過ごしてしまう。

が、これは兄弟の間で起きたこと。
もし同じようなことが、他人との間で起きたら、どうなるか。
こんなケースで考えてみよう。

村の人たちが、それぞれ土地を供出しあって、道を作った。
それに対して、村が補助金を出してくれることになった。
が、このとき意見が二つに分かれた。

「出した土地の大きさに応じて、補助金を分配すべき」という考え方。
「道の奥のほうに住む人は、それだけ利益を受けているのだから、補助金は
あきらめるべき」と。

結果的に、その中でも長老格の人が、補助金の大半を受け取ってしまった。
「村長と話をつけたのは、私だから」と。

こういうケースのばあい、邑社会では、道理が引っ込んでしまう。
道理を前面に出せば、たがいの関係が気まずくなってしまう。
そこで村の人たちは、どうしたか?
しかしここからが、邑社会の怖ろしいところでもある。

補助金の分け前に与(あずか)れなかった人たちは、陰で結束をした。
そしてことあるごとに、その長老格の人に、意地悪をするようになった。
会っても、形だけのあいさつ。
何か頼まれても、やんわりとそれを断る。
重要な連絡事項を、わざと伝えない、など。

「村八分」という言葉があるが、村八分の怖ろしさは、それを経験した
ものでないとわからない。
いつしかその長老の格の人は、村八分になってしまった。

●独特の論理

邑社会では、独特の論理が働く。
その論理に従って、人々は、行動する。
そこでは、いわゆる(約束)という概念は通用しない。
(合理)という概念も通用しない。
都会に住む人なら、こう考えるにちがいない。
「どういう事情であるにせよ、約束は守るべき」とか、
「言いたいことは、はっきりと言ったほうがいい」と。

しかしそれが通らないのが、邑社会。
だから冒頭に書いた結論へとつながっていく。
「これはあくまでも私の印象だが、遠い江戸時代の昔には、「約束」などという
言葉はなかったのではないか」と。

現代社会のように、約束というものが、人間関係をしばる(契約)となったのは、
この日本でも、ごく最近のことと考えてよい。
私が子どものころでさえ、私が住む地域では、本音(ほんね)と建前(たてまえ)が、
いつも複雑に交錯していた。
ときに、何が本当で、何がウソか、わからなくなってしまったこともある。

が、幸運にも(?)、私はそういう世界から飛び出すことができた。
とくにあのオーストラリアでは、ウソは通用しない。
旧約聖書の時代から、契約、つまり約束が人間関係を築く(柱)になっている。
もちろん本音と建前を使い分けるなどということはしない。
そんなことをすれば、その瞬間、信用を失い、彼らの世界からはじき飛ばされてしまう。

さらにこの浜松というところは、昔からの街道宿場町として栄えたところである。
人の出入りもはげしい。
少なくともG県のM町と比べると、ずっとオーストラリアに近い。
(戦後、そうなった可能性はあるが……。)

しかし……。
こうした島国的な発想は、世界では、ぜったいに通用しない。
約束は守る。
どんなことがあっても、守る。
もしそれを守れないような状況が生まれたら、それを説明して、再度、約束を
しなおす。

また陰であれこれ悪口を言ったり、たがいに足を引っ張りあうくらいなら、
衝突を覚悟で、言いたいことは言えばよい。
長い目で見て、そのほうが人間関係を、すっきりとする。
自分のまわりの世界を住みやすくする。

これからはそういう世界をめざす。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
日本人と約束 約束論 邑意識)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●「笑っちゃうくらいあきれる」首相(Ass-Hoxx Prime Minister of Japan)

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歴代の首相の中で、現在のAS首相ほど、「笑っちゃうくらいあきれる」
首相はいない。
本当に、あきれるくらい笑っちゃう(小泉元首相)。

ことの発端は、こうだ。
あのおバカ首相がこう言った。
郵政民営化法案について、「私は賛成していたわけではない」と。
AS首相は、郵政民営化法案を見直しすると言い出した。
郵政族に押されての発言だった。
が、たとえそうであっても、同じ与党の元総理が、一度決めたことを
このような形で否定することは許されない。
政権党首としての一貫性がないばかりか、無責任そのもの。
無責任きわまりない。

しかも当時、AS氏は、閣僚の一人として、小泉政権の一角を担っていた。

「おバカ」「おバカ」と揶揄(やゆ)されているが、私はAS首相の脳みそ、
そのものを疑っている。
冗談ではなく、本気で疑っている。
一国の首相たる人物なのだから、一度脳ドックで検診を受けてみるべきではないのか。

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以前、AS氏が外務大臣に起用されたとき、私はわが耳を疑った。
「どうしてあんな人物が?」と。
そしてそのあと、今度は、総理大臣に!

ほんの少しでも人を見る目があったら、AS氏など、外務大臣なんかに起用しないはず。
いわんや、総理大臣になんかにしない。
が、その見る目がなかった。
AS氏は、主に若者たちの支持を取りつけ、総理大臣の地位に就いた。

そして今が、その結果。
国民にマネーをバラまくという、馬鹿げた法案を通すために躍起になっている。
参院で否決されても、衆院で3分の2の賛成を得て、法案を通すという。
それについても小泉元首相は、「そんなことまでして通さなければならない法案か」と
かみついた。
まさに同感である。

アメリカへ行っては、おべんちゃらを言い、東南アジアへ行っては、金をばらまく。
AS首相は、日本や日本人のイメージを、メチャメチャにしてしまった。
ちなみに、「アソ」という言葉の意味を、英語国から来た外人に聞いてみるとよい。
「アッソァ」というような発音に似せて、「アソ」と言ってみたらよい。
ただし、あなたはその場で、相手の外人に殴り倒されるかもしれない。
聞くとしても、慎重に!

自民党というより、政治家のレベルの低さを、今回ほど見せつけられたことはない。
同じ日本人として、なさけないと思う前に、本当に、本当に、あきれるほど笑っちゃう。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司※

●目標は、皇居、東京、日本(The Target is The Emperor's Palece, Japan)

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東京があぶない。
皇居があぶない。

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テポドン2号が発射段階に入ったという。
東亜N報(韓国)は、『K国の咸境北道舞水端里(ハムギョンプクト・ムスダンリ)基地で、ミサイ
ル発射実験に必要な装備である遠隔測定設備を組み立てる様子が、数日前、米国の偵察衛
星に捉えられたと、CNN放送が11日、米政府高官の言葉を引用して報じた』(2月12日)と、
伝えている。
これに応じて、アメリカ軍は、沖縄の嘉手納基地に、コブラボール2機を配備した。

産経新聞はつぎのように伝える(2月14日)。

『K国による長距離弾道ミサイル「テポドン2号」の発射準備を受け、米軍が弾道ミサイル監視
機「RC135S」(コブラボール)を沖縄県の嘉手納基地に展開させたことが14日、分かった』
と。

にわかにあわただしくなってきた、極東情勢。
軍事的緊張も、一触即発の状態にまで、高まっている。
が、最大の問題は、テポドン2号の目標は、どこかということ。

宇宙……?(人工衛星発射のためとは考えにくい。何のための人工衛星?)
日本海……NO!(テポドン2号でなくてもよい。)
太平洋……NO!(発射実験そのものが、失敗とみなされる。)
アメリカ……NO!(K国にその度胸はない。)
韓国……NO!(テポドン2号でなくてもよい。)

こうして消去法で選び落としていくと、残ったのは、日本。
太平洋とも考えられなくもないが、太平洋まで飛ばせば、途中で迎撃されてしまう。
「撃墜されれば、恥」(韓国紙)と、彼らは解釈している。
在韓米軍司令官も、迎撃の可能性を示唆している。

が、なぜ日本なのか?
2009年になってからのK国の動きを順に追ってみると、それが浮かび上がってくる。

(1)南北関係の緊張(これは一種の陽動作戦ではないか?)
(2)日本への攻撃示唆(K国は、たびたびそれを示唆している。)
(3)オバマ大統領へのラブコール(アメリカを牽制するため。)
(4)反日感情の悪化(日本の朝鮮S連が攻撃されているというデマを連日流している。日本の
テレビ局のレポーターに対して、「日本の朝鮮S連に人がかわいそう」と、
言っている。)
(5)K国、国内情勢の混乱(外敵を作ることによって、国内を引き締めようとしている。)

現在、K国とって、もっとも攻撃しやすい国が、日本ということになる。
理由は、はっきりしている。

(1)日本には防衛権はあっても、他国を武力攻撃することは、憲法上禁止されている。
つまり日本は、公式には反撃できない。
(2)K国のミサイルが撃ち込まれた程度では、日米安保条約は発動されない。
(3)仮にアメリカ軍が動こうとしても、韓国がそれに反対する。アメリカ軍が動けば、
朝鮮半島は、そのまま戦場と化してしまう。現在K国が韓国に対して臨戦態勢を敷
いているのは、そのためのけん制とも考えられる。またK国は、陸軍までは動かし
ていない。
(4)ミサイルの性能を示すには、これ以上の効果的な方法はない。またそれによって、
日本をどう喝することができる。

K国が、目標も定めず、ミサイル実験をするはがない……という前提に立つなら、今、いちばん
あぶないのが、東京ということになる。
東京といっても、皇居。
かつてK国の政府高官が、ズバリ、「皇居」と断言したことがある。

核兵器を搭載しているかどうかは、わからないが、(またその可能性は小さいが)、
油断は禁物。
K国にしてみれば、自国のミサイルの性能を誇示するために、もっとも象徴的意味
のある目標ということになれば、皇居。
静岡や北海道ではない。
大阪や九州でもない。
公式には、日本とK国は、いまだに(戦争状態)にある……ということになっている。
だから、皇居ということになる。

が、日本としては、それをぜったいに許してはならない。
仮に皇居にミサイルが撃ち込まれたとするなら、(載っているのが、ただのカラ弾頭であっ
たとしても)、日本経済はその瞬間から、大混乱する。
株価はもちろん下落。
一気にドル高、円安が進み、外資は逃避する。

では、どうするか?

方法は2つしかない。
(1)日本がミサイルを迎撃する。
(2)迎撃できないなら、完全に無視する。

どちらも今の日本にとっては、むずかしい。
となると、残された道は、ただひとつ。
K国を、テロ国家として、兵糧攻めにする。
中国や韓国はそれに応じないだろうが、国際世論が熱いうちに、一気にそれを推し進める。
日本にそれだけの外交能力があるかどうかは疑わしいが、今から準備しておけば、
まだ間に合う。

ただひとつ心配な点もある。

K国の核兵器開発について、「小型核なら、20発前後もっている」という説もある。
読売新聞は、つぎのように伝える。

『韓国国会国防委員会のキム委員長は2月16日、ソウル市内で開かれた国防研究院主催の
討論会で、北朝鮮が保有する核爆弾(弾頭)の数について、20個以上に上る可能性があると
の見方を示した』と。

もしそうなら、日本の兵糧攻めに対して、K国が小型核を使って報復してくる可能性も
出てくる。
何もミサイルだけが運搬方法ではない。
漁船だってある。
戦闘機だってある。
さらに日本海側には、日本の原子力発電所がズラリと並んでいる。
もしこれらのひとつでも、ミサイルで破壊されたら、日本列島の何分の1かは、
人が住めなくなる。

K国はそれを熟知しているから、ますます強気で出てくる。
日本はますます弱腰になる。

なお誤解してはいけないことがある。
ほとんどの人は、「日本有事の際には、アメリカ軍が助けてくれる」と考えている。
しかしアメリカ政府には、最初からそんな意図は、みじんもない。
コブラボールを派遣したのも、ミサイルの迎撃態勢をとったのも、それは純粋に、
母国アメリカを守るためである。
あえて言うなら、同じ型のミサイルをもつイランへのけん制という意味はある。

それだけに今回のクリントン国務大臣の訪日は、重要な意味をもつ。
が、あのAS首相に、そこまで話し込む外交的技量は、期待できそうもない。
何しろ日本を代表する「おバカ首相」(週刊文春ほか)。
私も若いころ通訳として働いたことがあるが、ああいう人物の通訳は、むずかしい。
何しろ、日本語そのものが、こわれている。

危うし、日本!、……ということになるが、私がここに書いたことが、杞憂であれば、
幸いである。

最後に一言。
ひょっとしたら、ひょっとして、K国は、人工衛星の打ち上げにロケットを
使うかもしれない。
イランはその方法で、自国のロケット技術を誇示した。
そのイランの技術者がK国に入ったという情報もある。
K国も、「宇宙開発は、世界各国の共通の権利である」というような声明を、
数日前に出している。

まっすぐ宇宙を目指せば、宇宙ロケット。
途中で軌道を東に向ければ、大陸間弾道ミサイル。
その瞬間に、極東アジアの命運は決まる。

(補記)東京都の石原都知事は、迎撃ミサイル・パトリオットを、皇居周辺に配備すべき
と主張している。今回はともかくも、次回は、みな、それを望むようになるだろう。

しかし誤解してはいけないのは、現在は電子戦の時代である。
ミサイルというのは、第二次大戦中のドイツのV2ロケットとちがい、精密な電子誘導で
飛ぶ。
ミサイル自体も、電波を発信しながら飛ぶ。
この電波をかく乱したり、妨害したりすることによって、ミサイルを迎撃するという
方法もある。
この分野では、日本は先進国なのだから、そういった方法で迎撃するということも、
当然考えているはず。

ミサイルの迎撃はそんなに簡単ではないし、また私たちが考えるほど、
単純なものではない。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

●公務員制度改革案(Restricrtion Law against Public Officers' Post-Retiement Jobs)

++++++++++++++++++

この場に及んで、人事院が、公務員制度改革法案に対して、
猛烈な巻き返し、つまり抵抗運動を繰り広げている。

人事院が反対するということは、今回の法案は、それだけ
中身があるということ。
ぜひ、来月(3月)10日までに関連法案を国会に提出し、
法案の成立をめざしてほしい。

++++++++++++++++++

●法案の骨抜き

あれほどまで法案成立に協力的だった人事院が、この場に及んで、猛烈な抵抗運動を
繰り広げ始めた。

協力的だったのは、骨抜き法案にするためだった。

今回の公務員改革法は、今まで人事院が取り仕切っていた機能を、
内閣官房に移管しようというもの。
闇に包まれていた、天下りや「渡り」を公の監視制度の下に置こうというが、
その骨子である。
その法案に、なぜ人事院が協力的だったか?
理由は明白。

内閣官房の中に設置する(新機関)の中身を、形骸化するためである。

わかりやすく言えば、職員は、各省庁からあがってきた職員にする。
人員は、多くても10人前後にする。
しかしそんな組織で、中立・公平性が保てるわけがない。
またそんな少人数で、何万人もの人事を管理できるわけがない。
(新機関)は、下(=各省庁)からあがってきた報告書を、「ホッチキスで止めるだけ」
(某週刊誌記者)の組織になってしまう。
が、それこそが、人事院の(ねらい)であった。
だから協力的だった。

が、ここにきて、人事院のねらいどおりに、ことが運ばなくなってきた。
その気配が濃厚になってきた。
そこで「猛烈な抵抗運動」となった。

●後付け理由

人事院の言い分は、こうだ。
が、その前に、これだけは、説明しておかねばならない。

公務員というのは、憲法に保障されている、労働基本権の制約を受けている。
たとえばストライキなどをして、生活の資質向上などを、訴えることができない。
そこでそれにかわる、いわば補償機関として、人事院がある。
人事院は、政府から独立性をもった中央人事行政機関と考えるとわかりやすい。
たとえば公務員の給料などは、人事院の勧告に従って、政府が決定する。

もう少しかみくだいて説明すると、こうだ。

公務員は、「給料をあげろ」というストライキができない。
そこでそのかわり、独立性をもった(?)、人事院にそのつど判断してもらうことに
よって、給料をあげてもらう。

しかし現在の人事院が、「中立・公正性」を保っているというのは、ウソ!
そのことはたとえば、現在の人事院・谷総裁の経歴をみてもわかるはず。

谷総裁は、1964年に旧郵政省に入省。
98年に事務次官。
退官後、財団法人郵便貯金振興会理事長、JSAT(ジェイサット)会長。
そのあと2004年に、人事官となり、2006年4月から、現在の人事院
総裁に就任。

わかるかな〜〜〜〜?

人事院の総裁自身が、元郵政省の官僚。
退職後は、「渡り」を繰り返した。
そしてその人物が、現職の人事院総裁!

こんなバカげた「中立・公正」があるか!
その谷総裁がこう叫ぶ(中日新聞・2月15日)。

「(人事院は)現在は制約がある労働基本権の代償という憲法の要請にかかわる機能を担う。
今回は、そうした議論がないまま、人事院の基本的な性格にかかわる変更を行おうと
している(だから反対)」と。

労働基本権ねえ〜〜〜〜?
労働基本権の代償ねえ〜〜〜〜?

そういう言葉は、この大不況の中で、明日の生活費もままならない人に向って、使って
ほしい。
天下りを数回繰り返すだけで、数億円も退職金を手にする官僚に、労働基本権とは!
谷総裁自身も、記事の中で、こう認めているではないか。

「(渡りについて)、行き過ぎている面もあった」と。
私たちは、その(生き過ぎている面)を問題にしているのである。
それを労働基本権を盾にとって、抵抗運動とは?

さらに谷総裁は、こう心配する。

「(給与改定を内閣に勧告する)人事院勧告制度が有名無実になる恐れがある」と。

有名無実ねえ〜〜〜〜?

現在、公務員の人件費だけで、38兆円(年間)あまり。
その額は、日本の国家税収の額とほぼ同じ(国家税収は、40〜42億円)。
この大不況下にあって、元公務員たちは、みな、こう言っている。
「公務員をしていてよかった」と。
一方現職の公務員たちも、みな、こう言っている。
「公務員でよかった」と。

何も1人ひとりの公務員の人たちに、責任を感じろと言っているのではない。
私は制度がおかしいと言っている。
制度の運用の仕方がおかしいと言っている。
都合のよいときだけ、憲法をもちだす。
労働基本権をもちだす。
ずるいぞ!

谷総裁は、「公務員改革のあるべき姿は?」という記者の質問に対して、
こう答えている。

「制度だけつくっても、運用が直らなければ、改革の目的は達せられない。
運用がどうしても直らないのが、今までの実態だ。
制度、運用、公務員の自覚、この3点を同時に直すことが必要」(同紙)と。

この意見にはまったく、賛成。
が、郵政事務次官から天下り、渡りを繰り返した当の人物が、そう言うのだから
恐ろしい!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
公務員制度改革法案 公務員制度改革法 人事院 人事院総裁 労働基本権 人事院勧告)

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少し前に書いた、関連記事を再度、掲載します。

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●官僚天下り、首相が承認(?)

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政府は18日(12月)、省庁による
天下りあっせんを承認する「再就職
等監視委員会」の委員長ポストが定まらない
ことを受けて、監視委員会に代わって、
AS首相が承認する方針を固めたという
(中日新聞・08・12・19)。
これは官僚の天下りが事実上できなくなっている
状況を回避するためという(同)。
そしてその結果、「……実際には、内閣府
職員に首相の職務を代行させるという」(同)と。

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わかりやすく言えば、AS首相は、「天下り監視センター(正式名:官民
人材交流センター)」を、官僚たちに(=内閣府)に丸投げした。
理由は、委員長が決まらないため、とか?
(委員長人事については、M党が、反対している。)
つまりそれまでの(つなぎ)として発足した「監視委員会」を、事実上、
ギブアップ。
AS首相は、各省庁からあがってくる書類を、ホッチキスで留めるだけ。
それだけの委員会にしてしまった。
つまり「監視」などというのは、まさに「形」だけ。
だったら、何をもって、「監視」というのか?

官僚たちは、今までどおり、何の監視も、制約も受けず、堂々と天下り
できることになる。
しかも表向き、「監視委員会のお墨付き」という、天下の通行手形まで
手にすることができる。
「オレたちは、ちゃんと監視委員会の承諾を得て、天下りしている」と。

しかしこんなバカげた話が、どこにあるのか!
(08年12月19日記)

(付記)AS首相の支持率が、今朝(12月20日)の新聞によれば、
17%前後まで、急落したという。

当然である。
(08年12月記)

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同じころ書いた記事をもうひとつ。

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●どうなる内閣人事局(Bureaucratic Government)

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官僚たちの天下りにメスを入れ、それを
一元的に管理することによって、天下りを
是正しようとして考えられたのが、
内閣人事局。
しかし今、その内閣人事局が、まさに
骨抜きにされようとしている。

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今までは、各省庁ごとに、いわば縦割り的に、
かつ慣習的に(官僚の天下り)が、なされてきた。
たとえば文科省だけでも2000近い、外郭団体がある。
官僚たちは退職すると、(あるいはそれ以前から)、
こうした天下り先を渡り歩くことで、莫大な
利益を得ていた。

が、それではいけないと、安倍内閣、福田内閣の両内閣は、
新しい人事院の創設をもくろんだ。
「内閣人事局」構想というのが、それである。

内閣人事局というのは、各省庁の幹部人事を、一元的に
管理し、それによって、従来の天下りにともなう
弊害をなくそうという趣旨で考えられた。
つまり一度、すべての天下り先を人事局に集め、
適材適所で人材を再配置しよう、と。

しかしこれが実施されると、各省庁は、独自の
天下り先(=権益)を失うことになる。

そこで官僚たちによる逆襲が始まった(?)。
その目的とするところは、内閣人事局の骨抜き。
その中身は、大きく、つぎの2つに分けられる。

(1)事実上、内閣人事局を、官僚主導型の組織にする。
(2)内閣人事局の人員を最小限(10人〜20人)にし、ただ単なる
事務組織にする。

内閣人事局を官僚主導型の組織にすれば、従来通りの天下りが可能になる。
また組織を小さくすればするほど、組織はただ単なる事務機関にする
ことができる。

そういう点では、AS総理は、まことに都合がよかった。
ちまたでは「おバカ総理」(週刊B春)と、揶揄(やゆ)されている。
官僚の言いなり……とまではいかないにしても、あのAS総理に、
そこまで期待する方が無理。
新聞などの報道を見ていても、AS総理周辺からは、公務員制度改革
の「コ」の字も聞こえてこない。

そういうAS総理を横目で見ながら、官僚たちが、「一刻も早く」と、
内閣人事院の創設を急ぎ始めている。
たとえば内閣人事院の創設を目的とする作業部会は、ほぼ1日おきという
ハイペースで行われている(08年11月)。
内閣人事院の創設に反対なら、急ぐ必要はないはず(?)。
この一見すると矛盾した動きこそが、官僚が得意とする、お家芸である。

急げば急ぐほど、いいかげんなものができる。
その(いいかげんさ)こそが、官僚にとっては、重要なのである。

幹部人事の一元化はどうする?
給与の弾力化はどうする?
昇格、降格人事はどうする?
人事の配分はどうする?
だれがどういう基準で決める?

そういう議論はいっさい、すっ飛ばして、内閣人事院の誕生!
作業部会にしても、計8回、延べ20時間程度行われただけ。
が、それこそまさに官僚たちの思うつぼ。
週刊誌などの記事によると、内閣人事院の人員は、10人程度。
多くても20人程度とささやかれている。
たったそれだけの人員で、巨大な官僚組織の人事を管理できるわけがない。
つまり(できるわけがない)という組織にすることが、官僚たちの
目的ということになる。

日本は奈良時代の昔から、官僚主義国家。
少しぐらいつついた程度では、ビクともしない。
改めて官僚たちのもつ(力)に驚く。
(08年12月18記)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
内閣人事局 官僚制度 天下り)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

●最悪の暴君・織田信長

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日本の歴史の中で、だれがいちばん暴君だったかと
いえば、織田信長。
織田信長をおいて、ほかにない。

残虐な暴君はほかにもいたが、織田信長は、群を
抜いていた。

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織田信長がいかに残虐な暴君であったかを、箇条書きにしてみる。
(参考文献:山口智司著「暴君の素顔」・彩図社)

●杉谷善住坊(比叡山の僧)…竹鋸引きの刑(竹のノコギリで、首を少しずつ切って殺す。)
●朝倉義景、浅井長政、浅井久政の首切り…1573年、宴会の席で、これら3名の生首を金
銀箔で飾り、みなに披露した。
●小田信行(実弟)…家来に殺害させた上、信長の叔母の夫を、だまして殺害。刑は「逆さ磔
(はりつけ)にして、竹鋸引き」。ついで叔母も殺害。

が、この程度で、驚いてはいけない。

●比叡山僧侶を焼き討ち…1571年、比叡山を焼き討ちし、3000人もの宗徒が殺害される。
さらに命乞いを懇願する老若男女を1600人を斬首。
●長島一揆の虐殺…2万人を縄で数珠繋ぎにして集め、周囲に積んだ薪(まき)で火あぶりに
して処刑。もちろん生きたまま。

もちろんこんなのは氷山の一角。
私が織田信長に最初に疑問をもったのは、私が高校生のときのことだった。
当時、夏休みになると、岐阜城下にある県立図書館へ、よく受験勉強にでかけた。
その帰り道、何かの記念館に立ち寄ると、そこに小さい文字で、こう書かれていた。
「信長は……毎日、約60人の人を、長良川の川原で処刑した」と。
岐阜市と織田信長の縁は深い。
現在の今も、毎年岐阜市では、「信長祭」なるものが、開催されている。

「60人」という数字は正確ではないかもしれない。
が、それを読んだとき、それまでの信長像が、ガラガラと音をたてて崩れ去るのを知った。
私たちは、学校で、織田信長は、日本の英雄であると学んだ。
しかし同じ織田信長が、その一方で、殺害につづく殺害を繰り返していた!
山口智司氏も、こう書いている。
「血で血を洗う戦国時代においても、織田信長の残虐性は、桁外れであった」(P28)と。

が、一方で、織田信長を理想のリーダーとして、称える人も少なくない。
たまたま2月16日、書店を訪れてみると、「名将の決断」シリーズとして、朝日新聞社
から、「朝日カルチャーシリーズ」なるものが、発売になっていた。
創刊号ということで、特別価格。
その筆頭に、織田信長が掲載されていた。

早速、購入。
大見出しは、「信長のミッション・インポッシブル」。
監修は、童門冬二氏となっている。

その本を開くと、巻頭言に、こうあった。
「決断が歴史を変える」と。

「……名称の決断は、自分で自分を助ける勇気を生む方々へのエールである」と。

ものは言いようだが、ここまでゆがんでくると、「?」マークを、織田信長によって
殺された人の分だけ、並べたい。

●「是非に及ばず」

織田信長は、明智光秀の謀反に際して、最期の言葉として「是非に及ばず(=まあ、
しかたないさ)」と言って死んでいったという。
もちろん(?)、「名将の決断」(朝日新聞社)のほうでは、織田信長を、「名将」の
1人として称える。

いわく、
『本能寺にたおれるまで、信長は、多くのことをやってのけた。

1、門閥にとらわれない人材登用。
2、鉄砲をはじめとする、新技術の採用。
3、関所の撤廃による、流通の活性化。
4、楽市、楽座による規制緩和、など。

それまでの中世社会の閉塞感を打破したのである。
すなわち、若き日の信長は、改革者であったといっていい』と。

これを書いた、火坂雅志氏は、そのあと織田信長の「闇」について書いている。
先に書いた、比叡山の焼き討ちや、伊勢長島一向一揆衆への弾圧など。
しかしそれについても、「焦り」が理由ではなかったと書いている。

「人生は50年。それを思いつめた結果」と。

ヘ〜〜〜エ?

火坂氏は、焦った結果、織田信長は、「闇」の部分を作ったという論陣を張っている。
が、もしこんな自分勝手な、さらにはひとりよがりな論法がまかり通るなら、人は、
権力を傘に、何をしてもよいことになる。
独善と独断。
まさにその(かたまり)。
殺戮など、朝飯前!

そこで火坂氏は、「是非に及ばず」を、こう解釈する。

「おれはこの世で、やれることはやった。しょうがねぇ」と。

織田信長はそれでよいとしても、彼によって殺された人たちは、どうなのか?
その圧制のもとで苦しんだ民衆は、どうなのか?
時代が変わったというだけで、頭の狂ったような暴君ですら、「名将」になってしまう。
自分たちの先祖が、織田信長に虐げられた民衆であることを忘れて、織田信長の
目で、自分たちの歴史観を作り上げてしまう。
日本人のオメデタサ、ここに極まれり!

つづいて「日本の名将」(同書)は、こうつづく。

●敵が大きかろうと、怖れずに攻勢に出るべし!
●自分のルールに従い、旧来の体制に挑んだ、孤独の天下人、と。

織田信長を美化してやまない。

どうして?
どうして、織田信長が、名将なのか?
日本人は、過去において、一度たりとも、あの封建時代を清算していない。
反省もしていない。
そればかりか、世界の歴史史上においても、例がない、あの暗黒かつ恐怖政治の
時代を、いまだに引きずっている。
そればかりか、あの時代を美化し、礼讃してやまない。

織田信長は、日本を改革した第一人者ではない。
民衆のために闘った人でもなければ、何かの正義のために闘った人でもない。
簡単に言えば、我利我欲に包まれた、ただの亡者。
先に並べた、信長の業績(?)にしても、結果として、つまり(後付け)として、
そうなっただけ。
当時の織田信長に、それほどまでの知的な計画性があったとは、とても思えない。
「鉄砲をはじめとする新技術の採用」という文言についても、それを読んで、
笑わない人はいないだろう。

織田信長は、その新技術とやらを使って、何をしたのか。
何のために鉄砲を手に入れたのか。
その鉄砲で、だれを殺したのか。
もし織田信長が名将ということになれば、鉄砲を知らず、殺された人たちは、バカ
だったということになる。

「名将の決断」のカバーページ(表紙1)には、「犠牲を厭わない」とある。
そう思うのはその人の勝手だが、それで犠牲になった人たちはどうなのか。
それをほんの少しだけ、頭の中で、考えてみたらよい。

だから「是非に及ばず」というのは、こう解釈したらよい。
「オレは、さんざん、悪いことをしてきた。これもしかたないわさ」と。

(追記)
織田信長を、礼讃する人がいるから、いまだに国盗り物語よろしく、おかしな政治家が
つぎつぎと現れる。
封建時代風の出世主義にとりつかれた人も多い。
歴史というものが何のためにあるかといえば、それは過去の人たちがした失敗から、
未来に生かす教訓を学びとるためである。
その心を忘れて、歴史は存在しない。

なお「名将の決断」の中にある、(成功者)というのは、いわゆるビジネスの世界での
成功者をいう。
「信長はリアリストだった」「信長・理念実現のスタート」「(信長は)日本一の合理主義者」
「トップの判断はベールの中」(「名将の決断」)と。
「敵が大きかろうと、怖れずに攻勢に出るべし」というのが、それにつづく。

要するに、山口智司氏と火坂雅志氏の歴史観のちがいといえば、(織田信長を下から見た
歴史観)と、(織田信長を上から見た歴史観)のちがいということになる。
もとから日本人は、歴史を下から見るのが苦手。
またそういう視点で、歴史を見る人は少ない。
どこかの城に見学に入ったとたん、その城の城主として、その城を見てしまう。
しかしそれでは、「歴史」そのものが、死んでしまう。
未来に向かって、役に立たなくなってしまう。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 織田信長 織田
信長論 暴君)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●バレンタイン・ディー

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2月14日……バレンタイン・ディ。
ワイフは、私に、「愛のアンパン」なるものをくれた。
どうせ私は、チョコレートは、食べられない。
チョコレートは、偏頭痛を引き起こす。

まっ、チョコレートをもらう年齢でもないし、
どうということはないのだが……。
(これは負け惜しみ。)

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●小説『あの世(Another World)』

昨夜、1時間ほどかけて、小説『あの世』を書きあげた。
おもしろかった。
楽しかった。
書き終えて、ワイフに読み聞かせてやった。
ワイフは、その小説を、高く評価してくれた。
(いつもそうだが……。)

が、あの小説には、矛盾がないわけではない。
ひとつの例として、たとえば仮想現実の世界で、紀元前の
世界を再現することができるかどうかという問題がある。
情報そのものがない。
もう少し、かみくだいて説明してみよう。

あの世の人間は、(あの世から見れば、この世があの世になるのだが)、
この世(=仮想現実の世界)へやってきて、人間として生きることを体験できる。
そのとき人間の脳のコピーが始まった(現代)なら、問題はない。
それぞれの人間の脳の中には、(現代)の情報が、びっしりと詰まっている。
その情報をもとに、仮想現実の世界を組み立てることができる。

が、紀元前の世界はどうか。
具体的には、老子が生きていた中国はどうか。
服飾ひとつについても、ほとんど情報がない。
食物、生活習慣なども、同様。
どうすれば、仮想現実の世界を組み立てるだけに足りる情報を、手に入れる
ことができるかということになる。

そこで私はこう考える。

あの世の人間が、この世(=私たちが今住んでいる世界)へ来たら、それぞれが
それぞれの人間として、それぞれの世界を作っていく。
すべてが運命によって、決まっているわけではない。
その(作ったもの)が、情報として積み重ねられていく。
紀元前の世界にしても、そうだ。

最初にやってきた(あの世の人間)は、とぼしい情報の中で、不完全な
仮想現実の世界に生きる。
しかしその人間が、その時代の人間になりきって、自分の世界を生きる。
生きることによって、その時代を作っていく。
そういう人間が、何千人、何万人、さらには何億人、何兆人とやってきて、
それぞれが、その時代を作っていく。
それが(情報)となって、仮想現実の世界を、より精密にしていく。

つまりこれなら矛盾がない。
世界中のあらゆる時代の人間として、仮想現実の世界を、現実の世界として
体験できる。

くだらないことだが、私が書いた小説を補強するために、このエッセーを
書いた。
「ハリウッドで映画化してもらえないだろうか」と考えた。
しかしそれを最初に言ったのは、ワイフだった。
「映画にしたら、おもしろそうね」と。

(補記)
本当に(あの世)、つまり死後の世界があるとするなら、私は、私たちが今、
住んでいる(この世)こそが、(あの世)ではないかと考える。
つまり(あの世)こそが、リアルで、本物の世界。
その世界の人たちが、この世(=私たちが今、住んでいる世界)へやってきて、
天国や地獄、極楽や地獄を、体験する。

が、残念なことに、(読者の方をがっかりさせて申し訳ないが)、私自身は、
(あの世)を信じていない。
信じたいという気持ちは、年齢とともに、大きくなってはきているが、
まだ信ずるところまでは、きていない。
小説に書いたのは、あくまでも空想。
だから「SF小説」とした。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●テポドン2号(A Missile would possibly attack Tokyo.)

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どうやらK国は、テポドン2号を、本気で
打ち上げるつもりでいるらしい。
昨日、今日のニュースを読むと、組み立て作業とか、
監視装置の取りつけ作業に着手したという(2月14日)。

一方、アメリカは、途中で撃ち落す可能性を示唆している
(在韓米軍司令官)。
で、これに対して、K国は、「どこの国にも、人工衛星を
打ち上げる権利がある」と言い出した。
「人工衛星だから、撃ち落すのは、まちがっている」と。
アメリカ軍に対する、布石的発言ともとれる。

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ミサイルだろうが、人工衛星だろうが、何でもかまわない。
しかし世界中から、食糧や原油の援助を受けている国が、そういうことをすること
自体、ピントがズレている。
K国は、アジアどころか、世界の中でも、現在、最貧国と位置づけられている。
「ほかにやるべきことがあるだろ!」と言いたいが、そういう常識が通ずる
国ではない。

で、もしK国がミサイルを打ち上げ、それをアメリカ軍が撃ち落したら、どうなるか?
あのK国のことだから、被害妄想を最大レベルまで引き上げて、ギャーギャーと
騒ぎ立てることだろう。
ついで韓国に対して、武力を行使してくるかもしれない。
その動きは、すでにある。
K国西岸に隠していた大砲を、海岸まで移動させたという。
これに対して、韓国の世論は、「こうした一連の動きは、韓国向けのものではなく、
K国、国内向けのもの。
国内を引き締めるためのもの」と解釈しているようである。
つまり「脅しだから、気にするな」と。

私もそう思いたいが、しかしあの国は、(まとも)ではない。
まともな論理が通ずる国ではない。
まともな論理で考えて、それで理解できる国ではない。
日本もじゅうぶん、警戒すべきところは、警戒する。
ひょっとしたら、ミサイルは、日本の東京に飛んでくるかもしれない。
現在の南北の緊張状態は、K国がしくんだ陽動作戦とも考えられる。
韓国に対して、戦争するぞと脅しながら、日本を油断させる。

で、ここが重要だが、仮にK国が、東京にミサイルを撃ち込んできても、
日本は、何もできない。
反撃することもできない。
ミサイル一発程度では、アメリカ軍は動かない。
韓国もそれを許さないだろう。
アメリカ軍が動いたら、それこそ朝鮮半島は、そのまま戦火に包まれてしまう。

だから日本は、日本国内で、ああでもない、こうでもないと騒ぐしかない。
またその程度で、矛先を収めるしかない。
もちろん株価は大暴落。
経済活動はマヒ。
が、それこそK国の望むところ。
K国は、また、そこまで読んでいる。

日本、危うし!、と私は考える。
だいじょうぶか、日本!
その備えはできているか、日本!
(09年2月14日夜記)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●中川氏の辞任劇に一言!(Something is strange about Mr. Nakagawa's "Half Conscious 
Meeting" in the public.)(修正版)

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何か、おかしいと思わないか?
どうして中川氏が辞任するのか?
何か、おかしいと思わないか?

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何か、おかしいと思わないか?

あの(もうろう会見)のとき、両脇を固めていたのは、
官僚。
2人の官僚。

あのインギン無礼な、態度、姿勢、目つき。
私は、むしろそちらのほうが気になった。

中川氏の異変は、その前に、官僚たちは気づいていたはず。
何も、会見場に上がってから、もうろうとなったわけではない。

だったら、なぜ、中川氏を会見場に座らせたのか?
私は、それがおかしいと言う。

中川氏の秘書たちは、何をしていたのか?
中川氏の側近たちは、何をしていたのか?
付き添いのドクターは、何をしていたのか?

が、何よりもおかしいのは、そばで中川氏を固めていた
財務省の官僚たち。
彼らは、いったい、何をしていたのか。

どうして中川氏の会見を止めなかったのか?

「体調が悪いので、残念ながら欠席します」と言ったところで、
それはそれですんだはず。
今は、インフルエンザの流行期。

中川氏のあの(もうろう会見)は、日本の恥。
それはわかる。
しかしだれが、恥をかかせたのか?
だれが、中川氏の会見を、強行したのか?

おかしいぞ?
本当に、おかしいぞ?

これこそ(やらせ)ではないのか?

私がそばにいた役人なら、こう言って会見をキャンセルしただろう。
「大臣、お体のぐあいがよくないようですから、
会見をキャンセルしましょう」と。

またそれをするから、補佐という。

だからといって、中川氏を擁護するわけではない。
たしかに政治家のレベルは低い。
それはわかる。

しかしその(低さ)を、あえて、誇大に演出しながら、
だれかが、自分たちの利益に誘導している(?)。
それが今までの官僚たちのやり方ではなかったのか。

もし中川氏が、元官僚、もしくは官僚出身であったのなら、
ああした(もうろう会見)はなかったはず。
内々で(?)、もう少し、スマートに、処理したはず。

何か、おかしいぞ?
何か、におうぞ?

あの(もうろう会見)の裏に、何があったのか。
そこまで知らなければ、私は、この問題には、納得しない。

(補記)ニュース・サイトより

『河村建夫官房長官は記者会見で、中川氏について「予算審議の大事な時期だから、健康管
理をきちんとやって職務に精励してほしい」と述べ、辞任はないことを改めて強調した。ただ
「問責決議案が議決された時点で対応を考える」とも語った。

 中川氏はローマで開かれたG7終了後、14日夕(日本時間15日未明)の記者会見に出た
が、もうろうとした状態がメディアを通じて全世界に配信された。同氏は16日の衆院財務金融
委員会などで「風邪薬を普段の2倍ほど飲んだことが原因だ」と釈明した。その後、AS首相に
陳謝し、首相は「体調をしっかり管理して職務に専念してほしい」と厳しく叱責(しっせき)した』
と。

Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

●イタリアでふえる、引きこもり
(Hikikomori, Italian Style)

+++++++++++++++++

イタリアでも、日本とは、かなり事情が
違うようだが、引きこもりがふえているという。

ヤフー・ニュースの記事を紹介させてもらう。

+++++++++++++++++

『イタリアの有力紙「コリエレ・デラ・セラ」が同国で目立つ「引きこもり」を特集した。相談に来る
親が急増しているという精神科医らの証言を基に、原因を探っている。

 記事(11日付)は「イタリアの引きこもり(hikikomori)、東京のよう、何年も孤立する少年た
ち」と題され、社会面に大きく掲載された。刀を持った日本人の少年が乱雑な部屋でくつろぐ姿
を、イメージ写真として使っている。

 ミラノ発の記事で、「昼は寝て、夜に冷蔵庫をあさり、インターネットと漫画だけの生活」、「過
去半年、親に話したのは『ほっといてくれ』の一言」と約10人の事例を紹介。相談を受ける複
数の精神科医が、「100万人を数える日本ほどではないが、外のひどい世界から逃れ、閉じこ
もる子が多い」、「頭が良く創造性があるが、内向的な10代に多い」と特徴をまとめている。著
名な精神分析医が「私が知る事例では、過去2年で5倍に増えた」とその広がりを強調する。

 要因としては「母親との密着や過保護が、自己愛の強い、もろい子にしてしまっている」、「日
本では厳しい学校制度、親の過剰な期待が一因だが、イタリアでは学校で(友達)グループと
の関係を築けない子の逃避が多い」などとまとめている。対策として「子が小さい時から、共に
よく遊び、一緒にいて、時に外に一人で出し、自己評価の高い子に育てなければならない」と結
んでいる』(ヤフー・ニュース・09年2月21日)と。

この中で興味ある事実は、原因。
日本とイタリアでは、症状は同じでも、原因がかなり違うようだ。

(日本)記事は、厳しい学校制度、親の過剰な期待が一因と、分析している。
(イタリア)グループとの関係を築けない子の逃避が多い。

で、イタリアではその対策として、
(1)共によく遊び、
(2)一緒にいて、
(3)時に外にひとりで出し、」
(4)自己評価の高い子にしなければならない、と。

わかりやすく言えば、日本では、親の過剰期待、過関心が原因で、
またイタリアでは、親の過保護が原因で、子どもは引きこもるということなる。
鋭い分析と評価したい。

子どもの心を大切にすることは重要なことだが、大切にし過ぎると、ときとして、
それが過保護になり、子どもをして社会性のない子どもにしてしまう。
乳幼児期はそれでよいとしても、子どもを取り巻く環境は、それほど完成されたもの
ではない。

言うなれば、動物社会。

オオカミが無数にいる世界に、かよわきウサギを放り込めば、そのウサギはどうなるか?
そんなことは、自明の理。
「乱暴に育てろ」ということではないが、ある程度の乱暴さは、子育てにはMUST
(=避けられない)。

いろいろな親を見てきたが、「私の子育て法がいちばん正しい」と、聞く耳をもたない
親ほど、指導のむずかしいものはない。
あるいは「うちの子どもには、問題があった」「うちの子どものことは、私がいちばん
よく知っている」とがんばる親も、そうだ。
私たちの世界では、「ホープレス(=希望なし)」という言葉を使う。
もっと率直に言えば、「どうぞ、ご勝手に」となる。

たいへん辛辣な言い方に聞こえるかもしれないが、子育てというのは、自分で
失敗してみて、はじめてそれを失敗と知る。
(「失敗」という言葉は、不適切だということは、よく知っている。後述。)
それまでは、わからない。
だいたい、ここにも書いたように、親自身が、聞く耳をもっていない。
私のほうから、それとなく話題をもっていこうとしても、それをはねのけてしまう。

イタリアにも、そういう親が多いらしい。
が、ここにも書いたように、それは何もイタリアだけの問題ではない。
同じ引きこもりでも、イタリア型の引きこもりも、日本に多い。
不登校児の何割かが、そうであると言っても過言ではない。
(あるいはイタリア型引きこもりというのは、日本でいう不登校児のことか?)

