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最前線の子育て論byはやし浩司
(2800 〜 )

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最前線の子育て論byはやし浩司(2800)

●運動不足+ラジオ番組

++++++++++++++++

夏休みになって、とたんに運動量が減った。
いつもの3分の1以下。
おととい、長野県の入笠山湿原を歩いたが、あの程度では、「運動した」とは言わない。
おかげで、どうも体の調子が、よくない。
だらけたというか、だるいというか……。

そんなわけで、先ほど、庭の草を、草刈り機で刈った。
一汗かいた。
が、そのあと心地よい眠気。
その眠気を抑えながら、パソコンに向かう。
3時から、温水器の修理をしなければならない。
それまで45分。
今は、HP2133に、外付けキーボードを取り付け、この文章を書いている。
すぐ横には、もっと大画面の、NECのLAVIがあるというのに……。

このあたりが、ふつうの人には理解してもらえないところかもしれない。
私は、どのパソコンも、平等に使うようにしている。
それぞれのパソコンに、女性名をつけている。
このパソコンには、「ヒューちゃん」。
使いにくいからといって、放り出すようなことはしない。
そんな冷たいことはしない。

それにしても運動不足。
体がスタスタと動かないのは、いやだ。

そうそう、来週、どこかのプロダクションが、横浜のスタジオで、私のラジオ番組を制作してくれ
るという。
その模様を、DVD化して、全国で5万人の人たちに配布してくれるという(予定)。
おもしろそうな企画なので、やってみることにした。
そのためにも、運動をしておかねばならない。
ぼんやりした頭では、話はできない。

今夜あたりから、サイクリング、開始!

++++++++++++++++

身近な人で、体の調子を悪くしていく人の話を聞くのは、つらい。
若いころは、「私には関係ない」と、一歩離れたところで、そういう話を聞くことができた。
が、今は、ちがう。
どんな話を聞いても、「明日は、我が身」と思う。

たてばワイフの姉のKさんが、このところ兄弟たちの集まりにも出てこない。
「どうしたの?」と聞いたら、「あまりよくない」とのこと。
「血糖値が高すぎて、ときどき目まいがする」とのこと。

もうひとりの姉さんのEさんも、ひざを痛めて、久しい。
義兄のひとりも、前立腺がんで、春に手術をした。
で、話を聞くと、ほかの人たちも、みな、それぞれ何らかの持病をかかえている。
闘っている。
健康な人のほうが、少ない(?)。
見た感じは、どの人も、元気そうなのだが……。

健康というのは、維持するもの。
その健康が下り坂になったら、運動量をふやす。
それしかない。
この努力を怠ったとたん、あとはゴロゴロと、下り坂をくだっていく。


●「まあ、いいじゃねえか」

昔、Kという、たいへん著名な作家がいた。
そのKが病気になり、私が見舞いに行くと、こう話してくれた。

「オレは、若いころ(18、9歳のとき)から、無精子症でな」と。

驚いて私が、「だって、先生には、息子さんが……」と言いかけると、私の言葉をさえぎりなが
ら、Kは、「まあ、いいじゃねえか」「いいじゃねえか」と言って笑った。

「愛」にも三種類ある。
本能的な愛、代償的愛、それに真の愛である。
「代償的愛」というのは、自分勝手で一方的な愛をいう。
子どもの受験競争に狂奔しているような母親を見れば、それがわかる。
「子どものため……」と言いながら、その実、子どもを利用しているだけ。
自分の感ずる不安や心配を、子どもにぶつけているだけ。

が、その一方で、「真の愛」ほど、実感しにくい感情もない。
事故とか、大きな病気になったようなとき、姿を現わす。
ふだんの生活の中では、もろもろの茶飯事の中に埋もれてしまい、そこにそれがあることさえ、
わからない。

しかし真の愛は、そうした日々の生活の中で、熟成される。
多くの親は、あるときは希望に喜び、またあるときは絶望に苦しむ。
そうした無数の山を越え、谷を越えながら、やがて真の愛にたどりつく。

作家のKは、「いいじゃねえか」「いいじゃねえか」と言って笑った。
無論、そうした心境に至る過程の中で、Kは、もがき、苦しんだにちがいない。
しかし最終的には、Kは、彼の妻を、許し、忘れた。
真の愛にたどりついた。
だからこそ今に名を残す、大作家になった。……なることができた。

あなたも子育てをしていて、何か大きな問題にぶつかったら、こうつぶやいてみるとよい。
『許して、忘れる』と。
その先に、あのKの言葉が待っている。
「いいじゃねえか」「いいじゃねえか」と。

そこは実におおらかで、心地よい世界である。


●母

母の下痢で汚れた尻をふいてやったとき、それまでのわだかまりや、こだわりが、ウソのように
消えた。
私の母は、他人にはともかくも、子どもの私には、過酷なまでにきびしい親だった。
長男が生まれたときでさえ、私の家にやってきて、私に貯金を全額おろさせ、それをすべてもっ
て帰っていった。
母に預けておいた土地の権利書を、勝手に転売してしまったこともある。
私がそれに泣いて抗議すると、母は、こう言って、逆に私を叱った。
「親が、先祖を守るために、子の財産を使って、何が悪い!」と。

「親のめんどうは、子がみろ」という。
しかしその言葉から受ける、社会的重圧感には、相当なものがある。
私はある時期、毎晩寝る前になると、体中が怒りでほてり、なかなか寝つかれなかった。
毎晩、ワイフが介抱してくれた。

うらんだ。
憎んだ。

それでも事情を知らないノー天気な親類は、実家へ帰らないという理由だけで、私を責めた。
「親捨て」というレッテルを貼られたこともある。

で、母を私の家に引き取ることについても、私は悶絶した。
「いやだ」というような、生易しい感情ではない。
そこには58年に及ぶ、私の人生そのものが凝縮されていた。

が、その思いは一瞬にして消えた。
最初の1日で消えた。
私の家に住むようになって1週間、母は、体調を崩し、下痢を繰り返した。
その始末をしている最中、私は、ふと、こう思った。
「私は、今まで、こんな人を、本気で相手にしていたのか……」と。
そこにいるのは、無力で、孤独で、どうしようもないほど、小さな人間だった。
とたん、あのうらみや、憎しみが、乾いた風のように消えた。
そしてそこに残ったのは、私が子どものころの、あのやさしい、慈愛に満ちた母だった。

「あのなあ、この先、お前が死ぬまでめんどうをみるよ」と言うと、母は、こう言った。
「おまえにこんなこと(=便の始末)をしてもらうようになるとは、思ってもみなかった」と。

母は、私の家にちょうど6か月、いた。
その間、便の世話だけは、私がした。
が、いくつか事故が重なったこともあり、そのあと、センターに入居。
今月で、浜松へ来てから、1年9か月になる。
今は寝たきりに近い状態だが、センターの人たちは。こう言っている。
「林さんは、100歳まで生きそうですね」と。

今の私は、それを笑いながら、聞くことができる。


●どこからが「私」なのか

ワイフが車の中で、こう言った。

「山の緑がきれいね」と。

それもそのはず。
人間は、山の緑がきれいに見えるようにできている。
進化の過程で、人間は、一度、森の中に住んでいる。
そのとき、そういう感覚を取得した(?)。

海の水色がきれいに見えるのも、同じように考えてよい。
人間は、さらに太古の昔、魚のような動物だった。

私「ウンチが臭いのも、同じ理由だよ」
ワ「どうして?」
私「もしウンチが臭くなかったらね、人間は、餌とまちがえて、それを食べたかもしれない」
ワ「そうね。もしそうだったら、人間はその時点で絶滅していたはずよね」
私「そうさ。ウンチというのは、病原菌のかたまりのようものだからね。だから臭いウンチをする
動物だけが、生き残ることができた」と。

進化というのは、同時に、無数の選択肢の中から、つねに自分にとってつごうのよいものを選
んでいくことをいう。
中には、臭くないウンチをする動物もいたかもしれない。
しかしそういう動物は、その後、まもなく、絶滅した……。

私「子どもたちが、ピカチューがかわいいというのと、同じ理由だよ」
ワ「どういうこと?」
私「最初から、かわいく思うように、できている。何百枚もの原画を描いて、その中から、いちば
んかわいいものを選んだ。多分ね……。だからかわいい」と。

ともかくも、私たちは、山の緑を見て美しいと思い、海の青を見て美しいと思う。
脳みそがそう反応するようにできている。

こうした現象は、生活のあらゆる場面で、観察される。
ほどよい気温についても、そうだ。
私にとっては、22〜3度くらいの気温が、もっとも快適である。
おそらく太古の昔、人間は、それくらいの気温のところに住んでいたにちがいない。

食べ物にしても、そうだ。

魚や果物は、いくら食べても、腹がいっぱいにならないかぎり、食べ飽きるということはない。
同じように、太古の昔、人間は、そういうものを食べていたのだろう。

では、性格は、どうか。
性質でもよい。

どういう精神状態のとき、人間は、もっとも心地よく感ずるか。
つまりここで性善説、性悪説が生まれる。

人間はもともと穏やかで、平和を好む、静かな生き物であった。
あるいは闘争的で、攻撃的な生き物であった。

どちらであるにせよ、人間はストレスにさらされたとき、それほど長い時間、それに耐えること
はできない。
そういう点から考えると、人間は、もともとストレスのない精神状態を好んでいたことがわかる。
基本的な性質はともかくも、私たちは、常に、穏やかで、平和で、静かに生きることを好む生物
と考えてよい。

話が脱線したが、私たち人間も、「私」である前に、(私であって私でない部分)に、大きく左右さ
れているということ。
そこでこうして「私」の中から、(私であって私でない部分)を取り除いていく。
その作業を繰り返しながら、最後の残った部分が、「私」ということになる。

私たちは、山々の木々を見ながら、「美しい」と思う。
あるいは山々の木々を見ながら、ほっとする。
しかしそれが「私」かというと、そうではないということ。
(だからといって、それがまちがっているということではない。誤解のないように!)

まずいのは、こうした進化の過程で生まれた(私であって、私でない部分)のほかに、さらに自
ら、(私であって、私でない部分)をつくりあげてしまうこと。
たとえば(マネー)。

前にも書いたが、昔、『おしん』という、テレビ番組があった。
視聴率が50〜60%もあったというから、恐ろしい。
あのおしんは、あるときまでは、「生きるために働いた」。
しかしあるときを過ぎると、「働くために生きるようになった」。

その時点から、悪く言えば、「マネーの奴隷」になった。
(私であって私でない部分)に、大きく左右されるようになった。

仮にこうした形で、(私であって私でないもの)を、つぎつぎとつくり出してしまったら、それこそ
雪だるまのように体がふくらんでしまい、そのうち、どれが本当の私か、わからなくなってしま
う。

地位や名誉にぶらさがって生きる人。
過去の経歴やキャリアにぶらさがって生きる人。
家柄や財産にぶらさがって生きる人。

そういう人たちは、ますます「私」がわからなくなる。
それこそ山の緑を見て「美しい」と思うように、札束を見て「美しい」と思うようになるかもしれな
い。

私「みなね、『自分さがし』という言葉を安易に使うけど、自分を知るということは、本当はむず
かしいことなんだよ」
ワ「自分のことがわかっていると思っているだけなのね」
私「そうさ。自分を知るということは、哲学の最終目標にもなっている」
ワ「たいへんなことなのね」
私「そうさ。一生かかっても、できないかもしれない。それくらいむずかしいことかもしれない」
と。

あなたも一度、美しい山を見たら、「どうして美しいのか」「美しく見えるのか」、それを一度考え
てみたらおもしろい。

そこにひょっとしたら、「私」が見えてくるかもしれない。


●人間関係

人間関係に苦しんだら、相手を乗り越える。
相手を乗り越えて、自分をより高いステージに置く。

たとえば幼児に、「バカ!」と言われて怒る人はいない。
(中には、いるかもしれないが……。)

同じように、相手が、幼児か、さらに言えば、イヌかサル(失礼!)に見えるほどまで、自分を高
める。
そのためには、同時に、相手のレベルを知ることも大切。
自分を高めていくと、自分の中に、地層のように「層」ができてくる。
同時に、自分が相手を超え始めると、相手が、自分の中の、どの層にいるかがわかるようにな
ってくる。

「この人は、私の20年前のレベルだな……」
「この人は、私の5年前のレベルの亜流にいる人だな……」とか。
(もちろん、その反対のこともあるが……。)

私も、人間関係で悩んだようなとき、いつもこの手法で、相手を(呑む)ようにしている。
先日も、どこかのオバチャンが、私に説教をしようとした。
どこかで一方的な情報だけを聞き、私の親不孝ぶり(?)を、批判しようとした。
「祖父の33回忌をしなさい」と言ったことに対して、「33回忌ねえ……?」とつぶやいたときの
ことだった。
レベルの低い人だった。

が、私には、その女性が、山の中のサル(失礼!)のように見えた。
だからすかさず、「トイレへ行きたくなりました」と言って、その場を離れた。
不快感はなかった。
怒りの気持ちは、さらになかった。

相手が子どものばあいも、同じように考えてよい。
どうせ相手は、子ども。
あなたの子どもであれば、30年前のレベル。
けっして、本気で相手にしてはいけない。

(補記)

相手を呑んでしまうと、そこにおおらかな世界が見えてくる。
すると不思議なことに、『魚心あれば水心』というか、相手も、やがてこちら側の心に反応して、
おおらかになってくるのがわかる。
(こちらがカリカリすると、相手もカリカリしてくるが……。)

大切なことは、たがいに、気持ちよく時間を共有すること。
すべては、そこを原点として考える。


●緑内障

左目だけで、キーボードの「T」を見ていると、「E」の文字が消える。
右目だけで、「T」を見ていると、「U」の文字が見えなくなる。

これは正常な現象である。
目には、「盲点」と呼ばれる部分がある。

しかし両目で「T」を見ていて、「E」が消えたら、緑内障と考えてよいのでは……?
これは私の素人判断だが、理屈の上で、両目で見ていて、ひとつの文字が消えるということは
ありえない。
どちらかの目が、もう一方の目の盲点をカバーする。

ところが最近、私は、「T」を見ていて、「E」の文字が消えるのを発見した。
もう少し正確には、「E」の文字の下にある、「い」の文字が消える。

ぎょっ!

ひょっとしたら、緑内障かもしれない。
一度、眼科で検査してもらう必要がありそう。
緑内障というのは、一度なったら、治らないそうだが、目薬などで、進行を止めることはできる
そうである。

つまりこうして私も、一歩ずつ、しかし確実に「死」に近づいていく。

(補記)そういう意味では、「死」はある日突然、やってくるものではない。
事故は別として、人間の体は、不可逆的に、日々に死に向かって、破壊されていく。
早ければ40代から。
しかし60代になると、それは確実に、そうなる。
大病を患えば、さらに、加速される。

かなり悲観的な見方かもしれないが、60代になると、それとの闘いが始まる。
「それ」というのは、「不可逆的な進行」をいう。

が、私はこう考える。

60歳で、耳が半分聞こえれば、御の字。
目が半分見えれば、御の字。
歩いたり、走ったりすることができるだけでも、御の字。
元気で仕事ができるだけでも、御の字。
食事がおいしければ、これまた御の字。
それ以上、何を望むことができるのか、と。

けっして強がりを言っているのではない。
要するに、「感謝」を原点として生きる。
今まで、こうして健康で生きてこられたことだけでも、まさに御の字。

この先のことはわからない。
わからないが、今、昔、私の祖父が、こんなことを言ったのを思い出した。

祖父が、あるとき、祖父の無二の親友と言われる人と、こんな約束をしたという。
「どちらかが先にあの世へ行ったら、本当にあの世があったら、その日のうちにたがいに知ら
せる」と。

で、その無二の親友という人が、先に死んだそうだ。
祖父は、その親友からの連絡を待った。
しかし何もなかった。
だから祖父は、私にこう言った。

「浩司、あの世はないよ。あの男が、ワシとの約束を破るはずがないから」と。

しかし私は、みなさんに約束する。
「あの世」のことはわからないが、この先、老後を迎えて、どのように精神状態を変化していく
か、それをできるだけ書き残していく。

つまり60代の世界が、どんな世界か。
70代の世界が、どんな世界か。
もし運がよければ、80代の世界がどんな世界か。

もしあの世へ行って、あの世から、みなさんにあの世のことを伝えることができれば、こんな楽
しいことはない。
そんなことをすれば地獄へ落ちると説く人もいるが、そんなルールがあることのほうが、おかし
い。
どうしてそうまで、あの世を秘密にしておかねばならないのか。
私は、そのルールを破ってやる。
そんなことで地獄へ落ちるというのなら、そのルールのほうがまちがっている。
どうせ、みな、逝(ゆ)くのだから……。


●「DARK KNIGHT」

夕食を終えたところで、ワイフが、「映画に行こう」と言った。
さっそくネットで調べると、午後8時からの『ダーク・ナイト』があった。
ちょうど間に合いそう。

ということで、「ダーク・ナイト」を見てきた。
感想は、星4つの、★★★★。
かなり見ごたえのある映画だった。

「ダーク・ナイト」というのは、旧作「バット・マン」の別名。
善と悪の戦いが、メイン・テーマになっていた。
どこか哲学的なところが、映画に深みをつけていた。

が、それに先立って、邦画の予告編が2本紹介されたが、見るに耐えないというか、
なさけないほど、チャチ!

少し前、ドイツ映画の『4分間のピアニスト』を見たが、星は4つの★★★★プラス。
迫力ある演技に圧倒された。
どうして日本では、ああいう映画ができないのだろう。

役者の演技も、演技、演技していて、つまらない。

つぎに見たい映画は……

(1)WALL・E(ロボットのロマンス映画)
(2)EAGLE EYE(?????)
(3)WANTED(「覚醒せよ、新次元へ」とパンフには書いてある。)
(4)アイアン・マン(「誕生する、世界最強のCEO」とのこと。)
(5)クローン・ウォーズ(スター・ウォーズの続編)
(6)センター・オブ・ジ・アース(地底、冒険映画)、ほか。

夏から秋にかけて、楽しい映画が、ズラリとつづく。
「EAGLE EYE」は、スティーブン・スピルバーグの作品だという。
「全人類67億人のうち、選ばれたのは、たった2人」というキャッチが、興味をそそる。

「この映画はぜったいに、見るぞ!」と誓って、映画の話はおしまい。
「EAGLE EYE」は、10月18日、全国ロードショーとのこと。
楽しみ。


●盆供養

このあたりでも、8月の旧盆に盆供養するところが多い。
昨日と今日、かけもちで、あちこちを回った。

終わりに、夜、遅く、同じ班のK氏宅の盆供養に行った。

で、これはI村(浜名湖にある小さな村)での話だが、27世帯のうち、今年初盆をする家が、18
軒もあるという。
しかしそのうち、7軒は、何もしないとのこと。
盆供養といっても、その村では、葬儀の約半額程度の費用がかかるという。
みな、異口同音に、こう言う。
「盆供養のほうが、たいへん。葬式のほうが、よっぽど楽」と。

盆供養も、しないところが、ふえてきた。

一方、盆供養に行く私たちの立場で言うなら、まさに、儀式、儀礼。
使者を悼むというよりは、ただの義理。
義理で行くだけ。
私には、盆供養の意味そのものが、よくわからない。
しかし、行く。
行くしかない。

「簡素化しろ」とは言わないが、もっと中身を追求した儀式にしてもよいのではないか。
葬儀も形骸化しているが、盆供養は、さらに形骸化している。
もともと迷信のかたまりなのだから、意味づけなど、できるはずもない。
さらに言えば、「ウラバン」というのは、もともとはアフガニスタンでの宗教儀式。
その「ウラバン」が、中国へ入り、「盂蘭盆(うらぼん)」になり、それに「会(え)」がついて、「盂
蘭盆会(うらぼんえ)」となった。
仏教が、インド→アフガニスタン→チベット→中国へと伝わる過程で、仏教の中に困窮した。
釈迦仏教とは、まったく関係のない儀式である。

だったらなぜ今、それを声に出して言う人がいないのか。
仏教教団がないのか。
ただひたすら盲目的に、過去を踏襲しているだけ。

これこそまさに、死者に対する冒涜ではないのか?
私たちは仏教といいながら、アフガニスタンの土着宗教を信じている?

考えてみれば、宗教の世界ほど、権威主義的なものの考え方をする世界はない。
「何でも過去が正しい」と。
だったら、なぜ、一度、釈迦仏教の時代にまで、時間を巻き戻してみないのか。
奈良時代や平安時代とちがって、今は、情報も、自由に手に入れることができる。
新しい仏教が生まれても、何ら、おかしくない。

……とは言いつつ、暑い中、ワイフと2人で、黒い喪服に身を包み、あちこちを回った。
それらしく、しおらしい顔をして……。
疲れた!


●夏休みも終わり

長かった(?)夏休みも終わり、脳みそは、仕事モード。
が、ふと、こう思う。
「いつまで、こんなことをつづけているのだろう」と。

いつか(その日)がやってくる。
その日がやってくるまで、恐る恐る、仕事をつづける。
来年はだいじょうぶだとしても、5年後のことはわからない。
10年後のことは、さらにわからない。

仕事といっても、今までの繰りかえし。
あとは、何年、それを繰り返せるかということ。
だから「このままでいい」とは、けっして思っていない。
仕事は仕事として、私は何か、別のことをしなければならない。

……ということで、今日も、始まった!
今日は8月15日、金曜日、終戦記念日。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 07++++++++++はやし浩司

●演奏家への道

+++++++++++++

遠い親類の1人が、演奏家への
道を歩んでいる。

ときどき、各地でコンサートを
開いているという。

しかし話を聞いていると、この
世界、想像以上に、きびしいらしい。

つまり演奏家として生きていくのは、
たいへんむずかしい。

+++++++++++++

芸術にも、いろいろある。
その中でも、絵画と音楽(=演奏)は、よく対比される。
が、私の印象では、(あくまでも印象だが……)、
絵画は、地方に住んでいても、それなりに
道を達成することができる。

しかし音楽のばあい、東京という中央にいないと、
第一、仕事そのものが、回ってこない。

作曲となると、なおさらである。
地方に住んでいて、音楽家として身を立てるのは、
ほぼ、不可能と考えてよい。

あとは個人的な教室を開いて、それなりの収入を
得るとか、ミニコンサートを開いて、その地域の
人たちを喜ばせるとか……。

才能を伸ばし、才能を認めてもらうには、やはり
それなりのチャンスがなければならない。
逆に言うと、とくに音楽の世界では、中央に住む
人たちが、それを独占している。
地方に住む人たちのところまで、仕事(=チャンス)
が回ってくるということは、まず、ない。

では、どうするか……?

コンサートの案内書を読みながら、「この人が
才能を伸ばすには、どうしたらいいか」を考えた。

が、頭の中で、同じ考えが堂々巡りするだけで、
その先が見えてこない。

やはりコンクールか何かに出て、賞を取るしかないのか。
その賞を並べて、中央に向かって名乗り出るしかないのか。

が、私の印象では、(あくまでも印象だが……)、
音楽の才能というのは、20歳までが勝負ではないのか。
そのころまでに芽が出なければ、音楽家として
身を立てることは、無理(?)。
あきらめたほうがよい(?)。

というのも、コンクールにしても、「将来の可能性」を
みるためのもの。
10代の子どもの演奏を見ながら、その子どもの30代、
40代の演奏ぶりを想像する。
審査員は、それを評価する。

が、30代のおとなの演奏ぶりを見ながら、50代、60代の
演奏ぶりを想像する人はいない。

さらに言えば、作曲は別として、演奏といっても、結局は
楽譜を見ながらの演奏ということになる。
楽譜という天井がそこにあって、その天井を越えることはできない。

それに絵画や作曲のように、「円熟」という評価が、しにくい。
絵画や作曲は、経験を積むことによって、円熟味が出てくる。
それが評価される。

もうひとつの方法は、東京という中央を超えて、外国で
先に有名になるという方法もある。
ちょうど浜松の人が、「東京からきた」というだけで、
何でもありがたがるように、東京の人たちもまた、
「外国からきた」というだけで、ありがたがる。

そういう民族的な土着性を利用する。

さらにもうひとつの方法があるとするなら、インターネット
を利用するという方法もある。
今は、まだ無理かもしれないが、そのうち、自分の演奏を、
高音質で、世界に向けて発信できるようになるかもしれない。
インターネットを通して、オーケストラを組むことも可能に
なるだろう。

アメリカに住むAさんが、バイオリン、
スイスに住むBさんが、ビオラ、
中国に住むCさんが、フルートというように。

それを聴きたい人は、チケットを買って、聴く。

どうであるにせよ、遠い親戚の人の演奏会だから、
一度、ワイフと2人で、聴きに行くつもり。
この夏に、A会館で、演奏会を開くという。

がんばれ、Mさん!
応援します!

(チケットが2800円というのは、少し高い
かな……。ごめん!)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●C・ヒルの「数日中」
(C.Hill said "In a few days, the problem would be settled down", according to Chosun Online 
Newspaper in South Korea. But nothing has happened since then. Today is Aug 15th. "A few 
days" have already passed a few days ago! It is a sad thing for USA that USA has only this 
kind of amateur diplomat.)

+++++++++++++++

8月11日に予定されていた、テロ支援国家指定解除は、延期された。
それについても、C・ヒル氏は、こう述べていた。

「11日は指定解除の最終的な時限ではない。数日内に妥協し、テロ指定解除が可能になるだ
ろう」(8月12日、韓国・中央日報)と。

+++++++++++++++

8月12日の韓国、中央N報は、北朝鮮のテロ支援国家指定解除について、C・ヒル氏の発言
として、こう伝えた。

「11日は指定解除の最終的な時限ではない。数日内に妥協し、テロ指定解除が可能になるだ
ろう」と。

この中で、とくに「数日中」という文言に注してほしい。
C・ヒルは、同じような言葉を、過去、何十回となく使ってきた。

先月(08年7月)は、中朝会談を前にしても、C・ヒルは同じようなことを言っていた。
「北朝鮮側から、核廃棄に向けて具体的な案が示されるはず」と。

しかし何もなかった。
今回も、何もなかった。

今日は8月15日。
C・ヒルが言った、「数日中」から、すでに、5日も過ぎている!

希望的観測というか、希望的予測だけで、ものを言う。
何を根拠にしているか、私にはわからないが、どうしてあのようなド素人外交官が、6か国協議
を取り仕切っているのか、私には、理解できない。

そこで北朝鮮は、今度はこの日本に照準を合わせ始めた。
10月に、6か国協議の合意による原油支援は、終了する。
食糧支援もそのあたりで、終了する。
そこで「今度は、日本から……」と。

毎日新聞は、今回の日朝会議は、「アメリカ側の働きかけがあったから」(8月14日)と報道し
ているが、事実は逆ではないのか。
つまりC・ヒルは、この日本に責任をかぶせて、自分の失敗をごまかそうとしている。
「核廃棄プログラムが北朝鮮から提出されないのは、日本のせい」と。

今までさんざん、この日本を裏切っておきながら、今さら、「働きかけ」とは?

++++++++++++++以下、毎日新聞より++++++++++++++++

米国は「米朝、日朝、(朝鮮半島の)南北のそれぞれの関係が核廃棄プロセスで重要となる」
(米政府高官)との立場から、北朝鮮に日本人拉致問題の「進展」を促し続けてきた。北朝鮮を
再調査へ動かしたのも、米国の働きかけがあったためとみられる。

++++++++++++++以上、毎日新聞より++++++++++++++++

C・ヒルという外交官が現われたおかげで、拉致被害者たちは、ただただ無益に、4年も過ごし
てしまった。
この間に、亡くなった人もいるかもしれない。

そればかりか、ほとんど見返りらしい見返りもなく、アメリカは、北朝鮮に原油と食糧、時間と音
楽を与えてしまった。
日本の制裁措置を骨抜きにしてしまった。
この4年間で、北朝鮮の核開発は、どこまで進んでしまったことやら?
今のC・ヒルを見ていると、韓国の前ノ大統領の亡霊を見ているようで、ぞっとする。

昔からこう言う。

「悪魔の行動を予測するのは、簡単なこと。悪魔の目的を知ればいい」(西洋の諺)と。

悪魔の目的とは、ずばり、ジャパン・マネー。
それを手に入れること。
そのためには、北朝鮮としては、何としても核兵器を温存し(=日本を脅迫する道具に使うた
め)、アメリカとの間では、友好条約を結びたい(=アメリカを抑えておくため)。

私のようなド素人でも、この程度は、読めるのだが……。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●教師の心理検査法(チェック・テスト)(はやし浩司方式)

+++++++++++++++++++

TBS・News−iは、つぎのように
伝える。

『ホームページに事故で死亡した子どもの写真を無断で載せ、有罪判決を受けた元小学校教
師の男が、……執行猶予中に今度は盗撮目的で学校に侵入、これについて渡部被告は「立ち
入り自体が禁止されているとは思わなかった」と弁解し、無罪を主張しました』(8月15日)と。

この種の事件は、後を絶たないが、では、そういう
教師は、どうすれば事前にチェックすることが
できるかということ。

ひとつの方法として、心理テスト法がある。
が、最大の問題は、チェックを受ける教師が、ウソを
回答したら、意味がないということ。

たとえば、

【チェック・テスト】(1)

(Yesのときは(  )に○、Noのときは( )に×をつけてください。)

(  )あなたは子どもの裸体に興味がありますか。
(  )あなたは子どもに性欲を覚えたことがありますか。
(  )あなたは子どものスカートの下をのぞきたいと思ったことがありますか。
(  )あなたは子どものトイレをのぞきたいと思ったことがありますか。
(  )あなたは小児性愛者ですか。

しかしこんなテストで、(○)をつける教師はいない。
その傾向のある教師なら、なおさらである。

そこで質問の内容を微妙に変えてみる。

【チェック・テスト】(2)

(  )あなたは子ども(生徒)といっしょに遊ぶ夢をよくみますか。
(  )あなたは子どもを清らかで、美しい存在だと思うことがありますか。
(  )あなたは子どもでも、男は男、女は女と思ったことがありますか。
(  )あなたは子どもが漏らしたようなとき、平気で始末できますか。
(  )あなたはおとなより子ども(生徒)といっしょにいたほうが楽しいと感ずることがあります
か。

しかしこのテストでも、それを受ける教師が「テストされている」と感じたとたん、意味がなくな
る。
当然、ウソの回答をする。

そこでこのテストをさらに強固にするため、間に、1問ずつ、ダミーの質問項目を入れてみる。
つぎのテストで、※印をつけたのが、ダミーの質問項目である。

++++++++++++++++

【チェック・テスト】(3)

(  )あなたは子ども(生徒)といっしょに遊ぶ夢をよくみますか。
(  )あなたは結婚生活において、性生活は重要と考えますか。※
(  )あなたは子どもを清らかで、美しい存在だと思うことがありますか。
(  )しばらく性交渉がなかったようなとき、性的に欲求不満を感ずることがありますか、※
(  )あなたは子どもでも、男は男、女は女と思ったことがありますか。
(  )性的嗜好には、さまざまな形があり、標準とか平均的という言葉は当てはまらないと思っ
たことがありますか。※
(  )あなたは子どもが漏らしたようなとき、下着などを平気で交換できますか。
(  )あなたは自慰は、健康な男女ならだれでもする、自然な行為と思いますか。※
(  )あなたはおとなより子ども(生徒)といっしょにいたほうが楽しいと感ずることがあります
か。
(  )あなたは男女の性交渉の目的は、種族を存続させるためのものと考えたことがあります
か。※

++++++++++++

以上の質問項目の中で、(※)印のついたダミーの質問は、すべて(○)のはず。
(※)印のついた質問項目の中で、(×)が目立つようであれば、その教師は、全体としてウソ
の回答していると判断してよい。

つまりこうしてチェック・テストの信頼性を確保すると同時に、あやしい(?)教師を選び出すこと
ができる。
(さらに信頼性を確保するために、食べ物やスポーツなどの分野の質問を、やはりダミーとして
混ぜるという方法もある。)

あなたが家庭の妻なら、一度、このテストを、夫に対してしてみたらよい。
(ただし※印は消しておくこと。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 教師のチェック チェックテスト 
教師の性的嗜好テスト 性的志向性テスト 教師の心理テスト はやし浩司 教師の性的チェ
ックテスト チェック・テスト 教師によるハレンチ事件 ハレンチ事件防止 ダミー ダミーの質
問項目)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2801)

【トーク番組・趣旨】(RF YOKOHAMA)

●母について語る

Q:「林さんにとって、(親)というのは、どういう存在なのでしょうか。何か、エピソードのようなも
のを話していただければ、うれしいです。」

A:いきなり汚い話で、恐縮なのですが、下痢で汚れた母の尻をふいてやったとき、それまでの
わだかまりや、こだわりが、ウソのように消えました。
いよいよ自分では思うように歩けなくなって、私の家にやってきたのですが、それまでは、いくら
説得しても、がんとして郷里の実家を離れようとしませんでした。
で、私の母ですが、他人にはともかくも、子どもの私たちには、過酷なほどまでにきびしい親で
した。私の長男が生まれたときでさえ、私の家にやってきて、家といっても、6畳と4畳だけの小
さなアパートでしたが、私に貯金を全額おろさせ、それをすべてもって帰っていきました。それ
までも、そしてそれ以後も、私は収入の約半分を、毎月母に送金していました。父は私が大学
を卒業するとまもなく、心筋梗塞で他界してしまいましたから……。
が、それでも足りなかったのでしょうか。預けておいた私の土地の権利書を、母が勝手に転売
してしまったこともあります。世の中には、親をだます子どもはゴマンといますが、子をだます親
は、少ないと思います。私がそれに泣いて抗議すると、母は、こう言って、逆に私を叱りました。
「親が、先祖を守るために、子の財産を使って、何が悪い!」と。私が47歳のときのことでし
た。

「親のめんどうは、子がみろ」といいますね。しかしその言葉から受ける、社会的重圧感には、
相当なものがあります。そうした重圧感を、心理学の世界でも、「幻惑」と呼んでいます。「家族
自我群から生まれる幻惑」と、です。親子であるが故に、その関係は特殊なものです。それが
うまく機能しているときは、家庭というのは、それなりに居心地のよい世界です。が、ひとたびど
こかで歯車が狂うと、今度はそれが恐ろしいほどの重圧感を伴って、その人を襲います。それ
は想像を絶する重圧感です。
さらに郷里の地方では、「子が親の悪口を言うとはなにごとか」とか、「どんな親でも親は親だ」
「産んでもらったではないか」「育ててもらったではないか」「言葉を教えてもらったではないか」
とか言います。そういう言葉を耳にするたびに、私は首どころか、全身を真綿で締め付けられ
るような思いをしたものです。

Q:「林さんは、お母さんを恨みましたか」

A:もちろんそうです。恨みました。憎みました。毎晩寝る前になると、体中が怒りでほてり、な
かなか寝つかれませんでした。土地の権利書を転売されたときのことです。毎晩、ワイフが介
抱してくれました。そういう期間が、10か月もつづきました。最後に「お前を、親だろうが何だろ
うが、訴えてやる」という手紙を書いたとき、母は、それにおびえて、あわててお金を返してきま
した。

Q:「それで親への恨みは消えたのですか?」

まさに底なしの消耗戦でした。親というのは、何があっても信じられる存在なはずでしょう。それ
が信じられないというのです。そうなると、もうだれも信じられなくなってしまいます。私のワイフ
ですら、信じられなくなってしまいます。が、事情を知らないノー天気な親類たちは、実家へ帰ら
ないという理由だけで、私を責めました。「親捨て」というレッテルを貼られたこともあります。

Q:「どうしてそういうお母さんを、引き取ることになったのですか」

話せば長くなりますが、実家の近くで母のめんどうをみていた、姉や兄が健康を害したことが
理由です。それでいよいよ……ということになって、私がめんどうをみることにしました。が、簡
単なことではありませでした。「いやだ」とか、「したくない」とかいうような、生易しい感情ではあ
りませでした。私は悶絶しました。悶絶です。私は現在60歳ですが、そこにはそれまでの58年
に及ぶ、私の人生そのものが凝縮されていました。
父は私がもの心つくころから酒を飲んで暴れ、私は家庭の(暖かさ)というものを、ほとんど知
らないで育ちました。かろうじて私が私でいられたのは、祖父母が同居していたからにほかあり
ません。私にとって、祖父が、父親でした。もし祖父母が近くにいなかったら、私は今ごろどうな
っていたかわかりません。
が、母が私の家に来て、初日のことでした。母は体調を崩し、1週間ほど、下痢を繰りかえしま
した。便の始末は私がすると心に決めていましたから、私がしました。
そのときのことです。しわくちゃになった母の尻をふいているとき、それまでのわだかまりや、こ
だわりが、乾いた風のように、スーッと自分の心の中から消えていくのを感じました。「ぼくは、
こんな人間を、今まで、本気で恨んだり、憎んだりしていたのか」とです。そこにいたのは、無力
で、孤独で、どうしようもないほど、小さく、あわれな人間でした。とたん、そしてそこに残ったの
は、私が子どものころの、あのやさしい、慈愛に満ちた母でした。私が、「あのなあ、この先、お
前が死ぬまで、ぼくがお前のめんどうをみるよ」と言うと、母は、こう言いました。「おまえにこん
なことを、(つまり便の始末のことですが)、してもらうようになるとは、思ってもみなかった」と。

Q:「林さんは、憎しみを乗り越えたということですか」

A:結果的にそうなったというだけです。人を恨んだり、憎んだりするのには、ものすごいエネル
ギーが必要です。相手が母親なら、なおさらです。だから人を恨みたかったら、とことん恨んだ
らいい。憎みたかったら、とことん憎んだらいい。いい子ぶることはない。しかしそのうち疲れ
て、それができなくなる。できなくなったとき、その前に、実におおらかな世界が見えてきます。
それともうひとつ大切なことは、『運命は、受け入れる』です。
だれにでも無数の糸がからんでいます。家族の糸、親類の糸、社会の糸、生い立ちの糸など
など。過去という糸もあります。
そういうものが、その人の体をがんじがらめにして、その人の進むべき道を勝手に決めてしま
うことがあります。それを「運命」というなら、運命というのは、たしかにあります。
で、その運命を感じたら、運命は、静かに受け入れる、です。
運命というのは、それに逆らえば、悪魔となって、私たちにキバを?いて襲いかかってきます。し
かし運命というのは、それを受け入れてしまえば、相手のほうからシッポを巻いて逃げていきま
す。悪魔というのは、あくまでも観念的な悪魔ですが、気が小さく、臆病です。何も恐れる必要
はありません。
受け入れて、そこを原点として、前向きに生きていけばいいのです。

Q:「私は、親になれるだろうかと悩んでいる若い人たちがいると思います。そういう人たちに
は、どうアドバイスしてくれますか」

A:何も気負うことはないのです。「あなたは、あなた。私は、私」と居直ることです。どんな家庭
にも、またどんな家族にも問題はあります。問題のない家庭など、ない。問題のない家族も、な
い。みんなそれぞれ、それぞれの問題をかかえて、懸命に生きている。その懸命に生きている
姿こそ、尊いのです。無数のドラマもそこから生まれます。そのドラマに価値があるのです。
が、それでも袋小路に入ってしまったら……。私は、『許して、忘れる』という言葉を思い出して
ほしいと思います。英語では、「For/give &For/get」と言います。この単語をよく見ると、「フォ・
ギブ」つまり、「与えるため」とも訳せます。「フォ・ゲッツ」は、「得るため」とも訳せます。つまり
「許して忘れる」というのは、「相手に愛を与えるために許し、相手から愛を得るために忘れる」
という意味になります。相手が親であろうが、子どもであろうが、この言葉は、有効です。

Q:「最後に何か、同じような悩みを抱えて苦しんでいる人たちに、役立つ話をお願いします」

A:昔、Tという名前の大作家がいました。その名前を出したら、知らない人がないというほどよ
く知られた、大作家です。
そのT先生が病気で倒れたとき、私は、T先生を見舞ったことがあります。そのときのことです。
T先生がこう言いました。「林君、ぼくは若いころから、無精子症なんだよ」と。つまり精子が先
天的にない体質だったのですね。
それを聞いて、私は思わずこう言ってしまいました。「だって、先生には、息子さんが……」と。
するとそのT先生は、ベッドの上で体をこちらに向け、笑いながら、こう言いました。「まあ、いい
じゃねえか、いいじゃねえか」と。
「許して忘れる」を一言で言えば、「まあ、いいじゃねえか」となるのですね。
もちろんそうした心境にいたる過程で、そのT先生は悩み苦しんだと思います。相当な苦しみだ
ったと思います。だからこそ、今に名を残す大作家となったわけです。
母は、現在、92歳です。今は、ケア・センターに入っています。私以外の人は、ほとんど区別で
きませんが、私も似たような心境です。母を見舞うたびに、「まあ、いいじゃねえか」という言葉
が、自然と口から出てきます。

最後に一言。
私の母についてですが、母は母で、あの戦後という時代の中で、懸命に生きた。けっして自慢
できるような親でありませんでしたが、あの戦争の被害者だったということも言えます。父が酒
に溺れるようになったのは、今で言う「PTSD」、つまり心的外傷後ストレス症候群が原因では
なかったのではないでしょうか。父は、戦地の台湾で貫通銃創といって、腹に2発、アメリカ軍
の銃弾を受けています。
母は母で、当時の価値観に従って、懸命に「家」を守ろうとしていたのです。郷里のあの地方で
は、いまだに、江戸時代そのままの、「家制度」が残っています。母はそういう過去の亡霊を引
きずり、それに翻弄されただけかもしれません。世間体、見栄、メンツにこだわったのも、その
ためです。
そのときはそれがわかりませんでしたが、今になってみると、それがよくわかります。この世の
中には、絶対的な善人などいません。同じように、絶対的な悪人というのもいません。
要はバランスの問題です。みんなそのバランスを必死に保ちながら生きているのです。
話が脱線しましたが、何かのことで行き詰まったら、「許して、忘れる」。T先生が言った、「ま
あ、いいじゃねえか」でもよいかもしれません。その言葉を思い出してみてください。
そこは実に、おおらかで穏やかな世界です。みなさんも恐れないで、そういう世界に向かって進
んでみてください。

Q:「ありがとうございました」
A:「こちらこそ、ありがとうございました」

(収録・横浜、ラジオ日本にて)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2802)

●悪人は、自ら墓穴を掘る

+++++++++++++++++

いくら恨んでも、いくら憎んでも、
あなたは手を出してはいけない。

その人をのろったり、その人の不幸を
願ってもいけない。

悪人は、かならず自ら墓穴を掘る。
あなたが罰しなくても、かならず自ら
自らを罰し、それにふさわしい墓穴に
入っていく。

あなたは、そういう悪人を、憐れんで
やればよい。
それができなければ、そういう人の
ことは忘れて、あなたはあなたの道を
進めばよい。

悪人のことで、心を煩わせたら、それこそ
悪人の思うつぼ。
時間の無駄。
人生の無駄。

+++++++++++++++++

あなたの身のまわりにも、悪人とまではいかなくても、小ずるく、口のうまい人は、いるはず。
私のまわりにも、いる。
そして以前にも、いた。

そうした人たちを総じてみると、結果としてみな、彼らにふさわしい墓穴を掘っているのがわか
る。
ただ時間は、かかる。
5年とか、10年とか……。
しかし30年を超えることはない。

また誤解してはいけないのは、財産や名誉、地位があるからといって、その人は成功者とは言
えないということ。
ないからといって、失敗者とは言えないということ。
同じように、財産や名誉、地位があるからといって、その人が善人とはかぎらない。
ないからといって、悪人とはかぎらない。

その人が善人であるかどうかは、そうした俗物を超えた、その向こうで判断される。
大切なことは、毎日を心豊かに、楽しく、愉快に生きること。
それができる人を、成功者といい、そうでない人を、そうでないという。
財産や名誉、地位などといったものは、言うなれば軍人が胸につけるバッジのようなもの。
それ以上の意味はない。

病気にしても、そうだ。

私のまわりにも、今の今、大病をかかえて闘病生活をしている人が、何人かいる。

先日、紹介した大学の同級生のS君などは、電話で話していても、実に明るい。
生きざまが前向き。
「林君、50歳を過ぎたら、そのあとの人生は儲けものだよ」と。
いつも何枚かのチケットをもっているという。
「ぼくの趣味は、コンサートに行くことなんだよ」とも。

一方、そうでない人もいる。
見るからに、暗く、ジメジメした印象を受ける。
いまだに年長風を吹かし、過去の名誉にぶらさがっている。
生きざまが後ろ向き。
「自分さがし」と称して、墓参りばかりしている。

話がそれたが、大病を患ったからといって、失敗者ということではない。
今、健康だからといって、成功者ということでもない。
大切なのは、生き方、生きざま。

財産や名誉、地位がなくても、心豊かに、楽しく、愉快に生きることはいくらでもできる。
大病を患っても、心豊かに、楽しく、愉快に生きることはいくらでもできる。

……ということで、悪人についての話にもどる。

人間に与えられる最大の罰(ばつ)は、「孤独」である。
だれにも愛されない。
だれにも求められない。
だれにも心を開くことができない。
毎日、(すべきこと)もわからず、悶々としたまま過ごす。

私がいう「墓穴」というのは、そういう状態をいう。
だからあなたが手をくだす必要はない。
悪人は、悪人として、自ら墓穴を掘っていく。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司


●8月16日(土曜日)

昨夜は夜遅くまで、北京オリンピックの試合を見ていた。
水泳のメドレーの予備選、柔道決勝、それに女子サッカーなどなど。
女子の1万メートルの決勝を見始めたところで、眠気に負けて、そのまま床へ。

ところで、女子サッカーチームのことを、どうして「なでしこ・JAPAN」と呼ぶのだろう。
私の感覚がズレているのか?
「なでしこ」という言葉に、どうも違和感を覚えてしまう。
ワイフは、「ほら、大和なでしこって、言うでしょ」と説明してくれたが、私は、「なでしこ」聞くと、そ
こにどこか男尊女卑的な色彩を感じてしまう。

(あるいは、「日本美人」という意味に近いかも?
もしそうなら、ますます違和感を覚えてしまう。
いや、何もサッカー選手たちが美人でないというのではない。
ほかの国の人たちが、「日本美人」と言うのなら、構わない。
自国の人が、自国の女性をさして、「日本美人」などと言うだろうか?)

「なでしこ」というと、夫(男)に従順で、家庭に静かに収まっている女性を連想する。
サッカー選手から受ける印象とは、大違い!
女性の人たちは、どう感じているのだろうか。

なでしこ……「秋の七草のひとつ。ナデシコ科の多年草」(「日本語大辞典」)とある。
大和なでしこ……「日本女性の美称」(同)とある。


●東京で、気温37・5度!

昨日(15日)、東京で気温37・5度を記録した。
浜松市でも同じような気温だったと思うが、日中はともかくも、改めて「緑」のもつありがたさを
実感する。

昨夜は、山荘に泊まった。
眠る前に扇風機をかけたが、かえって寒さを感ずるほど。
朝方もそうで、私とワイフは、ふとんをかぶって眠った。

そう言えば、インドネシアから来ていた観光客が、テレビのレポーターに向かってこう言ってい
た。
「(東京は)ジャカルタより暑いです」と。
ジャカルタには、緑が多い。
私はそのせいだと思った。

そのうち「40度」と聞いても、だれも驚かなくなるだろう。

ところでその山荘へ、パソコンはもってきたが、電源コードをもってくるのを忘れてしまった。
ワイフに「今夜は、ノー・パソコン・デーだ」というと、「あら、残念ね」と。

たまには、のんびりと過ごすのもよいだろうということで、ひとり、パソコン雑誌に読みふけっ
た。


●北京オリンピック

16日の午後、女子ソフトの予選リーグ戦が行われていた。
6回の裏で、日本が中国に、3−0で勝っていた。
こういう試合は、見ていても楽しい。
解説者の声も、明るい。
映画にたとえるなら、ハッピーエンドで終わる映画を見ているようなもの。
多少ハラハラするが、それがあるから、また楽しい。

が、ひとつ気になったこと。

ユニフォームの肩のラインが、太い赤線。その外を白線と、その2倍ほども太い、濃い紺色の
線。
とくに腕に巻いたハンド・ベルト。
北朝鮮の国旗、そのもの(?)。
「北朝鮮のユニフォーム」とだれかが言っても、おかしくない。
偶然の一致?
どうしてあんな色合わせにしたのだろう?

昔から「坊主憎ければ……」とかいう。
こういうのを心理学でも、「転移」という。
人間の脳みそというのは、それほど器用にはできていない。
AさんならAさんを嫌いと思っていると、Aさんが乗っているのと同じ車を見ただけで、ぞっとする
ことがある。
言うなれば、脳みその混信のようなもの。

赤、白、紺色の組み合わせをみると、どうも落ち着かない。


●高校野球

北京オリンピックと同時に、別のチャンネルで、和歌山県のT高校と、地元静岡県のT高校の
試合を見る。

2−0で負けていたが、6回裏で大逆転。
今は、2−9!
さらにたった今は、満塁フォアボールで、押し出しの1点。
2−10!
さらに今、2−12!
さらに今、2−13!

つまり6回裏だけで、11点!

ここまで差がつくと、野球も、おもしろくない(失礼!)。
チャンネルを、また北京オリンピックに戻した。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2803)

【自分の過去を知って、子どもをみる大切さ】

●Y県F町にお住まいの、GTさん(母親、40歳)から、
こんなメールが届いています。

ほんぼのとした奮闘ぶりが伝わってくる、楽しい(?)メールです。
転載許可がいただけましたので、紹介させていただきます。

【GTさんより、はやし浩司へ】

こんにちは。毎日暑いですね。
先生の講義を聴いて(子どもが年中・5才)から、マガジンの読者となり、今、子どもは4年生で
すから、5年もの間お世話になっていることになります。本当にありがとうございます。

メールマガジンも全部とはいかなくなってしまいましたが、時間をみつけては読んでいます。い
つもハッと我に返ることや、反省ばかりですが、ありがたく参考にさせてもらっています。

なかなか、自分にできることがないのですが、今回これは!、と思うところがあり、お伝えしよう
と思いましてメールしました。

夏休みといえば、宿題。4年生になって、読書感想文、絵、計算マラソン、夏休み学習帳に科
学作品など、子どもだけではなかなかできない課題も多く、どこの母親も手を焼いていると思い
ます。私も本当に大変でうんざりしています。(苦笑)

暑さと子どものやる気のなさと、いい加減さで、もうイライラは絶頂でした。「どうしてこんなにで
きないんだろう? 私の子どものころはもっとちゃんとやっていた!」と常々思っていました。

ぎゃんぎゃんわんわん、囃したて、監視までして、(子どもが嘘つくので……)、宿題をやらせて
きました。どうしたらやってくれるのだろう?、と悩んでいました。
でも、今日たった今、あきらめることができました。

たまたま、仕事の都合で私一人実家から帰り、ひとりなので、大掃除をしたとき、昔の古いダン
ボールを開けて中身をみたら、その中に、私の日記や卒業文集がありました。

パラパラと読んでがく然。あ然。燃やしてしまいたいほど恥ずかしい文章でした。内容も。
今の私がマシかと言えば、?ですが(苦笑)

でも小学校・中学校、どちらも文章も稚拙で浅はかで、さすがに参ってしましました。
日記も下手な絵と好きな人のことばかり。ハートマークばかり、ショックでした。。。
そう、子どものことは、言えないですヨ、私は・・・。

小学校の文集「趣味は?」の欄にはなんと、「寝ること」と書かれてました。冗談でしょ?と思い
ましたが、これは事実。
自分の文集を読みながら、「こんなの恥ずかしくて子どもに見せられない!」と。
・・・しばらく落ち込んだ後に、そう、私は子どもに求めてはいけないと、深く反省しました。

私が本を読むようになったのは20才ごろからです。
それまでは読書感想文の本さえも、マトモに読んでいませんでした。(あらすじ)を参考に書いて
いたこともあったような・・・。そう、カエルの子はカエルの子なんだなぁとしみじみ思ってしまった
わけです。

無理やり押しつけるのは駄目なんですよね。
子どもの欠点はよく見つけられる(他人ですし)のですが、自分の欠点はなかなか見えないもの
です。

でも、この事実。この卒業文集を目の当たりにして、自分のことがよく見えた気がします。
もう、「お母さんはもっとちゃんと書いていたし、字もきれいだった」と言えません。とんでもない
です。

子どもと同じ目線で、考える。
自分は、それを実行している方だと思っていましたが、勘違いだったのですね。
無理なことばっかり言っていたような気がします。

いつのまにか、子どもの心と離れていた気がします。
今回の出来事はとってもいい機会(反省の)だったので、こうして報告することにしました。
なかなか謙虚になれないお母さんは、(私のような)、多いと思います。もしそうなら、ぜひ、自
分の子どものころの作文や文集・日記を開いてみてはいかがでしょうか?

それで、しばらくは子どもに対して怒ったりできなくなると思います。(でも中には優秀なお子さ
んもいらっしゃるので、返って怒りたくなる方もいらっしゃるのかな?)

なかなか反省できない私ですが、今回ばかりは言いわけできない事実を突きつけられ、ただた
だ反省しているという次第です。

先生のお話はありがたく読ませてもらっいますが、実行できない私にとって、良い薬になったで
きごとです。

参考になったら幸いです。
稚拙な文章で伝わったかどうか心配ですがいつもお世話になっている感謝の気持ちも込めて
メールしました。最後まで読んでくださってありがとうございました。

今年も残暑が厳しそうです。ご自愛ください。

【はやし浩司より、GTさんへ】

メール、ありがとうございました。
私は最近、反対に、若いお母さんと、女子高校生の区別ができなくなってきました。年齢の差
が開けば開くほど、そうなのかもしれません。そのうち、若いお母さんと、女子中学生の区別が
できなくなるかもしれません。

つまり私から見ると、年齢差が30歳ある若いお母さんも、40歳ある女子高校生も、「同じ」と
いうことです。「30」と「40」のちがいなど、誤差のようなものです。

だからときどき、「ああ、女子高校生のようなお母さんが、子育てをしている!」と、驚くことがあ
ります。(だからといって、お母さんのレベルがどうのこうのと言っているのではありません。誤
解のないように!)
「みんな、若いのに、よくがんばっているなア」と思うわけです。

……こうして私は、ますますジジ臭くなっていくわけです。ハハハ。

また楽しいメールを送ってください。
楽しみにしています。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●夢

++++++++++++++++++

「パイロットといっても、ただの運転手。昔のように
ちやほやされる仕事ではない」と、言った知人がいた。

自分の息子のことは伏せて、パイロットの話をした
ときのことだった。

その言葉を聞いて、私は、「息子がパイロットをしている」
とは、言えなくなってしまった。

しかしその知人は、基本的なことを忘れている!

++++++++++++++++++

大切なのは、「夢」。
その夢に向かって、真正面からぶつかっていくこと。
それがどんな仕事であれ、その人がそこに夢を感じているなら、他人がとやかく言ってはならな
い。

私たちの世代(あるいは私たちの世代以上〜)の悪いところは、職業を、「格」で判断すること。
大企業で、役職があるような仕事を、「よい仕事」と考える。
そうでない職業を、「下」とみる。
軽蔑する。
江戸時代の士農工商制度の亡霊を、そのまま引きずっている?

ただの運転手でもよい。
そんな評価は、気にすることはない。
また気にしてはいけない。

私も幼稚園の講師になったとき、まわりの人たちから、さんざん、ひどいことを言われた。
が、今になってみると、どちらが正しかったのか、それがわからない。

私は私の道を歩いた。
歩くことができた。
一片の肩書きもなければ、地位もない。
公的な保護は、いっさい、ない。
退職金も天下り先もない。
ないが、「自由」だけは、じゅうぶん、満喫することができた。
この先、死ぬまで、この自由が奪われることはない。

いつか(そのとき)が来ても、私は、悔いなく、(そのとき)を
迎えられるだろう。

息子について言うなら、息子は空が好き。
それだけ。
その夢だけを追求している。

だいたい、「ただの運転手」とは、何だ?
考えてみれば、こんな失礼な言葉はない。
運転手だって、すばらしい職業。
事務所で、パソコンとにらめっこしている仕事よりは、はるかに楽しい。
(その知人が、そうだが……。)

今の私なら、いくら肩書きをもらっても、事務職はごめん。
運転手のほうが、ずっと楽しそう。

こうした職業意識が残っている間は、日本は、まだまだ精神的後進国。
職業に上下はない。
大切なことは、その職業に夢をもち、楽しく仕事をすること。

もう1人の知人は、65歳にもなろうというのに、いまだに昔の学歴にしがみついて生きている。
「私は偉い」と言いたいのだろうが、そういう権威主義は、とっくの昔に崩壊した。
それに気がついていないのは、その知人だけ。

大切なのは、中身。
何をしてきたかという、中身。
今、何をしているかという、中身。

相手を判断するとしても、その中身を見て、判断する。
今は、もうそういう時代である。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2804)

●世界を欺いている日本(?)

+++++++++++++++++

日本は近代国家なのか?
日本は民主主義国家なのか?

一応、世界では、そう通っている。

しかし本当に日本は、近代国家なのか?
本当に日本は、民主主義国家なのか?

いまだに封建時代をそのまま引きずったような
土着性は、いたるところに残っている。
権威主義、身分意識、家制度、古典的な夫婦観、
「女・子ども」意識、上下意識などなど。
どれをとっても、封建時代、そのまま。

さらに日本が民主主義国家と思っているのは、
日本人だけ。
日本は、世界に名だたる官僚主義国家。
君主(=天皇)官僚主義国家と言う人もいる。
政治そのものが、官僚たちによって、牛耳られて
いる。

部屋の中に、電子製品がゴロゴロと散らかっている
から、近代国家と言うのではない。
高層ビルが立ち並び、性能のよい車が走り回るから、
近代国家と言うのではない。

もしこんな論理がまかり通るなら、金持ちほど、
近代化が進んでいることになってしまう。

近代国家というのは、あくまでも「意識」の問題。
意識が集合されて、「近代性」が決まる。

先日も、G県の山間部に住む知人が、こう言った。
「田舎へ移住してくるのはいいが、田舎には田舎の
しきたりというものがある。そのしきたりには従って
ほしい」と。

「しきたりに従わない者は、追い出される」とも。

知人は知人としての、常識を言ったまで。
その知人が、特殊というわけではない。
特別な考え方をしているというわけでもない。

21世紀にもなり、戦後60年以上にもなると
いうのに、こういう言葉が、堂々と口から出て
くるところが恐ろしい。

しきたり?

残念ながら、いとこには、その(恐ろしさ)が、
まるでわかっていない。

つまり私たちがいう、(選挙)にしても、その
延長線上にある。
私たちがいう、(民主主義)にしても、その
延長線上にある。

どうしてこういう国を、近代国家と言うのか。
言えるのか。

私たちは子どものころから、「日本は近代国家であり、
民主主義国家である」と教えられてきた。
日本人の私たちが、そうだまされたところで、
それはそれで、しかたない。

しかしいまだに、日本は、世界をだましつづけている。

あの北朝鮮は、自分たちの国は、民主主義国家であると、
世界をだましている。
北朝鮮の正式国名は、「朝鮮民主主義人民共和国」である。
そういう北朝鮮を見ながら、「私たちの国、日本はちがう」と
思っている人は多い。

が、世界から見れば、同じ……とまではいかないが、
似たようなもの。
いつになったら、日本人は、それに気づくのか・

+++++++++++++++++

朝鮮N報に、たいへん気になる記事が載っていた(8月17日)。
それをそのまま転載させてもらう。

*****以下、朝鮮N報より(文の体裁は、改めた)*****

 西洋人は日本を、西洋流に想定した「東洋」あるいは「日本」のイメージで考える場合が多
い。『日本の再構成』は、西洋人が日本を見る際のこうした枠組みに対し、反旗を翻す。

著者のパトリック・スミスは、1987年から91年まで「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」
紙の東京支局長を務めたのをはじめ、20年以上アジアで活動してきた米国人。これまで西洋
に日本を知らせてきた学者としてはエドウィン・ライシャワー、エズラ・ボーゲルなどが挙げられ
るが、これらの研究者は実際には日本を歪曲(わいきょく)してきた、とパトリック・スミスは毒舌
を浴びせかける。 

 パトリック・スミスは、西洋人は日本に見いだす日本的な伝統の強みというものを認めない。
逆に彼は、日本は十分な近代性を備えていない国で、これは米国の責任によるところが大き
い、という趣旨の主張を展開している。

 パトリック・スミスの主張は、敗戦以後の日本は国民の選択を通じ自ら進むべき方向を決定
すべきだったが、冷戦構造下で共産主義を防ぐという名目を掲げた米国が、第2次世界大戦
に責任がある旧体制の関係者を登用したため、これが挫折した、というものだ。

著者は「日本は独立国家のふりをしているものの、実質的には米国の軍事保護国だ」「米国
は、日本が民主主義国家だと信じるよう世の中をあざむいた」と語る。

パトリック・スミスは、ライシャワー教授の著書『日本の今日』を、「事実無根の話ばかりで、歴
史の仮面をかぶった宣伝文句にあふれた本だ」と批判し、安倍晋三前首相の母方の祖父・岸
信介元首相を「戦犯にしてならず者」と容赦なく表現した。

*****以上、朝鮮N報より(文の体裁は、改めた)*****

私自身は、まだ『日本の再構成』を読んでいない。
パトリック・スミスという人物についても、まったく知らない。
本の名前も、著者の名前も、はじめて聞いた。

また内容的には、韓国の人たちが飛びつきそうな本である。
韓国の人たちは、日本の悪口(?)を書いた本には、すぐ飛びつく。

それはそれとして、つまりそういう偏見は別として、パトリック・スミスは、
かなり鋭いことを言っている。
たとえば「日本は独立国家のふりをしているものの、実質的には米国の軍事保護国だ」
という部分。

実際、そのとおりだから、反論のしようがない。

たとえば戦後、60数年、日本はかろうじて平和を守ることができた。
が、これは何も、日本人が平和を愛する国民だったからではない。
日本が平和を守ったからでもない。
たまたまアメリカ軍という、最強の軍隊が、日本に駐留していたからにほかならない。
もしアメリカ軍が駐留していなかったら、日本はそのつど、世界中から
袋叩きにあっていたかもしれない。

スターリン・ソ連、毛沢東・中国、李承晩・韓国、金日成・朝鮮などなど。
フィリッピンのマルコスだって、だまっていなかっただろう。
今の今でも、北朝鮮は、日本攻撃の夢を捨てきったわけではない。

「米国の軍事保護国」というのは、そういう意味である。

また「第2次世界大戦に責任がある旧体制の関係者を登用したため、これが挫折した」という
部分も、気になる。

事実、戦時中から戦後にかけて、軍部はともかく、ほかの行政機関で、クビになった
官僚は、皆無に等しい。
先頭に立って、日本の軍国主義を推し進めていたのが、当時の文部省。
私が調べたところでも、その文部省で、戦後になってクビになった官僚は、ひとりもいない!

日本は、変わるべきときに、何も変えないまま、それを戦後の今に、引きずってしまった。
(だからといって、左翼思想を支持しているわけではない。誤解のないように!)

4年間、ヘラルド・トリビューン紙の支局長をしてきたという。
20年以上アジアにいて、この日本をながめてきたという。

パトリック・スミスの手厳しい批判は、つづく。

ライシャワー教授が書いた、『日本の今日』(日本語訳、「ライシャワーの日本史」のこと?※)
について、「事実無根の話ばかりで、歴史の仮面をかぶった宣伝文句にあふれた本だ」と。

たしかに私たちはライシャワー氏の本を読んで、当時、日本を再認識した。
日本が古来よりもつ、伝統と文化のすばらしさ(?)を、それで知った。
「日本もまんざら捨てたものではない」ということを、知った。

それを「歴史の仮面をかぶった宣伝文句にあふれた本だ」と。

ウ〜〜〜ム!

たとえば私自身も、織田信長や豊臣秀吉などの人物が、日本を代表する
すぐれた人物であったかどうかということについては、大きな疑問をもっている。
徳川家康についても、そうである。
私たちは、「上」から教えられるまま、そう信じ込まされているだけかもしれない。
言いかえると、あの封建時代にしても、私たちはそれ以後、一度とて精算したという事実すらな
い。
先の戦争にしても、そうだ。
「亡き英霊」という言葉にしても、その「亡き英霊」たちが、外国で、(日本国内で、ではない。外
国で、だ)、どんなことをしたかについて、ほとんど語られることはない。

そういった事実を総合して、パトリック・スミスは、「歴史の仮面をかぶった宣伝文句にあふれた
本だ」と言ったのかもしれない。
私もこの年齢になって、はじめて、彼が言うところの「仮面」の意味がわかるようになった。

たとえばこの静岡県では、徳川家康の悪口を書くことは、タブーに近い。
とくに静岡市においては、そうである。
徳川家康は、すばらしい政治家として、神格化されている。
それもそのはず。

あの300年という長い年月を経て、徳川家康は徹底的に美化された。
その一方で、徳川家康について都合の悪い事実は、繰りかえし抹消されてきた。
その結果が、今である。
「仮面」といえば、「仮面」ということになる。

日本人の私たちにとっては、ザワザワと、耳障りの悪い内容の本である。
しかしそういう声にも、謙虚に耳を傾けてみる必要がある。
でないと、日本は、いつまでたっても、極東の島国で終わってしまう。

なお、今日、同時にこんなニュースも伝えられている(産経新聞・8月17日)。

『韓国各紙が建国60周年を機に、成人1000人を対象に実施した世論調査で、「最も脅威に
なる国」は日本と答えた人が最多となり、「韓国の国益のために親しくすべき国」は日本よりも、
北朝鮮と回答した人が多かったことがわかった』と。

こうした意識のズレは、どこから生まれるのか。
そのヒントが、パトリック・スミスの『日本の再構成』にあるように思う。

一度、読んでみたい。

(注※)ライシャワーの著作より

"Ennin's Travels in T'ang China (Ronald Press Company, 1955/『世界史上の円仁―唐代中国
への旅』, 実業之日本社, 1963年/講談社学術文庫, 1999年) 
"Wanted: an Asian policy(Knopf, 1955/『転機にたつアジア政策』, 一橋書房, 1957年) 
"The United States and Japan(Viking Press, 1965, 3rd ed./『ライシャワーの見た日本』, 徳間
書店, 1967年) 
"Beyond Vietnam: the United States and Asia(Vintage Books, 1967/『ベトナムを越えて』, 新
潮社, 1968年) 
"The Japanese(Belknap Press, 1977/『ザ・ジャパニーズ』, 文藝春秋, 1979年) 
"『日本への自叙伝』(NHK取材班構成, 日本放送出版協会, 1982年) 
"Japan The Story of a Nation(C.E. Tuttle, 1978, 3rd ed./『ライシャワーの日本史』, 文藝春
秋, 1986年/講談社学術文庫, 2001年) 
"My Life Between Japan and America (Harper&Row, 1986/『ライシャワー自伝』, 文藝春秋, 
1987年) 
(以上、ウィキペディア百科事典より)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2805)

●8月18日(月曜日)(2008年)

今朝は、近くを走る救急車のサイレンで目が覚めた。
猛暑がつづくせいか、このところ救急車のサイレンの数が、ふえたように思う。
暑いから体調を崩すというよりは、(冷房のある部屋)→(冷房のない部屋)を
行き来しているうちに、体調を崩す。
そのため私のばあいは、できるだけ冷房を使わないようにしている。
自宅では、使っていない。

が、今朝は、いつもになく涼しい。
空は厚い曇天。
扇風機の風だけで、さわやかさを覚えるほど。

さあ、今日もはじまった……と言いたいが、どうも調子が悪い。
精神状態がよくない。
心も、空と同じように、どんよりと沈んだまま。
まだ眠い?
このところ睡眠不足がつづいている?

朝食がすんだら、しばらく寝なおしてみよう。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●高校野球の決勝戦

今日、高校野球の決勝戦が行われる。
昼の1時からだという。
地元、静岡県代表の、常葉菊川高校が出場する。
応援しないという手はない。
久々の決勝戦。
しかも夏の甲子園。
さっそくワンセグ付きのウォークマンに充電を開始する。

私の予想では、常葉菊川高校が、3−1で優勝。
相手方チームは、大阪代表というだけで、名前は忘れた!


●躁状態の多弁性

躁病(そうびょう)とうつ病は、ペアで、交互に起ることがあるという。
同時にその両方を、発症する人もいるという。
その躁病の第一の特徴は、「一方的な多弁性」だそうだ。
あちこちの専門BLOGにも、そう書いてある。

一方的に話すだけで、人の話を聞こうとしない。
自分勝手……というより、「自分がぜったい正しい」という前提で
話すから、やっかい。

「そのため周囲の人たちと、衝突しやすい」と書いてあるBLOGもあった。

が、何よりもやっかいなのは、本人に病識がないこと。
病識があれば、まだ対処できる。
しかし本人は、自分では、正常と思いこんでいる。

さらにやっかいなことに、それに気づいた周囲の人が指摘すると、激怒したり、
パニック状態になったりする。
ギャーギャーと泣きわめいたり、騒いだりする。

その多弁性だが、よく観察してみると、脳に飛来した情報を、ペラペラと
口にしているだけ。
ことこまかく、微細なところまで、説明したりする。
思考力は、ほとんどない。

そういう点で、つまり(思考力がない)という点で、認知症の初期症状に考える学者も
多い。
実際、うつ病のばあい、認知症に似た症状をともなうことが多いそうだ。
だからケースによっては、うつ病から認知症になったのか、認知症からうつ病になった
のか、わからないばあいが、多いとのこと。
(あるいは同時に発症することもあるのか?)

相手が躁状態であるにせよ、ないにせよ、(思考力のない人)と話すのは、たいへん。
こちらの話を静かに聞かない。
ふつうなら、「そうだなあ……、私ならこう思うのだがなあ……」というような会話を
するところでも、それがない。
人の話を半分(あるいはそれ以下)も聞かないうちから、「これはこうで、あれはああで」と。間
断なくしゃべる。

私は専門家ではないので、これ以上のことはわからない。
ネットの検索エンジンを使うと、いくつかのHPをヒットするので、心配な人は、そちらを見たらよ
い。


●3時間半の人生

+++++++++++++++++++++

1冊の単行本(約230ページ)を、HPに
収録するのに、約3時間半かかる。

まず1ページごと、スキャナーでパソコンに
取り込む。
これに約2時間。

つぎにそれらをまとめて、無料の画像登録
サービス(Frickr)に、UPLOADする。
これに約20〜30分。

UPLOADしたページのHTMLタグを、
1ページずつHPに張りつける。
これに約1時間。
休みなく作業を繰り返して、計、約3時間半。

「たった3時間半」とも言える。
「3時間半も」とも言える。
作業をしているときは、その時間が、
うんざりするほど、長く感ずる。

が、その3時間半で、1冊の本が、これで丸々
HPに収録できる。

昨日は、10年前に出した『ドラえもん・
野比家の子育て論』(創芸社)を、こうして
HP上に、公開した。

その作業をしながら、いろいろなことを
考えた。

この本にしても、当時は、出してもらうために、
出版社へ何度も足を運ばねばならなかった。
出版が決まってからも、推敲や校正などの
作業がつづいた。

原稿を渡してから、実際本が書店に
並ぶまで、約3〜5か月。

つまり1冊の本といいながら、そこには私の
3〜5か月分の人生が凝縮されている。
が、それが今では、3時間半!
(たったの3時間半だぞ!)

この本のばあい、初版の3000部を売りつくすのに、
約2年もかかった。
1か月につき、約120部。

が、HPのほうでは、翌日の今日、すでに、40〜50件のアクセス。
本とインターネットは、いろいろな面で、「同じでは
ない」が、この計算でいくと、1か月で、1200件。
2か月で、2400件……!

とたん、すでに墓に入った本が、ゾンビのように
生き返った?
私はそう感じた。

もちろん収入は、ゼロ。
しかしもとから収入など、あてにしていない。
当時の私は、(そして今も)、自分の考えを
人に伝えられれば、それでよいと思っていた。

賛同してくれる人がいれば、それでよし。
いなければ、それも、よし。

その3時間半の間、当時の思い出が、あれこれと
よみがえってくる。
3時間半で、半年分の人生。
そんな感じもした。

で、発刊日を見ると、1998年となっている。
ちょうど10年前ということになる。
が、それについても、「たったの10年!」と思った。
私には、遠い昔のことのように思える。
具体的に年数は浮かんでこないが、20年前とか
30年前とか……。
そんな感じがする。

ワイフに「あの野比家の子育て論を出して、まだ、
たったの10年だってエ?」と声をかけると、
ワイフも、「そう〜?」と。

私にとっては、長(ナガ)〜〜イ、10年だった。
つまりそれだけこの10年は、充実していたということか?
自分のHPをながめながら、そう思った。

(補記)「ドラえもん、野比家の子育て論」は、私のHPのトップページから、(立ち読みコーナー)
を経て、おいでください。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ドラえ
もん野比家の子育て論 ドラえもん 子育て論 育児論 野比家の育児論)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●盗み見

++++++++++++++++++

私のHPを見ると、その人のIP番号が
記録されるようになっている。

番号だから、どこのだれかは、わからない。
しかしこちらに登録されているアドレスの
IP番号と照合すると、名前がわかる。
(こちらに登録されていないと、わからないが……。)
この方法で、その人が、いつ、何時ごろ、何回、私のHPを
訪問してきたかがわかる。

で、先日、ある知人に会うと、その知人がこう言った。
「林君のHPは、もう1年近くも見てないんだけど……」と。

??????

その人は、週に1、2度、多いときは、2、3度、いつも
午後11時前後に、私のHPをのぞいている。
仕事が終わるのが、その時刻なのだろう。

私はIP番号までの説明はしなかったが、「ぼくのHPには、
そういうソフトが組み込んであって、いつだれが訪れたか
わかるようになっているんですよ。あなたのアドレスは、
たしか、axxxx ネットでしたね」と。

その知人は、それでムッと黙ってしまったが、しかし
どうしてそういうウソをつくのだろう。
ウソをつかねばならないことでもあるのだろうか。

見ているなら、「見ている」と言えばよいと思うのだが……。
何か、別の目的をもってのぞいているのだろう。
私はそう感じたが、あとのことはわからない。
そんなことをいちいち気にしていたら、HPなど、公開
できない。


●キジバト

庭にキジバト(このあたりでは、「ドバト」と呼ぶ)が、住みつくようになって久しい。
今は、「白(しろ)」という名前の雄のハト。
首の下が白いので、そう呼んでいる。
「青(あお)」という名前の雄のハト。
それにつがいでくる、2羽のハト。
私たちは「夫婦(ふうふ)」と呼んでいる。
その4羽が、かわるがわる、庭へ来る。

朝、私の姿をどこかで見かけると、シロが、ホッホ〜、ホッホ〜と鳴く。
餌の催促である。
で、庭に餌をまくと、その10秒後には、そこへ下りてきて、餌を食べる。

いちばん威張っているのが、シロ。
あとの3羽は、シロのご機嫌をうかがいながら、餌を食べている。
ときどきシロに追い払われることもある。

10年ほど前には、銀バトというハトを、小屋で飼っていた。
一時は、10羽以上になったが、ある日、猫に襲われて全滅!
さらにその10年ほど前には、文鳥を飼っていた。
が、これもヘビに襲われて、やはり全滅。

以来、こうして庭に餌をまいて、野生の鳥を楽しむようになった。
(本当は、こういうことをしてはいけないそうだが……。)
しかし私は、鳥が好き。
飛ぶものなら、何でも好き。
ついでに飛行機も。

私は今度生まれ変わることができるなら、鳥になりたい。
チベット密教によれば、(日本の仏教のルーツだが)、人間に
生まれ変わるのを最上の「徳」とするなら、鳥に生まれ変わるのは、「最悪」
ということになっている。

しかしどうして鳥が、最悪なのだろう?
日本的に言うなら、「畜生」ということになるのかもしれない(?)

が、私はチベット密教など、気にしない。
ついでに日本の仏教など、気にしない。
こんなことがあった。

私の実家の墓地の入り口に、親鸞の像がある。
その像の台座に、「四法印」が刻んである。
仏教の教えの根幹を4つの言葉で、表したものである。
「法印」というのは、布教のときにかかげる「旗印」を意味する。
諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静の四つをいう。
一切皆苦を除いて、三法印(さんぼういん)と呼ぶこともある。

その四法印について、ほとんど毎月のように墓参りしている
人に、たずねてみると、その人は、こう言った。

「シ、ホ〜、イン? そんなもの、知りませんよ」と。

日本の仏教が、儀式仏教と呼ばれる理由は、そんなところにもある。
「形」ばかりにこだわって、中身がない。
毎月のように墓参りしながら、四法印を知らない?
しかしそんなのを、信仰と言ってよいのか。
信仰と言えるのか。

……とまあ、他人の批判はともかくも、私は鳥に生まれ変わりたい。
鳥になって、一度でよいから、大空を自由に飛びまわってみたい。

人間……?
「万物の霊長」などとは言うが、私は、そうは思わない。
人間の前頭連合野の発達には、ものすごいものがある。
が、そのほかの部分を除けば、人間が他の動物より
すぐれていると考えるのは、まちがい。
思いあがりも、はなはだしい。

……ということで、今日も、キジバトに餌を与えている。
我が家のペットというよりは、「友」である。


●34%の人が、「低下している」!

生活水準が「低下している」と感じている人が、34・1%もいるという。
第1次石油危機以来の高水準だという。

内閣府が8月16日発表した国民生活に関する世論調査によると、
生活水準が去年と比べて「低下している」と感じる人が、34・1%と、
昨年7月の前回調査より、9・6ポイント増えたという。

つまり第1次石油危機の影響を受けた1974年(34・6%)に次ぐ、
高水準となったという。
物価対策と景気対策を望む声も急増。
景気停滞と物価高が生活を圧迫している現状が、浮き彫りになったという。

また生活が去年と比べ「同じようなもの」と答えた人は、61・3%と、
昨年比、9ポイント減少したという。
「向上している」は4・4%と、同0・4ポイント下がったという。
今後の生活の見通しでは「悪くなっていく」が、同7・8ポイント増の
36・9%だったという。(以上、ヤフー・ニュースより)

++++++++++++++++++H.Hayashi

景気というよりも、不安感が増大している。
それは事実だろう。
私自身も、そうだ。
未来に安心感を覚えない。
それが「生活水準が低下している」という実感につながっているのではないか。

とくに老後に対する不安感が増大している。
私たちの世代はもちろん、40代、50代の人にとっても、そうだ。
「私たちは、この先、どうなるのだろう」と、それを考えただけで、不安になる。

たいていの人は、こう調査結果を知ると、「それはお金の問題」とか、「仕事の問題」、
さらには、「健康の問題」と説明する。
しかし本当に、そうだろうか。
それだけが、不安の原因になっているのだろうか。

私は、不安の原因は、もっとほかのところにある。

たとえば、いわゆる「統合性の確立」が、できていないこと。
ほとんどの人は、(私も含めてだが)、「何をすべきか」ということがわからないまま、その日、そ
の日を、何となく過ごしている。
あるいは「何をすべきか」はわかっていても、現実の生活をそれに一致させる
ことができない。
言うなれば、目的地もわからず、森の中をさまよい歩いているようなもの。

目的地がわかれば、たとえお金がなくても、仕事がなくても、あるいは不治の
大病を宣告されても、不安になることはない。
『朝に知れば、夕べに死すとも可なり』というのは、そういう意味である。

言いかえると、生き様を支える価値観が、混乱している。
それが不安の原因になっている。
もっとわかりやすく言えば、「お金こそすべて」と生きてきた人たちが、
心の拠り所を失いつつある。
言うなれば、はしごを使って二階屋根にはのぼってはみたが、
そのはしごをはずされてしまった。
今は、そういう状態なのかもしれない。

こういうとき、オーストラリア人の生き様は、参考になる。

ずいぶんと昔だが、1人当たりの実質収入額で、オーストラリアがシンガポールに
抜かれたときのこと。
友人のK君に、「君たちは、こういう事実をどう思う?」と聞いたら、
そのK君は、こう言った。
「ヒロシ、それがどうした?」と。
つまり「生活の豊かさは、収入の額では決まらない」と。

日本人に欠けている部分と問われれば、すべてこの一点に凝縮される。
「私は私、あなたはあなた」という生き方ができない。
収入が減れば、生活の質を落とせばよい。
こうした問題は、本来、心の豊かさとは、関係ない。
現に、この日本より貧しい国は、いくらでもある。
EUを見ても、日本より金銭的に豊かな国は、ドイツぐらいしかない。
このアジアを見ても、日本人は、平均的なアジア人よりも、
5〜10倍もの収入を得ている。

が、相対的に、それが少し減ったというだけで、不安になる。

実のところ、かく言う私も、不安感を覚えている。
不安感と必死に闘っている。
しかし世の中、なるようにしかならない。
(そのとき)がきたら、そのとき。
そのうち生活ができなくなれば、家や土地を売ればよい。
大切なことは、生活の質は落とさないこと。
「質」といっても、穏やかに、心豊かに生きることをいう。

この世の中、何をするにも、お金がかかる。
が、その一方で、お金を使わなくても、じゅうぶん楽しめる。
そういう方法は、いくらでもある。

あまりクヨクヨしないこと。
今、あなたが健康で元気なら、それに感謝して、あとは前向きに生きていけばよい。
……とまあ、半ば、自分を慰めながら、そう言い聞かせながら、生きている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
朝に知れば夕べに死すとも可也 朝に知れば、夕べに死すとも可なり 朝に知れば夕べに死
すとも可なり)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●三浦K事件

【ロサンゼルス15日時事】ロス疑惑銃撃事件で、米自治領サイパン島で逮捕、拘置中の元会
社社長三浦K容疑者(61)=日本で無罪確定=が申し立てた逮捕状無効確認請求の第3回審
理が、15日午後(日本時間16日午前)、ロサンゼルス郡地裁(バンシックレン裁判官)で開かれ
た。検察側証人として、ミシガン大ロースクールのマーク・ウエスト教授が出廷。逮捕容疑の共
謀罪は日本の法制度にないと陳述し、終了した。(以上、時事通信)

++++++++++++++++++++++++

こんな事件があったとする。

2人の女性がバイクに乗っていた。
2人は、一卵性双生児で、指紋はもちろん、姿、形はまったく同じだった。

その2人の女性のうち、1人が、うしろの座席から、ピストルでX氏という男性を射殺した。
殺人事件である。

で、2人の女性は逮捕された。
目撃者もいた。
が、たがいにその2人は、「私が撃ったのではない。もう一人の姉(妹)が撃った」と
主張した。

こういうケースのばあい、日本の刑法では、2人とも無罪になる可能性が高い。
実行犯が特定できないからである。

一方、アメリカには、「共謀罪」というのがある。
実行犯が特定できなくても、2人の間に共謀性が認定されれば、有罪にもちこむことができる。
「2人が1組となって実行犯」とみなされるわけである。

三浦K事件が、日本の裁判で無罪になったのは、こうした理由による。
三浦Kの妻はたしかに殺害された。
しかし現場には、三浦Kと、被害者である三浦Kの妻のほかに、もう1人の人物がいた。
つまりどちらが三浦Kの妻を殺害したか、実行犯の特定ができなかった。
しかもなおかつ、もう1人の人物がだれか、それも特定できなかった。
ひょっとしたら、その瞬間、三浦Kは、気を失ったかなにかで、何も覚えていなかったのかもし
れない。

が、アメリカの刑法によると、そうはいかない。
「共謀罪」というのがある。
仮にもう1人の人物が特定できなくても、またどちらが実行犯と特定できなくても、
事実として、そこで(殺人事件)が起きたということから、そこにいた人物、つまり三浦Kを、第
一級殺人罪として、有罪にもっていくことができる。

今回、アメリカで、検察側証人として、ミシガン大ロースクールのマーク・ウエスト教授が出廷
し、逮捕容疑の共謀罪は日本の法制度にないと陳述した理由は、そこにある。
三浦Kは、無実だから無罪が確定したのではなく、法律のちがいにより、無罪になっただけ、
と。

あとの判断は、アメリカの司法当局がすることになる。
現段階では、三浦Kは、被疑者でしかない。
有罪が確定するまでは、「無罪」と推定される。
が、もしアメリカ側で裁判ということになれば、有罪となる確率は、きわめて高い。
私はあえてそれを望む者ではないが、この事件だけは、もう一度、白黒をはっきりつけるべき
と思う。

三浦K自身の名誉にかけても、三浦Kは、アメリカの裁判所で、堂々と無罪を主張してみたら
よい。
私たちも、今度こそ、それで納得する。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2806)

●魔性との闘い(怨憎会苦)
(To meet with someone whom you feel hatred is a matter of pain.
In often cases it becomes a heavy burden to torture you.)

仏教には、「怨憎会苦(おんぞうえく)」という言葉がある。
生老病死の四苦に並んで、八苦のひとつになっている。
「いやな人と会う苦しみ」という意味である。
が、ここでいう「怨憎」とは、「魔性をもった人」とも解釈できる。
会うだけで、相手の魔性が、そのままこちらへ伝わってきてしまう。
自分の理性や知性が、こなごなに破壊されてしまう。
そんな危機感すら、覚える。

で、こちらは会いたくないと思うのだが、相手のほうからからんでくる。
からんできては、自分勝手なことを、一方的に言う。

そこで「無視」という方法を選ぶが、それにはものすごいエネルギーを
消耗する。
相手が身内であれば、なおさらである。

A氏の父親が、2年前に他界した。
数億円の財産(主に土地)を残した。
その財産をめぐって、A氏(長男)と、ほかの3人の姉妹が、争った。
毎月のように、ときに毎週のように、言い争う声が近所中に聞こえたという。

A氏夫婦が父親のめんどうをみてきたのだが、それについて姉妹たちは、
「じゅうぶんな介護をしなかった」「親を施設に入れようとした」などと、
言いがかりをつけた。
A氏の父親は、死ぬ直前、かなり認知症が進んでいた。
そういうこともあって、そのつど娘たちに、「この家は、お前にやる」とか、
「あの土地は、お前にやる」とか言った。
娘たちは、その言葉を理由に、「この家は、私のもの」とか、
「あの土地は、私のもの」と騒いだ。

A氏は、美術雑誌に評論を書くような知的な人物である。
一方、娘たちは、そのレベルの女性たちではなかった。
あとになってA氏は、こう言う。

「途中から妹たちの夫まで騒動に加わってきて、『テメエ』『このヤロー』という
話になってしまいました。で、私が、この問題は、私たち兄弟のもので、
あなたには遺産相続権はありません。つまり部外者ですと説明するのですが、
そういう道理すら、通じませんでした」と。

娘の夫の1人は、こう言ったという。
「(義父が)、オレの女房(=妹)に、『あの土地をお前(=妹)にやる』と言った話は、
オレもちゃんと横で聞いた。オレが証人だ」と。

A氏は、姉妹たちに会うたびに、神経をすり減らした。
・・・と書くと、「どこにでもあるような話」と思う人もいるかもしれない。
が、当事者であるA氏が受けた心的な苦痛は、言葉では説明しがたい。

A氏の妻もこう言った。
「(妹の1人から)、嫁(=A氏の妻)が、父親のめんどうをちゃんとみていなかったと
言われたときには、怒れるよりも先に、涙が出てきました」と。

まさに怨憎会苦。
その苦しみは、経験したものでないとわからない。
「家事が何も手につかなくなってしまいました」とも。

「妹たちは、金の亡者になった餓鬼、そのものでした。
そばにいるだけで、自分がつくりあげた文化性が、こなごなに破壊されていくように
感じました。
気がついてみると、自分もその餓鬼になっていました。
とくに次女夫婦がひどかったです。
ペラペラと一方的に自分の意見をまくしたて、こちらの言い分には、まったく耳を
貸そうとさえしませんでした。
次女も、認知症が始まっていたのかもしれません」と。

A氏の経験は、何も特別なものではない。
今の今も、親の遺産相続問題がこじれて、兄弟姉妹が争っているケースとなると、
ゴマンとある。
かりに片づいたとしても、それをきっかけに、兄弟姉妹が絶縁してしまったケースと
なると、もっと多い。
さらに最近では、離婚問題がこじれ、財産分与でもめる元夫婦もふえている。
みな、怨憎会苦の苦しみを、味わっている。

恐らく釈迦の時代にはなかったタイプの「怨憎会苦」と考えてよい。
経典の中には、金銭(マネー)にからんだ話が出ているところもあるが、釈迦の時代には、
貨幣はなかった。
この日本でも、貨幣が一般世間に流通するようになったのは、江戸時代の中ごろと
言われている。

今では、マネーが、怨憎会苦の原因になることが多い。
つまり人間そのものが、マネーの奴隷になりながら、それにすら気がついていない。

では、どうするか?

釈迦は、「精進」という言葉を使った。
日々に精進あるのみ。
つまり常に心の準備を整えておくということ。
そういう場に落とされても、その場に翻弄されないように、自分を強くしておくしかない。
が、それはけっして、むずかしいことではない。

音楽を聴いたり、映画を楽しんだり、文化、芸術に親しんだり・・・。
もちろん本を読んだり、文を書いたり・・・。
自分の世界を、できるだけ広くしておく。
その努力だけは、怠ってはいけない。
そういう素養が基礎としてしっかりしていれば、こうした騒動に巻きこまれても、
「餓鬼」になることはない。
自分を最後のところで、守ることができる。
(これは私の努力目標でもある。)


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●頭の体操(数学の問題)

+++++++++++++++++

地球上では北半球の5分の2が陸地であって、
海の7分の4は南半球にあるといわれている。
すると、北半球の陸地は南半球の陸地の
何倍あることになるか(関西学院中学部入試問題より)。

Two fifth of the North Hemisphere is land.
Four seventh of the sea is in South Hemisphere.
Then how large is the land of the North Hemisphere when compared
with the land of the South Hemisphere?

+++++++++++++++++

中学の入試問題である。
最近の傾向としては、こうした教科書にはぜったいに出てこないような
問題が出されることが多い。

制限時間は5〜10分として、あなたも一度、チャレンジしてみてほしい。
なお大切なのは、答ではなく、考え方。
つまり(式)をしっかりと残すこと。

答の正誤よりも、(もちろん正解であればさらによいが)、大切なのは、
考え方。
そのためにも、式をしっかりと残すこと。

(解答)

地球全体を、「1」とすると、北半球の(5分の2)が陸地だから、
(5分の2)x(2分の1)(=北半球は、地球の半分)で、(5分の1)。
つまり北半球の陸地は、全体の(5分の1)。

つまり北半球の海は、(2分の1)−(5分の1)=(10分の3)。
つまり北半球の(10分の3)。

北半球の海は、1−(7分の4)=(7分の3)ということだから、
北半球の(10分の3)が、地球全体の(7分の3)ということだから、
地球全体の中で、海が占める割合は、
(10分の3)÷(7分の3)=(10分の7)。

だから地球全体の陸地は、
1−(10分の7)=(10分の3)。

よって南半球の陸地は、(10分の3)−(5分の1)=(10分の1)。

北半球と南半球の陸地は、

(5分の1):(10分の1)=2:1

だから答は、2倍!
(以上、参考、「数学パズルと算数思考」・中宮寺薫・インデックス・コミュニケージョン)

+++++++++++++++

この問題を、中学2年生の生徒と競争で、解いてみた。
結果は、私の負け。

しかも私は、「1・5倍」という答を出してしまった。
暑さのせいで、このところ脳みそが暴走しやすくなっている。

(補記)

ついでにこんな問題を出してみた。
これは私のオリジナル。

++++++++++++++++

満40歳で、アルツハイマー病の初期症状の、そのまた初期症状を示す
人は、全体の5%(20人に1人)いるといわれている。

では、夫婦ともども、アルツハイマー病の初期症状の、そのまた初期症状を
示す割合は、全体の何分の1か。

++++++++++++++++

これはかなり深刻な問題である。
もし夫婦ともどもアルツハイマー病になってしまったら、
だれがどうやって介護すればよいのかということになる。

それはさておき、この問題は、こう考える。

(夫)●○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
(妻)●○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

(●)印が、アルツハイマー病の初期症状の、そのまた初期症状を示している人。

夫婦の組み合わせは、20x20=400(組)できる。
その中で、(●)どうしが夫婦になる割合は、1組。
つまり単純に考えると、(400分の1)ということになる。

解答を説明すると、中学生たちが騒いだ。
「そんな少ないはずがない!」
「いや、もっと少ないはずだ!」と。

「10組に1組は、どちらかが初期症状を示しているはず。(10組で、20人になるから。)そうい
う組が、20倍もあれば、両方とも初期症状を示す組があるはず。だから答は、200組に1組」
と。

「いや、先生は、

(夫)●○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
(妻)●○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
とう図を描いたが、実際には、

(夫)●●○○○○○○○○○○○○○○○○○○
(妻)○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
というケースもあるはず。
もしそうなら、男同士は結婚できないから、両方が初期症状を示す割合は、ゼロのはず」と。

何が何だか、わけがわからなくなってきた。
これも暑さのせいか?

要するに、10組に1組は、どちらかが初期症状を示していることになる。
これはまちがいない。

では、この先は、どう考えたらよいのか。

20人に1人が初期症状を示すとして、夫婦の組み合わせは、つぎの3種類ある。

(夫)●○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
(妻)●○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

(夫)●●○○○○○○○○○○○○○○○○○○
(妻)○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

(夫)○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
(妻)●●○○○○○○○○○○○○○○○○○○

全体では、400x3=1200組。
その中で、夫婦ともども初期症状を示すのは、1組のみ?
だから1200分の1?

?????

思わず、子どものトリックにひかかるところだった!

問題の内容を変えよう。

「ここに、40個の石がある。うち2個は黒、残りの38個は白。
2個選ぶことにして、2個とも黒を取る確率は、何分の1か?」と。

これは単純な確率の問題である。

石に1〜40の番号をつけると、(黒石は、1と2)、最初に黒石を取る確率は、
20分の1。
残りは39個。
その39個の中から、黒石を取る確率は、39分の1。
かけ算をすると、20x39=780、つまり780分の1ということになる。

しかしこの計算は、まちがっている。男女の区別を計算に入れていない。

そこで石に(1)〜(40)までの番号をつける。
すると(1、2)(1、3)(1、4)……(38、39)(38、40)(39、40)
というように、組み合わせは、39+38+…2+1=40x19+20=780(組)。
その中で、(1、2)の組み合わせは、1組だから、答は、780分の1。
これは先の計算結果と同じ。

ところが夫婦のばあい、(1)と(2)が、男女別々である確率は、2分の1。
(男、男)(男、女)(女、女)(女、男)と考えればよい。
だから2分の1。
だから780x2=1560、つまり1560分の1となる。

これで本当によいのだろうか?
本当にそんなに少ないのだろうか?
どうも、実感とは、かけ離れているような気がする。

そこで問題は、振り出しに……。

こう考えてみよう。

夫もしくは妻が、初期症状を示している割合は、10組に1組。
つまり10分の1。
そういう組が、20組あれば、配偶者が初期症状を示す確率は、20分の1。
だから10x20=200、つまり200分の1。

「同じ問題でも、夫婦がからんでくると、むずかしいね。これは来週までの宿題だ」と
今日は逃げた。

で今は、思考力、ゼロ。
夏の炎天下、今日は1時間も、汗をかきながら歩いた。
疲れた。
ハハハ!

「あの林は、こんな簡単な問題も解けないのか」とは、どうか思わないでほしい。
(そう思ってもらっても、かまわないが……。)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2807)

【日韓経済戦争】(8月23日)Japan vs Korea, Economic War!

●97年の愚

「97年の愚」というのは、1997年、韓国がデフォルト(=債務不履行=国家破綻)に陥ったと
き、日本政府が、韓国政府から頼まれもしないうちから、IMF、世界銀行、アジア開発銀行など
を総動員して、総額で500〜600億ドルかき集めて、韓国を救済したことをいう※。しかもアメ
リカの反対を押し切ってまで! 同じころ、日本政府は、120万トンという穀物援助(主に米)
を、北朝鮮に対してしている。時のK外務大臣は、「これで(朝鮮半島が)動かなければ、責任
と取る」と明言したが、結局、何も動かなかった。動かなかったばかりか、かえって反日運動が
激化した。竹島問題を例にあげるまでもない。もちろんそのあと、K外務大臣が責任を取ったと
いう話もない。さらに最近に至っては、「借金は返しから、問題はない」(=日本に頭をさげる必
要はない)と、韓国政府は居直っている。

※……ご存知のように、1997年、韓国は、国家破綻(デフォルト)した。その年も終わろうとし
ていた、11月21日、時のイム・チャン・ヨル副首相は、こう宣言した。

「今の難局を乗り切るには、IMFの誘導調整資金の援助を受けるしかない」と。

 そのときから、韓国の国家経済は、IMFの管理下に入ることになった。

 そのとき資金援助したのが、IMFに並んで、世界銀行と日本。それぞれが100億ドルを援助
した。そのほかにアメリカが、50億ドル。アジア開発銀行が、40億ドルなど。総計で、550億ド
ル!

 その結果、それまで33行あった主要銀行は、最終的には、3行になった。翌年には、失業者
は150万人を超え、韓国ウォンは、1ドルが、1000ウォンまで、下落した。

 ただ不幸中の幸いだったことは、韓国経済の規模がそれほど大きくなかったこと。今の日本
円になおせば、わずか5〜6兆円。それで、救済できたこと。

(日本のばあい、あのN銀行救済のためだけに、4兆円も、お金をドブに捨てている。C総連系
列のC銀には、1兆円!)

++++++++++++++++

8月20日に、1ドル=1053ウォンだった、韓国ウォンは、さらに下落。
今朝、8月23日朝は、1ドル=1063ウォンにまで、下落!

++++++++++++++++

韓国銀行の「猛烈な」ドル売り、ウォン買いにもかかわらず、
とうとう1ドル=1050ウォンを突破!
(08年7月だけでも、そのため、107億ドルも、外貨を減らしている。)
今朝(8月20日)は、1ドル=1053ウォン前後で、相場が始まった。

「猛烈な」勢いで、外資が韓国から逃げ始めている。
簡単に言えば、そういうことになる。

で、昨年の終わりごろには、900ウォン前後だったから、900ウォン→1050ウォンへと、約1
7%もウォン安になったことになる。
(この間、日本は、1ドル=120円→110円と、円高方向に推移している。世界的にドル安傾
向がつづいているから、これは自然な流れとみてよい。)

で、時はからずも、数日前、キューバが、デフォルト(債務不履行)を宣言した。
手持ちの外貨が不足して、輸出代金が決済できなくなってしまった。
では、韓国はどうか?

先月から今月にかけての「猛烈な」ドル売り、ウォン買いで、手持ち外貨は、そろそろ底をつい
ているはず。
(すでに韓国の手持ちの外貨が、底をついている可能性も高い。)

今週のはじめには、1ドル=1040ウォンが、ひとつの壁になっていたが、それをあっさりと割
り込んでしまった。
原油価格がさがったとはいえ、今年度末までに返済しなければならない短期外債(=借金)
は、膨らむ一方。

このままウォン安を放置すれば、韓国内の物価は上昇。
輸出代金を決済できなくなれば、韓国は、第二回目のデフォルトを経験することになる。

そこで韓国政府は、公定金利(日本の公定歩合)を、先週、5・0%から、5・25%へとあげた
(08年8月)。
苦渋の選択だった。
金利をあげれば、国内企業に打撃を与える。
しかしそれ以上に、外貨の流出がこわい……。

が、こうしてがんばればがんばるほど、つまり無理を重ねれば重ねるほど、そのあとにやってく
る「谷」は深い。
1ドルが何ウォンになったら危機……ということは、今の段階では言えない。
すでにその危機ラインを突破している。
1ドル=1050ウォンというのは、そういう数字である。

つまり「今、いくら?」ではなく、「短期間に、いくら変動するか?」をみる。
韓国のばあい、今週に入って、すでに12ウォンもウォン安が進んでいる。
これが今週末から来週にかけて、さらに10〜20ウォンもウォン安が進むようなことにでもなれ
ば、韓国経済は、おしまい。
お陀仏!

日本の輸出業者も、今からそのときを覚悟し、準備しておいたほうがよい。

【日本政府へ】

相手が頭をさげて日本に頼みにくるまで、けっして、こちらから救いの手を出してはいけない。
97年に日本がした「97年の愚」※を、繰りかえしてはいけない。


+++++++++++++++

(補記)(先月、7月20日に書いた記事より)

現在の韓国の外貨準備高は、2581億ドル。(=貯金)
今年中に返済しなければならない対外債務は、2156億ドル。(=借金)
原油の高騰で、昨年よりも、500億ドルも、輸入コストの増加が見込まれる。(=負担)
その上、経常収支は、今年(08年)、100億ドルの赤字。(=収入源)
加えてこの7月だけでも、ドル売り、ウォン買いで、107億ドルも外貨を減らしている。

これだけの数字を並べただけでも、現在、韓国がどういう状況にあるか、わかるはず。

加えて現在、外資が猛烈な勢いで、韓国から逃避し始めている。
韓国の株式市場でも、今年に入ってから、すでに20兆ウォン(約2兆円)も、売り越されてい
る。

そこへもってきて、政情不安。
「ローソク・デモ」に見られるように、あの国は、何かが、おかしい。

かんたんに説明すると、こうだ。

あなたには、260万円の貯金がある。
しかし今年中に、220万円の借金を返済しなければならない。
しかし子どもの教育費で、今年は、さらに50万円の負担増。
7月だけでも、11万円近い、臨時出費が重なった。
加えて夫の給料だけでは、赤字。
仕事も減ってきた。
夫婦関係も、おかしい?

