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最前線の子育て論byはやし浩司
(2900 〜 )

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最前線の子育て論byはやし浩司(2900)

●子どもの潔癖症(疑惑症)

++++++++++++++++++

子どもの手洗いグセについての
相談が届いています。

掲載許可がいただけましたので、少し
改変して、お届けします。

++++++++++++++++++

初めて相談をさせていただきます。
よろしくお願いします。

幼稚園に通う長男のことです。
もともと、人見知りをしない子で、愛想も良くいつも
ニコニコと元気のよい子だったのですが、この8月頃ごろから
急に、よく手を洗う様になり、特に幼稚園から帰ると、1時間くらいの間に5〜6回、多い時は10
回くらい手を洗うようになりました。

本人に聞くと、手が汚いから・・とか、手が臭うから・・と言って洗っていました。誰かに臭うと言
われたのか聞くと、そうじゃないと言います。でも、元々気にしない子で、いつもこちらから、洗
いなさいと言わないと洗わない子でしたのに、やたらと気にする様になりました。しかも、しょっ
ちゅう、手の匂いを嗅いで確認しています。

朝も幼稚園に行くのも嫌がり、ぐずったり、メソメソとすぐ泣くようになりました。先生に聞くと、
幼稚園でも同様のようです。それ以来、なるべく長男が手を洗うときはついて行って、一緒に洗
ってあげたり、匂いがないか確認をしたりするようにしました。

すると、手を異常に洗うことはなくなったのですが、今度は、手を全然洗いたがらなくなり、手が
汚れないために、なるべく手を使わず足を使ったり、お菓子などは、犬食いをしたり、片手にウ
エットティッシュを持って、拭きながら食べたりするようになりました。

しかも、匂いは相変わらずしょっちゅう嗅いでいます。何か触ったり、物を食べたりした時
も・・・。

メソメソするのも相変わらずで、ちょっと怒られたり、嫌な事があると、泣き出します。一度泣く
と、こちらから傍に行って、抱きしめたりするまでずーっと泣き続けます。それ以外の時は、愛
想も今は以前の様によく、元気も良いです。先生のHPを見させていただいて、もしかして疑惑
症というものではないかと、心配になり、またどのような対応をしてあげれば良いのか、教えて
頂きたく相談させて頂きました。

幼稚園の先生にも、相談してみたのですが、今までウチの子の様な行動をとる子がいなかっ
たとかで、先生も頭を悩ませているようでした。9月までは、幼稚園でも、もの凄く元気いっぱい
でいつもニコニコしていたらしく、先生にもよく褒めて頂いたくらいなので、先生も驚いているよ
うです。

ぜひ、良い対応がありましたら、教えて頂きたいと思います。宜しくお願いします。
(滋賀県M町、IKより)

【はやし浩司より、IKさんへ】

「長男」とありますから、下にお子さんがいらっしゃるのでしょうか。
ひとつのきっかけとして、下のお子さんが生まれたことが原因で、神経症に
なった可能性があります。

子どもの神経症による症状は、千差万別です。
定型がありません。

検索エンジンを使って、「はやし浩司 神経症」もしくは、「はやし浩司 手洗いグセ」を
検索してみてください。
あわせて、「はやし浩司 赤ちゃん返り」も参考にしてみてください。

また様子からみると、幼稚園の指導、もしくは友人関係に何らかの問題があるようにも
感じます。
先生が神経質であるとか、友だちとの間にトラブルがあるとか、など。

もう一つ気になるのは、「もともと、人見知りをしない子で、愛想も良くいつも
ニコニコと元気のよい子だったのですが……」という部分です。

子どもは人見知りするのが当たり前。
また見知らぬ人に対して、愛想が悪いのが当たり前。
そういう前提で考えてください。

愛情飢餓状態の中で子どもが育つと、一見、このように、人見知りしない、
愛想のよい子どもになることがあります。
どこかで親の愛情に不安を感じていないか、一度、観察してみてください。
またその「根」は、深いと思ってください。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの手洗いグセ 疑惑症 潔癖症 神経症 手洗い癖 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++Oct 08++++はやし浩司

【母の最期】

●最後の会話

11月11日、夜、11時を少し回ったときのこと。
ふと見ると、母の右目の付け根に、丸い涙がたまっていた。
宝石のように、丸く輝いていた。
私は「?」と思った。
が、そのとき、母の向こう側に回ったワイフが、こう言った。
「あら、お母さん、起きているわ」と。

母は、顔を窓側に向けてベッドに横になっていた。
私も窓側のほうに行ってみると、母は、左目を薄く、開けていた。

「母ちゃんか、起きているのか!」と。
母は、何も答えなかった。
数度、「ぼくや、浩司や、見えるか」と、大きな声で叫んでみた。
母の左目がやや大きく開いた。

私は壁のライトをつけると、それで私の顔を照らし、母の視線の
中に私の顔を置いた。
「母ちゃん、浩司や! 見えるか、浩司やぞ!」
「おい、浩司や、ここにいるぞ、見えるか!」と。

それに合わせて、そのとき、母が、突然、酸素マスクの向こうで、
オー、オー、オーと、4、5回、大きなうめき声をあげた。
と、同時に、細い涙が、数滴、左目から頬を伝って、落ちた。

ワイフが、そばにあったティシュ・ペーパーで、母の頬を拭いた。
私は母の頭を、ゆっくりと撫でた。
しばらくすると母は、再び、ゆっくりと、静かに、眠りの世界に落ちていった。

それが私と母の最後の会話だった。

●あごで呼吸

朝早くから、その日は、ワイフが母のそばに付き添ってくれた。
私は、いくつかの仕事をこなした。
「安定しているわ」「一度帰ります」という電話をもらったのが、昼ごろ。

私が庭で、焚き火をしていると、ワイフが帰ってきた。
が、勝手口へ足を一歩踏み入れたところで、センターから電話。
「呼吸が変わりましたから、すぐ来てください」と。

私と母は、センターへそのまま向かった。
車の中で焚き火の火が、気になったが、それはすぐ忘れた。

センターへ行くと、母は、酸素マスクの中で、数度あえいだあと、そのまま
無呼吸という状態を繰りかえしていた。
「どう、呼吸が変わりましたか?」と聞くと、看護婦さんが、「ほら、
あごで呼吸をなさっているでしょ」と。

私「あごで……?」
看「あごで呼吸をなさるようになると、残念ですが、先は長くないです」と。

私には、静かな呼吸に見えた。

私はワイフに手配して、その日の仕事は、すべてキャンセルにした。
時計を見ると、午後1時だった。

●血圧

血圧は、午前中には、80〜40前後はあったという。
それが午後には、60から55へとさがっていった。
「60台になると、あぶない」という話は聞いていたが、今までにも、
そういうことはたびたびあった。
この2月に、救急車で病院へ運ばれたときも、そうだった。

看護婦さんが、30分ごとに血圧を測ってくれた。
午後3時を過ぎるころには、48にまでさがっていた。
私は言われるまま、母の手を握った。
「冷たいでしょ?」と看護婦さんは言ったが、私には、暖かく感じられた。

午後5時ごろまでは、血圧は46〜50前後だった。
が、午後5時ごろから、再び血圧があがりはじめた。

そのころ、義兄夫婦が見舞いに来てくれた。
私たちは、いろいろな話をした。

50、52、54……。

「よかった」と私は思った。
しかし「今夜が山」と、私は思った。
それを察して、看護士の人たち数人が、母のベッドの横に、私たち用の
ベッドを並べてくれた。
「今夜は、ここで寝てください」と。

見ると、ワイフがそこに立っていた。
この3日間、ワイフは、ほとんど眠っていなかった。
やつれた顔から生気が消えていた。

「一度、家に帰って、1時間ほど、仮眠してきます」と私は、看護婦さんに告げた。
「今のうちに、そうしてください」と看護婦さん。

私は母の耳元で、「母ちゃん、ごめんな、1時間ほど、家に行ってくる。またすぐ
来るから、待っていてよ」と。

私はワイフの手を引くようにして、外に出た。
家までは、車で、5分前後である。

●急変

家に着き、勝手口のドアを開けたところで、電話が鳴っているのを知った。
急いでかけつけると、電話の向こうで、看護婦さんがこう言って叫んだ。
「血圧が計れません。すぐ来てください。ごめんなさい。もう間に合わないかも
しれません」と。

私はそのまままたセンターへ戻った。
母の部屋にかけつけた。

見ると、先ほどまでの顔色とは変わって、血の気が消え失せていた。
薄い黄色を帯びた、白い顔に変わっていた。

私はベッドの手すりに両手をかけて、母の顔を見た。
とたん、大粒の涙が、止めどもなく、あふれ出た。

●下痢

母が私の家にやってきたのは、その前の年(07年)の1月4日。
姉の家から体を引き抜くようにして、抱いて車に乗せた。
母は、「行きたくない」と、それをこばんだ。

私は母を幾重にもふとんで包むと、そのまま浜松に向かった。
朝の早い時刻だった。

途中、1度、母のおむつを替えたが、そのとき、すでに母は、下痢をしていた。
私は、便の始末は、ワイフにはさせないと心に決めていた。
が、この状態は、家に着いてからも同じだった。

母は、数時間ごとに、下痢を繰り返した。
私はそのたびに、一度母を立たせたあと、おむつを取り替えた。

母は、こう言った。
「なあ、浩司、オメーニ(お前に)、こんなこと、してもらうようになるとは、
思ってもみなかった」と。
私も、こう言った。
「なあ、母ちゃん、ぼくも、お前に、こんなことをするようになるとは、
思ってもみなかった」と。

その瞬間、それまでのわだかまりが、うそのように、消えた。
その瞬間、そこに立っているのは、私が子どものころに見た、あの母だった。
やさしい、慈愛にあふれた、あの母だった。

●こだわり

人は、夢と希望を前にぶらさげて生きるもの。
人は、わだかまりとこだわりを、うしろにぶらさげながら、生きるもの。
夢と希望、わだかまりとこだわり、この4つが無数にからみあいながら、
絹のように美しい衣をつくりあげる。

無数のドラマも、そこから生まれる。

私と母の間には、そのわだかまりとこだわりがあった。
大きなわだかまりだった。
大きなこだわりだった。

話しても、意味はないだろう。
話したところで、母が喜ぶはずもないだろう。
しかし私は、そのわだかまりと、こだわりの中で、12年も苦しんだ。
ある時期は、10か月にわたって、毎晩、熱にうなされたこともある。
ワイフが、連日、私を看病してくれた。

その母が、そこにいる。
よぼよぼした足で立って、私に、尻を拭いてもらっている。

●優等生

1週間を過ぎると、母は、今度は、便秘症になった。
5、6日に1度くらいの割合になった。
精神も落ち着いてきたらしく、まるで優等生のように、私の言うことを聞いてくれた。

ディサービスにも、またショートステイにも、一度とて、それに抵抗することなく、
行ってくれた。

ただ、やる気は、失っていた。

あれほどまでに熱心に信仰したにもかかわらず、仏壇に向かって手を合わせることも
なかった。
ちぎり絵も用意してみたが、見向きもしなかった。
春先になって、植木鉢を、20個ほど並べてみたが、水をやる程度で、
それ以上のことはしなかった。

一方で、母はやがて我が家に溶け込み、私たち家族の一員となった。

●事故

それまでに大きな事故が、3度、重なった。
どれも発見が早かったからよかったようなもの。
もしそれぞれのばあい、発見が、あと1〜2時間、遅れていたら、母は死んでいた
かもしれない。

一度は、ベッドと簡易ベッドの間のパイプに首をはさんでしまっていた。
一度は、服箱の中に、さかさまに体をつっこんでしまっていた。
もう一度は、寒い夜だったが、床の上にへたりと座り込んでしまっていた。

部屋中にパイプをはわせたのが、かえってよくなかった。
母は、それにつたって、歩くことはできたが、一度、床にへたりと座ってしまうと、
自分の手の力だけでは、身を立てることはできなかった。

私とワイフは、ケアマネ(ケア・マネージャー)に相談した。
結論は、「添い寝をするしかありませんね」だった。

しかしそれは不可能だった。

●センターへの申し込み

このあたりでも、センターへの入居は、1年待ちとか、1年半待ちとか言われている。
入居を申し込んだからといって、すぐ入居できるわけではない。
重度の人や、家庭に深い事情のある人が優先される。

だから「申し込みだけは早めにしておこう」ということで、近くのMセンターに
足を運んだ。
が、相談するやいなや、「ちょうど、明日から1人あきますから、入りますか?」と。

これには驚いた。
私たちにも、まだ、心の準備ができていなかった。
で、一度家に帰り、義姉に相談すると、「入れなさい!」と。

義姉は、介護の会の指導員をしていた。
「今、断ると、1年先になるのよ」と。

これはあとでわかったことだったが、そのとき相談にのってくれたセンターの
女性は、そのセンターの園長だった。

●入居

母が入居したとたん、私の家は、ウソのように静かになった。
……といっても、そのころのことは、よく覚えていない。
私とワイフは、こう誓いあった。

「できるだけ、毎日、見舞いに行ってやろう」
「休みには、どこかへ連れていってやろう」と。

しかし仕事をもっているものには、これはままならない。
面会時間と仕事の時間が重なってしまう。

それに近くの公園へ連れていっても、また私の山荘へ連れていっても、
母は、ひたすら眠っているだけ。
「楽しむ」という心さえ、失ってしまったかのように見えた。

●優等生

もちろん母が入居したからといって、肩の荷がおりたわけではない。
一泊の旅行は、三男の大学の卒業式のとき、一度しただけ。
どこへ行くにも、一度、センターへ電話を入れ、母の様子を聞いてからに
しなければならなかった。

それに電話がかかってくるたびに、そのつど、ツンとした緊張感が走った。

母は、何度か、体調を崩し、救急車で病院へ運ばれた。
センターには、医療施設はなかった。

ただうれしかったのは、母は、生徒にたとえるなら、センターでは
ほとんど世話のかからない優等生であったこと。
冗談好きで、みなに好かれていたこと。

私が一度、「友だちはできたか?」と聞いたときのこと。
母は、こう言った。
「みんな、役立たずばっかや(ばかりや)」と。
それを聞いて、私は大声で笑った。
横にいたワイフも、大声で笑った。
「お前だって、役だ立たずやろが」と。

加えて、母には、持病がなかった。
毎日服用しなければならないような薬もなかった。

●問題

親の介護で、パニックになる人もいる。
まったく平静な人もいる。
そのちがいは、結局は(愛情)の問題ということになる。
もっと言えば、「運命は受け入れる」。

運命というのは、それを拒否すると、牙をむいて、その人に襲いかかってくる。
しかしそれを受け入れてしまえば、向こうから、尻尾を巻いて逃げていく。
運命は、気が小さく、おくびょう者。

私たちに気苦労がなかったと言えば、うそになる。
できれば介護など、したくない。
しかしそれも工夫しだいでどうにでもなる。

加齢臭については、換気扇をつける。
事故については、無線のベルをもたせる。
便の始末については、私のばあいは、部屋の横の庭に、50センチほどの
深さの穴を掘り、そこへそのまま捨てていた。
水道管も、そこまではわせた。

ただ困ったことがひとつ、ある。
我が家にはイヌがいる。
「ハナ」という名前の猟犬である。
母と、そしてその少し前まで私の家にいた兄とも、相性が合わなかった。
ハナは、母を見るたびに、けたたましくほえた。
真夜中であろうが、早朝であろうが、おかまいなしに、ほえた。

これについても、いろいろ工夫した。
たとえば母の部屋は、一日中、電気をつけっぱなしにした。
暖房もつけっぱなしにした。
そうすることによって、母が深夜や早朝に、カーテンをあけるのをやめさせた。
ハナは、そのとき、母と顔を合わせて、ほえた。

いろいろあったが、私とワイフは、そういう工夫をむしろ楽しんだ。

●鬼

それから約1年半。
母の92歳の誕生日を終えた。
といっても、そのとき母は、ゼリー状のものしか、食べることができなくなっていた。
嚥下障害が起きていた。
それが起きるたびに、吸引器具でそれを吸い出した。
母は、それをたいへんいやがった。
ときに看護士さんたちに向かって、「あんたら、鬼や」と叫んでいたという。

郷里の言葉である。

私はその言葉を聞いて笑った。
私も子どものころ、母によくそう言われた。
母は何か気に入らないことがあると、きまって、その言葉を使った。
「お前ら、鬼や」と。

●他界

こうして母は、他界した。
そのときはじめて、兄が死んだ話もした。
「準ちゃん(兄)も、そこにいるやろ。待っていてくれたやろ」と。

兄は、2か月前の8月2日に、他界していた。

母の死は、安らかな死だった。
どこまでも、どこまでも、安らかな死だった。
静かだった。

母は、最期の最期まで、苦しむこともなく、見取ってくれた看護婦さんの
話では、無呼吸が長いかなと感じていたら、そのまま死んでしまったという。

穏やかな顔だった。
やさしい顔だった。
顔色も、美しかった。

母ちゃん、ありがとう。
私はベッドから手を放すとき、そうつぶやいた。

2008年10月13日、午後5時55分、母、安らかに息を引き取る。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 母の
最期 母の死 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

●家族自我群からの解放

++++++++++++++++++

病弱の兄と、高齢の母が、この2か月の
間に、あいついで、他界した。

経済的負担はともかくも、それ以前につづいた
社会的負担には、相当なものがあった。
「一日とて、気が晴れる日がなかった」と言っても、
けっして、おおげさではない。

私には、悶々とした日々だった。
とくに、母との関係が壊れた、この14年間は、
重く、つらい毎日だった。

++++++++++++++++++

(運命の糸)……、だれしも、無数の糸にからまれている。
それを私は、「運命の糸」と呼んでいる。
いくらあがいても、もがいても、運命の糸は、向こうからからんでくる。
からんできて、その人の進むべき道を、勝手に決めてしまう。

過去の糸、周囲の糸、健康の糸、知人、友人の糸、親類、家族の糸などなど。
もちろんその中でも、もっとも強力なのが、(家族の糸)。
それを心理学の世界でも、「家族自我群」と呼んでいる。
その呪縛感には、相当なものがある。
その呪縛感の中で、人は、もがき、苦しむ。

もっとも良好な人間関係にあれば、よし。
しかし実際には、良好な人間関係にある人は、少ない。
兄弟どうしが、憎しみあい、さらには、親子どうしが憎みあう。
他人なら「さようなら」と別れることもできるが、肉親で
あるがゆえに、それもできない。

その人自身はともかくも、近くの親類の人たちがそれを許さない。
私のばあいも、たった数歳、年長というだけで、
ノー天気な人たちに、皆の前で、公然と批判されたこともある。

当の本人は、軽い節介のつもりかもしれないが、ときと場合によっては、
そうした心無い言葉は、グサリと胸に突き刺さる。

現実には、それをきっかけに、私のほうは、縁を切る。
交際を断ち切る。

兄の死にしても、母の死にしても、それ自体は、悲しいものだった。
その心には偽りはない。
しかし同時に、それまでの家族自我群から解放された喜びも、
これまた否定しがたい。

私は実家のことが心配で、海外へ移住もできなかった。
ほかにも、いろいろな夢や計画があったが、それも断念せざるをえなかった。

私の実家だけではない。
母は、私から受け取ったお金を、「小遣い」と称して、さらに母の実家に
貢いでいた。
母のすることだから、私には干渉できなかったが、半端な額ではない。
一度、それを母に確かめたことがあるが、母は、「(1回につき)、100
万円かなあ、200万円かなあ……」ととぼけてみせた。

ともかくも、人は、ひとりでは生きられない。
それはわかるが、同時に、ひとりで生きることを許してもくれない。

同時に、人は無数のしがらみやこだわりを、引きずって歩く。
重い足を、だ。

が、やっと私は、その家族自我群から解放された。
いくつかの事務手続きは残っているが、それはそれぞれの専門家に
任せてある。
あとは、静かに、心をいやしながら、そのときを待てばよい。

今朝、ワイフは、こう言った。
「今度から、2泊とか、3泊の旅行ができるわね」と。
どこかうれしそうだった。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2901)

●10月17日

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昨日になって、疲れがどっと出た。
そのせいか、今朝は、10時間も眠った。

集中力がないというよりは、頭の中が
ぼんやりとしている。

今の今も、静かに目を閉じると、そのまま
眠ってしまいそう。

どこか肌寒い朝だが、心地よい。
白い日差しが、カーテンの向こうで、
栗の木の枝をゆらゆらと揺らしている。

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●ガムをかむと、頭がよくなる

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もう15〜20年ほど前のことだが、「ガムをかむと、頭がよくなる」という
論文が、アメリカの「サイエンス」誌に掲載された。

それについては、たびたび書いてきた。
この方法は、幼児期に、どこかボーッとして、精彩がない子どもに、効果的である。

で、それに似た論文が、こんど、この日本でも発表された。

時事通信の記事をそのまま紹介させてもらう。

+++++++++++++++以下、時事通信より+++++++++++++++


顔の筋肉を鍛える医療器具を口にくわえることで、高齢者の身体機能が改善することが、
養護老人ホーム入所者を対象とした研究で分かった。17人中7人は要介護度が改善し、そ
れ以外の人も、日中おむつが取れる、毎日使っていた座薬が不要になるなど、全員に明ら
かな効果がみられた。

 研究を行った宮守歯科診療所(岩手県遠野市)の深沢範子所長は「通常は加齢もあり、
介護度が改善することは考えられない。予想外の効果だ」と話している。

 この器具は特殊なポリエステル製で、歯茎と唇の間に挟むようにくわえ、表情筋を鍛え
る。摂食機能の改善などに用いられる。深沢所長らは遠野市の養護老人ホーム「吉祥園」
の協力を得て、昨年7月以降17人の入所者に、口にくわえて3分間維持するトレーニング
を1日3回してもらった。

 このうち、ほとんど介護を必要としない入所者らを除く10人について、先月、第三者機
関に要介護度判定を依頼したところ、7人が改善していた。
 要介護度4だった68歳男性は、ゆっくり歩ける程度から走れるようになり、要支援1に。
85歳女性は、夜間の失禁が減少、自分で動かせなかった車いすを自在に操るようになり、
要介護度3から2に改善した。

 施設全体でもトレーニング開始後は、風邪や肺炎による入院がほとんどなくなるという
効果があった。

 器具を開発した歯学博士秋広良昭氏によると、このトレーニングで右側前頭葉の脳血流
が増加することが分かっており、脳が活性化して身体機能が改善すると考えられるという。 

+++++++++++++++以下、時事通信より+++++++++++++++


この記事の中で、とくに注意すべき点は、末尾にある、
「このトレーニングで右側前頭葉の脳血流が増加することが分かっており、脳が活性化し
て身体機能が改善すると考えられるという」という部分である。

つまり「顔の筋肉を鍛えると、(この器具を使用したばあい)、右側前頭葉の脳血流が増加
する」という。これは「ガムをかむと、頭がよくなる」という理屈に一致する。

「どうもうちの子は、頭の働きが鈍い(失礼!)」と感じたら、ガムをかませることを、
勧める。
私も、何例か、その効果を、はっきりと確認している。

(1)菓子ガムはさける。(いつも子どもの手の届くところに、置いておくとよい。)
(2)一度噛んだら、1時間前後、同じガムをかませる。
(3)年長期〜小2、3年生期まで、習慣としてつづける。

聡明な子どもは、さらに聡明になると考えてよい。
なお私のBW教室でも、小3以上は、ガムをかませて学習させている。
(それ以下は、教室内では、まだマナーが守れないので、許可していない。)

はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi 
Hayashi education 子どもとガム ガム 子供とガム ガムの効果 ガムで頭がよくなる。)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

●C・ヒルの裏切り(C.Hill has betrayed Japan for North Korea.) 

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C・ヒル(アメリカ国務次官補)の裏切り行為。
それに追従せざるをえなかった、日本側代表。

そのふがいなさも問題だが、それ以上に、
C・ヒルの数々の裏切り行為は、日米
同盟そのものを、破壊してしまった。

結局、6か国協議は、ヨンビョンの核開発
関連施設だけの「開発停止」だけで終わって
しまった。

それについて、アメリカの議会調査局専門官ラリー・ニクシュ氏は、
「(今回の)米朝協議は、欠陥がある」と前置きして、つぎのように
答えている。

『北の核兵器開発計画を阻止することを最初から放棄しているような態度に加え、米朝軍事協
議という北側の提案をワシントンに持ち返ったことが気になる。

平壌での会談では北側は人民軍の中将が同席し、ヒル次官補に米国と北朝鮮が直接に2者
間で軍事協議を始めることを強く提案したという。

北側はこの協議では在韓米軍や在日米軍のあり方にまで要求をぶつけ、核問題での譲歩と
交換条件にする構えをみせると予測される。日韓両国にとって深刻な懸念の対象となる』(ワシ
ントン発、産経新聞)。

わかりやすくいえば、北朝鮮内の既存核兵器は不問にしたまま、(つまり北朝鮮を核保有国と
して認めた上)、米朝の間で、軍事協議を始めるというものである。

「アメリカと北朝鮮が仲良くなれば、それでいいではないか」と考えている人がいたら、とんでも
ない誤解である。

北朝鮮は、戦略的に、アメリカとの間で、相互平和条約(仮称)のようなものを結ぼうと、かねて
から画策している。
もしこのような相互条約が結ばれたら、ともに本土が攻撃されないかぎり、たがいに手も足も
出せないことになる。しかしこれこそ、まさに北朝鮮の思うつぼ。

わかりやすく説明しよう。

こうした条約が結ばれたら、仮に北朝鮮が、日本を核攻撃しても、アメリカは、北朝鮮に対し
て、何もできないということになる。
つまりその時点で、日米安保条約は、死文化する。
もちろん北朝鮮は、アメリカ本土を攻撃する意思も、意図もない。
そんなことをすれば、一夜で、北朝鮮は、廃墟と化す。
そんなことは、北朝鮮は、百も承知。

北朝鮮の戦略……アメリカを押さえ、日朝交渉を有利に進めること。
「(天文学的数字の)補償費を払え。さもなければ、東京を核攻撃するぞ」と。

結局、(これは結果論ではない。当初からこうなることはわかっていた)、C・ヒルがしたことは、
北朝鮮に、金と原油と食糧と音楽を与えただけ。さらに時間を与えただけ。その時間の間に、
「日本向けの小型核兵器を開発した」(某、アメリカ政府高官)だけ。

C・ライスとC・ヒルが、コンビを組んだことは、その当初から、日本にとっては、最大の悲劇であ
った。どういうわけか、この2人は、日本を毛嫌いしている。
嫌っているのではない。毛嫌いしている。
もちろん拉致問題についても、いっさい、進展なし!

こんなバカげた同盟国がどこにある。ラリー・ニクシュ氏は、つぎのようにも述べている。

『今回の米朝合意が履行されれば、6カ国協議を通じて日本は北朝鮮への重油提供の経費や
軽水炉建設の経費の負担、食糧援助など物質的な寄与を求められる。だが日本が最も気に
する北朝鮮による日本人拉致事件解決にはなんの前進もない。日本としては拉致事件解決の
実質的な進展がない限り、その種の物質的な寄与は一切、できないと宣言する選択肢があ
る。今回の合意自体は特に称賛もせず、拒否もせず、ただし、今後の北朝鮮のための財政支
出はまったくしないというわけだ。あるいは米国などの求めに応じて、支出をするのか。いまや
日本は基本的な岐路に立たされたといえよう』と。

C・ヒルが、秘密裏に米朝交渉を始めたときから、日本への裏切りが始まった。
その時点で、日本政府は、はっきりと釘を刺しておくべきだった。
今となっては、何もかも、手遅れだが……。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2902)

●母の葬儀を終えて……

+++++++++++++++++

母は、10月13日に他界した。
今日は、10月18日。
もう5日になる。

+++++++++++++++++

親にもいろいろあり、同時に、親子関係にも
いろいろある。

私と母の関係が標準というわけではない。
またそれを基準にして、ものを考えてはいけない。
知人のS氏(現在、67歳)も、2年ほど前、
実母を亡くしている。
そのS氏は、こう言った。

「ぼくのばあい、(母の葬儀のとき)、一滴も涙は出なかった」と。

別の知人のS氏の実母は、今年、95歳になるという。
特別養護老人センターに入居して、15年近くになるという。
しかしその実母を見舞うのは、1年に1、2度とか。

人、それぞれ。
親子関係も、これまた人、それぞれ。

私がそうであるかといって、他人もそうであるべきと
考えてはいけない。
反対に、他人がそうであるからといって、自分も
そうであるべきと考えてはいけない。

大切なことは、それぞれの人が、それぞれの立場で、
相手を認め、相手の気持ちを尊重すること。

私のばあいは、母が他界した日は、悲しかった。
つぎの日も、母の遺影を見て、涙が出た。
しかしその翌日くらいから、つまり葬儀が終わったあたりから、
急速に悲しみが薄れてきた。
それにかわって、それまでになかった解放感を味わうことが
できるようになった。

肩の荷がおりたというか、ほっとした安堵感を覚えるように
なった。

が、心の支えを失ったという、喪失感は、ない。
というのも、この40年間、実家の生計を支えてきたのは、私。
経済的な負担感というより、その社会的負担感には、相当な
ものがあった。

こう書くと、親意識の強い人なら、私を批判するかもしれない。
あるいはマザコンの人には、今の私の感覚を、理解することは
できないかもしれない。

しかし5日目の今日は、私はワイフと息子と、映画を見に行ってきた。
『イーグル・アイ』。
前から楽しみにしていた映画だった。
星は、4つの★★★★。
いつもなら、映画にしても、一度、センターに電話を入れ、母の容態を
確かめてから行かねばならなかった。
しかし今夜は、それをしなくてすんだ。

映画を、そのまま楽しむことができた。
いや、その前に、姉から、法事の問い合わせの留守番電話が入っていた。
が、私には、どうでもよかった。
返事はしなかった。
しばらく、そういったことについて考えるのは、休みたい。
49日の法要とか、そういうことに、どうして、日本人は、こうまで
こだわるのだろう。
まだそれまで1か月以上も、ある。
今は、のんびりと、心を休めたい。
ワイフもこう言った。

「落ちついたら、外国へ旅行に行こう」と。

母や兄のために、この4、5年、1泊以上の旅行をすることも
ままならなかった。
が、これからは、できる。

ホ〜〜〜〜〜〜ツ!

今は、そんな気持ちである。

(戒名)

母の戒名には、「院号」をつけてもらった。
(もともと「院号」というのは、皇族につけられるもの。)
私のためではない。
母のためでもない。
郷里からやってくる、親類たちを満足させるためである。
それでその人たちが満足するというのなら、あとは、お金の問題。
そんなことで、カリカリしたり、イライラしたくない。
だから「院号」をつけてもらった。

「〜〜院釈〜〜」とかいったが、名前は、忘れた。

なお葬儀は、身内だけで、内々にすませた。
香典類をいっさい、断ることも考えたが、葬儀社の人が、
「このあたりでは、まだ10年、早いです」と言ったので、やめた。
「あと10年もすれば、みな、そうするだろう」という意味である。

私の葬儀のときは、そうする。
またそのように息子たちには、しっかりと言い伝えてある。

香典を受け取るな。
返礼もするな。
読経も、戒名も不要。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●息子と将棋

帰省している三男が、私がもっているのと同じ、ACERのアスパイア(1)
を買った。

さっそく、2人で、SKYPEで会話をしたり、ヤフーの将棋を使って、
オンラインで、対戦ゲームをした。
勝敗は、1勝1敗。
今日の夜にでも、第3回戦目をやるつもり。
これで決着をつける。

夜、床についたのが、午前1時半。
おかげで今朝は、軽い頭痛。
三男の風邪が、移ってしまったらしい。


●三男の初飛行

三男が、副機長(コーパイ)として、777で初飛行をする日、
すでに、予約で満席になっているという。
三男の友人たちが、みな、同乗するという。
「パパとママの分の席も、予約しておいてよ」と頼むと、「うん」と。
どこか心無い返事。
「最初の2年間は、みな、国内線だよ」とのこと。


●どこか風邪ぽいので(19日)、外出はなし。

今日は、午前中は、パソコン相手に、時間をつぶす。
とくに書きたいこともない。
新聞を読んでも、見出しが、電車の窓の景色のように流れていくだけ。

今、世界の経済は、たいへんなことになっている。
小さな、アフリカの国でも、銀行の倒産が始まっているという。
あのエリザベス女王も、65億円の損失をこうむったという(イギリス
大衆紙)。

どうなるんだろう?

私はあちこちの記事を読みながら、戦時中で爆撃を受けた人たちの
ことを考えた。
言うなれば、世界中の人たちが、爆撃を受けたようなもの。
家ごと吹き飛ばされた人もいれば、無傷ですんだ人もいる。
「経済戦争」という戦争で、でだ。

この先、世界は、かつてないほどの不景気に見舞われるという。
すでにその足音が、聞こえ始めている。
あの日本のT自動車ですら、株価は大暴落。
労使関係がギクシャクし始めているという。

これから新しいHPをひとつ、新設する。
その準備にとりかかる。

家庭の幼児たちが、無料で、私の幼児教室を体験できるようにしたい。
それを2009年度の目標にしたい。
それに手製の教材(プリント類)があるので、それをすべて、HPに
収録したい。
長い道のりだが、やるしかない。
今日は、その第一歩。

そうそう、私の「墓」は、インターネットの中につくる。
自分のHPの中につくってもよいし、そのうち、そういうサービスが
始まるかもしれない。
いや、私のHPそのものが、私の墓。
どうか、そう考えてほしい。

とは言いながらも、午後から、2人の知人宅をあいさつ回りをした。
母の葬儀では、世話になった。


●食べ物は残すな?

ある雑誌を読んでいたら、こう書いてあった。
「子どもには、食べ物を残さず食べるよう、教えよう」と。

若いころの私も、そう指導していた。
しかし振り返ってみると、この考え方は、まちがっていることを知った。
たとえば、私には、3人の息子がいる。

二男、三男は、私の言いつけをよく守って、ワイフが料理したものを、
たいてい(すべて)食べた。
それに反して、長男は、いつも食べたい分だけ食べて、あとは残した。
私はそのつど、「もったいない!」と、長男をよく叱った。

しかしそれから30年余り。

二男、三男は、少し油断すると、肥満ぎみになる。
しかしこと長男に関しては、適正体重をずっと保っている。
保っているというよりは、いつも結果的に、そうなっている。
生理的に、体内で、摂食調整をしているようにも感ずる。

だから最近の私は、「残さないで食べなさい」とは、言わない。
私たち自身も、レストランなどでは、適当に食べ、適当に残すように
している。
最近のレストランは、どこも量が多い。
まともに食べていたら、あっという間に、メタボリック!

食事の量は、子ども自身の「体」が決める。
量が少ないからといって、それで体が動かなくなるということはない。
子どもの腸は、おとなのそれより、はるかに効率よくできている。
腸の栄養吸収能力がすぐれている。
ほかに何も症状がないようであれば、子どもが食べ物を残しても、
それほど気にする必要はない。
「ぜんぶ食べなさい」と強要してはいけない。

なお、こんな親子もいる。

父親も母親も、超肥満体。
長男も長女も、超肥満体。
8歳になる息子も、肥満気味。

食事の量の基準そのものが、一般家庭のそれとは、ズレている(?)。
そういうこともある。

(注)同じ小食でも、「好き嫌い」は、別。
偏食が体によくないことは、言うまでもない。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2903)

●10月19日

+++++++++++++++++++++

私の誕生日まで、カウントダウンが始まった。
毎年、誕生日には、やや高価なものを
買ってもらうことになっている。

「買ってもらう」というのは、我が家の財布は、
すべてワイフが握っている。
小遣いにしても、そのつど、ワイフからもらうように
している。

私自身は、37歳くらいのときから、収入がいくら
あって、支出がいくらあるかなどということは、
知らない。

だから「買ってもらう」という言い方になる。

+++++++++++++++++++++

●プレゼント

ワ「何が、ほしいの?」
私「それがね、ほしいのが、ないのだよ……」
ワ「パソコンは……?」
私「この前、買ったばかりだし……」と。

本当は、「9650」搭載のデスクトップがほしい。
しかしまだ値段が高い。
もう少し待てば、安くなるはず。
この世界では、値崩れが珍しくない。
値崩れをしたとたん、半額になることもある。

今は、じっとがまんのとき。

●喜び

もうすぐ満62歳になる。
今のところ、すこぶる体の調子はよい。
このところ、毎日、2単位の運動をこなしている。
明日からも、欠かさず、毎日、2単位するつもり。
が、何よりもうれしいことは、40歳のときと同じように、
50歳のときと同じように、元気で、仕事ができること。

歩ける。
走れる。
話せる。
息ができる。

どのひとつを取りあげても、すべてが喜びにつながる。
そういう自分が、うれしい。

そこで満62歳の抱負。

●満62歳

目標は、満70歳!
70歳まで、現役で働く!
そのため、明日からも、健康づくり!
その健康は、運動のみによって、維持される!

お金は嫌いではないが、もちろんお金儲けが目的ではない。
大切なのは、「生きているという緊張感」。
「生きているという実感」。
その緊張感や実感を得るために、仕事をする。
たとえば文章を書くといっても、その緊張感がなければ、書けない。
書いても、ただの駄文。
(この文章もそうだが……。)

あとはワイフと3人の息子たちの幸福を第一に考えたい。
おかげで……というか、私たち家族は、今まで、本当にラッキーだった。
それぞれが、それぞれの夢と希望を、それなりに追い求め、手にした。
ワイフはいつも、こう言う。
「あなたは、ほんとうに恵まれた人ね」と。
私もそう思う。
たいしたことはできなかったが、みな、健康であったことだけでも、
感謝しなければならない。

ただこの先のことはわからない。
わからないから、慎重に、ただひたすら慎重に、生きていきたい。
つまりそれを70歳まで、つづける。

ひとつだけ目標があるとすれば、「自由」ということになる。
これからも自由だけは、大切にして生きていきたい。

私は自由に生きてきたし、今も、自由に生きている。
これからも自由に生きていく。


●SKYPE

昼ごろ、二男夫婦と、久しぶりにSKYPE(テレビ電話)で話をする。
誠司(孫)、芽衣(孫)も元気そうだった。
二男も、元気そうだった。

途中から長男、三男、それにワイフも加わってきた。
家族全員が、パソコンのまわりに集合した。

「仕事は何時から?」と聞くと、「10時ごろかなあ……。3時には終わるよ」と。
あの国は、何からなにまで、日本の常識では、理解できない。
「クビにならないのか?」と聞くと、「犯罪でも犯さないかぎり、だいじょうぶだよ」と。
「それにいちばんの上司が、ぼくよりコンピュータのことを知らない」とも。

そういえば、プリンストン大学で教授をしている知人も同じようなことを
言っていた。
そのとき、日本に2か月程度滞在していたので、「仕事はだいじょうぶか?」と
聞くと、「助手が代わりにしてくれているからいい」と。

やるべきことをやり、それなりの成果を出せば、それでよいというわけである。
二男も、「給料は、できだか払いのようなもの」というようなことを言っていた。
大学へ出かけていき、そこでいくつかの仕事を指示される。
二男は、その仕事をする。
終わったら、それでおしまい。
そのあと、途中で2人の子どもを拾って、家に帰る。

言い忘れたが、二男は、現在、インディアナポリス大学でコンピュータ技師を
している。
プラス主夫業をしている。
インディアナポリスといえば、昨日見た映画、『イーグル・アイ』の舞台になった
都市である。

誠司に会いたい。
芽衣に会いたい。

誠司が、ぐんと大きくなったような感じがした。
幼児というよりは、少年という感じになった。
芽衣は、毎回、どんどんとかわいくなっていく。
驚くほど頭のよい孫である。

嫁のデニーズは、来週から1週間、休暇に入るという。
現在、インディアナポリス大学のロースクールで、
弁護士になるための研修を受けている。

子どもや孫に負けてはおれない。
私もがんばる。
こうして親というのは、息子や孫たちに励まされながら生きるものか。


●従兄弟

毎年、この時期になると、岐阜県の下呂に住む従兄弟が、
天然の鮎を送ってくれる。

木曽川の鮎は、長良川の鮎の数倍は大きい。
(長さが小さいので、25センチ。大きいので、30センチ弱。)
メスが4匹、オスが3匹。
メスには、腹の中に卵がぎっしりと詰まっていた。

さっそく、今日、お返しの魚(=海の魚)を買って送る。


●三男のDVD

三男は、昔から、ホラーものが好き。
数日前も、DVDを借りてきたが、その類のものばかり。
性格はすなおで、明るいが、どうしてああいう映画を好むか、わからない。
しかも自分がパイロットのくせに、飛行機が墜落する映画ばかり見ている。
数日前も、あの日航123便墜落事故をテーマにした、『クライマーズ・ハイ』と
いう映画を見ていた。

「どうしてこんな映画を見るのか?」と聞いたら、「会社のほうで見るように
言われているから」とのこと。

座学では、飛行機事故の勉強が、大切な科目のひとつになっているという。

同期で大学を卒業した仲間の中には、ほかの航空会社で、すでに副機長として
空を飛んでいる人もいるという。
しかし三男は、まだこれから先、1年半も訓練をつづけなければならない。
J社のパイロット訓練は、ほかの会社より、ずっと長い。
(だからみなさん、飛行機に乗るなら、JALにしなさい!)


●親の介護

今、親の介護で苦しんでいる人がいる。
女性である。
年齢は65歳という。
親は、母親。
87歳という。

その母親が、たいへんわがままな人で、その女性を
奴隷のように、こき使っているという。
しかも最近、その母親に、奇行が目立ってきたという。
いわゆる(注察妄想)というのらしい。

「他人に見られるのがいや」ということで、カーテンを閉め、
すだれをおろし、さらにもう一枚、カーテンを閉めているという。
そして部屋の中で、箱から衣服を取り出したり、しまったりしている
という。
おかげで、部屋という部屋は、衣服が散乱し、足の踏み場もないという。

私はいくつかのアドバイスをした。

(1)まず戸籍を分離すること。(同一住所でできる。)
(2)母親を、無収入の独居老人とする。
(3)ケアマネのところに、こまめに足を運び、相談する。
(4)最終的には、特別老人介護センターに入れる。

幸運なことに、その母親には、月7万円程度の遺族年金があるという。
それだけあれば、むしろ(おつり)が返ってくるはず。

「施設へ入れるとなると、母は抵抗すると思います」と、その女性は言った。
私は、「みなで強引に入れるしかない。でないと、あなたのほうが、先に
倒れてしまいます」と。

そのあたりのことも、ケアマネの人は心得ているはず。

明日(20日)、介護認定の人がやってきて、介護審査をするという。
その女性は、「ありのままを見てもらいます」と言った。
私も、「それがいい」と答えた。

その女性が母親を、施設に入れるときは、手伝うことになっている。
ワイフと2人で、でかけて行って、いっしょに施設に入れる。
母親の体重は、80キロ前後もあるという。

「あのね、こういうときは、説得するだけはして、あとは強引に行動に移すしか
ないですよ」と。

老人にもいろいろあるが、わがままで、手がつけられない人もいる。
言い忘れたが、その女性(65歳)は、夫と離別して、現在は、ひとり住まい。
息子氏は、広島市に住んでいるという。

最後にこうアドバイスした。
その女性(65歳)には、ほかに3人の兄、妹がいる。
「どんなことがあっても、その3人に、愚痴の電話を入れたり、悪口を
言ってはいけませんよ。
淡々と、やるべきことをやって、無視することです。
やり方をまちがえると、兄弟の間に、取り返しのつかない、大きな溝を作って
しまいますからね」と。

その女性(65歳)は、「わかった」と言って、すなおに従ってくれた。


++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●マズローの欲求段階説を参考に

【より高い人間性を求めて】(1)

 今日も、昨日と同じ。明日も、今日と同じ……というのであれば、私たちは人間として生きるこ
とはできない。

 そこで「より高い人間として生きるためには、どうしたらよいか」。それについて、A・H・マズロ
ーの、「欲求段階説」を参考に、考えてみる。マズローは、戦時中から、戦後にかけて活躍し
た、アメリカを代表する心理学者であった。アメリカの心理学会会長も歴任している。

●第1の鉄則……現実的に生きよう

 しっかりと、「今」を見ながら、生きていこう。そこにあるのは、「今という現実」だけ。その現実
をしっかりと見つめながら、現実的に生きていこう。

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

 私がここにいて、あなたがそこにいる。私が何であれ、そしてあなたが何であれ、それはそれ
として、あるがままの私を認め、あなたを認めて、生きていこう。

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

 ごく自然に、ごくふつうの人として、当たり前に生きていこう。心と体を解き放ち、自由に生き
ていこう。自由にものを考えながら、生きていこう。

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

 いつも他人の心の中に、自分の視点を置いて、ものを考えるようにしよう。他人とのよりよい
人間関係は、それ自体が、すばらしい財産と考えて、生きていこう。

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

 過去や、因習にとらわれないで、いつも新しいものに目を向け、それに挑戦していこう。新し
い人たちや、新しい思想を受けいれて、それを自分のものにしていこう。

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

 いつも高い視野を忘れずに、地球全体のこと、人類全体のことを考えて、生きていこう。そこ
に問題があれば、果敢なく、それと戦っていこう。

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

 考えるから人は、人。生きるということは、考えること。どんなささいなことでもよいから、それ
をテーマに、いつも考えながら生きていこう。

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

 少人数の人と、より深く交際しながら生きていこう。大切なことは、より親交を温め、より親密
になること。夫であれ、妻であれ、家族であれ、そして友であれ。

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

 今、自分は、どういう人間なのか、それを客観的に見つめながら、生きていこう。方法は簡
単。他人の視点の中に自分を置き、そこから見える自分を想像しながら生きていこう。 

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう

 あなたのまわりに、いつも笑いを用意しよう。ユーモアやジョークで、あなたのまわりを明るく
して生きていこう。
(はやし浩司 マズロー 欲求段階説 高い人間性)

【より高い人間性を求めて】(2)

 人格論というのは、何度も書いているが、健康論に似ている。日々に体を鍛錬することによっ
て、健康は維持できる。同じように、日々に心を鍛錬することによって、高い人間性を維持する
ことができる。

 究極の健康法がないように、究極の精神の鍛錬法などというものは、ない。立ち止まったとき
から、その人の健康力は衰退する。人間性は衰退する。

 いつも前向きに、心と体を鍛える。しかしそれでも現状維持が、精一杯。多くの人は、加齢と
ともに、つまり年をとればとるほど、人間性は豊かにななっていくと誤解している。しかしそんな
ことはありえない。ありえないことは、自分が、その老齢のドアウェイ(玄関)に立ってみて、わ
かった。

 ゆいいつ老齢期になって、新しく知ることと言えば、「死」である。「死の恐怖」である。つまりそ
れまでの人生観になかったものと言えば、「死」を原点として、ものを考える視点である。「生」
へのいとおしさというか、それが、鮮明にわかるようになる。

 そうした違いはあるが、しかし、加齢とともに、知力や集中力は、弱くなる。感性も鈍くなる。
問題意識も洞察力も、衰える。はっきり言えば、よりノーブレインになる。

 ウソだと思うなら、あなたの周囲の老人たちを見ればわかる。が、そういう老人たちが、どう
であるかは、ここには書けない。書けないが、あなたの周囲には、あなたが理想と考えることが
できるような老人は、いったい、何人いるだろうか。

 せっかくの命、せっかくの人生、それをムダに消費しているだけ。そんな老人の、何と、多い
ことか。あなたはそういう人生に、魅力を感ずるだろうか。はたしてそれでよいと考えるだろう
か。

 マズローは、「欲求段階説」を唱え、最終的には、「人間は自己実現」を目ざすと説いた。人
間は、自分がもつ可能性を最大限、発揮し、より人間らしく、心豊かに生きたいと願うようにな
る、と。

 問題は、どうすれば、より人間らしく、心豊かに生きられるか、である。そこで私はマズローの
「欲求段階説」を参考に、10の鉄則をまとめてみた。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi

最前線の子育て論byはやし浩司(444)

【人間らしく生きるための、10の鉄則】(マズローの「欲求段階説」を参考にして)

●第1の鉄則……現実的に生きよう

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう

著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●マズローの欲求段階説

 昨日、「マズローの欲求段階説」について書いた。その中で、マズローは、現実的に生きるこ
との重要性をあげている。

 しかし現実的に生きるというのは、どういうことか。これが結構、むずかしい。そこでそういうと
きは、反対に、「現実的でない生き方」を考える。それを考えていくと、現実的に生きるという意
味がわかってくる。

 現実的でない生き方……その代表的なものに、カルト信仰がある。占い、まじないに始まっ
て、心霊、前世、来世論などがもある。が、そういったものを、頭から否定することはできない。

ときに人間は、自分だけの力で、自分を支えることができなくことがある。その人個人というよ
りは、人間の力には、限界がある。

 その(限界)をカバーするのが、宗教であり、信仰ということになる。

 だから現実的に生きるということは、それ自体、たいへんむずかしい、ということになる。いつ
もその(限界)と戦わねばならない。

 たとえば身近の愛する人が、死んだとする。しかしそのとき、その人の(死)を、簡単に乗り越
えることができる人というのは、いったい、どれだけいるだろうか。ほとんどの人は、悲しみ、苦
しむ。

いくら心の中で、疑問に思っていても、「来世なんか、ない」とがんばるより、「あの世で、また会
える」と思うことのほうが、ずっと、気が楽になる。休まる。

 現実的に生きる……一見、何でもないことのように見えるが、その中身は、実は、奥が、底な
しに深い。


●あるがままに、生きる

 ここに1組の、同性愛者がいたとする。私には、理解しがたい世界だが、現実に、そこにいる
以上、それを認めるしかない。それがまちがっているとか、おかしいとか言う必要はない。言っ
てはならない。

 と、同時に、自分自身についても、同じことが言える。

 私は私。もしだれかが、そういう私を見て、「おかしい」と言ったとする。そのとき私が、それを
いちいち気にしていたら、私は、その時点で分離してしまう。心理学でいう、(自己概念=自分
はこうであるべきと思い描く自分)と、(現実自己=現実の自分)が、分離してしまう。

 そうなると、私は、不適応障害を起こし、気がヘンになってしまうだろう。

 だから、他人の言うことなど、気にしない。つまりあるがままに生きるということは、(自己概
念)と、(現実自己)を、一致させることを意味する。が、それは、結局は、自分の心を守るため
でもある。

 私は同性愛者ではないが、仮に同性愛者であったら、「私は同性愛者だ」と外に向って、叫
べばよい。叫ぶことまではしなくても、自分を否定したりしてはいけない。社会的通念(?)に反
するからといって、それを「悪」と決めつけてはいけない。

 私も、あるときから、世間に対して、居なおって生きるようになった。私のことを、悪く思ってい
る人もいる。悪口を言っている人となると、さらに多い。しかし、だからといって、それがどうなの
か? 私にどういう関係があるのか。

 あるがままに生きるということは、いつも(自己概念)と、(現実自己)を、一致させて生きるこ
とを意味する。飾らない、ウソをつかない、偽らない……。そういう生き方をいう。


●自然で自由に生きる

 不規則がよいというわけではない。しかし規則正しすぎるというのも、どうか? 行動はともか
くも、思考については、とくに、そうである。

思考も硬直化してくると、それからはずれた思考ができなくなる。ものの考え方が、がんこにな
り、融通がきかなくなる。

 しかしここで一つ、重要な問題が起きてくる。この問題、つまり思考性の問題は、脳ミソの中
でも、CPU(中央演算装置)の問題であるだけに、仮にそうであっても、それに気づくことは、ま
ず、ないということ。

 つまり、どうやって、自分の思考の硬直性に、気がつくかということ。硬直した頭では、自分の
硬直性に気づくことは、まず、ない。それ以外のものの考え方が、できないからだ。

 そこで大切なのは、「自然で、自由にものを考える」ということ。そういう習慣を、若いときから
養っていく。その(自由さ)が、思考を柔軟にする。

 おかしいものは、「おかしい」と思えばよい。変なものは、「変だ」と思えばよい。反対にすばら
しいものは、「すばらしい」と思えばよい。よいものは、「よい」と思えばよい。

 おかしなところで、無理にがんばってはいけない。かたくなになったり、こだわったりしてはい
けない。つまりは、いつも心を開き、心の動きを、自由きままに、心に任せるということ。

 それが「自然で、自由に生きる」という意味になる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て は
やし浩司 Hiroshi Hayashi マズロー 欲求段階説)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2904)

【老人・段階論】

+++++++++++++++++++++

キューブラー・ロスの「死の受容段階論」は、
よく知られている。

「死」を受容する過程で、人はさまざまな反応を
示すが、それをキューブラー・ロスは段階論として
それを示した。

しかしこの「死の受容段階論」は、そのまま
「老人段階論」にあてはめることができる。

+++++++++++++++++++++

●キューブラー・ロスの「死の受容段階論」(「発達心理学」山下冨美代著、ナツメ社より)

キューブラー・ロスの「死の受容段階論」について。
ロスは、死に至る過程について、つぎの5期に分けて考えた。

(第1期)否認……病気であることを告知され、大きなショックを受けたのち、自分の病気は死
ぬほど重いものではないと否認しようとする。

(第2期)怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の健康な
人、家族で、医療スタッフに対する不平不満としても生ずる。

(第3期)取り引き……回復の見込みが薄いことを自覚すると、神や医者、家族と取り引きを試
みる。祈ることでの延命や、死の代償として、何かを望む。

(第4期)抑うつ……死期が近づくと、この世と別れる悲しみで、抑うつ状態になる。

(第5期)受容……最後は平静な境地に至という。運命に身を任せ、運命に従い、生命の終わ
りを静かに受け入れる。(以上、同書より)

●私の母のばあい

私の母のばあい、ひざに故障が起きて、歩くのもままならなくなったとき、
ひどく医者をうらんだ時期があった。

「どうして治らない」「どうして治せない」と。

つぎに自分が老いていくことを許せなかった時期もあった。
たとえば温泉に行くことについても、「恥ずかしいからいやだ」と、かたくなに、
それを拒んだりした。

つぎに自分が動けなくなったことに腹をたて、私の兄に、八つ当りをしたこともある。
兄をののしり、兄を理由もなく、叱ったりした。

が、それも一巡すると、(あるいはその前後から)、ちぎり絵に没頭するようになった。
一日中、部屋にこもって、ちぎり絵をしていた。

さらにこれは、私にも信じられないことだったが、私の家に来てからは、まるで別人の
ように、静かで、おとなしくなった。

ざっと、母の様子を振り返ってみた。
が、それ以前の母はというと、ふつうの女性以上に、勝気で虚栄心が強く、わがまま
だった。

こうした母の変化を順に並べてみると、キューブラー・ロスの「死の受容段階論」に、
恐ろしいほどまでに、当てはまるのがわかる。

(第1期)否認……病気であることを告知され、大きなショックを受けたのち、自分の病気は死
ぬほど重いものではないと否認しようとする。
母は、毎日のように治療に専念するようになった。
病院通いのほか、知人、友人の勧めに応じて、いろいろな治療法を試みた。

(第2期)怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の健康な
人、家族で、医療スタッフに対する不平不満としても生ずる。
が、治療の効果がないとわかると、一転、「どうして治らない!」と、周囲の人たちに当たり散ら
すようになった。

(第3期)取り引き……回復の見込みが薄いことを自覚すると、神や医者、家族と取り引きを試
みる。祈ることでの延命や、死の代償として、何かを望む。
もともと信心深い人だったが、ますます信仰にのめりこんでいった。

(第4期)抑うつ……死期が近づくと、この世と別れる悲しみで、抑うつ状態になる。
一日中、部屋にこもって、ちぎり絵に没頭するようになった。

(第5期)受容……最後は平静な境地に至という。運命に身を任せ、運命に従い、生命の終わ
りを静かに受け入れる。
私の家に来てからは、すべてを観念したかのように、静かに、おとなしくなった。
デイサービスなど、一度とて、それを拒否したことはない。
センター(特別養護老人ホーム)へ入居するときも、すなおに入居した。

母だけの例で、すべての老人もそうであると考えるのは、もちろん正しくない。
しかしほかの老人たちの話を聞いても、それほど、ちがっていない。
つまりキューブラー・ロスの「死の受容段階論」は、そのまま、これから先の私たち自身の老後
の姿と考えてよい。

(第1期)否認……老人であることを否定する。「私は、まだ若い」と主張する。
(第2期)怒り……老人扱いする周囲に怒りを覚える。「老人を大切にしない」と怒る。
(第3期)取り引き……若い人に妥協したり、媚びを売ったりする。
(第4期)抑うつ……身体的な症状が顕著になってくると、うつ状態になる。
(第5期)受容……老人であることを受け入れ、死に対する心の準備を始める。

この段階論で、自己分析を試みると、私は、現在(第1期)〜(第2期)ということになる。
しかしこれも心の持ち方で、かなり変化する。
というのも、「老人というのは、自ら老人になるのではなく、周囲の人たちによって、老人につく
られていくから」である。
定年という制度も、そのひとつ。

同じ満60歳といっても、健康状態は、みなちがう。
肉体年齢や精神年齢にしても、そうだ。
そういう人たちを、ひとまとめにして、「定年」と決めるほうが、おかしい。
まちがっている。

55歳でヨボヨボの人もいれば、70歳でテニスのコーチをしている人もいる。
私も「あなたも定年の年齢になりましたね」と言われることくらい、不愉快なことはなかった。
定年であるかどうか、もっと言えば、老人であるかどうかは、自分で決めること。
しかし世間全体が、大きな(波)の中で動いている。
私ひとりが、それに抵抗しても、その力は、弱い。
私もいつしか、……と書きたいが、実際には、このところ逆のパワーが強くなってきた。
「生きて、生きて、生き抜いてやる」というパワーが、大きく作用するようになった。
と、同時に、「私は老人である」という考えが、どんどんと薄れていった。

コツがある。

(1)過去を振り返らない。
(2)未来だけを見ていく。
(3)他人に遠慮しない。

あえて(第1期)の否認や、(第2期)の怒りを、経験する必要はない。
身体的な不調がないわけではないが、それについては、運動で克服する。
これは私の経験だが、加齢とともに、運動量をふやすことは、とても重要なことである。
歳をとったから、運動量を減らすなどいうことをすれば、かえって老化を早めてしまう。

また「健康」といっても、3つある。

肉体の健康、精神の健康、それに脳みその健康である。

肉体の健康は、運動で。
精神の健康は、人と接することで。とくに子どもたちと接するのがよい。
また脳みその健康は、脳みそを刺激することで、それぞれ維持する。
具体的には、私夫婦は、つぎのように目標をかかげている。

(1)1日、2単位の運動をする。
(2)月に2回は、日帰りの旅行をする。
(3)週に1度は、劇場で映画を見る。

「人(子ども)と接する」ことについては、私の仕事を利用させてもらっている。
最近は、ワイフも、いっしょに仕事をすることも多くなった。
さらに私のばあい、月に4〜5回の講演活動をしているが、これはたいへん脳みその刺激によ
い。
会場で1〜2時間、大声でしゃべりつづけるだけでも、ボケ防止になるのでは(?)。

要するに、何もあわてて老人になることはない。
年齢という(数字)に影響を受ける必要もない。
またそんなものを気にしてはいけない。
「私は私」。
キューブラー・ロスの「死の受容段階論」は、あくまでも一般論。
何も、それに従う必要はない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi Hamamatsu 林浩司 林 浩司 教育評論家 キューブラー ロス 死の受容
段階論 死の受忍 死の受容 死を受け入れる 老後段階論)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2905)

【子どもの心の奥にあるもの】

++++++++++++++++

よく誤解されるが、情緒不安というのは、
情緒が不安定になることではない。
(心の緊張感)がとれないことを、情緒
不安という。

心が緊張しているとき、不安や心配ごとがあると、
心は一気に不安定になる。
結果として情緒は不安定になる。
つまり情緒不安というのは、(心の緊張感)が
とれない、その結果として現れる症状をいう。

子どもの情緒不安を感じたら、まず、心の
緊張感が、いつ、どのように発生し、どのように
作用しているかを、観察する。

慢性化すれば、神経症(症状は千差万別)を
発症するようになる。
疑惑症、嫌悪症、潔癖症なども、そのひとつ。

対処法としては、(心の緊張感)をほぐすことを
第一に考える。

+++++++++++++++++

【AKさんより、はやし浩司へ】

 6歳の娘と、4歳の息子がいます。6歳の娘についての、相談です。

長女はいい子で優しく素直な子です。神経質で、きっちりしている(言いつけを守る)ところもあ
ります。5歳くらいまで母子分離不安が強く近所で多数の子供たちと遊ぶと、うちの子はなかな
か私から離れず、みんなの中に入って行くのを尻込みするタイプでした。何か心にストレスを感
じるとすぐ身体症状が出る子で、幼稚園入園後半年で円形脱毛になり、年長に上がった時に
神経因性頻尿になりました。いずれもたくさん構ってあげたりスキンシップや気分転換させると
自然に治りました。

 今困っている症状は、手を洗っても汚れがついている気がする・その手で蛇口を触れない(蛇
口をずっと長いこと洗います)・手に触れるものや口に入れるもの全てにおいて清潔か、触って
も大丈夫かの確認を何度もする・チック(目をぱちぱちする)です。手洗いに関しては、私が指
摘したせいか本人も自覚してしまってつらがっています。手洗いの際私が手を包み込んで一緒
に洗うと、ましなようです。

 弟の方はマイペースで長女のようにきっちりせず、のびのびしています。母親に対する独占
欲が強く長女といつも私を取り合う感じです。3歳頃まで泣きひきつけがひどく、あまり泣かせな
いようにしてきたからか、長女は我慢をすることも多かったと思います。次男出産後1年半は保
育所に預けていました。

 私自身にも問題があります。一度火がつくと自分でもコントロールできない程激しく叱ってしま
うのです。私の母親が普段は優しく愛情深いのですが、怒るとすごくこわく、いわゆるヒステリー
タイプで、毎日夫婦喧嘩の声(母の怒った声)に子供の頃から心が休まらない家庭でした。母
の顔色を伺いながら生きてきた自分を考え、自分は絶対そんな思いは子供にさせまいと思い
続けて母親になりましたが、時々自分の中に母親の影をみることがあります。

特に生理前などはイライラが強く、子供にきつく怒ってしまいます。その度に自己嫌悪に陥り反
省し、よし明日からはとがんばるのですが、1ヶ月くらいたったある日それまでの努力を自分で
台無しにするような怒り方をして、また反省し繰り返しです。こんな自分も嫌です。どうにかして
治したいのですが。夫に私がきつく怒りすぎて子供が萎縮していると指摘を受けました。

 今回長女の強迫的な行動におろおろし、いろいろ調べたところ、はやし先生の相談者に対す
るアドバイスを読み、今まで長女は繊細であれこれ困ったことが起きるなと思っていたのは、す
べて私が原因だったのでは?、と思いました。長女に対して今最大限のスキンシップをはかる
ようにしていますが、このまま続けて行けば良くなるでしょうか? ひどい時は10分おきくらい
に、「足を触ったかもしれないけどその手を舐めたかもしれないけど大丈夫?」といった質問を
繰り返したり、手洗い場で「洗っても洗っても汚れてるみたいな気がする」と泣いている娘をみ
ると、早く治してあげたくて受診させたほうがいいのかと悩んでいます。

主人は自分の実家で気分転換させたら?、といいます。(主人の実家は長女びいきで行くとい
つも娘の表情が穏やかでわがまま言い放題、のびのびしています。)先生、どうか返答は遅く
ても構いません。是非アドバイスをお願いします。私自身はメールアドレスを持っていないので
主人の名前で出しています。(相談者・AK) 

【はやし浩司よりAKさんへ】

 まずAKさん、あなた自身の心が、なぜいつも緊張状態にあるかを、静かに観察してみてくだ
さい。いつもピリピリしているというようであれば、そのもとになっている、原因をさぐります。

 私の印象では、AKさん自身が、心を開けない人のように思います。他人の前に出ると、緊張
してしまうとか、(結果的に疲れやすい)、仮面をかぶってしまうとか、そういう状態ではないかと
思います。

 さらにその原因はといえば、AKさん自身の母子関係にあります。AKさんと、AKさんの母親
との関係です。AKさん自身も、子どものころ、(いい子)ぶることで、いつも自分をごまかしてい
た。現在のあなたの長女のように、です。

 で、相談の件ですが、年齢的に、つまり2歳下の弟がいるということですから、長女は、まだ
人見知り、後追いのはげしかったころ、下の弟が生まれたことになります。下の弟が生まれた
ことによって、大きな愛情の変化を感じたと思われます。対処の仕方を誤ると、赤ちゃん返りと
いう症状が生まれます。

 長女は、現在も、その(赤ちゃん返り)の流れの中にあると思ってください。

 子どもというのは、環境の変化にはたいへんタフですが、愛情の変化には、敏感に反応しま
す。親は「平等にかわいがっている」と言いますが、子どもには、そういった論理は通用しませ
ん。あなたの夫が、ある日突然、愛人を家に連れ込んできたようなばあいを、想像してみてくだ
さい。

 もうおわかりかと思いますが、長女は、慢性的な愛情飢餓状態にあると考えて対処します。
濃密なスキンシップ、添い寝、手つなぎなど、こまめに実行してみてください。ポイントは、『求め
てきたときが、与えどき』です。

 長女のほうから、スキンシップを求めてきたようなときは、すかさず、(すかさず、です)、それ
に応じてあげます。「あとでね……」「忙しいから……」は、禁句です。ほんの数分、応じてあげ
るだけで、子どもは、落ちつくはずです。

 ほかに食生活にこころがけてみてください。CA、MG、Kの多い食生活(=海産物中心の献
立)にするだけでも、かなり効果があります。(薬物に頼るのは、この時期、勧めません。)とく
にCAの多い食生活を大切にしてみてください。市販の子ども用錠剤なども、効果的です。
(薬局へ行くと、高価な錠剤を勧めますが、安いものもあります。安いのでも効果は同じです。
服用量を注意して、与えます。)
私自身も、心の緊張感がほぐれないときは、CAの錠剤をバリバリと口の中で割ってのんだりし
ています。ほかにハーブ系の錠剤をのむこともあります。

偏食、とくに白砂糖の多い食品は、避けます。(家庭では、精製してない黒砂糖を料理に使うと
よいでしょう。)

家庭生活の要(かなめ)は、子どもの側からみて、(心の休まる)環境です。
長女は、おそらく外の世界(幼稚園など)では、いい子ぶることで、自分の立場を保持している
はずです。つまりそれだけ神経疲れを起こしやすいということです。ですからその反動として、
家の中で、ぞんざいな態度、横柄な態度を見せるかもしれませんが、そこは許してやってくださ
い。
「うちの子は、外でがんばっているから、家の中ではこうなのだ」と、です。

6歳ともなると、(家)は、(しつけの場)ではなく、(憩いの場)とならなくてはいけません。疲れた
心を休める場所です。

手洗いグセについては、『暖かい無視』に心がけます。心の緊張感(わだかまり、こだわり)が
ほぐれてくれば、自然になおります。親がカリカリすればするほど、逆効果です。なお子どもの
神経症については、私のHP→(ここが子育て最前線)→(子ども診断)→(神経症)に収録して
ありますから、参考にしてください。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page080.html

で、問題は、AKさん、あなた自身です。

遠くは、あなたとあなたの母親との関係にまで、原因がさかのぼります。あなた自身が、全幅
に、あなたの母親に受け入れてもらえなかった……。それが今、あなたの対人関係(もちろん
子どもに対しても)に、影響を与えています。さみしがり屋で孤独なくせに、しかし集団の中に入
っていくと、すぐ神経づかれを起こしてしまう、と。他人を信ずることができない……つまり、他
人に心を開くことができない。自分をつくってしまう。ありのままをさらけ出すことができない、な
ど。
(あるいは何かの原因で、長女を愛することができないのかもしれませんね。「長女を愛しなけ
ればならない」「しかしどうも好きになれない」と、AKさん自身が、心の中で葛藤しているという
ことも考えられます。あなた自身も、親に愛されていなかった……。その世代連鎖が、今もつづ
いている可能性も否定できません。)

ともかくも、こうした緊張感が、ちょっとしたきっかけで、爆発してしまう。長女に対して、です。

症状としては、AKさん自身が、(うつ病質)であると考えられますが、専門的な判断は、ドクター
にしてもらってください。同時にAKさん自身も、CAの多い食生活に心がけてみてください。

ほとんどの親は、子どもに、ふつうでない症状が現れると、子どもに原因を求め、子どもを治そ
うとか、直そうとか考えます。しかし子どもは、(家族の代表)でしかありません。
幸いなことに、AKさんは、今、それに気づきつつあります。つまりすでに問題は、半分以上、解
決したということです。

あとは、長女のよいところだけを見て、長女といっしょに、もう一度人生を楽しむつもりで、子育
てをすればよいでしょう。あるいはもうそろそろ長女から離れ、あなた自身が自分でしたいこと
をすべき時期に来ているかもしれません。夫の実家でめんどうをみてくれるというのですから、
そういう場をうまく利用して、あなたはあなたで、好き勝手なことをすればよいのです。

また、子どもを愛せないなら愛せないで、気負うことはありません。実際そうした母親は、7〜1
0%はいます。まず、あるがままの、自然体で、子どもに接することを大切にします。「親だから
……」と気負ってはいけないということです。(メールによれば、AKさんは、かなり親意識の強
い方のようですから……。)子どもの「友」になることだけを考えて対処します。

どうであるにせよ、症状としては、この時期、たいへん多いですから、あまり深刻に考えないこ
と。ただし環境を改善したとしても、すぐには症状は消えません。あせらないこと。チックにして
も、家庭環境が改善されても、ばあいによっては、そのあと、数年つづくこともあります。(手洗
いグセは、比較的早く、症状は消えます。)

詳しくは、「はやし浩司 神経症」「はやし浩司 手洗いグセ」で、検索してみてください。
またAKさん自身の問題は、「はやし浩司 基本的信頼関係」が、参考になると思います。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi 子どもの神経症 手洗いグセ)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司子※

最前線の子育て論byはやし浩司(2906)

●10月21日

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4、5年前に、『マズローの欲望段階論』について
書いた。
その原稿を読みなおしながら、今日、自分で「なるほど」と
思った。
しかし自分で書いた原稿を読みなおして、「なるほど」は、ない。
つまりそれだけ記憶力が弱くなったということか。

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●「愚か」になる人たち

同年代以上の人たちを見ていて、ときどき、こう感ずることがある。
「この人たちは、日々に愚かになっているのに、それに気づいているのだろうか」と。

「愚かになる」というのは、知的能力の総合的な低下を、いう。
知識や経験のみならず、知恵や思考力そのものを失うことをいう。

しかしこれは脳のCPU(中央演算装置)の問題。
脳みそ全体の機能が衰えてくれば、知的能力の低下そのものも、わからなくなる。
自分が愚かになりつつあることすら、わからなくなる。
わからないならまだしも、知的能力が低下していても、「自分は、まとも」と誤解
する人もいる。

私の知人に、今年、85歳になる男性がいる。
軽い脳梗塞を繰り返していることもあり、話し方そのものが、かなり、おかしい。
ろれつが回らない。
そんな男性でも、あちこちに電話をかけて、説教がましいことを言う。
私のところにも、かかってきた。
「親のめんどうは、最後まで、しっかり見ろよな」とか、何とか。

一応言っていることは(まとも)だから、それなりの会話はできる。
が、繊細な話しあいは、できない。
深い話もできない。
そのため私のほうは、適当に話を聞いて、適当に合わせるということになる。

が、これはそのまま、私自身の問題ということになる。
遠い未来の話ではない。
5年とか、10年とか、それくらい程度の、先の話ということになる。

●愚かさの確認

どうすれば、自分の(愚かさ)を、自分で知ることができるか。
あるいはどうすれば、(愚かになっていく程度)を、自分で知ることができるか。

肉体的な衰えは、たとえば体力テストなどで、かなり正確に知ることができる。
同じように、知的能力の衰えも、たとえば知能テストなどで、かなり正確に知ることが
できる。

しかしそれを知ったところで、自分では、けっして、そうは思わないだろう。 
たとえば昨夜も、こんなことがあった。

たまたま帰省している三男がパソコンをいじっていた。
音楽を、二男のインターネット・ストーレッジ(倉庫)から、ダウンロードしていた。
私もキー操作に関しては、かなり速いほうだ。
そう思っていたが、三男は、それこそ目にも止まらぬ速さで、キー操作をしていた。

私が、パチパチ……なら、三男は、その間に、パパパ……と、キーをたたく。
「この画面は何だ?」と質問している間に、すでに数枚先の画面を表示してしまう。

脳みそのクロック数そのものが、ちがう。
私のは、たとえて言うなら、1・0GH(ギガヘルツ)。
三男のは、たとえて言うなら、3・1GH(ギガヘルツ)。

クロック数そのものがちがうから、自分で自分の(愚かさ)を知ることはない。
しかし三男には、それがわかる。
何となく、私を見下したような目つきで、ジロッとながめる。
もたもたしている私の指先を見つめ、「イーxxx」と。
使っているソフトが、「イーxxx」という意味らしい。

では、自分の脳みそのクロック数を知るためには、どうしたらよいのか。

●子どもとの競争

ひとつの方法としては、知能テストもある。
しかしこの方法では、思考力のある・なしはわかるが、クロック数まではわからない。
そこでもうひとつの方法として、子どもと競争するという方法がある。

実のところ、私はいつも、この方法で自分のクロック数を確かめさせてもらっている。

レベル的には、中学生〜高校受験用の問題がよい。
そういった問題で、子どもと競争する。

ただし私のように、仕事上、毎回訓練しているほうが、有利。
問題を見ただけで、解答の道筋が見えてしまう。
(子どものほうは、最初、手さぐり状態になる。)

……ウ〜〜ン……

何かよい方法はないものか。

たとえば脳みその中を走る電気信号を、計数的にとらえることはできないものか?
たとえば右脳のA点から出た信号が、左脳のB点に達するまでの時間を計測する、とか。
「あなたは、0・03秒かかりました」「あなたは、0・13秒かかりました」とか、など。
そこであなたの脳みそのクロック数は、「0・02GH」「0・003GH」と。

家庭でできる方法としては、(1)速算、(2)早読みなどでもわかるかもしれない。
(これも訓練で、速くなるだろうが……。早読みにしても、声の大きさによっても、変化
するにちがいない。)

脳みそのクロック数が落ちてくると、「アウ〜〜」「エ〜〜ト」という言葉が多くなり、
話し方も、かったるくなる。
昔、大平総理大臣という人がいたが、ああなる。

が、結論から先に言えば、脳みそも、肉体の健康と同じ。
鍛練してこそ、能力を維持できる。
……ということで、今日は、これから仕事に行く。
もちろん自転車で。

夜は、ワイフとデート。
楽しみ。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi 脳のクロック数)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

●マガジンが、10日遅れ

++++++++++++++++++++

この10日間、忙しかった。
本当に忙しかった。
自分の時間など、ほとんど、なかった。
母の葬儀が終わるまで、緊張の連続。
何がなんだかわからないまま、過ぎて
しまった。
が、終わったとたん、どっと疲労感。
虚脱感。
プラス無気力感。
それが2日もつづいた。

で、今日になって、やっと、ほっと一息。
体の調子も、もどってきた。

見ると、マガジンの発行が、10日も
遅れているのがわかった。
本来なら、今ごろは、11月24日号の
発行予約を入れていなければならない。

しかし実際には、先ほど、やっと11月
14日号を入れたところ。

どうしよう?

まあ、ここはがんばるしかない!

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●今朝の新聞から

++++++++++++++++++

今度、静岡県にも空港ができることになった。
それについて今朝の新聞は、つぎのように
伝える。

「3月開港、遅れる公算」と。
理由は、滑走路先に、高さ制限を超える立ち木が
残っているため、という。

空港建設反対派の人たちが、立ち木を残した。

そのため「滑走路の一部は、当面使用せず、
暫定的な運用で開港に踏み切ることにした」(同紙)とか。
そのための工事費が、プラス1億円!

++++++++++++++++++

つづいて3面を読むと、全体に、県の対応を批判する記事が目立つ。
「こういう問題が起きることがわかっていたのに、先送りしてきた県は悪い」と。
見出しには「県は隠ぺい体質」とある。
つまりこういう問題が起きることがわかっていたのに、「1年も前から、県は
(同紙)隠していた」、と。

●民主主義とは何か?

こういう記事を読むと、ではいったい、民主主義とは何か、改めて考えさせられる。
「私権とは何か」というテーマでもよい。

実は私も、空港建設についての是非を問われたとき、「反対」の意見を書いていた。
建設反対の署名もした。
もう10年以上も前のことである。

しかしそれから10年以上。
かなり強引なやり方ではあったが、空港建設は決まり、工事が始まった。
そして空港は、新聞記事にもあるように、開港間近にまで完成した。

が、たった40本前後のひのきが障害となって、「3月開港、遅れる公算」と。

これは私個人の意見だが、私は空港建設には反対した。
しかしそれは、「できるだけ税金の無駄遣いはやめてほしい」という気持ちを
こめてそうした。
が、「何がなんでも、反対」という意味で、そうしたのではない。

多少強引なやり方ではあったものの、県議会という議会で決まった以上、今度は
反対に、私たちにはその議決に従う義務が生まれる。
もちろん多数決には、欠陥がある。
ときに多数決の陰に隠れて、弱者や少数派の人たちの利益がふみにじられる。
その弱者や少数派の人たちの利益をいかに保護するかで、民主主義の熟成度は決まる。

しかしこと、(立ち木)については、この論理は当てはまらない。

40本前後の立ち木について言えば、「それほどまでにして、守らなければ
ならない木なのか」ということになる。
仮に伐採したところで、だれが、どこで、どのような不利益をこうむるという
のか。

空港建設に反対する人の気持ちもわからないわけではないが、ここまでくると、
「反対のための反対」、もっと率直に言えば、(いやがらせ)にしか思えない。
さらに言えば、弱者や少数派に与えられた特権が、逆に悪用されている(?)。
そんな印象すらもってしまう。

たとえば約40本の立ち木を守っている人たちが、ほかの世界でも、自然保護
運動か何かをしていて、その一環として、立ち木を守っているという話なら、
私にも理解できる。
しかし新聞記事を読むかぎり、そういう話は浮かびあがってこない。

で、同じような問題が、あの成田空港にもある。……あった。
しかし開港から40年。
成田空港は、いまだに暫定開港という状態にある。

では、民主主義とは何か?

多数決を原則としながらも、(弱者や少数派の意見を尊重する)→(話しあう)
→(弱者や少数派の人たちの利益や利権を保護する)という段階を経て、
(弱者や少数派の人たちも同意できるところでは同意して、多数決に従う)。

「何がなんでも反対」という態度は、「どんなことをしてでも空港を建設する」という
態度と、どこもちがわない。
力のモーメント(=方向性をもったエネルギー)は逆でも、中身は同じ。
すでにここまで空港が完成した今、空港建設反対運動はすでに空文化している。
それとも「建設反対運動」が、今度は、「飛行阻止運動」に変わったとでもいうのだろうか。

「私権」といっても、けっして絶対的なものではない。
「私権」は、同時に「公権」によって守られる。
その相互作用の中で、私権にも(制限)が加えられる。
もっとわかりやすい例で言えば、いくら自分の土地だからといって、好き勝手な
建物を建設することはできない。
反対に、たった一人でも道路建設に反対すれば、その道路全体が使えなくなって
しまう。
「私権」と「公権」は、相互に守りあうものであって、けっして対立を前提とするもので
はない。
が、仮に対立しあうようなことになれば、そのはざまで、それを調整するのが、(話しあい)
ということになる。
「補償」という方法もある。
つまりそれが民主主義の基本ルールということになる。

……しかし成田空港にせよ、静岡空港にせよ、空港問題というと、どうしてこうまで
たがいに、関係がこじれてしまうのだろう?

私たちの知らないところで、私の知らない人たちによる、別のモーメントが働いている
としか、私には考えられない。


●「世界大破局」(「ダイアモンド誌」)

+++++++++++++++++

座右に、週刊ダイアモンド誌、10・11月号が
置いてある。
3〜4週間前に買った雑誌である。
表紙に、「世界大破局」とある。
その文字が気になって、そのままにしておいた。

映画なら、おもしろい映画となるだろう。
『ハルマゲドン』にしても、『宇宙大戦争』にしても、
映画は映画。
『エアポートXX』にしても、映画は映画。

しかし「世界大破局」は、現実。
「おもしろい」などと、楽しんでいたら、
(そういうバカはいないと思うが)、とんでもない
ことになる。

+++++++++++++++++

こんな中、「100年に一度のチャンス」とばかり、
たとえば「野村ホールディングズは、リーマン・ブラザーズの欧州、中東、アジア・
太平洋部門を飲み込んだ」(同誌)。

「今回の買収に野村が費やした資金は、アジアに2億2500万ドル、欧州は、
ほんの2ドル、わずか250億円程度で、積年の課題だった海外強化の扉をこじあけた」
(同誌)と。

さらに「三菱UFJフィナンシャルグループは、モルガン・スタンレーに最大90
億ドル(21%)を出資することで、最終合意した」(同誌)という。

一方「三井住友フィナンシャルグループは、ゴールドマン・サックスへの出資を
見送った」(同誌)という情報もあるから、野村や三菱UFJだけの動きを見て、「日本の
快進撃」と評価するわけにはいかない。
さらに底なしの損失が発生すれば、野村も三菱UFJも、道ずれ……ということにも、
なりかねない。

一見、平和でのどかに見える秋の空だが、この秋の空の下で、いったい何が起きて
いるのか?
目に見えない世界であるだけに、不気味。
不気味きわまりない。

なお「公的資金の注入」ということは、わかりやすく言えば、印刷機を回して、紙幣を
市中にバラまくことをいう。
すでにこの日本でも、2〜3%のインフレが始まっていると説く学者もいる。
つまり1000万円の現金を持っている人は、すでに、20〜30万円、損をしたと
いうことになる。
「現金をもっているから、安心」というわけでもなさそうだ。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

●狂った世界

+++++++++++++++++

たとえば野菜を作る。
半年くらいをかけて、野菜を作る。
しかし1反や2反程度の畑を耕したところで、
利益など、それほどあがるものではない。

このあたりのミカン農家でも、専業で
していても、年収が、300〜400万円
もあればよいほうとのこと。
現実は、そんなもの。

しかしその一方で、スーツで身を包んだ
サラリーマンが、コンピュータの画面を
ながめながら、1億、2億のお金を、
右から左へ、左から右へと動かしている。

同じ(お金)のはずなのだが、私は
このギャップをどうしても、頭の中で
埋めることができない。

私の仕事も、基本的には、農家の人たちの
仕事と同じ。
1人、1万円前後の月謝で、子どもたちを
教えさせてもらっている。
中には1クラス、2人だけというクラスも
ある。
赤字というわけではないが、しかし好きでなければ、
とてもこんな仕事はできない。

おそらくコンピュータの画面をながめながら、
1億、2億のお金を動かしている人たちから
見れば、私はバカに見えることだろう。

しかし本当にバカなのは、どちらか。
つまり本当に狂っているのは、どちらか。

本来は裏方であるはずの、銀行や証券会社が、
逆に(表の社会)を食い物にしている。
「だから資本主義はまちがっている」とは、
今の私でも、とても言えないが、しかし
どこか、おかしい。

今日は午前中、ワイフと三男と山荘に行くことに
なっている。
そこでもう一度、資本主義についての本を、
読んでみるつもり。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2907)

●10月23日

+++++++++++++++++++++

●片足のシロ

数日見かけなかったと思っていたら、シロが再び、
庭にもどってきた。

どこか様子がおかしい……と思いながら見ると、シロの
左足がなくなっていた。

ネコかイタチか、あるいはリスに、左足を取られて
しまったらしい。
庭に、いつもより多く餌をまいてやると、シロは
体を地面においたまま、ヨタヨタとそれを食べ始めた。

我が家の庭の主のようなドバトだった。
その少し前には、嫁さんを連れてきた。
そのシロが、またひとりぼっちになってしまった。

シロに、「おい、だいじょうぶか?」と声をかける。
シロは、じっと、こちらを見ている。
「足は痛いのか?」と声をかける。
シロは、やはり、じっと、こちらを見ている。
何ともつらい光景だが、どうしようもない。

ところで今、別の一羽が、クルミの木の中で、子育てを
している。
ひょっとしたら、シロの奥さんかもしれない。
「そうだったらいいな」と思っていると、シロは、
そのまま塀の上まで飛んでいった。
飛びかたまで、ヨタヨタとした感じだった。

ツンとした肌寒さを感ずる。
下着の下まで、冷たさが伝わってくる。
しかしこれは、エネルギー不足のせいか……?
このところ、どうも食欲がない。
シロを見て、ますます食欲がなくなった。


●医療機関

医療機関全体が、最近、冷たくなってきている(?)。
そう感じているのは、はたして私だけだろうか。

今朝も、朝刊に、7つの病院をたらい回しにされたあげく、
死亡した妊婦の記事が載っていた。
死因は、脳内出血であったという。
その間中、妊婦は、はげしい頭痛を訴えていたという。
が、だれも脳内出血とまでは疑っていなかったという。

医療制度そのものが、一般社会から遊離している(?)。
昔は、医者といえば、町医者。
近所のこわいオジサンという感じだった。
が、今は、厚いコンクリートの壁の向こうに、医者がいるといった感じ。
たとえばいろいろなうわさが、(あくまでもうわさだが……)、耳に入ってくる。
「75歳以上の人は、がんになっても手術をしてもらえない」
「90歳以上の人は、延命処置をしてもらえない」などなど。

こうした年齢は、この先、引き下げられることはあっても、引き上げられることはない。
やがて人口の約3分の1が、満75歳以上の超高齢者になるという。
(満75歳以前を、「前期超高齢者」、75歳以上を、「後期高齢者」という。)
老人に対する見方、考え方、ついでに医療のあり方も、これからは変わってくるだろう。
「役にたたない老人は、どんどんと死んでいってもらいます」という時代に、なるかも
しれない。

まあ、しかし、そう思うのは、若い人たちの勝手だが、しかし私たちが、
それに応ずる必要はない。
我々は我々で、しぶとく、最後の最後まで生きてやる。
80歳になっても、90歳になっても、若い人たちの見本となるような生き様を示して
やる。

……ということで、もとの話にもどる。

結局は、自分の健康は自分で守るしかない。
たらい回し事件のようなことが起きると、それをした医師側ばかりが責められる。
しかしそこまで医師に責任をかぶせるのも、酷というもの。
現に数日前、医療訴訟が原因と思われる重荷からか、自殺した医師すらいる。

問題の「根」は、もっと深いところにある。
そしてその根を作っているのは、私であり、あなたであるということになる。
もしあなたがそのときの医師なら、その患者をていねいに診察しただろうか。
時は、10月4日、土曜日。
時刻は、午後6〜7時。
この時間帯だと、ふつうのサラリーマンでも、仕事をしている人は、まずいない。

つまりこれは制度の問題というよりは、「心」の問題。
日本人全体が、その「心」を失いつつある。
医療機関全体が、最近、冷たくなってきていると感ずるのは、あくまでも、
その結果にすぎない。

(付記)(ウィキペディア百科事典より)

(2055年の人口推計)

合計特殊出生率が1.26、平均寿命が男78.53歳、女85.49歳から男83.67歳、女90.34歳へ延び
ると仮定すると、約50年後の2055年は高齢化率が約40%となる。現在の支え手側と支えられ
る側の比率が3人で1人を支える形だったのが、1.2人で1人を支える(20歳から64歳で支える)
形の超高齢社会を迎える。

●日本の総人口は、1億2,777万人から8,993万人弱になる。 
●老年人口(65歳以上)は、20.2%(2,576万人)から40.5%(3,646万人)になる。 
●生産年齢人口(15歳〜64歳)は、66.1%(8,442万人)から51.1%(4,595万人)になる。 
●年少人口(0〜14歳)は、13.8%(1,759万人)から8.4%(752万人)になる。 


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2908)

●子どもの心理

+++++++++++++++++++++

『子どもの先生は、子ども』というのは、私が
考えた格言である。

子どもは、子供どうし、たがいに大きく影響を
受けあいながら、成長する。

最近、こんな経験をしたので、ここに記録して
おく。

+++++++++++++++++++++

●R君(小2)のケース

R君は、幼稚園の年中児のときから、私の教室(BWこどもクラブ)に
通ってくれた。
聡明で、性格も落ち着いていて、ほかにこれといった問題はなかった。
が、いつも遠慮がち。
皆がワイワイ騒いでいるときも、ひとりだけ、みなのうしろで、静かに
それを楽しむといったふうだった。

そのR君は、小学校へ入ってからも、私の教室(算数クラブ)へ通ってくれた。
様子は、そのままだった。
目立たず、おっとりしたままだった。

で、私は、1〜2年おきに、「言葉クラブ」という教室を開く。
以前は毎年開いていたが、このところ体力の限界を感ずることが多くなった。
だから、1、2年おきに、ということになった。

その言葉クラブ(英語と作文を交互に教える)には、K君(小3)という、
きわめて活発な子どもがいる。
好奇心がきわめて旺盛で、行動派。
何か新しいテーマを出すと、「やりたい!」「やりたい!」と、即座にくいついて
くる。
もちろん頭もキレる。
鋭い。

その言葉クラブに、R君も入ることになった。
最初、(これは母親からあとで聞いたことだが)、R君は、それにたいへん抵抗したという。
が、入ったとたん、水を得た魚のように、楽しみ始めた。
と、言っても、その言葉クラブのほうでは、相変わらず遠慮がちだったが、先の
算数クラブのほうで、大きな変化が現れてきた。

こういうことは、珍しくない。
(1+1=2)ではなく、(1+1=3)となる。
私は「1+1=3効果」と、勝手に呼んでいる。
クラスを2つにふやすと、その効果が、2倍以上になる。

それまで遠慮がちに行動していたR君が、見違えるほど積極的になってきたのだ。
これには驚いた。
(1+1=4とか、5)の変化といってもよい。

1〜2か月もすると、算数クラブのほうでのR君は、むしろリーダー核的な存在になった。
みなと騒ぐようなときでも、先頭に立って騒ぐようになった。
(騒ぐことがよいわけではないが、どこか萎縮している子どもは、騒がせることによって、
エネルギーを外に発散させる。)

学校での様子も変わってきたという。
学校の先生が、K君の母親にそう言ったという。

もう一度、今までのことを整理しておく。

(1)R君(小2男児)は、年中児のときから、私の教室へ来ていた。
(2)小1のときから、算数クラブに入った。
(3)R君は、おとなしく、目立たない子どもであった。
(4)小2になるとき、R君は、言葉クラブにも、入った。
(5)そこで小3のK君に出会った。
(6)国語クラブでのR君は、以前のままだった。
(7)しかし算数クラブでのR君は、まるで別人のように変化した。

R君(小2)が、K君(小3)の影響を受けたことは、すぐわかった。
動作(たとえば、手を小ぶりに振ったあと、相手を指差すなどのしぐさ)や、
友だちに話しかける言い方(「おいやあ」と言って、相手の肩を叩く)など、
K君そっくりの動作をし始めたからである。

もちろんK君のもっていた積極性も、そのまま受け継いでしまった。
「まるで別人」というのは、そういう意味である。

そのことを参観していたR君の母親に話すと、母親は、うれしそうに笑っていた。
私が「子どもの先生は、子どもですよ」と言うと、「そうですね」と。

もちろんどの子どもも、そうなるわけではない。
それまでの下地もある。
素養もある。
それらが積み重なって、そういう現象が現れる。
しかしこうした現象は、子どもの世界では、先ほども書いたように、よくある。
珍しくない。

子どもというのは、しばらくの間、観察学習を通して、周囲の情報を蓄積する。
そしてそれが満を期したとき、まるで爆発するかのように、飛躍的に成長する。
よい例が「言葉」である。

0〜2歳まで、ほとんど話さなかった子どもが、2歳前後から、急に言葉を話し
始める。
文字についても、そうだ。
それまでいくら教えても、グニャグニュの線しか書かなかった子どもが、満4・5
歳を境に、急に文字を書き始める。
心理学の世界では、そういう(時点)を、「臨界点」とか、「臨界期」とかいう。

R君も、K君に出会って、それまで蓄積していたものを、一気に爆発させた。
結果的にみれば、「影響を受けた」ということになるが、実際には、K君がR君を
爆発させるきっかけになった。

ただ興味深いことに、言葉クラブのほうでのR君は、どちらかというと、静かで
おだやかな子どものままということ。
が、そうでいながら、どこかでいつも、K君を観察しているのかもしれない。
(少しずつ、活発になりつつあるが……。)
つまりR君は、言葉クラブで見ているK君を、算数クラブのほうで、再現して
いる。
この現象を簡単に説明すれば、そういうことになる。

子どもの世界をあまり知らない人のために、ここに、R君のことを、
記録として残しておく。

(はやし浩司 子どもの成長 子供の成長 子供の先生は子供 子どもの先生は、子ども 子
どもの先生は子ども)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct・08++++++++++++++はやし浩司

●お金と健康

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お金にしても、健康にしても、それに能力にしても、
大切なことは、それをどう使うか、である。
「時間」も、それに含まれる。

使い方をまちがえると、無駄にするばかりか、
精神のものを、後退させてしまう。

+++++++++++++++++++

能力を例にあげて、考えてみよう。
たとえばコンピュータにウィルスをばらまいて楽しんでいる(多分?)人がいる。
たいした知識などなくても、ウィルスは簡単にできる。
しかしそれでも能力は、能力。

人は、他人に迷惑をかけた分だけ、自分の精神を後退させる。
一度後退した精神を取りもどすのは、容易なことではない。
その何倍もの努力をしなければならない。
あるいは、その前に、人生そのものが、終わってしまう。

お金にしても、そうだ。
健康にしても、そうだ。

知人に、今年、80歳になる女性がいる。
若いときから、小銭にうるさく、インチキばかりしていた。
父親は戦死していたので、その遺族年金が、ずっと入っていた。
夫は公務員だった。
その6年ほど前に他界していたが、転籍特権というのがあって、その年金も
ずっと入っていた。

お金には苦労をしなかったはず。
というより、そのとき、すでに数千万円(現金、貯金など)の財産をもっていた。
が、ただ「財産をもっていた」というだけ。
ふつうなら「何かに使う」ということを考えるが、その女性のばあい、ことあるごとに、
こう言っているという。
「そんなことをすれば、貯金が減ってしまう!」と。

同じよう話に、健康がある。
健康であることはすばらしいことである。
だれも、それを疑わない。
しかしいくら健康であるからといって、暴飲暴食を繰りかえしたり、
タバコを吸っていたのでは、意味がない。

冒頭に書いたように、「大切なのは、その使い方」ということになる。
つまりお金にしても、健康にしても、能力にしても、さらに時間にしても、
どう賢く使うかが、問題。
もっとも若いときは、どれも豊富にあり、無駄にしても、悔いは残らない。
お金にしても、「またつぎに稼げばいい」となる。

しかしそこに(先)が見えてくると、そうはいかない。
とくに(時間)は、砂時計から、金の砂がこぼれ落ちていくような状態になる。
能力にしても、健康にしても、不可逆的に退化する。
お金については、それがなければたしかに不幸にはなる。
しかしいくらあっても、お金で幸福は買えない。

「孤独」にしても、若いときは、それほどこわいものではない。
しかし50歳を過ぎると、孤独のもつおそろしさが、しみじみとわかるようになる。
さらに60歳を過ぎると、(今の私がそうだが)、孤独は恐怖以外の何ものでもない。
この先のことはわからないが、70歳になれば、さらにそうだろう。
80歳になれば、さらにさらにそうだろう。

あのイエス・キリストですら、孤独に苦しんだという(マザーテレサ)。

孤独を前にしたら、巨億の富ですら、砂漠の砂のようになる。
死を前にしても、そうだ。
健康を害しただけでも、そうなる。

そこで(能力)ということになる。
能力が知恵を生み、その知恵が、私たちの生き様を決める。
私たちがもちえる、ゆいいつの武器といってもよい。

賢い人は、それを失う前にその価値に気づき、愚かな人は、
それを失ってから、その価値に気づく。
つまり使い方をまちがえると、それを失いながら、失っている
ことにすら、気づかなくなる。
だからこのタイプの人ほど、ワーワーと大騒ぎをする。
泣き叫んだり、わめいたりする。

まず、お金。

見得やメンツ、体裁のためにお金を使う人は、多い。
世間体を気にする人も、そうだ。

このタイプの人は、つねに他人の目を気にする。
他人の目の中で生きる。
だから自分がない。
「私は私」という生き様そのものが、ない。
だからつねにささいなことに振り回されて、ワーワーと騒ぐ。

実際、価値観の定まらない人と交際するのは、容易なことではない。
交際しても、どうしても上辺(うわべ)だけのつきあいになる。
が、それだけではない。
長くつきあっていると、何がなんだか、わけがわからなくなる。

健康については、いまさら説明すべくもない。
が、それにしてもわからないのが、喫煙。
お金を出して、病気を買うようなものだが、それについては最近の脳科学は、
ドーパミンの作用によるものだというところまで解明している。
脳の線条体というところに一度、受容体ができると、喫煙習慣をやめるのは
容易なことではないそうだ。

残りは、「時間」ということになる。

「時間」イコール、「命」、「命」イコール、「時間」。

たった今、居間のガラス窓に、ドバトが体を打ちつけて、そのまま死んでしまった。
まだ子どものようなハトだった。
ワイフがかけつけたときには、すでに息がなかった。

あっけない最期だった。

……庭の隅に穴を掘って埋葬した。
手を合わせて祈った……

あのハトは、どこから来て、どこへ去っていったのか。
そのハトにしても、この宇宙もろとも、この世から消えたことになる。
つまり、こうして生きていること自体に、価値がある。
意味がある。
人間もしかり。

身分や生まれは、関係ない。
金持ちも貧乏人も、関係ない。
まさに『死ねば、おしまい』。

その死ぬまでの時間を「命」とするなら、刻々と過ぎていく時間には、無限の
価値がある。
言いかえると、今、あなたがここにいて、ここに生きているなら、無駄にできる
時間など、一瞬一秒もないはず。

が、遊べ、楽しめ……ということではない。
(すべきこと)を見つけ、それをする。

こうしてそれぞれの人が、それぞれの生き様を見つけ、確立していく。
もちろん私の生き様は、私だけのものであって、人とはちがう。
この問題だけは、人それぞれ。
人、さまざま。

では、どうするか?

私のばあいは、50歳をすぎたころから、何をするにも、自分にこう問いかけてみた。
「だから、それがどうしたの?」と。

おいしいものを食べる……だから、それがどうしたの?
新しい車を買う……だから、それがどうしたの?
みんなと遊ぶ……だから、それがどうしたの?、と。

その結果、私は、意味のないものに、けっこうわずらわされたり、
まどわされたりしているのを知った。
価値のないものを、価値があるものと思いこんでいることも知った。

だからといって、それで生き様が確立したわけではない。
今の今も、その過程の中にある。

お金にしても、健康にしても、それに能力にしても、
大切なことは、それをどう使うか、である。
「時間」も、それに含まれる。

このところ、ますますそれが真剣勝負になってきた。

(追記)

私はもうすぐ満61歳になる。
ところが、つい先日書いた文章を読むと、「満62歳」となっている。
自分で自分の年齢をまちがえたことになる。

これはいったい、どういう現象なのか。

昨年、私は満60歳になった。
1947年の10月生まれだから、それはまちがいない。

が、「62歳」と書いた。
60歳から1年間生きて、その60歳から2年目に入ったから、
「62歳」と書いた。

年齢がわからなくなるというのは、ボケの始まりである。

クワバラ、クワバラ……。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司※

【一億総ギャグ化】

●ものごとを茶化す子ども

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何かテーマを与えても、すぐそれをギャク化して
しまう子どもは、少なくない。

小学3〜4年生レベルで、20〜30%はいる。
その傾向のある子どもとなると、もっと多い。
1人の子どもが茶化し始めると、ほかの子どもたちも
同調して、クラスがめちゃめちゃになってしまうこともある。

こうした傾向は、年中児くらいのときに、すでに現れる。

私「秋になると、どんな果物が出ますか?」
子「出る、出る、出るのは、お化け!」
ほかの子「お化けだってエ〜」「ギャーッ」と。

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ここ20年の傾向として、いわゆる(まじめに考える子ども)が少なくなったことが
あげられる。
論理を積み重ねあわせるということができない。
静かにものごとを推理したり、分析したりすることができない。
ひらめき思考というか、直感(直観)ばかりが、異常に発達している。
反応は速いが、言うことなすこと、支離滅裂。
まるでテレビのバラエティ番組の出演者のようなしゃべり方をする。
脳に飛来した情報を、そのままペラペラと口にしているだけ。

私「世界の食糧が足りなくなるそうだ」
子(小4男児)「大きな動物を飼育すればいい」
私「大きな動物って?」
子「ゴジラとか、恐竜とか、さあ」
私「そんな動物はいないよ」
子「じゃあ、クジラでもいい。浜名湖で、養殖すればいい」と。

先にも書いたように、こうした傾向は、年中児くらいから見られるようになる。

何か問題を与えても、まじめに考えようとしない。
「お父さんの顔を描いてね」と紙を渡しても、怪獣の絵を描いたりする。
しかもゲラゲラと笑いながら、それを描く。
だから私のほうは、「まじめに考えなさい」と注意するのだが、もちろん「まじめ」
という言葉の意味そのものが、理解できない。
ほかに、視線が定まらない。(フワフワとした感じになる。)
興奮しやすい。(キャッ、キャッと騒ぐ。)
静かに考えるという習慣そのものがない。(ソワソワし、刺激を求める。)
言い方が乱暴、などの特徴が見られる。

で、子どもがそうなるには、いろいろな原因が考えられる。
右脳の過度な刺激?
テレビのギャグ(バラエティ)番組の見すぎ?
家庭における、親の過干渉?
が、何よりも大きな影響を与えるのは、母親と考えてよい。

子どもというのは、生まれながらにして、無数の接触を通して、親、とくに母親の
影響を大きく受ける。
「受ける」というより、母親と一体化する。
こと親子に関していえば、(教えずして教える)部分のほうが、(教えようとして
教える)部分より、はるかに多い。

その(教えずして教える)部分を通して、子どもは親の考え方そのものを
身につけてしまう。
たとえば母親が毎晩、ギャグ番組を見ながら、ゲラゲラと笑いこけていたとする。
当然、母親は、番組の影響を受ける。
そして子どもは、母親の影響を受ける。
タバコにたとえるなら、母親がタバコを吸い、子どもがその副流煙を吸い込む。

ほかにも、たとえば母親がいつも頭ごなしなものの言い方をしていると、
当然のことながら、子どもは、(考える)という習慣そのものを失う。
たとえば、粗放型の過干渉児も、(親の過干渉によって萎縮するタイプと、
反対に粗放化するタイプがある)、似たような症状を示すこともある。

態度が大きく、ものの言い方が、乱暴。
存在感はあるが、静かな落ち着きが見られない。

が、こうした習慣は、先にも書いたように、かなり早い時期に決まる。
(反対に、論理力のある子どもかどうかも、年中児くらいのときにはっきりしてくる。)
そしてここからが重要だが、そうした問題点が見つかったからといって、また
親がそれに気づいたからといって、簡単にはなおらない。

子どもはあくまでも(家族の代表)でしかない。
子どもを変える(?)のは、むずかしい。
が、親を変える(?)のは、さらにむずかしい。

過干渉児にしても、一度そういう症状が現れてしまうと、(親は、「どうすれば
ハキハキした子にすることができるでしょうか」と相談してくるが)、子どもを
なおすのは、不可能と考えてよい。

ふつう私がアドバイスしたくらいでは、効果はほとんど、ない。
論理力の欠如にせよ、過干渉にせよ、それを親に自覚させるのは、たいへんむずかしい。
ほとんどの親は、自分では、「ふつう」と思いこんでいる。
その(ふつう)を、まず打破しなければならない。

さらに言えば、「お母さん自身が、もっと論理力を養ってください」と言っても、
困るのはその親自身というということになる。
少し前にもある母親とそういう会話をしたが、「では、どうすればいいですか?」と
聞かれて、私は、ハタと困ってしまった。

また親の過干渉についていえば、親自身の情緒的欠陥に起因しているケースが多い。
(心の病気)が、原因となることもある。

(よく誤解されるが、口うるさいことを過干渉というのではない。
口うるさいだけなら、子どもには、それほど大きな影響はない。
「過干渉」というときは、そこに親に(とらえどころのない情緒的な不安定さ)が
あることをいう。
気分によって、子どもをはげしく叱ったかと思うと、その直後には、子どもの前で
涙を出しながら、「ごめん」と謝ったりするなど。)

だから、「不可能と考えてよい」ということになる。
つまりこの問題は、子どもの問題というよりは、親の問題。
親の問題というよりは、社会全体がかかえる、(社会問題)と考えてよい。

(社会)そのものから、(まじめに考える)という習慣が欠落し始めている。
あの大宅壮一は、『一億総白C化』という言葉を使ったが、現在は、『一億総ギャク化』
の時代ということになる。

日本を代表する総理大臣が、「私の愛読書は、ゴルゴ13(コミック)」と発言しても、
みじんも恥じない。
だれもそれをおかしいとも思わない。
そんな風潮が、この日本には、できてしまった。

その結果が、冒頭に書いた(ものごとを茶化す子ども)ということになる。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 子供 子供の問
題 家庭教育 はやし浩司 Education ギャク化する子供 子供のギャク化 茶化す子供 茶化
す子ども)

++++++++++++++++++

6年前にも同じようなことを書きましたので、
紹介させてもらいます。

++++++++++++++++++


●学ぶ心のない子どもたち

 能力がないというわけではない。ほかに問題があるというわけでもない。しかし今、まじめに
考えようとする態度そのものがない、そんな子どもがふえている。

 「享楽的」と言うこともできるが、それとも少し違う。ものごとを、すべて茶化してしまう。ギャグ
化してしまう。「これは大切な話だよ」「これはまじめな話だよ」と前置きしても、そういう話は、耳
に入らない。

私「今、日本と北朝鮮は、たいへん危険な関係にあるんだよ」
子「三角関係だ、三角関係だ!」
私「何、それ?」
子「先生、知らないの? 男一人と女二人の関係。危険な関係!」
私「いや、そんな話ではない。戦争になるかもしれないという話だよ」
子「ギャー、戦争だ。やっちまえ、やっちまえ、あんな北朝鮮!」
私「やっちまえ、って、どういうこと?」
子「原爆か水爆、使えばいい。アメリカに貸してもらえばいい」と。

 これは小学5年生たちと、実際した会話である。

 すべてがテレビの影響とは言えないが、テレビの影響ではないとは、もっと言えない。今、テ
レビを、毎日4〜5時間見ている子どもは、いくらでもいる。高校生ともなると、1日中、テレビを
見ている子どももいる。

よく平均値が調査されるが、ああした平均値には、ほとんど意味がない。たとえば毎日4時間
テレビを見ている子どもと、毎日まったくテレビを見ない子どもの平均値は、2時間となる。だか
ら「平均的な子どもは、2時間、テレビを見ている」などというのは、ナンセンス。毎日、4時間、
テレビを見ている子どもがいることが問題なのである。平均値にだまされてはいけない。

 このタイプの子どもは、情報の吸収力と加工力は、ふつうの子ども以上に、ある。しかしその
一方、自分で、静かに考えるという力が、ほとんど、ない。よく観察すると、その部分が、脳ミソ
の中から、欠落してしまっているかのようでもある。「まじめさ」が、まったく、ない。まじめに考え
ようとする姿勢そのものが、ない。

 もっとも小学校の高学年や、中学生になって、こうした症状が見られたら、「手遅れ」。少なく
とも、「教育的な指導」で、どうこうなる問題ではない。

このタイプの子どもは、自分自身が何らかの形で、どん底に落とされて、その中で、つまり切羽
(せっぱ)つまった状態の中で、自分で、その「まじめに考える道」をさがすしかない。結論を先
に言えば、そういうことになるが、問題は、ではどうすれば、そういう子どもにしないですむかと
いうこと。K君(小5男児)を例にとって、考えてみよう。

 K君の父親は、惣菜(そうざい)屋を経営している。父親も、母親も、そのため、朝早くから加
工場に行き、夜遅くまで、仕事をしている。K君はそのため、家では、1日中、テレビを見てい
る。夜遅くまで、毎日のように、低劣なバラエティ番組を見ている。

 が、テレビだけではない。父親は、どこかヤクザ的な人で、けんか早く、短気で、ものの考え
方が短絡的。そのためK君に対しては、威圧的で、かつ暴力的である。K君は、「ぼくは子ども
のときから、いつもオヤジに殴られてばかりいた」と言っている。

 K君の環境を、いまさら分析するまでもない。K君は、そういう環境の中で、今のK君になっ
た。つまり子どもをK君のようにしないためには、その反対のことをすればよいということにな
る。もっと言えば、「自ら考える子ども」にする。これについては、すでにたびたび書いてきたの
で、ここでは省略する。

 全体の風潮として、程度の差もあるが、今、このタイプの子どもが、ふえている。ふだんはそ
うでなくても、だれかがギャグを口にすると、ギャーギャーと、それに乗じてしまう。そういう子ど
もも含めると、約半数の子どもが、そうではないかと言える。

とても残念なことだが、こうした子どもたちが、今、日本の子どもたちの主流になりつつある。そ
して新しいタイプの日本人像をつくりつつある。もっともこうした風潮は、子どもたちの世界だけ
ではない。おとなの世界でも、ギャグばかりを口にしているような低俗タレントはいくらでもい
る。中には、あちこちから「文化人」(?)として表彰されているタレントもいる。日本人全体が、
ますます「白痴化」(大宅壮一)しつつあるとみてよい。とても残念なことだが……。
(02−12−21)

●まじめに生きている人が、もっと正当に評価される、そんな日本にしよう。
●あなたのまわりにも、まじめに生きている人はいくらでもいる。そういう人を正当に評価しよ
う。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●裸の王様(02年に書いた原稿です)

 アンデルセンの童話に、「裸の王様」(原題は、「王様の新しい衣服」)という物語がある。王
様や、その側近のウソやインチキを、純真な子どもたちが見抜くという物語である。しかし現実
にも、そういう例は、いくらでもある。

 先日も、私が、「今度、埼玉県のT市で講演することになったよ」と言うと、「へエ〜、どうしてあ
んたなんかが?」と、思わず口にした中学生(女子)がいた。その中学生は、まさに裸の王様を
見抜いた、純真な心ということになる。

 反対に、何かのことで思い悩んでいると、子どものほうからその答を教えてくれることがある。
H市は、市の中心部に、400億円とか500億円とかをかけて、商業開発ビルを建設した。映
画館やおもちゃ屋のほか、若い女性向けの洋品店などが並んだ。

当初は、結構なにぎわいをみせたが、それは数か月の間だけ。2フロアをぶちぬいて、子ども
向けの児童館も作ったが、まだ1年そこそこというのに、今では閑古鳥が鳴いている。内装に
かけた費用が5億円というから、それはそれは豪華な児童館である。どこもピカピカの大理石
でおおわれている。もちろん一年中、冷暖房。まばゆいばかりのライトに包まれている。

で、その児童館について、ふと、私は、こう聞いてみた。「みんなは、あそこをどう思う?」と。す
ると子どもたち(小学生)は、「行かなア〜イ」「つまらなア〜イ」「一度、行っただけエ〜」と。

 私の教室は、18坪しかない。たった18坪だが、部屋代はもちろんのこと、光熱費の使い方
にまで気をつかっている。机やイスは、厚手のベニヤ板を買ってきて、自分で作った。アルバイ
トの学生を使いたくても、予算に余裕がなく、それもできない。が、それでも私の生活費を稼ぐ
だけで精一杯。が、私にとっては、それが現実。

 しかし同じH市に住みながら、行政にいちいちたてつくことは、損になることはあっても、得に
なることは何もない。それに文句を言うくらいなら、だれにだってできる。しかもすでに完成して
いる。いまさら文句を言っても始まらない。それで思い悩んでいた。が、子どもたちは、あっさり
と、「つまらナ〜イ!」と。それで私も、ホッとした。「そうだよな、つまらないよね。そうだ、そう
だ」と。

 仮に百歩譲っても、日本がかかえる借金は、もうすぐ1000兆円になる。日本人1人あたり、
1億円の借金と言ったほうが、わかりやすい。あなたの家族が、4人家族なら、4億円の借金と
いうことになる。そんなお金、返せるわけがない。ないのに、まだ日本は借金に借金を重ねて、
道路や建物ばかり作っている。いったい、この国はどうなるのか? 政治家たちは、この国を、
どうしようとしているのか?

 もう、私にはわからない。「なるようにしか、ならないだろうな」という程度しか、わからない。
が、かわいそうなのは、つぎの世代の子どもたちである。知らず知らずのうちに、巨額の借金
を背負わされている。

いつかあの児童館には、5億円もかかったことを知らされたとき、子どもたちは何と思うだろう
か。果たして「ありがとう」と言うだろうか。それとも「こんなバカなことをしたからだ」と、怒るだろ
うか。今の今でも、子どもたちが「あそこは楽しい」と言ってくれれば、私も救われるのだが…
…。まあ、本音を言えば、結局は、役人の、快適な天下り先が、また一つ、ふえただけ? ああ
あ。

 では、どうするか。私たちは、何を、どうすればよいのか?

 私はすでに、崩壊後の日本を考えている。遅かれ早かれ、日本の経済は、破綻する。その
可能性はきわめて高い。その破綻を回避するためには、金利をかぎりなくゼロにして、国民の
もつ財産を、銀行救済にあてるしかない。が、仮に破綻したとすると、日本はかつて経験したこ
とがないような大混乱を通り抜けたあと、今度は、再生の道をさぐることになる。

が、皮肉なことに、その時期は早ければ早いほど、よい。今のように行き当たりばったりの、つ
まりはその場しのぎの延命策ばかりを繰りかえしていれば、被害はますます大きくなるだけ。と
なると、答は一つしかない。日本人も、ここらで一度、腹を決めて、自らを崩壊させるしかない。
そしてそのあと、日本は暗くて長いトンネルに入ることになるが、それはもうしかたのないこと。
私たち自身が、そういう国をつくってしまった!

 ただ願わくは、今度日本が再生するにしても、そのときは、今のような官僚政治とは決別しな
ければならない。日本は真の民主主義国家をめざさねばならない。新しい日本は、私たち自身
が設計し、私たち自身が建設する。そのためにも、まず私たち自身が賢くなり、自分で考える。
自由とは何か、平等とは何か、正義とは何か、と。それを自分たちで考えて、実行する。またそ
ういう国でなければならない。そのための準備を、今から、みんなで始めるしかない。

 少し熱い話になってしまったが、子どもたちは、意外と正義を見抜いている。しかしその目
は、裸の王様を見抜いた目。ときどきは、子どもたちの言うことにも、耳を傾けてみたらよい。
すなおな気持ちで……。
(02−12−21)

●子どもには、もっと税金の話、税金の使われ方の話をしよう。
●おかしいことについては、「おかしい」と、みなが、もっと声をあげよう。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 07++++++++++はやし浩司

【一億総ギャグ化】

●ハンガーのない県

 昨夜、バラエティー番組を見た。クイズ番組だった。

 「日本で、ハンガーを使わない県がある。どこか?」と。

 何人かの出演者。それに司会者。たがいに「こうだ」「ああだ」と、意見をかわしていた。が、
そのうち、だれもわからないとわかると、司会者がヒント。「ハンガーは、何をするためのもので
すか?」と。

 私は、その番組を見ながら、ふと、「いったい、日本で、今、何%の人が、こういう番組を見て
いるのだろう」と思った。平均視聴率からすると、5〜10%ということになる。

 間の7・5%をとると、約1000万人の人が見ていることになる。(視聴率イコール、視聴者の
数ではない。この計算は、正しくないかもしれないが、おおむね、そんなもの。)

 もともと娯楽番組だから、深く考える必要はない。出演者も、見るからに、その程度の人た
ち。

 しかしその瞬間、日本中で、約1000万人の人が、この問題を考える。1000万人だぞ!

 が、本当のところ、考えているのではない。情報を、頭の中で加工しているだけ。広く誤解さ
れているが、思考と情報は、まったく別。物知りだから、頭がよいということにはならない。情報
の加工は、あくまでも情報の加工。思考とは、区別する。

 このクイズの正解は、「福岡県」だそうだ。「服をかけない」=「ふくおかけん」=「福岡県」と。

 こうした駄ジャレは、子どもの世界では、日常の会話のようにもなっている。たがいに言いあ
っては、キャッ、キャッと笑いあっている。

 「ブツゾー(仏像)」「ドウゾー(銅像)」という定番ものから、「左右とは言うけど、右左(ユウ・
サ)とは言わない」「ユーサー(言うさア)」というのまで、ズラリとある。

 子どもの世界では、こうしたジャレは、いわば、遊び。娯楽は、娯楽。あくまでも一部。

 そこで改めて、『一億、総ハxチ化』(大宅壮一)について考えてみる。

 一億の人たちが、ノーブレインになる前提として、(1)単一化と、(2)バランスの欠如をあげ
る。

 無数の駄ジャレがあって、無数のバリエーションがあればよい。それが一つの駄ジャレに、約
1000万人の人が、共鳴する。これを単一化という。

 つぎに娯楽は、一方に、理知的な活動があってはじめて、娯楽となる。一方的に娯楽ばかり
追求していたのでは、バランスがとれなくなる。子どもにたとえて言うなら、一方で、勉強をし、
その合間に、駄ジャレを楽しむというのであれば、問題はない。大切なのは、バランスである。

 そのバランスがなくなったとき、人は、ノーブレインの状態になる。

 私の印象としては、日本人は、ますますノーブレインになってきていると思う。ときどき私自身
はどうであったか。私の若いころはどうであったかと考えるが、今の若い人たちよりは、もう少
し、私たちは、ものを考えたように思う。根拠はないが、そう思う。

 「服をかけん」=「福岡県」か? なるほどと思うと同時に、こんなくだらないことで、日本中
が、騒いでいる? 私はそちらのほうこそ、問題ではないかと思った。それがわかったところ
で、考える人にはならない。またわかったからといって、頭のよい人ということにはならない。

 いいのかな……? それともテレビ局は、日本人を、わざとノーブレインするために、こういう
番組を流しているのだろうか? ……とまあ、番組を見ながら、いろいろ、そこまで考えてしまっ
た。

【追記】

思考……自分で考えること。思考には、独特の苦痛がともなう。それはたとえて言うなら、寒い
夜、自分の体にムチを打って、ジョギングに出かけるような苦痛である。そのため、ほとんど人
は、その苦痛を避けようとする。

情報……いわゆる知識をいう。経験として知っていることも、それに含まれる。いくらその人の
情報量が多いからといって、思考力のある人ということにはならない。この情報は、思考と、は
っきりと区別する。

情報の加工……知っている情報を、足したり引いたり、足して2で割ったりするのを、情報の加
工という。今まで、この情報の加工は、思考力の一つと考えられてきた。しかし情報の加工は、
思考力とは関係ない。学校で習う、数学の証明問題を考えてみれば、それがわかる。パスル
でもよい。それがいくらすばやく解けたところで、頭のよい人ということにはならない。それにつ
いては、また別のところで考えてみたい。

 
●情報の加工

 中学2年生で、三角形の合同を学ぶ。「2辺とその間の角が、それぞれ等しいので、△ABC
≡△DEF」という、あれである。

 こうした問題には、得意、不得意がある。得意な子どもは、スイスイと解く。そうでない子ども
は、いくら教えても、コツを飲みこめない。

 しかしこうした問題には、そのコツがある。たくさん量をこなせば、よりむずかしい問題が解け
るようになる。が、それが解けたところで、思考力のある子どもということには、ならない。

 私は、若いころ、一人の高校生(男子)を教えていて、それを知った。ある予備校でアルバイ
トをしていたとき、その予備校の校長に、頼まれて、家庭教師をした。その高校生だった。

 その高校生は、こう言った。「この世の中のことは、すべて数学で証明できる」と。そう、彼は
「人間関係も、すべて証明できる」と言った。「その公式が見つからないだけだ」とも。

 実にヘンチクリンな高校生だった。常識に欠けるというか、常識そのものを感じなかった。も
ちろん恋などとは、無縁。音楽も聞かなかった。ただひたすら、勉強、また勉強。

 だから日本でいう(勉強)は、実によくできた。当然のことながら、数学だけは、とくに、よくでき
た。三角関数の微分問題でも、子どもが、掛け算の九九を唱えるように簡単に解いていた。

 しかし私たちは、そういう子どもを、思考力のある子どもとは、言わない。数学という情報を、
組み合わせ、分解し、あるいは、集合させているだけ。あるいはそのつど、必要な情報を、臨
機応変に取り出しているだけ。

 わかりやすく言えば、ここで「掛け算の九九」と書いたが、いくら掛け算の九九をソラでスラス
ラと言っても、思考力のある子どもとは言わない。掛け算の問題がスラスラと解けたからといっ
て、思考力のある子どもということにもならない。

 数学のレベルこそ、ちがうが、その高校生も、そうだった。

 だから私は、あえて言う。情報の加工と、思考力は、区別して考える。

 思考力というのは、心の常識に静かに耳を傾け、自分がすべきことと、してはいけないこと
を、冷静に考え、判断する能力をいう。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

●超能力捜査官(?)

