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最前線の子育て論byはやし浩司
(08年12月17日 〜 )

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最前線の子育て論byはやし浩司(081217)

●今日の格言

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Death is the great leveller.
(死ねば、みな、同じ。)

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「leveller」というのは、(皆を平等にするもの)という意味。
つまりどんな人でも、死ねば同じ、イコール、平等、ということ。
わかりきったことだが、それを受け入れるのは難しい。
「私だけは……」と思いたい気持ちもわかるが、例外はない。

で、金持ちも貧乏人も、地位のある人もない人も、名誉のある人もない人も、死ねば同じ。
つまり「Death makes us all equal(死は皆を平等にする)」。

ところで最近、私はこんなことを強く思う。
「死んだ人の時計は止まる」と。

たとえば私の隣人にR氏という人がいた。
亡くなって、もう5年以上になるが、その間、R氏についての時計は止まったまま。
ときどき「もう5年になるのか」と驚くときがある。

そう、私の記憶の中にあるR氏は、5年前のまま。
R氏との思い出にしても、ガラスの箱の中に閉じ込められたようになっている。
外から見えるには見えるが、断片的にしか見えない。
そこでじっとしているだけ。
外には出てこない。
言い換えると、私が死んだら、そのとき、私についての時計は止まる。
あなたが死んだら、そのとき、あなたについての時計は止まる。

こうして人はどこからともなくやってきて、またどこかへと去っていく。
この不思議さ。
この切なさ。

しかし元気なときというのは、それがわからない。
あえて(死)に背を向けて生きる。
(死)を蹴飛ばしながら生きる。
「金持ちになりたい」「地位や名誉がほしい」と。

しかしその果てに(死)が待っているとしたら、人は何のために生きているのか
ということになる。

少し前、郵便局でこんな会話を耳にした。
どこかの女性(90歳くらい)が、年金をおろしたらしい。
手には100万円ほどの札束を握っていた。
それについて、局員の男性が、大きな声でこう言っていた。

「あのね、おばあちゃん、ここでは1000万円までしか貯金はできないの。
国債も、1000万円までしか、買えないの」と。

それを理解できたのかどうかは知らないが、その女性はお金を手さげに入れて、
郵便局を、ヨタヨタと歩きながら出て行った。
足は大きく外側へわん曲し、腰も曲がっていた。
歩くのもままならないといったふうだった。

それを見てワイフは、「だいじょうぶかしら?」と言った。
私は、「何のために?」と言った。

お金がないのも困るが、しかしお金というのは、元気なときに使ってこそ、生きる。
「どうせ皆、平等になる」というのなら、なおさらである。
地位や名誉にしてもそうだ。

私も最近、こんな経験をした。
私が発行しているメルマガ(電子マガジン)が、2008年度の「マガジン・オブ・
ザ・イヤー」に選ばれた。
6万3000誌もあるということだから、名誉なことにはちがいない。
しかしその喜びというのが、ほとんどといってよいほど、わいてこなかった。
10年前、あるいは20年前の私なら、飛び上がって喜んだことだろう。
あるいは出版の世界だったら、どさっと大金が舞い込んできたことだろう。
しかしそこはインターネットの世界。
何も変わらない。
何も起こらない。
もちろんお金は入ってこない。
「HPのどこかで、宣伝してみよう」とは考えたが、「家族で祝賀会」というところ
までは考えなかった。

(死)という限界をそこに感ずるようになると、そういうことはどうでもよくなる。
私は私。
書きたいから書いているだけ。
それを他人がどう評価しようが、私の知ったことではない。
言い換えると、人は死に近づくにつれて、一次曲線的に、平等になっていく。
死がやってきたからといって、そのときストンと、平等になるわけではない。
すでに今、この瞬間、少しずつ平等に向かって、進んでいる。

だからこの格言をもう少し正確に書き換えると、こうなる。

「加齢は、人をより平等にする」と。
英語になおすと、「Aging makes man more equal」。

そしてこうも言える。

「死は、時計を止める」と。
英語になおすと、「Death stops the man's clock」。

ホント!
死んだ人は、本当に静かだ。
何も語らない。
何も動かない。
私も、あなたも、やがてすぐそうなる。
これには、先に書いたように、例外はない。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●耳鳴り

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私は子どものころ、慢性中耳炎に悩んだ。
ときに苦しんだ。
ジ〜ンジ〜ン鳴りつづける耳鳴り。
それが風邪などと重なると、耳が熱くなり、
ひどいときには、顔中がほてったりした。

が、今は、皮肉なことにそちらの耳は聴力を失い、
耳鳴りは収まったかのようにみえる。
しかし風邪ぽくなったりすると、耳鳴りが始まる。

ジ〜ンジ〜ン、と。
夏などは、セミの鳴き声と区別ができないときがある。

今が、そうだ。
この数日間、どうも風邪が抜けない。
治ったかと思うと、また風邪をひいたりしている。

しかし慣れというのは、怖しい。
それほどまでの耳鳴りでありながら、仲よく同居している。
それほど気にならない。
実際には、まったく気にならない。

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これほどの耳鳴りがしながらも、私には(静寂)というものがどういうものか、
わかる。
考えてみれば、これは不思議なことではないか。
たとえば今、今の窓の外の木々は、小雨に打たれてやさしく葉を揺らしている。
深い緑の木々をおおうように、まだ残った黄色い葉が、そこかしこで、ゆらゆらと
はためいている。

その手前では、水たまりの表面が、ポツン、ポツンと、無数の円を描いている。

もちろん音は聞こえない。
音を出していたとしても、耳鳴りの音で、かき消されてしまっているだろう。
しかし私は、そこに(静寂)を感ずることができる。
風の音や雨のしたたる音を、感ずることができる。
なぜだろう?

ひとつには、音波でできる音と、心の中でできる音を、自分自身が区別している
ためではないか。
さらに言えば、音というのは、耳で聞くものではなく、心で聞くもの。
どんなすばらしい音楽でも、自分の心が同調しなければ、ただの騒音にすぎない。
音楽か騒音か、それを区別するのが、(心)ということになる。
そしてそれがちょうど反対の状態になったのが、今の私ということになる。

音波の音は聞こえていないが、あるいは耳鳴りの中から都合のよい音を選び出して、
それを耳の中で聞いている。
聞こえてはいないはずなのだが、聞こえるような感じがする。

サーサー……。
ハラハラ……。
ポツン、ポツン……と。

私はそういう景色を見ながら、心地よい睡魔を感じている。
先ほどのんだ風邪薬のせいかもしれない。
コタツのほどよい暖かさが、眠気を誘っているのかもしれない。

そのときふと時計が気になった。
見ると、x時x分。

仕事に出かける時刻。
フ〜〜〜ッと長いため息をついたあと、腹に力を入れて立ちあがる。
とたん、またあの耳鳴り。
思い出したように耳の中で鳴り始めた。

今日もがんばろう。
仕事、開始!
風邪なんかに、負けてはおれない!


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●どうなる内閣人事局(Bureaucratic Government)

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官僚たちの天下りにメスを入れ、それを
一元的に管理することによって、天下りを
是正しようとして考えられたのが、
内閣人事局。
しかし今、その内閣人事局が、まさに
骨抜きにされようとしている。

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今までは、各省庁ごとに、いわば縦割り的に、
かつ慣習的に(官僚の天下り)が、なされてきた。
たとえば文科省だけでも2000近い、外郭団体がある。
官僚たちは退職すると、(あるいはそれ以前から)、
こうした天下り先を渡り歩くことで、莫大な
利益を得ていた。

が、それではいけないと、安倍内閣、福田内閣の両内閣は、
新しい人事院の創設をもくろんだ。
「内閣人事局」構想というのが、それである。

内閣人事局というのは、各省庁の幹部人事を、一元的に
管理し、それによって、従来の天下りにともなう
弊害をなくそうという趣旨で考えられた。
つまり一度、すべての天下り先を人事局に集め、
適材適所で人材を再配置しよう、と。

しかしこれが実施されると、各省庁は、独自の
天下り先(=権益)を失うことになる。

そこで官僚たちによる逆襲が始まった(?)。
その目的とするところは、内閣人事局の骨抜き。
その中身は、大きく、つぎの2つに分けられる。

(1)事実上、内閣人事局を、官僚主導型の組織にする。
(2)内閣人事局の人員を最小限(10人〜20人)にし、ただ単なる
事務組織にする。

内閣人事局を官僚主導型の組織にすれば、従来通りの天下りが可能になる。
また組織を小さくすればするほど、組織はただ単なる事務機関にする
ことができる。

そういう点では、AS総理は、まことに都合がよかった。
ちまたでは「おバカ総理」(週刊B春)と、揶揄(やゆ)されている。
官僚の言いなり……とまではいかないにしても、あのAS総理に、
そこまで期待する方が無理。
新聞などの報道を見ていても、AS総理周辺からは、公務員制度改革
の「コ」の字も聞こえてこない。

そういうAS総理を横目で見ながら、官僚たちが、「一刻も早く」と、
内閣人事院の創設を急ぎ始めている。
たとえば内閣人事院の創設を目的とする作業部会は、ほぼ1日おきという
ハイペースで行われている(08年11月)。
内閣人事院の創設に反対なら、急ぐ必要はないはず(?)。
この一見すると矛盾した動きこそが、官僚が得意とする、お家芸である。

急げば急ぐほど、いいかげんなものができる。
その(いいかげんさ)こそが、官僚にとっては、重要なのである。

幹部人事の一元化はどうする?
給与の弾力化はどうする?
昇格、降格人事はどうする?
人事の配分はどうする?
だれがどういう基準で決める?

そういう議論はいっさい、すっ飛ばして、内閣人事院の誕生!
作業部会にしても、計8回、延べ20時間程度行われただけ。
が、それこそまさに官僚たちの思うつぼ。
週刊誌などの記事によると、内閣人事院の人員は、10人程度。
多くても20人程度とささやかれている。
たったそれだけの人員で、巨大な官僚組織の人事を管理できるわけがない。
つまり(できるわけがない)という組織にすることが、官僚たちの
目的ということになる。

日本は奈良時代の昔から、官僚主義国家。
少しぐらいつついた程度では、ビクともしない。
改めて官僚たちのもつ(力)に驚く。
(08年12月18記)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
内閣人事局 官僚制度 天下り)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●自己愛者( Narcissism person)

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K国への重油支援は、どうやら停止される
方向で動き始めている。
当然である。
が、アメリカへ戻ったC・ヒルは、まだ
こんなことを言っている。
「重油をすべて提供すれば、K国はサンプル
採取に応じてくるはず」と。

いったいあの国務次官補は、どこまで
おめでたいのか?

口頭約束だけで、K国を、テロ支援国家
指定リストから、はずしてしまった。
それについて、ウォールストリート・
ジャーナルは12月16日、「ライスの
対北政策は失敗に終わった」と報じた(※1)。

これまた当然である。
が、それにしても理解に苦しむのが、K国。
常識をはずれた国というのは、ほかにもある。
あるが、あの国の常識は完全に、狂って
いる。

6か国協議決裂の責任を日本に押しつけ、
日本をさして、「招かざる客」(※2)と。

++++++++++++++++++

K国を非難してばかりいてはいけない。
問題は、どうしてこうまで常識をはずれているのか。
そのあたりまで踏み込んで考えないと、K国を理解することができない。

招くも招かないもない。
日本としては、K国など、もとから相手にしたくない。
6か国協議など、出たくもない。
出たくて、出ているわけではない。
つまりこの異常なまでの自己中心性こそが、K国の特徴ということになる。

言うまでもなく独裁国家ほど、独裁者の心理的状態が、そのまま外交政策となって、
表に出てくる。
K国の外交政策イコール、金xxの心理状態と考えてよい。
その上で、ほんの少しでも自分を冷静かつ客観的に見る目をもっていたら、自分に恥じて、
こんな言葉は出てこないはず。
世界中が見るに見かねて、援助を申し出ているのに、「エネルギー支援を留保している
日本は、厄介者」(同)とは!

ハア〜〜〜?

こうした異常なまでの自己中心性が肥大化した人を、心理学の世界では、自己愛者と
定義している。
「自己愛者」というと、どこか甘美な響きをもつが、けっして好ましい人物像ではない。
忌み嫌うべき人物像ということになる。
K国の金xx。
彼こそがまさにその自己愛者の典型ということになる。

自己愛者について書いた原稿を、さがしてみた。

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●自己愛者( Narcissism person)
The more he or she is a self-centerness person, the lower his or her mental IQ is.
 
+++++++++++++++++++

自己中心性が極端なまでに肥大化した
状態の人を、自己愛者という。

+++++++++++++++++++

自己中心性(ジコチュー性)が、極端なまでに
肥大化した人を、「自己愛者」という。

自己中心性が強い分だけ、人格の完成度は、低い。

ほかに、たとえば異常なまでの完ぺき主義、
他人の批判を許さないなどの特徴がある。

その自己愛者については、たびたび書いてきたので、
ここでは、その先を書く。
私は、現在、こんな経験をしている。

私の身近にいる知人だが、このところ、認知症と
思われる症状が、急速に進んでいる。
アルツハイマー病の初期症状かもしれない。
ときどき、記憶の一部が、脳みそから欠けるように消えてしまう。

前の晩に何を食べたかを忘れるのは、よくあること。
が、その人のばあい、前の晩に食事をしたことそのものを、
忘れてしまう。

電話で話していても、一方的に、しゃべるだけ。
しゃべるだけならまだしも、しばらくすると、
また同じ話を繰りかえす。

そして私が何か、その人について批判めいたことを
口にすると、その瞬間、狂乱状態になってしまう。
「以前、その話はもう聞きました」と言っただけで、
ギャーッとなってしまう。
「私は、言っていない!」「どうして、そういうウソを言うの!」と。

言い忘れが、その知人というのは、今年、59歳になる。
女性である。
ワイフの長い友人で、いつしか家族ぐるみでつきあうようになった。
が、このところ、ワイフが言うには、「つきあいにくくなってきた」
「10年前には、ああではなかった」とのこと。

つまり、回りくどい言い方になってしまったが、認知症のはじまりには、
ものの考え方が、自己中心的になり、自己愛的な症状が出てくる。
言いかえると、自己中心性が出てきたら、あぶないということ。
(その人が、認知症というわけではない。あくまでも私が、
そう疑っているだけ。念のため。)

認知症になることによって、人格そのものが、崩壊してしまう人がいる。
そう考えれば、認知症の初期症状のひとつとして、ものの考え方が
自己中心的になったところで、何ら、おかしくはない。

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もう一作……。

+++++++++++++++

●自己概念

 「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どんな人間に
思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念ということになる。

 この自己概念は、正確であればあるほどよい。

 しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。悪い面
については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。

 一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自分が
そうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズレる。

 こんなことがあった。

 ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。

 「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。

 つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な夫の妻と
して、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。

 事実、その通りだから、反論のしようがない。

 で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、すばら
しい女性になりますよ」と。

 ここで自己概念という言葉が、出てくる。

 私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)
だから「私のそばにいれば、どんな女性でも、すばらしい女性になる」と。
そういう思いで、そう言った。

 しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿しか、
知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、笑った。そして
その意識の違いがわかったから、私も笑った。

 みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。

 ……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、私たち
はいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目を気にせ
よ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも正確にとらえて
いく必要があるということ。

 その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。

 その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。

(1) 自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
(2) 責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
(3) 自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
(4) 自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
(5) 脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。

 しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、そ
の他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。

 たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いてみる。
そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡単なので、少し
訓練すれば、だれにでもできるようになる。

 もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。

 あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから見て、どん
な母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐためにも、重要な
ことである。

 ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思いこんでいるだけ
かもしれない。どうか、ご注意!

(はやし浩司 自己概念 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子
育て はやし浩司 自己概念 現実自己 アイデンティティ)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●自分を知る

 自分の中には、(自分で知っている部分)と、(自分では気がつかない部分)がある。

 同じように、自分の中には、(他人が知っている部分)と、(他人が知らない部分)がある。

 この中で、(自分でも気がつかない部分)と、(他人が知らない部分)が、「自分の盲点」という
ことになる(「ジョー・ハリー・ウインドウ」理論)。

 (他人が知っていて、自分では知らない部分)については、その他人と親しくなることによっ
て、知ることができる。そのため、つまり自分をより深く知るためには、いろいろな人と、広く交
際するのがよい。その人が、いろいろ教えてくれる(※)。

 問題は、ここでいう(盲点)である。

 しかし広く心理学の世界では、自分をよりよく知れば知るほど、この(盲点)は、小さくなると考
えられている。言いかえると、人格の完成度の高い人ほど、この(盲点)が小さいということにな
る。(必ずしも、そうとは言えない面があるかもしれないが……。)

 このことは、そのまま、子どもの能力についても言える。

 幼児をもつほとんどの親は、「子どもは、その環境の中で、ふさわしい教育を受ければ、みん
な、勉強ができるようになる」と考えている。

 しかし、はっきり言おう。子どもの能力は、決して、平等ではない。中に平等論を説く人もいる
が、それは、「いろいろな分野で、さまざまな能力について、平等」という意味である。

 が、こと学習的な能力ということになると、決して、平等ではない。

 その(差)は、学年を追うごとに、顕著になってくる。ほとんど何も教えなくても、こちらが教え
たいことを、スイスイと理解していく子どももいれば、何度教えても、ザルで水をすくうような感じ
の子どももいる。

 そういう子どもの能力について、(子ども自身が知らない部分)と、(親自身が気がついていな
い部分)が、ここでいう(盲点)ということになる。

 子どもの学習能力が、ふつうの子どもよりも劣っているということを、親自身が気がついてい
れば、まだ教え方もある。指導のし方もある。しかし、親自身がそれに気がついていないとき
は、指導のし方そのものが、ない。

 親は、「やればできるはず」「うちの子は、まだ伸びるはず」と、子どもをせきたてる。そして私
に向っては、「もっとしぼってほしい」「もっとやらせてほしい」と迫る。そして子どもが逆立ちして
もできないような難解なワークブックを子どもに与え、「しなさい!」と言う。私に向っては、「でき
るようにしてほしい」と言う。

 こうした無理が、ますます子どもを勉強から、遠ざける。もちろん成績は、ますますさがる。

 言いかえると、賢い親ほど、その(盲点)が小さく、そうでない親ほど、その(盲点)が大きいと
いうことになる。そして(盲点)が大きければ大きいほど、家庭教育が、ちぐはぐになりやすいと
いうことになる。子育てで失敗しやすいということになる。

 自分のことを正しく知るのも難しいが、自分の子どものことを正しく知るのは、さらにむずかし
い。……というようなことを考えながら、あなたの子どもを、一度、見つめなおしてみてはどうだ
ろうか。

(注※)

 (自分では気がつかない部分)で、(他人が知っている部分)については、その人と親しくなる
ことで、それを知ることができる。

 そこで登場するのが、「自己開示」。わかりやすく言えば、「心を開く」ということ。もっと言え
ば、「自分をさらけ出す」ということ。しかし実際には、これはむずかしい。それができる人は、
ごく自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。

 が、とりあえず(失礼!)は、あなたの夫(妻)、もしくは、子どもに対して、それをしてみる。コ
ツは、何を言われても、それを聞くだけの寛容の精神をもつこと。批判されるたびに、カリカリし
ていたのでは、相手も、それについて、話せなくなる。

 一般論として、自己愛者ほど、自己中心性が強く、他人の批判を受けいれない。批判された
だけで、狂乱状態になる人さえいる。

++++++++++++++++++

さて話を戻す。

K国というより、金xxが、常識を取り戻すためには、金xx自身が、一度、
金王朝というカプセルから出て、世界を見てみる必要がある。
あるいはひょっとしたら、金xxには、それなりの常識があるのかもしれない。
とすると、取り巻き連中が悪い(?)。
そういう連中が、一度、外国を渡り歩いてみたらよい。

そうすれば、自分たちの置かれた立場や、世界が自分たちをどう見ているかが、
少しはわかるはず。

……と言っても、これは簡単なことではない。
自己愛者にしても、自分でそれに気づくことは、まず、ない。
自分では正常と思っている。
その多くは、「他人のほうがおかしい」とか、「他人も同じ」と思っている。
加齢が進めばなおさらで、ますます自分の殻(カプセル)に閉じこもるようになる。

で、自己愛者の特徴の一つとして、批判されただけで、烈火のごとく怒りだす。
たとえば日本をさして、「厄介者」と、自分では言いたい放題のことを言っておきながら、
もし日本がK国をさして、「厄介者」と言ったら、どうなるか?
それを少しだけ、頭の中で想像してみたらとよい。

つまりまるで自分のことが、わかっていない。

……となると、あのC・ヒルは、いったいどういう人物かということになる。
私は、彼もまた、その自己愛者ではないのか。
「私がしていることは正しい」という、狂信的とも言える信念だけで、突っ走って
しまった。
だからK国の金xxを、盲目的に信じてしまった。
その結果が、「今」ということになる。

(注※1)アメリカのウォールストリート・ジャーナルは16日、コンドリーザ・ライス国務長官がK国
の核廃棄よりも外交的進展という面を優先視したため、過去4年間の対北朝鮮政策は失敗に
終わったと批判した(朝鮮N報)。

(注※2)K国のK国労働党機関紙「労働新聞」は16日、6カ国協議に関する論評で、核施設
無能力化の見返りとなる経済・エネルギー支援を拉致問題を理由に留保している日本につい
て、「招かれざる客、厄介者であり、協議のテーブルに残る必要はない」と非難、あらためて
「日本排除論」を展開した。K国中央通信が伝えた。
 論評はまた「日本は6カ国協議を通じた朝鮮半島核問題解決を妨害し、核問題を理由に軍
事大国化を目指そうとしている」と主張した。(共同通信)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●2008年度一般会計予算(The Japanese National Budget)

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2008年度の日本の一般会計予算は、
つぎのようであった。

歳入、つまり国の税収は、83・1兆円。
うち借金(公債金)が、25・3兆円。

歳出、つまり国の支出は、83・1兆円。
うち借金返済のための支出(国債費)が、20・2兆円。

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一家の家計にたとえると、こうなる。

月給が、57・8万円。
しかしそれでは生活できないので、毎月、30・5万円の借金。
計、88・3万円の生活。
(結構、よい生活ができるぞ!)

が、借金もたまってきた。
その返済に、毎月、24・3万円。
だから実際に使えるのは、62・9万円。
(以上、収入、支出のパーセントを、万円に置き換えた。)

これだけみても、日本の経済は、かなりあぶない!
月給が、57・8万円なら、その範囲で生活をすればよい。
ふつうなら、そう考える。
しかし日本の財務省には、そういう考えは、みじんもない。
結果、たまりにたまった借金(国債)が、約553兆円!
国民1人あたり、約433万円!
(参考:「時事用語」成美堂出版)

公務員の給料だけで、40兆円近くもあるのだから、
当然、そのあたりから削減すべき。
結局こうした借金は、つぎの世代の人たちの負担となって
跳ね返ってくる。
が、それだけではすまない。

すでに「老人粗大ゴミ論」が、声高に叫ばれるようになっている。
ウソだと思うなら、若い人たちのBLOGをのぞいてみるとよい。
そこには、かなり辛辣(しんらつ)な言葉で、老人論が
語られている。

長生きすればするほど、私たちは、ゴミ扱いを受けるようになる。
が、それもそのはず。
やがて人口の3分の1が、満65歳以上になる(2050年)※。
医療費、介護費の負担だけで、日本経済は破産してしまう。
そうなったとき、若い人たちに向かって、「私たちのめんどうを
みてほしい」とは、とても言えない。

中には、「私には貯金があるから……」と思っている人もいるかも
知れない。
が、このまま進めば、2050年ごろには、貨幣価値は
今の3分1〜5分の1以下になっているはず。
若い人の数、そのものが少ない。
どうやったら、2人の人が、1人の老人を支えることができるというのか。
つまりお金の問題ではなく、現実に無理、ということ。
すでに今、とくに後期高齢者に対して、医療機関が医療を拒否する
という話が、あちこちから伝わってきている。

実は私の母(当時91歳)もそうだった。
センターから救急車で病院へ運ばれたとき、担当の医師はこう言った。
「検査はしますが、延命処置はもうしません」と。
私たち夫婦が戸惑っていると、「天命ですから」とも。

それでもまだよいほうかもしれない。
私の義兄は、前立腺がんの手術を受けたとき、やはり担当の医師は
こう言ったという。
「75歳以上は、手術をしません」と。

どうやらそのあたり、つまり74〜75歳前後に、医療機関では、
ひとつの線引きがなされつつあるようである。
これから先、その線引きが、下がることはあっても、上がることはない。
「65歳以上は、どんどん、死んでもらいます」と。

すべての責任を公務員にかぶせることはできない。
また一人一人の公務員に責任があるわけではない。
しかし本気で、行政改革を進めないと、この日本は、たいへんなことになる。
この不況すら、どこ吹く風。
民間企業では、首切り、リストラ、人員削減が、嵐のように巻き起こっている。
が、そういう話は、公務員の世界からは、まったく聞こえてこない。
聞こえたとしても、せいぜい、採用人員の削減程度。

繰り返すが公務員の人経費だけで、40兆円と言われている。
国家税収のほとんどが、公務員の人件費で消えている。
まず、この異常さを、正すべき。
外国なら、とっくの昔に、暴動が起きているだろう。
しかしその一方で、公務員の数が多いから、それもできない。
あなたの身内や、近い知人の中にも、1人や2人は、かならずいる。
ひょっとしたら、あなた自身も、そうかもしれない。

2008年度の一般会計予算を見ていたら、ムラムラと、
そんな怒りが、心の中にわいてきた。
『怒ったときは愚痴を言うな』。
……ということで、この話は、ここまで。

(注※)
高齢化率(満65歳以上の老人)
2008年……22・0%
2050年……35・7%


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司※

【私を知る】

●ためこみ屋(ケチ)

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数日前、「ためこみ屋」と呼ばれる人について書いた。
どんどんと、自分の身のまわりに、ものをためこむ人をいう。
「ためこみ屋」というのは、私が考えた言葉ではない。
心理学の本にも出ている。
ちゃんとした言葉(?)である。
時に家中を、ものだらけにしてしまう。
ひどくなると、家の中や外を、ごみの山にしてしまう。

一般的に、ためこみ屋は、ケチである。
ためこみ屋、イコール、ケチ、ケチ、イコール、ためこみ屋と考えてよい。
が、一方的にケチかというと、そうでもない。
ときに突発的に寛大になることがある。
雰囲気にのまれて、大金を無駄にはたいたりする。
こうした現象は、排便論で説明される。

フロイト学説によれば、2〜4歳の肛門期に、何かの問題があって、
そうなるという。
つまり乳幼児にとっては、便は(財産)。
その便をためるという行為が、ものをためるという行為につながる。
しかし同時に、排便の快感も味わう。
それが(突発的に寛大になる)という行為につながる。

もう少し詳しく説明すると、こうなる。
肛門期に、(1)親にきびしい排便のしつけがされた、(2)排便にたいして適切な
指導を受けなかった、(3)排便について、何らかのトラウマができた。
排便だけではない。

とくに注意したいのが、愛情問題。
たとえば下の子どもが生まれたりして、上の子どもが、愛情飢餓状態に
なることがある。
親は「平等にかわいがっています」と言うが、上の子どもにしてみれば、
それまであった(愛情)が、半分に減ったことが不満なのだ。
赤ちゃん返りは、こうして起きる。

そういう経験をした子ども(人)は、生活態度が、防衛的になる。
長男、長女がケチになりやすいという現象は、こうして説明される。

が、こうした現象を知ることによって、私たちは私の中の(私)を
知る手がかりを得ることができる。
あるいはそのヒントを得ることができるようになる。
ここでは、それについて考えてみたい。

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●私の知人

私は基本的には、ケチではない。
自分で自分をケチと思ったことはない。
しかしそんな私でも、ときどき落ち込んでいるようなとき、パッと
ものを衝動買いすることがある。
とたん、気分がスカッとする。
反対に、ものを衝動買いすることによって、ストレスを発散させることもある。
これも言うなれば、肛門期の名残(なごり)ということになる。

が、それが病的な状態にまで進んでしまうことがある。
だれがみても、(ふつうでないという状態)になることがある。
それがここでいう「ためこみ屋」ということになる。

私の知人に、こんな人(50歳くらい)がいる。
ケチの上に、「超」がつくような人である。
娘が結婚したが、その引き出物として、100円ショップで買ってきた
家庭用品を5〜6個ずつ、箱に入れて渡していた。
(100円ジョップの商品だぞ!)

もちろん小銭に、うるさかった。
小さな菓子屋を経営していたが、妻などは、家政婦くらいにしか
考えていなかった。
すべての行為が、(金儲け)につながっていた。
またそういう目的のために、結婚したようなもの。
妻を使ったというより、こき使った。
そのため妻はやがて、うつ病になり、自殺未遂まで起こしている。

が、悲しいかな、それでその知人が、自分の愚かさに気づいたというわけではない。
妻は1か月ほど入院したのだが、入院費がもったいないという理由で、その知人は、
無理に退院させてしまった。

そのあとのことは知らないが、人づてに聞いたところでは、その知人はケチはケチだが、
ためこみ屋ではないとのこと。
家の中も、それなりに整頓されているとのこと。
しかしそれには、妻の努力があったようだ。
妻が、きれい好きだったということか。
加えてケチが転じて、その知人は、守銭奴になった。
何しろ子どもの学費すら、「もったいない」と言って、ケチったという。

これはあくまでも一般論だが、ためこみ屋の人は、ものを失うことに、強迫観念を
もっていると考えられる。
あるいは時間に対して、異常なまでに執着し、そのため生活そのものが時刻表的
になることが多い。
これは乳幼児期における、神経質な排便指導が原因と言われている。

●人は人

もっともそれでその知人がそれでよいというのなら、それでよい。
私のような他人が、とやかく言ってはならない。
またそんなことをすれば、それこそ、内政干渉。
しかしその知人は、私たちに大切な教訓を与えている。
つまり(私の中の私)である。

ためしにその知人に、こう言ってみたらどうだろうか。
「あなたはあなたですか? 
あなたはあなたの中の、あなたでない部分に
操られているとは思いませんか?」と。

その知人は、まちがいなく、その質問に猛反発するにちがいない。
「私は私だ。私のことは、私がいちばんよく知っている」と。

しかしそうでないことは、ここまで読んでくれた人にはわかるはず。
その知人もまた、(私であって私でない部分)に操られているだけ。
原因はわからないが、いろいろ考えられる。

その知人は、4人いる兄弟姉妹の長男。
昔からの菓子屋。
父親は、道楽三昧(ざんまい)の遊び人だった。
母親は、近所でも有名なほど、勝気な人だった。
そのため長男のしつけには、ことさらきびしかったようだ。
そういう家庭環境の中で、その知人は、その知人のようになった。

言い換えると、自分を知ることは、それほどまでに難しいということ。
しかし知ろうと思えば、知ることは、けっして不可能ではないということ。

●そこで(私)

もしこの文章を読んでいる(あなた)が、ここでいう「ためこみ屋」で、
ケチであるなら、(つまりそういう症状が出ているなら)、一度、自分の心の中を
のぞいてみるとよい。

あなたも、(私であって私でない部分)に気がつくはず。

そして……。

こうして(私)の中から、(私であって私でない部分)を、どんどんと取り除いて
いく。
ちょうどたまねぎの皮をむくように、だ。
そして最後に残った部分が、(私)ということになる。

ただそのとき、恐らくあなたは、(私)がほとんどないことを知るかもしれない。
(私)というのは、たまねぎにたとえるなら、たまねぎの中心部にある、細くて
糸のようなもの。
あるいはもっと小さいかもしれない。
つまりそれくらい、(私)というのは、頼りない。

●スズメはスズメ

だから、さらに……。
ためしに、庭に遊ぶスズメを見てみたらよい。
スズメたちは、恐らく、「私は私」と思って行動しているつもりかもしれない。
しかし北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメ。
どこかで連携しているというわけでもないのに、まったく同じような行動パターンで、
同じように行動している。
もちろんどこかで共通の教育を受けたということでもない。
が、同じ。
私たち人間から見れば、同じ。
つまり(私)というものが、どこにもない。

同じように、アメリカ人も日本人も、人間は人間。
それぞれ「私は私」と思って行動しているが、視点を変えれば、まったく同じような
行動パターンで、同じように行動している。

スズメの中に(私)がないように、実は、私の中にも、(私)というのは、ほとんどない。
「まったくない」とは思わないが、ほとんど、ない。

●ある生徒

たとえばケチな人は、ケチであるということに気がつくか、どうか?
少し話はそれるが、私の生徒のことで、こんな経験をしたことがある。

ある生徒(高2男子)が、私にこう言った。
「生徒会の仕事をするようなヤツは、バカだ」と。
そこで私が理由をたずねると、こう言った。
「そんなことをしていたら、受験勉強ができなくなる」と。

私はその言葉を聞いて、しばらく考え込んでしまった。
たしかにその生徒の言っていることは正しい。
有名大学への進学を考えるなら、1時間でも、時間は惜しい。
生徒会の仕事をしていたら、勉強の時間が犠牲になる。
それはわかる。
しかしその生徒は、受験勉強という、もっと言えば、受験制度の中で、
踊らされているだけ。
もちろんその生徒は、それには気づいていない。
「私は私」と思って、自分で考え、自分で行動している。

さらに言えば、ではその生徒は、何のために勉強しているのか。
何のために高校へ通っているのか。
そういうことまで考えてしまう。

つまりこうした疑問は、そっくりそのままケチな人についても言える。
その知人は、何のためにお金をためているのか。
何のために生きているのか。
そういうことまで考えてしまう。

●私を知る

ではどうすれば、その知人は、どうして自分がそうであることを知ることができるか。
その方法はあるのか。
その知人のことを心配して、こう書いているのではない。
その知人は、その知人でよい。
しかしそれを考えることによって、私たちは自分を知る手がかりを得ることができる。
そのために、その方法を考える。

まず、その知人は、自分がケチであることを知らねばならない。
これが第一の関門。
しかし実際には、そういう人にかぎって、自分がケチとは思っていない。
「自分は堅実な人物」とか、「他人は浪費家」と思っている。
人生観、さらには哲学まで、その上に、作りあげてしまう。
さらに『類は友を呼ぶ』の諺(ことわざ)どおり、そういう人たちはそういう人たちで、
ひとつのグループを作ってしまう。

だからますます「私」がわからなくなってしまう。

言い換えると、私たち自身も、実は同じことをしているのに気がつく。
(私であって私でない部分)が中心にあって、そのまわりを、たまねぎの皮のような
ものが、つぎつぎと重なっている。
そしてつきあう相手も、自分にとって居心地のよい人を選ぶ。
たとえば冒頭に書いたように、私自身はケチではないから、ケチな人間が好きではない。
ケチケチした人のそばにいるだけで、息苦しさを覚えることもある。

しかしそれは本当の(私)なのか?

ケチに気づくことも難しいが、自分がケチでないことに気づくのも難しい。
どちらであるにせよ、どちらがよいということにもならない。
先の高校生について言うなら、現代という社会は、そのほうが、生きやすい。
たしかに「生徒会などをしているヤツは、バカだ」ということになる。

●作られる(私)

で、そういう自分であることに気がついたとする。
つぎに私たちは、いつ、どこで、どのようにしてそういう(私)ができたか、
それを知る。
これが第二の関門。

私はそのためには、精進(しょうじん)あるのみ、と考える。
昨日の私より、今日の私を賢くすることしか、方法はない。
人は、より賢くなって、それまでの自分が愚かだったことを知る。

専門家に相談するという方法もあるかもしれないが、そのレベルまで到達した
専門家をさがすのは、たいへん難しい。
へたをすれば、どこかのカルト教団の餌食(えじき)になるだけ。
占いや、占星術、さらにはスピリチュアルなどというわけのわからないものを、
押しつけられるだけ。

そこで精進。
つねに勉強し、つねに視野を広める。
手っ取り早い方法としては、心理学や哲学を学ぶという方法もある。
が、何よりも大切なことは、自分で考えるということ。
考える習慣を身につけること。
その習慣が、やがて(私)の発見へとつながっていく。

●(私)を知るメリット

もっとも(私)を知ったところで、それがどうした?、と考える人もいるかも
しれない。
(私)を知ったところで、直接、何らかの利益につながるというわけではない。
しかし(私)を知ることによって、私たちは、そこに生きる意味を見出すことができる。
それがわからなければ、反対に、もう一度、庭に遊ぶスズメたちを思い浮かべて
みればよい。

スズメはスズメ。
同じように、人間は人間。
もしそうなら、私たちはスズメと、どこもちがわないということになってしまう。
言い換えると、私たちは(私)を知ることによってのみ、生きる意味そのものを
知ることができる。
そこに生きる意味を見出すことができる。
(私)があって、私たちははじめて、生きることになる。
その実感を手に入れることになる。
そしてそれがわかれば、まさに『朝に知れば、夕べに死すも可なり』ということになる。
「朝に真理を発見できれば、夕方に死んでも悔いはない」という意味である。
もっと言えば、無益に100年生きるより、有益に1日を生きたほうが、よいという
意味である。

(私)を知るということは、そういうことをいう。

●再び、「ためこみ屋」

「ためこみ屋」の人にしても、「ケチ」と周囲の人にうわさされるほどの人にしても、
何らかの心のキズをもった人と考えてよい。
またそう考えることによってのみ、そういう人たちを理解することができる。
(あえて理解してやる必要はないのかもしれないが……。)

しかし先にも書いたように、あなたや私にしても、みな、何らかのキズをもっている。
キズをもっていない人は、いない。
ぜったいに、いない。

大切なことは、まずそのキズに気がつくこと。
そうでないと、あなたにしても、私にしても、いつまでもそのキズに振り回される
ことになる。
同じことを繰り返しながら、繰り返しているという意識すらない。
ないまま、また同じことを繰り返す。

しかしそれこそ、貴重な人生、なかんずく(命)を無駄にしていることになる。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 ためこみ屋 ケチ
ケチ論 肛門期 フロイト はやし浩司 私論 私を知る)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●分厚い教科書(Self-Study)

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教科書を厚くすることには、大賛成である。
現行の教科書(小中高)は、あまりにも薄い。
内容がない。
が、何よりも、自分で読んで、自分で理解して、
自分で勉強するようには、できていない。

子どもの学習で大切なのは、「自学」である。
その習慣づけをいかにするか。
そのとき教育の真価が問われる。

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教育再生懇談会が、つぎのような答申を出した(第三次報告)。
TBS−NEWS−iは、つぎのように伝える。

**********以下、TBS・NEWSより***********

AS内閣の教育再生懇談会は、授業を受けることを前提に作られた現在の教科書を、自習に
も適した内容に改めることなどを盛り込んだ第2次報告をまとめ、AS総理に提出しました。

 教育再生懇談会の第二次報告では、学習指導要領の改訂を受けて、教室で授業を受けな
がら使うことを前提に作られている教科書を、丁寧な記述にして練習問題を増やすなど、自学
自習に適した内容に改めるよう求めています。

(12月18日)TBS NEWS−i

**********以上、TBS・NEWSより***********

大賛成である。

私も、小学3〜4年生ごろから、生徒に、自学を教えている。
子育てにたとえるなら、子ども自身が親離れするように、(できるように)、
指導する。
具体的には、教科書を自分で学習させ、「わからないところがあったら、
もってきなさい」という指導法に、切り替えている。

こうした指導でもっとも注意しなければならないことは、子どもに依存心を
もたせないこと。
依存性をもたせれば、そのときはそれでよいかもしれないが、中学生になったとき、
あるいは高校生になったとき、さらにあるいは社会人になったとき、そこで
宙ぶらりんになってしまう。

たとえば今、社会人で、自分で勉強している人は、いったい、どれくらいいる
だろうか。
母親でもよい。
中には、「私はもう終わりましたから」と言う人がいる。
「私の勉強時代は終わったから、もう勉強などしなくていい」と。
あるいは勉強というものを、進学のための手段にしか考えていない。
そういう人ほど、(学ぶ)ことに対して、依存性が強いと考えてよい。
「勉強嫌い」というよりは、自学の習慣そのものが、ない。

勉強というのは、教えられてするものではない。
教科書なら教科書でよいが、自分で読んで、自分で理解して、自分で勉強するもの。
それを教えるのが、「教育」ということになる。

ところで私の知人にこんな女性(60歳くらい)がいる。

あることでその女性の家に行ってみたのだが、本という本が、ほとんどない。
雑誌もない。
驚いたことに、DVDの再生装置すらない。
話を聞くと、音楽も聴かないという。
その一方で、世間話はよく知っている。
「あのタレントはどうなった」
「この歌手はどうなった」と。
皇族の話も、詳しい。
毎朝、そういうテレビ番組だけは、しっかりと見ているらしい。

が、ある日、その女性から、認知症の相談を受けた。
その女性の夫の様子が、少しおかしいという。
私は専門家ではないが、さっそくインターネットから資料をダウンロードし、
それをコピーして、その女性に渡した。

で、ワイフにそれを届けさせたのだが、その女性は、資料には目をとおそうと
すらしなかっただけではなく、その資料を手で払いのけてしまったという。
「こんなものを読んでも、私にはわかりません!」と。

自学の習慣のない人は、そういう反応を示す。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(081219)

●フグ刺(さし)を食べる

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いつかどこかで食べたような気はする。
しかしどうも記憶がない。
……ということで、昨夜、フグ刺を
生まれてはじめて(?)、食べた。

丸い皿に、切手のように薄い刺身が、
菊の花のように並んでいた。
それを食べた。

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浜松のT先生が、フグ刺を送ってくれた。
丸い皿に、きれいにそれが盛られていた。
「これがフグ刺かア?」ということで、
昨夜、それを食べた。

味は淡白。
独特の舌ざわり。
「これがフグだ」
「これがフグね」と、家族みんなで食べた。
おいしかった+珍味!

いつかどこかで食べたような気はする。
が、どうも思い出せない。
若いころは、結構、派手な生活をしていたから、
どこかで食べたはず。
味にも、覚えがある。
しかしそれが思い出せない。

どこでだろう?
いつだったかな?

そんなことを懸命に考えながら、食べた。

ワイフが、「病みつきになりそう」と言ったので、
すかさず、私はこう言った。
「こんな高級なものを、好きになってもらっては
困るよオ」と。

まあ、めったに食べられるものではない。
そんなわけで、しっかりと味わいながら、食べた。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●官僚天下り、首相が承認(?)

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政府は18日(12月)、省庁による
天下りあっせんを承認する「再就職
等監視委員会」の委員長ポストが定まらない
ことを受けて、監視委員会に代わって、
AS首相が承認する方針を固めたという
(中日新聞・12・19)。
これは官僚の天下りが事実上できなくなっている
状況を回避するためという(同)。
そしてその結果、「……実際には、内閣府
職員に首相の職務を代行させるという」(同)と。

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わかりやすく言えば、AS首相は、「天下り監視センター(正式名:官民
人材交流センター)」を、官僚たちに(=内閣府)に丸投げした。
理由は、委員長が決まらないため、とか?
(委員長人事については、M党が、反対している。)
つまりそれまでの(つなぎ)として発足した「監視委員会」を、事実上、
ギブアップ。
AS首相は、各省庁からあがってくる書類を、ホッチキスで留めるだけ。
それだけの委員会にしてしまった。
つまり「監視」などというのは、まさに「形」だけ。
だったら、何をもって、「監視」というのか?

官僚たちは、今までどおり、何の監視も、制約も受けず、堂々と天下り
できることになる。
しかも表向き、「監視委員会のお墨付き」という、天下の通行手形まで
手にすることができる。
「オレたちは、ちゃんと監視委員会の承諾を得て、天下りしている」と。

しかしこんなバカげた話が、どこにあるのか!
(08年12月19日記)

(付記)AS首相の支持率が、今朝(12月20日)の新聞によれば、
17%前後まで、急落したという。

当然である。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●派遣社員

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今朝の朝刊の見出しは、「トヨタ単体、通期赤字へ」「新車販売500万台
割れ」(中日新聞)。
1面トップの、2つの見出しである。
別のページには、「不況の荒波は想像を超えていた」ともある。

そのため、今、全国で、(もちろんこの浜松でも)、派遣社員や契約社員を
中心に、職を失う人たちが続出している。

……と、ここまで書いて、その先が書けない。
何をどう書くべきなのか?
どう書いたらよいのか?
へたな同情は、そういう人たちに対して、かえって失礼。

……もともとは規制緩和が発端だった。
人材の流動性を確保するためだった。
その結果、企業は派遣社員や契約社員を自由に雇えるようになった。
人事のフレキシビリィティ(柔軟性)が、それで確保できるはずだった。
必要なときだけ、必要な人に働いてもらう。
そういう趣旨から、とくに人材派遣会社も急成長を遂げた。
経済が成長している間は、それでもよかった。
が、それが、今、一転、裏目、裏目に出てきている。

不況になったとき、まっさきにクビを切られるのが、派遣社員の人たち。
その人たちが職を失い、寮を追い出されたりしている。
しかしこれで終わるわけではない。

一般論として、(不況)は、(失業)→(社会不安)→(秩序の崩壊)へと、進む。
日本はまだよいほうだ。
国によっては、国家そのものが破綻し、暴動や略奪に発展することもある。
「私はだいじょうぶ」「日本はだいじょうぶ」と、のんきに構えていたら、
それこそたいへんなことになる。
(事実、今、たいへんなことになりつつあるが……。)

それなりの蓄(たくわ)えがあるならまだしも、そうした人たちほど、
それがない。
まさに「踏んだり蹴ったり」。
だからこの先が書けない。
あまりにも残酷で、この先が書けない。

……ふと目を庭先にやると、ドバト(キジバト)が、白い陽光を浴びて、
ひなたぼっこをしている。
体を丸めて、雑草の上にどっかりと座っている。
何という落差!
そののどかさが、かえって不思議な感じがする。

で、話を戻す。
今回の不況は、すでに7〜8年前に予想されていた。
私も肌で感じていた。
アメリカ経済がおかしいことは、当時からだれの目にも明らかだった。
「このまま進んだら、たいへんなことになるぞ」と。
それを無理に無理を重ねてがんばるから、こういうことになってしまった。
とまあ、過去を悔やんでもしかたない。

ここはじっと我慢のとき。
嵐が過ぎ去るのを、じっと待つしかない。
こういうときというのは、ジタバタした方が負け。
ニクソンショック、オイルショックのときもそうだった。
日本のバブル経済が崩壊したときも、そうだった。
ただひたすら、じっと耐えるしかない。

経済各誌は、その時期を、09年の夏から後半と読んでいる。
カギを握るのが、中国経済ということになるが、このところ
上海B株が、やや上昇に転じてきている。

日本のバブル経済崩壊から日本を救ったのが、実は、中国特需だった。
あの中国特需がなかったら、日本経済は、本当に崩壊していた。
で、今、再び、世界の熱いまなざしが、中国に注がれている。

このまま上海B株が上昇をつづけるかどうか。
上昇をつづけてくれれば、世界経済の復興は早いということになる。
「がんばれ、中国!」、……とは、あまり書きたくないが、日本にその力が
ない以上、ここは、再び、中国に頼むしかない。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●アルツハイマー型認知症

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ワイフの近くに、「?」と思われる女性がいる。
年齢は、今年、66歳になるのではないか。
いろいろ話を聞いていると、どこかヘン?
症状はすでに4年ほど前から、出ている。
まさに教科書どおりの症状。
その女性の名前を、「Kさん」としておく。
現在、退職した夫と2人暮らし。

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たとえばエピソードそのものを忘れてしまう。
昼に何を食べたかを忘れるのは、これはよくあること。
私も、最近、ときどきある。
しかしKさんは、食事をしたこと自体を忘れてしまう。
が、いつもそうであるなら、夫もそれに気づくはず。
そうでないから、夫は、まだ気づいていない(多分?)。
こんなことがあったという。

ワイフがクラブの会費を、Kさんに預けた。
その日、ワイフはクラブには行けなかった。
1週間後に、クラブへ行くと、会費が未納のままになっているのを知った。
Kさんは、クラブに来ていなかった。
そこでワイフがKさんに電話をすると、「会費は青い封筒に入れたまま、
机の上に置いてあります」と言った。
ワイフは、「じゃあ、来週、返してくれればいい」と言った。
そのときは、そのまま電話を切った。

が、翌週もKさんは、クラブを休んだ。
そこで再びKさんに電話をすると、Kさんは、こう言ったという。
「そんなお金のことは知りません」と。
そこでワイフが、「青い封筒に入れて、机の上に置いたと、あなたは言いましたよ」
と告げると、Kさんは、そのままパニック状態になってしまったという。
「ギャーギャーと泣きわめくといったふうで、静かな会話そのものができなかった」と。

ここまででも、(1)エピソード記憶の喪失、(2)尊厳を守るための過剰な反応が、
Kさんに現れているのがわかる。
(できごと)そのものを忘れてしまう。それがエピソード記憶の喪失。
そしてそれを指摘されると、パニック状態になる。それが過剰な反応。

つぎにこんなことがあったという。

最初、Kさんのほうから、その話はもちかけられた。
クラブのクーラーが故障した。
それについて、「修理費用を、2人で出しあって、半々にしよう」ということになった。
ワイフは、それに応じて、電気屋と交渉に入った。

が、それから1、2週間がたったが、Kさんのほうからは、何の連絡もなし。
ときどき同じようなことが以前にもあったので、ワイフはかなり注意していたらしい。
そこでワイフがKさんに、「費用を半分出していただけますか」と話しかけると、
あっさりと、「私は出しません」と。

このように(3)YES/NOが、ある日突然、変わる。
変わるというより、約束したこと自体を忘れてしまう(?)。
あるいは、そのときどきの気分に、大きく左右されてしまう(?)。

が、とうとうワイフをあきれさせるような事件が起きた。

この話は前にも書いたが、クラブの親睦をかねて、どこかへ旅行に行こうということに
なった。
それについて電話をすると、Kさんが、「長野県の下諏訪(しもすわ)にしましょう」
と言った。
ワイフは、それをその場でメモ帳に書きとめた。
が、10分間ほどいろいろと話して、ワイフが、「下諏訪でいいのですね」と念を押すと、
Kさんは、突然怒り出してしまった。
「私は、下諏訪なんて、一言も言っていません。上山田と言ったのです」と。

そこでワイフが、「あら、ちゃんと、メモしたのですが」と答えると、Kさんは、
さらにパニック状態になり、「どうしてそういうウソをつくのですか!
私の母の郷里は、上山田です。まちがえるはずはありません!」と。

たまたまその電話の内容を、Kさんの夫が、Kさんの横で聞いていた。
それでKさんの夫が、「おい、お前、お前は、さっき、下諏訪と言ったぞ」と言ったから、
さあ、たいへん!
今度はその場で、はげしい夫婦喧嘩になってしまった。
ワイフは、Kさんのわめき声を聞いて、そのまま受話器を置いてしまった。

が、その翌日、Kさんからワイフのところに電話があった。
いわく「下諏訪は、父の郷里です。それでまちがえました」と。

こうした(4)つじつま合わせ、とりつくろいも、アルツハイマー型認知症の人に
よく見られる症状のひとつである。
そして(5)あとは自分の殻(から)にこもってしまい、そこから出られなくなって
しまう。
(ふつうの人なら、地名をまちがえたくらいでは、パニック状態にはならない。)

ほかにもKさんには、いろいろ気になる症状が出ている。

ものの言い方が、そのときどきの気分で、つっけんどんになったり、反対に馬鹿
ていねいになったりする、など。
繊細な会話ができなくなった、表情が乏しくなった、生活が貧弱になったなど、という
こともある。
ワイフが仲間と話がはずんでいるようなときども、ひとりポツンと集団からはずれ、
ぼんやりしていることもあるという。
その一方で、しゃべり出したら、止まらない。
同じ話を、何度も何度も繰りかえしたりする、などなど。

今のところ日常生活には支障はないようだ。
夫も気づいていないらしい。
ただKさん自身は、息子の離婚問題もあって、「私はうつ病」と言っているとか。
つまり息子の問題でドタバタしているから、あれこれ、もの忘れするように
なった、と。
しかしこれも、(とりつくろい)と考えることも、できなくなくはない。

私「やはりKさんの夫が気づくべきだよな」
ワ「それがね、ダンナも、どこかおかしいのよ」
私「そりゃあ、たいへんだ」
ワ「私がね、会費のことで、それとなく奥さんが忘れておられるようですと話したら、
ダンナまで、突然怒ってしまったのよ。『そんなはずはない』と、ね」

私「ダンナも、妻の異変を認めたくないのかもしれないね」
ワ「こういうときは、どうしたらいいのかしら?」
私「今度、Kさんの息子さんに会ったら、ぼくのほうから話してみるよ」
ワ「そうね、それがいいわよね」と。

こうして書くと、何でもないような話に聞こえるかもしれないが、ワイフはワイフで、
かなり不愉快な思いをした。
会費についても、そのままになっている。
が、何よりもワイフを不愉快にしたのは、Kさんが、つぎつぎと約束を破ったこと。
これについては、ワイフは、こう言った。
「だから今はね、連絡は何でもメモでするようにしているのよ」と。

アルツハイマー型の痴呆症というと、本人だけの問題と考えている人は多い。
(もちろん本人やその家族の人たちにとっては、深刻な問題だが……。)
しかしその人自身が、その周囲の人たちに、大きな迷惑をかけるということもある。
とくに初期の段階においては、そうである。

繊細な感情が消え、相手に対して、ズケズケとものを言うようになる。
そのズケズケ言うときに、相手をキズつける。
本人はそれでよいとしても、言われたほうは、心底、それに苦しむ。
そういうこともある。

やはりこの病気は、早期発見が何よりも大切。
本人自身にとっても、またまわりの人たちにとっても……。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●映画『地球が静止する日』

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昨夜、仕事が終わってから、映画『地球が静止する日』を
見てきた。
封切り初日ということで、劇場には、30〜40人前後の
人が入っていた。
金曜日の夜だったので、まあまあの(入り)ということに
なる。

しかしやや期待はずれ。
星は3つも難しいかなというレベルの、3つ(★★★)。

キアヌ・リーブス主演。

内容は、ありふれたSF映画。
地球を救うためにやってきた宇宙人が、地球を救うために
人類を滅ぼそうとする。
「人類が生き残れば、地球は滅ぶ」とか何とか……。
しかし人間どうし(母子)の深い愛情に心を打たれて、
宇宙人は方針を変える。
……とまあ、そういう、どこかありふれたストーリー。

+++++++++++++++++++++++

『静止する日』というから、私は地球の自転が止まるとか、そういうような映画を
想像していた。
しかしそうではなくて、最後の最後のところで、意味がわかる。
つまり人類は、ありとあらゆるエネルギーの消費をやめる。
それが(静止)ということになる。

しかしどうも、納得できない。
木に竹を接(つ)いだような感じがする。

映画『宇宙大戦争』のときもそうだったが、宇宙人なら、人類を滅ぼすために、
こんな回りくどいやり方はしない。
私が宇宙人なら、人間だけに感染するウィルスのようなものをばらまく。

しかしそれだと地球は、人間の死体だらけになってしまう。
かえって汚染されてしまう。
そこで今回の映画では、超小型の金属製のxxxを登場させる。
(まだ映画を見ていない人のために、あえてxxxとしておく。)
が、それでも、回りくどい。

それにキアヌ・リーブスの登場の仕方が、やや大げさ。
そのあとの展開と、うまく結びつかない。
だから星は、3つ。

そこで改めて、人類滅亡論。

人類が滅んでも、また1億年後くらいに、昆虫などから進化した別の
知的生命体が生まれれば、私は、それはそれでよいと思っている。
ゴキブリ人間でもよい。
そのゴキブリ人間が化石を発掘して、「これが太古の昔、ヒトと呼ばれた人間の
化石です」とで言えば、楽しいではないか。
ゴキブリ人間の子どもたちは、きっと驚嘆の声をあげるにちがいない。
「ヒトって、大きかったんだね」と。

私の意見がおかしいと言うなら、反対に、1億3000年前に話を戻してみるとよい。
恐竜が生きていた時代には、人類の祖先たちは、今のネズミのような動物だった
という。
私が宇宙人なら、ネズミなどには、目もくれなかっただろう。

映画の中で、ひとつだけ、気になるセリフがあった。
正確には思い出せないが、キアノ・リーブスが演ずる宇宙人が、こう言った。
「人間には、死はない。姿を変えるだけ」と。

つまり人間は死んで消えるのではなく、別のものに姿を変えるだけだ、と。

この言葉には、少なからず、私はショックを受けた。
というのも、私は死んだら、(私)は消えると考えていた。
しかし「消える」のではなく、「姿を変える」のだ。

ナルホド!

おもしろい表現なので、心の中に大切にしまっておく。
このつづきは、また別のところで考えてみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司※

●冬休み

私にも冬休みがある。
その休みの間、紀伊半島と福井県のほうへ、行く。
昨日、旅行社で、その予約をしてきた。
例年だと、今ごろ申し込んでも、空きがなくて、断られる。
が、今年は、ツアーが中止になったものも多いとか。
不況が大不況になりつつある。
今朝の新聞によれば、日本のT自動車ですら、今年は赤字とか。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●日本の復権

+++++++++++++++++++

●日本の銀行が、世界の10行以内に、3つも!

右も左も、暗いニュースばかり……。
あれも悪い、これも悪い、と。
しかしものごとは、暗い面ばかりを見ていてはいけない。
暗い面ばかりを見ていると、気が滅入る。
そこで逆転の発想!
この大不況を、逆転の発想で、利用することもできる。

+++++++++++++++++++

たとえば(日本)という国を世界の中で見たとき、
日本も暗いが、世界は、もっと暗い。
たとえば世界は真っ暗で、手探りでも進めないような
状況だが、日本だけには、まだ薄明かりが灯(とも)っている。
まず、つぎの数字を見てほしい。

三菱UFJファイナンシャル・グループは、モルガン・スタンレーに、9000億円
みずほファイナンシャル・グループは、メリルリンチに、1300億円
三井住友ファイナンシャル・グループは、バークレイズに、1000億円、
それぞれ出資している(08)。
この活力こそが、日本のパワーということになる。

さらに、日本の銀行は、一時は世界の市場から締め出され、
アジアのサラ金と成り下がってしまった。
が、ここに来て、急に風向きが変わってきた。
つまり日本の銀行が、復権をかけて、今一度、世界の市場に躍(おど)り出てきた。

世界におけるマーケット・シェアも、

みずほファイナンシャル・グループ……4・0%(世界第6位、前年度第16位)
三井住友ファイナンシャル・グループ……3・9%(世界第7位、前年度第18位)
三菱UFJファイナンシャル・グループ……3・4%(世界第8位、前年度第20位)

へと、順位を伸ばしている。

わかるかな?
日本の銀行団が、世界の10行以内に、3つも入った!
(以上、2008年1〜9月期・トムソン・ロイター調べ:出典、日経ビジネス)

ただし出資については、それぞれ相互につながりが深く、出資先が潰れてしまっては
元も子もなくなってしまう。
だから出資した、という色彩もないわけではないが、こんな芸当は、ほかのどこの
国の銀行にもまねできない。
わかりやすく言えば、日本の銀行団が、モルガン・スタンレー(シェア11・7%、世界
1位)や、メリルリンチやバークレイズを自分の支配下に置いたことになる。

●大不況は、日本は経験済み

かつてGE(ゼネラル・エレクト社)と言えば、家電メーカーの王者だった。
私が学生時代のときも、そうだった。
しかしそのGEが、モノを作らなくなって、もう30年近くになる。
海外に生産拠点を移すこともしなかった。
そこでGEが取った手段は、外国製、とくに日本製に自社のブランドをつけて、
アメリカ国内で売るという方法だった。
しかしこの方法は、すぐ、行き詰った。

一方、この日本は、とくにバブル経済崩壊以後、生産拠点を海外へ移すことで、
生き延びてきた。
つまりここが(日本)と(外国)のちがうところ。

アメリカにしても、EUにしても、さらにアジア各国にしても、自国の
マーケットの範囲でしか、活動してこなかった。

「世界規模の経済危機によって、厳しい経営を強いられているのは、
何も日本企業だけではない。
海外に目を転じれば、むしろ拡大する自国経済圏に依存し、助けられてきた
アメリカ、欧州、アジアの企業の傷のほうが深刻だ」(日経ビジネス・徹底予測
09・p59、田村俊二)ということになる。

同氏は一例として、GM(ゼネラル・モーターズ)をあげる。

さらにいくら外国もがんばっているとはいえ、日本製はいまだに、高品質の
代名詞になっている。
その地位は、揺るいでいない。
たとえば自動車にしても、韓国の現代社は、品質面では日本車とほとんど
差がないほどまでに追い上げてきている(現代社、弁)。
しかし日本製か韓国製かということになれば、世界の人たちは迷わず、日本製を
選んでいる。
具体的には、日本製は販売台数を伸ばし、韓国製は、その分だけ、販売台数を
減らしている。
今回のサブプライム・ショックとリーマン・ショックが起きる直前には、トヨタは、
販売台数1000万台を記録した。

こうした日本のパワーは、まだ随所に残っている。
これもわかりやすく言えば、日本も苦しいが、世界は、もっと苦しんでいるということ。
つまりその分だけ、日本の力は、相対的に強いということ。
それをうまく利用すれば、強者はさらに強者になることができる。

●ゼロ金利のアメリカ

つい先ごろ(08年12月)、アメリカは、史上初のゼロ金利政策を実行した。
これもわかりやすく言えば、アメリカは、無制限にドル印刷機を回し始めたということ。
その点、基軸通貨というのは、強い。
それをほしがる人(国)があれば、いくらでも印刷機を回すことができる。
しかしそれにも限度がある。

「(史上初のゼロ金利策を取ったということは)、アメリカは自分たちが生き残るためには、
他国を犠牲にしても構わないという姿勢です」(筑波大学名誉教授・小林弥六氏、日刊
ゲンダイ・12・20)ということになる。

もちろん日本は、その影響をモロに受ける。
今まで日本は、貿易などで稼いだお金をせっこらせっこらと、ドルに換えていた。
ドルに換えることで、アメリカのドルを買い支えてきた。
が、そのドルが、今、紙くずとまではいかないにしても、それに近い状態になりつつ
ある。

「年内に1ドル=70円台、さらに来年(09)には、1ドル=50円台を覚悟しなくて
はならない」(日刊ゲンダイ)と。

1ドル=100円が、1ドル=50円になるということは、アメリカの貿易赤字が、
半分になることを意味する。
半面、日本のドル資産も、半減することを意味する。
日本にとっては、たいへんなことだが、しかしここで誤解してはいけないのは、
日本のドル資産がマイナスになるのではないということ。

今まで1000万円の預金をもっていた人が、500万円になったからといって、
それはそれ。
何とか500万円だけは、残る。

そこで世界は今、アメリカドル一辺倒の経済体制から脱却し、「共通通貨」の創設を
めざして動き始めている。
世界の人たちが、「もうアメリカドルに振り回されるのは、ゴメン」と。
それは当然だとしても、そういう(流れ)の中で、世界でただ一国、つまり
日本だけが、ドル基軸通貨維持を表明している。
しかもそれをわざわざアメリカまで行って表明したのが、日本のAS総理。
「おバカ総理」(週刊B春)と揶揄(やゆ)されている、あのAS総理である。
(本当におバカだと、私も思う。)

一時的には、つまり今までの日米関係の(流れ)からして、そう言わざるをえない
気持ちもわかるが、これだけ煮え湯を飲まされたのだから、少しは賢くなったら
どうか。

つまりこれは食うか食われるかのバトルである。
日本だけがいい子になっていてはいけない。
その素振りを見せたとたん、日本は世界の餌食になってしまう!

●がんばれ日本、負けるな日本!

ここから先は、かなり過激な意見になる。
しかし今、日本は、外国を助ける必要はない。
そんなことを考える余裕もない。
まったく、ない。

たとえば日本は、韓国との間のスワップ協定を、それまでの100億ドルから、
300億ドルに、さらにそれを倍増させようとしている。
スワップ協定というのは、簡単に言えば、資金の融通制度。
融通制度といっても、一方的な融通制度。
常識で考えてみれば、それがわかるはず。

日本が韓国に資金を融通することはあっても、韓国が日本に資金を融通するなどという
ことはありえない。
経済規模そのものがちがう。
もし日本が金融危機に陥れば、当然韓国も金融危機に、連鎖的に陥る。
どうしてこの日本が、そんな韓国を助けなければならないのか?

こうしたお人よし政策は、もうやめたらよい。
ほかにも日本は戦後、世界中にお金をばらまいてきた。
遠くはアフリカに、まで!
しかしそうした世界が、日本に何をしてくれた?
バブル経済が崩壊し、日本が青い息吐息で苦しんでいたころ、日本に救いの手を
差し伸べてくれた国が、あったか?
中国ですら、それまでの円借款をやめると言っただけで、猛反発したではないか。
韓国にいたっては、「千載一遇のチャンス」とばかり、日本の追い落とし作戦を
展開した。
あの金大中が、毎朝、(毎朝だぞ!)、そのための経済閣議を開いたというのは、
有名な話である。

(1)韓国には、この市場から退散してもらう。
韓国が最悪の反日国家であることを忘れてはならない。
(2)日本も共通通貨をめざし、その仲間に入る。
アメリカの一極支配から脱却する。
(3)中国以外の新興国に、生産拠点を移す。
中国の台頭をこれ以上、許してはいけない。

簡単に言えば、日本もなりふり構わず、自国の利益を優先させる。
繰り返すが、これはただのバトルではない。
日本が生き残るか、消滅するかのバトルである。
もしこのバトルに日本が敗れるようなことがあれば、日本はそのとき、本当に
太平洋の海溝に沈むことになる。

●心配の種

もちろん心配の種もいくつかある。
先に日本の銀行団が、アメリカの銀行に出資していると書いたが、もし出資先の
銀行が倒産ということにでもなれば、日本の銀行も連鎖倒産ということになりかねない。

またドルが、本当に1ドル=50円ということになり、それが長期に渡ってつづいた
とすると、日本の輸出企業は壊滅的な打撃を受けることになる。
1年とか2年ならまだしも、それが5年ともなるようなことになると、その先のことは、
私にもわからない。
中には「5年もつづかない」と書いている人もいるが、日本は、あのバブル経済崩壊
以後、その後遺症に、10年近くも苦しんだ。
「5年」という数字も、ありえないことではない。

さらに心配なことは、こうした経済崩壊が、各国の政情を不安定にするということ。
日本はともかくも、中国、朝鮮半島で、何が起こってもおかしくないという
状況になる。

たとえば今までの歴史の常として、アメリカやロシア、さらには中国が、
戦争という手に打って出てくるかもしれない。
今、もっとも危険視されている国は、イランであり、アフガニスタンであり、そして
北朝鮮ということになる。

仮に朝鮮半島有事ということになれば、戦争そのものは短期間ですむとしても、日本は
莫大な補償費をアメリカに支払わなければならなくなるだろう。
朝鮮半島の復興費も、日本に重くのしかかってくる。

その前に、日本のどこかで核兵器が爆発することだって、考えられる。
「まさか!」と思う人もいるかもしれないが、戦争に、(まさか)は常識。
ドイツのソ連侵攻も、その(まさか)だった。
日本の真珠湾攻撃も、その(まさか)だった。
(まさか)の連続が、戦争。
それを忘れてはいけない。
またその警戒と準備を、怠ってはいけない。

つまりこうした(心配ごと)をうまくクリアすれば、日本は再度、世界の経済大国
として躍り出ることができる。
復権することができる。
つまりこれこそが、まさに逆転の発想ということになる。
(08年12月20日記)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●ゴーギャン

+++++++++++++++++

タヒチと聞くと、南海の楽園を連想する。
これは多分に、ゴーギャンの描いた絵の影響
と思われる。

ゴーギャンは、あの有名な『我々はどこから
来たのか、我々は何者なのか、我々は
どこへ行くのか』という絵を残している。
右に赤子、左に老女を配しながら、全体に
6〜7人の裸の女性を描いた絵である。

私にはどこか甘い感じの漂う、ロマンチック
な絵に見えた。
そんなこともあって、私は若いころから、
「いつかはタヒチに」と思ってきた。

そんなゴーギャンについて何気なく調べて
いたら、生まれたのが1848年と知った。
「ああ、私が生まれた、ちょうど100年前だ」
と思ったとたん、スーッとゴーギャンの世界に
入ってしまった。

ゴーギャンは、1848年生まれ、1903年没。
私は、1947年生まれ、20??年没。
今年は2008年だから、今のところ、私のほうが、
やや長生きをしていることになる。
ゴーギャンは、55歳で、この世を去った。
死因は、心臓発作と言われているが、その前に
ヒ素を大量に飲んで、自殺未遂をしている。
先の絵を描いた直後のことである。

++++++++++++++++++

そこでさらに調べてみると、ゴーギャンは、2度、タヒチに渡っていることがわかる。
1893年と、1895年の2回である。
1回目は、アルルでのゴッホとの共同生活が失敗に終わったあと。
2回目は、フランスでの苦しい生活に見切りをつけたあと。
とくに2回目は、「完全に世俗的な成功の望みを捨てて」(「世界の名画」PHP)
とある。

私はこういう数字を見ると、すぐ自分の年齢に当てはめてものを考えてしまう。
1893年といえば、ゴーギャンが、45歳のとき。
1895年といえば、ゴーギャンが、47歳のとき。
「私は、45歳のとき、何をしていたか」とか、「47歳のときはどうか」とか。
そういうふうにである。
そして「47歳で、完全に世俗的な成功の望みを捨てたのは、すごいことだ」と
思ってしまう。

(フランス人というのは、早熟なのかな?)

が、ゴーギャンにとって、タヒチというのは、けっして理想の「楽園」ではなかった
ようだ。
むしろタヒチに、失望している(?)。
「タヒチの現実への幻滅と、追い求めた理想が描かれている」(同書)とある。
「だったら、どうして2度もタヒチへ渡ったのかな」とも思うが、それはそれ。
どんな生活にも、よい面もあれば、悪い面もある。
ゴーギャンはゴーギャンなりに、幻滅しながらも、そこでの(現実)を楽しんでいたの
かもしれない。
つまりこれも自分の生活に当てはめて考えてみると、わかる。

たとえば「幻滅」とはいうが、日常生活は、幻滅の連続。
「希望」といっても、冬の日に、ときたま差し込む淡い光のようなもの。
あとはそれに必死になって、しがみつくだけ。
それに……。

当時のタヒチで、ゴーギャンの絵を理解できるような人はいなかったと思う。
ゴーギャンの絵に、お金を払う人もいなかった。
事実、ゴーギャンは、タヒチでは絵の具も満足に買えないような貧乏生活を
送っている。
(フランスでも、そうだったが……。)
芸術家にとって、自分を理解できない人の間で住むことは、苦痛以外の何もの
でもなかったはず。
いくら「世俗的な成功」とは縁を切ったとはいえ、その先、無私、無我の境地に
達するのは、別問題。

私も世俗的な成功と縁を切ることができたのは、55歳前後のこと。
世俗に媚(こび)を売るのをやめたのも、そのころ。
しかし今でも、お金は嫌いではない。
できれば成功したいと願っている。
心のどこかには、「まだまだ……」という思いもある。

だから、ゴーギャンのように自殺までは、考えたことはない。
(ゴーギャンは、妻のもとに残してきた娘のアリーヌの訃報が、自殺未遂の理由
だったとされる。)
しかしこんなことは言える。

私も幼児教育をするようになって、40年近くになる。
その間、実は、孤独との闘いでもあった。
相手は、幼児。
あるいは若い母親。
いくらがんばっても、心のコミュニケーションは、不可能。
今でもときどき、「よくもまあ、こういう幼児や親を相手に、仕事をしてきたものだ」と、
自分で自分に感心するときがある。

とくにお金を求めて仕事をしてきたわけではないが、率直に、いちばんお金にシビア
なのが、この世代の母親たち。
ときどき「バカヤロー」と叫びたくなるようなときもあった。

さてゴーギャンの先の絵をもう一度、よく見てみる。

右端の赤子が(生命の始まり)を象徴し、左端の老女が(死)を象徴している。
そのことは解説書(同書)にも、そのように書いてある。
しかしこの程度の解説を紹介するだけなら、だれにだってできる。
そこで私の解説。

(1)全体に絵が、丸いアーチを描いているのがわかる。
(2)右のほうに、3人の若い娘が描かれている。
(3)暗い色を背景に、母親と娘らしき女性が2人、描かれている。
(4)中央部に、若い女性が天に向かって、果実を手にしようとしている。
(5)左に寄ったところに、青白い神が描かれている。
(6)老女の横に、なまめかしい1人の女性が描かれている。
(7)老女はその左側に描かれている。

これらの絵を右から順に見ていくと、いろいろと気づく点がある。

構図がアーチになっているのは、人生の興隆と衰退を象徴している。
3人の若い娘は、ゴーギャンが若いころ知りあった女性かもしれない。
どこかものほしげな顔が印象的である。
母親と娘らしき女性は、ゴーギャンの妻と、娘のアリーヌかもしれない。
この絵では、中央の女性が、もっとも目立つが、この女性は、世俗的な成功をまさに
手にしようとしているかのようにも見える。
あるいはその象徴?
が、それもすぐさま、夢の中に消える。
そこでゴーギャンは宗教にその救いを求める。
それがその左の、青白い神の絵ということになる。
が、つづいてなまめかしい女性の絵。
これはひょっとしたら、ゴーギャンがタヒチで知りあった女性かもしれない。
どこか意味ありげな顔つきをしている。
で、最後は老女。

部分的に、意味がよくわからないところもある。
それらもゴーギャンの一生に深く関係しているのかもしれない。
ただひとつ、どうでもよいことだが、もっとも右端に犬、もっとも左端にアヒルが
描かれている。
この犬とアヒルは、何を象徴しているのか。

黒い犬のような闇から生まれて、人は最後は、死んで白いアヒルのようになるのか。
まあ、いろいろ考えられるが、ゴーギャンは、この一枚の絵の中に、自分の人生の
すべてを託したという。

こうして考えてみると、偉大な画家というのは、抽象的な観念をどんどんと凝縮し、
それを凝縮しきったところで、具体的なモノや人を使ってそれを表現していることが
わかる。
文章と対比させてみると、それがわかる。

自分の一生を文章で表現するときは、すべてを書かねばならない。
抽象的な観念を凝縮するということはできない。
そんな文章を書いても、だれも理解できないだろう。
一方、絵画は、見る人の心の中で、いかようにも解釈できる。
その(いかようにも)という部分の中で、描いた人の心をふくらますことができる。
またそれができる人を、私たちは画家、つまり芸術家と呼んでいる。

しかし文章ではそれができないのか?
ためしに、私の一生を、文章で表現してみる。
(これはあくまでも遊びとして……。)

+++++++++++++++


暗闇
振り子
父の酒乱
不安と焦燥
わんぱく少年
自己逃避と挑戦
ひたむきな猛進性
同一性の希求と絶望
社会へのしがみつき
現実への迎合と諦め
家族自我群と幻惑
宗教性との葛藤
自己の統合性
俗との決別
自己埋没
物書き
無私


+++++++++++++++

こういうことが、1枚の絵でできるところが、すごい。
しかも翻訳なしで、世界中の人に訴えることができるところが、すごい。
ゴーギャンの絵を見ながら、そんなことを考えた。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 ゴーギャン
我々はどこから来たのか タヒチ)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●教えていて、空しさを感ずるとき

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私は子どもを教えるようになって、言いようのない
空しさを味わうことがある。
何度かある。
今、記憶にあるのは、3度。
うち2度は、私が進学塾で講師をしているとき、経験した。
そのたびに、「もう、こんな子どもは教えたくない」と
思った。
「こんな子どもに知恵をつけさせたくない」と思ったこともある。

+++++++++++++++++++++

●3度の事件

(1度目)

ある日授業を終えて、控え室へ行くと、そこに4、5人の中学生がいた。
私がいつも使っているコップが、テーブルの上にあった。
授業の前に注いだお茶が、そのままになっていた。

私は空いている席に座り、お茶をそのまま飲んだ。
が、どこかおかしな雰囲気。
中学生たちが、みな、私を見おろしながら、ニヤニヤと笑っているではないか。
とたん、気がついた。
「何をした!」と強く言うと、その中の1人がこう言った。
「先生、変な味、しない?」と。

もう一度「何をした!」と、強く聞くと、J君という中学生(中2)が、
ニヤニヤと笑ったまま、悪びれた様子もなく、こう言った。
「殺虫剤を入れておいた」と。
見ると片手に、市販のスプレー式の殺虫剤をもっていた。

私はJ君をにらみながら、「お前がしたのか!」と聞くと、「そうだ」と。
私は即刻、J君にこう叫んだ。
「お前はしていいことと、悪いことの区別もつかないのか」
「お前のようなヤツは、進学など、やめてしまえ」
「この塾へは、2度と来るな」
「あとで塾長に話しておく」と。

結局、J君はそのあとも、進学塾をやめなかった。
塾長が、反対に、私をたしなめた。

(2度目)

2度目も、その進学塾でのことだった。
ある日、2人の中学生の進学相談に応じていた。
1人はM君(中3男子)、もう1人はAさん(中3女子)。
そのとき私とM君は、ちょうどテーブルをはさんで、対峙する位置に座っていた。
それを横からAさんが、見ていた。
M君は、あれこれと勉強のことや、進学のこと、学校での成績などを私に話していた。
そのときは一方的な会話だったので、私は軽く目を閉じ、M君の言葉にうなずいていた。

その瞬間のこと。
あろうことか、あるいは何を思ったのか、M君が自分のもっていたシャープペンシルを、
さっと前に出し、私の顔とテーブルの間に立てた。
それを知らない私は、うなずくと同時に、パシンとシャープペンシルがメガネの
端のところではじけるのを感じた。
と、同時にシャープペンシルの先が私の眉の付け根に突き刺さった。

そこに細い動脈があった。
血しぶきが、顔面に散った。
「何てことするんだ!」と叫ぶ間もなく、M君はその場で土下座した。
「ごめんなさい」「ごめんなさい」と。

今でもそのときの傷あとが、右目の付け根あたりに残っている。

(3度目)

これは最近、経験した。
インフルエンザが、あちこちで流行(はやり)始めている。
鳥インフルエンザも、うわさされている。
そこで私の教室では、その対策というか準備のため、咳をする子どもには、
徹底してマスクをつけさせるようにしている。

が、ときどき「どうしてエ?」と、反発してくる子どももいる。
そういうとき私は、「今から練習しておかないと、いざというときにできないだろ」と、
説明することにしている。

が、レッスンも終わりかけたころ、R君(小2)が、私のところへつかつかとやってきた。
何か用かなと思っていると、R君は突然マスクを下へさげると、同時に、大きな咳を
私にぶっかけた。
顔にR君の唾液が飛び散るのを、私は感じた。

「何てことをするんだ!」と、そのときも、そう叫んだ。

●共通する(常識はずれ)

こうした子どもに共通する症状としては、つぎのようなものがある。

(1)親の過干渉などにより、(あるいは口うるさい家庭環境などにより)、自分で
考えて判断するという習慣に欠けている。

(2)善悪のバランス感覚にうとく、日ごろから何かにつけて、突飛もないことを、
平気でする。

(3)叱られじょうずで、こちらが怒ったりすると、すかさずしおらしい様子をして
みせる。いかにも反省していますといった様子になる。

原因は、(1)にも書いたように、家庭環境にある。
日ごろから親が、(とくに母親が)、がみがみと、一方的に子どもにものを言う。
子どもに話しかけるというよりは、命令口調が多い。
子どもの気持ちを確かめるようなことをしていない。
子どもは子どもで、叱られじょうずというか、その場をうまく切り抜けようとする。

そういう家庭でのやり取りが、乳幼児期からつづいている。

ただJ君(1度目)のように、知的能力にやや問題があるケースもある。
善悪の正確な判断ができない。
突発的に、(とんでもないこと)をする。

これは幼稚園で経験したことだが、コンセントに粘土をつめていた子ども(年長
男児)や、絵の具を溶かして色水を作り、それを2階のベランダから下の子どもたちに
かけていた子ども(年長男児)もいた。
同じように、善悪の判断にうとい子どもとみる。

が、問題は、こうした子どもたちを、どう指導するか、だ。
中学生くらいになると、実際のところ、手遅れ。
幼稚園の年長児でもむずかしい。
というのも、これは指導の問題ではなく、家庭環境の問題。
もっと言えば、親の問題。

子どもを指導することはできても、親を指導するのはむずかしい。
実際には、不可能。
第一、親にその自覚がない。
第二、家庭教育に干渉すると、ときとして思わぬトラブルに巻き込まれる。
第三、親が自分のもつ子育て観を変えるのは、よほどのことがないかぎり不可能。
とくに私立幼稚園や進学塾では、子ども自身のもつ問題よりも、経営が優先する。
先に書いたJ君の事件にしても、私は「退塾させてください」とかけあったが、
塾長がそれに応じてくれなかった。

しかし……。
放置しておけば、このタイプの子どもは、さらに大きな事件を引き起こすようになる。
そういう事件を起こしてはじめて、親はそれに気がつく。
いや、気づく親は、まだよいほうかもしれない。

ある子ども(小6)は、学校で先生の車に石をぶつけて、ドアにキズをつけてしまった。保険会
社から補償金を得るため、先生は、すぐ警察を呼んで、調書をとってもらった。
が、これに親が猛反発。
「そんなことで警察を呼ぶなんて!」と。
それを見ていたほかの子どもたちは、みな、「あの子はわざと石を投げた」と証言した。
しかし親は、最後の最後まで自分の子どもの言い分だけを鵜呑みにし、「うちの子は、
足で蹴っただけ。その石が飛んでいってしまっただけ」と言い張っていた。

ある子ども(高1男子)は、郵便局前にキーをつけたまま放置してあったバイクを
盗むと、そのまま無免許運転で逃げてしまった。
そしてたまたま通りにいた別の友人をうしろに乗せると、郊外へ。
そこでバイクを山肌に激突させ、友人に大怪我をさせてしまった。

いろいろと、この種の事件は、多い。
少子化が進んで、一般的な傾向として、親はますます子どもに干渉するようになった。
その結果、勉強はそこそこにできるものの、常識はずれの子どもが多くなった。
日ごろから、(1)自分で考え、(2)自分で行動し、(3)自分で責任を取るという
習慣そのものがない。
それがわからなければ、一度、「はやし浩司の自由の三原則」を読んでみてほしい。
HPのどこかに収録してある。

ともかくも、こうした事件が起きるたびに、言いようのない空しさを覚える。
少し大げさに聞こえるかもしれないが、ときに、「教育とは何か」と、そこまで
考えてしまう。

●勉強より大切なもの

勉強より大切なものがある。
それが(常識)ということになる。
その常識をさておいて、勉強はない。
いくら勉強ができても、その常識がなければ、何にもならない。

ここでいう常識とは、善悪の判断が正確にできることをいう。
してよいことと、してはいけないことの判断が、正確にできる。
私は「善悪のバランス感覚」と呼んでいる。
それを教えずして、何が教育かということになる。

ついでに言えば、これは教育の問題ではない。
先にも書いたように、家庭教育の問題である。
さらに言えば、親の育児姿勢の問題である。
親自身が、日ごろからルールを破るだけ破っておいて、子どもに向かって、
「悪いことをしてはだめ」は、ない。
それこそ親の身勝手というもの。

この原稿を読んで、「そういえばうちの子も……」と感じたら、あなた自身の
育児姿勢を一度反省してみてほしい。
この問題だけは、親自身が自ら気づき、自ら反省するしか、解決方法はない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
自由の3原則 常識はずれ 常識はずれの子供 常識外れ 善悪のバランス感覚 
親の過干渉 過干渉児 はやし浩司 善悪の判断)


Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

●スケベな話

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「ミニパソコンは、やはり老人向けではないな」と言うと、
ワイフが「どうして?」と。

そこで私が、「若い娘のクリxxスみたいで、文字が小さくて読みづらい」と。
とっさの思いつきだった。
するとワイフが、「あらそう? じゃあ、歳を取ると、どうなるの?」と。

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私「歳を取ると、大きくなるのかな?」
ワ「あらそう? 私、知らなかったわ」
私「ふつうなら、こういうとき、ワイフというのは、『どうしてそんなこと
知っているの』と言うもんだよ。ぼくがお前なら、そう言う」と。

若いころ、オーストラリアで聞いたジョークにこんなのがあった。
初夜のとき、妻がバージンかどうか見分ける簡単な方法があるという。
その方法というのは、自分のぺxスに、青い色を塗っておくのだそうだ。
それを見て、妻が、「どうしてあなたのは青いの?」と聞いたら、その妻は
バージンではないということになる……のだそうだ。

さらにオーストラリアには、昔、『トークバック』という、よく知られた
ラジオ番組があった。
もっとも気の利いたジョークを言った人に、賞が与えられるという番組である。
が、この話を書く前に、英語の勉強。

英語の単語の「ハード(hard)」には、2つの意味がある。
「硬(かた)い」という意味と、「難しい」という意味である。
オーストラリアでは、「難しい」と言うとき、「ハード」という言葉をよく使う。
「It's hard. (それは難しい)」と。

そのとき1人の女性がラジオに登場した。
そこでキャスターがこう聞いた。

「あなたははじめて夫に会ったとき、あなたは夫に何と言いましたか?」と。
それに答えて、やや年配の女性が、ウーンと考えた様子を見せたあと、
こう答えた。
「It's a hard one.(難しい問題ね)」と。
しかしこの答が、全豪中に、大爆笑を起こした。
そしてその女性の言った言葉が、その年のジョーク・No 1に選ばれた。

あなたには、その理由がわかるだろうか。


Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

●緑内障の検査

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先日あるテレビを見ていたら、「家庭でできる
緑内障の検査法」というのを紹介していた。

緑内障の恐ろしさは、よく知っている。
たった一晩で全盲になってしまった人(男性、40歳
くらい)もいる。

公認会計士で、目を酷使したため、片方の
視力を失ってしまった人(同窓生)もいる。

目は大切にしなければならない。

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で、その検査法というのは、目で前方の1点を凝視しながら、
指先(親指と人さし指)を、パチパチさせながら、目の前で
円を描くというものだった。
腕を軽く伸ばしたまま、半径20センチ前後の円を描くようにして、
手を回すのだそうだ。
そのとき指先がときどき消えてしまうようなことがあれば、
緑内障ということになる。

で、あまり深く考えないで、テレビに出てきたドクターの
言うままに、私もまねをしてみた。
とたん、ゾーッ!
指先が、あちこちで消えるではないか!
それまで眠かった頭が、急に冴えてしまった。
「もしや、緑内障!」と。

しかしもう一度試してみると、今度は見える。
しかし確かに先ほどは、見えなかった。
見えなかったということは、視野が欠けていることを示す。
しかしそんなことというのは、あるのだろうか。

で、何度も試してみて、なぜ指先がときどき消えたかがわかった。
実は私はメガネをかけたまま、その検査法を試してみた。
指先が、メガネの縁(ふち)や柄(え)と重なったとき、
当然のことながら、指先はその死角に入る。
鼻の陰に入ったときもそうだ。

結局「ナーンダ」ということで、この話は、おしまい。
しかし目の大切さだけは、再認識できた。

ところで先に書いた、たった一晩で全盲になってしまった人の話。
これは事実である。
その男性の実家が、火事になった。
男性は1階で寝ていて、難をのがれたが、彼の母親は2階で寝ていて、
そのまま焼死してしまった。
何とも痛ましい事故だったが、その翌朝、起きてみると、その人は
自分の目が見えなくなっているのに気づいたという。

極度のストレスが、緑内障を起こしたと考えられる。
ストレスは、こわい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
緑内障 全盲)


Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

●6か国協議、決裂!

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12月に開かれた、6か国協議は決裂した。
当然である。
K国が、核開発を放棄するはずがないことは、
最初からわかっていた。

またサンプル採取については、もしそんなことを
許してしまえば、K国とシリア、イランの
関係がバレてしまう。

で、C・ヒル氏は、閉会式をまたずして、アメリカに
帰国。
と、同時に、原油支援を中断すると言い出した。
ついては「5か国で合意済み」と。

が、この発言に、中国、ロシアが反発。
日本も韓国も、「そんな話は聞いていない」と。
つまりここでもC・ヒル氏の思い込みによる、
希望的憶測が、またまたひとり歩きしてしまった。

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●思い込み

思い込みのはげしい人というのは、たしかにいる。
ひとつのことを考えたら、朝から晩まで、それだけを考える。
それが頭に張りついて、離れなくなる。
が、それだけではない。
同時に妄想が始まる。
この妄想が、思い込みにつながる。

「こうしたい」「こうでありたい」という願望だけがひとり歩きする。
自分に都合のよい情報だけを取り入れ、それ以外は無視する。
結果として、C・ヒル氏のように、希望的憶測だけで、ものを言うようになる。

今回の6か国協議についても、それに先立って、シンガポールで米朝
代表者会議がなされている。
その席でも、C・ヒル氏は、「有意義な話しあいだった」「今度の会議で
K国は、査察検証に応じてくるはず」と述べていた。
が、結果は、みなさん、ご存知の通り。

結局、この5年近く、日本、韓国、中国、ロシアは、K国というよりは、
C・ヒル氏に振り回されただけ。
そのつどC・ヒル氏は、「今月中に……」「2週間後には……」を繰り返した。
さらにアメリカへ帰ったあと、C・ヒル氏は、こんなことまで述べている。

「原油支援がすべて終了すれば、K国は核査察に応じてくるはず」と。
つまり原油支援を完了させることが、先決、と。

もういい加減にしてほしい。
私はC・ヒル氏の外交能力というよりは、あの頭脳を疑っている。
彼は本当に、まともか?
まともな人間と考えてよいのか?
あそこまで思い込みが激しい人は、そうはいない。
病的でさえある。

で、C・ヒル氏は、自分のクビを、オバマ政権につなぐことだけに腐心していた。
あたかも自分だけがK国との交渉人であるかのような言動が、際立って目立った。
ライス長官も、ブッシュ大統領も、そのため無視(?)。

今ごろ、元国連大使だったボルトン氏は、そういうC・ヒル氏を見ながら、
こう言って笑っていることだろう。
「ザマーミロ!」と。

結局C・ヒル氏がしたことは、過去の失敗を繰り返しただけ。

しかしクリントン次期国務長官は、つぎにだれを交渉人に選ぶのだろう。
たいへん気になるところである。
まさかC・ヒル氏ということはないだろうが、もしC・ヒル氏の再任という
ことにでもなれば、そのときから日米関係は、終焉(しゅうえん)に向かって
ましぐら。
日本としても、これ以上は、妥協できない。


Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

●A still tongue makes a wise head. (沈黙はその人を賢くする。)

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『沈黙は金なり』とか、『沈黙の価値のわからぬ者は、
しゃべるな』ともいう。
よい聞き手は、じょうずな話し手ということになる。

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ADHD児というと、男児ばかりと思っている人は多い。
しかし女児にもADHD児はいる。
男児と少し症状がちがうが、出現率は、
ほぼ同数とみられている。
約5%。

女児によくみられる特徴は、多弁性。
よくしゃべる。
間断なく、よくしゃべる。
しゃべらなければ相手に悪いとでも思っているかのように、よくしゃべる。
相手の話を静かに聞くということができない。
できないばかりか、つぎつぎと話が別のところに展開していく。

あまりにもうるさいので注意する。
しかし効果は、数秒から、長くて10秒前後。
そのあとまたしゃべり始める。

私「ちょっと静かにしていてくれないか」
子「ちょっとだけ?」
私「ちょっとでいい」
子「じゃあ、ちょっとだけ静かにしている」
私「だから口を閉じてくれないか」
子「口を閉じていればいいの?」
私「そうだ」
子「でも口を閉じていると、苦しいのよねえ」と。

強く叱ったりすると、そのときだけ、申し訳なさそうな表情を
してみせる。
涙を目にためることもある。
しかし効果はそこまで。

子どもだけではない。
こうした症状は、おとなになってからも残る。
老人になってからも残る。

つぎつぎとこまかい話をし始める。
ときに同じ話を、何度も繰り返す。
頭の回転は速い。
反応も速い。
こちらの話をほんの少し聞いただけで、またしゃべり始める。
ペチャペチャ、クチャクチャと……。

私「冬休みのことだけど……。どこかへ旅行に行くの?」
子「まだ決まっていないけど、先生はどこかへ行くの?」
私「日帰りだけど、福井と紀伊半島へ行く……」
子「先生は車で行くの、電車で行くの?」
私「……?」
子「雪が降るところは、どこだっけ?」
私「バスで行くよ」
子「私はやっぱり、ディズニーランドのほうがいいかな」と。

特徴としては、
(1)会話をつかむことができない。
(2)視線がフワフワとして、定まらない。
(反対に不自然にボーッとするときがある。)
(3)相手の話を聞かない、など。

話の内容は、たいていは事実の羅列(られつ)のみ。
深い思考力はない。
考えてものを言うということもない。
脳に飛来した情報を、音声に換えているだけ。

もしあなたがこのタイプなら、この諺(ことわざ)は重要。
『沈黙はその人を賢くする』。
自己管理能力を鍛えることで、この問題は、克服することができる。

(付記)
多くの親は、よくしゃべる子どもについて、それだけ頭がよいからそうなのだと考える。
しかし頭のよしあしは、思考力の深さで決まる。
思考力の深い子どもほど、相手の言ったことを頭の中で反芻(はんすう)するため、
見た目には静か。

英語にも、『深い川は静かに流れる』という諺がある。

ところで賢人と愚人のちがいを知っているだろうか。
ここに書いたことと関係ないが、こんな諺がある。

『Wise men learn by other men's mistakes: fools by their own. 
(賢人は、他人の失敗で学び、愚人は、自分の失敗で学ぶ)』と。

これをもじると、こうなる。

『賢人は考えてから、ものをしゃべり、愚人はしゃべってから、ものを考える』と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
女児のADHD児 多弁児 多弁な子供 よくしゃべる子供 よくしゃべる子ども)


Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

●女性特有の心理?