あとは、どうなるか?
みなさん、ご想像のとおり!


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●熟年離婚

+++++++++++++++++++

「林先生は、熟年離婚というと、妻側からの
一方的な申し立てだけによるものとお考えのようですが、
それはちがいます。
夫の側からも、離婚を申し立てることもあります。
私たち夫婦のばあいが、そうです。

妻と結婚して35年になりましたが、昨年、
その妻と離婚しました。

親類、兄弟に、理由を話したことはありません。
話しても、どうせ理解してもらえないでしょう。
だから林先生にだけ、こうして話すことにします。

直接の原因は、ちょうど1年前、暑い日がつづいて
いたときのことです。
軽い熱射病になり、発熱と吐き気が、その朝、ありました。
体温計で計りませんでしたが、体温は、37、8度近く
あったと思います。

そんな私を妻は、形だけの看病をしながら、こう言いました。
「自業自得よ」と。
その前日、運動不足を感じ、事務所までの5キロを歩いた
ことについて、そう言いました。
で、私が、「今日、また5キロ歩いたら、死んでしまうかも
しれないね」と言うと、やはり、「自業自得よ」と。

私には、「死んでもしかたない」というふうに聞こえました。
同時に、これが30年以上もいっしょに暮らしてきた妻の
言葉かと、驚き、自分がなさけなくなりました。

妻は、子どものころ、何かの障害児だったようです。
いつもポツンと、ひとりで遊んでいたようなことを言います。
私は妻以外の女性を知りませんでしたから、女性というのは
そういうものとばかり思っていました。

結婚して10年目くらいまで、私といっしょに床に入るのを
いやがりました。
妻の体に夜中に触れただけで、「変態!」とか、「異常者!」とか言われ、
その手を払いのけられたこともあります。

がんこで、いつもぜったい、自分が正しいと思いこんでいました。
30年以上暮らしましたが、自分のほうから、「ごめん」と言ったことは
一度もありません。

ほんとうに、一度もありません。
自分でお茶をこぼしても、「こんなところに茶碗を置く人が悪いのよ」
と言い返します。
そういう女性です。

そのため夫婦喧嘩は絶えませんでした。
が、私も60歳を迎え、決心しました。
「自業自得」という言葉が、日ましに耳の中で大きく響くようになりました。
ふつうなら、妻というのは、こういうときたぶん、「体に気をつけてね」とか、
「無理をしてはだめよ」とか言いますよね。
しかし私の妻は、「自業自得よ」と。

その言葉の中に、ぞっとするほど、冷たいものを感じました。
30年以上、妻の心は閉じたままでした。
妻のほうから、明るく笑いかけてきたり、話しかけてきたりということは、
めったにありませんでした。
性生活においては、もちろん、そうです。
そのつど私のほうが、「触っていいか?」と、妻の気持ちを確かめなければなり
ませんでした。

で、離婚を決意しました。

が、外面は、そういう女性ではありません。
どこか控えめで、いつもニンマリと笑っているようなタイプの女性です。
かえって人間性豊かな女性に思われています。
だからこんな話をしても、だれも信じてくれないでしょう。

しかしね、林先生、一度離婚と決めてしまうと、その流れは、もうだれにも
止められませんね。
息子や娘たちのこと、親類や世間体のこと、すべて、どこかへ吹き飛んで
しまいます。

(それまでは、息子たちのこともあるから・・・とか言って、がまんしましたが。)

で、最後の最後まで、妻は、つっぱったままでした。
話し合いの席でも、「すべてあなたが悪い」というようなことばかり、言いました。
いつも「私は最高の人間」と思っていましたから・・・。
離婚の話をしてから、離婚まで数か月かかりましたが、その間、一食も
食事の用意をしてくれませんでした。
もちろん寝室も分けましたが、一度も妻のほうから話し合いにきたこともありません。

若いころから、気が強い女性でしたから。
離婚によって、妻は、自分のプライドが傷つけられたように感じたのでしょう。
以後、話し合いは、すべて、妻の兄を通してしました。

(S県U市にお住まいの、DE氏より)

++++++++++++++++++++

●心を開く

結婚生活に疲れを感ずる妻は多い。
同じように、疲れを感ずる夫も多い。
ポイントは、DE氏が書いているように、「心を開いているかどうか」ではないか。

教師と生徒の関係でも、(心を開けない生徒)を教えるのは、たいへん。
神経を使う分だけ、疲労感も大きい。
相手が友人でも、親子でも同じ。
夫婦となれば、なおさらだろう。

心を開く・・・。
思ったことを言い、それをすなおに表情で表わす。
それが自然にできる人は、自然にできる。
そうでない人は、そうでない。
さらに言えば、心が開いた人からは、閉じた人がよくわかる。
しかし閉じた人からは、開いた人がわからない。
自分の心が閉じていることにすら、気がつかない。
自分では、それがふつうだと思っている。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●8月19日(火曜日)

朝から食欲なし。
睡眠時間は、8時間近くとった。
熟睡できなかったらしい。
まだ眠い。

●兄の歯

先日私の兄が死んで、火葬されたときのこと。
私は兄の下あごの骨が、どういうわけか、気になった。
遺骨をつぼにみなが詰めるときも、私は、下あごだけを、じっと見つめていた。
それは雪のように美しかった。
紙のように薄かったが、形はしっかりと整っていた。
が、その美しさが、かえって不思議だった。

兄は子どものころから歯が弱く、年中、虫歯に悩まされていた。
夜中じゅう、「歯が痛い」と泣いていたのも、よく覚えている。
そんなこともあってか、最後の10〜15年間は、すべての歯は抜け、
総入れ歯をしていた。
下あごには、そのためか、一本も、歯は残っていなかった。
総入れ歯にしたと聞いたとき、私は、「それでよかった」と思った。
兄は、少なくともそれで、虫歯の痛みからは解放された。

で、今朝、歯科医院へ行ってきた。
歯にも定期検診というのがある。
今日は、その日だった。
で、歯垢を取り除いてもらっているとき、兄のあの下あごの骨を思い出していた。
「私も死んだら、ああなるのか」と。
そういう気持ちを察したのか(?)、いや、そんなことはありえないが、
歯科医師のK先生は、こう言った。

「1本でも歯が残っていれば、その歯が役にたちますよ」と。

どういう意味でK先生がそう言ったのかは知らない。
その1本をたよりに、ほかの入れ歯が入れやすいということか。
あるいは総入れ歯は、よくないということか。

兄は死んだが、この先、10年や20年など、あっという間に過ぎてしまうだろう。
つぎの瞬間、私の体が、兄のようになったところで、何ら、おかしくない。
だれかが私の遺骨を拾いながら、私が思ったように、「美しい」と思うかもしれない。
兄のあの下あごが、私のものだったと考えても、何ら、おかしくない。
現に今、私は満60歳になってしまった。
若いころは、自分が60歳になるとは、とても信じられなかった。

やがて私も、この世から消える。
いつかだれか、私の遺骨を見ながら、同じように思うかもしれない。

生きているとき、兄は、私にとっては、小さな存在でしかなかった。
しかし死んでからの兄は、日増しに大きくなりつつある。
……というより、毎日、兄のことを考えている。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2808)

●雑誌『ニューズ・ウィーク』を読む

+++++++++++++++++

名古屋へ行く途中、キオスクで、
『ニューズ・ウィーク』誌を買う。

「五輪後の中国」という表紙の見出しが
気になった。

+++++++++++++++++

小さな記事だが、こうある。

「ユーロ経済が先に転落?
……ロンドンの調査会社、
キャピタルエコノミクスによると、
景気後退に入る時期は、アメリカ
よりユーロ圏のほうが、早そうだ」と。

「この第3四半期、イタリアと
スペインの成長率が急減速するのを
皮切りに、ユーロ圏が景気後退に
入ると予想される時期」と。

今までこの日本をかろうじて支えて
きたのは、中国。
中国特需。
が、ここにきて、アメリカ経済が
おかしくなった。
中国の株価(上海B株)も、一時の半値
程度にさがった。
が、それ以上にあぶないのが、ユーロ
圏とか?

日本に嵐が、同時に3つもやってきたような感じ。
残るはインドということになるが、
ニューズ・ウィークは、つぎのように
伝える。

「死者数は世界4位。テロ再燃の
きざし」(P9)と。

「昨年インドで起きたテロによる
死者の数は、1093人。イラク、
アフガニスタン、パキスタンについで、
世界4番目に多い数字だ。
しかも目的がはっきりしない攻撃が
増加している」と。

簡単に言えば、インド国内で、カシミール
問題に端を発した、イスラム教徒との
対立が深まっているということらしい。

シリアもおかしい。
イランもおかしい。
つづいて今度は、グルジア。

みんな暑い国。
これも地球温暖化による影響によるものなのか?
暑くなると、前頭前野の活動がおかしくなる?
おかしくなって、理性的な判断ができなくなる?

+++++++++++++++++

●グルジア

グルジアの歴史について、勉強してみよう。

ニューズ・ウィーク誌の記事をまとめてみる。
その前に、地理的な位置関係について、整理。

□       □……北オセチア共和国(現在、ロシア領内)
――――――■――     ■……南オセチア自治州(現在、グルジア領内)
|        |     ――――内……グルジア
|グルジア    |
―――――――――

グルジアを四角で表現すると、南オセチア自治州は、上部中央に位置する。
その南オセチア自治州は、ロシア領の北オセチア共和国と接している。

13世紀……現在の北オセチア周辺のオセット人が、現在の南オセチア地域に移住を開始。
18世紀〜……南オセチアが帝政ロシアの支配下に入ると、グルジアもロシア帝国に併合。
1922年……グルジアがソビエト連邦に加盟し、南オセチアも、グルジアに編入される。
1990年……グルジア語の強制的な公用語教育に反発した南オセチア自治州が、北オセチア
共和国への編入を求める、主権宣言を採択。
1991年……グルジアが独立宣言。同時に南オセチアとグルジアの武力紛争が激化するが、
翌年、ロシアとグルジアの首脳会談により、和平合意が調印される。
2004〜……国家統合をめざす、新欧米派のサーカシビリ大統領のもと、再び緊張関係へ。

今回のグルジア紛争は、グルジア軍が南オセチア自治州に軍を進めたことで始まった。
それに反発したロシア側が、グルジア国内に侵略。
紛争が一気に、グルジア全土に拡大した。

これに対してアメリカ側は、強硬姿勢に打って出た。
黒海に駆逐艦を含む、イージス艦を派遣。
米ロ対決の緊張が高まっている。

サーカシビリ大統領は、ニューズ・ウィークの記者に対して、つぎのように答えている。

「ロシアの本当の目的は、グルジア征服だ。
彼らはグルジアがほしい。
中央アジアとカスピ海からのエネルギー輸送路を掌握したい。
そもそも彼らは、私たちを始末したいのだ。
この地域からあらゆる民主的な動きを排除したい。
それだけだ」と。

……しかし、こんなところ、つまりグルジアにも、戦争の火種がくすぶりつづけていたとは!
いったい、この世界は、どうなっているのか?

アメリカが本格的にグルジア問題に介入してくれば、その隣には、NATOに加盟しているトルコ
がひかえている。
ロシアが、このまま「わかりました。グルジアから手を引きます」と言うとは、とても思われない。
へたをすれば、先にも書いたように、米ロが直接軍事対決する場面も起るかもしれない。

これに対して、世界は、敏感に反応し始めている。
さがりつづけていた原油価格が、再び上昇に転じた。
おそらく今日(22日)あたりから、貴金属、金属価格も上昇に転ずるにちがいない。

グルジア問題は、今、ロシアがどこまで自制するかで、決まる。
さあ、ロシアは、どう出るか?

で、本題。

「五輪後の中国」は、どうなるか?

ニューズ・ウィーク誌の結論は、こうだ。
全体で、7ページもの大特集を一言でまとめてみる。

「国内の政情は不安定化する。
しかし経済は、1970年代の日本と同じような道を歩む」と。

ところで政情不安について、こんな記事が載っていた。
たいへん気になった。

「……北京を走る7万台のタクシーには、乗客の会話を録音し、基地に送信するためのマイク
が装備されている。
運転手は、乗客の行動に不審を感じたら、ハンドル近くの目立たないボタンを押して、盗聴器
を作動させるよう指導されている。
盗聴器は、タクシーの位置を特定できるGPS(衛星利用測位システム)に接続されている」と。

そのほかに、北京市内だけでも、40万台にもおよぶ監視カメラが設置されているという。

フ〜〜ン、そこまでやるか、中国!
五輪でのニセ花火。
口パク。

北京では、安心して会話をすることもできない。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

【私の母】

●息子を嫁に取られた!
 下痢で汚れた母の尻を拭いてやっているとき、母は、こう言った。「お前にこんなことをしても
らうようになるとは、思わなかった」と。「そうだなア」私。その瞬間、それまでの母との確執が、
霧が晴れるように消えた。
 私の母は、外面はともかくも、私たち子どもに対しては、過酷なほどきびしい母親だった。私
の長男が生まれたときも、私の家にやってきて、貯金を全額おろさせ、それを実家へもって帰
っていった。「私の家」といっても、6畳と4畳だけの狭いアパートだった。私はそれ以前からも、
またそのときも、収入の約半分は、実家へ仕送りしていた。母は、明らかに私を恨んでいた。
 私が今の妻と結婚して、浜松市に移り住んだことについても、「息子を浜松の嫁に取られた」
と、あちこちに電話をして泣きわめいていたという。私は母がそんな気持ちだったことは、その
ときは知らなかった。ずっとあとになってから、いとこの1人から、その話を聞いた。

●いつ産んでくれと頼んだア!
 私は母にとっては、自慢の息子だった。私は私で、母の期待に応えることで、自分の立場を
守った。私が中学生になるころには、稼業の自転車屋は、斜陽の一途をたどっていたが、参
考書や問題集だけは、いくらでも買ってもらえた。が、やがて高校受験が近づくと、母の様子は
一変した。
 私が郷里のM町を離れて、岐阜市にあるG高校に進学したいと言い出したときのこと。母は
担任の教師まで説得して、それに反対した。母は私が母のもとを離れるのを、何よりも恐れ
た。そしてことあるごとに私に、こう言った。「産んでやった」「育ててやった」「親の恩を忘れる
な」と。
 私は地元の高校に進学し、悶々とした日々を過ごすようになった。母は口癖のように、こうも
言った。「勉強しなければ、自転車屋を継げ」「大学行くなら、国立でなければだめ」と。当時、
国立大学は、どこも10〜20倍前後の倍率だった。が、ある日私はキレた。高校1年の終わり
ごろだったと思う。私は母を突き飛ばして、こう叫んだ。
 「いつ、お前に、産んでくれと頼んだア!」と。
 
●社会的な重圧感
 重圧感はそれからもつづいた。金銭的な重圧感というよりは、社会的な重圧感だった。親子
の関係も、それが良好なうちは、たがいに居心地のよい世界となる。が、ひとたび崩れると、
(家族自我群)となって、その人を苦しめる。ふつうの苦しみではない。心理学でも(幻惑)という
が、それは(悶絶)と言うにふさわしい。が、こんなことがあった。
 私が母に預けておいた土地の権利書を、母は、勝手に転売してしまった。私がそれに泣いて
抗議をすると、母はこう言った。「親が先祖を守るために、息子の金を使って、何が悪い!」と。
そのとき私と母の関係は、切れた。私が47歳のときのことだった。

●母は母で懸命に生きた
 …だからといって、私は母を責めているのではない。当時は、まだそういう時代だった。子ど
もといっても、親の(モノ)。そういうモノ意識も色濃く残っていた。世間体、見栄、メンツが、母の
生きざまの柱にもなっていた。当然(家意識)も、残っていた。母は母で、あの時代を懸命に生
きただけ。
 が、その母も今年、90歳。歩くこともままならない状態で、私以外は、区別もつかない。私が
「お前なア、ウンチがしたくなったら、ウンチと言えよ」と言うと、「すまん、すまん」と。が、そこに
いるのは、ただの老人。よぼよぼで、どうしようもないほど、小さな老人。「こんな母を本気で相
手にしてきたのか」と思ったとたん、それまでの確執が、ウソのように消えた。と、同時に、そこ
にいたのは、私が子どものころの、あの慈愛に満ちた、やさしい母だった。
 「お前が死ぬまで、ぼくがちゃんとめんどうをみるから」と言うと、再び母は、こう言った。「す
ま、すまん」と。07年の正月のしめ飾りが、まだ玄関先にぶらさがっているときのことだった。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

【8月22日】

●掲示板への投稿より

++++++++++++++++++++++

久しぶりに私の掲示板をのぞいたら、
こんな書き込みがありました。

私の書いた返事が少しは役にたったようです。
うれしかったです。

そのまま転載させてもらいます。

++++++++++++++++++++++

【Uさんから、はやし浩司へ】

7月18日の投稿に対し回答を頂き、心から感謝いたします。
はやし先生の原稿も読ませていただきました。
心の整理がつくまで時間がかかりましたが、何故でしょう、今は心静かに投稿させていただい
ています。

「不安」の原因は0〜2才前後と言うご指摘に震えました。私の母は2才の時に母親(私からす
ると祖母)と死に別れていたからです。
私の中にも私の母の中にも母親像が無かった・・・。
幼い頃の私の記憶では、酒に酔った父と母はしょっちゅう包丁を持ち出して夫婦喧嘩をしてい
て、母は、私が小学校に上がると同時に家でしていた内職の仕事を辞め、外に働きに出るよう
になり、夜遅くならないと帰って来ませんでした。
私は自分の食事を自分で作って食べ、お弁当も自分で詰めていました。
そんな家庭が当たり前と思っていた部分が今日までありました。

はやし先生のおっしゃるとおり私の心の中には母親像が無かったのです。
そう気がついた今、両親を恨んでも自分の運命を嘆いても仕方が無い。運命を受け入れようと
心に決めました。
私が日本人であるように、女に生まれたように、この性格は自分の運命。受け入れるしかな
い。覚悟しました。

はやし先生が「治そう」とか「直そう」と思う必要はない、うまく付き合え、と言ってくださったので
何だか心が楽になりました。

娘の事も"元気で生きていてくれればそれで十分"と思うようにし、「求めてきたときが、与えど
き」と気楽に考えるようにしてゆきます。

何だか気負いが嘘のように抜けてゆきました。訳も無く涙があふれてたまりません。気持ちが
すごく楽になりました。

はやし先生、本当にありがとうございました。
(08年7月23日)

++++++++++++++++++H.Hayashi

以下、そのときの掲示板への相談を、
そのまま添付します。

+++++++++++++++

掲示板のほうへ、
こんな相談がありました。
毎日子育てをしながら、
不安でならない……。
そんな内容の投稿です。

+++++++++++++++

【Uさんから、はやし浩司へ】

小学一年生(6歳)の娘と、私自身のことで毎日、戸惑っています。

私自身も自分の心に問題、(わがまま、恩着せがましい依存性など、幼児的願望が強い)を抱
えていることを自覚しています。まだ、それを克服することができず心の中で、のた打ち回って
いるのが現状です。

そのこともあり、娘には三歳まで私の母や姉、主人の手を借りて何とか一切怒ることはもちろ
ん、叱ることもせず過ごしました。(娘を出産した病院の院長先生に、三歳までは何があっても
怒ってはいけないと忠告されたためです。)

けれど、娘が四歳を過ぎてからそれまでのがまんが限界にきたのか、自分でもどうしようもなく
ヒステリックに娘に怒ることが多くなり、このままでは娘が壊れてしまうような危機感を感じてい
たところ、はやし先生のこのリンクに出会い、近ごろは娘と距離を置くようにしています。

ただ、そうすればそうするほど娘が私に、絡んでくるのです。例えば、ひらがなの『や』が、「これ
は『か』に見えるから直しなさい。」と言うと、「やだ、これでいい。」とか、「お母さんがこんな風に
教えた」とか、そこから始まり、その後の食事もお風呂もそれ以後ずっと機嫌が悪くなり、手が
つけられなくなるのです。

また、娘がふてくされていたり、つまらなそうな顔をしていても、その心をうまく汲み取れず、い
つもどおりに「帽子もちゃんと片付けなさい」など言ってしまい、それでもぐずぐずしている娘に、
「はやくしなさい」などと、追い討ちをかけてしまうのです。そうなると、その日はそれでもう何も
かも動かなくなるのです。

今朝娘が、「今日もお父さんは夜遅いから嫌だな、怒りんぼ母さんと一緒は嫌だ」と涙をためて
言う姿を見ると、私は私自身を蹴飛ばしてやりたい気持ちで一杯になりました。何故でしょう
か。気負いが強すぎるのでしょうか。

『1日1回、娘をゲラゲラ笑わせてやる』という私自身の目標も、全然実現しないし、本当に私は
娘に優しくないんです。いつも何かに追いかけられているような気がして、(ゆっくり)ができない
のです。

夕方娘と庭に水をまき、ゆっくり娘が育てているアサガを見ながら、冗談でも言ってゲラゲラ笑
いたいのに、「さ、早く手と足を洗って部屋に入ろう」などと言ってしまうのです。何か、いつも自
分がガツガツ急き立てられていて、心にゆとりがもてない。こんなことしていたら娘もそうなる。
だから「急き立てたり、『早くしなさい』を言わずにいよう」と、そう毎日心で唱えていても、極端な
話、口が勝手に言ってしまう感じで・・・その後、自己嫌悪で胸が苦しくなります。その繰り返しで
す。

娘に優しくゆったり接することができない私と、一度こじれたら修復できない娘のぐずぐず・・・。
『こんな母親死んでしまえ』と心で自分に怒鳴りつけているのですが、どうしていいのかわかりま
せん。

林先生がおっしゃる「一貫性」は本当に難しい、と言うより苦しいです。毎日、朝と学校から帰っ
てきたら、娘を抱きしめています。けれど、娘にしていることはそれだけです。私の心のどこを
どう整理をしたら、優しい母親、娘に優しく接することができる母親になるのか、私自身がわが
ままで、甘えているのは重々わっているのですが、何か一筋のくもの糸でもかまいません。何
か助言がありましたらどうか教えて下さい。お願いします。

【はやし浩司より、Uさんへ】

あなたを、Uさんとしておきます。
Uさん自身も、不幸にして不幸な家庭環境で、育っているとみてください。
「不安」の原因は何かわかりませんが、恐らくUさんが0〜2歳前後ごろ、その(種)ができたも
のと思われます。

Uさんからみて、安心して、のんびりと過ごせる家庭環境になかった。
とくに母子関係(Uさんと、Uさんの母親の関係)を疑ってみてください。
Uさんの母親もいつも不安で、その不安を、Uさんにぶつけていたと思います。
それが今の、Uさんのパニック障害(少し前まで、「不安神経症」と呼ばれていました)につなが
っていると考えられます。

(心の緊張感が取れないことを、以前は、不安神経症と呼んでいました。
いつも心は緊張状態にあって、その状態のところへ何らかの不安や心配が重なると、一気に、
緊張状態が加速され、そこでパニック状態になるというわけです。)

ショッキングなことを書きましたが、まずUさん自身の過去と、真正面から向き合うことが大切で
す。
Uさん自身の心の奥深くを、自分でのぞいてみることです。
この問題は、そういった問題があるということではなく、Uさん自身が、自分の過去に気づくこと
なく、その過去に振り回されるところに問題があります。

Uさんは、心豊かで、愛情に満ちた乳幼児期を過ごしましたか?
全幅の(さらけ出し)をしながら、幼児期を過ごしましたか?
恐らく、そうではなかったと思います。
Uさんは、親の前で、いつも(いい子)でいた(?)。

もっとはっきり言えば、あなた自身の中に、(母親像)が育っていないということです。
あるいはUさんは、いつも母親を拒絶してきたというケースも考えられます。
その結果が、「今」ということです。

この問題は、子どもの問題ではありません。
Uさん自身の中の、(不安)の問題です。
この(不安)がなくならないかぎり、Uさんは、つきからつぎへと自分で問題をつくり、それに振り
回されることになります。
取り越し苦労とぬか喜びの繰りかえし……というわけです。

で、さらに問題をほりさげると、何が、今、Uさんを不安にさせているかということになります。
もちろん子育てについての不安もあるでしょう。
家庭問題? 夫婦問題? 経済問題? 家族の問題?

こういうケースでは、夫の協力が不可欠です。
しかしUさんは、その協力をじゅうぶん、得られず、それ故にさらに悶々と悩んでしまっていま
す。
袋小路に入ってしまっているのかもしれません。

実のところ私にも似たようなところがありますので、Uさんの精神状態がよく理解できます。
で、私のばあい、できるだけ食生活で、自分の心を安定させるようにしています。
海産物中心の献立にするなど。
Ca、Mg、Kが効果的です。
私の友人は、精神が不安定になると、いつもポケットからカルシウム剤を取り出して、ボリボリ
と口の中で、それをかんでいます。

あとは薬局で売っているハーブ系の安定剤を、よく口にします。
内科でも、副作用の少ない安定剤を処方してくれますので、一度、そういうところで相談なさっ
てみられたらどうでしょうか。
薬名はここでは書けませんが、私はときどき、それを2つに割って、口の中で溶かしながら、服
用することもあります。
(本当は1錠なのだそうですが、こうした精神薬は、いつも半分にして、口の中で溶かして服用
することにしています。
このあたりのことは、医師とよく相談して決めてください。)

Uさんにはつらいでしょうが、この問題は、これから先、一生つづきます。
たまたま今は、それが小1の子どもに向かっているだけ、ということです。
ではどうするか?

あとはそういう自分とうまくつきあうだけです。
「治そう」とか、「直そう」と思う必要はありません。
うまくつきあうのです。
みんな、どんな人でも、その程度のキズというか、トラウマというか、そういうものをもっていま
す。
Uさんだけが特別というわけではありません。
Uさんが言っておられるように、Uさんは、心配先行型、不安先行型の子育てをしています。
ちゃんとした(母親像)が入っていないため、どうしても気負いが強くなります。
「いい母親でいよう」という思いが強すぎるため、かえってそれが重荷になってしまうというわけ
です。
それが今のような、どこかギクシャクとした子育てにつながっている。

そういうときは、肩の力を抜くことです。
(本当は、Uさんが子育てから離れて、自分の好きなことをし、その結果として、子育てから離
れられるようにするのが、よいですが……。)

「ほどよい親」「暖かい無視」を繰りかえしながら、あなたはあなたで、好きなことをすればよい
のです。
仮に子どもを愛せないなら、愛せないでも構わないのです。
実際、約10%の母親たちは、(10%ですよ!)、子どもを愛せないということも、わかっていま
す。
万事、自然体で、子育てをすればよいのです。
頭の中で、「こうでなくてはいけない」とか、「そうであってはいけない」とか、思う必要はないので
す。
「子どもを愛せないから、私は失格人間」と思う必要もありません。

あなたはあなた。
子どもは子ども。

毎日、学校から帰ってきた子どもを抱く……それだけでじゅうぶん、Uさんは、すばらしい母親
です。
私など、一度も、そういうことはありませんでした。
あとは「求めてきたときが、与えどき」と心得てください。
Uさんの子どもが何かを求めてきたら、すかさず、与える。
それでよいのです。

それから投稿にありました、子どもの反抗ですが、この時期の子どもに、ごくふつうに見られる
反抗ですから、気にしてはいけません。
いわゆる(口答え)です。
(幼児期から、少年少女期への移行期に見られる、ふつうの口答えです。)
いちいち本気にするから、おおげさになってしまいます。
(このあたりにも、あなた自身の母親像のなさが、見受けられます。)

私の書いた原稿で参考になるようなものとしては、(好意の返報性)(親像)(育児ノイローゼ)
(悪玉親意識)(気負い先行型)などがあります。
ヤフーなどの検索エンジンを使って、「はやし浩司 好意の返報性」というように検索してみてく
ださい。記事をいくつかヒットできるはずです。

Uさん、あなたはすばらしい母親ですよ。
これほどまでに、自分をみつめ、真剣に悩む母親は、そうはいない。
まず、そういうあなた自身に自信をもってください。
その自信が、あなたの子どもに伝わったとき、あなたの子どももまた、安心感をあたなにもつよ
うになるでしょう。

どのみち、あと2、3年で、あなたの子どもは、親離れを始めます。
今はがまんのとき。
じょうずに子どもが親離れできるように、子どもをし向けます。

繰りかえしますが、Uさんが今経験しているような、親子騒動(?)は、珍しくも何ともありませ
ん。
ごくふつうの、一般の親たちが経験する、何でもない問題です。
(みんな、外から見ると、うまくやっているように見えますが、そう見えるだけです。)
できれば小学2、3年の子どもをもつ親に相談してみることです。
「うちもそうですよ」というようなアドバイスをもらって、たいていそれで解決するはずです。

そしてここが大切ですが、Uさんも子どもが親離れするのに合わせて、自分のしたいことを追求
します。
あなたにはあなたの人生があります。
子どものために犠牲になるのは、美徳でも何でもありません。
そういう姿を見て、あなたの子どももまた、たくましく成長していきます。

子どもの機嫌など、取らないこと。
嫌われてもいいじゃないですか。
中学生でも、約60%の子どもは、「親のようになりたくない」「尊敬できない」と答えていますよ。

それでよいのです。
子育てに幻想をいだかないこと。
子どもに尊敬されようとか、好きになってもらおうとか、思わないこと。
それともあなたは、自分の母親や父親を尊敬していますか。
好きですか。
文面を読むかぎり、答は「ノー」のはずです。

ついでに「はやし浩司 レット・イット・ビー」という原稿も読んでみてください。
参考になると思います。
(たった今、自分で検索してみたら、18件、ヒットしました。)

「レット・イット・ビー」というのは、「あるがままに……」という意味です。
では、また……。

はやし浩司

++++++++++++++++++++++

掲示板へは、(はやし浩司のHPのトップページ)より、(メール)→(掲示板)へと、おいでくださ
い。)

++++++++++++++

Uさんへ

読むのが遅くなり、失礼しました。
今日は8月22日です。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2809)

【今朝・あれこれ】(8月23日)

+++++++++++++++

「涼しい!」
どうしたことだ?
気象庁によると、10月中旬の気候という。

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韓国の国家破綻は時間の問題だが、しかしこの日本とて、あぶない(?)。
私が6年前に書いた原稿だと思うが、こんな原稿が出てきた。

+++++++++++++++

●国家破綻・これからの子育ては?

浜松市には、南米出身者を中心として、約2万4000人の外国人労働者たちが働いている(0
1年度)。あちこちに、小さな街ができるほどである。ある一角へ行くと、「ここは日本?」と思う
ようなところさえある。

 そういう外国人労働者を見ると、私たち日本人は、心のどこかで、「彼らは外国人」と思ってし
まう。しかし、本当に、そうか。そう言いきってよいのか。つまり彼らは、本当に、外国人労働者
なのか。ひょっとしたら、その姿は、近い未来の、日本人の姿ではないのか。

++++++++++++++

ご存知のように、1997年、韓国は、国家破綻(デフォルト)した。その年も終わろうとしていた、
11月21日、時のイム・チャン・ヨル副首相は、こう宣言した。

「今の難局を乗り切るには、IMFの誘導調整資金の援助を受けるしかない」と。

 そのときから、韓国の国家経済は、IMFの管理下に入ることになった。

 そのとき資金援助したのが、IMFに並んで、世界銀行と日本。それぞれが100億ドルを援助
した。そのほかにアメリカが、50億ドル。アジア開発銀行が、40億ドルなど。総計で、550億ド
ル!

 その結果、それまで33行あった主要銀行は、最終的には、3行になった。翌年には、失業者
は150万人を超え、韓国ウォンは、1ドルが、1000ウォンまで、下落した。

 ただ不幸中の幸いだったことは、韓国経済の規模がそれほど大きくなかったこと。今の日本
円になおせば、わずか5〜6兆円。それで、救済できたこと。(日本のばあい、あのN銀行救済
のためだけに、4兆円も、お金をドブに捨てている。C総連系列のC銀には、1兆円!)

 なおかつ、韓国は、その国家破綻をうまく利用して、韓国の経済を牛耳っていた、財閥を、解
体してしまった。つまり、韓国は、ゼロからやりなおすことで、生きかえり、若がえった。

 そしてその後の韓国の発展は、これまたご存知のように、めざましい!

 で、そういう韓国だが、教育という面でとらえると、どうなのか。

 たとえば今、韓国では、事実上の定年が、38歳ということになっている。58歳や、48歳では
ない。38歳である。

 それまでは韓国も、日本にならって、終身雇用、年功序列型の社会システムを営んできた。
しかし国家破綻をきっかけに、38歳とした。

 これはほんの一例だが、こうして韓国は、そのあと、世界でもまれに見る、競争型社会へと激
変した。復活した。日本のように、受験勉強だけして、合格すれば、あとは死ぬまで安泰といい
う社会を、自ら破棄したわけである。

 こうした競争主義は、冷徹な論理にもとづくものだが、しかし、この国際社会で生き残るため
には、必然である。能力と、実力と、やる気のあるものだけが、社会をひっぱる原動力となって
働く。

 もちろんその結果、多くの社会的ひずみが生まれたことも、否定できない。が、今、韓国は、
そうした問題をも、着々と解決しつつある。

 しかし、一方、この日本は、どうなのか?

 以前にも書いたが、あるテレビのレポーターが、当時の大蔵省の役人幹部に、こう聞いたこ
とがある。「あなたがたが、天下りをどう思いますか?」と。

 それに答えて、その役人幹部は、平然とこう言ってのけた。「私ら、今の仕事につくのに、そ
れ相当の苦労をしたのだから、当然です」と。

 彼らがいう「苦労」というには、受験競争をいう。今もそうだが、その受験競争というのは、ペ
ーパーテストをいう。

 で、この傾向は改まったかといえば、そうでもない。

 おととし(03)も、こんなシーンを、テレビで見た。「天下りをどう思うか?」という質問に対し
て、ある財務省の役人幹部は、こう答えていた。「私ら、仕事が忙しいから、退職後の就職先さ
がしができないのです。(だからしかたない)」と。

 私はウソを書いているのではない。ちゃんと、この耳で聞いた。

 こうした役人独特のエリート意識というのは、総じて、役人と言われる人たちは、みな、もって
いる。「役人が上で、庶民が下」と。だからその給料にしても、総じてみれば、役人の給料は、
民間の労働者の約2倍。

 平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、つぎのようにな
っている。

 1人当たりの人件費

     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所のうち
から抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の企業で働く勤
労者の平均。つまり民間企業の中でも、恵まれた労働者。小企業、弱小企業、個人経営店を
含めると、さらに低くなる。)

 ここでいう「公務員」には、官公庁のトップ役人から、清掃に従事する自治体の職員まで含ま
れる。平均が1018万円ということは、1500万円の給料の人もいれば、500万円の人もいる
ということ。

 こうした人たちが、たがいに仕事を回しあい、外部からの参入を、ぜったいに認めない。ため
しに、あなたの近くにある公営の図書館や公民館の人たちが、どういう人事異動で、今の職場
にいるか、聞いてみるとよい。

 能力ではない。実力ではない。経験でも知識でもない。この日本では、一度、受験競争という
関門を通ってしまえば、あとは、すべてトコロテン方式で、死ぬまで安泰。

 それはそういう世界にどっぷりとつかっている人には、きわめて居心地のよい世界かもしれ
ないが、同時に、それは、日本の社会構造そのものを、硬直化させる元凶となっている。

 が、もし韓国のように、定年を38歳にして、実力主義にしたらどうだろうか。当然のことなが
ら、役人たちの世界から、猛反対が起きるにちがいない。何といっても、日本は、奈良時代の
昔から、世界に名だたる、官僚主義国家。そうは簡単には、動かない。

 それはわかるが、国家破綻してからでは、遅い。言うなれば、日本中が、廃墟となってからで
は遅い。

 あの先の戦争にしても、最後の最後まで、官僚たちが、へたにがんばるから、その最後の最
後で、原爆まで落とされた。今の日本は、当時の状況にたいへんよく似ている。あるいはそうに
でもならないと、日本人は気がつかないのか。

 結局は、この重いツケは、子どもたちの時代にのしかかる。というより、これからの子育て
は、そういう時代を見越して、していかなければならない。

 国家破綻ということになれば、今の韓国のように、若者たちが、こぞって、外国に移住するよ
うになる。出稼ぎというのではなく、移住である。韓国では、ここ数年、毎年、1万4000人前後
が、アメリカを中心として、海外へ移住している。海外定住をめざした留学生も、02年末まで
に、34万人を越えた。もちろん日本の学歴など、外国では通用しない。学歴ではない、中身
だ。

 「あなたは何ができるか」という視点で、今度は、外国の人が日本人を見るようになる。そうい
う中、臨機応変に環境に対応し、モビリィティ(機動性)のある子どもだけが、生き残ることがで
きる。

そういう時代がやってくることを見越して、自分の子どもを育てる。

 最後に、一言。「じゃあ、せめてうちの子だけでも、公務員に……」と、もし、あなたが考えてい
るなら、それは甘い。

仮にIMFが、日本に介入してくるような事態になれば、イの一番に、その公務員たちがリストラ
される。仮に公務員として残ることができても、もちろん給料は、最低限におさえられる。

 そういうことも考えて、子どもの教育を組みたてたらよい。

++++++++++++++

 今日も、近くの公営アパートの前を通ると、南米からやってきた労働者たちが、家族らしき人
たちと集まって、何やら大声で騒いでいた。陽気な人たちだ。これから春になると、さらににぎ
やかになる。

 その明るさだけが、ふと、私の重い心を軽くする。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●John 8:34

+++++++++++++++

この世は偽善のかたまり。
以前、アメリカに住む息子が、そう言った。

しかし偽善こそ、人間がもっとも卑しむべき
行為。

日ごろは、美しい着物に身を包み、バラエティ
番組でケラケラと笑っている女性が、別のところで
は、作業服を着て、アフリカの難民運動の
指導者になる。

これを「偽善」と言わずして、何という?

+++++++++++++++

●偽善
聖書(RYRIE版)を、ひもとく。

John(8:34)には、こうある。

Jesus replies:
I tell you the truth, everyone who sins is a slave of sin.
Now a slave has no permanent place in the family, but a son belongs to it forever.
So if the Son sets you free, you will be free indeed.

イエスは、こう答えた。 
あなたに真実を話そう。罪ある人は、罪の奴隷である。
(罪の)奴隷には、家族の中に安住の場所はなく、息子が、永遠にそこにとりつく。
もし、その息子が、あなたを自由にするなら、あなたは本当に、自由になるだろう。

++++++++++++++++

 キリスト教でいう(sin=罪)という言葉には、独特のものがある。昔、オーストラリアの友人
に、一度、その意味を聞いたことがあるが、彼は、こう言った。「キリスト教徒でないと、理解で
きないだろうね」と。

 しかしニュアンスとしては、私にも、理解できるような気がする。

 邪悪な思想をもっている人は、いつもその邪悪な思想に振りまわされてしまう。そして自分が
邪悪なことをしていることにすら、気がつかなくなってしまう。つまり、邪悪な思想の奴隷にな
る。

 こんな勝手な解釈をすると、息子は怒るかもしれないが、私なりの解釈によれば、そうなる。

 つまり邪悪な思想に一度、とりつかれると、その時点で、自分の人生をムダにすることにな
る。一時の快楽を得ることはできるかもしれないが、一度キズついた人間性を取りもどすこと
は、容易なことではない。

 人生を、(真理への旅)にたとえるなら、その旅で、遠回りすることになる。あるいは道からは
ずれてしまう。だから、永遠に、その(真理)に、たどりつけなくなる。

 息子は、「真理を知れば、罪の奴隷から解放される」と言う。つまり罪の奴隷から、自らを解
放することが、自由である、と。

 しかし私の心の中には、邪悪なゴミがいっぱいある。ゴミだらけ。

 私は、平気で、人をうらむし、ねたむし、バカにするし、嫌うし、さげすむ。お金もほしいし、若
くて美しい女性を見れば、性的魅力を感じてしまう。まさに私は、(罪の奴隷、a slave of si
n)ということになる。

 私は、決して、善人でもないし、聖人でもない。

 だから私のような人間は、その臨終のとき、無間の孤独地獄の中で、もがき、苦しむ。失意と
悔恨。恐怖と不安。絶望と苦痛。そのどん底で、もがき、苦しむ。

 ……それがわかっているから、正直に告白するが、死ぬのが、こわい。こわくてならない。

 他人から見れば、私は、懸命にがんばっている人間に見えるかもしれない。一応、まじめだ
し、社会のルールは守っている。ウソはつかないし、健康にも注意している。いつも家族には、
誠実に接している。

 しかしそれとて、(自分がよい人間)だから、そうしているのではなく、臨終のときの自分が、こ
わいから、そうしているだけ。それはたとえて言うなら、借金取りに追いたてられるのがいやだ
から、仕事をしているようなもの。

 ほかに、私は、過去40年以上にわたって、人からお金を借りたことがない。それは私に何か
の哲学があって、それで借金をするのがいやだからではなく、頭をさげて、借りるのがいやだ
からにほかならない。根拠となる思想があって、そうしているのではない。

 同じように、本当に、同じように、私がいくら「私は自由だ」と叫んでも、そう叫んでいるだけ
で、本当に自由かどうかということになると、自分でも、まったく自信がない。

 やはり息子が言うように、本当に自由になるためには、自分の中にある、邪悪さから解放さ
れなければならない。お金がほしいくせいに、さもお金など興味はありませんというような顔をし
てみせる。それでは、真の自由を手にいれることはできない。

 しかしそれこそ、まさに偽善。その偽善のかたまりでは、真理には、到達できないということ。

 が、残された時間は、あまりにも、短い。今は、57歳。そのうち、兄のように頭もボケるだろ
う。そうなったら、おしまい。私は、何としても急がなければならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 偽善)

【心のトゲ】(1)
●三男からのハガキ  夏も終わるころ、富士山頂からハガキが届
いた。見ると三男からのものだった。登頂し
た日付と時刻に続いて、こう書いてあった。
「13年ぶりに雪辱を果たしました。今、ど
うしてあのとき泣き続けたか、その理由がわ
かりました」と。  13年前、私たち家族は富士登山を試みた。
私と女房、13歳の長男、10歳の二男、そ
れに7歳の三男だった。が、九合目を過ぎ、
九・五合目まで来たところで、そこから見あ
げると、山頂が絶壁の向こうに見えた。そこ
で私は、多分そのとき三男にこう言ったと思
う。「お前には無理だから、ここに残っていろ」
と。
女房と三男を山小屋に残して、私たちは頂
上をめざした。つまりその間中、三男はよほ
ど悔しかったのだろう、山小屋で泣き続けて
いたという。

●三男はずっと泣いていた!  三男はそのあと、高校時代には山岳部に入
り、部長を務め、全国大会にまで出場してい
る。今の彼にしてみれば富士山など、そこら
の山を登るくらい簡単なことらしい。その日
も、大学の教授たちとグループを作って登山
しているということだった。
女房が朝、新聞を見ながら、「きっとE君は
ご来光をおがめたわ」と喜んでいた。が、私
はその三男のハガキを見て、胸がしめつけら
れた。あのとき私は、三男の気持ちを確かめ
なかった。私たちが登山していく姿を見なが
ら、三男はどんな思いでいたのか。そう、振
り返ったとき、三男が女房のズボンに顔をう
ずめて泣いていたのは覚えている。しかしそ
のまま泣き続けていたとは!

●後悔は心のトゲ  「後悔」という言葉がある。それは心に刺
さったトゲのようなものだ。しかしそのトゲ
にも、刺さっていることに気づかないトゲも
ある。私はこの13年間、三男がそんな気持
ちでいたことを知る由もなかった。何という
不覚! 私はどうして三男にもっと耳を傾け
てやらなかったのか。何でもないようなトゲ
だが、子育ても終わってみると、そんなトゲ
が心を突き刺す。
私はやはりあのとき、時間はかかっても、
そして背負ってでも、三男を連れて登頂すべ
きだった。重苦しい気持ちが、私の心をふさ
いだ。で、女房にそれを伝えると、女房はこ
う言って笑った。「だって、あれは、E君が足
が痛いと言ったからでしょ」と。「Eが、痛い
と言ったのか?」「そう、E君が痛いから歩け
ないと泣いたのよ。それで私も残ったのよ」
「じゃあ、ぼくが登頂をやめろと言ったわけ
ではないのか?」「そうよ。九合目くらいから、
足が痛いから歩けないと、泣きべそをかいていたのよ」と。
とたん、心の中をスーッと風が通り抜ける
のを感じた。軽い風だった。さっそくそのあ
と、三男にメールを出した。「登頂、おめでと
う。よかったね」と。




【許して、忘れる】(2)
●崩れた息子
 「パパ、もうダメだ!」と、息子のHが、
電話をかけてきた。それまでに聞いたことが
ない、悲痛な声だった。私は異常さを感じ、
すかさず、こう言った。「帰って来い!」と。
 が、驚いたのは、その翌日の夜のこと。見
ると、Hが、玄関先に立っていた。まさか、
その翌日に帰ってくるとは、思ってもみなか
った。
 H……「日本へは二度と帰ってこない」と
いう捨てゼリフを残して、友人のI君と2人
で、オーストラリアへと旅立っていった。し
かしHには、何もかも、合わなかったらしい。
食事も水も、生活も……。2年間の留学生活
を終え、これから専門の勉強に入るという矢
先、精神的に、崩れてしまった。まだインタ
ーネットもない時代である。私たちはHの心
の変化に気づかなかった。

●息子の引きこもり
 で、日本へ帰ってきてからのHは、自分の
部屋に引きこもるようになってしまった。夜
と昼が逆転。訪れてくる友人は、ただ1人。
小学時代からの友人、Z君だけだった。
 挫折感がよほど大きかったのか、私たち夫
婦と口をきくことも、ほとんどなかった。が、
ゆいいつの救いは、私はこのタイプの子ども
への対処法を、熟知していたことだった。
『ほどよい親』『暖かい無視』『求めてきた
ときが与えどき』。この3つの原則を貫いた。
 が、苦しまなかったといえば、ウソになる。
泣きたいときは、ワイフと車で、山の中まで
行き、そこで涙を流した。そんなとき、いつ
か、オーストラリアの友人が教えてくれた言
葉が、私を救ってくれた。その友人は私が悩
んだり、苦しんでいると、いつもこう言った。
「ヒロシ、許して、忘れろ!」と。

●『許して、忘れる』
英語では、「FOR・GIVE & FOR・GET」
という。この単語をよく見ればわかるように、
「FOR・GIVE(許す)」は、「与えるため」
とも訳せる。同じように「FOR・GET(忘れ
る)」は、「得るため」とも訳せる。しかし何
を与えるためなのか。何を得るためなのか。
が、そのときわかった。
『許して、忘れる』は、「子どもに愛を与え
るために許し、子どもから愛を得るために忘
れる」ということになる。その度量の大きさ
によって、親の真の愛の深さが決まる。
 Hの闘病生活は、それから丸3年近くもつ
づいた。何種類かの薬を処方してもらったこ
ともあるが、どれも副作用が強く、Hには合
わなかった。が、そんなある日、Hが、突然、
「仕事に行く」と言い出した。それはそれで
うれしかったが、「どんな仕事だ?」と聞くと、
「工事現場での旗振りの仕事」と。
 たまたま夏の暑い日がつづいていた。私は
こう言った。「何もいきなり、そんなきびしい
仕事をしなくても……」と。それに答えてH
はこう言った。「そういう仕事で、自分を試し
てみたい」と。
で、私たちがしたことは、日焼け止めクリ
ームを、Hの部屋の前にそっと置いておくこ
とでしかなかった。
 そうそう一度だけだが、Hがどんな仕事し
ているか、それを見に行こうとしたことがあ
る。しかし途中まで行ったところで、ワイフ
が「やめよう」と言った。見るとワイフの頬
を、幾筋もの涙が、流れているのがわかった。




【父のうしろ姿】(3)
●ズタズタになったプライド
 私の実家は、昔からの自転車屋とはいえ、
私が中学生になるころには、斜陽の一途。私
の父は、ふだんは静かな人だったが、酒を飲
むと人が変わった。2、3日おきに近所の酒
屋で酒を飲み、そして暴れた。大声をあげて、
ものを投げつけた。そんなわけで私には、つ
らい毎日だった。プライドはズタズタにされ
た。友人と一緒に学校から帰ってくるときも、
家が近づくと、あれこれと口実を作っては、
その友人と別れた。父はよく酒を飲んでフラ
フラと通りを歩いていた。それを友人に見せ
ることは、私にはできなかった。

●「どうやって隠せばいいのだ」
 その私も52歳。1人、2人と息子を送り
出し、今は三男が、高校3年生になった。の
んきな子どもだ。受験も押し迫っているとい
うのに、友だちを20人も呼んで、パーティ
を開くという。「がんばろう会だ」という。土
曜日の午後で、私と女房は、三男のために台
所を片づけた。片づけながら、ふと三男にこ
う聞いた。
 「お前は、このうちに友だちを呼んでも、
恥ずかしくないか」と。すると三男は、「どう
して?」と聞いた。理由など言っても、三男
には理解できないだろう。私には私なりのわ
だかまりがある。私は高校生のとき、そうい
うことをしたくても、できなかった。友だち
の家に行っても、いつも肩身の狭い思いをし
ていた。「今度、はやしの家で集まろう」と言
われたら、私は何と答えればよいのだ。父が
壊した障子のさんや、ふすまの戸を、どうや
って隠せばよいのだ。

●私は父をうらんだ
 私は父をうらんだ。父は私が30歳になる
少し前に死んだが、涙は出なかった。母です
ら、どこか生き生きとして見えた。が、その
思いは、私の年齢とともに変わってきた。4
0歳を過ぎるころになると、その当時の父の
悲しみや苦しみが、理解できるようになった。
商売べたの父。いや、父だって必死だった。
近くに大型スーパーができたときも、父は「J
ストアよりも安いものもあります」と、どこ
か的はずれな広告を、店先のガラス戸に張り
つけていた。しかもそのJストアに自転車を
並べていたのが、父の実弟、つまり私の叔父
だった。叔父は父とは違って、商売がうまか
った。父は口にこそ出さなかったが、よほど
くやしかったのだろう。戦争の後遺症もあっ
た。父はますます酒に溺れていった。

●孤独の耐え方を教えてくれた父
 同じ親でありながら、父親は孤独な存在だ。
前を向いて走ることだけを求められる。だか
らうしろが見えない。見えないから、子ども
たちの心がわからない。ある日気がついてみ
たら、うしろには誰もいない。そんなことも
多い。ただ私のばあい、孤独の耐え方を知っ
ている。父がそれを教えてくれた。客がいな
い日は、いつも父は丸い火鉢に身をかがめて、
暖をとっていた。あるいは油で汚れた作業台
に向かって、黙々と何かを書いていた。その
ときの父の気持ちを思いやると、今、私が感
じている孤独など、何でもない。
 私と女房は、その夜は家を離れることにし
た。私たちがいないほうが、三男も気が楽だ
ろう。いそいそと身じたくを整えていると、
三男がうしろから、ふとこう言った。「パパ、
ありがとう」と。そのとき私はどこかで、死
んだ父が、ニコッと笑ったような気がした。
(2002年記)




【子どもの巣立ち】 (4)
●対等の人間として
 階段でふとよろけたとき、三男がうしろか
ら私を抱き支えてくれた。いつの間にか、私
はそんな年齢になった。腕相撲では、もうと
っくの昔に、かなわない。自分の腕より太く
なった息子の腕を見ながら、うれしさとさみ
しさの入り交じった気持ちになる。
 男親というのは、息子たちがいつ、自分を
超えるか、いつもそれを気にしているものだ。
息子が自分より大きな魚を釣ったとき。息子
が自分の身長を超えたとき。息子に頼まれて、
ネクタイをしめてやったとき。そうそう二男
のときは、こんなことがあった。
二男が高校に入ったときのことだ。二男が
毎晩、ランニングに行くようになった。しば
らくしてから女房に話を聞くと、こう教えて
くれた。「友だちのために伴走しているのよ。
同じワンゲル部に入る予定の友だちが、体力
がないため、落とされそうだから」と。その
話を聞いたとき、二男が、私を超えたのを知
った。いや、それ以後は二男を、子どもとい
うよりは、対等の人間として見るようになっ
た。

●光り輝く人生
 その時々は、遅々として進まない子育て。
イライラすることも多い。しかしその子育て
も終わってみると、あっという間のできごと。
「そんなこともあったのか」と思うほど、遠
い昔に追いやられる。「もっと息子たちのそば
にいてやればよかった」とか、「もっと息子た
ちの話に耳を傾けてやればよかった」と、悔
やむこともある。そう、時の流れは風のよう。
どこからともなく吹いてきて、またどこかへ
と去っていく。そしていつの間にか子どもた
ちは去っていき、私の人生も終わりに近づく。
 その二男がアメリカへ旅立ってから数日後。
私と女房が二男の部屋を掃除していたときの
こと。一枚の古ぼけた、赤ん坊の写真が出て
きた。私は最初、それが誰の写真かわからな
かった。が、しばらく見ていると、目がうる
んで、その写真が見えなくなった。うしろか
ら女房が、「Sよ……」と声をかけたとき、同
時に、大粒の涙がほおを伝って落ちた。

●子育ての価値
 何でもない子育て。朝起きると、子どもた
ちがそこにいて、私がそこにいる。それぞれ
が勝手なことをしている。三男はいつもコタ
ツの中で、ウンチをしていた。私はコタツの
ふとんを、「臭い、臭い」と言っては、部屋の
真ん中ではたく。女房は三男のオシリをふく。
長男や二男は、そういう三男を、横からから
かう。そんな思い出が、脳裏の中を次々とか
けめぐる。そのときはわからなかった。その
「何でもない」ことの中に、これほどまでの
価値があろうとは! 
街で親子連れとすれ違うと、思わず、「いい
なあ」と思ってしまう。そしてそう思った次
の瞬間、「がんばってくださいよ」と声をかけ
たくなる。レストランや新幹線の中で騒ぐ子
どもを見ても、最近は、気にならなくなった。
「うちの息子たちも、ああだったなあ」と。
 問題のない子どもというのは、いない。だ
から楽な子育てというのも、ない。それぞれ
が皆、何らかの問題を背負いながら、子育て
をしている。しかしそれも終わってみると、
その時代が人生の中で、光り輝いているのを
知る。もし、今、皆さんが、子育てで苦労し
ているなら、やがてくる未来に視点を置いて
みたらよい。心がずっと軽くなるはず。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2810)

【B・ツアーと、民主主義】

●ビデオと多数決

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少し前まで、B・ツアーといえば、帰りの
バスの中でのビデオが、定番だった。

しかし最近は、「見るか、見ないか」で多数決を
採ってくれるようになった。

しかし……?

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●B・ツアー

地元のバス会社が運営するバス・ツアーに、B・ツアーというのがある。
値段も安く、良心的。
安心して旅行できるという点で、私たち夫婦は、月に2〜3回は、利用させてもらっている。

が、そのB・ツアー、30〜40年ほど前には、タバコの煙とカラオケに悩まされた。
最近は、帰りのバスの中でのビデオに悩まされた。

ビデオといっても、『寅さん』ものか、『釣りバカ日誌』もの。
定番になっていることもあり、同じビデオを何回も見せられることもある。
しかし同じビデオを3回、4回……と見せられると、うんざりというよりは、拷問に近くなる。
そのため私とワイフは、B・ツアーを利用するときは、それぞれ、騒音軽減装置付きのウォーク
マンをかならず持参する。

●多数決

ところが最近、そのB・ツアーが急速に洗練されつつある。
多数決を採るようになった。

「ビデオを見たい人と、見たくない人で、多数決を採ります」と。

実は今日も、帰りのバスの中で、それがあった。

ガイド「ビデオを見たい人」……4人
ガイド「ビデオを見たくない人」……7〜8人。

私は最後部の座席にいたので、その数を知ることができた。

しかしこの採決は、基本的な部分で、おかしい。
まちがっている。

●弱者の立場

こんな例で考えてみよう。
今でこそ、観光バスの中で、カラオケを歌う人はいない。
歌う人にとってはそうでなくても、聴くほうにしてみれば、騒音。
騒音以外の何ものでもない。

そのカラオケについて、もしガイドが、つぎのような採決を採ったとする。

ガイド「カラオケを歌いたい人」……10人
ガイド「カラオケを歌いたくない人」……5人
ガイド「では、カラオケをみなで、歌うことにします」と。

この採決のばあい、それで迷惑を受ける人の立場を、まったく無視している。

こういうときは、つぎのように採決を採るのがよい。

ガイド「カラオケを楽しみたい人」……10人
ガイド「カラオケで迷惑する人」……5人
ガイド「楽しみたい人が多いので、カラオケを歌うことにします」と。

しかしそれでも、おかしい。
こういうケースのばあい、それによって迷惑を受ける人がいるなら、カラオケは中止すべきであ
る。
なぜなら、理由は、明白。
カラオケなど、しなければならないものではないからである。
バス旅行に必要なものであれば、こうした採決を採ることにも意味がある。
しかしカラオケがなければ、バスが止まるというものでもない。
観光が台なしになるということでもない。

●ビデオのばあい

では、ビデオはどうか?

ビデオのばあいも、やはり同じように採決を採る。

ガイド「ビデオを楽しみたい人」……10人
ガイド「ビデオで迷惑を受ける人」……5人
ガイド「楽しみたい人が多いので、ビデオを見ます」と。

が、このばあいも、ビデオの騒音によって迷惑を受ける人の立場はどうなるのか。
旅行の帰りともなれば、疲れて静かに休みたい人もいるはず。
50歳以上の人ともなれば、なおさらである。
数は少なくても、5人の人が迷惑するというのであれば、5人の人を優先すべきである。

が、それでもわからないという人がいたら、こんな例で考えてみよう。

●喫煙

先にも書いたように、以前は、観光バスの中でも、喫煙は自由にできた。
冬場などは、バスの中は、もうもうたる煙が充満した。
である日、私はB・ツアー会社に手紙を書いた。

前部と後部で、喫煙者と非喫煙者を分けてほしい、と。
しかしこの提案は完全に無視された。
と、同時に、私たちは10年近く、B・ツアーから遠ざかった。

その喫煙について、ガイドがこんな採決を採ったとする。

ガイド「タバコを吸いたい人」……10人
ガイド「タバコの煙で、迷惑を受ける人」……5人
ガイド「タバコを吸いたいという人が多いので、タバコを吸ってもいいということにします」と。

●弱者の世界

弱者は、多くのばあい、少数派である。
もし多数決だけで、ものごとが決まっていったら、それこそ、この世界は闇。
闇というより、民主主義そのものが、崩壊する。

そこで民主主義の世界では、いかに弱者にやさしいかで、その完成度を計る。
当然のことながら、弱者にやさしい世界を、より完成された世界という。
そうでない世界を、そうでないという。

ビデオに話をもどす。

なぜ、帰りのバスの中で、ビデオを流すか?
ビデオというのは、見なければならないものなのか?

ビデオのかわりに、音楽ではだめなのか?
音楽のかわりに、無音の写真集ではだめなのか?
たとえばガイドがデジタルカメラで撮った写真を、スライド方式で流すという方法もある。
今では、それが2〜3万円のデジタルカメラでできる。

何もビデオにこだわる必要はない。
が、さらに問題はつづく。

●ビデオの選択

ご存知のように国際便の飛行機の中では、10〜20の番組の中から、好きなビデオを選んで
見ることができる。
個人の好みは、みなちがう。
それならまだ話もわかる。
そういうとき、(今回もそうだったが)、2種類だけのビデオを取り出し、「見ますか、見ません
か?」は、ない。

今日は、『寅さん』ものだったが、国民的映画だから、みなが喜ぶはずと考えるのは、おかし
い。
『寅さん』もののようなビデオともなると、同じものを以前にも見たという人が多いはず。
2度目ならまだしも、3度目、4度目となると、いくら寅さんのファンでも、うんざりするだろう。

繰り返すが、ビデオというのは、見なければならないものなのか?

●日本人と騒音

介護を必要とする老人専用のケア・センターでは、どの部屋でも、しかもいつも、大型のテレビ
がかけっぱなしになっている。

いろいろ理由があるらしい。

老人に刺激を与えるためとか、老人を退屈させないためとか。
そういう表立った理由のほか、昼間は老人たちを、できるだけ起こしておくという目的もある。

夜間は、介護をする人の人数が、ぐんと減る。
そのため昼間はできるだけ起こしておき、夜間は、できるだけ眠ってもらう。
それはともかくも、ケア・センターでは、ほとんど意味もなく、テレビをかけっぱなしにしている。
実際、テレビを見ている老人は、ほとんどいない。

……と同じようなことを、地元のバス会社も考えているとしたら、これはまちがい。
「ビデオを流しておけば、老人は退屈しないだろう」
「その間、ガイドは、休息を取ることができる」と。

しかし騒音は、騒音。
日本人は、その騒音に、たいへん鈍感な民族と考えてよい。

で、私なりの結論。
観光バスに、ビデオは不要。
もしそれでも……という人がいたら、各自、ポータブルDVD鑑賞機を、もちこんだらよい。
これからはそういう時代である。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●小銭の奴隷たち

欲望は行動の原動力。
「〜〜したい」「〜〜がほしい」という思いが、行動につながっていく。
それはそのとおりだが、
しかし元来、欲望というのは、その先で目的とつながっている。
「おなかがすいた……だから食事を食べたい」とか、など。

「お金がほしい」という思いとは、異質のもの。

こんな例で考えてみよう。
これは私が実際、経験したことである。

以前、中学生たちに、「おとなになったら、何がしたいか?」と聞いたことがある。
手をあげて答える子どもがいなかった。
そこで私が強く促すと、1人の中学生(男子)が、こう答えた。

「1億円がほしい」と。
そこで私が「その1億円でどうするの?」と聞くと、「机の上に飾っておく。毎日、ながめて過ご
す」と。

つまりお金というのは、常に手段でしかない。
たとえば「パソコンがほしい」という思いが、「お金がほしい」という思いにつながっていく。
が、その目的もなく、欲望を満足するための手段としてのお金がほしいというのであれば、その
人は、すでにお金の奴隷になっていることを示す。

すると中には、こう反論する人もいるかもしれない。
「お金というのは、あればあるほどいい」「いつか何かのときに役立つから」と。

しかし本当にそうだろうか。
つまり、それでその人の欲望は、それで満足するのだろうか。

このことは前にも書いたが、こんなことがあった。

ある日、郵便局へ行くと、老人たちがズラリと並んでいた。
見ると、それぞれが100万円の札束を手づかみでつかんで、もって帰っていくではないか!
驚いてあとで、郵便局長に聞くと、こう教えてくれた。
「みんな年金ですよ。年金は3か月ごとに支給されますから」と。
このあたりには、旧国鉄村と呼ばれるほど、旧国鉄の職員たちがたくさん住んでいる。
旧国鉄の職員たちの年金額は、旧三公社五現業の中でもとくに、高い。

私は何も年金族が悪いというのではない。
しかし社会保障費と呼ばれる国家支出の約80%が、こうした年金などにあてられていうのは、
どう考えてもおかしい。

たとえば05年度にしても、88兆円もの社会保障費の約80%は、年金、医療、介護など、高
齢者に向けられている。
一方、子ども向けは、4兆円にすぎない(東洋経済・5・17、08)。
とくに年金への支出が、すごいことに注目!

どうしてそういうお金を、子どもをもつ親たちに振り分けないのか?

生活費とはいうが、老人たちはそんな高額の年金を、何に使うのか。
私の家の近所には、今年80〜90歳になる人たちがたくさん住んでいる。
が、満55歳で役所や国鉄を退職したあと、ただの一度も働いたことがない人は多い。

そういう人たちを見ていると、何のための年金制度かということになる。

……少し頭が熱くなったが、欲望というのは、そういうもの。
子どもでも、「ピアノをうまく弾けるようになりたい」というのは、私にも理解できる。
「そのために、すばらしいピアノがほしい」というのであれば、それも理解できる。
しかしただ「お金がほしい」というのは、欲望の中身に具体性がないという点で、私には理解で
きない。
つまりその時点で、お金の奴隷、つまりここでいう「小銭の奴隷」になっていることを示す。

お金の奴隷というのは、アルコール中毒、ニコチン中毒と並んで、脳の中に特殊な受容体が形
成されるため、一度、その奴隷になると、それから自らを解放するのは、容易なことではない。

このタイプの人は、つぎのような言い方をするので、そうであると知ることができる。

(1)お金の計算が、こまかい。ケチ。ずるい。
(2)何かの支払いの話となると、決まって、「ぼくにはお金がないから」を口ぐせにする。
(3)自己中心的で、お金の使い方が自己愛的。家族の治療費ですら、ケチる。

そうでない人には、信じられないような話だが、実際、そういう人は少なくない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●無給の国家公務員?

そんな国家公務員がいることなど、
私は、今まで知らなかった!

私は、今まで、国家公務員の給料というのは、
(総人件費)÷(国家公務員数)で計算する
ものばかりと思っていた。

しかし無給の国家公務員がいるとなれば、
この算出方法は、役に立たなくなる!

つまり国家公務員の給料は、無休の国家公務員をふやすこと(=分母を大きくすること)で、ご
まかされている?

++++++++++++++++++

 保護司という役職(?)は、「無給の国家公務員」だそうだ。「法務大臣から委嘱(いしょく)され
たボランティアで、保護監察官と協力して、環境調整と、保護観察の仕事に当たっています」
(保護観察所配布パンフ)とある。

 そしてここが重要だが、別のパンフには、こうある。「保護司は、非常勤で一般職の国家公務
員とされています。給料は、至急されません」と。

 全国のみなさん、わかるか? この不透明感。

 現在、国家公務員や地方公務員が、いったい、いくらの給料を手にしているか、それを正確
に知っている人は、ほとんどいない。公表している団体も、自治体もない。しかし計算方法がな
いわけではない。

 そこで国家公務員の給料を知るための、もっとも簡単な方法は、(総人件費)を(公務員数)
で割るというもの。産経新聞は、この方法で、国家公務員(行政職国家公務員)の給料を算出
している。それによれば、全国の行政職国家公務員約33万2000人の人件費の総額は、4
兆6571億円だそうだ(産経新聞・05・06)。

 この数字から計算すると、国家公務員1人当たりの人件費は、何と、年間1403万円(!)と
いうことになる。(1403万円だぞ! 4兆6500億円÷33・2万人で計算)そして社会保障費
だけで、国家税収、約43兆円の約半分を、使っていることになる(ギョッ!)。

 ちなみに、平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、つぎ
のようになっている。

 1人当たりの人件費

    (国家公務員)          ……1403万円(上記算出方法)
     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 みなさん、おわかりか?

 企業規模100人以上の、いわゆる民間の中でも、めぐまれた企業に働く労働者の平均人件
費は、448万円! しかし国家公務員は、1400万円以上! ナ、何と、3倍近いもの給料
(人件費)を手にしていることになる。

 しかし保護司のような、無給の国家公務員までいるとは知らなかった。ということは、(総人件
費)÷(国家公務員数)で、国家公務員の給料を算出しても、意味がないということになる。

 その保護司だけでも、全国に、5万2500人(保護司法、第2条第2項、定数)もいる。この無
給の国家公務員、5万2500人を国家公務員に加えて、総人件費を割れば、当然のことなが
ら、みかけ上、国家公務員の給料は、低く算出される。

 言いかえると、その分だけ、さらに国家公務員は、手厚く保護されることになる。つまりもし保
護司のような無給の国家公務員を、国家公務員としてその数に算入すれば、国家公務員の給
料は、さらにあがることになる! わかりやすく言えば、1403万円という数字そのものが、あ
やしくなる! 保護司のほか、無給の国家公務員は、いったい、何人いるのか? 無給ではな
くても、非常勤で、安い給料に甘んじながら、身分だけは国家公務員という人もいるだろう。そ
ういう人たちは、何人いるのか?

 知らなかった!

 しかしまあ、いろいろなところに、カラクリがあるものだ。日本は官僚主義国家ということにな
っているが、ここまでやっているとは、夢にも思わなかった。全国には、まじめな気持ちで保護
司というボランティア活動をしている人も多いはず。

 が、その仕事そのものが、別のところで、官僚たちの利益に利用されていると知ったら、保護
司の人たちは、どう思うだろうか。考えれば考えるほど、頭にくる話ではないか!

+++++++++++++++++

昨年(05)書いた原稿を、ここに
そのまま添付します。

+++++++++++++++++

●国家公務員の給料

 このほど、はじめて、国家公務員の人件費が、公表された(産経新聞・05・06月)。

 それによると、全国の行政職国家公務員約33万2000人の人件費の総額は、4兆6571億
円だそうだ※。

 人件費については、たとえば、社会保障費の場合、総額は20兆3808億円と公表されてい
るが、これには335億円の人件費が含まれている。公共事業費など他の項目にも紛れ込んで
いる人件費を抜き出すと、一般歳出総額の9・8%にのぼる(同)。

 つまり、これらの数字から計算すると、国家公務員1人当たりの人件費は、何と、年間1403
万円(!)ということになる。(1403万円だぞ! 4兆6500億円÷33・2万人で計算。)そして
社会保障費だけで、国家税収、約43兆円の約半分を、使っていることになる(ギョッ!)。

 この数字を見て、驚かない人はいないだろうと思う。もうメチャメチャな数字と言ってよい。

 その上、天下り、インチキ、ごまかし、諸手当……。もう、何でもござれ!

 が、人件費削減など、どこ吹く風。一方で、人件費削減をにおわせながら、その一方で、たと
えば「地域手当」を、新設。「都市部を中心に、基本給の3〜18%を上積みし、地方の出先機
関に出向した職員も、基本給の3〜6%に当たる(広域異動手当)、最大3年間受給できる」
(同)という。

 道理で、みなさん、3年以内ごとに、人事異動するわけ(?)。これではじめて、そのカラクリが
わかったぞ!

 ちなみに、平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、つぎ
のようになっている。

 1人当たりの人件費

     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※
(国家公務員)          ……1403万円

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所
のうちから抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の
企業で働く勤労者の平均。小企業、弱小企業、個人経営店を含めると、さらに低くなる。)

 みなさん、おわかりか?

 企業規模100人以上の、いわゆる民間の中でも、めぐまれた企業に働く労働者の平均人件
費は、448万円! しかし国家公務員は、1400万円以上! ナ、何と、3倍近いもの給料を
手にしていることになる。

 それぞれの国家公務員の人に責任があるわけではないが、こんなところにも、日本が、官僚
主義国家と呼ばれる理由がある。「新社会主義国家」と呼んでいる、社会学者もいる。

 そしてこうした国家、地方の公務員の人件費だけで、38兆円。国家税収の、実に89%を使
っている! (国家税収を、43兆円で計算。)

 私も、同じ日本人だが、こんなメチャメチャな、財政運営をしている国を、ほかに知らない。お
まけに、「箱物行政」と言われることからもわかるように、公共の建物だけは、全国津々浦々、
どこへ行っても、超立派! 超豪華!

 それらはすべて、国民からの借金。お金が足りなくなると、(当然、足りなくなる)、赤字国債
(=借金)をどんどんと発行。その額、もうすぐ1000兆円! 国家税収の約40倍! それでも
足りないから、増税、また増税! が、それでも足りなくなると、介護保険制度に例をみるまで
もなく、直接、強制徴収!

 年収の約25倍の借金をかかえたら、どうなる? ほんの少しだけ、あなたの給料をもとに、
計算してみるとよい。たとえば年収500万円の人なら、2億円の借金ということになる!

 あなたなら、どうやって、その借金を、返す?

 まあ、しかし私も、驚いた。本当に、驚いた。もう、知〜らない。ハハハ。ハハハ。

(注※) 平成17年度予算に占める国家公務員の人件費が、一般歳出総額四17兆2829億
円のうち4兆6571億円と約一割に上り、文教・科学振興費に次ぐ多額の支出になることが6
月15日、財務省などの調べでわかった。公表ベースの歳出項目ごとの人件費はこれまで明ら
かにされておらず、それぞれの人件費が「隠れみの」(首相官邸筋)になって予算を圧迫してき
た形だ。政府は人件費削減によって財政再建を加速させたい考えだが、省庁側の抵抗は激し
さを増しそうだ(産経新聞)。
(はやし浩司 公務員の給料 人件費 国家公務員の給料 人件費)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●聖書を読む

++++++++++++++++++

私も含めてだが、ほとんどの人は、
小銭の奴隷となり、小銭の奴隷のままで死ぬ。

それでよいとはだれも思っていないが、
しかしほかに道を示してくれる人もいない。

そこで久しぶりに、聖書を開く。
Ryrie版「Study Bible」。
友人のJimがくれたもの。

+++++++++++++++++

●Matthew(マタイ)

聖書によれば、マタイ(姓はLevi)は、税官吏(tax collector)だったという。そのため同じユダ
ヤ人たちからは嫌われていたという。が、イエスの呼びかけにすぐ応じ、イエスの弟子となる。
12使徒の1人ではあったが、そのため立場は特殊だったらしい。しかしイエスの再臨後、マタ
イは、パレスチナ(Palestine)で、12年間、布教活動をする。そのあと他の地に移ったと言わ
れているが、確かではない(同書、p1455)。

●マリアの処女懐胎

マタイ伝(1:15)には、こう記述されている。

(1)生誕告知

これがイエス・キリストが生まれたいきさつである。
マリアはヨセフとの結婚が約束されていた。
しかし2人がいっしょになる前に、マリアが聖霊(Holy Spirit)によって、身ごもっていることが
わかる。
ヨセフは誠実な人であったから、マリアを辱めないよう、そのことを公にしなかった。
マリアとは静かに離婚するつもりでいた。
が、そう決心したとき、主の天使が現われて、夢の中でヨセフにこう言った。
「ダビドの息子のヨセフよ、マリアを妻として家に連れて帰ることを恐れてはいけない。
なぜならマリアが身ごもっているのは、聖霊の子であるから。
あなたはその子どもを産みなさい。
名前をイエス(JESUS)としなさい。
なぜならその子は、人々を罪(SIN)から救うからです」と。

これはすべて「処女が身ごもり、子どもを産むだろう。
みなは、その子を、"Immanuel"、つまり"神とともの子(God with us)"と呼ぶだろう」とい
う、予言そのものであった。

ヨセフは目覚めたあと、主の天使の命令どおりにした。
そしてマリアを妻として、家に連れて帰った。
しかし子どもが生まれるまで、マリアと関係(union)をもたなかった。
生まれた子どもを、「イエス」と名づけた。

++++++++++++

ここで誤解が一つ、解けた。
ヨセフは、天使から、夢の中で、「生まれてくる子どもは神の子である」という告知を受けていた
ことになる。

++++++++++++

(2)赤子の崇拝

イエスがJudeaのベツレヘムで生まれたあと、当時はヘロド王の時代であったが、東方から、
マギ(Magi)が、エルサレムへやってきて、「ユダヤの王として生まれた赤子はどこにいるか?
 私たちは東に彼の星を見た。その赤子を崇拝するためにやってきた」と言った。

注……「Magi」、東方の博士。キリスト降臨のとき、東方から贈り物を携えてやってきた3人の
博士(小学館・ランダムハウス辞典)。

+++++++++++++++++

聖書を疑うことはよくないことだが、この話には、小さな矛盾がある。
マギは、東方(東洋)から、東に、彼の星を見たから、イエスのところへ来たという。
もしそうなら、マギは、西方に彼の星を見て、東方から来たというのが正しいのではないか。

また聖書では、「the east」(東方)となっている。
今まで私は、「東洋の聖人」と理解していた。
これは私の誤解だった。

+++++++++++++++++++

ヘロド王は、このことを知り、すべてのJerusalemが、(イエスとともに)いることに、心を乱され
た。
ヘロド王は、主だった僧や教師を呼び集めたとき、どこでその赤子が生まれたかをたずねた。
彼らは「Judiaのベツレヘム」と答えた。
なぜならそのように予言書に書かれていたからである。

『Judahの土地は、あなたがけっして統治するものではない。
(=...by no means least among the rulers of Judah...)なぜならあなたが
たの中から、統治者が現われ、イスラエルの人々の羊飼いとなるであろうから』と。

++++++++++++++++++

イエスの誕生の前には、いくつかの予言があったようだ。
その予言に従って……というより、予言のとおりに、イエスは生まれた。

++++++++++++++++++

ヘロド王はひそかにマギを呼びつけ、星が現われた正確な時間を知った。
ヘロド王は部下たちをベツレヘムに送り、「その赤子を注意深くさがせ。見つけ次第、私に報告
しろ。私もその赤子を崇拝するため、ベツレヘムへ行くだろう」と言った。

王の言葉を聞いたあと、部下たちは途中で、東に見たその星が、彼らの行く手前方にあり、そ
の赤子のいるところで止まっているのを知った。
その星を見たとき、彼らは歓喜した。
家に着くやいなや、彼らは聖母マリアとともにいる赤子を見た。
彼らはひざまづき、その赤子を崇拝した。
それから宝箱を開け、金と香料とmyrrh(芳香性の樹脂、香料)の贈り物を与えた。
そして夢の中で警告を受けていたように、彼らはヘロド王のところへは戻らず、別の道を通っ
て、彼らの国へと帰っていった。

++++++++++++++++

またまた疑問が解けた。
3人の聖人は、ヘロド王の命令によって、ベツレヘムへ行き、そこでイエスを見たという。
贈り物を与えたあと、ヘロド王のところへは戻らず、別の道を通って、それぞれの国へ帰ったと
いう。

先ほど、「小さな矛盾」と書いたが、これで謎(?)が解けた。

マギは東からやってきた人物である。
そのときマギは、ヘロデ王のもとにいた。
で、ヘロデ王の命令を受けて、イエスをさがしに行く。
そのとき東の空に、星を見る。
その星についていくと、イエスのところにたどりついた。

これなら矛盾はない。

+++++++++++以上、1461Pまで+++++++++++

なお、某HPには、つぎのようにある。

「キリストがベツレヘムの商隊の旅篭(はたご)で生まれて間もなく、東の国、そうアラブやペルシ
ャ辺りでしょうか。その東の国で見慣れない星が、西の空に輝いたの見た。今で言う占い博士
達が見ました」(「星の神殿」)と。

この中では、「西の空に輝いた」と書いてある。

「?」。

ともかくも、重箱の底をほじくりかえすような議論は、あまりよくない。
しかしキリスト教のことで何かわからないことがあったら、聖書にもどるのがいちばんよい。

このつづきは、また別の機会に書いてみたい。
これから朝食。
それがすんだら、母を見舞いに行かねばならない。
昨日、担当のドクターから、「ターミナル・ケア(末期治療)」について話し合いたい」という連絡
が入った。
何かの書類に、印鑑を押すように言われている。

「とうとうそのときが来たか」という、ツンとした緊張感を覚える。

●小銭の奴隷

冒頭で小銭の奴隷について書いた。
わかりやすく言えば、ケチで、小ずるい。
ささいなことに振り回され、大局的なものの見方ができない。
目先の損得勘定はできるが、その先ができない。
つまり思考力が浅い。

小銭の奴隷になると、視野がどんどんと狭くなる。
狭くなりながら、それに気がつかない。
気がつかないまま、自分を基準にしてものを考えるようになる。

とくに私たちの世代、つまり戦後の高度成長期を生きてきた人は、小銭の奴隷になりやすい。
「お金がすべて」「お金だけが信じられる」と。
さらにそれが進むと、「お金がないと不安」とか言い出す。
人やものの価値も、金銭的な基準で判断する。
「金持ちほど、偉い」とか、「この絵は○○万円だから、価値がある」とか、など。

こうなると立派なカルトなのだが、もちろん本人には、その自覚はない。
小銭の奴隷には、じゅうぶん、注意したほうがよい。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●老人観察

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜H. Hayashi

40歳を過ぎたら、老人観察を始めたらよい。
どんな人が、どんな老人になっていくかを観察する。
生き方は人さまざまだが、老人のなり方も、これまたさまざま。
当然のことながら、老人になればなるほど、その人の生き様が集約されてくる。

認知症とか、脳血栓症の病気は別にして、老人にもいろいろある。
大きく大別すると、(1)好かれる老人と、(2)嫌われる老人がいる。
どんな老人が好かれ、どんな老人が嫌われるか、それを観察する。
つぎにそれがわかったら、ではどうすれば好かれる老人になり、
またどうすれば嫌われない老人になるかを、知る。

「好かれようが、嫌われようが、そんなことは気にしない」と言う人も
いるかもしれないが、こと老人に関しては、これは深刻な問題と考えてよい。

嫌われるということは、即、周囲の人たちに迷惑をかけることを意味する。
老人のケア・センターにしても、そうした基準を公表してはいないが、
ある程度は面接をした上で、入居を認めたり、認めなかったりしている(?)。

大声で泣き叫んだり、暴力を振るうような老人は、嫌われる。
入居を敬遠される。
しかしそうした老人にしても、1年とか2年でそうなるわけではない。
10年とか20年をかけてそうなる。
だからこそ、老人観察が必要ということになる。

で、昔から『老いては子に従え』という。
つまりくだらない権威主義はできるだけ早い時期に、捨てたほうがよい。
「私は親だ」「親は偉い」「子は親に従うべき」などと考えていると、嫌われるのは、
親のほうということになる。

つぎに重要なことは、エリクソンも説いているように、『自我(自己)の統合性』。
「老後になったら、孫の相手と庭いじり」というのは、けっしてあるべき老後の姿
ではない。
老後になったら、(すべきこと)を(する)。
その(すべきこと)には、ある種の苦痛がともなう。
(やりたいこと)ではない。
むしろ(やりたいこと)をしていると、むなしさを覚えることが多い。
が、それでは自分の老後はない。

また(金儲け)と、(すべきこと)は、どこかで区別したほうがよい。
多くの人は「死ぬまで仕事」と考えている。
それはそれとして必要なことかもしれないが、どこかで一線を引く。
というのも、(すべきこと)は、常に(無)でなければならない。

損得を考えたとたん、「自我の統合性」は、霧散する。

「教育」というと、私たちは(子どもの教育)を考える。
しかしそれ以上に大切なのは、(おとなの教育)。
しかも(自分自身の教育)ということになる。

それを怠ったとたん、(嫌われる老人)に向かってまっしぐら。
その先で待っているのは、みじめで暗い世界。

そこで再び、老人観察ということになるが、あなたの周辺で、どんな人が
どんな老人になっていくかを観察する。
その時期は、40歳ごろから始めても、早すぎるということはない。

(補記)1

前にも書いたが、母が入居しているセンターの1階は、デイ・ケア・センターに
なっている。日帰りの老人たちが集まる部屋である。

そこに1人、たいへん威張った老人がいる。
年齢は70歳くらいではないか。
昔の武士を思わせるような人で、とにかく威張っている。
介護師の人が機嫌をとろうとして話しかけても、「うるさい!」「いらぬ!」と。
自分は座っていても、介護師の人を上から見おろすような言い方をする。

話を聞くと、東京の某有名私大を出たあと、イギリスへの留学経験もある人という。
現役のときには、会社の中でもかなりの地位にいた人らしい。
しかし今は、だれにも相手にされない。
家族にも嫌われているのだろう。
いつも部屋の隅でポツンと孤立している。

また母がいる同じフロアには、若いころはさぞかし美人だっただろうなと
思わせる老人がいる。
背も高く、スラリとしている。
年齢は80歳くらいか。
そういう老人が、ときおりフロア中に聞こえるような大声で叫ぶ。
「飯(めし)は、まだかア!」「わっちゃア(=私は)、何も食べておらんゾ!」と。
その老人のばあい、認知症にかかっているということだが、こうした老人たちを見て、
だれが笑うことができるだろうか。

(補記)2

老人になればなるほど、遺伝的要素が前に出てくるようになるという。
わかりやすく言えば、歳をとればとるほど、自分の親に似てくるということ。
自分はそれでよいとしても、自分の子どもが自分に似るのは、不幸なこと(?)
かもしれない。
そのためにも、つまり子どもに老後の見本を見せるという意味においても、
老後になればなるほど、生き様を確立しなければならない。

これはひとつの例だが、たとえば(健康)という問題にしても、私は若いころから
小雨の日でも、自転車通勤をつづけている。
そういう姿を、息子たちはどこかで見ていたのだろう。
気がつくと息子たちもまた、同じようなことをしている。
つまりこうして親の生き様というのは、とくに教えなくても、(また教えるという
意識がなくても)、子どもに伝わっていく。

あなたの子どももいつか、あなたが歩んだのと同じ道を歩む。
歩んで老人になる。
そういうときのために、私たちはその(見本)を見せておかねばならない。
が、もし今、あなたが小銭の奴隷なら、あなたの子どもたちもまた、その小銭の
奴隷になる。
そういう例は、あなたのまわりにも、いくらでもあるはず。

(補記)3

ここまで書いて思い出した人がいる。
私が子どものころのことだが、近所に、金の亡者のような人がいた。
当時としては、かなりの成功者だった。
毎日、私の家にやってきては、「今日はいくら儲けた」「先週は株で
いくら儲けた」と、そんな話ばかりをしていた。

が、それから50年。
最近、その息子氏に会うことがあった。
近所でも評判のケチということは、前から知っていたが、顔つきやしぐさは
もちろんのこと、50年前のあの人そっくりになっていたのには、驚いた。
時代も変わったから、露骨に金(マネー)の話をするということはなかったが、
何かにつけて、自分の自慢話ばかりしていた。
またそれをいろいろな言い方で、誇示していた。

「税金が高くて困るよ。このあたりでも、私がいちばんの高額納税者でね」
「毎週、つき合いでコースを回っているよ」と。

さらに驚いたのは、私がその人の父親について、批判めいたことを口にしたときのこと。
私は「あなたの父親は、いつも私の家で、金儲けの自慢をしていましたよ」と。
とたんその人は血相を変えてこう言い切った。

「林君、いくら君でも、親父(おやじ)の悪口を言うやつは許さん!」と。

かなりのファザコンとみた。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●鯖街道(Saba Road)

++++++++++++++++++H.Hayashi

8月24日、鯖街道、熊川宿へ向かう。
今日はここで、8キロの道のりを歩く。
8キロというのは、かなりきつい。

1万歩で、約7キロ(私の計算)。
ついでに人間というのは、おにぎり1個で、1万歩、歩けるそうだ。
(カロリー計算をしてみると、そうなる。)

歩いてみるしかない。
これも運動のため。
健康のため

++++++++++++++++++H.Hayashi

鯖街道、熊川宿へ。
バスは今、鯖街道、熊川宿へと向かっている。
「くまがわじゅく」と読む。
その昔、日本海側にある若狭(わかさ)から、京へ、鯖(さば)を届けた街道という。
名前がよい。
「鯖街道」。
その鯖街道の中継地として栄えた町が、熊川宿。
鯖街道というからには、鯖料理がおいしいにちがいない。
鯖寿司もあるというから、楽しみ。
今朝は軽くお茶漬けだけにして、腹をそれに備えた。

このところ何かにつけて、こちらの方面へ来ることが多くなった。
窓の外は見慣れた景色だが、どういうわけか、こちらへ来るといつもほっとする。
緑が美しい。
それに深い。

たった今、北陸自動車道から敦賀(つるが)で一般国道に出たところ。
雨上がりの霧が、山々から天に向けていっせいに、白い帯をなびかせている。
やや黄みのかかった田んぼの稲が美しい。

……ここから見ると、浜松市は遠い地の果てという感じがする。
(少しおおげさかな?)
つまり旅のよいところは、ここにある。
地元を離れるだけで、視野が広がる。
農家の家々にしても、浜松の農家とは、どこか雰囲気がちがう。
よく見ると、田んぼの様子もちがう。
たとえば瓦(かわら)にしても、このあたりでは、「若狭瓦(わかさがわら)」というのを使っている
という。
上薬をかけないで焼くため、全体がどこかくすんだ色になっている、などなど。
こうした刺激が、頭の中の固定観念をつぎつぎと破壊してくれる。
ときにバチバチと火花を飛ばすこともある。

といっても、ここは日本。
もしこれが外国だったら、どうだろうか?
息子の1人は、もうすぐJ社のパイロットとして、世界中を飛び回ることになる。
そういう生活をつづけていたら、日本を見る目も変わるにちがいない。
あるいは身近にいる、バスの運転手さんはどうだろうか?

こうして毎日のように、日本中をあちこち回っている。
私とはいろいろな面で、人生観がちがうはず。
私の知らない世界を、たくさん見ている。

またもう1人の息子は、アメリカに住むようになって、もう12年になる。
世界を知っているというよりは、日本のことなど忘れてしまったにちがいない。
今では、私も「日本人の私の息子」というよりは、「アメリカ人の友人」という見方をしている。

前回も日本へ来るとき、私やワイフへのみやげは、何も買ってこなかった。
それについて、「どうして買ってこなかったのか?」と聞くと、それが原因で大げんかになってし
まった。

「何かほしいものがあったら、きちんと言ってくれ。そうすれば、ちゃんと買ってくるから」と。

ナルホド!

しかしこれは日本人の発想ではない。
日本では親子でも、実家へ帰るときは、何かしらのみやげをもっていく。
どうやらアメリカでは、そうではないらしい。
つまりそういうことで、たがいに気をつかわないのが、親子?
考えてみれば、アメリカ流のほうが、気が楽。

むしろ私たちが注意しなければならないことは、自分の常識をもって、それを世界の標準と思
ってはいけないということ。
つねに自分がもつ常識を疑う。
旅行は、そういう場として、最適である。

……ここでバスは、三浜町に入った。
右側に鉛色の日本海が見えてきた。
福井県という表示が見えた。
ここはまだ福井県らしい。
学生時代の1年先輩が、現在、福井県の副知事をしている。
10年ほど前までは年賀状を交換していた。

で、日本海側のこのあたりは、1年のうち3分の1は、曇り空という。
先ほどバスのガイドさんが、そう言っていた。
とたん、私は学生時代を思い出した。
私は石川県の金沢市で、4年間を過ごした。
が、こと天候に関しては、ゆううつな毎日だった。
「曇り空」どころか、1年の3分の1は、「長靴」で過ごした。

こうした天候が、そこに住む人の気質に影響を与えることは、じゅうぶん考えられる。
天候が暗いから、性格まで暗くなるということではない。
その分だけ、晴れわたった日の美しさが鮮明にわかるようになる。
そしてその分だけ、曇天の日は、じっと何かに耐える。
「北陸の人は、がまん強い」とよく言われるが、その理由は、こんなところにあるのかも」しれな
い。

しかし天候のせいもあるのか、田んぼの間に点在する農家は、湿った空気の中で、静かに眠
っているよう。
動きもない。
もちろんにぎやかさもない。

バスは一路、熊川宿へ……。

熊川宿……観光地としては、星2つの★★。
ここだけを目的に来るというような観光地ではない。
旅の途中とか、どこかへ行く途中ということであれば、いいかも。
なお名物の「鯖寿司」は、道の駅レストランで食べるよりも、宿場町の中に
ある寿司屋で食べたほうがよい。
値段も安いし、サービスもよい。
(道の駅のほうは、セルフサービス。
鯖寿司4巻と吸い物で、1500円だった。)

(補記)
鯖街道を歩いているとき、「昔の人はこうして歩いて通ったのだな」と、何度も思った。
大八車ができたのは、江戸時代の中ごろとされる。
「大八」という名前の穂人が発明したのが、はじまりと言われている。

そういう車でもあれば鯖を運ぶのも楽だっただろう。
しかしそれには道路事情もある。
今と違って、石でゴロゴロした道であったにちがいない。
やはり背中に負って運ぶのがいちばん楽だったかもしれない。
ガイドさんの話によると、若狭から京まで、約70〜80キロの道を、当時の人たちは1日半で歩
いたという。

75÷1・5で、50キロ!
荷物をかついで、1日50キロ!

ヘ〜〜〜〜エ、と驚くこと、しばし。

9月は、富士山麓を10キロ歩くことになっている。
「上級コース」とか。
がんばるぞ!

(補記)2
熊川宿の端に、「番所」と呼ばれる小さな関所があった。
小さな関所で、間口が、3間ほどではなかったか。
「こんな関所ならかんたんに破れる」と、私は持った。
弓矢と槍、それに火縄銃が4丁、飾られていた。

「昔の人は、こんな関所でも、恐れたのか」と思った。
つまりそれだけ人間が小さかったというか、従順だったというか。
今なら、たとえば暴走族の若い人なら、数人で、こんな関所を粉々に破壊してしまうかもしれな
い。
言い換えると、日本も小さな国だった。

あちこちの関所を見るたびに、そう思う。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

【8月24日】(日曜日)

++++++++++++++++

今朝は、遠くの雷鳴で、目が覚めた。
天気予報によれば、局地的な豪雨が
あるという。

前線の向こう側にあるのは何か?
再び、猛暑か?

++++++++++++++++

●軽快に生きるために

軽快に生きるためには、いくつかのコツがある。

(1)まず敵を作らないということ。

敵というのは、あとあと、わずらわしい関係になるような問題を作らないということ。
たとえば近隣の人たちや、親類の人たちとのトラブルは、極力避ける。
「避ける」というより、タブー。

(2)生活は常に余裕をもつこと。

1万円の収入があったら、5〜6000円どまりの生活に心がける。
無理をしない。
ぜいたくをしない。
ほどほどの生活をして、その範囲ですます。

(3)運動を欠かさないこと。

運動の重要さは、運動をしているものでないとわからない。
長い休みがつづいて、運動不足になったりすると、日に日に、体がナマっていくのがわかる。
水にたとえるなら、体全体が、よどんだ水のようになる。
さらに運動不足になると、腐った水のようになる。
それが実感として、よくわかる。
が、運動をした翌朝は、体中の細胞がプチプチとはじけるような感じがする。

(4)人と会うこと。

人と会うだけで、心の中のモヤモヤが晴れることはよくある。
悶々と悩んだら、人と会って、話をする。
子どもたちのもつ、あの純粋さに触れることも大切だが、最近、私は参観にやってくる父母と、
できるだけ会話をするようにしている。
けっして小さな殻(から)の中に閉じこもってはいけない。

今日も、それを目標にして、がんばる!


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2811)

●6か国協議(An Incompetent Diplomat & his Betrayal Act) 
What C. Hill has done is just to give North Korea, money, oil, food, music as well as time, 
without receiving anything except the explosion show of Yon-byon. Moreover he has 
destroyed the relationship between Japan and USA. In the meantime more and more 
Japanese have become to dislike USA. Why should we assist Iraq War? Does Mr. G. Bush 
know this fact?
Mr. C. Hill, you are cheated again but we don't have to sympathize with him at all.

++++++++++++++++++

テロ支援国家指定解除は、延期された。
当然である。
が、ここにきて、北朝鮮は、韓国内での
核査察をさせろと逆提案。
またまた例によって例の、難グセである。

……ということで、6か国協議は行き詰まって
しまった。
にっちもさっちも、いかなくなってしまった。
しかしこうなることは、最初からわかって
いた。

で、結果としてみると、6か国協議は、
北朝鮮というより、C・ヒルに、よいように
もてあそばれただけ。
C・ヒルは、「外交官というよりは、政治家」
(朝鮮N報)。
マスコミをフルに利用して、自分の知名度を
あげることに執心しただけ(同紙)。

結果、今は、C・ヒルの辞任説まで出てきた
(同紙・8月24日)。
これまた当然である。

++++++++++++++++++

C・ヒルは、最初から、異例の外交官だった。
公僕意識など、もとからない。
まるで政治家かスター。
「午前0時にホテルに帰ってきても、マスコミの
取材には、きちんと応じていた」(朝鮮N報)という。
そしていつの間にか、6か国協議を、米朝会議に
すりかえてしまった。

もちろん日本など、最初から、カヤの外!
最近に至るまで、拉致問題を取りあげた形跡は
まったく、なし。
ないばかりか、C.ヒルは、「テロ国家支援解除」をにおわせながら、
つまり日本を脅しながら、拉致問題を棚上げした上、
北朝鮮への援助に加わるよう、日本に圧力を加えた。

しかもだ、こうした事実を、C・ヒルは、上司である
C・ライスに報告していなかった事実も浮上している。

先の洞爺湖サミットで、日本のT外務大臣が、C・ライス
と直談判したとき、C・ライスはそれを聞いて驚いた様子
だったという報道も伝えられている。

日本人のアメリカに対する好感度は、急速に低下して
いる。
インド洋上における補給活動にしても、政府高官は
「昨年とは、国内の雰囲気が変わりつつ」と言い出した。
つまり「これからはもう、アメリカの言いなりには
ならないぞ」と。
今、そこまで日米関係は悪化している。

結局は、世界は、C.ヒルの根拠のない楽観論に
振り回されただけ。

G・ブッシュ大統領は、こうした事実を、どこまで
知っているのか?
(08年8月26日記)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2812)

●男は仕事、女は家庭?(Men work outside and Women work inside?)

++++++++++++++++++++

このほど読売新聞社(8月27日)が公表した
意識調査によると、

女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる……55%
そうは思わない                 ……39%、
だったという。

この数字を、1978年(30年前)と比較してみると、
「女性は結婚しなくても幸せな人生を送ることができる」と答えた人は、26%
だった。

つまりこの30年間で、26%から、55%にふえたことになる。
(以上、読売新聞社、年間連続調査「日本人」より)

+++++++++++++++++++++++

こうした変化は、私も、ここ10年ほどの間、肌で感じていた。
旧来型の「男は仕事、女は家庭」という結婚観が、今、急速に崩壊しつつある。

そのことを裏づけるかのように、今回も、こんな調査結果が出ている。

+++++++++++++

結婚したら男性は仕事、女性は家庭のことに専念するのが望ましい……30%
そうは思わない                                ……68%

この数字を、1978年と比べてみると、

「男性は仕事を追い求め、女性は家庭と家族の面倒をみる方が互いに幸福だ」については、
賛成……71%
反対……22%だった(同調査)。

つまり30年前には、「男は仕事、女は家庭」という考え方に賛成する人が、71%だったのに対
して、今回は、30%にまで激減したということ。

日本人の意識は、とくにこの10年、大きく変化しつつある。
まさに「サイレント革命」と呼ぶにふさわしい。

ただし「結婚」については、肯定的に考える人がふえている。
読売新聞は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++

ただ、「人は結婚した方がよい」と思う人は65%で、「必ずしも結婚する必要はない」の33%を
大きく上回り、結婚そのものは肯定的に受け止められていた。「結婚した方がよい」は、5年前
の03年の54%から11ポイント増え、結婚は望ましいと考える人が急増した。

++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++

これらの数字をまとめると、こうなる。

「結婚したほうがよい」と考える人がふえる一方で、旧来型の「男は仕事、女は家庭」という結
婚観をもっている人は、約3割にすぎないということ。

3割だぞ!

問題はこうした変化もさることながら、こうした変化についていけない人も、多いということ。
あるいはこうした意識変化が起きつつあることにすら、気がついていない。
とくに世代間の(ちがい)が、大きい。

「男は仕事、女は家庭」と、旧来型の固定観念にしばられる旧世代。
「今どき、そんなバカなことを言っていると相手にされない」と反発する新世代。

先日も兄の葬儀でのこと。
裏方で、お茶や食事の用意をしていたのは、すべて女性。
広間で、でんと座って、それを待っていたのは、すべて男性(プラス、一部の女性)。
私が裏方で、味噌汁を作っていたら、逆に、私のほうが追い出されてしまった!