 おとといも、そして昨夜も、民放のテレビ局が、超能力捜査官なる人物を登場させて、わけの
わからない番組を流していた。

 で、最後までしっかりと見たが、結局は、みな、ハズレ! おとといの番組は、超能力捜査官
なる人物を使って、生き別れになった母親を探し出すというもの。昨日の番組は、アメリカで失
踪した、女子大学生の行方を探し出すというもの。

 ものごとは、常識で考えろ! そんなことで、生き別れになった人や、失踪した人の居場所な
ど、わかるはずがない。多少の科学性があるとするなら、ダウジングだが、しかし、私は、信じ
ない。ダウジングというのは、針金のような棒をもって、地下に埋まっているものをさがしだすと
いう、あれである。

 その(モノ)の上に、何かの棒(これをダウジングロッドという)をもってやってくると、その棒が
地下にあるものと反応して、動いたりするという。その動きを見ながら、地下にあるものをさが
しだす。

磁場や磁力の微妙な変化を感じ取ってそうなるらしいが、しかし水脈や鉱脈のような大きなも
のについては、その可能性もないとは言えないが、地下に埋まった筒や箱程度のものに、それ
ほどまでに大きな力があるとは、思われない。つまり手にもった棒を動かすほどの力があると
は、思われない。

 番組の中では、学校の校庭に埋められたタイムカプセルをさがし出すというようなことをして
いたが、逆に考えてみれば、トリックは、簡単にわかるはず。

 あなたがタイムカプセルを埋めるとしたら、どんな場所に埋めるだろうか。まさか校庭に中央
ということはあるまい。たいていは、校庭のすみで、木とか、鉄棒とか、何かの目印になるもの
の横に埋める。そうした常識を働かせば、タイムカプセルがどこに埋められているかは、おお
よその見当がつくはず。

 ああいう番組を、何の疑いももたず、全国に垂れ流す、その愚かさを知れ。当たりもしないの
に、そのつど、ギャーギャーと騒いでみせる、その愚かさを知れ。さらにこうした番組が、それを
見る子どもたちにどのような影響を与えるか、その恐ろしさを知れ。

 超能力捜査官を名乗る男たちは、その過程で、道路の様子や、風景について、あれこれと言
い当てて見せたりする。しかしそんなことは、あらかじめ簡単な下調べをすれば、わかること。

男「近くに湖があります」
出演者たち「ギャー、本当! 当たっている!」
男「学校があるはずです」
出演者たち「ギャー、本当! 当たっている!」と。

 しかし肝心の遺骨は出てこなかった。が、それ以上に許せないのは、遺族ともまだ言えない
家族を前にして、「殺されています」「埋められています」と、口に出して、それを言うこと。他人
の不幸を、こういう形で、娯楽番組にしてしまう、その冷酷さを知れ。残酷さを知れ!

 本当に、日本人はバカになっていく。昔、「一億、総xxx」と言った、著名な評論家がいたが、
日本人は、ますますそのxxxになっていく。「xxx」というのは、ノーブレインの状態をいう。脳死
の状態と言ってもよい。

 こういうことを書くと、それを信じている人は、猛烈に怒る。その気持ちは、わかる。しかしそ
れこそカルト信仰ではないのか。あるいはカルト信仰の前段階と言ってもよい。そういうものを
信ずることによって、知らず知らずのうちに、その人は、カルト信仰の下地を、自ら、作ってい
ることになる。

(付記)

 そうであるとは断言できないが、テレビ局は、たまたま当たったばあいだけを、編集して放送
しているのではないかという疑いもある。もしそうなら、それこそ、まさに詐欺と断言してよい。
国民の良識を愚弄(ぐろう)する、詐欺である。こうした番組を見るときは、そういう目で見ること
も忘れてはならない。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

●アメリカ追従外交(?)

 少し前、小泉政権を総括して、政治評論家たちは、みな、異口同音にこう言う。「アメリカ追従
外交だった」と。

 しかし浜松市という、この地方都市に住んでいると、少しちがった印象をもつ。アメリカ、アメリ
カというが、どこに、アメリカがあるのか?

 むしろ、この浜松市に住んでいると、アメリカよりも、「東京」という都市がもつ傲慢さという
か、独善性のほうばかりが、目につく。何でもかんでも、「東京」「東京」、また「東京」。

 おそらく東京に住んでいる人は、それに気づいていないだろう。もちろん、東京に住んでいる
人に、責任があるわけではない。しかし地方から見ると、そうではない。「東京」は、どこか、遊
離している。私たちが、この浜松で感じている日本とは、どこかがちがう。

 実際、「東京」から流れてくる文化には、「?」なものが多い。この浜松という地方都市とくらべ
ても、どこか、低劣、低俗、低レベル! こう書くと、東京に住んでいる人は怒るかもしれない。
が、私は、何も、東京に住んでいる人が、そうであると言っているのではない。

 東京から流れてくる文化が、そうであると言っている。言いかえると、東京に住んで、東京で
文化をリードしている人たちは、もう少し、その自覚をもってほしいということ。つまり「私たちが
日本をリードしているのだ」という自覚である。東京が日本の中心だというのなら、それはそれ
で構わない。だとするなら、それだけの責任を心のどこかで、感じてほしいということ。

 その「東京」が、率先して、どこかアホなことばかりしている。どこかバカなことばかりをしてい
る。よい例が、テレビのギャーギャー番組。見るからに軽薄そうな男女が、意味もないギャグを
飛ばし、ギャーギャーと騒いでいる。

 あとは、右へならへ! 全国の道府県が、それにならう。

 日本は、奈良時代の昔から、中央集権国家。それはわかる。しかしそれは政治の話。文化
まで、中央集権国家になっているというのは、実に、おかしい。中央には中央の文化がある。
それは否定しない。しかし地方には地方の文化がある。優劣は、ない!

 構造主義をうちたてた、あのレヴィ・ストロース(1908〜、サルトルと激論したことで有名)
も、こう述べている。

 都市で近代的な生活をする人も、ジャングルの中で野性的な生活する人も、どちらにも優劣
はない、と。つまり「もともと別の価値観をもった文明である」と。

ジャングルの中で生活している人は、パソコンや近代機器についての知識はないかもしれな
い。が、自然については豊富な知識をもっている。そのちがいに、優劣はないというのだ。

 が、この日本では、何かにつけて、都会文明ばかりが、優先される。そしてそれが容赦なく、
この浜松市という地方都市にまで、流れこんでくる。よい例が、講演。

 このあたりでは、講演の講師でも、「東京から来た」というだけで、相場は100〜200万円。
幼児教室でも、「東京の幼児教室と同じ教材を使っています」というだけで、月謝は、2〜4万
円にハネあがる。(週2回の指導で、5万円もとっているところがあるぞ!)

 さらに今では、小学生たちと何かのパーティを開いても、どれもバラエティ番組風になってしま
う。結婚式の披露宴もそうだ。みな、意味もなく、ギャーギャーと騒ぐだけ。ギャクにつづく、ギャ
グ、またギャグ。

 楽しむということは、そういうことだと、おとなはもとより、子どもたちですら、思いこんでいると
いったふう。そして今に見る、この日本になった。

 全国の、道府県のみなさん、(東京)に追従するのを、もうやめませんか?、……と提案した
ところで、この話は、おしまい。どうせ、どうにもならない。私が書いたくらいでは、この日本は、
ビクともしない。

 「アメリカ追従外交」と、小泉政権を批判する、「東京」人たち。しかしその「東京」人たちは、
私たち地方人を追従させて、平気な顔をしている。このおかしさを、いったい、どう理解すれば
よいのか。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2909)

●10月26日(『97年の愚』を繰り返すな!)

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小寒い朝。
起きると同時に、朝風呂。
「ぼくら老人臭がするかもね」と。
が、たがいに臭(くさ)いときには、それはわからない。
やはり最低でも、2日に1度は、風呂に入って、
体をゴシゴシ、洗う。
3日も入らないでいると、自分で、その臭(にお)いが、
わかるときがある。

それで今朝、起きると同時に風呂に入った。

+++++++++++++++++

【日韓経済戦争】(10月26日)

韓国のイ大統領が、今月の初め、「日中韓による通貨安定協議」なるものを提唱した。
わかりやすく言えば、「韓国を助けてくれ!」と。
しかし日本も中国も、それを無視。
韓国の新聞は、「恥をかいた」と報道している。
それもそのはず。
韓国など、もとからお呼びではない!

……という事実に、韓国は気づいていなかった。
同じ自由主義貿易圏の中に身を置きながら、反米、反日を唱えれば、どうなるか。
そんなことは自明の理ではないか。

現在、1ドルは1424ウォン。
ドル安で、世界の通貨が相対的に上昇している中、韓国ウォンだけは、価値が下降。
現在、世界中からウォン売りの猛攻勢を受けている。
当然のことながら、株価も大暴落。

何も韓国のことを心配して、こう書いているのではない。
私たち日本人は、あの『97年の愚』を繰り返してはいけないと書いている。

1997年の当時、韓国が通貨危機に陥ったとき、日本政府(とくに時のK外務大臣)は、
頼まれもしないうちから、しかもアメリカの反対を押し切って、韓国救済に走った。
その額、500億ドル!

が、そのあと、韓国はどうなったか?
日本に対して、どうしたか?
株価(KOSPI)が、2000ポイントに近づいてくると、「世界第11位の
経済大国」になったと大はしゃぎ。
「自分たちも、サミット主要国会議のメンバーになる資格がある」とまで言い出した。

もちろんその間も、反日、反日の大合唱!
日本のA新聞社が竹島に向けてセスナ機を飛ばしただけで、韓国は戦闘機でそれを迎えた。
さらに最近にいたっては、対馬(つしま)まで、韓国領土だと言い出している。
日本が国連の安保理事国入りをめざしたときは、世界各国に特使まで派遣して、それに
反対した。

当時も、そして今の今も、韓国は、最悪の反日国家であることにはちがいない。
もちろん韓国がそうなった責任の一端は日本にもあるし、日韓の間で、友好に努力
している人も少なくない。
しかしそうした(甘さ)は、こと韓国に対しては、通用しない。
それが『97年の愚』ということになる。

韓国経済はすでに破産状態。
無理にがんばればがんばるほど、さらに傷口は大きくなる。
日本の知ったことではないが、これだけは、確か。

日本よ、日本人よ、それにAS総理大臣よ、あの『97年の愚』だけは、ぜったいに
繰りかえしてはいけない!


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

●女の性(さが)

++++++++++++++++++

久しぶりに実の娘(60歳)が、実家の
母親(83歳)を訪問した。
すると、その母親が
娘に、こう言ったそうだ。

「ああ、イライラする。私に、ひとり男を
あてがってよ!」と。
つまり「セックスをしたいから、男を連れて
来てよ!」と。

その母親は、この10年近く、ひとり住まい。
娘は近くに住んでいて、週に1、2度、実家へ
通っている。
母親の世話をしている。

+++++++++++++++++++

男の性については、私自身が男だから、ある程度、理解もできるし、
どうなるかについても、予想ができる。
しかし当然のことながら、女性については、わからない。
予想もできない。

しかし基本的には、男も女も同じ。
とくに更年期を過ぎてからの男と女は、同じ。
だから80歳を過ぎた女性が、「男が欲しい」と言ったとしても、
おかしくない。
男だって、50歳になっても、60歳になっても、性欲はある。
Sックスに興味をなくすわけではない。

しかしいくらなんでも、実の娘にそんなことを言う母親がいるだろうか。
実の娘に向かって、「男とセックスしたいから、男を連れてきてほしい」と。
私はそれを聞いて、自分の耳を疑った。
「本当ですか?」と、数度繰り返した。

が、そう言われてみて、思い当たるフシがいくつかある。

これはある特別擁護老人ホームで働く職員に聞いた話だが、そのホームでは、
老人たちの第一の関心ごとは、男女関係という。
1人の男性(もしくは女性)を取りあって、女性どうし(男性どうし)が、
血みどろの戦いを繰り返すことも珍しくないそうだ。
この話をワイフに伝えると、「どこでもそうみたいよ」と。

フ〜〜〜ンと感心しているとき、あのフロイトが使った「性的エネルギー」
という言葉を思い出した。
多分フロイトも、どこかでそういう老人たちの姿を見たのかもしれない。
そこで彼は、こう言いだした。
「人間を動かす原動力は、性的エネルギーである」と。

言いかえると、男も女も、死ぬまで、性(さが)から解放されることはないという
ことか?

しかし現実問題として、女性のばあいは知らないが、男性のばあいは、機能の問題
がある。
使い物になるかどうかという問題である。
あれがフニャフニャしていたのでは、使い物にならない。
(これに対して、女性のほうは、袋のようになっているわけだから、機能はあまり
関係ないということになるのか?)

ついでながら、2006年度版、「高齢社会白書」を見てみよう。

++++++++++++++++++

●高齢化率の推移=26.0%(2015年)、35.7%(2050年)
●平均寿命=78.32年(男性)、85.23年(女性)
●平均余命(65歳時)=17.96年(男性)、22.96年(女性)
●65歳以上の世帯数=1,685万世帯(2002年)全世帯の36.6%
●65歳以上の単独世帯=341万世帯(20.2%)
●65歳以上の「夫婦のみの世帯」=482万世帯(28.6%)
●65歳以上の「親と未婚の子のみの世帯」=263万世帯(15.6%)
●65歳以上の「三世代世帯」=400万世帯(23.7%)
●65歳以上の労働力人口=489万人(全労働力人口の7.3%)
●65歳以上世帯の貯蓄現在高=2,420万円(2002年)
●65〜69歳男性の就業状況=51.6%
●65〜69歳女性の就業状況=28.7%
(「高齢社会白書」2006年度版より)

これらの数字を見てまず感ずることは、「ふつうの生活を送ることのむずかしさ」
である。
もちろん生活には、標準もなければ、基準もない。
(ふつう)についても、定義があるわけではない。
私は私。
あなたはあなた。
人、それぞれ。
(ふつう)など、気にすることはない。

が、それでも、心のどこかで(ふつう)を考えてしまう。
ふつうの家族として、ふつうに生活する……。
その(ふつう)であることは、本当にむずかしい。
そんな印象をもった。

ただ勇気づけられた点は、65〜70歳の男性で、働いている人が、50%もいるという
こと。
もちろん中には、「働かざるをえなくて働いている」という人もいるだろう。
それに「働く」といっても、中身もある。
毎日働いている人もいるし、週1〜2回程度働いている人もいる。
しかし「元気で働けることこそ財産」と考えるなら、家の中でブラブラしている人
(失礼!)よりは、働けるだけでも、御の字。
田丸謙二先生の言葉を借りるなら、「感謝、感謝、感謝」。

私自身も、最近、大きな目標を立てた。
「満70歳まで、元気で働く」という目標である。
もちろん、フルタイムで働く。
が、このままでは先は、あぶない(?)。

義兄(ワイフの姉の夫)は昨夜、私にこう言った。
「人間というのは、65歳にもなると、やる気が失せてくる。
70歳になると、体がおいつかなくなってくる」と。

私も、薄々だが、それがわかる。
少しずつだが、私自身が、そういう状態になりつつあるのを知る。
そこでそのための体力づくりというか、健康づくりも、始めた。
運動量も、1日2単位。
(1単位=40分のサイクリング。)
それだけは最低でも、確実に実行する。

11月は講演がつづく。
法事もある。
何かと忙しい。
しかし12月からは、月2回の(歩こう会)を兼ねた旅行に参加する。
肉体の健康だけではない。
精神と脳みその健康も大切。

そこで週2回は、劇場で映画を見る。
さらに12月からは、電子マガジンの発行に、さらに本腰を入れる、などなど。

仕事ができる、できないは、その結果として決まる。
仕事をする、しないは、さらにその結果として決まる。

+++++++++++++++++++

話を戻す。

……となると、いくつになっても、性的エネルギーを保つということは、
重要なことかもしれない。
「80歳になったから、男に興味をもつのはおかしい」とか、「Sックスの
話をするのは、まちがっている」と決めつけるほうがおかしい(?)。

その女性(60歳)は、「私の母は、おかしい」と言っていたが、動物としての
人間は、もともとそういうものかもしれない。
つまりその母親だけがおかしいと考えるのではなく、私やあなたもそうである
という前提で考えたほうが、よいということ。
「そんなことを考えてはだめ」と決めつけるのではなく、80歳の女性でも
Sックスを楽しめるような環境というか、場所を用意してやることこそ、
大切ということになる。

この私だって、もしワイフに先立たれてしまったら、そのあとは、どうすれば
よいのか。
そのあとは、聖人のような生活をしなければならないのか。
またそうでなければ、ならないのか。
自分だけがほかの老人たちとちがうと考えるほうが、おかしい。
私もいつか、老人ホームへ入れば、そこで女性を取りあって、血みどろの戦いを
繰り広げるようになるかもしれない。
そういうことはしないという自信は、まったくない。

その女性とその女性の話を聞いて、いろいろと考えさせられた。


(追記)
昨日、田丸先生からメールが届いた。
先生は、直葬を望んでおられるようだ。
「自分が死んだら、そのまま火葬してもらい、葬儀はしてほしくない」と。
「先生が亡くなったら、全国ニュースになりますよ」と返事を書いたが、
都会では、その直葬にする人が、どんどんとふえている。
30%を超えた(中日新聞)とも言われている。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2910)

【息子のBLOGより】

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息子のBLOG、「ハナブサ烏日記」を特集
させてもらう。

「烏(からす)」というのは、パイロットの
制服が黒く、カラスみたいに見えるからだ
そうだ。

+++++++++++++++++++++

さらに詳しく読んでくださる人は、
http://8723crowdiary.blogspot.com/
本人にも励みになると思います。
どうかよろしくお願いします。

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●7月23日

今日は2回目のクロスカントリー・フライト。今回はカリフォルニアの北の端、クレセント空港へ
行ってきた。カリフォルニアでは当たり前のマリーン・レイヤー(海霧)に、エンルート上は終始
覆われていたものの、空港周辺はかろうじて晴れ間が見られ、海に面した美しい空港や街を
見ることができた。海からのアプローチは何だか久し振りで、懐かしさを覚えた。宮崎空港や仙
台空港も、海からのアプローチが多かったのを思い出した。クレセント空港の滑走路のすぐそ
ばの海辺に岩場が一角を覗かせていて、着陸するときちょっと怖かったが、日本庭園的な美し
さが感じられる、綺麗な空港だった。何でも、季節になればアシカの大群がここを訪れるとか。

この空港はノン・コントロール空港(空港に誰もいない)だったため、着陸したあと遠くにいる管
制官とコンタクトして、着陸したよということを伝えなければいけない(これをしないとどこかで墜
落したかと疑われ、Seach & Resqueとい捜索救難活動が始まってしまう)。今日の機体のコー
ルサインはBaron875JG(Juliet Golf)だったのだけれども、この「Juliet」がどうしても管制官に通
じなかった。「J! J for JAPAN!!!」とまで言って何とか伝わるまでに、最終的には5往復のやりと
りを要した。発音、もっと鍛えなくちゃ・・・。
   


●8月4日

こちらに来て初めてのチェック。パイロットを志してから初めて、不合格をいただいた。ショック
だった。

 不合格となった一番大きな理由は、逆エンジンのカット・オフ。双発機ではおなじみの、ワン・
エンジン・フェイル時のプロシージャーで、故障した側のエンジンの燃料系統を遮断しなくては
いけないところを、逆の生きている側のエンジンを切ってしまった。これ、すなわち両エンジン・
フェイル、死を意味する。隣のKチェッカーに「はい、墜落〜!!!」と叫ばれた。「Right」と
「Left」を間違えただけの、単純ミス。でも、最もやってはいけないミス。いかなる言い訳も通用
しないミス。俗に言う「一発アイテム」の代名詞的なミスだ。「一発アイテム」というのは、それを
やってしまうと、問答無用でチェック・フェイルが決定する重大なミスのこと。

 今回の試験は、通常のチェックとは違い、今まで20回に渡る訓練の進捗状況を機長チェッ
カーに見ていただき、今後の訓練について行けるかどうかを見極めるものであり、落ちても2
回目があるわけではなく、担当教官のカウンセリングを受け、指摘を受けたところを意識しな
がら追加訓練を1回だけやって終わりというもの。しかし、初めての不合格宣告は、僕にとって
非常に重く、つらいものであった。

 試験中、ずっと足が地に着いていない感じがしていたが、それは試験に限ったことではなく、
今までの20回の訓練中もずっとそうだった。自信のなさは、試験でピークに達し、目の前のこ
とだけで精いっぱいになっていた。航大で培ってきたものは、いったい何だったのだろう。あと1
回のフライトでそれが見つかるとは思えないが、いい機会だと思って、もう一度自分を見つめ
直すため飛んでこようと思う。

 今まで何となくで来てしまった僕のフライト人生。これで本当にいいのかな?という疑問が、や
っぱりダメだよね、という確信に変わった。変な話、その確信は、自信につながりそうだ。試験
後、いろんな教官方が慰めの言葉をくださった。それがすごく暖かくて、優しくて、嬉しかった。
今まで知れなかったものを知ることができたのは、大きな収穫だった。

 弱音は吐きたくない。だから頑張らなくては。もっともっと考えて、悩んで、苦しんで、成長しよ
う。今週中に、機種が決まりそうだ。


●8月6日

 チェック・フェイルを受け、月曜は担当カウンセラーさんとカウンセリング・フライト。もちろん、
このフライトがまたダメダメだといよいよ次のステップに進めなくなるのだが、ここ最近では一番
リラックスして、わくわくしながら臨むことができたフライトであった。

 フライトの内容はチェックで指摘された部分を加味しつつも、基本的には自分で決めてよさそ
うだったので、IFRは一切取入れず、帯広や宮崎でやっていたようなVFRオンリーの、ただひた
すら離着陸を繰り返すだけのプランを立てた。外だけを見て、景色の中から行先を探す。方位
も、高度も関係ない。あの自由なフライトの感覚を取り戻したかった。
    
 サクラメント市には3つの空港があるのだけれども、3つともすべて回ってきた。総着陸回数
14回、総飛行時間は2時間40分。思う存分飛ばさせてもらって、いろんなことを思い出した。
なんでこんな簡単なことが試験ではできなかったんだろうと後悔したけれど、これでもう二度と
忘れないと思う。
   
 不安は残るけど、次のステップはもう始まっている。進まなくちゃ。機種発表は、明日の予
定。


●8月8日

 研修期間が終わって、最初の配属先が決まるように、僕らも訓練が終わってから最初に乗
務する機種は、会社から辞令という形で決定される。僕らの会社にはたくさんの種類の飛行機
があるけれど、それぞれ特徴があって、飛んでいるところも違う。国際線ばかり飛ぶ飛行機も
あれば、国内線ばかりの飛行機もある。人ぞれぞれ、好みはあるが、僕にはこれといって希望
はなく、飛行機なら何でもいいやと思っていた。 
   
 ナパの訓練も半分終わって、通例このタイミングでその辞令が言い渡されることになってい
た。今後、10年近くお世話になるだろう、僕らにとって最初のライン機の機種が、今日、発表さ
れた。
   
 ボーイング777。
   
 国際線をメインに飛ぶ、最新鋭機種だ。オブザーブのときに見た飛行機の中で一番乗りたい
と思っていた飛行機。光栄だ。
   
 今夜は同期とトリプル祭り。勉強にも一層やる気が出る。頑張ろう!


●8月19日

 新しい過程が始まって、早2週間。今週、ようやくすべての座学を終え、僕たちは新しい飛行
機で、新しい空を目指す。初フライトは水曜日。
    
 G1000というシステムを積んだ、G58という飛行機のコクピットは、今までの丸型計器と見
た目も中身もまったく異なり、丸型の中の針を2年間追い続けた僕たちにとって、慣れ親しむに
はもう少し時間がかかりそうだ。言うなれば、アナログ時計の好きな人が、急にデジタル時計を
着け始めるようなもの。でも、デジタルの精密さ、便利さは、知れば知るほどはまっていく。
  
 一番すごいのは、やはりGPS機能とオートパイロット機能だろう。今までは地上無線施設の
電波だけが頼りだったが、これからは、宇宙からの信号により自分の位置が、誤差わずか数
メートルという精度でわかる。オートパイロットは航大で乗っていたキングエアにも搭載されてい
たが、ほとんど使ったことはなかった。これからの訓練では、オートパイロット機能も、自分のオ
ペレーションの安全性、快適性等を高めるために積極的に使用していく。今まで、飛行中のキ
ャパシティの半分以上を占めていた『操縦』という作業が軽減され、その分、他の部分に頭を
使うことができる。
   
 そう、ブリッジ訓練で最も大事なのは、頭をどう使うか、ということである。新しい飛行機も、シ
ステムも、安全で快適なフライトを達成するための道具に過ぎない。当訓練では、時にはシス
テムがダウンし、時には他の乗員が死亡し、時には乗客がキャビンで倒れたりする。その状況
下で、いかにクルーをまとめ、地上との連絡を密にし、人も飛行機も傷つけることなく、無事に
安全に航空機を運航できるか。
    
 大事なのは、危険を予測すること。危険になりうることを予測し、対処法をいくつも用意してお
くこと。さらに、予測できなかったことに対しても臨機応変に対応していく柔軟性も必要だ。
   
 新しい空が、始まる。僕らが待ち望んでいた空だ。帯広で見た空、宮崎で見た空が、ずいぶ
んと下の方に見えてきた。今までよりも、ずっと濃いブルーの世界。僕たちを受け入れてくれる
だろか、それとも。
   
 僕の中にある安全で、500人もの人の命を守ることができるだろうか。自信はまだまだ持て
ないけど、焦らず、確実に上昇していこう。もうすぐ雲の上。
    
 追記:新しい動画制作に、とりかかろうと思う。このナパの訓練所で、楽しくも辛い訓練生活を
送っているみんなが、少しでも元気になってくれるような動画を。あと2か月で、今までで最高の
ものを作ろうと思う。作ろうと思うし、作れる気がする。ここは、綺麗な景色で満ち溢れているか
ら。


●9月5日


ハナブサ烏日記 
運航乗員訓練生として2007年4月に某航空会社へ入社したハナブサです。パイロット訓練生
はその真っ黒ないでたちから「カラス」と呼ばれています。腕に金色の3本線を巻く(副機長にな
る)その日を夢見て、頑張っています!

●10月21日

 先日、祖母が他界した。生まれて初めて、葬式というものに出席し、火葬場で骨を拾った。祖
母と僕とは、あまり深い係わり合いがなかったものの、最後に立ち会うことができて良かったと
思った。僕がアメリカから帰ってくるのを待っていたんだねと、誰かが言っていた。

 骨は、足の方から少し、胴体から少し、頭から少しと、全部を拾うわけではない。余った骨は
どうするんだろうと少し疑問に思ったが、二人で拾い合う骨はあまりにも脆く、どちらにせよ全
部拾うのは不可能だと納得した。ここが足で、ここが胴体で、ここが頭で・・・と説明を受けなが
ら、ふと脳裏をよぎったこと。日航123便。もし祖母の遺体が完全でなかったとしたら・・・。この
葬式はどうなってしまっただろう。少しだけ、あの時の遺族の苦しみが想像できた気がした。

 実家の空は秋晴れで、小さいころよく見ていた自衛隊の練習機やツインローターのヘリコプタ
ーがよく映えていた。いつか両親を乗せて、実家の上空を飛べたらいいなぁと思った。
    

●9月20日

 試験前日は、不思議なくらい落ち着いていた。今までにないくらい、自信があった。口述はボ
ロボロだったけど、フライトは今までで一番リラックスして臨むことができた。特に大きなイレギ
ュラーが起こらなかったせいかもしれないが、ほとんどのことが自分の予想の範囲内で収ま
り、気持ちよく最後のフライトを終えることができた。目的地のレディング空港に降りて、エンジ
ンを切ると試験官が、「OK〜!」と叫びながら降機していった。一瞬何のことかわからなかった
が、それが合格のサインだった。

 アメリカの空は本当に辛かった。学んだ量は、航大の半年間とそう変わらないかもしれない
が、自分で何かを掴みに行って、それが手に入った量的に言えば、アメリカでの半年間は今ま
で一番だったと思う。自分だけの問題と、自分だけで戦って、自分だけの答えを見つけたこの
半年間は、僕のパイロット人生にとって大きな曲がり角。航大と、エアラインの違いが全部わか
ったとは到底言えないが、新たな目標と、そこへたどり着くための道筋が見つかった。そんな
気がする。

 僕はこの道に入って、目標とする人間像がたくさん見つかった。こういう人間になりたいなぁ、
という。それは本当にラッキーなことだったと思う。アメリカの訓練所でも、多くの先輩方、機
長、副機長に教えていただきながら、この人のような人の接し方をしたいだとか、この人のよう
な努力をしたいだとかという、訓練以外のところでまた多くを学ぶことができた。自分の先輩
が、尊敬できる人であり、憧れの人であることは、実に幸せなことだと思う。

 日本に帰ってきて、つくづく、日本はいいところだと思う。僕たちは国際線のパイロットではあ
るけれど、国をまたいで飛び回れば回るほど、日本人のアイデンティティというものが大事にな
ってくると思う。日本の中で僕たちは、『日本人』として見られることはないけれど、世界の中で
は僕たちは、『日本人』として見られる。いろんな意味で、僕たちはもっともっと日本を大事にし
なくてはいけないし、日本人であることに対し、自信を持たなければいけない。そんな、『国際
力』も、アメリカの訓練所は教えてくれた気がする。

 これから、次の訓練が始まるまで、しばらく時間がある。アメリカで得た知識の維持と、体脂
肪の還元をしながら、のんびり過ごしたいと思う。
     

●9月25日

 今日の訓練は午前フライトで、機体はN891JRだった。午後に誰も当機体を使う予定が入って
いなかったので、教官が、出先で昼飯でも食べようかと言ってくれた。目的地はサリナス空港、
訓練目的ですぐ近くのモントレー空港にダイバート(目的地変更)する計画だった。
   
 通常、ダイバートの訓練をするときは、例えば目的地の天気がすごく悪いとか、目的地空港
の滑走路が使えなくなったとか、機体が故障したとか乗客に急病人が出たなど、目的地に向
かえない状況を教官がシミュレート(模擬)で出題してくる。実際は天気はすごくいいし、滑走路
もちゃんと使えるし、飛行機もちゃんと動いているので、どこか現実感のない訓練だ。でも、こ
の日は違った。
    
 朝の早い段階からサリナス、モントレー地方上空に濃い海霧が立ち込め、計器飛行でも進入
ができないほどの悪天だった。代替飛行場としてモントレーを指定していたが、こちらも代替飛
行場として指定できる気象条件を下回っていたため、急遽変更。予報では、サリナス上空は、
到着時刻前後には霧が晴れるでしょう、とのことだったので、その予報を信じて出発。しかし、
無常にも霧は晴れず、サリナス上空で待機することに。待機ポイントに向かう途中、雲の切れ
間からサリナス空港がチラっと見えて、これはいけるかもと気象情報を無線で確認すると、進
入可能な値まで回復していた。すぐに管制に許可をもらい、進入開始。初めてのアプローチだ
ったが、ばっちり決まった。その後は訓練目的で着陸復行し、同じく天候回復していたモントレ
ーにアプローチ。海に面したお洒落なモントレー空港に着陸したとき、飛行時間は既に2時間
を超えていた。
    
 機体を駐機場まで運び、エンジンを切ったとき、大きな充実感に包まれた。今日のフライト
で、模擬だったのは最後の着陸復行以外、何もないからだ。これが実際のフライトで、それを
まがいなりにもなんとかマネジメントできたことに対して、失いかけていた自信を、久々に取り
戻すことができた気がした。
    
 こちらの空港では、駐機場に止めて燃料を入れると、無料で車を貸してくれるというすばらし
いサービスがある。早速、教官の運転でモントレーの町へ。海辺の町らしいシーフードのレスト
ランでフィッシュ&チップスをいただいた。高級住宅が海岸線に立ち並ぶ、本当に美しい街だっ
た。何より、海が沖縄の海のように透き通っていて、海岸線のほとんどが公園として整備され
ていたことに感激した。
    
 ナパへの帰り、通常の飛行ルートを外れ、ダイレクトにナパへ向かっていいかと管制に尋ね
ると、OKが出た。珍しいことだった。なぜなら、サンフランシスコの真上を通るルートは交通量
が多く、倦厭されることが多いからだ。おかげで、サンフランシスコ国際空港から離陸するシン
ガポール航空の777をすぐ近くで見ることができ、シスコの町も、たくさんカメラに収めることが
できた。成田へ向かう我が社の機の無線も、拾うことができた。漠然と、あぁこれが最後になる
な、と思った。
   
 ナパ卒業試験を来週に控え、今日のこのフライトは僕にとって、とても意味のあるフライトだっ
たと思う。現実の状況を切り抜けて、空を飛ぶ喜びを再び感じることができたから。2か月前に
初めて試験に落ちてからというもの、今まで、本当に辛く苦しい毎日だった。何をやっても空回
りばかりで、自分との戦いに、毎日負け続けていたような気がする。航大での日々も辛かった
が、今なら躊躇なく、この半年が今までで一番辛かったと言える。苦しかった。本当に。チェック
に受からなければ言えない言葉かもしれないが、僕は今日、自分の中の課題に決着をつけら
れた気がする。不確かであやふやだったものが、確固たるものに変わった気がする。バラバラ
だったピースの最後の一つが、あるべき場所にバッチリ納まったように。潔く、チェックに挑む
ことができそうだ。
   
 頑張ろう。帰国は、10月4日(日本時間)の予定です。
    

●9月5日

 先週末は3連休だった。ちょうど近くの空軍基地でエア・ショーが行われていたので、同期3
人で行ってみた。タダでサンダー・バード(日本で言うブルー・インパルスのようなもの)が見ら
れるとあって、混み合うかと思いきや、日曜はそこまで・・・であった。土曜の方がやばかったら
しい。
    
 さすが、アメリカだけあって、軍事力は日本の比にならない。やることもど派手だ。観客の目
の前を、超低高度・マッハで通過してみたり、ジェット・エンジンを積んだ飛行機と滑走路上で競
争してみたり。サンダー・バードの演技もすごかった。神業だった。6機中4機が編隊で演技
中、後ろから別の1機が音速で突然現れる。4機の演技に夢中になっている観客は、その1機
の爆音でひっくり返るほどびっくりする・・・。アクロバットでは、飛行機のエルロンをわざと壊し
たり、トイレット・ペーパーを落として空中で切ってみたりと、なんでもありであった。自由で優雅
で、誰もが空と飛行を楽しんでいるように見えた。
      
 それにしても、暑い一日だった。最近は日も短くなって、朝・夕は一段と寒くなってきてはいた
ものの、昼間、日差しが射しているうちは、まだまだ要注意だ。
   
 3連休の最終日は、一人でワイナリー巡り。近場でおいしいと噂の4件ほどを攻めた。ナパの
住民だと言えば、だいたいテイスティングはタダにしてくれる。僕は白ワインが好きなので、白
がおいしいというワイナリー(trefethen)というところに行ってみた。最近、やっと白はシャルド
ネ、赤はカベルネ・ソービニオンくらいはわかるようになってきたので、シャルドネを飲んでみた
らこれがおいしい!と思って衝動買いしてみた。で、帰って改めて飲んでみると、あれれ、こん
な味だっけか?意外と普通。・・・ワイナリーでテイスティングして買って帰ると、いつもこんな感
じだ。ワインっていうのは、その場、その状況によって味が変わる・・・ような気がする。
    
 そんなわけで、さすがに4件も回るとワイン1本分くらいは飲んでいる勘定になり、昼間からか
なりいい気分で帰路に着くと、こっちに赴任してきたころは葉っぱだけだったワインのツルに、
ブドウがたわわに実っているのを発見。収穫はあと2〜3週間後。僕らが帰国するくらいの時
期だ。ワインは収穫してから、最低1年くらいは熟成に時間を要する。僕らももうすぐ収穫され、
東京の訓練所で大型機の訓練に移行し、熟成し、一本のワイン、一人の副機長として人様の
前に出されるわけだ。いいワインになれるだろうか、それ以前に、いいブドウになれるだろう
か。収穫してくれるだろうか・・・。頑張ろう。
  
 ちなみに、いいワインになったとしても、僕の操縦では、誰も酔わせません!


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2911)

●10月28日(My B-Day)

++++++++++++++++++

10月28日、今日は、私の誕生日。
すなおに喜べばよいのに、どうも
喜べない。

子どもというのは、誕生日ごとに、
大きく成長する。
しかし私たちは、誕生日ごとに、
大きく衰退する。

ただこの1年間、無事、元気に過ごせた
ことについては、感謝する。
「よかった」と思いつつ、ほっとする。

満61歳。
つぎの誕生日をめざして、今日から、
がんばる!

来年の今日、同じような文章が書けたら、
うれしい。

++++++++++++++++++

●61歳の抱負

61歳の抱負といっても、とくにない。
今は、とにかく現状維持。
それで精一杯。

ただ世の中の動きと逆行して、仕事
そのものは、上向き。
徐々に、より忙しくなりつつあるのを、
肌で感ずる。
加えて、やりたいことが、山のように
ある。

どれからこなしていってよいのか、
自分でもわからないときがある。
たいへんありがたいことだと思う。


●悪人とはつきあうな

新しく買った電子辞書の中に、こんな言葉が載っていた。

『今与不善人処、則所聞者欺誣詐偽也』(荀子・性悪)と。

意味は「今、不善の人と処(を)れば、則(すなわ)ち、
聞くところの者は、欺誣(きふ)詐偽なり」ということだ
そうだ。

わかりやすく言えば、「ずるい人とつきあえば、それと
つきあう人もずるい人」という意味らしい。

たとえば世の中には、口のうまい人がいる。
「口がうまい」というのは、軽蔑されるべきことでは
あっても、けっして、褒められるべきことではない。

そのときどきにおいて、相手の歓心を買ったり、
媚(こび)を売るため、適当なことを言う。
適当なことを言うから、矛盾を追及されたりすると、
その場その場で、これまた適当なことを言う。

言い逃れ、言いわけ、つじつま合わせなど。

これを繰り返している間に、信用をなくしていく。
が、世の中には、そういう人を求めて、集まって
いく人たちがいる。
『類は友を呼ぶ』ということわざもある。
が、当の本人たちは、それでも結構、楽しそう。
仲もよい。

たとえばたがいに浮気の成果を誇りあったりする。
詐欺で儲けた金額を、自慢しあったりする。
ずるいことをして、法を逃れたことを、得意に
なって、話したりする。
もっともそれなりに、それらしい哲学(?)を
口にすることもある。
こうした現象を、いったい、どう理解したらよいのか。

ひとつの理由として、(心が崩れた世界)は、
それなりに居心地がよいということ。
仮面をかぶる必要がない。
無理な気負いもない。
あるがままの自分を、そのままさらけ出すことができる。

これはそのまま子どもの世界についても、当てはまる。
たとえば非行を繰り返す子どもは、その「類」の
子どもどうしで集まる傾向が強い。
グループを作ったり、徒党を組んだりする。
やはりそのほうが、居心地がよいからである。

が、ひとたびこうなると、あとは、退廃に向かって、
まっしぐら!

で、それを荀子は戒(いまし)めた。
『今与不善人処、則所聞者欺誣詐偽也』と。
簡単にいえば、「不善な人とはつきあうな」という意味。
実際、不善な人とつきあっていると、こちらまで、
おかしくなる。
善悪の判断が、鈍くなる。
とくに私など、もともとそれほどよい環境に生まれ
育っていない。
悪に触れると、そのままスーッと、悪の道に入って
しまいそうなところがある。
そんな(弱さ)がある。

実際、20歳前後のころのこと、
(やくざ)の世界にあこがれたこともある。
で、その反動形成というか、今では、不善な人を、
必要以上に忌み嫌うようになってしまった。
たとえば「ウソ」に出会うと、生理的な嫌悪感を
覚える。
はっきり言えば、ウソは、嫌い。
大嫌い。
現実には、ウソをつく人とは、交際しない。
「適当につきあって、適当にあしらう」ということが
できない。

が、ウソと無縁で生きるのは難しい。
そこで私は、いつも自分にこう言い聞かせている。

ウソはつかない。
ウソをつきたいときは、黙っている、と。
ウソをついて、あとで気分を悪くするくらいなら、
黙っていたほうがよい。

不善についても、同じ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi 不善 荀子 悪人論)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2912)

●孔子の60代(Confucius on 60's)

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60代といえば、孔子の生き様が参考に
なる。

孔子(前551〜前479)は、魯に仕え、
大司寇となったが、権力者と衝突し、56歳
から10年間、魯を去って諸国を歴遊したという
(ブリタニカ国際大百科事典)。

その10年間で、孔子は諸侯に道徳的政治の
実行を説いたが用いられず、晩年は魯で弟子の
教育と著述に専念したという(同)。

『春秋』や他の儒家の経典はそのとき生まれたが、
『論語』は、孔子と弟子の言行録と言われている(同)。

+++++++++++++++++++++

計算すると、孔子は、満73歳前後でこの世を
去ったことになる。
それまでの基礎があったのは当然としても、
今、私たちがいうところの「孔子」は、
ブリタニカ国際大百科事典を参考にすれば、
満66歳前後から73歳前後までに「孔子」に
なったことになる。

ただ釈迦にせよ、キリストにせよ、孔子にせよ、
弟子に恵まれたということ。
弟子たちが、「師」の教えを、後世に残し、伝えた。
もし弟子に恵まれなかったら、釈迦も、キリストも、
孔子も、今に名を残すことはなかった。

それはそれとして、孔子が60歳を過ぎてから
(がんばった)というのは、たいへん興味深い。
言いかえると、「50歳だから……」とか、
「60歳だから……」とか言って、あきらめてはいけない。
……ということを、孔子は私たちに教えている。

が、同じ60歳でも、私と孔子は、どうしてこうまでちがうのか。
ひとつの理由として、中国の春秋時代は、今よりはるかに純粋な時代では
なかったということ。
つまりその分だけ、雑音も少なく、回り道もしなくてすんだ。
それにもうひとつ率直に言えば、当時は、情報量そのものが少なかった。
春秋時代に、人が一生かけて得る情報量は、現代の新聞1日分もなかったのでは
ないか。
言いかえると、私たちは、情報の洪水の中で、何が大切で、何がそうでないか、
それすらも区別できなくなってしまっている。
あるいは大切でないものを大切と思いこみ、大切なものを、大切でないと
思いこむ。

もちろんだからといって、孔子の時代が今よりよかったとは思わない。
釈迦やキリストの時代にしても、そうだ。
しかしここにも書いたように、今よりは、純粋であったことだけは、事実。
たとえて言うなら、子どものような純朴さが、そのまま生きるような時代だった。
このことは、私たちの子ども時代と比べてみても、わかる。

私たちが子どものころには、テレビゲームなど、なかった。
携帯電話もなかった。
しかしだからといって、私たちの子ども時代が、今の子どもたちの時代より
貧弱だったかといえば、だれもそうは思わない。
だから、こと(思想)ということになれば、孔子にはかなわないということになる。

このことは、私たちにもうひとつの教訓を与える。

老後になればなるほど、純朴に生きる。
というのも、私たちは、あまりにも情報、とくに金権教的な情報に毒されすぎている。
人間の命さえも、マネーという尺度で判断してしまう。
そういうものからだけでも解放すれば、ものの見方も、かなり変わってくるはず。

ともあれ、あの時代に、60歳を過ぎてから、「諸侯に道徳的政治の
実行を説いた」というところは、すごい!

さらに「晩年は魯で弟子の教育と著述に専念したという」ところは、
もっとすごい!
だからこそ「孔子は孔子」ということになるのだが、それにしても、すごい!
私たちが頭に描くジジ臭さが、どこにもない。
そういう点で孔子の生き様は、本当に参考になる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
孔子 論語 春秋時代 Confucius)


●朝に道を聞かば……

+++++++++++++++++

論語といえば、『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』。

それについて以前書いた原稿を添付します。

+++++++++++++++++

『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』

●密度の濃い人生

 時間はみな、平等に与えられる。しかしその時間をどう、使うかは、個人の問題。使い方によ
っては、濃い人生にも、薄い人生にもなる。

 濃い人生とは、前向きに、いつも新しい分野に挑戦し、ほどよい緊張感のある人生をいう。薄
い人生というのは、毎日無難に、同じことを繰り返しながら、ただその日を生きているだけとい
う人生をいう。人生が濃ければ濃いほど、記憶に残り、そしてその人に充実感を与える。

 そういう意味で、懸命に、無我夢中で生きている人は、それだけで美しい。しかし生きる目的
も希望もなく、自分のささいな過去にぶらさがり、なくすことだけを恐れて悶々と生きている人
は、それだけで見苦しい。こんな人がいる。

 先日、三〇年ぶりに会ったのだが、しばらく話してみると、私は「?」と思ってしまった。同じよ
うに三〇年間を生きてきたはずなのに、私の心を打つものが何もない。話を聞くと、仕事から
帰ってくると、毎日見るのは、テレビの野球中継だけ。休みはたいてい魚釣りかランニング。
「雨の日は?」と聞くと、「パチンコ屋で一日過ごす」と。「静かに考えることはあるの?」と聞く
と、「何、それ?」と。そういう人生からは、何も生まれない。

 一方、八〇歳を過ぎても、乳幼児の医療費の無料化運動をすすめている女性がいる。「あな
たをそこまで動かしているものは何ですか」と聞くと、その女性は恥ずかしそうに笑いながら、こ
う言った。「ずっと、保育士をしていましたから。乳幼児を守るのは、私の役目です」と。そういう
女性は美しい。輝いている。

 前向きに挑戦するということは、いつも新しい分野を開拓するということ。同じことを同じよう
に繰り返し、心のどこかでマンネリを感じたら、そのときは自分を変えるとき。あのマーク・トー
ウェン(「トム・ソーヤ」の著者、一八三五〜一九一〇)も、こう書いている。「人と同じことをして
いると感じたら、自分が変わるとき」と。

 ここまでの話なら、ひょっとしたら、今では常識のようなもの。そこでここではもう一歩、話を進
める。

●どうすればよいのか

 ここで「前向きに挑戦していく」と書いた。問題は、何に向かって挑戦していくか、だ。私は「無
我夢中で」と書いたが、大切なのは、その中味。私もある時期、無我夢中で、お金儲けに没頭
したときがある。しかしそういう時代というのは、今、思い返しても、何も残っていない。私はたし
かに新しい分野に挑戦しながら、朝から夜まで、仕事をした。しかし何も残っていない。

 それとは対照的に、私は学生時代、奨学金を得て、オーストラリアへ渡った。あの人口三〇
〇万人のメルボルン市ですら、日本人の留学生は私一人だけという時代だった。そんなある
日、だれにだったかは忘れたが、私はこんな手紙を書いたことがある。「ここでの一日は、金沢
で学生だったときの一年のように長く感ずる」と。決してオーバーなことを書いたのではない。
私は本当にそう感じたから、そう書いた。そういう時期というのは、今、振り返っても、私にとっ
ては、たいへん密度の濃い時代だったということになる。

 となると、密度の濃さを決めるのは、何かということになる。これについては、私はまだ結論
出せないが、あくまでもひとつの仮説として、こんなことを考えてみた。

(1)懸命に、目標に向かって生きる。無我夢中で没頭する。これは必要条件。
(2)いかに自分らしく生きるかということ。自分をしっかりとつかみながら生きる。
(3)「考える」こと。自分を離れたところに、価値を見出しても意味がない。自分の中に、広い世
界を求め、自分の中の未開拓の分野に挑戦していく。

 とくに(3)の部分が重要。派手な活動や、パフォーマンスをするからといって、密度が濃いと
いうことにはならない。密度の濃い、薄いはあくまでも「心の中」という内面世界の問題。他人が
認めるとか、認めないとかいうことは、関係ない。認められないからといって、落胆することもな
いし、認められたからといって、ヌカ喜びをしてはいけない。あくまでも「私は私」。そういう生き
方を前向きに貫くことこそ、自分の人生を濃くすることになる。

 ここに書いたように、これはまだ仮説。この問題はテーマとして心の中に残し、これから先、
ゆっくりと考え、自分なりの結論を出してみたい。
(02−10−5)

(追記)

 もしあなたが今の人生の密度を、二倍にすれば、あなたはほかの人より、ニ倍の人生を生き
ることができる。一〇倍にすれば、一〇倍の人生を生きることができる。仮にあと一年の人生
と宣告されても、その密度を一〇〇倍にすれば、ほかのひとの一〇〇年分を生きることができ
る。極端な例だが、論語の中にも、こんな言葉がある。『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死
すとも可なり』と。朝に、人生の真髄を把握したならば、その日の夕方に死んでも、悔いはない
ということ。私がここに書いた、「人生の密度」という言葉には、そういう意味も含まれる。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

●密度の濃い人生(2)

 私の家の近くに、小さな空き地があって、そこは近くの老人たちの、かっこうの集会場になっ
ている。風のないうららかな日には、どこからやってくるのかは知らないが、いつも七〜八人の
老人がいる。

 が、こうした老人を観察してみると、おもしろいことに気づく。その空き地の一角には、小さな
畑があるが、その畑の世話や、ゴミを集めたりしているのは、女性たちのみ。男性たちはいつ
も、イスに座って、何やら話し込んでいるだけ。私はいつもその前を通って仕事に行くが、いま
だかって、男性たちが何かの仕事をしている姿をみかけたことがない。悪しき文化的性差(ジェ
ンダー)が、こんなところにも生きている!

 その老人たちを見ると、つまりはそれは私の近未来の姿でもあるわけだが、「のどかだな」と
思う部分と、「これでいいのかな」と思う部分が、複雑に交錯する。「のどかだな」と思う部分は、
「私もそうしていたい」と思う部分だ。しかし「これでいいのかな」と思う部分は、「私は老人にな
っても、ああはなりたくない」と思う部分だ。私はこう考える。

 人生の密度ということを考えるなら、毎日、のんびりと、同じことを繰り返しているだけなら、そ
れは「薄い人生」ということになる。言葉は悪いが、ただ死を待つだけの人生。そういう人生だ
ったら、一〇年生きても、二〇年生きても、へたをすれば、たった一日を生きたくらいの価値に
しかならない。しかし「濃い人生」を送れば、一日を、ほかの人の何倍も長く生きることができ
る。仮に密度を一〇倍にすれば、たった一年を、一〇年分にして生きることができる。人生の
長さというのは、「時間の長さ」では決まらない。

 そういう視点で、あの老人たちのことを考えると、あの老人たちは、何と自分の時間をムダに
していることか、ということになる。私は今、満五五歳になるところだが、そんな私でも、つまら
ないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことがある。いわんや、七〇歳や八
〇歳の老人たちをや! 私にはまだ知りたいことが山のようにある。いや、本当のところ、その
「山」があるのかないのかということもわからない。が、あるらしいということだけはわかる。いつ
も一つの山を越えると、その向こうにまた別の山があった。今もある。だからこれからもそれが
繰り返されるだろう。で、死ぬまでにゴールへたどりつけるという自信はないが、できるだけ先
へ進んでみたい。そのために私に残された時間は、あまりにも少ない。

 そう、今、私にとって一番こわいのは、自分の頭がボケること。頭がボケたら、自分で考えら
れなくなる。無責任な人は、ボケれば、気が楽になってよいと言うが、私はそうは思わない。ボ
ケるということは、思想的には「死」を意味する。そうなればなったで、私はもう真理に近づくこと
はできない。つまり私の人生は、そこで終わる。

 実際、自分が老人になってみないとわからないが、今の私は、こう思う。あくまでも今の私が
こう思うだけだが、つまり「私は年をとっても、最後の最後まで、今の道を歩みつづけたい。だ
から空き地に集まって、一日を何かをするでもなし、しないでもなしというふうにして過ごす人生
だけは、絶対に、送りたくない」と。
(02−10−5)※

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●よい人・いやな人

 その人のもつやさしさに触れたとき、私の心はなごむ。そしてそういうとき、私は心のどこかで
覚悟する。「この人を大切にしよう」と。何かができるわけではない。友情を温めるといっても、
もうその時間もない。だから私は、ふと、後悔する。「こういう人と、もっと早く知りあいになって
おけばよかった」と。

 先日、T市で講演をしたとき、Mさんという女性に会った。「もうすぐ六〇歳です」と言っていた
が、本当に心のおだやかな人だった。「人間関係で悩んでいる人も多いようですが、私は、どう
いうわけだか悩んだことがないです」と笑っていたが、まったくそのとおりの人だった。短い時間
だったが、私は、どうすれば人はMさんのようになれるのか、それを懸命にさぐろうとしていた。

 人の心はカガミのようなものだ。英語の格言にも、『相手は、あなたが相手を思うように、あな
たを思う』というのがある。もしあなたがAさんならAさんを、よい人だと思っているなら、Aさんも
あなたのことをよい人だと思っているもの。反対に、あなたがAさんをいやな人と思っているな
ら、Aさんもあなたをいやな人だと思っているもの。人間の関係というのはそういうもので、長い
時間をかけてそうなる。

 そのMさんだが、他人のために、実に軽やかに動きまわっていた。私は講演のあと、別の講
演の打ちあわせで人を待っていたのだが、その世話までしてくれた。さらに待っている間、自分
でもサンドイッチを注文し、さかんに私にそれをすすめてくれた。こまやかな気配りをしながら、
それでいてよくありがちな押しつけがましさは、どこにもなかった。時間にすれば三〇分ほどの
時間だったが、私は、「なるほど」と、思った。

 教師と生徒、さらには親と子の関係も、これによく似ている。短い期間ならたがいにごまかし
てつきあうこともできる。が、半年、一年となると、そうはいかない。ここにも書いたように、心は
カガミのようなもので、やがて自分の心の中に、相手の心を写すようになる。もしあなたがB先
生ならB先生を、「いい先生だ」と思っていると、B先生も、あなたの子どもを介して、あなたのこ
とを、「いい親だ」と思うようになる。そしてそういうたがいの心の相乗効果が、よりよい人間関
係をつくる。

 親と子も、例外ではない。あなたが今、「うちの子はすばらしい。どこへ出しても恥ずかしくな
い」と思っているなら、あなたの子どもも、あなたのことをそう思うようになる。「うちの親はすば
らしい親だ」と。そうでなければ、そうでない。そこでもしそうなら、つまり、もしあなたが「うちの
子は、何をしても心配」と思っているなら、あなたがすべきことは、ただ一つ。自分の心をつくり
なおす。子どもをなおすのではない。自分の心をつくりなおす。

 一つの方法としては、子どもに対する口グセを変える。今日からでも、そしてたった今からで
も遅くないから、子どもに向かっては、「あなたはいい子ね」「この前より、ずっとよくなったわ」
「あなたはすばらしい子よ。お母さんはうれしいわ」と。最初はウソでもよい。ウソでもよいから、
それを繰り返す。こうした口グセというのは不思議なもので、それが自然な形で言えるようにな
ったとき、あなたの子どもも、その「いい子」になっている。

 Mさんのまわりの人に、悪い人はいない。これもまた不思議なもので、よい人のまわりには、
よい人しか集まらない。仮に悪い人でも、そのよい人になってしまう。人間が本来的にもってい
る「善」の力には、そういう作用がある。そしてそういう作用が、その人のまわりを、明るく、過ご
しやすいものにする。Mさんが、「私は、どういうわけだか悩んだことがないです」と言った言葉
の背景には、そういう環境がある。

 さて、最後に私のこと。私はまちがいなく、いやな人間だ。自分でもそれがわかっている。心
はゆがんでいるし、性格も悪い。全体的にみれば、平均的な人間かもしれないが、とてもMさ
んのようにはなれない。私と会った人は、どの人も、私にあきれて去っていく。「何だ、はやし浩
司って、こんな程度の男だったのか」と。実際に、そう言った人はいないが、私にはそれがわか
る。過去を悔やむわけではないが、私はそれに気がつくのが、あまりにも遅すぎた。もっと早
く、つまりもっと若いときにそれに気がついていれば、今、これほどまでに後悔することはない
だろうと思う。私のまわりにも、すばらしい人はたくさんいたはずだ。しかし私は、それに気づか
なかった。そういう人たちを、あまりにも粗末にしすぎた。それが今、心底、悔やまれる。
(02−10−6)※

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●こんな事件

 ビデオのレンタルショップの前でのこと。一台の車が、通路をふさぐように駐車してあった。そ
の横の駐車場には、まだ空いているところがたくさんある。ほかの車が通れない。そこで私は
そのときふと、つまりそれほど深く考えないで、ワイフにこう言った。「あんなところに、車を止め
ているバカがいる」と。ワイフがその方向を見たその瞬間、ななめうしろに立っていた女性(五
〇歳くらい)が、私たちをものすごい目つきでにらみながら、その車のほうに走っていった。そこ
に車を止めていたのは、その女性だった。

 私は瞬間、なぜ私たちがにらまれるのか、その理由がわからなかった。しかし再度、にらま
れたとき、理由がわかった。わかったとたん、何とも言えない気まずさが心をふさいだ。まさか
私たちのうしろに立っていた人が、その人だったとは! 私はたしかに、「バカ」という言葉を使
った。……使ってしまった。

 口は災(わざわ)いのもととは、よくいう。私はその女性とはショップの中で、できるだけ顔を合
わせないようにしていた。が、それでも数度、視線が合ってしまった。いやな気分だった。その
女性は、駐車場でないところに車を止めた。それはささいなことだが、ルール違反はルール違
反だ。しかしそれと同じくらい、「バカ」という言葉を使った、私も悪い。それはちょうど、泥棒に
入ったコソ泥を、棒でたたいてケガをさせたようなものだ。相手が悪いからといって、こちらが
何をしてもよいというわけではない。私にしてみれば、私の「地」が、思わず出てしまったという
ことになる。

 私はもともと、生まれも育ちも、よくない。子どものころは、喧嘩(けんか)ばかりしていた。か
なりの問題児だったようだ。いつも通知表に、「落ち着きがない」と書かれていた。それもその
はず。私が生まれ育った家庭は、「家庭」としての機能を果たしていなかった。私がここでいう
「地」というのは、そういう素性をいう。

 で、こういう状態になると、ゆっくりとビデオを選ぶという気分には、とてもなれない。早くその
場を離れたかった。そういう思いはあったが、ではなぜ私が「バカ」という言葉を使ったか、それ
には理由がある。弁解がましく聞こえるかもしれないが、まあ、話だけは聞いてほしい。

 今、この地球は、たいへんな危機的状況にある。あと一〇〇年で、地球の平均気温は、三〜
四度ほどあがるという。まだ零点何度かあがっただけで、この地球上では、無数の異変が起き
ている。こういう異変を見ただけでも、三〜四度あがるということがどういうことだか、わかるは
ず。しかし、だ。その一〇〇年で、気温上昇が止まるわけではない。つぎの一〇〇年では、も
っとあがる。このまま上昇しつづければ、二〇〇年後には、一〇度、二〇度と上昇するかもし
れない。そうなればなったで、人類どころか、あらゆる生物は死滅する。

 で、こうした異変がなぜ起き始めたかだが、私は、その責任は、それぞれの人すべてにある
と思う。必要なことを、必要な範囲でしていて、それで地球の気温があがるというのであれば、
これはやむをえない。まだ救われる。しかし人間自身の愚かさが原因だとするなら、悔やんで
も悔やみきれない。

●小型ジーゼル車のマフラーを改造して、燃費をよくする人がいる。そういう人の車は、モクモ
クと黒煙をあげて走る。私はそのたびに、ハンカチで口を押さえて、自転車をこぐ。

●信号が赤になっても、しかも一呼吸おいたあと、その信号を無視して、走り抜けようとする人
がいる。私も先日、あやうくそういう車にはねられそうになった。

●私の家の塀の内側は、かっこうのゴミ捨て場になっている。ポリ袋、弁当の食べかす、タバコ
の空箱、ペットボトルなどが、いつも投げ込まれる。そのたびに、しなくてもよい掃除をする。

●小さな車やバイクだが、やはりマフラーを改造し、ものすごい音をたてて走る若者がいる。そ
ういう車やバイクが走りすぎるたびに、恐怖感を覚える、などなど。

 そういう無数の「ルール違反」が重なって、結局は、この地球の環境を破壊する。それもここ
に書いたように、生きるために必要なことをしていてそうなったのなら、まだ救われる。しかし人
間の愚かな行為が積み重なってそうなったとしたら、それはもう、弁解の余地はない。映画『フ
ォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母親は、こう言っている。「バカなことをする人をバカと
いうのよ。(頭じゃないのよ)」と。

 私は駐車場でもないところに平気で駐車している人は、そのバカな人ということになる。こうい
う人たちの「ルール違反」が、積もりに積もって、この地球の環境を破壊する。むすかしいこと
ではない。その破壊は、私たちの、ごく日常的な、何でもない行為から始まる。だから私は「バ
カ」という言葉を使ってしまった。心のどこかで、地球温暖化の問題と、その車が結びついてし
まったからだ。が、しかし、あまりよい言葉ではないこともたしかだ。これからは外の世界では
使わないようにする。もう少し別の方法で、こうしたルール違反と戦いたい。
(02−10−6)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2913)

●10月29日

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今日、ワイフと2人で、近くの富幕山に
登った。
「とんまっくざん」と読む。
標高563メートル。
今回が、3度目。

自宅から車で、40分。
そこから歩いて登山。
片道、登り、50分。

午前中に出かければ、昼過ぎには家に
戻ってこられる。
軽い運動には、よい。

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●誕生日プレゼント

迷いに迷ったあげく、今年の私の誕生日プレゼントは、電気毛布になった。
書斎で、足を覆って使う。
今まではコタツを使っていたが、コタツだと、すぐ眠くなってしまう。
電気ストーブだと、頭だけがほてってしまう。

床暖房とか、部屋暖房とかいうような、ぜいたくなものは、使わない。
……ということで、電気毛布になった。

足にそれをかぶせ、その上に薄い夏ぶとんをかける。
しばらくは、これで寒さをしのいでみる。


●偶然と確率

この前、息子と、車の中でこんな会話をした。
私が、「事故というのは、確率と偶然が重なって起きる」と言った。
つまり事故というのは、起きるときには、起きる。
起きないときには、起きない。

たとえば交通事故にしても、毎年約1万人※の人が、それで命を落としている。
それぞれの人がみな、注意していても、それだけの人が死ぬ。

そこで息子が、こう聞いた。
「パパの意見だと、事故というのは、防げないということになる。
そう考えていいのか?」と。

が、私の意見は、逆。
「事故というのは、確実に防げる」と。

確率と偶然が重なって事故が起きるとするなら、事故というのは、
どんなばあいにでも、起きると考えたほうがよい。

「いいか、今、この瞬間を考えてみろ。
前後には車はいない。
直進道路だ。
見晴らしもよい。
だれしも、こんなところでは事故は起きないと考える。
しかし実際には、その反対。
こういうところでも、確率と偶然が重なると、事故は起きる。
だから、こう考えたらよい。
『事故は、つねに起きる』と」と。

すると息子はこう聞いた。

では、「どうやって事故を防げばいいのか?」と。

私「答は簡単だ。
つねに事故を起こさないように走る」
息「パパの言っている意味がわからない」
私「そうだな。
別のたとえ話をしてみよう。
たとえば学校のテストでも、いい点を取ってやろうと意気込むと、
たいてい失敗する。
正しい答を書こうと思ったときもそうだ。
そういうときは、まちがえないことだけを考えながら、答を書く。
まちがえなければ、正解、つまり丸(まる)ということになる」と。

どんなばあいも、どんな瞬間にも、事故は起きる。
そういう前提で、車を運転する。
大切なことは、事故を起こさないことだけを考えて走る。
どんなばあいも、どんな瞬間にも、だ。
結果として、それが安全運転につながる。

「うまく運転してやろう」などと考えてはいけない。
運転だけではない。
「うまくやってやろう」などと考えてはいけない。
失敗しないことだけを考えてする。
結果として、それで、うまくいく。

車の運転についても、事故を起こさないことだけをいつも考えて走る。
それが確率と偶然を打ち破る、ゆいいつの方法ということになる。

(付記)

講演のときもそうだ。
「今日はいい話をしてやろう」と力むと、たいてい失敗する。
そういうときは、「今日は、失敗しないように話をしよう」と考える。

スポーツのときもそうだ。
「今日はうまく決めてやろう」と力むと、たいてい失敗する。
そういうときは、「今日はミスしないようにやろう」と考える。

結果は、そのあと、自然な形で、ついてくる。

(注※)事故後24時間以内の死亡者数は、5000人台へと激減したが、
1年以内の死亡者数となると、約1万人(2007)だそうだ(ウィキペディア百科事典)。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct・08++++++++++++はやし浩司

●「懺悔(ざんげ)」(つぐない)

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昨夜、DVD『つぐない』を見た。
星は4つの★★★★。

そのDVDを見ながら、いろいろな
ことを考えた。

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先日、母の葬儀で、弔辞を述べさせて
もらった。
私はこうした弔辞では、原稿を書かない。
そのとき、思ったことを、そのまま
話すようにしている。

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【弔辞】

人は、夢と希望を前にぶらさげて歩くもの。
人は、こだわりとわだかまりを、あとに引きずって歩くもの。
私と母の間にも、いろいろありました。
しかしその母が、私の家に来た時のこと。
母は体調を崩したのか、それから一週間ほど、毎日、
下痢を繰り返しました。

便の始末は、私の仕事でした。
その母のお尻を拭いているとき、母が、ふと、こう言いました。
「お前に、こんなことをしてもらうようになるとは思わなかった」と。

私もそれに応えて、こう言いました。
「ぼくも、お前に、こんなことをしてやるようになるとは、思わなかった」と。
とたん、それまでのこだわりと、わだかまりが、ウソのように消えました。

で、それからの母は、子どもにたとえるなら、優等生。
デイサービスにも、ショートステイにも、ただの一度も不平、不満を漏らすことも
なく、すなおに行ってくれました。

が、いくつかの事故が重なり、近くの老人センターに入居することになりました。
(M幸の園)という、このあたりでも、いちばん人気のセンターです。
母は、そこに1年と4か月いましたが、亡くなる2日前の10月11日の夜のことです。
時刻は11時を回っていました。

見ると、母の右目のつけ根に、小さな真珠のような涙がたまっているのがわかりました。
それが枕もとのライトの光を受けて、輝いていました。
「なんだろう?」と思っていると、ワイフがベッドの向こう側に回って、こう言いました。
「あら、お母さん、目を覚ましている」と。

母は、向こうの窓側のほうに顔を傾けて眠っていました。
私も向こう側に回ってみると、母は、左目を半分、開けていました。

私はライトをつけると、それで自分を照らし、私の顔を、母の視線の中に置きました。
「母ちゃん、ぼくだよ、浩司だよ、わかるか、母ちゃん」と。

数度、それを繰り返したときのことです。
あの母が、酸素マスクの向こうで、ウォー、ウォー、ウォー、ウォーと、4、5回
大きなうめき声をあげました。
同時に、幾筋もの涙が、頬を伝って流れ落ちていくのがわかりました。

そのあと母はすぐ、再び何ごともなかったかのように、静かに眠り始めましたが、
それが私と母の最後の会話でした。

また当日は、朝から容態がよくないという連絡を受け、ワイフがそばにいてくれました。
が、午後になって安定したということで一度、自宅に戻ってきたのですが、直後、
センターから電話があり、「様子が変わったから来てくれ」と。

今度は私とワイフで、2人で行きました。

看護士さんが、「呼吸がおかしいでしょう」と言いましたが、私には、よくわかり
ませんでした。
母は、数度呼吸を繰り返したあと、無呼吸状態を繰り返していました。
私は母の横にいて、その数をずっと、数えていました。

そうして午後5時半ごろのこと。
それまでさがりつづけていた血圧が、5時を過ぎるころから上昇し始めたので、
やれやれと思いながら、その夜の準備にとりかかりました。
看護士さんは、「今夜が山です」と言いました。
それを聞いて、介護士の方たちが、私たちのためにベッドを、横に並べてくれました。

ワイフはそれまでの3日間、ほとんど眠っていませんでした。
それで私が、「一度、自宅に帰って仮眠してきます」と。
母には、耳のそばで、こう言いました。

「母ちゃん、1時間ほど、家で寝てくるからな。
すぐ戻ってくるから、それまでがんばっていてよ」と。

たまたま見舞いに来てくれていたワイフの兄と姉に、その場を頼んで、私たちは
自宅に戻りました。
が、戻るやいなやセンターから電話。
「血圧が測れません。すぐ来てください」と。

折り返しかけつけると、母はすでに息を引き取っていました。
それが母の最期でした。

そばで見ていた看護士さんの話では、「無呼吸状態が長いな……と感じていたら、
そのまま眠るように息を引き取られました」とのこと。
静かな、どこまでも静かな最期だったようです。

ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴るなり』の冒頭には、こんな詩が
飾られています。

「誰の死なれど、わが胸痛む。
 われも人の子なれば、それ故に問うことなかれ。
 誰がために、あのとむらいの鐘は鳴るなりや、と。
 あの鐘は汝がために鳴るなりや」

こうして人々は去り、母も去っていきました。
あたかも何ごともなかったかのように。

人は、夢と希望を前にぶらさげて歩くもの。
人は、こだわりとわだかまりを、あとに引きずって歩くもの。
しかし今、母は、すべてのものから解放され、あの世へと旅立ちました。
あとに残された私たちは、それをいつまでも心温かく見送りたいと願っています。

本日、母の葬儀に参列くださいました皆様には、母にかわり、
心から厚く、お礼申しあげます。
本当にありがとうございました。

++++++++++++++++++

DVD『つぐない』を見ながら、私はずっと母のことを思い浮かべていた。
「あれでよかったのかなあ」という思いが、ずっと心から離れなかった。
そのときどきにおいては、できるかぎりのことをした。
……したと思う。
自分で自分にそう言って聞かせるが、しかし思い残すことも多い。
「ああしてやればよかった」とか、「こうしてやればよかった」と。
そういう無数の、小さな後悔が積み重なり、心を重くする。

たとえばそれがどうであれ、母自身は、信心深い人だった。
その遺志を尊重するなら、私は一通りの仏事をやり遂げねばならない。
49日の法要も、100か日の法要も、さらに一周忌、三周期の法要も。

DVD『つぐない』を見終わったとき、自分で自分に、再び、そう言って聞かせた。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2914)

【10月31日】(知力)

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昨日、こんなうれしいことがあった。
小学生と中学生たちと、(私の生徒たちは、みんな頭がキレるぞ!)
脳トレ競争をして、ほぼ5勝した。……5勝できた!

問題は、年齢によるハンディのないものを選んだ。

(1)文章の早読み競争
(2)数字の暗記競争
(3)迷路問題(大人用の、超難解迷路)
(4)暗算テスト
(5)ナンバーズ・ゲーム(市販のもの)

「ほぼ5勝」というのは、迷路問題で、最初に私ができていたのだが、「できた!」と
声をあげなかったことによる。
2位のD君が先に声をあげた。
それで私が2位になってしまった。

(1)文章の早読み競争……30秒で、どこまで読めるかを、競争した。
私は全文を読み終えることができた。
しかも「先生は大人だから、大きな声で読め」とみなが言ったので、
私なりに大きな声で読んだ。
さらに全文を読み終えるのに、まだ数秒ほどの余裕があった。
子どもたちは、早い子どもで、全文の8〜9割を読んだ。

(2)数字の暗記競争
ランダムに、10桁の数字を、5列並べ、3分前後で、いくつ暗記
できるかを競った。
私が30点、2位のM君が、20点。
あとの子どもたちは10〜15点ほど。
みんな、「先生は、すごい!」と言った。……言ってくれた。

(3)迷路(大人用の、超難解迷路)
迷路については、先に書いた。

(4)暗算テスト
足し算、引き算、掛け算、割り算などの混合問題。
答は2桁まで。
全部で、200問ほど。
これはダントツに私が一番でできた。
2番の子どもで、私の量の半分ほどしかできなかった。

(5)ナンバーズ・ゲーム(市販のもの)
私は1、2度したことがある。
しかし子どもたちのほとんどは、はじめて。
だから私が勝つに決まっていた。
……ということで、これは評価外。

+++++++++++++++++

若いころは、子どもたちとこうした競争をすることはなかった。
私が勝つに決まっていた。
しかし昨日は、ちがった。
私のほうが真剣だった。
「満61歳」という数字が、気になった。

たとえば体力というものを考えてみよう。
今では、かけっこですら、子どもたちにはかなわない。
小学2〜3年の子どもたちにすら、負ける。

が、知力では、そういうわけにはいかない。
もし私がこうしたテストで子どもたちに負けるようになれば、私は、(教える)という
職そのものを、やめなければならない。
子どもたちも、そう言った。
「先生がボケたら、BW(=私の教室)は、おしまいだね」と。

が、それだけではない。

音楽家にとって「耳」が命であるように、
また画家にとって「目」が命であるように、
私にとっては、「知力」が命。
たとえばものを書くときも、その知力が勝負。

が、加齢とともに、脳みその働きは、鈍ってくる。
とくにこわいのが、微細脳梗塞。
(もちろん大きな脳梗塞もこわいが……。)
こまかい脳こうそくが重なって、脳みそ全体の機能を低下させる。
たとえば話し方がかったるくなったり、繊細な会話ができなくなったりする。
当然、頭のキレも、鈍ってくる。

こうした競争をする背景には、自分で自分の脳みその状態を知るという意味がある。
というのも、脳みそというのは、全体に機能が低下したばあい、自分でそれを
知るのは不可能と考えてよい。
たとえば試しに、少し頭のボケかかった人に、こう聞いてみるとよい。
「あなたの頭は、だいじょうぶですか?」と。

するとほとんどの人は、こう答える。
「問題ないですよ」と。
中には、ムキになって、それを否定してくる人もいる。
自分がボケてきたことを、他人に悟られないようにするために、である。

そこでこうした競争が役に立つ。
こうした競争をすることで、自分の脳みその状態を知ることができる。

で、その競争で、私の脳みそは、そこそこにまだ健康であることがわかった。
よかった!
うれしかった!

……というわけで、昨夜は、いつもになく気分がよかった。
夜床に入ってからワイフにそのことを話すと、ワイフもうれしそうだった。

私「これなら70歳まで、がんばれそうだね」
ワ「そうね」と。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

●満61歳にして、自分を知る

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私が子どものころ、50歳以上の人は、
みな、ジー様に見えた。

20歳のときも、そうだった。
30歳のときも、そうだった。

しかし自分が実際に50歳になってみると、
ジー様という実感は、どこにもない。
60歳になっても、どこにもない。

しかし私は、もうすぐ61歳。
つまりジー様中のジー様。

そこで改めて考えてみる。
「ジー様とは何か?」と。

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●ジー様論

多分、若い母親たちは、私を、ジー様と見ているだろう。
少なくとも、「男」とは見ていない。
それが、このところ、より強く感ずるようになった。
そこで改めて、ジー様論。

加齢とともに衰弱していくもの。
体力を筆頭に、知力、気力、精力、集中力。

体力は、基本的な体力のほか、持続力、瞬発力がある。
知力は、記憶力、思考力、理解力。
気力は、全体に弱くなる。
あわせて、好奇心や探究心が弱くなる。
精力は、これはあくまでも私のばあいだが、50代になって弱くなり、60代に
近づくにつれて、復活(?)してきたように思う。
これは更年期障害と深く関係しているのではないか。
最後に集中力だが、これは気力と深く関連している。
今では、文章を書いていても、2、3時間が限度。
それ以上になると、疲れを覚える。
コンから離れてしまう。

●脳の老化

心配なのは、微細脳梗塞。
(もちろん大型の脳梗塞も恐ろしいが……。)
脳の中の細い血管が、血栓か何かでつまり、そこで梗塞を起こすというもの。
見た目には症状もなく、日常的な生活をするには、なんら支障はない。
が、頭の回転そのものが遅くなる。
話し方がかったるくなったり、反応が鈍くなる。
繊細な会話ができなくなる。
ただ人格的には、人格に丸みを帯び、穏やかになったような感じになる。
しかしそれを「円熟」ととらえてはいけない。
そのことは、特別養護老人ホームにいる老人たちを見ればわかる。

みな、ニタニタというか、ニヤニヤと意味もなく、笑っている。
話しかけても、ニンマリと笑っているだけ。
(みながみな、そうというわけではないが……。)
見た感じでは、どの人も、人格の完成者のよう。

●少しずつ進む

しかし重要なことは、私たちはある日突然、そういった老人になるのではないということ。
徐々に、ちょうど下り坂を下っていくように、長い時間をかけてそうなっていく。
早ければ50歳くらいから始まり、遅くとも75歳を過ぎるころには、みな、
そうなっていく。

それにこの世界では、私が観察した範囲では、「私は、だいじょうぶ」と思っている
人ほど、あぶない。
「私はふつう」と思っている間に、どんどんとそのレベルが下がっていく。
(ふつう)の基準そのものが、下がっていくから、自分ではそれがわからない。

一方、つねに自分の変化を敏感に察知し、「私はあぶない」と思っている人ほど、
安心してよいのでは……?
(変化)がわかれば、対処の仕方もわかる。
が、問題は、どうすれば自分でその(変化)を知ることができるかということ。

それには、若い人たちと比較するしかない。
「若い人たちとくらべて、どうか?」と。

その(差)をはっきりと感ずれば、あぶないということになる。
が、中には、(差)を認めないばかりか、若い人たちを否定してしまう人すらいる。
このタイプの人は、「いまどきの若い者は……!」という言葉をよく使う。
こうなると、比較など、しようもない。

●訓練で維持できる

ただたいへん幸いなことに、脳の神経細胞の数は同じでも、(あるいは減っても)、
それから延びるシナプスは、訓練によって老後になってからも、ふえつづける
ということだそうだ。
老人になるからみな、ボケるのではなく、過ごし方によっては、脳の健康を、
そのまま維持できるということ。

バンザーイ!

若い人たちより、頭の働きがよくなるということはないとしても、
ボケの進行を食い止めることはできる(?)。
とするなら、あとは、その方法、ということになる。

●老化防止のために映画

……ということで、最近、こんなことに気づいた。
私とワイフは、週に1、2回は、劇場で映画を見ることにしている。
仕事が終わったあとなどに、深夜劇場を見ることにしている。
そんな習慣が、ここ数年、つづいている。

その劇場でのことだが、このところ、私と同じ世代の人たちふえてきたように感ずる。
先週は、『ジ・アンダー・ザ・ワールド』という映画を見たが、約半数が、
私たちの世代の人たちだった。
みながみなというわけでもないのだろうが、中には、私たちのように、
映画をボケ防止のために利用している人も多いはず。
映画には、まだ証明されたわけではないが、ボケ防止の効果はあるのではないか。

ほかに音楽を聞くのもよい。
旅行をするのもよい。
要するに幼児教育と同じで、脳みそというのは、いろいろな角度から、いろいろに
刺激すればするほど、活性化する。

まずいのは、刺激のない単調な生活。
見るのはテレビだけ。
それも野球中継だけ……というのは、常識で考えても、まずい。
(実際、そういう人が私の近くにいるが、最近、どんどんと脳みそが固くなって
いるように感ずる。)

●老化は、恐ろしい

この問題だけは、本当に深刻!
切実な問題!
ボケるのは、だれにも避けられないことかもしれないが、ボケればボケるほど、
自分が自分でなくなってしまう。
自分で考えることができなくなってしまう。

私にとって、これほど恐ろしいことはない。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2915)

●映画『レッド・クリフ』

++++++++++++++++

映画『レッド・クリフ(赤壁)』……
「三国志」を映画化したもの。
すごかった!
星は文句なしの、5つ。★★★★★。

中国もすごい映画を作るようになった。
驚いた。
感心した。

日本の俳優を起用する、そのふところの
大きさにも驚いた。

ただPART-1で終わったところが残念。
つづきのPART2は、2009年4月封切りとか。

必ず、見に行くぞ!

++++++++++++++++

【11月3日】

ここ数日、古い雑誌を取り出して、読んでいる。
とくに今回の「金融危機」直前に発刊された雑誌に、
興味がある。
たとえば(Newsweek誌、8月27日号、08)。

表紙のタイトルは、「五輪後の中国」。
ついでにあちこちの雑誌を読みあさってみたが、
「金融危機」を予測した雑誌は、一誌もなかった。
つまりあのアブ・プライム問題は、ある日突然、始まり
世界を襲った(?)。
それが引き金となって、世界は、大恐慌へと
突入した(?)。

しかしこれはおかしい。
私のようなド素人でも、すでに5、6年前に、
「何かおかしい」と感じていた。
また、そういう原稿を書いていた。

最初にそれに気づいたのは、二男の卒業式に
行ったときのこと(2001年)。
あの9・11テロ事件が起きる、ちょうど半年ほど
前のことである。

ごくふつうの、平均的なサラリーマンですら、
日本では考えられないような大豪邸に住んでいた。
そういう大豪邸が、2000万円も出せば、
手に入った。

ドルは過大に評価されていたし、強いドルをよいことに、
アメリカは、世界中から富をかき集めていた。
わかりやすく言えば、そういうドルを買い支えていたのが、
当時の、(今もそうだが)、この日本である。

私はそういう大豪邸が、ズラリと建ち並んでいるのを
見て、少なからず、驚いた。
驚いたというより、頭にきた。
「たいした産業もなく、たいして働きもせず、どうして
こんないい家に住めるのだ!」と。

が、そのアメリカ経済が崩壊した。
それは当然であるとしても、世界は、そのおかげで、
メチャメチャ。
なにかがおかしい?、と感じた段階で、もっと早く
手を打っておけば、こんなことにはならなかった。

そういう意味で、過去の雑誌を読み返してみるのは、
それなりに参考になる。

+++++++++++++++++

●息子たち

私の3人の息子たちで、最大の(よい面)は、3人とも、人にやさしいこと。
やさしすぎるほど、やさしい。

長男が勤める会社(製造会社)は、大きく分けて3つの部門に分かれている。
身体に障害がある人たちが多く集まっている、A工場。
外国からの労働者が多く集まっている、B工場。
それに専門的な製品を製造している、C工場。
長男は定期的に、それら3つの工場を回りながら、それぞれの仕事の指導をしている。
しかし定時に帰ってきたことがない。
「残業している外国人や、身体に障害がある人がいると、帰れない」と。

それについて昨夜、ワイフがこう言った。
「私たちの財産は、3人の息子たちね」と。

その長男が、おとといの夜、社長や専務と、会食をしてきたという。
それを聞いて、うれしかった。
どういうわけか、うれしかった。
このところ我が家は、暗いニュースばかり。
その暗い部屋に、明るい電気が灯(とも)ったよう。

二男も、2人の息子と娘(=私の孫)に、大声で怒鳴ったことがない。
何かを説得するときは、30分でも、1時間でも、時間をかけて、説明するのだそうだ。
そういう根気のよさが、孫たちのあの明るい表情となって、現れている。

三男のやさしさについては、私も驚くほど。
いつも他人にことばかり、心配している。
他人のために、動き回っている。

どうして息子たちがそうなったかについては、私自身もよくわからないが、
ひとつだけはっきりしていることがある。
ワイフが惜しみない愛を、無条件に与えてきたこと。
私はワイフが、息子たちに向って、怒鳴ったり、叱ったり、あれこれと説教をして
いる姿を、見たことがない。
いまどき、こういうことを書くと、不思議に思う人もいるかもしれないが、私のワイフは、
息子たちに向って、「勉強しなさい!」とさえ、言ったことさえない。
本当に、ない!

そういうワイフの(心の余裕)が、息子たちを、やさしい子どもにした。

今にして思うと、私のワイフは、最高にすばらしい母親だったということになる。
(今も、そうだが……。)

長男も最近、そう言った。
「ママは、すばらしい」と。
二男も以前から、口癖のように、そう言っている。
三男も、そのうち、ワイフのすばらしさが、わかるようになるだろう。

こういう家族の中にあって、ひとりだけ取り残されているのが、この私。
みなに嫌われ、みなに軽蔑されている。
どこの家庭でも父親というのは、そういうものかもしれない。
が、まあ、私は私で自分の道を進むしかない。
息子たちの成長を、陰で喜びながら・・・。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●早熟な(?)子ども

【Dさんから、はやし浩司へ】

はじめまして。先日M市のM幼稚園での講演を、楽しく興味 
深く拝聴いたしました者です。

 実は、5歳の息子が私のおっぱい(乳首)を触りたがって困って 
 います。息子は5歳にして、もう勃起もするようで、肉体的に早 
熟なようです。私も気持ちがわるいので、怒鳴ってやめさせてし 
 まうのですが、やはり良くないことでしょうか?

また、一人っ子の育て方で何かアドバイスがあればお願いします。
はやし先生へ

【はやし浩司からDさんへ】

 拝復

こんばんは!

お子さんは5歳ということですから、
そういうことがあっても、おかしくありません。
「早熟」というよりは、「愛情飢餓」を疑ってみてください。
慢性的な欲求不満状態と考えます。
下にお子さんがいますか?

「長男」と書いてあるところから、下にお子さんがいらっしゃる
と推察します。

もしそうなら、愛情不足、あるいは愛情への不安が原因と
 考えてください。

小3男児で、母親の乳首を求める子どもは、多いです。
また勃起については、これは無意識の反応で、
おとなの勃起とは、中身がちがいます。
(幼稚園の女児でも、異物で刺激して快感を
覚えますが、そのときおとなと同じように、
湿潤することがわかっています。)

 あまりおおげさに考えないように!

(1)求めてきたときが与え時と考え、スキンシップを
求めてきたら、ぐいと抱いてあげます。

(2)お母さんが不快に感ずることについては、
がまんせず、率直に、それを子どもに伝えます。

(3)無理にやめさせようとすると、情緒が不安定に
なりますから、注意してください。
 少しずつ、1〜2年かけて、親離れできるように
仕向けます。

 症状としては、指しゃぶりと同じように考えてください。
乳首を吸うことによって、子どもは自らの心を安定させよう
 とします。

おとなでも、そうです。

(4)手つなぎ、添い寝などをふやし、愛情飢餓にしないように
しながら、CA、MG、Kの多い食生活に心がけて 
みてください。

なお男児のばあい、小2〜3ごろから勃起を経験します。
「いじっていると大きくなった」というような感覚で、
それをとらえます。
射精するのは、女児の初潮よりやや遅いころからです。

では、

おやすみなさい。


 参考

「はやし浩司 指しゃぶり」
「はやし浩司 神経症」で
検索してみてください。

【Dさんより、はやし浩司へ】

はやし先生へ

早々のお返事ありがとうございました。
いつもガミガミしかる事が多かったので、愛情面で不安だったのか 
もしれません。これからは気をつけます!
丁寧な回答をありがとうございました。
これからもよろしく願いします。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2916)

【家族という重荷】

●家族自我群

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終わってみると、そんなものかなあと思う。
あるいはどうしてああまで負担に感じたのかなあとも思う。
しかしそのときは、そうでない。
そのときは、そのときで、その重圧感で、息ができなくなることもあった。
悶々とした気分が、まるで打ち寄せる大波のようにやってきて、私の心を押しつぶした。

その周辺に良好な人間関係があれば、まだ救われる。
同じ重荷も、軽く感じられる。
しかしその人間関係がこわれたとき、その重荷はさらに重くなる。

他人どうしなら、距離を置くことで、関係を切ることができる。
しかし家族となると、そうはいかない。
本能に近い部分にまで、(関係)が刷り込まれている。
心の中で割りこることもできない。
周囲の人たちも、それを許さない。
「親だから……」「子だから……」「兄弟だから……」と。
そういう人たちは、安易な『ダカラ論』を容赦なく、ぶつけてくる。

家族自我群による苦しみというのは、そういうもの。
しかし今、それが終わった。
8月に兄が他界し、つづいて10月に母が他界した。
兄や母が他界したさみしさ半分。
しかしほっとした気分も、これまた半分。
あとは法事など、宗教的儀式。
雑務。
それとて時の流れに身を任せばよい。
そのときがきたら、そのときに合わせて、儀式をすればよい。
雑務をこなせばよい。

あれほどまでに苦しんだ家族自我群だが、終わってみると、
乾いた風のように、それがどこかへ飛んで行ってしまった。
母の葬儀にしても、思い悩んでいたほどのものではなかった。
遺体を郷里へ運ぶべきなのか、どうか。
僧侶はどう手配すればよいのか、などなど。
そのつど私は悩んだ。
何しろ、はじめての経験で、とまどうことばかり。

(流れ)に乗っていたら、そのまま終わってしまった。
だから今は、こう思う。

「そんなものだったのかなあ」と。

++++++++++++++++++++++

●母の介護

こと母の介護についていえば、赤ん坊の世話よりはるかに楽だった。
そう感じたことは、何度かあった。
それまで毎週のように姉から電話があり、「たいへんだ」「たいへんだ」と聞かされて
いたので、それなり覚悟はしていた。
しかし実際、介護をしてみると、思ったより、はるかに楽だった。
かえって拍子抜けしてしまった。

もちろんそれなりに世話はかかる。
かかるが、母のばあい、できのよい優等生だった、
たまに「K村(母の生まれ故郷)へ帰る」と、だだをこねたことはあるが、その程度。
病気らしい病気もなかった。
持病もなかった。
92歳にして、服用しなければならない薬がないという人は、少ない。
母のばあい、便秘がつづいたようなとき、ときどき下剤をのむ程度ですんだ。

だからそういう母を基準に、「介護とは……」と論ずることは、できない。
中には、夜中じゅう、大声を出して、わめき散らす老人もいる。
しかし私の母のばあい、楽だったことは、事実。
ときには私は母の存在すらまったく忘れて、仕事したり、旅行に行くことができた。

●不愉快な干渉

こうした介護で、何より不愉快だったのは、詳しい事情も知らず、あれこれと干渉
してくる人たちがいたことだ。
年長風を吹かし、おかしないやみを言った人もいた。
用もないのに電話をかけてきて、私の家の内情をさぐろうとした人もいた。
一方的な話だけを聞き、私を一方的に悪者に仕立ててそう言うからたまらない。

しかし今になってみると、私自身もたしかに混乱していた。
まわりの人たちも混乱していた。
だれが悪いのでもない。
みな、心の余裕を失っていた。
ささいなことを大げさにとらえ、それに敏感に反応した。

しかしこれだけは言える。
幸福な家庭は、みな、よく似ている。
しかし不幸な家庭は、みな、ちがう。
千差万別。
その事情も、これまた複雑。
たとえ近親者ではあっても、家庭問題には、口を出さないこと。
干渉するなどとは、もってのほか。
相手から相談でもあれば話は別だが、そうでないなら、そっとしておいてやることこそ、
思いやりというもの。
私は一連の母の介護を通して、それを学んだ。

●今、苦しんでいる人たちへ

人には、それぞれ無数の糸がからんでいる。
その糸が、ときとして、その人をがんじがらめにする。
身動きをとれないようにする。
ときに進むべき道まで決めてしまう。

それを「運命」と呼ぶなら、たしかに運命というのはある。

で、その運命を感じたら、運命は、静かに受けいれる。
それに身を任せて、その流れの中に、自分を置いてみる。
たとえば私は、こんなふうに考えた。

兄が死んだとき、郷里での葬儀の話がもちあがった。
そのときのこと。
私は、葬儀のため、○百万円の出費を最初から覚悟した。
土地がら、冠婚葬祭だけは、必要以上に派手にする。
「葬儀だけは、借金をしてでもしろ」と言う人もいる。

つまり最初にそう覚悟してしまえば、あとは楽。
葬儀をアレンジしてくれた郷里の義兄には、はいはい、そうですとだけ言いながら、
それに従った。
従うことができた。

家庭にも、家族にも恵まれず、私の犠牲になった兄に対する、それが私のせめてもの、
つぐないでもあった。
今の私の幸福感と比べたら、○百万円なんて、何でもいない。
とたん、肩からスーッと力が抜けた。

もちろんお金だけの問題ではない。
家族自我群の問題には、つねにこうした重圧感がともなう。
しかし受けいれてしまえば、何ともない。
へたに逆らうから、運命は悪魔となり、キバをむいて、私たちに襲いかかってくる。

●宗教観

今回、兄と母の葬儀を連続して経験してみて、そのつどツンツンと心にひかかったのが、
宗教観のちがいである。

私が喪主ということで、葬儀社にしても、あれこれとこまかい指示を私にしてきた。
あいさつの仕方から始まって、焼香の仕方などなど。
僧侶のほうからも、いろいろと指示があった。
私はあえて、それには逆らわなかった。
逆らったところで、どうしようもない。

葬儀というのは、(私)を超えた、別の大きな(川)の中でなされる。
へたに逆らって、波風をたてるくらいなら、静かに黙っていたほうがよい。
もちろん私には私の宗教観がある。
「こうしたい」「ああしたい」という思いのほか、「どうしてこんなことをしなければ
ならないのか」とか、「どうしてここまでしなければならないのか」という思いもあった。

しかしそれはそれ。
周囲のどの人をとっても、自分の宗教観を論じあうような相手ではない(失礼!)。
そういった宗教観を理解できるような人たちでもない(失礼!)。
またそんな場所を借りて、宗教論争をしても、意味はない(失礼!)。
『長いものには巻かれろ』という格言は、こういうときのためにある。
はるかにそのレベルを超えてしまえば、儀式は儀式として、割り切ることができる。

それで満足する人たちがいれば、そういう人たちを、それなりに満足させてやる。
葬儀というのは、基本的には、その程度のこと。
それ以上の深い意味はない。
あるはずもない。

●あと始末

葬儀のあと、いろいろな手続きが重なった。
区役所へ足を運んだり、相続手続きで司法書士事務所へ足を運んだり……。
母名義の貯金通帳の解約すら、今では簡単にできない。

また現在、実家の仏壇は、空家となった実家にある。
仏壇の移動もしなければならない。
またそのつど、「精(しょう)抜き」「精(しょう)入れ」という儀式をしなければ
ならない。
それは母の49日の法要のあと、するつもり、などなど。

義姉(ワイフの姉)は私にこう言った。
「葬式が終わってからも、たいへんだったでしょう?」と。
それに答えて、私はすなおに、「そうでした」と答えた。
こうした一連の手続きをしながら、私が学んだことは、こういうこと。

死ぬまでに、息子たちが困らないように、身辺の整理だけは、しっかりと
しておくということ。
とくに金銭問題、財産問題。
今回、自分自身がそういった問題をかかえてみて、改めて知ったことがある。
遺産相続問題でもめている家族となると、そうでない家族をさがすのがむずかしい
ほど、多い。
金額の多少には、あまり関係ない。

億単位の遺産でもめるのは、それなりに納得もできるが、わずか数百万円、あるいは
数十万円の遺産をめぐって、喧嘩をしている家族もいる。
中には町内会で支給される慰労金(10万円単位)のことで言い争っている家族もいる。

それまでのゴタゴタが、葬儀のあとに集約されて、おおいかぶさってくる。

●教訓

要するに、こうした問題では、「いいじゃないか」というおおらかさが、大切。
それぞれの人たちが、それぞれの思いの中で、葬儀を考えている。
葬儀ほど、自己中心性が色濃く現れる場所も、ない。

母が死んだときも、Aさんは、こう言った。
「昨夜、あなたのお母さんの夢を見た」と。
Bさんは、こう言った。
「お母さんがなくなった日は、私の父の命日と同じです。奇縁です」と。
三男ですら、こう言った。
たまたま三男は、そのとき、私の家に帰省していた。
「おばあちゃんは、ぼくを待っていたんだ」と。

みな、自分を中心にして、ものを考える。
だからみな、神経質になる。
ささいなことで、ピリピリしたり、トゲトゲしくなったりする。
そこで教訓。
「いいじゃないか」と。

つまり喪主として、それを主宰するものは、かなりファジー(=いいかげんな)
な考え方を大切にする。
そう構えて、ことにあたる。

あの母にしても、生きているときは、かなりお金にこまかく、神経質だった。
小銭にうるさかった。
しかしそんな母でも、死んだときには、財産と言えるものは、ほとんど、なかった。

箱いっぱいの衣服と、身の回りのコップ類くらいなもの。

私も、あなたも、みな、死ぬときは、そうなる。
だから「いいじゃないか」と。
そのおおらかさが、(家族自我群)と戦う、ゆいいつの武器となる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
家族自我群 葬儀 葬儀の心得 はやし浩司 家族の重荷)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司※

●ほめる

++++++++++++++++++++

子育ての要(かなめ)は、(1)ほめ方、(2)叱り方。

叱り方はよく話題になるが、ほめ方は、あまり
話題にならない。
元来、日本人というのは、人をけなすのは得意だが、
もちあげるのが苦手。
子どもに対しても、ほめるということを、あまりしない。

とくにおとなの間では、ほめられることに嫌悪感を
覚える人さえいる。
「私はできないから、わざとこうしてみなに、ほめられる
のだ」と。

つまり(ほめる)ということに、(裏)を感じてしまう。
これには理由がある。

まずほめる側の問題。
ほめる側は、つねに下心をもって、相手をほめる。
何かの利益をそこに重ねる。
会社などにおける表彰が、その一例である。

一方、ほめられる側は、ほめられながらも、相手の
下心を読もうとする。
「何か、あるぞ」とか、「どうしてほめられるのか?」と。
こうしてほめる側も、ほめられる側も、そこに(裏)を
感じ取ろうとする。
こうした傾向は、年配の人ほど、強い。

こんなことがあった。

いつもは静かなA子さん(年長女児)が、その日はちがった。
ハイハイと、元気よく手をあげた。
そこで私は、すかさず、A子さんをほめた。

で、その日のレッスンが終わったあとのこと。
廊下に出て、みなを見送っていると、A子さんの
おばあさん(祖母)が、A子さんにこう言っているのを
聞いた。

「あなたは、できないでしょ。だからああして先生が
わざとほめてくれるのよ。わかる?」と。

++++++++++++++++++++

●ほめて伸ばす、欧米の教育

欧米では、子どもをほめて伸ばす。
それが教育の基本になっている。

それに比較して日本では、子どもを
よく叱る。
叱るのが、教育の基本になっている。

このことはアメリカの小学校などで、
授業を参観させてもらうと、よくわかる。
聞いている私のほうが恥ずかしくなるほど、
よくほめる。

「君の意見は、すばらしい」
「君の意見には、独創的な発想が満ちている」
「君は、世界のリーダーになるべき人だ」とかなど。

親でも、人前で、自分の子どもについて、平気でこう言う。
「私は私の息子を、自慢に思っている」
「私は、お前(=息子や娘)を、誇りに思っている」など。

こうした教育観のちがいは、「教育」と「Educe(教育)」の
ちがいによる(田丸謙二先生指摘)。

「教育」というのは、「教え育てる」こと。
つまり日本の教育は、子どもを「型」にはめることを、
柱にしている。

これに対して「Educe」というのは、もともと「引き出す」
を意味する。
Education(教育)の語源にもなっている。
つまり「子どもの中から、才能を引き出すのが教育である」と。

さらに言えば、日本の教育は、寺小屋が基本になっている。
わかりやすく言えば、本山における小僧教育が基本になっている。
自由な思索、自由な発想そのものを許さない。
それが明治時代の学校教育の基本となり、今につづいている。

子どもをすなおに、ほめる。
何でもないことのようだが、これがむずかしい。
教師自身、親自身も、自由な発想を許容する
心の広さが必要である。

ただしほめるといっても、(努力)と(やさしさ)。
この2つについては、遠慮なくほめる。
(顔)や(スタイル)はほめない。

(頭)については、ほめるときと場所を、よく考えながら
ほめる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子供のほめ方 褒め方 叱り方 叱りかた しかり方)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

【資料】(ヤフー・ニュースより、11月6日、2008)
学習指導要領
学習指導要領とは、学校が児童・生徒に教えなければならない学習内容など教育課程の最低
基準。国公私立の小中高校と特別支援学校が対象で、1947年に試案が示されて以降、約10
年ごとに改定されている(東奥日報 ニュース百科)。
2002年に改訂された学習指導要領では、「ゆとり教育」が重視され、完全週休5日制や学習内
容の削減が行なわれた。学力低下を懸念した保護者が、学習塾などに通わせる動きが強まっ
た(All About用語集)。 
新しい学習指導要領(2008年)
"新しい学習指導要領 - 文部科学省 
oQ&A 
o幼稚園教育要領 解説(PDFファイル) 
o小学校学習指導要領 解説 
o中学校学習指導要領 解説 
"改正通知
学習指導要領改訂のポイント
改正教育基本法等を踏まえた学習指導要領改訂 
「生きる力」という理念の共有 
"基礎的・基本的な知識・技能の習得 
"思考力・判断力・表現力等の育成 
"確かな学力を確立するために必要な時間の確保 
"学習意欲の向上や学習習慣の確立 
"豊かな心や健やかな体の育成のための指導の充実 
授業時間の増加
"小学校
教科国語社会算数理科生活音楽図工家庭体育道徳外国語総合特活合計
新時間数14613651011405207358358115597209702802095645
現行時間数1377345869350207358358115540209-4302095367
※色つきは増加する教科・6年間の合計標準時間時数<1単位45分・授業は年間35週(1年生
は34週)>
"中学校
教科国語社会数学理科音楽美術保体技家外国語道徳総合特活選択教科合計
新時間数385350385385115115315175420105190105-3045
現行時間数350295315290115115270175315105210〜335105155〜2802940
※色つきは増加する教科・3年間の合計標準授業時数<1単位時間は50分、授業は年間35週


小学校
国語・社会・算数・理科・体育の授業時数を6学年合わせて350時間程度増加
中学校
国語・社会・数学・理科・外国語・保健体育の授業時数を400時間(選択教科の必修状況を踏ま
えると230時間)程度増加
授業時数の増加について文部科学省では、「詰め込み教育」への転換ではなく、主に『つまず
きやすい内容の確実な習得を図るための繰り返し学習』、『知識・技能を活用する学習』(観察・
実験やレポート作成、論述など)を充実するために行うとし、学校週5日制は継続するとしてい
る。
実施スケジュール
"小学校
年度(平成)20年度21年度22年度23年度24年度
学習指導要領周知先行実施→全面実施→
教科書編集検定採択・供給使用→
"中学校
年度(平成)20年度21年度22年度23年度24年度
学習指導要領周知先行実施→全面実施
教科書−編集検定採択・供給使用
※新しい学習指導要領のパンフレットを作成し配布している。(出典:文部科学省 新しい学習
指導要領パンフレット) 
教育委員会制度
教育委員会は、知事や市区町村長から独立した行政委員会として、全ての都道府県と市町村
等に設置されている。
"教育委員会制度について - 文部科学省 
"[解説]"教育委員会"ってなに? - NHK週刊こどもニュース(2008年7月19日)
都道府県教委
"全国都道府県教育委員会連合会
北海道北海道

東北青森
岩手
宮城
秋田
山形
福島

関東東京
神奈川
埼玉
千葉
茨城
栃木
群馬
山梨
信越新潟
長野

北陸富山
石川
福井

東海愛知
岐阜
静岡
三重

近畿大阪
兵庫
京都
滋賀
奈良
和歌山

中国鳥取
島根
岡山
広島
山口

四国徳島
香川
愛媛
高知

九州福岡
佐賀
長崎
熊本
大分
宮崎
鹿児島

沖縄沖縄

中央教育審議会(中教審)
文部科学大臣の諮問に応じ、教育や学術、文化に関わる政策を審議して提言する機関(みん
なの知恵蔵)。「教育制度」「生涯学習」「初頭中等教育」「大学」「スポーツ・青少年」の5分科会
がある。委員は30人以内で任期は2年(再任可)(文部科学省 中央審議会について)。
近年の答申
2008年
4月18日教育振興基本計画について−「教育立国」の実現に向けて−|概要(PDFファイル)
2月19日新しい時代を切り拓く生涯学習の振興方策について〜知の循環型社会の構築を目指
して〜(PDFファイル)|答申の概要(PDFファイル)
1月17日幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善に
ついて
1月17日子どもの心身の健康を守り、安全・安心を確保するために学校全体としての取組を進
めるための方策について
文部科学省 中央教育審議会諮問・答申・報告等 
学校選択制等について
市町村教育委員会は、設置する小学校又は中学校が2校以上ある場合、就学予定者が就学
すべき小学校又は中学校を指定することとされている。その際、あらかじめ、各学校に通学区
域を設定し、これに基づいて就学すべき学校が指定されることが一般的であるが、近年、地域
の実情に応じて「学校選択制」を導入する市町村もみられる。「学校選択制」とは、就学校を指
定する際に、あらかじめ保護者の意見を聴取して指定を行うものである。
"学校選択制等について - 文部科学省
関連する主な法律
"教育基本法(平成18年法律第120号) 
"学校教育法(昭和22年法律第26号) 
"教育職員免許法(昭和24年法律第147号) 
"義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律(昭和38年法律第182号) 
"理科教育振興法(昭和28年法律第186号) 
"食育基本法(平成17年法律第63号)
教育分野の現行法律一覧 - 法なび法令検索 
関連トピックス
"学力低下 
"教科書検定 
"不登校
(以上、ヤフー・ニュースより、11月6日、2008)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2917)

●服装の乱れ

++++++++++++++++++

H市の県立K高校が、入試で、選考基準を逸脱し(ニュース記事)、
本来なら合格していた22人の生徒について、服装の乱れなどを
理由に、不合格にしていたことがわかった。

(ヤフー・ニュース・カナロコ・11月6日配信)は、以下、つぎの
ように伝える。

『H市の県立K高校が入試で選考基準を逸脱し、本来なら合格していた22人の生徒を服装の
乱れなどを理由に不合格にしていた問題で、校内外に波紋が広がっている。不合格判断を支
持する意見が県教育委員会に多数寄せられ、在校生やその保護者からは解任された前校長
が「荒れた学校」を立て直したとして擁護する声が上がっている。一方、入試制度の根幹に触
れる事態に直面した県教委は、「ルール違反行為」とのスタンスを変えていない。

 同校の不適正入試問題をめぐり、県教委には五日までに電話や電子メールで約1110件の
意見が寄せられた。9割以上が「服装や態度で選考して何が悪いのか。選考基準になくても当
然の判断だ」などと学校側を支持する内容。「子供の学ぶ機会を奪った」などと問題視した意
見は15件ほどという』(以下、略)と。

+++++++++++++++++

この記事を読んで、ふと思い浮かんだのが、隣のK国での事件。
先月(08年10月)、あの金xxが、サッカー観戦をしたという。
そのときのこと。
選手たちの長髪が不潔ぽいという理由で、金xxは、選手たちの
長髪を切らせてしまったという。
「長髪が不潔ぽい」という発想そのものが、時代錯誤。
それを切らせてしまうというのも、どうかと思う。
……というより、まさに独裁的。

それはさておき、「服装の乱れ」について。
まず誤解してはいけないのは、(自由な服装)と(乱れた服装)とは、別。
さらに(清潔な服装)と(不潔な服装)とは、別。
また(制服)というのは、ある一定の着方を前提としている。
記事をていねいに読むと、「入試選抜で……」とある。
不合格になった22人は、その入試会場で、乱れた服装(?)をしていたらしい。
それで不合格になったわけだが、どういう服装をしていたかについては、
だいたい察しがつく。
詳しくはかけないが、「ああ、ああいう服装だったんだな」と思っている人も、
多いことと思う。

で、もうひとつ誤解してはいけないことがある。

「乱れた服装」というとき、それがたまたまそのとき「乱れていた」というのも
あるだろう。
たとえばたまたま学生服のボタンがはずれていた程度では、「乱れた服装」とは、
言わない。

実際には、「乱れた服装」というときは、「乱れた学習態度」の象徴としての
服装をいう。
もう20〜30年も前から、とくに公立高校では、このタイプの学生が問題に
なっている。
ふつうの(乱れ方)を想像してはいけない。

ある高校の教師(東京都内の公立高校)はこう言った。
「うちでは、授業中に運動場でバイクを乗り回しているのがいる」と。
それを聞いて、別の教師がこう言った。
「運動場ならまだいいよ。うちなんか、廊下で乗り回しているのがいる」と。

それから20〜30年。
中身こそ異なるが、こうした傾向は、今もつづいている。
しかも低年齢化している。
最近では、小学生の茶髪も珍しくない。
それについて小学校の教師が、「茶髪はやめさせてほしい」と親に頼んだところ、
その親は、こう答えたという。
「どんなかっこうをしようが、それは個人の自由だ」(浜松市内B小学校)と。

学校教育に幻想をもっている人は、「そういう子どもこそ、教育の対象になるべき」
と思うかもしれない。
頭のどこかであの金八先生のような教師を連想する。
しかし幻想は、幻想。

私の教室のような小さな教室ですら、こんな事件があった。

ある日、双子の兄弟が私の教室へ入ってきた。
小学3年生だった。
すでにそのとき、かなり強い免疫性をもっていて、私の静かな指導になじむような
子どもではなかった。
「免疫性」というのは、学校でも、また家庭でも、かなりきびしいしつけを受けて
いたということ。

ほどほどにまじめに(?)椅子に座っていたのは、数週間程度。
それ以後は、教室内で平気でボール投げをしたり、気分がのらないと、
寝ころんでゲームをして遊んだりしていた。

そこでクラスの人数を4〜5人にまで減らし、かつワイフに手伝ってもらうようにした。
が、いっこうに学習態度は、改まらなかった。
叱っても、励ましても、無駄だった。

で、ある日母親にそのことを告げようとしたが、母親のほうが、怒ってやめてしまった。
子どものほうが先手を打って、私の悪口を家で言いつづけていたためらしい。

小学生でもむずかしい。
中学生ともなると、さらにむずかしい。
そういう現実を知っているから、あるいは経験しているから、学校側としては、
「乱れた服装」にどうしても、神経質になる。
その学校がそう判断したかどうかは知らないが、「最初から学ぶ姿勢のない学生は、
入学、お断り」と判断したところで、私は無理からぬことではないか。

『入試制度の根幹に触れる事態に直面した県教委は、「ルール違反行為」とのスタンスを変
えていない』(同)ということだが、見方を変えると、「その程度の判断すらしてはいけな
い」というのであれば、では「校長とは何か」という問題にまで、いってしまう。
さらに言えば、「入試とは何か」という問題にまで、いってしまう。

同報道によれば、校長を支持する書き込みが90%以上もあったという。
「荒れた服装」というのが、どういうものであり、何を意味するか知っている人ほど、
校長を支持するのではないか。

教育は理想だけではできない。
学校だけでもできない。
「子供の学ぶ機会を奪った」という意見も理解できなくはないが、中には、
ほかの子どもたちが学ぶ機会そのものを破壊してしまう子どもさえいる。
入学後、「退学」「停学」という処分方法もあるが、そこまでに至る過程が、
たいへん。
たいていそれまでにクラスはメチャメチャ、教師たちは疲労困ぱい。
親たちとは、怒鳴りあい。
あるいは泣きつかれる。
手続きも、複雑。

さらに言えば、「乱れた服装」の子どもは、弱者でも何でもない。
かわいそうな子どもたちとは思うが、弱者ではない。
たとえば貧困や障害が原因で、教育を受けられないというのであれば、みなが
力を合わせて、そういう子どもは守らなければならない。

また「ルール違反」とはいうが、学力だけをみて入学の許可、不許可を出す現行の
ルールのほうが、現実離れしている。

(付記)

ただし法律的には、校長を解雇処分にした教育委員会も、やむをえなかった。
何をもって「乱れた服装」というか、その基準もない。
さらに「乱れた服装」イコール、「乱れた学習態度」ということでもない。
反対に、校長だけの独断と偏見だけで、入試選抜が行われるようになったら、
その(ゆがみ)が、これまた思わぬところで、出てくるようになるかもしれない。

一方、私立中学校や高校では、こうした学生を排除するのが、入試選抜の
基準のひとつになっている。
となるとその受け皿となるべき公立中学校や高校までもが、そうした学生を排除
してしまったら、そうした学生はどこへ行けばよいのかということにもなる。

現実にこの日本では、学歴がひとつの人物評価の基準になっている。
だれしも「高校ぐらいは出ていないと……」と考えている。
中卒ということになれば、選べる職種も、きわめてかぎられてくる。

つまりもろもろの矛盾が、こうした問題として集約されている。
「校長を支持する」「しない」という単純な採決で、解決できるような問題ではない。

+++++++++++++++++

ここまで書いて、私は私の考えが
揺れ動いているのを知った。

荒れる学校について、もう一度、考えて
みたい。

+++++++++++++++++

●乱れる服装

1970年ごろ。
私がメルボルン大学のIHカレッジにいたときの話。
どこのカレッジでも、服装には、うるさかった。
学生は、ネクタイをしめた上、スーツの着用が義務づけられていた。
カレッジの内外を行き来するときは、ロウブと呼ばれるガウンを着用
しなければならなかった。
映画『ハリー・ポッター』に出てくるような世界を想像すればよい。

夏の暑い日は、スーツの着用は免除されたが、ネクタイは、しなければならなかった。
ネクタイをしなければ、食堂での食事も許可されなかった。
下着で素足……などという服装は、ことカレッジの中では、許されなかった。

が、そののち、オーストラリア政権は保守党から、労働党へと移り、大幅に
予算が削られた。
同時に、大学教育そのものが、大衆化した。
今では、昔の面影は、どこにもない。
カレッジというより、日本でいう、学生寮のような感じになってしまった。
カレッジの中でも学生たちは、それぞれ自由気ままな服装を楽しんでいる。

そういう変化を頭の中で思い浮かべながら、ここでもう一度、「乱れた服装」
について考えてみたい。

つまりどういう服装を、「乱れた服装」といい、また「乱れていない服装」というのか、と。

ある高校の教師に一度それを確認したことがあるが、その教師はこう教えてくれた。
「腰パンとかラッパズボンとか、女子で言えば、スカートのすそ上げや、ルーズソックスをさげた
りすることです」と。
私立学校のばあい、学校独自の判断で、即停学、もしくは退学処分になるので、そうした服装
をする子どもは、少ない。
しかし公立学校のばあい、それがままならない(?)。
そこで「服装の乱れ」が、いつも問題となる。

が、先にも書いたように、「自由な服装」と、「乱れた服装」とは、ちがう。
どうちがうかと問われると、言葉につまるが、いくら服装が乱れていても、学習態度がしっかり
している子どももいれば、そうでない子どももいる。
私だって、夏場は、パジャマのまま書斎に入り、朝食がすむころまでその姿で、パソコンで文章
をたたいている。

一方、服装が乱れていなくても、学習態度が乱れている子どもも少なくない。
だから一方的に、服装が乱れているからといって、学習態度に問題があるとは言えない。
しかし常識のある人なら、「入試選抜のときぐらい……」と考える。
「入試選抜のときぐらい、服装を整えるのは、常識ではないか」と。
つまりそういう(場)ですら、「乱れる」というのであれば、問題外と考えてよいのでは(?)。

そこで当の校長は、入学を不許可とした。
報道によれば、その校長は荒れた学校の建て直しに尽力していたという。
乱れた服装で入試選抜にやってきた子どもを見て、さらに危機感を覚えたとしても不思議では
ない。
インターネットなどへの書き込みで、校長に同情する意見が、90%以上だったというのは、そ
ういう理由によるのでは?

教育委員会の判断はともかくも、(というのも、教育委員会としても、やむをえなかっただろうか
ら)、教師たちの本音を言えば、こうだ。
「もとから勉強したくない学生は、高校へなど、来るな!」。

高校は、現実はどうであれ、日本の学校教育法によれば、義務教育外。
しかも中身はどうであれ、(おとな)である。
それでも「どんな服装でも自由」と主張するなら、もう一度、「自由」の中身を吟味してほしい。
「自由」とは、もともと「自らに由(よ)る」という意味である。
「自分で考え」「自分で行動し」「自分で責任を取る」ことを、自由という。

校長の処分取り消しのために署名活動が始まったという。
「ルール違反」は、「ルール違反」。
だとするなら、今度から入試選抜の募集要領に、一言、こう書き加えればよい。
「服装が常識の範囲を逸脱して乱れている志願者は、入学を不許可とすることもあります」と。

しかしそれもむずかしいかな……?

●島田

今日、島田市のK小学校で講演をさせてもらった。
体育館での講演だったが、みなさん、真剣に聞いてくれ、話すほうも力が入った。
時間はちょうど1時間40分。
私としては、いちばん話しやすい時間の長さである。

帰りにミカンを一箱もらった。
駅で電車を待つ間に、一個、皮をむいて食べた。
おいしかった。
K地域は、お茶とミカンの産地だそうだ。
途中、川が美しく流れていた。
「いいところだなあ」と、何度も、そう思った。

●再び、服装の乱れ

島田駅のプラットフォームの椅子に座っていると、ちょうど学校帰りの高校生の一団といっしょ
になった。
ぞろぞろと並んでやってきた。
「服装の乱れ」とはいうが、どの高校生も、一様に乱れて(?)いた。
今では、学生服にしても、きちんと(?)着ている学生など、ほとんどいない。
それに静岡市から乗り込んだのだろう。
大学生らしき学生たちも座席に並んでいた。

だらしないと言えば、だらしない。
しかし学校の教師だって、今ではほとんどがトレーナー姿である。
スーツを着て授業に臨んでいる教師など、ほとんどいない。
(これは公立の小中学校についてだが……。)
子どもの側からすれば、「先生だって……」ということになる。

となると、「服装の乱れ」とは何か、ますますわからなくなる。
あるいはアメリカの中高校のように、服装は自由化してしまってもよいのではないか。
へたに制服を押しつけるから、「乱れ」が問題になる。
それに今は、そういう時代ではない。
子どもたちに制服を押しつけ、画一教育をするような時代ではない。
……ということを書くと、「ますます服装が乱れるのでは?」と心配する人もいる
かもしれない。

そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
大切なのは、子ども自身の(学ぶ姿勢)である。
それがあれば、どんな服装でもかまわないということになる。
それがなければ、どんなに服装がきちんとしていても(?)、問題ということになる。

ただ現在のように、(乱れた服装)が、(学ぶ姿勢のない子ども)の象徴のように
なっているのを見ると、乱れた服装をそのまま容認するわけにはいかない。
先日もある高校の前を通ったら、乱れた服装の学生たちが、校門前で、座り込んで
何やら話をしていた。
校門のところには、「○○文化祭」という看板が立てられていた。

かわいそうな学生たちである。
考えようによっては、孤独な学生たちである。
そういう学生たちが、仲間に入ることを自ら拒否して、その外の世界で、つっぱっている。
精一杯、自分たちのやり方で、自己主張を繰り返している。
彼らにしてみれば、それしか自分を主張する方法がない。
「学ぶ姿勢」といっても、その多くは、その基礎力さえない。
またその多くは、不幸にして不幸な家庭環境で育った子どもたちと考えてよい。

フ〜〜〜ン……。

「服装の乱れ」の問題は、思ったより「根」が深い。
どんどんと考えていくと、「教育とは何か」という部分にまで、入り込んでいってしまう。
こうして私なりの意見を書きながらも、気持ちが右に揺れたり、左に揺れたりする。

では、どうしたらよいか?