これは私の実感だが、(あるいはグチかもしれないが)、乳幼児を何千人も見てきた
私の経験ですら、若い親たちの前では、ティシュ・ペーパー一枚の価値もない。
しかしこんな仕事を40年近くもしていると、その子どもの問題点のみならず、
その子どもの将来像まで、手に取るようにわかるようになる。
「何年生くらいのときに、どういう問題を起こすか」まで、わかる。
わかるものはわかるのであって、どうしようもない。
(経験)というのは、そういうもの。
が、若い親たちは、(経験)の価値、そのものを認めない。

……やはりグチになってしまったので、この話は、ここまで。

では、どうするか?

子どもをたくましい子どもにしたかったら、乳幼児の段階から、同じ年齢の
子どもと遊ばせる。
けっして小さな世界に閉じ込めて、育ててはいけない。

また親自身も、風通しのよい世界で、子育てをする。
親どうしの交流を多くし、他人の意見を聞く耳をもつ。
先にも書いたように、「うちの子どもには、問題があった」「うちの子どものことは、私がいちば
んとく知っている」と、もし、あなたがそう思っているなら、あなたは子育てで
失敗する確率は、きわめて高い。

(補記)
ここで「失敗」という言葉を使ったが、人生に失敗はないのと同じように、
子育てにも、失敗はない。
失敗イコール、おしまいという意味ではない。
失敗イコール、挫折という意味でもない。
それぞれがそれぞれの(失敗?)を乗り越えて、また前に進んでいく。
あえて言うなら、(停滞)ということか。
しかし(停滞)でも、おかしい。
またほかに適切な言葉がないのも事実。
だから「失敗」という言葉を使った。

自分の子どもが引きこもりの子どもになったからといって、子育てで失敗した
ということではない。
どうか、誤解のないように!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
イタリア 引きこもり 引き籠り 過保護 過剰期待 不登校)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

●世俗性と超越性

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世俗性と超越性は、常に対立する。
対立関係にある。
しかしどちらか一方では、困る。
世俗性を失えば、独善のみちに入りやすくなる。
超越性を失えば、世俗に流されやすくなる。

+++++++++++++++++

私たちは常に世俗の世界に身を置く。
それを土台とするなら、その上で超越性を追求する。
あのピカソにしても、会って話をしている間は、いつもただのオジサンだったという。
(もちろんそうでない画家も多くいるが……。)
しかし世俗と接点を見失ったとたん、その人は世間から遊離してしまう。
人間の価値は他者とのかかわりの中で評価される。
超越性はそれ自体、重要なことかもしれない。
が、世俗とのかかわりを見失ったとたん、独善のワナにはまってしまう。

わかりやすく言えば、「私はぜったいに正しい」と思うのは、その人の勝手。
が、返す刀で、「あなたはまちがっている」と言ってはいけない。
それが独善。

一方、私たちは常に、超越性をめざす。
それはとても楽しいことでもある。
というのも、人は、より賢くなってはじめて、それまでの自分が愚かだったことを
知る。
それはちょうど山登りに似ている。
下からだと低そうに見える山でも、登ってみると、意外と視界が広い。
その(広さ)が、そのまま喜びにつながる。
いわば、心の冒険のようなもの。
未知の世界を歩くようなスリルを覚えることもある。

が、やはり世俗を忘れてはいけない。
いくら高尚な教育論を説いても、子どもと接する機会を失ってはいけない。
ある幼稚園の園長が、以前、こんな話をしてくれた。

その園長は、園長になる前、ずっと高校の教師をしていた。
そのこともあって、園長という仕事に、なかなかなじめなかった。
で、ある日、その道半世紀という別の幼稚園の園長に相談すると、こう
教えてくれたという。

「子どもといっしょになって、プロレスをしてごらんなさい」と。

そこでその園長は、さっそく、それを実行してみた。
とたん、子どもの心をつかむことができるようになった。

高校での授業を(超越性)にたとえるなら、幼稚園での指導は、(世俗性)という
ことになる。
(あまりよいたとえではないかもしれないが……。)
もっと言えば、高邁な教育論も大切だが、子どもといっしょに、童心に返って遊ぶと
いう姿勢も大切ということ。
その反対でもよい。
子どもといっしょに、童心に返って遊びながら、その上に教育論を組み立てる。

世俗性と超越性は、心の中で、常に対立する。
言うなれば、その2つは、心の中の暴れ馬のようなもの。
教師は世俗に流されてはいけない。
昔、こんなことを言っていた幼稚園教師がいた。

「あの親は、私にさんざん迷惑をかけておきながら、盆のつけ届けひとつ、よこさない」
と。
世俗性に染まりすぎると、そういうことを平気で口にするようになる。
一方、超越性だけでも、教育はできない。
ある大学の講師は、幼稚園で英語を教えることになったのだが、1週間でギブアップ。
レコードを回して、手で拍子を取らせようとしたが、だれも応じなかったという。
当然である。
すばらしい学者だったかもしれないが、童心に返ることができなかった。

つまり、その2つをうまくコントロールするところに、人生の醍醐味がある。
世俗的でありながらも、世俗から超越する。
超越性を保ちながらも、世俗性を忘れない。

これは人生をより豊かに、楽しく生きるためのコツ。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●「富士山ナンバー」

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静岡県沼津市のほうへ行くと、「富士山」という
名を冠した、ナンバープレートが目につく。
「富士山12、12−34」とか、など。

そのあたり特製の(?)ナンバープレートだそうだ。
そのナンバーをもらうのに、料金がいるそうだ。
本来なら、「沼津ナンバー」ということだ、そうだ。

その話を聞いて、私はこう言った。
「じゃあ、浜松市は、『うなぎナンバー』というのはどう?」と。
が、ワイフは、こう言った。
「うなぎではねエ……?」と。
そこでいろいろ考える。

「浜名湖ナンバーはどうか?」
「楽器ナンバーはどうか?」
「バイクナンバーはどうか?」
思い切って、オーストラリアのメルボルン市のように、
「ガーデン・シティ」でもよい。
しかしやっぱり、「ギョーザ・ナンバー」がよい。

「ギョーザ123、12−2334」というのは、どうか?
やっぱりだめだろうナ。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●ガイドのおしゃべり

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ガイドにもよるが、今日のバスガイドは、最悪。
よくしゃべる。
「あの店は有名人がよく来る」とか、「タレントの○○も、よく食べる」とか、など。
どうでよい話ばかり。
おそらく、休みも日は、一日中、テレビばかり見ているのだろう。
通俗のかたまりのような、ガイド。
たわいもない情報を、ペラペラ、ペラペラ、またペラペラ……と。

++++++++++++++++++

●政治家

ワイフがこう言った。
「今度は別のバス会社にしまようよ」と。
私は、すなお同意した。
ガイドなしのバスツアーも、最近はふえている。

そうでなくても、情報過多。
毎日、情報が、大洪水のように押し寄せてくる。
情報の選択だけでも、たいへん。
静かに考えることすら、できない。

ずいぶん前の話しだが、恩師の田丸先生が、こう言った。
「政治家の人たちは、毎日、分刻みで動き回っている。
ああいう人たちは、静かに考える時間をもっているのでしょうかねエ?」と。

その結果が、今である。
AS首相は言うに及ばず、NG財務相もそう。
頭の中は、カラッポ。
情報はぎっしりと詰まっているのだろうが、情報が多いからといって、
(考える人)ということにはならない。
賢い人ということには、ならない。
タカ派はタカ派だが、中曽根元首相のような人物が、なつかしい。
左派は左派だが、三木元首相もそうだ。
今は、ああいう一本筋の通った政治家がいない(?)。
そのつどラベルを張り替えて、カメレオンのように変化する。

●哲学の熟成

その人が、自分の哲学を熟成させるのは、容易なことではない。
10年とか、20年とかの年月を必要とする。
政治哲学となると、さらにそうだ。
悲しいかな、日本には、そういう見本となる人すらいない。
いまだに、坂本竜馬とか、高杉晋作とか、そんな人の名前しか出てこない。
彼らは、本当に、民衆のために戦った人なのか。
民主主義を求めて、戦った人なのか。

あとは推して量るべし。

……ということで、日本の教育論にまで、どうしても話が進んでしまう。
日本の教育は、基本的には、『もの言わぬ従順な民づくり』が、基本。
考える子どもをつくるしくみになっていない。
教師も、学生も、そして生徒も、政治活動をすることが、事実上、禁止されている。
政治の話すら、しない。

先ほどから、またガイドがしゃべりはじめた。

「渋滞ですね……」
「どうしたのでしょう……?」
「同じ観光地へ向かう人が多いのですね……」
「少し動きました……」
「お天気はいいですね……。みなさんの日ごろの心がけがいいですからよ」と。

●老人vs若い人たち

若いガイドから見れば、私たち老人は、みな、バカに見えるのかもしれない。
たしかにそういう老人も多い。
たった今も、トイレ休憩をしたが、手を洗っているとき、私の顔に、咳を吹きかけた
老人がいた。
ムッとして見返すと、私に構わず、洗面器に向かって、痰を這い出していた。
年齢は70歳くらいではなかったか。
しかし、だ。
私たち老人から見ると、今の若い人は、バカに見える(失礼!)。
ますますバカになっていくように感ずることもある。

「ウルサイ!」と叫びたいが、ここはがまん。
これが人間社会。
がまんは、つきもの。
この(がまん)ができなくなったら、私もおしまい。
それこそ本物の老人になってしまう。

(補記)
ガイドの話には、いつも「だから、どうなの?」という部分が、ない。
「このあたりは、鮎釣りの名所として知られています」
「このあたりに、トイレの神様がいます」
「このあたりでは、おいしい草もちが有名です」と。

そういう話を聞くたびに、「それがどうしたの?」と、聞き返したくなる。
それに、どうせすぐ忘れてしまう。
……とまあ、辛らつな批判をさせてもらったが、今日のガイドは、最悪。
どこかで暗記してきたような話を、ペラペラ、ペラペラ、ペラペラ……と。

ウルサイ!
+バカヤロー!

(補記)
うるさくて迷惑かける人と、それによって迷惑をこうむる人は、けっして平等ではない。
静かな人は、だれにも迷惑をかけない。
(迷惑をかける)ということと、(迷惑をかけない)ということは、平等ではない。
おしゃべりで、他人に迷惑をかける人は、もう少し、謙虚になってほしい。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●おしゃべりな女性

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どこの世界にも、おしゃべりな女性と
いうのはいる。

間断なく、しゃべる。
つぎつぎとしゃべる。
しゃべらなければならないといったふうに、しゃべる。
ペチャペチャ、ペチャペチャ……と。

たまたま今、私はバスの中にいる。
そのうしろの席の女性が、そうだ。
少し前、「もう少し小さい声で話していただけませんか」と
頼んだばかり。
しかし効果は、一時的。
またまたもとの声で、しゃべり始めた。

カラカラ、ケラケラ、カラカラ、ケラケラ……と。

携帯電話は禁止しているのに、おしゃべりは野放し。
この大矛盾を、いったい、どう解釈したらよいのか。

++++++++++++++++++

●女性のおしゃべり

言語中枢は、左脳にあるとされる。
しかし最近の研究によれば、女性のばあい、右脳にもそれがあるらしい。
だから女性は、よくしゃべる……ということになる。

しかしこんな気になる事実もある。

ADHD児というと、男児に多いとされる。
出現率は5%と言われているが、程度の差もあり、実際にはもっと多い。
が、女児にも、いないわけではない。
ただ少し、症状がちがう。
チョコチョコと落ち着きなく動き回ることもあるが、多弁性が、その特徴。
このタイプの女児は、(男児もよくしゃべるが)、とにかくよくしゃべる。
強く注意しても、1〜2分も、もたない。

これはある中学生(中2・女子)とした会話だが、こんなふうになる。

私「少しだまっていてくれない」
中「だまっていればいいの?」
私「だから、口を閉じてくれない?」
中「口を閉じたら、苦しいもん」
私「だから、何も言わなくていい」

中「何も言わなくていいの?」
私「静かに……」
中「だって、質問なんかは、どうするの?」
私「だから、そのときは、そのとき」
中「わからないときは、どうするの?」と。

こういう意味のない会話が、いつまでもつづく。

●おしゃべりの特徴

(1)口先だけで、ペチャペチャとしゃべる。
(2)しゃべり慣れているのか、口の筋肉をほとんど使わない。
(3)話題がつぎつぎと変わる。
(4)考えてからしゃべるというよりは、脳に飛来した情報を音声にしている。
(5)会話の内容が、浅い。
(6)しゃべっている間は、軽い興奮状態になる。
(7)視線が定まらず、どこかフワフワした状態になる。しゃべっていないときは、
かえって視線が固定する。じっと凝視したようになり、目の生彩が消える。

よくしゃべる人は、(子どももそうだが……)、一見、利発に見える。
しかしそう見えるだけ。
中には、行動をそのまま言葉にする子どももいる。

子「あっ、鉛筆が落ちた……私、鉛筆を拾う……手が届かない……鉛筆が取れない
……鉛筆が取れた……これが鉛筆……」と。

こうした会話は、(会話ではないが)、そのつど注意して抑える。
が、しかし実際には、脳の機能の問題がからんでいるだけに、なおらない。

●うしろの席の女性

さてうしろの席の女性。
この30分ほどの間だけでも、話題が、無数に変化した。
順に話題を、ここに記録してみる。

★リストラで、○○さんの嫁さんが仕事をやめて、家に入った。
★桜は、〜〜がきれい。
★旅行の申し込み方。
★「ガラスの森」へ行ってきた。
★天気の話。
★「分割ボタン?」がどうのこうのという、意味不明の話。

一方の女性が、一方的に話し、横の女性が、それに相槌を打つ。
その相槌に応じて、一方の女性が、またまた別の話題を持ち出す。
よく観察してみると、つぎのような特徴がある。
とくに話題を変えるときの、タイミングというか、スイッチングがうまい。
ビデオ編集の世界にも、「フェイード・イン、フェイード・アウト」という手法がある。
前の映像をぼかしながら、つぎの映像へとつなげていく。

うしろの女性の会話もそうである。

そのフェード・イン、フェイード・アウトが、うまい。
いつ話題が変わったかがわからないような方法で、変わっていく。
先ほどから、その接点をさぐろうとしているが、それがつかめない。
文章のときは、たとえば「ところで……」とか、「話は変わるが……」とか、
そういう書き方をする。
しかし、それがない。

たとえば今もそうだ。

「J店で魚を買ってきた……」
「あそこは、(値段が)高い……」
「駅前の店はどう……?」
「そうそう、あそこはいいわねエ……」
「うちの隣の人も、駅前で買うみたい……」
「どこの人……?」
「ほら、この前、○○会に顔を出したでしょ……」
「ご主人様が、ちょっと、こういう人よ(何かのジェスチャで示しているらしい)」
「だから奥さん、スッ飛んでくるのよ……」
「この前も歯医者へね……」
「頼りになる人がいるといいわねエ……」と。

最大の特徴は、考えるという操作を頭の中でしていないということ。
相手が言ったことに対しても、即座にペラペラとやり返す。
またそれが正しい会話の仕方と思いこんでいるといったふう。

●日本人のマナー

全体としてみると、日本人は、騒音に寛大。
寛大というか、無神経。
以前、バス停やエレベータに、声のガイダンスがついていたことに
驚いていた外人がいた。
自動車のガイダンスに驚いていた外人いた。

さすがに最近は少なくなったが、今でも観光地で観光船の乗ったりすると、
ガンガンとガイドを流すところがある。
「右に見えますのは、〜〜山、左に見えますのは、〜〜峠」と。

一方、欧米では、騒音に対して、たいへんうるさい。
1、2キロ先のニワトリが鳴いただけで、騒動になる。
が、日本ではそうではない。
この国では、おしゃべりなど、何でもない。
だれも気にしない。
だれも注意しない。

しかしそれも(考える習慣)と、深く結びついている。
さらに言えば、文化性の問題?

以前はというと、バスツアーでも、喫煙は自由だった。
カラオケも定番だった。
最近まで、ビデオも定番。
が、今でも女性のおしゃべりは、健在。
カラカラ、キャーッ、ゲラゲラ、ワハハハ……と。

結論を先に言えば、要するに、日本人は、考えないということ。
情報量が多いということを、「賢い」と誤解している。
よくしゃべる人を、利口な人と誤解している。
こうした誤解が、そのまま日本人の常識になっている。
しかし、それはぜったいに、世界の常識ではない。

……ということで、私は、イヤホンを耳につこんで、DVDを
見ることにした。

(補記)
うしろの席の女性について、午後にもう一度、静かにしてほしいと
頼んだ。
しかし効果はやはり、一時的だった。
言い方をまちがえると、相手も不愉快になるだろう。
私のほうも、どうしても遠慮がちになる。

で、結局、その女性は、午前中4時間、午後4時間、ほとんど間断なく、
しゃべりっぱなしだった。
「よくしゃべる」というよりは、どこか病的(?)。
軽くて甲高い声で、ペラペラと早口でしゃべりつづける。
私は何度か目を閉じて眠ろうとしたが、できなかった。
と、同時に、こう思った。
「こんな女性と結婚しなくて、よかった」と。
1日つきあっただけで、気がヘンになりそう。
(相手も、そう思っているだろうが……。)

(ワイフの質問)

その女性について、あとでワイフがこんな質問をした。
「本人には、その自覚はないのかしら?」と。
つまり「自分がおしゃべりということに、気がついていないのかしら?」と。

答は簡単。
「自覚もないし、気がついてもいない」。

……というくらい、自分を知るのはむずかしい。
このタイプの女性は、(男性でもよいが)、むしろ自分は頭がよく、みなを
楽しませる才にたけていると思っている。……思い込んでいる。
「あなたはおしゃべりだね」と言っても、「あら、そう? 楽しかった?」と、
言い返される。
とにかく、口を閉じることができない。
だから昔の人は、こう言った。

『沈黙の価値のわからぬ者は、しゃべるな』と。
沈黙の価値そのものが、理解できない。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●2月19日

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昨夜、義兄の父が死去。
通夜ということで、仕事から帰ってきたあと、弔問。
そんなわけで、床についたのが、午後11時半過ぎ。

1、2度、20年ほど前に会っただけだが、このところ
知人の死が、ズシンズシンと心に響く。

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●介護でバラバラになる兄弟、姉妹

ところで同じ昨日、健康診断に行くと、看護婦の人が、
こんな話をしてくれた。
20年も通っていると、それなりに親しくなる。

いわく、「親の介護を10年もしたという話を聞くと、
『ああ、この家族もバラバラになっているだろうな』と
思います」と。

どうしてその看護婦がそういう話をし始めたかはわからない。
しかしそう言った。
つまり、こういうこと。

「親の介護も10年つづくと、子どもたちの関係がおかしくなる」と。
その看護婦は、「親の介護で、家族がバラバラになる」と言った。
すかさず、私も、それに同意した。

「そうですね。介護の負担、介護疲れ、介護費用の問題、それに遺産相続の
問題もからんできますからね。
それに親子いっても、いろいろありますから」と。

私のばあいは、10年というか、実のところ、この40年近くもつづいていた。
介護そのものは、5、6年というところだが、しかしいろいろな問題が、
ひっきりなしにつづいた。
一時は、(というより、そのつど)、気がヘンになりそうになった。
しかし「運命は受け入れる」。
そう自分に言ってきかせて、それを乗り越えることができた。

●運命論

『運命というのは、それを避けようとすると、キバをむいて襲いかかってくる。
しかし受け入れてしまえば、運命のほうから、シッポを巻いて逃げていく』。
これは私が、自分の体験から考えた格言である。

それぞれの人には、それぞれ、どうしようもない問題をかかえている。
親の介護、家族の問題、仕事の問題などがそうだ。
そしてそれぞれの問題が、その人を、思わぬ方向に引っ張っていってしまうことが
ある。
それが「運命」ということになれば、それが運命。

ただこういうことは言えるのではないか。

こうした問題に直面したとき、それを重荷とするか、それとも笑って過ごせるかは、
もっぱらにその人の文化性による、と。
つまりなぜ私たちが常に、自分の文化性を磨くか、磨いていかねばならないかといえば、
こうした問題に直面したとき、うろたえないためではないか。
『浅瀬に仇波(あだなみ)』という諺(ことわざ)があるように、文化性の低い人ほど、
運命を前にして、大騒ぎする。
そうでない人は、そうでない。

●文化性(宗教性)

これはワイフの意見だが、ワイフはこう言った。
「宗教観も必要なのではないかしら」と。

「ほら、キリスト教などでは、愛を説くでしょ。もしマザーテレサがもっていたような
愛の1万分1でも、みなにあれば、たとえば親の介護の問題程度のことで、ガタガタしないわ
よ」と。

そうかもしれない。
そうでないかもしれない。

しかしそれ以上に大切なのは、やはりまわりの人たちを思う心ではないか。
それがあればよし。
というのも、親の介護にしても、子どもの世話にしても、きれいごとだけでは
できない。

私も6か月、母の便の世話をしたが、こんなことがあった。
そのあと母は、特養老人ホームに入居した。
それからしばらくしたときのこと。
母が、再び、私の自宅に戻ってくるというような話がもちあがった。
そのときのこと。
それに対して、私は生理的な拒絶反応を示した。
母を嫌うとか、そういうことではない。
「再び、便の始末ができるか」と自問したとき、自分自身の中の私が、猛烈に
それに反発した。
それははげしい拒否反応だった。
……ということで、母を再び、私の自宅に迎えることができなかった。
つまり(きれいごと)だけでは、で・き・な・い。
(あるいはこれは、私の哲学観の欠陥によるものか?)

ともかくも、看護婦の女性の話のように、親の介護が原因で、子どもどうし
(兄弟姉妹)が、いがみあうようになるケースは、少なくない。
だから看護婦の女性は、こう言った。
「私はね、その人が10年も親の介護をしたという話を聞くとね、
ああ、兄弟姉妹は、バラバラだろうなと思いますよ」と。

●では、どうするか

これは私の経験だが、(1)とにかく誠実に、(2)とにかくウソをつかない、
(3)とにかく約束を守る、(4)とにかく他人にグチを言わない。

これだけは、とくに親の介護をするときの、大原則。
この大原則を破ると、兄弟姉妹の関係は、ギクシャクしたものになる。
小さな誤解が、とたんに大増幅し、爆発する。

そしてここが重要だが、一度壊れた人間関係は、元には戻らない。
兄弟姉妹とて、例外ではない。
親の介護には、そういう深刻な問題も含まれる。
なぜか?

親の問題は、それくらい根が深いということ。
兄弟姉妹といえども、親を大木とするなら、枝葉にすぎない。
親の問題でギクシャクすれば、枝葉は当然、揺れる。

私にも姉がいるが、????。
遠方に住んでいることもあって、誤解が誤解を生むということもあった。
だからそうならないように、先の4つの大原則は守る。
これは運命と闘うためのコツということにもなる。

(補足)
しかし(自分の力や努力でどうにかなる問題)については、ふんばる。
土俵際に追いつめられても、ふんばる。
ふんばってふんばりまくる。
そのふんばるところに、人間の生きる価値がある。
ドラマもそこから生まれる。

私たちがなぜ生きているかといえば、そのドラマにこそ、生きる価値が
あるからではないか。
平凡は美徳だが、その平凡からは、何も生まれない。
平凡であることを、喜んではいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

2月17日(火曜日(2009)

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寒い朝だ。
おとといまでの陽気は、昨日の台風並みの風で、
南の彼方へ吹き飛んでしまった。

で、再三再四で恐縮だが、「この世・あの世論」。
今のところ、こんなばかげた(論)を展開しているのは、
どうやらこの私だけのよう。
つまり、この世が、あの世で、あの世が、この世。
わかるかな?

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●実は、この世があの世?

私たちが思っている(この世)、つまり此岸(しがん)こそが、実は、あの世の、
彼岸(ひがん)であるという説。
私たちは、あの世に、天国や地獄があると教えられている。
(極楽と地獄でもよいが……。)
しかし天国も地獄も、みなさんご存知のように、実はこの世にある。
天国に住んでいるような生活をしている人もいれば、地獄に住んでいるような
生活をしている人もいる。

……と考えると、実は、私たちが言っている、(あの世)こそが、実は、元の世界、
つまり(この世)ということではないのか。

私たちは、元の世界(=この世)から、こうしてあの世(=私たちが「現世」と
呼んでいる、この世)へ、やってきた。
そう考えるほうが、何かにつけ、合理的である。
話をわかりやすくするために、こうしよう。

私たちが今、こうして住んでいる世界を、(世界A)とする。
私たちが死んだら行くという、あの世を、(世界B)とする。

たとえばその世界の、(時間的長さ)にしても、世界Aのそれは、あまりにも短い。
長生きをしたとしても、100年前後が限度。
(たったの100年だぞ!)
しかし世界Bでは、時間は永遠。
世界Aとは、比較にならない。
それだけでも、世界Bのほうが、(元の世界)ということになる。
つまり私たちは、世界Bのほうから、ときどき世界Aのほうへやってくる。
ときどきやってきては、天国や地獄を経験する。
世界Aのほうには、天国も地獄もある。

わかりやすく言うと、天国Bの住人たちは、折につけ、世界Aのほうへやってくる。
世界Aのほうへやってきて、天国や地獄を経験する。
もちろん努力によって、世界Aのほうでも、地獄を天国に変えることはできる。
反対に、天国を地獄にしてしまうこともある。

(どういう状態を「天国」といい、どういう状態を「地獄」というかについては、
いろいろな意見があると思うが……。)

……とまあ、突飛もないことを考えているが、そう考えることによって、私たちが
住んでいるこの世界Aを、また別の角度から、眺めることができる。
と、同時に生きるということがどういうことなのか、別の角度から、考えることが
できる。

●かぎりない自己中心性

この世がこの世と思うのは、あまりにも自己中心的。
かぎりなく幼稚。
幼児は、「自分たちが今、ここに住んでいるから、この世界が(元)」と考える。
こうした幼稚性は、自分たちの住んでいる世界から、一歩、外へ出てみるとわかる。
こんな例で考えてみよう。

少し前、息子夫婦が、義理の妹(アメリカ人)を連れて日本へ来た。
そのときのこと。
その妹は、日本の海苔(のり)を食べることができなかった。
寿司屋でも、軍艦寿司は、そのつど海苔をはずして食べていた。
私は、その話をワイフから聞いたとき、心底、驚いた。
どういうわけか、驚いた。
いろいろな話は聞いていたが、海苔を食べられない外人の話は、聞いたことがない。
(あとで、そういう外人も多いということは知ったが……。)

「世界の人は、海苔が好きなはず」と思っていた私は、それだけ自己中心的な
ものの考え方をしていたということになる。

つまりこういうこまかいことが積み重なって、世界Aをつくる。
私たちには常識的な世界かもしれないが、常識そのものが、自分に都合のよいように、
作られていく。
言うなれば、むしろこちらの世界のほうが、虚構の世界ということになる。

もし、世界Bが本当に存在するとするなら、(私は存在しないと思っているが)、
私たちが「この世」と呼んでいる、世界Aのほうこそが、世界Bから見れば、
「あの世」ということになる。

つまり私たちは、この世で、あの世のあの世を生きていることになる。

もしも、本当に、あの世(世界B)があるとするなら……という前提での
話だが……。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(090220)

●チェンジリング(Changeling)

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今夜、仕事の帰りに、ワイフと映画を見てきた。
『チェンジリング(Changeling)』
よかった、泣いた、感動した。
星は5つの、★★★★★。
見ているとき、K国による拉致被害者の皆さんの
苦しみや悲しみが、そのまま映画にダブった。

+++++++++++++++++++++

「チェンジリング」というのは、「取り換え」「子どもの誘拐」という意味だそうだ。
知らなかった。
家に帰って、辞書を引いて、はじめて意味を知った。
監督は、あのクリント・イーストウッド。
『マジソン郡の橋』でも泣いたが、今回も泣いた。
久々に大粒の涙を、ポロポロとこぼした。

クリント・イーストウッド監督の映画は、どれもすばらしい。
こういう映画を自由に制作できる「能力」が、うらやましい。

だれが主演でとか、そういう話は意味がない。
最初に「True Story」(真実の物語)という文字が、浮かび上がってくる。
それがすべて。
この一言が、すべて。

正義と勇気、この2つを忘れたら、人間はおしまい。
映画館を出るとき、改めて、それを確認した。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

●2月20日

+++++++++++++++++++

昨日、二男とスカイプで話す。
元気そうで、よかった。
「アメリカはだいじょうぶか?」と聞くと、
「だいじょうぶだよ」と。

安心した。
私たちに心配をかけまいとしている気配りが、よくわかった。
二男は、子どものときから、おかしなところで、がんこになる。
無理にがんばる。
すなおに負けを認めない。
ワイフ譲りの性格。
そういう二男が、いじらしい。

一方、長男の車がパンク。
そのまま会社へ行ってしまったので、
私がタイヤ交換をした。
ワイフが「あなたにできるの?」と、さかんに心配した。
が、自動車のタイヤ交換など、朝飯前。
本当に朝飯前に、それをした。

午後から人と会ったが、意味のないミーティングだった。
時間を無駄にした。

+++++++++++++++++++

●消息

20年ほど前、いっしょに仕事をしたことがあるNMさんと、しばらく電話で話す。
声を聞くのは、20年ぶり。
10年ほど前まで年賀状を交換していたが、そこまで。
元気な声だった。
一声で、NMさんと、すぐわかった。
が、そのうち知人の話になった。

「あの人も亡くなりましてねえ」「この人も亡くなりましてねえ」と。
20年という時間は、人と人の距離まで遠ざける。

言い忘れたが、NMさんは、今、77歳だそうだ。
私より少し年上かと思っていたが、16歳も年上とは知らなかった。

こうして『人、来たりて、また去る。あたかも、何ごともなかったかのように……』
(ジャン・ダルジー)か。


●不況

長男の会社も、今週から、金曜日も休みになった。
昨年の夏までは、土日出勤もあったが、今は、金、土、日が休み。
うらやましいような、かわいそうなような、プラス申し訳ないような……。
(どうして私が申し訳ない気持ちになるのか、不思議だが、そう感ずるのは事実。)

加えて、三男の会社でも、いろいろあるらしい。
が、「会社のことは何も書かないでほしい」と、釘を刺されている。
どこの会社も、こういう時代だから、みな、ピリピリしている。

ゆいいつの希望は、中国の上海B株が、わずかだが、上昇に転じてきたこと。
中国政府は、人為的に、ミニバブルを起こそうとしているらしい。
そんな動きが、素人の私にも、わかる。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

●AS首相

+++++++++++++++++++

私は最初から、現在の首相をAS首相と
書いてきた。
昨日の新聞によると、支持率は13%。
(13%でも、首相をつづけるつもりなのか?)
一方、不支持率は、80%に近づいている。
が、当の本人は、「9月まで、任期をまっとうする」と。

ギョーッ!

これからも、軽蔑の念をこめて、「AS首相」と書く。

+++++++++++++++++++++

●権力の亡者

「支持率が1桁になるのも時間の問題」(某、ニュース・サイト)とか。
いまや、日本中が、「やめろ」「やめろ」の、大合唱。
しかし当の本人は、「9月まで、任期をまっとうする」と。

いろいろな政治家がいたが、AS首相ほど、醜い政治家を、ほかに知らない。
「おバカ」(週刊B春)というよりは、「権力の亡者」。
1週間だけのつなぎ首相だったはずなのに、経済危機を理由に居座り、
予算案通過を理由に居座り、今度は「任期満了」を口実に居直り始めた。

こういうズルイ人は、いくらでもいる。
その場その場で、適当な約束をし、状況が変わったことを理由に、約束を反故に
していく。
あとはなし崩し的に、自分の立場を作っていく。

ずるいぞ、AS首相!


●日韓経済戦争

++++++++++++++++

日本経済も危ういが、韓国経済は、
もっと危うい。
もうあれこれ書く必要は、ない。
いちいちデータを並べて説明する必要も、ない。
なるようにしかならないし、その先も、
わかりきっている。

++++++++++++++++

言うなれば、消耗戦。
日韓経済戦争も、今は、そういう状態。
で、韓国の戦略は、こうだ。

今のような大不況も、必ず回復期に向かうときがやってくる。
そのときイチ早く、その波に乗る。
日本を追い抜くのも、そのとき、と。
1週間ほど前も、こんなことを書いている新聞があった。
「韓国は、いちばん乗りができるはず」と。

そうかな?
そうはうまくいくかな?

こんな状況があと数1、2月もつづいたら、韓国経済は、足腰を折られてしまう。
再び立ち上がることさえ、難しくなる。
そういう深刻さが、まるでわかっていない。

一方、この日本だが、こうまでガタガタになるとは、私も思っていなかった。
トヨタやパナソニック、ソニーを例にあげるまでもない。
つまりはそれほどまでに、今度の大不況は、深刻ということ。
あるいはみな、綱渡り操業をつづけていた(?)。
根が深いというよりは、底なし。
「どこまで落ちるのか?」と、みな、頭をかかえて見ているだけ。
なすすべも、ない。

日本より先に、韓国が破綻するのはしかたないとしても、日本にしても、
どこまでふんばることができるか。
あるいはどうすれば、ふんばることができるか。
今は、そういう状態。
はっきり言えば、日韓経済戦争どころでは、なくなってしまった。

が、韓国よ、これだけは覚えておくとよい。
反米、反日も結構だが、アメリカあっての韓国、日本あっての韓国。
それだけは忘れてはいけない。……いけないよ。


●K国の遠吠え

++++++++++++++++++

K国が、さかんに危機感をあおっている。
だれにも相手にされていない。
だれも相手にしていない。
今、世界は、それどころではない。
K国自身もそれがわかっているのか、
まさに言いたい放題。

周辺の国々は、「自国向けの引き締め」と
解釈しているようだ。
しかしひとつの国家の末期的症状ととらえるなら、
油断は禁物。

と、同時に、K国が何をしてきても、相手にしない。
ただひたすら冷静に、6か国協議の開催に向けて、
準備する。

+++++++++++++++++++

●忍耐

ところで話は変わるが、私は前回、バス旅行の中で、
忍耐について、学んだ。
せっかくの旅行だったが、真後ろ席に座った
オバチャンたちのおしゃべりには、心底、閉口した。
何しろ、午前中4時間、午後4時間、である。
オバチャンたちは、カラカラ、ケラケラ、
ペラペラ、ペチャクチャと話しつづけた。

私は、その間、ただひたすら、「忍」の一文字。

で、そのあと、私は自分自身の中の変化に気づいた。
少し、ものの考え方が変わった。

●ある男性

これは近所に住む、ある男性の話である。
今年80歳くらいになるのではないか。
現役時代は、警察署のエラーイ人だったらしい。
そういうこともあって、道路にある車がやたらと
気になるらしい。

どこかの工事車両がしばらく止まっただけで、
すぐパトカーを呼ぶ。
たぶんそういう男性だから、警察署も断れないの
かもしれない。
それはわかるが、しかしそのつどパトカーを
呼ぶのは、どうか?
常識のある人だったら、呼ばない。

つまりその男性には、忍耐力がないということになる。

●忍耐

よく子どもの世界でも誤解されるが、
好きなことを一日中しているからといって、
忍耐力のある子どもということにはならない。

忍耐力というのは、(いやなことをする力)をいう。
たとえば台所のシンクにたまった生ごみの始末や、
風呂の排水口にたまった毛玉などを始末できる。
そういう子どもを、忍耐力のある子どもという。

その反対側、つまり忍耐力のない人は、道路に
車が止まった程度でも、パトカーを呼ぶ。
(もっともその男性のばあい、脳のある病気が
疑われているが……。)

●忍耐力の鍛練

今回のバス旅行を通して、私はひとつのことを学んだ。
「忍耐力は、鍛練によって、鍛(きた)えられるものである」と。

旅行としては、さんたんたるものだったが、しかし
私はその計8時間の修行を通して、忍耐力というものを
学んだ。

仏道の修行には、荒行(あらぎょう)という訓練方法が
あるという。
それとはちがったものだが、しかし目的は同じ(?)。
言い換えると、私たちは日常生活の中でも、
行者の修行に似たこともできる、ということ。

●変化

ともすれば、私たちは安易な生活の中で、楽な生活のみを
追い求めてしまう。
「耐える」ということを避けてしまう。
結果、忍耐力のない人間になってしまう。

そういう意味でも、世俗との接点を忘れてはいけない。
ときには電車に乗る。
ときにはバスに乗る。
(私は、しょっちゅう、乗っているが……。)

そういう世俗の中でもまれてはじめて、忍耐力が身につく。
女性のおしゃべりはいやだ、騒音はいやだ……と言っていると、
自分自身が社会から、はじき飛ばされてしまう。

とは、いえ、バス旅行について言えば、今、しばらくは、
コリゴリ。

なお帰りのバスの中では、「アヤノコージなんとか」という
タレントのビデオが流された。
意味のないギャグの連続。
人をもちあげながら、一転、今度はこき下ろす。
この繰り返し。
ワンパターン。
1、2度は、私も、ハハハと笑ったが、そこまで。
オバチャンたちは、ゲラゲラと笑っていたが、私は静かに
目を閉じて、音楽を聴いていた。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090222)

●長男のマラソン

明日、長男が浜松市主催のシティ・マラソンに出場する。
朝、8時45分のスタートという。
長男は何も言わないが、ワイフと2人で、応援に行くことにした。
「朝、早いわね」と、ワイフ。

恐らく駐車場はないだろう。
電車で行くしかない。
順位は関係ないそうだ。
時間内にゴールできれば、新聞に名前が載るとか。
長男は、それをめざしている。


はやし浩司+++++++++09+++++++++Hiroshi Hayashi

●知能テストbyはやし浩司

もう25年前になるだろうか。
学研から、『よくできました』というおもちゃを、発売した。
当初は(おもちゃ)ということだったが、私は本気だった。
教材にしあげた。

それぞれのテストごとにデータをとり、正解率を70%に調整した※。
が、ここにも書いたように、それから25年。

その後、『よくできました』は、代を重ね、いつの間にか他人の名前で
発売されるようになった。
教材の世界ではよくあることである。
担当者が変わると、それまでの経緯(いきさつ)を知らないまま、
担当者が、別の人の作品にしてしまう。
(オリジナルを制作したのは、私だぞ!)