こういうバカげた段村社会が残っている国は、そうはない。
またそういう男女観をもっている人ほど、今回の読売新聞社の公表した意識調査結果を、
一度、真剣に読んでみる必要がある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 男は仕事 女は家庭 男女観 
結婚観 サイレント革命)

+++++++++++++

7年前に書いた原稿を
紹介します。

+++++++++++++

●親が子どもを叱るとき 

●「出て行け」は、ほうび
 
日本では親は、子どもにバツを与えるとき、「(家から)出て行け」と言う。しかしアメリカでは、
「部屋から出るな」と言う。もしアメリカの子どもが、「出て行け」と言われたら、彼らは喜んで家
から出て行く。「出て行け」は、彼らにしてみれば、バツではなく、ほうびなのだ。

 一方、こんな話もある。私がブラジルのサンパウロで聞いた話だ。日本からの移民は、仲間
どうしが集まり、集団で行動する。その傾向がたいへん強い。リトル東京(日本人街)が、その
よい例だ。この日本人とは対照的に、ドイツからの移民は、単独で行動する。人里離れたへき
地でも、平気で暮らす、と。

●皆で渡ればこわくない

 この二つの話、つまり子どもに与えるバツと日本人の集団性は、その水面下で互いにつなが
っている。日本人は、集団からはずれることを嫌う。だから「出て行け」は、バツとなる。一方、
欧米人は、束縛からの解放を自由ととらえる。自由を奪われることが、彼らにしてみればバツ
なのだ。集団性についても、あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこう書い
ている。『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。つまり「皆と
違ったことをするのが、自由」と。

●変わる日本人

 一方、日本では昔から、『長いものには巻かれろ』と言う。『皆で渡ればこわくない』とも言う。
そのためか子どもが不登校を起こしただけで、親は半狂乱になる。集団からはずれるというの
は、日本人にとっては、恐怖以外の何ものでもない。この違いは、日本の歴史に深く根ざして
いる。日本人はその身分制度の中で、画一性を強要された。農民は農民らしく、町民は町民ら
しく、と。それだけではない。日本独特の家制度が、個人の自由な活動を制限した。戸籍から
追い出された者は、無宿者となり、社会からも排斥された。

要するにこの日本では、個人が一人で生きるのを許さないし、そういう仕組みもない。しかし
今、それが大きく変わろうとしている。若者たちが、「組織」にそれほど魅力を感じなくなってき
ている。イタリア人の友人が、こんなメールを送ってくれた。「ローマへ来る日本人は、今、二つ
に分けることができる。一つは、旗を立てて集団で来る日本人。年配者が多い。もう一つは、
単独で行動する若者たち。茶パツが多い」と。

●ふえるフリーターたち

 たとえばそういう変化は、フリーター志望の若者がふえているというところにも表れている。日
本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によれば、高校三年生のうちフリーター志望が、12%
もいるという(ほかに就職が34%、大学、専門学校が40%)。職業意識も変わってきた。「い
ろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。30年前のよう
に、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない(※)。これはまさに「サイ
レント革命」と言うにふさわしい。フランス革命のような派手な革命ではないが、日本人そのも
のが、今、着実に変わろうとしている。

 さて今、あなたの子どもに「出て行け」と言ったら、あなたの子どもはそれを喜ぶだろうか。そ
れとも一昔前の子どものように、「入れてくれ!」と、玄関の前で泣きじゃくるだろうか。ほんの
少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。

※……首都圏の高校生を対象にした日本労働研究機構の調査(2000年)によると、
 卒業後の進路をフリーターとした高校生……12%
 就職                ……34%
 専門学校              ……28%
 大学・短大             ……22%

 また将来の進路については、「将来、フリーターになるかもしれない」と思っている生徒は、全
体の二三%。約四人に一人がフリーター志向をもっているのがわかった。その理由としては、
 就職、進学断念型          ……33%
 目的追求型             ……23%
 自由志向型 
            ……15%、だそうだ。
●フリーター撲滅論まで……

 こうしたフリーター志望の若者がふえたことについて、「フリーターは社会的に不利である」こ
とを理由に、フリーター反対論者も多い。「フリーター撲滅論」を展開している高校の校長すら
いる。しかし不利か不利でないかは、社会体制の不備によるものであって、個人の責任ではな
い。実情に合わせて、社会のあり方そのものを変えていく必要があるのではないだろうか。い
つまでも「まともな仕事論」にこだわっている限り、日本の社会は変わらない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist フリーター撲滅論 まともな仕事
論)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2813)

【8月26日】(火曜日)

++++++++++++++++++

●勝てば官軍(When you win, you are the justice)

『勝てば官軍』という。
しかし『負ければ賊軍』(?)。
「ホシノ・JAPAN」の、無様(ぶざま)な結果に、日本中ががっかり。
もともと野球というのは、スポーツというより、興行。
「力」というより、「運」に左右されやすい。
しかしここまで叩かれると、星野氏も、かわいそう……。

「北京では、選手村ではなく、最高級ホテルに宿泊。
ロクな練習もしなかった」(某ニュースサイト・解説)とか。
これに対して、当の星野氏は、「午前10時半からの試合は経験なかった」とか、
「審判もプロを出すべき」とか言って、弁解しているという(同)。
「ナイターか、空調設備のついたドームの中でしか試合をしたことがない
日本選手には、北京はきつかった」(同)ということか。

ところでオリンピックという、個人を超えた世界の大会に、「ホシノ」という個人名を
つけること自体、おかしい。
発想そのものが、権威主義的。
バカげている。
真剣みが足りない。
当の星野氏は、ベンチで立っていただけではないか。

個人名をつけるならつけるで、たとえば「イチロー・JAPAN」
「マツイ・JAPAN」と、せめて3チームぐらいはつくり、
リーグ戦をし、優勝したところを、オリンピックに出したらよい。

へたに「ホシノ」という名前をつけたものだから、裏目に出てしまった。
星野氏だけが、袋叩き……。
やっぱり、かわいそう……。


●正直な人(Honest People)

++++++++++++++++++H.Hayashi

正直な人と出会うと、気持ちがよい。
胸が、スカッとする。

少し前だが、こんな会話をしたことがある。
その人の父親が、特別養護老人センターに入居していた。
父親の年齢は、90歳だった。
その父親について、私が、「見舞いに行っていますか」と聞くと、
「もう、3か月、行ってないかなあ。いや、4か月かなあ……?」と。

見舞いに行っていないことはともかくも、そういうことを正直に言える人は、
うらやましい。
ふつうなら、(こういうケースのばあい、「ふつう」という言葉を使うのは
適切ではないかもしれないが)、少なくとも、世間体を多少なりとも気にする人は、
そういう言い方はしない。

「ええ、しばらく行っていません」とか、「ときどき行っています」とか言って、
その場をごまかす。
中には、「毎週(毎日)、行っています」などと、ウソをつく人もいる。
私は、その男性の、私にはない(?)正直さに驚いた。
驚いたというより、胸がスカッとした。

で、昨日もこんなことがあった。

その女性の実父が、アルツハイマー病になってしまったという。
年齢を聞くと、69歳という。
6年前に発病したという。

そういう話を聞くと、ツンとした緊張感が走る。
他人ごととはとても、思えない。

私「私もあぶないです」
女「先生は、だいじょうぶですよ」
私「そうですかねえ……。ときどき男と女の区別ができなくなるときがあります」
女「あら、私もそうですよ」
私「エッ、あなたもそうですか?」
女「そうなんですよ」
私「じゃあ、いっしょに風呂にはいってもだいじょうぶですね」
女「いいですね、先生。いっしょに入りましょうか」と。

もちろんたがいに冗談を言ったまで。
しかし自分の心の内を、そのままケラケラと話せる人は、すばらしい。
父親の病気は病気として、つまり病気なのだから、どうしようもない。
今では、その女性(=実の娘)の顔もわからないという。
それについては、何度も、「切ないです」と言っていたが、病気が病気だから、
あきらめるしかない。
「治療法もないそうでね」と、その女性も言っていた。。

正直に生きる。
ありのままの自分をさらけ出しながら生きる。
それは心の風通しをよくするための鉄則でもある。
もちろん何もかも、さらけ出すというのではない。
言わなくてもよいことは言わない。
しかし人は、一度、見栄、メンツ、世間体に毒されると、自分の姿を見失ってしまう。
とたん、心がよどむ。
腐る。
生き様そのものが、見苦しくなる。

さて冒頭に書いた男性だが、実はつきあうようになって、もう20年になる。
で、数日前も、こんなことがあった。

「元気?」と声をかけると、「やあ、それがね、胆石になりましてね」と。

私「胆石?」
男「痛かったですよ。本当に!」
私「そりゃあ、たいへんでしたね」
男「で、3日間、E病院で寝てましたよ」
私「E病院? どうして弟さんの病院へ行かなかったのですか?」
男「あいつは、ヤブですよ。ヤブ。あんなやつの病院へ入ったら、殺されますよ」と。

その男性の弟氏は、内科医師である。
浜松市の郊外で、医院を経営している。

私「ハハハ」
男「ハハハ」と。

正直に生きるということは、私のばあい、正直に書くということにつながる。
あとから読み直しても、自分を飾った文章ほど、不愉快なものはない。
日記にもならない。

しかし正直に書いた文章というのは、それだけで時を超えて自分の心にひびく。
ただし一言。

文に残すということは、危険なことでもある。
その人とわかるような内容は、極力、避けなければならない。
そのため2つの話を1つにまとめたり、あるいは他人の話を、自分の身内の
話にしたりというようなことは、よかある。
名前や場所、その人の職業についても、そうである。

しかしそれは(ウソ)ということではない。
どうか、誤解のないように!


++++++++++++++++++H.Hayashi

●生きる美学(how to live, as to my own case)

++++++++++++++++++

1か月分の収入に当たる損をしたら、
1か月、さらに健康で働けることを考えればよい。
半年分の収入に当たる損をしたら、
半年、さらに健康で働けることを考えればよい。

……というのが、私の人生哲学だった。

同じようなことだが、1万円の損をしたら、
2万円、どこかで取り返す。
10万円の損をしたら、20万円、どこかで取り返す。
そんなふうに考えたこともある。

若いときは、そんなわけで、がむしゃらに働いた。
いつだったか、ワイフが、「あなたはお金の亡者みたい」
と言ったことがある。
ワイフには、そう見えたかもしれない。

その私も、今では60歳。
この年齢になっても、損をすることはあっても、得をすることは
ほとんどない。
(「得」といっても、宝くじか何かに当たったような得をいうが……。)

だから今は、とにかく健康で、できるだけ今の仕事をつづけたいと
願っている。
いや、本当のところ、こうして健康でいられるだけで、御の字。
それ以上、何を望むのか?

考えてみれば、健康にまさる「得」はない。
そんなわけで今、いちばんこわいのは、病気。
順にあげてみる。

(1)脳梗塞
(2)がん
(3)認知症

成成人病も含めて、これらはみな、生活習慣病と言われている。
つまりその気になれば、防げる。
その鍵を握るのが、運動ということになる。
だから最近は、私はこう思う。

1日、しっかり運動をすれば、少なくとも明日1日は、健康でいられる、と。
1週間、しっかりと運動すれば、少なくとも来週1週間は、健康でいられる、と。
運動をしながらも、そんなわけで心のどこかに悲壮感が漂うになった。

富山県のT市に住むS君は、こう言った。
S君は、すでに5年近く、がんと闘っている。
「林君、転移が見つかったら、切ればいいんだよ。切ったときから、5年は生きられんだよ」と。

別の人は、手記の中で、こう書いている。
「どうせ死ぬなら、がんで死にたい。がんなら、すぐ死ぬということはないから、身のまわりの整
理をすることができる」と。

私も最近、この考え方に同調するようになってきた。
「脳梗塞よりは、がんのほうがいいかな」と。

だから今は、こう考える。
「今日、脳梗塞やがんにならなかった。だから明日も、たぶん、脳梗塞やがんにはならないだ
ろう」と。
今日の健康を、恐る恐る、明日に延ばしながら生きていく……。
いつだったか、『健康というのは、ゴムひものようなもの』と書いたことがある。
が、それはそういった思いをゴムひもにたとえたもの。

で、あとは、その健康を、どう使うかということ。
明日が今日の繰り返しだったら、意味はない。
来年が今年の繰り返しだったら、意味はない。
体力にせよ、知力にせよ、不可逆的に悪くなる。
今よりよくなるなどということは、ありえない。
だったら、今日できることは、今日、する。
今できることは、今、する。

たいていの人は、(私もそうだが)、「明日は何かいいことがあるだろう」
「来月は何かいいことがあるだろう」と考える。
しかし実際には、(いいこと)よりも、(悪いこと)が起きる確率のほうが高い。
だれしも長生きをしたいと思っているが、長生きすればそれでよいというものでもない。

大切なのは、「今を、どう生きるか」である。
1日は、この言葉に始まって、この言葉に終わる。
結果は気にしない。
今日1日を懸命に生きれば、明日はかならず、やってくる。
(そのとき)がきても、ジタバタしない。
(ジタバタしないという自信はないが。そのとき、できるだけ後悔しないよう、つまりやり残した思
いをもたないよう、今というときを、燃焼させる。)

もし「生きる美学」というものがあるとするなら、それが私にとっての美学ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 生き
る美学 林流生きる美学)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●故郷(My Home Town, M-city, Gifu-pref.)

++++++++++++++++++H.Hayashi

私の故郷については、たびたび書いてきた。
悪口ばかり書いてきた。
が、だからといって、それは私の個人的な意見。
どこまでも個人的な意見。

いつだったからある週刊誌で、日本でいちばん住みやすい町として、
私の故郷が選ばれたことがある。

そのときは「そんなバカな!」と思ったが、冷静になって見つめなおしてみると、
そうかもしれない。
よい町かもしれない。
ほとんどの人は、M町は、すばらしい町と思っている。
それはそれとして、尊重しなければならない。
私のもっている意見のほうが、おかしい(?)。

私には、そうではなかったというだけ。
たとえば私は、いつもあの町には、息苦しさを覚えていた。
低いが四方を山に囲まれ、小さな家々が軒を並べていた。
古い因習や文化も色濃く残っていた。

そこに住む人たちは、明らかに進歩的というよりも保守的、
新しいものよりも、古いものを大切にしていた。
が、何よりも私にとって不愉快だったのは、M町の人たちが、
自分たちこそが、世界の中心にいるような考え方をしていたこと。

外の世界から異文化が入ってくるのを、何よりも嫌った(?)。

こんなことがあった。

歌手に野口五郎という人がいる。
本名を佐藤Y氏という。
野口五郎の実家は、私の家からも歩いて5分足らず。
伯父の家からは、目と鼻の先。
歩いて数十メートルというところであった。

その野口五郎が、一躍、日本の大歌手になったとき、私はそれを
たいへん喜んだ。
彼の兄とは、中学時代、いっしょにコーラス部で歌を歌っていたこともある。

その当時のこと。
ときどきM町へ帰ると、町の様子は一変していた。
町中が若い女性たちで、ごったがえしていた。
野口五郎の町や生家を一目見ようという、ファンの人たちだった。

が、驚いたことに、いちばん反応を示さなかったのが、実はM町の
人たちだった。
私が市長なら、イのいちばんに野口五郎に、町興しのために働いてもらっただろう。
しかしM町の人たちは、不思議なほど冷静だった。
むしろ反対に、野口五郎に対して、「出て行った人間」というレッテルを張っている人も
いた。
あのM町では、昔から、「出て行った人間」を、半ば軽蔑する。
何しろここにも書いたように、M町は世界の中心!
私はM町のもつ、閉鎖性、独善性、うぬぼれ意識に驚いた。
(今でも野口五郎にまつわる銅像はおろか、その記録さえ、
町の中には、まったく残っていない!)

さらにしばらくすると、今度は海部(かいふ)という名前の首相が誕生した。
海部首相の妻は、私の実家の近くの、薬局の娘だった。
その弟とは、子どものころ、よくいっしょに遊んだ。
そのときも、同じような経験をした。
そして同じように思った。

「M町の人たちは、世界を見ようともしない」
「小さな井戸の中だけで生きている」と。

……またまたM町の悪口を書いてしまったが、
死んだ兄のことで、あれこれと事務手続きが必要になった。
それで今日、故郷のM町へ行ってきた。

++++++++++++++++++H.Hayashi

兄の貯金通帳に、○○円の残があった。
葬儀費用として引き出すためには、1か月以内に、
手続きをすまさねばならない。
それでM町へ行ってきた。

今、この原稿は、帰りの電車の中で書いている。
名鉄電車、新岐阜発、豊橋行き。
ワイフは先ほどから、頭痛がするといって、目を閉じている。

そのM町。
いつ来ても、いやな町だ(ごめん!)。
一応観光地ということになっているが、町全体が、
暗く沈んでいる(ごめん!)。
帰りに少し時間があったので、町中のレストランで、
xx定食なるものを食べた。

しかし、まずかった(ごめん!)。
とくにx肉が、生(なま)調理ぽかった。
値段も高い。……というより、一人前。
やる気なさそうな年配の女性が、ずっと鼻先の脂汗を指で
こすっていた。
テーブルも、手垢で汚れていた。
きざんだキャベツの横に、ひとつかみのマカロニが置いてあったが、
一口食べただけで、ゲーッ!

「今どき、こういうレストランがあるんだね」と、小声でワイフが言った。
しかしそのM町では、何もかもがそう。
40年前から、時計は止まったまま。
町はそれでよいとしても、そこに住む人たちの意識は、どうなのか。
それを想像したとき、正直言って、ゾーッとした(ごめん!)。

もし私が、あのままM町に住んでいたら、私は、今ごろは、
あの町の人たちと同じになっていただろう。
今の私とはまったくちがった生き方をしていただろう。
考え方にしても、そうだ。
ゾーッとしたのは、そこに今とはまったく別の自分を想像したからにほかならない。

それこそあの年配の女性のように、客の前で、鼻先の脂汗を指で
こすりながら、それを何とも思わないような人生を送っているに
ちがいない(ごめん!)。

「食」を売るというのなら、それなりのプロ根性をもたねばならない。
スーパーで買ってきたようなxxを、電子レンジで温めただけ。
あるいは作り置きしていたxxを、サッと、調理しなおしただけ。
私には、そんな感じがした。

だいたい、こうしたxx定食屋で、xxを店の奥の、客の見えないところで
調理するというところが、おかしい。
M町の人たちは、それでだませるとしても、私をだますことはできない。

「古い町」と言えば聞こえはまだよいが、中身は、未成熟なまま。
進歩をそこで止めてしまっている。
世界を知らない人というのは、そういう人たちをいう。

もちろんM町には、M町としての、よい面もある。
それは知っている。
のんびりと余生を過ごすには、よい町かもしれない。
しかし私はまだまだ前向きに生きていきたい。
だからワイフには、先ほど、こう言った。

「ぼくは死んでも、この町にはもどりたくない」と。

……とまあ、ひどいことを書いてしまったが、M町がこれから
発展するためには、どうしたらよいか、それを考えてみたい。

●M町のために

観光地として生き残りたいのなら、一度、滋賀県の長浜の町を見てきたらよい。
長浜の町では、若い人たちが、率先して町興しに取り組んでいる。
が、M町には、それがない。
若い人たちの「力」を感じないばかりか、反対に長老たちの「古臭さ」ばかりが目立つ。
「古い町」イコール、「老人の町」であってはいけない。

それに問題なのは、交通アクセスの問題。

長浜のばあいは、JR長浜駅のすぐそば。
若い人たちが、大阪や京都から電車で、ゾロゾロとやってくる。
そして一通り遊んだあとは、またゾロゾロと帰っていく。
同じような光景を、京都の嵐山でも見た。

が、M町のばあいは、岐阜からでも、車で30〜40分はかかってしまう。
奥に、郡上八幡、さらにその奥に白川郷がある。
ひるがの高原もある。
隣には、「刃物の町」と知られる、関市がひかえている。
しかし郡上八幡と比較しても、観光地としては、見劣りがする。
つまり中途半端。

おまけに人を集めるための「目玉」がない。
同じ和紙の町で人を集めている山口県の萩市は、森鴎外の故郷としても、知られている。
森鴎外の生家がそのまま残っている。

この中途半端さをなくすためには、徹底した差別化をしなければならない。
が、そのためには、アイデアが必要。
町の人たちに江戸時代や明治時代の衣装を着てもらうとか、ちょんまげを結ってもらうとか。
刀をさして酒を飲む武士の姿があってもよい。
そうした衣装を、町は希望者に、無料で貸し出す……。

それにM町は「和紙の町」ということになっているが、何も和紙にこだわる必要はない。
長浜のばあい、町の中心部にあるのは、ガラス工芸館である。
ひょうたんだけを売っている店もある。
和紙だけで、人を集めるのは、魅力不足というより、不可能。
若い人たちは、和紙にたいして、ほとんどなじみがない。

惜しまれるのは、「チンチン電車」と呼ばれる、あの路面電車を廃止したこと。
今、もしあのチンチン電車が、旧M駅から、市内に向かって、数百メートルだけでも走っていた
ら、今ごろは、全国から観光客が押し寄せているかもしれない。
岐阜市ですら、チンチン電車を廃止してしまったのだから……。

さらに言えば、やっとやってきた観光客にしても、お金を使う場所がない。
つまり町の中に、お金を落としていかない。
先ほども書いたように、「和紙」だけでは、若い人は集まらない。

古い町並みも結構だが、そこに若い人たちの息吹がなければ、ただの古い町で終わってしま
う。

今日もM町の中を、歩いてみた。
どの店も、客もなく、静まりかえっていた。
通りに、人影さえ見られなかった。
もちろん町を見て歩く観光客は、私たち2人をのぞけば、ゼロ。
ほとんどの商店は、シャッターをおろしたまま。
観光地としての「やる気」を、まったく感じなかった。

「どうして野口五郎の歌碑がないのだ!」と叫んだところで、M町の話はおしまい。
野口五郎とは比較にならないが、私自身も、「町を出た人間」。
私などのような者の意見に耳を傾けるような人は、M町にはいない。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●邪馬台国(Yamatai-Koku, the root of the Japanese)

++++++++++++++++++

まぼろしの邪馬台国は、どこにあったのか?
その結論が出そうな、ビッグ・ニュースが、今日(8月27日)、
報道された。

++++++++++++++++++

奈良県桜井市の近くにある、「箸墓古墳(はしはか・こふん)」が、ひょっとしたら、ひょっとして、
その卑弥呼の墓ではないかというのだ。

もし箸墓古墳が卑弥呼の墓であるとするなら、邪馬台国は、奈良県にあったことになる。
まだ調査中なので、何とも結論は出せないが、

(1)3世紀半ばの古墳である。
(2)全長280メートル、幅60〜70メートルの巨大な墓である。
(3)内濠と外濠のある豪華な墓である、ということから、かなり有力視されている。

しかし「箸墓古墳は宮内庁の陵墓指定のため、立ち入りできない」(中日新聞)とのこと。
どうして?

3世紀半ばの古墳であるなら、少なくとも現在の天皇家とは関係ないはず。
どうしてそんな墓まで、「宮内庁の陵墓指定」になっているのか?
その前に、宮内庁って、いったい、何?
どうしてそうまで、秘密主義なのか?
何か、発見されたらまずいものでも、隠されているというのか?
何を恐れているのか?
何を守ろうとしているのか?

箸墓古墳についての記事を読みながら、別の心で、私はそんなことを考えた。

(付記)

仮に邪馬台国、近畿説が有力になってくると、もう一つ、無視できない謎が浮かびあがってく
る。

「金印、贋作説」である。

金印というのは、『漢の倭の奴の国の王』と書かれた、あの金印である。
社会科の教科書にも広く紹介されている。
美術の教科書にも紹介されている。
国宝にも指定されている。

だいたいにおいて、あの金印の出所があやしい(?)。

江戸時代に記録された口上書によれば、金印を発見したのは、志賀島(しかのしま)の百姓、
甚兵衛ということになっている。
「田の溝を掘り返しているとき、小さな岩の間だから発見された」(「日本古代史の謎とミステリ
ー」リイド社)という。

百姓の甚兵衛が、小さな岩の間だから発見したというのだ!
しかも「甚兵衛の素性が、よくわからない」(同)という。

また志賀島というのは、正確には、現在の福岡市東区志賀島叶崎をいう。
そして金印の実物は、福岡博物館に、常設展示室で展示されているという。

で、この金印贋作説に対して、本家の中国で、何と、その姉妹とも言うべき、もう1個の金印が
発見された。
昭和56年(1981年)のことである。
金印本物説を唱える人たちは、この発見で、一気に勢いづいた。

「金印は本物である」
「邪馬台国は、北九州にあった」と。

しかし、である。
中国で見つかったこの金印について、「千葉大学の三浦S氏が、贋作である」(同)と主張した。
そして「(日本で発見された)金印は、金印を鑑定した儒学者、亀井南冥こそが金印の贋作者
だと推定し、贋作された背景には、当時の古印ブームがあったと推測」(同書)と。

だいたい後漢の光武帝が、日本からの使者に与えたのは、「印綬」(「後漢書・正史」)。
どこにも「金印」とは書いてない。

一方卑弥呼が受けとったのは、金印(魏の記録)。

今回の箸墓古墳が卑弥呼ゆかりの墓であるとするなら、もし金印が残っているとするなら、近
畿地方ということになる。
あるいは箸墓古墳の中に、それはあるかもしれない。

興味のある人は、「志賀島 金印」で検索してみるとよい。
いくつかのサイトをヒットすることができる。
で、私の印象としては、金印は、やはり偽物である。
もちろん中国で発見されたという金印も、偽物である。

が、最大の謎は、どうして金印のような最重要印鑑が、志賀島のようなへんぴな、小さな島で
見つかったかということ。
その島では、金印以外の重要歴史物は、何も見つかっていないという。

どうであるにせよ、箸墓古墳には、この謎を解く鍵が隠されているかもしれない。
興味津々と言ったところか。
箸墓古墳の発掘を、是非、やってほしい。

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Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●有酸素運動

++++++++++++++++

運動にも2種類ある。
有酸素運動と、無酸素運動である。
有酸素運動というのは、運動しているとき、
呼吸が荒くなるような運動をいう。

ランニングやジョギング、散歩や
サイクリングなど。

無酸素運動というのは、瞬発的に動いて、
それで終わるような運動をいう。
たとえば、ウェイトリフティングなどが
その例として、よくあげられる。

+++++++++++++++

「健康のためには、有酸素運動がよい」と、よく言われる。
運動しながら、呼吸によって体内へ取り入れた酸素で、
脂肪を燃焼させるような運動をいう。
わかりやすく言えば、最低でも30〜40分程度、
体をいつもよりはげしく動かす運動がよい。
そういう運動をしていると、ジンワリと汗をかく。

では、無酸素運動では、どうしてだめなのか。
だめというより、どうして健康につながらないのか。

……これについては、私はまったくの門外漢なので、話はここまで。
しかしそんな私でも、有酸素運動が大切なことは、よく知っている。
数日も有酸素運動をしないでいると、体中がだるくなるのが、自分でもよくわかる。
思考力も減退する。

が、だからといって、運動が好きというわけではない。
できるなら、しないですませたい。
私はもともと怠け者。
寒い朝や、暑い昼などは、とくにそうである。
しかしそういう自分を押し切って、外に出る。
自転車にまたがる。
とたん、いつもの私に戻る。

おかしなもので、サイクリングを30年以上もつづけていると、
体のほうがいくら疲れていても、脚だけは、しっかりと動く。
ありがたいことだと思う。

で、30〜40分も走っていると、真冬の手足が凍るような
夜でも、体中が、燃えるように熱くなる。
これが有酸素運動ということになる。

さらに最近の研究によれば、運動をすることによって、
筋肉自体が、ある種のホルモンを分泌するのだそうだ。
簡単に言えば、「若返りのホルモン」だそうだ。

持続的に運動を長い間つづけている人は、どこか若々しい。
そういった(ちがい)となって、外に現われる。

漢方(東洋医学)でも、『流水は腐らず』と教える。
サラサラと流れる水は、腐らないという意味である。

有酸素運動というのは、要するに体を腐らせないための
運動と考えればよい。


はやし浩司+++++++++Aug 2008++++++++++Hiroshi Hayashi

●見舞い

+++++++++++++++++

週刊B春の中で、映画俳優のYS(山城S伍)は、こう語っている。

記者が、「友人の方々が心配しているようです」と語りかけたことに対して、
「そんなもん、会いたくないやろ。それで連絡もとっていない。このまま
消えてしまいたいぐらいや」(「週刊B春・08・9・4日号」と。

YS(69歳)は、現在、特別養護老人ホームに入居している。
持病の糖尿病が悪化、今は介護なしでは、生活できないような状態らしい。

週刊B春のほうは、「消えてしまいたい」という言葉を、新聞広告の
見出しに並べていたが、私はその前の言葉のほうが、気になった。

YSは、こう言っている。

「そんなもん、会いたくないやろ」と。

同じような言葉を、以前、ある末期がんの人が言っていたのを思い出した。
「だれにも会いたくない」「本当に心が安まる人だけと、静かに時間を過ごしたい」と。

それを心配するまわりの人たちは、(本気で心配しているかどうかという問題もあるが)、
「会いたい」と思うかもしれない。
しかし当の本人にとっては、ありがた迷惑。

私も母の介護をしていて、それを感じたことがある。

ときどき親類の人たちや、元近所の人たちから、「見舞いに行きたい」などというような
連絡を受ける。
しかし私はそういう申し出を、たいてい、ていねいに断るようにしている。
私の立場というよりは、母の立場で、断わるようにしている。
仮に私が母なら、だれにも会いたくない。
「だれも見舞いに行かなければ、さみしいだろう」と、その人は思うかもしれない。
が、それこそ、いらぬお節介。
母にしても、本当に会い人などというのは、そうはいない。
家族とか親友、その範囲の数人と考えてよい。

母にしても、自分の無様(ぶざま)な姿など、見せたくもないだろう。
が、無神経な人は、それほど親しくもないのに、「喜んでくれるはず」と、
勝手にそう決めて、やってくる。

さらに無神経な人は、興味本位で電話をかけてくる。
「お母さんの、具合はいかがですか?」と。

母は元気なころ、陰で、その人の悪口ばかり言っていた。
そういう母の気持ちを私はよく知っている。
だから、断る。

YSは、そういう心情を、率直に表現した。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。

週刊B春によれば、こうある。

「実は今年の春先、山城の友人や知人の間で、山城の所在を
めぐり、ちょっとした騒動が持ちあがっていたのである。
『S伍の携帯に何度かけても、つながらないんだ。こっちが
いやがっても電話をしてくるような男なのに、何かあったんじゃ
ないだろうか」
「どこかの病院に入院したと聞いたんだが、S吾が、『面会に
来ないでくれ』と言っているそうだ」と。

治る見込みのある病気ならまだしも、そうでない病気なら、
そうかもしれない。
私自身は、まだそういう大病を経験していないので、本当の
ところ、YSの心情を理解できるというわけではない。
しかし私がYSの立場なら、おそらくYSと同じように考えるに
ちがいない。

希薄な人間関係など、いくら重ねても、自分の心の隙間を
埋めることはできない。
かえって騒々しいだけ。
それがわからなければ、都会の雑踏の中をひとりで歩いてみることだ。

相手がそういう状態なら、そっとしておいてやることこそ、思いやり。
相手から「会いたい」という連絡でもあれば、話は別だが、
そうでないなら、そっとしておいてやる。

これは人生の末期にいる人たちへの、たいへん重要なマナーのひとつと
考えてよい。

そうそうYSは、週刊誌の中で、「(別れた)娘とだけは会いたい」と語っている。
その気持ちは、私にも、よく理解できる。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●「形」だけの人間社会

++++++++++++++++++++

形だけの言葉、形だけのあいさつ、形だけの心配、
形だけの喜び、形だけの行為、形だけの悲しみ……。

ふと気がついてみると、私のまわりには、「形」だけ……ということは多い。
私も他人に対してそうだし、他人も、私に対してそうである。

身内にも、それがある。
親子にも、それがある。
夫婦にも、それがある。

++++++++++++++++++++

総じてみれば、この世は「形」だけ。
そう言い切るのは、少し乱暴すぎるかもしれないが、
否定するのは、もっとむずかしい。
つまりまず形をつくって、自分への責任を回避しようとする。
それだけ人間関係が希薄になったとも考えられる。
あるいは人間関係が広がり、複雑になったとも考えられる。

そのつどいちいち心を入れていたら、それこそ身がもたない。
よい例が、冠婚葬祭
とくに葬儀。
葬儀は、「形」の集合。
私は兄の葬儀のときに、そう感じた。

何からなにまで「形」が決まっていて、まるで流れ作業のよう。
形、形、形……また、形。
線香の立て方から、焼香のしかた、さらには僧侶への礼の仕方まで。
「形」から踏み出すことを、みな、恐れているかのようですらあった。喪主ということで、葬儀社
の人から、ことこまかく、指示を受けた。

それぞれが自分のやり方をしたら、かえって葬儀が混乱してしまう。
参列する人にしても、そうだろう。
しかし、葬儀といえども、どうして個性的であってはいけないのか。
自分で考えた葬儀では、どうしていけないのか。

「形」を決めておけば、楽は楽。
しかしそうした葬儀のあり方には、疑問ばかりが残る。

というのも、兄は、生前において人間関係が、きわめて希薄な人だった。
弟という私に対しても、一度だって、何かの祝いをしてくれたことはない。
結婚したときも、子どもが生まれたときも……。
そういう意味では、生まれながらにして、きわめて依存心の強い人だった。
生活能力も、ほとんどなかった。

そういう兄を、母は、よく「生まれつき」と言ったが、
生まれつきそうであるかどうか、そんなことがわかる親はいない。
病院の医師だってそうだろう。

母の異常なまでの溺愛と過関心、過干渉が、兄をして、兄のような
人間にした。

だから葬儀に来た人の中でも、兄と個人的な思い出、あるいは
つながりのある人は、ほとんどいなかった。
この私ですら、9歳、年齢が離れていることもあったが、
一度とて、兄といっしょに遊んだ記憶そのものがない。

むしろそういう兄であったがために、私に対する社会的重圧感には、
相当なものがあった。
経済的重圧感というより、社会的重圧感である。
とくにあのG県の郷里では、それを許してくれなかった。
「家意識」も色濃く残っている。
それこそ「借金をしてでも、実家を守れ」と言う人さえいる。
「兄のめんどうは、弟のお前がみるべき」と。

だから参列に来てくれた人たちが、それなりにしおらしい顔をして、
「ご愁傷様です」などと言ってくれても、私にはピンとこなかった。
私のほうも、それらしい顔をして、「ありがとうございます」と
答える。

形だけの心配、形だけのあいさつ、形だけの言葉。
晩年の兄が感じていただろう(孤独)にしても、それを孤独として
本当に理解していた人は、何人いただろう。
仮に理解していたとしても、だれにも、何もできなかった。

だからといって、いいかげんな葬儀でよかったと言っているのではない。
むしろ、その逆。
そういう兄だったからこそ、私は人並み以上の葬儀に……と思った。
広い会場だったこともあり、参列者はガラガラだった。
空いている椅子は、参列者の数倍は、あった。

で、結局、何ごともなかったかのように、葬儀は終わった。
だれも、兄が背負ったであろう孤独感や絶望感について話題にしなかった。
(もちろん私も、しなかった。)
死んだ人は、仏……ということか。
あるいは「終わった人は、終わり」ということか。
食べて、飲んで、雑談をして、おしまい。

それも「形」なのかもしれない。
が、だとするなら
葬儀というよりは、「人の死」とは何かということになる。
さらに言えば、「命」とは何かということになる。

こうして1人の人間が、あたかも何ごともなかったかのように、
この世から消えた。
その人間にしてみれば、この宇宙もろともに、である。

葬儀……もっと心を大切にすべきではないか。
故人の心を、である。
でないと、それこそ兄の死は、本当に無駄死で終わってしまう。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

【9月号は、今日でおしまい】

●グチ

7〜8月は、マガジン読者は、1人しかふえなかった。
たったの1人!(ごめん!)

「この世界では、読者が減らないだけでも、ありがたく思いなさい」と言う
人もいる。

しかし書いても書いても、読者が減りつづけるようになったら、マガジンは廃刊にする。
その覚悟は、できている。

今日は8月29日、金曜日。

明日からは、10月号の原稿を書く。

ここまで私のグチを読んでくれた読者のみなさん、ありがとう!


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2814)

●日韓経済戦争(08年8月29日版)
Japan vs. South Korea, Economic War
(Aug. 29th, 2008)

+++++++++++++++

反日も結構だが、現在の韓国に
とって、反日政策は、損になることは
あっても、得になることは何もない。

今、韓国経済は、危機的な状況にある。
まず朝鮮N報の記事を紹介する(8月29日)。

+++++++++++++++

韓国政府や金融機関、企業が外国の政府、金融機関、企業などに返さなければならない対外
債務は6月末現在で4197億6000万ドル(約45兆8000億円)。
これに対し、外国為替市場が注目しているのは1年以内に償還しなければならない流動対外
債務(短期対外債務と償還時期まで1年以内の長期対外債務の合計)になった。

流動対外債務は6月末現在で2223億2000万ドル(約24兆2600億円)に達し、3月末よりも61億
9000万ドル(約6754億円)増えた。対外債務に占める流動対外債務の比率も昨年末の75.8%
から6月末には86.1%に上昇した。当面返さなければならない借金による圧力が大きくなって
いる計算だ。

 対外債務が増加しているのに対し、政府が万一の際に対外債務償還に当てるための「実
弾」に当たる外貨準備高は年初来減少傾向だ。外貨準備高は3月末の2642億ドル(約28兆
8300億円)をピークに6月末に2581億ドル(約28兆1600億円)、7月末に2475億ドル(約27兆円)
へと減少。8月末も2400億ドル(約26兆1800億円)をやや上回る水準になるとみられる。
(以上、朝鮮N報、8月29日)。

数字が並ぶので、わかりやすく解説しよう。

あなたは小さな町工場の社長。
現在、あなたは、4200万円の借金をかかえている。

そのうち今年中に返さなければならない借金が、2200万円。
この額は、毎月約20万円ずつ、ふえている。

が、会社の資産、つまり家庭で言えば貯金は、現在、2400万円しかない。
去年(07年)には、2600万円あったので、200万円も減ったことになる。

今の状態で、2200万円の借金を返したら、残りは、たったの200万円という
ことになる。

仕事は、このところ赤字つづき。
しかも原油高で、支払い額もふえつづけている。
先月7月だけでも、107万円も、何かと出費がふえた。

そこであなたという社長は、二者択一問題に迫られている。

「既に危険水準に到達しており、為替安定か外貨準備高確保かという二者択一が必要だ」
(朝鮮N報)と。

会社の経営のため、貯金を切り崩して赤字を補うか、それとも、将来に備えて貯金を維持する
か。

つまり為替を安定させるために外貨を使うか、それとも外貨を確保するか、と。
しかし為替を安定させるとしても、その額は、残り、200億円分程度しかない。

以上が韓国の現状ということになるが、悲劇は重なる。

世界的に、とくにアメリカ系の銀行は、外資を引きあげる動きを見せている。
つまり「貸した金は返せ」と。

ところが、である。
つぎの数字を冷静に見てほしい。

第一銀行  外資比率100% (筆頭株主:スタンダード・チャータード)
 韓美銀行  外資比率 99% (筆頭株主:シティ・グループ)
 国民銀行  外資比率 86% (筆頭株主:バンク・オブ・ニューヨーク)
 外換銀行  外資比率 74% (筆頭株主:ローンスター)
 ハナ銀行  外資比率 72% (筆頭株主:ゴールドマンサックス)

わかるかな? エッ、まだわからない?

国策銀行のウリ銀行をのぞいて、韓国の銀行は、すべて、外資の支配下にあるということ。国
民銀行を例にあげてみると、86%が、外資。
しかもその筆頭株主は、バンク・オブ・ニューヨーク! 
アメリカの銀行である。わかりやすく言えば、韓国の銀行は、アメリカの銀行、もしくはその支店
と考えてよい。

つまり韓国の銀行は、そのほとんどが外資銀行(=アメリカの銀行)ということ。
97年のデフォルトのあと、そうなった。

本家の本店で、外貨がショート(不足)すれば、当然、これらの銀行は、各国から外資をまっさ
きに、引きあげる。
朝鮮N報も、こう書いている。

「米国の住宅景気低迷とそれに伴う金融不安は回復の兆しを見せていない。その上、メリルリ
ンチ、リーマン・ブラザーズなどウォール街の金融機関は住宅景気低迷で不良債権が増え、全
世界から資金を引き揚げている。万一の際に使える豊富な外貨準備がない状況で外国資本
が一気に還流すれば、韓国の外貨準備高は流動性危機に直面する可能性がある」と。

私の知ったことではないが、アメリカの銀行は、甘くないぞ!

この日本も借金だらけ。
しかし日本が韓国とちがう点は、日本は外国からは金を借りていない。
いわば身内の借金ということになる。
わかりやすく言えば、親(=国)が、子(=国民)から借金している。
その国民が、1100兆円という莫大な金融資産を保有している。

一方韓国は、外国から借金をしている。
いわば街なかのサラ金からの借金ということになる。
しかも個人負債が、1世帯当たり、500万円に迫っている。

韓国銀行と民間経済研究所の分析によると、06年の9月末現在、韓国の家計の金融負債は
過去最大の558兆ウォン(約71兆円)に達したという。
日本の人口で計算しなおすと、4倍の280兆円! (日本の人口は、韓国の人口の約3倍。)

これだけでも、韓国では、1世帯当たり3500万ウォン(約445万円)の借金を抱えているとい
うことになる。そのため1世帯当たりの年間返済利子負担額だけでも、300万ウォン(約38万
円)に迫ることになる。

ついで、家計負債の規模は昨年1年間で10・4%増加。一方、同じ期間の国民所得は2・2%
の増加にとどまっているという。

危険度という点では、日本と韓国とでは、比較にならない。

なお今日、1ドル、1085ウォンにまで下落している。
外資の流出が止まらない状況と考えてよい。

なお韓国政府は、このところ立て続けに、大本営発表を繰りかえしている。
「韓国経済は安定している」という大本営発表である。
こうした大本営発表には、くれぐれも注意したほうがよい。
2008/08/29記


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●物欲

++++++++++++++++++

物欲のメカニズムについては、前にも
書いた。
何かの刺激が与えられると、脳の視床下部というところから、
強力なシグナルが発せられる。
このシグナルに応じて、ドーパミンという
ホルモンが分泌される。
このドーパミンが、線条体というところを
刺激する。
すると、「欲望」が、ググッと湧き起こってくる。

この欲望について、最終的には、大脳の前頭前野
がコントロールすることになるが、理性だけの
力でコントロールするのは、不可能と考えてよい。

よい例に、アルコール中毒やニコチン中毒がある。
過食症もそのひとつと言われている。

中身はちがうが、脳内で起こるメカニズムは同じ。

で、今夜その物欲の恐ろしさを経験した。
理性を超えた、物欲の恐ろしさ、である。
ということで、ハハハ、何を隠そう、
新しいパソコンを買ってしまった。
「買ってしまった」というくらい、まったくの衝動買い。

FAXの印字リボンを買いに行ったのだが、そこで、
「エイサー」のミニ・パソコンが目についた。
「ASPIRE ONE」。
思わず手にとってみた。
キーボードを軽く叩いてみた。
とたん、あの物欲。

ガガーンと脳みそを刺激した。
とたん、がまんできなくなった。

で、買ってしまった。

では、少し前に買った、HP社の2133は、どうなったか?
どちらも今、流行のミニ・パソコン。

が、HP社の2133は、英字式キーボード。
ワープロ中心に使う私にしてみれば、どこか使いにくい。

ということで、買ってしまった。
キーサイズは、やや狭いかなというところだが、私の指は、平均的な人より細い。
あとは「慣れ」の問題。

で、今、そのパソコンを使って、この文章を書いている。
デスクトップのようなわけにはいかないが、サクサクと文章が
打つことができる。
気持ちよい。

しかしそれにしても、物欲には、ものすごい力がある。
で、ワイフにこう言った。

「浮気性の男というのがいるだろ。そういう男は、『女性の肉体』
を見ると、あるいは想像すると、物欲と同じメカニズムが
脳内で働くのではないか。『欲しい』と思ったとたん、ブレーキが
きかなくなる。ぼくのばあいは、電気製品だが、電気製品で
ほんとうによかったね」と。

ワイフは「何、言っているの!」というような顔で、私を見つめ返したが、
無言のままだった。

言い忘れたが、HPの2133は、しばらく書斎のサブノートとして
使うことにする。
現在、書斎では、大型のデスクトップパソコンを2台使っているが、
XPパソコンのほうは、どうも調子がよくない。
ときどき、予期しないところで、フリーズしてしまう。
マザーボードに故障があると思われるが、よくわからない。

そのXPパソコンのかわりに、しばらく使う。
しかし2台は、いらない。
たぶん、そのあとは、息子たちのだれかに、払い下げることになる。
いつものことだが……。

(補記)

ほしいものを手に入れたとき、ほっとしたような安堵感を覚える。
心地よい満足感である。
この満足感を冷静に観察してみると、何かの試合で勝ったときに感ずる
満足感に似ている。
甘い陶酔感もともなっているから、きっと脳内で、モルヒネ系のホルモンが分泌
されているにちがいない。

この陶酔感が、新しい受容体を形成する。
あるいはそれまでにあった受容体を補強する。
そのため、こうした欲望には、反復性が生まれる。
ちょうどアルコール中毒の人が、酒のコマーシャルを見ただけで、酒を
飲みたくなるのと同じように、新しいパソコンを見ただけで、それが
ほしくなる。

今日、新しいパソコンを買ったからといって、ここで終わるわけではない。
しばらくすると、また新しいパソコンがほしくなる。
あとは、この繰り返し。

では、こうした受容体が「悪」かといえば、そうでもない。
サッカーボールを見ただけで、足がウズウズする人だっているはず。
欲望は、よい方向に導けば、その人を前向きに伸ばしていく。
スポーツ選手などが、そのよい例ということになる。
が、導き方が悪いと、多くのばあい、その人をかえって後退させてしまう。

欲望は、つねに両刃の剣であることを忘れてはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●8月30日(土曜日)

●山城新伍のこと(がんばれ、山城新伍!)

+++++++++++++++++

昨日、俳優の山城新伍のことを書いた。
若い人たちは知らないかもしれないが、団塊の世代につづく、つぎの世代の人たちの間では、
絶大な人気があった。
『白馬童子』という名前を知らない人はいない。

実は私も、山城新伍のファン。
飾り気のない、あの毒舌が好きだった。
ちょっと、(あるいは、かなり)、スケベぽい俳優だったが、憎めなかった。

その山城新伍は、現在、特別養護老人ホームに入居しているという。
69歳という。
糖尿病の悪化で、体が不自由になったらしい。
「週刊B春」誌によれば、悪化し始めたのは、離婚問題がこじれた10年ほど前からという。
逆算すると、現在の私の年齢ということになる。
だから、よけいに山城新伍のことが気になる。

どうしてだろう?
どうしてこうも、気になるのだろう?

山城新伍という俳優は、世俗的な見方をすれば、大成功者(?)ということになる。
収入にしても、私たち庶民とは、2桁はちがう。(……と思う。)
ああいう人たちは、私たちが1万円稼ぐような場面で、100万円単位のお金を稼ぐ。
交友関係も広い。
そういう大成功者でも、現在は、「昔のマネージャーと弟氏が、2か月に一度くらい面会に来る
程度」(同誌)という。
本人もリハビリをつづけているとはいうが、「治る見込みもない」「そっとしておいてほしい」(同
誌)とのこと。

ファンの1人としては、「がんばって復帰してほしい」ということになるが、同時に、「長い間、ごく
ろうさん」という気持ちもある。

山城新伍とは比較にならないが、現在の山城新伍の姿は、10年後、あるいは20年後の私自
身の姿いうことになる。

その山城新伍のことを思い浮かべながら、「人生って、こういうものかなあ」と思う。
「こういうものであったいいのかなあ」とも思う。
言いかえると、「人生って、何なのか」とも。

あるいはこうは考えられないだろうか。

山城新伍の人生を、誕生のときと今のときを、一本の線でつなぐなら、その間の人生は幻のよ
うなもの、と。
ひょっとしたら、私たちは、この光と、分子の織り成す世界で、踊らされているだけかもしれな
い。
もともと価値のないものを価値あるものと信じ、価値のあるものを、価値のないものと思い込ん
でいる。
マスコミの世界では、とくにそうだ。

こうした世界を、「夢」と表現する人も多い。
日蓮もそう言ったし、織田信長も、そう言った。
実体があるようで、その実、実体がない。
「私」にしても、どこからどこまで私で、またどこから先が私でないかも、わからない。

が、意識そのものがズレているから、それにすら気づくこともない。
だからといって、山城新伍の人生が無駄だったとか、そういうことを
言っているのではない。
私たち自身もまた、程度の差こそあれ、山城新伍と同じことをしているということ。

山城新伍は、私よりもはるかにダイナミックな人生を歩んできた。
しかし老後を迎えた今、そこに待っていたのは、『恍惚の世界』だった。
有吉佐和子の言葉を借りるまでもなく、こんな皮肉なことがあるのだろうか。
「長い人生を営々と歩んで来て、その果てに老もうが待ち受けているとしたら、人間は何のた
めに生きたことになるのだろう」(有吉佐和子「恍惚の人」)と。

では、どうすればよいのか。
どうすれば「夢」を夢と気づき、どうすればその「夢」から自分を
解放することができるか。

それについては、私は、「ゴールのない旅のようなもの」と思っている。
老後はだれしも避けられないものであり、夢から自分を解放することはできない。
が、老後になっても、何かの希望をもち、その希望に向かって生きていくことができる。

ゴールできないからといって、あきらめてはいけない。
つねに旅をすることこそ、重要。
けっして立ち止まってはいけない。
死ぬまで、歩きつづける。

釈迦はそれを『精進』という言葉を使って説明した。
それは健康論に似ている。
究極の健康論などというものは、ない。
日々に努力をしてはじめて、健康というのは維持できる。
その努力をやめたとたん、健康は下り坂に向かう。

で、私自身は、『怪傑ハリマオ』や、『月光仮面』の世代である。
『鉄腕アトム』や、『鉄人28号』、さらには『赤胴鈴之助』の世代である。
しかしその結果、今の私があるとしても、あの世界は、「夢」だったのかもしれない。

山城新伍にしても、そうだ。
『白馬童子』で世に出たが、その流れの中で、踊らされただけ。
むしろ現在の山城新伍のほうが、(本物)かもしれない。

週刊B春誌によれば、こうある。

「……こちらではどんな生活をされているのですか」という質問に対して、「週末なんかは、みん
なでパーティをやったりね。まあ、楽しいってことはないけれど、皆さんと明るく交流はしていま
すよ。ここでは『山城新伍がいる』なんて言う人は、だれもおらんから。ここが終(つい)の棲家
(すみか)ですよ」と。

山城新伍は、与えられた世界を受け入れ、その世界で、今、懸命に生きようとしている。
ひょっとしたら、山城新伍は、その世界で、本当の「私」を発見しつつあるのかもしれない。
山城新伍という俳優が、ますます好きになった。
芸能界に復帰したら、私はまっさきに、彼を応援する。

++++++++++++++++

(補記)
まとまりのない文章で、すみません。
私もこうした問題になると、どう考えたらよいのか、よくわかりません。
仮に70歳まで元気で生きたとしても、あるいは80歳まで元気で生きたとしても、その先で待っ
ているのは、『恍惚の世界』(有吉佐和子)。
できるだけ長く、元気で生きたいとは思ってはいますが、無益に10年、生きながらえたとして、
それにどういう意味があるというのでしょうか。
20年でも、同じです。

遅かれ早かれ、どうせ老後はやってきます。

大切なのは、「長く生きる」ことではなく、「どう深く生きるか」ということなのですね。
あとはその目標に向かって生きるだけ。
がんばるだけ。
その先に何があるか、本当のところ、私にもわかりません。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●「何を言いたいのか、さっぱり、わかりません」

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先日、私のBLOG(Yブログ)に、こんなコメントが寄せられていた。
「あなたの書いている文を読んでも、意味がわかりません。何を言いたいのか、それもさっぱ
り、わかりません」と。

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文の感じからして、若い女性のコメントだと思う。
事実、そのとおりだから、反論の使用がない。

で、私はそのコメントを読んだあと、その女性がコメントをつけた自分の記事を読みなおしてみ
た。
時代は変わっても、それぞれの世代に人たちがすることは、似たようなものという内容のもの
だった。
たとえば流行についても、私たちは私たちの時代で、流行を追った。
今の若い人たちから見れば、かび臭い流行だったかもしれないが、それでも流行だった。
同じように、今の若い人たちが追いかけている流行にしても、つぎの世代の人たちは、同じよう
にいつか、かび臭く思うだろう。
つまり中身はちがっても、やっていることは同じ。
時代ごとに、みな、それを繰り返しているだけ、と。

が、その人は、それについて、「理解できない」と。

私は何度も自分の書いた文章を読みなおしながら、「どこに問題があるのだろう」と考えた。
私は自分なりに、わかりやすく、読みやすい文章を考えて書いているつもりである。
しかしそう思っているのは、私だけ(?)。
このところ頭のサエも、鈍ってきた。
その分だけ、文章がまとまらなくなってきた。

言うまでもなく、文章というのは、人に読んでもらってはじめて、命を得る。
これを段階的にチャート化すると、こうなる。

(1)読んでもらう。
(2)理解してもらう。
(3)賛同してもらう。

読んでもらえるだけでも、感謝。
理解してもらえれば、うれしい。
賛同してもらうということは、ほとんど期待していない。

そこで私はこう決心した。
これからは、若い女性にももっと理解してもらえるような文章を書こう、と。
「理解できないのは、君たちのほうに原因がある」などという、高慢な気持ちはもってはいけな
い。

では、どうすればよいのか。

私はこの文章もそうだが、こんなことに注意している。

(1)句読点をふやしている。(2)1文ずつ、改行している。(3)1文を、できるだけ短くしている。
(4)できるだけ漢字を使わないようにしている。(5)難解な言葉を、使わないようにしている、な
どなど。

あとは、(6)具体的なエピソードを多くし、(7)読者の人に楽しんでもらえるようにしている。

読者の人あっての、文章である。
私はそのコメントを読んで、改めて、それを肝に銘じた。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●異変? 少なくなったスズメ!

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今年、私の家の庭にやってくるスズメの数が、
激減している。

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例年だと、数10羽単位の群れが、ときに2つ、3つ
とやってくるのだが、今年は、やってきても、5、6羽。
ときおりやってきて、あとは閑散としている。

夏前には、子連れのスズメもやってきたが、それでも
10組とか20組程度?

そのため与える餌の量も、ぐんと減った。
例年だと、近くの農協で、20キロ入りの飼料が、春先から夏までに
2、3袋、必要だった。
今年はまだ、1袋が、3分の1も残っている。

「どこかで、だれかが、スズメを殺している」と、私は思っている。
だれとは言わないが、スズメを害鳥と思っている人は多い。
とくに秋の米の収穫時にはそうだろう。

それはわかるが、その時期をのぞけば、スズメは、益鳥である。
農作物に害を与える害虫を、食べてくる。

これは私の邪推かもしれないが、もしどこかでスズメを殺して
いる人がいたら、どうかそういうことはやめてほしい。

そうでなくても野鳥の住む区域が、どんどんと狭くなっている!


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●今日から10月号

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この原稿から、電子マガジン10月号用
ということになる。

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●擬似認知症

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今日、おもしろい実験をしてみた。
称して、「擬似認知症」。

記憶障害というのが、どういうものか
それが私にも、わかった。

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近所に、よくしゃべる女性がいる。
悪い人ではないが、話し始めると、止まらない。
その女性が、台所へおりていくと、そこにいた。
ワイフと楽しそうに会話をしていた。
お茶を飲みながら、少し離れたところに座った。

ほんとうはすぐ書斎へ戻りたかったが、その
女性に呼びとめられた。

そのときのこと。
はじめはその女性といくつか言葉を交わした。
が、そのあと私は目を閉じて、心の中で、歌を
歌い始めた。

「♪アメージング・グレイス」である。
50〜60%は歌えるが、あとは
懸命に思い出しながら歌った。
もちろん口は動かさなかった。

そのとき私はその女性が何を話しているか、
よく理解できた。
そのつど、「そうだな」とか、「なるほど」と
思った。

しかし、だ。
そのあと、おもしろい現象が起きた。

その女性はそのまま帰ったが、私は私が心の中で
歌を歌っていたとき、その女性がどんな話をしたか、
まったく、思い出せなかった。

私「あのね、ぼくね、あの人が話をしているとき、
ずっと心の中で、歌を歌っていたよ」
ワ「わかっていたわ。あなた足で、リズムをとっていたから」
私「それでね、そのときは、その女性がどんな話をしていたか
よくわかったはずなんだけど、どんな話をしたか、今、
まったく思い出せないんだよ」と。

記憶というのは、(記銘)→(保持)→(想起)という3つの
プロセスを経て、脳の中に記憶として残る。
(記銘)というのは、「書き込み」のこと。
(保持)というのは、「保存する能力」のこと。
(想起)というのは、「思い出す能力」のこと。

たとえば私たちは乳幼児期の記憶について、思い出すことができない。
が、だからといって、記憶がないわけではない。
このばあい、(記銘)と(保持)はしているが、(想起)することはできないだけ。
つまり記憶はどこかに残っているのだが、それを記憶として取り出す
ことができない。

そこで今回の実験。
私はその女性が話をしている間、心の中で歌を歌っていた。
歌詞はうろ覚えだったから、懸命に思い出しながら、
それを歌っていた。

その女性の話は、私の脳には届いていた。
だからそのときは、その女性がどんな話をしているか、理解できた。
しかし私は歌を歌うことで、脳の中にその女性の話を刻まなかった。
脳の立場でいうなら、(記銘)が、阻害された。

だからその女性が帰ったあと、その女性がどんな話をしたか、
思い出せなかった。
この現象は、認知症の患者に起こる記憶障害とよく似ている(?)。

ワ「どんな話をしたのか、覚えていないの?」
私「思い出せない・・・」
ワ「あの人の叔父の話をしていたのよ。あの人の叔父がね、イタリアへ
行ってきたんだって」
私「そんな話をしていたの・・・」と。

そこで同じ実験を、今度は、ビデオを見ながらしてみた。
古いビデオを見ながら、私は、心の中で、歌を歌ってみた。
今度はよく知っている、「♪サウンド・オブ・サイレンス」にしてみた。

が、これはうまくいかなかった。
映画の字幕を読んでいたためだと思う。

つぎにワイフが何かを勝手に話し始めたときに、してみた。
夕食のあとのことだった。
私はまた心の中で、歌を歌ってみた。
「♪アメージング・グレイス」にしてみた。
そしてあの女性のときのように、目を閉じて、そうしてみた。

ワイフが何を話しているかは、理解できた。
そのときは、「そうだな」とか、「フ〜ン」とか、思った。
しかししばらくしてから、ワイフの話したことを思い出そうと
してみたときのこと。
私は何も覚えていないことを知った。

実験、成功!

こうして私は、認知症の擬似体験をすることができた。

(方法)
(1)目を閉じて、視覚的な情報を遮断すること。
(2)相手が話しているとき、心の中で歌を歌う。あまり歌詞を知らない歌がよい。

(応用)
(1)いやな相手と話をするときは、目を閉じて、心の中で歌を歌う。
(2)聞きたくない話を聞くときは、目を閉じて、心の中で歌を歌う。

・・・しかしこれはあくまでも実験。
実際、認知症か何かで記憶障害に悩んでいる人には、たいへん失礼な
実験かもしれない。
それはわかっている。
それにこんなことが日常的に起きている人には、たいへん深刻な
問題である。
それもわかっている。
しかしこういう実験をしてみることによって、記憶障害というのが
どういうものか、具体的に理解できる。
深刻さも理解できる。

なおこの実験のヒントをくれたのは、小学生の子どもだった。
その子どもがある日、こう教えてくれた。

「ぼくは、ママに叱られているときは、いつも心の中でポケモンの歌を
歌っている」と。
何でもそうしていると、母親に叱られても、気にならないのだそうだ。

不謹慎な応用かもしれないが、もしあなたの近くに口うるさい人が
いて、何か、小言を言い始めたら、この方法を応用してみるとよい。

記憶に残らないから、その分だけ、あとで気にしないですむ。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●北朝鮮の女スパイ

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このたび、北朝鮮の女スパイが、韓国で
逮捕された。
この日本にもたびたび、来ていたという。
与えられた任務のひとつは、脱北して
日本へ移り住んでいる人たちの住所と
名前を調べるというものだったという。
(韓国紙、報道)

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●とんでもない話!

もしこれが事実とするなら、とんでもない話である。
北朝鮮はその女スパイからの情報をもとに、北朝鮮から
逃げてきた人たちに対して、何かをするつもりだった。

中国へ逃げた人たちに対しては、拉致した上、北朝鮮へ連れ戻して
いたという事実もある。
その女スパイが関係した人たちだけでも、かなりの数になるという。

もしこんなことが実行されていたとしたら、(すでに実行された
かもしれないが)、日本は同じ過ちを繰り返すことに
なった。
日本人が北朝鮮の特殊部隊に拉致されたのは、日本政府にも責任がある。
かんたんに言えば、「日本政府がだらしないから、こういうことが起きた」。

そしてまた今度、こういう女スパイを摘発できなかったということは、
やはり、「日本政府がだらしないから」ということになる。

もちろん最大の悪は北朝鮮の金xxだが、彼の犯罪を許してしまった
日本政府にも、責任がある。
が、どうして日本政府は、こうまで甘いのか?
だらしないのか?

日本には日本の特殊な事情がある。
それはわかる。
しかし世界は、もっと別の基準で動いている。
緊張感そのものがちがう。

韓国筋の情報によると、その女スパイは、朝鮮S連の幹部とも
連絡を取りあっていたという。
(当の幹部は、「名前を使われただけ」と弁解しているが……。)
もしこれが事実なら、朝鮮S連そのものが、北朝鮮スパイ団の
中心的拠点ということになる。
(わかりきったことだが……。)

そういう団体が、堂々と日本国内で、北朝鮮から逃げてきた人たちを
拉致し、再び北朝鮮へ送り返そうとしていた。
順に考えていけば、そういうことになる。

こんなとんでもない話が、どこにある?
それにもう一言。
こんなとんでもないことに対して何もできない、だらしない国が
どこにある?

繰り返しになるが、拉致問題にしても、日本政府にも責任がある。
その責任を忘れてはいけない。

(補記)
この2〜3年はないが、それ以前は、こういう記事を書くと
必ずといってよいほど、ハングル文字で書かれた抗議文が
メールで届いた。
幸いなことに、私は、朝鮮語がほとんどわからない。
さらに最近では、韓国、北朝鮮からのメールは、すべてフィルターを
かけて処理している。

「この日本が安全で自由な国だ」と、もし、あなたが思っているとしたら、
それはとんでもないまちがいである。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●山の朝

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今、気温はどれくらいかな?、と聞くと
たった今、床から起きてきたワイフが、
「24度」と言った。

肌寒さを感じさせるような朝である。
昨夜は、やや厚いふとんをかぶって、寝た。

天は高く、秋を思わせる薄い雲が、幾重にも
重なっている。
その間から淡い水色の空が、顔を出している。

カラスの声、コジュケイの声……。
空気はしっとりと湿っていて、動くものはない。
おだやかで、やさしい朝。
深い緑、それが見渡すかぎり、太平洋の先までつづいている。

時刻は午前6時を少し回ったところ。

「今日も暑くなるかねエ?」と声をかけると、
「ゆうべは寒かったわネ」とワイフ。

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●今日の目標

そこで今日の目標。

(1)このパソコン(ASPIRE ONE)に、ウィルス対策ソフトをインストールする。そのために町の
中のパソコンショップへ行く。
(2)マガジン9月号(HTML版)を、アプロードする。
(3)庭と畑の草を刈る。(先日、私の家の庭に、マムシが出た。それについて近所の人が、「一
匹出たということは、数匹いると思いなさい」と教えてくれた。マムシというのは、1匹だけでは、
生息しないそうだ。マムシは、草むらに住む。)

あとは、いつもの日曜日。

ところでこんなことを書いている本があった。

●ブルー・マンディ

どうして「ブルー・マンディ(憂鬱な月曜日)になるかといえば、
日曜日の過ごしかたに問題があるから」(ある女性精神科医の書いた本)と。

つまり日曜日にだらしない生活をしてしまうと、その夜は、熟睡できない。
だから翌、月曜日は、朝から気分が晴れない。
それがブルー・マンディにつながる、と。

つまり日曜日こそ、スポーツをしたり運動をしたりしなければならない。
そしてその夜は、ぐっすりと眠る。

とは言われても、日曜日だけでも、ダラリとしてみたい。
ヒゲも剃らず、髪の毛もとかさず、時間にしばられず……。
その結果として、ブルー・マンディがあるとするなら、
ブルー・マンディを受け入れるしかない。

で、私はブルー・マンディというのは、もっと生き様に関連しているもの
ではないかと思う。
日曜日にゆっくり休む。
そのときついでに、自分のしていることが、生物としての人間の(基本)と
ズレていることを知る。
つまり休むことによって、(自分を取り戻す)。
が、月曜日に待っている世界は、何もかもが、その(基本)とはズレている(?)。
その調整がストレッサーとなって、その人を憂鬱にする。

ここでいう(基本)というのは、私の目前に広がっているような世界をいう。
もともと人間というのは、こういう世界に住んでいた。
が、実際の生活は、その(基本)から、かなりズレている。

都会に住んでいる人には失礼な言い方になるかもしれないが、都会の生活は、あれは
人間の生活ではない。

先日も横浜で通勤列車に乗り合わせたが、あれはひどい。
電車の中の人たちは、トラックに詰め込まれた家畜のよう。
窓の外に垣間見える景色は、まるで巨大な墓石のよう。
聞こえるのは、ゴーゴー、キンキンという機械的な音。

そういう生活に慣れろと言われても、今の私には、もうできない。
おそらく毎日が、ブルー・マンディになってしまうだろう。

その本を書いた女性精神科医は、ブルー・マンディを「悪」として、とらえている。
「悪」というより、それを治すには、どうしたらよいかという立場で、本を
書いている。
しかしもし私が社会学者なら、こう考えるだろう。

「人がブルー・マンディになるのは、その人に原因があるからではない。
社会のほうが、ゆがんでいるからだ」と。
またそういう視点で、この問題を考える。

何も日曜日は、月曜日のためにあるのではない!
その日曜日すらも、翌日の仕事のための準備に使うとしたら、では、
人は、いつ、どこで心と体を休めればよいのか?

ブルー・マンディというのが、それほど深刻な問題であるとするなら、
月曜日は、仕事は午後から、とすればよい。
私が政治家なら、そう提案する。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ブル
ー・マンディ ブルーマンデー ブルーマンディ)

(補記)

日本人と、たとえばオーストラリア人の生き方を比較してみたばあい、
大きくちがう点が、ひとつ、ある。

日本人というのは、常に、未来のために現在を犠牲にするという生き方をする。
子どもの教育についても、幼稚園教育は、小学校での勉強のために。
小学校教育は、中学校での勉強のために。
中学や高校での教育は、その先の大学受験のために、と。

こうした意識は、社会へ入ってからも、変わらない。
つまり日本人は、いつも鼻先にニンジンをぶらさげながら、生きる。

で、やっと仕事から解放され、自由になったと思ったとたん、そこに
待っているのは、「老後」と。
そういうことになる。

一方、オーストラリア人は、そうではない。
常に「今」の生活を大切にする。
そういうものの考え方が、子どものときから徹底している。
『休息を求めて疲れる』というのが、愚かな生き方の代名詞のようにも
なっている。
(これについて書いた原稿があるので、あとでさがしてみる。)
私の友人のP君にしても、42歳ごろまでに稼ぐだけ稼いで、
全豪一の高所得者になったあと、会社を売り払い、現在は、
レーシングカー・チームをつくり、世界を渡り歩いている。
P君のようなケースは例外であるとしても、そういう生き方が
自然にできるような下地が、オーストラリアにはある。

要するに、この問題は、「働くために休むか」、それとも
「休むために働くか」という、択一の問題に行き着く。

意識のもち方が、180度ちがうから、たがいにたがいを理解するのは、
不可能と考えてよい。
実のところ、この私にしても、いまだに日本式の仕事観が心の中に居座っている。
長い休暇があっても、その休暇を楽しむというよりは、いつも心のどこかで、
休み明けの仕事のことを心配している。
しかしこれではいつまでたっても、安穏たる日々はやってこない。
それこそ『やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた』という
ことになりかねない。

しかしそんな愚かな生き方が、あるだろうか?

さらに中には、40年前、50年前の学歴をぶらさげて生きている人がいる。
自分では「偉い」と思っているのかもしれない。
「自分はみなに、尊敬されている」「尊敬されるべき」と考えている(?)。
しかし中身が、まったく、ない。
「これが私だ」というものが、何もない。
ないから、ますます過去の学歴にしがみつく。

現在を常に未来のために犠牲にして生きていると、そういう(愚かさ)に
気がつくということもない。

かわいそうな人だと、私は思う。

【休息を求めて疲れる】

子どものやる気

 最近の研究では、やる気(動機づけ)をコントロールするのは、脳の辺縁系にある、帯状回と
いう組織が関係しているらしいということがわかってきた(伊東正男氏による「思考システム」)。
脳のこの部分が変調すると、子どもに限らず、人は、やる気をなくし、無気力になるという。もっ
とも、そうなるのは重症(?)のケース。しかし重症のケースを念頭におきながら、子どもの心を
みるのは、大切なことである。

 こんな相談があった。

●栃木県のYUさんより

私は、小六の男子と小一の男子をもつ母です。小六の子どもの事で悩んでいます。

 低学年の頃から勉強やスポーツが嫌いで、テレビゲームと絵を描く以外には、興味がなく、そ
れ以外の事をさせようとしても、やる気を出してくれません。勉強の成績も悪く家で教えていて
も、塾や家庭教師を頼んでみても、とにかく嫌々なので、本人の苦痛になっているだけのようで
す。何も言わないで好きなようにさせていると、全く勉強もしないし、ゲームや絵を描いたりして
いて、外へ出て友達と遊ぶ事すらしないで家の中でゴロゴロしています。

 学校では、友達と仲良く遊んだりできているし、性格も温和で、明るいのですが、のんびりし
すぎてて、マイペースなので協調性に欠けるところが、あります。

 幼児の時から、軽い発語障害があり、難聴の検査をしたりして心配していたのですが、異常
もありませんでした。しかし、いまだに、言葉の使い方がおかしくてその都度注意しても、なおり
ません。知能的に問題があるのか、精神的なところで問題があるのかわからず、悩んでいま
す。
 
 もし、通塾しながら教育方法や学習方法について、ご相談できるところがあれば教えて頂き
たいのですが、よろしくお願いいたします。
(栃木県U市、YUより)

●二番底に注意                               
 このYUさんのケースで注意しなければならないのは、たいていの親は、「今が最悪」、つまり
「底」と思う。しかしその底の下には、もうひとつ別の底がある。これを二番底という。が、それ
で終わるわけではない。さらにその下には、三番底がある。

 相談のケースで、親が「何とかしよう」「なおそう」と思えば思うほど、子どもは、つぎの底をめ
ざして落ちていく。(勉強しない)→(塾へやる)→(やる気をなくす)→(家庭教師をつける)→(さ
らにやる気をなくす)→……と。こういうのを悪循環というが、その悪循環をどこかで感じたら、
鉄則は、ただひとつ。「あきらめる」。「やってここまで」と思い、あきらめる。こういうケースで
は、「まだ、以前のほうが症状が軽かった」ということを繰りかえしながら、ますます状態が悪く
なる。

●リズムの乱れ
 つぎに注意しなければならないのは、親子のリズム。YUさんのケースでは、親子のリズムが
まったくあっていない。「のんびりしすぎてて……」というYUさんの言葉が、それを表している。
つまり心配先行型というか、何でもかんでも、親が一歩、子どもの先を歩いているのがわか
る。せっかちママから見れば、どんな子どもでも、のんびり屋に見える。そういうYUさんだが、
子どもの心を確かめた形跡がどこにもない。「うちの子のことは、私が一番よく知っている」「子
どものため」という親のエゴばかりが目立つ。

 恐らくこのリズムは、子どもが乳幼児のときから始まっている。そして今も、そのリズムのなか
にあり、これから先も、ずっとつづく。リズムというのは、そういうもので、そのリズムの乱れに
気づいたとしても、それを改めるのは容易ではない。

●強引な押しつけ
 「勉強」は大切なものだが、YUさんは、勉強という視点でしか、子どもを見ていない? だか
らといって勉強を否定しているわけではないが、「何とか勉強させよう」という強引さだけが、目
立つ。

 親の愛には三種類ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛。このYUさんのケースで
は、「子どものため」を口実にしながら、その実、子どもを自分の思いどおりにしたいだけ。こう
いう愛もどきの愛のことを、代償的愛という。決して真の愛ではない。

 さらにでは、なぜYUさんが、こうした強引の押しつけをするかといえば、いわゆる学歴信仰が
疑われる。「学校は絶対」「勉強は重要」「何といっても学歴」と。信仰といっても、カルト。脳のC
PU(中央演算装置)がおかしいから、自分でそれに気づくことはない。以前、「勉強にこだわっ
てはだめですよ」と、私がアドバイスしたとき、ある母親はこう言った。「他人の子どものことだと
思って、よくそういう言いたいことを言いますね!」と。

●まず反省
 子どもに何か問題が起きると、親は、「子どもをなおそう」と考える。しかしなおすべきは、親
のほう。たとえばYUさんは、「子どもがゴロゴロしている」ことを問題にしている。しかし学校か
ら帰ってきたとき、あるいは土日に、子どもが家で、どうしてゴロゴロしていてはいけないのか。
学校という「場」は、まさに「監獄」(あるイギリスの教育者の言葉)。そこで一日を過ごすというこ
とが、いかに重労働であるかは、実は、あなた自身が一番、よく知っているはず。そんな子ども
に向かって、「ゴロゴロしていてはダメ」と、どうして言えるのか。あるいはYUさんは、夫にも、そ
う言っているのか?

 それだけではない。こういう生き方、つまり、「未来のためにいつも現在を犠牲にする」という
生き方は、結局は愚かな生きかたと言ってもよい。まさにそれこそ、『休息を求めて疲れる』生
き方と言ってもよい。こういう生きかたを子どもに強いれば強いるほど、子どもはいつまでたっ
ても、「今」というときを、つかめなくなる。そしていつか、「やっと楽になったと思ったら、人生も
終わっていた……」と。

●塾のエサになってはいけない
 こういう生きザマが確立しないまま、塾や家庭教師に頼れば、それこそ、塾や家庭教師の、
よいカモ。こういうところは、親の不安や心配を逆手にとって、結局は、金儲けにつなげる。し
かしそれはたとえて言うなら、熱を出して苦しんでいる子どもや親に向かって、冷水を浴びせか
けるようなもの。基本的な部分を何もなおさないまま、問題を先送りするだけ。その場だけを何
とかやりすごし、あとはまたつぎの受験屋にバトンタッチする。が、必ず、いつか、こういう子育
て観は、破局を迎える。二番底、三番底どころか、親子の絆(きずな)すら、こなごなに破壊す
る。

●ふつうの子ども論
 YUさんは、「おかしいので……悩んでいます」と書いている。その気持ちはわからないでもな
いが、しかし残念ながら、こういう悩み方をしていると、問題は何も解決しない。そればかりか、
さらに問題は複雑になる。

 日本人は、昔から「型」にあてはめて子どもを考える傾向が強い。ある一定のパターンを子ど
もに想定する。そしてその型からはずれた子どもを、「おかしい」と言う。しかしそれ以上に大切
なことは、その子どもはその子どもとして、その中に「よさ」を見つけること。しかし心のどこか
に、「ふつうの子」を想像し、その子どもに近づけようとすればするほど、親は、子どものもつ
「よさ」までつぶしてしまう。だから、ここでいうように複雑になる。このYUさんのケースで言うな
ら、「あなたの発音はおかしい」と言ったところで、子どもにその自覚がない以上、なおるはずも
ない。またそれだけの自意識がければ、自分でなおすこともできない。小学六年生といえば、
すでに言葉の問題をうんぬんする時期を過ぎている。ラジオかテレビのアナウンサーにでもな
るというのなら話は別だが、そうでないなら、あきらめる。それ以上に心配されるのは、こうした
親の姿勢が、文字嫌い、本嫌いを誘発し、さらには作文力から読解力まで奪っているというこ
と。そうでないことを望むが、その可能性は、きわめて高い。

●では、どうするか?
 絵を描き、テレビゲームばかりしているというなら、それ以上に心配しなければならないこと
は、引きこもりである。もしそうなってしまうと、それこそ、あとがたいへん。多分、絵といっても、
アニメのキャラクターを描くか、あるいはマンガ的なものだろう。しかしそれとて伸ばせば、一芸
になる。そしてその可能性があるなら、私は絵の才能を伸ばしたらよい。今の段階で、絵やゲ
ームを取りあげたら、子どもはそのまま、まちがいなく、二番底に落ちていく。

 成績が悪いということについては、今の段階では、手遅れ。仮に受験指導をしても、それはま
さにつけ刃(やいば)。問題を先送りするだけ。むしろ子どもに言うべきことは、逆。「もっと勉強
しなさい」ではなく、「あなたは、よくがんばっている」だ。「何も言わなければ、勉強をしようとし
ない」ということなら、すでに家庭教育は失敗している。理由は山のようにあるのだろうが、その
失敗をしたのは、子どもではない。親のYUさんだ。その責任をおおい隠し、子どもに押しつけ
ても、それは酷というもの。

 こういうケースでは、あきらめる。あきらめて、子どもを受け入れる。そして子どもの立場で、
子どもの視点で、子どもの勉強を考える。「お母さんといっしょに、この問題を解いてみようね」
と。「勉強しなさい」「塾へ行きなさい」ではない。子どもといっしょに、悩む。そういう姿勢が、子
どもの心に風穴をあける。

 しかし本当のところ、それで子どもが立ちなおる可能性は、ほとんどない。立ちなおるころに
は、すでに子どもはおとなになっている。受験時代は終わっている。本来なら、YUさんは、もっ
と早く子どもの限界に気づき、そして受け入れるべきだった。そのつど、「何とかなる」「何とかし
よう」と、子どもを、いじりすぎた。その結果が今であり、小学六年生なのだ。が、ここでまた「何
とかなる」「何とかしよう」と考えれば考えるほど、さらに大きな底へと子どもは落ちていく。

●子どもへの愛
 この返事を読んで、YUさんが、怒るようなら、YUさんは、子どもを愛していないとみてよい。
私はこの返事を、YUさんというより、YUさんの子どものために書いた。そういう私の意図がわ
かれば、YUさんは、怒らないはず。しかし反対に、「言いたいことをよくも、言うものだ!」と怒
るようなら、YUさんは、自分の愛情をもう一度、疑ってみたほうがよい。何か、大きなわだかま
りがあるかもしれない。望まない結婚だった。望まない子どもだった。あるいは生活が不安定
だった。夫に、大きな不満があったなど。そういうわだかまりが姿を変えて、ときには子どもへ
の過干渉や過関心になる。その背景には、親の子どもに対する不信感がある。

 そこでどうだろう。もう小学六年生なのだから、子どもを子どもと思うのではなく、一人の友と
して受け入れてみては……。親には三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護
者として、子どものうしろを歩く。そして友として、子どもの横をあるく。この三つ目は、実は日本
人が、もっとも苦手とするところ。だからこそ、一度、友として、子どもの横を歩いてみる。これ
は今からでも遅くない。これからでも間にあう。子どもが絵を描いていたら、YUさん、あなたも
いっしょに絵を描けばよい。子どもがテレビゲームをしていたら、YUさん、あなたもいっしょにゲ
ームをすればよい。そういう姿勢が子どもの心を開く。そしてあなたが子どもの立場にたったと
き、あなたが「勉強しようね」と言えば、必ず、子どもは勉強をするようになる。今のように、一
方で子どもの世界を否定しておきながら、どうして、親の世界に子どもを引き込むことができる
というのか。こういうのを、親の身勝手という。お笑い草という。

●最後に……
 きびしいことを書いたが、ここに書いたのは、あくまでもひとつの参考意見。「そういう考え方
もあるのかな」というふうに、とらえてくれればよい。ただ私がここで言えることは、私はYUさん
との間に、あまりにも遠い距離を感じたこと。恐らくYUさんも、私との間に、遠い距離を感じた
ことと思う。意識の差というのはそういうもの。

 しかしこう考えてほしい。私たちは今、こうしてここに生きている。その尊さというか、その価値
に気づいてほしい。あなたがここにいて、子どもがそこにいるということが、奇跡なのだ。そうい
う視点で子どもを見ると、また子どもの見方も変わってくるはず。

+++++++++++++++++

●YUさんへ、

最後になりましたが、今、私は無料で電子マガジンを発行しています。そのマガジンへ、ここに
書いた原稿(YUさんからのメールの部分も含めて)の掲載をお許しください。掲載予定日は、
二月五日を予定しています。ご都合の悪い部分は改めますので、至急、連絡ください。連絡が
なければ、了解していただいたものを判断させていただきます。よろしいでしょうか。はやし浩

(03−1−28)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●YUさんより

早々のお返事ありがとうございます。
主人と二人で読んでいるうちに、胸が締めつけられ、涙があふれてきました。
今まで学校の先生や地域の相談所、親戚、知人などに相談してみましたが、結局、答えが見
出せないまま、今日までズルズルときてしまいました。
でも、今日は違います。
はやし先生のお考えは、まさに私の中で一番恐れていた 一番確かであろう答えそのものでし
た。

もう、手遅れであろう という言葉を目にしたとき、いままで自分が子供にしてきた事が悔やま
れ、この一二年間、ずっと苦しめてきたのだと思うと申し訳なくて、どう償えばよいのかわかりま
せん。
私はきっと、この子を一人の人間としてではなく、私の所有物のように見ていたのだと思いま
す。

これから、この子にどのように接していかなくてはならないのかは、わかりました。
ただ、私自身がちゃんとやっていけるのか不安でたまりません。
 
これからは、友として子供の横を歩いていけるよう がんばってみます。
また、ご相談させていただく事があると思いますがよろしいですか?
 
はやし先生、今日は、本当に 本当にありがとうございました。

(追伸)メール、転載の件は了解しました。

++++++++++++++++++

●はやし浩司より、栃木のYUさんへ、

だいじょうぶですよ!
あなたはもう、すばらしいお母さんですよ!
勇気をもって、前に進んでください。
あなたの涙が、あなたの心を溶かし、
子どもの心を溶かします。
あとは、時間が解決してくれます。
しばらくすると、安らいだ心になりますよ。
子どもは、「許して、忘れる」ですよ。
あなたが真の愛にめざめたとき、
あなたや子どもに、笑顔が戻ります。
そのときから子どもは、学習面でも
伸び始めます。約束します。

子どもというのは、不思議なものでね。
「やりなさい」「がんばれ」と親が言う間は、伸びません。
しかしね、「よくやったわね」「気を楽にね」と言ってあげると、
不思議と伸びる始めるものです。
私も、何人かの子ども(生徒)を預かっていて、
どうにもこうにも、先へ進めなくなったようなときには、
近くの町の中を、みんなで、あちこち散歩します。
そうするとですね、とたんに、子どもたちの表情が
明るくなるのです。

あるいはね、子どもたちが、コソコソと隠れてカードゲームをしているでしょ。
そういうときは、「あのな、ブルーアイズ三枚と、融合カード一枚で、
パワーが一〇倍になることを知っているか?」と話しかけてやるのです。
これはハッタリです。するとですね、とたんに子どもたちの目つきが、
尊敬の目つきに変わるのです。子どもの心をつかむためには、
子どもの世界に、一度、自分を置いてみることです。

しかしね、同時に、そこはすばらしい世界ですよ。
純粋で、純朴で、そこは清らかな世界です。
おとなの私たちが忘れてしまった世界です。
あなたも、もう一度、少女期、青年期を楽しむつもりで、
子どもの世界に入ってみたらどうでしょうか?
あなたの子どもの心と目を通して、もう一度、
少女期と、青年期を楽しむのです。楽しいですよ!
「私は親だ」と気負うことはありません。
そんな親意識など、クソ食らえ、です。
肩の力を抜いて、子どもともう一度、人生を楽しむのです。

英語の格言に、『(子どもの心をつかみたかったら)、
釣りザを買ってあげるより、いっしょに魚釣りに行け』
というのがあります。その心意気です。

さあ、あなたも勇気を出して、こう言ってみてください。
「そうね、勉強なんて、いやなものねえ。お母さんも
子どものころ、勉強なんて、大嫌いだった」と。
あなた自身も、あなたの心をふさいでいた、
心の重石(おもし)を吹き飛ばすことができますよ。
いえね、そのときから、親子の絆(きずな)を太くなり、
そのときから、あなたの子どもは伸び始め、
そしてそのときから、あなたは真の愛をもった、真の親になるのです。
そう、それはすばらしい世界ですよ。
小さな、小さな世界かもしれませんが、
神の愛、仏の慈悲を体験できる、すばらしい世界ですよ。

だから勇気をもって、一歩、前に進んでください。
すばらしい親子になるために。応援します! 
 
ではね。
また、何かあれば力になります。
どうかまたお便りをください。

はやし浩司


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●回顧性と展望性

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回顧性(過去を懐かしむ)と、展望性(未来に向かって生きる)は、
満55歳前後を境として、入れ替わるのだそうだ。
この年齢を超えると、回顧性が展望性より強くなる。
さらに60歳、70歳となると、展望性はますます弱くなり、
回顧性が強くなる。

人によっては、ルーツさがしと称して、自分の先祖をさがし求める人も
いる。

これについては、すでに何度も書いてきたので、ここではその先に
ついて書いてみたい。

私がこの「回顧性と展望性」という言葉を知ったのは、50歳くらいの
ときである。
そういう意味で、私はラッキーだった。
50歳くらいのとき、心の未来を知ることができた。
その準備をした。

やがて55歳くらいになったとき、まわりの同年齢の人たちが、急速に
回顧性が強くなっていくのが、よくわかった。
たとえば同窓会の回数が、急にふえたのもそのひとつ。
(だからといって、同窓会に意味がないというのではない。誤解のないように!)
が、私はそのつど、展望性を失わないように気をつけた。
同時に、回顧性を強くしないように、心がけた。

現在、満60歳だが、そんなわけで、平均的な人たちよりは、展望性をもっている
と思う。
とくにジジ臭い人たちとくらべてみると、それがよくわかる。

中には「60歳になったから、四国八十八か所巡りをする」と言っている人もいる。
「家系図を作って、それを子どもたちに残す」とがんばっている人もいる。
さらに先にも書いたように、「自分のルーツさがし」と称して、先祖の足跡をたどってみたり、
早々と、墓地を購入したりする人もいる。

だからといってそういう人たちが、どうこうというのではない。
それぞれの人たちは、それぞれの思いの中で、そうする。
しかし心理学的には、(ごく平均的なこと)をしているにほかならない。
形はそれぞれでも、(みな、そうするだろう)というようなことをしているにほかならない。
アメリカ人もヨーロッパ人も、みな、そうである。
(死)という(天井)が見えてくると、とたん、目が過去へと向き始める。

それはわかるが、大切なのは、回顧性ではなく、展望性。
回顧性に陥ったとたん、そこで時計は止まる。
つまりその先の人生が、無駄になってしまう。

私にしても、残りの時間は、まだ10年はあると思う。
運がよければ、20年はあると思う。
過去を回顧するにしても、最後の最後でよい。

私は今まで生きてきたし、
生きているし、
これからも生きていく。

もちろん「生きる」ということは、「前向きに生きる」ことをいう。
(自信はないが……。)

10年もあれば、かなりのことができる。
20年もあれば、さらにいろいろなことができる。

年齢的には、満20歳から40歳までの期間と同じ。
あのビル・ゲーツは、20歳くらいのときに起業し、40歳のときには、
自分の会社を、世界一のコンピュータのソフト会社にまでした。

つまり毎日、仏壇の金具を磨いて過ごすようになったら、その人もおしまい。
そういうのを「生きている」とは、言わない。

だからもし、この文章を読んでいるあなたが、40代とか、50代のはじめの
人だったら、この言葉を覚えておくとよい。
「回顧性と展望性」という言葉である。

この言葉を知っているだけでも、老後の過ごし方が大きく変わると思う。

(補記)

一度回顧性に陥ってしまうと、それから抜け出るのは容易なことではない。
その人の人生観として、定着してしまうからである。
さらに回顧性に陥ると、考え方そのものが、どんどんと後ろ向きになっていく。
最終的には、自分の葬儀の心配ばかりをするようになる。

このことは、あなた自身の父親や母親、あるいは親類の人たちを観察してみると
よくわかる。
あなたの周囲にも、そういう人が、1人や2人は、たいてい、いる。
おおいにそういう人たちを参考にしたらよい。
(この言い方は、ちょっと、残酷かな?)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2815)

●夫婦円満のコツ

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夫婦も長い間いっしょにいると、
たがいに相手に合わせようとする。
いがみあっているよりは、妥協できる
ところは妥協し、相手に合わせたほうが
よいと考えるようになる。
そのほうがストレスもたまらない。

こうして夫婦の間には、同調関係
が生まれる。

+++++++++++++++++

仲がよい夫婦でいるためには、たがいに好感をもっていなければならない。
これは必要条件だが、しかしそれだけではじゅうぶんではない。

たとえばこんな例で考えてみよう。

夫は、岐阜県出身で、岐阜S高校の野球チームを応援。
妻は、静岡県出身で、静岡A高校の野球チームを応援。

夏の甲子園で、岐阜S高校と静岡A高校が対戦することになった。

こういうとき夫婦として、いろいろな解決策が考えられる。

(1)妥協…どちらかがどちらかに、合わせる。
(2)合理化…「たかが高校野球」と考え、対立を避ける。
(3)受容…たがいにたがいを認めあう。

これは実際、ある知人から聞いた話だが、日本人男性と結婚した
ブラジル人女性がいた。
その夫婦のばあい、ワールドカップで日本とブラジルが対戦したとき、
そのまま対立関係になってしまったという。
(実際には、妻は、ブラジル人が集まる会場で、ブラジルを応援し、
夫は家で、子どもたちと日本を応援したという。)

が、スポーツならまだしも、宗教がからむと、ことは簡単ではない。
とくに妻が、どこかのカルト教団(狂信的な信仰をする団体)に
入信したようなばあい、である。

こういうケースのばあい、(2)の合理化は、むずかしい。(3)の
受容についても、たいてい妻のほうが一方的に夫の価値観を否定する
ようになるので、それもむずかしい。

残るのは、(1)の妥協ということになるが、妻のほうが夫に妥協する
ということは、信仰そのものがもつ性質上、ありえない。
夫の側の一方的な妥協が強いられる。

が、その妥協に失敗すると、ストレスは急速に増大し、やがて限界を超える。
具体的には、「離婚」という言葉が、夫婦の間から出てくるようになる。
これは夫だけの問題ではない。
中には、「離婚はぜったいだめ」と教えるカルト教団もある。
妻自身も、信仰と離婚のはざまで、もがき苦しむことになる。

実際、その処理に失敗して、42歳という若さで、亡くなってしまった
男性がいる。
くも膜下出血だったという。
その話を聞いたとき、私はその背後で起きた、壮絶な家庭内宗教戦争を想像した。

さらによくあるケースとしては、不倫がある。

夫婦、どちらか一方の不倫が発覚したようなばあいを考えてみよう。

こういうケースでは、(1)の妥協ということは考えられない。
「あなたが不倫をしたから、私も不倫をしてきます」というわけにはいかない。
そこで(2)の合理化、もしくは(3)の受容ということになる。

合理化というのは、高校野球と同じように、「たかが不倫ではないか」と考え、
自分を納得させることをいう。
受容というのは、「夫婦といっても、たがいに束縛しあうのはよくない」などと
考えて、相手の行為を認めることをいう。
しかしそれにはかなり高度な、精神的操作が必要である。
昔、見たフランス映画に、そういうテーマを扱ったのがあった。

晩年に近づいた男性が、若い女性と結婚した。
しかし男性は、性的な満足感を妻に与えることができなかった。
そこで男性は妻の不倫を容認することによって、夫婦の愛情をさらに昇華させた。

……以上のケースは、いわば特殊な例ということになる。
こういうケースは別として、私たちは日常生活において、つねに、選択を迫られる。
妥協か、合理化か、さもなくば受容か、と。

それがじょうずに処理できる夫婦を、(仲のよい夫婦)といい、そうでない
夫婦を、そうでないという。
表面的な様子だけを見て、たとえば夫婦げんかが少ないから、仲がよいとか、
少ないからそうでないとか判断してはいけない。

あとは、たがいに前だけを見ながら、前に向かって進む。
夫婦というのは、けっして見つめあってはいけない。
それが夫婦円満のコツということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 夫婦論 夫婦円満)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●今朝、あれこれ(今日から9月、9月1日)

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あちこちのニュース・サイトをのぞく。
興味をひいたのは、

(1)二日酔いには、蜂蜜がよいという。
アメリカの某、信頼のおける研究団体が、
そういう研究結果を報告した。
二日酔いの予防にもなるという。
蜂蜜を紅茶に溶かして飲むというのも、
ひとつの方法だとか……。

(2)共産党に入党する若者がふえているという。
小林多喜二の書いた、『蟹工船』という本が、
今、静かなブームになっている。
その影響ということらしい。
別の識者は、自民党でもない、民主党でもない、
第三の政党を、若者たちが求め始めていると
述べている。
ほんとうに、そうかな?

(3)「月刊現代」が、休刊になるという。
   発行部数の減少と、読者の高齢化が理由という。
   インターネットの普及とともに、オピニオン
   媒体としての、この種の雑誌が売れなくなったと
   書いてあるサイトもあった。
   「月刊現代」を、不定期にではあるが、愛読して
   いた私としては、さみしい。
   ところで現在、「月刊現代」は、毎月8万部強の
   発行部数しかないという。
   この数字には、驚いた。
   「たったの8万部?」と。
   私は、もっとあると思っていた。
   私のサイトやBLOGへのアクセス数にしても、
   この2月、10万件(月間ベース)を超えた。
   9月の今は、さらにふえている。
   今、時代が、大きく変わりつつある。

(4)北朝鮮が、テポドン2号を発射するという。
あの国は、どこまでいじけたら、気が済むのだろう。
だれにも相手にされなくなると、(=まわりが静かになると)、
すぐこういう脅しをかけてくる。

(5)ハリケーンが、巨大化しているという。
現在、フロリダ州、テキサス州から、100万人近い
人たちが、強制的に避難させられているという。
この先、台風が巨大化することも予想されている。
これは、けっして遠いアメリカだけの問題ではない。
地球は確実に、しかし静かに破局に向かって進みつつある(?)。

(6)韓国経済があぶない?
韓国の朝鮮N報、中央N報、東A日報各紙が、この数日、
韓国経済について悲観的な記事を載せている。
東A日報は、こと経済に関しては、率直な記事を書いてきたが、
朝鮮N報や中央N報まで、そういうことを書き始めたことに驚く。
かなり深刻らしい。
現在、猛烈な勢いで、韓国から外資が逃げ始めている。
ちなみに今朝の為替レートは、1ドル=1089ウォン。
先週はじめより、さらに30ウォンも、ウォンがさがっている。
危険水域は、とっくの昔に、越えた。
なお韓国では、「国家破綻」のことを、「通貨危機」と呼んでいる。
「デフォルト」というのは、もともとは「債務不履行」を意味するが、
中身は「国家破綻」。

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●日韓経済戦争(最終段階)(South Korea under Crisis)

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とうとう出てきた!
韓国与党代表の口から、「(韓国経済)、9月危機説」!

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すべての指標が下向き。
年末までに100億ドルの経済収支赤字とはいうが、その程度ですむはずがない。
この数日間だけでも、土日をはさんで20ウォンも、ウォンが下落している。
(現在、1ドル=1104ウォン。9月1日)

「後悔するのは、韓国のほうだ」と言い切った小泉元総理。
それが今、現実のものとなりつつある。

ソウル、聯合発のニュースをそのまま紹介する。

+++++++++++++++以下、聯合ニュースより++++++++++++++

【ソウル1日聯合】ハンナラ党の朴ヒ太(パク・ヒテ)代表は1日の政府・与党協議会で、「わたし
は9月危機説は信じないが、最大の注意を払うべき」と強調した。

 国際収支は今や完全に赤字基調が定着したようで、年末までに100億ドルの経常収支赤字
が予想されるのは、誰もが認める趨勢だと述べた。資本収支も悪化し、純債務国転落が迫る
など、通貨危機から10年ぶりだと全員が口をそろえているうえに、現在と将来的な景気指標も
いずれもマイナスだと指摘した。

+++++++++++++++以上、聯合ニュースより++++++++++++++

敵意をあおるわけではないが、竹島問題に見る韓国の反日感情には、常軌を
逸したものがある。
つい先日は、陸海空軍をあげた「独島(竹島)奪回訓練」を実施している。

そういう国が、現在、窮地に立たされている。
韓国経済が、デフォルト(債務不履行=2回目の国家破綻)を宣言するのは、
まさに時間の問題。

一家にたとえていうなら、自己破産。

前回97年のときには、日本は頼まれもしないうちから、即、韓国救済に走った。
それに「待った!」をかけたのは、ほかならぬアメリカだった。
しかも総額500億ドル!

その結果がどうだったかは、すでに私たちみなが、知っている。

現在、外資が猛烈な勢いで韓国から逃避し始めている。
ウォンを買い支える資金も、底をついた。
ゆいいつの頼みの綱は、この日本ということになる。
おそらく現在、水面下で、韓国政府は、日本政府に対して、ウォンの買い支えを
要請しているにちがいない。
これは憶測ではない。
ここまでくると、それしか選択肢はない。

しかし日本よ、日本人よ、「97年の愚」を繰り返してはいけない。
今度こそ、韓国に頭をさげさせよう!
さげても、すぐ援助の手をさしのべる必要はない。
この10年間、韓国が日本に対してしたことを思い起こすなら、なおさらである。

が、韓国人の論理は、日本人の意識とは、かなりちがう。
「韓国がデフォルトしたのは、日本のせい」とか、「借金は全額返したから、文句は
ないはず」と、居直っている。

日本の市町村の村レベルまで、全国津々浦々に産業スパイを送り込み、この日本から
盗めるものはすべて盗んでおきながら、「独島(竹島)を、日本が盗もうとしている」は
ない。

現在のイ大統領は別として、ノ前大統領は、戦前(戦前だぞ!)、日本軍に協力した
という理由だけで、その子孫から財産を没収するようなことまでした。
また日本が国連の常任理事国入りをめざしたときには、韓国政府は、各国に特使まで
派遣して、(特使だぞ!)、それに反対した。

さあ、日本よ、日本人よ、覚悟しよう!
機械産業を中心として、韓国がデフォルトすれば、日本もかなり手痛い打撃をこうむる
ことになる。
日本とて無傷ですむわけではない。
しかし日本は、日本。
まだまだ底力がある。

今こそ韓国から、液晶産業、電子産業、自動車産業、造船技術、鉄鋼技術を
取り戻すチャンスである。
が、もし私の言っていることが、過激であると思う人がいたら、こんな事実を
忘れてはいけない。

金大中が大統領のときのこと。
日本はバブル経済の後遺症に苦しんでいた。
そのとき金大中は、毎朝(毎朝だぞ!)、
日本追い落としのための閣議を開いていた。
日本の繁栄を、そっくりそのまま韓国のものにしようと画策していた。

この試合は、サッカーの試合とはわけがちがう。
野球の試合ともちがう。
勝つか、負けるか。
日本が負けたら、この日本に明日はない。
私たち日本人にはともかくも、韓国人には、「共存、共栄」という言葉は通用しない。

【日本政府へ】

「97年の愚」を、ぜったいに繰り返してはいけない!
ときの河野外務大臣は、おまけに120万トンという米(米だぞ!)を、北朝鮮に
援助した。
「これで朝鮮半島が動かなければ、(私が)責任をとる」とまで言い放った。
しかし朝鮮半島は、何も動かなかった。
河野外務大臣も、何も責任を取らなかった。

【韓国への輸出業者のみなさんへ】

日本政府は、100億ドルの援助を約束している。
しかし97年当時と今とでは、韓国経済の規模そのものがちがう。
100億ドル程度の援助ですむはずがない。
輸出保険をしっかりとかけておくことは言うまでもないことだが、
こうした事実をしっかりと頭にたたきこんだ上で、韓国の輸入業者と
取り引きをしたらよい。

「韓国危機説」が、韓国政府の要人の口からとうとう、出てきた。
この事実を、私たちは重くみなければならない。

ちなみに週明けの今日(9月1日、午前)、韓国の株価は3%以上も暴落している。
(9月1日、正午記)

(注)さらに今朝、(9月2日)、1ドル=1116ウォンにまで、下落している。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2816)

●認知症(Senility)

+++++++++++++++++

認知症にも、いろいろあるようだ。
「最低限知っておきたい、認知症の種類」と題して、
こんな記事が、週刊B春(9月4日号)に載っていた。

+++++++++++++++++++++++++++++++

(1)脳血管性
(ビンスワンガー病など)

(2)神経変性
*アルツハイマー病
*非アルツハイマー型
      (前頭側頭型認知症=ピック症候群、レビー小体型認知症など)

(3)正常圧水頭症

++++(以上、武田病院神経脳血管センター・秋口一郎氏++++

今まで、それぞれが別々に頭の中に入っていたが、この表でスッキリした。
で、この中で、私自身もとくに注目しているのが、
「神経変性認知症の中の、非アルツハイマー型認知症」。

アルツハイマー病は、脳の中でも主に、側頭葉、頭頂葉(記憶を司る)が萎縮する
のに対して、前頭側頭型では、前頭葉や側頭葉が、萎縮するという(同誌)。

「問題の前頭側頭型認知症は、認知症を連想させる記憶障害(物忘れ)はほとんど
なく、性格変化や社交性の消失、周囲への無関心や、ワンパターン行動が目立ち
ます。
抑制も欠如し、万引きなど軽犯罪を犯すことも。
また話したいのに言葉が出にくく、口数が減ったり、口数が減ったりなどの言語異常
も出ます。
感情面は鈍化して、共感や感情移入ができず、多幸感が強まり、やたら趣味を広げたり
することもあります」(同誌)と。

「傍若無人(ぶじん)としか映らないが、原因は認知症。……なぜ異常な行動や
行為が生ずるかを理解すれば、家族の苦痛も軽減できる。
認知症に関心をもとう」(同誌)と。

雑誌には、Aさん(男性、55歳)の例が載っていたが、若くして発症することが
多いという。

で、この中に出てくる、「多幸感」という言葉だが、「数多い幸福に恵まれていると
いう実感」(「国語大辞典」)という意味である。

こうした認知症でこわいのは、本人自身の問題もさることながら、周囲の人たちに
大きな迷惑をかけることがあるということ。
周囲の人たちが、その病気の内容を理解し、その人がその病気であると理解していれば、
それでよい。
が、実際には、そうではない。
近隣の人たちとの、大きなトラブルに発展することも珍しくない。

ある男性(65歳くらい)は、パチンコを使って、近所の家々に石を撃ちつづけていた。
別の男性(60歳くらい)は、マジックで自動車のナンバーに落書きをしていた。
また別の男性(70歳くらい)は、自転車置き場に置いてあった自転車のタイヤに、
穴をあけ、つぎつぎとパンクさせていた、などなど。

共通しているのは、上記、秋口氏も指摘しているように、「ワンパターン行動」。
時刻表的生活が基本になり、またそれをしないと気が済まなくなる。

夕方5時には、カーテンをすべて閉める。
午後6時には、夕食。
午後9時には、就寝……というように。

毎日の生活が、数分の狂いもなく繰りかえされる。
そのため当然のことながら、いつも時計を身につけているか、見えるところに
大きな時計が置いてある。

で、私もよく理解できないのは、「多幸感」。
認知症患者の人が多幸感をもつという話は、よく聞く。
しかし若い人が感ずるような、(ルンルン気分)とは、内容がちがうようだ。
自分の殻(から)に閉じこもったまま、多幸感をもつ。
そのため独特の雰囲気をもつようになる(?)。

どうであるにせよ、「認知症に関心をもとう」(同誌)という意見には、賛成である。
何でも「85歳以上では、4人に1人が、認知症になる」とか。
確率は25%。
けっして他人ごとではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ピック症候群 ピック病 前頭側
頭型認知症 認知症 ビンスワンガー病)

(補記)

●ビンスワンガー病

「脳血管性痴呆は脳卒中の後、あるいはこれに伴って出た症状と考えて良いでしょう。大部分
は脳梗塞に伴うものです。しかし、痴呆が出る前にはっきりした発作があるとは限りません。脳
の虚血性病変がじわじわ進んだり、それと判らぬ小さな発作を繰り返して痴呆が目立ってくる
ことがあります。どういうタイプの病変が痴呆を起こしやすいのでしょうか。一番多いのは、大
脳白質が広くやられるもの(ビンスワンガー病)、小さな梗塞が多発しているもの(多発梗塞性痴
呆)です。このタイプは高血圧と強く関係していますが、大きな脳梗塞や脳出血のあと、多発性
の皮質梗塞、そして知能、記憶に関係する特殊な場所の病変でも痴呆になります」(東京都老
人総合研究所HPより抜粋)。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●無線LANの「ただ乗り」

++++++++++++++++

ある調査によると、54%の人が
無線LANにただ乗りしたことが
あるという。

今、無線LANのただ乗りが、
大きな問題になりつつある。

++++++++++++++++

新しいパソコンに、無線LANの(ON・OFF)スイッチがついていた。
何気なく私は、そのスイッチを(ON)にしてみた。
とたん、接続可能な無線LANの一覧表が出てきた。

ギョッ!