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こう書くからといって、誤解しないでほしい。
それでお金がほしいとか、そういうふうに
思っているのではない。
不満に思っているわけでもない。
とうの昔に、そういう気持ちは捨てた。
まただからといって、お金を受け取ったことは、
過去において、一度もない。

その上での話。

相談してくる人は、たいてい自分のことだけで
精一杯。
他人の心など思いやる余裕など、どこにもない。
それもよく承知している。

さらにその上で、この原稿を書く。

+++++++++++++++++++

今まで、私は電話による相談も含めて、何百件〜という相談を受けてきた。
あるいはもっと多いかもしれない。
電話による相談は、数年前に打ち切ったが、それでも週に何度か、ある。
すべて無料だったし、これからもお金を受け取るつもりはない。
また相談してきた人に、不平や不満があるわけではない。
相談してくる人は、たいてい追いつめられて、してくる。
そういう事情もよくわかるから、こちらから名前を聞いたり、住所を聞いたり
することもない。
その多くは偽名であったり、住所も正確でなかったりする。
それも承知している。

その上で、この原稿を書く。
まただからといって、どうか、誤解しないでほしい。
そういう人が悪いとか、責めているのではない。
ここではその先というか、中身について書いてみたい。

で、そういう相談を受けて、そのあと、私に礼の手紙や、ものを送ってきてくれた
人は、この10年間で、数人前後しかいない。
しかもその数人というのは、男性が2、3人で、女性が1人だけ。

しかしこれは私の世界の常識ではない。
つまり私の世界では、相手に何かを質問したり、相手の世話になったりしたら、
その直後、あるいはあまり間をおかないうちに、礼状を書いたり、ものを送るのが
常識になっている。
もちろん電話による相談にしても、そうだ。
私自身は、ずっと、そうしてきたし、今もそうしている。

たとえば先月は、N県に住む友人に、移転登記のことでいろいろ相談をした。
そのときも、そのつど、つまり電話ごとに、何らかのもの(名物や菓子)を送った。

が、女性のばあい、(というのも、相談のほとんどは女性からのものなので)、
そうした礼状やものを送ってくれた人は、先にも書いたように、ほとんどいない。
数から考えると、「まったく」ということになる。

どうしてだろう……?、ということで、今朝、ワイフにそのことについて聞いてみた。

私「どうしてだろう?」
ワ「家庭に入った主婦というのは、社会性がないからじゃ、ないかしら?」
私「でもね、何度も相談してきた人もいるよ」
ワ「そうねえ。女性には、そういう常識が働かないのよ、きっと」
私「お前だって、女性だろう……」
ワ「そうねえ……」と。

電話相談のばあいは、内容にもよるが、平均して40分前後。
長いときは、1時間〜1時間30分前後になることがある。
10分や20分以下ということは、ぜったいにない。

そういう電話を数日おきくらいにかけてくる。
が、相談が終わるとそのまま。
事後の報告をしてくれた人も、ほとんどいない。

私「ぼくには、そういう女性の心理が理解できない」
ワ「あなたをきっと、カスミか何かを食べて生きている人のように思って
いるのね。そういう人たちは……」
私「かもしれない。しかしこの世の中には、最低賃金という言葉もあるよ。
ぼくは公人ではないし……」
ワ「言うなれば、それは女性独特の心理かもね」と。

そこであれこれ分析してみようと思うのだが、それができない。
あえて言うなら、女性独特の依存性というか、そういうものではないか。
相手に依存しながら、依存することを当たり前のように思ってしまう。
相手の時間を、1時間使ったとか、2時間使ったとか、そういう意識が
まるでない。
そういうものは、無料と思っている。
(もちろん無料だが……。)

しかしなぜそういう依存性が生まれるのか。
あるいは情報というものを、ただと思い込んでいるのかもしれない。
生活態度が防衛的なのはよくわかるが、しかしなぜそうなってしまうのか。

「???」ということで、この話は、おしまい。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(081222)

●発想の転換(ロメオ・シンドローム、ジュリエット・シンドローム)

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ワイフがこう言った。
「今年も、あと少しで終わりね」と。
カレンダーを垣間見ながら、そう言った。
言い方が、どこか暗かった。
沈んでいた。

そこで私はこう言った。
「そういう、うしろ向きな言い方をしてはだめだ。
そういうときは、『もうすぐ新しい年ね』と
言わなくちゃア」と。

こういうのを発想の転換という。
「あと少し……」と言うよりは、「もうすぐ……」と
言ったほうが、心がずっと軽くなる。
明るくなる。
(12月22日記)

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●私は71歳だ

子どもたちに、「ぼくは51歳だ」というと、子どもたちはすかさず「ウソだ、
ウソだ」と騒ぐ。
中に私の生年月日を知っている子どもがいて、(たぶん、親がそう教えているのだろうが)、
「先生は、本当は61歳だよ」と言うのもいる。

自分の年齢をごまかすということは、よくある。
私も少し前まで、10歳ほど、年齢を引いて、子どもたちに言っていた。
「ぼくは、51歳だよ」と。
しかしこういうウソは、疲れる。
どこかで無理をしなければならない。
(本当の年齢は、1947年生まれ、今年、満61歳。)

そこで最近は、こう言うようにしている。
「あのね、本当は、71歳なんだよ」と。
ときどき「81歳だよ」と言うときもある。

すると子どもたちは、「そんなジジイには見えないよ。……先生は、ぼくのパパ
くらいかな」とか言う。

●年齢をごまかす

自分の年齢を若く言うか、それとも、古く言うかで、生き方そのものが変ってくる。
最近、そんな発見をした。

自分の年齢を若く言う人は、「まだ若いから、仕事ができる」と人に思わせたいのかも
しれない。
あるいは若い女性(あるいは男性)に、相手にしてもらいたいという潜在的な
願望があって、そう言うのかもしれない。
それに若さと決別するには、それなりの勇気がいる。
が、中には、異常なまでに、(若さ)にこだわる人もいる。
タレントの中には、40歳を過ぎているはずなのに、どう見ても20代後半かな(?)
と思うような人もいる。
このタイプの人は、自分の年齢を受け入れることができない。
だからそれに抵抗する。
ホルモン剤を顔に注入し、化粧に化粧を重ねる。
整形手術などというのは、この世界では常識。

そういう心理状態を総称して、「ロメオ・シンドローム」、あるいは
「ジュリエット・シンドローム」※という。
私がつけた名前である。

で、女性のばあいは、化粧で年齢をごまかす。
(最近では、こうしたごまかしを、「アンチ・エイジング(抗年齢)」と呼ぶ。)
そのつじつま合わせのために、年齢という(数字)もごまかす。
しかしこの方法は、無意味。

仮に35歳のとき、30歳に見られても、5年後の40歳のときには、35歳に
見られるだけ。
そのつど5歳ほど年齢をごまかすことはできても、10歳は、無理。
それに(若さ)というのは、外見や年齢という数字では決まらない。
中身だ。
中身で決まる。

だったら、35歳だったら、35歳と正直に言いながら、生きればよい……ということに
なる。
が、現実には、だれしも若く見られたい。

が、そこで発想の転換。

●人生、50年

少し前、がんで闘病生活をしている大学の友人が、電話でこう言った。
「ぼくはね、50歳すぎてからの人生は、1年ごと、もうけものと思うようにしているよ」
と。

そのとき彼は、織田信長の話をした。
織田信長は、「人生、50年」と言ったとか。
だから「それからの命は、(もうけもの)」と。
「50歳で、がんで死ぬことを考える必要はない。
悲観的になることはない。
50歳で死んだと思って、残りの人生を楽しく生きる」と。

だったら、これはあくまでも私のばあいだが、「51歳」と言うよりは、「71歳」と
言ったほうが、よいということになる。
「71歳なのだが、61歳の人のように、若々しい」と。
そのほうが、感謝の念も強くなる。
生き方にも、力が入る。
あるいは余命を計算しながら、「残りの人生は、よくて10年」と、生きていることその
ものを大切にするようになる。

それに先にも書いたように、私が「ぼくは71歳だ」と言っても、だれも信用しないだろう。
「あなたは、どう見ても、71歳には見えない」と。
しかし「51歳だ」と言うと、みなが、疑う。

●1年ごと、(もうけもの)

2008年も無事、終わろうとしている。
いろいろあったが、私や私の家族は、ともかくも無事だった。
仕事も楽しかった。
やりがいもあった。
これを(もうけもの)と言わずして、何と言う?
つまりそういう意識をもつためにも、「71歳」と言う。

「71歳」と言えば、60歳から計算すると、11年も「もうけた」ということになる。
その分だけ、心を広くすることもできる。
が、それだけではない。

「71歳」と言うことによって、人生を先取りすることができる。
ジジ臭くなれということではない。
71歳らしく生きろということでもない。
71歳の人が、61歳の人のように、あるいは51歳の人のように、
若々しく生きたところで、おかしくない。

それに本当に71歳になったとき、10年分、前もって心の準備しておくことができる。
81歳になったときも、そうだろう。
91歳になったときも、そうだろう。
そのつど、10年分、得をしたような気分になる。
その(得をした)という気分こそが、大切。

●私は71歳なのだ

「私は71歳」と思うことによって、71歳の高齢者の人たちと、同じレベルに
自分を置く。
そして自分にこう言って聞かせる。
「ぼくは71歳だけど、中身は61歳」と。

そのほうが、ずっと楽しい。
無理をして、51歳のまねをするような、うしろめたさというか、イヤミがない。
ウソはウソだが、「51歳」と言うときは、他人を欺くため。
しかし「71歳」と言うときは、自分を欺くため。
むしろ他人を楽しませるかもしれない。

簡単に言えば、「年齢を若く言って無理をするより、年齢を古く言って、余裕を
もって生きたほうがいい」ということ。

あとのことは、天命に任せる。
そのときが来たら、そのとき。
ジタバタしない。
……ということで、最近、私は子どもたちから年齢を聞かれるたびに、「ぼくは71歳だよ」
と答えることにしている。

(付記)
「♪もういくつ寝ると、お正月……」という歌は、前向きな歌ということになる。
しかしジー様、バー様は、(私も含めて)、暗い顔をして、こう歌う。
「♪もういくつ寝ると、今年もおしまい……」と。
しかしそれではいけない。
いけないということで、このエッセーを書いた。

さあ、ここは童心に返って、『お正月』の歌を、明るく、楽しく歌ってみよう。

♪もういくつ寝ると、お正月
 お正月には、凧あげて、コマを回して遊びましょう。
 早く来い来い、お正月

(付記)
ところであなたはどうだろうか?
新年が近づくたびに、「今年も、もうおしまい?」とか、「もうお正月?」とか
言って、暗い顔をするだろうか。
もしそうなら、あなたはすでに、片足を棺おけにつっこんでいるようなもの!

同じ1年でも、やりたいことを思う存分しながら、有意義に過ごした人は、
その1年を長く感ずる。
新年が来ることを、喜ぶことができる。
そうでない人は、そうでない。
大切なのは、前向きに生きること。
中身の濃い人生を送ること。
が、ふと油断すると、すぐうしろ向きになってしまう。
わかりやすい例が、同窓会。

50歳を過ぎると、とたんに同窓会の回数がふえる。
心理学でも、こうした現象を、「回顧性」という言葉を使って説明する。
過去を懐かしむことが、多くなる。

その反対の位置にあるのが、「展望性」という言葉。
未来に向かって夢や希望をいだきながら、生きることをいう。
その回顧性と展望性は、満55歳くらいのときに、クロス交差するという。
つまり満55歳くらいのときに、前向きな生き方と、うしろ向きな生き方が、交差する。
それからは生き方そのものが、うしろ向きになる。

が、回顧性など、くそ食らえ!
回顧性にしばられるようになると、未来よりも過去ばかりを気にするようになる。
過去の肩書きや、学歴、名誉、地位にしがみついて生きる人もいる。
もっと言えば、そういう人たちは、「年齢の奴隷」ということになる。
若かったころの自分から、自分を解放することができない。

今は今。
年齢という数字にまどわされてはいけない。
私たちは、どこまでも前向きに生きる。
死ぬまで前向きに生きる。
けっしてうしろ向きになってはいけない。
いつか書いたが、年齢というのは、ただの数字。
そんな数字に、どんな意味があるというのか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
前向きな人生 展望性 回顧性 後ろ向きな人生 ロメオ シンドローム 
ロメオ症候群 ジュリエットシンドローム ジュリエット・シンドローム)

(注※)ロメオ・シンドローム……若かりしころの自分に、人生の基点を置く。
それから遠ざかることに、強迫観念をもつ。そのため(若さ)の
維持に何よりも注意を払う。自分をロメオに見立て、常にそこに悲劇性を
もたせる。『ピーターパン・シンドローム』を、(おとなになりきれない、
おとな)とするなら、『ロメオ・シンドローム』は、(加齢を受け入れ
ることができないおとな)ということになる。そのため年配者や老人をことさら
嫌ったりする。あるいは年配者や老人の価値観、思想を、ことさら否定したり
する。顔にシワやシミ、白髪が現われたりすると、人一倍、狼狽(ろうばい)
したりする。ロメオ・シンドロームというのは、(ピーターパン・シンドローム
もそうだが)、結局は、その人の精神的未熟性に起因すると考えられる。

 
Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

●大型自転車店

+++++++++++++++++++++++++++

関西地方を中心に、「AS」という大型自転車店がある。
「サイクル・ベース」という名前がついている。
全国に約150店舗を構え、常時、800台前後の
自転車を並べている。
この浜松市にも、2店舗、ある。
折からの自転車ブームに乗り、店舗数もさることながら、
売り上げ高も急激に伸びている。
売る上げも、前年度比17%増の、173億円(08年2月)。
ふつう自転車の利益率は、30〜35%と言われている。
個人の自転車店(従業員2人以下)でも、40%前後と言
われている、
そういう中で、ASは、50%前後の利益率を確保しているという。
(日経ビジネス)
それだけ値段が高いかというと、事実は、逆。
中間マージンを排しているため、かえって安い!
中国を中心に、自社ブランドの製品を開発している。

そのASに入ってみてまず驚くのは、品数の多さ。
まるで遊園地のようにカラフルである。
そういうのを見ると、……というより、私が若いころ頭の中で
描いていた自転車店そっくりなので、驚く。
私も商社マンだったころ、すでに同じような商売を考えていた。
1971〜2年のころである。

++++++++++++++++++++++++++++

●がんばれ、町の自転車店!

私の実家も自転車屋だった。
しかし子どものころから、いつもこう考えていた。
「どうせ商売をするなら、大きいほうが勝ち」と。
しかも全国ネットで、大量に仕入れて、薄利多売で勝負する。

M物産という商社にいたときから。そしてそのあと10年ほど。
あちこちで貿易の顧問をしていたときから、私は密かに、大型自転車店の
構想を考えていた。

当時は中国本土までは行けなかったが、台湾、香港で、自転車の製造を
始めつつあった。
品質は、おせじにも、よいとは言えなかった。
しかし値段が安かった。
私自身も、香港や台湾へ行ったついでに、向こうの自転車を、20〜30台、
実家へ仕入れてやったことがある。
おとな用の自転車でも、5000円前後で仕入れ、店で、7000〜8000円で、
売ることができた。
(品質が悪すぎて、かえって評判を落としてしまった面もあるが……。)

が、それから20〜30年。
ASという名前の自転車店を知った。
ふつうなら、悔しいと思わなければならないはずだが、私にはそれはない。
私の夢を実現してくれた、ASの経営者の方たちに、むしろ敬意を表したい。

で、こういう店ができると、町の個人の自転車屋は、大打撃を受ける。
もし私が今でも自転車店を経営していたら、そのままつぶれてしまっただろう。
が、それでも、ASに恨みをもつことはなかっただろう。
規模そのものがちがう。
それには、こんな話がある。

自転車屋には、ランクがある。
いちばん小さい、田舎町の自転車店。
それよりやや大きい、町の自転車店。
さらに大きい、町の自転車店。
さらに大きな、中堅の自転車店。

自転車店の世界には、大型店というのは、ない。……なかった。

どんぐりの背比べというか、わずかの(ちがい)の中で、「うちの店は大きい」
「あの店は小さい」と、張りあっている。……いた。
縄張り意識も強かった。
私には、それがバカげて見えるほど、おかしかった。
大きな中堅の自転車店といっても、従業員は1〜2人。
妻や祖父母がそれを手伝っていた。

言うなれば、小さな、どうしようないほど小さな世界で、それぞれが張りあっていた。
そういうところへ、ASというとてつもないほど大きな店が現われた。
勝つとか、負けるとか、そういうレベルの話ではない。
みなが大八車を引きながら、たがいに足の引っ張りあいをしていたところへ、
大型トラックがやってきた。
そんな感じである。

自転車業は技術職と言う人もいるが、昔とちがって、今では自転車は、
完成品として各店に届けられる。
(私が子どものころには、自転車は、スポークで車輪を組み立てるところから、
手作業だった。)
また自転車業には、自転車技師の認定書が必要と言われているが、あんなものは
あってもなくても、同じようなもの。
自転車店組合が、自分たちの職業を権威づけるために、資格試験にまで
祭りあげた。
そのあたりの経緯(いきさつ)を私は知っているが、私の祖父も、父も、
あえてその試験を受けなかった。
きっとプライドが許さなかったのだろう。

現に大半の自転車屋では、妻や、年老いた祖父母が、修理を手伝っている。
言い換えると、今までの自転車店は、あまりにも居心地のよい世界に、
安住しすぎた。
つまりなぜ、今まで自転車店業界が無風地帯であったかというと、(技術)の
問題ではなく、(油)の問題だった。
自転車店というのは、どこでもそうだが、トイレのドアのノブまで油で黒く
なっている。
パンクの修理にしても、やり方をまちがえると、服やズボンが、油で汚れてしまう。
一般の人は、それを嫌った。

つまりこの点だけクリアできれば、自転車店といっても、ほかの商店と、どこも
ちがわない。
が、Sの店内は、明るく、清潔。
油臭さが、どこにもない。

そういうASに対抗する方法があるとするなら、自転車店の店主が、きわめて
専門的な知識人になることでしかない。
健康哲学とか、自転車工学とか、あるいは自然哲学とか、そういうものをもって、
勝負する。
自前でサイクリング・クラブを運営するのもよいだろう。
ただの(もの売り屋)ではないという、差別化。
マニアを相手にした、高級店化。
それを前面に押し出すしかない。

が、それもしないというのであれば、市場から退散するしかない。
かなりきびしい意見を書いたが、これは町の自転車店のために書いた。
ASだけではない。
ここ5年前後で、あなたの町にも、大型店がやってくる。
その準備と覚悟だけは、しておいたほうがよい。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●過剰な妥協(Excessive Compromise by C. Rice and C. Hill toward North Korea)

Nobody denies in Japan, that C. Rice and C. Hill has done too much excessive compromise 
toward North Korea, or these two people are too innocent to be cheated by them during 
the conferences. What they have done is just to give them money, oil, food, music and time. 
The biggest show was the "Explosion Show of Junk Yard in Yonbyon", which means nothing 
to them. 

+++++++++++++++++

C・ライスとC・ヒルのコンビが、
K国に対して、「過剰な妥協」をしたのは、
だれの目にも明らか。

この5年間で、この2人がしたことは、
K国に、マネー、原油、食糧、音楽、それに
時間を与えたことだけ。
あとは、もとからガラクタだったヨンビョンの
核施設の爆破ショーを演じて見せただけ。

それに対して、当のC・ライスは、
「80%は合意していた」と、わけのわからない
ことを言っている。
何をもって、「80%」というのか?

++++++++++++++++++

時事通信、08年12月22日は、つぎのように伝える。

『ライス米国務長官は21日、NBCテレビのインタビュー番組で、「もちろんK国を信用していな
い」と述べ、K国の非核化をめぐる交渉で、米政府がK国の約束を信頼して過剰に譲歩してい
るとの批判に反論した。

 ライス長官は「誰もK国を信頼していないからこそ、核検証の枠組みを交渉している」と指摘。
「枠組みの80%は合意したが、K国は科学的手続きの要素を明確にする最後の20%に同意
しようとしない」と述べ、核検証枠組みの文書化失敗は、K国側に原因があると強調した』(時
事通信・12月22日)と。

この報道を読んで、まず気になったのが、「80%」という数字。
いかにもアメリカ人らしい発想だが、同時に、何をもって「80%」というのか。
外交交渉は、すべて結果で決まる。
その結果が何もない今、「80%は合意した」とは、どういうことなのだろう。
まさか原油の提供が、80%済んだということでもあるまい。

各検証枠組みの文書化失敗は、K国にあるのではない。
米朝2か国だけで、秘密会議を開いてきた、C・ライスとC・ヒルにある。
6か国協議を形骸化してしまった。
結果として、C・ヒルは、K国に、いいように、もてあそばれてしまった。
しかもあろうことか、C・ライスは、この日本を脅した。
「K国援助に加われ。さもなくば、K国をテロ支援国家リストからはずす」と。

が、日本はそれに応じず、K国は、テロ支援国家リストからはずされてしまった。
さらにその前には、「拉致問題を6か国協議からはずせ」と迫ったこともある。
拉致問題については、C・ヒルが話し合った形跡は、ゼロ。
成果も、もちろんゼロ。
さらに最近に至っては、「日本は日本で、勝手にやれ」とまで、言いだした。

C・ライスは、頭のよい女性かもしれないが、自分の能力を過信するあまり、独断と
偏見だけで、K国との外交を進めてしまった。
加えてC・ヒルの(思いこみ外交)。
「アメリカはここまでしたのだから、K国も、応じてくれるはず」と。
よい例が、08年の正月に、K国に派遣した、ニューヨーク・フィル。
いったい、あれは何だったのか?

いまだにC・ヒルは、こう言って、K国をかばっている。
「原油の提供が完了すれば、K国は、核検証に応じてくるはず」と。
さらにその原油支援についても、支援中断は、5か国も承諾していると、
ここでもまた(思いこみ外交)を展開した。

これに対して、中国、ロシアは、「これからも支援をつづける」と表明。
日本と韓国は、「そんな話は聞いていない」と表明。
いったい、C・ヒルの脳みそは、どうなっているのか。

現在、日米関係は、こと日本側でみるかぎり、最悪の状態になっている。
その責任の大半は、C・ライスとC・ヒルにあることは、言うまでもない。

それにしても、「80%」?
K国の核開発関連施設は、ヨンビョンだけではないというのは、常識なのだが……。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●チン問答(正方形)

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ましかく(真四角)を見せて、子どもたち(年長児)に、
「この形は何ですか?」と聞くと、中に、「正方形!」と
答える子どもがいる。

私「ウヌ、何だって? シェイホウケイ?」
子「シェイホウケイじゃないよ、さしすせその、セイホウケイ」
私「セホウケイ?」
子「だからさあ、セイホウケイだってばさア」
私「ホウケエ?(=遠州地方の方言で、「そうですか?」の意)」
子「……?」と。

私はこういうやり取りが、大好き。
子どもたちの脳みそを、ひっかき回すことができる。

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子どもにとって、(おとなにとっても、そうだが)、大切なことは、自分で考えること。
その習慣があること。
その力があること。

それがないと、知識はただの知識で終わってしまう。
あるいは中には、(物知りな子ども)イコール、(頭のいい子)と誤解している人がいる。
しかしこれは誤解。
たいへんな誤解。

今どき情報などというものは、インターネットを介せば、いくらでも手に入る。
情報イコール、知識。
大切なのは、その情報を、自分の力で、いかに加工し、知恵として消化するかということ。
それをしないでいると、あっという間に、情報の洪水の中に溺れてしまう。
私の知人の中にも、こんな女性(55歳くらい)がいる。

たいへんな物知りで、何かを質問すると、こちらの話をじゅうぶん聞かないうちから、
ペラペラといろいろ話し始める。
しかしよく聞いていると、情報が脳みその表面をかすっているだけ。
中身がないというより、深みがない。
情報の洪水の中に溺れるというのは、そういうことをいう。

さて幼児の話に戻る。

掛け算の九九をペラペラと口にしたからといって、その子どもに、算数の力があるという
ことにはならない。
さらにお経をペラペラと口にしたからといって、その子どもに、仏教がわかっているとは
かぎらない。
(おとなの中にも、いるぞ! 知ったかぶりというか、それでもって、優越感を覚えて
いるような人だ。)

では、どうすれば、子どもをして、(考える子ども)にすることができるか?
しかしこれは教育の問題ではなく、家庭環境の問題。
親の習慣の問題。
親にその(力)がなくて、どうして子どもにその(力)をもてと言うことができるのか。
結局は、そこへ行き着く。

たとえば子どもがあなたに何かを話しかけたとする。
そのとき大切なことは、子どもの言葉に耳を傾け、それについて考えてやること。
そして自分なりの意見を、それに添(そ)えてやること。
そういう親の習慣を見ながら、子どもは、(考える力)を身につける。

で、冒頭の話に戻る。
どこかの幼稚園では、子どもに掛け算の九九を教えている。
暗記させている。
そして「ましかく」を、「正方形」と言うように、指導している。
しかしこんなのは、幼児教育でも何でもない。
サルの訓練でも、そこまでしない。

「4つの角があるから、四角」「それがきれいに並んでいるから、ましかく」と、
どうしてそういうふうに、教えないのか。
それでよいではないか。
「方形」というのは、「四角形」をいう(広辞苑)。
だから「正方形」というのは、「どちらの方角から見ても同じに見える、四角形」という
ことになる。
しかしそこまで「セイホウケイ」の意味のわかる子どもは、いない。
だから私は、こう言って、子どもたちをからかう。

私「セイホウケイ……ねえ。どこかで聞いたような名前だなあ」
子「先生、正方形も知らないの?」
私「だからさ、どこかで聞いたような気がする。正方形というのは、ましかくのことか?」
子「そうだよ。ましかくのことだよ」
私「フ〜〜〜ン、知らなかったなあ。覚えておくよ」と。


Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

●ウソをつく

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犬でも、ウソをつく。
うちのハナが、そうだ。
何かかまってほしいときに、かまってやらないと、ウソをつく。

ワンワンと軽くほえたあと、庭の端まで行って、じっと
体を固める。
「そこに何かがいる」という素振りをして見せる。

ハナの心理をよく知っているから、だまされたフリを
して、庭の端に立つ。
じっと体を固めて、その先を見る。

私「何かいるか?」
犬「……」
私「何かいるか?」と。

こうするとハナのほうも、バツが悪いのか、さらに右へ走ったり、
左へ走ったりして、身を固める。
(身を固めるのは、ポインター種の猟犬の特徴と聞いている。)

こうしてハナは、私をかつぐ。
私は、かつがれたフリをする。
これを発達心理学的に解釈すると、こうなる。

子どもというのは、ウソをつくことで、おとなの優位性を破ろうとする。
年齢的には、2歳前後から始まるとされる。
よく知られているのが、?寝、?泣き。

?寝、?泣きをすることによって、おとなを操作する。
それがおとなの優位性の打破につながる。
で、こういうとき大切なことは、それを「ウソ」と決めつけ、子どもを叱っては
いけないということ。
「ああ、うちの子は、おとなの優位性を打破しようとしている」と考えて、
一歩、退いてやる。
そのおおらかさが、子どもを伸ばす。

反対におとなの優位性に押し込められてしまうと、(あるいはおとなの優位性を
押しつけ過ぎると)、子どもはハキのない子どもになってしまう。
ひどいばあいには、おとなになりきれないおとなになったり、おとなになることに
恐怖心を抱いたりする。
赤ちゃん返りならぬ、幼児返りをする子どもも、珍しくない。

時には子どもに負けてやる。
「おとなを負かした」という自負心が、自信につながる。
未来に向かって、前向きな姿勢も、そこから生まれる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子どもの? 子供の? ?と優位性 おとなの優位性 発達心理)


Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

●従兄弟(いとこ)

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昨夜、従兄弟(いとこ)と、電話で1時間ほど、話す。
このところいつも、健康談義になる。
その従兄弟は、人一倍、健康に気をつかっている。
話を聞くだけで、よい勉強になる。

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●健康

健康というのは、作るものではなく、守るもの。
しかも健康であるときには、健康の価値がわからない。
それを失ったとき、はじめて、その価値がわかる。

従兄弟は、機会を見つけては、体を鍛えている。
趣味は登山、水泳、競歩、自転車……。
まさに何でもござれのスーパーマン。
私と同じ歳だが、そのため今でも筋肉が隆々としている。

加えて健康診断は、欠かしたことがない。
脳ドックから、最近は前立腺がんの検査まで。
話の内容からして、毎月のように何らかの検査を受けているらしい。
親しい友人に、ドクターがいるという。
そのドクターから、いろいろアドバイスを受けている。

一方、私は、検査という検査が、嫌い。
嫌いというより、あきらめている。
もし(がん)と診断されたら、そのときは、そのとき。
「年貢の納めどき」と考えて、仕事もやめる。
やめなければならない。
闘病生活を繰り返すくらいなら、死んだほうがまし。
私はずっと、そういう考え方をしてきたし、これからもその考えは変わらない。

前立腺がんにしても、おとなしいがんだそうだ。
じょうずにつきあえば、10〜15年は生きられるという。
そのころには、ちょうど寿命も尽きる。

ただしそれには、条件がある。

ぐうたらな生活をしていて、「そのときは、そのとき」は、ない。
常に健康に気をつかう。
努力する。
やれることは、何でもやる。

私も、やれることは、何でもやっている。
寒い夜でも、サイクリングを欠かしたことがない。
つまりそれでも病気になるとしたら、あきらめるしかない。
あきらめもつく。
つまり日ごろから、そういう状態にしておく。

●不況

ついでに、不況の話になった。
が、この不況下でも、10万〜20万円の自転車に乗っている人がいるという。
「ぼくのは、2万円だ」と言うと、笑っていた。

私「ぼくはどんな自転車でも、乗りこなすことができるよ」
従「ぼくは、今、7万円の自転車に乗っている。いい自転車は、足腰がしっかりと
している」
私「ぼくは、それは感じない」
従「ベンツにしても、BMWにしても、高速を走ってみるとわかる。スーッと、
アクセルが地面になじんでいくのがわかる」
私「そういうものかなあ」
従「そういうものだよ。自転車もそうだ」と。

ところで従兄弟の友人たちも、今度の株価の暴落で、大損をしたらしい。
「も」というのは、私も損をしたし、従兄弟も損をしたということ。
損をしなかった人は、いないのではないか。
理由がある。

銀行へ現金を預けておいても、すずめの涙ほどの利息しかつかない。
そこである程度の小銭をもっている人は、証券会社へ走った。
利息もよい。
世界には、5〜10%もの利息をつけてくれる国がある。……あった。
為替でも稼げる。
1ドル110円のとき買って、120円になったとき売れば、プラス約9%の
利息、ということになる。

が、今度のサブプライム・ショック、それにリーマンブラザーズ・ショック。
打つ手もなかった。
「まさか」「まさか」と思っているうちに、世界の株価は、どんどんとさがっていった。
あまりにも急激だった。
ほとんどの人は、売る機会を失ってしまった。
結果、資産を3〜4割失った人は、いくらでもいる。
平均して、5割?
中には、資産を、10分の1にしてしまった人もいる。

その影響が出てくるのは、これから。
倒産、失業、自己破産などなど。
犯罪もふえるだろう。
それを想像するだけで、そら恐ろしくなる。

2009年は、はたしてどんな年になることやら?
従兄弟も、それを心配していた。

●浜松の外国人

浜松市には、ブラジル人を中心に、約3万人の外国人が住んでいる。
仕事をしている。
そういう人たちが、今回の大不況で仕事をなくし、寮などを追い出されている。
……と書くと、「たいへんだな」と思う。
またこう書くからとって、みながみな、そうであると言っているのではない。
たしかに職を失い、寮などを追い出される人もいる。
しかしここ数年、そういう外国人たちの存在感が大きくなったのは、事実。

10年前には、まだ車をもっている人は少なかった。
しかし今は、みな、大型の車を運転し、猛スピードで道路を走ったりしている。
交通法規がちがうのか、日本の交通ルールを守らない。
そういった人たちの(たまり場)のようなところがあって、夜中まで騒ぐ。
アパートによっては、外国人に占拠されてしまったところもある。

で、これはあくまでも私の印象だが、彼らは日本へ来て、日本で働きながら、
少しばかり、日本に同化しようという努力が足りないのではないか?
外国人は、外国人どうしが集まってしまい、日本人の社会に入ってこない。
もちろん言葉も覚えない。
習慣も覚えない。
もちろん町内の自治活動などには、参加しない。
本当はそうではないのかもしれないが、私には、そう見える。

たとえばどこの小学校へ言っても、校長たちは、異口同音にこう言う。
「彼らはある日突然、子どもをつれてきて、『この子に日本語を教えてくれ』という。
そこでボランティアの人たちの力を借りて、特別レッスンをほどこす。
しかしまたある日突然、学校をやめていく。
家に連絡しても、まわりの人たちが、『今度、新潟に引越しました』と言うだけ。
現状では、外国人を教えるためのカリキュラムも、予算もない。
学校教育自体が、危機的状況にあります」と。

そういう人たちが、「職を失った」「寮を追い出された」「だから何とかしろ」と
言っても、どうもピンとこない。
同情心というのが、わいてこない。

これは外国の人にとっても不幸なことだが、私たち日本人にとっても、不幸なことである。

彼らも、この日本で生きていかねばならない。
日本は、彼らの労働力を必要としている。
私たちは、たがいに、仲よくしたほうがよい。

そんなわけで、一言。
日本へ来るなら来るで、それなりの覚悟と準備をしてきてほしい。
あるいは日本の社会に、もう少し敬意を表してほしい。

そうそうついでに一言。
いろいろな人に話しかけてみたが、英語を話せる人は、ほとんどいない。
これもひとつの問題点ではないか。


Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

【学歴制度】

●5か条の御誓文

+++++++++++++++++++
1868年、明治維新で生まれた新政府は、
明治天皇の名前で、『5か条の御誓文』、つまり
政治の方針を定めた。

5か条の御誓文というのは、つぎのような
ものであった。

一、政治のことは、会議を開き、みんなの意見を聞いて決めよう。
一、みんなが心を合わせ、国の政策を行おう。
一、みんなの志が、かなえられwるようにしよう。
一、これまでのよくないしきたりを改めよう。
一、新しい知識を世界に学び、国を栄えさせよう

+++++++++++++++++++++

明治維新の中でもっとも大切なのは、『四民平等』ではなかったか。
天皇一族は「皇族」、公家や大名は「華族」、武士は「士族」、そのほかは「平民」となった。
それぞれの割合は、

人口3313万人のうち、
華族、神宮、僧……0・9%
士族     ……5・5%
平民    ……93・6%

この数字を見て、9年前に書いた原稿を思い出した。
日本人が平等になったというのは、ウソと考えてよい。
そのかわり明治政府は今に残る学歴制度を作りあげた。

++++++++++++++++++++++++++

●子どもの希望

 98年から99年にかけて、日本青年研究所が、興味ある調査をしている。「将来、就(つ)き
たい職業」についてだが、国によって、かなり、ちがうようだ。

★日本の中学生
    公務員
    アルバイト(フリーター)
    スポーツ選手
    芸能人(タレント)

★日本の高校生
    公務員
    専門技術者  
    (以前は人気のあった、医師、弁護士、教授などは、1割以下)

★アメリカの中高校生
    スポーツ選手
    医師
    商店などの経営者 
    会社の管理者
    芸術家
    弁護士などの法律家

★中国の中学生
    弁護士や裁判官
    マスコミ人
    先端的技術者
    医師
    学者

★中国の高校生
    会社経営者
    会社管理者
    弁護士

★韓国の中学生
    教師
    芸能人
    芸術家

★韓国の高校生
    先端的技術者
    教師
    マスコミ 

 調査をした、日本青少年研究所は、「全般的に見ると、日本は、人並みの平凡な仕事を選び
たい傾向が強く、中国は経営者、管理者、専門技術者になりたいという、ホワイトカラー志向が
強い。韓国は特技系の仕事に関心がある。米国では特技や専門技術系の職業に人気があ
り、普通のサラリーマンになる願望が最も弱い」と、コメントをつけている。

この不況もあって、この日本では、公務員志望の若者がふえている。しかも今、どんな公務員
試験でも、競争率が、10倍とか、20倍とかいうのは、ザラ。さらに公務員試験を受けるための
予備校まである。そういう予備校へ、現役の大学生や、卒業生が通っている。

 今では、地方の公務員ですら、民間の大企業の社員並みの給料を手にしている。もちろん退
職金も、年金も、満額支給される。さらに退職後の天下り先も、ほぼ100%、確保されている。

 知人の一人は満55歳で、自衛隊を退職したあと、民間の警備会社に天下り。そこに5年間
勤めたあと、さらにその下請け会社の保安管理会社に天下りをしている。ごくふつうの自衛官
ですら、今、日本の社会の中では、そこまで保護されている。(だからといって、その人個人を
責めているのではない。誤解のないように!)
 
もちろん、仕事は楽。H市の市役所で働いている友人(○○課課長)は、こう言った。「市役所
の職員など、今の半分でもいいよ。三分の一でも、いいかなあ」と。

 これが今の公務員たちの、偽らざる実感ではないのか。

 こういう現実を見せつけられると、つい私も、自分の息子たちに言いたくなる。「お前も、公務
員の道をめざせ」と。

 本来なら、公務員の数を減らして、身軽な行政をめざさねばならない。しかしこの日本では、
今の今ですら、公務員、準公務員の数は、ふえつづけている。数がふえるだけならまだしも、
公務員の数がふえるということは、それだけ日本人が、公務員たちによって管理されることを
意味する。自由が奪われることを意味する。

 恐らく、国民が、公務員たちによって、ここまで管理されている国は、この日本をおいて、ほ
かにないだろう。ほとんどの日本人は、日本は民主主義国家だと思っている。しかし本当に、
そうか。あるいは、今のままで、本当によいのか。日本は、だいじょうぶなのか。

あなたが公務員であっても、あるいは公務員でなくても、そういうことには関係なく、今一度、
「本当に、これでいいのか」と、改めて考えなおしてみてほしい。
(040302)(はやし浩司 将来の職業 職業意識 アメリカの高校生 公務員志望)

【付記】
ついでに同じく、その調査結果によれば、「アメリカと中国の、中高校生の、ほぼ全員の子ども
が、将来の目標を『すでにはっきり決めている』、あるいは『考えたことがある』と答えた。日本
と韓国では2割が『考えたことがない』と答えている」という。

 アメリカや中国の子どもは、目的をもって勉強している。しかし日本や韓国の子どもには、そ
れがないということ。

 日本では、大半の子どもたちは今、大学へ進学するについても、「入れる大学の、入れる学
部」という視点で、大学を選択している。いくら親や教師が、「目標をもて」と、ハッパをかけて
も、子どもたちは、こう言う。「どうせ、なれないから……」と。

 学校以外に道はなく、学校を離れて道はない……という現状のほうが、おかしいのである。

 人生には、無数の道がある。幸福になるにも、無数の道がある。子どもの世界も、同じ。そう
いう道を用意するのも、私たち、おとなの役目ではないだろうか。

 現在の日本の学校教育制度は、子どもを管理し、単一化した子どもを育てるには、たいへん
便利で、能率よくできている。しかし今、それはあちこちで、金属疲労を起こし始めている。現
状にそぐわなくなってきている。明治や大正時代、さらには軍国主義時代なら、いざ知らず、今
は、もうそういう時代ではない。

 それにもう一つ重要なことは、何も、勉強というテーマは、子ども時代だけのものではないと
いうこと。仮に学生時代、勉強しなくても、おとなになってから、あるいは晩年になってから勉強
するということも、重要なことである。

 私たちはともすれば、「子どもは勉強」、あるいは「勉強するのは子ども」と片づけることによっ
て、心のどこかで「おとなは、しなくてもいい」と思ってしまう。

 たとえば子どもに向かって、「勉強しなさい!」と怒鳴る親は多いが、自分に向って、「勉強し
なさい!」と怒鳴る親は少ない。こうした身勝手さが生まれるのも、日本の教育制度の欠陥で
ある。

 つまりこの日本では、もともと、「学歴」が、それまでの身分制度の代用品として使われるよう
になった。「勉強して知性」をみがくという、本来の目的が、「勉強して、いい身分を手に入れる」
という目的にすりかわってしまった。

 だから親たちは、こう言う。「私は、もう終わりましたから」と。私が、「お母さん、あなたたちも
勉強しないといけませんよ」と言ったときのことである。

 さあ、あなたも、勉強しよう。

 勉強するのは、私たちの特権なのだ。新しい世界を知ることは、私たちの特権なのだ。なの
に、どうして今、あなたは、それをためらっているのか?

【付記2】

 江戸時代から明治時代にかわった。そのとき、時の為政者たちは、「維新」という言葉を使っ
た。「革命」という意味だが、しかし実際には、「頭」のすげかえにすぎなかった。

 幕府から朝廷(天皇)への、「頭」のすげかえである。

 こうして日本に、再び、奈良時代からつづいた官僚政治が、復活した。

 で、最大の問題は、江戸時代の身分制度を、どうやって、合法的かつ合理的に、明治時代に
温存するかであった。ときの明治政府としては、こうした構造的混乱は、極力避けたかったに
ちがいない。

 そこで「学歴によって、差別する」という方式をもちだした。

 当時の大卒者は、「学校出」と呼ばれ、特別扱いされた。しかし一般庶民にとっては、教科書
や本すら、満足に購入することができなかった。だから結局、大学まで出られるのは、士族や
華族、一部の豪族にかぎられた。明治時代の終わりでさえ、東京帝国大学の学生のうち、約7
5〜80%が、士族、華族の師弟であったという記録が残っている。

 で、こうした「学校出」が、たとえば自治省へ入省し、やがて、全国の知事となって、派遣され
ていった。選挙らしいものはあったが、それは飾りにすぎなかった。

 今の今でも、こうした「流れ」は、何も変わっていない。変っていないことは、実は、あなた自身
が、一番、よく知っている。たとえばこの静岡県では、知事も、副知事も、浜松市の市長も、そ
して国会議員の大半も、みな、元中央官僚である。(だから、それがまちがっていると言ってい
るのではない。誤解のないように!)

 ただ、日本が本当に民主主義国家かというと、そうではないということ。あるいは大半の日本
人は、民主主義というものが、本当のところ、どういうものかさえ知らないのではないかと思う。

 つまり「意識」が、そこまで高まっていない? 私もこの国に住んで、56年になるが、つくづく
と、そう思う。

++++++++++++++++++++++
つぎの原稿は、1997年に、私が中日新聞に
発表した原稿です。
大きな反響を呼んだ原稿の一つです。

若いころ(?)書いた原稿なので、かなり過激
ですが、しかし本質は、今も変わっていないと
思います。
++++++++++++++++++++++

●日本の学歴制度

インドのカースト制度を笑う人も、日本の学歴制度は、笑わない。どこかの国のカルト信仰を笑
う人も、自分たちの学校神話は、笑わない。その中にどっぷりとつかっていると、自分の姿が
見えない。

 少しかたい話になるが、明治政府は、それまでの士農工商の身分制度にかえて、学歴制度
をおいた。

 最初からその意図があったかどうかは知らないが、結果としてそうなった。

 明治11年の東京帝国大学の学生の75%が、士族出身だったという事実からも、それがわ
かる。そして明治政府は、いわゆる「学校出」と、そうでない人を、徹底的に差別した。

 当時、代用教員の給料が、4円(明治39年)。学校出の教師の給料が、15〜30円、県令
(今の県知事)の給料が250円(明治10年)。

 1円50銭もあれば、一世帯が、まあまあの生活ができたという。そして今に見る、学歴制度
ができたわけだが、その中心にあったのが、官僚たちによる、官僚政治である。

 たとえて言うなら、文部省が総本山。各県にある教育委員会が、支部本山。そして学校が、
末寺ということになる。

 こうした一方的な見方が、決して正しいとは思わない。教育はだれの目にも必要だったし、学
校がそれを支えてきた。

 しかし妄信するのはいけない。どんな制度でも、行き過ぎたとき、そこで弊害を生む。日本の
学歴制度は、明らかに行き過ぎている。

 学歴のある人は、たっぷりとその恩恵にあずかることができる。そうでない人は、何かにつけ
て、損をする。

 この日本には、学歴がないと就けない仕事が、あまりにも多い。多すぎる。親たちは日常の
生活の中で、それをいやというほど、肌で感じている。だから子どもに勉強を強いる。

 もし文部省が、本気で、学歴社会の打破を考えているなら、まず文部省が、学歴に関係なく、
職員を採用してみることだ。

 過激なことを書いてしまったが、もう小手先の改革では、日本の教育は、にっちもさっちもい
かないところまで、きている。

 東京都では、公立高校廃止論、あるいは午前中だけで、授業を終了しようという、午後閉鎖
論まで、公然と議論されるようになっている。それだけ公教育の荒廃が進んでいるということに
なる。

 しかし問題は、このことでもない。

 学歴信仰にせよ、学校神話にせよ、犠牲者は、いつも子どもたちだということ。今の、この時
点においてすら、受験という、人間選別の(ふるい)の中で、どれほど多くの子どもたちが、苦し
み、そして傷ついていることか。そしてそのとき受けた傷を、どれだけ多くのおとなたちが、今
も、ひきずっていることか。それを忘れてはいけない。

 ある中学生は、こう言った。

 「学校なんか、爆弾か何かで、こっぱみじんに、壊れてしまえばいい」と。

 これがほとんどの子どもの、偽らざる本音ではないだろうか。ウソだと思うなら、あなたの、あ
るいはあなたの近所の子どもたちに、聞いてみることだ。

 子どもたちの心は、そこまで病んでいる。
(はやし浩司 華族 士族 東京帝国大学 自治省)

++++++++++++++++++++++++

●教えずして教える

 教育には教えようとして教える部分と、教えずして教える部分の二つがある。

たとえばアメリカ人の子どもでも、日本の幼稚園へ通うようになると、「私」と言うとき、自分の鼻
先を指さす。(ふつうアメリカ人は親指で、自分の胸をさす。)

そこで調べてみると、小学生の全員は、自分の鼻先をさす。年長児の大半も、自分の鼻先をさ
す。しかし年中児になると、それが乱れる。つまりこの部分については、子どもは年中児から年
長児にかけて、いつの間にか、教えられなくても教えられてしまうことになる。

 これが教えずして教える部分の一つの例だが、こうした部分は無数にある。よく誤解される
が、教えようとして教える部分より、実は、教えずして教える部分のほうが、はるかに多い。ど
れくらいの割合かと言われれば、一対一〇〇、あるいは一対一〇〇〇、さらにはもっと多いか
しれない。

私たちは子どもの教育を考えるとき、教えようとして教える部分に夢中になり、この教えずして
教えてしまう部分、あまりにも無関心すぎるのではないのか。あるいは子どもというのは、「教え
ることで、どうにでもなる」と、錯覚しているのではないのか。しかしむしろ子どもの教育にとって
重要なのは、この「教えずして教える」部分である。

 たとえばこの日本で教育を受けていると、ひとにぎりのエリートを生み出す一方で、大半の子
どもたちは、いわゆる「もの言わぬ従順な民」へと育てあげられる。だれが育てるというのでも
ない。受験競争という人間選別を経る過程で、勝ち残った子どもは、必要以上にエリート意識
をもち、そうでない子どもは、自らに「ダメ人間」のレッテルをはっていく。

先日も中学生たちに、「君たちも、Mさん(宇宙飛行士)が言っているように、宇宙飛行士にな
るという夢をもったらどうか」と言ったときのこと。全員(一〇人)がこう言った。「どうせ、なれな
いもんね」と。「夢をもて」と教えても、他方で子どもたちは別のところで、別のことを学んでしま
う。

 さてあなたは今、子どもに何を教えているだろうか。あるいは何を教えていないだろうか。そし
て子どもは、あなたから何を教えられて学び、教えられなくても何を学んでいるだろうか。それ
を少しだけここで考えてみてほしい。
(はやし浩司 もの言わぬ 従順な民 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 
幼児教育 子育て はやし浩司 学歴制度 学歴社会)


Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司※

(雑感)

●アメリカ人の子ども観

 国民性のちがいなのか? アメリカでは、「恥ずかしがり屋」の子どもを、問題児ととらえる。
英語では、「ナーバス(nervous)」「シャイ(shy)」という。

 「日本では、恥ずかしがるのは、美徳(virtue)だ」と話すと、そのアメリカ人の先生(小学校)
は、かなり驚いていた。国がちがうと、子どもの見方も、大きくちがうようだ。

 そのためか、アメリカでは、ワーワーと自己主張する子どもほど、(できのよい子ども)ととらえ
る。反対に、静かで、謙遜する子どもを、(できの悪い子ども)ととらえる。

 もちろん教育にも、大きな影響を与えている。

 アメリカでは、いつも先生が生徒に、「どう思う?」「それはすばらしい」と言って、授業を進め
る。日本では、「わかったか?」「ではつぎ!」と言って、授業を進める。

 「教育」と言っても、中身は、まるでちがう。そういうことも考えて、子どもの教育を考える。(も
ちろんそれぞれに、一長一短があるが……。)


●右は妹、左はぼく!

 母親は、男児の育児にとまどう?

 ある母親からだが、こんな相談があった。

 小学五年生の男の子だが、「いまだに、私のおっぱいに、さわりたがります」と。

 妹は、4歳。

 そこで母親は、「右が妹、左がお兄ちゃん」と決めているそうだ。私はその相談を受けたとき、
その母親の胸を、まじまじと見てしまった。

 「どうして?」と聞いたら、何を勘違いしたのか、その母親は、左の胸を前に突きだしながら、
こう言った。「左のほうが、ほら、少し大きいでしょう!」と。

 そのあたりの年齢になると、母親も、やや羞恥心をなくすようだ。胸の豊満な母親だったの
で、ハハハと笑いながら、内心では、その子ども(兄)が、うらやましく思った。そしてこう思っ
た。

 「私だって、男だぞ!」と。

 もうこの年齢になると、私を「男」と見てくれる母親はいない。自分でも、それがよくわかる。ま
あ、あきらめるか! 

私は56歳。ヤング・オールド・マンだ! 略して、YOM。(私がつくった、新語)

【YOMの特徴】

 老人にもなりきれず、しかし青春にも決別できない、中途半端な年代層。ときどき、老人にな
った自分を知り、ときどき、それに反抗してみる。

 ちょうど中間反抗期の子どもの心理的変化に似ている。ときどき、おとなぶってみたり、反対
に幼児がえりを起こしてみる。どっちつかずの不安定な年齢。

 YOMについては、あとで、もう少し、掘りさげて考えてみることにする。おもしろそうなテーマ
だ。


●改心

 ふと、今、思い出した。

 昔、子どものころ見た、チャンパラ映画の中で、「改心」という言葉がよく使われたのを、思い
出した。

 とんでもない極悪人が、あるとき、ふとしたことがきっかけで、心を入れかえ、それ以後は、別
人のように、善人になったりすることをいう。

 子どもながらに、「心というのは、そういうものかなあ」と思ったことがある。

 しかしそれからほぼ、半世紀。私は、そういうふうに、改心した人を見たことがない。人間の
心というのは、いわば体にしみついた「シミ」のようなもので、そう簡単には、変えられない。

何らかの方法で、ごまかすことはできても、それは化粧のようなもの。しかし、化粧は、化粧。
何らかのきっかけで、すぐボロが出る。もしそんなことが簡単にできるなら、精神科の医師など
いらないということになる。

 私だって、「心の質」は、それほど、よくない。もともと小ズルイ男で、小心者。(私とつきあう人
は、そういう意味で、用心したほうがよい。ホント!)

 そういう私が、かろうじて「私」なのは、私には、ドン底経験があるからだ。

 幼稚園講師になって、すべてをなくしたと感じたとき、私は死ぬことさえ、考えた。毎晩、「浩
司、死んではダメだ」と、自分に言って聞かせた。

 そのときのこと。私は、人間は、ドン底を経験すると、二種類に分かれることを学んだ。その
まま悪人になっていく人間と、善人になっていく人間である。私はあのドン底経験のあと、自分
でもおかしいと思うほど、まじめになった。

 タバコもやめたが、女遊びもやめた。ウソをつくのも、約束を破るのも、ごまかすのもやめ
た。何もかもやめた。やめて、ただひたすら、まじめ(?)に生きるようになった。

 そんな私だが、しかし、では、私の質が変ったかというと、そういうことはない。ただごまかして
いるだけ。自分でも、それがよくわかる。ふと油断すると、もともとの私が、すぐ顔を出す。

 今は、そういう私と戦っているだけ。押さえこんでいるだけ。だから、やはり、「改心」などとい
うことは、ないと思う。

チャンパラ映画の中では、よく使われたテーマだが、ああいうことは、ありえない。それが、この
半世紀を生きて私が知った、結論である。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

【疑惑症】

●子どもの潔癖症(疑惑症)

++++++++++++++++++

子どもの手洗いグセについての
相談が届いています。

掲載許可がいただけましたので、少し
改変して、お届けします。

++++++++++++++++++

初めて相談をさせていただきます。
よろしくお願いします。

幼稚園に通う長男のことです。
もともと、人見知りをしない子で、愛想も良くいつも
ニコニコと元気のよい子だったのですが、この8月頃ごろから
急に、よく手を洗う様になり、特に幼稚園から帰ると、1時間くらいの間に5〜6回、多い
時は10回くらい手を洗うようになりました。

本人に聞くと、手が汚いから・・とか、手が臭うから・・と言って洗っていました。誰か
に臭うと言われたのか聞くと、そうじゃないと言います。でも、元々気にしない子で、い
つもこちらから、洗いなさいと言わないと洗わない子でしたのに、やたらと気にする様に
なりました。しかも、しょっちゅう、手の匂いを嗅いで確認しています。

朝も幼稚園に行くのも嫌がり、ぐずったり、メソメソとすぐ泣くようになりました。先生
に聞くと、幼稚園でも同様のようです。それ以来、なるべく長男が手を洗うときはついて
行って、一緒に洗ってあげたり、匂いがないか確認をしたりするようにしました。

すると、手を異常に洗うことはなくなったのですが、今度は、手を全然洗いたがらなくな
り、手が汚れないために、なるべく手を使わず足を使ったり、お菓子などは、犬食いをし
たり、片手にウエットティッシュを持って、拭きながら食べたりするようになりました。

しかも、匂いは相変わらずしょっちゅう嗅いでいます。何か触ったり、物を食べたりした
時も・・・。

メソメソするのも相変わらずで、ちょっと怒られたり、嫌な事があると、泣き出します。
一度泣くと、こちらから傍に行って、抱きしめたりするまでずーっと泣き続けます。それ
以外の時は、愛想も今は以前の様によく、元気も良いです。先生のHPを見させていただ
いて、もしかして疑惑症というものではないかと、心配になり、またどのような対応をし
てあげれば良いのか、教えて頂きたく相談させて頂きました。

幼稚園の先生にも、相談してみたのですが、今までウチの子の様な行動をとる子がいなか
ったとかで、先生も頭を悩ませているようでした。9月までは、幼稚園でも、もの凄く元気
いっぱいでいつもニコニコしていたらしく、先生にもよく褒めて頂いたくらいなので、先
生も驚いているようです。

ぜひ、良い対応がありましたら、教えて頂きたいと思います。宜しくお願いします。
(滋賀県M町、IKより)

【はやし浩司より、IKさんへ】

「長男」とありますから、下にお子さんがいらっしゃるのでしょうか。
ひとつのきっかけとして、下のお子さんが生まれたことが原因で、神経症に
なった可能性があります。

子どもの神経症による症状は、千差万別です。
定型がありません。

検索エンジンを使って、「はやし浩司 神経症」もしくは、「はやし浩司 手洗いグセ」を
検索してみてください。
あわせて、「はやし浩司 赤ちゃん返り」も参考にしてみてください。

また様子からみると、幼稚園の指導、もしくは友人関係に何らかの問題があるようにも
感じます。
先生が神経質であるとか、友だちとの間にトラブルがあるとか、など。

もう一つ気になるのは、「もともと、人見知りをしない子で、愛想も良くいつも
ニコニコと元気のよい子だったのですが……」という部分です。

子どもは人見知りするのが当たり前。
また見知らぬ人に対して、愛想が悪いのが当たり前。
そういう前提で考えてください。

愛情飢餓状態の中で子どもが育つと、一見、このように、人見知りしない、
愛想のよい子どもになることがあります。
どこかで親の愛情に不安を感じていないか、一度、観察してみてください。
またその「根」は、深いと思ってください。

(注:「子どもの疑惑症」については、私のHPの「子育て・あいうえお(3)」に
詳しく書いておきました。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子どもの手洗いグセ 疑惑症 潔癖症 神経症 手洗い癖 はやし浩司)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

こんにちは。
以前、疑惑症の事で、先生に相談させていただいた者です。
5歳の長男の事で相談をさせていただきました。
メールを何処に送ってよいのかわからず、、相談コーナーのこちらに送らせていただきました。
先生、ありがとうございました。
お陰様で、5歳の長男ですが、以前の元気が良く、活発な子に、戻りました。
先生がおっしゃっていましたように、スキンシップを濃厚にしたり、食事を気をつけたりしました
ら、本当に2ヶ月ほどで、よくなりました。
幼稚園も楽しいらしく、先日ありました発表会では、元気いっぱい演技もしていました。
あれほど心配しました、手洗い癖も殆どなくなり、
時々匂いを気にする事もありますが、こちらがほっておくと、すぐ気にならなくなるようですし、
手を汚したくないからと、犬食いをすることもなくなりました。幼稚園でも同様のようで、以前の
息子に戻ったと幼稚園の先生にも、言われています。
先日は、仲の良い友達をうちに連れてきたりもしていました。本当にありがとうございました。
メルマガもいつも読ませていただいています。
これからも、参考にさせていただきたいと思います。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

【代理ミュンヒハウゼン症候群】(Personality Disorder)

++++++++++++++

献身的な介護者を装いながら、
その裏で、被介護者を虐待する。
相手は夫であったり、祖父母で
あったりする。
兄弟のこともある。
自分の子どもであることも多い。

++++++++++++++

12月24日に、こんなニュースがヤフー・ニュースサイトに載っていた。

+++++++++++++以下、ヤフー・ニュースより++++++++++++++

病気で入院している五女(1歳10カ月)の点滴に異物を混入し殺害しようとしたとして、K府警
捜査1課と川端署は24日、岐阜県S市の無職の女(35)を、殺人未遂容疑で逮捕した。女は
「子供の病気が悪化すれば付き添ってやれると思った」と供述し、殺意を否認しているという。

(中略)

 23日午後5時半ごろ、女が点滴の管を触ったり、ポケットから何かを取り出したりする仕草
がビデオに映ったことから、警察官が職務質問し、所持品から注射器を発見。24日になって、
腐りやすいようスポーツドリンクを混ぜた水を7〜10日放置し、混入したことを認めたという。

 府警によると、逮捕された女は、人の注意を引きつけるために病気の症状をまねる精神疾
患の一種ではないかと医療関係者から指摘されていた。この疾患では、子供を病人に仕立
て、献身的な介護者を演じることもあると報告されているという。(ヤフーニュース081224)

+++++++++++++以下、ヤフー・ニュースより++++++++++++++

このニュースの中で注目すべき点は、終わりあたりに書いてある、「人の注意を引きつけるた
めに、病気の症状をまねる精神疾患の一種ではないかと医療関係者から指摘されていた。こ
の疾患では、子供を病人に仕立て、献身的な介護者を演じることもあると報告されているとい
う」という部分。

典型的な「代理ミュンヒハウゼン症候群」と呼ばれる、精神疾患のひとつである。
近年、虚偽性人格障害(演技性人格障害)※の一種として位置づけられ、治療の対象に
もなっている。

●フリをする母親

昔、自分を病人に見たてて、病院を渡り歩く男がいた。そういう男を、イギリスのアッシャーとい
う学者は、「ミュンヒハウゼン症候群」と名づけた。
ミュンヒハウゼンというのは、現実にいた男爵の名に由来する。
ミュンヒハウゼンは、いつも、パブで、ホラ話ばかりしていたという。

その「ミュンヒハウゼン症候群」の中でも、自分の子どもを虐待しながら、その一方で病院へ連
れて行き、献身的に看病する姿を演出する母親がいる。
そういう母親を、「代理ミュンヒハウゼン症候群」という(以上、参考、「心理学用語辞典」かんき
出版)。

このタイプの母親というか、女性は、多い。

自分に対して(演技する)のが、ミュンヒハウゼン症候群。
子どもなど、だれかを代理させて(演技する)のが、代理ミュンヒハウゼン症候群。
しかし代理になる対象は、けっして(子ども)だけではない。
実の親、兄弟ということもある。
また(病院)だけが舞台とはかぎらない。
家庭や介護センターなどでも、ある。

「ミュンヒハウゼン症候群」と私の立場では断言できないが、私の知っている女性(当時
50歳くらい)に、一方で、姑(義母)を虐待しながら、他人の前では、その姑に献身的
に仕える、(よい嫁)を演じていた人がいた。

その女性は、夫にはもちろん、夫の兄弟たちにも、「仏様」と呼ばれていた。
しかしたった一人だけ、その姑は、嫁の仮面について相談していた人がいた。
それがその姑の実の長女(当時50歳くらい)だった。

そのため、その女性は、姑と長女が話しあうのを、何よりも、警戒した。
当然のことながら、その長女を、嫌った。

さらに、実の息子を虐待しながら、その一方で、人前では、献身的な看病をしてみせていた女
性(当時60歳くらい)もいた。

虐待といっても、言葉の虐待である。「お前なんか、早く死んでしまえ」というようなことを、一方
で言いながら、子どもが病気になると、病院へ連れて行き、その息子の背中を、しおらしく、さ
すって見せるなど。

「近年、このタイプの虐待がふえている」(同)とのこと。

実際、このタイプの女性と接していると、何がなんだか、訳がわからなくなる。
仮面をかぶっているというより、人格そのものが、バラバラ。
何を考えているか、それがつかめない。
どこか不気味。
そんな印象をもつ。

もちろん、子どものほうも、混乱する。子どもの側からみても、よい母親なのか、そうでないの
か、わからなくなってしまう。
たいていは、母親の、異常なまでの虐待で、子どものほうが萎縮してしまっている。
母親に抵抗する気力もなければ、またそうした虐待を、だれか他人に訴える気力もない。
あるいは母親の影におびえているため、母親を批判することさえできない。

虐待されても、母親に、すがるしか、ほかに道はない。悲しき、子どもの心である。

●私の知っている例

ヤフー・ニュースにもあるように、このタイプの女性は、(圧倒的に女性が多い)、
(1)他人の注意をひくため
(2)他人の同情をかうため
(3)他人から自分を、高く評価してもらうために、そうする。

今回の事件は、母親が実の子どもに対してした事件である。
点滴の中に、腐った水を注入していたという。
しかし殺すのが目的ではない。
(殺すなら、そんな回りくどい方法は、とらない。
またその度胸もない。
元来、気の小さい人とみる。)
このタイプの女性は、献身的な介護ぶりを演じ、それでもって自分をよく見せる
のが、目的である。

私が知っているケースに、実の弟に対して、それを繰り返していた女性(当時、
60歳くらい)がいた。
私が見舞いに行ったりすると、私たちが見ている前で、大げさに背中をさすって
みせたり、かいがいしく看病している様子をみせたりした。
が、それがどこか演技ぽい(?)。
あるいはその周辺から聞こえてくるうわさと、どうも一致しない(?)。

(たとえば献身的なボランティア活動をしていると本人は言うのだが、その一方で、100円、20
0円単位のお金のことで、ケチケチするなど。)

で、しばらく連絡を取らないでいたりすると、その女性のほうから電話がかかってきて、
看病で苦労しているというような話を、長々とする。
ささいなことでも、大げさに言う。
たとえば「歯ブラシがなくなってしまったので、冬の寒い日だったが、あちこちの店
を回って、買ってきた」とか、など。
そういうことをこと細かく話す。
ついでに「実の息子が東京にいるのだが、何もしない」とこぼしたりする。

そこで「それはたいへんですね」「あなたは偉い」と私が言っている間は、どこか機嫌がよい。
しかし批判めいたことを言ったりすると、そのままパニック状態になってしまう。
そのときも、「今では歯ブラシなど、コンビニでも売っていますよ」と私が言うと、
急に理由にもならない理由をつけて、怒りだしてしまった。

で、その弟氏は、10年ほど前にある病気で亡くなったが、葬儀場から出棺というとき、
その女性は、気が狂ったように大泣きしてみせた。
サメザメと泣くというよりは、ギャーギャーと泣きわめくといったふうだった。
が、そのあと、初七日の法事も同日の夕刻にしたのだが、逆に躁状態になってしまった。
喪主は、その弟氏の息子が一応、務めていたが、無視。
自分が葬儀の喪主であるかのように、はしゃいでいた。

●ごくふつうの人

これは代理ミュンヒハウゼン症候群の人に共通することと言ってもよいかもしれないが、
どの人も、一対一で会って話すと、ごくふつうの人という印象を受ける。
どこか「?」という印象をもつこともあるが、会っているときには、わからない。
「おしゃべりな人」「よく気がつく人」という印象をもつことが多い。
こちらが代理ミュンヒハウゼン症候群ではないかと疑いながら観察してみたとき、
はじめてそれがわかる。
もちろん代理ミュンヒハウゼン症候群という言葉すら知らない人も多い。

(ただし人前では献身的な介護者を演ずるため、まわりの人たちは、「やさしい人」「できた人」
「人格者」という評価をくだすことが多い。)

共通する特徴を列挙してみる。

(1)人格のつかみどころがない(どういう人なのか、よくわからない。)
(2)わざとらしい介護、看病を繰り返す(人が見ているときだけ、それをする。)
(3)自己中心性が強く、一貫性がない(いつも目立った言動を繰り返す。)
(4)世間体、見栄、体裁にこだわる(いつも他人の目を気にしている。)
(5)口がうまく、依存性が強い(相手にへつらう、相手の機嫌をとる。)
(6)自分への批判を許さない(批判されたとき、パニック状態になる。)

が、何よりも最大の特徴は、(5)「私は私」という生きざま、あるいは哲学が
ないということ。
そういったものをもつだけの、知的能力もない。
が、ここでも誤解してはいけないことは、情報量が多いとか、頭の回転が速いとか、
そういうのは、ここでいう知的能力ではない。

たとえばその病気については、医者も驚くほどの知識をもっていたりする。

ここでいう知的能力というのは、深い思考性、深い洞察力、他人との共鳴性に
裏づけられた、哲学的な一貫性をいう。
わかりやすく言えば、その人らしい生きざまをいう。
またそれがないから、結果として、代理ミュンヒハウゼン症候群としての症状を
示すことになる。

……と書くと、このタイプの人は、全面的に加害者かというと、そうでもない。
同時に、このタイプの人自身も、何らかのトラウマをかかえていると考えてよい。
過去における心のキズが遠因となって、代理ミュンヒハウゼン症候群的な症状を
引き起こすようになったと考える。

なおウィキペディア百科事典によれば、演技性人格障害※については、つぎのような
特徴をあげている。

(1)他人から美化され注目されることを望む
(2)自分は他人に対して関心を払わない。
(3)他人を尊敬することもしない。
(4)他人の心身の痛みを理解できない、とある。

(注※:以下、ウィキペディア百科事典より抜粋)

●虚偽性人格障害

この障害の持ち主は、自分の病気の遍歴を劇的に語るが、詳細に問われるとその中身が急
に曖昧で、一貫性が無くなる。また、病気に関してきわめて聞き手の興味を持たせる話をする
ことが多い。

一般的に医学用語や病院に関する知識が豊富であり、これらの用語を駆使して嘘の病状を訴
える空想虚言癖を持つ事が多い。最初に訴えた症状が陰性だと分かると新たな訴えを始め、
虚偽症状を作り出す。また病院によって、症状を否定・虚偽だと通告されると、即座に退院し、
別の病院へ放浪したりすることもある。

この症状をもつ人の根本的な動機は、被虐嗜好や幼児期の満たされなかった愛情を満たすこ
とであり、そのため、一般の人が避ける手術などを、世話をしてもらえるという理由で、積極的
に受けたがる。

しかし、嘘はいつまでも通用せず、矛盾した検査結果などで作為的な身体症状である事が暴
露される。反応は、多くの場合逃げ出す事で、他の病院で新たな身体症状を作り上げて入院
するといったことを繰り返す。医者は、治療の努力を裏切られた事から怒りをもつ事が多い。
身体症状領域だけでなく、精神病領域でも約0.7%の虚偽性障害の人がいる。

この障害では、本人だけでなく子供などを利用する場合があり、そのときも騙すための手口は
同じである。騙すための手段や、不必要な手術を経ることによって、実際に子供がダメージを
負う事が多く、死に至る場合もある。母親と引き離すことによって"病状"は回復する。これは
『代理ミュンヒハウゼン症候群』と呼ばれる。

●演技性人格障害

演技性人格障害(えんぎせいじんかくしょうがい)は、日常生活の中において役者の演技のよう
な行動をし、その結果自分が注目の的とならなければ大きなストレスを受けるため、自己破壊
的な行動や、或いは自己破壊的なまでに挑発的な性行動を取ったりする精神疾患である。

もともと人は、ウィリアム・シェイクスピアが「物みな舞台、人みな役者」(『お気に召すまま』)と
表現したように、職業人として、家庭人として、友人として、或いは行きずりの他人としてのペル
ソナを場合によって被り分けるものである。だが本症に於いては、こうしたペルソナの使い分け
ができず、ある一つのペルソナにこだわる事によって社会生活に支障を来たす。

9割が女性であるが、これに対し反社会性人格障害では生涯罹患率が、それぞれの文化圏で
本症と同程度であり、こちらは9割が男性である(他に、いずれの疾患も「他人から美化され注
目されることを望むが、自分は他人に対して関心を払わず、他人を尊敬することもしない」、
「他人の心身の痛みを理解できない」などの病像が似ている)ことから、同じ疾患が性差として
現れた物であるという解釈もあり、その原因となる神経伝達物質や遺伝子の探索が行われて
いる。

演技性人格障害と関連する精神疾患にプソイドロギア・ファンタスティカ、いわゆる病的虚言症
がある。自分を実際以上に見せるために、あらゆる妄想虚言を吐く、一群の病者である。有名
人や権力者と知り合いであるかのように、会話中にはネーム・ドロッピングを行う。高い知性を
伴えば、スタンドプレイの好きな、権力志向の人物と言う評価内に納まる事もあるが、多くは周
囲との利害を調整できず、詐欺などの犯罪を犯すこともある(以上、ウィキペディア百科事典よ
り抜粋)。

+++++++++++++++++

同じ代理ミュンヒハウゼン症候群でも、相手が子どものばあいは、まだ対処もしやすい。
しかし相手が祖父母や両親、さらには兄弟のばあいは、介入そのものが、むずかしい。
家庭の事情が複雑にからんでいることが多い。
またそれ以外に介護者(看護者)がいないというケースもある。
子どものように強制的に保護施設に収容するということができない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
代理ミュンヒハウゼン症候群 虚偽性人格障害 演技性人格障害 虐待)


Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

●36歳!

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数日前、タレントのIAという女性が、
自宅で死んでいるのが見つかったという。
AV女優で売り出した女性である。
享年、36歳。
その年齢を聞いて、あまりの若さに、私は驚いた。
死因は病死か自殺か、今のところ不明。
私は、「IA」という名前を、『クレヨンしんちゃん』
を読んでいたときに知った。
クレヨンしんちゃんは、そのIAのファンだった。
(あるいは父親のヒロシのファンだったかもしれない。)
私はそのとき、『野原家の子育て論』という本を書いて
いた。
「野原」というのは、クレヨンしんちゃんの姓
である。

++++++++++++++++++++

こう書くと不謹慎に思われるかもしれないが、(実際、不謹慎だが……)、女性がもっとも
美しく輝くのは、35歳前後ではないだろうか。
このころ、女性は、肉体的にもっとも充実した時期を迎える。
これは私の個人的な好みというよりは、世間の常識的ではないか。
ただしその35歳を過ぎると、女性は1年ごとに急速に、変化する。
急速にというより、急激に、である。
40歳を超えたとたん、おばあさん顔になる(失礼!)。
私は職業を通して、そうした女性の変化を、ずっと目(ま)の当たりに見てきた。

で、そのIAというタレントは、36歳だったという。
ネットニュースには顔写真が紹介されていたが、たしかに見覚えがある。
細い顔の、美しい女性である。
『クレヨンしんちゃん野原家の子育て論』(三一書房)という本を書いていたとき、
その名前が出てきた。
それで、私はその女性に興味をもつようになった。
IAは、父親のヒロシが好きなタレントだったように記憶している。
クレヨンしんちゃんが好きなタレントだったかもしれない。
(調べてまで書くような話ではないので、いいかげんなまま、ごめん!)

で、またまた私は、「自分が36歳のときは何をしていたか」と考えてしまう。
自分の年齢ではそれがわからないが、三男が3歳くらいのときといえば、わかる。
計算してみると、そうなる。
壁にそのころみんなでディズニーランドへ行ったときの写真が張ってある。

私には、遠い遠い昔の、幻のように消えた過去だが、IAというタレントにとっては、
(今が現実)なのだろう。

ワイフの話では、結婚はしていなかったらしい。
また体調を崩していたともある(週刊誌の見出し)。
芸能界からは、昨年の終わりごろ、引退していたという。
いろいろあって、こういうことになったらしい(?)。

しかしこういうことは言える。
36歳といえば、それまでに作りあげた土台の上で、いよいよ自分の花を
咲かせる年齢。
仮に失敗しても、やり直しができる。
そのころの1年は、50代、60代の人の、2年分、あるいは3年分はある。
それに先にも書いたように、女性がもっとも美しく輝く年齢でもある。
けっして死に急ぐような年齢ではない。

私たちが知りえない、(何か)がIAというタレントにあったにちがいない。
その事情は深く、そして複雑。
もし自殺ということであれば、なおさらだ。
私のような部外者が、いくら推理しようとしても、推理しきれるものではない。
だからこの話は、ここまで。

ただ、生きようによっては、人は他人の2倍、生きることができる。
中身を濃くすれば、3倍、4倍と長く、生きることができる。
繰り返すが、決して、死に急いではいけない。
苦しくても、つらくても、たった一度しかない人生。
たった一度しかないなら、じっくりと最後の最後まで見届けてやろうではないか。
そのときが来たら、人はどうせ否応(いやおう)なしに死ぬ。
死ねば、どうせこの世のもろとも、私たちは消える。

36歳という年齢は、人生の結論を出すには、あまりにも若すぎる。


Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

●ネームドロッピング

++++++++++++++++++

それとなく会話の中に、有名人の名前を
混ぜ、それでもって、「自分は有名人と
親交がある」「……あった」と相手に思わせる
ことを、「ネームドロッピング」というらしい。

私はこの言葉を、今日、はじめて知った。

……と書くと、「何だ、林浩司は、
そんな言葉すら知らなかったのか」と
思われそうだが、事実は事実。

虚偽性人格障害者と呼ばれる人が、この手法を
よく用いるそうである。
そしてそれが犯罪に結びつくと、詐欺師と
いうことになる。

+++++++++++++++++++

しかし私には、その反対の経験がある。
名前を出したくても、出せなかった。
出したところで、だれも本気にはしなかっただろう。
今でこそ、「ネームドロッピング」という言葉もあるが、ネームドロッピングそのもの。
だれしもみな、そう思ったことだろう。

私はSH氏に後見人(身元引受人)になってもらい、オーストラリアへ渡った。
1970年の3月のことである。
SH氏というのは、現在の皇后陛下の父君である。
そのSH氏は、そういう関係もあって、留学する前も、そしてそのあとも、電話一本で、
気軽に会ってくれた。
会うといつも、東京商工会議所の横の路地にあるそば屋へ、私を連れていってくれた。
そばのたいへん好きな人だった。

が、そのSH氏の名前をこうして書くようになったのは、私が47歳も過ぎてからのこと。
そのころから猛烈に本を書き始めた。
それまでは、名前を口にするだけでも、畏(おそ)れ多かった。
その状況は、今でも変わらない。

先日も友人と電話で話しているとき、何かの話のついでに、SH氏が話題になった。
そのときもつい、口がすべりそうになった。
しかし言えば言ったで、まさにネームドロッピング。
その友人は、そう思っただろう。
だから言わなかった。

で、詐欺師といっても、いろいろある。
相手を意図的に騙そうとする詐欺師もいれば、その意識もないまま騙そうとする
詐欺師もいる。
前者はまだ救われるが、後者は、人格障害の一つで、虚偽性人格障害とも呼ばれる。
もちろん軽重はある。
軽い人は、「境界性〜」という名前がつく。
「パーソナル障害」と呼ぶときもある。

このタイプの人は、頭の中で虚構の世界を作りあげ、虚構が虚構であることさえ、
わからなくなってしまう。
「私の父親は、SH氏」「だから私も皇族」と。
本人自身が本気でそう信じているから、相手も騙されやすい。
(?をついているという)スキがない。

しかし世の中には、ネームドロッピングの、(ネーム)そのものの人もいる。
そういう人が詐欺を働くときもある。
アメリカで起きた、元Nダック会長による詐欺事件である。
被害額は数兆円にのぼるとされる。
数兆円である。
仮に2兆円として、1万円札が100枚で1センチの高さになるとして計算
してみると、何と、その高さは、20キロメートル!
それもそうだろう。
「元Nダック会長」と言えば、だれだって信用してしまう。
そんな人がまさか詐欺を働くとは、だれも思わない。

話はそれたが、虚偽性人格障害と位置づけられる人は、このネームドロッピングという
手法をよく用いるそうである。
有名人の名前を、会話の中に織り込むのは、ほどほどに!、ということになる。
かえってあなたの人格を疑われることになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
ネームドロッピング 虚偽性人格障害 パーソナル障害 ペルソナ人格障害)


Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

●感覚的世相論

+++++++++++++++++++

7年ほど前、息子の結婚式のため、アメリカへ行った。
そのときアメリカ人が、目の玉が飛び出るような
大豪邸に住んでいるのを知って、驚いた。
それこそ、(こういう書き方は失礼ということは
よく知っているが)、そこらの銀行員ですら、
映画『ホームアローン』に出てくるような大豪邸に
住んでいた。

また去年、友人のお嬢さんの結婚式に出席するため、
オーストラリアのメルボルンへ行った。
そこでホテルの料金を聞いて、これまた驚いた。
メルボルン市内のごくふつうのホテルですら、
一泊4万円〜5万円。
少し高級なホテルになると、7万円〜8万円。

日本人の私にとっては、もうメチャメチャな料金と
言ってもよい。
そう、そのメチャメチャが、今度の大不況で、是正
されつつある(?)。

++++++++++++++++++++

日本のバブル経済が最盛期のころのこと。
私は近くのデパートへ、ワイフの誕生日プレゼントを買いに行った。
そこで私は、小さな財布(さいふ)ですら、1つ、4万〜5万円もすることを知った。
それを手に取り、「私が1日働いても、こんな財布1つ買えないのか」と、
自分が情けなくなった。

が、そのバブル経済は崩壊した。
当然である。
東京では、小さな、それこそ10坪とか20坪とかいう土地が、1億円、2億円で
取り引きされていた。
メチャメチャというが、それにも程度というものがある。
そんなメチャメチャが、いつまでもつづくはずがない。
ないことは、(現実の自分の生活)を、そこに置いてみると、わかる。
いつかどこかで、何らかの形で、是正される。
その動きは、必ず、生まれる。
これが私がいう「感覚的未来論」である。

その感覚的未来論を使って、今回の大不況を評価してみると、こうなる。
ただしどこか、過激?
そういう見方もあるという程度に、読んでほしい。

(1)自動車産業

今では、ほんの300〜500メートル先のショッピングセンターに行くにも、
車に乗っていく人は多い。
その一方で、「太りすぎた」「運動不足だ」「ダイエットだ」と騒ぐ。
基本的な部分で、どこか狂っている。
その狂いが収まるまで、自動車産業は衰退する。
もっともだからといって、車社会を否定しているのではない。
しかしこうした矛盾は、あちこちで感じる。
たとえば車そのものにしても、たった1人や2人の人間を運ぶために、
丸々部屋ごと、いっしょに運んでいるようなもの。
これをエネルギーの無駄づかいと言わずして、何という?

(2)外国為替

対オーストラリア・ドルの為替レートがおかしいことは、ホテル代をみただけでもわかる。
昨年は、1豪州ドルが、110円前後だった。
それが今は、60円前後にまで下がっている。
この為替レートで計算すると、ホテル代は、約半額になったことになる。
1泊2万〜2万5000円。
それでも安いとは思わないが、ほぼリーズナブル。
「円高になった」と世間は騒いでいるが、適正になったと考えても、おかしくない。

(3)景気判断

世の中には今、モノがあふれかえっている。
私が住む浜松市にしても、今度周辺の市町村と合併して、政令都市になった。
これはあくまでも一説だが、なぜ周辺都市がすなおに合併に応じたかというと、
ゴミの処分場の問題があったから、という。

が、ゴミの捨て場がないほど、モノがあふれかえるほうが、おかしい。
ゴミの処分場が満杯になるほど、モノがあふれかえるほど、おかしい。
が、一方で、どんどんとモノを製造している。
そのモノが売れなくなったとたん、景気が悪くなったという。
多くの人は失業し、中には生活するための住居もないという。
しかし考えてみれば、これほどおかしな話はない。
つまり、この(おかしさ)が是正されるまで、景気は悪くなる。

(4)世界情勢

1時間働いて、アメリカドルで、70ドル(日本円で7000円、
GM、フォードの会社員)という国もあれば、1か月働いて、たったの2ドル(日本円で200円、
北朝鮮・開城で働く労働者の実質的な受け取り額)という国もある。

これは両極端なケースだが、こうした不均衡があるかぎり、世界情勢は不安定のまま
つづく。
それが臨界点に達したとき、あるいはその下でどす黒い欲望が渦巻いたとき、戦争が
起きる。

今回の不況で、金持ちの国というよりは、国に関係なく、金持ちが、総じておおきな
損失をこうむっている。
「戦争を選ぶか、大不況を選ぶか」ということになれば、賢明な人なら、大不況を
選ぶだろう。
(過去の歴史の中では、大不況を打破するために、大国は外国に向けて戦争をしかけて
いった。今回も、それがないとは、だれも言えない。)

(5)食糧問題

食糧問題ほど、需要と供給の関係がはっきりしている問題はない。
限界を超えて、食糧は生産できない。
生産できる食糧以上に、それを消費する人間はふえない。
10億人分の食糧しか生産できないのなら、10億人しか生きられない。
が、現実はかなりいびつである。

世界の3分の1以上が、現在、食糧難に苦しんでいる。
その一方で、ありあまる食糧を、食い散らしている国民もいる。
これも一説だが、日本人がペットに与える食糧をすべてアフリカへ送ったとすると、
それでアフリカの食糧問題は解決すると言われている。

この(おかしさ)がつづくかぎり、世界は安定しない。

(6)宇宙開発

人間はぜったいに、宇宙の住人にはなれない。
人工衛星を飛ばし、地球、あるいは太陽系の一角を、ごく少数の人間が、探検的に
行き来はできるようにはなるかもしれないが、そこまで。

理由は明白。
もし人間が宇宙へ出られるほどの科学技術を手にしたとすると、(現に今がそうだが……)、
同時にさらに大型の破壊兵器を手にすることになる。
人間にとって、(あくまでも人間についてだが)、科学技術の進歩と、破壊技術の
進歩は、比例関係にある。
これだけ科学技術が進歩した今でも、世界中のいたるところで、戦争はつづいている。
そんな人間が宇宙へ出たらどうなるか。
今度は、宇宙で戦争をするようになる。
が、その戦争は、すさまじい破壊力をもった兵器でなされる。
つまりたがいに生き残ることはできない。
だから人間は、宇宙の住人となることは、将来的に、ありえない。

(7)温暖化

温暖化は解決しない。
そのことがわからなければ、目を宇宙にやればよい。
もし知的生物がいるとするなら、この宇宙は、今ごろは宇宙人だらけになっているはず。
何千、何万という、大小さまざま、形もさまざまな宇宙人が、まるで東京の
ラッシュアワーのように宇宙を行き交っているはず。

しかし現実の宇宙は、静か。
静かということは、ほとんどゼロ。

もう少し確率論的に言うと、1000分の1の星が、地球のような惑星をもっていた
とする。
その地球のような惑星のうち、1000分の1が、やや知的な生物をもっていたとする。
……と順に考えていっても、この銀河系だけでも……、おそらく、何万、何十万という
知的生物がいることになる。
そしてその知的生物が、1万年単位で進化し、宇宙へ飛び出したとすると、今ごろは、
「ラッシュアワーのように」になっているはず。

が、現実に、いない。
いないということは、つまり知的生物は、それ自体、自滅プログラムを内包している
ということになる。
よい例が火星である。
だから人類の自滅プログラムは、すでに起動されている。
それが温暖化ということになる。

(注:もし宇宙人がいるとするなら、その宇宙人は、きわめて平和主義的な生物
と考えてよい。
でなければ、この宇宙では、生き残れなかったはず。)

(8)宗教

宗教と信仰は、別。
宗教はそれ自体、哲学であり、学問である。
しかし信仰には、それがない。
だから一般の人は、宗教は、宗教プロに任せ、それを信仰するという形で、宗教の
片鱗(へんりん)に参加している。

しかし信仰には、理屈は必要ない。
そこはまさに、『イワシの頭も信心から』という世界である。
これから先、世界が不安定になればなるほど、宗教と信仰の2極化が進むだろう。
同時に無数のカルトも、勢力を伸ばす。
すでにUFOや、地球温暖化にかこつけたカルトの存在も、確認されている。
信者となって信仰するのは、その人の勝手。
それなりの理由があって、人は、信仰に走るようになる。
しかしこれだけは覚えておいたほうがよい。
けっして、人間ロボットだけには、なってはいけない。
おかしいものは、おかしいと思う心だけは、なくしてはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(081226)

●ゆとり教育

+++++++++++++++++

時として、外国から日本をながめてみたほうが、
日本のことがよくわかる。
韓国の東亜N報は、つぎのように伝える。

+++++++++++以下、東亜N報より+++++++++++++++++++


日本は、小中学校に続き、高校教育にも「脱ゆとり教育」を導入することを決めた。
日本の文部科学省は22日、国語、英語、数学を大幅に強化する内容を盛り込んだ新たな
高校学習指導要領の改正案を発表した。 

改正案は、「英語の授業は英語で行うのが基本」と明示した上で、「生活で使われる英語」
の習得を目標にし、高校3年間、生徒に教える英単語数も1300語から1800語へ約
40%増やすことにした。 

(中略)

また、科学と数学は、これまで「ゆとり教育」路線に沿って、「○○は(難しいので)教え
ない」とし、教育内容に制限を置いた規定を撤廃し、学校や教師の判断で難度の高い授業
もできるようにした。 

高校の授業時数も現行基準の週30単位時間(1単位時間は50分)の越えてもよいとし
た。 

新たな高校学習指導要領は、これから各界の意見を汲み上げる過程を経て、来年3月に告
示され、13年度入学生から適用される。
ただし、科学と数学は12年度入学生から先に適用される。

+++++++++++以上、東亜N報より+++++++++++++++++++


教育は、国の要(かなめ)。
理由は、簡単。
国は、人によって作られる。
人なくして、国は成りたたない。

「ゆとり教育」なるものが、いかに日本の教育を後退させたかは、今さら説明するまでもない。
教育全体が、小学校も、中学校も、そして高校も、だらしなくなってしまった。
たとえば小2で習う掛け算にしても、今では、(教えるだけ)。
本当に教えるだけ。
「覚えたい人は、覚えなさい。覚えたくない人は、覚えなくても結構です」と。
それでおしまい。

ほんの10年、20年前には、先生たちは、子どもたちに残り勉強をさせてでも、掛け算の九九
を暗記させた。
それでも暗記できない子どもは、宿題につづく宿題で暗記させた。
子どもが泣いても、暗記させた。
この段階で掛け算ができないと、そのあと、算数の学習すべてに影響がおよぶ。

一事が万事。
こういう緊張感が、今、消えてしまった。
ゴムにたとえるなら、伸びて、ゆるんでしまった感じ。
私たちが受けた教育がよいとは思わないが、私たちは中学2年生で、三角関数を学んだ。
サイン、コサイン、タンジェントという、あれである。
それがどんどんと削られ、今に見る教育になった。

この責任は、いったい、だれが負うのか?