ともかくも、今度、それをHPに収録した。
題して、『幼児の知能テストbyはやし浩司』。
年齢別に、精密に制作したので、興味のある人は、一度、のぞいてみてほしい。
かなり正確に、幼児の知能を測定することができる。

『知能テスト』へは、はやし浩司のHPのトップページから、
(幼児の知能テスト)へと、進む。
もちろん無料。
こういうことは、損得を考えないでするところに意味がある。
プラス、楽しい。

(注※)市販教材を制作するときは、まず上位10%と、下位10%の子どもは、
販売対象からはずす。
残った80%の子どもたちにテストしてみて、平均点が70点前後になるように
教材のレベルを調整する。
60点以下だと、「むずかしすぎる」ということで、売れない。
80%以上だと、「簡単すぎる」ということで、これまた売れない。

若いころ、『幼児のがくしゅう』『なかよしがくしゅう』(学研)の編集を手伝って
いたとき、編集長のSY氏が、そう教えてくれた。
言いかえると、市販教材で、70%前後の成績がとれれば、ほぼ平均児と判断
してよい。
とくに私が制作した教材は、そうである。
書店に並んでいる教材にはいいかげんなものが多い。
が、こと私がからんだ教材では、そのあたりを、精密に調整してある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
知能テスト 幼児の知能 知能テスト 知能ワーク IQテスト ワークブック)


はやし浩司+++++++++09+++++++++Hiroshi Hayashi

●ドイツの英雄、シュタウフェンベルク

+++++++++++++++++++

あのヒットラーは、在任中、40回も
暗殺未遂にあっているという。
が、そのつど悪運が強いというか、最後まで
生き延びた。

で、その暗殺未遂事件の中でも、最大級のものが、
「ワルキューレ作戦」。

以前にも何度か映画化されたが、今度、
トム・クルーズ主演の映画として、封切られることに
なった。
題名もそのまま、『ワルキューレ』。
映画パンフによると、シュタウフェンベルクは、
ワーグナーの「ワルキューレの騎行」を聴いていたとき、
その作戦を思いついたという。

+++++++++++++++++++

シュタウフェンベルクについて、当のドイツでは、英雄視されているという。
ヒットラーを称える右翼組織もあるそうだが、その一方で、シュタウフェンベルクの
ような人物を英雄視する。
このあたりに、ドイツの良識というか、高い文化性が脈づいている。
いつだったか、私は、こんなエッセーを書いたことがある。

「シラーやゲーテを生んだドイツで、その後、ヒットラーのような人間が生まれた。
これを歴史の皮肉と言わずして、何と言う」と。

今なら、「ベートーベンやワーグナーを生んだドイツで……」と書くかもしれない。

しかしドイツでは、ヒットラーといえども、歴史の一部でしかなかった。
つまり歴史という大波は、ヒットラーを乗り越えて、現在に伝わっている。
それがシュタウフェンベルクを英雄視する基盤になっている。
シラーやゲーテたちが創りあげた文化は、けっして無駄ではなかった。

一方、この日本は、どうか。
天皇制にしても、世界大戦くらいでは、びくともしなかった。
奈良時代の昔からつづいている、やはり(大波)である。
こうした大波は、歴史を乗り越えて、過去から現在へとつづく。

で、これはあくまでも歴史的仮説だが、あのときシュタウフェンベルクたちの
暗殺計画が成功していたら、その後、数百万人のドイツ人の命が救われたという。
が、不幸にも(?)、作戦は失敗した。
そののちドイツがどうなったかは、今さら、ここに書くまでもない。

そこで私は考える。
もしあのとき、東条英機がいなかったとしたら、日本はどうなっていたか、と。
あるいはだれかに暗殺されていたとしたら、日本はどうなっていたか、と。
日本は戦争を回避することができただろうか。
答は、「NO!」。

(大波)といっても、その中には、(中波)もあれば、(小波)もある。
軍国主義を(中波)とするなら、東条英機は(小波)。
仮に東条英機がいなかったとしても、軍国主義という(中波)は、
また別の人物をリーダーに立て、びくともしなかったはず。

となると、事情はドイツでも同じ。
ワルキューレ作戦でヒットラーの暗殺が成功していたとしても、それで
「政権転覆が一気に成し遂げられた」(映画パンフ)とは、考えにくい。
言い換えると、歴史の(波)を変えることは、それほどまでに難しい。

たとえば官僚制度というものがある。
絶対的権威者である、王や皇帝を立て、そのもとで政治を行う。 
この日本も、奈良時代の昔から、現在の今も、基本的には官僚制度国家である。
日本が民主主義国家と思っているのは、日本人だけ。
国政選挙にしても、いかに形骸化しているかは、日本人なら、みな知っている。
その陰で、今、問題になっている、「かんぽの宿」の払い下げ事件を例にあげるまでもなく、
官僚たちは、やりたい放題のことをしている。
天下り、渡り問題にしても、そうだ。
そのつど問題にはなるが、官僚制度そのものは、ビクともしない。

つまりこれが(大波)。
この大波は、私やあなたが少しくらい騒いだくらいでは、どうにもならない。
あるいは反対に、そうした(騒ぎ)を逆に学習しながら、彼らはさらに巧妙化する。

……ということで、私の結論。

ワルキューレ作戦が成功していたとしても、ドイツは変わらなかった。
波というのは、そういうもの。
しかし……。

『スパイ大作戦』にかぎらず、この種の陰謀映画は、成功してはじめて、
ハッピーエンドで終わる。
が、『ワルキューレ』は、はじめから失敗するとわかっている映画である。
つい先日も、ドイツ製の『ワルキューレ作戦』というDVDを見たが、
どこかドキュメンタリー風といった感じで、あまりおもしろくなかった。
このあたりを、トム・クルーズは、どう演ずるのだろう。
見ものである。
+楽しみ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
ワルキューレ シュタウフェンベルク ヒットラー ヒットラー暗殺計画)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

●病識

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精神医学の世界には、「病識」という言葉がある。
「私は病気」と、自分で自分のことを自覚することをいう。
同じ精神疾患でも、本人にその病識があれば、まだ
症状は軽いとみる。
また治療もしやすいという。

一方、病識のない人も多い。
たとえばアルツハイマー病のばあいは、初期の
段階では、病識のある人が多いという。
似たような病気に、ピック病というのがある。
脳の中でもダメージを受ける部分がちがうそうだが、
ピック病のばあいは、病識のある人は少ないという。

これは精神疾患の話だが、社会を見る目についても、
同じようなことが言える。

+++++++++++++++++++

●身分意識

日本人は、いまだに封建主義的な身分意識をもっている。
その人をみるとき、肩書きや地位で、判断する。
相手によって、威張ったり、へりくだったりする人というのは、
無意識のうちに、相手の身分を意識しているためと考えてよい。
が、おそらく当の本人は、(そしてあなた自身も)、「私はちがう」と思っている。
「私には身分意識はない」と。

しかしそう言い切るのは、待ってほしい。

半年ほど前、私はある会合に出た。
出席したのは、私のほか、数名の研究者だった。
私以外、みな、「〜〜大学教授」という肩書きをもっていた。
そこでのこと。

もともとある出版社が企画した会合ということもあって、その出版社の社長以下、
数名の社員が顔を出していた。
私がいちばんの長老格だった。
(私は61歳、教授と呼ばれる人たちは、55〜60歳前後、出版社の社長は50歳前後。)
が、静かに観察してみると、社長以下、出版社の社員たちの態度が、微妙にちがう。
私に対しては、どこかインギン無礼。
一方、教授たちに対しては、バカをつけたいほど、バカていねい。

驚いたことに、私には、交通費しか支給してくれなかった。
教授たちには、交通費プラス日当が支払っていた。
封筒の中の額は知らないが、2〜5万円前後ではなかったか。

つまりこれが私がいう、「身分意識」である。
こうした身分意識は、社会のいたるところに残っている。
そしてそのつど、顔を出す。
が、私以外、その身分意識に気がついている人はいなかった。
長い前置きになったが、これが冒頭に書いた、「病識」に似ている(?)。

●身分コンプレックス

さらに……。
これは余談だが、よく観察してみると、地位や肩書きと関係の
ない、つまり身分制度の外にいる人ほど、身分意識を強くもっているのがわかる。
出版社でいうなら、大手の出版社よりも、中小の出版社の人のほうが、強くもっている。
さらに、社長よりも、編集長、編集長よりも、編集部員のほうが、強くもっている。
これはおもしろい現象かと思う。
言うなれば、身分コンプレックスということになる。
お金のない人ほど、金持ちにコンプレックスをもつ。
それに似ている。

で、こうした意識を名づけるとしたら、「社会意識」ということになる。
もう少し短くして、「社会識」でもよい。
本人に社会意識があれば、まだ対処の仕方もわかる。
話もしやすい。
しかしその社会意識のない人は、どうすればよいのか。

たとえばこの浜松市では、そしてとくに教育の世界では、「東京から来た……」と
いうだけで、みな、頭をさげる。
たとえば東京から来たというだけで、講演会の講師料にしても、30〜100万円。
あるいは、それ以上。
反対に、愛知県と浜松市の県境にあるM町から来た講師だと、3〜5万円。
ばあいによっては、1〜2万円。
浜松まで同じ2時間の距離でも、10倍近い、差をつける。

こうした傾向は、女性、とくに母親と呼ばれる人たちの間ほど、強い。
同じ浜松市に住みながら、地元の人の価値を認めない。
が、当の本人は、それに気がついていない。
つまり、社会意識がない。

●社会意識

……ということで、私たちは常に、偏見や誤解、古い因習や伝統に毒されている。
男尊女卑思想にはじまって、先輩後輩意識、家父長意識、親意識などなど。
そういうものがどういうものであるかを知っている人は、まだ社会意識がある。
精神疾患にたとえるなら、まだ症状も軽い。
治療もしやすい。
しかしそれがない人は、症状は重い。
その分だけ、治療も難しい。
中には、「私はだいじょうぶ」「私は正しい」「私はまとも」とがんばってしまう
人もいる。

こういう人は、ホープレス(=希望なし)。
治療のしようがない。

で、こういうばあい、どうするか。
つまり相手が私を差別してきたら、どうするか。
私のばあい、そういう人たちとはつきあわないようにする。
「どうぞご勝手に」と、離れる。
説得してわからせるには、それなりのエネルギーがいる。
それだけのエネルギーがあるなら、もっとほかのことに使いたい。
それに、人は、人。
私は、私。

……ということで、その会合のあとも、いろいろ連絡が届いた。
出版社のねらいは、この私に原稿を書かせて、そこにいた教授たちの名前で
本を出すこと。
意図は見え見え。
で、私はすべて無視した。
インギン無礼に、ただひたすらインギン無礼に……。
私の代わりになるような人間、いくらでもいる。
私の知ったことではない。
つまりこうして世の中を正していくしかない。
とくに社会意識のない人たちには、そうするしかない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
病識 社会意識 社会識)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

●シティ・マラソン

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2月22日、ややうす曇りの好天のもと、
浜松市主催のシティ・マラソンが開催される。
私とワイフは、トラックの出入り口付近に座って、
長男がスタートするのを待っている。
長男が勤める会社の専務といっしょに走るという。

+++++++++++++++++++

市内まで車で行き、教室の駐車場に車を止める。
そこから電車で上島(かみじま)駅へ。
駅から、四池競技場まで。
ゾロゾロと歩く群衆について、そのまま競技場へ。
人が多いのに、驚いた。
「健康」を求める人のエネルギーというか、熱意に
感銘する。
少しおおげさな言い方になるかもしれないが、
「みんな、がんばって生きているんだなア」と。

と、同時に、(走る)のもよいが、(自転車競走)というもの、
やってほしい、と。
自転車なら自信がある。
60歳以上、高齢者部門だったら、優勝できるはず。
足の太さがちがう。
つまり私の足は、太い。

会場には、個人で走る人も多いが、団体で来ている人も多かった。
それぞれが独自のユニフォームを着て、スタートを待っていた。
監督らしい人から、あれこれと指示を受けているグループもあった。
ヘリコプターも飛んでいた。
少しずつだが、ムード(+緊張感)が高まってきた。

私は、スポーツといえば、個人競技が主体だった。
柔道や剣道など。
野球は苦手だった。
サッカーは、まったくといってよいほど、やらなかった。
「サッカー」という名前を知っている人も少なかった。
マラソンにしても、この浜松へ来てから、知った。

ところで何かの本に書いてあったが、江戸時代が終わるまで、日本人というのは、
走ることを知らなかったそうだ。
しかも右足を前に出すとき、右手を前に出して歩く、あるいは走る、
今では想像もつかないような歩き方、あるいは走り方をしていた。
その名残は、能楽に残っている。
能楽では、シテ、ツレなどは、右足を出すと同時に、ゆっくりと右手を、
左足を出すと同時に、ゆっくりと左手を前に出して、歩く。

また忍者走行というのもある。
これは体を横にして、そのつど両手を交差させながら走るというもの。
今で言う(走り方)とは、スタイルがかなり違ったものである。

そのこともあって、日本ではじめて軍人指導をした外国の指揮官は、
日本人の歩き方を見て、たいへん驚いたそうだ。

……ということで、今、この部分は、競技場の中で書いている。
先ほど3キロコースがスタート。
つづいて5キロコースがスタート。
これから10キロコースがスタート。

ゴールの前で太鼓がどんどんと鳴っている。
しばらくすると、3キロコースの人たちが、戻ってきた。
「10分で戻ってきた!」と、ワイフは時計を見ながら驚いていた。

10分で3キロということは、時速になおすと、18キロ!
トップは小学生だったと思う。
走りなれた様子で、スタスタと戻ってきた。

「来年はぼくも走ってみようかな」と思ったところで、この話は
ここまで。
これからギャラリーになって、長男を応援する。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

●社会的制裁(?)

+++++++++++++++++++++

世俗をだます言葉が、これ。
「社会的制裁」。

先日もある事件の判決文を読んでいたら、
こんなのがあった。
ある公務員の汚職事件にからんだものだが、
こうだ。

「被告はすでに、公務員としての地位を失うなど、
社会的制裁を受けているので……、よって執行猶予
X年とする」と。

(執行猶予刑というのは、実質的に無罪と同じ。)

教師によるハレンチ事件の判決などでも、同じような
表現が用いられることが多い。
つまり(職を失っているので)、(刑罰を受けたことに
なる)と。

しかしこの論法はおかしい。
完全に、おかしい。
職を失うのは、当然の結末であって、それでもって、
社会的制裁を受けたということにはならない。

+++++++++++++++++++++

●目には目を!

政治家を例にあげて考えてみよう。
何かの事件で逮捕、投獄されたとする。
その時点で、議員辞職願いを出して、議員を辞職する。
その判決で、「すでに社会的制裁を……」は、おかしい。
もしその(おかしさ)がわからなければ、あなた自身の
こととして考えてみればよい。

たとえば私は、何も失うものがないと言えるほど、
地位や肩書きとは無縁の世界に生きている。
もしこの論法がまかりとおるなら、私は、日常的に
社会的制裁を受けていることになる。

こんな例もある。

数日前、ニュースサイトをのぞいていたら、こんな記事が目についた。
あのイランで、何と、盲目の刑が科せられた人がいるという。
その人は、ある女性の目に薬剤をかけて、その女性を盲目にしてしまった。
そこで裁判所の判決は、その人を盲目にする、と。
「目には目を……」という、イスラム教にのっとった刑罰とか(?)。

しかしこんな刑がまかりとおるとするなら、今、現在、盲目の人たちは、どうなのか、
ということになる。
そういう人たちは、日常的に刑罰を受けていることになってしまう。

私は権力や組織とは無縁の世界に生きている。
だからといって、社会的制裁を受けているわけではない。
同じように盲目の人たちも、刑罰(?)を受けているわけではない。

もっとひどいのに、こんな話がある。

あるテレビタレントが、何かの事件を起こした。
(こうした事件はよく起きるので、どういう事件かを特定する必要はない。)
そのタレントについて、マスコミ(=新聞やテレビ)は、こう言ったりする。
「あのタレントは、すでにマスコミの世界から、追放されている」と。

となると、この私は、どうなのか?
私は、若いときから今に至るまで、マスコミの世界から追放された状態にある。
(ときどき、テレビや新聞に出たことはあるが、それで利益につながったとか、
そういうことはない。)

私だけではない。
この文章を読んでいる、あなただって、そうだ。
あなただって、マスコミから追放された状態にある。
何も、悪いことなどしていなくても、だ。

●社会的制裁

社会的制裁は、刑罰ではない。
またそれらしき結末になったからといって、判決の内容に影響を与えるものではない。
また影響を与えてはならない。

さらに念を押すなら、こういうことも言える。

政治家や公務員が、何かの事件を起こして職を失ったとする。
それについて、裁判官が、「すでに社会的制裁を……」と言ったとする。
たしかに社会的制裁にはちがいないが、もしそれを(制裁)とするなら、
今、現在、職を失い、その日の生活費にすら苦労している人たちは、
どうなのか、ということになる。
その人たちも、やはり日常的に制裁を受けていることになる。
しかしだれによって?
どうして?

……ということで、私は、あの「社会的制裁」という言葉を聞くたびに、
なんとも言われない不快感を覚える。
視点そのものが、「上」にあって、私たちを、「下」に見ている。
下の世界にいる者は、いわゆる価値のない大衆にすぎない、と。

だから裁判官に私は、こう言いたい。

名誉や地位、さらに仕事を失うのは、あくまでも結末であって、その結末を
先にもってきて、「すでに社会的制裁を……」とは、言ってほしくない。

私たちには、名誉も地位もない。
大半の人たちは、みな、そうだ。
マスコミにも相手にされていない。
だからといって、私は、制裁を受けているとは思わない。
それがわからなければ、もう一度、あのイランでの判決を思い出してみればよい。

刑罰によって、その人を盲目にするということは、それ自体が、盲目の人
たちへの冒涜(ぼうとく)以外の何ものでもない。
はっきり言えば、バカにしている。
一見、合理的に見えるが、合理性は、どこにもない。
「盲目になって苦しんでいる人のために、お前も同じ苦しみを味わえ」という
ことだろう。
が、しかしそれは同時に、今、現在、病気などによって盲目になった
人たちの苦しみを、もてあそぶことになる。

繰り返す。
こういうバカげた、(後付け理由)は、もうやめにしてほしい。

(補記)
さらにダメ押し。
2人の人が、同じハレンチ事件を起こしたとする。
1人は学校の教師、もう1人はフリーターである。

「すでに社会的制裁を……」という論法がまかりとおるとするなら、
教師には、執行猶予がつく。
それはわかる。
しかしフリーターには、もとから失う仕事すら、ない。
日常的に社会的制裁を受けた状態にある。
社会的制裁を受けようにも、受けようがない。
だとするなら、フリーターには、執行猶予はつかないことになる。
この不公平感こそが、そのままこの言葉の不合理性を表していることになる。

さらに言えば、繰り返しになるが、この論法がまかりとおるとするなら、
リストラなどで職を失った人は、どうなのかということになる。
それを「社会的制裁」というのは、あまりにも酷である。

わかったか、裁判官の諸君!
少しは人間社会を、「下」から見ろ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
社会的制裁 社会的制裁論 刑罰 刑罰論 判決)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

●富めるときは貧しく……

++++++++++++++++++++

今の若い夫婦を見ていて、かなり前から
ハラハラしていたことがある。
どの夫婦も、目いっぱいの生活をしている。
仮に給料が30万円あったとする。
すると30万円、ギリギリの生活をしている。

今の若い夫婦は、貧しい時代を知らない。
知らないから、日本は昔から豊かで、
またこの豊かさは、いつまでもつづくと思っている。

しかし今回の大不況で、それが土台から、崩れ去った。
つまり若い夫婦がもっている常識が、土台から
崩れ去った。

+++++++++++++++++++++

私たち団塊の世代は、極貧の時代から、世界でも類を見ないほど豊かな時代へと、
言うなれば、地獄と天国を、両方経験している。
その(坂)を知っている。

が、今の若い夫婦は、それを知らない。
「すべてのものが、あるのが当たり前」という生活をしている。
結婚当初から、自動車や電気製品にいたるまで、すべて、だ。
そのため、いつも目いっぱいの生活をしている。
30万円の給料があったとすると、30万円ギリギリの生活をしている。
大型の自動車を買い、子どもを幼稚園に預けながら、それを当然の
ことのように考えている。

そういう意味で、貧しい時代を知らない人は、かわいそうだ。
そこにある(豊かさ)に気がつかない。

私たちの時代など参考にならないかもしれないが、あえて書く。

私たち夫婦も、自動車を買った。
HONDAの軽。
水色の中古車だった。
それでもうれしかった。

つぎにアパートに移り住んだ。
そこでのトイレは、水洗だった。
それまでは、部屋の間借り。
ボットン便所だった。
トイレの水を流しながら、においのしないトイレに感動した。

幼稚園にしても、当時は約5%の子どもは、通っていなかった。
2年保育がやっと主流になりつつあった。
たいていは1年保育。

さらにクーラーがある。
数年前、あまりの暑さに耐えかねて、私の家にもクーラーをつけた。
しかし使ったのは、ほんの一か月足らず。
かえって体調を崩してしまった。

が、今ではそういう(貧しさ)そのものが、どこかへ行ってしまった。
今の若い夫婦は、この日本は昔から豊かで、そしてこの豊かさは、いつまでも
つづくものと思い込んでいる。
しかしそれはどうか?

私たちは(坂)を知っている。
貧しい時代からの豊かな時代への(坂)である。
その(坂)には、上り坂もあれば、下り坂もある。
だから下り坂があっても、私は驚かない。
またその覚悟は、いつもできている。
「できている」というよりは、豊かな生活を見ながら、その向こうにいつも、あの
貧しい時代を見ている。

が、今度の大不況で、その土台が、ひっくり返った。
崩れた。
これから先のことはわからないが、へたをすれば、10年単位の、長い下り坂が
つづくかもしれない。
が、私が心配するのは、そのことではない。
こういう長い下り坂に、今の若い夫婦が、耐えられるかどうかということ。
何しろ、(あるのが当たり前)という生活をしている。
もしだれかが、「明日から、ボットン便所の部屋に移ってください」と言ったら、
今の若い夫婦は、それに耐えられえるだろうか。
「大型の車はあきらめて、中古の軽にしてください」でもよい。
「幼稚園は、1年保育にしてください」でもよい。

悶々とした閉塞感。
悶々とした不満感。
悶々とした貧困感。

これからの若い夫婦は、それにじっと耐えなければならない。

……と書くと、こう反論する人がいるかもしれない。
「それがわかっていたなら、どうしてもっと早く、言ってくれなかったのか」と。

実は、私たちの世代は、常に、若い夫婦に対して、そう警告してきた。
聞く耳をもたなかったのは、若い夫婦、あなたがた自身である。
スキーへ行くときも、そこから帰ってくるときも、道具は宅配便で運んでいた。
それに対して、「ぜいたくなことをするな」と言っても、あなたがたは、こう言った。
「今では、みな、そうしている」と。

スキーを楽しむということ自体、私たちの世代には、夢のような話だった。
しかしそれが、原点。
もっとわかりやすく言えば、生活の基盤。
今の若い夫婦は、スキーができるという喜びすら、知らない。
さらに言えば、私たちの世代は、稼いだお金にしても、そのうちの何割かは、
実家に仕送りをしていた。
私のばあいは、50%も、仕送りをしていた。

が、今、そんなことをしている若い夫婦が、どこにいる?
むしろ生活費を、実家に援助してもらっている(?)。

この愚かさにまず気がつくこと。
それがこれからの時代を生きる知恵ということになる。

『豊かな時代には、貧しく生きる』。
これが人生の大鉄則である。
同時に、こうも言える。
『貧しい時代には、豊かに生きる』。

「豊か」といっても、お金を使えということではない。
「心の豊かさ」をいう。
その方法が、ないわけではない。
この大不況を逆に利用して、つまり自分自身を見直す好機と考える。
その心の豊かさを、もう一度、考え直してみる。

偉そうなことを書いたので、不愉快に思っている人もいるかもしれない。
しかし私は、心底、そう思う。
そう思うから、このエッセーを書いた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 豊か
な時代 貧しい時代 豊かさの中の貧しさ 貧しさの中の豊かさ)

Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

●貧しさの中の豊かさ

++++++++++++++++++

貧しいのに、損をしたことがないという人がいる。
損をすることに、たいへん警戒心が強い。
それこそビタ一文、他人のためには、出さない。
いや、出すこともあるが、いつも計算づく。
他人の目を意識したもの。
しかし小銭は出しても、いつもそこまで。
ケチはケチだが、自分ではケチとは思っていない。
「私は金がない」「私は賢い節約家」を口癖にする。

このタイプの人は、住む世界も小さいが、
それ以上に、心も狭い。
会って話をしていても、息苦しさを感ずるほど。

++++++++++++++++++

フロイト学説によれば、2〜4歳の肛門期に何か問題があると、ためこみ屋、
守銭奴、さらにはここでいうケチになりやすいという。
生活態度が防衛的で、その分だけ、自分の小さな世界に閉じこもりやすい。

一方、人は、損をし、その損を乗り越えることで、自分の住む世界を大きく
することができる。
損をする……というよりは、損得を考えないで行動する。
できれば無私無欲で行動する。

そのもっともよい例が、ボランティア活動ということになる。
ためしにあなたの近くで、ボランティア活動を進んでしている人がいたら、
その人と話してみるとよい。
そうでない人には感じない、心の広さを感ずるはず。

たとえば私の近所に、MRさんという女性がいる。
年齢は50歳くらい。
折につけ、ボランティア活動ばかりしている。
そのMRさんの家へ行くと、いつもスイスから来た夫婦がきている。
親類ではない。
親類ではないが、MRさんは、その夫婦の子ども(幼児2人)のめんどうをみている。
無料というより、その夫婦の親になりきって、めんどうをみている。
ことの発端は、スイスから来た夫婦の妻が、病気になったことだそうだ。
それが縁でたがいに行ったり、来たりするようになった。
今ではスイスから来た夫婦が、MRさんの家に住みついたような形になっている。

ほかに自宅を外国人に開放し、個展を開いてやったりしたこともある。

ほかに休みになると、外国まで行って、着物の着付けのしかたを指導している。
ときにそれが数か月から半年単位になることもあるそうだ。
しばらく見かけないと思っていたら、「カナダに4か月、行ってきました」と。
平気な顔をして、そう言う。

そういう女性は、輝いている。
体の奥から、輝いている。

が、そうでない人も、多い。
こうして書くのもつらいほど、住んでいる世界が小さく、超の上に「超」がつくケチ。
息がつまるほど、ケチ。

ケチといっても、何もお金の問題だけではない。
自分の時間や、体力を使うことにも、ケチ。
損になることは、何もしない。
まったく、しない。

が、そういう人ほど、外の世界では、妙に寛大ぶったりする。
反動形成というのである。
自分の心を見透かされないように、その反動として、反対の自分を演じてみせる。
が、もともと底が浅い。
浅いから、どこか軽薄な印象を与える。
一本の筋のとおった、哲学を感じない。

では、どうするか?

いつか私は、『損の哲学』について書いた。
損をするのは、たとえば金銭的な損であればなおさらそうだが、だれだって、避けたい。
そう願っている。
しかし損に損を重ねていると、やがてやけっぱちになってくる。
で、ここが重要だが、やけっぱちになったとき、それに押しつぶされるか、
それを乗り越えるかで、その人の人生観は、そのあと大きく変わってくる。

押しつぶされてしまえば、それだけの人。
しかし乗り越えれば、さらに大きな人になる。
そういう意味で、私は若いころ、KTという人物と知り合いになれたのを、
たいへん光栄に思っている。

いつかKTについて詳しく書くこともあると思うが、ともかくも、あの人は、
損に損を重ねて、あそこまでの大人物になった。
何かあるたびに、「まあ、いいじゃねエか」と、ガラガラと笑っていた。

言い忘れたが、KTというのは、「xxxxxx」と読む。
若い人たちは知らないかもしれない。
当時、ある宗派の大僧正であり、国会議員であり、大作家であった。
何度か原稿を書くのを横で見ていたが、一字一句、まるで活字のようなきれいな
文字を書いていた。

……というわけで、損をすることを恐れてはいけない。
大切なことは、その損を乗り越えること。
金銭的な損であれば、それをバネにして、さらに儲ければよい。
時間的な損であれば、その分だけ、睡眠時間を削ればよい。
体力については、それを使って損をするということは、ありえない。
ゴルフ場でコースを回る体力があったら、近所の雑草を刈ればよい。

こうして損を乗り越えていく。
が、それができない人は、自分の住む世界を、小さくしていくしかない。
つまらない、どこまでもつまらない人間になっていくしかない。

50代、60代になってくると、そのちがいが、よくわかるようになる。
その人の(差)となって、表に出てくるようになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
損の美学 損論 損得論 ケチ けち ケチ論 フロイト 肛門期)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

●支持率11%!(Only 11% of Japanese support the Aso Cabinet.)

++++++++++++++++

現在、AS内閣の支持率は、11%。
「支持しない」は、73%!(毎日新聞・2・22)
こうなると、解散→総選挙もできない。
が、このままの状態がつづけば、つづくほど、さらに事態は
悪化する。
現在、J党は、どん底というよりは、奈落の底をはいずり
回っている。

ヤフー・ニュースは、つぎのように伝える(抜粋)。

『毎日新聞は21、22両日、電話による全国世論調査を実施した。麻生内閣の支持率は1月
の前回調査比8ポイント下落の11%で、現在と同じ質問形式にした1949年以降、89年3月
の竹下登内閣、01年2月の森喜朗内閣の各9%に次ぐワースト3位の低水準となった。麻生
太郎首相がいつまで政権を担当すべきかを尋ねた質問でも「今すぐ辞めるべきだ」との回答が
39%に達し、首相の政権運営は一層窮地に陥った(毎日新聞)』と。

+++++++++++++++++

この記事を読んで驚くのは、あの竹下内閣、森内閣の支持率が、9%しかなかったこと。
しかし森喜朗氏などは、いまだに政界では、大物で通っている。
そのつど特務大臣として活躍している。
ということは、AS内閣が退陣しても、J党は健在のまま残り、AS氏もまた、大物と
して、これから先も、権勢を振るうということか。

AS氏は、自分の名利のため、国盗り物語よろしく、政治を利用しているだけ。
ふつうの、つまり常識のある政治家なら、自分に恥じて、政界から去るはず。
国民の大多数が、「やめろ!」と叫んでいるのに、首相の座にしがみついている。
その見苦しさ。
醜さ。
人間がもつ本来的な愚かさを見せつけられているようで、不愉快。

が、批判ばかりしていてはいけない。
私たちはAS首相から、何を学ぶべきか。

その第一。
AS首相は、就任直後から、はしゃぎすぎた。
そのためボロをボロボロと出した。
AS首相は、じっくりと構えて、政権の方向性を、しっかりと見極めるべきだった。

その点、オバマ政権は沈思黙考型というか、いまだに動かない。
この安定感が、アメリカ人の支持を、ますます強固なものにしている。
これは国民性のちがいというよりは、AS首相、オバマ大統領の人間性のちがいと
みてよい。

その人の思考力を知りたかったら、言葉の使い方をみればよい。
思考力の深い人は、言葉の使い方が適切。
AS首相には、思考力そのものが、欠けている。
「首相」として欠けていると言っているのではない。
「ふつうの人間」として、欠けている。
私の周辺にも、あそこまで(おバカ)な人は、そうはいない。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

●社会的制裁(?)

+++++++++++++++++++++

世俗をだます言葉が、これ。
「社会的制裁」。

先日もある事件の判決文を読んでいたら、
こんなのがあった。
ある公務員の汚職事件にからんだものだが、
こうだ。

「被告はすでに、公務員としての地位を失うなど、
社会的制裁を受けているので……、よって執行猶予
X年とする」と。

(執行猶予刑というのは、実質的に無罪と同じ。)

教師によるハレンチ事件の判決などでも、同じような
表現が用いられることが多い。
つまり(職を失っているので)、(刑罰を受けたことに
なる)と。

しかしこの論法はおかしい。
完全に、おかしい。
職を失うのは、当然の結末であって、それでもって、
社会的制裁を受けたということにはならない。

+++++++++++++++++++++

●目には目を!

政治家を例にあげて考えてみよう。
何かの事件で逮捕、投獄されたとする。
その時点で、議員辞職願いを出して、議員を辞職する。
その判決で、「すでに社会的制裁を……」は、おかしい。
もしその(おかしさ)がわからなければ、あなた自身の
こととして考えてみればよい。

たとえば私は、何も失うものがないと言えるほど、
地位や肩書きとは無縁の世界に生きている。
もしこの論法がまかりとおるなら、私は、日常的に
社会的制裁を受けていることになる。

こんな例もある。

数日前、ニュースサイトをのぞいていたら、こんな記事が目についた。
あのイランで、何と、盲目の刑が科せられた人がいるという。
その人は、ある女性の目に薬剤をかけて、その女性を盲目にしてしまった。
そこで裁判所の判決は、その人を盲目にする、と。
「目には目を……」という、イスラム教にのっとった刑罰とか(?)。

しかしこんな刑がまかりとおるとするなら、今、現在、盲目の人たちは、どうなのか、
ということになる。
そういう人たちは、日常的に刑罰を受けていることになってしまう。

私は権力や組織とは無縁の世界に生きている。
だからといって、社会的制裁を受けているわけではない。
同じように盲目の人たちも、刑罰(?)を受けているわけではない。

もっとひどいのに、こんな話がある。

あるテレビタレントが、何かの事件を起こした。
(こうした事件はよく起きるので、どういう事件かを特定する必要はない。)
そのタレントについて、マスコミ(=新聞やテレビ)は、こう言ったりする。
「あのタレントは、すでにマスコミの世界から、追放されている」と。

となると、この私は、どうなのか?
私は、若いときから今に至るまで、マスコミの世界から追放された状態にある。
(ときどき、テレビや新聞に出たことはあるが、それで利益につながったとか、
そういうことはない。)

私だけではない。
この文章を読んでいる、あなただって、そうだ。
あなただって、マスコミから追放された状態にある。
何も、悪いことなどしていなくても、だ。

●社会的制裁

社会的制裁は、刑罰ではない。
またそれらしき結末になったからといって、判決の内容に影響を与えるものではない。
また影響を与えてはならない。

さらに念を押すなら、こういうことも言える。

政治家や公務員が、何かの事件を起こして職を失ったとする。
それについて、裁判官が、「すでに社会的制裁を……」と言ったとする。
たしかに社会的制裁にはちがいないが、もしそれを(制裁)とするなら、
今、現在、職を失い、その日の生活費にすら苦労している人たちは、
どうなのか、ということになる。
その人たちも、やはり日常的に制裁を受けていることになる。
しかしだれによって?
どうして?

……ということで、私は、あの「社会的制裁」という言葉を聞くたびに、
なんとも言われない不快感を覚える。
視点そのものが、「上」にあって、私たちを、「下」に見ている。
下の世界にいる者は、いわゆる価値のない大衆にすぎない、と。

だから裁判官に私は、こう言いたい。

名誉や地位、さらに仕事を失うのは、あくまでも結末であって、その結末を
先にもってきて、「すでに社会的制裁を……」とは、言ってほしくない。

私たちには、名誉も地位もない。
大半の人たちは、みな、そうだ。
マスコミにも相手にされていない。
だからといって、私は、制裁を受けているとは思わない。
それがわからなければ、もう一度、あのイランでの判決を思い出してみればよい。

刑罰によって、その人を盲目にするということは、それ自体が、盲目の人
たちへの冒涜(ぼうとく)以外の何ものでもない。
はっきり言えば、バカにしている。
一見、合理的に見えるが、合理性は、どこにもない。
「盲目になって苦しんでいる人のために、お前も同じ苦しみを味わえ」という
ことだろう。
が、しかしそれは同時に、今、現在、病気などによって盲目になった
人たちの苦しみを、もてあそぶことになる。

繰り返す。
こういうバカげた、(後付け理由)は、もうやめにしてほしい。

(補記)
さらにダメ押し。
2人の人が、同じハレンチ事件を起こしたとする。
1人は学校の教師、もう1人はフリーターである。

「すでに社会的制裁を……」という論法がまかりとおるとするなら、
教師には、執行猶予がつく。
それはわかる。
しかしフリーターには、もとから失う仕事すら、ない。
日常的に社会的制裁を受けた状態にある。
社会的制裁を受けようにも、受けようがない。
だとするなら、フリーターには、執行猶予はつかないことになる。
この不公平感こそが、そのままこの言葉の不合理性を表していることになる。

さらに言えば、繰り返しになるが、この論法がまかりとおるとするなら、
リストラなどで職を失った人は、どうなのかということになる。
それを「社会的制裁」というのは、あまりにも酷である。

わかったか、裁判官の諸君!
少しは人間社会を、「下」から見ろ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
社会的制裁 社会的制裁論 刑罰 刑罰論 判決)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

●富めるときは貧しく……

++++++++++++++++++++

今の若い夫婦を見ていて、かなり前から
ハラハラしていたことがある。
どの夫婦も、目いっぱいの生活をしている。
仮に給料が30万円あったとする。
すると30万円、ギリギリの生活をしている。

今の若い夫婦は、貧しい時代を知らない。
知らないから、日本は昔から豊かで、
またこの豊かさは、いつまでもつづくと思っている。

しかし今回の大不況で、それが土台から、崩れ去った。
つまり若い夫婦がもっている常識が、土台から
崩れ去った。

+++++++++++++++++++++

私たち団塊の世代は、極貧の時代から、世界でも類を見ないほど豊かな時代へと、
言うなれば、地獄と天国を、両方経験している。
その(坂)を知っている。

が、今の若い夫婦は、それを知らない。
「すべてのものが、あるのが当たり前」という生活をしている。
結婚当初から、自動車や電気製品にいたるまで、すべて、だ。
そのため、いつも目いっぱいの生活をしている。
30万円の給料があったとすると、30万円ギリギリの生活をしている。
大型の自動車を買い、子どもを幼稚園に預けながら、それを当然の
ことのように考えている。

そういう意味で、貧しい時代を知らない人は、かわいそうだ。
そこにある(豊かさ)に気がつかない。

私たちの時代など参考にならないかもしれないが、あえて書く。

私たち夫婦も、自動車を買った。
HONDAの軽。
水色の中古車だった。
それでもうれしかった。

つぎにアパートに移り住んだ。
そこでのトイレは、水洗だった。
それまでは、部屋の間借り。
ボットン便所だった。
トイレの水を流しながら、においのしないトイレに感動した。

幼稚園にしても、当時は約5%の子どもは、通っていなかった。
2年保育がやっと主流になりつつあった。
それまでは1年保育。

さらにクーラーがある。
5、6年前、あまりの暑さに耐えかねて、私の家にもクーラーをつけた。
しかし使ったのは、ほんの一か月足らず。
かえって体調を崩してしまった。

が、今ではそういう(貧しさ)そのものが、どこかへ行ってしまった。
今の若い夫婦は、この日本は昔から豊かで、そしてこの豊かさは、いつまでも
つづくものと思い込んでいる。
しかしそれはどうか?

私たちは(坂)を知っている。
貧しい時代からの豊かな時代への(坂)である。
その(坂)には、上り坂もあれば、下り坂もある。
だから下り坂があっても、私は驚かない。
またその覚悟は、いつもできている。
「できている」というよりは、豊かな生活を見ながら、その向こうにいつも、あの
貧しい時代を見ている。

が、今度の大不況で、その土台が、ひっくり返った。
崩れた。
これから先のことはわからないが、へたをすれば、10年単位の、長い下り坂が
つづくかもしれない。
が、私が心配するのは、そのことではない。
こういう長い下り坂に、今の若い夫婦が、耐えられるかどうかということ。
何しろ、(あるのが当たり前)という生活をしている。
もしだれかが、「明日から、ボットン便所の部屋に移ってください」と言ったら、
今の若い夫婦は、それに耐えられえるだろうか。
「大型の車はあきらめて、中古の軽にしてください」でもよい。
「幼稚園は、1年保育にしてください」でもよい。

悶々とした閉塞感。
悶々とした不満感。
悶々とした貧困感。

これからの若い夫婦は、それにじっと耐えなければならない。

……と書くと、こう反論する人がいるかもしれない。
「それがわかっていたなら、どうしてもっと早く、言ってくれなかったのか」と。

実は、私たちの世代は、常に、若い夫婦に対して、そう警告してきた。
聞く耳をもたなかったのは、若い夫婦、あなたがた自身である。
スキーへ行くときも、そこから帰ってくるときも、道具は宅配便で運んでいた。
それに対して、「ぜいたくなことをするな」と言っても、あなたがたは、こう言った。
「今では、みな、そうしている」と。

スキーを楽しむということ自体、私たちの世代には、夢のような話だった。
しかしそれが、原点。
もっとわかりやすく言えば、生活の基盤。
今の若い夫婦は、スキーができるという喜びすら、知らない。
さらに言えば、私たちの世代は、稼いだお金にしても、そのうちの何割かは、
実家に仕送りをしていた。
私のばあいは、50%も、仕送りをしていた。

が、今、そんなことをしている若い夫婦が、どこにいる?
むしろ生活費を、実家に援助してもらっている(?)。

この愚かさにまず気がつくこと。
それがこれからの時代を生きる知恵ということになる。

『豊かな時代には、貧しく生きる』。
これが人生の大鉄則である。
同時に、こうも言える。
『貧しい時代には、豊かに生きる』。

「豊か」といっても、お金を使えということではない。
「心の豊かさ」をいう。
その方法が、ないわけではない。
この大不況を逆に利用して、つまり自分自身を見直す好機と考える。
その心の豊かさを、もう一度、考え直してみる。

偉そうなことを書いたので、不愉快に思っている人もいるかもしれない。
しかし私は、心底、そう思う。
そう思うから、このエッセーを書いた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 豊か
な時代 貧しい時代 豊かさの中の貧しさ 貧しさの中の豊かさ)

Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

●貧しさの中の豊かさ

++++++++++++++++++

貧しいのに、損をしたことがないという人がいる。
損をすることに、たいへん警戒心が強い。
それこそビタ一文、他人のためには、出さない。
いや、出すこともあるが、いつも計算づく。
他人の目を意識したもの。
しかし小銭は出しても、いつもそこまで。
ケチはケチだが、自分ではケチとは思っていない。
「私は金がない」「私は賢い節約家」を口癖にする。

このタイプの人は、住む世界も小さいが、
それ以上に、心も狭い。
会って話をしていても、息苦しさを感ずる。

++++++++++++++++++

フロイト学説によれば、2〜4歳の肛門期に何か問題があると、ためこみ屋、
守銭奴、さらにはここでいうケチになりやすいという。
(ウンチをためる)が、(モノをためる)につながる。
生活態度が防衛的で、その分だけ、自分の小さな世界に閉じこもりやすい。

一方、人は、損をし、その損を乗り越えることで、自分の住む世界を大きく
することができる。
損をする……というよりは、損得を考えないで行動する。
できれば無私無欲で行動する。

そのもっともよい例が、ボランティア活動ということになる。
ためしにあなたの近くで、ボランティア活動を進んでしている人がいたら、
その人と話してみるとよい。
そうでない人には感じない、心の広さを感ずるはず。

たとえば私の近所に、MRさんという女性がいる。
年齢は50歳くらい。
折につけ、ボランティア活動ばかりしている。
そのMRさんの家へ行くと、いつもスイスから来た夫婦がきている。
親類ではない。
親類ではないが、MRさんは、その夫婦の子ども(幼児2人)のめんどうをみている。
無料というより、その夫婦の親になりきって、めんどうをみている。
ことの発端は、スイスから来た夫婦の妻が、病気になったことだそうだ。
それが縁でたがいに行ったり、来たりするようになった。
今ではスイスから来た夫婦が、MRさんの家に住みついたような形になっている。

ほかに自宅を外国人に開放し、個展を開いてやったりしたこともある。

ほかに休みになると、外国まで行って、着物の着付けのしかたを指導している。
ときにそれが数か月から半年単位になることもあるそうだ。
しばらく見かけないと思っていたら、「カナダに4か月、行ってきました」と。
平気な顔をして、そう言う。

そういう女性は、輝いている。
体の芯から、輝いている。

が、そうでない人も、多い。
こうして書くのもつらいほど、住んでいる世界が小さく、超の上に「超」がつくケチ。
息がつまるほど、ケチ。

ケチといっても、何もお金の問題だけではない。
自分の時間や、体力を使うことにも、ケチ。
損になることは、何もしない。
まったく、しない。

が、そういう人ほど、外の世界では、妙に寛大ぶったりする。
反動形成というのである。
自分の心を見透かされないように、その反動として、反対の自分を演じてみせる。
が、もともと底が浅い。
浅いから、どこか軽薄な印象を与える。
一本の筋のとおった、哲学を感じない。

では、どうするか?