無線LANを使用している人は多い。
大半の人は、設置時にパスワードを設定し、セキュリティを確保している。
しかしそうした設定をしないまま、そのまま無線LANを設置している人も、多い。
私のパソコンが、そういう人たちの電波を拾った。

「まさか……?」と思って、その中のひとつをクリックしてみると、
数秒おいて、「インターネット、接続可能」と表示された。

またまた、ギョッ!

無線LANのただ乗りの話は耳にはしていたが、こんなにも簡単にただ乗りできるとは、
知らなかった。
無防備も、よいところ!

そこで警告。

現在、無線LANでインターネットを楽しんでいる人は多いと思う。
しかしパスワードなどの設定なしで、そのまま使ってはいけない。
(ただ乗り)を悪用して、あなたのパソコンが、犯罪に使われることもある。

たとえば先ごろ、どこかの掲示板に殺人予告をして逮捕された高校生がいた。
その高校生も、自分の身元がバレないように、他人の無線LANにただ乗りして、
つまり他人のパソコンを経由して、掲示板にそれを書き込んでいたという。
(結果的に、身元を追跡され、逮捕されたが……。)

こういうケースのばあい、ただ乗りされたその利用者が、掲示板に殺人予告を
したと疑われる。

フ〜〜ン……。

以前、私も無線LANを使っていたが、動作が不安定だったため、有線LANに
切り替えた。
(私の家のばあい、電子レンジが約1メートルのところにあって、どうやらその
電子レンジから出る電波が、無線LANに干渉していたらしい。)

実際、当初、パスワードの設定など、何かとめんどうなことが多い。
しかしそれは、きちんとしておいたほうがよい。

今のところただ乗りした人が、何かの被害を受けたという話は聞いていないが、
しかしこの世界、何があってもおかしくない。

「ただだから」と、ただ乗りしていると、逆に、それが利用され、あなたの個人情報
が盗まれるというケースも、考えられなくはない。

ただ乗りされるほうも、ただ乗りするほうも、注意。

(ワイフのために……)

わかるか?
もう少し詳しく説明すると、こういうこと。

だれかが無線で、モデム・ルーター(=電話機の横に設置してある機器)と、
パソコンをつないでいたとする。
(我が家のばあいは、有線でつないでいる。
その有線の部分が、無線になっていると考えればよい。)

しかしその電波はかなり強力で、半径200メートル前後は届いてしまうらしい。

そこでふつうは、他人が、その電波を使えないように、無線ルーターとパソコンを、
パスワードを使って暗号化する。
そうすれば、他人がその電波を利用するということは、できなくなる。
しかしそれをしないまま、無線LANを使っている人も多い。

そういう他人の電波をただで使って、インターネットに接続することを、「ただ乗り」と
いう。

わかったか?

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(付記)

インターネットの世界は、毎日のように進化(?)している。
それについていくだけでも、たいへん!

で、先日も、義兄(70歳)くらいが、こう言った。
「ぼくも、そろそろインターネットをしてみるかな」と。

それを聞いて、私は、即座にこう思った。
「無理だろうな」と。

しかしそれは言わなかった。

あちこちのHPを閲覧したり、メールのやりとりくらいなら、
それほどむずかしくない。
しかしそれでも、ふと油断したようなとき、いろいろなトラブルに
巻きこまれる。
そういうとき自力で解決する能力を身につけるには、相当な経験が必要である。
またその能力がないと、インターネットを楽しむことはできない。

……で、そのうち小学校でも、国語、算数、理科、社会に並んで、
「パソコン」という科目が生まれるかもしれない。
近年、その必要性は、ぐんぐんと高まっている。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●天皇のルーツ

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現在、天皇のルーツについて、大きく分けて
つぎの3つの説がある。

(1)朝鮮半島から渡ってきた騎馬民族説
(2)邪馬台国、もしくはそれ以後、勢力をたくわえた豪族説
(3)九州地方から近畿にやってきた豪族説

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これらの説について、それぞれの学者が、きわめて専門的な立場で議論しあっている。
私のような門外漢が入り込む余地は、どこにもない。
しかし今回話題となった箸墓古墳(はしはか・こふん)は、卑弥呼の
墓ではないかと言われている。
卑弥呼の没年とちょうど重なるからである。

が、この古墳もまた宮内庁管轄陵墓ということで、これ以上の調査はできない。
(そもそも、どうして箸墓古墳が、宮内庁によってそのように指定
されているか、その理由がわからない。
一説によると明治時代になってから、たいした根拠もないまま、一方的に
指定されたという。)

それはともかく、もし箸墓古墳が邪馬台国の卑弥呼のものであるとするなら、
天皇のルーツについて、上記(2)の説が、がぜん有力になってくる。
卑弥呼と天皇を直接結びつけることはできないにしても、その地域には
天皇誕生前後に、強大な国があったことになる。

(私は今まで、(1)の朝鮮半島から渡ってきた、騎馬民族説を支持してきた。)

で、先日、私は、福岡県の小さな島でみつかった、あの『金印』について書いた。
言い伝えによれば、一人の農民が溝の中の、岩の間から見つけたという。
(私は学生時代、だれかが砂浜で見つけたと習ったが……。)

もし箸墓古墳が卑弥呼の墓であるとするなら、卑弥呼に与えられたとする
金印が、福岡県で見つかるはずがない。
つまり「金印・贋作説」が、逆に、がぜん有力になってくる。

もっとも常識で考えても、金印だけが、(そこ)から見つかったというのも、
おかしな話ではないか。
その周辺を広く発掘してみたが、ほかに何も見つからなかったという。
また発見したという農民についても、「?」がつけられている。
どこのだれかが、定かではない。
さらに卑弥呼は、「印綬」を受け取ったという記録は残っているが、「金印」だったとは、
どこにも書いてない。
「印綬」というのは、「紐のついた印章」という意味である。
一説によると、金印は、発見された江戸時代当時、それを鑑定したとされる学者による
ねつ造と言われている。

今ではインターネットを使って簡単に調べられるから、興味のある人は、
そちらを見てみたらよい。

ということは、私たちは、子どものころ、ウソを教えられた可能性が高くなる。
……というような例は、最近にもあった。

藤木Sによる、石器捏造事件も、そのひとつである。
言い換えると、日本の考古学は、どこかおかしい。
一度耳障りのよい説が発表されると、みなが疑うこともなく、それに同調してしまう。
常識そのものが、どこかへ吹き飛んでしまう。
これは考古学者にとっても、(プラス、日本の歴史学者にとっても)、たいへん
悲しむべきことと言ってよい。

そこで話を戻す。

天皇家の墓であるなら、「陵墓」として保護するのはしかたないとしても、
天皇が生まれる以前の、たとえば箸墓古墳のような古墳は、発掘調査を許可しても
よいのではないか。

天皇のルーツについても、そこに謎を解く鍵があるのに、それには触ることもできず、
みながワイワイ、ガヤガヤと議論をつづけている。
邪馬台国については、さらに騒々しい。

しかしそれこそ時間の無駄。
労力の無駄。
この時代の、私たちがもっている英知そのものの、無駄。
あるいはこの先も、こうした不毛な議論を、延々とつづけるというのか。

そもそも宮内庁というのは、何なのか。
私にはさっぱりわからない。

さらに言えば、日本の歴史学者たちも、「日本史」という狭いワクの中だけに
閉じこもっていないで、「東洋史の中の日本」という視点で、日本の歴史を
ながめてみる必要がある。

「日本だけは特別」と考えたい気持ちはわからないでもないが、日本史も
東洋史の一部でしかない。

(付記)

「わからないならわからないで、そっとしておけばいい」とか、
「それがわかったところで、どうなのか」という意見もある。

しかしほかの分野では、みなが、(わからないこと)を、懸命にわかろうとしている。
その先に何があるかわからないかもしれないが、そこに(わからないこと)があれば、
果敢なく、それに挑戦していく。
それが(真理の探究)ではないのか。

そこに(わかるもの)があるのに、あえてそれには目を閉じ、ああでもない、
こうでもないと議論をつづける、そのおかしさに、みながもっと気がつくべきではないのか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 東洋史 日本史 天皇のルーツ
 邪馬台国 卑弥呼)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●病識(現実検討力)

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「私の脳みそは、おかしい」とわかる人は、
まだ症状も軽いそうだ。
しかし「私は正常」「脳みそは、おかしくない」と
がんばる人ほど、症状は重いそうだ。

「私は病気」とわかることを、「病識」という。
精神病の多くでは、この病識の有無が、
たいへん重要という。

+++++++++++++++++

統合失調症という病気がある。
近年の治療の進歩には、ものすごいものがある。
以前は重篤な病気と考えられていたが、深刻であることには
ちがいないが、その深刻さが薄れてきたように感ずる。

そんな病気にかかっても、病識のない人が、60%も
いるという。
病識があれば、本人自身が、治療に向かって歩み始める
ことができる。
そうでなければ、そうでない。
こうした病気の第一歩は、その人にいかに病識をもって
もらうかだ、そうだ。

ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

+++++++++++++

自分が統合失調症であるという診断を認めない(いわゆる「病識」がない)、あるいは医師に対
する不信感などから病識が不足している患者が多い。
アメリカでの400人以上の精神障害者を対象にした調査では統合失調症患者の60%、統合失
調情動障害患者の約25%に病識がなかった。
つまり、「本当は病気で無いけれど強制されて治療を受けている」、「本当はどこも悪くない」、と
いった症状が見られるということである(ウィキペディア百科事典より)。

+++++++++++++

しかしこれは何も、統合失調症の患者だけの問題ではない。
私たち自身も、つねにこの問題、つまり病識のある・なしの問題を
かかえている。

簡単な例で言えば、「私はバカかどうか」という問題がある。
先日も、どこか認知症ぽい女性(65歳くらい)と話をしたときのこと。
相手は、自分のレベルを基準にして、ものを話す。
で、私がふと、「私は、(あなたが思っているほど)、そんなバカでは
ないと思います」と言うと、その女性は、突然、こう叫んだ。

「私もバカではありません!」と。

この事件以来、私はつねに、自分の脳みそを疑ってみるようになった。
私から見ると、その女性には、病識がないことになる。
しかしこうしたレベルの問題は、相対的なものにすぎない。

より知的レベルの高い人から見れば、私はバカということになる。
つまり私には、その病識がないということになる。

さらに最近では、子ども(幼児)たちの能力や、中高校生の能力と
比較してみることがある。

たとえばカードめくりのような短期記憶では、私はもう、子どもたちには
かなわない。
一方、難解な数学の問題では、中高校生に負けることはないが、このところ
簡単な計算(足し引き算)でのミスが多くなった。
私の脳みそは、かなり、老化している。

これも病識といえば、病識ということになる。

……こうして、つねに自分の脳みその状態を知る。
というのも、脳みその問題は、CPU(中央演算装置)の問題だから、
原理的には、それがおかしくても、おかしいと気づくことはない。
とくに脳の活動が鈍ったようなときである。
全体が鈍くなってくるから、「鈍くなった」と気づくことはない。

統合失調症についても、つぎのような症例がある(ウィキペディア百科事典より転載)。

+++++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より+++++

*被害妄想(他人が自分を害しようとしていると考える。「近所の住民に嫌がらせをされる」)

*関係妄想(周囲の出来事を全て自分に関係付けて考える。「○○は悪意の仄めかしだ」)

*注察妄想(常に誰かに見張られていると感じる。「近隣住民が常に自分を見張っている」)

*追跡妄想(誰かに追われていると感じる。「ストーカーの集団に追われている」)

*心気妄想(重い体の病気にかかっていると思い込む)

*誇大妄想(患者の実際の状態よりも、遥かに偉大、金持ちだ等と思い込む)

*宗教妄想(自分は神だ、などと思い込む)

*嫉妬妄想(配偶者や恋人が不貞を行っている等と思い込む)

*被毒妄想(飲食物に毒が入っていると思い込む)

*血統妄想(自分は天皇の隠し子だ、などと思い込む)

*家族否認妄想(自分の家族は本当の家族ではないと思い込む)

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より+++++

要するにここに書いたようなことを思ったり、考えたりしたら、
まず自分の脳みそを疑えということ。
またここに書いたようなことを口に出して言っている人がいたら、
まずその人の脳みそを疑えということ。

とくに注意したいのが、「宗教妄想」。
私の近辺にも、「私は神だ」とか、「私は悟りを開いた仏だ」と言っている
人がいる。
けっこうそれらしいカリスマ性を備えているため、それを信じている
人もいるようだが、このタイプの人は、ほぼ100%、疑ってみたほうがよい。

話がそれたが、「病識」について考えてみた。

「まず自分の脳みそを疑う」……それが自分を知る第一歩ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 病識 統合失調症 宗教妄想 
私は神 私は悟りを開いた 現実検討力)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●一夫一妻

+++++++++++++

一夫一妻であるかどうかも、
遺伝子の命令によるところが大きいそうだ。
今度、そんな研究結果が、公表された。

ナルホド!

動物をみても、一夫一妻をきちんと守っている
のもいるし、そうでないのもいる。

そうしたちがいは、遺伝子のちがいによるもの
だそうだ。

もちろん、この人間とて、例外ではない。

+++++++++++++

時事通信が、こんな記事を配信している(9月3日)。

+++++++++++以下、時事通信より(080903)++++++++

●遺伝子の個人差で離婚危機2倍=スウェーデン男性900人調査


 草原などに生息するハタネズミ類で固定した夫婦関係(一夫一婦制)を好むかどうかを左右
する遺伝子がヒトにもあり、男性ではこの遺伝子が特定のタイプの場合、そうでない場合に比
べ、結婚より同居を選んでいたり、離婚や別離の危機を経験したりする確率が2倍高いことが
分かった。

スウェーデンのカロリンスカ研究所や米エール大などの研究チームが2日までに調査した。論
文は米科学アカデミー紀要の電子版に掲載される。

 この遺伝子「AVPR1A」は、脳神経で神経伝達物質のアルギニン・バソプレシン(AVP)を受け
取るたんぱく質(受容体)を生み出す機能がある。

ハタネズミ類ではAVPが多かったり、受容体がよく働くタイプだったりすると、社会性が高く、一
夫一婦を好むようになることが実験で確認されており、ヒトでは自閉症の発症リスクに影響する
可能性が指摘されてきた。

 研究チームは、パートナーがいるスウェーデン人男性約900人を対象に、2本がペアになって
いる12番染色体にあるこの遺伝子の一部DNA塩基配列が特定のタイプかどうかを調査。その
結果、2本とも特定タイプの男性が結婚ではなく同居している割合は32%、過去1年に離婚や
別離の危機を経験した割合は34%と、2本ともそうでない場合の17%、15%の約2倍だった。 

+++++++++++以上、時事通信より(080903)++++++++

わかりやすく言うと、遺伝子(12番染色体にある遺伝子の一部)のタイプにより、
一夫一妻意識に、ちがいが出てくるという。

つまりその遺伝子が特定タイプの男性ばあい、結婚ではなく、同居している割合は、32%、過
去1年間に離婚や別離の危機を経験した割合は、34%もあったという。

そうでない遺伝子をもっている人の、17%、16%と比較すると、約2倍の数値だった
という。

へ〜〜エ!

よく「私は独身主義だ」とか何とか言っている男性がいる。
本人は、自分の意思と思想で、そう言っていると思っているかもしれない。
しかしそう言っている男性にしても、結局は、遺伝子に操られているだけ……
というふうにも、解釈できる。

となると、自分の意思とは何か、思想とは何か、ますますそれがわからなくなる。
というのも、(思想)にしても、自分にとって耳障りのよい(考え)の集合体でしかない。
「私は結婚したくない(あるいはその意思が弱い)」という、自分の意思を補強するために、
あちこちから独身主義にとって都合のよい(考え)を集めてくる。

そしてそれを(思想)という形にしたあと、「私は独身主義だ」と言う。

しかし、これで謎が解けた!

私の庭にやってくる野鳥にしても、ドバトは一夫一妻をきちんと守っている。
ヒヨドリも守っている。
スズメも、子育ての時期には、それを守っている。
いつも一羽でやってくるのは、モズ。

が、あのメジロはどうなのか。
いつも春先には、5〜10羽の集団でやってくる。
こうしたちがいは、それぞれの鳥が、それなりの思想をもっているからではなく、
その奥深くで、遺伝子によって生ずる。

さらに言えば、この私はどうなのか。
周期的に、離婚騒動を繰りかえしている。
(夫婦げんかをすると、私は、「お前なんかと離婚してやる」と言う。)
が、一応、この40年近く、一夫一妻を、きちんと(?)守っている。

もっとも、今回の研究では、「100%」という言葉はない。
つまり遺伝子のタイプが、(別居・離婚タイプ)であっても、別居・離婚をしないで
いる人も多いということ。
反対に(一夫一妻タイプ)であっても、別居・離婚をする人も多いということ。

このファジー(あいまい)な部分が、人間生活を豊かでおもしろいものにしている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 離婚 別居 一夫一妻 一夫一
妻制 遺伝子)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2817)

【人生の充実感】I think therefore I am. (我、思う。ゆえに我、あり)

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自分の今までの10年間を振り返りながら、
(もちろん20年でも、30年でもよいが……)、
「まだ10年しかたっていないのか!」と驚く人がいる。
反対に、「もう10年もたってしまったのか!」と驚く人もいる。

充実した人生を送っている人は、「まだ……」という言葉を
使って、自分の過去を振り返る。
そうでない人は、「もう……」と言って、自分の過去を振り返る。

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●年齢は、ただの数字

懸命に何かに向かって生きている人は、それだけで美しい。
輝いている。
そうでない人は、そうでない。

大切なのは、「中身」。
「年齢」という数字ではない。
仮に90歳まで生きたとしても、長生きしたということにはならない。
仮に40歳で死ぬことになっても、若くして死ぬということにはならない。
あの

『無益に100年生きるよりは、一瞬のうちに自分を燃焼させる』。
それが(生きる)ということではないのか。

そのことは養護センターの老人たちを見ればわかる。
一日中、つけっぱなしにしてあるテレビの前で、何かをするでもなし、
何もしないでもなしという状態で、日々を過ごしている。
そういう人たちを見て、本当に生きていると言えるだろうか。

(もちろんそういう人生が、無駄だとか、そこにいる老人たちには、
価値がないと言っているのではない。
もし私たちが健康で元気なら、何もあわてて、そういう老人たちの
仲間入りをする必要はない。
けっしてそういう老人たちを手本としてはいけない。
たとえば日本では、老後というと、孫の世話と庭いじりと考える人は多い。
しかしその延長線上に、養護センターの老人たちがいる。
そういう意味で、「本当に生きていると言えるだろうか」と、私はここで
問いかけてみた。)

●密度

で、生きる価値は、その(密度)によって決まる。
密度の濃い人は、自分の人生を振り返りながら、「まだ……」と言う。
そうでない人は、「もう……」と言う。

が、その密度は、あくまでも相対的なもの。
「相対的」というのは、「他人と比較して……」ということになる。
が、実のところ、比較しても、意味はない。
この問題だけは、どこまでいっても、個人的なもの。
その人がそれでよいと思っているなら、それでよい。
他人の私たちが、とやかく言う必要はない。

たとえば仕事から帰ってくると、見るのは野球中継だけ。
たまの休みには、魚釣り。
雨の日にはパチンコ……という人も、いないわけではない。
が、その人がそれでよいとしているなら、それでよい。

しかし密度の濃い人生を送っている人からみると、そうでない人がよくわかる。
反対に密度の薄い人生を送っている人からは、密度の濃い人生を送っている人がわからな
い。
そのことも、養護センターの老人たちを見ればわかる。

●密度といっても、相対的なもの

先日もある女性(65歳くらい)と、こんな会話をした。
その女性は、どこか認知症的なところがある。
どうでもよい話を、長々と私に説明した。
そこで私が、「私は、(あなたが思っているような)バカではないと思うのですが……」と
言うと、その女性は突然、ヒステリックな声で、こう叫んだ。
「私だって、バカではありません!」と。

利口な人からは、バカな人がよくわかる。
しかしバカな人からは、利口な人がわからない。

で、「相対的」ということには、もうひとつの意味が含まれる。
たとえばある人は、20歳〜40歳まで、密度の薄い人生を送ってきたとする。
平凡な、これといって変化のない人生だった。
しかし満40歳になったとき、人生の転機が訪れ、何かの目標に向かって、
猛烈に突進し始めた。
朝起きるとすぐ(やるべきこと)を始め、寸陰を惜しんで、それに没頭した。

そして満50歳になったとき、それまでの10年間を振り返りながら、
「まだ10年しかたっていないのか!」と驚く。
しかしそれとて、20歳〜40歳までの自分自身の人生と比較してはじめて、わかること。
もしその人が40歳を過ぎても、それまでと同じような人生を歩んでいたら、
密度の変化そのものに、気がつかないだろう。
「相対的」というのには、そういう意味も含まれる。

●密度の濃い人生

ただ加齢とともに、人生の密度は、相対的に薄くなる。
体力、知力が衰え、ついでに気力も衰える。
脳が、あたかも穴のあいたバケツのようになる。
せっかく得た知識や知恵にしても、どんどんと下へと、こぼれ落ちていく。

つまり放っておいたら、人生の密度は、どんどんと低下していく。
実際、「歳をとればとるほど、1年は早く過ぎる」と言う人は多い。
が、それを当然と思ってはいけない。
またそうであってはいけない。

バケツに穴があいた状態になったら、さらに多くの知識や知恵を詰め込めばよい。
いつも新しいことに興味をもち、それに向かって、前向きに進んでいけばよい。
(すべきこと)を発見して、それに向かって進むということであれば、年齢は関係ない。
年齢という「数字」にだまされてはいけない。
「数字」に、遠慮する必要もない。
1年が早く過ぎると感じたら、2年分、生きればよい。

こんなことがあった。
前回のワールドカップの代表選手に選ばれたTK氏と、こんな会話をしたことがある。
別れ際、「すばらしい人生を送っておられますね」と声をかけると、TK氏は、
少しはにかみながら、「私はサッカーしかできませんから」と。
その少し前、TK氏は、アジアカップ杯のすべてに出場し、日本を優勝に導いている。

TK氏のような人は例外としても、TK氏にとっての一瞬は、私たち凡人の10年分、
あるいは100年分より、密度が濃いはず。
そのときTK氏は、まだ30歳そこそこ。
60歳に近い私でさえ、TK氏の前では、タジタジになってしまった。

●空しさとの闘い

話を戻す。

人生は楽しむためにあるのではない。
(生きる)ためにある。

それがわからなければ、そのつど、自分にこう問いかけてみたらよい。
「だから、それがどうしたの?」と。

すばらしい車を買った……だから、それがどうしたの?
すばらしい家を買った……だから、それがどうしたの?
おいしいごちそうを食べた……だから、それがどうしたの、と。

若いときはそれがわからないかもしれないが、人生に天井が見えてくると、
そこに残るのは、(空しさ)だけ。
(楽しみ)のあとを、すぐ(空しさ)が追いかけてくる。
そんな状態になる。

そこで大切なことは、「今」というこの「時」を、いかに充実させるかということ。
そのひとつの方法として、私は(考えること)をあげる。

人間がなぜ人間かと言えば、考えるからである。
あのパスカルも、「パンセ」の中で、そう書いている。
『人間は考える葦(あし)である』という言葉も、そういうところから生まれた。
もし考えなかったら、人間もただの動物。
「生きた」というだけの人生で、終わってしまう。

それについては、以前、こんな原稿を書いたことがある(一部、中日新聞発表済み)。

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●生きることは、考えること

思考と情報を混同するとき 

●人間は考えるアシである

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをなす』と
も。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、
別のことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も
考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出し
ているにすぎない。

もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラと
言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはならない。算数ができ
るということにはならない。

●考えることには苦痛がともなう

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちに
も、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。

中には考えることを他人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話
をしたことがある。私が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったとき
のこと。その人はこう言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」
と。

●人間は思考するから人間

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『われ思
う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まちがっていると
かいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。

ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしている
の?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生ま
れるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子ども
なりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なの
である。

●知識と思考は別のもの

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせる
ことが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。

それがムダだとは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にして
しまう。かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、賢い子どもというの
は、自分で考える力のある子どもをいう。

いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭のよし悪
しも関係ない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。「バカなこ
とをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、教育の柱その
ものがゆがんでくる。私はそれを心配する。

(付記)

●教育の欠陥

日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み教
育」が基本になっている。さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育
である。

つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画一的な子
どもをつくるのが基本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基本になって
いる。

戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていない。日
本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界の非常識。ロン
ドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で
考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断ので
きる人間を育てなければ、二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけん」・九八年・
田丸先生指摘)と警告している。

●低俗化する夜の番組

 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっている
のがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話と
して外に取り出しているにすぎない。

一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考えていない。思考というのは、本文にも
書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本当に頭が痛くなることもあ
る。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。そのため考えるだけでイライラし
たり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、考えること自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるということもある。
私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。また文にして残す
という方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。

私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテーニュ(フラン
スの哲学者、1533〜92)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほ
か、考えたことはない」(随想録)と書いている。ものを書くということには、そういう意味も含ま
れる。
(はやし浩司 情報と思考 考える葦 パスカル パンセ フォレスト・ガンプ (はやし浩司 家
庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi 
education essayist writer Japanese essayist 思考 情報 生きる 生きるということは、考える
こと なぜ人は生きるか)

++++++++++++++++++

『I think therefore I am. (我、思う。ゆえに我、あり)』
と言ったのは、あのデカルト(Descartes)だが、その言葉を、
もう一度、かみしめてみたい。
(ただし「think」を「思う」と訳したのは、誤訳と考えてよい。
「think」は、「考える」という意味に近い。
実際、日常では、そういう使い方をしている。)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 08++++++++++はやし浩司

●「健康論」(2002年に書いた原稿です。)

 何か体の不調が表れると、私はまず第一に、「この症状は以前にもあったか?」と自問する。
そして以前にもあった症状なら、それで安心し、そうでなければ不安になる。いや、ときどき以
前にもあったはずなのに、それを思い出せないときがある。

先日も昼になって鏡を見たら、目の眼白がまっかだった。理由はわからないが、結膜出血であ
る。とたん、言いようのない不安感が私を包む。遠い昔、同じような症状があったはずだが、ど
うも思い出せない。女房に聞くと、「ほら、前にもあったでしょ」と笑ったが、私は笑えない。

 賢明な人は、健康の価値を、それをなくす前に気づく。愚かな人はその価値を、なくしてから
気づく。「健康は第一の富である」と言ったのは、あのエマーソンだが、たしかに健康はすべて
の財産にまさる。

いや、中には金銭的な財産をなくして、自ら命を断つ人もいる。が、しかしこういうことは言え
る。「死を前にしたら、すべての財産が無価値になる」と。健康あっての財産である。健康あっ
ての生活であり、健康あっての仕事である。……というようなことは頭の中でもわかっている。
問題はこのことではなく、その先である。では、健康であればよいのかというと、そうでもない。

健康というのは、何かの目的のために有意義に使ってはじめて価値がでる。極端な言い方だ
が、ただ無益に生きても、意味はない。むしろ生きるということを考えるなら、死の恐怖を目前
に感じていたほうが、生きる意味が鮮明にわかる。もっとはっきり言えば、健康と「生きる」こと
は別物である。健康だから生きていることにはならないし、死が近いから生きていないことには
ならない。実はここが重要な点だ。

私の家の近くに、小さな空き地がある。そこは老人たちのかっこうの溜まり場になっている。う
ららかな春の日ともなると、いつも七〜八人の老人たちが、何かをするでもなし、しないでもな
し、一日中何やら話し込んでいる。のどかな光景だが、しかしそれがあるべき老人の姿なの
か。竹の子の季節になると、交替で見張り番をしている。昨年も私が不用意にその竹やぶに
入ったら、いきなり一人の老人が飛び出してきて、「お前は、どこのばかだ!」と叫んだ。そうし
た老人たちが健康なのかどうかは、外からはわからないが、生きているかどうかという視点で
みると、それは疑わしい。

生きるということは、日々の生活の中で前進することだ。もし今日が昨日と同じ。明日は今日と
同じということになったら、その人はもう「生きていない」ということになる。健康であるとかないと
かいうことは、関係ない。若いとか老人であるとかいうことも関係ない。

言い方を換えるなら、若い人でも「生きていない」人はいくらでもいる。老人でも、あるいは重病
人でも「生きている」人はいくらでもいる。もちろん健康であることにこしたことはないが、しかし
健康は「生きること」の前提ではない。いわば健康は、その人が当然大切にすべきものである
のに対して、「生きること」は、その人の心の問題である。わかりやすく言えば、健康はハード、
生きることはソフトということになる。いくらすばらしいハードをもっていても、ソフトがなければ、
パソコンにたとえて言うなら、ただの「箱」。少なくとも私はそういう人生には耐えられない。

……と書いて、私のことだが、私はもう二〇代の後半から自転車通勤を欠かしたことがない。
真冬の寒い夜でも、あるいは多少小雨がパラつくときも、自転車通勤を欠かしたことがない。
健康のためという意識はあまりなかったが、それを欠かすと、とたんに体の調子が悪くなる。一
方、同年齢と思われる男たちが、乗用車で私を追い越したりすると、「いいのかなあ」と思った
りする。健康というのは、それがしっかりとある間から守ってはじめて守れる。病気になってか
ら健康を考えても遅い。老人に近づいてから健康を考えても遅い。そういう意味で、「もっと運
動をしなくてもいいのかなあ」と思った。

で、今、おかげでというか、多少の持病はあるにはあるが、しかし成人病とは無縁だし、生涯に
おいて、病院のベッドで眠ったことは一度もない。しかしそれでも不安はある。冒頭に書いたよ
うに、今までに経験したことがない症状が出たりすると、「ハッ」と思う。とくに私は不安神経症
のところがある。いちどそれが気になると、ずっとそれが気になる。「このまま失明したらどうし
ょう」とか、「もっと悪い病気で、眼球摘出ということにでもなったらどうしよう」とか。が、内心の
どこかで、「そんなはずはない。お前は健康には気を配ってきたではないか」と思いなおして、
それを打ち消す。……打ち消すことができる。そのために二六年間も自転車通勤を続けてき
たのだ!

と、書いて、しかしそこにそれでは満足できない自分を知る。健康でない人には、たいへんぜい
たくな話かもしれないが、「だからどうなのか?」という問題に、そこでぶつかってしまう。たとえ
ば今私は、最新型のパソコンをもっている。ペンチアム四の一・五ギガヘルツのすごいパソコ
ンだ。しかしワープロで使う程度なら、実のところこんなすごいパソコンはいらない。一昔前の
中古パソコンでも、じゅうぶんだ。もちろん最新型であることはすばらしいことだが、健康もそれ
に似ている。「だからどうなのか?」という部分を煮詰めないと、健康論もただの健康論で終わ
ってしまう。

話が繰り返しになってきたので、ここで私の健康論はやめる。ただ私にもわかっている。今あ
る健康にしても、それは薄い氷の上に建つ城のようなものだということ、を。また健康をなくせ
ば、当然心も影響を受けて、まともに考えられなくなるということ、をも。

そういう意味で、私にとっては「健康である」ことと、「生きる」ことは競争のようなものだ。時間と
の勝負といってもよい。この「健康な」状態はいつまで続くかわからない。五年か、一〇年か。
それとも一年か。私はその間に生きなければならない。一歩でも二歩でも、前に進まねばなら
ない。まだまだ知りたいことは山のようにある。少なくとも空き地にたむろして、竹の子の見張り
番をするようなことだけはしたくない。そしてとてもぜいたくな言い方に聞こえるかもしれない
が、そのための健康であるとするなら、私は健康なんかいらない。(02・2・14)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

【9月3日】(水曜日)

++++++++++++++++++H.Hayashi

福田総理大臣が、自民党総裁を辞任すると言った。
とたん、次期総理大臣として、AS幹事長が浮上してきた。

しかし、「待ったア!」。

AS幹事長の海外での評判は、数々の問題発言もさることながら、
たいへん悪い。
一度、アメリカの新聞(ニューヨーク・タイムズ紙)で、酷評されたこともある。
「扇動的な発言からは誠実さも賢明さもうかがえない政治家」と。

++++++++++++++++++

アメリカのニューヨーク・タイムズ紙は、
日本のA外務大臣の発言に対して、

「扇動的な発言からは誠実さも賢明さもうか
がえない」と、批判した。

当然である。

++++++++++++++++++

アメリカのニューヨーク・タイムズ紙は、2月13日、日中関係や靖国神社参拝などをめぐるAS
外相の最近の歴史認識発言を取りあげ、「扇動的な発言からは誠実さも賢明さもうかがえな
い」と批判する社説を掲載した。

 社説は「日本の攻撃的な外相」と題し、外相が「天皇陛下の(靖国神社)参拝が一番だ」と述
べたことや、日本の植民地支配下の台湾で教育水準があがったことを指摘した発言を取りあ
げ、「一連のがくぜんとする発言により、アジアの人々の反感を買った」と批判。(以上、毎日新
聞)

+++++++++++++

で、今日あたりの新聞(夕刊)を読むと、さっそく中国と韓国が
動揺し始めている。

私は、AS幹事長に対して、日本語すら、まともに話せない人という
印象をもっている。
話している言葉にしても、単語を並べているだけで、文になっていない。
愛読書が、「ゴルゴ13」(コミック本)というから、その程度の人なのだろう。

自民党の中でも、右派中の右派。
極右派ということになっている。
靖国神社問題にしても、「天皇に参拝してもらうのが、いちばんいい」
などと発言している。

こんな人が(失礼!)、総理大臣になったら、日本はとんでもないことになる。

……ということで、AS幹事長に対して、自民党内部で、対抗馬を出す
動きが活発になってきた。

前回の総裁選挙の繰り返しである。

で、今のところ、中川元幹事長、小池元防衛相らが、AS幹事長に対抗して、
自民党総裁選挙に出馬するかもしれないという。
AS幹事長を支持する人もいるかもしれないが、「ASだけは、だめだ」と
考えている人も多いはず。

自民党の良識を信じたい。
日本人の良識を信じたい。

++++++++++++++++++H.Hayashi

●老人たちよ、立ち上がろう!

++++++++++++++++++H.Hayashi

老人たちよ、若い人たちのために、立ち上がろう!
私たちがものを言わずして、だれが言う!

おかしいものは、おかしいと言う。
たったそれだけのこと。

戦争について、平和について、国政について……。
私たちが良識をぶつければ、この日本は変わる。

++++++++++++++++++H.Hayashi

●出世主義

AS幹事長のような政治家を見ていると、餓鬼のような醜さを感ずることはあっても、
「民の代表」というような清潔さを感じないのは、なぜか?
やることなすこと、どこかに薄汚ささえ覚える。

その理由として、AS幹事長は、政治というものを、我利、我欲の追求の場と
しか考えていない(?)。
「みなから選ばれる」というよりは、旧態依然の金権を利用した派閥政治だけで、
自分の地位を得ようとしている(?)。

前回の総裁選挙で、福田総裁が選ばれたことについても、福田氏が選ばれたという
よりは、「ASでは、だめだ」という勢力が、福田氏支持に回った。
ふつうの神経の持ち主なら、ここで自分に恥じて、それで静かになるはず。
しかしAS幹事長には、そういう神経はない。
で、またまたその繰り返し(?)。

今回の内閣改造でも、その下地づくり、つまり今度の総裁選挙準備のため、
自分の息のかかった大臣を何人も送り込んだという(報道)。
もしこれが事実とするなら、AS幹事長にとっては、政治の世界そのものが、
国取り物語の舞台になっている(?)。
織田信長や豊臣秀吉の時代ならまだしも、どうしてこの21世紀の今、こういう
政治家が生まれるのか?
いまだにこの日本には、おかしな出世主義が、はびこっている(?)。

……とまあ、「?」マークの連続だが、私は心底、日本の将来を心配する。

今日の夕刊によれば、AS幹事長は、政治公約を近く発表するという。
どんな公約になることやら?
私は、見たくもない。
聞きたくもない。


Hiroshi Hayashi++++++++SEP 08++++++++++はやし浩司

●A外務大臣(2006年1月に書いた原稿です。)

++++++++++++++++++

A外務大臣が、靖国神社参拝問題に関連し、
「天皇陛下による参拝が一番だ」と述べた
という。

「中国が、(靖国参拝を反対と)言えば
言うだけ、行かざるを得なくなる。

『たばこを吸うな、吸うな』と言われ、
吸いたくなるのと同じ。

黙っているのが、一番』と、も。
(中日新聞・1・29)

++++++++++++++++++

 A外務大臣は、こう述べたという。

 「(靖国神社に)まつられている英霊の方からしてみれば、天皇陛下のために『万歳』と言った
のであって、総理大臣万歳と言った人はゼロです。だったら、天皇陛下の参拝、それが一番」
「天皇陛下による参拝が一番だ」と。

 この発言には、いくつかの重大な問題が隠されている。それらを順に考えてみたい。

(1)天皇は、外務大臣のあやつり人形なのか?

 この発言を聞いて、一番驚いているのが、天皇自身ではないのか。A外務大臣が、天皇の意
思や意向を聞いた上で、こうした発言をしたのなら、まだわかる。しかしそういったプロセスを、
何も経ないで、いきなり「天皇陛下による参拝が一番だ」とは!

 もしあなたが天皇なら、何と答えるだろうか。どう考えるだろうか。あるいはもっと卑近な例で
考えてみよう。もしだれかがあなたに、「子育ての最中にあるのだから、あなたに、菅原道真
(すがわらのみちざね)の神社を参拝してもらいます。それが一番だ」と言ったら、あなたは、ど
う答えるだろうか。

 天皇の内心のことは、私にもわからない。しかし天皇のほうから、そういった希望でも出され
ているのなら、まだしも、そういった希望を確認しないまま、外務大臣(ごとき)が、そういう発言
をすることは、許されない。少なくともそういった天皇自身の希望は、外の世界の私たちには、
届いていない。

(2)天皇の戦争責任を追及した言葉にならないのか?

「天皇陛下のために『万歳』と言ったのであって、総理大臣万歳と言った人はゼロです」という
発言は、そのまま、天皇に対する戦争責任を追及した言葉になってしまう。自民党政権として
は、絶対に容認できない発言のはず。わかっていても、それを口にしたら、おしまい……という
のが、この発言である。それを、A外務大臣は、公(おおやけ)の場で、堂々と口にしてしまっ
た。

 A外務大臣のみならず、K首相は、この発言に対して、どう責任を取るつもりなのだろう? 
軽率といえば、軽率。

 私が知るかぎり、戦場の日本兵たちは、多くは、最後は、「お母さん!」とか、「お父さん!」と
か言って死んでいったという。「天皇陛下、バンザイ!」と言って死んでいった兵隊は、少なかっ
たという。

 が、それでも「天皇陛下、バンザイ!」と言って死んでいった、日本兵がいなかったわけでは
ないだろうと思う。が、そのことには、歴代の戦後政権は、あえて触れないで、今までやってき
た。もしそれが事実と認めてしまうと、その戦争責任は、まっすぐ、天皇に向かってしまう。

(3)『たばこを吸うな、吸うな』と言われ、吸いたくなるのと同じ、とは?

 人格の完成度は、自己管理能力などによって決まる。自己管理能力のある人を、人格の完
成度の高い人という。

 が、A外務大臣は、「中国が、(靖国参拝を反対と)言えば言うだけ、行かざるを得なくなる。
『たばこを吸うな、吸うな』と言われ、吸いたくなるのと同じ」(中日新聞)と。

 新聞記事なので、不正確かもしれない。しかし「『たばこを吸うな、吸うな』と言われ、吸いたく
なるのと同じ」という日本語は、正しくない。正しくは、「『たばこを吸うな、吸うな』と言われると、
かえって吸いたくなるのと同じ」である。

 それはともかくも、この自己管理能力のなさこそが、問題である。私やあなたのような凡人で
はない。外務大臣という、日本を代表する人物である。そういう人物が、自己管理能力のなさ
を、やはり堂々と自ら公表している。このおかしさ。この奇怪さ。

 しかも、中国や韓国に対して、「黙っているのが、一番!」とは! わかりやすく言えば、A外
務大臣は、中国や韓国に対して、「ごちゃごちゃ言わずに、黙っていろ」と発言したに等しい。こ
のごう慢さ。この高慢さ。

 おかげでこれから先、しばらく、日中関係、日韓関係は、ますます冷えこむことになるだろう。
私の知ったことではないが、しかし、外務大臣ともあろう大臣が、率先して、近隣諸国との関係
を悪化させるとは! 私も、ここまで日本の政治家たちの知的レベルが低いとは、思ってもみ
なかった。

(3)靖国神社参拝問題

 「英霊」「英霊」と言うくらいなら、今からでも遅くないから、アメリカ軍に対して、ゲリラ戦でも、
何でも、しかけたらよい。それが「英霊」の意思を尊重する、もっともわかりやすい方法である。
先の戦争では、300万人以上もの日本人が死んでいる。しかもその大半は、アメリカ軍を中心
とする連合軍によって殺されている。

 しかしA外務大臣ですら、ひょっとしたら、英霊意識など、どこにもないのではないか。「英霊」
ということにしておかないと、まずいから、そう言っているだけではないのか。もっとわかりやすく
言えば、あの戦争は、勝ち目のない、愚かな戦争だった。

 あの戦争では、多くの日本人がだまされ、(だまされたのだぞ!)、戦場に駆り出され、そして
その犠牲者となっていった。つまり「英霊」という言葉は、当時の軍部たちが、自分たちの責任
を覆い隠すために使った言葉にすぎない。「英霊」と祭りあげることによって、「戦争を起こした
のは、国民であって、政府ではない」という形をつくった。つまり責任を国民に、押しつけた!

 それを今になってもち出して、あの戦争を肯定することは、許されない。中には、「あのとき戦
争をしなかったら、日本は、欧米諸国の植民地になっていた」と説く人もいる。「ソ連の進攻を
食い止めるために、日本軍は中国で戦った」と説く人もいる。

 なら、百歩譲って、もしそうなら、戦後の今の日本は、何かということになる。GHQによって、
完全に占領され、アメリカの植民地以上の植民地になってしまった。だから私はまた同じことを
言う。

 「今からでも遅くないから、アメリカ軍に対して、ゲリラ戦でも、何でも、しかけたらよいのでは
ないか」と。A外務大臣、あなたがまず、その見本を見せてほしい。

 ……と、どうも、この問題を考えていくと、頭の中が混乱してくる。わけがわからなくなってく
る。みなが、何かをごまかすために、あるいは何かを隠すために、ものごとを遠巻きに議論し
ている。そんな感じさえする。

 あえて言うなら、今の皇太子妃の例を見てもわかるように、「天皇」「天皇」と、何もかも、その
負担を、天皇家に押しつけないことこそ大切ではないのか。「天皇だってふつうの人間」という
部分をねじまげて、あれこれと議論するから、話がおかしくなる。これ以上、天皇や天皇家の
人々を苦しめて、どうする。今度のA外務大臣の発言の底流には、そんな問題も隠されてい
る。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2818)

【今朝、あれこれ】

+++++++++++++++++

ちょうど10年前に、TOSHIBAの
Dynabook・SS・3010を買った。
値段は、24万円くらいだったと思う。

今で言う「ミニ・パソコン」。
厚さも1〜1・5センチ前後しかない。

このパソコン、当初から、トラブルつづき。
画面上の位置を示すポインターが、勝手に
フラフラと動き回り、定まらない。

そこで修理に出すこと数回。
が、そのうち私のほうがあきらめてしまい、
ダマシ、ダマシ使うことに……。

小さいが、使いやすいパソコンだった。
で、今はボロボロ。
側面の塗装もはがれ、人間の年齢にたとえるなら、
60歳。

そのパソコンが、何と、生きがえった!

何の気なしに、光学マウスを接続してみた。
多分ドライバーが、光学マウス自体に組み込まれて
いたのだと思う。
確かなことはわからない。

しばらくドライバーを読み込んだあと、
あれほどトラブルつづきだった3010が、
何と、正常に作動し始めたではないか!

驚いた。
うれしかった。
古い友に再開したような気分だった。

原因は、マウス・ドライバーだった(?)。

……ということで、今日は、その3010で、
いろいろと書くことにした。

++++++++++++++++++

【廊下に落ちていたウンチ】

●妄想の種

A中学校に通う中学生(女子)が、こんな話をしてくれた。
何でも、廊下に、ウンチが落ちていたという。

ゾッ!

私「どんなウンチだったの?」
女「ポタポタと、ふつうのウンチだった」
私「で、そのウンチ、どうなったの?」
女「先生が、何かの道具をもってきて、きれいにしていた」と。

で、そのあと、だれがウンチをしたかが、話題になった。

私「きっと女の子だよ」
子「どうして?」
私「男だったら、そんなにうまく、落せないよ」
子「ハア〜……?」
私「スカートだったら、うまく落せる」
子「だって、パンツは……?」
私「勝手に想像したらいい」と。

この話をしたあと、ウンチのイメージが、私の頭に
強烈に焼きついてしまった。
実際にそれを見ていれば、そういうことはなかったと思うが、
頭の中で想像したのが、まずかった。
ウンチのイメージだけが、頭の中でどんどんとふくらんでしまった。
「どんなふうにして、したんだろう?」と考えたのも、まずかった。

で、それから今日にいたるまで、もう1年近くになる。
が、その学校の前を通るたびに、そしてそのあたりで
出入りしている女子中学生を見るたびに、頭の中に、
大きなウンチが思い浮かんでくる。

どの女子中学生を見ても、「あの子かもしれない」「この子かもしれない」と。

今日も、そうだった。

たまたまそのときワイフが横にいた。
車を運転していた。
見ると、1人の女子中学生たちが、その中学校の校門を出てくるところだった。

私「あんなかわいい子が、廊下にウンチを落すのかねエ?」
ワ「あの子とは、かぎらないでしょ」
私「そうじゃないよ。あの学校には、440人の中学生が通っている。
うち、女の子は、220人。だからあのウンチの220分の1は、
あの子のものだ」
ワ「それはおかしいわよ」
私「おかしくないよ。ぼくの頭の中では、そのウンチが、巨大な
ウンチになってしまった。教室いっぱいくらいの大きさだよ」
ワ「……?」
私「220分の1にしても、犬ほどの大きさになる」と。

こういう現象を、心理学の世界では、どう説明するのだろう。
似たような現象に、被害妄想がある。
注察妄想、追跡妄想、披毒妄想、血統妄想、神格妄想……、などなど。
もちろん誇大妄想というのもある。

●妄想

となると、私のは、誇大妄想ということか。

しかしこれには、私自身の個人的な過去が、影響している。
私は子どものころ、自分の家のトイレで用を足すのが、こわくてならなかった。
トイレは、家の中でも、一番奥まったところにあった。
薄ぐらい土間の横にあった。

いつだったか、だれかに理由を聞かれたことがある。
そのときはだれにも言わなかったが、トイレの壁のシミが、私には何かのお化けの
ように見えた。
それでこわくてならなかった。

もちろんボットン便所。

小便はともかくも、大便のときは、土間に新聞紙を敷いたりして、していた。
あるいは伯父の家が近かったので、そこでしたりした。
小学生や中学生のときは、できるだけ学校でした。

つまり私はウンチにたいして、特別な思いがある。
今でも、その思いは強い。

私「だからぼくは、ウンチは苦手なんだよね」
ワ「……」
私「若いころから、ウンチの臭いをかいだだけで、たとえば性欲など、どこかへ
吹き飛んでしまった」
ワ「若い女性のウンチを見て、興奮する男性もいるという話よ」
私「ぼくのばあい、ぜったいに、それはない。相手がどんな美人でも、ウンチ
の臭いがしたら、もうだめ」
ワ「……?」と。

だから……以来、私はA中学校の女子生徒を見るたびに、先に書いたように
なってしまう。
誇大妄想といえば、誇大妄想だが、「妄想」とは、少しちがう。
いや、やっぱり妄想か?

もしそうなら、妄想の心理的メカニズムが、これで説明できる。

つまりまず強い(こだわり)が生まれる。
私のばあい、子どものころの経験がそれにあたる。
これを(妄想の種)とする。
この(妄想の種)は、そのままでは(妄想)にはつながらない。
(妄想の種)が(妄想)になるためには、何かの刺激が必要である。
生徒から聞いた、「廊下のウンチ」が、それにあたる。
その刺激が、(妄想の種)を呼び起こし、(こだわり)を増幅させる。
それがどんどんと大きくふくらんで、(妄想)になる。

そうした(妄想)は、だれでももちやすいものだが、その妄想が原因で、
通常の生活に支障をきたすようになった状態を、「被害妄想」という。

だからたとえば、その話がウンチと関係ないものであれば、私は
笑い話として、それですませたかもしれない。
たとえば10万円が落ちていたとか、あるいは下着が落ちていたとか……。
が、私は「ウンチ」という言葉に、強い関心をもってしまった。
それが妄想につながってしまった。

私「おもしろい現象だね」
ワ「何もおもしろくないわ」
私「臭い話で、ごめん」と。

+++++++++++++

(付記)

この話を教室ですると、ある男子(小5)が、「ぼくの学校でも、
同じようなことがあった」と話してくれた。

その子のばあい、授業中に、突然立って、「トイレへ行ってくる」
と言って、教室を飛び出していったのだそうだ。
が、間に合わなかった。

教室を出たところで、もらしてしまった。

こういう話を聞くと、そのもらしてしまった子どもが気の毒で
ならない。
おそらく一生、そのことを心のキズとするにちがいない。
ほかの生徒たちも、忘れない。
最悪のばあい、それによって、何かのニックネームをつけられて
しまうかもしれない。

子どもにとって(ウンチ)というのは、そういうもの。

そういうときこそ、教師による細心の指導が必要。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2819)

【今朝あれこれ】(9月5日)(Sep. 5th)

●日常の中の思考(I think, therefore I am -2-)

++++++++++++++++

日常生活の中では、日々の思考は、
サラサラと流れていく。
いちいち深く考えて行動する人はいない。

バカ話、たわいもない冗談、うわさ話などなど。
脳の中でも、きわめて表層的な部分だけが
使用される。

あのアインシュタインにしても、ふだんの
アインシュタインは、いつもおどけた、
おもしろい人だったという。
あるときライフ社のカメラマンがカメラを
向けたときも、長い舌を出して、おどけてみせた。

しかしだからといって、その人の思考性が
浅いということにはならない。

むしろ、逆。

思考性の深い人ほど、日常生活の中では、
その反作用として、バカ話、たわいもない冗談、
うわさ話などを好むと考えてよい。
疲れた脳をいやすには、それがいちばんよい。

要するに、その人の思考性の深さというのは、
見た目ではわからないということ。

集中力についても、そうである。
私など、文を書いているとき以外は、集中力という
のは、ほとんど、ない。
とくにワイフと会話しているときは、頭の中は
バラバラ。
話があちらへ、こちらへと、奔放に飛び回る。
他人が見たら、「林は、頭がおかしい」と
思うにちがいない。
自分でも、そう思うことがある。

つまり私はそうして、文をかくことで疲れた
脳を休める。
(ワイフにとっては、迷惑なことかもしれないが……。)

++++++++++++++++

●統合失調症(Schizophrenia)

昨日、ある精神科のドクターと、立ち話だが、少し話をさせてもらった。
その中で、そのドクターがこう言った。
「100人もいれば、その中の1人は、統合失調症です」と。

発症率が1%という(!)。
この数字に、私は驚いた。
「そんなに多いのですか?」と聞きなおすと、「みな、表には出したがりませんから」と。

実際には、それよりやや少ない数字だそうだが、人口81万人(08)の浜松市にしても、
約8100人の患者がいることになる。

今では統合失調症といっても、薬でコントロールする時代らしい。
中には、短期間の薬の服用で、治ってしまう人もいるという。

それにしても、100人に1人とは!

私も今までに、4〜5人の子どもで、それを経験している。
「おかしいな?」※と思い始めるのは、小学の高学年くらいから。
しかしそれもあとになってわかることで、そのときはわからない。
何かのきっかけで発症することが多い。

ある子ども(男子)は、中学2年生前後から。
別の子ども(女子)は高校1年になってから。

発症するのは、時期的には、だいたいそのころから、ということになる。

本人にその自覚がないこともさることながら、
家族も、それを認めたがらないというところに、大きな問題がある。
精神科の門をくぐるのは、最後の最後ということらしい。

ともあれ、深刻な病気であることにはちがいない。

(付記)※

「おかしいな?」と思うのは、たとえば、(1)つかみどころがなくなってくる
ということがある。

何を考えているかわからないといった状態になる。
こちらの話を聞いているのか、聞いていないのかと思っていると、
話の内容が、突然、ポンとほかへ飛んだりする。

統合失調症といっても、いくつかのタイプがあるので、そういった状態を
前兆症状と言ってよいかどうかは、わからない。
しかし教える側の立場でいうと、ある種の不安感を覚えるのは事実。
指導しているとき、おかしな胸騒ぎを覚えることもある。

一方、精神的に安定している子どもは、安定感があり、教える側も安心して指導できる。
冗談を話しても、その冗談が、すなおに子どもに通じ、またすなおにその反応が
返ってくる。
つまりその(すなおさ)が消える。

で、そういうとき親にそれを告げるべきかどうかで、悩む。
統合失調症にかぎらない。
幼児でいえば、緘黙症、自閉症などがある。
不登校になる前の症状も、私のばあい、わかる。

しかしたいていは知らぬフリをしてすます。
親の方から相談でもあれば、話は別だが、こうした問題を、症状名をにおわせながら、
親に告げるのはタブー中のタブー。

が、ここでつぎの問題が起きる。

中学2〜3年生のころ統合失調症を発症した、M君にしても、当初は親(とくに父親)が、
それと気づかず、親がM君をはげしく叱ったりした。
それがかえって、症状をこじらせてしまった。
もし初期の段階で、精神科もしくは心療内科の門をくぐり、適切な治療を受けていたら、
症状もずっと軽くてすんだはず。
(正確には、M君のばあい、ほかの症状も併発してしまった。
少なくともそうした症状は、防げたかもしれない。)

ほかにもいくつかある。

(2)感情に一貫性がなくなる。感情が鈍麻する。
(3)神経質になったり、こだわりが強くなったりする、など。

そのドクターにしても、別れ際、こう話してくれた。

「親が勝手に病院から、子どもを連れ出してしまうケースもあります。
そういうとき、私たちとて、何もできません」と。

子どもの精神の問題というのは、そういうものかもしれない。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2820)

●論文丸写し(?)

産経新聞がこんな記事を書いている。

+++++++++++以下、産経新聞より+++++++++++++

 平成18年度にブラジルを訪問したM主党東京都議の視察団が、都議会に提出した報告書
に日本貿易振興機構(JETRO)職員の論文を盗用していたことが4日、分かった。論文のほ
ぼ全文を引用し、視察団の「総括」としていた。視察団長だった大沢N都議(43)は同日の記
者会見で「参考資料として載せるつもりだったが、結果的に『盗作』といわれても仕方がない」と
謝罪した。公金を使った海外視察のずさんな実態が露呈しただけに、都議の海外視察のあり
方が改めて問われそうだ。

(中略)

 視察には、大沢氏のほか、岡Z幸夫氏(55)、大N智氏(47)、猪爪M氏(52)の3都議が参
加。18年10月に10日間の日程で、サンパウロ、クリチバ、イグアスの3都市を回った。目的
は公共交通政策の調査などで、1人当たり191万円(総額765万円)が海外調査費として支
出された。

+++++++++++以下、産経新聞より+++++++++++++

論文の丸写しもさることながら、この記事の下の方に注目してほしい。
こうある。

「10日間の日程で、……1人当たり191万円(総額765万円)が海外調査費として支出され
た」と。

10日間で、191万円だと!

驚くと言うよりも、議員の人たちは、こういう形で、無料大名旅行を楽しんでいるのか。
ちなみにJALの航空運賃表によれば、サンパウロまでの航空運賃は、
往復で、28万円弱(エコノミー)。

191−28=163万円!
それを10日で割っても、1日、16万円!
1人、16万円!

フ〜〜ン!

しかも彼らが書いた報告書は、盗作(?)だったという。

フ〜〜ン!

M主党議員も、ナカナカやるね!
J民党議員、顔負け!
これ以上書くと、これから食べる朝食がまずくなるので、ここまで!


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】(9月6日・土曜日)

●スズメバチ(Hornets)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

今朝は、あまり気分がよくない。
理由は、よくわからない。

ただ昨夜遅くまで、雨戸の戸袋の中に
巣を作った、スズメバチ退治をしていた。

スズメバチの中でも大型の、体長が、
4〜5センチもあるものだった。

まず逃げ道をふさいで、小さな穴から
殺虫剤の噴霧。
2本分以上、それに使った。

1〜2時間したあと、再度噴霧しながら、
雨戸を戸袋から引き出した。

見ると、下の方に、10〜12匹の
スズメバチが、丸くなって死んでいた。
(あとで見たら、戸袋の外でも、5〜6匹
死んでいた。)

で、再び雨戸を戸袋に入れようとして、
上のほうを見て、仰天!

6段ほどに階層を作った巣が、そこにぶらさがっていた。
巨大な巣だった。
外を包んでいたカバーは、粉々に割れて、
中の巣だけがそこにつりさがっていた。

細いノコギリで、根本を切断。

ワイフに「(幼虫を)食べようか?」と声をかけると、
「私は、いやよ」と。
あっさりと、断わられてしまった。

今まで退治したスズメバチの中でも、
最大級のものだった。
幼虫ですら、3センチ前後もあった。

しばらく巣を観察したあと、
巣は幼虫ごと、コンポートに捨てた。
上から三角鋤(すき)で、バンバンと押しつぶした。

こういう作業は、あまり気持ちのよいものではない。

ところでどこかの寺の住職が、スズメバチを
退治するために、「火」を使ったという。
それで巣を燃やそうとしたらしい。
が、その火が、寺に引火。
寺が全焼してしまったという。

スズメバチの巣は、薄いカバーで覆われている。
このカバーは、たいへん燃えやすい。
つまり火を使うのは、たいへん危険。
近くの農家の人も言っていたが、スズメバチを
退治するには、市販の殺虫剤が、いちばんよい。
外から見えるところにそれがあるなら、
夜中に作業をする。
(ぜったいに昼間にしてはいけない!)

別の所から、懐中電灯で巣を照らしながら、
他方の側から、巣の入り口に向けて
殺虫剤を噴霧する。
コツは、中から出てこようとするハチを、殺虫剤の力で、
中へ押し込む要領でする。
距離は、最初は30〜40センチくらいのところから。
すぐに巣の入り口に殺虫剤の口をつけて、中へ噴霧する。

スズメバチの巣のばあい、出入り口は1か所しかない。

噴霧は容赦なく、する。
中途半端なし方は、かえってあぶない。
1〜2分も噴霧したら、殺虫剤の口で、カバーに穴をあけ、
その穴からも中へ噴霧する。

戸袋の中のようなところに作った巣は、まずガムテープのようなもので、
逃げ道をふさぎ、別の小さな穴から、殺虫剤を噴霧する。

……というわけで、今朝は、あまり気分がよくない。

虫は虫だが、あのハチは、ほんとうに頭がよい。
信じられないほど、頭がよい。
殺すのがかわいそうと思えるほど、頭がよい。
毒針さえもっていなければ、人間と仲よくできる
ゆいいつの昆虫かもしれない。

しかし……知らないでいたら、たいへんなことに
なるところだった。

(補記)巣の見つけ方

ハチが何らためらわず、慣れた様子で、狭い場所に
スーッと入っていったら、巣があると思ってよい。

ときどき1〜2匹前後、出たり入ったりするという
ようであれば、すでに巣は、巨大なものになっている
と考えてよい。

先にも書いたように、殺虫剤は、容赦なくかけること。
両手に2本くらいもち、フルパワーで、数分以上、
かけること。

ところで先ほど、コンポートの中をのぞいてみたら、
ハチの巣は、幼虫ごと、きれいに消えていた。
コンポートの中の虫が、一晩で食べてしまったらしい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●『失意泰然』(to be stable in case of despair)

++++++++++++++++

近くのガス会社の玄関脇に、こんな言葉が
かかげられている。

『失意泰然』。

石柱に、その言葉が刻み込んである。

++++++++++++++++

『失意泰然』。

すばらしい言葉だ。
またこの言葉を選んだ、その会社の社長もすばらしい。
(たぶん、選んだのは社長だと思うが……。)

「どんな逆境に置かれても、泰然としている」という意味か?

しばしその言葉に見とれる。

……私たちはそのつど、何かの騒動に巻き込まれる。
こちらが望まなくても、向こうから、それがやってくる。
そういうとき、当然のことながら、心は動揺する。

そういうとき底の浅い人は、ガタガタする。
中には、ギャーギャーと泣きわめく人もいる。
しかしそうしたところで、何も問題は解決しない。
かえって問題が、こじれてしまう。

日本語にも、『腹を決める』という言い方がある。
そうであるならあるで、割り切って覚悟する。
とくに自分の力ではどうにもならない問題に直面したときほど、そうである。
それが「運命」というのなら、その運命を前向きに受け入れる。
とたん、心が軽くなる。

この『失意泰然』という言葉は、いろいろに応用できる。

『騒動泰然』でもよい。
『動乱泰然』でもよい。

つまりそういうときこそ、その人の人格の基盤が発揮される。
そういうときに、泰然としていられる人ほど、人格の完成度が高いということになる。
私はその石柱を見ながら、しばしその言葉を、肝に銘ずる。

「私はその場に及んでも、ガタガタしないぞ!」と。
(実際には、いつもガタガタしているが……。)


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●負けるが勝ち(Don't be afraid of losing in order to win)

++++++++++++++++

『負けるが勝ち』という言葉がある。
これについては今までに、何度も書いてきた。
しかし『負けるが勝ち』には、
さらにすばらしい意味が隠されている。

++++++++++++++++

何かのことで、悶々と悩んだり、苦しんだりしたら、
思い切って負けてしまう。
負けて、自ら、まな板の上に乗ってしまう。
「さあ、どうでも、好きなようにしろ」と。

とたん、心が軽くなる。

大切なことは、今、ここで私たちが生きているという(事実)。
それにまさる価値はない。
つまりその価値さえ確保できるなら、そのほかのことは、
どうでもよい。
取るに足りない、ささいなこと。

さらに言えば、今、あなたが健康で、自由に動くことができるなら、
それ以上、あなたは何を望むのか。

息ができる。
歩くことができる。
見える。
聞こえる。

だからこちらから負けてしまう。
どうせ相手は、小さな、小さな、どこまでも小さな人間。
あなたがまともに相手にしなければならないような人間ではない。
つまり『負けるが勝ち』とあなたが覚悟した瞬間、あなたは
相手を、呑み込むことができる。
数段、その相手より上に出ることができる。

が、もちろん、負けてはいけないケースもある。
どんなに攻撃されても譲ってはいけないものがある。
それが「正義」。
わかりやすく言えば、「生きるための名分」。
それは最後の最後まで、死守する。

しかしその正義というのは、国家、民族、宗教、人類、地球、さらには
宇宙に対してするものであって、個人に対してするものではない。
こと個人に対して正義など貫いても、意味はない。
相手がそれなりの人物ならともかくも、(そういう人物というのは、
めったにいないが……)、相手にしても、意味はない。

あなたがその人を相手にするというのであれば、あなたもまた、
その程度の人間ということになる。

こんなことがあった。

その村では、村の人たちが自分の土地を少しずつ供出して、道を
作ることになった。
で、その計画を村役場に提出すると、「村道」として昇格してくれる
ことになった。
土地を村が買いあげてくれる。
造成のための補助金も支給される。

その補助金の取り合いで、村の人たちの心が四分五裂。
それからすでに20年になるというが、いまだにその(しこり)が残っているという。

対処の仕方をまちがえると、自分自身が、とんでもないほど低位に落ちてしまう。
「20年もゴタゴタするなら、あきらめるものはあきらめて、サッサとつぎの
行動に移ればいい」と私は考えるが、同じ騒動でも、「お金(マネー)」がからむと、
そうはいかない。

人間関係も、ドロドロになる。

あるいはこんなことも。
私は以前、いろいろなカルト教団を攻撃する記事を書いた。
雑誌や月刊誌にも書いた。
書籍も5冊出した。
そのこともあって、いまだに、私の家をさがしあて、抗議してくる人がいる。
玄関先で、押し問答をする。
しかしそういう個人を相手にしても、意味はない。
その人がそれで幸せなら、それでよい。
とやかく言う必要はない。
だから私のほうが逃げる。
相手がこわいから逃げるのではない。
どうでもよいから、逃げる。

だから『負けるが勝ち』。

仮に今日負けたら、明日、楽しく元気に仕事ができるようにすればよい。
今月負けたら、来月、楽しく元気に仕事ができるようにすればよい。
そのために、明日、あるいは来月、楽しく仕事ができるように、
心と体を、今日、あるいは今月、鍛えればよい。

私は自分で負けを感じたときは、その日は、運動の量をふやすようにしている。
運動をすることによって、不愉快なことを忘れることもできる。

「今年がんばれば、来月、楽しく仕事ができるだろ」と。

つまらないことでは、負けて負けて、ボロボロになる。
ボロボロになったところで、失うものは何もない。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●庭のマムシ(A Poison Snake in my Garden)

++++++++++++++++

先月、なんと、私の庭で、マムシが出た。
小さなマムシ(日本マムシ、毒性はきわめて強い)だったが、
それでも体長は30〜40センチはあった。
このあたりでも、「かまれたら、1か月」という。
マムシにかまれたら、入院生活が1か月つづくという意味である。

++++++++++++++++

マムシの生態を知っている人なら知っていると思うが、マムシというのは、
こういう市街地の住宅団地には、出ない。
湿地帯に近い、草むらの中で生育する。
餌は生餌(いきえ)といって、生きたカエルやトカゲ。

その上、私の家の敷地は、全体的に、1〜1・5メートルほど、盛り土に
なっている。
まわりを40センチほどの高さのブロックで囲んでいる。

が、出た!

……ということで、夜など、自分の家の庭であっても、歩くのがこわくて
ならない。
懐中電灯は必携。
あれが子どものマムシとするなら、どこかに親がいるはず。
1匹だけということは、ことマムシに関しては、ありえないそうだ。

こうして私はまたあたらしい(こだわり)を作ってしまった。

……しかしどうして私の家の庭に、マムシ?

これも地球温暖化の影響か?


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●注察妄想(I am watched!)

+++++++++++++++++

「自分の生活は、他人にのぞかれているのではないか」という妄想を
もつことを、注察妄想という。

こんな話を近所の人から、聞いた。

+++++++++++++++++

その家には、70歳くらいの老夫婦が住んでいるが、妻のほうは認知症が
進んで、今は、センターと自宅を行ったり来たりしている。

で、その夫のほうが、様子がおかしいという。
高い塀をへだてて、隣に住んでいるAさん(女性、48歳)が、こう話して
くれた。

「私の家族が、その家をのぞいていると、その人は言うのね。
だからガラス窓は、すべてすりガラスにしたとか、カーテンを厚いものに
したとか、あるいは部屋の中の電気がつけられないとか。

たまにその家のほうを見ることはあるけど、のぞくなんてことはないわよ。
そして自分が庭に出ているときは、わざと大きな咳払いをしたり、
大きな音をたてたりして、『自分はここにいるぞ』というような行動を
してみせるのよ。

気味が悪いから、無視しているけど、それがかえってその人を怒らせている
みたい」と。

注察妄想……被害妄想のひとつで、小さな(こだわり)が、そのまま大きな
(こだわり)に増幅してしまう。
そして自分でもコントロールできなくなってしまう。

この注察妄想に似ているのに、自意識過剰がある、
「私はみなに注目されている」と思うのが、それ。
しかし自意識過剰だからといって、(若い人は、たいていそうだが)、
行為に反社会性が見られなければ、それでよい。

で、注察妄想と自意識過剰のちがいはといえば、注察妄想にかぎらず、
妄想をもつひとは、同時に他人に対して、同じ行為を繰り返す。
「いつものぞかれている」と言う人は、同時に、他人の家をのぞいている。
のぞいているから、自分ものぞかれていると思う。……思い込む。
昔から『泥棒の家は、戸締りが厳重』というが、注察妄想もその延長線上にある。

先の話をしてくれたAさんも、こう言った。

「そのくせ、自分ではよほど私の家が気になるらしく、いつも私の家のほうを
見ているのよ」と。

そこで新しい推論、ゲット!

被害妄想というのは、つねに(ミラー=鏡)になっている。
何かのことで被害妄想をもつ人は、その人自身も、反対の立場で、だれかに
同じような被害を与えているということ。
自分にそういう経験があるから、今度は、同じことを他人もしていると思うように
なる。
それが過剰にふくらんで、被害妄想となる。

こういう現象を、何と呼んだらよいのか。

『ミラー反応』というのは、どうか?

言いかえると、自分自身がした行為が、被害妄想の(こだわり)となるということ。
たとえば被毒妄想にしても、これはふつうの人の発想ではない。
ふつうの人なら、だれかの食べ物に毒をもるなどということは考えない。
そういう発想そのものがない。
だから被毒妄想をもつこともない。

だれかの食べ物に毒をもったことがある人、あるいはそういうことを考えたことが
ある人が、ミラー反応として、被毒妄想をもつ。……もちやすい。
「だれかに追跡されている」という追跡妄想も、同じように考えてよい。

妄想をもつのはその人の勝手だが、妄想をもたれるほうも、困る。
「病気」とはっきりと診断されれば、対処の仕方もあるが、そうでないときは、
まわりの人が、迷惑する。

中には、道をはさんだ隣人に、朝夕、石を投げられ、それが理由で、
引越しを余儀なくさせられた人もいる。
石を投げる人には、その人なりの理由があるのだろう。
何かの被害妄想が疑われるが、そうした分類に属さない被害妄想もある。


●隕石でできた鉄剣(A sword made of Star Dust)

トルコにある、世界最古の鉄剣が、「宇宙から飛来した金属を主成分
とする隕石(隕鉄)を材料にした可能性が高いことが」わかったという
(中日新聞9・6、夕刊)。

「この鉄剣は、1938年、アンカラの東、約200キロにあるアラジャホユック
遺跡の墳墓で出土した」(同紙)という。

が、そのあとの記述が気になる。

「鉄の精錬技術がまだなかった、約4300年前のもので、隕鉄を用いた
という説はあったが、直接の根拠はなかった」(同紙)と。

鉄の精錬技術のなかった時代に生まれた鉄剣であるということ。

分析したのは、「東京理科大などの研究チーム」(同紙)とか。

「(この)鉄剣の刀身部分を詳しく分析したところ、刀身の鉄には、隕鉄
に特徴的なニッケルが約7%含まれていることが判明。コバルトなどの微量
元素の組成も、隕鉄に極めて似ていることがわかった」(同紙)とも。

おもしろい!
たいへん、おもしろい!

新聞に載っている写真を見ると、刀の柄の部分は、金でできているらしい。
が、刀身のほうはボロボロにさびているといった感じ。
(日本刀のような輝きを期待してはいけない。)

しかし落ちてきた隕石で、どうやって刀を作るのだろうか。
あるいはもともと、この鉄剣は、宇宙のどこかで作られたものではないだろうか。
考えれば考えるほど、頭の中でロマンがふくらむ。

メソポタミア文明や黄河文明は、今から約5500年前に始まった。
紀元前3500年ということになる。
問題の鉄剣が作られた時代は、約4300年前という。
トルコの右下がイラク。
トルコで、こうした鉄剣が見つかったとしても、なんら、おかしくない。


●三浦K事件(K. Miura Case)

三浦K事件について、アメリカで再審裁判が行われるかどうか、この9月
26日に決まるという。

私の予想では、検察側の再審請求は却下され、三浦K氏は、晴れて無罪放免。
これほどまで今までの審理が長引いたということが、その根拠(?)。
アメリカ側の立場で考えれば、こういうこと。
「こういう裁判は、めんどうだから、やめよう」と。

「法的正義」という言葉があるが、今のアメリカに法的正義を求めても、
あまり意味はない。
三浦K氏が有罪になろうが、無罪になろうが、アメリカにしてみれば、関係の
ないこと(?)。
無駄な裁判をつづけて、税金を無駄遣いしたくないという心理も働くかもしれない。
ただ検察側の再審裁判が始まれば、アメリカへの信頼感は、ぐんと高まる。
「やっぱり、アメリカって、民主主義の国だったんだア」と。

あとはアメリカ側の政治的判断ということになる。


●再び、金xx、健康悪化説(Kim Il Jong of North Korea)

今日のニュースによれば、少し前、ピョンヤン入りした中国の医師5人が、
まだ帰国していないという。
韓国の新聞社は、そういう事実をとらえて、金xx、健康悪化説を流し始めて
いる。

持病の糖尿病と肝臓病が、悪化しているらしい、と。
心臓病については、少し前、心臓のバイパス手術を受けたといううわさもある。
どうであるにせよ、何十万人も人を殺したと言われる独裁者でも、自分の命だけは
惜しいらしい。

が、問題は、金xx亡きあとの、K国である。
金xxが死亡したからといって、K国が簡単に変化するとは思われない。
後継者がだれになるかによっても決まるが、むしろ軍部が力を拡張し、
K国は不安定になるかもしれない。
となれば、K国はますます強硬路線を歩むことも考えられる。

反対に金xxの死去とともに、K国が崩壊すれば、そのあとK国は、
韓国ではなく、中国の管理下に入るはず。
そうなれば韓国は、竹島(独島)どころか、朝鮮半島の半分を失うことになる。

私たち日本人の知ったことではないが……。
(ちょっとこの意見は、冷たいかな?)


●子どものページ(Pages for Children)

マガジンのほうで、子どもも楽しめるページを作ってほしいという要望があった。
8月に載せた、「子どもたちへ」という詩集が、好評だったようだ。
よい要望なので、さっそく今夜からでも、実行してみたい。

Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

【子どもたちへ】(08年9月)(To: Children)

●よい友だちを選ぼう

よい友だちを選ぼう。
よい友だちは、君を、よいほうに伸ばしてくれる。
そうでない友だちは、そうでない。

そのひとつの方法として、こんなことを知るといいよ。
君によいことを教えてくれるのが、よい友だち。
スポーツの楽しさや、音楽のすばらしさなどをね。
君がその人を見て、「ぼくもやってみよう」「私もがんばろう」と
思うなら、その友だちは、よい友だち。

が、君に悪いことを教えてくれるのが、悪い友だち。
タバコを吸ってみないかとか、夜、遊びに行かないかなどと、ね。
君を誘ったりするよ。
そういう友だちが、悪い友だち。

よい友だちを選ぶためには、ひとつ条件があるよ。
それは君自身が、YES/NOをはっきりと言わなければならない。
またそれができなければならない。

いやだったら、「いやだ」と言う。
それには勇気が必要だけど、もしその勇気がなければ、家で練習をするといいよ。
何かのことを頭の中で想像しながら、「いやだ!」と大声で言ってみる。
あるいは笑顔をつくりながら、言ってみる。

こう考えてみたら、どうかな。
あなたという人は、長い時間をかけて、友だちによってつくられる、と。


●道徳

「道徳」ってむずかしいことだと思っている人は多いね。
でも、そんなにむずかしいことではないよ。
道徳の完成度は、公平性と視野の広さでみるんだって。

「公平性」というのは、いつも、だれに対しても、同じように正しく
接することをいうよ。
視野の広さというのは、いつも高い視点でものを考えることをいうよ。
「人間とは……」とか、「地球は……」とかね。

道徳の完成度の低い人は、そのつどやることなすこと、いいかげん。
相手によって、コロコロと態度が変わったりする。
それにいつも、ささいで、小さな問題で、ザワザワと騒いでいる。
しばらく話していると、窮屈な感じがするから、それがわかるよ。

だから君は、いつも、だれに対しても同じでいようね。
そしていつも、できるだけ大きな問題について、考えよう。
そういうことが平気でできるようになったとき、
君のまわりには、すばらしい友だちが集まってくるよ。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●自然葬(Natural Funeral)

自然葬を望む人が、団塊の世代を中心にふえているという(新聞報道)。
そういう活動を指導的に行う、NPO法人(特定非営利活動法人)も
立ち上がっている。

「葬送の自由をすすめる会」(東京)というのも、そのひとつ。
同会のばあいは、1991年に発足し、会員は全国で1万2000人、
3年前とくらべて、2倍にふえたという。

少し前、「直葬(ちょくそう)」という葬儀の仕方について書いた。
都会地域では、30%前後の人たちが、現在、直葬を選択しているという。

自然葬にせよ、直葬にせよ、日本の伝統的な死生観にそぐわないため、
抵抗を感ずる人も多い。
とくに農村部ではそうだろう。
しかし同時に、今、冠婚葬祭のし方が、この日本でも大きく変わろうとしている。
「従来のままではおかしい」と考え始めている人が、ふえ始めている。

実際、おかしい。
儀式化するのはしかたないとしても、肝心の「心」が、どこかへ置き去りに
なってしまっている。
誤解しないでほしいのは、直葬にせよ、自然葬にせよ、それをするからといって、
死者を軽んじているということではない。

もちろん中には経済的な理由で、そうする人もいるだろう。
都会地域では、葬儀費用は、平均して300万円前後もかかるという。
この浜松市でも、140〜50万円が、その相場ということになっている。

しかし実際には、それまでの介護費用、あるいは介護で、疲れきって
いる家庭も多い。
その上での葬儀である。
(私も先日、実兄を見送ったが、葬儀費用は、しめて165万円。
香典などでの収入は、43万円前後だったので、約120万円の赤字(?)という
ことになる。)

葬儀の費用のうち何割かが、僧侶への布施。
布施の額は、戒名によって異なる。
寺の格式(?)によっても、異なる。
G県の小さな田舎町での葬儀だったが、下は30万〜80万円。
上にはキリがないそうだ。

ちなみに、自然葬のばあい、合同葬なら、約5万円。
個人葬でも、約10万円だそうだ(上記、同会)。

日本人の多くは、葬儀といえば、僧侶による読経を当然と考える。
その読経の仕方も、布施の額によって異なる。
たとえば、寺に頼んでも、僧侶が1人で来るということはない。
たいてい仲間を誘う。(たがいに誘い合う?)
こうして別途に、1人、10〜20万円前後が請求される。
(これでも安いほうだそうだ。)
5人、助っ人を頼めば、プラス100万円〜となる。
(ある宗教団体では、僧侶を呼ばず、「友人葬」と称して、仲間同士で
葬儀をする。)

しかしこうした常識そのものが、おかしい。
で、私はこれについて、一度、地元のある寺の住職にこんな質問を
したことがある。

「戒名は、どうして必要なのか」
「読経は必要なのか」と。

それに対して、その住職は、こう教えてくれた。

「俗名には、世間のしがらみが、いっぱいくっついています。
清廉潔白な気持ちで浄土へ行くためには、戒名は必要です」
「読経するのは、仏(=死者)を、成仏させるためです」と。

私にはこれ以上のことはわからない。
わからないが、こんな方法では、残された遺族の悲しみやさみしさは、
癒されない。
むしろ、こうした形式的な儀式によって、死者や遺族の意志を、もて
あそぶことになりやしないか。

私の近い知人(元)高校教師(男性)が、先日、亡くなった。
しかしだれも、その知人の葬儀の日すら、知らなかった。
葬儀は、僧侶なし、家族だけの密葬で行われた。
が、だからといって、いいかげんな葬儀だったと考えないほうがよい。
それから1〜2週間、妻は、床に伏せたままだったという。
それを心配した息子や娘は、妻(=母親)のそばにずっといて、
妻(=母親)の介護をしたという。

故人というより、葬儀にしても、もっと遺族の心を大切にすべき。
と、同時に私たちも、意味のない迷信にとらわれることなく、
(こうあるべき)という葬儀の仕方を、もっと前向きに考えた
ほうがよい。

今のように(形)が先にあって、その(形)だけをすれば、それでよい
と考えるほうが、おかしい。
むしろ現実は逆で、心の中では、「バンザーイ!」と叫びながら、葬儀の席では、
うちひしがれた遺族を演ずる家族も少なくない。
その隠れ蓑として、「形」が利用される(?)。

で、もう少し先を言えば、「戒名」などという言葉は、釈迦の時代には、
「カ」の字もなかった。
「成仏」という言葉にしても、だれでも修行すれば仏になれると説いたのは、
北伝仏教。
さらに「死ねばみな、仏」という考え方をするのは、私が知るかぎり、この
日本人だけである。

(釈迦の教えが直接伝わっている南伝仏教では、ある一定の位以上の僧のみが、
仏になると教える。)

僧侶に読経してもらった程度のことで、成仏できるというのなら、ではこの
現世での努力は、何かということになってしまう。
懸命に生きた人も、そうでない人も、同じ仏という考え方そのものが、不平等。

いろいろ考えてみるが、私には、「成仏」という概念が、どうしても理解できない。
理解できないから、葬儀のあり方そのものに、どうしても納得できない。

……ということで、自然葬、おおいに結構。
私に遺産があるとかないとか、そういうことには関係なく、息子たちには、
無駄なお金を使わせたくない。
私は自分の遺灰が、どこかに捨てられても、いっこうにかまわない。
遺骨などに、私の魂は、ない。

私がワイフより先に死んだら、遺骨はワイフが死ぬまで、ワイフが預かる。
再婚したければ、すればよい。
ワイフが死んだら、私とワイフの遺骨の始末は、息子たちに任せる。
自由に決めてよい。

ワイフが私より先に死んだら、その反対。私が死ぬまで、ワイフの遺骨は
私が預かる。
私が死んだら、あとの始末は、息子たちに任せる。

なお散骨について、法務省刑事局総務課は、つぎのような見解を示して
いるという(同紙)。

「節度をもってすれば、刑法の遺骨遺棄罪には当たらず、問題はない」とのこと。
よかった!

Hiroshi Hayashi++++++++SEP 08++++++++++++はやし浩司

●2012年、ハルマゲドン説

+++++++++++++++++++

先日、電車に乗る前に、コンビニで、一冊の本を買った。
目当ての雑誌が、まだ発売になっていなかった。
それで、その本を買った。

『2012年、地球崩壊の驚愕大予言』(日本文芸社)という
本である。
一言で解説すれば、2012年の9月ごろ、巨大隕石が
地球に衝突する可能性があるという内容である。
その結果、人類の3分の2程度はそれで滅亡し、残りの3分の1も、
「生きながらえたことを後悔しながら、少しずつ死に絶えていく」と。

地球温暖化の問題にも触れ、ある予言者は、「地球の平均気温は
59度になる」と言っている、とか。

こうした本を読むとき注意しなければならないのは、(カルト教団の
説法と似通っているが)、事実とフィクションをたくみに混ぜていること。

地球温暖化は(事実)だが、その(事実)を取りあげながら、人々の
心を不安にする。
不安になると、正常な判断力が弱くなる。
その弱くなったところで、予言者なる人たちの言葉を使い、何かの目的のために、
人々の心を誘導していく。

ちょうど10年前には、「ノストラダムスの予言」が、話題をさらった。
しかしその「1999年の7月」には、何も起こらなかった。
で、今度は、2012年。
天文学に詳しかったとされる(?)、マヤ文明に残された古文書を根拠にしている。
「マヤの予言は史実だった」(p30)などと、ある。

そしてそれに別の(事実)を混ぜる。
たとえば、こうだ。

2012年12月8日〜28日の間に、地球に接近してくる小天体があるという。
名前は「トータチス」。
直径は約1キロメートル。
太陽のまわりを、約3・9年で一周するが、そのため、約4年に1度、地球の軌道と
クロスする。
ここまでは(事実)。
が、今のところ地球と衝突する可能性は、ほぼゼロに近いのだが、それでは本になら
ない。

で、こうある。

「きわめて(軌道の)変動のはげしいトータチスは、ほぼ4年に1度、長軌道から、
短軌道へと移動している。このとき、どうしても地球の軌道とクロスすることに
なる」(p43)と。

トータチスという小惑星があって、太陽のまわりを回っている。
しかしそんな小天体は、何百個もある。
そのうちの一個が、軌道を変えて、地球に衝突する可能性があるという。
つまりこの部分が、フィクション。

どこでどう軌道を変えるのか?
どうして軌道を変えるのか?

……いろいろ書きたいことはあるが、人間には(不安)を楽しむという心理も
ある。
映画にも、その種類のものが、たくさんある。
「ご勝手にどうぞ」と思ったところで、その本はそのまま、カバンの中へ。

【補記】

ついでに「予言」について。

どこかの科学者が、観測データに基づいて、「20xx年から前後、プラスマイナス、
20年以内に、東海沖地震が起きる」と説くのは、科学的根拠に基づいた可能性の
問題。
しかしどこかのオジチャンが、「20xx年に、東海沖地震が起きる」と説くのは、
そうした可能性をたくみに悪用した悪のり。

地球温暖化の問題にしても、そうだ。

すでに(事実)になりつつあることをたくみに利用しながら、それを(予言)に
つなげていくというのは、(インチキ)そのもの。
が、人間の脳みそはスキ間だらけ。

北海道に住む人と、九州に住む人が、携帯電話で話しても、だれも驚かない。
しかし数メートル離れたところにいる人どうしが、テレパシー(?)で、
簡単な絵や文字を伝達したら、それだけで大騒ぎ。

つまりは予言なるもの信じている人たちは、日常的に科学コンプレックスを
もっている。
それから生まれる欲求不満を、こうした形、つまり自分たちに優位性をもたせる
ことで、解消している。
「科学なんてあてにならない。自分たちのほうこそ、正しい」と。

少しでも科学の道に入っている人なら、こうした予言など信じない。
もとから相手にしない。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●オバチャンたちの無駄話(Talkative Women)

電車で講演先に向かうとき、相向かって座った2人のオバチャンが、
さかんに会話を始めた。
年齢は2人も65歳前後。
ペチャペチャ、キャッキャッ、と。

目を閉じて、その会話を分析する。
で、いくつかのこと気づいた。

人は、とくにそのための訓練をした人は別として、静かに目を閉じてものを
考えることができない。
考えることはできるが、思考能力は浅く、内容も堂々巡りしやすい。

そこで人は、つぎの2つの方法のうち、どちらか一方を選択する。

(1)ものを書く。
(2)だれかと話をする。

しかし考えるといっても、情報の交換は、(思考)ではない。
思考には、常にある種の苦痛が伴う。
難解な数学の問題をだれかに解けと言われたときの状態を想像してみればよい。
それがその(苦痛)である。
で、だれしも、できるなら、解答を見て、簡単にすませたいと思う。
そういう心理も働く。

しかし私の前で話し込んでいる2人のオバチャンには、そういった様子は
まったく見られない。

「あら、白い花! あそこにも……。あれはソバの花かしら……」
「でも、ソバの花は、こんなところには咲かないわよ」
「花といえば、もうコスモスが咲き出したわ」
「コスモスはきれいね……」と。

やがて今度は、話題が旅行に移った。
「紅葉がきれいなのは、このあたりでは、XX峡ね」
「(JRの)H線に乗って、長野のほうへ行くのもいいわよ」
「私、去年は、○○へ行ってきたわ。今年も言ってみようかしら」と。


つまりそのつどテーマは変わるが、話している内容は、まったく同じ。
脳に飛来した情報を、たがいに、披露しあっているだけ。
思いついた情報を、たがいに交換しあっているだけ。

残念だが、こういうのは思考とは言わない。
言わないが、もうひとつ、気がついたことがある。

その2人のオバチャンは、間断なくしゃべりつづけていた。
その様子から、2人のオバチャンは、だまっていることができないことを知った。
つまり口の動きを止めたとたん、脳みその中がカラッポになる。
2人のオバチャンは、それに耐えられない。
だからしゃべる。……しゃべりつづける。

言いかえると、(考えるという習慣)そのものが、ない。
会話の途中で、相手の言葉を頭の中で反芻(はんすう)しながら、
「ウ〜ン」とか、「そうねエ〜」とかいう言葉が出てこない。
相手がポンポンとものを言えば、それにあわせてもう一方も、ポンポンと
ものを言う。

私は2人の会話を聞きながら、「この人たちの思考力はゼロ」と判断した。
言うまでもなく、思考力というのは、その「深度」で決まる。
その深度そのものが、なかった。

で、この状態がさらに進むと、養護センターの老人たちのようになる。
ある老人(85歳くらい、女性)は、会う人ごとに、「息子さんは元気ですか?」と、
声をかけている。
その息子のことを本気で心配しているから、そう言っているのではない。
口癖でしかない。

あるいは、介護師の人が何をしても、「ありがとう」を口にしている老人(80歳
くらい、女性)もいる。
本気でそう思っているから、そう言っているのではない。
やはり口癖でしかない。
自分でスプーンを落としても、「ありがとう」と言ったりする。

だからその2人のオバチャンのような会話は、たがいに言った先から、忘れて
いく。
聞いている私が忘れるのではなく、しゃべっている2人が忘れていく。
もともとどうでもよい話を、スズメのように、ピーチクパーチクと話して
いるだけ(失礼!)。
だから頭に残らない。
残らないから、先に向かって展開していかない。

……しかし、このタイプのオバチャンは、うるさい。
ほんとうに、うるさい。

「携帯電話はオフかマナーモードに」という車内アナウンスが聞き取れないほどの
大声で、しゃべりあっている。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●比較

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私は他人に比較されるのが、大嫌い。
ときどきワイフも、その気はないとは思うのだが、
私をだれかと比較するときがある。
そういうとき私の心の中の古いトラウマが、爆発する。
「ぼくは、ぼくだア!」と。

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比較……それが私の母の子育て方の「柱」になっていた。
「あのA君は、今度、○○賞を取ったそうや」
「あのB子さんは、算数のテストでは、いつも100点やそうや」とかなど。

さらに大きくなると、こう言った。

「あのC雄さんは、すごいものや。今度、両親を温泉へ連れていってやったそうや」
「Dさんは、親のために、離れを増築したそうや」とかなど。

これは母だけの「柱」というよりは、母方の兄弟は、みな同じような言い方をする。
だから母もまた、そういう環境の中で、自然とそういう「柱」を身につけたらしい。

で、私はその(比較)に、猛烈に反発するようになった。
……とは言っても、私の時代には、親に逆らうということ自体、タブー視されていた。
親自身も、自分の子に対して、そう思っていた。
だから私が何か反発したりすると、すかさず父にしても、母にしても、
「親に向かって、何だ!」と、怒鳴りかえされた。

そんなわけで、今でも(比較)が、私の心の中で、トラウマになっている。
ワイフが、「あら、この人(=昔の私の知人)が新刊書を出したわ」などと
言っただけで、ムカア〜〜〜ッと、不愉快な気分になる。

さらに「あら、おもしろそうな本ね」などと言ったりすると、さらに不愉快になる。
トラウマというのは、そういうもの。

私「うるさい!」
ワ「どうして怒るのよ」
私「そういう話は聞きたくない!」
ワ「私は、あの人が新しい本を出したと言っただけでしょ」
私「だから、そういう話は聞きたくない」
ワ「あなた、おかしいわよ」
私「おかしくても、おかしくなくても、聞きたくない!」と。

ワイフは、ワイフの考えだけで、ものを言う。
が、私には、どうしてもそれが(イヤミ)に聞こえてしまう。
その理由が、先に書いたトラウマである。

私はいつも心の中で、こう叫んでいた。

「ぼくは、ぼくだア!」と。

今も、そしてこれからも、そうでありたい。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●東海自然歩道(Walking through Tokai Nature-reserved Road)

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昨日、富士吉田の浅間神社から、山名湖畔にある花の都
というところまで、約9キロを歩いた。
途中、ずっと東海自然歩道になっていた。
山や坂もあり、けっこうたいへんだった。

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このところ、1か月に1、2度の回数で、「歩け歩け会」に参加している。
距離に応じて、初級、中級、上級コースにわかれている。
昨日は、約9キロ。
上級コース。
実際には、クネクネとした曲がり道がつづいていたので、その1・5倍は
あったのでは……。
前半は、でこぼこ道プラス、けもの道……。

おまけに途中で、農家の人から、トウモロコシを買ってしまった。
1本100円で、11本。
重さは、6〜7キロはあったのでは……?
それを薄いビニール袋に入れて、手で持ち運んだ。
これが悪かった。
やがて手が、ちぎれんばかりに痛くなり始めた。

が、今回は、こんなよいことがあった。

いつもならゴールに用意されている、どこかの道の駅で食事をする。
ご存知の方も多いと思うが、道の駅の中のレストランは、どこもまずくて値段が高い。
サービスも悪く、ほとんどがセルフサービス。
半官半民のレストランというのは、そういうもの。

で、今度は、行程の途中にあるレストランで食事をすることにした。
地図とにらめっこしながら、道から数十メートル離れたところに、
民家風のレストランを見つけた。
「忍野(おしの)八海(はっかい)」という観光地と、山名湖へ向かう道の、
ちょうど分かれ道のところに、それがあった。
「ほうとう」という名前の店だった。
たまたま通りかかったトラックの運転手に、「あの店はおいしいですか」と聞くと、
「おいしいよ」と。

そこで私とワイフは、「ほうとう」という名前のレストランに入った。

ワイフは、とろろ飯(800円)、わたしは、ほうとう鍋(1000円)を
注文した。
レストランの看板にもなっていることからもわかるように、その店のほうとう鍋は、
絶品!
いろいろなほうとう鍋を食べてきたが、あれほどまでにおいしいほうとう鍋は、知らない。
さらに私を感動させたのは、シイタケと思って食べた食材が、何と、マツタケ!

私とワイフは、汁を最後の一滴まで、飲みほした。

今回の「歩け歩け会」は、そんなわけで大満足。

……ただしその翌日の今日は、足が痛くて、歩くのもままならない。
つらいが、あのほうとう鍋を思い出すたびに、「よかった」と思う。


Hiroshi Hayashi+++++++++++++++++はやし浩司

●歩く(Walkings)

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推定体重85キロ前後あった義兄が、半年あまりの間に、
推定体重70キロ前後にまで。体重を減らした。
年齢は66歳。

久しぶりに会って、そのスリムな体つきに、驚いた。
「どうやってダイエットしましたか?」と聞いたら、
「毎日1時間以上、歩いている」とのこと。

ヘ〜〜エ!

歩くのは、ダイエットによいらしい!
もちろんほかにも食事コントロールなども、したのだろう。

しかしそれにしても、85キロから70キロとは、すごい!

そこで私も歩くことにした。

昨日も、10キロ。
今日も、7キロ。

歩いている間、頭の中はカラッポになる。
いつもなら、しばらくものを書かないでいると、頭の中がモヤモヤとしてくる。
だが、歩いているときは、それがない。

しかしダラダラと歩いていたのでは、運動にならない。
体をパッパッと動かして、リズミカルに歩く。
……というのは常識だが、夕方、体重計に乗ってみて、がっかり。
かえって体重が1キロもふえていた!

どうしてだろう?
歩きながら、水をたくさん飲んだせいかな?


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】9月10日(水曜日)

●金xx、倒れる?(Kim Il Jong fell down!)

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パソコンに電源を入れる。
メールに目を通したあと、いくつかの
ニュース・サイトを開く。

!!!!!

K国の金xxが、脳梗塞で倒れた!
昨日の、(9・9節・軍事パレード)にも、
顔を見せなかったという。
(一部の報道では、「脳卒中」となって
いる。)

脳梗塞?
それとも脳内出血?

それぞれの専門家が、先月、中国や
フランスから呼び集められたという。

そのため軍事パレードも、正規軍に
よる行進は中止。
近くの飛行場で待機したまま、
夕方になって解散したという。

+++++++++++++++

イギリスのタイムズ紙は、つぎのように伝えたという(朝鮮N報)。

『英有力紙タイムズ電子版は5日、「最も退廃的な独裁者10人」を選定し、第1位に北朝鮮の金
正日(キム・ジョンイル)総書記を挙げた。

 タイムズ電子版は、金総書記を「1994年から北朝鮮の"親愛なる指導者"として政権の座に
あり、極めて金のかかる趣味を持っている」と紹介した。記事によると、金総書記は17の宮殿、
自動車を数百台、さらにビデオテープを2万本ほど持っているという。また、若く美しい女性たち
で構成された「喜び組」を抱え、高級酒のヘネシーVSOP(コニャック)を購入するのに、毎年65
万ドル(約7027万円)を費やしているとのことだ。

 さらに、国賓としてロシアを訪問した際には、自らの装甲列車に毎日生きた伊勢海老を空輸
させた、と同紙は報じた』(以上、朝鮮N報)。

これだけ読んでも、金xxが、ものすごい独裁者ということがわかる。
しかしもちろん、これだけではない。
金xxが、政治犯として粛清(=殺害、および収容所送り)した人民は、推定でも20万人とも40
万人とも言われている。

で、こういう記事を読むと、「日本人はだいじょうぶ」とか、「日本ではそういう独裁者は生まれな
い」と思う人は多い。

しかし金xxを、「将軍様」と呼ぶことからもわかるように、この日本だって、たった120〜130年
前には、現在のK国と変わらない政治体制を敷いていた。
K国より、ひどかったかもしれない。
「喜び組」にしても、日本のばあいは、「大奥3000人」!
ケタがちがう!