今のように、「学校を離れて道はない」という世界のほうが、異常だということ。
子どもが成長していく過程は、けっしてひとつであってはいけない。
もっと多様性のある、別の道を用意するのも、教育のあり方ではないだろうか。

つまり「服装の乱れ」の問題は、日本の教育制度の矛盾そのものを問う問題と考えて
よい。

+++++++++++++++++

以前、尾崎豊の「卒業」について書いた
原稿を添付します。

+++++++++++++++++

若者たちが社会に反抗するとき 

●尾崎豊の「卒業」論

学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中で
こう歌った。「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えて
いた」と。「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実にはコース
があり、そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれ
を、「♪幻とリアルな気持ち」と表現した。

宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢をも
てばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。ほん
の一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえること
ができる。大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪放
課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。

●若者たちの声なき反抗

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、
腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張している
だけだ。それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。そういう弱
者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめなんてできや
しなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。

実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が二億円もあるようなニュースキャスター
が、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な衣装を身につけて
いるテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難民への寄金を訴える。こういうのを見せつ
けられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎はそのホコ先を、学
校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。もちろん窓ガラスを壊すという行為
は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思いつかなかったのだろう。いや、そ
の前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。

●CDとシングル盤だけで二〇〇万枚以上!

 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超えた(CB
Sソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたもの
も含めると、さらに多くなります」とのこと。この数字こそが、現代の教育に対する、若者たち
の、まさに声なき抗議とみるべきではないのか。

(付記)
●日本は超管理型社会

 最近の中学生たちは、尾崎豊をもうすでに知らない。そこで私はこの歌を説明したあと、中学
生たちに「夢」を語ってもらった。私が「君たちの夢は何か」と聞くと、まず1人の中学生(中2女
子)がこう言った。「ない」と。「おとなになってからしたいことはないのか」と聞くと、「それもない」
と。「どうして?」と聞くと、「どうせ実現しないから」と。

もう1人の中学生(中2男子)は、「それよりもお金がほしい」と言った。そこで私が、「では、今こ
こに1億円があったとする。それが君のお金になったらどうする?」と聞くと、こう言った。「毎
日、机の上に置いてながめている」と。ほかに5人の中学生がいたが、皆、ほぼ同じ意見だっ
た。今の子どもたちは、自分の将来について、明るい展望をもてなくなっているとみてよい。こ
のことは内閣府の「青少年の生活と意識に関する基本調査」(2001年)でもわかる。

 15〜17歳の若者でみたとき、「日本の将来の見とおしが、よくなっている」と答えたのが、4
1・8%、「悪くなっている」と答えたのが、46・6%だそうだ。

●超の上に「超」がつく管理社会

 日本の社会は、アメリカと比べても、超の上に「超」がつく超管理社会。アメリカのリトルロック
(アーカンソー州の州都)という町の近くでタクシーに乗ったときのこと(2001年4月)。タクシー
にはメーターはついていなかった。料金は乗る前に、運転手と話しあって決める。しかも運転し
てくれたのは、いつも運転手をしている女性の夫だった。「今日は妻は、ほかの予約で来られ
ないから……」と。

 社会は管理されればされるほど、それを管理する側にとっては便利な世界かもしれないが、
一方ですき間をつぶす。そのすき間がなくなった分だけ、息苦しい社会になる。息苦しいだけな
らまだしも、社会から生きる活力そのものを奪う。尾崎豊の「卒業」は、そういう超管理社会に
対する、若者の抗議の歌と考えてよい。

(参考)
●新聞の投書より

 ただ一般世間の人の、生徒の服装に対する目には、まだまだきびしいものがある。中日新
聞が、「生徒の服装の乱れ」についてどう思うかという投書コーナーをもうけたところ、一一人の
人からいろいろな投書が寄せられていた(2001年8月静岡県版)。それをまとめると、次のよ
うであった。
女子学生の服装の乱れに猛反発     ……8人
やや理解を示しつつも大反発      ……3人
こうした女子高校生に理解を示した人  ……0人

投書の内容は次のようなものであった。

☆「短いスカート、何か対処法を」……学校の校則はどうなっている? きびしく取り締まってほ
しい。(65歳主婦)

☆「学校の現状に歯がゆい」……人に迷惑をかけなければ何をしてもよいのか。誠意と愛情を
もって、周囲の者が注意すべき。(40歳女性)

☆「同じ立場でもあきれる」……恥ずかしくないかっこうをしなさい。あきれるばかり。(16歳女
子高校生)

☆「過激なミニは、健康面でも問題」……思春期の女性に、ふさわしくない。(61歳女性)

●学校教育法の改正

 校内暴力に関して、学校教育法が2001年、次のように改定された(第26条)。
 次のような性行不良行為が繰り返しあり、他の児童の教育に妨げがあると認められるとき
は、その児童に出席停止を命ずることができる。

一、他の児童に傷害、心身の苦痛または財産上の損失を与える行為。
二、職員に傷害または心身の苦痛を与える行為。
三、施設または設備を損壊する行為。
四、授業その他の教育活動の実施を妨げる行為、と。

文部科学省による学校管理は、ますますきびしくなりつつある。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov・08++++++++++++++はやし浩司

●兄弟の確執

++++++++++++++++

近く、ワイフと映画『ブーリン家の姉妹』を
見に行くことになっている。

王は、妹のほうを見そめた。
しかし結婚した相手は、姉のほう。
姉はそののち、エリザベス(1世)を
名乗ることになる。

いっぽう、妹のメアリーは、女王の
嫉妬もからんで、へき地に幽閉される。

+++++++++++++++++

映画は映画。
私たちは、一歩退いた視点で、こうした映画を見る。
ひとつのドラマとして、それを見る。
しかし当事者たちは、どうだったか?
ただのドラマだったのか?
こういう例がある。

昔、私の家の近所に、A氏とB氏が住んでいた。
A氏とB氏は、兄弟だった。
A氏は金物屋を経営し、B氏は、そこから40メートル
ほど離れたところで、飲食店を経営していた。

弟のB氏が先に結婚し、つづいて兄のA氏が結婚した。
A氏が結婚した相手は、色白の、たいへん美しい女性だった。
が、それが災いした。
それから数年後、B氏とA氏の妻が、不倫関係にあることが、近所中に知れわたって
しまった。
当時高校生だった私の耳にも入ったくらいだったから、近所で、それを知らない人はなかった
のでは……。

で、そののち、A氏とB氏は、どうなったか?
A氏は妻と離婚。
B氏は酒に溺れるようになり、飲食店を閉店。
同時に、A氏とB氏は、「縁を切った」。

兄のA氏にしてみれば、「弟のBが、我が家をめちゃめちゃにした」ということになる。
こうした話は、許すとか、許さないとかいうレベルの問題ではない。

それから約20年後。
A氏とB氏の母親と父親が、2年の間に、つづいて他界した。
(この葬儀についても、A氏とB氏は、毎週のように怒鳴りあうような大げんかを繰り返したとい
う。
それについては、詳しくは知らない。)

A氏とB氏の親は、かなりの財産を残した。

当時の雰囲気としては、長男であるA氏が、財産を相続するということになっていたが、それに
弟のB氏が応じなかった。
遺産相続の放棄にも、協議分割にも応じなかった。
そこで家庭裁判所における調停ということなったが、その過程で、A氏も、そしておそらくB氏
も、神経をとことんすり減らした。

A氏はいつだったか、こう言ったという。
「弟に会うだけでも、怒りで体が震えてくる。電話で声を聞いただけでもそうなる」と。
仏教の世界にも、『怨憎会苦』という言葉がある。
生老病死と並んで、八苦のひとつにもなっている。
「会いたくない人と会わなければならない」というのは、それだけでもたいへんな苦痛を
ともなう。
こうした苦しみは、経験したものでないとわからない。

さてブーリン家の姉妹。
姉妹といいながら、その確執には相当なものがあったはず。
とくに妹にしてみれば、恋人であった王に対してはもちろんのこと、実の姉にも、はげしい怒り
を覚えていたはず。
姉は妹を裏切った。
裏切って、王妃になった。
そればかりか、姉は女王になったあと、妹の自分をへき地へ幽閉した。
最後は、妹のメアリーは、(これは史実かどうかは知らないが)、女王暗殺の濡れ衣を着せら
れ、処刑されることになる。

いろいろな確執がある。
わかりやすくいえば、(こだわり)。
しかしこれほどまでにスケールの大きな(?)確執は、ほかにない。
私の近所で起きた不倫事件など、それとくらべたら、ただの痴話ばなし(失礼!)。
中身は似ているが、どこにでもある、ただの痴話ばなし。

つまりそのあたりの確執を、映画『ブーリン家の姉妹』は、どう描いているか。
興味津々(しんしん)といったところ。
映画を見るのが楽しみ。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov・08++++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2918)

●子どものトイレ掃除

++++++++++++++++

先日、郊外のM中学校で、中学生を
相手に講演をさせてもらった。

その席でのこと。
約250人の子どもたちの中で、
家でトイレ掃除をいつもしている
子どもは、たったの1人だけだった!

++++++++++++++++

学校でのトイレ掃除について、こんな興味深い記事が、ヤフ^・ニュースに載っていた。

++++++++以下、(ヤフー・ニュース・カナロコ・11月5日配信)++++++

 横浜市教育委員会が、特別支援学校を除く全市立学校計500校で、児童・生徒によるトイレ
清掃をおよそ30年ぶりに復活させることが4日(11月4日)、分かった。

対象は小学3年生以上の予定。今月中旬以降、モデル校の小中学校十校前後に順次導入
し、2009年度を試行期間と位置付けた上、10年4月から全校で本格実施する。教職員から
は「身の回りのことを自らできるようになるのは重要」「感染症など衛生面に問題がある」など
賛否両論が出ている。

 市教委によると、県内の公立学校では、横浜市の児童・生徒だけが全くトイレ清掃をしていな
い。トイレという共有スペースの便器や床、ドア、ノブなどを掃除することで、物を大切にする心
や規範意識を養おうという狙い。

少子化の影響からか、個人中心の考え方をしがちな子どもが増えているため、「公共の精神」
を育てる目的もあるという。

++++++++以上、(ヤフー・ニュース・カナロコ・11月5日配信)++++++

私も自分でトイレ掃除をするようになったのは、29歳のとき。
自宅をもったときからだった。
が、それまでは、したことがなかった。

さらに教室のトイレ掃除をするようになったのは、ここ20年ほどのことである。
それまでは、ワイフに頼んでやってもらっていた。

今では、こと自宅のトイレについては、そこで食事ができるほど(?)、いつもピカピカに磨くよう
にしている。
一点のシミもなければ、汚れもない。

トイレについては、私には、大きなこだわりがある。
それについては、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。
で、その反動として、今は、そうしている。

当然のことながら、学校におけるトイレ掃除には、大賛成である。
衛生管理の問題はあるが、それは指導によって、じゅうぶん可能である。
ついでに言うなら、男子は女子トイレを、女子は男子トイレをそれぞれ掃除させたらよい。
男女の間でもちやすい偏見や幻想を、それによって解消できるかもしれない。
かく言う私は、初恋の女性(高校1年)が、ウンチをするのが、どうしても想像できなかった。
私は彼女だけは、トイレでウンチなどしないものと信じていた。(ハハハ!)
私が高校1年生のときのことである。
が、それだけではない。

「便」には、特別な意味がある。

90歳の母が私の家にやってきたときのこと。
便の始末は私がすることにしていた。
が、母は私の家にやってきて体調を崩したのか、
それからつづく1週間ほど、毎日、下痢を繰り返した。

その母の便の始末をしながら、・・・というより、それははじめてそれをした
ときのことだったが、それまでの母との確執が、ウソのように消えたのを
記憶している。

私と母の間には、いろいろあった。
ありすぎて、ここには書ききれない。
一時は「縁を切る!」「切れるもんか!」の大げんかをしたこともある。

が、そこにいたのは、ただの老婆だった。
どうしようもなく頼りなく、弱々しい老婆だった。
その母が私にこう言った。

「お前にこんなことをしてもらうようになるとは、思ってもみなんだ」と。
私も、こう言った。
「ぼくも、お前にこんなことをしたやるようになるとは、思ってもみなんだ」と。
とたん、あの母が、私が子どものころの、慈愛に満ちた、やさしい母に戻っていた。

それから6か月。
センターに入居するまで、母の世話はつづいた。
ときに、はねかえった小便を顔にかけられたこともある。
大便にしても、そうだ。
しかし私は、母の便を始末することによって、母の原点を見ることができた。
親子の原点といってもよい。
「母だって、一人の人間だった」という思いは、いつしか、「私だってそうではないか」
という思いに変わっていった。

たがいに仮面や体裁をかなぐり捨てたとき、私たちははじめて、たがいの本当の姿を知ること
ができる。

少しおおげさかもしれないが、トイレ掃除には、そういう意味もある。

男子だって、女子が自分たちとはちがわない、臭くて汚いウンチや小便をすることを知ればよ
い。
女子だって、男子が自分たちとはちがわない、臭くて汚いウンチや小便をすることを知ればよ
い。
そういう経験を通して、人間としての共通感覚を養えばよい。

で、今では「便」に対する考え方が、私のばあい、大きく変わってきた。
「汚いもの」という感覚は、(今でもないわけではないが)、以前とはちがって、かなり薄れてき
た。
「食べ物が、変化したもの」という感覚に近づいてきた。
臭いや色は、それなりに克服しがたいものだが、それはしかたない。
人間は、かなり下等生物の時代から、便には嫌悪感をもつよう、本脳の一部として、
刷り込まれている。
その本脳の一部まで乗り越えることは、むずかしい。

しかしこんなこともある。

若いころ、まだ結婚した当初のことだったが、ワイフがふとんの中で、おならを出したり
すると、私はワイフをふとんの外へ蹴り出したりしていた。
しかし今は、ちがう。
ワイフのおならも、自分のおならのように感ずるようになった。
「同じものを食べているから、同じ臭いだ」と笑いあうこともある。
あのソクラテスは、「自分のクソはよい臭い」と言ったが、それは事実。
ワイフのそれについては、そこまではまだいかないが、これだけは自信がある。

いつかワイフがボケて、介護を必要とするときになっても、私はワイフの便なら、
始末してやることができる、と。
逆の立場だったら、ワイフも同じようにしてくれるだろう。
そういう信頼関係があるからこそ、そう思う。

生徒によるトイレ掃除、大賛成!
ぜひ、実行してほしい!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 生徒
によるトイレ掃除 トイレ掃除)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●言語と脳

+++++++++++++++++++

日本語を話すときと、英語を話すときは、
脳みそでも、使う部分がちがう……ということは、
私も感じていた。

最初に気づいたのは、英語だけを話しているときは
それほど疲れないが、そのつどだれかに通訳して
やるとき、おかしな疲労感を覚えたこと。

つぎに外国へ行ったようなとき、日本語モードから
英語モードに脳みそを切り替えるのに、少し
時間がかかるのを知った。

若いときはそうでなかったが、40代、50代と
なると、その切り替えにより長い時間がかかる
ようになった。

あるいは英語を長く話しているようなとき、疲労感を
覚えたとたん、日本語モードになり、英語が口から出てこなく
なることもある。

さらに最近では、英語なら英語だけを読んでいるときは、
それほど疲れないが、日本語に翻訳しようとしたとたん、
苦痛に近い疲労感を覚えるようになった。

こうした一連の現象を、今度、東京大と宮城学院女子大などの
研究チームが、科学的に証明してくれた。

+++++++++++++++++++++

時事通信は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、時事通信。08・11・6+++++++++++

外国語として学ぶ英語の文法や意味を理解する際に活動する脳の部位を、東京大と宮城学
院女子大などの研究チームが特定した。2つの部位の活動の仕方は、学習期間が長い人と短
い人とで正反対であることも分かり、研究成果は語学学習の効果を客観的に測ることに役立
つという。論文は5日付の米科学誌の電子版に掲載された。

 東大大学院総合文化研究科の酒井邦嘉准教授(言語脳科学)らの研究チームは、英語学
習を中学1年から始めた東大付属中学の生徒(短期習得群)と、小学1年から50〜70%の授業
を英語で受けている加藤学園暁秀中学・高校(静岡県沼津市)の生徒(長期習得群)とに英語
の簡単な問題を出題。機能的磁気共鳴画像診断装置(fMRI)を使い、脳の血流から、どこの
部位がどのくらい活動しているかを調べた。

 その結果、両群とも、左脳の前頭葉にある「文法中枢」と呼ばれる部分が活動していたが、
長期習得群では、成績が良い人ほど活動量が少なく、逆に短期習得群では、成績が良い人ほ
ど活動量が多くなっていた。

 また、文章の意味を理解する左脳前頭葉下部も、両群で活動。長期習得群では、問題を早く
解ける人の方が活動量が多いのに対し、短期習得群では、時間をかけて解くほど活動量が多
かった。 

++++++++++以下、時事通信。08・11・6+++++++++++

これだけの記事だけでは、論文の内容はよくわからないが、英語についていえば、こういうこと
らしい。

論理や分析をつかさどるのが左脳(スペリー、ほか)。
だから文法をつかさどる「文法中枢」が、左脳にあるというのは、納得できる。

で、英語を勉強し始めたころの子どもは、懸命に文法を考えながら、英語を話す。
言うまでもなく、文法というのは、(論理の集合)のようなもの。
「主語が三人称単数のときは、一般動詞に(−s)(−es)をつける」というのが、一例。

しかし長く英語を使っていると、いちいち文法を考えて話すことはない。
感覚的に話すことができるようになる。

だから「(文法中枢の活動について)、長期習得群では、成績が良い人ほど活動量が少なく、
逆に短期習得群では、成績が良い人ほど活動量が多くなっていた」となる。

さらに「文章の意味を理解する左脳前頭葉下部も、両群で活動。長期習得群では、問題を早く
解ける人の方が活動量が多いのに対し、短期習得群では、時間をかけて解くほど活動量が多
かった」と。

わかりやすく言えば、長く英語を使って人ほど、文章の意味を理解する左脳前頭葉下部の働
きが、瞬時に活発になり、そうでない人ほど、時間がかかるということらしい。

こうした研究結果と、冒頭にあげた私の個人的な経験がそのまま結びつくというわけではない
が、しかし自分の脳の現象を知る、ひとつのヒントにはなる。
脳というのはそれぞれの部分が、分担して仕事をし、それぞれが密接に関連しあっているとい
うこと。
そしてその活動は、経験やその量に応じて、変化するということ。
さらに言えば、関連づける、いわば連絡網のようなものまで、変化するということ。
またそれには個人差があり、みながみな、同じ脳みそをもっているわけではないということ。

言いかえると、脳みそというのは、経験や訓練によって、働く機能も変化し、進歩もすれば、退
化もするということ。

このニュースを読んで、「なるほど」と、私は感心した。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 脳の
機能 文法中枢)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●2本の映画

先週、『P.S.アイラブユー』と、『X−File、真実を求めて』の2本の映画を見た。
私の評価は、『P.S. アイラブユー』は、星1つの、★。
『X−File、真実を求めて』も、星1つの、★。
ともに駄作(失礼!)
期待はずれ。
がっかり!

まず『P.S. アイラブユー』だが、どこか男を知りつくしたような女優が、純愛を
演ずるところに、そもそもの無理がある。
そのため私は映画の中に、感情移入ができなかった。

加えてストーリー全体にも、無理がある。
最後のシーンで、元夫の母親が……(このオチの部分は映画を見てのお楽しみ)
……ということだが、「母親がそんなことまでするだろうか?」と疑問を感じた。
映画のままだとするなら、母親が、実の娘の心をもてあそんだことになる。

つぎに『X−File、真実を求めて』。
最初からモルダーとスカリーの不協和音ばかりが目立った。
スカリーがモルダーを事件に誘い込んでおきながら、途中から、「私は医師だ」
「もうFBI職員ではない」と。
スカリーはモルダーから逃げてしまう。
スカリーは、重病の子どもの治療に専念するが、映画の伏線にもなっていない。

「何が、真実を求めてだ!」と、心の中で叫んで、おしまい。
映画全体は、ロシア人の臓器売買業者を追いつめる、ただの追跡映画。
また超能力者なる男も、できすぎ。
いかにも超能力者でございます……という雰囲気が気になった。
彼は本当に超能力者だったのか、それとも、ただの仲間だったのか。
モルダーは、超能力者だったと信じた。
スカリーは、それを信じなかった。
最後の最後まで、不協和音ばかり。

スカリーも歳をとった。
モルダーは、太った。
そんな映画だった。


++++++++++++++++++++

●まずい店(失礼!)

+++++++++++++++++++++

先日、ワイフとドライブしながら、こんな話を
した。

あちこちで外食をしてきたが、「おいしい店」というのは、ある。
話題にもなる。
が、それはそれ。
一般論としては、値段が高い店の料理は、おいしい。
ホテルや旅館の料理などが、それ。

そんな話をしながら、「まずかった店」が話題に
なった。

+++++++++++++++++++++++++

おいしかった店は印象に残る。
しかしそれ以上に、まずかった店も印象に残る。
(たいへん失礼な話題とは思うが……。)
もちろん実名を公表するわけにはいかない。
公表したとたん、この世界では、訴訟沙汰になる。
私の友人などは、そのため損害賠償まで請求されている。

ワースト(5)

浜松から電車で1時間ほどのところにある、M町で食べた、ラーメン。
市販の醤油(しょうゆ)に麺を入れただけのラーメンだった。
具にゆで卵が載っていたが、あまりにもまずくて、それも食べられなかった。
3分の1ほどを食べて、ギブ・アップ!

ワースト(4)

地元のBツアーで行った先で食べた、バイキング料理(?)。
鮎の塩焼きを売り物にしていたが、生臭くて食べられなかった。
中には、同行のガイドさんに食ってかかる客もいた。
鮎を、網の上で、ほかの牛肉といっしょにして焼くという料理の仕方だった。
鮎と牛肉をいっしょにして焼くところが、おそろしい。
……というより、無茶苦茶!

ワースト(3)

N町で食べたトンカツ。
カスカスの豚肉で、不気味だった。
おまけに給仕のオバチャンが、横で、鼻の脂を指でこすっていた。
そんなオバチャンが、用もないのに、あれこれと話しかけてきた。
トンカツを一口、口へ運ぶたびに、ゲーッ!

ワースト(2)

市内にある、T寿司屋。
土曜日の夜というのに、客は、私たち夫婦、2人だけだった。
そこでの寿司。
どれも魚臭くて、食べられなかった。
わさびをたっぷりつけて、臭いを消そうとしたが、それでも臭かった。
2、3個食べて、そのまま店を出た。

ワースト(1)

昔、近くにオープンしたお好み焼き屋の焼きソバ。
開店当日ということで、みな、持ち帰り用になっていた。
で、私たちも3人前を頼んで、家に持って帰ってきた。
が、ふたをあけてギョーッ!
焼きソバが、そのまま四角い直方体に固まっていた。
やはり市販のウースター・ソースだけを、そのままかけて焼いたような焼きソバだった。
とても食べられるような代物ではなかった。
だから、そのまま生ゴミとして、ポイ。
あとで聞いたら、その店はそのあと、2〜3週間で閉店したとか。

こうして並べてみると、「ワースト」と言われるものは、麺類を出す店が
多いのがわかる。
簡単にできる分だけ、つまりだれでも簡単に店を開ける分だけ、まずい店も多いと
いうこと。

一方、本物を出す店は、それなりの歴史がある。
支持者がいる。
それに店の主人も、本気で料理している。
その(本気さ)が、食べる客に伝わってくる。

もちろん値段が安ければ、安いほど、よい。
が、中には、気取った店もある。
値段だけは一人前で、中身がない。
こういう店は、つまり私たちに嫌われた店は、寿命が短い。
こんな店もあった。

これも昔、事務所の近くにカレーライス専門の店ができた。
「一度は……」と思って入ってみたが、「まずい!」。

店長は若い男だった。
そこでそれとなく、つまり食べながら、「どこで修行しましたか?」と聞くと、
「インドへ行ってきました」と。
フ〜〜ンとだけ答えたが、「カレーはインド」という発想そのものが、「?」。
私は信じなかった。

これは料理にかぎらない。
個人で仕事をするときは、いつも本気。
本気でなければならない。
真剣勝負。
大型店が出す以上の味を出さなければ、勝ち目はない。
生き残ることはできない。

宣伝力がない分だけ、リピーターが大切。
そのリピーターが、ほかの客を連れてきてくれる。

ただし、あのテレビで紹介される店のほとんどは、「?」だから、
注意したほうがよい。
その直後には、客がどっと入ったりして、けっこう繁盛したりする。
が、本当の評価は、たとえばその1年後くらいになってみないとわからない。

たとえばこの浜松市は、「ギョーザの町」としても、知られている。
ギョーザの消費量が宇都宮市と並んで、全国1らしい。
それでよくギョーザの店が紹介される。
で、私も店の名前だけは頭の中に記憶した。

が、1年後などに行ってみると、客は閑散としていて、ほとんどいない。
テレビで紹介されたことをよいことに、あるいはそのあと客が
ふえたことをよいことに、値段をあげたらしい(?)。
言うなれば初心を忘れてしまっている。
こういう店も、寿命は短い。

(しかしテレビ局は、どういう基準で、ああした店を選んでいるのだろう?)

一般的に飲食店は、開店するのは楽だが、その分だけ、競争がはげしい。
本気で勉強し、本気で修行した人だけが、本物の味を出すことができる。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov・08++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2919)

●仏壇屋の親父

実家にある仏壇を、今度、私の家に移すことにした。
しかし古い仏壇で、仏壇そのものが、ガタガタ。

そこで買い換えることにした。
……という思いをもって、今、あちこちの仏壇屋をのぞいている。
が、値段を見てびっくり。

中型の普通クラスでも、100〜120万円。
ハーフサイズのもので、50〜70万円。

私の実家は、J宗O派。
「金仏壇」といって、キンキラキンの仏壇でなければならない。
どれでもよいというわけにはいかない。

その仏壇屋の親父ですら、こう言った。
「これからは大きな仏壇は、不要ですね。つぎの世代の子どもたちが困るだけです」と。

またその夜(昨夜)、長野に住む学生時代の友人と電話で話をした。
その友人も、同じようなことを言っていた。
「自宅に昔からの大きな仏壇があるんだが、ああいうのは、困るんだよな」と。

つまり自分の世代はともかくも、「(それを引き継ぐ)、息子たちがかわいそう」と。

ところでその友人から、こんなよい話を聞いた。
友人の家は、昔から、J真宗に属しているのだが、何でも戒名がひとつに統一された
という。

どんな人でも、戒名は、名前の一字の上に、「妙」をつけるだけ。
たとえば、「浩司」は、「妙浩」。
「晃子」は、「妙晃」。
「死者に上下の身分関係があるのはおかしい」という考え方によるものだそうだ。
しかも戒名料は、一律、3万円のみ。

そういう宗派もある。

今、日本の冠婚葬祭のあり方が、きびしく問われている。
大きく変化しつつある。
先の葬儀屋の親父の話では、「こうした矛盾は、江戸時代からあったようだが、最近に
なって、みなが、急に声をあげ始めた」と。
だからみなさん、おかしいものは、おかしいと声をあげよう。
その声がひとつに集まったとき、こういう奇習は、日本から消える。

長野の友人は、現在、年老いた父親がいるが、その父親がなくなったら、寺に、
絶縁状を渡すつもりでいるという。
私が「そんなことできるのか?」と聞くと、「檀家やめますと、言えば、それですむ」
とのこと。

……とは書きつつも、こと私の「家」に関しては、私の代では、無理だろう。
伯父や叔母たちが、まだ健在。
姉もいる。
そういう人たちの気持ちを無視するわけにはいかない。
それぞれの人には、それぞれの人の思いというものがある。
説得するという方法もあるが、70歳を過ぎた人たちにそれをするのも、難儀なこと。
簡単に妥協できるようなことは、妥協して、すませばよい。
むずかしく考える必要はない。
言うなれば、町の祭りのようなもの。
みなが仲良く暮らすことこそ、大切。

しかしそれも私の代まで。
私もワイフも、戒名は不要。
病院からそのまま火葬場へ。
家族だけでお別れ会をして、そのまま骨は、どこかへ散骨してくれればよい。
葬儀(?)は、近親者だけの密葬。
他人に知らせる必要はないし、また知らせてはいけない。
そのあとのことは、息子たちが勝手に決めればよい。
檀徒として、その寺に残るか。
それとも去るか。
それも息子たちが勝手に決めればよい。


●筑紫某氏の死亡

数日前、テレビキャスターで名を知られた、筑紫某氏が、肺がんでなくなった。
享年73歳だったという。
静かで、穏やかな語り口が、売り物だった。
私も好きだった。

が、そのニュースを聞いたとき、まっさきに頭に浮かんだのは、その筑紫某氏が、
このH市へ来たときのこと。
あれほどまでの人物になると、H市へ来たというだけで、
地方テレビ局のニュースにもなる。
どこかで講演をしたあと、中田島の砂丘のほうへやってきて、市民と対話をしたらしい。

で、そのとき司会役を務めたのが、知人のF氏だった。
そのF氏が、こう教えてくれた。
「プロモーターに渡したお金は、300万円だった」と。
つまり筑紫某氏級の講師になると、講演でも、ワン・ステージ、300万円!

もちろんその金額がそのまま筑紫某氏の収入になったというわけではない。
プロモーターが筑紫某氏との間で、どういう契約をしているか、私は知らない。
100万円かもしれない。
あるいはそれ以下かもしれない。

ともかくも、桁外れ!
「いいなあ……」と思う前に、私は、浜松の人たちがもつ(田舎根性)にあきれた。
このあたりでは、「東京から来た」「テレビに出ている」というだけで、みな、
ありがたがる。
ハハーと、頭をさげる。
それで、300万円!

……が、そういう生臭い話はともかくも、画面で見るかぎり、誠実そうな人だった。
毎日、よく勉強していたと思う。
そういう努力が、言葉のはしばしで光っていた。

ご冥福をお祈り申し上げます。


●こわいもの見たさ

このところ書店へ行くと、いつも経済誌を立ち読みしている。
気になる。
無視できない。
が、こわいもの見たさというか、ハラハラドキドキの連続。
「大不況」「大恐慌」「大恐慌」という文字が並ぶ。

大恐慌はともかくも、今度の大不況は、かなり長期化しそう。
1〜2年はつづくのでは……というのが、おおかたの専門家たちの見方である。
日本のトヨタですら、70%以上の減益。
そういうこともあって、09年度は、日米欧そろって、マイナス成長とか。

が、誤解してはいけないのは、マイナス成長といっても、収入が減るというだけでは
すまないということ。
若いころ、世界中を回りながら、こんなことを知った。

失業率が10%を超えると、街角に失業者が立ち並ぶようになる。
20%を超えると、街角に浮浪者が、ズラズラと並ぶようになる。
私はそれによって、その国のおおかたの失業率を知ることができた。
数字にだまされてはいけない。
失業率の出し方、つまり計算方法は、国によって、みなちがう。

で、仮に失業率が20%を超えるようになると、各地で暴動が起きるようになる。
とたん、政情が不安定になる。
経済誌はそこまでは書いていないが、本当にこわいのは、こちら。
長期化すればすするほど、モラルや道徳まで、崩壊する。
窃盗事件や強盗事件も続発するようになる。
1〜2年なら、何とかもちこたえるかもしれないが、10年となると、そうはいかない。
長ければ長いほど、人の心そのものがゆがむ。

日本のばあい、戦後のあの混乱期は、幸いにも数年で終わったが、中国はそうでは
なかった。
それが20年近くもつづいた。
長すぎた。
その(結果)が今である。

読めば読むほど、暗い気分になる。
なるが、やめられない。
こういうのを「こわいもの見たさ」という。
好奇心半分、恐怖心半分。

まっ、ここは静かに嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
ジタバタしても、はじまらない。
それが私の結論ということになる。


●ピン・ポク

その前日くらいまでピンピンしていて、死ぬときは、ポックリ死ぬ。
称して「ピン・ポク」。
それが理想的な人生。
生き方、死に方。

長野県に住む友人が教えてくれた言葉である。

要するに、家族に迷惑をかけない死に方ということになる。
が、現実には、そうはいかない。
死ぬといっても、簡単なことではない。
いくら迷惑をかけないと願っても、どうしても迷惑をかけてしまう。
私の母も先日亡くなったが、仮に母が安楽死を望んだとしても、
私にはできなかっただろうと思う。
「思う」というより、「ありえない」。
「浩司、迷惑をかけるから、殺してくれ」と言っても、私はぜったい、
それには応じなかっただろう。

その母は、この2月に脳梗塞を起こしてからは、ほとんど寝たきりの状態だった。

私「いやあ、現実には、そうはいかないよ。君が、息子さんに、殺してくれと
頼んでも、息子さんは応じないと思うよ」
友「そうかなあ……」
私「やっぱり、最期の最期まで、生きていてほしいと願うよ」
友「……」

私「それにね、自分の過失で死んでもらっても困る。後味が悪いから……。多分ね」
友「後味って?」
私「自分が原因で、親でなくても、人が死んだと思うのは、いやな気分だと思うよ」
友「そうだなあ」と。

この世の中、生きるのもたいへん。
死ぬのも、たいへん。
が、終わってみると、あっけないもの。
あれほどドタバタしていた母の介護も、今は終わり、すべてが静寂の過去の中に消えた。
この浜松に、母は、2年弱いたことになるが、私には、瞬間にしか思えない。
あれこれと思い出そうとするが、思い出そのものが、ない。
だからあわてて生きる必要はない。
同じように、あわてて死ぬ必要もない。
どんな生き方をしたところで、またどんな死に方をしたところで、結局は、みな、
ピン・ポク。

おもしろい言い方だとは思うが、どこか現実的でない。
たとえ死にそうな状態がつづいたとしても、私はともかくも、人は、できるだけ
長く生きていてほしい。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●眠られぬ夜

++++++++++++++++

今夜、夕食後、コタツの中で、うたた寝をしてしまった。
それがまずかった。
いつものように床に入ったが、そこで目が覚めてしまった。
「眠ろう」「眠ろう」とがんばればがんばるほど、頭が冴えてしまった。

2度、トイレに行った。
が、それでも眠られなかった。

しかたないので、起きた。
起きて書斎に戻った。
時計を見ると、午後11時。
「まだ11時だったのかあ」と思って、パソコンに電源を入れる。

++++++++++++++++

●眠られないとき

私のばあい、こうして眠り損(そこ)ねたようなときには、
睡眠導入剤をのむことにしている。
ただし量は、1回分の4〜8分の1。
こまかく割って、そのときの状況を確かめながら、のむ。
1錠ものんだら、気がへんになってしまう。
さきほど、8分の1程度を、舌の上で溶かしながら、のんだ。
そのせいか、連続してあくびが出る。

このところ睡眠調整が、ますますむずかしくなってきたように思う。
眠りたいときには寝られず、寝られないときに眠くなったりする。
今が、そうだ。

ア〜と思って書庫を見ると、ソルジェニーツィンの書いた、『がん病棟』
という本が、目に留まった。
1967年の作品だが、当のソ連では、発禁処分になった本である。
ソルジェニーツィンはこの本を通して、つまり(がん病棟)を通して、
自由のない社会主義制度を痛烈に批判した。
が、私の印象に残ったのは、そういった政治的意図というよりは、がん
病棟で見せる、さまざまな患者たちの人間模様のほうだった。

絶望する人、居直る人、生き様を追求する人、死を受け入れることができず、
苦しむ人など、など。
私はその本を読みながら、「私ならどうするだろう」と考えたのを覚えている。
「死を宣告されたら、私ならどうするか」と。

で、いろいろなプロセスを経るだろうが、死というのは、最終的には受け入れる
しかない。
生きるのも運命なら、死に至る過程も、これまた運命。
問題は、どうすれば早く、それを受け入れることができるようになるかということ。
その過程で、人は、もがき、苦しむ。

そこで私はこう考えた。
「健康なうちから、もがき、苦しむことこそ、大切」と。
わかりやすく言えば、いつも(死)と同居した生活にこころがける。
「明日、死の宣告をされてもいいように、今日を懸命に生きる」
「来月、死の宣告をされてもいいように、今月を懸命に生きる」
「来年、死の宣告をされてもいいように、今年を懸命に生きる」と。

「後悔」という恐ろしい言葉がある。
後悔が集合されたものが、絶望と考えてよい。
その後悔を、健康に生きているうちから、日々に叩きつぶしていく。
が、それでも、死の恐怖から解放されるということはないだろう。

そこで重要なことは、これはあくまでも現在の私の意見だが、
「無」をこころがけて生きるということ。
「私」から私を、どんどんと取り去っていく。
「私」が残っているかぎり、死の恐怖から解放されることはない。
しかもそれは、死の宣告を受けてから始めたのでは、遅い。
あたふたとしているうちに、あっという間に、時間だけ過ぎてしまう。
そのため健康なうちから、それも若ければ若いほど、よい。

つまりそれが賢明な生き方ということになる。

……と書いても、今の私には、まったく自信がない。
私のような人間ほど、死を宣告されたら、うろたえ、あわてふためくにちがいない。
中身がないというか、(足)そのものが、(地)についていない。
日々の生活そのものが、世俗に押し流されているだけ。
「私」というものが、どこにあるかさえ、よくわかっていない。
それに未だに、毒々しいマネー(金)の世界にどっぷりとつかっている。

ソルジェニーツィンの『がん病棟』の中には、乳房を切り取られる若い女性の
話も出てくる。
年齢を計算してみると、その女性というのは、私と同じ年代の人だったということになる。
今でも生きていれば、60歳前後になっているはず。
「今ごろは、どうしているんだろう」
「まだ生きているだろうか」
「今でも健康で生きていてほしい」と。

小説の中の女性とはいえ、今、私は、ふとそんなことを考えた。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司※

●今朝、あれこれ(11月10日)

●迷信

+++++++++++++++++

迷信のはじまり……仏壇屋のおやじが、
こんなおもしろい話をしてくれた。

「たとえばね、何かの法事をしなかった
としますね。
そのあと、何かの事故が起きたりすると、
『やっぱり、これは先祖様を供養しなかったためだ』
とかなんとか、人は思ったりするものです。

反対にね、もし法事をしたあと、何かいい
ことがあったとしますね。
すると『やはり、先祖様を大切にすることはいいことだ』と、
人は思ったりするものです。

つまりね、林さん、こうして迷信というのが
生まれてくるんですよ。その人の中に……」と。

仏壇屋という職業を通して、そのおやじは、
人の生死を見つめてきた。
私は仏壇屋のおやじらしからぬ話を聞きながら、
そのつど、感心した。
「この人は、ただの人ではないぞ」と。
つまりそのおやじは、人間が根源的にもっている
(弱さ)を見抜いている!

「そんなことを言ったら、仏壇が売れなくなりますよ」
と私は言いかけたが、それは言わなかった。

++++++++++++++++++

私の母は、若いころから迷信深い人だった。
「迷信のかたまり」とさえ思ったことがある。
一貫性がなく、そのつど、迷信に振り回されていた。

もっとも母はそれでよいとしても、それによって
振り回される私たちは、たまったものではない。

たとえば靴一足を買うにしても、時間が指定された。
「夕方から遅い時間に買ってはだめ」とか、
「買うなら、朝にしなさい」とかなど。
ほかに、「表(=玄関)で脱いだ靴は、裏(=勝手場)の
ほうで、はいてはだめ」というのもあった。

ときには、靴を買う日まで、指定されたこともある。
「今日は、日が悪いので、買ってはだめ。あさってに
しなさい」と。

一事が万事。
ありとあらゆることに、その迷信が、入り込んでいた。
学校へ行くときも、裏口から出て行こうとすると、
そこで呼び止められ、叱られた。
「表(=玄関)から出て行きなさい!」と。

幼いころの私はそれに従ったが、小学3、4年生にも
なるころには、息苦しさを覚えるようになった。
私は、そのつど母に反発したが、
母は母で、自分の主張を曲げなかった。
そういう話を、寺や神社で聞いてきて、
いつも私にこう言った。

「そういうことを言うと、バチが当たる!」と。

++++++++++++++++++

迷信、ただの迷信、されど迷信。
その迷信と戦うにも、かなりの勇気が必要。
ゆいいつの武器は、知性と理性、それに知識である。
何かのことで「おかしい?」と感じたら、
そのことについて、徹底的に自分で調べるのがよい。
けっして不可思議なものに心をゆだね、
その虜(とりこ)になってはいけない。

できればはじめから、近づかないこと。

こうした迷信というのは、一度気にすると、
心の内側にペタリと張りつく。
取れなくなる。
取れなくなるばかりか、ときに自分が自分でなくなってしまう。

このことは、子どもの世界を見ているとわかる。
10年ほど前、それについて調べたことがあるが、小学生に
しても、大半が、まじないや、占いを信じている。
「霊」の存在を信じている子どもも、多い。

大切なことは、自分で考えること。
仮に納得がいかないことがあったとしても、それを不可思議な
「力」のせいにしてはいけない。
こんなことがあった。

ある家庭に、3人の子どもがいた。
上から、長男、長女、それに二女。
長男、長女は、中学時代から札付きの番長に。
高校へは進学しなかった。
二女は、だれの子ともわからない子どもを妊娠、そして出産。
長女が、17歳のときのことだった。

それについて、迷信深い叔父が近くにいて、「これは何かのたたり」と
言って騒いだ。
そこでその両親は近くの神社を訪れ、「お祓(はら)い」なるものをして
もらった。

が、原因は、母親自身にあった。
親意識が強く、権威主義。
口もうるさかった。
その上わがままで、思いこみもはげしかった。
子どもの心など、最初から、どこにもなかった。

父親はいたが、週に1、2度赴任先の会社から帰ってくる程度。
母親は自分が感ずるストレスを、そのまま子どもたちにぶつけていた。

子どもたちにすれば、さぞかし居心地の悪い家庭だっただろうと思う。
その結果は、先に書いたとおりである。

つまりほんの少しだけでも、その母親に(考える力)があれば、
こうした事態は防げたはず。
が、その母親には、その力さえなかった。
もっとも今は、3人ともそろえぞれが結婚し、家庭をもち、
それなりに幸福に暮しているから、とくに問題はない。

またその後のことは聞いていないが、あの母親のことだから、
今ごろは、きっとこう言っているにちがいない。

「何かあったら、あのX神社でお祓いをしてもらうといいですよ」と。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2920)

●孤独な職業

++++++++++++++++

若いときはそれほど強く感じなかったが、
このところ、仕事をしていて、孤独感を
覚えるようになった。

ひとりだけ、ポツンと取り残されたような
孤独感である。
とくに空き時間など、教室でひとりでいると、
それを強く感ずる。

そういう私の心を察してか、最近は、ワイフが
ときどき、いっしょに仕事をしてくれるように
なった。

どこかに講演に行くときも、そうである。
一応「仕事」ということになっているが、
講演料のことを考えたら、仕事にならない。
そういう公演先へ、電車に揺られて、ひとりで向かう。

それでいつだったか、「いっしょに来てほしい」と
言うと、ワイフは、それ以後は、いつもいっしょに
来てくれるようになった。
電車の中で、話し相手がいるだけでも、ありがたい。
たがいのボケ防止にもよい。(多分?)

ワイフへ、

これからも、よろしく!

+++++++++++++++++

●軽い頭痛

今朝(11月11日)は、軽い頭痛で目が覚めた。
理由は、わかっている。

昨日、小6のクラスでのこと。
このところ睡眠調整がうまくいかない。
それもあって、そのとき私は猛烈な
睡魔に襲われていた。

そんなとき、M君(小6)が、こんな問題を
解いていた。

【問】++++++++++++++++

兄と弟が、時速4キロで、おじさんの家に歩いていました。
ちょうど1時間歩いたところで、兄が忘れ物に気づいて、
時速5キロで、家にもどりました。
弟はそのままおじさんの家に向かって、時速4キロで歩きつづけました。
兄は家で忘れ物を手にすると、時速5キロで、おじさんの家に
向いました。
弟がおじさんの家に着いてから、18分後に、兄がおじさんの
家に着きました。
家からおじさんの家まで、何キロですか。

+++++++++++++++++++

こうした問題では、距離を(X)キロメートルにして、方程式を立てれば、
簡単に解ける。
しかし小学生の問題では、方程式は使えない。
とたん、ものすごいプレッシャー!
ストレス!
が、脳みそは、半分眠ったまま……。
しかも時刻は、終了間際の、10分前!

「解き方はあとでファックスで送るよ」と言いながら、なんとか答は出したが、
どうも自信がない。
このところ計算ミスが多くなった。

で、つぎのクラスまで15分間の休憩があった。
が、再び、あの睡魔!
その睡魔と闘いながら、白い紙に説明をあれこれと書きこむ。
脳みそが、それに抵抗する。
今朝の頭痛は、そのときから始まった。
こめかみの奥が、ツーンと痛くなった。

で、高校生たちが教室へやってきたので、同じ問題を解いてもらった。
自分の出した答を確かめたかった。
「方程式を使わないで、解くんだよ」と。

が、高校生たちでも、ウ〜ン、ウ~ンと、うなり始めた。
それを見て、私は、少しうれしかった。
「もし、高校生たちがスラスラと解いたら、どうしよう……」と、
内心では、そう心配していた。
方程式で解くという方法もあったが、すでにその気力さえ、私には
なかった。

が、やがて……20分ほどして、いちばん頭のよいKさんが、「3キロ!」
と答を出した。

それを聞いて、私は、M君にファックスで考え方を送信した。


●高校生の夢

ところで、ひとりの高校生(高2女子)に、こう聞いてみた。
「君には、何か、したいことがあるの?」と。
するとその高校生はしばらく考えた様子を見せたあと、こう言った。
「ないわ……」と。

私「じゃあ、どうして勉強しているの?」
高「やらなくちゃ、いけないからよ」
私「でも、何か目標がなければ、勉強なんてできないでしょ」
高「めんどうだから、そういうことは考えない」

私「子どもだったら、幼稚園の先生になりたいとか、そういうふうに
答えるよ」
高「私は、もう、そういう子どもじゃ、ないから……」
私「そんなことないよ。すばらしい仕事だよ」
高「だって、うちのママは、ケーキ屋さんとか、パン屋さんになりたい
と言うのは、子どもだって言っている」

私「じゃあ、ケーキ屋さんになりたかったの?」
高「そう……。子どものころはね……」
私「だったら、ケーキ屋さんをめざせば、いいじゃない?」
高「だれでもできる仕事は、収入が少ないって、ママは言っている……」

私「だれでもできる……? そんなことはないよ。大切なことは、
ひとつの仕事を、一生つづけることだよ。プロになることだよ」
高「そうかなあ……?」
私「そうだよ。収入は、あとからついてくるよ」と。

まじめな生徒たちである。
みな、黙々と勉強している。
しかし将来に向かって夢をもって勉強している子どもとなると、ほとんどいない。
「そこに勉強があるから、しているだけ」と、そんな雰囲気。

こうした現実を、世のおとなたちは、いったい、どこまで知っているのだろう。
O市のK市長は、今度、高校生たちとの対話を始めたという。
それはそれでよいことだと思うが、数回程度、チョコチョコと対話をして、
それで子どもたちの気持ちがわかるとしたら、とんでもない誤解。
誤解というより、侮辱(ぶじょく)。

高「先生は、どうだったの? 高校生のとき、夢があったの?」
私「あったよ。ぼくのばあい、とにかく、外国へ行ってみたかった」
高「それだけ?」
私「そう。あの小さな田舎の町を飛び出したかった」

高「ああ、だから英語を勉強したんだア」
私「そうだよ。英語を勉強すれば、外国へ行けると信じていたからね」
高「そういうのでも、夢なのかなあ……? だれだって、行けるよ」
私「今はね。しかしぼくが高校生のときには、外国へ行くなんてことは、夢の
また夢だった」
高「フ〜〜〜ン」と。

そのあと、またその高校生は、自分の勉強にもどった。
いつもの、あの静かな時間が、そのあとつづいた。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●11月11日 

++++++++++++++++++++++

もう少しで、11月11日、午前11時11分。
(今、11時07分。)

「1」が、8個も並ぶ。

並んだところで、とくに意味はない。
が、何となく、気になる。
あと3分!

++++++++++++++++++++++

●「聞かないでおこう」

少し前、N県に住む学生時代の友人と電話で話した。
その友人と、こんな会話をした。

私が何かのことで、その経緯(いきさつ)を話そうとしたときのこと。
「話せば長くなるのだが……」と一言、口にすると、
その友人は、すかさず、こう言った。
「じゃあ、聞かないでおこう」と。

内心、「さすが!」と思った。
かなりの人格者とは思っていたが、そこまでの人物だったとは
知らなかった。
「くどくどとした、長い話など聞きたくない」
「聞いても意味はない」と。

それに答えて、私も、「ぼくも言いたくないしね」と。
たがいに電話をはさんで、笑った。

こう書くと、怒る女性もいるかもしれない。
しかし女性のばあいは、男性とは、少し、ちがう(?)。
女性は、一般論として、他人のゴシップが、好き(?)。
「話せば長くなるのですが……」などと言おうものなら、相手のほうから
首をつっこんでくる。
「どうしたの?」
「何かあったの?」と。

そしてそのあと、長〜〜〜〜イ話がつづく。

それぞれの家庭や家族には、それぞれの事情というものがある。
たいていは、複雑。
無数の「糸」がからんでいる。

一方的な話だけを聞いて、どうこう判断しても意味はない。
言うほうも、それがわかっているから、言いたくない。
たいていグチか、悪口になってしまう。
言えば言っただけ、後味が悪いだけ。

しかし……だ、男性の中にも、他人のゴシップが好きという人も少なくない。
つまりそれだけ人間が小粒(失礼!)。
中には「他人の不幸話ほど、おもしろいものはない」(ある西洋の作家の言葉)と
言う人もいる。
用もないのに、電話をかけたりして、相手の内情をさぐろうとする。

その不快感は、それをされたものでないとわからない。
割れかけた心臓に、グサリと刀を突き刺されたかのような衝撃を受ける。
(悲しさ)と(悔しさ)が集合されて、(怒り)になる。
反対に(怒り)が、(悲しさ)と(悔しさ)に分解されることもある。
ここでいう「不快感」というのは、それをいう。

だから……。
他人のゴシップには、耳を傾けないこと。
相手の方から相談でもあれば、話は別だが、こちらから聞き出すようなことはしない。
また聞いても意味はない。
ときにかえって、私やあなたの心を腐らすだけ。
人間性そのものが、落ちる。

そんなわけで、友人のその言葉を聞いたとき、久々に胸の中が、スカッとした。
「じゃあ、聞かないでおこう」と。
すばらしい言葉だ。


●今日からマガジン12月号

この原稿から、マガジン12月号になる。
今月(11月)は、いろいろあって、発行予約が、ほぼ2週間も
遅れている。
本来なら、今ごろは、12月12日号を書いていなければならない。
が、12月1日号!

ワイフはいつも同じことを言う。
「量を減らしたら?」と。
毎回の量が多すぎるから、減らせばよい、と。
そのうちそうなるかもしれないが、がんばれる間は、がんばりたい。
マガジンは、毎回、A4サイズ(40x36)で、20枚以上と、
自分でそう決めている。

しかし無駄なことを書いても、意味はない。
読んでくれる人に悪い。
そこで私がすべきことは、情報集め。
もしマガジンの発行をやめてしまったら、私は情報集めもやめてしまうだろう。
しかしそれこそ、ボケの始まり。
そんな危機感があるから、マガジンの発行をやめるわけにはいかない。

がんばろうと自分に言って聞かせたところで、今日もパソコンの前に座る。


●韓国のひがみ節

++++++++++++++++++

どうしてあの韓国の人たちは、
こうまでひがみぽいのだろう。

いちいち出典を明らかにするのもめんどうだから
それは省略するが、韓国の新聞を読んでいると、ひがみ節ばかり。
ひがみ節のオン・パレード。

まず日本が大陸棚を広げることについて、「日本は
国土の2倍もの大陸棚を自分のものにしようとしている」と。

つぎに米韓交渉の中で、アメリカ側は、韓国の車に高い関税をかけようとしている。
(韓国側は、高い関税をかけて、輸入車を事実上、規制している。)
が、ここまでならまだ話はわかる。
それについて、「どうしてトヨタはよくて、ヒュンダイはだめ
なのだ」と。

いちいち日本をからめてくるところが、怖ろしい。
もし逆に、日本が逆のことを言ったら、彼らは顔を真っ赤にして
怒るはず。

が、つぎの言い分には、さすがの私も頭にきた。

「北朝鮮のミサイルは、日本や日本のアメリカ軍向けのもので、
同じ仲間(同胞)の北朝鮮が、韓国にミサイルを撃つはずはない」
「だから北朝鮮のミサイル開発は、気にしなくてもいい」と。

朝鮮半島が有事の際には、在日米軍が同時に動き出す。
つまり間接的ではあるにせよ、日本は、韓国の防衛に手を貸している
ことになる。
そういう(恩)を忘れて、そういうことを、平気で言う。

さらにこういう意見もあった。
あの朝鮮動乱のときのこと。
日本が北朝鮮を攻撃するための前線基地に使われた。
それは周知の事実である。
しかしそれについても、韓国の人たちはこう言っている。
「日本は、朝鮮動乱を利用して、金を儲けた」と。
「日本が戦後の混乱期から復興できたのは、オレたちのおかげ」と。

で、もし同じような(動乱)が朝鮮半島で起きたら、やはり韓国の
人たちは、同じようなことを言うのだろうか。
もしそうなら、日本は、こう言えばよい。

「朝鮮半島有事の際でも、日本からの米軍の発進を断る」と。

日本としては、それくらいのことを言う権利をもっている。
きわめて高額の基地維持費を、日本側は負担しているからである。

が、韓国のひがみ節は、さらにつづく。

今度は何と、「米朝会議を歓迎する」とまで言い出した。
言い換えると、6か国協議を形骸化する、と。
これは日本にとって、見逃すことができない死活問題と考えてよい。

西洋では、『悪魔のつぎの行動を知りたかったら、目的を知ればいい』と言う。
つまり北朝鮮の目的は、日本を脅して、超高額の補償金を手に入れること。
そのために何としても、日本の上についているコブ(=アメリカ)を
排除しなければならない。

もし北朝鮮が、核保有国として認められ、かつ、米朝の間で、
「友好条約(=相互不可侵条約)」のようなものが結ばれたら、
そのときこそ、日本は万事休す。

北朝鮮はやりたい放題のことを、日本に対してやることができる。
アメリカは日本が北朝鮮に攻撃されても、北朝鮮がアメリカ本土を攻撃しないかぎり、
日米安保条約は、発動されない。
つまり日本は、丸裸。
米朝(首脳)会談は、そのための第一歩ということになる。

そういうことを韓国は百も知りつつ、「米朝(首脳)会談を歓迎する!」とは!

ついでながら、日朝の間で有事の際には、在韓米軍は、その戦争には、動かない
ことになっている。
日本と北朝鮮が交戦状態になれば、日米安保条約が発動される。
アメリカ軍がそれに介入してくることになっている。
しかし韓国内のアメリカ軍は、動くことができない。
前大統領のノ氏が、米軍との間で、そういう取り決めをしてしまった。

つまりこれほどまでに身勝手な論理はない。

……とまあ、韓国のひがみ節は、今日もつづく。
外見は大きくちがうように見えるが、韓国も北朝鮮も、中身は同じ。
そういう前提で考えないと、あの2つの国を理解することはできない。

(付記)11時11分11秒に、何かしようと思ったが、気がついたら、
もう12時近くになっていた。
残念!


Hiroshi Hayashi++++++++Nov・08++++++++++++++はやし浩司

●不景気

++++++++++++++++++++++++++++

すでにこの日本も、100年に一度と言われる、大恐慌の
入り口に立たされてしまった。

いろいろなところで、不景気の話を耳にする。
推測だけでものを書いてはいけないので、具体的に数字をあげてみる。

消費支出は、08年3月から、前年度に比較してマイナス。
直近の8月は、約4%も下落。

企業の倒産件数は、今年に入ってから、約20%も増加。
直近の9月には、1400件(月間)を超えた。

有効求人倍率も、どんどんと低下して、直近の8月には、
0・85%をやや上回る程度。
07年の9月には、1・05%近くもあったのだが……。

さらに機械受注高は、「夏ごろから急減」(東洋経済・11月8日号)とのこと。
前年度同月と比較しても、約12%も下落している。

株価については、今さら書くまでもない。

さあ、どうしよう?

++++++++++++++++++++++++++

こういうときは、話題を変えたほうがよい。
……ということで思い出したのが、何でもセックスレスの夫婦が、
約30%もいるそうだ(08年11月)。

報道の内容だけでは詳しいことはわからない。
どの程度を、セックスレスというのか。
5分程度で、パッパッとすましても、セックスはセックス。
相互にねんごろにマッサージをしあっても、セックスレスはセックスレス。
しかし私はこういう数字を見ると、「もったいない」と思ってしまう。

若いときに、なぜ楽しいことを、もっとしておかないのだろう、と。
30%といえば、3組に1組ということになる。

もっとも年齢によっても、ちがうだろう。
しかし当論文が、少子化の問題をからめているところを見ると、若い夫婦についての
ものと理解してよいのでは。
仮に、20〜30代の夫婦で、3組に1組がセックスレスであるとするなら、
ほんとうに、もったいない!

が、それだけではない。
夫婦はセックスを通して、肉体のみならず、精神の同一化をすることができる。
その同一化は、夫婦円満の基盤といってもよい。
逆に、セックスをしないで、どうしてその基盤を作ることができるというのか。
ほかに方法があるというのか。

「30%も」ということになれば、本気で、「セックス講座」というものを、
みなで開きあったらほうがよい。
「セックスは隠すべきもの」「恥ずかしいもの」という先入観をまず捨てる。
その上で、みなが、もっとオープンにこの問題を考え、どうしたらよいか、
その解決方法をさぐる。

「あら、お宅のダンナは、どう?」
「私、あなたのダンナが好みなの。一晩、貸してくれな〜い?」とか。

中にはセックスが好きで好きでたまらないという人もいるはず。
その「技」にたけている人もいるはず。
そういう人に、講師になってもらえばよい。
しかし一言。

セックスレスと少子化問題をからめる必要はない。
めったにセックスをしなくても、たまの1回で妊娠……ということもありえる。
セックスレス、イコール、少子化ということでもないのでは?

不景気なときは、夫婦で、セックスでもして時間を過ごすのがいちばんよい。
お金もかからない。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov・08++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2921)

●それぞれの信者

++++++++++++++++++++

先日、前立腺がんの権威でも知られている
O教授夫妻と会食したとき、O教授の奥さんが、
こう話してくれた。

「主人は、ポポンS※の信者です」と。

「ポポンS」というのは、市販のビタミン剤。
私とワイフは、それを聞いて、ゲラゲラと
笑った。
どういうわけか、楽しかった。

「うちの主人は、ポポンSをのんでいれば、
だいじょうぶと言っています」と。

++++++++++++++++++++

それぞれの人には、それぞれが信ずる「薬」がある。
幼稚園で教えることになったころ、世話になったM先生は、毎日アロエをすって、
それをのんでいた。
田丸謙二先生は、毎晩、寝る前に、「ハンゲコウボク湯」をのんでいるという。
私たち夫婦も、ハンゲコウボク湯信者になり、この9年間、毎晩、欠かさずそれを
のんでいる。
ハンゲコウボク湯には、がん予防の効果があるという。
昔、東大の薬学部長をしていたM教授が、それを言い出した。
それでM教授を中心としたテニス仲間にそれが広がり、みなが、それをのみだしたという。
私たち夫婦もそれを勧められた。
それ以来、欠かさず、のむようになった。

ほかに私たちのばあいは、毎朝、CA剤とビタミンC剤、ときどき、ビタミンB剤を
のんでいる。
病院でもらう薬(たとえば精神安定剤、睡眠導入剤など)は、症状に応じて、のんで
いる。
薬といえば、それだけかな?
ともかくも、それぞれの人には、それぞれが信ずる「薬」がある。

「ポポン」というネーミングが、おもしろかった。
だからゲラゲラと笑った。

(注※)ポポンS……ポポンSは、シオノギ製薬から発売されているビタミン剤である。
1952年にタケダから発売され、当時爆発的な売り上げを記録していたビタミン剤「アリナミン」シ
リーズに対抗するカタチで発売される。「ポポン」と言う名前で誕生し、1965年には「ポポンS」に
改名、更に1986年に「新ポポンS」と改名、2000年に「ポポンS」に戻すと言う歴史を持つ(以上、
ウィキペディア百科事典より)。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ある親子の確執

+++++++++++++++++

マガジンの読者の方から、こんな相談
があった。

80歳になる母親が、その女性(57歳)に、
毎日ひどい言葉を、投げつけるというのだ。
その女性は現在、ひとりで、母親の介護をし
つづけている。

とても他人ごととは思えなかったので、昨夜、電話を
してみた。

+++++++++++++++++

その家には、80歳になる母親と、その娘(57歳)が住んでいる。
母親がほぼ寝たきりの状態になって、もう2〜3年になるという。
が、毎日、悪態の連続。
その女性は、「耐えられない」と、電話口の向こうで、何度もそう言った。

「たとえば食事がまずいと、こんなもの食べれないとか、100万円
もってこいとか言うのです。で、私が何か口答えすると、母は、
『お前が子どものころ、私はどんだけ苦労したかわからない。その恩を
忘れるな』と言います」と。

こういうケースのばあい、注意しなければならないことが、いくつかある。

(1)低次元の人と同居していると、自分まで低次元な人間になってしまう。

その女性の母親は、かなり低次元な人とみてよい。
あるいは認知症を発症しているのかもしれない。
ともかくも、低次元な人と同居していると、そのときは、反面教師としてその
人を批判したりはするが、その人自身も、やはり低次元な人間になってしまう。
そのときはそうならなくても、(つまり緊張感がつづいている間は、そうならなく
ても)、その緊張感が取れたとたん、低次元な人間になってしまう。

よくある例が、息子や娘が、加齢とともに、父親や母親そっくりの人間になったり
すること。
自分では気がつかないうちに、そうなる。

だから恩師の田丸謙二先生は口癖のように、いつもこう言っている。
「林君、高次元の人とつきあいなさいよ」と。

(2)低次元な人を、まともに相手にしてはいけない。

これは子育てにも通ずるが、子どもに「バカ!」と呼ばれて、本気で怒る親もいれば、
まったく気にしない親もいる。
しかし相手は子ども。
本気で怒るほうが、どうかしている。
同じように、80歳にもなった母親である。
本気で相手にしてはいけない。
本気で相手にしたとたん、その毒気に巻き込まれてしまう。

(3)老人の心理を理解する。

老人の心理は、キューブラーの『死の受容5段階説』が、そのまま当てはまる。
死を宣告された人は、(否認)→(怒り)→(取引)→(抑うつ)→(受容)の
5段階を経て、やがて自分の死を受け入れるようになるという。

老人もまた、自分の(老後=末期)を、似たような段階を経て、やがて受け入れる
ようになる。

その女性の母親は、キューブラーの『死の受容5段階説』に当てはめると、
(否認)→(怒り)の段階にあるものと思われる。
自分の老後を受け入れらず、その(怒り)を、娘であるその女性にぶつけている。

(4)運命を受け入れる。

こういうケースのばあい、運命に逆らうと、運命は悪魔に変身して、容赦なく
その人に襲いかかってくる。
しかし一度、それを受け入れてしまえば、運命は、(悪魔でもよいが)、しっぽを
巻いて向うのほうから逃げていく。

「どうせバー様のいうこと」と割り切って、相手にしない。
やるべきことはやってあげながら、あとは暖かい愛情で包む。

実のところ、私の母も同じような段階を経て、最後は(受容)の段階へと
たどりついた。
とくに私の家で同居するようになったころには、そうなっていた。
おだやかで、やさしく、ものわかりもよかった。
一度とて、不平、不満を口にすることもなかった。

だからその女性には、電話で、こう言った。

「とにかく、そんな老人は、本気で相手にしてはいけません。
サルか犬のように、思えばいいのです。
本気で相手にしたとたん、不愉快になりますが、あなた自身も、
いつかあなたの母親そっくりな女性になってしまいます。
ユングという学者は、それを(シャドウ)という言葉を使って
説明しました。

身に回りに高次元な人を見つけて、その人と接触したり、
相談したりします。

あとは運命は、受け入れる、です。
そこに運命があるなら、そのまま受け入れます。
逆らえば逆らうほど、苦しむのは、あなた自身ということになります」と。

ついでに言えば、その女性とその女性の母親は、共依存関係にあるとみてよい。
たがいに依存しあっている。
もちろんその女性は、それに気づいていない。

仮にその母親がいなくなったら、そのとたんその女性の心には、ぽっかりと
大きな穴があいてしまうだろう。
で、その穴の中に入ってくるのが、(孤独)。

孤独の恐ろしさは、ふつうではない。
仏教でも最大の(地獄)として、それをとらえている。
つまり無意識のうちにも、その女性は、その孤独を癒すために、(あるいは忘れる
ために)、母親と共依存している。
「孤独で苦しむよりは、母親といっしょに暮らしたほうがいい」と。

親子といっても、内容はさまざま。
みな、ちがう。
理解しあい、励ましあい、仲よく暮らしている親子となると、さがさなければならない
ほど、少ない。
親は子をもうけて、親になるが、よい親子関係をつづけるのは、むずかしい。
「私はだいじょうぶ」と過信している人ほど、あぶない。
念のため!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
共依存 キューブラー 死の受容段階説)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2922)

【今日、あれこれ・11月13日】

●人体の矛盾

+++++++++++++++++

健康を維持するためには、運動は
欠かせない。
しかし運動には、ある種の苦痛が
ともなう。

なぜか?

もしその人が、運動でなくても、体を
動かすことをやめてしまったら、
不健康が不健康を招き、その不健康がそのまま、
(死)につながることもある。

ならば、なぜ運動することが、快感に
つながらないのか。

++++++++++++++++

●寒い夕方に

寒い夕刻、陽はとっぷりと暮れている。
冷たい秋のかわいた風。
そんなとき自転車にまたがると、思わず
身が震える。
「今夜はやめようか」と、ふと迷う。
しかし運動は欠かせない。
そう思いながら、思い切ってペダルを踏む。

なぜか?
なぜ、運動をすることに、体が抵抗するのか。
運動は、健康を維持するためには、不可欠。
ならば、運動することは、快感でなければ
ならないはず。
わざわざ進化論の常識をもちだすまでもない。
あるいは性行為と比較するまでもない。

しばらく走りながら、自分の体の反応をさぐる。
なぜ、私の体は運動することをいやがるのか。
どこにその理由が潜んでいるのか。

●運動は、無数の苦痛

冷たい風が頬をこすっているとき、私はそれが
こまかい(痛み)であることを知った。
無数の痛覚が、これまた無数の、目に見えないほど
細い針でこすられるような痛みである。

自転車をこぐ太ももにしても、そうだ。
強くペダルをこぐたびに、無数の痛みがジンジンと
足全体に響くのがわかる。

つまり(運動)は、(無数の痛み)の集合で
あることが、これでわかる。
となると、またひとつ謎が生まれる。
同じような運動に、性行為がある。
女性のばあい、性的に興奮状態になると、
指一本すらも通しにくくなるほど、膣が閉じる。
そこへ男性器を挿入すれば、痛いのが当たり前。
女性もそうだが、男性も、である。

が、性行為のばあいは、それはそのまま快感へとつながる。
考えてみれば、これもまた不思議なことではないか。

●欲望が原動力

運動でなくても、(体を動かす)というのは、
健康の要(かなめ)。
しかしその(動かす)こと自体にも、ここに書いた
無数の(痛み)がともなう。

だからこれは人間にかぎらず、あらゆる
動物は、本来、なまけ者にできていると考えてよい。
「できるなら、動きたくない」と。

しかしそこへ(欲望)という、原動力が作用する。
食欲、性欲、その他、もろもろの欲望である。
この欲望を満足させるためには、人間は動かねば
ならない。

そのとき、(運動)という行為がともなう。
それが健康の維持につながる。
言い換えると、欲望が簡単に手に入るように
なればなるほど、人間は、不健康になる(?)。
現代社会は、そういう社会である。
そこで「運動をしよう」となる。

●快感

しかし運動することに、快感がともなわないわけではない。
「快感」というのは、脳内ホルモンの作用によって起こる。

たとえば性行為を繰り返していて、「気持ちいい」と
感ずるのは、脳内ホルモンの作用によるものである。
そのときモルヒネ様の物質が、脳内に充満することが
わかっている。

で、しばらく自転車で走りつづけていると、苦痛が減り、
やがて乾いた冷気が、汗ばんだ肌をこするようになる。
あえて言うならそのとき感ずる快感は、傷んだ肌を、
だれかがやさしく撫でてくれるような快感である。

こうした快感には、つねに中毒性がともなう。
中には、「ジョギング中毒」と呼ばれる人たちもいる。
ニコチン中毒、アルコール中毒と同じように、
ジョッギングもまた、中毒になりうる。

つまり運動も、ある程度習慣性をもつように
なると、快感につながりやすくなる。
事実、夏の暑い日に汗をかき、扇風機の前に
立ったときに感ずるあの快感は、言葉では
表現しにくい。

さらに運動をたっぷりしたあとには、
たとえばその翌朝など、細胞のひとつひとつが、
プチプチとはじけるような感触すらある。

●運動

最近の研究では、運動することによって、
筋肉が刺激され、その筋肉から、若返りに
関する、ある種の物質が生成されることが
わかってきた。

運動を習慣的にすることによって、その人は、
若返ることができるというわけである。
が、何もむずかしい話は必要ではない。
ためしに、その年齢よりずっと若く見える人に、
こう聞いてみればよい。
「何か、運動していますか?」と。

即座に、そういう人たちは、こう答えるだろう。
「しています!」と。

こう考えていくと、「健康というのは、その人の意志と
努力で維持されるもの」ということがわかってくる。
その努力をする人は、健康を維持でき、そうでない人は、
そうでない。

そこで冒頭の話にもどる。
運動にともなう苦痛を、最初の段階で乗り越え
られるかどうか。
それでその人の健康が決まる。
……ということは、意志の問題ということ。
さらに言えば、肉体をコントロールする、
前頭葉の問題ということになる。

意志の強い人は、その分だけ、健康を維持できる。
意志の弱い人は、その分だけ、健康を阻害する。
言うなれば、この部分に進化論の結果が含まれている。

「意志の強い人間だけが、生き残ることができる」と。

つまり人体は、一見、矛盾に見えるようなものを
用意しながら、他方で、人間の進化を促している
ということになる。
仮に運動にかぎらず、何かを成し遂げようという
意志が弱くなれば、人間は、動物に逆戻りする
ことになってしまう。
必要最低限のことだけをして、それでおしまい、と。

寒い夜の運動は、つらい。
しかしその(つらさ)を乗り越えるところに、
人間の生きる原点がある……と結論づけるのは、
少しおおげさだろうか?

(付記)
半面、子どもを観察していると、体を動かすことを、まったく意に介していないことが
わかる。
(中には動きたがらない子どももいるが……。)
動いていることが、楽しくてしかたないといったふうな子どももいる。
となると、(運動嫌い)というのは、年齢とも関係あるのか。
あるいはしたいことをしているときは、苦痛でも何でもない。
が、したくないことを押しつけられたりすると、とたんに苦痛になる。

このつづきは、またあとで考えてみる。
どうも頭の中がスッキリしない。
考えがまとまらない。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov・08++++++++++++++はやし浩司

●「世界の名画」(隠されたミステリー)(PHP研究所版)

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このところ書店でよりも、コンビニで
本を買うことのほうが多くなった。
(そう言えば、不景気のせいなのか、
書店で並ぶ本の冊数が減っているように
感ずる。
雑誌でも、以前だと、10〜15部くらいは
平積みになったりしていたが、今は、どれも、数冊
程度。)

で、今夜も、近くのコンビニで、1冊、本を買った。
「世界の名画」(隠されたミステリー)という
本である。

家に帰って、コタツの中で、一気に読み終えた。
内容は、以前から知っていたことがほとんどだが、
改めて、そのおもしろさを堪能した。

途中からワイフも横に座り、ああでもない、
こうでもないと言い出した。

昔の画家たちは、絵画を通して自己表現するのみ
ならず、(遊び心)を巧みに、その絵画の中に
織り込んだ。

画家自身の肖像を、その絵の中に混ぜたり、
自分の嫌いな人を、ひどい人にしたりするなど。
こういう(遊び心)が、絵のみならず、人生を
うるおい豊かなものにする。

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●冗談

ところでそのコンビニでは、1000円分で、1本のクジが
引ける。
2000円以上に買ったので、私は、クジを2本、引いた。

私「当たり! この店の商品、全部!」と。

クジに当たると、何かの商品がもらえるようになっていた。
私の前にクジを引いた人は、カップラーメンをもらって帰っていった。

私の言葉を聞いて、女子店員が、一瞬、ギョッとした。
私「あのう、この店の商品全部と書いてありますが……」
女「エッ……、そんなはずはないわよ」
私「ハハハ……」と。

そこで2本目を引く。

私「またまた大当たり! 店員と女房を交換と書いてありますよ」
女「失礼ね」と。

横にいたワイフも笑ったが、店を出てから、ふと考えた。
「どうしてあの店員は、『失礼ね』と言ったのか」と。

いろいろな解釈ができるが、
「こんなバー様と同じにしないでよ」とも解釈できるし、
「あんたのようなジジーなんか、いやよ」とも解釈できる。
こういうばあい、「失礼ね」という言葉は、「私をバカにしないでよ」
という意味。

「まずいことを言ったかな」と思いつつ、車に乗った。

……さて、本題。

「世界の名画」(PHP版、定価952円)は、先にも書いたように、
おもしろかった。
それぞれの絵については、ダイジェスト版といった感じで、
つっこみは甘いが、雑学用としては、じゅうぶん。

ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』に始まり、
プッサンの『アルカディアの牧人』、ベラスケスの『ラス・メニーナス』、
ボッティチェリの『プリマヴェーラ(春)』、フェルメールの『牛乳を注ぐ女』と
つづく。

私は個人的には、ルノワールやクリムトの絵画が好き。
ダ・ヴィンチやレンブラントは有名だが、どうも肌に合わない。
どこか技巧主義的?
「絵画」というワクにとらわれすぎて、その中に、画材をギューギューに
押し込んでいる。
その窮屈さが、息苦しさとなって伝わってくる。
(私は、もともと閉所恐怖症なのだ!)
少なくとも、部屋に飾ってまで見たいとは、思わない。

その点、モネやモディリアーニの絵には、開放感がある。
そういう絵なら部屋に飾ることに抵抗感はない。

さらに言えば、「名画」「名画」というが、どうして
ゴッホの絵が、名画なのか。
『ひまわり』にしても、見れば見るほど、不気味。
ムンクの『叫び』などは、見ているうちに、こちらまで
気がヘンになりそう。

私は、こと絵画に関しては、楽しく、わかりやすい絵が好き。
美しい女性の裸体であれば、なおよい。
そう、私も一度でよいから、女性のヌード画を描いてみたい。
一日中、肌の汗腺までジロジロと眺めながら、描いてみたい。
モデルはいやがるだろうが……。

いや、死ぬまでに、1枚くらいは描いてみたい。
こんなことを書くと、ワイフは怒るだろうな……?


Hiroshi Hayashi++++++++Nov・08++++++++++++++はやし浩司

●損得論

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数十億円の損失?
ヘ〜〜エ!
報道によると、あのイギリス王室が、土地の評価価格の
値下がりなどで、数十億円の損失をこうむっているという。

数十億円?

しかし王室ともなれば、それ以上の財産を所有しているだろう。
また女王の年齢にもなれば、金銭的な損失など、「損失」というふうには、
考えないだろう。
それだけの損をしたからといっても、王室は王室。
女王も、そのまま。
何も変わらない。
今年も、バッキンガム宮殿のまわりは、美しい紅葉で彩られている
にちがいない。

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●金銭的感覚

「損とは何か?」
「得とは何か?」
それを考えていくと、その先が、灰色のモヤに包まれてしまう。
何をもって、人は、得といい、何をもって、人は、損というのか?

いちばんわかりやすい例でいえば、金銭的な損と得がある。
数字が大きくなることを、「儲けた」といい、数字が小さくなることを、
「損した」という。
しかしそれにも限界がある。
金(マネー)に毒されすぎると、何が大切で、何がそうでないか、
わからなくなってしまう。
ときに人の命まで、金銭的感覚で、判断してしまう。
自分の人生まで、金銭的感覚で、判断してしまう。

私の大嫌いなテレビ番組に、『○○○○鑑定団』というのがある。
いろいろな人が、いろいろなものをもちよって、その値段を
「鑑定」するという番組である。
しばらくああいう番組を見ていると、ものの価値まで、金銭的感覚で、
判断してしまうようになる。
(……なってしまった。)

「この絵は、200万円の価値があるから、すばらしい絵だ」
「あの絵は、10万円の価値しかないから、つまらない絵だ」とか、など。

その絵にしても、有名人(?)の描いたものほど、値段が高い。
が、もし、ものの価値のみならず、美術的価値まで、金銭的感覚で判断する
ようになってしまったら、「美術とはいったい、何か?」ということに
なってしまう。

●懸命に生きる

私は毎朝起きると、まず心にこう誓う。
「今日こそは、懸命に生きてみよう」と。
しかし今までに、それが実行できたためしがない。
いつも中途半端で終わってしまう。

そこでまず、「懸命」の意味を考える。

たとえば私は、こんなことに心がけている。
昨日も、こんなことがあった。

地元のC新聞社が、私について取材したいと言ってきた。
その日にちを決めるとき、11月5日〜11日までのうちの1日にしてほしいと、
伝えてきた。

こういうケースのばあい、私は、たいてい、最初の日の、いちばん
早い時刻を選ぶ。
このばあい、11月5日ということになる。
「できること」「したいこと」は、けっして、あと回しにしない。

旅行の日程を決めるときも、そうだ。
が、だからといって、それで私が懸命に生きたということにはならない。

「懸命に生きる」というのには、2つの意味がある。
行動面で、やるべきことをやる。
もうひとつは精神面で、やるべきことをやる。

が、ここでひとつの問題に直面する。
最初にあげた、(お金)の問題である。
私は何も、お金を稼ぐことが悪いことだと言っているのではない。
(お金を稼ぐ)というのは、常に手段ではあっても、目的であってはいけない。
たとえば「ただお金がふえればいい」と考えて、お金を稼ぐというのであれば、
ただの守銭奴になってしまう。

しかし子どもが自分の夢を実現できるように、その学費を得るためにお金を稼ぐ
というのであれば、ここでいう「懸命に生きる」ということになる。

が、中には、(私には、そういう人たちの気持ちがどうしても理解できないが)、
お金はじゅうぶんあるはずなのに、「子どもを大学へやるのは、ムダ」と
考えている人もいる。
「子どもを大学へやると、(親から離れて)、遠くに住むようになる。
だから損」と。

そういう人は少数派かと思っていたが、結構、多い。
こういう話をすると、「私の父親がそうだ」とか、「叔父がそうだ」
という声が、かならず、出てくる。

●精神面では……

人格の完成度を測るひとつのバロメーターとして、「他人との良好な人間関係」
があげられる(EQ論)。
他人と良好な人間関係をつくりあげられる人を、人格の完成度の高い人といい、
そうでない人を、そうでない人という。

そういう意味では、私は、きわめて人格の完成度の低い人間だった。
(今もそうかもしれないが……。)

性格的な欠陥、情緒的な不安定さ、精神的な未熟性などが理由である。
だから私のような人間は、いつも、努めて、懸命に生きなければならない。

ワイフとの関係。
息子たちとの関係、など。
親類縁者も含まれるが、しかし私はもう、浜松に住んで40年近くになる。
「兄弟、姉妹」というと、ワイフの兄弟、姉妹ということになる。
ワイフが間で、じょうずにコントロールしてくれるせいもあるが、
今のところ、良好な人間関係を保っている。
7人の兄弟姉妹がいるが、(ワイフを含めて)、みな、仲がよい。

友人については、できるだけ広く、あたりさわりなく交際するようにしている。
が、それにもある程度の努力が必要。
その(努力)という部分に、(懸命さ)が必要となってくる。

●時間という財産

話が脱線してしまったが、最近は、(時間の使い方)の中にこそ、
損・得論があると考えるようになった。
だからといって、あえてお金を嫌う必要はないが、それよりも大切なのは、(時間)。
この限られた時間をいかに有効に使うか。
それでほんとうの、損・得が決まる。

たとえばこんな例で考えてみよう。

日々の生活には困らない金持ちがいたとする。
その金持ちは、毎日、釣り三昧。
あちこちへ出かけていっては、釣りを楽しんでいた。

その金持ちがこう言った。
「こういう道楽をするために、私は今まで、一生懸命、働いてきた。
今こそ、その金を道楽のために使うべきとき」と。

が、この金持ちは、たしかにお金では、得(?)をしたかもしれない。
しかし時間の使い方をみると、損(?)をしていることになる。
「明日も今日と同じ」という人生に、どれほどの意味があるというのか。
……というのは、言い過ぎかもしれない。
しかしこの世に生きていることを奇跡(アインシュタイン)ととらえるなら、
その奇跡にこそ、無限の価値がある。
その無限の価値に気づかないまま、(時)を浪費することこそ、まさに
損というべきではないのか。

が、それには条件がある。

(1)すべきことを見つけ、それをすること。

ほとんどのばあい、(すべきこと)には、ある種の苦痛がともなう。
運動にたとえるなら、早朝のジョギングのようなもの。
健康を維持するためには、運動は不可欠だが、だれだって(多分?)、
苦痛がともなうことは、避けたいと願う。
しかしそれでも(すべきこと)を、する。
これを心理学の世界でも、「自己の統合性」と呼ぶ。
その統合性を確立した人は、強い。

(2)無益であること。

金銭的な損得勘定が混入したとたん、自己の統合性は、霧散する。
どんなささいなことでもよい。
短時間であってもよい。
無私、無益、無我でするところに、統合性の意味がある。
たとえば朝のジョギングにしても、だれかにお金をもらってするようになったら、
おしまい。
「健康のため」という本来の目的を見失ってしまう。
ひょっとしたら、お金が切れたとき、ジョギングそのものをやめてしまうかもしれない。

……しかし(すべきこと)など、一朝一夕に見つかるものではない。
長い時間をかけて、少しずつ、作りあげるもの。
「定年退職をしました。で、明日からゴビの砂漠で、ヤナギの木でも
植えてきます」というわけにいかない。

(やるべきこと)そのものが、その人の人生の集大成ということになる。
そのために使うのが、ここでいう(時間)。
その時間を有益に使うことを、「得」といい、無駄に使うことを、「損」という。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV 08++++++++++はやし浩司

●家族自我群からの解放

+++++++++++++++++

母が亡くなってから、ちょうど1か月が
過ぎた。
昨日、仏壇の購入を最終的に決めた。
「決めた」と言わなければならない
ほど、少し覚悟が必要だった。
何といっても、額がハンパじゃない。

が、このところ、何かにつけて、気が軽い。
母や兄には悪いが、率直に言えば、
母や兄が亡くなって、本当に気が楽になった。
ときどき遠くの潮騒のように、さみしさが
襲ってくることもあるが、できるだけ
それ以上のことは考えないようにしている。

あとはいくつかの法事を、事務的に
こなすだけ。
それが終われば、生まれてはじめて、
私はあの重苦しい、「家族」という呪縛感
から解放される。

私にとって家族とは何か?
そう、それは、心の隅に貼りついた鉛の
ようなもの。
むしってもむしっても、取れない鉛の
ようなもの。

+++++++++++++++++

家族自我群によって起こる「幻惑(作用)」には、相当なものがある。
良好な人間関係にあるときは、それなりにまだ救われるが、ひとたびそれが破壊されると、
(家族)は、心を押しつぶす重石(おもし)となって、その人を苦しめる。
仏教の世界にも、『怨憎会苦』という言葉がある。
四苦八苦のひとつになっている。

私も40代のはじめごろは、経文を唱えないと、あの郷里の町には入れなかった。
ワイフがそうしろと教えてくれたから、そうした。
が、渡る世間は冷たい。
そういう私の心も知らず、「親だろ」「家族だろ」「子どもだろ」と、安易な『ダカラ論』
だけを振りかざして、私を責めた。
中には節介やきの親類がいて、ああでもない、こうでもないと、電話をかけてきたりした。
それは真綿で首を絞められるというか、真綿を喉(のど)の奥に詰め込まれる
ような苦しみだった。

だから私はその親類の男に、こう叫んでやった。

「お前も、ぼくと同じことをしてきたのなら、そうやって偉そうなことを言え。
でなければ、黙っていろ!」と。

私はワイフと結婚する前から、収入の約半分を実家に納めてきた。
27歳を過ぎるころには、税金はもちろん、実家の商品の仕入れ、生活費などなど、
それはすべて私の負担となっていた。
実家の改築費も、全額、私が支払った。
兄や母の介護費用も、すべて、私が支払った。
それだけではない。
母自身は質素な生活をしていたが、そうして仕送りしていたお金の多くは、
母の知人へと流れていた。
経済的な負担感というよりも、私は社会的な負担感と戦わねばならなかった。

依存性というのはそういうもので、一度、それが形成されると、あとはそれを
前提として人間関係が、できあがる。
依存される者は、どこまでも依存される。
依存する者は、どこまでも依存する。
切れることがない。

一時は、大型の爆弾か何かで、あのあたり一帯が、一瞬にして消え去ればよいとさえ
思ったこともある。

そんなこともあって、葬儀費用だけは、意外と気持ちよく支払うことができた。
もちろん全額、私が負担した。
「これでおしまい!」と。
香典も入るには入ったが、葬式費用の何分の一にもならなかった。
だからそれで仏壇を購入することにした。
今さら、多少の援助など、何になる?
そんなお金など、どこにも残したくない。

家族自我群……それは、脳みその奥深くにまで刷り込まれている。
最近の研究によれば、人間も、鳥類と同じように、その刷り込み(インプリンティング)
がなされることがわかっている。
(人間のばあい、生後直後から7か月くらいの間に刷り込まれるという。
この時期を「敏感期」と呼ぶ。)

本脳に近い部分にまで刷り込まれているから、それから自分を解放するのは、
容易なことではない。
たいていは解放されることもなく、一生、つづく。
人によっては、マザコンになったりする。
50代、60代になっても、「おふくろさん」「おくふろさん」と言って、空を
見あげて、涙を流す人は、たいていこのタイプの人と思ってよい。

もう、家族はこりごり。
うんざり。
だからこそ、私は自分の息子たちには、同じ苦しみを味あわせたくない。
息子たちには、いつもこう言ってきた。

「お前たちの人生は、どこまでも、お前たちのもの。
どんなことがあっても、私やワイフのことは心配するな。
親孝行……?
そんなバカなことは考えなくてもいい。
家の心配……?
それも結構。
私たちはお前たちを育てることで、じゅうぶん、人生を楽しむことができた。
お前たちのおかげで、生きてくることができた。
『ありがとう』と礼を言わなければならにほうは、むしろ、私たちのほうだ。
ありがとう」と。

今、この瞬間にも、家族自我群の呪縛感で苦しんでいる人は多いと思う。
その苦しみは、それを味わったものでないとわからない。
ときに身を引きちぎられるような苦しみとなって、その人を襲う。

そういう人たちには、私は、こうアドバイスしたい。

(1)運命は受け入れる。
(2)健康だけは大切に。
(3)あとは淡々とやるべきことをやってすます。

あとは時間が、解決してくれる。
水が低い所を求めて流れていくように、雲が風に乗って流れていくように、
やがて行き着くところに行き、そこで解決する。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●恩着せ

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恩着せがましい言い方をする人は多い。
「産んでやった」「育ててやった」
「大学まで出してやった」と。
中には、こんなことを言った母親もいる。

「あんたが子どものころ、あんたは
病気ばかりしていた。
あんたのことで、私(=親)は、どれだけ
苦労したかわからない」と。

しかしそれだけではない。
こういうものの考え方が、その人にとって
常識化すると、ものの発想の仕方そのものが、
すべてそうなる。

何をしても、意識の中で、「してやった」と
とらえるようになる。

「(近所の)Aさんのめんどうをみてやった」
「掃除をしてやった」
「援助してやった」と。

無私、無我ですべきことをしている人は、
そういう言葉を口にしない。

……せめて子育てくらい、無私、無我で
したい。
心を守る、最後の砦(とりで)として。

+++++++++++++++++

先日も実家(現在、空家)へ行ったら、一人の女性が近づいてきて、
私にこう言った。
「お宅の家の溝に落ち葉がたまっていましたから、掃除しておきましたよ」と。
私がすなおに「すみませんでした。ありがとうございます」と言うと、さらに
こう言った。
「隣の人が、苦情を言っていましたから」
「そういう掃除は、キリがありませんね」とも。

どこかイヤミな言い方に聞こえた。

空家にして迷惑をかけていることは悪いことだが、その程度のことなら、みな、
黙ってしている。
私だって、している。
私の家の隣地は竹ヤブになっている。
かっこうのゴミ捨て場になっている。
定期的に清掃するのは、私の仕事になってしまった。
が、だからといって、地主にあれこれと苦情を告げることはない。

山荘の周辺については、なおさら、そうである。
草を刈るときも、自分の土地、他人の土地という区別はしない。
時間と体力、プラス燃料があるかぎり、他人の土地でも草を刈る。
たがいにそうしているから、たがいに「ありがとう」と言うこともない。

が、恩着せがましい人は、そうでない。

私はその隣人のうしろ姿を見ながら、こう思った。
「きっと、家でも子どもたちに、産んでやった、育ててやったと
言っているだろうな」と。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●『小言を聞いても怒るな。怒っているときは、小言を言うな』

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だれの言葉かは忘れたが、昔、こう書いた
人がいた。

『小言を聞いても怒るな。怒っているときは、
小言を言うな』

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この言葉を言いかえると、『沈黙の価値のわからない者は、しゃべるな』となる。

私の近所にも、(小言の神様)のような女性がいる。
話し出したら止まらない。
小言の連続。
小言は小言でも、グチと恩着せ。
こまかい話を、ネチネチと、何度も繰り返す。
で、そういうとき私は、心の中で、歌を歌うようにしている。

古今和歌集にも、こんな歌がある。

『そひなき淵やは騒ぐ山川の浅き瀬にこそあだ波はたて』と。

ここから『浅瀬に仇波(あだなみ)』という諺が生まれた。
つまり「思慮の浅い者は騒がしい」(広辞苑)と。

だからだれかに小言を言われても、怒らない。
怒っているときは、小言を言わない。
ときとして小言が起爆剤となって、大喧嘩に発展することもある。
そうなればなったで、後味が悪いだけ。

しかしこれには、かなりの忍耐力と、それを包容する度量が必要。
私のばあい、その女性を、サルか何かのように思っている。
よくしゃべるが、底が浅い。
頭に飛来する情報を、音声に変えているだけ。
勉強の「ベ」の字もしていない。

……とまあ、その女性の悪口を書いてしまった。
絶縁する日も、それほど遠くはないと思う。
私は悪口を書いた人とは、つきあわない。
私の悪口を陰で言っている人とも、つきあわない。

もうそういう人たちと交際して、無駄にできる時間は、ない!


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2923)

●子育てストレス

 子育てストレスの第一の原因は
過大な(親意識)。もともと日本人     
は、ガイドとして子どもの前に立つ
のは得意。保護者として、子どもを
押すことも得意。しかし、もう一つ、    
重要な役割があります。それは
子どもの友として、横に一緒に歩く
ことです。                
 子育てストレスを感じたら、(親
意識)を思い切って捨て、心を開放      
し、子どもの友として、子どもと一緒に   
人生を楽しむようにします。
 「私は親だ」「よい親になららけれ     
れば」という気負いが強ければ強いほ      
ど、親も疲れますが、子どもも疲れ
るということです。
 つまりあなたは子どもと一緒
に「第2の人生」を、幼児期から繰り         
返すつもりで楽しみます。(第2の         
人生が終わったとき、ドカッとやっ
てくるのが、老後ですよ!)              
コツは自分の子ども時代を思い出
しながら、あなたがしたかったこ
とを子どもと一緒にすることです。      
あなたがして欲しくなかったことを、
子どもにしなければよいのです。         
そのためにも、まず子ど
もの前で、心を解き放ちます。行動
はその後についてきます。
 子育てというのは、もともと重
労働です。約70%のお母さんが、子
育てをしながら大きな負担を感じて
います。子育てを前向きに受け入
れ、「運命」といってよいのか分かり        
ませんが、運命というのは、逆らえば    
キバをむいて、あなたに襲いかかって     
きます。しかし受け入れてしまえば、    
運命は向こうからシッポを巻いて逃げて
いきます。子育ても、また然り。そこ        
に子どもがいる。その素晴らしさに、
あなたが気づいた時、あなたはこう       
言うでしょう。「子育てストレスってなに?」と。   

子育ての価値、
失う前に気づいて                

 今は大変かもしれません。しか
し子育ての価値は、終わってみると        
分かります。賢明な人は、その価値
を失う前に気づき、そうでない人は           
失ってから気づきます。            
Let's be good Moms!                          


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2924)

【今朝・あれこれ】(11月15日)

●思考のループ

++++++++++++++++++

うつ状態になると、ものごとに対する
(こだわり)が強くなる。
(うつ)と(こだわり)は、紙でいえば、
表と裏のような関係と考えてよいのでは?
そのことだけを、悶々と悩むようになる。

そこで最近、こんなことに気がついた。

若いときは、うつ状態になっても、脳の
中の情報は、割とそのまま維持される。
しかし加齢とともに、うつ状態になると、
脳の中の情報が、こぼれ落ちるように、
消えていく。

特定のことにこだわるあまり、ほかの
情報が入ってこなくなる。

つまりうつ状態が長くつづくと、脳みそ
全体が、ボケていく。
だから一般的には、こう言われている。

「ボケからうつ病になることもあるし、
うつ病からボケになることもある。
その見分けは、むずかしい」と。

つまり今度は、(うつ)と(ボケ)が、
紙で言えば、表と裏の関係と考えて
よいのでは?、ということになる。

+++++++++++++++++

●60代

自分が60代になってみて、恐ろしいと感じたことが、ひとつある。
それは急速に、過去の知識や経験が、脳みそから消えていくということ。
記憶にしても、記銘力、維持力、想起力が、同時に弱くなった。
つまり私たちは、それに気がつかないまま、どんどんとバカになっているということ。

そこで大切なことは、歳をとればとるほど、脳みそをさまざまな角度から、
刺激していかねばならない。
肉体の健康にたとえるまでもない。

が、ここで思わぬ伏兵が現れてきた。

たとえば心がうつ状態になったとする。
(うつ)の第一の特徴は、(こだわり)である。
ある特定のことがらに、悶々と悩んだりする。
それが短期間なものであれば、問題はない。
しかしそれが長期間つづくと、その間に、ほかの部分にあった知識や経験が、
どんどんと脳みそから消え、結果として、頭がボケていく。
そのため総合的な判断が、できにくくなる。

ただ本人自身は、ここにも書いたように、自分でそれに気づくことはない。
そういう状態になりながらも、「私は、まとも」と思う。
このズレが、いろいろな場面で、トラブルの原因となることもある。

先日も、私がその女性(65歳くらい)に、「私は、そんなバカではないと
思います」と言ったときのこと、その女性は何を勘違いしたのか、こう言って
叫んだ。
「私だって、そんなバカではありません!」と。

私はその女性に、認知症の初期症状をいくつか感じ取っていた。
自分勝手でわがまま。
繊細な会話ができない。
話す内容も一方的で、その繰り返し。

が、それはそのまま私自身の問題でもある。

私もよく(うつ状態)になる。
何かのことでそれにこだわると、それについて、悶々と悩んだりする。
毎日、そのことばかりを考えるようになる。

考えるといっても、堂々めぐり。
思考そのものが、ループ状態になる。
とたん、ほかの情報が脳みその中に、入ってこなくなる。
肉体の健康にたとえるなら、これは腕の運動ばかりしていて、体全体の運動を
忘れるようなもの。

うつ状態が長期になればなるほど、そのため、頭はボケていく。

だから……、といっても、もう結論は出ているが、うつ状態は、ボケの敵。
50歳を過ぎたら、とくに注意したほうがよい。

(付記)

認知症から(うつ状態)になる人もいれば、(うつ状態)から認知症になる人も
いる。
その見分けは、専門家でもたいへんむずかしいという。
が、こう考えてはどうだろうか。
どちらであるにせよ、脳の一部しか機能しなくなるために、そうなる、と。

とくに50代以上になると、それまでの知識や経験が、穴のあいたバケツから
水がこぼれ出るように、外へと漏れ出ていく。
そうでなくても補充しなければいけないときに、特定のことにこだわり、
それについて悶々と悩むのは、それだけでバカになっていく。
それが認知症につながっていくということも、じゅうぶん考えられる。

少し前まで、「損得論」についていろいろ考えてきたが、損か得かという
ことになれば、脳みその機能が悪くなることほど、損なことはない。
まさに「私」の一部を、失うことになる。

++++++++++++++++

思考のループについて、
以前書いた原稿を、添付します。

++++++++++++++++

●無限ループの世界

 思考するということには、ある種の苦痛がともなう。それはちょうど難解な数学の問題を解くよ
うなものだ。できれば思考などしなくてすましたい。それがおおかたの人の「思い」ではないか。

 が、思考するからこそ、人間である。パスカルも「パンセ」の中で、「思考が人間の偉大さをな
す」と書いている。しかし今、思考と知識、さらには情報が混同して使われている。知識や情報
の多い人を、賢い人と誤解している人さえいる。

 その思考。人間もある年齢に達すると、その思考を停止し、無限のループ状態に入る。「そ
の年齢」というのは、個人差があって、一概に何歳とは言えない。二〇歳でループに入る人も
いれば、五〇歳や六〇歳になっても入らない人もいる。「ループ状態」というのは、そこで進歩
を止め、同じ思考を繰り返すことをいう。こういう状態になると、思考力はさらに低下する。私は
このことを講演活動をつづけていて発見した。

 講演というのは、ある意味で楽な仕事だ。会場や聴衆は毎回変わるから、同じ話をすればよ
い。しかし私は会場ごとに、できるだけ違った話をするようにしている。これは私が子どもたち
に接するときもそうだ。

毎年、それぞれの年齢の子どもに接するが、「同じ授業はしない」というのを、モットーにしてい
る。(そう言いながら、結構、同じ授業をしているが……。)で、ある日のこと。たしか過保護児
の話をしていたときのこと。私はふとその話を、講演の途中で、それをさかのぼること二〇年
程前にどこかでしたのを思い出した。とたん、何とも言えない敗北感を感じた。「私はこの二〇
年間、何をしてきたのだろう」と。

 そこであなたはどうだろうか。最近話す話は、一〇年前より進歩しただろうか。二〇年前より
進歩しただろうか。あるいは違った話をしているだろうか。それを心のどこかで考えてみてほし
い。さらにあなたはこの一〇年間で何か新しい発見をしただろうか。それともしなかっただろう
か。

こわいのは、思考のループに入ってしまい、一〇年一律のごとく、同じ話を繰り返すことだ。もう
こうなると、進歩など、望むべくもない。それがわからなければ、犬を見ればよい(失礼!)。犬
は犬なりに知識や経験もあり、ひょっとしたら人間より賢い部分をもっている。しかし犬が犬な
のは、思考力はあっても、いつも思考の無限ループの中に入ってしまうことだ。だから犬は犬
のまま、その思考を進歩させることができない。

 もしあなたが、いつかどこかで話したのと同じ話を、今日もだれかとしたというのなら、あなた
はすでにその思考の無限ループの中に入っているとみてよい。もしそうなら、今日からでも遅く
ないから、そのループから抜け出してみる。方法は簡単だ。何かテーマを決めて、そのテーマ
について考え、自分なりの結論を出す。そしてそれをどんどん繰り返していく。どんどん繰り返
して、それを積み重ねていく。それで脱出できる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ノーブレイン

 英語に「ノーブレイン(脳がない)」という言い方がある。「愚か」という意味ではない。ふつう
「考える力のない人」という意味で使う。「賢い(ワイズ)」の反対の位置にある言葉だと思えばよ
い。「ヒー・ハズ・ノー・ブレイン(彼は脳がない)」というような使い方をする。

 そのノーブレインだが、このところ日本人全体が、そのノーブレインになりつつあるのではな
いか。たとえばテレビ番組に、バラエィ番組というのがある。チャラチャラしたタレントたちが、こ
れまたチャラチャラとした会話を繰り返している。どのタレントも思いついたままを口にしている
だけ。一見、考えてしゃべっているように見えるが、その実、何も考えていない。脳の表層部分
に飛来する情報を、そのつど適当に加工して口にしているだけ。

考える力というのは、みながみな、もっているわけではない。仮にもっていたとしても、考えるこ
とにはいつも、ある種の苦痛がともなう。それは難しい数学の方程式を解くような苦痛に似てい
る。しかも考えて解ければそれでよし。「解いた」という喜びが快感になる。しかしたいていは答
そのものがない。考えたところで、どうにもならないことが多い。そのためほとんどの人は、無
意識のうちにも、考えることを避けようとする。

言いかえると、「考える人」は、少ない。「考える習慣のある人」と言いかえたほうが正しいかも
しれない。その習慣のある人は少ない。私が何か問いかけても、「そんなめんどうなこと考えた
くない」とか、反対に、「もうそんなめんどうなこと、考えるのをやめろ」とか言う人さえいる。

人間は考えるから人間であって、もし考えることをやめてしまったら、人間は人間でなくなってし
まう。少なくとも、人間と、他の動物を分けるカベがなくなってしまう。「考える」ということには、
そういう意味が含まれる。ただここで注意しなければならないのは、考えるといっても、(1)そ
の方法と、(2)内容である。

これについてはまた別のところで結論を出すが、私のばあい、自分の考えが、ループ状態
(堂々巡り)にならないように注意している。またそれだけは避けたいと思っている。一度その
ループ状態になると、一見考えているように見えるが、そこで思考が停止してしまう。

それに私のばあい、これは私の思考能力の欠陥と言ってよいのだろうが、大きな問題と小さな
問題を同時に考えたりすると、その区別がつかなくなってしまう。ときとしてどうでもよいような問
題にかかりきりになり、自分を見失ってしまう。「考える」ということには、そういうさまざまな問題
が隠されてはいる。しかしやはり「人間は考えるから人間」である。それは人間が人間であるこ
との大前提といってもよい。つまり「ノーブレイン」であることは、つまりその人間であることの放
棄といってもよい。

人間を育てるということは、その「考える子ども」にすることである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●考えない子ども

 「1分間で、時計の長い針は、何度進むか」という問題がある(旧小4レベル)。その前の段階
として、「1時間で360度(1回転)、長い針は回る」ということを理解させる。そのあと、「では1
分間で、何度進むか」と問いかける。

 この問題を、スラスラ解く子どもは、本当にあっという間に、「6度」と答えることができる。が、
そうでない子どもは、そうでない。で、そのときの様子を観察すると、できない子どもにも、ふた
つのタイプがあるのがわかる。懸命に考えようとするタイプと、考えることそのものから逃げて
しまうタイプである。

 懸命に考えようとするタイプの子どもは、ヒントを小出しに出してあげると、たいていその途中
で、「わかった」と言って、答を出す。しかし考えることから逃げてしまうタイプの子どもは、いくら
ヒントを出しても、それに食いついてこない。「15分で、長い針はどこまでくるかな?」「15分
で、長い針は何度、回るかな?」「15分で、90度回るとすると、1分では何度かな?」と。

そこまでヒントを出しても、まだ理解できない。もともと理解しようという意欲すらない。どうでもよ
いといった様子で、ただぼんやりしている。さらに考えることをうながすと、「先生、これは掛け
算の問題?」と聞いてくる。

決して特別な子どもではない。今、このタイプの、つまり自分で考える力そのものが弱い子ども
は、約二五%はいる。四人に一人とみてよい。無気力児とも違う。友だちどうしで遊ぶときは、
それなりに活発に遊ぶし、会話もポンポンとはずむ。知識もそれなり豊富だし、ぼんやり型の
子ども(愚鈍児)特有の、ぼんやりとした様子も見られない。

ただ「考える」ということだけができない。……できないというより、さらによく観察すると、考える
という習慣そのものがないといったふう。考え方そのものがつかめないといった様子を見せる。

 そこで子どもが考えるまで待つのだが、このタイプの子どもは、考えそのものが、たいへん浅
いレベルで、ループ状態に入るのがわかる。つまり待てばよいというものでもない。待てば待っ
たで、どんどん集中力が薄くなっていくのがわかる……。

 結論から先に言えば、小学四年生くらいの段階で、一度こういう症状があらわれると、以後な
おすのは容易ではない。少なくとも、学校の進度に追いつくことがむずかしくなる。やっとできる
ようになったと思ったときには、学校の勉強のほうがさらに先に進んでいる……。あとはこの繰
り返し。

 そこで幼児期の「しつけ」が大切ということになる。それについてはまた別のところで考える
が、もう少し先まで言うと、そのしつけは、親から受け継ぐ部分が大きい。親自身に、考えると
いう習慣がなく、それがそのまま子どもに伝わっているというケースが多い。勉強ができないと
いうのは、決して子どもだけの問題ではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 思考
のループ ループ性 ループ状態)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

【子どもの思考力】

●考える子どもvs考えない子ども

 勉強ができない子どもは、一般的には、たとえば愚鈍型(私は「ぼんやり型」と呼んでいる。こ
の言葉は好きではない。)、発育不良型(知育の発育そのものが遅れているタイプ)、活発型
(多動性があり、学習に集中できない)などに分けて考えられている(教育小辞典)。

しかしこの分類方法で子どもを分類しても、「ではどうすればよいか」という対策が生まれてこな
い。さらに特殊なケースとして、LD児(学習障害児)の問題がある。診断基準をつくり、こうした
子どもにラベルを張るのは簡単なことだ。が、やはりその先の対策が生まれてこない。つまりこ
うした見方は、教育的には、まったく意味がない。言うまでもなく、子どもの教育で重要なのは、
診断ではなく、また診断名をつけることでもなく、「どうすれば、子どもが生き生きと学ぶ力を養
うことができるか」である。

 そこで私は、現象面から、子どもをつぎのように分けて考えている。

(1)思考力そのものが散漫なタイプ
(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ
(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ
(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ
 
この分類方法の特徴は、そのまま自分自身のこととして、自分にあてはめて考えることができ
るという点にある。たとえば一日の仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっているとき
というのは、考えるのもおっくうなものだ。そういう状態がここでいう(1)の状態。

何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけてよい
かわからなくなることがある。それが(2)の状態。

パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられ、何がなんだ
かさっぱりわからなくなるときがある。それが(3)の状態。

歳をとってから、ドイツ語を学びはじめたとする。単語を覚えるのだが、覚えられるのはその場
だけ。つぎの週には、きれいに忘れてしまう。それが(4)の状態。

 勉強が苦手(できない)な子どもは、これら(1)〜(4)の状態が、日常的に起こると考えると
わかりやすい。そしてそういう状態が、実は、あなた自身にも起きているとわかると、「ではどう
すればよいか」という部分が浮かびあがってくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 勉強
が苦手 勉強が苦手な子供)


(1)思考力そのものが散漫なタイプ

思考力そのものが、散漫なタイプの子どもを理解するためには、たとえばあなたが一日の仕事
を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっているようなときを想像してみればよい。そういうと
きというのは、考えるのもおっくうなものだ。ひょっとしたら、不注意で、そのあたりにあるコーヒ
ーカップを、手で倒してしまうかもしれない。だれからか電話がかかってきても、話の内容は上
の空。「アウー」とか答えるだけで精一杯。あれこれ集中的に指示されても、そのすべてがどう
でもよくなってしまう。明日の予定など、とても立てられない……。

もしあなたがそういう状態になったら、あなたはどうするだろうか。一時的には、コーヒーを口に
したり、ガムをかんだりして、頭の回転をはやくしようとするかもしれない。効果がないわけでは
ない。が、だからといって、体の疲れがとれるわけではない。そういうときあなたの夫(あるいは
妻)に、「何をしているの! さっさと勉強しなさい」と、言われたとする。あなたはあなたで、「し
なければならない」という気持ちがあっても、ひょっとしたら、あなたはどうすることもできない。
漢字や数字をみただけで、眠気が襲ってくる。ほんの少し油断すると、目がかすんできてしま
う。横で夫(あるいは妻)が、横でガミガミとうるさく言えば言うほど、やる気も消える。

思考力が弱い子どもは、まさにそういう状態にあると思えばよい。本人の力だけでは、どうしよ
うもない。またそういう前提で、子どもを理解する。「どうすればよいか」という問題については、
あなたならどうしてもらえばよいかと考えればわかる。疲労困ぱいして、ソファに寝そべってい
るようなとき、あなたなら、どうすればやる気が出てくるだろうか。そういう視点で考えればよ
い。そういうときでも、あなたにとって興味がもてること、関心があること、さらに好きなことな
ら、あなたは身を起こしてそれに取り組むかもしれない。まさにこのタイプの子どもは、そういう
指導法が効果的である。これを「動機づけ」というが、その動機づけをどうするかが、このタイプ
の子どもの対処法ということになる。

(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ

何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけてよい
かわからなくなることがある。実家から電話がかかってきて、親が倒れた。そこでその支度(し
たく)をしていると、今度は学校から電話がかかってきて、子どもが鉄棒から落ちてけがをし
た。さらにそこへ来客。キッチンでは、先ほどからなべが湯をふいている……!

一度こういう状態になると、考えが堂々巡りするだけで、まったく先へ進まなくなる。あなたも学
生時代、テストで、こんな経験をしたことがないだろうか。まだ解けない問題が数問ある。しかし
刻々と時間がせまる。計算しても空回りして、まちがいばかりする。あせればあせるほど、自分
でも何をしているかわからなくなる。

このタイプの子どもは、時間をおいて、同じことを繰りかえすので、それがわかる。たとえば「時
計の長い針は、15分で90度回ります。1分では何度回りますか」という問題のとき、しばらくは
分度器を見て、何やら考えているフリをする。そして同じように何やら式を書いて計算するフリ
をする。私が「あと少しで解けるのかな」と思って待っていると、また分度器を見て、同じような
行為を繰りかえす。式らしきものも書くが、先ほど書いた式とくらべると、まったく同じ。あとはそ
の繰り返し……。

一度こういう状態になったら、ひとつずつ片づけていくのがよい。が、このタイプの子どもはいく
つものことを同時に考えてしまうため、それもできない。ためしに立たせて意見を発表させたり
すると、おどおどするだけで何をどう言ったらよいかわからないといった様子を見せる。そこで
あなた自身のことだが、もしあなたがこういうふうにパニック状態になったら、どうするだろう
か。またどうすることが最善と思うだろうか。

 ひとつの方法として、軽いヒントを少しずつ出して、そのパニック状態から子どもを引き出すと
いう方法がある。「時計の絵をかいてごらん」「1分たつと、長い針はどこからどこまで進みます
か」「5分では、どこまで進みますか」「15分では、どこかな」と。これを「誘導」というが、どの段
階で、子どもが理解するようになるかは、あくまでも子ども次第。絵をかいたところで、「わかっ
た」と言って理解する子どももいるが、最後の最後まで理解しない子どももいる。そういうときは
それこそ、からんだ糸をほぐすような根気が必要となる。しかもこのタイプの子どもは、仮に「1
分で長い針は6度進む」とわかっても、今度は「短い針は1時間で何度進むか」という問題がで
きるようになるとはかぎらない。少し問題の質が変わったりすると、再びパニック状態になって
しまう。パニックなることそのものが、クセになっているようなところがある。あるいはヒントを出
すということが、かえってそれが「思考の過保護」となり、マイナスに作用することもある。
 方法としては、思い切ってレベルをさげ、その子どもがパニックにならない段階で指導するし
かないが、これも日本の教育の現状ではむずかしい。

(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ

パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられると、何がな
んだかさっぱりわからなくなるときがある。「メニューから各機種のフォルダを開き、Readme.
txtを参照。各データは解凍してあるが、してないものはラプラスを使って解凍。そのあとで直接
インストールのこと」と。

このタイプの子どもは、頭の中に、自分がどこへ向かっているかという地図をえがくことができ
ない。教える側はそのため、「これから角度の勉強をします」と宣言するのだが、「角」という意
味そのものがわかっていない。あるいはその必要性そのものがわかっていない。「角とは何
か」「なぜ角を学ぶのか」「学ばねばならないのか」と。そのため、頭の中が混乱してしまう。「角
の大きさ」と言っても、何がどう大きいのかさえわからない。それはちょうどここに書いたよう
に、パソコン教室で、先生にいきなり、「左インデントを使って、段落全体の位置を、下へさげて
ください」と言われるようなものだ。こちら側に「段落をさげたい」という意欲がどこかにあれば、
まだそれがヒントにもなるが、「左インデントとは何か」「段落とは何か」「どうして段落をさげなけ
ればならないのか」と考えているうちに、何がなんだかさっぱりわけがわからなくなってしまう。
このタイプの子どもも、まさにそれと同じような状態になっていると思えばよい。

そこでこのタイプの子どもを指導するときは、頭の中におおまかな地図を先につくらせる。学習
の目的を先に示す。たとえば私は先のとがった三角形をいくつか見せ、「このツクンツクンした
ところで、一番、痛そうなところはどこですか?」と問いかける。先がとがっていればいるほど、
手のひらに刺したときに、痛い。すると子どもは一番先がとがっている三角形をさして、「ここが
一番、痛い」などと言う。そこで「どうして痛いの」とか、「とがっているところを調べる方法はない
の」とか言いながら、学習へと誘導していく。

 このタイプの子どもは、もともとあまり理屈っぽくない子どもとみる。ものの考え方が、どこか
夢想的なところがある。気分や、そのときの感覚で、ものごとを判断するタイプと考えてよい。
占いや運勢判断、まじないにこるのは、たいていこのタイプ。(合理的な判断力がないから、そ
ういうものにこるのか、あるいは反対に、そういうものにこるから、合理的な判断力が育たない
のかは、よくわからないが……。)さらに受身の学習態度が日常化していて、「勉強というの
は、与えられてするもの」と思い込んでいる。もしそうなら、家庭での指導そのものを反省する。
子どもが望む前に、「ほら、英語教室」「ほら、算数教室」「ほら、水泳教室」とやっていると、子
どもは、受身になる。

(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ

 大脳生理学の分野でも、記憶のメカニズムが説明されるようになってきている。それについ
てはすでにあちこちで書いたので、ここではその先について書く。

 思考するとき人は、自分の思考回路にそってものごとを思考する。これを思考のパターン化
という。パターン化があるのが悪いのではない。そのパターンがあるから、日常的な生活はス
ムーズに流れる。たとえば私はものを書くのが好きだから、何か問題が起きると、すぐものを
書くことで対処しようとする。(これに対して、暴力団の構成員は、何か問題が起きると、すぐ暴
力を使って解決しようとする?)問題は、そのパターンの中でも、好ましくないパターンである。

 子どもの中には、記憶力が悪い子どもというのは、確かにいる。小学六年生でも、英語のア
ルファベットを、三〜六か月かけても、書けない子どもがいる。決して少数派ではない。そういう
子どもが全体の二〇%前後はいる。そういう子どもを観察してみると、記憶力が悪いとか、覚
える気力が弱いということではないことがわかる。結構、その場では真剣に、かつ懸命に覚え
ようとしている。しかしそれが記憶の中にとどまっていかない。そこでさらに観察してみると、こ
んなことがわかる。

「覚える」と同時に、「消す」という行為を同時にしているのである。それは自分につごうの悪い
ことをすぐ忘れてしまうという行為に似ている。もう少し正確にいうと、記憶というのは、脳の中
で反復されてはじめて脳の中に記憶される。その「反復」をしない。(記憶は覚えている時間の
長さによって、短期記憶と長期記憶に分類される。また記憶される情報のタイプで、認知記憶
と手続記憶に分類される。

学習で学んだアルファベットなどは、認知記憶として、一時的に「海馬」という組織に、短期記憶
の形で記憶されるが、それを長期記憶にするためには、大脳連合野に格納されねばならな
い。その大脳連合野に格納するとき、反復作業が必要となる。その反復作業をしない。)つまり
反復しないという行為そのものが、パターン化していて、結果的に記憶されないという状態にな
る。無意識下における、拒否反応と考えることもできる。

 原因のひとつに、幼児期の指導の失敗が考えられる。たとえば年中児でも、「名前を書いて
ごらん」と指示すると、体をこわばらせてしまう子どもが、約二〇%はいる。文字に対してある
種の恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。このタイプの子どもは、文字嫌いになる
だけではなく、その後、文字を記憶することそのものを拒否するようになる。結果的に、教えて
も、覚えないのはそのためと考えることができる。つまり頭の中に、そういう思考回路ができて
しまっている。

 記憶のメカニズムを考えるとき、「記憶するのが弱いのは、記憶力そのものがないから」と、
ほとんどの人は考えがちだが、そんな単純な問題ではない。問題の「根」は、もっと別のところ
にある。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2925)

●離婚するとき

+++++++++++++++++++

離婚する人の気持ちは、離婚する人でないと
わからない。
そこに至るまでには、それぞれ、人には説明しがたい
プロセスがある。
思いがある。
その思いは、複雑。
無数の糸がからんでいる。
が、ひとたび離婚を決めてしまうと、それまでの
世界が一変する。
「それまでの霧がいっぺんに晴れたみたい」となる。
「どうして今まで、こんな人と?」となる。

+++++++++++++++++++

●親子の縁、兄弟の縁

定年離婚というのは、ほとんどのばあい、妻の側から切り出される。
しかもある日突然。
「離婚します!」と。
それについて今朝、ワイフがこう言った。
「そういうときというのは、夫が何を言っても、手遅れなのよ」と。

ゾーッ!