いつか私は、『損の哲学』について書いた。
損をするのは、たとえば金銭的な損であればなおさらそうだが、だれだって、避けたい。
そう願っている。
しかし損に損を重ねていると、やがてやけっぱちになってくる。
で、ここが重要だが、やけっぱちになったとき、それに押しつぶされるか、
それを乗り越えるかで、その人の人生観は、そのあと大きく変わってくる。

押しつぶされてしまえば、それだけの人。
しかし乗り越えれば、さらに大きな人になる。
そういう意味で、私は若いころ、KTという人物と知り合いになれたのを、
たいへん光栄に思っている。

いつかKTについて詳しく書くこともあると思うが、ともかくも、あの人は、
損に損を重ねて、あそこまでの大人物になった。
何かあるたびに、「まあ、いいじゃねエか」と、ガラガラと笑っていた。

言い忘れたが、KTというのは、「XXXXX」と読む。
若い人たちは知らないかもしれない。
当時、ある宗派の大僧正であり、国会議員であり、大作家であった。
何度か原稿を書くのを横で見ていたが、一字一句、まるで活字のようなきれいな
文字を書いていた。

……というわけで、損をすることを恐れてはいけない。
大切なことは、その損を乗り越えること。
金銭的な損であれば、それをバネにして、さらに儲ければよい。
時間的な損であれば、その分だけ、睡眠時間を削ればよい。
体力については、それを使って損をするということは、ありえない。
ゴルフ場でコースを回る体力があったら、近所の雑草を刈ればよい。

こうして損を乗り越えていく。
が、それができない人は、自分の住む世界を、小さくしていくしかない。
つまらない、どこまでもつまらない人間になっていくしかない。

50代、60代になってくると、そのちがいが、よくわかるようになる。
その人の(差)となって、表に出てくるようになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
損の美学 損論 損得論 ケチ けち ケチ論 フロイト 肛門期 KT)


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090225)

【子育て】(S男の引きこもり)(特集)

●時の流れ

時の流れは風のようなもの。
どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。
「時間よ、止まれ!」と叫んでみても、その風は、止まることはない。
手でつかもうとしても、指の間から、すり抜けていく。

私は子どものころから、何か楽しいことがあると、決まってこの歌を歌った。
「♪夕空晴れて、秋風吹き……。月影落ちて、鈴虫鳴く……」と。

結婚して子どもができてからもそうで、この歌をよく歌った。
ドライブに行き、その帰り道で、みなと合唱したこともある。
が、そういう時代も、あっという間に過ぎてしまった。
そのときは遅々として進まないように見える時の流れも、終わってみると、
あっという間。
どこへ消えたのかと思うほど、風の向こうに散ってしまう。
時の流れは、風のようなもの。

●私の夢

私には、夢があった。
子育ての夢というよりは、私自身の夢だったかもしれない。
その夢というのは、子どもを育てながら、いつか自分の子どもをオーストラリアへ
送ること。
親が夢をもつのを悪いというのではない。
その夢があるから、親は、子育てをしながら、そこに希望を託す。
その希望にしがみつきながら、仕事をする。
がんばる。
私も、ごくふつうの親だった。
息子たちには、何としてもオーストラリアへ行ってほしかった。
理由がある。

●夢のような生活

私は、学生として、オーストラリアへ渡った。
1970年の3月のことだった。
当時は、それなりの後見人、つまり身元保証人がいないと、正規の留学ができない
時代だった。
その後見人に、現在の皇后陛下の父君の、正田英三郎氏がなってくれた。
そのこともあって、私は、今から思うと、夢のような学生生活を送ることができた。

よく誤解されるが、青春はけっして人生の出発点ではない。
青春時代は、人生のゴール。
ゴール、そのもの。
人は常に、青春時代という(灯台)に照らされて、自分の人生を歩む。
私が、そうだった。

ともすればわき道に迷うそうになったことも、何度かある。
もともと生まれも育ちも、よくない。
ときに道を踏み外しそうになったこともある。
そういうとき、私の道を正してくれたのは、あの青春時代という灯台だった。

それが私の夢だった。
3人の息子たちを育てながら、息子たちにもまた、私がもっているのと
同じ灯台をもってほしかった。

●非現実的世界

私には3人の息子がいる。
ちょうど3歳ずつ、歳が離れている。
計画的に、そうしたわけではない。
結果的に、そうなった。

で、私は子育てをしながら、いつもこう願っていた。
息子たちにも、広い世界を見てほしい、と。
私の時代と比較するのもどうかと思うが、私の時代には、外国へ行くということ
すら、夢のような話だった。
たとえば羽田、シドニー間の航空運賃だけでも、往復42万円。
大卒の初任給が、やっと5万円に届いたというころだった。

いわんや留学など、夢のまた夢。
そのあと私が寝泊りするようになったカレッジにしても、当時のレートで、
月額20万円もした。
が、それだけの価値はあった。

最近、ハリーポッターという映画を見たが、あの中に出てくるような生活
そのままだった。
学生たちは、ローブと呼ばれるガウンを身にまとい、上級生や、
講師、教授とともに、いっしょに寝泊りをする。
「カレッジ」というと、日本では、「寮」と訳すが、日本でいう寮を想像しない
ほうがよい。
カレッジは、それ自体が、独立した教育機関である。
中央にある「大学(ユニバーシティ)」で、総合的な教育を受け、カレッジに
もどって、個別の授業を受ける。
それがイギリスのカレッジ制度である。

しかしこの制度は、そののち、労働党政権になり、大きく崩れた。
予算が大幅に削られた。
昨年、オーストラリアへ行った折に、私がいたカレッジを訪れてみたが、
昔の面影というか、雰囲気は、もうなかった。

で、私は正田氏に後見人になってもらったこともあり、皇族として、大学に
迎え入れられた。
隣人は、インドネシアの王子だったし、廊下をはさんで反対側は、
モーリシャスの皇太子だった。
みな、ファースト・ネームで呼びあった。

●外国

息子たちは息子たちで、そういう私の心を察してか、「いつかは外国へ行く」
ということを考えていた。……と思う。
たぶんに押し付けがましいものではあったかもしれないが、私はそれを喜んだ。

が、息子たちの時代ですらも、外国は、まだ遠かった。
2人の息子を連れて、オーストラリアへ行ったときも、またもう1人の息子と、
タイへ行ったときも、それなりの覚悟が必要だった。
それだけで1、2か月分の稼ぎが、吹っ飛んでしまった。
少なくとも、今のように、学校の修学旅行で、オーストラリアやハワイへ行く
ような時代ではなかった。

が、それがよかったのか、悪かったのか、私にはわからない。

同じ(外国)でも、人によって、その印象がちがう。
これはあくまでも一般論だが、外国の生活にそのまま溶け込める子どもと、
そうでない子どもがいる。
溶け込める子どもが、3分の2。
溶け込めないで、その世界からはじき飛ばされてしまう子どもが、3分の1。

つまり3人に1人は、外国の生活になじめない。
その割合は、年齢が大きくなればなるほど、大きくなる。

●S男のこと

親というのは、けっして1人の親ではない。
私も3人の息子を育てながら、3人の親になった。
つまり育て方が、みな、ちがった。

概して言えば、S男にはきびしく接した。
二男には、幼児のとき、浜名湖であやうく事故で亡くしかけたこともあり、
「生きているだけでいい」という接し方をした。
三男は、心の余裕ができたこともあり、俗にいう、甘やかして育てた。

そういう点では、S男には、申し訳ないことをした。
期待を、大きくかけすぎた。
夢を、S男にぶつけすぎた。
S男にとっては、私の家は、窮屈で住みにくいところだったことだろう。
今にして思うと、それがわかる。
申し訳ないことをした。
本当に申し訳ないことをした。
しかし当時の私には、それがわからなかった。
中学、高校へと進むにつれて、とくにS男の心は、私から離れていった。

●断絶

最初は小さな亀裂だった。
しかしそれがやがて断絶となり、私とS男の間の会話は途切れた。
私は、うるさい親父だった。
過干渉で、その上、過関心だった。
さらに悪いことに、これは言い訳にもならないが、私は忙しかった。
そのこともあって、私の情緒は、かなり不安定になっていた。
……というより、私は私で、心の問題をかかえていた。
それについては、もう少しあとで書くとして、私にとってもつらい時代だった。

もっとも、父と子、とくに父と息子が断絶するというケースは、珍しくない。
あのジークムント・フロイトは、それを「血統空想」という言葉を使って、
間接的に説明している。

子どもというのは、ある年齢になると、自分の血統、つまり父親を疑い始める。
「私の父は、本当の親ではないかもしれない。私の父親は、もっと高貴な
人物であったはず」と。

これに対して、自分の母親を疑う子どもは、いない。
それもそのはず。
子どもは母親の胎内に宿り、生まれたあとも、母親から乳を受ける。
そういう意味で、母子関係と、父子関係は、けっして同じではない。
平等ではない。

統計的な数字をみても、「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は、
79%もいる(「青少年白書」平成10年)。

私もそうした父親の1人、ということになる。
つまり私は、S男と会話が途切れたことについて、それほど深刻には、考えて
いなかった。

私自身も、私の父親とは、中学生になるころには、ほとんど会話をしなくなっていた。

●大学

下宿は、元高校教師の家に決まった。
私はそれを喜んだ。
大学は、友人の紹介で、キャンベラ大学に決まった。

ところでこうした手続きは、自分でするのがよい。
留学の斡旋を専門にするサービス会社もあるが、一般的に、高額。
が、自分ですれば、実費のみ。
昨年(08)、問題になり、破産した斡旋会社は、1人あたり、数百万円の
手数料を荒稼ぎしていたという。

今ではインターネットを通して、入学の申し込み、学生ビザの取得まで
すべてできる。
下宿代も、食事込みで、月額4〜5万円程度。
学費も、半期の6か月で、70〜80万円程度。
自分で手続きをすれば、ただというわけではないが、数千円の印紙代程度で、
すむ。

●巣立ち

S男は、友人のI君と2人で、大阪の伊丹空港を飛び立った。
3月の、まだ肌寒さの残る朝だった。
空港でいくらかの円を、オーストラリアドルに換えた。
それを渡すと、S男は、こう言った。

「2度と日本には帰ってこない」と。
私は、「そうか」とだけ言った。
親としてはさみしい瞬間であるが、それが巣立ち。
いつかはその日がやってくる。
むしろ私は、そういうS男をたのもしく思った。
と、同時に、内心では、ほっとした。

家の中では、いつもたがいにピリピリとした雰囲気だった。
それがS男にも通じたのか、S男はうしろも振り返らず、黙ったまま、
ゲートを通り過ぎていった。

●私の心のキズ

私が自分の心のキズに気がついたのは、私が40歳も過ぎてからの
ことではなかったか。
「おかしい」とは思っていたが、みなそうだと思っていた。
しかしキズは、たしかにあった。……今でも、ある。

トラウマというのは、そういうもの。
年齢を重ねたからといって、消えるものではない。
私は基本的には、不幸にして、不幸な家庭に生まれ育った。
父と母は、夫婦と言いながら、形だけ。
心はバラバラ。
その上、父は、ふだんはもの静かな学者肌の人だったが、酒が入ると、
人が変わった。
大声を出して、暴れた。
家具をひっくり返し、ふすまや障子のさんを壊した。

私と姉は、そして兄は、そのたびに、父の影におびえ、家の中を逃げ回った。

それが大きなキズとなった。
父が酒を飲んで、人が変わったように、私の中にも2人の「私」がいて、
そのつど、交替で顔を出す。
たとえばこんなことがあった。
私が小学5年生のときのことだった。

●2人の私

私には心を寄せる女の子がいた。
AMさんといった。
が、AMさんは、私には関心を示さなかった。
そういうことが重なって、私はある日、AMさんが教室にいないときを見計らって、
AMさんの机の中から、AMさんのノートを取り出した。
そしてその中の1ページに、乱雑な落書きをした。

しばらくしてAMさんが教室に戻ってきて、それを見て、泣いた。
そのときのこと。
私の中に2人の「私」がいて、1人の私は、それを見て笑っていた。
が、もう1人の「私」もいて、そういうことをした私を責めた。
「なんて、バカなことをしたのだ!」と。

ただ救われたのは、そうしてときどき顔を出す、邪悪な私は、私の中でも
一部であったこと。
また邪悪な私が顔を出すたびに、もう1人の私が、それをたしなめたこと。
もしそれがなければ、私はそのまま多重人格者になっていたかもしれない。
しかし心のキズは、そんなものではない。

●体の震え

私にはおかしな病癖があった。
子どものころから、何かのことで不安や心配になったりすると、体が震えた。
夜、床について、しばらくしてから起こることが多かった。
体中の筋肉がかたまり、そのあと、自分でもわかるほど、体がガタガタと震えた。
年に何度とか、あるいは月に1度とか、回数は多くなかったが、それは起きた。

強度の不安神経症?
パニック障害?

診断名はともかくも、不安が不安を呼び、それが渦のように心の中で増幅し、
やがて制御不能になる。
が、原因が、やがてわかった。

ある夜のこと。
そのとき私は30歳を過ぎていた。
ワイフとふとんの中で、あれこれと話しあっているうち、話題は、あの夜のことに
なった。

あの夜……父がいつもになく酒を飲み、大暴れした夜のことだった。
父は、大声で母の名を呼び、家の中をさがし回った。
「トヨ子!」「トヨ子!」と。

私と姉は二階の、いちばん奥の物干し台の陰に隠れた。
そのときのこと。
父は隣の部屋まで、2度来た。
家具を投げつける音が、壁を伝ってきこえてきた。
私は姉に抱きつきながら、「姉ちゃん、こわいよう、姉ちゃん、こわいよう」と
おびえた。
私はそのとき、6歳だった。

で、その話になったとき、あの震えが起きた。
体中がかたまり、私はガタガタと震えた。

ワイフはそれを見て、牛乳を温めてもってきてくれた。
私はワイフの乳房を吸いながら、心を休めた。

●心を開く

私は子どものころから、「浩司は、明るくて楽しい子」と、よく言われた。
「愛想がいい子」とも、よく言われた。
しかしそれは仮面。
私にも、それがよくわかっていた。
つまり私は、だれにでも尻尾を振る、そんなタイプの子どもだった。

心理学で言えば、心の開けない子どもということになる。
母と私の間で、基本的信頼関係が結べなかったことが原因と考えてよい。
私は乳幼児期において、絶対的な(さらけ出し)ができなかった。
「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味である。
それもそのはず。
先にも書いたように、私の家庭は、「家庭」という「体」をなしていなかった。
静かに家族の絆(きずな)を温めるという雰囲気さえ、なかった。

ゆいいつの救いは、祖父母が同居していたこと。
祖父が、私の父親がわりになってくれたこと。
もし祖父母が同居していなかったら、その後の私は、めちゃめちゃになって
いただろう。

ともかくも、私は、結婚してからも、ワイフにさえ、心を開くことができなかった。
私の過去にしても、また私が生まれ育った環境にしても、そういうことを
話すのは、(私の恥)(家の恥)と考えていた。

そんなわけで、私は、息子たちにも、心を開くことができなかった。
その影響をいちばん強く受けたのは、S男だった。

●パパ、もうダメだ!

電話は、突然だった。
受話器を取ると、S男はこう言った。
「パパ、もうだめだア」と。
悲痛な声だった。
私はその声の中に、異常なものを感じた。
「すぐ帰って来い!」と。

今のようにインターネットがある時代ではない。
連絡は手紙。
あるいは電話。
急ぎのときは、郵便局でファックス・メールというのを使った。
下宿先には、ファックスはなかった。
S男の様子がおかしいということは、下宿先のホスト・マザーから聞いていた。
しかしそれを詳しく確かめることもなかった。

が、2年間の留学生活を終え、これから専門課程へと進む矢先のことだった。
どこか心配なところはあったが、私の頭の中には、あの伊丹空港を出て行くときの
S男の印象が、強烈に残っていた。
意外というより、「どうして?」という疑問のほうが大きかった。

が、さらに驚いたのは、その翌々日のことだった。
裏の勝手口を見ると、S男がそこに立っていた。
「帰って来い」とは言ったが、そんなに早く帰ってくるとは思っていなかった。
私たちは、何も言わず、S男を家の中に迎え入れた。
S男が、ちょうど20歳になる少し前のことだった。

●長いトンネル

私たち夫婦は、そのあと、長くて苦しいトンネルに入った。
出口の見えないトンネルである。

S男の生活を見ていて、興味深かったのは、毎日、ちょうど1時間ずつ
時間がずれていくことだった。
1日が24時間ではなく、1日が25時間で動いていた。

昨日は午前9時ごろ起きたと思っていると、今日はそれが午前10時に
なる。
そしてそれがつぎの日には、11時になる。
こうして時間がずれていって、夜中は起きていて、昼間は寝るという状態が
つづいた。

ワイフは、「そのうち元気になるだろう」と考えていた。
しかし私は、そうでなかった。
仕事上、そのタイプの子どもを何十例も見てきた。
S男の症状は、まさにそれだった。
「引きこもり」という、まさにそれだった。

●自信喪失

S男については、一度、S男が高校生のときに、自信を失ったことがある。
S男が、隠れてタバコを吸い始めた。
それまでは私は、積極的に、禁煙運動を進めていた。
が、S男がタバコを吸っているのを知って、それ以後、禁煙運動はやめた。

しかし今度は、引きこもりである。
私は大きな衝撃を受けた。
というより、自信を失ってしまった。
当時もいろいろな場で、育児相談を受けていた。
が、心、そこにあらずという状態になってしまった。
(教育)の世界から、足を洗うことさえ考えた。

が、それを止めてくれたのが、ほかの2人の息子たちだった。
とくに、三男が、中学で何かにつけ、活躍してくれた。
学年でもトップの成績を取ってくれた。
生徒会長にもなってくれた。
それを見て、ワイフがこう言って励ましてくれた。

「あなたがしてきたことは、まちがっていないわ」と。

●暖かい無視と、ほどよい親

子どもが引きこもるようになったら、鉄則は、2つ。
(1)暖かい無視と、(2)ほどよい親。

もしS男が他人の子どもなら、私はその親に、こう言ってアドバイスしたこと
だろう。
「暖かい無視と、ほどよい親であることを、徹底的に貫きなさい」と。

暖かい無視というのは、愛情だけは忘れず、何もしない、何も言わない、
何も指示しない、何も干渉しない……ことをいう。
ほどよい親というのは、「求めてきたときが、与えどき」と覚えておくとよい。
子どものほうから何かを求めてきたら、すかさずそれに応じてやる。
しかしこちらからは、あれこれと手を出さない。

しかし実際には、これが難しかった。

●だらしなくなる生活態度

私たちは、S男の生活態度が、日増しにだらしなくなるのを知った。
衣服を替えない。
風呂に入らない。
掃除をしない、などなど。
食事の時間は、もちろんめちゃめちゃだった。

もともと静かで穏やかなS男だったが、表面的には、それほど変わらなかった。
しかし心の中は、いつも緊張状態にあった。
不用意に私やワイフが何かを言うと、ときにそれに反応し、烈火のごとく、
怒った。
やがて私たちは、何も言えなくなった。

S男が、なすがまま、それに任せた。
しかしそれは少しずつだが、私とワイフを追いつめていった。
そのつど、私は、ワイフとドライブに出かけて、その先で、泣いた。

●親の愛

親の愛にも、三種類、ある。
本能的な愛、代償的な愛、それに真の愛である。

しかし(愛)ほど、実感しにくい感情もない。
(怒り)や(悲しみ)と同列に置くことはできない。
できないが、『許して、忘れる』。
その度量の深さによって、愛の深さが決まる。
……というより、私はいつもその言葉の意味を考えていた。

英語では、「Forgive & Forget」という。
学生時代に、私が何か困ったことがあるたびに、オーストラリアの友人が
そばへ来て、こう言った。
「ヒロシ、許して忘れろ」と。

しかしこの言葉をよく見ると、「許す」は、「与えるため」とも訳せる。
「忘れる」は、「得るため」とも訳せる。

私は、「何を与えるために許し、何を得るために忘れるのか」、それをずっと
考えていた。
が、そのとき、その意味がわかった。

私とワイフは、そのときも山の中のどこかの空き地に車を止めていた。
そしてそこでぼんやりと、窓の外を見ていた。
満天の星空だった。
と、そのとき、意味がわかった。

親は子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るために忘れる。

私はそれを知ったとき、大粒の涙が、何度も何度も、頬を伝って流れるのを
知った。

●闘病生活

かかりつけの内科へ行くと、医師が、薬を処方してくれた。
しかしどれもS男には合わなかった。
そのつど腹部の不快感や、体の不調を訴えた。
で、薬を替えてもらうこともあったが、そのつどS男は、反作用というか、
それに苦しんだ。
いつも効果は、一時的だった。

もちろんS男だけが、引きこもりというわけではない。
この日本だけでも、推定だが、ひきこもっている若者は、数十万人はいると
言われている。

家人が隠しているケースも多いから、実際には、もっと多いかもしれない。
100万人という説もある。
私たち夫婦も、S男が引きこもっていることを、だれにも話さなかった。
隠したのではない。
話したところで、どうにもならなかった。
が、そうでなくても、私たち夫婦のことを話題にしたがる人は、いつもいた。

たとえば二男は、市内でも、ABCD……のつぎにくるような高校に入学した。
いろいろあって、そうなった。
二男が、自分で選んで、そうした。
それについても、「あの林先生の息子さんは、E高校なんですってねえ」と。

私のような仕事をしている者の息子は、トップのS高校でなければならない
という口調である。

とんでもない!
バカヤロー!

●友人の訪問

そんなS男の唯一の窓口が、S男の友人のS君だった。
小学時代からの友人で、週に1度、あるいは2、3週間に1度、S男を訪ねて
くれた。
私たちはS君の来訪を、S男より望んだ。
そして来てくれるたびに、S君を歓待した。
ときどきS男は、S君と居間でお茶を飲んだりした。
そのときだけ、私たちはS男との接点をもつことができた。

S君は、父親の土建業を手伝っていた。
私たちも家の工事をあれこれS君に頼むことで、S君との接点を保った。
この種の心の病気には、時間がかかる。
5年単位、10年単位の時間がかかる。
あせって何かをしても、逆効果。
かえって症状がこじれるだけ。
それを私も、よく知っていた。

●消えた夫婦喧嘩

私たちは、人からは仲のよい夫婦に思われていた。
しかし実際には、喧嘩ばかりしていた。
頻度を言っても意味はないが、月に1、2度は喧嘩を繰り返していた。
それについても、結婚当初からの長い経緯がある。
もともとたがいに納得した結婚ではなかった。
それに私には、先にも書いたように、心の病気があった。
心の開けない人間だった。
それに応じて、ワイフも、いつしか、心の開けない人間になっていた。

が、かろうじて私たちが夫婦でいられたのは、たがいに孤独だったこと。
不幸にして不幸な過去を背負っていたこと。
たがいに寄り添って生きていくしかなかった。

だから喧嘩といっても、2日以上、つづくことはなかった。
昼間に喧嘩しても、夜は同じふとんの中で眠った。

それはそれでよかったのだが、しかしS男の前では、喧嘩はできなかった。
どんなに言い争っていても、S男の空気を感じたら、そのままやめた。
S男に不安感を与えることだけは、ぜったいに避けなければならなかった。

●原因

子どもに問題が起きると、ほとんどの親は、その原因探しをする。
子どもに向けて、する。
が、そのとき、親自身に問題があったと考える親は少ない。
しかし子どもは、家族の(代表)にすぎない。
家族の問題を、代表しているにすぎない。

S男にしても、そうだ。
さらに最近では、うつ病という病気についても、その遠因は、乳幼児期の
母子関係の不全にあるということまで、わかってきた。
私たち自身の過去を見ても、S男がS男のようになったのも、もとはと
言えば、私の過去、そして私自身にある。
親の心が閉じていて、どうしてその親に、子どもが心を開くことが
できるだろうか。

心配先行型の子育て……というより、私は、息子たちを信じていなかった。
悪玉親意識も強く、いつも親風を吹かしていた。
S男がS男のようになったとしても、まったくおかしくない家庭環境だった。

●平凡は美徳だが……

平凡は美徳だが、平凡な生活からは、何も生まれない。
ドラマも生まれない。
感動も生まれない。
それはわかるが、そういった状態が、2年、3年とつづくと、それがそのまま、
平凡になってしまう。

家の中に、よどんだ重苦しさを感じながらも、私たち夫婦は、S男のことを忘れた。
S男はS男で、いつも勝手なことをして、日々を過ごした。
S男自身も、私の目には、それを楽しんでいるかのように見えた。
私たち夫婦も、S男のことは忘れて、勝手なことをし始めた。

が、そんなある日、S男が、突然、「働く!」と言い出した。
部屋の中に引きこもるようになってから、3年、あるいは4年ほど
過ぎたときのことだった。

●旗振りの仕事

「どんな仕事?」と聞くと、「道路工事の旗振りの仕事」と。
初夏の、暑い日がつづいていたころのことだった。
「いくらなんでも、いきなりそんなきびしい仕事をしなくても……」と、
私は言った。

真っ黒に日焼けした人たちの顔が、目に浮かんだ。
が、反対することはできなかった。
むしろ、S男のその変化に、喜んだ。
「ひょっとしたら……」という、淡い期待が、心の中に充満した。

が、そんなある日、S男がふと、こんなことを口にした。

「パパは、ぼくがこんな仕事をしたら、恥ずかしいか?」と。
私は、首を横に振った。
それを鼻先で笑った。
「恥ずかしい? とんでもない。そんな気持ちは、とっくの昔に捨てたよ」と。

私たちはその夜、近くのショッピングセンターで、日焼け止めクリームを
買ってきた。
そしてそれを、そっとS男の部屋の前に置いた。

●旗振り

S男は、旗振りの仕事を、8か月近くもつづけた。
朝早くバイクで出かけて行き、夜遅く帰ってきた。
しかし不規則な仕事で、収入も少なかった。
S男はS男で、「スポーツジムへ通うよりはいい」と言っていた。
私は、S男が快方に向かっているのを感じてはいたが、しかし全幅に
安心していたわけではない。

S男は、そのつど、不安定な様子を示した。
私たちも、そのつど、それに振り回された。

そうそう一度だけだが、こんなことがあった。
S男が、自宅から1時間ほどの現場で仕事をしていたときのこと。
S男が、どんな仕事をしているか、私とワイフが、見に行こうとした。

出かけるときは軽い気持ちだった。
しかし車で現場に近づくにつれて、私もワイフも、だまりこくってしまった。
いくつかの信号を通り過ぎた。
と、そのとき、ワイフが、こう言った。
「やめましょうよ」と。
見ると、ワイフの頬を、大粒の涙が流れ落ちているのがわかった。

●自己開示

その間、私たちとて、手をこまねいていたわけではない。
私が最初に考えたのは、自己開示。
これはS男のことがあったからというよりは、私自身の精神的欠陥に
気がついたからにほかならない。

自分をさらけ出す。
すべてはそこから始まった。
たまたま地元の中日新聞社のほうから、記事の連載を頼まれたこともあった。
私はそれをきっかけに、自分を書くことを始めた。

おかしなことだが、私はそれまで自分のことについて書くということは、
あまりなかった。
本も書いていたし、雑誌にも寄稿していた。
しかし自分のことは書かなかった。
自分の職業すら、たとえば大学の同窓会などでは、隠した。
少なくとも、おおっぴらに威張れるような職業ではなかった。

またワイフに対しても、自分をさらけ出すようにした。
ありのままの自分を、ありのままに表現するようにした。
夫婦や親子の間で、恥ずかしいとか、あるいは外聞を気にするほうがおかしい。
その(おかしさ)に、気がついた。

私は私。
人は人。
人がどう思おうと、私の知ったことではない。
少し遅すぎたが、しかし私は自分の仮面をはずした。
生き様を大きく変えた。

●仕事を替える

旗振りの仕事をきっかけに、S男は、仕事をいろいろと替えた。
替えたというよりは、不運だった。
寿司屋に勤めたときも、おもちゃ屋に勤めたときも、やがて店そのものが、
つぶれてしまった。

が、職安ではラッキーな男だった。
そのつど職安へ足を運ぶと、仕事はすぐ見つかった。
本人も、アルバイトでは、限界があると知ったのだろう。
正規の仕事を求めた。

で、決まったところが、知的障害者の人たちが働いている工場だった。
「ぼくも似たようなものだから」とS男は笑っていたが、私はそういうS男に、
気高いものを感じた。
「よかった」と思った。
が、ちょうど1年半勤めたところで、その会社をやめてしまった。
理由を聞くと、「専門学校に通って、資格を取りたい」と。

私はS男のしている仕事の尊さを知っているだけに、「もったいないことをしたね」
とだけ、言った。

●挫折

S男は、外の世界では、愛想のよい、明るい人間に見られている。
冗談もよく飛ばす。
その点は、私、そっくりだ。
しかしそれは仮面。
自分を偽る分だけ、S男は、疲れる。
それが私にも、よくわかった。

専門学校へは、1年、通った。
しかしそこで挫折。
再び、家に引きこもるようになってしまった。
S男は、専門学校では、年齢的に浮いた状態だった。
高校を出たばかりの若い人たちと、いっしょに机を並べて勉強するという
ことが、S男にはできなかったらしい。
私は「気にするな」と何度も言った。

ほかにもいろいろ理由があったのだろう。
専門学校へ行くと言っては家を出て、そのまま町をぶらついて帰ってくる。
そんなこともあった。

●成長

しかし悪いことばかりではない。
そういうS男だったが、心の成長は、私にもよくわかった。
S男は、私たちが苦しんだ以上に、苦しんだ。
……苦しんでいた。

私たち夫婦は、S男の将来を心配していたが、それ以上にS男自身も、
自分の将来を心配し、悩み、苦しんでいた。

二男が結婚し、子どもができたときも、S男は、ふと、こう漏らした。
「オレは、兄貴として失格だ」と。
S男は、二男に何もしてやれない悔しさを、感じていた。

が、そういう苦しみや悲しみを乗り越えて、S男は、私たちが想像する
よりもはるか高い次元にまで、成長していた。
S男は、再び、あの会社で働くと言い出した。

●再就職

幸いなことに、S男は、再び、同じ会社に再就職できた。
社長、専務以下、みなS男のことをよく覚えていてくれた。
暖かく迎えてくれた。
言い忘れたが、その会社は、主に、3つの部門に分かれている。

プレス課、メッキ課、それに設計などを専門とする課。
プレス課では、主に外国人労働者たちが働いている。
メッキ課では、主に知的障害のある人たちが働いている。
S男は、これら3つの課を順に回りながら、それぞれの仕事をしている。
「総合職」というのか、何というのかは、わからない。
が、彼なりに、そういう仕事に生きがいを見だしつつあるようだ。

仕事から帰ってくると、あれこれとそういう人たちの話を、おもしろ、
おかしく話してくれる。

で、その会社での仕事も、もう2年になる。

●シティ・マラソン

そんなS男が、シティ・マラソンに出ると言い出した。
この話には、驚いた。
「専務といっしょに走る」「10キロコースに出る」と。
「1時間以内に走れば、新聞に名前が載る」と。

さらに驚いたことに、そのマラソンのために、練習を始めたという。

回避性障害、対人恐怖症、人格障害……、病名など何でもよい。
うつ病だって、構わない。
この日本、この世界、まともな人間ほど、そういう病気になる。
人間が狂うのではない。
社会そのものが狂っている。

が、そういうS男が、マラソンに出る?
私はワイフに何度も、それを確かめた。
が、そのつどワイフは笑ってこう言った。
「本気みたいよ」と。

●当日

2月22日は、よく晴れた日だった。
朝起きると、青い空から白い日差しが、カーテンの向こうから部屋の中に
注ぎ込んでいた。

すでにS男は、会社へ出かけたあとだった。
一度会社で集合して、会場へ向かうということだった。
私たち夫婦は、車で一度町まで行き、そこから電車に乗ることにした。
数千人以上もの人たちが、走ることになる。
会場近くは混雑しているに、ちがいない。

私たちは競技場の出入り口で、スタートを待った。
どういうわけか、その間に、2度もトイレに。
講演会場のそでで、出番を待つときのような緊張感を覚えた。
が、じっとしていると寒かったこともあり、コースに沿って、私たちは歩き始めた。
会場の大群衆を見たとき、「これではS男を見分けられない」と思った。
それでそうした。

しばらく歩くと、遠くで、10キロコースのスタートが始まった音がした。
ドンドンと太鼓を叩く音がした。

私たちは沿道に立って、S男を待った。
先頭は、いかにも走り慣れたという人たちが、スタスタと走っていった。
それにつづく集団、また集団。
が、その中にS男がいた!

「S男!」と声をかけると、S男もそれに気がついて、笑った。
笑って手を振った。
S男が見せたことのない、さわやかな笑みだった。

が、あっという間だった。
で、私たちは、さらにコースに沿って歩いた。
「ぼくたちも運動だ」と言うと、ワイフもすなおにそれに応じてくれた。
このところ、毎日1万歩は歩くようにしている。

で、2キロまで歩いたところで、10キロコースの人たちが、折り返して
戻ってくるのがわかった。

私たちは、沿道に立って、S男が戻ってくるのを待った。
が、意外と、早いところを走っていた。

再び「S男!」と声をかけ、20〜30メートル、私もいっしょに走った。
S男は、先ほどと同じように、一瞬手をあげ、それに答えたが、今度は
笑わなかった。
苦しかったのだろう。

●時の流れは、風のようなもの

バイパスも、大通りも、車は走っていなかった。
バスも止まっていた。
人の姿さえ、見えなかった。
私たちは、バスをつかまえることができるところまで、歩くことにした。
明るい日差しは、そのままだった。

遠くで、何度か太鼓を叩く音がした。
「1時間以内に入ったかしら?」と、ワイフは、何度も心配した。
私は時計を見ながら、「入っただろうね」と言った。

時の流れは風のようなもの。
どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。
「時間よ、止まれ!」と叫んでみても、その風は、止まることはない。
手でつかもうとしても、指の間から、すり抜けていく。

と、そのとき、あの歌が、私の口から出てきた。
長く忘れて、歌ったことのない、あの歌が。

「♪夕空晴れて、秋風吹き……。月影落ちて、鈴虫なく……」と。
人目もはばからず、私はその歌を大声で歌たった。
ワイフも、いっしょに、歌った。

(END)

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
挫折 絶望 希望 夢 S男 引きこもり 引き篭もり 引きこもり児)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●2月25日

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昨日、2つ、うれしいできごとがあった。

ひとつは、またまた中日ショッパーが、
無料で、教室の広告を載せてくれたこと。
月刊ショッパーというので、B5サイズの
大きな広告だった。

もう1つは、「これで6年生クラスもおしまいだな」と
思っていたら、中学まで残ってくれる生徒が何人か
いたこと。

月謝袋に書かれたメモを見たとき、思わず、目頭が
熱くなった。
「中学になっても、よろしく」と、それには書いて
あった。

こういう時勢である。
どこも大不況。
それにそれぞれの家庭には、それぞれの事情がある。
しかしいくらそういうことはやめてほしいと、手紙に
書いても、「今日でサヨナラ」と去っていく親は、
いくらでもいる。
(退会する)というのは、私の世界では、
(クビ切り)以外の何ものでもない。

そういうとき、そういうメモをもらうのは、
うれしい。
本当にうれしい。

「見てろ、東大だって、どこだって、入れてやるぞ」と
心に誓った。
実際、この10年ほど、うちの生徒たちは、ウソの
ように、本当にウソのように、全国の超一流大学へと
進学していく。

私の教え方のすばらしさは、その子どもが、30歳、
40歳になったときに、はじめてわかる。

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Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司※

●ア・ソ総理大臣
(Our very honorable Prime Minister of Japan, Mr. Taro Aso, has been to USA to meet with 
Mr. President of USA but in vain. We really would like to request him to resign from the 
Post for the sake of Japan. He speaks very un-understandable English as well as broken 
Japanese. He is a very poor Japanese speaker and has less knowledge and ability of reading 
of the Chinese characters. Now only 11% of the Japanese support him, on the contrary 
nearly 80% of the Japanese say "No" to him. How come can such a man be a Prime 
Minister of Japan? Only wise men can know he himself to be stupid. But stupid men cannot 
know it. We know to which side he belongs. We are very much ashamed of him.)
 