30歳の若い人にとっては、120〜130年前というと、遠い昔のことのように思うかもしれな
い。
が、昨年、満60歳になった私にとっては、そうでない。
120÷60=2、つまり私の年齢のたった2倍の昔でしかない。

で、韓国の各紙は、すでに金xxの後継者はだれかという報道を始めている。
金正哲氏か、金正男氏か。

それについて朝鮮N報は、『次男の金正哲(キム・ジョンチョル、27)氏は1993〜98年にスイ
スのベルン国際学校に留学した後、北朝鮮に帰国した。金正哲有力説は「白頭の革命血統」
を強調する北朝鮮で、金正哲が事実上の適任者だというものだ』と、書いている(08年9月9
日)。

流れとしては、金正哲氏ということになるらしい。
しかし「白頭の革命血統」とは?

フ〜〜〜ン?

今どき「血統」ねエ〜〜?

今度の金xxの健康悪化説で、ほっと胸をなでおろしているのが、アメリカの国務次官補のC・ヒ
ル氏ではないのか。
今までの失策を、すべて、健康悪化説のせいにすることができる。
「私はずっと前から、金xxの健康悪化説を承知の上で、K国と交渉を重ねてきた」とかなんと
か。

事実、そのことで、C・ヒル氏は、先月末、中国要人と会談を重ねている。

それにしても、「17の宮殿、自動車を数百台、さらにビデオテープを2万本ほど持っている」(タ
イムズ紙)というのは、すごい! プラス、バカげている!


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●BLOGへのコメント(感情論)

私のBLOGに対して、このところ辛らつなコメントが、多くなった。
今日は、「あなたも、〜〜という本を一度は読んでから、ものを書いたほうが
よい」とか、「日本に対しての内政干渉は許さない。総理大臣がY神社を参拝
して、何が悪い」(G−Blog)とかなど。

こうした感情論には、どう反論したらよいのか?

私のほうは、実名を公表して書いている。
しかしコメントを寄せる人は、無記名。
どこのだれかが、まったく、わからない。
だから不気味(?)。

しかしこのところ、削除するのもめんどうになり、そのままにしてある。
「勝手にどうぞ」というレベルを超えて、最近では、まったく気にしない。
そんなことをいちいち気にしていたら、BLOGに記事など書けない。

(興味のある人は、私のBLOGをのぞいてみてほしい。)

さらに中には、何が気に食わないのか、執拗に攻撃してくる人もいる。
しかしそれもそのまま。
「そんなに気に食わなければ、読まなければいい」と私は、思うのだが……。

+++++++++++++++++++++

感情論といえば、こんなのがある。
少し前、毒入りギョーザ事件があった。
私は記事を書いた。
それについて、「やっぱり中国人は、信用できない。あいつらもともと
そういう人種なのだ」というようなコメントがつけられた。

しかし日本人だって、同じようなことをしている。
産地偽造などは、朝飯前。
ここ数日は汚染米が、問題になっている。
何でもその業者は、農薬で汚染された米を、キロ7円で仕入れて、
300円で売っていたという(タブロイド紙)。

こういう事実に対して、先のコメントを書いた人は、どう反論するのだろう。
「やっぱり日本人は、信用できない。俺らはもともとそういう人種なのだ」
とでも言うのだろうか。

つまり一貫性がない。
ないから、感情論ということになる。
言うまでもなく、道徳の完成論は、(1)公平性、(2)視野の広さで決まる(マズロー)。
感情論には、この2つとも欠ける。


●交通事故、ワースト・ワン

統計のとり方によってもちがうが、「人口10万人あたりの人身事故発生率では、
1159件と、この浜松市が政令都市の中では、2年連続で、ワースト・ワンに
なった」(中日新聞・9・10)と。

2位が静岡市。
3位が福岡市。
4位が北九州市とつづく。

私が見ても、ここ浜松では、運転の仕方が、めちゃめちゃ。
黄信号は、浜松では、注意信号ではない。
「アクセル踏め踏め信号」。
しかも、だ。
この浜松では、赤信号になっても、止まる人はいない。
隣の信号が青になるまで、走る。
隣の信号が青になっても、隣の車が走り出さないなら、まだ、走る。

さらに交差点などの停止線で、きちんと止まる人はいない。
たいてい数メートル以上手前か、あるいは、停止線を越えて、横断報道の上で
止まる。

オーストラリアの友人がこう言った。
「日本人は、どうしてこうまでロジカルでないのか?」と。
交通ルールを守らないことをさして、そう言った。

だからワースト・ワン!

そこで教訓。
この浜松市へ来たら、交通ルールなど、ないものと思ったらよい。
信号など、信用してはいけない。
たとえ青信号になっても、自分で左右の安全を確かめながら、走る。

さらにおかしな上下意識が強く、自転車や、100〜200万円程度の
小型車は、浜松では、「車」ではない。
安い車で、へたに信号や速度制限を守って走っていると、うしろからプープーと
クラクションを鳴らされる。
(ちなみに私の車は、TOYOTAのビッツ。大衆車。)

浜松中央署は、「浜松は外部から来る車が多いから、交通事故が多い」と説明している。
が、それはどうかな?
国道1号線が通っていることを理由にしたいのだろうが、国道1号線沿いでは、
人身事故はほとんど起きていない。

最近になって、つまりここ1、2年は、交差点に立つ警察官をときどき見かけるように
なった。
が、それ以前は、まったくなかった。
もっと早くから、それをしてほしかった。
それがワースト・ワンの理由。

少なくとも赤信号になってから突っ走る車くらいは、検挙してほしい。
自転車に乗っている私など、おそろしくてならない。


●教育投資、日本、最下位

「経済協力開発機構(OECD)は、9日、加盟各国の国民総生産(GDP)に
占める教育への公財政支出割合について調査結果を発表。
日本は、前年よりも0・1ポイント減少し、3・4%で、データ比較が
可能な28か国中で、最下位だった(2005年度)」
(以上、中日新聞・08年9月10日)と。

こうした事実を、いったい、日本人のどれだけが知っているだろうか。
わかりやすく言えば、この日本では、教育費は、親の負担ということになっている。
大学生をみれば、それがわかる。

しかもこの日本には、奨学金制度がない。
アメリカでもオーストラリアでも、そしてほかの欧米諸国でも、親のスネを
かじって大学へ通っている学生など、ほとんどいない。
みな、民間企業などが提供する奨学金を得ているか、自分で借金をしながら、
通っている。
「意識」そのものが、ちがう。

だから自分の子どもが大学へ通うようになると、世の親たちは、爪に灯をともすよう
にして、学費を捻出する。
現実は、きびしい。
その数字が、3・4%。

ちなみに「調査結果によると、28か国の平均は、5・0%。

1位……アイスランド(7・2%)
2位……デンマーク(6・8%)
……
下位3か国は、日本のほか、スロバキアとギリシア」(同紙)と。

また「教育費全体に対する私費負担の割合は、日本は31・4%。
韓国、アメリカにつづき、3番目に多い」(同紙)とも。

昔は、『子、育ち盛り、親、貧乏盛り』と言った。
今は、『子、大学生、親、貧乏盛り』と言う。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2821)

●謎の小惑星、「シュテインス」

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欧州宇宙機関(ESA)が、10月6日(08)、
小惑星「シュテインス」の写真を公表した。

+++++++++++++++++

欧州宇宙機関(ESA)の探査機「ロゼッタ」が、
小惑星「シュテインス」に接近、写真撮影に成功した。

シュテインスは、地球から3億6000万キロ離れており、
直径は、4・6キロ(この数字に注目!)。
ちょうどダイアモンドのような形をしている。

が、この小惑星にも、大きなクレーターがある。

新聞記事をそのまま紹介する。

「ダイアモンドの上面にあたる部分に、直径2キロ
の巨大なクレーターがあるほか、側面に7つの小さな
クレーターが一直線に並んでいるのが特徴だ」(中日新聞)と。

●直径2キロのクレーター

こうした小天体(もしくは小惑星)には、たいてい場違いなほどに大きい
クレーターがある。

クレーターといっても、崩れた形のものではない。
どれもほぼ真円に近い、きれいな円形をしている。
(もちろん惑星そのものが、いびつだから、周囲はでこぼこしているが……。)
今度、欧州宇宙機関(ESA)の探査機「ロゼッタ」が、
写真撮影に成功した小惑星「シュテインス」も、その中のひとつ。

直径4・6キロの小惑星に、直径2キロのクレーター?

クレーターというのは、隕石どうしの衝突によって作られるもの。
それが常識(?)になっている。
もし直径4・6キロしかないような小惑星に、直径2キロものクレーターを
作るような隕石か何かが衝突したら、その小惑星は、クレーターを作る前に、
こなごなになってしまうはず。

そんなわけで、私は、こうしたクレーターは、自然にできたものではないと思う。

●宇宙船

宇宙を航行する、もっとも安全な宇宙船を、もっとも安価に建造するとしたら、
宇宙に漂う小天体か、小惑星を利用する方法がある。
こうした小天体か小惑星の内部をくりぬいて、その中を居住空間とする。

外壁を厚い岩盤でおおわれているから、危険な放射線や宇宙線をそれで防ぐ
ことができる。
宇宙を漂うゴミとの衝突による被害も、それで防ぐことができる。

重力はほとんどないから、作業も楽である。

が、問題は、推進装置。
どうすればその宇宙船を、目的の方向に向けて、動かすことができるか?
実は、方法は簡単である。

●推進装置

こうした小天体にせよ、小惑星にせよ、推進装置をつけるのは簡単である。
その上に、すり鉢状のクレーターを作ればよい。
その中で、何かを爆発させればよい。
半球形のクレーターであれば、爆発させる位置、爆発物の威力を調整する
ことによって、小天体、小惑星を自由に移動させることができる。

位置と威力の特定は、コンピュータを使えば、それほど難しいことではない。
探査機を操作するよりは、はるかに楽。
また爆発物には、放射能を出さない純粋水爆のようなものを使えばよい。
こまかくボン・ボン・ボン……と小刻みに爆発させれば、小天体、小惑星への
被害もないだろう。

●謎のシュテインス

ここにも書いたように、シュテインスにも、直径2キロのクレーターがある。
そればかりか、7個のクレーターが一直線に並んでいる。
写真でみるかぎり、大きさも、ほぼ同じ。

こうしたクレーターを、ここに書いた推進装置と理解することはできないだろうか。

大きなクレーターは推進装置。
小さなクレーターは、進行方向を微調整するためのもの。

もしそうであるとするなら、シュテインスはまさに、宇宙船ということになる。
外壁が、ノッペリとしているのも気になる。
何かの物質で、補強されているのかもしれない。
新聞の見出しにも、「小惑星、ダイヤの輝き」とある。
太陽の光をまぶしいほどまでに反射する物質と考えると、納得がいく。

その探査機「ロゼッタ」は、2014年に「彗星に接近、小型探査機を着陸
させる」という。
この記事だけでは、ロゼッタがシュテインスに着陸するのかどうかはわからない。
「彗星」とは、シュテインスのことなのか?

どうであるにせよ、ますますロマンが膨らんできた。

シュテインスは、宇宙船だゾ〜〜〜〜オ!


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2822)

【戒名】(Buddah's Name given by Priests)
In Japan we have to pay at least around 300 thousands yen (abt 3000 US dollars) to 
priests who give us the Buddha's name when someone dies in your home. The price depends 
on the name given by them. Some people pay 1 million yen (or more), to one simple name. 
This is funny and strange!

●「戒名」って、何だ?

+++++++++++++++++

戒名…「僧が死者につける名前。真宗では
『法名(ほうみょう)』、日蓮宗では
『法号』という」(「日本語大辞典」)とある。

しかし、これはウソ!

+++++++++++++++++

●日本だけの奇習

ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

「戒名(かいみょう)は、仏教において、仏門に入った証し、戒律を守るしるしとして与えられる
名前。上座部仏教と大乗仏教の両方で行われており、多くの場合、出家修道者に対して授戒
の師僧によって与えられる。上座部では出家後に南伝仏典に残る阿羅漢に変名するため、そ
の意味で法名と呼ぶ。
またそこから転じて、死後に浄土で出家して最終的には仏となる浄土思想にもとづき、死者に
戒名を与える風習が生れた。死後の戒名は、特に日本において盛んに行われている」【ウィキ
ペディア百科事典】と。

つまりもともと「戒名」というのは、「出家修道者に対して受戒の師僧によってあたえられる名
前」をいう。

話はそれるが、平安時代、鎌倉時代の昔には、「僧」というのは、今で言う、医師、教授をかね
た、たいへんな知識階級を構成していた。
最終的には、水戸、奈良(東大寺)、太宰府にあった、国立の三大戒壇の道場のどれかで、認
定を受けて、僧は晴れて一人前の僧になることができた。

したがって「当初は、出家・得度し、受戒(仏の定めた戒律を守ると誓うこと)を済ませて、仏道
修行の途上にある人だけに与えられるのが戒名であった」(「葬式に坊主は不要と釈迦は言っ
た」・北川絋洋・はまの出版)というのが正しい。

しかもだ、「死者に戒名をつける」という風習、(これはもう「奇習」と呼んでさしつかえないと思う
が)、そういった風習があるのは、この日本だけだそうだ(同書)。

北川絋洋氏も、こう書いている。

「事実、日本以外の仏教国、たとえばスリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア、ベトナム、中
国、韓国では、戒名というのは存在しない」(同書、P32)とある。

ウィキペディア百科事典にも、つぎのようにある。

「戒名は仏教が中国に伝わった際、号の風習を取入れて生れたものであるといわれる。道教
の道号などと同様、号の一種として考えることができるだろう。戒律の規定では、初めて沙弥
戒(十戒)を受ける時に、師より戒名(法名)を授かり、それと同時に従前の俗名を捨てるとされ
る。

現代の日本では、各宗派独自に、法要や儀式を受けたり、ある一定の講習に参加したりした
人に対しても授けるようになっている。また、死者に対しても戒名を与える慣習があるため、生
前の俗名に対する死者の名前であると誤解されている面もある」と。

わかりやすく言えば、出家者が、それまでの俗名を捨てて、そのかわりに師僧から受け取る名
前が、「戒名」ということになる。

ウィキペディア百科事典にもあるように、「生前の俗名に対する死者の名前」というのは、「誤
解」なのである。
誤解が誤解とも認識されず、そのまま日本の社会の中に定着してしまった。

●宗派によって異なる戒名

この戒名は、宗派によって、みな違う。

ウィキペディア百科事典を参考に、それをまとめてみると、つぎのようになる。

"浄土宗鎮西派では、男女の別なく「誉」号をつける。西山派では「空」号を用いる。位号は用い
ない。 

"浄土真宗では、「戒名」ではなく「法名」を用いる。「釋」号を冠して2字の法名が付く。位号は用
いない。 

"時宗では、古くは「阿弥陀仏」号を付けた。観阿弥、世阿弥はその崩れである。現在では男性
にその略である「阿」号、女性には「弌」(いち)号をつけるのが原則である。阿弥陀仏号は重源
が「南無阿弥陀仏」と自称したことを起源とし、成仏したことを意味する。女性も当初は阿弥陀
仏号であったが、一遍は「一房」号や「仏房」号を与えた。「一仏乗」からとったという。弌号はそ
の名残りである。 

"日蓮宗では、法華経信者は霊鷲山の浄土に生まれるとされるため、「戒名」ではなく「法号」と
呼ぶ。「日」号、「妙」号などが使われる。 
o日蓮正宗では、「戒名」。 

"律宗では、戒名の下に「菩薩」の2字が付く。 

(注:以上の特徴の説明は、地域・寺院などの慣習によって異なる場合がある。)

こうして並べただけでも、戒名というのが、いかにいいかげんなものかがわかる。
本当にそれだけ重要なものであるなら、宗派ごとに、こうまで考え方やつけ方が、異なるはず
がない。

もう少し広い視野で、ものを考えてみよう。
アジア大陸全体を、宇宙から見ている自分を想像してみればよい。

そのアジア大陸の中心に、インドやネパールがある。
釈迦仏教はそこで誕生した。

で、日本は、その右隅にある小さな島国。
その島国には、死者に戒名を授けるというおかしな風習が残っている。
しかも宗派によって、考え方もつけ方も異なる。

そういう視点で見ただけでも、戒名があるから成仏できるとか、ないからできないとか、そんな
ふうに考えること自体、まちがっていることがわかる。
北川絋洋氏は、同書のどこかで、「霊感商法と同じ」というようなことを書いているが、まさに霊
感商法。
無知で、無学な人たちにつけこんだ、霊感商法。

●実名で、なぜ悪い?

死者に戒名なるものが与えられるのが、日本だけにある奇習の一つであるとするなら、仮にあ
なたが熱心な仏教徒であるとしても、戒名などなくても、恐れることは何もない。
あなたには、あなたの実名がある。
実名のまま、死ねばよい。
実名のまま、あの世へ行けばよい。
どうしてその実名ではいけないのか?

百歩譲って、「戒名がなければ成仏できない」というのなら、それを言うほうがおかしい。
まちがっている。
一度、市内にある、ある寺の住職に、私はこう聞いたことがある。
「どうして戒名が必要なのですか?」と。
それに対して、その住職はピンと背筋を伸ばして、こう言った。

「俗名には、世間のしがらみが、ごみのようにまとわりついています。
そのしがらみを断ち切り、清廉潔白な気持ちで、極楽浄土に行くために必要です」と。

北川絋洋氏も、こう書いている。

「僧侶の中には、戒名についてきちんと説明してくれる人もいる。その場合も『仏の教えに従っ
て生きていこうとする人に与えられる名前』という内容がほとんどである」(同書、P31)と。

だいたい、釈迦のもとに行くのに、「漢字の戒名」ということ自体、おかしい。
サンスクリット語、もしくはせめてヒンズー語でなければならない。
それを僧侶は、葬儀の席で、たとえばこう言って説明したりする。

「釋浩然信士……というのは、広く洋々たる海(=浩)のごとく(=然)、極楽浄土に向かうことが
できるという意味です」とか?

嘘八百!
まさに言いたい放題!

それを聞いて、信者や遺族は、ハハ〜と、ありがたくも、頭をさげる。

●おかしいものは、おかしいと皆で、声をあげよう!

あなたが仏教徒であっても、またなくても、(たいていは名ばかりの仏教徒だが)、おかしいもの
は、「おかしい」と、皆で、声をあげよう。

葬儀になると、葬儀社のほうから、勝手に遺族と僧侶を仲介しながら、「戒名はどうしますか」と
聞いてくる。
もちろん戒名の内容によって、「布施」の額も変わってくる。
下は20〜30万円から、上は80〜100万円。
寺の格式(?)に応じて、上にはキリなし!
近くには、300万円も払った人がいる。

○○院
○○居士(こじ)
○○釈尼
○○信士
○○大姉
○○信女、ほか。

布施の額もちがえば、読経する僧侶の数も変わる。
読経の仕方も変わる。

そこで遺族が、「戒名は不要です」などと言おうものなら、僧侶のほうが、読経を断ってくる。
葬儀社の担当者も、こう言う。
「戒名なしでは、僧侶は来てくれませんよ」と。
が、日本人は、「葬儀には僧侶による読経は絶対必要」と、骨のズイのズイまで、叩き込まれて
いる。
(実際には、僧侶抜きの葬儀をする人もふえているが……。)
だから否応なしに、遺族は、戒名をつけざるをえないという状態に追い込まれる。
ゆっくりと考えて暇もない。

が、しかし、もしそうなら、僧侶なしの葬儀であっても、何ら、おかしくない。
「戒名なしで葬儀はできない」と言うのなら、僧侶に来てもらう必要はない。
こちらから願いさげればよい。

●葬式仏教からビジネス仏教へ

葬儀そのものが、葬儀社と僧侶によって、形骸化してしまっている。
もっとはっきり言えば、ビジネス化してしまっている。
が、その責任は、「私たち檀徒にもある」と、北川絋洋氏は説く。

私たち自身が、あまりにも無知、無学というわけである。
まったく同感である。

「……つまり、戒名(料)については、どうも一般の人たちの間に、値段が高いほうがいい戒
名、安いのは悪い戒名という認識があるようなのである。
どこのだれがそんな妄説(もうせつ)を唱えたのか定かではないが、日本人の心には最近とみ
に、なんでもお金で解決できるという考え方が根づいてしまっているようなのだ。
それで喜ぶのは、どうやら寺と僧侶だけだということには、まったく気づいていないのである」
(同書、P41)と。

しかしあえて一言。

寺の住職たちよ、こんなバカげた奇習を守りつづけて、好き勝手なことをしていると、日本の仏
教は、ほんとうに死滅するぞ!
一般庶民にしても、檀徒にしても、君たちが思っているほど、馬鹿ではないし、それに気づき始
めている。

すでに都会地域では、「直送(ちょくそう)」「自然葬」という言葉が、日常的な会話の中で語られ
るようになってきている。
「直送」については、東京都だけでも、約30%の人が、それをしている。

葬儀にせよ、大切なのは、「心」。
日本の仏教は、その「心」を忘れてしまっている。

((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 葬儀 戒名 戒名論 はやし浩
司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 戒名 戒名論)
参考文献:北川絋洋著「葬式に坊主は不要と釈迦は言った」・はまの出版


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2823)

●和式仏教の終焉(しゅうえん)
(What is the Japanese Buddhism? Everything is funny and strange.)

+++++++++++++++++++

浜名湖に面して、小さな漁村がある。
「その昔は、漁村だった」というべきか。
その昔は、浜名湖に生える天然の海苔が、
主な収入源だったという。

全体で、30世帯ほど。
最近まで、半分ほどがミカン農家だったが、
営農者の高齢化とともに、減反につづく減反。
今は、農業を営む人も、ほとんどいない。

その村での法事に行ったときのこと。
ワイフの母の実家が、そこにある。

「今年は、13軒も初盆がありましてね」と、
ワイフの従兄弟にあたる、Kさんがそう言った。
「でもね、初盆をする家は、半分くらいです。
あとの半分は、しません」と。

都会地域でならまだしも、そんな村でも、
今、初盆さえしない家がふえている。
Kさん自身も、「できればうちも、やめたかった」と。

「このあたりでは、13、14、15、16日と、
4日間もするのです。たいへんです」とも。

今、日本の仏教は、大きな曲がり角に来ている。
転機と言うべきか、それとも、終わりの始まりと
言うべきか。
称して、「和式仏教の終焉(しゅうえん)」。
このままでは、日本の仏教は、ほんとうに死滅する。

+++++++++++++++++++

日本の仏教は、おかしい。
何からなにまで、おかしい。
戒名に例を見るまでもない。

「宗教心」と、「信仰心」は分けて考える。
「どこがどう違うのか?」と思う人もいるかもしれない。
しかし宗教心をもつということと、信仰心をもつということは、別。
もっとわかりやすく言えば、「宗教」と「信仰」とは、別。

宗教それ自体は、哲学と考えてよい。
「宗教哲学」という言葉もある。
「教え」に従い、その教えを日々の生活の中で生かすことで、より豊かな人生(=心)を
めざす。
しかし信仰というのは、「信ずること」。
『イワシの頭も信心から』ともいう。
哲学というところの「学」は、ない。
なくても、一向に構わない。

そこでこの日本。
信仰心のある人は多いが、宗教心のある人は少ない。
仏教徒と言いながら、仏教の勉強をしたことがある人は、ほとんどいない。
中に経典をスラスラと読む人もいるが、その意味まで把握している人となると、少ない。

それもそのはず。
日本の仏教は、釈迦が説いた仏教というよりは、チベット密教の流れをくむ中国仏教。
信仰によって病気を治したり、国を治めたりする。
「教え」らしきものはあるにはあるが、もととなる経典にしても、そのほとんどは、
釈迦滅後、500〜600年もたってからインドで作られたもの。
日本で偽作された経典すら、ある。
「初七日から四十九日の法要など十仏事」の根拠になっている『地蔵十王経』も、
そのひとつ。
「鎌倉初期に日本において偽造されたことが、証明されている」(北川高揚)。

だから日本の仏教では、ルーツをたどられること自体を、嫌う傾向が強い。
あるいは日蓮、親鸞などの説いた仏教を、その始点とする。
中には、「日蓮は釈迦の生まれ変わりだから、日蓮仏法のほうが本物」と説明する人もいる。

たとえば観音様が女性であっても、(もともとは男性)、かまわない?
日本の仏像が、古代インドの衣装ではなく、古代ギリシアの衣装を身につけていても、
かまわない?
アフガニスタンの「ウラバン」が、「盂蘭盆(うらぼん)」になり、盂蘭盆会(え)に
なってもかまわない?

しかしいくら信仰をしても、盲目になってはいけない。
「おかしい」と思う心を失ってはいけない。
でないと、それこそイワシの頭を信じながら、それにすら気づかなくなる。
あるいはカルト教団の餌食となって、貴重な人生そのものを、棒に振ることになる。

では、宗教とは何か。

一言で言えば、「身の回りの不可思議さについての、哲学的体系」ということになる。
哲学の一部ということになるが、哲学とは視点が逆。

哲学は、実証された(事実)をもとに、思想を体系化していくが、宗教は逆に、
そこにある(不可思議さ)の中から、(事実)を引き出していく。
わかりやすい例で考えてみよう。

たとえば実存主義と呼ばれる哲学がある。
その実存主義では、(認識)を大切にする。
「私が生まれてみたら、そこに親がいた。社会があった。国があった」と。
この宇宙にしても、人間が認識するから、そこにあると考える。
そこで「神も仏も、人間がつくった」と考える。

一方、宗教では、(存在)の不可思議さに驚き、おののく。
「なぜ、山があり、海があるのか。人間がいるのか」と。
この宇宙にしても、まず不可思議な力によって、そこにつくられたと考える。
そこで「神が、人間をつくった」と考える。

さらにかみくだいて言えば、「生きている存在」として考えるのが哲学、
「生かされている存在」として考えるのが宗教ということになる。
つきつめて言えば、私たちは生きているのか、
それとも生かされているのか。
「私は生きている」という視点で、自分の生き様を確立していくのが哲学。
「私は生かされている」という視点で、自分の生き様を確立していくのが宗教。

どちらにせよ、こと(考える)という視点では、哲学も宗教も、方向性こそ逆でも、
中身は同じということになる。
ともに体系化されうるものだし、現に体系化されている。

が、信仰する人の多くは、(信仰)することだけをもって、それが「宗教」と
思いこんでしまっている。
さらに信仰的儀式を忠実に守ることだけをもって、それが「信仰」と思いこんで
しまっている。
はっきり言えば、ノー・ブレイン。
考える力どころか、批判力すら、喪失してしまっている。
それが集約されているのが、現在のこの日本に見る、葬儀ということになる。

もちろん中には、私たちが見えないところで仏道の修行に励んでいる行者も
いるかもしれない。
一歩退いて、どこの寺の住職でも、頼んだり質問したりすれば、それなりのことをしたり、
言ったりする。
しかしそういったものが、表に出てこない。
私たちに伝わってこない。

たとえば私の周辺でも、寺の住職が率先して、貧しい人や、苦しんでいる人を
救済したという話は、聞いたことがない。
耳に入ってくるのは、おどろおどろしい話ばかり。
金(マネー)にまつわる話ばかり。
ある遺族が、「うちにはお金がない。戒名料を払うお金がない」と言うと、その
僧侶は、読経もせず、寺に帰ってしまったという。
さらに日本では、高額所得者というと、医師、弁護士ということになっている。
が、実際には、寺の住職たちは、それ以上の収入をあげている。
一度税務署は、そういう実態を公表してみては、どうか。

こんなことをつづけていたら、日本の仏教は、どうなるか?
改めて私が、ここに書くまでもない。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

【9月12日】(土曜日)(Sep. 12th, 2008)

●三浦K事件

++++++++++++++++++

おかしなことがつづく。

昔、三浦K事件というのがあった。
「ロス疑惑事件」ともいう。
三浦K氏の妻が、白昼、近寄ってきた白いバンの
中から、だれかによって銃撃され、その後死亡した。
三浦K氏は、その模様を一部始終、目撃する
位置にいた。
(白いバンの存在については、三浦K氏は否定しているが、
三浦K氏自身が撮った写真の一部に、それが写っている。)

その三浦K氏は、現在、S島にある拘置所に
拘留されている。
S島というのは、アメリカの自治領である。
で、今度、再審理審査のために、ロスに
移送されることになった(9月11日)。

その是非はともかくも、それについて、
三浦K氏の元弁護士や、支援団体が、
猛反発しているという。
私は、この部分に、(おかしさ)を覚えた。

日本での裁判では、三浦K氏は、無罪を
勝ち取った。
その時点で、弁護士としての仕事は、
終了しているはず。
どうしてその弁護士が、感情論むきだしで、
それに反発するのか。
さらに三浦K氏には、彼を支える支援団体
まであるという。

私にはこれ以上のことは書けない。
フ〜〜〜ンと思っただけで、つぎの言葉が
出てこない。

あえて言うなら、日本側の弁護士も、
また支援団体の人たちも、法律という
条文の向こうにある、法的正義とは何か、
それについて一度、心のどこかで考えて
みてほしい。

法律というのは、あくまでもその法的正義を
具現化するための手段でしかない。

「罪刑法定主義」とは言うが、何でも「法律が先」という
世の中になったら、それこそこの世は闇。
まず法的正義を先に置く。
そのために必要であれば、条文を拝借する。
それが本来の(法律)のあるべき姿ではないのか。

というのも、三浦K氏は、日本の裁判では無罪に
なったが、大多数の日本人は、それに納得していない。
私も納得していない。
三浦K氏が無罪になったのは、もう1人、そこにいたであろう
はずの人物の存在が証明できず、かつ実行犯が特定できな
かったからにほかならない。
まさに日本の刑法の盲点をついた、無罪判決という
ことになる。

その三浦K氏はアメリカでの裁判を、「一事不再理」を理由に、
拒んでいるという。
しかしほんとうに自らの身の潔白を証明したいのであれば、
また自らの無実と信じているなら、アメリカで再審理をして
もらえばよい。

今度こそ、それで私たち日本人も納得する。
三浦K氏も、晴れて、堂々と世界中を歩きまわることができる。

++++++++++++++++++++

●AS総理大臣の誕生(?)

++++++++++++++++

自民党次期総裁に、AS氏が選ばれる
可能性が大きくなってきた。
すでに自民党内で、約60%の支持者を
獲得したという(報道)。
とくに若い人たちの支持を広く集めて
いるという。

自民党次期総裁イコール、日本国総理大臣
である。

++++++++++++++++

私はAS氏の今までの、数々の問題発言を理由に、AS総理大臣誕生には、強く
反対する。
昨今も、AS氏は街頭演説で、自らを、「漫画オタク」と表現してみせた。
一国の、しかも世界第二の経済大国の首相が、使うような言葉だろうか?
私たちは、彼の、あのニンマリと笑った仮面の下に、何が隠されているか、
それを見極めなければならない。

もし総理大臣ということになれば、これからは問題発言は、問題発言という
レベルを超えて、へたをすれば国家間の紛争につながる危険性もある。
自民党内でも(極右派)というだけで、すでに中国や韓国など、日本の周辺の
国々は、緊張し始めている。
「日本がどんな首相を据えようが、日本の勝手」という論理は、このアジアでは
通用しない。
先の大戦で、約300万人もの日本人が死んだが、その日本人が、ほぼ同数の
約300万人の外国人を殺している。
日本は、いまだかって、その戦争責任を、公式に認めたことは一度もない。
責任問題をうんぬんすれば、その責任は、「天皇」まで行ってしまう。
天皇を頂点にいだく官僚主義国家としては、これはまことにもって、まずい。

AS氏は、天皇を元首とする憲法改正に、もっとも積極的な政治家のひとりである。
この21世紀の日本で、なぜ今、王政復古なのか?
そういうことも考えながら、AS氏の言動に、これからも注視していきたい。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●UFO

+++++++++++++++++

若いころ、私が23、4歳のころだが、
当時日本テレビに在籍していた、矢追純一氏と、
交際させてもらったことがある。
当時は、矢追氏は、11PMという番組の、ディレクターを
していた。

浜松(がま産婦人科医院)でも数回、東京(ニューオータニ)
でも数回、個人的に会ったことがある。
恐らく矢追氏は、私のことなど忘れてしまっているだろう。
が、「手巻きタバコの林」もしくは、
「針麻酔の林」といえば、思い出してもらえることと
思う。

一度、UFOの写真集を、20〜30枚前後、
送り届けてもらったこともある。

その矢追氏が、今度、コミックだが、新しい
本を出した。
さっそく、コンビニで購入。

題して「UFO」(監修、矢追純一・竹書房)。
矢追氏自身の個人的な体験がふんだんに盛り込まれて
いて、おもしろかった。
「ああ、あのころ、矢追氏は、こんなことをしていた
のだ」と、それがよくわかった。
それに矢追氏が、UFO問題に傾注していく過程は、当時
直接矢追氏自身から聞いていたので、たいへん興味深かった。

もちろん、私の知らない事実もたくさん、この本の中に
あった。

火星にまつわる謎である。

それについては、別の機会に書くとして、たいへんおもしろかった。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2824)

●火星の人面岩

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火星のシドニア地区に、あの有名な人面岩(人面像)がある。
大きさは、対角線にして、約2・6キロ。
その後、アメリカのNASAは、光のマジックで、そう見えるだけと説明した。
つまりたまたま光の角度によって、ふつうの岩山が、人面に見えただけ、と。
そしていろいろな角度から撮影した人面岩の写真を、公表した。

しかし本当に、光のマジックだったのか。
「人面」に見えたのは、光のマジックによるものだったのか。

++++++++++++++++++++

矢追純一氏は、こんな興味深い事実を指摘する(「UFO」・竹書房)。

その人面岩から少し離れたところに、いくつかのピラミッド状の
建造物らしきものが、群立している。
その中のひとつに、「D&Mピラミッド」と呼ばれる、きれいな五角形を
したピラミッドがある。
きれいな五角形といっても、正五角形ではない。
「ダビンチ五角形」とよばれる、辺がある比率で作られた五角形である(同書)。
自然にできた形とは、とても思えない。
何かの結晶でも、そこまできれいな形にはならない。
その五角形がピラミッドの頂点が、まっすぐ、先の人面岩をさしている。

私も線引きを使って確かめてみたが、誤差は、まったくない。
「まっすぐ」である。

ほかにもその本の中では、いくつかの事実をあげている。
が、このひとつだけ取りあげても、人面岩が、ふつうの岩でないことがわかる。
「光のマジック」というには、あまりにも無理がある。

……ということもあって、このところ宇宙へのロマンがますます、ふくらんでいる。

月には何かが、ある。
火星にも、ある。
小惑星にも、ある。

さらにその本の中には、いくつかのUFOの写真が載っているが、その
中に、私とワイフが見たのと同じ、「く」の字型のUFOもあった。

念のため申し添えるなら、私とワイフが見たのは、1975年前後。
当時、私もUFOに、それほど関心があったわけではない。
それにUFOといっても、アダムスキー型のものは知っていたが、
それほどまでに巨大なものがあるとは知らなかった。
私たちが見たのは、幅だけでも、数キロはあった。

さらに本に中には、UFOの現れ方についての描写もある。
UFOは、まわりの景色と溶け込むように、現れたり、消えたりするという。
つまり透明になることもできる。

私たちが見たUFOも、消えるときは、まるで空に溶けこむかのようにして、
東の空に消えていった。
遠ざかって消えたのではない。
スーッと、背景の星に溶けこむようにして、遠ざかっていった。
(このことは、私は、10数年も前にも書いた。
今回、この本を読んだから、そう書くのではない。念のため。)

また私は矢追純一氏という人を、若いときに知っているが、当時からもの静かで、
誠実な人だった。
信頼のおける人物である。
コミック本とはいえ、じゅうぶん、信用して読んでよい。
(むしろ最近では、インチキ本ほど、装丁を立派にして、人をだますことが
多いので注意!)

ただとても残念に思うことは、UFO問題が、霊とか超能力とか、そういったものと
ひとまとめになって、「超常現象」として片づけられていること。
UFO問題は、けっして根拠のない超常現象ではない。
そこにある(現実)であり、「科学」である。
そうとらえて、何ら遜色ない問題である。
つまり「信ずる」とか、「信じない」というレベルの問題ではない。
この宇宙に住んでいる知的生命体は私たち人間だけではないということ。
しかもその知的生命体は、私たちのごく近くにいて、私たちといっしょに
生活しているということ。
そういう前提で、UFO問題を考えてほしい。

●私とワイフが見たUFO

UFOは、飛行中、まったく音を出さない。
UFOは、急速にスピードをあげることができる。
UFOは、透明になったり、姿を現したりすることができる。
私とワイフが見たUFOは、幅が最低でも1キロ前後、「く」の字型の
巨大なものだった。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●豊かな生活(?)

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貧困感を訴える人がふえている。
先日見た何かの調査結果によると、
日本人の約60%が、「貧しい」「生活が苦しい」と
訴えているという。
幸福度は、43位(アメリカ政府公認の研究組織
「ワールド・バリュー・サーベイ」調査・08年)
という報告もある。

不景気ということもあるが、どうもそれだけでは
ないようだ。

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バブル経済の最中、日本中が、マネー、マネーで、狂乱状態になった。
そのころのこと。こんな子ども(中2男子)がいた。
夏の暑い日だったが、片手で胸をかきむしりながら、ハーハーとあえいでいた。
「どうしたの?」と聞くと、「暑くて、苦しい」と。
「クーラーがない部屋では、勉強できない」とも。

またこんなことも。
1人の女の子(中3女子)が、突然、家に帰ると言い出した。
訳もわからず、私は言われるままタクシーを呼び、その女の子を家に帰した。
で、あとで母親に理由を聞くと、こう話してくれた。
「うちの子は、よその家のトイレが使えないのです」と。

ほかにもいろいろあったが、そのつど、私はこう思った。
「こんなことでいいのかなあ?」と。

つまり当時、子どもたちは、目いっぱい、ぜいたくな生活を送っていた。
そしてそうであることが、当たり前という感雰囲気だった。
私はそういう子どもたちを見ながら、こう思った。
「おとなになってからも、今のような生活が維持できればそれでいい。
しかし維持できなくなったとき、こういう子どもたちは、どうなるのだろう」と。

そこで今の若い人たちの生活をながめてみる。
たとえば車にしても、「あるのが当たり前」というふうに考えている。
車といっても、私たちの時代には、小型の車から乗り始めた。
私が乗っていたのは、本田のライフ(軽)。
つぎに買ったのが、シビック。
どれも中古車だった。

それが今では、いきなり4WDの高級車。

住居にしてもそうだ。
私たちの時代には、6畳とか8畳一間の間借りから、生活を始めた。
ワイフと知り合ったころも、8畳一間の間借りだった。

それが今では、マンション生活。

「収入に見合った生活」というよりは、「収入ギリギリの、あるいは
それ以上の、恵まれた生活」を基準にする。
洗濯機にしても、冷蔵庫にしても、電子レンジにしても、あらゆるものが、
あるのが当たり前という前提で、ものを考える。
つまりこれでは、余裕そのものが生まれない。
その余裕のなさが、貧困感につながっている(?)。

もっと言えば、収入が40万円だったら、それに見合ったというか、
その範囲の生活をすればよい。
20万円でも30万円でもよい。
その範囲で生活をすればよい。
もっと言えば、「ないのが当たり前」という前提で、生活をする。
今の若い人たちには、そんな感覚がないのではないか。

「結局は苦労するのは、子どもたち」と、日本中がバブル経済に
酔いしれていたころ、私は思った。
そう思ったことが、今、現実になっている。

(付記)世界の幸福度調査

(1位)……デンマーク
(2位)……プエルトリコ
(3位)……コロンビア
(4位)……アイスランド
……
(16位)……アメリカ
(21位)……イギリス
(43位)……日本
(54位)……中国
(62位)……韓国
……
(100位・最下位)……ジンバブエ

(アメリカ・ミシガン大学・「ワールド・バリュー・サーベイ」08年調査)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2825)

●日本の危機

産経ニュース(インターネット)は、つぎのように伝える(9月13日)

『けいれん症の後遺症も伝えられる北XXの金xx総書記(66)だが、重要式典さえ参加できな
いとなればもはや「生きながらに死んでいる」状態。これまでもアルツハイマーで重要決定がで
きず、集団指導体制で政権を維持してきたとされるが、脳卒中発症後から政権内の抗争が激
化。テポドン発射準備や核交渉決裂からみると、軍強硬派に実権が移りつつあり、日本の安
全にとり重大な危機が迫る』と。

金xxが、アルツハイマー病にかかっていたということは、知らなかった。
道理で、表情がおかしかった(?)。
しかし……。

また「軍強硬派に実権が移りつつある」とはあるが、こんな情報も伝えられている。

朝鮮N報、9月13日付は、つぎのように伝えている。

『現在では軍内部に、「今年下半期に人民軍の食糧倉庫である"2号倉庫"の備蓄が底を尽
き、人民軍の部隊に大量の餓死者が出るかもしれない」という恐ろしい噂が広まり、軍内部の
動揺も大きくなっている』と。

同じような情報が、あちこちから出ているところからみると、K国の内部事情は、
かなり深刻らしい。
つまり現在、K国の軍隊は、ガタガタ。

……そこで日本、危機説。

追いつめられた軍強硬派は、それを打開するため、「戦争」に打って出るしかない。
戦争あっての「軍」である。
が、その相手となると、日本と韓国しかない。
口実は、何とでもつけられる。
韓国軍は、K国崩壊に備えて警戒レベルをあげたという情報も流れている。

では、この日本は、どうか?

幸いなことに、K国の空軍、海軍は、老朽化がはげしく、使いものにならないという。
私が調べたところ、2隻のフリゲート艦があるが、旧ソ連から払い下げられたもの。
写真で見ても、艦全体がサビついているようにも見える。
別の情報によれば、港に係留されたたまま、動いた気配はないという。

残るは、ミサイルと核兵器。
それに原子力発電所の破壊。

万が一にも、東京に核兵器がミサイルで撃ちこまれたら、日本の政治、経済、社会は、
一夜にして崩壊する。
日本海側にある原子力発電所が破壊されても、同じような結果になる。
チェリノブイリの事故を思い出すまでもない。

つまりK国は、そういった形で日本を脅しながら、超多額の戦争賠償金を日本に要求
してくるだろう。
すでに中国を介して打診してきた額は、100兆円とも言われている。
(100兆円だぞ!)

そこで日本にとって最善のシナリオは、K国が静かに自然崩壊すること。
隣の韓国や中国は、それでは困るというかもしれないが、日本は日本として、K国を
そういう方向にもっていくしかない。

そのあとK国は、当然のことながら、韓国、中国、アメリカの共同管理国になるのだ
ろうが、私は実質的には、中国の管理下に入ると思う。
そのとき日本の拉致問題も解決する。

ともかくも、今の日本がもっとも憂慮すべきは、K国の軍部の暴走。
それだけは何としても、食い止めなければならない。

なお産経新聞は、つぎのようにも伝える(9月14日)。

++++++++++以下、産経新聞より+++++++++++++

9日に表面化した北朝鮮の金正日総書記の重病説を受けて、韓国、米国が「不測の事態」を
視野に走り出す中、日本政府は関係省庁による公式の情報分析・対策会議も開いていない。
北朝鮮での異変の兆候は日本の安全保障に直結する重大問題なだけに、「日本政府はあま
りに鈍感だ」(北朝鮮問題専門家)と対応を懸念する声も聞こえる。(北朝鮮問題取材班)

++++++++++以上、産経新聞より+++++++++++++

いいのか、日本!
このままで!


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

【9月14日】(日曜日)

+++++++++++++++

昨夜は、眠い目をこすりながら、
深夜劇場へ。
見たのは、『WANTED』。

まあ、デタラメな娯楽映画。
星は、3つの、★★★。
ストレス解消には、よい。

どんな映画にも、多少なりとも、
それなりの哲学があるものだが、
この映画に関しては、なし。

とくに気になったのは、
列車内での撃ち合いが高じて、
列車全体が谷底に転落していく
シーン。

当の本人たちが殺し合うのは、
本人たちの勝手。
だが、その事故の巻き添えに
なった乗客の人たちは、どうなるのか?

多少の哲学があれば、こういう
シーンはできないはず。
とたん興ざめ。

狂ったピストルマニアによる、
狂った殺し合い。

ボケ防止には、役にたったかも?

つぎに見たいのは、『イーグル・アイ』。
どこか『MATRIX』ぽくて、
楽しみ。

++++++++++++++

●ミニ・パソコン

現在、ミニ・ノート型パソコンが、超人気とか。
私も、さっそく、HPの2133と、AcerのASPIRE−1を購入してみた。

ほかに、その先駆けとなったE−PCとか、いろいろある。
今度は、DELも、販売を開始した。

DELの新製品については知らないが、今のところ、AcerのASPIRE−1が、
いちばん気に入っている。
バッテリー時間が、2133(こちらはバッテリーが2本付属)とくらべて短いのが
欠点だが、10月には、6セルバッテリーが発売になるとか。
それまでがまん。

MCJでも、10インチ画面のミニ・パソコンを発売しているが、キータッチが、どうも
もの足りない。
それに作りが、どこか安っぽい(ごめん!)。
E−PCも、それに工人社のミニ・パソコンも、キーボードが私の指には小さすぎる。
実用として使うには、無理(ごめん!)。

その点HPの2133には、重厚感がある。
手でいじっていても、楽しい。

ところで、教訓。
いくらパソコンでも、ミニ・パソコンには、パスワードなど、重要情報は入れては
いけない。
いつ、どこで紛失するかわかったものではない。
ご注意!

(実は私も、いろいろあって、この1週間、IDナンバー、パスワードの変更など、
余儀なくさせられた。ハハハ。)

(補記)ミニ・パソコンに関しては、XP仕様のほうが、VISTA仕様よりも、
はるかに使い勝手がよい。2133に関しては、電源を入れてから、立ちあがるまでに、
数分以上もかかってしまう。ミニ・パソコンの持ち味を生かしたいと思っても、つまり
カバンから出してすぐ使いたいというとき、いつもイライラさせられる。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

【堂々たる迷信】(初七日、四十九日の法要)

●地蔵十王経

「地蔵十王経」の由来については、ウィキペディア百科事典が、詳しく書いている。
難解な文章がつづくが、そのまま紹介させてもらう。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++

仏教が中国に渡り、当地の道教と習合していく過程で偽経の『閻羅王授記四衆逆修生七往生
浄土経』(略称として『預修十王生七経』)が作られ、晩唐の時期に十王信仰は成立した。また
道教経典の中にも、『元始天尊説?都滅罪経』、『地府十王抜度儀』、『太上救苦天尊説消愆滅
罪経』という同名で同順の十王を説く経典が存在する。

『預修十王生七経』が、一般的な漢訳仏典と際立って異なっている点は、その巻首に「成都府
大聖慈寺沙門蔵川述」と記している点である。漢訳仏典という用語の通り、たとえ偽経であった
としても、建て前として「○○代翻経三蔵△△訳」のように記すのが、漢訳仏典の常識である。

しかし、こと「十王経」に限っては、この当たり前の点を無視しているのである。この点が、「十
王経」類の特徴である。と言うのは、後述の日本で撰せられたと考えられる『地蔵十王経』の巻
首にも、同様の記述がある。それ故、中国で撰述されたものと、長く信じられてきたという経緯
がある。ただ、これは、『地蔵十王経』の撰者が、自作の経典の権威づけをしようとして、先達
の『預修十王生七経』の撰述者に仮託したものと考えられている。また、訳経の体裁を借りな
かった点に関しては、本来の本経が、経典の体裁をとっておらず、はじめ、礼讃文や儀軌の類
として制作された経緯に拠るものと考えられている。

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++

要するに、「地蔵十王経」というのは、中国でできた偽経の上に、さらに日本でできた偽経とい
うこと。

が、この「地蔵十王経」が、日本の葬式仏教の基本になっているから、無視できない。
たとえば私たちが葬儀のあとにする、初七日以下、四十九日の儀式など、この「地蔵十王経」
が原点になっている。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++++

死者の審理は通常七回行われる。没して後、七日ごとにそれぞれ秦広王(初七日)、初江王
(十四日)、宋帝王(二十一日)、五官王(二十八日)、閻魔王(三十五日)、変成王(四十二
日)、泰山王(四十九日)の順番で一回ずつ審理を担当する。

ただし、各審理で問題が無いと判断された場合は次の審理に回る事は無く、抜けて転生してい
く事になるため、七回すべてやるわけではない。一般には、五七日の閻魔王が最終審判とな
り、ここで死者の行方が決定される。これを引導(引接)と呼び、「引導を渡す」という慣用句の
語源となった。

七回の審理で決まらない場合も考慮されており、追加の審理が三回、平等王(百ヶ日忌)、都
市王(一周忌)、五道転輪王(三回忌)となる。ただし、七回で決まらない場合でも六道のいず
れかに行く事になっており、追加の審理は実質救済処置である。もしも地獄道・餓鬼道・畜生
道の三悪道に落ちていたとしても助け、修羅道・人道・天道に居たならば徳が積まれる仕組み
となっている。

なお、仏事の法要は大抵七日ごとに七回あるのは、審理のたびに十王に対し死者への減罪
の嘆願を行うためであり、追加の審理の三回についての追善法要は救い損ないを無くすため
の受け皿として機能していたようだ。

現在では簡略化され通夜・告別式・初七日の後は四十九日まで法要はしない事が通例化して
いる。

+++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++

つまり人は死ぬと、7回の裁判を受けるという。

死後、七日ごとにそれぞれ、

(1)秦広王(初七日)
(2)初江王 (十四日)
(3)宋帝王(二十一日)
(4)五官王(二十八日)
(5)閻魔王(三十五日)
(6)変成王(四十二日)
(7)泰山王(四十九日)の順番で一回ずつ審理がされるという。

ただし、各審理で問題が無いと判断された場ばあいは、つぎの審理に回ることはなく、
抜けて転生していくことになるため、七回すべてやるわけではないという。

一般には、五十七日の閻魔王が最終審判となり、ここで死者の行方が決定される。これを引
導(引接)と呼び、「引導を渡す」という慣用句の語源となったという(参考、引用、ウィキペディ
ア百科事典より)。

わかりやすく言えば、最終的には、五十七目に、閻魔王が、その死者を極楽へ送るか、地獄
へ送るかを決めるという。
私たちも子どものころ、「ウソをつくと、閻魔様に、舌を抜かれるぞ」とよく、脅された。

しかしこんなのは、まさに迷信。
霊感商法でも、ここまでは言わない。
もちろん釈迦自身も、そんなことは一度も述べていない。
いないばかりか、そのルーツは、中国の道教。
道教が混在して、こうした迷信が生まれた。

極楽も地獄も、ない。
あるわけがない。
死んだ人が7回も裁きを受けるという話に至っては、迷信というより、コミック漫画的ですらあ
る。

法の裁きが不備であった昔ならいざ知らず、現在の今、迷信が迷信とも理解されず、葬儀とい
うその人最後の、もっとも重要な儀式の中で、堂々とまかり通っている。
このおかしさに、まず私たち日本人自身が気づべきである。

「法の裁きが不備であった昔」というのは、当時の人たちなら、「悪いことをしたら地獄へ落ち
る」と脅されただけで、悪事をやめたかもしれない。
そういう時代をいう。

「死」というのは、どこまでも厳粛なものである。
そういう「死」が、ウソとインチキの上で、儀式化され、僧侶たちの金儲けの道具になっている。
このおかしさ。
そして悲しさ。

仏教を信ずるなら信ずるで、もう一度、私たちは仏教の原点に立ち戻ってみるべきではないだ
ろうか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 地蔵十王経 初七日 四十九日
 法要 偽経)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

【日韓経済戦争・9・14】

●外平債って、何?

++++++++++++++

まず、朝鮮N報のつぎの記事を読んでほしい。
こうある(9月13日)。

++++++++++++++

『企画財政部は11日、10億ドル(約1070億円)規模の外国為替平衡基金債券(外平債)の
発行に向け、米ニューヨークで外国人投資家と交渉を進めたが、発行条件をめぐる要求の差
が埋まらず、不調に終わったと発表した。アメリカ金融不安のあおりで、起債計画に支障が生
じた格好だ』(朝鮮N報より抜粋)と。

日韓経済戦争は、まだ終わっていない。
韓国の「9月危機説」も、まだ終わっていない。
その証拠が、この記事である。

まずこの2週間の韓国経済の流れを追ってみよう。
その第一、韓国政府は、手持ちの外貨を大量に使って、ウォン買い、ドル売りの大攻勢に出
た。
その額は今のところ不明だが、10月になればはっきりする。
つまり韓国政府は、一か八かの大勝負に出た。

このまま座視すれば、外資はどんどんと逃避し、ウォンの価値はさがる。
物価は上昇し、国内経済は混乱し、へたをすればそのまま奈落の底へ。

そこでなけなしの手持ちドルを使って、韓国政府は、ウォン買いの大攻勢に出た。
いわば貯金を使って、ウォン防衛に打って出たことになる。
しかしへたをすれば、やがて外貨不足になって、(すでに不足状態だが)、韓国はデフォルト
(債務不履行)に陥りかねない。

結果、一時は、1ドル=1400ウォンまでさがっていたウォンが、現在(9月14日)は、1100ウ
ォン前後で落ちついている。

韓国の各紙は、政府談話を織り混ぜながら、「9月危機は去った」とはしゃいでいる。
しかし「待ったア!」。

ここに出てくる、「外国為替平衡基金債券」、略して「外平債」というのは、わかりやすく言えば、
韓国銀行(日本の日銀にあたる)がする、借金のことである。
わかるかな?
韓国政府の借金ではなく、韓国銀行の借金である。
こんなことは日本の常識では考えられない。
それともあなたは、日本の日銀が、いまだかって、外国に借金をしたというような話を聞いたこ
とがあるだろうか。
あるはずがない。
そもそも「外平債」というのが、世界の非常識。
どこの中央銀行が、外国に借金など、申し込むだろうか。

が、韓国銀行は、それをアメリカのニューヨークで行った。
いわく「発行条件をめぐる要求の差が埋まらず、不調に終わったと発表した」と。
その理由として、「アメリカ金融不安のあおりで、起債計画に支障が生じた格好だ」と。
たくみにアメリカ側のせいにしているところが恐ろしい。

理由は、アメリカの金融不安ではない。
「発効条件が折り合わなかった」からである。
朝鮮N報の同記事も、末尾のところでこう書いている。

「企画財政部のS・J国際業務管理官は、『交渉過程で外国人投資家が韓国経済に対する懸
念を抱いていないことを確認したが、アメリカ市場の状況が思わしくなく、高い金利を要求され
た。あえて悪条件で発行する必要するはないため起債延期を決めた』と説明した」と。

つまり外国人投資家は、韓国経済に対して、懸念はもっていないが、高い金利を要求したの
で、折り合わなかった、と。

現在、原油や金属市場から逃げ出した資本は、いっせいに株式、債権に向かい始めている。
「アメリカの市場が思わしくないので」という理由は、ウソと考えてよい。
本当の理由は、「韓国経済に不安をいだいた投資家たちが、高い金利を要求した」からであ
る。
朝鮮N報にも、そう書いてある。

「金は貸してもいいが、金利を高くしてくれなければ、いやだ」と。
だから折り合いがつかなかった!

つまりこの流れを裏から読むと、韓国銀行には、手持ちの外貨がなくなってしまった。
そこで韓国銀行は、ニューヨークで借金をしようとした。
しかし「金利を高くせよ」と迫られて、結果的に、それを断わられてしまった。

……ということで、「9月危機」は、去ったわけではない。
終わったわけでもない。
いまだ、現在進行中。

さあ、どうする、韓国。
つぎの一手は?

+++++++++++++++++

(ワイフのために……)

わかりやすく説明しよう。

各国の中央銀行(日本のばあい、日銀)は、金の管理をするのが仕事。
もっとわかりやすく言えば、輸出入で出入りする金の決済をするのが仕事。
ほかにも公定歩合などを調整する仕事もあるが、借金までして外貨を調達するというのは、少
なくとも世界の常識からは、完全にはずれている。

これに対して政府が借金するばあいは、ある。
日本の国債などは、その一例。

で、韓国のばあい、韓国銀行そのものに、ドルが不足してきた。
韓国の輸出入業者が、ウォンをドルに換えてほしいといってきたとき、手持ちのドルがじゅうぶ
んあれば、問題はない。
しかしそのとき、「ドルがありません」と言えば、債務不履行の状態になる。
つまりデフォルト。
国家破綻。

それを防ぐために韓国銀行は、世界ではほとんど前例のない、「外平債」の発行をつづけてい
る。
その額、今回は、10億ドル。
私の推測では、韓国政府は、この7月に70億ドル程度の為替介入をしている。
それをベースに推測してみると、9月に入ってからは、おそらく100億ドル程度の為替介入を
繰りかえしたとみてよい。

韓国の経済規模からすると、これはたいへんな額である。
それと比べると、10億ドルというのは、そうたいした金額ではない。
つまりそんな金額ですら、「断わられた」。

韓国の9月危機は、終わったわけではないという理由は、ここにある。

【お詫び】

韓国銀行は独自に、外債を発行して外貨を調達していますが、それはここでいう「外平債」
ではなく、「通貨安定証券」のことでした。
韓国銀行は、国債ではない国債、つまり「通貨安定証券」を発行し、借金をしています。
その「通貨安定証券」と、「外平債」をまちがえました。
ここに深く、おわび申し上げます。

ただだからといって、韓国の経済危機が軽くなったというわけではありません。
見方によっては、「外平債」、つまり「外国向けの国債」ですら、アメリカではソッポを
向かれたということになります。かえってことは、より深刻になっているということ。
その事実は変わりません。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●記憶のメカニズム

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脳科学の進歩にはめざましいものがある。
それはそれとして、現象面からとらえた
脳の機能については、ほとんどといって
よいほど、研究が進んでいない。

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●こんな例で……

パソコンに向かって作業をする。
そのとき、ふと座右にある重要ファイルが気になった。
IDナンバー、パスワードなどが、そのファイルの中に入っている。
心のどこかで、「あとでしまわなくては……」と思う。
が、そのとき、小便がしたくなった。
下半身がムズムズしてきた。
そのこともあって、足で足元のコードをひっかけた。
とたん、スピーカーが床にゴロリと落ちた。
「トイレから帰ったら、もとに戻そう」と考える。

こうしてしばらく時間が過ぎる。

が、生理現象というのは、正直だ。
やがてがまんできなくなって、立ち上がる。
トイレに向かう。

で、書斎に帰る前に、居間で、水を飲む。
ワイフと話す。

……しばらくして書斎に帰り、パソコンの前に座る。
座ってから、ファイルとスピーカーのことを思い出す。
ファイルをしまうにも、スピーカーを戻すにも、一度立ち上がらなければ
ならない。
私の椅子は、宇宙船のコクピットのようになっている。
(少し大げさだが……。)
一度座ったら、なかなか立ち上がれない。
私は、そのとき、記憶について考える。

こういうケースでは、私は居間から帰ってきたとき、ファイルのことも、
スピーカーのことも忘れてしまっていたことになる。
覚えていたら、座る前にファイルを片づけ、スピーカーをもとの位置に
戻したにちがいない。

そこで自分の記憶の中をさぐってみる。
すると、こうして文章を打ちながらも、そのつど、瞬間、瞬間に、
まるで映画の中に別のコマが入ってくるように、いろいろな記憶が
飛び交っているのがわかる。
仮にこれを「コマ入れ」と呼ぶことにしよう。

昨夜見た映画のこと。
夕食の献立。
明日の過ごし方。
教室のこと。
……などなど。

つまり(思い)というのは、同時に2つ、あるいは3つ、4つと、
並行してもてないしくみになっている。
ひとつのことを考え始めたら、そのほかのことは頭の中から消える。
集中力のある人ほど、そうではないか。

ところでパソコンの世界には、「デュアル・コア」という言葉がある。
CPU(中央演算装置)が、脳みそを2つもっていると考えると
わかりやすい。
「デュアル」というのは、「2つの」という意味である。
さらに「クァッド・コア」というのもある。
脳みそを4つもっていると考えると、わかりやすい。

もし人間も、脳みそを2つとか、4つもっていれば、同時進行の形で、
複数の(思い)を処理できるかもしれない。
しかし悲しいことに(?)、ひとつしかない。

そこで脳みそは、瞬時、瞬時に、先ほども書いたように、ほかの記憶を
呼び起こす。

「ファイルは、どうした?」、「スピーカーは、どうした?」と。

その瞬間、それが重要なものであれば、脳の中で、拡大される。
「ファイルをしまわなくては」とか、「スピーカーをもとに戻さなくては」と。

そこでこういうことも言える。

もしその瞬間、瞬間の「コマ入れ」がなかったら、私は、ファイルのことも、
スピーカーのことも思い出すことはなかっただろう。
再び座右にファイルを見つけるまで、ファイルのことは忘れてしまっていたに
ちがいない。
スピーカーについても、そうである。
つまり「記憶」を現象面からとらえると、私は、たいへん記憶力が悪い人間
ということになる。

一方、その「コマ入れ」がはげしくても、困る(?)。
先ほども書いたように、集中力そのものが、分散してしまう。
だから適当に「コマ入れ」をし、そのつど、そのコマのことは忘れる。

これが現象面からとらえた、記憶のメカニズムということになる。
またこういう現象面でとらえた記憶のメカニズムについて、少なくとも
それを問題にした文献を、私は知らない。
ここに書いた「コマ入れ」という現象にしても、言葉にしても、私が
発見し、考えたものである。

さて、あなた自身は、どうか?

何かの作業をしながらも、そしてその作業に集中しながらも、瞬間、瞬間に、
いろいろなことが頭の中に飛来してくるのがわかるはず。
それが的確にできる人を、「記憶力のすぐれた人」という。
それができない人を、そうでない人という。

で、私のばあい、小便については、忘れることはなかった。
これは生理的な現象だから、いくら忘れようとしても、体のほうが
勝手に反応してしまう。

一方、ファイルやスピーカーのことは、椅子に座るまで思い出すことが
なかった。
だからその分だけ、「コマ入れ」が鈍かったということになる。
もし的確な「コマ入れ」がなされていたら、椅子に座る前に、ファイルや
スピーカーのことを思い出していたはず。

……ということで、今日は新しい発見を、ひとつゲット!

多分、このことは、まだだれも気がついていないはず。
そういうことを発見し、こうしてものの書くのは、ほんとうに楽しい。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●和式仏教の終焉(2)

+++++++++++++++++

日本の仏教は、何からなにまで、おかしい。
これについては、このところ毎日のように
考えている。

「葬式仏教」と揶揄(やゆ)されるように
なってから久しいが、さらに最近では、
それが「ビジネス仏教」になっている。
金儲けの道具として、仏教が利用されている。
人の死が、利用されている。

+++++++++++++++++

「私はカルトを信じていない」と豪語する人でも、そのカルトを信じて
いる人は、いくらでもいる。

葬儀に始まって、盆供養にしても、〜回忌という法事にしても、カルトそのもの。
「葬儀には僧侶は、必要」
「僧侶の読経がなければ、死者は成仏できない」
「戒名がなければ、成仏できない」などということを信じているのは、
立派なカルト。

最近私も知って驚いたが、同じ宗派でも、別の寺で葬儀をしたら、ほかの寺では、
それを受け入れてくれないそうだ。
たとえば私の母は、現在、静岡県の浜松市にいる。
おそらく最期は、この浜松市で迎えることになるだろう。
で、私は葬儀はこの浜松市で、そして49日の法要は、郷里のG県のM市でと、
考えていた。

が、それができない、と。

どういうしくみになっているのか、私にはよくわからないが、こういうケースのばあい、
郷里の寺は、母の遺骨を受け取ってくれないという。
もちろん郷里にある墓の中へも、入ることができないという。
地元の葬儀社の責任者の人が、そう教えてくれた。

ヘ〜〜〜エ?

これひとつとっても、日本の宗教は、「型」のかたまりということがわかる。
「作法」「作法」「作法」……。
作法ばかり。

どうしてこういう馬鹿げた仏教になってしまったのか?

今朝私は、法要の原点となっている「地蔵十王経」が、鎌倉時代にできた、
偽経であるということについて書いた。
が、寺の住職で、それを教えてくれた人はだれもいない。
おそらくみな、偽経であることを百も承知の上で、過去700年以上にわたって、
信者をだましつづけている。

もちろん、金儲けのためである。
「地蔵十王経」は、寺の金儲けの方便としては、まことにもって、都合がよい。
死者を成仏させるためと言いながら、49日まで、1週間ごとに、信者から布施を
取ることができる。

もしこの日本に、誠意があって、勇気がある僧侶がいたら、こう言ってほしい。
「戒名などというものは、日本だけにある奇習です」
「葬儀に僧侶による読経がなければ、成仏できないというのは、嘘です」
「初七日だの、49日だの、そんなものは、鎌倉時代にできた偽経がもとになっている、
インチキです」
「盆の供養などというのは、アフガニスタンの奇習が伝わっただけです」と。

もしそんなことを言ったら、日本の仏教は、総崩れになってしまうだろう。
しかしそれはそれで仕方のないことではないか。
世界的に見れば、大乗仏教(北伝仏教)がかろうじて残っている国は、
この日本だけ。
アフガニスタンにもない。
中国ではごく一部。
韓国でも、キリスト教が主流。
もちろん本家のインドには、ほとんど何も残っていない。
(仏陀は、クリシュナの弟子というふうに、位置づけられている。)

しかも日本の仏教は、どこかオカルト的。
(教え)によるというよりは、儀式が中心。
が、これでは、日本の仏教に、未来はない。
それともこれから先も、ずっと、僧侶たちは、私たち日本人をだましつづけると
でもいうのだろうか。

今、多くの日本人が、日本の仏教のもつ(おかしさ)に気がつき始めている。
その(おかしさ)を、日本の僧侶たちも、謙虚に反省してほしい。
門構え、建築物だけをいくら立派にとりつくろっても、中身がなければ、
ソッポを向かれるだけ。
あるいは原点にもう一度立ち返って、仏教がどうあるべきか、再構築してほしい。
鎌倉時代の昔ならいざ知らず、現在の庶民は、あなたがたが考えているほど、
馬鹿ではない。
少なくとも、人の(死)を、もっともらしい嘘でくるみながら、もてあそぶことだけは、
もうやめてほしい。

(付記)
もし釈迦が生きていて、この日本の現状を見たら、釈迦だって怒るだろう。
戒名なるものがあるのはまだ許せるとしても、その戒名には値段があって、
その戒名に応じて、葬儀の仕方もちがう?

このひとつをとっても、釈迦が説いた仏法の精神と違背していることは、
明らか。

「葬儀に僧侶を呼ばなければ、成仏できませんよ」とか、「3代先まで、たたりがでますよ」
とか言って、信者を脅す。
その手法は、まさにカルト。
そこらのカルト教団がとっている手法と、どこもちがわない。

もしそこに地獄に落ちるような人を見かけたら、その人のために救済の手を
さしのべてやることこそが、仏道の本来の精神というものではないのか。

(妻へ、息子たちへ)

私が死んでも、ぜったいに僧侶を呼ぶな。
読経などあげさせるな。
みなで、お別れ会をすればよい。
もし晃子がさみしがっているようなら、どうか、晃子を支えてやってほしい。
話し相手になってやってほしい。

2008年9月14日、しかと記す。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2826)

【今日、あれこれ】(9月15日)

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今日は、近くの富幕山(とんまくざん)に
登る予定だったが、朝からワイフが胃痛を
訴えて、あえなく断念。

急きょ、いろいろ予定を変更する。

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●立会い演説会

今日、近くの公園であった、立会演説会に出てみた。
今度立候補予定の、X氏の立会い演説会である。
前もって知らされていた時刻より、やや遅れて、X氏がやってきた。
私とワイフは、子ども用の鉄棒の上に座り、話を聞いた。

演説の途中で、「あとで質問を受けます」というようなことを言ったが、
結局、時間がないということで、そのまま終わってしまった。
X氏は、そそくさと、つぎの会場へと、行ってしまった。

その講演で、3〜4年ぶりに、大学の先輩に会った。
元気そうだった。
「どうしてここに?」と聞くと、「Xさんを応援しています」と。

で、この話はここで終わったが、昼寝をしているとき、そのつづきを見た(?)。
X氏だったかどうかは、よく覚えていないが、夢の中で、だれかが立会い演説をしていた。
どこか、見慣れない、美しい風景の丘の上だった。
遠くに、インディアンが住むような洞窟がいくつか見えた。
私は演説を聴きながら、ぼんやりとその景色を眺めていた。

記憶力が悪くなったせいか、公園での立会演説会でも、また夢の中でも、X氏がどんな
話をしたか、よく覚えていない。
「まじめにやります」「日本を変えます」「現在の姨捨(おばすて)政策を改めます」とか、
そんなようなことを言っていたような気がする。

今まで、X氏に投票してきたが、今回は、そのX氏に投票するのは、やめた。
昼寝から覚めたとき、ワイフとそんな会話をした。

(選挙だけは、我が家はみな、自由投票ということにしている。
当然のことだが……。)


●金xxの重病説

今日の朝刊(中日新聞)によると、K国の金xxが、(拉致に対する抗議の念をこめて、
「xx」としている)、いくつかの病気に苦しんでいるという。

腎臓病に肝臓病。
糖尿病もあって、心臓も悪いらしい。
そして今回、脳内出血と脳梗塞を同時に起こしたという(韓国系新聞)。
が、驚いたことに認知症も起こしているという。
別の情報(韓国系新聞)によれば、アルツハイマー病だという。
それも去年の春ごろ発症したという。

道理で、おかしなことばかり。
「金xxはまともではない」とは思っていたが、認知症とは、知らなかった。

が、それについて、中日新聞は、「金xxも、やはりふつうの人間だった」と書いている。

ふつうの人間?
とんでもない!
中日新聞は、「金xxといえども、スーパーマンではなかった」と言いたいのだろうが、
残念ながら金xxは、ふつうの人間ではない。
ふつうの人間なら、20万人とも40万人とも言われる人を、処刑したり、強制
収容所などに、送らない。
罪もない女子中学生を日本から、拉致したりしない。
金xxは、「中国の裏門に立つ、狂った犬」(韓国・某大学教授弁、韓国紙報道)。
彼の悪政のもとで、数百万人が餓死している。

……ということで、K国は、今、崩壊の危機に立たされている。
全体の動きとしては、強硬派の軍部が実権を握りつつあるようだ。
日本にとっては、たいへん危険な状態になりつつあると言ってもよい。

だいじょうぶなのかなあ……?
何でも数日前、どこかの国の潜水艦が、堂々と日本の領海内と通り過ぎていったという。
こんなことで、日本の自衛隊は、本当に日本を守ることができるのだろうか。


●ミニ・パソコン

今、最近買った、ミニ・パソコンがたいへん気に入っている。
いつも持ち歩いている。
昼寝をするときも、しばらく胸の上に置いて、文字を打ってみた。
キーボードは小さいが、指がそれに慣れてきた。

いつもならデスクトップに向かって、原稿を書いている。
が、今はちがう。
もっぱら、ミニ・パソコン。

どうしてだろう?
どうして、こんな小さなパソコンに魅力を感ずるのだろう?
そのこともあって、10年ほど前に買った、TOSHIBAの
ダイナブック・3010も、最近使い始めた。

ほかの仕事はできないが、文章を打つことだけはできる。
ボロボロで、塗装もはげている。
ワイフは何度か、処分したらと言ったが、私にはできない。
私にとってパソコンというのは、私の心を映す鏡のようなもの。
画面の向こうには、無限の世界が広がっている。


●9月15日

今日は敬老の日。
祭日。
山登りを中止したため、これといってやることもなし。
ほかに予定もなし。

ワイフの買い物につきあったり、料理をしたりした。
あとは昼寝。
庭掃除。
夕食のあとは、ワイフとDVD。
『希望の翼・最後に帰る場所』。
ホームドラマ風の古い映画。

「老人は古い武器のようなもの。
しばらく野ざらしにすれば、やがて錆びついて、使い物にならなくなる」と。
主演の男優が、そんなセリフを言っていた。

同じような話だが、老人になると、たとえば2週間もベッドに横たわっていたりすると、
そのまま歩けなくなってしまうそうだ。
そこで最近の医師は、相手が老人のばあい、無理をしてでも、できるだけ早く、
退院させるそうだ。

では、脳みそは、どうか?
しばらく野ざらしにしたら、使い物にならなくなるのだろうか。

『希望の翼・最後に帰る場所』は、ざっと言えば、つぎのような映画だった。

戦場に行った息子が帰ってくる。
心に重い後遺症を背負って、帰ってくる。
一度は死んだと思っていた息子である。
が、帰ってきたその日、父親が倒れる。
つまりは家族の絆をテーマにした映画だったが、
その映画を見ていて、こんなことを感じた。

アメリカ人というのは、三世代同居生活というのを、考えないのかなあ、と。
はじめから、そういう発想そのものがない。
日本なら、こういうケースのばあい、両親と、いっしょに生活することを、
まず考える。
が、戦場から帰ってきた息子は、嫁と子どもを連れて、家を出る。

それはともかくも、倒れた父親は、こう言う。

「私は残された時間に、みなと仲直りして、死にたい。私自身とも……」と。

敬老の日に、よいDVDを見た。
「私は老人だ。もうダメだ」と思っている人は、この映画を見たらよい。
それぞれのセリフがすばらしい。
何か生きるヒントを、与えてくれるはず。

「人は皆、さまよえる魂を持ち、
傷つきながら旅をする。
そして冷たい闇の中で、家の灯火(あかり)を見つけていく。
人が学べることなど、限られている。
心が宿る我が家にとどまり、
守っていくことぐらいだろう」(最後のシーンで)と。

ほのぼのとしたホームドラマという点では、星は4つの★★★★。
私のような団塊の世代には、とくにお勧め。


●2012年

このところ書店へ行くと、「2012」という数字が、よく目につく。
2012年に、人類は滅亡の危機に立たされるという。
マヤ暦が、その根拠になっているらしい。
そのマヤ暦を解読していくと、「2012年12月22日前後に、第五の太陽の時代
が終わる」(「2012年地球崩壊の大予言」・日本文芸社)とか。

具体的には、「2012年の9〜12月に、巨大隕石が、地球に衝突する」というのも、
ひとつの可能性として、あげられている。

しかし心配は無用。
それらしき隕石(小惑星、「トーチタス」)はあるにはあるが、そのころその隕石は
地球をはるか離れたところを通過する。
それにもし地球に衝突する可能性があるなら、隕石に接近して、それを
爆破することもできる。
人間はすでにそうい技術を身につけた。
マヤ文明の栄えた時期とは、今は、時代がちがう。

マヤ文明……紀元前1300年ごろ栄えた文明と言われているが、研究が進むに
つれて、それよりはるか昔から栄えていた文明であることがわかってきた。
一説によると、紀元前3000年までさかのぼることができるという。
もしそうなら、マヤ文明は、メソポタミヤ文明や黄河文明と肩を並べることになる。


●おろかな奇習vsおろかな民族

ここ数日、日本の冠婚葬祭についての原稿を書いてきた。
それがもつ、原点的なおろかさについて、書いてきた。
しかし、だからといって、日本の冠婚葬祭を責めても意味はない。
それらが奇習であるとするなら、その奇習を支えている、私たち自身こそ、
責められるべきである。

たとえば結婚式にしても葬儀にしても、見栄と虚勢の張りあいのようなところがある。
盛大であればあるほど、また列席者や参列者に、それなりの大物(?)が
いればいるほど、それを喜ぶ人たちがいる。
もてはやす人たちがいる。
しかも最近の傾向としては、昔からの名家の人たちほど質素にすませ、その
下の中堅クラス程度の人たちが、派手にそれをする傾向がある。
中には、なけなしの財布をはたいて、冠婚葬祭だけには金を注ぐという人も珍しくない。
地方の、田舎の人たちの中に、このタイプの人は多い。

なぜか?

結局は、生き様(ざま)の問題ということになる。
冠婚葬祭を派手にする人というのは、それだけ生き様と言えるような
生き様をもっていないことを示す。
「私はこう生きる」「私はこう生きてきた」「だから私はこうする」という
生き様がない。
ないまま、世俗の慣習に流され、それを「絶対的な善」として、信じきって
しまっている。

さらに悪いことに、人もある年齢を超えると、思考そのものがループ状態に
入る。
毎日、毎月、毎年、同じようなことを考え、その考えの中で、グルグルと
回るようになる。
過去をそのまま踏襲するようになる。
一度、こういう状態になると、「進歩」など、求めようもない。
が、さらにそこへ、脳の退化が加わる。
認知症にでもなれば、さらに退化する。
そういう人たちが、「老害」となって、若い人たちの生き様をしばる。

つまりこうしておろかな奇習が、おろかな人たちによって、つぎの世代に
伝承されていく。
みな、心のどこかでは、「おかしい?」と思いつつも、それを変えることが
できない。

そのひとつが、「戒名」ということになる。

私は、仏教界の人たちがどう考えているか知らないが、日本の仏教は、
戒名を突破口にして崩壊すると確信している。
和式仏教の矛盾が、すべてこの戒名という制度に集約されている。
が、それに対してあるBLOGに、僧侶の言葉として、こんなことが書いてあった。

「一般の人たちは、死者が出たときだけ、寺に泣きついてくる。
寺としては、そういうときだけでも、布施(=収入)を得なければ、
寺を維持することすらできない。(高額であって、何が悪い!)」と。

この記事を裏から読むと、すでに日本の仏教は、死滅していることになる。
「死滅」という言葉がきついなら、「形骸化」と言い換えてもよい。
私たちが子どものころは、寺というのは、子どもの遊び場でもあった。
それぞれの季節には、寺が子どもたちを呼んで、何かを食べさせてくれたり、
映写会を開いたりしてくれた。
紙芝居も、好んで寺の境内へやってきた。
当時は、まだそういう(つながり)が寺との間にあった。

しかし今は、もうない。
消えた。
どこの寺も、立派になり、立派になったことをよいことに、寺によっては、
門のところに背丈を越える鉄格子がはめてあるところもある(浜松市内)。
どこかの寺が率先して、慈善事業をしているという話は、私の近くでは、ここ
30〜40年、耳にしたことがない。

だから「葬儀のときだけ……」ということになる。

しかしこの傾向は、今後加速することはあっても、もとに戻ることはない。
日本の仏教そのものが、葬式仏教から、ビジネス仏教へと変身してしまった。
そのためますます多くの日本人が、日本の「寺」を通してみる「仏教」に、疑問を
もち始めている。
嘘だと思うなら、あなたも近くのだれかに聞いてみればよい。
戒名の話をしてみればよい。
100人中、100人が、「おかしい」と答える。

私自身も葬儀の席などでは、一応しおらしい様子で接してはいるが、その一方で、
「こんなことをして何になるのか」と、自分の心を押し殺さなければならない。
そういう現実を、今の僧侶たちは、いったい、どこまで気づいているだろうか。

(補記)
あなた以外の人の死について、葬儀のあり方を変えることは不可能と考えてよい。
実の親の葬儀にしても、仮にあなた流のやり方を押し通すと、思わぬ波風が立つ。
が、あなた自身の葬儀については、あなた流のやり方を、押し通せばよい。
そのために今、あなたが生きているうちに、遺言という形でよいから、
その意思を明確にしていおく。
「私の葬儀は、こうしてください」と。
そういう一人ひとりの生き様が、積み重なって、この日本の奇習を打ち砕いていく。

僧侶は不要。
読経など、もっと不要。
葬儀は内々で、静かに、と。

もしそれでだれかが、「地獄へ落ちる」とか、「三代に渡ってたたる」などと
言ったとする。
「それでは成仏できない」と言う人も、いるかもしれない。
それに対して、あなたはこう言って笑ってやればよい。

「あなたも少しは仏教を勉強したら?」と。


●生きる

「生きる」ということは、もっと別のことのような気がする。
同時に、「死ぬ」ということも、もっと別のことのような気がする。

私たちは「裸」で生まれる。
脳みそは、無垢の状態。
その私が今度は、「裸」で生きる。
いろいろな雑念が、脳みそを満たすようになる。

が、私は私。
どこまでいっても、私は私。
名誉や地位、そういったものがあるとしても、それは
あとからついてくるもの。
結果など、あってもなくても、気にすることはない。
それがわからなければ、野に飛ぶ鳥や蝶を見ればよい。
野に遊ぶキツネやタヌキでもよい。
「生きる」原点は、そこにある。

だから死ぬのも、裸。
ありのまま死ねばよい。
死ねば、私やあなたは、この宇宙もろとも、消えてなくなる。
少なくとも私やあなたがもっている「意識」というのは、そういうもの。
そういう「意識」が、死を乗り越えて、あの世にいくはずはない。
もし「行く」と信じているのなら、それは「思い込み」でしかない。

こんなパラドックスがある。
「逆説」とも言う。
「張り紙を張るな」という張り紙を張る。
「静かにしろ」と、大声で怒鳴り散らす。
そういうのをパラドックスという。

同じようなパラドックスに、自分の葬儀のことを心配する人がいる。
会う人ごとに、「私の葬式には来てくださいな」と頼んだりする。
自分の子どもに、「みすぼらしい葬式はするな」と言い伝えたりする。
しかし死んだその人に、自分の葬式のことがわかるだろうか。
仮にわかったとしても、その人が向かう「あの世」は、広大無辺に広い。
刹那(せつな)のそのまた刹那の、一瞬を過ごした地球上でのできごとなど、
「あの世」を前にすれば、ただの幻(まぼろし)。
そんな幻の結末などを、気にするほうがおかしい。

……と書いても、だからといって、「この世」はつまらないとか、
そう言っているのではない。
私が書きたいのは、その逆。

だからこそ、この一瞬一秒を、無駄なく、生きる。
「あの世」など、ないという前提で生きる。
死んでみて、あの世があれば、もうけもの。
なければないでもかまわない。

アインシュタインは、こう言っている。
「生きていること自体が、奇跡なのだ」と。

だったら今、生きていることを大切にする。
「あの世」へ行ってから、成仏するとか、しないとか、
そんなくだらないことは考えない。
考えても、意味はない。
もし本当に成仏するかしないかということになれば、それは「この世」での
生き様によって決まる。
悪いことをさんざんし放題しておきながら、成仏するもしないも、ない。
こんなことは、ほんの少し常識を働かせば、だれにだってわかること。

ちょこちょこと、そこらの僧侶が、読経したくらいで、その人のそれまでの
一生が、評価されると考えるほうが、おかしい。

もうやめよう、こんな愚劣な議論は。
書いている私だって、疲れてくる。

さあ、あなたも、ありのままをさらけ出して、ありのままに生きよう。
そして「そのとき」がきたら、ありのままに、死のう。
その日のために、今、思う存分、生きよう。
何が苦しいかといって、「この世」に、やり残したことを残すことぐらい、
苦しいものはない。
そういう思いをしないためにも、今、思う存分、生きよう。

そのあとのことは、そのとき、また考えればよい。


●失う

++++++++++++++++

私の近くに、もうすぐ70歳になろうと
いう人がいる。
評判のケチで、お金にせよ、モノにせよ、
何一つ、手放そうとしない。

しかしこのところ、体調を崩し、今現在は、
寝たきりに近い状態という。

「命」にくらべたら、ほかの、ありと
あらゆるものは、夏の日に昇る陽炎(かげろう)
のようなもの。

どうして自分の「命」には、ケチにならないのだろう。
あるいはその前に、どうして「健康」には、ケチに
ならないのだろう。

私には、そういう人たちの心理が、よくわからない。

++++++++++++++

失うことを恐れる人は多い。
そういう人に共通するのは、人生観が薄いということ。
中には、「音楽など聴いたことがない」「本など読んだことがない」
「映画など見たことがない」などと豪語(?)する人もいる。
「まだ若いのだから、本でも読んで、少しは勉強したら?」などと言うと、
「私はもうすんだ」と。

つまり「世の中を知り尽くしたから、勉強する必要など、ない」と。

そして私より年長であることを理由に、私にあれこれと説教したりする。
私は私で、相手が年長であることに遠慮して、だまって、それを聞く。

「生への執着」。
それを裏返して言い換えると、「喪失への恐怖」ということになる。
そこでもし、「喪失の恐怖」から、人が解放されたら、「生への執着」も消える
はず。

私たちがなぜ「死」をこわがるかといえば、「生への執着」があるからに
ほかならない。

よい例(?)が、K国の金xx。
使い切れないほどのお金と、乗り切れないほどの車と、住み切れないほどの家。
そういった財産に加えて、身近に何十人もの、若い女性たちをはべらせているという。
で、ここから先は私の勝手な想像によるものだが、そういう人ほど、喪失への恐怖感
が強いはず。
つまり生への執着心が強い。
俗な言い方をすれば、「死んでも死に切れない」。
今は、そういう状態ではないか。
が、年齢は、たったの66歳。
若い。
その年齢だったら、世界中を旅しながら、遊んでいる人はいくらでもいる。
ぜいたくな旅でなくてもよい。
木賃宿に泊まり、屋台で売るソーセージをほうばる……。
つまりそれも財産のひとつと考えるなら、金xxの財産は、あまりにもみじめ。
貧しい。

大切なことは、身の回りで、何が大切で、何がそうでないか、それを明確に見極めること。
その価値判断を誤ると、そのまま人生そのものを、見誤ってしまう。
どうせ私たちは、死によって、すべてを失う。
この宇宙、もろとも、だ。

だからといって、積極的に失えということではないが、名誉や地位、それに財産にせよ、
「命」と比べたら、何でもない。
もっとわかりやすく言えば、「今、ここに生きている」ということにまさる価値は、
ほかにない。
それさえ大切にすれば、仮に今、重病であっても、こわいものは、何もないはず。

(その日)はいつか、かならずやってくる。
どういう形でやってくるかは、わからないが、かならずやってくる。
その日のために、私たちは常日頃から、心を養っておく。

音楽を聴いて、本を読んで、映画を見て……。
自分の人生観を厚くしておく。

もし人がケチになることがあるとするなら、「時間」ということになる。

くだらないテレビ番組を見たり、くだらない人と会話をしたり、くだらないことをして
時間をつぶす。
それこそ、本当の「損」というもの。
真・善・美……どれでもよいから、その追求のために、一瞬、一秒を燃やし尽くす。
そうでなくても、それにたどりつくのは、むずかしい。
あるいはそれにたどりつけるという保証は、どこにもない。
が、あきらめてはいけない。
ともかくも、私たちは、前に向かって進む。

あなたのまわりにも、ケチと呼ばれる人は多いだろう。
守銭奴となって、こまかいお金にきゅうきゅうとしている。
そういう人がそういう人であるとわかるだけでも、あなたはその人とはちがった
人であることを示す。

あとは、そういう人を、あわれで、かわいそうな人と思えばよい。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2827)

●9月16日

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連休もあけ、今日から、仕事開始!
……といっても、朝から何かと
心がざわついた。

地元の寺からの連絡、母がいるケア・センター
からの電話などなど。

寺からは「急に葬式が入ったから、法事の時間を
変えてほしい」というもの。
ケア・センターからは、母が、ここ一両日は
状態が安定しているが、油断はできないというもの。

やっと今、一息ついたところ。

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●脳の切り替え

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最近気がついたが、年齢とともに、
脳の切り替え、つまり、気分の切り替えが、
むずかしくなってきたように思う。

たとえば朝起きて、ニュースを読む。
暗いニュースがつづく。
気分が重くなる。
ついで手持ちの債権の価格が、下がっていることを知る。
気分がさらに重くなる。

この状態で、何か、ものを書き始めると、
文章そのものが、暗くなる。
「それではいけない」と思いつつ、気分を切り替えようとするが、
それがうまくいかない。

(こだわり)が強くなったせいかもしれない。
このところ、ひとつのことにこだわると、そのことがずっと頭から
離れない。
ひどくなると、(うつ病)になる。

一見、複雑に見える脳みそだが、そういう意味では単純。
一方でひとつの反応が起きると、それが脳全体に広がる。
ホルモンや、脳間伝達物質のことを考えるなら、当然の現象ということ
になる。
一度分泌されると、ホルモンにせよ、脳間伝達物質にせよ、それらは、
否応なしに、脳全体に広がる。

が、それでは正常な社会生活は営めない。

そこで気分の切り替えをする。
何か楽しいことを考えて、いやな気分を払いのけようとする。
で、そういう自分を観察しながら、ふと、「若いときは、こうでは
なかったのだがなあ」と思う。
「若いときは、気分の切り替えが、すぐできた」と。
つまりその分だけ、脳の融通性がなくなってきた。
今、そんな感じがする。

・・・これから先、この傾向はますます強くなるのか?
それとも全体的に、脳の活動が鈍くなるから、ものごとを深く
考えないですむようになるのか?

そのあたりのことはよくわからないが、気分の切り替えがスタスタと
できる人は、それだけ脳の機能も、すぐれているということになる。

一方、何かあるとすぐ八つ当たりする人というのは、それだけ脳の
機能が劣っているということになる。
そこで登場するのが、前頭前野ということになる。
脳のいわば、集中コントロールセンターということになる。
こうした脳みその欠陥を補うのが、前頭前野ということになる。
脳みその方で、切り替えがうまくできないようであれば、前頭前野の
ほうで、理性的にそれをするしかない。

・・・ということで、今日も始まった。
ここは気分を自分で変えるしかない。
YOU TUBEを聴いて、雑誌に目を通して、新しいパソコンを
いじってみて・・・、と。

そうそうたった今、ワイフがお茶を届けてくれた。
軽い会話をかわす。
冗談を言って、ワイフを笑わす。

少し気分が軽くなったかな?

今日もがんばります!


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●体重が戻った!

今朝、やっと65キロ台に戻った!
(体脂肪率も、23%!)
2、3週間ほど前には、68・5キロ。
そのときから比べると、ペットボトル(2リットル)、約1本分、軽くなったことになる。
少し体が軽くなったように感ずる。
それにズボンもはきやすくなった。

が、あいにくと今日は、小雨模様。
運動はできない。
あとは、何とかして、64キロ台をキープ。
これからの1キロが、苦しい。


●兄の49日

近く、兄の49日がある。
無事、納骨をすませば、一段落。
こういう儀式は、みなに合わせてするがよい。
ただひたすら、おとなしく、無言で、ハイハイと言ってすませばよい。

何度も書くが、カルトが悪いのではない。
それを求める信者がいるから、カルトは存在する。
だから信者であるその人を相手にしても、意味はない。
勝ち目もない。

妥協するときは妥協して、みんなと仲よくする。
とくに親戚関係の人たちとは、そうする。

どうせ意味のない儀式なのだから……。


●株価大暴落

アメリカの証券会社(リーマン・ブラザーズ)の破綻を受けて、今日の株価は
大暴落。
先ほど株価を見てみたが、700円近い下げとか。
今後は、日経平均株価は、10000〜12000円の範囲を行ったり来たりする
とか(某経済サイト)。

こうした予想は当たったためしがない。
というのも、株価というのは、いつも予想を裏切る形で、上がったり下がったりする。

株価大暴落を受けて、今ごろ、がっくりきている人も多いはず。
信用買い(証拠金取引)をしている人ほど、そうだろう。
儲かるときはドサッと儲かるが、損をするときは、その数倍、ドサッと損をする。
結果的に見ると、素人が株で儲けるなどということは、ほとんど、ない。

しかしこれから世界経済は、どうなるのだろう?
おかしな胸騒ぎがする。


●美しい声

先週、BW教室では「音感」のレッスンをした。
この時期、子どもの発声の仕方をていねいに見れば、音感障害があるかどうか、わかる。
音感障害(昔は「音痴」と言った)がある子どもは、ドレミ……の音階が、正確に発声
できない。
みなといっしょに歌を歌うときでも、音程がズレる。

もうひとつのタイプは、「音」そのものが、拾えない。
私が独特の抑揚をつけて、「♪こ〜ん〜に〜ち〜は〜」と言い、それを子どもたちに
復唱させてみる。
正確にできる子どももいれば、そうでない子どももいる。

だから理論的には、難解なピアノ曲をスラスラと演奏できる一方で、歌は、まったく
ダメという子どももいるということになる。
反対に歌はうまいが、楽器の演奏はまったくダメという子どももいるということになる。

こうした音感障害について、「ていねいな指導でなおる」と説明する先生もいるが、
どうその(ていねいな指導)をするのか。
そのエネルギーと子どもへの負担を考えるなら、「うちの子は音楽は苦手」というくらいに
考えて、その問題からは遠ざかったほうがよい。
(どうしても歌手にでもしたいと親が考えているなら、話は別だが……。)

というのも、この時期、音感にすぐれた才能を示す子どもは、驚くほど、すぐれている。
3つの音を同時にピアノなどで鳴らしても、正確にその音の音名を言い当てたりする。
その(差)を多少縮めたぐらいで、それがどうだというのか。
(少し、冷たいかな?)
つまり私が言いたいのは、子どもには、得意、不得意の分野がある。
子どもを伸ばすコツは、得意分野をのばし、不得意分野には、目をつぶる。
子どもをけっして、オールマイティにしようと考えないこと。
不得意分野を伸ばそうとすると、得意分野を伸ばすときの数倍、あるいは
それ以上のエネルギーを必要とする。
親もたいへんだが、子どもも、もっと、たいへん。

子どもというのは不思議なもので、得意分野がどんどんと伸び始めると、
つられて不得意分野も伸びてくる。
中学生でも、英語が伸びてくると、それほど勉強しなくても数学も伸びてくる。
そういう現象が、よく観察される。

だから音感障害と、構えて深刻に考えないこと。

さらに、ときどき美しい声をもった子どもに出会うことがある。
「少し練習すれば、すばらしい声になるだろうな」と思う。
思うが、そこまで。

一度は、幼児だけで合唱団を結成してみたい。
……私はそんな夢をずっと、もちつづけている。
しかし今の私にはその時間もないし、私の才能にも限界がある。
合唱団員を8年間してきたというだけ。
へたの物好きというか、私は合唱団の中では、いつもお荷物だった。
そんな思いが、こと合唱となると、つまり「弱化の原理」として働いてしまう。
(やる気)と(熱意)を奪ってしまう。

というわけで、音楽は好きだし、今の私には、音楽なしの生活は考えられない。
どのパソコンにも、数百曲以上の曲を入れている。
一時期は作曲に凝ったこともあるが、結局はものにならなかった。
で、今は、楽しむだけ。
もっぱら楽しむだけ。
今さら作曲家になりたいとは、思わない。


●サブプライム問題

アメリカへ行くたびに、私はこう思った。
「どうしてみな、こんな立派な家に住めるのだろう?」と。

地方の州の田舎町に行っても、日本ではめったにお目にかかれないような大豪邸が、
ズラリと並んでいる。

(もちろん貧しそうな小さな家もあるが、それでも、広さから見ると、日本の平均的な
家の2〜3倍はある。)

「日本では耐震に金を使うから」とか、「日本では土地代に金を使うから」とかと、
説明する人がいる。
「だから、日本の家は貧弱なのだ」と。

が、それにしても、ケタはずれに、立派。
大きい。

あるときは、私は日本への借金も返さず、よくもまあ、こういうぜいたくな生活が
できるものだと、腹が立ったことさえある。
当時(今から5〜15年前)、ドルが紙くずになりそうになるたびに、そのドルを
せっこらせっこらと買い支えてきたのは、この日本にほかならない。

で、サブプライム問題で、アメリカがコケた。
そしてその余波は、証券会社、さらには銀行へと、あらゆる金融機関を巻き込み
始めている。

私はその話を聞くたびに、当時、アメリカで見た、友人の家を思い出す。

年収といっても、ごく平均的な銀行マン。
そんな彼でも、ゆったりとした曲がり階段のついた二階建ての家に住み、地下には
客間と筋トレ専用の部屋をもっていた。
(ちょうど小さな崖に寄り添うように建てられていたので、見方によっては、3階建て
ということになる。)
「近く、プールも作る」と、そのときは、そう言っていた。

が、そういう家そのものが、国際的な標準とは、かなりかけ離れている。
その調整がすまないかぎり、サブプライム問題は、片づかない。


●正常者と非正常者

+++++++++++++++++++

最近の心理学、なかんずく精神医学では、
「正常者はいない」という前提で考えるという。
そもそも「正常者とはどういう人をいうのか」、
その定義すらない。

多かれ少なかれ、程度の差こそあれ、どんな人でも、
心の問題をかかえている。
しかも内容は、千差万別。

ふだんは何ともなくても、ある特定のことがらに過敏に反応する
人となると、ゴマンといる。
心の傷(トラウマ)をもった人となると、もっと多い。

で、一定のワクを超えた人を、非正常者というのだろうが、
その「ワク」そのものが、明確ではない。
ワクに対する耐性も、人、それぞれ。

そこでキリストや釈迦はどうだったかということになるが、
キリストにせよ、釈迦にせよ、人間だったという前提で考えるなら、
「正常者だった」と言い切ることはできない。
現にキリストは、孤独に苦しんだ(マザーテレサ)。

この私だって、ある時期までは、自分の心の病気を隠そうとした。
しかしやがて、「心に病気をもっていない人はいない」ということに気づいた。
むしろこの世界では、「私は正常だ」と言い切る人のほうが、あぶない。
で、それ以後は、正直に自分の心の問題と向きあうようになった。
文にも書くようになった。

同じような問題に、「障害者」という言葉がある。
最近の精神医学では、これは西洋医学の宿命のようなものだが、まず診断名を
つけたがる。
診断名をつけないと、落ち着かないらしい。
その結果、「〜〜障害」「〜〜障害」という言葉が、氾濫するようになった。

しかしこの問題も、「どういう人を障害者といい、どういう人をそうでないと
いうのか」、その基準が明確ではない。
さらに人間の心は複雑。
いくつかの障害を、複合的にもっている人など、いくらでもいる。

先日もあるドクターから、こんな話を聞いた。

「ある統合失調症の患者だが、薬物療法で、症状が消えた人もいる」と。

それに対して、私が「最初の見立てがまちがっていたのではないですか?」と聞くと、
そのドクターは笑いながら、こう言った。
「実は、そういうケースも多いのです」と。

統合失調症(以前は、「精神分裂病」と呼ばれていた)のような、診断法が確立された
世界でも、そういうことがある。
(ただし統合失調症にも、いろいろなタイプがある。)

さらに言えば、人の心というのは、そのときどきにおいて、微妙に変化する。
環境が変わっても変化する。
それまで何ともなかった人でも、たとえば肉親の死に接したりすると、精神そのものが、
変調する。
「正常」といっても、いつもその内側には、「非正常」を内含している。

だからみな、こう居直ればよい。
「私は正常ではない」と。
そう思って生きるほうが、ずっと気が楽。
あとはそういう自分と、うまくつきあえばよい。


●通勤電車

運悪く、豊橋から名古屋まで、通勤電車に乗りあわせてしまった。
名鉄電車で、一部が指定席になっている。
しかしその指定席は、この時間帯には、空きはない。
通勤用の客たちに、ずいぶんと前から予約されてしまっているからである。
しかたないので、普通車のほうに立つことに。

通勤電車といっても、押しあい、へしあいといったふうでもなかったが、
それでも通路には、人が歩けないほど、人が立っていた。

そういう光景を見ながら、つまり何かにじっと耐えるように黙って立っている人たちを
見ながら、いろいろ考える。
毎日、こうして1時間の電車に乗るとすると、往復で2時間。
1週間で、10時間(月〜金)。
1年を300日とすると、600時間。
それを24時間(=1日)で割ると、25日。
つまり1年のうち、約1か月を、こうした人たちは、通勤のために使っていることになる。
通勤時間の分だけで、1か月分の休暇になる!

この数字を見ながら、いろいろ考える。

もしこういう時間を、もっと有効に使うことができないか、と。
日本の労働力人口は、それだけで、約8%ふえることになる。
「会社へ行かなければどうしてもできない仕事」というのもあるかもしれないが、
そうでなければ、インターネットなどをさらに活用して、自宅でできる仕事を
ふやしたらよい。
あるいは電車の中でも、何かの仕事ができるようにすればよい。
(その分の時間は、当然、労働時間として組み入れる。)

……といっても、やがてそういうことも可能になるだろう。
目下、通信革命、進行中!