離婚とまではいかないにしても、似たような経験は、よくする。
たとえば友人、兄弟姉妹、親の間など、で。

数日前も、ある従兄弟(いとこ)と話したが、その従兄弟のばあい、
兄弟や姉妹との行き来は、まったくないという。
実家の近くまで行っても、実家に寄らないで、そのまま帰る、とも。
そこでいろいろ話を聞くと、こう教えてくれた。

「兄貴にしても、親父にしても、うるさくてたまらない」と。

どうやら、この(うるさい)という言葉の中に、人間関係の複雑さを解くカギが
あるようだ。
つまりうるさい人間は、夫であれ、妻であれ、親であれ、兄弟、姉妹であれ、
嫌われる。
それが長い年月を経て、積もり積もって、「別れ」となる。
夫婦でいえば、「離婚」となる。

●うるさい人間

うるさい人間というのは、結局は、自己中心性の強い人間ということになる。
自分勝手でわがまま。
他人の話に耳を傾けない。
自分中心の価値観を、相手に押しつける。
「ああしろ」「こうしろ」と。
そして自分こそが、絶対正しいと、信じて疑わない。
これはそのまま、自己愛者の特徴でもある。

自己愛者は、自己中心性が極端に強く、自己の絶対性を譲らない。
だれかに批判されただけで、激怒する。

この自己中心性が、相手を遠ざける。

が、自己中心性が強い分だけ、相手の心の変化を読めない。
読めないから、「ある日突然……」となる。

●乾いた心

離婚はともかくも、……というのは、私自身も経験がないので、
似たような心理状態は、私もする。
たとえば友人にしても、それまでは友人と思っていても、「顔も見たくない」
と思うようになることがある。
「嫌う」という心理ではない。
心そのものが、乾いてしまう。
相手が何を言ってもう受けつけなくなるというよりは、相手の言葉が、
こちらの心に染みこんでこない。
「話をしても、どうせ無駄」とか、「どうせ理解してもらえない」とか。
そういう心理状態になる。

この段階で、言い争うようであれば、まだ救われる。
脈がある。
喧嘩するようであれば、なおよい。

しかしいったん、心が乾いてしまうと、争ったり、怒るということもなくなる。
「別れたい」という積極的な意思すらなくなる。
どうでもよくなって、それが自然な(別れ)につながっていく。

●段階説

そこで離婚に至る過程を、段階的に考えてみる。

(1)葛藤期

喧嘩や言い争いが多くなる。
回数が多くなり、ときにはげしく衝突する。

(2)無言期

たがいの会話が途絶える。
口をきいたとたん、一触即発の状態になる。

(3)第二葛藤期

悶々とした状態で、日々を過ごす。
よくうつ状態がはげしくなる。

(4)離婚期

葛藤がはげしくなり、よくうつ状態が限界に達する。
とたん、相手への思いが、消える。
この段階になると、離婚にともなう敗北感や、世間体に
対する体裁などが消える。
「別れたい」という思いが何にもまして優先する。

離婚する人、あるいは離婚したい人に、それまでの思い出はどうなるのかと
聞くと、たいてい、こう言う。

「楽しかったはずの思い出すら、まったく色あせてしまう」と。

●恩着せ

先にも書いたように、自己中心性の強い人は、相手の気持ちがわからない。
ある夫は、妻が離婚を切り出したとき、こう言ったという。

「今まで、オレは、家族のために粉骨砕身でがんばってきた。
お前たちのために、どれほど苦労してきたかわからない。
何が不満なのだ!」と。

しかし離婚する側は、そういった恩着せがましい言い方そのものが許せない。
恩を着せられれば着せられるほど、相手への気持ちが消えていく。
それもそのはず。
夫婦は、たがいに無私であってこそ、夫婦。
「恩」が入りこむ隙間(すきま)があるほうが、おかしい。

恩着せがましいことを言えば言うほど、夫婦の間の亀裂は大きくなる。

●では、どうするか

夫婦も、無私の愛をつらぬく。
たとえば自分の子どもに、「産んでやった」「育ててやった」と言う親がいる。
これも恩着せだが、それが妻に向かうと、「仕事をしてやった」
「お前たちのためにがんばってやった」となる。
その言葉のもつ低劣さは、言うほうにはわからない。
言われたほうにしかわからない。

悪玉親意識、あるいは権威主義的なものの考え方をする人ほど、
こうした言葉を口に出しやすいので、注意する。
悪玉親意識というのは、いわゆる親風を吹かす人をいう。
権威主義的なものの考え方というのは、「夫が上で妻が下」「親が上で子が下」
というように考えることをいう。
たった数歳、年上というだけで、年長意識をもったりする。

悪玉親意識(このばあいは、悪玉夫意識)や、権威主義的なものの考え方は
捨てる。
とくに注意したいのは、無意識のまま、自分の親たちの意識を引き継いで
いるばあい。
こうした意識は、代々、親から子へと、世代連鎖しやすい。
そういう意識をもっている人は、一度、自分の親がそういった意識を
もっていなかったかどうか、心の中で確認してみるとよい。

●付記

あなたのまわりにも、悪玉親(夫)意識や、権威主義的なものの考え方を
する人は少なくないはず。
そういう人の家庭を、ほんの少しだけ、のぞいてみるとよい。
たいてい親子断絶、もしくは離婚寸前という状態であることがわかる。

反対に、親子の関係が断絶している家庭、離婚の一歩手前にいる夫婦を、
観察してみるのもよい。
たいてい親のほうが、あるいは夫のほうが、悪玉親(夫)意識をもっているか、
夫が権威主義的なものの考え方をしているのがわかる。

封建時代の昔から、私たち日本人には、権威主義的なものの考え方が、
骨のズイまでしみこんでいる。
「上下意識」が、それ。
その上下意識が、人間関係をゆがめる。
家庭、家族にあっては、この権威主義は、百害あって一利なし。
そう考えて、まちがいない。

人間に上下はない。
親子の間にも、ない。
夫婦の間には、さらにない。
ついでに言うなら、おかしな武士道なるものには、じゅうぶん、注意したほうがよい。
今、封建時代の負の遺産には目を閉じたまま、武士道なるものを一方的に
賛美する人が、あまりにも多いのには、驚く。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV 08++++++++++はやし浩司

●悪玉夫意識

「私は夫だ」と、夫風を吹かすことを、悪玉夫意識という。
(夫意識にも、善玉と悪玉がある。)

上下意識が強く、「夫(男)が上で、妻(女)が下」と考える。
考えるというよりは、無意識のまま、それを基盤にものを考え、そして行動する。
妻に対して、「おい、お茶!」式の言い方をしながら、それがおかしいと、
みじんも思わない。
反対に、それがあるべき夫、さらには夫婦の姿と思いこんでいる。

悪玉夫意識がおかしいことは、今さら、改めて書くまでもない。
それについては、何度も書いてきた。

で、ここではもう一歩、話を進めて、悪玉夫意識を認めている妻も、
これまた多いということについて書いてみたい。
こういうばあい、妻自身が、悪玉夫意識を受け入れてしまっている。
そしてそれが、夫として、あるべき姿と認めてしまっている。
夫に対して隷属的に仕えることに、なんら疑問を感じないばかりか、
それをあるべき妻の理想的な姿と思いこんでいる。

このタイプの妻は、自分自身も、権威主義的な家庭で乳幼児期を過ごしている
と考えてよい。
つまり封建主義時代の亡霊が、骨のズイまで染みこんでいる。
そればかりか、それがその妻の生き方の柱になっていることが多い。
そのため妻自身に、それを気づかせるのは、容易ではない。

もっとも、それで夫婦の間が円満であれば、それでよい。
夫にとっても、居心地のよい世界かもしれない。
他人である私やあなたが、あえて内政干渉する必要はない。

私の知人夫婦もそうだ。
夫(55歳)はもちろん権威主義的なものの考え方の持ち主。
家事はいっさい、手伝わない。
「男は仕事、女は家庭」という意識を強くもっている。
が、それに答えて、妻(52歳)のほうも、「夫が上で、妻が下」と
いう意識を強くもっている。

こんなことがあった。

夏になると、寝室が湿気(しけ)て困るという。
寝室は、家の裏側にあり、風呂場がその横にあった。
そこで私が「換気扇をつければいい」と言うと、その女性はこう言った。
「とんでもありません。あの家は、夫が一生懸命働いて建てた家です。
そんな家に穴をあけるなんて……!」と。

私は「ハア……」と言っただけで、言葉がつづかなかった。

意識というのはそういうもの。
が、それでその女性がはたして幸福なのかというと、それは疑わしい。
どこかで何かの(わだかまり)を感じているのかもしれない。
どこかで(自分)を押し殺しているのかもしれない。
会話の途中で、「私の夫は、すばらしい人です」と、何度も言った。

ふつうは、そういうことは、あまり言わない。
(私のワイフなどは、ぜったいにそういうことは言わない!)
つまりそうでないから、その心をごまかすために、そう言う。
もちろん自分の心をごまかすために、である。

なお最近の意識調査によれば、約70%の夫が、料理を積極的に
するようになったという(中日新聞・08・11)。
たいへんよい傾向である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
悪玉夫意識 悪玉親意識)


Hiroshi Hayashi++++++++NOV 08++++++++++はやし浩司

●山荘にて

今日(11月15日)は、久しぶりに、山荘ライフを満喫した。
草刈り、焚き火、木の伐採などなど。
大型の草刈り機で、雑木がおい茂る裏山を、バリバリと
刈っていくときの爽快感には、格別なものがある。
ストレス解消には、最高!
パワーを最大にして、日本刀を振り下ろすようにして、一気に
切り倒す。
直径5センチほどの木でも、まるで雑草のように切り倒すことができる。
やわらかいツタのような木なら、7〜8センチまで切り倒すことができる。
バリバリ、ウィーン……バリバリ……と。
自分に向かって倒れてくる木を片腕で払いながら、先へ先へと進む。


汗をびっしょりとかいて、作業は終了。

そのあと、枯れ葉を燃やす。
それを見ながら、テーブルに座って、ジュースを飲む。
ときどき立ち上がって、庭の木を切る。
太い木は、のこぎりで切る。

++++++++++++++++++

裏山の雑木林へ入れるのは、今ごろの季節しかない。
春から夏、秋にかけては、ハチやヘビが出る。

そこで木を切り倒すときは、容赦なく、切り倒す。
一年分を先取りしながら、切り倒す。
手加減してはいけない。
雑木というのは、1年で、大きく成長する。
たとえば山荘の入口に、コナラの木がある。
ほんの5、6年前には、太もも程度の太さしか
なかった。
が、今では、両手で手を回しても、かかえられないほど
大きくなった。……なってしまった。
こうなると、切るに切れなくなる。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2926)

●悪魔論

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あなたがそれを信じても、信じなくても、
どちらでもよい。
この話は、あくまでも、仮に……という話である。
「仮に悪魔というものがいるとしたら……」という
話である。
私自身、映画『エクソシスト』に出てくるような
悪魔の存在は、信じていない。

ここでいう悪魔というのは、心の問題。
心の中の問題。
「心」があるとしたら、その心の中に
すみつく、人間がもつ魔性のようなもの。

その魔性を「悪魔」というならば、たしかに
悪魔というのは(いる)。
それは私やあなたの心の中に(いる)。

++++++++++++++++++++

「心の中に(いる)」というのは、矛盾している。
そもそもおかしい。
「心」というものは存在しない。
だから、その心の中に(いる)というのは、おかしい。
心といいのは、観念的なもの。
存在しない。
だからここでいう悪魔も、観念的なものということになる。

それはよくわかっている。
しかし悪魔というのは、たしかにいる。
「心がある」と思うのと同じくらい、「たしかにいる」。
「いる」というよりは、「感ずる」。
人間が本来的にもつ魔性のようなものと思えばよい。
憎しみや嫉妬、怒りや不満……そういったものを総称したものが、悪魔。
簡単に言えば、そういうことになる。
その悪魔は、私やあなたの心の奥深くに潜んでいる。
私やあなたが苦しむのを、楽しんでいる。

で、とくに興味をもっているわけではないが、欧米人と会話をしていると、よく悪魔論が
話題になる。
ハリウッド映画の中にも、よく登場する。
善の象徴を「神」とするなら、悪の象徴は「悪魔」ということになる。
欧米人は、よくこの2つを対比させてものを考える。
『善と悪は、神の左手と右手である』と説くのも、そのひとつ。
神を信じている人は、同時に悪魔の(存在)を信じている。

で、彼らが考える悪魔論を、私が知りえた範囲で、まとめるとこうなる。

(1)運命をのろうものに、とりつき、その人を破滅させる

私たちの体には無数の「糸」がからんでいる。
家族の糸、親類の糸、社会や国の糸などなど。
能力や肉体の糸というのもある。
そういった糸が、私たちの進むべき道を、ときとして
勝手に決めてしまう。
私たちが望むのとはちがった方向に、私たちを導いてしまう。
それを「運命」というのなら、運命というのは、ある。

そこで大切なことは、その運命を感じたら、そしてその運命が
どうにもならないものであるのなら、静かにそれに身を任す。
運命というのは、逆らえば逆らうほど、ここでいう悪魔となって、
あなたを襲う。
「いやだ」「逃げたい」と思えば思うほど、あなたの身を焦がし、
あなたを苦しめる。
ある女性は、実父の介護をするのがいやでいやでたまらなかった。
だから実父の介護をしながら、それこそ地獄のような重苦しい毎日を
送らねばならなかった。

では、どうするか。

ここにも書いたように、すなおに身を任す。
やるべきことは淡々としながら、時の流れに、身を任す。

で、ひとたび運命を受け入れてしまえば、悪魔は、
向こうからシッポを巻いて逃げていく。

(2)悪魔は情け容赦せず、純朴で罪のない人を犠牲にする。

たとえば悪魔があなたを苦しめようとしたときには、あなたを
ターゲットにしない。
あなたの周囲にいる、純朴で罪のない人を犠牲にする。
あなたの子どもや、あなたの夫や妻など。
そういう人たちを容赦なく、自分の牙(きば)にかける。
悪魔の目的は、あなたを弄(もてあそ)ぶこと。
あなたが苦しんだり、悲しんだりするのを楽しむ。

一見不可解な行動に見えるかもしれないが、西洋ではこう言う。
『悪魔のつぎの行動を知りたかったら、悪魔の目的を知ればいい』と。

悪魔の目的はあなたを苦しめたり、悲しませたりすることであることが
わかれば、悪魔はもっとも効果的な方法を選ぶ。

ではどうするか。

悪魔というのは、元来、臆病で、気が小さい。
自分の存在を知られることを、何よりも恐れる。
知られたとたん、同じようにシッポを巻いて逃げていく。
恐れる必要は、まったくない。

自分の運命を静かに観察してみて、そこに悪魔を感じたら、それを
すなおに認めればよい。

(3)悪魔は、世俗的な成功や失敗には、興味をもたない。

悪魔がターゲットとするのは、あくまでも私やあなたの(心)。
世俗的な成功や失敗には、興味をもたない。
言い換えると、いかに私やあなたが世俗的に成功していても、また
反対に貧乏のドン底にいたとしても、悪魔は感知しない。

悪魔はそういった世俗性を超えたところに(いる)。

わかりやすく言えば、悪魔がとりついたからといって、事業に
失敗するとか、そういうことはない。

悪魔は、私やあなたの中の、最大の弱点を見つけ、そこを突いてくる。
あなたが孤独に弱い人間であるとわかれば、あなたを孤独にする。
あるいは私やあなたがいちばん大切にしているものを、容赦なく、
殺したり、死に追いやったりする。

では、どうするか。

あなたは惜しみない愛を、まわりの人たちに注げばよい。
もし方法がわからなければ、『許して、忘れる』。
これだけを繰り返す。
悪魔といえども、私やあなたに愛されている人には、手を出さない。
強固な愛で結ばれている人には、手を出さない。
あなたの愛にほころびができたとき、そのほんの一瞬のスキをねらって、
突いてくる。
だからどんなに逆境に落とされたとしても、最後の最後まで、
『許して、忘れる』。
それだけを心の中で念じて、あなたの愛する人を、あなたの愛で包む。

(4)ほかに……

欧米では、悪魔論は、自分を守るための道具として、使う。
というのも、悪魔論は、つねに結果論をともなう。
「結果的にそうなった……」という事実を知って、そこに悪魔が(いた)
ことを知る。
その過程で、悪魔がいたことを知ることはほとんどない。
知ったとたん、悪魔は私やあなたから退散する。
だから結果論ということになる。

では、どうするか。

常に自分の心の中の善と悪を、静かに観察する。
冒頭に書いたように、「神」が善の象徴であるとするなら、
「悪魔」は悪の象徴ということになる。
善にしても、悪にしても、それは私やあなたの心の中に(ある)。
それを知れば、つまり悪魔の存在を知れば、悪魔はそのまま
同じくシッポを巻いて退散していく。

悪魔というのは、だれにも気づかれず、コソコソと悪いことを
するのは得意だが、自分の正体を見られることすら、恐れる。
だったら、その正体を知ればよい。、

●最後に……。

こと悪魔に関して言えば、オカルト的な儀式をして、
追い払うとか、取り除くという問題ではない。
(ハリウッド映画の中では、そういったシーンがよく出てくるが……。)
あくまでも、私やあなたの心の問題ということ。

たとえば今、あなたが、家族のだれかのことで苦しんだり、
悩んだりしているとするなら、どうにもならないものであるなら、
静かに受け入れる。

私も実母の介護をするようになって、それを知った。
たしかに介護は、それ自体、たいへん。
便、食事、入浴の世話。
しかし私たちは最初から、母を許し、忘れることができた。
そのせいか、介護は、拍子抜けするほど、楽だった。

あとは、時間の問題。
空の雲が風に乗って、行くべきところに行くように、
あとは時間が解決してくれる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
悪魔 悪魔論 心の中の悪魔 悪の象徴)

Hiroshi Hayashi++++++++NOV 08++++++++++はやし浩司

●家離れできない人たち

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親離れ、子離れという言葉がある。
同じように「家離れ」という言葉もある。
この言葉は、私が考えた。

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概して言えば、女性に多い。
確たる統計があるわけではない。
しかし結婚してからも、実家意識が強く、
家離れできない人は、少なくない。
ことあるごとに「実家」「実家」と、うるさいほど
その言葉を口にする。

実家そのものが、宗教的な本尊になって
いるばあいがある。
心の拠り所になっているばあいもある。
称して「実家意識」というが、骨のズイまで
染みこんでいるため、その意識を変えるのは
容易なことではない。

いろいろなケースがある。

ある女性(現在84歳)は、いまだに
実家といえば、自分の生まれ育った実家をいう。
夫がいたが、夫の実家には、結婚した当初から、
ほとんど足を踏み入れたことがない。

よほどの昔からの名家かと思ったが、話を聞くと、
そうでもない。
終戦まではある程度の田畑をもっていた。
庄屋的な存在だったようだが、戦後の農地解放で
そのほとんどを失った。

結婚してからも、足しげく、実家に通っていた。
が、それに悲鳴をあげたのが、その実家を守る、
嫁、つまり長男の妻だった。

その長男の妻はこう言った。
「叔父、叔母たちは、私をまるで召使いか何かの
ように扱いました」と。

結婚して家を出てからも、(「出る」という言い方は
不適切かもしれないが……)、夫の生活の中に、
自分の根をおろすことができない。
先の女性(現84歳)にしても、「墓参り」といえば、
自分の生まれ育った実家への墓参りを意味する。
夫や夫の先祖の墓参りには、夫が死んでからも、
めったに行ったことがないという。

その女性は、「家」に執着するあまり、その家のもつ
呪縛から自分を解き放つことができない。
つまり「家離れ」ができない。

「家意識」には、そういう魔力も含まれる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
家意識 実家意識 家離れ 家離れできない人 実家にこだわる人 実家論)


Hiroshi Hayashi++++++++NOV 08++++++++++はやし浩司

●HP2133のキーボードを日本語式に

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パソコンの修理は、脳のトレーニングのようなもの。
ときに将棋をさしているような緊張感を覚えることもある。
が、古いぜんまい式の時計を修理するのとは、わけがちがう。
何しろ、中身が、まったく見えない。

で、おととい、HP社から、日本語キーボードの基盤が届いた。
早速、キーボードを、取り替える。
それまでは英語式キーボードだった。
英語式キーボードは、キーの位置と記号の位置が、一致しない。
それにENTERキーが小さく、使いにくい。
それで日本語キーボードを、別に注文した。

で、HPの指示どおり、あれこれ操作してみたが、どうもうまくいかない。
が、これには理由がある。
私は2133を購入したとき、誤って、Dドライブのシステムを削除して
しまった。
パソコンは日本語キーボード用のドライバーを読みだそうとするのだが、
肝心のそれがDドライブに、それがない。

そこでインターネットを利用して、ドライバーをダウンロード。
が、問題はここで発生。
ソフトの何がじゃましているのかわからないが、何度やっても、エラー。
その夜は、それであきらめることにした。

しかし、である。
翌朝、2133を立ち上げてみると、何と、2133が、日本語キーボードで、
作動するではないか!
これには驚いた。
理由がわからない。
言うなれば、パソコンが自ら、勝手に英語キーボードから日本語キーボードに
改めてくれたことになる。

「こういうこともあるんだなあ」と感心しながら、もう一度、説明書をよく
読むと、こうあった。
「ドライバーをインストールしたら、再起動してください」と。

ナーンダ、と思ったところでこの話はおしまい。
私は再起動をかけることを忘れていた!


●講演会

今日、市内のK小学校で、今年最後の講演会をしてきた。
学校関係の講演会は、これで終わる。
12月になると、学校は別の行事で忙しくなる。

「最後……」ということで、意気込んで行った。
約600人ほどの親たちが、体育館にいた。
が、時間が短かったこともあり、できは最悪。

あとでワイフに聞いたら、「声がうしろのほうまで
届いていなかったみたい」と。
何しろ広い会場である。
私が大声で叫んでも、最後列まで、声が届かない。
マイクの音量も、小さかったらしい。

帰りの車の中で、しばし沈黙。
こういう講演会は、やっても、後味が悪い。
「やった!」という達成感がない。
野球の試合でいうなら、連続三振を取られたような感じ。
自分の失敗で、試合に負けてしまった。

……ということで、帰りには、マイン・シュロス(レストラン)
で、ステーキを食べた。
禁断の肉料理。
やけ食い。
(マイン・シュロスは、安くて、おいしい。
JR浜松駅のやや東側にあるレストラン。
浜松へ仕事か何かで来た人には、お勧め!
ディズニーランドのような楽しい雰囲気が
私は大好き!)

帰ってきてからは、コタツの中で、そのままうたた寝。
いろいろな夢を見たようだが、ぜんぶ、忘れた。
また1月からがんばろう。

そうそう大阪に住む友人が、おととい電話でこう言っていた。
「日曜日(=今日、11月16日)にも、仕事がある」と私が言うと、
「仕事があるいというだけでも感謝しなくちゃあ」と。

大阪は今、冬の陣。
冬のまっただ中。
何もかも、不景気のどん底らしい。
「そうだなあ」というような返事をして、この話はおしまい。

コタツから起きあがって、このエッセーを書いた。

(明日の朝、体重計に乗るのが、コワ〜〜イ。)


●AS首相の誤読

身の丈も知らず、AS首相は外国で、調子のよい話ばかりしている。
何でも今度は、IMFに10兆円も拠出するという。
金(マネー)をばらまけば、それで世界に注目されると思っているのか。
先日の報道によると、原稿の漢字すらも、満足に読めないらしい。

「踏襲」を「フシュウ」と読み、「未曾有」を「ミゾユウ」などと読んでいたという
(中日新聞、報道)。

これに対して、AS首相の周囲の人たちは、「読みまちがいはだれにでもある」
「今度から振り仮名をつける」「老眼を用意していなかった」などと、AS首相を
かばっている。

しかし「踏襲」を「フシュウ」と読んだり、「未曾有」を「ミゾユウ」と
読むのは、読みまちがいではない。
読みまちがいとは言わない。

「踏襲」の「踏」は、「踏(フ)む」とも読める。
だからAS首相は、「フ・シュウ」と読んだ。
「未曾有」の「有」についても、同じ。
つまり、漢字の読み方を知らなかった。
つまり、その程度の首相。

そんな首相が、経済危機を利用して、首相の地位に居座っている。
そして世界で、メチャメチャなことを言っている。

「アメリカドルは、もはや世界の基軸通貨ではない」という国際的な
世論に逆行して、「まだアメリカドルは、健在」と、ひとり日本だけが
がんばっている。

ブッシュ大統領も、苦笑いしていたことだろう。
私がブッシュ大統領なら、こう言う。
「おいおい、そこまでリップサービスをしなくていいよ」と。

AS首相の支持率は、さがりにさがって、過去の歴代首相の中でも、現在、最低。
これではますます、J党はだめになる。

(しかし……それにしても、レベルが低い。
低すぎる。)


●大不況

今回の不況は、ただものではないようだ。
まだまだ序の口。
これから先、どうなることやら?

しかし私は過去、40年近くの間に、何度も不況を経験してきた。
が、こういうときこそ、ふんばる。
ふんばって、ふんばって、最後までふんばる。

前回のとき(バブル経済崩壊後のころ)も、そうだった。
あのときも、私はふんばった。
そのため周囲にあった10教室近い幼児教室は、みな、閉鎖した。
生き残ったのは、私の教室、ひとつだけ。

経済が少し上向いたとき、生徒たちがみな、どっと戻ってきた。

しかし銀行から借り入れをしながら経営をつづけている企業は、かわいそう。
このところ(貸しはがし)が、はげしくなったという話も耳にする。
どうなるんだろう?

大不況も短期間で終われば、まだ何とかなる。
しかしこんな状態があと半年とか、1年もつづいたら、みな、持ちこたえられなくなる。
そのときが怖い。
私の教室だって、事情は同じ。
しかしどうせ今でも、赤字ギリギリ。
これ以上、悪化することはない。

大切なのは、儲けることではなく、仕事ができること。
こうしてものが自由に書けること。
生きがいを失わないこと。

そう考えて、今回も、ふんばる。
土俵の間際で、ふんばる。

さあ、来い、大不況め!
負けないぞ!


Hiroshi Hayashi++++++++NOV 08++++++++++はやし浩司※

●生きる関門

+++++++++++++++++

生きていると、いつもそこに問題が立ちはだかる。
しかしそれは、生きるための関門のようなもの。
その関門におののいて、逃げ去るのもよし。
しかし関門こそ、自分を飛躍させるチャンス。
その関門を乗り越えたとき、あなたは、その向こうに
別の世界を発見する。

+++++++++++++++++

だれしも苦労はいやだと思う。
できるなら、それを避けたいと思う。
しかし生きている以上、その苦労から逃れることはできない。
ひとつ、そしてまたひとつと、やってくる。

しかしそれは生きることにまつわる関門のようなもの。
その関門におののいて、逃げ去るのもよし。
しかしその関門こそ、自分を飛躍させるチャンス。
逃げ去ったところで、何も得るものはない。
また同じような関門に出会うだけ。
そしてまた逃げ去るだけ。

そこに関門があるなら、勇気を出してぶつかっていく。
関門を乗り越える。
とたん、あなたはその前に、別の新しい世界があることを知る。
それまで知らなかった、まったく新しい世界。
と、同時に、それまでの世界が、いかに小さく、
つまらないものであったかを知る。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●イメージ・トレーニング

+++++++++++++++++

もし今、あなたがだれかとの人間関係に
苦しんでいたら、頭の中で、イメージ・
トレーニングをしてみるとよい。

私たち夫婦も、ときどきする。
ワイフにその人になってもらい、
あれこれと話しかけてもらう。

そしてそれに私がどのように反応したら
よいかを、2人で話しあう。

+++++++++++++++++

少し前、ある事情で、どうしてもその人と会わなければならなくなった。
しかし私はその人に会いたくなかった。
その人をX氏としておく。

X氏は、口がうまく、狡猾(こうかつ)。
大きなワルはしなかったが、小ずるさに、辟易(へきえき)していた。
会うだけで、心臓の動悸がはげしくなる。
何かを話せば、そのまま喧嘩になる。
静かな会話など、もとから不可能。
そんな感じの人だった。

そこである夜、ワイフにX氏になってもらった。
X氏になったつもりで、私に話しかけてもらった。

私「なあ、お前、Xさんになったつもりで、話しかけてみてよ」
ワ「やってみるわ……。ええと、『林君、元気ですか?』」
私「そうそう、そんな感じでいい」
ワ「『林君、君は、いろいろな本を書いているそうだが、資源の無駄づかいでは
ないのかね?』」
私「ハハハ、そうかもしれませんね。ごもっともです……」と。

こうしてX氏と会ったときのことを想定して、頭の中でイメージ・トレーニング
をする。
X氏など、もともと本気で相手にしなければならないような人物ではない。
相手にしても、しかたない。
意味もない。

だから私は、X氏に会ったとき、ヘラヘラと笑いながらやり過ごすことを決めた。
しかしいくらそう決めても、私の心中は穏やかではない。
だから(トレーニング)となる。

ワ「無視したら……?」
私「それもいい手かもしれないね」
ワ「いいこと、私が何を言っても、無視しなさいよ」
私「わかった」と。

いろいろな場面を想定して、トレーニングをしておく。
こうして現実にX氏に会ったとき、どのように反応すべきかを練習しておく。

もし今、あなたがだれかとの人間関係に苦しんでいたら、この方法は、たいへん
有効。
一度、あなたもイメージ・トレーニングしてみるとよい。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●Art is long, life is short.

++++++++++++++++++++

「Art is long, life is short.」は、「芸術は長く、人生は
短い」と訳す。
これについて、Ronald Cliffordは、こう書いている。

一般的に「人生は短いが、芸術は長く(後世まで)残る」と解釈されているが、
それはまちがいである」と。

本当の意味は、「あまりにも学ばなければならないことが多すぎる。
しかしあまりにもそれを学ぶための時間は少ない」だ、そうだ。

もともとは、ギリシアの外科医である、ヒポクラテスが言った言葉という。
つまりここでいう「Art」というのは、美術のような芸術をさすのではなく、
「医療のための技術」ということだそうだ。

ヒポクラテスは、日々の医療活動の中で、「学ばなければならない技術は、
あまりにも多い。しかしそのための時間はあまりにも少ない」と嘆いた。
それがほかの言語に訳されるとき、やや誤訳され、現在のような英文になった。

Chaucerは、つぎのように書いている。

「The life is short, the craft so long to learn.」と。
このばあいは、そのまま「学ばなければならない技術は多く、そのための
時間は短い」となる。

さらにSir John Davies も、つぎのように書いている。

「Skills come so slow, as life so fast doth fly,
 We learn so little and forget so much.」
(人生はあまりにも早く過ぎ去り、技術が身につくのは、遅い。
私たちはほとんど学ばず、そんなにも多くのものを忘れる」と。

「Art is long, life is short.」も、それと同じ意味というわけである。
(以上、「English Proverbs explained」を参照。)

+++++++++++++++++

「English Proverbs explained」は、20年ほど前、オーストラリアの友人が
送ってくれた本である。

それを今になって読み返している。
一行ごとに、まさに新発見の連続。
このことわざにしても、日本では、先に書いたように、「人生は短いが、
芸術として残したものは、死んだあとも、長く残る」と解釈されている。
私も、そう理解していた。
どこかでそのように解釈したエッセーを読んだこともある。

しかしそうではないということらしい。

「学ぶべきことはあまりにも多いが、人生は、短すぎる」と。
またこう解釈した方が、深みがある。
事実、そのとおり。
私にしても、残された時間は、あまりない。
歳をとるごとに、脳みその老化を強く感ずるようになった。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●Avoid a questioner, for he is also a tattler

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詮索好きな人は、同時に告げ口屋。
あれこれとあなたにものを聞いてくる人は、
同時にあなたから聞いた話を、みなに伝える。

++++++++++++++++++

「Avoid a questioner, for he is also a tattler.」を訳すと、
「詮索屋を避けろ。なぜなら彼は同時に告げ口屋」となる。

たいした用もないのに、ときどき電話をかけてきて、こちらの内情を
さぐろうとする人がいる。
そういう人は、同時に、こちらから聞いた話を、みなに広める。

こんなことがあった。
その前後、私はワイフと喧嘩していた。
私は喧嘩すると、すぐ「離婚してやる!」と言う。
これは私の口癖のようなもの。
ワイフもそれに応えて、「いいわ!」と言う。
そんな最中、1人の知人から電話がかかってきた。
私は電話の中で、「あんなワイフとは、もう離婚してやりますよ」と言った。

が、驚いたのは、その翌日のこと。
別の2人の知人から、電話がかかてきた。
「離婚するって、ホント?」と。
その数日後も、別の知人からも、同じような電話がかかってきた。

「あんなワイフとは、もう離婚してやりますよ」と最初に言った知人が、
みなに電話をかけたらしい。
もちろん私たちのことを心配して電話をかけたのではない。
おもしろい話として、電話をかけた。

だから……あれこれと詮索してくる人には、軽々しく内輪の話はしないほうがよい。
言ったとたん、タトラー(告げ口屋)となって、あなたの話を皆に伝える。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●Be just before you are generous.

++++++++++++++++++

嫁(アメリカ人)に小遣いをあげたら、嫁が
すかさず、「あなたはgenerous(寛大)ですね」と
言った。

「generous」というのはそういう意味である。
つまりこのことわざは、「他人にgenerousである前に、just、
つまり公正であれ」という意味になる。

『English Proverbs explained』 の中には、こんな例が
載っている。

「他人にお金をあげる前に、借金を返せ」と。
つまりやるべきことをまずしてから、余計なことをせよ、と。

++++++++++++++++++

このことわざは、いろいろな面で、応用できる。
「まず、すべきことをしろ。道楽は、そのあと」
「偉そうなことを言うなら、まず、自分でしてみせろ」
「まず地盤を固めろ。家を建てるのは、そのあと」など。

あるいは善人のフリをすることは、簡単なこと。
それらしい顔をして、それらしいことを言えば、たいてい
どんな人でも、善人に見える。
そういう人は、多い。

何を話しかけても、ニンマリと笑って、「私は何でも知っている」
というような様子をしてみせる。
一言ずつ、軽くうなずいてみせる。
しかし頭の中は、カラッポ。
何もわかっていない。
何も理解していない。

そこでまずjust(公正)でなければならない。
「正義」というと、少しおおげさになるが、まず、正義を貫く。
それもしないでおいて、generous(寛大)になっても、かえって
下心を見すかれるだけ。

たとえば今度、政府が、私たち国民に小遣いをくれることになった。
額は、1〜2万円。
たいへんgenerousな行為ということになるが、意図は見え見え。
本来なら、国民はそれを喜び、AS内閣の支持率はあがるはずなのに、
かえってさがってしまった。

消費税をあげるという話を一方で決めておいて、何が小遣いか?、
ということになる。
まずすべきことは、行政改革(=官僚政治の是正)。
無駄遣いをやめて、税金を減らす。
それもしないでおいて、何が小遣いかということになる。

Be just before you are generous.

このことわざは、AS首相にさしあげたい。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2927)

【子どもの非行】

●子どもの暴力+非行

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内燃する欲求不満、それが爆発して、子どもは
外の世界で、非行に走るようになる。
ふつうの欲求不満ではない。
「相手を殺してやりたい」と思うほどの欲求不満。
このばあい、相手というのは、多くのばあい、
母親をさす。

が、母親には、その自覚はない。
「私はすばらしい母親」と思い込んでいる。
「私のすることは、ぜったい、正しい」と
思い込んでいる。
この異常なまでの自己中心性が、子どもの心の
中に、殺意を生む。

子どもが非行に走る背景には、その母親がいる。
頭ごなしの過干渉、口うるさく、世話焼きだが、
子どもの心を考えない母親。
一方的に自分の価値観を子どもに押しつけ、
そのつど恩を着せる。
「産んでやった」「育ててやった」「苦労をした」と。
子どもには、それが負担。
ときに重苦しい鎖となって、子どもの首を絞める。
そうした子どもの心さえ、母親には理解できない。

が、家庭の中では何もできない。
悶々とした日々。
晴れることのない、うっぷん。
「殺意」を感じたとしても、それはそれ。
それが外の世界で、爆発する。

過干渉児の第一の特徴といえば、善悪の判断にうとい
ということ。
自分で考えることさえ、できない。
いつも母親に命令されるだけ。
「ああしなさい」「こうしなさい」と。
子どもの非行は、その結果としてやってくる。

+++++++++++++++++++

●異常な過干渉

その母親には、3人の子どもがいた。
が、3人とも、中学へ入るころから、グレ始め、高校へ入るころには、
手がつけられないような状態になっていた。
もちろん高校は、そのまま退学。

その母親と、ある仕事を通して、しばらく交際したことがある。
明るく快活な女性だった。
世話好きで、情報量も多く、何か問いかけると、すかさずペラペラとあれこれ、
教えてくれた。
が、やがて気になることが目立ち始めた。

まず自分を飾るためのウソが多いということ。
口がうまく、その場の雰囲気に合わせて、あれこれと言うが、つかみどころがない。
同じ話を長々と繰り返すことも多かった。
が、その一方で、相手、つまり私の言うことを聞かない。
自分勝手でわがまま。
そして3人の子どもたちの話になると、「私は一生懸命尽くしたが、子どもたちは、
私を理解できない」と。

とくに自分の苦労話になると、ことこまかく、話し始めた。
「息子の塾通いのために、苦労をした。病気でも、休む暇もなかった。
私は息子たちのために、どれほど苦労したかわからない」と。

全体の雰囲気としては、セカセカと、いつも落ち着きなく動き回っていた。
ペラペラとよくしゃべったが、中身がなかった。
一度、何かの資料をインターネットからコピーして手渡したことがある。
しかしそれには、一瞥(べつ)しただけで、何を誤解したのか、
片手でそれを払いのけてしまった。
「私には、こんなものを読んでもわかりません!」と。

そしてある日。
私がその息子の1人と話すことになった。
そのときのこと。
私が息子と話そうとしても、そのつど、間に割り込んできた。

私、息子に向かって、「学校では、部活は、何をしているの?」
母親、割り込んできて、「今は、何もしていないわよね」
私、息子に向かって、「何かしたいことはあるだろ?」
母親、割り込んできて、「先生との相性が悪くて、ハンドボールをしていましたが、
やめました」
息子「……」と。

こういう母親と接していると、絶望感すら覚える。
子どもの立場で考えるなら、殺意を感じたところで、何らおかしくない。
そこで私は、母親にその場を離れてもらい、息子と一対一で話すことにした。
が、その様子を見ながら、部屋から出るとき、母親はこう言った。

「うちには、そういう人(=私のこと)がいないから、いけないのよ」と。

つまり息子たちと、そのときの私のように、静かに会話できるような人がいないから、
「いけないのよ」と。
私には何かしら、捨てゼリフのようにも聞こえた。
あるいは夫に対する、不平、不満を、その一言で表現したのかもしれない。
「夫は何もしてくれないから、私だけが苦労する」と。

●子どもの非行

しかしこのタイプの母親ほど、外の世界で子どもが事件を起こすと、パニック状態に
なる。
ワーワーと泣きわめいたり、子どもをかばったりする。
そして子どもに向かっては、いつ終わるとも知れない説教を繰り返す……。

私はそういう母親を知ったとき、子どもの非行の原因は、母親が作ると感じた。
(そう言い切るのは、少し乱暴かもしれないが……。)
もし家庭が、穏やかで、心温まる場所であれば、子どもは疲れた翼(つばさ)を、
そこで休めることができる。
そのカギを握るのが母親であるとするなら、やはり原因は、母親にあると考えてよい。

が、このタイプの母親は、それすら認めようとしない。
「うちの子が非行に走ったのは、友だちにそそのかされたからです」
「友だちが悪いのであって、うちの子ではありません」と。

自己中心性が、(家族)というワクになると、今度は、(家族)中心性へと
変化する。

「自分の家族は、ぜったい正しい」
「自分の家族のすることには、まちがいない」と。

その息子が高校で退学処分になるときも、その母親は、最後の最後まで、
相手の子どもが悪いと主張した。
言い忘れたが、その息子は、学校で暴力事件を起こし、相手の子どもを2階の窓から
突き落とし、全治3か月の大けがをさせてしまった。

自己中心的であればあるほど、相手の心が見えなくなる。
自分の息子の心が見えなくなる。
その盲目性が、子どもを非行へと追いやる。

+++++++++++++++++++++

以上が、子どもの非行についての一般論ということになる。
もちろん子どもの非行が、すべて、これで説明できるというわけではない。
子ども自身が何らかの心の病気をもっているケースも少なくない。

たまたま昨日、A県に住んでいる、Eさんという母親から相談のメールが届いた。

もちろんEさんが、ここでいう自己中心性の強い母親ということではない。
Eさんは今、懸命に自分を見つめなおそうとしている。
しかしどこかで親子の歯車がかみ合わなくなってしまった。
最初は小さなキレツだったかもしれない。
しかしそれが今、親子の間に、大きな溝を作ってしまった。

【Eさんより、はやし浩司へ】

(家族構成)

父親 サラリーマン、国立大学院卒、監査役会社コンサルタント会社取締役、
父親には、学歴重視があり、子供たちにも小さなころから、自分が卒業した地元の進学校
に入学することを言葉にして、促していた。

母親 わたくし本人、地元A市の短大卒、商社支社に就職、友達の紹介で結婚、二人の息
子出産。

(経過)

長男 18歳、中3から荒れ始め、非行、高校には進学せず、バイクで暴走、万引き、家
庭内暴力もある。
家裁に2度ほど行くが、不処分に終わる。
去年終り頃から落ち着き始め、地元を離れたいといい、A市の方で一人暮らし。高認、
大学進学コースの学校に通いはじめるが、行くことはなく、キックボクシングをやりなが
ら今年の高認を受ける。

次男 16歳、小学校6年から不登校、中2までひきこもる。中1の時、父親と一緒に隣
町のマンションに引っ越す。
長男の家庭内暴力がひどかったこともあるが、父親がそんな家庭から逃げたかったともあ
るように思う。

中3から転校して登校したいといい、転校させ、登校し始める。
3年間の不登校はあったが、もともと頭の切れる子であったため、成績は学年でもトップ
クラス。

今年の初めごろから元のマンションに戻り、一緒に暮らすようになる。
高校も受験し、公立高校に合格するが、8日でやめてしまう。
今年、4月から高校もやめ、家にいる。
少し、コンビニでバイトしたが、続かず、人間関係がうまく結べない。
ちょっとしたことに腹を立て、へそを曲げやめる。

今回、相談は次男のことです。

最近、こだわりが強く、政治の問題を見ても偏りが多く、自分の意見と合わないニュース
などはすぐに切ってしまいます。

右翼、左翼という言葉を口にし、左翼を馬鹿だ、あほだと批判します。
障害者や貧乏人は社会の役立たずだから、おとなしくすべきだなどと暴言を吐きます。
内容はまだまだ稚拙に思え、本当の思想をもった右翼とは違いますが、自分では偉そうに
講釈をたれ、私を罵倒します。

私はただ、うなずくだけ、反対も抵抗もしません。
違うんじゃない?、なんて言おうものなら暴力をふるわれます。

うつ病であるようですが、病院にいくような状態ではありません。本人は拒絶して荒れる
と思われます。
寝る前は死にたい、死にたいと言っていますし、夜中起きて大きな音をたてて、腹が立っ
ていることを知らしめようとする行為が見られます。

小さい頃はK式算数教室にも通い、成績もよく、利口な子でした。
そう演じていただけなのかもしれません。
友達と心を開いて、遊ぶこともなかったように思います。
小学校では優等生、クラスでは人気者でお笑いの漫才をしたりするような子でした。

この状態はしばらく様子を見るしかないのでしょうか。
これ以上荒れないようにするにはどう対処すればいいのでしょうか。

長男の非行のほうが、よほどましなような気がします。
それはそれで大変でしたが、今は落ち着いています。

私は長男に高卒認定試験を進めるわけでも、大学進学をするように言うようなことは一切
しなかったですが、本人がそうしたいと言い出しました。
鉄筋工、溶接工などの仕事を経験し、自分をみつめたのでしょうか、自分で動きだしまし
た。

次男の場合は長男の状況をは違うようです。

接し方で気になる点があれば教えていただきたいと思います。
よろしくお願いします。

++++++++++++++++++++++

【はやし浩司より、Eさんへ】

Eさんの心中を察するに、あまりあるものがあります。
心苦労も大きいかと思います。
しかしひとたびこういう状況になってしまったら、鉄則は、ただ2つ。

(1)暖かい無視
(2)求めてきたときが与えどき、です。

あとはやるべきことをやりながら、時の流れに身を任せます。
「直そう」「改めよう」「何とかしよう」とあせればあせるほど、逆効果。
子ども自身も、それを望んでいないでしょう。
あなたがすべてを受け入れ、あきらめきったとき、あなたの子どもは、
あなたに対して心を開きます。

が、その時期といっても、10年後かもしれません。
20年後かもしれません。
しかしいつか「お母さん、ぼくが苦労をかけて悪かった」と言う日がやってきます。

方法は、簡単です。
『許して、忘れる』です。
これだけを念じて、前に進みます。

幸いなことに、あなたは、私に相談のメールをくれました。
あなた自身が、問題解決のために、一歩、踏みだしたということです。

先に、子どもの非行についての一般論を書いてみましたが、もちろんこれはEさんの
ことではありません。
ただ親というのは、親意識が強ければ強いほど、自分ではよかれと思いながら、
子どもに対して、余計なことをしやすいもの。
別のところで、子どもの心を見失いやすいものということです。

Eさんは、メールの中で、「そう演じていただけなのかもしれません」と書いて
おられます。
ここまで気づけば、もう先は、それほど遠くありません。
ふつうは、つまりふつうの親は、ここまでは気がつきません。
「私は正しいことをした」と、自分を振り返るようなことはしません。

で、Eさんのメールを読んで、再確認したことがあります。
それは、「親が子どもを育てるのではない」ということ。
「子どもが親を育てる」ということです。

今のEさんには、そこまではまだわからないかもしれませんが、私には、それが
わかります。
Eさんの2人の子どもは、今、自分の体を張って、Eさんという人間(母親でもない、
妻でもない、一人の人間としてのEさんという人間)を、育てているのです。

あとは謙虚になって、子どもの横に立ってみてあげてください。
くだらない親意識は捨て、友として、横に立つのです。
とたん、それまで見えなかったものが、見えてくるはずです。
もっと大切な、何かです。

それに気づいたとき、今、Eさんがかかえている問題は、すべて氷解し、今のこの
現状が、笑い話になります。

K式算数教室?
高認?
受験?
……みんな、蜃気楼に踊らされているだけですよ!

どうか今の苦労から逃げないでください。
逃げないで、乗り越えるのです。
「ようし、十字架の一つや二つ、背負ってやるぞ」とです。
EさんにはEさんの運命というものがあります。

仮に今、Eさんが今の状況を不幸に感じたとしても、それはEさんの責任ではありません。
おそらくEさん自身も、Eさんの夫自身も、乳幼児期〜少年少女期にかけて、
(あまり幸福でない家庭)を経験しているはずです。
それが今でも、ズルズルと尾を引いている。
だから私は「運命」という言葉を使います。

運命というのは、それを受け入れてしまえば、何でもありません。
へたに逆らうと、運命は悪魔となって、そしてキバをむいて、あなたに襲いかかって
きます。
あなたをとことん苦しめます。

最後に、あなたが苦しんでいる以上に、二男も苦しんでいるということを忘れないように。
あなたから見れば、わがままな息子に見えるかもしれませんが、16歳の子どもが、
16歳という年齢の範囲で、懸命にもがき、苦しんでいるのです。
この年齢では、自分のしたことがわからない、自分のしたいことができないというのは、
たいへんな苦痛なのです。
私自身も、似たような経験をしたことがあります。
その苦痛をEさんが共有できないまでも、暖かい愛でくるんであげたら、二男も救われるのでは
ないでしょうか。
『暖かい無視』というのは、そういう意味です。

直接的な問題が解決するまでに、まだ1、2年はかかりますが、終わってみると、
あっという間のできごとです。
何ごともなく終わった……という感じになります。
その日を信じて、今は、淡々とやるべきことはやり、あとは時の流れに身を任せて
ください。

それを乗り越えたとき、あなたはすばらしい人間になっていますよ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子どもの非行 子供の非行 非行 家庭内暴力)

【Eさんより、はやし浩司へ】(返信)

林先生、早速の返信ありがとうございます。
よくわかります。
次男は優等生を親のために演じていたのだと思います。
小学校のころ、帰宅してランドセルを放り投げ、寝っ転がってマンガを読んだり、友達と遊ぶこ
とはなかったように思います。

私が学歴重視をして本来の子供のあるべき姿をうばっていたのです。
今反省したところでしかたありませんが、育てなおしをしよう、低学年からやり直そうと思いま
す。

次男、近頃女装してネットのブログに写真をのせて遊んでいます。
気になりますが、女装することで発散してるのだろうと見て見ぬふりをしてます。
あたたかい無視に徹し、努力し、よい加減の母親に努めます。
ありがとうございました。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●しつけ

+++++++++++++++++

「しつけ」というときは、時代を超えた普遍性、
国や民族をこえた国際性がなければならない。

あいさつの仕方など、国によってみなちがう。
時代によってちがうこともある。
さらに軍人には、軍人のあいさつのしかたがある。

そういうのは、「しつけ」とは言わない。
「作法」という。

たとえば最近、こんなことがあった。

++++++++++++++++++

W君(小2男児)は、インフルエンザにかかり、1週間ほど、
学校を休んだ。
その直後、私の教室に来た。
まだ咳が残っていた。
1〜2分おきぐらいに、ゴホゴホと咳をしていた。

こういうケースのばあい、対処の仕方が2つある。

W君にマスクを渡し、マスクをかけさせる。
あるいは全員にマスクを渡し、マスクをかけさせる。

ふつうはW君だけにマスクを渡し、W君だけマスクを
かけさせれば、それですむ。
しかし中に、それをかたくなに拒否する子どももいる。
「罰」か何かのようにとらえる。

そういうときは、全員にマスクを渡し、マスクをかけさせる。

が、である。
そういうふうにしても、W君は、ときどきマスクをはずし、
ゴホゴホと咳をする。
私のところへやってきて、面と向かって、ゴホゴホと咳をする。

だから私はかなりきつくW君を叱った。
「人の顔に向けて、咳をしてはだめだ」と。

するとW君は、「手で(自分の口を)押さえた」とか、
「先生の顔には向けてない」とか言って、反論した。

私「あのなあ、咳というのは、手で押さえたくらいでは
防ぐことができないんだよ」
W「いいから、いいから……」
私「いいから、いいからというような問題ではない。
マスクをちゃんと、しなさい」
W「ぼくはもう、治った」
私「治ってない!」と。

ついでに付記するなら、インフルエンザのウィルスに、
おとなも子どもも、ない。
おとな用のウィルス、子ども用のウィルスというのは、ない。
みな、同じ。
だから目の前でゴホンとやられたら、即、そのまま私に
感染する。
防ぎようがない。

ほとんどの人は、(おとなも子どもも)、咳をすることに
たいへん無頓着。
この日本では、とくに無頓着。
それを悪いことと考えている人は、少ない。
満員電車の中でさえ、平気でゴホゴホと咳をしている人さえ
いる。

しかし相手の顔に向けて咳をするのは、相手を手で殴るのと
同じ、暴力行為。
だから私はW君をさらに強く、叱った。

私「私の言うことが聞けないなら、この教室から出て行きなさい」
W「どうしてヨ〜?」
私「どうしてって、みんなにインフルエンザが移ったら、どうする?」
W「だいじょうぶだよ。移らないよ」
私「……」と。

もうおわかりのここと思うが、こういうのを(しつけ)という。
「咳をするときは、口をハンカチで押さえる」
「マスクをかけるのは、常識」
「マスクをしていても、相手の顔に向けて、咳をしない」

こうした(しつけ)には、時代を超えた普遍性、
国や民族をこえた国際性がある。
わかりやすく言えば、世界の常識。

……では、なぜ、こんなことを書くか?
実は今、あちこちの幼稚園で、「しつけ教室」なるものが、
たいへん流行(はや)っている。
たいていあいさつの仕方から始まって、箸の持ち方、置き方
などを教えている。

私はそうした(しつけ)は無駄とは思わないが、どこか
ピントがズレているように思う。

もっと基本的な部分で、大切にしなければならないことがある。
たとえば、(順番を並んで待つ)(順番を無視して、割り込みしない)
(他人をキズつけるような言葉を口にしない)など。
しかしそういう(しつけ)は、「しつけ教室?」で学ぶような
しつけではない。
私たちおとなが、日々の生活を通して、「常識」として、子どもの
体の中に、しみこませるもの。
先に書いた咳にしても、そうだ。
自分の子どもが無頓着に他人の顔に向けて咳をしたら、すかさず、
子どもを叱る。
その前に、親自身が自分のエリを正さなくてはいけない。
(しつけ)というのは、そういうもの。

ついでに言うなら、(あいさつ)など、どうでもよい。
したければすればよい。
したくなければ、しなくてもよい。
そんなことをいちいち教えている国は、今、ほとんどない。

たとえば韓国でも、数年前から、授業の前とあとのあいさつを
廃止した。
「起立!」「礼!」という、あのあいさつである。
「日本の植民地時代の亡霊」という理由で、そうした。

が、現在、浜松周辺の学校では、ほとんどの学校で、この種のあいさつを
している。
(当番の子どもが、「これから授業を始めます」などと言い、頭をさげるなど。)
国際性がないという点で、これはしつけでもなんでもない。

(参考)

A小学校……当番が「はじめましょう」と小さい声でいう。
それに答えて、全員が「はじめましょう」と合唱して、頭をさげる。

B小学校……当番が「起立!」と言い、先生が「はじめましょう」と答える。
そのとき生徒全員が、頭をさげる。

C小学校……全員が起立したあと、「今から○時間目の授業をはじめます」と
言って、頭をさげる。

D小学校……当番が「起立!」と号令をかけ、「○時間の授業を始めましょう」と
言う。そのとき生徒と先生が、たがいに頭をさげる。

E小学校……学級委員が、「起立」「姿勢はいいですか」と言い、みなが、
「はい!」と答え、学級委員が「今から○時間目の授業をはじめましょう」と
言って、みなが、礼をする。

ついでながら、アメリカやオーストラリアでは、先生が教室へやってきて、
「ハイ!」とか言って、それおしまい。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2928)

●処女でなかったから、離婚?

++++++++++++++++++

時事通信が、こんな愉快な(失礼!)、
ニュースを配信している。

そのまま一部を、紹介させてもらう。

『イスラム教徒のカップル間で、妻が処女と偽っていたとして、夫が結婚の無効を求めた裁判
で、フランス北部ドゥエの控訴院(高裁)は、17日、夫側が勝訴した一審判決を破棄し、結婚を
有効とする判決を下した。

 判決は、妻のうそが仏民法で結婚無効の要件となる「基本的資質をめぐる過失」に当たると
した一審の判断について、「うそは基本的資質とは無関係」と退け、「処女でないことは結婚生
活に影響しない」とした。

 夫妻はともにモロッコからの移民で、夫が30代のコンピュータ専門家、妻は20代の看護
師。イスラム教では、未婚女性の婚前交渉はタブー視されている』と。

こうした裁判をフランスで起こしたところが、おもしろい。

「ヘエ〜〜?」と。

+++++++++++++++++

女性の処女性を問題にするなら、男性の童貞性は、どうなのか?
その男性が童貞かどうかは、どうやって知るのか?
あるいは男性は、婚前に性交渉をもってもよいのか。
……となると、イスラム教は完全に矛盾している。

男性が結婚前に性交渉をもつとしたら、相手は既婚女性しかいないことに
なる。
となると、それは不貞行為(こういう古臭い言葉を使うのはいやだが)
ということになる。

イスラムでは結婚するまでは、男性も女性も、童貞であり、処女で
なければならないらしい。
しかしそれで、うまくいくのだろうか?


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●K国の核兵器(東京があぶない!)

++++++++++++++++

韓国のあるコラムニストは、K国を
「狂った犬」にたとえた。
「不治の病にかかった国」と表現した社説もあった。

今のK国は、それに近い。
つぎつぎと対韓国、強硬政策を発表している。
今朝も「12月1日から、南北のすべての通行路を
遮断する」と言い出した。

自分で自分のクビを絞めるような行為を
しながら、その愚かさにさえ、気づいて
いない。

が、油断は禁物!

核兵器は、すでにソウルの地下まで、地下トンネルを
通じて運ばれている。

漁船か何かに忍ばせて、東京湾を経て、東京
もしくは佐世保まで運ばれている。

K国が国内にミサイル発射基地を建設している
というが、あんなのはただの陽動作戦。

私が金xxなら、こうする。

まず適当に挑発しながら、韓国と開戦する。
韓国が反撃に出てきたら、ソウルの地下で
核兵器を爆発させる。
その勢いを借りて、歩兵部隊を一気に南下させる。

その直後、在日アメリカ軍が動いたら、
佐世保、もしくは東京で核兵器を爆発させる。

「核兵器はミサイルで飛んでくる」という発想
そのものが、おかしい。
ミサイルなど使わなくてもよい。
地下トンネルがある。
漁船がある。

私の推察では、すでに核兵器は、ソウルの地下まで
運ばれている。
東京都内にも、何らかの形で、持ち込まれている。

K国軍は、韓国民全体を人質に取る形で、
さらに南下して、全土を掌握する。
K国は、1週間で全土を掌握できると豪語している。
こうなると、アメリカ軍とて、もう手も足も
出せなくなる。

……とまあ、そこまでうまくいくかどうかは
別として、今のK国は、それほどまでに
危険な国であるということ。
その状況に、たいへん近づきつつあるということ。

私が日本の首相なら、放射能検知器を片手に、
東京都内全域、アメリカ軍基地周辺すべてを、
しらみつぶしに検索する。
高性能の検知器を使えば、核兵器なら、数十メートル、
あるいは数百メートル離れていても、検知できるはず。

今、すぐやってほしい。
調べるだけでもよいから、調べてほしい。

なぜこうまでK国が、高飛車に出てくるのか。
出ることができるのか。

その理由は、ここに書いたとおり。
いいのか、日本!
こんなのんきに構えていて!

●『悪魔のつぎの行動は、自分が悪魔になったつもりで考えればわかる』
●『悪魔のつぎの行動を知りたかったら、悪魔の目的を知ればよい』


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●11月19日・雑感

●喪中の知らせ

昨日、近くのフォトショップで、喪中のハガキの印刷を頼もうとしたが、やめた。
年末に出す、あれである。
「喪中のため、新年のあいさつを遠慮させていただきます」とか何とかいう、あれである。

しかしバカげている。
こんなハガキを出すこと自体、バカげている。
……ということで、印刷を頼むのを、やめた。

まずその中身を考えてみよう。

毎年、年賀状をたがいに交換している人は多い。
それはそれ。
日本人の国民的行事になっている。
が、喪中にある人が、「新年、あけましておめでとうございます」と書くのは、
おかしい?
だからといって、新年早々、「昨年、母が逝去しました」と書くのも、おかしい?
年賀状を出さないと、相手が心配するだろう……ということで、前もって、喪中の
知らせを書く。

その流れは、よくわかる。
しかし新年は新年。
どうして「明けまして、おめでとうございます」と書いてはだめなのか?
だいたい、喪中とは何か?

広辞苑には、「喪に服している期間」とある。
つまりは「悲しみがいまだ癒やされない期間」のこと?
しかし率直に言って、今年、私は実兄と実母を、あいついで亡くした。
が、悲しさはほとんど残っていない。
だからといって、悲しんでいるフリをするのもいや。
人、それぞれ。
人間関係も、人、さまざま。
この世界では、自分がそうだからといって、相手に同じものを求めてはいけない。
自分がそうでないからといって、相手にそうであってはいけないと言ってはいけない。

が、さみしく思う気持ちはないわけではない。
身内は身内だし、それなりの思い出は色濃く残っている。
それに私の家に来てからの母は、まるで別人だった。
おだやかで、やさしく、遠慮深かかった。
ときどき「これが同じ、あの母か?」と思ったこともある。
兄についても、兄というよりは、いつしか自分の弟、あるいは息子のように
思うようになった。

だからやはり喪中は喪中ということになるのだが、しかしそこまで。
反対に、私は、なぜ日本人がこうまで「形」にこだわるのか、その理由がわからない。
喪中に知らせにしても、(薄墨の文字)でなければならないという。
が、どうして薄墨なのか?
さらに言えば、年賀状にしても、出したい人は出せばよい。
もらいたい人は、もらえばよい。
悲しくて出す気にならなかったら、出さなければよい。
相手がそれで「失礼!」と思うなら、そう思わせておけばよい。
どうせその程度の、つまりは、形だけの人間関係。
そんな人間関係に、どれほどの意味があるというのか。

もっと人間は、自然体で生きればよい。
自由に生きればよい。

昔、スウェーデンの性教育協会の会長に、エリザベス・ベッテルグレンという
女性がいた。
私はその人の通訳として、あちこちの講演会場を回った。
そのベッテルグレン女史は、こう言った。

「性の解放というのは、フリーセックスのことではない。
性にまつわる古い因習や偏見、誤解を解くことです」と。

それからほぼ40年。
日本もやっとベッテルグレン女史の言ったことが理解できるようになった。
が、それだけでは足りない。
真の自由とは、「生きることにまつわる古い因習や偏見、誤解を解くこと」から、
始まる。

自由にものを考え、自由に行動する。
が、それは同時に、きびしさとの闘いでもある。
古い因習に従って生きる方が、ずっと、楽。
味方も多い。
何よりも、まず第一に、何も考えなくてすむ。
が、それでは、ただ「生きただけ」、あるいは「息(いき)ただけ」の人生で
終わってしまう。
「活(い)きる」ためには、自由でなければならない。

……とまあ、そこまでおおげさに考える必要はないかもしれない。
たかがハガキ一枚。
いらぬ波風を立てるくらいなら、静かにいていたほうが、得?
しかし同時にこういうことも言える。

身の回りのささないことからでも改革していかないと、いつまでたっても、
この日本は変わらない。
日本を変えるためには、みなそれぞれ自分の立場で、少しずつでも改革していく。
おかしいものは、「おかしい」と声をあげる。
そういう声が集合されたとき、日本は変わる。
今こそ、そのときではないのか?

で、私の結論。
喪中の知らせなど、だれにも出さない。
バカげている。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●11月19日(水曜日)

++++++++++++++++++++

昨日は、朝から風邪ぎみで、つらい一日だった。
夕方5時ごろ、悪寒がした。
あわせて腰痛。
腰の関節が痛かった。
もしやインフルエンザ?

夜のクラスをキャンセルして、そのまま帰宅。
しかし帰宅したとたん、元気になってしまった。
あれはどういう風邪だったのか?

++++++++++++++++++++

●歩こう会、再開

しばらく休んでいた「歩こう会」を、12月からまた参加することにした。
レベルは歩く距離によって、上級、中級、初級に分かれている。
中級は、だいたい7〜8キロ前後。
私とワイフは、いつも中級コースを選んでいる。


●友人の交通事故

G県の友人が、5年前に交通事故にあった。
自分の車を運転しているとき、どこかのだれかに追突された。
「車の前後がくっつくほど、ひどい追突だった」という。
そのため、治療に3年。
そのあと裁判に2年もかかったという。

学生時代からの友人である。
症状を聞くと、頭痛や気分の落ち込みなど、いろいろ。
が、保険会社のほうは、老化で起きた症状は含まれないと、補償額を低く
提示してきた。

そこで裁判ということになった。

「保険会社のほうは、できるだけ保険金を安くすまそうとするからね」と友人。
「保険会社に入社した仲間も多いから、気持ちが複雑だね」と私。
あえて言うなら「矛(ほこ)」と「盾(たて)」の関係。
「ほら、A君、あいつはS保険会社で、支店長をしていただろ。
相手の会社というのはそのS保険会社なんだよ」と友人。

それぞれの人が、それぞれの立場で、自分の立場を守っている。
それはわかるが、一般論から先に言うと、私の経験でもそうだったが、
民間の生命保険会社は、概して支払いが渋い。
「ああでもない」「こうでもない」と、理由にもならない理由をこじつけて、
保険金を支払うのを渋る。

私「ぼくのときも、門前払いだった」
友「最初から、払わないという態度だからね」
私「そうなんだよ。それも窓口の女性が、こちらの話を満足に聞かないうちに
そう言うから、恐ろしい」
友「そういうときは、民事調停でもいいから、裁判を起こすことだよ、林君」と。

つい先日、保険会社の保険金未払いが社会問題になった。
どうやらそうした問題は、氷山の一角らしい。
友人と電話で話しながら、そういう印象をもった。


●お節介焼き

いらぬ節介をしてくる人に対しては、何と返事をすればよいのか。
ワイフとときどき、そんな話をする。
中に詮索好きの人がいて、ああでもない、こうでもないと言ってくる。
それなりのレベルの人がそう言うなら、聞く価値もあるが、
そうでない人がそう言うから、恐ろしい。

で、恩師の田丸先生が、昔、こう教えてくれた。
「そういうときは、私は、『ごちそうさま』と言うことにしています」と。

ナルホドということで、それ以後は、この言葉をよく使う。

私「『ごちそうさま』と言って、あとは無視すればいい」
ワ「そうね」
私「ぼくはね、そういう説教をされそうなときは、『トイレへ行ってきます』と
言って、逃げることにしている」
ワ「それもいい手ね」と。

そういう人を、まともに相手にしてはいけない。
いわば小言のようなもの。
だから昔の人はこう言った。
『小言に怒るな。怒ったときは、小言を言うな』と。
けだし名言である。


●寒波

昨夜から、猛烈に寒くなった。
ゴーゴーと北風が吹いている。
12月中旬ごろの気候という。
不景気風と重なり、気分もよけいに沈む。

やりたいことは、たくさんある。
しかしどれから手をつけたらよいのか。
寒いから、体を動かすのも、おっくう。

こういうときは雑誌を読んだり、本を読んだりして、
頭の中に情報を注入する。
そのうちまた、やる気が出てくるだろう。
元気も出てくるだろう。
それが出てきたら、一気に、すべて片づける。

おはようございます!


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2929)


●B・カメラ

今度、駅前に「B・カメラ」という国内でも最大級のパソコンショップが
オープンする。
明日、開店するという。
楽しみだ。

言うなれば、おとなのための知的遊園地。
新製品を見て歩くだけでも、楽しい。
開店当初だけだと思うが、ふつうのデジカメを、1万円以下で売るという。
何を隠そう、この夏前(6月)に2万8000円で買ったC社のカメラが、8000円
とか(チラシ)。

シラ〜〜〜。

で、現在、私のそのカメラは修理に出している最中。
バッテリーが過充電で、いかれてしまった。
充電器の故障ということになるが、店の人は、「バッテリーを交換しなければ
ならないかもしれません」と言った。
値段を聞くと、バッテリーだけで、「5400円+税」とか。
だったら、B・カメラで、新品を買ったほうが安いくらい。
どうしようか?

法律的には、充電器の故障でバッテリーがいかれたのだから、バッテリーも
保証の範囲にあるはず。
因果関係がはっきりしている。
しかし店の人は、充電器の故障は保証の範囲だが、バッテリーは保証の範囲に
入っていないという。
「バッテリーは消耗品だから」と。
そこで私が、「それはおかしい」と反論すると、店の人は、「5か月も使えば、
自然な状態で使っても、バッテリーはだめになります」と。

「????」

このあたりに日本人の法意識の限界がある。
つまりもし店の人の言い分が正しいとするなら、私はこんなこともできる。

まず同じバッテリーを10個、買う。
つぎつぎと過充電し、みんなダメにする。
そしてその10個のバッテリーを店にもっていき、新品と交換してもらう。

いや、そのときは、店の人はそれを拒否するにちがいない。
「故障した充電器を使った、あなたが悪い」と。
そこで私は、こう反論する。
「充電器が故障しているかどうかは、充電してみないとわからない。
私には、責任がない」と。

……自分でも、何を書いているか、わからなくなってきた。
要するに、充電器が故障した。
だから充電器の修理(交換)は、当然である。
その充電器を使って、バッテリーがいかれてしまった。
バッテリーがいかれたから、充電器が故障していることがわかった。
だから5か月使ったにせよ、店はバッテリーも交換すべきである。

わかりやすい例で言えば、ガスストーブの故障で火事になった。
そのときガスストーブの製造会社は、当然、火事についての責任を負う。
ガスストーブの交換だけで、すむ話ではない。

今度あの店に行ったら、そのように主張してみるだけ、主張してみよう。


●AS首相の言動
 
私が予想したとおりのことが、起き始めている。
今週発売の週刊誌には、見出しに「おバカ総理」(週刊S潮・11・27)とある。
何でもオバマ氏と会談したことについて、「オバマは、英語がウメ〜ナ」と
言ったとか(週刊B春・11・27)。
見出しにはさらに大きく、「AS太郎のマンガ脳」とある。
内容はともかくも、そこまで酷評されること自体、情けない。
しかしこんなことは、最初から、わかりきっていたこと。
外務大臣のころの暴言、失言を、今さらここに書き出すまでもない。
AS首相というより、AS首相を選んだ、国民にその責任がある。

そのAS首相は経済危機を理由に、今しばらく政権の座にしがみつくつもりらしい。
が、それが長ければ長いほど、ボロが出てくる。
J党の支持率はさがる。
私がM党の党首なら、もう少しAS氏を泳がせておく。
そのほうが、つぎの選挙では、がぜんM党が有利になる。

(付記)
同年代の人間として、私はこう感ずる。
ああいうASのような人物と、繊細な話をしようとしても不可能ではないか、と。
言葉の使い方が貧弱というか、メチャメチャ。
その場の雰囲気だけで、あとは感情論だけで動いてしまう。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2930)

●善人vs悪魔

++++++++++++++++++++++

力のない善人を選ぶか、それとも力のある悪魔を
選ぶか。

そこにあなたを長い間苦しめている悪人がいたとする。
そのときその悪人に対して、あなたは力のない善人を選ぶか、
それとも力のある悪魔を選ぶだろうか。

力のない善人は、その悪人を、理解し、包容するだけ。
しかし力のある悪魔なら、その悪人を苦しめ、やがて
破滅に導くことができる。

あなたはどちらを選ぶだろうか?

+++++++++++++++++++++

●悪魔

私はときどきこう思う。
「私にも、スーパー・ナチュラル・パワーがあった
らなあ」と。
そのパワーで、自分のしたいことをする。
なんでもよい。
たとえば近くに悪人がいたとする。
そういうときそのパワーを使って、その人を破滅に
導く。

よく冗談で、「お前は強制収容所送りだ!」と私は
ワイフに言うが、そういう方法もある。
(ワイフに対して、そう言うだけ。……念のため。)
もし私がK国のあの金xxのような独裁者だったら、
そういうことも不可能ではない。
気にくわない人がいたら、片っ端から強制収容所へ
送ればよい。

ただ誤解してほしくないのは、悪魔といっても、
映画に出てくるような悪魔ではない。
罪のない人まで苦しめるようなことはしない。
ここでいう悪魔というのは、人を破滅させるほどの、
スーパー・ナチュラル・パワーをもった人をいう。

●悪魔の魅力

悪魔には悪魔の魅力がある。
あなたの欲望をじゅうぶん満たしてくれる。
それはそれで甘美な世界かもしれない。
悪魔といっても、あなたは人からじゅうぶん、尊敬される。
金持ちで、豪邸に住む。
たいてい欲しいものなら、何でも手に入れることができる。

またあなたが破滅させる悪人にしても、悪人は悪人。
だれが見ても悪人。
そういう悪人である。
悪魔にもいっぱしの正義感はある。
たとえて言うなら、昔、テレビ映画にあった、「必殺仕置き人」
のような悪魔をいう。
闇にまぎれて、悪人をバサバサと切り倒していく。

その「必殺仕置き人」のような仕事を、あなたの
スーパー・ナチュラル・パワーが、かわりにしてくれる。
あなたがそのパワーを使ったところで、あなたには
その自覚はない。
知らない間に、知らないところで、悪人たちは破滅していく。

●再度、質問

そこで再度、同じ質問。
力のない善人を選ぶか、それとも力のある悪魔を
選ぶか。

具体的に考えてみよう。

あなたの職場に、たいへん意地悪な同僚がいる。
いつもあなたに対して、いやがらせを繰り返す。
巧妙な手口を使うこともある。
が、人前では、善人のフリをしている。

あなたはその同僚に殺意に似た、怒りを覚えることもある。
「許せない」と、何度も思ったこともある。

そういうとき、悪魔が近づいてきて、あなたにこう言う。
「あなたに、パワーをあげようか。
私の子分になれば、そのパワーをあげる」と。

つまりパワーのある悪魔になれ、と。

あなたはそのパワーを手に入れれば、その同僚を破滅に
導くことができる。
それによって復讐することができる。

さあ、どうする?

●究極の選択

実は、この話は、私が夢で見たものである。
今朝早く、そんな夢を見た。
まだ夜は明けていなかった。
ぼんやりとワイフの寝息を聞いていると、だれかが、こう
囁(ささや)いた。

「お前は善人になりたいか、それとも悪魔になりたいか」と。
で、私が「悪魔って何か?」と聞くと、そのだれかが、
「悪魔になれば、何だってできるようになる。
超能力(スーパー・ナチュラル・パワー)だって、
手に入れることができる」と。

しばらく考えて、……というより、しばらく頭の中がモヤモヤ
したあと、私はしっかりと、こう答えた。

「ぼくは善人になりたい。そんな力はいらない」と。

このところ善人、悪魔というテーマで原稿をよく書くので、
きっとそんな夢を見たのだと思う。
どうということのない夢だが、目覚めはよかった。

●悪人はいない

悪人はいない。
大切なのは、こちら側のつきあい方。
そのつきあい方で、相手が決まる。
その人が悪人に見えるのは、何か、こちら側にも
問題があるからだ。

……とまあ、そこまで謙虚になるのは、むずかしい。
またそこまで謙虚になる必要もない。

しかし人を憎んだり、うらんだりして生きるのも、疲れる。
ものすごいエネルギーを消耗する。
だったらあとは、負けを認めて、静かにひきさがればよい。
「すみませんでした」と。

ということは、私やあなたが悪魔になったところで、
得るものは何もない。
仮に10人の悪人を破滅させたとしても、そのあと、
新しい悪人が、100人、生まれるだけ。
あなたがパワーで、そういう人たちを破滅に導いたところで、
後味の悪い思いをするのは、結局は、あなた自身という
ことになる。

だから結論は、やはり、「善人のほうがいい」となる。
そのほうが、ずっと気楽。
ワイフも車の中で、こう言った。

「そうねえ、私は、今のままでいい」と。
とくに善人になりたいとも思わないが、悪魔にも
なりたくない。と。
「そんな消極的なことでいいの?」と聞くと、
再度、「今のままでいい」と。

私のワイフのような人を、本物の善人という。

そのあと今朝見た夢を、ワイフに話してやった。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●かにすき鍋

+++++++++++++++++

今夜は豪華に、かにすき鍋。
Bという店に行ったら、かにの特売をしていた。
今は、かに(蟹)のシーズン。
さっそく、かにすき鍋を考える。
……ということで、今夜のメニューは、
かにすき鍋。

おいしかった。
それを家族(3人)で食べながら、ふとこう漏らす。
「我が家は、2日おきに、豪華な料理だな。
明日は茶漬けになりそう」と。

私は料理といっても、鍋料理か、バーベキュー料理しか
できない。
山荘で客人をもてなすときは、たいていこの種の料理。
しかし年季が入っているので、腕のほうはたしか。

……おなかが満足すると、血糖値があがり、精神的に
落ち着く。
今は、そんな気分。

++++++++++++++++++

●新型インフルエンザ

新型インフルエンザは、こわいぞ。
ワクチンは、まだない。

*************************

【BW教室では……】

学校が閉鎖された段階で、BW教室も閉鎖します。
時期を見て、再開します。
連絡は、インターネットの電子マガジンでします。

なお、その間の月謝は、いただきません。

再開した時点で、週割りにして、月謝を調整します。
たとえばその月の第3週目で再開したときは、
その月の月謝は、2分の1というようにします。

*************************

……ということで、S県※では2か月分の食料を確保するように、
各家庭に通知したそうだ。
まだ日本では発生は確認されていないが、確認されたときが、
(終わりの始まり)?
仮に1人の人が発症したとすると、すでにその数百倍の
人に感染しているとみてよい。
その感染した人たちが、さらにウィルスをまき散らす……。

そんなわけで、1人でも患者が見つかったら、その地域の
小中高校は、すべて閉鎖。
が、それくらいのことをしても、感染の拡大は防げないという。
とくに鳥インフルエンザが人間に感染するようになったら、
かなりの人が、それで死亡するという。
致死率80%という説もある。

ゾーッ!

読売新聞(11月19日)は、つぎのように伝える。

+++++++++++++以下、読売新聞+++++++++++++++++

大流行すれば国内で最大64万人が死亡する恐れがあるとされる新型インフルエンザの拡大
抑止策として、厚生労働省が、国内での発生初期に、都道府県単位の大規模な学校閉鎖の
実施を検討していることが19日、わかった。具体的には、いずれかの都道府県で「人から人
へ」の感染が1例でも起きたら、原則としてその都道府県内全域で学校を休校にする。文部科
学省とも協議を進める。
 
+++++++++++++以上、読売新聞+++++++++++++++++

また新型インフルエンザについては、つぎのように解説している(同紙。

+++++++++++++以下、ヤフー・ニュース+++++++++++++

毎冬流行するインフルエンザとは異なり、人に感染しにくかった鳥などのインフルエンザウイル
スが、人に感染しやすいよう変化して発生すると考えられている。大半の人が免疫を持たない
ため、世界で爆発的に流行する恐れが強く、政府の推計によると発生時は国民の25%が発
病、医療機関の受診者数は最大約2500万人、死者は同64万人。アジアなどで鳥から人へ
の感染が続く鳥インフルエンザ(H5N1型)が、新型に変化する事態が最も心配されている。

+++++++++++++以上、ヤフー・ニュース+++++++++++++

近くで1例でも患者が発生したら、とにかく外出をひかえて、家の
中にひきこもるのがよい。
そのために最低でも2か月分の食料は確保しておく。

薬にしても、タフミルに対して耐性のあるインフルエンザが、すでに見つかっている。
タフミルが万能というわけでもなさそうだ。

インフルエンザを防ぐため、コモスイ噴霧器会社の発行するBLOGには、
つぎのようにある。

+++++++インフルエンザから身を守るために+++++++++

1、外出後、食事前は手洗いとうがいをする。
2、上着を不用意に部屋に持ち込まない(出来れば家に入る前たたいておく)。
3、流行期には人ごみなどへの外出はできるだけ控える(特に高齢者や慢性疾患を持っている
方、疲労時、睡眠不足時)。
4、外出時はマスクを着用する。
5、部屋を定期的に換気したり、適度な湿度に保つ(湿度50〜60%)。
6、十分な栄養と休養を心がける。

万一感染してしまった場合は、早めに医療機関で受診するようにして下さい。また、家族内で
の感染を防ぐためには、室内でもマスクの着用が望ましいです。尚、症状の改善後二日間は、
他人へ感染させる可能性があります。

++++++以上、コモスイ噴霧器会社のBLOGより+++++++

(注※)(産経ニュースより)佐賀県の古川康知事は18日の定例記者会見で、新型インフルエ
ンザの発生に備えた食料の備蓄を呼び掛け、近隣県で発生した場合には佐賀県内の学校を
一斉休校にするなどとする県としての対策を発表した。
 対策は、新型インフルエンザ発生時にはできるだけ人が集まらないことが重要とし、各家庭
に約2か月分のコメや缶詰などの備蓄を呼びかけるとともに、患者搬送などの訓練実施や、発
熱患者を受け入れる薬局の指定などを盛り込んだ。

++++++++++++++++++

(付記)以上の引用の中で、とくに赤線を入れたいところは、
「尚、症状の改善後二日間は、他人へ感染させる可能性があります」という部分。
「治った」と思っても、その後2日間くらいは、今度は他人に感染させないよう
注意しなければならない。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV 08++++++++++はやし浩司

●エイズが増加

+++++++++++++++++

エイズ(HIV感染者の発症)が、
ふえている。
先進諸国の中で、ふえているのは、
この日本だけという。

+++++++++++++++++

ヤフー・ニュースは、つぎのように伝える。

+++++++++++++以下、ヤフー・ニュースより++++++++++++++

 厚生労働省のエイズ動向委員会は19日、国内のHIV(エイズウイルス)感染者が累計で1万
人を超えたと発表した。新規感染のペースは右肩上がりに増えており、厚労省は「先進諸国が
横ばいの中で日本の感染率上昇は目立っており、啓発が遅れている」と警戒を強めている。

 厚労省によると、7〜9月に報告があった新規感染者は294人で、四半期ベースでは過去
最多。血液製剤で感染した薬害被害者を除く感染者は累計で、1万247人(男性8305人、女
性1942人)に達した。85年の最初の感染報告から5000人突破までは17年かかったが、こ
こ数年でペースが急激に上がり、03年1月以降の5年9カ月で5107人の感染者が見つかっ
た。

+++++++++++++以上、ヤフー・ニュースより++++++++++++++

子どもたちを守るのは、子ども自身。
方法は簡単。
心のスキを作らない。……作らせない。

自分のしたいことを夢中になってやっている子どもは、
心にスキがない。
(自己概念)と(現実自己)が一致している。
これを心理学の世界では、自己の同一性という。

その自己の同一性の確立している子どもは、心に
スキがない。
つまり外からの誘惑に強い。
抵抗力がある。

が、この同一性の構築に失敗すると、心にスキができる。
とたん、心は抵抗力を失い、外からの誘惑にもろくなる。

大切なことは、子どもの中に一定の方向性を見つけたら、
子どもといっしょに、その方向性に向かって、興味付けを
手伝うこと。
子どもが「バスの運転手さんになりたい」と言ったら、
すかさず、「すばらしい仕事ね。今度の日曜日に、
バスに乗って、町を一周してみようね」と話しかける。

こうした興味付けが子どもを伸ばす。
伸ばすだけではなく、心の抵抗力をつくる。
その抵抗力が、子ども自身を守る。

……これだけで子どもをエイズから守ることができるとは思わない。
しかしぐんと、遠ざけることはできる。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV 08++++++++++はやし浩司

●眠られぬ夜

+++++++++++++++

午後8時ごろ、猛烈な睡魔。
「早く寝ようか」とワイフに声をかけると、
すなおに従ってくれた。

が、そこへ電話。
ある母親からの、相談の電話だった。
それに30分ほど、応対した。
とたん、頭が冴えてしまった。

気温が低かったこともあり、足が冷えた。
ストーブはすでに止めてあった。
それがよくなかった。
その分だけ、頭のほうに血が上った(?)。
こういうの東洋医学では「逆上」という。

そのあと床についたが、(お目め、ぱっちり!)。
ワイフはすぐ寝息をたてたが、私は、ふとんの
中で、じっとがまん。
どこか息苦しかった。
動けばワイフの睡眠を妨げる。

そこで私は起き上がってしまった。
が、こうなると、もう眠られない。
たぶん、夜中の1時ごろまで無理だろう。

しかたないので、居間のコタツに座って、愛用の
ミニパソコンに電源を入れた。
メールを読んで、ニュースに目を通す。

軽い神経痛があるのは、風邪の後遺症か。
頭の側面をピリッ、ピリッと小さな痛みが走る。

私のばあい、こういうときは、無理をしない。
起きていたいだけ、起きている。
そのうち眠くなったら、寝る。
ものの本によれば、人間というのは、1日や2日、
眠らなくても、死ぬことはないそうだ。

しばらくすると、ワイフが心配して起きてきた。
「あなた、だいじょうぶ?」と。

「ぼくはだいじょうぶだから、先に寝てよ」と答える。
長年の習慣というか、ワイフはワイフで私の温もりがないと、
眠られないらしい。
私もそう。
どんなはげしい夫婦喧嘩をしても、その夜にはいっしょに
寝ることにしている。
つまり寝ている間は、休戦。

ひとりで寝るのはつらい。
私のような人間を、「ワイフコン」という。
私が考えた言葉。
つまり「マザコン」と同列の、「ワイフコン」。
ワイフがいないと、何もできない。
あわれな、どこまでもあわれな夫。

日本語では「尻に敷かれた夫」。
英語では「親指の下の夫(a husband under the wife's thumb)」。

しかしこうしてのんびりと、意味のない文章をたたくのも、
悪くない。
文を書くというよりは、パソコンをいじっていることそのものが、
楽しい。

そう言えば先日、新しいパソコンのキーボードにシールを
張っていたら、一人の母親が、「楽しそうですね」と言った。
私は、「。」「F7」「back space」のキーには、シールを張ることにしている。
よく使うキーだからである。
「F7」は、カタカナ・キーとして使っている。

「こういうことが楽しいです」と答えると、その母親もうれしそうに
笑った。
きっとその母親も、パソコンが大好きなのだろう。
たがいの趣味が、ビンビンと一致した。

で、今、使っているパソコンで、いちばん気に入っているのが、
HP社の2133。
つぎがACER社のアスパイア(1)。

書斎には大型のデスクトップが2台置いてあるが、名前はない。
MCJ社の高性能パソコン。
ほかにNECのLaviと、FujitsuのFMVも居間に置いてある。
最近は、めったに使わない。

使い勝手はあまりよくないが、どういうわけか、このところ
ミニ・パソコンが気に入っている。
小さくて、かわいくて、それでいて一人前。
どこへでも持っていかれる。
その利便性が、よい。

……時計を見ると、午前12時を少し回ったところ。
何となく、頭の中がぼんやりとしてきた。
頭のほてりも収まってきたよう。
もうすぐ眠くなるはず。
そうなったら、ふとんの中に潜り込む。

眠られない夜は、無理をしない。
眠くなるまで、好き勝手なことをして時間をすごす。
何よりも、それがいちばんよい。

そうそうハーブ系の睡眠薬、もしくは精神安定剤が
効果的。
これからその睡眠薬をのむところ。
忘れていた!


Hiroshi Hayashi++++++++NOV 08++++++++++はやし浩司

●退職後の男たち

+++++++++++++++

定年退職をしたあと、まったく
仕事をしなくなる男性は多い。
約50%がそうではないか。

しかし私のばあい、そういう状態には、
それほど長くは耐えられない……と思う。

気がへんになってしまう。
というのも、仕事をするから、気が紛れる。
仕事をしなくなってしまったら、
気を紛らわすことができなくなる。
もともと(うつ)タイプの人間だから、そのまま
一気にうつ病になってしまうかもしれない。

が、中にはそうでない人もいる。

知人(私と同じ、満61歳)は、最近まで
家の中でゴロゴロしていたという(妻の言葉)。
が、このところ毎日のように、ゴルフに
出かけているという。
コースを回るときもあるという。

そういえば、別の知人(満61歳)もそうだ。
しばらく家の中でゴロゴロしていたあと、
ゴルフ場に通うようになった。

が、その先は、どうなるか?

そういうときは、70歳とか、80歳の男性を
観察してみればわかる。
仕事に復帰する人もいるが、60歳で一度遊び
始めると、急速に社会適応性を失う。
つまり職場復帰がむずかしくなる。

だからできるだけ長く、仕事はつづけたほうがよい。
60歳で引退というのは、早すぎる。
早すぎるというより、もったいない。

が、ここで新しい問題が起きる。
夫が家の中でゴロゴロし始めると、妻のほうが、
それを負担に感ずるようになる。
さざ波が立つように、たがいの間に、緊張感
が走るようになる。
この緊張感がストレスとなって、妻に
はねかえる。

こうなったとき、解決方法は、2つに1つ。
夫が家を出るか、妻が家を出るか。
そこで夫は、ゴルフに通うようになる。
もっとも手っ取り早く、だれにでもできる
運動である。
それにひとりで、できる。

が、つづいても10年。
5〜6年もすると、たいていみな、やめる。
やめて家の中に引きこもるようになる。
それが老後の始まり。

みんなそれぞれ、自分で考えて、自分で判断して
行動しているのだろうが、総じてみると
ひとつの「形」をつくるところが、おもしろい。

ということは、定年退職後の男性は、つぎの
ような段階を経て、老人になると考えることも
できる。

称して、「はやし浩司風、老人段階論」。

第1期……ゴロゴロ期(家の中でゴロゴロする。)
第2期……軽い運動期(何かの運動を始める。)
第3期……倦怠期(病気か何かがきっかけで、運動をやめてしまう。)
第4期……老人期(老化が一気に進む。)

あとは要支援→要介護という段階を踏み、要介護5を経て、
あの世行き。

だからやはり仕事はしていたほうがよい。
どこかで生活の緊張感を保ったほうがよい。
その緊張感が、結局は健康につながる。
肉体はもちろん、精神の健康にもつながる。

東洋医学でも、『流水は腐らず』と教える。
英語では『ころがる石は、コケをつけない』と教える。

だから、満60歳になった、みなさんへ、
もう少しがんばってみようよ。
あわてて老人になることはない。

今夜はこれで、おやすみなさい!


Hiroshi Hayashi++++++++NOV 08++++++++++はやし浩司

●オバマ氏の対北朝鮮政策

+++++++++++++++++++

あちこちのニュース・サイトを読む。
オバマ氏の情報を集める。
どんな人で、どんな考え方をする人か知りたい。
が、こと極東アジア政策については、未知数。
今朝、やっとその一部が、あるニュース・サイトに
載った。

北朝鮮に対しては、(1)2国間の首脳会談をする。
(2)「アメ」と「ムチ」の政策を実行する、と。

一方、自分を売り込もうと必死になっているのが、
C・ヒル氏。
北朝鮮を擁護しつつ、北朝鮮側の作業は順調に
進んでいる、と。
6か国協議も、12月中に開くことができると
主張している。

なおC・ライス氏は、退任後は、すでに大学の教授に
なることが決まっている。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV 08++++++++++はやし浩司

●それぞれの家庭の事情

私には、約60〜64人もの従兄弟(いとこ)がいる。
自分でも、すごい数だと思う。
そういう従兄弟たちをながめてみると、人、みなそれぞれということがわかる。
しかも他人とちがい、それぞれの家庭の事情が、直接肌を通して伝わってくる。
他人のような距離感がない。

が、そういう従兄弟でも、60年を経てみると、ここに書いたように、
人、みなそれぞれ。

兄弟姉妹で、友人以上に熱い関係を作りあげている従兄弟もいれば、
兄弟姉妹でありながら、他人以上に疎遠になってしまった従兄弟もいる。
親子、兄弟姉妹の間で、たがいに縁を切ったという従兄弟もいる。

そういう従兄弟たちをながめながら、私は改めて、こう思う。

「自分がそうであるからといって、他人もそうであるとか、そうであるべきと
考えてはいけない」
「自分がそうでないからといって、他人もそうでないとか、そうであっては
いけないと考えてはいけない」と。

が、中には思慮の浅い人がいる。
平気で自分の考えを、他人に押しつけてくる。
このタイプの人は、安易な『ダカラ論』をふりかざす。
あるいは古い因習や伝統を、もちだす。

「お前は子だろ」
「お前たちは兄弟だろ」
「親子だろ」
「親は親だからな」と。

しかしこうした安易なダカラ論ほど、その当事者たちを苦しめるものはない。
(血が通っている分)だけ、その人を苦しめる。

その人の思慮深さは、その人の人間関係についての意見を聞けばわかる。
思慮の深い人ほど、口が重くなる。
一方、思慮の浅い人ほど、無神経、無頓着。
平気でズカズカと他人の家にあがりこんでくるようなことをする。
平気で内政干渉をしてくる。

さらに加齢とともに、繊細に曇りが生じてくる。
相手への思いやりはもちろん、相手の立場でものを考えるということが
できなくなる。
認知症が加われば、なおさらである。
思慮がどんどんと浅くなる。

つまりその人の思慮の深さは、他人への共鳴性の深さで決まるといってもよい。
いくら歳をとっても、その繊細さだけは、失わないようにしたい。


●自尊心vs自意識

自分のもつ人間としての尊厳さ。
それを自尊心という。
これは私たちが生きていくうえで、最後の最後まで大切にしなければならない。
自尊心をなくしたら、おしまい。

その自尊心とよく似たものに、自意識がある。
「私は私」と思うのは、大切なことだが、そのワクを超えて、「私だけが特別」と
思うのは、自意識。
このタイプの人は、自分の価値は認めても、相手の価値は認めない。
自己中心性が肥大化したものが、自意識ということになる。

で、どんな世界にも、自意識が過剰な人というのはいる。
世界が自分を中心に回っていると錯覚する。
ウソや冗談ではない。
本気でそう信じている。

最近、こんな女性(80歳)がいることを知った。
何でも美容院へ行くたびに、1万円のチップを払っているという。
だれしも、ものすごい金持ちと思うかもしれない。
しかし現実は、その反対。

実の娘(65歳)と同居しているが、その娘は近くの事務所で
事務員として働いている。
収入は、それほど多くない。
その娘から金を出させて、そうしている。
(1万円のチップだぞ!)

世間体を気にする人というのは、何歳になっても、そうする。
変わらない。
そしてその世間体の基盤になっているのが、ここでいう自意識である。
それが過剰になればなるほど、世間体を気にするようになる。
本当はだれにも相手にされていないのに、まただれも相手にしていないのに、
自分では、相手にされていると思い込んでいる。
自分は注目されていると思い込んでいる。

私の母にしても、そうだった。

自分の実家の稼業をけなすようでつらいが、私の実家の稼業は、自転車屋。
ただの自転車屋。
先日も中学時代の同窓会に出てみたが、みなが、そういう目で見ているのが
よくわかった。
「林、お前は、あの自転車屋の林だろ」と。
「自転車屋」という部分だけ、ことさら強調する。
(これは私のひがみ意識か?)

大正時代の昔は知らないが、今では、その社会的評価は、あまり高くない。
職業に上下はないが、「上」とは、とても言えない。
ここでいう(そういう目)というのは、そういう目をいう。

が、母だけは、ちがった。
過去の亡霊を、自分から切り離すことができなかった。
町の酒屋や醤油屋、さらには医院と並んで、名門家と思い込んでいた。
晩年になってからでも、私が、「ただの自転車だろ」などと言おうものなら、
パニック状態になって、私を叱った。
「そんなこと、あらへん(ない)!」と。

そういう意味では、母は、きわめて自意識の強い女性だった。
自分が落ちぶれた自転車屋の女主人であることが、人に知られるのを、何よりも
恐れていた。
祖父(私の祖父)の時代の財産など、当の昔に使い果たしてしまっていた。
にもかかわらず、「おじいちゃん(=私の祖父)が財産を残してくれたから、
生活できる」と。
いつも決まって祖父を自慢していた。

こうした偏狭な自意識と闘うためには、自分の住んでいる世界を広くする。
何も自転車屋をつまらない職業と思えというのではない。
大切なのは生き様。
生き方。
それが確立していれば、職業というのは、それこそただの金儲けの手段にすぎない。
おかしな上下意識にまどわされて、卑下する必要は、まったくない。
総理大臣だろうが、自転車屋だろうが、職業は職業。

が、自分の姿を客観的に見るのは、むずかしい。
自分の立場を客観的に知るのは、さらにむずかしい。
しかし方法がないわけではない。

常に相手の目の中に自分を置く。
そこから、自分を見る。
「この人には、自分はどんなふうに見えるだろうか」と。

ただこの時点で注意しなければならないことは、仮にどんなふうに見えても、
気にしないこと。
気にしたとたん、(世間体)が顔を出す。
そのときこそ、「私は私」を貫く。


●エセ科学

今日のネット・ニュースを見ていたら、2つの興味深い記事が目についた。

ひとつは、エセ科学を糾弾する記事。
もうひとつは、霊感商法で犠牲になった人たちの記事。
「最近のスピリチュアル・ブームで、ハードルが低くなったため」とか。

つまりスピリチュアル・ブームでハードルが低くなった分だけ、
霊感商法に対する抵抗力が弱くなり、その犠牲者になる人がふえているという。
その理由として、「テレビ」をあげる。

それについては、何度も書いてきたので、ここでは省略する。

エセ科学と闘うための方法として、まず疑ってみること。
自分の頭で考えてみること。

その記事の中には、こんな記述もあった。

「あの人が言っているからまちがいないだろうという、主体性の
なさが、エセ科学の温床になっている」と。

言いかえると、「テレビで言っているのだから、まちがいない
だろう」という、主体性のなさが、エセ科学の温床になっている。

スピリチュアル……?
いつまでもアホなことを言っていないで、いいかげんに目を覚まそう!


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2931)

●痛みと(怒りの)感情

+++++++++++++++++

まず、こんな仮説を立ててみる。

痛覚が突然刺激されると、突発的に
(怒りの感情)が爆発する。
「痛い!」と感じた瞬間、「この、ヤロー!」
となる。

私はこうした現象は、子どもの世界だけの
ことかと思っていたが、晩年の母も、
そうだった。

晩年の母は、認知症も加わり、思慮深さが
極端に低下していた。
そういうこともあって、自分むきだしの
感情的な行動が目立った。

食事のとき、のどに食べ物がひかかったとき、
介護士の人がそれを吸引しようとしたりすると、
ときどき大声で、「あんたら、鬼やな!」と
怒鳴り返したりしていた。

これは肉体の防御反応ともいえるもので、
「痛い」というシグナルが、脳の中で危険因子
と判断され、それに対して攻撃的に反応する
ためと考えてよいのではないか。

となると、痛覚を感知する脳のその部分に、
(怒り)をコントロールする何かがある。

言いかえると、(怒り)のメカニズムを
解く、何らかの鍵が、そこに隠されている。

これがここでいう仮説である。

+++++++++++++++++

条件反射というと、パブロフということになる。
しかし最近の研究では、ドーパミンという神経伝達物質が、それに深くかかわっている
ことがわかってきた。
条件反射も、簡単に言えば、ドーパミンの増加によるものということになる。
「肉を与える」という合図によって、犬の脳の中にドーパミンが増加する。
それが条件反射となって、外に現れる。

このドーパミンが、「生き延びるために注意を払わなければならない新情報が、
思いがけず現れたことを、私たちに知らせてくれる」(サイエンス・07・12)
ということらしい。

その中には「危険や痛みのほか、セックスや食物、快楽」(同)も含まれるという。
こうした反応は、最近では、機能的磁気共鳴画像装置(fMRI)によって、
リアルタイムで観察することができるという。(すごい!)

ドーパミンが、危険を知らせてくれるとしても、では、(怒り)の感情は、いったい、
どこから発生するのか。
あるいはそれは(怒り)ではなく、別の反応なのか。

……と考えていくと、疑問がまた別の疑問を呼び、自分の思考がどんどんと深みに
はまっていくのがわかる。
まるで底なしの謎地獄である。

こういうとき科学者なら、あちこちから情報を集め、あたかもジグソーパズルを
解くようにして、問題を解いていく。
ときには最新の研究装置を使うかもしれない。
それはたいへんおもしろい作業にちがいない。
恩師の田丸謙二先生も、いつもそう言っている。
「研究ほど、クリエイティブな仕事はない」と。
が、私の能力は、ここまで。
その作業を繰り返す時間もない。
第一、研究装置さえ身近にない。

が、こうした仮説を立てることによって、これ以後、自分を客観的に
観察することができるようになる。
何かのことで(怒り)を感じたようなとき、脳のどの部分がどのように反応するかを、
一歩退いて、観察することができるようになる。

それがわかれば、(怒り)を自分でコントロールすることができるようになるかも
しれない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】(11月24日)

●勤労感謝の日

今日、11月23日は、勤労感謝の日。
その振り替えということで、明日、11月24日は、祭日。

しかし「勤労感謝の日」とは、何か?
どこか(こじつけ)のような感じがしないでもない。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『日本の国民の祝日の一つ。日付は11月23日。国民の祝日に関する法律(祝日法)では
「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」ことを趣旨としている。1948年(昭
和23年)公布・施行の祝日法で制定された。
戦前の新嘗祭(にいなめさい; しんじょうさい)の日付をそのまま「勤労感謝の日」に改め
たものである』と。

「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」とは、あのK国のあちこちに
掲げられているポスターの標語みたいで、おもしろい。
が、また疑問。
「新嘗祭(にいなめさい)」とは、何か。

改めてウィキペディア百科事典をひいてみる。

『11月23日に、天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に勧め、また、自らもこれ
を食して、その年の収穫を感謝する祭儀。宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われる。
秋に新穀を供えて神を祭る稲作儀礼である。

飛鳥時代の皇極天皇の御代に始められたと伝えられている。一時中断されたが、元禄時代
の東山天皇の御代に復活した。1873年の太陽暦採用以前は旧暦の11月の2回目の卯の日
に行われていた。1873年から1947年までは大祭日となっていた。

戦後は、勤労感謝の日として国民の祝日となった。新嘗祭自体は伊勢神宮及びそれに連な
る神社の祭儀となり、伊勢神宮には天皇の勅使が遣わされて、大御饌(おおみけ・神が召
し上がる食事)を供える形式となった』と。

天皇家の稲作儀礼の日が、戦後そのまま勤労感謝の日になった。
簡単に言えば、そういうことらしい。
が、祝日は祝日。
それ以上に、「働くことができる喜び」というのは、それを失ってみたとき、はじめて
わかる。
「働ける」というのは、健康な人の大特権と考えてよい。
そういう意味で、勤労に感謝するということについては、異論はない。
おおいに感謝すべきである。
感謝するというより、それをすなおに喜ぶ。

息ができる。
目が見える。
音が聞こえる。
冬の冷気を肌で感ずることができる。
まさに、感謝、感謝、感謝。

そう言えば、今朝の私は快調。
風邪らしき症状は、みな、消えた。
体も軽い。

しかし今、大不況のまっただ中で、職を失った人も多いはず。
そういう人たちは、今日の祝日をどうながめているのだろう?


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●葬儀が終わって……

母の葬儀が終わって、ちょうど40日目になる。
92歳という年齢もあったが、静かな葬儀だった。
あっけないというか、こんなものかなあと思うような葬儀だった。

が、それから40日。
母の葬儀が、見えないところで、思わぬ波風を立てているのを知った。
参列してくれた人、参列してくれなかった人……。

私自身は、この浜松市で葬儀をしたということもあり、参列してくれなかった人に
対して、どうこう思っていない。
……まったく思っていなかった。
最初から、内々で、静かにすませたいと願っていた。

しかしみなが、みな、同じように考えるわけではないらしい。
それぞれの立場で、それぞれが非難しあっているのを、知った。
「あの人は、どんなことがあっても、来るべきだった」とか、なんとか。

今は、その火消しに追われている。
どうかみなさん、心安らかに。
私自身は、なんとも思っていない。

ただこういうことは、感じた。

若いころ、10年といっても、それほど大きな変化はなかった。
しかし今は、ちがう。
同じ10年でも、みな、大きく変化していく。
たとえば70歳の人は、80歳になる。
今は、伯父が1人、叔母が2人だけになってしまったが、みな、
歩くのもままならないという状態。
葬儀のあと、礼の電話をしてみて、はじめてそれを知った。

少し前、学生時代の友人がこう言った。
「林、60歳を過ぎるとな、どんどんみな、死んでいくぞ」と。
そんな変化を目(ま)の当たりに見せつけられた感じだった。

これからは1年、1年、もっとしっかりとまわりを見つめながら、
生きていこう。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ある老夫婦の会話

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昨日は、一日、仕事がなかった。
それで一日中、ワイフと時間を過ごした。
午前中に山荘へでかけ、そこで昼食。
夕方帰ってきて、いっしょに料理。
食後は、音楽を聴いたりして、過ごした。

で、昨夜は、早めに就寝。
その床の中で、こんな会話をした。

私「お前だって、したいことがあるだろ?
ぼくのような男と一日、過ごして、
つまらないと思うこともあるだろ?」
ワ「ないわ。あなたこそ、私と一日
過ごして、いいの?」
私「ぼくは、お前さえいればいい。
お前がいれば、さみしくないし、
あとはだれにも会いたいと思わない」と。

そのとき、私はふと、ワイフが先に
死んだときのことを考えた。
もしワイフが先に死んだら、さみしい
だろうな、と。

きっとそのとき私は、こう思うにちがいない。
一晩だけでもいいから、もう一度、
ワイフと寝てみたい、と。
そう思ったとたん、涙が、ポロポロとこぼれて
きた。

冬の寒い夜は、暖かいふとんが、何よりも
ありがたい。
ワイフの肌の温もりが、何よりもありがたい
そう思って、ワイフの顔に毛布をかけてやった。
それを感じて、ワイフも私の顔に毛布を
かけてくれた。

で、今朝、起きるとき、開口一番に私は
ワイフにこう言った。

「せっかくの休みだから、今日は、
思う存分、遊ぼう」と。

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●日にちのまちがい

今日は、11月23日。
先ほど書いたエッセーを見たら、「今日は11月24日」となっていた。
このところ、日にちをまちがえることが、多くなった。
これはボケの始まりか?

少し前は、年齢をまちがえた。
満61歳になったのに、62歳と書いてしまった。
これには理由がある。

満61歳になったということは、そのあとは62年目に入ったことになる。
それで62歳と書いてしまった。
仕事上、満1年が過ぎると、「2年目」とか、そういうふうに書くことが多い。

しかし今日は、弁解できない。
今日は、まちがいなく、11月23日。
勤労感謝の日である。
明日(24日)が、その振り替え休日。

どうしてだろう。

すべてを電子マガジンのせいにするわけではないが、電子マガジンを発行していると、
「月」がめちゃめちゃになってしまう。
この原稿にしても、発行するのは、12月15日号。
だから頭の中は、12月ということになる。
しかし発行されてくるマガジンは、先月(10月)に書いたもの。

が、どうして今日を、11月24日と、思いこんでしまったのか。
やはりボケが進んでいるのか?
認知症のテストでも、「今日は何日ですか」と聞かれるという。
それがわからなくなると、かなり重症ということになるらしい。

ゾーッ!


●「マンガ脳首相」(週刊B春)

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AS首相のボロが、ボロボロと出てきている。
なんともお粗末な首相である。
「おバカ首相」(週刊S潮)とまで書かれている。
実際、おバカだから、どうしようもない。
しかしこんなことは、AS氏が外務大臣だった
ころから、わかっていたこと。
神輿(みこし)のように持ち上げるおバカが
多いから、あんな程度の人物が、首相に
なってしまった!
その責任は、だれが取るのか。

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『利口な人からは、バカな人がよくわかる。
バカな人からは、利口な人がわからない』と。
これは私が考えた格言だが、ここではその先。
つまり、自分がバカなとき、それを知ることは
可能なのか。
つまり自分で自分がバカであることを、知る方法は
あるのか。

たとえばAS首相にしても、(あくまでも見た感じ
の話だが……)、自分ではおバカとは思っていない
だろう。
それがわかったら、とても首相など、恥ずかしくて
できない。
その前に、総裁選で、立候補など、しない。

おバカを防ぐ方法があるとするなら、思慮深く
なること。
日々に脳みそを研鑽(けんさん)すること。
そうでなくても、AS首相も含めて、私たちの
年代になると、脳みそに穴があいたような状態に
なる。

知恵や知識が、どんどんとこぼれ落ちていく。
思考力や理解力も鈍ってくる。

が、一国の宰相ともあろう立場の人が、
「国際社会の動きは『ゴルゴ13』で勉強する」
(週刊B春・11・27)とは!
あきれるというよりも、情けない。
前にも書いたが、日本人が一億、みな、
総ギャク化している!

そこでこう考えてみる。
AS首相のような人物に、(人物と言ってよいかどうか
わからないが)、自分がおバカであることを
わからせるためにはどうしたらよいか、と。

この問題だけは、神経細胞的にも、基本的レベルの
ものであるだけに、むずかしい。
人は、より自分が賢くなったときだけ、それまでの
自分が愚かだったことを知る。
もしAS首相が自分で自分がおバカであることを
気がつくとしたら、自分でより賢くなったときだけ。
が、その研鑽もしていないとなると、ほぼ
絶望的としか、言いようがない。

そのAS首相はあれこれ理由にもならない理由を
並べて、政権の座に居座ろうとしている。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2932)

●うつ病一考

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うつ病になると、その人自身も苦しむ。
病気は、病気。
しかし同時に、その周囲の人たちも、苦しむ。
が、それだけではない。

私の印象では、(あくまでも私の印象だが)、
うつ病になると、見た目には精神構造が二重になる。

内にひっこみながら、ときとして外の世界に
向かって、攻撃的になる。
たいていはその双方が、状況に応じて、交互に
現れる。

うつ状態になっても、いつも心は緊張状態。
ささいなことが引き金となって、突発的に
錯乱状態になる。

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数日前、どこかの県でどこかの人が、隣人を車でひき殺すという事件が起きた。
隣家との境界問題で、仲がこじれていたという。
間の道幅は、2メートルしかなかったという。
それで「うちの土地にお前の車が入った」「お前の車が、うちの塀をこすった」
という争いになったらしい(報道)。

隣家でも、土地問題がからむと、とかく感情的になりやすい。
が、これに似た話となると、だれしも、1度や2度は経験しているはず。
つまり1度や2度、隣の家と、境界問題で争ったことがある。
が、それはそのとき。
あるいは隣家との関係を考えて、たいていは黙ってそのまま見過ごす。
が、今回の事件は、内容がやや複雑なようだ。

ひき殺された男性の横には、カメラがころがっていたという。
つまりひき殺された方の男性は、相手が自分の土地を侵害しているという
証拠写真のようなものを撮ろうとしていたのではないか。
それを見て、車を運転していた男性が、逆上した(?)。
そしてそのまま車で体当たりして、相手をひき殺した。

この事件と、うつ病とは、まったく関係ない。
ないが、一方、こんな話も聞いたことがある。

その男性は、道路の車が異常なまでに気になるらしい。
どこかのだれかが車を道路にとめただけで、すぐパトカーを呼んだ。
近所の人が、車をとめたりすると、カメラで写真を撮り、それを警察署に
送り届けたりしていた。
道路といっても、団地内の、ほとんど車が通ることがない道路である。
そこに車がとまっていても、それほどその人が迷惑するという感じでもない。
で、最近は、認知症(?)も加わって、とまっている車に、いたずらを
するようになった。

釘やコインで、車に傷をつけたり、あるいはナンバープレートにペンキを
塗ったりする、など。
(もちろん証拠がないので、その男性の犯行とは断言できないが……。)

あとは一日中、家の中に引きこもっている。
言い忘れたが、その男性の年齢は、75歳前後(当時)。

こういうケースのばあい、事件そのものよりも、その男性自身の心の問題を
疑ってみたほうがよい。
その第一が、うつ病ということになる。

そのうつ病の第一の特徴といえば、(こだわり)ということになる。
何かのことで、ひとたびこだわると、そのことが、心の壁にペタッと張りついた
ような状態になる。
そしてそのことばかりを考えるようになる。
「考える」というよりは、ループ状態になる。
そしてその状態を繰り返しているうちに、妄想だけがどんどんとふくらんでいく。
冷静に考えれば何でもないような問題であっても、「ああでもない」「こうでも
ない」と悩み始める。

今回、どこかの県で起きたその事件にしても、どちらかの側の人に、こうした
心の問題があった可能性がある。
あるいは隣家の問題がこじれたことが原因で、そうなったのかもしれない。
どちらであるにせよ、ふつうの心の状態では、こうした事件は起きない。
車で相手をひき殺した男性は、そのまま相手の家にあがりこみ、相手の妻まで
殺害している。

一般的にうつ病というと、悶々と悩むのは、その人自身で、外部の人には
迷惑をかけないと考えられがちである。
しかし実際には、心はいつも緊張状態に置かれ、ささいなことで、それが
爆発することが多い。
突発的に錯乱状態になる。

悪意をもった相手に、カメラを向けられたときの不快感は、それを経験した
ものでないとわからない。
(私のワイフは、一度、ある。)
一方、自分の土地を侵害されたときの不快感も、これまたそれを経験したもの
でないとわからない。
(私も何度かあるが、そのすべてで、泣き寝入りしてすませた。)
そうした不快感が、日常的につづけば、だれだって悶々とした状態、
つまりうつ病になったところで、何ら、おかしくない。

……ここまで書いてワイフに話しかけると、ワイフはこう言った。
「そこまでこじれる前に、どうして話しあわなかったのかしら?」
「警察に間に入ってもらい、話しあえばよかったのに」と。

しかし警察には、『民事不介入』という大原則がある。
こうした民事上の争いには、警察は、ぜったいに協力しない。
またしてはならない。
あくまでも当事者どうしの問題である。
(もちろん法律違反があれば、話は別だが……。)

話を戻す。

こうした事件をみたとき、その断面だけを見て、判断してはいけない。
もちろん表面だけを見て判断してはいけない。
こういう事件にいたる背景には、それまでの確執がある。
そしてここにも書いたように、心の問題がからむことも多い。
繰り返すが、だからといって、当事者のうちのだれかが、うつ病だったとか、
そういうことを言っているのではない。
ふつうの心の状態では、こうした事件は起きないということ。
ふつうでなかったから、事件は起きた。

どうか、誤解のないように!

今回のこの事件が、とても他人ごとのようには思えなかったので、
あえて私の意見を書いてみた。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov・08++++++++++++++はやし浩司

●たたり

++++++++++++++++++++

こんな事例があったとする。
あくまでも仮定の話だが、似たような事例は、
あなたのまわりにも、いくつかあるはず。

その家には4人の兄弟姉妹がいる。
しかしどの兄弟姉妹も、結婚まではするのだが、
そのあと、みな、離婚してしまった。
みなそれぞれ、子どもがいたが、子どもたちはみな、
相手方に手放してしまった。

(だからといって、離婚するのが悪いと言うのではない。
今どき、離婚など、珍しくも何ともない。)
平均25%の離婚率として、2人の子どもが離婚する確率は、
16分の1。
3人の子どもが離婚する確率は、64分の1。
4人の兄弟姉妹がみんな離婚する確率は、256分の1。

ふつうに生活していても、兄弟姉妹が4人とも離婚する確率は、
256分の1。
しかし実際には、離婚は兄弟姉妹間で連鎖性をもちやすいので、
うち1人が離婚すると、「私も……」「ぼくも……」となる。
離婚家庭の子どもは離婚しやすいという統計上の数字もある。

が、親は、「これは何かのたたりにちがいない」と考えて、近くの
神社の神主に頼んで、「お祓(はら)い」をしてもらった。

++++++++++++++++++++

悪いことが重なると、それは自分たちの理解を超えた、何かの(力)によって
そうなったと考えやすい。
これは人間が本来的にもつ、脳の欠陥のようなものと考えてよい。
(たたり)という言葉は、そういう脳の欠陥を埋め合わせるために生まれた。
しかし(たたり)などというものは、ない。
あるわけがない。
わざわざ「科学的に……」という言葉など、つけるまでもない。
バカげている。

似たようなものに、(バチ)がある。
それについても、これだけ人間が多い中で、いちいちそんなことを
気にしている神や仏がいたとしたら、そんな神や仏は、エセと考えてよい。

たとえば北極周辺に住む白熊にしても、あと半世紀足らずのうちに絶滅する
と言われている。
原因は、言わずとしれた、地球の温暖化である。
その白熊が、つぎつぎと死んでいく仲間の姿を見ながら、それを(たたり)
とか(バチ)と考えたとした、あなたはどう思うだろうか。

こんな例もある。

その家には3人の息子と娘がいる。
しかし3人とも高校へ入るころから、非行に走るようになり、3人とも、
みな高校を退学させられた。

こういうケースでは、まず疑ってみるべきは、親の育児姿勢。
(バチ)とか(たたり)に結びつけるほうが、おかしい。

さらに交通事故や大病がつづくこともある。
そうなると人は、ますます(バチ)や(たたり)を信じやすくなる。
そしてひとたびそのワナにかかると、それがずっと頭から離れなくなる。
うつタイプの人なら、そのまま、本当にうつ病になってしまうかもしれない。

ところがそういう言葉が、堂々とテレビの中で使われている。
誤解しないでほしいのは、占星術にしても、スピリチュアル(霊)にしても、
それを信ずるのは、立派なカルトであるということ。
言うなれば天下のテレビ局が、テレビという天下の公器を使って、堂々と
カルトを垂れ流している。
まず、この異常さに、みなが、気がつくべきである。

仮に(たたり)というものがあるとするなら、毎日牛肉を食べている人が、
どうして牛にたたられないのか。
仮に(たたり)というものがあるとするなら、病院の医師たちは、どうして
死んだ患者にたたられないのか。

それに(バチ)にせよ、(たたり)にせよ、常に多面性をもっている。
かなり前、1人の子ども(小5男児)がこう言った。
「昨日、遠足だったけど、雨が降ったのは、バチが当たったからだ」と。
そこで私がすかさず、「そんなのはバチではないよ。
このところの水不足で、農家の人たちは、みな喜んでいるよ」と。

……議論するのも、バカバカしい。
意見を書くのも、バカバカしい。

私も15年ほど前、ある宗教団体を攻撃する本を、何冊か書いたことがある。
そのため、その教団の信者たちが、何組か押しかけてきて、私たち夫婦を
脅かしたことがある。

「お前たちは地獄へ落ちる」とか、なんとか。

しかし結局のところ、なにも起きなかった。
もちろん地獄へ落ちることもなかった。
最初は少なからず、そういうおどしに怯(おび)えたが、
(というのも、中に、頭のおかしい人もいたので、)
それ以後は、もう何を書いても、こわいと思ったことがない。
一連の騒動を経験して、私は、勇気と、それにものを書く
思慮を手に入れることができた。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2933)

【日本社会・母系社会?】

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日本は、概して言えば、奈良時代の昔から
母系社会。
母親の存在が、大きい。

その代表的なものが、「母さんの歌」。
それに森Sが歌う、「おふくろさん」など。

どうして父親を賛歌した歌がないのか?

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子どもの心をつかむ法(恩を着せるな!)

子どもの心が離れるとき 

●フリーハンドの人生 

 「たった一度しかない人生だから、あなたはあなたの人生を、思う存分生きなさい。前向きに
生きなさい。あなたの人生は、あなたのもの。家の心配? ……そんなことは考えなくていい。
親孝行? ……そんなことは考えなくていい」と、一度はフリーハンドの形で子どもに子どもの
人生を手渡してこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。子どもを「家」や、安易な孝行
論でしばってはいけない。負担に思わせるのも、期待するのも、いけない。もちろん子どもがそ
のあと自分で考え、家のことを心配したり、親に孝行をするというのであれば、それは子どもの
勝手。子どもの問題。

●本当にすばらしい母親?