教育というのは、そのときはわからない。
結果が出るのは、20年後とか30年後。

つい先日の報道によれば、国民1人あたりのGDPは、とうとう世界13位になってしまった。
「日本は先進国だ」「金持ちだ」と言っていたのは、当の昔の話。
先進国中でも最下位。

日本の(ゆとり教育)を、いちばん喜んだのは、おそらく隣の韓国ではなかったか。
「これで日本を追い抜ける!」と。

そこで(ゆとり教育)の見直しが始まったが、一度ゆるんだゴムは、もとには戻らない。
ここ10年〜15年は、日本の1人あたりのGDPは、さらにさがる。
今から、覚悟しておこう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
ゆとり教育 国の要)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●冬休み

+++++++++++++++

明日から私も冬休みに入る。
そこで決意。
毎年、ほぼ例外なく、私は冬休みが
終わるころには、運動不足が重なって、
体重がふえる。
そして休み明けに自転車に乗るのだが、
そのとき、体がそれについてこない。
ふだんなら何でもない坂道ですら、
降りて歩く。
そこで今年こそは、その愚を繰り返したくない。

……ということで、明日からではなく、
実は昨日から、運動量をふやした。
今日も、とりあえず、片道、7キロを
歩いた。
仕事の帰りはどうしようかと、今の
ところ迷っているが、たぶん、歩くことに
なるだろう。
(12月26日記)

+++++++++++++++++

●映画「ワールド・オブ・ライズ(?の世界)」

+++++++++++++++++

デュカプリオ主演の『ワールド・オブ・ライズ(?の世界)』を見てきた。
原題は、「Body of Lies」。
久々に迫力のあるスパイ映画を見た。
そんな感じの映画だった。
星は4つの★★★★。

ただ題名の翻訳がおかしい。
「ボデイ・オブ・ライズ」のままでよかったのではないか?
「ワールド・オブ・ライズ」というと、何かしら「?の博覧会」というイメージを
もってしまう。

映画は、謀略に謀略を重ねるアメリカCIAを中心に、ストーリーが展開する。
迫力はそれなりにあるが、あちこちで、「?」と思った。
私の友人にこんな人たちがいた。

1人は、メルボルン大学時代の友人で、大学を中退して、イギリスの諜報専門学校
へ転学していった。
そのまま諜報部員になるということだった。
オーストラリアの友人たちは何とも思っていなかったようだが、私は驚いた。
諜報専門学校?
日本では、そういうコースは、さがしても見つからない。

もう1人は、I国のアメリカ大使館直属の諜報部員をしていた。
同じカレッジにいたが、その友人とは、その10数年後、東京で会ったことがある。
そのときホテルに彼を訪ねると、彼は胸のホルスターに拳銃をもっていた。
それを無造作に、ベッドの上に投げ置いた。
私は驚いたが、彼にしてみれば、何でもない行為だったようだ。

現実にワールド・オブ・ライズのような世界はある。
しかし今、諜報活動といっても、スパイどうしが拳銃をバンバンと撃ちあうようなことは、
しない(?)。
諜報活動そのもののやり方が、変わってきた……と、私は思う。
何しろ、私とはまったく無縁の世界の話である。
だからこれ以上のことはわからない。
ただ映画のはじめに、「これはフィクションだが、実際にあったことに基づいている」
というような説明があったような気がする。

ありえない話ではないが、現実にあんなことがあれば、私ならたった数日で、
PTSD(心的外傷後ストレス症候群)になってしまうだろう。
再起不能の精神病患者になってしまうかもしれない。
やはりあれは、映画の世界の話ということにしておこう。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●神棚を整理する

++++++++++++++++++

先日、実家に帰って、神棚を整理してきた。
何しろ、それが3つもある。
大黒様、稲荷様、それに八幡神社の神様。
大きな神棚で、その中に神札などが、祖父母の
時代から、3代分、ぎっしりとつまっていた。

ダンボール箱に詰めかえたら、ちょうど1杯分に
なった。

その道に詳しい人に相談すると、○○神社へもっていけとか、
一度お祓(はら)いをしてもらってから、処分したらいいとか言う。

しかし、どうしたらよいものか。

++++++++++++++++++

●信仰論

神であるにせよ、仏であるにせよ、さらにキリスト教でいう神であるにせよ、
信仰は、(教え)でするもの。
モノや形でするものではない。
モノや形に拝んでも意味はない。
あの釈迦だって、「私に似せて偶像を作るな」(法句経)と教えている。

が、か弱き人間たちは、それでは自分を支えることができない。
そこかしこで偶像を立て、それに向かって信仰する。
その結果のひとつが、大黒様であり、稲荷様ということになる。
仏教でいう仏像も、その類(たぐい)かもしれない。

が、だからといって、私は、それを否定しているわけではない。
人はみな、それぞれ。
それぞれの人が、幸福を求めて、それぞれの道を歩む。
その方法はみなちがう。
心の拠(よ)り所として、それぞれの神や仏を信仰する。
それはそれとして、そっとしておいてやることこそ、大切。
「あなたはまちがっている」とか、「あなたがしていることは、おかしい」などとは、
言ってはならない。
言う必要もない。

●バチ論

私は、ずっと無神論で通してきた。
家には仏壇もなければ、神棚もなかった。
よく墓参りもしたし、初詣もした。
全国の神社や仏閣へ行けば、手を合わせて、拝んだ。
しかしそこまで。

が、今度、私の家に仏壇が入った。
それについては、前にも書いた。
が、冒頭に書いた、神棚までは考えていなかった。
そこで、ハタとどうするか、困ってしまった。
「どうしよう?」「どうしたらいい?」と。
で、その道に詳しい人に相談すると、あれこれと教えてくれた。
中には、「それをしないと、バチが当たりますよ」と言った人もいた。

しかし(バチ)などというものは、ない。
そんなことをいちいち考えている神や仏がいるとしたら、その神や仏は、
エセと考えてよい。
インチキでもよい。
よくカルト教団では、「この教団を抜けると、バチが当たる」と教えるが、
もしそうなら、その教団自体が、魔の巣窟と考えてよい。
勇気を出して遠ざかったらよい。

だいたいバチを与えるほどの、パワーがあるなら、そのパワーは、もっと
別のところに使えばよい。
常識で考えれば、そうなる。

こうしてその箱は、私の居間の隅に置かれた。
1か月、2か月と過ぎた。

●処分

で、私は私のやり方で、処分した。
その日は、午後までワイフは家にいなかった。
クラブとその忘年会で、家をあけた。

帰ってきてからワイフが、私にこう聞いた。
「あの箱は、どうしたの?」と。
私は、それに答えて、「知らない」と言った。
ついでに、「お前にはバチは当たらないから……」と。
ワイフもそれ以上のことは聞かなかった。

のどかな、白い日差しがまぶしい午後のことだった。
私は居間で茶を飲みながら、栗の木から枯れ葉が舞い落ちるのを
ぼんやりとながめていた。

祖父母や両親、それに兄には、それぞれの思いがあったことだろう。
それはわかる。
わかるが、こんなことで心を煩(わずら)わすのは、私の代でやめにしたい。
どこまでいっても、私は私。
息子たちは息子たち。
そんな私をまちがって言うというのなら、それを言う神や仏のほうがまちがっている。
先にも書いたように、そんな私にバチを与えるようなパワーがあるなら、
そのパワーを、たとえば、アフリカや中東で、戦争で苦しんでいる人たちのために
使えばよい。

繰り返すが、信仰はモノに向かってするものではない。
形でもない。
信仰は(教え)に従ってするもの。
(教え)に始まって、(教え)で終わる。
もしその(教え)がないとするなら、それこそその信仰は(イワシの頭)。

……それにしても、日本も日本だが、世界へ行くと、珍奇な宗教が多いのには、
驚かされる。
マレーシアのアモック(悪霊)信仰、マレーシアのラタ信仰、アイヌのイム信仰、
北アメリカ先住民のウェンディゴ信仰、アフリカ、ポリネシアのブードー教などなど。
それぞれの国の人たちもまた、それぞれの信仰をしながら、自分を支えている。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●信仰

+++++++++++++++++

世界にはいろいろな信仰がある。
その多くは、(おかしな現象)が起きると、
それを(何かのたたり)と考え、それを
(信仰)へと結びつけていく……という
プロセスを経て生まれる。

+++++++++++++++++

信仰論(宗教論ではない)を考えていて、興味深いのは、
それぞれの国の信仰は、それぞれの文化や、伝統、さらには
風土的特徴と結びついているとうこと。
とくに風土。

どこの国のどの宗教とは、ここには書けないが、ある国では、
ある季節のある時期になると、女性を中心に、おかしな症状が
現れる。

別人格になってしまい、理性のコントロールがきかなくなってしまう、など。
奇妙な動作で踊りだすこともあり、ときに村全体の女性たちが、集団で
踊りだすこともあるという。

そこでその国では、それを悪霊のたたりとして、独特の
悪霊信仰が生まれた。
そのときの動作が、ある動物のそれと似ていることから、
その国でも、その動物を信仰の中心に置いている。
ついで、その信仰から祭りが生まれ、文化や伝統も生まれている。

が、こうした症状は、精神医学の世界では、「ヒステリー」という
言葉を使って説明される。
集団で起これば、「集団ヒステリー」ということになる。
が、それぞれに原因があることが、最近、科学的につきとめられている。
(日本語でいう「ヒステリー」というときの意味とはちがい、またよく
混同されるので、最近では、精神医学の世界では、あまり使われなくなった。
以前は、同じような症状を、転換症状とか解離症状とか呼んでいた。)

たとえばその国では、冬の間、国全体が氷と雪に閉ざされ、その
国の人たちは、極端なカルシウム不足に陥る。
その結果、とくに出産直後の女性たちが、カルシウム不足による
ヒステリー症状を示すようになる。

この話と似たような現象は、日本のみならず、世界中で起きている。

(おかしな現象)が起きると、それを(何かのしわざ)と考え、それを
(信仰)へと結びつけていく。
言うなれば、(思いこみ)の世界ということになる。

こうした信仰には、当然のことながら、(教え)はない。
つまり私たちがいう、「宗教」とは、一線を画すものである。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
宗教 信仰 宗教と信仰 思い込み 迷信 信仰論 ヒステリー 集団ヒステリー)

●ただし「宗教といえども、その99%は、思い込みによるもの」(はやし浩司)。


Hiroshi Hayashi++++++++dec 08++++++++++はやし浩司

●暖房器具(Heating System of Fu-ton (Japanese Thick Blenket)

++++++++++++++++++++

最近の家は、密閉性がよいため、部屋暖房
が常識化している。
しかし私の家は、築40年のボロ家。
隙間風が、あちこちから入ってくる。
で、冬になると、暖房方法に苦労する。
とくに寝床になっている、ふとん。

今年の冬は、電気毛布(かけふとん)と、
電気敷き毛布を併用している。
床につく1時間ほど前に電源を入れ、床に入る
ときに電源を切る。
しかしそれでもこのところ、寒いと感ずることがある。
そこで一案!

ふとん乾燥機を購入してきた。
これで一度ふとんを乾燥させる。
床につく30分〜1時間前に、電源を入れる。
が、これがたいへん、暖かい。
つまりうまくいった。

が、それだけではない。
数日前、風呂から出たあと、散歩をしてしまった。
「まずい」とは思いつつ、それをしてしまった。
で、そのあと、予感どおり、鼻かぜをひいてしまった。
ゾクゾクとした悪寒もあり、腰のあたりも
痛くなってきた。

こうなるとふつうの暖房方法では、ふとんは
暖まらない。
そこでふとん乾燥機を、毛布と、かけぶとんの間にはさみ、
そのまま寝た。

しかしこれがよかった。

というのも、人間は眠っているときも、肌を通して、
皮膚呼吸をしている。
そのため通気性の悪いふとんだと、そのまま
寝苦しくなってしまう。
寝るときはできるだけ薄着で、ふとんも通気性の
よいものがよい。

この点、ふとん乾燥機はよい。
通気性がよいどころか、通気そのものをしてくれる。
もちろん暖かい。
それに電熱器が発する、あの電磁波特有の
不快感もない。
さわやかで、軽い風がふとんの中に入ってくるような感じ。

そのときは、額に汗がじんわりと出てくるような
熱さだったが、これがよかった。
朝起きると、鼻かぜは治っていた!

そこで提案。

電気毛布、電気敷きぶとんもよいが、この方法、
つまりふとん乾燥機方式で、ふとんを暖める
製品を開発してほしい。
外から暖かい空気を注入しながら、ふとんを
暖めるという方式である。

ふとんの温もりも自然で、寝心地もよい。
もちろん通気性もよく、厚いふとんで感ずるような
寝苦しさもない。

モーターによる騒音もあるが、あの程度の騒音
なら、気にならない。
飛行機のエンジン音、あるいは車のエンジン音
のようで、かえって快眠を誘うのではないか。

(注:ふとん乾燥機をふとんの暖房に使って
いる人も多いかと思うが、しかし熱くなりすぎるので、
注意する。
ふとんの中で汗をかくほどだと、今度は、眠って
いる間に、脱水状態になるかもしれない。
高血圧の人や、血栓性の何かの病気をもっている
人は、注意してほしい。)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

【撤退する外国企業、規制緩和の必要性】

●この現実を、知っているか?

++++++++++++++++++++

日本の証券取引所から、外国企業の撤退が
つづいている。
現在、東京証券取引所の上場している外国企業は、
「16社と、ピークだった1991年(127社)の
8分の1減少した」
(時事通信・08・12・27)。

かつては127社あったのが、現在は、たったの16社。
(2002年には36社。3分の1に減った。
さらにそれから2分の1以下に減ったことになる。)

その理由として第一にあげられるのが、
「日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、
コストに見合う上場メリットが見いだせないこと」(同)
ということ。

+++++++++++++++++++

時事通信(12・27)は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、時事通信より++++++++++

外国企業の上場廃止も英金融大手バークレイズなど9社に上り、前年(3社)の3倍になった。
株式取引の低迷に加え、日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、コストに
見合う上場メリットが見いだせないことも外資の撤退に拍車を掛けている。東証上場の外国企
業は16社とピークだった1991年(127社)の8分の1に減少した。 
(時事通信・12・27)

++++++++++以上、時事通信より++++++++++

日本から逃げた外資企業は、どこは行ったか?
今さら言うまでもなく、その行き先は、シンガポール。
すでに10年ほど前から、アメリカへ入ってくるアジアの経済ニュースは、
シンガポール経由。
東京ではない。
シンガポール。
東京の経済ニュースすら、シンガポール経由である。
いったい、こうした事実を、日本人はどれほど知っているのか。
深刻にとらえているのか。

言葉の問題だけではない。

シンガポールには、アメリカ本土とそっくりそのまま同じ、アメリカ人向けの
医療機関が整っている。
医療保険も、そのまま使える。

だからアメリカ人ならだれしも、アジアのどこかに拠点を構えるとしたら、
東京ではなく、シンガポールを選ぶ。
逆の立場で、考えてみればわかる。

もしあなたがヨーロッパに、あなたの会社の支店を作ろうと考えたとする。
そのときあなたは、言葉もちがい、医療制度もちがう、A国を選ぶだろうか。
それとも、言葉はそのまま使え、医療制度が同じ、B国を選ぶだろうか。

日本の証券取引所は、投資者保護(?)という名目のため、「経営情報の開示」
も含めて、ほとんどの書類を、日本語に翻訳することを義務づけている。
が、この負担が大きい。
日本における経費の大半が、翻訳にかかるという話を聞いたことがある。

だったら、翻訳を義務づけるのをやめればよいということになるのだが……。

こんなことをしていれば、そのうち日本の証券取引所から、外資系企業は
消えることになる。
(事実、すでに消えかかっているが……。)

日本がアジアの経済の中心地という話は、とうの昔の話。
「国際化」などという言葉は、この日本では、絵に描いた餅(もち)の
ようなもの。
日本のどこを、どのようにとったら、そう言えるのか。

東京へ行くにも、へき地の成田空港で降りなければならない。
どうして羽田空港であっては、いけないのか?

もう一度、私が6年前に書いた原稿を読んでみてほしい。

++++++++++++++++++

●日本から逃げる外資

 今日、1月4日、日本の株価は、戦後最大とも言える、大暴落を経験した。終値で616円安。
それについて、東証のS社長は、欧米やアジアの主要株式相場に比べて日本株が出遅れてい
ることに触れ、「(日本株の低迷は東京市場が)投資したい場所としての魅力を失いつつあるこ
とを示唆しているようにも映る」と危機感を募らせたという(日本経済新聞)。

 この記事を読んで、数年前に書いた原稿を思い出した。つぎのが、それである。日付は、20
02年になっている。

+++++++++++++++

【みんなで考えよう、日本の教育改革】(Open the door and liberate the market)

More and more foreign enterprises are going out of Japan. In 1990, there used to be 125 
enterprises in Tokyo Exchange Market but in 2002 there were only 36 enterprises. The 
number of enterprises are decreasing. The reason is very simple. It costs a lot of money for 
translation from their languages to Japanese. We should open the door to the world and 
liberate the market. Or more and more foreign enterprises will go out of Japan. Here is my 
article which I wrote 6 years ago in 2002.

●遅れた教育改革

 2002年1月の段階で、東証外国部に上場している外国企業は、たったの36社。この数は
ピーク時の約3分の1(90年は125社)。さらに2003年に入って、マクドナルド社やスイスの
ネスレ社、ドレスナー銀行やボルボも撤退を決めている。

理由は「売り上げ減少」と「コスト高」。売り上げが減少したのは不況によるものだが、コスト高
の要因の第一は、翻訳料だそうだ(毎日新聞)。悲しいかな英語がそのまま通用しない国だか
ら、外国企業は何かにつけて日本語に翻訳しなければならない。

 これに対して金融庁は、「投資家保護の観点から、上場先(日本)の母国語(日本語)による
情報開示は常識」(同新聞)と開き直っている。日本が世界を相手に仕事をしようとすれば。今
どき英語など常識なのだ。しかしその実力はアジアの中でも、あの北朝鮮とビリ二を争うしま
つ。日本より低い国はモンゴルだけだそうだ(TOEFL・国際英語検定試験で、日本人の成績
は、165か国中、150位・99年)。

日本の教育は世界の最高水準と思いたい気持ちはわからないでもないが、それは数学や理
科など、ある特定の科目に限った話。日本の教育水準は、今ではさんたんたるもの。今では分
数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題で、正
解率は59%」(国立文系大学院生について調査、京大・西村)だそうだ。

●日本の現状

 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。「化学の分野には、1000近い分析
方法が確立されている。が、基本的に日本人が考えたものは、一つもない」と。

オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本に
は数えるほどしかいない。あの天下の東大には1人もいない。ちなみにアメリカだけでも、250
人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い。

「日本の教育は世界最高水準にある」と思うのはその人の勝手だが、その実態は、たいへん
お粗末。今では小学校の入学式当日からの学級崩壊は当たり前。はじめて小学校の参観日
(小一)に行った母親は、こう言った。「音楽の授業ということでしたが、まるでプロレスの授業で
した」と。

●低下する教育力

 こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。やはり数年前だが、東京の都立高校
の教師との対話集会に出席したことがある。その席で、一人の教師が、こんなことを言った。
いわく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。すると別の教師
が、「運動場ならまだいいよ。うちなんか、廊下でバイクに乗っているのがいる」と。そこで私が
「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「みんな、自動車の教習本を読んで
いる」と。

さらに大学もひどい。大学が遊園地になったという話は、もう15年以上も前のこと。日本では
大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう言った。
「ぼくたちには考えられない」と。大学制度そのものも、日本のばあい、疲弊している! つまり
何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。

もしこの日本から受験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊す
る。確かに一部の学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内閣府の調査で
も、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、26%もいる(2000年)。98年の調査よ
りも8%もふえた。むべなるかな、である。

●規制緩和は教育から

 日本の銀行は、護送船団方式でつぶれた。政府の手厚い保護を受け、その中でヌクヌクと
生きてきたため、国際競争力をなくしてしまった。しかし日本の教育は、銀行の比ではない。護
送船団ならぬ、丸抱え方式。教育というのは、20年先、30年先を見越して、「形」を作らねば
ならない。

が、文部科学省の教育改革は、すべて後手後手。南オーストラリア州にしても、すでに10年以
上も前から、小学3年生からコンピュータの授業をしている。メルボルン市にある、ほとんどの
グラマースクールでは、中学1年で、中国語、フランス語、ドイツ語、インドネシア語、日本語の
中から、1科目選択できるようになっている。

もちろん数学、英語、科学、地理、歴史などの科目もあるが、ほかに宗教、体育、芸術、コンピ
ュータの科目もある。芸術は、ドラマ、音楽、写真、美術の各科目に分かれ、さらに環境保護
の科目もある。

もう一つ「キャンプ」という科目があったので、電話で問い合わせると、それも必須科目の一つ
とのこと(メルボルン・ウェズリー・グラマースクール)。 

 さらにこんなニュースも伝わっている。外国の大学や高校で日本語を学ぶ学生が、急減して
いるという。カナダのバンクーバーで日本語学校の校長をしているM氏は、こう教えてくれた。
「どこの高等学校でも、日本語クラスの生徒が減っています。日本語クラスを閉鎖した学校もあ
ります」と。こういう現状を、日本人はいったいどれくらい知っているのだろうか。

●規制緩和が必要なのは教育界

 いろいろ言われているが、地方分権、規制緩和が一番必要なのは、実は教育の世界。もっと
はっきり言えば、文部科学省による中央集権体制を解体する。地方に任すものは地方に任
す。せめて県単位に任す。

だいたいにおいて、頭ガチガチの文部官僚たちが、日本の教育を支配するほうがおかしい。
日本では明治以来、「教育というのはそういうものだ」と思っている人が多い。が、それこそまさ
に世界の非常識。あの富国強兵時代の亡霊が、いまだに日本の教育界をのさばっている!

 今まではよかった。「社会に役立つ人間」「立派な社会人」という出世主義のもと、優良な会社
人間を作ることができた。「国のために命を落とせ」という教育が、姿を変えて、「会社のために
命を落とせ」という教育に置きかわった。企業戦士は、そういう教育の中から生まれた。が、こ
れからはそういう時代ではない。

日本が国際社会で、「ふつうの国」「ふつうの国民」と認められるためには、今までのような教育
観は、もう通用しない。いや、それとて、もう手遅れなのかもしれない。

 いや、こうした私の意見に対して、D氏(65歳・私立小学校理事長)はこう言った。「まだ日本
語もよくわからない子どもに、英語を教える必要はない」と。つまり小学校での英語教育は、ム
ダ、と。しかしこの論法がまかり通るなら、こうも言える。「日本もまだよく旅行していないのに、
外国旅行をするのはムダ」「地球のこともよくわかっていないのに、火星に探査機を送るのは
ムダ」と。

私がそう言うと、D氏は、「国語の時間をさいてまで英語を教える必要はない。しっかりとした日
本語が身についてから、英語の勉強をしても遅くはない」と。

●多様な未来に順応できるようにするのが教育

 これについて議論を深める前に、こんな事実がある。アメリカの中南部の各州の小学校で
は、公立小学校ですら、カリキュラムを教師と親が相談しながら決めている。たとえばルイサ・
E・ペリット公立小学校(アーカンソー州・アーカデルフィア)では、4歳児から子どもを預かり、コ
ンピュータの授業をしている。

近くのヘンダーソン州立大学で講師をしている知人にそのことについて聞くと、こう教えてくれ
た。「アメリカでは、多様な社会にフレキシブル(柔軟)に対応できる子どもを育てるのが、教育
の目標だ」と。

事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使館のS・ジャック氏も次のように述べている。「(教
育の目的は)多様な未来に対応できる子どもたちを育てること」(長野県経営者協会会合の
席)と。オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達していて、子どもたちは学
校が終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通っている。こういう時代に、「英語を教える必
要はない」とは!

●文法学者が作った体系

 ただ英語教育と言っても、問題がないわけではない。日本の英語教育は、将来英語の文法
学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も国語もそうだ。将来その道の学者になる
には、すぐれた体系をもっている。理由は簡単。もともとその道の学者が作った体系だから
だ。だからおもしろくない。だから役に立たない。

こういう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。子どもたちはもっとかわい
そうだ。たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使って、いかにして自
分の意思を相手に正確に伝えるか、だ。それを動詞だの、3人称単数だの、そんなことばかり
にこだわっているから、子どもたちはますます英語嫌いになる。ちなみに中学1年の入学時に
は、ほとんどの子どもが「英語、好き」と答える。が、一年の終わりには、ほとんどの子どもが、
「英語、嫌い」と答える。

●数学だって、無罪ではない 

 数学だって、無罪ではない。あの一次方程式や二次方程式にしても、それほど大切なものな
のか。さらに進んで、三角形の合同、さらには二次関数や円の性質が、それほど大切なものな
のか。仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つというのか。

こうした教育を正当化する人は、「基礎学力」という言葉を使って、弁護する。「社会生活を営
む上で必要な基礎学力だ」と。もしそうならそうで、一度子どもたちに、「それがどう必要なの
か」、それを説明してほしい。「なぜ中学1年で一次方程式を学び、3年で二次方程式を学ぶの
か。また学ばねばならないのか」と、それを説明してほしい。その説明がないまま、問答無用式
に上から押しつけても、子どもたちは納得しないだろう。

現に今、中学生の56・5%が、この数学も含めて、「どうしてこんなことを勉強しなければいけ
ないのかと思う」と、疑問に感じているという(ベネッセコーポレーション・「第3回学習基本調
査」2001年)。

●教育を自由化せよ

 さてさきほどの話。英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がない。こ
ういう議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。早くから英語を教え
たい親がいる。早くから教えたくない親もいる。早くから英語を学びたい子どもがいる。早くから
学びたくない子どももいる。早くから英語を教えるべきだという人がいる。早くから教える必要
はないという人もいる。

大切なことは、それぞれの自由にすればよい。今、何が問題かと言えば、学校の先生がやる
気をなくしてしまっていることだ。雑務、雑務、その上、また雑務。しつけから家庭教育まで押し
つけられて、学校の先生が今まさに窒息しようとしている。

ある教師(小学5年担任、女性)はこう言った。「授業中だけが、体を休める場所です」と。「子
どもの生きるの死ぬのという問題をかかえて、何が教材研究ですか」とはき捨てた教師もい
た。

そのためにはオーストラリアやドイツ、カナダのようにクラブ制にすればよい。またそれができ
る環境をつくればよい。「はじめに学校ありき」ではなく、「はじめに子どもありき」という発想で
考える。それがこれからの教育のあるべき姿ではないのか。

また教師の雑務について、たとえばカナダでは、教師から雑務を完全に解放している。教師は
学校での教育には責任をもつが、教室を離れたところでは一切、責任をもたないという制度が
徹底している。教師は自分の住所はおろか、電話番号すら、親には教えない。

だからたとえば親がその教師と連絡をとりたいときは、親はまず学校に電話をする。するとし
ばらくすると、教師のほうから親に電話がかかってくる。こういう方法がよいのか悪いのかにつ
いては、議論が分かれるところだが、しかし実際には、そういう国のほうが多いことも忘れては
いけない。

+++++++++++++++

 6年前に書いた原稿だが、この6年の間に、日本の教育も大きく変わった。しかし、それでは
不十分。

 同じように、日本の経済構造も、旧態依然のまま。東証のS社長の言葉が、それを如実に表
している。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●さわやかに生きるために

++++++++++++++++++

1人、気になる人(男性、55歳)がいる。
去年、離婚したという。
3人の子どもがいたが、子どもたちはみな、
妻とともに、T県の実家に移り住んだという。
その上、昨年、コンピュータの改造事務所を
開いたが、今度の大不況で、あえなく閉鎖。
おまけに、持病の糖尿病が悪化。
「腎臓の透析を受けなければならなくなるかも」
とのこと。
55歳といえば、まだ若い。

電話での、一方的な、かつボソボソとした言い方だったので、
返事のしようがなかった。
が、それからちょうど1か月。
その人のことが、やたらと気になるようになった。

++++++++++++++++++

●気になる

相手のことが気になる……ということには、いろいろな意味がある。
心配して気になることもある。
好奇心で気になることもある。
こういうとき、どちらなのだろうと、ふと迷う。
心配しているのか、それとも好奇心からなのか、と。
迷うが、そこまで。

どうであるにせよ、こういうばあい、そっとしておいてやることこそ、大切。
相手のほうから、相談でもあれば話は別。
こちらから、電話をかけて、聞きだすようなことはしてはいけない。
そんな残酷なことはしてはいけない。
また、そんな残酷なことは、私にはできない。

●そこで私のこと

私も過去において、つらいことがあった。
きびしい時もあった。
そういうときのことを思い出してみると、ほとんどの人たちは、
私たちをそっとしておいてくれた。
それはそれでありがたかった。
が、中には、私たちのことを聞きだそうと、わざと近づいてきた人もいた。
たとえば理由もなく、1000円とか2000円の菓子を送り届けてきたりした。
私が礼の電話を入れるのを見込んで、つまりそれをきっかけに、私の家の内情を
さぐろうとした(?)。

が、そういうことが平気でできる人というのは、相当の悪(ワル)と考えてよい。
人間性そのものが崩壊している。
反対の立場になってみると、それがよくわかる。

●仮に……

先に書いた人の(不幸)について、興味がないと言えば、ウソになる。
奥さんとも、何度か会ったことがある。
子どもの教育のことで、相談にのってやったこともある。
コンピュータの改造事務所を開いたと聞いたとき、私も、何か仕事を
頼もうと考えたこともある。
しかしそれ以上のことを知ったところで、それがどうなのか。
私が金銭的に援助するとか、治療費を負担するというのであれば、
それはそれ。
しかし私には、そのつもりはない。
またこちらから、「援助しようか」と話しかけるのも、失礼。

が、仮に私がこんなことをしたらどうだろうか。
好奇心が増大し、その人が今ごろどうしているか、知りたくなったとする。
そこで私は、まず、1000円かそこらの菓子を送る。
相手は、それに礼を言ってくるはず。
送った理由を聞かれたら、「いろいろ君には世話になったから」とか、何とか言えばよい。
で、相手が話に乗ってきたら、「その後は、どう?」と聞けばよい。

しかしそれができるというのは、先にも書いたように、相当の悪(ワル)と考えてよい。
少なくとも、私にはできない。

●酒の肴(さかな)

が、世の中には、他人の不幸を酒の肴にして、楽しむ人がいる。
さも同情したフリをしながら、ああでもない、こうでもないと、他人の不幸話に
花を咲かせる。
中には、「あいつも、かわいそうだよな」と、沈んだ声で言いながら、その人の
悪口を言いふらしたりする。
このタイプの人は、元来ゴシップ好き。
情報を得るために、用もないのに電話をかけてきたりする。
探りを入れてきたりする。
「林君、昨夜、君の夢を見たよ」とか、何とか言って……。

こういう人に、こちらの内情をうっかり話したりすると、その話は、あっという間に、
みなに伝わってしまう。
「あの林は……」と。

●あなたに告げ口をする人は……

『あなたに告げ口をする人は、あなたのことを、また別のだれかに告げ口する』。
イギリスの格言だが、そういう人のことを、「つげ口屋(タトラー)」という。
英語国の世界では、もっとも軽蔑されるべき人間の1人ということになっている。

そこであなたの周囲を見回してみてほしい。
あなたの周囲にも、1人や2人、かならずそういう人がいるはず。
で、私のばあいだが、私に何か告げ口をしてくる人がいたら、こう思うようにしている。
「ああ、この人は、つぎに私のことを、だれかに告げ口をするぞ」と。
つまり相手にしない。
遠ざかる。

好きか、嫌いかということになれば、私は(告げ口)が、大嫌い。
だから子どもを指導するときも、だれかが告げ口をしてきたら、すかさず、
こう言い返すようにしている。

「ぼくは告げ口が嫌いだ。聞きたくない」と。

●そっとしておく

今の今も、不幸のどん底であえいでいる人は、多い。
しかしその人がその人なりにがんばっているなら、そっとしておいてやることこそ大切。
またそれが思いやりというもの。
いわんやその人の不幸を、酒の肴にしてはいけない。
そんな残酷なことを、してはいけない。

これはたがいの人間関係をさわやかにするための、大鉄則ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司※

●三日酔い闘病記

++++++++++++++++++

息子が、アメリカのNAPAのワインを、
みやげにもってきてくれた。

「あぶないかな?」と思いつつ、それを
フルーツ・ジュースで割って飲んでしまった。

飲みやすかった。
おいしかった。
で、調子にのって、その翌日も、飲んでしまった。
今度は、コップ3分の1ほどを、それを野菜
ジュースで薄めて飲んだ。

が、これが悪夢の始まりだった。
三日酔いの始まりだった。

++++++++++++++++++

翌朝、実はその日、愛知県のほうへ、グルメ観光に行く予定だったが、はげしい頭痛で
目が覚めた。
旅行は、そのままキャンセル。
頭痛だけではない。
症状を列挙してみる。

目が回る。
じっと見ているだけで、目の奥が痛くなる。
動きのあるものを見つめていると、吐き気を催す。
音がだめ。
音楽もだめ。
それがガンガンと頭に響く。

頭を動かすと、同じように吐き気を催す。
脈数を計ってみると、105〜110もある。
こめかみを指で触れてみると、そこでドクン、ドクンしているのがわかる。

食欲はなし。
インターネットで調べてみると、「水分補給がいい」とあった。
しかし胃そのものが、水分を受けつけない。
アレルギー反応を示している。
少しお茶を口にしてみたが、そのままゲーッ!

加えて、下痢、また下痢。
昨日だけでも、10回近く、トイレへ走った。
腸全体も、アレルギー反応を示している。
(これは素人判断だが……。)

昼過ぎになって、息子が二日酔いの薬を買ってきてくれた。
「2000円のワインを飲んで、薬代が2000円では、
赤字だね」と、おかしなことを言いながら、薬をのむ。
胃の不快感は、しばらくすると、軽くなった。
そこではじめて、ぬるいお湯に、蜂蜜を溶かして飲む。

が、食欲は、ゼロ。

起きていても目が回る。
しかたないので、そのままふとんの中へ。
こうして私は、約24時間も、つづけて眠ることに……。
ときどき体を起こしたが、24時間というのは、すごい。

そして三日目の今朝、やっとパソコンに電源を入れた。
頭を動かすと目が回るので、頭は椅子に固定したまま。
今朝になって、お茶を2杯飲むことができた。
が、飲んだとたん、またあの頭痛。
摂取した水分で、血管が拡張したためらしい。
それが神経を圧迫した。
片頭痛のときの頭痛に似ている(?)。

が、何よりもつらかったのは、厭世気分。
「二日酔いになると、厭世気分が増大する」という。
「生きていることそのものが、いやになる」……というのは、少し大袈裟だが、
しかしそれに近い。
犬のハナを見ても、いつものような愛情を感じない。
そこにいるのは、ただの動物。
あれこれグチを言うと、ワイフがこう言った。
「二日酔いを私のせいにしないでよ」と。

いつだったか、友人のT氏がこう言ったのを思いだした。
「酒で、憂(う)さが晴れるというのは、ウソだよ。
そのときは、酒で自分を忘れることができても、そのあと、何倍も、落ち込むよ」よ。

二日酔いと厭世気分。
悶々とした不快感。
暗く沈んだ夕方の景色を見ただけで、気分が落ち込む。
しかたないので、また床に横になる。
あとはこの繰り返し。

そして今。
こうしてキーボードを叩いているだけで、頭が痛くなる。
先ほど飲んだお茶が、胃の中でガボガボしている。
風邪をひいているわけでもないのに、背中がゾクゾクする。

だから称して、三日酔い。
酒と縁を切って、もう14年になる。
その私が、またまた失敗を繰り返してしまった。

だからこう誓う。
もう2度と、酒は飲まないぞ!、と。

12月31日。
大みそか。
何たるザマ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
二日酔い 三日酔い)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

【2009年まで、あと1日】

●BLOG

数日前、楽天BLOGへのアクセス数が、(楽天BLOGだけで)、1600件を超えた。
アクセスランキングでも、上位14〜5位に入った。
その数字を見ながら、しばらく手の動きを休める。
「どんな人が読んでくれているのだろう?」と。
が、そこにあるのは、数字だけ。
「1600」という数字だけ。

そこで「1600」を、30倍してみる。
1600x30=4万8000件となる。
約5万件ということになる。
「5万件」というと、実感がわいてくる。

本でも、5万部も売れれば、ベストセラーとまではいかなくても、そこそこに
評判の高い本ということになる。
もの書きとしては、それなりの収入が得られる数字ということになる。

HPやBLOGが、私の生きがいとなって、もう7、8年になる。
この間、電子マガジンも、1100号を超えた。
願わくは、2009年も、今のままつづけたい。
HPもBLOGも、そして電子マガジンも!
私の今の生活は、(ものを書くこと)で、回っている。
その努力が、少しずつだが、報われてきたように思う。

読者のみなさん、ありがとうございました。
2009年も、よろしくお願いします。


●2008年を振り返って……

2008年、実兄と母が、相次いで、他界した。
兄については、それなりに覚悟をしていたが、母は、そうではなかった。
まわりの介護士さんたちも、「100歳までは生きられますよ」と言ってくれていた。
つまりそれくらい、元気だった。
体の故障も、なかった。
ホームでも、薬をのんでいなかったのは、母だけだった。

が、2月の終わりに、脳梗塞を起こしてからは、そのまま寝たきりになってしまった。
毎月のように、ホームへ呼び出されるようになった。
そして兄は8月に、つづいて母は10月に、この世を去った。

そのときは、長く感じられた毎日だったが、振り返ってみると、あっという間だった。
母にしても、約2年、この浜松にいたことなるが、その実感は、まったくない。
こと母についていえば、時間は止まったまま。
そしてその時間は、すっぽりと抜けてしまっている。
思い出といっても、断片的なもの。
その断片が、みな、同じ。
何枚も何枚も同じ絵が重なり、1枚の絵になってしまった。

で、時おり、さみしくなることはある。
ふと「兄や母は、何だったのだろう」と思うことはある。
あるいは「つぎは、私」と、心細くなることもある。
が、それ以上に、ほっとした気持ちも否定できない。
この安堵感は、いったい、どうしたものか。

最後に兄を見舞ったときには、兄は、胃に穴をあけ、そこから食物を
摂取していた。
あまりにも痛々しい姿に、驚いた。
声をかけると、細いまぶたの中で、三角の目が、左右に動いた。

母のばあいは、私は、経済的重圧感というよりは、社会的重圧感に苦しんだ。
とくにこの40年間、そうだった。
心理学の世界にも、「家族自我群」という言葉がある。
私はそれに苦しんだ。
が、けっして、母を恨んでいたわけではない。
母は母で、あの時代を懸命に生きた。
あの時代を、そのひとつ前の時代を背負いながら、懸命に生きた。

「家意識」「家父長意識」「権威主義」「親絶対教」などなど。
私は母の心理を解きほぐすことで、それがどういうものであるかを知った。
反面教師というよりは、母は教師そのものだった。

しかしそれも終わった。
長くつづいた重圧感だったが、ともかくも、終わった。
私にとっては、長い長い、40年間だった。
いや、本当は、60年間だったかもしれない。
父が酒を飲んで暴れ始めたのは、私が3、4歳くらいのときだった。
ゆうつつで、暗い毎日だった。
幼児だった私にも、それがよくわかった。
そういう生活の中で、兄が犠牲になった。

もし私が兄だったら、私も兄と同じ運命をたどっていたことだろう。
心の傷は同じ。
どこもちがわない。
だから兄の葬儀のとき、私はうれしかった。
兄が死んだことがうれしかったのではない。
兄が、私の心の傷を持ち去ってくれたようで、うれしかった。
どこかで、「浩司、あの世までもっていってやるよ」と言ってくれたようで、
うれしかった。

そう、母も、そう言っていた。
ある夜、私が横で添い寝をしてやっているとき、ふと、母がこう言った。
私が「何がいややった?」と聞いたときのこと。
母は、「父ちゃんの酒はいややった」と。
母も、同じような傷を受けていた。

ともかくも、それも終わった。
そしてあの時代は、遠い、遠い、暗闇の中に消えた。
裸電球が、どんどんと遠ざかり、そのまま小さな点となって、消えた。
私にとって、「終わった」というのは、そういうことをいう。

2009年からは、私は私の人生を、思う存分、生きてみたい。
「家」や「家族」にとらわれることなく、思う存分、生きてみたい。
が、残り少ないというか、気がついてみたら、もうあと10年、ないかもしれない。
がんばろう!
がんばるしかない!
がんばります!
……ということで、2009年まであと2時間10分。


【12月29日】

●息子が帰ってきた

++++++++++++++++++++

夜遅く、三男が東京から帰ってきた。
夕食後、2時間ほど、あれこれ話す。

「エアバスと、767はどう見分けるか」とか、
「GEのエンジンと、ロールスロイスのエンジンはどうちがうか」とか、
さらに「ブラジルの航空機メーカーは、どうしてすぐれているか」とか、など。

B−777は、2基のエンジンをつけているが、1基だけで、1万1000ポンド
もの推力があるそうだ。
(そう言われても、ピンとこないが……。)
だから1基だけで、じゅうぶん離陸とのこと。

「1基が故障しても、楽に片肺飛行できるということだね」と念を押すと、
「そのため垂直尾翼が大きくなる」と。

今度の787の納期引渡しが遅れているのも、そのあたりに本当の理由があるらしい。
エンジンを担当したGE社が、予定より大型のエンジンを製作してしまった。
(エンジンを大型にする)→(垂直尾翼大きくする)→(重量が変化する)→
(設計の全面見直し)と。

言い忘れたが、片肺飛行のとき、垂直尾翼が小さいと、飛行機をコントロール
することができなくなる。
エンジンの推力と垂直尾翼の大きさは、比例する。

ほかにもこんな話を聞いた。

コックピットでは、3系統の電源が用意されているそうだ。
どれかひとつでも故障すれば、自動的につぎつぎと電源が作動する。
が、その3系統とも故障したら……?

そのときは、B−777の場合は、コックピット下の窓が開き、
風力で発電機を回して電力起こすそうだ。
なお水平儀など、飛行に絶対必要な機器については、7段階まで、予備が
用意されているそうだ。

「コンピュータにOSが7つ、ついているようなものだね」と私が言うと、
「まあ、そんなとこ」と息子は言った。

飛行機の話は、いつ聞いても楽しい。
J社のカレンダーを、みやげにもってきてくれた。

++++++++++++++++++++

●40%が債務不履行状態

現在、韓国の企業の約40%が、債務不履行状態にあるという(東亜N報・
12・29)。
そのパーセンテイジは、日増しに大きくなっている(同)。
先の97年危機のときは、50数%だったというから、かなり危険な状況に
近づきつつある。

が、その一方で、韓国は、今度は「対馬(つしま)は韓国の領土だ。
文献もそろっている」と言い出した。
竹島(独島)どころではない。
対馬、だぞ!

今はまだよい。
もし日韓の経済関係が逆転するようなことにでもなれば、「九州まで……」とまでは
言わないにしても、きわめて強硬な姿勢で、日本に臨んでくるはず。
そのことは、先のN前大統領時代を思い出してみればわかるはず。
そんな韓国を、どうして日本が救済しなければならないのか。

小泉総理は、日韓間で、100億ドルのスワップ協定を結んだ。
それを今度のAS総理は、300億ドルにふやし、さらに倍増しようとしている。
「スワップ協定」というのは、資金の融通制度をいう。
どちらか一方が債務不履行に陥ったとき、資金を融通しあう。
借りたときの為替レートで、借りたほうは、あとあとゆっくりと、お金を返せばよい。
それがスワップ協定である。

しかしこれほど不平等な協定はない!

大企業(日本)と、中企業(韓国)が、資金の融通を相互に約束しあうようなもの。
韓国にとっては、大助かりだが、日本にとっては、ほとんど役にたたない。
経済規模そのものがちがう。
仮に500億ドルもあれば、それで韓国は立ち直ることができる。
が、日本にとっては、500億ドルなど、(もし日本がデフォルトを宣言すれば
の話だが)、焼け石に水。

AS総理のことだから、こと韓国に対しては慎重な姿勢を見せるかと思っていたが、
韓国の大統領に会ったとたん、ホイホイとそれを決めてしまった。
「おバカ首相」(週刊B春)と言われるゆえんは、こんなところにもある。
一貫性が、まったくない!


●緊迫するパレスチナ問題

イスラエル軍の空爆で、300人近くのガザ地区の人たちが死んだという。
何度も書くが、この戦争は、ただの領土問題が原因ではない。
宗教がからんだ宗教戦争である。
だからやっかい。
宗教がからむと、人は、命までかけるようになる。

小さな家庭の中でさえ、宗教が理由で離婚騒動をしている夫婦となると、
ゴマンといる。
実際、離婚した人も多い。
たいていはある日突然、妻がどこかの新興宗教団体に身を寄せるところから、
それは始まる。
最初は夫に隠れて、静かに信仰している。
が、そのうち、おおっぴらにやるようになる。
「信仰は個人の自由」などというような、なまやさしいものではない。
妻は、夫の価値観、哲学、人生観すべてを、否定するようになる。
価値のないものとして、退けてしまう。
が、この程度ですめば、まだよいほう。

やがて妻は、とんでもないことを言い出す。
「あなたと私は、前世の因縁では結ばれていなかったのよ」とか、何とか。

妻だけではない。
夫のほうが入信するケースもある。
ある夫は、こう言って、日々に、おびえていた。

「私の妻は悪魔の手先だ。妻といっしょにいるだけで、私はやがて地獄に落ちる」と。

実際、そのような相談を、その夫の妻の側から受けたことがある。

私「本気であなたの夫は、そんなことを信じているのですか」
妻「そうです。本気です。宗教の話になると、体をガタガタ震わせて、おびえます」
私「どうしてあなたにおびえるのですか」
妻「私のことを、悪魔と思い込んでいるからです」
私「どうして?」
妻「私がその宗教に反対しているからです」と。

こう書くと、かなり「?」な夫を想像するかもしれない。
が、妻の話では、国立大学の理科系の学部を出た、ごくふつうのサラリーマンとのこと。
そのときは、どこかの設計事務所で、機械設計をしていた。

パレスチナ問題は、その延長線上にある。
だから、やっかい。
複雑。
アメリカのライス国務長官程度の人が、停戦を呼びかけて、それで停戦できるような
戦争ではない。
(ライス氏にしても、またあのヒル氏にしても、そういうことがまるでわかっていない。)

今はまだロケット弾程度による攻撃ですんでいるが、核兵器が登場するのは、
時間の問題。
イランは今、急ピッチで核兵器の製造をつづけている。
シリアもそうだろう。
ロシアの核兵器が使われる心配もある。
宗教戦争であるだけに、妥協がない。
もしそうなれば、それこそまさにハルマゲドン!

いちばんよい方法は、イスラエルが負けを認めて、あの地から出て行くこと。
2000年前の聖地を理由に、あの地に居座っていること自体、おかしい。
どこかに土地を買って、そこに集団移住するということは、できないものか。
……と言っても、イスラエルも建国してから、もう60年近くになる。
「いつまで戦争をやっているのだろう」と思うと同時に、「この戦争は、まだまだ
つづくだろうな」と思う。

宗教戦争というのは、そういうもの。
「妥協」という言葉は、通用しない。

(イギリスの植民地を、イギリスから買い取る形で、現在のイスラエルは、
あの地にイスラエルという国を建国した。
パレスチナ人を追い出して建国したというところが、まずかった。)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●三日酔いから学んだこと

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二日酔いの症状のひとつに、「厭世的気分」
(ウィキペディア百科事典)というのが
ある。

「厭世」というのは、「世の中をいやなものと
思うこと」(広辞苑)とある。

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●飲めないワイン

43、44歳のころ、私は村の祭りに呼ばれ、そこでビールを飲んでしまった。
断りきれなかった。
まるで砂を飲むかのような感触だった。
コップにすれば、3分の1も飲まなかった。
が、それがあの悪夢のような三日酔いの始まりだった。

で、以来、アルコールとは縁を切った。
宴会の席などでも、「飲めません」と最初に断るようにした。

が、まったく飲まないわけではない。
ときどき、ワイフから分けてもらい、大さじにいっぱいほどをなめることはある。
しかしその程度。

が、先日、息子がアメリカから帰ってきた。
みやげにNAPAのワインをもってきた。
私は、フルーツ・ジュースで、それを薄めて飲んだ。
「あぶないかな?」とは思ったが、おいしかった。

で、翌日は、さらに量をふやし、コップ3分の1ほどのワインを、野菜ジュースで
割って飲んだ。
これもまたおいしかった。
しかしこれが三日酔い、実際には、四日酔いの始まりだった。

●下痢

厭世的気分は、その翌日、つまり12月30日から始まった。
(ワインを飲み始めたのが、12月28日。)

今回は頭痛はそれほどひどくはなかったが、吐き気と腹部の膨満感、それに下痢。
とくに下痢がひどかった。

しかもその下痢の色が、(赤)→(緑)→(白)→(黄色)と変化していくのには、
驚いた。
「まるで道路の信号みたい」と私は笑ったが、それには理由がある。

赤い便が出たのは、ワイン、もしくは、二日酔い用の飲み薬が赤かったため。
緑色の便が出たのは、緑色の胃腸薬を飲んだため。
つづいて白い便が出たのは、もう腹の中には何もなくなってしまったためではないか。
いや、少し牛乳を飲んだ。
それがそのまま出てきた(?)。
で、少しずつ体が回復して、黄色い便が出るようになった。

●厭世的気分

「厭世」というのは、「世の中をいやなものと思うこと」(広辞苑)とある。
たしかにそうで、それは二日酔いの最中から始まった。
最初に、「アレッ?」と思ったのは、犬のハナに対しての接し方が変わったこと。
庭へ出ると、いつものようにハナが私の足元にじゃれてきた。
が、そのハナに対して、「かわいい」とか、そういう感情がわいてこなかった。
ただの(犬)。
そんな感じだった。

つづいてワイフや息子たちにも、それが広がっていった。
居間でいっしょにいるときも、「そこに人がいるだけ」という感じになった。
あれこれと気になることはあったが、「どうでもいい」という気分ばかりが先に立った。

投げやり?
無責任?
無関心?
自暴自棄?

12月30日は、そういうわけで、ほぼ24時間、床の中にいた。
が、横になってばかりは、いられない。
夜中に起きて、書斎に入った。
で、そのとき、厭世的気分がどういうものであるか、それを知った。
ふと、死んでしまおうかとさえ思った。

息子たちはもちろんのこと、ワイフにしても、私の苦しみなど、どこ吹く風。
そんな雰囲気で、そのときそれぞれの部屋で眠っていた。
おまけに腹の膨満感がひどく、掛け布団が、ひどく重く感じられた。
そこでワイフに「布団が重い」とこぼすと、ワイフは、「二日酔いを
私のせいにしないでよ」と怒った。

それでますます私は、落ち込んでしまった。

●気分は作られるもの

で、今日は1月2日。
やっと食欲も戻ってきた。
(そうそう、体重は、64キロ台から、62キロ台へと、激減!)

今も少し、厭世的気分は残っている。
こうして文章を打ちながらも、だれとも顔を合わせたくないと思っている。
ワイフにも、息子たちとも顔を合わせたくない。
ただひとり、ぼんやりとしていたい。

言うなれば、うつ状態の気分に似ている。
ただうつ状態のときとちがうのは、ものごとを悪い方へ、悪い方へとは考えないこと。
うつ状態になると、ひとつのことが頭の中に張りつき、それについて悶々と悩むように
なる。
しかし二日酔いには、それはない。
一方的な落ち込み。
一方的な厭世気分。

そこで私は発見した。
「気分というのは、作られるもの」と。

●脳のCPU

脳のCPU(中央演算装置)がいかれるから、自分で自分をおかしい(?)と自覚
するのは、むずかしい。
たとえばサングラスにしても、それをしばらくかけたままにしておくと、赤色はそれ
なりに赤色に見え、青色はそれなりに青色に見えるようになってくる。
さらに長くかけていると、サングラスをかけていることそのものを忘れてしまう。

それに似たような現象が起きてくる。

一度厭世的気分に襲われると、そうである(私)が正しいと思い込んでしまう。
世の中はいやなものという前提で、ものごとを考え始めてしまう。
そしてそれまでの自分を、否定するようになる。
「今まで楽しかったのは、みんな、自分がそう思い込んでいただけだ」と。

心にサングラスがかかっていることすら、忘れてしまう。
つまり私たちがいう(心)というのは、(作られるもの)ということになる。
そしてこのことは、重要な教訓を私たちに教えている。

「心を信じすぎては、だめだ」という教訓である。

たとえば……。

「私は死にたい」という感情にしても、本当にその人がそう思っているのではなく、
そう思うように、脳が勝手にその人を仕向けているだけ。
おそらく、脳内の脳間伝達物質が、何らかの作用を起こしているのだろう。
つまりそういった感情が生まれたとしても、それは(私)ではない。
(作られた私)でしかない。

では、どうするか?

●これから買い物

1月2日。
あちこちのショッピングセンターでは、初売りが始まる。
私とワイフは、これから全快祝いをかねて、その初売りに行ってくる。
ほしいものは、昨夜、チラシに丸印を描いておいた。

予算は、XX万円。
手当たり次第に買ってくる。
まったくの無駄買いである。
しかしそういうことをして、パッと気分を晴らす。
たしかに今の私は正常ではない。
だから、そうする。
そうして、脳みそを一度、正常にもどす。

大切なことは、厭世的気分にせよ、うつ状態であるにせよ、さらには自殺願望が
あるにせよ、それは(本来の私)ではないと知ること。
そんな気分になるのは、最期の最期でよい。

……以上、今回の三日酔いで学んだこと。
喪中とはいえ、みなさん、新年明けまして、おめでとうございます。
(少し、不謹慎かな?)

(付記)
今日の収穫。
羽毛布団、ハードディスク(320GB)、SDカード2枚、
圧力なべ、電熱レンジ、5000円の福袋、洗浄装置付きシェーバーほか、数点。
しめてXX万円弱。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

【散歩】

+++++++++++++++++

「運動不足」。
この言葉がこのところ、恐ろしいものに
聞こえるようになった。

運動不足イコール、不健康。
不健康イコール、病気へとつながっていく。

+++++++++++++++++

●冬の山荘

今日は、山荘のまわりを散歩した。
距離は、ぐるりと一周して、4〜5キロ。
山坂はあるが、「歩こう会」の基準では、初心者コースということになる。
ゆっくりとあるいて、1時間。
ふだんなら、運動にならない運動である。

が、こうした山の散歩は、冬場しかできない。
少し暖かくなると、ハチやヘビが出る。
今はイノシシの季節だが、イノシシとなら、まだ対峙できる。
まっすぐイノシシに向かって、杖を向ければよい。
あるいは棒で払えばよい。

しかし相手がハチのばあいは、打つ手がない。
ヘビもこわい。
だから山の散歩は、冬場だけ。
もっともこのあたりでは、冬といっても、どこかまだ秋の風情(ふぜい)が
残っている。
枯れた木々の間で、まだ葉も落とさず、冬の陽光を浴びて、黄金色に輝いている
のもある。
それに少し歩くと、背中がほんのりと熱くなってくる。
寒さも、消える。
冬というよりは、晩秋。
ここ浜松では、このまま冬らしい冬もなく、やがてすぐ春になる。

村道から脇道へそれる。
そこからさらに進むと、杉林。
「すごい落ち葉ね」とワイフが、数度、同じセリフを繰り返す。
私は杖でその落ち葉を適当に払いながら、先へ進む。
大木が、根をむきだしにしたまま、一列に横に並んでいる。
その横を、カサカサと、大きな音を立てて、歩く。
深々とした感触。
それを足で左右に払う。
波を切るような爽快感。

山道は、谷の下にあるUさんの庭端のところで、再び、通りに出る。
「下りるのは楽だけど……。帰りがたいへんだね」と私。
杖を持ちなおす。
腹に力を入れなおす。

この4日間で食べたものといえば、おかゆ一杯と、スープ一皿。
それに今日になって、やっと焼いた秋刀魚(さんま)一匹と、ご飯を茶碗に半分。
出てくる(力)もない。
それにしてもひどい二日酔いだった。
三日酔いが、そのまま四日酔いになってしまった。

●悲壮感

とにかく運動をするしかない。
私の年齢になると、楽しむというよりは、そこに悲壮感が漂うようになる。
数日も運動をサボっていると、そのまま体がサビついてしまう。
頭のサエも消えてしまう。
文が書けなくなってしまう。

「あと9年。何とか、9年はがんばる」と私。
しかしこのところ、その自信がなくなってきた。
ときどき「まだ9年もあるのかア」と思ったり、「無理かもしれない」と思ったりする。
とくにここ数日は、今まで経験したことのない厭世気分に包まれた。
二日酔いの症状のひとつという。
ふと「このまま死んでしまったら、楽だろうな」と思う。
やはり厭世気分(?)。

が、それに負けたら、おしまい。
少しぐらい調子が悪くても、そこは気力。
気力で、自分を立てなおす。
ということで、あえて、今日は散歩に出た。

歩きながら、うしろから、ワイフが何度も「あなた、だいじょうぶ?」と
声をかけてくれる。
が、それに答えて、返事のしようがない。
何と答えたら、よいのか。
だいじょうぶなわけがない。

……が、ともかくも、無事散歩は終わった。
山荘へ戻ると、細い息が、ハーハーと喉を鳴らしているのがわかった。
足は宙に浮いたような感じ。
軽いめまいもある。

途中、私とワイフは、自分の畑からいくつかのミカンをもぎとった。
まったく野生のままのミカン。
そのためサルも手を出せない。
固くて、皮もめくれない。
そのミカンを、山荘の横のイスに座って、食べた。

食べながら、「やはり散歩は無理だったかな」と、思った。
弱気な自分が顔を出した。
しかしそれはワイフには、言わなかった。

●一羽の鳶(トンビ)

白い雲の間に、最初に黒い小さな点を見つけたのは、私だった。
ワイフは、長いすに座り、反対側の空に消える飛行機を、目で追いかけていた。
私はそれを飛行機と思った。
が、飛行機にしては、小さすぎる。
それに今は、真冬。
肌を刺すような冷気が、谷底から枯れた草木を揺らしている。
上空は、もっと冷たいはず。

「トンビかなあ?」と言うと、ワイフも、「そうねえ……」と。
しかし確信はもてなかった。
私はぼんやりとその黒い点をながめていた。
高さは、その横のM山とくらべても、600メートル近くはある。
そんな高いところを、鳶が飛ぶだろうか。
ぽっかりと浮かんだ白い雲の下あたりを、ゆっくりと右や左に飛んでいた。

「あんなところから餌をさがしているのかしら?」とワイフ。
「まさか!」と私。
二日酔いの後遺症だと思うが、まだ頭のを振ると、胸の奥がむかつく。

私「トンビも、自分を試しているのかもしれないよ」
ワ「かもめのジョナサンみたいね」
私「トンビは、頭がいいから、そういうことを考えてもおかしくない」
ワ「自分の限界を知りたいのね」と。

と、そんとき、その黒い点が、M山の方向に向かって、急に動き出した。
風に乗ったというよりは、急降下だった。
ものすごいスピードだった。

私「あれじゃあ、時速100キロは出ているよ」
ワ「速いわねえ……」
私「今度は、スピードに挑戦しているみたい」
ワ「あら、やっぱりトンビだった」
私「トンビだな」と。

天空を真一文字に横切ったあと、鳶は、M山の頂上あたりで、ゆっくりと小さな
円を描いたあと、M山の向こう側へ、消えた。

それを見届けたあと、ワイフがこう言った。
「部屋に入って、お茶でものみましょう」と。
私はイスから立ち上がると、ワイフのうしろにつづいた。

●山荘

山荘へ入ると、日本間にあるコタツに電源を入れた。
もってきたミニ・パソコンを開いた。
台所で、ワイフがお茶をわかす音がする。
静かな夕刻。
穏やかな夕刻。

私はたった今見かけた、鳶のことを書く。
しかし集中力がつづかない。
眠い。
体がだるい。
指が重い。
タイプミスがつづく。

「たった4日なのに……」と、私。
そう、たった4日間、パソコンに向かっていなかっただけ。
が、もうこんな状態。
脳みそがサビつくのは、本当に早い。

気がつくと、いつの間にかワイフは、お茶を飲むのをやめ、となりで
スヤスヤと眠っていた。
こたつのふとんを、目一杯自分のほうに引き寄せていた。

何もかもいっしょにやってきた、ワイフ。
すっかりバーさん顔になってしまった、ワイフ。
そう思いながら、横のふとんをもちあげて、ワイフにかけてやる。

……ここまで書いたとき、村のチャイムが5時を知らせた。
「あら、もう5時……」と独り言を言ったあと、大きなあくびを1度したあと、
ワイフは、今度は、本当に居眠りモードに入ってしまった。
こうなると、あと1〜2時間は、起きない。

「晃子へ、今日は、散歩につきあってくれて、ありがとう!」。

P.S.

明日は、散歩の距離を、2倍に延ばすぞ!
明後日は、そのまた2倍!
我ら、ヤング・オールド・マンは、絶対に負けない!


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++はやし浩司

●老化の確認

+++++++++++++++++

こんなことは、50代のころにはなかった。
しかし60代になると、だれと会っても、
まず老化の確認から始まる。

「この人は、だいじょうぶかな?」と。

++++++++++++++++

というのも、認知症にしても、ある日突然、
人はそうなるのではない。
徐々に、徐々に、しかも少しずつ、10年単位という
長い時間をかけて、そうなる。

それに認知症といっても、千差万別。
定型はない。
程度の差もある。

たとえば話し方が、妙にかったるくなる人。
反応が鈍くなる人。
繊細な会話ができなくなる人。
ときどきぼんやりする人。

さらにおかしな行動を見せるようになる人もいる。

がんこになったり、わがままになったり……。
家の中に引きこもってしまう人もいる。
見苦しいまでにケチになったり、こまかいことを言う人もいる。
が、本当にこわいのは、そのことではない。

加齢とともに、それまでその人を隠していた仮面がはずれる。
自分を飾ろうという気力そのものが、弱くなる。
とたん、その人の(地)が、表にそのまま出てくる。
モロに出てくる。
そのとき、それなりの人格が備わっている人は、恐れることはない。
しかしそれが備わっている人は、少ない。

「60歳を過ぎたら、円熟の境地に達する」というのは、ウソ。
自分がその年齢に達してみて、それがわかった。
むしろ、この年齢を境に、あさましいほどまでに貪欲になる人がいる。
一片の哲学ももちえず、「世間体」という渦の中で、自分を見失う人もいる。

ウソだと思うなら、電車や観光バスの中で、ゲラゲラ、ギャーギャーと
騒ぎまくる、あのオバチャンたちを見ればよい。
大半の人たちは、みな、ああなる。
油断すると、みな、ああなる。
ああなったあと、それぞれがボケ老人の道へと入っていく。

だからというわけでもないが、久しぶりに会ったりすると、まず、
「この人は、だいじょうぶかな?」と思うところから、会話が始まる。
「どこかおかしいところはないかな?」とも。

だからといって、そういう人たちを、どうこう思うわけではない。
差別するわけではない。
私自身だって、おかしい(?)。
おかしくない人は、いない。
現に、昨日やおとといの私は、「死んでも構わない」と思っていた。
うつ病と診断されても、おかしくない状態だった。

大切なことは、それぞれの(おかしさ)を認めあいながら、接すること。
相手がかったるい話し方をするなら、こちらも、それに合わせて、かったるく
話せばよい。
繊細な会話ができないなら、こちらも、それをしなければよい。
相手に合わせて、おおざっぱな話をして、それですませばよい。

そう言えば、今年の正月、小さな事件が起きた。

親戚のG氏から年賀状が届いた。
私の家が喪中であることは、よく承知のはず。
最初は、「まちがいかな?」と思ったが、しかしG氏は昔から、冠婚葬祭には
うるさい人。
まちがえるはずはない。
で、よくよく思い出してみると、葬儀の席でも、法要の席でも、どこか妙な
行動が気になった。
会話そのものが、間延びしたような感じ。
ア〜〜ウ〜〜、と。
反応も鈍かった。
僧侶の読経に合わせて、何かしら踊るようなしぐさをして見せた。
それにもらった香典も、会食1食分にもならないような、小額だった、などなど。

だからいって、G氏があぶない……ということではない。
先にも書いたように、多かれ少なかれ、私たちの年代は、みな、あぶない。
G氏を批判しても、意味はない。
まさに「明日は、わが身」。
4、5年後には、私も、同じようなことをするようになるかもしれない。
非常識なことをしながら、それが非常識とも、わからなくなる(?)。
つまりこうして相手の脳みその中身を確かめながら、つき合う。
そしてその人はその人として、そっと暖かく見守る。

それが私たちの年代ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司※

●頭脳・リローディド(再起動)

+++++++++++++++++

昨夜になって、やっと脳みそが回転し始めた。
三日酔いが、抜けた。
よかった!
で、今日は、パソコンの保守。
昨日買ってきたHDに、コピー・コマンダーという
コピーソフトを使って、現在のHDを丸ごとコピー
する。
そしてコピー元のHDと、コピー先のHDを、
置き換える。
コピー元のHDは、そのまま保存。
万が一のときのために、備える。

++++++++++++++++++

●胃が内分泌器官?

昨日読んだニュースで、「おもしろい!」と感じたのがこれ。
何でも胃そのものも、ホルモンを分泌しているという。
しかもそのホルモンというのが、驚くことなかれ、(若返りのホルモン)とか!
その発見者は、今のところノーベル科学賞候補のNo1にあげられているそうだ。

で、数年前、大腿筋も、運動によりホルモンを分泌するという研究成果を読んだことが
ある。
これは大腿筋にかぎらないことかもしれないが、大きな筋肉は、運動すると、ある種の
ホルモンを分泌するという。
そしてそのホルモンも、(若さを保つために)作用するという。
しかしこれは経験則上も、正しい。
60歳を過ぎても、規則正しく、きちんと運動をつづけている人は、若々しい。
肉体的にも、精神的にも、若々しい。

しかし今度は、「胃」という。
胃はただの消化器官だけではないということになる。

Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【モノ論】

●大掃除

私が元気になって、今度は、ワイフが交代で、ダウン。
風邪らしい。
朝から、ずっと床で横になったまま、起きてこない。
「どうしたの?」と聞くと、「体がだるい」と。

今年は喪中ということで、だれも、来ない。
どこへも、行かない。
年末に旅行を計画していたが、これは当日の朝、キャンセル。
これは私の二日酔いが理由だった。
この分だと、1月x日の旅行も、あぶない。
そのことをワイフに言うと、「それまでには治るわよ」と。

息子たちは、夜中じゅう起きていて、いつも昼過ぎに食事をとるために
台所へやってくる。
炊事、洗い物は、私の仕事。
ついでに大掃除も。

我が家にも、モノがあふれかえっている。
これから先、少しずつ、(一部屋ずつ)、モノを整理していく。
つまり思い切って、捨てていく。

●モノ

(モノ)の話が出たので、ついでに……。
正月の新聞には、100枚以上ものチラシが入っていた。
そのほとんどが、モノ、モノ、モノ、またモノ……の広告。
言うなれば、部屋中が、家中が、そして日本中がモノで、あふれかえっている。
足の踏み場もないほど、あふれかえっている。

先ほど、物置を少し整理してみたが、懐中電灯だけで、5〜6個も出てきた。
もちろん1個あれば、じゅうぶん。
そこで思い切って、残りの4〜5個を袋につめた。
こういう(整理)では、容赦なく捨てる。
捨てて、捨てて、捨てまくる。

これは庭木の剪定(せんてい)のときのコツに似ている。
剪定するときも、思い切って、切る。
切って、切って、切りまくる。
遠慮は無用。
放っておいたら、夏までに、庭中が木々の枝で覆いつくされてしまう。

で、そのチラシを見ながら、こう思う。
「こうまで人間に、モノが必要なのか?」と。
答は、もちろんNO!

部屋や家には、(何もない美)というものがある。
そのほうが、すっきりしていて、居心地もよい。
一方、その反対が、ゴミ屋敷ということになる。
ゴミ、ゴミ、ゴミ……ゴミの山。

そこで教訓。

(1)モノは買わない。できるだけ、買わない。
(2)少なくとも2年以上使っていないものは、捨てる。
(3)衣服でも、1着買ったら、別の1着は捨てる。
(4)不便であることを旨とし、不便を感じても、補わない。

実は、私はこのことを、今度実家の整理をしながら、知った。
母は、若いころから、モノへの執着心が強かった。
そういう人だった。

一説によれば、戦時中に貧しい思いをした人ほど、モノ、イコール財産という
考え方をするそうだ。
モノをことさら、大切にする。
しかしひとつまちがえば、そのまま(ため込み屋)になってしまう。
で、母もその1人だった。

実家の箪笥(たんす)という箪笥には、モノがぎっしりと詰まっている。
衣類が中心だが、たとえば風呂敷にしても、数えたわけではないが、数十枚
近くあるのでは……!
今は着ることのない和服も、多い。
祖父母の代からの和服もある。

で、それを整理する私も、たいへん。
呉服屋で買えば、一着、少なくとも10万円以上はするだろう。
が、思い切って、捨てる。
捨てて、捨てて、捨てまくる。
最初は、「もったいない!」と思いが、かなりはげしく抵抗する。
が、それを超えると、今度は、爽快感に変わる。
ポンポンとダンボール箱に、詰める。
が、同時に、モノを集める虚しさを、知る。
母が死んだとき、枕元にあった財産らしい財産といえば、コップと、歯ブラシくらいな
ものだった。
あとは決められた枚数の浴衣と、タオル数枚。

しょせん、財産というのは、そういうもの。
モノというのは、そういうもの。

●大恐慌とは何か?

ところで今、世界中が、大恐慌に苦しんでいる。
株価は暴落し、日本だけでも、約200兆円あまりの金融資産が「消えた」という。
200兆円といえば、国民(成人)1億人で割っても、1人当たり、200万円という
ことになる。
国家税収の約5倍!
4人家族で、800万円。
5人家族で、10000万円。
が、実際には、証券会社などを通して、債権を購入した人も多いから、その数倍以上の
お金が、消えたのではないか。
あまりこういう話はみなしたがらないようだが、知人の中には、退職金のほとんどを
失った人もいる。
追証(証拠追加金)をつぎつぎと取られ、自己破産寸前の人もいる。

が、その中身は何かといえば、結局は、モノ、モノ、モノ……ということになる。
わかりやすく言えば、モノ、モノ、モノ……の世界が、今度、土台から、こけた!
ひっくり返った!
もちろん頂点は、家、自動車、電機製品……。
それが今の大不況ということになる。

もちろんモノといっても、生きていくためには、必要なモノもある。
しかしたいはんは、どうでもよいモノばかり(?)。
たとえばこの書斎の中にも、スキャナーだけでも、4台もある。
DVDレコーダーだけでも、3台もある。
プリンターも、3台。
新製品を追いかけていたら、いつの間にか、そうなってしまった。

だから捨てる。
思い切って捨てる。
今日は、私にとっては、大掃除の日。

……先ほどワイフを見舞ったら、「熱が出てきた」とのこと。
やはり風邪だったようだ。
今度の大恐慌をきっかけに、モノに対する考え方を、少しは改めてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
モノ ため込む ため込み屋 ためこみ屋 取り込み屋 取りこみ屋)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●金xxは、やはり影武者?

+++++++++++++++++++

常識で考えてみよう。
こういうことだ。

正月(09年1月3日)になって、すぐさま、
金xxの動静が、伝えられた。
どこかの軍隊を、視察したらしい。
どこでもよい。
どうせ、ウソ。

が、もしそれほどまでに金xxが元気なら(?)、
彼には、すべきことがあるはず。
まっさきにすべきことである。
とくに、去年(08年)の夏から秋にかけて、
死線をさまよった肉体なら、なおさら。

そのすべきことというのは、言うまでもなく、
後継者選びである。
それをさておいて、軍隊の視察など、ありえない。
今の金xxにとっては、ありえない。

常識で考えれば、そうなる。
つまり現在、各地を視察している金xxなる
将軍様は、影武者。
偽者。

+++++++++++++++++++

ときとして常識は、100の情報より役にたつ。
それがわからなければ、金xxの立場に、自分を置いてみれば、わかる。
こういうことだ。

あなたは絶対的な権力者だ。
それはそれ。
その権力者だったあなたが、大病を患った。
死線をさまよった。
漏れ伝わってきた情報によると、脳内出血、もしくは脳梗塞。
持病の腎臓病、肝臓病、それに心臓病が、一気に、悪化した。

で、手厚い看護のかいがあって、一命をとりとめた。
しかしそれだけでも、そのたった数か月後に、各地を視察したり、
サッカーの試合を観戦したり、あるいは音楽会に顔を出すというのは、
たいへんなこと。
が、仮にそれができるほどまでに回復したとしよう。
元気になったとしよう。
そのとき、あなたは、何を、最大の優先課題とするだろうか。

私やあなたではない。
K国イチの、独裁者である。
「すべてのモノは、私のモノ」「すべての人民は、私の奴隷」を豪語する、独裁者である。
そういうあなたなら、何を、最大の優先課題とするだろうか。

……とまあ、書くだけ、ヤボ。
言わずと知れた、後継者問題である。
その後継者問題に触れず、あなたは、各地の軍隊の視察などするだろうか。
後継者問題だけ片づけておけば、視察は、その後継者に任せればよい。
あなたは、完全看護の桃源郷で、ゆっくりと体を休めればよい。

が、一連の報道は、どこかおかしい。
「将軍様は元気だ」「元気だ」と言うだけで、その周辺の動静が伝わってこない。
しかもK国の外交政策が、どこか薄っぺらくなってきた(?)。
昨年の終わりから、「反韓、親米路線」を強くにじませるようになった。
金xxらしい、あの(いじけ)や(ゆがみ)が感じられない。
言っていることが、通り一遍というか、わかりやすい。
その(わかりやすいところ)が、おかしい?

つまり実権を握った軍部が、だれかの意向を受けて、YES・MAN式に、
動いているだけ。
ノーブレインの状態になっている。
私には、そう見える。
だから、各地を視察している金xxなる将軍様は、影武者、つまりニセモノという
ことになる。

くどいようだが、もし金xxが、視察できるほどまでに元気なら、もっと
金xx色が表に出てきても、おかしくない。
常識で考えれば、そうなる。

(拉致問題に抗議の念をこめて、金xxと記述しています。)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●セックスレス夫婦が、40%!

++++++++++++++++++++

このほど、日本家族計画協会の北村邦夫氏が、
こんな調査結果を公表した。

で、何と、驚くことなかれ、(驚いているのは、私だけかも
しれないが……)、10代〜40代の夫婦の40%
近くが、セックスレス(1か月間、セックスがない)
という。

その北村氏の調査の特徴は、サンプル数が多いということ。
そのため、信頼性がたいへん高い。

++++++++++++++++++++

●セックスレス

少し前までは、「30%」という数字が、ごく常識的な数字だった。
しかし今回の調査によれば、「36・5%」、つまり四捨五入して、約40%。
何と40%近い夫婦が、今、セックスレスという。

時事通信は、つぎのように伝える。

++++++++++++++以下、時事通信++++++++++++++++

10代−40代夫婦の4割近くが、1カ月以上性交渉のないことが、性の意識や行動に関する厚生
労働省研究班の調査で分かった。理由は「仕事疲れ」が男性のトップ、女性でも3番目で、調査
を担当した日本家族計画協会の北村邦夫常務理事は、「少子化対策を考える上で、ワークラ
イフバランス(仕事と生活の調和)が重要」としている。

 調査は昨年9月、16−49歳の男女3000人を無作為に抽出し調査票を直接配布、1468人から
回答を得た。

 既婚者で1カ月間性交渉のない人は36.5%で、前回2年前の調査より1.9ポイント増加。
2001年の28.0%から増加が続いている。

 理由は男性では「仕事で疲れている」が24.6%と多く、「出産後何となく」(13.6%)「面倒くさ
い」(9.3%)と続いた。女性は「出産後何となく」(21.0%)「面倒くさい」(18.8%)「仕事で疲れ
ている」(15.1%)の順だった。(時事通信・09・1・3)

+++++++++++以上、時事通信+++++++++++++++

報道された数字だけではじゅうぶんでないかもしれないが、ここにある数字を
整理してみる。

既婚者で1カ月間性交渉のない人……36.5%
(前回2年前の調査より1.9ポイント増加。
2001年の28.0%から増加が続いている。)

その理由として、

(男性側の理由)

「仕事で疲れている」……24.6%
「出産後何となく」……13.6%
「面倒くさい」……9.3%

(女性側の理由)

「出産後何となく」……21.0%
「面倒くさい」……18.8%
「仕事で疲れている」……15.1%

北村氏が述べているように、2001年の28・0%から、今回の調査の36・5%へと、
数字だけをみると、8・5%も増加しているのには、驚かされる。
50代や60代の夫婦の話ではない。
10代〜40代の夫婦の話である。

また理由として、夫婦は、出産を契機として、セックスレスになることが多いのがわかる。

フ〜〜〜ンと考えたところで、私の偏見的コメント。
なぜ、妻の出産を契機として、夫婦はセックスレスになるのか?

●私の偏見?

最近、夫が妻の出産場所に立ち会うケースがふえている。
夫が出産の介助をすることもある。

ある産婦人科のHPには、「立ち会い出産」と称して、つぎのようにある。

++++++++++++++++++++

最近では、分娩時に家族(ご主人)の立ち会いを容認する医療機関が増えてまいりました。
確かに、近年において妊娠出産は妻のみでなく、夫も共に協力するのが当然であるという認識
が高まり、出産の瞬間を夫婦で体験することが、その後の家族愛の形成にも大きく貢献すると
いう考えを各医療機関が受け入れての現状だと思われます。(T・Women's Clinic)

++++++++++++++++++++

しかし、だ。
これは私の偏見かもしれないが、男である夫は、ああいうものは、あまり見ない方が
よいのではないかと思っている。

生々しいというか、毒々しさを通り越して、血なまぐさい。
血なまぐさすぎる。
というのも、多くの男性にとっては、女体はつねに神秘的で、美しいもの。
またそうであって、どうしていけないのか?
つまりそれがあるから、夫は、夜な夜な妻を抱き、セックスに励むことができる。

たとえば思春期の男子たちは、そういう幻想を無限にふくらませつつ、女体に興味をもつ。
それが夢精や射精につながっていく。

それを、だ。
ドロドロした血や胎盤が、ゾロゾロと噴き出すような出産シーンを見せつけられたら、
男性である夫は、どういう印象をもつようになるだろうか。
ついでにウンチも、オシッコも飛び出す!

女性のばあい、出産と同時に、羞恥心をなくすと言われている。
同じように男性のばあい、「いっぺんに興ざめ」ということにもなりかねない。

●私のばあい

私の時代には、まだ「立ち会い出産」という言葉すらなかった。
産婦人科医院から連絡があり、かけつけてみると、すでに赤子(息子)が、
湯船で洗われたあとだった。

それまでにいろいろあったのだろうが、もちろん私には、知る由もなかった。
「赤ん坊って、本当に赤いんだなあ」というのが、私の第一印象だった。
また、それですんだ。
で、ワイフのほうを見ると、ワイフは浴衣(ゆかた)で身を包み、私のほうを
ながめながら、微笑んでいた。
そういうワイフが、たいへん、なまめかしく見えた。

さらにその前はといえば、私にとっては、女体というのは、神秘そのものだった。
あるときはこう思ったこともある。
「犬って、いいなあ。いつだって、好きなときに交尾ができる」と。
高校生のときには、大きな枕を女体にみたてて、それを抱き、射精したこともある。

で、今は、どうかというと、男女の性差の距離は、たしかに縮まった。
ときどき男と女の(ちがい)がわからなくなるときもある。
しかし神秘性は、まだかすかだが、残っている。
その神秘性が残っているからこそ、今でも、ワイフとセックスを楽しむことができる。

●ケース・バイ・ケース

個人差があるのかもしれないが、私は、「血」が苦手。
どこかの大病院へ見舞いに行ったようなときでも、廊下に血が落ちているのを見ただけで、
ゾッとする。

そういう私が、あの出産シーンを見たら、どうなるか?
実は、何度か、立ち会ったことがある。
20代のころ、針麻酔に興味をもち、ついでそれを使った帝王切開術に興味をもつように
なった。
それであるドクターの助手として、その横で針麻酔器(低周波電流発生装置)や、
オシロスコープの調整をしていた。
通常分娩のときも、データの測定が必要で、立ち会ったことがある。

が、それがひどいなんてものではない。
大便、小便の臭いに混ざって、生臭い血のにおい。
それに加えて消毒のにおい、などなど。
そこはまさに醜悪の世界。
修羅の世界。
女性によっては、ギャーギャーと泣きわめきながら、出産していた。
私は顔をそむけ、口で息をしながら、いつも機器の中に顔をつっこんでいた。

……とまあ、話がとりとめもなく脱線してしまったが、立ち会い出産をしてよいケースと、
そうでないケースもあるのではないか、ということ。

北村邦夫氏の調査結果によると、繰り返すが、「出産を契機にセックスレスに……」という
ケースが多いのも事実。
そしてその一因として、あの出産場での、修羅(しゅら)があるのではないかということ。
私のような気の弱い人間なら、もしあのとき、ワイフの出産シーンを見ていたら、
それだけで、ワイフへの興味をなくしてしまっていたかもしれない。

だからあえて、念を押したい。

「気の弱い男性は、ああいうものは、あまり見ない方がよいのでは」と。

●セックスは重要

夫婦生活において、セックスがいかに重要なものであるかは、今さら改めて
ここに書くまでもない。

肉体の同一性が、精神の同一性を招く。
そしてそれが夫婦の基盤になり、家庭、家族の基盤になる。
セックスレスの問題を、けっして、少子化の問題だけに結びつけてはいけない。
これはきわめて、深刻な問題と考えてよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
セックスレス セックスレス夫婦 出産 立ち会い出産 立会出産)

(付記)
セックスを楽しむために、たとえば、スワッピング・パーティや、ヌーディスト・クラブ
などがある。
私のオーストラリアの友人家族は、若いときから、ヌーディスト・クラブのメンバー
である。
驚いたことに、当時、10代はじめの息子や娘も、それに参加していたということ。
まさに家族ぐるみ。
何度か写真を送ってきてくれたこともあるが、実にあっけらかんとしていていた。
つまり頭の中で想像するような、(いやらしさ)がどこにもなかった。

この日本でも、もっとオープンにセックスを楽しむ機会と場所が、あってもよいのでは?
またそういう会話を、みなでしてもよいのでは?
40%近い夫婦がセックスレスというのは、どう考えても異常である。
その異常さとくらべたら、スワッピング・パーティやヌーディスト・クラブのほうが、
よほど健康的である。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【疑わしきは、罰する】

●心が壊れる子ども(無関心、無表情は要注意)(精神的に不安定な環境が原因?)

 A小学校のA先生(小一担当女性)が、こんな話をしてくれた。「一年生のT君が、ヘビをつか
まえてきた。そしてビンの中で飼っていた。そこへH君が、生きているバッタをつかまえてきて、
ヘビにエサとして与えた。私はそれを見て、ぞっとした」と。

 A先生が、なぜぞっとしたか、あなたはわかるだろうか。それを説明する前に、私にもこんな
経験がある。もう一五年近くも前のことだが、一人の園児(年長男児)の上着のポケットを見る
と、きれいに玉が並んでいた。私はてっきりビーズ玉か何かと思った。が、よく見ると、それは
虫の頭だった。その子どもは虫をつかまえると、まず虫にポケットのフチをかませる。かんだと
ころで、体をひねって頭をちぎる。ビーズ玉だと思ったのは、その虫の頭だった。また別の日。
小さなトカゲを草の中に見つけた子ども(年長男児)がいた。まだ子どもの小さなトカゲだった。
「あっ、トカゲ!」と叫んだところまではよかったが、その直後、その子どもはトカゲを足で踏ん
で、殺してしまった!

 原因はいろいろある。貧困(それにともなう家庭騒動)、家庭崩壊(それにともなう愛情不
足)、過干渉(何でも親が決めてしまう)、過関心(息が抜けない)など。威圧的(ガミガミ)な家
庭環境や、権威主義的(問答無用の押しつけ)な子育てが、原因となることもある。要するに、
子どもの側から見て、「精神的に不安定な家庭環境」が、その背景にあるとみる。不平や不
満、それに心配や不安が日常的に続くと、それが子どもの心を破壊する。言いかえると、愛情
豊かな家庭環境で、心静かに育った子どもは、ほっとするような温もりのある子どもになる。心
もやさしくなる。

 さて冒頭のA先生は、ヘビに驚いたのではない。ヘビを飼っていることに驚いたのでもない。
A先生は、生きているバッタをエサにしたことに驚いた。A先生はこう言った。「そういう残酷なこ
とが、平気でできるということが信じられません」と。

 このタイプの子どもは、総じて他人に無関心(自分のことにしか興味をもたない)、無感動(他
人の苦しみや悲しみに鈍感)。情意(喜怒哀楽の情)の動きも平坦になる。よく誤解されるが、
このタイプの子どもが非行に走りやすいのは、そもそもそういう「芽」があるからではない。非行
に対して、抵抗力がないからである。悪友に誘われたりすると、そのままスーッと仲間に入って
しまう。ぞっとするようなことをしながら、それにブレーキをかけることができない。だから結果
的に、「悪」に染まってしまう。

 そこで一度、あなたの子どもが、どんなものに興味をもち、関心を示すか、観察してみてほし
い。子どもらしい動物や乗り物、食べ物や飾りであればよし。しかしそれが、残酷なゲームや、
銃や戦争。さらに日常的に乱暴な言葉や行動が目立つというのであれば、家庭教育のあり方
をかなり反省したらよい。子どもの場合、「好きな絵を描いてごらん」と言って紙と鉛筆を渡す
と、心の中が読める。心が壊れている子どもは、おとなが見ても、ぞっとするような絵を描く。た
だし、小学校に入学してからだと、子どもの心を修復するのはたいへんむずかしい。子どもの
心をつくるのは、四、五歳くらいまでが勝負だ。


●疑わしきは、罰する(流産率、10階以上で39%)(紫外線対策を早急に)

 今、子どもたちの間で珍現象が起きている。四歳を過ぎても、オムツがはずせない。幼稚園
や保育園で、排尿、排便ができず、紙オムツをあててあげると、排尿、排便ができる。六歳に
なっても、大便のあとお尻がふけない。あるいは幼稚園や保育園では、大便をがまんしてしま
う。反対に、その意識がないまま、あたりかまわず排尿してしまう。原因は、紙オムツ。最近の
紙オムツは、性能がよすぎる(?)ため、使用しても不快感がない。子どもというのは、排尿後
の不快感を体で覚えて、排尿、排便の習慣を身につける。たとえば昔の布オムツは、一度排
尿すると、お尻が濡れていやなものだった。この「いやだ」という感覚が、子どもの排尿、排便
感覚を育てる。

 このことをある雑誌で発表しようとしたら、その部分だけ削られてしまった(M誌九八年)。「根
拠があいまい」というのが表向きの理由だったが、実はスポンサーに遠慮したためだ。根拠が
あるもないもない。こんなことは幼稚園や保育園では常識で、それを疑う人はいない。紙オム
ツをあててあげると排尿できるというのが、その証拠である。

 ……というような問題は、現場にはゴロゴロしている。疑わしいが、はっきりとは言えないとい
うようなことである。その一つが住環境。高層住宅に住んでいる子どもは、情緒が不安定にな
りやすい……? 実際、高層住宅が人間の心理に与える影響は無視できない。こんな調査結
果がある。たとえば妊婦の流産率は、六階以上では、二四%、一〇階以上では、三九%(一
〜五階は五〜七%)。流・死産率でも六階以上では、二一%(全体八%)(東海大学医学部逢
坂文夫氏)。マンションなど集合住宅に住む妊婦で、マタニティブルー(うつ病)になる妊婦は、
一戸建ての居住者の四倍(国立精神神経センター北村俊則氏)など。母親ですら、これだけの
影響を受ける。いわんや子どもをや。が、さらに深刻な話もある。

 今どき野外活動か何かで、真っ赤に日焼けするなどということは、自殺的行為と言ってもよ
い。私の周辺でも、何らかの対策をこ講じている学校は、一校もない。無頓着といえば、無頓
着。無頓着過ぎる。オゾン層のオゾンが一%減少すると、有害な紫外線が二%増加し、皮膚
がんの発生率は四〜六%も増加するという(岐阜県保健環境研究所)。実際、オーストラリアで
は、一九九二年までの七年間だけをみても、皮膚がんによる死亡件数が、毎年一〇%ずつふ
えている。日光性角皮症や白内障も急増している。そこでオーストラリアでは、その季節になる
と、紫外線情報を流し、子どもたちに紫外線防止用の帽子とサングラスの着用を義務づけてい
る。が、この日本では野放し。オーストラリアの友人は、こう言った。「何も対策を講じていな
い? 信じられない」と。ちなみにこの北半球でも、オゾンは、すでに一〇〜四〇%(日本上空
で一〇%)も減少している(NHK「地球法廷」)。

 法律の世界では、「疑わしきは、罰せず」という。しかし教育の世界では、「疑わしきは、罰す
る」。子どもの世界は、先手先手で守ってこそ、はじめて、守れる。害が具体的に出るようにな
ってからでは、手遅れ。たとえば紫外線の問題にしても、過度な日焼けはさせない。紫外線防
止用の帽子を着用させる、など。あなたが親としてすべきことは多い。


●疑わしきは、罰する(ふえる排尿異常)(紫外線対策を早急に)

 今、子どもたちの間で珍現象が起きている。四歳を過ぎても、オムツがはずせない。幼稚園
や保育園で、排尿、排便ができず、紙オムツをあててあげると、排尿、排便ができる。六歳に
なっても、大便のあとお尻がふけない。あるいは幼稚園や保育園では、大便をがまんしてしま
う。反対に、その意識がないまま、あたりかまわず排尿してしまう。原因は、紙オムツ。最近の
紙オムツは、性能がよすぎる(?)ため、使用しても不快感がない。子どもというのは、排尿後
の不快感を体で覚えて、排尿、排便の習慣を身につける。たとえば昔の布のオムツは、一度
排尿すると、お尻が濡れていやなものだった。この「いやだ」という感覚が、子どもの排尿、排
便感覚を育てる。

 このことをある雑誌で発表しようとしたら、その部分だけ削除されてしまった(M誌九八年)。
「根拠があいまい」というのが表向きの理由だったが、実はスポンサーに遠慮したためだ。根
拠があるもないもない。こんなことは幼稚園や保育園では常識で、それを疑う人はいない。紙
オムツをあててあげると排尿できるというのが、その証拠である。

 ……というような問題は、現場にはゴロゴロしている。わかってはいるが、はっきりとは言えな
いというようなことである。その一つが住環境。子どもには、高層住宅よりも、土のにおいのす
る一戸建ての家のほうが好ましいことは、言うまでもない。実際、高層住宅が人間の心理に与
える影響は無視できない。こんなデータがある。たとえば妊婦の流産率は、六階以上では、二
四%(一〜五階は六〜七%)、帝王切開などの異常分娩率は、二七%(一戸建ての居住者は
一五%)、妊娠関連うつ病(マタニティブルー)になる女性は、一戸建ての居住者の四倍(国立
精神神経センター、北村俊則氏)など。子どもは当然のことながら、母親以上に、住環境から
心理的な影響を受ける。が、もっと深刻な話もある。

 日本では昔から、真っ黒に日焼けした顔は、健康のシンボルとされてきた。今でも子どもの
日焼けについて、何らかの対策をこうじている学校は、ほとんどない。無頓着といえば、無頓
着。無頓着過ぎる。オゾン層のオゾンが、一%減少すると、有害な紫外線が二%増加し、皮膚
がんの発生率は四〜六%も増加するという(岐阜県保健環境研究所)。実際、オーストラリアで
は、一九九二年までの七年間だけをみても、皮膚がんによる死亡件数が、毎年一〇%ずつふ
えている。日光性角皮症や白内障も急増している。そこでオーストラリアでは、その季節になる
と、紫外線情報を流し、子どもたちに紫外線防止用の帽子とサングラスの着用を義務づけてい
る。が、この日本では野放し。

オーストラリアの友人は、こう言った。「何もしていないだって? 日本も早急に、対策をこうず
るべきだ」と。ちなみにこの北半球でも、オゾンは、すでに一〇〜四〇%も減少している(NHK
「地球法廷」)。

 そこでどうだろう。私たちの住む地域だけでも、子どもたちに紫外線防止用の帽子とか、サン
グラスの着用を試してみたら。害が具体的に出始めてからでは、手遅れ。法律の世界では、
「疑わしきは、罰せず」という。しかし教育の世界では、「疑わしきは、罰する」。子どもの世界
は、先手先手で守ってこそ、はじめて、守れる。


●高層住宅の問題点(「疑わしきは罰する(2)」)(ストレスの発散をじょうずに)

 以前このコラムで、「疑わしきは罰する」を書いた。その中で、「高層住宅の一〇階以上に住
む妊婦の流産率は、三九%」「(マンションなど高層住宅に住む人で)、マタニティブルー(妊娠
関連うつ病)になる人は、一戸建ての家に住む人の四倍」などと書いた。このコラムは大きな
反響を呼んだ。と同時に、多くの人に不安を与えてしまった。しかしそこに書いたことに、まちが
いはない。私はそのコラムを書くにあたって、前もってそれぞれの研究者と手紙で連絡を取り、
元となる論文を入手した。しかもある程度の反響は予測できたので、中日新聞東海本社の報
道部のI氏に、論文のコピーを渡しておいた。

 ただし流産の原因については、高層住宅とそのまま結びつけることはできない。高層住宅の
もつ問題点を知り、対応策を考えれば、流産は防げる。逢坂氏も流産率が高いことについて、
「居住階の上昇に伴い、外に出る頻度(高さによる心理的、生理的、物理的影響)が減少する」
(「保健の科学」第36巻1994別冊783)と述べている。高層階に住んでいると、どうしても外
出する機会がへる。人との接触もへる。それが心理的なストレスを増大させる。胎児の発育に
も悪い影響を与える。そういういろいろな要因が重なって、それが流産につながる、と。

このことを言い換えると、高層階に住んでいても、できるだけ外出し、人との交流を深めるな
ど、心理的な風通しをよくすれば、流産は防げるということになる。事実、高層階になればなる
ほど、心理的なストレスが大きくなることは、ほかの多くの研究者も指摘している。たとえば平
均死亡年齢についても、マンション住人の平均死亡年齢は、五七・五歳。木造住宅の住人の
平均死亡年齢は六六・一歳。およそ九歳もの差があることがわかっている(島根大学中尾哲
也氏・「日本木材学会」平成七年報告書)。さらにコンクリート住宅そのものがもつ問題点を指
摘する研究者もいる。マウスの実験だが、木製ゲージ(かご)でマウスを育てたばあい、生後二
〇日後の生存率は、八五・一%。しかしコンクリート製ゲージのばあいは、たったの六・九%。
ほかにコンクリート製ゲージで育ったマウスは、生殖器がより軽い、成長が遅いなどということ
も指摘されている(静岡大学農学部水野秀夫氏ほか)。さらに高層住宅にいる幼児は、体温そ
のものが低く、三六度以下の子どもが多い(「子どもの健康と生活環境」VOL41、小児科別
冊)など。こういう事実をふまえて、私は、「子どもは当然のことながら、母親以上に、住環境か
ら心理的な影響を受ける」と書いた。

 こうした事実があるにもかかわらず、日本の政府は、ほとんど対策をとっていない。一人、
「そうは言っても、都会で一戸建てを求めるのは難しいです」「日本の住宅事情を考えると、高
層住宅を否定することもできません」と言った人もいた。あるいは「こんなことを書いて、建設会
社からクレームがきませんでしたか」と心配してくれた人もいた。しかしここから先は、参考にす
る、しないの問題だから、判断は、読者の方がすればよい。ただこういうことは言える。あなた
や子どもの健康を守るのは、あなた自身であって、国ではないということ。こうした建設がらみ
の問題では、国は、まったくあてにならない。


●すさまじい反響

 月※日、「子どもの世界」で、「疑わしきは罰する」を書いた。その中で、私は東海大学地域保
健学の逢坂文夫氏の論文を引用して、「妊婦の流産率は、六階以上では二四%。一〇階以上
では、三九%(一〜五階では、五〜七%)。流・死産率は、六階以上では、二一%(全体では
八%)」などと書いた。わかりやすく言うと、高層住宅の六階以上に住む妊婦のうち、四人に一
人が流産し、五人に一人が流・死産しているということになる。

さらに一〇階以上では、約二人に一人が、流産していることになる。驚くべき調査結果といって
よい。これについて、それまで経験したことがないほど、読者からすさまじい反響があった。「事
実か?」という問い合わせが多かったが、中には「いいかげんなことを書いてもらっては困る」
というのもあった。私の記事が、かえって高層住宅、日本でいう高層マンションに住む人たちの
不安をかきたてるというのだ。

原稿を書いた経緯

 そこで今回、「疑わしきを罰する」を書くに至った、経緯をここに説明する。まず高層住宅のも
つ危険性については、すでに三〇年以上も前から、欧米では広く議論されていることである。
私がメルボルンにいたときすでに、メルボルンでは高層住宅が問題になっていた。これはあい
まいな記憶によるものだが、高層住宅の住人ほど自殺者が多いというのもあった。一方、この
日本でも散発的にではあるが、そのつど指摘されている。そこで私はインターネットを使って、
「高層住宅→心理的影響」という名目で検索してみた。

結果、無数の情報を手に入れることができた。その中でも特に目を引いたのは、A社の情報コ
ーナーであった。しかしこのA社は、どこか宗教団体的な雰囲気がしたので、私はその中に出
ている「事実」と「出典先」だけを取りだし、独自の立場で調べた。結果、今回、その原稿を書く
にあたって、次の四人の研究者、教授、元教授と連絡を直接とることに成功した。連絡は手紙
によるものであり、うち三人(北村、逢坂、中尾氏)は直接、手紙で返事をくれた。それには元と
なる論文も同封されていた。一人(水野氏)は、電話で連絡をとった。

 国立精神神経センター、北村俊則氏
 東海大学医学部地域保健学、逢坂文夫氏
 鳥取大学総合理工学部教授、中尾哲也
 静岡大学名誉教授、水野秀夫氏の四氏である。

 私はこの「子どもの世界」を書くにあたって、実名を使うときは、その人物と事前に連絡をと
り、実名の使用について許可を得るようにしている。そして許可を得たときだけ、実名を使い、
そうでないときは、必要に応じて、アルファベットによるイニシャルを使うようにしている。こうし
た研究者から論文を直接手に入れた後、数値を自分で確認し、なおかつ、私の元原稿のコピ
ーをこれらの研究者に送った。そのあと、「疑わしきは罰する」を新聞紙上で発表した。

危険な高層住宅?