++++++++++++++++++

この原稿は、マガジン3月30日用。
その3月30日に、ア・ソ総理大臣は、
まだ総理大臣をしているのだろうか。

さっそく日米会談の模様がインターネット・
ニュースとして配信されているが、
「成果なし」(2月25日、ヤフー・
ニュース)、「象徴的意味しかない」(カルフォルニ大・
エリス・クラウス教授)とのこと。
毎日新聞は「空振り」と表現している。

通常ならあるはずの、共同記者会見も、
昼食会も、なし。
へたくそな英語でしゃべるから、
公式の会議録には、「記録不能」の
文字が並んだとか(同・ニュース)。

先日の日露首脳会談でも、そうだった。
ア・ソ総理大臣よ、もうおやめください。
これ以上、日本の恥を世界にさらさないで
ください。

心から、お願いします。

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どうしてあんな男が、総理大臣をしているのだろう?
おおかたの日本人は、今、そう思っている。
調子づいて得意の書道を披露したまではよかったが、
漢字の(廿)をまちがえた。
調子づいて得意の英語をしゃべってみたが、「記録不能」。
だいたい日本語だって、おかしい。
が、当の本人は、「解散しない」と。
どこまで権力にしがみつくつもりなのだろう。

今回の日米首脳会談についても、アメリカのマスコミは、
「1時間の会談のために、1万1000キロ」(CNN)と皮肉っている。
つまり無駄な会談だった、と。

であるなら、今度の日米首脳会談は、だれが企画したのか?
まさかア・ソ首相が、ねじり込んだというわけでもないだろう。
そう信じたいが、しかしア・ソ首相の思考回路からすると、ありえない話ではない。
功名をあせるあまり、ねじり込んだ。

毎日新聞は、こういう裏話を披露している。
「打診」という部分に注目してほしい。
いわく、『外務省関係者によると、日本側は会談後に両首脳による共同記者会見を打診。AS
首相の政権浮揚につながるとの思惑などからだが、空振りに終わった。大統領との昼食会も
議会演説を控えた「繁忙なスケジュール」(米側)に押され、かなわなかった』と。

最後の望みの綱(?)は、K国のテポドン2号。
この数日中に発射される可能性が、ぐんと高くなった。
もし発射されるようなことがあれば、ア・ソ総理大臣は、
それを口実に、またまた権力の座に居座るつもり(?)。
「極東アジアを守るのは、私の責務」とか、何とか言って……。
意図は、見え見え。

アメリカの新聞各紙も、「権力維持のため、苦労している」と、
つぎのように伝えている(時事通信)。

『(アメリカの)新聞各紙は「AS首相の支持率は1ケタに落ち込み、政治的に防戦を強いられて
いる」(ワシントン・ポスト)、「国民に非常に不人気で権力維持に苦闘している」(ボストン・グロ
ーブ)と指摘。海外向けラジオ放送ボイス・オブ・アメリカは「多くの国民は次の総選挙で自民党
が過半数を維持できないと信じている」と伝えた』と。

ちゃんと見ている人は、見ている!
日露首脳会談も、日米首脳会談も、結局は、みんな、名聞名利のため。
国家的な必要性があったわけではない。

ところでどうして「麻生」が、「ア・ソ」かって?
その意味が知りたかったら、近くの外人に、こう言ってみたらよい。
「アッ、そう」と言うつもりで、「アッ・ソァ」と。
「ア」の音は、やや英語なまりに、「ア」と発音するのがよい。
ただしそのあと、その外人に殴られても、私は責任を取らない。

(補記)
麻生総理大臣のすることなすこと、すべて裏目、裏目と出てきている。
それはつまり、それがそのまま麻生総理大臣自身の人間性の表れとみてよい。
もともと国民に選ばれた総理大臣ではない。
国盗り物語よろしく、謀略に謀略を重ねて、今の地位についた。
その醜さを、日本人のみならず、今、世界中の人たちが感じている。

賢い人には、自分のバカさかげんがわかる。
しかし愚かな人には、それがわからない。
麻生総理大臣が、国民に、「おバカ宰相」(週刊B春)と呼ばれている理由は、
そんなところにもある。

(補記)
どんな職業にも、「資格」というものがある。
何かの国家試験の合格にせよというのではない。
ただ最低限の健康診断だけは、受けるべきではないか。
とくに脳の検査だけは、しっかりとやってほしい。
総理大臣にもなるような人だから、まさかとは思いたいが、
麻生総理大臣の言動には、首をかしげたくなるようなことが多い。
麻生総理大臣がそうというわけではないが、頭のおかしな人に、
国政を運営されたら、それこそこの日本は、たいへんなことになる。
麻生総理大臣も、一度、自ら進んで、脳の検査を受けてみてほしい。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●田丸謙二先生

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ワイフが、「今月も、あと2日ね」と言った。
「?」と思っていると、「今月は、28日までしかないから」と。

ところで、今度の「歩こう会」では、鎌倉の建長寺から八幡宮まで
歩くことになっている。
さっそく、鎌倉の田丸謙二先生に連絡を入れる。
「先生の縄張りを荒らしますから、よろしく」と。
それに答えて、「4月に人工関節を入れる」とのこと。
プラス、「久しぶりだから、ゆっくりしていってください」という返事を
もらった。

帰りのバスの時刻もあるから、そうはいかないが、うれしかった。
プラス、先生に会うのが楽しみ。

先生と出会って、もう39年になる。
長いつきあいになった。
その間に、いろいろあった。
話し出したら、いつもたがいに、口が止まらない。

いつだったか、「ぼくは、東大で最年少で教授になった」と
話してくれたのを覚えている。
田丸謙二先生は、30代の若さで、東大の教授になった。
田丸謙二先生というのは、そういう先生である。

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●頭のよい人

頭のよい人というのは、いる。
たしかに、いる。
しかし悲しいかな、私のような頭では、その人の頭のよさはわからない。
つまり頭のよい人からは、頭の悪い人がわかる。
頭の悪い人からは、頭のよい人がわからない。

一般的に言えば、頭の悪い人というのは、自分では悪いとは思っていない。
先日も、どこか認知症ぽい女性(65歳)と話していたときのこと。
回りくどいことを、何度も繰り返して言った。
で、私が、「ぼくは、そんなバカじゃないと思います」と言ったら、
何がカンに触ったのが、突然、金切り声をあげて、こう言った。
「私だって、バカではありません!」と。

同じようなことは、子どもの世界でもよく見られる。
少し前だが、私がふと、「今度、大阪市で講演をすることになった」と言った
ときのこと。
1人の女子中学生が、ジロッと私を見て、こう言った。
「どうして、あんたなんかが……?」と。

さらに昔。
かなりの問題児(小3男児)がいた。
わがままで、自分勝手。
手がつけられなかった。
そのことを母親に告げようとしたら、その母親は、こう言った。
「あんたは、だまって、息子の勉強だけをみてくれればいい」と。

いろいろある。
あるが、私は、他人には、よほどのバカに見えるらしい。
(自分でも、バカだと思っているから、しかたないが……。)

この日本では、小さな子どもまで、人を、その地位や肩書きで判断する。
地位や肩書きがあれば、ペコペコする。
そうでなければ、そうでない。
しかし私が、こうまで無宿者で生きているかといえば、それには
理由がある。

こんな話をしても、信じてもらえないかもしれないが、真実を話す。

私がそのあと、「ひとりで生きてやろう」と考えたのは、田丸謙二先生に
出会ったからである。
頭のよい人には、たくさん出会った。
が、田丸謙二先生のときは、明らかにちがった。
「とても、この人には、かなわない」と思った。
私が人生で、敗北感を味わったのは、後にも先にも、田丸謙二先生に出会った
ときだけだった。
つまり田丸謙二先生は、今でもそうだが、それくらい頭がよかった。

だから私は、こう決心した。
「私ひとりくらい、無肩書きで生きてやろうではないか」と。
なぜそう決心したかはわからないが、今にして思うと、猛烈なライバル心が
そう思わせたのではないか。

ということで、以後、地位や名誉には、あえて背を向けた。
いろいろな話はあったが、すべて断った。
いくらがんばっても、30代で東大の教授になることなど、私には
できるはずもない。
ないから、最初から、あきらめた。
つまり私がしたいことは、すべて田丸謙二先生が、してみせてくれた。
だから私は、私で、別の人生を歩いてみたい、と。
今、こんな話をしても、だれも信じてくれない。
しかし事実は事実。

で、あのメルボルン大学で、田丸謙二先生と寝食を共にできたことは、
私にとって、人生最大の幸運だった。
田丸謙二先生が、私の人生の方向性を作ってくれた。
その先生に、また会う。

長い長い39年だったが、同時に、あっという間の39年だった。

(補記)
田丸謙二先生が、群馬県のどこかの温泉に行ったときのこと。
旅館のみなが、田丸謙二先生を、中曽根元首相と見まちがえたとか。
田丸謙二先生がどんな顔の人かは、このエピソードでわかると思う。

……そういえば、数年前、浜北市(浜松の北にある町)で、
いっしょに食事をしたときも、店長に、「中曽根さんですか?」と聞かれた。
私は似ていないと思うのだが、たまに会う人には、そう見えるらしい。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB. 09++++++++++++はやし浩司

●2009年度・大学入試問題より

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大学入試問題の内容が変わってきている。
たとえば……

神戸市看護大……小論文のテーマは、「ワーキングプア」。
正社員と非正社員の賃金格差などを挙げ、解消策を書かせた。

滋賀県県立大文化学部……小論文で「なぜかくも日本人はキャラクターが好きなのか」を出
題。滋賀県は、「ひこにゃん」で注目を集めている。

富山大医学部は、「大学に進学したいけど学費がない」など、読売新聞読者から寄せられた悩
みを紹介。その上で、自分ならどう考えるかを英文で書かせた。(以上参考:読売新聞09022
6)

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そこで私も挑戦。

●「なぜかくも日本人はキャラクターが好きなのか」

簡単に言えば、見た目でわかりやすいものを好むということ。
てっとりばやく、情報を吸収する。
それを如実に表しているのが、コミック本。
今の若い人たちは、図書館通いをするよりは、マンガ喫茶で時間をつぶす。
「キャラクターを好む」という現象は、その延長線上にある。
言いかえると、日本人の思考力が、それだけ低下しているということ。
……と言うのは、少し飛躍した意見に聞こえるかもしれない。
しかし論理、分析は左脳、イメージは右脳というように、
脳は分担して仕事をしている。
つまり右脳がそれだけ活発に働けば、一方で、左脳の働きがおろそかになる。
その分だけ、思考力は、低下する。

また、たとえば彦根というと、古い世代なら、彦根城。
彦根城といえば、幕末の大老の井伊直弼を思い浮かべる。
桜田門外で暗殺された、あの井伊直弼である。
しかしそうしてどんどんと掘り下げていくと、やがてカビ臭くなってくる。
が、それでは、町のイメージとしては、おもしろくない。
若い世代には、受けない。
そこで「ひこにゃん」となる。

「なぜかくも日本人はキャラクターが好きなのか」ということだが、
しかし私自身は、あのキャラクターと呼ばれる、シンボルマーク(?)が、
あまり好きではない。
どこか安っぽい。
どこか個性がない。
どこか幼稚ぽい。
「絵」としてみるかぎり、「見るに堪えない」。
それにこれだけ氾濫してくると、キャラクターがキャラクターとしての意味を
失ってしまう。

で、最初の結論に戻ってしまう。
簡単に言えば、見た目でわかりやすいものを好むということ。
視覚としてとらえ、イメージとして、それを脳に焼きつける。
キャラクターを瞬間、見ただけで、そこに「彦根」を結びつけることができる。
「彦根」という漢字だけでは、もろもろの情報の中に埋もれてしまう。
だから、キャラクターということになる。

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思いついたまま書いたので、大学の先生に評点されたら、「C」になるかもしれない。
しかしキャラクターというと、どうじても、あの(着ぐるみ)を連想してしまう。
遊園地やイベント会場で、よく見られる、あの着ぐるみである。

もちろんああした着ぐるみは、おとな向けではない。
子どもといっても、幼児向けである。
だから「なぜかくも日本人はキャラクターが好きなのか」と、私も含めて、
いっしょくたに「日本人は」と言われると、「?」と思ってしまう。
仮にもしそうであるとするなら、つまりは、それだけ日本人が、おとなに
なりきっていないということになる。

ただ誤解してはいけないのは、キャラクターと、シンボル・マークは区別した
ほうがよいということ。
キャラクター、イコール、シンボル・マークではない。
もちろんその逆でもない。
たとえば浜名湖のシンボル・マークは、「うなぎ」。
しかしそのマークが、擬人化され、さらに着ぐるみになると、「かわいい」という
よりは、不気味。
それを好きか、嫌いかと聞かれると、返答に困ってしまう。
もともと好きとか、嫌いとか、そういうふうに判断すること自体、おかしい。

最後に一言。
たとえば漢字のことを、英語では、「チャイニーズ・キャラクター」という。
「象形文字」のことである。
と考えると、今、この日本にあって、新しい漢字が生まれつつあるとも解釈できる。
「彦根」と書くより、「ひこにゃん」を描いたほうが、わかりやすい。
つまり、それだけのこと。
それ以上の意味はないし、また深く考えても、無駄。
そういうこと。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090227)

●2月27日

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昨日も、ワイフと町までの7・5キロを歩いた。
大またで歩いて、ちょうど9000歩。
時間にして、1時間30分。
途中、ちょっとした坂がある。
賀茂真淵記念館につづく坂である。

苦しそうに歩くワイフをうしろに、私はスタスタ。
坂には、自信がある。

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【7つの贈り物(Seven Pounds)】

ウィル・スミスの『7つの贈り物』を見てきた。
よかった。
感動した。
星は、4つの★★★★プラス。

「どうして新しい恋人と、人生をやりなおさないのかな?」という
疑問は残ったが、星は、4つ。
5つでもよいかなというところ。

今週から、『オーストラリア』『送り人(再配信版)』が始まる。
忙しくなりそう。


●暗い朝

足の筋肉痛で、目がさめた。
時計を見ると、午前4時。
そういうときは、起きてしまうほうがよい。
……ということで、起きて、そのまま書斎へ。

で、あれこれしていると、午前7時。
窓の外を見たが、まだ暗い。
居間へおりていって、外を見ると、厚い雲に覆われた曇天。
「道理で……」と思いながら、庭にハトの餌をまく。
こうして私の一日が、始まる。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

【夫婦の同一化】

●土下座

昨日、こんな話を聞いた。
父親が、何かの事業に失敗した。
その責任(?)を取らされて、父親が、家族の前で、土下座して謝ったという。
このところの大不況で、ありえない話ではない。
が、つぎのことを知って、言葉を失った。
父親に「土下座しろ!」と迫ったのは、母親、つまりその父親の妻だった。
妻が夫に向かって、「土下座して、謝れ!」と。
それでその父親が、子ども(小学生2人、幼児1人)の前で、土下座して、謝った。

この話を聞いて、何とも言われない重い気持ちに包まれた。
やりようのない閉塞感というのは、そういうときの気分をいうのか。

たとえそうであっても、つまり夫が事業に失敗しても、妻たるもの、そこまで
夫にさせてはいけない。
そのときはそれですんだとしても、それを見ていた子どもたちに、大きなしこりを
残す。

●こだわり

少し前だが、こんな話も耳にした。
婚約してまもなくのこと。
女性のほうが、男性を、自分の実家に連れていくことになった。
実家は、岐阜県の山奥にあった。

で、その実家を前にしたところで、道の向こうのほうから、
2人の女性が歩いてきた。
その女性の友人たちであった。
そのときのこと。
何を思ったか、その女性が、男性を近くの竹やぶに突き倒し、
「あんたは、ここに隠れていて!」と。

なぜその女性が、そういう行動に出たのかは、私にはわからない。
婚約者に不満をもっていたのかもしれない。
常識的に考えれば、そうなる。
あるいは一瞬の照れ隠しだったかもしれない。
しかしそういうことをされた男性の気持ちは、どうなのか。

結局のこのときの事件がきっかけで、男性のほうから婚約を破棄。
「どうしてぼくを突き飛ばしたのか?」という質問に、女性のほうは、
最後まで答えられなかったという。

●さらに……

子どもの前で、父親(夫)が母親(妻)の悪口を言うのは、タブー。
母親(妻)が父親(夫)の悪口を言うのも、タブー。
そのときはそのときで、子どもは父親や母親の話を聞くかもしれないが、
やがて親子の間に、大きなキレツを入れることになる。
これを心理学の世界でも、「三角関係」と呼ぶ。
家庭教育そのものが、崩壊する。

で、その悪口の中に、こんなのがあった。
これについては、以前にもどこかで書いたことがあるが、こんなのである。
ある母親(妻)が、子どもに向かって、こう言った。

「お父さんの稼ぎが少ないでしょ。だから私たちは、苦労するのよ」と。

母親としては、生活の苦しさを子どもに伝えたかっただけかもしれない。
子どもに妻としての、自分の苦労を理解してもらいたかっただけかもしれない。
しかしこういう言い方は、決定的に、まずい。

●遊離する女性たち

「ならば、はじめから結婚などしなければいい」と、だれしも思う。
家族の前で父親(夫)を土下座させた母親(妻)にしても、竹やぶに婚約者を
突き倒した女性にしても、また子どもに向かって、「お父さんの稼ぎが少ない……」
と言った母親(妻)にしても、だ。

こうした女性たちに共通する心理はといえば、(現実からの遊離)ということになる。
現実そのものに、根をおろしていない。
だから、そういう(おかしなこと)を、言ったりしたりしながらも、それを
「おかしい」とも思わない。
「夫婦」という「運命共同体」をつくりながら、その共同体から遊離してしまう。
「自分だけは、ちがう」と思ってしまう。
別の世界に、住んでしまう。

●夫婦は一枚岩

そうでなくても難しいのが子育て。
夫婦がバラバラで、どうして子育てが満足にできるというのか。
が、ここで書きたいのは、そのことではない。
何ゆえに、ときとして、母親(妻)は、家族から遊離してしまうかということ。
遊離して、自分だけの世界に閉じこもってしまうかということ。

簡単に考えれば、結婚相手に不満があったということになる。
不本意な結婚で、父親(夫)と同一化の形成ができなかったということになる。
常識で考えれば、「そういう夫を選んだのは、あなたという妻ではないか」ということに
なる。
さらにきびしい言い方をすれば、「そういう夫としか結婚できなかったのは、あなたの
責任」ということになる。
が、そういうことは、このタイプの母親(妻)には、理解できない。

●血統空想

「血統空想」という言葉がある。
ジークムント・フロイトが使った言葉である。
ある年齢に達すると、男児は、自分の血統を空想するようになる、という。
「ぼくの父親は、もっと高貴な人間であったはず」と。

この血統空想をヒントにすると、このタイプの母親(妻)は、父親(夫)と
結婚しながらも、夫を受け入れることができず、血統空想の中で生きている
ということになる。
言うなれば、「自己血統空想」ということになる。

「私の夫は、もっと高貴で、力のある人でなくてはならない」
「私はそれにふさわしい女性である」と。

フロイトが説いた「血統空想」は、父親の血統を疑うというものだが、このタイプの
母親(妻)の血統空想は、自分に向けられたもの。
だから「自己血統空想」(これは私が考えた言葉)ということになる。


この血統空想が肥大化して、家族から遊離する。
家族の一員でありながら、その家族に同化できなくなってしまう。
その結果として、父親(夫)に土下座させたり、竹やぶに突き倒したり、さらには、
子どもの前で、父親(夫)を、平気でけなしたりするようになる。

●同一化の形成

夫婦は夫婦になったときから、同一化を形成する。
「一体化」と言い換えてもよい。
その形成に失敗すると、ここに書いたような結果を生み出す。

「夫が恥ずかしい」「妻が恥ずかしい」と思うようであれば、すでに同一化は
崩壊しているとみてよい。
反対に、こんなことを口にする夫婦もいる。
「私は今の夫と結婚できて、幸せです」「私の夫は、すばらしい人です」と。

一見、すばらしい夫婦に見えるが、このばあいも、同一化は崩壊していると
みてよい。
本当にうまくいっている夫婦なら、つまり同一化の確立している夫婦なら、そんな
ことは、他人に言わない。
そういうことを言うということ自体、妻であれば、夫に対して、大きな不満を
いだいていることを示す。
その反動として、つまり自分の心を偽るため、そういった言葉を口にする。

そこで同一化のレベルを、段階的に示してみる。

●同一化のレベル

(レベル0)夫婦といっても、他人と他人との関係
(レベル1)夫婦といっても、形だけ。すべきことはするが、いつもそこまで。
(レベル2)共同作業はいっしょにするが、生き様を共有できない。
(レベル3)ほどほどにわかりあっているが、全幅に心を開くことはできない。
(レベル4)心を開きあい、共通の人生観、哲学をもっている。
(レベル5)一体性がきわめて強く、密接不可分の関係。

「理想としては……」と書きたいが、夫婦の形態は、まさに千差万別。
中身も千差万別。
それぞれがそれぞれの立場で、それなりにほどよくやっていれば、それでよし。
それぞれには、それぞれの家庭の事情もある。
問題もある。
また自分たち夫婦が、同一化の形成に失敗したからといって、大げさに悩む必要は
ない。
世の中には、月に2、3度しか会わなくても、それでもうまくいっている夫婦が
いる。
反対に毎日、ほとんどの時間をいっしょに過ごしていても、心はバラバラという
夫婦もいる。
大切なことは、その中でも、高度な次元で、たがいに尊敬しあって生活するということ。

そういう意味でも、子どもの前で、父親(夫)を土下座させてはいけない。
竹やぶに、婚約者を突き飛ばしてはいけない。
父親(夫)の悪口を言ってはいけない。
そんなことをすれば、結局は、その母親(妻)自身のが愚かということを、
自ら証明することなる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
夫婦の同一化 同一化の形成 同一化の崩壊 三角関係 自己血統空想 血統空想) 


Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

●テポドン2号は、無視!(Let's ignore the North Korean Missile!)
(It is very important for the Japanese just to ignore the ICBM test by North Korea. The US 
Forces announce that they will shoot it down with anti-missile missiles but it is their 
business. We, the Japanese, should just ignore it and we never shoot it down. In case that 
we shoot it down, that means we give North Korea a permission to attack Japan with short-
range missiles. Now is the time when Mr. T. Aso, the Prime Minister of Japan has been losing 
supports of the Japanese and now abt. 80% of the Japanese say "No!" to him. I am afraid 
that T. Aso would utilize this critical situation for his own fame and power. It may be very 
dangerous. We never let him do so. Moreover North Korea does not deserve to do so. It is 
a very tiny and poor country. Then why should we commit suicide with such a country? 
Only one single missile into Tokyo would cause chaos and from that time on Japanese 
economy would be dropped to the hell. Then Mr. T. Aso, please do not utilize this situation 
for your own sake, please.)

++++++++++++++++

K国が、テポドン2号(大陸間弾道ミサイル)の
発射に向けて、準備をしている。
今日のニュースによれば、レーダーの照射実験も
開始したという。
ミサイルの飛行を追尾するためのレーダーと
いうことらしい。
ここ数日〜1週間が、山と言われている。

+++++++++++++++++

こうしたK国の動きに対して、アメリカ軍は、撃墜すると言明している。
何重もの迎撃態勢を整えたという。
が、もしそんなことをすれば、つまり撃墜すれば、日本はK国に、
日本攻撃の口実を与えてしまうことになる。
相手が、それなりに価値のある国であり、
まともな国なら、撃墜という手段もあるかもしれない。
しかし今、K国は、日本が相手にしなければならないような国ではない。
またその価値もない。

なぜK国は、ミサイル発射実験をするか?
言わずと知れた、国内向け。
ありもしない外国の脅威をつくりあげ、自国内で緊張感をあおりたてる。
それでもって、国内を引き締める。

かたや日本は、どうか。
こうした脅威をいちばん利用したがっている人物が1人、いる。
いわずと知れた、アソ総理大臣である。
恐らく……というより、彼の思考回路からして、「このときぞ」とばかり、
前面に躍り出てくるにちがいない。

(K国のミサイルを撃墜する)→(国内の緊張感をあおりたてる)→
(政権を安定させる)。

が、これはたいへん危険な構図と考えてよい。
日本がそのまま戦争に巻き込まれてしまう。

では、どうするか?

日本には、「シカト」という言葉がある。
今回ほど、この言葉が生きる場面はない。
私たち日本人は、K国のミサイルを、シカトする。
アメリカが太平洋上で撃墜するというのなら、それはそれで構わない。
しかし日本海、もしくは日本上空でというのなら、それを許してはならない。
「撃墜するなら、太平洋上で」と、しっかりと、アメリカに
釘を刺しておく。

そしてそのあと、ゆっくりと国際世論を味方につけて、K国を締め上げる。
国連という場は、そのためにある。
理由が、ある。

昔から『触らぬ神にたたりなし』という。
K国が(まともな国)なら、それなりの意味がある。
話し合いも通ずるだろう。
しかしあの国は、どうながめても、まともではない。
ひとりの独裁者に率いられた、狂った独裁国家である。
そんな国をまともに相手にしたら、それこそ、たいへんなことになる。
仮に東京に一発でもミサイルが撃ち込まれたら、日本経済はそのまま
奈落の底に落ちてしまう。
経済活動はマヒ。
株価はさらに大暴落。
円も大暴落。

だからK国のミサイルは、シカト。
ただひたすら、シカト。
どうせまともに飛ぶかどうか、わからないような代物である。
そんなミサイルのために、一発、数100億円〜もするような迎撃ミサイルを、
何発も打ち上げて、どうする?

そこで、アソ総理大臣に、どうしても一言、言いたい。

アソ総理大臣へ

どうか、どうか、今回の緊急事態を、己の名聞名利のために
利用しないでほしい。

今、国民の80%が、あなたに「やめろ」「やめろ」の大合唱を繰り返している。
そういう声に、謙虚に耳を傾けてほしい。

はからずも私はアソ氏が首相に就任するかもしれないというころ、
自分のエッセーの中で、こう書いた。

「あんな人物が、総理大臣になったら、この日本はめちゃめちゃに
なってしまう」と。

本当に、そういう事態がやってきた。
やってきたが、あなたのような人物に、日本をめちゃめちゃにしてもらいたくない。

……ということで、一方、今こそ、私たちは心を引き締めて、冷静になろう!
アソ総理大臣の暴走に、警戒しよう!
(09年2月27日昼、記)

(補記)
自国の平和と安全を願うなら、他国の平和と安全をまず、考える。
それが自国の平和と安全を守る、大原則。
が、この原則も、相手が、まだまともという前提条件がつく。
残念ながら、K国は、まともな国ではない。
世界中でK国の人権問題が、なぜ論議されているか、そのことだけでもK国が、
いかにおかしな国かがわかる。

また日本について言えば、つい先週は、「日本を殲滅(せんめつ)させる」とまで、
言明している。
殲滅……?
恐ろしい言葉である。
脅しとはわかっているが、しかしそれを侮(あなど)ると、何をされるかわからない。
そのためにも、私たち日本人は、彼らにつき入らせるスキを見せてはならない。
ここはシカト。
ただひたすら、シカト。
彼らを静かに自滅させることこそ、日本にとっても、またK国の一般の人たちに
とっても、最善の策ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

●公表(Publication)

++++++++++++++++

私は自分の実名を公表して、HPや
BLOGを開設している。
しかしこれはたいへん危険なことなのだ
そうだ(某パソコン週刊誌)。

そのため、名前はもちろん、近所の写真すらも、
載せないようにするのがよい、と。
そういうものから個人が特定されると、
いろいろとトラブルに巻き込まれることが
あるので、やめたほうがよい(同)、と。

++++++++++++++++

その雑誌を読みながら、横にいたワイフに、ふとこう聞いた。
「ぼくは、バカなことをしているのかなア?」と。
実名どころか、プライベートなことまで、洗いざらい公表している。

もちろん現在に至るまで、いろいろなトラブルはあるにはあった。
私の事務所に怒鳴りこんできた読者もいる。
BLOGに、「あのはやし浩司は、共産党員であるといううわさもある」とか、
「はやし浩司は、神戸大学で研究しているとき、女児に手を出した」とか、
とんでもないことを書いていた人もいた。
(これら2つについては、即刻、削除を命令した。)

数年前までは、ハングル文字での抗議文らしいものが、頻繁に届いた。
一部を知人に訳してもらったが、脅迫文に近いものだった。
今は、韓国、K国からのメールは、すべてフィルターにかけて、処分している。

ほかにも「ポケモン・カルトは、トンデモ本である」とか、など。
しかしこういったことを、イチイチ気にしていたのでは、文章など、書けない。
本など、出せない。
言いたい人には、言わせておけばよい。
書きたい人には、書かせておけばよい。

こうした中傷や誹謗には、もう慣れた。
10数年前、カルト教団についての本を5冊、書いた。
雑誌にも、記事を書いた。
もちろん別のペン・ネームを使ったが、それでもどこで知ったのか、毎週のように、
その教団の信者たちが、私の家にやってきて、あれこれ抗議して帰っていった。
多いときは、20〜25人前後の信者たちがやってきた。

最初は、命の危険を感じたが、しかしそれも慣れ。
1年もすると、笑って見送ることができるようになった。
私はその経験を通して、(ものを書く)という勇気を身につけた。
つまり、怖いもの知らず(?)になった。

しかしこんなことを心配してくれる人もいた。
孫の誠司(HPなどのトップページに、写真を使っている)について、
「誘拐されませんか?」と。

その心配はないわけではないが、誠司は現在、アメリカに住んでいる。
息子夫婦は、住所を公表していない。
だからその心配はないと思うが、用心するに越したことはない。
そのあたりは、慎重に配慮して、原稿を書いている。

もちろん特定の個人への批判などは、しない。
商店名などでも、固有名詞を出すときは、その店の宣伝になるようなときだけ。
そういった気配りは、常識として、当然のことである。
しかしそれでもトラブルに巻き込まれたら……?
俗に言う、「炎上」というのである。
そのときはそのとき。
また考えればよい。

ともかくも、ときどき、「こんなことをしていて、何になるのかなア?」と
思うことはある。
今朝もそうだが、しかし陰でコソコソと隠れて何かをするというのは、
私のやり方ではない。
それに、今朝もそうだが、起きてすぐ、やりたいことがあるというのは、
すばらしい。
またそれができるというのは、すばらしい。

それにこのところ、BLOGへのアクセス件数だけでも、毎日、1000〜2000
件もある。
HPへのアクセス件数は、その数倍は、ある。
みながみな、好意的に読んでくれているとは思わないが、励みにはなっている。
今、こうして書いている文章にしても、1万人以上もの人たちの目に留まる。
これを生きがいと言わずして、なんと言う?

読者のみなさんに感謝しながら、今日もがんばる。
薄曇りの、どこかやさしい暖かさを感ずる冬の朝。
全世界のみなさん、おはようございます。
今日は、2月28日、土曜日。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

●英語(Dennis Kishere's Blog)

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今度、オーストラリアの友人のデニス君の
BLOGを、HPからアクセスできるように
した。

興味のある人は、私のHPより、
「Dennis Kishere's Room」へと、進んでみてほしい。
彼の書く英文は、一級である。
いろいろと参考になる。

+++++++++++++++++

デニス君のBLOGの、アドレスに、注意してほしい。
そこには「Sunnington」という名前がある。
「サニングトン」と読む。
彼の父親が所有していたビーチ・ハウスの愛称である。
私とデニス君は、ことあるごとに、そのビーチ・ハウスで休暇を過ごした。
なつかしい名前である。
……というより、サニングトンという名前を聞いただけで、あのころの楽しかった
思い出が、つぎつぎと現れては消える。
遠い遠い昔のはずなのに、手を伸ばせば、すぐそこで、つかむことができるような
気がする。
人生にゴールがあるとするなら、青春時代こそ、そのゴール。
それ以後の人生は、たとえて言うなら、燃えカスのようなもの。
それを認めるのがいやだから、みな、必死になって、「今」というときに、
しがみついて生きる。

ここまで書いて、以前書いた原稿を思い出した。
その中で、『ロメオとジュリエット』について、書いた。

++++++++++++++++++

●マダム・バタフライ

 久しぶりに、「マダム・バタフライ」を聞いた。ジャコモ・プッチーニのオペラである。私はあの
曲が好きで、聞き出すと何度も、繰り返し聞く。

「♪ある晴れた日に、
  遠い海の向こうに一筋の煙が見え、
  やがて白い船が港に着く……
  あの人は私をさがすわ、
  でも、私は迎えに行かない
  こんなに私を待たせたから……」

 この曲を聞くと、何とも切ない気持ちになるのは、なぜか。遠い昔、長崎からきた女性に恋を
したことがあるからか。色の白い、美しい人だった。本当に美しい人だった。その人が笑うと、
一斉に太陽が輝き、一面に花が咲くようだった。その人はいつも、春の陽光をあびて、まばゆ
いばかりに輝いていた。

 マダム・バタフライ、つまり蝶々夫人は、もともとは武士の娘だったが、幕末から明治にかけ
ての混乱期に、芸者として長崎へやってくる。そこで海軍士官のピンカートンと知り合い、結
婚。そして男児を出産。が、ピンカートンは、アメリカへ帰る。先の歌は、そのピンカートンを待
つマダム・バタフライが歌うもの。今さら説明など必要ないかもしれない。

 同じような悲恋物語だが、ウィリアム・シェークスピアの「ロメオとジュリエット」もすばらしい。
少しだが若いころ、セリフを一生懸命暗記したこともある。ロメオとジュリエットがはじめてベッド
で朝を迎えるとき、どちらかだったかは忘れたが、こう言う。

 「A jocund day stands tip-toe on a misty mountain-top」と。「喜びの日が、モヤのかかった
山の頂上で、つま先で立っている」と。本来なら喜びの朝となるはずだが、その朝、見ると山の
頂上にモヤにかかっている。モヤがそのあとの二人の運命を象徴しているわけだが、私はや
はりそのシーンになると、たまらないほどの切なさを覚える。

そう、オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが演ずる「ロメオとジュリエット」はすばらし
い。私はあの映画を何度も見た。ビデオももっている。サウンドトラック版のCDももっている。
その映画の中で、若い男が、こう歌う。ロメオとジュリエットがはじめて顔をあわせたパーティで
歌われる歌だ。

「♪若さって何?
 衝動的な炎。
 乙女とは何? 
 氷と欲望。
 世界がその上でゆり動く……」
 
 この「ロメオとシュリエット」については、以前。「息子が恋をするとき」というエッセーを書いた
ので、このあとに添付しておく。

 最後にもう一つ映画の話になるが、「マジソン郡の橋」もすばらしい。短い曲だが、映画の最
後のシーンに流れる、「Do Live」(生きて)は、何度聞いてもあきない。いつか電撃に打たれる
ような恋をして、身を焼き尽くすような恋をしてみたいと思う。かなわぬ夢だが、しかしそういうロ
マンスだけは忘れたくない。いつか……。
(02−10−5)

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*Romeo and Juliet

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(Love Theme from Romeo and Juliet)

What is a youth?  Impetuous fire.  若さって、何? 燃えさかる炎。
What is a maid?  Ice and desire.  乙女って、何? 氷と欲望。
The world wags on,  世界は、その上で踊る。
a rose will bloom.... ばらは咲き、 
It then will fade:  そして色あせる。
so does a youth,  若さも、また同じ。
so does the fairest maid. もっとも美しい乙女も、また同じ。
Comes a time when one sweet smile その人の甘い微笑みが
has a season for a while....  しばしの間、その季節を迎えるときがやってきた。
Then love's in love with me.  そして私と恋を恋するときがやってきた。
Some they think only to marry,  結婚だけを考える人もいる。
others will tease and tarry.  からかうだけの人や、じらすだけの人もいる。
Mine is the very best parry.  でも私のは、あるがまま。
Cupid he rules us all.  キューピッドだけが、私たちを支配する。
Caper the cape, but sing me the song,  ケープをひらめかせ、私に歌を歌え。
Death will come soon to hush us along. やがて死が訪れ、私たちを痛めつける。
Sweeter than honey... and bitter as gall,  蜂蜜よりも甘く、胆汁と同じほど苦く、
Love is a task and it never will pall.  愛は、すべきこと、隠すことはできない。
Sweeter than honey and bitter as gall. 蜂蜜よりも甘く、胆汁と同じほど苦い。
Cupid he rules us all." キューピッドが私たちを支配する。


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●息子が恋をするとき

息子が恋をするとき(人がもっとも人間らしくなれるとき)

 栗の木の葉が、黄色く色づくころ、息子にガールフレンドができた。メールで、「今までの人生
の中で、一番楽しい」と書いてきた。それを女房に見せると、女房は「へええ、あの子がねえ」と
笑った。その顔を見て、私もつられて笑った。

 私もちょうど同じころ、恋をした。しかし長くは続かなかった。しばらく交際していると、相手の
女性の母親から私の母に電話があった。そしてこう言った。「うちの娘は、お宅のような家の息
子とつきあうような娘ではない。娘の結婚にキズがつくから、交際をやめさせほしい」と。

相手の女性の家は、従業員30名ほどの製紙工場を経営していた。一方私の家は、自転車
屋。「格が違う」というのだ。この電話に母は激怒したが、私も相手の女性も気にしなかった。
が、二人には、立ちふさがる障害を乗り越える力はなかった。ちょっとしたつまづきが、そのま
ま別れになってしまった。

 「♪若さって何? 衝動的な炎。乙女とは何? 氷と欲望。世界がその上でゆり動く……」と。

オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが演ずる「ロメオとジュリエット」の中で、若い男が
そう歌う。たわいもない恋の物語と言えばそれまでだが、なぜその戯曲が私たちの心を打つか
と言えば、そこに二人の若者の「純粋さ」を感ずるからではないのか。

私たちおとなの世界は、あまりにも偽善と虚偽にあふれている。年俸が1億円も2億円もある
ようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめてみせる。一着数百
万円もするような着物で身を飾ったタレントが、どこかの国の難民の募金を涙ながらに訴える。
暴力映画に出演し、暴言ばかり吐いているタレントが、東京都やF国政府から、日本を代表す
る文化人として表彰される。

もし人がもっとも人間らしくなるときがあるとすれば、電撃に打たれるような衝撃を受け、身も心
も焼き尽くすような恋をするときでしかない。それは人が人生の中で唯一つかむことができる、
「真実」なのかもしれない。そのときはじめて人は、もっとも人間らしくなれる。もしそれがまちが
っているというのなら、生きていることがまちがっていることになる。しかしそんなことはありえな
い。

ロメオとジュリエットは、自らの生命力に、ただただ打ちのめされる。そしてそれを見る観客は、
その二人に心を合わせ、身を焦がす。涙をこぼす。しかしそれは決して、他人の恋をいとおし
む涙ではない。過ぎ去りし私たちの、その若さへの涙だ。あの無限に広く見えた青春時代も、
過ぎ去ってみると、まるでうたかたの瞬間でしかない。歌はこう続く。「♪バラは咲き、そして色
あせる。若さも同じ。美しき乙女も、また同じ……」と。

 相手の女性が結婚する日。私は一日中、自分の部屋で天井を見つめ、体をこわばらせて寝
ていた。6月のむし暑い日だった。ほんの少しでも動けば、そのまま体が爆発して、こなごなに
なってしまいそうだった。ジリジリと時間が過ぎていくのを感じながら、無力感と切なさで、何度
も何度も私は歯をくいしばった。

しかし今から思うと、あのときほど自分が純粋で、美しかったことはない。そしてそれが今、たま
らなくなつかしい。私は女房にこう言った。「相手がどんな女性でも温かく迎えてやろうね」と。そ
れに答えて女房は、「当然でしょ」というような顔をして笑った。私も、また笑った。

++++++++++++++++++

青春時代といっても、決して虹やサンシャインばかりではない(ロッキー・ザ・
ファイナル)。
そのほとんどは、切なく、もの悲しい。
しかしそれこそ、人間が原点として感ずる、純粋さではないのか。
その純粋さを、歳をとればとるほど、どんどんと忘れていく。
俗に溺れながら、自分を見失っていく。

私が言う、「燃えカス」というのは、そういう意味である。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司※

●第1181号(マガジン、4月1日号)

●ジャン・ダルジーの詩
(People come and go away, as if nothing had happened.)

+++++++++++++++++++++

学生時代、ジャン・ダルジーという人が書いた詩を読んだ。
感動した。
それで彼の書いた詩のいくつかを暗記した。
どれも、簡単な、短い詩だった。
訳者は忘れた。

で、その詩のことを、40歳くらいのとき、市内で画廊を
開いている友人に話すと、友人が、ジャン・ダルジーの
ことを調べてくれた。
が、「ジャン・ダルジーという詩人そのものが、見つからない」
「ジャン・コクトーのことではないか」と。

私もいろいろ調べてみたが、やはり見つからなかった。
ジャン・ダルジーという詩人は本当にいたのか。
私の記憶ちがいによるものなのか。

ジャン・ダルジーの詩を、ここに思い出してみる。
実際には、この数倍は長かったように思うが、
今、思いだせるのは、ここまで。

++++++++++++++++++++++

●人来りて、また去る

人来りて、また去る。
人来りて、また去る。
かくして、私の、あなたの、彼の、彼女の、
そして彼らの人生は去る。

人来りて、また去る。
人来りて、また去る。
あたかもなにごともなかったかのように。

+++++++++++++++++++++

ヤフーの検索エンジンを使って、(ジャン・ダルジー)を調べてみた。
「ジャン・ダルシーのまちがいではありませんか」と表示された。
そこで「ジャン・ダルシー」を調べていみた。
しかしチョコレート職人などの名前は出てきたが、詩人としてのジャン・ダルシーの
名前は出てこなかった。

やはり私の記憶ちがいによるものなのか。

そこで私は、ジャン・ダルジーの詩をもとに、自分なりの詩を作ってみることにした。

+++++++++++++++++

●人来りて、また去る

そこにあなたはいて、私を見る。
ここに私はいて、あなたを見る。
しかしそれもつかの間。
あなたは、そこを去り、風の中に消える。
私はそれを知り、ふと、身を縮める。

かくして私の人生は、去る。
かくしてあなたの人生は、去る。

振り返っても、そこにあるのは、
冬の乾いた風。
それが円陣を描いて、空に舞う。
「もう2度と会うことはないだろうな」と。
私は一歩、ふとためらいながら、足を前に踏み出す。

ああ、人来りて、また去る。
人来りて、また去る。
あたかもなにごとも、なかったかのように。

+++++++++++++++

人との出会いは、淡くて切ないもの。
別れは、さらに淡く切ないもの。
こうして人は人に出会い、そして別れていく。
振り返ったときには、もう、そこにはだれもいない。
私はただただ、新しい出会いを求めて、
足を一歩、前に踏み出す。
風に舞う、あなたの温もりを、肌で感じながら……。

かくして、私の、あなたの、彼の、彼女の、
そして彼らの人生は去る。

あたかもなにごとも、なかったかのように。


Hiroshi Hayashi++++++++Feb. 09++++++++++++はやし浩司

【おとなしい子どもほど、心配】(子どもは削って、伸ばす)

●抑圧(Excessive Pressure causes Trauma)

Excessive Pressure against children often makes another rooms in children's minds, which 
causes trauma. 

+++++++++++++++++++++++

よくあるケース。
子どもがその年齢になると、親に向かって、こう叫ぶ。
「こんなオレにしたのは、お前だろ!」
「どうしてオレなんかを、産んだ!」
「オレなんか、産んでもらわなかったほうがよかったア!」と。

ふつうの言い方ではない。
親をはげしい口調でののしり、罵倒する。
今にも親につかみかかりそうな雰囲気で、そう言う。
実際そのとき、子どもに、殴られる親も多い。
さらに、ときにそのまま子どもに殺されてしまうことも……(絶句)。

が、この種の罵倒、暴言で、特徴的なのは、子どもが高校生になっても、
20歳になっても、さらに30歳になっても、40歳、50歳に
なっても、それが「ある」ということ。

ふつうの常識で考えれば、10年前、20年前、30年前の話を
もちだすこと自体、理解できない。
が、それだけではない。
さらに理解できないことは、その間、良好な親子関係があったとしても、
それは、ほとんど意味をもたないということ。
途中の記憶、思い出が、そのままどこかへ吹き飛んでしまう。

ある父親は、ときどき、同じようなセリフで、息子に罵倒さるという。
父親はこう言う。
息子といっても、結婚し、子どもも2人いる。
息子の年齢は、40歳を超えている。

「たしかに私は、けっしてほめられるような父親ではありませんでした。
しかし30年近くも前のことに、どうして息子は、こうまでこだわるのでしょう。
その間に、孫が2人、生まれ、それなりによい人間関係を築いてきた
つもりなのですが……」(G県、UT氏)と。

心理学の世界では、こうした現象を、「抑圧」という言葉を使って説明する。
抑圧の恐ろしさは、そのときはわからない。
10年とか、20年とか……時の流れを超えて、出てくる。
しかも症状が、はげしい!