 日本人は無意識のうちにも、子どもを育てながら、子どもに、「産んでやった」「育ててやった」
と、恩を着せてしまう。子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられ
てしまう。

 以前、NHKの番組に『母を語る』というのがあった。その中で日本を代表する演歌歌手のI氏
が、涙ながらに、切々と母への恩を語っていた(二〇〇〇年夏)。「私は母の女手一つで、育て
られました。その母に恩返しをしたい一心で、東京へ出て歌手になりました」と。はじめ私は、I
氏の母親はすばらしい人だと思っていた。I氏もそう話していた。しかしそのうちI氏の母親が、
本当にすばらしい親なのかどうか、私にはわからなくなってしまった。五〇歳も過ぎたI氏に、そ
こまで思わせてよいものか。I氏をそこまで追いつめてよいものか。ひょっとしたら、I氏の母親
はI氏を育てながら、無意識のうちにも、I氏に恩を着せてしまったのかもしれない。

●子離れできない親、親離れできない子

 日本人は子育てをしながら、子どもに献身的になることを美徳とする。もう少しわかりやすく
言うと、子どものために犠牲になる姿を、子どもの前で平気で見せる。そしてごく当然のこととし
て、子どもにそれを負担に思わせてしまう。その一例が、『かあさんの歌』である。「♪かあさん
は、夜なべをして……」という、あの歌である。戦後の歌声運動の中で大ヒットした歌だが、しか
しこの歌ほど、お涙ちょうだい、恩着せがましい歌はない。窪田聡という人が作詞した『かあさ
んの歌』は、三番まであるが、それぞれ三、四行目はかっこ付きになっている。つまりこの部分
は、母からの手紙の引用ということになっている。それを並べてみる。

「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」
「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」

 しかしあなたが息子であるにせよ娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、あなたは
どう感ずるだろうか。あなたは心配になり、羽ばたける羽も、安心して羽ばたけなくなってしまう
に違いない。

●「今夜も居間で俳句づくり」

 親が子どもに手紙を書くとしたら、仮にそうではあっても、「とうさんとお煎べいを食べながら、
手袋を編んだよ。楽しかったよ」「とうさんは今夜も居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」
「春になれば、村の旅行会があるからさ。温泉へ行ってくるからね」である。そう書くべきであ
る。

つまり「かあさんの歌」には、子離れできない親、親離れできない子どもの心情が、綿々と織り
込まれている! ……と考えていたら、こんな子ども(中二男子)がいた。自分のことを言うの
に、「D家(け)は……」と、「家」をつけるのである。そこで私が、「そういう言い方はよせ」と言う
と、「ぼくはD家の跡取り息子だから」と。私はこの「跡取り」という言葉を、四〇年ぶりに聞い
た。今でもそういう言葉を使う人は、いるにはいる。

●うしろ姿の押し売りはしない

 子育ての第一の目標は、子どもを自立させること。それには親自身も自立しなければならな
い。そのため親は、子どもの前では、気高く生きる。前向きに生きる。そういう姿勢が、子ども
に安心感を与え、子どもを伸ばす。親子のきずなも、それで深まる。子どもを育てるために苦
労している姿。生活を維持するために苦労している姿。そういうのを日本では「親のうしろ姿」と
いうが、そのうしろ姿を子どもに押し売りしてはいけない。押し売りすればするほど、子どもの
心はあなたから離れる。 

 ……と書くと、「君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。親孝行論は日本人がもつ美徳
の一つだ。日本のよさまで君は否定するのか」と言う人がいる。しかし事実は逆だ。こんな調査
結果がある。平成六年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた日
本の若者はたったの、二三%(三年後の平成九年には一九%にまで低下)しかいない。自由
意識の強いフランスでさえ五九%。イギリスで四六%。あのアメリカでは、何と六三%である
(※)。欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期に
きているとみるべきではないのか。

●親も前向きに生きる

 繰り返すが、子どもの人生は子どものものであって、誰のものでもない。もちろん親のもので
もない。一見ドライな言い方に聞こえるかもしれないが、それは結局は自分のためでもある。
私たちは親という立場にはあっても、自分の人生を前向きに生きる。生きなければならない。
親のために犠牲になるのも、子どものために犠牲になるのも、それは美徳ではない。あなたの
親もそれを望まないだろう。いや、昔の日本人は子どもにそれを求めた。が、これからの考え
方ではない。あくまでもフリーハンド、である。ある母親は息子にこう言った。「私は私で、懸命
に生きる。あなたはあなたで、懸命に生きなさい」と。子育ての基本は、ここにある。

※……ほかに、「どんなことをしてでも、親を養う」と答えた若者の割合(総理府調査・平成6
年)は、次のようになっている。
 フィリッピン ……81%(11か国中、最高)
 韓国     ……67%
 タイ     ……59%
 ドイツ    ……38%
 スウェーデン ……37%

 日本の若者のうち、66%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答えている。これを裏から読む
と、「生活力がなければ、養わない」ということになるのだが……。 


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●日本の常識、世界の非常識

●「水戸黄門」論……日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっ
ているかといっても、身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度とい
う(巨悪)にどっぷりとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」が
わからないほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひ
れ伏せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪い
ことをしようとしたら、どんなことでもできる。それこそ19歳の舞妓を、「仕事のこやし」(人間国
宝と言われる人物の言葉。不倫が発覚したとき、そう言って居直った)と称して、手玉にして遊
ぶこともできる。

●「釣りバカ日誌」論……男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。そ
の背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」
と。しかしこれこそまさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食
い(パーティ)をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすと
いうことは、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、
ゆがんだ男性観が、その基本にあるとみる。

●「森S一のおふくろさん」論……夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と泣く民族
は、世界広しといえども、そうはいない。あの歌の中に出てくる母親は、たしかにすばらしい人
だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘になれ」とその母親は教えたというが、こうした美化論には
じゅうぶん注意したほうがよい。マザコン型の人ほど、親を徹底的に美化することで、自分のマ
ザコン性を正当化する傾向が強い。

●「かあさんの歌」論……窪田S氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(3行目と4行目)は、
かっこ(「」)つきになっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」「♪お
とうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってる
よ」と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。親が子どもに手紙を書くと
したら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに似合うと思ったから、買っておい
たよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「♪春になったら、村のみんなと
温泉に行ってくるよ」だ。

●「内助の功」論……封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用いら
れた。しかしこの言葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう論ずるま
でもない。しかし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いということ。約23%
の女性が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題ではないようだ。

※……全国家庭動向調査(厚生省98)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と
いう考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。

+++++++++++++++++

 要するに、いまだに、日本人は、あの封建時代の亡霊を、ひきずっているということ。身分制
度という亡霊である。世の中には、その封建時代を美化し、たたえる人も少なくないが、本当に
そんな世界が理想の世界なのか、またあるべき世界なのか、もう一度、冷静に考えなおしてみ
てほしい。
(はやし浩司 権威主義 権威主義者 親子の亀裂 断絶)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●依存心をつける子育て

 森Sの歌う歌に、『おふくろさん』がある。よい歌だ。あの歌を聞きながら、涙を流す人も多い。
しかし……。

 「溺愛児」というときには、二つのタイプを考える。親が子どもを溺愛して生まれる溺愛児。そ
れはよく知られているが、もう一つのタイプがある。

親を溺愛する溺愛児というのが、それ。簡単に言えば、親離れできない子どもということになる
が、その根は深い。

Nさん(女性)は、60歳を過ぎても、「お母さん、お母さん」と言って、実家に入りびたりになって
いる。親のめんどうをあれこれみている。親から見れば、孝行娘ということになる。Nさん自身
も、そう言われるのを喜んでいる。いわく、「年老いた母の姿を見ると、つらくてなりません。もし
魔法の力が私にあるなら、母を50歳若くしてあげたい」と。

 話は飛ぶが、日本人ほど子どもに依存心をつけさせることに、無関心な民族はないとよく言
われる。欧米人の子育てとどこがどう違うかを書くと、それだけで1冊の本になってしまう。

が、あえて言えば、日本人は昔から無意識のうちにも、子どもを自分に手なずけるようにして
子どもを育てる。それは野生の鳥をカゴの中に飼い、手なずける方法に似ている。「親は一番
大切な存在だ」とか、あるいは「親がいるから、あなたは生きていかれるのだ」とかいうようなこ
とを、繰り返し繰り返し子どもに教える。教えるというより、子どもの体に染み込ませる。

そして反対に、独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、「鬼っ子」として嫌う。あるいは
親不孝者として、排斥する。こうして日本では、親に対してベタベタの依存心をもった子どもが
生まれる。が、それは多分に原始的でもある。少なくとも欧米的ではない。あるいはあなたはよ
い歳をして、「♪おふくろさんよ、おふくろさんよ……」と涙を流している欧米人が想像できるだ
ろうか。

むしろ現実は反対で、欧米人、特にアングロサクソン系のアメリカ人は、子どもを自立させるこ
とを、子育ての最大の目標にしている。生後まもなくから、寝室そのものまで別にするのがふ
つうだ。親子という上下意識がないのはもちろんのこと、子どもが赤ん坊のときから、「私は
私、あなたはあなた」というものの考え方を徹底する。たとえ親子でも、「私の人生は私のもの
だから、子どもにじゃまされたくない」と考える。

こうした親子関係がよいか悪いかについては、議論もあろうかと思う。日本人は日本人だし、
欧米人は欧米人だ。「♪いつかは世のため、人のため……」と歌う日本人のほうが、実は私も
心情的には、親近感を覚える。しかしこれだけはここに書いておきたい。

親思いのあなた。親は絶対だと思うあなた。親の恩に報いることを、人生の最大の目標にして
いるあなた。そういうあなたの「思い」は、乳幼児期に親によって作られたものだということ。し
かもそれを作ったのは、あなたの親自身であり、その親も、日本という風土の中で作られた子
育て法に従っただけに過ぎないということ。

言いかえると、あなたの「思い」の中には、日本というこの国の、子育て観が脈々と流れてい
る。それを知るのも、子育てのおもしろさの一つかもしれない。さて、もう一度、『おふくろさん』
を歌ってみてほしい。歌の感じが前とは少し違うはずだ。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子育ての原点

 スズメは、ヒヨドリが来ても逃げない。ヤマバトが来ても逃げない。しかしモズが来ると、一斉
に逃げる。モズは肉食だ。しかしではなぜ、スズメは、そんなことを知っているのか。それは本
能によるものなのか。それとも学習によるものなのか。

 スズメは子育てをする一時期を除いて、集団行動をする。それはよく知られた習性だが、子
育てのときもそうだ。子スズメたちは、いつも親スズメのあとをついて飛ぶ。そして親スズメに習
って、エサの取り方や食べ方を学ぶ。そのときのことだ。

モズが来ると、親スズメがまず逃げる。そしてそれを追いかけるようにして、子スズメも逃げる。
スズメたちがモズから逃げるのは、本能によるものではなく、学習によるものだ。本能によるも
のなら、親スズメと同時か、場合によっては、親スズメより先に逃げるはずである。

 実は「子育て」の原点はここにある。教育の原点と言ってもよい。親は子どもを育てながら、
まず命を守る方法を教える。危険なものと、そうでないものを教える。将来生きていくために必
要な知識を、子どもたちに教える。経験を伝えることもある。子どもたちは、そういう知識や経
験を武器として、自分たちの世代を生きる。

そして親になったとき、自分たちが教えられたようにして、次の世代に知識や経験を伝える。

が、この図式通りいかないところが、人間の世界だ。そしてこの図式通りでないところに、子育
てのゆがみ、さらに教育のゆがみがある。その第一。

たとえば今の日本の子どもたちは、家事をほとんど手伝わない。すべき家事すら、ない。洗濯
は全自動の洗濯機。料理も大半が、電子レンジで温めればすんでしまう。水は水道、ガスはガ
ス管から運ばれる。掃除も、掃除機ですんでしまう。幼稚園児に、「水はどこから来ますか」と
質問すると、「蛇口!」と答える。

同じように野菜はスーパー、電気は電線となる。便利になったことはよいことだが、その便利さ
に慣れるあまり、「生きることの基本」を忘れてしまっている。そして他方で、必要でもないような
知識を、人間形成に必要不可欠な知識と錯覚する。よい例が一次方程式だ。二次方程式だ。
私など文科系の大学を出たこともあって、大学を卒業してから今にいたるまで、二次方程式は
おろか、一次方程式すら日常生活で使ったことは、ただの一度もない。

さらに高校二年で微分や三角関数を学ぶ。三年では三角関数の微分まで学ぶ。もうこうなる
と、教えている私のほうがバカバカしくなる。こんな知識が一体、何の役にたつというのか。こう
した事実をとらえて、私の知人はこう言った。「今の教育には矛盾と錯覚が満々ている」(学外
研・I氏)と。

 教育、教育と身構えるから、話がおかしくなる。しかし子どもたちが自立できるように、私たち
が得た知識や経験を、子どもたちに伝えるのが教育。そしてそれを組織的に、かつ効率よく、
かたよりなく教えてくれるのが学校と考えれば、話がスッキリする。子育てだってそうだ。

将来、子どもたちが温かい家庭を築き、そしてそれにふさわしい親として子育てができるように
するのが、子育て。そういうふうに考えて子育てをすれば、話がスッキリする。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの自立 自立 自立する子供)

(付記)

●私もマザコンだった!

こう書く私も、実は、若いころは、マザコンだった。
30歳を過ぎて、ワイフにそれを指摘されるまで、気がつかなかった。

自分がマザコンであるかどうかは、自分がそうでなくなったときにしか、わからない。
「私は親孝行のいい息子」と、思いこむことで、それを片づけてしまう。
あるいは「私の親は、それに値するすばらしい母親である」と、それを片づけてしまう。

ある男性は結婚するとき、「親孝行をする」を、相手の女性に条件として押しつけたという。
あるいは嫁・姑戦争が激しくなったとき、自分の妻に向って、「私は母をとる。お前の
ほうが出て行け」と言った男性もいる。

私も、そういう男性に近かったかも(?)。

自分からマザコン性を抜くのは、容易なことではない。
脳の、それこそ神経生理のもっとも基本的な部分にまで、刷り込みがなされている。
一度乳幼児期にマザコンになり、また成長過程でそれが修正されないと、男性は、
(もちろん女性も)、マザコンになる。

女性のマザコンを、私は「隠れマザコン」と呼んでいる。
さらに一歩話を進めると、実は、ファザコンと呼ばれる人も多い。
たいていは「親絶対教」の信者で、父親を同じように絶対視する。

「親を尊敬する」というのと、「親を盲目的に信仰する」というのは、
まったく別。
親といえども、ときとして子どもの批判の対象になることもある。
また批判されても、文句は言わない。

子どもというのはいつも、親を踏み台にして、さらに先へと前に進んでいく。
あなたの子どもが親不幸になったからといって、嘆くことはない。
あなたはあなた。
子どもは子ども。
それがいやなら、あなたも、親ではなく、一人の人間として子どもに尊敬される
よう、心がければよい。

「私は親だ」「親に向かって、何だ!」などと親風を吹かしているようでは、
あなたの住む世界は、小さい。
そういうくだらない親意識は、できるだけ早く捨てること。
親子の間にキレツを入れることはあっても、たがいを結ぶ絆(きずな)になることは、
ぜったいにない!


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●隠れマザコン

+++++++++++++++

子どものマザコン、つまりマザコン性
について。

ベタベタの親子関係は、決して好ましい
ものではない。

+++++++++++++++

 マザコンタイプの子どもは、(おとなもそうだが)、いつも自分の母親が、完ぺきな母親である
ことを、求める。(だから、「マザー・コンプレックス」という。)そのため、母親の、ささいなまちが
いさえも許さない。ほんの少しでも、自分が正しいと思ったことに反したことを母親がしたりする
と、それを怒ったり、ときに、ふてくされたりする。

 自分は、完全に愛されているのだという安心感。
 自分は、何をしても許されるのだという安心感。
 自分は、いつでも、どこでも、母親の関心の的でなければならない。

 言うなれば、幼稚な自己中心性そのもののことだが、いつもその安心感を、母親に求める。
そしてそれがないと、安心できない。

 この状態は、結婚してからも、つづく。そしてその対象が、母親から、妻へ移動することはあ
る。

(女性にもマザコンは、多い。女性のばあいは、そのまま母親に対して、マザコンを維持するこ
とが多い。しかも女性のマザコン、これを「隠れマザコン」と言うが、女性のマザコンは、男性の
それより、はるかに強烈になりやすい。ただ女性と女性との関係であるという点で、外からは、
わかりにくい。)

 A君(小3)は、学校のテストなどで、よい点をとってきたりすると、すぐ母親に見せていた。そ
ういう形で、一度は、母親に評価されないと、満足しなかった。そのとき母親が、何かのことで、
A君を無視したような態度をとったりすると、とたんA君は、母親に対して、すねたり、いじけたり
した。そしてその状態が、ばあいによっては、1、2時間もつづくこともあった。

 母親自身が、A君が、マザコンであることに気づいていなかった。つまり母親自身が、ベタベ
タの母子関係をつくりながら、それに気づいていなかった。

 こういうケースのばあい、本来なら、父親が、母子の間に、割って入らなければならない。で
ないと、子どもは、そのまま、マザコンを持続してしまう。が、不幸なことに、A君の父親は、そ
の数年前から、単身赴任で、インドに赴任していた。ますますA君は、マザコンになっていった。

 母子関係が、正常に分離できていない。そのため、弊害は、そのあとになってから起こる。男
子のばあいだと、おとなになり、結婚してから、起こる。男性のばあいは、このタイプの男性
は、一般論として、浮気しやすくなると言われている。目の前の妻という女性に、満足できない
からである。

 ある男性(映画監督)は、エッセーの中で、堂々とこう書いていた。「男性は、いつも永遠のマ
ドンナを求めて、さまよい歩くものです」と。これは、つまり自ら、「私はマザコンです」と告白して
いるようなものである。

 男児にしても、女児にしても、子どもがマザコンになってよいことは、何もない。そのマザコン
を是正するのが、父親の役目ということになる。もっとも父親が、マザコンのばあいは、どうしよ
うもないが……。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2934)

●カルト抜き

 子どもが不登校的な症状を見せたりすると、たいていの親は、その瞬間、パニック状態にな
る。その気持ちは、よくわかる。そして自分が感じた不安や心配を、直接、子どもにぶつけてし
まう。

 「学校へ行きなさい!」「いやだア!」と。

 ときに親は、子どもをはげしく叱ったりする。しかし親のこの一撃が、子どもの症状を、決定
的なまでに、悪化させる。しかし親には、その自覚がない。「子どもが学校へ行かなくなってしま
ったら、どうしよう……」と、そんなことばかりを、先に考える。

 では、どうするか? ……ということを書いても、意味がない。親の根底に、学歴信仰、学校
神話が残っているかぎり、この問題は解決しない。子どもは、親の不安や心配を敏感に感じと
ってしまう。いくら、親が、口先で、「学校へ行きたくなければ、行かなくてもいいのよ」と言ったと
ころで、意味はない。

 子どもは、親の心の奥の部分、つまりシャドウを読んでしまう。

 つまりそのシャドウを消さないかぎり、この問題は、解決しない。それを、「カルト抜き」という。
学歴信仰というカルトを抜く。

 ところで、あの忌まわしい事件を引き起こしたO真理教というカルト教団が、またまた活動を
活発化させているという。そういうニュースを見たりすると、たいていの人は、こう思うにちがい
ない。「私は、ちがう」「私には、関係ない」「私は、カルトなど信仰していない」と。

 しかし本当にそうだろうか? そう言い切ることができるだろうか?

 実は、学歴信仰というのは、立派な、カルトである。ただ日本中の親たちがそのカルトを信仰
しているから、自分ではわからないだけ。日本から一歩、外に出てみると、それがよくわかる。

 つまりそのカルトを抜かないかぎり、ここでいう不登校の問題は解決しない。仮に、子どもが、
午前中だけでも、学校へ通うようになると、親は、こう言う。「何とか、給食までいっしょに、食べ
るようになってほしい」と。さらに給食までいっしょに食べるようになると、今度は、「午後まで勉
強するようになってほしい」と。

 逆のこともある。

 今にも不登校児になりそうな子どもがいた。小学2年生の男の子だった。その子どもは、そ
のとき、それでも何とか、学校へは行った。しかし午前中の1、2時間は、保健室や理科室で、
時間を過ごした。

 やっと元気になるのは、3、4時間目くらいからで、ときには、昼休みに時間になってから、教
室へもどっていった。

 それについて母親から、「どうすればいいでしょう」という相談があった。が、私は、こう言っ
た。

 「細い糸かもしれませんが、それを切ってはいけない。お母さんは、子どもを『なおそう』として
いるが、なおそうなどと思ってはいけない。現状維持だけを考えてください」と。

 こうした問題には、必ず、二番底、三番底がある。親は、そのときの状態を最悪と思うかもし
れないが、その最悪の下には、まだ別の「底」がある。この段階で無理をすれば、その二番
底、三番底へ落ちてしまう。

母親「では、どうすればいいのでしょうか?」
私「よくがんばっているわねと、ほめてあげてください」
母親「ほめるんですか?」
私「子どもの立場で考えてみてください。行きたくない学校へ、重い足を引きずりながら、行って
いるのですよ。子どもはそのつらい気持ちと、毎日、戦っているのです。だから、ほめるので
す」

母親「でも、このままでは、うちの子は、ダメになってしまいます」
私「何が、ダメになるのですか。何も、ダメなんかには、なりませんよ」
母親「学校へ行かなくなってしまったら、どうするのですか?」
私「いいじゃないですか。そうなっても。お母さんが、あれこれクヨクヨと心配している分だけ、子
どもの心は不安定になります。不登校が不登校として、長引いてしまいます。子どもが、その気
持ちを感じ取ってしまうからです」と。

 そこで親は、心底、こう思わなければならない。「いいのよ、学校なんて、行きたくなければ行
かなくても!」と。口先だけではいけない。心底、そう思わなければならない。そのために、ここ
でいうカルト抜きをする。とたん、子どもの表情は明るくなる。そしてしばらく時間をおいたあと、
また学校へ行くようになる。前に、『あきらめは、悟りの境地』というエッセーを書いた。これも、
その悟りの境地のひとつということになる。

【付記】

 邪悪な「学歴信仰」を隠しながら、子どもに、「勉強しなさい」と言っても、子どもは、勉強しな
い。子どもは、親の、心の奥底、つまりは、下心を読んでしまう。

 教育の世界でも、同じようなことが起きることがある。

 ある進学塾の講師は、こう言った。「生徒というのは、いくらいい大学へ入っても、進学塾へ
は、礼にはこないものですよ」「結婚式などに招待されるケースは、1000に1つもありません」
と。

 当然である。親も子どもも、進学塾の講師の下心を、進学塾に通っているときから、すでに見
抜いている。

 「教室」という場所でも、教える側は、「無私」でなければならない。そこにほんの少しでも、雑
音が入ると、やがて子どもは、教師の指導に従わなくなる。1年や2年なら、何とかごまかすこ
とはできるが、3年、4年となると、そうはいかない。

 昔、月謝袋を、つめ先で、ポンとはじいて、「先生、あんたのほしいのは、これだろ」と言った
高校生がいた。私はその場で、即刻、その子どもを、退塾させたが、今から思えば、その子ど
もの言ったことは、正しかった。当時の私は、経営を第一に考えて、仕事をしていた。彼は、そ
の私の心を見抜いていた。
(はやし浩司 不登校 学歴信仰 カルト抜き シャドウ 細い糸 二番底)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

【野口英世の母】

++++++++++++++++

親子の間の依存性を考えるテーマとして、
野口英世の母をあげてみます。

02年に書いた原稿です。
どこか過激かな(?)と思う部分も
ないわけではありませんが、
もう一度、ここに掲載してみます。

野口英世の母は、ほんとうにすばらしい
母親であったのか?

++++++++++++++++

●母シカの手紙

 2004年に新千円札が発行されるという。それに、野口英世の肖像がのるという。そういう人
物の母親を批判するのも、勇気がいることだが、しかし……。

 野口英世が、アメリカで研究生活をしているとき、母シカは、野口英世にあてて、こんな手紙
を書いている。

 「おまイの しせにわ みなたまけました……(中略)……はやくきてくたされ いつくるトおせ
てくたされ わてもねむられません」(1912年(明治四五年)1月23日)(福島県耶麻郡猪苗代
町・「野口英世記念館パンフレット」より)

 この母シカの手紙について、「野口英世の母が書いた手紙はあまりにも有名で、母が子を思
う気持ちがにじみ出た素晴らしい手紙として広く知られています」(新鶴村役場・企画開発課パ
ンフ)というのが、おおかたの見方である。母シカは、同じ手紙の中で、「わたしも、こころぼそく
ありまする。どうかはやくかえってくだされ……かえってくだされ」と懇願している。
 これに対して、野口英世は、1912年2月22日に返事を書いている。「シカの家の窮状や帰
国の要請に対して、英世としてはすぐにも帰国したいが、世界の野口となって日本やアメリカを
代表している立場にあるのでそれもかなわないが、家の窮状を解決することなどを切々と書い
ています」(福島県耶麻郡猪苗代町・野口英世記念館)ということだそうだ。

 ここが重要なところだから、もう一度、野口英世と母シカのやり取りを整理してみよう。

 アメリカで研究生活をしている野口英世に、母シカは、(1)そのさみしさに耐えかねて、手紙
を書いた。内容は、(2)生活の窮状を訴え、(3)早く帰ってきてくれと懇願するものであった。

 それに対して野口英世は返事を書いて、(1)「日本とアメリカを代表する立場だから、すぐに
は帰れない」、(2)「帰ったら、窮状を打開するため、何とかする」と、答えている。

しかし、だ。いくらそういう時代だったとはいえ、またそういう状況だったとはいえ、親が子ども
に、こんな手紙など書くものだろうか。それがわからなければ、反対の立場で考えてみればよ
い。あなたのところにある日、あなたの母親から手紙が届いた。それには切々と、家の窮状を
訴え、ついで「帰ってきてくれ」と書いてあったとする。もしあなたがこんな手紙を手にしたら、あ
なたはきっと自分の研究も、落ちついてできなくなってしまうかもしれない。

●ベタベタの依存心

 日本人は子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもに恩を着せてしまう。「産んでやった」
「育ててやった」と。一方、子どもは子どもで、やはり無意識のうちにも、「産んでもらった」「育て
てもらった」と、恩を着せられる。たがいにベタベタの依存心で、もちつもたれつの関係になる。
そういう子育てを評して、あるアメリカ人の教育家は、こう言った。「日本人ほど、子どもに依存
心をもたせることに無頓着な民族はいない」と。

 そこでもう一度、母シカの手紙を読んでみよう。母シカは、「いつ帰ってくるか、教えてくださ
い。私は夜も眠られない。心細いので、早く帰ってきてください。早く帰ってきてください」と。

 この手紙から感ずる母シカは、人生の先輩者である親というより、子離れできない、未熟な
親でしかない。親としての尊厳もなければ、自覚もない。母シカがそのとき、病気か何かで伏せ
っていたのならまだしも、母シカがそうであったという記録はどこにもない。事実、野口英世記
念館には、野口英世がそのあと帰国後にとった写真が飾ってあるが、いっしょに写っている母
シカは、どこから見ても元気そうである。

 ……と書くと、猛反発を買うかもしれない。先にも書いたように、「母が子を思う気持ちがにじ
み出た素晴らしい手紙」というのが、日本の通説になっているからである。いや、私も昔、学生
のころ、この話を何かの本で読んだときには、涙をこぼした。しかし今、自分が親になってみる
と、この考え方は変わった。それを話す前に、自分のことを書いておく。

●私のこと

 私は23、4歳のときから、収入の約半分を、岐阜県の実家に仕送りしてきた。今のワイフと
いっしょに生活するようになったころも、毎月3万円の仕送りを欠かしたことがない。大卒の初
任給が6〜7万円という時代だった。が、それだけではない。

母は私のところへ遊びにきては、そのつど私からお金を受け取っていった。長男が生まれたと
きも、母は私たちの住むアパートにやってきて、当時のお金で20万円近くをもって帰った。母
にしてみれば、それは子どもとしての当然の行為だった。(だからといって、母を責めているの
ではない。それが当時の常識だったし、私もその常識にしばられて、だれに命令されるわけで
もなく、自らそうしていた。)

しかしそれは同時に、私にとっては、過大な負担だった。私が27歳ごろのときから、実家での
法事の費用なども、すべて私が負担するようになった。ハンパな額ではない。土地柄、そういう
行事だけは、派手にする。たいていは近所の料亭を借りきってする。その額が、20〜30万
円。そのたびに、私は貯金通帳がカラになったのを覚えている。

 そういう母の、……というより、当時の常識は、いったい、どこからきたのか。これについては
また別のところで考えることにして、私はそれから生ずる、経済的重圧感というよりは、社会的
重圧感に、いやというほど、苦しめられた。「子どもは親のめんどうをみるのは当たり前」「子ど
もは先祖を供養するのは当たり前」「親は絶対」「親に心配かける子どもは、親不孝者」などな
ど。

私の母が、私に直接、それを求めたということはない。ないが、間接的にいつも私はその重圧
感を感じていた。たとえば当時のおとなたちは、日常的につぎのような話し方をしていた。「あ
そこの息子は、親不孝の、ひどい息子だ。正月に遊びにきても、親に小遣いすら渡さなかっ
た」「あそこの息子は、親孝行のいい息子だ。今度、親の家を建て替えてやったそうだ」と。そ
れは、今から思えば、まるで真綿で首をジワジワとしめるようなやり方だった。

 こういう自分の経験から、私は、自分が親になった今、自分の息子たちにだけは、私が感じ
た重圧感だけは感じさせたくないと思うようになった。よく「林は、親孝行を否定するのか」とか
言う人がいある。「あなたはそれでも日本人ですか」と言ってきた女性もいた。しかしこれは誤
解である。誤解であることをわかってほしかったから、私の過去を正直に書いた。
 
●本当にすばらしい手紙?

 で、野口英世の母シカについて。私の常識がおかしいのか、どんな角度から母シカの手紙を
読んでも、私はその手紙が、「母が子を思う気持ちがにじみ出た素晴らしい手紙」とは、思えな
い。そればかりか、親ならこんなことを書くべきではないとさえ、思い始めている。そこでもう一
度、母シカの気持ちを察してみることにする。

 母シカは野口英世を、それこそ女手ひとつで懸命に育てた。当時は、私が子どものころより
もはるかに、封建意識の強い時代だった。しかも福島県の山村である。恐らく母シカは、「子ど
もが親のめんどうをみるのは当たり前」と、無意識であるにせよ、強くそれを思っていたに違い
ない。

だから親もとを離れて、アメリカで暮らす野口英世そのものを理解できなかったのだろう。文字
の読み書きもできなかったというから、野口英世の仕事がどういうものかさえ、理解できなかっ
たかもしれない。一方、野口英世は野口英世で、それを裏返す形で、「子どもが親のめんどう
をみるのは当たり前」と感じていたに違いない。野口英世が母シカにあてた手紙は、まさにそう
した板ばさみの状態の中から生まれたと考えられる。

 どうも、奥歯にものがはさまったような言い方になってしまった。本当のところ、こうした評論
のし方は、私のやり方ではない。しかし野口英世という、日本を代表する偉人の、その母親を
批判するということは、慎重の上にも、慎重でなければならない。現に今、その母シカをたたえ
る団体が存在している。母シカを批判するということは、そうした人たちの神経を逆なでするこ
とにもなる。だからここでは、私は結論として、つぎのようにしか、書けない。

 私が母シカなら、野口英世には、こう書いた。「帰ってくるな。どんなことがあっても、帰ってく
るな。仕事を成就するまでは帰ってくるな。家の心配などしなくてもいい。親孝行など考えなくて
もいい。私は私で元気でやるから、心配するな」と。それが無理なら、「元気か?」と様子を聞く
だけの手紙でもよかった。あるいはあなたなら、どんな手紙を書くだろうか。一度母シカの気持
ちになって考えてみてほしい。
(02−8−2)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
野口英世 シカ はやし浩司 依存性 相互依存 恩着せ 親の恩着せ)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2935)

●2人の私

++++++++++++++++++

私の中には、たしかに2人の(私)がいる。
その2人が、いつも交互に顔を出す。

先日も、DVDを返しに行ったときのこと、
逆走してきた車に、あやうくぶつけられそうに
なった。

そのとき、「あんな奴は、強制収容所送りだ」
と叫んだ(私)。
実際、ワイフの横で、そう叫んだ。

が、すかさずもう一人の(私)が顔を出し、
「あんな奴、相手にするな。どこの世界にも
バカはいる」と、私をたしなめた。

ここで「強制収容所」という言葉が出てきたのは、
K国の金XXの影響によるもの。
先の(私)は、心のどこかで、金XXというより、
スーパー権力者にあこがれを抱いているのかも
しれない。

ともかくも、そういうわけで、2人、いる。

で、そのことをワイフに話すと、ワイフは、
こう言った。

「私には、そういうことはないわ」と。

私「ほんとうに、ないのか?」
ワ「ないわ。私は、いつも1人よ」
私「じゃあ、ああいうとき、どう考えるの?」
ワ「あぶないとは思うわ。でも、それだけ」
私「ぶっ殺してやるとか、そういうふうには思わないのか?」
ワ「思わないわね」

私「でも、ぼくの中には2人、いる」
ワ「そういうことも、私にはないわ」
私「ほんとうにないのか?」
ワ「あなただけよ、きっと……」
私「じゃあ、ぼくだけがおかしいのかなあ?」
ワ「そうよ、あなたは、おかしいわよ」と。

+++++++++++++++++++

●どうして2人の私が……?

どうして私の中に2人の(私)がいるかについては、いろいろな原因が考えられる。
それについては前にも書いてきたので、ここでは省略する。

しかし時として、その2人の(私)が、頭の中ではげしく葛藤する。
俗にいう「迷う」というのとは、訳がちがう。
(そう言えば、私のワイフは、服などを選ぶとき、よく迷う。
ときに1着の服を決めるのに、1時間ほども時間がかかるときがある。
これはどういう現象と理解してよいのか?)

攻撃的で孤独に強い私。……これを(私A)とする。
弱気でやさしい私。……これを(私B)とする。

全体のバランスでみると、(私A)は、瞬間、もしくは、
何か事件などが起きたときなどに顔を出す。
ふだんは、(私B)が優勢で、(私A)が顔を出すことはない。
ふつう(私A)が顔を出すのは、(怒り)を覚えたとき。
(私A)が優勢になって、(私B)が隅に追いやられることもある。

が、それは私だけの現象で、ワイフには、それがないという。

ウ〜〜〜ン……。

ということは、私は、人格障害者なのか?
しかし教科書で知る多重人格者とも、ちがうようだ。

ウ〜〜〜ン……。

怒ったようなとき、だれでも、別人格者になるような気もするのだが……?
よい例が、酒を飲んで、まったく別の人間になる人もいる。
私の父がそうだった。
ふだんは静かでおとなしい人だった。
学者タイプの人だった。
しかし酒が入ると、そのまま別人になった。
大声を出して暴れたり、ものを破壊したりした。

……ということは、私は父のシャドウを引き継いでしまったのか?

こうした現象は、私が書く文章にも、見られるかもしれない。
とくに時事問題、国際問題、カルト問題について書くときは、私はきわめて攻撃的な
文章を書く。
しかし一方、心の問題、子育ての問題、教育問題について書くときは、控え目で、
穏やかな文章を書く。

そこで一度、ここで実験をしてみる。
(私A)(私B)のそれぞれと、その双方が混在しているときの(私)の、3種類の
(私)になって、文章を書いてみる。

+++++++++++++++
(私A)

何が反日だ!
何が反米だ!
自由主義貿易圏に身を置きながら、反日、反米を唱えれば、自ら自分の首を
絞(し)めるようなもの。
今朝の為替レートは、1ドル=1494ウォンだぞ!
サブプライム問題が起きたとき、君たちは何と書いていた。
「この問題は、韓国には波及しない」と。
さらにウォン安に向かうと、「輸出に有利になる」と喜んでいた。
しかし輸出先そのものが、なくなってしまった。
9月危機は乗り越えた。
しかし11月危機は、どうか?
さらに来年3月は、どうか?
私たち日本人の知ったことではないが、日本あっての韓国。
それをもっと素直に認めろ。

(私B)

大切なのは、相互の理解と友好。
誤解があれば、誤解を解けばよい。
その努力は忘れてはいけない。
それがわからなければ、地球を、宇宙から見てみればよい。
どういがみあったところで、地球は、宇宙のゴミ。
そのゴミの中の小さな国どうしが争って、どうなる?
どうする?

やがてこのアジアも、EUのように、統合される日がやってくる。
またそうでないと、アジアそのものが、総崩れになってしまう。
韓国が困っていたら、助けてやればよい。
裏切られても、裏切られても、じっとがまん。
それ以上のことを、日本は、あの植民地時代にしてしまった。

韓国のデフォルト(債務不履行)は時間の問題だが、今こそ、
日本は暖かい支援の気持ちを伝えておくべきではないのか。

(私A)+(私B)

反日を唱えるのも結構だが、少し冷静になってほしい。
たかが竹島問題程度のことで、軍事衝突するのもバカげている。
私たち日本人は、この問題を、国際裁判所のような場所で、公式に話しあおうと、
何度も提案しているではないか。
どうして君たちは、それに応じようとしないのか?
それとも何か、つごうの悪いことでもあるというのか?
このままでは韓国経済は、崩壊する。
そのことを今、一番強く肌で感じているのは、君たちのほうではないのか。
今、ここで韓国経済が崩壊すれば、そのときこそ、K国は、待ってましたとばかり、
君たちの国に攻撃をしかけてくるだろう。
そうなれば、竹島どころか、韓半島の全部を、あの独裁者に占領されることになる。
「同胞だから、そこまでしない」と考えるのは、どうかな。
すでに相手は、あなたたちのことを、同胞とはみていない。
どうしてそんなことがわからないのか。
君たちが、それでも反日を唱えるなら、日本だって、選択肢がなくなってしまう。
「韓国崩壊、やむなし」と。
反日・嫌韓は、その双方にとっても、悲しむべきことだと思う。
思うが、私たちは、嫌韓を今しばらく、貫くしかない。

+++++++++++++++++

同じ問題でも、(私A)で考えるのと、(私B)で考えるのとでは、雰囲気が
まるで変わってしまう。
考えてみれば、これは恐ろしいことではないか?

私のような(力)のない人間だから問題はないが、もし同じことが権力者の頭の
中で起きているとしたら、そのつど、政治の向きが180度、変わってしまう。
一説によると、あのドイツのヒットラーでさえ、本当は芸術を愛好した、気の弱い、
やさしい人だったという。
私たちが知るヒットラーは、私でいう(私A)のみが、極端に肥大化した人間
だったかもしれない。

ただ幸いなことに、私のばあい、(私A)が顔を出すのは、先にも書いたように、
(怒り)を感じたときだけ。
もしそうでなければ、私の人格はとっくの昔にバラバラになって、崩壊していた
かもしれない。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司※

●ショック!

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昨日、高校2年の数学の問題が、できなかった。
数2Aの問題である。

簡単な確率の問題だった。
ショックだった。
今日、書店で、もう一度数学の参考書を買い求
め、勉強しなおすことにした。

生徒には、「ごめんね」とだけ謝ったが、実に
情けない話。

実のところ、私は高校生には英語は教えて
きたが、数学は、ここ25年以上、教えていない。
しかし……。

++++++++++++++++++++

【問】
コインを投げて、4回、表が出たら、そこでコインを投げるのをやめる。
6回目にコインを投げるのをやめる確率は、何分の1か。

最初は、「何だ、こんな簡単な問題」と内心では思った。
5回までに3回表が出る確率を求め、それに2分の1をかければよい。
ところが、ここで頭の中が混乱してしまった。

1回ずつコインを投げなくても、5個のコインを同時に投げて、3個が表になる確率
を求めればよいのでは、と考えてしまった。
そこで計算してみると、……答が合わない!

1回ずつコインを5回投げるのと、5個のコインを同時に投げるのとでは、
どこがどうちがうのか?
考えているうちに頭の中がモヤモヤしてきた。
わからなくなってしまった。

私の脳みそについて、かなり老化が進んでいるのがわかる。
こんな程度の問題なら、公式を使わなくても、常識としてできるはず。
悔しさだけが残った。

見ると、その生徒(女子)も、目に涙を浮かべているではないか。
私が「ごめんね」と言うと、その生徒も、「私も悔しい」と。

で、今日から数学の勉強のしなおし。
空き時間に近くの書店で参考書を1冊、買ってくる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●「もます」

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この世界には「もます」という言葉があるそうだ。
それぞれの間で告げ口を繰り返し、たがいの間の
もめごとを増幅させる。

知らなかった。

あとでワイフに聞くと、「女性特有の言葉じゃないかしら」
とのこと。

+++++++++++++++++

「あのAさんが、あなたのことを、こう言っていましたよ」とか何とか言って、
あなたに告げ口をする。
それを聞いて、あなたは怒る。
Aさんのことを、悪く思うようになる。

一方、そのAさんに対しては、逆の告げ口をする。
つまりこうしてたがいの(もめごと)を増幅する。

「もます」というのは、「もめごとを増す」という意味か?
ついでながら広辞苑で調べてみたが、「もます」という言葉は見当たらなかった。

フ〜〜ン。

で、私も最近、その(もます)を経験した。
もます人は、実に言葉巧みに、相手の心を誘導する。
何かの世間話をしながら、その間に、チョンチョンと、告げ口を混ぜる。
言われた方(=私)は、そのときはそのまま聞き流すが、しばらくすると、ムラムラと
怒りが湧いてくる。

「あのAが、そんなことを言っていたのか!」と。

しかしそれこそ、その人の術にはまったことになる。
で、そのことをある人(女性)に話したら、その人がこう教えてくれた。
「先生は、もまされたのね」と。

私「何ですか、もまされた、というのは?」
女「あら、『もます』という言葉を知らないのですか?」
私「知りません。はじめて聞きました」
女「先生は、きっと、いい世界だけで生きてきたのですね」
私「ハア〜〜〜?」と。

女性の職場などでは、この(もます)が、日常的に行き交(か)っているという。
そのため職場を追われた女性も、多いとか。

私も基本的には告げ口は嫌い。
生徒が何かのことで告げ口をしてきても、すかさず追い払うようにしている。
しかしその告げ口をうまく利用して、人間関係を破壊するのを楽しんでいる人もいる。
気をつけよう!


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●11月25日

+++++++++++++++++++

昨日、ワイフと街までの約7・5キロを
いっしょに歩いた。
1時間30分ほど歩いた。
途中、Mという店で、私はかけソバ、ワイフは
かけうどんを食べた。
それぞれ、天ぷら、生卵をつけて、計450円。
1人、225円!
(225円で、昼食だぞ!)
最安記録を更新した。

+++++++++++++++++++

●K国の核兵器

朝、起きたとき、ワイフがこう聞いた。
「足、痛くない?」と。
軽い筋肉痛はあるにはあったが、痛いというほどではなかった。
「まあね」と答えると、「よかった」と。

こうしていつもの朝食が始まった。

私「K国が、12月から南北の連絡鉄道を閉鎖するそうだ」
ワ「どこまでいじけたら、気が済むのかしら?」
私「それにシリアの核関連施設で、K国が提供したと思われる放射性物質が
検出されたらしい」
ワ「ますます6か国協議がむずかしくなるわね」と。

「サンプルの採取は、合意済み」と主張する、アメリカ(ヒル代表)。
「そんな合意はまったくしていない」と主張する、K国。
そこで日米韓の3か国は、今度の6か国協議で、サンプル採取を文書化しようと
している。
しかしそんなことをすれば、シリアへの核開発協力がバレてしまう。
K国が、それに応ずるわけがない。

のんきな韓国政府は、こうしたK国側の動きに対して、「ただの脅し」とか、
「国内の緊張感を高めるため」とか説明している。
が、それはどうか?
一度振りあげた拳(こぶし)は、そう簡単には、おろせない。
K国がこのまま、暴走してしまう可能性は、じゅうぶんある。

ワ「いつ?」
私「金xxなら、今がチャンスと考えるだろうね」
ワ「金xxは、半身不随みたいよ」
私「取り巻きの軍部は、そう考えるだろうね。チャンスというより、今しかない、とね」
ワ「こわいわね」
私「こわいね」と。

極東アジアは、今、最高度に緊張している。
このまま崩壊するか、それとも戦争に打って出るか。
K国は自らの手で、自分の首を絞めながら、最後の選択に迫られている。


●赤黒い帯

飛行機の窓から見ると、はるか地平線の上空に、赤黒い帯が、ちょうど地球を
包むように見える。
今では当たり前の光景だが、この帯は、1970年代のはじめには、なかったはず。
が、1980年代になると、薄い帯となって、それが見えるようになった。
そのころ私も、その帯に気がついた。
そして今、さらに濃い帯が、インドから東南アジアにまたがり、さらに朝鮮半島
付近まで見られるようになったという(08・11・報道)。

地球温暖化の原因となっている帯である。
この帯(膜)が地球をすっぽりと包んでいる。

不気味というより、恐怖!
これは映画の世界での話ではない。
現実の話である。

国際線の飛行機に乗ったら、みなさんもあの黒い帯を、
自分の目で確かめてみてほしい。
そしてそれが5年単位、あるいは10単位で、太くなっていることに
気がついてほしい。
そのときあなたは、きっとこう思うはず。
「人間は、なんて、バカなことをしてしまったのだ!」と。

2100年までに地球の気温は、平均で、4〜5度上昇するという。
しかしここで誤解していけないことは、2100年に、その上昇
が止まるわけではないということ。
その後も、地球の気温は上昇しつづける。
その証拠にというか、仮に、今、全人類が化石燃料の使用をやめた
ところで、あの帯が消えるわけではない。
それはそのままそこに、ずっと残る。

地球温暖化もここまでくると、どうそれを止めるかではなく、
地球をどう癒(いや)すかという問題になってくる。
わかりやすく言えば、地球を取り囲む、あの帯をどうやって消したら
いいかということ。
人間の体にたとえるなら、病気の進行を止めるだけでは、足りない。
治療法を考える。

ひとつの方法として、核兵器のようなもので、成層圏に穴をあける
というのもあるそうだ(「第三の選択」)。
穴をあけて、大気圏にたまった熱を、宇宙へ逃がす。
しかしそれをすれば、帯は消えるかもしれないが、放射能で人類が
滅亡してしまう(同)。
言うまでもなくこの成層圏の中に、オゾン層がある。
そのオゾン層が太陽からの紫外線を受け止め、熱を発する。
だから対流圏では高度が高くなればなるほど気温は低くなるが、
成層圏では、反対に高くなる。

そこで一部の人間だけを宇宙に逃がし、そのあと、成層圏に穴をあける(?)。
そういう計画もあるということを、どこかで聞いたことがある。
もちろん根拠のない風説だが……。

映画なら、娯楽として楽しめるような話だが、ここにも書いたように現実の
こととなると、そうはいかない。
背中がひんやりとしてくる。


●11月26日

昨日は、原稿をほとんど書かなかった。
「書きたい」という気力そのものが、失せてしまった(?)。
何を考えても、中途半端。
脳みその表面を上すべりしてしまう。
「どうしたものか?」と思っていたら、そのうち、風邪の症状が出てきた。

「そうだったのか」と納得して、昨夜は風邪薬をのんで寝た。
今朝も、まだ本調子ではないが、とにかく、こうしてパソコンの前に座っている。

そういえば先日書店へ行ったら、「IMIDAS・2009」が、すでに並んでいた。
毎年買っている。
早いものだ。
今年も残すところ、あと1か月。

2008年を振り返ってみる。

*******以下、HP用原稿*********

【2008年〜2009年】

●2008年の10月、満61歳になりました。

満60歳を起点とするなら、この1年は、おまけの1年。
おまけの1年目。
これといったことを、何もできませんでしたが、何も変わらず、仕事ができたこと、
何も変わらず、生活ができたこと。
それに、心から感謝します。

ただ8月に兄が、そして10月に母が、つづいて他界しました。
そのときは「こんなものかなあ……」と思っていました。
 あっけないというか、ともに静かな最期でした。
 いまだにその実感がないというか、またそこに2人が生きているような
 気がしてなりません。
 
 これは、私の年齢と関係あるのかもしれません。
 「死」を身近に感ずるというよりは、生きている人も、死んだ人も、
 それほど大きな違いはないのではないかと、思うようになりました。

●2009年。

その2009年の抱負といっても、とくにありません。
現状を維持するだけで、精一杯。
健康も仕事も人間関係も……。
それができるだけでも、ありがたく思わなければなりません。
今は、そんな感じです。

ただ(時間)だけは大切にしたいです。
無駄に過ごす時間は、もうありません。

私がここにいて、生きている。
それが重要なのです。
その価値を認識しながら、一日、一日を大切にしたいです。
 
そう言えば、浜松に住むようになってからのこと。
 母はこう言いました。
 私が「お金がほしいか」と聞いたときのことです。
 「お金で、命は、買えん」と。

 あれほど小銭にうるさかった母が、そう言ったのには驚きました。
 「お金では、命を買うことはできない」と。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV 08++++++++++はやし浩司

●健康

健康の要は、「腰」。
(月へん)に(要)と書いて、「腰」と書く。
こんなことはみな知っていることだが、腰の大切さは、老人たちを見るとわかる。

病気という病気ではないが、しかし腰を痛める人は多い。
膝(ひざ)の関節を痛める人も多い。
そして一度痛めると、それがずっと、それこそ死ぬまでつづく。
綿々と、いつまでもつつづく。

そこで40歳を過ぎたら、腰の筋肉を鍛えることを考える。
言うまでもなく、腰というのは、骨と筋肉がペアになって、支えられている。
たいていの人は筋肉が弱くなったとき、つまり筋肉が骨を支えられなくなったとき、
腰、つまり骨を痛める。

そしてもう一つ重要なことは、50歳までに適正体重にしておくこと。
標準体重というのは、若い人も含めた体重をいう。
私の実感では、50歳を過ぎたら、標準体重より、10%前後、軽くしたほうがよい。
ただし細いからそれで安心というわけでもない。
細い人でも、腰を痛める人は多い。
同時に腰の筋肉を鍛えることを忘れてはいけない。
方法としては、サイクリングを勧める。
腰や膝に衝撃が少ない。
年をとってからでもできる。

ただしこれは私の経験からだが、トロトロと短い距離を走っても、
あまり効果がない。
ある程度長い距離を、汗をかくほどに走る。
また自転車をこぐときは、足だけではなく、ハンドルを手前に引くようにして、
全身を使う。

これを5年とか、10年単位でつづける。
おかげで、というか、私のばあい、今のところ、腰痛、膝痛とは無縁である。

元自転車屋の息子として、みなさんに勧める!


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2936)

●自尊感情

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『日本青少年研究所が02年11月にまとめた中学生の国際調査によると、「私は自分に大体
満足している」と答えたのは米国が53.5%、中国も24.3%に上ったのに対し、日本は9.
4%にとどまっていた。また、07年度の国の学力テストでも「自分には、よいところがあると思
いますか」との質問に対し、都内の小学6年生の29.4%、中学3年生の39.6%が否定的な
回答をしていた』(以上、毎日新聞の記事より・08・11・26)。

数字をもう一度、整理してみる。

「私は自分に大体満足している」と答えたのは、

アメリカ……53.5%
中国  ……24.3%
日本  …… 9.4%

「自分には、よいところがあると思いますか」という質問に対して、否定的な回答を
したのは、

都内の小学6年生……29.4%、
中学3年生   ……39.6%

++++++++++++++++++++++++++++++++

東京都教育委員会は来年度から、自分に自信の持てない子どもの自尊感情を高める指導方
法について研究を始める方針を固めたという(毎日新聞※)。

しかしどうして今ごろ?、というのが、私の率直な感想。
つまりどうして今ごろ、「研究を始めるのか?」と。
こんなことは発達心理学を少しでも勉強してことがある人なら、みな、知っている。
つまり常識。
「自己の同一性」(アイデンティティ)という言葉を知らない人は、ない。
自尊感情にしても、やる気にしても、すべてこの自己の同一性で、決まる。

その自己の同一性について、

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●自己概念

 「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どんな人間に
思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念ということになる。

 この自己概念は、正確であればあるほどよい。

 しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。悪い面
については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。

 一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自分が
そうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズレる。

 こんなことがあった。

 ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。

 「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。

 つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な夫の妻と
して、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。

 事実、その通りだから、反論のしようがない。

 で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、すばら
しい女性になりますよ」と。

 ここで自己概念という言葉が、出てくる。

 私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)だから「私のそばにいれば、ど
んな女性でも、すばらしい女性になる」と。そういう思いで、そう言った。

 しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿しか、
知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、笑った。そして
その意識の違いがわかったから、私も笑った。

 みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。

 ……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、私たち
はいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目を気にせ
よ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも正確にとらえて
いく必要があるということ。

 その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。

 その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。

(1)自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
(2)責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
(3)自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
(4)自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
(5)脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。

 しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、そ
の他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。

 たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いてみる。
そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡単なので、少し
訓練すれば、だれにでもできるようになる。

 もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。

 あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから見て、どん
な母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐためにも、重要な
ことである。

 ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思いこんでいるだけ
かもしれない。どうか、ご注意!
(はやし浩司 自己概念 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子
育て はやし浩司 自己概念 現実自己 アイデンティティ)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●自分を知る

 自分の中には、(自分で知っている部分)と、(自分では気がつかない部分)がある。

 同じように、自分の中には、(他人が知っている部分)と、(他人が知らない部分)がある。

 この中で、(自分でも気がつかない部分)と、(他人が知らない部分)が、「自分の盲点」という
ことになる(「ジョー・ハリー・ウインドウ」理論)。

 (他人が知っていて、自分では知らない部分)については、その他人と親しくなることによっ
て、知ることができる。そのため、つまり自分をより深く知るためには、いろいろな人と、広く交
際するのがよい。その人が、いろいろ教えてくれる(※)。

 問題は、ここでいう(盲点)である。

 しかし広く心理学の世界では、自分をよりよく知れば知るほど、この(盲点)は、小さくなると考
えられている。言いかえると、人格の完成度の高い人ほど、この(盲点)が小さいということにな
る。(必ずしも、そうとは言えない面があるかもしれないが……。)

 このことは、そのまま、子どもの能力についても言える。

 幼児をもつほとんどの親は、「子どもは、その環境の中で、ふさわしい教育を受ければ、みん
な、勉強ができるようになる」と考えている。

 しかし、はっきり言おう。子どもの能力は、決して、平等ではない。中に平等論を説く人もいる
が、それは、「いろいろな分野で、さまざまな能力について、平等」という意味である。

 が、こと学習的な能力ということになると、決して、平等ではない。

 その(差)は、学年を追うごとに、顕著になってくる。ほとんど何も教えなくても、こちらが教え
たいことを、スイスイと理解していく子どももいれば、何度教えても、ザルで水をすくうような感じ
の子どももいる。

 そういう子どもの能力について、(子ども自身が知らない部分)と、(親自身が気がついていな
い部分)が、ここでいう(盲点)ということになる。

 子どもの学習能力が、ふつうの子どもよりも劣っているいるということを、親自身が気がつい
ていれば、まだ教え方もある。指導のし方もある。しかし、親自身がそれに気がついていないと
きは、指導のし方そのものが、ない。

 親は、「やればできるはず」「うちの子は、まだ伸びるはず」と、子どもをせきたてる。そして私
に向っては、「もっとしぼってほしい」「もっとやらせてほしい」と迫る。そして子どもが逆立ちして
もできないような難解なワークブックを子どもに与え、「しなさい!」と言う。私に向っては、「でき
るようにしてほしい」と言う。

 こうした無理が、ますます子どもを勉強から、遠ざける。もちろん成績は、ますますさがる。

 言いかえると、賢い親ほど、その(盲点)が小さく、そうでない親ほど、その(盲点)が大きいと
いうことになる。そして(盲点)が大きければ大きいほど、家庭教育が、ちぐはぐになりやすいと
いうことになる。子育てで失敗しやすいということになる。

 自分のことを正しく知るのも難しいが、自分の子どものことを正しく知るのは、さらにむずかし
い。……というようなことを考えながら、あなたの子どもを、一度、見つめなおしてみてはどうだ
ろうか。

(注※)

 (自分では気がつかない部分)で、(他人が知っている部分)については、その人と親しくなる
ことで、それを知ることができる。

 そこで登場するのが、「自己開示」。わかりやすく言えば、「心を開く」ということ。もっと言え
ば、「自分をさらけ出す」ということ。しかし実際には、これはむずかしい。それができる人は、
ごく自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。

 が、とりあえず(失礼!)は、あなたの夫(妻)、もしくは、子どもに対して、それをしてみる。コ
ツは、何を言われても、それを聞くだけの寛容の精神をもつこと。批判されるたびに、カリカリし
ていたのでは、相手も、それについて、話せなくなる。

 一般論として、自己愛者ほど、自己中心性が強く、他人の批判を受けいれない。批判された
だけで、狂乱状態になる人さえいる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【私らしく生きるために……】

●不適応障害

 「私は私」と、自分に自信をもって、生活している人は、いったい、どれだけいるだろうか。実
際には、少ないのでは……。

+++++++++++++++++

 「私は、こうでなければならない」「こうであるべきだ」という輪郭(りんかく)を、「自己概念」とい
う。

 しかし、現実には、そうはいかない。いかないことが多い。現実の自分は、自分が描く理想像
とは、ほど遠い。そういうことはよくある。

 その現実の自分を、「現実自己」という。

 この(自己概念)と(現実自己)が、一致していれば、その人は、「私は私」と、自分を確信する
ことができる。自分の道を、進むべき道として、自信をもって、進むことができる。そうでなけれ
ば、そうでない。

不安定な自分をかかえ、そのつど、道に迷ったり、悩んだりする。が、それだけではすまない。
心の状態も、きわめて不安定になる。

++++++++++++++++++

 Aさん(女性)は、財産家の両親をもつ、夫のB氏と結婚したつもりだった。B氏の両親は、そ
の地域でも、昔からの土地持ちという話を聞いていた。

 が、実際には、B家は、借金だらけ。しかも大半の土地は、すでに他人のものになっていた。
ここでAさんの夢は、大きく崩れた。

 Aさんは、B氏の夫として、そして良家の奥様として、優雅な生活を設計していた。とたん、つ
まり、そういう現実を目の前につきつけられたとき、Aさんの情緒は、きわめて不安定になっ
た。

 良家の奥様にもなりきれず、さりとて、商家のおかみさんにも、なりきれず……。

 毎晩のように、夫と、はげしい夫婦げんかを繰りかえした。

 ……というような例は、多い。似たようなケースは、子どもの世界でも、よく起こる。

 (こうでなければならない自分=自己概念)と(現実の自分=現実自己)。その両者がうまくか
みあえば、それなりに、子どもというのは、落ちついた様子を見せる。

 しかし(こうでなければならない自分)と(現実の自分)が、大きく食い違ったとき、そこで不適
応症状が現れる。

 不適応症状として代表的なものが、心の緊張感である。心はいつも緊張した状態になり、ささ
いなことで、カッとなって暴れたり、反対に、極度に落ちこんだりするようになる。

 私も、高校2年から3年にかけて、進学指導の担任教師に、強引に、文科系の学部へと、進
学先を強引に変えられてしまったことがある。それまでは、工学部の建築学科を志望していた
のだが、それが、文学部へ。大転身である!

 その時点で、私は、それまで描いていた人生設計を、すべて、ご破算にしなければならなな
かった。私は、あのときの苦しみを、今でも、忘れない。

……ということで、典型的な例で、考えてみよう。

 Cさん(中2.女子)は、子どものころから、蝶よ、花よと、目一杯、甘やかされて育てられた。
夏休みや冬休みになると、毎年のように家族とともに、海外旅行を繰りかえした。

 が、容姿はあまりよくなかった。学校でも、ほとんどといってよいほど、目だたない存在だっ
た。その上、学業の成績も、かんばしくなかった。で、そんなとき、その学校でも、進学指導の
三者面談が、始まった。

 最初に指導の担任が示した学校は、Cさんの希望とは、ほど遠い、Dランクの学校だった。
「今の成績では、ここしか入るところがない」と、言われた。Cさんは、Cさんなりに、がんばって
いるつもりだった。が、同席した母親は、そのあとCさんを、はげしく叱った。

 それまでにも、親子の間に、大きなモヤモヤ(確執)があったのかもしれない。その数日後、
Cさんは塾の帰りにコンビニに寄り、門限を破った。そしてあとは、お決まりの非行コース。

 (夜遊び)→(外泊)→(家出)と。

 中学3年生になるころには、Cさんは、何人かの男とセックスまでするようになっていた。こう
なると、もう勉強どころではなくなる。かろうじて学校には通っていたが、授業中でも、先生に叱
られたりすると、プイと、外に出ていってしまうこともある。

 このCさんのケースでも、(Cさんが子どものころから夢見ていた自分の将来)と、(現実の自
分)との間が、大きく食い違っているのがわかる。この際、その理由や原因など、どうでもよい。
ともかくも、食い違ってしまった。

 ここで、心理学でいう、(不適応障害)が始まる。

 「私はすばらしい人間のはずだ」と、思いこむCさん。しかし現実には、だれも、すばらしいと
は思ってくれない。

 「本当の私は、そんな家出を繰りかえすような、できそこないではないはず」と、自分を否定す
るCさん。しかし現実には、ズルズルと、自分の望む方向とは別の方向に入っていてしまう。

 こうなると、Cさんの生活そのものが、何がなんだかわからなくなってしまう。それはたとえて
言うなら、毎日、サラ金の借金取りに追い立てられる、多重債務者のようなものではないか。

 一日とて、安心して、落ちついた日を過ごすことができなくなる。

 当然のことながら、Cさんも、ささいなことで、カッとキレやすくなった。今ではもう、父親です
ら、Cさんには何も言えない状態だという。

日本語には、『地に足のついた生活』という言葉がある。これを子どもの世界について言いか
えると、子どもは、その地についた子どもにしなければならない。(こうでなければならない自
分)と(現実の自分)が一致した子どもにしなければならない。

 得てして、親の高望み、過剰期待は、この両者を遊離させる。そして結局は、子どもの心を
バラバラにしてしまう。大切なことは、あるがままの子どもを認め、そのあるがままに育てていく
ということ。子どもの側の立場でいうなら、子どもがいつも自分らしさを保っている状態をいう。

 具体的には、「もっとがんばれ!」ではなく、「あなたは、よくがんばっている。無理をしなくてい
い」という育て方をいう。

子どもの不適応障害を、決して軽く考えてはいけない。

+++++++++++++++++++++

 「私らしく生きる……」「私は私」と言うためには、まず、その前提として、(こうでなければなら
ない自分=自己概念)と(現実の自分=現実自己)、その両者を、うまくかみあわせなければな
らない。

 簡単な方法としては、まず、自分のしたいことをする、ということ。その中から、生きがいを見
つけ、その目標に向って、進んでいくということ。

 子どもも、またしかり。子どものしたいこと、つまり夢や希望によく耳を傾け、その夢や希望に
そって、子どもに目的をもたせていく。子どもを伸ばすということは、そういうことをいう。
(はやし浩司 子どもの不適応障害 子どもの不適応障害 現実自己 自己概念)

(注)役割混乱による、不適応障害も、少なくない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

この日本には、子どもたちに用意された道が、一本しかないということ。
すべての問題の根源はここにある。

一人の人間が、子どもからおとなになる過程において、子ども自身が選べる
道が、もっとたくさんあってもよいのではないか。

たとえばドイツやイタリアでは、中学生たちはたいてい午前中だけで授業を
終え、それぞれがみな、クラブに通っている。
その費用は、(チャイルド・マネー)として、国から支給されている(ドイツ)。

東京都教育委員会は、「脳科学の専門家と連携して」、その方法を探るという。
すごいことだと思うが、これは脳科学の問題ではない。
制度の問題である。

今の制度では、(ものを考えない、従順な子ども)のみが、受験競争を勝ち抜く
ことができる。
その異常さに、まずみなが先に気がついたらよい。

(注※)(以下、毎日新聞の記事より)東京都教育委員会は来年度から、自分に自信の持てな
い子どもの自尊感情を高める指導方法について研究を始める方針を固めた。日本の子どもは
最近の学力テストや国際調査で自己肯定感が低いことが分かっている。いじめや不登校など
教育問題の根底にも子どもの自尊心が少ない点があるともみられ、向上策の開発に着手す
る。

 都教委の計画では、都教職員研修センター(文京区)と大学が共同研究を進める。脳科学な
どの専門家と連携し、子どもにどのような働きかけをすれば自尊感情が高まるかを探る。さら
に小学校1校を研究協力校に指定し、児童の意識調査を行い、指導方法を実証する。事業費
として400万円を要求している。

 日本青少年研究所が02年11月にまとめた中学生の国際調査によると、「私は自分に大体
満足している」と答えたのは米国が53.5%、中国も24.3%に上ったのに対し、日本は9.
4%にとどまっていた。また、07年度の国の学力テストでも「自分には、よいところがあると思
いますか」との質問に対し、都内の小学6年生の29.4%、中学3年生の39.6%が否定的な
回答をしていた。

 都教委の担当者は「子どもに自信が育つ核心の部分をできるだけ解明し、いろいろな手立て
で働きかけられるようにしていきたい」と話している(以上、毎日新聞の記事より)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
自尊感情 やる気)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

【04年12月8日のニュースから……】

一つは、「児童虐待について内情を調査してみたら、保護者の6割に、
心身に問題があったとわかった」というもの。

もう一つは、BPO=放送倫理・番組向上機構の「放送と青少年に関する委員会」が、
「血液型で人間の性格が規定される」という見方を助長しないよう要望したというもの。

++++++++++++++++++++++++++++

●児童虐待466件 保護者の6割、心身に問題……道調査 /北海道

 北海道内8カ所の道立児童相談所が、03年度に取り扱った児童虐待466件で、子供を虐
待した保護者333人の約6割が、性格の偏りや精神障害など何らかの問題を心身に抱えてい
たことが、道保健福祉部の調査で分かった。

 調査は各相談所の児童福祉司らが、担当した個々のケースを分析し、(1)虐待した保護者
の心身の状況、(2)虐待につながったと思われる児童の状況、(3)同じく家庭の状況――に
ついて選択肢から複数回答した。

保護者の心身の状況は
▽「性格の偏り」が、128人(38%)で最も多く、
▽「精神病か、その疑い」46人(14%)
▽「人格障害」、26人(8%)
▽「アルコール依存症」17人(5%)
▽「薬物依存症」、7人(2%)。「特に問題なし」が81件(24%)、「不明」が49件(15%)だっ
た。

 家庭の状況(333世帯)では
▽「経済的困難」が、170件(51%)と過半数を占めた。ほかに
▽「ひとり親家庭」、136件(41%)
▽「親族・近隣、友人から孤立」、93件(28%)
▽「育児疲れ」、58件(17%)など。

 虐待された子供の側では、
▽「特に問題なし」が、170件(37%)。
▽窃盗、暴力などの「問題行動あり」が、94件(20%)、
▽「精神発達の遅れや障害」が、80件(17%)あった。
▽「望まれずに出生」したことが虐待につながったとみられるケースも、24件(5%)あった。

 道保健福祉部の担当者は「一つ一つの要素がすぐに虐待につながるわけではないが、要因
にはなり得る。問題は被害者の子供より親や家庭にあることが多い」とみている。(以上、ヤフ
ー・NEWS・04年12月8日)

+++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●またまた血液型問題

+++++++++++++++++

いいかげんにしろ!

昨夜テレビを見ていたら、またまた血液型に
よる性格判断が話題になっていた。

4年前に書いた原稿があった。
それをそのまま!

+++++++++++++++++

●BPOが「血液型を扱う番組」に要望 
 BPO=放送倫理・番組向上機構の「放送と青少年に関する委員会」は、放送各社に対し、
「血液型で人間の性格が規定される」という見方を助長しないよう要望した。

 青少年委員会では、血液型を扱う番組が増えていることについて、「科学的根拠が証明され
ていないにも関わらず、血液型で人を分類する考え方は、社会的差別に通じる危険がある」と
指摘している。また、「血液型実験」と称して、子供が駆り出されるケースは「人道的に問題が
ある」としている。
 
 その上で、放送各社が「番組基準を守り、血液型で人間の性格が規定されるという見方を助
長しないよう」要望、占いや霊感など、非科学的な事柄をあつかう番組でも、青少年への配慮
を強めるよう要請した。(04年・12月8日)(以上、TBS・i・news)

+++++++++++++++++++++++++++

 児童虐待については、親自身に、何らかの、経済的困苦や、家庭問題、それに心の病気が
あることが多いということは、以前より、指摘されている。たとえば、「貧しい」ということは、それ
自体が、社会的病理と考えてよい。が、しかし、それだけで、片づけてはいけない。

 私が知っている例でも、その両親(祖父母)のスネをかじり、借金まるけになりながらも、T社
の大型ランドクルーザーに乗っていた父親がいた。「貧しい」というのは、金銭的な貧しさではな
く、心の貧しさをいう。

 金銭的な貧しさは、得てして、心の貧しさを、引き起こしやすい。その結果として、そしてその
一部として、親は、子どもを虐待するようになる。

 もっとも今、経済的なゆとりをもって生活して人は、何%いるのか? いや、(ゆとり)というの
も、実は、その人の心構えによって決まるのでは……?

 正直に言うが、だれかに接待されたときは別として、私たち夫婦にしても、この10年以上、寿
司屋で寿司を食べたことがない。寿司と言えば、回転寿司。それもたいていは、一皿105円の
回転寿司である。

 しかし、食べたいときには、食べている。思い立ったときに、食べている。それが(ゆとり)とい
うものではないか。(いつも2人で、合計8〜9皿までと決めているが……。)

 ただこういうことは言える。いくら金銭的に貧しくても、心までは、貧しくしてはいけないというこ
と。ある女性(80歳くらい)は、息子夫婦に、行楽地へ連れていってもらうたびに、何かの(盗
み)をしてくるという。

 通りにある植木鉢や、置き物など。飲食店に寄っても、その店にそなえつけの、調味料入れ
や傘まで、もってくるという。そのため、息子夫婦は、目を離せないという。そういう女性を、心
の貧しい人という。

 子どもを虐待する親というのは、そういう意味で、心の貧しい人と考えてよいのでは……。よく
わからない部分もあるので、この先は、また別のところで、考えてみたい。

++++++++++++++++++++++++++++

 血液型については、もう何度も書いてきた。その結論も、少し前に書いた。

 問題は、「占いや霊感など、非科学的な事柄をあつかう番組でも、青少年への配慮を強める
よう要請した」(BPO)という部分。

 大賛成!、である。

 昨夜もテレビのチャンネルをかえていたら、その種の番組が、目に入った。1人の太った女
性が、タレントたちの運勢を、占っていた。

 少し前には、霊媒師とか霊感師というのが、いた。さらに少し前には、どこかの寺の僧侶が、
心霊写真なるものを、さかんに紹介していた。が、最近は、占い!

 もう、やめようよ、みなさん! もう少し、賢く、利口になろうよ! こんなことを繰りかえしてい
て、いったい、どうするのか! どうなるのか! 「あんたのうしろには、ヘビがいる」「あんた
は、神を粗末にしている」などと言われて、ビクビクしたり、ギャーギャー騒いでいてよいのか!

 コメントする価値もないほど、バカげている。あまりにも、レベルが低すぎる。少なくとも、大の
テレビ局が、最新の映像機器を使って流すような番組ではない。

 ……というような話を、先日、中学2年生のRさんにすると、Rさんは、こう言った。

 「先生、占いは、ちゃんと当たります!」と。

 そこで私は、「具現理論」について、話してやった。

●具現理論

 子どもは(もちろん、おとなも)、最初にこうだと思った状況を、自ら、つくりだしてしまうことが
ある。これを私は、勝手に、「具現理論」と呼んでいる。内心で思っていることを、自ら、無意識
のうちにも、具体的に作りだしてしまうことをいう。いろいろな例がある。

 Aさん(高二女子)が、ある日、こう言った。「先生、私、明日、交通事故にあう」と。「どうして、
そんなことがわかるの?」と聞くと、「私には、自分の未来が予言できる」と。

 で、それから数日後、見ると、Aさんは、顔の右半分、それから右腕にかけて包帯を巻いてい
た。私はAさんの話を忘れていたので、「どうしたの?」と聞くと、「自転車で走っていたら、うしろ
から自動車が来たので、それを避けようとしたら、体が塀にぶつかってしまった」と。

 このAさんのケースでは、自らに「交通事故を起こす」という暗示をかけ、そしてその暗示が、
無意識のうちに、事故を引き起こしてしまったことになる。つまり無意識下の自分が、Aさん自
身を裏からコントロールしたことになる。こうした例は多い。

 毎朝、携帯電話の占いを見てくる女性(二五歳くらい)がいる。「あんなものインチキだよ」と私
が言うと、猛然と反発した。「ちゃんと、当たりますよ。不思議なくらいに!」と。彼女はいろいろ
な例をあげてくれたが、それもここでいう具現理論で説明できる。

 彼女の話によると、こういうことらしい。「今日は、ちょっとしたできごとがあるので、ものごとは
控え目に」という占いが出たとする。「で、その占いにさからって、昼食に、おなかいっぱい、ピ
ザを食べたら、とたんに、気持ち悪くなってしまった。控え目にしておかなかった、私が悪かっ
た」と。

 しかしこの占いはおかしい。仮に昼食を控え目にして、体調がよければよいで、それでも、
「当たった」ということになる。それにものごとは、何でも控え目程度のほうが、うまくいく。

つまり彼女は、「控え目にしなければならない」という暗示を自らにかけ、同時に、「それを守ら
なければ、何かおかしなことになる」という予備知識を与えてしまったことになる。あとは、「おか
しなこと」という部分を、自ら、具体的に作りだしてしまったというわけである。

つまり占いが当たったわけではなく、自分をその占いに合わせて、つくってしまった。

 あなたは私の具現理論をどう思うだろうか。
(はやし浩司 具現理論 予言実現 予告実現 占い 血液型 BPO 放送倫理)

++++++++++++++++++

おまけに、昨年(03)書いた原稿を
添付しておきます。

++++++++++++++++++

●「ヤーイ、何も起きなかったぞ!」

 数年前、どこかの新興宗教団体が、全国各紙の一面を借り切って、「予言」なるものを載せ
た。「(その年の7月に)北朝鮮が戦争をしかけてくる」とか何とか。結果としてみると、まったく
のデタラメだった。その前は、ノストラダムスの予言とか、富士山噴火の予言というのもあっ
た。

しかしこういう予言など、当たるわけがない。もともと予言などというものは、どこかのあたまの
おかしな人が、思いこみでするもの。

たとえばあるキリスト系宗教団体では、ことあるごとに終末論と神の降臨を唱え、「この信仰を
したものだけが、救われる」などと教えている。そこで調べてみると、こうした終末予言は、その
宗教団体だけでも、過去、4、5回もなされていることがわかった。しかし、だ。一度だって、こう
した予言が、当たったためしがない。

 で、疑問は、こういう人騒がせなことをさんざん言っておきながら、その責任を取った人が、な
ぜ一人もいないかということ。さらにその責任を追及した人もいない。それにさらなる疑問は、
そういう予言がはずれても、「だまされた」と言って、その宗教団体(ほとんどはカルト)から離れ
た信者が、なぜいないかということ。中には、「私たちの信仰の力によって、終末を回避しまし
た」などと、おめでたいことを言う宗教団体さえある。

 ごく最近では、真っ白な衣装に身を包んだ団体が、ある。去る5月15日(03年)に何かが起
こるはずだったが、「少し延期された」(真っ白な衣装を着た団体のメンバーの一人の言葉)と
のこと。が、今にいたるまで、何も起きていない。

「ヤーイ、何も起きなかったぞ!」と私は言いたいが、一言、つけ加えるなら、「馬鹿メ〜」という
ことになる。もっともはじめから相手にしていなかったから、何も起きなかったからといって、ど
うということはない。

(仮に起きたとしても、それは予言が当たったというよりは、偶然そうなったと考えるのが正し
い。まさか、こんどのSARS騒ぎが、その予言?)

 しかしそれにしても楽しい。あのノストラダムスには、私もひかかった。「1999年の7月」とい
うのが、どこか信憑性(しんぴょうせい)を感じさせた。聞くところによると、あのノストラダムスの
予言について本を10冊以上も書いた、Gという作家は、億単位のお金を稼いだという。世の中
をあれだけ騒がせたのだから、謝罪の意味もこめて、その利益を、社会に還元すべきではな
いか……と考えるのは、はたして私だけなのだろうか。

 さてさて、これからも、この種類のインチキ予言は、つぎつぎと生まれてくるだろう。人々が不
安になったとき、人々の心にスキ間ができたときなど。では、私たちは、どうしたらよいのか。

言うまでもなく、予言論は、運命論とペアになっている。個人の運命が集合されて、予言にな
る。つまりこうした予言にまどわされないためには、私たち一人ひとりが、自分を取り巻く運命
論と戦うしかない。

 そんなわけで、『運命は偶然よりも、必然である』(「侏儒の言葉」)と説いた、芥川龍之介を、
私は支持する。運命は、自分でつくるものということ。あるいは無数の偶然と確率によって、決
まる。

百歩譲って、仮に運命があるとしても、最後の最後で、足をふんばって立つのは、私たち自身
にほかならない。神や仏の意思ではない。私たち自身の意思だ。自由なる意思だ。そういう視
点を見失ってはいけない。

 ところで学生のころ、こんな愚劣な会話をしたことがある。相手は、どこかのキリスト教系のカ
ルト教団の信者だった。私が、「君は、ぼくの運命が決まっているというが、では、これからこの
ボールを、下へ落す。その運命も決まっていたのか」と聞くと、こう答えた。「そうだ。君が、ボー
ルを落すという運命は、決まっていた」と。

私「では、ボールを落すのをやめた」
信「そのときは、落さないという運命になっていた」
私「では、やはり、落す」
信「やはり、落すという運命になっていた」
私「どっちだ?」
信「君こそ、どっちだ?」と。
(030520)

【追記】

 私はいつだったか、中田島の砂丘を歩きながら、学生時代の、あの会話を思い出したことが
ある。「君こそ、どっちだ?」と私に迫った、あの信者との会話である。

 浜松市の南に、日本三大砂丘の一つである、中田島砂丘がある。その砂丘の北側の端に立
って海側を見ると、波打ち際は、はるか数百メートル先になる。

しかし、だ。この大宇宙には、無数の銀河系があり、それらの銀河系には、その砂丘の砂粒の
数よりも多くの、星々があるという。私たちが「太陽」と呼ぶ星は、その中の一つにすぎない。地
球は、その星にも数えられない、その太陽のまわりを回る、小さなゴミのようなものだという。

 一人の人間の価値は、この大宇宙よりも大きいとは言うが、しかし一方、宇宙から見る太陽
の何と小さいことよ。仮にこの宇宙が、人知を超えた神々によって支配されているとしても、そ
の神々は、果たしてこの地球など、相手にするかという問題がある。いわんや一人ひとりの人
間の運命など、相手にするかという問題がある。さらにいわんや、地球上の生物の中で、人間
だけに焦点をあてて、その人間の運命など、相手にするかという問題がある。

仮に私が、全宇宙を支配する神なら、そんな星粒の一つの太陽の、そのまた地球の、そのま
た人間の、そのまた個人の運命など、相手にしない。それはたとえて言うなら、あなたの家の
中の、チリ1個にはびこる、カビの運命を、あなたが相手にするようなもの。

……と、私は考えてしまう。現に、ユダヤ人の神である、キリストは、第二次大戦中、1000万
人近いユダヤ人が殺されたにもかかわらず、何もしなかったではないか。殺されたユダヤ人の
中には、それこそ命をかけて神に祈った人だって、いたはずである。つまりそういうことを考え
ていくと、「この信仰を信じた人だけが、神に救われる」と考えることの、おかしさが、あなたにも
わかるはず。

 だからといって、私は宗教や信仰を否定するものではない。私が言いたいのは、宗教にせ
よ、信仰にせよ、「教え」に従ってするものであって、不可思議なスーパーパワーに従ってする
ものではないということ。

運命にせよ、予言にせよ、それらはもともと宗教や信仰とは関係ないものということになる。も
しそういうスーパーパワーを売りものにする宗教団体があったら、まずインチキと疑ってかかっ
てよい。

 ボールを落とすとか、落とさないとか、そんなささいなことにまで、運命など、あるはずはな
い。ボールを落とすとか落さないとかを決めるのは、私たち自身の意思である。自由なる、意
思である。その「私」が集合されて、私の運命は決まる。
(はやし浩司 運命 予言 運命論 予言論)

+++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi++++※

Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2937)

●集団不登校(?)

+++++++++++++++

何があったのか?
何が起きているのか?
今、たいへん興味をそそられる事件が、これ。
モルダーとスカリー捜査官なら、すぐさま現地に飛び、
捜査を始めると思う。

(このところ映画の見すぎで、ごめん!)

何でもN県のN市で、児童の集団不登校が
相次いでいるという。

+++++++++++++++

集団不登校?

毎日新聞から記事を抜粋させてもらう。

++++++++++以下、毎日新聞・08・11・25より+++++++++++

●不登校:なぜ?児童23人が「原因なく」 学校が出席を督促 
文科省「聞いたことがない」 

 N市の複数の公立小学校長が今月、登校していない児童13人の保護者に対し、異例の「出
席督促書」を渡していたことがわかった。督促を指示した市教育委員会は「昨年末から、特定
の地域を中心に、親の意思で通学させないケースが続出している」と説明する。一方、督促さ
れた親たちは「子供が行きたがらずに登校できないのであって、親の意思ではない」と話して
いる。

 督促書(A4判1枚)は「○月○日から正当な理由がないのに欠席していますので、直ちに出
席させるようN市立学校管理運営に関する規則第13条第2項により督促します」という内容。

 今月、市内の公立小学校に通う1〜4年生計13人の保護者に届いた。うち1年生4人は、入
学して一度も登校していないという。

 市教委によると、昨年12月から特定の地域を中心に「ホームスクーリング(自宅学習)をさせ
る」と親が申し出て、低学年の児童10人以上が登校しなくなった。2月初めには、就学通知が
届いた新1年生の親からも同様の申し出があり、今年度には「原因がなく登校しない児童」が2
3人と倍増。事態を重視した市教委は、家庭訪問などで出席を促したが、「話し合いに応じる姿
勢がない」と判断した保護者に限って、督促書を出した。

 学校教育法では、児童生徒の出席状況が良好でなく、保護者に出席させない正当な理由が
ない場合に督促できると定めている。だが、実際に督促書を出す例はほとんどないという。子
供が登校したくてもできない「不登校」の場合は対象とならない。

 SM教育長は「異常な事態だ。親の考え方で公教育の機会を奪うのは許されないことを示
し、少しでも子供の登校につながるよう願って督促を決めた」と話す。

 一方、督促書を受け取った母親は「子供が学校に行きたがらず、夜うなされたり、吐いたりを
繰り返したので、仕方なく家で勉強している。学校が理解してくれず、つらい」と話す。別の母親
は「友達関係をきっかけに、前から不登校ぎみだった。子供を理解しようと十分に働きかけも
せず、なぜ突然こんな文書を出すのか」と不信感を強める。

 文部科学省初等中等教育企画課は、「子供がまとまって登校しなくなり、一度に督促したよう
な例は聞いたことがない」と話している。

++++++++++以上、毎日新聞・08・11・25より+++++++++++

まず誤解しないでほしいのは、(1)子どもの教育権は、親に属するということ。
国ではない。
親である。
つぎに(2)義務教育の「義務」というのは、「その教育権を、国に委譲する義務がある」
という意味の義務である。
つまり、未成年者である子どもに、そもそも法的義務は存在しない。

だから子どもを学校に行かせないというのなら、(もしそうであるなら)、子どもをもつ
親の義務違反ということになる。
が、この義務違反には、とくに罰則規定はない。
義務に応ずるかどうかは、あくまでも親の判断による。

ついでながら、英語では義務教育を、「compulsory education(強制教育)」というが、
「強制」の程度は、国によって、異なる。
アメリカだけでも、学校へ通わないホームスクーラーは、推定で200万人を超えている。
子どもが学校へ行かないこと、あるいは親が子どもを学校へ行かせないことを、
「悪」と決めつけてはいけない。

そこでこうした問題が生ずる。
集団不登校の問題である。

気になるのは、記事の中の、「特定の地域を中心に」という部分と、「事態を重視した市教委
は、家庭訪問などで出席を促したが、『話し合いに応じる姿勢がない』と判断した保護者に限っ
て、督促書を出した」という部分。

教育委員会側も、かなりの努力をしているらしい。
それに対して、保護者側には、「話し合いの応ずる姿勢がない」とか。

さらにもう一点気になるのは、「子供が学校に行きたがらず、夜うなされたり、吐いたりを繰り
返したので、仕方なく家で勉強している。学校が理解してくれず、つらい」という部分。

「夜うなされたり、吐いたりする」というのは、ただごとではない。
通常、私たちが考える(不登校)もしくは、(学校恐怖症)、あるいは(怠学)とは、少し内容がち
がうようだ。
教育委員会にとっても、またそういった子どもをもつ親にとっても、これは深刻な問題である。

が、これ以上のコメントは、残念ながら、ここではできない。
情報が、あまりにも少なすぎる。

ただ最後の「こうした例は聞いたことがない」という部分には、「?」をつけたい。
こうした集団不登校事件は、過去にもあるにはあった。
裏で宗教(カルト)団体がからんでいたケースもあった。
で、この事件で、(「事件」というほど、大げさなものではないかもしれないが)、重要な
ポイントは、その集団不登校を起こしている保護者、あるいは子どもの間で、横の
連絡があるかないかということ。

その(連絡)があれば、「集団」ということになる。
その(連絡)がなければ、「集団」という言葉を使うのは、不適切である。
たまたまその地域で、不登校児が重なったというだけかもしれない。

あるいは「夜うなされたり、吐いたりする」という症状が、共通して現れて
いるのかどうか?
もし特定の地域で、子どもたちに、集団で同じような症状が出ているとすれば、
それこそ、その背後に何かあるはずである。

また不登校といっても、1人、2人……と周囲でつづくと、その連鎖反応が起きるという
ことも考えられる。
「あの子が行かないなら、うちの子も……」と。
そういうことも考えられなくはない。

どうであるにせよ、毎日新聞の記事になっているくらいだから、ふつうの不登校とは、
内容が異なると考えてよい。

何があったのか?
何が起きているのか?
今、ほんとうに興味をそそられる。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2938)

●資本主義

+++++++++++++++++++

38度線のすぐ北側に、開城工業団地
と呼ばれる工業団地がある。
韓国資本で建設された工業団地で、現在
数万人程度の北朝鮮の労働者が、そこで
働いている。

賃金は、日本円に換算して、月額1〜2
万円程度という。

同じような労働環境なのだろうが、この日本では
その約15〜20倍程度の賃金が支払われている。

単純に考えれば、不公平きわまりない……
ということになる。
(何も北朝鮮の労働者のために言っている
のではない。誤解のないように!)

しかしこれが資本主義の論理である。
日本では、1〜2万円の給料では、とても
生活できない。
最低でも、20万円前後は必要である。
生活のレベルそのものが、ちがう。
が、逆の立場に立たされてみると、その
不公平感が怒りに変わるときもある。

その(怒り)を、アメリカへ行ったとき、
私は、アメリカの家を見て、感じた。

広さ、大きさはもとより、豪華さがちがった。
今にして思うと、それが今回のサブプライム・
ローン問題へとつながっていったわけだが、
ごくふつうの大卒の銀行マンでも、映画『ホーム・
アローン』に出てくるような大邸宅に住んでいたり
する。

ふつうの邸宅ではない。
玄関そのものが、ギャラリーのようになっている。
広さは、20畳前後はある。
地下にピンポンなどを楽しむ運動部屋、それに
客室などを備えた、豪華な家である。

私は近くにいたワイフに、こう言った。
「こんなお金があるなら、日本が買い支えているドルを、
少しは使わせてくれればいい」と。

日本が貯(た)めに貯めこんだドル建て外貨は、
言うなれば、塩漬けにされたアメリカ国債のようなもの。
当時(02年)、そのうちのたった5%を使っただけで、
つまり他の通貨に交換しただけで、アメリカ経済は
崩壊すると言われていた。
(結果的に見ると、そのころ崩壊していたほが、
こうまで傷口を大きくしないですんだのかも
しれない……。)

逆に言うと、アメリカ人たちは、日本人と
同じ労働環境の中で、少なくとも4、5倍程度の
給料を手にしていることになる。
その分だけ、よい生活をしていることになる。
(「4、5倍というのは、あくまでも家を見た
感じでの話だが……。)

この三者、つまり北朝鮮と日本、日本とアメリカを
並べてみると、資本主義の論理がよくわかる。
簡単に言えば、強い通貨をもっている国は、強い。
そうでない国は、そうでない。
仮に、今、1ドルが10円程度であったら、
どうだろうか。
日本は世界中から富を買いあさり、アメリカ人たち
が住んでいたような家を、日本中に建てることが
できる。

働く必要はない。
すべて外国への借金ですますことができる。
お金がなくなれば、印刷機を回せばよい。
世界中が、喜んでそれを貯めこんでくれる。

何といっても、1ドルが10円!
ガソリンだって、税金分をのぞけば、1リッター
あたり、現在の10分の1、つまり、
6円前後で買うことができる。
超大型車に乗っても、ガソリン代を気にする
必要はない。

一方、北朝鮮の札は、紙くず同然と言われている。
国際社会では、まったく通用しない。
為替レートそのものが、存在しない。
だから冒頭に書いたように、月額1〜2万円程度の
給料ということになる。
が、この額にしても、北朝鮮では、破格の給料という。
平均的労働者の1か月の給料は、日本円に換算して、
1000円前後、あるいはそれ以下と言われている。

そこで強い通貨をもった国は、その通貨の価値を
維持しようとする。
強ければ強いほど、世界がそれを貯めこんでくれる。
が、この(強さ)を失ったとき、その国の経済は、崩壊する。
現在のアメリカが、その国ということになる。
日本もEUも、その国ということになる。

一方、弱い通貨をもった国は、相対的に(損)が、
大きくなる。

が、この問題は、ここで終わらない。
そのままその国の政情不安へとつながる。
タイの国際空港がデモ隊に占拠された。
インドでは連続爆破事件が起きた。
この1〜2日だけを見ても、こんなニュースが、
縦つづけに、つづいている(08・11・27)。

貧しい国の中でも、さらに隅へと追いやられた
人たちが、そのエネルギーを爆発させる。
この先しばらく、つまり現在の経済的混乱が
落ち着くまで、こうした事件は、つぎつぎと
起こるだろう。

この極東アジアも、おかしい(?)。
とくに北朝鮮の動きが、おかしい(?)。

資本主義の論理は、たしかに矛盾だらけ。
それはわかるが、しかし今、ここでそれを問題にしても
意味はない。
とにかくアメリカには、再起してもらわねばならない。
日本も、がんばらなくてはいけない。
EUにしても、そうだ。

そうでないと、世界は、ほんとうにメチャメチャに
なってしまう。

(参考資料・以下、産経ニュースより)

2000年8月、北朝鮮の金xx総書記と韓国の現代グループの故TM会長が経済特別区「開城
工業団地」開発で合意、03年3月に着工された。第一段階として、韓国土地公社と現代峨山
が、総額2200億ウォン(約270億円)を投じ、07年までに100万坪(330万平方メートル)を
工業用地として開発、繊維、衣類、電気、電子など韓国企業約250社を誘致する予定。12年
には800万坪の工業団地と周辺の新都市など総計2000万坪を開発、2000社、70万人の
大規模団地を造る。(産経ニュース・06年6月版より)


Hiroshi Hayashi++++++++NOV 08++++++++++はやし浩司

●過緊張

++++++++++++++++++

目覚まし時計が鳴る前に目を覚ますような
人は、過緊張の状態にあるという。
「過緊張」という言葉は、今日、はじめて
知った。
それを知って、私はかなり、ショックを
受けた。
私はむしろ、それを自慢にしていた。
「ぼくには目覚まし時計は、必要ない」と。

一方、ワイフはどうかというと、これまた
のんきな性格で、いつも目覚まし時計が
鳴ってから、目を覚ます。
(ときどき寝過ごしてしまうこともある。)

過緊張は、神経症、不眠症などの不適応障害の
原因となりやすいという(某・ニュース・サイト)。
つまり悲しむべきことであって、自慢にするよう
なことではない、と。

子どもの世界には、過保護、過干渉、過関心という
のはある。
しかしそれにしても、過緊張とは……?

ほかに過心配、過不安、過依存、過嫉妬などなど。
いろいろ考えられる。
(しかしどういうとき、「過剰〜〜」といい、どういうとき
「過〜〜」というのか? 過保護とはいうが、過剰保護
とはいわない。過剰行動とはいうが、過行動とはいわない。)

要するに、人間というのは、のんびりと生きたほうが
よいということらしい。
万事、適当。
「まっ、いいじゃないか」という(いいかげんさ)が、
心に風を通す。

しかしこれは子育ての大鉄則でもある。
いつだったか、私は『まじめ5割、いいかげんさ5割』
という子育て格言を考えたことがある。

たとえば子どもを叱るときも、最後の最後まで
追いつめてはいけない。
あるところまできたら、さっと手を引く。
ものを教えるときも、そうだ。
子どもがそれを望んでいないのなら、適当なところで、
適当にやってすます。
こういうとき細かいことを言い過ぎると、子どもは
やる気そのものをなくしてしまう。

で、私のケース。

私は講演するときも、時間通り、ぴったりで
終わるのを得意としている。
講演をしながらも、別の脳みそで、時間を
計りながら、話す。
これは私の特技のようなもの。

しかしどうやら、それもまずいということらしい。
では、どうすればよいのか。
「過緊張」という言葉は、今日、はじめて知った。
つまりこの言葉をよく読むと、程度の問題という
ことがわかる。

「緊張するのは悪くない。しかしそれも度を超すと
よくない」と。

たとえば目覚ましをかけても、その目覚ましが
気になって熟睡できないとか、など。
そうなればそれを過緊張という。

ついでながら言うと、アルツハイマー病などになると、
時間の感覚がわからなくなるという。
ある著名な大学教授だが、講演などを予定よりも
はるかに早く終わってしまったり、
反対に時間を無視して話したりしていた。
それがその病気の初期症状だったということが、
あとになってわかったという。
そういうこともある。

だから目覚ましが鳴る前に目が覚めるといっても、
だからといって、それが悪いことだというふうには、
考えないほうがよい。

適度なストレスは、生活のスパイスとも言われている。
そのストレスがほどよい緊張感をもたらす。
それと同じように考えてよいのではないか。


●消えゆく自転車店

+++++++++++++++++++

街から1軒、また1軒と自転車店が消えていく。
かろうじて開いている店にしても、元気がない。
冬場になると、どの店も戸を閉めて、北風を
しのいでいる。

もしあのまま私が自転車屋の店主として
残っていたら……。
今ごろは、なすすべも知らず、暗い店の
中で、悶々としていることだろう。

それを思うと、とても人ごとに思えない。

+++++++++++++++++++

私の実家も自転車店だったから、そのさみしさが、
痛いほど身にしみる。
「自転車ブームだから……」とはいうものの、
商品数、サービス面において、大型店には
かなわない。

昔、祖父が時計店から帰ってきて、私にこう言った。
「浩司、うちに並べてある自転車をすべて合わせても、
時計屋の陳列に並んでいる一皿分の時計にもならない」と。
自転車というのは、陳列するにも場所をとる。
小さな店だと、20〜30台を並べるのがやっと。
祖父は、それを言った。

また少し前までは、技術面で、大型店といえども、
専門店にはかなわないと言われていた。
が、それも今は昔。

ここ3〜4台は、私も大型店で自転車を購入している。
商品数はもちろんのこと、サービス面、技術面でも、
個人の自転車店のそれを、はるかに超えている。
パンクの修理にしても、どこで買った自転車であっても、
気持ちよくしてくれる。
(このH市には、『他店で買った自転車については、
パンクの修理をしません』という張り紙を出して
いる自転車店もあるぞ!)

値段はどうか?

先日駅前に、ビッグXXXという、電化製品の大型店が
オープンした。
行ってみると、中で自転車まで売っていた。
安い自転車もあったが、電動アシスト車など、
中には10〜30万円もする自転車も並んでいた。
それを見たとき、「ああ、もうだめだ」と思った。
電動アシスト車にしても、街の自転車店で買うよりも、
1〜2割は安い。
「高級自転車は専門店で」という常識も崩れた。

ところで私が子どものころは、商売といっても、
人と人のつながりの中で、成り立っていた。
ものを売り買いしながらも、そこには(つながり)が
あった。
またその(つながり)を無視しては、商売は、
成り立たなかった。
たとえば「あの人は、いつもうちの自転車を買って
くれるから、あの人の店で、テレビを買ってやろう」と。

多少、値段がほかよりも高くても、その人の店で、
テレビを買った。

が、今は、ちがう。
かえってこうした(つながり)を、わずらわしいと
思う人がふえてきた。
実は私もその1人ということになるが、なぜか?

それだけ人との(つながり)が、煩雑(はんざつ)に
なってきたということ。
いちいち(つながり)を考えていたら、息苦しく
なってしまう。
ビジネスはビジネスとして、ドライに割り切る。
その(わかりやすさ)が、大型店にはある。

とは言え、このさみしさは、いったいどこから来るのか。
言い換えると、私が子どものころ、祖父や父が
必死になって守ろうとしていたものは、何かということ。
まさかそういうものが、無駄だったとは、私には
とても書けない。

というのも、小売店というのは、基本的には、
問屋から物を買って、客にそれを売る。
それで成り立っている。
客の立場でいうなら、その物は、安ければ安いほどよい。

自転車店がほかの小売店とちがう点は、2つある。
ひとつは、自転車には定価がないということ。
昔から、オープン価格がふつうだった。
付属品によっても、値段が大きく変わる。
客によっては、ハンドルを換えたり、サドルを換えたりする。

さらに自転車店ごとに、特約店というのをもうけて、
わざと競争できないしくみを、守っていた。

もう一つは、汚れ仕事ということ。
自転車の一部をなおしただけで、手が油でベタベタになる。
それを嫌う人は、多い。
技術職とはいうものの、率直に言えば、たいした技術ではない。
今では自転車といっても、完成品のまま、問屋から運ばれてくる。

自転車店のあり方そのものが、大きく変わった。
その変化を乗り越えた店だけが、生き残る。
そうでない店は、街から消える。
しかし現実には、生き残ることは、不可能。
仮に生き残ったとしても、さらに大きな大型店が、
その向こうで待ち構えている。

こうして街から酒屋が消え、米屋が消えた。
洋服屋も消え、たばこ屋も消えた。
文房具屋も消え、肉屋も消えた。
時計屋も消え、菓子屋も消えた。
しかしそれは同時に街の文化が消えることを意味する。

いいのか?
これでいいのか?
あるいはそれに替わる、新しい文化が、今、どこかで
生まれつつあるのか。
そしてその文化とは、いったい、どういうものなのか。
今の私には、それがわからない。
わからないが、冒頭の話に戻る。

もしあのまま私が自転車屋の店主として
残っていたら……。
今ごろは、なすすべも知らず、暗い店の
中で、悶々としていることだろう。

それを思うと、とても他人ごとには思えない。
がんばれ、自転車店!
負けるな、自転車店!


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

【日韓経済戦争・韓国12月危機説】

+++++++++++++++++

9月危機をかろうじて乗り切った韓国。
しかしそれで危機は去ったわけではない。

が、このところ韓国系新聞を読むと、
調子のよい話ばかりがつづく。
「10月の経常収支が史上最大の黒字」(東亜N報)
とか何とか。
しかし内情は、かなりちがうようだ。
内情は、さらに悪化している。

+++++++++++++++++

先ごろ、新経済閣僚会議のメンバーが発表された。
世界から、20か国が集まる。
しかしその中に韓国の名前はなかった。
が、もしこれが昨年のことなら、韓国はそれに猛烈に
反発したことだろう。
「どうして世界第11位の貿易国を、仲間に
入れないのか!」と。
しかし今は、それどころではない。

月刊「FACTA」(ヤフー・ニュース版)には、
つぎのようにある(12月号)。

++++++++++以下、FACTAより、抜粋++++++++++++

……ウォン危機の底には、04年以来4年連続で赤字となり、資本割れが危惧されている中央
銀行(韓国銀行)の苦境がある。03〜05年にウォン高を抑えようと外為市場に介入、韓国銀
行が通貨安定証券を発行して介入資金をまかない、その返済が年6兆〜7兆ウォンに達して
重圧となっているのだ。2120億ドルの外貨準備があると政府がいくら強調しても、ゴールドマ
ン・サックスなどの先行き懸念が解けない。

++++++++++以上、FACTAより、抜粋++++++++++++

ここに出てくる「通貨安定証券」というのは、
韓国銀行が発行する証券、つまり「外国への借金」をいう。
日本でいえば、日銀が外国に借金をしているようなもの。
こういうことは日本では、考えられない。

その返済額が、年6〜7兆ウォンもあるという(同)。
現在(11・28)、1ドル=0・001ウォンだから、
これで計算すると、6〜7兆ウォンは、60〜70億ドル
ということになる。

日本の借金もよく話題になるが、日本は外国に対しては、
借金をしていない。
国債にしても、外国人の持ち率は、5%前後と言われている。
つまりほとんどが、いわば、身内の借金。
しかも日本政府は、1000兆円近い借金をしながら、
その一方で、1000兆円近い国有財産を保有している。
加えて、日本人がもつ個人資産も、1000兆円以上ある。

日本にすれば、「たったの60〜70億ドル」ということになるが、
日本と韓国では、経済規模そのものがちがう。

同じ月刊「FACTA」(ヤフー・ニュース版)は、つぎのように
書いている。

++++++++++以下、FACTAより、抜粋++++++++++++

暴落した韓国の通貨ウォンが、年末にかけて再び急落するという「12月危機説」が広がってい
る。10月28日に1ドル=1450ウォンと1年前に比べ40%以上も下げた翌日、中央銀行の
韓国銀行とFRB(米連邦準備理事会)が最大300億ドルの通貨スワップ協定を結び、ようやく
下げ止まった。しかし韓国の企業が保有するデリバティブ(金融派生商品)という時限爆弾があ
って、危機が再燃すれば国家が破産状態となる「アイスランドのアジア版」との観測が出ている
……。

++++++++++以上、FACTAより、抜粋++++++++++++

97年の通貨危機のときは、日本は、当初アメリカの反対を押し切って、
総額500億ドルを用意し、(頼まれもしないうちから)、韓国の救済に走った。
IMFにも、まだ余力があった。

が、こうした(恩義)は、韓国には通用しない。
しないことは、その後の、金大中、ノ・ムヒョン政権の対日政策を
みればわかる。
現在のイ・ミョンバク政権も似たようなもの。

そこで韓国は、日本と中国を巻き込んで、スワップ協定を拡大しようと
している。
その財務相会議が、12月14日に開かれるという(同)。

ところで「スワップ協定」とは何か。
簡単に言えば、昔の「講」に似た、資金相互融通制度をいう。
為替相場が変動しても、元の為替相場で返済すればよいという
ところに、大きなメリットがある。
「現代用語の基礎知識」には、つぎのようにある。

『正式には相互通貨取決め(reciprocal currency arrangement)といい、中央銀行間で、自国
通貨を相互に預け合うことをいう。あらかじめ枠だけを決めておき、必要なときには協定を発
動して為替市場の介入などに必要な外貨を取得する。相互の借入れは短期間で、当初用いた
のと同じ為替レートで返済される。アメリカの連邦準備制度は、ドル防衛資金調達のため世界
の主要中央銀行とスワップ協定を締結、交換性停止まで大いに利用した。近年、アジア地域で
域内金融協力の一環でこの種の取決めを拡大する動きが進行中』と。

が、そのスワップ協定に、先ごろ、韓国はとうとう手をつけ始めた。
さらに今日(28日)、「韓国の建設・エンジニアリング大手C&
グループの中核子会社2社は27日、債権者に債務再編を
申し入れると明らかにした」(ヤフー・ニュース)というニュースも
飛び込んできた。

「いよいよ……」という感じだが、この動きは加速することは
あっても、減速することはない。
あがけばあがくほど、その後の谷底は深くなる。
が、これだけは忘れてはいけない。

バブル経済崩壊後、日本がその後遺症に苦しんでいたころ、
韓国は、「これで日本はおしまい。韓国の時代がやってきた」と、
小おどりして喜んでいた。
毎朝、経済閣僚会議を開いて(毎朝だぞ!)、いかにすれば
日本を太平洋の向こうに叩き落とせるかを、それを画策していた。

民間レベルで日韓友好のために努力している人もいるにはいるが、
こと国際経済という立場でみるかぎり、韓国は、日本にとって、
「最悪の反日国家」(三橋貴明氏)であることには、ちがいない。

今度何かあっても、韓国をけっして安易に救済してはいけない。
日本よ、日本人よ、けっしてあの「97年の愚」を繰り返して
いけない。

この戦争に敗れたら、日本に未来はない。
竹島は独島になり、日本海は東海になる。
ついでに対馬すら、韓国領になるかもしれない。
朝鮮半島全体が、核兵器を備えた強大な軍事国家になることだって、
考えられる。

長期的な極東アジア情勢を見据えながら、
私たち日本人は韓国がどうあるべきかを考えなければならない。

負けるな、日本!
がんばれ、日本!


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2939)

●気安く生きる

++++++++++++++++++

気安く生きるためには、「無」になって、
すべてを「許して、忘れてしまう」。
へたに欲得がからむから、
あるいは欲得をからめるから、心が迷う。
悩む。
苦しむ。

そこに人間関係がからんでくるなら、
こう思えばよい。
「どうせ相手は、サル」と。
言葉はきついが、だからといって、
相手を「下に見ろ」とか、そういうことを
言っているのではない。

自分もその仲間という意味も含めて、
そう思えばよい。
「あなたがサルなら、私もサル。
どうせこの世は、サルとサルのからみあい」と。

++++++++++++++++++

「無」になる。
そこに生きる真髄が隠されている。
それは私にもわかるが、しかしそれが難しい。

あえて言うなら、寝起きの瞬間。
その瞬間まら、私はすなおに「無」を感ずる。
穏やかで、安らいだ心。
静かで、雑念のない心。

が、やがて心の中がざわつき始め、
そのときから「私」が始まる。

仕事のこと。
家族のこと。
健康のこと。
社会のこと。
世界のこと。

そこに欲得がからんでくると、心は一気に
騒々しくなる。
人間関係がからんでくると、さらに
騒々しくなる。

床から起きあがるころには、頭の中は、
騒音だらけ。
しかしどうすれば、目を覚ましている状態で、
「無」の境地になれるのか。
またその方法は、あるのか。

そこでひとつずつ、頭の中を整理する。
原稿として書きたいテーマもそのとき、
決まる。
が、どうしようもない問題も、ときどき
出てくる。
そういうときは、「許して忘れる」。
「どうせ相手は、サル」と。

そう思うことで、相手を忘れる。
本気で相手にしてはいけない。
相手にする必要もない。

相手にしたとたん、あなた自身も、
そのサルの仲間。

四法印にも『諸行無常』という言葉が
ある。
「万物は常に変化して、少しの間も
とどまらない」(広辞苑)ということ。
世の中はどんどんと変わっていくし、
変わっていくことを、恐れてはいけない。

人間関係もまた、然り。
昨日の友は、今日の他人。
今日の他人は、明日の友。
「こうでなければならない」と自分を
縛れば縛るほど、窮屈になるだけ。

もう少し宇宙的な見方をすれば、
私たちは星がまばたきする、その瞬間に
生きているだけ。
「損をした」と心をわずらわせている
暇があったら、前に向って、楽しく
朗らかに生きた方が得。

もしあなたがそこにいて、この文章を
読んでいるなら、こう思ってほしい。

「ここにいるということを、喜ぼう」
「目が見えることを、喜ぼう」
「文章が理解できることを、喜ぼう」と。

さらにできれば、「音が聞こえることを、
喜ぼう」
「冷たい風を感ずることを、喜ぼう」
「足や手が動くことを、喜ぼう」と。

喜んで、喜んで、喜びまくる。
が、おもしろいもので、
その先に、ひょっとしたら、「無」がある。
つまり「無」というのは、
自分の「命」を喜ぶこと。
その「命」とくらべたら、ほかのすべては、
取るに足らないこと。

その「無」を実感したとき、再び、
穏やかで、安らいだ心にもどる。
静かで、雑念のない心にもどる。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

【親の介護】

+++++++++++++++++++++++

白い薄日の下を、鉛色の雲が、気ぜわしく流れる。
庭の木々が、冬の冷気にさらされ、ときおりザザーッと、音をたてる。
見ると、落ち葉が雨に地面にペッタリと張りついている。
昨夜の雨は、かなり激しかったようだ。
青木の下に無造作に置いてある鉢が、なみなみと水を蓄えていた。

+++++++++++++++++++++++

●介護

老人の事故死が、けっこうあるという。
1週間ほど前、そんな記事が新聞に載っていた。
ベッドの手すりの間に、首や体をはさまれて死ぬ人もいるという。
私はその記事を読んで、即座に母のことを思い出した。
私も「あわや!」というような事故を、3度経験している。

現在、家庭で老人を介護している人も多いと思うので、そのときの
様子を書き止めておきたい。

(1)母が私の家に来たとき、私は母の部屋に、塩化ビニール製の
パイプを、20〜30本ほど、取りつけた。
母は、何かにつかまれば、まだ歩ける状態だった。
ベッドからポータブルトイレへ。
ベッドからソファへ、と。
歩行訓練用のパイプも取りつけた。
塩化ビニールのパイプは、芯は鉄製だが、外は塩化ビニール
でおおわれている。
接着剤で、自由自在に、自分の好きなように工作できる。
が、ある夜のこと。

たまたま家にいた長男が、母の部屋の前を通ると、「助けてくれ」
という声を聞いた。
長男が戸をあけてみると、母は、ベッドとポータブルトイレの間の
パイプに首をはさんで、ほぼ逆さまになっていたという。
長男が見つけたからよかったようなもの。
もしあと1〜2時間、発見が遅れていたら、母は、そのとき
死んでいたかもしれない。

(2)2度目も同じような状況だった。
母は、パイプにつかまれば、何とか立つことができたが、
ペタリと床に座り込んでしまうと、自分では立ち上がることが
できなかった。
やはりある夜のこと。
今度は私が母の部屋の前を通り過ぎると、「起こしてくれ」という
声が聞こえてきた。
いつだったかは忘れたが、寒い夜のことだった。
もしあのときも、朝までそれを知らないでいたら、母は死んで
いたかもしれない。

で、(1)のときもそうだったが、そういう緊急時のため、
無線で作動するスイッチを、首にかけていたのだが、そういうとき
ほど、母は、それがあることを忘れてしまっていた。
一方、たいした用もないときほど、そのスイッチを押したりした。

(3)3度目は、ワイフが発見した。
母は、昼間は静かにベッドで横になっていることが多かったが、
夜になるとあちこちを歩き回った。
部屋の隅に大きなダンボール箱が置いてあった。
母の衣類がそこに入っていた。
母は、その中の衣類を取ろうとしたのだろう。
ワイフが見たとき、母は、頭を下にして、ダンボール箱の中に
さかさまになっていた。

こうした事故が重なると、介護をするほうも、こわくなる。
そのつど、あれこれと配置を変えたり、安全策を講じたりした。
が、母のつぎの事故が、予想できなくなった。

(1)夜中に動き回ることが多い。
(2)緊急連絡用のベルは、あまり役に立たない。
(3)行動が予測不可能。

●家庭での介護は無理

ケアマネ(ケア・マネージャー)に相談すると、「そうなったら、
添い寝しかありませんね」と言われた。
しかし実際には、添い寝は不可能だった。
それには、こんな事情がある。

どういうわけか、母と、犬のハナの相性がたいへん悪かった。
母がカーテンを開けるたびに、庭先からワンワンと大声で吠えた。
が、母は母で、まだ世も開けやらぬ早朝から動き出す。
これでは近所迷惑、ということで、私たちは母の部屋の電気は、
一日中、つけっぱなしにしておくことにした。
そうすれば、早朝にカーテンを開けることはないと思った。
この方法は、うまくいった。
やがて母は、カーテンを開けなくなった。

そんな部屋で添い寝はできない。
かといって、そのときすでに、パイプの助けなしでは、母は
自分では用を足すこともできなくなっていた。

で、私たちの出した結論は、こうだった。
「家庭での介護は、無理」と。

便の始末と食事の世話まではできるが、入浴となると、かなり
たいへん。
もっとも入浴については、ディサービスを利用して、センターで
してもらっていたので、私たちは何もしなかった。
今では、車椅子に座ったまま、入浴できる。
ほとんどのセンターは、そんな設備を整えている。

母は6か月間、私の家にいたあと、特別養護老人ホームへ入居した。
一年中、冷暖房完備。
まさに至れり尽くせりの環境だった。
そういう環境を知って、それまでの私の家の介護設備が、(設備と
言えるものかどうかは知らないが)、いかに貧弱なものであるかを、
思い知らされた。

たとえばやがて母は、嚥下(えんげ)障害を起こすようになった。
食べたものが逆流して、喉につまったり、食べたものが肺のほうに
入ったりした。
食べたものが肺のほうに入れば、肺炎になる。
それで死ぬ老人も多いと聞く。

もしあのまま私が家で介護をしていたら、母は、そのあと、数か月を
待たずして死んでいたかもしれない。
センターでの介護を見ながら、何度も、私はそれを思い知らされた。
つまり、老人の介護は、プロに任せるのが、いちばんよい。

●生かされているだけ?

が、ここで大きな疑問をもつようになった。
「母にとっては、どちらが幸福なのか」と。

母の立場に、自分を置いてみると、それがわかる。

私なら、たとえ事故で死ぬことになろうとも、自分の家で死にたい。
あるいは家族のいる家で死にたい。
センターはここにも書いたように、至れり尽くせりの環境だが、
しかしそこで長生きすることが、はたして母には幸福なことか、と。

ワイフはああいう性格だから、「私もこういう環境の中で
老後を送れたら、いいわあ」と、そのつど言った。
しかし私はそれには、同意しなかった。

「生きる」というよりは、「生かされているだけ」。
私にはそんな感じがしてならなかった。
つまり「生きる」ということは、もっと別のことだと、私は考えた。
仮に私が母の立場だったら、こう言ったにちがいない。
「もういいから、私を殺してくれ」と。

つまり事故死であるにせよ、そういう状態になったら、その前に、
死んだも同然。
N市に住む学生時代の友人は、電話で私にこう言った。
「あのなあ、林君、自分で飯が食えなくなったら、人間はおしまいだよ。
そうなったら、オレはさっさと死ぬよ」と。

しかし生きるのもたいへんだが、死ぬのもたいへん。
生きたくても生きられない人は、ゴマンといる。
が、死にたくても死ねない人も、これまたゴマンといる。
なかなかうまくいかないのが、世の常、人の常。

センターの母は、孤独だったと思う。
いつしか私たちの、見舞いも、週2、3回から、週に1回程度に
なっていた。
あるいはそれ以下になったときもあった。
が、母のことはいつも気がかりだった。
日帰りの旅行をするときも、その前日には電話を入れ、容態を聞かねば
ならなかった。
仕事をしていても、いつなんどき、携帯電話が鳴るか、それが気になった。
結局、約2年間、母はこの浜松市にいたが、私たちが一泊の旅行をしたのは、
一度だけだった。
三男の大学の卒業式に、仙台市まで行ったのが、そのときだった。

●天命

が、私の母などは、まだ楽なほうだった。
病気らしい病気をもっていなかった。
腹に子どもの握りこぶしくらいの、動脈瘤があったが、老人なら、みな、
同じような動脈瘤をもっているという。

中には、暴力を振るったり、大声で家人を罵倒したりする老人もいるという。
認知症が加われば、さらに介護がむずかしくなる。
脳梗塞を起こしても。介護は、むずかしくなる。
で、私の結論は、こうだ。
「素人には、末期の老人介護は、無理というより、不可能」と。

もちろん中には、「老人だから、事故で死んでもしかたない」と考える
人もいるかもしれない。
私も他人の家族のことなら、そう考えるだろう。
しかし実際、それが自分の肉親となると、そうはいかない。
たとえ事故でも、後味の悪さが、残る。
またいくら母が安楽死を望んだとしても、私はぜったいに、それには
応じなかっただろう。

「いつかは死ぬだろう」とは覚悟していた。
「いつまでもこんな状態がつづくのもいやだ」と思ったことはある。
「早く母の介護から解放されたい」と願ったこともある。
しかしそれはあくまでも心の一部。
毎日、そう思ったり、願ったりしていたわけではない。

が、正直に告白するが、「長生きしてほしい」とは、あまり思わなかった。
それは私のためというよりは、母のためだった。
先ほども書いたように、そんなふうにただ生かされているだけなら、
私ならそれに耐えられなかっただろう。
ひとりポツンとテーブルの前に座っている母を見ながら、
「かわいそう」という思いが、日増しに強くなっていった。
「長生きしたところで、つらい思いをするのは、母」と。

そういう母だったが、08年の2月に脳梗塞を起こすまでは、
頭のほうはかなりしっかりしていた。
冗談も通じたし、昔の話も、よくした。
しかし一度、昏睡状態になり、救急車で大病院へ運ばれてからは、
それ以後、寝たきりになってしまった。

そうそう、その寝たきりについても、素人の介護は無理。
私の知人は、寝たきりの親を介護していたが、床ずれが悪化し、
その部分が腐ってしまったという。
そのため、ひどい悪臭が近所の家に届くほどになったという。

床ずれを防ぐためには、それなりに訓練を受けた看護士や介護士の
助けが必要である。

結局、その知人の親は、それからほどなくして、死んでしまったという。

●事故死

そんなわけで、私は、「夜、寝ている間に、父(母)は死にました」
という話を聞くたびに、ひょっとしたら事故で死んだのではないかと
思うようになった。

もちろん本当に、寝ている間に死んでいく人も多いだろう。
また事故で死んだからといって、その家の人たちを責めているのではない。
そういう事故も含めて、天命は天命。
寿命は寿命。
こればかりは、家族でもどうしようもない。
こと介護について言えば、一生懸命するとか、しないとか、
そういう問題ではない。

淡々とする。
やるべきことはやりながら、いつもそれでよしとする。
「孝行」という言葉で、自分を縛ると、かえって負担感がますだけ。

たとえば最初のころは、私たちも、母をセンターから連れ出し、
近くの公園や、山荘に連れていったりした。
しかし母は、そういったことを楽しむということは、もうなかった。
介護というのは、そういうもの。

……ということは、いつか私たち自身も、いつか介護される立場になる。
これには例外はない。
で、私は母の介護をしながら、いろいろと勉強をした。
そのひとつが、これ。

生きるのも、私ひとりなら、死ぬのも、私ひとり、ということ。
介護はそれ自体、家族に大きな負担をかける。
それを考えるなら、家族に過大な期待をもつのは、酷というもの。
センターへ入れるだけも、御の字。
仮に一度も見舞いに来なくても、私はだれもうらまないし、それを
悲しいことだとも思わない。
私のおかげで息子たちが安心して旅行へも行けないというのであれば、
反対に、念書を書き残してもよい。

「お前たちがいない間に、ぼくが死んでも、気にしないように」と。

そうそう、それから私が死んだら、センターから直接火葬場へ死体を
運んでくれればよい。
そのあとのことは、息子たちに任せる。
遺骨に私の魂など宿るはずはない。
またそんなものを、おおげさに大切にしなくてもよい。

私の魂は、今、こうして書いている文章の中にある。
もしできればいつか、年をとって、今の私と同じ年代になったら、
一文でもよいから、私が書き残したものを読んでほしい。
それが私にとって、何よりもすばらしい供養になる。

……話が脱線したが、介護といっても、自然体で臨めばよい。
そのときどきの自分の気持ちに、すなおに従ってすればよい。

最後に、私の母は、元気なころは、いつもこう言っていた。
「私が死んだら、葬式だけは、きちんと出してほしい」と。
そしてあちこちの葬式を見てきては、「あんなみじめな葬式はなかった」と、
よく批判したりした。

しかしそんな母だったが、この浜松市へ来てからは、まったくの別人に
なった。
私の家に来たとたん、すべてを受け入れ、すべてを許していた。
私たちのやり方に、一言すら、不平、不満を述べることはなかった。
「優等生」という言い方には語弊があるかもしれないが、優等生だった。
まったく手のかからない優等生だった。

だからここへ来てからの母なら、こう思っていたにちがいない。
「葬式? そんなもの、どうでもいい」と。

私たちは母の葬儀を内々で、質素に、それですませた。
私の親類とワイフの兄弟以外、だれにも知らせなかった。
全部で20〜30人前後の、静かな葬儀だった。
若いころの母なら、「あんなみじめな葬儀はなかった」と、
それを批判しただろうが……。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2940)

【女児願望の男児(?)】

++++++++++++++++++++

掲示板のほうに、こんな相談があった。

5歳の男児だが、女の子のまねをしたがって、
困っているというものだった。

++++++++++++++++++++

 掲示板のほうに、こんな相談があった。それをそのまま、ここに紹介する。

+++++++++

【ATより、はやし浩司へ】

5歳の男の子の母です。最近息子が女の子になりたい、スカートをはきたい、髪を伸ばし、そ
れをくくりたいと言うようになりました。これまでにも何回かこういう発言がありました。強く否定
していいものか、思うようにやらせてあげるのがいいのか、どうすればいいのでしょうか? どう
返事をしたらいいか困っています。

最近小学生が性同一障害と認められたケースがあると新聞で読みました。息子もそうなら病
院に行ったほうがいいのでしょうか?