 逢坂文夫氏は、横浜市の三保健所管内における四か月健診を受けた母親(第一子のみを
出生した母親)、1615人(回収率、54%)について調査した。結果は次のようなものであった
という。

 流産割合(全体) …… 7.7%
     一戸建て …… 8.2%
     集合住宅(1〜2階) …… 6.9%
     集合住宅(3〜5階) …… 5.6%
     集合住宅(6〜9階) ……18.8% 
     集合住宅(10階以上)……38.9%

 これらの調査結果でわかることは、集合住宅といっても、1〜5階では、一戸建てに住む妊婦
よりも、流産率は低いことがわかる。しかし6階以上になると、流産率は極端に高くなる。また
帝王切開術を必要とするような異常分娩についても、ほぼ同じような結果が出ている。一戸建
て、14.9%に対して、六階以上では、27%など。

これについて、逢坂氏は次のようにコメントしている。「(高層階に住む妊婦ほど)妊婦の運動
不足に伴い、出生体重値の増加がみられ、その結果が異常分娩に関与するものと推察され
る」と。ただし「流産」といっても、その内容はさまざまであり、また高層住宅の住人といっても、
居住年数、妊娠経験(初産か否か)、居住空間の広さなど、その居住形態はさまざまである。
その居住形態によっても、影響は違う。逢坂氏はこの点についても、詳細な調査を行っている
が、ここでは割愛する。興味のある方は、「保健の科学」第36巻1994別冊781頁以下をご
覧になってほしい。

子どもの心理との関連性

 「子どもの世界」の中で、私は、「母親ですらこれだけの影響を受けるのだから、いわんや子
どもをや」と書いた。もちろん集合住宅であることから子どもが直接影響を受けることも考えら
れるが、母親が影響を受け、その副次的影響として、子どもが影響を受けることも考えられ
る。どちらにせよ、あくまでも「考えられる」という範囲で、私は「疑わしきは罰する」と書いた。逢
坂氏の論文で、私が着目したのはこの点である。逢坂氏は、流・死産の原因の一つとして、
「母親の神経症的傾向割合」をあげ、それについても調査している。

 神経症的傾向割合 全体     …… 7.5%
     一戸建て        …… 5.3%
     集合住宅(1〜2階) …… 10.2%
     集合住宅(3〜5階) ……  8.8%
     集合住宅(6階以上) …… 13.2%

 この結果から、神経症による症状が、高層住宅の6階以上では、一戸建て住宅に住む母親
より、約2.6倍。平均より約2倍多いことがわかる。この事実を補足する調査結果として、逢坂
氏は、喫煙率も同じような割合で、高層階ほどふえていることを指摘している。たとえば一戸建
て女性の喫煙率、9.0%。集合住宅の1〜2階、11.4%。3〜5階、10.9%。6階以上、1
7.6%。

 つまりこれらの調査結果を総合すると、高層住宅の高層階(特に6階以上)に住む母親は、
より神経症による症状を訴え、その症状をまぎらわすため、より喫煙に頼る傾向が強いという
ことになる。母親ですらそうなのだから、「いわんや子どもをや」ということになる。

好ましい木造住宅?

 住環境と人間の心理の関係については、多くの研究者が、その調査結果を発表している。コ
ンクリート住宅と木造住宅について、静岡大学の水野名誉教授は、マウスを使って興味深い実
験をしている。水野氏の調査によれば、木製ゲージ(かご)でマウスを育てたばあい、生後二〇
日の生存率は、85.1%。しかしコンクリートゲージで育てたばあいは、たったの6.9%という
ことだそうだ。水野氏は、気温条件など、さまざまな環境下で実験を繰り返したということだが、
「あいにくとその論文は手元にはない」とのことだった。

 ただこの調査結果をもって、コンクリート住宅が、人間の住環境としてふさわしくないとは断言
できない。マウスと人間とでは、生活習慣そのものが違う。電話で私が、「マウスはものをかじ
るという習性があるが、ものをかじれないという強度のストレスが、生存率に影響しているので
はないか」と言うと、水野氏は、「それについては知らない」と言った。また私の原稿について、
水野氏は、「私はコンクリート住宅と木造住宅の住環境については調査はしたが、だからとい
って高層住宅が危険だとまでは言っていない」と言った。水野氏の言うとおりである。

中尾哲也氏の研究から

 住環境について、鳥取大学の中尾哲也教授は詳しい調査をしている。 
   

●疑わしきは、罰する(2)(高層住宅は危険?)(国はまったくあてならない)

 前々回、『疑わしきは、罰する』で、高層住宅について書いた。私はこの中で、東海大学医学
部地域保健学教室の逢坂文夫氏の研究論文を引用した。そして「妊婦の流産率は、一〇階以
上では、三九%(一〜五階では五〜七%)」などと書いた。このコラムは大きな反響を呼んだ。
「事実か?」という問い合わせも、いくつかあった。が、前々回のコラムを発表するにあたって、
情報の一部を入手したあと、私は逢坂氏、北村両氏に直接手紙を書いて、内容を確認してい
る。両氏は、わざわざ論文(「保健の科学」94−36別刷)を送り届けてくれた。その上で、前々
回のコラムを発表した。一人、「いいかげんなことを書いてもらっては困る」と言ってきた読者も
いるが、私は決していいかげんなことを書いていない!

 高層住宅が危険な住宅であるという資料は、山のようにある。たとえば平均死亡年齢につい
ても、マンション住人の平均死亡年齢は、五七・五歳。木造住宅の住人の平均死亡年齢は六
六・一歳。およそ九歳もの差があることがわかっている(島根大学中尾哲也氏・「日本木材学
会」平成七年報告書)。さらにコンクリート住宅そのものがもつ問題点を指摘する研究者もい
る。マウスの実験だが、木製ゲージ(かご)でマウスを育てたばあい、生後二〇日後の生存率
は、八五・一%。しかしコンクリート製ゲージのばあいは、たったの六・九%(静岡大学農学部
水野秀夫氏ほか)。ほかにコンクリート製ゲージで育ったマウスは、生殖器がより軽い、成長が
遅いなどということも指摘されている。さらに高層住宅にいる幼児は、体温が三六度以下の子
どもが多いなど。こうした事実があるにもかかわらず、国は誰に遠慮しているのか、まったく対
策をとろうとしない。「環境」ということを考えても、高層住宅は、決して好ましい建築物とは言え
ない。オーストラリアのメルボルンでは、すでに三〇年も前に、大きな社会問題になっていた。

 私は『疑わしきは、罰する』と言っているのである。そしてそれが子どもたちの世界を守る、一
つの方法だと言っているのである。こんな話も紹介しよう。私は二八歳のとき、国際産婦人科
学会の通訳として、南米のアルゼンチンへ行ったことがある。そこでのこと。ある夜、日本を代
表する産婦人科のドクターがこんなことを話してくれた。「新生児の奇形がふえている。原因は
タバコだ。しかし証明できない」(京都大N教授)と。動物実験では確認できても、人間では人体
実験することができない。だから最後の一歩のところで、確証がとれない、と。当時、日本で
は、上も下も、「タバコ無害キャンペーン」を展開していた。全国の主要な駅前では、専売公社
の職員たちがパネルを並べて、「タバコには害はありません」と叫んでいた。今から思うと、何
と、おぞましいキャンペーンであったことか!
 
 ここから先は、参考にする、しないの問題だから、判断は、読者の方がすればよい。それでも
見晴らしがよい高層階のほうがよいと思えば、それはそれで、その人の勝手だ。私がとやかく
言う問題ではない。ただ一言。私が書いたことが気に入らないからといって、私を個人攻撃をし
ても、意味はない。いくら私の口にフタをしようとしても、それはできない。ただこういうことは言
える。あなたや子どもの健康を守るのは、あなた自身であって、国ではないということ。こういう
問題では、国は、まったくあてにならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
高層住宅 高層マンション 流産率 神経症 発症率 はやし浩司 高層住宅と子供
子供の情緒 高層マンション)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(090104)

●臨死体験

++++++++++++++++++

それにしても、ひどい三日酔いだった。
風邪の症状も、それに加わった。
そのときのこと。
私は二日酔いの症状のひとつである、
厭世(えんせい)気分というのを味わった。
これはたぶんに、脳内の脳間伝達物質の
変調によるものだと思う。

感情の鈍麻(愛犬がただの犬に見えた)、
空虚感(何をしても根気がつづかず、空しく感じた)、
思考力の低下(何も考えることができなかった)、そして、
厭世気分(何ごとも、どうでもよくなってしまった)。

私は布団の中で、暗い天井を見上げながら、
ふと「死ぬときはこんな気分だろうな」と思った。
「いつ死んでも構わない」という気分にもなった。
しかし、おかしなことに、たいへんおかしなことに、
死ぬことがこわいという思いは、ほとんどなかった。

「思う存分生きてきたではないか」
「これ以上、何ができる」と。

おかしな満足感だった。
つまりこれはまったく私が予想していなかったことである。
私はいつも、こう思っていた。
「私のような往生際(おうじょうぎわ)の悪い
人間は、いざ死ぬというときになると、ギャーギャーと
大騒ぎするだろうな」と。
そのこともあって、死ぬということが、こわい。
……こわかった。
「生きることは、死の恐怖と闘うことである」などと
書いたこともある。

しかしそのときは、ちがった。
「このまま死ねるなら、それはそれで構わない」とさえ、
思った。

言いかえると、「生きたい」という思いも、
「死にたい」という思いも、私でない(私)によって
操作された結果として生まれる(思い)ということになる。

「死にたくない」という思いも、「死ぬのがこわい」という
思いも、同様に考えてよいのでは(?)。
で、私は最終的にはこう思った。
「意外と、そのときはそのときで、死を受容し、
気楽に死ねるのではないか」と。

こういうのは「臨死体験」とは言わないが、
しかし私は、そのとき、死の心理体験をしたことになる。

+++++++++++++++++++

若いころ、恩師の松下哲子(のりこ)先生に、こう聞いたことがある。
先生はそのとき80数歳を過ぎていた。
長い廊下になった縁側に座り、先生に、ふとこう聞いたときのこと。
「先生、人間というのは、歳をとると、死ぬことがこわくなくなるものですか?」と。

松下先生は、縁側で丸い背をかがめながら、こう言った。
「林さん、人間というのは、いくつになっても、死ぬのはこわいもんですよ」と。

私はこの言葉に驚いた。
松下先生は、若いときから幼児教育に情熱を燃やし、それをやり尽くした人である。
そのときも新しい園舎の建築もすませ、まさに円熟の境地に達していたはず。
松下先生の銅像も完成していた。
「松下先生の立場なら、いつ死んでもよいという覚悟ができていてもおかしくないはず」
と、私は考えた。

が、先生は、率直に、「こわい」と言った。
そこでたぶん、こういう会話をしたと思う。
「そういうものですか?」「そういうもんです」と。

だから私は自分に自信がもてなくなってしまった。
松下先生のような人物ですら、そう言った。
私より、何倍も、密度の濃い人生を送った人である。
しかも当時の松下先生は、80歳を過ぎていた。

で、私はそのあとこう思った。
私にも、いつかその日がやってくる。
しかしその日まで、私は死をこわがりながら生きる。
それしかない、と。
(死の克服)というのは、それほどまでにむずかしいことだ、と。

が、それがあっさりと、ひっくり返ってしまった。
たしかに私は厭世気分というのを味わった。
そして死への恐怖感が、一時的であるにせよ、薄らいだ。
薄らいだというより、消えた。
だから少しおかしな言い方に聞こえるかもしれないが、私はこう思った。

「これなら、いけるぞ」と。

つまり、そのときがきたら、意外とあっさりと死ねるのではないか、と。
が、それには条件がある。
そのときまで、生きて生きて、生きまくる。
精一杯、自分を燃焼させる。
「やるだけのことは、やった」という思いが、そのとき、「もう死んでも構わない」
という思いにつながる(?)。

まだここでは(?マーク)をつけたままにしておくが、どうも、そういうことでは
ないだろうか。

……いや、ちがう!

ここまで自分の書いた文章を読みなおしてみて、こう思った。
「生きたい」「死にたくない」という思いは、最近の研究によれば、どうやら
脳下垂体にある視床下部あたりから生まれていることがわかってきた。
そこから強力なシグナルが発せられ、それが「生きたい」という人間のもつ、
根源的な生命力の原泉につながっていく。
フロイトが説いた「性的エネルギー」、あるいはユングが説いた「生的エネルギー」
と同じに考えてよい。
人間にかぎらない。
あらゆる動物も同じと考えてよいが、ともかくも、そのシグナルが弱くなれば、
当然、「生きたい」という意欲も、弱くなってくる。……はず。

私が経験した厭世気分というのは、そのシグナルが変調、もしくは、弱くなった状態と
考えられないだろうか。
で、もしそうなら、何も、それまで生きて、生きて、生きまくるなどと気張らなくても、
だれしも、そのときがきたら、気楽に死の受容ができるということになる。
何もあえて、キューブラー・ロスの死の受容段階論など、とりあげる必要はない。
みな、ゆくゆくは、自ら、死を受容するようになる。

で、「生きたい」という思いが、実は(作られた意識)であるとするなら、
「死にたい」という思いもまた、(作られる意思)ということになる。
要するに、そのときは、そのとき。
そのときがくるまで、とにかく、生きる。
それでよい。
あとは脳のほうが勝手に意思を作ってくれる。
「死にたい」あるいは、「死んでもいい」という意思を勝手に作ってくれる。
そしてそのときは、そのときで、静かに死ねる。
今から、「死ぬのはこわい」などと、クヨクヨと悩む必要はない。
また悩んでも、無駄。

それを私は、この正月にまなんだ。
そしてそれがこのエッセーの結論ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
死の受容 厭世気分 その時 臨死体験 死を受け入れる はやし浩司 キューブラー・
ロス)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●愛他的自己愛者(偽善者)

+++++++++++++++++

私の知人に、こんな女性(当時55歳くらい)がいた。
その女性は、何でも、ボランティア活動として、近所の
独居老人の世話をして回っているという。
そういう話を、その女性から直接、聞いた。

「どんなことをしているのですか?」と聞くと、
その女性は、ことこまかに、あれこれと説明してくれた。
で、あるとき、こんな会話をしたのを覚えている。

私がその話に少なからず感動し、「すばらしいことです」と
言ったときのこと。
その女性は、さらにこう言った。
「いえいえ、私なんか、何でもありません。
私の友人のHさんなんかは、独居老人の入浴を手伝っていますよ。
でね、入浴中に、老人が、便をもらすこともあるそうです。
が、Hさんは、そうした便を、手ですくって、外へ捨てていますよ」と。

さらに驚いたことに、話を聞くと、そのHさんというのは、まだ
20代の後半の男性と言った!

私は当時、この話を聞いて、心底、感動し、エッセーも書き残した。

しかし、である。
どうも、この話は、おかしい。
どこか、へん。

+++++++++++++++++++

その人が善行をなすには、その人自身を支える、(周囲文化)というものが必要である。
たとえば自動車産業というものを考えてみよう。
自動車産業が生まれるためには、それを支える周辺の技術、研究、環境が必要である。
人材ももちろん、育成しなければならない。
そういった(周囲)もないまま、自動車産業だけが、忽然(こつぜん)と、
姿を現すということはありえない。

そこで私は、その女性の周辺に興味をもつようになった。
どういう生い立ちで、どういう人生を送ってきたか、などなど。
またその女性を支えている哲学は何か、とも。

しかし、である。
それから5、6年になるが、どこをどうつついても、その(周囲文化)というものが、
浮かび上がってこない。
それなりの基礎があったとか、経験があったとかいうなら、まだ話がわかる。
また会話をしていて、それなりの(深み)を感ずるというのなら、まだ話がわかる。
しかしそういうものが、まったく、ない。
だいたい、本を読んだことさえないという。
音楽も絵画もたしなまない。

そのうち私は、「どうしてそんな女性が、ボランティア活動?」と、疑問に思うように
なった。
が、やがていろいろな情報が入ってくるようになった。

その女性は、ケチの上に、「超」が三つも四つも重なるような女性である。
子どもの教育費すら、惜しんで出さなかったという。
2人の娘がいたが、「大学を出すと、遠くの男と結婚するから」という理由で、
娘たちには、大学へは行かせなかった。
が、世間体だけは人一倍気にしていた。
見栄っぱりで、虚栄心が強かった。
が、決定的だったのは、その女性が、一方でボランティア活動を他人に吹聴しながら、
その前後から始まった実父の介護では、虐待に近いことをしていたということ。

この話を、私はあるケアマネ(ケア・マネージャー)をしている人から聞いた。
そのときには、「ヘエ〜、あの女性がですか……」と言ったきり、言葉が詰まってしまった。

つまりその女性は、ボランティア活動を、自分を飾るための道具として利用していただけ。
口もうまい。
言葉も巧み。
それとなく会話の中に、自分の善行を織り交ぜながら、相手を煙に巻く。
結果として、他人に、自分はすばらしい人間と思わせる。

「明日、町内の会合があるそうですが、私は行けません。
主人に代わりに行ってもらいます。
私には、一人、近所で、気になっている老人がいますので、その人を見回って
あげなければなりません。
かわいそうな人でね。
子どもは1人いるのですが、数年に1、2度、やってくるかどうかという人です。
あわれなもんです。
先日も、何かの書類が必要だというので、その老人のために、私は半日かけて
書類を集めてやりました」とか、何とか。

つまり一貫性がない。

そこまで親身になって独居老人の世話をしているというのなら、それなりの一貫性が
なければならない。
その一貫性が、こちら側に伝わってこなければならない。
さらに言えば、そこに至るまでのプロセスに、(自然さ)がなければならない。

たとえば以前、ある大学の教授の家を訪問したときのこと。
たまたまそこに、カンボジアの難民キャンプから帰ってきたばかりという女性がいた。
その女性は、左手を怪(けが)したとかで、まだ大きな包帯を幾重にも巻いていた。
「暴動に巻きこまれて、怪我をしました」「それで休暇をもらって、日本へ帰ってきて
います」ということだった。

そういう女性と話していると、(自然さ)を感ずる。
深い人間愛というか、人間味を感ずる。
哲学や人生観を感ずる。
どこにもスキがない。
私がここでいう(一貫性)というのは、それをいう。

で、私たちの世界では、先に書いたような女性のことを、「愛他的自己愛者」、つまり、
「偽善者」という。
もっとも軽蔑すべき人間ということになる。
なるが、先に書いたケアマネの人は、こう言って教えてくれた。

「そういう女性だとわかっていますが、そういう人でも、何かと助かっています」と。
偽善がときには、真善になるということもあるということか。
私には、とてもマネできないことだが……。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【末那識(まなしき)】

●偽善

 他人のために、善行をほどこすことは、気持ちがよい。
楽しい。
そう感ずる人は、多い。
俗にいう、「世話好きな人」というのは、そういう人をいう。
しかしそういう人が、本当に他人のことを思いやって、そうしているかと言えば、それはどうか?

実は、自分のためにしているだけ……というケースも、少なくない。

このタイプの人は、いつも、心のどこかで、たいていは無意識のまま、計算しながら行動する。
「こうすれば、他人から、いい人に思われるだろう」「こうすれば、他人に感謝されるだろう」と。
さらには、「やってあげるのだから、いつか、そのお返しをしてもらえるだろう」と。

心理学の世界でも、こういう心理的動作を、愛他的自己愛という。
自分をよく見せるために、他人を愛しているフリをしてみせることをいう。
しかしフリは、フリ。
中身がない。仏教の世界にも、末那識(まなしき)という言葉がある。
無意識下のエゴイズムをいう。わかりやすく言えば、偽善。

 人間には、表に現われたエゴイズム(自分勝手)と、自分では意識しない、隠されたエゴイズ
ムがある。
表に現れたエゴイズムは、わかりやすい。自分でも、それを意識することができる。

 しかし、この自分では意識しない、隠されたエゴイズムは、そうでない。
その人の心を、裏から操る。
そういう隠されたエゴイズムを、末那識というが、仏教の世界では、この末那識を、強く
戒める。

 で、日本では、「自己愛」というと、どこか「自分を大切にする人」と考えられがちである。しか
しそれは誤解。自己愛は、軽蔑すべきものであって、決して、ほめたたえるべきものではない。

 わかりやすく言えば、自己中心性が、極端なまでに肥大化した状態を、「自己愛」という。どこ
までも自分勝手でわがまま。
「この世界は、私を中心にして回っている」と錯覚する。「大切なのは、私だけ。あとは、野とな
れ、山となれ」と。

 その自己愛が基本にあって、自己愛者は、自分を飾るため、善人ぶることがある。繰りかえ
しになるが、それが愛他的自己愛。つまり、偽善。

 こんな例がある。

●恩着せ

 そのときその男性は、24歳。その日の食費にも、ことかくような貧しい生活をしていた。

 その男性から、相談を受けたXさん(女性、40歳くらい)がいた。その男性と、たまたま知りあ
いだった、そこでXさんは、その男性を、ある陶芸家に紹介した。
町の中で、クラブ制の窯(かま)をもっていた。
教室を開いていた。その男性は、その陶芸家の助手として働くようになった。

 が、それがその男性の登竜門になった。その男性は、思わぬ才能を発揮して、あれよ、あれ
よと思う間に、賞という賞を総なめにするようになった。20年後には、陶芸家として、全国に、
名を知られるようになった。

 その男性について、Xさんは、会う人ごとに、こう言っている。

 「あの陶芸家は、私が育ててやった」「私が口をきいてやっていなければ、今でも、貧乏なまま
のはず」「私が才能をみつけてやった」と。
そして私にも、こう言った。

 「恩知らずとは、ああいう人のことを言うのね。あれだけの金持ちになっても、私には1円もく
れない。あいさつにもこない。盆暮れのつけ届けさえくれない」と。

 わかるだろうか?

 このXさんは、親切な人だった。そこでその男性を、知りあいの陶芸家に紹介した。
が、その親切は、ある意味で、計算されたものだった。
本当に親切であったから、Xさんは、その男性を、陶芸家に紹介したわけではなかった。それ
に一言、つけ加えるなら、その男性が、著名な陶芸家になったのは、あくまでもその男性自身
の才能と努力によるものだった。

 ここに末那識(まなしき)がある。

●愛他的自己愛

 この末那識は、ちょっとしたことで、嫉妬、ねたみ、ひがみに変化しやすい。
Xさんが、「恩知らず」とその男性を、非難する背景には、それがある。そこで仏教の世界で
は、末那識つまり、自分の心の奥底に潜んで、人間を裏から操(あやつ)るエゴイズムを、問題
にする。

 心理学の世界では、愛他的自己愛というが、いろいろな特徴がある。ここに書いたのは、偽
善者の特徴と言いかえてもよい。

(1)行動がどこか不自然で、ぎこちない。
(2)行動がおおげさで、演技ぽい。
(3)行動が、全体に、恩着せがましい。
(4)自分をよく見せようと、ことさら強調する。
(5)他人の目を、強く意識し、世間体を気にする。
(6)行動が、計算づく。損得計算をいつもしている。
(7)裏切られるとわかると(?)、逆襲しやすい。
(8)他人をねたみやすく、嫉妬しやすい。
(9)他人の不幸をことさら笑い、話の種にする。

 こんな例もある。同じ介護指導員をしている、私の姉から聞いた話である。

●Yさんの仮面

 Yさん(60歳、女性)は、老人介護の指導員として、近所の老人家庭を回っていた。介護士の
資格はもっていなかったから、そのため、無料のボランティア活動である。

 とくにひとり住まいの老人の家庭は、数日ごとに、見舞って、あれこれ世話を焼いていた。
もともと世話好きな人ということもあった。

 やがてYさんは、町役場の担当の職員とも対等に話ができるほどまでの立場を、自分のもの
にした。
そして市から、介護指導員として、表彰状を受けるまでになった。

 だからといって、Yさんが、偽善者というわけではない。
またYさんを、非難しているわけでもない。仮に偽善者であっても、そのYさんに助けられ、励ま
された人は、多い。
またYさんのような親切は、心のかわいたこの社会では、一輪の花のように、美しく見える。

 が、Yさんは、実は、そうした老人のために、指導員をしているのではなかった。
またそれを生きがいにしていたわけでもない。
Yさんは、「自分が、いい人間に思われることだけ」を考えながら、介護の指導員として活動して
いた。

 みなから、「Yさんは、いい人だ」と言われるために、だ。Yさんにしてみれば、それほど、心地
よい世界は、なかった。

 しかしやがて、そのYさんの仮面が、はがれる日がやってきた。

 Yさんが、実父の介護をするようになったのである。

実父は、元気な人だったが、脳梗塞(こうそく)を起こしてしまった。
トイレや風呂くらいは、何とか自分で行けたが、それ以外は、寝たきりに近い状態になってしま
った。
年齢は、73歳(当時)。

 最初は、Yさんは、このときとばかり、介護を始めたが、それが1か月もたたないうちに、今度
は、実父を虐待するようになった。
風呂の中で、実父が、大便をもらしたのがきっかけだった。

 Yさんは、激怒して、実父に、バスタブを自分で洗わせた。
実父に対する、執拗な虐待が始まったのは、それからのことだった。

 食事を与えない。与えても、少量にする。
同じものしか与えない。初夏の汗ばむような日になりかけていたが、窓を、開けさせない。
風呂に入らせない。
実父が腹痛や、頭痛を訴えても、病院へ連れていかない、など。

 こうした事実から、介護指導員として活動していたときの、Yさんは、いわば仮面をかぶってい
たことがわかったという。
ケアマネの人は、こう言った。

 「他人の世話をするのは、遊びでもできるけど、身内の世話となるいと、そうはいかないから
ね」と。

●子育ての世界でも

 親子の間でも、偽善がはびこることがある。無条件の愛とか、無償の愛とかはいうが、しかし
そこに打算が入ることは、少なくない。

 よい例が、「産んでやった」「育ててやった」「言葉を教えてやった」という、あの言葉である。
昔風の、親意識の強い人ほど、この言葉をよく使う。

 中には、子どもに、そのつど、恩を着せながら、その返礼を求めていく親がいる。
子どもを1人の人間としてみるのではなく、「モノ」あるいは、「財産」、さらには、「ペット」として
みる。
またさらには、「奴隷」のように考えている親さえいる。

 息子(当時29歳)が、新築の家を購入したとき、その息子に向って、「親よりいい生活をする
のは、許せない」「親の家を、建てなおすのが先だろ」と、怒った母親さえいた。

 あるいは結婚して家を離れた娘(27歳)に、こう言った母親もいた。

 「親を捨てて、好きな男と結婚して、それでもお前は幸せになれると思うのか」「死んでも墓の
中から、お前を、のろい殺してやる」と。

 そうでない親には、信じがたい話かもしれないが、事実である。
私たちは、ともすれば、「親だから、まさかそこまではしないだろう」という幻想をもちやすい。
しかしこうした(ダカラ論)ほど、あてにならないものはない。

 親にもいろいろある。

 もっとも、こうしたケースは、稀(まれ)。
しかしそれに近い、代償的過保護となると、「あの人も……」「この人も……」というほど、多い。

●代償的過保護

 代償的過保護……。ふつう「過保護」というときは、その奥に、親の深い愛情がある。愛情が
基盤にあって、親は、子どもを過保護にする。

しかし代償的過保護というときは、その愛情が希薄。あるいはそれがない。「子どもを自分の
支配下において、自分の思いどおりにしたい」という過保護を、代償的過保護という。

 見た目には、過保護も、代償的過保護も、よく似ている。
しかし大きくちがう点は、代償的過保護では、親が子どもを、自分の不安や心配を解消する道
具として、利用すること。
子どもが、自分の支配圏の外に出るのを、許さない。よくある例は、子どもの受験勉強に狂奔
する母親たちである。

 「子どものため」を口にしながら、その実、子どものことなど、ほとんど考えていない。人格さえ
認めていないことが多い。
自分の果たせなかった夢や希望を、子どもに強要することもある。
世間的な見得、メンツにこだわることもある。

 代償的過保護では、親が子どもの前に立つことはあっても、そのうしろにいるはずの、子ども
の姿が見えてこない。

 つまりこれも、広い意味での、末那識(まなしき)ということになる。
子どもに対する偽善といってもよい。
勉強をいやがる息子に、こう言った母親がいた。

 「今は、わからないかもしれないけど、いつか、あなたは私に感謝する日がやってくるわよ。S
S中学に合格すれば、いいのよ。お母さんは、あなたのために、勉強を強いているのよ。わか
っているの?」と。

●教育の世界でも

 教育の世界には、偽善が多い。
偽善だらけといってもよい。
教育システムそのものが、そうなっている。

 その元凶は「受験競争」ということになるが、それはさておき、子どもの教育を、教育という原
点から考えている親は、いったい、何%いるだろうか。
教師は、いったい、何%いるだろうか。

 教育そのものが、受験によって得る欲得の、その追求の場になっている。
教育イコール、進学。
進学イコール、教育というわけである。

さらに私立中学や高校などにいたっては、「進学率」こそが、その学校の実績となっている。今
でも夏目漱石の「坊ちゃん」の世界が、そのまま生きている。
数年前も、関東地方を中心にした、私立中高校の入学案内書を見たが、どれも例外なく、その
進学率を誇っていた。

 SS大学……5人
 SA大学……12人
 AA大学……24人、と。

 中には、付録として、どこか遠慮がちに別紙に刷りこんでいる案内書もあったが、良心的であ
るから、そうしているのではない。
毎年、その別紙だけは、案内書とは分けて印刷しているために、そうなっている。

 この傾向は、私が住む、地方都市のH市でも、同じ。
どの私立中高校も、進学のための特別クラスを編成して、親のニーズに答えようとしている。

 で、さらにその元凶はいえば、日本にはびこる、職業による身分差別意識と、それに不公平
感である。
それらについては、すでにたびたび書いてきたのでここでは省略するが、ともかくも、偽善だら
け。

 つまりこうした教育のあり方も、仏教でいう、末那識(まなしき)のなせるわざと考えてよい。

●結論

 私たちには、たしかに表の顔と、裏の顔がある。
文明という、つまりそれまでの人間が経験しなかった、社会的変化が、人間をして、そうさせた
とも考えられる。

 このことは、庭で遊ぶスズメたちを見ていると、わかる。
スズメたちの世界は、実に単純、わかりやすい。礼節も文化もない。
スズメたちは、「生命」まるだしの世界で、生きている。

 それがよいとか、はたまた、私たちが営む文明生活が悪いとか、そういうことを言っているの
ではない。

 私たち人間は、いつしか、自分の心の奥底に潜む本性を覆(おお)い隠しながら、他方で、
(人間らしさ)を追求してきた。
偽善にせよ、愛他的自己愛にせよ、そして末那識にせよ、人間がそれをもつようになったの
は、その結果とも言える。

 そこで大切なことは、まず、そういう私たち人間に、気づくこと。
「私は私であるか」と問うてみるのもよい。
「私は本当に善人であるか」と問うてみるのもよい。あなたという親について言うなら、「本当
に、子どものことを考え、子どものために教育を考えているか」と問うてみるのもよ
い。

 こうした作業は、結局は、あなた自身のためでもある。あなたが、本当のあなたを知り、つい
で、あなたが「私」を取りもどすためでもある。

 さらにつけたせば、文明は、いつも善ばかりとはかぎらない。
悪もある。その悪が、ゴミのように、文明にまとわりついている。それを払いのけて生きるの
も、文明人の心構えの一つということになる。
(はやし浩司 末那識 自己愛 偽善 愛他的自己愛 愛他的自己像 私論)
(050304)

【補記】

●みんなで偽善者を排斥しよう。偽善者は、そこらの犯罪者やペテン師より、さらに始末が悪
い。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●1月5日

+++++++++++++++

今朝は、何と、午前3時起き。
昨日、2時間近くも昼寝をしたのが、
まずかった。
体内時計が、狂った。

こういう朝は、書斎で好き勝手な
ことをするのがよい。
そのうちまた眠くなるだろう。

万事、自然体。
体も心も、自然に任すのが、
いちばんよい。

+++++++++++++++

●風邪

アメリカに住む二男から、電話があった。
話をすると、一家、全員、風邪をひいて、寝ているとのこと。
2人の孫(誠司+芽衣)もだ。

同じくそのとき、ワイフも風邪をひいて、床で寝ていた。
症状からして、インフルエンザではないようだ。
それはそれでよかったが、長男も、三男も、風邪ぎみ。
今、ひとり元気なのが、私だけ。
そんなわけで、昨日は、掃除、料理、洗いもの、買いものなどなど、結構、忙しかった。

それにしても、今年の正月は、最悪。
旅行もキャンセル。
寝正月。
しかしものは考えよう。
「年のはじめに、みな、病気になった。
これは今年一年、健康には注意せよという天の警告」と。

が、夕方になってヨロヨロとワイフが起きてきた。
こういうときはニンニクをラーメンに溶かして食べるのがいちばん。
しかし今日(1・5)、人に会う約束があるので、それは断念。
近くの店で、ラーメンとギョーザ、それにチャーシュー丼を、2人で分けて食べた。


●どちらがバカか?

++++++++++++++++++

Cライス国務長官は、「K国を信ずる人はバカ」と言い切った。
しかし本当のバカは、Cライス、それにCヒル、その2人。

今朝の韓国、中央N報は、つぎのように伝える。

++++++++++++以下、中央N報より一部抜粋+++++++++++++

……任期末ブッシュ大統領はK国をテロ支援国名簿からはずした。ライス国務長官とヒル6カ
国協議代表がその措置を率先した。対価として北核検証の譲歩(試料採取)を得るようだっ
た。2人はK国の口頭の譲歩約束を信じた。それでブッシュ大統領を説得してテロ支援という
不名誉な、かさをはずさせた。しかしK国は贈り物をもらっても約束を守らなかった。 

  昨年(08年)末、ライス長官は「誰もK国を信じない。ばかがK国を信じる」と言った。遅れて
起こった不信と覚醒だ。しかし北核交渉で彼女が「ばか」であったことを認めたのと同じことだ。
K国の言葉を生半可に信用し、餌だけもっていかれたのがライス長官とヒル次官補だ。

++++++++++++以上、中央N報より一部抜粋+++++++++++++

まったく、同感である。
核開発あってのK国。
核兵器あってのK国。
もし今のK国から、核開発、核兵器を取り除いたら、K国は、世界でも最貧国の小国。
だれにも見向きもされないだろう。
つまりK国は核兵器はおろか、核開発を断念するはずがない。
少なくとも、金xxが、独裁者でいるかぎりは、断念するはずがない。
核兵器は、金xxにとっては、まさに本尊。
権力の象徴。
しかも国全体が、ウソで塗り固められている。
自国の国民すら、平気でだますような独裁者である。
外国の世間知らずの外交官をだますなどいうことは、朝飯前。

中央N報は、「金xxの戦績はみごと!」と、金xxをむしろ称えるような論調で記事を
書いているが、わかりやすく言えば、ライス長官とヒル次官補は、金xxにだまされた
だけ。
もっと言えば、バカだっただけ。

まあ、今となっては、すべてが後の祭りだが、ここにきて、C・ヒル次官補の昇格と、
K国交渉の続投が、決まりそうな雰囲気になってきた。
クリントン国務長官(オバマ政権)が、そうした意向を示しているという報道がつづいて
いる。

K国の3誌が、新年の共同社説で、アメリカ非難を控えたのも、そういう背景があるため
とみてよい。
つまりC・ヒル次官補のための援護射撃。
そのC・ヒル次官補は、昨年(08年)、アメリカに帰ってから、こう言っていた。
「原油支援がすべて終了すれば、K国は、核査察+サンプル採取に応じてくるはず」と。

本当かな?
本当に、そう信じてよいのかな?


●AS首相の国盗(と)り物語

AS首相が、「予算成立まで、(少なくとも4月末まで)、政権の座につく」と言い出した。
私が予想したとおりだった。
どさくさにまぎれて、まず首相の座をしとめる。
「2、3週間だけの、暫定内閣」とか何とか言って、反対派を押さえる。
が、一度なってしまえば、しめたもの。
「経済的混乱」を理由にして、まず政権の座に居座る。
つづいて今度は、「予算成立」を理由にして、さらに政権の座の居座る。

もしそのとき(=予算成立時)、多少でも支持率が上向くようなことでもあれば、
今度はそれを理由に、さらにさらに政権の座にしがみつく。
今のままでは、どうせ死に体。
どうせ死ぬなら、4月でもよい。
AS首相は、おそらく、そう考えているにちがいない。

しかし……。
あのAS首相を見ていると、政治とは何か。
政治家とは何か。
さらには人間とは何か。
そこまで考えさせられる。

権力の亡者というよりは、餓鬼そのもの。
AS首相というより、AS氏という人を見ていると、人間というより、その下の、
つまり人間が動物としてもっている邪悪さを見せつけられているようで、
吐き気すら覚える。

知性や理性がないのは、しかたないとしても、心の余裕すら感じられない。
テレビカメラの前ですら、ガリガリ、セコセコ、チャカチャカしている。
発する言葉すら、ちゃんとした日本語になっていない。
もちろん繊細な会話など、もとから不可能。
「どうしてあんな人物が首相なのか?」と問う前に、「どうしてあんな人物を
首相にしたのか?」と。
アンチAS首相の国民感情が、今、アンチJ党へと向かい始めている。

そのあたりのことが、J党の議員たちも、まるでわかっていない(?)。

私がM党の党首なら、今しばらく、AS首相には、そのまま泳いでもらう。
その期間が長ければ長いほど、つぎの総選挙では、J党は大完敗する。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司※

【物欲のメカニズム】

●ビョーキ?

++++++++++++++++++

今朝、新聞のチラシを見ていたら、
エプソン社のミニ・パソコンが、3万9000円で
売りに出ていた(市内、Y店)。

3万円台!
4万円、以下!

それを見ていたら、グググーッと、物欲がわいてきた。
「安い!」と思ったとたん、それが「ほしい!」という欲望に変わった。
が、すでにミニ・パソコンは、2つ、もっている。
HP社の2133、それにAcer社のアスパイア(1)。

2133は、つい先日、1万5000円かけて、
英語キーボードから、日本語キーボードに変更したばかり。
アスパイア(1)は、6セルの増設バッテリーを、別途、購入したばかり。

それにしても、この物欲は、いったい、どこから来るのか?

恐らくドーパミンが、線条体あたりを猛烈に刺激しているのだろう。
アルコール中毒者が、酒のにおいをかいだときの反応と同じ。
ニコチン中毒者が、タバコのコマーシャルを見たときの反応と同じ。
さらに言えば、犬が、餌を見たときに、ヨダレを出すときの反応と同じ。
条件反射が、脳みその中で起きている。

++++++++++++++++++++

●脳みその奴隷

脳みそというのは、私たちの意思とは無関係に、勝手に反応する。
あるいはその逆で、無関係に反応して、意思そのものまで作ってしまう。
私という(私)は、その大部分において、私であって、(私)ではない。
(私)の大部分は、脳みその奴隷。
その奴隷となって、動くだけ。
ニコチン中毒者を例にあげるまでもない。
自分の意思で、タバコを吸っているつもりかもしれないが、実は、吸わされて
いるだけ。
子どもも、また同じ。

●ゲーム脳

年末、子どもたち(小学生)に、「クリスマスには、どんなプレゼントがほしいか」
を聞いてみた。
いろいろな返事が返ってきたが、その中でもいちばん多かったのが、ゲーム機器、
あるいはそのソフト。
今は、そういう時代である。

で、今ごろ多くの子どもたちはそれを手にして、夢中になってゲームをしているに
ちがいない。
そういう子どもたちの脳みその中は、どうなっているのか?

少し前、「ゲーム脳」という言葉が、話題になった。
「ゲームばかりしていると、脳のある特定の部分だけが覚醒し、その他の部分は
眠ったような状態になってしまう」と説く学者が現れた。
それにたいして、「ゲーム脳など、存在しない」と説く学者も現れた。
後者の学者は、現在、ゲームの世界では、カリスマ的な存在となっている。

しかしゲーム脳があるとか、ないとかいう議論そのものが、ナンセンス。
ゲームは、子どもたちの世界に大きな影響を与えている。
(もちろんゲームの内容にも、よるが……。)
そのため様子がおかしくなってしまった子どもとなると、ここにも、そこにも、それこそ
ゴマンといる。
何も脳みそだけの問題ではない。

毎日、2〜4時間も、「殺せ!」「やっつけろ!」「1000点、ゲット!」と
やっていて、子どもの精神が無事ですむはずがない。
ものごとは常識で考えたらよい。

で、そういう子どもの脳みその中でも、同じような反応が起きていると
考えてよい。
新しいゲームが発売になるたびに、猛烈な勢いでドーパミンが分泌され、
それが線条体を刺激する。
とたん、グググーッと、そのソフトがほしくなる。

●脳みその中の反応

そこで大切なことは、(1)自分の脳みその中の反応を、できるだけ客観的に
知ること。
つぎに(2)それを理性の力で、コントロールすること。
理性の力を強くするためには、自ら考える力を養う。
言うまでもなく、考える力というのは、(論理力)と(分析力)で決まる。
それを司るのが、左脳。
そして脳全体をコントロールするのが、前頭前野の連合野ということになる。

もちろん脳みその中を見ることはできない。
しかし脳みその中で、どういう反応が起きているかを、想像することはできる。
その想像を繰り返していると、「ああ、今、ドーパミンが分泌された」
「条件反射が起きている」と、観念的にわかるようになる。
(あくまでも観念的。そういうような感じがするだけだが……。)

たとえば今、あなたはこの文章を見ている。
パソコンのモニターに映った文字を読んでいる。
しかしそれは大脳の後頭部にある、脳みその中のモニターを見ているにすぎない。
最初は、そう言われても、あなたは納得しないかもしれない。
「私は自分の目で、目の前のものを見ている」と。
しかし実際には、そう見えるだけ。
少し訓練すると、何となくそれがわかってくる。
今、あなたが見ているものは、大脳後頭部にある、脳みその中のモニターに
映った像にすぎない。
それを目の前に映った像と、錯覚しているにすぎない。

(脳というのは、そういう意味では、ずいぶんといいかげんなものだが……。)

同じように、あなたが何かをしたいとか、ほしいと思ったときも、そうだ。
少し訓練すると、脳みその中で、反応が、どういう順序で、どのようにして
あなたに作用しているか、何となくそれがわかってくるようになる。

●ブレーキ

そこでブレーキということになるが、今年の正月は、何もあえてブレーキなど、
かける必要はない。
だいたいお金が、ない。
今またパソコンがほしいなどと言おうものなら、ワイフが黙っていないだろう。
それに3つもあっても、しかたない。
今の今ですら、2つのパソコンをもてあましている。
そこで最後の方法。

今朝、息子にこう言った。
「なあ、お前、パパが今使っている、このミニ・パソコンを、あげようか?」と。
すると息子は、あっさりと、こう言った。
「いらない」と。

これで最後の望みも絶たれた。
あとはあきらめて、ぐっとがまんするしかない。
今がそのとき。
自分で自分の脳みそをコントロールするしかない。
ドーパミンの分泌を抑制するしかない。
簡単に言えば、ほかのことに神経を集中して、ミニ・パソコンのことは忘れる。
あとは数日、様子をみる。
「これはビョーキは、ビョーキだ」と、自分に言い聞かせながら……。

(追記)

先日、浜松市市内で、あるドクターの家に、ドロボーが入った(報道)。
現金数百万円のほか、何と高級時計ばかり数千万円分が盗まれたという。
たぶん、そのドクターは、高級時計のコレクターだったにちがいない。
しかし数千万円分というのには、驚いた。
それこそ、時計などというのは、数個あればよい。
それで足りる。
……と考えるのも、ヤボ。
そのドクターは、時計のカタログを見ただけで、脳の中で、ドーパミンが猛烈に
分泌されるのだろう。
それが線条体を刺激して、強烈な条件反射が起きる。
「ほしい」という欲望が、ドドドーッとわいてくる。
自分で自分をコントロールできなくなる。
そしてその結果が、数千万円となった(?)。
つまりは、ドーパミンの力(ドーパミン効果)というのは、それほどまでに
強烈ということになる。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 はやし浩司
ドーパミン 条件反射 線条体 脳下垂体 視床下部 物欲のメカニズム)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●医師の偏在問題
                                    

++++++++++++++++

医学部の学生は、6年間の学生生活を

+++++++++++++++++

医師がもうからないというのは、ウソ。
実際には、医師になって2年目程度で、
平均年収は、2000万円を超える。
開業すれば、それこそ上限はない。
保険収入をのぞいて、一日の現金収入だけ
で、100万円を超える開業医は、いくらでも
いる。

が、その分だけ、重労働ということになる。
責任も重い。
それに職場は、3K(臭い、汚い、苦しい)。
それなりの立場が保障されなければ、医師に
なる人など、いなくなってしまう。

「2年目で2000万円」というのも、妥当な
収入ではないか。

が、今、問題になっているのは、そのことではない。
医師が都市部の特定の科目に偏在するようになってしまい、
地域によっては医師が不足したり、大病院においてすら、
診療科目がなくなってしまうようになった。
ではどうするか。

いろいろな改革案が考えられているが、どれもそのまま
社会保障費の高騰に直結する。
「今の制度がもっとも効率的で、安価」(医師会側)
ということであれば、改革は容易ではない。

もうひとの解決策は、医学部の定員を、現在の1・5
倍程度にふやすというのがある。
しかしこれには、現役の医師たちが反対している。
「医師の数がふえれば、その分、取り分が減る」
というわけである。

で、もうひとつの解決策としては、(当然、そのあたりの
ことは、厚生労働省も徹底的に調査しているだろうが)、
イギリスのファミリィ・ドクター制度の導入がある。

それについてはすでに何度も書いてきたので、ここでは
省略するが、しかしこれはそのまま私たち自身の問題
と考えてよい。

これは私だけの印象かもしれないが、今回、母や兄の
末期医療をみながら、こんなことを感じた。
ここ10年、あるいは20年かもしれないが、
医療そのものが、事務化しているということ。
母のときも、92歳という高齢ということもあったが、
担当の医師は、こう言った。
「検査はしますが、延命処置は、もうしません」
「天命と思ってください(=あきらめろ)」と。

兄のときも、こう言われた。
「私は、治る見込みのある患者さんは治療しますが、
そうでない患者さんについては、治療しません」と。
兄のばあい、そのとき(治る見込みのない患者)という
ことになっていた。
年齢は、67歳だった。

で、義兄もこう言った。
「75歳以上になると、がんでも、もう手術してもらえない
ようだ」と。

もちろん年齢によって線引きがあるわけではない。
「75歳」という年齢は、あくまでも義兄の意見である。

(ただし、前立腺がんのような、「おとなしいがん」のばあいは、
75歳以前であれば、できるだけ手術で治療し、75歳以後で
あれば、ホルモン療法を中心にするという話は聞いている。
義兄は、その前立腺がんだった。
年齢はそのとき、ギリギリの74歳だった。)

しかしこれから先、その年齢が引き下げられることはあっても、
引き上げられることは、まず、ない。
しかし医療というのは、本来、そうであってはいけないはず。
「命」に年齢は、関係ないはず。
(……というのも、少しきれいごとすぎるかもしれないが……。)

ともかくも、老人医療にかぎらず、医療が事務化するという
のは、若い人たちにとっても、けっして好ましいことではない。
「やるべきことはやります」「しかしあとは知りません」という
のは、医療本来のあるべき姿ではない。

都市部の、より楽に稼げる科目に医師が集中し始めているというのは、
あくまでも、その結果でしかない。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
医師の偏在 偏在問題)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●他人の不幸話

++++++++++++++++++++

人は、ときとして、心のどこかで他人の
不幸を願うことがある。

『他人の不幸話(悪口)ほど、おもしろいものはない』
と書き残した文人さえいる。
しかしこれほど悪魔的な発想は、そうはない。

++++++++++++++++++++

●他人の不幸

私の周りにも、何人か、不愉快な人たちがいる。
「敵」というふうには思ったことはないが、それを薄めたような人たちである。
で、そういう人たちを思い浮かべながら、冒頭に書いた悪魔的な発想を
もつことがある。
「あんなヤツは、〜〜になってしまえばいい」と。

しかしそういう発想に毒されると、心そのものが腐る。
しばらくそれに浸(ひた)っていると、自分の人間性そのものが低下していくのが
わかる。
が、それだけではない。

『他人の不幸を願った者は、その分だけ、今度は自分が不幸になる』。

これは私が考えた格言だが、それには理由がある。
わかりやすい例でいえば、たとえば、『他人の失敗を笑った人ほど、笑った
分だけ、自分が苦しむ』ということがある。
こんなことがあった。

●出身校

私が住む浜松市では、出身高校でその人の価値を判断するという、イヤ〜ナ
雰囲気がある。……あった。
(最近は、そういう雰囲気は、減ってきたようだが……。)

で、その母親は、ことあるごとに自分がSS高校出身であることを、自慢していた。
それとなく会話の中へ、自分の出身校を、織り込む。
「いえね、今度、SS高校の同窓会がありましてね……」とか、何とか。
そしてその返す刀で、他人を批判するときは、こう言う。
「あの方って、CC高校出身なんですってねエ〜」「あの方は、DD高校出身
だそうですが、よくがんばっておられますわよネ」とか、など。

私が浜松へ来た40年前には、こうした会話は、いたるところで聞かれた。
「江戸時代の身分制度のよう」と、私はそのとき、そう思った。

そんなとき、自分の娘の進学問題が起きてきた。
が、その娘には、その(力)がなかった。
だから夜な夜な、母と娘は、「勉強しなさい!」「うるさい!」の大乱闘を
繰り返すことになった。

●自分のレベル

自分よりレベルの低い人は相手にしない。
そういう人を相手にしていると、いつの間にか、自分までレベルが低く
なってしまう。
つまりその人の不幸を願ったり、悪口を言ったりする人というのは、
そのレベルの低い人ということになる。

またそういう人であるなら、あなたがあえてその人の不幸を願わなくても、
5年、10年という単位で、やがて自ら墓穴を掘っていく。
運命というのは、そういうもの。
つまり運命というのは、自分の知らないところで、自分で自ら、作っていくもの。

もしそれだけのエネルギーがあるなら、もっとほかのことで消耗したほうがよい。
「敵」ということを考えるなら、私やあなたの敵は、国家であり、社会であり、
さらには、この地球ということになる。
そこらの個人を相手にしても、意味はない。
時間の無駄。
愚かでバカな人というのは、どこにでもいる。
1人や2人つぶしたところで、何も変わらない。

たとえば私の近くにも、一生懸命、策をめぐらしながら、私から小銭を奪おうと
考えている人がいる。
そのためにウソを並べたり、インチキを重ねたりしている。
しかしそういう人はそういう人で、無視するのがいちばん、よい。
本気で相手にしたとたん、相手の毒牙にかかってしまう。
たかが小銭ではないか……!

だから……。
『愚かな人のために、祈る』などという高尚なことは私にはできないが、
「あわれな人だ」と同情することくらいなら、私にもできる。
ひょっとしたら、あなたにも、できる。

もしあなたが心のどこかでふと、他人の不幸を望むようなことがあれば、
ここに書いたことを思い出してみてほしい。
けっして、うつむいて、うしろを見てはいけない。
顔をあげて、前を見る。
と、同時に、あなたはその前に、広くて、おおらかな世界を見るはず。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
他人の不幸 悪口 不幸話 はやし浩司 悪口ほど)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●久能山

+++++++++++++++++

今日は、久能山へ行ってきた。
コースは、つぎのよう。

(日本平)→ロープウェイ→(久能山東照宮)
→(いちご狩り)→(焼津)。

昼食は、寿司バイキング。
私たち夫婦は、回転寿司でも、4〜5皿が限度。
それ以上は、がんばっても食べられない。

だからワイフはこう言った。
「私たちのような客ばかりだったら、店も
もうかるわね」と。

+++++++++++++++++++

●家康

ここ静岡県では、家康の悪口は、タブー。
天皇の悪口を言うようなもの。
今でも、「天皇」と書いただけで、ツンとした
緊張感が走る。
私は、子どものころ、「天皇」と言っただけで、
父に殴られたことがある。
「陛下と言え!」と。

……とまではいかないにしても、実際、
家康の悪口を言う人は、まず、いない。
敬愛の念をこめて、「家康公」とか、
「徳川家康公」と呼ぶ。

しかし私はよそ者。
もともと県外からの移入者。
気にしない。
平気で「家康」と書く。

で、一応、偉人ということになっているが、
私には、家康と、K国のあの独裁者、金xxの区別が
できない。
呼び名も同じ、「将軍様」。
信長にいたっては、さらにそうで、それが
まちがっているというのなら、どこがどう
ちがうか、それをきちんと説明してほしい。

ほとんどの人は、それにつづく300年という
圧制の中で、虐げられた庶民である。
江戸の末期ですら、武士階級は、人口の5〜7%以下。
そのきわめて少数だった特権階級が、富の
ほとんどを独占していた。

家康にしても、彼にとって都合の悪い事実は、
300年という年月の中で、繰り返し抹消された。
痕跡の「コ」の字も残らないほど、抹消された。
そのやり方も、現在のK国と似ている。

そういう事実も忘れて、「徳川家康公」は、ない。

●過去の亡霊

……とまあ、そんなヤボなことを書いても意味はない。
それに世俗にそこまで背を向けると、自分のほうが、はじき飛ばされてしまう。
妥協できるところは適当に妥協しながら、みなと仲よく過ごす。
「極論」は、なにごとにつけても、よくない。

ただ不幸なことに、私たち日本人は、過去において、
ただの一度も、あの江戸時代という封建時代を、
清算していない。
清算しないまま、いまだに、ズルズルと引きずっている。
そのため、いまだに、封建時代の亡霊が、いたるところに残っている。

家制度に始まり、男尊女卑思想、長子制度、家父長意識、
悪玉親意識、上下意識、身分制度などなど。

そうした負の遺産に目を向けることもなく、また自分たちが
庶民、もしくは農民(江戸時代には90%以上が農民だった)
であったことを忘れて、武士道を一方的に礼讃(らいさん)するのも、
どうかと思う。

だからいまだに、私は、こうした封建領主のゆかりの地を訪れるたびに、
ムラムラと疑問が、わいてくる。
もし今のまま、私が江戸時代に生まれていたら、反政府運動を起こして
いたかもしれない。
(由比正雪よろしく、あっという間に逮捕、投獄され、一族もろとも、
処刑されていただろうが……。)

●ゲーム『信長の野望』

……ということで、いつもこんなことを考える。
どこかの城を訪問するたびに、「この城を攻略するには、どこから
どのように攻めたらよいか」と。
実は、今日もそうだった。
(これはたぶんに、ゲーム『信長の野望』の影響かと思う。
少し前まで、私はあのゲームを、時間の合間に、よく楽しんだ。)

日本平へ向かう坂をのぼりながら、どうすれば久能山東照宮を攻略できるか、と。
一度、山火事で消失しているということだから、火攻めが効果的かもしれない。
久能山の下方から、風の強い日に、兵をあげるとか。
しかし東照宮など、攻略しても意味はない。
暴力で相手を破壊することはできても、それに代わる政権をどう樹立するか。
それを忘れて、改革は、ない。
日本の政治は、それでは変わらない。
(現在は、家康が「神様」として祭られているという。
つまり家康の墓所。)

日本平は、標高308メートルということらしい。
そこから東照宮(270メートル)までは、ロープウェイで、下へ。
(東照宮までは、下から石段で、1500段あまり。)
少しわかりにくいので、図示してみる。

                 ○(日本平)308メートル
              /〜〜〜〜
             /
        __●_/(久能山東照宮)270メートル
       /      
____/石段で、東照宮まで、1500段あまり。
海/

やはり国民を教育するしかない。
教育によって、国民の意識を変えていく。
時間はかかるが、そのほうが確実。

……ということで、またまた教育論。

●歴史

なぜ私たちが歴史を学ぶかといえば、過去の失敗や教訓を、未来へ生かすためである。
年号や名前など、暗記しても意味はない。
大切なのは、中身。

なぜ、そうなったか。
そのとき、人は、どうしたか。
その結果、どうなったか。
私たちは、それから何を学ぶか。
それを現在に、どう生かすか。
未来に向かって、どう生かすか。

無反省、無批判なまま歴史を踏襲するのは、むしろ危険なことでもある。
ときに為政者につごうのよいように、操られてしまう。

もちろん歴史は歴史だから、それなりに評価すべことは、評価しなければならない。
しかし信長にせよ、秀吉にせよ、また家康にせよ、忘れてならないことは、
彼らは、何も民衆のために立ち上がった英雄ではないということ。
ただ己の欲望を満たすため、日本を舞台に、国盗り物語を展開したにすぎない。
一般庶民など、奴隷以下。

……日本では、こういう意見を書くこと自体、色眼鏡で見られる。
「あの林は、おかしい」と。
しかしそうした色眼鏡そのものが、日本人特有の民族性によるものと考えてよい。
つまりそれくらい、日本人は、骨の髄の髄まで、魂を抜かれてしまっている。

一方、欧米では、ときの権力と戦った人ほど、英雄となっている。
またそういう人を、称える。
が、この日本では、それすらしない。
そういう人物すら、存在しない。
それも、考えようによっては、あの封建時代からつづく負の遺産という
ことになる。

……と書くと、「林の意見は、過激」と思う人も多いかと思う。
しかし私はおかしいものは、「おかしい」と、言っているだけである。

●いちご狩り

帰りに、久能山下の村で、石垣いちごを、食べた。
海岸沿いに、1500軒あまりの、いちご栽培農園が連なっている。
時期的に、今が食べごろとか。
おいしかった。

そこでのこと。
「40分間、食べ放題」ということだが、入り口には、「持ち帰りはできません」
と明記してある。

にもかかわらず、自分の袋やポケットにいちごを詰めて、持ち帰る人がいるのには、
驚いた。
しかも夫婦で、それをしている人がいた。

考えようによっては、よい夫婦ということになるが、しかしこういうケースでは、
たがいに戒(いまし)めあってこそ、夫婦。
「お前、そんなずるいことをしてはいけない」「あなたも、ね」と。
そういうやりとりが、たがいの人間性を高める。

で、私が見かけた夫婦は、妻が、布製の手提げのバッグの中にそれを入れていた。
夫のほうは、コートの内ポケットにそれを入れていた。
近くの売店では、ワンパック(12個入り)を、700〜800円で売っていた。

私とワイフがあきれてそれを見ていると、その夫婦は少し離れたところで、
あたかもたがいの戦利品を喜びあうように、それを見せあっていた。
言い忘れたが、夫のほうは、70歳くらい。
妻のほうは、66歳くらい。

妻のほうの、セカセカした、落ち着きのない動作が気になった。
こぎれいな服を着ていたが、顔には余裕がなかった。
一事が万事というか、その人の過去が、その表情に集約されているように感じた。

●世俗

だからといって、こうした世俗と自分を隔ててしまうのも、危険なことである。
世俗に染まれということではない。
つねに世俗の身をさらしながら、その中で世俗との接点を保つ。
免疫性を養う。
同じことが、教育論についても言える。

幼稚園の世界でも、問題のある子どもを見ながら、「親のしつけがなっていない」とか、
「親の顔が見てみたい」などと言う教師がいる。
しかしそういう教師というのは、自分で子育てをしたことがない教師とみてよい。
自分で子育てをしてみると、その考えというより、その考え方がまちがっていることを
知る。

思うようにならないのが、子育て。
いくらがんばっても、ときとして、子どもは別の方向へ行ってしまう。
つまり「世俗との接点」というのは、それをいう。
その接点を忘れると、教育観のものが、社会から遊離してしまう。
人生観も、また同じ。

たまたまいちご園で、えげつない夫婦を見た。
しかし彼らが見せた姿こそが、まさに(世俗)ということになる。
私たちはその世俗を離れて、人間、なかんずく、社会的人間ではありえない。

大切なことは、そういう人たちを見ながら、「では私自身はどうか」と、
自分自身を見つめなおすこと。
えげつない他人を見て、同じような部分が自分の中にあることを知ったら、
それと闘う。
闘うことによって、自分をさらに高い位置に置く。

●終わりに

久能山を出て、東名高速道路に入るころには、すでにあたりは、なんとなく暗かった。
時計を見ると、午後3時40分。
空は重い雲に覆われていた。
低い位置にぼんやりとした夕日が輝いていたが、どこか元気がなかった。

横を見ると、ワイフは腕組みをしたまま、目を閉じていた。
まだ風邪の後遺症が残っているようだ。
寿司も、いちごも、あまり食べなかった。
そのつど「食欲がない」と言った。

そうそう久能山東照宮では、私たちは意図的に石段を速く上ったり、下りたりした。
このところの運動不足を補うためもあった。
その疲れが出たのかもしれない。

静かなひととときだった。
今日のバスガイドは、比較的静かなほう。
それがありがたかった。
私も静かに目を閉じた。
ほっとした安堵感を覚えた。

1月x日、月曜日記。


(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
久能山 東照宮 いちご狩り イチゴ狩り 日本平)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●怒り

++++++++++++++++++

新聞に、若年アルツハイマー病にかかった
男性についての記事が載っていた(中日新聞・1・5)。
45歳ごろから異変が現れる。
52歳で、アルツハイマー病と診断されたという。
で、その初期症状として、その男性のばあい、
怒りっぽくなったことが書いてあった。
「なんだと!」「バカにしているのか!」とか、
など。
とくに食事中のとき、怒りっぽくなったという。

+++++++++++++++++++++

●怒りっぽくなる?

この記事を読みながら、ワイフがこう言った。
「アルツハイマー病になると、怒りっぽくなるのかしら?」と。
しかしそれは怒りっぽくなるというよりは、理性のコントロールがきかなくなるため
と考えるほうが正しいのでは?
素人判断なので、正しくないかもしれないが、私はそう思った。

このことはピック症候群による症状と比べてみると、よくわかる。
ピック症候群でも、やはり前頭前野の機能が著しく低下するという。
ただ頭頂葉のほうはそのままであることがあるので、「話すことだけは一人前」
という状態になるらしい。
見た感じ、いつもプリプリと怒ってばかりいるような雰囲気になる。

が、こういう記事を読むたびに、ドキッとするほど、衝撃を受ける。
私というより、私の身近にも、似たような人がいる。

●Dさん(女性、70歳くらい)

このところDさんと連絡を取るのが、不安でならない。
Dさんの夫と、この15年近く、一緒に仕事をしている。
そういう関係もあって、Dさんを無視するわけにもいかない。
が、そのDさん、連絡を取るたびに、様子が大きく変化する。

妙に親切だなと思っていると、つぎのときには、反対に、つっけんどんになるなど。
つかみどころがない。
先日も、電話が終わったあと、私のほうが何かまずいことをしたのではないかと、
心配になってしまった。

で、事件が起きた。
あることで、Dさんに電話をしていると、Dさんが、ことこまかに、あれこれと私に
指示をした。
その上、くどくどと、同じようなことを何度も繰り返した。
そこで私が、「私は、そんなバカではありませんから……」と言うと、Dさんは
突然電話の向こうでヒステリックな声を張り上げて、こう叫んだ。

「私だって、バカではありません!」と。

私は何もDさんが、バカと言ったつもりはなかった。
が、何をどう勘違いしたのか、Dさんは、そのまま怒り出してしまった。

●周囲への影響

新聞の記事では、当然のことながら、そのアルツハイマー病の男性について書いていた。
もちろん、それはそれとして、つまりそうした病気になって、一番苦しんでいるのは、
本人自身。
それはよくわかる。
しかしそれ以上に、あるいはそれと同じくらい、その周りの人たちも、苦しむ。
事実、手記の中には、こうあった。
「(夫が)小刻みに右手を振っているのを見ただけで、怒りがこみあげてきた」と。
その夫の妻の言葉である。

アルツハイマー病は、けっして本人だけの問題ではない。
こんな例もある。
これはある幼稚園の園長から聞いた話である。
その園長が、まだ若いころの話である。

その園長が、(Aさんとしておく)、ある日、そのとき自分が勤めていた幼稚園へ行くと、
当時の園長がつかつかとその園長のところへやってきて、こう言ったという。

「君は、明日から、この園に来なくていい」「君がいると、この幼稚園はつぶれて
しまう」と。

そのときAさんは、頭の中が真っ白になってしまったという。
大学を出て、幼稚園の教師になって、5年目のことだった。
で、Aさんは、そのまま退職。
公立の幼稚園に新しい職場を求めて、再出発をすることになった。
Aさんは、こう言った。

「ずっとあとになって、当時のあの園長がしたことは、アルツハイマー病の
症状のひとつとわかりましたが、そのときはそうではありませんでした。
私は悔しくて悔しくて、それから一か月ほど、夜も体がほてって、眠れません
でした」と。

Aさんをクビにした園長は、その後、アルツハイマー病と診断され、さらにその
少しあと、そのまま亡くなってしまった。

●早期発見、早期対策

ことアルツハイマー病について言えば、早期発見、早期対策が必要なことは、
今さらここに書くまでもない。
が、それは何も、本人のためだけではない。
周りの人たちのためでもある。
とくに初期症状を示すころは、その病気とわかりにくい。
そのため周囲の人たちも、どこか「?」と思いながら、その判断に苦しむ。
苦しみながら、本人の心ない言葉に傷ついたりする。

相手の気持ちにお構いなしに、ズケズケとものを言う。
ふつうなら笑ってすますようなばあいにも、激怒する。
ささいな、どうでもよいことに、強いこだわりを示す。
言っていることが、コロコロと変わる。
気分の変化がはげしい。
「何かをした」というエピソードそのものを、忘れてしまう、など。

これらの症状は、現在のDさんについて、私が感じていることである。
もちろんまだ、Dさんが、アルツハイマー病と決まったわけではない。
「?」とは思っているが、病院で、正式に診断されたわけでもない。
が、ここでも、また別の問題が起きつつある。

私はDさんの夫とは、親しい。
先ほども書いたように、仕事もいっしょにしている。
そこでそのことを、それとなくDさんの夫に伝えようとしているのだが、
Dさんの夫自身に、それを聞く耳がないということ。
その話をしようとしたとたん、Dさんの夫も、怒り出してしまう。

「うちの家内は、思い込みは激しいかもしれないが、頭は、どこも悪くない!」と。

おそらく夫も、何か、心当たりがあるのだろう。
それだからこそ、それを強く否定する。
もしそういう心配が何もないなら、笑ってすませるはずである。

●明日はわが身

こうした問題は、いつも「明日はわが身」と、いつもそのまま自分に直結してくる。
私だけが例外ということはありえない。
ものの名前が浮かんでこないときも、あるいはものを置き忘れても、「もしや!」と、
自分を疑う。
実際には、ものの名前が浮かんでこないようなときには、「アイウエオ、カキクケコ……」
と、順に頭の中で、言葉をさがす。

新聞記事ではあるにせよ、一字一句、一文字も逃さないように、私は読んだ。
なお、その記事の中の男性は、現在は、専門の施設に入り、その中で介護を受けながら、
楽しそうに毎日を過ごしているという。

Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(090106)

●運命vs智力

+++++++++++++++++++++

私には、(自分で気がついている部分)と、
(自分で気がついていない部分)がある。
一般的には、自己中心性の強い人ほど、
(自分で気がついている部分)が小さく、
(自分で気がついていない部分)が大きい。

問題は、その(自分で気がついていない部分)。
この部分が、その人をして、その人の望まない
方向に操ってしまう。

人にねたまれる。
人にうとまれる。
人に嫌われる。
それが重なっている間に、気がついてみると、
自分がとんでもない立場にいるのを知る。

それを避けるためには、どうしたらよいのか。
その方法は、あるのか。

+++++++++++++++++++++

●運命

1人の人には、無数の(糸)がからんでいる。
生い立ち、過去、経験の糸。
家族、親類、社会、国の糸。
家庭環境、文化、伝統の糸。
性格、性質という糸もある。
性差(男女)という糸、
さらには肉体、健康という糸もある。

そういう無数の糸がからんで、時として、その人の進むべき方向を決めてしまう。
自分の意思で何とかなるばあいもあるが、そうでないときのほうが、多い。
私は、それを「運命」と呼んでいる。
どこかの頭のおかしいオバチャンが説く、あの運命論とは、中身がちがう。

たとえばいくら「私は自由だ」と叫んだところで、そこには限界がある。
仕事もしなければならない。
家族のめんどうもみなければならない。
その(限界)が無数に積み重なって、ここでいう(運命)となることもある。
今の(私)にしても、あくまでもその結果でしかない。

で、ここではさらに話を先に、一歩進める。

そういう無数の(糸)の中に、(自分で気がついていない部分)もある。
自分では気がつかないうちに、原因は自分の中にあるにもかかわらず、自分の意図した
方向とは別の方向に、自分が進んでしまうことがある。

●愛人がいない?!

こんなことがあった。
あるとき、あるところで、40年ぶりくらいに、ある男性に出会った。
で、しばらく話していると、その男性が、自分の失敗談をあれこれと話してくれた。
その中のひとつに、愛人の話があった。

「いやあ、愛人ができてしまってね。別れるのに、苦労したよ」と。

で、驚いたことに、そのあとその男性が、こう言った。
「なあ、林君、君にも、愛人の1人や2人はいるだろう」と。
まるでたたみかけるような、言い方だった。

そこで私が「いない……」と答えると、その男性は、私が驚いた以上に驚いた表情を
見せながら、「いないだってエ?!」と。

男「いない? そんなはずはないだろ! お前にいないはずが、ないだろ!」
私「いないよ」
男「バカ言え。信じられない!」と。

そこで私はその男性と会っていたころのことを思い浮かべた。
結婚する前のことで、そのころの私は、遊びまくっていた。
ガールフレンドも、つねに3、4人はいた。
その男性と、あちこちへいっしょに遊びに行ったこともある。
スケベな話もよくした。
その男性には、私がよほどのプレイボーイに見えたらしい。

が、そんな私が大きく変わったのは、ある事件があってからのことである。
それについて書くのは、ここで目的ではないので、また別の機会にするが、
ともかくも、そのころ、その男性は、私への印象を決めてしまったようだ。

●原因はその女性自身に

逆に、こんな例もある。
少し前、親類のある女性から、ひんぱんに電話がかかってきた。
話を聞くと、兄弟どうし、たがいにはげしく、いがみあっているという。
一方的な話だったが、その女性は、「私は悪くない」「兄弟たちが悪い」というような
ことを訴えた。

しかしその女性が、兄弟たちと仲が悪いのは、その女性に原因があった。
自分勝手で、わがまま。
他人との協調性が、まったくなかった。
話といっても、ここにも書いたように一方的。
ギャーギャーと騒ぐといったふうで、こちらが何かを答えようとする間もなく、
話題がどんどんと変化していった。

が、その女性は、けっして自分に原因があるとは思っていなかった。
自分が、他人から見て、どんな人間に見られているか、それにすら気づいていなかった。

●自分勝手な相談

もうひとつ、わかりやすい例で説明しよう。

もう20年近くも前のことだが、こんなこともあった。
そのときも、ある女性(当時70歳くらい)から電話がかかってきた。
内容は、「息子が離婚することになったが、どうしたらいいか」というものだった。

が、会話がどうもかみあわない。
その女性は、「離婚しても、構わない」と言いつつ、「(嫁と子どもたちが)、
家から出て行かないから困っている」と。
だから「どうすれば、追い出せるか」と。

で、よくよく話を聞くと、結局は、嫁と子どもたちに財産を取られたくない。
そのためには、どうしたらよいかという相談であることがわかった。

しかし常識で考えても、そんな道理は通らない。
当時、子どもたち(=その女性の孫)は、中学生と小学生だった。
慰謝料と養育費の支払いは、当然のことである。
嫁はそれまで働いていて、生活費を、その家に入れていた。
いくら離婚でも、裸で嫁と子どもたちを追い出すわけにはいかない。
そのこともあるから、嫁と子どもたちは、家を出ず、がんばっていた。
そこで私が、あいまいな返事をしていると、その女性は、怒ってそのまま電話を
切ってしまった。

あとで、(5、6年もたってからのことだが)、人づてにその後のことを聞くと、
その女性が、私の悪口を言っているのを知った。

「あの林は、私が相談したのに、親身になってくれなかった」と。

●都合のよい部分vs悪い部分

「私は、こういう人間だ」。
「私は、こういう性格だ」。
「だから、他人にはこう見られている」。
「他人は、私のことをこう思っている」。

……これが(自分で気がついている部分)ということになる。
しかし(私)というのは、それだけがすべてではない。
むしろ(自分で気がついていない部分)のほうが、大きい。

さらにわかりやすくするために、もうひとつの例をあげてみよう。

以前、(してやった部分)と、(してもらった部分)には、大きな差があるという
内容のエッセーを書いたことがある。

人というのは、(自分が他人にしてやった部分)については、過大評価する傾向がある。
一方、(他人からしてもらった部分)については、過小評価する傾向がある。
だから「私は、あの人のめんどうをよくみてやったのに、あの人は何もしてくれない」
と、なる。

つまり自分で自分を評価するとき、人というのは、自分にとって都合のよい部分に
ついては、拡大視する傾向がある。
一方、自分にとって都合の悪い部分については、反対に目を閉じてしまう傾向が
ある。

こういう作業を長い時間繰り返しながら、その人は、自分の中に自分像を作り
あげてしまう。
そしてそれが結果として、(自分で気がついていない部分)を増大させてしまう。

●自己認識能力

そこで(自分で気がついていない部分)を知るには、どうしたらいいかということに
なる。

そこで登場するのが、自己認識能力ということになる。
発達心理学の用語だが、その一例をあげる。

AD・HD児だった男子(当時、中3)がいた。
たいへんなAD・HD児で、幼稚園の先生も、小学校の先生も、そして私も苦労をした。
が、AD・HD児でも、小学3、4年生くらいから、急速に落ち着いてくる。
自己管理能力が育ってくるためである。
この時期を過ぎると、持ち前のバイタリィティがよいほうに作用し、学習面やスポーツ
面で飛躍的に伸びることがある。
その中学生もそうだった。
そのとき浜松市内でも、いちばんという進学校に合格していた。

そこである日、その中学生に、私はこう聞いた。
「君は子どものころ、みんなにめいわくをかけたが、覚えているか?」と。
すると、その子どもは、平然とこう言ってのけた。

「ぼくは、何も悪いことはしていない。
みんなが、ぼくを目の敵(かたき)にして、いじめた」と。

何度か確かめてみたが、彼には、みなに迷惑をかけたという意識は、まったくなかった。
つまり、(自分を知る)ということは、それほどまでに、むずかしい。

●帰宅拒否児

私にことを書く。
私が、子どものころ、帰宅拒否児であったということは、この世界に入って
はじめて知った。

私は小学生のころ、学校からまっすぐ家に帰ったということは、ほとんどなかった。
道草を食うなどということは、当たり前。
それがそのまま、日課になっていた。

だからある日、年長女児をもつ母親から、道草の相談を受けたときには、正直言って、
少し面食らった。
「そんなこと、どうでもいいではないですか」と言いかけたが、それは言わなかった。
で、話を聞いていくと、どうやら家庭に原因のある、帰宅拒否児ということがわかった。
不登校児、あるいは学校恐怖症の子どもの反対側にいる子どもと理解するとわかりやすい。

で、そのとき気がついた。
私自身も、実は、帰宅拒否児だった、と。
それは私にとっては、大きなショックだった。
私は意識しないまま、毎日、自分の行動を決めていた。
(家へ帰るのがいや)という思いがどこかにあって、それが道草に
つながっていた。

●自分を知るために

そこで心理学の世界では、いろいろな方法を使って、(自分で気がついて
いない部分)を、さぐろうとする。
面談方式とか、対話方式というのも、考えられている。
が、いちばん手っ取り早い方法は、親しい友人に、自分のことを語ってもらう
というのがある。
そういう意味では、多くの友人をもつということは、大切なことでもある。
友人が多ければ多いほど、自分の姿が、その中から浮かびあがってくる。
「お前なア、お前のここんとこ、おかしいよ」と言ってくれる友だちがいれば、
すばらしい。
妻でも、子どもでもよい。

が、もうひとつの方法は、心理学の本を読みながら、自己分析していくというもの。
私自身も、自分が、うつ気質であるのを知るのに、ずいぶんと時間がかかった。
それには、こんなエピソードがある。

そのとき私は、不眠に悩んでいた。
朝早く目が覚めてしまい、それが重なって睡眠不足状態になっていた。
仕事にしても、1週間ほど前から気になってしかたなかった。
そこである医院(内科)へ行き、あれこれ相談すると、その医師が、
ズバズバと私の症状を言い当ててくれた。

「さすが、ドクター!」と感心していると、そのドクターはこう言った。
「いや、林さん、実は私もそうなのですよ」と。

●ためこみ屋

(自分で気がついていない部分)といっても、もちろん2種類ある。
(好ましい部分)と、(好ましくない部分)である。

そこでひとつのケースを考えてみたい。

最近、私はある知人(65歳くらい)の男性の家を訪れてみて、たいへん
驚いた。
玄関先から、モノ、モノ、モノであふれかえっていた。
出入りも、そのモノをさけて、しなければならなかった。
天井からも無数の衣服が、つりさげられていた。

いわゆる「ためこみ屋症候群」と呼ばれる、行為障害のひとつである。
このタイプの人は、ひどくなると、ゴミですら、捨てられなくなる。

そこでもしあなたがその場にいたとしたら、あるいはその人の友人で
あるとしたら、あなたはどうやって、その人にその(好ましくない部分)を、
知らせることができるだろうか。
自分で気がつかせるだろうか。

さあ、どうするだろうか?

……といっても、その方法はむずかしい。
実際、私はその知人には、何も言えなかった。
「あなたは、おかしいですよ」などとは、ぜったいに、言えない。
その人は、その人。
だれかに迷惑をかけているわけではない。
その知人は、自分の家の中で、そうしていた。
で、私はそのまま黙って、家に帰った。

が、もしその知人が、ほんの少しでも、自分で本を読む能力と機会が
あったら、どうだろうか。
私のHP、もしくはBLOGでもよい。
どこかで「ためこみ屋」という言葉を見つけるかもしれない。
そしてそれをきっかけに、自分のことを知るかもしれない。

●智力との闘い

こうして考えていくと、(自分で気づかない部分)を知るための最大の武器は、
「智力」ということになる。
知恵、知性でもよい。
そしてその知力は、東洋医学では、つぎのようにして生まれる。
(はやし浩司著、「目で見る漢方診断」より。)

(意)→(志)→(思)→(慮)→(智)と。

なお東洋医学では、精神活動も、肉体活動と密接不可分のものとして
考える。
霊的な、いわゆるスピリチュアルな(精神)というものは、認めていない。
わかりやすく言えば、肉体も病むように、精神もまた病むということ。
(詳しくは、「はやし浩司のHP」より、「目で見る漢方診断」へ。)

そしてその智力が、その人の運命を変えていく。
また運命を変える、武器となりえる。

言いかえると、私たちが日夜肉体の健康を維持するように、精神の健康を
維持する努力を怠ってはいけないということになる。
運命というのがそこにあるとしても、健全な精神があってこそ、私たちは、
それと闘うことができる。

けっして、運命に翻弄(ほんろう)されてはいけない。

……とまあ、大上段な書き方をしてしまったが、大筋ではまちがって
いないと思う。
ともかくも、(自分で気がついていない部分)を知るということは、大切なこと。

そのためのひとつの方法として、精神の健康を保ち、智力をみがく。
結局は、それが運命と闘う、もっとも効果的な方法ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
運命論 運命 自分を知る 精神の健康 智力 自己認識能力)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●「貧乏人は、麦を食え!」("The Poor should eat wheat rather than rice.")

++++++++++++++++

今度のST総務官の言葉を読んで、私は即座に、
「貧乏人は麦を食え」という、あの言葉を思い出した。

「所得の多い人は、米を食べ、所得が少ない人は、
麦を食べるという方向にもっていきたい」と、
当時の池田大蔵大臣は国会答弁の中で、そう言い切った(1950)。
そこから「貧乏人は麦を食え」という言葉が生まれたが、
実際に、池田大蔵大臣がそう言ったわけではない。
言ったわけではないが、しかしニュアンスは、同じ。

あえて言われなくても、麦しか食べられない。
そういう人も、当時は、たくさんいた。
私の家も、日常的に米に麦を混ぜて、食べていた。

が、それから半世紀。
職がなくて、困っている人たちを評して、
こう言った政務官がいた。

「本当にまじめに働こうとしている人たちが、
集まっているのかな、という気もした」※と。

言葉の内容はちがっても、発想は同じ。
傲慢(ごうまん)。
かぎりなく、傲慢。
情けないほど、傲慢。
国会議員になるほどの人だから、それだけの
品性がある人と思いたいが、中身は、ただのオジサン。
あるいはそれ以下。

強者と弱者は、けっして平等ではない。
平等感覚を、もってはいけない。
とくに強者は、もってはいけない。
社会の完成度は、その社会がいかに弱者に
やさしいかで決まる。
政治の完成度も、また同じ。

++++++++++++++++

●勝者も敗者も紙一重

あのね、その気はなくても、またその気はあっても、
ズルズルと社会の深みにはまっていく人は、いくらでもいるの。
自分の意思とは無関係に、ね。

勝者も敗者も、紙一重。
ほんのわずかなチャンスをつかんだ人だけが、
あとはスイスイと勝者になっていく。
が、せっかくチャンスをつかんでも、生かし方も知らず、
敗者になっていく人もいる。
あるいは人生の入口で、レールに乗ったというだけで、
あとは一生、安泰な生活をしている人がいる。
乗れなかったというだけで、一生、苦労している人もいる。
大きく違うようで、どこも違わない。

わかるかな、政務官!

あなただって、たまたま今は勝者かもしれないけれど、
つぎの瞬間には、わからないよ。
あなたはよくても、あなたの子どもの代にはわからないよ。
「諸行無常」という言葉もあるしね。

仕事にしても、そう。
いくら働く気はあっても、また働いても、やることなすこと、
裏目、裏目と出て、落ち込んでいく人もいるの。
そのうち、やる気をなくことだって、あるかもしれない。
が、それでも働くしかない。
働き口をさがすしかない。

それにそれぞれの人には、自分ではどうにもならない過去という
ものがあるでしょ。
生い立ちの環境もあるしね。

そういうものをすべて、本人の責任にしてしまうのも、どうかと思うよ。
つまりね、こんなことは常識。
生きている人の常識。

そういう常識もない人が、国のリーダーをしている?
まず、そのおかしさに、政務官自身が気がつくべきではないのかな?

野党のほうは、罷免(ひめん)要求を出す予定とか。
それは当然としても、しかしこれは人間性の問題。
国会議員である前に、政務官、あなたには人間性そのものが欠落している。
わかるかな?

ホームレスの人を棒でたたいて殺した、あの中学生と、同じ。
その中学生がおとなになって、出世して、(←この言葉は
本当に不愉快)、立派なスーツで身を包んだだけ。
(「立派」という言葉も、不愉快だね。
何をもって「出世」といい、何をもって「立派」というのかな?)

私はね、この記事を読んで、「挫折を経験したことがない人は、
こうなるのかな」と思ったよ。
恐ろしいことだね。
考えてみれば……。

貧しい人にというより、国民にもっと謙虚になってほしいね。
ホント!

(注※)++++++++++以下、読売新聞++++++++++++++

ST総務政務官(自民、衆院当選2回)は5日、総務省の仕事始め式のあいさつで、東京・日比
谷公園の「年越し派遣村」について、「本当にまじめに働こうとしている人たちが集まっているの
かな、という気もした」と述べた。

 さらに、「『(厚生労働省の)講堂を開けろ』『もっといろんな人が出てこい』(と要求される)。学
生紛争の時に『学内を開放しろ』『学長よ出てこい』(と学生が要求した)。そういう戦術、戦略
が、かいま見える気がした」と語った。

+++++++++++++以上、読売新聞+++++++++++++++

私ね、政治家の中でも、もっとも謙虚で、勉強している人と言えば、
私たちの近くにいる、市議会議員たちの人だと思うよ。
無私で質素。

それが県会議員、さらには国会議員となっていくと、だんだん質が
落ちてくる。
その分だけ忙しくなるため、勉強する時間もなくなるのかな。
金銭感覚が麻痺してくるのかな。
それとも権力の奴隷になってしまうのかな。
政治家になる目的そのものが、ちがう。
そんな感じがするよ。

しかし……これもよくよく考えてみれば、私たちの問題かもしれないね。
「出世」とか、「立派」とか、いまだにこんな言葉が、政治の世界では
使われている。
いやだね。
不愉快だね。

もうこんな言葉を使うのを、やめようよ。
つまりね、私たちの意識から変えていかないと、いつまでたってもこういう
政治家が生まれてくるよ。
つぎつぎと生まれてくるよ。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●不況

+++++++++++++++++

昨夜、息子が東京へ戻っていった。
駅まで、見送った。
で、その帰りに、私とワイフは、いつも
行く、お好み焼き屋に寄った。

しかし客は、私たちだけ。
30〜40分ほどいたが、私たちだけ。

不景気になると、まず飲食店が打撃を受ける。
不況ともなると、さらにそう。
大不況ともなると、さらにそう。

お好み焼きを食べながら、かえって
申し訳ない気持ちになった。
いつもならおいしく思うはずのお好み焼きが、
味気なく感じた。

ところで隣の韓国では、すでに3分の1ほどの
飲食店が店を閉じたとか。
何かのニュースで、それを知った。
こんな状態があと数か月もつづいたら、
日本もそうなる。

暗い気持ちで、店を出た。

++++++++++++++++

このあたりでも最大手の進学塾が、今度、月謝をさげることにしたという。
もともと高率の月謝※を取っていたところだから、私は驚かなかった。
「何、言ってるんだ」とさえ、思った。
……ということで、不況の嵐は、塾にまで及び始めている。

が、今度の不況は、まだ序の口。
韓国では、青瓦台の地下室に、(地下室にだぞ)、「非常経済指令室」なるものを
設けたとか。
まさに臨戦態勢。
ワイフはこう言った。
「つい数か月前までは、好景気って言っていたのに……」と。
しかしそれは表向き。
実際には、不況の足音は、昨年(08)の春ごろから、聞こえ始めていた。
書店にその種の本が並び始めたのも、そのころである。

で、この不況は、今年いっぱい、まだつづくとか。
経済界の人たちは、そういう見方をしているらしい。
となると、私たちの生活は、もっと苦しくなる。
いや、いくら苦しくても、先に希望が見えれば、まだ何とかなる。
しかしその希望が消えると、苦しみが倍加する。
「がまんする」といっても、そこには限度というものがある。
とくに家賃や給料を払って経営している飲食店は、そうだろう。

私「ここはふんばってほしいね」
ワ「そうね」と。

家に帰って、今度のイスラエルとハマスとの戦争記事を読む。
イスラエル軍は地上軍を投入し、ハマスの病院や学校、モスクまで、つぎつぎと
破壊しているという。
子どもの犠牲者も多いとか。
ますます暗い気持ちになりながら、ふとこう思う。

「この人たちは、店どころか、家や家族まで失いつつある。
そういう人たちにくらべれば、ぼくたちは、まだ幸福なほう」と。
……ということもあって、今日は、20キロ近くを、歩いてみようと思う。
歩くことにまさる健康法はない。
それにお金もかからない。
不況風なんかに、押しつぶされて、たまるかア!

(注※)塾は、1クラスに生徒が何人いるかを見て、「率」を計算する。
仮に月謝が1万円でも、1クラス30人では、30万円となる。
仮に月謝が2万円でも、1クラス10人では、20万円となる。
このばあい、月謝が1万円の教室のほうが、(もうけ率)が高いことになる。
月謝だけをみて、「高い」「安い」を判断してはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●悪戦苦闘

+++++++++++++++++++

パソコンからは、携帯端末にはメールが
送れる。
しかし携帯端末からは、パソコンにメールが
送れない。
そこで悪戦苦闘すること、約2時間。
携帯端末会社のE社に相談しても、
「?」「?」「?」。

で、やっとわかったことは、私が使っている
プロバイダーのポート番号が、「25」に
なっていること。
そこでプロバイダーに電話をして確かめると、
「ポート番号を2xxに変更してくれ」と。
しかしポート番号って、何?

わけがわからないまま、そして言われるまま、
指示に従って、変更。
で、やっと携帯端末から、パソコンに
メールが送れるようになった。
ホ〜ッ。

こうして私は、またまた勉強した。
しかしなぜ、今、携帯端末かって?
実は、私はその携帯端末をほとんど使っていなかった。
緊急用の携帯電話としてのみ、使っていた。
が、息子が東京から帰ってきて、それを
たくみに使いながら、いろいろなことをしているのを見た。
それを見て、私も使ってみたくなった。
それで箱から取り出し、自分でやってみた。

たしか以前は、携帯端末から自分のパソコンに、
メールを送信できたはず。
しばらく使っていない間に、ポート、つまり
インターネットの信号が入る(ポート=港)が
変更になったらしい。

この世界は、まさに日進月歩。
ついていくだけで、たいへん。

で、今、改めて、マニュアルを読み直している。
「ほう、こんなこともできるのか」と、
感心の連続。
結構、頭の体操に、なりそう。

+++++++++++++++++++++

●ある大富豪の自殺

経済ニュースの中に、こんなのがあった。
何でもドイツの大富豪と言われる男性が、
自殺したという。
今度の不況で、10億ユーロ、つまり約
1250億円の損失をかかえたためという。

日経ニュースは、つぎのように伝える。

+++以下、日経ニュース+++

製薬会社や建設素材メーカーなどの経営者として知られるドイツの大富豪、メルクレ氏(74)
が自殺したことが、1月6日、明らかになった。
ドイツメディアが一斉に伝えた。
金融市場への投資で最大10億ユーロ(約1250億円)の損失を抱えたとされており、銀行
団と経営再建に向け交渉中だった。
金融危機の犠牲になった格好だ。

+++以上、日経ニュース+++

お気の毒とは思うが、同情心がまったくわいてこない。
なお「ロイター通信によると、米誌フォーブスの08年版世界長者番付で、同氏の資産は
92億ドル(約8600億円)で、ドイツ第5位の富豪だった」(同、日経ニュース)との
こと。

74歳という年齢を考えるなら、1〜2億円もあれば、じゅぶん。
それなりに優雅な老後が送れるはず。
それが、だ。
資産が、8600億円!
報道された数字だけで計算してみても、8600億円―1250億円=7350億円も、
資産が残っていることになる。
7350億円だぞ!
そこらのジーさんが、7350億円ももっていて、どうするの?