++++++++++++++++++++++++

●心の別室

はげしい欲求不満がつづくと、人は、とくに子どもは、心の中の別室につくり、
そこに自分の欲求不満を閉じ込める。
閉じ込めることによって、その場をやり過ごす。 
それがトラウマ、つまり心的外傷となることがある。

よく教育の世界では、「おとなしい子どもほど心配」という。
あとあと何かと問題を起こし、指導がむずかしくなることをいう。
つまり親や教師の前で、従順で、おとなしく、それに素直に(?)従う。
一見、できのよい、ものわかりのよい子どもほど、実は心配。
教師の立場でいうなら、教えやすい子どもに見えるかもしれないが、その分だけ、
心をゆがめる。

ここでいう「抑圧」も、そのひとつ。
人は、そして子どもは心の中に別室をつくり、悶々とした自分を、その中に閉じ込める。
閉じ込めることによって、自分の心を守る。

●無時間の世界

ところで心の世界には、原則として、時間はない。
時間が働くのは、(現実)の世界だけ。
たとえば記憶にしても、よく「古い記憶」「新しい記憶」という言葉を使う。
しかし記憶は、時間的経緯の中で、脳の中に「層」になって蓄積されるわけではない。
てんでばらばらに、それぞれの部分に、蓄積される。

(記憶のメカニズムは、複雑で、未解明な部分も多い。)

だから記憶自体には、時間はない。
「古い記憶」「新しい記憶」といっても、デジカメの写真のように、
日付が書き込まれているわけではない。
記憶のどこかに、(09−02−28)とあれば、2009年の2月28日ということが
わかる。
そうした記録は、記憶にはない。

だから10年前の記憶にしても、それが10年前とわかるのは、その記憶の中の
自分の姿や、まわりの様子からである。
それがなければ、わからない。
つまり古い記憶だから、それなりにセピアカラーになるということもない。
つまりは、記憶が鮮明に残っているかどうかは、そのときの印象の強烈さによって決まる。

●呼び起こされる「抑圧」状態

別室に入った記憶は、何らかのきっかけで、呼び起こされる。
それが強烈であればあるほど、呼び起こされたときの反応も、また強烈である。
同じようによくある例が、夫婦喧嘩。

夫婦喧嘩をしながら、20年前、30年前の話を持ち出す人は多い。
結婚当初のこだわりを持ち出し、「どうしてお前は(あなたは)、あのとき……!」と。

もう一方の側にすれば、とっくの昔に忘れてしまってよいような話ということに
なる。
つまり別室に入っているため、その間に、いくら楽しい思い出があったとしても、
別室に入った記憶については、上書きされるということはない。
ずっとそのままの状態で、残る。

具体的な例をあげてみよう。

私の父は今でいうアルコール中毒者だったが、酒が入るたびに、20年前、30年前の
話をもちだして、母を責めた。
こんなことがあった。(……らしい。)

結婚が決まったときのこと。
母が母の家に来てほしいと言った。
それで父が、母の家に行くと、そこに母の兄弟がずらりと並んで待っていたという。
父はそれに驚いた。
で、そのとき母が、兄弟の側に座っていて、父にみなの前で、土下座させたという。
当時は、板間と、一段高くなった、畳の間に分かれていたらしい。
父は酒が入るたびに、こう言っていた。

「どうしてお前は、あのとき、オレに土下座させたア!」と。
父には、それがよほどくやしかったらしい。

●心の病気

心に別室をつくり、そこの抑圧された自分を閉じ込める。
その抑圧された自分が、時間を超えて、何かのきっかけで爆発する。
自分で自分をコントロールできなくなる。
興奮状態になり、怒鳴り散らしたり、暴れたり、暴力を振るったりする。

今では、それ自体が、(心の病気)として考えられるようになった。
症状からすると、パニック障害に似ている。
精神科にせよ、心療内科にせよ、そういうところへ行けば、立派な診断名を
つけてもらえるはず。

●病識

それはともかくも、この病気には、ひとつ、重大な別の問題が隠されている。
「病識」の問題である。
ほとんどのばあい、そういう自分を知りながら、それを病気と自覚している
人は少ない。
(子どもでは、さらにいない。)
つまり病識がない。
そういう病識のない人に、どうやってその病気であることを自覚してもらうか、
それが問題。

それがないと、ドクターであれば、つぎのステップに進めない。
子どもの指導でも、つぎのステップに進めない。
話し合いそのものが、できない。

だからことこの「抑圧」の問題に関して言えば、本人自身が、そういった心の
問題、つまりトラウマ(心的外傷)に気がつくこと。
そのためにそういった人たちの集まる会に出たり、あるいは、私が今、
ここに書いているようなことを自分で読む。
そして自分で自分の中の、(心の別室)に気がつく。

それに気がつけば、あとは時間が解決してくれる。
自分で自分をコントロールできるようになる。
ドクターにしても、薬で治せるような病気でないため、結局はカウンセリング
で、ということになる。

●「抑圧」自己診断

つぎのような症状があれば、心の別室があると判断してよい。

(1)ふだんはそのことを忘れている。
(2)しかし何かのきっかけで、時間を超えて古い過去をもちだし、パニック状態
になる。理性的なコントロールがきかなくなる。
(3)そのときの記憶が、つい数時間前のできごとであるかのように、鮮明に
呼び戻される。そのときの怒りや不満が、そのまま出てくる。
(4)その過去にこだわり、相手を罵倒したり、相手に暴言を吐いたりする。
ときにはげしい暴力行為をともなうこともある。
(5)パニック状態が終わり、再びふだんの生活にもどると、何ごともなかったかの
ように、また日常的生活が始まる。

診断名については、ドクターに相談して、つけてもらったらよい。
ここでは、「心の病気」とだけしておく。

●子どもの世界では

これで「おとなしい子どもほど心配」という言葉の意味をわかってもらえた
と思う。
子どもというのは、そのつど、言いたいことを言い、したいことをする。
それが子どもの(原点)ということになる。

強圧や威圧で、子どもは、一見、おとなしく従順になるが、それはけっして
子ども本来の姿ではない。
またそういう子どもを、理想の子どもと思ってはいけない。
あるべき子どもの姿と思ってはいけない。

まず好きなように、ワーワーと自己主張させる。
それを原点として、年齢とともに、少しずつ軌道修正していく。

以前、私は『子どもは削って伸ばせ』という格言を考えた。
つまりまず、四方八方に伸ばすだけ、伸ばす。
その上で、好ましくない部分については、削りならが修正していく。
けっして子どもを、盆栽のように、最初から、小さな箱の中に、閉じ込めてはいけない。
この格言の真意は、ここにある。

幼児教育においては、とくに大切なポイントのひとつということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
パニック障害 抑圧 心の別室 子どもの暴言 暴力 抑圧された心 抑圧の暴走 
はやし浩司 子どもは削って伸ばす 心的外傷 心的外傷後ストレス障害 トラウマ
幼児期のトラウマ)

(補記)
私の教室(BW教室)では、子どもたちに言いたいことを言わせ、したい
ことをさせる。
そこからまず、指導を始める。
具遺体的には、大声で、自分の言いたいことを表現させる。
この時期、(心の状態=情意)と(顔の表情)が、一致している子どもを、
「すなおな子ども」という。
うれしいときは、うれしそうな顔をする。
悲しいときは、悲しそうな顔をする。
そうした表情を、自然な形で表現できる子どもを、「すなおな子ども」という。
まず、そういう子どもにすることを目指す。

子どもを抑えるのは、簡単。
伸ばすのは難しいが、抑えるのは簡単。
抑えるのは、子ども自身にそれだけの抵抗力ができてから、ということになる。
年齢的には、年長児の終わりごろ。
それまでは、まず四方八方に伸ばす。

こうした子どもの様子は、私のHPの「BW公開教室」で、見ることができる。
一度、参考にしてみてほしい。
一見騒々しく見える教室だが、子どもたちの伸びやかな様子に、どうか注目!

はやし浩司のHP:
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
→(BW公開教室)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB09++++++++++はやし浩司

●女性のおしゃべり

+++++++++++++++++++

今日、あるレストランへ行ったら、
そこで、7、8人の女性たちのグループが
食事をしていた。

うるさいのなんのいったら、なかった。
ギャ−ギャー、ゲラゲラ、ワッハハハ……、
ペチャペチャ、クチャクチャ、キャーキャー、と。

よく見られる光景である。
傍若無人(ぼうじゃくぶじん)とは、まさに
そういう女性たちのことをいう。
そこでいつもの、私の観察が始まった……。

+++++++++++++++++++++

Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

【無知という罪悪】(改)

++++++++++++++++

メキシコの作家の、Carlos Fuentes
は、こう言った。

Writing is a struggle against silence.

「書くことは、静寂との闘いである」と。

たしかにそうだ。

何ごともなく、無難に過ごそうと思えば、
それはできる。ひとり、静かに、小さな
部屋の中に、閉じこもっていればよい。

しかし人は、書くことによって、ものを
考え、考えることによって、生きること
ができる。

無知は、それ自体が、罪悪。

この言葉を知ったとき、数年間に書いた
原稿のことを思い出した。

++++++++++++++++

【無知という「罪悪」】

++++++++++++++++

「私は知らなかった」では、すまされない。
それが子どもの世界。

無知は、罪悪。そう考えるのは、きびしい
ことだが、しかし親たるもの、親としての
勉強を怠ってはいけない。

+++++++++++++++++

 これだけ情報が濃密に行きかう時代になっても、その情報の外に住んでいる人たちがいる。
自ら情報の外の世界に身を置くことにより、彼らの言葉を借りるなら、「情報がもつわずらわし
さから、自分を解放するため」だ、そうだ。

 しかし無知は、今の時代にあっては、罪悪と考えてよい。「知らなかった」では、すまされな
い。とくに相手が子どものばあい、親の独断と偏見ほど、こわいものはない。症状をこじらせる
だけではなく、ばあいによっては、取りかえしのつかない状態に、子どもを追いやってしまう。

【ケース1】

その母親は、静かで、おとなしく、従順な子どもほど、「できがいい」と信じていた(?)。そう信じ
ていたかどうかは、実のところ、はっきりしないが、そのように考えていたことは、子ども(女児・
年中児)の指導ぶりを見ていれば、わかる。もともと静かで、……というよりハキのない子ども
だった。ときにほんの少しでもハメをはずしたりすると、それを強く叱ったりしていた。

 母親自身も、依存性の強い人だった。こうした依存性は相互的なもので、依存性の強い子ど
もをみたら、母親自身も、そのタイプの人と考えてよい。つまり母親が依存的であればあるほ
ど、子どもの依存性に甘くなる。結果として、子どもも、依存性の強い子どもになる。その子ど
もは、何かできないことや、うまくいかないことがあったりすると、すぐ「ママ〜、ママ〜」と言っ
て、泣きべそをかいたりしていた。

そういう子どもを見て、その母親は、一方で子どもを抱き寄せながら、同時に、顔をしかめて叱
ったりしていた。が、ここにも書いたように、正すべきは、母親自身のほうにある。

 で、私はそれとなくその子どもの問題点を告げようとした。その子どもは、集団教育の場で
は、いい子ぶり、それだけ無理をしていた。子どもらしい、伸びやかさがない分だけ、ものごと
を内へ内へと、ためこんでいた。これは幼児期の子どもにとって、たいへん危険な兆候と考え
てよい。

が、その母親には、それだけの理解力がなかった。問題意識もなかった。私への信頼感も薄
く、私が感じている問題点にも、関心を示さなかった。そればかりか、「この教室は、うちの子ど
もには合わない」というように感じて、年中児の終わりに、教室を去っていった。

 こういうケースは、多い。多いが、私の立場にも限界がある。ここで「危険な兆候」と書いた
が、こういう状態がつづくと、子どもは外の世界で不適応症状を示すようになる。わかりやすく
いえば、環境に適応できなくなり、たとえばそれが不登園、不登校につながったりする。

さらに従順であることをよいことに、無理な学習を押しつければ、かなり早い段階で、燃え尽き
てしまうことも考えられる。実際、その子どもは、(勉強は、よくできた)。年中児だったが、文字
の読み書きなどは、平均児よりもはるかに、よくできた。それだけどこかで、教えこんでいたた
めである。

 で、最後まで、その母親とは、静かに話し合う機会はなかった。先にも書いたように、私への
信頼感も薄く、私をその程度の人間にしか見ていなかった。それが私にもよくわかった。表面
的には、私にはていねいだったが、いつもそこまで。「うちの子どものことは、私がいちばんよく
知っている」という態度で、私を軽くはねのけてしまった。

 子どもを伸ばすコツ……というより、子どもは、まず四方八方に、伸ばしてみる。言いたいこと
を言わせ、やりたいことをさせる。その上で、少しずつ枝葉を切り落とすように、抑えるとことは
抑えていく。最初から盆栽よろしく、親の設計図に合わせて、子どもを(作る)ようなことはして
はならない。何十人も、何百人も子どもを育てたことのある親なら、そういう設計図をもったとし
ても、よいかもしれない。しかしそんな親はいない。

 そのために子育てでは、いつも(風通し)を考える。風通しのよい子育てをする。ほかの親と
の情報交換をし、またそれを受け入れる。まずいのは、隔離された部屋で、マンツーマンの子
育てをすること。「私がしていることが、ぜったい正しい」という、独善的、独断的な子育てほど、
恐ろしいものはない。

言うなれば、これも、無知、無学のなせるわざということになる。


【ケース2】

 A君という年長児の子どもがいた。自閉症と診断されたわけではないが、軽い自閉傾向があ
った。一度何かのことで、こだわりを見せると、かたいカラの中に入ってしまった。たとえば幼稚
園へ行くときも、青いズボンでないと行かないとか、幼稚園でも、決まった席でないと、すわらな
いとか、など。居間の飾り物を動かしただけで、不機嫌になることもあった。

そのA君は、虫の写真の載っているカードを大切にしていた。いろいろな種類のカードをもって
いたが、その数が、いつの間にか、400枚近くになっていた。A君は、それを並べたり、箱に入
れたりして大切にしていた。

 が、A君の母親は、それが気に入らなかった。母親は、虫が嫌いだった。また母親が、カード
の入っている箱にさわっただけで、A君は、パニック状態になってしまったりしたからである。

 そこである日、A君が幼稚園へ行っている間に、母親は、そのカードが入っている箱を、倉庫
へしまいこんでしまった。が、それを知ったA君は、そのときから、だれが見ても、それとわかる
ほど、奇異な様子を見せるようになった。

 ボーッとしていたかと思うと、ひとり、何かを思い出してニヤニヤ(あるいはニタニタ)と笑うな
ど。それに気づいて母親が、カードを倉庫から戻したときには、もう遅かった。A君は、カードに
は見向きもしなくなってしまったばかりか、反対に、そのカードを破ったり、ゴミ箱に捨てたりし
た。

 それを見て、母親は、A君を強く叱った。「捨ててはだめでしょ」とか、何とか。私が、「どうして
カードを、倉庫へしまうようなことをしたのですか?」と聞くと、A君の母親は、こう言った。「だっ
て、ほかに、まだ、100枚近くももっているのですよ。それに私がしまったのは、古いカードが
入った箱です」と。

 自閉傾向のある子どもから、その子どもが強いこだわりをもっているものを取りあげたりする
と、症状が、一気に悪化するということはよくある。が、親には、それがわからない。いつもその
ときの状態を、「最悪の状態」と考えて、無理をする。

 この無理が、さらにその子どもを、二番底、三番底へと落としていく。が、そこで悲劇が終わ
るわけではない。親自身に、「自分が子どもの症状を悪化させた」という自覚がない。ないか
ら、いくら説明しても、それが理解できない。まさに、ああ言えば、こう言う式の反論をしてくる。
人の話をじゅうぶん聞かないうちに、ペラペラと一方的に、しゃべる。

私「子どもの気持ちを確かめるべきでした」
母「ちゃんと、確かめました」
私「どうやって?」
母「私が、こんな古いカードは、捨てようねと言いましたら、そのときは、ウンと言っていました」

私「子どもは、そのときの雰囲気で、『うん』と言うかもしれませんが、本当に納得したわけでは
ないかもしれません」
母「しかし、たかがカードでしょう。いくらでも売っていますよ」
私「おとなには、ただのカードでも、子どもには、そうではありません」
母「気なんてものは、もちようです。すぐカードのことは忘れると思います」と。

 私の立場では、診断名を口にすることはできない。そのときの(状態)をみて、「ではどうすれ
ばいいか」、それを考える。しかしA君の症状は、そのとき、すでにかなりこじれてしまってい
た。

 ……こうした親の無知が、子どもを、二番底、三番底へ落としていくということは、よくある。心
の問題でも多いが、学習の問題となると、さらに多い。少しでも成績が上向いてくると、たいて
いの親は、「もっと」とか、「さらに」とか言って、無理をする。

 この無理がある日突然、限界へくる。とたん、子どもは、燃えつきてしまったり、無気力になっ
てしまったりする。印象に残っている子どもに、S君(小2男児)という子どもがいた。

 S君は、毎日、学校から帰ってくると、1〜2時間も書き取りをした。祖母はそれを見て喜んで
いたが、私は、会うたびに、こう言った。「小学2年生の子どもに、そんなことをさせてはいけな
い。それはあるべき子どもの姿ではない」と。

 しかし祖母は、さらにそれに拍車をかけた。漢字の学習のみならず、いろいろなワークブック
も、させるようになった。とたん、はげしいチックが目の周辺に現われた。眼科で見てもらうと、
ドクターはこう言ったという。「無理な学習が原因だから、塾など、すぐやめさせなさい」と。

 そのドクターの言ったことは正しいが、突然、すべてをやめてしまったのは、まずかった。そ
れまでS君は、国語と算数の学習塾のほか、ピアノ教室と水泳教室に通っていた。それらすべ
てをやめてしまった。(本来なら、子どもの様子を見ながら、少しずつ減らすのがよい。)

 異常なまでの無気力症状が、S君に現われたのは、その直後からだった。S君は、笑うことも
しなくなってしまった。毎日、ただぼんやりとしているだけ。学校から帰ってきても、家族と、会話
さえしなくなってしまった。

 祖母から相談があったのは、そのあとのことだった。しかしこうなると、私にできることはもう
何もない。「もとのように、戻してほしい」と、祖母は言ったが、もとに戻るまでに、3年とか4年
はかかる。その間、祖母がじっとがまんしているとは、とても思えなかった。よくあるケースとし
ては、少しよくなりかけると、また無理を重ねるケース。こうしてさらに、子どもは、二番底、三番
底へと落ちていく。だから、私は指導を断った。

 子どもの世界では、無知は罪悪。そうそう、こんなケースも多い。

 進学塾に、特訓教室というのがある。メチャメチャハードな学習を子どもに強いて、子どもの
学力をあげようというのが、それ。ちゃんと子どもの心理を知りつくした指導者がそれをするな
らまだしも、20代、30代の若い教師が、それをするから、恐ろしい。ばあいによっては、子ど
もの心を破壊してしまうことにもなりかねない。とくに、学年が低い子どもほど、危険である。

 テストを重ねて、順位を出し、偏差値で、子どもを追いまくるなどという指導が、本当に指導な
のか。指導といってよいのか。世の親たちも、ほんの少しだけでよいから、自分の理性に照ら
しあわせて考えてみたらよい。つまり、これも、ここでいう無知の1つということになる。

 たいへんきびしいことを書いてしまったが、無知は、まさに罪悪。親として、それくらいの覚悟
をもつことは、必要なことではないか。今、あまりにも無知、無自覚な親が、多すぎると思うので
……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 無知
 無知という罪悪 無学という罪悪)


Hiroshi Hayashi++++++++Mar.09++++++++++++はやし浩司

●ほめる

読売新聞に、こんな記事が載っていた。

+++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++

乳幼児期に親からよくほめられる子供は、他人を思いやる気持ちなどの社会適応力が高くな
ることが、科学技術振興機構の長期追跡調査で明らかになった。育児で「ほめる」ことの重要
性が、科学的に証明されたのは初めて。3月7日に東京都内で開かれるシンポジウムで発表
する。

 筑波大のAM教授(発達保健学)らの研究チームは、2005〜08年、大阪府と三重県の計
約400人の赤ちゃんに対し、生後4か月、9か月、1歳半、2歳半の時点で成長の度合いを調
査した。調査は親へのアンケートや親子の行動観察などを通して実施。自ら親に働きかける
「主体性」や相手の様子に応じて行動する「共感性」など、5分野25項目で評価した。

 その結果、生後4〜9か月時点で父母が「育児でほめることは大切」と考えている場合、その
子供の社会適応力は1歳半時点で明らかに高くなった。また、1歳半〜2歳半の子供に積み木
遊びを5分間させたとき、うまく出来た子供をほめる行動をとった親は半数程度いたが、その
子供の適応力も高いことも分かった。

 調査では、〈1〉規則的な睡眠習慣が取れている、〈2〉母親の育児ストレスが少ない、〈3〉親
子で一緒に本を読んだり買い物をしたりすることも、子供の適応力の発達に結びつくことが示
された(読売新聞090228)

+++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++

ほめることは、幼児教育の要(かなめ)である。
それを疑う人は、いない。
しかし……?

こんなことは、すでに大脳生理学の分野で、証明されていることではないのか。
人のやさしさを司るのは、辺縁系の中の、扁桃核(扁桃体)と言われている。
たとえば人にほめられたり、やさしくされたりすると、その信号は、扁桃核に送られる。
その信号を受けて、扁桃核は、エンドロフィンやエンケファリンなどの、いわゆる
モルヒネ様のホルモンを分泌する。
その結果、その人(子どもは)は、甘い陶酔感を覚える。
この陶酔感が、(やさしさ)につながる。

以前書いた原稿をさがしてみる。

++++++++++++++++++

●意思

 最近の研究では、「自分の意思」ですらも、実は、脳の中で、作られるものだということがわか
ってきた(澤口俊之氏「したたかな脳」日本文芸社)。

 たとえばテーブルの上に、ミカンがあったとしよう。するとあなたは、そのミカンに手をのばし、
それを取って食べようとする。

 そのとき、あなたは、こう思う。「私は自分の意思で、ミカンを食べることを決めた」と。

 が、実は、そうではなく、「ミカンを食べよう」という意思すらも、脳の中で、先に作られ、あなた
は、その命令に従って、行動しているだけ、という。詳しくは、「したたかな脳」の中に書いてあ
るが、意思を決める前に、すでに脳の中では別の活動が始まっているというのだ。

たとえばある人が、何らかの意思決定をしようとする。すると、その意思決定がされる前に、す
でに脳の別のところから、「そういうふうに決定しないさい」という命令がくだされるという。

 (かなり大ざっぱな要約なので、不正確かもしれないが、簡単に言えば、そういうことにな
る。)

 そういう点でも、最近の脳科学の進歩は、ものすごい! 脳の中を走り回る、かすかな電気
信号や、化学物質の変化すらも、機能MRIや、PETなどによって、外から、計数的にとらえてし
まう。

 ……となると、「意思」とは何かということになってしまう。さらに「私」とは、何かということにな
ってしまう。

 ……で、たった今、ワイフが、階下から、「あなた、食事にする?」と声をかけてくれた。私は、
あいまいな返事で、「いいよ」と答えた。

 やがて私は、おもむろに立ちあがって、階下の食堂へおりていく。そのとき私は、こう思うだろ
う。「これは私の意思だ。私の意思で、食堂へおりていくのだ」と。

 しかし実際には、(澤口氏の意見によれば)、そうではなくて、「下へおりていって、食事をす
る」という命令が、すでに脳の別のところで作られていて、私は、それにただ従っているだけと
いうことになる。

 ……と考えていくと、「私」が、ますますわからなくなる。そこで私は、あえて、その「私」に、さ
からってみることにする。私の意思とは、反対の行動をしてみる。が、その「反対の行動をして
みよう」という意識すら、私の意識ではなくなってしまう(?)。

 「私」とは何か?

 ここで思い当たるのが、「超自我」という言葉である。「自我」には、自我を超えた自我があ
る。わかりやすく言えば、無意識の世界から、自分をコントロールする自分ということか。

 このことは、皮肉なことに、50歳を過ぎてみるとわかる。

 50歳を過ぎると、急速に、性欲の働きが鈍くなる。性欲のコントロールから解放されるといっ
てもよい。すると、若いころの「私」が、性欲にいかに支配されていたかが、よくわかるようにな
る。

 たとえば街を歩く若い女性が、精一杯の化粧をし、ファッショナブルな服装で身を包んでいた
とする。その若い女性は、恐らく、「自分の意思でそうしている」と思っているにちがいない。

 しかし50歳を過ぎてくると、そういう若い女性でも、つまりは男性をひきつけるために、性欲
の支配下でそうしているだけということがわかってくる。女性だけではない。男性だって、そう
だ。女性を抱きたい。セックスしたいという思いが、心のどこかにあって、それがその男性を動
かす原動力になることは多い。もちろん、無意識のうちに、である。

 「私」という人間は、いつも私を越えた私によって、行動のみならず、思考すらもコントロール
されている。

 ……と考えていくと、今の私は何かということになる。少なくとも、私は、自分の意思で、この
原稿を書いていると思っている。だれかに命令されているわけでもない。澤口氏の本は読んだ
が、参考にしただけ。大半の部分は、自分の意思で書いている(?)。

 が、その意思すらも、実は、脳の別の部分が、命令しているだけとしたら……。
 
 考えれば考えるほど、複雑怪奇な世界に入っていくのがわかる。「私の意識」すらも、何かの
命令によって決まっているとしたら、「私」とは、何か。それがわからなくなってしまう。

++++++++++++++++

そこでひとつの例として、「子どもの
やる気」について考えてみたい。

子どものやる気は、どこから生まれるのか。
またそのやる気を引き出すためには、
どうしたらよいのか。

少し話が脱線するが、「私の中の私を知る」
ためにも、どうか、読んでみてほしい。

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●子どものやる気

+++++++++++++

子どもからやる気を引き出すには
そうしたらよいか?

そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織だそうだ!

++++++++++++++

 人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の中の辺
縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。

 この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが自分に
とって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モルヒネ様の物質を
分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。

たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに包まれる。そ
れはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけではないようだ。こんな実験
がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。

 サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除してし
まうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。

 つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているというわけ
である。

 そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなものを好
きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝手に決めてし
まうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、そうした感情ができてし
まうと、簡単には変えられないということになる。

 そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。

 最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反応を
示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教室を訪れたと
しよう。

 そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をもつよ
うになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印象をもつよ
うになる。

 あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子ども
は、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、ますま
すその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。

 心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」という言
葉もある。

 つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしていく。反対
に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってしまい、努力の割
には、効果があがらないということになる。

 このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。

 何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が分泌され
る。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみよう。

 このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があるという。

 ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミンにも、同
じような作用があるという。

 「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアドレナリンを
分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P59)とのこと。

 わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まるという
こと。

 そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚えた
か)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(どれだけ楽しん
だかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。

 これはたいへん重要なことである。

 というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁桃体が、
いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると考えてよい。「好
きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。

 実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、その子
どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、その向こうにある
隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。

 たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしている。何
かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせる。そういう印
象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が芽生えていくのを、静
かに待つ。

 (このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすることがある。
多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児教育と考えてい
る。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)

 しかしカテコールアミンとは何か?

 それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせている
その物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)

【補記】

 一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずない。
(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育のリズ
ムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)

 それにはいくつか、理由がある。

 勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。借金に
たとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。

 あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる気を
見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、子どもを追
いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものがない。

 本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。しかし
この日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、たいていの親
は、パニック状態になってしまう。

 かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)

【補記】

 子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早い時期
に、それに気づき、対処するのがよい。

 私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉強
はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、その子
どもにとっても、幸福なことかもしれない。

 しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少しでも伸び
る姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。

 大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわないこと。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●みんな孤独(Loneliness)
Everybody is lonely, but the cause itself is inside himself. We mistake what is important to 
be not important or what is not important to be not important. The wider world is just 
beyond yourself.

+++++++++++++++++

ある母親が、私にこう言った。
「私は、孤独です」と。

私はその言葉に、はっと驚いた。
そうまで自分の心をすなおに表現できる人は、
そういない。

が、その母親だけではない。
みな、そうだ。
本当のところ、私だって孤独。
懸命に隠してはいるが、孤独。

その孤独。
孤独ほど、怖しいものはない。
あのイエス・キリストでさえ、孤独に
苦しんだという(マザーテレサ)。

+++++++++++++++++++

なぜ、私たちは孤独なのか。
理由も、原因も、実は私たち内部にある。
もっとはっきり言えば、私たちそのものが、その原因を作っている。
しかしそれに気がつかない。
気がつかないまま、右往左往している。

が、問題は、なぜ孤独かではなく、どうしてそれを作り出している
原因に気がつかないか、ということ。
日々の生活の中で、その生活に追われるあまり、大切なものを、
大切でないと思いこみ、大切でないものを、大切と思いこんで
しまっている。
そのため、孤独の原因そのものが、わからない。
見えない。

地位や名誉のむなしさは、言うに及ばない。
いくら豪華な生活をしたからといって、孤独を癒すことはできない。
むしろかえって孤独になる。
が、そういうものを、大切なものと思いこんでしまっている。
だから孤独の原因がわからない。

ふと気がついてみると、そこには、だれもいない。
ゆいいつの希望は、「明日になれば……」と思うこと。
しかし明日になっても、明後日になっても、来年になっても、
そこには、だれもいない。

端的に言えば、私たちの生きざまそのものが、狂っているということ。
その(狂い)に気がつかないまま、それを「よし」と受け入れてしまっている。

たとえば、ほんの30年前には、観光バスに乗れば、まずみなが、
自己紹介をした。

ほんの50年前には、乗り合いバスに乗れば、見知らぬものどうしでも、
会話を始めた。

今は、それがない。
みな、自分のことしか、考えていない。
自分の家族のことしか、考えていない。
いつも「得か、損か」、そんなことしか考えていない。

孤独と闘うためには、まず失ったものを取り返すこと。
何が大切で、何がそうでないかを、見極めること。
それをしないでおいて、「私は孤独」は、ない。

みな孤独だが、その孤独は自ら作りあげたもの。
自ら孤独の世界に、自分を追い込んで、その中で右往左往しているだけ。
そのすぐ外には、広い、広い、どこまでも広い世界がある。
それに気がつかないでいるだけ。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●3月2日(月曜日)

++++++++++++++++++++

このところ花粉症による症状が、出ている。
目がかゆい、鼻水が出る。
それほどひどくはないが、しかし不快。

++++++++++++++++++++

●田丸謙二先生(Mr. Kenzi Tamaru, the great scholar)

昨夜は遅くまで、先生のビデオの編集をしていた。
先生は、若いときに、奥さんを亡くされた。
昨日も、奥さんの写真を見ながら、「長い間、待たせてごめんね」と
言っていた。
さみしそうだった。
で、奥さんの写真を、ビデオにまとめることにした。

それを今朝、完成させた。
そのままYOU TUBEにUPLOAD。
アドレスを、先生に送る。

すぐ返事が届いた。
「何度も見ていると、心が温まってきます」とあった。
うれしかった。
先生に喜んでもらえた。
みやげにもらった「はとサブレー(鎌倉の銘菓)」を
食べならが、メールを読んだ。

来週から、先生のHPの整理を始める。
私のもうひとつの仕事。
それは先生の名前を、永遠に残すこと。
インターネットを利用すれば、それができる。


●オープン・オフィス(open Office)

私はずっと、ワープロソフトに、MS社の「ワード」を使ってきた。
しかし値段が高い。
最小構成でも、2万円前後もする(パソコンショップでのバルク品)。
正規に買えば、もっと高額。

そこで少しずつだが、オープン・オフィスを使い始めている。
無料のソフトである。

が、驚いたことに、ことワープロに関するかぎり、ワードで編集した
原稿を、そのまま読み書き、訂正できる。
それだけではない。
使い勝手も、ワードよりも、よい。

現在、オープン・オフィスは、V3・0まで、無料配布されている。
ほかにも無料ソフトとして、「ゾーホー」や「ロータス・シンフォニー・
1・2」などがある。

どうしてこんなソフトが無料で使えるんだろ?

……と思いつつ、これからは、少しずつ、ワードからオープン・オフィスに移行
していく。
1、2年で、オープン・オフィスに乗り換える。
何といっても、タダ(無料)というところが、魅力的。
同時に、こう思った。

「今まで、1台ごとに、パソコンにMSオフィスを購入していた自分が
バカみたい」と。

なおオープン・オフィスでは、MSオフィス2007のファイルが、
自由に読み書きもできる。
エクセル、パワーポイントと同等の、「カルク」「インプレス」のほか、
「ベース(データベース)」「ドロー(描画ソフト)」も付随している。
もちろん2000、XP、ビスタに対応。
PDF機能までついているので、オープン・オフィスを導入していない
相手にも、原稿を送ることができる。

オープン・オフィスのダウンロードは、
http://ja.openoffice.org/
より。

(補記)

オープン・オフィスの使い方としては、2台目用として、導入するのが
よいのでは?
メインパソコンには、MSオフィスを導入しておき、(何といっても、
まだ主流だから)、2台目のパソコンから、オープン・オフィスを
導入する。

●たった「30メートル」!

K国がまたまたわけのわからないことを言い出した。
アメリカ軍の兵士が、国境を侵害しているという。
そこで「われわれは、戦争をする準備を整えている」と。

が、K国の言い分を読んで、思わず笑ってしまった。
「アメリカ軍の兵士が、30メートルも領土を侵害した」※と。

別のところには、「傲慢なアメリカ軍が、100メートルも領土を侵害した」と
ある。

私は、「30キロ」「100キロ」のまちがいではないかと思った。
30キロとか、100キロなら、まだ話もわかる。
しかし30メートル(?)。
100メートル(?)。
仮に100メートルにしても、そんな程度のことで、戦争までする
必要があるのか。
またそれによって、いったい、どんな法益が守られるというのか。

似たような話だが、こんなことを耳にした。

私の近所に、「道路」にたいへんうるさい老人がいる。
どこかの工事車が道に止まっただけで、すぐパトカーを呼びつける。
先日も、ある人が、その老人に告発された。
(これは本当の話!)

理由は、角から、2メートル60センチにところに、車が停車したから、と。
交通法規では、角から3メートル以内には、車を止めてはいけない
ことになっている。
つまり「40センチ、違反している」と。
(そのあたりは、団地の奥で、駐車禁止区域にはなっていない。念のため。)

その老人は、写真まで撮って、それを浜松市の中央署に送り届けた。
が、一応、法規違反は、法規違反。
警察としても、無視するわけにはいかなかったらしい。
仮に3メートルにしても、そんな程度のことで、告発までする必要があるのか。
またそれによって、いったい、どんな法益が守られるというのか。

どこか頭のおかしい人は、そういうことが平気でできる。
つまり現在のK国も、その老人と同じ。
たかが30メートルや、100メートルくらいのことで、ギャーギャーと
大げさに騒ぐほうが、おかしい。
狂っている。
狂っているから、そのおかしさが、わからない。

では、どうするか。

あの国は、世界に相手にしてもらいたい。
もらいたいがため、騒いでいる。
だったら、無視すればよい。
「敵がしてほしいことを、しない」、
「敵がしてほしくないことを、する」。
これが国際政治の常識。

K国のミサイルを、迎撃ミサイルで撃ち落すという話もあるが、
そんなことをしてはいけない。
する必要もない。
ああいう国だから、へたに撃ち落せば、そのあと何をしてくるか
わかったものではない。
昔から、『XXXXに刃物』とも言う。
その危険があるから、ここは忍耐。
ただひたすらがまん。
静観。

日本は、国際の場に、K国のミサイル問題を持ち出せばよい。
世界を味方に、K国を締めあげればよい。
もともと相手にする価値などない。
いっしょに心中しなければならないような、相手でもない。

わかったか、AS首相!
早まったことを、するな!

(注※)韓国・聯合ニュースは、つぎのように伝える(090302)。

++++++++++一部、抜粋+++++++++++++

『……1月5日と21日に、米軍が西海地区北南管理区域の軍事境界線から30メートルのライン
まで入り、われわれの哨所に向かって写真を撮り、軍事境界線を通過する車両を監視した』と
説明した。このほか、年初から2月20日まででも66回にわたり、人員62人と車両58台が、北南
管理区域の軍事境界線から100メートルの地点に入り、勝手に動き回ったと主張している』

++++++++++以上、聯合ニュースより+++++++

Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●無益の世界

+++++++++++++++++

よく、「毎日原稿を書いていて、収入が
ありますか?」と聞く人がいる。
実は、昨日も、田丸先生が、そう聞いた。

しかし無私無欲で書いているから、楽しい。
だれにもコビを売らず、好き勝手なことが
書ける。
この「自由さ」こそが、大切。
おもしろい。

+++++++++++++++++

では、収入は、どうするか?
老後は、どうするか?
そういう心配はあるにはあるが、そのときは、そのとき。
いさぎよく死ねばよい。
自殺するということではないが、それ以上に
大切なことは、この世に未練を残さないこと。
それまでに、自分を燃やして燃やして、燃やし尽くす。
「死」は、あくまでもその結果としてやってくる。
死を怖れる必要など、まったくない。

どうせ、裸で生まれた体。
死ぬときも裸。
だったら今も、裸で生きればよい。

ワイフもこう言っている。
「お金がなくなったら、家と土地を売ればいいわよ」と。
しかし家と土地がなくなれば、住むところがなくなってしまう……。
そうなれば、あとは、死ぬしかない。
「死」は、あくまでも結果としてやってくるというのは、そういう意味。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●信頼関係

++++++++++++++++++++

教育は親と教師、子どもと教師の間の
信頼関係にはじまり、信頼関係に終わる。
信頼関係がなかったら、教育の基盤
そのものが、崩壊する。
教育そのものが、成り立たない。

++++++++++++++++++++

●要するに安心感

では、信頼関係とは何か。
要するに、安心感ということになる。
親の側の安心感だけではない。
教師の側の安心感もある。
が、その信頼関係が崩れると、冗談すら言えなくなる。
そういった状態になる。
間に子どもをはさむため、些細な冗談でも、
誤解が誤解を生み、それがとんでもないほうに、進んでしまう。
そういう例は多い。

が、それだけではない。
教師がいちばん困るのは、親に、「最近、うちの子は
どうでしょうか?」と聞かれること。
そういう質問を受けると、戸惑ってしまう。
何をどの程度まで答えてよいのか、それがわからない。
まさかそういうとき、「○○さんは、学習障害の
心配があります」などと言うことはできない。
で、そういうときは、すかさず、教師の側から、
さぐりを入れる。
「おうちでは、いかがですか?」と。

その内容に応じて、教師も、親の質問に答える。
そのプロセスを怠ると、たいへんなことになる。

で、その信頼関係には、段階がある。
概して言えば、教師という立場にある人は、親を
信用していない。
年配の教師であればあるほど、そうではないか。
仮に9人の親と信頼関係を結ぶことができても、
残り1人の親が、その信頼関係を粉々に破壊する。
そこで教師は、「やっぱり、親は信用できない」
となる。

それに親といっても、10人いれば、みな、ちがう。
生活基盤もちがえば、教養もちがう。
性格もちがえば、教育観もちがう。
心の問題をかかえた親も多い。
だから教師は、最大公約数的な範囲で、親とつきあう。
つまり人間関係を縮小する。

●「バカと何よ!」

こんな例がある。
ある小学校で、ある教師が、ある母親と、何かの会合の
資料の整理をしていた。
そのときはふだんと変わらない、和気あいあいとした
雰囲気だったという。
で、そのとき、ふと、その教師が、こうもらした。
「今、塾へ、週に3つも、4つも子どもを通わせている、バカな
親がいる」と。

「バカ」という言葉を使ったのがまずかった。
一方、いまどき、3つや4つ、塾へ通っている子どもは、
珍しくない。
で、この話は、数日のうちに親たち全員に伝わってしまい、
それこそ大騒動になってしまった。
「バカとは何よ!」と。

結局その教師は、任期途中で、他校へと転校していくことになった。
が、もしこの段階でも、教師と親の間に、信頼関係が
できていれば、それほどまでにおおごとにはならなかったはず。
ただの世間話、もしくは雑談として、その場で終わったはず。

●信頼関係の構築

一方、親の側も、教師を信頼していない。
とくに何か問題のある子どもの親ほど、教師を信頼していない。
これは教育の宿命のようなものかもしれない。
ある教師(小学校)は、こう話してくれた。

「できる子どもの親は、学校や教師を信頼してくれる。
できない子どもの親ほど、学校や教師を信頼してくれない」と。

信頼関係のあるなしも、子どもの(でき・ふでき)で決まるらしい。
しかしそれが親心というものか。

●では、どうするか?