それにもうひとつ。

世界にもっとも非人間的な乗り物があるとするなら、それは通勤列車ということになる。
現代版奴隷船といっても過言ではない。
「みんな、よくがんばっているなあ」と思うと同時に、「私には、もうできない」と
思ってしまう。

こういう電車に乗るときは、ただひたすら何も考えず、ボーッとっしているのがよい。
ただひたすら、時間が過ぎるのを待つのがよい。
(あるいは私なら、DVDでも見ながら、過ごすかも……?
しかしざっと見渡したところ、そういう過ごし方をしている人は、ゼロ。
携帯電話で、ワンセグを楽しんでいる人はいるようだが……。)


●時間を有効に使う

「時間を有効に使う」。
もし1時間を2時間分に使うことができたら、その人の人生は、2倍分、長くなることに
なる。
が、問題は、どう有効に使うかということ。

ときどき、こんな経験をする。

朝、5、6時ごろから何かの活動を始める。
いつもなら昼過ぎにたっぷりと時間をかけてする仕事を、朝食前にしあげたりする。
それからいくつかの場所を回り、昼前には帰ってくる。
料理をしたり、洗い物をしたり……。
それから山荘へ行き、草を刈る。
夕方は市内で夕食を取ったあと、映画を見る。
帰りに途中のレストランで、お茶を飲む……。

そういう一日を振り返って、「今日は長かったなあ」と。

もちろんその反対のこともある。

午前10時ごろまで床の中でぐずぐずしている。
朝ごはんと昼ごはんを、いっしょに食べる。
あとは雑誌を読んで、テレビを見る。
外出といっても、野暮用。
帰ってきて、また居間にゴロリと横になる。
あとは時計を見ながら、風呂に入って、寝るしたく……。

そういう一日を振り返って、「今日は短いかかったなあ」と。

しかしここで大きな問題にぶつかる。

では、前者のような過ごし方が、「有効」で、後者のような過ごし方が、
そうでないと、言い切ってよいかという問題である。
そもそも「有効」とは何か?

このことは、欧米人のバカンスの過ごし方を見ているとよくわかる。
彼らにしてみれば、静かにボーッと時間を過ごすことを、最高にぜいたくな過ごし方
ということになる。
本を読んだり、音楽を聴いたり、絵を描いたり、魚釣りを楽しんだり……。
基本的な部分で、時間の過ごし方がちがう?

一方私たち団塊の世代は、ボーッとして時間を過ごすことに、大きな抵抗感を
覚える。
時に罪の意識さえ覚える。
仕事第一主義と言うわけではないが、「もったいない」という意識は、どうしても
残る。
言い換えると、(金儲け)につなげるからといって、有効に使っていることにはならない。
さらに言えば、「仕事」イコール、「生きがい」ということでもない。
つまりいつも仕事をしているからといって、時間を有効に使っていることにはならない。

よい例が、私の祖父である。
明治生まれの人だったが、8歳で丁稚奉公に出て、朝は日の出とともに働き、夕は日没
とともに、仕事をやめたという。
休みも、盆と暮れのみ。
祖父は祖父なりに、適当に息抜きをしたのだろうが、その分だけ、現代の私たちより、
時間を有効に使っていたかどうかとなると、それは疑わしい。

つまりこうして突きつめていくと、時間を有効に使うということは、いかにしてその中で、
「私」を追求するかということになる。
それができる人を、「時間を有効に使っている」といい、そうでない人を、「そうでない」という。
忙しいから、時間を有効に使っているということには、ならない。


●ユングの「シャドウ論」

++++++++++++++++++H.Hayashi

まじめで、かたぶつそうな父親。
世話好きで、一日中、こまめに動き回っている母親。
父親は現在、鉄道会社に勤めている。
父親の年齢は、45歳。
母親は、2〜3歳、年下だと思う。
その両親には、3人の子どもがいる。
長男(現在20歳)、長女(18歳)、それに二男(15歳)。

事の発端は高校1年生になったばかりの二男が、無免許運転で逮捕、補導
されたことによる。
同乗者に、全治1か月の怪我を負わせた。
それでそのまま高校を強制退学。

母親に頼まれて面接してみると、これがまた絵に描いたような、非行少年。
ふてぶてしい態度。
こちらがまじめに話しかければ話すほど、ニヤニヤ笑っているだけ。
態度も横柄で、ソファにでんと両手を伸ばして座っている。
初対面の大人と話すような態度ではない。

で、そこへ長男がやってきた。
「迎えに来た」ということだったが、長男を見て、私はまたまた驚いた。
20歳だというが、太った大柄な男だった。
眉に剃りを入れ、これがまた絵に描いたような、暴力団風の男。

私は、18歳になったという長女に会いたくなったが、母親の話では、どこかの
男と、駆け落ちして、今は、家にいないという。
16歳で妊娠、現在は1児の母親になっているという。
私はその話から、その長女が、現在どういう状態のか、容易に察しがついた。

が、問題は、3人の子どもたちが、みな、そうなったかということ。
「子どもは、家族の代表にすぎない」と、最近の発達心理学では考える。
しかし私が見たところ、両親は、ごくふつうの両親である。

で、私はこう考えた。
まず、長男が、自己の同一性の構築に失敗し、非行の道に入った。
その影響を、長女、二男が受けた。

しかしそれにしても、合点がいかない。
兄弟どうしの影響力は大きいが、下の子どもが、それを反面教師とするケースも
少なくない。

で、そうこうして、その数か月後のこと。
今度は父親が、二男を連れて私のところにやってきた。
どこかの高校に再入学したいが、その方法はあるか、と。

丸顔のどちらかというと、もの静かそうな男性だった。
鉄道会社では、保守の責任者をしているということだった。
がっしりとした体格をしていた。
が、やがて様子が変わってきた。

二男が父親の説教に対して、あいまいな返事を繰り返していると、突然、父親が
怒鳴り始めた。

「テメエ、このヤロー、ちゃんとオレの話を聞け、バカヤロー」と。

ドスのきいた、恐ろしい声だった。
私が仰天していると、さらに、「テメエナア、自分のしたことに責任を取れないって
いうのかヨ! つべこべ言わないで、オレの話を聞け!」と。

それは言葉というよりは、暴力団の叫び声そのものだった。
と、同時に、私の頭の中で、ジグソウパズルが、自動的にバタバタと組みあがった。

3人の子どもたちは、ユングが説くところの「シャドウ」を、そっくりそのまま
引き継いでしまっていたのだ。

シャドウ……これを発見したユングという学者は、ものすごい人だと思う。
こういうこと。

人はだれしも、その場、その場で、その場にふさわしい仮面をかぶる。
ショッピングセンターの店員も、鉄道会社の駅員も、教師も、医師も、弁護士も、
そして牧師も、みなかぶる。
私だって、かぶる。

大切なことは仮面をかぶるのは仕方ないとしても、どこかでその仮面を
脱ぐことを忘れてはならない。
脱いで、自分に戻らなければならない。
が、中には、その仮面を脱ぎ忘れてしまう人がいる。
そして自分の中に潜む(邪悪な自分自身)を、そこに閉じ込めてしまう。
その(閉じ込められた自分自身)を、「シャドウ」という。

外国でよく例としてあげられるのは、教会の牧師である。
中には、表では善良な牧師を務めながら、裏で、児童を性的に虐待している牧師がいる。
こういうケースのばあい、表の牧師の顔は、「仮面(ペルソナ)」ということになる。
それをかぶったまま、教会では、絶対的な善人として振る舞う。

が、この問題は、ここから始まる。
ここからが恐ろしい。
こうしてできあがった「シャドウ」は、そっくりそのまま子どもに引き継がれていく。
仮面を引き継ぎのではない。
シャドウを引き継ぐ。

だからよくあるのは、父親が牧師で、息子が凶悪犯というケースである。
教師の息子が、凶悪犯になることもある。
日本にも、過去において、信じがたいような凶悪事件を犯した子どもがいた。
たいていごくふつうの(?)、しかも高学歴の両親をもった子どもである。
そういう子どもが、世の中を震撼させるような大事件を引き起こす。

しかしこういうケースでも、ユングのシャドウ論を当てはめて考えてみると、
納得がいく。
あくまでも可能性として論ずるだけだが、可能性としては、どのケースにおいても、
それぞれの両親は、仮面をかぶったまま生活し、自分の中の邪悪な部分を、心の
片隅に押し殺してきた。
それをそっくりそのまま子どもが、引き継いでしまった。

で、最初の話に戻る。
「子どもは家族の代表にすぎない」。
子どもに何か問題を見つけたら、子どもを「直そう」と考えるのではなく、
家族のどこにどのような問題があるかを知る。
親は、自分の子どもの非行をはげしく叱っていたが、子どもは、親のシャドウを、
そのまま引き継いでいただけかもしれない。

私は一見善良そうに見える父親の横顔を見ながら、「これは子どもの問題では
ないのだがなあ」と思った。

さて、あなたはどうだろうか。
無理に善人ぶっているようなことはないだろうか。
仮面をはずすことを忘れてはいないだろうか。
邪悪な自分を、どこかで押し殺しているようなところは、ないだろうか。
もしそうなら、あなたの子どものために、それはやめたほうがよい。

あなたはあなたで、ありのままのあなたで生きたほうがよい。
自分をさらけ出しながら、生きたほうがよい。
そのほうが子どもも、すなおな子どもになる。

(補記)
ありのままに生きるとしても、ありのままに生きるだけに足りる(自分)が
なければならない。
自分をさらけ出したとたん、相手にあきられてしまうようでは困る。
だから……。
自分の子どもをすばらしい子どもにしようと考えたら、まず、自分の中から、邪悪な
自分を追い出す。
方法は簡単。

ウソをつかない。
ルールは守る。

これだけを金科玉条のごとく守る。
人が見ているとか、見ていないとかに関係なく、守る。
その積み重ねが、月、年となって、やがてその人の人格を形成する。
その人格を見て、子どもは、あなたという親を、親としてではなく、
ひとりの人間として評価する。
そのときそれに耐えうるような人間であれば、それでよし。
そうでなければ、結局は、悲しい思いをするのは、あなた自身ということになる。

子育てって、こわいね、ほんと!


Hiroshi Hayashi++++++++SEP 08++++++++++はやし浩司

●兄の49日

++++++++++++++++++H.Hayashi

兄の49日の法要のために、実家へ行ってきた。
僧侶と、私たち家族、計4人だけの、
静かな法要だった。

その「49日」については、こんな由来がある。

漢字の「七」は、もともとは、腹を横、縦に切って、内臓が
飛び出している様子を表したものだという(「本当は怖ろしい漢字」・
小林朝夫・彩図社)。
どこかこじつけ的な感じがしないでもないが、「七」という数字が、
中国ではあまり好まれていないのは、事実。

「十字切りの腹切りは、腹を横に一度切ってから、腹に刺さったその刃物をいったん
引き抜き、もう一度自分の腹の上部に差し込んで、今度は縦に引き下ろすというもの
だ。
その際に『十』の形に切った切り口の下のほうから、血まみれの腸が外へ飛び出して
しまう。
『十』という字に、飛び出た血だらけの腸の形を付け足したのが、『七』なのである」
(同書)と。

「七」という漢字は、怖ろしい漢字ということになる。

そこで中国では、「天に昇った死霊を弔う行事である七夕。亡くなった者を供養する
最初の日は、初七日。喪に服すのは七日の二乗である四十九日。
このように『七』には、常に『死』がつきまとう。
『七福神』というめでたいイメージもあるが、これは『七』がもつ不吉さを払いのける
ための存在なのだ」(同書)と。

英語では「ラッキー・セブン」と言って、「7」を、めでる傾向がある(同書)。
しかし中国では、その逆。
「七」は、不吉な数字だったらしい。

ということで、初七日が生まれ、49日の法要が生まれた。

……ところで、一週間は、7日。
兄のばあいは、7日ごと、ちょうど1週間ごとに、法要を繰り返した。
そして7回目の今日、49日の法要があった。

住職による読経のあと、墓まで行き、納骨をすませた。
静かな、静かな、どこまでも静かな法要だった。

ついでに申し添えるなら、初7日の法要にせよ、49日の法要にせよ、もともとは釈迦仏教と
は、縁もゆかりもない法要ということが、これでわかる。
「7」にこだわったのは、釈迦ではなく、中国人だった(?)。
あるいはインド(ネパール)では、どうだったのか。
一度、インドの友人(マヘシュワリ君)に聞いてみよう。


●葬儀

要するに、葬儀の仕方は、国、民族、宗教、さらにその宗派によって、みな異なる。
異なるということは、「形」はないということ。
言い換えると、それがどんな方法であれ、死者を悼む目的でなされるものであれば、
それでよいということ。

「形」にこだわるほうが、おかしい。

同じく「本当は怖ろしい漢字」の中に、昔の中国の葬儀の仕方が書いてある。
それをそのまま紹介させてもらう。

「中国古代の葬儀法を記したものに、周公旦(しゅうこうたん)の表した『儀礼』が
ある。
この書には、葬儀は死んだ瞬間から始まると記されている。
身内が死んだら、死体をすぐ裸にして湿らせた布で拭き清め、死後硬直によって膝が
曲がらないように両足を固定する。
つぎに遺族の1人が、死者の衣を肩に掛けて屋根にあがり、北の方角を向いて服を
振りながら故人の名前を叫び、一度家に帰る。
つづいて皆で、故人に別れを告げ、魂をあの世に送る。
無事に送るには全員が泣き叫びつつ、その場で足踏みをつづけなければならない。
さらに折を見て、死者に散髪を施し、体を井戸水で洗い、黒色の装束をまとわせる。
埋葬する前に死者の口の中を米と貝で満たし、そこにさじを挿す。
あの世に行き着くまでの長旅に備えるのである。
埋葬する土地と日時は、あらかじめ占い師によって決められている。
その場所と日時を守らなければ、死者はあの世へ行くことはできないのだ。
一連の儀式が終わると、遺族の顔には笑顔が戻る。
大切な者を手厚くあの世へ送る『葬』を成し遂げた、安堵の表情であるといえよう」
(同書、P71)と。

しかし……?

昔、長谷川一夫という、日本を代表する名優がいた。
彼は妻が死ぬと、その日から、妻の仏壇の前だけで、毎日をすごすようになったそうだ。
そして妻が死んでからちょうど1か月目に、自らも衰弱し、
そのまま死んでしまったという。
何かの本で読んだ話なので、細部については不正確かもしれない。
しかし長谷川一夫のこの話には、愛する人を亡くした人の、悲しみや苦しみが、
集約されている。

もし儀式があるとするなら、それは飾りのようなもの。
あるいは飾りにもならないかもしれない。

身近にいる愛する人が亡くなったら、どんな儀式をしたところで、その悲しみは
癒されない。

「形」ばかりにこだわる和式仏教を批判してみたくて、ここで葬儀について書いてみた。


Hiroshi Hayashi++++++++SEP 08++++++++++はやし浩司

●山荘にて

今夜は、夜遅く、山荘に来てみた。
着いたとたん、ガチャ、ガチャなく、くつわ虫の大合唱。
「うるさいわね」とワイフはこぼしたが、つづいて、「寒いくらいね」と。
森の湿った冷気が、気持ちよい。

あとはいつもの決まった作業。
雨戸をあけ、風を通し、食物を卓に並べる。
私はパソコンを広げ、ワイフは本を開く。

あとはただひたすら、雑談、また雑談。
こうして静かに夜がふける。

ところで今使っているパソコンは、HP社の2133。
バッテリーのもちが、格段によい。
省エネモードで使っているためか、まだ2時間近くももつ。
(全体では、7時間ほど。)
一方、ACERのASPIRE−1−は、画面が明るい分だけ、バッテリーの消耗が、
早い。
ASPIRE−1−のほうが、私には使いやすいのだが……。

ところで山荘に来る途中、パソコンショップに寄り、2GBメモリーを2枚、買ってきた。
計4GB!
特価品で、2枚で、8900円。
今使っているVISTAパソコンに付け替えてみるつもり。
店員は、「性能がアップしますよ」と言ってくれた。
楽しみだ。


●熟睡剤

睡眠薬には、いろいろある。
その中のひとつに、「熟睡剤」というのがある。
朝方早く、目がさめるのを防ぐための薬ということらしい。
私もいつも、バッグの中に、それをもっている。
「My Sxxxx」という名前の、実にそれらしい薬である。

が、これを1錠ものむと、効きすぎてしまう。
へたをすれば、10時間以上、眠ってしまう。
しかも眠っている間中、幻覚につづく幻覚。
現実と夢と、区別のつかない夢を見る。

そこで私は必要なときは、この薬を、6分の1から8分の1に
割ってのむ。
「今日は、これくらいでいいかな?」と。

そのとき、のみ方にコツがある。
胃袋のほうへすぐ入れてしまわないで、舌の下で溶かしながらのむ。
こうすると、脳みそに直接、薬が効く。
(これはあくまでも、私の素人判断だが・・・。)
しばらくすると、心地よい眠気が襲ってくる。

睡眠コントロール・・・若いときとちがって、歳をとればとるほど、
睡眠コントロールが、むずかしくなるという。
トイレが近くなる人も多い。
私もそろそろその年齢に近づいてきた。

そこで今、ひとつ心がけていることがある。
(1)就寝時刻は、きちんと守る。
(2)昼寝時間は、たとえ15〜30分でもよいから、きちんととる。

あとは自然体。
睡眠というのは、あまり神経質になりすぎてもよくない。
眠くなければ、起きていればよい。
眠くなったら、そのまま体を横にすればよい。

実は、昨日は兄の49日の法要とかで、かなり神経をつかった。
床につく前になっても、心のザワザワ感が消えなかった。
それでその薬をのんだ。
ワイフにも少し与えた。
それで今日は、たっぷり9時間も眠った。
(少し頭がボーッとしているので、量が少し多すぎたかな?)

ところで一言。
睡眠薬にかぎらず、脳みそに直接影響を与える薬を服用するときは、
脳の様子を静かに観察しながら、服用するのがよい。
こうした薬ほど、効き目に個人差があるものはない。
最初は、ほんの少しだけのんでみる。
それで効果がなければ、つぎに少しだけ量をふやしてみる。
やがて自分にとっての適量というものが、わかってくる。

・・・という話を、かかりつけのドクターに相談すると、そのドクターは
こう言った。

「そういう勝手な判断をしてもらっては困ります」と。

だから私のアドバイスは、みなさん、自己責任で応用してみてほしい。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●知性と理性

+++++++++++++

電車に乗ったときのこと。
相向かい席に、40歳くらいの女性が座った。
かなりの体重のある人だった。
その女性が座ったため、その席は、その1人で満席(?)。
おかげで私は、その少しあいたところに、自分の
荷物を置くことができた。

++++++++++++

日ごろ、いくらふざけた生活をしていても、そういう場で、そういう話が
きちんとできれば、それでよし。
このことは、幼児の世界でも、同じ。

子どもらしいあどけなさがあっても、たとえば先生が「名前は何というの
かな?」と聞いたようなとき、しっかりと受け答えができれば、それでよし。
しかしそういうことができない子どもがいる。
できないおとながいる。
状況判断が的確にできない。
ヘラヘラとわらっている。

私の前に座った女性が、そういう女性だった。
携帯電話を手の中でいじっていたが、そこへ電話がかかってきた。
とたん、あたりかまわず、大声で話し始めた。

「あのさア、今、電車の中なんだわさア、あと30分もするとさア、
そちらへ着くからさア、待っててやア」と。

こんな感じで、10分近くも話していた。
私とワイフは、あきれてその姿を見ていた。

が、私の忍耐も、そこまで。
私はおだやかに、心静かに、笑みをつくりながら、こう言った。
「あのね、奥さん、電車の中では、携帯電話での通話はいけないことになって
いますよ」と。

するとその女性は、体をななめにしたまま、そしてふてくされた様子で、
「いいじゃんかア、電話くらい。ウッセーなア。まわりのほうが、
ヨッポド、ウルセーやないかア」と。

電話の内容からして、高校生の息子もいるらしい。
つまり母親。
そういう母親が、そう言う。

やがてその女性は、電車からおりて行ったが、私とワイフは顔を見合わせて、
笑った。

「一片の知性も理性もない女性というのは、ああいう女性をいうね」と。
ワイフも、すなおに同意してくれた。
「まるで人種がちがうみたい」と。

私「そう、まるで動物園のサルみたい。きちんとした会話すらできない」
ワ「そんな感じね・・・。ケータイをもったサル?」
私「高校生の息子がいるらしいよ」
ワ「どんな子どもなのかしら?」
私「親を反面教師にすれば、いい子かもしれない。しかし同じような
タイプの子だろうね」と。

で、こうした方向性は、すでに幼児期に決まる。
幼児期の子どもをていねいに見れば、その子どもがその先、どういう
子どもになっていくかが、わかる。
言い換えると、それまでの教育が重要。
しかし子どもを教えるというよりは、これは環境の問題。

親自身が、知性と理性で子どもをくるんでやる。
その結果として、子どももまた知性と理性を身につける。
その価値を知る。

親が、とくに母親が、寝そべってせんべいをかじりながら、「おい、おめえ、
勉強しろや」は、ない。
それこそ親の身勝手というもの。
その女性を見ていて、そんなことを感じた。

(補記)
教育について、否定的な考え方をする人も多いですが、ああいう女性を
見ると、教育の重要さが、よくわかりますね。

でも、考えてみれば、そういう女性でも、子どものころ、きちんとした
教育を受けたはず。
そこで考えられるのは、

(1)家庭教育が不十分であった。
(2)学校教育そのものを、その女性が否定してしまっていた。つまり
つっぱってしまっていた、ということです。

しかし私は、やはり家庭教育に問題があったと思います。
というのも、今度はその母親の子どもですが、私の想像では、その子どもも
また母親と同じような子どもになっていくだろうと思います。

あとは類は友を呼ぶというか、そういう人たちはそういう人たちどうしで、
集まっていく。
つまりそういう人たちから見れば、きちんとした会話のできる人たちとは、
交際できないということになります。
そういう世界へ入っただけで、ストレスがたまってしまう。
あとは(逃げる)→(ますます知性や理性から遠ざかっていく)の悪循環。
その結果が、先の電車の中で、私が見た女性ということになります。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●父親似、母親似

++++++++++++

遺伝子学的に、そういうことが
実証されているのかどうかは
知らない。
が、こういうことは言える。

息子は、母親の遺伝子を強く受け継ぐ。
娘は、父親の遺伝子を強く受け継ぐ。

私の孫たちを見ていると、そう思う。

私の息子は日本人。
その嫁はアメリカ人。
孫が、男の子と女の子。

孫の男の子は、アメリカ人の母親似。
孫の女の子は、日本人の父親似。

つまり遺伝子というのは、父親→娘、母親→息子と、
クロスするものらしい。
男から女へ、女から男へとクロスするから、
私は勝手に、「クロス遺伝」と呼んでいる。
(もし同じような言葉がすでにあったら、ごめん!)

こういう例は多い。
たとえば肥満についても、それが言える。

++++++++++++++

肥満といってもいろいろなタイプがある。
その中でも、本態的な肥満というものもある。
食べ過ぎたから太ったとか、そういう肥満ではない。
生まれながらにして肥満というか、ある年齢以後、
肥満から解放されることがないというタイプの肥満である。

私の知っている人に、こんな例がある。

父親は、その本態的肥満タイプ。
母親は、子どものころから現在にいたるまで、やせ型タイプ。

で、その息子たちはみな、やせ型。
娘たちはみな、肥満型。
ふつうの太り方ではない。
どっさと、鏡餅を置いたような太り方をしている。

で、今度はその孫たちだが、ここでともに、妻や夫たちの
遺伝子が混在してくるので、一概には言えないが、こと肥満遺伝子に
ついては、たしかに孫たちに伝わっている。

やせ型の息子たちの娘たち(孫)は、やせ型。
肥満型の娘たちの息子たちは、肥満型。

簡単に言えば、息子は母親似になるということ。
娘は父親似になるということ。
しかしすべての遺伝子がそうというわけではないらしい。
ないらしいが、一方、きわめて濃厚に遺伝していく部分もある。

私の印象では、
(1)顔の容貌
(2)肥満、やせ型
(3)性格、体格などは、先に書いた「クロス遺伝」をしやすいのでは
と思っている。

(4)知的能力については、もう少し複雑な遺伝方法で遺伝する(?)。
たとえば、隔世遺伝とか、いろいろ。
(5)皮膚の色とか肌の色については、つねに優勢的な遺伝子が、遺伝して
いく(?)。

詳しくはまた自分で調べてみたい。
多分、この分野での研究は、かなり進んでいると思う。

で、あなた自身はどうか。
あなたの周囲の人たちはどうか。
一度、そういう目で、遺伝というものを考えてみたらよい。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2828)

●血液型性格判定

+++++++++++++++++++

血液型による性格判定なるものが、いかに
非科学的で、かつ根拠のないものであるかは、
再三再四、書いてきた。
エセ科学そのもの。
こうしたエセ科学が堂々とまかり通っているのは、
この日本だけ。
ついでに隣の中国でも、日本の影響を受けて、
血液型による性格判定の本がつづけて発刊されて
いるという。
韓国や台湾でも、発刊されているという。
が、だからといって、血液型による
性格判定が公認されたわけではない。

血液型による性格判定がエセ科学であることは、
「心理学」(大村政男著・ナツメ社)に詳しく
書いてある。
興味のある人は、そちらを読んでみたらよい。

++++++++++++++++++

血液型の中でも、なぜA・B・O・AB型だけが問題になるかといえば、これらの
血液型は、輸血の際などに、不適合を起こすことがあるからである。
血液型といっても、ほかに100種類以上が確認されている。
よく知られたものに、Rh型というのもある。

だいたい「性格」とは何か、よくわかっていない。
つぎに血液が、型によってどのように脳に作用するのか、その科学的証明が、
まったくなされていない。
A型の血液は、ドーパミンの分泌を促すとか、B型の血液は、セロトニンの
分泌を促すとか、そういうことが具体的に証明されれば話は別だが、今のところ、
そういう話は、まったくない。
あるはずもない。
ないばかりか、その出所さえあやしい。

私たちが現在、「血液型による性格判定」を根拠にしているのは、「古川学説」と
呼ばれる、古川竹二(1891〜1940)がなした研究論文によるものである。
が、「昭和8年(1933)3月、岡山医科大学における日本法医学会第18次総会の
論争で古川学説は破れ、漸次衰微していくことになる」(同書、p220)と。

が、エセ科学は、ここで止まらない。

こうした流れの中で、今度は能見正比古なる人物が現れて、「血液型人間学」を
発表する(1994年)。
そして「政治家の中には、O型が有意に多いことを発見し、『O型には政治性がある』
とした」(p224)。

しかしそれはたまたまそのとき、そうであったにすぎない。

平成6年(1994)10月の調査、さらに著者である大村政男氏による調査では、
この「有意性」は、否定されている。

大村政男氏は、こう書いている。
「……古川はAB型は外見はB型だが、内省(内面)はA型だと書いているだけなのに、
能美は、AB型について詳しく記述しているのである。どこからそのデータをとってきたのだろう
か。沓(よう)としてわからない。
能美の血液型人間学は、10万を超えるデータに基づいているというが、どこにもきちん
とした数値が発表されていないのである」(p226)と。

これが血液型による性格判定の結論と考えてよい。

……とは言いつつ、血液型による性格判定を信じている人は多い。
子どもにもときどき、「先生、先生の血液型は何?」と聞かれることもある。
そういうとき私は、そのつど、デタラメな答を返すようにしている。
ウソをつくというよりは、あまりにもバカバカしいので、そうしている。

「ふ〜ん、A型だったかなア?」と。
すると子どもは、我が意をえたりというような顔して、こう言ったりする。
「だろうな。ぼくも先生がA型だと思っていた。どこか変態だから」と。

で、おもむろに私はこう言う。
「ハハハ、残念でした。ぼくはO型でした」と。

中には、「O型の人は、(「O」の文字が丸いので)、人間的に丸みのある
人」とか、「AB型の人は、A型とB型の両方の性格を合わせもっている」
などと説く人がいる。

バカバカしい。

で、大村政男氏は、「FBI効果」という言葉を使っている。

(1)FREE SIZE効果
(2)BRAND効果
(3)IMPRINTING効果の、3つの頭文字をとって、
「FBI効果」と。


(1)REE SIZE効果というのは、だれにでも当てはまるようなことを
特徴として並べることをいう。
(2)BRAND効果というのは、血液型を先に見て、そのブランドで相手を
判断してしまうことをいう。
(3)IMPRINTING効果というのは、少しでも当たっていたりすると、
「当たっている」と思い込んでしまうことをいう(同氏)。

こうして血液型による性格判定なるエセ科学が、この日本だけにはびこってしまった。

そういう意味では、日本というより、日本人は、まだまだ。
考える力どころか、批判力さえ、じゅうぶんに育っていない。
(だからこそ、この世界は、おもしろいが……。完成されてしまったら、書くことその
ものが、なくなってしまう。)

あなたの子どもが血液型による性格判定を口にしたら、すかさず、こう言ってやろう。
「性格は、あなた自身でつくるもの」と。


●チン長

+++++++++++++++++

突然、A子さん(小6女子)が、遠くから、私にこう聞いた。
このところ、A子さんの身長は、ぐんぐんと伸びている。
それが気になっているらしい。
で、私はこう言った。

+++++++++++++++++

私「そんな恥ずかしいこと、言えないよ」
A「どうして?」
私「だってさア……。チン長だなんて……」
A「あのね、先生、だれもチン長だなんて言ってないわよ」
私「えっ、じゃあ、何と言ったの?」
A「し・ん・ちょう」と。

するとそれを横で聞いていたB君(小4男子)が、こう言った。

「ぼくのは、2・1センチ!」

私「何だ、その0・1センチ、というのは?」
B「だから、2・1センチ!」
私「やめろ、もうわかった!」
A「そうよ、そういう話は、セクハラよ」
私「セクハラ? どうしてセクハラって、知っているの?」
A「だって、いやらしい話でしょ」
私「ぜんぜん。ぼくは、1ミリの話をしているだけだよ。1ミリは、0・1センチ……」
A「ウソばっかり。エッチ!」と。

こういう会話が、私は好き。
楽しい。
陰湿感が、どこにもない。
つまり「性」にまつわる話は、いつでも明るい日向(ひなた)へ引き出してやるのがよい。
「性」に、うしろめたさを感じさせないようにするのが、コツ。

で、私自身のこと。
私も若いころは、いろいろな女性と遊んだ。
(もちろん結婚する前の話だが……。)
が、どの女性も、みな、こう言った。
「林さんとセックスしていると、スポーツをしているみたい」と。
いつだったか、私のワイフも、そう言った。
味もそっけもない。
だから、そう言うのだろう。

私にとって「性」というのは、そういうもの。
で、今日も、どこかの元塾教師が、女子高校生に頼んで、修学旅行での脱衣室の
様子を盗撮させていたという。
そんなニュースが、どこかのインターネットに載っていた。

私も若いころは結構スケベだったと思うが、そういうことをしたいと思ったことはない。
見たかったら、「見たい」と言えばよい。
見せてもらえばよい。
どうせただの肉体。
セックスは、小便と同じ、排泄。

私の感じ方が正しいとは思わないが、ジメジメ、ジクジクと考えるのだけは、やめたい。
大切なことは、子どもたちに、罪悪感をもたせないこと。
陰湿感をもたせないこと。
セックスという行為にしても、明るくさわやかな印象をもたせるのがよい。

どうせただの排泄……。
……というのは、少し言いすぎ?
わかっています、ハイ!

(補記)
結婚して間もなくのころのこと。
家族で横浜へ旅行して、驚いた。
アメリカ軍基地に住む若者たちだったが、彼らはあたりかまわず抱き合い、接吻を
繰り返していた。
「若者」というよりは、まだあどけなさの残る、中高校生たちだった。

私はそれを見てショックを受けたが、その一方で、そういうことが堂々とできる、
アメリカの若者たちを、うらやましく思った。

が、それから30〜年。
日本も、それに近づいてきた。
とくにこの浜松市には、何万人ものブラジル人たちが住んでいる。
彼らは、人前でも自由奔放な行動を繰り返している。
最初はとまどったが、今では、それも見慣れた。
ごく当たり前の光景。

で、気がついてみると、いつの間にか、私とワイフも、同じことをしているのに
気がついた。
人前で接吻とまではいかないが、今では平気で手をつないで街中を歩いている。

ありがとう、ブラジルのみなさん!


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】

●3GB→4GBへ

書斎には2台のパソコンがある。
ほかにもう1台、予備が置いてあるが、これはほとんど使っていない。

2台のうち、左側が、VISTAマシン。
右側がXPマシン。

VISTAマシンのメモリーを、昨日3GBから4GBに増設した。
そしてそのVISTAマシンから、メモリーをそのまま抜いて、
XPマシンへと移動した。
XPマシンのメモリーは、2GBから3GBになった。

そのせいか、VISTAマシンが、心持ち軽快になった。
またあれほど不調つづきだったXPマシンが、うそのように快適になった。
原因は、どうやらメモリーにあったらしい。

こういうときは、気分がよい。
しばらくこのまま使ってみて、10月の誕生日が近づいたら、新しい機種の
購入を考えよう。


●ブラジルの人

ブラジルの人たちというのは、おもしろい。
雨の日でも傘をささないで、通りを歩いている。
(日本の学校へ通う子どもたちは、傘をさしているが……。)
昨日も小雨だったが、全身ビショビショになって歩いている人を、何人か見かけた。
暑い夏ならともかくも、昨日は、車の中でもヒーターをたかねばならないほど、
寒かった。

傘をさす……こんな簡単な習慣ですら、国によって、異なる。
ドライブをしながら、ワイフとそれについて話しあった。

私「傘をさすのは、イギリス人と日本人かな」
ワ「オーストラリア人は、どうなの?」
私「イギリス系のオーストラリア人は、傘をさしていた。最近はみな、傘をさすように
なったけど、ぼくが学生のころには、傘は、あまり見かけなかった」
ワ「ズブ濡れになって、風邪をひかないのかしら……?」

私「家に帰ったら、すぐ熱いシャワーを浴びて、服を着替えるよ」
ワ「よその家に行ったときは、どうなのかしら? その家が濡れてしまうわ」
私「上着を脱いで、タオルで体をふいて、おしまい。家の構造そのものがちがうから、
家が濡れても平気だよ」と。

東南アジアの人たちも、あまり傘をささない。
(傘そのものがないと思ってよい。)
そのかわり、合羽(かっぱ)を、よく身につける。
合羽といっても、薄くて安い、ビニール合羽である。

また傘というのは、トルコで生まれたのだそうだが、そのトルコでも、傘をさす人は
ほとんどいないという(日本洋傘振興協議会hpより)。

が、日本人は、体や服が雨に濡れるのを嫌う。
嫌うから、少しでも雨が降り始めると、「傘、傘!」と騒ぐ。

国民性のちがいといえば、それまでだが、「日本の常識は、けっして世界の標準ではない」。
これもその一例ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●『カラマーゾフの兄弟』

新聞の書評欄によれば、最近、ドストエフスキーの書いた
『カラマーゾフの兄弟』が、売れに売れているという(中日新聞)。
私も学生時代に一度読んだことがあるが、よくできた推理小説という
印象しかもっていない。
しかし実際には、カラマーゾフ家の人々の愛欲の葛藤を描きながら、
中身は、キリスト教を代表するゾシマ長老と、無神論のイワンとの
壮絶なまでの闘いがテーマになっている。

ドストエフスキーは、ほかに『罪と罰』という本も書き残している。
こちらも推理小説風の柱立てをしながら、有神論と無神論の闘いが、
大きなテーマになっている。

当時のロシアは、キリスト教国。その圧迫感が、国民1人ひとりの
上に、重くのしかかっていた。
それは想像を絶する圧迫感だったといってもよい。ドストエフスキーは、
そうした圧迫感と、文学を通して闘った。

これは私の勝手な解釈によるものだが、しかしそういう視点をもって
ドストエフスキーを読むと、より理解しやすいのではないだろうか。
残念ながら、学生時代の私には、そこまで理解する力がなかった。
『カラマーゾフの兄弟』にしても、だれが父親フョードルを殺したか、
その部分だけを、ハラハラしながら読んだ覚えがある。

また少し前は、小林多喜二の『蟹工船』がよく売れたという。そのため日本
共産党への入党者が、ふえているという。
こうして日本の流れを大きくながめてみると、AS総理大臣誕生に向けて
動く極右派と、その一方で、静かなブームとなっている極左派の二極化が
進んでいるということになる。

で、その中間層にあたる「常識派」は、ますます政治に無関心になりつつある。
しかしこれは日本にとって、あまり好ましくない傾向とみてよい。
つまりその分だけ、社会が不安定化する。
どこか世相が、1970年の、あの第二次安保闘争時代に、似てきたような
感じがする。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

【日韓経済戦争】(9・18)

●9月14日に書いた記事のまちがい訂正と、お詫び

++++++++++++++++++

去る9月14日に、【日韓経済戦争】と題して、
韓国の「外平債」について書きました。
しかし「外平債」というのは、いわば外国向けの
国債のことで、韓国銀行が独自に発行する、
「通貨安定証券」とは別のものです。

この両者を混同し、まちがった記事を書いて
しまいましたので、ここにおわびし、記事を
訂正します。

まず9月14日に書いた原稿を、そのまま再掲載
します。

++++++++++++++++++

【日韓経済戦争・9・14】

●外平債って、何?

++++++++++++++

まず、朝鮮N報のつぎの記事を読んでほしい。
こうある(9月13日)。

++++++++++++++

『企画財政部は11日、10億ドル(約1070億円)規模の外国為替平衡基金債券(外平債)の
発行に向け、米ニューヨークで外国人投資家と交渉を進めたが、発行条件をめぐる要求の差
が埋まらず、不調に終わったと発表した。アメリカ金融不安のあおりで、起債計画に支障が生
じた格好だ』(朝鮮N報より抜粋)と。

日韓経済戦争は、まだ終わっていない。
韓国の「9月危機説」も、まだ終わっていない。
その証拠が、この記事である。

まずこの2週間の韓国経済の流れを追ってみよう。
その第一、韓国政府は、手持ちの外貨を大量に使って、ウォン買い、ドル売りの大攻勢に出
た。
その額は今のところ不明だが、10月になればはっきりする。
つまり韓国政府は、一か八かの大勝負に出た。

このまま座視すれば、外資はどんどんと逃避し、ウォンの価値はさがる。
物価は上昇し、国内経済は混乱し、へたをすればそのまま奈落の底へ。

そこでなけなしの手持ちドルを使って、韓国政府は、ウォン買いの大攻勢に出た。
いわば貯金を使って、ウォン防衛に打って出たことになる。
しかしへたをすれば、やがて外貨不足になって、(すでに不足状態だが)、韓国はデフォルト
(債務不履行)に陥りかねない。

結果、一時は、1ドル=1400ウォンまでさがっていたウォンが、現在(9月14日)は、1100ウ
ォン前後で落ちついている。

韓国の各紙は、政府談話を織り混ぜながら、「9月危機は去った」とはしゃいでいる。
しかし「待ったア!」。

ここに出てくる、「外国為替平衡基金債券」、略して「外平債」というのは、わかりやすく言えば、
韓国銀行(日本の日銀にあたる)がする、借金のことである。
わかるかな?
韓国政府の借金ではなく、韓国銀行の借金である。
こんなことは日本の常識では考えられない。
それともあなたは、日本の日銀が、いまだかって、外国に借金をしたというような話を聞いたこ
とがあるだろうか。
あるはずがない。
そもそも「外平債」というのが、世界の非常識。
どこの中央銀行が、外国に借金など、申し込むだろうか。

が、韓国銀行は、それをアメリカのニューヨークで行った。
いわく「発行条件をめぐる要求の差が埋まらず、不調に終わったと発表した」と。
その理由として、「アメリカ金融不安のあおりで、起債計画に支障が生じた格好だ」と。
たくみにアメリカ側のせいにしているところが恐ろしい。

理由は、アメリカの金融不安ではない。
「発効条件が折り合わなかった」からである。
朝鮮N報の同記事も、末尾のところでこう書いている。

「企画財政部のS・J国際業務管理官は、『交渉過程で外国人投資家が韓国経済に対する懸
念を抱いていないことを確認したが、アメリカ市場の状況が思わしくなく、高い金利を要求され
た。あえて悪条件で発行する必要するはないため起債延期を決めた』と説明した」と。

つまり外国人投資家は、韓国経済に対して、懸念はもっていないが、高い金利を要求したの
で、折り合わなかった、と。

現在、原油や金属市場から逃げ出した資本は、いっせいに株式、債権に向かい始めている。
「アメリカの市場が思わしくないので」という理由は、ウソと考えてよい。
本当の理由は、「韓国経済に不安をいだいた投資家たちが、高い金利を要求した」からであ
る。
朝鮮N報にも、そう書いてある。

「金は貸してもいいが、金利を高くしてくれなければ、いやだ」と。
だから折り合いがつかなかった!

つまりこの流れを裏から読むと、韓国銀行には、手持ちの外貨がなくなってしまった。
そこで韓国銀行は、ニューヨークで借金をしようとした。
しかし「金利を高くせよ」と迫られて、結果的に、それを断わられてしまった。

……ということで、「9月危機」は、去ったわけではない。
終わったわけでもない。
いまだ、現在進行中。

さあ、どうする、韓国。
つぎの一手は?

+++++++++++++++++

(ワイフのために……)

わかりやすく説明しよう。

各国の中央銀行(日本のばあい、日銀)は、金の管理をするのが仕事。
もっとわかりやすく言えば、輸出入で出入りする金の決済をするのが仕事。
ほかにも公定歩合などを調整する仕事もあるが、借金までして外貨を調達するというのは、少
なくとも世界の常識からは、完全にはずれている。

これに対して政府が借金するばあいは、ある。
日本の国債などは、その一例。

で、韓国のばあい、韓国銀行そのものに、ドルが不足してきた。
韓国の輸出入業者が、ウォンをドルに換えてほしいといってきたとき、手持ちのドルがじゅうぶ
んあれば、問題はない。
しかしそのとき、「ドルがありません」と言えば、債務不履行の状態になる。
つまりデフォルト。
国家破綻。

それを防ぐために韓国銀行は、世界ではほとんど前例のない、「外平債」の発行をつづけてい
る。
その額、今回は、10億ドル。
私の推測では、韓国政府は、この7月に70億ドル程度の為替介入をしている。
それをベースに推測してみると、9月に入ってからは、おそらく100億ドル程度の為替介入を
繰りかえしたとみてよい。

韓国の経済規模からすると、これはたいへんな額である。
それと比べると、10億ドルというのは、そうたいした金額ではない。
つまりそんな金額ですら、「断わられた」。

韓国の9月危機は、終わったわけではないという理由は、ここにある。

【お詫び】

韓国銀行は独自に、外債を発行して外貨を調達していますが、それはここでいう「外平債」
ではなく、「通貨安定証券」のことでした。
韓国銀行は、国債ではない国債、つまり「通貨安定証券」を発行し、借金をしています。
その「通貨安定証券」と、「外平債」をまちがえました。
ここに深く、おわび申し上げます。

ただだからといって、韓国の経済危機が軽くなったというわけではありません。
見方によっては、「外平債」、つまり「外国向けの国債」ですら、アメリカではソッポを
向かれたということになります。かえってことは、より深刻になっているということ。
その事実は変わりません。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist はやし浩司 カラマーゾフの兄
弟 外平債 通貨安定証券 蟹工船)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2829)

【T林業高校での、成績改ざん事件】

『静岡県西部の県立高校で2006年、大学の推薦入試に有利になるよう生徒2人の調査書が
改ざんされた問題で、T竜署と県警は22日、このうち1人の調査書改ざんに対する虚偽有印
公文書作成・同行使の容疑で、元T林業高校長、北川Y容疑者(60)=浜松市浜北区内野台
=を逮捕した』(中日新聞記事より)と。

これに対して、北川Y容疑者(法律の世界では、被疑者)は、「担任には(入学できるよう)頑張
ろうとは言ったが、改ざんを指示されたと取られたら心外だ」などと否認しているという(同紙)。

もう少し、新聞記事の内容を詳しく読んでみよう。

『調べでは、北川容疑者は校長だった同年9月から同11月にかけて、同校で東京都内の大学
を志望する3年生の調査書の評定を改ざんするよう担任らに指示。3・1だった評定を、推薦出
願基準を満たす3・5にかさ上げさせた調査書を、大学に提出した疑い。

 県教委の調べでは、別の生徒1人の調査書改ざんも判明。2人とも推薦入試に合格し、入学
している。

 県教委などに同校関係者とみられる匿名の通報があり発覚した。北川容疑者や教員らを名
指しし、「地元有力者の身内である生徒の調査書が改ざんされている」といった内容。県教委
は7月、同容疑で刑事告発していた。県警は改ざんの指示に対し、生徒側からの働き掛けや
不正な金品の受け渡しがなかったか、北川容疑者を追及する。

 同日夜には北川容疑者の自宅と同校を家宅捜索。今後も含めて、周辺計9カ所を捜索する
という。改ざんを指示されたとされる教諭4人についても任意で事情聴取を続け、裏付けを進
める。

 遠藤K静岡県教育長の話 警察に委ねており、捜査の状況を見守りたい』(同紙)と。

この記事の中での最大のポイントは、(1)改ざんの発端となった、動機の内容である。
それについて、同じく中日新聞は、つぎのように書いている。

○少子化、過疎化の問題を抱える中山間地の専門高校のトップに就き、生徒募集を有利に進
めるため学校の知名度アップにも熱心だった。

○森谷睦男・現校長は「改ざんは絶対に許されない」という認識を前提に「教諭4人は生徒に希
望の学校にいってもらいたかったという気持ちが強かったと思う」と話した。

○同校の大学進学率は10%前後。「希望の大学に入ってくれれば、学校の知名度も上がる」と
明かす。

○「指導熱心で前向きな先生」−。生徒2人の調査書の改ざんを教員に指示したとして逮捕さ
れた地元の伝統校、天竜林業高校の元校長北川容疑者。
 
○生徒数は減少傾向にあり、現在は400余人。「二俣高校と合併する話もでているほどで、学
校は必死」と訴える。
 
さらに地元の「天竜・そま人の会」HPは、つぎのように北川容疑者を弁護する。

「この事件の要因として忘れてはいけないのは、林業全体が追いやられている危機的な状況。
各自がそれぞれの分析と判断をしていただければと思います」(天竜・そま人の会・HP)と。

で、結果的に、北川容疑者は、地検浜松支部に起訴された。

『県立T林業高校での大学推薦入試調査書の改ざん事件で、地検浜松支部は11日、当時の
校長で無職、北川Y容疑者(60)を虚偽有印公文書作成罪で地裁浜松支部に起訴した。

 起訴状などによると、北川被告は06年9月中旬ごろ、同校の教員らに指示して当時高校3
年生だった生徒の評定平均を3・1から3・5に引き上げ、公印を押させて調査書を改ざんし
た。北川被告は虚偽有印公文書作成・同行使容疑で先月22日に逮捕されたが、地検浜松支
部は「調査書の提出を最終的に決定するのは生徒側」とし、同作成罪でのみ起訴した。

 北川被告は「やっていない」と否認を続けており、供述調書への署名、押印も拒否していると
いう』(毎日新聞)と。

で、この事件の最大のポイントは、動機。

報道によると、調査票を改ざんしてもらい、東京の大学に進学できたのが、「地元の有力者」で
あったとうことから、有力者からの働きかけがあったかどうか。その際に、金銭の授受があった
かどうかという点についても、捜査しているという。

毎日JPもつぎのように報道している。

『北川容疑者は、「働きかけをした覚えはない。そんな風にとらえられたのは心外だ」と容疑を
否認しているが、県警では、生徒の親族である地元有力者から依頼や謝礼があったかについ
ても追及する方針』(毎日JP)と。

もし(地元の有力者からの働きかけがあり)→(金銭的利益の授受があった)ということであれ
ば、これは単純な贈収賄罪ということになる。
たまたま教育の場でなされたというだけで、事件の構図は、談合事件などと同じ、ただ単なる
「汚職事件」ということになる。

「知名度をあげるためにした」「学校の存続をかけて必死だった」などという言葉は、ただの言
い訳でしかない。

で、あくまでも金銭的利益の授受がなかったという前提で話をするなら、(仮にあったとしても、
その双方が口を割ることはないだろうが)、今回の事件は、「生徒の将来を思わんばかりにし
た、教育熱心な教師による善意の事件」ということになる。
教師の立場で考えてみよう。

(1)成績表の信頼性
(2)点数主義の弊害
(3)少子化による入試制度そのものの形骸化
(4)大学教育の不備、欠陥があげられる。

順に考えてみる。


(1)成績表の信頼性と(2)点数主義の弊害

成績表なるものが、いかにいいかげなもにであるかは、現場の教師なら、みな知っている。
それがわからなければ、男たちが働いている職場での勤務評定を見ればよい。
評価のし方としては、相対評価、絶対評価があり、さらに点数主義、人物主義がある。
人物主義にしても、最近では、人格の完成度(EQ論)を応用する学校もふえている。
「勉強しかできない」「勉強しかしない」「頭の中は偏差値でいっぱい」という学生を排除しようと
する傾向も強くなってきている。
さらに高校からあがってくる調査票を無視して、大学独自で、独特の選抜方法をとる大学もふ
えてきている。

「AO方式」と呼ばれる入試選抜方法も、ふえている。

++++++++++++++++++

●AO入試とは

 AO入試について、(Gakkou Net)のサイトには、つぎのようにある。

「大学の 入試形態の多様化は既に周知の事実ですが、その中でもここ数年、センター入試と
並んで多くの大学で導入されているのが、AO入試(アドミッションズ・オフィス入試)です。 

AO入試を初めて実施したのは慶応義塾大学の総合政策学部と環境情報学部で、1990年の
ことでした。99年度には13の私立大学が導入していただけのAO入試も、2001年度には、2
07大学と急増。その後もAO入試を実施する大学は、年々増加の一途をたどっています。

自己推薦制などに似た入試形態です。 学力では測れない個性豊かな人材を求めることを目
的としていて、学力よりも目的意識や熱意・意欲を重視しています。

入試までの一般的な流れは、(1)エントリーシートで出願意志を表明し、(2)入試事務局とやり
とりを行ってから正式に出願するといったもの。

選考方法は面談が最も多く、セミナー受講、レポート作成、研究発表といった個性豊かなもの
もあります。

出願・選抜方法、合格発表時期は大学によって様々で、夏休みのオープンキャンパスで事前
面談を行ったり、講義に参加したりする場合もあります。「どうしてもこの大学で学びたい」受験
生の熱意が届いて、従来の学力選抜では諦めなければならなかった大学に入学が許可され
たり、能力や適性に合った大学が選べるなど、メリットはたくさんあります。

ただし、「学力を問わないから」という安易な理由でこの方式を選んでしまうと、大学の授業に
ついていけなかったり、入学したものの学びたいことがなかったといったケースも考えられます
から、将来まで見据えた計画を立てて入試に望むことが必要です。

AO入試は、もともとアメリカで生まれた入試方法で、本来は選考の権限を持つ「アドミッション
ズ・オフィス」という機関が行う、経費削減と効率性を目的とした入試といわれています。 AOと
は(Admissions Office)の頭文字を取ったものです。

一方、日本では、実は現時点でAO入試の明確な定義がなく、各大学が独自のやり方で行って
いるというのが実情です。

しかし、学校長からの推薦を必要とせず、書類審査、面接、小論文などによって受験生の能
力・適性、目的意識、入学後の学習に対する意欲などを判定する、学力試験にかたよらない
新しい入試方法として、AO入試は注目すべき入試だということができるでしょう」(同サイトよ
り)。

●推薦制度とのちがい 

 従来の推薦入試制度とのちがいについては、つぎのように説明している。

「(1)自己推薦制などに似た入試形態です。 学力では測れない個性豊かな人材を求めること
を目的としていて、学力よりも目的意識や熱意・意欲を重視しています。

(2)高校の学校長の推薦が必要なく、大学が示す出願条件を満たせば、だれでも応募できる
「自己推薦制・公募推薦制」色の強い入試。選考では面接や面談が重視され、時間や日数を
かけてたっぷりと、しかも綿密に行われるものが多い。

(3)模擬授業グループ・ディスカッションといった独自の選抜が行われるなど、選抜方法に従来
の推薦入試にはない創意工夫がなされている。

(4)受験生側だけでなく、大学側からの積極的な働きかけで行われている

(5)なお、コミュニケーション入試、自己アピール入試などという名称の入試を行っている大学
がありますが、これらもAO入試の一種と考えていいでしょう」(同サイトより)。

●AO入試、3つのタイプ

大別して3つのタイプがあるとされる。選考は次のように行われているのが一般的のようであ
る。

「(1)論文入試タイプ……早稲田大学、同志社大学など難関校に多いタイプ。長い論文を課し
たり、出願時に2000〜3000字程度の志望理由書の提出を求めたりします。面接はそれを
もとに行い、受験生の人間性から学力に至るまで、綿密に判定。結果的に、学力の成績がモノ
をいう選抜型の入試となっています。

(2)予備面接タイプ(対話型)……正式の出願前に1〜2回の予備面接やインタビューを行うも
ので、日本型AO入試の主流になっています。 エントリー(AO入試への登録)や面談は大学主
催の説明会などで行われるのが通常です。エントリーの際は、志望理由や自己アピールを大
学指定の「エントリーシート」に記入して、提出することが多いようです。 このタイプの場合は、
大学と受験生双方の合意が大事にされ、学力面より受験生の入学意志の確認が重視されま
す。

(3)自己推薦タイプ……なお、コミュニケーション入試、自己アピール入試などという名称の入
試を行っている大学があるが、これらもAO入試の一種と考えていいでしょう」(同サイトより)。

 詳しくは、以下のサイトを参照のこと。
   http://www.gakkou.net/05word/daigaku/az_01.htm

 また文部科学省の統計によると、

 2003年度……337大学685学部
 2004年度……375大学802学部
 2005年度……401大学888学部が、このAO入試制度を活用しているという。

++++++++++++++++

 年々、AO入試方法を採用する大学が加速度的に増加していることからもわかるように、これ
からの入試方法は、全体としてAO入試方法に向かうものと予想される。

 知識よりも、思考力のある学生。
 ペーパーテストの成績よりも、人間性豊かな学生。
 目的意識をもった個性ある学生。

 AO入試には、そういった学生を選びたいという、大学側の意図が明確に現れている。ただ
現在は、試行錯誤の段階であり、たとえばそれをそのまま中学入試や高校入試に応用するこ
とについては、問題点がないわけではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 AO入
試 アドミッション・オフィス Admission Office 大学入試選抜)

+++++++++++++++++

(3)少子化による入試制度そのものの形骸化

「大学へ入れてやりたい」と思う高校側。
しかし現実には、そこには「1人でも多くの学生を入れたい」という大学側の事情もある。

北川容疑者は、虚偽有印公文書作成・同行使容疑で起訴されたが、「だからそれがどうな
の?」と、いちばん首をかしげているのが、ひょっとしたら、教育関係者自身ではないか。
私自身もそうである。

というのは、「教育」というのは、もっとファジー(あいまい)な部分で成り立っている。
自動車にたとえるなら、ハンドルの(遊び)のようなもの。
成績は、あくまでもその結果でしかないが、しかしたとえテストの点が悪くても、がんばったとい
う姿勢が見られたら、成績表をあげる。
反対に、テストの点がよくても、態度が粗放で、その人間性に疑問をもてば、成績表をさげる。

こうした成績表の操作は、とくに小学校レベルでは、ひんぱんに行われている……というおわさ
は、よく耳にする。
そもそも成績表を正確につけるなどということは、不可能。
さらに科目別に正確につけるなどということは、さらにさらに不可能。
そんなことは、現場の教師なら、みな知っている。
たいての教師は、その子どもの顔や様子を思い浮かべながら、(もちろんテストの点数を参考
にすることはあるが)、「適当に成績をつけている」(某小学校教師)。

むしろ以前のように、点数だけで人物を評価したり、進学先を決めることのほうが、異常なので
ある。
その異常さに、みなが、気がつき始めている。

そういう中で、今回の事件は起きた。

そこで最後に

(4)大学教育の不備、欠陥があげられる。

これは欧米の大学との比較だが、現在、EUを中心として、欧米では、単位の共通化がさらに
進んでいる。

どこの大学へ入ろうとも、そこで取得した単位は、たとえばEU全体で共通化されている。
が、その分だけ、「入学するのは楽でも、単位を取得するのはむずかしい」という現実が生まれ
ている。

日本のように「入学してしまえば、しめしめ」という現実そのものがない。

仮に成績をごまかして入学してきても、そのレベルに達しなければ、進級できないというしくみ
が、大学内部で確立すれば、こうした問題は、すべて解決する。
つまりは、大学教育の不備、欠陥ということになる。

高校側だけを責めるのは、酷というもの。

実際、東京大学で、入試選抜委員を務めたことがある、ある教授は、こう教えてくれた。

「インチキをしても、今ではすぐ、コンピュータに入力し、次回(翌年)からの入試データとして利
用します」と。
「そういうデータを大学側は、しっかりもっていますよ」と。

つまり「あの高校の調査書はあてにならない」とわかれば、その翌年から、その高校の調査書
は信用されなくなるということ。
そういう現実があることを、一般の人たちもよく知っておくべきである。

……ということで、私の結論。

「虚偽有印公文書作成・同行使容疑」ということだが、教育の世界では、見方によっては、成績
表すべてが、「虚偽有印公文書」のようなもの。
どこかで歯止めをかけないと、メチャメチャになってしまうという点で、今回の告発は当然だとし
ても、O県で起きた、たとえば教員の不正採用事件とは、本質的に異質のものである。

もちろん、「地元有力者」と、北川容疑者との間で、金銭的な授受関係があったとしたら、話は
別だが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 天竜高校 成績表改ざん事件 
成績表改竄)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2830)

●今夜・あれこれ(9月20日)

++++++++++++++++++

今夜の思考力、ゼロ。
何を考えても、そのままそれがバラバラになってしまう。
つぎからつぎへと、考えていることが、飛躍してしまう。
……ということで、「バラバラ」について、考えてみたい。

++++++++++++++++++

話している最中から、話がどんどんと飛んでしまっていくタイプの人は少なくない。
たとえばこんな話し方をする。

A子(30歳、架空人物)「昔の人は、苦労話ばかりする。学生時代は、貧乏だったとか」
私「ぼくたちの時代には、家からの仕送りも、下宿代だけだった」
A「奨学金をもらえばいい」
私「奨学金といっても、小額だった」

A「アルバイトは楽しいでしょ」
私「アルバイトも、したよ」
A「スキーは楽しいわね」
私「スキー場でのアルバイトって、こと?」

A「神様はいるわよ」
私「神様って?」
A「神様は、白い着物を着ているって、ほんと?」
私「さあ、どうかな?」

A「キリスト教と仏教では、どちらが役にたつのかしら?」
私「神様の着物の話はどうなったの」
A「ああ、どっちでもいいけど、赤い服じゃ、おかしいわね」
私「スキー場の話って、何?」と。

A「スキー場もいいけど、私は夏の海で泳ぐのが好き」
私「海で?」
A「子どものころは、よく川でも泳いだけど・・・」
私「・・・?」と

話の焦点が定まらない。
会話をからませようとしても、そのつど、振り回されてしまう。
会話をつづけているうちに、私のほうが、自分でも何を話しているか、
わからなくなってしまう。

おとなのばあいは、まだそれでよいとしても、子どもとなると、話は別。
指導そのものが、できない。
脳そのものが、乱舞したような状態になる。
言動が、落ち着かない。
ソワソワ、キョロキョロしている。
静かな会話になじまない。
ときにひとりでキャーキャーと叫ぶ。
ささいな言葉尻をつかまえ、周囲を巻き込んで、ワーワーと騒ぐ。

「風が吹いた・・・でも、キリンさんは、元気・・・冷蔵庫の中には、ミカンが
いっぱい・・・時計が鳴った。・・・ママは、お買い物・・・」と。

こうした症状が、どんな原因によるものなのかは、私にはわからない。
ある種の脳の障害が関係しているのかもしれない。
たとえば脳の微細障害説など。
さらにはその原因として、環境ホルモン説なども疑われる。
もちろん学習面でも、大きな遅れとなって現れる。

左脳の特徴である、分析力、論理性などが、正常に機能していない。
そんな印象をもつ。

このタイプの子どもを、私は勝手に「乱舞児」と呼んでいる。
思考そのものが、乱舞したような状態になることから、そう呼んでいる。
小学1〜2年生児に多く見られる。
程度にもよるが、全体の20〜30%。
しかしその後、3〜4年生になると、急速に症状は落ち着いてくる。
子ども自身が、自分で自分をコントロールするようになるためである。
が、症状が、まったく消えるわけではない。
その残像のようなものは、おとなになってからも残る。

それが冒頭に書いた、A子さんということになる。

「バラバラ」というテーマで書き始めた原稿だが、結構、シリアスな内容に
なってしまった。
(はやし浩司 脳が乱舞する子ども 乱舞児)

(補記)
話していても、そのつどパッパッと話題が飛躍したり、どこかへ飛んでいって
しまうというのは、あまり好ましい現象ではない。
私の知人のH氏(当時、42歳)もそうだった。
従業員30人ほどの電気修理会社を経営していたが、私と知り合ってから、
その会社はまもなく倒産。
そのショックもあって、(私はそう人から聞いていたが・・・)、H氏はそのまま
精神病院へ入院してしまった。

一方、思考力の深い人は、静かな語り口の中にも、きちんとした論理性がある。
ひとつずつ論理を組み立てながら、説得力のある話し方をする。
(思考力)という面からは、こうした人物のほうが好ましいことは言うまでもない。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●持てる人の悩み

++++++++++++

もとからない人は、悩まない。
しかしへたに(失礼!)財産があると、
それなりに悩む。
そういう人は多い。

K氏の実家は、昔からの財産家。
その地域のあちこちに数か所、100坪単位の
土地をもっている。
K氏には、3人の姉妹がいる。
K氏は、その中でも末っ子だった。

父親が死んだとたん、遺産相続問題が起きた。

++++++++++++

この種の問題は、一度、こじれると、とことんこじれる。
こじれるだけならまだしも、当事者たちは、とことん神経をすり減らす。
たがいの微妙なかけひきが、火花を飛ばす。
それがストレスとなって、当事者たちを悩ます。
K氏は「問題が片づくまで、1年かかりました」と言った。
その1年の間に、K氏は、体重を6キロも減らした。

「平等に分けるつもりでいましたが、姉たちが、『あれは私の財産』
『これは私の財産』と言い出し、話がごちゃごちゃになってしまいました。
おまけに私に対して、『あなたは親のめんどうをしっかりと
みなかった』とか、『転勤で、この地に住んでいなかった』などと
言い出しました」と。

K氏のばあい、結局、土地を一度全部売り、現金にして、平等に分ける
ということで決着したそうだ。

もとから財産がない人には、こういう問題は起きる。
へたに(失礼!)財産があると、こういう問題が起きる。
額の多い、少ないは、関係ない。
遺産が数億〜もあればなおさらだが、わずか、数百万円の遺産を
奪い合ってけんかをしている人はいくらでもいる。

私がそんな(数百万程度の)問題で・・・と言いかけると、その人は
こう言った。

「姉は、こっそりと、その土地を駐車場に貸して金を取っていたのですね。
私にはウソばかりついていました。で、私には、『近所の人たちにただで
貸してやっている』と言っていました。それが許せないのです」と。

こうして兄弟関係、姉妹関係が破壊されていく。
K氏にしても、現在は、たがいにまったく音信ゼロ。
他人以上の他人になってしまったという。

では、こうした問題が起きないようにするには、どうしたらよいか。
答は簡単。
生きている私たちが、たとえわずかでも、金銭問題については、しっかりと
けじめをつけておくということ。
遺言書をしっかりと残しておくという方法もあるが、そのつど、息子や
娘たちには、自分の意思を伝えていく。

・・・と言っても、これも簡単ではない。
K氏のケースでも、K氏の父は、晩年は軽い脳梗塞をわずらい、判断力
がかなり鈍った。
さみしさも重なったのだろう。
娘たちが見舞いに来たりすると、それがうれしくて、「あの土地はお前に
やる」とか、「この土地はお前にやる」とか、そのつど一貫性のないことを
口にしていた。

それが遺産問題を、複雑にしてしまった。

しかし・・・命あっての財産。
大病を宣告されただけで、こうした問題は、闇のかなたへ吹っ飛んでしまう。
どうでもよくなってしまう。

それもそのはず。
宇宙は広い。
人間の魂も、それに劣らず、広い。
その宇宙の、ゴミのような地球上で、これまた点のような土地のことで
心をわずらわすこと自体、バカげている。
「死」に直面したとき、よほどのバカ(失礼!)でも、それに気づく。

遺産がもらえたと喜ぶ人。
遺産を取られたと悔やむ人。
どうであれ、そのときも、自分に、「だからそれがどうしたの?」と
問いかけてみればよい。

もちろん事務的にすます問題は、事務的にすます。
遺産相続問題は、純然たる事務問題。
大切なことは、それ以上に、心をわずらわせないこと。
その分だけ、命を縮める。
時間を無駄にする。
そのほうが、よほど「損」というもの。
あとは楽しく、笑ってすごせばよい。

(付記)
子育てが終わることになると、そこにドッとやってくるのは、老後。
年齢的には、あなたの息子や娘が、大学を卒業するころと考えてよい。
それまではみな、子育てに夢中になっているから、そこに老後があることにさえ
気づかない。

で、そのころになったら、10年後、20年後を考えて、自分の身辺の
財産(額の多少は関係ない)について、整理しておく。
まだ脳みその活動が、正常なうちに、そうしておく。
それはあなた自身のためというより、子どもたちのためと考える。

私の近辺でも、遺産相続問題がこじれて、ここに書いたK氏のように
なったケースは、多い。
ほとんどが、そうではないか。
遺産相続問題にかぎらない。
介護問題。
介護の費用問題。
さらには、親の見舞いに来たとか、来なかったとか、そういうことで
兄弟、姉妹関係がこじれることさえある。
また兄弟姉妹の範囲を超えて、叔父、叔母たちがからんでくるケースも
ある。
これは最近、ある司法書士の人から聞いた話だが、本来は遺産相続権の
ない甥や姪が、遺産相続問題に首をつっこんでくるケースもあるという。

この世が、いかに金に毒されているか、こうしたケースは、それをその
まま証明している。

そこでまた自問してみる。

「金(マネー)というのは、額ではない。使い方の問題である」と。
「金があれば安心」「なければ不安」というのであれば、すでにあなたは、
金(マネー)の奴隷になっているということ。

金(マネー)がなければ、不幸になる。
それは事実。
しかし金(マネー)では、幸福は買えない。
これもまた事実。
ないよりはあったほうがよいが、金の奴隷となったとたん、それと
引き換えに、人は、孤独に包まれる。
その孤独ほど、恐ろしいものはない。

(付記2)

相手から相談でもあれば、話は別だが、この種の問題には、首をつっこまない
こと。
それが親類、縁者のものであっても、「私は関係ありません」を貫くのがよい。
この種の問題に首をつっこむと、あなた自身も、その騒動に巻き込まれ、人間関係
がめちゃめちゃになってしまう。

というのも、一方の当事者は、自分の落ち度やまずい点については、話さない。
一方的に相手を悪く言う。
そういう一方的な話だけを聞いて、全体を想像すると、誤解が誤解を生み、さらに
人間関係がおかしくなる。

私も少し前も、こんなことがあった。
近い人から、息子の離婚問題についての相談を受けた。
「息子夫婦が、離婚したのだが、元嫁が、離れの家から出て行かない。
どうすれば追い出せるか」と。
協議離婚はしたものの、元嫁が、別棟の家から出ていないので、困っている
という内容の相談だった。
息子夫婦には、当時、中学生と小学生の子どもが2人、いた。
2人の子どもは、元嫁のほうを親として選んだ。

で、話を聞いていると、要するに、「財産を分けたくない」という内容だった。
が、こういうケースのばあい、家を追い出される女性の立場のことも考え
なければならない。
2人の子どもをかかえて、「はい、さようなら」というわけにはいかない。
だからその元妻は、離れに住み、それに抵抗した。

が、その人は、何度も電話をかけてきて、元嫁の悪口を並べた。
自分の意見を正当化しようとした。
しかしいくら悪口を並べても、法律的には、ただの雑音。

「養育費、慰謝料、財産分与など、払わなければならないものは、払わなければ
なりません」と答えると、「そんな必要はない」「あんなひどい嫁に、お金を渡す
必要はない」の一点張り。
やがておかしな押し問答になってしまった。

あとで、つまり1年ほどしてから人伝えに聞いたところによると、その
人が、私の悪口を言いふらしているのを知った。

「あの林は、冷たい男だ」「私の相談にものってくれなかった」と。

だから最近は、いくら近い人でも、私はこの種の相談には、のらないように
している。
「弁護士さんに相談するのがいちばんいいですよ」と言って、逃げることに
している。

(付記)
M県で司法書士をしている友人のU君さえも、先日、電話で同じようなことを言っていた。
「不動産取り引きなどは、不動産屋に任せたほうがいいよ。
身内だからといって、安易に引き受けると、あとでめんどうなことになる」と。

そう言えば、家庭教育の世界でも、同じようなことが言える。
たとえば身内だからといって、その子どもの勉強の指導を引き受けたりするのは、
やめたほうがよい。
うまくいっても、(うまくいくケースは、10にひとつもないが)、当たり前。
失敗すれば、そのまま人間関係も、おしまい。
こと受験勉強に関しては、お金はかかっても、そこはプロに任せたほうがよい。
やめるときも、後腐れなく、やめることができる。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●シロが、嫁さんを連れてやってきた。

+++++++++++++++++

毎日、庭に、ハトの餌をまいている。
そこへ毎日、何羽かのドバト(野生のハト)が
やってくる。

+++++++++++++++++

春先からいつも一羽のドバトが、私の庭にやってきていた。
いつも一羽。
首の下に、白いえりまきのような輪があるから、私とワイフは、「シロ」と
呼んでいた。

たいへん意地の悪いドバトで、私の庭を独り占めにしていた。
ほかのドバトが入ってくると、すかさず、そのドバトを追い出したりしていた。

ところが今日、9月21日、そのシロが、嫁さんを連れて、私の庭にやってきた。
首筋がほっそりとした、なかなかの美人である。
首の下左右には、青と黒の、美しい縞模様がある。

私「シロが嫁さんを連れてきたよ」
ワ「あら、ほんとう。とうとう見つかったのね」
私「よかったね」と。

しかしどうも、仲がおかしい?

2羽とも、静か。
餌場の中に、じっとたたずんでいるだけ。
シロは嫁さんを、どこか遠慮がちに見守っているといった感じ。
ラブラブといったふうでもない。

私「まだ見合い中といったところかな?」
ワ「はじめてのデートで、戸惑っているみたい」
私「シロはまだ童貞みたいだ」
ワ「嫁さんのほうも、まだ処女みたい」
私「フ〜ン、ぼくが行って、指導してやろうか?」
ワ「どうやって指導するの?」
私「お前がうずくまって、ぼくが上から載って、ククー、ククーとやればいい」
ワ「バカバカしい……。ハハハ」と。

曇り空の暗い空。
その下でシロは、毛づくろいを始めた。
やはり嫁さんが気になるらしい。

いつもならほかのドバトをバタバタと追いかけ回してばかりいるシロ。
そのシロが、今日は、おとなしい。
満足げに、おっとりとしている。

よかった!


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●過渡期の認知症

++++++++++++++++

認知症になるのは、私の勝手。
あなたの勝手。
しかしその過程で、多くの人たちに
迷惑をかける。
これが問題。

とくにその過渡期が、問題。
認知症とその人がはっきりとわかれば、それでよし。
対処の仕方も、それでわかる。
が、その一歩手前というか、認知症かな(?)と
思っても、それがはっきりしないときが、たいへん。

先月亡くなった私の兄についても、こんなことがあった。

+++++++++++++++++

その朝、高校の同窓会があった。
私は、シンガポールで買ってきた洋酒(ジョニ黒)を、恩師へのみやげに用意した。
で、出かけようと思ったそのとき、その洋酒の栓が抜かれているのを知った。
上から数センチ分、洋酒が減っているのもわかった。

私は兄がそうしたことが、すぐわかった。
兄を呼び、「どうしてこんなことをするのだ!」と怒った。
それに対して兄は、それほど悪びれた様子もなく、こう言った。
「ちょっと飲んでみたかっただけや」と。

そのときは私は本気で、兄に怒りを覚えた。
が、そのときを境に、兄の奇行が目立つようになった。
つまりそのときが、過渡期だった。
今から15、6年も前のことだった。

で、それ以後は、同じようなことがあっても、兄を相手にしなくなった。
「私の兄は、そういうものだ」という前提で、つきあうようになった。
何か心配なときは、前もって、予防策を講じたりした。

……という場面に、このところ、よく出くわす。
知人、友人、親類の人たちなど。
年齢がその年齢に近づいてきたということもある。
認知症とは断言できないが、しかしその過渡期かなと思わせる人たちがいる。
こういうケースのばあい、こちらは本気で相手にしてはいけない。
本気で相手にしても、意味はない。
相手にすればするほど、相手のワナにはまってしまう。

中には、「母がこうなってしまった」「父がこうなってしまった!」と、
電話で泣きわめいてくる人がいる。
その人はその人で、過渡期の認知症がどういうものであるか、わかっていない。
だから混乱する。
ギャーギャーと大げさに、騒ぐ。

が、過渡期かなと思うことで、その人を理解することができる。
理解したとたん、その人との間に、距離を置くようになる。
怒りも、それで収まる。

ある年齢になり、「どこかおかしい?」と感じたら、その過渡期を疑ってみればよい。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●五感を刺激する

+++++++++++++++++++

映画は、ボケ防止には、たいへんよい(と思う)。
はっきりとした根拠があるわけではないが、
映画を見ることによって、五感が刺激される。

家庭でDVDを見るという方法もあるが、私はやはり
劇場で見るのがよいと思う。

迫力がちがう。
それに私のワイフのばあい、家庭でDVDを見ていると、
そのままよく眠ってしまう。
だから劇場で見るのがよい。

とくに私のように、ものを書く人間は、そうである。
書いてばかりいると、社会性そのものが、現実世界と
遊離してくる。
思想が偏(かたよ)ったり、極端になったりしやすい。
が、映画を見ることによって、さまざまな世界を
疑似体験できる。

泣いたり、笑ったり、怒ったり、ハラハラドキドキしたり……。

それに字幕を読みながら映画を見ることによって、
脳みそが、英語と日本語の両方で刺激される。

ということで、私とワイフは、週に2回は劇場まで足を運び、
映画を見ることにしている。
満50歳以上は、1回1000円。
6回見ると、7回目はタダ。

肉体的な健康維持のため、ジムに通う人は多い。
同じように、脳みその健康のため、映画館に通ってみてはどうか。
種類は、問わない。
というより、私のばあい、時間帯さえあえば、片っ端から見ている。
子ども向けの映画を見ることもある。
ただしどうせお金を出すなら、楽しいものを見たい。
見て、不愉快になるような映画は、いや。
ハッピーエンドで終わる映画なら、文句なしによい。


●不安の原点

++++++++++++++++++

世界経済が、おかしい。
それについて、少し前、私は
「おかしな胸騒ぎがする」と書いた。

私は、ある種の不安感を覚えた
ことになる。
それはそれとして、つまり経済問題は
別として、この問題は、「不安」について
考えるには、たいへんよいテーマと思う。

「不安とは何か?」
「不安はどこから来るのか?」
「不安を解消するためには、どうすれば
よいのか?」

++++++++++++++++++

「不安」は、心理学の分野でも大きなテーマになっている。
大きく分けて、不安の原因として、(1)抑うつ説と、(2)恐怖説がある。
またその前後関係について、(1)不安感が先にあって、抑うつ的になったり、
恐怖感を覚えるようになる。(2)抑うつ的になったり、恐怖感を覚えたあと、
不安になるの、2説がある。

私の個人的な実感としては、「不安のメカニズム」は、「ストレス学説」と似ている
ように思う。
現象面だけを見ると、たいへんよく似ている。

たとえばこんなことがあった。

数年前、健康診断を受けた。
しばらくするとセ検査ンターから検査報告書が届き、私の胃について、「要精密検査」と、
そこには書いてあった。

私にとっては、生まれてはじめての経験だった。
私はその言葉を見て、かなり動揺した。
「どの程度の心配があるのか?」
「どのレベル以上を、要精密検査というのか?」
「要精密検査とは何か?」
そういった情報が、まるでなかった。
あるいは「すでにがんにかかっているので、もう一度検査しなおす」という意味にも
とれた。

私は自分の体を静かに観察してみた。

食事はおいしい。
このところ胃の不調を訴えることはない。
体の調子も悪くない。
体重が減ったということもない、など。
そのあと、私は自分にこう言って聞かせた。
「仮にがんであっても、今なら間に合うはず」と。

こうした一連の心理状態を並べてみると、こうなる。

(要精密検査の報告書をもらった)→(得体の知れない恐怖感を覚えた)→
(不安感を覚えた)→(気分が落ち込んだ)→(「私はだいじょうぶ」と自分に
言って聞かせた)と。

「ストレス学説」によれば、(得体の知れない恐怖感)がストレッサーとなり、それが
一時的にはアドレナリンの分泌を促し、それが一巡し、気分を落ち込ませたことに
なる。

そこで私はすぐ、検査センターに電話を入れ、「要精密検査とは何か」を聞いた。
するとあちこちへ電話を回され、最後はドクターと思わしき人が、こう教えてくれた。
「今回の検査では検査できなかった部分がありますから、その部分を再検査します」と。

が、それで私の不安感が去ったわけではない。

私は翌日、かかりつけの医院へ行き、個人的に検査を受けた。
そんな状態で、再検査までに2週間も過ごしたら、気が変になってしまう。
で、結果はシロ!
とたん胸の中のモヤモヤが、スーッと消えた。

そこで得た教訓は、(1)まず敵の正体を知る、である。

何かのことで不安感を覚えたら、まず敵の正体を知る。
それが何であるか、正確に知る。
あいまいなままだと、妄想だけが勝手にふくらんでしまう。
その妄想が、強烈なストレスとなって、心を万力のように押しつぶし始める。

が、それがシロであれ、クロであれ、正体がわかれば、つぎの対処方法がわかる。
一歩、前に出ることができる。

つぎに大切なことは、(2)周辺情報を集めて、整理する。

これは大病には当てはまらないかもしれないが、情報をできるだけ多く集めて、
外堀をしっかりと埋めておく。
「こうなったら、こうする」「それでもこうなったら、こうする」と。
そういう対処法を、幾重にも、自分の周囲に、砦(とりで)のように積み重ねていく。
私はこれを「理論武装」と読んでいる。
つまり、「武装」する。

が、そうしたところで、不安感はすぐ消えるわけではない。
脳みそというのは、そういう点では、不器用。
一度分泌されたサイトカイン(ストレスの原因となる脳内ホルモン)は、すぐには
消えない。
静かに脳内で起こる(フィードバック現象※)を待つか、それとも、精神安定剤のような
薬物の世話になるしかない。
(私のばあいは、ハーブ系の安定剤をよく服用する。効果は薄いが、副作用や習慣性が
生まれない分だけ、安心してのめる。)

そこで「不安」について。

無知、無学、情報不足、経験不足、知識不足が、不安の原因の第一と考えてよい。
冒頭にあげた経済問題についても、そうである。
あまりにも情報が多く、全体として、まるで巨大な雲をつかむよう。
どの分野を、どのように切り込んでいったらよいかさえ、わからない。
そこに何があるのかさえ、わからない。
だから、言いようのない不安感に襲われる。

もうひとつの例をあげて考えてみる。

山荘が完成し、その山荘で暮らすようになってすぐのこと。
夜中に、庭をだれかが歩く音がする!
庭には、砂利を敷きつめてある。
その砂利が、ジャリ、ジャリと音を出す。

私は生きた心地がしなかった。
「だれだア!」と声をあげても返事もしない。
が、突然、風呂場のほうで、何かがバタンと倒れる音。

私は起きあがって、家中の電気をつけた。
そして懐中電灯をもって、外に出た。
が、そこには何もいなかった。
風呂場も、そのままだった。

翌日から私は、おもちゃのモデルガンと、木刀を枕元に用意した。
戸締りもきちんとした。

が、やがて、その理由がわかった。

夜になるとそのあたりでは、ハクビシン、タヌキ、イノシシ、それに近所の
イヌやネコがかわるがわる徘徊する。
それがそういう足音をたてた。
また風呂場での音は、鏡が原因だった。
バスタブをかわかすため、窓を開けておいた。
そこから風が入り、鏡を倒した。

ということで、それ以後は、恐怖心は消えた。
さらにそのあたりでは、村の人たちがこう言っているのを知った。
「この村では、この400年、泥棒(空き巣)に入られた家は一軒もない」と。

……とは言いながらも、この世界、どこもかしこも、不安だらけ。
不安と無縁で生きるほうが、むずかしい。
それぞれの不安と闘う時間すら、ない。
それに不安というのは、一度心の内壁に張りつくと、なかなか取れない。
(これは私だけの現象かもしれないが……。)
だから不安になってから、その不安と闘うのではなく、そうでないときから、
いろいろな情報を吸収しておく。

たとえば私のばあい、病気などについては、近辺にその病気の人が出たりすると、
その病気について、徹底的に調べるようにしている。
アルツハイマー病の人が出たら、アルツハイマー病について。
心筋梗塞の人が出たら、心筋梗塞について、というように。

もちろん人間関係についても、そうである。
冠婚葬祭に始まって、遺産相続問題などなど。
とくに今は、インターネットというたいへん便利なサービスもある。
以前なら、図書館で1日かかった調べ物が、ものの数分ですんでしまう。
体験談もそのまま読むことができる。

しかし悪いことばかりではない。
こうして私がものを書きつづけることにしても、見方によっては、その原点に
不安があるからにほかならない。
もし私が天国のような世界に住んで、何一つ不自由なくのんびりと暮らしていたら、
たぶん、ものなど書かないだろう。
ものを考えることもないだろう。
つまりこれも「ストレス学説」と似ている。
適度な不安は、生きる原動力となる。

それが「命」にかかわる問題でなければ、何も恐れることはない。
不安を避けるのではなく、不安とは仲よくつきあう。
それが、私の不安解消法ということになる?

なお心理学の世界では、「不安」を、心理分析の中核に置いている。
さまざまな学者が、それぞれの意見を論議しあっている。

欲求不満説
葛藤論
自己概念に対する脅威論
不安因子論などなど。

俗な言い方をすれば、「なるようにしかならないものは、あきらめ、何とか
なるものについては、がんばる」。
それしかない。

(注※)「フィードバック現象」……脳の中である種の反応が起こると、今度は、
それを打ち消すための別の反応が、同時に起こる。これを「フィードバック現象」
という。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●歯磨き一考

++++++++++++++++

長い間、口臭に悩んだ。
ときどき生徒からも、「先生の口は臭い」と言われた。
そのつど私は、「これはな、女よけなんだ」と言うようにしていたが、
そのため、若い母親などは、私に近づいてこなかった。

+++++++++++++++

で、歯医者へ行くたびに、こう言われる。
「口臭は、歯の磨き方が原因です」と。
で、何度か、磨き方の講習を受けた。

「口臭の講習(コウシュウのコウシュウ)」……シャレにもならない。

しかし原因は、やはり磨き方だった。
磨き方が悪いから、歯ぐそが残り、歯肉炎を起こす。
それが口臭となる。
理屈は簡単。
しかしその磨き方が、けっこう、めんどう。

(1)ひげが短くて、硬い歯ブラシ。
この歯ブラシで、数ミリずつ左右に動かして、歯と歯ぐきの間の食べかすをていねいに取り去
る。(手先をこまかく動かすのがコツ。)

(2)ひげが長くて、硬い歯ブラシ
これを「ローリングブラシ」というが、これをローリングさせながら、歯と歯の間の食べかすを取
り去る。
(手首をクルクルとローリングさせるので、最初は、練習が必要。)

(3)ふつうの市販の歯ブラシ(やややわらかい)
最後に、この歯ブラシで、ざっと磨いて、終わる。
(ほかにときどき、歯間ブラシを使うようにと、指導されている。)

全体で20分ほどかかる。
そのため風呂の中ですることが多い。
で、一応、口臭はなおったように思う。
臭いときは、ワイフがそう言って指摘してくれる。
このところ、その指摘がぐんと減った。

●歯磨き粉(練りチューブ)は、不要!

こうした歯磨きをつづけていて、気がついたことがある。
それはチューブに入った、歯磨き粉は、不要ということ。
おそらく歯を磨いたあとの清涼感のために、ああしたものを使うのだろうが、かえって
弊害もある。

先に書いた(1)〜(3)の歯ブラシで歯をみがいていると、信じられないほど、汚れた
水が口から出てくる。
汚水に近い。

歯磨き粉を使っていると、清涼感は残るが、その汚れがわからない。
「歯がきれいになった」と錯覚してしまう。
水の汚れがわからないから、途中でやめてしまう。
これがかえって、歯の汚れを残してしまう。

しかし歯磨き粉を使っていないと、少しずつ歯がきれいになっていくのがわかる。
水の汚れを見ながら、「まだここは磨き方が足りないな」とか、わかったりする。

その前に、歯磨き粉をなぜつけるのか、その理由がよくわからない。
「フッ素配合」「白い歯に」とか何とか、それらしい歌い文句は書いてはあるが、効果が証明さ
れているわけではない。
私がいつも通っている歯科医院の医師は、こう言う。

「あんなものをつけても、無駄ですよ。どうしても、というなら、塩にしなさい」と。
ふつうの塩でよいのだそうだ。

このあたりの意見が、私は正解のように思う。

さて、歯磨き粉を使わなくなって、もう3、4か月になる。
今は、それが当たり前になっていて、練りチューブも、どこかへ消えた。
使わなくても、不都合なことはまったくない。
もし私の説を疑う人がいたら、しばらく歯磨き粉なしで、歯を磨いてみたらよい。
あなたもかならずや、私の意見に賛成するようになるはず。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●秋

+++++++++++++++++++

今日、1日、私はうつ状態だった。
うつ状態というのは、心の緊張感が、ずっと取れない状態をいう。
どこか、心がピンと張りつめたような感じになる。
気が抜けないというか、いろいろささいなことが、心の壁にペタリと
張りついているような感じになる。
不安と心配が入り混じったよう。
それが取れない。
すっきりしない。

こういうときというのは、何かのきっかけで、突発的に心は
不安定になり、激怒したりしやすい。
それがわかっているから、じっと静かに、自分の心を見守る。

昼過ぎになって、Sxxxという安定剤を、半分に割ってのむ。
もともとは、女性用の精神安定剤だそうだ。
が、私には、効く。
少し頭痛もあったので、頭痛薬も半分のむ。
とたん、眠気。

「昼寝をしてくる」と言うと、ワイフも、「私も……」といって、
1〜2時間ほど、横でつきあってくれた。

起きてからも、あまり状態は変わらなかった。

ワ「何も、悩むことなど、ないのに……。すべてうまくいっているでしょ」
私「それが、おかしいのだよな。これといったことはなくても、憂うつになる」
ワ「私を信じなさいよ」
私「信ずるって?」
ワ「私がだいじょうぶと言ったら、だいじょうぶなの」
私「うん……」と。

夕方になって、今度講演をすることになっている、A教育委員会用のレジュメを
作成する。
けっこう、よいのができた。
それを封につめて、宛名を書く。
で、そのあと、長野県S市に住む友人に電話。
「おお、元気か?」
「おお、元気だ」と。

あとで見たら、1時間10分も話していたことがわかった。

その電話がよかった。
電話が終わったとき、心が軽くなっているのを知った。
バンザーイ!

こういうときは、友人と話すのがいちばん、よい。
みんな、それぞれにがんばっているのだと知るだけでも、励みになる。

で、今は、時刻は午後8時4分前。
ワイフに「DVDでも見ようか?」と声をかけると、「うん」と。
すなおに返事をしてくれた。

そうそう友人がこう言っていた。

「生きるということは、長生きをすることじゃ、ないんだよな。
生きるということは、いかに密度を濃くして生きるかということだよな」と。

つまり元気で体が動くうちに、やるべきことをやるということ。
近く再開することを約束する。

近くに湯田中温泉、山田温泉、上山田温泉があるという。
交通事故でむち打ち症になってから、体の調子がよくないという。
見舞いをかねて、近く行ってみよう。


●ジョン・デンバー主役の『別れのとき』

ワイフが取り出しのが、ジョン・デンバー主役の『別れのとき』。
タイトルからして、うつ状態を加速させるような映画?
ジョン・デンバーが主演だから、新しい映画ではない。
が、ジョン・デンバーのファンの人には、たまらない映画だろう。
実は、私もその1人。
軽い気持ちで見始めたが、見始めるとすぐ、ジョン・デンバーが歌を歌った。

年代はわからないが、ジョン・デンバーが、35歳前後のときの作品らしい。

内容はやや退屈?
「デンバーの歌が出てきたら見る」と言って、私は再び、パソコンと遊び始める。

映画としては、星2つ、★★。
ジョン・デンバーのファンとしては、星5つ。★★★★★。

ただし、「カントリー・ロード」や「サンシャイン」など、ジョン・デンバー
の有名な曲は、出てこなかった。
残念!


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2831)

●秋

+++++++++++++++++++

今日、1日、私の情緒は不安定だった。
情緒が不安定というのは、心の緊張感が、ずっと取れない状態をいう。
どこか、心がピンと張りつめたような感じになる。
気が抜けないというか、いろいろささいなことが、心の壁にペタリと
張りついているような感じになる。
不安と心配が入り混じったよう。
それが取れない。
すっきりしない。

こういうときというのは、何かのきっかけで、突発的に心は
動揺しやすくなり、ささいなことで激怒したりする。
それがわかっているから、じっと静かにしているのがよい。
自分の心を見守るのいがよい。

こうした病気(?)は、「治そう」と思わないこと。
治るはずもない。
大切なことは、じょうずにつきあうこと。
自分の心の欠陥を認めること。

で、昼過ぎになって、Sxxxという安定剤を、半分に割ってのむ。
もともとは、女性用の精神安定剤だそうだ。
が、私には、効く。
少し頭痛もあったので、頭痛薬も半分のむ。
とたん、眠気。
ものすごい眠気。

「昼寝をしてくる」と言うと、ワイフも、「私も……」といって、
1〜2時間ほど、横でつきあってくれた。

起きてからも、あまり状態は変わらなかった。

ワ「何も、悩むことなど、ないのに……。すべてうまくいっているでしょ」
私「それが、おかしいのだよな。これといったことはなくても、気分が落ち込む」
ワ「私を信じなさいよ」
私「信ずるって?」
ワ「私がだいじょうぶと言ったら、だいじょうぶなの」
私「うん……」と。

夕方になって、今度講演をすることになっている、A教育委員会用のレジュメを
作成する。
けっこう、よいのができた。
それを封につめて、宛名を書く。
で、そのあと、長野県S市に住む友人に電話。
「おお、元気か?」
「おお、元気だ」と。

あとで見たら、1時間10分も話していたことがわかった。

その電話がよかった。
電話が終わったとき、心が軽くなっているのを知った。
バンザーイ!

こういうときは、友人と話すのがいちばん、よい。
みんな、それぞれにがんばっているのだと知るだけでも、励みになる。

で、今は、時刻は午後8時4分前。
ワイフに「DVDでも見ようか?」と声をかけると、「うん」と。
すなおに返事をしてくれた。

そうそうその友人がこう言っていた。

「生きるということは、長生きをすることじゃ、ないんだよな。
生きるということは、いかに密度を濃くして生きるかということだよな」と。

つまり元気で体が動くうちに、やるべきことをやるということ。
近く再開することを約束する。

近くに湯田中温泉、山田温泉、上山田温泉があるという。
交通事故でむち打ち症になってから、体の調子がよくないという。
見舞いをかねて、近く行ってみよう。


●ジョン・デンバー主役の『別れのとき』

ワイフが取り出しのが、ジョン・デンバー主役の『別れのとき』。
タイトルからして、うつ状態を加速させるような映画?
ジョン・デンバーが主演だから、新しい映画ではない。
が、ジョン・デンバーのファンの人には、たまらない映画だろう。
実は、私もその1人。
軽い気持ちで見始めたが、見始めるとすぐ、ジョン・デンバーが歌を歌った。

年代はわからないが、ジョン・デンバーが、35歳前後のときの作品らしい。

内容はやや退屈?
「デンバーの歌が出てきたら見る」と言って、私は再び、パソコンと遊び始める。

映画としては、星2つ、★★。
ジョン・デンバーのファンとしては、星5つ。★★★★★。

が、よく知られた曲は、一曲も収録されていなかった。
どれも映画用の新曲ばかり(?)。

残念!


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●体重が65キロ台!

少しがんばった。
1か月前には、68・5キロだった体重が、今朝は、65・5キロになっていた。
3キロの減量!
バンザーイ!

昨夜は鼻水が出るような状態だった。
が、サイクリングは欠かせない。
家に帰った直後、雨。
あやうくセーフ。
が、おかげで、風邪がひどくなってしまった。
朝起きて、うがい。
それに風邪薬。
今日は、そんなわけで、頭が重い。

しかし体が軽くなったのは、実感としてわかる。
やせればやせるほど、体は軽くなるのだろう。
が、筋肉がなえてしまったのでは、意味がない。

ワイフと卑猥(ひわい)な話をする。

私「あのなあ、チンxxをズボンの中にしまうとき、先を下に向けてはいけないんだよ」
ワ「あらそう? そんな話は、知らなかったは……」
私「ズボンの中にしまうときは、先を上に向けてしまうんだよ」
ワ「下に向けてしまったら、どうなるの?」
私「チンxxというのはね、そのつどいつも伸び縮みしているからね」

ワ「じゃあ、男も、ブラジャーのようなものをつければいいんじゃない?」
私「それも困る」
ワ「どうして?」
私「窮屈だ。小便をするときも、困る。それにモリモリといつもふくらんでいると、
変態に思われる。ところで、知っているか? チンxxというのは、別の意思を
もっているんだよ」

ワ「別の意思って?」
私「ほら、マムシでも、頭を切っても、体だけ、別に動くだろ。あれと同じ」
ワ「気持ち悪いわね」
私「そう、だから死んだ人がBOKKIするということもあるそうだ」
ワ「あら、そんなこと、知らなかったわ」

私「まだまだお前には話してない、秘密がたくさんある。中国では、死んだ人の
チンxxは、上に向けるのだそうだ」
ワ「ホント?」
私「あの世へ行っても、すぐ役にたつように、ね」
ワ「あの世でもSxxをするのかしら?」

私「どうも、そうらしい」
ワ「あなたが死んだら、チンxxを、上に向けてあげるから」
私「そうだな、頼むよ。あの世には、きれいな子がいるかもしれない」と。

朝食のときの、いつものバカ話。
ここに書いたことは、すべて、ジョーク。
(女性の読者の方へ……どうか信じないでほしい。詳しくは、旦那様に聞いてください。)
しかしこういう話だと、ワイフは、すべて信じてしまう。
そこがおもしろい。


●猿対策

このところ秋になったことあり、山荘が山猿に襲われることが多くなった。
雨どいのいくつかが、山猿に破壊されてしまった。
テレビのアンテナも折られてしまった。

今日、その修理に山荘へ行かねばならない。
が、ただではいかない。

山猿撃退用の装置をいくつか、つくった。

まず雨どいには、釘を四方八方につけたカバーをとりつける。
これは先日、別に買ってきた雨どいに、ドリルで穴をあけ、釘を刺して、私が作った。
同じように、電話線にも、釘を刺したカバーをとりつける。
電話線を伝ってやってくる山猿もいる。

それに裏山から、屋根に飛びついてやってくる山猿もいるようだ。
それについては、対策をこれから考えるところだが、こうしていろいろ考えるところに
山荘ライフのおもしろさがある。

相手は、(自然)。

山猿にしても、必死。
今度、山の向こうを、第二東名が走るようになった。
そこを追われた山猿が、山荘の近くにまで、出没するようになった。
もとはといえば、人間が悪い。

そうそう小屋の下を、何かの動物が、ねぐらにしているらしい。
いつも大きな穴があいている。
ワイフは、それを嫌う。
しかたないので、あたり一面、ガソリンをまいた。

ヘビや動物は、ガソリン(もしくは灯油)のにおいが、嫌いらしい。

……ということで、今年は、栗の収穫は、ゼロ。
みんな山猿に食べられてしまった。
しかしこういうことがあるから、山荘ライフは、楽しい。
おもしろい。

私と山猿との知恵比べは、しばらくは、つづきそう。


●金の奴隷

++++++++++++++++++H.Hayashi

金の奴隷にも2種類ある。
プラスの奴隷と、マイナスの奴隷。

プラスの奴隷というのは、金の力にものを言わせて、
得意になるタイプ。

マイナスの奴隷というのは、いわゆるケチ。
貧乏であることを売り物にして、(本当に貧しい人もいるが)、
始終、チマチマしている。

++++++++++++++++++H.Hayashi

●プラスの奴隷

若いころ、こんな社長がいた。
日本全体がバブル経済に向けて、狂ったように走り出したころのこと。
会社の主だった社員はもちろんのこと、取り引き先の人や、何と近所の人たちまで招待
して、台湾や香港へ旅行していた。

私はそのときその旅行の世話と、通訳をしていたので、それがどんな旅行だったかを、
よく知っている。
その社長は、たとえば大きなレストランに入ったりすると、「チップ」と称して、
1000円札を、パパーッとあたりにバラまいたりしていた。
私はそれを見てあきれたが、社長は、得意満面だった。
そういう形で、その社長は、自分の力を誇示していた。

プラスの奴隷になると、金持ちであることを、自慢したくなるものらしい。
親戚や縁者を金銭的に援助したり、ものを買い与えたりする。

しかし誤解してはいけない。
だからといって、利益を得た人たちが、それでその人に
感謝しているかといえば、そういうことはない。
尊敬しているかといえば、そういうこともない。
金(マネー)の力は、ものを動かす力はあっても、心を動かす力は弱い。
恐ろしく、弱い。

前にも書いたが、こんな話を聞いた。

●金(マネー)の力は、弱い

長い友人に、K氏という人がいた。
昨年、脳梗塞で倒れ、そのまま他界してしまったが、その地域の開業医として、かなりの
収入を得ていた。
で、そのK氏のもとに、K氏の親類たちが集まってきた。
いつの間にか、K氏が、そうした親類たちの金銭的なめんどうをみるようになっていた。

K氏はいつも私にこう自慢していた。

「弟と妹に、4人の息子や娘たちがいるが、みんな私が大学を出してやった」と。
学費を援助したというのだ。
K氏には、そういう形で、甥や姪のめんどうをみるのが、生きがいだったようだ。

が、そのK氏が他界した。
突然の死だった。
私は通夜と本葬の両方に参列させてもらった。
しかし、である。
K氏の兄弟らしき人たちは来ていたが、K氏が学費を援助したと思われる若い人たちは、
来ていなかった。
そのことをK氏の妻に確かめたとき、「そんなものだろうな」と思った。

……こう書くからといって、K氏が「金の奴隷」だったというのではない。
私が書きたいのは、金(マネー)の力は、所詮、その程度のものということ。
よい例が、日本政府がしている国際援助。
国際援助してやって喜ぶのは、その時点の為政者(政治家)だけ。
国民のところまで、日本の(心)が届くことは、まずない。
むしろ為政者たちは、それを自分の手柄として、日本から援助があったことを、
国民から隠そうとする。
そういう例は、ゴマンとある。
というより、それが「ふつう」。

同じようにK氏が学費を援助した、先の息子や娘たちにしても、学費の出所さえ
知らなかったのではないか。
K氏の兄弟にしても、息子や娘たちには、それを黙っていた可能性が高い。

私はそういう葬儀を見ながら、ワイフとこんな会話をしたのを覚えている。
「Kさんが、こういう事実を知ったら、悲しむだろうね」と。

●ある社長の話

さて話をプラスの奴隷にもどす。

レストランで1000円札をバラまいた社長の会社は、バブル経済がはじけてまもなく、
不渡り手形を2度出し、そのまま倒産。
一時、小さな会社を再興したが、それも、半年足らずで、倒産。
そのあとは市内のマンションに移り、そこで生活をしていた。

私がその元社長に呼ばれて、再び会ったのは、それからちょうど1年目のことだった。
相変わらず、高拍子というか、親分風を吹かしていたのには、驚いた。
話を聞くと、台湾から梅干を輸入したいので、貿易を手伝ってほしいということだった。

私は私なりの方法で、すぐその可能性を調査した。
香港にも、台湾にも、私のパートナーがいた。
が、結果は、「やめたほうがいい」だった。
理由はいろいろあった。

それを元社長に伝えに行くと、私の話を半分も聞かないうちに、元社長はそばにあった
コップを床にたたきつけて、突然、私にこう怒鳴った。
「お前は、オレの恩を忘れたのか!」と。

「恩」というのは、私をあちこちの海外旅行に連れていったことをいった。
私はそそくさと、元社長のマンションをあとにしたが、それからも3、4回、怒りの
電話がかかってきた。

「金の奴隷」というのは、そういう人をいう。

●プラスの奴隷vsマイナスの奴隷

そこで、ではプラスの奴隷とマイナスの奴隷は、どこがどうちがのか。

話が少し外れるが、一般論として、大きく儲ける人は、その一方で、大きく損をする。
「儲け」と「損」は、つねに表裏一体となっている。
ここに書いたK氏にしても、たしかに「損」はしたが、もう少し若いころには、当時は
まだ珍しかった大型クルーザーを所有していた。
伊豆と那須に、別荘をもっていた。
市内にも、数か所、マンションを所有していた。

K氏にしてみれば、甥や姪の学費など、(小遣い)の範囲だったかもしれない。
ともかくも、「損」を気にしていたら、大きく儲けることはできない。
それに「損」が、つぎの「儲け」の原動力になることもある。
私も、似たような場面に出会ったことがある。

何かのことで損をしたりすると、「ちくしょう」と思って、さらに仕事に精を出し
たことがある。

では、マイナスの奴隷とは?