もっとも自殺の原因は、もっとほかにあったのかもしれない。
もともとその種の(心の病)をかかえていたのかもしれない。
どうであるにせよ、私には、同情心がまったくわいてこない。
(相手も、私ごときの下賤な人間に、同情されたくはないだろうし……。)

鼻で、フンと笑って、この話はおしまい。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●1月8日(2009)

++++++++++++++++++

昨夜から、「科学と哲学」というテーマで
原稿を書き始めた。
しかし数度書きなおして、ボツ。
うまくまとまらなかった。

おかげで、今日は、原稿書きはなし。
気分転換をかねて、ワイフと、
往復8キロの距離を散歩した。

そうそう昨日は、約4キロをランニング。
それが足に、こたえた。
今朝、起きると、下半身が痛んだ。
しかし運動による筋肉痛は、心地よい。
痛いといっても、静かに休んでいれば、
何ともない。

明日も、運動。
10キロは歩くぞ!
明後日から、いよいよ仕事始め!
2009年度も、がんばるぞ!

++++++++++++++++++

●痴呆症模擬体験

数日前から、携帯電話をいじって、遊んでいる。
イーモバイルの(SH11HT)という機種だが、パソコンとほぼ同じ機能がついている。
小さいが、もちろんキーボードつき。
緊急用の携帯電話として使っていたが、これが結構、おもしろい。
で、いくつかおもしろい経験をした。
そのひとつ。
称して「痴呆症模擬体験」。

痴呆症といっても、大きく分けて、(1)アルツハイマー型痴呆症と、(2)脳血管性
痴呆症がある。
アルツハイマー型痴呆症では、脳全体の神経細胞が死滅する。
そのため大脳皮質部が一様に委縮する。
とくにダメージを受けやすいと言われているのが、前頭葉、側頭葉、頭頂葉。
どれも高度な精神機能を司る部位である。
(一方、後頭葉や、運動野、感覚野は、比較的ダメージが少ないと言われている。)

脳血管性痴呆症は、それが起きた場所によって、症状はさまざま。
どちらにせよ、私たちの年代……というより、私には深刻な問題である。
知人や近親者の中にも、そう診断された人が、何人かいる。
そんなこともあって、このところ「アルツハイマー」という言葉を聞いただけで、
ズキンと、心に響く。
そしてそのつど、「私はだいじょうぶか?」と自問する。

で、アルツハイマー型痴呆症の症状としては、記憶力や推理力の減退などがある。
そのほかにも、たとえば手続き記憶の喪失などもある。
以前はできた、簡単な操作ができなくなるなど。
風呂の沸かし方がわからなくなる。
ご飯の炊き方がわからなくなる。
料理の仕方がわからなくなる、など。

しかしそれは、何も痴呆症の人たちだけの問題ではない。
今日、携帯電話をいじっていて、こんなことがあった。
話せば長くなるので割愛するが、要するに、ほんの少し前にできたことが、つぎの
瞬間には、できなくなったりした。
たとえば何かの操作をするとき、(設定)→(システム)→……と進むときがある。
で、そのときはできたのだが、つぎにあちこちをいじっていて、再び、その
操作が必要になったときのこと。

「エ〜〜、どうだったかな?」と思ったとたん、それがわからなくなってしまった。
それであちこちをタッチペンで、カチカチと叩いていたら、そのうち携帯電話が
フリーズしてしまった。
(携帯電話だって、フリーズすることがあるんだぞ!)

つまり痴呆症の人も、健常な人も(私のことではない。私も、実はあぶない)、
要するにレベルがちがうというだけ。
健常な人から見れば、痴呆症の人がよくわかる。
痴呆症の人を見ながら、「私は健常」と思う。
しかしもっと頭のよい人から見れば、その健常な人だって、痴呆症に見えるはず。

私は軽いパニック状態になってしまった。
「リセットすればいい」ということはわかっていたが、その機種では、リセット
を試したことはない。
「リセットして、今までの設定がすべてパーになったら、どうしよう?」と。

そこでイーモバイル社に電話をすると、「安心してリセットしてください」とのこと。
で、リセットしたあと、またまた悪戦苦闘。
今日になって、何とかほぼすべてをマスターした。
残りは、パソコンとの同期だけ。
しかしこれについては、そこまで必要はないだろう……ということで、今は、
ペンディング。

つまりこうしてアルツハイマー型痴呆症は、進んでいく。
ある日突然、ドカンと痴呆症になるわけではない。
徐々に、少しずつなっていく。
今が、そうかもしれない。
そのうち携帯電話の番号の押し方すら、わからなくなってしまうかもしれない。
さらに自宅の電話番号すら、わからなくなってしまうかもしれない。
さらに数字も読めなくなってしまうかもしれない。

はたして、私は、だいじょうぶか?


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●「大人ドリル」

++++++++++++++

コンビニで、「大人ドリル」(so-sbooks)
という本を買ってきた。

最近、この種の本を買うことが多くなった。
その中の問題。

==========

【問】下の文の中には、敬語の使い方がまちがっているものがあります。
それはどれですか?
正しい言い方になおしましょう。(p88)

+++++++++++

A ご不用になった古新聞
B 社長はただ今、お戻りになりました。
C 社長がおっしゃられました。
D 資料を拝見いたしました。

+++++++++++

日本は奈良時代の昔から、官僚主義国家。
上下の身分関係は、とくにうるさい。
そういう歴史的背景もあって、敬語が生まれた。
が、この問題を読んで、ハタと考え込んでしまった。
順に考えてみよう。

A ご不用になった古新聞

だれがだれに対して言っているのか。
第三者が、その人に、たとえば「ご不用になった古新聞をください」と言っているのか。
私だったら、こういうとき、「ご」はつけない。
「不要になった古新聞をください」と言う。
相手が目上の人でも、また目下の人でも、そう言う。
「不用」に「ご」などつけるだろうか?
「お読みになった古新聞」とは言う。
「お捨てになった古新聞」とは言う。
もしそうなら、「ご不用になった古新聞」は、まちがってはいない。
これは一応、「○」かな?

B 社長はただ今、お戻りになりました。

これもだれがだれに対して言っているかによって、ちがうのでは。
同じ会社の中の社員どうしだったら、そのように言うかもしれない。
しかし外部の人に向って、「お戻りになりました」は、おかしい。
外部の人には、「社長が戻ってきました」でよい。
状況はわからないが、まちがってはいない。
だからこれも一応、「○」。

C 社長がおっしゃられました。

これも(B)と同じ。
外部の人に向って、「おっしゃられました」は、おかしい。
あるいは「おっしゃいました」?
「言われました」?
これは「×」だろうな。

D 資料を拝見いたしました。

正しくは、「資料を拝見させていただきました」ではないのか。
「拝見しました」というと、どこか、威張っている感じがする。
こんな言い方をされたら、私だって、「ムッ」とくる。
とくに相手が、私よりはるかに若くて、力のない連中だったら、そうだろう。
しかしまちがっているわけではない。
どこかのエラーい人に、資料を届けたとする。
その人だったら、私に「資料を拝見いたしました」と言うだろう。
だから一応、「○」。

+++++++++++++++

率直に言って、まだ解答は見ていない。
が、その前に一言。

私は自分の文章を書くとき、敬語は、ほとんど使わない。
相手が天皇でも、「天皇が浜松へ来た」と書く。
だから敬語の使い方が、苦手。
いまだによくわからない。
迷う。

ただ会話では、敬語は使う。
言葉をやわらかくしたり、相手に不快感を与えないために、そうする。
そんなわけで、私は敬語廃止論者の一人と考えてもらってよい。
世界広しといえども、こうした敬語を使っている国は、そうはない。
(ただし敬称は、別。
英語にも「ハイ・エクセランシー」とか「ユア・マジェスティ」とかいう
敬称はある。)

そこで解答を見てみる。
こうある。

++++++++++++++

答は「C」だそうだ。
二重敬語は、相手に対して、失礼、と。
正解は、「おっしゃいました」と。

++++++++++++++

この種の問題は、大学入試でもよく出てくる。
「まちがってはいない」、だから「正しい」と。
しかし状況によっては、「まちがっている」。
そういうときでも、入試問題のような問題では、一応、「○」とする。

一方、解答を書く受験生もそうである。

テストでよい点を取る秘訣。
それは「正しい答を書こうと思うな。まちがった答を書くな」である。

以前、こんなことがあった。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●要領

 中学三年生のテストに、こんな問題が、出た。英語の質問に、英語で答えるという問題であ
る。ここ五、六年、こうした問題が、急速にふえた。

(1)When is your birthday?(誕生日はいつですか)
(2)What sport do you like?(何のスポーツが好きですか)
(3)Do you like English?(英語が好きですか)
(4)What do you want to do next year?(あなたは来年、何をしたいですか)
(5)Do you come to school on foot or by bus?(あなたは学校へ歩いてきますか、それともバ
スで来ますか)

 このテストを受けてきた子ども(女子)がこう言った。「何も、書けなかった……」と。「白紙で出
したのか?」と聞くと、「そう……」と。

 そこで理由を聞くと、こう言った。「私の誕生日は、二月。フェブルアリィ(二月)という単語を忘
れてしまった。スポーツは、バレーボールが好きだけど、バレーボールという単語がわからなか
った。英語は、好きなときもあるし、嫌いなときもある。話すのは好きだけど、書くのは嫌い。来
年は、これといって、とくにしたことはない。それに私、毎朝、母に学校まで送ってきてもらって
いる。英語で何と書けばよいか、わからなかった……」と。

 私は、こう言った。

 「二月という単語がわからなければ、五月(May)と書けばよい」
 「バレーボールという単語がわからなければ、テニスと書けばよい」
 「英語が好きかと聞かれれば、はいそうですと書けばよい」
 「来年は、富士山へ登りたいと書けばよい」
 「学校へは歩いてくると、そのまま書けばよい」と。

 だから、答は、(My birthday is May 10th.)(I like tennis.)(Yes, I do.)(I want to
climb Mt. Fuji.)(I come to school on foot.)となる。

 それに対して、その子どもはこう言った。「へえエ〜、私、五月生まれじゃ、ない。テニスは好
きではない。英語も好きとは言えない。富士山なんか、登りたくない。それに学校へは歩いてい
かない」と。
 
 そこでさらに私は、こう言った。「あなたの英語の力で、『英語は好きなときもあるし、嫌いなと
きもある。話すのは好きだけど、書くのは嫌い』とは、書けない。だったら、どうして、Yes, I do.
(はい、好きです)と書かないのか。それで丸がもらえる」と。

 「でも、それはウソになるでしょ! ウソは書けない」
 「ウソ? 英語は、バツでなければ、マル。何も、本当のことを書けという問題ではない。すな
おに簡単に書いて、マルをもらえばよい」
 「誕生日は、二月で五月ではない」
 「たとえそうでも、そんなこと、学校の先生が、いちいち調べるとでも思っているのか。そんな
ことはしない。だったら、May(五月)と書いておけばいい。正直に二月と書く必要はない」

 ……と教えながら、当然のことながら、言いようのない矛盾が、私の心をふさいだ。しかししょ
せん、受験勉強などというのは、そういうもの。またそういうことが平気でできる子どもほど、よ
い成績をとる。要領といえば、要領。その要領のよい子どもが、有利。もっと言えば、受験指導
など、教育ではない。だからそれを教えるのは、教師ではない。先生ではない。ただの指導
者。

 しかしこの日本には、歴然とした受験競争がある。また好むと好まざるとにかかわらず、それ
が人間選別の関門になっている。要領が悪い子どもほど、つまり正直な子どもほど、この受験
競争の世界では、不利。もちろんすべてがそうであるとは言えないが、しかしそういう面がある
ことも否定できない。この子どものケースでも、何ともあと味の悪い指導になってしまったが、受
験競争には、いつもそういうあと味の悪さがつきまとう。

 その子どもは、それからずっと、顔をふせたまま、何も言わなかった。私も、その子どもの気
持ちがわかるので、何も言えなかった。気まずい沈黙だけが、最後までつづいた。
(02−12−8)※

●こうした受験競争をスイスイと通りぬけた人が、結局は、社会のリーダーになっていくという
のは、悲劇的ですらある。たとえば高校時代、勉強しかしない、勉強しかできない、どこかおか
しな子どもほど、スイスイと受験競争を通りぬけていく。中には、よい点をとるのが、趣味になっ
ているような子どもすらいる。日本では、こういう子どもほど高く評価されるが、本当にそれでよ
いのか。あなたもそういう視点で、一度、受験勉強そのものをながめてみてはどうだろうか。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司※

【団塊世代(1947〜49年生まれ)】

●約677万人!

『……団塊の世代と言われる1947〜49年生まれの人は、06年10月現在、約677万人。人
口の約5・3%を占める大きな集団だ。青春時代に学生運動を経験した彼らは、それまでの日
本人とは違う意識を持っていると言われる。会社から離れた後の自由な活動が期待されてい
た。しかし、どうやら期待はずれ。

(中略)

 総務省労働力調査によると、08年11月現在、60〜64歳男性の就業率は73・6%。老齢
厚生年金の支給開始年齢が段階的に引き上げられることもあり、07年以降も会社で働いて
いるのだ』(読売新聞・1・9)

++++++++++++++++++++

団塊世代……約677万人
人口の5・3%
60〜64歳の就業率……73・6%

++++++++++++++++++++

●1947年生まれ

++++++++++++++++

団塊の世代は、総じてみれば、たくましい。
家の中では、ほったらかし。
学校では、イワシの缶詰。
「1クラス55人」と言っても、今の若い人たちには、ピンとこないだろう。
私が受験した、金沢大学法学科にしても、入試倍率は、8・9倍。
たくましさの(原点)そのものがちがう。

++++++++++++++++

誤解があるといけないので書いておくが、「学生運動」イコール「共産活動」ではない。
当時を振り返ってみて、ごく一部のリーダーを除いて、主義主張があって学生運動に
参加した者など、ほとんどいない。
「お祭り騒ぎ」とまでは言わないにしても、私たちはみな、それまでの呪縛感からの
解放をめざした。
何かわからなかったが、体中をがんじがらめにしている無数のクサリをはずしたかった。
それが学生運動だった。

だからおかしなことに聞こえるかもしれないが、私の同窓生にしても、そのあと、
共産党員(社会党員でもよいが)になった仲間は、一人もいない。
みな、就職先として、銀行や証券会社、役所や大企業を選んでいった。
またそれぞれの世界で、企業戦士ともてはやされ、その後の高度経済成長を、裏から
支えた。

たしかに私たちの意識はちがう。
どうちがうかは、説明のしようがないが、反対に、今の若い人たちを見ていると、
情けないほど、ひ弱に見える。
だらしなく、頼りなく見える。
こんな状態で、たとえばK国からミサイルでも飛んできたら、どうするのかとさえ
心配になる。
だいたい、今の若い人たちは、天下国家を論じない。
小さな世界で、こぢんまりと生きている。

が、その一方で、私たち団塊の世代には、どくとくの悲劇性がある。
「上に取られ、下に取られ、今は貧乏盛り」。
わかるか?

上、つまり親に金を取られ、下、つまり子どもに金を取られ、貯金など、ほとんどない。
だから働くしかない。
それが冒頭にあげた、「60〜64歳の就業率……73・6%」という数字である。
つまり私たちは、働くしかない。
むしろ「遊ぶ」ということに、罪悪感すら覚える。
いわんや悠々自適の老後生活など、どう考えたら、頭の中に浮かんでくるのか。

ところで少し前、(2007年問題)が、話題になった。
団塊の世代が大量に退職し始める2007年は、危機的な年になる、と。
しかし現実には、それは起きなかった。
そこで今度は、(2007+5=2012年問題)が話題になりつつある。
しかし私の印象では、2012年問題も、起きないだろう。
本当に問題になるのは、私たちが70歳になったとき。
いくら働きたくても、体そのものがもたない。
だから本当の問題は、2017年にやってくる。

が、悲劇はここから。
そのころになると、満65歳以上の高齢者が、人口の約3分の1になる。
そうなったとき、今度は、容赦なく、ジジ捨て、ババ捨てが始まる。
団塊の世代は、日本のゴミと化し、容赦なく(殺される)。
すでに今、その年齢になると、「天命ですから……」「高齢ですから……」「寿命ですから
……」と、病院でも治療を拒否されるケースがふえている。
数日前も、こんな話を聞いた。

その人の母親(現在、85歳)が、慢性の膀胱炎で苦しんでいる。
排尿のたびに、激痛と闘っている。
そこでその人が病院のドクターとかけあうと、そのドクターはこう言ったという。

「ご高齢ですから……」と。

高齢で慢性化しているから、それを治療する薬もない、と。
これから先、そうした年齢が引き下げられることはあっても、引き上げられることは
ぜったいにない。

だから……。
自分の体は、自分で守る。
健康は、自分で維持する。
少しでも働けるようなら、働く。
死ぬまで働く。

つまりこうした(たくましさ)こそが、私たち団塊の世代の特徴ということになる。
以前書いた、「団塊ブルース」を、紹介する。

++++++++++++++++

●団塊ブルース(Young Old men's Blues)

We, those who were born just after the War are now retiring from our jobs. We have been 
the people who worked for the companies or organizations, in most cases sacrificing 
ourselves. Before the War young people were educated to be obedient soldiers but after the 
War we were educated to be also obedient workers who work for the companies and 
organizations.

Meanwhile we could experience this dynamic change of our country, from the bottom of 
poverty to one of the countries of highest standard. But at the same time we have many 
thing that we have lost. Some people say that "What was my life?", when they are fired and 
retire from the companies.

This is the story about this;

++++++++++++++++

戦前の「国のため」が、戦後は、「会社のため」となった。
それもそのはず。敗戦で日本は大きく変わったが、
ときの文部省だけは、変わらなかった。敗戦と
同時に、クビになった官僚は、ひとりもいない。
制度も、そっくりそのまま残された。

私たちは、戦前とそれほどちがわない教育を、そのまま
受けた。もっと言えば、明治以来の、富国強兵をめざした、
あの教育をそのまま受けた。

結果として、私たちは、当時の私たちになった。
私たち団塊の世代、それにつづく戦後派の人たちは、
何らためらうことなく、企業戦士となっていった。

それは恐ろしいほどの忠誠心であった。
たとえば私が勤めたことがある、M物産という
会社では、当時は、6か月以内の海外出張は、
「短期出張」と呼ばれ、単身赴任が原則だった。

今のようにリッチな時代ではなかった。一度海外に
赴任すれば、最低でも、6か月は、日本に帰って
来られなかった。

が、その単身赴任には、単身赴任のハシゴというの
があった。任地先から、さらに別のところに単身赴任
するということも珍しくなった。中には、こうした
単身赴任のハシゴで、2年近くも、日本を離れて
いた人もいた。私の直接の上司だった、K氏もそうである。

その団塊の世代、それにつづく戦後派の人たちが、
今、つぎつぎと職場を離れている。民間会社だと、
50歳を過ぎるころから、肩たたきが始まる。子会社へ
移動できる人は、まだラッキーなほう。たいていは、
そのまま会社の外へ、放り出された。

で、そのとき、ほとんどの人は、こう気がつく。
「今までの私の人生は、何だったのか?」と。

会社人間の悲しさ。会社を離れれば、存在価値
そのものがない。その世界ではエキスパート
だったかもしれないが、それは社会全体からみると、
小さな、どこまでも小さな特殊分野でしかない。

つぶしがきくとか、応用がきくということは、
まず、ない。

それまで頭をさげていた人まで、顔をそむけるように
なる。それもそのはず。まわりの人たちは、その人
に、頭をさげていたのではない。その人が
もつ肩書き、あるいはその背後にある会社という
組織に頭をさげていた。

退職と同時に、それに気がつく。と、同時に、深い後悔と、
反省の念に包まれる。

「これからオレは、何をすればいいのか?」と。

+++++++++++++++++++++++

●1クラス、55人

 私たちの時代には、1クラス55人が、当たり前だった(中学時代)。「すし詰め教育」とよく呼
ばれた。が、すしでも、あそこまでは詰めない。しかしそうした教育に疑問をいだく子どもは、い
なかった。疑問をいだく親も、いなかった。

 で、あの時代を振り返ってみて、そうした過密教育の弊害は何だったのかと問われると、そ
れがよくわからない。私は私であり、私たちは、私たちであった。しかしたしかに弊害はあっ
た。あったはずである。その結果が、今である。

 私たちは社会人になると、何も疑わず、サラリーマンの道を選んだ。今でこそ、「ベンチャー
企業」などという言葉があるが、当時、ベンチャー企業のようなものを考える学生は、まずいな
かった。サラリーマンになること。それが第一。しかも都会の大企業ほど、「出世組」と考えられ
ていた。

●作られた意識

 つまり弊害の第一は、ここにある。こうした意識こそが、あの時代の、あの流れの中でつくら
れた意識でしかなかった。しかしそれは「今」という、あとになってわかったこと。当時の私たち
の中で、それに気づいていた人は、いったい、どれだけいただろうか。

 そして結果として、私たちは、会社に貢献し、日本という国の繁栄に貢献した。「貢献した」と
いう意識は、ほとんどないかもしれないが、今に見るこの繁栄は、その結果であることには、ま
ちがいない。

 もちろん悪い面ばかりではない。日本のみならず、世界の歴史の中でも、生涯にわたって戦
争を経験しなかった世代というのは、そうはない。日本だけを見ても、明治以来、日本は、常に
他国との戦争を繰り返してきた。

 それに戦後直後はともかくも、私たちの世代ほど、ダイナミックな変化を経験した世代もな
い。日本は、どん底の貧乏国にから、世界でもトップクラスの先進国へと躍り出た。そんな日本
を直接、経験することができた。

●一(社)懸命

 が、同時に、失ったものも多い。「私の人生」というときの、「私」を失った。たいした冒険もせ
ず、たいした夢も果たせず、たいした結果も出せず、家と会社を往復した。「仕事のため」と、
家族を犠牲にした人も多い。犠牲にしているという意識もないまま、犠牲にした。家庭を預かる
妻にしても、自分が犠牲になっているなどとは思わなかった。

 M物産に話にもどるが、夫が単身赴任で外地へ赴くとき、家族は、みな、あの伊丹空港(大
阪)で夫を見送った。私も、数度、そういう現場に立たされたことがある。そのときのこと。「がん
ばってくるからなあ。あとのことは頼むぞ」と言って夫は、飛行機に乗り込んだ。「がんばってき
てね。うちのことは、心配しないでね」と言って、妻はそれに手を振った。中に、「お国のため」と
いう言葉を使った人もいたように思う。「会社のため」という言葉だったかもしれない。

 その姿は、まさに、戦前のあの様子を想像させるものだった。戦地におもむく夫。それを送る
妻。「国」と「会社」のちがいこそあったが、中身は、そのまま。つまり私たちの意識は、何も変
わらなかった。

 それがあの時代の、「弊害」だったということになる。

 が、これについても、それに気づいた人は、少ない。私たちは、それがあるべき道と信じて、
その流れに従った。

 しかし、だ。改めて、問う。私たちの人生は、何だったのか、と。

●自由に生きる

 実際、こんな人がいる。私の友人のT氏・・・「T氏」と書いたのでは、ウソと思われる。だから、
実名を書く。高橋Y氏である。その高橋Y氏の義兄(妻の兄)は、50歳前後で退職。そのあと単
身、マレーシアに渡り、そこでヨットを購入。そのヨットで世界を数周した。

 以前、その男性について、「今ごろは、フランス人の女性と、インド洋を航海中」と書いた。高
橋Y氏から聞いた話を、そのまま書いた。

 で、今は、タイに向かっているという。タイには、以前買った土地があるそうだ。そこにそのま
ま永住するつもりらしい。この話は、つい先日の、07年12月9日に聞いた話である。興味があ
る人がいたら、その男性を紹介してもよい。

 つまり世の中には、そういう人生を、あたかも自由に空を舞う鳥のように送っている人がい
る。そういう人生と比べると、「私の人生は、何だったのか」となる。「まじめ」と言えば、聞こえ
はよいが、中身は、ただの「歯車」。
 
 そういう「歯車」に仕立てられながら、仕立てられたという意識すら、ない。ないから、その弊
害に気づくこともない。カルトにハマっている信者が、自分をおかしいと思わないのと同じ理由
で、そういう自分がおかしいとは、思わない。

●「これからは自分のしたいことをするよ」

 先日も、学生時代からの友人のZ君は、こう言った。つい先月、定年で、会社を退職した。い
わく、「これからは自分のしたいことをするよ」と。

 その言葉の中に、私たち団塊の世代、そしてそれにつづく戦後生まれの人たちの悲しみ、わ
びしさ、むなしさが、集約されている。心理学的に言えば、(自己概念)と(現実自己)を一致さ
せることもできず、悶々とした気持ちで、一生を終えた。自己の同一性の確立さえままならなか
った。

 その不完全燃焼感には、相当なものがある。割と自由に生きてきた私ですら、その不完全燃
焼感とは、無縁ではない。「何かができたはず」「何かやりのこした」「何かをしたかった」と、ふ
と我にかえったとき、そう思う。

 が、「これでいいのか?」と叫んだところで、この話は、おしまい。いまさら、どうしようもない。
いくら後悔しても、また反省しても、人生は、もどってこない。ただこれからは、ちがう。これから
は、そうであってはいけない。残りの人生がそこにあるなら、それに自分をかける。燃やせるも
のがあれば、それを燃やす。

 ・・・しかし、実のところ、私たちは、そのキバさえ抜かれてしまっている。あのすし詰め教育の
中で、もの言わぬ従順な民に、育てられてしまっている。いまさらキバをむけと言われても、そ
のむきかたすら、わからない。結局は、死ぬまで、まじめ(?)に生きていくしかないのか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 団塊世代ブルース ブルース 
団塊世代 2007年問題 2012年問題 金沢大学法文学部 法学科 学生運動
団塊ブルース)

+++++++++++++++++

ところで読売新聞は、こんなことも書いている。
何でも退職した団塊の世代に、ボランティア活動を期待していたというが、それが不発に
終わったという。

『「2007年問題」と騒がれた団塊の世代の定年退職。自由になる男たちに、NPOはボランテ
ィアとしての活躍を期待し、過疎に悩む自治体は田舎暮らしを呼びかけた。だが、今、「期待は
ずれ」の声もあがっている。彼らは今、どこに?

 東京・世田谷区と地元町会などで作る団体「せたがや生涯現役ネットワーク」は、団塊の世
代の地域回帰を促そうと07年に発足した。だが、「予想より反応は少ない」と頭を悩ませる。
地元NPOや町会などの活動が体験できる「地域デビュー」の講座は、年々参加者が減少。60
歳代後半から70歳代が多く、団塊の世代は少ないという』(同、読売新聞)。

バカめ!
私たち団塊の世代をバカにするにも、ほどがある。
何がボランティア活動だ!
バカヤロー!

これについても、以前、つぎのような記事を書いたことがある。
書いた日付は、2007年の1月。
ちょうど2007年問題が話題になっていたころである。

+++++++++++++++++

●団塊世代よ、ボランティアへ!、だってエ!!

++++++++++++++++++++++

今度、浜松市の社会福祉協議会が、団塊の世代を
対象にした、『ボランティア登録制度』を創設した。

しかし、最初に、一言!

何がボランティアだア!

バカにするな!

ボランティアと言えば、聞こえはよいが、
中身は、「ただ働き」。要するに、「団塊世代よ、
ヒマがあったら、ただ働きせよ!」ということ!

私たちが求めているのは、職場だ。きちんと給料の
もらえる職場だ。

バカにするにも、ほどがある。どうせ公務員の若造
たちが創設した制度なのだろう。
が、創設すべきは、職場だ。わかるか? 
職場だ!

自分たちは、満額の退職金と、年金、それに天下り先を
しっかりと確保しておきながら、私たちに向かっては、
「ただで働け!」と。

久々に、私は怒ったぞ!

++++++++++++++++++++++

 新聞記事には、「団塊世代よ、ボランティアへ!」という見出しのあと、こうある(中日新聞)。

 「団塊の世代、待っています。2007年度から、大幅に定年退職を迎える団塊世代。彼らの
能力や技術を生かしてもらおうと、浜松市社会福祉協議会(市社協)は、シニア世代に的をし
ぼった、ボランティア登録制度を開設した。

 福祉施設や特定非営利法人(NPO法人)などの需要を掘り起こし、登録者としての橋渡しを
する。

(中略)

 登録時には各自の得意分野を記録する。市社協の担当者は、『たとえばおもちゃの修理や
福祉施設の庭木手入れ、NPO法人の事務などに、これまでのスキルを生かしてほしい』とい
う。障害者の手がける農場の手伝いなど、活躍の場は豊富にあると考える。

 市民活動を支援している県西部地域交流プラザPは、『パソコン関連から、会計、労務、運転
手、介助、お年寄りの話し相手まで、NPO法人などの活動を手伝う人材は、慢性的に不足し
ている』と話す」と。

 何が、おもちゃの修理だ!
 何が、福祉施設の庭木の手入れだ!
 何が、農場の手伝いだ!
 何が、お年寄りの話し相手だ!

 バカにするにも、ほどがある。

 もしすべきことがあるとするなら、自分たちが独占している天下り先を、民間に平等に分配す
べきだ。わかるか? たとえば図書館の館長なら館長でもよい。そういう人材は、公募で、みな
で決めればよい。

 団塊の世代だから、ただで働けだと! いいか、私の周辺にも、元公務員という人たちが、た
くさん住んでいる。中には、地域の活動のために、忙しく働いている人もいる。しかしそういう人
は、少数。

 たいはんは、道路わきのゴミひとつ拾ったことがない。高額な年金を手にして、悠々自適な老
後生活。もし「ただで働け」というのなら、まず、そういう人たちが、率先して、見本を見せてくれ
たらよい。

 団塊の世代、とくに私のように、国民年金しかアテにできない人間は、死ぬまで働くしかな
い。ボランティア活動などという優雅な道楽をしているヒマはない。もし市の役人が用意してくれ
るというのなら、職場だ。きちんとした給料のもらえる職場だ。

 わかるか?

 わからないだろうな?

 30代、40代の若造から見れば、60歳の人間は、どうせ役立たずのジジイに見えるかもしれ
ない。が、それはまちがい。かつてあのバーナード・ショーは、こう言った。『若者から老人をみ
ると、老人はみな、バカに見えるかもしれない。しかし老人から若者をみると、若者はみな、バ
カにみえる』と。

 どうせ公務員の若造たちが、額をこすりあわせて創設した制度なのだろうが、これほど、人を
バカにした話もない。久々に、私は、怒ったぞ!

 私は、昭和22年生まれ。団塊の世代、第1号だ!

 わかったかア!


【付記】

 この記事に対して、Bさんという方より、反論のコメントが届いた。それをそのまま紹介する。

++++++++++++++++++++++++

【Bさんより、はやし浩司へ】

先生、こんばんは♪

きょう、団塊世代にボランティアを と言う記事が載っていたという日記を見て、
メールしています。

話の争点が違うところに行ってしまうかと思いますが、
いくつか私のボランティアの経験をお話させてください。

もとをただせば ボランティアをしたいと思い始めたきっかけは、
私が学生時代に、ブリスベンのあるお宅にホームステイしていたことから始まります。
んもうぅっ…ほんっとうに素敵なご夫婦で、
私の人生観は21歳にして 衝撃的な変化を遂げました。(おおげさかな?ちょっと。)

とにかく彼らのホスピタリティーと言えば、
何を持ってお返しができるのか 全く想像がつかぬほど、
私を娘として 今も愛し続けてくれています。

私はいつか 自分もホストマザーになりたいと思うようになりました。
けれど今はまだ時期が早い。提供できるお部屋もご用意できない。
何か別の手段で この感謝の気持ちを pay forward したかったのです。

ずっとそんな思いを抱き続けていた頃 新聞に静岡県主催の語学ボランティアの
募集の記事を見つけ、思い切って面接を受け、合格し、無事登録の運びとなりました。
当時の私は IT関連の仕事をしていたので 英語を話す行為から少し遠ざかっていたこともあ
り、

私でお役に立てるのであれば ぜひ 私のホストペアレンツへの お礼の気持ちの形として、
何かできることからスタートしたかった。

そして外国人学生のための浜松市内の観光地ガイドの翻訳や、
市内で開かれる外国人の集まる大規模な会議などのアテンド、
静岡市で開かれるお茶に関する資料の翻訳 など、
ときには締め切りに追われながら、それでも受けたことは責任をもってと、
真面目に取り組んできたつもりです。

日本でのボランティアは 無給という考え方がごく一般的で、
でも私は お金をもらうかどうかということよりも、
そんなイベントにほんの少しでも関わって、
私の訳した文章を読んでくださり理解を深めてくださった方、
私のご案内で楽しい時間を過ごしていただいた方、
勿論その場に応じて日本人の方にも対応はしますが、
いずれにせよ、自分のできることが社会で微々なれども役に立っていることの
充実感で、満たされていました。

それに ボランティアスタッフとして出会った方々との交流も
とても楽しく、もう10年近くのお付き合いをさせていただいて
本当に感謝でいっぱいの気持ちです

5年前に行われたエコパスタジアムでの日韓共催FIFAワールドカップ2002の
ボランティアスタッフとしても活動することできました。

県の語学ボランティアの募集のターゲットとして、
ワールドカップへの人材確保ということも大きく取り上げられてはいました。
しかし私は お恥ずかしながら、サッカーに関する知識は非常に乏しく、
国内リーグの選手の方のお名前も数名しか知らないほどでした。

それがサッカーであれ、オペラであれ、緑茶に関する討論会であれ、
私のできることが 海外から日本:浜松に来てくださる方への御礼になれば
それでいいという ただそれだけの気持ちです。

ワールドカップでは これまた予想外にもVIPシートのお客様の通訳、ご案内を
担当することになりました。日本人でよくテレビに映ってるスポーツ選手、解説員など
わずかな方々なら、名前とお顔が一致はしましたが、
国外の王室の方々や、選手のご家族や、国内リーグの監督や、まったくわからない。

失礼なことかもしれませんが、VIPにどんなお客様がみえるかという詳しい情報は、
私たちボランティアには知らされていませんでした。仮に教えていただいたとして、
私にはわからない...。 どの方も皆さん 海外から日本へ訪問してくれた方たち。
楽しいひと時のお手伝いができればそれでいいという気持ちで取り組んでいました。

実際活動はとても楽しかったです。

この活動も他に漏れず無給の活動でした。

でも この活動で出会った仲間たちとはいまでも
静岡スタジアムエコパで催される様々なイベントでボランティアをしよう、という
団体を作っていて 私も時間が許されれば参加しています。
年齢は様々。 私のような主婦層はちょうど真ん中くらいで
大学生もいれば 私の父(65)ほどの年齢の方、
この方々を団塊の世代と言うのでしょうか?
そういう方も、大勢いらっしゃいます。

ボランティアで必ずしも英語が役に立つ場面ばかりとは言えません。
でもまれに、「誰か英語の話せる方〜〜」と呼ばれて、お役に立てたとき、
その外国人の方の安心したお顔、Thanks a lot のお言葉と握手。
それだけで私は じゅうぶん幸福な気持ちを味わうことができます。

いうまでもありませんが 勿論日本人のお客様のお手伝いができたときも
嬉しく思っています。

無給で働かされて...というpoint of view では 味わうことのできない、
かけがえのない感謝の気持ちを味わうことができます。

もし私のしていることを、たとえば仕事としてやってください
という依頼がきたとしても
それはとてもありがたいことですが、今までのような純粋に恩返しをしていきたいという
気持ちとは 少し離れてしまうように思います。

先生もご存知の通り、残念ながら、私の家庭は決して裕福ではありません。
けれど一つ一つの活動やworkを終えた後の達成感は、仕事で味わうものとは、
全く異なるものだと思います。

確かに仕事内容を把握できていない職員の方から、いい加減な説明をされたときは
私も厳しく追及して、ボランティアだからと言っていい加減な応対をするつもりはないと
はっきりお伝えして、活動自体を辞退したこともありました。

主催者側が、「応対しているのはボランティアなのです。無給なのです。」といえば、
ちょっとした美談と責任逃れをすることができるのも否定できないことかもしれません。

けれど私はボランティアを続けます。
私が受ける心の恩恵と充実感があまりにも大きいからです。
ただそれだけのことです。

いつか私がホストマザーになったとき、私のホストペアレンツへ報告したら
きっときっと喜んでくれるに違いありません。
息子(年長児)も ちょっと違った体験ができて いいことなんじゃないかな? と
思っています。

いつもながら長文失礼いたしました
このような駄文でも ご参考になることがあれば掲載していただくことがあれば勿論かまいませ
ん。


【Bさんへ、はやし浩司より】

こんばんは!

うむむむ……。

なるほどっていう感じです。

でも、私はボランティア活動を否定しているのでは
ありません。

団塊の世代=無料で利用できる世代という発想に
反発しているのです。

どうか、どうか、誤解のないように!!!

人は無給で働いてこそ、つまり損得の計算を忘れて
働いてこそ、仕事の醍醐味を味わうことができます。

よくわかっています。

それと、この問題は、別ですね。

誤解のないように!

日本では、役人たちが、日本をリードしていると
思い上がっています。それが気に入らないのです。

官僚制度そのものに腹がたつのです。どういうわけか……。

メール、ありがとうございました。

プライベートな部分を割愛させていただき、
マガジンに掲載させてください。

字句は、マガジン用に統一させていただきますが、それは
お許しくださいね。

では、

おやすみなさい!

はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
ボランティア活動 ボランティア登録 ボランティア活動登録制度)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●不愉快な発明品

++++++++++++++++

もっとも不愉快な発明品(?)は、
カラオケだそうだ※。

(1)カラオケ……22%
(2)24時間スポーツチャンネル……17%
(3)テレビゲーム機……12%
(4)携帯電話……11%
(5)目覚まし時計……7%

++++++++++++++++

イギリス政府が、約2500人の大人を対象に行ったアンケートによれば、
もっとも不愉快な発明品は、カラオケ(22%)であったという。

「なるほど」と思ったり、「そうかなあ」と思ったりする。
私は歌を歌うのは好き。
よく歌う。
若いころは、カラオケセットを購入したこともある。
だが、カラオケで使われる曲と、私の好きな曲が、合わない。
それでも……と思って、何曲か練習したこともある。
が、長つづきしなかった。
いつの間にか、カラオケから遠ざかってしまった。

一方、カラオケでへたくそな歌を聞かされることくらい、不愉快なことはない。
その上、よく歌われる曲が、演歌や流行歌であったりする。
「男の道」とか、「女の道」。
酒、夜、涙……。
そういうテーマは、私の肌に合わない。

しかし好きな人は好き。
マイクをもったら、離さないという人も多い。
つまり、人それぞれ。

なお最後の「目ざまし時計……7%」というのは、おもしろい。
実にイギリス人らしい。

ハハハと笑って、この話はおしまい。

(注※)『最も不快な発明品は1位カラオケ、2位は24時間スポーツチャンネル−。英政府が約
2500人の大人を対象に行ったアンケートでこんな結果が浮かび上がった。英各紙が8日報じ
た。

 それによると、(1)カラオケ22%(2)24時間スポーツチャンネル17%(3)テレビゲーム機1
2%(4)携帯電話11%(5)目覚まし時計7%−の順になっている。

 インディペンデント紙はカラオケの発明者として日本の井上大佑さん(68)を紹介し、もし特許
を申請していれば1億5000万ドル(136億円)を稼いでいたと指摘した。

 英国では仲間内で楽しめる個室型のカラオケボックスもあるが、ビールを飲みながら会話を
楽しむパブにカラオケが設置されているケースが目立つ。「楽しいのは歌っている人だけ。周り
の人にとっては苦痛」という声が多かった。その一方で「カラオケは埋もれた歌の才能を発掘し
た」と評価する声もあった』(以上、産経新聞・1・9)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
カラオケ Karaoke 不愉快な発明品)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●増える外貨

+++++++++++++++++

またまた日本が保有する外貨準備高がふえた。
その額、1兆306億ドル!

よく外貨準備高を貯金にたとえ、増えれば
増えるほど、それでよいと考える人がいる。
国が豊かになったと喜ぶ人がいる。
しかしこれは誤解。
まったくの誤解。

たしかに貧しい時代には、そうだった。
とくに日本が高度成長期に入る前までは、そうだった。
しかし外貨準備高というのは、いわばタンス預金。
必要以上にもっていても、しかたない。

たとえば当のアメリカは、外貨準備高は、ゼロ。
手持ちの外貨は、外国に投資して、はじめて
意味をもつ。

+++++++++++++++++

保有する外貨イコール、貯金ではない。
まずもって、その誤解を解く必要がある。

外貨準備高として保有する外貨は、たとえば為替相場が変動したようなとき、
その調整金として使用するものである。
その額は、ある一定以上あることは望ましいが、必要以上にため込んでも
意味はない。
いわんや1兆306億ドルだと!

言うなれば、紙くずと化した米ドルを、日本が買い支えているようなもの。
絵画にたとえてみると、それがよくわかる。

近くに下手くそな画家がいる。
毎日絵を描いている。
評価は低い。
1枚描いても、30万円にもならない。
が、親類のあなたは、その絵を、今、91万円で買い支えてやっている。
画家は、絵を描く。
それをあなたは買う。
この繰り返しで、あなたの家の倉庫には、その画家の絵が山のようになった。
今の日本が、そういう状態ということになる。

が、その絵は売ることができない。
売りに出したとたん、その画家の絵の価値は、さらに下がる。
20万円にもならないかもしれない。

そこであなたはこう言って、自分をなぐさめる。
「いつかきっとあの画家の絵は、1枚100万円で売れる。
120万円になるかもしれない。
だから私は資産家だ」と。

財務省が1月9日に発表した、12月末の外貨準備高は、1兆ドルを超え、
1兆306億ドルになった。
前月からだけでも、約278億ドルの増加。
過去最高を更新した。

世界の外貨準備高を、米ドルに換算して比較してみると、つぎのようになる。

1位……中国……約1兆7600億ドル
2位……日本……約  9800億ドル
3位……ロシア…約  3050億ドル(以上、08年4月時)

それが今度、日本の外貨準備高が、1兆306億ドル!
もしドルの価値が半減すれば、当然、手持ちの外貨の価値も半減する。
それがこわいから、さらに日本は、ドルを買い支える。
あとはこの悪循環。

いまさら「あの画家の絵は、本当は20万円の価値しかありません」とは、
とても言えない。
しかたないから、91万円で買い支えるしかない。
せっこらせっこらと買い支えるしかない。

それが1兆306億ドル!
外貨準備高が貯金ではないということが、これでわかっていただけたことと思う。

では、どうするか?

本来ならこうした外貨は、銀行を通して、外国に投資してはじめて、生きる。
外国にどんどんと投資して、その利息で稼ぐ。
が、今は、それもできない。
まさに八方塞(ふさ)がり。
ないよりはあったほうがよいのだろうが、今、世界は、ドルを見放し始めている。
そういう中、AS首相だけが、「基軸通貨として米ドルを守る」と、言ってみせた。
そう言わざるをえない気持ちもよくわかるが、そうしたカードは、最後の最後まで
温存すべき。
軽々しく、口にすべき言葉ではない。

私が日本の首相なら、米ドルからの逃避をにおわせながら、つまりアメリカを
ヒヤヒヤさせながら、アメリカを日本にひきつけておく。
アメリカに日本の言うことを聞かせる。
何もあえて、アメリカまで行って、宣言すべきことではない。
おバカ!

(注※)……『財務省が9日に発表した12月末の外貨準備高は、1兆0306億4700万ドルと
なり、前月末から277億8600万ドル増加した。08年3月の1兆0155億8700万円を超え
て、過去最高を更新した。

 外貨準備の増加は2カ月連続だが、米国の債券価格上昇や、ユーロの対ドルでの増価など
が影響したという。米国10年国債の金利は11月末時点の2.923%から12月末には2.21
6%に低下した。また1ユーロは1.2694ドルから1.3972ドルに上昇した。

 各国の外貨準備高をみると、国際通貨基金(IMF)が公表している直近の4月末で、1位が
中国の1兆0838億SDR、2位が日本の6059億SDR、3位がロシアの3202億SDR、4位
がインドの1881億SDR、5位が台湾の1787億SDRなどとなった。1SDRは1.6238米ド
ル』(ロイター・1・9)。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(090110)

●中国の国家主席?

+++++++++++++++

数日前、食事をしながら、ワイフが
ふとこう言った。
「中国の国家主席って、だれ?」と。

私は即座に答えられなかった。
「エ〜、だれだったけ?」と。

+++++++++++++++

毎日新聞を読んでいる。
ニュースサイトにも目を通している。
しかし中国の国家主席の名前がわからなかった。

ショックだった!

たしかに私の脳みそは、老化している。
ひょっとしたら認知症になりつつあるのかもしれない。
心配が、ムラムラと心を包んだ。

で、こういうときは、(アイウエオ……)順に思い出すようにしている。
カのところで、「カ・コク・ホウ?」。
コのところで、「コ・キン・トウ?」。
「コ・ヨウ・ホウ?」。
勝手な名前が、つぎつぎと出てくる。

ついでにフィリッピンの大統領の名前や、マレーシアの首相の名前も、
思い浮かんでくる。
しかし肝心の中国の国家主席の名前が出てこない……!

そこで今、インターネットを使って調べてみる。

ウィキペディア百科事典には、こうある。
国家主席……胡錦涛(コキントウ)
国務院総理……温家宝(オンカホウ)

記憶というのは、(記銘)→(保持)→(想起)というプロセスを経て、
記憶として残り、思い出すことができる。
中国の国家主席のばあいは、しっかりと記銘していなかった。
ニュースなども適当に読んで、そのままにしておいた。
そこで今、改めて、記銘。

コキントウ、コキントウ……、
オンカホウ、オンカホウ……、と。

コツは、一度、声に出してみるということ。
文字を見ただけでは、記銘力は弱い(?)。

しかし脳みそには、キャパシティ(容量)というものがある。
今ここで、2人の名前を記憶したら、どこかで、別の記憶が消えていくのではないか?
そうでなくても、毎日、約10万個という脳細胞が死滅している。
(20歳を過ぎたら、毎日だぞ!)
私の年齢になったら、もっと多いかもしれない。

どうであるにせよ、放っておいてもよくない。
キャパシティはあるかもしれないが、どんどんと覚えていくしかない。
コキントウ、オンカホウ……、と。

ついでにフィリッピンは、グロリア・マカパガル・アロヨ、
マレーシアは、国王が、ミザン・ザイナル・アビディン、首相が、アブドゥラ・
ビン・アフマッド・バダウィ。

ゾーッ!

「アロヨ」と「バダウィ」という名前だけで、勘弁してもらう。

Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●人間性

+++++++++++++++++

私は正直に書くが、結婚してこのかた、
ごく最近まで、ワイフのバッグの中に
手を入れたことがない。
「最近」というのは、小銭が必要に
なったとき、ワイフのバッグから
財布を取り出したことをいう。

それでも抵抗を感ずる。
しかし世の中には、他人のバッグでも、
そういうことが平気でできる人がいる。

+++++++++++++++++

●無断でバッグを使用

こんな話を、その女性から聞いた。
その女性が、何かのことで家をあけた。
帰ってきてみると、机の上に置いたバッグの位置がずれているのに気がついた。
そこで中を見ると、ものの入れ方が、それ以前とはちがっていた。

そこで夫の母親、つまり姑(しゅうとめ)に、「バッグをどうかしましたか?」と
聞くと、夫の母親は、平然とこう言ってのけたという。

「いいバッグだったから、今日、買い物に行くとき、貸してもらいました」と。

つまり夫の母親は、その女性の部屋に無断で入り、バッグの中身を一度抜いたあと、
それを買い物に使ったというのだ。
そしてその女性が帰ってくる前に、元通りに(?)にして、机の上に置いた。

その女性はこう言った。

「そういうことが平気でできる人というのは、そうはいないと思います」と。

が、一事が万事、万事が一事。
夫の母親は、日常的にそういうことをしているという。
ウソは平気でつく。
約束なんてものは、あってないようなもの。
見栄っぱりで、世間体を気にする。

しかしそういう人の末路は、あわれ。
やがてだれからも相手にされなくなる。
現に今、嫁であるその女性にすら、あきられている。

「そういう人もいるんだなあ」と思ったところで、何と返事してよいか
私はわからなくなってしまった。

そこで決意。
大げさかな?

これからは、たとえ小銭が必要なときでも、ワイフのバッグには手を入れないぞ!


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【われ、考える。故にわれ、あり】(I think, therefore I am.)

+++++++++++++++++

思考力を失ったとき、人類はほんとうに
滅亡する。

思考するから人間は人間である。
もし思考をしなければ、人間は、
ただのサルになってしまう。

+++++++++++++++++

●科学と哲学

科学が進歩したからといって、哲学が進歩するとはかぎらない。
科学の進歩と、哲学の進歩は、まったく別のもの。
しかし影響がないとは、言えない。
科学的な見方が、哲学に影響を与えるということは、ある。
たとえば最近の脳科学の進歩には、驚くべきものがある。
人間の(心の作用)まで、科学的に説明しようとしている。

では、哲学そのものは、どうだろうか?
たとえば紀元前5世紀ごろ、中国に2人の思想家がいた。
まっ先に思いついたのが、老子(紀元前5世紀)と、荘子(370〜286頃BC)
である。

無為自然(むいしぜん)を説いた老子、安心立命(あんじんりつめい)を
説いた荘子。
いわば現在の自然主義の先駆け的な思想家ということになるが、では、
その後の科学の進歩ほどに、私たちが、彼らの思想を受け継ぎ、進化
させたかというと、それは疑わしい。
2500年もたった今ですら、老子や荘子の思想は、斬新で先駆性がある。
その先駆性があること自体、思想が進歩していないことを示す。

一方、科学はどうか。
科学は確かに進歩しているが、そのつど感動は、一時的なものにすぎない。
ひとつの科学が進歩するたびに、私たちは驚く。
しかししばらくすると、それが当たり前になってしまう。
あとはこの繰り返し。
つまり科学の進歩には、常にループ性がともなう。
進歩を繰り返しながら、同じところをグルグル回る。

こんな経験がある。

●絶え間ないループ状態

私は中学生のとき、はじめてカラーテレビなるものを、見た。
今から思えば、白黒テレビに、原色がついただけのカラーテレビだったが、
驚いたというよりも、あのとき受けた衝撃は、今でも忘れない。

さらに20代の中ごろ、私ははじめてパソコンなるものを、見た。
簡単なプログラムを組むと、それは画面上に、ポツポツと二次曲線を描いてみせた。
そのときは驚いたというよりも、うれしかった。

私は中学生のとき、夏休みの工作に、二次曲線自動描画器というものを考えた。
縦軸と横軸に張った糸を、プーリー(回転コマ)で動かす。
両方の糸が交わったところが、ひとつの点になる。
その点が、二次曲線を描くようにした。
で、私はその交わったところに、小さなボールを取り付けた。
ボールに縦穴と、横穴をあけ、そこに糸を通した。
手でハンドルを回すと、縦軸と横軸に張った糸が、ある一定の割合で移動し、その
ボールが動くはずだった。
しかしそのボールは、うまく動かなかった。
……というより、まったく動かなかったように記憶している。
縦軸の糸と横軸の糸が、相互にからんでしまった。

が、パソコンは、そのときの夢を実現してみせてくれた。
私はパソコンがポツポツと点を画面に描いていくのを、いつまでもじっと見つめていた。

そして今、中学生のときのカラーテレビや、20代のころのパソコンが、
インターネットに置き換わった。

このインターネットのおかげで、私は地方の都市に住むというハンディを克服する
ことができた。
そればかりか、情報を、瞬時に、世界に向けて発信することができるようになった。
しかし……。
これも科学の進歩というなら、まさに(同じこと)の繰り返し。
そのうちインターネットも、テレビのように当たり前になる。
そこで人間はさらなるモノを見つけて、それに感動するにちがいない。
またそうでないと感動しない。

つまりそれがここでいうループ性、ということになる。

●思考と情報

なぜ、こういう現象が起きるのか。
進歩しているようで、実は同じところをぐるぐる回っている。
私たちの身の回りの生活は、たしかに進化している。
豊かになっている。
たとえば写真ひとつとっても、今では瞬時、瞬時に、それを見ることができる。
見ることができばかりか、瞬時に、それを世界中に配信することができる。
携帯電話にしても、そうだ。
今では歩きながらでも、好きなところに電話をかけることができる。

その結果、私たちは、その分だけ、思考が深くなったかといえば、それはない。
その理由にひとつに、思考と情報の混同がある。

●思考と情報

思考と情報は、まったく別のものである。
幼稚園児が掛け算の九九をソラで言ったとしても、その子どもに算数の力(=
考える力)があるとは、だれも思わない。
思考には、つねにある種の苦痛がともなう。
難解な数学の問題を前にしたときの状態を、想像してみればよい。

一方、情報というのは、せんべいを食べながらでも、吸収することができる。
夜のテレビのバラエティ番組を見れば、それがわかる。
いや、番組を見ろというのではない。
そういう番組を見ている、あなた自身を見ろと言っている。

昨夜も、創作料理と称して、何人かのタレントが、珍奇な手料理を披露してみせて
いた。
ギョーザ風のオムレツ、オムレツ風のギョーザ。
そんなような料理だった。
そうした情報を吸収するのには、たいした努力はいらない。
テレビの前で寝転びながら、いっしょにゲラゲラと笑っているだけでよい。

言うなれば、現代社会というのは、まさに情報の洪水。
情報また情報が、怒涛のごとく、日々の生活の中に押し寄せてくる。
と、同時に、私たちは(考える)という習慣を放棄してしまった。
その時間さえない。
あるいは情報の多いこと、イコール、思考と錯覚してしまった。
その結果として、考える力、つまり新しい思想を生み出すということが
むずかしくなってしまった。

●モノ社会への幻想

さらにもうひとつ大きな誤解がある。
物質社会、つまりモノ社会が豊かになればなるほど、心もまた豊かになるという
誤解である。
明確に否定しておきたい。

物質、つまりモノは、人間の心をけっして豊かにはしない。
モノがあれば、便利にはなるが、それは人間の心の豊かさとは、まったくの
別物である。

たとえば旅行をするにも、今ではカーナビを頼りに、迷わず目的地に行く
ことができる。
しかしその分だけ、旅を楽しむ心が豊かになったかといえば、それはない。
大型の高級車に乗っている人ほど、思考力があるかといえば、それはない。
高級マンションに住んでいる人ほど、思考力があるかといえば、それはない。
つい先日、こんな経験をした。

●モノ社会

このあたりでは、第一と第三水曜日が、危険物の収集日ということになっている。
そのこともあって、昨日、私は、居間の横の部屋にあるガラクタを、ほとんど捨てた。
それはかなり勇気のいる作業だった。
2つの勇気が必要だった。
というのも、その中には、長い間、私が趣味としてきた、ラジコン飛行機も、5、6
機あったからである。

購入価格にしても、それぞれにプロポ(送信機)や、サーボ(動作用モータ)が
ついているので、1機あたり、10万円はくだらない。
そういうものを容赦なく、バリバリと破壊し、袋につめた。
これが勇気(1)。

もうひとつは、「2度とラジコン飛行機を飛ばすことはないだろう」という、
つまりは趣味との決別。
残りの人生が10年あるとしても、その10年は、別のことに使いたい。
そういう思いもあって、ラジコン飛行機と周辺機器をすべて捨てた。
これが勇気(2)。

しかしラジコン飛行機だけではない。
私の家にも、モノがあふれかえっている。
モノ、モノ、モノ……。

これだけモノがあふれているのに、ではその分だけ、私は幸福になったかというと、
それはない。
そのつど満足感は味わったかもしれないが、満足感と幸福感は別。
しかもその両方とも、一時的。
せつな的。
その場だけのもの。
わかりきったことだが、モノでは、人間は幸福になれない。
つまりここに、モノ文明、つまり物質文明の限界がある。

●考えるから人間

人間は、考えるからこそ、人間である。
「I think, therefore I am.(我、考える。それ故に、我、あり。)」という言葉もある。
「考えなければ、人間ではない」とさえ断言してもよい。
が、考えなければ、どうなるか。
そこはまさに、「ケータイをもったサル」という世界になる。
少し前だが、こんなことがあった。

角のコンビニを自転車で横切ろうとしたときのこと。
一台の車が、猛スピードでそこへ突っ込んできて、私の真横で急ブレーキを
かけて止まった。
私はあやうく、その車にはねられるところだった。
見ると実にそれらしい2人の若い男女だった。
視線が合ったとき、男のほうは、私に向って、「バ〜カ」と言った。
声は聞こえなかったが、口の動きで、それがわかった。
女のほうは外に視線をはずして、ニヤニヤと笑っていた。

言うなれば、「クルマに乗ったサル」ということか。
そこには一片の知性も理性も感じなかった。
考えない人間というのは、そういう人間をいう。

●では、どうすればよいのか?

それは簡単な自問から始まる。
「おいしいものを食べた」……「だから、それがどうしたの?」
「大きな家を買った」……「だから、それがどうしたの?」
「600万円もする車を買った」……「だから、それがどうしたの?」と。

こうした自問を繰り返していると、ちょうどタマネギの皮が外からはがれて
いくように、自分の心がどんどんと細くなっていくのを感ずる。
「だから、それがどうしたの?」につづく、答の部分がない。
あるいはいくら考えても、その答がつづかない。

が、さらに自問を繰り返す。
「だから、それがどうしたの?」と。

するとあなたは、最後のところで、「私」が浮かびあがってくるのがわかる。
恐ろしく素朴で、恐ろしく小さい、「私」である。
その「私」から見ると、世の中のすべてのモノがつまらなく、取るに足りない
ものであることがわかってくる。

が、ここが原点。
そのあとのことはわからない。
それぞれの人が、それぞれの分野で、自分の道を見だす。
哲学者は、真理を。
宗教家は、善を。
芸術家は、美を。
ただ大切なのは、自問を繰り返すこと。
「だから、それがどうしたの?」と。

あえて言うなら、その悩み、苦しむ過程こそが大切。
その過程を通して、いろいろなドラマが生まれ、それが人間の世界を、
豊かなものにする。

大切なことは、自分で考えること。
結局は、そこへ行き着く。

●荘子の思想

ついでながら、荘子の思想について……。

すべての欲望、さらには自分を束縛するすべての「知」から、自らを解放し、
自然の世界(道)で、自然に溶け込む※。
荘子が説いた「安心立命」を一言で説明すれば、そういうことになる。

が、皮肉なことに、現代文明は、自然を容赦なく破壊する。
自然に溶け込むどころか、自然に背を向けている。
すでに2500年前に、その重要性を説いた人がいたにもかかわらず、
それを今に生かすことさえできないでいる。

……となると、思想とはいったい何かということにもなってしまう。
科学というのは、絶え間なく、その前の科学に積み重ねられていく。
一方、思考というのは、絶え間なく、上書きされていく。
科学のような積み重ねがしにくい。
が、もし今、2500年前の老子や荘子の思想を進化させていたら、
地球温暖化の問題も起きなかったはず。
一方、科学だけが進歩し、自動車がひしめき、飛行機が飛び交うように
なったからこそ、地球の温暖化は進んでしまった。

が、このままもし人間が、「だから、それがどうしたの?」という部分を
置き去りにしたまま、科学の進化だけを独走させてしまったら……?

そのときは、本当に人類は滅亡の危機を迎えることになる。
思考力があれば、人類は生き残ることができる。
思考力を失えば、人類は滅亡する。
飛躍した結論に聞こえるかもしれないが、思考力だけが、人類の滅亡を救う、
ゆいいつの方法ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
科学 哲学 老子 荘子 無為自然 安心立命 思考力 思考のループ)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●1月10日(土曜日)

【老人心理】

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昨夜、こんな話を聞いた。
その家には、84歳になる女性がいるのだが、
他人の前では、弱々しく、やさしく思いやりの
ある人間を演ずるという。
そのため近所の人たちの間では、「仏様」と評されて
いるという。

たとえば孫(26歳)が、嫁(27歳)とひ孫(4歳)を
連れて正月に遊びに来たとする。
いつもならパクパクと夕食をすませるのに、そういうとき
にかぎって、遠慮深く、穏やかな表情でこう言うという。

「私はいらないから、H(=ひ孫)にやってくれ。
私は、食べたくない……」と。

いかにも病人、もしくは今にも死にそうな声で、そう言うという。
そのためその女性を直接世話(=介護)をしている女性(=娘、
64歳)は、こう言う。

「いやになっちゃう……。私が何も食べさせていないような
印象を、みなに与えてしまう」と。

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●4つのタイプ

他人と良好な人間関係が結べなくなると、独特の症状を
示すようになる。

(1)攻撃的に出るタイプ、(2)服従的になるタイプ、(3)依存的になるタイプ、
それに(4)同情を求めるタイプに分かれる。
それが老人になると、顕著に現れるようになる。
夜中じゅう、大声を出して暴れていた老人(男性、75歳くらい)もいた。
妻もいたが、介護に疲れて、二男の家に身を寄せてしまっていた。
しかたないので、長男の嫁にあたる女性(40歳くらい)が、介護をしていたが、
気苦労が重なったのだろう。
1、2年余りで、これ以上やせることはないと思われるほど、やせてしまった。
この老人のばあいは、(1)の攻撃的に出るタイプということになる。

が、この老人のばあいもそうだが、他人に対しては、まるで別人のように振舞って
いた。
つまり攻撃タイプであっても、他人に対しては、服従タイプになったり、依存タイプ
になったりする。
冒頭に書いた84歳の女性のばあいもそうである。

●部屋中、神札だらけ

それほど裕福な家庭ではない。
その女性の介護に当たっているのは、64歳の女性(娘)だが、夫とは死別。
現在は、会計事務所の事務員として生計を立てている。
が、その84歳の女性は美容院へ行くたびに、1万円のチップをはずんでいるという。

もちろん家計は火の車。
そこでその女性は、あちこちから、神札をもらってきては、部屋中にそれを
張りつけているという。
そこで64歳の女性(娘)が、そんなことをしても無意味と言うのだが、それを
言うと、84歳の女性(母親)は、烈火のごとく怒り出すという。

暴言を吐くなどということは、当たり前。
ときに「お前なんか、地獄へ落ちて死んでしまえ!」とさえ言うそうである。

●弱々しい老人(?)

似たような話は、いくらでもある。
こんな話も聞いたことがある。

あるときある女性(娘)のところへ電話がかかってきた。
受話器を取ると、電話口の向こうで、その女性の母親(75歳)が、やはり
今にも死にそうな声で、「助けてくれ」「歩けない」「何も食べていない」と言った
という。

が、その日は、何かの用事があって、その女性は実家(母の住むところ)には
行けなかった。
で、翌日、行ってみると、びっくり。
何とその母親が、スタスタと駅の構内を、友人といっしょに歩いているではないか。
その女性が、我が目を疑ったという。
で、母親に、「お母さん……」と声をかけると、その母親は一瞬、
「しまった!」というような表情をしてみせたという。

●ゆがんだ心理

残念ながらこの日本では、こうした老人心理の研究は、ほとんど進んでいない。
冒頭にあげた4つのタイプにしても、もとはといえば、発達心理学で使われている
分類法である。

しかし高齢になればなるほど、心はゆがむ。
思いつくまま、特徴をいくつかあげてみる。

(1)極端化…その人の性格や性質が極端化する。
(2)愚鈍化…脳の機能が衰え、言動が愚鈍かする。
(3)硬直化…融通性が消え、全般に頑固になる。
(4)悲観化…ものごとを悲観的に考えるようになる。
(5)貪欲化…食欲、性欲、物欲が増大する。
(6)依存化…強度な依存性が現れるようになる。

こうした全般的な症状にあわせて、精神的な病気や、認知症などの障害が
起これば、症状は、さらに複雑になる。

●対処段階論

こうした老人と接するとき、注意しなければならないことがある。
これは私自身の経験でもあるが、その第一は、まともに接しては
いけないということ。

息子や娘の立場で、段階的に考えてみよう。

(1)幻想期…「親である」という幻想を抱きつづける時期。親をことさら美化する。
(2)葛藤期…「そんなはずはない」と親に対する疑問と葛藤する時期。親の失敗を認め
ない。
(3)受諾期…葛藤することに疲れ、現実を受け入れるようになる時期。親を一人の人間
としてみるようになる。
(4)寛容期…1人の老人として認め、親に対して寛容になる時期。現実を受け入れ、老
人介護が、淡々とできるようになる。

たとえばある女性(当時60歳くらい)は、母親が車の中で失禁をしただけで、
パニック状態になってしまった。
自分の母親が、失禁するということ自体、受け入れがたかった。
それまでは「親は絶対」と考え、だれかがその母親を批判しただけで、それに
たいしてムキになって反論していた。

が、こうした葛藤を1、2年繰り返したあと、その女性は、ここでいう受諾期へと
入っていった。

●こわい反面教師

ここで「まともに接してはいけない」というのには理由がある。
まともに接すれば接するほど、その親の性格、性質を引きついでしまうということ。
そのときは反面教師として親を見るが、その親が亡くなったあと、今度はその
人自身が、親そっくりの人間になってしまう。

つまり反面教師にするならするで、それとは別のところで、別の人格を形成する。
その努力を怠ると、反面教師が目の前から消えたとたん、その反面教師そっくりの
人間になる。
そういう例は多い。

たとえばBさん(女性、当時60歳くらい)は、いつも母親の愚痴を言っていた。
母親は軽い脳こうそくを何度か経験したこともあって、善悪の判断ができなくなっていた。
それについて、Bさんは、母親のことを、「ずるい」「うそつき」「約束を守らない」と。

が、母親が15年近く前に亡くなった。
で、今度はBさん自身が、当時の母親の年齢に近づいてきた。
が、年齢とともに、ますます母親に似てきた。
今はBさんの息子や娘たちに、「お母さんはずるい」「うそつき」「約束を守らない」と
言われている。

老後の親は、接する側が、一歩退く。
「どうせ相手は老人」と思うことで、相手をのんでしまう。
あるいは幼児と同列に置く。
そしてあなたはあなたで、高邁な人格をみがく。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
老人心理 老人の心理 老齢心理 依存性 老人の依存性)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●私には理解不能

++++++++++++++++++++

日本をミサイルで脅しておいて、
「のこのこ来るのは、我々のミサイルが
怖いからだ」は、ない。

まず、毎日新聞の記事を読んでほしい。
そこにはこうある(1月10日)。

+++++++++以下、毎日新聞+++++++++++

「日本が6カ国協議にのこのこ来るのは、我々のミサイルが怖いからだ」。北京で昨年12
月に開かれた6カ国協議で、K国首席代表のKK外務次官が、厳しい核計画の検証を求め
る日本へのいら立ちを強め、さまざまな非難を繰り返していたことが分かった。

+++++++++以上、毎日新聞+++++++++++

記事の内容はともかくも、あの国は、どうしてこうまで、いじけているのだろう。
おもしろくない気持ちは、ヨ〜ク、わかる。
世界の最貧国と評され、やることなすこと、すべて失敗。
産業も工業も、壊滅状態。
が、虚栄心だけは、やたらと強い。
(自尊心というよりは、この段階にくると、もう、虚栄心。)
恐らく自分たちが何を考えているのかさえ、わかっていないのだろう。
もちろん自分たちが、どういう立場にあるのかさえも、わかっていない。

日本としては、あんな国、相手にしたくない。
相手にもならない。
できれば日本のことなど忘れて、自分たちで自分の道を進んでほしい。
あるいは素直に、「助けてください」とでも言えば、まだ話もわかる。
が、エネルギー支援について、こうも言っている※。

『日本の負担分を豪州などが肩代わりする案を取り上げて「他国の代理負担に反対しない日
本は恥知らずで無責任だ」などと声を荒らげたという』(同紙)と。

恥知らず?
フ〜〜〜ン。
恥知らず、ね?
が、本当の恥知らずは、どちらなのか?
ここまでいじけてくると、日本としてもどう対応したらよいか、わからない。

しかし本当の問題は、どうしてこうまでいじけているのかということ。
(理解する)といっても、(理解できること)には、幅がある。
その幅を超えると、理解できなくなってしまう。
今のK国は、その(幅)を超えている。

K国がまともな国なら、ミサイルをもっても、こわくない。
まともでないから、こわい。
だからみなが、なだめすかして、何とかしてやろうと考えている。
が、当の本人は、それがわかっていない。
わかっていないばかりか、自分たちは、アメリカ、中国、ロシアと対等と思っている。
どうして日本が、世界が、K国を援助しなければならないのか。
日本ではそういう国のことを、「おめでたい国」という。
K国には、そういう言葉はないのだろうか?

ついでに「恥知らず」について一言。
私たち日本人は、K国のような国のエネルギー支援ができないことを、
恥ずかしいことだとは思っていない。
だいたい、だれに対して、何を恥じるのか。
何か、ピンボケ写真でも見ているかのような錯覚にとらわれる。

で、この記事でひとつだけ気になることがある。
つづく、つぎの部分を慎重に読んでみてほしい。
こうある。

『協議関係者は「K国は検証問題で米国が譲歩しない背後に日本の圧力があると考え、あらゆ
る理屈を動員して日本を排除しようとしている」と指摘している』(同紙)と。

わかるかな?
「アメリカが譲歩しない背後には、日本の圧力ある」と。
K国の代表はそう思っているというのだ。

事実、そのとおりかもしれない。
そうでないのかもしれない。
それはともかくも、だれが、それをK国の代表に伝えたか、である。
毎日新聞によれば、「ヒルとの個別接触の結果」とも、読み取れる。
つまりここでも、あのヒルは、日本を裏切っている。
恐らく個別接触では、ヒルは、こう言っていたにちがいない。

「日本がうるさくてねえ……。私も困っているんですよ。
アメリカとしては、核拡散だけを、お宅に守ってもらえれば、それで
いいのですが……。
日本をなだめるためにも、サンプル採取を認めていただけませんか」と。

その結果が、「のこのこ」となり、「恥知らず」となった。
けっして私の妄想ではない。
以前にも、そういう例がある。

アメリカがK国をテロリスト指定国家を解除するときも、同じような
動きがあった。
あのときもヒルは、日本に拉致問題を一時棚上げにした上、K国の支援に
加わるようにと、日本に迫った。
しかもそれに応じなければ、テロリスト指定国家を解除すると日本を脅し、
日本がそれに応じないとわかると、本当に指定国家を解除してしまった。

結果としてみると、この5年間、ヒルが拉致問題を取り上げた形跡はゼロ。
もちろん成果も、ゼロ。

ちがうかな?

(注※……)『「日本が6カ国協議にのこのこ来るのは、我々のミサイルが怖いからだ」。北
京で昨年12月に開かれた6カ国協議で、北朝鮮首席代表の金桂冠(キムゲグァン)外務
次官が、厳しい核計画の検証を求める日本へのいら立ちを強め、さまざまな非難を繰り返
していたことが分かった。

 同協議は12月8〜11日に首席代表会合が開かれ、2国間接触を交えて核検証方法の
文書化を目指した。

 複数の協議関係者によると、これらの席上で金次官は経済・エネルギー支援の早期履行
を主張。日本の負担分を豪州などが肩代わりする案を取り上げて「他国の代理負担に反対
しない日本は恥知らずで無責任だ」などと声を荒らげたという。

 さらに、米首席代表のヒル米国務次官補との個別接触では、日本との対話を促されたの
に対し、「日本は繰り返しわが国との対話を要求しているが、その理由は何か知っている
か? わが国のミサイルが怖いからだ」と説明したという。

 今回の協議では、議長国・中国が日米の意見を盛り込んだ文書化草案を提示したが、北
朝鮮は「こんな内容なら本国に報告しない」と一切の論議を拒否。これに先立つシンガポ
ールの米朝接触でも米国側の説明を全く聞き入れなかったという。

 協議関係者は「北朝鮮は検証問題で米国が譲歩しない背後に日本の圧力があると考え、
あらゆる理屈を動員して日本を排除しようとしている」と指摘している』(以上、毎日新聞)。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●アメリカの教育現場では、今……?(Now in USA!)

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Bulletin Board for EDSPC 753
Board Postingsへの投稿記事より

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1st Grader defiant, uncooperative & violent
by Beth Fregoe, posted on 5/13/2008 at 16:29.
(朝鮮的で非協力的、暴力的な1年生)

I am a Paraprofessional who works with a 1st grader who is very difficult to work with. He 
never participates in classroom activities and even eats lunch separate (I eat lunch with 
him every day).
私は1年生の専門教員です。1年生の子供ですが、クラスの活動には参加せず、みなと離れて
昼食をとります。(私が毎日、彼と昼食をとっています。)
It takes a great effort on my part to get him to do ANY school work. He regularly walks out 
of the classroom when he doesn't want to do something. He seems to pay no attention to 
what's going on in the classroom, it's like he's in his own world. 
彼に学校の活動に参加させることに、教師としてたいへん苦労しています。したくないことがあ
ると、教室から出て行ってしまいます。教室で起きていることに、ほとんど注意を払いません。
彼だけの世界に閉じこもっているようです。
When he becomes disruptive and I try to calm him down, he ignores me like I'm not even 
there. He will lay on the floor, kicking the wall or walk over to the door and open & shut it. 
He will bang his head against the wall. Things like that go on daily. 
彼が破滅的になるときは、彼をなだめすかしますが、彼はあたかも私がそこにいないかのよう
に無視します。彼は床の上に寝転び、壁をたたいたり、ドアを開けたり閉めたりします。自分の
頭を壁にぶつけることもあります。そんなことが毎日あります。
Last week we were working on a project and suddenly he asked me to leave the room and 
when I didn't he started kicking and punching me. From what I've been told, there has been 
no cooperation from his mother in regards to finding out if there is any medical reason for 
this behavior. If anyone has any advice on how I can better handle this child, it would be 
greatly appreciated.
先週、ひとつのプロジェクトに取り組んでいました。そのとき彼が突然、私に部屋を出るように
頼みました。で私がそれをしないでいると、私を蹴ったり、殴ったりしました。私が知る限り、彼
の行動について、何か医学的な理由があるのではないかということを知るために、彼の母親の
協力があったということはありません。このような子どもの扱い方について、だれか、よいアド
バイスをくだされば、たいへんうれしく思います。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

Time-out room
by Sarah, posted on 10/5/2006 at 6:43.
(特別学級について)
Hi, 
I am a teacher working in a special school. My school is going to build few time-out rooms 
(they also called them 'cool-down rooms') to deal with challeging children. I am feeling very 
uncomfortable with this idea, can someone share with me your thought about this idea. 
私は特別な学校で働いています。私の学校は、問題のある生徒を扱うための、いくつかの特
別学級をもうけようとしています。(ここでは、「冷却教室」と呼んでいます。)私はこの考えにど
うも賛成しません。私の考えに同調してくれる人はいませんか。
Personally, I think that it is a 'coping strategy'for teachers. Will students learn how to 
behave appropriately after being put into these rooms to 'cool down'. In the past, I have 
seen time-out rooms been used very frequently by few teachers. Students learn that we 
have the 'power' to put them in these time-out rooms to 'cool down'when we cannot handle 
their behaviour. 
個人的には、それは教師のための(対処教室)だと思います。生徒たちは、こういう教室へ入
れられたあと、適切に対処する方法を学ぶでしょうか。過去において、何人かの教師が、特別
学級をしばしば使うのを見てきました。生徒たちは、私たちが手に負えなくなると、特別学級に
入れる「権限」があると学びます。
I do feel that when this option is available, people tend to use it as a solution rather than 
think of other alternative ways to deal with a student's behaviour. Moreover, I treat my 
students the way I would like my own children to be treated at school. I would never want 
them to be lock up in a room, no matter what pretty names are given to these rooms.
この学校の方針が実施されると、人々は、生徒たちの行動について、ほかの選択的な方法を
考えるよりも、それを問題解決のための方法として使うと思います。さらに言えば、私は自分の
子どもが学校でそう扱ってほしいと思うような方法で、生徒たちを扱いたいです。私は、いかに
美しい名前がそうした教室に与えられようとも、そういう生徒を部屋に閉じ込めたくはありませ
ん。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司※

●映画『ミラーズ』

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昨日、T町に住む友人を訪ねながら、帰りに劇場で、
映画を見てきた。
隣町まで行って、映画を見るのは、これがはじめて。
主演は……、だったかな?
題名は、『ミラーズ』。
星は、4つの★★★★。

最後の最後のところで、ドキッとした。
久々に、ドキッとした。
ブルース・ウィリス主演の『シックス・センス』
にまさるとも劣らない衝撃だった。

まっ、劇場で見ても損はない映画。

内容は……、最後のどんでん返しが、おもしろい。
映画も終わって、何でこんなシーンがあるのかなあ……
と思っていると……。
ドキッ!!
(この先は書かないでおきますので、あとはみなさん、
自分で映画をご覧になってください。)
ただしR15。

(注)主演は、キーファー・サザーランド。

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●極楽と地獄

兄が死んで、5ヶ月、母が死んで、3ヶ月になる。
「地蔵十王経」という経典によれば、(この経典は、日本製のまったくの
ニセ経だが)、死んだ人は7日目ごとに10人の大王の審判を受けるという。
10人目は、あのエンマ大王。
その大王の審判を受けて、地獄へ行くか、極楽へ行くかが決まる。
「初七日」とか、「四九日」とかいう法事も、そこから生まれた。

中国では、「七」という数字を嫌うらしい。
一説によると、「七」という漢字は、腹を十の字に切り、その切り口から
血がしたたる様子を表したものという。

で、今日、ワイフとドライブをしながら、こんな会話をした。

私「兄や母は、極楽へ行っただろうか?」
ワ「そうねエ……」と。

で、そのときワイフがおもしろいことを言った。
「極楽と言っても、日本では、おいしいものを食べて、楽しい音楽を聴いて……
という、つまり安楽な世界を言うわね」と。
つまり欲望を満足させてくれる世界を、極楽という、と。

私「となるとね、極楽って、そんなに行きたくないね」
ワ「私も、そんな世界だったら、行きたくないわ」
私「そうだなア。安楽な生活イコール、幸福ということでもないし」と。

たとえば私の母は、何かおいしいものを出してやったりすると、
口癖のように、こう言った。
「極楽や、極楽や……」と。
温泉へ連れていってやったときも、そうだった。
母には母なりの極楽観があったようだ。

では、極楽とは、どんな世界をいうのか。
いろいろ考える。
が、つぎつぎと思い浮かんでは、そのまま消えてしまう。
あえて言うなら、苦しみや悲しみのない世界をいう。
しかし幸福かどうかは、苦しみや悲しみがあってはじめてわかること。
極楽では、どうやってその幸福を実感するのだろう?

私「裸の、ポテポテした体つきの女性が、琵琶(びわ)を弾いているとか……」
ワ「どこかのお寺に、そんな絵が飾ってあったわね」
私「そうだね。しかしポテポテした体つきの女性は、ぼくの好みじゃないよ」
ワ「あら、そう? でもそういう女性は、どこから来たのかしら?」
私「やはり極楽へ来た人ということになるのかな。それとも天女(てんにょ)
かもしれない」

ワ「天女といっても、もとは人間でしょ。それはおかしいわよ」
私「極楽にも、分担があるのかもしれないよ。『君は若くて美しいから、
おっぱいをポロリと出して、琵琶でも弾いていなさい』とか何とか」
ワ「つまりエンターティナーというわけ?」
私「そういうことかなあ……」
ワ「女性をバカにしているわ」と。

このあたりのことを、日本の仏教会は、どのように考えているのだろう。
一度、統一見解というものを、示してほしい。

(1)極楽とはどんな世界を言うのか。(半面、地獄はわかりやすいが……。)
(2)極楽へ行く基準は、あるのか。あるとすれば、その基準を示してほしい。
(3)仏教(=和式仏教)にまつわる男尊女卑観をどう考えているか。
(4)ついでに戒名をつけるのに、なぜ高額の布施が必要なのか。

で、話を戻す。

兄と母は、極楽へ行ったか?
それとも地獄へ行ったか?

私「よいことをしたから、善人というわけではない。悪いことをしなかったから、
善人というわけでもない。善人が善人であるためには、悪と戦わねばならない。
悪と戦ってはじめて、その人は、善人になる」と。

善人ぶることなら、だれにでもできる。
それらしい顔をして、それらしいことを言えばよい。
それらしいボランティア活動をするのもよい。

悪いことをしないから、善人というわけでもない。
もしそうなら、こじんまりと、自分の世界だけで生きればよい。
そうすれば、みな、善人ということになってしまう。

善人が善人であるためには、身近な悪と戦わねばならない。
自分の中に潜む邪悪さと戦うことも大切。
悪と戦って、人は、はじめて善人になる。

そういう意味では、兄にしても、母にしても、自分のしたいことだけをして、
一生を終えた。
とくに悪人というわけではなかったが、しかしここでいう善人の定義には当てはまらない。
地獄へ行くことはないにしても、極楽へ行けるかどうかとなると、私にはわからない。
もっとも、そのために、つまり2人が極楽へ行けるようにするため、法事に法事を重ねる。
親や兄弟が極楽へ行けるようにするのは、残された私たちの努めということになる。

近く母の百か日法要がある。
そのすぐあとには、父の33回忌もある。

しかし、それもよくよく考えてみると、おかしい……?
エンマ大王は、どんな基準で、極楽へ行く人と、地獄へ行く人を決めているのだろう。
観客席で、ワーワーとはやしたてる人が多ければ多いほど、極楽へ行けるとでも
いうのだろうか。

????

そこで登場するのが、輪廻転生論。
人は死ぬと何かに生まれ変わるという、あれである。
この世でよい行いをした人は、生まれ変わったとき、再び人間に生まれることが
できる(?)。
そうでない人は、そうでない(?)。
たとえば動物や虫などに生まれ変わる(?)。
輪廻転生論は、もともとはヒンズー教の教えで、それが釈迦仏教の中に混入した。

しかしこれも、またおかしい。

私はもし生まれ変わることができるとするなら、つぎは鳥に生まれ変わりたい。
そう願っている。
が、チベット密教によれば、鳥に生まれ変わることは、最悪(=地獄)と考えられて
いる。
チベットでは、今でも鳥葬(死者は切り刻まれ、鳥の餌となる)が行われている。
だから鳥は不吉な動物ということになっている。
動物を人間より下等にみる。
しかしそうした生物観は、どこから生まれるのか?

とまあ、考えれば考えるほど、矛盾が生まれてくる。

……ということで、昔、私の祖父が口癖のように言っていた言葉を思い出す。
「地獄も極楽も、この世」と。

この考え方だったら、私もすなおに納得できる。
要は生き様、生き方の問題。
その中身で、地獄も極楽も決まる。

と、考えていたら、本当に、「極R湯」という看板が目についた。
このあたりでも評判の大浴場である。
行った人が、みな、「よかった」と言っている。
私たちも一度は……と思いつつ、その機会がなくて、今日になった。

ワ「今度、行ってみたいわ」
私「そうだな。名前がいい。ぼくの友だちの中にも、常連客が多い」
ワ「極楽みたいだから、極R湯って、言うのよ。ハハハ」
私「ハハハ」と。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
地獄 地獄論 地獄と極楽 極楽論 極楽 地獄 輪廻転生 輪廻転生論)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●ミニ・パソコンの故障

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愛用のミニパソが、立ち上がらなくなった。
電源ボタンを押しても、画面は真っ暗なまま。
そこでメーカーに問い合わせると、BIOSを
再インストールをしてくれ、とのこと。

BIOSの再インストールだって!
ゾーッ!

そこでHP上での指示に従って、

(1)BIOSファイルをダウンロード、解凍、保存。
(2)それを手持ちのUSBメモリーにコピー。
(3)そのメモリーを挿したまま、FnキーとEscキーを押しながら、
電源ボタンを押す。
(4)しばらくして、パソコンが起動→再起動。
(5)以上の手順を経て、修理完了!

私にもできた、BIOSの再インストール。
ハハハ。
しかしBIOS(バイオス)とは何か?
まったくわかっていないところが、おそろしい。
わかっていないまま、「直った」「直った」と喜んでいる
自分が、おそろしい。

(補記)「BIOS」というのは、Basic Input-Output Systemのことだそうだ。
「基本的な入出力を行うルーチンの集まり。あらかじめキーボードやディスク装置の
ような入出力装置のBIOSを規格化しておくと、様々なコンピュータ環境で、同一の
プログラムを動作させることができる」(標準パソコン用語事典・秀和システム)と
ある。

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【死の受容】

●「これで起こされることもない」

先日テレビを見ていたら、こんなシーンがあった。
ある男性が40数歳の若さで、アルツハイマー病を宣告された。
そのときのこと。
その男性は、こう言った。
「ああ、これで毎朝、思う存分、寝ていられる。起こされることもないと思った」と。

同じような経験だが、私も一度脳腫瘍を疑われて、開頭寸前のところまで
いったことがある。

実はそのとき、私も、同じように思った。
「これで今の仕事から解放される」と。

当時の私は、メチャメチャ忙しかった。
休みは月に1度あるかないかというような状態だった。

●死の受容

そのときがくれば、死の受容は意外と簡単なことではないかということ。
今は元気だから、死ぬのがこわい。
死の宣告をされたときの、自分がこわい。
しかしそれも一時的なもの。
そのときが来たら、そのとき。

ところで数日前、映画『ゴースト』で主役をした男優の記事が、どこかの
ニュースサイトに載っていた。
何でも今、すい臓がんで、闘病中とか。
『ゴースト』に出ていたときのような精悍さは、どこにもなかった。
細胞のひとつひとつから、水分をしぼり取ったような顔つきだった。
その男優はこう言っているという。
「悔しい。怒りがあふれてくる」(記事)と。

年齢は54歳とか。
(まちがっていたら、ごめん!)