「おかしい?」「へん?」と思ったら、すぐ確認すること。
学校なり、教師に、直接連絡するのがよい。
間に人を置かない。
これは学校や教師との信頼関係を構築するときの、
大原則と考えてよい。
それには、いくつかのコツがある。

(1)子どもの前では、学校や先生の批判は、タブー。

子どもの前では、学校や先生の批判は、タブー。
批判をするなら、子どもの耳には届かない、別の世界で、する。
また子どもが学校や先生の悪口を言ったときも、そうだ。
けっして相槌を打ってはいけない。
相槌を打てば、今度はそれが親の言葉として、学校や教師に
伝わってしまう。

親は「子どもは何も言わないだろう」と思っているかも
しれないが、子どもというのは、隠しごとができない。
こういった話は、ほぼ100%、学校や教師に伝わると考えてよい。
子どもが、たとえば先生の悪口を言ったら、すかさず、
「あなたたちが悪いからよ」と、それをたしなめる。
これは子どものためでもある。
親が先生を批判したりすると、子どもは、その先生に、
それ以後、従わなくなる。
つまり教育の基盤そのものが、崩壊する。

(2)子どもどうしのトラブルは、1にがまん、2に様子を見て、
3に、1、2歳年上の子どもをもつ親に相談する。

子供どうしで何かトラブルがあったときは、1にがまん。
2に様子を見て、3に、1,2歳年上の子どもをもつ親に相談する。
たいてい「うちも、そうでしたよ」というような返答をもらって、
そのまま問題は解決する。

(3)親どうしのつきあいは、如水淡交。

園によっては、親どうしの交流を勧め、たとえば子どもの
預かりを、相互にしているところもある。
親どうし、4〜5人で1組のグループをつくり、
その間で、相互の子どもを預かり、寝泊りさせているという。
「他人の家で、他人の釜の飯を食べるのは必要」という
ことでそうしているが、危険な側面がないわけではない。

そこまでする必要があるのかという疑問。
また園が、そこまで家庭に干渉してもよいものかという疑問。
親どうしの交流を深めるなら、子どもが通っている
幼稚園(学校)とは別の幼稚園(学校)に通っている
子どもの親とするのがよい。
親どうしの問題は、一度こじれると、それはそのまま
そのまま子どもの世界に入り込んでしまう。
そこで「如水淡交」。
幼稚園(学校)の行事は、水のように、かつ淡々とする。
親どうしのつきあいは、水のように、かつ淡々とする。

(4)負けるが勝ち

教師とのトラブルにせよ、親とのトラブルにせよ、
『負けるが勝ち』。
ほかの世界ならともかくも、間に子どもがいることを
忘れてはいけない。
大切なことは、子どもが楽しく、幼稚園(学校)へ
通うこと。……通えること。
友だちと仲よく過ごすこと。……過ごせること。
また負けることによって、あなた自身を大きくする
ことができる。
そういうことも考えて、『負けるが、勝ち』。
親がカリカリして、子どもによい影響を与えるはずはない。

最後に一言。
信頼関係というのは、1か月や2か月、半年や1年で、
構築できるものではない。
1年単位のつきあいの中で熟成されるもの。
だからあせらないこと。
ジタバタしないこと。
まずしっくりと周囲を観察する……そんな心構えも、
子どもの教育には、欠かせない。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●健康診断(Health Check)

++++++++++++++++++

健康診断の結果が届いた。
肝機能検査の1つが、「C」だったほかをのぞいて、
オール「A」。
今年から、前立腺がん+大腸がんの検査もふやした。
こちらも、「A」と、「−」。
前立腺がんは、H大医大の、O先生に勧められて、した。
(O先生、ちゃんとしましたよ!
O先生というのは、PSA検査法を最初に日本に紹介した人である。)

++++++++++++++++++

肝機能検査については、ワイフもまったく同じ結果が出たので、
心配していない。
悪玉コレステロールが、少し多いらしい。
2人とも同じように多いということは、食生活が原因(?)。

「C」というのは、「かかりつけの医院へ行くまでもないが、
しばらく様子をみてほしい」というのである。
ということで、しばらく様子をみることにする。

……ということで、たぶん、今年1年は、だいじょうぶだろう。
健康で過ごせるだろう。
検査結果が届くたびに、そう思う。
ありがたいことだ。
とにかく、健康第一。
この大不況。
生き延びることだけを考えて、前に進む。
(少し、おおげさかな?)


●鎌倉(Kamakura)

今日は、「歩こう会」で、鎌倉まで行ってきた。
建長寺から北側ルートを大きく迂回して、八幡宮まで歩くコースだった。
しかし私とワイフは、建長寺からそのまま南へ。
扇が谷の田丸謙二先生の家に向かった。
先生の自宅は、建長寺から見て、ちょうど山ひとつ分を超えたところにある。
そんなわけで、約束の時刻よりも、2時間も早く、着いた。

今度先生は、足の関節に、人工関節を入れるという。
歩くたびに、右足が痛そうだった。

おかげで予定より、2時間以上も余計に、先生の話を聞くことができた。
が、話題はどうしても、老後論になってしまう。
先生も、「娘たちに迷惑をかけたくない」とさかんに言っていた。
しかし私たち老人族は、生きていること自体、みなに迷惑をかける。
辛らつな言い方をすれば、私たち老人族は、そのときがきたら、
さっさと死ぬのがよい。
しかしそれができないから、苦しい。
生きるのはむずかしいが、死ぬのは、もっとむずかしい。
それが老後というもの。

そうそう先生は、さかんに、私の生活を心配してくれた。
先生から見ると、私のような一匹狼が生きていかれること自体、
不思議でならないらしい。
その気持ちはよくわかる。
うれしい。
しかしどっこい。
私は生きてきたし、生きているし、これからも生きていく。
心配の種や不安なことはたくさんあるが、それはだれにだって、ある。
ない人は、ない。
またそれがあるから、人生は楽しい。
人間は楽しい。

が、今日もさみしかった。
別れるとき、目頭がジンときた。
今度会えるのはいつのことだろう。
そう思ったら、目頭がジンときた。

鉄製の門を閉めたあとは、そのまま振り返ることもなく、
扇が谷をあとにした。


●「抑圧」(pressure)

+++++++++++++

昨日、「抑圧」について書いた。
強烈な欲求不満がつづくと、人(子ども)は、
その欲求不満を、心の中の別室に押し込んで、
それから逃れようとする。
が、それでその欲求不満が解消されるわけではない。
10年とか、20年とか、さらには40年とか、
50年たっても、それが何らかのきっかけで、
爆発することがある。

「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と。

++++++++++++++++++

が、こうした「抑圧」は、形こそちがえ、また
大小のちがいもあるが、だれにでもある。
あなたにもある。
私にもある。

だから、何かのことで不満を感じたら、そのつど、
外に向かって吐き出すのがよい。
けっして、心の中にためこまない。
徒然草の中にも、『もの言わぬは、腹ふくるるわざなれ』※
とある。
「言いたいことも言わないでいると、腹の中がふくれてくる」
という意味である。

が、その程度ですめばよい。
ひどいばあいには、心に別室ができてしまう。
本来なら楽しい思い出が上書きされ、不愉快な思い出は消える。
しかし別室に入っているため、上書きされるということがない。
そのまま、それこそ一生、そこに残る。
そして折につけ、爆発する。

「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と。

そして10年前、20年前の話を持ち出して、相手を責める。

こうした抑圧された感情を解消するためには、2つの
方法がある。

ひとつは、一度、大爆発をして、すべて吐き出す。
もうひとつは、原因となった、相手が消える。
私のばあいも、親に対していろいろな抑圧があるにはあった。
しかし父は、私が30代のはじめに。
母は、昨年、他界した。
とたん、父や母へのこだわりが消えた。
同時に、私は抑圧から解放された。

親が死んだことを喜んでいるのではない。
しかしほっとしたのは、事実。
それまでに、いろいろあった。
ありすぎてここには書ききれないが、それから解放された。
母は母で、私たちに心配をかけまいとしていたのかもしれない。
しかしどんな生き方をしたところで、私たちは、それですまなかった。
「では、お母さんは、お母さんで、勝手に生きてください。
死んでください」とは、とても言えなかった。

人によっては、「朝、見に行ったら死んでいたという状態でも
しかたないのでは」と言った。
が、それは他人のことだから、そう言える。
自分の親のこととなると、そうは言えない。
いくらいろいろあったにせよ、家族は家族。
いっしょに生きてきたという(部分)まで、消すことはできない。

話が脱線したが、抑圧は、その人の心までゆがめる。
そういう例は、ゴマンとある。
大切なことは、心の別室を作るほどまで、抑圧をためこまないこと。
言いたいことも言えない、したいこともできないというのであれば、
すでにそのとき、その人との人間関係は終わっている。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●知性と通俗

あの夏目漱石も、「知性と通俗」のはざまで、一時、苦しんだ。
小説『こころ』にも、それが表現されている。
たとえばいくら高邁な思想や理念、知性や理性をもっていても、
ときとして、親子、兄弟の醜い騒動に巻き込まれてしまうことがある。
はからずも、そのレベルで、ものを言ったり、騒いだりすることがある。

親の介護問題、遺産の相続問題がからむと、人はさらに通俗的になる。
それこそ知性も理性もかなぐり捨てて……ということになってしまう。
言い換えると、欲望という本能は、それほどまでに強力であるということ。
それを前頭前野だけでコントロールするのは、むずかしい。
むずかしいというより、不可能。
あの夏目漱石ですら、それに苦しんだ。

私の知っている人にも、元国立大学の教授という人がいる。
そんな人でも、ささいな土地の争いに巻き込まれて、隣人と、怒鳴りあいの
大喧嘩をしている。
その人は、ほかに数百坪単位の土地(すべて先祖譲りだったが……)を、
市内のあちこちにもっていた。
にもかかわらず、大喧嘩(?)。
その元教授は、道をはさんで、相手の男性に、「バカヤロー」「コノヤロー」と
罵声を浴びせかけていたという。
それを見た人は、こう言った。
「まるで、暴力団どうしか何かの喧嘩みたいでした」と。

では、どうするか?

2つの方法がある。

(1)それまでに、日ごろから自分の文化性を高めておく。
(2)だれしもそういう問題をかかえている、あるいは人間には、そういう
弱点があるという前提で、自分の姿を、客観的にみる。

できればそういう騒動が起きないよう、前もって準備しておく。
それも今を生きている親の努めかもしれない。

それにもうひとつ。

こうした問題を、親類の間で見聞きしても、あなたは介入しないほうがよい。
仮にうまくいっても、またいかなくても、この種の騒動に巻き込まれると、
大きな(しこり)を残す。
たいていのばあい、あなたとその人たちとの人間関係も、あぶなくなる。
それぞれの家族には、それぞれの複雑で、外からはわからない事情がある。
いくらあなたが想像力を働かせたところで、理解できない部分がある。
だから、身近にそういう問題をかかえた家族や、親類がいたとしても、
そっとしておいてやることこそ賢明。

これは、私という経験者からのアドバイスと思ってもらったらよい。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●危機状況の韓国経済

++++++++++++++++++++

自国の経済誌が、自国の経済を批判している
間は、その国の経済は、安定していると
みてよい。
08年の夏ごろまでの韓国が、そういう状況だった。
しかし08年の終わりごろから、韓国の新聞各紙は、
自国の経済を批判しなくなった。
とくに東亜N報は、それまで歯に衣(きぬ)を
着せない言い方で、韓国経済を批判していた。
が、それ以後、パタリとそれをやめた。
韓国経済は、確実に悪化している。

+++++++++++++++++++++

話をわかりやすくしよう。
たとえばあなたが1億円の貯金をもっていたとする。
A銀行の貯金通帳には、ちゃんと1億円と、その金額が記載されている。

が、もしその1億円が、借金によるものだとしたら……?
あなたは別のB銀行から、1億円を借り、その1億円を、
そのA銀行に記帳していたとしたら……?
はたしてあなたは、それを胸を張って、「これは私の
金融資産です」と言えるだろうか。

韓国がもっている外貨準備高がいくらであるにせよ、
韓国の外貨準備高のうち、102%が、(全額以上だぞ)、
短期外債によるという(エコノミスト)。

「短期外債」というのは、通常、1年以内に返済しなければならない、
外国からの借金をいう。
つまり「借金」。
それが102%もあるという。

韓国という国は、たいへんおもしろい国で、短期外債のような借金まで、
資本収支の上で、つまり「収入」として計上してしまう。
「外国からの借金」を、「外国からの投資」と位置づけているからである。
だから、先に書いたようなことが起こる。
「借金」と「投資」は、見た目には同じでも、中身はまるでちがう。
借金は、借りた人が返済しなければならないもの。
投資は、そのお金を出した人が、(危険負担)をする。

イギリスの週刊誌「エコノミスト」は、つぎのように伝えている。

++++++++++++++

『イギリスの週刊誌「エコノミスト」は先月26日付で「ドミノ理論」という見出しの記事を掲載し、
「今年韓国では外貨準備高に対する短期対外債務の比率が、102%を超え、新興国17カ国
のうち南アフリカ共和国、ハンガリーに次いで、ポーランドとともに通貨危機に陥る可能性が3
番目に高い」と報じた。韓国を国家デフォルトの危機に陥った東欧のポーランド並みに評価し
たものだ。

 これに対し金融委員会は直ちに説明資料を示し、昨年末現在で短期対外債務(1511億ド
ル)は外貨準備高(2012億ドル)の75%で、今年に入りその比率は低下しており、報道は事
実と異なると反発した。しかし、3日後の1日付フィナンシャル・タイムズは、「韓国の流動対外
債務(1年以下の短期対外債務と今年満期が到来する長期対外債務の合計)が1940億ドル
に上り、2000億ドルという外貨準備高と比較すれば、アジアで最もぜい弱だ」

++++++++++++++

ファイナンシャル・タイムズも、「2000億ドルの外貨準備高のうち、1940億ドル
が、短期外債である」と、書いている。

外貨準備高は、よく国の貯金にたとえられる。
それはまちがいない。
しかしそのうちの大半が、借金によるものとするなら……?

これに対して韓国政府は、猛烈に反論している。
「3月末に満期が来る短期外債は、たいしたことはない」
「3月危機説は、外国のマスメディアのでっちあげ」と。

が、実態はどうか?
韓国は今、借金に借金を重ねる、自転車操業を繰り返している。
これを危機と言わずして、何という?
あの中央N報ですら、つぎのように書いている。

『……外国人の流出懸念vs外為制度改善=外国人の保有債券のうち今月に満期を迎えるの
は3兆ウォン(約1860億円)を超える。ここに国内の銀行が返さなくてはならない外貨借入金
も8兆6000億ウォンに達する。外国人が受け取る配当金2兆ウォンも国内にとどまらずに流
出する可能性がある』(090303)と。

しかし笑ってばかりはいられない。
短期外債、その借金を貸している国が、この日本だからである。
もし韓国がコケるような事態になれば、日本の銀行団も、そのままあぶない。
日本は、韓国に、あまりにも深入りしすぎた! ……してしまった!

「世界で3番目に、あぶない国、それが韓国」(エコノミスト)というのは、
事実と考えてよい。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

老後は、孤独との戦いと言ってもよい。
が、この孤独という大敵は、ごまかすことはできても、
消すことはできない。
いつも、そこにあって、じっと私やあなたを見つめている。

が、こう考えては、どうか。
そこに孤独があるのなら、戦うのをやめて、仲よくつきあう。
もともと人間は、孤独な生き物。
孤独であるのが、当たり前。
生きていること自体が、孤独。
そういう前提で、考える。

友がいない。
信頼すべき家族がいない。
それを「孤独」という。
が、仮にいたとしても、それで孤独が癒されるというわけでもない。
友が死んだり、家族が死んだら、どうなるのか。
孤独がかえって、倍加してしまう。

わかりやすく言えば、「孤独」は、「生」と結びついている。
「生」と結びついているということは、同時に「死」とも結びついている。
「死」がどこまでも「孤独」であるように、人は、その孤独から、
解放されることはない。
皮肉な言い方をすれば、人は死んではじめて、孤独から解放される。

孤独というのは、そういうもの。
だからほとんどの宗教は、仏教でも、キリスト教でも、そしてイスラム教でも、
「生」を「あの世」へつなげることで、「孤独」を解消しようとする。
「死」を否定することによって、「孤独」を解消しようとする。

が、私のような人間は、どうなるのか。
仏教徒といっても、形だけ。
キリスト教にしても、イスラム教にしても、まったくといってよいほど、
縁がない。
だいたい、「あの世」とか「来世」とか「天国」というものを、信じていない。
信じたいという気持ちはあるが、見たこともない世界を信じろと言われても、
私には、できない。
だからますます孤独になる。

……ということで、みんな、孤独。
私も孤独。
あなたも孤独。
いくら名誉や地位があっても、また財産があっても、孤独は、孤独。
孤独でない人は、いない。
もし「私は孤独ではない」と言う人がいたら、その人の脳みそを
疑ってみたらよい。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●K国ミサイルの撃墜、反対!(Ignorance is the best policy for us!)
The Minister of Defence as well as the Prime Minister of Japan has announced that 
Japanese Defence Force will shoot down the missile of North Korea. I, however, strongly 
oppose their ideas. North Korea is a "mad dog" and if we did so, Japan and North Korea 
would be under war and they would do more against us. The best policy, which is the worst 
policy for North Korea, is just ignore the missile and in case they launch it, we will put the 
matter under the international conferences. At this moment we are afraid that Mr. T.Asso, 
the Prime Minister of Japan will utilize this cirisis for his own sake to maintain his cabinet. 
(Sorry for my poor English!)

++++++++++++++++

AS首相が、公然とこう言いだした。
「K国のミサイルは、撃墜する」と※。
これに応じて、防衛相まで、「撃墜する」と(3月3日)。

しかし、待ったア!

++++++++++++++++

K国は、世界に、相手にしてもらいたいがため、
ミサイルを発射する。
だったら、相手にしないことこそ、ベスト。
相手にしたとたん、K国の術にはまる。

肝心の韓国の世論は、「日本が撃墜してくれたらいい」と。
K国の攻撃の矛先を、韓国から日本へ転換させることができる。

また中国とロシアは、「人工衛星なら問題はないはず」と
言いだしている(3月2日)。
だったら、なぜK国は、北極に向けて、人工衛星(?)を
発射しないのか?
中国やロシアは、今まで、北極に向けてミサイルを
発射するのを、許してこなかったではないか。

人工衛星なら、北極、もしくは南極に向けて発射するのが、
常識!
どうしてそれを、東に向けるのか?

一方、AS首相は、今、大ピンチ。
支持率も、10%そこそこ。

今、ここでミサイルを迎撃すれば、そのまま日本とK国は、
戦争状態に突入する。
しかしそれこそ、AS首相の思うつぼ。
その緊張を理由に、AS首相は、さらに政権の座に居座る。

数日前にも書いたが、K国など、相手にしてはいけない。
また相手にしなければならないような国ではない。

たかがガラクタに近いロケットではないか。
そんなロケットを迎撃するために、数十億ドルもするミサイルを、
何発も打ち上げて、どうする?

まるで木彫りの船を沈めるために、数千万円の爆弾を使うようなもの。
これを税金の無駄遣いと言わずして、何という。

ここはK国のしたいようにさせながら、そのあと国際世論を、
反K国にもっていく。
K国にとっては、最悪のシナリオということになる。
が、同時に、それは日本にとっては、最善のシナリオ。

K国も死に体なら、AS首相も死に体。
死に体どうしが、真正面からぶつかったら、どうなるか?
今、日本は、たいへん危険な状況にある。
一部の国粋主義者たちの唱える、愛国心(?)に惑わされては
いけない。

ここは無視。
ただひたすら無視。
けっしてK国のしかける術にはまっていはいけない。
(09年3月4日記)

(注※)
++++++++++++++以下、朝鮮N報より+++++++++++++++

……日本政府はこの日、北朝鮮がミサイルではなく人工衛星を打ち上げた場合でも、これを
撃墜するという強硬な姿勢を打ち出した。産経新聞によると、浜田靖一防衛相は「たとえ人工
衛星だとしても、日本に落下し人命や財産に重大な被害を与え得る物体に対応していくのは当
然のことだ」と述べたという。また、日本政府は北朝鮮がミサイルを発射した場合、国連安全保
障理事会の非常任理事国として、新たな制裁措置などの決議案を採択することを検討してい
る。

++++++++++++++以上、朝鮮N報より+++++++++++++++


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●民主党の小沢代表(Dirty Man with Dirty Money)
(Dirty money is dirty, since dirty men grasp it. Is Mr. Ichiro Ozawa a dirty man?)

+++++++++++++++++

私も時期が時期だから、「不公正な国家権力」(小沢氏)の発動かと思った。
しかしマネーの流れを知れば知るほど、これはただごとではないと、わかった。
明らかに不正を承知の上で、しかも小沢氏側の主導で、「正当な献金?」(小沢氏)
がなされている。
今朝は、あちこちのニュース・サイトを、じっくりと読んでみた。

+++++++++++++++++

結果、一言。
「これは、まずい!」

小沢民主党代表は、自分への嫌疑をかわすためか、こう語っている。

『今回の検察の強制捜査は、従来からのやり方を超えた異常な手法。政治的にも法律的にも
不公正な国家権力、検察権力の行使だ』(TBS・NEW−i)と。

しかし説得力は弱い。
それ以上に、その向こうに、底なしの闇を感ずる。
何しろ毎年2500万円、総額3億円!
民主党は、小沢氏を信じて、挙党態勢で戦うと言っている。

『次の衆議院選挙は、ここまできたら、小沢代表のもとで戦う決意を固めるべきだと述べ、小沢
代表のもとでの党内の結束を強く訴えました』(同TBS・鳩山幹事長)と。

しかしそれにしても、汚い。

(1)まずN松建設は、外国で裏金を作る。それを不正な手段で日本へ持ち込む。
(2)その裏金を、社員に分配する。
(3)分配した上、それぞれから回収。それを個人献金の仕立てる。
(4)架空の政治団体を通して、最終的には、小沢第一秘書の手元に。

これだけの金額だから、秘書が横取りしたとは考えにくい。
小沢氏が「正当な献金」と主張しているところをみると、最終的には、そのマネーは、
小沢氏の手元に届いたということになる。

しかし「正当な献金」なら、どうしてこうしたわかりにくい迂回ルートを作らねば
ならなかったのか。
しかもその献金は、小沢氏側からの請求書に基づいて、なされたという。
さらに「胆沢ダム受注工作のためだった」(同TBS)とか。
もしそうなら、これは立派な、贈収賄事件である。

民主党は、小沢氏と運命を共有するつもりらしいが、その程度ですめば、まだよい。
小沢氏をかばえばかばうほど、またその時期がズレればズレるほど、民主党にとっても、
まずい。
本当に、まずい。
致命傷になりかねない。

どこか胡散(うさん)臭い小沢氏だったが、「やっぱり、そうだったのか」というのが、
私の印象。
しかしこれはまさに、氷山の一角(?)。
あまりにも巧妙というか、手なれた感じがする。
N松建設だけで、ここまで考えたというのは、ありえない。
小沢氏側から、「ああしてほしい」「こうしなさい」という指示があったと考えるのが、
自然である。

また小沢氏を懸命にかばっている鳩山幹事長を見ていると、ひょっとしたら鳩山氏も
グルかな(?)と勘繰ってしまう。
そういう意味でも、今回の献金疑惑は、底なしの様相を示し始めている。
自民党もああいう党だから、とても残念な事件である。

なお、最後に一言。
小沢氏は、検察の陰謀説を主張しているが、それを判断するのは、小沢氏自身では
ない。
私たち、国民である。
小沢氏が陰謀説を唱えれば唱えるほど、逆効果。
私たちは、かえって小沢氏を疑ってしまう。
で、もしそうなら、つまり怪しいマネーと認識していたのなら、どうしてもっと早く、
返金していなかったのかということにもなる。
(小沢氏は、正当な献金だったと主張しているが……。)
「これから捜査の成り行きをみて、返金する」では、話のスジが通らない。
本当に正当なマネーなら、そこまで言う必要はない。


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司※

●結婚はしてみたけれど……(認知的不協和)

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結婚はしてみたけれど、こんなハズではなかった……という
夫婦は多い。
心理学でいえば、「認知的不協和」ということになる。

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「個人のもつ認知に矛盾やアンバランスが生じたことを、
アメリカの心理学者のフェスティンガーは、認知的不協和と
名づけた」(大村政男著「心理学」ナツメ社、P172)とある。

日常的によく経験する。

先日もあるところへ旅行した。
その旅行先で、昼食にとある食堂へ入った。
しかし立派だったのは、店構えだけ。
値段ばかり高く、まずかった。

で、その食堂を出て、しばらく歩くと、そこに
行列のできた食堂が何軒かあった。
レジの前には、順番待ちの客が、ズラリと並んでいた。
それを見て、「こういうところで食べればよかった」と、
少なからず、後悔した。
言うなれば、これも認知的不協和?

しかしこれが結婚相手となると、ことは深刻。
子どもができれば、なおさらである。
そういうとき、人間は、認知的不協和から
「脱出」するため、4つのパターンから、
その一つを選ぶ(参考:同書)。

(1)この人しか私にはいないと、自分を納得させ、ほかの人と比較しない。
(2)離婚はしたくないので、がまんする。
(3)相手を育てるのは私と考え、ともに前向きに努力する。
(4)相手のよいところをさがし、それだけを評価するようにする。

この4つのパターンは、「心理学」を参考に、私が適当に考えたものである。
が、結婚生活というのは、実際には、もう少し複雑。
そのつど、この4つのパターンが、交互に、あるいは同時に、夫婦を襲う。
ときに自分を納得させ、ときにがまんし、また別のときには、あきらめる……。
この連続。

が、まずいのは、何と言ってもストレス。
認知的不協和も、ある一定の限度内なら、生活のスパイスとなる。
が、その限度を超えると、とたんにストレスとなって、その人を襲う。
おおまかにいえば、つぎのサイクルを踏む。

(平穏期)→(緊張期)→(爆発)→(沈静期)→(平穏期)……と。

しかしこれもどちらかというと、仲がよい夫婦のばあい。
ずっと(平穏期)のままという夫婦も、(緊張期)のままという夫婦もいるにはいるが、
そういう夫婦のほうが、あ・ぶ・な・い。
ただ周期の長さには、個人差がある。
2〜3か月ごとに(爆発)を迎え、大喧嘩する夫婦もいる。
1〜2年ごとに(爆発)を迎えるという夫婦もいる。
あるいは小刻みなサイクルを繰り返しながら、大きなサイクルを繰り返すという
夫婦もいる。
若い夫婦ほど、サイクルが短いということになるが、それにも個人差がある。

要するに夫婦喧嘩(=爆発)も、しかたの問題ということ。
だから昔から、こう言う。
『夫婦喧嘩は、犬も食わぬ』と。
つまり何でも食べる犬でも、夫婦喧嘩は食べない、と。
「仲のよい夫婦ほど夫婦喧嘩をし、一時的ですぐ和合するから、仲裁に入るのは
愚かである」(広辞苑)という意味。

大切なことは、こう考えること。
どんな夫婦にも、認知的不協和はつきもの。
あとは、どううまくつきあっていくかということ。
それが夫婦ということになる。

(付記)
最近、気がついたが、結果として離婚していく夫婦には、ある共通のパターンがある。
同時にそれぞれが、離婚に向かうというケースは、少ない。
そのとき、先に離婚を覚悟するほうを、離婚側とする。
どちらかというと不本意ながら、離婚をさせられるほうを、被離婚側とする。

ふつうは被離婚側が気がつかないうちに、離婚側が、離婚を覚悟を決めてしまう。
そしてある程度……というか、その覚悟がしっかりできた段階で、離婚側が、
被離婚側に、離婚話を持ち出す。
「離婚する」「離婚させてください」と。

定年離婚と呼ばれる離婚には、こうしたケースが多い。

で、そのときのこと。
離婚側のほうには、微妙な変化が現れる。
相手が夫であれ、妻であれ、(妻であることのほうが多いが……)、

(1)電話などでの応対が、ぞんざいになる。
(2)きめのこまかい交際をしなくなる。(何かものを送っても、礼のあいさつがない。)
(3)小さな悪口を、それとなく会話にまぜる。
(4)軽蔑したような表現が多くなる。
(5)会話の内容が事務的になり、しっくりとかみ合わなくなる。

で、しばらくそういう状態がつづき、部外者が「?」と思っていると、そのまま
離婚……ということになる。
たとえば数年前、私はある知人に電話をした。
その知人は、その町の中心部で事務所を開いたのだが、それがすぐ行き詰ってしまった。
そのことを知っていたので、その知人の妻に電話をしたとき、「ご主人も、たいへんですね」
と私は言った。
それに対して知人の妻は、「……あの人は、何をしても、ドジばっかり……」と。
小さい声だったが、どこか吐き捨てるような言い方だった。

で、あとで知ったのだが、そのすぐあと、知人夫婦は離婚していた。

一般論からいうと、(あるいは私の経験論ということになるが)、年齢が若いときに、
ラブラブの状態で結婚した人ほど、皮肉なことに、認知的不協和は起こりにくい。
一方、晩婚型で、計算高く結婚した人ほど、認知的不協和は起こりやすい。
年齢が高い分だけ、それだけ相手をよく見ているかというと、そうでもない。
あるいは、いくら知ったつもりでいても、人間を知りつくすのは、それほどまでに
むずかしいということ。
このことは、結婚歴40年近い、私にとっても、そうである。
いまだにワイフについて、わからないところがある。
(ワイフにしても、そうだろう。)

だからやはり結婚というのは、電撃に打たれるような衝撃を感じて、何も考えず、
ラブラブのまま、結婚するのがよいということになる。
盲目的な結婚が悪いというのではない。
どうせ、みな、盲目なのだから……。

♪Wise men say, only fools rash in. But I can't help falling love with you…

(愚かモノだけが、結婚に突進すると賢者は言う。しかし私はあなたに恋をするのを
止めることができない……。)


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●働いた経験のある女性(母親)、ない女性(母親)

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「無私の愛」とは言うが、しかし男性(父親)と、
女性(母親)とでは、とらえ方が、微妙にちがう(?)。

いくら「無私」とはいっても、たとえば、子どもを育てるには、
それなりのお金がかかる。
そのお金についてだが、働いたことがある人と、そうでない
人とでは、お金に対する感覚が、微妙にちがう。
働いている男性(父親)は、それがよいことか、
悪いことかという話は別にして、
そこに金銭的価値を混入する。
働いた経験のない女性(母親)は、金銭的価値をあまり
考えない。

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●日本の常識

ときどき男たちの間で、こんなことが話題になる。
「働いたことのある女性(母親)と、働いたことのない女性(母親)は、
微妙にちがう」と。

働いたことのある女性は、(時間)と(金銭)を結びつけることができる。
しかし働いたことのない女性は、それができない。

たとえばその女性(母親)のために何かをしてやったとする。
そのとき、働いたことがある女性は、(してもらったこと)を、
時間や金銭に換算して評価する。
「2時間、働いてもらったから、2000円くらいのお礼はしなければ
ならない」と。
しかし働いたことのない女性(母親)は、それができない。
「相手は、私が魅力的だから(?)、してくれた」と思う(?)。
まあ、そこまでは思わないにしても、たいていにっこりと笑って、
「ありがとう」だけですんでしまう。

私も以前は、いろいろな場面で育児相談を受けていた。
そういうとき相手が職をもった父親だと、そのつど、ポンポンと、
反応が返ってくる。
金銭的な反応だけではない。
何かの協力を申し出られることもある。
「先生、今度、いっしょに釣りに行きませんか」
「いい店がありますから、食事でもどうですか」とか、など。

が、女性(母親)には、それがない。
ないばかりか、金銭感覚そのものが、うとい。
こんなことがあった。

●みやげなし(?)

久しぶりにその人の息子夫婦が、赴任先の仙台から帰ってきた。
3歳になる孫もいっしょだった。
そのときのこと。
息子夫婦は、手ぶらで帰ってきた。
しかしこれは日本の常識ではない。
世界の常識でもない。
そこでその人が、「いくら親子でも、手ぶらで帰ってくるやつがいるか」と、
息子を叱った。

これに息子が猛反発。
「パパは、みやげがほしかったのか!」「そのために、ぼくを呼んだのか!」と。

で、そこへ母親が割り込んできた。
割り込んできて、息子の味方をした。
「見返りを求めるなんて、おかしいわよ!」と。

言い忘れたが、息子夫婦が仙台から帰ってくるについて、旅費は、
すべて父親が負担した。
そういうこともあって、父親もキレた。
「みやげ程度のことを、見返りとは言わない。常識だア!」と。

あなたなら、この話を聞いて、どう思うだろうか?
私は(男性)だから、父親の言い分のほうが正しいと思う。
いくら何でも、手ぶらは失礼。
親子の間でも、失礼。
しかし私のワイフなどは、母親の言い分のほうが正しいと言う。
ワイフも、私と結婚して以来、一度も働いた経験がない。
言うなれば、「お金は天から降ってくるもの」と思い込んでいる。

●当たり前

最近の若い人たちは、独特の考え方をする。
たとえば高校や大学へ行くことについて、それを感謝している若い人は、
まず、いない。
口では「ありがとう」と言うが、それはあくまでも儀礼。
「行くのが当たり前。そのために、親が学費を出すのは、当たり前」と、
そういうふうに考える。

当たり前ということは、当たり前。

一方、父親のほうはどうかというと、いくら「無私の愛」といっても、
そこまで割り切ることはできない。
今、都会へ1人の子どもを大学生として送ると、生活費だけで、1000万円
程度(4年間)はかかる。加えて学費。4年間で、計2000〜3000万円の
出費ということになる。
(これでも実際には、安いほう。)

働いている男性なら、それがどういう額か、わかる。
わかるから、「当たり前」という考え方には、少なからず、抵抗を覚える。
が、女性(母親)には、それがわからない。
とくに働いたことのない女性(母親)には、それがわからない。
子どもといっしょになって、「当たり前よねえ」などと言ったりする。

●親、貧乏盛り

『子ども大学生、親、貧乏盛り』というのは、私が考えた格言である。
子どもが大学生になると、親は、爪に灯をともすようにして、学費を工面する。
懸命に笑顔をつくりながら、「金はあるか? 足りなかったら言えよ」とは、
言うものの、懐(ふところ)のさみしさが、ふと言葉を詰まらせる。

しかしその結果……というより、今の若い人が、どうしてそこまで
ドライに割り切ることができるのか、私には不思議でならない。
中には、「金だけを出せば、それで親の義務が果たせたとでも言うのか」とか、
さらに「日本も、アメリカのような奨学金制度を作ればいいじゃないか」とか、
言う若い人もいる。
だからある父親は、こう言った。

「あのね、親はね、苦労してまで、息子や娘を大学などに出すものじゃ
ないですよ」と。
つまり「出してやっても、むなしいだけ」と。
「損」という言い方には語弊があるが、「損」と。

●学歴は個人的利益(?)

要するに、日本の教育制度が、おかしいということ。
学歴を、個人的な利益と結びつけて考える傾向もある。
だからその負担は、個人、つまり各家庭の親がすべき、と。
本来なら、学歴は、万人のためのものでなければならない。
もっと言えば、頭のよい人は、その頭を、万人のために使ってこそ、
頭のよい人ということになる。

が、この日本では、学歴というのは、あくまでも個人の利益を
追求するための道具でしかない。
だから隣人が、息子の学費で四苦八苦していても、だれも同情しない。
だれも助けない。
また制度そのものも、おかしい。
日本も奨学金制度を拡充すべきだが、いまだにその制度は、貧弱で、
奨学金といっても、「小遣い程度」でしかない。
結局、そのシワ寄せは、大学生をもつ親のところにのしかかってくる。

●私の息子たち

私も3人の息子たちを育てたが、こと学費に関しては、損得の計算を
したことはない。
惜しみなく、出してきた。
出してきたが、今になって、ときどき、「あそこまでやる必要はあったのか」
と思うことはある。
たとえば息子たちに買ってやったパソコンにしても、いつも、私が
もっているのより、高性能のものだった。
家を建てたときも、自分たちの書斎よりも、子ども部屋のほうを優先させた。
しかしそういった親心というのは、少なくとも私の息子たちを見るかぎり、
まったくといってよいほど、伝わっていない。
私の息子たちにしても、どちらかというと、みやげなどもたず、
手ぶらでくるタイプである。

●結論

話は大きく脱線したが、結局は(苦労)を、どのように理解するかということ。
そこに行き着く。
私のワイフも、ときどきこう言う。
「家庭に入った主婦だって、たいへんなのよ」と。
しかし本当に、そうだろうか?
そう言いきってよいのだろうか?

たとえば朝、夫婦喧嘩をしたばあいを考えてみたらよい。
何かのことで、怒鳴りあったとする。
そういうとき女性(母親)は、そのまま部屋に入って、中からカギをかえば、
それですむ。
ふとんをかぶって寝ていれば、それですむ。
しかし仕事をしている男性は、そうはいかない。
どんなに気分が悪くても、身支度を整えて、会社に向かわねばならない。
会社で人に会えば、笑顔を作らねばならない。
それから受けるストレスには、相当なものがある。

だから男性(父親)と女性(母親)とでは、微妙なちがいが出てくる。
いくら「無私の愛」といっても、男性と女性とでは、とらえ方がちがう。
(働いたことのある女性)と、(働いたことのない女性)とでは、
とらえかたがちがう。

「見返りを求めない」といっても、(みやげ)など、見返りにもならない。
私は結婚する前から、またワイフに納得してもらった上で結婚したが、
収入の約半分を、実家に仕送りしていた。
27歳くらいのときから、生活費や法事の費用、さらには商品の仕入れの費用など、
すべて私が負担した。
そういうのを、私の世界では、「見返り」という。
繰り返すが、「みやげ」程度で、「見返り」などと、おおきな顔をしてほしくない。
今の若い人たちには、それを理解するのは、むずかしいことだろうが……。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●ポスト・介護

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今朝、目を覚ます前に、こんな夢を見た。

実家の店先に、母(08年他界)と、祖父(他界)が
いっしょにいた。
それを見て、つまり母が祖父を見て、こう言った。
「じいちゃんは、もう死んだはずなのに、どうしてここにいるの?」と。
それを聞いて、祖父が照れくさそうに笑った。
私も笑った。
で、私はこう言った。
「母ちゃん、あんただって、死んだはずだよ」と。
それを聞いて、母が笑った。
私も笑った。

で、奥の部屋のほうへ行くと、そこに兄(08年他界)がいた。
兄は、階段の上から、下へおりてくるところだった。
そこへ10人前後の人たちが、ドヤドヤと入ってきた。
どこかの仏教教団の人たちという。
その人たちが、こう言った。
「あんたの兄さんのために、お経をあげさせてくれ」と。
それに答えて、私は「勝手になさるなら、どうぞ」と。
するとその教団の人たちは、レコードをかけ始めた。
「あなたの兄さんが好きだった曲です」と。
私は「?」と思っていたが、かけられた曲は、美空ひばりの『悲しい酒』。
「よく知っているなあ」と私は感心した。

見ると、みなが、どこで集めてきたのか知らないが、サクラの花びらを、
パラパラと空に向かってまいていた。
それが雪のように美しかった。
それを見て、兄が照れくさそうに笑った。
私も笑った。

++++++++++++++++++++

●夢判断

生きているときは、兄の夢など、ほとんど見たことがない。
が、死んでからは、よく出てくる。
母にしても、そうだ。
しかしどういうわけか、兄にしても、母にしても、いつも笑っている。
今朝の夢にしても、そうだ。
死んだ母に、「あんただって……」と言ったとき、母は笑っていた。
「そうやったなあ」というような顔だった。

この話を朝食のときワイフにすると、ワイフはこう言った。
「『ウラメシ〜』と出てこられるとつらいけど、笑って出てくるというのは、
いいことね」と。

●介護

母の介護にしても、兄の介護にしても、金銭的な負担は、すべて私がした。
いろいろそのつど、思ったことはあるが、グチをだれかに告げたことはなかった。
ワイフにすら、告げたことがない。
だいたい、グチぽいことすら、考えたことがない。

兄が廊下でクソを落としたときも、むしろ笑って、それを始末することができた。
母の便の始末は、すべて私がした。
しかしそれを「イヤ」と思ったことは、一度もない。

介護というのは、そういうもの。
「イヤ」と思えば、負担になる。
受け入れてしまえば、何ともない。

ただ兄にせよ、母にせよ、施設に入ったときには、解放感を覚えた。
しかしその解放感とて、予想していたものではない。
施設へ入ったあと、それまでの介護が、ウソのように楽になった。
それで解放感を覚えた。

が、それで心理的圧迫感が消えたわけではない。
日帰りの旅行をするときですら、一度、施設に電話を入れて、様子を
聞かねばならなかった。
そういう圧迫感はあった。
が、それとて、母が他界して、はじめてわかったこと。
圧迫感から解放されて、それまでその圧迫感があったことを知った。

●ウラメシ〜

ワイフが言うには、「ウラメシ〜」と、化けて出てこられたら……?
介護の仕方によっては、「ウラメシ〜」と、母や兄が夢の中に出てくることだって、
考えられる。
それは深層心理によるもので、いくら表面的に献身的な介護をしていたとしても、
心の奥がそれにともなっていないばあいには、「ウラメシ〜」となる。
その可能性は高い。

私「ほら、何かの本で読んだけど、あの金xxは、夜な夜な、何かにうなされて
いるそうだ」
ワ「何十万人もの人を殺しているからね」
私「怖ろしいと思うよ。それこそ人影を見ただけで、おびえたりする」
ワ「安眠できないわね」
私「だから一晩中起きて、酒を飲んでいるそうだ」と。

●今、介護で苦労している人へ

これは私からのささやかなアドバイスということになる。
まず、「運命は、受け入れる」。
そのときはいろいろあるだろう。
たいへんなことも、わかる。
しかし運命というのは、受け入れてしまえば、なんでもない。
が、一度逆らうと、運命は悪魔となって、あなたに襲いかかってくる。
ちょっとしたことでも、それが何十倍も、何百倍も、大きな負担となって、
あなたに襲いかかってくる。

ある女性は、痴呆症になった義父が、男性用の小便トイレで、ウンチを
しただけで、パニック状態になってしまった。
ギャーギャーと泣きわめいて、あちこちに電話をかけていた。

私はその話を聞いて、「ぼくのところでは、よくあること」と思った。
幼稚園でも教室でも、子どもたちが、ときどき、それをする。
小便器のほうに、ウンチをする。
庭で放し飼いにしている犬のハナだって、そうだ。
朝起きると、ハナのウンチの世話をするのが、日課になっている。
しかしそうした始末を、不愉快に思ったことはない。
それが「運命」だからである。

●最大限、してやる

近くあの世へ行く人がいたら、できるかぎり親切にしてやるのがよい。
後悔することがあるとするなら、「それをしてやらなかった自分」という
ことになる。

今になって、「もっとやってやればよかった」「ああしてやればよかった」と
思うことはある。
そういう後悔は残さないほうがよいが、しかしそれはだれしも思うことだそうだ。
義姉が、そう話してくれた。

まずいのは、あとで「ウラメシ〜」と出てくるようなことをすること。
幽霊などいない。
それはわかっているが、しかし心の中から消すのも、むずかしい。
いるとするなら、私やあなたの心の奥に、(いる)ということになるが、
そういう幽霊を作らないこと。

もし今朝の夢の中で、母や兄が、それに祖父が、暗く、つらそうな顔を
して出てきたとしたら、それは私自身が罪の意識を感じているからに
ほかならない。
罪の意識が悪夢を作る。
が、幸いなことに、みな、笑っている。
いつも夢の中では、笑っている。
もともとおかしな、どこかひょうきんな家族だった。
それでそういう夢を見る。

それにしても、あのサクラの花びらをまいてくれたのは、どこの教団の
人たちなのだろう。
1人、2人は、見覚えのある人だったが、どこのだれだったかまでは、
思い出せない。
おもしろい夢だった。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●洗脳コマーシャル

++++++++++++++++++

3月8日。
パッとしない日曜日。
曇天。
肌寒い。
体の動きも、鈍い。
体重もふえた。
危険水域の、67キロ弱。
今日は食事を減らし、運動量をふやす。
昼から、浜名湖周辺を歩いてみる。

++++++++++++++++++

ところで昨夜、WBC日韓戦を見た。
結果は、日本のコールド勝ち。
それはそれとして、Aビール会社の
コマーシャルには、驚いた。
表と裏が入れ替わるたびに、Aビールの
コマーシャル、またコマーシャル。
それが繰り返し、流される。
「これでもか!」「これでもか!」といったよう。
野球以上に、Aビールのコマーシャルが、
脳に張りついてしまった。

恐ろしい力である。
「こんなコマーシャルばかり見ていたら、
ビール好きの人はたまらないだろうね」と私。

脳の中で条件反射運動が起こり、みな、
Aビールを買い求めるようになる。
ドーパミンが、線条体をガンガンと刺激する。
そうでなくても、ビール好きの人には、
受容体ができあがっている。
コマーシャルの泡を見ただけで、ググーッと、
ビールが飲みたくなるはず。

いいのかなあ……?
酒もタバコも、基本的には、同じ。
アルコールに、害がないとは言わせない。
みながみな、適度に飲んでいるわけではない。
アルコール中毒、ニコチン中毒という言葉もある。
その先には、薬物依存もある。
タバコのコマーシャルと同じように、
アルコールのコマーシャルも、自粛すべきではないのか。
何も飲まなければ、生きていかれないというようなものでもない。

私の知人にも、ヘビースモーカーならぬ、ヘビードリンカー
という人が、何人かいる。
30代、40代のころは、それがわからなかった。
が、50代になると、その(ちがい)が、はっきりしてくる。
どこかふつうの人たちとは、ちがう。

飲んでないときも、ろれつが回らない。
繊細な会話ができない。
それに会話のスピードが、かみ合わない、など。
「ア〜〜、ウ〜〜、アウ〜〜、エ〜〜」という、
間投詞でもない、感動詞でもない、うめき声も
多くなる。
「ア〜〜、エ〜ト、ソノ〜、ですナ〜、私イ〜〜」と。
つまり脳みその機能が、低下する。

ところでそのコマーシャル。

(1)感覚的なものであればあるほど、よい。
(2)繰り返し流せば流すほど、よい。
(3)理屈ぽいものは、だめ。かえって逆効果。
(4)有名人を使えば使うほど、よい。

昨日見たAビールのコマーシャルは、この基準を
すべて満たしていた。
つまり、基準通りの、コマーシャル。
あのコマーシャルで、いったい、どれだけの人が
洗脳されたことか。
おまけにコールド勝ち。
否応なしに、コマーシャルの効果は高められたはず。
店先で、Aビールを見ただけで、ググーッと、
「勝った」という快感(?)が、よみがえってくる。
思わず、Aビールに手がのびる。

「いいのかなあ?」
「いいはずないよなあ……」と思いつつ、テレビから離れた。

(補記)
みなさん、
みなさんは、「私は私」と思っているかもしれませんが、
みなさんは、いつもだれかに、そして何かに操られているのですよ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
テレビコマーシャル コマーシャルの効果 マスメディア 洗脳 洗脳コマーシャル
条件反射 線条体)


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●『おくりびと』(A Japanese Movie "Okuri-bito", a film given an Oscar.)