わかりやすく言えば、小さな世界に閉じこもり、チマチマ、ケチケチと生きている
人たちをいう。
損もしないが、さりとて大きく儲けることもない。
たいていは小銭の守銭奴となって、毎日貯金通帳を見ながら暮らす。
私もその仲間だから、偉そうなことは言えない。
だから私も含めて、このタイプの人は、大きな仕事ができない。

●金(マネー)に毒される人たち

どちらであるにせよ、金の奴隷たちは、金(マネー)の奴隷になりながら、奴隷に
なっていることにすら気がつかない。
たとえば前にも書いたが、テレビの人気番組に「お宝xx」というのがある。
視聴者がもちよった品物や絵画に、その道の鑑定家たちが値段をつけるという番組である。

あの番組による影響は、すさまじかった。
私自身もいつの間にか、影響を受けてしまった。
たとえば絵画にせよ、それがすばらしい絵画かどうかという判断をするよりも先に、
「値段はいくら?」「有名な画家の描いた絵か?」という視点で、見るように
なってしまった。

中身よりも、外見。
外見よりも、評判。
評判よりも、値段。
「この絵は、300万円だから、すばらしい」
「あの絵は、無価値だから、見る価値もない」と。

しかし テレビ番組を責めても、意味はない。
ああした番組が人気番組であるというのは、それをささえる視聴者がいるからに
ほかならない。
つまり金の奴隷が多いから、ああいう番組は、人気を博す。
しかしこれは人間にとって、悲しむべきことと言ってよい。
理由の第一。

●失うもの

金の奴隷になればなるほど、ものの本質が見えなくなる。
絵画を例にあげるなら、その絵画のもつすばらしさがわからなくなる。
あるいはすばらしい絵画、(絵画のよしあしは、あくまでも個人的嗜好によるもの
だが)、そのすばらしさを判断できなくなってしまう。

同じように、成功、失敗も、金銭的な尺度でしか、みなくなってしまう。
「あの人は金持ちだから、すばらしい」
「この人は、貧しいから、すばらしくない」と。

さらにそれが拡大してくると、自分自身の人生まで、金銭的な尺度でしか、みなくなって
しまう。
幸福の尺度さえ、相対的なものとなる。
「隣の人より、よい生活をしているから、私は幸福」
「隣の人より、小さな家に住んでいるから、私はみじめ」と。

そういう生活が基本になっていると、「生きる」ことそのものが何がなんだか、わからなく
なってしまう。

●日本全体が、金権主義国家?

が、それだけではない。
一度金(マネー)に毒され、金の奴隷になると、それから抜け出るのは、容易なことでは
ない。
価値観、さらには人生観、生きる哲学すらも、それに固定されてしまう。
政治だって、そうだ。

日本は一応、民主主義国家ということになっているが、実際には、金権主義国家。
たまたま今日、AS総理大臣率いる、AS内閣が発足する。
今朝の新聞を読むと、政治的イディオロギーなど、どこにもない。
「景気回復」「景気刺激策」などなど、すべて、金(マネー)、金(マネー)、金(マネー)。
金(マネー)にまつわる話ばかり。
政治そのものが、金の奴隷たちの「マスター(主人)」として君臨している。

金の奴隷……プラスの奴隷と、マイナスの奴隷がいる。
今朝は、それについて考えてみた。
(080925)


Hiroshi Hayashi++++++++SEP 08++++++++++はやし浩司

●猿害対策

昨日、山荘のほうで、猿害対策を、いろいろほどこした。

栗、びわ、柿、さくらんぼなどの木の実については、猿にくれてやろう。
しかし山荘の雨どいが割られたり、壊されるのは、許さない。
山猿は雨どいを利用して、屋根に登る。
電話線や電線を伝ってやってくるのもいる。
足跡や、手の跡がしっかりと残っているから、それがよくわかる。

そこで私は、こうした。

(1)雨どいについては、山猿は手をかけるところには、塩ビに、裏から
釘を刺したものを、貼り付けた。
こうすれば、山猿は雨どいに手をかけることができない。

(2)電線には、釘を刺したテープを巻いた。

(3)裏山から飛び乗ってくる山猿もいる。私はそのあたりにある木を、3、4本、
切った。
結構太い木で、これにはてこずった。
というのも、チェーンソーを忘れ、電動ノコで切ったため。

電動ノコで、だ!

あとはこわされた雨どいの修理。
「今度山猿に雨どいを壊されたら、雨どいをすべてはずしてしまおう」と。
というのも、こうした山の中では、秋になると、雨どいは落ち葉ですぐ詰まってしまう。
用をなさない。

今のところ瓦はだいじょうぶのよう。
山猿に割られるようになったら、それこそ、たいへん。
このあたりの山猿は、(復讐)というのを知っている。

いつだったか、近くの農家の人で、山猿の集団に向かって石を投げた人がいた。
その人の家は、翌朝、山猿の襲撃を受け、屋根瓦がつぎつぎと割られてしまったそうだ。
ウソのような話だが、これはホントの話!

このあたりの山猿は、頭がよい。
本当に頭がよい。
太古の昔には、「引佐(いなさ)原人」と呼ばれる民族が住んでいたそうだ。
そのころ分派したのが、今の山猿……ということはないだろうが、そう考えてもおかしく
ないほど、頭がよい。

たいへんな作業だったが、けっこう、楽しかった。
山荘ライフのおもしろさは、こんなところにある。
まさに山猿との知恵比べ。
つまりこういう作業が嫌いな人には、山荘ライフは向かない。

……一汗かいて、体重計に乗ったら、何と、64キロ台!
この一年間で、最低記録。

これからも山猿との戦いはつづきそう!


●岐阜の町

++++++++++++++++++H.Hayashi

JR岐阜駅でおりる。
そこから少し歩いて、岐阜乗り合いバスに乗る。
M町までの各駅停車。

空は青く澄み渡り、さわやかな風が吹いている。
最高の旅行日。

++++++++++++++++++H.Hayashi

●欲得の世界

人間がもつ強欲さは、他人を傷つけ、自分を滅ぼす。
しかし一度、身についた強欲さを体から切り離すのは、容易なことではない。
そのつど顔を出し、自分を惑わす。
どうして人間は、こうまで強欲なのか。

強欲であることが悪いというのではない。
生きる原動力になる。
無数のドラマもそこから生まれる。
しかしものごとには、程度というものがある。

そこに食べきれないほどの食物があっても、満足できない。
そこに使い切れないほどのお金があっても、満足できない。
そこにあふれんばかりの幸福があっても、満足できない。

こうなると、ビョーキ。

「さらに……」「もっと……」と、自分をせきたてる。
が、それではいつまでたっても、安穏たる日々はやってこない。
それこそ人間は、死ぬまで、馬車馬の馬のように働く。
で、やっと楽になったと思ったら、そのままあの世行き。

そこで私たちは、あるとき、自分の限界を認め、その限界の
中で、満足する術(すべ)を学ぶ。
そうでもしなければ、自分の身を支えることすら、できない。
それこそ欲望の渦の中に足をとられて、そのまま奈落の底へ。

欲得といっても、その人個人の範囲にあるなら、問題はない。
しかしその欲得が、他人とからんだとき、問題となる。
「私の財産」「あなたの財産」となる。
そういう意味では、欲得の問題は、人間関係と深くからんでいる。
言いかえると、人間関係は、どこかで、何らかの欲得とからんでいる。
大切なことは、どんな人とつきあうにしても、欲得関係をつくらないこと。
つくるにしても、銀行とか、会社とか、その道のプロとつくる。

子どもの教育についても、そう。
「親類だから安くやってもらえるだろう」「ていねいにみてもらえるだろう」と、
親類の人に家庭教師などを頼んだりする人が」いる。

しかしこういうケースでうまくいくのは、10にひとつもない。
が、そのとき、親類だからという理由で、家庭教師を変えることもできない。
ズルズルと1〜2年も過ごすと、かえって成績がさがってしまう。
お金はかかっても、こういう(汚れ仕事)は、プロに任すのがよい。

さらにあえて言うなら、少しでも金銭関係がからんだら、よき人間関係など
期待しないこと。
昔から、『仕事関係では、人間関係は育たない』という。
「金の切れ目が縁の切れ目」?

私たちがどこかの会社の社員と交際するとしても、その社員というよりも、
その背後にある(会社)と交際する。

話がそれたが、欲得がからむと、親子、兄弟の関係すら、おかしくなる。
しかも相手が親子、兄弟だと、問題は、さらに複雑になる。

では、どうするか?

私にのばあい、欲得のからむ問題については、最初に、腹を決めることにしている。
「腹を決める」というのは、要するに、「欲を出さない」ということ。
最近の例では、兄の葬儀があった。
最初から、○○○万円と予算を決める。
割り切る。
全額、私が払うと、心に決める。
決めてから、喪主になる。

姉からの援助や、親類縁者たちからの香典も、アテにしなかった。
だから気が楽だった。

結果的に、大赤字だったが、それでも損をしたという思いは生まれなかった。

要するに欲得には、恐ろしい魔力がある。
つきあい方をまちがえると、とんでもない方向に、自分がころげ落ちてしまう。
が、ほんの少しだけ妥協できるところは妥協し、寛容になれるところは寛容に
なれば、欲得も、ただの風。
取るに足らない、ただの風。

所詮、欲得などというものは、その程度のもの。
「ここに私たちがいて、ここに生きている」という価値と比べたら、ひょっとしたら、
風にもならないかもしれない。

……しかし私たちは、どうしてこんなにも、欲得の世界にそのつど、巻き込まれるのか?
まだ人間が金(マネー)というものを知らなかった、遠い昔の、原始の世界が、
うらやましい。


Hiroshi Hayashi++++++++SEP 08++++++++++はやし浩司

●ミニ・パソコン

私のところでは、2台のミニ・パソコンが、大活躍している。
HP社の2133と、ACER社のASPIRE−1。
ともに気に入っている。
どこでもメモ書き帳のように、文章が打てるのがよい。
電車やバスの中。
レストランや喫茶店で。

が、世の中の多くの人は、もっと別の目的でパソコンを使っているようだ。
そのため、ミニ・パソコンは、「あまり役に立たない」と。

ふ〜〜〜ん。


●C・HILL、おバカ外交官(A no brain diplomat of USA)
C.Hill, how come are you so stupid and incompetent in the diplomacy in the Far East?
We never hesitate to call you , Kim John-Hill of North Korea. From the earliest stage of the 
diplomacy, we knew that he was to repeat the same failure as former diplomats did. Have a 
listen to the words of Mr. Bolton or Mr. Kelly. Only what you have done is just to give them 
oil, food, money and music, without receiving nothing from them. We saw the childish 
Explosion Show in Yon-byon. But what was that for? Now what you have to do is just to 
admit the failure you have done and go back to the behind of the curtain. Also remember 
that you have destroyed the relationship between Japan and USA. Or are you a politician 
or a movie star? We hope not.

この場に及んでも、あのおバカ外交官は、K国をかばっている。
まあ、どうかばおうと、C・HILLの勝手だが、K国は、
最初から、核兵器製造をやめるつもりなどなかった。

最近になって、イランと共同で小型戦術核の製造をしていることも、
明らかになった。
専門用語を使うなら、「K国は戦略的に、核兵器を放棄する意思などなかった」
ということになる。

では、何のための「テロ支援国家解除」なのか?

もともと「テロ支援国家解除」など、K国にとっては、どうでもよかった。
ゴネるための口実に過ぎなかった。
解除されたところで、K国に利益がころがりこむわけではない。
解除されないからといって、とくに不利益もない。

つまりは時間稼ぎのために、K国は、「テロ支援国家解除」問題を利用しただけ。
が、あのおバカ外交官は、そんなこともわからず、手のひらの上で踊らされてしまった。

結局、C・HILLがしたことは、K国に、原油と食糧とお金と音楽を与えただけ。
見返り受け取ったものは、インチキ・爆破ショー。
それだけ。

ただの外交官(役人)が、あたかも政治家かスター気取りで、マスコミの
インタビューに答える。
まずもってこの異常さに気がつくべきである。
外交官というのは、大統領を代弁しながら、連絡を取りつぐのが仕事。
その本分を忘れて、独断、越権行為の連続。
あとは根拠のない希望的意見。

そこで現在、韓国、中国、アメリカは、K国への援助を停止しようという動きに
出てきた。
当然である。
が、これに対して、またまたあのおバカ外交官が、こう言った。
「まだ(核関連施設が稼動するまでに)、2、3か月かかるから、
それまで(援助停止を)待ってやろう」と。

おバカ!


Hiroshi Hayashi++++++++SEP 08++++++++++はやし浩司」

最前線の子育て論byはやし浩司(2832)

●子どものやる気

+++++++++++++++++++

心というのは、それほど器用にはできていない。
ひとつのことで(やる気)を失うと、別のところでも、
(やる気)を失う。

もともと(やる気)には、脳の中でも、帯状回という
組織が関係しているそうだ。

しかしその帯状回は、(やる気)の中身まで、チェックする
ことはできない。
「この分野は、やる気を出してやろう」とか、
「あの分野は、やる気を出すのをやめよう」とか、
そういう器用なことはできない。

一事のことで(やる気)を失うと、ほかの部分でもやる気を
失う。

たとえばよくある例として、「受験期にさしかかったから、それまで
していたサッカーをやめさせよう」と考える親がいる。

親は、「サッカーに振り向けていた時間を、今度は勉強に
向けさせよう」と考えてそうするが、そういうやり方は、かえって
逆効果。

サッカーをやめさせられたことで(やる気)を失った子どもは、
そのままあらゆる面で、(やる気)を失う。

勉強など、するようになるわけがない。

++++++++++++++++++

兄が死んだあと、いろいろな事務手続きが重なった。
たとえば兄名義の貯金にしても、銀行のほうで、即、
出金停止ということになった。

引き出すことはもちろん、その通帳から支払われていた
電気代やガス代まで、自動引き落としができなくなって
しまった。

しかも兄の財産は、一度、母のものとなる。
が、その母は、現在、脳梗塞も重なって、ほとんど口を
きくこともできない。

さらに母の現住所は、この浜松市。
しかし本籍地は、岐阜県のM町……。
母のものとなった財産を、今度は、私が代理人となって、
引き出さなければならない。

その上、葬儀費用として使用するためには、葬儀社の
領収書を添えて、1か月以内に、それをすまさねば
ならない。

ということで、わずか数十万円の貯金の解約手続きのため、
浜松とM町の間を行ったり、来たり……。

私はこういうめんどうな手続きが、苦手。
大嫌い。

とたん、私は、それが苦になって、全面的に(やる気)を
失ってしまった。
いろいろ小さな仕事が重なったが、何かにつけて
(やる気)がわいてこない。
そしてそれがさらに積み重なって、何をするにも、おっくうに
なってしまった。
ワイフと旅行するのも、いやになってしまった。

が、これではいけない。
……ということで、一気にこの問題を片づけることにした。

まずあちこちに電話をかけ、必要書類を聞く。
必要書類をそろえる。
そろえたら、それでよいかどうか、あちこちに確認する。
「OK」が出たところで、当該銀行に足を運んで、一気に
事務手続き終了!

それが終わったとき、大仕事をしたような満足感はあった。
あったが、しかし私が何らかの利益を得たわけではない。
そうして引き出したお金は、葬儀費用の一部になっただけ。

……で、それから約1か月。
(やる気)が戻ってきたのは、その手続きがすんでから、
3、4日後のことだった。
脳というのは、そう簡単には、復元されないものらしい。

話を戻すが、子どものばあいでも、では、サッカーをまたやらせれば、
やる気が戻るかといえば、そうはいかない。
子どもどうしの人間関係も、からんでくる。
一度、退会すれば、レギュラーに戻ることも難しい。
ということで、たいていのばあい、子ども自身が、クラブに
戻ることをそのものを、拒否する。

こうして子どもは、ますます(やる気)を失っていく。
ご注意!


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●犬のハロウィーン

++++++++++++++++

「あら、犬にもハロウィーンの衣装を
着せるんだって」と、ワイフが言った。

見るとペットショップのウィンドウに、
その類の服がズラリと並んでいた。

「楽しそうだね」と私。
「フ〜〜ン」とワイフ。

++++++++++++++++

人生の楽しみ方は、人、それぞれ。
犬がハロウィーンの衣装を身につけたところで、
(犬にとっては、ありがた迷惑かもしれないが)、
それは、その人の勝手。

言うなれば、人生のスパイスのようなもの。
ハハハと笑えば、それでよい。

私「外国では、妻の誕生日に、夫は、リボンをつけるそうだ」
ワ「どこに?」
私「どこにって、チンxxにだよ」
ワ「リボンをつけてどうするの?」
私「プレゼントのつもりだよ」

ワ「女性は、どうするの?」
私「女性は、腰に大きなリボンをつけるそうだ」
ワ「裸で?」
私「もちろん、そうだ」

ワ「でも、元気のないチンxxにリボンは似合わないわね」
私「下を向いていて、スルリとリボンが抜けたら意味がない」
ワ「かえってみじめになるだけだわ」
私「女性だってそうだ。くびれのない腰にリボンをつけても、
かえって見苦しい」
ワ「三段腹だったら、もっと見苦しいわね」
私「ハハハ」
ワ「ハハハ」と。

しかし、どうしてこの日本でハロウィーンなのだろう?
どうして犬に、ハロウィーンなのだろう?

こういう話は、むずかしく考えない。
考えても意味はない。

ハハハ+ハハハ。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2833)

●日本が嫌い?

++++++++++++++++

韓国での世論調査によれば、
「もっとも嫌いな国は、日本」だ、そうだ。

++++++++++++++++

このほど韓国における、対外国感情についての世論調査が、
公表された(中央N報が創刊43周年を迎えて実施した世論調査、08年)。

それによると、

『好きな国=昨年に続いて韓国国民が最も好きな国、経済的に最も協力すべき国は「米国」だ
った。 最も嫌いな国、最も見習うべき国は「日本」だった』(原文)という。 

 『 米国に対する好感と日本に対する非好感は07年に比べて強まっている。 最も好きな国に
「米国」を選んだ回答は16%から18%に、経済的に最も協力すべき国に「米国」を選んだ回
答も35%から42%に高まった。 

  最も嫌いな国に「日本」を選んだ回答は38%から57%に高まり、最も見習うべき国を「日本」
とする回答は27%から24%に減った。 

  最も好きな国の2−3位は「オーストラリア」(14%)、「スイス」(9%)、最も嫌いな国の2−3
位は中国(13%)、北朝鮮(10%)、最も見習うべき国の2−3位は「米国」(18%)、「ドイツ」
(9%)、経済的に最も協力すべき国の2−3位は「中国」(38%)、「日本」(6%)となった』(同)
と。

●日本が嫌い

注目すべき点は、「最も嫌いな国に日本を選んだ回答は38%から57%に高まった」という点。
韓国民の約6割、つまり大半が「日本は嫌い」と答えている。
おおむねそんなものだろうと、私も感じている。
しかしその一方で、韓国の人たちのもつ、精神的ダブル構造。

「嫌い」ながらも、日本への「あこがれ」は強い。
この精神的ダブル構造は、40年前の昔と、ほとんど変わらない。

こんな経験がある。

 1960年代の終わり、私は、UNESCOの交換学生として、韓国に渡った。日韓の間にまだ
国交のない時代で、私たちは、どこへ行っても、日本攻撃の矢面に立たされた。

 そんなある日、大邸(テグ)大学での議論を終えたあと、私は、ひとり、大邸(テグ)大学の屋
上にのぼった。屋上からは、眼下に大邸の町並みが一望できた。

 そこでぼんやりとしていると、ひとりの学生が近づいてきた。私は、「こんなところでも、また議
論か……!」と身構えたが、その学生は、こう言った。つい先ほどまで、私たちを、口汚く攻撃
していた学生である。

 「ぼくは、日本へ留学したい。君は、何か、方法を知らないか」と。

 私は、その(落差)に驚いた。一方で、燃えるような反日感情をもちながら、その一方で、「日
本に留学したい」と(?)。

 つまり、こうした調査結果は、決して、数字だけで判断してはならないということ。現に、台湾
の人たちは、ことあるごとに、反日的な姿勢を示している。と、同時に、ではその韓国が、反日
的かというと、そうでもない。会って話をしてみると、個人的には、みな、よい人たちばかりだ。

一方、ひとりこの日本に好意を寄せる国がある。
台湾である。

●もっとも、移民したい国は、日本!

 台湾のビジネス誌「遠見」によれば、全4質問中、「移民したい国」「立派だと思う国」「旅行し
たい国」の3質問で、日本がトップになったという(06年6月29日)

 調査は、台湾全土で、20歳以上、約1000人の人について、行われた。以下、その結果。

「移民したい国」   日本……32.3ポイント
米国……29.1ポイント
カナダ…26.5ポイント

「最も立派と思う国」 日本……47.5ポイント
米国……40.3ポイント
中国……15.8ポイント

 ことあるごとに、日本のアラさがしをしては、悪口を書きたてる、韓国の報道機関。最近でも、
「日本の株式市場は、新興市場」(朝鮮N報)とか、「指導国家としての資質なし」(N大統領)と
か、書きたてている(06年)。

●しかし、自由主義陣営の中で、日本が敵?

韓国の人たちが日本を嫌うのは勝手だが、日本は韓国なしでも生きていかれる。
しかし韓国は、日本なしでは生きていかれない。
その現実に、もっとすなおに目を向けるべきではないだろうか。

 が、何は、ともあれ、今回の「遠見」誌による調査結果には、ほっとした。「日本の近くには、
そういう国もあったのだ」と、改めて思い知らされた。と、同時に、日本は、台湾のような国を大
切にしなければならないと感じた。

 で、話は、ぐんと現実的になるが、パソコンの液晶モニターにしても、私は韓国製というだけ
で、自分の選択肢からはずしている。買うなら、日本製。どうしても……ということなら、台湾製
ということにしている。

 近く、液晶テレビを買うつもりだが、それもそうだ。性能のよい日本製にしようか、値段の安い
台湾製にしようか、今、迷っている。韓国製などは、もとから、眼中にない。ぜったいに、韓国
製だけは、買わない。

【付記】(06年7月1日)も、朝鮮N報の記事にはこんなのがあった。
1〜3番の記事は、どれも、日本がらみの記事ばかり。

(1)韓国の家は、実は日本の家より、狭い……。
(2)自負心調査では、日本、18位、韓国、31位……。
(3)韓国の殺人、性犯罪、日本の約2倍……と。

 「韓国の人たちよ、もう日本のことなどかまわず、自分たちの道を行きなさい」と、私は言いた
い。韓国の新聞に目を通すたびに、過関心ママに支配された子どものような心境になる。
つまり、イヤ〜ナ気分!

●台湾へ向かう日本の投資

韓国か台湾か?

当然のことながら、日本の投資は今、韓国を避け、台湾に向かっている。
こういう現実に、韓国も、少しは気がつくべきではないのか。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●AS内閣(Ultra Right-wing Cabinet of Japan)
(Are we such a low-level people as has been seen in the brain-less statesments by 
Nakayama Minisniter?)

+++++++++++++++++

自民党右派の中でも、極右派と呼ばれる
人たちで固めた、AS内閣。
もちろんAS総理大臣自身も、極右派。

国会全体が、まるで極右団体の街宣車に
乗っ取られたよう。

で、内閣発足後、たった数日後には、
中山国交相の失言問題が発覚した。

+++++++++++++++++

●中山国交相の失言問題

(1)成田空港建設への反対闘争について
「ごね得というか、戦後教育が悪かったと思う」

(2)外国人観光客の誘致策に関連して、
「日本は随分内向きな、単一民族といいますかね、あんまり世界と(交流が)ないので、
内向きになりがち」

(3)大分県の教員汚職事件に関して、
「(日教組とからめ)、大分県教委の体たらくなんて、日教組が原因ですよ。
日教組の子どもなんて、成績が悪くても先生になるんですよ。
だから大分県の学力は低いんだよ」と。

AS現総理大臣自身も、過去において、「日本は、一国家、一文明、一言語、一文化、
一民族」(九州国立博物館の開館記念式典の祝辞)と述べている(中日新聞指摘)。

ほかに中山氏には、文科省相時代に、「従軍慰安婦という言葉は当時はなかった」とか、
「(歴史教科書の記述を)自虐的」と述べたりしている(同紙、指摘)。

こうした一連の発言をふまえて、たとえばアイヌ民族の人たちから、「この程度の知識か」
という批判が相次いでいる。
いわく「このような発言をする人が閣僚をする資格はない」(アイヌ民族共有財産訴訟の
元原告団長の小川T氏)と。

AS総理大臣自身の過去の失言については、たびたび書いてきた。
「失言」というよりは、彼自身の「本音」なのだろうが、だからこそ、よけいに不気味。

情報だけをもって、「思想」と誤解し、その情報を加工する能力さえない。
そういう日本人が新しい総理大臣を選んだ。
その結果が、現在のAS内閣ということになる。

おととい、あの小泉元総理大臣が、政界から引退した。
AS内閣発足を見届けてからの引退である。
政治に幻滅したということでもないと思うが、小泉氏がそう思ったとしても、私は
それに納得する。

「この程度の知識」しかない、「この程度の内閣」。
日本という国は、この程度の国なのか?


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●「日教組は日本のガン」?(Japanese Teachers' Union is a Cancer of Japan?)

++++++++++++++

中山国交相は、自分の失言問題に対して、さらにこう言い切った。

「(失言の)撤回はしない。わたしは日本の教育のガンは日教組だと思っている。ぶっ壊すため
に火の玉になる」(時事通信)と。

************以下、時事通信記事より****************

……発言に対する野党や世論の反応については「わたしの失言というか、舌足らずというか、
言葉狩りに合わないように気をつけんといかん」と述べた。その上で、「日教組が強いところは
学力が低い」との発言について「撤回はしない。わたしは日本の教育のガンは日教組だと思っ
ている。ぶっ壊すために火の玉になる」と強調した。 

************以上、時事通信記事より****************

大分県の教員汚職事件に関して、中山国交相はつい先日、こう述べたとされる。

「(日教組とからめ)、大分県教委の体たらくなんて、日教組が原因ですよ。日教組の子どもな
んて、成績が悪くても先生になるんですよ。だから大分県の学力は低いんだよ」(中日新聞)
と。

汚職事件はさておき、中山国交相が言うところの「成績」とは何か。「学力」とは何か。さらに
「日教組が強い」というのは、どういう意味なのか。「日教組が強いところは、学力は低い」とい
うが、その根拠はどこにあるのか。「ぶっ壊すために火の玉になる」というのは、どういう意味な
のか。

中山国交相の発言は、「失言」の領域をはるかに超えている。中山国交相の思想を疑うという
よりは、私は脳みその中身そのものを疑う。あまりにも低次元すぎて、コメント(評論)する気に
もならない。何も私たちは、「言葉狩り」、つまり言葉尻をつかまえて、問題にしているわけでは
ない。またそのレベルの話ではない。

日教組に属していても、いなくても、教職にかかわっている人なら、みな、同意見だろう。あきれ
るよりも先に、笑ってしまう。しかし本当の問題は、このレベルの人間が、大臣をしているという
事実。そのおかしさというか、恐ろしさに、私たちはもっと目を向けなければならない。

(こんなレベルの人が、日本の政治を牛耳っているのだぞ!)

たとえば「学力」という問題ひとつ取りあげても、中山国交相は、テストの点数で示されるような
学力を念頭に置いているのだろう。もしそうなら時代錯誤もよいところ。40〜50年前の昔なら
いざ知らず、今どき、こういう発想をする人がいること自体、バカげている。信じられない。

それになぜ国土交通省という畑にいる大臣が、まったく畑ちがいの教育問題で、「火の玉」にな
るのか? 

さらに「日教組は日本のガン」と発言するに至っては、返す言葉は、ただひとつ。「アホか!」。
日教組とはまったく無縁の私にだって、そんな言葉しか、思いつかない。

AS総理大臣がどんな失言をやらかすかと、ハラハラしていた矢先の、この発言。あるいはAS
総理大臣なら、中山国交相の発言を擁護するかもしれない。失言では、AS総理大臣のほう
が、はるかに先輩。

しかしこんなことを繰りかえしていたら、日本は、ほんとうにメチャメチャになってしまう。知性も
理性もない国になってしまう。

「ガン」という言葉にしても、そうだ。今の今も、「ガン」という大病をかかえて苦しんでいる人たち
がいる。ガンと闘っている人たちもいる。中山国交相の発言は、そういう人たちへの配慮にも
欠ける。あるいはもし自分がガンにでもなったら、そのとき自分のことをどう思うというのだろう
か。

世相について、そこにいくら問題があったとしても、病名でそれを表現するのはやめよう。だれ
もその病気になりたくて、なるのではない。またなったとしても、それを「悪」にからめて考えては
いけない。だれだって病気のひとつやふたつ、かかえているではないか。

中山国交相の罷免もしくは辞任は、当然であるとしても、AS総理大臣にも、任命責任がある。
自分自身の過去の失言問題をふりかえりながら、AS総理大臣は、どのような判断をくだすの
だろうか。どう責任を取るつもりなのだろうか。

なお「舌足らず」というのは、言葉による表現力に欠ける人がよく使う、弁解用語でしかない。そ
も大臣ともあろう一国のリーダーが、使う言葉ではない。

●AS総理大臣へ、

大臣の失言なら、たとえばその責任者である総理大臣が罷免することで、まだ問題を解決する
ことができる。しかし総理大臣の発言となると、それが対外的なものであれば、即、戦争という
ことにもなりかねない。どうか、どうか、失言にはくれぐれも注意してほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 中山国交相 失言問題)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2834)

【親のシャドウ】

+++++++++++++++++

親を反面教師とする子どもは多い。
親そのものを、否定する子どもも多い。
「私の親は、インチキだ」
「私の親は、最悪だ」
「私の親は、親の資格はない」と。

そして最後には、決まって、こう言う。
「私は、私の親のような親にはならない」と。

しかし、そうはいかない。
親を反面教師とするのは、それはそれで結構なことだが、
反面教師とするならするで、それに代わる(親像)を、
自分の中に創りあげなければならない。
そうでないと、結局は、その子ども自身が、
いつか、親そっくりの(親)になる。
最悪の場合には、親のもつ陰湿な部分(シャドウ)を、
そっくりそのまま引き継いでしまう。

+++++++++++++++++

●高校時代のK教師

私は高校時代、英語の授業を受けながら、いつもこう思っていた。
「ぼくが英語の教師になっても、あんなK教師のような教師にはならないぞ」と。

K教師の授業は、古典的な暗記第一主義の教え方だった。
「わかったか?」「覚えたか?」「では、つぎ!」と。

が、それから5年後。
私はアルバイトで、ある予備校で英語を教えることになった。
相手は中学生だった。
そのときのこと。
私の教え方は、あのK教師の教え方そのものだった。
「わかったか?」「覚えたか?」「では、つぎ!」と。

それもそのはず。
私はいつもK教師を批判していたが、K教師以外の教師の教え方を知らなかった。
「あんなK教師のような教師にはならないぞ」とは思いつつも、それに代わる
(教師像)を自分の中に創る機会がなかった。
だからそうなった。

●親像

親子の関係も、これに似ている。
「私は、私の親のような親にはならない」と思うのは、その人の勝手だが、一方で、
それに代わる(親像)を創りあげなければならない。
(批判)しているだけは、代わりになる(親像)はできない。

が、それですむわけではない。

仮にあなたの親が、小ずるくて、世間体ばかり気にする人だったとしよう。
悪人ではないが、いつも人前では仮面をかぶり、善人ぶっていたとしよう。
あなたに対しては親風を吹かし、あなたの意思は無視。
頭ごなしに命令ばかりしている。

あなたはそういう親を見ながら、「あそこが悪い」「ここが悪い」と批判する。
そしてこう思う。
「私は親になっても、ああいう親にはならない」と。
「軽蔑」という言葉を使うこともあるかもしれない。
「私は、親を軽蔑している」と。

●Fさんの例

ワイフの知人にFさんという女性がいる。
高校時代からの知人である。
そのFさんは、学生時代、いつもワイフにこう言っていたという。

「私の母は、ずるい女性だ。頭の弱い叔母がいるが、その叔母をだまして、
高価な壺を、取りあげてしまった。代わりに安物の壺を叔母に与えた。
母は、それを手柄話のように、自慢にしている」と。

Fさんは、自分の母親を相当嫌っていたようだ。
高校を卒業すると家を出て、そのまま東京へ。
以来、帰郷するのは、数年に1度あるかないかという状態がつづいたという。

高校時代、ワイフはFさんの家に、毎週のように遊びに言っていた。
そして毎回のように、Fさんの母親の悪口を聞かされていた。

が、それから40年。
ちょうど1世代(=30年)が過ぎ、Fさん自身が、当時のFさんの
母親の年齢になった。

で、ワイフがFさんに久しぶりに会って驚いた。
そのFさん自身が、あの当時のFさんの母親そっくりの人になっていたという。
顔も似ていたが、しぐさ、様子、話し方まで、そっくりだったという。
「歳を取れば取るほど、遺伝子の影響が強く出るというけど、本当ね」と
ワイフは笑っていたが、これは遺伝子だけの問題ではない。

Fさんは、現在、親子関係に苦しんでいるという。
2人の息子と娘がいるが、2人も、高校を卒業すると同時に、家には寄りつかなく
なってしまったという。

●ちがい

それでもFさんは、ワイフにこう言っているという。
「私は、私の母とはちがう」と。
(Fさんの母親は、3年前に脳梗塞で他界。それを機に、Fさんは夫の転職もかねて
帰郷。現在は、同じ浜松市に住んでいる。)

が、ワイフから見ると、そっくり!

つまり(ちがい)というのは、どこまでも主観的なものでしかない。
FさんはFさんで、「私は母とは大きくちがう」と思っているかもしれない。
が、少し離れたところで、他人が客観的に見ると、「そっくり」ということになる。

言いかえると、その人が思っている(ちがい)ほど、いいかげんなものは、ない。

「私は、ほかの人とはちがう」と思っていても、ときには、その(ちがい)は、
わずかなものでしかない。
そのことは、たとえばアメリカなどの国際空港のロビーに座ってみると、よくわかる。

それぞれ個性的な服装をしている日本人にしても、そういうところでは、日本人はみな、
同じに見える。
少し離れたところからでも、すぐ日本人とわかる。

●シャドウの恐ろしさ

こうして子どもは親のシャドウを引き継ぐ。
こんなケースもある。

私はある時期、ある男性からその男性の父親についての相談をよく受けた。
名前をT氏(当時40歳くらい)としておく。

T氏は父親と、同居はしていたが、うまくいっていなかった。
よくあるケースである。

で、それから数年後。
別の機会に、私はT氏の弟氏と話しあう機会があった。
そのときそのこと、つまりT氏とT氏の父親との関係が話題になった。
が、T氏の弟氏がこう言ったのには、驚いた。

「あのね、林さん、兄貴だって親父そっくりなくせに、ね」と。

つまりT氏はよく父親を批判するが、弟氏から見ると、T氏とT氏の父親は
そっくりと言うのだ。
私はこれには驚いた。

T氏はT氏の父親を批判していたが、それはT氏の父親の一部でしかない。
その一部を、針小棒大に批判していた。
しかし大半の、そのほかの部分については、T氏は、T氏の父親を、そっくり
そのまま引き継いでしまっていた。

私もそのとき、うすうす、それを感じていたので、一度ならず、二度、三度、T氏に
こう忠告したことがある。
「気をつけなさいよ。でないと、あなたも、あなたの父親そっくりの人間に
なってしまいますよ」と。

が、結局、こうした忠告は、急流に竹竿を立てる程度の意味しかない。
T氏は現在、20〜30年前のT氏の父親そっくりの人間になりつつある。
20〜30年前のT氏の父親そのままと言ってもよい。

●妻の役割

こういうケースでは、妻の役割が、たいへん重要である。
(あるいは反対のケースもあるが……。)

妻はつねに夫の人間関係を、客観的に見なければならない。
またその努力を怠ってはいけない。
それを怠ると、妻自身も、その毒気というか、シャドウに、そのまま引き込まれてしまう。
こんなケースもある。

ある男性(60歳くらい)が、こう言った。

「うちの家内は駆け引きがうまくてね、露天などでも、いつも値段の半額以下でものを
買いますよ」と。

つまり口がうまく、小ずるい駆け引きが平気でできるということらしい。

が、本来なら、こういう駆け引きをたしなめるのは、夫の役目。
夫であるその男性が、それを制止しなければならない。
が、その男性は、むしろ自分の妻がそうであることを喜んでいるといったふうだった。
長くいっしょに住んでいると、そういう現象も現われる。

●関係の整理

親子、親類、師弟、友人関係などなど。
そのつど人間関係は、複雑に交錯する。
が、それが良質なものであればよし。
そうでないときは、避けるのがいちばんよい。

若いときは、いろいろな人とつきあって、そういう人たちからいろいろなものを
学ぶ。
『悪友もまた教師なり』と。

しかし50歳も過ぎると、今度は人生に天井が見えてくるようになる。
わかりやすく言えば、無駄にできる時間が、ぐんと少なくなる。
とたん、人間関係を整理し始める。
また整理しなければならない。
さらに言えば、愚劣な人たちとつきあっていると、自分まで愚劣になってしまう。
しかしそれこそ、時間の無駄。
人生の無駄。

よき友を求めて、その関係をより濃密にすることこそ、肝要。
これは私の言葉ではない。
古今東西、世の賢人たちは、みな、そう書き残している。
というのも、(シャドウ)には、ものすごいパワーがある。
仮にあなたが、邪悪な人と半年も交際すれば、(数週間でもよい)、
あなた自身も、そのシャドウを引き継いでしまう。
日本語的に言えば、「染まってしまう」。

これには、兄弟、親類も、ない。
「縁を切る」などと大げさに構えることはないにしても、たとえ相手が兄弟、
親類であっても、血縁にしばられて愚劣な人間関係を維持する必要はない。
適当に交際して、またその範囲ですます。
けっして深入りしない。
ここでいう「整理」には、そういう意味も含まれる。

●問題は、あなた自身

最後に、実は、これは、親である、あなた自身の問題であるということ。
つまり現在、あなたは親である。
そういうあなたという親は、どういうシャドウを、どこにもっているだろうか。
それをほんの少しだけ、自分に問いかけてみてほしい。

子どもの視点の中に自分を置いてみると、それがよくわかる。
つまり子どもの目から見た、あなたは、どういう親か。
一度、鏡に映すようにして、自分を見てみるとよい。

好かれているとか、嫌われているとか、そういうことは関係ない。
(嫌われていても、一向に構わない。)
1人の人間として、気高く、崇高なものを、あなたは子どもに残すための
努力をしているだろうか。
もしそうであれば、それでよし。
そうでなければ、結局はあなたの子どもも、あなたと同じレベルになってしまう。

私たちがなぜこの世界に生きているかといえば、たとえ数ミリでもよいから、
真・善・美に近づき、それをつぎの世代に伝えていくことである。
「数ミリ」というが、その数ミリがたいへん。
へたをすれば、つまりほんの少し油断すれば、後退することだって、ありえる。
が、もしそうなれば、それこそ、「何のために生きているのか」ということに
なってしまう。
そこらに住む動物と同じということになってしまう。
が、それこそ、人生の悲劇というもの。

(シャドウ)には、そういう問題も含まれる。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2835)

●9月28日

++++++++++++++++++++

今朝は、どこか風邪気味?
のどが痛い。
頭痛も少しある。
手を当ててみると、額が、少し熱い。
加えて、悪寒。
「起きようか、それとも寝ていようか」と、迷う。
が、そのまま起床。
うがいをして、服を着る。

せっかくの日曜日。
やりたいことがたくさん、ある。

++++++++++++++++++++

●パソコンの修理

昨日は、パソコンを2台、修理した。
書斎のXPパソコンと、居間のノートパソコン。

書斎のXPパソコンは、メモリーの故障が原因だった。
長い間、調子が悪かった。
ときどき思わぬところで、フリーズしてしまう。
ハードディスクか?
OSか?

メーカーに問い合わせると、「マザーボードかも?」とのこと。

で、VISTAパソコンには、メモリー診断機能というのがついている。
そのVISTAパソコンにメモリーを差し替えて、検査。
するとあっさり、エラー表示。
ということで、原因は、メモリー。

もう1台は、居間のノートブック。
原因はわからないが、たぶん、おとといの雷のせいではないか(?)。
近くでジェット機でも墜落したかのような雷鳴が聞こえた。
で、そのあとOSが立ちあがらなくなってしまった。

しかたないので、リカバリー。
経験のある人ならわかると思うが、パソコンというのはリカバリーすれば、
それでめでたしめでたし……というわけにはいかない。

各種、再設定に始まって、ウィルス対策ソフトの再インストールなどなど。
全体で、4時間ほどかかった。

私はどんなパソコンでも、使うとか使わないとかにかかわらず、ベスト・
コンディションにしておかないと、気がすまない。
だから毎週のように、パソコンの修理を繰り返している。
これが結構、たのしい。

ところで数週間ほど前、ウィルス入りのメールを送ってきた人がいた。
どこか「?」と感じたので、別メールで問い合わせると、「ぼくは、
そんなメールを送っていない」とのこと。

おそらくボットか何かが、その人のパソコンに侵入したのだろう。
そのボットが、勝手にメールをばらまいている(?)。
この世界、油断もすきもあったものではない。
みなさんも、ご注意!


●『ラフマニノフ…ある愛の調べ』

数日前、映画『ラフマニノフ…ある愛の調べ』を見てきた。
ロシア映画だった。
星は、2つの★★。
ロシア映画は、いつも暗い。
どこかジメジメしている。
それで星は2つ。

またライラックの花が映画の伏線になっていたが、それがわかりにくかった。
音楽も、どれも中途半端。
もりあがりにも欠けた。
最初はピアノコンサートにでも行くつもりででかけたが、見終わって、やや
がっかり。

つぎは映画『アイアンマン』を見るつもり。


●三浦K事件

+++++++++++++++

現在、サイパン島の拘置所に拘留されている三浦Kが、今度、
共謀罪容疑で、犯行地であるCA州に移送されることになった。
一美さん殺しの殺人罪での起訴は、見送られることになった。
かわりに「共謀罪」で、三浦Kは起訴されることになった。
「殺人罪では不起訴。共謀罪で起訴」というのは、私も予想して
いなかった。
ナルホド!
検事たちが考えに考え抜いた、その結果の、苦肉の策ということになる。

+++++++++++++++

が、三浦Kへの殺人容疑がこれで消えるわけではない。
もう1人、三浦Kが何らかの形で、からんでいるのではないかと疑われている殺人事件に、
白石Cさん事件がある。
白石Cさんも三浦Kのすぐ近くにいて、やがて白骨死体で発見される。
三浦Kが、白石Cさんの貯金通帳から現金を引き出していることもわかっている。
当時三浦Kは、たしか「会社の金だった。(だから引き出すのは私の自由)」とか
言っていたように記憶している。
今朝の新聞報道によれば、アメリカの検察は、この白石Cさん事件での起訴も
視野に入れているとか(中日新聞)。

これに対して、三浦Kを日本側で弁護している弁護士や支援団体(?)の人たちが、
「不当判断」と騒いでいる(新聞報道、ほか)。
しかしどうして「不当」なのか?

私の常識がおかしいのか?
それとも彼らの常識がおかしいのか?
私にはわからないが、ただひとつ言えることは、いくら法的には無罪であっても、
それを許さない社会的正義が残っている以上、私たちにはそれを納得がいくまで
追求する権利がある。

もう少しかみくだいて言うと、こうなる。
つまりいくら裁判官が、「無罪だから、みなさんも無罪と思いなさい」と言っても、
そうは簡単にはいかない。
そう思うか思わないかは、最終的には私たち自身が決める。
刑を科することはできないが、だからといって(思い)をねじ曲げることはできない。

法というのは、あくまでも社会的正義追求のための手段でしかない。
もっと言えば、道具でしかない。
ふだんの生活の中では、どこに法があるかさえもわからない。
わからなくて、結構。
それでよい。
法というのは、そういうもの。
またそうでなければならない。

が、ひとたび社会的正義が破られたら、顔を出す。
私たちはそれを使って、その社会的正義を追求する。
それが「法」である。

が、まず法ありき……という社会は、(一応法治国家の建前にはなっているが)、
それ自体は、暗黒社会への入り口と考えてよい。
窮屈で、居心地の悪い世界になってしまう。
最近では、悪しきテレビ番組の影響なのだろう。
教室で子どもたちにカメラを向けただけで、子どもたちはこう叫ぶ。
「肖像権侵害!」「慰謝料請求!」と。

まちがった法意識ということになるが、それがわからなければ、
反対の立場で考えてみればよい。
それこそ「法に触れなければ、何をしてもよい」という社会になってしまう。
法の目をかいくぐって悪いことをし放題している人は、この世界には、ゴマンと
いる。
あるいは逆に、どこかの国の独裁者のように、自分につごうのよい法を作って、
善良な人たちをつぎつぎと処刑することもできる。

社会的正義と法は、どちらが先かと問われれば、社会的正義に決まっている。
社会的正義の上に、法がある。
社会的正義を守るために、法がある。
社会的正義が「主」で、法は、あくまでも「従」である。
こんなことは法がまだなかった、太古の昔から、常識である。

三浦Kを弁護するのも、支援するのも、その人たちの勝手だが、現に、
その周辺で2人の女性たちが殺されていることを考えるなら、弁護士が
弁護するのはともかくとして、三浦Kを支援するというのは、どうかと思う。
残念ながら私には、そうした人たちのもつ常識が、どうしても理解できない。

(注)報道などによれば、「支援団体」とあるが、その程度の人数による、
どの程度の規模のものかは、私は知らない。またどういう活動をしながら、
三浦Kを支えているのかも知らない。念のため。


●道徳の完成度

+++++++++++++++++++++++

道徳の完成度は、(1)公平性と(2)視野の広さ
で判断する。
そのうちの公平性について、再度、考えてみたい。

+++++++++++++++++++++++

少し前、こんなことがあった。
きわめて近い関係にある、Mさんという女性(70歳くらい)から、
電話がかかってきた。
内容は、こうだ。

「息子夫婦が離婚したのだが、嫁が、離れの家から出て行かない。
どうしたらいいか」と。

Mさんは、元嫁、つまり息子の元妻の悪口を、つぎつぎと言い並べた。
が、話を聞いているうちに、私は、Mさんの言っていることのほうが、
無理があるのではと思うようになった。

元妻には、中学生と小学生の、2人の子どもがいる。
子どもたちは母親と家を出るほうを選んだ。
Mさんは、「離れといっても、私の家」「その離れから出て行かないから困っている」
と。
Mさんの言い分も理解できる。
しかしこういう話というのは、一方的に聞いてはいけない。
ただ私と元嫁というその女性とは、何度か会ったことはあるが、あいさつ程度以上の
会話はしたことがない。
「それほど悪い人にも見えなかったが……」と思ったとたん、Mさんへの信頼感
がグラグラと揺れだした。

Mさんは「離れから追い出すにはどうしたらいいか?」と言うが、話の内容を
詳しく聞くと、どうやら、財産のことを心配していることがわかった。
はっきりとは言わなかったが、「どうすれば財産を分与しないですむか」
という内容の相談だった。

……という話は前にも書いたので、ここではその先を考えてみたい。

私の立場では、当然、Mさんの側に立ってものを考えなければならない。
Mさんの利益になるような話をしなければならない。
できるだけ財産分与を少なくし、元嫁を離れから追い出すための方法について
知っていることを、話さなければならない。

ここで公平性といっても、人間関係に大きく左右される。
相手が近い関係の人であれば、なおさらである。
これは極端なケースだが、たとえばあなたの息子がひき逃げをして、家に
帰ってきたとする。
そういうとき、あなたという親は、どのような判断をくだすだろうか。
あなたはあなたの息子を、そのまま警察へ突き出すだろうか。
それとも事故を隠すため、あれこれと工作を始めるだろうか。

いくら相手が近い関係の人であっても、公平性を貫くことができたとしたら、
あなたは道徳の完成度の高い人ということになる。
たとえ息子でも、悪いことは悪いとして、警察へ突き出すことができたとしたら、
あなたは道徳の完成度の高い人ということになる。

で、先の話にもどる。
実際問題として、近くの人から、そういった相談を受けたとすると、どうしても
その人の利益になるような回答をしてしまう。
が、それは同時に、元嫁にとっては、不利な話となってしまう。
まだ40歳前の女性が2人の子どもをかかえて離婚するというのは、生活費だけを
考えてもたいへんなことである。
ある程度の財産分与、さらには慰謝料、養育費の負担は、当然である。

(話を聞くと、その元嫁は、結婚してからずっと、近くの事務所で事務員として
働いていたという。そのとき得た収入は、Mさん一家全体の生活費の一部にもなっていた
という。)

私は家庭裁判所での調停を勧めた。
こういった話は、第三者に客観的に判断してもらうのがいちばんよい。
が、あとで聞いたら、それがMさんを不愉快にさせたらしい。
Mさんは、知り合いに、「あの林は冷たい」「まともに相談にものってくれなかった」
と言いふらしているのを知った。

しかし私は私なりに、公平性を貫いた。
では、なぜ今、私はこんなことを書くか?

先の三浦K事件に話を戻す。
新聞の報道によれば、日本で三浦Kを無罪にもちこんだ2人の弁護士たちが、
今回のロス地裁での判断に対して、「不当である」と。

私はこの記事を読んだとき、こう思った。

弁護士なのだから、事件のあらましを詳しく知る立場にあったはず。
その過程の中で、弁護士は、三浦Kに、疑問を抱かなかったのだろうか、と。
法廷で確認された事実によれば、一美さんが銃撃されたとき、そばに白いバン
が駐車してあった。(三浦Kは、このバンの存在そのものを否定。)
白いバンは、近くのビルで仕事をしていた人にも目撃されているし、三浦K自身が
撮った写真の中にも、その一部が写っていた。

結局日本の裁判所では、実行犯が特定できず、三浦Kは無罪になったが、疑問は
疑問のままとして、残る。
が、もしほんの少しでもその疑問を、弁護士も感じたとするなら、無罪であったとしても、
もう少し謙虚になってもおかしくない。
「逮捕は不当」「アメリカ本土への移送は不当」「殺人罪での起訴は不当」
「共謀罪での起訴は不当」と、何からなにまで、「不当」というほうが、おかしいのでは(?)。

つまりいくら近い立場にあったとしても、どこかで公平性というブレーキをかけないと、
弱い人の立場を守れなくなってしまう。
三浦K事件について言えば、だれに殺されたかはわからないが、その弱い立場の人と
いうのは、一美さんであり、白石Cさんということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司※

●息子が帰ってくる!

++++++++++++++++

10月のはじめ、三男がアメリカから
帰ってくる。
NAPAでの6か月の訓練を終えて、
帰ってくる。
「パパとママを旅行に連れていってやる」と
言ってくれた。
うれしかった。
「飛行機はだめだよ」と私が言うと、
「国内にするよ」と。

1か月半の休暇がもらえるという。
それがすむと、いよいよ大型機の
操縦訓練。
訓練機は、ボーイング777。
通称、「トリプル・セブン」と呼ばれている。
J社の中でも最新鋭機。

やることなすこと、都会的なのだが、
旅行だけは、純和風の温泉へ行きたがる。
おもしろい息子だ。

ところで、みなさん、飛行機だけは、
JALに乗ったほうがよい。
国によって、訓練のし方そのものが、ちがう。
国によっては、空軍のパイロットが、そのまま
民間航空会社のパイロットになったりする。

C国のように、計器飛行のライセンスをもっていない
パイロットが、堂々と、国際線の飛行機を操縦して
いるというケースもある。
(だから夜間飛行ができない。数年前、韓国の
釜山で着陸に失敗した飛行機が、その一例。)

が、JALは、ちがう!
訓練のきびしさが、ちがう!
息子もいつも、口癖のようにそう言っている。

「国内線はともかくも、国際線は、JALにかなう
国はない」と。
つまりそれくらいパイロットの訓練が、徹底している。

+++++++++++++++

●6か国協議

●おバカHILL、行状記(Be ashamed, Mr. C. Hill!)
C.Hill will come to North Korea soon, but what for? He has been cheated and ignored by the 
North Korean Government in these 4 years, only giving them money, oil, food, music and 
time. In the meanwhile North Korea might have developed nuclear weapons more and we 
are afraid some of our kidnapped Japanese might have already passed away. Why does he 
go to North Korea now? The reason is quite clear. He wants to sell himself as a negotiator 
to the next USA government, saying "I am the only one who can talk with the high-officials 
of North Korea". We know he knows nothing about Asia. Mr. Bush should know this. The next 
President of USA should know this.

+++++++++++++++

アメリカのC・Hill国務次官補が、
9月29日、K国に向かうことになった。
今までの言動に、何ら責任を取ることもなく……。

+++++++++++++++

拉致問題では、逆に日本を脅迫。
「拉致問題を一時棚上げにし、K国援助に加われ。
さもなければ、K国のテロ支援国家指定を解除する」と。

これに対して日本が「NO!」と答えると、
C・Hill国務次官補は、本気でテロ支援国家
指定解除に動いてしまった。

が、何といっても最大の裏切り行為は、6か国協議を、
米朝2か国協議にすり替えてしまったこと。
自らを、国際外交の大スターに仕立てるためか(?)。
が、すべてが裏目、また裏目。

先週、K国の国連代表はこう言い出した。
「6か国協議で決まったわけではないので、K国は
約束を守る義務はない」と。
(「6か国」と、たくみに、6か国協議を利用している
点に注目。)

インターネットに配信されているニュースなどを
読むと、K国は、ここ1、2週間のうちに、
N−ビョンの核開発関連施設を、再稼働させるつもり
らしい。
つまりすべてが、白紙に逆戻り!
6年前に、逆戻り!

結局、この4年間の間にC・Hillがしたことは、
K国に、金と原油と食糧と音楽、それに「時間」を
与えただけ。
この間に、拉致被害者の方の中には、亡くなった人も
いるかもしれない。
K国の核兵器開発は、さらに進んだはず。
CIAの元長官ですら、「K国は小型核の開発に
成功しているはず」(08年9月)と述べている。

いいかげんに目を覚ませ、C・Hill!
アジアの「ア」の字も知らない、ド素人外交官!
口にするのは、根拠のない希望的観測ばかり。

追いつめられたC・Hillのつぎの一手は、
K国への直談判。
NIKKEI−NETは、つぎのように、
伝える。

『(9月)29日に米国を出発。30日に韓国で同国首席代表の金塾(キム・スク)外交通商省朝鮮
半島平和交渉本部長と協議した後、訪朝する見通し。北朝鮮が北西部寧辺(ニョンビョン)の
核施設の復旧に動くなか、米朝の直接交渉で事態打開を狙う』と。

今ごろ、K国へ行って、どうする?
何が変わる?

C・Hillの訪朝意図は見え見え。
自分のクビを次期政権につなげること。
「K国と交渉できるのは私だけ」と。
つまり次期政権への、自分の(売り込み)。

恥を知れ、C・Hill!

【アジア人の特性】

●物活論

幼児の世界には、「物活論」というよく知られた心理的現象がある。
物活論というのは、「ありとあらゆるものが生きている」と考える心理状態をいう。
たとえば風にそよぐカーテンを見ても、それを生きていると考える。
空に浮かぶ雲も、それを生きていると考える。

つまり「物」に、「心」を注入する。
そしてその「物」に、「命」があると考え、その「物」に自分の「命」を代用させる。

が、この物活論は、成長とともに修正される。
「物」と「命」を区別できるようになる。

が、悲しいかな、物活論がそのままおとなになっても、残ることがある。
たとえば日本の仏教には、その傾向が著しい。
仏像に「魂?」を吹きこみ、それを「仏そのもの」と思いこんでしまう、など。
極端なケースになると、『イワシの頭も信心から』となる。
(釈迦自身は、自分に似せて仏像を作って拝むなと強く戒めているのだが……法句経。)

この傾向は、西洋人よりはるかに強い。
つまりその分だけ、アジア人は、精神的に幼稚性が残っているということにもなるが、
それはさておき、仏教の世界でいう、「本尊」には、そういう意味がこめられている。
「物」でしかない「本尊」を、「生きている仏」と思いこむことで、自らの信仰性を支える。

現在のK国、なかんずく金xxにとっては、核兵器そのものが、本尊。
本尊あっての、金xx。
最初から戦略的に核兵器を放棄する意図など、金xxには、みじんもなかった。
最近の情報によれば、すでに金日成の時代から、K国は、地下工場で核兵器の開発を
進めていたとされる。

その本尊を、金xxが、そうは簡単に放棄するはずがない。
ないことは、アジア人の私には、それがわかる。
しかしC・Hillには、それがわからない。
だからド素人!

ついでに物活論について……。

●乳幼児の心理

 乳幼児の自己中心性は、よく知られている。

 このほかにも、乳幼児には、(1)物活論、(2)実念論、(3)人工論など、よく知られた心理的
特徴がある。

 物活論というのは、ありとあらゆるものが、生きていると考える心理をいう。

 風にそよぐカーテン、電気、テレビなど。乳幼児は、こうしたものが、すべて生きていると考え
る。……というより、生物と、無生物の区別ができない。

 実念論というのは、心の中で、願いごとを強く念ずれば、すべて思いどおりになると考える心
理をいう。

 ほしいものがあるとき、こうなってほしいと願うときなど。乳幼児は、心の中でそれを念ずるこ
とで、実現すると考える。……というより、心の中の世界と、外の世界の区別ができない。

 そして人工論。人工論というのは、身のまわりのありとあらゆるものが、親によってつくられた
と考える心理である。

 人工論は、それだけ、親を絶対視していることを意味する。ある子どもは、母親に、月を指さ
しながら、「あのお月様を取って」と泣いたという。そういう感覚は、乳幼児の人工論によって、
説明される。

 こうした乳幼児の心理は、成長とともに、修正され、別の考え方によって、補正されていく。し
かしばあいによっては、そうした修正や補正が未発達のまま、少年期、さらには青年期を迎え
ることがある。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●夜の散歩

+++++++++++++++++++++

このところ、やや運動不足。
風邪の症状も治まったので、ワイフと散歩に出かける。
コースは、一度バイパスに出て、コンビニに寄る。
そこから大通りに沿って佐鳴湖へ。

距離にして、5キロくらいか。
私はハナ(犬)のロープを左手に、懐中電灯を右手に。
ワイフは、バッグと傘。
出かけるとき、パラパラと小雨が降り出した。

++++++++++++++++++++

●楽しみ

「楽しみ」とは何かと問われれば、私は「生きているという実感」と答える。
もう少しシニカル(皮肉ぽく)な答え方をすれば、「死の恐怖のない自由」ということ
になる。
「生きている」という感覚は、「死の恐怖」の裏返しとして実感できる。
言い換えると、死の恐怖を感じないだけでも御の字。
感謝しなければならない。
喜ばなければならない。
あるいは、それ以上の「楽しみ」はあるのか。

もちろん健康であれば、さらによし。
足が動く。
息ができる。
目が見える。
音が聞こえる。

あとはその「楽しみ」を、どう使うか。
というのも、この「楽しみ」には、限界がある。
時間という限界である。
今の状態が10年つづくという保証は、どこにもない。
が、30年は、ぜったいに、つづかない。
つまり「時(とき)」そのものが、貴重な財産。
刻一刻と、砂時計の砂が下へ落ちていくように、「時」は、減っていく。

「楽しむ」といっても、そういう「時」を無駄には使いたくない。
いや、無駄に使っても、そのあとに残るのは、空しさだけ。
ときに「しまった!」と思うことさえある。

が、今夜の散歩は、楽しかった。
あちこちの記念碑を見たり、通りの看板を読んだり……。
閉店して静まりかえった店の中も、のぞいた。
それぞれの場所で、それぞれの人たちの(思い)を感ずることができた。

家に着くころには、ワイフは、「足が痛い」と言い、私は「背中に汗をかいた」と
言った。
ひんやりとした湿った冷気が、気持ちよかった。
つまりその実感こそが、「楽しみ」ということになる。
「生きているという実感」ということになる。

そうそう、たった今、ハナが牛乳をせがんだので、それを少し分けてやった。


●母の生きがい

毎晩、7〜8時ごろ、センターから電話がかかってくる。
朝のときもある。
そのときどき、母を介護する看護士さんや、介護士さんから、母の状態を知らせて
くれる。
先ほどもあった。

母の状態は、一進一退というところか。
危篤と安定を、3〜4日ごとに繰り返している。
そのつど、センターへかけつけたり、ほっとしたりしている。

ほかにとくに病気らしい病気のない母だから、人によっては、「100歳まで
生きられそうですね」と言う人もいる。
しかし体重のほうは、毎月のように減っている。
今では小学生のよう。
小学生といっても、小学3〜4年生の子どものよう。

昨日も食事が喉を通らなかったということで、点滴で、それをすました。
そういう母の心を思いやる。
「どんな気持ちだろう?」と。

もし母に、自分の境涯を理解できる能力がじゅうぶんあったなら、母は、きっと
自分の境涯をのろうにちがいない。
毎日、毎晩が、孤独との闘い。
生きる目的も希望もなく、また動くこともできず、ベッドの上に横たわっているだけ。

ただ幸いなことに、(それを幸いと表現してよいものかどうかはわからないが)、母には
今の境涯を理解するだけの能力はないと思う。
認知症に合わせて、脳梗塞も起こしている。
面会に行っても、毎回、ほとんど眠ったままの状態。

私は率直に言えば、母というよりは、そういう母を介護してくれる介護士さんのほうに、
頭がさがる。
介護士さんが介護してくれるおかげで、私とワイフは、自由な時間を楽しむことができる。
いや、それとて、自分で母を介護してみて、わかったこと。
老人の介護というのは、ほんとうにたいへん。
母が家にいるときは、毎日、1時間とて、気が抜けることはなかった。
事故も重なった。

もしあのまま母が私の家にいたとしたら、母は、去年のうちに他界していただろう。
だからこそ、介護士さんには、よけいに頭がさがる。

私には今の母の心を読むことはできない。
ないが、今、生きているということが、母の強い意思だと思う。
思うから、生きている以上は、どこまでも生きていてほしい。

私と母の間には、いろいろあったが、今ではそのわだかまりも、消えた。
ベッドの上で横たわっている母は、どこまでも、そしてどこまでもやさしい、
あの慈愛に満ちた母でしかない。

明日は、午前中に、少し時間があいているので、見舞いに行くつもり。
母ちゃん、ありがとう。
そしてがんばれ!
これからも、いっしょに生きていこう!


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2836)

●韓国・9月危機が現実に!(September Crisis in South Korea)

++++++++++++++

9月29日。

今朝は、雨。
小雨。
木々の小枝を揺らすこともなく、
静かな雨が降っている。

こういうときというのは、
何かと人恋しい。
そっと冷めたお茶を飲む。
天井を見上げる。

どこかでスズメが鳴いた。
その声で、ふと我に返る。
今日も始まった。
今週も始まった。

++++++++++++++

●70兆円!

アメリカ政府は、不良債権を買い取るために、
70兆円規模の公的資金を投入することにしたという。

その点、アメリカは強い。
だれに遠慮することもなく、ドル紙幣を印刷する
ことができる。
印刷機を自由に、回すことができる。

世界中が、ドル札でジャブジャブになったところで、
アメリカの知ったことではない。
もともとあの国は、自分勝手。
無責任。

が、この日本も動き出した。
今まで、日本は、ためこんだドルを、使うことも
できなかった。
アメリカのドルを買い支えるため、せっこらせっこら
とドルをためこんできた。

ずいぶんと前の話だが、橋本総理大臣の時代に、
橋本総理大臣が、「手持ちのドルを5%だけ、他の通貨に
替える」と言っただけで、アメリカ政府はそれに
対して大激怒。
結果的に、橋本総理大臣のクビは、それが原因で
吹っ飛んでしまった。

が、今は、そのドルを堂々と使うことができる。
使って、瀕死状態のアメリカの銀行や証券会社の
買収に乗り出した。
今度ばかりは、アメリカ政府も、文句は言えまい。

しかし70兆円で足りるのか?
日本政府は、日本のバブル経済が崩壊したとき、
数年にわたって、30兆円規模の公的資金を市場に
投入した。

皮肉なことに、公的資金の投入に、もっとも強硬に
反対したのが、アメリカ。
そのアメリカが日本にならって、日本がしたのと
同じことをしている。

今朝の株価は、にもかかわらず、あまりパッとしない?
プラス110円程度の上昇。
やはり70兆円程度では、力不足?

が、同じ為替でも、韓国の通貨があぶない。
選手末、1ドル=1160ウォン前後だった
ウォンが、今朝(9・29)は1172ウォン!
これが1200ウォン程度までにさがれば、
約70%の中小企業は倒産すると言われている。
『中小企業中央会は、ウォン相場が対ドルで、
10ウォン下落するごとに損失が1000億ウォン
(約91億円)膨らむと推定している』(中央N報)と。

ウォンを買い支える外資も、今月中、底をついたはず。

日本の知ったことではないが、目が離せない。

(注:午前9:00に、1ドル=1170ウォンだった
為替相場が、午前9:30には、1180ウォンにまで、
さらにさがった。「9月危機」が、いよいよ現実になってきた!)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●小型ヘリコプター

+++++++++++++++++++++

少し前から、おもちゃの小型ヘリコプター
に凝っている。
現在、7〜8機、もっている。
値段は、2000〜8000円前後。
今日も、1機、買った。
3チャンネル仕様のもので、結構、重量感がある。
「重量感がある」というのは、この種のおもちゃにしては、
重いということ。
値段は、12000円だった。

(3チャンネル仕様というのは、上昇・下降、
左右旋回、前進・後進の、3つの動きをコントロール
できるという意味。)

++++++++++++++++++

若いころは、ラジコンの飛行機やヘリコプターを
よく飛ばした。
しかし当時は、(今もそうだが)、値段も高く、
それに操作が難しかった。
たいてい3、4回も飛ばすと、墜落。
そのまましばらくどこかに飾ったあと、
ゴミになったりした。

が、昨年くらいから、手のひらに載るような
小さなヘリコプターが発売されるようになった。
とたん、私は、小型ヘリコプターにとりつかれて
しまった。

部屋の中で、気軽に飛ばせるのが、よい。
ふと気が向いたようなとき、飛ばせるのも、よい。
ただしラジコンといっても、きめのこまかい操作は
できない。
スイッチONで、突然、ビューンと舞いあがったりする。
OFFにしたとたん、そのまま墜落。
が、慣れてくると、ヘリコプターのもつクセを
うまく利用して、部屋の中を自由に旋回させるようなことが
できるようになる。

結構、この世界も、奥が深い。

もちろんきめのこまかい操作のできるのも、ある。
デジタル・プロポーショナルというプロポ(送受信機)
付きというのが、それである。

今日買ったのは、そのデジタル・プロポーショナル付き。
目下、充電中で、まだ飛ばしてないが、楽しみだ。

そう言えば、何かの雑誌に、「団塊の世代には、小型ヘリ
に凝っている人が多い」と書いてあった。
私もその1人。
なぜか?

ひとつには、私たちの世代は、ほかの世代とくらべて、
空へのあこがれが強いということがある。
小、中、高校時代、私たちはいつもどこかに、大きな
圧迫感を覚えていた。
といっても、それを自覚していたわけではない。
息苦しいのが当たり前で、その息苦しさそのものが、
よくわからなかった。
もがいていることも知らず、ただひたすら、その中で、
もがいていた。

「自由になりたい」というばく然とした思いが、
「空へのあこがれ」へと変化していったのではないか。

が、この状態は、社会へ出てからも変わらなかった。
「企業戦士」「猛烈社員」ともてはやされて、ただひたすら、かつ、
がむしゃらに、あの高度成長期という時代を生き抜いた。
それこそ、遊ぶ時間も惜しんで、仕事に励んだ。

いや、それとて今になってわかること。
当時の私たちは、「遊ぶ時間も惜しんで」という意識もないまま、
それを当たり前のこととし、家族を犠牲にし、自分の
時間を犠牲にして、働いた。

しかしその意識、つまり犠牲にしたという意識も、あまりなかった。
が、こんなことはあった。
欧米人が、たとえば1〜2か月も夏休み(バカンス)を
とると聞いたときのこと。
「あいつらバカじゃないか」と思ったことがある。
「1〜2か月も休んで、仕事はどうするのだ」と。

意識というのは相対的なもので、私がそう思ったという
ことは、同時に、私たちの意識が、欧米人の反対側にあった
ということになる。

しかし本当にバカだったのは、どちらだったのか?
今になってみると、ひょっとしたら私たちのほうが
バカだったかもしれない。

それを認めるのはつらいことだが、悪いことばかりでもなかった。
まだ私など、余裕のあるほうだった。
そのつどいろいろな趣味をもって、それを楽しむことができた。
先に書いたように、ラジコンの飛行機も飛ばしたし、
ヘリコプターも飛ばした。

で、今は、小型のヘリコプターを無心になって飛ばす。
ガチャンと墜落して、ひっくり返ったのを見て、
あわててかけつける。
傷んでないことをたしかめながら、またそっと、
空にそれを浮かす。。
それを見て、ほっとする。

私たちの世代に欠けていたものといえば、そういう
(バカを楽しむ心)ではなかったか。
今にしてみると、それがよくわかる。

小型のヘリコプターを飛ばしながら、別の心で、そんなことを考えた。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●欲もほどほどに

++++++++++++++++++

今月は、土地の売買について、大きな
動きが2つあった。

ひとつは、小さな土地を売ったこと。
もう一つは、30年ほど前に買った山林を、
売りに出したこと。

小さな土地については、坪5万円という、まあ今の
相場感覚からすれば信じられないほど安い値段で売った。
もちろん宅地である。

「売った」というより、「早く縁を切りたかった」。
それでその値段で売った。

もうひとつのほうの山林は、ある知人にだまされて
買った。
当時ですら、相場の10倍。
今売っても、当時の値段の、6分の1にもならない。
あるいはそれ以下。
一言、「(だまして)すまなかった」と言って
くれれば、私も救われるが、本人には
その意識はない(?)。

「山は値段ではない」とか、「オレを信じろ」とか、
勝手なことを言っている。

昔から山師というのは、そういうもの。
詐欺師の代名詞にもなっている。

よく調べもせず買った私が、バカだった。

が、この世界には、損得は、つきもの。
損得を通して、人は何かを失い、何かを得る。
ただ誤解してはいけないことは、損をしたからといって、
何かを失うということではない。
得をしたからといって、何かを得るということでもない。

坪5万円だったが、おかげで私は、その土地のもつ
呪縛感から解放された。
気が楽になった。
一方、私をだましたその知人は、そのあと定職にもつかず、
貧乏の底をはうような生活をつづけている。
一方、高い授業料だったが、私はそれで少しは賢くなった。

ワイフはこう言う。
「死ぬまでに、少しずつ、処分していきましょう」と。
どうせ死ねば、この宇宙もろとも、私は消える。
「財産」というものがあるなら、まだ元気なうちに、
有効にそれを使ったほうがよい。
損か、得かということになれば、健康で、楽しくすごせる
ことにまさる「得」はない。
言いかえると、損をするほどの財産があったというだけでも、
もうけもの。
何もない人は、もとから損など、しない。
損から、得るものもなければ、学ぶものもない。

さらに言えば、他人をだまして得をしたような人は、
所詮、その程度の人間。
その程度の人生で、終わる。
人に軽んじられ、だれからも相手にされない。

そのほうが、よほど損だと私は思うが、恐らく、そのタイプの
人間には、それすら気がつかないだろう。
どこまでもあわれで、かわいそうな人間である。

……そう、私の財産。
それは今の、幸福な家庭ということになる。
心底、私を理解してくれるワイフ。
授産施設で、指導員として生き生きと働く長男。
アメリカに移住し、大学のコンピュータ技師として働く二男。
空が好きで好きでたまらない三男。
それにすくすくと育っている2人の孫。

それにまさる財産が、ほかのどこにある。

……とまあ、そう言いきかせながら、自分を納得させる。

『欲多ければ身をそこなひ、財(たから)多ければ身をわづらはす』(老子・
「浮世物語」)という。

欲もほどほどに、財産もほどほどに、ということか?


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2837)

●今朝のニュースから

●金融安定化法案否決

アメリカの下院は、7000億ドルの金融安定化法案、つまり
公的資金投入法案を否決した(9月29日)。
結果、アメリカのダウ工業株30種平均が、777ドルも
さがった。
ブッシュ大統領は、再採決をもくろんでいるが、再度否決
されたら、アメリカどころではない。
世界経済は、ほんとうに奈落の底に転落してしまう。

わかりやすく言えば、現在、「経済」の世界では、世界大戦
規模の「戦争」が起きているということ。
「私には関係ない」なんて思っていると、たいへんなことに
なる。
「経済」のこわいところは、「様子見」などと、のんびり
構えていると、あっという間に、動いてしまうこと。
日本でも取り付け騒ぎが起きるのは、時間の問題と考えてよい。

この際、現金化できる預金などは、できるだけ早く現金化して
おいたほうがよい。

とくに証券会社の窓口の女性の言葉は、ぜったいに信用しないこと。
「だいじょうぶです」と言ったら、「あぶない」という意味。
「安全です」と言ったら、「危険です」という意味。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●留学生斡旋会社倒産

どこかの留学生斡旋会社が倒産した。
かなりずさんな会社だったらしい。
が、その費用を見て、びっくり!
まさに「詐欺」!

自分でインターネットを使って申し込めば、
原則として、入学の申し込みは、ただでできる。
大学付属の語学校にしても、無試験が原則。
(もちろん渡航費、学費、滞在費は別だが……。)
それを手続き代と称して、100〜150万円程度もの費用を
取っていた!

入学許可がおりれば、下宿先などは、
たいてい大学のほうで、世話をしてくれる。
費用は実費。

どうしてみなさん、こんなインチキ会社に
ひかかるのだろう。

念のため、自分でできる方法をここに書いておく。

(1)大学の情報を集める。
語学校(Language Institute)の情報を集める。
インターネットを使って調べれば、瞬時にできる。

(2)入学申込書(願書)があるので、それに必要事項を書き込む。

(3)入学許可書が届いたら、大使館へ学生ビザを申請する。
(これも最近ではすべて、インターネットを介してできる。)

(4)その前後に、大学へ直接、学費の振り込みをする。

(5)入学許可書には、たいてい下宿の申込書、あるいは寮の申込書が
添付されているので、希望に応じて、それに申し込む。

(6)あとは航空チケットを購入。
オーストラリアやニュージーランドのばあいは、大学の係員が、空港まで
出迎えてくれる。もちろん無料!

こんな簡単な手続きのために、100〜150万円だと!
「詐欺」という意味が、これでわかってもらえた思う。

(注意)
よく高校前の電柱などに、「海外留学〜〜説明会」とかいう張り紙がしてあるのを
見かける。
しかしああいうのには、顔を出してはいけない。
たいてい会場は、フカフカのジュータンが敷き詰められた、高級ホテル。
会場へ入ると、甘いコーヒーの香りと、静かな音楽。

ピカピカのスーツを着た男女が、にこやかに立っている。

そういう雰囲気で説明会は始まるが、すでにそのとき、集まった人たちは、
催眠術でもかけられたような状態になっている。
あとはインチキ会社の思うがまま。
100〜150万円のインチキ契約に、サインをしてしまう。

自分で入学申込書も書けないような学生は、海外留学など考えないこと。
もとから「無理」。
留学しても、遊ぶだけ。
もしあなたの子どもが、「留学したい」とでも言ったら、あなたはこう言えばよい。
「手続きは、すべて自分でしなさい。それができなければ、留学はあきらめなさい」と。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

●1ドル=1224ウォン!(9月30日、午前9:30現在)

7000億ドルの金融安定化法案が否決された。
その動きを受けて、アメリカドルは、世界的に全面安。
各国通貨は、値をあげた。

現在日本円は、1ドル=104円。

が、ひとり韓国の通貨だけは、ウォン安。
現在韓国ウォンは、1ドル=1224ウォン!

アメリカのドルも売られているが、それ以上の勢いで、韓国ウォンが、猛烈に
売られている。
「1224」という数字は、そういう数字である。

まだはっきりとした数字は出てこないが、韓国銀行の手持ち外貨は、すでに
底をついているはず。
これ以上、為替相場に介入したら、年末の借金が返せなくなってしまう。
なすすべもない。
指をくわえて、見ているだけ。

そのため危機ラインと言われていた、1200ウォンをあっさりと、超えて
しまった。

ゆいいつの救いは、日銀が、市中へのドル資産の大放出を決めたこと(9月29日)。
韓国経済救済のためというわけではないが、これによって、韓国経済は、
何とか生き延びられるはず。
(あるいは、それも無理かも? 9月危機の結果は、今夕までにわかる。)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2838)

●鍋料理

+++++++++++++

私は若いころ、鍋料理が嫌いだった。
ああいうのは、老人食と思っていた。
が、ここ10年(あるいは20年かな?)、
鍋料理が好きになった。
とくに今夜のように肌寒い夜は、ありがたい。

ワイフと私が鍋をつつき始めていると、
息子が仕事から帰ってきて、そのまま合流。
3人で、ああでもない、こうでもないと言って、
鍋料理を楽しむ。

+++++++++++++

●三男が帰ってくる

10月x日に、三男がアメリカから帰ってくる。
訓練を終え、1か月半の休暇がもらえるという。
「いいなあ〜!」。
が、それが終わると、今度は実機(777)での訓練が
待っている。
その訓練にあと1年。
それが終わって、やっと副操縦士。
訓練だけで、すでに5年になる。
あと1年。
よくがんばったと思う。
航空大学校でもそうだったが、チェックテストで
不合格になると、そのつど、そのまま退学もしくは、
配置転換。
パイロットの世界には、再試験とか追試とかいうのは
ない。
そのまま、おしまい。

資格試験だけでも、無線士、気象予報士に始まって、
20〜30種類は受けなければならない。
今では毎年、英語の試験も受けなければならないという。
それに飛行機というのは、機種ごとに操縦免許が
必要。
777を操縦できるからといって、エアバスも操縦
できるというわけではない。
「たいへんだなあ」と思うと同時に、「私にはでき
なかった」と思う。
私も一時は、パイロットの道をめざした。

で、私とワイフの夢。
三男の操縦する飛行機に乗ること。
今までは「機長になったら乗ろう」と言いあっていたが、
「副機長でもいい」と。
機長になるのを待っていたら、あと何年かかるか、
わからない。
10年先では、飛行機には、もう乗れなくなるかも
しれない。

息子たちは、今、この日本や、地球を、外の世界から
ながめている。
私のとはちがった人生観をつくりあげているはず。
私にはそれがどんな人生観かわからないが、私は
「これでよかった」と思っている。

「どんな人生観だろう?」と想像しただけで、ワクワク
するではないか。

がんばれ、息子たち!
迷わず、まっすぐ、自分の道を進め!


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2839)

●不愉快な手紙

++++++++++++++++++

兄の49日の法要も無事すみ、葬儀に
参列してくれた人たちに、一品を添えて、
あいさつの手紙を出した。
「香典返し」というのである。
それについて、Fさんという女性(85歳
くらいか?)から、手紙が届いた。

++++++++++++++++++

Fさんという女性は、母の親しい友人であったらしい。
名前だけは、ときどき耳にした。
1、2度、会った記憶はあるが、顔までは思い浮かばない。
その女性から、香典返しに対して、返事が届いた。
が、その手紙を読んで、言いようのない不快感に包まれた。

いわく、
「お母さんを大切にしてあげてください」
「毎日でも、見舞いに行ってやってください」
「甘いものが好きだったようなので、〜〜を買ってあげてください」
「私は見舞いに行けませんので、かわりに行ってあげてください」
「くれぐれもよろしくお伝えください」
「私も介護で苦労したので、経験がありますが、あなたの姉さんは
たいへん苦労されましたよ」などなど。

一読すると、母のことを心配して、そう書いてきたようにもみえる。
姉のことをほめたたえているようにもみえる。
しかしその一方で、あたかも私が何もしていないかのようにも読める。
Fさんという女性は、私が地元にいないというだけで、そう思っているのだろう。
それはわかるが、親しい人からならともかくも、私はFさんという人を、ほとんど
知らない。
こういうのを、私たちの世界では、「内政干渉」という。
もう少し端的に言えば、「いらぬ節介」。

岐阜のあの地方では、こうした権威主義がいまだにのさばっている。
たった1〜2歳年上というだけで、年長風を吹かす人は、いくらでもいる。
相手が年下というだけで、平気で説教をしてくる。
Fさんにしても、友人の息子というだけで、「子分」か何かのように思っているのだろう。
が、どうもそれだけではないようだ。
私はその手紙を読んで、「ベタベタの依存性」を感じた。
反対に言えば、独立心の旺盛な人は、こういう手紙を書かない。
たとえ親しくても、こういう内政干渉はしない。

というのも、(依存性)や(独立心)には、双方向性がある。

よくある例が、依存性の強い子ども。
親は、「甘えん坊で困ります」とこぼすが、そういう甘えん坊にしているのは、親自身。
さらに言えば、自分自身が(甘えん坊)だから、子どもの依存性に気がつかない。
子どもの依存性に、どうしても甘くなる。
甘えてくる子どもに対して、表面的には、「いやね」「困っています」と言いながら、
そういう子どもを「いい子」「かわいい子」と許してしまう。
だから子どもはますます依存性をもつようになる。

さてFさんという女性。
私なりの返事を書こうと思ったが、やめた。
そういう女性を相手にしたところで、得るものは何もない。
それに母の友人は友人。
いろいろ世話になったのかもしれない。

が、一方、独立心の旺盛な人は、相手を、同じように独立した人とみる。
相手の立場を、独立した人として、尊重する。
たとえばこういうケースでも、「それぞれの家庭には、それぞれの事情があるのだろう」
とか、「それぞれの家の人は、それぞれにがんばっているのだろう」と考えて、それで
すます。

相手から相談でもあれば話は別だが、内政干渉など、もってのほか!

そうそう先日、ある冠婚葬祭についての本を読んでいたら、こんなことが書いて
あった。
「冠婚葬祭には、横ヤリはつきもの。
あれこれうるさく言ってくる人が、かならず1人や2人はいる。
しかし金(マネー)を出さない人の意見は、無視すればいい」と。

まったく、同感である。

だれだって口を出すことくらいなら、できる。
しかし金(マネー)を出す人は少ない。
ほとんど、いない。
だから私たちの世界では、こう言う。
『口を出すなら、金を出せ』と。
独立心の旺盛な人ほど、そう言う。
言い換えると、『金を出さないなら、黙っていろ』となる。

で、私は母に万が一のことがあっても、葬儀は質素なものにするつもりでいる。
「質素」ということは、「質素」。
費用を安くすますという意味ではない。
無駄な見えや体裁は、とりつくろわないという意味。
が、そういう葬儀をすると、干渉してくる人たちがいるはず。
すでに「親の葬儀は、借金をしてでも、(派手に)やれ」と言ってきた人がいる。
しかし私は、私。
喪主になるのは、私。
私は私のやり方でやる。

僧侶による読経については、すでに郷里の寺の住職に、こちらへ来てしてもらうよう、
頼んである。
住職も、こころよく承諾してくれた。
が、それ以上に、葬儀に、何が必要なのか。

「形」だけの人間関係には、もう、うんざり。
「形」だけの葬儀にも、もう、うんざり。
形だけ整えて、それをすませば、それでよいというのか。
人間の命は、もっと厳粛なもの。
日本の葬儀には、その(厳粛さ)そのものが、欠けている。
よく誤解されるが、派手な葬儀であればあるほどよいと考えるのは、バカげている。

Fさんという女性がどんな人か、実際のところ、私は知らない。
郷里では、たいへんな哲学者なのかもしれない。
しかし一片でも良識のある人なら、見知らぬ相手に対して、こんな手紙は書かない。
書けない。

私はワイフにこう言って、手紙を手紙入れにしまった。
「まあ、いいほうに解釈しよう。Fさんという女性は、心のやさしい人と」と。

もしFさん、あなたが、このエッセーを読んで不愉快に思ったら、こう思ってほしい。
あなたが不愉快に思った以上に、はやし浩司は、不愉快に思った、と。

(今日のこのエッセーは、少しきびしいかな?)


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●10月1日

今日から10月1日。
しかし数日前から、急に寒くなった。
で、さっそく私は長袖のシャツにセーターを着た。
それを見て、一人の女子中学生がこう言った。
「先生、もう、冬服を着ているの?」と。

見ると当人は、半そでのシャツ一枚で、ガタガタと震えているではないか。

私「あのなあ、寒かったら、セーターを着ればいいの」
女「でも、冬になったら、どうするの?」
私「この上に、革ジャンでも着ればいい」と。

実は、私は寒いのが苦手。
(最近は、暑いのも苦手になったが……。)
気温に応じて、季節にかまわず、衣服で体温を調整している。
「夏だから夏服」「冬だから冬服」と決めてかかるほうが、おかしい。

とは言っても、今日から10月1日。
日本では、「衣替えの日」と呼んでいる。
堂々と冬服が着られるのがうれしい。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●大恐慌

今朝の新聞の一面に、「(世界的な)大恐慌」という文字が並んでいた(中日新聞)。
銀行の連鎖倒産が始まり、つづいて企業の連鎖倒産、縮小、失業者の増大が始まる
という。
すでに不動産業界は、どしゃ降りの不景気。
しかし「待ったア!」。

「日本はだいじょうぶ」とまでは書けないが、「日本は、波はかぶるかもしれないが、
ズブ濡れにはならない」。
20年前にバブル経済が崩壊したときから、日本は、賢くなった。
昨年までアメリカや中国がバブル経済に踊ったときでも、日本だけは、「ミニ・バブル」
の範囲で、それを収めた。
現に今、ヨーロッパやロシアでも、大銀行がつぎつぎと国有化される中、いまだ、日本の
銀行で国有化の話が出ているのは、一行もない。

日本の借金も高額だが、しかし日本は、外国からは、金を借りていない。
借金といっても、親が息子や娘に借りるような、いわば身内の借金。
しかも政府には、1000兆円近い国有財産がある。
国民も1000兆円近い、金融財産をもっている。

では、なぜ今、アメリカの経済が、ころんだのか?
むずかしい話はさておき、そんなことは、アメリカの家を見ればすぐわかる。

アメリカでは銀行の中堅サラリーマンですら、日本では考えられないような大豪邸に
住んでいる。
映画『ホーム・アローン』に出てくるような、大豪邸である。
私もアメリカでそれを見たとき、こう思った。

「アメリカ人がこんないい生活できるのは、日本のような国が、せっこらせっこらと、
アメリカのドルを買い支えているからだ」と。

すでに10年近くも前から、アメリカのドル札は、紙くず同然になりつつあった。

一方、産業はどうか?
基本的には、アメリカの産業構造は、ブラジルの産業構造と同じとみてよい。
そのことも、アメリカのホテルに泊まってみると、よくわかる。
由緒ある、一流ホテルでもよい。

広い部屋に、豪華な調度品。
しかしよく見ると、アメリカ製のものは、何もない。
テレビは台湾製、電気器具類は中国製、毛布、シーツも中国製などなど。
かろうじて家具だけはアメリカ製だが、裏から見て、びっくり!
クロゼットにしても、表には豪華な彫刻(?)などがほどこしてあるが、裏から見ると、
ベニヤ板をたたきつけたよう。

それを見て私は、ワイフにこう言った。
「こんな家具は、日本だったら、売れないね」と。

アメリカがアメリカなのは、軍需産業(=軍事力)と映画産業、それにコンピュータの
ソフト産業があるからである。
それをのぞけば、ただの農業国。
そういう国が、基軸通貨であることをよいことに、双子の赤字をものともせず、ドル
紙幣を世界中にバラまいてきた。
その結果が今である。

ドルの価値が半減、もしくはそれ以下になるかもしれない。
その分だけ、日本の海外資産も半減、もしくはそれ以下になるかもしれない。
が、恐慌には巻き込まれない。
というのも、日本の銀行には、不良債権は、ほとんど残っていない。
個人負債もほとんどない。
心配なのは、証券会社などを通して海外投資をしてきた個人投資家たちである。
こういった人たちは、今年末までに、数10兆円近い損失を出すかもしれない。
しかしそれとて、少し言葉はきついが、自業自得。

ではどうするか?

この世界には、「ふんばり勝ち」という言葉がある。
最後までふんばったほうが、勝ち。
とりあえず、韓国には、自由主義貿易圏から退散してもらう。
つづいて中国にも、退散してもらう。
日本は最後の最後まで、手持ちの金融資産をしっかりと握り、ふんばる。
あとの結果は、世界に任せればよい。

日本は今回の「大恐慌」をきっかけに、世界の金融王国として、躍り出ればよい。
日本があえて手を出さなくても、そうなる。
(この意見は、少し過激かな?)


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●人間vs山猿

今日、山荘へ来てみたら、テレビのアンテナが、またまた折られていた。
雨どいも一か所、途中で、大きく横へゆがんでいた。
それに電話の電線を伝って移動しているらしく、途中の釘を刺した
ビニールが、横に垂れていた。

猿のしわざである。

このところの雨で、猿の足跡というか、手跡がベタベタとあちこちに
ついていた。
それをたどってみると、猿の動きは、こうだ。

まず裏山の方向からやってくる。
土手に積んだブロックの上から、一本の雨どいに飛びつく。
その雨どいを伝って、一度、屋根に上る。
その屋根からアンテナに飛び降り、そこから栗の木に登る。

「猿は頭がいいから、釘のあるところを避けて歩いている」と私。
「どうしようもないわね」とワイフ。

来年になったら、栗の木は切るつもり。
梨の木も切るつもり。
ビワもあぶないが、季節がちがうから、どうか?
それにビワの木は、山荘から、離れている。

人間vs山猿の戦いは、今日もつづく。

++++++++++++++++++++++++++++++

【正直こそ、最善】

●小ずるい人たち

大きな悪さはできない。
ふつうは善人として、通用する。
しかし小ずるい人は、小ずるい。

私は息子たちには、いつもこう言ってきた。
「ウソはつくな。ウソをつきたいときは、黙っていればいい」と。
いつだったか、昔、オーストラリアの友人が教えてくれた言葉である。

もう少し踏み込んで言えば、こうなる。
これもそのオーストラリアの友人が教えてくれた言葉である。

「聞かれるまで、本当のことは言わなくていい。
聞かれても、自分に都合の悪いことは、だまっていればいい」と。

で、こんなことがあった。
何かのことで、その友人が、私にとってつごうの悪いことをした。
そこで私が、「どうして君は、そのことをぼくに話してくれなかったのだ?」と
聞くと、その友人は、こう言った。
「君が聞かなかったから」と。

"Because you didn't ask me that"(君がそれを聞かなかったから)という英語が、
今でも耳の中にしっかりと残っている。

欧米人というのは、「ウソ」に対して、たいへん敏感に反応する。
一度のウソが、そのまま人間関係に終止符を打つこともある。
しかしこの日本では、ウソに寛大というか、さらに『ウソも方便』という
言葉さえある。
ときと場合によっては、ウソも許される、と。

そういうウソを積み重ねていると、やがてウソをウソとも思わなくなる。
以前、こんな人(男性)がいた。
何でも車をバックさせているとき、カーブミラーに車をぶつけてしまったらしい。
そこでその男性は、急いで、その場を逃げたという。

「林君、警察に見つかると、120万円だよ、120万円!」と。

カーブミラーの修理代(=罰金)は、120万円いう。
その男性は、そういう話を、あたかも自分の手柄のようにして話してくれた。
もちろん「悪いことをした」という意識はない。

私自身も、子どものころは、小ずるい子どもだった。
自分でも、それをよく覚えている。
たとえば道に、お金や財布が落ちていたら、すかさず、自分のものにしていた。
一度だけだが、隣の家から、小さな金属製のライターを盗んだこともある。
私が小学5年生くらいのときのことではなかったか。
が、そのライターはすぐ母に見つかってしまい、母がそれを返しに行った。

しかしウソはあまりつかなかった。
まわりの人たちが、みなウソつきだったから、かえってウソについて、嫌悪感を
覚えていたせいかもしれない。
前後の混乱期ということもあった。
ただ私の父は、場違いなほど、実直な人で、今にして思うと、父には感謝している。
バカ正直というか、ウソがつけない分だけ、商売は下手だったが、正直さの大切さは、
私は父から学んだ。

で、結婚してからまもなくのこと。
ワイフ自身も、こう言ったことがある。
「あなたの町では、何が本当で、何がウソか、よくわからないわね」と。

小ずるい人のウソには、つぎのような特徴がある。

(1)小悪を告白して、大悪を隠す。
(2)とぼけて、その場をごまかす。
(3)忙しいフリをして、話題をそらす。
(4)すかさず作り話をする。
(5)他人のウソには、おおげさに怒ってみせる。
(6)口がうまく、ウソと真実を適当に混ぜて話す。
(7)ことさら「自分は善良な人間である」という演技をする。
(8)自分の正体を知っている人を、悪人に仕立てる。

「小悪を告白して、大悪を隠す」というのは、どうでもよいようなささいな失敗を
告白して、「自分は正直な人間である」ということを強調する。
たとえば大きな花瓶を割っておきながら、別のところで、「ごめんなさいね、不注意で、
テーブルのお茶をこぼしてしまいました」などと言う。

「とぼけて、その場をごまかす」というのは、小ずるい人間の常套手段。
年齢が高くなると、ボケたふりをすることもある。

「忙しいフリをして、話題をそらす」というのは、その話題になりかけると、
動物的な勘で、その場から逃げる。
「あっ、お湯をわかしたままにしておいた。ちょっとごめん!」とか、など。

「すかさず作り話をする」というのは、このタイプの人は、実にうまい。
長い時間をかけて訓練しているから、ふつうの人にはマネできない。
もちろん自分を正当化するために、である。

「他人のウソには、おおげさに怒ってみせる」というのは、『泥棒の家ほど、戸締り
が厳重』ということわざに、相通ずるところがある。
自分は平気でウソをつくくせに、(つまり、それだけ相手のウソを見抜く目が肥えて
いる)、相手がウソをつくと、大げさに、それを怒ってみせたりする。

「口がうまく、ウソと真実を適当に混ぜて話す」というのは、ウソつきというのは、
ウソだけを言うのではない。
適当にウソに本当の話を混ぜ、相手を自分のペースに引き込んでいく。
その仕方が、うまい。

「ことさら自分は善良な人間であるという演技をする」というのは、自分の正体を
見破られないため。
「先日も、あることから人助けをさせられましてね……」とか何とか。
そういう話を大げさに誇張してみせたりする。
あるいは1、2度しかしていないにもかかわらず、毎週のようにボランティア活動を
しているような話し方をする。

「自分の正体を知っている人を、悪人に仕立てる」というのも、やはり自分の正体を
見破られないため。
日ごろからその相手の悪口を、それとなく言いふらし、その相手を悪人に仕立てる。
あるいは「自分は善良な人間だが、その相手には、ひどいめにあっている」などと、
大げさに言いふらしたりする。

で、先にも書いたように、私も、もともとは小ずるい人間だった。
だからこそ、今、他人の小ずるさが、よくわかる。
子どもでも、いつもカンニングしている子どもほど、ほかの子どものカンニングに
敏感。
それを私に告げ口したりする。
だから私は、そういうときは、すかさず、こう言い返すことにしている。
「ぼくはね、告げ口は、もっと嫌いだよ」と。……これは余談。

こうした小ずるさは、一度身につくと、それを消すことは容易なことではない。
年齢とともに、ますます小ずるさに磨き(?)がかかってくる。
さらにある年齢以上になると、それがそのままその人の人格の基盤になってしまう。
若いときには、気力で自分の小ずるさを隠すことができるが、その気力が弱く
なると、中身がそのまま表に出てきてしまう。
そして小ずるいことをしながら、それが小ずるいこととさえ思わなくなってしまう。
これがこわい。

第一に、小ずるいことを重ねていると、周囲の人たちが去っていく。
第二に、人生観に一貫性がなくなり、自分の生き様を定められなくなってしまう。

日常的にウソをついていると、そのつど、相手に応じて、つじつま合わせをしなければ
ならなくなる。
『記憶力がよくなければ、ウソをつくな』ともいう。
ウソをつくたびに、その内容を記憶していかねばならない。
でないと、やがてこんな会話をすることになる。

私「あなた、先日、自分でこう言ったでしょ」
相手「……?」
私「自分で、そう言ったではないですか?」
相手「そんなこと言ったかなア」と。

わかりやすく生きるためには、『正直こそ、最善(Honesty is the best Policy.)』。
最近、この格言のもつ意味が、ますます深くわかるようになった。
   

Hiroshi Hayashi++++++++Oct.08++++++++++はやし浩司

●1680x1050

+++++++++++++++++

今日、パソコンのモニターを買い替えた。
22インチの、1680x1050ドット。

とたんパソコンの世界が、2倍は広くなった。
錯覚か?
そんな感じがした。
今までは、19インチのモニターだった。
何かと手狭だった。

が、今は、ホームページを2つ並べても、まだ余裕がある。
ワード画面をその下に並べても、まだ余裕がある。

8年ほど前、どこかのデザイン事務所で、
この22インチのモニターを見たときは、ほんとうに
驚いた。
それが、今、それが自分の手元にある。

しかも値段は、当時の10分の1以下。
この世界は、日進月歩。
すごいことだ!

+++++++++++++++++

問題は、このパソコンを使って、何をするか、だ。
遊びに使うには、もったいない。
大画面を利用して、何かもっと、役にたつことをしたい。
ということで、早速、古い本を一冊、HPに収めてみた。
『クレヨンしんちゃん・野原家の子育て論』である。

たまたまC新聞に記事を書いているときに発売されたということもあり、
この地方では、よく売れた。
(全国的には、さっぱりだったが……。)

あたかも2台のパソコンを並べたかのようにして
作業ができる。
しばし、画面の広さを楽しむ。
途中でワイフがお茶をもってやってきた。
画面を見て、同じような印象をもったらしい。
「すごいわね」と。

作業が終わったのが、午後11時ごろ。
興味のある人は、HPのトップ・ページから、
(立ち読みコーナー)へ、どうぞ!


Hiroshi Hayashi++++++++Oct.08++++++++++はやし浩司

●電話

夜遅く、高校時代の友人のM君から電話。
1時間ほど、話す。
電話というと、1時間が基準になってしまった。
このところ何かと長電話が多くなった。

話題はM町の活性化問題から、パソコンまで。
ついでに松茸の話もした。
こうして話すのは、10年ぶりではないか。
話し出したとたん、高校時代の自分に戻るから
不思議である。

郷里のM町が、元気がないのは、さみしい。
先週も歩いてみたが、大通りにも人影はなかった。
「観光地といっても、みな、見ていくだけ。
お金を落とさないから、活性化にはならない」と。

彼は、パソコンは、「していない」そうだ。
「今は、パソコンの時代だよ」と言うと、
「オレは乗り遅れたみたい」と。

それぞれの人生。
それぞれの生き方。
この年齢になっても、みな、それぞれの生き方を
模索している。
すばらしい!


Hiroshi Hayashi++++++++Oct.08++++++++++はやし浩司

【心のゆがみ】

●ゆがんだ思想

+++++++++++++++++

ものを書いていて、いちばんこわいのは、
ふと「自分の考えがゆがんでいないか」と
思うこと。

+++++++++++++++++

このことは、反対に子どもの意識を観察
してみるとわかる。

子どもによっては、小さな殻(から)に
閉じこもってしまい、不合理な思いこみをする
ことがある。

たいていは人間関係から生ずるストレスが
原因で、そうなる。

が、一度、小さな殻に入りこむと、その時から、
ものの考え方が、どこかいびつになってくる。
「人口の半分は、核兵器か何かでみな、
死ねばいい」とか、「ぼくは、火星へ移住する」とか
言い出す。

そういうとき私は、そうした不合理さに対しては、
ていねいに質問責めにすることによって、対処
することにしている。

私「核兵器で、君だって死ぬ可能性があるんだよ」
子「ぼくは、いい。地下室へ逃げる」
私「みんなも、地下室へ逃げようとするよ」
子「ぼくは、自分だけの地下室をつくる」
私「食べ物はどうするの?」……と。

こうした(療法)を、心理学の世界でも、
「認知行動療法」と呼んでいる。
不合理な考え方を、自ら気づかせ、それを是正して
いく。

が、それは子どもの世界の話。
私のようなおとなになると、第三者にそれをして
もらわなければならない。
が、それもできなければ、どうしたらよいのか?

それについては、「論理療法」というのがある。

つまりは「自分で考える」ということ。
常に論理的にものを考えるクセを身につける。
しかしそれにも限界がある。
では、どうするか?