「そうだろうな」とか、「そういうものかな」とか、思ったりする。

キューブラー・ロスの『死の受容段階論』を持ち出すまでもない。
人は、いくつかのプロセスを経て、最後は、死を受容するようになる。
そこは実におおらかで、ゆったりとして、満ち足りた世界(?)、だそうだ。
その男優は、ロスの段階論によれば、その一歩手前で、もがき、苦しんでいる(?)。

●大切なことは、完全燃焼

そこで大切なことは、いつ死の宣告をされてもよいように、心の準備だけは
しておくということ。
またそのとき悔いが残らないよう、今、できること、しなければならないことを、
懸命にしておく。
いや、懸命だけでは足りない。
自分を完全燃焼させておく。
それをしないまま、死の宣告を受けたら……?
それこそ、ゾッとする。

一方でぐうたらな生活をしておきながら、「神様、仏様、助けてください」は、ない。

つまり日々の生活の中にこそ、「真の自由」への道が隠されている。
言うまでもなく、「真の自由」とは、「死の恐怖からの解放」をいう。

●統合性

30代や40代の人にしてみれば、60代は、ずっと先の、ありえない
世界のように見えるかもしれない。
私も、そう思っていた。
しかし60代は、あっという間にやってくる。
あなたの人生が、あっという間に、30年、40年、過ぎたように、つぎの
30年、20年も、あっという間にやってくる。

そのとき、統合性の確立している人は、強い。
そうでない人は、そうでない。

統合性……つまり(自分がやるべきこと)と、(現実にしていること)を、
一致させることをいう。
ふつう(やるべきこと)には、苦痛がともなう。
できるなら、しないですませたい。
そういうブレーキも働く。
ふつうのブレーキではない。
強力なブレーキである。
しかし(やるべきこと)をする。

が、現実には、(やるべきこと)は、簡単には見つからない。
10年単位の熟成期間が必要である。
エリクソンという学者は、人生の正午と言われる、40歳くらいから、
それを始めろと説いている。
「60歳になりました。明日からゴビの砂漠で、ヤナギの木でも植えてきます」
というわけにはいかない。

そこに至るには、それなりの下地というものが必要である。
一朝一夕には、できない。
その下地を、10年とか、20年とかかけて、作りあげる。
コツコツと作りあげる。
で、それには条件がある。

無私無欲、無条件プラス、非営利でなければならない。
我欲が混入したとたん、統合性は霧散する。

●あるべき老後

よく言われるように、孫の世話と庭いじり……。
そんな老後は、理想の老後ではない。
あるべき老後でもない。
またそんな老後を求めてはいけない。

何も老人なったからといって、老人らしく生きる必要はない。
年齢という「数字」にしばられることはない。
60歳から統合性の確立をめざしたところで、遅くはない。
しかし大半の人は、それすらもあきらめてしまう。
あきらめて、あとは年金をアテに、旅行をしたり、趣味の会に
顔を出したりする。
つまり死の待合室で顔を並べる。

●死の待合室

「死の待合室」……その待合室に入ると、明日が今日よりよくなるということは、
ありえない。
来年が今年よりよくなるということは、さらにありえない。
病気にビクビクし、小銭にしがみつき、汲々(きゅうきゅう)として生きる。
脳みその底に、大きな穴があいていることにすら、気がつかない。
それまでの知識や経験が、どんどんと下へ下へと、こぼれ出ていく。
簡単に言えば、どんどんとバカになっていく。
が、それだけではない。

若いころは、気力で、自分の人間性をごまかすことができる。
それらしく善人を装うこともできる。
しかし加齢とともに気力が弱くなり、中身の人間性がモロに表に出てくる。
ごまかしがきかなくなる。

こうして死の待合室の住人たちは、ますます愚かになっていく。
醜くなっていく。

●喜びの原点

死んだら、どうなるか?
死後の世界は、どんな世界か?
それを知るには、目を閉じてみるという方法がある。
しかし、閉じるだけでは足りない。
閉じても、モヤモヤとした暗闇が見える。

死後の世界とは、目を閉じた状態で、あなたの頭のうしろの世界ということになる。
あなたの頭のうしろには、何も見えない。
暗闇さえ見えない。
そこはどこまでもつづく(虚)の世界。
それが死後の世界である。

となると、目を閉じたときに見える暗闇の世界ですら、ありがたい。
近くで光が動けば、それをまぶたの裏で追いかけることもできる。
「生きることの原点」はここにある。

息ができる。
音が聞こえる。
においがわかる。
目が見える。
体が動く。

それを生きる原点つる。
喜びの原点とする。
その原点に立ち返れば、世の中のありとあらゆる問題が、ささいで、つまらない
ものに見えてくる。

●「時」こそ「命」

今という「時」こそが「命」。
生きているという
「証(あかし)」。
あとはその「時」を、どう使うかということ。
時を「財産」にたとえるのは、あまり好きではないが、時にまさる財産はない。
が、その「時」は、生まれたその瞬間から、減っていく。
しかも加齢ともに、加速度的に、減っていく。

若いときの1年は、1年だが、50歳も過ぎると、その1年が半年になる。
60歳もすぎると、その1年が、数か月になる。
あっという間に1日は過ぎ、1週間は過ぎ、1か月は過ぎ、1年は過ぎる。
だとするなら、歳をとればとるほど、濃密に生きなければならない。
健康論に似ている。

若いときは1週間に1、2度の運動で、健康を維持できる。
しかし60歳を過ぎたら、それでは足りない。
毎日運動をしても、足りない。
肉体の健康もそうだが、脳みその健康、精神の健康も、同じに考えてよい。

「命とは何か?」と聞かれれば、そんなわけで、私は「時」と答える。
「今」という、この「時」が、財産。
一瞬一秒たりとも、無駄にできる時間は、ない。

……と考えて、明日もがんばるぞ。
がんばってがんばって、がんばりまくるぞ。
あえて急いでまで、死の待合室に顔を並べることはない。

(目標)
明日は、10キロを歩いてみる。
(自宅)→(佐鳴湖の北)→(舘山寺街道)→(バス)→(市内)。
コースは決まった。

【付記】
若いころ、近所に、小銭にうるさく、守銭奴のような女性がいた。
当時、60歳くらいではなかった。
話すことと言えば、お金の話ばかり。
お金の話だけ。
証券会社に出入りしては、「今日は、いくら儲けた」「今日は、いくら損をした」と、
そんな話ばかりをしていた。
印象に残っているのは、ある日、その女性が、株取引で、50万円儲けたという
話だった。
その女性は、その話で有頂天になっていた。

で、今、その女性は80歳近くになっている。
が、それだけお金に執着しながら、現在の状態はどうかというと、あのころと
まったく変わっていない。
相変わらず、貧乏の底を這うような生活をしている。
世間のうわさでは、かなりの財産をもっているということだが、私は、それは、
彼女一流の、作り話ではないかと思っている。
「金持ち」と思わせることで、他人の心を操っている(?)。
そういう人は、多い。

が、仮に金持ちであるとしても、彼女がもっているお金は、まさに死に金。
「何のために?」と問いかけても、その答が返ってこない。
今は、腰も半分、曲がり、歩くこともままならない。
そんな女性が、いまだに、「お金」「お金」と言っている。
そのおかしさ、そして悲しさ。

その呪縛感から解き放たれないかぎり、その女性には、安穏たる日は
やってこない。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●金権教

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お金がすべて……。
お金しか、信じない。
そういう人は、多い。
称して、「金権教」という。

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●戦争の後遺症

あの戦争が残した最大の後遺症と言えば、
金権教と考えてよい。
それまでは天皇が神だった。
その天皇が人間宣言をして、神の座をおりた。
とたん、多くの日本人は、行き場を失ってしまった。
心のより所を失ってしまった。
戦後しばらくの間、放心状態になってしまった人も多い。
戦後、雨後の竹の子のように新興宗教が生まれたのも
そのためと考えてよい。

が、中でも最大の新興宗教といえば、金権教ということになる。
「マネー教」と言ってもよい。
「マネーがすべて」「マネーがあれば幸せ」「マネーがあれば、どんな
夢もかなう」と。
基本的には、現在の日本は、いまだにその(流れ)の中にある。

かなり大ざっぱな書き方をしたが、大筋ではまちがっていない。

●仕事第一主義

ひとつの価値観を妄信すると、他の別の価値観が犠牲になる。
これは私の価値観というよりは、私たちの世代に共通した価値観と言ってもよい。
今でこそ、「仕事より家族のほうが大切」と考える人は多い。
しかし私たちが、20代、30代のころは、そうではなかった。
「仕事か家族か」と問われれば、みな、まちがいなく「仕事」を選んだ。
「仕事あっての家族」と考える人もいた。

だから「仕事」という言葉は、それ自体が、トランプでいえば、ジョーカー
の働きをした。

A「明日、会合に出てくれますか?」
B「私は、仕事がありますから」
A「ああ、それなら結構です」と。

戦前の「お国のため」が、「会社のため」になった。
戦前の「兵士」が、「企業戦士」となった。
仕事第一主義は、そこから生まれた。
「会社人間」という言葉も、そこから生まれた。

しかしそれを裏から支えたのが、金権教ということになる。

●ぜいたくが当たり前

お金がなければ、不幸になる。
それは事実。
しかしお金では、幸福は買えない。
それもまた事実。
お金で私たちは欲望を満足させることはできる。
しかしその欲望には、際限がない。

戦後生まれの私たちと、今の人たちを比較するのもどうかと思うが、
いろいろな場面で、私は、その(ちがい)を強く感ずる。
とくに今の若い人たちの(ぜいたく)を見たりすると、ときに、それに
ついていけないときがある。

もう15年近くも前のことだが、こんなことがあった。
息子たちが、スキーに出かけた。
スキーをするということ自体、私たちの世代には、考えられないことだった。
どこかの金持ちの、最高のぜいたくということになっていた。
が、その息子が、手ぶらでスキーにでかけ、手ぶらで、スキーから帰ってきた。
「荷物はどうした?」と聞くと、息子たちは、平然とこう答えた。
「宅急便で送った」と。

私には、その(ぜいたくさ)が理解できなかった。
そこで息子たちを叱ったのだが、少しあとになって、そのことを友人に話すと、
「今は、みな、そうだ」という返事をもらった。

あとは、この繰り返し。
それが無数に積み重なって、現代という時代になった。

●あるのが当たり前

しかし今はよい。
何とか日本の経済は、持ちこたえている。
しかし日本の経済が、後退期に入ったら、どうなるか。

たとえば今では、子ども部屋といっても、完全冷暖房が常識。
夏は、一晩中、冷房をかけっぱなしにしている。
冬は、一晩中、暖房をかけっぱなしにしている。
今の子どもたちに、ボットン便所で用を足せと言っても、できないだろう。
何でも、「あるのが当たり前」という生活をしている。

これではいくらお金があっても、足りない。
足りないから、その負担は、結局は、親に回ってくる。
ざっと見聞きした範囲でも、現在、親から仕送りしてもらっている若い夫婦は、
約50%はいるとみてよい。
結婚式の費用、新居の費用、出産の費用などなど。
さらには子ども(=孫)のおけいこ代まで。

しかしこうした(ゆがんだ生活観)を支えているのも、金権教ということになる。
「お金を出してやれば、親子の絆(きずな)は深まるはず」
「お金を出してやれば、子どもは、それに感謝するはず」と。

子どもについて言えば、クリスマスのプレゼントにせよ、誕生日のプレゼントにせよ、
より高価なものであればあるほど、よいということになっている。

●金権教と闘う

金権教といっても、まさにカルト。
一度自分の体にしみついたカルトを抜くのは、容易なことではない。
長い時間をかけて、その人の人生観、さらには人生哲学になっている。

「あなたはまちがっていますよ」と言っても、意味はない。
その人は、かえって混乱状態に陥ってしまう。
言うなら言うで、それに代わる別の価値観を容易してやらなければならない。
……と書いたが、それは私たち自身の問題でもある。

金権教と闘うといっても、金権教自体と闘っても、意味はない。
自分の中に新しい価値観を構築し、その結果として、金権教と闘う。
金権教を自分の中で、無意味化する。

が、だからといって、マネーを否定せよとか、マネーには意味がないとか、
そんなことを言っているのではない。
現代社会では、マネーに背を向けては、生きていけない。
しかし毒されすぎるのも、危険と、私は言っている。
へたをすれば、人生そのものを、棒に振ってしまう。
事実、そういう人は多い。

そこでもしあなたに子どもがいるなら、育児の場で、金権教と闘ってみよう。

(1)子どもには、ぜいたくをさせない。
(2)子どもには、高価なものを買い与えない。
(3)子どもには、必要なものだけを買い与える。

少しテーマがちがうが、あのバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、
こう書いている。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。

要するに、「程度を超えない」ということ。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【子どもの社会適応性】

子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性
(2)自己認知力
(3)自己統制力
(4)粘り強さ
(5)楽観性
(6)柔軟性

 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。

 順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世
間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔
不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多
い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓
子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い
子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも
いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(5)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること
もある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか
ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。

(6)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。(がんこ)を考える前に、
それについて、書いたのが、つぎの原稿である。

+++++++++++++++++++

●子どもの意地

 こんな子ども(年長男児)がいた。風邪をひいて熱を出しているにもかかわらず、「幼稚園へ
行く」と。休まずに行くと、賞がもらえるからだ。

そこで母親はその子どもをつれて幼稚園へ行った。顔だけ出して帰るつもりだった。しかし幼
稚園へ行くと、その子どもは今度は「帰るのはいやだ」と言い出した。子どもながらに、それは
ずるいことだと思ったのだろう。結局その母親は、昼の給食の時間まで、幼稚園にいることに
なった。またこんな子ども(年長男児)もいた。

 レストランで、その子どもが「もう一枚ピザを食べる」と言い出した。そこでお母さんが、「お兄
ちゃんと半分ずつならいい」と言ったのだが、「どうしてももう一枚食べる」と。そこで母親はもう
一枚ピザを頼んだのだが、その子どもはヒーヒー言いながら、そのピザを食べたという。

「おとなでも二枚はきついのに……」と、その母親は笑っていた。
 
今、こういう意地っ張りな子どもが少なくなった。丸くなったというか、やさしくなった。心理学の
世界では、意地のことを「自我」という。英語では、EGOとか、SELFとかいう。少し昔の日本人
は、「根性」といった。(今でも「根性」という言葉を使うが、どこか暴力的で、私は好きではない
が……。)

教える側からすると、このタイプの子どもは、人間としての輪郭がたいへんハッキリとしている。
ワーワーと自己主張するが、ウラがなく、扱いやすい。正義感も強い。

 ただし意地とがんこ。さらに意地とわがままは区別する。カラに閉じこもり、融通がきかなくな
ることをがんこという。毎朝、同じズボンでないと幼稚園へ行かないというのは、がんこ。また
「あれを買って!」「買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。

がんこについては、別のところで考えるが、わがままは一般的には、無視するという方法で対
処する。「わがままを言っても、だれも相手にしない」という雰囲気(ふんいき)を大切にする。

++++++++++++++++++

 心に何か、問題が起きると、子どもは、(がんこ)になる。ある特定の、ささいなことにこだわ
り、そこから一歩も、抜け出られなくなる。

 よく知られた例に、かん黙児や自閉症児がいる。アスペルガー障害児の子どもも、異常なこ
だわりを見せることもある。こうしたこだわりにもとづく行動を、「固執行動」という。

 ある特定の席でないとすわらない。特定のスカートでないと、外出しない。お迎えの先生に、
一言も口をきかない。学校へ行くのがいやだと、玄関先で、かたまってしまう、など。

 こうした(がんこさ)が、なぜ起きるかという問題はさておき、子どもが、こうした(がんこさ)を
示したら、まず家庭環境を猛省する。ほとんどのばあい、親は、それを「わがまま」と決めてか
かって、最初の段階で、無理をする。この無理が、子どもの心をゆがめる。症状をこじらせる。

 一方、人格の完成度の高い子どもほど、柔軟なものの考え方ができる。その場に応じて、臨
機応変に、ものごとに対処する。趣味や特技も豊富で、友人も多い。そのため、より柔軟な子
どもは、それだけ社会適応性がすぐれているということになる。

 一つの目安としては、友人関係を見ると言う方法がある。(だから「社会適応性」というが…
…。)

 友人の数が多く、いろいろなタイプの友人と、広く交際できると言うのであれば、ここでいう人
格の完成度が高い、つまり、社会適応性のすぐれた子どもということになる。

【子ども診断テスト】

(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )してはいけないこと、すべきことを、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。

 ここにあげた項目について、「ほぼ、そうだ」というのであれば、社会適応性のすぐれた子ども
とみる。
(はやし浩司 社会適応性 サロベイ サロヴェイ EQ EQ論 人格の完成度 はやし浩司 
金権教)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(090114)

●1月14日

+++++++++++++++++

正月中の運動不足を解消するためもあった。
体重がややリバウンドし始めたこともあった。
で、運動ということになった。

この10日間、ふだんより2倍の運動をした。
1日おきに、10キロ近く歩いた。
毎日、1〜4キロは、ランニングをした。
それに加えて毎日、サイクリングを、2単位。
(1単位は、40分。)

おかげで体は快調。
数日前だが、自分の体が、ウソのように
軽くなっているのを感じた。
何をするにも、スタスタと動くといった感じ。

うれしかった。

で、改めて再確認。
「運動はしなければならない」と。

それにもうひとつ学んだ。
「体の重さを、歳のせいにしてはいけない」と。

++++++++++++++++++

●横浜

今日はこれから横浜へ行ってくる。
仕事で行くのだが、終わったあと、息子に会えるのが楽しみ。
いっしょに食事をすることになっている。


●パソコン

このところ用もないのに、パソコンショップをのぞくことが多くなった。
お目当ては、E社のミニ・パソコン。
10インチモニターつきで、現在の価格は、6万4000円前後。
ひととおりいじったあと、いつも「近く買ってやるからな」と、声をかけている。


●悪夢

今朝、こんな夢を見た。
どこへ逃げても、一匹の子犬が追いかけてくる。
頭のよい犬で、いつも先回りをして、そこにいる。
私とワイフは、タクシーに乗って逃げる。
「ここならいいだろう」と思ってタクシーをおりると、
やはりその犬はそこにいる。
ゾーッ!
言うなれば、ストーカー犬。
しかしそれにしても、頭のよい犬だった。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●秒速30万キロ以上?

++++++++++++++++++++

素朴な疑問。
こんな質問をすると、その道の専門家に笑われるだろう。
「あんたも、バカね」と。
しかしこんな疑問が、心をふさぐ。

++++++++++++++++++++

たとえば(A)点から、秒速20万キロで遠ざかっている星があったとする。
その真反対の方向に、秒速20万キロで遠ざかっている星があったとする。

わかりやすく説明しよう。名古屋駅から京都に向かって、時速200キロで
走っている新幹線があったとする。
同じ名古屋駅から、東京に向かって、時速200キロで走っている新幹線が
あったとする。
このばあい、2つの新幹線は、たがいに時速400キロで遠ざかっていることになる。
(あくまでも平面で、互い一直線に京都→名古屋→東京が並んでいるばあいだが……。)

同じように、先の2つの星は、20万+20万で、たがいに40万キロで遠ざかって
いることになる。

そこで一方の星から他方の星を見ると、他方の星は、秒速40万キロで遠ざかって
いることになる。

宇宙には、(起点)も(終点)もないわけだから、こちらの星を起点にすると、
相手の星は、秒速40万キロで遠ざかっていることになる。
(宇宙では、あらゆる点が起点であり、あらゆる点が終点という。
地球上に起点や終点がないのと、同じように、だ。)

光速より速く進む物体は、ありえないわけだから、この現象を、どう説明したら
よいのか。
光の速さを秒速30万キロとしても、10万キロもオーバーしている。

が、不思議なことに、ここからがまたまたわからないところだが、秒速40万キロ
で遠ざかっている星は、こちら側には、見えないことになる。
が、実際には見えるという。
(あるいは見えないのか?)
ニュートン力学は、この宇宙では、つぎつぎと否定される。

どうしてだろう。
この謎をどう考えたらよいのだろう。

ひとつの仮説だが、やはりこの宇宙には、(中心)があるということ。
どこかわからないが、どこかにあるということ。
が、今までいろいろな本を読んできたが、(宇宙の中心)という言葉には、
出会ったことがない。
(これは私の不勉強によるものかもしれないが……。)

さらに言えば、宇宙が平面と考えるから、こういう矛盾が生ずる。
そこで宇宙が、凸面、あるいは凹面にゆがんでいると考える。
つねに毎秒30万キロ以上、相互に離れないような宇宙を考える。
そう考えないと、この矛盾を解くことはできない。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●横浜

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たった今、横浜駅で、息子と別れたところ。
今は、新幹線の中でこの文章を書いている。

「横浜は暑い」。
それが横浜の印象。
都会には、都会の熱気というものがある。
地方にはない、熱気である。
厚いコートを着て、マフラーをして、手袋をはめている
自分が、バカに見える。
しかし寒いよりは、暑いほうがよい。
私は子どものころから、寒いのが苦手。

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●都会

横浜は大都会。
大都会というより、東京そのもの。
昔、オーストラリアから来た友人がこう言った。
「日本では、駅と駅の間が、離れていないのが不思議」と。
つまり都会がそのまま連続して、隣の東京につながっている。

そう言えば、2年前に来た友人も似たようなことを言っていた。
「日本では、木と木の間にすき間がないのが、不思議」と。
木と木がくっついているのが、不思議、と。

その私だが、息子との関係もあって、横浜が好き。
息子が大学生のときから、縁がある。
その、息子は今、羽田に住んでいる。
帰りに、みやげに、横浜のシューマイを買った。
横浜へ来ると、みやげはいつも、シューマイ。
この習慣は、40年以上、変わっていない。


●東洋医学

若いころ東洋医学に燃えた。
そのころ私は、西洋科学的なものの見方が定着していたので、
東洋医学は、衝撃的だった。
以来、10数年、私は東洋医学の虜(とりこ)になった。

本も何冊か、書いた。

しかし記憶では、37歳のときに、筆を折った。
数冊の本を残して、それまでに買い求めた本は、すべて捨てた。
以来、東洋医学とは、ほとんど縁がない。
ないまま、20数年が過ぎた。

が、私のことを覚えてくれている人が何人かいることを知った。
失った過去かもしれないが、そういう人に出会うと、その過去が戻ってきたようで、
うれしい。

というのも、私はある時期まで、東洋医学に身を染めたことを後悔した。
7年間もかかって書いた本もある。
東洋医学・経穴編という本がそれである。
当時の私は、時間を無駄にしたという思いを、振り切ることができなかった。
いろいろ理由はある。
あるが、それを書いても、意味がない。
どうせグチになるだけ。

で、今日、その本をもとに、新しい企画の話で、横浜へ行ってきた。
何でも、経穴の位置を押すと、音と映像で、その場所を示したり、その経穴
の効用を示したりする。
そういう装置の開発だそうだ。

G社で教材を開発していたころの自分を思い出す。
楽しかった。
ああ、私は企画屋だった。
いろいろな話をしながら、そんな自分を思い出した。
20代のころは、日テレの『11PM』や、NETの『アフターヌーン・ショー』
という番組の企画を書いていた。
『3時のあなた』というのも、あった。
テレビ局の名前は忘れたが、フジテレビだったか(?)。
番組の名前すら、覚えている人は、今では、ほとんどいないが……。

企画ほど、楽しい仕事はない。
夢がそのまま実現する。
しかしお金にはならない。
アイデアの世界だから、アイデアはアイデアのまま終わってしまう。
著作権で保護されない世界。
それが企画の世界。


●夕食

息子と、横浜駅にあるレストランで、会席料理を食べた。
あの会席料理という料理は、いつ食べてもそうだが、食べたという実感が
ないまま、終わってしまう。

今朝のことだが、私は、白いご飯に、かつお節の削り粉をのせ、醤油をかけて
食べた。
俗にいう(ネコ・マンマ)というのである。
私には、ああいう料理のほうが、性(しょう)に合っている。
またああいう料理のほうが、(料理と言えるかどうかわからないが)、お・い・し・い。

一人前、3500円。
息子も、きっとどこかで、夕食を食べなおすだろう。
私も家に帰って、食べなおすつもり。

ハハハ。


●激ヤセ

私の知人に、85〜88キロ台から、72キロ前後まで、激ヤセした人がいる。
本人は、「散歩をして、やせた」と言っている。
年齢は66歳。

で、私もそれに倣(なら)って散歩を始めた。
たしかに効果はあるようだ。
が、しかし最低でも10キロ前後は歩かないといけない。
それもときどきでは、効果はない。
その知人は、どれくらいの距離を、またどれくらいの頻度で歩いたかは知らない。
しかしそれにしても、80キロ台から70キロ台にしたのは、すごい。
よほどの覚悟と意志がないと、なかなか達成はむずかしい。

が、その一方で、(もちろんその知人がそうというわけではないが)、すい臓がんや、
前立腺がんという恐ろしい病気もある。
そういった病気では、激やせに似た症状が出るという。
たとえばすい臓がんのばあい、激やせに併せて、突然、糖尿病になったりするそうだ。
前立腺がんのばあいは、無症状のまま10年単位で、過ぎることもあるそうだ。
が、元来、おとなしいがんで、それほどあわてなくても、よいとのこと。
少し前、日本でも有数の、権威のあるドクターと会食をさせてもらった。
そのドクターがそう言っていた。

その知人は、「散歩で……」と言っているが、しかし散歩だけで、そんなに
やせるものだろうか。
心配がないわけではない。
ないが、しかし当然、そういった検査もしているだろう。

で、私のことが、正月に三日酔いをしている間、2〜3キロやせた。
3〜4日間、ほとんど何も食べなかった。
それで減量成功!

あとはこの体重を維持するだけ。
しかしそれにしても、おなかが、すいたナア……。


●新幹線

今は静岡駅を出て、つぎの浜松駅に向かっている。
一度、三島駅で乗り換えた。
三島駅から、静岡、浜松にも止まる、「ひかり」。

新幹線の運行も、わかりにくくなってきた。
サービスの向上というよりは、効率の向上をめざした(?)。
つまり東京→三島行き(三島止まり)をつくり、そのあと、三島→静岡→浜松でも止まる
ひかりを走らせる。
なかなか頭がよい。

計算づくというか、巧妙。
つまりこうすれば、どの列車も、乗車率80%前後を確保できる。
客からの文句も、出ない。


●夜行列車

夜行列車には、独特のムードというか、哀愁が漂う。
10年前もそうだったし、20年前もそうだった。
今も、そうだ。

窓の外の景色をながめていると、つんとした孤独感を覚えることもある。
暗闇の中を、細い光だけが、つぎつぎと現れては消える。
それをぼんやりとながめていると、人生そのものを感ずる。

で、こうした景色を見られるのも、あと何年だろう。
10年か?
運がよければ、20年か?

若いころは、東京へ行くことには、いつも夢が伴った。
しかし今は、ない。
「今さら……」という気持ちが、先立ってしまう。

そう言えば、数か月前、同じ横浜で、ラジオ日本で、トーク番組を作らせて
もらった。
そのときのディレクターが、ふとこんなことを漏らした。
「あと20年、早く知り合いになればよかったですね」と。
つまり私の年齢で、ラジオ番組にデビューするのは、遅すぎる、と。

もっとも私にはその気はまったくなかった。
そのディレクターの言ったことは、そのまま聞き流すことができた。
「今さら有名になったところで、それがどうした!」と。

それよりも大切なことは、今の自分を燃焼させること。
知りたいことは、まだ山のようにある。
そのための時間は、あまりにも短い。
(少し、肩に力が入りすぎているかな……。)


●帰宅

帰るべきところがあるというのは、よいこと。
帰ることができるところがあるというのは、よいこと。
「家族」というのは、それをいう。

今日も一日、終わった。
完全燃焼とまではいかなかったが、やるべきことはした。
そう言って、自分をなぐさめる。

明日から、またがんばろう。
そうそう、明日もまたワイフと10キロ、歩くつもりでいる
……ワイフときたら、足が痛いくせに、こう言った。
「10キロくらい、平気よ。何でもないわ」と。

私も負けず嫌いだが、ワイフは、もっと負けず嫌い。
明日は、どうかな……?


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●1月13日(火曜日)

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何でも最近の宇宙構造論によれば、
この宇宙には、謎のダークマター(暗黒物質)が、
ぎっしりと詰まっているそうだ。

私たちが銀河だの、星だのといっている部分は、
宇宙の中でも、数パーセント(重量比)以下にすぎないとか。

ダークマターとはねエ……。
この宇宙には、私たちが知らない謎が、まだまだ
ぎっしりと詰まっているということらしい。
興味はあるが、「大海を前にして」(アインシュタイン)、
おじけづいてしまう。
これから先、いくら勉強しても、大海の一滴も、
理解できないだろう。

私ができることと言えば、いろいろな学者が書いた
解説書を読みながら、ホホ〜と、感心することくらい
でしかない。

++++++++++++++++++++

●寒い

この宇宙は、その当初、ビッグバンによって誕生した。
この説を疑う人は、いない。
そのときのこと。
この宇宙の温度は、ほんの瞬間だが、10の32乗度K以上になったという。
(正確には、10のマイナス44乗分の1秒に、10の19乗ギガボルトになったという。)
とほうもない高温である。
そういう温度から見ると、10度とか、20度とか、さらに30度とか
いうのは、誤差の範囲。
誤差にもならない。
が、私たち人間は、その誤差にもならないような気温の中で、「寒い」とか、
「暑い」とか言っている。
今朝は、最低気温0度。
予報によれば、最高気温でも、8度程度という。
今までにない寒さである。
庭へ出たとき、その冷気が、ツンと身にしみる。

●宇宙のカビ

地球など、宇宙の中では、チリにもならない存在である。
太陽ですら、小型の星にすぎない。
そんな地球に住む人間を表現して、「人間は地球に生えるカビ」と書いた人もいた。

これに対して、「人間とカビはちがう」と思う人もいるかもしれない。
しかし宇宙という尺度から見ると、人間もカビも同じようなもの。
2メートルの身長でも、2ミリの長さでも、ちがいはない。

地球から太陽までの距離を、1天文単位という。
1天文単位は、約1億5000万キロ(正確には、1億4959万7870キロメートル)。
2メートルを1天文単位で割ると、1・3のマイナス10乗。
2ミリを1天文単位で割ると、1・3のマイナス13乗。
1・3のマイナス10乗も、13乗も、誤差の範囲。

実際、宇宙船などから見ると、人間など、どこにも見えない。
大きな都市が、かろうじて乾いたカビのように見える。
人間とカビを区別するほうが、おかしい。

●歴史

人間の歴史は、たかだか1万年。
時代的には、石器時代から新石器時代に入るころである。
そのころの人間は、そこらの動物とそれほどちがわない生活をしていた。

人間が今の人間のようになったのは、今から5500年ほど前のこと。
そのころ黄河流域に黄河文明が生まれ、今のイラクあたりに、メソポタミア
文明が生まれた。

一方、地球の歴史は、46億年。
人間の歴史を1万年として、46億年で割ると、2・1のマイナス6乗。
つまり100万分の2・1。
よく地球の歴史を、1枚の帯にたとえる人がいる。
それによっても、人間の歴史は、地球の歴史を、10キロメートルの長さの
帯にたとえるなら、たったの2センチちょっとということになる。
人間の祖先(原人)が地球上に生まれてから、50万年としても、ちがいはない。
瞬間の、そのまた瞬間にすぎない。

(ある科学サイトに、地球の歴史を50億年とすると、5000年は、
1万分の1とあった。
しかしこれはまちがい。
50億÷5000=100万。
つまり10のマイナス6乗、100万分の1が正しい。)

ともかくも、瞬間。

●物理の法則

総じてみれば、この世界は、誤差の世界ということになる。
物理学とて、例外ではない。

たとえばこんな話を聞いたことがあるだろう。
時速100キロで走っている電車から、前に向かって、
時速100キロで石を投げれば、(空気の抵抗がないと仮定すると)、
石は、時速200キロで、飛ぶことになる。

反対に時速100キロで走っている電車から、うしろに向かって、
時速100キロで石を投げれば、石は、そこで静止することになる。

しかし実際には、ほんのわずかだが、その数値には狂いがある。
反対に、光速でものが飛び交う世界を想像してみるとよい。
そういう世界では、ここでいうような物理の法則は、すべて崩壊する。

光速で飛ぶ宇宙船から、(実際には、光速で飛ぶ乗り物は不可能だが)、
前に向かって光速で石を投げたとしても、その石は、光速を超えること
はない。
反対のばあいもそうで、石はやはり、光速で、うしろに向かって飛んでいく。
そういう世界を前提にしてものを考えると、私たちの住むこの世界は、
誤差の(かたまり)ということになる。
つまり時速100キロだろうが、1000キロだろうが、光速の世界から
みると、あまりにも小さな値にすぎない。
時速1万キロでもよい。
あまりにも小さな値にすぎない世界であるがために、誤差がわからない。
わからないまま、それを不変の定理として使っている。

●時の流れ

時の流れにしても、そうだ。
たまたま今は、1秒が1秒として、カチカチと時が流れていく。
しかしこの「時」だって、アテにならない。
実際には、長く伸びたり、縮んだりしている。
が、全体として、長く伸びたり、縮んだりしているから、人間の私たち
には、それがわからない。
人間のDNAレベルの生命時計すら影響を受けるから、それでもって、
長生きしたとか、そうでないとか、それもわからない。

もしある人が光速の95%のロケットに乗って、1年間、宇宙を航行して
地球に戻ってきたとする。
これはあくまでも大ざっぱな計算によるものだが、そうすると、地球上では、
約7年間、過ぎていることになる。
10年間、宇宙を航行して地球に戻ってきたとする。
そのときは、地球上では、70年間、過ぎていることになる。

わかりやすく言えば、その人は、10歳しか歳ととっていないのに、地球上の
人は、70歳も歳をとっていることになる。

では、自動車ではどうか。
時速100キロで走ろうが、1000キロで走ろうが、変わりはない。
厳密に言えば、ほんのわずかだが、時間にズレが生ずるはず。
時速1000キロで走れば、その分だけ、時間がゆっくりと進む。
だが、それはあまりにも小さい値なので、わからない。
誤差にもならない。

●誤差の世界

……などなど。
私たちが住むこの世界は、あらゆる場面において、誤差の範囲ということになる。
空間にしても、時間にしても、また歴史にしても……。
こうして考えていくと、人間の存在がどんどんと小さくなっていく。
考えれば考えるほど、小さくなっていく。

が、だからといって、人間がつまらないとか、そういうことを言っているのではない。
むしろ逆。
冒頭に書いた、ダークマター(暗黒物質)にしても、今、それを解明しようと
多くの科学者が懸命になっている。
その一部を発見しただけで、ノーベル賞をもらった学者も多い。
私は、そこに人間の力というか、生きる力というか、尊さを覚える。

そして同時に、こんなことも考える。
そんな人間が、点にもならない小さな点で、そして星のまばたきにもならない、
その瞬間に、いがみあったり、戦争をしたりしている。
その愚かさというか、つまらなさを覚える。

私が知りえた範囲によれば、死ねば、この世もろとも、意識は消える。
天国や極楽、さらには、来世、あの世などというのは、存在しない。
繰り返すが、死ねば、この世もろとも、意識は消える。
そして「私」は終わる。

だからあのアインシュタインは、こう言った。
『この世は、すべて奇跡』と。
その奇跡を生かすか、殺すか、それはすべて私たちの生き方にかかっている。

●この世があの世?

そこで考えるのが、「この世があの世」論。
実は、この世こそが、あの世ではないかということ。
もし(あの世)なるものが、あるとすれば、の話だが……。

あの世は、私が想像するところ、実に殺風景で、つまらないところ。
すべての人が善人で、トラブルを起こす人は、だれもいない。
そんな中、あの世の人たちは、時としてこの世にやってきて、人間の生活を楽しむ。
つまり(この世)という、ありえない世界で、生き物であることを楽しむ。

根拠がないわけではない。

冒頭に宇宙構造論を取り上げた。
その宇宙構造論によれば、これもまた定説として疑う人はいないが、
私たちが住む、この大宇宙は、今の今も膨張しつけているという。
そこでこの大宇宙をながめてみると、この大宇宙の端にある銀河は、(星ではない、銀河
だぞ)、光の速さで、この太陽系から遠ざかっているそうだ。

「光の速さ以上で移動する物質はありえない」という世界にありながら、実は
光の速さ、あるいはそれ以上の速さで遠ざかっているという。
この矛盾を、どう考えたらよいのか。

本来なら光の速さで遠ざかっているのだから、光はこの太陽系(銀河系でもよいが)
には、届かないことになる。
しかしそこは(光)。
宇宙創生期の光も、私たちは、見ようと思えば見ることができる。
しかしこのことを反対に考えれば、この太陽系は、その銀河から見れば、同じように
光の速さ、もしくはそれ以上の速さで、遠ざかっていることになる。

わかるかな?

向こうが遠ざかっているということは、向こうから見れば、私たちのほうが、
遠ざかっていることになる。
こちらから見れば、向こうの世界がありえないというのなら、向こうから見れば、
こちらの世界のほうが、ありえない世界ということになる。

この矛盾を、どう考えたらよいのか。
だから……というわけでもないが、私は、この世が、あの世でも構わないと思っている。
何もこの世がこの世であり、あの世が別にあると考えるほうが、おかしい。

……とまあ、奇想天外なことを書いたが、実は、ここに生きていることのすばらしさが、
隠されている。
この世は、不完全で、だらしないが、この不完全で、だらしないこと自体が、すばらしい。
人間の、そして動物の無数のドラマも、そこから生まれる。
大切なのは、そのドラマ。
そのドラマが、生きることを潤い豊かで、楽しいものにしてくれる。

それがこのエッセーの結論ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【代理ミュンヒハウゼン症候群】(追記、090115)

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私は、代理ミュンヒハウゼン症候群について、
すでに4、5年前から、書いてきた。
そのこともあって、このところBLOGへの
アクセスが急増している。
たとえば「はてなBLOG」のばあい、
どういう検索ワードを使って、そのBLOGへ
アクセスしてきたかが、一覧表になって示される。
その中でも、とくにここ1か月ほど多いのが、
「代理ミュンヒハウゼン症候群」。

その代理ミュンヒハウゼン症候群については、
すでにたびたび書いてきたので、ここでは
省略する。
ここでは、その先というか、中身を考えて
みたい。

+++++++++++++++++++

●殺意の認定

刑法上、代理ミュンヒハウゼン症候群が問題になるのは、(1)殺意の認定、(2)それにつづく
実行行為、そして(3)結果として、何らかの結果(殺人、傷害)などの結果が起きたばあいであ
る。

殺意だけでは、殺人罪の構成要件には該当しない。
よく知られた例に、「わら人形」がある。
いくらその人が、だれかを憎み、毎晩わら人形を神社の柱に打ちつけたとしても、殺人罪で起
訴することはできない。

が、何らかの実行行為が伴ったとき、たとえば刃物を買って、そのだれかに襲いかかったよう
なケース。
今度は、その時点で相手に何ら危害がなくても、殺人未遂罪が適応される。
が、こういうケースもある。

殺意はあいまいだが、しかし実行行為があり、結果として致傷、あるいは殺人につながるよう
なケースである。
こうしたケースでは、「未必(みひつ)の故意」が適応される。
「相手に危害を及ぼうそうという積極的な意思はなかったが、しかしその可能性は予見してい
た」というようなケースである。
それに対して、まったくその意思がないばあいは、過失致傷罪、過失致死罪が適応される。

●代理ミュンヒハウゼン症候群

岐阜県関市の1人の母親が、今、代理ミュンヒハウゼン症候群による行為障害者ではないか
と疑われている(08年12月〜)。
実の娘の点滴の中に、腐った水などを混入し、よってその娘の病気を長引かせたという。
(ほかの娘たちを死に至らしめたという疑いもかけられているようだが……)。

この事件で注意しなければならないのは、動機が何であれ、もちろん代理ミュンヒハウゼン症
候群によるものであるかどうかも含めて、それ自体は、刑法上は、問題とされないということ。
仮に虐待によるものであるとしても、「虐待罪」で問われることはない。
「虐待罪」そのものが、存在しない。
同じように、「代理ミュンヒハウゼン症候群罪」という罰則が、刑法上にあるわけではない。

しかも、代理ミュンヒハウゼン症候群といっても、その多くは目立った虐待を伴わない。
たまたま病弱な子どもがいて、その世話を、かいがいしくして見せながら、「いい母親」「すばら
しい母親」を演ずることもある。

つまり代理ミュンヒハウゼン症候群というときは、第三者に向かって、「私はすばらしい人間で
ある」ということを印象づけるのを目的とする。
みなに、「あなたはよくできた人だ」「すばらしい人だ」と、同情される。
同情されることによって、自分の立場を作りあげる。

そのため代理ミュンヒハウゼン症候群といっても、対象となる被害者は、子どもとはかぎらな
い。
親や兄弟、ということもある。
また舞台は、何も病院とはかぎらない。
家庭や施設などでもある。
またこうした行為は、秘密裡になされることが多い。
今回、岐阜県関市で起きた事件についても、その女性の夫は、妻をかばっている(?)。
「信じられない。精神的に混乱していたのではないか」(中日新聞)と。
さらに「(警察に)誘導されてしまったのではないか」(同)と、むしろ警察の捜査に不信感を表明
している。

(新相はこれから明らかになるだろうが……。)

それほどまでに、その女性の行為が巧みだったのか、それとも、夫が無知無学なのかはわか
らない。
あるいは夫が弁明しているように、事件そのものが、警察によるでっちあげなのかもしれない。
しかし一般論として、代理ミュンヒハウゼン症候群かどうかは、きわめてその身近にいて、また
その知識がないと、わからない。

●ある女性のケース

ある女性(当時60歳くらい)は、明らかに実の父親を虐待していた。
その数年前、父親は脳梗塞を起こし、体の運動もままならなくなっていた。
いちばん近くに住んでいた娘の家に、引き取られることになった。

食事をこぼす。
便をもらす。
ものを不注意で壊す、など。
そのつどその女性は、父親をはげしく叱った。
ふつうの叱り方ではない。
ヒステリックな金きり声をあげて、叱った。

こんなこともあった。
家で遊ばせておくのは、もったいない(?)ということで、父親に内職をさせたこともある。
簡単な仕事だったが、半身不随の父親には、できるはずもない仕事だった。
が、その父親は、その女性(実娘)が命ずるまま、その仕事をこなした。
が、ある日、何があったのかは知らないが、父親は、その仕事(電気部品)を、家の前を流れ
る小川に投げ捨ててしまった。
その女性は、激怒した。
それ以後、食事は、ほぼ3食、ごはんと味噌汁だけ。
ときにごはんと、魚を焼いたようなものだけ。
ベッドを汚すからという理由で、父親は紙おむつをあてがわれていたが、その紙おむつを取り
替えないということも、つづいた。

……という話なら、今では、どこにでもある。
珍しくない。
またこれだけなら代理ミュンヒハウゼン症候群という言葉は出てこない。

代理ミュンヒハウゼン症候群といわれるためには、つぎの行動、つまりそれを利用して、ことさ
ら自分の立場をつくるという行為が必要である。
他人から、「あなたはよくやっている」「すばらしい人だ」と思われることで、自分の立場をつく
る。

こうして内々では、父親を虐待しながら、外部に向かっては、自分はすばらしい女性であること
を、演技した。
たとえば親類、あるいは実の妹や弟がその父親を見舞いにやってきたりすると、やさしくて思
いやりのある娘を演じて見せたりした。
ベッドに横たわる父親の横に、片時も離れず、ずっといた。
(実際には、自分の虐待を、父親が話すのを恐れて、離れることができなかったのではない
か?)
そしてそのつど、父親の背中をやさしくさすってみたり、口に飲み物を含ませたりしていた。
そして見舞う人に対しては、長々と、そしてくどくどと、その苦労話を言って聞かせたりした。
もちろん(?)、そのときだけは、父親に、洗濯のゆきとどいた、清潔な服を着せたりしていた。
弟や妹が何もしないことを、それとなく訴えた。
(実際には、弟と妹は、それぞれ毎月5万円ずつ出しあって、その女性を助けていたのだが…
…。)
で、見舞いに行った人は、みな、こう言った。
「あのXさん(=女性の名)は、すばらしい女性だ」「仏様のような人だ」と。

●代理ミュンヒハウゼン症候群

さらに注意しなければならないのは、程度の問題もあるということ。
浜松市内の病院に勤務する精神科のドクターが、最近、こう教えてくれた。

「代理ミュンヒハウゼン症候群で、精神科へやってくるような患者は、明らかに様子がちがうか
ら、それとわかる」と。
つまり様子からして、ふつうではない、と。
また今回の事件のように、明白に、殺意が感じられる行為があったばあいのみを、代理ミュン
ヒハウゼン症候群としているとのこと。
またそれがないばあいには、代理ミュンヒハウゼン症候群としては扱わない、とも。

そこで私が、「しかし治療法など、ないでしょう? どうするのですか?」と聞くと、そのドクター
は、あっさりとそれを認めた。
「ないから、10年単位のカウンセリングということになります」と。

で、岐阜県関市の女性が起こした事件が、代理ミュンヒハウゼン症候群と決めつけてよいかど
うかは、今のところ不明である。

新聞の報道などでも、「専門家の中には、代理ミュンヒハウゼン症候群によるものではないか
と疑う人もいる」というような書き方をしている。
それもそのはず。
刑法上にも、代理ミュンヒハウゼン症候群罪という罪があるわけではない。
刑法上では、あくまでも未必の故意、もし殺意の認定がされれば、殺人罪、もしくは殺人未遂
罪で、当の女性を訴追するしかない。

また精神医学の分野でも、人格障害、もしくは行為障害として、治療に当たるしかない。
代理ミュンヒハウゼン症候群というのは、あくまでもその中の類型のひとつにすぎない。
(繰り返すが、「代理ミュンヒハウゼン症候群」というのは、診断名ではない。
あくまでも類型名でしかない。)

●刑法上の罪vs精神医学上の診断名

わかりやすく言えば、他人の同情を買い、それでもって自分の立場をつくり、そのために必要と
あれば、虐待をともなう一連の行為を繰り返すことを、「代理ミュンヒハウゼン症候群」という。

今回は対象となった相手が、実の子どもであった。
点滴の中に、腐った水を混入させた(?)。
しかし殺す目的があったというよりは、(よくできた、すばらしい母親)を演ずるために、そうした
(?)……、という点で、「代理ミュンヒハウゼン症候群」が疑われている。

報道されている事実だけからすると、先にも書いたように、刑法上では、未必の故意による殺
人未遂罪が適応される可能性が高い。
が、そこまで。

繰り返すが、「代理ミュンヒハウゼン症候群罪」というのは存在しない。
「代理ミュンヒハウゼン症候群」というのは、また病名ではない。
診断名として確立しているわけでもない。
診断名として確立するためには、診断基準が示されなければならない。
さらに言えば、治療法が確立されているわけではない。

が、つぎのことだけは、覚えておくとよい。

●新しい虐待

教育の世界で、代理ミュンヒハウゼン症候群が問題になり始めたのは、ここ4、5年のことと考
えてよい。
「どうもおかしい?」というケースが、児童相談所の相談員の間から、聞こえ始めたのも、その
ころである。
それに並行して、「新しいタイプの虐待」、もしくは「新しい虐待」という言葉も使われるようにな
った。

うわべでは、たいへんよい母親に見えるのだが、子どもに虐待された痕跡が見られる。
怪我や病気を繰り返す。
子どもの病院通いがつづく。
が、母親に会って面談すると、おだやかで、やさしい。
が、どこか一貫性がない。
つかみどころがない。
そのつど質問すると、母親はペラペラと、言い訳したり、とりつくろったりする。
子どもの世話について、苦労話を、あれこれする、などなど。

「一貫性がない」というのは、行動や言動が、ちぐはぐなことをいう。
一方で献身的で、自己犠牲的な母親を演じながら、それでいて、学校でのボランティア活動な
どには参加しない。
子どもの病気については、涙をこぼしながら話すにもかかわらず、治療費を滞納する。
教師が病院へ行くと、やさしい母親を演じて見せるが、近所の子どもの話では、毎晩その母親
の怒鳴り声が聞こえる、など。

さらに言うことが、そのつど変化する。
たとえば「治療費がたいへん」とこぼすから、学校側が、児童保険の適用を申請する。
が、つぎの相談では、今度は、勉強の遅れを問題にする、など。
「そのつど、話の内容がころころと変わるからたいへんでした」と、それを話してくれた
教師は、そう言った。

●見かけにだまされない

代理ミュンヒハウゼン症候群にかぎらず、母親というのは、見かけだけで判断してはいけない。
天才的に、演技がうまい母親(女性)も多い。
うまいというより、ふつうの人なら、まず、だまされる。
岐阜県関市で起きた事件にしても、先にも書いたように、そばにいる夫は、まったくそれに気づ
いていなかったようだ。

私も最近、それらしいケースに遭遇したことがある。
そこでそれとなくその夫(=子どもの父親)に、打診してみたが、その夫は、私の話の一部さえ
聞こうとしなかった。
そのまま激怒してしまった。

またこれはあくまでも私の印象だが、当の女性ですら、自分のしている行為が何であるかもわ
かっていないのではないかということ。
もちろん虐待しているという意識はない。
つまり病気でいえば、「病識」そのものがない。
「私は正しいことをしている」「私はすばらしい母親(娘、嫁)である」と、自らをそう信じ込ませて
いる。

したがって一連の自分の行為についても、罪の意識はまるでない。
(どこかに罪の意識が残っていれば、まだ話もできるのだが……。)
そういう点で、先に、精神科のドクターが言ったように、「明らかに、おかしい」という状態にな
る。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 代理
ミュンヒハウゼン症候群 代理ミュンヒハウゼン 虐待 子供の虐待 行動障害 行為障害 人
格障害)

【付記】(1)

良好な人間関係の構築ができない人は、(1)攻撃型、(2)服従型、(3)依存型、(4)同情型の
いずれかのパターンをともなった、行動に出る。
代理ミュンヒハウゼン症候群は、この中の、(4)同情型ということになる。
他人に同情してもらうことにより、自分の立場を確立する。

よくあるケースが、人に会うたびに、自分が病気であり、体が弱いことを訴えるもの。
弱々しく、今にも死にそうな声で、相手に訴えかけることもある。
話すことといえば、自分の病気のことばかり。
さらにそれが進むと、自傷行為をともなうこともある。
わざと壁に頭をぶつける、わざと高いところから飛び降りる、わざと道路でころんでみせる、な
ど。
そういう行為をすることで、他人の同情を引き寄せる。

私は「同情」をつぎの3つのパターンに分類する。

(1)自己同情型(弱々しい自分を演ずるという意識がないまま、演ずる。)
(2)代理ミュンヒハウゼン症候群
(3)自傷型(本能的な部分で、衝動的に行動するので、自己管理能力が機能しない。)

どうであるにせよ、意図的な行為というよりは、無意識下の行為であるため、本人に客観的に
それを自覚させることは、たいへん難しい。

先にあげた父親を虐待しながら、その一方で、すばらしい娘を演じている女性にしても、当の
本人は、演じているという意識もないのではないか。
ごく自然な行為(?)として、それをしている。
またそれを指摘すると、(実際には指摘できないが)、たいていこのタイプの女性は、烈火のご
とく怒り出す。
「私がこんなに苦労しているのに!」と。
実際には、結局はその人が世話や介護をするしかないという状況があり、ある一定の範囲に
ある間は、代理ミュンヒハウゼン症候群が疑われても、黙認する。

一般的には、代理ミュンヒハウゼン症候群というと、女性の問題と考えてよい。
圧倒的に、女性によるケースが多い。
ミュンヒハウゼン氏というのは、男性だったが……。

【付記】(2)

こうした代理ミュンヒハウゼン症候群と自ら闘うためには、自己の文化性を日ごろから高める。
音楽を聴いたり、本を読んだりする。
より高度な人と接し、より高度な情報を吸収する。
そういう行為を繰り返して、自己の文化性を高める。
もちろん良好な人間関係の構築に努める。
小さな殻(から)の中に閉じこもり、そこで自分の(ゆがみ)を極端化させるのは、たいへん危険
なことと考えてよい。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●主夫願望

++++++++++++++++++

このほど家事検定実行委員会が行った
アンケート調査によれば、何と、「専業主夫に
なってもよい」と答えた男性が、30%弱
もいることがわかった。

驚くというよりも、日本も、20〜30年遅れで、
欧米人の意識を追いかけているのが、この
数字でもわかる。

++++++++++++++++++

++++++++++++以下、ヤフー・ニュースより++++++++++

「主夫願望」が最も強いのは東京の男性……。家事の能力をめぐり、家事検定実行委員会
(東京)が行ったアンケート「家事力調査」から、こんな結果が分かった。一方、「好きな家事は
ない」と答えた女性は、大阪がトップとなった。

 調査は平成20年(2008)11月、東京、大阪、愛知、北海道、福岡の5都道府県に住む20
〜50代の既婚男女2080人を対象に、インターネットを通じて実施した。

 それによると、「専業主夫になってもよいと思うか」という質問に対し、全体の29・5%の男性
が「思う」と回答。地域別では、東京が31・2%で唯一、3割台にのった。

 男性の一日平均家事時間は地域別では、(1)北海道54・0分(2)大阪49・7分(3)東京4
8・4分(4)福岡47・5分(5)愛知45・9分−の順。これを年代別でみると、東京の40代が6
9・8分と断トツだった。調査では、東京は、女性の有職率が最も高くなっており、共働き世帯が
多いことがうかがえ、働き盛りの男性には家事も重要な仕事となっているようだ。

 ちなみに、「男性が家事をするのはかっこいいと思う」と答えた20代女性は72・7%。若い独
身男性の"婚活"に家事力は必須となりそうだ。

 食器洗浄機と洗濯乾燥機の所有率では、大阪がそれぞれ43・5%、35・6%(平均32・
4%、30・2%)と、いずれも1位だった。大阪の家庭は、家事の効率化に有効な家電をうまく
使っていることがうかがえる。

 ただ、「部屋掃除が嫌い」と答えた女性も大阪が35・1%でトップ。「好きな家事はない」という
女性も大阪が22・1%で最も多く、実行委員会では「便利な家電で家事を効率化している大阪
人ですが、基本的に面倒なことが多い家事はあまり好きではないのかもしれません」と分析し
ている。

++++++++++++以上、ヤフー・ニュースより++++++++++

数字を整理してみる。

「専業主夫になってもよいと思うか」……29・5%
(この数値は、都会ほど、やや高い。)
「男性が家事をするのは、かっこいいと思う(20代の女性)」……72・7%

『男は仕事、女は家事』という、日本の伝統的な男女観が、今、大きく崩れつつある。

●家事をまったくしない世代

少し前だが、どこかの調査で、家事をまったくしない男性が、話題になった。
(話題にしたのは、私だけかもしれないが……。)
それによれば、約50%の男性が、家事をまったくしないということがわかった。

一方、10年ほど前、浜松市内の若い夫婦(20〜30代)について調べたところ、
約35%の男性が、積極的に家事を手伝っていることがわかった。
(まったくしない男性も、35%、いた。)

こうした数字を並べてみると、「若い夫ほど、家事を手伝っている」ということに
なるが、その一方で、家事をまったくしない男性も多いということがわかった。
とくに私たちの世代は、そうである。
私も、オーストラリアへ渡ったころ(1970年)、向こうでは、夫が料理をしたり、
食事のあと、洗い物をしているのを見て、驚いたことがある。
しかしそれが今では、当たり前の光景になりつつある……と思っていたら、さらに
一歩進んで、「主夫業」!

●家事をしない世代

恐らく団塊の世代以上の世代の人たちには、主夫業などというものは、考えられない
だろう。
家事を手伝う、家事をするということすら、考えられないだろう。
何か特別な経験をした人なら、そうでないかもしれないが、私たちの世代は、
何もしないと考えてよい。

先日も実家の法事で、私がみなにお茶を出していたら、みなに、「あなたは喪主だから……」
とか、「あなたは男だから……」とか言われて、それを止められてしまった。
夕食の配膳のときも、そうだった。
「浩司さんは、座っていてください」と。

しかしそれこそ、世界の非常識。
この日本では、いまだにそういう非常識が、大手を振って、まかり通っている。

で、その一方で、こんなこともある。

自分の山荘をもったころのこと。
私はうれしくて、あちこちから客人を招いた。
一時は、本気で、民宿の経営者になりたいと思ったこともある。
旅館の売り物をさがしたこともある。
しかし、である。
1、2年もすると、それが苦痛になってきた。
とくに、同じ世代の男性諸君(失礼!)は、苦痛になってきた。

山荘へ来てくれるのはよいのだが、まったく、何もしない。
何も手伝ってくれない。
来たときから、帰るときまで、デンと座っているだけ。
本来なら、客が来てうれしいはずなのだが、そのたびに、疲労こんぱい。
「男は何もしなくていい」と。
今、そういう男性観が、急速に崩れつつある!

●息子も主夫

ということで、今、私の息子も、主夫業をしている。
妻が、日本でいう司法試験に合格し、今、大学のロースクールに通っている。
その少し前には、グーグル社への入社も考えていたが、妻の職業を優先した。
で、ラッキーなことに、息子は、同じ大学で、コンピュータ技師として採用された。

勤務時間はあってないようなもの、とか。
それで2人の子どもの世話と、家事一般は、息子の仕事ということになった。
私は、当初、そういう話があったときから、「いいことだ」と思った。
息子が主夫になることについて、まったく抵抗がなかった。
むしろ息子の妻(=嫁)の偉業に驚いた。
大学の法学部を出たわけではない。
しかも受験のための勉強を、半年あまりでやりこなしたという。
「みなは、1年以上かけて勉強するが、私は半年でした」と。

私は、家庭に入った母親でも、そういうことができるという、アメリカの
しくみに感動した。
日本では、まず考えられないことである。
つまり私たちがいう(主夫業)というのは、それを認める社会的背景があり、
また社会的必要性があって、成り立つ。

●変わる日本

もうこの(流れ)は止めることはできない。
今、この日本は、その大きな(流れ)の中にある。

こう書くと、兄弟の悪口にとらえる人もいるかもしれない。
しかしそれは、いまだに、日本の非常識でもある。
だからあえて書くが、昨年末に、実兄と実母をつづいて亡くした。
が、そのときほど、日本の社会に居座る、封建主義の亡霊を感じたことはない。

何かあるたびに、「あなたは本家(ほんや)だから……」「あなたは男だから
……」「あなたが跡取りだから……」という言葉が飛び交った。

結局、2人の葬儀で、x00万円以上の出費を強いられたが、(これでも
安いほうだそうだが……)、加えて仏壇の購入もあった。
そうした費用の分担については、親類はだれも助けてくれなかった。
実姉にしても、「私は女だから……」とか、「私は林家を出た身分だから」
とか言って、それで終わってしまった。

加えて家父長意識も強く、わずか数歳、年上というだけで、年長風を吹かしたり
する。
叔父風、叔母風というのもある。

(「終わってしまった」という表現は、適切でないかもしれないが、私はそう感じた。
また姉を責めているわけではない。
それがあのあたりの常識である。
姉は姉で、そういった常識に従っただけ。
さらにだからといって、私が不愉快に思っているわけではない。
ああした世界では、『長いものには、巻かれろ』式の生き方こそが、正しい。
いらぬ波風をたてることこそ、禁物。
お金も大切だが、それ以上に、人間関係のほうが大切。)

●みんなで変えよう

これから先、この(流れ)をみんなで加速させよう。
けっして後退させてはいけない。
頭の固い復古主義者たちは、たとえば武士道なるものを取り上げ、「武士道こそ、
日本が世界に誇る、精神的バックボーンである」(某、教師団体)などと説く。

それはそれだが、しかし武士道がもつ負の遺産に目を閉じたまま、一方的に
礼賛(らいさん)するのも、どうか?
危険なことでもある。
事実、「武士は……」がゆがめられ、戦時中は、それが戦時訓になっている。
「生きて虜囚の……」という、あれである。

今、「男だから……」「女だから……」という、『ダカラ論』は、(私は、そう呼んでいる
が……)、音をたてて崩れ始めている。
人間に男も、女もない。
日本人もやっとそれに気づき始めている。
すばらしいことだと思う。
私は、今回の調査で、そう感じた。

が、一言。
調査を、インターネットで行ったというところが、少し気になる。
インターネット世代、あるいはインターネットを積極的に活用している世代、
あるいは人は、まだ限られている。
50代、60代以上で、インターネットを日常的にしている人は、まだ少ない。
だからその点、この調査には、やや信頼性が欠けるのではないかと思う。
ケチをつけて、ごめん!

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
主夫 主夫業 男は仕事 だから論 ダカラ論 封建時代 負の遺産 武士道)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090115)

●1月15日

【心を開く】

+++++++++++++++++++

xx日に、11〜12キロ、歩くことになっている。
「Y・歩こう会」の例会である。
7〜8キロくらいまでなら、何とか、歩ける。
しかし11〜12キロは、きびしい。
上級者コース。
途中、山道がつづけば、さらにきびしい。

……ということで、今日、ワイフと10キロ近くを歩いてみた。
「これなら何とかだいじょうぶ」と、ワイフは言った。

あとは天気しだい。
新聞の天気予報をみると、今度のxx日は、雨らしい。
だいじょうぶかな?
少し心配になってきた。

++++++++++++++++++++

●基本的信頼関係

基本的な信頼関係の構築に失敗すると、それ以後、その人は心の開けない人になる。
そういった状態を、基本的信頼関係に対して、基本的不信関係という。

何度も書くが、乳児は、絶対的な安心感の上に、基本的信頼関係を構築する。
「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。
「絶対的な安心感」というのは、(絶対的なさらけ出し)と(絶対的な受け入れ)を
をいう。

子どもの側からすれば、安心してすべてを、さらけ出すことができる。
親の側からすれば、何の迷いもなく、すべてを受け入れることができる。
その上で、基本的信頼関係が構築される。
この基本的信頼関係が、成長ともにワクを広げ、友人との信頼関係、先生との
信頼関係、結婚してからは、配偶者との信頼関係へと、発展していく。
先日、こんなシーンを道路で見かけた。

小さな女の子(小2くらい)が、通りで、父親を見つけた。
父親は、自転車に乗っていた。
ブラジル人の親子だと思う。
女の子は、パッと表情を変え、父親に向かって突進していった。
そのまま父親の腕の中に飛び込んでいった。
父親は、娘を力いっぱい抱くと、そのままゆっくりとうしろの荷台に、娘を乗せた。

ほほえましい光景だった。
と、同時に、彼らのもつ愛情表現の豊かさに感心した。
南米から来ている人たちは、そうした行為を、ごく自然な形でできる。
人目を気にせず、できる。
みながみなではないだろうが、日本人の私たちから見ると、オーバーというか、露骨。
親子だけではない。
若いカップルだと、あたりかまわず、抱き合って接吻している。
しかしそういう(さらけ出し)と、(受け入れ)が、自然にできるということだけでも、
すばらしい。

というのも、私たち日本人は、そうした行為を昔から、「はしたない行為」としてきた。
人前ではしてはいけない行為としてきた。
しかしそれは世界の……というより、人間が本来もつ常識ではない。

たった40年前のこと。
私はオーストラリアへ渡ったが、大学のキャンパスの中ですら、若い恋人同士が、
歩きながら接吻し合っていた。
私はそれを見て、心底、驚いた。
が、当時の日本人には、考えられない光景だった。

つまり私たちは、こと親子について言えば、もっと(さらけ出し)を、してよいと
いうこと。
日本の基準というより、世界の基準に合わせる。

私は一度、自転車でそのそばを通りすぎた。
が、すぐに親子の乗った自転車が、私を追い抜いていった。
どこまでも明るく、屈託のない、女の子の表情が美しかった。
父親のうれしそうな表情が、印象的だった。

●夫婦でも……

私たち夫婦は、今から思うと、おかしな夫婦だった。
夫婦でありながら、たがいにどこか遠慮しあっていた(?)。
私は、たとえば実家の恥(?)になるような話は、ワイフに言うべきではないと
考えていた。
ワイフはワイフで、実家にまつわるプライベートな話を、あまりしなかった。
私も聞かなかった。

が、おかしな夫婦といっても、そのときはわからなかった。
自分たちがそうでなくなって、はじめて、あのころの私たちはおかしかったと
感ずるようになった。

もし今でもあのときのままだったら、それに気づかなかっただろう。
30歳を過ぎるころから、私は努めて、ワイフの前でさらけ出しをするようにした。
つづいてワイフも、さらけ出しをするようになった。

それにはこんな事件があった。

ある文士たちが集まる会合に顔を出させてもらったことがある。
そのときのこと。
中央に座っている男性が、私に向かって、突然、こう言った。
「林君、君の奥さんは、君の前で、オナラをするかね?」と。
私はその質問に、一瞬ひるんだ。
が、こう答えた。
「うちのワイフは、そういうことはしません」と。

それに答えて、どっとまわりの男たちが言った。
「かわいそうに」「それは気の毒に」と。

夫の前で、おならが自由にできない妻は、かわいそうというのだ。

私のワイフは、私には、絶対的なさらけ出しをしていなかった。
私は私で、それを絶対的に受け入れてはいなかった。
みなにそう言われるまで、私はそれに気がつかなかった。

●二匹のヤマアラシ

二匹のヤマアラシについては、たびたび書いてきた。

『寒い夜、2匹のヤマアラシが、穴の中で、眠ることになった。しかしたがいに体を近づけると、
たがいの針が刺さり、痛い。しかし遠ざかれば、寒い。こうして2匹のヤマアラシは、一晩中、穴
の中で、離れたり、くっついたりを繰りかえした。

この「2匹のヤマアラシ論」は、本来は、人間関係をうまく結べない人が、孤独と、人と接触する
ことによって起こる苦痛の間を、行ったり来たりするのを説明したものである。

たがいに針を出しあって、たがいに孤独なのに、キズつけあっている。が、さりとて、別れること
もできない……』。

基本的信頼関係がうまく構築できなかった人は、いわゆる心の開けない人になる。
(他人に対して心が開けない)→(さみしい)→(他人の世界に入っていく)→
(神経疲れを起こす)→(他人から離れる)→(さみしい)→(他人の世界に
入っていく)→……、を繰り返す。

こういう状態を、ショーペンハウエルという学者は、「二匹のヤマアラシ」を例に
あげて説明した。
(ここでいうショーペンハウエルについて、私は哲学者のショーペンハウエルのこと
だと誤解していた。しかし心理学者のショーペンハウエルである。)

原因は、母子関係の不全。
子どもとの信頼関係の構築には、母親の育児姿勢が大きく影響する。

こうして基本的信頼関係の構築に失敗した人は、だれに対しても心が開けない分だけ、
孤独になる。
が、ここでいう「孤独」は、ただの「孤独」ではない。
仏教でいう「無間地獄」というにふさわしい孤独である。
人間の魂を押しつぶしてしまうほどの力がある。
が、自分だけならまだしも、そういう人はまわりの人たちをも、孤独にしてしまう。
心を開かない夫と結婚した妻は、どうなるか。
心を開かない妻と結婚した夫は、どうなるか。
さらに不幸はつづく。

心を開かない母親をもった子どもも、また心を開けなくなる。
こうして基本的不信関係は、世代から世代へと、連鎖していく。

●心を開けない人たち

心を他人に対して開けない人は、つねに孤独にさいなまれる。
他人の前では、いつも自分を作ってしまう。
そのため、他人と接すると、精神疲労を起こしやすい。
つぎのような症状があれば、心の開けない人、つまり基本的信頼関係の構築に
失敗した人とみてよい。

(1)集団行動より個別行動を好む。
(2)一見社交的(=仮面)で、他人には逆の評価を受けることが多い。
(3)他人を信頼できない。他人に仕事を任すと、不安。
(4)他人と接していると、神経疲労を起こしやすい。
(5)自分を実際よりよく見せようとすることが多い。
(6)世間体を気にしたり、虚勢を張ることが多い。
(7)「信じられるのは自分だけ」を口にすることが多い。
(8)友人関係は概して希薄で、友人の数も少ない。

が、本当の問題は、心を開けない人がいたとしても、それに自分で気がつくのが、
たいへんむずかしいということ。
ほとんどのばあい、ほとんどの人は、「私はちがう」と思い込んでいる。
というのも、心を開けないまま、それがその人の中で、定着してしまっているということ。
言うなれば、かさぶたの上にかさぶたが重なってしまっていて、元の傷の形すら、
わかりにくくなってしまっている。

まず、自分に気づく。
それがこの問題の最大の関門ということになる。

●心を開く

要するに、さらけ出す。
自分をさらけ出す。
ありのままの自分を、ありのままに表現する。
その第一歩として、言いたいことを言い、やりたいことをやる。
あなたが不完全で未熟であっても、恥じることはない。
あなたはあなた。
どこまでいっても、あなたはあなた。

自分を作ることはない。
自分を飾ることはない。
自分を偽ることはない。

……といっても、いきなり、それをするのはむずかしい。
そこでまず、あなたの妻なり、夫に対して、それをする。
が、それには条件がある。

(1)絶対的なさらけ出しをするということは、同時に、絶対的な
受け入れをしなければならない。
けっして一方的なものであってはいけない。

ただしこうした(絶対的なさらけ出し)と(絶対的な受け入れ)をした
からといって、基本的信頼関係が構築できるというわけではない。
それこそ5年とか、10年とかいう単位の、長い年月が必要。
あとは努力、また努力ということになる。

この問題だけは、本脳に近い部分にまで刷り込まれているから、「正す」と
いっても、容易なことではない。

(そういう点では、『クレヨンしんちゃん』の中に出てくる、みさえ(母親)は、
参考になる。
心を開けない人は、みさえを参考に、心を開く練習をしてみてほしい。
コミック本のVOL1~11前後が、お勧め。
テレビのアニメのほうは、参考にならないので注意。)
  
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
基本的信頼関係 基本的不信関係 心を開く 心が開けない人)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【信頼関係vs不信関係】(Confidential Relationship between Parents and Children)

Can you open your heart to other people including your husband or wife? If not, please 
read this article and know yourself.

++++++++++++++

あなたは他人に対して、心を
開くことができるか?

もしそうでないとするなら、
一度、この原稿を読んでみて
ほしい。

さみしい思いをするのは、あなたの
勝手だとしても、あなたの周囲の
人たちまで、さみしい思いを
しているはず。

++++++++++++++

●乳児期に形成される信頼関係

乳児期においては、母子の関係は、絶対的なものである。
それもそのはず。
乳児は、母親の胎内から生まれ、その母親から乳を受ける。命を育(はぐく)む。
その絶対的な関係を通して、乳児は、母子との間で、信頼関係を結ぶ。
「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味である。

こうしてできる太い絆(きずな)を、「ボンディング」と呼ぶ。

この信頼関係が基本となって、乳児はやがて、他人との信頼関係を結ぶことができるよう
になる。
成長するにつれて、その信頼関係を拡大する。
父親との関係、保育園や幼稚園での教師との関係、さらには、友人との関係など。

そういう意味で、この母子との間にできる信頼関係を、「基本的信頼関係」という。

その信頼関係は、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)があってはじめて成り
立つ。

乳児の側からすれば、「どんなことをしても許される」という、疑いすらもたない安心感と
いうことになる。

母親の側からすれば、「どんなことをしても受け入れる」という、疑いすらもたない包容力
ということになる。

が、この信頼関係の構築の失敗する例は、少なくない。
何らかの原因で、この絶対性がゆらぐ。
育児拒否、親の否定的な育児姿勢、無視、冷淡。
夫婦不和、家庭不和、家庭騒動などなど。

子どもの側からすれば、絶対的な安心感をもてなくなる。
母親の側からすれば、絶対的な包容力をもてなくなる。

こうして乳児は、母親に対して不信感をもつようになる。
ただの不信感ではない。
自分の母親ですら信ずることができない。
乳児は、そして子どもは、その不信感を常に抱くようになる。

こうした心理的な状態を、「基本的不信関係」という。
が、一度、その不信関係ができると、子どもは、いわゆる「心の開けない子ども」になる。
その可能性は、きわめて高くなる。

が、不幸は、それで終わるわけではない。

結婚してからも、配偶者にすら、心を開くことができない。
さらに自分の子どもにすら、心を開くことができない。
あなたはそれでよいとしても、あなたの周囲の人も、さみしい思いをする。

そしてそれがさらに世代連鎖して、その子ども自身も、心を開くことができなくなる可能
性も高くなる。

「基本的信頼関係」というのは、そういうもの。
決して、軽く考えてはいけない。

……ということで、今、ここで、もう一度、あなた自身の心の中をのぞいてみてほしい。

あなたは、あなたの子どもや夫を、何の疑いもなく、信じているか?
あなたは、あなたの子どもや夫に、何の疑いもなく、心を開いているか?

反対に、こうも言える。

程度にもよるが、母子との間の基本的信頼関係の構築に失敗した人は、万事に、疑り深く、
猜疑心が強く、ついでに嫉妬心も強い。
もちろん他人に対して心を開けない分だけ、孤独。寂しがり屋。

そこで孤独であることを避けようと、人の中に入っていくが、心を許すことができない。
ありのままの自分をさらけ出すことができない。
自分をつくる。飾る。見栄を張る。虚勢を張る。世間体を気にする。
そのため、人と接触すると、精神疲労を起こしやすい。
人と会うのがおっくうで、会うたびに、ひどく疲れを覚える人というのは、このタイプの
人と、まず疑ってみる。

もしそうなら、まずあなた自身の心の中を静かにのぞいてみるとよい。

あなた自身の乳児期の様子がわかれば、さらによい。
あなたは両親の豊かな愛情に恵まれ、ここでいう基本的信頼関係を構築することができた
か?
あなたの両親は、そういう両親であったか?
先に述べた、ボンディングは、しっかりとできていたか。

もしそうでないとするなら、あなたはひょっとしたら、基本的信頼関係の構築に失敗して
いる可能性がある。
だとするなら、さらに今、あなたは自分の子どもとの関係において、基本的信頼関係の構
築に失敗している可能性がある。

しかしこの問題は、あなた自身の問題というよりは、今度は、あなたの子ども自身の問題
ということになる。

親から子へと世代連鎖していくものは多いが、その中でも、こうして生まれる基本的不信
関係は、深刻な問題のひとつと考えてよい。

たとえば、母子の間の基本的信頼関係の構築に失敗すると、子どもは、「母親から保護され
る価値のない、自信のない自己像」(九州大学・吉田敬子・母子保健情報54・06年11
月)を形成することもわかっている。

さらに、心の病気、たとえば慢性的な抑うつ感、強迫性障害、不安障害の(種)になるこ
ともある。最近の研究によれば、成人してから発症する、うつ病の(種)も、この時期に
形成されることもわかってきている。

わかりやすく言えば、その子どもの心の、あらゆる部分に大きな影響を与えていくという
こと。
だからこの問題は、けっしてあなた自身だけの問題に、とどまらないということ。

基本的信頼関係のできている人は、自然な形で、当たり前のように、心を開くことができ
る。
が、そうでない人は、そうでない。だれに対しても、心を開くことができない。

では、どうするか?

この問題だけは、(1)まず、自分がそういう人間であることに気づくこと。(2)つぎに
機会をとらえて、自分をさらけ出すことに努めること。(3)あとは時間を待つ。時間とい
っても、10年単位、20年単位の時間がかかる。

それについては、何度も書いてきたので、別の原稿を参考にしてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 基本的信頼関係 
ボンディング 母子関係 はやし浩司)

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この原稿に関して、いくつか
お役に立てそうな原稿を
集めてみました。

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【子どもを愛せない親たち】

 その一方で、子どもを愛せない親がいる。全体の10%前後が、そうであるとみてよい。

 なぜ、子どもを愛することができないか。大きくわけて、その理由は、二つある。

 一つは、自分自身の乳幼児期に原因があるケース。もう一つは、妊娠、出産に際して、
大きなわだかまり(固着)をもったケース。しかし後者のケースも、つきつめれば、前者
のケースに集約される。

 乳児には、「あと追い、人見知り」と言われるよく知られた現象がある。生後5〜7か月
くらいから始まって、満1歳半くらいまでの間、それがつづく。

 ボウルビーという学者は、こうした現象が起きれば、母子関係は、健全であると判断し
てよいと書いている。言いかえると、「あと追い、人見知り」がないというのは、乳児のば
あい、好ましいことではない。

 子どもは、絶対的な安心感の中で、心をはぐくむ。その安心感を与えるのは、母親の役
目だが、この安心感があってはじめて、子どもは、他者との信頼関係(安全感)を、結ぶ
ことができるようになる。

 「あと追い、人見知り」は、その安心感を確実なものにするための、子どもが親に働き
かける、無意識下の行動と考えることができる。

 で、この母子との間にできた基本的信頼関係が、やがて応用される形で、先生との関係、
友人との関係へと、広がっていく。

 そしてそれが恋愛中には、異性との関係、さらには配偶者や、生まれてきた子どもとの
関係へと、応用されていく。そういう意味で、「基本的(=土台)」という言葉を使う。

 子どもを愛せない親は、その基本的信頼関係に問題があるとみる。その信頼関係がしっ
かりしていれば、仮に妊娠、出産に際して、大きなわだかまりがあっても、それを乗りこ
えることができる。そういう意味で、ここで、私は「しかし後者のケースも、つきつめれ
ば、前者のケースに集約される」と書いた。

 では、どうするか?

 子どもを愛せないなら、愛せないでよいと、居なおること。自分を責めてはいけない。
ただ、一度は、自分の生い立ちの状況を、冷静にみてみる必要はある。そういう状況がわ
かれば、あなたは、あなた自身を許すことができるはず。

 問題は、そうした問題があることではなく、そうした問題があることに気づかないまま、
その問題に引き回されること。同じ失敗を繰りかえすこと。

 しかしあなた自身の過去に問題があることがわかれば、あなたは自分の心をコントロー
ルすることができるようになる。そしてあとは、時間を待つ。

 この問題は、あとは時間が解決してくれる。5年とか、10年とか、そういう時間はか
かるが、必ず、解決してくれる。あせる必要はないし、あせってみたところで、どうにも
ならない。

【この時期の乳児への対処のし方】

 母子関係をしっかりしたものにするために、つぎのことに心がけたらよい。

(1)決して怒鳴ったり、暴力を振るったりしてはいけない。恐怖心や、畏怖心を子ども
に与えてはならない。
(2)つねに「ほどよい親」であることに、心がけること。やりすぎず、しかし子どもが
それを求めてきたときには、ていねいに、かつこまめに応じてあげること。『求めて
きたときが、与えどき』と覚えておくとよい。
(3)いつも子どもの心を知るようにする。泣いたり、叫んだりするときも、その理由を
さぐる。『子どもの行動には、すべて理由がある』と心得ること。親の判断だけで、
「わがまま」とか、決めてかかってはいけない。叱ってはいけない。

 とくに生後直後から、「あと追い、人見知り」が起きるまでは、慎重に子育てをすること。
この時期の育て方に失敗すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。そして一度、
この時期に不安定になると、その後遺症は、ほぼ、一生、残る。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【父親VS母親】

●母親の役割

 絶対的なさらけ出し、絶対的な受け入れ、絶対的な安心感。この三つが、母子関係の基
本です。「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味です。

 母親は、自分の体を痛めて、子どもを出産します。そして出産したあとも、乳を与える
という行為で、子どもの「命」を、はぐくみまず。子どもの側からみれば、父親はいなく
ても育つということになります。しかし母親がいなければ、生きていくことすらできませ
ん。

 ここに母子関係の、特殊性があります。

●父子関係

 一方、父子関係は、あくまでも、(精液、ひとしずくの関係)です。父親が出産にかかわ
る仕事といえば、それだけです。

が、女性のほうはといえば、妊娠し、そのあと、出産、育児へと進みます。この時点で、
女性が男性に、あえて求めるものがあるとすれば、「より優秀な種」ということになります。

 これは女性の中でも、本能的な部分で働く作用と考えてよいでしょう。肉体的、知的な
意味で、よりすぐれた子どもを産みたいという、無意識の願望が、男性を選ぶ基準となり
ます。

 もちろん「愛」があって、はじめて女性は男性の(ひとしずく)を受け入れることにな
ります。「結婚」という環境を整えてから、出産することになります。しかしその原点にあ
るのは、やはりより優秀な子孫を、後世に残すという願望です。

 が、男性のほうは、その(ひとしずく)を女性の体内に射精することで、基本的には、
こと出産に関しては、男性の役割は、終えることになります。

●絶対的な母子関係VS不安定な父子関係

 自分と母親の関係を疑う子どもは、いません。その関係は出産、授乳という過程をへて、
子どもの脳にしっかりと、焼きつけられるからです。

 しかしそれにくらべて、父子関係は、きわめて不安定なものです。

 フロイトもこの点に着目し、「血統空想」という言葉を使って、それを説明しています。
つまり「母親との関係を疑う子どもはいない。しかし父親との関係を疑う子どもはいる」
と。

 「私は、ひょっとしたら、あの父親の子どもではない。私の父親は、もっとすぐれた人
だったかもしれない」と、自分の血統を空想することを、「血統空想」といいます。つまり
それだけ、父子関係は、不安定なものだということです。

●母親の役割

 心理学の世界では、「基本的信頼関係」という言葉を使って、母子関係を説明します。こ
の信頼関係が、そのあとのその子どもの人間関係に、大きな影響を与えるからです。だか
ら「基本的」という言葉を、使います。

 この基本的信頼関係を基本に、子どもは、園の先生、友人と、それを応用する形で、自
分の住む世界を広げていきます。

 わかりやすく言えば、この時期に、「心を開ける子ども」と、「そうでない子ども」が、
分かれるということです。心を開ける子どもは、そののち、どんな人とでも、スムーズな
人間関係を結ぶことができます。そうでなければ、そうでない。

 子どもは、母親に対して、全幅に心を開き、一方、母親は、子どもを全幅に受け入れる
……。そういう関係が基本となって、子どもは、心を開くことを覚えます。よりよい人間
関係を結ぶ、その基盤をつくるということです。

 「私は何をしても、許される」「ぼくは、どんなことをしても、わかってもらえる」とい
う安心感が、子どもの心をつくる基盤になるということです。

 一つの例として、少し汚い話で恐縮ですが、(ウンチ)を考えてみます。

 母親というのは、赤ん坊のウンチは、まさに自分のウンチでもあるわけです。ですから、
赤ん坊のウンチを、汚いとか、臭いとか思うことは、まずありません。つまりその時点で、
母親は、赤ん坊のすべてを受け入れていることになります。

 この基本的信頼関係の結び方に失敗すると、その子どもは、生涯にわたって、(負の遺産)
を、背負うことになります。これを心理学の世界では、「基本的不信関係」といいます。

 「何をしても、心配だ」「どんなことをしても、不安だ」となるわけです。

 もちろんよりよい人間関係を結ぶことができなくなります。他人に心を開かない、許さ
ない。あるいは開けない、許せないという、そういう状態が、ゆがんだ人間関係に発展す
ることもあります。

 心理学の世界では、このタイプの人を、攻撃型(暴力的に相手を屈服させようとする)、
依存型(だれか他人に依存しようとする)、同情型(か弱い自分を演出し、他人の同情を自
分に集める)、服従型(徹底的に特定の人に服従する)に分けて考えています。

どのタイプであるにせよ、結局は、他人とうまく人間関係が結べないため、その代用的な
方法として、こうした「型」になると考えられます。

 もちろん、そのあと、もろもろの情緒問題、情緒障害、さらには精神障害の遠因となる
こともあります。

 何でもないことのようですが、母と子が、たがいに自分をさらけ出しあいながら、ベタ
ベタしあうというのは、それだけも、子どもの心の発育には、重要なことだということで
す。

●父親の役割

 この絶対的な母子関係に比較して、何度も書いてきましたように、父子関係は、不安定
なものです。中には、母子関係にとってかわろうとする父親も、いないわけではありませ
ん。あるいは、母親的な父親もいます。

 しかし結論から先に言えば、父親は、母親の役割にとってかわることはできません。ど
んなにがんばっても、男性は、妊娠、出産、そして子どもに授乳することはできません。
そのちがいを乗り越えてまで、父親は母親になることはできません。が、だからといって、
父親の役割がないわけではありません。

 父親には、二つの重要な役割があります。(1)母子関係の是正と、(2)社会規範の教
育、です。

 母子関係は、特殊なものです。しかしその関係だけで育つと、子どもは、その密着性か
ら、のがれ出られなくなります。ベタベタの人間関係が、子どもの心の発育に、深刻な影
響を与えてしまうこともあります。よく知られた例に、マザーコンプレックスがあります。

こうした母子関係を、是正していくのが、父親の第一の役割です。わかりやすく言えば、
ともすればベタベタの人間関係になりやすい母子関係に、クサビを打ちこんでいくという
のが、父親の役割ということになります。

 つぎに、人間は、社会とのかかわりを常にもちながら、生きています。つまりそこには、
倫理、道徳、ルール、規範、それに法律があります。こうした一連の「人間としての決ま
り」を教えていくのが、父親の第二の役割ということになります。

 (しなければならないこと)、(してはいけないこと)、これらを父親は、子どもに教えて
いきます。人間がまだ原始人に近い動物であったころには、刈りのし方であるとか、漁の
し方を教えるのも、父親の重要な役目だったかもしれません。

●役割を認識、分担する

 「母親、父親、平等論」を説く人は少なくありません。

 しかしここにも書いたように、どんなにがんばっても、父親は、子どもを産むことはで
きません。また人間が社会的動物である以上、社会とのかかわりを断って、人間は生きて
いくこともできません。

 そこに父親と、母親の役割のちがいがあります。が、だからといって、平等ではないと
言っているのではありません。また、「平等」というのは、「同一」という意味ではありま
せん。「たがいの立場や役割を、高い次元で、認識し、尊重しあう」ことを、「平等」と、
言います。

 つまりたがいに高い次元で、認めあい、尊重しあうということです。父親が母親の役割
にとってかわろうとすることも、反対に、母親の役割を、父親の押しつけたりすることも、
「平等」とは言いません。

 もちろん社会生活も複雑になり、母子家庭、父子家庭もふえてきました。女性の社会進
出も目だってふえてきました。「母親だから……」「父親だから……」という、『ダカラ論』
だけでものを考えることも、むずかしくなってきました。

 こうした状況の中で、父親の役割、母親の役割というのも、どこか焦点がぼけてきたの
も事実です。(だからといって、そういった状況が、まちがっていると言っているのでは、
ありません。どうか、誤解のないようにお願いします。)

 しかし心のどこかで、ここに書いたこと、つまり父親の役割、母親の役割を、理解する
のと、そうでないのとでは、子どもへの接し方も、大きく変わってくるはずです。

 そのヒントというか、一つの心がまえとして、ここで父親の役割、母親の役割を考えて
みました。何かの参考にしていただければ、うれしく思います。
(はやし浩司 父親の役割 母親の役割 血統空想)

【追記1】

 母子の間でつくる「基本的信頼関係」が、いかに重要なものであるかは、今さら、改め
てここに書くまでもありません。

 すべてがすべてではありませんが、乳幼児期に母子との間で、この基本的信頼関係を結
ぶことに失敗した子どもは、あとあと、問題行動を起こしやすくなるということは、今で
は、常識です。もちろん情緒障害や精神障害の原因となることもあります。

 よく知られている例に、回避性障害(人との接触を拒む)や摂食障害などがあります。

 「障害」とまではいかなくても、たとえば恐怖症、分離不安、心身症、神経症などの原
因となることもあります。

 そういう意味でも、子どもが乳幼児期の母子関係には、ことさら慎重でなければなりま
せん。穏やかで、静かな子育てを旨(むね)とします。子どもが恐怖心を覚えるほどまで、
子どもを叱ったりしてはいけません。叱ったり、説教するとしても、この「基本的信頼関
係」の範囲内でします。またそれを揺るがすような叱り方をしてはいけません。

 で、今、あなたの子どもは、いかがでしょうか。あなたの子どもが、あなたの前で、全
幅に心を開いていれば、それでよし。そうでなければ、子育てのあり方を、もう一度、反
省してみてください。

【追記2】

 そこで今度は、あなた自身は、どうかということをながめてみてください。あなたは他
人に対して、心を開くことができるでしょうか。

 あるいは反対に、心を開くことができず、自分を偽ったり、飾ったりしていないでしょ
うか。外の世界で、他人と交わると、疲れやすいという人は、自分自身の中の「基本的信
頼関係」を疑ってみてください。

 ひょっとしたら、あなたは不幸にして、不幸な乳幼児期を過ごした可能性があります。

 しかし、です。

 問題は、そうした不幸な過去があったことではありません。問題は、そうした不幸な過
去があったことに気づかず、その過去に振り回されることです。そしていつも、同じ、失
敗をすることです。

 実は私も、若いころ、他人に対して、心を開くことができず、苦しみました。これにつ
いては、また別の機会に書くことにしますが、恵まれた環境の中で、親の暖かい愛に包ま
れ、何一つ不自由なく育った人のほうが、少ないのです。

 あなたがもしそうであるかといって、過去をのろったり、親をうらんだりしてはいけま
せん。大切なことは、自分自身の中の、心の欠陥に気づき、それを克服することです。少
し時間はかかりますが、自分で気づけば、必ず、この問題は、克服できます。
(040409)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

特集【子どもの心】

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わがままを言っては、親を困らせる。
このところ、学校へも行っていない。

そんな子どもで悩んでいる、NBさんという
方から、相談がありました。

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【NBさんより、はやし浩司へ】

はやし先生、お忙しいところ長文で失礼します。

万引きをしたあと、ぎくしゃくした息子(小学3年生)との関係のことで、相談したことのあるW市
(T県)のNBです。ブログにもご回答いただきました。ありがとうございました。今回はその後、
学校を休んでいる息子のことで、相談します。お時間がある時に、ご意見いただきたく思いま
す。

息子の現状についてどう考えればいいのでしょう。先生のおっしゃった通り、もう万引きはして
いません。お金の管理も厳重にしているので、盗まれるということもありません。

ただ、公園に友達と行くとウソをついて、前のお金の残りで、コンビニでカードを買ったりしたこ
とが2度ほどありました。5月23日から休み始め、9日ぶりに、今週の月曜に(授業はなく校外
学習でしたが)、行き、また今週いっぱい休む、というような状態です。

月曜の登校は本人が決めて行きました。いろいろ読ませていただき、学校恐怖症というのでは
なく怠学というのでしょうか、まあ呼び名よりも息子の心の中が問題なわけで。万引きやそれを
問いただした時の息子のパニック(泣き叫び万引きを認めずウソで終始)が、私達にとって大
変ショックでした。

そのため当初から、「行きたくなければいいよ」「行かなくてもいいよ」というような言い方で、対
応しています。担任の先生もゆっくり見守る姿勢を示して下さるので、夫も私も今は本当に見
守る気持ちでいます。

振り返れば、何年も前から問題行動が時折あり、それをきちんと気づいてあげられなかった私
たちに、原因があります。私への絶対的な安心感を得られないまま、外でも緊張状態のまま過
ごしていたのが、ここにきて万引きや不登校という形で爆発したと考えています。

今は学校が終わる時間までは、たいてい家にいて、(私の外出は、まだ認めてくれません)、ゲ
ームや読書で過ごし、ほとんどゲームばかりしています。家事を終えてから一緒に遊んだり、
時々、買い物に行ったりしています。皆が学校から帰ってくると、頻度は減ってきましたが、
(「どうして休んでるの?」と、聞かれる友達とは遊ばなくなりましたが)、友達に電話して、遊び
に行ったりしています。

「今はちょうど給食の時間だ」とか自分から言ったり、「来週からは学校へ行く」などと言うことも
あります。本人は、内心では、学校へは行かなければとは思っているようです。

宿題などには全く関心ないようです。新聞を取ってくるとか、金魚のえさをやるとかの手伝いも
全くやる気なしです。池で釣ったザリガニを持ち帰り、世話をせず、2匹とも死なせてしまいまし
た。平気な顔をしています。

それでも私と二人の時はそれなりに穏やかにすごしているのですが、(以前のように口やかま
しく言わないですが)、途方にくれてしまうのは、夫と三人でいる時です。延々と遊びたがるので
す。特に三人で遊びたがります。このひと月で、ますますこだわりが強くなったようです。

外で遊べば、とっぷり暗くなるまで帰らない、家では寝ないで遊びたがる。11時くらいまでは、
ゲームか他の遊びをすることになります。それも少しずつ、時間帯が遅くなってきました。

「帰ろう」「寝よう」と言うと、機嫌が悪くなり、時には怒り出します。せっかく楽しんでいたのに、
いつも、最後は怒るか泣くかで終わるわけです。夜は怒り出すと、その時、胸にある不満をぶ
ちまけ暴れることもあります。ソファをけったりクッションを投げたり壁をたたいたり。

今の最大の不満は、今週末、お父さんが土曜は仕事、日曜は結婚式で家にいない、ということ
です。前の日曜の夜はこのことを言い出して2時間以上もぐずり、収まったのは、夜中の2時を
過ぎていました。

そのような時はお父さんや私が抱きしめようとしても、「やめて」と言って、怒ります。以前はそう
ではなかったのですが。絶対に式になんか行くなとか、会社や、式をあげる人を罵るような言
葉も、次々に出てきたりします。それを聞いていると、私などは最初悲しく、だんだん腹がたっ
てきてしまいます。

夫には、怒るような口調で「うるさいなあ」と言って、目でたしなめられます。私は本当にこらえ
性がないです。夫は悲しげですが、でも冷静ですね。決してきつく言うことはない。興奮して泣
いている時は、夜中でも、子どもの面倒をみています。

自分の子であって自分の子でないような気分になってしまい、そう感じる自分にも嫌悪したりし
ます。「これでもか」「これでもか」と、息子に要求されているような感じです。夫もそう感じている
らしいですが、三人いるときほど、息子がきつくなるのはどういうことなんでしょう。

万引きをした時に夫が始めてお尻をたたいて、本当に初めて、大きな声で叱ったのが関係して
いるのでしょうか。夜は、ほおっておいて寝る、というわけにも行かず、寝不足の日々です。

寝るときはもちろん川の字で。

学校の先生は今の甘えている状態を、「(幼児期の)忘れ物を取りにいってるんですね」と表現
されました。9年間の忘れ物が1ヶ月やそこらで取り戻せるとは思ってはいませんし、数ヶ月単
位で様子を見なければならないんですね。

なのに、本当に今はこれでいいのだろうか?、どう推移するのだろうと、明るくゲームに興じて
いる様をみていると不安になります。

「お母さんはいつも太陽でいてください」と言われているのですが、実は人に会うのも少し、おっ
くうになってきた、今日、このごろです。


【はやし浩司より、NBさんへ】

 息子さんは、(絶対的な安心感)が得られず、いつも、不安な状態にあると考えてください。つ
まり心は、いつも緊張状態にあるとみます。絶対的な安心感というのは、「疑いすらもたない」と
いう意味です。心理学で言えば、あなたと息子さんの関係は、「基本的不信関係」ということに
なります。

 で、NBさんは、何とか、息子さんに安心感を与えようと努力していますが、残念ながら、息子
さんは、あなたの心の奥まで、読んでしまっています。あなた自身が、子育てをしながら、不安
でならない。つまり絶対的な安心感を覚えていないため、それを息子さんは、感じ取ってしまっ
ているわけです。

 つまりあなたは、「不安だ」「心配だ」と思っている。それがそのまま息子さんに伝わってしまっ
ているというわけです。

 こういうケースでは、『あきらめは、悟りの境地』という格言が、役にたつと思います。「うちの
息子は、こうなんだ」と、あきらめて、受け入れてしまうということです。「ほかの子とは、ちがう」
「このままでは、心配だ」「どうすればいいんだろう」と、悩んでいる間は、決して、安穏たる日々
はやってきません。息子さんにしても、そうです。

 もちろん原因は、息子さんが生まれたとき、息子さんを、全幅に受け入れなかったあなた自
身にあります。が、今さら、それをどうこう悩んでも、しかたのないことです。

 ただこうした子どもの心の問題には、二番底、さらには、三番底があります。形としては、つま
り、症状としては、(家庭内暴力)に似ています。息子さんが、まだ小さいため、NBさんの管理
下というか、コントロール下にありますが、息子さんが、小学校の高学年児、あるいは、中高校
生だとしたら、こうは、簡単には、片づかないはずです。

 私はドクターではないので、これ以上のことは書けませんが、もし今のようなはげしい不安状
態、混乱状態、さらには緊張状態がつづくようなら、一度、心療内科のドクターに相談なさって
みられたらよいでしょう。そのとき、NBさんが、私にくれたメールなどを、ドクターに読んでもらう
とよいでしょう。

 今では、すぐれた薬も開発されています。それによって、息子さんが見せている、一連の(こ
だわり)症状も、軽減するはずです。

 家庭では、(1)求めてきたときが、与え時と考えて、スキンシップなど、そのつど、子どもをす
かさず抱いてあげたりします。が、やりすぎてはいけません。そこで大切なことは、(2)暖かい
無視です。無視すべきところは、無視しながら、子ども自身の自由な時間には、干渉しないよう
にします。

 不登校については、学校恐怖症というよりは、怠学に近いと思われます。子どもの言葉に一
喜一憂したり、振りまわされたりしないように、注意してください。このタイプの子どもの(約束ご
と)には、意味がありません。意味がないというより、子ども自身、自分をコントロールできない
でいるのです。

 で、今度は、NBさん側の問題ですが、お気持ちはわかりますが、全体的に過関心かな…
…?、という印象をもっています。すべてが、子ども中心に動いてしまっている(?)。すべてが
子どもに集中しすぎているといった感じです。状況としては、しかたないのかもしれませんが、
そのため、NBさん自身が、育児ノイローゼの一歩手前にいるようにも思います。

 不登校については、今の状況では、すぐには改善しないと思います。NBさんが言っているよ
うに、どうか、数か月〜半年単位で、考えてみてください。この問題は、根が深いということ。コ
ツは、「なおそう」とは思わないこと。「今の状況をこれ以上悪くしないことだけを考えて、対処す
る」です。

 消極的な対処法にみえるかもしれませんが、無理をすれば、ここでいう二番底、さらには三
番底へと、子どもが、落ちていきます。今はまだ何とかなりますが、子どもの体が大きくなった
り、腕力がついてくると、そうはいかなくなるということです。

 たまたま別の方から、同じような相談が届いていますので、どうか、参考にしてみてください。
よろしくお願いします。

●掲示板への書きこみから

++++++++++++++++++++++

NBさんから、相談のメールをもらった同じ日、
掲示板にこんな書きこみがあった。

小学2年生の、Mさん(女児)についてのもの
だった。

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【掲示板への相談より……】

教員ではありませんが、小学校で子どもと関わる仕事をしています。教員免許は持っていま
す。

お手伝い先生のような仕事です。大卒後、企業で8年間、勤務し、退職後、初めての職場。初
めての教育の現場です。詳しく書くことができなく、申し訳ありません。不適切なら削除してくだ
さい。

現在、ある小2女子児童の担当になっています。(Mさんとしておきます。)・・・と言っても、日替
わりで上から指示されるので、とても不安定です。

Mさんは両親が離婚したあと、4月中旬に転校してきました。前の学校では不登校。現在は毎
日来ていますが、徐々に完全に保健室登校になってきています。

毎朝お母さんが送ってきますが、子どもがお母さんから離れられません。お母さんは、Mさん
を、車からぽーんと出し、バン!と閉めて、そのまま帰ってしまいます。そこでMさんは、泣き叫
び後を追いかけます。

道路でMさんを出すのは危険なのでというような指導が、学校側からあったようです。それから
は、お母さんは、Mさんを、学校の中まで中まで送ってきます。が、送ってくると、Mさんは、抱
きついたままお母さんの髪をぎゅーっとつかんで離しません。

そのとき、お母さんの靴を隠す、持ち物を隠す、取り合いになったりすることもあります。転んだ
すきに、お母さんは逃げるように、振り返らず去っていきます。

そのあとも、切れ端(ゴミのようなもの)を握り締め、「ママ・・・」と、しくしく泣き、「それどうする
の?」と聞くと、「お守りだから・・・」と。それを聞くと、胸が張り裂けそうになります。

私にはこの子を抱きしめる事しかできません。背中をさすって、「そう、そう、つらかったんだ
ね」と、沢山聞いてあげる事しかできません。担任からはくわしく話を聞かせてもらうこともあり
ません。でも一応、Mさんの担当なのです。

学校の担任の先生は、「早く教室に入りなさい」と言うだけです。クラスの児童からは、常に、
「この学校は、○○なんだぞ!」とか、「○○ちゃんがきたから、席が替わったじゃない!」と言
われ、みなは、どこかMさんをじゃまにしているような雰囲気です。

私がMさんの担当になる前は、誰も付いていなかったので、たとえば教室前でもじもじしている
と、担任(女性)から腕をつかまれ、引きずられるように入れられていたそうです。

Mさんが、抵抗すると、担任は、お腹をつねっていたようです。そしてとうとう教室を見ただけで
吐き気が起こすようになったり、担任を見ると逃げたり、隠れたり、さらには、クラスの児童を見
ると、「恐い・・・」と消えそうな声で、つぶやくようになってしまいました。

「恐い」にしても、初めの段階では、「集団が恐い」と言っていました。が、最近ではクラスの児
童に限定されてきたようです。優しい子もふくめて、どの子も恐がっているようです。

時限ごとに、Mさんが、「教室へ行ってみる・・・でも無理だったら戻ってもいい?」と言うので、
一緒について行くと、やはり、「恐い・・・やっぱりダメ」という感じです。

また、学校の対応もバラバラです。「今日は1日、この部屋で2人でいていいですよ」というの
で、それなりにおたがいに楽しそうに、じゃあ、今、国語だから漢字ドリルしようか、というような
調子でやっていると、ガラっ!と、突然開いて、知らない先生が「次! 図工だよ! 行け
る!?」と、Mさんのランドセルを持って行ってしまうのです。

子どもは一気に緊張した顔で、条件反射的に、「はい」と答え、部屋を出る。が、やはり行けな
い。そこでその先生が、「はいって言ったじゃない、どうしていけないの?」となじったりしま
す・・・・。と、思ったらまた急に他の先生が入ってきて、保健室にいてもいいですよ。いつ来ても
いいですよー、と言う始末。

はやし先生。これでこの子はどうなってしまうのでしょう。「ママ、バイバイしないで行っちゃった
ー」と泣くことから1日が始まり、クルクルと周りの指導が変わり、(私も規則で12時までしかい
っしょに、いられません)、Mさんにしてみれば、親に裏切られ、先生に裏切られ、友達も・・・と
いうような状況ですよね。

お母さんの話をするときは、赤ちゃん言葉です。以前、過呼吸に近い状態になり驚きました。
最近、混乱してくると頭を、自分で、げんこつでボカボカと自分で殴ります。見ていて恐いくらい
です。

本人の話しによると、以前は、お父さんの実家で同居していたそうです。いとこ(中学生)たちも
いたようで、よく殴られたと言います。

そして現在、お母さんにはお友達がいて、私の話ををちっとも聞いてくれない。お友達は男性
で、毎日のように泊まっていくとのこと。

また、反対にMさんのお母さんからの話しでは、家ではまったく甘えない。そんなそぶりさえ見
せない。学校でこんなに離れないなんてウソみたい。帰ったら遊ぶ約束をしてやっているのに、
宿題が終わらないから泣いてばかりで、遊べない、ということです。
(高知県在住・KUより)

【KU先生へ、はやし浩司より】

 掲示板の記事を読んで、その内容が、最近経験した、Z君(中2男子)と、あまりにも酷似して
いるので、驚きました。

 Z君は、乳幼児のときから、母親の冷淡、無視、育児放棄を経験しています。母親は、「生ま
れつき、そうだ」と言いますが、Z君は、見るからに弱々しい感じがします。全体に、幼く見え、
言動も幼稚ぽく、その年齢にふさわしい人格の核(コア・アイデンティティ)の確立がみられませ
ん。

 はきがなく、追従的で、いつも他人の同情をかうような行動をします。かなり強烈なマイナス
のストロークが、働いているようで、何をしても、「ぼくはできない」「ぼくはだめな人間」と言いま
す。

 ほかの子どもたちのいじめの対象にもなっています。母親は、そういうZ君を「かわいい」「か
わいい」とでき愛していますが、その実、Z君を、外へ出したがりません。「外へ出すと、みなに
いじめられるから」を理由にしています。典型的な、代償的過保護ママです。

 特徴としては、つぎのようなことがあります。思い浮かんだまま、並べてみます。

(1)自己管理能力がない……薬箱のドリンク剤を一日で、全部(10本ほど)、飲んでしまう。そ
のため、ますます母親に強く叱られる。届け物に買ってきた、菓子などを、勝手に封をあけて、
食べてしまったこともある。

(2)特定のものに、強くこだわる……カードゲームのカードをたいへん大切にしている。それを
毎日、戸棚から出し、また並べなおしたりしている。下に、6歳離れた弟がいるが、弟がそのカ
ードに触れただけで、パニック状態(オドオドとして、混乱状態)になる。

(3)時刻にこだわる……片時も腕時計を身からはなさず、いつも、時計ばかり見ている。行動
も、数分単位で、正確。朝、目をさましても、その時刻(6時半)がくるまで、床の中でじっと待っ
ている。そのときも、時計ばかり、見ている。メガネをかけているが、寝るときでさえも、かけた
まま。

(4)衝動的な自傷行為……ときどき、壁に頭をうちつけたりする。あるいは、ものを、壁にぶつ
けて、壊してしまう。ラジカセが思うようにならなかったときも、かんしゃく発作を起こして、こわし
てしまったこともある。が、満足しているときは、借りてきた猫の子のようにおとなしく、おだやか
だが、ふとしたことで急変。二階へつづく階段から、大の字のまま、下へ飛び降りたこともあ
る。現在、前歯が2本、欠損しているが、自傷行為のために、そうなったと考えられる。

(5)異常なまでの依存性……独特の言い方をする。おなかがすいたときも、「〜〜を食べた
い」というような言い方をしない。「〜〜君は、何も食べなかったから、死んでしまった」「ぼくは、
10日くらいだったら、何も食べなくても、平気」などと言ったりする。自主的な行動ができず、他
人の同情をかいながら、全体に、何かをしてもらうといった生活態度が目につく。

(6)幼児がえり……しばらく話しあって、打ち解けあうと、とたんに、幼児言葉になる。年齢的に
は、4〜5歳くらいの話し方をする。「ママが、ぼくを、たたいた」「○○さん(Z君の叔母)が、ぼく
をバカにした」と。

 母親は、仮面型タイプの人間で、私のような他人の前では、きわめて穏やか。始終、やさしそ
うな笑みを浮かべて、さもZ君を心底、思いやっているというようなフリをします。私が会ったと
きも、母親は、Z君の背中を、さすりながら、「元気を出そうね」と言っていました。

 このZ君というより、Z君の母親について、問題点をあげたら、キリがありません。代償的過保
護のほか、代理ミュンヒハウゼン症候群、虐待、基本的不信関係、仮面型人間、ペルソナ…
…。

 これらの原稿については、このあとに添付しておきますので、どうか、参考にしてください。

 で、私もこうした事例に、よく出会います。そしてそのつど、(限界)というか、(無力感)を味わ
います。ここにあげたZ君にしても、最終的に、私が預かるという覚悟ができれば、話は別です
が、そうでなければ、結局は、母親に任すしかないということになります。

 またこういう母親にかぎって、私のようなものの話を聞きません。何かを説明しようとすると、
ここにも書いたように、「生まれつきそうだ」とか、「遺伝だ」とか、さらには、「父親(夫)が、ひど
いことをしたからだ」と、他人のせいにします。

 ものの考え方が、きわめて自己中心的なのが、特徴です。もっと言えば、自分の子どもを、モ
ノ、あるいは奴隷かペットのように考えています。ひとりの人間として、みていません。

 で、30代のころは、そういう子どもばかり預かって、四苦八苦したことがあります。夜中中、
車で、走り回ったこともあります。しかしその結果たどりついたのが、「10%のニヒリズム」とい
う考え方です。

 若いころ、どこかの教師が、何かの会議で教えてくれた言葉です。

 決して、全力投球はしない。90%は、その子どものために働いても、残りの10%は、自分の
ためにとっておくという考え方です。そうでないと、身も心も、ズタズタにされてしまいます。今の
KU先生、あなたが、そうかもしれません。

 が、ご心配なく。もっと複雑で、深刻なケースを、たくさんみてきましたが、子どもは子どもで、
ちゃんと、大きくなっていくものです。もちろん心に大きなキズを残しますが、そのキズをもった
まま、おとなになっていきます。が、やがて自分で、それを克服していきます。つまりそういう人
間が本来的にもつ(力)を信じて、やるべきことはやりながらも、子どもに任すところは、任す。

 あとは、時間が解決してくれます。

 で、Mさんは、明らかに、分離不安ですね。心はいつも緊張状態にあって、その緊張状態か
ら解放されないでいるとみます。家庭の中でも、心が休まることがないのでしょう。一応、母親
の前では、(いい子?)でいるのでしょうが、それは、本来のMさんの姿でないことは、確かなよ
うです。

 (いい子?)でいることで、母親の愛情を取り戻そうとしているのです。私がときどき書く、「悲
しいピエロ」タイプの子どもというのは、このタイプの子どもをいいます。

 が、肝心の母親は、それに気づいていない。つまりここにこの種の問題の悲劇性がありま
す。

 また閉ざされた子どもの心を開くことは、容易なことではありません。1年や2年は、かかるか
もしれません。ちょっとしたことで、また閉じてしまう。この繰りかえしです。しかしあきらめては
いけません。ただ、このタイプの子どもは、いろいろな方法で、あなたの心を試すような行動に
出てくることがあります。

 急にわがままを言ってみたり、乱暴な行動に出てみたりする、など。こちらの限界を見極めな
がら、ギリギリのことをしてくるのが、特徴です。で、そういうときは、まさに根競べ。とことん根
競べをします。子どもの方があきらめて手を引くまで、根競べをします。

 「私はどんなことがあっても、あなたを見放しませんからね」と。

 それに納得したとき、子どもははじめて、あなたに対して心を開きます。

 幸いなことに、Mさんは、あなたというすばらしい先生に、出会うことができました。何が大切
かといって、あなたの今の(思い)ほど、大切なものは、ありません。その(思い)が、あなたとM
さんの絆(きずな)、あるいはMさんの心を支えるゆいいつの柱になっていると思います。

 ところで私は、最近、はじめて、ADHD児の指導を断りました。今までは、むしろそういう子ど
もほど、求めて教えてきたようなところがあります。

 しかし体力の限界だけは、もうどうしようありません。1〜2時間、接しただけで、ものすごい
疲労感を覚えるようになりました。それで断りました。

 そのとき感じた、敗北感というか、虚脱感には、ものすごいものがありました。悶々とした気
持ちで、数日を過ごしました。

 しかしあなたは、まだ若いし、いくらでも、そういう仕事ができます。どうかあきらめないで、が
んばってください。

 繰りかえしますが、あなたのような先生に出会えたことは、Mさんにとっては、本当に幸いなこ
とです。Mさんにかわって、喜んでいます。どうか、どうか、がんばってください。応援します。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司※

●1月16日

+++++++++++++++++

昨日、楽天BLOG(1500件)、
GOO−BLOG(600件)ほか、
BLOGだけのアクセス数だけで、
4000件を超えた。
(BLOGは、毎日集計される。)

HPへのアクセス数も、それぞれの
TOP・PAGEだけでも、2000
件前後。

ホームページのばあい、ハイパーリンクで、
それぞれのページに直接アクセスしてくる
人もいるので、実際の数は、わからない。

ちなみにカウンターを設置してある、
「音楽と私」のページへは、300件、ほか。

こうしてみると、昨日1日だけで、
BLOG+HPへのアクセス件数は、1万件を
超えたことになる。
これにマガジンの配信数などを加えると、
1万3000件。
これはものすごいことだと思う。
昨年(08)の2月に、1か月分のアクセス数を
合計してみたら、10万件を超えた。
それが今は、このままだと、30万件!
その数は、平均的な月刊雑誌とほぼ同じ。

1か月で、30万件だぞ!!
このままだと、1年で、360万件!!!