++++++++++++++

少し無理をして、映画『おくりびと』を、劇場で見てきた。
「無理をして」というのは、時間がなく、
あれこれ仕事をやりくりして、という意味。

星は、3つの★★★。
笑った。
何度か、ゲラゲラと、口を押さえて笑った。
しかし涙の部分は、ついていけなかった。
映画の最初の部分で、結末が予想できてしまった。
「この映画は、父親の葬儀をしなければ、しめくくれないぞ」と。
そんなわけで、涙がポロポロ……というわけにはいかなかった。

++++++++++++++

「オスカー受賞作品だぞ。どうしてそれが星が3つなのだ!」と、
叱られそうだが、だからこそ、あえて星は3つにした。
(5つもつけたら、私が賞に迎合したことになる!)

全体に、劇団ぽさが残る映画。
演技がおおげさで、りきみ過ぎ。
納棺師という職業をけなす風呂屋の男にしても、
また葬儀屋の女事務員にしても、顔と表情だけで演技している。
最後に、父親の遺体を棺桶におさめる男たちの演技も、わざとらしい。
脇をかためる俳優たちが、もう少し、自然に演技していれば、
星は4つ。

あとは画像が暗く、予算もかけていない。
「どこか発展途上国の映画」という印象ももった。

もう一言。
死んだ父親が、息子(納棺師)がくれた石を握ったまま
死んでいたという話は、デキスギ。
どこか『一杯のかけそば』風。
「お涙、頂戴」という重要なシーンだが、このシーンは、
映画の途中で、予想できてしまった。

似たような映画に、『マジソン群の橋』がある。
最後のシーンで、フランチェスカが、ロバートの遺品から、
メモを見つけて涙をこぼすシーンがある。
あのときは予想していなかっただけに、涙を誘った。

……とまあ、けなしてばかりいてはいけない。
日本映画の中では、群を抜いてよい映画であることは事実。
劇場まで足を運んで見る価値は、じゅうぶんある。

実のところ、その2日前に、ウィル・スミスの『7つの贈り物』を見た。
その疲れが残っていたのかもしれない。
頭の中で、2つの映画が、ダブってしまった。
『7つの贈り物』も、似たような「お涙、頂戴映画」だが、
これも、星は3つの、★★★。
あえて比較するなら、『7つの贈り物』は、おとなの映画。
『おくりびと』は、おとなになる前の、未成熟なおとなの映画。
セックスシーンだけを見ても、それがわかる。

今週は、いよいよ『オーストラリア』を見る。
楽しみ。
待ってましたア!


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●王と女王(論)(King & Queen)

+++++++++++++++++

シロアリのおもしろい生態が、また
ひとつ、新たに明らかになった。

シロアリの世界には、(王)(女王)
(兵アリ)(働きアリ)の4種類がいる。
それについては、よく知られている。
で、その(女王)についてだが、女王アリは、
「単為発生で自分の分身を産むこともある」
ということがわかった。
読売新聞は、つぎのように伝える(09年
3月)。

『女王の命は永遠? 日本に多いシロアリ「ヤマトシロアリ」の女王は、自分の死後の後継者と
なる新女王を、王と交配しない単為発生で産むことを、岡山大の松浦健二准教授(昆虫生態
学)らが発見した。新女王はこれまで、王と女王の娘と考えられてきたが、実は自分自身の"分
身"で、女王の座を守り続けていた。17日から盛岡市などで始まる日本生態学会で発表する』
(以上、読売新聞)と。

わかりやすく言えば、女王は、王と交配しなくても、
自ら、女王を産むこともあるという。
それを「単為発生」という。
もっとわかりやすく言えば、王とのSックスなしで、
自分の分身を産む。

ほかの王、兵アリ、働きアリは、王と女王との交配によって
生まれるが、女王だけは、ちがう。

さらに記事には、こうある。

++++++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++++++

シロアリは最初に1匹ずつの王と女王が巣を作り、働きアリや兵アリ、生殖能力を持つ羽アリ
などを産む。

 松浦准教授らが、ヤマトシロアリの生態や遺伝子を詳しく調べたところ、女王は通常、王と交
配して産卵するが、うち2〜5%は単為発生で産み、それが新女王になることがわかった。

 巣が大きくなると、働きアリなどを増やす必要が出てくるが、女王だけでは産卵数が不足しが
ちになると、新女王たちが王と交配し、家族を増やす。20〜30年生きる王に比べて女王の寿
命は5〜10年と短いが、分身がさらに分身を産むため、巣が存続する限り、初代女王と同じ
遺伝子の女王が君臨し続けることになる。

++++++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++++++

記事をよく読むと、「単為発生する女王もいるが、
もちろん王と交配して生まれる女王もいる」ということがわかる。
まっ、ごちゃごちゃ!
それにしても、おもしろい世界だ。

人間の世界にたとえるなら、妻が勝手に自分の分身を作って、
自分の仕事を手伝わせるようなもの。
夫のほうにすれば、古い女房が死んでも、また新しい女房が
そこにいるわけだから、いつまでも、新しい女房と、
新婚生活を楽しむことができるということになる。
これなら女房の寿命が、夫の3分の1〜4分の1でも、
かまわない。

が、ここで私は、重大なことに気がついた。
(おおげさかな?)

●王と女王論

人間は、勝手に「王」とか、「女王」とかいう名前をつける。
が、もちろん、シロアリが、それを意識しているわけではない。
またそういう上下意識があるわけではない。
上下関係があるわけでもない。

そこで私は、ハタと考え込んでしまった。
「王アリ」とか「女王アリ」とか呼ぶが、それは正しくないのでは
ないか、と。
女王アリについて言えば、「卵を生産する生産アリ」と呼ぶ方が、
正確ではないのか。

王アリにしても、そうだ。
実際には、「種アリ」。
「種馬」の「種」と同じ。
もっと言えば、「生殖アリ」。
毎日、毎晩、Sックスをして、子どもをつくってばかりいる。
一見、うらやましく見えるが、けっして楽な世界ではない。
そういうアリを、「王」とか、「女王」とか、呼んでよいものか。

が、私たちは、「王」とか、「女王」とかいう言葉にまどわされる。
人間世界における「王」や「女王」を、そのままその言葉の上に重ね合わせてしまう。
王アリだから、すごいとか、女王アリだから、すごいとか。
しかしもし私がシロアリなら、兵アリや働きアリのほうが、
よっぽど気が楽。
Sックスはできないが、できないからといって、どうということはない。

……と考えて、また私は、新しい事実に気がついた。

●Sックス論

健康な男女なら、みな、Sックスが好きなはず。
Sックスを嫌う人はいない。
が、「好き」とか、「嫌い」とか言っても、自分でそう考えて、
そう思っているわけではない。
脳の奥深くから発せられる、信号によって、そう思わされて
いるだけ。
操られているだけ。

少し考えてみれば、それがわかる。

男にしても女にしても、生殖器官というのは、排泄器官の
すぐ横にある。
小便と生殖器官は、いっしょくたになっている。
あのあたりは、臭いし、汚い。

「汚い」という言い方にも、問題があるが、ともかくも汚い。
そういう感覚を乗り越えなければ、Sックスなどできない。
よほど強い命令がなければ、Sックスなどしない。
「臭いからいやだ」とか、「汚いからいやだ」とか、
そんなことを言っていたら、おしまい。
Sックスをしなければ、つまりその時点で、人間は、
絶滅することになる。

だから毎日、毎晩、Sックスばかりしている、王アリや
女王アリを、うらやましいと思ってはいけない。
考えてみれば、それはたいへんなこと。
もしそれこそ、1時間おきに妻から、Sックスを求められたら、
あなたならどうする?
体がもたない。
しかしそれが王の仕事というのなら、私なら、
さっさと王の座をおりる。

●「汚い」とは?

さらに新しい事実を発見!
先に、排泄器官は、「汚い」と書いた。
しかし「汚い」という言葉ほど、主観的なものはない。
何をもって、人は、「汚い」といい、「汚くない」というのか。

若くて健康的な男女なら、そしてムードが盛りあがってくれば、
相手の生殖器官を、一晩中でも、なめていたいと思うだろう。
そういうとき、そこが汚い場所とは、だれも思わない。
臭(にお)いすら、気にならなくなる。

汚いといえば、バイ菌やウィルスのついた食器のほうが、
よっぽど汚い。
しかしバイ菌やウィルスは、目には見えない。
いくらそこにあっても、それを「汚い」と思う人はいない。

こうして考えてみると、「汚い」というのは、人間がもつ
文化性と、深く関わっているのがわかる。
つまり人間が、勝手に、そう思い込んでいるだけ。
現に、人間のクソを、おいしそうに食べる動物や虫は、
いくらでもいる。
(反対に、人間だって、魚介類のクソを、「うまい」と
言って食べているぞ。)

●人間の勝手

話を戻す。
王アリにしても女王アリにしても、人間が勝手に、そう位置づけているだけ。
人間の王や女王にしても、そうだ。
Sックスにしても、それが楽しいことだと思っている人も多いが、
そう思い込まされているだけ。
「汚い」という言葉にしても、そうだ。
いわんや、王は偉いとか、女王は偉いとか、そんなふうに考えるのは、
おかしい。
上下意識にしても、そうだ。
人間が、勝手に、自ら、そう作りあげているだけ。

またSックスについて言えば、私は50歳を少し過ぎたころ、
男女の区別ができなくなってしまった。
あとで聞いたら、それが男性の更年期症候群のひとつと知った。
が、同時に、私は性欲から解放された。
あのとき感じた解放感は、ほかにはない。
言いかえると、そのとき、私は、それまでの私が、
いかに性の奴隷であったかを知った。
そんなわけで、Sックスができるから、幸福とか、できないから不幸とか、
そんなふうに考えるのは、正しくない。

シロアリの生態についての記事を読んでいて、私は、そんなことを
考えた。
それにしても興味深い世界ではないか。
ホント!

(注:BLOGでは、使用禁止用語というものが、あります。
その用語を使うと、原稿のアプロードそのものができません。
そこであの行為を、「Sックス」と表記しました。
「Sックス」というのは、「人間の交尾行為」を言います。)


Hiroshi Hayashi++++++++March. 09+++++++++はやし浩司

●働いた経験のある女性(母親)、ない女性(母親)

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「無私の愛」とは言うが、しかし男性(父親)と、
女性(母親)とでは、愛のとらえ方が、微妙にちがう(?)。

いくら「無私」とはいっても、たとえば、子どもを育てるには、
それなりのお金がかかる。
そのお金についてだが、働いたことがある人と、そうでない
人とでは、お金に対する感覚が、微妙にちがう。
働いている男性(父親)は、それがよいことか、
悪いことかという話は別にして、
そこに金銭的価値を混入する。
働いた経験のない女性(母親)は、金銭的価値をあまり
考えない。

+++++++++++++++++++++

●日本の常識

ときどき男たちの間で、こんなことが話題になる。
「働いたことのある女性(母親)と、働いたことのない女性(母親)は、
微妙にちがう」と。

働いたことのある女性は、(時間)と(金銭)を結びつけることができる。
しかし働いたことのない女性は、それができない。

たとえばその女性(母親)のために何かをしてやったとする。
そのとき、働いたことがある女性は、(してもらったこと)を、
時間や金銭に換算して評価する。
「2時間、働いてもらったから、2000円くらいのお礼はしなければ
ならない」と。
しかし働いたことのない女性(母親)は、それができない。
たとえば「相手は、私が魅力的だから(?)、してくれた」と思う(?)。
まあ、そこまでは思わないにしても、たいていにっこりと笑って、
「ありがとう」だけですんでしまう。

私も以前は、いろいろな場面で育児相談を受けていた。
そういうとき相手が職をもった父親だと、そのつど、ポンポンと、
反応が返ってくる。
金銭的な反応だけではない。
何かの協力を申し出られることもある。
「先生、今度、いっしょに釣りに行きませんか」
「いい店がありますから、食事でもどうですか」とか、など。

が、女性(母親)には、それがない。
ないばかりか、金銭感覚そのものが、うとい。
こんなことがあった。

●みやげなし(?)

久しぶりにその人の息子夫婦が、赴任先の仙台から帰ってきた。
3歳になる孫もいっしょだった。
そのときのこと。
息子夫婦は、手ぶらで帰ってきた。
しかしこれは日本の常識ではない。
世界の常識でもない。
そこでその人が、「いくら親子でも、手ぶらで帰ってくるやつがいるか」と、
息子を叱った。

これに息子が猛反発。
「パパは、みやげがほしかったのか!」「そのために、ぼくを呼んだのか!」と。

で、そこへ母親が割り込んできた。
割り込んできて、息子の味方をした。
「見返りを求めるなんて、おかしいわよ!」と。

言い忘れたが、息子夫婦が仙台から帰ってくるについて、旅費は、
すべて父親が負担した。
そういうこともあって、父親もキレた。
「みやげ程度のことを、見返りとは言わない。常識だア!」と。

あなたなら、この話を聞いて、どう思うだろうか?
私は(男性)だから、父親の言い分のほうが正しいと思う。
いくら何でも、手ぶらは失礼。
親子の間でも、失礼。
しかし私のワイフなどは、母親の言い分のほうが正しいと言う。
ワイフも、私と結婚して以来、一度も働いた経験がない。
言うなれば、「お金は天から降ってくるもの」と思い込んでいる。

●当たり前

最近の若い人たちは、独特の考え方をする。
たとえば高校や大学へ行くことについて、それを感謝している若い人は、
まず、いない。
口では「ありがとう」と言うが、それはあくまでも儀礼。
「行くのが当たり前。そのために、親が学費を出すのは、当たり前」と、
そういうふうに考える。

当たり前ということは、当たり前。

一方、父親のほうはどうかというと、いくら「無私の愛」といっても、
そこまで割り切ることはできない。
今、都会へ1人の子どもを大学生として送ると、生活費だけで、1000万円
程度(4年間)はかかる。加えて学費。4年間で、計2000〜3000万円の
出費ということになる。
(これでも実際には、安いほう。)

働いている男性なら、それがどういう額か、わかる。
わかるから、「当たり前」という考え方には、少なからず、抵抗を覚える。
が、女性(母親)には、それがわからない。
とくに働いたことのない女性(母親)には、それがわからない。
子どもといっしょになって、「当たり前よねえ」などと言ったりする。

●親、貧乏盛り

『子ども大学生、親、貧乏盛り』というのは、私が考えた格言である。
子どもが大学生になると、親は、爪に灯をともすようにして、学費を工面する。
懸命に笑顔をつくりながら、「金はあるか? 足りなかったら言えよ」とは、
言うものの、懐(ふところ)のさみしさが、ふと言葉を詰まらせる。

しかしその結果……というより、今の若い人が、どうしてそこまで
ドライに割り切ることができるのか、私には不思議でならない。
中には、親に向かって、「金だけを出せば、それで親の義務が果たせたとでも
言うのか」とか、
さらに「日本も、アメリカのような奨学金制度を作ればいいじゃないか」とか、
言う若い人もいる。
だからある父親は、私にこう言った。

「あのね、親はね、苦労してまで、息子や娘を大学などに出すものじゃ
ないですよ」と。
つまり「出してやっても、むなしいだけ」と。
「損」という言い方には語弊があるが、「損」と。

●学歴は個人的利益(?)

要するに、日本の教育制度が、おかしいということ。
学歴を、個人的な利益と結びつけて考える傾向もある。
だからその負担は、個人、つまり各家庭の親がすべき、と。
本来なら、学歴は、万人のためのものでなければならない。
もっと言えば、頭のよい人は、その頭を、万人のために使ってこそ、
頭のよい人ということになる。

が、この日本では、学歴というのは、あくまでも個人の利益を
追求するための道具でしかない。
だから隣人が、息子の学費で四苦八苦していても、だれも同情しない。
だれも助けない。
また制度そのものも、おかしい。
日本も奨学金制度を拡充すべきだが、いまだにその制度は、貧弱で、
奨学金といっても、「小遣い程度」でしかない。
結局、そのシワ寄せは、大学生をもつ親のところにのしかかってくる。

●私の息子たち

私も3人の息子たちを育てたが、こと学費に関しては、損得の計算を
したことはない。
惜しみなく、出してきた。
出してきたが、今になって、ときどき、「あそこまでやる必要はあったのか」
と思うことはある。

たとえば息子たちに買ってやったパソコンにしても、いつも、私が
もっているのより、高性能のものだった。
家を建てたときも、自分たちの書斎よりも、子ども部屋のほうを優先させた。
しかしそういった親心というのは、少なくとも私の息子たちを見るかぎり、
まったくといってよいほど、伝わっていない。
私の息子たちにしても、どちらかというと、みやげなどもたず、
手ぶらでくるタイプである。

●結論

話は大きく脱線したが、結局は(苦労)を、どのように理解するかということ。
そこに行き着く。
私のワイフも、ときどきこう言う。
「家庭に入った主婦だって、たいへんなのよ」と。
しかし本当に、そうだろうか?
そう言いきってよいのだろうか?

たとえば朝、夫婦喧嘩をしたばあいを考えてみたらよい。
何かのことで、怒鳴りあったとする。
そういうとき女性(母親)は、そのまま部屋に入って、中からカギをかえば、
それですむ。
ふとんをかぶって寝ていれば、それですむ。
しかし仕事をしている男性は、そうはいかない。
どんなに気分が悪くても、身支度を整えて、会社に向かわねばならない。
会社で人に会えば、笑顔を作らねばならない。
それから受けるストレスには、相当なものがある。

だから男性(父親)と女性(母親)とでは、微妙なちがいが出てくる。
いくら「無私の愛」といっても、男性と女性とでは、とらえ方がちがう。
(働いたことのある女性)と、(働いたことのない女性)とでは、
とらえかたがちがう。

「見返りを求めない」といっても、(みやげ)など、見返りにもならない。
私は結婚する前から、またワイフに納得してもらった上で結婚したが、
収入の約半分を、実家に仕送りしていた。
27歳くらいのときから、生活費や法事の費用、さらには商品の仕入れの費用など、
すべて私が負担した。
そういうのを、私の世界では、「見返り」という。
繰り返すが、「みやげ」程度で、「見返り」などと、おおきな顔をしてほしくない。
今の若い人たちには、それを理解するのは、むずかしいことだろうが……。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●ポスト・介護

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今朝、目を覚ます前に、こんな夢を見た。

実家の店先に、母(08年他界)と、祖父(他界)が
いっしょにいた。
それを見て、つまり母が祖父を見て、こう言った。
「じいちゃんは、もう死んだはずなのに、どうしてここにいるの?」と。
それを聞いて、祖父が照れくさそうに笑った。
私も笑った。
で、私はこう言った。
「母ちゃん、あんただって、死んだはずだよ」と。
それを聞いて、母が笑った。
私も笑った。

で、奥の部屋のほうへ行くと、そこに兄(08年他界)がいた。
兄は、階段の上から、下へおりてくるところだった。
そこへ10人前後の人たちが、ドヤドヤと入ってきた。
どこかの仏教教団の人たちという。
その人たちが、こう言った。
「あんたの兄さんのために、お経をあげさせてくれ」と。
それに答えて、私は「勝手になさるなら、どうぞ」と。
するとその教団の人たちは、レコードをかけ始めた。
「あなたの兄さんが好きだった曲です」と。
私は「?」と思っていたが、かけられた曲は、美空ひばりの『悲しい酒』。
「よく知っているなあ」と私は感心した。

見ると、みなが、どこで集めてきたのか知らないが、サクラの花びらを、
パラパラと空に向かってまいていた。
それが雪のように美しかった。
それを見て、兄が照れくさそうに笑った。
私も笑った。

++++++++++++++++++++

●夢判断

兄が生きているときは、兄の夢など、ほとんど見たことがない。
が、死んでからは、よく出てくる。
母にしても、そうだ。
しかしどういうわけか、兄にしても、母にしても、いつも笑っている。
今朝の夢にしても、そうだ。
死んだ母に、「あんただって……」と言ったとき、母は笑っていた。
「そうやったなあ」というような顔だった。

この話を朝食のときワイフにすると、ワイフはこう言った。
「『ウラメシ〜』と出てこられるとつらいけど、笑って出てくるというのは、
いいことね」と。

●介護

母の介護にしても、兄の介護にしても、金銭的な負担は、すべて私がした。
いろいろそのつど、思ったことはあるが、グチをだれかに告げたことはなかった。
ワイフにすら、告げたことがない。
だいたい、グチぽいことすら、考えたことがない。

兄が廊下でクソを落としたときも、むしろ笑って、それを始末することができた。
母の便の始末は、すべて私がした。
しかしそれを「イヤ」と思ったことは、一度もない。

介護というのは、そういうもの。
「イヤ」と思えば、負担になる。
受け入れてしまえば、何ともない。

ただ兄にせよ、母にせよ、施設に入ったときには、解放感を覚えた。
しかしその解放感とて、予想していたものではない。
施設へ入ったあと、それまでの介護が、ウソのように楽になった。
それで解放感を覚えた。

が、それで心理的圧迫感が消えたわけではない。
日帰りの旅行をするときですら、一度、施設に電話を入れて、様子を
聞かねばならなかった。
そういう圧迫感はあった。
が、それとて、母が他界して、はじめてわかったこと。
圧迫感から解放されて、それまでその圧迫感があったことを知った。

●ウラメシ〜

ワイフが言うには、「ウラメシ〜」と、化けて出てこられたら……?
介護の仕方によっては、「ウラメシ〜」と、母や兄が夢の中に出てくることだって、
考えられる。
それは深層心理によるもので、いくら表面的に献身的な介護をしていたとしても、
心の奥がそれにともなっていないばあいには、「ウラメシ〜」となる。
その可能性は高い。

私「ほら、何かの本で読んだけど、あの金xxは、夜な夜な、何かにうなされて
いるそうだ」
ワ「何十万人もの人を殺しているからね」
私「怖ろしいと思うよ。それこそ人影を見ただけで、おびえたりする」
ワ「安眠できないわね」
私「だから一晩中起きて、酒を飲んでいるそうだ」と。

●今、介護で苦労している人へ

これは私からのささやかなアドバイスということになる。
まず、「運命は、受け入れる」。
そのときはいろいろあるだろう。
たいへんなことも、わかる。
しかし運命というのは、受け入れてしまえば、なんでもない。
が、一度逆らうと、運命は悪魔となって、あなたに襲いかかってくる。
ちょっとしたことでも、それが何十倍も、何百倍も、大きな負担となって、
あなたに襲いかかってくる。

ある女性は、痴呆症になった義父が、男性用の小便トイレで、ウンチを
しただけで、パニック状態になってしまった。
ギャーギャーと泣きわめいて、あちこちに電話をかけていた。

私はその話を聞いて、「ぼくのところでは、よくあること」と思った。
幼稚園でも教室でも、子どもたちが、ときどき、それをする。
小便器のほうに、ウンチをする。
庭で放し飼いにしている犬のハナだって、そうだ。
朝起きると、ハナのウンチの世話をするのが、日課になっている。
しかしそうした始末を、不愉快に思ったことはない。
それが「運命」だからである。

●最大限、してやる

近くあの世へ行く人がいたら、できるかぎり親切にしてやるのがよい。
後悔することがあるとするなら、「それをしてやらなかった自分」という
ことになる。

今になって、「もっとやってやればよかった」「ああしてやればよかった」と
思うことはある。
そういう後悔は残さないほうがよいが、しかしそれはだれしも思うことだそうだ。
義姉が、そう話してくれた。

まずいのは、あとで「ウラメシ〜」と出てくるようなことをすること。
幽霊などいない。
それはわかっているが、しかし心の中から消すのも、むずかしい。
いるとするなら、私やあなたの心の奥に、(いる)ということになるが、
そういう幽霊を作らないこと。

もし今朝の夢の中で、母や兄が、それに祖父が、暗く、つらそうな顔を
して出てきたとしたら、それは私自身が罪の意識を感じているからに
ほかならない。
罪の意識が悪夢を作る。
が、幸いなことに、みな、笑っている。
いつも夢の中では、笑っている。
もともとおかしな、どこかひょうきんな家族だった。
それでそういう夢を見る。

それにしても、あのサクラの花びらをまいてくれたのは、どこの教団の
人たちなのだろう。
1人、2人は、見覚えのある人だったが、どこのだれだったかまでは、
思い出せない。
おもしろい夢だった。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司

●カルチャー・ショック

++++++++++++++++++

今日、浜名湖を、雄踏(ゆうとう)側から
村櫛(むらくし)海岸まで
歩いてみた。
往復で、ちょうど2時間。
距離にすれば、8〜10キロ。
よい運動になった。

で、その帰り道、ふと見ると、いくつかの
グループが、堤防の手前の空き地で、
サッカーをしていた。
ランニングしている人も、何人かいた。
サイクリングをしている人も、何人かいた。
今ではどこにでもある、見慣れた光景だが、
40年前には、そうではなかった。
たった、40年前、である。

++++++++++++++++++

●驚きの連続

私がオーストラリアへ渡ったのは、1970年。
大阪万博の開かれた年である。

毎日が、驚きの連続だった。
大学生の中には、青いボールペンを使って、青字でメモを取っている
のがいた。
日本では、「ビックス」は、菓子屋で、飴として売られていた。
が、オーストラリアでは、風邪薬だった。
私はカレッジで、乾燥機なるものを生まれてはじめて見たし、
綿棒にしても、そうだ。
ブルーベリーのジャムも、生まれてはじめて食べた。
何よりも驚いたのは、向こうの学生たちが、オレンジを袋単位で
買っていたこと。
日本では、一個売りがふつうだった。

見るもの、聞くもの、すべてが珍しかった。
そんな中、ある日、郊外の友人宅を訪れると、ちょうど土曜日
ということもあって、みなが、戸外でスポーツを楽しんでいた。
その光景を見て、私は、驚いた。
驚いたということは、それまでそういう光景を、日本では
見たことがなかった。

●今でこそ……

今でこそ、日本には、何もかもある。
青いボールペンもある。
綿棒もある。
乾燥機もある。
しかし当時のオーストラリアには、日本にはまだないものが、
山のようにあった。

「サンベイジング(Sun-Bathing)」というのも、そうだった。
まだ春先の寒い日だったが、みなが、サンベイジングに行こうと言った。
今でいう日光浴だが、私はそんな春先に、水着など来たことがない。
言われるままついていくと、海岸で、みなが、日光浴をしていた。

また別の日。
その日は雨が降っていた。
見ると一人の友人が、キャンピングの準備をしているではないか。
「どこへ行くのか?」と聞くと、「キャンプだ」と。
「雨の日に行くのか?」と聞くと、「ぼくは雨が好きだ」と。
オーストラリアは、乾燥大陸。
雨に対する感覚が、私たちのそれとは、ちがっていた。
それはわかるが、「雨の日にキャンプする」という感覚は、日本人の
私には理解できなかった。

ほかにも、ある。
女子学生でブラジャーをしているのは、いなかった。
中には、パンティをはいていないのもいた。
裸に対する感覚も、日本人のそれとは、ちがっていた。

毎日が、この連続。
日本人の私がもっている常識は、ことごとく破壊された。

●常識

で、私はそういう意味では、ラッキーだったと思う。
青年期という、かなり早い段階で、自分の常識を疑うようになった。
このことは、そのあと、日本だけに住み、日本しか知らない人たちの
それとくらべてみると、よくわかる。

私たちがもっている常識などというものは、その国の、その地方の、
その家族の中で、作られたもの。
けっして、世界の常識ではない。
が、そんなことも理解できず、いまだに、その国の、その地方の、
その家族だけにしか通用しない常識にしばられている人は、
ゴマンといる。

が、それだけではない。
それまでの常識をこなごなに破壊された私は、まったく別の常識を、
自分の中でつくりあげることができた。

「できた」というと、大げさな言い方に聞こえるかもしれないが、
今という時代からあの時代をながめると、そう思う。

●職業観

いちばん大きな影響を受けたのが、職業観ということになる。
先日、劇場で、『おくりびと』という映画を見てきた。
よい映画だった。

その中で、1人の男性(公務員)が、主人公の納棺師に向かって、
「まともな仕事をしろ」と言うシーンがあった。
主人公の妻ですら、夫が納棺師であることを知って、家を出る。
こうした職業観というのは、日本独特のもので、世界には、類はない。
日本人は、江戸時代の昔から、職業、それに地位や立場で、その人の
価値を決める。
「私はちがう」と思っている人でも、江戸時代の、あの身分制度という
亡霊を、いまだに引きずっている。

常識をこなごなにすることによって、私は、その向こうに別の常識を
見た。
だから三井物産という会社をやめて、幼稚園の講師になったときも、
まったくといってよいほど、抵抗はなかった。
「やりたいことをする」
「お金に名前はついていない」と。

●意識のちがい

が、そういう常識に縛られている人も、少なくない。
「まともな仕事論」を口にする人は、今でも多い。
しかし(まともな仕事)とは、何か?
そんなものは、今も、昔もない。

たとえば前にも書いたが、オーストラリアでは、銀行員の仕事は、
高卒の仕事ということになっていた(当時)。
日本では、大卒の仕事ということになっていた(当時)。
またオーストラリアでは、4年生の大学の工学部を出た人でないと、
ユンボやブルドーザーを動かすことができなかった(当時)。

さらに私のいちばん仲がよかった友人のD君は、自ら、外交官の
仕事を蹴飛ばしてしまった。
「アメリカやイギリスなら生きたいが、残りの99%の国へは
行きたくない」と。
もともとあの国は移民国家。
「外国へ出る」という意識そのものが、日本人のそれと、180度
ちがっていた。

●偏見との闘い

日本へ帰ってきてからの私は、まず、そうした偏見と闘わねば
ならなかった。
たとえばこの浜松市では、地元の人間の価値を認めなかった(当時)。
何でも、「東京から来た」というだけで、ありがたがった。
田舎根性というか(失礼!)、目が東京のほうばかりに向いていた。
(今でも、その傾向は強いが……。)

逆に、東京の人は、地方の価値を認めていなかった(当時)。
出版社で本を出すときも、地位や肩書きのない私は苦労した。
ごく最近でも、「あなたの本を出してもいいが、○○教授の名前でなら
出してもいいが、どうか?」と打診してきた出版社があった。
40年前の当時には、そうしたインチキが、ごく当たり前のように、
なされていた。

一方、おもしろいことに、東京に住んでいる人は、何でも「外国から来た」という
だけで、ありがたがる。
最近でも、どこかの飲料水会社が、幼児教育を始めるという。
イタリアの幼児教育を、日本へもってくるという。
東京の人たちは、そういう話になら、すぐ飛びつく。

こうした中央集権意識というか、権威主義というのも、やはり日本独特のもの。
それまでの常識を、こなごなに破壊して、はじめてわかる。

●職意識

振り返ってみると、あの当時の常識を、世界の常識と思い込んだまま、
その世界だけで生きてきた人は、かわいそうだと思う。
その世界しか知らない。
そのすぐ外には、まったく別の、もっと広い世界が広がっている。
それにすら、気がつかない。
気がつかないまま、人生を、棒に振った。

たいへん失礼な言い方に聞こえるかもしれないが、多くの人は、
それすら認めようとしない。

で、最近、「職意識」という言葉を耳にすることが多くなった。
「日本人の職意識を変えよう」とか、何とか。
つまり日本人は、「仕事」というと、「就職」、つまりどこかの会社に
入ることしか考えない。
自分で独立して、何かをするということを考えない。

もちろん独立を考える人もいるにはいるが、まだまだ少数派。
いても、親の仕事を引き継ぐ程度。
だからその意識を、根本から変える。
何も大会社に就職して、そこで一生を終えるのが、あるべき人生の
姿ではない。
理想の姿でもない。
そういう人も必要かもしれないが、しかしみながみな、それに従う必要はない。

「私は私」という部分さえ確立できれば、仕事は、そのつぎにやってくる。
その結果として、就職ということもあるかもしれない。
しかし何も就職に縛られることはない。
むしろ『みなと同じことをしていると感じたら、自分が変わるべきとき』
(マーク・トゥエイン)。

あなたがどんな仕事をしていたところで、構わない。
納棺師だって、構わない。
すばらしい仕事ではないか。
もしそういうあなたを笑う人がいたら、反対に笑ってやればよい。
「じゃあ、あなたはどんな人生を歩いているのですか」と。

●再び常識論

私たちがもつ常識といっても、その時代、その時代で、作られるもの。
もちろん今の常識が、正しいというわけではない。
今の常識だって、100年後には、笑い話になるかもしれない。
しかし大切なことは、そういう笑い話になるかもしれないという前提で、
今の常識を、常に疑っていくこと。
けっしてそれを「正しいもの」と思い込んで、立ち止まってはいけない。
立ち止まったとたん、あなたは保守派に変身し、その向こうにある、
もっと広い世界を見失うことになる。

もっとも、それをよしとするなら、それもよし。
しかしそれでは、もったいない。
どうせたった一度しかない人生。
だったら、できるだけ広い世界を見る。
そのほうが楽しいし、おもしろい。

……帰りの車の中で、私とワイフは、そんな会話をした。

私「今では、みな、当たり前のように、ああしてスポーツを楽しんでいる」
ワ「40年前にもあったけど、学校の部活くらいなものだったわ」
私「そうだね。でもね、ぼくが驚いたくらいだから、当時の日本には、
なかったんだよ」
ワ「それだけ日本が豊かになったということ?」
私「そうだろうね」と。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
職意識 職業観 職業の常識 身分制度 就職意識 仕事観)


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩

●ひねくれ症状

+++++++++++++++++

心のひねくれた子どもというのは、いる。
10人に1人とか、20人に1人とかはいる。

たとえばこんな会話をする。

私「春になって、気持ちいいね」
子「花粉症になるから、いやだ」
私「そう、それはたいへんだね」
子「たいへんじゃないわよ。苦しいよ」
私「……」と。

あるいは以前、こんな子ども(年長女児)もいた。
私が「今日はいい天気だね」と声をかけると、
キーッとにらみ返して、こう言った。
「いい天気じゃない。あそこに雲がある!」と。

私「雲があっても、いい天気じゃない?」
子「雲があるから、いい天気じゃない」
私「少しくらいあっても、青い空は見えるよ」
子「雲があるから、いい天気とは言わない」と。

++++++++++++++++++++

幼児期から少年少女期にかけて、慢性的な欲求不満がつづくと、それが
抑圧となって、心をゆがめる。
ひねくれ症状もそのひとつ。

私「だれだ、こんなところで水をこぼしたのは!」
子「水じゃ、ない。お茶!」
私「どうしてこぼしたの?」
子「先生が、そんなところに、茶碗を置いておくから悪い」
私「悪いって、こぼしたら、ごめんと言えばいい」
子「わざとじゃないから、謝る必要はない」と。

さらに私は教室では、ノート類はただで渡している。
そのノートをA君(小4)に、「これを使ってね」と言って渡したときのこと。
横にいたB子さん(小4)が、すかさず、こう言った。
「どうせ、100金(100円ショップ)のよ」と。

これには私もカチンときた。
だからB子さんを、たしなめた。
するとB子さんは、こう言った。
「本当のことを言っただけよ。どうして本当のことを言ってはいけないの!」と。

一事が万事。

B子さんが、新しい筆箱をもっていた。
私が「いい筆箱だね」と声をかけると、「安いか高いか、わからないわ」と。
「値段が、わからない」という意味で、そう言った。
すなおに、「うん」とか、「そう」という言葉が出てこない。
そこで私が、B子さんに、「あのね、そういうふうに、相手が言うことを、
否定してはだめだよ」と教えると、すかさずB子さんは、こう言った。
「私は、何も否定なんかしてないわよ」と。

こういうのをパラドックスという。
「否定していないわよ」と言って、相手を否定する。

このタイプの子どもには、一定の特徴がある。

(1)無意識下の言動であるため、「否定している」という意識そのものがない。
(2)自分がまちがえたり、失敗しても、それを最後まで認めない。
(3)「私は絶対に正しい」と思ったまま、カラの中に閉じこもってしまう。
(4)相手の非をすかさず持ち出して、「先生だって、この前……!」と切り返す。

だからこのタイプの子どもと接していると、こちらまで気がへんになる。
相手は子どもなのだが、本気で怒りを覚える。
が、もちろん本人には、否定しているという意識はない。
相手がどうして怒っているかも、理解できない。

「どうして、そんなことで、先生は怒るの!」と言い返してくる。
だから私のほうもムキになって、一言「ごめんと言えばそれですむことだろ」と諭す。
が、それに対しても、「私は何も悪いことをしていないのに、どうして謝らなくては
いけないのよ!」と、言い返す。
こういう状態になると、何を言っても無駄。
そこで強く叱ると、「ごめんと言えばいいのね、じゃあ、言うわよ。『ごめん』」と。

少年少女期に、一度、こういった症状が出てくると、その症状は、おとなに
なってからも、ずっとそのままつづく。
恐らく、老人になって死ぬまで、それがつづく。
ものの考え方の基本として、定着してしまうためと考えてよい。

では、どうすればよいか?

まず、自分に気がつくこと。
そのためには、自分の少年少女期を、静かに振り返ってみる。
不平不満もなく、いつも明るく、すがすがしい毎日を送っていただろうか。
それとも、いつも何か悶々とした毎日を送っていただろうか。
あるいはツッパリ症状があっただろうか。
そういったところから、自分を見つめなおしてみる。

あとは時間に任せるしかない。
10年とか、20年とか、それくらいはかかる。
今日気がついたから、来週にはなおるという問題ではない。
「心」というのは、そういうもの。
だから昔の人は、こう言った。

『三つ子の魂、百まで』と。

大切なことは、あなたはそうであっても、子どもには、そういう不幸な
経験をさせないということ。
愛情豊かで、心の温まる家庭を用意する。
それは子どもをツッパらせないためだけではない。
子どもの心をつくるための、親の義務と考えてよい。


Hiroshi Hayashi++++++++MARCH・09++++++++++++はやし浩司
2009年3月9日まで分



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阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.

writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ

 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 

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