+++++++++

 思春期の子どもが、両性的混乱(性アイデンティティの混乱)を起こすことは、よく知られてい
る。「私とは何か」、それをうまく確立できなかった子どもが、自分を見失い、その結果として、
性的な意味で、一貫性をもてない状態をいう。

 男子でいうなら、異性の友人に関心がもてず、異性とうまく交際できなくなったりする。また女
子でいうなら、第二次性徴として肉体が急速に変化することに嫌悪感をいだき、自己の変化そ
のものに対処できなくなったりする。

 しかしこうした両性的混乱は、珍しいものではなく、程度の差、期間の長さの差こそあれ、ほ
とんどの子どもたちが、経験する。つまりこの時期、子どもは、子どもからおとなへの脱皮をは
かるわけだが、その過程で、この両性的混乱にかぎらず、さまざまな変化を見せる。

 目的を喪失したり、自分のやるべことがわからず、悩んだり苦しんだりする。反対に、自意識
が異常なまでに過剰になるケースもある。さらに非行に見られるように、否定的(ネガティブ)な
世界に、自我を同一化したりする。暴走族が、破滅的な行動を見せるのも、そのひとつであ
る。

 以上のことと、性同一性障害とは、区別して考えなければならない。つまり心理的混乱として
の「両性的混乱」と、自分の(肉体的な性)を、周囲の性的文化と一致させることができない「性
同一性障害」は、区別する。

 ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

++++++++++++

★身体的には男性か女性のいずれかに属し、精神的にも正常であるにも関わらず、自分の身
体的な性別を受容できず、更に身体的性別とは反対の性であることを、もしくは自分の身体の
性と社会的に一致すると見なされている(特に服飾を中心とした)性的文化を受容できず、更
にはそれと反対の性的文化に属することを、自然と考える人がいる。彼らの状態を指して性同
一性障害(せいどういつせいしょうがい( Gender Identity Disorder)と呼ぶ。

しばしば簡潔に、「心の性と身体の性が食い違った状態」と記述される。ただし、「心の性」とい
う表現は、ジェンダーパターンや性役割・性指向の概念を暗黙に含んでしまいがちであるた
め、同性愛と混同するなどの誤解を生じやすい。より正確には「性自認と身体の性が食い違っ
た状態」と呼ぶべきである

★人間は、自分の性が何であるかを認識している。男性なら男性、女性なら女性として多くの
場合は確信している。その確信のことを性自認と呼ぶ。通常は身体の性と完全に一致してい
るが、半陰陽(intersexual)のケースなどを研究する中で、この確信は身体的な性別や遺伝子
的な性別とは別個に考えるべきであると言うことが判明してきた。

そしてまた、ジェンダーパターン、性役割・性指向のいずれからも独立していることが観察され
る。

★性自認の概念をもって改めて人類を観察してみると、半陰陽とは異なり男女のいずれかに
正常に属す身体をもっているにも関わらず、性自認がそれと食い違っているとしか考えられな
い症例が発見され、その状態は性同一性障害と名づけられた。

後天的要因が元となり、例えば性的虐待の結果として自己の性を否認する例は存在する。ま
た、専ら職業的・社会的利得を得るため・逆に不利益を逃れるために反対の性に近づくケース
もある。

しかしながら、このようなケースは性同一性障害とは呼ばれない。一般には、性同一性障害者
は、何か性に関する辛い出来事から自己の性を否認しているわけではなく、妄想症状の一形
態としてそのような主張をしているわけでもなく、利得を求めての詐称でもなく、(代表的な症例
では出生時から)、自己の性別に違和感を抱き続けているのである。

なお現在、性的虐待と性自認の揺らぎの相関に、否定的な考え方も出てきている。 というの
は、「性に関する何かの辛い出来事」があっても、実際には性自認が揺らいでいる人は決して
多くはなく、性同一性障害当事者の多くは、「性に関する何かの辛い出来事」がまったくなかっ
たと認識していることが圧倒的に多いからだ。 現在、「性別違和を持った当事者が、何らかの
性的虐待を受けた」という考え方に変更されてきている。フェミニズムカウンセリングの場で
は、この考え方が支持されている。

また、ガイドラインができた当初、「職業的・社会的利得」と考えたのは、日本でいうところのニ
ューハーフやオナベではなく、他者による強制的な性転換であった。比較的貧困で、売春以外
観光の呼び物が極端に少ない地域で、そういったことは発生してきた。売春は、男性型の身体
より、女性型の身体の方が単価が高く、需要もあることから、若年の間に去勢をし、十代後半
になると性転換手術を受けさせ、売春をさせるという行為が多く見られ、それを防ぐための文
言だった。

「職業的・社会的利得」という文言がいわゆるニューハーフやオナベという職業に就く人々を、
性同一性障害診療の場から排除するかのように解釈されるのを防ぐため、ガイドラインの第2
版では、「なお、このことは特定の職業を排除する意図をもつものではない」と明記された。

++++++++++++

●問題ではなく、現象

 近年では、この性同一性障害について、遺伝子レベルでの考察も進んでいる。つまりもしそう
であるなら、つまり遺伝子がからむ問題ということであれば、この問題は、「問題」というよりも、
個人がコントロールできる範囲を超えた、「現象」ということになる。

 たとえば同性愛についても、そうでない人には問題に見えるかもしれないが、本人たちにとっ
ては、そうではない。それを「問題」ととらえるほうが、おかしいということになる。

さらに「障害」とか、「問題」とかいう言葉を使うことによって、その子ども(人)を、かえって追い
つめてしまうことにもなりかねない。正確な数字ではないが、昔、私がオーストラリアで学生生
活を送っていたころのこと、こんなことを言った友人がいた。

 「オーストラリア人の男性のうち、約3分の1は、同性愛者か、同性愛的傾向をもっていると考
えてよい」と。

 仮に本当に3分の1の男性がそうなら、どちらが正常で、どちらがそうでないかということさ
え、わからなくなる。もちろん「正常」とか、「正常でない」という言葉を使うことさえ、許されなくな
る。

●X君の例

 X君という男子高校生がいた。そのX君の母親が、X君のおかしさ(?)に気づいたのは、X君
が高校2年生のときだった。それまでも「?」と思うようなことは、あるにはあったというが……。

 ある日、母親がX君の部屋を掃除しているとき、机の隅に、いくつかの手紙が隠してあるのを
見つけた。そのうち1つか2つには、封がしてなかった。で、ここにも書いたように、ほかに気に
なることもあったので、X君の母親はその中の手紙を取り出して、読んでしまった。

 その手紙は、同級生のY君(男子)にあてた、ラブレターまがいのものだった。X君の母親は、
その場で「腰が抜けてしまった」(母親談)。「自分で自分をどう整理してよいのか、わからなくな
ってしまいました」と。

 で、母親はその手紙をもとどおりにして、そこへ隠しておいたという。「見るべきでないものを
見てしまったと、自分を責めました」「猛烈な無力感が襲ってきて、それ以上どうすることもでき
ませんでした」とも。

 結局X君の母親は、夫(X君の父親)にも相談できず、さりとて、X君を責めてもし方のないこと
と、そのままにしておいたという。

 現在、X君は、地元の県立大学に通っているが、「今でも、男子の友だちとしか、つきあって
いません」とのこと。X君は、すでに同性愛者的な傾向を強く示しているが、「この問題だけは、
なるようにしかならないと思いますので、なりゆきに任せています」「大切なことは、息子が自分
で自分の道を決めることです」とも。

●Y君の例

 Y君の中に、「?」を感じたのは、いつだったかは、よく覚えていない。Y君が、小学3〜4年生
くらいのことではなかったか。

 ときどき、Y君は、何かの拍子に、たいへん女性ぽいしぐさを見せることがあった。両手をすり
あわせて、イヤ〜ンと、なまめかしい声をあげる、など。

 最初私は、それを冗談でしているのかと思った。しかしとっさの場で、つまり本来なら、そうし
た冗談をするような場面でないところでも、そうしているに気づいた。

 しかしそのときは、それで終わった。

 そのY君が、中学2年生か、3年生になったばかりのこと。私が、何かの話のついでにY君
に、「君には、好意を寄せる女の子はいないのか?」と聞くと、「いない!」ときっぱりと言った。
「ぼくは、女の子は、嫌いだ」というようなことも言った。

 一度、そうした変化を母親に話すべきかどうかで迷ったが、そのうち受験が近づいてくると、Y
君は、受験塾へと移っていった。

●ゆらぎ(ふらつき)現象

 ほかにもいろいろなケースを、私は経験している。男児なのに、しぐさが、妙になまめかしいと
いうか、女性ぽい子ども(小3男児)もいた。とくに印象に残っているのが、ここに書いたY君で
ある。

 私を「男」として強く意識して(多分?)、近づいてきた男子中学生もいた。

 また、別の子ども(女子高校生)は、バスで通学していたが、別の高校に通う女子高校生と、
恋愛関係になってしまった。いつもバスに乗り合わせる時刻を決め、バスの最後部の席で、手
をつないだり、キスをしたりしていたという。

 しかしたいはんは、一時的な現象として、そのまま何ごともなかったかのように過ぎ、それで
終わってしまう。

 ウィキペディア百科事典によれば、「性自認と、肉体的な性が一致していない状態を、性同一
性障害(disorder)」と定義している。つまり同性愛者であるから、性同一性障害者ということに
はならない(?)。性同一性障害というのは、男の肉体でありながら、「自分は女性」と思いこん
んでいる、あるいは、女の肉体でありながら、「自分は男性」と思いこんでいることをいうという。

●役割形成

 この時期の子どもについて、この問題と並行して考えなければならないのが、「役割形成」で
ある。これについては、少し話が脱線するかもしれないが、以前書いた原稿を、ここに添付す
る。

+++++++++++++

(役割形成)

 役割分担が明確になってくると、「私は私」という、自我同一性(アイデンティティ)が生まれてく
る。そしてその自我に、役割や役職が加わってくると、人は、その役割や役職に応じたものの
考え方をするようになる。

 たとえば医学部を経て医者になった人は、その過程で、「私は医者だ」という自我同一性をも
つ。そしてそれにふさわしい態度、生活、ものの考え方を身につける。

 しかし少年少女期から青年期にかけて、この自我が混乱することがある。失望、落胆、失敗
など。そういうものが重なると、子どもは、「私」をもてなくなる。これを、「役割混乱」という。

 この役割混乱が起こると、自我が確立しないばかりでなく、そのあと、その人の人生観に大き
な影響を与える。たとえば私は、高校2年まで建築士になるのが、夢だったし、そういう方向で
勉強していた。しかし高校3年生になるとき、担任から、いきなり文学部を勧められ、文科系コ
ースに入れられてしまった。当時は、そういう時代だった。担任にさからうなどということは、で
きなかった。

 で、高校3年生の終わりに、私は急きょ、法学部に進路を変更した。文学は、どうにもこうに
も、肌にあわなかった。

 おかげで、そのあとの人生は狂いぱなしだった。最終的に幼児教育の道を選んだが、そのと
きですら、自分の選んだ道に、自身をもてなかった。具体的には、外の世界では、自分の職業
を隠した。「役割混乱」というのは、そういうことをいう。

(男女の役割)

 「男であるから……」「女であるから……」というのも、ここでいう自我同一性と考えてよい。ほ
とんどの人は、青年期を迎えるまでに、男らしさ、女らしさを、身につける。そして、その性別に
ふさわしい「自我」を確立する。

 しかしこのとき、役割混乱を生ずるケースも、少なくない。最近では、女児でも、まったくの
「男」として育てられるケースも、少なくない。以前ほど、性差が明確でなくなったということもあ
る。しかしその一方で、男児の女性化も進んでいる。その原因については、いろいろな説があ
るが、それはともかくも、今では、小学一年生について言うなら、いじめられて泣くのは、男児、
いじめて泣かすのは、女児という図式が、できあがってしまっている。

 この世界でも、役割混乱が生じているとみてよい。そして「男」になりきれない男性、「女」にな
りきれない女性がふえている。

 そういう意味では、社会的な環境が不整備なまま、「父親よ、育児をしなさい」「家事をしなさ
い」と、男に迫ることは、危険なことかもしれない。混乱するだけならまだしも、自我そのものま
で軟弱になってしまう。

(社会的環境の整備)

 私の結論としては、こうした意識の移行期には、一方的に、新しい価値観を、古い世代に押
しつけるのではなく、それなりのモラトリアム(猶予期間)を与えるべきだということになる。

 これは古い世代の価値観を認めながら、変化は、つぎの世代に託すという考え方である。
「価値観の共存」という考え方でもよい。ただし、変化は変化として、それは育てなければならな
い。たとえば、学校教育の場では、性差による生理的問題がからむばあいをのぞき、男女差
別を撤廃する、など。最近では、男女の区別なく、アイウエオ順に名簿を並べる学校もふえて
いる。そういった改革を、これからはさらに徹底する。

 もちろん性差によって、職業選択の自由を奪ってはいけない。ごく最近、女性の新幹線の運
転士が誕生したというが、では今まで、どうだったのかということにもなる。そういう問題も、考
えなければならない。

 アメリカでは、どんな公文書にも、一番下の欄外に、「人種、性、宗教によって、人を差別して
はならない」と明記してある。それに反すれば、即、処罰される。こうした方法で、今後は、性に
よる差別を防がねばならない。そして今の時代から、未来に向けて、この日本を変えていく。意
識というのはそういうもので、意識革命は、30年単位で考えなければならない。
(030622)

++++++++++++++

●5歳児の例

 掲示板に相談してきた人は、5歳児の息子について悩んでいる。しかしここに私が書いてき
たことは、(とくに性同一性障害については)、思春期前後の子どもについてである。残念なが
ら、私自身は、5歳児については、経験がない。またそういう視点で、子どもを見たこともない
し、考えたこともない。

 服装が問題になっているが、私が子どものころには、ズボンをはく女児、女子は、皆無だっ
た。それが時代を経て、女児、女子でも、ズボンをはくようになった。その過程で、そうした服装
を問題にする人も、いるにはいた。ズボンをはいただけで、「おてんば」と、からかわれた時代
もあった。

 だから服装に対する好みだけで、その子どもの性的志向性まで判断するのもどうかと思う。

 ただ「役割形成」という部分では、親は、注意しなければならない。社会的環境の中で、子ど
もは、教えずとも、男子は男性らしくなっていく。女子は女性らしくなっていく。そういう部分で、
親として、できることはしなければならない。反対に、してならないことは、してはならない。

 よく外国では、『母親は、子どもを産み、育てるが、その子どもを外の世界に連れ出し、狩り
の仕方を教えるは、父親である』という。そういう意味では、父親の役割も重要である。男児が
男性になりきれない背景には、父親不在、あるいは父親的雰囲気の欠落なども、考えられる。
(反対に、父親があまりにも強圧的、かつ権威主義的であると、男児は女性化するケースもあ
る。)

 相談してきた人の家庭環境が、どういうものなのか、私にはわからないが、こうした視点で、
一度、子どもを包んでいる環境がどういうものか、客観的にみることも重要かもしれない。

 あえて言うなら、5歳児ということもあるので、ここは、静観するしかないように思われる。仮に
性同一性障害であっても、またなくても、親としてできることは、ほとんどない。いわんや病院へ
連れていくというような問題でもない。

 重要なことは、「性」にたいして、暗くて、ゆがんだイメージをもたせないこと。この日本では、
たとえば同性愛者を徹底的に排斥する傾向がある。しかしそういう偏見の中で、もがき苦しん
でいる人も多い。あるいはその一歩手前で、自己否定を繰りかえしながら、もがき苦しんでい
る人も多い。

 それこそ、その本人にとっても、たいへん不幸なことではないだろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 同性
愛 性同一性障害 性自認 子供の性意識 性意識 男児の女児化)

【補記】

●性自認

 「私は男である」「私は女である」と、はっきりと自覚することを、「性自認」という。しかし現実
には、相手を異性として意識したとき、その反射的効果として、自分の「性」を自覚することが
多い。とくに若いときは、そうである。

 「私は男である」と思うよりも、「相手は女である」と意識したとき、その反射的効果として、「自
分は男である」と自覚する。

 このことは、年齢を経てみると、わかるようになる。つまり若いときの性自認と、歳をとってか
らの性自認とは、かなりちがう。私という人間は、同じ男であるにもかかわらず、若いときに見
た異性は、宇宙人のように男とは、異質の人間に見えた。

 しかし今は、異性といっても、私という男と、それほど異なった人間には、見えない。

 そこで重要なことは、ここでいう「性自認」というのは、男であれば、いかに鮮明に、女を意識
するかという、その意識の問題ということになる。(女であれば、その逆。)私自身のことでよく
覚えているのは、私が高校生のときのこと。

 図書館で、女体の解剖図を見ただけで、ペニスが勃起してしまい、私は、歩けなくなってしま
った。あるいは、好意を寄せていた女の子が、かがんだ拍子に、セーラー服の中の下着を見
てしまったことがある。いや、そのとき私がどう感じたかは、今となってはよくおぼえていない。
しかし今でもその下着を鮮明に覚えている。覚えているということは、私は、そのとき強烈な衝
撃を受けたということになる。(たかが下着なのに!)

 女あっての男、男あっての女。それが性自認ということか。

 ウィキペディア百科事典の説明によれば、そうした性自認と、肉体として性が、不一致を起こ
したとき、性同一性障害をいうことになる。

 しかしそれは問題なのか。それは障害なのか。あくまでもそれは個人の問題と考えるなら、
問題でも、障害でもないということになる。

 話は飛躍するが、昨今、同性愛者たちが、社会的認知を求めて、社会の表に堂々と出てくる
ようになった。いろいろな意見はあるだろうが、自分たちはそうでないという理由だけで、こうし
た人たちを、「おかしい」とか言うのは、まちがっている。また、そういう視点で、こうした人たち
を、見てはいけない。

 あくまでもそれは個人の問題である。個人の問題である以上、他人がとやかく言うことはでき
ない。

 5歳児について相談してきた母親にしても、性同一性障害を心配しながら、もっと端的には、
自分の子どもがいつか、同性愛者にならないかということを心配している。たしかに、自分の子
どもが同性愛者で知ったときに、親が受けるショックには、相当なものがある。しかしそれは、
(受けいれがたいもの)では、決して、ない。

 ほとんどの親は、自分の子どもが同性愛者であることを、やがて少しずつ、時間をかけなが
ら、それを受けいれ始める。そして気がついたときには、自分の中に、2つの意識が同居して
いることに気づく。

 この問題は、そういう問題である。その相談してきた親にしても、「病院へつれていく」というよ
うなことを書いているが、そういう意味で、少し的(まと)が、はずれているようにも思う。もしあ
のとき、つまり私が女体の解剖図を見て勃起したとき、私の母親が、私を病院へつれていくと
言ったら、私は、それにがんとして、抵抗しただろうと思う。

 また病院へいったからといって、なおるというような問題でもないような気がする。あるいはど
んな治療法(?)があるというのか。

 なお男児の女児化という現象は、私も日常的に経験している。幼児〜小学低学年児につい
て言えば、今では、「いじめられて泣くのは男の子」「いじめて泣かすのは、女の子」という図式
が定型化している。

 さらに日本人男性についていえば、精子の数が、欧米人の半分もないとか、あるいはそうし
た原因をつくっているのは、環境ホルモンであるか、そういう意見もある。もし性同一性障害を
問題にするとするなら、それはこうした視点からでしかない。

+++++++++++++++

以前書いた原稿(中日新聞発表済み)を
ここに添付します。

教育という視点から書いた原稿なので、
ここに書いた、「性同一性障害」とは、
少し見方がちがいます。

+++++++++++++++

●進む男児の女児化

 この話とて、もう15年近くも前のことだ。花柄模様の下敷きを使っている男子高校生がいた
ので、「おい、君のパンツも花柄か?」と冗談のつもりで聞いたら、その高校生は、真顔でこう
答えた。「そうだ」と。

 その当時、男子高校生でも、朝シャンは当たり前。中には顔面パックをしている高校生もい
た。さらにこんな事件があった。

市内のレコードショップで、一人の男子高校生が白昼堂々といたずらされたというのだ。その
高校生は店内で5,6人の女子高校生に囲まれ、パンツまでぬがされたという。こう書くと、軟
弱な男子を想像するかもしれないが、彼は体格も大きく、高校の文化祭では舞台でギター独奏
したような男子である。私が、「どうして、声を出さなかったのか」と聞くと、「こわかった……」
と、ポツリと答えた。

 それ以後も男子の女性化は明らかに進んでいる。今では小学生でも、いじめられて泣くのは
たいてい男児、いじめるのはたいてい女児、という構図が、すっかりできあがっている。先日も
一人の母親が私のところへやってきて、こう相談した。

「うちの息子(小2)が、学校でいじめにあっています」と。話を聞くと、小1のときに、ウンチを教
室でもらしたのだが、そのことをネタに、「ウンチもらしと呼ばれている」と。母親はいじめられて
いることだけを取りあげて、それを問題にしていた。が、「ウンチもらし」と呼ばれたら、相手の
子どもに「うるさい!」と、一言怒鳴ってやれば、ことは解決するはずである。しかもその相手と
いうのは、女児だった。私の時代であれば、相手をポカリと一発、殴っていたかもしれない。

 女子が男性化するのは時代の流れだとしても、男子が女性化するのは、どうか。私はなに
も、男女平等論がまちがっていると言っているのではない。男子は男子らしく、女子は女子らし
くという、高度なレベルで平等であれば、それはそれでよい。しかし男子はいくらがんばっても、
妊娠はできない。そういう違いまで乗り越えて、男女が平等であるべきだというのは、おかし
い。いわんや、男子がここまで弱くなってよいものか。

 原因の一つは言うまでもなく、「男」不在の家庭教育にある。幼稚園でも保育園でも、教師は
皆、女性。家庭教育は母親が主体。小学校でも女性教師の割合が、60%を超えた(98年、
浜松市教育委員会調べ)。

現在の男児たちは、「男」を知らないまま、成長し、そしておとなになる。あるいは女性恐怖症
になる子どもすら、いる。しかももっと悲劇的なことに、限りなく女性化した男性が、今、新時代
の父親になりつつある。「お父さん、もっと強くなって、子どもの教育に参加しなさい」と指導して
も、父親自身がそれを理解できなくなってきている。そこでこういう日本が、今後、どうなるか。

 豊かで安定した時代がしばらく続くと、世相からきびしさが消える。たとえばフランスは第一次
大戦後、繁栄を極めた。パリは花の都と歌われ、芸術の町として栄え、同時に男性は限りなく
女性化した。それはそれでよかったのかもしれないが、結果、ナチスドイツの侵略には、ひとた
まりもなかった。果たして日本の将来は?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 男児
の女児化 男性の女性化)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

●親のレベル

++++++++++++

賢明な親もいれば、
そうでない親もいる。

子どもを伸ばそうと考えたら、
親も、子どもといっしょに、
伸びなければならない。

賢明な親というのは、
それが自然な形でできる親をいう。

++++++++++++

 「親」といっても、いろいろなレベルの人がいる。賢明な親もいれば、そうでない親もいる。

 昔、幼稚園で働いていたころのこと。こんなことがあった。

 ある子ども(年長児)が、掛け算の九九を、ソラで言うようになった。「ニニンが4、ニサンが6
……」と。多分、兄かだれかがいて、その兄を見ながら、九九を覚えてしまったらしい。

 その子どもを見て、ある親が、「あの子は、天才!」と騒ぎ出した。「幼稚園児なのに、もう掛
け算ができる!」と。

 しかし掛け算の九九をソラで言えるからといって、その子どもが、本当に掛け算を理解してい
るとはかぎらない。その子どもにとっては、歌のようなもの。しかしレベルの低い親は(失
礼!)、表面的な部分だけをみて、子どものレベル、さらには教育のレベルまで、自分で決め
てしまう。

 あるいは、こんなこともあった。

 あるとき、職員室へ、若い母親が飛びこんできた。そしていきなり、こう言った。

 「うちの子は、3年保育で、この幼稚園に入った。どうして2年保育で入った○○さんより、で
きが悪いのか!」と。つまり「3年保育で入園してきた自分の子どもが、2年保育で入園してき
た○○さんより、できが悪いのは、おかしい」と。

 その母親の子どもは、何かにつけて、できが悪かった(失礼!)。しかしその親は、自分ので
きの悪さには、気づいていなかった(失礼!)。

 ……とまあ、実は、こういうケースは、多い。幼稚園や保育園という世界では、日常茶飯事。
そういう話を見聞きするたびに、「幼稚園の先生も、たいへんだな」と思う。

 で、今では少なくなったが、当時は、子どもの能力を、テストの点数だけで判断する親がい
た。学校のテストでつけられる点数である。その点数を見て、一喜一憂するのはしかたないとし
ても、そのたびに、家の中で、大騒動。「勉強しろ!」「いやだ!」と。

 しかし親でも、小学3、4年生の問題を解けない人は、いくらでもいる。高校を出たあと、(勉
強)から遠ざかった人なら、みな、そうではないか。そういう親が、子どもを叱りながら、「どうし
てこんな問題が解けないの!」「何よ、この点数は!」と言うから、おかしい。

 (本当に、そういうことがあったぞ!)

 そこで私が、やんわりとその母親に、こう言った。「この問題は、むずかしいですよ。何なら、
一度、お母さん、あなたが解いてみたら、どうでしょう?」と。すると、その母親は、はにかみな
がら、こう言った。「私は、もう終わりましたから……」と。

 子どもを産むことで、親は親になる。しかし親になったからといって、別の人間になるわけで
はない。環境は変わるが、中身まで変わるわけではない。つまりその時点から、親は、今度
は、親になる努力をしなければならない。それを怠ると、名ばかりの親になってしまう。

 勉強にしても、しかり。

 ほとんどの親は、中学や高校で勉強したことは、そのまま頭の中に残っていると誤解してい
る。しかし実際には、卒業すると同時に、忘れていく。どんどんと忘れていく。英語の単語や、
算数の計算問題を、例にあげるまでもない。

 さらに分数の足し算、引き算のできない大学生となると、いまどき、珍しくもなんともない。

 そこで賢明な親と、そうでない親とは、どこがちがうかといえば、賢明な親ほど、子どもに対し
て謙虚。自分も子どもといっしょに、伸びようとする姿勢が見られる。

 が、そうでない親は、そうでない。「自分は絶対」という自己中心性ばかりが強い。目立つ。自
分の世界だけで、自分の子どもを判断しようとする。先にあげた、テストの点数だけで、子ども
の能力を判断する親も、そうである。

 どこをどうまちがえたか。どうしてまちがえたか。どこに弱点があるか。そういうことは、まった
く、みない。だからつぎにどうしたらよいのか、それを的確に判断することができない。その判
断ができないから、いきなり、子どもに向かって、「もっと、勉強しなさい!」となる。

 正直に告白するが、教育をする側の者の意欲、つまり教師としての意欲を引き出すのは、親
である。子どもではない。教師は、親を見て、「教えたい」と思うようになったり、「教えたくない」
と思うようになったりする。とくに、「教えたくない」と思うときは、そうである。親をみて、そう思う
ようになる。

 「こういう親の子どもは、教えたくない」と思うことは、しばしばある。親をみただけで、絶望感
を覚えるときもある。たがいの間に、あまりにも遠い距離感を覚えるからである。

 そうそう、たまたま、昨日も、そういうことがあった。

 教室にいると、電話がかかってきた。そして電話口の向こうで、その母親は、いきなり、こう言
った。

 「うちの子を、今度、SS小学校に入れたいのですが、お宅の塾へ入れていただけますか?」
「お宅では、どんなことを教えているのですか?」と。

 私が、「うちは、受験塾ではありませんので、どこかほかのところを当たってみてください」と言
うと、その母親は、「あら、そう」と言って、そのまま電話を切ってしまった。

 名前も言わない。あいさつもしない。おまけに、私の教室を、受験塾と誤解している。電話の
切り方も、ふつうではない。

 そういう母親の子どもは、私は、ぜったいに、教えたくない。その前に、そういう母親とは、つ
きあいたくない。時間のムダ。人生のムダ。

 ……と話が脱線したが、最後にこれだけは、気をつけた方がよい。

 あなたの子どもも、やがておとなになる。そのとき、あなたという親が、自分の子どもに何かを
示せれば、それでよし。しかしそうでなければ、あなたという親は、その時点で、容赦なく、あな
たの子どもによって、評価される。

 そのときのためにも、あなたという親は、親として、自分をみがいていかなければならない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 親論
 親のあり方 親のレベル 親の品格)


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2941)

●高1の歴史

高校1年のDさんが、こんな問題をもってきた。
世界史の問題である。

【問1】五胡のうち、匈奴の別種といわれる、山西に居住した民族は何か。
【問2】九品中正により豪族の高級官職独占が進み、門閥貴族が出現した。
このことを嘆じた言葉を記せ。
【問3】北魏の村落制度で、均田制実施のための戸籍調査や徴税を担当した
ものを何というか。

残念ながら、私には1問もわからなかった。
とくに問2の、「嘆じた言葉」というのは、わからない。
わからないというより、わかるはずがない。
が、同時にこうも思った。
「こんなことを暗記して、何になるのか」と。
まさに暗記のための暗記。

私が、「こんなむずかしいことをしているの?」と聞くと、その生徒は、「別に……」と。
「教科書を調べれば、すぐわかる」と。

フ〜〜ン?

私も高校生のとき、受験科目に世界史を選んだ。
どこかで一度は、暗記したはず。
しかし脳みそのどこをひっくり返しても、そんなことを暗記した記憶さえない。
完ぺきに忘れてしまっている。
これはどういうことか?

言い換えると、こんな例もある。

ある人(50歳くらい、男性)が「林」を、ローマ字で、「HAYASI」と書いた。
ヘボン式、つまり発音どおりに表記すれば、「HAYASHI」が正しい。
その人はどこかの大学も出ているはず。
私はそのとき、「この人は、ローマ字も正しく書けないのか」と驚いた(失礼!)。

しかしよくよく考えてみれば、これは当然のこと。
大学を出たあと、英語に親しんでいれば、そういうこともなかったかもしれない。
しかしその人は、英語とは無縁の世界に入ってしまった。

一方、私はそのあと、30年近く、高校生に英語を教えてきた。
英語が、多少なりとも、(できる)のは、当たり前。
が、世界史はどうか?

高校を卒業すると同時に遠ざかってしまった。
それが先の結果である。
1問もわからなかった。
が、もしそのあと、世界史に少しでも親しんでいれば、今でも覚えているかも
しれない。

このことは重要な教訓を、私たちに与えている。
つまり『教育とは、学校で学んだことをすべて忘れてしまったあとに、
残っているものをいう』と。
アインシュタインも、同じようなことを言っている。

世界史について言えば、「中国って、すごい国なんだなあ」という思い。
その思いが、「残っている教育」ということになる。
そしてこんなことも言える。

ただの暗記のための暗記科目など、学んでも意味がないということ。
はっきり言えば、時間の無駄。
その無駄のために、高校生たちは、それが教育と信じ込まされて、学校へ
通っている(?)。
このことは幼児を見ればわかる。

年長児でも、掛け算の九九をペラペラと口にする子どもがいる。
親は、「うちの子は、掛け算ができる」と喜んでいるが、それができたからといって、
算数の力(=数を考える力)があるということにはならない。

私はその問題を見ながら、改めて「教育とは何か」、それを考えさせられた。
「九品中正」にしても、何も中国の歴史に学ばなくても、現在の日本を見れば
わかる。
政治家の世襲制は当たり前。
高級官僚たちは、したい放題のことをしている。
この不況下にあって、わが世の春を謳歌している。

私「そんなことは、インターネットで調べれば、即座に答がわかるよ」
生「それじゃ、勉強にならない」
私「あのね、そんなすぐ忘れるようなことを暗記しても、意味はないよ」
生「そんなことを、先生が言ったら、おしまいだよ」
私「でも、ぼくは、そう思う」と。

私が社会科の教師なら、教科書なんか捨てて、みなで、映画『レッド・クリフ』を
見に行く。
そのほうがよほど強いインパクトを子どもたちに与えるはず。
それをきっかけに、私たち夫婦のように、「三国志」に興味をもち、ついでに中国の
勉強をしなおすかもしれない。
あるいは中国を見直すようになるかもしれない。

しかしそれにしても、今、高校では、こんなくだらないことを教えているのだろうか。
実にくだらない。
高校の先生もたいへんだなあと思ったところで、この話は、おしまい。


●浜松と岐阜

先ほど、岐阜から浜松へ帰ってきた。
気のせいか、浜松のほうが、ずっと暖かい。
空気そのものがもつ、冷気の重さそのものがちがう。
岐阜のほうでは、体の芯までつんと、冷気が
入ってくる。

それにもう一つ驚いたこと。
岐阜の街の大通りに、「テナント募集」の張り紙をした、
空ビルや空事務所、それに空店が、かなり目立ったこと。
バスからぼんやりとながめていたが、「次々……」
という感じだった。

また駅前の整備が、ほとんどといってよいほど、進んでいなかった。
雑然としていて、どこかさびれた田舎町といったふうだった。

たとえばJRの岐阜駅から、空中回路ができていたが、
仙台駅で見るような、センスのよさはない。
長い横断歩道を、いくつも無造作につなげただけという感じ。

浜松のほうも景気は悪いとはいうものの、岐阜と
くらべたら、はるかに活気がある。
街を歩く人も、どこかハツラツとしている。

(こんなことを書くと、岐阜の人は怒るかもしれない。
しかし怒る前に、一度、浜松のほうまで足を延ばしてみたらよい。
私の言っていることがウソでないと、わかるはず。)

では、なぜこうなってしまったか。

私が学生時代のころは、岐阜市は、既製服の町として知られていた。
駅前には、既製服の問屋が、ところ狭しと、ズラリと並んでいた。
その既製服がだめになった。
だめになったというより、韓国、台湾、中国に追いあげられるようになった。

が、その転換が、うまくできなかった。
それだけ変化が急だったとも言える。
あるいは先見の明がなかったとも言える。
一時は高級品化をねらったというが、バブル経済崩壊で、それが裏目に
出てしまったとも聞いている。

今ではあの柳ケ瀬(歌にもなった、岐阜市第一の歓楽街)は、見る影もない。
そのあたりも今は、空ビル、空事務所、空店が、ズラズラと並んでいる!

では、どうするか?

岐阜市が名古屋市のベッドタウン化するのはしかたないとしても、
岐阜市がだめになると、その周辺の中規模の町がだめになる。
さらにその中規模の町周辺の、小規模の町がだめになる。
よい例が、岐阜市→関市→美濃市の関係である。
それぞれが、その上の町に依存している。
だから岐阜市がだめになると、関市がだめになる。
関市がだめになると、美濃市がだめになる。

美濃市にしても、昔は製紙業の町として栄えたときもあった。
が、今は、さらにその昔にさかのぼって、和紙の町として、
つまり観光で生きるしかない町になってしまった。

ところが岐阜市も、観光都市として生きる道を選んでしまった。
関市については知らないが、美濃市、さらに郡上(ぐじょう)まで
観光として生きる道を選んでしまった。
岐阜市がこのざまだから、あとは共(とも)食い、あるのみ。

「観光」「観光」といっても、いったい、だれが来るのか?
どこから来るのか?

私も観光バスで、そうした観光地をよく回るが、観光客というのは、
それほどお金を落とさない。
使う場所というのも、限られている。
みやげもの屋か、食堂と、決まっている。
金額そのものが、知れている。
さらに言えば、よほどのことがないかぎり、リピートしない。
たいてい1回ポッキリ。
これだけ似たような観光地がふえてくると、「1回でたくさん」となる。

……と書くと、お先真っ暗ということになる(ホント!)。
だったら、私なら、外国をねらう。
外国人観光客をねらう。
とくに中国、台湾からの観光客をねらう。
外国人が来るようになると、それが誘い水となって、日本人もやってくる。
となると、国際性ということになる。
案内書も道案内も、英語での表記は常識。
つまりこうした国際性をもたないかぎり、観光地に未来はない。

しかし美濃市もいろいろ努力はしているようだ。
夕暮れになると、街のあちこちに、和紙でつくった行灯(あんどん)が並ぶ。
今は少し寒いが、春の陽気がもどってくれば、ロマンチックな夜を
かもしだしてくれるはず。

お勧めのコースは、市内、もしくは郊外の旅館に泊まって、町の中を
夕刻から夜にかけて、散策すること。
みやげもの屋もふえた。

ついでに一言。
美濃市へ行ったら、観光マップ(美濃市発行)の、左下隅の家に注目
してほしい。
それが私の実家である。


●長良川

私がいる旅館から、ちょうど真下に長良川が見える。
その長良川が、旅館の下あたりで、ゆるやかに西に曲がる。
そのため、旅館の窓から、長良川上流が、あたかも橋の上に
いるかのように、よく見える。
その先は、郡上踊り(かわさき)でよく知られている郡上(ぐじょう)、
天下の清流として知られている板取川(いたどりがわ)へとつづく。

対岸の山々は、ちょうど紅葉のまっさかりで、色とりどり
の秋の葉が、朝日を浴びて、ゆっくりと光り始めた。
風呂から戻ってきたワイフもそれに気がついて、「あらっ」と言っただけで、
窓の外に見とれていた。

私はこの美濃市で、18年間を過ごした。
高校を卒業するまでの18年間である。
で、この旅館に来て驚いたことに、私の実家が、町の案内マップに載っていた!
いちばん下の隅だったが、私の家とすぐわかった。
そう言えば、一度、市の役人が、あの家を買いたいといってきたという話を、
姉から聞いたことがある。
大正時代の商家として、たいへん珍しい建物だそうだ。

もちろん好んで、その建物を保存しようとして保存してきたわけではない。
それだけの財力がなかったから、そのままにしてきただけ。

そう、あの家は遺産などではない。
遺産として残すためにがんばった家ではない。
あの家は、私の祖父母が住み、両親が住み、兄が住んだ家である。
そこには無数のドラマがある。
そのドラマがしみついている。
繰り返しになるが、「遺産にしたい」などとは、考えたことはない。
もしじゅうぶんなお金があれば、みな、とっくの昔に、家を建てなおして
いただろう。
が、それがなかった。
みな、苦しい家計と戦いながら、細々と今日まで生きてきた。

建物というのは、たとえて言うなら、空箱のようなもの。
観光客は、その空箱だけを見て、それぞれがそれぞれの空想を働かせる。
しかしそれほど、無責任で、いいかげんな見方もない。

私はそのマップを見ながら、「みんなが守ってきたのは、いったい
何なのか」と、考えた。
みんなというのは、私の家族も含めてという意味だが、「いったい何なのか」と。
みんな、どれもこれも、煙のように消えてしまった。

が、その一方で、変わらなかったものもあるはず。
目の前の山々の景色がそうだ。
川の流れがそうだ。
が、私には、それがわからなかった。
子どものころ、そういう変化に、私はまったく気づかなかった。
気づいていたかもしれないが、関心がなかった。
ときどき母が、「紅葉を見に行こう」と誘ってくれたが、私はいつも、
それを断っていた。

が、今、「子どものころも、こんなに美しかったのか」と。

改めて、長良川の美しさに、心を奪われる。

(追記)
その美濃の町から、私たちはバスに乗った。
とたん、窓の外の景色が、まるでタイムトンネルか何かを潜り抜けるように、
パラパラと動き出した。
古い時代から、新しい時代へ。
10年、20年、30年……、と。
祖父や両親がいた時代から、今の時代へ。
不思議な感覚だった。

美濃の町は美しいが、私は子どものころ、いつも息苦しさを覚えていた。
周囲を山に囲まれているだけが、理由ではない。
何をするにも、近所の人や親類の人たちが干渉してきた。
それは(人のやさしさ)であると同時に、(体をしめつけるロープ)の
ようでもあった。

この町では、「私は私」という生き方を許してくれない。
認めてもくれない。
そんなことをすれば、即座に、あの町からはじき飛ばされてしまう。
だからみな、面従腹背というか、仮面をかぶって生きていく。
本音と建前を巧みに使い分けて、生きていく。
腹の中では、「コノヤロー」と思っていても、ニコニコ笑いながら、
「こんにちは!」と言って、声をかけあう。

そういう芸当ができない人は、この町には住めない。

……というよう話を、旅館の仲居さんと話したら、仲居さんは、
こう言って笑った。

「そんなことありませんよ」「みんな、本音で生きていますよ」と。

しかしそれは美濃の町を知らない人か、あるいは美濃の町から一歩も
外へ出たことがない人の言う言葉(失礼!)。
あるいは外国を知らない人の言う言葉(失礼!)。
あるいはきわめて恵まれた家庭環境で育った人の言う言葉(失礼!)。

古い町並みを見て、「すてき!」と思うと同時に、
その町並みの向こうにある、陰の文化を、ほんの少しでも感じ取って
もらえれば、私はうれしい。


●質素革命

冠婚葬祭については、地域差がはげしい。
概して言えば、愛知県、岐阜県は、冠婚葬祭が、派手。
静岡県は、それに比較して、質素。

私はこと冠婚葬祭については、質素にやればよいと考える。
内々の人たちだけが集まって、それを喜んだり、悲しんだりすればよい。
お金をかければ、それでよいというものでもない。
しかしそれには、かなりの勇気が必要。
確固たる人生観が必要。

今回も母の四九日の法要を郷里のM町でしたが、法要が終わったあと、
1人の女性が来て、こう言って怒った。
「水臭いではないか。豊子さん(=私の母)が亡くなったら、亡くなったで、
一言、連絡くらいくれたらいい。どうして連絡してくれなかったのか」と。

しかし実際には、それどころではない。……なかった。
母の介護→臨終→死去→葬儀と、その数日間は、何がなんだかわけがわからない
まま過ぎた。
そういう状態の中で、そんな人たちのことまで、気が回らない。
私は「すみませんでした」「またゆっくりとあいさつに、おうかがいします」と
謝った。
が、実際には、どうでもよかった。

そういうことを言ってくる人は、介護や、葬儀の経験のない人たちである。
またそういう人ほど、私の悪口を陰で言いたてている。
私はそう感じた。

だからといって、人の(つきあい)を軽くせよということではない。
もっと中身を大切にしたらいいと言っている。

たとえば私
は、自分が死んでも、それをだれにも知らせてほしくない。
ワイフや息子たちには、しっかりとそう言い伝えている。
もちろん葬儀など、無用。
それで地獄へ落ちるというのなら、それを教える仏教のほうが、まちがっている。
もしそうなら、何のための仏教かということになる。

だいたいだれも私の死など、気にしないだろう。
喜ぶ人は多いかもしれないが、悲しむのは、私のワイフくらいなもの。
(ワイフだって、喜ぶかもしれない。)
いつか時間がたって、「ああ、あの林は死んでいたのか」で、じゅうぶん。
連絡が1年遅れても、10年遅れても、どこがどうちがうというのか。

どうせ死んだときから、時間は止まる。
10年や20年、あっという間に過ぎてしまう。
たとえばあなたの周辺で亡くなった人のことを、思い浮かべてみてほしい。
「あの人が亡くなって、もう10年!」とか、「もう20年!」とか、驚く。

私の死も含めて、人の死というのは、そういうもの。
もう少し長いスパン(時的間隔)で考えてもよいのではないか。
死んでから、10年後の葬式でも、何もおかしくない。
逆に、こんなこともある。

たとえば学生時代に世話になった人の消息をたずねることがある。
そういうとき、その人が、10年前に、すでに亡くなっていることを知ったりする。
20年前に、すでに亡くなっていることを知ったりする。
しかし10年前でも、20年前でも、「昨日は昨日」。
ここでいう「時間は止まる」というのは、そういうことをいう。

(この文章にしても、私の死後、10年、あるいは20年後に読む人もいるかもしれない。
そのとき、「ああ、あの林は、10年前に死んでいたのか」「20年前に死んだのか」
でも、よいのではないか。)

恩師の田丸謙二先生ですら、直葬を望んでいる。
病院から火葬場への直行を望んでいる。
「葬儀は不要です」と。
それこそ世間が許さないだろうが、田丸謙二先生は、先日メールの中に、そう書いていた。
これからはそういう人たちがふえてくる。
日本のリーダーと呼ばれる人たちが、そういう動きを示しつつある。
過去を踏襲し、過去にしばられているのは、むしろ末端の、いわゆるノーブレインの
人たちである。
自分に考える力のない人ほど、過去にこだわる。
が、それも今、音をたてて崩れ始めている。
この流れは加速することはあっても、逆行することは、もうない。

こと冠婚葬祭については、目下、質素革命、進行中!


●兄弟・姉妹関係

++++++++++++++++++++

兄弟、姉妹といいながら、他人以上の
他人になる人は、少なくない。

たがいに手の内の、その奥まで
知り尽くしている。
そのため壊れるときは、早い。
しかも、一度壊れると、こなごなになるほど、
壊れる。

++++++++++++++++++++

●60数人の従兄弟(いとこ)

前にも書いたが、私には60数人の従兄弟がいる。
正確に数えたことがないので、実際には、何人いるか、わからない。
父方の兄弟姉妹が、5人。
母方の兄弟姉妹が、13人。
それぞれが、3〜7人の子ども(=従兄弟)をもっている。
それで60数人となる。

もちろんその中には、親しい従兄弟もいれば、そうでない従兄弟もいる。
中には、子どものころ会っただけで、そのまま疎遠になってしまった従兄弟もいる。
しかしそういう従兄弟でも、近況だけは、いろいろなところから伝わってくる。
他人とちがって、そういう情報が、内側から伝わってくる。

で、全体としてみると、兄弟姉妹がほどほどに仲良くしている従兄弟が、約半数。
他人以上の他人になってしまった従兄弟が、約半数。
たいていどの従兄弟も、何らかの問題を、内側にもっている。

もちろんだからといって、それはあくまでも(内側)の話。
親戚どうしがつきあうときは、みな、一応、円満な様子で、顔を出す。
(もちろんそうでない従兄弟もいるが……。)
表立って、いがみあうとか、そういうことはない。
「適当につきあって、それで別れる」。

子どもの世界でも、こうした現象は、珍しくない。
よくある例が、(できのよい兄、姉)と、(自由奔放な弟、妹)。
兄、姉は、できのよい兄、姉を演ずることによって、自分の立場を守ろうとする。
本当は弟や妹が憎いのだが、それを態度で示すと、自分の立場がなくなる。
これを心理学の世界でも、「反動形成」という。
つまりは、兄や姉は、仮面(ペルソナ)をかぶりやすいということ。

兄や姉は、弟や妹が生まれることによって、それまでの自分への愛情が、
半分に減らされる。
それは相当な欲求不満と考えてよい。
嫉妬がからむだけに、扱い方をまちがえると、ことはやっかい。
こうして兄や姉は、生活態度が防衛的になる。
わかりやすく言えば、ケチになる。

この時点から、兄弟、姉妹関係は、ギクシャクし始める。
たいていどこの家でも、兄、姉は、(年長風)を吹かす。
権威主義的なものの考え方をする人ほど、そうである。
それが尾を引いて、(わだかまり)になったり、(こだわり)になったりする。
さらに私の年代になると、介護問題がからんでくる。
親の遺産問題がからんでくる。
こうなると、兄弟姉妹関係は、一気に、崩壊へと向かう。

では、どうすればよいか?

私は結論として、なるようにしかならないと考える。
それまでの関係が長いだけに、それを修復するのは不可能。
だったら、兄弟姉妹といえども、そういうものと割り切る。
「仲が良くなければならない」とか、「仲が悪いから、よくない」とか、
そういうふうに、自分を追いつめる必要はない。

「仲が悪くて、結構」「どうしてそれがいけないことなのか」と、
居直ればよい。
居直って生きる。
「血」にこだわらねばならない理由など、どこにもない。

あとは、やるべきことは事務的にこなしながら、適当につきあえばよい。
あえて、いがみあうことは、ない。
あえて、争うことも、ない。

どこの家庭も、外から見ると、みんなうまくいっているように見える。
しかしそう見えるだけ。
中へ入ってみると、みな、それぞれの問題をかかえて、ドタバタしている。
60数人も従兄弟をもったおかげで、私はそれを知ることができた。

(教訓)

どんな親も、「うちの子どもたちは、だいじょうぶ」と考えている。
「いつか、子どもたちは力を合わせて、家族を支えあってくれるはず」と考えている。
しかしそれは幻想。
幻想以外の何ものでもない。

これはある司法書士をしている人から聞いた話だが、今では遺産相続問題にしても、
本来なら直接的な相続権のない、甥(おい)や姪(めい)から請求されるケースが
ふえているという。

「親父は、無一文で実家を追い出された。その分の遺産を、俺たちによこせ」と。

そこでその司法書士が、「あなたの父親は、ちゃんと遺産相続放棄の手続きをしている」と
説明すると、「遺留分というのが、あるはず」と。

遺産相続放棄をしても、何分の1かは、その放棄に属さない遺産が残る。
「遺留分」というのは、それをいう。
そこで今では、「協議分割」という方法をとることが多い。
「協議した上、全財産を、○○に渡す」という約束をする。
この方法を使えば、遺留分というのは、なくなる。

そこで親たるもの、その時期が近づいてきたら、身のまわりの整理だけは、
きちんとしておいたほうがよい。


●映画『ハッピー・フライト』

++++++++++++++++++

息子のBLOGに、こんな記事が
載っていた。
映画『ハッピー・フライト』は、おもしろい、と。
息子推薦とあれば、見ない手はない。
邦画を見るのは久しぶり。
……見ることにした。

まず、息子のBLOGより。

++++++++++++++++++

【息子のBLOGより】

 『先日、ブラザー3の先輩がチェックアウトされたということで、その祝賀会があり、東京に帰
って来て初めてのブラザー活動に参加してきた。ナパで伝説化していた有名な先輩方にお会
いすることができて、本当に良かった。

『ハッピー・フライト』というANA全面協力の映画の話になって、一人の先輩がすでにご覧にな
っていたのだけれども、この映画が悔しいことに、めちゃめちゃおもしろいらしいのだ。プロが
観ても、細かいところまで再現されていて、かなり楽しめるとのこと。

またしてもライバル会社にしてやられた感じだが、パイロットやパイロットを取り巻く環境のこと
を、より多くの人に知っていただけるのは、嬉しいことだ。僕も今度、観に行こう。

 ちなみに、昨日ブリッジ訓練がスタートした。やっと。来週からいよいよ777のシミュレーター
による訓練が始まる』(08・11・28)と。

で、午後7時20分からその映画を見に行こうとしたが、
ワイフが、「今夜はやめにしよう」と。
明日は、いろいろある。

……ということで、書斎にこもって、小さな本を1冊分、HPに収録した。
かかった時間は、2時間。
スキャナーでページごとスキャンしたあと、Frickrにアップロード。
それからHTMLタグを引いて、ホームページに張りつける。
結構、手間がかかる。

映画を見ても、2時間。
「同じ2時間かあ」と思って居間へおりていくと、ワイフは、
衣服にアイロンをかけていた。

何でもない夜。
静かな夜。
私は蜂蜜をお湯に溶かす。
それに粉末のゆず湯を少し混ぜる。
最近は、これが好物。
それを飲みながら、夕刊に目を通す。

+++++++++++++++++

(追記)

映画『ハッピー・フライト』を、今夜(12月x日)、見てきた。
星は、2つの★★。
ただし私は、緊張した。
手に汗を握った。
映画の中のコーパイ(副機長)に、息子を重ね合わせてしまった。

以前から部分的な話は、息子から聞いていた。
それがあの映画で、総合された感じ。
たとえば息子はこう言った。
「雨の日などは、タイヤがスリップしないよう、わざと機体を
滑走路にたたきつけて着陸する」と。
映画の中でも、同じようなシーンが出てきた。

雲の裂け目をねらって着陸態勢に入るという話も聞いた。
横風に対しては、機体をななめにして着陸するという話も聞いた。

映画全体としては、演技がややオーバー。
少し茶化しすぎ。
私の息子もそうだが、息子の友人たちしても、俳優のような
チャカチャカしたパイロットは、いない。
みんな静かに落ち着いている。
どっしりとしている。
またそういう性格でないと、少なくとも、ライン・パイロットにはなれない。
あの俳優のようなパイロットだったら、即座に退学になっているはず。

(たとえばコーパイが、帽子をかぶるのをいやがるシーンがあった。
機長はそれを叱っていたが、ああいうことは、ありえない。
きびしい、本当にきびしい訓練を受けているから、航空大学の学生にしても、
帽子に命をかけている。それをかぶることに誇りを感じている。)

映画を見終わったあと、「息子も危険な職業を選んだものだ」と、
少し、こわくなった。
心配になった。
その息子は、今週から、B−777のシミュレーション訓練に入った。
それが終わると、来年からは実機での訓練に入る。
映画の中でも、機長になるためには、10年以上かかるというような
セリフが出てきた。
息子は2009年1月で、5年目に入る。


●怨念の印パ紛争

インドのモンバイで起きた、ホテル襲撃事件では、日本人が1人、犠牲になった。
テロリストたちは、どうやらパキスタンからやってきたらしい。
これでまた、インドとパキスタンの関係はさらに悪化しそう。

カシミール問題を一言で言えば、「水源地問題」。
水がからんでいるだけに、ともに譲らない。
昔、パキスタン人のアーマド君が、そう教えてくれた。

急成長のつづくインド。
政治的混乱がつづくパキスタン。
パキスタンの過激派たちが、インドを混乱させ、それでもって、
インドの成長にブレーキをかけようしているなら、
これはとんでもない、お門(かど)違い。
そんなことをすれば、喜ぶのは中国だけ。


●大井川の上流は、かつては深海の底だった?

かつて大井川の上流は、かつて深海の底だったという(中日新聞)。
数千万年も前の話だが、「ヘエ〜〜」と驚くこと、しばし。

ということは、数千万年後には、日本列島は太平洋の日本海溝の
底に沈むことだって考えられる。
その話をすると、ワイフが「あら、たいへん!」と。

しかしそれは数千万年後の話。
それまで人類が生きていることなど、ありえない。
人類の歴史は、たかだか20〜40万年。

気が遠くなるような話だが、たまには数千年前に思いをはせることも
楽しい。
「ほら、浜松の周辺にも、石灰岩でできた山があるだろ。つまり海の
貝や珊瑚などが蓄積されて、そういう山になった。
このあたりも、海の底だったかもしれない」と。

そう言い終わったあと、「本当にそうかな?」と思った。
石灰岩=海の底と、考えてよいのか。
あとでもう一度、調べてみることにする。

(付記)
ウィキペディア辞典によれば、石灰岩について、こうある。
「フズリナ(紡錘虫)、ウミユリ、サンゴ、貝類、石灰藻などの生物の殻(主成分は炭酸カルシウ
ム)が堆積して出来たもの」と。


●1月

この原稿から、09年1月号の原稿になる。
昨日、12月29日号の発行予約を入れた。
1月は、1月5日から。
実際には、1月2日(金)から、発行するつもり。

2009年は、どんな年になるのだろう。
自分なりに予想してみたい。

まず地球の問題。
温暖化による異常気象が、今年(08年)よりも
ひどくなるだろう。
新型インフルエンザが流行するかもしれない。
景気は、4月ごろから回復するというが、どうかな?
もう一度、ドサンと悪くなったあと、よくなるとしても、
7〜8月以降ではないか。

オバマ大統領が誕生したあと、米朝関係は多少
よくなるだろうが、そのあと、急速に悪化。
金xxの健康も、そのあたりまで。

日本では民主党政権が誕生するだろう。
が、それですべてめでたしというわけではない。
難問、山積。
現在の自民党政権を受け継ぐのも、楽ではない。

我が家は、どうか?

現状維持ができれば、ありがたい。
しかし不況の風は、すぐそこまできている。
こういうときは、じっとがまん。
嵐が過ぎ去るのを、静かに待つ。
ジタバタすれば、かえって自ら墓穴を掘る。

息子たちの健康を祈る。
だれに対して祈るというわけではないが、祈る。

私たち夫婦は、どうか?
あまり自信はないが、健康第一。
肉体の健康+精神の健康+脳みその健康。
ここはたがいに励ましあって、生きていくしかない。

私はどうか?

ウ〜〜〜ン?

私は前向きに生きていく。
うしろ向きな人生は、どうも私流ではない。
たとえば私の年代でも、墓地を用意したり、
家計図を作ったり、過去の友人を訪れあったりしている人たちがいる。
それぞれの人は、それぞれの思いがあってそうする。
もちろん、人、それぞれ。
私の生き方が正しいわけではない。
そういう人たちの生き方が、まちがっているわけでもない。
大切なことは、それぞれがそれぞれの生き方を、尊重すること。

その上で、私は私の生き方をする。
貫く。
私は墓地など、買わない。
家系図など作らない。
ただいつか、友人の消息をさがして回るようなことは、するかもしれない。
しかし今、ではない。
70歳とか80歳になったときに、それをする。

たとえば今、やりたいことが山のようにある。
今の私なら、オーストラリアやニュージーランドへ移住しようと
思えば、それも可能。
そういうことを、一度、真剣に考えてみたい。
ワイフはすでに、その気になっているが……。

とにかく生きている以上、生きていくしかない。
2009年になった以上、2009年を迎えるしかない。
08年の10月に、満61歳になった。
おまけの1年を、無事、過ごすことができた、
で、今は、おまけの2年目。

1日、1日を、感謝しながら、生きていく。


●9000万円を失った人

私の知人(友人ではない)に、今度のサブプライム・ローンショックにつづく
株価の暴落で、9000万円近くを失った人がいる。
「1億円が1000万円になってしまった」と。

少しおおげさな話に感じたので、確かめると、たしかにそうだった。
が、理由がよくわからない。
株式投資だけでは、そこまで損はしないはず。
信用取引にしても、いろいろなセイフティがかかっているはず。
が、話を聞くと、本当に株式投資で、損をしたらしい。

その知人は、どこかの○○セキュリィティ会社に、ほとんど全財産を
つぎこんでしまった。
俗にいう、「一本釣り」という手法である。
株価が下がれば、買う……下がれば、また買う……。
オーソドックスな株の買い方をつづけた。
それをズルズルと、1年近くもつづけた。
そしてその結果、株価が1年の間に10分の1になり、
1億円の財産が、1000万円になってしまった。

「ぼくは、セキュリィティ会社というのは、証券会社のことだとばかり
思っていた」と。

つまりセキュリィティ(警備保障)会社を証券会社とまちがえた(?)。
株の世界では、よくある話である。
しかしだからといって、それが理由ではない。
証券会社の株価だって、このところ、軒並み、値をさげている。

実は私も損をしたが、はじめから、上限を定めていた。
だから、その範囲での被害ですんだ。
一方、資産をこまかく分散していた。
債権投資で損をした分は、金価格の上昇で、補った。
が、この話をしたのが、いけなかった。

「ぼくは金の値段があがったから、プラスマイナス、ゼロになった」と話すと、
とたん、その知人は、情緒が不安定になった。

まずかった!
思慮が足りなかった!

「このヤロー」と、つかみかかってきそうな雰囲気になった。
別に、「ぼくは利口で、あなたはバカだ」と言ったつもりはなかった。
が、相手には、そう聞こえたらしい。

この世界には、金権教の信者が、たくさんいる。
そこにも、ここにも、たくさん、いる。
そういう人たちは、いつも「お金がすべて」という生き方をしている。
そういう人に向かって、私が言ったようなことを言うと、ここに
書いたようなことになる。

じゅうぶん、注意したほうがよい。

(注)
インターネットで調べてみたら、本当に、「○○セキュリティ」という
名前の会社が存在しているのがわかった。

株価もこの2〜3年で、たしかに8分の1から6分の1程度にまで
さがっている。
しかしこの会社と、知人の損失とは、関係ない。
少なくとも、私は確認していない。
誤解のないように!


●緑風荘(岐阜県美濃市、緑風荘)

岐阜県美濃市の長良川沿いに、緑風荘(りょくふうそう)という名前の旅館がある。
美濃市では、イチ押しの旅館である。
美濃市というより、この長良川一帯で、と言ったほうがよいかもしれない。
料金も安い。
ビジネス料理で、1泊8500円〜から(08年末)。
窓から、長良川の上流が、一望できる。

私は郷里の美濃市へ行くたびに、この旅館に泊まる。
泊まるたびに、言いようのない喜びを感ずる。
それには、こんな理由がある。

私は子どものころ、その長良川で泳いで育った。
まだ貧しい時代で、旅館に泊まるなどということは、夢のまた夢。
そんな時代に、いつもこのあたりを泳ぎながら、緑風荘を見あげていた。
「いつかは泊まってみたい」と、心のどこかで思っていた。
そのことはよく覚えていないが、今、こうして喜びを感ずるところからして、
そう思っていたことには、まちがいはない。

……実は今、その緑風荘に泊まっている。
今日は、兄と母の法事で、この美濃市にやってきた。
そしていつものように、この緑風荘に泊まった。
繰り返すが、よい旅館である。
料理はおいしいし、サービスもよい。
ここへ来ると、実家へ帰ったかのような安堵感を覚える。

で、ワイフは、すでにイビキをかいて、横で眠っている。
私は暗い電灯のもとで、こうしてパソコンを叩いている。
この雰囲気がよい。
この雰囲気が好き。
この旅館の常連客になって、もう30年近くになる。

岐阜県美濃市、緑風荘。

夏場は、すぐ下の長良川で、終日、泳ぐことができる。
少し料金を追加すると、鮎料理なども食べさせてくれる。
予約は早めに。
(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
岐阜県 美濃市 緑風荘 長良川 和紙の町 和紙 はやし浩司)


●置き物

実家には、いくつかの置き物が残っていた。
床の間に飾ってあったのもある。
箱の中に入っていたものもある。
その置き物を見ながら、こんなことを考えた。

ここに20万円があったとする。
自由に使えるお金である。
そのお金で、つぎのうちのどちらかを買えと
言われたら、あなたはどちらを買うだろうか。

(1)20万円の置き物
(2)20万円の液晶テレビ

置き物なら、家に飾っておくことができる。
いつかまたその値段で、だれかに売ることもできる。

一方液晶テレビなら、買ったその日から、楽しむことができる。
が、価値はどんどんとさがる。
4〜5年も使えば、ほとんど無価値になる。
故障すれば、なおさらである。

お金に余裕があるなら話は別だが、私自身は、置き物には
ほとんどといってよいほど、興味がない。
買うとしても、その中でも最高の1つ買って、それですます。

だから実家に残っていた置き物をながめながら、祖父や母は、
いったい、どういう気持でそういうものを買ったか、理解に
苦しんだ。
(祖母と父は、置き物には、ほとんど興味を示さなかった。)
財産のつもりだったのか?
それとも、家を飾るためだったのか?

もし飾るなら、最高によいものだけをひとつ買い、それで
すませばよい。
値段にして、3000円〜1、2万円のものを、いくつも
集めたところで、あまり意味はない。
よくても悪くても、ガラクタになるだけ。

それに(遺産?)として受け取る側も、実際のところ、困る。
趣味のちがいもある。
たとえばその中の1つに、鉄製の観音像があった。
背丈は40センチほど。
飾るといっても、飾る場所、そのものがない。

そんなわけで「財産」ということで置き物を買うなら、それなりに
売りやすいものを買ったほうがよい。
そうでないなら、……率直に言って、買わないほうがよい。

お金というのは、有効に使う。
「有効」というのは、自分の心の財産となるように使うという意味。
悪い例としては、自宅の玄関先に、キジの剥製(はくせい)や、
鎧兜(よろいかぶと)を飾っている人がいる。
それらがゴチャゴチャと並んでいたりすると、何かいやらしさすら
覚えてしまう。
「オレは金持ちだ」と言わんばかり。
よく「成金趣味」と酷評する人がいるが、私もそう思う。
それなりの文化性をもった人がそうするなら、まだよい。
そうでない人がそうするから、おかしい。
だから「成金趣味」となる。


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最前線の子育て論byはやし浩司(2942)

●割り箸事故

+++++++++++++++

割り箸がのどの奥に刺さって、
死んだ子どもがいた。
それについて、両親が、医療ミスと、
病院側を訴えた。

その判決が、昨日(08・12・2)
確定した。
判決は、無罪。
両親の気持ちもよく理解できるが、
医師がそこまで予見できたかというと、
それは無理ではなかったか。
医師に問われた罪としては、無罪。

私が陪審員なら、同じように判断した
だろうと思う。

+++++++++++++++

産経新聞(12・3)は、つぎのように伝える。

『東京都杉並区で平成11年、SSちゃん=当時(4)=が割りばしがのどに刺さって死亡した事
故で、医療ミスがあったとして、業務上過失致死罪に問われ、1、2審で無罪となったK大学付
属病院(東京都M市)耳鼻咽喉(いんこう)科の当時の担当医、NH医師(40)について、検察
当局は上告を断念する方針を決めたもようだ。上告期限の4日に最終決定する方針だが、憲
法違反や判例違反などの上告理由が見当たらないためとみられ、N医師の無罪が確定する』
と。

幼児教育においては、鉛筆は、危険な道具である。
箸や棒も、そうである。
私自身も、「あわや!」という思う場面を、何度も経験している。

鉛筆を口にくわえて遊ぶ子ども。
鉛筆を手にもって走る子ども。
鉛筆をもったまま、「ハイ」と言って手をあげる子ども。

私はそういう子どもを、きびしく指導している。
「ハイ」と言って手をあげたとき、横の子どもの顔を、それでついたりする。
つまり子どもに、鉛筆はもちろん、箸、棒などをもたせたまま、歩いたり、走らせたり
しない。
(実際には、多くの幼稚園では、鉛筆での指導を避けている。)

が、たいへん不幸な事件が起きた。
当時4歳の子どもが、割り箸を口にくわえていて、ころんだ。
その割り箸の一部が、脳の奥まで届き、そのため、その子どもが死んでしまった。
たいへん不幸な事件であり、両親の気持ちを察するに、あまりあるものがある。

が、この事件でとても残念なことは、(子どもが割り箸を口にくわえていた)ことに対する
責任論はどこかへ消えてしまい、医師による医療ミス論(?)だけがひとり歩き
してしまったこと。
(だからといって、親の責任を問うているわけではない。誤解のないように!)

もちろん両親も苦しんだことだろう。
自分たちの不注意を悔んだことだろう。
子を失った悲しみ、つらさというのは、その親でないとわからない。
が、その一方で、医療にも限界がある。
今回の裁判でも、その(限界)が争点になった。
「はたして、そこまで予見は可能だったか」と。

裁判所は、「それは無理だった」という判断をくだしたことになるが、
しかし疑問が残らないわけではない。

こうした医療訴訟では、原告側が勝訴する例は、きわめて少ない。
原告側に立って、医療ミスを証言する専門家、つまり医師そのものがいない。
証言を頼んでも、ほとんどのばあい、仲間意識もあって、断られてしまう。
見方を変えれば、その両親は、こうした医療訴訟の(壁)を破ることが
できなかったということにもなる。

で、話は脱線するが、この記事を読みながら、私はふと、こんなことを考えた。
もしこの事件が、幼稚園とか保育園とかで起きていたとしたら、どうか、と。
そのときは、幼稚園や保育園の過失責任がきびしく問われていたにちがいない。
問われて、当然である。
そしてこのばあいは、幼稚園側なり、保育園側が無罪となる可能性は、きわめて小さい。

……これ以上のコメントはここでは書けないが、これだけは注意したほうがよい。

この事件は、けっして他人ごとですませてはいけないということ。
もしあなたの子どもが、日常的に箸や鉛筆、それに棒などを口にくわえて遊んで
いるようなら、きびしく注意したほうがよい。

これは本当にあった事件だが、昔、鉄製の火箸を両手にもって走っていた
子ども(当時、小学3年生くらい)がいた。
その子どもがころんだ。
両手にもった火箸が、両目につきささってしまった。
そのときのその子どもは、今に至るまで、失明している。

(付記)

私の教室では、鉛筆をもって歩いている子どもを見つけたら、
すかさず手に、チューをすることにしている。
「鉛筆をもって歩いたら、手にチューしてあげるよ」と、
いつも口癖のように言っている。
この方法により、私の教室では、鉛筆をもって歩きまわる子どもは、
ほとんどいない。
禁止命令を出したり、叱ったりするのは、私の教え方ではない。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2943)

●12月3日(水曜日)

【兄弟姉妹の確執】

++++++++++++++++++++++

BLOGのほうに、こんな書き込み(相談)があった。
ある女性からのものだった。
年齢は、わからない。

で、その人(女性)は、現在、姉との確執に苦しんでいるという。
その人は姉に会うだけで、情緒が不安定になるという。
その姉は現在、実家で、両親と、3人暮らし。
ときどき電話をかけてきて、「親を介護するために、私はがんばっている」とか、
「犠牲になっている」とか、愚痴(ぐち)を言う。
その愚痴が、時として、1〜2時間以上もつづく。
毎月、10万円前後の生活費などを仕送りしているのだが、
「それでは足りない」とも。

そのため法事などで、実家へ帰るのが、苦痛でならないという。
さらに最近では、電話がかかってくるたびに、「姉からではないか」と、
これまた不安になるという。

+++++++++++++++++++

そういう状態になるまでには、いろいろあったらしい。
家庭の事情というのは、複雑。
外から表面的な部分だけを見て、判断してはいけない。
が、かなりの重症である。
といっても、兄弟姉妹で、そういう関係になるのは珍しくない。
おおざっぱにみて、約50%の人たちが、そうであると、私はみている。
反対に、兄弟姉妹が仲がよいというケースは、今、さがさなければ
ならないほど、少ない。

では、どうするか?

この問題だけは、自然体で臨むしかない。
なるようにしかならない。
「兄弟だから……」「姉妹だから……」と自分を縛る必要はない。
(相手は縛ってくるだろうが……。)
自分を縛ってもいけない。

昔からこう言う
『兄弟は他人の始まり』と。

仲が悪いことを、「悪」と決めつけてはいけない。
「仲よくしよう」と考える必要もない。
自分を縛れば縛るほど、窮屈になるだけ。
ストレスもたまる。

むしろ兄弟姉妹のほうが、一度、その関係が崩れると、
他人以上の他人になる。
他人ならたがいに距離を置くことができる。
冷却期間を置くこともできる。
しかし兄弟姉妹となると、それができない。
関係は、ますますこじれる。

兄弟姉妹だけではない。
従兄弟(いとこ)についても、同じ。
が、さらにやっかいなのは、親子。
親をだます子は珍しくないが、世の中には、子をだます親もいる。
そういう親をもったとき、子は、その自我群の中で、悶絶する。

ふつうの苦しみではない。
いつ晴れるともわからない、悶々とした苦しみである。

それにこうした問題には、地域性がある。
たとえば私のワイフは、生まれも育ちも、この浜松市育ち。
7人の兄弟姉妹がいるが、みな、仲がよい。
ほんとうに仲がよい。
何かあると、みな、たがいに助けあう。

が、おもしろいことに、その一方で、従兄弟どうし(=私の息子の代)のつながりが、
きわめて希薄。
交流はほとんど、ない。

一方、私の郷里のG県のほうでは、叔父、叔母、伯父、伯母のつながりが、濃密。
従兄弟どうしのつきあいも、濃密。
(「濃密」といっても、仲がよいということではない。誤解のないように!)
うるさいほど、濃密。
こうした意識のちがいは、その地域だけにずっと住んでいる人には理解できない。

それがわからなければ、外国の人たちとも比較してみるとよい。
日本人の姿が、より鮮明にわかるようになる。

が、意外だったのは、アメリカ人というのは、(家族の輪)をたいへん大切に
しているということ。
二男の嫁のウィルソン一家にしても、みな、仲がよい。
ほんとうに仲がよい。

で、こうしてながめてみると、一般的に、権威主義的な家庭では、親子にせよ、
兄弟姉妹にせよ、その関係がおかしくなりやすいということ。
とくに注意したいのが、悪玉親意識。
親が親風を吹かす家ほど、関係が崩れやすい。
「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と。
恩着せがましいことを口にする親ほど、嫌われる。
家族の絆(きずな)を破壊する。

一方、親が民主的というか、平等主義の家ほど、兄弟姉妹は、仲がよい。
親が、兄弟姉妹の間に立って、うまくその関係を調整している。
「家族を大切にする」というのは、そういうことをいう。

図式化すると、こうなる。

(まずい例)


↓↓↓
子子子

(好ましい例)
子←→親←→子←→親←→子

日本人は、伝統的に、権威主義的なものの考え方をする。
江戸時代の封建制度の亡霊をそのまま引きずっている。
親絶対教の信者も、多い。

しかし今どき、権威主義など、クソくらえ!

【はやし浩司より、Cさんへ】

いただきましたコメントは、お申し出のとおり、公表しません。
ただCさんの家族構成だけは、紹介させてください。

Cさんの家族構成:

姉(郷里のF県在住、老いた両親と同居)、Cさん(隣のY県在住)、弟(東京在住)。
Cさんの家は、庄屋の流れをくむ、昔からの名家。
弟は、親と決裂。
この20年間、一度も郷里へは帰ってきていない。
近くの従兄弟の家まではくるときもあるが、そのまま東京へ帰ってしまう。
内密にCさんとは連絡を取りあっているが、そのことを知っているのは、
Cさんの母親だけ。
Cさんの父親も姉も、そのことを知らない。

私自身も、少し形がちがいますが、同じような状況に立たされています。
……立たされていました。
しかしあるときから、居直ることにしました。
なるようになれと、自分に言って聞かせるようにしました。
兄弟姉妹だから、……と、『ダカラ論』で、自分を責めてはいけません。
責める必要もありません。

仲が悪ければ悪いで、それでよいのです。
(もちろんあえて喧嘩する必要もありませんが……。)
どの家も外から見ると、みんなうまくいっているように見えますが、内情はさまざま。
兄弟姉妹が仲よくいっている家族など、5つに1つもないのでは?
つまりこれは、あなた自身の心のもち方の問題ということになります。
あなた自身が、自ら作り出している問題ということです。

大切なのは、あなた自身が、自らを家族自我群から解き放つことです。
ひとりで生きていく勇気をもつことです。
もっと言えば、「郷里は死んだ」と、自分にそう言って聞かせることです。
あなた自身が、心のどこかで郷里に依存している。
あるいはあなたは自分が悪者になるのを、恐れている(?)。
それが今、あなたを苦しめている(?)。

あなたにとって郷里は大切かもしれませんが、その郷里とは縁を切りなさい。
あなたの姉があなたの悪口を言っているとしても、気にしないこと。
あなたの郷里は、今住んでいる、Y県Y市です。
そこを中心に、ものを考えればよいのです。
英語の格言にも、『2人の人に、いい顔はできない』というのがあります。
これをもじると、『2つの郷里で、いい顔はできない』となります。
あなたのことを悪く言う人がいたら、言わせておけばよいのです。
どうせその程度の人たちなのですから……。

あとは適当につきあって、それですます。
やるべきことはやりながら、深入りはしない。

が、コツがあります。
いくらあなたの姉が愚痴をこぼしたとしても、あなたは夫以外には、愚痴を
こぼしてはいけません。
少し前に書きましたが、『小言を聞いて、怒るな。怒ったときは、小言を言うな』です。
あなたの姉と接するときは、それを肝に銘じてください。
愚痴を言っても、自分が不愉快になるだけ。
後味の悪さが、残るだけ。
問題は何も解決しません。
解決しないばかりか、かえって人間関係を複雑にすることもあります。

あなたのケースでキー・パーソンは、あなたの弟さんということになります。
ひょっとしたら、あなた以上に、あなたの弟は苦しんでいるかもしれません。
一度、弟さんの立場になって、弟さんと話しあってみることです。
それだけでも、気が休まるかもしれません。

しかしやがてすぐ、この問題は解決します。
今は、遅々として、ものごとが進んでいかないように見えるかもしれませんが、
終わってみると、あっという間のできごと。
水が低い場所を求めて、自然と流れていくように、やがて落ち着くところに
落ち着きます。
大切なことは、ジタバタしないこと。
考えすぎないこと。
静かに時の流れの中に、身を任せます。
郷里の人たちだって、あなたが思っているほど、あなたたがたのことを考えてはいません。
遠く離れているから、郷里の人たちの心がわからないだけです。

あなたにとってはつらいことかもしれませんが、将来、あなたの姉が、独居老人に
なったところで、それはしかたのないこと。
またそんな先のことまでは、悩まないこと。
そのときがきたら、そのとき。
そのとき考えればよいのです。
無駄な取り越し苦労はしないこと!

今は、レベルの高い人たちと交際して、旅行をして、音楽を聴いて、本を読んで、
自分を磨いておくことです。
(映画鑑賞も楽しいですよ。)
その心の余裕が、いつかあなたを救ってくれます。
つまりあなたの姉が、やがてバカ(失礼!)に見えてくればしめたもの。
そのときあなたは、あなたの姉を乗り越え、今の問題を解決することができます。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●仏壇が入る

+++++++++++++++++

今日、私の家に仏壇が入った。
金仏壇といって、金箔が張りめぐらしてある。
私の家の宗派では、その金仏壇を使う。
見た目には、豪華な仏壇である。
ひょっとしたら、私の宗派は、もとは、公家(くげ)専用?

いや、そんなはずはない。
宗祖は、親鸞である。
どうして親鸞を宗祖とする宗派が、こんな豪華な
仏壇を使うのだろう。

ともかくも、何となく一人前になった感じがしたのは、
子どものころから仏壇を見て育ったせいかもしれない。
家も仏壇があって、一人前?
心のどこかで、ふと、そう思った。

+++++++++++++++++

●心の余裕

心の余裕は、お金の余裕と似ている?
ありあまるほどのお金をもっている人は、多少の損失など、気にしない。
昔から『金持ち、喧嘩せず』という。
おおらかに構えて、ハハハと笑ってすます。
(今の私のように……。←これはウソ。)

一方、その日の生活費にこと欠くような人は、当然のことながら、
お金にうるさい。
こまかい。
お金では幸福は買えないが、お金がないと、不幸になる。
「貧乏」といっても、それには限度がある。
食べ物もじゅうぶん買えないとなると、ことは深刻。
また1か月や2か月なら、何とか耐えられるが、1年、2年となると、
そうはいかない。
それが10年もつづいたりすると、ものの考え方そのものが、ゆがんでくる。
そういう意味で、貧乏は、幸福の大敵。

では心の余裕は、どうか?

恩師の田丸謙二先生は、いつもこう言っている。
「レベルの高い人と交際しなさい」と。

先生の言葉には、2つの意味がある。
ひとつは、自分を高めるため。
もうひとつは、心に余裕をもつため。

わかりやすい例で、説明してみよう。

たとえば音楽。
ときとしてすばらしい音楽に出会ったりすると、聴いているだけで
涙がポロポロとこぼれたりする。
それだけで心がシャワーか何かで、洗われていくかのように感じたりする。
崇高な気分になることもある。
このばあいは、すばらしい音楽が、自分を高めたことになる。

同時に、どういうのがすばらしい音楽で、またどういうのが
そうでないかを知ることができる。
音楽を聞き分けることができるようになる。
つまりこれが(心の余裕)ということになる。
重要な問題と、つまらない問題を、的確に判断できるようになる。
つまらない問題は、つまらない問題として、処理できるようになる。

こんなことがあった。

ある法事に顔を出したときのこと。
1人の女性(65歳くらい)が、孫娘に、お茶を出させていた。
一見ほほえましい光景に見えたが、孫娘の横で、その女性はこう言っていた。
「いいこと、お茶碗の絵柄は、相手の人に向けて出すのよ」と。

今どき、そんなことをこまごまと言う人がいるということ自体、
信じられない。
また絵柄といっても、安っぽい、印刷物。
茶碗12個で、1000円程度。
そんな茶碗に、絵柄もなにも、ない。
私はそれを聞いて、思わずフフと笑ってしまった(失礼!)。

「絵柄」というのは、それなりの絵柄をいう。
一客、数十万円もするような茶碗なら、そういうこともあるかもしれない。
そのおかしさがわからなければ、こう言いかえてもよい。

「自動販売機で買ってきたコーヒーなどを人に渡すときは、
ブランド名を相手側に向けて渡すのよ」と。

心の余裕のない人というのは、そういう人のことをいう。

では、どうするか?

心の余裕をつくるためには、日ごろから、音楽に親しんだり、
本を読んだりする。
いつも新しい情報に接し、見聞を広めていく。
レベルの高い人といっても、そうは出会えるものではない。
そのかわりとして、文化や芸術がある。
それ自体は、何の利益ももたらさないが、利益がないからこそ、
価値がある。

反対にこんな人を考えてみればよい。
朝から晩まで、考えることといえば、小銭を稼ぐことだけ。
他人のために働くとしても、どこか打算的。
他人の目を意識して、そうする。
このタイプの人は、当然、心の余裕がない人ということになる。

言うなれば、心の余裕というのは、いざというときのための
心の貯金のようなもの。
その貯金があれば、いざというとき、動ずることなく、そのことに
対処できる。
そうでない人は、そうでない。
『浅瀬に仇波(あだなみ)』というのは、そういう人をさして言う。
つまりささいなことで、大騒ぎする。

もし今、あなたが平和で豊かな生活を楽しんでいるなら、今こそ、
心の余裕を作るときと考えたらよい。
けっして享楽的になったり、その余裕を浪費するようなことをしては
いけない。
(その点も、お金と似ているが……。)
……とまあ、偉そうなことを書いてしまったが、これは私の努力目標
でもある。

この先、何があるかわからない。
田丸謙二先生は、先日、私にこう言った。
「年を取れば取るほど、健康は不可逆的に悪くなります」と。
60歳を過ぎれば、肉体の健康にせよ、精神、脳みその健康にせよ、
今よりよくなることなど、ありえない。
そうなったとき、自分をどう維持するか。
余裕をもって、それに対処できるか。
それとも狼狽(ろうばい)し、あわてふためくか。
これは私たちにとって、たいへん深刻な問題と考えてよい。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●権威主義(家意識、金権教)

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実は、私も、若いころは権威主義者だった。
「男は上、女は下」「夫は上、妻は下」と。
しかしこうした権威主義は、オーストラリア
では通用しない。
留学時代を通して、粉々に粉砕されてしまった。

で、今、郷里へ帰るたびに、いまだに権威主義が、
のさばっているのを知る。
たった数歳年上というだけで、年長風を吹かす。
そこでふと、こんなことを考える。

もし私があのままこの郷里に残っていたら、
私は今でも権威主義者のまま、愚かな行為を
繰り返しているだろう、と。

それは私にとっては、ぞっとするほど、
恐ろしいことでもある。

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●大きな家

親戚が集まった席で、こんな話が出た。
その人の消息を聞くと、「あの人は、○○市で、大きな家を建てなさった」とか、
「今は、郊外に立派な家を建てて、そこに住んでおられる」とか、など。

郷里では、家の大きさが、その人のステータスになっているらしい。
(家の大きさ)が、何かにつけて、話題になる。

……といっても、その感覚が理解できないわけではない。
私の体のどこかにも、そういう感覚が染みついている。
遠い遠い昔の(シミ)かもしれないが、たしかに、それは残っている。
私も子どものころ、大きな家にあこがれた。

しかし家の大きさで、その人の価値が決まるわけではない。
実に愚かでバカげた発想だが、そういう世界にどっぷりとつかっている人には、
それがわからない。
「あの人は偉い」と、「偉い」という言葉を平気でそれに添える。

(たとえば土地区画整理か何かの対象になって、莫大な補償金を手にして大きな家を
建てる人も、少なくない。
私が住んでいるこのあたりにも、そういう人は、多い。
そういう人も、はたして「偉い」というのか。)

(家意識)というのは、それをいう。
(家父長意識)も、そこから生まれる。
まさに権威主義の始まりである。

で、そういうとき、私の頭の中で、バチバチと火花が飛ぶのがわかる。
脳みそがショートする。

●金権教

金権教も似たようなもの。
私のばあい、幸か不幸か、学生時代、世界中から集まった皇族、王族の連中と
寝起きを共にした。
ふつうの金持ちではない。
その国の大使館の館員が、常時護衛につくような金持ちである。
そういう金持ちたちを見ているから、今、多少の金持ちを見ても、驚かない。

友人のP君にしても、今は、レーシングカー・チームをもち、世界中を
飛び回っている。
先日、彼のBLOGを見たら、イギリスで、一台1億1000万円もする、
ロータスEを、10台まとめて購入したとある。
そういう人を、金持ちという。

どうせ金権教を信奉するなら、その程度の金持ちになったらよい。
が、もしそれが無理というのなら、金権教など、早めに捨てたほうがよい。
多少の小銭を集めたくらいで威張っている人を見ると、笑えてくる。

(家意識)も似たようなもの。

話をつづけるが、私の隣の部屋にいた、ディヨン君(偽名だった。本名は
ソルマルディ君)は、現在、ジャカルタの1の1で、王様をしている。
当時は王子だったが、そういう人が(家意識)をもつなら、話はわかる。
そこらの人が、自意識過剰のまま、家意識にこだわるから、おかしい。

が、私の郷里では、いまだにその(家意識)が、残っている。
そしてそれが時折、顔を出す。
私はそういう人たちの話に、どう反応したらよいのか。

一方、恩師の田丸謙二先生の家は、鎌倉市の郊外にある。
今度娘さん夫婦が、隣に家を新築して同居することになったという。
が、少なくとも今現在は、古い、ペンキがはげたような家である。

世界国際触媒学会の会長なども歴任し、天皇陛下とテニスをするような
先生でも、そんな家である。
もし私の郷里の人たちが見たら、「みすぼらしい家」と思うにちがいない。
しかしそう思う方が、バカ。
本物の世間を知らない。
少しは自分に恥じたらよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
家意識、金権教)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●子どもの携帯電話

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携帯電話の普及には、ものすごいものがある。
高校生の3分の1が、1日、3時間以上も
携帯電話を使っているという。

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大阪府が、府内の小中高の児童生徒計約1万3600人を対象に実施した調査結果に
よれば、つぎのようである。

1日に3時間以上携帯を使う中学生は18・2%、高校生は29・5%。
『メール受信時、3分以内の返信』を心がけている中学1年生は17・1%、
小6でも16・8%。
1日101回以上メールを送信するのは、最も多かった高1女子では、
8・0%に上った』(読売新聞・08・12・5)と。

つまり高校生の3分の1が、1日、3時間以上携帯を使い、高校1年生の女子のうち、
8%が、101回以上、メールを送信しているという。
授業中、机の下で携帯電話を使ってメールを交換している姿など、今では、
どこの学校でも見られる、ごくふつうの光景である。
しかしそれにしても、3時間とは!
そんなに使わなければならないような理由が、あるのだろうか。

ただこんなことは言える。
電話料が安くなったせいもあるが、私のばあいでも、このところ電話というと、
1時間前後話すのが、ふつうになってしまった。
ダラダラといつまでも話す習慣が身についてしまった。
簡潔に、短く、要点だけを話すという習慣そのものが、消えてしまった。

子どものころは、10分も話していると、横から親に、「やめなさい!」と、
よく言われた。
そのため電話をかけるということは、同時に時間との勝負でもあった。
それが今では、1時間。
電話を早く切ったりすると、かえって失礼ではないかと思うこともある。
相手の様子に合わせて、のんびりと話す。

もちろん電話と携帯電話のメールはちがう。
(声)と(文字)のちがいということになる。
が、である。
先日も、2人の高校生が一緒に歩きながら、たがいにメールを打ちあっている姿を
見かけた。
声では言えないことも、メールだと言えるということか?

そこで大阪府のH知事は、「ケータイ禁止令」なるものを発令した。
しかし今どき、携帯電話を禁止しても意味はない。
問題は携帯電話にあるのではなく、どう使うかという点にある。
つまり「ルールの問題」。

多くの学校では、校内への携帯電話の持ち込みを禁止している。
だったらそういうルールを徹底すればよい。
たとえば玄関のところに、携帯電話の保管場所のようなところを設置するなど。
その一方で、ルールを破ったら、即刻携帯電話を取りあげるとか、など。
緊急のばあいは、教師の許可を得て、携帯電話を使うというルールもある。

私は(ルールの徹底)で、この問題は解決できると思う。
「禁止令」まで出すのは、どこか独裁的。
相手が子どもだからといって、こういう傲慢なことはしてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子供と携帯電話 携帯電話 子どもと携帯電話 禁止命令)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2944)

●12月6日

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このところ怖い夢を見て、夜中に目が覚める
ことがある。
睡眠時無呼吸症候群(SAS)※ではないかと思う。
目が覚めたとき、息が苦しく、ハーハーと深呼吸を
繰り返すので、そう思う。

知人の1人もそうだったが、体重を80キロから
70キロに減らしたら、それが治ったという。
どういう因果関係があるのか、私にはわからないが、
肥満はよくないらしい。
もう少し体重を減らしてみよう。

そういえば、母の四九日忌の法事が終わったあといから、
食事の量がふえた。
体重も、63キロ台から、65キロ台に!

少しリバウンドが、始まっているのかもしれない。

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●正直

最近、私にこう言う人がいる。
「お母さんが亡くなって、さぞかし、つらいことでしょう?」と。
で、そういうとき、私も一応、世間体を気にして、「そうですね」「ご心配、
ありがとうございます」と答えるようにしている。……していた。

しかしどうも居心地が悪い。
ウソではないが、しかし私は私の心を偽っている(?)。
母が死んで、「つらい」と思ったことは、この2か月、一度もない。
正直に告白すれば、私は、ほっとしている。
心の重荷が取れたよう。
この安堵感は、どこからくるものなのか。
しかしほっとしているのは、事実。

私と母の関係は、古くは、私が高校生のときに切れている。
それに私はワイフと結婚してからも、マザコン・タイプの男だったが、
それは愛情に根ざしたものではない。
愛情があったから、母を大切にしていたわけではない。
つまりは、母に、そうインプットされていただけ。

加えて母は、92歳だった。
天命とか、寿命とかいう言葉を使う人もいる。
介護もたいへんだったが、兄の分もあり、費用の負担も大きかった。
だから一方で、「100歳までは、しかたないかな」と思いつつも、
「100歳を超えたらどうしよう」とも思っていた。
母が100歳になれば、私は70歳近くになっている。
それまで私のほうが生きているという保証はない。
だからほっとした。
少なくとも、今は、森S一が歌う『おふくろさん』のような心境ではない。
(この先のことはわからないが……。)

ただひとつの(けじめ)として、葬儀、法事だけはしっかりとした。
母の戒名には、「院号」をつけてもらった。
母のためというよりは、親戚縁者の心を休めるために、そうした。
不要な波風を立てるのは、最小限にしたい。
仏壇を新調したのも、そのため。

それからこれは私の性分だが、何でもきちんと、一通りそろっていないと、
気がすまない。
それで今日も、仏壇屋に行って、あれこれと品をそろえてきた。
たとえば「精入れ」の儀式にしても、私の宗派では、赤いローソクが
必要という。
私は先日、それを捨ててしまった。
「クリスマスか何かのローソク」と思ってしまった。
それを住職に電話で話すと、住職は明るい声で笑った。
(ああいう住職となら、この先、仲よくできそう!)
ほかに香をたく道具一式、金ぴかの供物置き、などなど。

で、このエッセーのタイトルは、『正直』。
その正直について、書く。

以前にもその人のことを書いたが、その人の父親も、当時、特別養護老人
ホームに入っていた。
そこで私が「見舞いに行きますか?」と聞くと、その人は笑いながら、
こう言った。
「いいや……。この3か月、行ってないかなあ……。6か月になるかも
しれない」と。

私はその人の言葉に、すがすがしいものを感じた。
ふつうなら、自分が親不幸者と思われるのがいやで、こういうばあい、
適当なウソをつく。
しかしその人は、正直に、そう言った。
その言葉を聞いて、私はその人がますます好きになった。
というのも、中には、表面的な関係だけをみて、相手を判断する人がいる。
「あの人は、親の見舞いにも、きちんと言っていない」
「だから親不孝者だ」と。
そして自分も、その表面的な関係だけをとりつくろって、それでよしとする。

私はそういう偽善が、大嫌い。
偽善者が、大嫌い。
見聞きしただけで、ヘドが出る。

だから私は、これからは正直に言うことにする。
書くときも、そうだ。

私は兄や母が死んで、ほっとしている。
重圧感から解放されて、ほっとしている。
どうして、そう感ずることが悪いことなのか!
(ときどきふと、さみしく思うことはあるが……、しかしその程度。)

(補注※)「睡眠時無呼吸症候群」について

『SAS(睡眠時無呼吸症候群)NET』は、つぎのように説明している。

(病気)

私たちの睡眠を妨げる要因のひとつとして最近注目されている病気に、睡眠時無呼吸症候群
があります。文字どおり、眠っているときに無呼吸状態になる病気で、SAS (Sleep Apnea 
Syndrome)とも呼ばれています。

無呼吸状態とは、呼吸が10秒以上止まっていることを指し、この状態が7時間に30回以上、
あるいは1時間あたり5回以上あると睡眠時無呼吸症候群(SAS)となります。

(原因、睡眠時無呼吸症候群になりやすい人)

太っていてあごや首に脂肪がついている
アデノイドなどの病気により、扁桃が肥大している
花粉症やアレルギーなどで、鼻が詰まりやすい
アゴが小さい
アルコールの摂取により筋肉がゆるんで、のどがふさがりやすくなる


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08+++++++++はやし浩司

●アメリカがデフォルト(債務不履行)に!

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オバマ大統領は、就任直後、デフォルトを
宣言するらしい。
そんなニュースが、あちこちの
経済サイトに載り始めた。

デフォルト、つまり債務不履行=国家破綻。

しかしアメリカがデフォルトしたら、世界経済は、
さらに大きな激震に見舞われることになる。
サブプライム・ショック程度ではすまないだろう。

株価はどん底から、さらにその下のどん底に向かう。
たとえば先日、1億円の財産を1000万円にしてしまった女性がいた。
その女性は、それを嘆いていた。
しかしまだそれでもよいほう。
へたをすれば、その1000万円が、つぎには、
100万円になってしまうかもしれない。

アメリカがデフォルトするというのは、そういう意味である。

++++++++++++++++++

実のところ、今、この瞬間にアメリカがデフォルトしても、何もおかしくない。
アメリカの貿易赤字は、天文学的数字を、何倍も超えている。
しかし一方で、アメリカ・ドルは、基軸通貨としての地位を保っている。
かろうじて、……というか、ほかにそれに代わる通貨が、今のところまだ、ない。
しかしもしアメリカがデフォルトするようなことになると、日本経済もそのまま
奈落の底に叩き落とされることになる。
今まで懸命にためこんできたドル資産が、紙くず同然になってしまう。

で、そのあとのことだが、世界の二極化は一気に進む。
(これは私の素人予測だから、あまり気にしないで、読んでほしい。)
勝ち組と負け組に2つに大きく分かれる。

勝ち組として残るのは、このアジアでは、日本と中国。
残りの国々は、負け組として、アメリカと運命を共にする。
ヨーロッパでは、ドイツとロシアが残る。

が、問題は、そのあと。
負け組の国々の政情が、これまた一気に不安定化する。
むしろ、こちらのほうが怖ろしい。
テロも続発し、規模も拡大するだろう。
テロリストたちが核兵器を使うことも、考えられる。
いちばんあぶないのは、テルアビブ(イスラエル)、東京、ソウル(韓国)、
それにワシントン(アメリカ)。

その対策は、きちんとできているのか?
もしアメリカがデフォルトすれば、日本は後ろ盾を失うことになる。
アジアの中で、孤立することになる。
そのとき日本は、単独で、中国やK国と対峙しなければならない。
その能力は、あるのか。

オバマ大統領は、まず一度、アメリカ経済を清算した上で、
経済再建を考えている。
ひとつの家にたとえるなら、一度自己破産を宣言して、借金をチャラに
した上で、つぎの策を考えている。

……少しずつだが、オバマ大統領の政策が見えてきた。
ズルズルと重荷を背負って大統領職をつづけるよりも、そのほうが楽。
すべての責任はすべて、ブッシュ大統領にかぶせることができる。

その鍵を握るのが、ビッグ3の再建策。
オバマは、ビッグ3を切い捨てたあと、デフォルトを宣言する。
私はそう読んだ。

2009年は、アメリカのみならず、世界経済にとっても、たいへんな
年になりそうである。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●映画『WALL−E』を見る

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昨夜、仕事が終わったとき、ワイフが迎えに来てくれた。
で、それをよいことに、つまり、そのまま2人で映画館へ足を運んだ。
見たのは、『WALL−E』。
アメリカに住む孫が、先日、ワォーリーのおもちゃをもっていたので、
それ以来、ずっと気になっていた。

『WALL−E』は、『ニモ』に似た、子ども向けの映画。
おとなも楽しめるが、やはり、どこか物足りない。
童心に返るといっても、そこには限界がある。
で、星は、3つの★★★。
子どもなら、星を5つつけるだろう。

見所は、ロボットの表情。
ウォーリィはしぐさで、イーバアも目だけで、それぞれの心を
表現していた。
それがちゃんと観客に伝わってくるから、不思議!

が、あまりほめてばかりいては、評論にならないので、ワイフの
意見を紹介する。

(1)登場する人間が、大統領も含めて、みんなバカみたい。
(2)宇宙船に行くときは、ロケット噴射で、帰りは、ワープ航法で、
矛盾している。

つぎに見たい映画は、『地球が静止する日』『ミラーズ』『ザ・ムーン』。
この3本は、必ず映画館で見る!

なお映画に行くとき、少し時間があったので、駅前のBカメラへ。
そこでワイフは、ポータブルのDVDプレーヤーを買った。

さっそく家に帰って、それを使ってみた。
2人でふとんの中で、ロシア映画を見た。
おかげで今朝は、朝から軽い偏頭痛。
朝方(Zミック)を半錠のんで、また寝なおす。

おかげで偏頭痛は消えた。
快適な朝だ。
しかし時計を見ると、午前10時!
こうして私の週末は、はじまった。

(注)「Zミック」(ゾーミック)というのは、偏頭痛用の薬。
たいへんよく効く。
ただし血管を収縮させる副作用があるので、私は加減をみながら、
量を決めて服用している。
また常用は危険とのこと。
医師とよく相談して服用するのがよい。
私のばあい、「あぶないかな?」と思ったときは、4分の1〜8分の1を、
予防的にのんでいる。
(偏頭痛が起こる前には、それなりの前兆があるのでわかる。)
1錠を丸々のむようなことは、めったにない。

なお偏頭痛薬をのむときは、ほかのハーブ系の精神安定剤を同時にのむと
よいのでは……?
私はいつもそうしている。

若いころは、原因もわからず、当然、治療法も薬もなく、偏頭痛に苦しんだ。
一時は脳腫瘍を疑われたこともある。
ここ10年は、すぐれた薬が開発され、私は偏頭痛から解放された。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2945)

●口愛期(口唇期)(Pornographic DVD)

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フロイトは、性的エネルギーの
発達段階を、口愛期→肛門期→
男根期→(潜伏期)→性器期の
4段階に分けた。

この世界では、英語のアルファベット
のように、だれでも知っている話
である。

その口愛期について、先日、
ポルノDVDを見ていて、
こんなことを考えた。

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ポルノDVDというか、ポルノDVDだが、俗にいう「素人ナンパもの」と呼ばれる、
ポルノDVDである。
「たまにはいいだろう」と思って、DVDショップで、一本を借りた。
(いつも見ているわけではない。どこか弁解がましいが……。)

そのDVDを見ていて、こんなことを考えた。

「素人ナンパもの」というDVDがどういうものであるか、健康な男性なら、
それを知らない人はいないと思う。
街角で男が若い女性を、「モデルになってください」とか、「水着を試着してみて
ください」とか言って、声をかける。
「下着調査です。アンケートに答えてくれるだけで、○万円払います」とか、など。
そう言って近づき、女性を誘惑する。

そのDVDの中で、やや中年風の男(30代)が、ふとこう言っていた。
「30人に声をかければ、1人はOK」と。
30人というが、つぎつぎと声をかけるので、時間にすれば、1時間あまりで
1人ということになる。

こうして男たちは、若い女性をホテルに連れ込む。
少しずつ、女性をその気にさせて、やがて衣服を脱がし始める。
私はそれを見ながら、年頃の娘をもつ親たちは、こういう現実を知ったら、
ショックを受けるだろうなと思った。

が、それは途中まで。
ある一線を超えると、今度は女性のほうが本気になってしまう。
立場が逆転する。
あれほどモジモジしていた女性が、今度は、自ら男性の体を求め始める。
(やらせ)とか(演技)によるものではない。
本気である。
全裸になり、顔を丸出しにし、最後は体内での射精まで許してしまう。
そしてその段階になると、今度は男性のアレを自ら求め、それを口に含む。
含むというよりは、むさぼるように、しゃぶる。
人間というよりは、動物。
女性というよりは、メス。
そんな感じになる。

……といっても、それが悪いことだとは、私は思わない。
人間がなぜ生きるかといえば、フロイトの言葉を借りるまでもなく、
(生存)のためである。
子孫を後世に残すためである。
「性的エネルギー」が人間の生きる力の根源になっているという理論も、
そこから生まれた。

で、男性は女性のアレを、女性は男性のアレを、むさぼるように、しゃぶりあう。
ともに恍惚状態。
が、それこそまさに、「口愛期(口唇期)」!
男も女も、性的行為をしながら、乳幼児期の発達段階を再現している!

フロイトの時代には、もちろんビデオもDVDもなかった。
だからついでにこうも考えた。
「フロイトという人は、ずいぶんとスケベな人だったんだな」と。

自分だけの体験なら、そこまで性的エネルギーなるものを、体系化などできなかったはず。
たとえば私も子どものころ、女性の胸を見ただけでドキドキしたのを覚えている。
いや、そのことよりも、そういうふうになる私が、おかしいのではないかと、
悩んだことがある。
だから、そういうことは人には話さなかった。

が、やがて友だちもみな、自分と同じように考えているのを知った。
しかし、そこまで。
今のように、ビデオもDVDもない時代である。
みなが、どの程度のことをしているかまでは、知らなかった。

が、フロイトはそうした男と女の営みを、実際に何10例も見ていたにちがいない。
そういう経験から、ここに書いたように、ひとつの体系を導いた。……導くことが
できた。
言いかえると、男性が女性のアレを、女性が男性のアレを、それぞれしゃぶりあう。
そういう光景を見ながら、「口愛期」を知った(?)。

現在、フロイトは、その世界では神格化されている。
あちこちの「フロイト・サイト」をのぞいてみたが、私のような不謹慎な意見を
書いているHPやBLOGは、どこにもなかった。

フロイトの写真にしても、そういうことをみじんも思わせないような雰囲気を
漂わせている。
まさに大研究家といった感じ。
だからこんなことを書くと、その世界の人たちに、袋叩きにあうかもしれない。

が、それはそれとして、そのDVDを見ながら、私は、もうひとつのことを発見した。
フロイトは、性的エネルギー(リビドー)が、人間の生きる力の根幹にあると説いた。
そしてそれを満足させる第一段階として、口愛期(口唇期)を説いた。
が、それだけではないのではないか。
それを説明するために、こんな話もある。

男性というのは、(これはあくまでも友人たちの話を総合してのことだが……)、
女性のどこに性的魅力を感ずるかは、みなちがう。
胸や腰が多いが、中には、大きな尻や、体臭に性的魅力を感ずる男性もいる。

で、これは私が1970年に、オーストラリアで、ベトナムから帰ってきた
兵士から、直接聞いた話である。

オーストラリア兵もベトナムで戦闘に参加していたが、前線からサイゴンに帰って
きた兵士たちは、みな、(女)を買いに町へ出たという。
女を買うといっても、セッXが目的ではない。
(BLOGの禁止コードにひかかるため、「セッX」と表記する。)
女の乳房を吸うためである。
みな、一晩中、女たちの胸を吸って、気を休めていた、と。

その姿は、まさに母親の乳房を吸って、心を休める乳幼児の姿であったにちがいない。
つまり口愛期には、2面性がある。

口唇に刺激を受けることで、フロイトが説くように、性的エネルギー(リビドー)を
満足させる部分と、それにもうひとつ。
安心感を覚える部分の2つである。
つまり男性は、(女性も基本的には同じと考えるが)、女性の乳房を吸うことによって、
性的エネルギーを満足させると同時に、安心感を覚える。
それは究極の安心感ともいえるものと考えてよい。
そのことは、DVDの中の男と女を見ればわかる。
その数時間前までは、まったく見知らぬ男であったにもかかわらず、女性のほうは、
体内での射精まで許してしまう!

そうした行為が何を意味するか、その瞬間にでも、女性にわからないはずはない。
が、理性や知性は、そのままどこかへ吹き飛んでしまう。

フロイトは、性的エネルギーの発達段階を、口愛期→肛門期→男根期→(潜伏期)
→性器期の4段階に分けた。
分けながら、それを(満足させる)という観点だけで、考えた。
しかしこれら4つの段階には、もう一つ、重要な要素があるのではないか。
それが(安心感を覚える)という要素である。

で、このことも、実際の私たちの性生活にあてはめて考えてみるとわかる。
セッXにしても、それで満足感を覚えながらも、そのあと、愛しあう夫婦であれば、
たがいに安心感を覚える。
そのままの体位を維持しながら、眠ってしまうこともある。

ただこれは私がDVDを見た範囲で感じたことだが、男というのは、射精と同時に、
急速に、女性の体に興味を失う。
時間にすれば、1〜2分の間に、そうなる。
一方、女性というのは、そのあとも、まだしばらく余韻が残るというか、安心感を
求めて、恍惚の世界をさまよう。
DVDを見た感じでは、5〜10分は、それがつづくのでは?
つまりこの部分が、(安心感を覚える)という部分になる(?)。

天下のフロイト理論にケチをつけたようで、気がひける。
しかも出典(?)が、ポルノDVDとあっては、どうしようもない。
自分でも、それがよくわかっている。
あくまでも余興のひとつとして、このエッセーを読んでほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
口愛期 口唇期 フロイト リビドー リピドー 性的エネルギー)

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子どもが自慰をするとき

●ある母親からの質問

 ある母親からこんな相談が寄せられた。いわく、「私が居間で昼寝をしていたときのこと。六
歳になった息子が、そっと体を私の腰にすりよせてきました。小さいながらもペニスが固くなっ
ているのがわかりました。やめさせたかったのですが、そうすれば息子のプライドをキズつける
ように感じたので、そのまま黙ってウソ寝をしていました。こういうとき、どう対処したらいいので
しょうか」(32歳母親)と。

●罪悪感をもたせないように

 フロイトは幼児の性欲について、次の三段階に分けている。(1)口唇期……口の中にいろい
ろなものを入れて快感を覚える。(2)肛門期……排便、排尿の快感がきっかけとなって肛門に
興味を示したり、そこをいじったりする。(3)男根期……満四歳くらいから、性器に特別の関心
をもつようになる。

 自慰に限らず、子どもがふつうでない行為を、習慣的に繰り返すときは、まず心の中のストレ
ス(生理的ひずみ)を疑ってみる。子どもはストレスを解消するために、何らかの代わりの行為
をする。これを代償行為という。指しゃぶり、爪かみ、髪いじり、体ゆすり、手洗いグセなど。自
慰もその一つと考える。

つまりこういう行為が日常的に見られたら、子どもの周辺にそのストレスの原因(ストレッサー)
となっているものがないかをさぐってみる。ふつう何らかの情緒不安症状(ふさぎ込み、ぐずぐ
ず、イライラ、気分のムラ、気難しい、興奮、衝動行為、暴力、暴言)をともなうことが多い。そ
のため頭ごなしの禁止命令は意味がないだけではなく、かえって症状を悪化させることもある
ので注意する。

●スキンシップは大切に

 さらに幼児のばあい、接触願望としての自慰もある。幼児は肌をすり合わせることにより、自
分の情緒を調整しようとする。反対にこのスキンシップが不足すると、情緒が不安定になり、情
緒障害や精神不安の遠因となることもある。子どもが理由もなくぐずったり、訳のわからないこ
とを言って、親をてこずらせるようなときは、そっと子どもを抱いてみるとよい。最初は抵抗する
そぶりを見せるかもしれないが、やがて静かに落ちつく。

 この相談のケースでは、親は子どもに遠慮する必要はない。いやだったらいやだと言い、サ
ラッと受け流すようにする。罪悪感をもたせないようにするのがコツ。

 一般論として、男児の性教育は父親に、女児の性教育は母親に任すとよい。異性だとどうし
ても、そこにとまどいが生まれ、そのとまどいが、子どもの異性観や性意識をゆがめることが
ある。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2946)

●12月7日

【心豊かな人生】

●時を追わない(Don't chase up with Time, or don't haste to live.)

65歳になると、国民年金が、手に入るようになる。
「あと4年かア?」と思ったところで、思考停止。
何も急いで65歳になることはない。
今は今。
そのときは、そのとき。
年金をアテにしてはいけない。
アテにして、急いではいけない。
大切なことは、そのときも、そして70歳になっても、75歳になっても、
健康で、元気に働けること。
それで年金がもらえないというのであれば、それこそ御(おん)の字。
年金を手にするために、仕事をやめるのは、バカげている。
生きがいにブレーキをかけるのは、バカげている。

だからあわてて65歳になる必要はない。
今の(この時)を、懸命に生きる。

♪もういくつ歳取ると、
 年金もらえるの?
 年金もらったら、孫の世話。
 庭をいじって、遊びましょう。
 早く来い、来い、65歳!
(「お正月」のメロディーで。)

そんな人生など、まっぴら、ごめん。


●ゴルゴ13(Our Prime Minister of Japan prefers to read Comics.)

このところコンビニへ行くたびに、コミック『ゴルゴ13』が気になる。
我が国、総理大臣閣下のご愛読書である。
今、驚いたことにどこへ行っても、10〜20冊はそれが並んでいる。
AS首相のおかげで(?)、人気が急上昇している。……らしい。

で、私も若いころは、少しは読んだ。
殺しと女、それに国際政治(?)、プラス、陰謀。
この4つが複雑にからみあいながら、物語は展開する。

おもしろいコミックとは思うが、そこまで。
愛読書にするような本ではない。
テーマがテーマであるだけに、つまり殺人がテーマであるだけに、
いくら読んでも、得るものは何もない(失礼!)。

元総理大臣のNS氏は、そういうAS首相をさして、「AS君はバカだな」と
言ったと伝えられている(中日新聞)。
まったく同感である。

そのせいか、AS首相の国会答弁は、言葉(=日本語という言語)に
なっていない。
なさけないほど、だらしない。
美しい日本語は、どこへ消えたのか?

それについては、何度も書いてきたので、ここではここまで。


●兄弟の確執問題(Troubles between Brothers & Sisters)

++++++++++++++++++++++

このところ、兄弟の確執問題について書くことが
多くなった。
そのせいか、BLOGへの書き込みも多くなった。
相談も、いくつか届いている。
しかし私は、この問題については、詳しくない。
それにそれぞれの家庭には、複雑な事情がある。
そこ至るまでに、これまた複雑な経緯(いきさつ)がある。
表面的な部分だけを見て、あるいは一方的な意見だけを
聞いて、あれこれ判断するのは、慎みたい。

+++++++++++++++++++++

先日、「ぼくは兄弟の縁を切った」という人に出会った。
名前をX氏としておく。
理由をたずねると、「兄貴が、ぼくの妻に手を出したから」と。

しかしこんな話は、身内の人にもできるものではない。
知っているのは、その人だけということになる。
が、その周囲の人たちは、それを知らない。
知らないから、勝手なことを言う。
そういう例も、ある。

前にも書いたが、『兄弟は、他人の始まり』。
兄弟姉妹であるがゆえに、他人以上の他人になることも珍しくない。
たがいに憎しみあっている兄弟姉妹さえ、いる。
X氏にしても、「兄貴を殺してやりたい」と言っている。
が、事情を知らない親類縁者たちは、表面的な部分だけを見て、
「離婚するのは、一家の恥」とか、「兄弟の仲が悪いのはおかしい」とか言って、
X氏を責める。
「何があっても、兄を立てて、家を守るのは、お前の義務」と言ってきた、
叔父もいるとか。

いろいろある。
とにかく、いろいろある。
そこへ両親の介護問題、さらには遺産問題がからんでくると、さらにこじれる。
葬儀場で、兄弟どうしで怒鳴りあいの喧嘩をした人もいる。
兄のほうが、神妙な顔をして参列者に礼の言葉を述べたとき、弟のほうが、
こう言って叫んだという。
「そんなウソは、やめろ!」と。
それでその場で大喧嘩になってしまった。

そこで私やあなたの問題。

仮に今、私やあなたが、兄弟姉妹との仲が悪いといっても、気にすることはない。
悪いのが当たり前という前提で考える。
そのことは、子どもの世界をのぞいてみるとわかる。

たとえば1人の男の子がいる。
生まれたときは、皆が、「蝶よ、花よ」と手をかける。
愛情をかける。
が、つぎの子が生まれると、今度は、そちらに手をかける。
愛情をかける。
こうして上の子どもは、慢性的な飢餓状態に置かれる。
親は、「平等」という言葉を使う。
「兄も弟も平等にかわいがっています」と。
しかし兄にしてみれば、その平等という言葉が許せない。
今まで100あった愛情が、半分の50に減らされたことが不満なのだ。

そこで兄のほうは、仮面をかぶるようになる。
心理学の世界でも、これを「反動形成」という。
弟思いの、よい兄を演ずることによって、親の愛情を自分に寄せようとする。
あるいは反対に、赤ちゃん返りを起こして、情緒そのものが不安定になる
こともある。

こうして兄は、(姉もそうだが……)、生活態度が防衛的になる。
わかりやすく言えば、ケチになる※。
「自分のものは、自分のもの」「弟のものも、自分のもの」と考えるようになる。
ふつうのケチではない。
「1円すらも、損をしたくない」というケチになる。
さらにそれが進むと、生活態度そのものまで防衛的になる。
他人が自分の家の前に車を止めただけで、警察に通報し、パトカーを
呼んでいた人もいた。

が、表面的には仲がよくても、それはあくまでも(表面)。
こうしてたがいに、(他人)になっていく。
長い時間をかけて、(他人)になっていく。

冒頭に書いたX氏にしても、兄のほうは、「弟の妻は、オレのもの」と
考えていたかもしれない。
(もちろんその反対のケース、つまり弟のほうが、兄の妻と関係をもつ
ようなケースもあるが……。)
ふつうなら、そういうふうには考えない。
つまりふつうなら、「弟の妻は、オレのもの」とは考えない。
しかしその(ふつう)が通じなくなるところが、兄弟姉妹の確執の
こわいところでもある。
「他人以上の他人になる」というのは、そういう意味である。

繰り返しになるが、兄弟姉妹だからといって、仲よくしなければならないとか、
そういうふうには考えないほうがよい。
万事、自然体。
あとは居直って生きていく。

(注※)……長男、長女がケチになりやすいことについて、フロイトは、
「肛門期」における発達段階に問題があると説く。
「糞をためる快感」が、「お金を貯める快感」につながっているという。
つまりケチな人は、それだけ精神的に未完成とみてよい。


●午前6時起き(I woke up at 6 o'clock this morning)

今朝は、なんと午前6時に起きた。
窓の外を見ると、うっすらと水色の空が見えた。
今日も快晴。

ストーブにスイッチを入れるとき、気温計を見ると、寝室で6度。
居間で4度。
寒いはず。
分厚い半纏(はんてん)をあおると、コタツに電源を入れた。
今朝(12月7日、日曜日)はここで原稿を書く。

で、こういうときミニパソコンが、大活躍。
何しろ場所を選ばない。
トイレの中でも、(実際、まだトイレの中では使ったことはないが)、
文章を書くこともできる。
あっちへもっていっては、パチパチ。
こっちへもってきては、パチパチ。
そんなことができる。

が、おかしな現象も起きつつある。
ミニパソコンのキーボードは、小さい。
キー幅が、17ミリ前後しかない。
そのミニパソコンをずっと使っていると、ふつうのキーボード(19〜
20ミリ幅)が、
とても広く感じられる。
とくにノートパソコンのが、広く感じられる。
広すぎて、かえって文字が打ちにくい。
数日前だが、そんなふうに感じたこともある。

脳みそのほうに、別の回路ができてしまったためらしい。


●思考回路(Thinking Process)

+++++++++++++++++

同じ動作を繰り返していると、脳みその中に、
ある一定の思考回路ができる。
「思考プロセス」ともいう。

たとえば茶碗を手に取って、茶を飲むときも、
どんなふうに茶碗を手で取るか、それを
いちいち考えてする人はいない。
思考回路ができあがっているからである。

この思考回路には、2種類ある。

(1)運動用の思考回路
(2)思想用の思考回路、である。

++++++++++++++++++

茶碗をどう手に取るかを決めるのは、(1)の
運動用思考回路ということになる。
が、もうひとつ、(2)思想用の思考回路もある。

たとえば小ずるい人は、何をしても小ずるい。
誠実な人は、何をしても誠実。
あるいは私は何か問題が起きると、必ずそれを一度、文章にしてみる。
「文章にする」という思想回路ができあがっているためである。

一方、暴力団の男たちは、(多分?)、何か問題が起きると、
暴力によって、それを解決しようとする。
「暴力によって、問題を解決する」という思考回路ができあがっているためである。


●小ずるい人(Sneaky People)

私の近くにも、小ずるい人がいる。
一事が万事というか、万事が一事というか、何をしても、小ずるい。
こまかいウソを日常的に並べながら、怖しいことに、ウソをついている
という自覚さえない。

「私はあの人に、こう言ってウソを言ってやった」などと、それを自慢げに
話したりする。

そういう人はそういう人。
とくにその人が50歳を過ぎているなら、相手にしないほうがよい。
脳みそそのものが硬直しているため、私やあなたが説教したくらいでは、
どうにもならない。
さらにこの先、そういう人が、自分の愚かさに気がついて、自分で改める
などということは、まずありえない。
ますます脳みそは硬直していく。
つまりますます小ずるくなっていく。

が、ここで注意しなければならないことが、2つある。

(1)小ずるい人とは、つきあわない。
(2)小ずるい人には、小ずるい人たちが集まる。

小ずるい人とつきあっていると、こちらの心まで見苦しくなる。
見苦しくなるだけならまだしも、自分まで同じようなことをするようになる。
とくに「やられたから、やり返す」などということは、してはいけない。
とたん、その相手の魔力に引き込まれてしまう。

つぎに小ずるい人を観察してみるとよい。
たいていその周囲には、小ずるい人たちが集まっている。
『類は友を呼ぶ』の諺(ことわざ)どおり、そのほうが居心地がよいからである。

要するに、そういう人たちとは、遠ざかること。
が、問題は、親子。

私はそういう小ずるい親をもった子どもは、かわいそうと思う。
仮に親とうまくいっても、かわいそう。
親に反発しても、これまたかわいそう。
生き様を示すべき親が、小ずるいとき、子は、自分の生き様をどこに、
どう求めたらよいのか。

こんな例がある。

その母親(当時60歳くらい)は、若いころから、小ずるい人だった。
そのときは、さらに小ずるい人になっていた。

その母親には、1人の娘と1人の息子がいた。
娘とは、たいへん仲がよい。
買い物に行くにも、旅行に行くにも、いつもいっしょに行く。
一方、息子とは、仲が悪い。
息子が結婚をするころから、断絶状態。

そこでその親子をよく観察してみると、娘のほうは、母親以上に
小ずるい女性であることがわかる。
一方、息子のほうは、母親とは正反対なほど、誠実な男性である
ことがわかる。

母親と娘は、たがいに居心地がよい世界に生きていた。
が、息子のほうは、それに反発した。
もちろん2人の姉(娘)と弟(息子)は、たいへん仲が悪い。
そのときですら、10年以上、たがいの連絡はなかったという。

で、その母親は、やがてだれにも相手にされなくなっていった。
見栄とメンツ、それに世間体にこだわった。
かわいそうなくらい、こだわった。
とくに自分と息子の関係を、人によく見せようとこだわった。

……というような例は、多い。
あなたの周辺にも、似たような人が、かならず1人や2人はいるはず。

だから……親である私やあなたは、常に誠実でなければならない。
それは私たち自身が、心豊かで、すがすがしい人生を送るためのみならず、
子どもたちに、その生き様を示すためでもある。

ルールは簡単。

(1)ウソはつかない。(つきたいときは黙っていればよい。)
(2)約束は守る。(できないことは約束しない。)

この2つだけを、守る。
人が見ていても、また見ていなくても、守る。
そのあとのことは、(時間)が判断してくれる。


●世間体という人生観(Those who care about other people)

+++++++++++++++++

世間体を気にする人というのは、
それだけ自分の人生観がないことを
意味する。

つまり世間体に生きる人の脳みその
中は、カラッポ。
だから世間体を気にする。

+++++++++++++++++

21世紀を10年も過ぎたというのに、いまだに世間体を気にしながら
生きている人は、少なくない。
それに見栄、メンツがからむ。
一度そうなると、あとは、底なしのアリ地獄。
ズルズルと、世間体のワナに身を落としてしまう。
いつも他人の目の中で、生きるようになる。

が、一見哲学があるようで、どこにもない。
脳みその中は、カラッポ。
一本、筋が通った生き様、そのものがない。
ないから、そのつど右往左往を繰り返す。
何かあるたびに、あたふたする。
こんな話をワイフから聞いた。

その母親と息子氏は、とっくの昔に断絶状態にあった。
息子氏は当時、すでに30歳を超えていたと思う。
が、冠婚葬祭のときになると、決まって母親から息子氏のところに
電話がかかってきたという。
「いっしょに、行ってくれ」と。
つまり親類縁者の手前、飾りとして、その息子氏を利用していた(?)。

その話をワイフがしながら、ワイフはこう言った。
「そこまで世間体を気にするなんて、おかしいわよ。断絶しているなら
断絶しているで、かまわないと思うは……」と。

さらにこんな悲劇的な話を聞いたこともある。

その家の1人息子が、離婚してしまった。
そのことを気にして、その息子氏の母親は、そのまま精神を病んでしまったという。
その母親もまた、世間体をかまう人だった。
「近所の人に恥ずかしい」という思いが、(これはその母親の勝手な思い込みに
よるものだが……)、そういう結果を呼び込んでしまった。
今どき、離婚など、珍しくもなんともない。
日本人の20〜25%が離婚を経験している。

「私の息子なんか、もう10年間、音信がないのよ」
「私の息子も、今度、離婚しましてね」と。
どうしてそういう話が、ハハハと、明るく笑いながらできないのか?