アクセスしてくれる人が、みな、好意的という
わけではない。
それはわかっているが、率直に言って、
うれしい。

少しずつだが、私の身のまわりで、何かが
変わりつつある。
今は、そんな感じがする。

++++++++++++++++++

●心を開く

そこでは、ありのままの自分でいられる。
自分を飾ることもない。
神経を使うこともない。
したいことをする。

おならを出す。
鼻くそをほじる。
趣味の本をパラパラとめくり、
そのまま居眠りする。

が、そこに人が入ってくる。
人の気配を感ずる。
突然、心の中が、ざわつく。
緊張する。
心がガードする。
相手が客であれば、笑顔をつくる。
相手が部下であれば、背筋を伸ばして威厳をつくる。
部長であれば、なおさら。

こうしてその人は、人の渦の中に巻き込まれていく。
緊張感の中に、引きずり込まれていく。

そのとき、心が開ける人は、そのまま相手の心の中に
溶け込んでいく。
そうでない人は、心をこわばらせる。
体をこわばらせる。
ストレスが猛烈な勢いとなって、その人を襲う。
疲れる。
息が切れる。

++++++++++++++++++H.Hayashi

【極楽浄土論】

●私は極楽行き? 

ときどきこんなことを考える。
私は死んだら、極楽へ行くのだろうか。
それとも地獄へ行くのだろうか、と。

仏教の教えによれば、それを最終的に判断(ジャッジ)するのは、
あの閻魔(えんま)大王だそうだ。
中国でできたニセ経の上に、さらに日本でニセ経を塗り重ね、そういう話ができた。
今では、子どもですら、そんな話は信じない。
幼稚というか、稚拙(ちせつ)。
しかし私は、最近、閻魔大王というのは、ワイフであり、3人の息子たちではないかと
思うようになった。
それには、こんな話がある。

昨年(08年)、実兄と実母が、つづいて他界した。
そのときのこと。
私はこんなことを考えた。
「兄や母は、極楽へ行くのだろうか。それとも地獄へ行くのだろうか」と。
地獄と極楽しかないとなれば、二者択一、ということになる。
地獄と極楽の間には、中間の世界はない。
そこで兄や母のことを、あれこれと思い起こしてみる。

●善人vs悪人

1人の人間を、どう判断するか。
これはたいへん難しい問題である。
というのも、1人の人間には、いろいろな面がある。
相手によっても、印象がちがう。
年代によっても、変化する。

たとえばAさんは、若いころの母をよく知っていて、「勝気な人でした」という。
Bさんは、晩年の母をよく知っていて、「やさしくて、穏やかな人でした」という。
また他人から見た母と、私という子どもから見た母は、まったく違う。
それは善人vs悪人論とも似ている。

善人と悪人とは紙一重。
しかしまったくの善人がいないのと同じように、まったくの悪人もいない。
よく聞く話だが、死刑囚といわれる人の中には、仏様のようになる人もいるという。
さらに私という人間にしても、あるカルト教団の人たちからは、「魔王」と
呼ばれている。
その教団を攻撃する本を、何冊か書いたからである。
さらにあのK国が、日本を支配したら、この私はまっさきに処刑されるだろう。
いつもあの「将軍様」のことを、「金xx」と書いている。
拉致事件に抗議の念をこめて、そうしている。

どこをどのように見て、善人と判断し、悪人と判断するのか。
何しろ、中間がない。
「閻魔大王の仕事も、たいへんだなあ」と思う。

●私であって(私)でない部分

私は自分では、善人とは思っていない。
どちらかというと、悪人かもしれない。
少なくとも、3人の息子たちは、そう思っている。
「パパは仕事ばかりしていた」
「ママを奴隷のように使っていた」
「パパはワンマンで、ぼくたちの話を聞いてくれなかった」と。

ときどきそういう不満を、今になって私にぶつけることがある。
が、私はいつもそういうとき、こう思う。

「私は私で、懸命だったのだ」と。

息子たちに、私が生きた時代の説明をしても意味がない。
「日本は貧しかった」と言っても、その(貧しい時代)そのものを、知らない。
ボットン便所の話をしても、無駄。
息子たちにしてみれば、生まれながらにして、トイレは水洗トイレ。
それしか知らない。
ボットン便所から、水洗トイレになったときのうれしさを知らない。
だからこう言う。
「そんなのは、パパの時代の話で、ぼくたちには関係ない」と。

つまり私という人間にしても、(過去)の無数のしがらみを引きずっている。
私であって、(私)でない部分も多い。
たとえば道路にお金が落ちているのをみると、今でもさっと拾ってしまう……と思う。
(この20〜30年、そういう経験がないので、わからない。)
交番へ届けようなどいう気持ちは、まず起きないだろう。
起きないから、そのジレンマの中で、迷う。
「もらってしまうべきか、それとも交番へ届けるべきか」と。
が、これとてあの戦後の、ひもじい時代を生きたからこそ身についた錆(さび)の
ようなもの。

私が悪いと思う前に、私はあの時代に、責任を求める。
あの時代が悪い。
あの戦争が悪い。

さらに私には、私の生い立ちもからんでくる。
いろいろあった。
その(あった)部分の中で、心もゆがんだ。

重罪といわれる罪を犯した犯罪者にしても、そうだ。
そういう人を、本当に悪人と言い切ってよいのか。
あるいはそう言い切れる人は、どれだけいるのか。

●息子たちが判断する

そこで私のこと。
自分で自分のことを判断するのは、難しい。
ワイフにしても、利害関係が一致しているから、難しい。
そこで、どうしても息子たち、ということになる。
私を判断するのは、息子たち。

息子たちは、(私)を、内側から見ている。
私が外の世界で隠している部分すらも、見ている。
それに人格の完成度も、今となっては、私より高い。
私が見た世界とは、比較にならないほど、広くて大きな世界も見ている。
私を、1人の親というよりは、1人の人間として見ている。

私にしても、閻魔大王などよりも、息子たちに判断(ジャッジ)されるほうが、
よほどよい。
安心できる。
仮に「地獄へ行け」と判断されても、それにすなおに従うことができる。
息子たちがそう言うなら、しかたない。
が、そこでもまた問題が起きる。

私が兄や母に地獄へ行けと言えないように、息子たちもまた、私に地獄へ行けとは
言えないだろう。
たとえ悪人であっても、だ。
それにこんなケースもある。

ある女性の話だが、若いころは、たいへん優雅で気品のある人だったという。
その女性が今は、老人施設に入居して、毎日、毎晩、怒鳴り声をあげているという。
「バカヤロー」「コノヤロー」と。
年齢は、現在、80歳を少し過ぎたところという。

こういうケースでは、どう判断したらよいのか。
その女性は、善人なのか、それとも悪人なのか。
悪人ではないとしても、そんな状態で、極楽へ入ったら、ほかの善人たちが迷惑する
だろう。

●地獄も極楽もない

地獄も極楽もない。
あるはずもない。
だいたい釈迦自身、一言もそんなことを言っていない。
ウソと思うなら、自分で『法句経』を読んでみることだ。
「来世」「前世」にしても、そうだ。

だからそれをもとに、善人論、悪人論を、論じても意味はない。
ただ法体系が未完成だったころなら、地獄論で悪人を脅すこともできたかもしれない。
「悪いことをすると、地獄へ落ちるぞ」と。
それでたいていの人は、黙った。
私が子どものころでさえ、そういう会話を、よく耳にした。

兄は兄として、他界した。
母は母として、他界した。
無数のドラマを残して、他界した。
よいドラマもあれば、悪いドラマもある。
今さら、そんなドラマを問題にしても意味はない。

同じように、今を生きる私たちも、できることと言えば、ただ懸命に生きるだけ。
よいことをしていると思っていても、悪いことをしていることもある。
悪いことをしていると思っていても、よいことをしていることもある。
常に結果は、あとからついてくる。
放っておいても、あとからついてくる。
だからこう思う。

地獄でも極楽でも、どちらでもよい、と。
こんな無意味なことを考えるのは、今日で最後にしたい、と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
地獄 極楽 地獄論 極楽論 善人 悪人)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN 09++++++++++はやし浩司

【浄土論】

神や仏も教育者だと思うとき 

●仏壇でサンタクロースに……? 

 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもち
ゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。そこで私は、仏
壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、
私にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣は欠か
したことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできごとがあった。あ
る英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にあ
る、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。

私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。そのとき以来、
私は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人が
いる。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い事をしようと思
っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

●身勝手な祈り

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間
に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売
が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸
す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。

一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナ
ーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。どうせその程度の人が、で
まかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇〇万件とは! あの『ドラえ
もん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。今からたった二五年前には、「ありえな
い電話」だったのが、今では幼児だって持っている。奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇
跡だ。

その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……? 人間の理性というのは、文明
が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がい
た。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。「先生、ぼくは
超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。

●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがあ
る。たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回
向論である。

これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令に
よってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれては
いても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿
氏)となる。

しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわから
なくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。要するに親鸞が
言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではないか。悪人が念仏
を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。しかしそれ
でもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のこ
とではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子ども
こそ、ほめられるべきだ」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。

「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。問題のあ
る子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。私にはこんな
経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教
団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、無間地
獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)
と。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。あるいはその教団に
は、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになっ
た。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがってい
る。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼ら
が言うところの慈悲ではないのか。

私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には「バカヤロー」と
悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだ
ろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。神や仏ではない私だって、それくらい
のことは考える。いわんや神や仏をや。

批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏では
ない。悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題のある子どもを
もつということが地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、
そんなことまでわかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、
と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理
解できる。

さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生……」と、
すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。「何とかい
い成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。いちいち子どもの願いごとをかなえてや
っていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で努力することをやめてしまう。そうなれば
なったで、かえってその子どものためにならない。人間全体についても同じ。

スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめてしま
う。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう考えるのは、まさに神や
仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤
い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきり
と覚えている。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●子どもの宗教を考える法(宗教の話は慎重にせよ!)

教師が宗教を語るとき

●宗教論はタブー 

 教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。こんな失敗をしたことがある。一人の子ども
(小三男児)がやってきて、こう言った。「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチが当たった
からだ」と。そこで私はこう言った。「バチなんてものは、ないのだよ。それにこのところの水不
足で、農家の人は雨が降って喜んだはずだ」と。

翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んできた。「貴様はうちの孫に、何てことを
教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。その一家は、ある仏教系の宗教教団の熱心な信者
だった。

 また別の日。一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。「先生、うちの主人に
は、シンリが理解できないのです」と。私は「真理」のことだと思ってしまった。そこで「真理という
のは、そういうものかもしれませんね。実のところ、この私も教えてほしいと思っているところで
す」と。その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。が、どうも会話がかみ合わな
い。そこで確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」のことだとわかった。

 さらに別の日。一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。夏の暑い日で、それが
汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。そこで私が「これは何?」とそのひもに手をか
けると、その女の子は、びっくりするような大声で、「ギャアーッ!」と叫んだ。叫んで、「汚れる
から、さわらないで!」と、私を押し倒した。その女の子の一家も、ある宗教教団の熱心な信者
だった。

●宗教と人間のドラマ

 人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。そういう人たちを、とやかく言うことは許さ
れない。よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がい
るから、宗教がある。だから宗教を否定しても意味がない。それに仮に、一つの宗教が否定さ
れたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく人間のドラマまで否定されるもの
ではない。

 今、この時点においても、日本だけで二三万団体もの宗教団体がある。その数は、全国の
美容院の数(二〇万)より多い(二〇〇〇年)。それだけの宗教団体があるということは、それ
だけの信者がいるということ。そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰してい
る。その懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。

●「さあ、ぼくにはわからない」

 子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。「先生、神様って、いるの?」と。私はそういうと
き「さあね、ぼくにはわからない。おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。あるいは「あの世はあ
るの?」と聞いてくる。そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」と逃げる。霊魂や幽霊につ
いても、そうだ。ただ念のため申し添えるなら、私自身は、まったくの無神論者。「無神論」とい
う言い方には、少し抵抗があるが、要するに、手相、家相、占い、予言、運命、運勢、姓名判
断、さらに心霊、前世来世論、カルト、迷信のたぐいは、一切、信じていない。信じていないとい
うより、もとから考えの中に入っていない。

 私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」と
いうことで、その日にした。いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だったという
ことも、あとから母に言われて、はじめて知った。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 宗教
論 宗教とは 親鸞 回向論 悪人をや)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

(BW方式)(早数え)

+++++++++++++++++++++

幼児期においては、計算練習に先立って、早数えの練習をしておくとよい。
(ひとつ、ふたつ、みっつ……)ではなく、(イチ、ニ、サン……)と。
さらに慣れてくると、(イ、ニ、サ、シ……)となり、(ニ、シ、ロ、ハ……)となる。
ここでいくつかのコツがある。

(1)数の信号化……(イチ、ニ、サン、シ……)ではなく、(ピ、ピ、ピ……)と
頭の中で信号化させる。

(2)黙読化……年長児になったら、「頭の中で数えなさい」、あるいは「口を閉じて
数えなさい」と指示する。声を出させない、口をもぐもぐさせない。

(3)10ずつまとめて数える……(1、2、3,4,5,6,7,8,9,10、
1,2,3,4,5,6,7,8,9,20、1,2,3,4,5,6,7,8,
9,30……)と、(10)(20)(30)と数えさせていく。

方法としては、

(1)手をパンパンとたたいて、それがいくつかを当てさせる。
(2)反対に、子どもに、できるだけ早く、10(あるいは30)を、たたかせる。
そのときも、声を出させない、口を閉じてさせる。

数の信号化ができ、それが早くできるようになれば、あとあと計算力のある子どもに
なる。

たとえば(2+3)は、「ピピと、ピピピで、5」と。

(BW方式 計算力)

Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司※

●「アソ」という名前の総理大臣

++++++++++++++++++

Obama(オバマ)大統領就任式を
迎え、2つのニュース。

ひとつは、福井県小浜市が、就任式に
何かをしようとして、断られたという
ニュース。
もうひとつは、K国が、やはり就任式に
出席を申し込んだが、断られたという
ニュース。

++++++++++++++++++

福井県小浜市の人たちには、申し訳ないが、「オバマ」と日本語で発音しても、
向こうではだれも、「Obama(新大統領)」のこととは、思わないだろう。
発音そのものがちがう。

たとえば近くにアメリカ人がいたら、日本語式の発音で、「プラットフォーム」とか、
「マンション」とか言ってみればよい。
「ゴルフ」でもよい。
日本に長く住んでいるアメリカ人にならともかくも、こうした和式英語は、100%、
通じない。

「Obama」が、「オバマ」になり、「小浜(市)」になった。
その逆でもよい。
それは、よくわかる。
小浜市の人たちは、Obama氏を、なんとか町おこしにつなげたいと思っているの
かもしれない。
その気持ちも、よくわかる。
しかし……。
私の印象では、Obama新大統領は、そうした申し出には、乗ってこないと思う。
日本にとってアメリカは、巨大な国だが、アメリカにとって日本は、そうでない。
アメリカの大学生のほとんどは、日本がどこにあるかさえ知らない。
それにこんな話もある。

日本の地名ほど、外国人を悩ませるものはない。
そこで、日本へやってくる外国人は、日本の地名を、それぞれ自分の知っている単語
に結びつけて覚える。

たとえば「福岡」は、「Fuxx(ひわい語)−Oka」、
「日光」は、「Nicker(ポンド紙幣)」など。
たぶん「小浜」は、「Over−ma(超える・ママ)」というような覚え方を
するのではないか。
「Obama」と発音しても、「小浜」にはならない。

で、彼らが日本語を覚えるときも、この手法をよく使う。

たとえば「こんばんは」は、「Comb ban wah」とか、など。
日本人が外国語を覚えるときのように、カタカナ表示のようなことは、しない。
発音記号で書く外国人など、見たこともない。
そういう点では、英語の単語は豊富。
たいていの日本語は、英語の単語に置き換えることができる。
ちなみに「Comb ban wah(コンバンハ)」は、「くし・禁止・ワー」
という意味。

ところで、逆の話もある。

今の日本の総理大臣は、「アソ」である。
しかし「アソ」というのは、そのままズバリ、「axx−sore」となる。
このばあいは、発音どおり。
つまり「xx・痛い」となる。
「axx」は、ひわい語。
「Fuxx」と並んで、文字で表記することすら、禁止されている。

「アソ」という名前の人は多い。
だからこんなことを書くと、不愉快に思うかもしれない。
それはわかっているが、どうか許してほしい。
私の名前の「ヒロシ」にしても、フランスの元植民地であった国々では、
おかしな意味になる。

彼らは「ヒロシ」を、「イロシ」と発音する。
「h」の発音を抜いてしまう。
たとえばベトナムなどでは、「イロシ」というと、日本語でいう「エロ」、つまり
「スケベ」という意味になる。
だから私の名前の「ヒロシ・ハヤシ」は、「スケベ・ハヤシ」となる。
私は、そういう国々では、「ジョージ・ハヤシ」という名前を使うことにしている。

で、「アソ」。
「アソ」という名前の人は多い。
「阿曾」「阿蘇」「阿曽」「安蘇」など。
「麻生」も、そのひとつ。
そういう人たちには申し訳ないが、(しかし事実だから、どうしようもないが)、
英語国では、先にも書いたように、とんでもない意味になる。
そういう名前の人には、失礼だと思うから、ふつうなら、こんなことは書かない。
しかしそれが今、日本の総理大臣の名前として使われている。

率直に言えば、「アソ」という名前は、国際的なネーミングとしては、
まことにもって、ま・ず・い。
ふつう「axx(アス)」というのは、相手をバカにした言葉として使われる。
「バカヤロー」は、「axx−hole(xxの穴)」となる。

で、昔、日本の天皇が、アメリカを訪問したとき、天皇がこの単語を連発したことで、
話題になった。
天皇は何かの説明を受けるたびに、「アッソー」「アッソー」と言った。
そのたびに向うの人たちは、その言葉に、たいへん戸惑ったという※。

で、同じObama新大統領の就任式についてだが、K国が、式への出席を
申し込んだという話には驚いた。
まるで、トンチンカン。
まったく自分のことがわかっていない。
いったい自分は何様のつもりでいるのか。
あの国のやることなすことすべて、私の理解の範囲を超えている。

(付記)
あのブッシュ大統領でも、アソ総理大臣の名前だけは、すぐに覚えたことと思う。
外人には、たいへん覚えやすい名前である。
しかも一度耳にしたら、ぜったいに忘れない。
余計なことだが……。

(注※)これには、こんなエピソードがある。
NHKの特派員が、当時、天皇の訪米に同行して、アメリカの小学校を訪れた。
そこでのこと。
その特派員が日本人とわかると、子どもたちがみな、両手を合わせて特派員のところへ、
寄ってきて、こう言った。
「アッソー」「アッソー」と。
それを報道しながら、特派員は、こう言った。
「こんなところにも陛下訪米の成果が現れています」と。

が、たまたまそれのテレビを私の横で見ていた、オーストラリアの友人が、こう言って
教えてくれた。

「ヒロシ、ちがうよ。この特派員はバカにされているんだよ」と。

今でも、英語国では、日本人をからかうとき、この言葉を使う。
両手を合わせながら、「アッソー」「アッソー」と。

というわけで、「アソ」という名前についての話は、おしまい。
これ以上のことは、ここには書けない。
意味や使い方などは、あなたのまわりにいる外人に、聞いてほしい。
あくまでも自己責任で……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
axx−sore Axx Sore)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●1月18日(日曜日)(To Mr. Kim Jon HILL of USA)
C. Rice and C. Hill has been only cheated and are cheated now as well by North Korea. Only 
what these two brain-less diplomats have done is to give North Korea、money, oil, food, 
music as well as time. During these five years, North Korea has developed nuclear weapons 
to the level of missiles as reported in the newspaper this morning (Chinichi Daily, Jan 18th, 
09). They say, "then what did Japan do to deal with North Korea?" We did. Especially C. Hill 
has, however, had no ears to listen to our voices or rather betrayed us so often and then 
therefore we never hesitate to call him, "Kim Jon HILL" at the last stage of the 
negotiations. Moreover he has destroyed the relationship between Japan and USA and 
more and more Japanese have been to dislike USA. No more thanks for C. Hill, though C. 
Hill seems to want to keep playing more in the Far East. But we say, "please be back to 
your office in USA". He seems to have paid no attention to the human rights and have 
achieved nothing for these problems. He had worked only for North Korea and pro-North 
Korean Government of South Korea. Be ashamed, C. Kim Jon HILL!
  
+++++++++++++++++

今朝は、寝起きがあまりよくなかった。
こういうときは、サイトカインが、
脳内にかなり充満している(?)。
ストレス性のホルモンである。

どこか気分が重い。
その割に神経がピリピリしている。
考えることすべてが、(怒り)に結びつく。

+++++++++++++++++

●K国のプルトニウム約30キロ

朝刊(中日新聞)のトップの見出しは、これ。
「K国は抽出したプルトニウム30キロを、すでに核兵器化した」と。
だから言わないことではない。
K国の金xxは、約束など守るような男ではないし、またその気など、
当初からみじんも、なかった。
おバカなC・ヒルは、それにだまされただけ。
彼がしたことは、K国に、マネー(BDA)、原油(50万トン)、音楽、
食糧、それに時間を与えただけ。
アメリカの新聞は、「8−0」で、アメリカの負けと報じている。

この中でも、とくに(時間)が痛い。
この5年近くの間に、K国は、かなりのレベルまで、核兵器を完成させたはず。
現に今朝の新聞によれば、「5、6個の核兵器を完成させたはず」と。

……と書くと、日本の責任はどうなのかという議論がある。
「アメリカ任せにしておいて、文句を言うとは何ごとか」と。

実はそのつど、日本はあれこれ文句を言ってきた。
注文もつけてきた。
しかしそうした日本側の意見に耳を貸さなかったのは、C・ヒルであり、
C・ライスということになる。
むしろ日本という最大の同盟国を裏切った。
この罪は重い。

C・ヒルは、オバマ政権下での続投をねらっているらしい。
「K国は80%、核開発放棄をすでに完了した」とか、「原油支援が完了すれば、
K国は核査察に応ずるはず」とか、「?」な発言を繰り返している。
何をもって「80%」というのか。
K国のYにある、核開発関連施設の爆破ショーだけをもって、どうして「完了」と
言えるのか。
また「原油支援が完了すれば……」というのは、どういう意味なのか。
この場に及んでも、C・ヒルまだK国寄りの姿勢を崩していない。

日米関係は、今、悪化の一途をたどっている。
各種の世論調査の結果をみるまでもない。
その第一の責任は、あのC・ヒルにある。

ところで同時に、今朝の新聞によれば、K国は韓国に対して、「全面対決宣言を
した」という。
これについては、韓国にこう言いたい。
「それ、見たことか!」と。

竹島(独島)どころではない。
韓国全土が、K国に乗っ取られようとしている。

(付記)1月19日の参詣新聞は、つぎのように伝える。

『米政府のレフコウィッツ北朝鮮人権問題担当特使は17日、米議会に北朝鮮の人権状況に
関する最終報告を提出し、北朝鮮を「世界で最も人権を侵害している国の1つ」と強く非難し
た。そのうえで、「抑圧国家は国内で独裁的な統治をすることを正当化する手段として、外国に
敵を作り出している」として、北朝鮮の人権問題と核問題などの安全保障上の問題を「密接不
可分なもの」と位置づけることが必要と強調した。

 米国の人権問題への取り組みに関しては、北朝鮮との交渉で人権問題は「重要な要素」と北
朝鮮人権法で明記されているにもかかわらず、「6カ国協議で人権に関して意味のある議論が
行われず、東アジア各国に人権問題であいまいな印象を与えた」として、同協議米首席代表の
ヒル国務次官補(東アジア・太平洋担当)を批判した』と。

C・ヒルが、拉致問題について話し合った形跡は、ゼロ。
もちろん成果も、ゼロ。
そんな同盟国が、どこにある?


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●諏訪湖
My wife and I are to go to Suwa Lake in Nagano Pref., a northern prefecture to Hamamatsu
-city. It is about 4 hours' ride by bus to the lake where we are about to enjoy walking along 
the lake side. It is our habbit to do this kind of walking almost every two or three days these 
day. Of course it is for our physical exercise.

今日は、諏訪湖畔の「さざなみロード」を、約9キロ歩くことになっている。
スタートは、ガラス館。
ゴールは、下諏訪町。
途中いくつかの美術館や温泉などがあるという。
天気がやや心配だが、楽しみ。

(この原稿は、諏訪に向かうバスの中で書いている。)

昨夜、2人の友人の家を回った。
山荘で取れた八朔(はっさく)を、届けるため。
昨日は、大きなポリ袋で、5つも収穫できた。
1つの袋で10キロほどだから、約50キロの収穫ということになる。
が、それでも全体の3分の1ほど。
残りは来週、収穫するつもり。
今年も大豊作。

ところで友人たちはみな、よい年齢になった。
58〜75歳。
話題と言えばもっぱら、健康談義。
それぞれがそれぞれの方法で、自分の健康に気をつかっている。
そういう話を聞くだけでも、たいへん参考になる。

ところでこんなことに気づいた。
バスは、休憩のため、そのつどサービスエリアで止まる。
中央自動車道を北へ北へと上っているわけだが、そのつど、気温がどんどんと
さがっていくのがわかる。
寒いというよりは、冷たい。
浜松の自宅を出るときは、コートまではいらないと思ったが、ジャンパーを
もってきて正解だった。
この分だと、諏訪湖はかなり寒いらしい。
湖面が凍ると、ワカサギ釣りができるようになるという。

しかし昨夜の睡眠時間は、4時間弱。
眠い。
眠いということで、書くのはここまで。

……一言、追加。

昨夜もそうだったが、一度、眠りそこねると、そのまま頭がさえてしまい、
眠れなくなってしまうことがある。
そういうときは、あせらず、なりゆきに任せるのがよい。
眠くなったら、眠る。
「眠れないとたいへん」と思う必要はない。
一晩や二晩、眠らなくても、体には影響はない。

●付記

バスに乗る前、コンビニによった。
おにぎりを2個、買った。
そこでパッケージに入ったタバコを見た。
それには、こう書いてあった。
「妊婦の喫煙は、胎児に影響を与えます。
早産、死産、低体重児の発生率が、2倍から
3倍になります」(詳細は、記憶によるもの
なので、不正確)と。

しかしこんなことは、すでに35年前には、
わかっていたこと。
私は京都大学の西村教授から、直接、その
話を聞いたことがある(ブラジルで)。
西村教授はこう言った。
「疫学的にはタバコはクロです。ただ人体実験
ができないだけです」と。
つまり「証明ができないだけです」と。

この35年間で、いかに多くの胎児が、タバコの
犠牲になったことか。
いかに多くの親たちが、悲しみにくれたことか。
しかも、実際には、早産、死産というときには、
その中には奇形出産も多く含まれる。
「20人の約1人」(ある産婦人科医)という話も
聞いている。
そういう胎児たちは、早産、死産という形で、
闇から闇へと葬られている。

さらに私の経験だが、両親のうち、どちらかが
ヘビースモーカーのばあい、子どもには、つぎの
ような影響が現れる。

(1)全体に、発育が遅れる。小柄な印象を与える。低体重児は、その後の発育が
遅れがちになる。
(アメリカでは、標準体重・身長に対して、〜〜%という言い方で、
それを表現する。
たとえば標準的な子どもが、身長が100センチ、その子どもが
90センチのときは、発育度「90%」というような言い方をする。)

(2)髪の毛が細い。頭をなでてみると、ツルツルとすべる
ような感じがする。

タバコは、まさに百害あって一利なし。
タバコをすべて禁止にすれば、その分だけ税収が減るが、半面、
医療費が軽減化される。
全体のバランスシートを見れば、国としてはそのほうが得だそうだ。
タバコ1箱、1000円。
おおいに結構。
どこかの国では、タバコの値段をあげたら、喫煙者が急減したという。

また愛煙家団体が訴えているように、タバコは、嗜好品ではない。
コーヒーや、酒とはちがう。
まわりの人たちにとってのみならず、社会にとっても、害毒である。
そういう前提で、タバコを考えるべき。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●統合性の確立

++++++++++++++++++++++++

今日の成果。
私とワイフは、ずっとトップランナーだった。
諏訪湖の湖畔を歩くとき、いつもうしろを見ながら歩いた。
こんなところで順位を競っても意味はない。
わかっているが、私たちは、それを目標にしている。
週に2、3度、10キロ近く歩いているのも、そのため。

それぞれの人には、それぞれの目的がある。
観光を楽しみたい人。
友だちとおしゃべりを楽しみたい人。
ほかにも、いろいろあるだろう。
しかし私たちは、運動のため。
そのためには、タラタラと歩いていたのでは、意味がない。
サクサクと歩く。
汗をかく。
有酸素運動をする。

そのために歩く。
目標は、トップ。
目的地、一番乗り。

++++++++++++++++++++++++++++

●帰りのバスの中で

それをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。
「あなたの人生の縮図みたいね」と。

いつもトップだったというわけではないが、しかしその緊張感は
忘れなかった。
先手、先手で、人の前に立つ。
それは私のように一匹狼で生きていく人間にとっては、鉄則のようなもの。
二番手になったとたん、押しつぶされてしまう。

が、目的地に着いたら、そこで遊ぶ。
時間にも余裕がある。
その周辺の店をのぞいたりする。
これもワイフに言わせると、私の人生の縮図みたいということになる。

私はいつも、まず(すべきこと)を先にする。
それが終わったら、自分の(したいこと)をする。
その余裕がないときは、がまんする。
つまり(すべきこと)が残っているときは、(したいこと)をがまんする。

いつもこの鉄則を守っているというわけではないが……。

●60歳の統合性

(やるべきこと)と、(したいこと)は、基本的にちがう。
(やるべきこと)には、常に、ある種の苦痛がともなう。
できるなら、やらないですまそうとする。
そういうブレーキも働く。
人間は本来、怠けもの。
が、その(苦痛)を乗りこえなければ、(やるべきこと)は、できない。

エリクソンは、人生の正午と言われる満40歳前後から、(やるべきこと)の
基礎を作れというようなことを説いている。
(やるべきこと)を見つけ、その基礎固めをしていく。
それが5年とか10年とかいう年月を経て、その人の中で熟成していく。
何度も書くが、「60歳になりました。明日からゴビの砂漠でヤナギの木を
植える」というわけにはいかない。
そんな取って付けたようなことをしても、身につかない。

(やるべきこと)を見つけ、現実にそれを実行していく。
それを「統合性の確立」という。

●統合性の失敗

私も含めてということになるかもしれないが、こうした統合性の確立に
失敗している人は、多い。
60歳という、年齢の節目に立ってみると、それがよくわかる。

明日は今日と同じ。
来月は今月と同じ。
来年は今年と同じ、と。

家ですることといえば、テレビを見て、雑誌を読んで、あとは眠るだけ。
たまの休みには、野球中継。
雨の日は、パチンコ。
読むのは、スポーツ新聞だけ。
体のためと称して、畑を借りて家庭菜園。
ときどき旅行をしたり、孫の世話をする。
楽しむことイコール、老後のあるべき姿と考えている人も多い。
しかしそれこそ、まさに死の待合室に入ったようなもの。
1か月を1日にして、生きるだけ。
1年を、1か月にして生きるだけ。

そんな人生に、どれほどの意味があるというのか(失礼!)。

●今、40歳前後の方へ、

エリクソンは40歳と言ったが、40歳では遅いかもしれない。
30歳でもよい。
20歳でもよい。
将来に向けて、統合性の確立のため、今からその下地を作っていく。
それは何も老後のためだけではない。
いつか「私は自分の人生を生きた」という実感を、
自分のものにするため。

もしこの統合性の確立に失敗すると、老後そのものがみじめになるだけではない。
自分が生きてきたという証(あかし)、さらには足跡まで、無駄になってしまう。
人生も晩年になって、「私は何をしてきたのだ」と思うことほど、苦しいことは
ない。
(今の私もそうだが……。)
自分の人生を振り返っても、そこには何もない。
いや、いつの間にか、自分に替わって、別の人間が、それをしている。
私がしたことをしている。
私より、ずっとじょうずにしている。
それはそのまま自己否定へとつながってしまう。

●無私無欲

(やるべきこと)は、無私無欲でなければならない。
金銭的な利益、名誉や地位のためというのであれば、それは(やるべきこと)
ではない。
損得勘定をしない。
仮にその結果として、金銭的な利益を得たり、名誉や地位がもたらされた
としても、それはあくまでも結果。
結果であるから、一喜一憂することもない。
淡々とそれを迎える。

仕事で忙しい人もいるだろう。
家事で忙しい人もいるだろう。
子育てで忙しい人もいるだろう。
しかしそういう間でも、統合性のための基礎づくりを忘れてはいけない。
それは長くて苦しい道かもしれない。
先にも書いたように、できればやりたくないことかもしれない。
しかしそれでもつづける。
それがここでいう統合性につながる。

●燃える

一方、70歳を過ぎても若々しい人というのは、たしかにいる。
私の義兄もその1人。

先週訪ねたら、そこにピカピカのベンツが置いてあった。
義兄のベンツは、たしか中古だったはず。
しかし、ピカピカ。

「どうしたの?」と聞いたら、「塗装しなおした」と。
「メッキは磨きなおした。パッチ(ゴム部)は、新品に取り替えた。
シートは、張り替えてもらった」と。

そして先月(08年12月)は、長野県の奥まで、奥さん(=ワイフの
姉)とドライブしてきた、と。
生き様が前向きというか、若々しい。
ゴルフのクラブにしても、自分で設計して、それを業者に作らせたり
している。
趣味はバイクだが、40年前、50年前のバイクを拾ってきては、
それを修理して走らせたりしている。
「夢は、いつかバイクの展示場をかねた喫茶店を開くこと」と。
年齢は、正確には、今年76歳になる。

そういう義兄と話していると、こちらまで若返る。
話がはずむ。

●あなたの未来

あなたの未来を知りたかったら、あなたの両親を見ることだ。
遺伝子学的にも、満20歳くらいまでは、親子といっても、様子は大きくちがう。
が、20歳まで。
満20歳を過ぎると、親子は急速に似てくる。
似てくるというよりは、実際には、同一化する。
子どもが親に似るわけではない。
同一化する。

子どもである(あなたは)は、「私は親とはちがう」「親のようにはならない」と
思っているかもしれない。
が、それは甘い。
世の中には、「進化論」というものもあるが、それは100代とか、1000代
単位で起こることであって、あなたの代の1代や2代くらいでは、起こるはずも
ない。

40代を過ぎれば、あなたもあなたの両親も同じ。
50代を過ぎれば、さらにあなたもあなたの両親も同じ。

こんな例がある。

●反面教師は、未来のあなた

ある女性は若いころから、自分の母親を批判していた。
「私の母は、ずるい」「私の母は、世間体ばかり気にしている」と。
しかしその母親がなくなってしばらくすると、今度はその女性が
母親そっくりの人間になっていた。
こういう例は、いくらでもある。

こうした世代連鎖は、どうすれば防ぐことができるか。
そこで登場するのが、「精進(しょうじん)」ということになる。
日々の絶え間ない研さんのみによって、こうした世代連鎖を断ち切ることができる。

たとえばあなたの父親が、インチキな人だったとしよう。
女遊びは、当たり前。
親戚中から借金を重ね、そのつどそれを踏み倒す。
親をだます子はいるが、あなたの父親は、あなたという子をだます。

あなたはそういう父親を批判する。
父親を反面教師にしながら、自分はそうしないと心に誓う。
「私は父親とはちがう」と言う。
しかし反面教師のこわいところは、ここから始まる。

反面教師とするのは勝手でも、別のところで別の人格を作りあげないと、
結局は、今度はあなたがその反面教師そっくりの人間になる。
理由は明白。
あなたはその反面教師しか、知らないからである。
親子のばあいは、さらによく似る。
自分ではそれはわからないが、他人から見ると、それがわかる。

●私のほうが、マシ?

しかしこんなことも言える
たぶんに自己弁解がましいが、悩んだり苦しんだりするところに、
実は価値があるのだ、と。

統合性の一致にしても、ほとんどの人は、それが何であるかもわからず、
悶々とした日々を送っている。
しかしその(悶々とすること)自体に価値がある。
というのも、少し前、そういうことをまったく考えない人に出会った。
そのとき私が感じた(落差)というか、(驚き)には、格別なものがあった。

私とて、統合性の確立ができたわけではない。
いまだに、悶々としている。
懸命にさがそうとしている。
が、その男性は、ノー天気というか、統合性の「ト」の字も考えていなかった。

のんき?
無神経?
無頓着?
楽天的?
享楽的?
せつな的?

しばらくいっしょに話したが、打ち返ってくるものが、何もない。
同じように、人生を60年近く生きてきたはずなのに、何もない。
本当に、何もない。

そこで私が、「退職後は何をしているの?」と聞くと、「マンションの守衛を
している」と。
マンションの守衛が悪いというのではない。
で、「休みには何をしているの?」と聞くと、先に書いたような答が返ってきた。

「野球中継があるときは、テレビでそれを見て過ごす」
「休みには魚釣り。雨が降ればパチンコ」と。

本は読まない。
読むのはスポーツ新聞だけ。
音楽は聴かない。
映画も見ない。
あとは孫ができたとかで、ときどき孫の世話をしている、と。

統合性の確立どころか、その入り口にも立っていない(失礼!)。
だからこう思った。
まだ、私のほうが、マシ、と。

●やってくる老後

老後は、確実にやってくる。
あっという間にやってくる。
しかも老後というのは、意外に長い。

60歳から始まったとしても、20年近くある。
幼児が成人するまでの年月に等しい。
しかしこれは、「どう過ごすか」という問題ではない。
「やるべきことをやらないと、死ぬこともできない」という問題である。

現実に私もその年齢になり、老後の入り口に立って、その恐ろしさを
実感しつつある。
仕事がなくなる恐怖。
役目がなくなる恐怖。
だれにも相手にされなくなる恐怖。
こうした恐怖は、そのまま自分をどんどんと小さくしていく。
そんな状態で、この先、20年を、どうやって生きていったらよいのか。
またそんな状態で、生きていかれるはずもない。

まず手始めに、仕事を失ってはいけない。
どんな小さな仕事でも、それにしがみついていく。
それに町内の仕事にしても、それができるなら、どんどんとしていく。
みなの役に立つ。
みなから、役に立つ人間として評価される。

●私の経験

これは私の経験だが、私は今にしてみると、1円もお金をもらわなかったのが、
うれしい。
40代〜55歳くらいまでは、電話相談に明け暮れた。
それ以後は、無料でマガジンを出したり、無料で相談に応じている。
そのときは、「どうしてこんなバカなことをしているのだ」という思いとの
闘いでもあった。
しかしそれが今、少しずつだが、光り始めている。

もしあのとき、そして今、お金を受け取っていたら、私のささやかな
統合性は、その時点で霧散していただろう。

もちろん今していることが、(私のすべきこと)とは、思っていない。
しかし私が今、住んでいる世界では、それしか思いつかない。
それこそ「では、これからゴビの砂漠に行って、ヤナギの木を植えてきます」と
いうようなことは、私にはできない。
だいたい、その下地がない。
だから、やるしかない。
その先に何があるかわからないが、ともかくも、やるしかない。

●最後に……

むずかしい話はさておき、朝起きたとき、(やるべきこと)がそこにあるだけでも、
うれしい。
感謝しなければならない。

その(やるべきこと)が、あなたには、あるだろうか。
あればよし。
そうでなければ、あとは自分の心と体に、ムチを打つしかない。
「楽をしたい」という思いはだれにでもある。
が、その(思い)に敗れたとたん、あなたは一気に、孤独の世界へと落ちていく。

……ということで、明日からまた新しい週が始まる。
「がんばるぞ」と自分に掛け声をかけて、この話は、おしまい。
どうであるにせよ、私は生きていかねばならない。
今までもそうして生きてきたし、今も生きている。
これからもそうして生きていくだろう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 老後
の生きがい 老後の統合性 統合性の一致 やるべきこと 老後にやるべきこと 老後の生き
甲斐)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090120)

●カタカナ文字(Katakana Words)
In Japan we have three types of Characters. Hiragana, Katakana and Kanzi (=Chinese
Characters). Katakana is mainly used to express the words which come from overseas. But 
nowadays so many Katakana words in our daily life, which confuses our lives.

++++++++++++++++

数日前、サイトカインについて
書いた。

書きながら、一度確かめておかなくては
いけないと思った。
こうした脳内物質について書くときは
いつもそうだが、私が知っているのは、
名前だけ。
現物を見たわけではない。
また見たところで、ただの液体にしか
見えないだろう。

書いていても、不安になる。
それはちょうど、パソコンを相手に、
カタカナ文字を見るときの気分に似ている。
座右に、「パソコン用語辞典」というのが
ある。
が、カタカナ文字だらけで、読んでも
よく意味がわからないときがある。

たとえば……、
「パケット転送:一定のパケット単位に情報をまとめて送る通信方式。一定の長さの
データブロックにしたものをパケットと呼ぶ。宛先や信号順位など(タブデータ)を
パケットに付けて……」(「標準パソコン用語辞典」秀和システム)とある。

ついでに言えば、鳥インフルエンザについても、
そうだ。
ウィルス名を、「H5N1ウィルス」という。
「H5って、何だ」「N1って、何だ」と、
つい言ってしまう。

++++++++++++++++

●サイトカイン

以前自分で書いた原稿の中から、「サイトカイン」という文字を検索してみる。
方法は、大きく分けて、2つある。

(1)原稿集から検索する
ひとつの外付けハードディスクに、今までに書いた原稿が、ひとつのファイルと
して収録してある。
数万ページもある。
それを一度、パソコン上に呼び出して、そこから検索する。
しかしこの方法だと、私の最新鋭のパソコンをもってしても、負担が大きい。
一度画面上で開くと、とたんにパソコンの動きが悪くなる。

(2)インターネットのヤフー、もしくはグーグルの検索機能を使って検索する
   最近は、この方法で検索することが多くなった。
   パソコンへの負担も少ない。
   たとえばサイトカインについて調べたいときは、「はやし浩司 サイトカイン」と
   入力して、検索する。
   この方法でたった今検索してみたが、72件もヒットした(ヤフー検索)。
   その中から、適当な原稿を選ぶ。
   いうなれば、インターネットの世界全体が、私の私設辞書になっている。

で、その「サイトカイン」について。

『ストレスに対する反応は、二種類ある。攻撃型と、防御型である。これは恐らく、人間が、原
始動物の時代からもっていた、反応ではないか。ためしに地面を這う、ミミズの頭を、棒か何か
で、つついてみるとよい。ミミズは、頭をひっこめる。

同じように、人間も、最初の段階で、攻撃すべきなのか、防御すべきなのか、選択を迫られる。
具体的には、副腎髄質からアドレナリンが分泌され、心拍を速くし、脳や筋肉の活動が高ま
る。俗に言う、ドキドキした状態になる。

ある程度のストレスは、生活に活力を与える。しかしそのストレッサー(ストレスの原因)が、そ
の人の処理能力を超えたようなときは、免疫細胞と言われる細胞が、特殊な物質(サイトカイ
ン)を放出して、脳内ストレスを引き起こすとされる。

そのため副腎機能の更新ばかりではなく、「食欲不振、性機能の低下、免疫機能の低下、低
体温、胃潰瘍などのさまざまな反応」(新井康允氏)が引き起こされるという。その反応は「うつ
病患者のそれに似ている」(同)とも言われている』(Biglobe Blog 最前線の子育て論byはやし
浩司)と。

自分で書いた原稿を読みながら、改めて勉強しなおす。
少しおかしな気分だが、最近は、こういうことが多くなった。
つまりそのために、私は自分の書いた原稿の末尾に、検索用の文字を並べることにして
いる。

ついでに、「H5N1」について。

成美堂出版の「時事用語」によれば、つぎのようにある。

『A型インフルエンザの表面には、HA(ヘマグルチニン)とNA(ノイラミニダーゼ)
という2種類の糖たんぱく質がスパイク状についている。そして、HAは16種類、NA
は9種類ある。H5N1は、HA5型とNA1型をもったウィルスのこと』と。

インフルエンザには、A型、B型、C型の3種類がある。
それは知っている。
(知っているといっても、やはり名前だけだが……。)
その中のA型のひとつが、鳥インフルエンザということになる。
このH5N1の恐ろしいところは、感染すると、いきなり肺の奥に入り込むことだそうだ。
人間にはまだ免疫性がないため、いわゆる「パンデミック」が起こるという。

わかるかな?
パンデミックだぞ。
またまたカタカナ文字。

パンデミック……『短期間に感染症が大流行すること』(同書)とある。
『新型インフルエンザが日本でパンデミックを起こすと、入院患者最大210万人、
死者最大64万人』(同)とか。

ゾーッ!

で、ふと今、思う。
「今、この瞬間には、『パンデミック』という言葉の意味を知っている。
しかしいつまで覚えておられるか」と。
たしかに私の脳みその底には穴があいている。
一方で覚えながら、他方でどんどんと知識が、流れ出ていく。
これは食事と下痢の関係に似ている。

しかし忘れることを恐れていたのでは、何も書けない。
とにかく日々に、精進(しょうじん)あるのみ。

「パンデミック、パンデミック、パンデミック……」と数回復唱して、
この話は、おしまい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
サイトカイン パンデミック はやし浩司 H5N1 鳥インフルエンザ ストレス
ストレス学説)

(付記)

H5N1について、「流行しないのではないか?」という意見も、最近出てきた。
というのも、流行するなら、とっくの昔に大流行しているはずだから、と。
中国やベトナムなどでも感染者が現れてはいるが、人から人への感染したばあいには、
症状はそれほど重くない。
それでそういう意見が、出てきた。
ともかくも、警戒するに越したことはない。
外出時には、マスクを着用する。
マスクはマスト!
(へたなシャレで、ごめん!)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司


●アメリカの教育現場では、今……?(Now in USA!)(=2=)

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Bulletin Board for EDSPC 753
Board Postingsへの投稿記事より

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Unruly student with ADHD
by Hearing Teacher, posted on 5/24/2006 at 17:54.
(無秩序なADHD児)

I work as a related service provider for deaf and hard-of-hearing in 10 schools in Brooklyn. 
One of my students has ADHD and is not medicated. He also is supposed to wear hearing 
aids but does not. His special ed teacher spoke to the mother (he is in foster care) about it 
and she said that she will make him do it (I tried speaking to her and never got a response). 
私はブルックリンで聴覚障害、難聴の子どものために10の学校で関連サービスをしている者
です。私の生徒の一人がADHD児で、治療を受けています。彼は補聴器をつけるべきと思われ
ますが、つけていません。彼の特別担任の先生は、それを彼の母親に話していますが、そうす
ることができません。(彼女に私も話そうとしましたが、反応がありません。)

Lately, he began to steal and be physically aggressive. He also whines for change for the 
vending machines right after he eats breakfast with the excuse, "My mother wants 
something." He ran into the cafeteria (he had just finished breakfast) to get a third cereal. I 
had to chase after him to stop him. When I tried to take the spoon away from him, he 
grabbed my wrist. Another teacher had to take him to the office. The student started 
bawling hysterically and wailing "I'm sorry." He continued to cry and scream the whole time. 
What do I do about this situation? 
Thanks. 
Hearing teacher
最近、彼は盗みを始め、肉体的に攻撃的になり始めました。彼はまた、朝食のすぐあとなど
に、「ママが何かを食べたがっている」などという口実を作って、販売機の小銭を、泣きながら
せびったりします。(食事が終わっているのに)食堂へ走り、三度目のセリール(コーンフレイク
のような食べ物)を得ようとします。私は彼を追いかけ、彼を止めなければなりません。彼から
スプーンを取り上げようとすると、彼は私の手首をつかみます。もう一人の先生は、彼を事務
室へ連れていかねばなりませんでした。その学生は、ヒステリックに泣き叫び、「ごめんなさい」
とさめざめと泣きます。彼はずっと、泣いたりわめいたりします。こういう状況では、どうしたらい
いのでしょうか。よろしく。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●不敬罪?(Lese Mejesty?)
The Government of Thailand has sentenced an Australian writer, 3-year long prisoning 
because of the lese majesty. What is the lese majesty now? This is an oppression of words, 
isn'it? Be ashamed, Thailand people!

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『タイの裁判所は19日、著作物のなかでタイ国王を侮辱したとして、
オーストラリア人の作家に禁固3年の刑が言い渡されたという』(TBS-i・News・1月19日)。

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タイで大学講師をしていた、1人のオーストラリア人が、『過去の出版した著作の中に、タイ国
王を侮辱する表現があったとして、不敬罪の疑いで逮捕、勾留された』(同)という。
その結果、禁固3年の実刑判決がくだされたという。

なお同時に、『タイ当局は昨年以降、王室に批判的と判断したおよそ4000のウェブサイトを閉
鎖していて、言論弾圧との非難が国内外から出ている』(同)との報道もなされている。

今どき不敬罪?
戦前の日本にもあったが、「敬う」などという心の中の感情まで、法律でしばるところが恐ろし
い。
またそういうふうにして敬われたとしても、当の国王は、それで満足なのだろうか。
私が国王なら、そんなバカげた法律は、自分のほうから願いさげる。

で、日本という国は、意識的には、オーストラリアとタイの中間あたりに位置する。
私たち日本人が、「バカげている」と思う以上に、オーストラリア人は、そう思うだろう。
だいたい、オーストラリア人には、そういう意識そのものがない。

が、それだけではない。
王室に批判的なウェブサイト(ホームページ)が、4000以上も閉鎖されたという。
こうなると、タイという国は、もうデタラメな国と判断してよい。
タイの人たちは、もっと自分に恥じたらよい。
国王を敬わないことを恥じるのではなく、言論の自由がないことを恥じたらよい。

世界から見れば、ちっぽけな国ではないか。
そんな国で、国王だのなんの、不敬罪だのなんのといっている、自分たちのおかしさに、まず
気がついたらよい。

人間に上下があるわけがない。
一人ひとりの人たちが、自由にものを言い、生きる。
国としてのダイナミズムは、そこから生まれる。
またそういうふうにみなが、生き生きと生きている国を、近代国家という。
すばらしい国という。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
近代国家 不敬罪 すばらしい国)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司※

●いろいろな顔

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英語のことわざに、『2人の人に、いい顔はできない』というのがある。
このことわざを言いかえると、『人には、いろいろな顔がある』という
意味にもなる。
あるいは『その人の一面だけを見て、その人を判断してはいけない』とも
読める。
こんなことがある。

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●母の顔

母が他界して、3か月になる。
その間、いろいろな人から、悔やみの言葉をもらった。
ありがたかった。
と、同時に、母にもいろいろな顔があったのを知った。
母のことをよく思っている人もいたし、そうでない人もいた。
悪く思っている人は、いなかった。

しかしそのつど、率直に言えば、「?」という印象をもった。
どこの親も、そうなのかもしれない。
他人の集まる(外)で見せる顔と、肉親が集まる(内)で
見せる顔は、ちがう。
母もそうだった。
どちらが本当の顔で、どちらがニセの顔ということを
論じても意味はない。
またどちらでもよい。
外できびしく、家庭で甘い親は、いくらでもいる。
外でやさしく、家庭できびしい親も、いくらでもいる。

さらに他人の中では、高い評価を受けながら、家庭では
きびしい評価を受ける親がいる。
他人の中では、極悪人と呼ばれながらも、家庭では、
やさしいと評価を受ける親もいる。

だからといって、人それぞれ。
それぞれの人が、それぞれの人を認める。
それぞれの顔を認める。
母にしても、そうだ。
「?」と思っても、その人の心に合わせて、「ありがとう
ございます」と、言う。
またそれですます。

昔、よど号ハイジャック事件で、人質となり、
K国に渡った政治家がいた。
YM運輸政務次官である。
そのあと1週間ほど、オーストラリアのメルボルン市へ、
休養のため、やってきた。
縁あって、そのとき知りあった。
温厚で、やさしい人だった。
知的で、政治家というよりは、学者風の人だった。

が、そのYM氏は、やがて息子氏に腹を刺されて、死ぬ。
何があったのか。
また家庭の事情がどうであったのか。
私には知る由もない。
また知る必要もない。

その反対のこともある。

昔、浜松市の駅前に、暴力団(?)の事務所ができたことがある。
それに対して、周辺の住民の人たちが、追い出し運動を始めた。
子どもの通学が心配ということで、親たちが集団で送り迎えをするようになった。
そのときのこと。
たまたまその暴力団(?)の親分と言われる人の子どもが、
私の教室へ来ていた。

それについて、その祖母にあたる人が、私の家にやってきて、こう言った。

「先生、うちにも小学生の孫がいます。
そんなことするはずがないじゃ、ないですか」と。

「そんなこと」というのは、住民たちが心配しているような(こと)を言った。

「ピケを張って、人の出入りを止めるというのは、いいです。
しかし集団登下校というのは、あまりにもひどいです」と。
その祖母は、玄関先で、おいおいと泣いた。

言いかえると、根っからの悪人はいない。
同時に、善人と呼ばれている人でも、バランスの問題。
善悪のバランスのしっかりしている人を、善人という。
そうでない人を、そうでないという。
でないというのなら、「私は善人」と、自信をもって言える人は、
いったい、どれだけいるだろうか。
一歩退いて、「私は悪人ではない」と、自信をもって言える人は、
いったい、どれだけいるだろうか。

ただ許せないのは、偽善者たち。
陰でこそこそと、小ずるいことをしながら、表では善人のフリをする。
ふだんはタレント業で巨億の富を手にしながら、一方で、慈善運動家として、
テレビに出てきたりする。
一貫性が、ない。
そういう人は、別。

……ということで、結論。
私やあなたが、その人のことをどう思っても、その印象を、他人に
押しつけてはいけない。
「私はそうではないと思います」とも、言ってはいけない。
まわりの人がどう思っても、人、それぞれ。
人には、いろいろな顔がある。
同じように、それを見る人にも、いろいろな印象がある。
それはそれとして、そっとしておいてやる。
それが結局は、あなたという(私)を守ることになる。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●他責型人間vs自責型人間

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何か失敗したようなとき、すかさず、
だれかに責任を求める人を、他責型人間という。
すかさず自分に責任を求める人を、自責型人間という。

子どもでも、年中児(4〜5歳児)でも、それがわかる。
子どもがお茶をこぼしたとする。
それを母親が、注意したとする。
そのとき、他責型人間(子ども)は、すかさず、
こう言う。
「ママが、こんなところにお茶を置いておくから悪い」と。
いつも責任を他人に転嫁する。

一方自責型人間(子ども)は、すかさず、「ごめん」と言う。
「いつも責任は、自分にある」と考える。

一般論として、(あくまでも一般論だが)、他責型人間は、
悶々とした欲求不満を、持続的にかかえていることが多い。
「自分は正しい」という過剰な思い込みが、他責の
原因になることもある。
しっかりした人という評価を受けやすい。

一方、自責型人間は、その分だけ、うつ病になりやすいと言われている。
自信喪失が根底にあり、人格の「核」形成も、遅れがちになる。
どこかヘラヘラした感じになりやすい。

表面的な様子からだけでは、判断できない。
快活で積極的だから、他責型人間ということにはならない。
静かで落ち着いているから、自責型人間ということにもならない。

それを知るためには、心理テストが必要。
こんな例で考えてみよう。

あなたは今、電車の中にいる。
そのとき緊急の、かつ重要な連絡が、携帯電話に入った。
ベルが鳴った。
あなたは携帯電話で話し始めた。
と、そのとき、横にいた人が、あなたに、「電車の中では
携帯電話はいけませんよ」と、軽く注意した。

そのときあなたなら、どうするだろうか。
ムッとして、その人をにらみ返すだろうか。
「今、すぐ終わりますから」とか、「緊急です」とか
言うだろうか。

それとも、すかさず、「ごめんなさい」とか、「すぐ終わります」とか、
謝罪するだろうか。

前者のようであれば、あなたは他責型人間ということになる。
後者のようであれば、あなたは自責型人間ということになる。

他責型人間か、それとも自責型人間か。
いろいろ調べてみると、(あくまでも私が調べた範囲だが)、
その中間型というのは、ない。
しかもこの「型」は、その人の人格の中核部分に居座るため、
たとえば状況に応じて、他責型になったり、自責型になったり
ということもない。
幼児期に他責型になった子どもは、ずっと、それこそ、
死ぬまで他責型人間のまま。
自責型になった子どもは、ずっと、それこそ死ぬまで
自責型人間のまま。
途中で変化するということも、ない。
(「ない」と断言するのも、危険なことだが……。)

さらに興味深いことに、他責型人間からは、自責型人間が理解できない。
自責型人間からは、他責型人間が理解できない。
ともに自分を基準にして、相手をみる。
相手も自分と同じ人間と、思い込む。
したがってたとえば、夫が他責型、妻が自責型というケースのばあい、
(その反対でもよいが)、どちらか一方が、それに気づくまで、夫婦喧嘩が
絶えないということになる。

夫「謝れ!」
妻「どうして謝らなきゃ、ならないのよ!」と。

(いつも夫婦喧嘩をしている人は、一度、ここに書いたようなことを
参考に、自分を見つめなおしてみるとよい。)

が、さらにもう一言。

自責が過剰になると、相手の失敗まで、自分の責任のように感じてしまう。
こんな例がある。

ある学校で、ある子どもが何かの事件を起こした。
それについて、ある教師は、こう言った。
「警察に出向き、謝罪してきました」と。
そこで私が、「そこまでは学校の責任ではないでしょう」と言うと、
その教師はこう言った。

「新聞などで、少年犯罪が報じられるたびに、胸が痛くなります」と。

自責型人間の中には、そこまで自分を責め人もいる。

……となぜ、今、他責型人間と自責型人間について書くか?

実は、今日の午後、たまたまこんなことがあった。
バスに乗っていて、うとうとと眠っていたときのこと。
私のすぐうしろに座っていた女性のところに電話がかかってきた。
かなり豪快な(?)、着信音が鳴った。
とたん、眠気が消えた。

その女性は、「今、バスの中! もうすぐそこへ着くから待ってエ……」
というようなことを言っていた。
そのときのこと。
ちょうどタイミングよく、つぎの停留所名を言ったあと、
「携帯電話は周りのお客様に迷惑になりますから、スイッチをOFFに
するか、マナーモードに……」というアナウンスが、流れた。
私は、すかさず、「その通り!」と声をあげた。
……あげてしまった。

よほど私の言葉が、その女性のカンに触ったらしい。
しばらくしてバスは、目的地に着いた。
「どんな女性だったか」と思って、立ったついでに、うしろの女性を見た。
私をものすごい目つきで、にらんでいた。
顔中が、鬼バンバというような感じだった。
年齢は、18、9歳ではなかったか。

私は、「ああ、この人は、他責型人間だな」と思った。
それでこの原稿を書いた。

……ところで、私は、完全な自責型人間。
いつも他人を責めてばかりいるが、根は、自責型人間。
自分でも、それがよくわかっている。
だから先に書いたことを繰り返す。

人間というのは、見た目で判断してはいけない。
さて、あなた自身は、どうか?

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
自責 他責 自責型人間 他責型人間 はやし浩司 自責vs他責 自分を責める
他人を責める)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●隠れマザコン

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私の知人に、これまた人も羨(うらや)むような、
親孝行の娘をもった人がいる。
その娘を、娘Aとする。
その娘Aは、結婚して嫁いでいるというのに、「お母さん、お母さん」と
言って、毎週のようにやってきては、菓子を届けたり、
旅行のみやげを届けたりしているという。
知人が、今年、85歳になる。
娘Aは、60歳になる。
だから近所の人は、みな、こう言う。

「あの娘さんは、すばらしい人だ。人間の鑑(かがみ)」と。

しかし、ちょっと、待ったア!

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こういう娘Aのばあい、つぎの2つを疑ってみる。

(1)隠れマザコン
(2)代理ミュンヒハウゼン症候群

ふつうマザコンというと、男性ばかりが問題になる。
しかし女性にも、マザコン、つまりマザーコンプレックスをもった人はいる。
が、母と娘という女性どうしだから、目立たない。
成人した男性が、彼の母親といっしょに入浴すれば、だれしも、おかしいと思う。
しかし女性のばあいには、だれも、おかしいとは思わない。
だから女性のマザコンを、「隠れマザコン」(はやし浩司)と呼ぶ。

また代理ミュンヒハウゼン症候群というと、ふつう虐待が先に問題になる。
「新しいタイプの虐待」と位置づける人もいる。
たとえば子どもを一方で虐待しながら、他方で、よい母親(父親)を演ずるなど。
しかしあえて虐待をしなくても、もともと虚弱な子どもであれば、その子どもを
利用して、よい母親を演ずることもできる。
他人の同情を買いながら、よい母親を演ずる。
みなに、「よくできた、すばらしい母親」と思わせる。
当然、虐待をともなわない、代理ミュンヒハウゼン症候群というのも、ある。

また対象が子どものばあいだけを、代理ミュンヒハウゼン症候群というのではない。
舞台が病院であるとも、かぎらない。
広義には、対象が、兄弟、姉妹、さらには親であっても構わない。
舞台が、施設であっても、さらに家庭であっても構わない。

ことさら苦労している様子を誇張してみせ、他人の同情を買う。
他人からよい人と思われるようにするため、あれこれと工作する。
このタイプの人は、口もうまい。
ここでいう隠れマザコンと私が呼んでいる人も、同様の行動パターンをとる。

冒頭にあげた女性にしても、かなりの高齢で、このところ歩くのもままならない。
そういう母親を支えながら、その娘Aは、通りをいっしょに歩くこともあるという。
それで近所の人たちは、「人間の鑑」と。

しかしそれこそが、その娘Aの望むところ。
他人にそう思われるように、他人の心を誘導する。
操る。

では、本物の(?)、親孝行とは、どこがちがうか?

その第一。
本物の親孝行は、静か。
目立たない。
他人の目を意識しない。
私のような他人の耳に、そういった話は、届いてこない。

また「毎週のように、菓子やみやげを届けている」という話は、母親の言葉ではない。
その娘A自身が、あちこちでそのように自分で吹聴している。
私もその娘Aのことは、よく知っているが、一貫性がない。
それだけの人徳がある人なら、ほかの面でも光るはず。
体の芯からにじみ出てくるような、人間性があるはず。
が、そういった話は、伝わってこない。
むしろ父親の遺産相続問題で、ほかの姉妹と言い争ったとか、実の息子たちとは
絶縁状態にあるとか、など。
そういう話のほうが目立つ。

どこかチグハグ?
おかしい?
へん?
その(チグハグさ)を感じたら、こういう話は、まず疑ってかかったほうがよい。

が、だからといって、その娘Aを責めているのではない。
マザコンであるにせよ、ないにせよ、それで、母と娘が仲よく暮らしていれば、
それでよい。
他人がとやかく言う必要は、ない。

今どきマザコンにしても、隠れマザコンにしても、珍しくもなんともない。
まただからといって、周囲の人たちが、人間の鏡とするなら、それもよい。
ただ、だからといって、操られるまま操られるのは、よくない。
こういう話には、「待ったア!をかける。
それが知性ということになる。
理性ということになる。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
隠れマザコン 代理ミュンヒハウゼン 親孝行 孝行娘 親孝行の子ども)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【ネット時代のもの書き】

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今、情報の価値が、かぎりなく下がっている。
若い人たちを中心に、「情報はただ」という風潮が、
ますます強くなっている。
「お金を出してまで、買う必要はない」と考える人も多い。
また情報を発信する側も、それをよく知っている。
ただで使われることを前提として、発信する。

そのため、(情報の世界)が大きく変わりつつある。
よい例が、新聞であり、雑誌ということになる。
新聞については、ここ10年近く、発行部数は減る一方。
テレビと並んで、広告収入が、年間1000億円前後から、
この2年間だけをみても、10%前後減っている。

雑誌については、2008年度だけでも、「月刊・現代」を
はじめとして、「主婦の友」「読売ウィークリー」
「PLAYBOY・日本版」などが、休刊となった。
全体としてみても、「1995年の約39億部がピークだったが、
その後は長期低落傾向がつづき、07年には、26億部と、3分の
2に減った」(「朝日キーワード・2009→2010」とのこと。

若い人を中心に、「新聞で得る情報は、インターネットで」という
人がふえている。
私の家でも、「そろそろ夕刊をやめようか」という話も出始めている。
理由が、いくつかある。

たとえば朝刊にしても、毎日目を通すページというのが決まっている。
全体で、30ページ近くあるが、その中でも4〜5ページのみ。
夕刊にいたっては、1〜2ページのみ。
スポーツ欄は、ほとんど読まない。
あとはそのままゴミ箱行き。
無駄といっても、これほど資源の無駄づかいはない。

一方、インターネットからの情報は、速い。
おまけに読みたいときに、選んで読んだり、それに見たりすることができる。
この簡便性は、テレビにもない。

そこで改めて、情報の価値を、いかに利益につなげていくかを
考えてみる。

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●私のHP(ウェブサイト)

私は多いときには、年間10冊あまりの単行本を出版したことがある。
しかしこの8年間、1冊も出していない。
かわりに、インターネットのほうで、自分の書いた原稿を発表している。
当初は読者数もかぎられていて、新聞や雑誌に原稿を発表することと
比べたら、読者数も少なく、その影響力は、微々たるものだった。
しかし私はインターネットのほうに、それまでになかった魅力を感ずる
ようになった。

それを列挙してみる。

(1)地域性の打破…「もの書きは中央でないと生きていかれない」という
のが、若いころの常識だった。それだけの機会と人脈の交流が、地方
では得られなかった。今、その垣根がはずれた。
(2)独自性の追求…雑誌や新聞に原稿を書くときは、どうしてもそこに
編集者への(へつらい)が入る。しかしこの世界では、(書きたいこと)
が書ける。これこそまさに「言論の自由」。
(3)世界の情報が直接手に入る…若いころは、その国の大使館員からでしか
手に入らなかったような情報が、容易に手に入る。多少のタイム・ラグ
(時間差)はあるが、1日を遅れることはない。
(4)読者数の増加…最近になって、HPやBLOGへのアクセ数が驚異的に
伸びている。08年の2月に、月間10万件。さらに09年に入ってから
は、瞬間的ではあったが、月間30万件を超えるようになった。
(5)無料で書く喜び…収入のない世界で生きる喜びというのがある。言うなれば
ボランティア活動ということか。損得のない世界でものを書くというのは、
それだけで、そのままストレートに生きがいに結びついてくる。
(6)一貫性の追求…とくに育児においては、その人の人生観なり哲学が、混入して
くる。育児論は育児論だけではすまない。育児論を「城」とするなら、人生観
や哲学は、その土台ということになる。その土台まで踏み込んだ育児論を展開
することができる。
(7)大量性の確保…たとえば本の出版では、体裁に合わせて、原稿の量を削ったり、
することが、当然のように行われている。しかしインターネットの世界には、
それがない。毎日書いたままを、同時に、世界に向けて発信できる。
(8)速報性…書いた原稿を、瞬時に、マスコミの世界に配信できる。ものごとが、
瞬時、瞬時に片づいていく。読者の反応が、リアルタイムで返ってくるのも、
   インターネットならではの、利便性ということになる。

が、何よりもすばらしいのは、(1)出版社が介在しないこと(出版社にあたる関門
がない)、(2)本のような配本会社が介在しないこと(自分でリアルタイムに配信
できる)、という点がある。

紙製の単行本のばあい、原稿を書いてから、出版→配本まで、どんなに早くても
2か月はかかる。
ふつう売り込みから出版まで、3〜4か月はみる。
(有名な作家のばあいは、出版社のほうから原稿依頼があるというが、私のばあい、
そういうことは、『東洋医学・経穴編』(学研)をのぞいて、一度もなかった。)
その間、郵送によるやりとりが、数回以上は必要。
出版社へも出向かなくてはならない。
さらにここ30年だけをみても、出版についての条件が、毎年のようにきびしく
なっている。

30年前には、印税も、5%をくだることはなかった。
6〜12%前後、出版と同時に支払ってくれる出版社もあった。
それが今では、印税も売れ高払い。
5%以下というのも、珍しくない。
そのため印税の支払いも、売り上げが確定したあとということで、最低でも
3か月、ふつうは6か月待たされる。
あるいは1年待たされるというのも、珍しくない。

●マネーか名誉か

が、最大の問題は、インターネットでは、それを収入につなげるのが、
たいへんむずかしいということ。
広告収入ということもあるが、実際には、私のばあい、月額4000〜
5000円程度に過ぎない。
(ほかに方法はあるのだろうが、私は試していない。)
そこで私はつぎの択一に迫られた。

「収入を取るか、それとも生きがいを取るか」と。
「ものを書いて、収入を得るか」、それとも「より多くの人に読んでもらうか」
という選択と考えてもよい。
そういえば、昔、A出版社の社長が、私にこう言った。
「金(マネー)を取るか、名誉を取るか、どちらかにしてほしい。
両方というのは、ムシがよすぎる」と。

で、私のばあいは、(生きがい)を取った。
(……と書くと、少しおおげさに聞こえるかもしれない。
実際には、どちらか一方をあきらめることにした。)

それに本を出版していた時代に、あの(めんどうくささ)というか、
限界をよく知っていたこともある。
校正だの訂正だの、いろいろある。
加えて、30年前には、初刷りでも、6000部〜1万2000部がふつうだった。
それが今では、3000部。
この部数は、全国の書店にやっと1〜2冊並ぶか並ばないかという数である。

「だったらすべて無料で提供しよう」と私は考えた。
頭の中には、毎日のように、書きたいことがつぎつぎと浮かんでくる。
本を出版するときのように、たとえば出版社と連絡を取り合っている暇さえない。
書きたいことがつぎつぎと浮かんでくる。
それをパソコンのキーボードをたたいて、吐き出す。
それこそまさに、「肛門期の快感」(フロイト)ということになる。

たとえば量だけをみると、1か月に、40字x36行を1枚として、500〜600
枚は、書いている。
その量は、単行本に換算すると、3〜4冊分ということになる。
ふつう単行本のばあい、120〜140枚で、1冊の本ができる。
それに私のばあい、ひとつのテーマにしばられるのが苦手。
苦手というより、苦痛。
教育論を書きながらも、宗教論や政治論についても、書いている。
若いころは東洋医学にも興味をもった。
最近は、宇宙に興味をもち始めている。

●著作権

問題は、著作権である。
私は過去においても、そして現在も、だれにも原稿の転載、流用を許可していない。
そういう申し出はよくあるが、すべて明確に断っている。
これは私のスタンス(立場)を明確にするために、重要なこと。
どこかでだれかに例外をつくると、それが元で、原稿が四方八方に散ってしまう。
収拾がつかなくなってしまう。
(だからもし、読者のみなさんが、私の書いていることと同じ内容、同じ文章を
見られたら、それはその人が、無断で使用していると考えてほしい。引用についても、
同じ。)

ともかくも、こうした裏話が、育児論、教育論に併せて、一貫性をもって書けるのも、
インターネットのすばらしさということになる。
読む、読まないの選択は、あくまでも読者のみなさんの手にゆだねるしかない。

この先、当然のことながら、「紙」という資源を使った本や雑誌は、衰退することは
あっても、その地位を再び確保するということは、ありえない。
アメリカでは、一時、インターネットに対して、新聞が奮闘した時代もあった。
ちょうど2000年ごろのことで、そうした問題がアメリカでも起きた。
アメリカの有力新聞社が善戦しているのを見て、「インターネット、恐れるに足りず」と
いう、社説をどこかの新聞で読んだこともある。
しかしそれはあくまでも一時的。
現在は世界的にみても、そのあと、新聞も、発行部数、読者数、広告収入ともに、
激減している。

で、最初の話に戻るが、要するに、広告媒体とインターネットをどう結びつけていくか。
それについても、新聞や雑誌とちがい、広告対象をしぼることによって、無駄な広告料を
節約することができる。
読者が若い男性なら、若い男性向けのコマーシャルを、ねらいうちする形で、配信する
ことができる。

しかしこれらのことは、同時に、これからのライター(=もの書き)の世界を、大きく変えることを
意味する。

(1)発信する情報の量そのものが、多くなる。(1人のライターが発信する文書の量が
多くなり、管理するのがむずかしくなる。)
(2)利益を確保する方法、手段が、複雑化する。(本のばあいは、対出版社との交渉
だけで、それ以上のわずらわしさはない。)
(3)自己責任の幅が大きくなる。本のばあいは、出版社、編集者の目を通ることで、
責任を回避することができる。しかしインターネットのばあいは、ライターの
書いた文章が、直接、読者に届くことになる。インターネットの世界には、「炎上」
という言葉がある。書き方をまちがえると、思わぬトラブルの原因となる。

ともあれ、いろいろ問題が起きているが、私は過渡的な現象ととらえている。
インターネットにしても、10数年前に産声(うぶごえ)をあげ、やっと少年期にたどり
つきつつあるといった状態である。
(あるいはやっとヨチヨチ歩き始めた、乳幼児の段階かもしれない。)
不完全ではあるが、今を見て、将来を判断してはいけない。
これからの可能性を考えるなら、インターネットの世界は、この宇宙を包み込むほどの
広さと大きさがある。
「第二の産業革命」と位置づける人もいる。
それがどんな世界かは、私にもわからない。
が、しかしこれだけは言える。

それがどんな世界であるにせよ、この時代を生きる私たちの思いや考えは、未来永劫に
残るということ。
いくらインターネットが進化しても、それを作るのは、人間だからである。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●不況の嵐

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毎月のように内閣府の発表する市況判断は、
下方へ、下方へと訂正される。
まるでジェットコースターか何かに乗っている
かのよう。
今朝の新聞によれば、「急速に悪化」という
言葉も見られた。

++++++++++++++++++++

●個人企業vs会社組織

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こういう不況時代になると、原則的には、個人企業が有利。
個人企業といっても、家族だけで経営する零細企業。
固定して支払わなければならない給料そのものがない。
収入が減れば、その分だけ、生活を切り詰めればよい。
が、もっとも、それにも限度がある。

一方、会社組織で運営している企業は、小回りがきかない。
一度赤字に転落すると、そのまま奈落の底へと転落していく。
そこで企業は、社員数を減らしたりして、「種」だけは残そうとする。
いつかまた景気が回復したとき、その種をまいて、再生をねらう。
が、それにもやはり限度がある。

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●株価大暴落

もっている株の株価が10分の1どころか、20分の1、30分の1になってしまった
人もいる。
先日、SCという会社の株をもっていて、1億円を、1000万円にしてしまった人の
話を書いた。
泣くに泣けない状態、とか。
「おおげさかな?」と思って調べてみると、SCという会社の株価は、昨年1年間だけで、
たしかに10分の1になっていた。
が、さらに去年の終わりから、今年にかけて、3分の1になっていることがわかった。

もし今でもその人が、その株価を塩漬けにしていたとすると、現在の評価額は、300
万円ということになる。
1億円が300万円である!
同情したくても、同情のしようが、ない。

ほかに財産のある人ではないので、これだけをみても、その人がいかに落ちこんでいる
かは、容易に察しがつく。

●お金で、ジャブジャブ

一方、世界中が、これだけお金(=マネー)を市中にばらまいているのだから、どこかで、
それを集めている人もいるはず。
経済誌などによれば、アメリカ・ドルも、日本・円も、「ジャブジャブの状態」(経済各誌)
だそうだ。
日本だけでも、50兆円。
アメリカも100兆円。
しかしそういうお金は、どこへ消えているのか?

先日も、S氏(会社社長、70歳)と、そういう話になった。

S氏がいうには、金融機関の救済のために使われている、とのこと。
たとえば0・2%という公定歩合がいかに魅力的なものであるかは、具体的に数字を
放り込んでみると、わかる。

1億円借りて、1年間に返す利息は、たったの20万円。
1億円のマンションを買っても、月々の部屋代が、1万7000円程度ということになる。
5000万円のマンションなら、8000円程度。

つまりそういう形で、世界中が、今、お金で、ジャブジャブになっている。

私が「そういうお金は、庶民のところには回ってこないのですか?」と聞くと、
「天井の上をクルクル回っているだけで、下には落ちてこないよ」とのこと。

そんなわけで、この不況のあとにやってくるのは、猛烈なインフレ。
景気が回復のきざしを見せたとたん、そうなる。
結局は、そのツケは、一般の庶民が負うことになる。
これを『踏んだり蹴ったり』と言わずして、何という。

●じっと耐えるしかない

ここはじっと耐えるしかない。
ジタバタしたところで、どうにもならない。
が、こういうことは言える。
零細企業であろうが、大中の企業であろうが、最後までふんばったほうが勝ち。
その間に、ライバル企業(商店)が、力を落としていく。
そして景気の回復とともに、ふんばった企業が先頭に立って、復活する。

……といっても、それまでがたいへん。
どうやって食いつないくのか……?

今回の不況を、「50年来の不況」とか、「100年来の不況」とか言う人がいる。
それほどまでに深刻ということだが、しかし先が見えないわけではない。
人が生きている以上、そこには(動き)がある。
(動き)があれば、そこに経済がある。
小さな光でも、光が見えれば、回復は早い。
経済というのは、いつも先読みで回復する。

10分の1以下になった株価については、もとに戻ることはないにしても、
20〜40%の範囲であれば、もとに戻る可能性は、高い。

まあ、こういうこともあるから、昔からこう言う。
『資産は、分散せよ!』と。

貯金、債権(外債)、国債、金、株……。
ひとつで損をしても、べつのところで儲けていく。
全体として、バランスをとっていく。
それが賢い利殖の仕方ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●赤いパンツ

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何を血迷ったのか、ワイフが赤いパンツ
を買ってきた。
赤といっても、濃い、血のような赤。
「これぼくの?」と聞くと、「そうよ」と。

私の世代で、赤いパンツをはくような男はいない。
「赤」は、「女の色」ということに決まっている。

私「フ〜〜ン」
ワ「何が?」
私「赤いパンツなんて、生まれて始めてだよ」
ワ「あら、そう。似合うわよ」
私「そうかなあ……」と。

たしかに作りは男性用。
腰にあたるゴムの部分が太い。
それにちゃんとあの部分が袋のようになっている。
しかし、だ。
肝心の穴がない。

私「なあ、これって、女性用じゃ、ないのかア?」
ワ「ちゃんと、男性用コーナーで買ってきたわよ」
私「店員さんが、まちがえてそこに置いたのじゃ、ないのか?」
ワ「そんなことないわよ」
私「……?」

しかし習慣というのは、恐ろしい。
小便のとき、思わず指先で、穴をさがしてしまう。
しかしもとから穴はない。
そこでパンツを指でさぐる。
で、そのとき、やっと気がつく。
「ああ、このパンツには、穴がないのだ」と。

で、教室で、こんな話をした。
わんぱくで、やりたい放題、したい放題の子どもが1人、いる。
小学3年生。
男児。
名前を、H君という。
そのH君に、それとなく、こう言ってみた。

私「あのなあ、ぼくのパンツ、赤だよ」
H「フン」
私「フンって、信じないのか?」
H「信ずるわけがない」
私「本当なんだ。本当に赤なんだ」
H「そんなわけないよ、先生。ウソをつくなら、もっとマシなウソをつきな」
私「何なら、見せてあげようか」
H「ハハハ」と。

子どもでも、信じない。

で、家に帰って再び、パンツの話。

私「やっぱり、このパンツは、女性用だよ」
ワ「だったら、このふくらみは、何よ?」
私「たしかに袋のようには、なっている。でもね、中には、あの部分が大きくふくらん
でいる女性もいるかもしれないよ」
ワ「そんな女性はいないわよ」
私「そうかなあ……?」と。

最近のパンツは、男性用でも、穴がないのか?
あるいは外国では、男性でも、穴のないパンツをはくのか。
しかしどうやって、用を足すのだろう。
考えれば考えるほど、わからない。

私「どうやって、おしっこをするんだ?」
ワ「横から出すとか、上から出せばいいんじゃない?」
私「あのなあ、それはたいへんだよ。いちいち亀の頭を引き出すように、
外へ引き出さなければならない。めんどうだよ」
ワ「じゃあ、そこに穴をあけてあげましょうか」
私「どうするの?」

ワ「ハサミで切ればいいじゃない?」
私「それはまずいよ。それにこんなパンツをはいていたら、交通事故にもあえない」
ワ「どうして?」
私「医者や看護士が、ぼくのことを変態と思うかもしれないよ」
ワ「今どき、思わないわよ」と。

ともかくも、赤いパンツは、はき心地が、どうもよくない。
落ち着かない。
自分の中にできた思考回路を変えるのは、容易なことではない。

私たちの世代の男たちは、ぜったいに赤いパンツは、はかない。
それが私たちの世代の常識なのだア!