つまるところ、その人の哲学の問題ということになる。
言い換えると、いかにしてその哲学を自分の中でつくりあげていくか。
それが親としての最大の問題ということになる。
「私は私」「あなたはあなた」という哲学。
簡単そうで、それがむずかしい。


●ミカンジュースとお茶(Orange Juice with Japanese Green Tea)

+++++++++++++++

たった今、ワイフがいつものように
お茶を届けてくれた。
が、一口飲んで、ゲーッ!
「何、これ?」と言うと、ワイフは
こう言った。

「オレンジジュースにお茶を混ぜたの」と。

私はいつも、オレンジジュースをお湯で
3倍くらいに薄めて、飲んでいる。
しかしお茶で薄めたことはない。

私「これこそ、まさに静岡県の飲み物!」
ワ「そうね、その通り!」と。

静岡県民のみなさん、
オレンジジュースをお茶で割って飲もう!
まずくて、とても飲めるようなものでは
ないが、それを飲まない人は、静岡県民
ではない!

ハハハ、それにしても、まずい!
ジュースの甘みと、お茶の苦味が、
口の中で戦争しているよう。

++++++++++++++++++

●嫁・姑戦争(Wars between Step-Mothers and Wives)

+++++++++++++++++++

ワイフがこう言った。
「兄弟姉妹の仲が悪いのは、まだいいほうよ。
離れて暮らしているから……。
嫁・姑戦争となると、もっと悲惨よ。
離婚も別居もできないとなると、嫁のほうは、
死ぬしかないのよ。
実際、それで自殺してしまった嫁だって
いるのよ」と。

自殺……?

私の知人の中にも、そういう人がいる。
近所では事故を装っているが、だれも事故などと
は思っていない。

もっとも嫁・姑戦争が原因というのではない。
直接的な原因は、(心の病気)ということになる。
その(心の病気)になる過程は、それぞれみな、
ちがう。
夫との確執があったかもしれない。
子育てで悩んでいたかもしれない。
金銭的な問題がからんでいたのかもしれない。
それは私たちが知るところではない。
ないが、夫との関係がよければ、妻は自殺など
考えない。

嫁・姑戦争にしても、よほどのマザコンで
ないかぎり、夫は妻のほうを選ぶ。
離婚を避け、母親(姑)と別居する。

+++++++++++++++++++

私たち夫婦は、よく喧嘩する。……した。
(最近は、ぐんと減ったが……。)
そのたびに、「離婚してやる!」「離婚しましょう!」となる。
しかし夜、寝る前までには、仲なおりする。
ともにひとりでは、寝られない。
そういう習慣が身についてしまった。

そういう経験から、「離婚」という言葉を口にする夫婦は、離婚などしない。
男も女も、本気で離婚を考えるときは、だまって考える。
それまでに心の整理をして、準備する。
じっとがまんにがまんを重ねて、ある日、突然、爆発させる。
「定年離婚」を例にあげるまでもない。

が、こんな例もある。

姑が死んだとき、その嫁は、天にも昇るような気分で、それを喜んだ。
しかし葬儀の場では、始終、悲しそうな顔をして見せた。
必死の演技だったと思う。
棺おけに蓋(ふた)をするときなどは、オーオーと大声で泣いて見せた。

ワイフが言うように、毎日が接近戦であるだけに、どちらかが倒れるまで、
戦争はつづく。
さらにこんな例もある。

老人虐待、である。

姑が腰の骨を折り、寝たきりになってから、嫁の逆襲が始まった。
食事を与えない、世話をしない、おむつを替えないなど。
加えて無視、冷淡。
今で言う「老人虐待」である。

その嫁が何よりも恐れたことは、自分の虐待が、姑の息子(=小舅)や、
娘(=小姑)にバレること。
そのため姑の息子や娘が見舞いに来たりすると、片時も離れず、姑の介抱を
してみせたりしていた。
そのときだけ、姑の背中をさすってみせるなど。

姑は嫁の悪口など、まちがっても言えなかっただろう。
言えば、その仕返しに何をされるか、わかったものではない。

……ということで、兄弟姉妹関係はもちろんのこと、その妻や夫とも、
よい関係をつくっておかねばならない。

フ〜〜〜ッと、ため息をついたところで、この話はおしまい。
人間関係って、むずかしい!
ほんとうに、むずかしい!


●墓穴を掘る(His or her own Destiny, made by him or herself)

小ずるい人の話を、先に書いた。
で、そういった小ずるい人は、やがて自分で墓穴を掘っていく。
最後には、みじめで孤独な人生が、そこに待っている。

というのも、その人の人生は、日々の積み重ねで決まる。
それが週となり、月となり、やがて人格となっていく。
小悪だからといって、それをけっして、あなどってはいけない。
小悪が積もりに積もって、その人は悪人になっていく。

そしてその結果は、その人自身がつくりあげていく。
俗にいう『自ら墓穴を掘る』ということになる。
だから昔の人は、こう言った。
「ちゃんと、お天道(てんとう)様が、見ていらっしゃる」と。

だから何も、私やあなたが相手にする必要はない。
大切なことは、そういう人たちとは、つきあわないこと。
つきあっても、得るものは何もない。
ないばかりか、かえってその人の邪気に染まってしまう。
とくに50歳を過ぎたら、人を選ぶ。
選んでつきあう。

これは、心豊かな老後を送るためにも、とても大切なことだと思う。

これから庭に除草剤をまかねばならない。
風はないし、絶好の焚き火日和(びより)。

おはようございます。
ただ今、時刻は、午前8時半。


●Can we trust C. Hill in the 6-nation conference about North Korean nuclear weapons 
development?  The answer should be "No"!

Let's start talking about C. Hill from the basical point of view. Only what he has done in the 
past is that he has just given North Korea, money, oil, music, food and time, while he has 
betrayed Japan each time and at last he rather threatened Japan, saying that Japan 
should join the partnership, or he dissolve the name of North Korea from the list of 
terrorists'nations. And he has done nothing for us. As long as C. Hill who is with optimistic 
lies, hostile to Japan, is a member of the conference, the relation between Japan and USA 
is getting worse and wrose. Therefore we don't hesitate to call him, "Kim Jong-Hill".

●私たちは、C・ヒルを信頼できるか? 答は、No」!

C・ヒルは、K国に、マネーと原油と音楽と食糧、それに(時間)を与えただけ。
日本をそのつど裏切りながら、あげくの果てには、日本がK国援助に加わらなければ、K国を
テロリスト支援国家のリストからはずすと、日本を脅した。
彼が日本のためになしたことは、何もない。
希望的憶測だけでものを言い、日本に対する敵対意識をもつC・ヒルが、6か国協議のメンバ
ーである限り、日米関係は、ますます悪化していく。
それ故に私たちは、C・ヒルを、「金・ジョン・ヒル」と呼ぶ。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2947)

●歩く

+++++++++++++++++++

このところ週2度くらいの回数で、
自宅から街までの距離を、ワイフと
歩いている。
で、今日(12月8日)のコースは、
佐鳴湖西岸→富塚(とみつか)→付属中学
→鹿谷(しかたに)→市内。
途中、鹿谷から市役所前まで、バスに
乗った。
歩いた時間は、1時間40分。
距離は、正確にはわからないが、10〜12
キロ前後か。

+++++++++++++++++++

私はときどき街まで、歩いている。
それを見て、最近は、ワイフが同行してくれるようになった。
話し相手ができて、うれしい。

で、今日のメイン・コースは、何と言っても秋たけなわの、佐鳴湖西岸。
私はデジタルカメラで、1〜2分歩くごとに、写真を撮った。
すばらしかった。
風もなく、湖面はまるで鏡のよう。
その湖面に対岸の景色が映って、まるで夢の中のよう。
佐鳴湖はいつ来ても、美しい。

が、そのあと誤算。
佐鳴湖の端にあるパークタウンから、鹿谷のほうへ坂を上ったところで
バスに乗るつもりだった。
しかし歩けども歩けども、バス停がない!
そんなわけで、予定よりも、3〜4キロも余計に歩くはめに。

私たちはいつも、7〜8キロをひとつの目安にしている。
10キロを超えると、とたんに疲労感がます。

今度から、ちゃんとバスコースを調べてから、歩くことにする。

(付記)
私は小学生のころ、毎日、ちがった道を通って、家に帰った。
それが楽しかった。
2〜3時間の寄り道は、当たり前。
今のように、道草を食っても、それをとがめる人はだれもいなかった。
心配する人もいなかった。
私は今で言う「帰宅拒否児」だったかもしれない。
その話をワイフにしながら、「子ども時代に戻ったみたい」と。
だからいつだったか、少し前、子どもの道草についての相談を受けたとき、
私は思わずその母親にこう言ってしまった。
「いいんじゃ、ないですかア〜」と。

今では、道草を食うということは、学校のほうで禁止されている。
都会地域では帰りは、バスか車。
まっすぐ帰る。
都会の子どもたちは遊んで帰るということが、できない。

(付記)「帰宅拒否は、軽症うつの可能性がある」という新聞記事が
目に留まった。
「うつ病の初期症状と考えてよい」とも。
「仕事が終わっても家に帰りたくない」というのであれば、そうかもしれない。
が、私のばあいは、それもあったかもしれないが、遊ぶために、寄り道をした。
カエルをつかまえて、皮をむく。
そのカエルの足を紐(ひも)でくくって、ザリガニをとる。
そういうことを毎日のようにしていた。
で、そういう自分を振り返りながら、今、こう思う。
「最近の子どもたちは、どこでどう遊んでいるのだろう?」と。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●野生児(データ)

+++++++++++++++++++

1920年、インドのカルカッタの西、
約100キロのジャングルの中で、
2人の少女が見つかった。

推定年齢は、8歳と、1・5歳の、2人の少女である。
オオカミによって育てられていたという
ことで、「オオカミ少女」と呼ばれるようになった。

推定年齢8歳の少女には、「カマラ」、1・5歳の
少女には、「アマラ」という名前が、それぞれ
つけられた。

2人の少女を保護したのは、自らも孤児院を経営して
いた、シング牧師。
彼はその後、妻と2人で、2人の少女を手厚く保護し、
教育を授けた。

妹と思われるアマラは、2か月で言葉を話せるように
なったが、姉と思われるカマラは、2年もかかった
という。

アマラは発見されてから1年後に、病死。
カマラは、17歳まで生きたという。

シング牧師夫婦の教育のおかげで、カマラは、
3年後には2本足で歩くことができるようになったが、
急ぐときは、4つんばいのままであったという。

言葉も覚えたが、それでも17歳までに、覚えた
単語の数は、40語足らずであったという。
が、最後の最後まで、人間らしい感情を取り戻す
ことはなかったという。
ただおなかがすいたときだけ、怒った表情を
して見せたという。
(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
はやし浩司 野生児 インド オオカミ少女 オオカミ姉妹 狼少女 狼姉妹 
カマラ アマラ)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●トイレの話

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私が中学生のときのことだったと思う。
授業中、先生が、こんな話をしてくれた。
何の授業だったかは覚えていない。
先生がだれだったかも、覚えていない。
が、こんな話だった。

「アメリカ人というのは、大便と小便を
別々にする」と。

どういうわけか、その話が強烈に印象に
残った。
というのも、当時も今も、私も含めて、
日本人というのは、大便と小便を
同時にするというのが、常識だった。

が、それから40数年。
今でもときどき、その話を思い出す。
思い出しながら、トイレに入る。
そしてこう考える。

私はどうなのか?、と。

で、こういうことは言える。
スリッパ型の日本式トイレでは、力の
入れ加減で、どうしても両方を同時にする。

一方、座式型の洋式トイレでは、力の入れ加減が
ちがう。
大便のほうしかできない(?)。
(女性は、どのようにしているか、私は
知らないが……。)
つまり男性は、どうしても別々になってしまう。
大便をしたあと、もう一度、立ちなおし、
小便をする。
中学生のときの先生が言ったように、「大便と
小便を別々にする」。

つまり私もあのとき先生が言った、アメリカ人
のようになってしまった。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●不況

+++++++++++++++++

数日前、昔からの知人が突然やってきた。
以前、あれこれと仕事を頼んだ人である。
その知人が、「何か、仕事はないか?」と。

その知人の父親は、50歳になるころから
糖尿病が悪化して、現在は週に何回かは、
人工透析を受けている。
「仕事は、もうしていない」という。
またその知人も、3人もの子どもをかかえて、
その生活費だけで、たいへん。
「親父のめんどうをみる余裕など、どこにも
ない」と。

かなり切羽(せっぱ)つまった感じがした。
しかし今の私にも、その知人に回せるような
仕事は、ない。
しばらくあれこれ話したあと帰ってもらったが、
元気がなかった。

今、日本中を、大不況という嵐が襲っている。
そしてその嵐は、身を隠す場所すらない、
そういった弱小の人たちを、もろに苦しめ始めている。

たしか父親はまだ60歳前。
国民年金も手に入らない。
そういう人たちは、どうやって生活していけばよいのか。

++++++++++++++++++++

先日、大阪に住む友人と電話で話したとき、その友人は、こう言った。
「日曜日でも、仕事があれば、感謝しなくちゃあ」と。
私が「明日(日曜日)も、仕事です」と、ふと、こぼしたときのこと。

今の世の中、仕事があるというだけでも感謝、感謝、感謝。
ぜいたくは言えない。
その大阪は、不況の真っ只中。
それは知っていたが、この浜松にも、不況の風が吹き始めた。
派遣社員や外国人労働者の首切りが始まっているという。
自営業の人たちも、かなりきびしい状況らしい。
とくに通りに軒を並べる商店街が、元気がない。

で、昨日も書店で、経済誌を片っ端から立ち読みしてみた。
(そう言えば、私もこのところ雑誌の購入費が減ってきた。)
全体を通してみるとこの不況は来年(2009年)いっぱいは
つづきそう。
好転するのは、早くても、来年(2009年)の夏以後〜とか。
さらにもう一段、大不況がやってくると説く学者もいる。
それまでは、どうやらじっとがまんのとき、ということか。

お金で幸福や命は買えない。
しかしお金がないと、人は不幸になる。
病気になっても、治療費が払えない。

私「彼の父親は、どうやって生活しているんだろう?」
ワ「奥さんが働いているみたい」
私「それならいい」
ワ「奥さんは、前から働いているみたい」と。

明日はわが身と思ったところで、この話はおしまい。
不況といっても、降ってわいた天災のような話で、私にはどうしようもない。


●雨(12月9日)

+++++++++++++++++++

久々の雨。
しかもどしゃ降り。
このところ雨が降るたびに、暖かくなったり、
寒くなったりする。
「この雨がやんだらどうなるんだろう?」と、
そんなことを考えながら、ワイパーの向こうの、
薄モヤにかすんだ通りを見ながら、考える。

+++++++++++++++++++

●逆流性胃炎

今日、病院へ言ったら、「逆流性胃炎」と診断された。
昨日、朝食をとったあと、げっぷが、数分おきに出た。
プラス胸焼け。
食道と胃の付け根あたりが、熱をもったような不快感。

夕方薬局で、胃酸を抑える薬を買ってのむ。
症状はそれで消えた。
で、今日、インフルエンザの予防注射を受けた。
そのついでに胃の話をすると、冒頭に書いたように、「逆流性胃炎」と。
要するに胃液が逆流して、食道のほうまで上ってくるらしい。
そこで胸焼けを起こす。

ドクターは、「そのあたりに潰瘍(かいよう)ができたかも?」と言った。
で、薬をもらって、それでおしまい。
しかし……。

加齢とともに、たいしたことはないにしても、いろいろとこまかい病気がふえてくる。
そういえば、恩師のTK先生も、逆流性胃炎で悩んでいる。
そのため夜もよく眠られないとか。
私のばあい、そこまでひどくはないが、持病にしてしまうとこわい。
ここはしっかりと治しておくのがよい。


●友人のがん

1週間ほど前、ほぼ1年半ぶりに、京都に住む友人から電話がかかってきた。
若いころいっしょにインドへ渡った仲間である。
彼はこう言った。
「いやあ、ぼくはね、胃がんだったんだよ」と。
話を聞くと、この8月に検査でわかり、10月に手術をしたという。

同年齢の人の話を聞くと、心底、つんとした冷気が背筋を走る。
(がん)イコール(死)ではないにしても、私たちは、そういう形で
一歩、また一歩と死に近づいていく。

私「ぼくのほうも、いろいろあってねえ」
友「そうかあ」
私「8月に兄貴、10月に母が、つづいて他界してね」
友「そりゃあ、たいへんだったんだね」
私「君のほうこそ、たいへんだっただね」
友「そうなんだよ」と。

こういうとき「ぼくのほうは元気だ」と言うのも、どこか気が引ける。
それに今は元気でも、明日のことはわからない。
そういう不安がいつもあるから、自信をもって、「ぼくは元気だ」とは、
とても言えない。

その母が死んで、もう2か月になる。
それまでの母は、いわば天井のようなもの。
「母が生きている間は、ぼくも生きていられる」という、不思議な安心感があった。
しかしその母が死んだ。
天井がなくなった。
この先、私はひとりで生きていかねばならない。
順番からすれば、つぎに死ぬのは、この私ということになる。

しかし今、私はこう思う。

人間は生きたいと思っても、なかなか生きられるものではない。
死にたいと思っても、これまたなかなか死ねるものではない。
その一方で、死は、乱数にさらに乱数を掛け合わせた
ようにしてやってくる。

健康に注意を払っているから、長生きできるというものでもない。
病気がちだからといって、早死にするわけではない。
もうこの世界は、メチャメチャ。
メチャメチャだから、つかみどころがない。
「今日、元気だから、明日はだいじょうぶだろう」
「今月は元気だから、来月はだいじょうぶだろう」という程度のことでしかない。
いくらがんばっても、来年のことはわからない。

不安と言えば不安だが、その不安感があるからこそ、今日、がんばる。
がんばることができる。

「時間」こそ、真の財産ということになるが、それに修飾語をつけるとしたら、
「健康な時間」ということになる。
その(健康)には、肉体の健康のほか、精神の健康と脳みその健康が含まれる。
それが今、あなたにあるなら、あなたは、それを心底、喜んだらよい。
バンザーイと、歓声をあげたらよい。

で、つぎに大切なことは、その「健康な時間」を、どう使うかということ。
それがわからなければ、こう考えてみたらよい。

仮にあなたの命が、あと7日しかなかったとする。
7日目が終わったとき、あなたの命も、そこで絶える。
もしそういう状況になったら、あなたはどうするだろうか。
何を考え、何をするだろうか。
答は、自(おの)ずと、出てくるのでは……?

だれしも、がんのような病気を告知されると、一度は地獄の底へと
叩き落される。
私もそうだった。
私も脳腫瘍を疑われ、開頭手術寸前までいった。
そのとき私は、病院からどの道をどう通って家まで帰ったか、よく
覚えていない。
ワイフが途中で私を拾ってくれたとき、私はまるで幽霊みたいだったと言った。

あと覚えているのは、その夜は、やっと2歳くらいになった長男の寝顔を見ながら、
さめざめと泣いたこと。
ワイフも私も、正座したまま、泣いた。

友人もそうだったとは思わない。
(がん)の受け止め方は、人それぞれ。
深刻に考える人もいれば、そうでない人もいる。
(がん)の種類にも、いろいろある。
それに今では、治療法も、昔とはちがい格段に進歩している。
友人も、電話では、けっこう明るい声をしていた。
「初期に発見できたから、よかった」と言っていた。
私もそれを率直に、喜んだ。

繰り返しになるが、生きるのもたいへん。
さりとて死ぬこともできない。
私たちは、ただひたすら、生かされるまま、生きていくしかない。
いつか、その日が来るまで……。


●もしあと7日の命だったら……

ついでに考える。
もしあと7日の命だったら、どうするか、と。

即座に思いつくことは、身辺の整理。
あとに残されるワイフや息子たちに、迷惑がかかるようなことがあれば、
それを第一に整理する。
つぎに私の(命)は、今までに書いた原稿にある。
それを整理する。
インターネットというすばらしい利器がある。
それにできるだけ、収録しておく。
つまり7日というその間は、整理、また整理で終わるだろう。
言うなれば、人生のあと片づけ。
泣いていても仕方ない。
悔やんでいても仕方ない。
死を恐れていても仕方ない。

どのみち死ぬのなら、やはりあと片づけしかない。
いつか見た映画のように、(したいことをする)というのは、
私の生き方ではない。
またそんなことをしても、空しいだけ。
またそういうふうに思わなくてもよいように、今、この瞬間に、
(したいことをする)。
(やるべきことをする)。
そういう意味でも、私には、一瞬一秒でも、無駄にできる時間はない。
まさに「時間こそが、財産」ということになる。

みなさん、がんばりましょう!


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2948)

●C・ヒル(アメリカ国務省国務次官)の希望的憶測(思い込み外交)

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「あと2週間で成果が出る」
「今月の終わりには、返事がくる」
「今度の会談で、解決する」と。
C・ヒルは、今まで、何度、そういう希望的憶測を
述べたことか。

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結局、12月8日から始まった今回の6か国協議は、何ら進展のないまま、休会。
だとするなら、それに先立つあの米朝会談(シンガポール)は、何だったのか。
C・ヒルは、「有意義な会談だった」「成果が出る」と、ひとりではしゃいでいた。

だいたい、一介の外交官が、大統領もしくは、映画スターにでもなったかのように、
マスコミを前にしてペラペラと話す。
そのおかしさを、まず私たちが知るべき。

検証方法についても、事前会談では、「別枠の秘密文書にする」と、C・ヒルは
言っていた。
日本にとっては、とんでもない話である。
いや、その前に、C・ヒルは、「検証は、口頭で了解済み」と、さかんに言っていた。
その言葉の責任は、いったい、だれがとるのか。

成果もないまま、また成果も期待できないまま、希望的憶測だけで、「成果があった」
「成果が期待できる」と。
この繰り返しだけで、5年以上も浪費してしまった。
産経新聞は、「(ヒルの)一方的な思いこみだった」として、
つぎのように伝える(12月12日)。

『米政府は日本側の反対を振り切るかたちで、指定解除に踏み切ったが、サンプル(試料)
採取など、肝心の部分に関しては「口頭了解」にすぎなかった。

 日本の首席代表の斎木昭隆外務省アジア大洋州局長も訪米して、ヒル国務次官補(東ア
ジア・太平洋担当)にこの点について直接、懸念を伝えた。ヒル次官補はニューヨークで
の米朝協議などを通じて、合意に自信を示していたが、結果的には一方的な思い込みだっ
た』と。
つまり妥協に妥協を重ね、譲歩の譲歩を重ねた結果、『同盟国(=日本)との
信頼関係よりも、目先の成果を優先して失敗するという教訓を残したといえそうだ』
(同紙)と。

この5年以上のもの間、何が進展したのか?
K国がしたことは、ガラクタ(ジャンク)と化した、ヨンビョンの核開発関連施設を
爆破してみせただけ。
韓国に亡命したF氏(元K国高官)は、K国は別の場所で核開発をつづけているはず
と発言している。
一方、その間、C・ヒルがしたことといえば、(あの親北派のノ前大統領と
手を組んで)、原油、マネー、食糧、音楽、それに(時間)を、K国に与えただけ。
この中でも(時間)が、いちばん重要。

この5年間で、K国は核兵器開発を、どこまで進めたことやら?
4、5年前には、「核兵器をもっているかどうかわからない」という状況だった。
しかし今は、「5〜6発はもっている」というのが、常識化している。
それをふまえてK国は、「我々を核保有国として認知しろ」とまで言い出している。

さらに馬鹿げたことに、交渉の過程で、C・ヒルは、この日本を脅した。
「K国援助に加われ。さもなければ、K国を、テロ支援指定国家のリストから
はずす」と。
結果的にみると、C・ヒルは、K国をリストからはずし、日本を孤立させて
しまった(08年10月)。
もちろん最近に至るまで、拉致問題を話し合った形跡は、ゼロ。
成果も、もちろんゼロ。
むしろ日本に向かって、「なぜイラン航空の支店が東京にあるのか!」と、
日本にかみついたことさえある。

おバカというか、本人は、何様のつもりでいるのだろう。
繰り返すが、C・ヒルは、ただの役人ではないか!

一方、私たち日本人は、拉致問題を第一に考えている。
「たかが拉致」などと言ってほしくない。
そこに至る過程というものがある。
日本が拉致問題を取りあげるたびに、「拉致問題はない!」と、K国側は、会談中、
席を蹴って出るような演出までしてみせた。
(日本のA新聞社も、片棒を担いでいたぞ!)

が、たしかにK国は、日本人を拉致していた!
小泉=金xx会談で、金xxはそれを認めた。
何人かの拉致被害者たちは、日本へ帰ってきた。
まともな神経の持ち主だったら、まず、自分たちのウソを恥じるだろう。
その(まともな神経)すら、K国の官僚たちにはない(?)。
その拉致問題は、Y・めぐみさんのニセ遺骨問題で、頂点に達した。
私たち日本人の(怒り)も、頂点に達した。
そういう(怒り)を、C・ヒルはまったく理解していない。

6か国協議は休会した。
が、それは同時に、C・ヒルの外交的失敗の総決算でもある。
今朝(12月11日)の朝刊によれば、「K国が一番デーン
としているんだから、変な話」(外務省幹部談話・中日新聞)とある。

そう、何もかもおかしい。
K国もおかしいが、C・ヒルもおかしい。
その(おかしさ)の上に、6か国協議がある。

K国など、本気で相手にしてはいけない。
みんなで無視するのがいちばんよい。
しかし今となっては、それも手遅れ。
あのC・ヒルのおかげで……。

Be ashamed, C. Hill! You are the loser!

当のC・ヒルは、閉会式を待たずして、アメリカに帰った。
「米朝の2か国協議はもうしない」(北京空港で)と。

なお日本に本部を置くC総連は、その機関紙に、「今に見ておれ!」という
文言を載せたという(12月11日)。
C総連の家宅捜査を受けての発言だが、こうした感情的な表現は、きわめて珍しい。
珍しいだけに、私たちは警戒心をゆるめてはいけない。
(08−12−12記)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司 

●依存性をつけさせる指導法

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これは進学塾での話。
その進学塾では、生徒が依存性をもてばもつほど、
経営は安定する。
そのためにどうすればよいか、進学塾の経営者は
いつも考えている。
あるいは無意識のちにも、過去のやり方を踏襲する。
わかりやすくいえば、「この塾をやめたら成績が
さがる」という恐怖心をもたせる。
さらに「この塾をやめたら、目的の学校には
入れない」という恐怖心をもたせる。
たとえば三者面談などを通して、意図的では
ないにせよ、数字を並べて、子どもを脅す。
親を脅す。

子どもも親も心理的に不安な状態にあるから、
そのままそれを信じてしまう。
その手法は、カルト教団が信者を獲得する
方法に、たいへんよく似ている。

が、進学塾にしてみれば、それでよいとしても、
子どもにとっては、そうでない。
仮に目的の中学校へ入学できたとしても、
そのあと、そこでプツンしてしまう。
目的の高校へ入学できたとしても、そのあと、
プツンしてしまう。

が、これもカルト教団の信者の心理とよく似ている。
その教団の従順な信者である間は、それなりに
幸福感や充実感を覚えるかもしれない。
しかしカルト教団から離れたとたん、心理的にも、
たいへん不安定な状態になる。
(実際には、一度カルト教団に入信してしまうと、
それから離れるのは、容易なことではない。)

ここでいう(依存性)というのは、それをいう。
では、どうするか?

指導するとしても、依存性をもたせるのは、最小限に。
たとえば私は、小学校の高学年にもなると、いつも
生徒たちには、こう言う。

「自分で勉強しなさい」
「わからないところがあったら、もってきなさい」と。

さらに効果的にするために、小学3、4年生になったら、
小学校5、6年生の間に座らせて、好きな勉強をさせる。
つまりこうして順送りに、(勉強グセ)を、上級生から
下級生に伝える。

この方法は、イギリスのカレッジで、ふつうにされている
方法である。

こうして子どもに依存心をもたせないよう、ついでに、
自学自習の方法を身につけさせる。

しかしこの方法は、進学塾にとっては、まことまずい。
この指導法では、月謝は取れない。
また親たちにも受けが悪い。
「ていねいに教えてくれない」とか「先生は遊んでいる」とか、
言う。
「わからないところがあったら、もってきなさい」という
教え方は、一見、子どもには、たいへん不親切な教え方に
見える。
それはわかるが、では、いわゆる(手取り足取り教育)が、
はたしてそれでよいかというと、けっして、そうではない。
ここに書いたように、子どもに依存心を植えつけてしまう。

むしろ指導法としては、いつか生徒が独立するように、
「こんな先生に習うくらいなら、自分でしたほうがまし」と
思わせるようにしむける。
私はそれを勝手に、「卒業」と呼んでいる。
自分で勉強する方法を身につけた子どもは、あとは自分の
力で伸びていく。
それこそ、(真の力)ということになる。

が、この方法を試しても、伸びない子どもというのは、
たしかにいる。
それこそ、あれこれ指示を与えないと、鉛筆をもつことさえ
しない。
「好きな勉強をしていいよ」と励ましても、何もしない。
時間ツブシ(無駄なことをして、時間をつぶす)、
フリ勉(勉強しているフリだけをする)、
時間殺し(簡単な問題だけを、繰り返しする)などがうまい。

一度こうした症状が、小学4〜5年生くらいまでに出てくると、
そのあと、その子どもが伸びるということはまず期待できない。
大切なことは、子どもがそうならないよう、幼児期から
注意する。
またそれが幼児教育のひとつということになる。

方法としては、「勉強するのは楽しい」「おもしろい」という
意識だけをみながら指導する。
その意識があれば、それでよし。
「覚えた、覚えない」「できるようになった、ならない」は、
この時期、ほとんど意味がない。
だから、昔から、こう言う。
『好きこそ、もののじょうずなれ』と。
英語では『Happy Learners learn Best(楽しく学ぶ子は、よく学ぶ)』
という。

教育はここから始まり、ここで終わる。
ついでに依存心は、子どもを従順にするが、それは子ども本来の
姿ではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子供と依存性 子供の依存心 依存する子ども)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●今、どうして「忠臣蔵」?

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毎年12月になると、どうしていつも忠臣蔵?
昨日(12月11日)も、NHKテレビは、
それについての特集番組を流していた。

忠臣蔵といっても、ただの復讐劇ではないか。
いつになったら、そのおかしさに、日本人は
気がつくのだろう?

以前書いた原稿をさがしてみた。

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●忠臣蔵論

 浅野さん(浅野内匠頭)が、吉良さん(吉良上野介)に、どんな恨みがあったかは知らない
が、ナイフ(刀)で切りかかった。傷害事件である。が、ただの傷害事件でなかったのは、何と
いても、場所が悪かった。

浅野さんが吉良さんに切りかかったのは、もっとも権威のある場所とされる松之大廊下。今風
に言えば、国会の中の廊下のようなところだった。浅野さんは、即刻、守衛に取り押さえられ、
逮捕、拘束。

 ここから問題である。浅野さんは、そのあと死刑(切腹)。「たかが傷害事件で死刑とは!」
と、今の人ならそう思うかもしれない。しかし三〇〇年前(元禄一四年、一七〇一年)の法律で
は、そうなっていた。

が、ここで注意しなければならないのは、浅野さんを死刑にしたのは、吉良さんではない。浅野
さんを死刑にしたのは、当時の幕府である。そしてその結果、浅野家は閉鎖(城地召しあげ)。
今風に言えば、法人組織の解散ということになり、その結果、四二九人(藩士)の失業者が出
た。自治体の首長が死刑にあたいするような犯罪を犯したため、その自治体がつぶれた。

もともと何かと問題のある自治体だった。わかりやすく言えばそういうことだが、なぜ首長の交
代だけですませなかったのか? 少なくとも自治体の職員たちにまで責任をとらされることはな
かった。……と、考えるのはヤボなこと。当時の主従関係は、下の者が上の者に徹底的な忠
誠を誓うことで成りたっていた。今でもその片鱗はヤクザの世界に残っている。親分だけを取り
替えるなどということは、制度的にもありえなかった。

 で、いよいよ核心部分。浅野さんの子分たちは、どういうわけか吉良さんに復讐を誓い、最終
的には吉良さんを暗殺した。「吉良さんが浅野さんをいじめたから、浅野さんはやむにやまれ
ず刀を抜いたのだ」というのが、その根拠になっている(「仮名手本忠臣蔵」)。そうでもしなけ
れば、話のつじつまが合わないからだ。

なぜなら繰り返すが、浅野さんを処刑にしたのは、吉良さんではない。幕府である。だったら、
なぜ浅野さんの子分たちは、幕府に文句を言わなかったのかということになる。「死刑というの
は重過ぎる」とか、「吉良が悪いのだ」とか。もっとも当時は封建時代。幕府にたてつくというこ
とは、制度そのもの否定につながる。自分たちが武士という超特権階級にいながら、その幕府
を批判するなどということはありえない。そこで、その矛先を、吉良さんに向けた。

 ……日本人にはなじみのある物語だが、しかしオーストラリア人にはそうでなかった。一度、
この話が友人の中で話題になったとき、私は彼らの質問攻めの中で、最終的には説明できな
くなってしまった。ひとつには、彼らにもそういう主従関係はあるが、契約で成りたっている。つ
まり彼らの論理からすれば、「軽率な振るまいで子分の職場を台なしにした浅野さん自身に、
責任がある」ということになる。

 さてあなたなら、こうした疑問にどう答えるだろうか。彼らにはたいへん理解しがたい物語だ
が、その理解しがたいところが、そのまま日本のわかりにくさの原点にもなっている。「日本異
質論」も、こんなところから生まれた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 忠臣
蔵 忠臣蔵論)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

●親子関係

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親子関係をざっと分けると、
つぎの9つのタイプになる。

(1)過保護型
(2)過干渉型
(3)でき愛型
(4)過関心型
(5)盲従型
(6)三角型
(7)スパルタ型
(8)放棄型
(9)代償型

+++++++++++++++

親子関係、とくに母子関係を分類すると、つぎのようになる。

(1)過保護型(心配先行型ともいう)
(2)過干渉型(不安先行型ともいう)
(3)でき愛型(親の情緒不安型ともいう)
(4)過関心型(神経質型ともいう)
(5)盲従型(親子関係逆転型ともいう)
(6)三角型(父、母の育児観がバラバラ)
(7)スパルタ型(厳格型ともいう)
(8)放棄型(無責任型ともいう)
(9)代償型(人形子型ともいう)

これらについては、小生の「ママ診断」(無料版、HP収録)にて、
詳しく診断できるようになっている。
興味のある人は、次へ:

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page288.html

要するに、親は、(1)ほどよい親であること。
そのためには、(1)暖かい無視と、(2)求めてきたときが与えどき、この
2つを守る。
さらに言えば、親というのは、自分で失敗してみて、はじめてそれが失敗だった
ことを知る。
そのためには、
(1)いつも自分を客観的に見る目を見失ってはいけない。
(2)他人との交流を通して、子育てを風通しのよいものにする。

まずいのは、自分の住む世界を、カプセルでおおい、独自、独断の世界を作りあげて
しまうこと。
一度こういう状態になると、ものの考え方が極端化しやすくなる。
同じ過保護でも、極端な過保護になったりしやすい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
親子関係 母子関係 母と子)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2949)

●子どもの気力

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最近の研究によれば、生命の根源、つまり(生きる
力)の根源は、どうやら脳の中枢部にある、視床下部
というところにあることがわかってきた(アメリカ・
サイエンス誌)。

そこから脳みそ全体に、強力なシグナルが発せられ、
それが脳みそ全体の活動の根源、しいては人間の
生命活動の根源になっている(?)。

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「強力なシグナル」と書いたが、当然、個人差がある。
シグナルの強い人もいれば、弱い人もいる。
そう考えてよいことは、特別養護老人ホームにいる
老人たちを見ればわかる。

先日も久しぶりに、母がいたホームを訪れてみたが、
その中に1人、こんな女性がいる。
年齢は今年95歳になるという。
母が1年半前に入居したときもそうだったが、そのときも、
大きな声で、看護士や介護士さんたちに向かって、こう言って
叫んでいた。
「飯(めし)は、まだかア!」
「わっち(私)は、何も食べておらんぞ!」と。

大半の女性たちは、(そこは女性専用のフロアなので)、
ぼんやりとした表情のまま、時間をつぶしている。
何割かの女性は、大きな車椅子に横になったまま、鼻からチューブを
通して、一日中、眠っている。
そういう中なので、よけいにその女性が目立つ。

恐らく視床下部からの指令を受けて、ドーパミンが大量に分泌され、
それが線条体という組織を刺激しているのだろう。
性欲、食欲など、人間の欲望は、こうして生まれる。

おなじ高齢者なのに、たとえば私の母もそうだったが、
自分の意思をはっきりと持っている人もいれば、そうでない人もいる。
このちがいこそが、シグナルの強弱ということになる。

私という素人が考えた仮説なので、あまりあてにはならないが、
しかしそう考えると、子どもの世界がよく理解できる。

たとえば親の過干渉、あるいは過関心などで精神活動そのものが、
萎縮してしまった子どもがいる。
「萎縮児」とも呼ばれる。
覇気(はき)がなく、おとなしく、静か。
自我の核形成も遅れ、つかみどころがない。
何を考え、何をしたいのかも、よくわからない。
一見、従順で、人なつっこい。
好奇心も弱く、遊びといっても、ごく限られた範囲で、
同じことしかしない。
一部が萎縮しているというよりは、人格全体が萎縮している。

あるいは何らかの原因で燃え尽きてしまった子どもや、
荷をおろしたように無気力になってしまった子どもでもよい。

そういった子どもを見ていると、脳の中枢部、つまり視床下部
あたりから出るシグナルが、弱いのではないかと考えてしまう。
このばあいは、親の過干渉、過関心などで、脳の機能そのものが、
変調したと考えられる。
(本当にそうであるかどうかは、わからないが……。)

つまり私たちが俗に言う、「気力」というのは、そういうものでは
ないか。
「やる気」と言い換えてもよい。

先の女性でいえば、95歳という高齢にもかかわらず、食欲だけは、
異常に旺盛。
それが好ましいことかどうかという判断は別にするとして、視床下部
あたりから出るシグナルが、人一倍強いことだけは、確か。
それがその女性の(生きる力)の根源になっている。
だからまわりの看護士や介護士さんたちは、みな、こう言う。
「こういう人は、100歳まで生きますよ」と。

実は私の母も、今年(08年)の2月ごろまでは、その女性に、
勝るとも劣らないほどの生命力をもっていた。
一個の茶菓子を取り合って、テーブルの向かい側に座っている
別の女性と、ものを投げ合って喧嘩までしていた。
が、2月ごろ、脳梗塞を起こした。
そのあと、別人のように、静かで穏やかになってしまった。
私が見たところ、生命力そのものが、その日を境に、しぼんで
しまったかのように感ずる。

こうしたことから、私たちがいうところの(気力)というのは、
脳の奥深くにある根源的な部分から生まれると考えてよい。
視床下部から発せられるシグナルならシグナルでもよい。
そのシグナルが、やがて(気力)につながっていく(?)。
(そうでないかもしれないが、ここでは、そうであるという
仮定の上で、話を進める。)
そのシグナルが強い人は、あらゆる面で旺盛な気力を示し、そうでない
人は、そうでない。

では、どうすればよいのか。

こと子どもに関していえば、子どもというのは、あるべき環境の
中で、あるべきように育てれば、自然とそういう力を発揮する。
DNAのレベルで、そのようにプログラムされている。

が、ここでいう気力にしても、それをつぶすのは、簡単。
ガミガミ、ガンガンと、子どもを叱りつづければよい。
ついでに親の気分で、罵声を浴びせたり、暴力を振るったりすればよい。
無視、冷淡、育児拒否などがあれば、さらに効果的。
子どもは、確実に萎縮する。
動作そのものが、緩慢になることもある。
(あるいは同じような家庭環境であるにもかかわらず、反対に粗放化する子どももいる。
親の過干渉、過関心に抑えられてしまった子どもが萎縮児、
それに反発し、やり返した子どもが粗放児と考えるとわかりやすい。
同じような環境であるにもかかわらず、兄が萎縮し、弟が粗放化する
というケースは、多い。)

わかりやすく言えば、(気力)を奪うのは、環境ということになる。
とくに親の接し方ということになる。
だから英語では、「教育」を、「education<educe(引き出す)」という。
つまり能力は、すべての子どもが平等にもっている。
あとはそれを(引き出すか、つぶすか)、そのちがいによって、
子どもは伸びたり、反対に萎縮したりする。
それが教育ということになる。

なおここで「脳の機能が変調した」という言葉を使った。
これは私が使い始めた言葉だが、ひとつの例として、夜尿症(おねしょ)
がある。
本来なら睡眠中は、脳の命令によって腎臓での尿の生産が抑制される。
が、脳の機能が変調すると、その抑制に乱れが生ずる。
最近では、それが夜尿症の原因と考えられている。
だから夜尿症にしても、ここに書いた子どもの気力にしても、
(しつけ)によって、どうこうなるような問題ではない。
いわんや叱ったり、説教したりして、なおるような問題ではない。
(心の問題)というより、(大脳生理学の問題)。
そういう前提で、こうした問題を考える。

ずいぶんと荒っぽい書き方をしてしまったが、大筋ではそれほど
まちがっていないと思う。
大切なことは、無理や強制などで、子どものやる気を奪ってしまわないこと。
一度幼児期に萎縮させてしまうと、その後遺症は一生つづくと言っても
過言ではない。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
子どもの気力 子供の気力 子どものやる気 子供のやる気 視床下部 ドーパミン
ドーパミン効果 夜尿症 おねしょ 萎縮する子供 萎縮児 緩慢動作 緩慢行動)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●6万3000誌の中で、「マガジン・オブ・ザ・イヤー」(メルマガ)に選ばれる!

++++++++++++++++++

昨夜、メルマガ社から連絡が届き、
私が発行する電子マガジンが、
2008年度の、「マガジン・オブ・
ザ・イヤー」に選ばれた!

電子マガジンの発行元は、日本には、
10数社あるが、その中でも最大級
なのが、メルマガ。
発行マガジン数は、6万〜6万3000誌
もあるという。

うれしいというより、その実感がない。
もともと無私無益で発行しているから、
よい意味でも、悪い意味でも、「どうでも
よい」と言った感じがしないでもない。
しかし読者あっての電子マガジン。
読者の方たちには、感謝している。
読者の方たちが励ましてくれなかったら、
こうまで長くつづけることはできなかった
だろう。
実際、何度か、途中で、やめようと
思ったことがある。
が、そのたびに、少しずつだが読者の方の
数がふえ、それが大きな励みになった。

選考は、投票によって決まったという。
詳しくはわからないが、ともかくも、
めでたいことにはちがいない。

みなさん、ありがとうございました!

++++++++++++++++++

●新しいデザイン

……ということで、ますます「がんばろう!」という意欲がわいてきた。
メルマガの受賞が、強化の原理として働いている!
で、何をしようかと考えて、まっさきに思い浮かんだのが、ヘッドの
改変!
「ヘッド」、つまり本でいうなら、表紙の部分。
P社製のパソコンには、おまけとして(絵文字)の反対の(文字絵)がついている。
それを少し改変してみる。


 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   彡| ⌒ ⌒ |ミ
q ∩ ∩ XXXXX  ∂ ∂ p m
(″ ▽ | ⌒ ⌒ |″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ 0 ゛)\    厂 ̄
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 ┃最前線の育児論byはやし浩司┃
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そこでこれを参考にして、自分なりに、いろいろ工夫してみる。

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目を細めれば、「H.HAYASHI」と読める?
これを基本に、飾りを入れてみる。

最前線の子育て論byはやし浩司*********************
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          2009年   月   日号
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しかしどこかつまらない?
どうしたらよいものか?
こういうことは、寝る前、もしくは寝起きに、ふとんの中で考えるのがよい。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2950)

【生きる皮肉】

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他人の不幸を笑うものは、
かならずその仕返しを受ける。
仮にあなたが受けなくても、
あなたの子どもが受ける。
仮にあなたの子どもが受けなくても、
あなたの孫が受ける。
かならず受ける。
だから他人の不幸を笑ってはいけない。
笑えば笑った分だけ、
あるいはそれ以上に、
あなたが今度は、自分の言葉で苦しむ
ことになる。

それにはちゃんとした理由がある。

++++++++++++++++

●人間のクズ?

少し前、自分の姪に、(姪に、だぞ!)、「工員は人間のクズ。そういう人と
結婚してはいけない」と諭(さと)した(?)、女性がいた。
(こうした話は、フィクションとして書くことが多いが、これは実話である。)
その話を、ワイフがどこかで聞いて、私に話してくれた。

何という、偏見!
何という、職業観!
私はそれを聞いて、しばらく怒りが収まらなかった。
私の長男も、その工員である。
そこで私なりに、その女性の夫の職業を調べてみた。
どうにもこうにも、怒りが収まらなかった。
そういう言葉を使うのは、どこのだれか、それを知りたかった。
どんなアホか、それを知りたかった。
で、夫の職業は、O市に住む、元役人ということがわかった。
退職前は、国の出先機関の副局長をしていたという。
(ここまでの話は、以前にも書いた。)

が、同じような話を、別の知人からも聞いた。
こんな話である。

その家の長女が選んだ相手は、隣の町の小さな工場で働いていた工員。
が、親はその結婚に、猛反対。
理由など改めてここに書かなくてもよい。
で、その長女は、駆け落ち。
そのあと現在に至るまで、20年間、音信がないという。
その過程でも、いろいろあったらしい。

が、20年たってみると、事情は一変した。
その下に2人の息子がいたが、2人とも、暴力団の事務所に
出入りするようになった。
現在、2人とも刑務所で服役しているという。
しかし親は、そのことを必死で隠そうとしている。

刑務所にいることが問題と書いているのではない。
善人も悪人も紙一重。
悪人といっても、ほんの少し歯車が狂っただけ。
自分の意思とは無関係に、ズルズルとそうなってしまう。
大きくちがうようで、どこもちがわない。

私が書きたいのは、「必死で隠そうとしている」という部分。
たとえば近所で葬儀があったりすると、息子たちの名前で花輪を出していた。
そして近所の人たちには、「仕事で来られない」とか、「中国に出張で出かけている」
などと言っていた。

正直に言えばよいとは書かない。
しかしウソまでつく必要はない。
近くにいなければいないで、よいではないか。
というのも、娘が家出したことも、2人の息子が刑務所で服役しているということも、
近所の人たちは、みな、知っていた。
知らないと思っているのは、当の両親だけ。

しかし(隠す)といっても、ものすごいエネルギーを消耗する。
悶々とした毎日。
いつ晴れるともわからない、心の霧。
つまりその両親を苦しめていたのは、娘でも息子たちでもない。
その両親のものの考え方、ということになる。
その両親は、自分自身がもっている偏見で、苦しんだ。

……というような例は多い。
だからこういうふうにも言える。
未来を作っていくのは、私たち自身であるということ。
しかも知らず知らずのうちに作っていく。

たとえば冒頭に書いた、「人間のクズ」と表現した女性にしても、
たまたま今は、よい(?)かもしれないが、先のことはわからない。
自分の息子や娘が、その工員になるかもしれない。
そうなったとき、その女性は、自分の言った言葉、つまりは
自分自身の偏見と職業観で苦しむことになる。
だれでもない、自分自身の偏見と職業観で、である。

私はその女性の夫の職業を知ったとき、「ナルホド!」と合点した。
同時に、「何を偉そうに!」と思った。
ほんの少し、人生の入り口がよかったというだけで、エリート意識を
もってしまう。
自分たちだけが、特別の人間と思ってしまう。
江戸時代の士農工商の亡霊をいまだに引きずっている。
どこまでも愚かで、哀れな女性である。
笑われるべきは、その女性自身ということになる。

(付記)
「江戸時代は終わった」
「封建時代は関係ない」
「私は近代的な人間」と思っている人も、一度は、立ち止まって、自分を
見つめなおしてみてほしい。
本当に、そうか、と。

今でも封建時代のあの時代を、賛美する人は多い。
武士道こそ日本が誇るべき、精神的バックボーンであると説く人もいる。
しかし、本当に、そうか、と。

私たちは過去の、負の遺産にこそ、目を向けるべきである。
そのひとつが、ここでいう職業観ということになる。
ほかに男尊女卑観、さらには上下意識、権威主義などなど。
いろいろある。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●裁判員制度

+++++++++++++++++

「法意識」という言葉がある。
簡単に言えば、「法に対する意識」ということになる。
しかし日本人ほど、法意識の希薄な国民というのは、
そうはいない。
このことは、たとえば冠婚葬祭、ひとつみただけでも
わかる。
とくに葬儀。

すべてが、ナーナーというか、いいかげん。
安易な『ダカラ論』ばかりが、優先する。
「あなたは男だから」「私は女だから」とか、
「昔から、こうだから」「世間は、こうだから」とか、
そのときどきにおいて、自分の都合のよいように、
『ダカラ論』を並べる。
法というものが、日常生活にしみ込んでいない。
法を持ち出して、合理的に考えるという習慣が
身についていない。

「法は私たちが作った」という意識も希薄だが、
「法を守る」とか、「法に従って」という意識も希薄。
日常生活は、多くのばあい、「世俗」という、別の尺度で
動いている。
それが悪いというわけではないが、法律は法律。
学問としても体系化されている。
で、こういう国民が、裁判員になったら、どうなるか。

「被告は、親の葬儀にも顔を出さなかったような
悪人であります。
しかも長男のくせに、二男に親のめんどうをみさせて
いました。
人間のクズです。
したがって刑を、2倍にするのが妥当です」と。

そんな極端なことはないにしても、日本人に人を裁くほどの
法意識が育っているかということになると、それはどうか?
私は、疑問に思う。

++++++++++++++++++

2009年5月から、刑事裁判において、いよいよ裁判員制度による
裁判が始まる。
裁判員が参加するばあい、裁判長を含む裁判官3人と、裁判員6人、計9人で
審理を行う。
裁判官と裁判員は、立場は同等。
被告人が有罪であるか、無罪であるかを評議する。
有罪であるなら、どのような量刑にするかも評議する。
もし意見が一致しないときは、多数決で結論を出す。

ただしそのばあい、つまり被告人が有罪であると決めるときには、
その中に裁判官が1人以上、含まれていなければならない。
たとえば裁判員6人が有罪、裁判官が3人が無罪というときは、被告人は
無罪となる。

が、反対のばあいは、どうなるのか。

たとえば裁判員6人が無罪、裁判官3人が有罪というときである。
このばあいは、多数決で、無罪となる。
だったら、はじめから裁判員など、不要ということになってしまう。
そのことは、私やあなた自身が、被告人になったばあいを考えてみればわかる。
法の専門家に裁かれるなら、まだ安心感(?)がある。
しかしまったくの素人に裁かれるとなると、話は別。
たとえて言うなら、病院で、医師ではなく素人によって、診断名をつけられるようなもの。

そこでもう一度、原点に立ち返ってみる。
なぜ裁判員制度が、生まれたか?
そこには、こうある。

「判例主義(=前例主義)や硬直した法解釈だけの判決を避けるため」と。
よって「司法への理解と信頼を高めるため」と。

「そうかなア?」とも思ってみたりする。
「そうでもないのではないのかア?」とも思ってみたりする。

「そうかなア?」と思うのは、たしかにそういう部分はある。
裁判官が、どういう人たちかということについては、ここには書けない。
書けないが、しかしどういう人たちかは、司法当局の人たちなら、みな知っているはず。
そういう司法当局の人たちが、「これではまずい」と感じたのかもしれない。

「そうでもないのではないのかア?」と思うのは、判決に温度差が生まれたり、
地域差が生まれたりするのではないかということ。
そのためかえって司法に疑問をもったり、不信感をもつ人がふえるのではないか
ということ。

とくに日本の刑事訴訟法は、『罪刑法定主義』という、大原則を貫いてきた。
またそれがあったからこそ、日本人は、こと刑事裁判については、絶対的な
信頼感を寄せることができた。
「人は法によってのみ裁かれ、法以外のものによって裁かれない」というのが、
それである。
その罪刑法定主義すら、揺るぎかねない。

冒頭に書いたように、たしかに日本人の法意識は、世界の人たちと比べても低い。
それはわかるが、だからといって、「裁判所へ連れてくれば、法意識が高まる」と
考えるのは、あまりにも短絡的。
さらに言えば、「法意識が高まったからといって、それがどうなのか?」という
疑問も残る。

大半の人たちにとっては、法といっても、とくに刑法は無縁のもの。
この私にしても、一応法学士だが、社会へ出てから、一度も刑法の世話になった
ことはない。
それをいきなり、一般の庶民を裁判員に仕立て、判決に加担させるとは!
もう少し(段階)というものを経るべきではなかったのか?

たとえば刑事裁判というのは、

(1)冒頭手続き
(2)証拠調べ手続き
(3)弁論手続きという、プロセスを経る。

そういう各段階で、一般の人たちを参加させるという制度でもよかったのではないのか。
冒頭手続き……たとえば、被告人から直接話を聞いたり、起訴状について不満はないかと
聞いたりする。
証拠調べ手続き……たとえば検事から証拠の内容を聞き、それを吟味したりする。
弁論手続き……たとえば被告人といっしょに、法律面での問題点を考えたり、
アドバイスしたりする、などなど。
そしてそれがある一定限度まで熟成したとき、裁判員制度に切り替えるとか、など。

もっともまずいのは、「いろいろやってはみたが、やはり、裁判員制度は廃止する」
ということになること。
その間に判決が確定した刑事犯の人たちは、どうすればよいのか。
もう一度、判決文をすべて見直すということにでもなれば、それこそたいへんなことに
なる。

最終的には、日本の裁判制度を、アメリカのような陪審員制度にもっていこうとして
いるのかもしれない。
そうならそうで、ドイツ刑法から英米刑法へと、日本の刑法(+刑事訴訟法)の
基盤そのものを変えなければならない。
が、それは、どうするのだろう?

あまりケチをつけてばかりいてはいけないので、ここはしばらく様子見ということに
する。

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3年前に書いた原稿を紹介します。

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●行列のできる法律S談所

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法律が先か、それとも法律はあとか?

法律が先に立つ世界は、まさに闇。

『行列のできる法律S談所』という
番組には、そんな基本的な認識すら
ないのでは?

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 ときどき、『行列のできる法律S談所』という番組を見る。が、あの番組を見るたびに、「?」と
思ってしまう。法律の基本そのものが、わかっていない(?)。

 昨夜(3・5)の番組では、こんなテーマが取りあげられていた。

 結婚前は美しい女性だった。が、結婚後、ガラリと妻の様子が変わった。化粧はせず、だらし
ない生活。夫の返事にも、おならで答えるという。しかも新婚1月後で、である。こういう妻のば
あい、離婚はできるかどうか、と。

 いつもの番組である。で、弁護士たちが、「できる」「できない」と議論する。たしか4人の弁護
士のうち、3人は「できない」。1人は「できる」ではなかったか。

 が、この発想そのものが、基本的な部分でまちがっている。私も元、法科の学生。その立場
で、一言、意見を書いてみたい。

 法律があるから、それに人は従うのではない。とくに民法は、そうである。何かの紛争が起き
たとき、その紛争を解決手段として、法律がある。最初に法律ありきという姿勢は、本来の法
の精神に反する。仮に法律に反していても、たがいにそれで納得し、満足しているなら、法の
出る幕はない。

 しかしあの番組では、いつも先に、法律ありき……という姿勢が目立つ。その影響だろうが、
私の教室でも、私が何かをするたびに、「慰謝料請求するぞ」「行列のできる法律S談所に訴え
てやる」と言う子どもがふえてきた。

 たとえばその慰謝料にしても、「これこれこういうことをしたから、慰謝料が請求できる」という
のではない。「私は、精神的損害をこうむった。それをつぐなってもらうにはどうしたらいいか」と
考えたあと、法律が登場する。そこではじめて慰謝料を請求するという話になる。

 弁護士の世界のことは知らないが、こんなことは、法学の世界では、常識。どうしてそういうこ
とをきちんと言う学者が、あの番組には、なぜ出てこないのだろう? あの番組を見ていると、
かえってまちがった法律意識を、子どもたちに植えつけてしまうことになりかねない。

 で、夫の会話に、おならで答える妻についてだが、「おならで答えたから、離婚事由になる」
「ならない」という発想そのものが、ナンセンス。もっと基本的な部分はどうなのかというところま
で見て、はじめて、離婚の話になる。民法で定める離婚事由は、つぎのようになっている(民法
770条、法定離婚事由)。

++++++++++++++

夫婦の一方は、左の場合に限り、離婚の訴を提起することができる。

1、配偶者に不貞な行為があったとき。
2、配偶者から悪意で遺棄されたとき。
3、配偶者の生死が3年以上明かでないとき。
4、配偶者が強度の精神病にかかり、回復の見込がないとき。
5、その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。

2 裁判所は、前項第1号乃至第4号の事由があるときでも、一切の事情を考慮して婚姻の継
続を相当と認めるときは、離婚の請求を棄却することができる。

+++++++++++++

 つまり(妻のおなら)が、5の「その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき」に該当するか
どうかということ。これについては、たとえば裁判所でも、もろもろの状況を総合的に判断して、
結論を出す。おならだけを見て、判断するということはない。

 で、そのおならで返事をする妻についてだが、すでに夫婦関係が冷え切ってしまっているとい
うことが考えられる。その冷え切った理由が、妻側にあるとするなら、離婚は可能であろう。お
ならは、その一部にすぎない。

 が、冷え切った理由が、妻側に存在しないときは、どうか? 妻にしてみれば、ごくふつうの
人間として、ふつうの生活をしているつもりかもしれない。化粧をしないということでも、それ自
体は、何でもないこと。夫は、そのふつうの様子が理解できないだけということになる。で、この
ばあいは、離婚事由にはならない。むしろ夫のわがままということになる。

 どちらにせよ、ことの細部をとりあげて、「これは離婚できる」「これは離婚できない」と論ずる
のは、先にも書いたように、ナンセンス。こんな形で法が運用されたら、それこそ、この世界
は、闇。めちゃめちゃになってしまう。弁護士にもなった人たちだから、そんなことは、百も承知
のはずと、私は思うのだが……。

 ただ刑法のほうは、そうとばかり言えない面がある。しかし刑法においても、法は、あとに来
るべきではないのか?

 たとえばこんな事例で考えてみよう。

 一旦停止の4つ角がある。その角の少し入ったところで、2人の婦警たちが、ミニパトカーを
止めて、見張っている。そして一旦停止しないで、4つ角に進入してきた車のドライバーに対し
て、つぎつぎと違反キップを渡している。

 よく見かけるシーンである。

 このばあいでも、婦警たちは、まず法律ありきという姿勢で、違反者を見張っているのがわか
る。もし本当に、交通ルールをドライバーに守らせようと考えるなら、運転者がその前にわかる
ように、一旦停止線のところに立って、見張るべきである。

 では、なぜ、一旦停止で車は止まらなければならないのか。それはルールというより、ドライ
バー自身の安全のためである。相手の車に、迷惑をかけないためである。ルールは、それを
裏から、補強する。一旦停止の線が描いてなくても、一旦停止が必要と感ずれば、ドライバー
は、そこで一旦停止する。一旦停止の線がないからといって、本線に一旦停止しないで、飛び
出してよいというものではない。

で、仮にそのあたりで、何かの交通事故があったときはじめて、法律が登場する。「あなたは一
旦停止すべきだったのに、一旦停止しなかった。一旦停止して、左右の安全の確認をすべき
だった。が、それをしなかった。つまりあなたのほうに過失がある」と。

 ふつうの人が、ふつうの生活をしていれば、また、それができれば、本来、法などというもの
は、必要ないのである。仮に、法(民法)に反していても、それで当事者たちが、納得していれ
ば、これまた法などというものは、必要ないのである。「配偶者の生死が3年以上明かでないと
き、離婚事由になる」という項目についても、「3年たったら、だれしも離婚すべき」というのでは
ない。中には、夫の帰りを待ちながら、10年でも、20年でも、妻のまま待っている人だってい
るはず。本来、ユートピアというときの理想世界では、そういう世界をいう。

 しかしそこで何か紛争が起きる。争いが起きる。そのときはじめて、法が前に出てくる。それ
が法なのである。

 はじめに法ありきという発想が、どういうものか、これで理解してもらえただろうか。……という
ことで、あの番組には、私は以前から、少し疑問に思うところがあった。あなたも、一度、そうい
う視点から、あの番組を見てみるとよい。

【補足】

 法的正義とは何かといえば、それは人間が本来的にもつ良識をいう。良識ある人が、良識あ
る行動をしていれば、本来、法など、いらない。不要。が、人間の世界には、良識ある人ばかり
ではない。ときとして、その良識ある人が、何かのトラブルに巻き込まれることがある。そのと
き、その良識ある人を守るために、法が、前に出てくる。それが法律である。

 「〜〜したら、離婚できる」「〜〜したから、慰謝料が請求できる」というように、教条的に法を
運用するのは、本来の法のあり方ではない。「良識ある妻が、夫と別れられなくて困っていま
す。どうしたらいいでしょう」「良識ある人が、ひどいめにあって苦しんでいます。どうしたらいい
でしょう」という問題が提起されたとき、法的正義が発揮される。法律が前に出てくる。

 法は、決して、悪人の味方をしてはいけない。そういう意味でも、法律を、教条的に解釈する
のは、たいへん危険なことでもある。

 繰りかえすが、ああいう番組を見て、子どもたちが、法律というのはこういうものだと、まちが
った先入観をもつのは、たいへん危険なことである。「法に触れなければ、何をしてもよい」とい
うふうに、法を解釈するようになるかもしれない。あるいは法の抜け道をさがすようになるかも
しれない。もし法律が、そういう形で利用されるようになったら、この世の中は、どうなる。小ズ
ルイ悪人ばかりの世界になってしまう。それを、私は、「闇」という。

●良識ある善人を守るための法律が、良識ある善人を苦しめるための道具として機能すると
き、その世界は、闇となる。(はやし浩司)

(はやし浩司 離婚 離婚事由 離婚論 法的正義 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論
 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 裁判員制度 陪審員制度)

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ついでにもう1作……

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【Independent Thinker】 

●ひとりで考える人(Independent Thinker)

 イギリスの哲学者でもあり、文学者でもあった、バートランド・ラッセルは、「宗教論(In 
Religion)」の中でつぎのように書いている。

Passive acceptance of the teacher's wisdom is easy to most boys and girls. It involves no 
effort of independent thought, and seems rational because the teacher knows more than his 
pupils; it is moreover the way to win the favor of the teacher unless he is a very 
exceptional man. Yet the habit of passive acceptance is a disastrous one in later life. It 
causes men to seek a leader, and to accept as a leader whoever is established in that 
position... It will be said that the joy of mental adventure must be rare, that there are few 
who can appreciate it, and that ordinary education can take no account of so aristocratic a 
good. I do not believe this. The joy of mental adventure is far commoner in the young than 
in grown mean and women. Among children it is very common, and grows naturally out of 
the period of make-believe and fancy. It is rare in later life because everything is done to 
kill it during education... The wish to preserve the past rather than the hope of creating the 
future dominates the minds of those who control the teaching of the young. Education 
should not aim at passive awareness of dead facts, but at an activity directed towards the 
world that our efforts are to create
教師の知恵をそのまま、受動的に受けいれるということは、ほとんどの少年少女に対しては、
楽なことであろう。それには、ひとりで考えるindependent thoughtという努力をほとんど要しな
い。

また教師は生徒より、ものごとをよく知っているわけだから、一見、合理的に見える。それ以上
に、この方法は、その教師が、とくにおかしなexceptional人でないかぎり、生徒にとっては、教
師に気に入られるための方法でもある。

しかし受動的にものごとを受けいれていくという習慣は、そのあとのその人の人生において、大
きな災いdisastrous oneをもたらす。その人は、リーダーを求めさせるようになる。そしてそれが
だれであれ、リーダーとして、その人を受け入れることになる。

子どもには、精神的な冒険mental adventureをする喜びなどというものは、なく、それを理解す
る子どももほとんどいないし、ふつうの教育のもつ、貴族主義的なaristocratic教育のよさが、
子どもには、わからないと言う人もいるかもしれない。

しかし私は、そんなことは信じない。精神的な冒険というのは、おとなたちよりも、若い人たちの
間でのほうが、ずっとありふれたことである。幼児たちの間でさえ、ありふれたことである。

そしてその精神的な冒険は、幼児期の(ものを信じたり、空想したりする期間)the period of 
make-believe and fancyの中から、自然に成長する。むしろあとになればなるほど、すべてが
教育によって、これがつぶされてkillしまうので、よりまれになってしまう。

若い人たちを教育する教師たちは、どうしても、未来を想像したいと願うより、過去を保全した
いとい願いやすいdominates。子どもの教育は、死んだ事実を受動的に気がつかせること
passive awareness of dead facts,ではなく、私たちの努力がつくりあげる世界に向って、能動的
に向わせることを目的としなければならないthe world that our efforts are to create。

バートランド・ラッセル(1872〜1970)……イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受賞


++++++++++++++++++++はやし浩司

●精神的な冒険(mental adventure) 

 精神的な冒険……つまり、今まで経験したことがない世界に自分自身を置いてみて、そのと
きの精神的な変化を、観察する。そしてその中から、新しいものの考え方や、新しい自分を発
見していく。

 それはとても、おもしろいことである。

 新しい発見に出あうたびに、「今まで、こんなことも知らなかったか」と驚くことがある。それが
自分に関することなら、なおさらである。

 その精神的な冒険について、バートランド・ラッセルは、「教育というのは、死んだ過去の事実
を、子どもたちに気づかせることではなく、私たちが創りあげる、未来に向かって能動的に向わ
せることを目的としなければならない」(Education should not aim at passive awareness of 
dead facts, but at an activity directed towards the world that our efforts are to create)と書
いている(「In Religion」)。

 では、それを可能にする方法は、あるのか。そこでバートランド・ラッセルは、教育論の中で、
「Independent Thought」という言葉を使っている。直訳すれば、「独立した思想」ということにな
る。もう少しわかりやすく言えば、「ひとりで、考えること」ということになる。

 少し前、恩師のT先生が指摘した、「Independent Thinker」と、同じ意味である。訳せば、「ひ
とりで考える人」ということになる。

 ……こう書くと、「ナーンダ、そんなことか」と思う人も多いかと思う。しかしそう思うのは待って
ほしい。

 「ひとりで考える」ということは、たいへんなことである。私たちは日常生活の中で、そのつど、
いろいろなことを考えているように見える。しかしその実、何も考えていない。脳の表面に飛来
する情報を、そのつど、加工しているだけ。それはまるで、手のひらで、頭をさすりながら、その
頭の形を知るようなもの。

 ほとんどの人は、その「形」を知ることで、脳ミソの中身まで知り尽くしたと錯覚する。しかしそ
の実、何もわかっていない。

 それがわからなければ、北海道のスズメと、沖縄のスズメを、見比べてみることだ。それぞれ
が、別々の行動をしているように見える。一羽のスズメとて、同じ行動をしていない。が、その
実、(スズメ)というワクを、一歩も超えていない。

 つまり私たち人間も、それぞれが自分で考えて行動しているように見えるが、その実、(人
間)というワクを、一歩も超えていない。北海道のオバチャンも、沖縄のオバチャンも、電車に
乗ると、世間話に、うつつをぬかす。大声でキャーキャーと騒ぎながら、弁当を食べる。

 つまりそれでは、いつまでも、Independent Thinker(ひとりで考える人)には、なれないというこ
と。Independent Thinker(ひとりで考える人)になるためには、人間は、自ら、そのワクを踏み超
えなければならない。

 しかしそれは、きわめて大きな苦痛をともなうものである。北海道のスズメが、スズメというワ
クを超えて、ウグイスたちと同居を始めるとか、あるいは、自分だけ、家の軒先に巣をつくらな
いで、土手の洞穴に、巣をつくるようなものである。

 人間として、それができるかどうか。それがIndependent Thinker(ひとりで考える人)の条件と
いうことにもなる。

 恩師のT先生は、科学(化学)研究の分野で、Independent Thinker(ひとりで考える人)の重
要性を説いている。しかしそれと同じことが、精神生活の分野でも言うことができる。バートラン
ド・ラッセルは、それを指摘した。

 ありふれた考え方ではない。ありふれた生き方ではない。ありふれたコースにのって、ありふ
れた人生を送ることではない。そういうワクの中で生活をすることは、とても楽なこと。しかしそ
のワクを超えることは、たいへんなことである。

 しかしそれをするから、人間が人間である、価値がある。人間が人間である、意味がある。
私も含めてだが、しかしほとんどの人は、先人たちの歩んできた過去を、そのまま繰りかえして
いるだけ。

 もちろん、その中身はちがうかもしれない。先日も、ある中学生(女子)に、「先生たちも、若
いころは、ある歌手に夢中になって、その歌手の歌を毎日、聞いていたよ」と言った。

 するとその中学生は、笑いながら、「先生の時代の歌と、今の歌は、ちがう」と言った。

 本当に、そうだろうか。私はこう言った。「歌が何であれ、歌を聞いて感動したという事実は、
私もそうだったし、君もそうだ。私の父親もそうだったし、祖父も、そうだった。やがて君も母親
になって、子どもをもつだろう。その子どもも、同じことをするだろう。つまり繰りかえしているだ
けだよ。

 もし、その繰りかえしから抜け出たいと考えるなら、そのワクから自分を解放しなければなら
ない。それが、Independent Thinker(ひとりで考える人)ということになるよ」と。

 しかしこれは私自身のテーマでもある。

 ふりかえってみると、私は、何もできなかった。これから先も、何もできないだろう。私の家の
近くには、仕事を退職した年金生活者がたくさん住んでいる。中には、懸命に、自分の人生
を、社会に還元しようとしている人もいるが、たいはんは、5年前、10年前と同じ生活を繰りか
えしているだけ。

 もし彼らの、その5年とか10年とかいう時代をハサミで切り取って、つないだとしたら、そのま
まつながってしまう。そういう人生からは、何も、創造的なものは生まれない。

 死んだ過去に固執していてはいけない。大切なことは、未来に向かって能動的に進むことで
ある。

 ついでに、バートランド・ラッセルは、「精神的な冒険」のおもしろさについて、書いている。

 私もときどきする。去年は、F市に住む女性と、精神的な不倫を実験してみた。もちろんその
女性には、会ったことはない。声を聞いたこともない。私のほうから、お願いして、そうした。

たった一度だったが、私に与えた衝撃は大きかった。結局、この実験は、相手の女性の心を
キズつけそうになったから、一度で終わったが、しかしそのあと、私は、自分をさらけ出す勇気
を、自分のものにすることができた。

 だれも考えたことがない世界、だれも足を踏み入れたことがない世界。そこを進んでいくとい
うのは、実に、スリリングなことである。毎日が、何かの発見の連続である。そしてそのつど、さ
らにその先に、目には見えないが、モヤのかかった大原野があることを知る。

 はからずも、学生時代、私の神様のように信奉した、バートランド・ラッセル。そしてそのあ
と、性懲りもなく、私のような人間を指導してくれている恩師のT先生。同時に、Independent 
Thinker(ひとりで考える人)という言葉を、再認識させてくれた。私はそこに何か、目には見えな
い糸で結ばれた、因縁のようなものを感じた。

 そう、そういう意味では、今日は、私にとっては、記念すべき日になった。

(はやし浩司 Independent Thinker(ひとりで考える人))

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ところで京都府に住んでいる、SEという方から、
こんなメールが届いています。

「考える」ことについて、最近の大学生
たちの姿勢を、このメールから読みとって
いただければ、うれしいです。

++++++++++++++++++++
 
はやし先生

先日、T先生のご論文を配信いただきましてから、自分で考える教育と
大学教育について、しばらく考えておりました。考えているうちに、いささか
愚痴めいてまいりました。限界はありながらも、その中で自分の最善を尽く
さねばと思うのですが、はやし先生はいかが、思われますでしょうか。

大学教育の現場では以前から、自分で考える力の不足と基礎概念の
理解の不足が問題とされています。

詰め込み教育の弊害と言った場合、「基礎概念は入っているが、それを操作
できない状態」を言うようなイメージがありますが、現場からは、

(1)基礎概念が入っており、その操作もできる学生
(2)基礎概念は入っているが、その操作はできない学生
(3)基礎概念の理解が不十分な学生。ひどい場合には、専門用語を単語
 として知っているだけ
(4)専門用語を全く知らない学生(学習意欲に、何がしかの問題がある)
と、いくつかの場合が、がみられます(もっと細かくできるかもしれませんが)。

(4)に関しては、「受験競争」を中心に据えられた日本の教育制度の弊害も
現れているのではないかと思われますが、

(1)から(3)に関しては、自分で考える力にも相当の段階があって、
基礎概念の定着においても、自分で考える力が大きな役割を演じている
ということが言えるように思います。(概念の論理を自分で追わないといけない
からだろうと思われます)。

大学側も、対話による授業というものを推奨するようになってきましたが、
基礎概念までも対話で教えろと言うに至っては、なにやらゆとり
教育や総合的学習を想起せざるものがあります。

そこで、大学教育において、何ができるのかですが、何より大切なのは、
T先生がお書きのように、教師が自分で考える姿勢を見せるという
ことなのだと思います。

「考える教育」への転換をゼミだけで行なうのはやはり限界があるようです。

かといって現状の大学を前提にする限り、大講義では学生との応答を主にする
のは不可能ですから、教師の見解を明確に示し、考えることの重要性を絶えず
発信するにとどまるのかもしれません。大学だけで何とかできると考えるのは
傲慢ですから、限界を認めざるを得ないのかもしれませんね。

基礎知識の重要性を軽視するわけではありませんが、基礎概念の理解にも関って
来るわけですから、「考える」ということの意義をもっと早くから教えるべきで
はないのかと、切に感じます。

いささか愚痴めいて参りました。
現在新学期の講義の準備をしているのですが、どうしたら「考えさせる」ことができるか、
考えながら準備をしております。

素直な学生たちなので、できるだけのことをしてあげたいと思います。

++++++++++++++++++++++

【SE様へ】

 実は、私も、法科の出身です。教壇に立っておられるSEさんの話を聞きながら、「私もそうだ
ったのかなあ?」と、当時を思い出しています。

 とくに法学の世界では、基礎概念の「移植」が、絶対的なテーマになっていますから、そもそも
独創的な考え方が許されないのですね。「構成要件の該当性」とか、何とか、そんな話ばかり
でしたから……。

 ですからSEさんの、悩んでおられることは、もっともなことだと思います。

 しかし、ね、私、オーストラリアにいたとき、東大から来ていたM教授(刑法の神様と言われて
しました)とずっと、いっしょに、行動していました。奥さんも、弁護士をしていました。

 たいへん人格的にも、高邁な方でしたが、私はその教授と行動をともにするうちに、法学へ
の興味を、ゼロに近いほど、なくしてしまいました。

 もともと理科系の頭脳をもっていましたから……。何となく無理をして、法学の世界へ入った
だけ……という感じでした。それで余計に早く、法学の世界を抜け出てしまったというわけで
す。

 そのM教授ですが、本当に、まじめというか、本当に、研究一筋というか、私とはまったく、タ
イプがちがっていました。そういうM教授のもとで、資料を整理したりしながら、「私はとても、M
教授のようには、なれない」と実感しました。

 で、M教授のことを、恩師のT先生も、よく知っていて、ずっとあとになって、その話をT先生に
すると、「そうでしょうねえ。あの先生は、そういう方ですから」と笑っていました。学部はちがっ
ても、教授どうしは、教授どうしで、集まることもあるのだそうです。

 話をもどしますが、SEさんが、言っていることで、興味深いと思ったのは、こうした傾向という
のは、すでに高校生、さらには、中学生にも見られるということです。

 たとえば中学生たちは、成績に応じて、進学高校を決めていきます。そして高校生の80〜9
0%前後は、「入れる大学の、入れる学部」という視点で、大学を選び、進学していきます。夢
や目標は、とうの昔に捨てているわけです。

 もちろん希望も、ない。

 だから大学へ入っても、法学の世界でいえば、法曹(検事、弁護士、裁判官)になりたいとい
う学生もいますが、大半は、ずっとランクの下の資格試験をねらう。いわんや、純粋法学をめ
ざして、研究生活に入る学生は、もっと少ない(?)。

 このあたりの事情は、SEさんのほうが、よくご存知かと思います。

 つまりですね、もともと、その意欲がないのです。「学ぶ」という意欲が、です。ただ私のばあ
いは、商社マンになって、外国へ出るという、大きな目標がありました。(当時は、外国へ出ると
いうだけでも、夢になるような時代でした。今では、考えられないと思いますが……。)

 そのための法学であり、成績だったわけです。おかげで、「優」の数だけは、学部で二番目。
行政訴訟法だけ落としてしまい、司法試験をあきらめた経緯もあります。成績はよかったか
ら、I藤忠と、M物産に入社が内定しました。そのあと、オーストラリアとインドの国費留学生試
験にも合格しました。

 (結果として、オーストラリアのM大へ留学し、そのあとM物産に入社しました。)

 まあ、自分としては、オリンピック選手まではいかないにしても、国体選手のような活躍をした
時代だったと思います。

 が、何しろ、法学を選んだのが、まちがいでした。私は、子どものころから大工になりたかっ
た。大学にしても、工学部の建築学科に進みたかった。そういう男が、法学ですから、役割混
乱もいいところです。もうメチャメチャでした。

 ですからSEさんのメールを読みながら、私はそういう意味では、器用な男でしたから、(1)の
タイプかもしれませんが、こと法学に関しては、自分で考えるという姿勢は、まったくなかったと
思います。

 私にとっては、法学というのは、方程式のようなもので、無数の定義をくっつけながら、結論
(解)を出していく……。それが私にとっての法学だったような気がします。(ご存知のように、勝
手な解釈をすること自体、法学の世界では許されませんから……。)

テレビ番組の「行列のできる法律相談所」を見ながら、今になって、「結構、おもしろい世界だっ
たんだなあ」と感心しているほどです。)

 ただSEさんが、ご指摘のように、対話形式の講義というのは、英米法の講義では、ふつうだ
ったように思います。教授が、あれこれと質問をしてきます。質問の嵐です。よく覚えているの
は、こんな質問があったことです。

 「カトリック教会の牧師たちは、小便のあと、3度までは、アレ(Dick)を振ってもよいそうだ
が、4度はダメだという。それについて、君は、どう思うか」とか、など。

 そういうところから(教条)→(ルール)→(法)へと、学生を誘導していくのですね。ハハハと笑
っている間に、講義だけはどんどんと進んでいく。

 また日本の法学の講義とはちがうなと感じたのは、それぞれの教授が、ほとんど、法学の話
などしなかったこと。(私の英語力にも限界がありましたが……。)「貧困」だとか、「公害」とか、
そんな話ばかりしていたような気がします。

 日本の短期出張(=単身赴任)が、話題になったこともあります。つまり基礎法学は、自分で
勉強しろという姿勢なのですね。学生たちは、カレッジへもどり、そこで先輩たちから講義を受
けていました。

 自分のことばかり書いてすみません。何かの参考になればと思い、書きました。

 以上のことを考えていくと、結局は、結論は、またもとにもどってしまいます。T先生は、つぎ
のように書いています。

「日本のようにこれ以上は教えなくていいなど、文部科学省の余計な規制が、なぜ必要なのだ
ろうか。今はもう横並びの時代ではない。現場の先生は厚い教科書の全部を教えることはもち
ろんない。場合によってはここを読んでおけ、でもいい。生徒のレベルに応じて先生が好きなよ
うに教えればいいのである。その方が生徒も先生も個性を生かせてもっともっと元気が出る
し、化石化してしまった現在の化学が生き返る」と。

 つまりは教育の自由化、ですね。子どもたちがおとなになるためのコースを、複線化、複々線
化する。ドイツやイタリアでしていることが、どうして、この日本では、できないのでしょうか。

このがんじがらめになったクサリを解かないかぎり、SEさんの問題も含めて、日本の教育に
は、明日はないということではないでしょうか。

 返事になったような、ならないような、おかしな返事になってしまいましたが、どうか、お許しく
ださい。

 今日はワイフが風邪気味で、ひとりで5キロ散歩+自転車で7キロを走りました。そのあと、
昼寝。夕方になって、頭が少しさえてきました。頭のコンディションを保つだけでも、たいへんで
す。ますます使い物にならなくなってきたような感じです。

 
Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

【過去の奴隷たち】

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全国あちこちに、「ゴミ屋敷」と呼ばれる
家がある。
家の内外、ゴミだらけ。
マスコミでも、ときどき話題になる。
が、ゴミの多い家は少なくない。
家の外には少なくても、家の中はゴミだらけ
という家もある。
あるいは部屋の中がゴミだらけという家もある。

要するに何をゴミにするかということ。
そのモノによって、家の外にもゴミがあふれる
ということにもなる。

たとえば衣服を中心に集める人は、家の中を
衣服でいっぱいにする。
古くて使えそうもないような衣服まで、
そこにある。
以前、破れたズボンまで、たたんでしまっている人もいた。

人それぞれだが、とにかくゴミはゴミ。

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●肛門期

乳幼児はいくつかの原始的な心理発達段階を経て、少年、少女期へと移行していく。
そのひとつが、「肛門期」。
便をためる快感、便を排出する快感、その2つの快感を同時に経験する(フロイト)。
その「ためる」「捨てる」部分が、未成熟のままおとなになると、
異常なケチになったり、冒頭に書いたように、「捨てられない人」になる。
あるいは時には、見境なく高価なモノを買って、安心したりする。

数年前だが、ある人の家に寄ったとき、私は心底驚いた。
かなり大きな家だったが、玄関先からモノがいっぱい。
1間幅(1・8メートル)の玄関だったが、体を横にしないと、中へは
入れなかった。
モノ、モノ、モノ……。
その向こうにも、モノ、モノ、モノ……。
天井からも、衣服類が、ところ狭しと、吊りさげられていた。

しばらく待っていると、中から人が出てきたが、その人自身も、モノと
モノの間に足を入れながら歩いてやってきた。
ふつうなら、(こういうケースのばあい、「ふつう」という言い方をするのは、
たいへん危険だが……)、使わないもの、価値のないもの、古いものは、
どんどんと捨てる。
が、このタイプの人は、それができない。
いろいろなケースがある。
私が実際見たケースを書いてみる。

(ケース1)
たんすや戸棚には、衣服がぎっしりと詰まっている。
亡くなった祖父母の着物類から、息子や娘が子ども時代に使っていた
衣服類まで。
その人(女性、60歳くらい)のばあいは、そういった衣服をきちんと
箱に入れて、しまっていた。
そして暇なときは、それを出したり、入れたり……。
それだけを毎日のように、繰り返していた。
ときに箱からつぎつぎと出し、足の踏み場もないほどになったりすることもある。

(ケース2)
そういう関係の仕事をしていたこともあり、不用品として出されたものの
中から、まだ使えそうなものを見つけると、片っ端から自分の家の中に
持ち込んでいた。
その人は男性(50歳くらい)で、独身だったが、女性の美容器具まで、
その中には含まれていた。
部屋という部屋には、モノがいっぱい。
そのため窓までモノでふさがってしまい、昼間でも、電気をつけなければ、
部屋から部屋へと歩けないような状態だった。

(ケース3)
自分の趣味のものを買い集めたりしていた。
中古でも、値段が安いと買い集めていた。
その男性(30歳くらい)は、同じものでも、自分が気に入ったものは、
つぎつぎと買い足していた。
部屋の中はモノであふれかえっていたが、部屋のある部分だけを使うため、
その部分の畳は擦り切れて、穴があいていた。
掃除などしたことがないといったふうだった。

ほかにもテレビなどにもよく紹介される人がいる。
たいていは家の外にまでモノがあふれ、ときに近隣の人たちに迷惑を
かける。
社会問題になる。

原因としては、フロイト学説に従えば、乳幼児期における「肛門期」に
問題があったということになる。
この時期に、何らかの原因があって、(たいていは、愛情問題と考えてよい)、
精神的に未発達のまま、おとになになったと考えられる。
たとえば異常にケチな人というのは、その時期に問題があったとみる。
よくあるケースは、下の子ども(弟や妹)が生まれたことにより、
愛情飢餓の状態に置かれるなど。
生活態度そのものも、防衛的になる。

ただ驚くべきことに(ホント!)、冒頭にあげた玄関先にまでモノを置く人にしても、
(ケース1、2、3)の人たちにしても、みな、それぞれ、会って話してみると、
ごくふつうの人であったということ。

ふつうのサラリーマンであったり、通りであえば、こぎれいでサッパリと
した人たちであったりした。
そういう様子だけを見ていると、だれも家の中がそういう状態になっている
とは思わないだろう。
またそういう話をしても、だれも信じないだろう。
つまりはそういうタイプの人たちであった。

●捨てる美学

ガランと何もない部屋。
その居心地のよさは、それを知っている人は、知っている。
それを知っているから、モノを買わない。
不要になったら、すぐ処分する。
が、それができない人は、できない。
それこそ道路に捨ててあるゴミまで拾って、もってきたりする。
そのちがいは、どこからどう生まれるのか?

そこでよく観察してみると、捨てる人も、捨てられない人も、
まさに『チリも積もれば……』という状態で、そうなることがわかる。
ある日、突然、ゴミ屋敷になるわけではない。
仮に、古い衣服を、1週間に1着、部屋のどこかに吊りさげたとする。
1年では、それが50着になる。
10年では、500着になる。
20年では、1000着になる。
こうしていつの間にか、その部屋は衣服で埋まってしまう。
ゴミにしても、そうである。

一方、部屋の中がガランとしている人もそうである。
(ただし潔癖症の人は、別。)
いつも何かを、無意識のまま処分している。
その前に、モノをあまり買わない。

一般論で言えば、戦前から戦後に生まれた人たちは、モノに対して、
独特の執着心をもっている。
モノ=財産という考え方をする。
貧しい時代の遺物と考えてよい。
そのため(まだ使えそうなもの)、(いつか使うかもしれないという
可能性のあるもの)があったりすると、それを捨てることができない。
さらにそれが高じたりすると、同じものがあっても、捨てることができない。
そのため同じものが、いくつもになったりする。

そこで「捨てる美学」。

●捨てる美学

実は私は今年の秋、実兄と実母を、つづいて亡くした。
で、実家は、だれも住んでいない。
そのあと始末にときどき実家へ帰っているが、これが結構、たいへん。
「たいへん」というのは、小さなモノならまだしも、大きなたんすなどの
家具類の始末がたいへん。
母や兄が大切にしていたものだから、それなりに保存しておいてやりたい。
しかしそういったものを、私の家に持ち込むことはできない。
それこそ足の踏み場もなくなってしまう。
しかしそこは心を鬼にするしかない。

捨てるものは、思い切って捨てる。
それがここでいう『捨てる美学』ということになる。
これは私の息子たちに迷惑をかけないためでもある。
が、誤解しないでほしいのは、捨てるのが美学というのではない。
捨てることによって、身辺がスッキリする(=clearになる)。
結果として、気持ちよく家を使うことができる。
それが『美学』ということになる。

●心の病気

こうして考えてみると、モノを捨てられない、モノをためこむという人は、
心に何らかの病気があるとみてよいのではないか。
(もちろん当人たちは、否定し、それに猛反発するだろうが……。)
しかし常識で考えて、ある一線を超えている人は、そうであると考えてよいのでは?

素人の私がこう書くのは、たいへん危険なことは承知している。
しかしふつうの心理状態でないことだけは、確か。
だから今、モノをつぎつぎと買い込んだり、集めたりしている人は、一度、自分自身の
心の中をのぞいてみるとよい。

フロイト理論で考えるなら、年齢的には、2〜4歳前後に、心に影響を与える
ような何らかの大きな事件が、日常的につづいたということになる。
親の無視、冷淡、虐待、育児放棄など。
家庭騒動や離婚問題(離婚が問題と言っているのではない。離婚に至る
騒動が問題と言っている。誤解のないように!)、さらには赤ちゃん返りも
その中に含まれる。

そういう問題が、心をふさぎ、精神の発達を阻害した?
病気と言えるような病気ではなかったかもしれないが、それがおとなになっても、
尾を引いている?

もちろんこの日本では、他人に迷惑さえかけなければ、一応、何をしても
よいということになっている。
それがその人の家であれば、モノで足の踏み場がなくても、それはその人の
勝手。
その人がそれでよい、あるいは住み心地がよいと言うのであれば、それでよい。
他人である私がとやかく言う問題ではない。

というのも、私たち自身も、いろいろな形で、乳幼児期という(過去)を
引きずっている。
私も引きずっているし、あなたも引きずっている。
心の世界では、「正常」とか、「正常な人」という言葉は存在しない。
その定義すら、ない。
ただ大切なことは、いつかどこかで、自分でそれに気がつくということ。
そのために一度は、自分の心の中をのぞいてみるということ。

そういう意味でも、自分を知るということは、難しい。
本当に難しい。

たとえば私の知人の中には、異常なまでにケチな人がいる。
どうケチであるかを説明しても、説明しきれない。
たとえばコンドームでも、何度も洗って使っている。
そういうケチである。

そういう人でも、一度自分の過去をのぞいてみたら、もう少しは
自分の姿を客観的にとらえることができるようになるかもしれない。
そしてそれができれば、自分で自分をコントロールできるように
なるかもしれない。

まずいのは、そういう過去があることも知らず、(あるいは気づかず)、
いつまでもその過去に引きずり回されること。
しかしそれは同時に、自分であって自分でないものに支配されることを
意味する。
言うなれば(過去の奴隷)?
もしそうであるなら、いつまでたっても、真の自由を手にすることはできない。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家
はやし浩司 心の奴隷 ゴミ屋敷 ごみ屋敷 ゴミを捨てられない人)

(補記)

ときどき異常なほどまでに、小銭にケチな人がいる。
年齢には関係ない。
「ぼくにはお金がないから……」を、いつも口癖にする。
実際には、1円も払わない。
それでいて財産がないかというと、そうでもない。
結構な遺産を引き継いでいたり、あるいは、市からの補償金を
手に入れたりしている。

そういう人に共通する特徴をあげてみると、まず気がつくのは、
「損になることは、何もしない」という生活態度。
具体的にはボランティア活動のようなことは、いっさいしない。
(中にそれらしきする人もいるが、あくまでも他人の目を意識して、
そうするに過ぎない。)

そこで大切なのが、『損の美学』。
人は、損をすることで、成長する。
心を広くすることができる。
が、それだけではない。
モノ、マネーに対する執着心を消すことができる。
それはすがすがしく、この世を生きるための鉄則でもある。

ただし同じ(損)でも、欲得がからんだ損は、意味がない。
たとえば債券投資で損をしたとか、株の売買で損をしたとかなど。
他人にだまされた損も、含まれる。

ここでいう「損」とは、自己犠牲を伴う損をいう。
たとえばボランティア活動が、それに当たる。
が、欲得がからんだ「損」は、その人をますますケチにする。

無私、無益で損を重ねる。
それが損ともわからないほどまで、損を重ねる。
私がいう『損の美学』というのは、それをいう。

(参考)

ウィキペディア百科事典より、抜粋。

***********以下、ウィキペディア百科事典より*************

フロイトによれば、この時期の小児性欲の中心は肛門である。子供は排便を意識し、コントロ
ールの方法を教えられ、適切なときと場所でトイレに行くという「トイレットトレーニング(排泄訓
練)」が可能になる。時期については諸説あるがおおむね2歳から4歳頃までとされる。この時
期の子供には自己中心的、情動的な傾向が強い。そのため自分の欲求を即座に満たそうと
する場合がままある。排泄という肉体的反応を適切に行なえるようになることで、そうした情動
的な性格に対し何らかの影響があるとされる。

この時期の子供に対して親は規則正しく衛生的に排便するように励ますことが求められる。そ
うした親からの働きかけが社会的圧力となり、適切な排泄行為をしなければならない、という抑
圧とそれが達成できたときの達成感や充実感を得る。また排便のタイミングを自分で判断する
ことにより、自信と「ものをあきらめる能力」が発達し、子どもは自律のための重要な一歩を踏
み出す。ただし、子供をトイレに無理矢理いかせたり、過度にタイミングや清潔さに厳しすぎる
と、子供のパーソナリティにさまざまな問題を生じる可能性があるともされる(後述の肛門的固
着参照)。

+++++++++++++++

"肛門期的性格が固着すると、どんなものでも捨てるのを嫌がるようになることがある。そういう
ひとは、ためこみ屋でけち(典型的な肛門保持)になることがある。これはトイレを強要するだ
けではなく、適切な圧力をかけない放任でも起こることがあり、親と子供の性格や関係にもよっ
てまちまちである。 

"規則的にトイレに行くことばかりを強要すると、極度に時間に正確だったり、あるいは、常に
遅刻するようなタイプの人間になったりする。

"清潔さを強調しすぎると強迫観念的なパーソナリティになり、いつも掃除や整頓を気にする人
間になることがある。あるいは、反発していつもだらしない人間になることもある。 

**********以上、ウィキペディア百科事典より*************

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
肛門期 ためこみ屋 けち ごみ屋敷)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●「有能」vs「有用」?

+++++++++++++++++++

昨日朝早く、目覚まし時計についていた
ラジオにスイッチを入れた。
とたん、こんな声が聞こえてきた。
雰囲気からして、どこかの宗教団体提供の
番組だったかもしれない(?)。

こう言った。

「有能な人間より、有用な人間になれ」
「有用な人間こそが、出世できる……」と。

「有能」という言葉と、「有用」という言葉が
交互に、何度も出てきた。

私はこの説教(?)を聞いて、頭の中で脳神経が
バチバチとショートするのを感じた。

++++++++++++++++++++

●私は私

私は私、人は人。
私には私の考えがあり、人には人の考えがある。
大切なことは、それぞれの人の考えを尊重すること。
それぞれの人の考えを参考に、さらに自分の考えを
積み重ねること。
が、ときに人の話を聞いたとき、頭の中で脳神経が
バチバチとショートするのを感ずることもある。
昨日の朝もそうだった。

あるラジオ局が、こんな説法をしていた。
「有能な人間より、有用な人間であれ。
それが出世への道である……」と。
どこか無機質で、単調な言い方だった。
その言い方から、私はスポンサーは、どこかの
宗教団体でなかったか。
(確認はしていない。)

●有能と有用

有能と有用。
似たような言葉だが、どちらかを取れと言われれば、
私なら「有能」を取る。
「有用」という言葉を聞くと、そこにどうしても他人の目
を感じてしまう。
たしかに他人との協調性は大切だが、それは集団とか、
もしくは組織の中での話。
有用という言葉も、そういうところでは生きる。
しかし「有用」だけを考えていると、私が私でなくなってしまう。
私は、それを心配する。

具体的に考えてみよう。

●社会で役に立つ人間

少し前まで、「社会で役立つ人間づくり」が、教育の柱に
なっていた。
学校の卒業式などでも、この言葉がよく使われた。
しかしこの言葉は、戦前の「お国のために役立つ人間」に
ルーツを求めることができる。
「お国」が「社会」になった。
「お国のため」が、「社会のため」になった。
それに「役立つ」がくっついた。
こういう例は多い。
そしてこうした考え方の中から、日本独特のあの出世主義が生まれた。

●出世主義vs家族主義

この日本では、地位役職にある人を、「偉い人」という。
そうでない人は、「偉い人」とは言わない。
しかし英語には、「偉い人」にあたる単語すらない。
あえて言うなら、「respected man」という言葉がある。
日本語に訳すと「尊敬される人」ということになる。

しかし「尊敬される人」というときには、地位や役職は関係ない。
地位や役職がなくても、尊敬される人は尊敬される。
地位や役職があっても、尊敬されない人は尊敬されない。

とくに私たち団塊の世代は、子どものころからこの「出世」という
言葉に踊らされた。
「立派な人になってください」
「偉い人になってください」と。

しかしこうした出世主義は、1990年ごろから、急速に、しかも
音を出して崩れ始めた。
日本人の意識が急速に変化し始めた。
家族主義の台頭である。
このころから「仕事よりも家族が大切」と考える人が、急速にふえ始めた。
それを決定的にというか、強烈に印象づけたのが、あの山一證券の倒産劇で
ある。

山一證券が倒産したとき、社長ともあろう人物が、テレビカメラに向かって、
「みんな、私が悪いのです」と、泣きじゃくってみせた。
それは私たちに大きな衝撃を与えた。

●子どもの世界では

集団教育という場では、協調性は、必要不可欠。
それはわかる。
浜松市内にあるS小学校(ゆいいつ入試を実施している小学校)の入試説明会でも、
この言葉が、まず最初に、使われる。
「当校は、教育研修校であります。
いろいろな先生が研修にやってきます。
そのため協調性のある子どもを求めます」と。

しかしその一方で、集団が苦手という子どももいるのも事実。
原因はいろいろある。
理由もいろいろある。
子ども自身の心の問題がからんでいることもある。
それはそれとして、こうした傾向は幼稚園の年中児くらいになると、
はっきりとしてくる。

そういう子どもを無理に、集団に押し込めるのも、どうか。
その子どもにとっては、苦痛以外の何ものでもない。
多くの親たちは、「うちの子が集団になじめないのは、慣れていないから」と
考える。
しかしこれは(慣れ)の問題ではない。
無理をしても意味はない。
無理をすれば、かえって逆効果。
子どもはますます集団になじめなくなってしまう。
そういうこともあって、現にアメリカでは、学校へ行かないで、
自宅で教育を受けるホームスクーラーが、1990年の終わりに100万人を超えた。
その後もどんどんとふえて、現在、200万人を超えていると推定される。

●よき家庭人

一方、欧米では、『よき家庭人づくり』が、教育の柱になっている。
アメリカでもオーストラリアでも、「Good Family Man(よき家庭人)」という。
フランスでもドイツも、そう言う。

あるいはアメリカでもオーストラリアでは、どの学校へ行っても、
「Independent」という文字がよく目につく。
「独立した」という意味である。
恩師の田丸謙二先生も、論文の中で、よく「Independent Thinker」という
言葉をよく使う。
「独創的な思考力をもった人」と、私は解釈している。

むしろ集団に背を向けて生きることこそ、大切と。
あのマーク・トゥエインもこう書いている。

『他人と同じことをしていると感じたら、自分が変わるべきとき』
(トム・ソーヤ)と。

もちろん弊害がないわけではない。
オーストラリアに住む友人は、こういった。
「オーストラリアでは、大企業が育たない。
その理由のひとつが、(Independent)という言葉にある」と。

「オーストラリアの若者たちは、高校を卒業したりすると、
車一台と電話一本で、仕事を始める。
それが今、問題になっている」と。

●協調性

だからといって、協調性がなくてもよいというわけではない。
他人とのかかわりの中では、協調性なくして、円滑な人間関係を結ぶことは
できない。
しかしそれより大切なのは、「共鳴性」(EQ論)である。
それについて書くのはここでの目的ではないので、省略する。

しかし「協調性」を問題にする国というのは、そうはない。
教育の世界でも、「子どもに合わせた教育」を考える国は多いが、
「集団(国)に合わせた教育」を考えるのは、独裁国家か、それに類する
国でしかない。

つまり「社会に役立つ人間」というところから、「有用」という言葉が生まれた。
(その逆でもよいが……。)

こういう背景を忘れて、一方的に「有用」という言葉を使うのは、
危険なことでもある。
戦前の日本を見れば、それがわかる。

●結論

生き方にもいろいろあり、職業にもいろいろある。
1人の個人を見たばあいでも、いろいろな場面がある。
「有用」という言葉が生きる場面もある。
「有能」という言葉が生きる場面もある。
一方、「有用」という言葉が、ほとんど無視される場面もある。
「有能」という言葉が、ほとんど無視される場面もある。

それに「有能」といっても、それが生かされない場面もある。
せっかく有能であっても、それを認める環境が整わないと、かえって
苦しむのは、その個人ということにもなる。

が、結論として、こういうことは言える。
「有能」は、一生かかっても、その人が追求すべきテーマとなりうる。
しかし「有用」ばかり気にしていると、かえってその人は自分を
見失ってしまう
少なくとも、一生かかって追求すべきテーマではない。
ほどほどに、ということになる。

が、あえて言うなら、私たちは、有能な人がもっと認められる社会を、
もっと目指さねばならない。
今の日本の社会は、「有用」ばかりが重んじられ、「有能」が、あまりにも
無視されすぎている。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●「ぼくはいいけど、女房のヤツがア……」

+++++++++++++++++++++

ずるい言い方がこれ。
「ぼくはいいけど、女房がヤツがア、何と言うか……」と。
自分以外の人に責任をかぶせて、自分だけいい人間でいようとする。
そういう言い方をしながら、自分の思い通りに、ことを運ぼうとする。

たとえばこんなふうに、使う。

「おたくの空き地を、使わせていただけませんか?」
「いいですよ」
「代金はいくらほどにすればいいですか?」
「ぼくはお金はいらないけど、女房のヤツがねエ……。あとで連絡しますよ」と。

+++++++++++++++++++++

最近、K国からの脱北者が、覆面インタビューに応じた※。
K国の工作員幹部だったという。
そういう人が脱北し、そうしたインタビューに応ずること自体、異例中の異例という。
その脱北者が、こんなような発言をしている(要約)。

「北には、穏健派も強硬派もない。
金xxが全権を完全に握っている。
(穏健派とか強硬派がいるというのは、見せ
かけにすぎない)」と。

具体的には、各「部」には、日本の「大臣」にあたる「部長」が
いないという。
すべての部長(つまり大臣)は、金xxが兼務している。

この発言でひとつの謎が解けた。
ごく最近まで、6か国協議の席などで、K国の代表は、よくこんな発言をしていた。
「軍部(=強硬派)が、それでは納得しないだろう」
「外交部と軍部は、意見が対立している」とか、など。

あたかもK国内部では、穏健派(外交部)と、強硬派(軍部)が対立している
かのような印象を、まわりの人たちに与えていた。
その言葉に、アメリカも含めて、他の4か国が振り回された。
しかしそれは(まやかし)に過ぎなかった?

何か自分に都合の悪いことがあると、軍部の責任にする。
「外交部はそれでいいとしても、軍部が何と言いますかねエ〜」と。
そして相手の同情を買いながら、自分たちの思惑通りに、相手を誘導しよう
とする。
つまり他の5か国は、まんまとK国に、してやられた。
恐らく、アメリカの国務次官のC・ヒル氏にしてもそうだろう。
サンプル採取の口頭での約束は、あったかもしれない。
しかし土壇場の本会議では、それがあっさりと否定されてしまった。
いくら親北派のC・ヒル氏にしても、かなり頭にきたにちがいない。
が、そのときK国の代表の金は、C・ヒル氏にこう言ったにちがいない。
(これは私の憶測だが……。)
「私はいいと思って、あのように言いましたが、軍部が強硬で、困っています。
それでNOということになりました」と。

……ということで、元来気が小さく、卑怯(ひきょう)な人ほど、
似たような言い方を多用する。
「私はいいのですが、主人が何と言いますか……」とか、
「私は構わないのですが、近所の人たちが、ね」とか、など。

こんな例もある。
ある母親がこう言った。
「私はどこの高校でもいいと思っているのですが、息子はどうしてもA高校へ
入りたいと言っています。
何とか息子の希望をかなえさせてやりたいのです」と。
そこでその息子に話を聞くと、その息子(中3男子)は、こう言った。
「ぼくは、どこの高校でもいいんだけど、ママがどうしてもA高校にしろって
言っている」と。

問題は、こうした言い方をされたとき、私たちはどうそれに答えたよいのか
ということ。

私のワイフは、これについて、こう言った。
「そういうときは、『ああそう』という言い方しかできないわね」と。

私も相手が、それなりのおとななら、そう言うだろう。
しかし相手が生徒のばあいは、すかさず、たしなめるようにしている。
「君の考えは、どうなんだ。
どういうふうに考えているんだ。
はっきりとそれを言えばいい。
そういうズルい言い方をしてはいけない」と。

6か国協議についていえば、もしK国の代表が、そう言ったら、
こう切り返したらよい。
「だったら、会議の席に、軍部の代表を連れてきなさい」と。

どうであるにせよ、C・ヒル氏は、6か国協議を、形骸化してしまった。
6か国協議を、ただの米朝会議の追認の場にしてしまった。
「話しあうのは、アメリカとK国。
K国を援助するのは、君たち」と。

しかし……。
K国の狡猾(こうかつ)さに、今ごろ気がついても遅い!
5年4か月という、月日はもう、戻ってこない。
この間に、K国は、核兵器開発を、かなりのレベルにまで進めたはず。
その責任は、だれが、どう取るつもりなのか。
……とまあ、話が脱線したので、この話は、ここまで。

(注※、産経新聞より)

「金xx独裁の権力には特徴がある。1つはサイン(署名)統治だ。北のすべての人事や活動は
組織指導部に提議書としてあげられ、批准を受けなければならず、金正日のサインがすべて
の権力を握っている。第2には主要部署の部長(大臣に相当)はすべて空席だ。組織指導部、
宣伝扇動部、統一戦線事業部、党軍事部、国家保衛部などだ。これらの核心部署は金正日
が部長を兼任、権力を統制、掌握している。韓国や日本では《K国の穏健派と強硬派が対立し
ている》などの報道があるが、ありえない。北朝鮮は社会主義の形式は取っているが、徹底し
た個人独裁で争うことは絶対にできない」(産経新聞・08・12.12)より。

発言したのは、「K国の朝鮮労働党の対南工作機関「統一戦線部」出身で現在、韓国の情報
機関、国家情報院傘下の研究機関でK国分析を担当する張哲賢氏」(同)とのこと。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司

●余裕のない人

+++++++++++++++++

余裕のない人の心は、いつも緊張状態にある。
表面的な笑顔や表情にだまされてはいけない。
心の状態をみる。
心の状態をみて、判断する。

++++++++++++++++++++

●心の緊張状態

ふつう「情緒不安」というときは、「心の緊張感がとれない状態」をいう。
緊張しているから、そこへ不安や心配ごとが入ってくると、一気に
心は不安定になる。
それが時とばあいに応じて、爆発する。
激怒したり、興奮したり、取り乱したりする。
錯乱状態になる人もいる。

子どもも、また同じ。

学校で何かいやなことがあったりすると、子どもはその緊張状態を
そのまま家に持ち込む。
ささいなことでキレたり、興奮状態になったりする。
そういうときは、表面的な部分だけをみて、子どもを叱ったりしてはいけない。
子どもの心の状態をみる。
心の状態をみて判断し、指導する。

緊張状態になっていると、どこかピリピリとした、トゲトゲしさを感ずる。
それを感じたら、要注意。
方法としては、ひとり、ぼんやりと過ごせる時間と場所を用意する。
あとは、Ca、Mg、Kの多い、食生活に心がける。
わかりやすく言えば、海産物中心の献立に切り替える。
一方で、白砂糖の多い食生活、リン酸食品などは、避ける。
一時的に白砂糖の多い食品を食べると、同時にインシュリンが大量に
分泌され、しばらく時間がたつと、結果的に子どもは、低血糖状態になる。
インシュリンが必要以上に、糖質を分解するためである。
そのため興奮しやすくなったりする。
(ちょっとしたことで、キーキーと金きり声をあげる子どもは、
まずこの低血糖を疑ってみる。)

またリン酸は、体内のカルシウムと結合して、リン酸カルシウムとなる。
リン酸カルシウムは尿として、排泄される。
せっかく摂取したカルシウムが、無駄になってしまう。

これはあくまでも参考的意見だが、こんな知人もいる。
その人(40歳くらい)は、何かのことでイライラしたら、
カルシウムの錠剤をバリバリと口の中で割って食べているという。
戦前までは、カルシウムは、精神安定剤として、医師によって処方されて
いたという。
(子どもに与えるときは、量に注意すること。)

私たちおとなも、ふとしたきっかけで、よく心が緊張状態になる。
が、少し注意すると、自分でもそれがわかるようになる。
「今日はあぶないぞ」とか、「きょうはだいじょうぶ」とか。
こうして自分をコントロールする。

そこで私が自分に言って聞かせている教訓。

(1)心が緊張しているときは、結論を出さない。
(2)心が緊張しているときは、いやな人とは話をしない。
(3)心が緊張しているときは、判断をワイフに任す。
(4)心が緊張しているときは、じっと嵐が過ぎ去るのを待つ。

私のばあいは、ハーブ系の安定剤が、たいへん効果的。
薬局で売っている市販のものを、常用している。

●心に余裕がない人

余裕のない人の心は、いつも緊張状態にある。
表面的な笑顔や表情にだまされてはいけない。
心の状態をみる。
心の状態をみて、判断する。

このタイプの人は、いつもセカセカとして、落ち着きがない。
ちょっとした会話にも、過剰に反応したりする。
こちらの話を半分も聞かないうちから、反論してきたりする。
それだけ心の中が緊張しているとみる。

いつも神経を周囲に張りめぐらせているといった感じ。
あたりを気にしている。
つまりその分だけ余裕がない。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec・08++++++++++++++はやし浩司
2008−12−17
**************以上、2950作*****************

【子育て一口メモ】

●許して、忘れる

 親の愛の深さは、どこまで子どもを許して忘れるかで、決まる。英語では、『for・give & for・
get 』という。

 この単語をよく見ると、「与えるために、許し、得るために忘れる」とも訳せる。(forgive= 許
す、 forget=忘れる。「フォ・ギブは、与えるため」、「フォ・ゲッは、得るため」とも訳せる。)

子どもに愛を与えるために、親は許し、子どもから愛を得るために、親は忘れるということにな
る。

 子育てをしていて、袋小路に入り、行きづまりを覚えたら、この言葉を思い出してほしい。心
が軽くなるはずである。


●子どもの横を歩く

 親には、三つの役目がある。ガイドとして、前を歩く。プロテクター(保護者)として、うしろを歩
く。そして友として、子どもの横を歩く。

 いつも子どもの意思を確かめること。(したいこと)と、(していること)が一致している子ども
は、どっしりと落ちついている。夢や希望もある。当然、目的があるから、誘惑にも強い。


●ほどよい親である

 やりすぎない。子どもが求めてきたら、与えどきと考えて、そのときは、ていねいに答えてや
る。昔から『肥料のやりすぎは、根を枯らす』という。

 いつも、「子どもがそれを求めているか」ということを、自分に問いかけながら、子どもに対処
するとよい。手のかけすぎ、サービス過剰は、かえって、子ども自身が自ら伸びていく芽をつん
でしまうことになる。


●暖かい無視

 親の過剰期待、過関心、過干渉ほど、子どもの負担になるものはない。「まあ、うちの子は、
こんなもの。親が親だから……」という割りきりが、子どもを伸ばす。

 親は、いつも子どもから一歩退いた位置で、子どもを見守る。野生動物保護団体には、『暖
かい無視』という言葉がある。その言葉は、そのまま、子育てにも当てはまる。

 ちょっと心配のしすぎかな? 手のかけすぎかな? と、感じたら、心のどこかで、暖かい無
視を思い浮かべる。子どもを暖かい愛情で包みながら、無視する。


●子どもは使う

 使えば使うほど、子どもは、すばらしい子どもになる。家事、仕事、手伝いなど。身近なところ
から、どんどん、使う。

 使えば使うほど、子どもには忍耐力(いやなことをする力)が身につく。この力が、子どもを伸
ばす。もちろん学習面でも、伸びる。もともと学習には、ある種の苦痛がともなう。その苦痛を
乗りこえる力が、忍耐力ということになる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

● 父親(母親)の悪口は、言わない

心理学の世界にも、「三角関係」という言葉がある。父親が母親の悪口を言ったり、批判し
たりすると、夫婦の間に、キレツが入る。そして父親と母親、母親と子ども、子どもと父
親の間に、三角関係ができる。子どもが幼いうちはまだしも、一度、この三角関係ができ
ると、子どもは、親の指示に従わなくなる。つまりこの時点で、家庭教育は、崩壊する。


● 逃げ場を大切に

どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。子どもも、またしかり。子どもは、その
逃げ場に逃げ込むことによって、身の安全をはかり、心をいやす。たいていは自分の部屋
ということになる。その逃げ場を荒らすようになると、子どもの心は、一挙に不安定にな
る。だから子どもが逃げ場に逃げたら、その逃げ場を荒らすようなことはしてはいけない。


●心は、ぬいぐるみで……

年長児にぬいぐるみを見せると、「かわいい」と言って、やさしそうな表情を見せる子ども
が、約80%。しかし残りの20%は、ほとんど、反応を示さない。示さないばかりか、
中には、キックしてくる子どもがいる。小学校の高学年児でも、日常的にぬいぐるみをも
っている子どもは、約80%。男女の区別はない。子どもの中に、親像が育っているかど
うかは、ぬいぐるみを抱かせてみるとわかる。


●国語教育は、言葉から

子どもの国語力は、母親の会話能力によって決まる。たとえば幼稚園バスがやってきたと
き、「ほらほら、バス。ハンカチは? 帽子は? 急いで」というような言い方を、母親が
していて、どうして子どもの中に、国語力が育つというのか。そういうときは、めんどう
でも、「バスがきます。あなたは急いで、外に行きます。ハンカチをもっていますか。帽子
をかぶっていますか」と話す。そういう母親の会話力が、子どもの国語力の基本になる。


●計算力は、早数えで……

「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」と数えられるようになったら、早数えの練習をする。「イ
チ、ニ、サン……」から、さらに、「イ、ニ、サ、シ、ゴ、ロ、シ、ハ、ク、ジュウ」と。
さらに手をパンパンとたたいてみせ、それを数えさせる。なれてくると、子どもは、数を
信号化する。たとえば「2足す3」も、「ピ、ピ、と、ピ、ピ、ピで、5」と。これを数の
信号化という。この力が、計算力の基礎となる。


●子どもは使う

使えば、使うほど、子どもは、いい子になる。生活力も身につくが、忍耐力も、そこから
生まれる。その忍耐力というのは、(いやなことをする能力)のことをいう。ためしに、あ
なたの子どもに、台所のシンクにたまった生ゴミを始末させてみてほしい。「ハ〜イ」と言
って、喜んで片づけるようなら、あなたの子どもは、その忍耐力のある子どもということ
になる。このタイプの子どもは、学習面でも伸びる。


●やさしさは苦労から

ためしにあなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうな表情をして歩いてみてほ
しい。そのとき、「ママ(パパ)、助けてあげる!」と言って走り寄ってくればよし。そう
でなく、テレビやゲームに夢中になっているようなら、かなりのドラ息子(娘)とみてよ
い。今は、(かわいい子)かもしれないが、やがて手に負えなくなる。子どもは(おとなも)、
自分で苦労をしてみてはじめて、他人の苦労がわかるようになる。やさしさも、そこから
生まれる。


●釣りザオを買ってやるより……

イギリスの教育格言に、「釣りザオを買ってやるより、いっしょに、釣りに行け」というの
がある。子どもの心をつかみたかったら、そして親子のキズナを太くしたかったら、いっ
しょに釣りに行け、と。多くの人は、子どものほしがるものを与えて、それで子どもは喜
んでいるはず。感謝しているはず。親子のキズナも、それで太くなったはずと考える。し
かしこれは幻想。むしろ逆効果。


●100倍論

子ども、とくに幼児に買い与えるものは、100倍して考える。たとえば100円のもの
でも、100倍して、1万円と考える。安易に、お金で、子どもの欲望を満足させてはい
けない。一度、お金で、満足させることを覚えてしまうと、年齢とともに、その額は、1
0倍、100倍とエスカレートしていく。高校生や大学生になるころには、1000円や
1万円では、満足しなくなる。子どもが幼児のときから、慎重に!


●子どもは、信じて伸ばす

心理学の世界にも、「好意の返報性」という言葉がある。イギリスの格言にも、「相手は、
あなたが相手を思うように、あなたのことを思う」というのがある。あなたがその人を、
いい人だと思っていると、その相手も、あなたをいい人だと思っている。しかしそうでな
ければそうでない。子どものばあいは、さらにそれがはっきりと現れる。だから子どもを
伸ばしたいと思うなら、まず自分の子どもをいい子どもだと思うこと。子どもを伸ばす、
大鉄則である。


●強化の原理

前向きに伸びているという実感が、子どもを伸ばす。そのため、「あなたはどんどんよくな
る」「すばらしくなる」という暗示を、そのつど、子どもにかけていく。まずいのは、未来
に不安をいだかせること。仮に子どもを叱っても、そのあと何らかの方法でそれをカバー
して、「ほら、やっぱり、できるじゃない」と、ほめて仕上げる。


●叱るときの原則

子どもを叱るときは、自分の姿勢を低く落とし、子どもの目線の高さに自分の目目線の高
さをあわせる。つぎに子どもの両肩を、やや力を入れて両手でつかみ、子どもの目をしっ
かりと見つめて叱る。大声を出して、威圧したり、怒鳴ってはいけない。恐怖心をもたせ
ても意味はない。中に叱られじょうずな子どもがいて、いかにも反省していますというよ
うな様子を見せる子どもがいる。しかしそういう姿に、だまされてはいけない。


●仮面に注意

絶対的なさらけ出しと、絶対的な受け入れ。この基盤の上に、親子の信頼関係が築かれる。
「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味。あなたの子どもが、あなたの前
で、そうであればよし。しかしあなたの前で、いい子ぶったり、仮面をかぶったりしてい
るようであれば、親子の関係は、かなり危機的な状況にあると考えてよい。あなたから見
て、「何を考えているかわからない」というのであれば、さらに要注意。


●根性・がんこ・わがまま

子どもの根性、がんこ、わがままは、分けて考える。がんばって何か一つのことをやりと
げるというのは、根性。何かのことにこだわりをもち、それに固執することを、がんこ。
理由もなく、自分の望むように相手を誘導しようとするのが、わがままということになる。
その根性は、励まして伸ばす。がんこについては、子どもの世界では望ましいことではな
いので、その理由と原因をさぐる。わがままについては、一般的には、無視して対処する。


●アルバムを大切に

おとなは過去をなつかしんで、アルバムを見る。しかし子どもは、自分の未来を見るため
に、アルバムを見る。が、それだけではない。アルバムには、心をいやす作用がある。そ
れもそのはず。悲しいときやつらいときを、写真にとって残す人は、少ない。つまりアル
バムには、楽しい思い出がぎっしり。そんなわけで、親子の絆(きずな)を太くするため
にも、アルバムを、部屋の中央に置いてみるとよい。


●名前を大切に

子どもの名前は大切にする。「あなたの名前は、すばらしい」「いい名前だ」とことあるご
とに言う。子どもは、自分の名前を大切にすることをとおして、自尊心を学ぶ。そしてそ
の自尊心が、何かのことでつまずいたようなとき、子どもの進路を、自動修正する。たと
えば子どもの名前が、新聞や雑誌に載ったようなときは、それを切り抜いて、高いところ
に張ったりする。そういう親の姿勢を見て、子どもは、名前のもつ意味を知る。


●子どもの体で考える

体重10キロの子どもに缶ジュースを一本与えるということは、体重50キロのおとなが、
5本、飲む量に等しい。そんな量を子どもに与えておきながら、「どうしてうちの子は、小
食なのかしら」は、ない。子どもに与える量は、子どもの体で考える。


●CA、MGの多い食生活を!