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●思考回路

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脳みそというのは、反復性のある行動、思考に
ついては、別回路をつくり、つぎに同じような
行動、思考をするようなとき、その回路にしたがって、
行動したり、思考したりする。
そのほうが、便利だからである。

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このことは、幼児に、同じ絵を何回も描かせてみる
とよくわかる。

たとえば帽子が三角、顔が丸、手と足が「十」に
なった(かかし)を描かせてみる。

「  △
   ○
   十  」

最初はたどたどしく、描き方に迷っていた子どもでも、
4〜10回も描くうちに、描き順が定まってくる。
思考回路が決まってきたことを意味する。

こうした思考回路は、無数にある。
たとえば目の前にあるお茶のコップにしても、それを手に
取るとき、指をどのように使うか、それをいちいち考えて
取る人はいない。
自然な形で、しかも何も考えないで、コップを取ることが
できる。

それが思考回路である。

この思考回路には、大きく、つぎのふたつに分けて考える
ことができる。

(1)手続きや運動に関する思考回路…運動、動作に関する思考回路。
(2)思考のパターンに関する思考回路…ものの考え方、論理の組み立て方。
「固定常識」(はやし浩司)も、それに含まれる。

ここでいう「固定常識」というのは、常識の中でも、傷口のかさぶたのように、
心の中で、固定してしまった常識をいう。

先日もワイフが私のためにと、赤いパンツを買ってきてくれた。
しかしどうも、はき心地が悪い。
子どものころから、「赤は女の色」と、そういう常識を叩き込まれたせいと
考えてよい(?)。
つまり心理学でいえば、私は、そのとき軽い(役割混乱)を起こしたことになる。

役割混乱…「男の子は男の子らしく」「女の子は女の子らしく」と、子どもは
成長の過程で、そうした(役割)を身につけていく。
だれに教えられるというわけではないが、常識(?)として、身につけていく。
しかしこの(役割)が混乱するときがある。
たとえば男の子に赤いスカートをはかせてみるとよい。
ふつう、子どもは、それに抵抗する。
が、それでもはかせてみると、精神状態そのものがたいへん不安定になる。
(実際には、はかないだろうが……。)

今回の赤いパンツがそうである。
つまり思考回路が、混線する。
たとえば自分でパンツを買いにいくときは、意識することもなく、(男らしい色)を、
私は選ぶ。
青とか、茶色とか、など。
それがここでいう「思考のパターンによる思考回路」という。

しかも、だ。
ワイフの買ってきたパンツには、穴がない!
これはどう理解したらよいのか。
男性用のパンツには、穴がある。
そう決めてかかっているのも、実は、「思考のパターンによる思考回路」ということに
なる。

……しかし、こうした思考回路は、そのつど、できるだけ破壊してみたほうがよい。
破壊したとたん、そこに別の世界が広がる。

話は飛躍するが、ときどき映画を見ながら、私は、それを経験する。
たとえば『シクス・センス』『マトリックス』『ミラーズ』など。
これらの映画は、私に強烈な印象を残した。
またそういう映画は、楽しい。
脳みそがひっくり返るような、衝撃を覚える。

言いかえると、思考回路が、そのときひっくり返ったことになる。
先にも書いたように、そこにはいつも、別の世界が広がる。
予想もしなかったような、別の世界である。

…しかし、パンツだけは、やはり男の色がよい。
もしこの垣根を取り払ってしまうと、自分がどうなってしまうか。
それがこわい。
そのうちリカちゃん人形のコスチュームを着て、街を歩くようになるかもしれない。
私なら、そうなりそう(?)。
だからこわい。
(でも、楽しいだろうな?)

(付記)

少し前、二男夫婦が私の家に泊まったときのこと。
二男が、嫁さんの足の爪を、爪切りで切ってやっているのを、見た。
そのときも、私の頭の中の思考回路が、バチバチと火花が飛ぶのを感じた。
この日本では考えられない光景である。
またそういうことをしてやっている夫を見たことがない。
(もちろん私もしてやったことがない。)

そういう点では、二男夫婦を見ていると、よい勉強になる。
彼らは、教えずして、私にいろいろなことを教えてくれる。
で、思考回路が変更され、それ以後、私も、似たような行動を、ワイフに
してやることができるようになった。

「男だから……」とか、「女だから……」とか、『ダカラ論』で、ものごとを
考えてはいけない。

『ダカラ論』そのものが、私がいう「固定常識」ということになる。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
固定常識 役割形成 役割混乱 常識論 赤いパンツ だから論 ダカラ論 はやし浩司
思考回路 思考パターン)

(追記)

今日も電車の中で、ワイフとこんな会話をした。
もし(あの世)があるとするなら、という前提での話だが、私は、この世こそが、
あの世ではないかと思っている。

つまり本当は、私たちが思っているあの世こそ、リアルな世界で、今、私たちが
生きている(?)、この世が、あの世ではないか、と。
つまり地獄、極楽というのは、(天国、地獄でもよいが)、この世のように、ある、と。

話がわかりにくくなってきたので、こうしよう。

今、私たちが生きている、この世界を、A世界とする。
そして私たちが死んだら行くとされる、あの世(天国)を、B世界とする。

B世界の住人たちは、こんな会話をしている。

X「この世は善人ばかりで、つまらないですなあ。ところで私は、今度、あの世
(A世界)へ、遊びに行ってくることにしましたよ」
Y「どちらの国を選びましたか?」
X「ハハハ、あまり苦労をするのもいやだから、国は、日本という国にしました」
Y「日本ねえ……。そんな国があったのですか」

X「小さな国ですよ。そこでね、私は、思う存分、自由に生きてみたいと思いますよ」
Y「それはいい。あの世(A世界)へ行けば、いろいろと生きる原点のようなものを
体験できるそうですよ」
X「憎しみや悲しみ、喜びや楽しみ……、この世(B世界)には、ないものばかりです」
Y「ところで隣のイエスさん。ご存知ですか? あの方は、向こうでこの世の話をして
きたそうです。今度また、あの世へ行ってみたいと、今、申請を出しているそうですよ」

X「そうですかア。あのイエスさんが、ねえ……。しかしあの世で、この世の話をする
のは、禁止事項ではなかったのですか」
Y「何でも、特別許可をもらったそうです」
X「特別許可ねエ……。私は、もらえそうにもありませんから、ふつうの住民として、
行ってきますよ。まあ、そんなわけで、しばらく、あなたとは連絡を取れませんが、
よろしく」

Y「わかりました。で、何時間ほど、あの世(A世界)へ行ってくるのですか?」
X「一応、申請では、3時間15分ということになっています。向こうの時間では、
76年ということになるそうです」
Y「76年ですかア? みんなあの世へ行ったときは、それを長く感ずるようですが、
帰ってくると、あっという間だったと言いますね。これもおもしろい現象です」
X「そりゃあ、そうですよ。3時間15分ですから……。エート、旅行社がくれた
プログラムによれば、息子が3人できるということになっています」

Y「それはまた、平凡なコースを選びましたねエ」
X「みんなに嫌われて、最期は、どこかの病院でさみしく死ぬという、まあ、そんな
ありきたりのコースですよ」
Y「ハハハ、それもよい経験になりますよ。またあの世(A世界)から帰ってきたら、
みやげ話でもしてください」
X「わかりました。楽しみにしておいてください。で、もうそろそろ行かなくてはいけ
ません。失礼します」
Y「お元気で!」と。

あなたも一度、この世とあの世を、ひっくり返して考えてみては、どうだろうか。
既存の思考回路が、バチバチを音をたてるはず。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●法事

++++++++++++++++++

実は今日は、実家の法事で、郷里の
M市に来ている。
M市では、いつも長良川沿いにある
緑風荘という旅館に泊まることにしている。
今、その緑風荘の一室で、この文章を
書いている。
時は、1月22日木曜日、午前5時。
昨夜、風呂に入ったあと、午後9時ごろ、
床についた。
それで、今朝は、午前3時起き。

++++++++++++++++++

●母の日記

実家を整理しているとき、戸棚から、母の日記が出てきた。
2冊、あった。
日記といっても、「何があった」「だれが来た」とかいう、メモ帳のようなもの。
それを先ほどまで、1時間くらいかけて、読んだ。

それを読んで、いろいろ考えさせられた。
「母も1人の人間として、生きていたのだなあ」という思い。
「老後と懸命に闘っていたのだなあ」という思い。
そういう(思い)が、無数に頭の中で折り重なっては、消えた。

が、それについては、もう少し頭の中を整理してから書いてみたい。
今は、ペンディング……ということにしておきたい。
安易にそれについて書くのは、慎みたい。


●日記

私がこうして書いている文章にしても、日記のようなもの。
しかし私の息子たちは、私の文章を読むようなデリカシー(?)は、もっていない。
「いつか読んでほしい」とは思っているが、期待はしていない。
そういう期待は、とっくの昔に、捨てた。

孫の誠司にしても、芽衣にしても、そうだ。
それともいつか、日本語を読めるようになるのだろうか。
読めるようになっても、まず、私の書いた文章は、読まないだろう……。

それに、こういう仕事をしているせいもあるが、私は、今では、
自分の子どもも、他人の子どもも、区別していない。
そう感ずるようになったのは、40歳も半ばごろではなかったか。
反対に、今、生徒の中には、自分の孫のように感ずる子どもが、何人かいる。
毎週、その子どもに会うのが楽しみ。
みな、男児だが、それは言わない。
私がすべきことは、いつも一歩退いて、その子の成長を見守ること。

で、子どもたち(生徒たち)には、いつもこう言っている。
「ぼくはいろいろなことを書いている。
いつか君たちがおとなになったら、ぼくの書いている文章を読んでね」と。
あとで日付を照合すればよい。
そうすれば、たとえば「ああ、このことは、ぼくのことだ」と、わかるはず。
(ただし名前のアルファベットは、そのつど変えているので、注意。
たとえば、麻生君は、HT君というように。ルールは、ない。)

そういう子どもたちも、ひょっとしたら、何人か出てくるかもしれない。
楽しみというより、どこか、切ない(?)。
こうして私は文章を残し、彼らがそれを読むときは、100%、私はこの世にいない。

……そう言えば、住職が読経してくれているときも、その切なさを、心のどこかで
感じた。
母や兄の死を悼(いた)みながら、生きることにまつわる切なさを感じた。
今は今だが、やがてすぐ、私も、母や兄のように、跡形(あとかた)もなく、消える。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●思春期前夜

+++++++++++++++++++++

今は廃線となった、美濃町線。
かつては岐阜市と美濃市をつないでいた。
その美濃町線の美濃駅は、小さな展示館になっている。
私とワイフは、バスを待つ間、その展示館に入ってみた。
そこにB紙大の看板があって、こう書いてあった。

『チンチン・ビール電車』と。

昔は、美濃町線のことを、このあたりの人たちは、
「チンチン電車」と呼んでいた。
親しみをこめて、そう呼んでいた。
走るとき、そのつど、うしろにいた車掌が、
ひもを引いて、チンチンと小さな鐘を叩いた。
それで「チンチン電車」となった。

しかしどういうわけか、私は、その文句にひかれた。
「チンチン・ビール電車ねエ〜」と。
デジカメで、写真にも撮った。
たぶん、電車の中でビールが楽しめるようにしたのだろう。
文字の背景には、ビールのジョッキが、描かれていた。

++++++++++++++++++++++

●「ノ・ビール電車」

一方、私が今住んでいる浜松市のほうでは、「チンチン」というのは、
チンチン。
男性のあれをさす。

で、昨日、その話を子どもたち(小5、6児)にした。
が、子どもたちは私の話を信じなかった。
それでデジカメの写真を見せてやった。
子どもたちは、それを見て、ゲラゲラと笑った。
が、それはそれ。

ここからは、少し話が、回りくどくなる。
少しがまんして読んでほしい。

そのクラスに、ズバ抜けて聡明な女の子がいる。
小学6年生の子どもである。
学校でもトップというが、実力はそれ以上。
容姿も美しく、いわゆる「モデル系」というタイプ。
静かにしていれば、ブンブンと男たちが群がる。
そんなタイプの女の子である。

が、ひとつだけ、欠点がある。
男勝(まさ)りの女の子で、どこからどう見ても、
男の子ぽい。
女の子らしくない。
「おてんば」という言葉に入りきれないほどの、おてんば。
口の利(き)き方も、男。
態度も、男。
雰囲気も、男。
そのくせ自分が男に扱われると、猛烈に反発する。
名前を、SKさんとしておく。

だからいつもほかの男のたちにからかわれる。
去年の終わりにも、ある男の子が、SKさんにこう言った。
「お前なア、もう少し男の子らしくしろよ」と。
これを聞いて、SKさんは、その男の子に飛びかかっていった。

で、昨日も、同じ男の子が、SKさんにこう言った。
「お前なア、もう少し、女の子らしく笑えよ」と。

……ということで、昨日の会話になった。

A男「お前、本当に、女か?」
SK「女の子だよオ〜。ほら、ちゃんと、ピンクのセーターを着てるでしょ」
B男「ピンクだからといって、女の子とはかぎらないよ」
SK「ピンクは、女の子の色なの」
A男「ぼくのパンツは、ピンクだよ」

SK「ゲーッ、キモイ(気持ち悪い)。あんたのパンツ、ピンク?」
A男「ピンク色に近い、ピンク」
SK「何、それ?」
私 「そうだ。ぼくも、この前まで、赤いパンツをはいていた」
SK「ゲーッ、もっとキモイ」

B男「お前なア、女の子なんだろ。だったら、もっと女の子らしくしたら?」
SK「どうすればいいのさア?」
B男「笑い方を変えるとかさア……」
SK「どう笑えばいいのヨ〜」
B男「ホホホとか、フフフとか、いろいろあるじゃん」

SK「それこそ、キモイ」
C男「お前って、本当に、女かア?」
SK「女の子だってばあ……」
C男「じゃあ、証拠見せろよ」
SK「エッチ、どスケベ、変態! あんたは変態よ」

そのとき、先ほどの「チンチン電車」の話に戻った。

私「チンチン・ビール電車に、『ノ』を入れたら、たいへんなことになる」
男児たち、即座に、ゲラゲラ笑い出す。
「ノ・ビールだってエ、ハハハ」と。
ひっくり返って笑っているのもいた。

それを見て、SKさん、きょとんとするばかり。
SK「どうして、みな笑うの」
A男「ノ・ビールって、おかしくねエのか?」
SK「ゼンゼン……?」
B男「チンチン・ノ・ビール電車って、聞いて、おかしくねエのか?」
SK「どうして、それがおかしいのよオ?」

C男「あのなア、お前って、バカかア?」
SK「バカじゃ、ないわよ」
B男「だからさあ、ハハハ」
私 「あのなア、みんな、笑わないということが、SKさんが女の子という
証拠だ」
男児「そうだ、そうだ。やっぱり、お前は、女だ」

SK「どうして笑わないと、女の子なの?」
みな、さらに腹をかかえて笑い出す。
私 「つづきは、お母さんに聞いてこい」
SK「お母さんなら、わかるの?」
私 「たぶん、ね、ハハハ」と。

A男「でもさあ、先生、どうしてお母さんなら、わかるのよオ?」
私 「それも、お母さんに聞けばいい。ちゃんと話してくれるから」
A男「そうかなあ……」
B男「うちのママだって、笑わないと思うよ」
私 「どうかなア……? ぼくにはわからないが、聞くだけ、聞いてみればいい」

たまたまそこへワイフがやってきた。

簡単に説明すると、ワイフもハハハと笑った。

A男「アッ、先生の奥さんも笑った……!」
SK「奥さん、どうしておかしいの?」
B男「先生の奥さんって、変態かア?」
ワイフ「おかしいわねエ……」
SK「ホント? どこがおかしいの?」と。

思春期前夜の子どもたちというのは、ざっと言えば、こういう状態。
こうして性的興味をふくらませながら、思春期へと突入していく。

私も久しぶりに大声で笑って、気分がすっきりした。
2009年1月23日、金曜日記。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(090125)

【ザ・ムーン】(In the shadow of the Moon)

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昨夜、仕事の帰りに、深夜劇場へ寄った。
封切りになったばかりの、「ザ・ムーン」を見た。
星は、2〜3個の、★★。

ドキュメンタリー映画としての価値は認める。
が、そこまで。
あとは元宇宙飛行士たちの回顧また回顧。
何割かが、おしゃべり。
それぞれに深みのある言葉だったが、娯楽映画
として見るには、もの足りない。
だから星は、2つ。

圧倒されるような地球の風景もなかった。
月の風景もなかった。
ザラザラした古い画像ばかり……。

++++++++++++++++++

●アポロ11号

アポロ7号は、地球軌道を周回。
アポロ8号は、月軌道を周回。
アポロ9号は、地球軌道を周回。
アポロ10号は、月軌道を周回。
アポロ11号で、アメリカは、人間を月に着陸させることに成功した。
……ということになっているが、アポロ11号は、やらせだったという
疑惑がある。
(ついでに、あのガガーリンも着陸時に、死亡しているという説もあり、
こちらのほうは、半ば常識化している。)
当時は、そういう時代だった。

もちろん映画の中では、元宇宙飛行士たちは、それを強く否定している。
「やらせと言っている人もいるが、そんなに多くの人をだませるはずがない」
というようなセリフも、終わりのほうにあった。

事実、アポロ11号については、世界中の天文台が追跡していたし、
持ち帰った岩石には、地球上にはない鉱物も含まれていた。

で、私の関心は、その一点に集中した。
そのあたりを、目を凝らして見た。
アポロ11号は、果たしてやらせだったのか。
それとも本当に、乗組員たちは、月に行ったのか。
しかしフィルムは古く、また目新しい証拠も写真もなかった。
つまり、つまらなかった!

アポロ11号のニール・アームストロング船長の言葉、
 "That's one small step for a man, one giant leap for mankind."
(これは一人の人間には小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ)は、
あまりにも有名である(ウィキペディア百科事典)。

で、このとき『記念すべき第一歩を記したのは左足である。
アポロ11号が着陸した「静かの海」には、鏡100枚で作られた
一辺が約46cmのレーザー反射鏡が設置された。この反射鏡は
地球から発射されたレーザーを反射させて、地球と月の距離を
測定するために利用されている。地球と月の距離は約38万kmであり、
年に3・8cmずつ距離が増えているという』(同)と。

「反射板があるから、それが行ったという証拠だ」と説く人もいる。
しかしここにも書いたように、その後、アポロ計画は、アポロ17号まで
つづく。
反射板を設置するだけなら、月を周回しているとき、それをそこへ落とすことによっても、
可能である。
それをしたのは、アポロ8号か10号、あるいは12号か、14号、15号かもしれない。
私は、こういうことには、たいへん疑り深い。
もし本当に、アポロ11号が月へ行っていたのなら、やらせ疑惑が出るような
スキはなかったはず。

もし事実であれば、調べれば調べるほど、(事実)の深遠へと、吸い込まれていくはず。
が、それがない(?)。

疑惑の根拠となった事実は、いろいろある。

星条旗が、はためいていた。
影が複数本あった。(あるいはなぜか、修正され、消されていた。)
しかも光源の方向がちがっていた。
飛行士が何かを落としたが、それが地球上でのように、速く落ちた。
たまたま写り込んだ岩石の表面に、きれいな「C」の文字が書いてあった、などなど。

映画なのだから、そういう疑惑に、しっかりと答えてほしかった。
つまりわざわざお金を払って見にいってやったのだから、しっかりと答えてほしかった。

むしろ私は映画を見て、新たな疑問をもった。
それは、こんな疑問だ。

月着陸船から2人の宇宙飛行士が、月の軌道を周回する母船に向かって飛び立つ。
このシーンは有名だから、知っている人も多いことと思う。

一方、今度は母船のほうからの映像。
月の表面から、まるで氷の上をすべる石のように、宇宙船が近づいてくる。
なめらかで、寸部の狂いもない。
それがやがてすぐ、母船とドッキングする。

しかし、だ。
今から40年前に、そんな技術があったのだろうか。
それが新たな疑問。
映画の中にも出てきたが、月着陸船にしても、やっと完成した(?)ばかりの乗り物。
フラフラと飛び回って、墜落するシーンもあった。

月の軌道を回る母船(=地球帰還船)が、時速どれくらいの速さだったかは知らないが、
地球の軌道を回っているときは、秒速10キロ前後だったという。
(秒速10キロだぞ!)
それを手動で発射させた月着陸船が、うまく母船をとらえるということ自体、
不可能と考えてよい。

最近になってやっとミサイル迎撃ミサイルが、実践配備されるようになった。
が、地球上ですら、それは難しい。
何十人、(あるいは何百人もの)、要員がいて、高性能のレーダーで追跡してやっと、
可能なのである。
もちろん高性能のコンピュータも必要だが……。

何か、おかしい?
へん?
謎?
それがあのアポロ11号である。

ついでながら、ウィキペディア百科事典に出てきた、2つの数字に
注目してみた。

38万キロを3・8センチで割ると……

38000000000÷3・8=10000000000年
               =100億年

単純に考えれば、分離説(月は地球から分離したという説)に従えば、
毎年3・8センチずつ月は、100億年をかけて、現在の位置にやって
きたことになる。

しかし地球の歴史は、60〜70億年。
どこかに矛盾を感ずるが、この話はここまで。

つぎは、『007・慰めの報酬』が楽しみ!
必ず、見るぞ!

(付記)
地球の大気は、卵にたとえるなら、外の硬い殻(から)どころか、その内側の薄い膜の
ようなものである。
計算上、そうなる。
その薄い膜の中に大気があり、その下のほうに、人間を含めて、いろいろな動物が
へばりついている。
だから大気もモノも、そして人間も、全体として、分子が姿を変えただけ。
そういう解釈も成り立つ。
しかしそういう発想は、地球を宇宙からながめたことがある人だけにできる。
だれだったかは忘れたが、(映画館の中では、メモを取ることができないので)、
そのようなことを言った宇宙飛行士がいた。
私はその言葉を聞いたとき、心底、その宇宙飛行士がうらやましかった。
そういう発想は、残念ながら、私には、ない。
劇場から出るとき、「なるほど、そうだろうな」と、何度も自分にそう言って聞かせた。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●歯磨き一考

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歯をみがくとき、ほとんどの人は、チューブに
入った、「練り歯磨き粉」(以下、歯磨き粉)を使う。
古風な言い方に聞こえるかもしれないが、それが
正式の呼び名である。

私も、子どものときから、ずっとそれを使っていた。
欠かさず、使っていた。
しかし、この半年ほど、使うのをやめている。
で、その報告。

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●不要?

歯磨き粉をいつも使っている人は、一度、使わないで、歯を磨いてみるとよい。
しばらく磨いていると、口の中に唾液がたまってくる。
その唾液を吐き出してみる。
そのとき、あなたはギョッとするはず。

歯というのは、驚くほど、食べ物のカスだらけ。
それが汚物のように、(汚物なのだが)、歯にくっついている。
歯を磨くと、そのカスが、ドロドロとはがれてくる。

しかしこのとき、歯磨き粉を使っていると、それがわからない。
わからないまま、歯がきれいになったと思い、それ以上、歯を磨くのをやめてしまう。
つまり汚れが、かえってそのまま残ってしまう。

通っている歯科医のアドバイスもあって、私はこの半年ほど、歯磨き粉の使用を
やめている。
そのかわり、カスが出なくなるまで、歯を磨くようにしている。
時間にすれば、それ以前の2〜3倍にもなっただろうか。
つまりそれくらい長く磨かないと、カスは取りきれない。

もし、どうしても……ということであれば、塩でよい。
塩をつけて磨く。
逆に言うと、なぜ私たちは、歯を磨くとき、歯磨き粉を使うのかということになる。
本来必要もないものを、必要であると思い込まされているだけ(?)。
子どものころ、歯磨き粉を使うと、白い歯になるとかなんとか、そんなコマーシャルも
よく耳にした。

中には、歯磨き粉イコール、(歯の石鹸)のように考えている人がいるかもしれない。
私も、そうだった。
あるいは、歯磨き粉の中には、歯をガードする物質、たとえばフッ素などが
含まれているから、有効と考えている人がいるかもしれない。

どうであるにせよ、汚れが残ったまま、歯磨きをやめてしまったら、意味がない。
そういうことも考えながら、一度、歯磨き粉なしで、歯を磨いてみるとよい。

で、半年たった今、私は、こんな結論を出している。
「歯磨き粉は、必要ない」と。

で、それ以上に大切なことは、歯ブラシを複数本、用意すること。
小さくめで、歯先の短いもの。
長くて、歯先が硬いもの。
ふつうのもの。
それにローリング・ブラシ。
そういった歯ブラシを、そのつど取り替えて使う。

いつも同じ歯ブラシを使っていると、その歯ブラシのクセに応じてでしか、
歯を磨けなくなる。
死角ができる。
しかしそのつど歯ブラシを取り替え、歯の磨き方を変えると、いろいろなし方で、
歯を磨くことができる。
死角ができるのを防ぐことができる。
ついでに歯間ブラシも使うとよいそうだ。
これは先の歯科医の先生が、そう言った。

で、ここではもう一歩、話を先に進める。

歯の重要さは、老人を見れば、わかる。
「歯がなくなれば、入れ歯にすればいい」と思っている人がいるかもしれない。
しかしこれは、とんでもない誤解。

老人になると、入れ歯そのものが、作れなくなる。
入れ歯というのは、そのあとの調整が大切。
その調整ができなくなる。
だから実際には、80歳とか85歳以上になると、入れ歯を作るのは、むずかしい
そうだ(あるケアマネの人の言葉)。

さらに高齢になると、入れ歯をはめたまま眠ってしまったりして、それで命を
落とす人もいるという。
ある女性は、入れ歯を口に入れたまま眠ってしまい、それが喉の奥に入り、
窒息して死んでしまったという。
あるいは舌が、入れ歯を巻き込んでしまい、救急車で病院へ運ばれた人もいる。
入れ歯の事故は、多い。

だからやはり、歯は大切にしたほうがよい。
「たとえ数本でも残っていれば、長生きできます」(ある介護士の言葉)とのこと。
その数本が、目標。
……ということで、このところ、歯の磨き方に神経を使っている。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 
歯の磨き方 歯磨き粉 不要論 入れ歯 老人の入れ歯)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●「赤」という漢字

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「赤」という漢字は、もともとは、
人が火にあぶられている様子を示したものだ
そうだ(「本当は怖ろしい漢字」・彩図社)。

「赤」の上半分は、人間。
下半分は、炎(ほのお)を示しているそうだ。

つまり火にあぶられると、皮膚は赤くめくりあがり、
血管が破れて血が噴き出す……。
そこから「赤」という意味が生まれたという(?)。

残念ながら、にわかには信じがたい話である。
というのも、漢字にまつわるこの種の話は、多い。
私もかつて、何度か、子ども向けの漢字字典の編集に
携わったことがある。
が、それぞれの漢字には、いろいろな説があって、
定説がないことを知った。

「フ〜〜ン」と感心したところで、この話はおしまい。
私も知らなかった。

で、こんなこともある。
私の名前は、「林」。
私は子どものころから、「林」は、「林」と思っていた。
それについて、小4のA君が、「林は、木へんだね」と
言った。

なるほど!
「林」という漢字は、「木へんに、木がくっついたもの」だ。
満61歳になって、はじめて、それに気がついた。

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●「ドンマイ」

数日前、中日新聞のコラムを読んでいたら、こんなことが書いてあった。
「ドンマイ」というのは、「Don't mind(気にするな)」を短くしたものだ、と。
そこでその編集者は、つづけて、こう書いている。

「英語では、Never mindとは言うが、Don't mindとは言わない」と。

本当かな?

こういうとき私は、自分の耳の中をさがす。
すると、いつかだれかが言った言葉が、よみがえってくる。
もちろん英語国の人の言った言葉である。

「Don't mind.」……ちゃんとした英語である。
よく使う。
たぶん、そのコラムを書いた編集者は、外国に住んだ経験がないのだろう。
だからそういうトンチンカンなコラムを平気で書く。

ほかにも、以前、こんなことを書いている人もいた。
英語雑誌の編集を手伝っているときである。

「アメリカでは、I am....とは、言いません。I'm....と言います」と。

私はその原稿を読んで、編集長氏に、「これはおかしい」と言ったが、
取り合ってもらえなかった。
どこかの教授の原稿だったので、遠慮したのだろう。

つまり英語というのは、元来、自由な言葉である。
おととい見た映画、『ザ・ムーン』の中でも、月のことを、
「the Heavenly Body(神聖なボディ)」と呼んでいた宇宙飛行士
がいた。
シェークスピアの時代から、いかに豊かな表現力があるか、それでその人の
英語力が決まる。
知的能力のレベルが決まる。
だから英語で話すときは、思い切って、学校で習ったような表現方法は忘れてしまう
とよい。

たとえば「お会いできてうれしいです」は、「Nice to meet you」だが、
「Nice」の部分を、その場の雰囲気で、いろいろに変えてよい。
またそのほうが、相手に好感をもたれる。

「Great」「Wonderful」「Super」、あるいは品位のある席では、
「It's my privilage」でもよい。

一方、日本語ほど、「型」にこだわる言葉は、ない。
型にはまった言い方をするのが、正しい言い方と、信じて疑わない人も多い。
言いかえると、日本語という言葉は、表現力においては、貧弱。
つまりこの問題は、「Don't mind」と言うかいわないか、という問題ではない。
そういった発想そのものが、実に日本的ということになる。

繰り返す。
「Don't mind」は、立派な英語である。


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【Mae's Room(芽衣の部屋)】

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2008年のはじめ、「音楽と私」というコーナーを、
私のウェブサイト(HP)上に、もうけた。

で、今年は、【芽衣の部屋】というのを、もうけた。
この1年をかけて、充実させるつもり。

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私の夢は、一度でよいから、孫を自分の幼児教室で教えてみることだった。
しかしその夢は、前回、はかなく消えた。
孫の誠司が日本へやってきたとき、新しい教材を用意し、それに備えた。
数日前から準備した。
言うなれば、特別教室。
が、その前夜、私と二男が、大喧嘩。
(よくあることです。)
二男は当日、誠司を連れて、名古屋へ行ってしまった。
それで、「消えた」。

もう1人の孫がいる。
現在、満2歳。
しかし今のところ、日本へ来る予定はない。
それで今回、『芽衣の部屋』を、もうけた。
5月の誕生日までに間に合えばよい。
それまでに、完成させる。

『芽衣の部屋』……今までの幼児教室のすべてを、ビデオに撮影し、それを
YOU TUBEを使って、世界に向けて発信する。
子どももいっしょに、楽しめるようにしたい。
当然、いちばん見てほしいのは、芽衣。
しかし期待はしていない。
そのかわり、全世界の子どもたちに、見てほしい。

そうそう三男が、結婚すると言い出した。
その三男に、先日、こう言った。
「一度でいいから、孫をぼくの教室へ連れてこいよ」と。
三男は、すなおにそれに応じてくれた。

「それまで、ぼくは今の仕事をつづけているかな?」と思ったが、それは言わなかった。
それまでがんばるぞオ!!!!


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●1月25日(日曜日)

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気温は、部屋の中で、摂氏1度。
外に出て、水道をひねってみたが、蛇口が凍りついて、水は
出なかった。
朝風呂に入るつもりだったが、やめた。
このあたりも、今は、渇水期。
水不足。
うちが水を使えば、農家の人たちが困る。

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帰りに、農協祭に寄ってみた。
いつもになく、混雑していた。
店の数も、数倍、ふえていた。

私とワイフは、米はざし(20円)、焼きソバ(300円)、おでん(150円)、
あんまん(100円)、肉まん(100円)、焼きイカ(150円)、
フランクフルト(100円)、トン汁(100円)を食べた。
全部で、ちょうど1000円。
2人で割って、1人、500円。

みやげに、イチゴとたくあん、じねんじょ(長いも)を買った。

こういう祭見るたびに、私はそのまま童心に返る。
ウキウキしてくる。
が、ひとつ不愉快なことがあった。

政治家の、片Yさつき氏(実名)が来ていた。
あの女性は、こうした祭があるたびに、顔を出す。
またそれ以外の顔を、私は知らない。
例によって例のごとく、秘書官を数名連れていた。
こういう祭では、スーツ姿の男性は、よく目立つ。
また、それが彼女のねらい(?)。
ダンナを連れてくれば、まだ印象もよい。
しかしどうして秘書官なのか?
祭に?

先日の夏祭のときは、どこかのテレビ局のカメラマンを
連れてきた。
花火大会の夜だったが、まばゆいばかりのスポットライトを、始終つけたまま。
何がねらいか、ヨ〜クわかる。
彼女から見れば、私たちは田舎のバカに見えるかもしれないが、
私たちから見れば、彼女がバカに見える。
というより、私たちは、彼女が思っているほど、バカではない。

そうそうもう、ひとつ、気づいたことがある。
ポスターの片Yさつき氏は、若くて美しい。
しかし実物の片Yさつき氏は、xxxxxxxxxxxxxxx。
私とワイフは、あまりの落差に、思わず、笑ってしまった(ゴメン!)。


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●老後

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考えるといっても、そのつど、起爆剤(信管)のようなものが必要。
「きっかけ」と言ってもよい。
「マッチ」でもよい。
それがないと、脳みそに火がつかない。
で、今は、その起爆剤がない。
そんな状態。
窓の外は、まったくの冬景色。
しかも夕方。
コタツの椅子から、ぼんやりとそれを眺めている。
眺めながら、ふと母の書いたメモ帳のことを思い出した。

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●母のメモ帳

亡くなった母のメモ帳に、先ほど、1時間ほど、目を通した。
1日、250〜300字程度。
たいていその日の天気で始まり、体の調子、人との交流を記して、それでおしまい。
が、長く読んでいると、不思議なものだ。
ただのメモ帳なのに、老後の不安というか、さみしさが、ひしひしと伝わってくる。
その中から、母の(心)を読み取ることができる。
文というものは、そういうものか。
たとえば、こうある。

「浩司(=私のこと)たちは、今年の正月は、どこかへ旅行に行った。
そのため今年の正月も、J(=兄)と2人だけ。
手の中でB(=手乗り文鳥)が、眠っている。
 昼過ぎになって、Kさん(=近所の友人)が、ちぎり絵のことで寄ってくれた。
 明日の展示会には、ひざが痛いので、出られそうもない……。
みんな、今年も、元気でありますように」(xx年1月1日)と。

母は母で、さみしさと懸命に闘っていた。
さぞかし不安で、心細かったことだろう。
が、それはそのまま私たちの近未来の姿でもある。

母自身もこう書いている。
「みなに、迷惑をかけたくない」
「みなに迷惑をかけている自分が、なさけない」と。

●「どう死ぬか」

老後は、どうがんばったところで、必ずやってくる。
その上、肉体は、不可逆的に衰えていく。
病気や故障が、それに追い討ちをかける。
「家族の温かい愛情に包まれて……」というのが理想の老後かもしれない。
が、包まれていたところで、孤独から逃れることができるというわけではない。

実は、私の中にも、こんな(考え)が芽生え始めている。
まだ小さく、心の闇の中で、息をひそめているが、しかしたしかに芽生え始めている。
「どう生きるか」ではなく、「どう死ぬか」という(考え)である。
今日も、長男に、私の家にある置き物についての説明をした。
「これは見た目には安物に見えるかもしれないが、価値がある物だ。
だからぼくが死んでも大切にするように」と。
これからは、そういう会話が、多くなることと思う。

●老後の旅行

こうした(考え)は、たとえばワイフと旅行をしていても、顔を出す。
美しい景色を見ても、ふと「二度と見ることはないだろうな」とか、「これが最後だろうな」
とか、思う。
先日も、長野県の諏訪湖へ行ってきた。
そのときも、そうだ。

どちらか一方が先に死んだら、この場所を思い出の場所にするのだろうか、と。
つまりワイフが先に死んだら、私は、ワイフとの思い出をたどるために、
ここへ再び来るだろうか、と。

しかしそれはないと思う。
訪れるとしたら、若いときにいっしょに行った場所のほうがよい。
八丈島かもしれない。
香港かもしれない。

さらに同じ旅行でも、若いときにする旅行と、そして今する旅行は、中身がちがう。
楽しむといっても、今は、心を開いて楽しむことができない。
が、悪いことばかりではない。

同じ景色でも、「二度と見ることはないだろうな」と思うだけで、深みがちがう。
若いときは、どこへ行っても、食い散らすようにして、思い出を粗末にした。
むしろそういうときの自分のほうが、愚かに見える。

●息子たちへ

道が明るい未来へとつづく、青春時代。
しかし老後は、その道が、すべて先細り。
さらにその先は、闇に包まれている。

2週間ほど前も、東京の出版社が、ある企画を提示してくれた。
20代、30代のころの私なら、それを小躍りして喜んだことだろう。
しかし、今は、もうない。
そういう喜びが、わいてこない。
「どうぞ、ご勝手に」と。
そんな気分で企画の説明を受けた。

……などなど。
今、母のメモ帳を読みながら、私がしていることもまた、同じような運命を
たどることを知る。
いつかだれか、今、ここに書いていることを読むかもしれない。
私が死んだあとに、だ。
息子たちのうちのだれかかもしれない。
孫たちのだれかかもしれない。

が、だれであるにせよ、私は、こう伝えたい。

私が書いている文章を読んで、「あのパパも、結構、孤独だったんだなあ」とか、
「さみしさと懸命に闘っていたのだなあ」とか、そんなふうには思ってほしくない。
私は私なりに、けっこう、楽しく過ごしている。
見た目には、朗らかで、明るい。
だからこの文章を読んで、自分たちの老後を、暗く、つらいものとは考えてほしくない。
むしろ逆。
私は、すでに、死ぬ準備を始め、死ぬ覚悟を作りつつある。
「死ぬ準備」とか、「死ぬ覚悟」とか書くと、悲壮感がただよう。
が、実際には、そうではない。
あえて言うなら、「満足感」ということになる。
そう、満足感だ。
その満足感が、「死ぬ準備」や「死ぬ覚悟」につながっている。

言い換えると、私は、自分の人生を思う存分、自由に生きた。
今も生きている。
何も思い残すことはない。
あるいは私は、私が生きた以上の人生を、ほかに生きることができただろうか。
私はやるべきことはした。
できることはした。
不完全でボロボロだったかもしれないが、そして息子たちからみれば、いやな
父親だったかもしれないが、それが「私」ということになる。

で、できれば、息子たちも、(孫たちも)、そう生きてほしい。
いつも前向きに!

息子たちよ、孫たちよ、
元気で、暮らせ。
私は母のメモ帳を読みながら、「ああしてやればよかった」「こうしてやればよかった」と
思った。
しかしお前たちは、そんなふうに思う必要はない。
私は、私の母とは、ちがう。
ちがうぞ!
……いらぬ節介かな?


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●行方不明

先日、高校の同窓会の事務局から、通知が届いた。
その中に、10名ほどの名前が記してあり、「現住所などを知っていたら、知らせて
ほしい」とあった。
要するに、「行方不明だから、知っていたら、教えてくれ」と。

うち、数名は、私がよく知っていた人たちであった。
(今は、知らないが……。)

で、おかしなもので、住所のわかっている人よりも、そういう人たちの
ほうが、気になる。
「どこで、どうしているのか」と。
そういう点では、住所には住所としての意味がある。
住所を知っているというだけで、安心感を覚える。

で、本気で調べれば、私にも、わかる。
その人たちがいた会社や、属していた団体を、知っている。
そういう会社や団体を通して聞けば、わかる。
電話連絡だけで、わかる。
しかしどうも、そこまでする気にはなれない。
なぜだろう?

私がそれを知って、同窓会の事務局へ伝えたところで、それがどうだというのか。
それでどうこうなるわけでもない。
ひょっとしたら、その人たちも、あえて知られたくないところにいるのかもしれない。
あるいはそれぞれには、それぞれの深い思いというものが、ある。
そっとしておいてやることのほうが、大切(?)。
それがまた、思いやりというものかも、しれない。

(付記)

その中の1人に、Mさんという女性がいた。
私の郷里でも、かなり裕福な家庭に生まれ育った人である。
当時、自家用車で学校へ来ていた人は、彼女だけだった。
が、その家は、そのあと15、6年で、没落。
彼女の父親が経営していた会社も、倒産した。
その前後に、母親が他界したという話も聞いている。
同窓生の話では、それがショックで、Mさんは、ある
宗教団体に身を寄せることになったという。
狂信的な宗教団体として知られるカルト教団である。
が、そこで行方不明(?)。

私なら……という言い方はおかしいかもしれないが、
私なら、そんなことは気にしない。
仮に実家が倒産しても、それはそれ。
(だからといって、それを気にしてMさんが、同窓会との
連絡を絶ったということではない。誤解のないように。)
どこかの宗教団体に身を寄せたからといっても、それもそれ。
同窓会とは、関係ない。

しかしなぜ、連絡を絶ったのだろう?
連絡を取り合っている友だちはいないのだろうか?
その友だちが、なぜ同窓会の事務局に連絡をしてやらないの
だろうか?

いろいろな思いが、頭の中をかけめぐる。
が、この話は、ここまで。
やはり、そっとしておいてやるのが、いちばん、よい。
同窓会の事務局も、あえて住所を調べる必要もないのでは
ないか。
それが私の今の、率直な気持ちである。
というのも、私自身もいつもワイフや息子たちにこう言って
いる。

「ぼくが死んでも、たとえ兄弟、親類であっても、
知らせるな」と。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司※

●片Yさつき氏という国会議員

++++++++++++++

片Yさつき氏は、私の選挙区選出の
国会議員である。

その片Yさつき氏が、佐鳴湖の湖畔で
なされた花火大会の会場にやってきた。

従者として、2〜3人のカメラマンと
数人の秘書! おかしな連中を連れて
やってきた。

++++++++++++++

 8月11日の夜、佐鳴湖の湖畔で、花火大会が開かれた。私とワイフは、その花火を見に行
った。ワイフは夕食も食べず、「屋台のやきそばが食べたい」と言った。そこで大会の本部のあ
る佐鳴湖の南端に行ってみた。みると……。

 そこに何と、あの片Yさつき氏が来ていた。私の選挙区出身の国会議員である。見ると、煌々
(こうこう)と照らされた、ライトの中に立っていた。どこかの人と、立って、インタビューらしきも
のをしていた。私とワイフは、その場を通り過ぎた。

 が、おかしなことに、たいへんおかしなことに、片Yさつき氏が歩くところ、どこへでもそのライ
トがついていくではないか! カメラで収録するだけなら、ライトをともすのは、インタビューす
る、その瞬間だけでよいはず。どこのテレビ局でも、そうしている。

 まさに見え見えの演出! 私は腹の中に、言いようのない怒りが充満するのを覚えた。地元
では、何ら、活動らしい活動もせず、こういうところに来て、選挙運動用のためだけのパフォー
マンスを繰りかえす。

 たまたま焼きそば売り場のところに、知りあいの市会議員の議員がいた。汗を流しながら、
焼きそばを焼いていた。

 「あれ、どう思いますか?」と声をかけると、その議員は、こう言った。「ぼくには、関係ありま
せんから」と。

 私は片Yさつき氏に質問をぶつけるつもりで、彼女のほうへ歩いていった。ここにも書いたよ
うに、片Yさつき氏の位置は、すぐわかる。そのあたりだけ、煌々と明るい! 強烈なライトだ。

 片Yさつき氏は、どこかのおばあちゃんと並んで記念撮影していた。私は横に立っているテレ
ビ局の人間とおぼしき男に声をかけた。「これはヤラセですか?」と。

男「ヤラセ? ヤラセではありません」
私「本当にテレビ局ですか・」
男「朝日テレビの者です。2〜3時間分、収録しますが、実際に放映されるのは、2、3分です
が……」
私「だったら、そういうのをヤラセというのです」と。

 テレビ局の人間と思ったが、片Yさつき氏の秘書だった。テレビ局(?)の男たちは、これ見よ
がしに胸に、ひもでつりさげたカードをぶらさげていた。

 私は数歩、前に出て、片Yさつき氏に近づいた。インチキ・インタビュー(まさに「インチキ」と断
言してよいのだが)、それが一休止したとき、声をかけるつもりだった。

 「あなたは、『私が土下座すれば、このあたりの田舎者は、(私に)イチコロ』と東京では言っ
ているそうだが、それは事実か」と。

 もし片Yさつき氏がそれを否定したら、「では、あなたは雑誌(諸君)に書かれた記事に対し
て、抗議なり、そういうことをしたのか」と。

 が、そのときうしろから強く私のワイフが、私のシャツを引いた。「やめましょうよ。あんな女、
本気で相手にする価値はないわよ」と。

私「でも、ぼくは許せない」
ワ「みんな無視しているでしょ。冷たい視線を感じないのかしら」
私「そうだね」と。

 その前、片Yさつき氏は、本部のマイクを借りて、5分ほどあいさつらしきものをしたが、拍手
はなかった。どこかでブー音すら聞こえた。

私「こういうときだけ、東京からやってきて、あいさつする。ぼくはああいうインチキな選挙運動
が許せない」
ワ「そうね」と。

 私が住む地区の子供会にしても、30年前に、私たちがたちあげたもの。会長はS氏。私が
会計。それまで子どものリトルリーグ(野球チーム)をいっしょにしていた仲間である。近くの公
園で、焼きそばや、フランクフルトを売ったのが、始まりだった。だから今でも、子供会が、毎年
より盛大になっていくのを見るたびに、心のどこかで誇らしげに思う。

 そういう会場へ、あとからノコノコとやってきて、「みなさん、こんばんは!」と大声であいさつを
する。煌々とライトを照らす手法は、昔、ドイツのヒットラーが用いた手法と同じである。私は、
そういうインチキを許さない。

 今まで、片Yさつき氏の実名は伏せて批評してきたが、もうこれからは遠慮しない。ああいう
国会議員をのさばらせてはいけない。

 1年前に書いた原稿を添付します。

+++++++++++

●田舎者はイチコロよ!


+++++++++++++++++++++++

片Yさつき氏は、私の選挙区から選出された、
国会議員である。

ふつうは、こうしたエッセーでは、実名を伏せる
ことにしているが、ここでは、あえて、実名で
書かせてもらう。

雑誌「諸君」の中に、こんな記事があった。

「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、
イチコロよ」(片Yさつき談)と!

++++++++++++++++++++++

 06年の8月。先の衆議院議員選挙(05年8月)が終わって、ちょうど1年になる。同じ自民党
の城内実氏を僅差で破って、衆議院議員になった。それが片Yさつき氏である。城内実氏は、
郵政民営化に反対して、K首相の反感をくらった。

 つまり片Yさつき氏は、城内実氏をたたき落とすために、中央から送り込まれた、刺客という
ことになる。片Yさつき氏は、財務省主計局主計官(防衛担当)を退官し、静岡県7区から立候
補した。

 私が住む、この選挙区で、である。

 その片Yさつき氏について、倉田真由美氏(マンガ家)が、こんな気になる記事を書いている。

 『……片Yさつきさんの地元代議士への土下座は、毒々しさすら漂っていた。謝罪ではない、
媚(こび)の土下座は見苦しいし、世間からズレている。未だに「ミス東大→財務省キャリア」と
いう自意識に浸(つ)かり、「謙虚」のケの字もわからないまま、「私が土下座なんてしたら、この
辺の田舎者は、イチコロよ」と高を括(くく)る。

 そうしたバランス感覚の欠如も、いくら揶揄(やゆ)されても変えない髪型や化粧も、自分が客
観視できない、強すぎる主観の表れだ。

 「私いいオンナだから、これでいいの」という思い込みに対して、周りの人間も、もはやお手上
げなのだろう』(以上、原文のまま。雑誌「諸君」・05年11月号・P87)と。

 この記事の中で、とくに気になったのは、「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、イ
チコロよ」という部分である。本当にそう言ったかどうかは、この記事を書いた、倉田真由美氏
に責任を取ってもらうことにして、これほど、頭にカチンときた記事はない。

 片Yさつき氏が、どこかの席で、土下座をして、「当選させてほしい」と頼んだという話は、当
時、私も耳にしたことがある。しかしそのあと、東京に戻って、「私が土下座なんてしたら、この
辺の田舎者は、イチコロよ」と話した部分については、私は知らなかった。

 何が、「田舎者」だ! 「イチコロ」とは何だ! しかしこれほど、選挙民をバカにした発言はな
い。民主主義そのものを否定した発言はない。そういうタイプの女性ではないかとは疑ってい
たが、片Yさつき氏は、まさにその通りの女性だった。

 私たちが、田舎者? ならば聞くが、いまだにあちこちに張ってある、あのポスターは何か?
 あれが都会人の顔か? あれが元ミス東大の顔か? 笑わせるな!

 もしこれらの発言が事実とするなら、私は片Yさつき氏を許さない。片Yさつき氏は、まさに選
挙のために地元へやってきて、私たち選挙民を利用しただけ。しかも利用するだけ利用してお
きながら、その私たちを、「田舎者」とは!

 そして先の選挙からちょうど1年になるが、片Yさつき氏が、この1年間、この地元に帰ってき
て、何かをしたという話を、私は、まったく知らない。念のためワイフにも聞いてみたが、ワイフ
も、「知らない」と言った。ワイフの知人も、「知らない」と言った。

 つまり、片Yさつき氏は、選挙のために、私たちを利用しただけ。もっとはっきり言えば、自己
の名聞名利のために、私たちを利用しただけ。

 しかしこれがはたして、民主主義と言えるのか? こんな民主主義が、この日本で、まかり通
ってよいのか?

 ある日、突然、中央から、天下り官僚がやってくる。それまで名前のナの字も知らない。もち
ろん地元のために、何かをしてきた人でもない。そういう人が、うまく選挙だけをくぐりぬけて、
国会議員になり、また中央へ戻っていく! どうしてそういう人が、地元の代表なのか?

 そののち片Yさつき氏は、派手なパフォーマンスを繰りかえし、政界ではさまざまな話題をふ
りまいている。しかしそれらは、あくまでも、自分のため。私たちの住むこの地元の利益につな
がったという話は、まったく聞いていない。少なくとも、私は、まったく知らない。

+++++++++++++

同じようなテーマで書いたエッセー
がつぎのものです。

先のエッセーの直後に書いたもの
です。

+++++++++++++

●仕事開始!

 夏休みも終わって、仕事開始。とはいっても、これとて大きな変化はない。淡々と、その日の
ルーティーン(茶飯事)をこなすだけ。

 やりたいことは、いろいろある。しかしどれも、時間がかかることばかり。そのため、とりかか
る前に、何かと、おっくうになる。

 そういえば、昨日(19日)は、頭にカチンとくることがあった。あの片Yさつき氏(静岡県7区か
ら立候補、当選)のことだ。

 片Yさつき氏は、この選挙区(地方区)で敗れても、全国区の比例区で当選する段取りになっ
ていた。だから当時から、(熱意に欠ける選挙運動)が、問題になっていた。その片Yさつき氏
が、東京へ戻ってから、こんなことを言っていたという。

「私が土下座なんてしたら、この辺の田舎者は、イチコロよ」(倉田真由美氏指摘・「諸君」)。

 ここまで書いて思い出したことがある。昔、中央官庁で部長をしていた知人が、私にこう言っ
た。

 「定年退職をしたら、郷里の長野県のS市に帰って、市長でもしようかな」と。「……でも」とい
うところが、恐ろしい!

 片Yさつき氏の発言は、その部長の発想の延長線上にある。何が、市長だ! バカヤロー!

 何でもかんでも、「東京からきた」というだけで、ありがたがる田舎根性。それはたしかに、こ
の浜松市にもある。私は、否定しない。

 しかしその田舎根性を逆に利用して、中央からやってくる政治家たち。私は、そういう政治家
というより、そういう政治家を生み出す、この日本のシステムに腹が立つ。

 わかりやすく言えば、日本の民主主義も、この程度。みなが、何かに動かされるまま、動かさ
れてしまう。自分で、考えようとしない。自分で考えて、行動しようとしない。

 近く、もう少し涼しくなったら、この問題に取り組んでみよう。今は、暑くて、脳みそも、だらけ
がち。それに明日から、仕事が待っている。まず、私の生活を優先させなければならない。

 がんばろう! がんばります!
(2006年8月記)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【1月26日】2009

●年賀状・当選番号

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昨日、お年玉つき年賀はがきの、当選番号の
発表があった。
当選番号は、つぎのとおり。

【1等6ケタ×1本】345898
【2等6ケタ×3本】663829/908796/028962
【C組限定賞6ケタ×2本】882347/223109
【3等下4ケタ×1本】5070
【4等下2ケタ×2本】94/46 

それに私は、勝手に一等の番号を、ひとつ、つけ足した。

【1等6ケタ×2本】345898/821819
【2等6ケタ×3本】663829/908796/028962
【C組限定賞6ケタ×2本】882347/223109
【3等下4ケタ×1本】5070
【4等下2ケタ×2本】94/46 

この中の1等、「821819」は、ウソである。
私のところへ届いた年賀状の1枚に、
「821818」というのがあった。
それに「1」を加えて、「821819」とした。
それを1等につけ足した。

(「821818」としようかと思ったが、それでは
ワイフがかわいそう。
あとであの当選番号はウソでしたとは、ちょっと
言いづらい。)

あとでワイフにプリントアウトしたのを見せる。
きっとワイフはこう言うにちがいない。

「アラ〜〜、残念、1番違い!」と。
がっかりするだろう。
それが楽しみ。

ヒヒヒ+ハハハ!

今日も、こうして私の1日が始まった。
1月26日、月曜日。

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●呼吸法

息を吐き出しながら、声を出す。
当たり前の動作である。
しかしちょっと練習すると、息を吸いながらでも、声が出るようになる。
甲高い声になるが、それで話をすることもできるし、歌を歌うこともできる。
つまりこの方法を使うと、息つぎなしで、長〜イ歌も歌うことができる。
私の得意芸のひとつである。

子どもたちとは、こんな競争をする。

私「ピーポー、ピーポーと、長く言いつづけた人が勝ち。やってみるか?」と。

最初は、見本で、息を吐き出しながら、「ピーポー、ピーポー」と言って見せる。
そしてつぎに、「ヨーイドン!」で始める。

私は息を吐いて「ピー」と言い、すかさず吸いながら「ポー」と言う。
これを繰り返す。
この方法だと、永遠に(?)、私は言いつづけることができる。

ただし息を吸っていることがわからないように、体をやや丸め、腕組をして
やるのがコツ。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【AD・HD児、今、アメリカでは……?】
●unmanageable class(収拾不能の学級)
by michael, posted on 5/11/2006 at 11:37.

There is a class of young children (6-10) in the children psychiatric where I work. The class 
is out of control. If a closet is open they crawl in. An open window-they crawl out. They 
open board and throw them on the floor. There is one child who breaks computers without 
the slightest hesitation. If two of these kids do not agree then is the answer. 
私は現在、精神病棟で働いています。その中に、6−10歳の子どもたちがいる学級がありま
す。その教室は、収拾不能です。クロゼットがあいていると、子どもたちはそこへ入ります。窓
があいていれば、そこから出ていきます。ボードをあけて、それらを床に投げつけます。まった
くためらわずに、コンピュータをこわした子どももいます。これらの中の2人の子どもが同意しな
ければ(以下、意味不明)……。

The Dr. feels that there are no medications that can address their problems. They are too 
damaged or too young. Each one of the children has learning and psychological pathologies 
and at least 5 of the 6 children are mildly retarded. This statement is based on 
psychological testing. So far I have not seen the class participate appropriately for longer 
than five minutes. 
医師は、これらの問題を解決するための医薬品はないと感じています。彼らはあまりにも障害
の程度がひどく、若すぎます。それぞれの子どもは、学習および精神的な病理をかかえてい
て、少なくとも、6人のうち5人は、軽い障害をかかえています。ここに書いたことは、心理テスト
に基づいたものです。今のところ、学級が、5分以上、適正に運営されたのを見たことがありま
せん。

There are six children, one new teacher and two staff members in the class. There are 
always two s for six kids. The staff members in the class are not paras. They are therapy 
aides and they are not responsible for helping with education. They are there to see that no 
one gets hurt and that the physical needs of the children are met. I would appreciate any 
suggestion for working with an incredibly infantile and violent group. 
6人の子どもがいます。それに対して1人の新しい教師と、2人のスタッフが付き添っています。
6人の生徒にいつもは2人です。教室にいるスタッフは、parasではありません。彼らは、介護ヘ
ルパーで、子どもたちの教育には、責任をもっていません。彼らはそこにいて、子どもたちがけ
がをしないように、見ているだけか、行動面で助けたりしているだけです。こうした暴力的な学
級で、仕事をすることについて、何らかの提案をいただければ、うれしいです。

We need new ideas for management. How can I reinforce the positive behavior I see? How 
can I extinguish the hitting and kicking? These kids can hurt each other! We have a behavior 
management plan based on points. It is a system used by the whole hospital. It is used by all 
the state hospitals. But it does not seem to be working here. ANY IDEAS?
学級運営の新しいアイデアを必要としています。どうすれば、前向きな行動を強化できるでしょ
うか。殴ったり、蹴ったりすることを消すことができるでしょうか。これらの子どもたちは、たがい
に傷つけあっています。この点に関する運営プランはあるにはあります。それはすべての病院
で使われているシステムです。しかしここでは役に立っていません。何かアイデアは?

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

disruptive student who cannot focus
by joy kuemmerle, posted on 5/5/2006 at 21:6.

I have a student who has the attention span of about 5 seconds. I constantly have to 
redirect him and keep him on task, which leaves the rest of my class neglected and free to 
get off task as well. When I ask him why he constantly gets distracted, he tells me that he 
had a brain injury and can't help it. I am wondering if there are any tips out there for me 
whether he had a brain injury or not.
私は、5秒も注意力を集中できない学生をかかえています。常に彼を学習に向けさせなければ
なりませんが、そうしていると、ほかの子どもたちが、学習から逃げてしまいます。私がどうして
あなたは集中できないのかと聞くと、彼は、ぼくには脳の障害があって、自分ではどうしようもな
いと言います。彼に脳の障害があるかどうか、それを知る方法はあるのでしょうか。

Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●AD・HD児、体力との勝負

こうした子どもと接するときは、まさに体力との勝負。
私も、ずっと、こうした子どもたちの指導をしてきた。
1クラス2人にまで減らして、対応したこともある。
それでも、1〜2時間で、ヘトヘト。
小学1〜3年生の子どもなら、まだ何とかなる。
しかし4〜6年生となると、そうはいかない。
(もっとも、小学3年前後を境として、このタイプの子どもも、
急速に落ちついてくる。
自己管理能力が育ってくるためである。)

「1クラス、6人」とあるが、6人というのは、もとから不可能。
仮にそういう子どもが、12人中、1人いただけで、数か月後には、そのクラスは
バラバラになってしまう。
またその子どもだけを集中的に指導していると、ほかの子どもたちが神経質に
なってしまう。
もちろん「教育」など、どこかへ吹き飛んでしまう。

が、何よりもつらいのは、たいていのばあい、親に、その自覚がないということ。
「何とかしてほしい」と言うだけで、それ以上の協力は、ほとんどない。
そういった子どものかかえる問題点を、理解しようともしない。
「うち(=家の中)では、静かです」とか、「学校の先生と相性が悪いだけです」とか、
言って、子どもをかばったりする。

●制度の問題

ことAD・HD児に関していうなら、それは「教育の問題」ではなく、「制度の問題」
ということになる。
そういう制度を用意しないまま、AD・HD児を、(ふつうの学級)へ押し込むほうが、
まちがっている。
投薬によって、落ちつかせるという方法もとられているが、こうした精神薬の投与には、
慎重であったほうがよい。

治る(直る)とか、治らない(直らない)とか、いう問題ではない。
AD・HD児は、その症状が出ているときは、基本的には、治らない(直らない)。
むしろ幼児〜小学3年生の間は、それ以上に、症状をこじらせないことだけを考えて、
その子どもに合った、学習システムを用意するほうがよい。
それ以後は、ここにも書いたように、このタイプの子どもでも、急速に落ちついてくる。

そして高学年(小5、6〜中学生)になると、もちまえのバイタリィティが、よい方向
に向き始める。
学習面やスポーツ面で、飛躍的に伸びたりする。
が、無理な学習や、強制、投薬などによって、症状をこじらせると、かえって、その
あと、その影響が長くつづいたりする。
だから「制度の問題」ということになる。

現行の制度には、つぎのような問題点がある。

(1)親の抵抗……親が、それに抵抗する。「特別学級」イコール、「排除」「差別」と
ととらえる。無知、無学な親も多い。
(2)強制権がない……学校側に強制権がない。子どもを専門医に診断させることに
ついても、学校側は、あくまでもそれを提案する立場でしかない。

そこで、好ましい制度としては、

(1)専門医による診断を、就学前に義務づける。その診断結果をもとに、
教師は、行動を開始する。
(2)AD・HD児については、小学3年生までは、ほかの子どもたちと分離し、
別の学級を用意する。アメリカでは、現にそうしている。
(3)(学習)よりも、(運動)を中心にした教育、あるいは(運動を利用した学習)
   に、指導の中心を置く。別のカリキュラムを用意する。
(4)子どもよりも、親への指導を徹底する。「子育て学級」を立ち上げ、親には
   強制的に参加してもらう。

今、多くの学校で、多くの教師たちが悲鳴をあげている。
そうした現実に、社会はもっとすなおに、目を向けるべきではないか。
アメリカのBLOGを読んで、そんなことを感じた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
ADHD  AD・HD児 集中力欠如 多動性 子どもの多動 子供の多動 多動児)


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●景気回復

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おおかたの経済学者たちは、「今年(09)いっぱいは、
だめだろう」と言う。
「景気回復は見込めない」と言う。
よくて今年の夏以降、あるいは来年、と。
このまま不況は、5年つづくと主張する学者もいる。
日本のばあい、バブル景気が崩壊したあと、それが10年もつづいた。

しかし経済なんてものは、その兆候が見られただけで、
パッと動く。
だから私は、それほど悲観していない。

「今年いっぱいは、だめだろう」と思っていても、
「来年からよくなる」という兆候をつかんだだけで、
その時点から好転する。
それがこの春になるか、夏になるかはわからない。
しかし秋まで、この状態がつづくとは思っていない。

あるいはその直前までドン底でも、数日単位で
好転するということもある。
そのカギを握るのが、中国であり、アメリカという
ことになる。
中国やアメリカが動けば、世界も動く。

だからここは、じっとがまんのとき。
成り行きを静かに見守る。
穴にこもって、嵐が過ぎ去るのを待つ。

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●大不況の発端

だんだん日がたつにつれて、今回の大不況の輪郭が、おぼろげながら、わかってきた。

原因は、やはりアメリカの住宅バブル。
ひとつのモデルケースを考えて、説明してみよう。

A氏は、10万ドルで、家を買った。
しかし半年後には、その家の価値が、15万ドルになった。
そこでA氏は、自分の家を担保に、銀行から15万ドルを借りて、
となりの15万ドルの家を買った。
が、その半年後には、最初に買った家と、新しく買った家が、それぞれ20万ドルに
なった。
計40万ドルの資産ということになる。
気をよくしたA氏は、さらに25万ドルを銀行から借りた。
その25万ドルで、3軒目の家を買った。
今度は、すこしばかり豪華な家である。

が、さらに半年後、住宅の価値があがった。
住宅バブルがつづいた。
その結果……

1軒目……20万ドル→25万ドル
2軒目……25万ドル→30万ドル
3軒目……25万ドル→30万ドル、になった。

この時点で、借金の総額は、40万ドル。
資産の総額は、85万ドル。
A氏は、差し引き、45万ドルの資産家になった。
そこでそのお金で、車を買ったり、海外旅行を楽しんだりした。
住宅の値上がりを見込んで、45万ドルのうち、大半を使い果たしてしまった。
A氏は、こう思った。
「オレは住宅を3軒も、もっている。値上がりすれば、その分で、取り返せる」と。

が、ある日、それが限界にやってきた。
住宅価格の値上がりが止まった。
この点は、日本のバブル景気(1980年代の後半→90年代の前半)の
崩壊したときの様子に似ている。
とたん、A氏の資金計画に誤算が生ずるようになった。
ローンの支払いに、苦労するようになった。
銀行も、お金を貸してくれなくなった。

で、さらにしばらくすると、今度は、住宅価格が下落し始めた。
経済の逆回転が始まった。
こうなると、今度は逆に、A氏は損害に損害を重ねることになる。
経済のこわいところは、みなが「まさか」と思っていると、その(まさかの状態)に
なること。
その(まさかの状態)になってしまった。
A氏についていうと、こうなる。

1軒目……25万ドル→10万ドル
2軒目……30万ドル→20万ドル
3軒目……30万ドル→20万ドル、になった。

資産価値は、50万ドル。
借金は、85万ドル。

あっという間にA氏は、奈落の底に転落!
それが今度の、世界大恐慌の引き金を引いた。

最初に、住宅金融会社が炎上した。
その中でも、最大手のリーマン・ブラザーズが、倒産した。

世界中の投資会社や投資家が、住宅金融会社に金を貸していた。
そのため、世界中の投資会社や投資家が、被害をこうむった。
何しろ、ケタはずれ。
ざっとみて、1000兆円。
日本の国家予算の約15倍!
アメリカが100兆円、日本が50兆円、ドイツが50兆円ほか、
それぞれお金をばらまいた。
が、とてもそれで足りる額ではない。

……ということで、経済そのものが、麻痺状態に陥ってしまった。

が、本当の問題は、これから起きる。

(1)社会不安の増大
(2)ハイパー・インフレの到来

失業率が10%を超えると、町に失業者が現れるようになる。
15%を超えると、それがだれの目にもわかるようになる。
20%を超えると、略奪、暴行が起こるようになる。
おおざっぱに言えば、そう考えてよい。
職を失った人たちは、社会から見捨てられたと、とる。
それがそういう人たちの心をゆがめる。
犯罪を犯すことを、悪いことと思わなくなる。

またこれだけお金をばらまいて、無事ですむはずがない。
世界中が、お金でジャブジャブになる。
現在の「100円ショップ」が、やがて「200円ショップ」になり、
最終的には、「500円ショップ」になる。
戦後のあの混乱期と同じような状況が、やってくる。

借金をかかえている人にとってはよい話かもしれない。
しかし退職して、退職金を手にした人は、どうか。
実質、退職金が、5分の1、つまりたとえば2000万円の退職金でも、
400万円にまで目減りすることになる。
中には、退職金を、債権投資や株式投資に回した人もいる。
そういう人は、今度の大不況で、そのほとんどを失った。

住宅バブルがはじけて、損をした人のことは、心配しなくてもよい。
それこそまさに、自業自得。
が、まじめにコツコツ働いてきた人はどうか。
回りまわって、そういう人たちが、結局、いちばん損をすることになる。
バカげた話だが、これが現実。

日本人の平均貯蓄額を、仮に1073万円(金融広報中央委員会・06)とすると、
何とか1年くらいは、もちこたえることができるかもしれない。
しかし2年は、無理。
だから日本は、それまでには、この大不況から脱しなければならない。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●人が殺意を感ずるとき

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先日、知人のZさん(55歳、女性)と話して
いたら、「殺意」という、おどろおどろしい言葉が話題になった。
何でもその女性は、ときどき、義理の父親に
殺意を覚えるという。

冗談ではない。
本気である。

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同居している義理の父親は、かなりわがままな人らしい。
今年、85歳になるという。
こまかい話はさておき、実の息子や娘が正月などで
やってくると、それとなくZさんの悪口を言うという。
たとえば息子が何かの食べ物をもってきたりする。
それについて、「こんなおいしいものは、この半年、
食べていない」とか言うなど。

事実は、どうも逆らしい。
Zさんの趣味は、料理。
だからそれなりにおいしいものを食べてもらおうと
努力しているという。
が、そういう努力は完全に無視。
その上で、そう言うという。

「あたかも私が何も料理していないような言い方をします。
頭にカチンときます」
「ときどき、包丁を義父の腹に突き刺してやりたく
なることもあります」と。

そういうZさんの気持ちを察して、Zさんの息子(30歳、
税理士)は、ときどきZさんにこう言うという。
「お母さん、事件だけは起こさないでくれよな」と。

で、殺意論。

「殺意」がどういうものか、それを知っている人は、
心のどこかに傷のある人とみる。
それは研ぎ澄まされた感覚で、憎しみや嫌悪感とはちがう。
ふつうなら、(殺人)→(犯罪)→(反社会的行為)と
いうふうに、つなげていく。
だから「殺したい」とは思っても、実行まではしない。
その一歩手前で、踏みとどまる。

しかし人が殺意を覚えるときは、そういった理性の
ブレーキすら、どこかへ消えてしまう。
「相手を殺すことによって、自分を取り戻す」。
「相手がいたら、自分が成り立たなくなってしまう」
「相手を殺すというよりは、相手を無にしたい」と。

そういう感覚になる。

Zさんは、そういった気持ちを、ていねいに説明してくれた。
で、「林さんは、そういう殺意を感じたことがありますか?」と
聞いた。

実は、私も生涯において、二度ほど、殺意を覚えたことがある。
詳しくは書けないが、一度は、私が27、8歳のとき。
相手は仕事先の人だった。
もう一度は、4、5年前。
このときは、近親の人だった。
つまりそういう殺意を覚えるということは、私の心がかなり
ゆがんでいることを示す。
成長過程のどこかで、はげしい憎悪、恐怖、不安を感じたのが原因と思われる。
それがトラウマとなり、ある状況下で、殺意へとつながっていく(?)。
だからZさんの気持ちが、よく理解できる。

そこで話は、今度は、「殺人論」になった。

私「殺人事件というのは、よくありますが、無差別な殺人事件は別として、
親戚、兄弟、あるいは親子の間で起きる事件には、それなりの背景が
あるということです」
Z「そうですよ。長い時間をかけて、悲しみや苦しみが、圧縮されますから。
他人なら、距離を置くことで、その人を忘れることができます。
しかし近親者だと、そうはいきません」
私「今はなくなりましたが、私が学生のころには、尊属殺というのがありました。
尊属殺というのは、ふつうの殺人よりも、ワンランク、刑が重かったのです。
しかし、これはおかしい。人が殺人に走るときというのは、それなりの背景
というものがある。親子であるがゆえに、確執も深いと考えるべきです。
やむにやまれず、親を殺したという事件も、数多くあります」と。

が、殺意を覚えたことがない人もいる。
私のワイフも、その中の1人である。
何度も確かめたが、ワイフには、それがない。
反対に、殺意というものがどういうものか、理解できないらしい。
「本当にお前は、人を殺したいと思ったことはないのか?」と私が聞いても、
「あなたのほうが、おかしいわよ」で、終わってしまう。

もちろんこう書いたからといって、殺人を肯定するわけでも、支持するわけでもない。
犯罪は、犯罪。
しかも最悪の犯罪。
しかし同時に、こうも言える。

殺人を犯す人には、それなりの過去があり、心に傷をもった人が多いということ。
刑法の世界では、よく『罪を憎んで、人を憎まず』という。
悪いのはその人のした行為であって、その人自身ではないという意味である。
もう少し深くいうと、こうなる。

だれしも同じような境遇で生まれ、同じような状況に置かれたら、同じような立場
に立たされたら、同じような行動をとるようになるということ。
善人も悪人も、基本的には、どこもちがわない。
殺人という犯罪についても、そのひとつ。

繰り返すが、だからといって、殺人という反社会的行為を容認するわけではない。
反社会的行為は、反社会的行為として、罰していかねばならない。

そこでクエスチョン。

あなたはどうだろうか?
今までに、だれかに対して、ここに書いたような殺意を覚えたことがあるだろうか。
もしそうなら、あなたの不幸な過去を、さぐってみるとよい。
そこに何かあるはずである。

最後にZさんは、こう言った。

「でも、後味のわるいことだけは、したくありませんね。
たった一度しかない人生ですから……。
死ぬときは気持ちよく死にたいです。
だから『殺してやりたい』と思っても、その一歩手前で、踏みとどまるのです」と。

まったくの同感である。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●歩く

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今日も、街までの7・5キロを歩いた。
毎回、コースを変えている。
今日は、南を流れる、川沿いに、歩いた。
昔は、その両横は、うなぎの養殖池になっていた。
が、今は、荒れ放題。
その面影すら、残っていない。

+++++++++++++++++++++

全国のみなさん、「浜松のうなぎ」は、今は昔の物語。
「浜松産のうなぎ」とか、「浜名湖産のうなぎ」という文字を見ても、
信用しないほうがよい。
養殖池は残ってはいるが、しかし今では、さがさなければ見つからないほど、少ない。
もちろん天然のうなぎなど、庶民の口に届くことは、めったに、ない。

そんな話をしながら、街までの距離を歩いた。
大回りしたので、8、9キロは歩いたかもしれない。
万歩計では、9900歩になっていたが、私の万歩計は100円ショップで買ったもの。
アテにならない。

今度の「歩こう会」では、10キロを歩くことになっている。
だいじょうぶかな?
トップランナーをキープできるかな?

とにかくこうして足腰を鍛えるしかない。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●特養ホーム、待機者、全国で38万人(?)

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共同通信社の調べによれば、現在、特別養護老人
ホーム(以下、特養ホーム)に入れず、待機している人が、
38万人もいるという。
入所者は現在40万人前後(中日新聞)というから、
ほぼ同じ数だけの人が、入所を希望しながら、入所
できない状態ということになる。
しかしこの「38万人」という数字は、どこから
みても、おかしい(?)。
そんなはずはない!

たとえば近くの特養ホームでも、入所待ちという人が、
100〜150人はいる。
私の母のケースでもそうだったが、当初、その数を
聞いただけで、あきらめてしまった。

また実際には、要介護度が4〜5の人でないと入所
できないと言われ、申し込みそのものをやめる人も
多いはず。

+++++++++++++++++++++++

記事には、こうある。

「国が社会保障費抑制策を続けてきた結果、需要の高まりに施設整備が追いついていない
現状が裏付けられた」(同、新聞)と。

しかしこの意見も、おかしい。

特養ホームを訪れてみて、まず驚くのが、その「豪華さ」。
「ここまで必要なのか?」と疑問に思うほど、豪華である。
冷暖房完備なのはわかる。
大型のエレベーターが必要なのも、わかる。
地震対策として、耐震性の鉄筋の建物にすることも、わかる。
しかしあそこまで豪華にする必要はあるのか?
私の意見がおかしいと思うなら、あなたの家の近くにある特養ホームを、一度でよいから、
のぞいてみたらよい。

国がいう「社会保障費」といっても、その中身は、施設の建設費。
箱モノ。
そういうことばかりに、金をかける。
が、これでは、社会保障費がいくらあっても、足りない。

また老人たちを利用して、営利を求める組織の多いのには、驚いた。
たとえば要介護度にもよるが、要介護度4くらいになると、年間20万円程度の
補助金が出る。
その補助金を使って、家の改築などができる。
で、私も、母の車椅子の出入りのためにと思って、玄関先にスロープをつけることにした。
が、ケアマネの紹介してくれた業者に見積もってもらったら、ギリギリの20万円!

つまり「スロープをつけるには、いくらかかるか?」という発想ではなく、最初から、
「20万円を使うためには、どこまでできるか?」という発想で、業者は動く。

そのため、手すりを付けるとか、歩行者用にすべり止めをつけるとか、言い出した。
私は、「そんなものは、必要ない」ということで、断った。
断って、自分で、段差のあるところを、コンクリートで埋めた。
その費用、たったの1000円弱!
(砂入りのコンクリート、一袋分。)

つまり社会保障費なるものが、無駄なところで無駄に使われている。
そういう事実をさておいて、「需要の高まりに、施設整備が追いついていない」は、ない。
つまりバカげている!

が、それだけではない。
これはあくまでも私の推察だが、特養ホームでは、面接を通して、ある程度の人選を
しているのではないか。
特養ホームによっては、医療設備がないところも多い。
常駐する看護士の数もかぎられている。
そういうこともあるのだろうが、世話のかかる老人は、敬遠されている(?)。
(だからといって、特養ホームを責めているのではない。
中には夜中じゅう、大声で騒いで暴れる老人もいる。
毎日医師の診断を受けなければならない老人もいる。
世の中、きれいごとばかりでは、動かない。)

一方、去年、オーストラリアで、友人の母親がいるケア・センターを訪れてみた。
町の中のビルの一角にあったが、もともとはオフィスビルであったとか。
病院のように、個室に分けられていた。
(というより、病院そのものという印象をもった。)
友人はこう言った。

「お金のある人は、若いときから積み立てをして、いい施設に入れる。
そうでない(=国の支給する年金しかない)老人は、こういう施設に入る」と。

ついでに言うと、向こうでは、「親は親、子は子」という考え方をする。
日本のように、子どもが親のめんどうをみるという発想は、ない。
……というより、はるかに希薄。
「在宅介護」という発想は、子どもにもないが、親にもない。
「君が少しお金を足して、もう少し快適な施設に入れてやったら」と言いたかったが、
それは言わなかった。

日本の特養ホームを、都会のホテルにたとえるなら、友人の母親の入っていた
施設は、町の雑居ビル。
それくらいの落差は感じた。

話はそれたが、社会保障費が足りないというわけではない。
莫大な予算が、そこに注ぎ込まれている。

2006年度だけでも、国の社会保障費(社会保障給付費)は、89兆1098億円。
国民1人あたり、69万円。
69万円だぞ!
3人家族で、210万円!
4人家族で、280万円!

内訳は、医療……28兆1027億円(31・5%)
年金……47兆3253億円(53・1%)、
福祉……その他、13兆6818億円(15・4%)、
高齢者関係給付金……62兆2297億円(69・8%)(以上、ウィキペディア百科事典)。
(参考:国の国家税収は、約40兆〜43兆円。)※

ないよりは、あったほうがよい。
不完全よりは、完全なほうがよい。
それは、よくわかる。
しかしそういう発想だけで、税金を湯水のごとく使ってよいものか。
また使っているから、こういう矛盾が噴出する。

基本的に、日本は貧乏国である。
少なくとも、これからは、そうなる。
欧米にもないような豪華な施設ばかり作って、どうする?
むしろ見習うべきは、日本より貧しい国々が、どのようにしているか、である。

もっと言えば、箱モノではなく、中身。
その充実にこそ、お金を使うべきではないのか。

(注※)……これに対して、日本保険医団体連合会は、つぎのように反論している。

『福祉先進国といわれる北欧のスウェーデンが32.0%、ドイツ28.2%、公的医療保険未整
備のアメリカが14.5%なのに対し、日本は13.1%という水準でしかありません。日本の水
準はドイツの約半分、スウェーデンの約3分の1しかないことが分かります。
今求められているのは、他の先進国なみに、国力にふさわしい社会保障給付を充実させるこ
とです』(同団体・HP)と。

つまりスウェーデンやドイツは、30%前後使っている。
しかし日本は13%に過ぎない。
だからまだ日本の社会保障費は、少ない、と。
しかしこの論法は、まちがっている。

スウェーデンやドイツは、1人あたり、69万円も使っていない。
それにこれらの国々は、ほかの支出を極力、低く抑えている。
「%」だけをみて比較するところが、怖ろしい。

しかしこのままいったら、社会保障費は、1025年前後には、
141兆円(国民所得比26・1%)になるという(ウィキペディア百科事典)。
もうメチャメチャな額といってよい。

それにしても、日本では、公共施設ばかりが、飛びぬけて立派である。
「飛びぬけて」で、ある。
官僚と政治家、それに大手建設会社が、三位一体となって、日本を、
こういう国にしてしまった。
国民は、青息吐息で、苦しんでいるというのに……!

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 特別養護
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Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●大丸デパート、出店を断念

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市の中心部にあるMデパートが倒産したとき、
私たちは心底、驚いた。
2001年の11月のことである。
が、それから7年。
Mデパートは、そのまま幽霊ビルとなった。
が、これではいけないと、元Mデパートの再開発策が
あれこれと練られた。
結果、一時は、大丸デパートが出店をするという話も
あった。
が、それがこのたび(09年1月)、出店を断念したという(中日新聞)。
折からの大不況が理由というが、実際には、
全国的にみても、デパートでの売り上げが激減している。
この浜松市でも、駅前にあったIYドーも、数年前、
撤退したばかり。

そんな浜松市で、新たにデパートを、という発想そのものが、無理。

Mデパートが再開発されたとしても、また同じ道を歩むだけ。
そんなことは、浜松市民なら、だれでも知っている。
が、市は、「市街化区域の活性化」を、十年一律のごとく叫びつづけている。
それはそれで結構なことだが、そのため、どれほどの税金が無駄になったことか。
一度、自然の成り行きに、町のあり方を任せてみたらどうなのか?

たとえば浜松市では、郊外に、大型店がつぎつぎと進出してきている。
私の住むI町の近くにも、東海イチと言われる、超大きなショッピングセンターができた。
とたん、車の流れが逆になった。
町のほうから、郊外へ車が流れるようになった。

++++++++++++++++++++++

こういうのを「城下町思考」という。
「駅前は立派でなければならない」と。
つまり駅前はその市の看板だから、それなりに立派でなければならない、と。
しかしこれは世界の常識ではない。
どこの国の、どこの大都市へ行っても、駅前というのは、閑散としている。
あたりが工場街というところも、少なくない。
(日本のように鉄道網が発達している国も、少ないが……。)

しかし化粧にいくら化粧を重ねても、化粧は化粧。
(ありのままの市)を見せていく。
そんな勇気も、浜松市には、必要ではないか。

つまりこれは生き様の問題。
一人ひとりの生き様が集約され、それがやがて市の行政に反映されていく。
浜松市が悪いというよりは、私たち自身が、意識を改めていかねばならない。
その意識を変えないかぎり、行政の姿勢も、変わらない。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●ダイハツ・NAKED

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ダイハツ・NAKEDという車がある。
「NAKED」というのは、「裸の」という意味である。
どちらかというと、下品な言葉に属する。
「naked girl」といえば、ズバリ、「素っ裸の女」を意味する。
しかしどうしてそんな形容詞を、車につけたのか。
そのまま読めば、「素っ裸のダイハツ」という意味になる。

そこで家に帰って、もう一度、辞書で確かめてみた。
ほかに意味があるのかもしれないと思った。
しかしNAKEDはNAKED。
ほかに意味はなかった。
(あるいは英語ではない?)

++++++++++++++++++++++

1970年代のはじめ、日産が、セドリックという名前の車を発売した。
それを知って、オーストラリアの友人が、ゲラゲラと笑った。
オーストラリアでは、セドリックというのは、「同性愛者の貴公子」という意味である。
「同性愛者」の代名詞にもなっていた。

こうしたミス・マッチは、ときどきある。
富士通のファコムにしても、そうだ。
「ファコム」という名前は、外国ではまことにもってまずかった。
40年前には、「Fuxx」(ひわい語)という単語の意味を知っている日本人は、
ゼロに等しいほど、ほとんどいなかった。
だからそういう名前にしたのだろう。
で、そののち、富士通は、その名前を変えた。

ほかにもいろいろある。
あるが、そうした大会社の中には、英語のわかる人もいるはず。
どうしてそういう人たちが、もっと声をあげないのか?
「ダイハツ・NAKED」というのは、私の英語力からみると、おかしい。
(それとも私の英語力が、不足しているのか?)

また地元にも、「HARD OFF」という、中古品店がある。
「The Grave」というホテルもある。
「○○ターミナル・ホテル」というのも、そうだ。
また、その学校の校長の退任式を、「○○先生、メモーリアル・パーティ」と
書いていた学校もあった。

それぞれがどういう意味か、近くに外人がいたら、聞いてみるとよい。
(ただし自己責任で! 私は責任を取らない!)

これ以上のことは、ここには書けない。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●『慰めの報酬』

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今夜、仕事が終わったら、映画『慰めの報酬』を
見てくる。
10代のころから、007シリーズは、すべて見てきた。
今回は、その最新作。

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しかしタイトルがよく理解できない。

「慰めたから、報酬をもらうのか」、それとも
「慰められたから、報酬を与えるのか」、と。
いろいろ考える。

……とまあ、映画を見る前に、あれこれと内容を
考えるのは、楽しい。
それが私の趣味にもなっている。

予告編は、劇場で何度か、見た。
それによれば、007は、恋人をどうやら殺されるらしい。
それでその復讐劇が始まる(?)。
が、どうしてそれが、「慰めの報酬」につながるのか。
ひょっとしたら、『慰めの復讐』ではないのか。
いや、そんなはずはない。
タイトルは、何度も、見た。

で、今度の007は、ウクライナ系の美男子。
どこかロシアのプーチンに似ている。
おもしろそう。
プラス、楽しみ。

(追記)

『慰めの報酬』の評価は、星2つの★★。
主演した、ダニエル・クレイグは別として、脇をかためる女優たちがみな、
かっこのつけすぎ。
不自然。
日本映画に出てくる、女優たちのよう。
中身が演技にともなっていない。
それに007特有の、新兵器もなければ、地下の大要塞もなし。
ただのアクション映画(失礼!)。
それにストーリーも不自然。
無理に無理を重ねたような流れ。
だから星は、2つ。
ついでながら、ワイフの評価は、星3つ。

帰りにこんな会話をした。
「ショーンコネリーの007がなつかしいね」
「そうね」と。

つぎの楽しみは、何といっても、『オーストラリア』。
ぜったいに見るぞ!

その前に、『チェンジリング』『レボリューショナリー・ロード』もある。
ワイフは、『ママミーヤ』(ABBA)を見たいと言っている。
ぜんぶ、見る!


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●やる気喪失

昨日のクラスで、1人、「今日でやめます」と言ってきた母親がいた。
月末の4週目のレッスンが終わったあとに、である。
私は、ズキンと大きな衝撃を受けた。
こういう仕事をして、37、8年になるが、いまだに、これだけは、xxxxx。
生徒への通信にも、毎回、こう書いている。
「退会届けは、前月の3週目までにお願いします」と。

が、若い母親の中には、それが理解できない人もいる。
「いろいろ事情があるのだろう」とは思ってみたが、それでも怒りと悲しさの
入り混じった気持ちが、胸の奥から、こみあげてきた。

おかげで昨夜は、よく眠れなかった。
今朝も、4時に、目が覚めた。

社会全体をみわたしても、こんな首切りの仕方はない。
しかも私の教室は、毎月の、1か月払いで、月謝をもらっている。
ほかの教室は、3か月の前払い。
ほとんどがそうである。
途中でやめたからといって、払い戻しはしない。
が、これはお金の問題ではない。

あとでワイフに、「ぼくの仕事は、こんなものかなあ?」とグチをこぼした。
自分がなさけなかった。

で、私は、ただ一言、「申し訳ありませんが、規約により、来月の月謝をいただきます」
とだけ、言った。
その母親は、どこかムッとした表情で、不満そうだった。
(これは私の思いすごしか?)
月謝袋には、電話番号だけ書いて、そのまま帰っていった。
机の上には、その袋に入っていたお知らせだけが、無造作に放り投げてあった。

何があったのだろう?
しかしそれにしても……?

私はそのお知らせを、戸棚にしまった。
無念さが、こみあげてきた。

……ということで、その生徒のことは忘れた。
忘れて、家に帰って、夜食を食べた。
二杯も食べた。

大半の親たちは、私の教室をよく理解してくれている。
ルールを守ってくれる。
が、中には、そうでない親もいる。
数は少ないが、そういう親に出会うと、やる気を失う。

が、一言。

Gさん、長い間、ありがとうございました。
どうか、お元気で、さようなら!

(付記)

その一方で、1月28日、地元のタウン誌の『中日ショッパー』が、BW教室の広告を
載せてくれた。
無料である。
いつも孫の誠司の写真を、モデルに使っている。
先日、「載せますよ」と連絡してくれたが、今度のは、大きく、目立つ。
その孫(誠司)の顔を見ながら、心がなごむのを知る。

ショッパー様、
ありがとうございます。
今日はとくに、そのありがたさが、心にしみ込みます。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(090128)

●オーストラリアの猛暑
"Garden City", is the name of Melbourne, Australia. But according to the news-site, it has 
been over 40 C degrees these days. The city used to be known as the most confortable 
city of the world only 40 years ago. Then we ask ourselves, what is the modernization for 
human-beings? Wise men create something on the basis of what we have now, but stupid 
men try to have more, destroying what we have now. I am not saying Australians are stupid. 
This is the matter for all human-beings. Are we wise or stupid?  

++++++++++++++++

今朝のニュースによれば、オーストラリア
のメルボルン市では、連日40度を超す
猛暑がつづいているという。
全豪のテニス大会も、そんため一時中断される
はめになったという。

また南オーストラリア州では、45度を
記録したところもあるとか。
熱波がオーストラリア全土を襲っている
らしい。

++++++++++++++++

オーストラリアというところは、不思議な国で、日中、40度を超えていても、
夜中には急激に涼しくなる。
もちろんその反対のこともある。
夜中には身を切るほど寒くても、日光を肌に感じたとたん、暖かくなる。
大陸性の気候というのは、そういうもの。
しかしそれにしても、45度というのは、すごい。
常識を逸脱している。
ニュースサイトの報道によれば、70年ぶりの猛暑とか。
昨年のオーストラリアも暑かったそうだが、今年は、さらにひどい。
さっそく、何人かの友人に見舞いのメールを送る。

●メルボルン市

オーストラリアのメルボルン市といえば、別名「ガーデン・シティ(庭園都市)」と
呼ばれている。
市の3分の1が、緑豊かな公園になっている。
が、3分の1というと、公園の中に都市があるような感じがする。
町の中に公園があるのではなく、公園の中に町がある。

そのメルボルン市は、40年前には、世界でももっとも温暖で、気候に恵まれた
都市として知られていた。
一年中、偏東風が吹いて、気温の変化も少なかった。
が、今は、ちがう。

最初に異変に気がついたのは、今から30年ほども前のこと。
メルボルン市の中心にある議事堂の石像が、排気ガスの影響なのだろうが、
ボロボロになり始めていた。
そのころ日本でも、酸性雨による影響が問題になり始めていた。

そして今。
昨年もそうだったが、オーストラリアは慢性的な水不足に苦しんでいる。
「それが理由で、これ以上、移民は認められない」という話も聞いた。
そういう現状を知ると、「では、この40年間は何だったのか?」と
いうことになる。
つまり私がオーストラリアにいたころと、現在を比較してみて、
オーストラリアは何を得て、何を失ったのか、と。

この日本は、たしかに大きく変わった。
生活の質は、飛躍的に向上した。
しかしことオーストラリアに関して言うなら、生活の質そのものは、
この40年間、ほとんど変わっていない。

生活の質が悪くなったと書いているのではない。
オーストラリアは、すでに40年前、きわめてハイ・スタンダードな生活を
完成させていた。

が、それが今、崩壊しつつある。
地球温暖化の影響をモロに受け始めている。
内陸部の砂漠化は、容赦なく進行している。
仕事ができなくなった農場主の自殺も相次いでいるという。
このまま進めば、(すでにそうなりつつあるが)、人間が住めるのは、海岸部の、
ごく限られた地域だけということになる。

つまりこうなってみると、「むしろ40年前のほうが、よかった」ということに
なってしまう。
が、そう考えると、同時に、「この日本も、そうではないか」ということになって
しまう。

私たちはいつも、何かを得るために生きている。
しかし(生きる)ことによって、これまた失うものも多い。
全体のバランスの中で見ると、プラスマイナス・ゼロ。
ゼロならまだよいほうかもしれない。
へたをすれば、マイナスになってしまう。
言うなれば、『賢明な人は、今あるものを大切にして生き、愚かな人は、今あるものを
破壊しながら生きる』ということか。

何も、オーストラリア人が愚かと書いているのではない。
オーストラリア人も含めて、全人類が、という意味で、そう書いている。

昨年(08)、レア・メタル(希少金属)の高騰で、オーストラリアは空前の利益をあげた。
が、その一方で、気温45度!?
「これでは何にもならないではないか」というのが、今の私の率直な感想ということに
なる。

ともあれ、オーストラリアのみなさんへ、

暑中、心より、お見舞い申し上げます。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司※

**************2009年1月29日まで************





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阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.

writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ

 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 

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れ物が多い子ども 乱舞する子ども 赤ちゃんがえり 赤ちゃん帰り 赤ちゃん返り 家庭内暴力 子供の虚言癖 はやし浩司 タイプ別

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