イギリスでは、「カルシウムは、紳士をつくる」と言う。静かで落ちついた子どもにしたか
ったら、CA(カルシウム)、MG(マグネシウム)の多い食生活、つまり海産物を中心と
した献立にする。こわいのは、ジャンクフード。さらにリン酸添加物の多い、食べもの。
いわゆるレトルト食品、インスタント食品類である。リン酸は、CAの大敵。CAと化合
して、リン酸カルシウムとして、CAは、対外へ排出されてしまう。


●親の仕事はすばらしいと言う

親が生き生きと仕事をしている姿ほど、子どもに安心感を与えるものは、ない。が、それ
だけではない。中に、自分の子どもに、親の仕事を引き継がせたいと考えている人もいる
はず。そういうときは、常日ごろから、「仕事は楽しい」「おもしろい」を口ぐせにする。
あるいは「私の仕事はすばらしい」「お父さんの仕事は、すばらしい」を口ぐせにする。ま
ちがっても、暗い印象をもたせてはいけない。


●はだし教育を大切に

将来、運動能力のある子どもにしたかったら、子どもは、はだしにして育てる。子どもは、
足の裏からの刺激を受けて、敏捷性(びんしょうせい)のある子どもになる。この敏捷性
は、あらゆる運動能力の基本となる。分厚い靴下と、分厚い底の靴をはかせて、どうして
それで敏捷性のある子どもになるのか。今、坂や階段を、リズミカルにのぼりおりできな
い子どもがふえている。川原の石の上に立つと、「こわい」と言って動けなくなる子どもも
多い。どうか、ご注意!


●自己中心性は、精神的未熟さの証拠

相手の心の中に、一度入って、相手の立場で考える。これを心理学の世界でも、「共鳴性」
(サロヴェイ「EQ論」)という。それができる人を、人格の完成度の高い人という。そう
でない人を、低い人という。学歴や地位とは、関係ない。ないばかりか、かえってそうい
う人ほど、人格の完成度が低いことが多い。そのためにも、まず親のあなたが、自分の自
己中心性と戦い、子どもに、その見本を見せるようにする。


●役割形成を大切に

子どもが「お花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「すてきね」と言ってあげる。
「いっしょに、お花を育ててみましょうね」「今度、図書館で、お花なの図鑑をみましょう
ね」と言ってあげる。こうすることで、子どもは、自分の身のまわりに、自分らしさをつ
くっていく。これを「個性化」という。この個性化が、やがて、子どもの役割となり、夢、
希望、そして生きる目的へとつながっていく。


●暖かい無視

自然動物保護団体の人たちが使う言葉に、『暖かい無視』という言葉がある。親の過干渉、
過関心、過保護、でき愛ほど、子どもに悪影響を与えるものは、ない。もしそういう傾向
を感じたら、暖かい無視にこころがける。が、無視、冷淡、拒否がよいわけではない。同
時に『ほどよい親』にこころがける。「求めてきたときが、与えどき」と覚えておくとよい。
とくに子どもがスキンシップを求めてきたときは、こまめにそれに応じてあげる。


●父親の二大役割

母子関係は重要であり、絶対的なものである。しかしその母子関係が濃密過ぎるのも、ま
た子どもが大きくなったとき、そのままの状態でも、よくない。その母子関係に、くさび
を打ち込み、是正していくのが、父親の役割ということになる。ほかに、社会性を教える
のも、重要な役割。昔で言えば、子どもを外の世界に連れ出し、狩の仕方を教えるのが、
父親の役割ということになる。


●欠点は、ほめる

子どもに何か、欠点を見つけたら、ほめる。たとえば参観授業で、ほとんど手をあげなか
ったとしても、「手をもっと、あげなさい」ではなく、「この前より、手がよくあがるよう
になったわね」と言うなど。子どもが皆の前で発表したようなときも、そうだ。「大きな声
で言えるようになったわね」と。押してだめなら、思い切って引いてみる。子どもを伸ば
すときに、よく使う手である。


●負けるが、勝ち

ほかの世界でのことは、別として、間に子どもをはさんでいるときは、『負けるが勝ち』。
これは父母どうしのつきあい、先生とのつきあいの、大鉄則である。悔しいこともあるだ
ろう。言いたいこともあるだろう。しかしそこはぐっとがまんして、「負ける」。大切なこ
とは、子どもが、楽しく、園や学校へ行けること。あなたのほうから負けを認めれば、そ
のときから人間関係は、スムーズに流れる。あなたががんばればがんばるほど、事態はこ
じれる。


●ベッドタイム・ゲームを大切に

子どもは(おとなも)、寝る前には、ある決まった行動を繰りかえすことが知られている。
これをベッドタイム・ゲームという、日本語では、就眠儀式という。このしつけに失敗す
ると、子どもは眠ることに恐怖心をいだいたり、さらにそれが悪化すると、情緒が不安定
になったりする。いきなりふとんの中に子どもを押しこみ、電気を消すような乱暴なこと
をしてはいけない。子どもの側からみて、やすらかな眠りをもてるようにする。


●エビでタイを釣る

「名前を書いてごらん」と声をかけると、体をこわばらせる子どもが、多い。年長児でも、
10人のうち、3、4人はいるのでは。中には、涙ぐんでしまう子どももいる。文字に対
して恐怖心をもっているからである。原因は、親の神経質で、強圧的な指導。この時期、
一度、文字嫌いにしてしまうと、あとがない。この時期は、子どもがどんな文字を書いて
も、それをほめる。読んであげる。そういう努力が、子どもを文字好きにする。まさに『エ
ビでタイを釣る』の要領である。


●子どもは、人の父

空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
私が子どものころも、そうだった。
人となった今も、そうだ。
願わくは、私は歳をとっても、
そうでありたい。
子どもは、人の父。
自然の恵みを受けて、
それぞれの日々が、そうであることを、
私は願う。

(ワーズワース・イギリスの詩人)


●冷蔵庫をカラにする

子どもの小食で悩んだら、冷蔵庫をカラにする。ついでに食べ物の入った棚をカラにする。
そのとき、食べ物を、袋か何かに入れて、思い切って捨てるのがコツ。「もったいない」と
思ったら、なおさら、そうする。「もったいない」という思いが、つぎからの買い物グセを
なおす。子どもの小食で悩んでいる家庭ほど、家の中に食べ物がゴロゴロしているもの。
そういう買い物グセが、習慣になっている。それを改める。


●正しい発音で……

世界広しといえども、幼児期に、子どもに発音教育をしないのは、恐らく日本くらいなも
のではないか。日本人だから、ほうっておいても、日本語を話せるようになると考えるの
は、甘い。子どもには、正しい発音で、息をふきかけながら話すとよい。なお文字学習に
先立って、音の分離を教えておくとよい。たとえば、「昨日」は、「き・の・う」と。その
とき、手をパンパンと叩きながら、一音ずつ、子どもの前で、分離してやるとよい。


●よい先生は、1、2歳、年上の子ども

子どもにとって、最高の先生は、1、2歳年上で、めんどうみがよく、やさしい子ども。
そういう子どもが、身近にいたら、無理をしてでも、そういう子どもと遊んでもらえるよ
うにするとよい。「無理をして」というのは、親どうしが友だちになるつもりで、という意
味。あなたの子どもは、その子どもの影響を受けて、すばらしく伸びる。


●ぬり絵のすすめ

手の運筆能力は、丸を描かせてみるとわかる。運筆能力のある子どもは、スムーズで、き
れいな丸を描く。そうでない子どもは、ぎこちない、多角形に近い丸をかく。もしあなた
の子どもが、多角形に近い丸を描くようなら、文字学習の前に、塗り絵をしてくとよい。
小さなマスなどを、縦線、横線、曲線などをまぜて、たくみに塗れるようになればよし。


●ガムをかませる

もう15年ほど前のことだが、アメリカの「サイエンス」と雑誌に、「ガムをかむと、頭が
よくなる」という研究論文が発表された。で、その話を、年中児をもっていた母親に話す
と、「では」と言って、自分の子どもにガムをかませるようになった。で、それから4、5
年後。その子どもは、本当に頭がよくなってしまった。それからも、私は、何度も、ガム
の効用を確認している。この方法は、どこかボーッとして、生彩のない子どもに、とくに
効果的である。

●マンネリは大敵

変化は、子どもの知的能力を刺激する。その変化を用意するのは、親の役目。たとえばあ
る母親は、一日とて、同じ弁当をつくらなかった。その子どもは、やがて日本を代表する、
教育評論家になった。こわいのは、マンネリ化した生活。なお一般論として、よく「転勤
族の子どもは、頭がいい」という。それは転勤という変化が、子どもの知能によい刺激に
なっているからと考えられる。


●本は抱きながら読む

子どもに本を読んであげるときは、子どもを抱き、暖かい息をふきかけながら、読んであ
げるとよい。子どもは、そういうぬくもりを通して、本の意味や文字のすばらしさを学ぶ。
こうした積み重ねがあってはじめて、子どもは、本好きになる。なお、「読書」は、あらゆ
る学習の基本となる。アメリカには、「ライブラリー」という時間があって、読書指導を、
学校教育の基本にすえている。


●何でも握らせる

子どもには、何でも握らせるとよい。手指の感覚は、そのまま、脳細胞に直結している。
その感触が、さらに子どもの知的能力を発達させる。今、ものを与えても、手に取らない
子どもがふえている。(あくまでも、私の印象だが……。)反面、好奇心が旺盛で、頭のよ
い子どもほど、ものを手にとって調べる傾向が強い。


●才能は見つけるもの

子どもの才能は、つくるものではなく、見つけるもの。ある女の子は、2歳くらいのとき
には、風呂にもぐって遊んでいた。そこで母親が水泳教室に入れてみると、水を得た魚の
ように泳ぎ出した。そのあとその女の子は、高校生のときには、総体に出るまでに成長し
た。また別の男の子(年長児)は、スイッチに興味をもっていた。そこで父親がパソコン
を買ってあげると、小学3年生のときには、自分でプログラムを組んでゲームをつくるよ
うにまでなった。子どもの才能を見つけたら、時間とお金を惜しみなく注ぐのがコツ。


●「してくれ」言葉に注意

日本語の特徴かもしれない。しかし日本人は、何かを食べたいときも、「食べたい」とは言
わない。「おなかが、すいたア。(だから何とかしてくれ)」というような言い方をする。ほ
かに、「たいくつウ〜(だから何とかしてくれ)」「つまらないイ〜(だから何とかしてくれ)」
など。老人でも、若い人に向って、「私も歳をとったからねエ〜(だから大切にしてほしい)」
というような言い方をする。日本人が、依存性の強い民族だと言われる理由の一つは、こ
んなところにもある。


●人格の完成度は、共鳴性でみる

他人の立場で、その他人の心の中に入って、その人の悲しみや苦しみを共有できる人のこ
とを、人格の完成度の高い人という。それを共鳴性という(サロヴェイ・「EQ論」)。その
反対側にいる人を、ジコチューという。つまり自己中心的であればあるほど、その人の人
格の完成度は、低いとみる。ためしにあなたの子どもの前で、重い荷物をもって歩いてみ
てほしい。そのときあなたの子どもが、さっと助けにくればよし。そうでなく、知らぬフ
リをしているようなら、人格の完成度は、低いとみる。


●平等は、不平等

下の子が生まれると、そのときまで、100%あった、親の愛情が、半減する。親からみ
れば、「平等」ということになるが、上の子からみれば、50%になったことになる。上の
子は、欲求不満から、嫉妬したり、さらには、心をゆがめる。赤ちゃんがえりを起こすこ
ともある。それまでしなかった、おもらしをしたり、ネチネチ甘えたりするなど。下の子
に対して攻撃的になることもある。嫉妬がからんでいるだけに、下の子を殺す寸前までの
ことをする。平等は、不平等と覚えておくとよい。


●イライラゲームは、禁物

ゲームにもいろいろあるが、イライラが蓄積されるようなゲームは、幼児には、避ける。
動きが速いだけの、意味のないゲームも避ける。とくに、夕食後から、就眠するまでの間
は、禁物。以前だが、夜中に飛び起きてまで、ゲームをしていた子ども(小5)がいた。
そうなれば、すでに(ビョーキ)と言ってもよい。子どもには、さまざまな弊害が現れる。
「ゲーム機器は、パパのもの。パパの許可をもらってから遊ぶ」という前提をつくるのも
よい。遊ばせるにしても、時間と場所を、きちんと決める。


●おもちゃは、一つ

あと片づけに悩んでいる親は、多い。そういうときは、『おもちゃは、一つ』と決めておく
とよい。「つぎのおもちゃで遊びたかったら、前のおもちゃを片づける」という習慣を大切
にする。子どもは、つぎのおもちゃで遊びたいがため、前のおもちゃを片づけるようにな
る。


●何でも半分

子どもに自立を促すコツがこれ。『何でも半分』。たとえば靴下でも、片方だけをはかせて、
もう片方は、子どもにはかせる。あるいは途中まではかせて、あとは、子どもにさせる。
これは子どもを指導するときにも、応用できる。最後の完成は、子どもにさせ、「じょうず
にできるようになったわね」と言って、ほめてしあげる。手のかけすぎは、子どものため
にならない。


●核(コア)攻撃はしない

子どもの人格そのものに触れるような、攻撃はしない。たとえば「あなたは、やっぱりダ
メ人間よ」「あんたなんか、人間のクズよ」「あんたさえいなければ」と言うなど。こうし
た(核)攻撃が日常化すると、子どもの精神の発達に、さまざまな弊害が現われてくる。
子どもを責めるとしても、子ども自身が、自分の力で解決できる範囲にする。子ども自身
の力では、どうにもならないことで責めてはいけない。それが、ここでいう(核)攻撃と
いうことになる。


●引き金を引かない

仮に心の問題の「根」が、生まれながらにあるとしても、その引き金を引くのは、親とい
うことになる。またその「根」というのは、だれにでもある。またそういう前提で、子ど
もを指導する。たとえば恐怖症にしても、心身症にしても、そういった状況におかれれば、
だれでも、そうなる。たった一度、はげしく母親に叱られたため、その日を境に、一人二
役の、ひとり言をいうようになってしまった女の子(2歳児)がいた。乳幼児の子どもほ
ど、穏やかで、心静かな環境を大切にする。


●二番底、三番底に注意

子どもに何か問題が起きると、親は、そのときの状態を最悪と思い、子どもをなおそうと
する。しかしその下には、二番底、さらには三番底があることを忘れてはいけない。たと
えば門限を破った子どもを叱ったとする。しかしそのとき叱り方をまちがえると、外泊(二
番底)、さらには家出(三番底)へと進んでいく。さらに四番底もある。こうした問題が起
きたら、それ以上、状況を悪くしないことだけを考えて、半年、1年単位で様子をみる。


●あきらめは、悟りの境地

押してもダメ、引いても、ダメ。そういうときは、思い切ってあきらめる。が、子どもと
いうのは、不思議なもの。あきらめたとたん、伸び始める。親が、「まだ何とかなる」「こ
んなはずはない」とがんばっている間は、伸びない。が、あきらめたとたん、伸び始める。
そこは、おおらかで、実にゆったりとした世界。子育てには、行きづまりは、つきもの。
そういうときは、思い切って、あきらめる。そのいさぎのよさが、子どもの心に風穴をあ
ける。


●許して、忘れる

英語では、『FOR・GIVE(許す)& FOR・GET(忘れる)』という。この単語
をよく見ると、(何かを与えるために、許し、何かを得るために、忘れる)とも読める。何
を、か? 言うまでもなく、「愛」である。親は子育てをしながら、幾多の山を越え、谷を
越える。それはまさしく、「許して忘れる」の連続。その度量の深さによって、親の愛の深
さが決まる。カベにぶつかったら、この言葉を思い出してみてほしい。あなたも、その先
に、一筋の光明を見るはずである。


●自らに由らせる

子育ての要(かなめ)は、「自由」。「自らに由らせる」。だから自由というのは、自分で考
えさせる。自分で行動させる。そして自分で責任を取らせることを意味する。好き勝手な
ことを、子どもにさせることではない。親の過干渉は、子どもから考える力をうばう。親
の過保護は、子どもから、行動力をうばう。そして親のでき愛は、子どもから責任感をう
ばう。子育ての目標は、子どもを自立させること。それを忘れてはいけない。


●旅は、歩く

便利であることが、よいわけではない。便利さに甘えてしまうと、それこそ生活が、地に
足がつかない状態になる。……というだけではないが、たとえば旅に出たら、歩くように
心がけるとよい。車の中から、流れるようにして見る景色よりも、一歩、一歩、歩きなが
ら、見る景色のほうが、印象に強く残る。しかし、これは人生そのものに通ずる、大鉄則
でもある。いかにして、そのときどきにおいて、地に足をつけて生きるか。そういうこと
も考えながら、旅に出たら、ゆっくりと歩いてみるとよい。


●指示は、具体的に

「友だちと仲よくするのですよ」「先生の話をしっかりと聞くのですよ」と子どもに言って
も、ほとんど、意味がない。具体性がないからである。そういうときは、「これを○君にも
っていってあげてね。○君、きっと喜ぶわよ」「学校から帰ってきたら、先生がどんな話を
したか、あとでママに話してね」と言う。子どもに与える指示には、具体性をもたせると
よい。

●休息を求めて、疲れる

イギリスの格言に、『休息を求めて疲れる』というのがある。愚かな生き方の代名詞にもな
っている格言である。幼稚園教育は小学校へ入学するため。小学校教育は、中学校へ入学
するため。中学校や高校教育は、大学へ入学するため……、というのが、その愚かな生き
方になる。やっと楽になったと思ったら、人生が終わっていたということにもなりかねな
い。


●子どもの横を歩く

親には、三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どもの
うしろを歩く。そして友として、子どもの横を歩く。日本人は、概して言えば、ガイドと
保護者は得意。しかし友として、子どもの横を歩くのが苦手。もしあなたがいつも、子ど
もの手を引きながら、「早く」「早く」と言っているようなら、一度、子どもの歩調に合わ
せて、ゆっくりと歩いてみるとよい。それまで見えなかった、子どもの心が、あなたにも、
見えてくるはず。


●先生の悪口、批評はしない

学校から帰ってきて子どもが先生の悪口を言ったり、批評したりしても、決して、相づちを打っ
たり、同意したりしてはいけない。「あなたが悪いからでしょう」「あの先生は、すばらしい人よ」
と、それをはねかえす。親が先生の悪口を言ったりすると、子どもはその先生に従わなくなる。
これは学校教育という場では、決定的にまずい。もし先生に問題があるなら、子どもは関係の
ない世界で、処理する。

●子育ては楽しむ

子どもを伸ばすコツは、子どものことは、あまり意識せず、親が楽しむつもりで、楽しむ。その
楽しみの中に、子どもを巻き込むようにする。つまり自分が楽しめばよい。子どもの機嫌をとっ
たり、歓心を買うようなことは、しない。コビを売る必要もない。親が楽しむ。私も幼児にものを
教えるときは、自分がそれを楽しむようにしている。


●ウソはていねいにつぶす

子どもの虚言にも、いろいろある。頭の中で架空の世界をつくりあげてしまう空想的虚言、あり
もしないことを信じてしまう妄想など。イギリスの教育格言にも、『子どもが空中の楼閣に住まわ
せてはならない』というのがある。過関心、過干渉などが原因で、子どもは、こうした妄想をもち
やすくなる。子どもがウソをついたら、叱っても意味はない。ますますウソがうまくなる。子ども
がウソをついたら、あれこれ問いかけながら、静かに、ていねいに、それをつぶす。そして言う
べきことは言っても、あとは、無視する。


●本物を与える

子どもに見せたり、聞かせたり、与えたりするものは、いつも、本物にこころがける。絵でも、音
楽でも、食べ物でも、である。今、絵といえば、たいはんの子どもたちは、アニメの主人公のキ
ャラクターを描く。歌といっても、わざと、どこか音のずれた歌を歌う。食べ物にしても、母親が
作った料理より、ファミリーレストランの料理のほうが、おいしいと言う。こういう環境で育つと、
人間性まで、ニセモノになってしまう(?)。今、外からの見栄えばかり気にする子どもがふえて
いるので、ご注意!


●ほめるのは、努力とやさしさ

子どもは、ほめて伸ばす。それはそのとおりだが、ほめるのは、子どもが努力したときと、子ど
もがやさしさを見せたとき。顔やスタイルは、ほめないほうがよい。幼いときから、そればかりを
ほめると、関心が、そちらに向いてしまう。また「頭」については、慎重に。「頭がいい」とほめす
ぎるのも、またまったくほめないのも、よくない。ときと場所をよく考えて、慎重に!


●親が、前向きに生きる

親自身に、生きる目的、方向性、夢、希望があれば、よし。そういう姿を見て、子どももまた、
前向きに伸びていく。親が、生きる目的もない。毎日、ただ何となく生きているという状態では、
子どももまた、その目標を見失う。それだけではない。進むべき目的をもたない子どもは、悪
の誘惑に対して抵抗力を失う。子育てをするということは、生きる見本を、親が見せることをい
う。生きザマの見本を、親が見せることをいう。


●機嫌をとらない

子どもに嫌われるのを恐れる親は、多い。依存性の強い、つまりは精神的に未熟な親とみる。
そして(子どもにいい思いをさせること)イコール、(子どもをかわいがること)と誤解する。子ど
もがほしがりそうなものを買い与え、それで親子のキズナは太くなったはずと考えたりする。
が、実際には、逆効果。親は親として……というより、一人の人間として、き然と生きる。子ども
は、そういう親の姿を見て、親を尊敬する。親子のキズナも、それで太くなる。


●親のうしろ姿を見せつけない

生活で苦労している姿……それを日本では、「親のうしろ姿」という。そのうしろ姿を、親は見せ
たくなくても、見せてしまうものだが、しかしそのうしろ姿を、子どもに押し売りしてはいけない。
つまり恩着せがましい子育てはしない。「産んでやった」「育ててやった」「お前を大きくするため
に、私は犠牲になった」と。うしろ姿の押し売りは、やがて親子関係を、破壊する。


●親孝行を美徳にしない

日本では、親孝行を当然の美徳とするが、本当にそうか? 「お前の人生は、お前のもの。私
たちのことは心配しなくていいから、思う存分、この世界をはばたいてみろ」と、一度は、子ども
の背中をたたいてあげてこそ、親は、親としての責任を果たしたことになる。もちろんそのあ
と、子どもが自分で考えて、親孝行するというのであれば、それはそれ。しかし親孝行は美徳
でも何でもない。子どもにそれを強要したり、求めたりしてはいけない。


●「偉い」を廃語に!

「偉い」という言葉を、廃語にしよう。日本では、地位の高い人や、何かの賞をとった人を、「偉
い人」という。しかし英語国では、日本人が、「偉い人」と言いそうなとき、「リスペクティド・マン」
という。「尊敬される人」という意味である。リスペクティド・マンというときは、地位や、名誉には
関係ない。その人自身の中身を見て、そう判断する。あなたの子どもには、「偉い人になれ」と
言うのではなく、「尊敬される人になれ」と言おう。


●家族を大切に

『オズの魔法使い』という、小説がある。あの中で、ドロシーという女の子は、幸福を求めて、虹
の向こうにあるというエメラルドタウンを冒険する。しかし何のことはない。やがてドロシーは、
真の幸福は、すぐそばの家庭の中にあることを知る。今、「家族が一番大切」と考える人が、8
0〜90%になっている。99年の文部省の調査では、40%前後でしかなかったから、これはま
さにサイレント革命というにふさわしい。あなたも自信をもって、子どもには、こう言おう。「この
世界で、一番大切なものは、家族です」と。


●迷信は、否定しよう

子どもたちの世界では、今、占い、まじない、予言、超能力などが、大流行。努力して、自ら立
ちあがるという姿勢が、ますます薄らいできている。中には、その日の運勢に合わせて行動
し、あとで、「運勢が当たった」と言う子どもさえいる。(自分で、そうしただけなのだが……。)子
どもが迷信らしいことを口にしたら、すかさず、「そんなのはウソ」と言ってやろう。迷信は、まさ
に合理の敵。迷信を信ずるようになればなるほど、子どもは、ものごとを合理的に考える力を
失う。


●死は厳粛に

ペットでも何でも、死んだら、その死は厳粛にあつかう。そういう姿を見て、子どもは、「死」を学
び、ついで、「生」を学ぶ。まずいのは、紙か何かに包んで、ゴミ箱に捨てるような行為。決して
遊んだり、茶化したりしてはいけない。子どもはやがて、生きることそのものを、粗末にするよう
になるかもしれない。なぜ、ほとんどの宗教で、葬儀を重要な儀式と位置づけているかと言え
ば、それは死を弔(とむら)うことで、生きることを大切にするためである。生き物の死は、厳粛
に。どこまでも厳粛に。


●悪玉親意識

「私は親だ」というのが、親意識。この親意識にも、二種類をある。善玉親意識と、悪玉親意識
である。「私は親らしく、子どもの見本になろう」「子どもをしっかりと育てて、親の責任をはたそ
う」というのが、善玉親意識。一方、「親に向かって何よ!」と、子どもに対して怒鳴り散らすの
が、悪玉親意識。いわゆる『親風を吹かす』ことをいう。なお親は絶対と考えるのを、「親・絶対
教」という。


●達成感が子どもを伸ばす

「ヤッター!」という達成感が、子どもを伸ばす。そんなわけで子どもが幼児のうちは、(できる・
できない)という視点ではなく、(がんばってやった・やらない)という視点で子どもを見る。たとえ
まちがっていても、あるいは不十分であっても、子どもががんばってしたようなら、「よくやった
わね」とほめて終わる。こまごまとした神経質な指導は、子どもをつぶす。


●子どもは下から見る

子育てで行きづまったら、子どもは、下から見る。「下を見ろ」ではない。「下から見る」。今、こ
こに生きているという原点から見る。そうすると、すべての問題が解決する。昔の人は、こう言
った。『上見て、キリなし。下見て、キリなし』と。つまり上ばかり見ていると、人間の欲望には、
際限がなく、いつまでたっても、安穏とした世界はやってこない。しかし生きているという原点か
ら見ると、とたんに、すべての世界が平和になる。子育ても、また同じ。


●失敗にめげず、前に進む

「宝島」という本を書いたのが、スティーブンソン。そのスティーブンソンがこんな言葉を残してい
る。『我らが目的は、成功することではない。我らが目的は、失敗にめげず、前に進むことであ
る』と。もしあなたの子どもが何かのことでつまずいて、苦しんでいたら、そっとそう言ってみて
ほしい。「あなたの目的は、成功することではない。失敗にめげず、前に進むことですよ」と。


●すばらしいと言え、親の仕事

親の仕事は、すばらしいと言う。それを口ぐせにする。どんな仕事でも、だ。仕事に上下はな
い。あるはずもない。しかしこの日本には、封建時代の身分制度の名残というか、いまだに、
職業によって相手を判断するという風潮が、根強く残っている。が、それだけではない。生き生
きと仕事をしている親の姿は、子どもに、大きな安心感を与える。その安心感が、子どもの心
を豊かに育てる。


●逃げ場を大切に

どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。その逃げ場に逃げこむことによって、身の安
全をはかり、心をいやす。子どもも、またしかり。子どもがその逃げ場へ入ったら、親は、そこ
を神聖不可侵の場と心得て、そこを荒らすようなことをしてはいけない。たいていは子ども部屋
ということになるが、その子ども部屋を踏み荒らすようなことをすると、今度は、「家出」というこ
とにもなりかねない。


●代償的過保護に注意

過保護というときは、その背景に、親の濃密な愛情がある。しかし代償的過保護には、それが
ない。子どもを親の支配下において、親の思いどおりにしたいというのを代償的過保護という。
いわば親自身の心のスキマを埋めるための、親の身勝手な過保護をいう。子どもの受験競争
に狂奔している親が、それにあたる。「子どものため」と言いながら、子どものことなど、まったく
考えていない。ストーカーが、好きな相手を追いかけまわすようなもの。私は「ストーカー的愛」
と呼んでいる。


●同居は出産前に

夫(妻)の両親との同居を考えるなら、子どもの出産前からするとよい。私の調査でも、出産前
からの同居は、たいていうまくいく(90%)。しかしある程度、子どもが大きくなってからの同居
は、たいてい失敗する。同居するとき、母親が苦情の一番にあげるのが、「祖父母が、子ども
の教育に介入する」。同居するにしても、祖父母は、孫の子育てについては、控えめに。それ
が同居を成功させる、秘訣のようである。


●無能な親ほど、規則を好む

イギリスの教育格言に、『無能な教師ほど、規則を好む』というのがある。家庭でも、同じ。『無
能な親ほど、規則を好む』。ある程度の約束ごとは、必要かもしれない。しかし最小限に。また
規則というのは、破られるためにある。そのつど、臨機応変に考えるのが、コツ。たとえば門限
にしても、子どもが破ったら、そのつど、現状に合わせて調整していく。「規則を破ったから、お
前はダメ人間だ」式の、人格攻撃をしてはいけない。


●プレゼントは、買ったものはダメ

できれば……、今さら、手遅れかもしれないが、誕生日にせよ、クリスマスにせよ、「家族どうし
のプレゼントは、買ったものはダメ」というハウス・ルールを作っておくとよい。戦後の高度成長
期の悪弊というか、この日本でも、より高価であればあるほど、いいプレゼントということになっ
ている。しかしそれは誤解。誤解というより、逆効果。家族のキズナを深めたかったら、心のこ
もったプレゼントを交換する。そのためにも、「買ったものは、ダメ」と。


●子育ては、質素に

子育ての基本は、「質素」。ときに親は、ぜいたくをすることがあるかもしれない。しかし、そうい
うぜいたくは、子どもの見えない世界ですること。一度、ぜいたくになれてしまうと、子どもは、あ
ともどりができなくなってしまう。そのままの生活が、おとなになってからも維持できればよし。そ
うでなければ、苦しむのは、結局は子ども自身ということになる。


●ズル休みも、ゆとりのうち

子どもが不登校を起こしたりすると、たいていの親は、狂乱状態になる。そのときのためという
わけでもないが、自分の中に潜む、学歴信仰や学校神話とは、今から戦っていく。その一つの
方法が、「ズル休み」。ときには、園や学校をズル休みさせて、親子で、旅行に行く。平日に行
けば、動物園でも遊園地でも、ガラガラ。あなたは、言いようのない解放感を味わうはず。「そ
んなことできない!」と思っている人ほど、一度、試してみるとよい。


●ふつうこそ、最善

ふつうであることには、すばらしい価値がある。しかし、親たちには、それがわからない。「もっ
と……」「もう少し……」と思っている間に、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。よい例
が、過干渉であり、過関心である。さらに親の過剰期待や、子どもへの過負担もある。賢い親
は、そのふつうの価値に、それをなくす前に気づき、そうでない親は、それをなくしてから気づ
く。


●限界を知る

子育てには、限界はつきもの。いつも、それとの戦いであると言ってもよい。子どもというのは
不思議なもので、親が、「まだ、何とかなる」「こんなはずではない」「うちの子は、やればできる
はず」と思っている間は、伸びない。しかし親が、「まあ、うちの子は、こんなもの」「よくがんばっ
ている」と、その限界を認めたとたん、伸び始める。皮肉なことに、親がそばにいるだけで、萎
縮してしまう子どもも、少なくない。


●ほどよい親

子どもには、いつも、ほどよい親であること。あるいは「求めてきたときが、与えどき」と覚えて
おくとよい。とくに、子どもが何らかの(愛の確認行為)をしてきたときは、すかさず、いとわず。
ていねいに、それに応じてあげる。ベタベタの親子関係がよくないことは、言うまでもない。


●子どもの世界は、社会の縮図

子どもの世界だけを見て、子どもの世界だけを何とかしようと考えても、意味はない。子どもの
世界は、まさに社会の縮図。社会に4割の善があり、4割の悪があるなら、子どもの世界にも、
4割の善があり、4割の悪がある。つまり私たちは子育てをしながらも、同時に、社会にも目を
向けなければならない。子どもがはじめて覚えたカタカナが、「ホテル」であったり、「セックス」
であったりする。そういう社会をまず、改める。子どもの教育は、そこから始まる。


●よき家庭人

日本では、「立派な社会人」「社会に役立つ人」が、教育の柱になっていた。しかし欧米では、
伝統的に、「よき家庭人(Good family man )」を育てるのが、教育の柱になっている。そのため
学習内容も、実用的なものが多い。たとえば中学校で、小切手の切り方(アメリカ)などを教え
る。ところで隣の中国では、「立派な国民」という言葉がもてはやされている。どこか戦後直後
の日本を思い出させる言葉である。


●読書は、教育の要(かなめ)

アメリカには、「ライブラリー」という時間がある。週1回は、たいていどこの学校にもある。つま
り、読書指導の時間である。ふつうの教科は、学士資格で教壇に立つことができるが、ライブ
ラリーの教師だけは、修士号以上の資格が必要である。ライブラリーの教師は、毎週、その子
どもにあった本を選び、指導する。日本でも、最近、読書の重要性が見なおされてきている。
読書は、教育の要である。


●教師言葉に注意

教師というのは、子どもをほめるときは、本音でほめる。だから学校の先生に、ほめられたら、
額面どおり受け取ってよい。しかしその反対に、何か問題のある子どもには、教師言葉を使
う。たとえば学習面で問題のある子どもに対しては、「運動面では問題ないですが……」「私の
指導力が足りないようです」「この子には、可能性があるのですが、今は、まだその力を出し切
っていませんね」というような言い方をする。


●先取り教育は、幼児教育ではない

幼児教育というと、小学校でする勉強を先取りしてする教育だとか、あるいは小学校の入学準
備のための教育と考えている人は多い。そのため漢字を教えたり、掛け算の九九を教えたり
するのが、幼児教育と思っている人も多い。しかしこれは、まったくの誤解。幼児期には幼児期
で、しておくべきことが、山のようにある。子どもの方向性も、このころ決まる。その方向性を決
めるのが、幼児教育である。


●でき愛は、愛にあらず

でき愛を、「愛」と誤解している人は多い。しかしでき愛は、愛ではない。親の心のスキマをうめ
るための、親の身勝手な愛。それをでき愛という。いわばストーカーがよく見せる「愛?」とよく
似ている。たとえば子どもの受験勉強に狂奔している親も、それにあたる。「子どものことを心
配している」とは言うが、本当は、自分の不安や心配を解消するための道具として、子どもを利
用しているだけ。そしてベタベタの親子関係をつづけながら、かえって子どもの自立をzちゃまし
てしまう。


●悪玉家族意識

家族のもつの重要性は、いまさら説明するまでもない。しかしその家族が、反対に、独特の束
縛性(家族自我群)をもつことがある。そしてその家族に束縛されて、かえってその家族が、自
立できなくなってしまうことがある。あるいは反対に、「親を捨てた」という自責の念から、自己
否定してしまう人も少なくない。家族は大切なものだが、しかし安易な論理で、子どもをしばって
はいけない。


●伸びたバネは、ちぢむ

受験期にさしかかると、猛烈な受験勉強を強いる親がいる。塾に、家庭教師に、日曜特訓な
ど。毎週、近くの公園で、運動の特訓をしていた父親さえいた。しかしこうした(無理)は、一事
的な効果はあっても、そのあと、その反動で、かえって子どもの成績はさがる。「伸びたバネは
ちぢむ」と覚えておくとよい。イギリスの教育格言にも、『馬を水場に連れていくことはできても、
水を飲ませることはできない』というのがある。その格言の意味を、もう一度、考えてみてほし
い。


●「利他」度でわかる、人格の完成度

あなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうに歩いてみてほしい。そのとき、「ママ、も
ってあげる!」と走りよってくればよし。反対に、知らぬ顔をして、テレビゲームなどに夢中にな
ってれば、あなたの子どもは、かなりのどら息子と考えてよい。子どもの人格(おとなも!)、い
かに利他的であるかによって、知ることができる。つまりドラ息子は、それだけ人格の完成度
の低い子どもとみる。勉強のできるできないは、関係ない。


●見栄、体裁、世間体

私らしく生きるその生き方の反対にあるのが、世間体意識。この世間体に毒されると、子ども
の姿はもちろんのこと、自分の姿さえも、見失ってしまう。そしてその幸福感も、「となりの人よ
り、いい生活をしているから、私は幸福」「となりの人より悪い生活をしているから、私は不幸」
と、総体的なものになりやすい。もちろん子育ても、大きな影響を受ける。子どもの学歴につい
て、ブランド志向の強い親は、ここで一度、反省してみてほしい。あなたは自分の人生を、自分
のものとして、生きているか、と。


●私を知る

子育ては、本能ではなく、学習である。つまり今、あなたがしている子育ては、あなたが親から
学習したものである。だから、ほとんどの親は、こう言う。「頭の中ではわかっているんどえす
が、ついその場になると、カッとして……」と。そこで大切なことは、あなた自身の中の「私」を知
ること。一見簡単そうだが、これがむずかしい。スパルタのキロンもこう言っている。「汝自身
を、知れ」と。哲学の究極の目標にも、なっている。


●受験は淡々と

子ども(幼児)の受験は、淡々と。合格することを考えて準備するのではなく、不合格になったと
きのことを考えて、準備する。この時期、一度、それをトラウマにすると、子どもは生涯にわた
って、自ら「ダメ人間」のレッテルを張ってしまう。そうなれば、大失敗というもの。だから受験
は、不合格のときを考えながら、準備する。


●比較しない

情報交換はある程度までは必要だが、しかしそれ以上の、深い親どうしの交際は、避ける。で
きれば、必要な情報だけを集めて、交際するとしても、子どもの受験とは関係ない人とする。
「受験」の魔力には、想像以上のものがある。一度、この魔力にとりつかれると、かなり精神的
にタフな人でも、自分を自分を見失ってしまう。気がついたときには、狂乱状態に……というこ
とにも、なりかねない。


●「入試」「合格・不合格」は、禁句

子どもの前では、「受験」「入試」「合格」「不合格」「落ちる」「すべる」などの用語を口にするの
は、タブーと思うこと。入試に向かうとしても、子どもに楽しませるようなお膳立ては、必要であ
る。「今度、お母さんがお弁当つくってあげるから、いっしょに行きましょうね」とか。またそういう
雰囲気のほうが、子どもも伸び伸びとできる。また結果も、よい。


●入試内容に迎合しない

たまに難しい問題が出ると、親は、それにすぐ迎合しようとする。たとえば前年度で、球根の名
前を聞かれるような問題が出たとする。するとすぐ、親は、「では……」と。しかし大切なことは、
物知りな子どもにすることではなく、深く考える子どもにすることである。わからなかったら、す
なおに「わかりません」と言えばよい。試験官にしても、そういうすなおさを、試しているのであ
る。


●子どもらしい子ども

子どもは子どもらしい子どもにする。すなおで、明るく、伸びやかで、好奇心が旺盛で、生活力
があって……。すなおというのは、心の状態と、表情が一致している子どもをいう。ねたむ、い
じける、すねる、ひねくれるなどの症状のない子どもをいう。そういう子どもを目指し、それでダ
メだというのなら、そんな学校は、こちらから蹴とばせばよい。それくらいの気構えは、親には
必要である。


●デマにご用心

受験期になると、とんでもないデマが飛びかう。「今年は、受験者数が多い」「教員と親しくなっ
ておかねば不利」「裏金が必要」などなど。親たちの不安心理が、さらにそうしたデマを増幅さ
せる。さらに口から口へと伝わっていく間に、デマ自身も大きくなる。こういうのを心理学の世界
でも、「記憶錯誤」という。子どもよりも、おとなのほうが、しかも不安状態であればあるほど、そ
の錯誤が大きくなることが知られている。


●成功率(達成率)は50%

子どもが、2回トライして、1回は、うまくいくようにしむける。毎回、成功していたのでは、子ども
も楽しくない。しかし毎回失敗していたのでは、やる気をなくす。だから、その目安は、50%。
その50%を、うまく用意しながら、子どもを誘導していく。そしていつも、何かのレッスンの終わ
りには、「ほら、ちゃんとできるじゃ、ない」「すばらしい」と言って、ほめて仕あげる。


●無理、強制

無理(能力を超えた負担)や強制(強引な指導)は、一時的な効果はあっても、それ以上の効
果はない。そればかりか、そのあと、その反動として、子どもは、やる気をなくす。ばあいによっ
ては、燃え尽きてしまったり、無気力になったりすることもある。そんなわけで、『伸びたバネ
は、必ず縮む』と覚えておくとよい。無理をしても、全体としてみれば、プラスマイナス・ゼロにな
るということ。


●条件、比較

「100点取ったら、お小遣いをあげる」「1時間勉強したら、お菓子をあげる」というのが条件。
「A君は、もうカタカナが読めるのよ」「お兄ちゃんが、あんたのときは、学校で一番だったのよ」
というのが、比較ということになる。条件や比較は、子どもからやる気を奪うだけではなく、子ど
もの心を卑屈にする。日常化すれば、「私は私」という生き方すらできなくなってしまう。子ども
の問題というよりは、親自身の問題として、考えたらよい。(内発的動機づけ)


●方向性は図書館で

どんな子どもにも、方向性がある。その方向性を知りたかったら、子どもを図書館へ連れてい
き、一日、そこで遊ばせてみるとよい。やがて子どもが好んで読む本が、わかってくる。それが
その子どもの方向性である。たとえばスポーツの本なら、その子どもは、スポーツに強い関心
をもっていることを示す。その方向性がわかったら、その方向性にそって、子どもを指導し、伸
ばす。(役割形成)


●神経症(心身症)に注意

心が変調してくると、子どもの行動や心に、その前兆症状として、変化が見られるようになる。
「何か、おかしい?」と感じたら、神経症もしくは、心身症を疑ってみる。よく知られた例として
は、チック、吃音(どもり)、指しゃぶり、爪かみ、ものいじり、夜尿などがある。日常的に、抑圧
感や欲求不満を覚えると、子どもは、これらの症状を示す。こうした症状が見られたら、(親
は、子どもをなおそうとするが)、まず親自身の育児姿勢と、子育てのあり方を猛省する。


●負担は、少しずつ減らす

子どもが無気力症状を示すと、たいていの親は、あわてる。そしていきなり、負担を、すべて取
り払ってしまう。「おけいこごとは、すべてやめましょう」と。しかしこうした極端な変化は、かえっ
て症状を悪化させてしまう。負担は、少しずつ減らす。数週間から、1、2か月をかけて減らす
のがよい。そしてその間に、子どもの心のケアに務める。そうすることによって、あとあと、子ど
もの立ちなおりが、用意になる。


●荷おろし症候群

何かの目標を達成したとたん、目標を喪失し、無気力状態になることを言う。有名高校や大学
に進学したあとになることが多い。燃え尽き症候群と症状は似ている。一日中、ボーッとしてい
るだけ。感情的な反応も少なくなる。地元のS進学高校のばあい、1年生で、10〜15%の子
どもに、そういう症状が見られる(S高校教師談)とのこと。「友人が少なく、人に言われていや
いや勉強した子どもに多い」(渋谷昌三氏)と。


●回復は1年単位

一度、無気力状態に襲われると、回復には、1年単位の時間がかかる。(1年でも、短いほうだ
が……。)たいていのばあい、少し回復し始めると、その段階で、親は無理をする。その無理
が、かえって症状を悪化させる。だから、1年単位。「先月とくらべて、症状はどうか?」「去年と
くらべて、症状はどうか?」という視点でみる。日々の変化や、週単位の変化に、決して、一喜
一憂しないこと。心の病気というのは、そういうもの。


●前向きの暗示を大切に

子どもには、いつも前向きの暗示を加えていく。「あなたは、明日は、もっとすばらしくなる」「来
年は、もっとすばらしい年になる」と。こうした前向きな暗示が、子どものやる気を引き起こす。
ある家庭には、4人の子どもがいた。しかしどの子も、表情が明るい。その秘訣は、母親にあ
った。母親はいつも、こうような言い方をしていた。「ほら、あんたも、お兄ちゃんの服が着られ
るようになったわね」と。「明日は、もっといいことがある」という思いが、子どもを前にひっぱっ
ていく。


●未来をおどさない

今、赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起こす子どもがふえている。おとなになることに、ある
種の恐怖感を覚えているためである。兄や姉のはげしい受験勉強を見て、恐怖感を覚えるこ
ともある。幼児のときにもっていた、本や雑誌、おもちゃを取り出して、大切そうにそれをもって
いるなど。話し方そのものが、幼稚ぽくなることもある。子どもの未来を脅さない。


●子どもを伸ばす、三種の神器

子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学
生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を
終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3
226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心
得る。

 
●受験は淡々と

子ども(幼児)の受験は、淡々と。合格することを考えて準備するのではなく、不合格になったと
きのことを考えて、準備する。この時期、一度、それをトラウマにすると、子どもは生涯にわた
って、自ら「ダメ人間」のレッテルを張ってしまう。そうなれば、大失敗というもの。だから受験
は、不合格のときを考えながら、準備する。


●比較しない

情報交換はある程度までは必要だが、しかしそれ以上の、深い親どうしの交際は、避ける。で
きれば、必要な情報だけを集めて、交際するとしても、子どもの受験とは関係ない人とする。
「受験」の魔力には、想像以上のものがある。一度、この魔力にとりつかれると、かなり精神的
にタフな人でも、自分を自分を見失ってしまう。気がついたときには、狂乱状態に……というこ
とにも、なりかねない。


●「入試」「合格・不合格」は、禁句

子どもの前では、「受験」「入試」「合格」「不合格」「落ちる」「すべる」などの用語を口にするの
は、タブーと思うこと。入試に向かうとしても、子どもに楽しませるようなお膳立ては、必要であ
る。「今度、お母さんがお弁当つくってあげるから、いっしょに行きましょうね」とか。またそういう
雰囲気のほうが、子どもも伸び伸びとできる。また結果も、よい。


●入試内容に迎合しない

たまに難しい問題が出ると、親は、それにすぐ迎合しようとする。たとえば前年度で、球根の名
前を聞かれるような問題が出たとする。するとすぐ、親は、「では……」と。しかし大切なことは、
物知りな子どもにすることではなく、深く考える子どもにすることである。わからなかったら、す
なおに「わかりません」と言えばよい。試験官にしても、そういうすなおさを、試しているのであ
る。


●子どもらしい子ども

子どもは子どもらしい子どもにする。すなおで、明るく、伸びやかで、好奇心が旺盛で、生活力
があって……。すなおというのは、心の状態と、表情が一致している子どもをいう。ねたむ、い
じける、すねる、ひねくれるなどの症状のない子どもをいう。そういう子どもを目指し、それでダ
メだというのなら、そんな学校は、こちらから蹴とばせばよい。それくらいの気構えは、親には
必要である。


●デマにご用心

受験期になると、とんでもないデマが飛びかう。「今年は、受験者数が多い」「教員と親しくなっ
ておかねば不利」「裏金が必要」などなど。親たちの不安心理が、さらにそうしたデマを増幅さ
せる。さらに口から口へと伝わっていく間に、デマ自身も大きくなる。こういうのを心理学の世界
でも、「記憶錯誤」という。子どもよりも、おとなのほうが、しかも不安状態であればあるほど、そ
の錯誤が大きくなることが知られている。


●上下意識は、もたない

 兄(姉)が上で、弟(妹)が下という、上下意識をもたない。……といっても、日本人からこの意
識を抜くのは、容易なことではない。伝統的に、そういう意識をたたきこまれている。今でも、長
子相続を本気で考えている人は多い。もしあなたがどこか権威主義的なものの考え方をしてい
るようなら、まず、それを改める。


●子どもの名前で、子どもを呼ぶ

 「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」ではなく、兄でも、姉でも、子ども自身の名前で、子どもを呼ぶ。
たとえば子どもの名前が太郎だったら、「太郎」と呼ぶ。一般的に、たがいに名前で呼びあう兄
弟(姉妹)は、仲がよいと言われている。

●差別しない

 長男、長女は、下の子が生まれたときから、恒常的な愛情不足、欲求不満の状態に置かれ
る。親は「平等」というが、長男、長女にしてみれば、平等ということが、不平等なのである。そ
ういう前提で、長男(長女)の心理を理解する。つまり長男(長女)のほうが、不平等に対して、
きわめて敏感に反応しやすい。


●嫉妬はタブー

 兄弟(姉妹)の間で、嫉妬感情をもたせない。これは子育ての鉄則と考えてよい。嫉妬は、確
実に子どもの心をゆがめる。原始的な感情であるがゆえに、扱い方もむずかしい。この嫉妬
がゆがむと、相手を殺すところまでする。兄弟(姉妹)を別々に扱うときも、たがいに嫉妬させな
いようにする。


●たがいを喜ばせる

 兄弟を仲よくさせる方法として、「たがいを喜ばせる」がある。たとえばうち1人を買い物に連
れていったときでも、「これがあると○○君、喜ぶわね」「△△ちゃん、喜ぶわね」というような買
い与え方をする。いつも相手を喜ばすようにしむける。これはたがいの思いやりの心を育てる
ためにも、重要である。

●決して批判しない

 子どもどうしの悪口を、決して言わない。聞かない。聞いても、判断しない。たとえば兄に何か
問題があっても、それを絶対に(絶対に)、弟に告げ口してはいけない。告げ口した段階で、あ
なたと兄の関係は、壊れる。反対に兄が弟のことで、何か告げ口をしても、あなたは聞くだけ。
決して相づちを打ったり、いっしょになって、兄を批判してはいけない。


●得意面をさらに伸ばす

子どもを伸ばすコツは、得意面をさらに伸ばし、不得意面については、目を閉じること。たとえ
ば受験生でも、得意な英語を伸ばしていると、不得意だった数学も、つられるように伸び始め
るということがよくある。「うちの子は、運動が苦手だから、体操教室へ……」という発想は、そ
もそも、その原点からまちがっている。子どもは(いやがる)→(ますます不得意になる)の悪循
環を繰りかえすようになる。


●悪循環を感じたら、手を引く

子育てをしていて、どこかで悪循環を感じたら、すかさず、その問題から、手を引く。あきらめ
て、忘れる。あるいはほかの面に、関心を移す。「まだ、何とかなる」「そんなハズはない」と親
ががんばればがんばるほど、話が、おかしくなる。深みにはまる。が、それだけではない。一
度、この悪循環に入ると。それまで得意であった分野にまで、悪影響をおよぼすようになる。自
信喪失から、自己否定に走ることもある。


●子どもは、ほめて伸ばす

『叱るときは、陰で。ほめるときは、みなの前で』は、幼児教育の大鉄則。もっとはっきり言え
ば、子どもは、ほめて伸ばす。仮にたどたどしい、読みにくい文字を書いたとしても、「ほほう、
字がじょうずになったね」と。こうした前向きの強化が、子どもを伸ばす。この時期、子どもは、
ややうぬぼれ気味のほうが、あとあと、よく伸びる。「ぼくはできる」「私はすばらしい」という自
信が、子どもを伸ばす原動力になる。


●孤立感と劣等感に注意

家族からの孤立、友だちからの孤立など。子どもが孤立する様子を見せたら、要注意。「ぼく
はダメだ」式の劣等感を見せたときも、要注意。この二つがからむと、子どものものの考え方
は、急速に暗く、ゆがんでくる。外から見ると、「何を考えているかわからない」というようになれ
ば、子どもの心は、かなり危険な状態に入ったとみてよい。家庭教育のあり方を、猛省する。


●すなおな子ども

従順で、親の言うことをハイハイと聞く子どもを、すなおな子どもというのではない。幼児教育の
世界で、「すなおな子ども」というときは、心(情意)と、表情が一致している子どもをいう。感情
表出がすなおにできる。うれしいときは、顔満面にその喜びをたたえるなど。反対にその子ども
にやさしくしてあげると、そのやさしさが、スーッと子どもの心の中に、しみこんでいく感じがす
る。そういう子どもを、すなおな子どもという。


● 自己意識を育てる

乳幼児期に、何らかの問題があったとする。しかしそうした問題に直面したとき、大切なこと
は、そうした問題にどう対処するかではなく、どうしたら、こじらせないか、である。たとえばAD
HD児にしても、その症状が現れてくると、たいていの親は、混乱状態になる。しかし子どもの
自己意識が育ってくると、子どもは、自らをコントロールするようになる。そして見た目には、症
状はわからなくなる。無理をすれば、症状はこじれる。そして一度、こじれると、その分だけ、立
ちなおりが遅れる。


● まず自分を疑う

子どもに問題があるとわかると、親は、子どもをなおそうとする。しかしそういう視点では、子ど
もは、なおらない。たとえばよくある例は、親の過干渉、過関心で、子どもが萎縮してしまったよ
うなばあい。親は「どうしてうちの子は、ハキハキしないのでしょう」と言う。そして子どもに向か
っては、「どうしてあなたは、大きな声で返事ができないの!」と叱る。しかし原因は、親自身に
ある。それに気づかないかぎり、子どもは、なおらない。


● 「やればできるはず」は禁句

たいていの親は、「うちの子は、やればできるはず」と思う。しかしそう思ったら、すかさず、「や
ってここまで」と思いなおす。何がそうかといって、親の過関心、過負担、過剰期待ほど、子ども
を苦しめるものはない。それだけではない。かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。そこで
子どもには、こう言う。「あなたは、よくがんばっているわよ。TAKE IT EASY!(気を楽にし
てね)」と。※


● 「子はかすがい」論

たしかに子どもがいることで、夫婦が力を合わせるということはよくある。夫婦のきずなも、そ
れで太くなる。しかしその前提として、夫婦は夫婦でなくてはならない。夫婦関係がこわれかか
っているか、あるいはすでにこわれてしまったようなばあいには、子はまさに「足かせ」でしかな
い。日本には「子は三界の足かせ」という格言もある。


● 「親のうしろ姿」論

生活や子育てで苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では「子は親のうしろ姿を見て
育つ」というが、中には、そのうしろ姿を子どもに見せつける親がいる。「親のうしろ姿は見せ
ろ」と説く評論家もいる。しかしうしろ姿など見せるものではない。(見せたくなくても、子どもは
見てしまうかもしれないが、それでもできるだけ見せてはいけない。)恩着せがましい子育て、
お涙ちょうだい式の子育てをする人ほど、このうしろ姿を見せようとする。


● 「親の威厳」論

「親は威厳があることこそ大切」と説く人は多い。たしかに「上」の立場にいるものには、居心地
のよい世界かもしれないが、「下」の立場にいるものは、そうではない。その分だけ上のものの
前では仮面をかぶる。かぶった分だけ、心を閉じる。威厳などというものは、百害あって一利な
し。心をたがいに全幅に開きあってはじめて、「家族」という。「親の権威」などというのは、封建
時代の遺物と考えてよい。


● 「育自」論は?

よく、「育児は育自」と説く人がいる。「自分を育てることが育児だ」と。まちがってはいないが、
子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越え、谷を越えてい
る間に、いやおうなしに育てられる。育自などしているヒマなどない。もちろん人間として、外の
世界に大きく伸びていくことは大切なことだが、それは本来、子育てとは関係のないこと。子育
てにかこつける必要はない。


● 「親孝行」論

安易な孝行論で、子どもをしばってはいけない。いわんや犠牲的、献身的な「孝行」を子どもに
求めてはいけない。強要してはいけない。孝行するかどうかは、あくまでも子どもの問題。子ど
もの勝手。親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。たがいにやさしい、思
いやりのある言葉をかけあうことこそ、大切。親が子どものために犠牲になるのも、子どもが
親のために犠牲になるのも、決して美徳ではない。親子は、あくまでも「尊敬する」「尊敬され
る」という関係をめざす。


● 「産んでいただきました」論

よく、「私は親に産んでいただきました」「育てていただきました」「言葉を教えていただきました」
と言う人がいる。それはその人自身の責任というより、そういうふうに思わせてしまったその人
の周囲の、親たちの責任である。日本人は昔から、こうして恩着せがましい子育てをしながら、
無意識のうちにも、子どもにそう思わせてしまう。いわゆる依存型子育てというのが、それ。


● 「水戸黄門」論に注意

日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっているかといっても、
身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度(=巨悪)にどっぷりとつ
かりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」がわからないほどまで、こ
の権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひれ伏せさせる前に、そ
の矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪いことをしようとしたら、ど
んなことでもできる。ご注意!


● 「釣りバカ日誌」論

男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。その背景にあるのが、「男は
仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」と。しかしこれこそまさに、世
界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食い(パーティ)をするときは、妻
の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすということは、ありえない。そんな
ことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、ゆがんだ男性観が、その基本
にあるとみる。


● 「MSのおふくろさん」論

夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と泣く民族は、世界広しといえども、そうはい
ない。あの歌の中に出てくる母親は、たしかにすばらしい人だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘
になれ」とその母親は教えたというが、こうした美化論にはじゅうぶん注意したほうがよい。マザ
コン型の人ほど、親を徹底的に美化することで、自分のマザコン性を正当化する傾向がある。


●「かあさんの歌」論

K田聡氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(三行目と四行目)は、かっこ(「」)つきになって
いる。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」「♪おとうは土間で藁打ち仕
事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」と。しかしこれほ
ど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。親が子どもに手紙を書くとしたら、「♪村の祭
に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに似合うと思ったから、買っておいたよ」「♪おとうは
居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「♪春になったら、村のみんなと温泉に行ってくる
よ」だ。


● 「内助の功」論

封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用いられた。しかしこの言葉
ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう論ずるまでもない。しかし問題
は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いということ。約23%の女性が、「それでい
い」と答えている※。決して男性だけの問題ではないようだ。
※……全国家庭動向調査(厚生省九八)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」
という考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。


 ●子育ては、考えてするものではない

だれしも、「頭の中では、わかっているのですが、ついその場になると……」と言う。子育てとい
うのは、もともと、そういうもの。そこでいつも同じようなパターンで、同じような失敗をするとき
は、(1)あなた自身の過去を冷静に見つめてみる。(2)何か(わだかまり)や(こだわり)があれ
ば、まず、それに気づくこと。あとは時間が解決してくれる。


●子育ては、世代連鎖する

子育ては、世代を超えて、親から子へと、よいことも、悪いことも、そのまま連鎖しやすい。また
そういう部分が、ほとんどだということになる。そういう意味で、「子育ては本能ではなく、学習に
よるもの」と考る。つまり親は子育てをしながら、実は、自分が受けた子育てを、無意識のうち
に繰りかえす。そこで重要なことは、悪い子育ては、つぎの世代に、残さないということ。


●子育ての見本を見せる

子育ての重要な点は、子どもを育てるのではなく、子育てのし方の見本を、子どもに見せると
いうこと。見せるだけでは、足りない。包む。幸福な家庭というのは、こういうものだ。夫婦という
のは、こういうものだ、家族というのは、こういうものだ、と。そういう(学習)があって、子ども
は、親になったとき、はじめて、自分で子育てが自然な形でできるようになる。


●子どもには負ける

子どもに、勝とうと思わないこと。つまり親の優位性を見せつけないこと。どうせ相手にしてもし
かたないし、本気で相手にしてはいけない。ときに親は、わざと負けて見せたり、バカなフリをし
て、子どもに自信をもたせる。適当なところで、親のほうが、手を引く。「こんなバカな親など、ア
テにならないぞ」と子どもが思えば、しめたもの。


●子育ては重労働

子育ては、もともと重労働です。そういう前提で、する。自分だけが苦しんでいるとか、おかしい
とか、子どもに問題があるなどと、考えてはいけない。しかしここが重要だが、そういう(苦しみ)
をとおして、親は、ただの親から、真の親へと成長する。そのことは、子育てが終わってみる
と、よくわかる。子育ての苦労が、それまで見えなかった、新しい世界を親に見せてくれる。どう
か、お楽しみに!


●自分の生きザマを!

子育てをしながらも、親は、親で、自分の生きザマを確立する。「あなたはあなたで、勝手に生
きなさい。私は私で、勝手に生きます」と。そういう一歩退いた目が、ともすればギクシャクとし
がちな、親子関係に、風を通す。子どもだけを見て、子どもだけが視野にしか入らないというの
は、それだけあなたの生きザマが、小さいということになる。あなたはあなたで、したいことを、
すれば、それでいい。


●問題のない子育てはない

子育てをしていると、子育てや子どもにまつわる問題は、つぎからつぎへと、起きてくる。それ
は岸辺に打ち寄せる波のようなもの。問題のない子どもはいないし、したがって、問題のない
子育ては、ない。できのよい子ども(?)をもった親でも、その親なりに、いろいろな問題に、そ
のつど、直面する。できが悪ければ(?)、もっと直面する。子育てというのは、もともとそういう
ものであるという前提で、子育てを考える。


●解決プロセスを用意する

英文を読んでいて、意味のわからない単語にぶつかったら、辞書をひく。同じように、子育てで
何かの問題にぶつかったら、どのように解決するか、そのプロセスを、まず、つくっておく。兄弟
や親類に相談するのもよい。親に相談するのも、よい。何かのサークルに属するのもよい。自
分の身にまわりに、そういう相談相手を用意する。が、一番よいのは、自分の子どもより、2、
3歳年上の子どもをもつ、親と緊密になること。「うちもこうでしたよ」というアドバイスをもらっ
て、たいていの問題は、その場で解決する。


●動揺しない

株取引のガイドブックを読んでいたら、こんなことが書いてあった。「プロとアマのちがいは、プ
ロは、株価の上下に動揺しないが、アマは、動揺する。だからそのたびに、アマは、大損をす
る」と。子育ても、それに似ている。子育てで失敗しやすい親というのは、それだけ動揺しやす
い。子どもを、月単位、半年単位で見ることができない。そのつど、動揺し、あわてふためく。こ
の親の動揺が、子どもの問題を、こじらせる。


●自分なら……

賢い親は、いつも子育てをしながら、「自分ならどうか?」と、自問する。そうでない親は親意識
だけが強く、「〜〜あるべき」「〜〜であるべきでない」という視点で、子どもをみる。そして自分
の理想や価値観を、子どもに押しつけよとする。そこで子どもに何か問題が起きたら、「私なら
どうするか?」「私はどうだったか?」という視点で考える。たとえば子どもに向かって「ウソをつ
いてはダメ」と言ったら、「私ならどうか?」と。


●時間を置く

言葉というのは、耳に入ってから、脳に届くまで、かなりの時間がかかる。相手が子どもなら、
なおさらである。だから言うべきことは言いながらも、効果はすぐには、求めない。また言った
からといって、それですぐ、問題が解決するわけでもない。コツは、言うべきことは、淡々と言い
ながらも、あとは、時間を待つ。短気な親ほど、ガンガンと子どもを叱ったりするが、子どもはこ
わいから、おとなしくしているだけ。反省などしていない。


●叱られじょうずな子どもにしない

親や先生に叱られると、頭をうなだれて、いかにも叱られていますといった、様子を見せる子ど
もがいる。一見、すなおに反省しているかのように見えるが、反省などしていない。こわいから
そうしているだけ。もっと言えば、「嵐が通りすぎるのを待っているだけ」。中には、親に叱られ
ながら、心の中で歌を歌っていた子どももいた。だから同じ失敗をまた繰りかえす。


●叱っても、人権を踏みにじらない

先生に叱られたりすると、パッとその場で、土下座をしてみせる子どもがいる。いわゆる(叱ら
れじょうずな子ども)とみる。しかしだからといって、反省など、していない。そういう形で、自分
に降りかかってくる、火の粉を最小限にしようとする。子どもを叱ることもあるだろうが、しかし
どんなばあいも、最後のところでは、子どもの人権だけは守る。「あなたはダメな子」式の、人
格の「核」攻撃は、してはいけない。


●「核」攻撃は、禁物

子どもを叱っても、子どもの心の「核」にふれるようなことは、言ってはいけない。「やっぱり、あ
なたはダメな子ね」「あんたなんか、生まれてこなければよかったのよ」などというのが、それ。
叱るときは、行為のどこがどのように悪かったかだけを、言う。具体的に、こまかく言う。が、子
どもの人格にかかわるようなことは言わない。


●子どもは、親のマネをする

たいへん口がうまく、うそばかり言っている子どもがいた。しかしやがてその理由がわかった。
母親自身もそうだった。教師の世界には、「口のうまい親ほど、要注意」という、大鉄則があ
る。そういう親ほど、一度、敵(?)にまわると、今度は、その数百倍も、教師の悪口を言い出
す。子どもに誠実になってほしかったら、親自身が、誠実な様子を、日常生活の中で見せてお
く。


●一事が万事論

あなたは交通信号を、しっかりと守っているだろうか。もしそうなら、それでよし。しかし赤信号
でも、平気で、アクセルを踏むようなら、注意したほうがよい。あなたの子どもも、あなたに劣ら
ず、小ズルイ人間になるだけ。つまり親が、小ズルイことをしておきながら、子どもに向かって、
「約束を守りなさい」は、ない。ウソはつかない。約束は守る。ルールには従う。そういう親の姿
勢を見ながら、子どもは、(まじめさ)を身につける。


●代償的過保護に注意

「子どもはかわいい」「私は子どもを愛している」と、豪語する親ほど、本当のところ、愛が何で
あるか、わかっていない。子どもを愛するということは、それほどまでに、重く、深いもの。中に
は、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいと考えている親もいる。これを
代償的過保護という。一見、過保護に見えるが、その基盤に愛情がない。つまりは、愛もどき
の愛を、愛と錯覚しているだけ。


●子どもどうしのトラブルは、子どもに任す

子どもの世界で、子どもどうしのトラブルが起きたら、子どもに任す。親の介入は、最小限に。
そういうトラブルをとおして、子どもは、子どもなりの問題解決の技法を身につけていく。親とし
てはつらいところだが、1にがまん、2にがまん。親が口を出すのは、そのあとでよい。もちろん
子どものほうから、何かの助けを求めてきたら、そのときは、相談にのってやる。ほどよい親で
あることが、よい親の条件。


●許して忘れ、あとはあきらめる

子どもの問題は、許して、忘れる。そしてあとはあきらめる。「うちの子にかぎって……」「そんな
はずはない」「まだ何とかなる」と、親が考えている間は、親に安穏たる日々はやってこない。そ
こで「あきらめる」。あきらめると、その先にトンネルの出口を見ることができる。子どもの心に
も風が通るようになる。しかしヘタにがんばればがんばるほど、親は、袋小路に入る。子どもも
苦しむ。


 ●強化の原理

子どもが、何かの行動をしたとする。そのとき、その行動について、何か、よいことが起きたと
する。ほめられるとか、ほうびがもらえるとか。あるいは心地よい感覚に包まれるとか。そういう
何かよいことが起こるたびに、その行動は、ますます強化される。これを「強化の原理」という。
子どもの能力をのばすための大鉄則ということになる。


●弱化の原理

強化の原理に対して、弱化の原理がある。何か、行動をしたとき、つまずいたり、失敗したり、
叱られたりすると、子どもは、やる気をなくしたり、今度は、その行動を避けるようになる。これ
を弱化の原理という。子どもにもよるし、ケースにもよるが、一度弱化の原理が働くようになる
と、学習効果が、著しく落ちるようになる。


●内面化

子どもは成長とともに、身長がのび、体重が増加する。これを外面化というのに対して、心の
発達を、内面化という。その内面化は、(1)他者との共鳴性(自己中心性からの脱却)、(2)自
己管理能力、(3)良好な人間関係をみるとよい(EQ論)。ほかに道徳規範や倫理観の発達、
社会規範や、善悪の判断力などを、ふくめる。心理学の世界では、こうした発達を総称して、
「しつけ」という。


●子どもの意欲

子どもは、親、とくに母親の意欲を見ながら、自分の意欲を育てる。一般論として、意欲的な母
親の子どもは、意欲的になる。そうでない母親の子どもは、そうでない。ただし、母親が意欲的
過ぎるのも、よくない。昔から、『ハリキリママのションボリ息子』と言われる。とくに子どもに対し
ては、ほどよい親であることが望ましい。任すところは子どもに任せ、一歩退きながら、暖かい
無視を繰りかえす。それが子育てのコツということになる。


●ほどよい目標

過負担、過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。そればかりではない。自信喪失から、
やる気をなくしてしまうこともある。仮に一時的にうまくいっても、オーバーヒート現象(燃え尽き
症候群、荷卸し症候群)に襲われることもある。子どもにとって重要なことは、達成感。ある程
度がんばったところで、「できた!」という喜びが、子どもを伸ばす。子どもには、ほどよい目標
をもたせるようにする。


●子どもの恐怖症

恐怖症といっても、内容は、さまざま。対人恐怖症、赤面恐怖症、視線恐怖症、体臭恐怖症、
醜形恐怖症、吃音恐怖症、動物恐怖症、広場恐怖症、不潔恐怖症、高所恐怖症、暗所恐怖
症、閉所恐怖症、仮面恐怖症、先端恐怖症、水恐怖症、火恐怖症、被毒恐怖症、食事恐怖症
などがある。子どもの立場になって、子どもの視線で考えること。「気のせいだ」式の強引な押
しつけは、かえって症状を悪くするので注意。


●子どもの肥満度

児童期の肥満度は、(実測体重Kg)÷(実測身長cmの3乗)×10の7乗で計算する。この計
算式で、値が160以上を、肥満児という(ローレル指数計算法)。もっと簡単に見る方法として
は、手の甲を上にして、指先を、ぐいと上にそらせてみる。そのとき、指のつけねに腱が現れる
が、この腱の部分にくぼみが現れるようになったら、肥満の初期症状とみる。この方法は、満5
歳児〜の肥満度をみるには、たいへん便利。


●チック

欲求不満など、慢性的にストレスが蓄積すると、子どもは、さまざまな神経症的症状を示す。た
とえば爪かみ、指しゃぶり、夜尿、潔癖症、手洗いグセなど。チックもその一つ。こうした症状を
総称して、神経性習癖という。このチックは、首から上に出ることが多く、「おかしな行動をす
る」と感じたら、このチックをうたがってみる。原因の多くは、神経質で、気が抜けない家庭環境
にあるとみて、猛省する。


●子どもの姿を正確に

あなたの子どもに、あなたはどのようなイメージをもっているだろうか。中には、問題があるの
に、「問題はない」と思いこんでいる親がいる。反対に、問題がないのに、「問題がある」と思い
こんでいる親もいる。子どもの姿を正確にとらえるのは、たいへんむずかしい。子どもの概念
と、現実の子どもの間のギャップが大きければ大きいほど、親子の関係はギクシャクしたもの
になりやすい。


●聞きじょうずになる

子どもの姿を正確にとらえるためには、聞きじょうずになること。自分の子どもでも、他人の子
どもと思い、一歩退いて見るようにする。教師でも話しにくい親というのは、子どものことになる
と、すぐカリカリするタイプ。何か言おうとすると、「うちでは問題はありません」「塾では、しかkり
とやっています」と反論する。しかしそう反論されると、「どうぞ、ご勝手に」となる。


●自己愛者はご注意

自己中心性が肥大化すると、自己愛者になる。完ぺき主義で、他人の批判を許さない。すべて
を自分(あるいは自分の子ども)中心に考えるようになる。こうなると、子育ては、独善化する。
他人の批評に耳を傾けなくなるからである。子育てじょうずな親というのは、ものごとに謙虚で
ある。その謙虚さが、心に風穴をあける。まずいのは、「自分は正しい」と思いこんで、他人の
意見を聞かないこと。


●心の一致

(したいこと)と(していること)が一致しているとき、子どもの心は、安定する。しかし(したいこ
と)と(していること)が一致していないと、子どもの心は、急速に不安定化する。非行の多くは、
こうして始まる。そこで重要なことは、いつも、(子どものしたいこと)に静かに耳を傾けて、それ
を(していること)に結びつけていく。これを心理学の世界でも、自我の同一性(アイデンテンテ
ィ)と呼ぶ。


●善行は、ささいなことから

あなたの子どもを善人にしたいなら、日常的な、ごくささいなことから、約束やルールを守る姿
を、子どもに見せておく。そういう積み重ねが、あなたの子どもを善人にする。つまり日々の積
み重ねが、月々の積み重ねとなり、それが年々、積もって、その人の人格となる。あなたが、
平気で空き缶をポイ捨てしていおいて、あなたの子どもに「いい子になれ」は、ない。


●シャドウをつくらない

あなたが仮面をかぶればかぶるほど、あなたの背後に、その正反対のシャドウ(影)ができる。
子どもというのは、そのシャドウをそのまま受けついでしまう。よく例に出されるのが、佐木隆三
の『復讐するは、我にあり』である。敬虔な牧師の息子が、殺人鬼になるという小説である。緒
方拳の主演で、映画にもなった。父親は牧師をしながら、息子の嫁と不倫関係になる。そうし
たシャドウが、その息子を殺人鬼にしたとも考えられなくはない。


●ウソはつかない

子どもには、ウソをつかない。これは親子関係を守るための、最後の砦(とりで)と考えてよい。
もしウソをつきたくなかったら、だまっていればよい。飾ったり、見栄をはったりしてもいけない。
ありのままを、すなおに見せておく。あとの判断は、子どもに任せればよい。


●ウソはていねいにつぶす

子どもは、よくウソをつく。いろいろなウソがあるが、その中でも、空想したことを、あたかも本
当のことのように話す子どもがいる。空想的虚言(妄想的虚言)というのが、それ。はげしい親
の過干渉が日常化すると、子どもは、この空想的虚言を口にするようになる。そういうとき親
は、子どもをはげしく叱ったりするが、反省すべきは、むしろ親のほうである。こうしたウソは、
ていねいに、つぶす。言うべきことは言いながら、あとは時間を待つ。


●計算力と「数」の力

子どもにとって、計算力と、「数」の力は、別のものと考えてよい。たとえば(3+4=7)は、計算
力があればできる。しかし「7は、5と□」という問題は、計算力だけでは、カバーできない。ほ
かに「3と□で、6」「□は、3と4」など。小学1年生の問題だが、それができる子どもは、スラス
ラとできる。しかしできない子どもは、何度説明しても、できない。それがここでいう「数」の力と
いうことになる。
(はやし浩司 子供の計算力)


●「遊び」を大切に

自動車のハンドルでも、「遊び」があるから、運転できる。その「遊び」がなく、ギスギスだった
ら、運転できない。子どもの勉強も、その運転に似ている。多くの親たちは、「勉強」というと、
机に向かって黙々とするものだという偏見と誤解をもっている。しかしそれは大学の研究者の
ような人がする勉強であって、少なくとも、子どもの勉強ではない。小学校の低学年児だった
ら、30分机に向かって座って、10分、勉強らしきことをすれば、よしとする。


●子どものリズムをつかむ 

子ども自身がもつ、学習のリズムは、みな、ちがう。数分きざみに、騒いだり、しゃべったりする
子どももいれば、5分くらい静かに作業したあと、1〜2分、休んだりする。勉強にとりかかるま
でに、10分以上かかる子どももいれば、すぐ、勉強に入れる子どもいる。大切なことは、それ
ぞれのリズムに合わせて、指導するということ。とくに子どもが小さいうちは、そうする。


●ささいなミスは、許す

たとえば20問、計算問題をする。そのとき、1、2問くらいなら、まちがっていても、何も言わな
い。「よくがんばったね」と、ねぎらう。そして大きな丸を描いてすます。とくに子どもが、懸命にし
たときは、そうする。正解よりも、この時期大切なのは、達成感。その達成感が、子どもを伸ば
す。こまごまとした神経質な指導は、一見、親切に見えるが、かえって子どもの伸びる芽をつん
でしまうこともあるので注意する。


●テーマは、一つ

子どもに何かを教えようとするときは、いつも、テーマは、一つにする。あれこれ、同時に指示
を与えても、意味がないばかりか、かえって、「二兎を追うもの、一兎……」ということになりか
ねない。たとえば作文練習のときは、作文の内容だけを見て、文字のまちがいなどは、無視す
る。作文の内容だけを見て、判断する。


●子どもを伸ばすのは、子ども

子どもを伸ばすのは、子ども。しかしその子どもをつぶすのも、これまた子ども。とても残念な
ことだが、「質」のよい子どももいれば、そうでない子どももいる。質がよいというのは、おだや
かで、知性的。自己管理能力もしっかりしていて、もの静か。そういう子どもは、そういう子ども
どうし集まる傾向がある。で、もしあなたの子どもが、そういう子どもであれば、努力して、そう
いう子どもどうしが集まれるような環境をつくってやるとよい。あなたの子どもは、さらに伸び
る。
(はやし浩司 子供の冴え)


●冴(さ)えを伸ばす

子どもが、「アレッ」と思うようなヒラメキを示したときは、すかさず、それをほめて、伸ばす。こ
の時期、あとあと子どもほど、思考が柔軟で、臨機応変に、ものごとに対処できる。趣味も多
く、多芸多才。興味の範囲は広く、何か新しいことを見せると、「やる!」「やりたい!」と食いつ
いてくる。この時期、することと言えば、テレビゲームだけ。友だちも少ないというのは、子ども
にとっては、望ましいことではない。


●一歩手前で、やめる

子どもが30分ほど、勉強しそうだったら、20分くらいのところで、やめる。ワークを10ページく
らいしそうだったら、7〜8ページくらいのところで、やめる。子どもを伸ばすコツは、無理をしな
い。強制をしない。もしあなたが、「子どもというのは、しぼればしぼるほど伸びる」とか、「子ど
もの勉強には、きびしさが必要」と考えているなら、それは、とんでもない誤解。どこかの総本
山での、小僧教育ならともかくも、今は、そういう時代ではない。


●バカなフリをして伸ばす

おとなは、決して、おとなの優位性を子どもに、見せつけてはいけない。押しつけてはいけな
い。子どもにとって、最大の喜びは、父親や、母親を、何かのことで、負かすことである。親の
立場でいえば、子どもに負けることを、恥じることはない。反対に、ときには、バカな親のフリを
して、子どもに自信をもたせる。「こんな親では、アテにできない」と子どもが思うようになった
ら、しめたもの。


●集中力も「力」のうち

よく、「うちの子は、集中力がありません。集中力をつけるには、どうしたらいいでしょうか」とい
う質問をもらう。しかし集中力も、「力」のうち。頭をよくする方法が、そんなにないように、集中
力をつける方法というのも、それほど、ない。あれば、私が知りたいくらいである。ただ指導の
し方によって、子どもを、ぐいぐいとこちらのペースに引きこんでいくことはできる。しかし集中力
のある・なしは、子どもの問題ではなく、指導する側の問題ということになる。
(はやし浩司 子供の集中力)


●一貫性

内容がどうであれ、よき親と、そうでない親のちがいといえば、一貫性のある、なしで、決まる。
権威主義的なら権威主義的でもかまわない。(本当は、そうでないほうがよいが……。)親にそ
の一貫性があれば、やがて子どものほうが、それに合わせる。私の叔父の中には、権威主義
のかたまりのような人がいた。しかし私は、その叔父は叔父として、認めることで、良好な人間
関係をつくることができた。それなりに尊敬もしている。子どもの前では、いつも、同じ親である
こと。それが子どもの心に、大きな安定感を与える。
(はやし浩司 一貫性)


●子育ては工夫

 子育ては工夫に始まって、工夫に終わる。わかりやすく言えば、知恵比べ。この知恵比べに
よって、子どもは、伸びる。が、それだけではない。何か問題が起きたときも、同じ。家庭環境
は千差万別。状態も状況も、みなちがう。子どもについて言うなら、性格も性質も、みなちがう。
能力もちがう。そんなわけで、「子育ては知恵くらべ」と心得る。この知恵比べを、前向きにでき
る人を、賢い親という。


●内政不干渉

 たとえ親類でも、兄弟でも、内政については、干渉しない。相手が相談をもちかけてきたとき
は別として、こちらからあれこれアドバイスしたり、口を出したりしてはいけない。相手を説教す
るなどということは、タブー中のタブー。ばあいによっては、それだけで、人間関係は、破壊され
る。それぞれの家庭には、人には言うに言われぬ事情というものがある。その事情も知らない
で、つまり自分の頭の中だけで考えてものを言うのは、たいへん危険なことである。


●受験についての話は、タブー

 「受験家族は、病人家族」と心得るべし。受験生をもつ親に向かって、「どこを受験するの?」
「合格したの?」と聞くことは、病人に向かって、「病名は何?」「寿命はどれくらい?」と聞くのと
同じくらい、失礼なこと。相手のほうから話題にするばあいは、べつとして、そうでなければ、そ
れについて触れるのは、タブー。出身校、学歴についても、同じ。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●同一性の危機

万引き、自転車盗、薬物濫用、暴走、家庭内暴力、校内暴力、性非行、無断外泊、いじめを、
非行という(会津若松警察書)。子どもは、(自分のしたいこと)と、(現実にしていること)の間に
遊離感を覚えたとき、無意識のうちにも、その距離を、縮めようとする。子どもの耐性にもよる
が、それが一定の限界(個人差は当然ある)を超えたとき、子どもの自我の同一性は、危機に
立たされる。


●夢・希望・目的

夢・希望・目的は、子どもを伸ばす、三種の神器。これら夢・希望・目的は、(自分のしたいこ
と)と、(現実にしていること)が一致しているとき、あるいは、そこに一体感があるとき、そこか
ら生まれる。「ぼくはサッカー選手になる」「私はケーキ屋さんになる」と。そしてサッカーの練習
をしたり、ケーキを自分で焼いてみたりする。「プロの選手になる」とか、「パン屋さんになる」と
かいう目的は、そこから生まれる。


●子どもの忍耐力

同一性が危機に立たされると、子どもは、それを修復しようとする。(自分のしたいこと)を、別
のものに置きかえたり、(現実にしていること)を、修正しようとしたりする。あるいは「したくない
が、がんばってやってみよう」と考えたりする。ここで登場するのが、忍耐力ということになる。
子どもにとって、忍耐力とは、(いやなことをする力)をいう。この忍耐力は、幼児期までに、ほ
ぼ完成される。


●同一性の崩壊

同一性を支えきれなくなると、そこで同一性の崩壊が始まる。子ども自身、自分が何をしたい
か、わからなくなってしまう。また何をしてよいのか、わからなくなってしまう。「私は何だ」「私は
だれだ」と。「私はどこへ行けばよいのか」「何をすればよいのか」と。それは「混乱」というよう
な、なまやさしいものではない。まさに「自己の崩壊」とも言うべきもの。当然、子どもは、目的
を見失う。


●顔のない自分

同一性が崩壊すると、いわゆる(顔のない自分)になる。で、このとき、子どもは、大きく分け
て、二つの道へと進む。(1)自分の顔をつくるため、攻撃的かつ暴力的になる(攻撃型)。(2)
顔のない自分のまま、引きこもったり、カラに閉じこもったりする(逃避型)。ほかに、同情型、
依存型、服従型をとる子どももいる。顔のない自分は、最悪のケースでは、そのまま自己否定
(=自殺)へとつながってしまう。


●校内暴力

暴力的な子どもに向かって、「そんなことをすれば、君がみなに嫌われるだけだよ」と諭(さと)
しても、意味はない。その子どもは、みなに嫌われ、怖れられることで、(自分の顔)をつくろうと
する。(顔のない自分)よりは、(顔のある自分)を選ぶ、。だからみなが、恐れれば、怖れるほ
ど、その子どもにとっては、居心地のよい世界となる。攻撃型の子どもの心理的のメカニズム
は、こうして説明される。


●子どもの自殺

おとなは、生きるのがいやになって、その結果として、自殺を選ぶ。しかし子どものばあいは、
(顔のない自分)に耐えきれず、自殺を選ぶ。自殺することによって、(自分の顔)を主張する。
近年ふえているリストカットも、同じように説明できる。リストカットすることで、自分を主張し、他
人からの注目(同情、あわれみなど)を得ようとする。「贖罪(しょくざい)のために、リストカット
する」と説く学者もいる(稲富正治氏ほか)。


●自虐的攻撃性

攻撃型といっても、2つのタイプがある。外に向って攻撃的になる(校内暴力)と、内に向って攻
撃的になる(ガリ勉、猛練習)タイプ。「勉強しかしない」「勉強しかできない」「朝から寝るまで勉
強」というタイプは、後者ということになる。決して、勉強を楽しんでいるのではない。「勉強」とい
う場で、(自分の顔)をつくろうとしていると考えるとわかりやすい。近年、有名になったスポーツ
選手の中には、このタイプの人は少なくない。


●自我の同一性
 
(子どもがしたがっている)ことに、静かに耳を傾ける。そしてそれができるように、子どもの環
境を整えていく。そうすることで、子どもは、(自分のしたいこと)と、(自分がしていること)を一
致させることができる。これを「自我の同一性」という。この両者が一致している子どもは、夢や
希望もあり、当然、目的もあるから、見た目にも、落ちついていて、どっしりとしている。抵抗力
もあるから、誘惑にも強い。


●心の抵抗力

「私は〜〜をしたい」「ぼくは〜〜する」と、目的と方向性をしっかりともっている子どもは、心の
抵抗力も強い。外部からの誘惑があっても、それをはねのける。小学校の高学年から中学校
にかけては、その誘惑が、激増する。そうした誘惑をはね返していく。が、同一性が崩壊してい
る子どもは、生きザマが、せつな的、享楽的になるため、悪からの誘いがあると、スーッとその
世界に入ってしまう。


●夢や希望を育てる

たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき重要なことは、親は、それ
に答えて、「そうね、花屋さんはすてきね」「明日、球根を買ってきて、育ててみましょうか」「お花
の図鑑を買ってきましょうか」と、子どもの夢や希望を、育ててやること。が、たいていの親は、
この段階で、子どもの夢や希望を、つぶしてしまう。そしてこう言う。「花屋さんも、いいけど、ち
ゃんと漢字も覚えてね」と。


●子どもを伸ばす三種の神器

子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学
生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を
終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3
226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心
得る。


●役割混乱

子どもは、成長するにつれて、心の充実をはかる。これを内面化というが、そのとき同時に、
「自分らしさ」を形成していく。「花屋さんになりたい」と言った子どもは、いつの間にか、自分の
周囲に、それらしさを作っていく。これを「役割形成」という。子どもを伸ばすコツは、その役割
形成を、じょうずに育てていく。それを破壊すると、子どもは、「役割混乱」を起こし、精神的に
も、情緒的にも、たいへん不安定になり、混乱する。


●思考プロセス(回路)

しかし重要なのは、「思考プロセス」。幼いときは、「花屋さんになりたい」と思ってがんばってい
た子どもが、年齢とともに、今度は、「看護婦さんになりたい」と言うかもしれない。しかし幼いと
きに、花屋さんになりたいと思ってがんばっていた道筋、あるいは思考プロセスは、そのまま残
る。その道筋に、花屋さんにかわって、今度は、看護婦が、そこへ入る。中身はかわるかもし
れないが、今度は、子どもは、看護婦さんになるために、がんばり始める。


●進学校と受験勉強

たいへんよく誤解されるが、「いい高校」「いい大学」へ入ることは、一昔前までは、目的になり
えたが、今は、そういう時代ではない。学歴の権威を支える、権威主義社会そのものが崩壊し
てしまった。親は、旧態依然の考え方で、「いい大学へ入ることが目的」と考えやすいが、子ど
もにとっては、それは、ここでいう目的ではない。「受験が近いから、(好きな)サッカーをやめ
て、受験塾へ行きなさい」と子どもを追うことで、親は子どもの夢をつぶす。「つぶしている」とい
う意識すらないまま……。


●これからはプロの時代

これからはプロが生き残る時代。オールマイティなジェネラリストより、一芸にひいでたプロの
ほうが、尊重される。大手のT自動車の面接試験でも、学歴不問。そのかわり、「君は何ができ
るか?」と聞かれる時代になってきている。大切なことは、子どもが、生き生きと、自分の人生
を歩んでいくこと。そのためにも、子どもの一芸を大切にする。「これだけは、だれにも負けな
い」というものを、子どもの中につくる。それが将来、子どもを伸ばす。


●大学生の問題

現在、ほとんどの高校生は、入れる大学の入れる学部という視点で、大学や学部を選んでい
る。もともと、勉強する目的すらもっていない。そのため、入学すると同時に、無気力になってし
まったり、遊びに夢中になってしまう大学生が多い。燃え尽きてしまったり、荷おろし症候群と
いって、いわゆる心が宙ぶらりんになってしまう子どもも多い。当然、誘惑にも弱くなる。


●自我の同一性と役割形成

子どもをまっすぐ伸ばすためには、(子どもがしたがっていること)を、(現在していること)に一
致させていく。そしてそれを励まし、伸ばす。親の価値観だけで、「それはつまらない仕事」「そ
んなことは意味がない」などと、言ってはいけない。繰りかえすが、子どもが、「お花屋さんにな
りたい」と言ったら、すかさず、「それはすてきね」と言ってあげる。こういう育児姿勢が、子ども
を、まっすぐ伸ばす基礎をつくる。

(はやし浩司 子どもを伸ばす 子供を伸ばす 自我の同一性 役割形成 思考プロセス 子
供の非行 子どもの非行 はやし浩司 子供を非行から守る 非行のメカニズム)


●作文の前に、速書きの練習を

計算力は、算数の力の基礎である。計算力があるからといって、算数の力があるということに
はならない。しかし計算力がないと、算数の力を下へ引っ張ってしまう。同じように、速書きは、
作文力(表現力)の基礎である。速く書くことができるからといって、作文力があるということに
はならない。しかし速く書くことができないと、作文力を発揮できない。小1〜2レベルで、15分
間に、100〜150文字を筆写できるようにするのを目標とする。


●国語力が、学力の基礎

理科は、理科的な国語、社会は、社会的な国語と考える。国語力(読解力、理解力、表現力)
のあるなしは、すべての科目に大きな影響を与える。「本を読む」、つまり読書の重要性は、今
さら説明するまでもない。方法としては、大きな図書館で、子どもを自由に遊ばせてみるとよ
い。それを定期的な習慣にする。


●会話は、正しい日本語で!

「ほら、バス、バス、バスよ」ではなく、「もうすぐ、バスが来ます。あなたは外に立って、バスを待
ちます」と言う。こうした正しい言い方が、子どもの国語力の基礎となる。子どもの国語力は、
親、とくに母親が決める。なおこうした語りかけは、生後直後から始める。赤ちゃん言葉(ウマ
ウマ、ブーブーなど)、幼稚語(ワンワン、ニャーゴなど)は、避ける。


●思考は作文力で

これだけ視覚情報(テレビやゲーム)が多い中、さらにその上、右脳教育をあえてする必要は
ないのではないか。それよりも大切なのは、分析力、論理的な思考力。こうした能力は左脳が
司っていると言われている。その分析力、思考力は、左脳が司る。分析力、思考力を養うに
は、作文が第一。作文に始まって、作文に終わる。ものを書くという習慣を大切に。


●思考と情報を分ける

もの知りだからといって、その子どもに思考力があるということにはならない。かけ算の九九を
ペラペラと口にしたからといって、その子どもに算数の力があるということにはならない。思考と
情報は、いつも分けて考える。思考力のある子どもの目つきは、いつも深く、静かに落ち着い
ている。


●「文化」は、心の体力

その人(子ども)の精神的な深みは、日ごろの文化性で決まる。何かの事件に遭遇したとき、
あわてふためいて、ボロを出す人もいれば、そうでない人もいる。そのためにも、子どもには、
日ごろから、本物を見せておく。絵画でも音楽でも、さらに子どもが読む絵本にしても、本物を
見せておく。そういう日ごろの姿勢が、子どもの中の文化性を高める。それが精神的な深みと
なって、その人(子ども)を側面から支える。


●反面教師のゴーストに注意

あなたの周囲にも、反面教師と呼んでよいような人がいるかもしれない。ひょっとしたら、あな
たの親が、そうであるかもしれない。人は(子どもも)、反面教師を教師として、自分を高めるこ
とができるが、対処のし方を誤ると、あなた自身が、いつかその反面教師そっくりの人間になる
こともある。これを「ゴースト」という。反面教師がいても、批判のための批判だけに終わっては
いけない。どこかでその人を乗り越える努力を忘れてはいけない。



 



☆上下意識は、親子にキレツを入れる

「親が上、子ガ下」という上下意識は、親子の間に、キレツを入れる。「上」の者にとっては、居
心地のよい世界かもしれないが、「下」の者にとっては、そうでない。言いたいことも言えない、
したいこともできないというのは、親子の間では、あってはならないこと。親はいつも子どもの友
として、横に立つ。そういう姿勢が、良好な親子関係を育てる。


☆「ダカラ論」は、論理にあらず

「親だから……」「子だから……」「長男だから……」「夫だから……」というのを、『ダカラ論』と
いう。このダカラ論は、論理ではない。えてして、問答無用式に相手をしばる道具として、利用
される。使い方をまちがえると、相手を苦しめる道具にもなりかねない。先日もテレビを見てい
たら、妻が、夫に、「あなたは一家の大黒柱なんだからね」と言っているのを見かけた。それを
見ていて、そういうふうに言われる夫は、つらいだろうなと、私は、ふと、そう思った。


☆親の恩着せ、子どもの足かせ

「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と親が、子どもに恩を着せれば着せる
ほど、子どもの心は親から遠ざかる。そればかりか、子どもが伸びる芽を摘んでしまうこともあ
る。たとえ親がそう思ったとしても、それを口にしたら、おしまい。親に恩を押しつけられ、苦し
んでいる子どもは、いくらでもいる。


☆家族主義は、親の手本から

まず子どもを幸福な家庭で包んでやる。「幸福な家庭というのは、こういうものですよ」と。それ
が家族主義の原点。見せるだけでは足りない。子どもの体の中にしみこませておく。その(しみ
こみ)があってはじめて、子どもは、今度は、自分が親になったとき、自然な形で、幸福な家庭
を築くことができる。夫婦が助けあい、いたわりあい、励ましあう姿は、遠慮なく、子どもに見せ
ておく。


☆離婚は淡々と、さわやかに

親が離婚するとき、離婚そのものは、大きな問題ではない。離婚にいたる家庭内騒動が、子ど
もの心に暗い影を落とす。ばあいによっては、それがトラウマになることもある。だから離婚す
るにしても、子どもの前では淡々と。子どものいない世界で、問題を解決する。子どもを巻きこ
んでの離婚劇、それにいたる激しい夫婦げんかは、タブー中のタブー。夫婦げんかは、子ども
への「間接虐待」と心得ること。


☆よい聞き役が、子どもの思考力を育てる

親は、子どもの前では、よき聞き役であること。ある人は、『沈黙の価値を知るものだけが、し
ゃべれ』というが、この格言をもじると、『沈黙の価値を知る親だけが、しゃべれ』となる。子ども
の意見だから、不完全で未熟であるのは、当たり前。決して頭ごなしに、「お前の考え方はお
かしい」とか、「まちがっている」とかは、言ってはいけない。「それはおもしろい考え方だ」と言っ
て、いつも前向きに、子どもの意見を引き出す。そういう姿勢が、子どもの思考力を育てる。


☆子どもの前では、いつも天下国家を論じる

子どもに話すテーマは、いつも大きいほうがよい。できれば、天下国家を論ずる。宇宙の話で
も、歴史の話でもよい。親が小さくなればなるほど、子どもは小さくなる。隣や近所の人たちの
悪口や批判は、タブー。見栄、体裁、世間体は、気にしない。こうした生き様は、子どものもの
の考え方を卑屈にする。「日本はねえ……」「世界はねえ……」という語りかけが、子どもを大
きくする。


☆仮面をはずし、子どもには本音で生きる

あなたが悪人なら、悪人でもかまわない。大切なことは、子どもの前では、仮面をはずし、本音
で生きること。あるがままのあなたを、正直にさらけ出しながら生きる。かっこつけたり、飾った
りする必要はない。そういうあなたの中に、子どもは、いつか(一人の人間)を見る。ただし一
言。子育てといっても、あなたはいつも一人の人間として、自分を伸ばしていかねばならない。
それが結局は、真の子育て法ということになる。


☆優越感の押しつけは、子どもをつぶす

おとなや親の優越性を、子どもに押しつけてはいけない。賢い親は、(教師もそうだが……)、
バカなフリをしながら、子どもに自信をもたせ、そして子どもを伸ばす。相手は子ども。本気で
相手にしてはいけない。ゲームをしても、運動をしても、ときにはわざと子どもに負けてみる。子
どもが、「うちの父(母)は、アテにならない」と思うようなったら、しめたもの。勉強について言う
なら、「こんな先生に習うくらいなら、自分でしたほうがマシ」と思うようになったら、しめたもの。


☆親の動揺、子どもを不安にする

たとえば子どもが不登校的な拒否症状を示すと、たいていの親は、狂乱状態になる。そして親
が感ずる不安や心配を、そのまま子どもにぶつけてしまう。が、この一撃が、さらに子どもの心
に、大きなキズをつける。数か月ですんだはずの不登校が、1年、2年とのびてしまう。子ども
の心の問題を感じたら、一喜一憂は、厳禁。半年単位でものを考える。「半年前はどうだった
か?」「1年前はどうだったか?」と。


☆言うべきことは言っても、あとは時を待つ

親は言うべきことは言っても、そこで一歩引き下がる。すぐわからせようとか、実行させようと考
えてはいけない。子どもの耳は、そういう意味で長い。脳に届いてから、それを理解するまで
に、時間がかかる。実行するまでには、さらに時間がかかる。まずいのは、その場で、とことん
子どもを追いつめてしまうような行為。子どもはかえってそれに反発し、その反対のことをする
ようになる。


☆質素が子どもの心を豊かにする

子どもには、質素な生活は、どんどん見せる。しかしぜいたくは、するとしても、子どものいない
ところで、また子どもの見えないところでする。子どもというのは、一度、ぜいたくを覚えると、あ
ともどりできない。だから、子どもにはぜいたくを、経験させない。
なお質素とケチは、よく誤解される。質素であることイコール、貧乏ということでもない。質素と
いうのは、つつましく生活をすることをいう。身のまわりにあるものを大切に使いながら、ムダを
できるだけはぶく。要するに、こまやかな心が通いあう生活を、質素な生活という。


☆うしろ姿を押し売りは、子どもを卑屈にする

 生活のためや、子育てのために苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では、うしろ
姿を子どもに見せることを美徳のように考えている人がいるが、これは美徳でも何でもない。
子どもというのは、親が見せるつもりはなくても、親のうしろ姿を見てしまうかもしれないが、し
かしそれでも、親は親として、子どもの前では、毅然(きぜん)として生きる。そういう前向きの
姿が、子どもに安心感を与え、子どもを伸ばす。


☆生きる力は、死を厳粛に扱うことから

 死があるから、生の大切さがわかる。死の恐怖があるから、生きる喜びがわかる。人の死の
悲しみがあるから、人が生きていることを喜ぶ。どんな宗教でも、死を教えの柱におく。その反
射的効果として、「生」を大切にするためである。子どもの教育においても、またそうで、子ども
に生きることの大切さを教えたかったら、それがたとえペットの死であっても、死は厳粛にあつ
かう。


☆度量の大きさは、立方体で計算する

子育ての度量の大きさは、(たて)X(横)X(高さ)で決まる。(たて)というのは、その人の住む
世界の大きさ。(横)というのは、人間的なハバ。(高さ)というのは、どこまで子どもを許し、忘
れるかという、その深さのこと。もちろんだからといって、子どもに好き勝手なことをさせろという
ことではない。要するに、あるがままの子どもを、どこまで受け入れることができるかというこ
と。


☆「今」を大切に、「今」を懸命に生きる

 過去なんてものは、どこにもない。未来なんてものも、どこにもない。あるのは、「今」という現
実。だからいつまでも過去を引きずるのも、また未来のために、「今」を犠牲にするのも、正しく
ない。「今」を大切に、「今」という時の中で、最大限、自分のできることを、懸命にがんばる。明
日は、その結果として、必ずやってくる。だからといって、過去を否定するものではない。また何
かの目標に向かって努力することを否定するものでもない。しかし大切なのは、「今」という現
実の中で、自分を光り輝かせて生きていくこと。


☆『休息を求めて疲れる』は、愚かな生き方

 イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞のようにもなっている格言である。つまり「い
つか楽になろう、楽になろうとがんばっているうちに、疲れてしまい、結局は何もできなくなる」と
いうこと。しかしほんの少し考え方を変えれば、あなたの生活はみちがえるほど、豊かになる。
方法は簡単。あなたも1呼吸だけ、今までのリズムを遅くすればよい。


☆行きづまったら、生きる源流に視点を

 「子どもがここに生きている」という源流に視点をおくと、そのとたん、子育てにまつわるあら
ゆる問題は、解決する。「この子は生きているだけでいい」と思いなおすことで、すべての問題
は解決する。あなたももし、子育てをしていて、行きづまりを感じたら、この源流から、子どもを
見てみるとよい。それですべての問題は解決する。


☆モノより思い出

 イギリスの格言に、『子どもには、釣りザオを買ってあげるより、いっしょに魚釣りに行け』とい
うのがある。子どもの心をつかみたかったら、そうする。親は、よく、「高価なものを買い与えた
から、子どもは感謝しているはず」とか、「子どもがほしいものを買い与えたから、親子のパイ
プは太くなったはず」と考える。しかしこれはまったくの誤解。あるいは逆効果。子どもは一時
的には、親に感謝するかもしれないが、あくまでも一時的。物欲をモノで満たすことになれた子
どもは、さらにその物欲をエスカレートさせる。


☆子育てじょうずは、よき先輩をもつことから

あなたの近くに、あなたの子どもより、1〜3歳年上の子どもをもつ人がいたら、多少、無理を
してでも、その人と仲よくする。その人に相談することで、たいてい「うちも、こんなことがありま
したよ」というような話で、あなたの悩みは、解消する。「無理をしてでも」というのは、「月謝を払
うつもりで」ということ。相手にとっては、あまりメリットはないのだから、これは当然といえば、当
然。が、それだけではない。あなたの子どもも、その人の子どもの影響を受けて、伸びる。


☆子どもの先生は、子ども

あなたの近くに、あなたの子どもより1〜3歳年上の子どもをもつ人がいたら、その人と仲よくし
たらよい。あなたの子どもは、その子どもと遊ぶことにより、すばらしく伸びる。この世界には、
『子どもの先生は、子ども』という、大鉄則がある。子ども自身も、同じ仲間という意識で見るた
め、抵抗がない。また、こと「勉強」ということになると、1、2年、先を見ながら、勉強するという
ことは、それなりに重要である。


☆指示は具体的に

子どもに与える指示は、具体的に。たとえば「あと片づけしなさい」と言っても、子どもには、あ
まり意味がない。そういうときは、「おもちゃは、一つですよ」と言う。「友だちと仲よくするのです
よ」というのも、そうだ。そういうときは、「これを、○○君に渡してね。きっと、○○君は喜ぶわ
よ」と言う。学校で先生の話をよく聞いてほしいときは、「先生の話をよく聞くのですよ」ではな
く、「学校から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話してね」と言う。
(はやし浩司 子育て格言 子育てのコツ)


【付記:世界の教育格言】

●種を蒔いたように……

As you sow, so we shall you reap. 「あなたが種を蒔いたように、あなたはそれを刈らねばなら
ない」。イギリスの教育格言。つまり因果応報ということか。子育てについて言えば、ほとんどの
親は、子どもに何か問題が起きると、「子どもをなおそう」とする。しかしなおすべきは、子ども
のほうではなく、親のほうである。そういう視点から、子どもの問題を見つめなおしてみる。


●引いて、発(はな)たず

孟子(紀元前3世紀ごろの、中国の思想家。著書『孟子』は、儒学の経典のひとつとされる)が
残した言葉である。子どもに矢の射り方を教えるときは、矢の引き方までは教える。しかし、そ
の矢を放つところまでは見せてはいけないという意味。教育といっても、やりすぎはよくない。た
とえば手取り、足取り教える教育法がある。一見、親切な指導法に見えるかもしれないが、か
えって子どものためにならない。


●子どもは人の父

The Child is Father of the Man. 「子どもは人の父」、イギリスのワーズワースの詩の一節であ
る。子どもが成長し、やがておとなになっていくのを見ていると、この感を強くする。つまり、子ど
もは、人の父、と。子育てというのは、子どもを育てることではない。子どもに、子育ての仕方を
見せておく。見本を見せておく。「あなたが親になったら、こういうふうに、子どもを育てるのです
よ」と。それが子育て。


●食欲がないときに……

『食欲がないときに食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶をそこ
ない、また記憶されない』。Studying without an inquiring desire will be not retained in ones' 
memory. レオナルド・ダ・ビンチ(1452〜1519)の言葉である。子どもの学習指導の常識と
言ってもよい。日本では教育というと、「教え育てる」が基本になっているが、それは昔の話。子
どもから意欲を引き出し、それをじょうずに育てる。あとは子ども自身がもつ「力」に任せればよ
い。


●忠告は密かに……

Give advice secretly, and praise children openly. 「忠告は密かに、賞賛はおおやけに」。古代
ローマの劇作家、シルスの言葉である。子どもを叱ったり、子どもの名誉をキズつけるような行
為は、だれもいないところでせよ。しかし子どもをほめるときは、みなの前でせよ、という意味で
ある。子育ての行動規範のひとつとして覚えておくとよい。


●教育の秘法

あのエマーソン(アメリカの詩人、思想家、1803〜1882)は、こう書いている。『教育に秘法
があるとするなら、それは生活を尊重することである』と。欧米では、「自立したよき家庭人」を
育てるのが、教育の柱になっている。とくにアメリカでは、デューイの時代から、より実用的なこ
とを教えるのが、教育の柱になっている。生活に根ざさない教育は、そも役に立たない。生活
を尊重してこそ、そこに真の教育があるというわけである。


●かわいくば……

『かわいくば、五つ数えて三つほめ、二つ叱って良き人となせ』(二宮尊徳、江戸時代後期の農
政家、1787〜1856)と。「子どもがかわいいと思ったら、叱るときでも、一呼吸おいて、まず
よいところを三つみつけて、それをほめる。そしてそのあと、二つくらいの割合で、叱れ」という
意味。子どもをほめる、子どもを叱る……。それは家庭教育の要(かなめ)と言ってもよい。


●最初に受けた印象が……

First impressions are most lasting. イギリスの教育格言。つまりものごとは、第一印象が大切
ということ。とくに子どもの教育では、そうである。その第一印象で、すべてが決まるといって
も、過言ではない。だから子育てをしていて、「はじめの一歩」を感じたときは、とくに慎重に! 
コツは、叱らない、おどさない。「小学校はきびしいのよ」「先生はこわいわよ」と教えたため、学
校へ行きたがらなくなる子どもは少なくない。


●玉、磨かざれば……

『玉、磨かざれば、器(うつわ)ならず。人、学ばざれば、道知らず』(礼記、中国五経の一つ)。
脳の健康は、肉体の健康と似ている。究極の健康法などというものはない。同じように、究極
の思想などというものはない。運動を怠ったら、その日から、健康はくだり坂に向かう。同じよう
に考えることを怠ったら、その日から、脳は老化する。人は、日々に研鑽(けんさん)してこそ、
人でありえる。学ばない人、考えない人は、それだけで、大切な人生を無駄にしていると言え
る。


●馬を水場に……

A man may lead a horse to the water, but he cannot make it drink. 「馬を水場に連れて行くこ
とはできても、その馬に水を飲ませることはできない」。イギリスの教育格言である。子どもを伸
ばす最大の秘訣は、まず楽しませること。楽しむことによって、自発的行動(オペラント)が生ま
れ、それが強化の原理となって、子どもを伸ばす(スキナー)。しかし無理は禁物。無理をして
も、意味がない。それがこの格言の意味ということになる。


●ビロードのクッションより……

It is better to sit on a pumpkin in the field rather than to sit on the soft velvet cushion of 
the palace. 『ビロードのクッションより、カボチャの上に座っているほうがよい』(ソロー、アメリカ
の随筆家、1812〜1862)。子どもにとって家庭とは、すべからく、カボチャのようでなくてはな
らない。子どももある程度の年齢になったら、家庭は、しつけの場から、心を癒す、憩いの場と
なる。またそうでなくては、いけない。


●教育は、母のひざに始まり……

I・バロー(17世紀のイギリスの数学者)は、こう言っている。「Education starts in mother's lap 
and what children hear in those days will form their character.(教育は母のひざに始まり、幼
年時代に伝え聞くすべての言葉が、性格を形成する)」と。この時期、母親の子どもへの影響
は、絶対的なものであり、絶大である。母親が、子どもの方向性のすべてを決定づけると言っ
ても過言ではない。子どもの教育は、子どもをひざに抱いたときから始まると、バローは言って
いる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【家庭教育の原点】


++++++++++++++++

家庭での教育力が低下していると
言われている。

それはそうだが、しかし家庭教育と
いっても、構えて考える必要は
ない。またそんな問題ではない。

自然体で、臨めばよい。そのコツに
ついて、書いてみる。

++++++++++++++++

●約束(ルール)を守る、ウソをつかない

日々の積み重ねが月となり、その月が積み重なって、年となる。その年が、10年、20年と積
み重なって、その人の人格となる。その日々の積み重ねは、身の回りのほんのささいなことか
ら始まる。子どもが見ているとか、見ていないとか、そういうことには関係なく、約束(ルール)を
守る。ウソをつかない。そういう親の姿を、子どもは、うしろから見る。自分の人格とする。


●子どもは使う

子どもは使えば使うほど、よい子になる。忍耐力(=いやなことをする力)も、それで身につく。
社会性も身につく。が、それ以上に、他人の苦しみや悲しみを理解できるようになる。言うまで
もなく、子どもにかぎらず人は、自分で苦労をしてみてはじめて、他人の苦労が理解できるよう
になる。その心のポケットができる。あなたが重い荷物をもって歩いているとき、「もってあげ
る!」と子どもが助けてくれれば、それでよし。そうでなければ、家庭教育のあり方を、猛省す
る。


●夢と希望、そして目的

目的(目標)をもった子どもは、強い。多少の誘惑くらいなら、自らはねのけてしまう。心の抵抗
力ができていると考える。その心の抵抗力をつける第一。それが夢と希望。その先に目標(目
的)ができる。そのため、子どもの夢や希望は、大切にする。親の価値観を、けっして、押しつ
けてはいけない。子どもが「花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「そうね、それはすてき
ね」と言い返してやる。そういう親の姿勢が、子どもの夢や希望を育てる。


●子どもの横に立つ

子育てには、3つの役目がある。ガイドとして、子どもの前に立つ。保護者として、子どものうし
ろに立つ。そして友として、子どもの横に立つ。日本人は、伝統的に、子どもの前やうしろに立
つのは得意だが、横に立つのが苦手。そのため多くのばあい、子どもが親離れを始めるころ
から、親子の間にキレツが入るようになり、さらに多くのばあい、そのキレツは、断絶へとつな
がっていく。


●忍耐力は、いやなことをする力

試しに、台所のシンクにたまった生ごみを、始末させてみればよい。あるいは風呂場の排水口
にたまった毛玉でもよい。そのとき、「ハ〜イ」と言って、あなたの子どもがそれを始末したとし
たら、あなたの子どもは、すばらしい子どもとみてよい。またこのタイプの子どもは、学習面で
も、伸びる。なぜなら、勉強というのは、もともと(イヤなもの)。そのイヤなことを乗り切る力が、
ここでいう忍耐力ということになる。その忍耐力を育てるためには、子どもは、使う。


●思考回路というレール

夢や希望をもち、さらには目標(目的)をもち、その目標に向かって努力する。その道筋を、思
考回路という。大切なのは、その思考回路。というのも、夢や希望というのは、そのつど変化す
る。変化して当然。幼児のころは、「お花屋さんになりたい」と言っていた子どもでも、小学生に
なると、「パン屋さんになりたい」「ケーキ屋さんになりたい」と言うかもしれない。中身は何であ
れ、思考回路にできている子どもは、その思考回路の上に夢や希望を乗せて、前向きに進ん
でいくことができる。


●子どもに育てられる

親は、子育てをしながら、子どもに否応(いやおう)なしに育てられる。はじめて子どもを幼稚園
へ連れてきたような母親は、たしかに若くて美しいが、中身がない。そんな母親でも、子育てで
苦労をするうち、やがて姿勢が低くなる。幼稚園を卒園するころになると、みなに、深々と頭を
さげるようになる。中身ができてくる。つまり親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育て
る。子どもに育てられることを、恐れてはいけない。


●熟成される「善」

西洋では、「善と悪は、神の左手と右手である」という。しかし善と悪は、決して、平等ではな
い。善人ぶることは簡単なこと。しかし自分の体の中から、悪を抜くのは、容易なことではな
い。しかもその善と悪は、長い時間をかけて、心の中で熟成される。とくに善は、10年とか、2
0年とか、長い年月を経て熟成される。いつか、あなたも、親ではなく、1人の人間として、子ど
もに評価されるときがやってくる。その評価に耐えうる人間になれるかどうか。それは子育てに
おける、大きなテーマのひとつと考えてよい。


●すなおな子ども

親や教師の言うことに従順で、それに静かに従う子どもを、すなおな子どもというのではない。
すなおな子どもというときは、(1)心の状態(=情意)が、そのまま表情となって表れる子ども、
(2)心のゆがみ(いじける、つっぱる、ひねくれるなど)のない子どもをいう。イヤだったら、「イ
ヤ!」と言う。何でもないことかもしれないが、それが自然な形でできる子どもを、すなおな子ど
もという。


●至上の愛

ある母親は、自分の子どもが死ぬか、生きるかの大病を繰りかえしたとき、天に向かって、こう
言って祈ったという。「私の命は、どうなってもいい。私の命と交換してでもいいから、子どもの
命を救ってエ!」と。こうした(自分の命すら惜しくない)という、まさに至上の愛は、人は、子ど
もをもってはじめて知る。子どもを、ただの子どもと思ってはいけない。あなたの子どもは、あな
たに何かを教えるために、そこにいる。


●シャドウに警戒する

人は善人ぶることによって、自分の中に潜む(邪悪な部分)を、どこかへ押し込める。これをユ
ングという学者は、「シャドウ」と呼んだ。そのシャドウを、子どもはうしろから見ていて、そっくり
そのまま、引き継いでしまう。ときとして、牧師や僧侶など、聖職者と呼ばれる人の子どもが、
凶悪犯罪人になるプロセスは、こうして説明される。善人ぶるとしても、それを仮面(ペルソナ)
として、意識すること。仮面を脱ぎ忘れてはいけない。


●自立したよき家庭人

アメリカでもオーストラリアでも、そしてドイツでもフランスでも、親や教師たちはみな、こう言う。
「子育ての目標は、よき家庭人として、子どもを自立させること」と。が、一方、この日本では、
いまだに、出世主義、名誉主義、さらには権威主義が、大手を振って、まかり通っている。封建
時代の亡霊たちが、いまだに、のさばっている。そしてそれが教育について言えば、諸悪の根
源になっている。


●「偉い」という言葉を、廃語にしよう

日本では、地位や肩書のある人を、「偉い人」という。一方、英語には、「偉い人」にあたる言葉
すらない。あえて言うなら、「respected man」ということになる。「尊敬される人」という意味であ
る。地位や肩書は、関係ない。だから子どもには、「偉い人になれ」ではなく、「尊敬される人に
なれ」と言う。それが子どもの心をまっすぐ伸ばす。


●「家族」という重圧

家族は、それ自体、美徳であり、個々の人の心をいやす、心のより所である。が、その家族
も、ひとたびリズムが狂うと、今度は、重圧感となって、その人を苦しめることもある。事実、そ
の重圧感(=家族自我群)の中で、もがき苦しんでいる人も多い。反対に、自分の子どもを、安
易な親意識で、縛りつける親も少なくない。「産んでやった」「育ててやった」と。こうした言葉
は、親子の間では、使うとしても、心して最小限にする。


●恩の押し売り

日本の親たちは、無意識のうちにも、子どもに対して、恩の押し売りをする。「産んでやった」
「育ててやった」と。その代表的なものが、窪田聡という人が作詞した、『かあさんの歌』。「♪せ
っせと手袋編んでやった」「♪おとうは土間で、藁打ち仕事」と。あれほどまでに恩着せがましい
歌はない。言うとしたら、「♪春になれば、温泉へ行ってくるよ」「♪家のことは心配しなくていい
からね」だ。


●悪玉親意識

親意識にも、2種類ある。善玉親意識(=私は親としての責任を果たすという親意識)と、悪玉
親意識(=親風を吹かし、自分の子どもを自分の支配下に置こうとする親意識)。悪玉親意識
が強い親は、「産んでいやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と、そのつど、親の恩
を子どもに押しつける。そしてあげくの果てには、「大学まで出してやったのに、何だ、その態
度は!」と言うようになる。悪玉親意識に、注意!


●親の統合性

子どもは、自分のしたいこと(=自己概念)を、現実にすること(=現実自己)によって、自分を
確立することができる。これを「自己の同一性」という。一方、親は、それでは満足できない。親
は、自分がすべきことを、現実にすることによって、自分を確立する。これを「自己の統合性」と
いう。その(すべきこと)には、多くのばあい、苦労や苦痛がともなう。親は子育てをしながらも、
自己の統合性をめざす。


●人生の正午

満40歳前後を、「人生の正午」と呼ぶ。このころから、人は、老後の準備を始める。つまり
「死」という限界状況の中で、自分のすべきことを模索するようになる。(したいこと)ではない。
(すべきこと)を、だ。その準備を怠ると、その人の老後は、あわれで、みじめなものになる。孫
の世話、庭木の手入れ、旅行ざんまいの生活が、けっしてあるべき(老後の生活)ではない。


●「だから、それがどうしたの?」

(したいこと)と、(すべきこと)の間には、大きな距離がある。それがわからなければ、自分にこ
う問うてみればよい。何か、おいしいものを食べた……だから、それがどうしたの?、と。ある
いは何か、ぜいたくなものを買った……だから、それがどうしたの?、と。(したいこと)をして
も、その答は返ってこない。(すべきこと)をしたときのみ、その答が返ってくる。


●子育ては、子離れ

心のどこかで子育てを意識したら、すかさず、子離れを考える。もっと言えば、いかに子どもの
親離れをじょうずにさせるかを、考える。でないと、未熟な親のまま、いつまでも子離れできなく
なってしまう。そのよい例が、野口英世の母である。外国で懸命に研究生活をしている自分の
息子に向かって、「帰ってきておくれ」は、ない。言うとしたら、「私のことは心配しなくていい」
「研究が終わるまで、帰ってくるな」である。未熟な親を、けっして美化してはいけない。


●「釣りバカ日誌」論

浜ちゃんとスーさんは、いつもいっしょに釣りに行く。しかし自分の妻は連れていかない。日本
人には何でもない光景だが、欧米では、考えられない。会社の同僚たちとの飲み食い(=パー
ティ)するときでも、夫婦同伴が原則。もし欧米で、男どうしが、2人でいそいそと旅行に行こうも
のなら、同性愛者とまちがえられる。見なれた光景だが、日本の常識は、けっして


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 08++++++++++はやし浩司

2008年12月17日分まで
***************************************



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児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐

阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.

writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ

 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 

教材研究  はやし浩司 教材作成 教材制作 総合目録 はやし浩司の子育て診断 これでわかる子育てアドバイス 現場からの子育

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神経症 スキンシップ 巣立ち はやし浩司 タイプ別育児論 すなおな子ども 性教育 先生とのトラブル 善悪 祖父母との同居 大学

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意気な子ども 二番目の子 はやし浩司 タイプ別育児論 伸び悩む子ども 伸びる子ども 発語障害 反抗 反抗期(第一反抗期) 非

行 敏捷(びんしょう)性 ファーバー方式 父性と母性 不登校 ぶりっ子(優等生?) 分離不安 平和教育 勉強が苦手 勉強部屋 ホ

ームスクール はやし浩司 タイプ別育児論 本嫌いの子ども マザーコンプレックス夢想する子ども 燃え尽き 問題児 子供のやる気 

やる気のない子ども 遊離(子どもの仮面) 指しゃぶり 欲求不満 よく泣く子ども 横を見る子ども わがままな子ども ワークブック 忘

れ物が多い子ども 乱舞する子ども 赤ちゃんがえり 赤ちゃん帰り 赤ちゃん返り 家庭内暴力 子供の虚言癖 はやし浩司 タイプ別

育児論はじめての登園 ADHD・アメリカの資料より 学校拒否症(不登校)・アメリカ医学会の報告(以上 はやし浩司のタイプ別育児論

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