私のばあい、たいへんラッキーなことに、毎日、
子どもたちと接する機会がある。
とくに幼児と接するのは、よい。
彼らはたとえて言うなら、まさに「天使」。
心にゆがみがない。
そういう子どもと接していると、接した瞬間、
自分の心が洗われていくように感ずる。
ゆがんだ思想が、そのまま是正されていく。
言うまでもなく、幼児の世界では、ウソやインチキは
通用しない。
ごまかしもきかない。
プラス、母親たちの監視つき(失礼!)。

私はよく「職場がストレス解消の場です」と
言うが、それはけっして誇張ではない。
このところ、それを強く感ずる。
というのも、私の年齢になると、不合理な考えを、
それを不合理とも思っていないような人が多くなる。
つまり思想的に偏(かたよ)りができ、偏屈になる。
(思想らしきものをもっている人は、まだよいほう
かもしれないが……。)

中には、過去をそのまま踏襲することが、「善」と
考えている人もいる。
この時代にあって、「先祖様」とか、「武士道」とか
言っている人は、たいていこのタイプの人と
考えてよい。

こうした考えがいかに不合理なものであるかは、
幼児に当てはめて考えてみるとわかる。
「君たちは、どこから来たの?」と聞くと、
「ぼくたちは、ママのおなかから生まれた」と
答える。

「ぼくは生まれた」という言い方に注目してほしい。
「ぼくは産んでもらった」とは、けっして、言わない。
それがものの考え方の、原点である。

武士道についても、そうだ。
あの封建時代の「負の部分」に目をくれることもなく、
一方的にそれを礼賛するのも、どうかと思う。
江戸時代においても、武士は、人口の5〜7%。
残りの大半は、農民。
私たちの祖先は、その武士に虐げられた農民に
すぎなかった。

どうして今、武士道なのか?

少し脱線したが、ものを書いていて、
いちばんこわいのは、
ふと「自分の考えがゆがんでいないか」と
思うこと。

とたん、キーボードを叩く指が止まってしまう。
ゆがんだ考えなど、いくら書いても、社会の
害になることはあっても、役にたつことは
何もない。

それこそ時間の無駄。
人生の無駄。
だからものを書く。
書きながら、考える。
言うなれば、私は毎日、自分で自分を論理療法
していることになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 認知療法 論理療法 認知行動
療法)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct.08++++++++++はやし浩司

●適応障害

++++++++++++++++++

適応障害というと、何も、子どもの世界だけの
問題ではない。
おとなの世界にもある。

++++++++++++++++++

社会や環境にうまく適応できないと、そこで適応障害を起こす。
その前段階として、(1)欲求不満や葛藤を繰りかえす。
グチや取り越し苦労が多くなる。

ある女性は、認知症ぎみの実兄の世話を始めたとたん、適応障害を
起こしてしまった。
毎晩のようにあちこちに電話をかけ、ときにギャーギャーと
泣きわめきながら、自分の苦労(=グチ)を話しつづけた。
視野が極端に狭くなるのも、特徴のひとつ。
相手の都合など、まったく構わない。

こうした行動を総称して、「防衛機制」という。
自分の心の崩壊を防ぐための心的反応と考えるとわかりやすい。
たとえばそれらの中には、

(1)抑圧
(2)同一化
(3)代償
(4)補償
(5)合理化
(6)投射
(7)逃避
(8)退行
(9)昇華(「臨床心理学」・松原達哉著)がある。

相手かまわずグチをこぼすというのは、(攻撃的な防衛機制)ということになる。
その女性のばあいは、遠くに住む実弟を責めつづけた。
その実弟氏はこう言った。
「姉からの電話というだけで、手が震えるようになりました。
ギャーギャーと一方的に泣きわめくだけで、会話にはなりませんでした。
そういう電話が1〜2週間ごとにかかってきました」と。

この段階で対処のし方をまちがえると、そのまま何らかの精神障害を
負うことになる。
その女性にばあいは、やがてすぐ心療内科で、うつ病と診断された。

が、それも一巡すると、身体的な不調を訴えるようになる。
一連の神経症はこうして発症するが、神経症には定型がない。
「おかしな症状?」と感じたら、神経症を疑ってみるのがよい。

で、こうした問題が起きたら、原因となっている要因を排除するのが
よいのだが、それで問題が解決するとはかぎらない。

というのも、適応障害というのは、それ以前の段階で、心の病気と
深くからんでいることが多いからである。

たとえば不登校児を例にあげて考えてみる。
「A君がいじめるから、学校へ行きたくない」とある子どもが言ったとする。
親は、「不登校になった原因は、A君」と考える。
そして学校と相談して、クラスを替えをしてもらったり、A君を近くから排除
してもらったりする。
が、しばらくすると今度は、「B先生がこわい」とか、言い出す。

こうした現象を私は勝手に、『ターゲットの移動』と呼んでいる。
その子どもは自分の心を安定させるために、学校へ行きたくないのだ。
その口実に、A君の名前をあげたり、B先生の名前をあげたりする。
不登校という一見、不適応症状を示しながら、実は、学校へ行かないことで、
自分を社会に適応させようとしている。

つまり適応症状といっても、(1)継続性のものと、(2)非継続性の
ものがある。

継続性のものとなると、たとえその問題が解決したとしても、今度は別の
問題をもちだし、それについて悶々と悩んだり、苦しんだりする。
本来なら、つまり少しだけ視野を高くもてば何でもない問題はずなのに、
それを大げさに悩んだり、苦しんだりする。

ここにあげた女性のばあい、実兄が廊下で便をもらしただけで、パニック
状態になってしまったという。
そして即座に実兄に電話を入れ、「あんたがめんどうをみないから、こうなる」
と泣きわめいたという。

あとになってその実弟氏は、私にこう言った。
「ぼくの家では、家の中で2匹の犬を飼っている。いつも廊下でウンチを
するから、ぼくなら、それほど気にしないのに。
それでぼくが姉に、『犬のウンチと思えばいいのでは』と言ったら、姉は、
烈火のごとく怒りだしてしまった」と。

そこで費用は全額実弟氏もちということで、その女性は、実兄をグループホームへ
入れた。
が、今度は、そこでも……!

というようなことを繰りかえす。
つまり何らかの精神障害が基盤にあって、それから発生するもろもろの症状が、
あたかも泡のように表面にそのつど浮かんでくる。
継続性の適応障害というのは、そういうものをいう。

では、どうするか?

『文化性は、心の予防薬』と考えるのがよい。

ふだん、何ごともないようなときに、心を豊かにし、充実させていく。
音楽を聴くのもよし、美術館に足を運ぶのもよし。
本を読んだり、DVDを楽しむのよし。
こうして自分の文化性を高めていく。

だれしも、いつか、どこかで、いろいろな問題にぶつかる。
その問題にぶつかったとき、文化性の高い人は、そうした問題を、うまく処理できる。
心へのダメージを最小限に抑えることができる。
そうでない人は、そうでない。
自分の小さな殻(から)に閉じこもってしまい、そこから一歩も出られなくなってしまう。

とくに子育ても一段落したら、そうする。
そうでなくても、老後は、そうした問題が、あたかも打ち寄せる波のようにやってくる。
つぎつぎ、とだ。

だから『心の予防薬』が必要ということになる。

……ということで、今朝は、少し時間があるので、ワイフと佐鳴湖を一周してみる。
久しぶりに雨もあがり、気分は爽快!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 適応障害 防衛機制 不適応 
不登校)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2840)

●したいことが多すぎる!

++++++++++++++++++++++

今日、ワイフと街まで歩いた。
片道、(当然片道だが)、7・5キロ。
途中で、うな丼を食べる予定だったが、うな丼屋は休み。
つづいて松茸弁当を買う予定だったが、店で聞くと、売り切れ。
しかたないので、商工会議所の1階にあるバイキングレストランへ向かった。
が、ここでも行くと、「コックさんが、あがってしまった」とか。
「残り物でよければ、どうぞ!」と。
見ると、めぼしい料理はほとんど消えていた。

レストランを出て、最後は、デニーズ(レストラン)へ。
そこでやや遅い昼食。

……そのあと、半日、一日の仕事を終え、帰宅。

ところで2台もミニ・パソコンを買ったのがいけなかった。
いつもどちらを使うかで、迷う。
居間の床が、コード類で、ゴチャゴチャになってしまった。
「1台は、E(=息子)にやるよ」とワイフに言うと、「しかたないわね」と。

ラジコンのヘリも飛ばしたい。
映画も見たい。
山にも登りたい。
あれこもれも、したい。
そこで順に整理する。

X日……仕事が終わったら、映画『アイアンマン』を見に行く。
その夜は、山荘に一泊。
裏山の草を刈って、木の伐採をする。
帰りにガーデンパークに寄り、そこで昼食。
あるいは天気がよければ、近くのT山に登るつもり。

家では、3台のパソコンが待っている。
昨日、VISTAパソコンのモニターを、22インチのに替えた。
画面が美しい。
大きくて作業がしやすい。
メモリーを4GBに増設してから、さらに調子がよくなった。
それを使って、ホームページの更新もしたい。
それから今、イギリスのことわざ集を翻訳している。
これが結構、楽しい。

やりたいことは、山のようにある。
あるが、時間がない。
時間が足りない。

+++++++++++++++++++++++

●減量成功!

今朝、体重が65キロ台になっていた。
バンザーイ!
ペットボトル2本分(4キロ)、減量した。
体は軽い。
それから今日から運動開始!
このところの長雨で、この1週間、運動がほとんどできなかった。
体が、なまってしまった。
(「なまる」というのは、方言か?
体が、シャキシャキと動かないことをいう。)
反対にしっかりと運動をすると、ひとつずつの細胞がプチプチと
はじけるような感覚を味わう。

明日から晴れの日がつづきそう。
一日、2単位(1単位は、40分)の運動をする。
できれば、ウォーキングもしたい。
がんばるぞ!


●ふざけた英語

子どもたちに英語を教えていると、ひとつの大きな壁にぶつかる。
いくら英語式の発音を教えても、照れるのか、それをまねしない。
イントネーションにしてもそうだ。
アクセントにしてもそうだ。

そこでやや怒った言い方で、「ちゃんと、先生のまねをしろ!」と、
何度も言った。
すると、M君(称)が、(もともとひょうきんなところがあり子どもだが)、
ふざけて、英語の音をまねして言った。

「ジャーッ、イズ、エイ、ツオール、ビュルディング!」と。

すかさず私はM君をほめた。
ほめて、手元にあったアーモンド・チョコをM君にあげた。

M「こんな英語でいいの?」
私「すばらしい。そういう英語を待っていた」
M「ぼく、ふざけて言っただけだよ」
私「その英語のほうが、ずっといい。外国の人も、そのほうがよくわかる」と。

実は、これは私の経験でもある。

オーストラリアへ渡ってしばらくたったときのこと。
それまで私は、いわゆるジャパニーズ・イングリシュを話していた。
あのナメナメとした英語がどうしても、肌に合わなかった。
が、そういう英語で話すと、何度も相手が聞きかえしてくる。
そこである日、思い切って、彼らの英語をそのまま、まねしてみた。
最初は冗談のつもりだった。
みなが、それで笑うと思った。

が、だれも笑わなかった。
だれもとくに、反応しなかった。
自然な感じで、私の英語を聞いてくれた。
とたん、「これだ!」と思った。

それからは私も、あのナメナメした英語を話すようになった。
とたん、会話がスムーズに流れるようになった。

その(壁)を破らないかぎり、英語は上達しない。
(恥ずかしさ)が残っている間は、上達しない。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2841)

●不安の原点(追記)

++++++++++++++++

日常的に不安感を覚える人は多い。
私もその1人だが、大切なことは、
「治そう」とか、「直そう」などとは、
考えないこと。
そういう状態であることを認めて、
うまくつきあうこと。

++++++++++++++++

乳幼児期の母子関係の不全が、「不安」の原点と考える。
子ども(乳幼児)というのは、(絶対的な安心感)の中で、基本的な人間関係の
基礎を身につける。
「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味である。

「私はどんなことをしても許される」
「私はどんなことをしても受け入れられる」と。

この安心感がゆらぎ、自分で克服できないと、それが(不安)の種になる。
具体的には、何をしても、不安感がともなうようになる。
心が開けないから、その分だけ、人間関係もギクシャクしたものになりやすい。
基本的不信関係はこうして生まれるが、一度、不信関係を作ってしまうと、それを
克服するのは、容易なことではない。
たいてい死ぬまで、つづく。

が、それだけではない。

こうした(不安感)が、精神に障害を及ぼすこともある。
「うつ病」についても、最近の研究では、乳幼児期の母子関係に起因するというのが、
定説になりつつある(M・クラインほか)。

もちろんうつ病といっても、一過性の軽いものもあれば、入院治療が必要な
重篤(じゅうとく)なものまである。
しかし(不安)が解消されれば、うつ病のたいはんは、そのまま軽減する。
(うつ病)イコール、(慢性的な不安感)と考えてよい。

では、自分の中の(不安感)と、どう闘ったらよいのか。

私自身の経験でいうなら、まず(病識)をしっかりともつこと。
「私はおかしい」ということを、自覚すること。
(あるいは「私は、今、おかしい」と、そのつどしっかりと自覚すること。)

自覚したら、あとは、そういう自分と、うまくつきあう。
「直そう」とか、「治そう」とか、そういうふうに考えない。
うまく、つきあう。

というのも、この問題は、遠くは乳幼児期の(私)に起因している。
本能的な部分にまで、深く、根が入りこんでいる。
少しくらいの努力で、どうこうなるような問題ではない。
だから、「うまくつきあう」。

最近では、よい薬も開発されている。
私のばあいは、副作用や反作用がこわいので、効き目は弱いが、ハーブ系の薬や
漢方薬を利用している。

症状としては、つぎのような段階を経る。

(1)ささいなことが、気になる。
(2)それが心の壁にペタッと張りついたような状態になる。
(3)思考がループ状態になる。
(4)心が緊張状態になる。
(5)心がふさぎ、何を考えても、憂うつになる。
(6)何かささいな刺激が加わると、それが原因で八つ当たりをしたりする。

「少し、気分が重いかな?」と感じたら、ハーブ系の薬や漢方薬を服用する。
たいていそれで気分は収まる。
それに、これは子どものモノいじりと同じと考えてよいが、何かのモノをいじって
いると、気分が安らぐ。
これは指先からの刺激が、脳内で、モルヒネ系のホルモンを分泌するためではないか。
私のばあい、今は、ミニ・パソコンや、デジタルカメラをいじるのが、好き。
パソコンのキーボードを叩いていると、文章を書くという快感に合わせて、
指先から伝わってくる快感も覚える。

モノいじりにも、気分を安らげる効果がある。
(このことは情緒が不安定な子どもの行動を観察してみると、わかる。
たとえば指しゃぶり、髪いじりをする子どもなど。
表情を見ると、どこかうっとりしているのがわかる。
子どもはそうすることによって快感を覚え、脳内のストレス性物質、たとえば
サイトカインなどを、中和しているのではないか?)

モノいじりを、悪と決めてかかってはいけない。
たとえば子どもの指しゃぶりについても、無理にやめさせると、子どもの情緒は、
かえって不安定になる。
指しゃぶりは、あくまでも表層に現われた症状にすぎない。
風邪にたとえるなら、発熱のようなもの。
熱だけ無理にさげても、風邪は治らない。
頭から水をかけるような行為をすれば、かえって症状はひどくなる。
それと同じに考える。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 不安の原点 ものいじり 物いじ
り モノいじり 子どもの情緒不安)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2842)

【英語のことわざvs子育て格言】
(英語のことわざのみ、「English Proverbs, explained」(Ronald Clifford著・Pan社)
より抜粋。……Only English Proverbs are quoted from the book, "English Proverbs,
explained, written by Ronald Clifford. All other parts of these comments are made and
written by Hiroshi Hayashi from the view-points of education at home without quoting
 anything from the book at all.)

●Absence makes the heart grow fonder.
そばにいない人への想いは強くなる。

離れて住んでいると、その人への想いが強くなることをいったもの。
たがいにひかれる者どうしなら、なおさらそうである。
その反対のことわざが、
「Out of Sight, out of mind」(見えなくなると、心から消える)。
日本でも、「去るもの、日々に疎(うと)し」という。
遠くへ行った人は、それだけ疎遠になりやすいという意味。

総じて言うと、恋心というのは離れれば離れるほど燃えあがり、
そうでない関係は、疎くなるということか。
子どもが恋をしたら、そっとしておいてやるのが、最善。
無理に引き離そうとすればするほど、たがいに強く求めあうようになる。
が、それだけではすまない。

子どもの側からすると、「親を取るか、恋人を取るか」の択一に迫られる。
親を取ればそれでよし。
そうでなければ、その時点で、親子の関係は切れる。

●Accidents will happen in the best-regulated families.
事故というのは、もっとも管理された家庭で起こる。

子どもへの過干渉が悪いのは、子ども自身が自ら考える力を失ってしまうこと。
子どもを管理すればするほど、子どもは非常識になり、常識はずれの行動を
繰りかえすようになる。
家庭教育には、(いいかげんさ)が大切。
その(いいかげんさ)の中で、「子どもは自ら考え、自ら行動し、自ら責任をとる」
という自由の三原則を身につける。


●Actions speak louder than words.
行動は、言葉よりも、効果がある。

子どもは家庭の緊張感に巻きこまれながら、伸びる。
親が寝そべっていて、「新聞をとってきて!」は、ない。
親もキビキビと行動し、その中に子どもを巻きこんでいく。
「ぼくがそれをしなければ、みなが困るのだ」という雰囲気を、用意する。
そういう力で、子どもを動かす。
よく「しつけ」が話題になるが、しつけというのは、言葉でするものではない。
しつけというのは、行動でするものである。


●Adam's ale is the best brew.
アダムの水は、最高の酒。

最近ではどこのレストランへ行っても、注文の最後には、ウェイターが、こう聞く。
「お飲みものは?」と。
そういうとき私は、「水で結構です」と答えるようにしているが、そう言うと、みな、
どこかプイとした表情になる。
イタリアやフランスのレストランでは、ワインで利益をあげようとする。
日本のレストランでは、飲み物(ジュース類)で、利益をあげようとする。
経営的な意味では、私のような客は、好まざる客ということになる。
しかしオーストラリア人は、水を好む。
アメリカ人は、甘いジュース類を好む。
日本では、最近はジュース類を同時に求める人が多くなったように感ずるが、こと
子どもにとって最善の飲み物は、水である。
飲み物は、水に始まって、水に終わる。
それが子どもの健康を守る。


●Advice when most needed is least heeded.
必要なときの忠告は、もっとも身にしみる。

子どもに何かアドバイスするときは、いつも何らかの具体性をもたせるとよい。
反対に言えば、具体性のないアドバイスには、意味がない。
「友だちと仲よくするのですよ」
「学校で先生の話をよく聞くのですよ」
「交通事故に気をつけるのですよ」と。
こういうときは、言い方を変える。
友だちと仲よくしてほしかったら、「A君に、これを渡してね。A君、喜ぶから」と。
先生の話をよく聞いてほしかったら、「ママにあとで、先生がどんな話をしたか、教えてね」
と言う。
交通事故については、迫真の演技で、その怖(こわ)さを教えるとよい。


●After the storm comes a calm.
嵐のあとに、静けさがやってくる。

人生には嵐はつきもの。
子育ても、また同じ。
「嵐」を感じたら、じっと静かにしている。
ジタバタしない。
重要な判断や決定もしない。
が、その嵐も、かならず去っていく。
それを信じて、ひたすら待つ。
たいていは子どものほうが、自ら軌道修正する。
あなたが思っているほど、子どもは子どもではない。


●All are not thieves that dogs bark at.
犬が吠えるからといって、悪人とはかぎらない。

『人は見かけによらぬもの』ということわざもある。
表面的な部分だけをみて、その人を判断してはいけないという意味だが、
子どももまたしかり。
以前、幼稚園でも評判の「ワル」がいた。
友だちを泣かす、いじめるは毎日。
ときにけがまでさせた。
先生もお手上げ。
が、そんな子どもがある日、友だちにクレヨンを貸していた。
私はすかさず、その子どもをほめた。
「あなたはやさしい子だね」と。
それからのその子どもは、ワルはワルだったが、私の前では、悪いことを
しなくなった。
していても、私の姿を見ると、パッと、それをやめた。


●All cats are grey in the dark.
どんなネコも、暗闇では、黒猫。

コンビニの前でたむろしている中学生や高校生を見ると、みな、非行少年に見える。
しかし実際、話しかけてみると、意外とものわかりもよく、すなお。
またそうせざるをえないような家庭環境が理由になっていることが多い。
家庭の中には、彼らの居場所すらない。
そういうケースも多い。


●All good things come to an end.
どんなよいことにも、やがて終わりがやってくる。

子育てをしていてこわいのは、取り越し苦労と、ヌカ喜び。
心配先行型の親は、常にこの2つを繰りかえす。
ささいなことを大げさにして、悩んだり、迷ったりする。
そしてそれが解決すると(?)、やはりおおげさに喜んでみたりする。
子育てで大切なのは、一貫性。
ささいなことで動じないという一貫性が、よき親子関係の基盤をつくる。
このことわざをもう少し深く読むと、こうなる。
「どんな悪いことにも、やがて終わりがやってくる。同じように、
どんなよいことにも、やがて終わりがやってくる」と。
こと子育てにおいては、親はデンと構えて、動じない。


●All's fair in love and war.
愛と戦争では、何でもござれ。

愛と戦争では、どんなことでもフェアになってしまう、つまりルールはないという意味。
最近では、中学生が、恋人と家出するなどいう事件は、珍しくも何ともない。
高校生が、恋愛関係から、妊娠するというケースも、これまた珍しくも何ともない。
さらに高校生どうしがアパートを借りて、同棲しているというケースもある。
高校生で、恋人の家に住みついてしまったというケースすら、ある。
おとなにかぎらず、子どもの世界でも、愛に関しては、ルールはない。
親の一方的な常識を押しつけても、意味はない。
それがよいことなのか、悪いことなのかという判断は別にして、
これからはそういう時代という前提で、こうした問題を考える。


●All's fish that comes to the net.
網にかかるのが、魚。

そこに魚がいても、網にかからなければ、魚ではない。
網にかかって、はじめて、魚。
同じように、どんな教育論も、自分の子育てに役に立たねば、ただの「話」。
たとえばAさんが、「うちの子は、こうして東大へ入りました」と言ったとする。
結構な話だが、大学どころではないという親も多い。
そういう人には、そういう話は、ただの「話」。
そこで子育ての世界では、成功者より、失敗者の意見のほうが、大切。
役に立つ。
「私は、子育てで苦労しました」という人の話を聞いたほうがよい。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2843)

●「患者」の「患」

+++++++++++++++++++++

小林朝夫氏の、「本当は怖ろしい漢字」(彩図社)
によれば、「患者」と書くときに使う「患」という文字は、
もともとは「串刺しにした心臓」を意味するのだそうだ。
心臓を串刺し、だぞ!
ゾーッ!
その漢字を使って、病院で治療する人を、「患者」という。

+++++++++++++++++++++

「串」と「心」で、「患」。
説得力は、じゅうぶんある。
しかしでは、どうして病院で治療を受ける人のことを、「患者」というのか。
あるいは昔の医者は、患者の心臓をえぐり出して、それを串刺しにしていた
とでもいうのか。
そんなことはありえないが、よくよく考えてみれば、おかしなことだ。

もっとも漢字の起源については、その起源がはっきりしているものもあるが、
大半は、当然のことながら、諸説が氾濫していて、定説はない。
あとからだれかがこじつけたのではないかと思われるのも、少なくない。
たとえば「金」という漢字にしても、「山」(▲)を縦や横に掘り進んでいったら、
そこで金が見つかった」というのが通説になっている。
「金」の下、左右にある「チョンチョン」は、光る「金」を意味するのだそうだ。

本当かな?

さらに「親」という漢字についても、「立っている木のそばで、隠れて、子どもを
見守っている人」という意味だそうだ。
「子を思う、親心を表したもの」と。

本当かな?

私もかつて子ども向けの漢字の起源についての本の編集を手伝ったことがあるので、
このあたりのことついては、かなり詳しい。

ということで、「患」という漢字にしても、小林朝夫氏の意見は、にわかに信じがたい。
私なら、こう解釈する。
「医師と看護士が、心を串で通したように一つにして、治療にあたるから、
病気の人のことを患者という」と。

もちろんこれは、私の(こじつけ)である。
つまりそういうふうに、いくらでも、解釈をこじつけることができる。

……とまあ、批判してしまったが、楽しい本であることには、ちがいない。
1ページ読むごとに、頭の中で火花がバチバチと飛ぶのを感じる。
脳みそには、よい刺激になった。


●日韓経済戦争(冬の陣)

韓国の「9月危機」は、無事過ぎた?
とんでもない!
9月30日の朝、韓国政府は早朝から、経済緊急会議を開いて、対策を
ねっていた。
その少し前から、猛烈なドル売り、ウォン買いの為替介入を繰りかえしていた。
が、その効果も、数日はつづかなかった。
昨日(9月4日)は、再び、1ドル=1240ウォン前後にまで、ウォンは下落。
これで年末には、借金(=短期外債)が、貯金(=保有外貨)を超えるのが確実に
なってきた。
それを見越しての、ウォン安である。

無理にがんばればがんばるほど、傷は深くなる。
アメリカのサブプライム問題に、例をみるまでもない。


●米朝関係

ノ前大統領の対北政策が、完全なミステイクであったのと同じように、それに
同調したC・ヒル国務次官補の対北政策は、完全なミステイクであった。

本来なら静かに崩壊させるべき国が、C・ヒル国務次官補の登場で、息を吹き返して
しまった。

で、昨日(4日)、C・ヒル国務次官補が、3度目の訪朝から帰国した。
今日あたりは韓国にいるはず。
「K国側から招待があったから、訪朝した」ということだが、成果などもとから
あるはずもない。
あのC・ヒル国務次官補は、何度だまされたら、気がつくのだろう?


●10月5日

昨夜遅く、山荘にやってきた。
今は、10月6日、午前7時。
私にしては、遅い起床である。

窓をあけると、秋の冷気が、サーッと部屋の中にはいってきた。
すぐ衣服を着る。
つづいて自宅に電話。
留守番電話に伝言が入っているかどうかを確かめる。

母に万が一のことがあったら、センターから連絡が
入るようになっている。
「伝言はありません」というメッセージを聞いて、ほっと安心する。
ここ2〜3か月、気の抜ける日がなかった。
心の隅では、いつも小さな不安が、ザワザワしている。

とりあえず、今日一日は、だいじょうぶなようだ。


●映画『アイアンマン』

昨夜、深夜劇場に足を運んだ。
『アイアンマン』を見た。
「娯楽映画としては、最高」と、ワイフは評価しているが、私の評価は、
星3つの、★★★。

「あれなら、スーパーマンのほうがいい」というのが、私の感想。
少し前に見た、『ハンコック』、あるいは『ダークナイト(バットマン)』の兄弟作。
そんな印象をもった。

ところでワイフの友人夫婦も洋画をよく見るという。
年齢は私たちと、ほぼ同じ。
が、見る映画が、私たちとは、少しちがう。
『カサブランカ』とか『駅馬車』とか、そういう映画らしい。
市の図書館へ行くと、そういうビデオを無料で貸してくれるという。

「カサブランカ……ねえ。駅馬車……ねえ。今の若い人は、
名前すら知らないだろうね」と。

ワ「私は、新しい映画のほうがいいわ」
私「ぼくも、そう」
ワ「それにしても、最近の映像技術は、すごいわね」
私「ホント」と。

つぎに見たい映画は、『イーグル・アイ』と『007』。
楽しみだ。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct・08++++++++++++++はやし浩司

●年齢

++++++++++++++++++

ここ1〜2か月、私の心境が大きく変化している。
それまでは、ジジ臭さとの闘いだった。
しかしここ1〜2か月、急速に、その意識が遠ざかり始めている。
よいことだ。

年齢などというものは、自分で決めるもの。
気にするほうがおかしい。

私はまだまだ現役だし、この先、死ぬまで定年退職はない。
心配なのは、脳みそだが、今のところ、ちゃんと機能している。
数日前も、高校生と大学入試問題を解きあってみた。

英語では負けない。
数学は、引き分け。
国語は、まあまあ。

数学にしても、最近は、パズルのような問題が多くなった。
国語については、若いころより読みが深くなった。
長文読解問題にしても、作者の心のレベルまで、読み取れるようになった。
「この程度の作家だから、この程度のねらいだろう」と、おおまかな目安を
つけて、問題を解くことができる。

英語は、今でも(おかしな問題)が多い。
全体としてみると、英語がいちばん保守的。
問題を解きながら、1人の高校生(高2女子)がこう言った。
「先生、この英語の意味がわかな〜い」と。

私「わからなくてもいい」
高「どうして?」
私「もとから、へたくそな英語だよ。アメリカ人が読んでも、意味がわからない
と思うよ」
高「どうしてそんな英語が、入試に出るの?」
私「外人の書いた英語は、すべて正しいという、おかしな神話があるからだよ。
日本人でもそうだろ。文を書くのがうまい人もいれば、へたくそな人もいる。
これはへたくそだ」と。

脳みその健康は、肉体の健康に似ている。
常に鍛えてこそ、維持できる。
その努力を怠ったとたん、その時点から、退化する。

ともかくも、年齢という(数字)など、気にするほうが、おかしい。
またそんなものに束縛されてはいけない。
少なくとも、自分で老人臭くなるのは、まちがっている。
……ということで、「私は私」と生きることには、2つの意味がある。

ひとつは、他人の目を気にしないで生きるという意味。
もうひとつは、年齢を気にしないで生きるという意味。

ともすれば暗くなりがちな、老後の未来。
その未来に、この1〜2か月、明るい光が見えるようになってきた。
バンザ〜イ!

我ら、ヤング・オールド・マン、人生は、これからだア!


Hiroshi Hayashi++++++++Oct・08++++++++++++++はやし浩司

●10月3日

●もうすぐ満61歳!

++++++++++++++++++

生徒たちには、私はいつもこう言っている。
「ぼくには年齢はない。いいか、私は自分の
中身を見て、自分で年齢を決める。
いくら数字の年齢が小さくても、
若いということにはならない。
数字が大きくても、老人ということに
はならない」と。

++++++++++++++++++

かく言う私も、この10月に満61歳になる。
60+1歳である。
その満60歳になったとき、私は何も
変わらなかったことが、うれしかった。

その翌日も、そのまた翌日も、そのままだった。
それがうれしかった。

そうして、ちょうど、1年が過ぎた。
明日のことはわからないが、この1年も、
何ら変わることなく、無事、過ぎた。
病気もしなかった。
事故もなかった。
私はこの1年間は、「もうけもの」と思っている。
学生時代の友人のS君も、そう言っていた。
(S君は、「50歳以上は、もうけもの」と言っていたが……。)

本来はないはずの、1年。
その1年を、無事、過ごすことができた。
それまでと変わりなく、収入も得ることができた。
雑誌でいえば、「おまけ」。

ところでワイフのTクラブには、現在、10人ほどの
男性が属している。
その中の3人が、今年、昨年満60歳になり、定年退職
したそうだ。
女性会員の夫の中にも、ここ1、2年で退職した人たちがいる。
そういう人たちの話をおおざっぱに総合すると、
60歳を過ぎて何らかの仕事をしている人は、50%。
何もしないで、家でブラブラしている人(失礼!)は、50%。

つまり「2人のうち1人は仕事をしている」ということにもなるし、
「2人のうち1人は、何もしていない」ということになる。

私「何もしていない人は、家で何をしているの?」
ワ「パソコンをいじっているという話よ」
私「ぼくもいじっているよ」
ワ「あとはクラブに出て、スポーツをしているとか……」
私「フ〜〜ン」と。

私は昔から、貧乏性。
正確には、不安神経症。
最近では、パニック性人格障害という。
「何もしなくていい」などと言われると、それだけで気がヘンに
なってしまう。
それに原稿を書くといっても、常に新しい情報に
接していなければならない。

たとえば夏休みが1、2週間もつづいたりすると、
育児論そのものが、書けなくなる。……書けなくなってしまう。
これはおもしろい現象と思う。
ほかに、平穏は美徳だが、生活が平穏になり過ぎてしまってもいけない。
やはり、何も書けなくなってしまう。

私「パソコンをいじるって、いじって、どうするの?」
ワ「私にもわからないわ」と。

私のばあい、「パソコンをいじる」というのは、こうして
文章を書いたり、HPを更新したりすることをいう。

しかし……。
余計な節介かもしれないが、団塊の世代よ、もう少し、がんばろう!
自分のためというより、日本のため。
未来の子どもたちのため。

「仕事」というのではなく、「やるべきこと」。
それをさがして、それに向かっていこう。
でないと、今はまだよいが、やがてすぐ粗大ごみになってしまう。

義兄がこう言っていた。
「あのね、75歳以上になると、病院でも手術をしてくれないよ」と。
「がんでも、75歳以下は手術をしてくれるが、75歳以上だと、
手術をしてくれない」と。
これはあくまでも風聞だが、すでにそういう年齢制限(?)が、でき始めている。

が、その年齢にしても、少しずつ、やがてさげられるかもしれない。
私たち団塊の世代がそのころになると、「満70歳」になるかもしれない。
ということは、あと10年。

何もしないで、ブラブラと過ごす老後を、けっして理想の、またあるべき
老後の姿と思ってはいけない。
孫の世話を庭いじり、晴耕雨読、そんな老後を、自ら求めてはいけない。
私たちには私たちとして、やるべきことがある!

……とまあ、勝手なことを書いてしまったが、この1年も、あっという間に
過ぎてしまった。
が、これからの1年も、同じように過ぎていくだろう。
しかしそれでも感謝、感謝、また感謝。
生きていることに感謝し、健康であることに感謝し、仕事があることに感謝し、
1日とて無駄にすることなく、つぎの満62歳を迎えたい。……迎えるぞ!


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●『ブーリン家の姉妹』、中世イギリス・愛と憎しみの相関図

+++++++++++++++++

今度、映画『ブーリン家の姉妹』が、封切られる。
映画館でもらった小冊子(TOHO CINEMAS)
の案内には、こうある。

「王の意向で一族の命運が決まった時代。
野心旺盛な男たちは、一族の娘を王に近づけようと
躍起になった。

王が娘を気に入り、王妃の侍女=愛人として王室に
入れば、近親者は要職にとりたてられる。
最強の手段は世継ぎの男児出産。
産まねば別の女へ愛は移る。
こうして女たちは一族繁栄のため、ほかの女たちと
ドロドロの王の寵愛争奪戦を繰り広げた。
王室の奥には、嫉妬や策略が渦巻いていたのである」と。

+++++++++++++++++

私はときどきこう思う。
学校での歴史の勉強もよいが、こうしたよくできた映画を子どもたちに
見せるのも、よいのではないか、と。
たとえばこの日本では、「歴史」というと、あたかも絵巻物のように、
過去から現在まで、まんべんなく教えるというのが、常識になっている。
しかしそれこそ、世界の非常識。

ヨーロッパ(EU)などでは、それぞれの子どもが、歴史の一場面に
スポットをあて、(つまり教師からテーマを与えられ)、それを深く勉強する。
たとえば「あなたはトラファルガーの戦いについて調べなさい」
「あなたは、ナポレオンの生涯について調べなさい」と。

テーマを与えられた子どもは、1年ほどかけて、それについて徹底的に
調べ、レポートにまとめたりする。
学年末にそれをみなの前で発表させる学校も多い。
そのできぐあいをみて、教師は、その子どもの能力を評価する。
そういう教育を、少なくとも小学校の高学年からしている。

私はまだ『ブーリン家の姉妹』を見ていない。
内容からして、子どもに不適切なシーンも多いかと思う。
しかしこの説明書を読んだだけでも、「そんなことがあったのか」と驚く。
アン・ブーリンとヘンリー8世の間に生まれた子どもが、のちにエリザベス1世
となる。
スペインの無敵艦隊を破り、イギリスに黄金時代(ゴールデン・エイジ)を
もたらした女王である。

『エリザベス・ゴールデン・エイジ』という映画は、すでにDVDも発売
されている。
私はそれを劇場で見たが、星は4つの、★★★★。
かなり見ごたえのある映画だった。

話をもどす。

私たちは学校で、「エリザベス1世、スペインの無敵艦隊を破る」と習う。
ついでに年号も教えられる。
しかしそこまで。その中身については、まったく知らない。
だからつまらない。
だから役にたたない。

私たちがなぜ歴史を学ぶかといえば、過去の失敗を学び、それを現在や未来に
生かすためである。
この「役に立つ」「生かす」という部分で、日本の学校教育は、完全に的をはずれている。
日本の学校教育は、将来、その道の学者になるためには、すぐれた体系をもっている。
それもそのはず。
こうした教科書は、その道の学者たちによって、作られている。
しかし将来、その道の学者になる子どもは、いったい、何%いるというのか?

欧米では、日本でいうような教科書すら、ない。
テキストというのはあるが、日本でいう教科書とは、まったく異質のものである。
こうした教科書を「柱」に、国民の意思統一を図っている国は、独裁国家か
専制主義国家、全体主義国家、あるいは極東アジアの国々に限られている。
どうしてこの日本で、教科書なのか?
教科書検定なのか?

批判ばかりしていてはいけない。
だったら、こうしてはどうか。
子どもにこういう宿題(テーマ)を与えてみる。

「あなたは、映画『エリザベス』『エリザベス・ゴールデン・エイジ』をみて、
エリザベス1世が、どういう女王であったかを、6か月かけて、研究しなさい。
参考に、『ブーリン家の姉妹』も見るといいでしょう」と。

その子どもには、エリザベス1世について、徹底的に勉強させる。
時代的背景、当時の世相、人間関係、イギリスの歴史、スペインとの関係、服装などなど。
ついでにエリザベス1世の発言集も作らせてもよい。
映画の中の言葉を拾いださせるのも、一案である。

というのも、歴史という科目にしても、へたをすれば、ただの暗記科目で終わってしまう。
事実、私たちの時代は、そうだった。
その結果がどうかというと、今、頭の中に、何も残っていない。
エリザベス1世がスペイン艦隊を破った年号すら忘れてしまった。
(年号など、本で調べれば、すぐわかることだが……。)

大切なのは中身。
もっと言えば、子どもの探究心、研究心を育てること。
そのほうが、将来、はるかに役に立つ。

もっとも最近の学校教育は、大きく変わりつつある。
子どもたち(中学生)が、学校から与えられる夏休みの宿題にしても、先に紹介した、
どこかヨーロッパ風のものが多くなった。
(暗記)から(自ら考える)教育へと、あまり目立たないが、今、確実に変化しつつある。

あとは大学入試のあり方を変えればよい。
大学入試が旧態依然のままでは、学校教育も変わらない。
それは大前提だが、言い方を変えると、大学入試そのものも、おかしい。
へん。

……というようなことを、TOHO SINEMASの小冊子を読みながら、考えた。
中には、「映画を教材にするなんて!」などと思っている人もいるかもしれない。
しかしどう頭の中で思いをめぐらしたところで、当時の衣装を見につけた女性が、
馬にまたがり、髪を風になびかせるシーンまでは、想像できない。

映画だから、多少のまちがいはあるかもしれないが、大切なのは、その臨場感である。
俳優に感情移入ができれば、さらによい。
エリザベス1世の気持ちになりきって、当時の時代的背景を理解できれば、さらによい。

で、話はぐんと個人的な体験に飛ぶ。

つい先日、映画『ベン・ハー』を演じた、C・ヘストンが死んだ。
私はそのニュースを知ったとき、C・ヘストンが死んだというよりは、ベン・ハーという
あの人物が死んだような錯覚にとらわれた。

その映画を見たときは、ただの映画。
それはわかっていたが、10年とか20年とかたって、あの映画を振りかえってみると、
あたかも私がその時代に生きていたような錯覚にとらわれる。
2000年前の、イスラエルのあの地に、である。
が、そういう錯覚にとらわれるようになったのは、けっして映画だけの影響ではない。
私はその10年とか20年とかいう時間の中で、ユダヤ人に興味をもち、キリスト教に
興味をもち、ついであの時代や時代的背景に興味をもつようになった。
好んでその種の情報を求め、自分のものとした。

つまり映画を「柱」に、さまざまな「肉付け」をした。

それが今、私をして、そう思わさせる。
「あのベン・ハーが死んだ」と。

もちろん映画にも、いろいろある。
最近見た映画の中でも、たとえば『ミSト』とか、『クローBーフィールド』
などは、駄作中の駄作。
超駄作!
見ている最中に、「金返せ!」と叫びたくなるような映画だった。

暴力映画もある。
セックス映画もある。
しかしその一方で、すばらしい映画もある。
まだ『ブーリン家の姉妹』は劇場でも公開されていないが、前評判はたいへん高い。
見て損はない映画だと思うし、高校生くらいになら、歴史の参考になるような
映画かもしれない。

教育の中身も大切だが、教育のし方も、これからは変わってくるだろう。

「YOU TUBEを使って、世界の国歌を集めてきなさい」
「YOU TUBEを使って、世界のノーベル平和賞について調べてきなさい」と。
そしてその画像と音楽、音声を、授業中に発表させる。
想像するだけでも、ワクワクするほど、楽しい授業ではないか!


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●HP2133に、日本語キーボード

++++++++++++++++

7月に、HP社の2133を買った。
ミニ・パソコンである。

英語キーボードで、使いにくさを感じていた。
が、今度、日本語キーボードのが、発売になったという。

残念!
少し、待てばよかった。

さっそく今日、その店に行って、交換できないかどうか、相談してみる。
英語式キーボードから日本語キーボードへ、キーボードだけ交換できれば、うれしい。
が、多分、無理だろう。
しかしどうせ、ダメで、ダメもと。
一度、聞いてみるだけ、聞いてみよう。

それがだめなら、やはり2133は、息子に払い下げる。

……と思いながら、HP社に電話で問い合わせると、キーボードだけ
取り替えることで、日本語キーボードにすることができるという。

バンザーイ!

よかった。
さっそく、日本語キーボードを取り寄せることにした。
値段は、4200円程度。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2844)

●10月5日(土曜日)

++++++++++++++++++

明日(6日)、浜松の航空自衛隊基地で、
「航空フェスタ」(航空祭)がある。
しかし天気予報では、「曇りのち、雨」。

ワイフと2人で出かけるつもりだったので、
残念!

++++++++++++++++++

●「大東亜戦争」

さっそくAS首相が、失言。
隣の韓国では、問題化し始めている。

+++++++++++以下、朝鮮N報より+++++++++++++

……すると麻生首相は「日清、日露戦争と、いわゆる大東亜戦争、つまり第2次世界大戦
とは少し種類が違うと思っている」と答えた。続いて「明治憲法以来約120年、日本の
歴史として誇れる歴史もあれば、誇れない歴史もある」と語った。 

  「大東亜戦争」は日本の帝国主義による侵略戦争の当時、日本政府が使っていた用語だ。
第2次世界大戦が終わった後、日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は
公文書で同表現の使用を禁止し、現在も日本の侵略戦争を正当化、美化する用語と認識さ
れている。日本の右翼団体や関連人物らは依然として太平洋戦争を大東亜戦争と表現し、
日本による侵略戦争の正当性を主張する。 

(中略)

  しかし意識的でも無意識的でも、首相がかつての侵略を美化する用語を公式の席上で使っ
たのは非常に不適切なもので歴史観が問われる、という声があがっている。実際、麻生首
相は以前にも「創氏改名は朝鮮人が望んで行われたもの」などといった妄言で波紋を広げ
たことがあり、自民党総裁選の真っ最中だった先月には「天皇も(日本帝国主義の侵略を
美化する宗教機関である)靖国神社を参拝できるようにすべきだ」と述べ、議論を呼んだ
こともある(朝鮮N報10月2日、08)。   

+++++++++++以上、朝鮮N報より+++++++++++++

右翼の街宣車が、そのまま国会に乗り込んできた。
今は、そんな感じがする。
で、AS首相の口から出てきた言葉が、「大東亜戦争」。
「アジアを、日本を中心とする共栄圏で統合する」という発想に基づく。

「経済」を理由に、「国会解散」を見送ったAS首相。
その意図は、見え見え。

もし外務大臣が「大東亜戦争」という言葉を使ったら、クビは飛ばないものの、公式な
謝罪くらいは避けられないだろう。
今のところ中国政府も韓国政府も、AS首相の言動を見守る形で(?)、
沈黙を守っているが、この先のことはわからない。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct.08++++++++++はやし浩司

【カバー論】

●使う前に、かけるか? 傷(いた)んでから、かけるか?

++++++++++++++++++

今日、子どもたち(小4児)とこんな議論をした。

たとえば新しいテーブルを買ったとする。
そのときカバーをかけることにした。
新しいテーブルが傷まないように、だ。

そこで議論。

「テーブルというのは、傷む前にカバーを
かけたほうがいいのか。
それとも傷んでから、傷(きず)を隠すために
カバーを、かけたほうがいいのか」と。

++++++++++++++++++

●テーブルのカバー

家に帰って、同じ話をワイフにした。
というのも、私たちはいつも、新しい家具を買うと、それが傷まないように
いろいろと工夫をする。
カバーをかけるのも、そのひとつ。

が、考えてみれば、これはおかしい.
家具というのは、使ってこそ、家具。
カバーをかければ、傷つきにくくはなるが、それで長持ちするというわけではない。
長持ちしたとしても、いつかはカバーをはずす。
はずしたときから、傷み始める。
あるいは、カバーが汚れたら、また新しいカバーをかけなおすという方法もある。
そうすれば見た目には、いつまでも新品(?)として残る。
しかしもしそうなら、テーブルの天板は、むきだしのベニヤ板でも構わないという
ことになる。

ワ「子どもたちは、何と言ったの?」
私「意見は、2つに分かれた。傷んでからカバーをかければいいと言った子どもの
ほうが、多かったかな」
ワ「そのほうが、合理的ね」
私「よくよく考えれば、そうだ」と。

この議論は、人生論にも通ずる。

●まず自分の力で生きてみる

まず自分の力で、生きるだけ生きてみる。
傷つくときは、傷つく。
それでも自分の力で生きてみる。
やがて傷だらけになり、限界を覚えたら、神や仏に教えを求める。

もうひとつは、最初に、神や仏に教えを求める。
その教えに従って生きる。
そうすれば傷つくことを、最小限に抑えられる。
いつまでも新鮮な気持ちで、(多分?)、生きることができる。

どちらを選ぶか?

ところで最近の私は、新しい家具などを買っても、傷むことを
あまり気にしなくなった。
テーブルにしても、もとの木目や感触を、そのまま楽しむようになった。
今までカバーをかけていた家具についても、そうだ。
カバーが古くなっても、新しいカバーは、買わない。
が、だからといって、粗末にするようになったというわけではない。
大切に使うという気持ちには、変わりはない。

これを自分の人生観に当てはめてみると、どういうことになるのか?
これには、こんな話もある。

●総けやき作りの家

私の30年来の友人が、今年の初め、他界した。
享年、75歳だった。
彼は死ぬ2年前に、もっていた財産のほとんどを使って、総けやき作りの
家を建てた。
3部屋しかない、平屋の家だったが、総額はわからない。
友人も本気だったが、あとで奥さんに聞いたら、大工さんのほうが、本気に
なってしまったという。
寝食を忘れ、土日もなしで、建築に精力を注いでくれたという。

で、完成したその数日後、友人は、私とワイフをその家に招待してくれた。
独特の木の香りが、全身を包んだ。
私とワイフは、恐る恐る、その家に入った。

一部屋には、昔風の囲炉裏が組んであった。
横の床の間には、豪華な置物が並んでいた。

が、先にも書いたように、その友人は、その2年後には、他界して
しまった。
実際には、その前に病院に1年近くいたので、その家に住んだのは、1年足らず
ということになる。
で、友人が他界したあと、私とワイフは、その友人について、たびたび話しあった。
「総けやき作りの家に、1億円もかけた。しかし1年も使わなかった」と。
「1億円」というのは、私の勝手な想像による。
多分それくらいはかかっただろうということで、1億円とした。

それについて、ワイフは「もったいない」と言った。
私は、「やりたいことをやったのだから、それでいい」と言った。

●財産にカバーをかける

ずいぶんと回りくどい言い方になったが、私が書きたいことは、こういうこと。
つまり、人生も終わりに近づいたら、そこにあるものは、あるがままに使う。
テーブルでも、お金でも、何でも、だ。
何の役にも立てないで、そのまましまっておく必要はない。

たとえば新しいテーブルを買ったとする。
未来が永遠に見えるときは、それを長く使いたいと思う。
しかし自分の未来に限界を感じたら、その必要はない。
そこにあるものは、あるがままに使う。

その友人にしても、そうだ。
かなりの財産家だったということもある。
が、ある日、こう考えたとしても、おかしくない。
「もっているお金で、最後の夢を果たそう」と。
その(思い)に、一人の大工さんが、同調した。
大工さんも、70歳を超えていた。
しかも遠い親類だった。
ともに、最後の大仕事をしたことになる。

私はその友人を頭の中で思い浮かべながら、こう考える。
「その友人は、自分のお金に、カバーをかけないで使った」と。
もう少し俗な言い方をすれば、こうだ。

「お金があっても、死んだら、おしまい」と。

●ワイフと……

ワ「息子さんや、娘さんに遺産を残すことは考えなかったのかしら?」
私「2人とも、遠くに住んでいるからね」
ワ「私なら、息子さんと娘さんに、遺産を残すことを考えたわ」
私「残す? お金にカバーをかけて、どうする?」と。

さて、みなさん!
みなさんなら、どうする?

新しい家具を買った。
傷む前に、カバーをかけるか。
それとも、そのまま使って、傷んでから、それを隠すためにカバーをかけるか。

私のばあい、これはあくまでも私のばあいだが、このところ何かにつけて、
カバーをかけるのが、おっくうになってきた。
そこにあるものは、あるがままに使う。
できるだけ早く、気軽に使う。
少しずつだが、そういう生き方になってきた。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2845)

●All's well that ends well.
終わりよければ、すべてよし。

「結果」がよければ、それまでの苦労は報われる。
子どもの世界で言えば、たとえば目的の学校へ進学できれば、それまでの苦労は報われる。
が、このことわざには、「裏」がある。
反対に、「終わりが悪ければ、すべて悪かったのか」ということになる。
ある母親は、自分の息子が高校入試に失敗した夜、息子にこう言ったという。
「小さいときから、あちこちの塾へ行き、音楽教室へも通ったけど、すべて無駄だった
わね」と。
しかしほんとうにそうだろうか?
そう言われた子どもは何と答えればよいのだろうか。
そのあと、その子どもは、どうすればよいのだろうか。
『終わりよければ、すべてよし』ということわざの裏には、そんな意味も隠されている。


●All lay loads on a willing horse
人はやりたがる人に、仕事を任す。

だれかに仕事を頼むとき、乗り気でやってくれそうな人に、仕事を頼む。
もとからやる気のなさそうな人には、仕事を頼まない。
こうして乗り気で仕事をやってくれそうな人は、つぎつぎと仕事を頼まれ、伸びていく。
そうでない人は、そうでない。
子どももまたそうで、伸びる子どもは生きざまそのものが、前向き。
何かテーマを与えると、「やる!」とか、「やりたい!」とか言って、食いついてくる。


●All roads lead to Rome.
すべての道は、ローマに通ず。

ローマが全盛期のときには、すべての道は、ローマに通じていたという。
それが転じて、「人の流れは、そのときどきにおいて、もっともパワーのある人に
向かう」という意味に使われるようになった。
今風に言えば、「すべての教育は、受験に通ず」ということか。


●All that glitters is not gold.
光るものがすべて、金とはかぎらない。

たとえば子どもの計算力がある。
計算力があるから、算数の力、つまり考える力があるということにはならない。
よい例が、かけ算の九九をペラペラと口にする幼児がいる。
そういう子どもを見ても、だれも、「算数の力がある子ども」とは思わない。
同じように、経文をソラで唱えることができるからといって、その人が仏教に
精通しているとは、だれも思わない。
計算力は、訓練で伸びる。
子どもの力は、見かけだけで判断してはいけない。


●All things are different before they are easy.
どんなことでも、できるようになる前は、むずかしい。

パソコンの世界では、毎日のように、こんな経験をする。
それができないときは、「どうしたらいいのか?」と、悶々と苦しむ。
しかしいったんできるようになると、「どうしてこんなことができなかったのか」と、
思うようになる。
そしてそれができない人がいることのほうが、不思議に思えてくる。
同時に、パソコンをいじっている人なら、みな、できるように思えてくる。
子どもの教育も、また、しかり。
一般的には、達成率を、50〜70%程度にするとよいと言われている。
簡単すぎる問題を、サラサラとしても、達成感は、ない。
しかし難しすぎる問題で、行き詰まってしまったら、これまた達成感はない。
適当にヒントを与えながら、また教える先生も、いっしょに苦しむ様子を見せながら、
50〜70%くらいできるようにするのがよい、と。


●All work and no play makes Jack a dull boy.
勉強ばかりしていて、遊ばない子どもは、つまらない人になる。

子どもの仕事は、「遊ぶこと」。
そう心得て、子どもの遊びを大切にする。
が、中には、学校から帰ってくると、毎日、2時間も書き取りをしているという子どもが
いた。
当時、小学2年生だったが、その子どもの祖母は、それをたいへん喜んでいた。
しかし異変はやがて起きた。
目を激しくまばたきするようになった。
眼科へ連れていくと、「チックです」「塾通いが原因です」と。
そこでその祖母は、すべての塾をやめてしまった。
が、それがかえってまずかった。
その子どもは、そのまま、バーントアウトし、何もしなくなってしまった。


●Any port in a storm.
嵐の中の港。

日本でも、『溺れる者、藁をもつかむ』という。
嵐の中では、どんな港でも、ありがたいという意味である。
しかし言い方を変えると、「どんな港でもいい」と考えて、おかしな港に身を寄せると、
ときに自分の人生を破滅させてしまうことになりかねない。
数か月前、ある教材販売会社の社長が逮捕された。
何でも1年で、100〜200万円の指導料を取っていたという。
その解約に応じず、それで逮捕された。
が、それでこうしたインチキ教材会社が消えたわけではない。
会社の名前を変え、教材の表紙だけを取り替え、今もどこかで活動しているという。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

●パソコンの故障

+++++++++++++++++

話せば長くなるが、私がメインとして使っている、
VISTAパソコンが、起動不能になった。
ハードディスクの全コピーをするとき、
OSそのものを破壊してしまった。

しかたないので、再セットアップ(リカバリー)。

午前7時から始めて、現在、午前11時。
今は、こうして待つしかない。
ジリジリ、ジリジリ……。

どうしてこんなに時間がかかるかって?
それにも、長い話がある。
しかし話しても意味がないので、省略。

せっかくの日曜日。
私は、こうして書斎にこもりきり!

ア〜〜〜ア!

居間へおりていくと、ワイフが退屈そうに、
YOU TUBEの音楽を聴いていた。
「ごめんね」と声をかけると、あきれた
ような顔をして、私を見あげた。

のどかな日曜日。
しかしどこか空気がよどんでいる(?)。

こうした作業は、ボケ防止のためには、
たいへんよい。
一見無駄な作業に見えるが、無駄ではない。
脳みそがガンガンと、刺激される。
自分でもそれがよくわかる。

++++++++++++++++

【損の美学】

●パソコンの修理

実のところ、この文章を書き始めたのは、夕食も終えた、午後7時。
夕方、1〜2時間ほど、ワイフと買い物に出かけた。
あとは、ずっと、パソコンの修理。

ひとつのソフトをインストールするといっても、多くは、それぞれ
Upgrade版で購入している。
つまり一度、旧バージョン版をインストールしてから、改めて、Upgrade版を
インストールしなければならない。
そたびに、私の名前を再登録。

ワード、パブリシャー、画像編集ソフト、住所録ソフト、HP編集ソフトなどなど。
メールにしても、IDナンバーからパスワードまで、ぜんぶ一通り、インプット
しなければならない。

それでこんなにも時間がかかってしまった。

●得をする子ども

子どもたちが教室から帰るとき、私はよくスリッパ並べを頼む。
そのとき気持ちよくそれに応じてくれる子どももいれば、サーッと逃げていく
子どももいる。

サーッと逃げていく子どもは、きっとこう思うにちがいない。
「得をした」と。

しかし本当に得をしたのは、どちらなのか?

私は毎回ではないが、そうした手伝いを気持ちよくしてくれる子どもには、
何かのプレゼントをあげることにしている。
教室に、たくさんのおもちゃ類が置いてあるのはそのためと考えてもらってよい。
そのつど買ってきて、しばらく並べたあと、子どもたちに払いさげている。

●金権教

私たち団塊の世代は、程度の差こそあれ、みな、金権教に毒されている。
時間すらも、「金(マネー)」に換算して考える。
そういう時代を生きてきたし、そのためそういう卑しい癖が、身についてしまっている。

またこういう書き方をすると、その病気で苦しんでいる人たちには、
たいへん失礼ということもよく知っている。
またそういう人たちが、損をしていると言うのではない。
ないが、しかし私は、ときどき、こう考える。
「こうして健康で仕事ができるだけでも、もうけもの」と。

仮に今、私が脳梗塞か何かで、歩くこともままならないとする。
当然、行動にも制約が生まれる。
脳の働きも、影響を受ける。
いくら相手が幼児でも、もし今、私が脳梗塞か何かになったら、その時点で
教えるという仕事をやめなければならない。
収入は、そこでストップ。

だから1か月、健康で働けるということは、1か月分の金銭的価値がある
ということになる。
(こういう発想をするところが、団塊の世代の特徴ということになる。)
そう言えば、若いころ、私にこう言った知人がいた。
小さな会社を経営していた。

「林君、100万円損をしたらね、翌月1か月、元気で働けることだけを
考えればいい」
「1000万円損をしたらね、翌年1年、元気で働けることだけを考えれば
いい」と。

当時、その友人は、毎月、100万円ほどの収入をあげていた。

●子育ても、金(マネー)

こうした金権教は、一度、それに毒されると、自分の心の中から消すのは、
たいへんむずかしい。
その人の生き様の基盤を作ってしまう。
哲学を超えて、宗教になってしまうこともある。
だから、「金権教」という。
そのため、時間どころか、人間関係、家族関係、さらには人間の価値まで、金銭的価値で
判断するようになってしまう。

ある人はこう言った。
「子どもを大学へ送るなんて、損なことだよ」と。
「私立大学へ出すと、今では、月々17〜20万円の仕送りがかかる。
プラス学費。4年間で、計2400万円ほど、かかる。
それだけのお金を息子が返してくれればいいが、今どきの子どもは、金など
返してくれない。だから損」と。

ずいぶんと心のさみしい話ではないか。

●パソコンの修理

今日、パソコンの修理をしながら、私はこう考えた。
「一見、損をしているように見えるが、実は、得をしているのだ」と。
「損」というのは、「時間の浪費」をいう。
朝、7時ごろから始めて、やっと何とか動くようになったのは、午後7時。
時間にすれば、約12時間!

メインで使っていたパソコンだけに、あれこれとめんどうな設定がつづいた。
最後は、証券会社の電信認証登録。

が、本当に私は、損をしたのだろうか?
答は「NO!」。

ときに額に冷や汗をかきながら、夢中で作業をこなした。
「相手はたかが電気器具ではないか」「直らないはずはない」と。

ウィルス対策ソフトをインストールするときも、そうだ。
簡単に再インストールすることはできない。
一度、登録そのものを解除しなければならない。
解除した上で、再登録ということになる。
その段取りを、頭の中で考えながらする。
順番をまちがえると、あっという間に、ウィルスが侵入してくる。

そのためいくら道楽の範囲とはいえ、私は真剣。
追いつめられたような緊張感。
その連続。
ハラハラ、ドキドキ、またハラハラ、ドキドキ……。

が、そういうふうに追いつめられないと、脳みそというのは、働かない。
ふだんだと、日曜日の午後は、パソコン相手に文章を書くことが多い。
が、そういうときというのは、眠くなることはあっても、頭が熱くなることは
めったにない。

私は頭を熱くすることで、脳みその鍛錬をした。
が、これこそ、まさに「得」というもの!
ボケ防止のためには、何よりも効果的!

その証拠に、一連の作業が終わったとき、「やり終えた」という満足感と
ともに、心地よい疲れを全身に感じた。

●頭の運動

私「パソコンの修理は、損ではないよ」
ワ「そうね」
私「時間を無駄にしたとも、思わない。もし無駄ということになるなら、
毎朝ジョッギングに出かける人も、時間を無駄にしていることになって
しまう」
ワ「でも、そんなに頭を使うの?」
私「使うねエ〜〜。今日は500メートルくらいの山を登ったほどの、
体力ならぬ、知力を使ったよ」と。

今日の修理には、2つの大きな伏兵がいた。
ひとつは、ハードディスクのコピーを試みたわけだが、コピー先のハードディスク
がこわれていた。
もうひとつは、きわめて初歩的なミスだが、ハードディスクへのコネクターが、
マザーボードから、はずれていた。
この2つに気づくのに、合計で1時間ほど、かかった。
かかったというより、パソコンと格闘した。
それはパソコン相手の知恵比べのようなもの。
「ああでもない、こうでもない」と自分に言い聞かせながら、作業をする。
原因をさがしながら、修理をする……。
その緊張感が、たまらなく、楽しい。

●そこで損得論

何が「損」で、何が「得」なのか、本当の」ところ、よくわからない。
また何をもって、「損」といい、何をもって、「得」というのか、
それもよくわからない。

家の中で何もせず、ゴロゴロしているのが、得とは、だれも考えない。
(得と考える人もいるだろうが……。)

他人のために、あれこれと汗を流すことが、損とは、だれも考えない。
(損と考える人もいるだろうが……。)

しかし私は、あえて今でも自転車で通勤している。
車で行けば、15分〜20分。
自転車だと、40分はかかる。
しかし私は、「損をしている」とは思わない。

先の知人のような考え方をするのは、あまり好きではないが、
「今日、1日、しっかりと運動をすれば、たぶん、明日も元気で仕事が
できるだろう」と考える。
「今月、1か月、しっかりと運動をすれば、たぶん、来月も元気で仕事が
できるだろう」と考える。

●あとは前向きに生きていく

明日は、月曜日。
HP社の2133(ミニ・パソコン)の日本語キーボードを注文する。
それにACER社のaspire1も、底のゴム部品がどこかへ行ってしまった。
それも注文する。
もうひとつ、aspire1の、増設バッテリーも、注文する。

数年前だが、私にこう教えてくれた人がいた。

「林君、60歳をすぎたらね、人生はコンパクトに生きるのがいいよ。
身のまわりを整理しながら、ね」と。

とんでもない!

どうしてこの私が、コンパクトに生きなければならないのか。
だれのために、何のために!

一見、説得力があるようで、この意見は、それ自体、バカげている。
もしこんな論法がまかりとおるなら、「子どもは子どもらしく」「老人は
老人らしく」、さらには「男は男らしく」「女は女らしく」」となってしまう。
それぞれの人が、それぞれの立場で、『ダカラ論』と闘っているのに、
どうしてこの私が、その『ダカラ論』に従わねばならないのか。

「老人だから、老人らしく……」なんて、まっぴら、ごめん!

●結論

まっすぐ前に向かって生きることに、損も得もない。
まっすぐ前に向かって生きていること自体が、「得」なのだ。
中には守銭奴になって、小銭の奴隷になっている人がいる。

先日も、実の娘に対して、こう言っていた母親(70歳くらい)がいた。

「貯金がどんどんと減っていってしまう!」と。

この夏、近所で、葬式や結婚式がつづいたことについて、その女性はそう言った。
しかしそんなに小銭をためこんで、どうする?
あの世まで、もっていくつもり?
毎日仏壇の金具をみがいて過ごしていた老人がいたが、毎日、小銭を数えて
過ごすというのは、もっとさみしい。

要するに、この世界には、損も得もない。
生きているということ自体が、すばらしい財産。
もちろん健康で、仕事ができれば、さらによい。
お金(マネー)というのは、あくまでも手段。
生きるための手段。
生きるために稼ぐというのなら、私にもわかる。
それが稼ぐために生きるようになったら、おしまい。
生きることの(すばらしさ)まで曇らせてはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2846)

【10月7日】Oct. 7th, 2008

●日本経済

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このところ毎日のように、経済雑誌を買っている。
気になるというよりは、読めば読むほど、憂うつになる。
アメリカの経済については、だれしもいつかはこうなると
わかっていたはず。
私のようなド素人にも、すでに4、5年前に、それがわかっていた。
だからことあるごとに、「アメリカの経済はあぶない」と書いていた。
「レバレッジ(てこ)」についても、そのころ書いていた。
しかし何ごとも起らなかった。
だからやがて私の意見など、どこかへ消えてしまった。

+++++++++++++++++++++

●レバレッジ

レバレッジの恐ろしさ……私も、30歳くらいのとき、それを経験している。

方法は、こうだ。

(1)まず、1000万円で、土地と家を買う。これを(資産A)とする。
(2)(資産A)を担保に、銀行から、1000万円を借りる。
(3)その借りた1000万円で、新たに土地と家を買う。これを(資産B)とする。
(4)このとき全国的な土地の値上がりがつづき、(資産A)は、1100万円になる。
(5)(資産B)を担保にまた銀行から、1000万円を借りる。
(6)この1000万円で、新たに土地と家を買う。これを(資産C)とする。
(7)このときさらに土地の値段があがりつづけ、(資産A)は、1200万円に。
(8)(資産B)は、1100万円に。

この時点で、当初1000万円の投資で買った資産は、計1200+1100+1000
=3300万円になる。
銀行への負債は、3000万円。
差し引き、300万円のもうけということになる。

が、ここで終わるわけではない。
ちょうど(てこ)のようにして、(資産D)(資産E)(資産F)……とふやしていく。
どんどんとふやしていく。

私は、ある会社で貿易の顧問をしながら、その会社の社長が、つぎつぎとアパートを
ふやしていくのを、目の当たりで見ていた。
まるで魔法のようだった。
1年足らずのうちに、100戸、200戸、300戸……と、戸数をふやしていった。

しかし土地が右上がりに値上がりしているときは、それでよい。
が、ひとたび値下がりに転じたとたん、今度は反対に、ドミノ倒しのドミノのように、
すべての資産が、赤字化する。
とたん、破産!

まだそのころは、土地神話というのがあり、土地の価格がさがることはないと、だれしも
信じていた。
だからこういう魔法のようなことができた。

で、その社長のばあい、本業の食品加工業のほうでつまづき、それがきっかけで、
すべてのアパートを含む、すべての資産を銀行に差し押さえられてしまった。

……というようなことが、アメリカで起きた。
もうすぐ韓国でも起きる。

では、日本はどうか?

日本のばあい、バブル経済崩壊以後、銀行は、土地や建物を担保には、金を貸さなく
なった。
バブル経済崩壊後の後遺症に、いまだに苦しんでいる。
そういう事情もある。
が、かえってそれが幸いした。

アメリカ、ヨーロッパが、ドン底に叩き落とされた分だけ、日本の経済の安定性が
相対的に高くなった。
(だからといって、日本の経済が、安泰というわけではない。誤解のないように!)
世界のお金が、円買いへと向かい始めた。
それが今現在の、状況ということになる。

●円キャリー・トレードの解消

金利の安い円を借りて、世界で投資する。
これが「円キャリー・トレード」である。

もう少しわかりやすく説明しよう。

あなたは国際舞台で活躍する、投資家である。
投資家といっても、手持ちのお金は、ほとんどない。
そこでどこかで、お金を借りなければならない。
が、どこで借りるか。

日本サラ金は、金利1%で貸してくれる。
韓国サラ金は、金利5%で貸してくれる。
当然、あなたは日本サラ金で、お金を借りる。
1億円、借りる。
1億円借りても、1年後の利息は、たったの100万円。

が、そのままでは外国で投資することはできない。
一度円を売って、アメリカのドルに交換しなければならない。
このとき円を売るから、円安、ドル高となる。

あなたはそのドルを使って、アメリカに工場を建てる。
あるいは資本参加をする。
アメリカでの収益は、年10%。

日米間の為替レートが安定していれば、アメリカで投資した分は、1年後には、
1億1000万円になる。
日本へ、金利も含めて、1億100万円返しても、900万円の利益となる。

こうして金利の安い円に、世界中の投資家たちが群がった。
日本のバブル経済崩壊以後、日本が恒常的に円安基調になったのは、そのため。

ところが今、そうして日本から出て行った(円)が、日本国内へ逆流し始めている。
ここまで書いたことの、逆の現象が起きている。
世界の投資家たちは、ドルを売って、円を買い、借金を返済し始めている。
その結果、今朝の為替レートを見ると、1ドル=約100円!

わかりやすく言うと、日本サラ金の金庫の中には、円の札束が、金庫に入りきらない
ほど、ジャブジャブになっている。
しかも円高。

そこで今度は、日本サラ金は、その金を使って、外国のサラ金会社の買収に乗り出した。
その勢いは、「まるで突然、高速道路を走り始めたような感じ」(N証券某部長)だ、
そうだ。

吉と出るか、凶と出るか……。
それはだれにもわからない。
わからないが、要するに、世界経済が、今、メチャメチャになっているということ。
経済の秩序そのものが、崩壊し始めているということ。

では、私たちはどうしたらよいのか。

今は、天気にたとえるなら、超大型の台風がすぐそこまでやってきている。
ゴーゴーと風が吹き始めた。
午後から外出の予定だったが、そのため、今日は、とりやめ。
今は、そんな状況と考えてよい。

(1)あぶない会社の株や債券を買った人は別として、優良企業の株や債券であれば、
塩漬け。
(2)国際ファンドなどを購入した人も、塩漬け。

あとは、じっとこの嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
こういうときジタバタした人ほど、損に損を重ね、大損をする。

アメリカのGMもあぶないという。
韓国の電子産業もあぶないという。
しかしGMがつぶれても、韓国の企業が崩壊しても、日本の企業が倒産するという
わけではない。

だからここは、じっとがまんのとき。
……いくつかの経済雑誌を読んだあとの、これが私の結論ということになる。
(以上、10月7日記)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2847)

●高齢者虐待(Abuses against aged people)

+++++++++++++++++++

満65歳以上の老人に対する虐待が、
1万3000件以上とか(厚生労働省調査)。
しかしこんなのは、氷山の一角。

中には、虐待を虐待と意識していない人さえいる。
虐待するほうも、虐待されるほうも……。

+++++++++++++++++++

私の知っている人に、こんな人がいた。
その老人は、長い間、釣りが趣味で、家の中には、数百本近い釣竿を飾ってあった。
中には、その道の巨匠が製作したという、貴重な釣竿も何本かあった。

しかしその老人に認知症の症状が出始めたころのこと。
嫁が、家の中にそれがあると「ウザイ」ということで、その釣竿をすべて、近くの
貸し倉庫にしまってしまった。
とたん、その老人の認知症は、一気にひどくなってしまった。

また別の老人は、朝、昼、晩と、夕食のおかずは、味噌汁だけだった。
実の娘がその老人の世話をしていたが、虐待しているという意識は、まったくなかった。
「味噌汁の中に、必要な食べ物はすべて入っている」と言っていた。
驚いたことに、その老人が移動させるときは、両手で老人の肩をつかみ、うしろ向きに
ひっぱっていたこと。
乱暴というよりは、めちゃめちゃ。
私はそう感じた。

こういうのも虐待という。
暴力だけが虐待というわけではない。

無視、冷淡、介護放棄、暴言も、立派な(?)虐待である。

が、これは老人だけの問題ではない。
私たちの問題である。
私やあなたも、やがてすぐその老人になる。
「時間の問題」でもない。
老後の問題は、いつもそこにある。

今、この時点でも、私は、いかにすれば、心温かい環境の中で、
楽しく生きることができるか。
その第一条件として欠かせないのが、よい親子関係ということになる。
が、「虐待」は問題になっても、「よい親子関係」が、問題になることは、めったにない。
わかりやすく言えば、「虐待」と「よい親子関係」は、コインで言えば、裏と表の関係
ということになる。

人はそのときどきの目先のことに心を奪われ、10年後、20年後の自分に思いを
はぜない。
よい例が子どもの受験勉強。

子どもの受験勉強に狂奔する親は多いが、その一方で、親は、親子関係を破壊している
ことに気づかない。
「よい学校に入れば、子どもは感謝してくれるはず」「親を大切にしてくれるはず」と
考えるが、実際には、逆効果。
これは子どもに高価なものを買い与えて、それで親子の絆(きずな)が深まったと
錯覚するのに似ている。

私も幼稚園の年長児から高校3年生まで、長い間教えてきたが、子どもが受験期に
さしかかると、親子関係どころか、私との関係までおかしくなる。
そういう例を、それこそゴマンと見てきている。
「虐待」の問題は、その延長線上にある。

これから先、この日本はますます老人にとって住みにくい国になる。
悲しいかな、すでにその下地はできあがってしまっている。
それがわからなければ、一度でよいから、あの老人介護センターを見学させて
みることだ。

あそこにいる老人たちこそ、私やあなたの、未来の姿ということになる。
またその老人に身を置いて、自分のまわりのことを考えてみたらよい。

さて、ここ数日、母の容態がかなり悪いらしい。
昨夜、センターから連絡が入った。
これからワイフと見舞ってみる。

+++++++++++++++以下、産経新聞+++++++++++++++

介護支援専門員や家族や本人から自治体に寄せられた相談や通報は、1万9971件(前年
比8%増)。うち1万3273件が虐待と判断された。

 虐待の種別(複数回答)では「暴力など身体的虐待」が63%、次いで「暴言など心理的虐待」
38%、「食事を与えないなど介護放棄」28%、「財産を勝手に処分するなどの経済的虐待」2
5%だった。

 高齢者が死亡した27件の死因をみると、殺人13件、介護放棄による致死7件、心中4件、
他3件だった。

 全体の被害者の7割が、介護が必要という認定を受けた人。虐待をしているのは息子4
0%、夫15%で娘、嫁、妻と続いた。

 また、特別養護老人ホームなどの施設側が加害者となった虐待も、379件(前年比106件
増)の相談や通報があり、62件(同8件増)が確認された。

 把握された虐待のうち35%で高齢者を施設に別居させる措置がとられ、他もケアプランの
見直しなどの対応が取られている。

+++++++++++++++以上、産経新聞+++++++++++++++

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
老人問題 老人虐待 虐待)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct・08++++++++++++++はやし浩司

●金権教(Money is Everything?)

++++++++++++++++++++

我ら金権教の信者たちは、すべての
価値を、金銭的な尺度でもって判断する。
人間関係も、人間の価値も、さらに自分
自身の生命の価値も。

金(マネー)がすべて。
金(マネー)さえあれば、どんな夢もかなう。
金(マネー)こそ、我らの本尊。

++++++++++++++++++++

●15年!

K氏(当時、40歳)は、Xという名前の会社に、最初は150万円を投資した。
つづいて2年後、さらに350万円、追加投資した。
計、500万円である。
30年も前の話だから、当時としてはかなりの大金である。
500万円もあれば、土地代は別として、家が一軒、建った。

が、さらに追加投資を求められた。
断われば、会社があぶないと聞かされた。
そこでK氏は、それまで勤めていた自動車会社を中途退社。
その退職金を、X会社に投資した。
その額、700万円。
計、1200万円になった。
自分は、X会社の役員となった。

が、X会社はそれからも火の車。
自転車操業を繰りかえした。
そのつど本社と事務所を転々とした。
K氏は、その会社とともに、最終的には三重県の小さな町に引っ越した。

が、こうして15年。
役員とは名ばかり。
実際には、X会社の工場で、工員として働いた。
言い忘れたが、X会社は、静電界を応用した(?)、特殊な
警報装置を製造していた。

そのK氏が、会社の倒産とともにこの浜松へ帰ってきたのは、数年前。
K氏は、55歳を過ぎていた。
K氏の奥さんは、こう言った。
「最初に投資しした、1200万円を回収したくて、どんどんと深入りしてしまい
ました」と。

が、15年は長い!
そのときはそう思わなくても、40代の10年には、別の意味がある。
そのことは50歳とか60歳になってみると、わかる。

●1年は600万円の価値

こんな例で考えてみよう。
あくまでも金権教に従って、である。

仮に今、あなたが脳梗塞か何かの重い病気だったとする。
がんでもよい。
闘病生活がつづいている。
そういうときだれかがやってきて、「1000万円出しなさい。出せば、
あなたの病気を治してやる」と言ったら、あなたはどうするだろうか。

60歳になると、いつも死の影をそこに感ずるようになる。
知人や友人の中には、すでに死んだ人も何人かいる。
が、もし30歳とか、40歳だったら、どうだろうか。
ひょっとしたらこう考えるかもしれない。
「1000万円で本当に病気が治るなら、出してもいい」と。

実際、そういうふうにして大金を払う人は少なくない。

で、さらにこう考えるかもしれない。
「1000万円使っても、また元気で働けるなら、そのお金を取り返すことが
できる」と。

さらに「私の1年は、平均的な労働者に換算するなら、600万円の価値がある」と
考えるかもしれない。
「2年で1200万円、3年で1800万円……」と。

……こうしてますます金権教教団の信者となっていく。

●金権教の信者

が、こういう話を聞いたとき、あなたはどう思うだろうか。
「その通り」と思うだろうか。
それとも、「どこかおかしい」と思うだろうか。
そう、おかしい。
おかしいが、金権教の信者には、それがわからない。
若いころだが、実は、私はこんなふうに考えたことがある。

ときどき詐欺師のような人につかまって、そのつど、かなりの大金を損したことがある。
そういうとき私は、よく、考えた。
「また来月、がんばればいい。1か月、がんばれば取り返せる」と。
つまりこうして私は金権教の信者になっていった。
生きることそのものを、金銭的な価値で判断するようになっていった。

が、それはそれとして、一度心にしみついた意識は、そう簡単には消えない。
今でも、ときどきそれに似た考え方をする。
つい先日も、そうだ。

「もうすぐ61歳になる」と思ったときのこと。
「60歳からの、この1年間は、もうけもの」と考えた。
しかしその(もうけもの)という部分の中に、金銭的な「得」まで混ぜて考えてしまった。
「1年がんばったから、ぼくは、○百万円、得をした」と。

●K氏について

さてK氏の話に戻る。
私はK氏の話を聞いたとき、こう考えた。
「ぼくなら、損をしたお金のことは忘れて、つぎの仕事をするのに」と。
K氏は、投資した1200万円にこだわり、15年という年月を浪費してしまった。
15年という年月を考えるなら、15年のほうが、1200万円より、はるかに損である。
1200万円を15年で割ると、1年で80万円。

「1200万円というと大金だが、1年に80万円ということなら、
まだ、何とかなる」と。

しかしこの考え方も、おかしい。
K氏は、1200万円にこだわって、結果的に15年を浪費したが、
「1年で80万円」という私の発想も、K氏の発想の同一線上にある。

●損と得

私は今、生きている。
それは本来、金銭的な価値とは、無縁のはずである。
今、生きていることを、金銭的価値とからめて考えるほうが、おかしい。
もしこんな論理で、自分の命を考えるようになったら、たとえば病気をしたとき、
どう考えたらよいのか。

たとえば1年間、入院したとしたら、損をしたということになるのか。
さらに言えば、死ぬことは、損ということになるのか。

病気や事故などというものは、確率と偶然の問題。
「私だけは、だいじょうぶ」などと、今あなたが考えているとしたら、あなたは、
とんでもない楽天家か、ノーブレインと考えてよい。
私たちは毎日、その確率と偶然の上に、生きている。

元気だから、「金銭的に得をしている」と強く考えれば考えるほど、たとえば
病気や事故になったとき、立ちあがれなくなってしまう。
そのときのため、というわけでもないが、こうした金権教とは、できるだけ早く
決別したほうがよい。

●結論

大切なのは、そのときどきを、心豊かに楽しく生きること。
K氏にしても、最初の段階で、損は損として割り切ることができたら、
その後の15年間は、かなり変わったものになっていたはず。

私も若いころ、金権教に毒されなければ、別の形で自分のエネルギーを発散
できたかもしれない。
「損をしたから、取り返してやる」という発想では、一日とて、安穏たる日々は
やってこない。
事実、あのころの私は、毎日、金、金、金……に追われつづけていたように思う。
ある日ワイフが、私にこう言った。
「あなたは金の亡者みたい。顔が醜い」と。

私が37歳のときのことだった。
以後、私は、たとえば家計簿なるものをいっさい、放棄した。
収入がいくらあって、支出がいくらあって……という計算を、まったくしなくなった。
入ったお金はそのまますべてワイフに渡し、そのまま忘れるようにした。

生活の質も変えた。

すべての基準を最低にした。
車も、もっとも安いものにした。
外食も、もっとも安いものにした。
衣服についても、そうである。
靴にしても、3000円以上のものは買わないと心に決めた(当時)。

私の論理はこうだ。

私は一生けん命、できるかぎりのことをしている。
ふつうの人のように生活をしている。
その私が、もし生きられぬというのであれば、私だけではない。
みな、生きられないはず。
最低の生活に心がければ、生きられぬはずはない、と。

が、それでも生活に困ったら……。
ワイフはいつもこう言っている。
「家や土地を売れば、何とかなるわよ」と。
そう、それはそれでしかたのないこと。

お金がなければ、人は、たしかに不幸になる。
しかしお金では、けっして、幸福は変えない。
金権教というカルトでは、けっして、人は、幸福にはなれない。
むしろ、その結果として不幸になる人のほうが、多いのでは?
要は、つきあい方の問題ということ。
金権教とは賢くつきあって、それ以上、深入りしないこと。
私の結論は、そういうことになる。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct・08+++++++++++++はやし浩司※

【海外留学・オーストラリアのばあい】

++++++++++++++++++++++

(1)大学選び

まず大学を選ぶ。
ある程度、大きな大学であれば、付属の語学校(Language 
School)をもっている。
小さな大学よりは、大きな大学のほうが、カリキュラムもしっかり
している。
個人の私立語学校もあるが、内容がよくわからないのであれば、
避けたほうがよい。

こうした大学、および、語学校の資料は、インターネットを介して
ただで手に入る。

その間に、パスポートの取得などは、常識。

(2)願書提出

願書提出は、驚くほど、簡単。
必要事項を書き込んで、FAXで送るか、インターネットを介して
送る。
語学校に関しては、無試験が原則。

(3)授業料の送付

先方から、授業料の振込みを指示されるので、それに従って、
授業料を銀行経由で振り込む。
クレジットカードによる支払いも可能。
費用は、半年分で、70〜80万円程度。

(4)正式の入学通知書

しばらくすると、領収書とともに、正式の入学通知書を送ってくる。
その入学通知書の番号などを、オーストラリア領事館へ連絡すると、
学生ビザを発行してくれる。
これも今では、すべてインターネットを介してできる。
詳しくは、各自、領事館へ問い合わせてみるとよい。

(5)下宿先

大学のほうで紹介してくれる。
寮の紹介も、希望に応じて、してくれる。
当たり外れもあるが、気に入らなかったら、数か月単位で、
引っ越せばよい。
最初から、ぜいたくを言わないこと。
下宿代は、食事つきで、週単位で払う。
約2万円前後/週。

(6)航空チケットの購入

入学日に合わせて、航空チケットを購入する。
それを大学側に連絡すると、大学の職員が空港まで、車で迎えに来て
くれる。

(7)あとは、本人のやる気次第

語学校である程度の成績を取らないと、専門課程への進学はできない。
語学校独自でも、試験をし、卒業証書を発行している。
(そのため、語学校も、できるだけ大規模な大学を選んだほうがよい。
語学校での成績がよければ、そのまま専門課程に進学できる。)
が、やる気のない学生は、語学校すら卒業できないということになる。
アメリカのばあい、大学を学士号を取得して卒業できるのは、
約5%(20人に1人)ということになっている。
オーストラリアのばあい、もう少し、きびしい。

(8)付記

目的もなく行くというのであれば、遊びに行くようなもの。
(遊ぶことが悪いというのではない。念のため。)
とくに日本の女子学生の行状が、悪い。
評判もよくない。
「うちの子にかぎって……」と思うのは、幻想以外の何ものでもない。

子どもを海外へ留学させるというのであれば、その覚悟もしておくこと。

+++++++++++++++++++++++++

●悪徳留学仲介会社に注意!

先ごろ、GWAYという、留学仲介会社が倒産した。
報道記事の内容を読むと、(1)学費を会社を通して払い込んだ、
(2)すでに留学している学生も、留学継続が難しくなる、とのこと。
しかし、どう考えても、おかしい。
どうして学費をGWAYを通して、支払うのか?
どうして留学継続が、難しいのか?
おかしいことは、先に書いた留学法を読んでもらえばわかる。

新聞報道によれば、「同社は、留学や体験型海外旅行を企画、販売、
授業料などの支払いを代行していた」とある。

授業料の支払いについては、カードによる支払い方法や、銀行から
海外送金するという方法がある。
会社を通すほうが、もともと、おかしい。

今回の事件は、その(おかしさ)の上で、起きた事件と考えてよい。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct・08++++++++++++++はやし浩司

●世界大恐慌vs日本復活論
(Japan would be re-born again through this economic chaos.)

++++++++++++++++

「世界大恐慌」が始まった(?)。
週刊「ダイアモンド」(10・11号)は、
「世界大破局」という大見出しを、表紙にかかげている。
サブタイトルは、「これから本当の崩壊が始まる!?」になっている。

ゾーッ!

++++++++++++++++

が、ここは、最後までふんばったほうが、勝ち。
考えようによっては、日本にとっては、千載一遇のチャンスかもしれない。
相対的にみて、日本の経済は、よりしっかりしている。
アメリカや韓国のように、不良債権になりそうなものが、ほとんどない。
何よりも心強いのは、前回、日本のバブル経済が崩壊したとき、日本は
一足先に、「恐慌」を経験し、それから立ち直っているということ。
この経験は、たいへん貴重。
つまりそれだけ賢くなっている。

ただ「恐慌が長引けば、日本の経済も大打撃を受ける」(同誌)そうだが、
「立ち直りも早いはず」とか。
怖しいタイトルの雑誌だが、全体を読んで、私はそういう印象をもった。

さあ、みなさん、ここは、ふんばろう。
最後までふんばったほうが勝ち。
弱気になったほうが、負け。
日本の「円」が、世界の基軸通貨になるのも、ひょっとしたらありえない
話ではないかもしれない。

フランスのル・モンド紙は、『サムライの復讐』と題して、つぎのように伝えている。
じっくりと読んでほしい。

++++++++++++以下、時事通信より転載+++++++++++++++

【パリ6日時事】
欧米で金融危機が広がる中、日本企業が米金融機関などの買収・投資に乗り出していること
について、6日付仏紙ルモンドは「サムライの復讐(ふくしゅう)」と題する論文を掲載し、「日本
は失われた10年から復活した。巨大なバブル崩壊からも立ち直ることができる証しであり、欧
米にも希望を抱かせる」と論じた。 

 同紙は「世界でほぼ唯一『サブプライムの毒』を味わわなかったのが、日本の銀行だ」と評
価。背景には日本が1990年代のバブル崩壊のトラウマ(精神的外傷)を克服できず、リスク
の高い投資を慎んだことがあると解説した。 

 さらに、最近は中国の経済的奇跡ばかりがもてはやされ、日本は目立たないが、「日本のロ
ボット工学は世界一。研究開発関連予算は国内総生産(GDP)3.3%にも上る」と指摘。「日本
の復活を誰も気にしていないが、侮ってはならない」としている。  
++++++++++++以上、時事通信より転載+++++++++++++++

【付記】

経済誌だから、記事が経済一色ということはわかる。
しかし「崩壊」で怖しいのは、経済だけではない。
経済の崩壊は、民心の崩壊、モラルの崩壊、さらには国情の混乱を招く。
国というよりその地域全体が不安定になる。
それがそのまま戦争につながることだって、当然、ありえる。

が、この点についても、日本は、ほんとうにラッキーな国だと思う。
国境で接している国が、ひとつもない。
世界で地理的にもっとも安全な国といえば、この日本ということになる。

みなさん、私たちの国、日本を、もっと信じよう!
私たち日本人がもつ底力を、もっと信じよう!


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

【韓中日アジア通貨基金に、待ったア!】

++++++++++++++++++++++

韓国は、現在、韓中日、3か国による、「韓中日アジア通貨基金」
の設立を急いでいる。
これはもし、韓国、中国、日本の3か国うち、どれかの国が、
通貨危機に陥ったとき、ドルを融通しあうという
制度である。

「すでに基本的には、合意している」(中央日報)という。

しかしこんなバカげた基金設立など、日本は参加すべきでは
ない。

まず、つぎの数字をよく見てほしい。

●世界の外貨準備高

中国(1位)……18000億ドル
日本(2位)……10000億ドル
韓国(番外)…… 2400億ドル 

「韓中日アジア通貨基金」なるものは、結局は
韓国を救済するための、予防措置にすぎない。

+++++++++++++++++++++++

韓国の中央N報は、つぎのように伝える(10月6日)。

+++++++++以下、中央N報より抜粋+++++++++++

 韓国・日本・中国と東南アジア諸国連合(ASEAN)が、通貨危機が発生した場合に緊急資金
を支援する800億ドル規模のアジア通貨基金(AMF)設立に向けた作業に拍車をかけていく
ことを決めた。米国発の金融危機に共同で対応するため、各国が保有外貨を拠出し対応体制
を構築しようというものだ。 

  企画財政部の申霽潤(シン・ジェユン)次官補は5日、「5月に韓日中3カ国とASEAN加盟国
の財務相が合意したアジア通貨基金を速やかに構成する案を進めている」と述べた。当時、
韓日中の3カ国は基金の80%に当たる640億ドルを、ASEANが残り160億ドルを負担する
ことで基本合意に達していた。 

  申次官補は、「800億ドルを具体的にどのように配分するか、意思決定構造をどのように決
定するかなどについては議論しなくてはならないが、ファンド設立を急ぐだけでも金融不安を減
らす効果がある」と述べた。 

  現在、韓日中は通貨危機が発生しないよう自国通貨と引き換えに相手国から外貨を借り入
れる方式でドルを共有するチェンマイ・イニシアティブ(CMI)の取り決めを結んでいる。 

  AMF設立はさらに一歩踏み込み、あらかじめ共同基金を準備し、通貨危機が発生する素地
がある国に支援しようという趣旨だ。韓日中3カ国は今月、次官級会議を開き優先討議し、速
やかに閣僚級会議も推進する計画だ。 

  財政経済部の姜万洙(カン・マンス)長官と全光宇(チョン・グァンウ)金融委員長は6日午前、
銀行頭取らと緊急会議を行い、ドル不足の状況を点検する一方、中小企業を支援するよう求
める予定だ。金融研究院は、「経常収支赤字が短期間に解消する可能性は低く、外国人らの
株式投資資金回収の動きも続くものとみられる」と指摘している。   

+++++++++以上、中央N報より抜粋+++++++++++

現在、もっともあぶない国は、当の韓国である。
通貨下落率が、ダントツに高い国は、韓国。

アジアにおける、通貨下落率をみてみよう。

(通貨が上昇している国)

日本・円
中国・人民元
シンガポール・ドル
フィリピン・ペソ
タイ・バーツ
台湾・ドル
マレーシア・リンギ
香港ドル

(通貨が下落している国)

インドネシア・ルピア
インド・ルピー
ベトナム・ドン
韓国・ウォン

この中でも、韓国・ウオンの下落率が20%を超え、突出している。
(インドネシア・ルピー、インド・ルピーも、下落は
しているが、1〜5%の範囲。)

わかりやすく説明しよう。
韓国政府は、言葉巧みに、「アジアの通貨危機に備えよう」と言っているが、
今、いちばんあぶない国は、当の韓国。
「アジア」という名前で自国をくるみ、何かあったときには、中国と
日本の外資(=貯金)を利用しようというもの。

しかし、こんなムシのよい話があるだろうか?

日本や中国が、欧米の先進国と「通貨基金制度」を設けようというのなら
まだ話は、わかる。
しかしどうして中国や日本が、韓国を巻き込んで、設立しなければ
ならないのか。

すでに日韓間では、日本が通貨危機に陥ったときには、韓国側が50億ドル
拠出する、韓国側が通貨危機に陥ったときには、日本側が100億ドル拠出する
という、不平等な取り決めがなされている(小泉政権時代)。

つまり韓国は、それでは足りない。
800億ドルに増額せよといっている。

私のワイフのために、もう少しわかりやすく説明しよう。

西隣の王さんは、1800万円の貯金をもっている。
東隣の佐藤さんは、1000万円の貯金をもっている。
しかしその間の金さんは、240万円しかなく、すでに破産状態。
そこで金さんは、佐藤さんと、こんな約束を交わした。

「佐藤さん、何かあったら、10万円貸してください。そのかわり、
あなたに何かあったら、5万円貸しますから」と。

しかしその程度では、まさに焼け石に水。
金さんにも、それがわかってきた。

そこで金さんは、知恵をひねって、こう考えた。
「近所の共済会という名目で、80万円の基金制度をつくろう」と。

しかし問題は、だれが金を出すか、だ。
金さんは、中国の王さんと、日本の佐藤さんに、出させるつもりでいるらしい。
「貯金額に応じて、負担しましょう」と。

「王さんには、1800万円の貯金があるから、60%を負担してもらいます。
佐藤さんには、1000万円の貯金があるから、33%を負担してもらいます。
韓国は残りの、7%を負担します」と。(たったの、7%!)

韓国の中央N報によれば、「すでに5月、基本合意済み」とか。
こうしてワーワー騒いで、既定事実化するのは、韓国(+K国)のお家芸。

日本よ、日本人よ、だまされるな!

あの97年当時の、通貨危機を思い出せ!
日本は、韓国に頼まれもしないうちから、しかもアメリカの反対まで押し切って、
総額500億ドルという大金を用意して、韓国を救済した。

その結果、どうなった?

韓国は日本に感謝をしたか?
答えは、「NO!」。
感謝どころか、そのあと、日本にとっては、最悪の反日国家になった。
竹島問題に例を見るまでもない。
今では、「仮想敵国は、(K国ではなく)、この日本」と騒いでいる。

そんな国を、安易に救済してはいけない。
また救済するための制度を設立してはいけない。
「97年の愚」を、日本は、繰り返してはいけない。

そのあと韓国は、銀行のほとんどをアメリカ系金融機関の傘下に置いた。
しかし「日本だけは、ごめん」と、日本を蹴とばした。

さらにそのあと、IC、自動車、鉄鋼、造船産業など、日本から奪えるものは、
どんどん奪っておきながら、「日本、打倒!」の大合唱。

日本の10年後、20年後の未来、つまり私たちの子どもの世代のことを
考えるなら、韓国を救済してはいけない。
「つぶせ!」と言っているのではない。
「救済してはいけない!」と言っている。

もし救済するなら、日本に対する貢献度、あるいは親日度に応じて、
ほかの国に対してすればよい。
あるいは日本の産業と競合しない産業を得意とする国を救済すればよい。
そういう国は、ほかに、いくらでもある。
それが、どうして韓国なのか?

私は韓国政府に、こう言いたい。

バカも休み休み、言え、と。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2848)

【思考と文化性】

+++++++++++++++++++

昨夜、同じ市内に住む義姉と、電話で話す。
おだやかな女性で、声を聞いているだけで、
心がなごむ。

最後に、「あさって、遊びにおいで」「行きます」
で電話を切った。

+++++++++++++++++++

●偽善者

世の中には、ことさら自分をよい人間に見せようと、
仮面をかぶる人がいる。
「私は、週に1度、老人ホームで、ボランティアを
しています」とか、何とか。

こういうのを、心理学でも、『愛他的自己愛』という。

が、実際には、ボランティア活動など、何もしていない。
同居している義父のめんどうすら、満足にみていない。

だからといって、ボランティアが無駄とか、そういう
ことを書いているのではない。
していないのなら、正直に「していない」と言えばよい。
ウソまでついて、自分を飾ることはない。

問題は、なぜ、そしてどこから心理が生まれるか、だ。

もともとこのタイプの人は、一本、筋の通った生き様がない。
波間に揺れる葉っぱのように、そのつど、世間の波に
合わせて、ユラユラと揺れている。
もちろん一片の哲学もなければ、人生観すら、ない。
それを考える(能力)もない。

だからいつしか、仮面をかぶって、世間をあざむこうとする。
それが高じて、愛他的自己愛となる。

●考える力

観光バスなどに乗ると、たいてい1組や2組、かしましい女性が
いっしょに、乗り込む。
バスにのったとたんから、ペチャペチャ、クチャクチャと
話し始める。

たいへんな物知りの人もいる。
こまかいことを、ああでもない、こうでもないと話す。

しかしそういう人を、「頭のいい人」とは言わない。
(ほとんどの人は、そう誤解しているが……。)

頭のよしあしは、思考力の深さで判断する。
そのことは、おしゃべりの子ども(とくに女児)を観察して
みると、わかる。

ADHD児は男児に多いとされるが、実際には女児にも多い。
少し症状がちがう。
女児のばあい、ふつうでない多弁性がともなうことが多い。
「よくしゃべる」というレベルではない。
話を聞いていると、聞いているほうが気がヘンになるほど、
よくしゃべる。
しかも相手の話を聞かない。
一方的に、しゃべる。
話がポンポンと飛ぶ。

こうした症状は、中学生、高校生になっても残る。
おとなになってからも、残る。
さらに最近では、女性には、右脳にも言語中枢らしきものがあることが
わかってきた。
「女性には、おしゃべりが多い」というのは、そういう理由によるもの
らしい。

どうであるにせよ、「よくしゃべるから、頭がいい」というのは、誤解。
まったくの誤解。
むしろ、思考力の深い子どもほど、見た目には、静か。
昔から『大きな魚は、川の底を泳ぐ』という。
『浅瀬に仇波(あだなみ)』とも言う。

子どもでも、ふつうでない多弁性が見られたら、質問をふやすことによって、
思考力の鍛錬をする。
そのつど、「なぜ?」「どうして?」を繰り返す。

●認知症

前にも書いたが、私たちの年齢になると、「あの人は、だいじょうぶ?」
というような会話から始まる。
つまり「あの人の頭は、だいじょうぶ?」と。

あるいは久しぶりに会ったりすると、まず相手の脳みその状態を観察する。
私たちの年齢くらいから、認知症が始まる。
アルツハイマー病を発症する人も少なくない。
脳梗塞や、飲酒や喫煙などで、脳みそそのものが、おかしくなる人も多い。
だから「だいじょうぶ?」となる。

私の知人に、このところ、どこか「?」という女性がいる。
数週間前に自分で言ったことを、すっかり忘れてしまう人である。
部分的に忘れるというよりは、その前後のエピソード(物語)そのものを
忘れてしまう。

で、最近、その夫と会話をする機会があった。
数年ぶりのことである。
そこでそれとなく、その女性(夫の妻)と、こんな会話をしてみた。

「○○さんのことで、何か気になることはありませんか?」と。

するとその夫は、「ないねえ」と。

私「いえね、この前、あることで頼みごとをしたのですが、すっかり
忘れてしまわれたものですから……」
夫「うちのやつ(=妻)は、頭だけはしっかりしていますよ」と。

この話を家に帰ってワイフに話すと、ワイフはこう言った。

「バカねえ、あのだんなのほうが、ボケているみたいよ」と。

ワイフは、その夫とときどき電話などで、話をしている。
それでそう言った。
つまり妻が認知症になっても、夫まで認知症になっていたら、たがいにそれに
気づくことはないということになる。
しかしこれは深刻な問題と考えてよい。

アルツハイマー病にしても、80〜90歳にもなれば、約3分の1の
人がそうなるという。
ほかの脳疾患も含めれば、夫婦ともども、認知症になるケースは、多い。
60代でそうなるケースもあるだろう。
50代でそうなるケースもあるだろう。

そうなったら、だれがどのようにして判断すればよいのか。

●思考力の基準

そこでひとつの基準が生まれてくる。

(1)静かに相手の話に耳を傾ける。
(2)こちらの話がじゅうぶん、理解できる。
(3)頭の中で、それを反すうする様子を見せる。
(4)自分の考えを、的確に表現する。

こういうことが自然な形でできる人は、少なくとも脳の健康は、
維持されているということになる。
そうでなければ、そうでない。

ただこういうことを、演技でする人もいるから注意したい。
やはり私の知人(70歳くらい)に、そういう人がいる。
何かを話しかけると、さも、私はよくできた人間ですというような表情で、
そのつど、深く、うなずいてみせたりする。
あるいは自分が利口であることを、ことさら演技してみせる。
しかし結局のところ、何も理解していない。
どこかのカルト教団に属する、信者の人だった。

他方、よくしゃべるが、一方的。
情報の羅列で中身がない。
そういう人は多いが、さらに、思い込みがはげしく、がんこになる人もいる。
自己愛者の特徴にもなっているが、このタイプの人は、自分のまちがいを
指摘されたりすると、突然、パニック状態になってしまう。

「そんなはずはない!」と大声で叫んで、ギャーギャーと泣きわめいたりする。

認知症に合わせて、人格の完成度が、きわめて低い人と判断してよい。

●人格の完成度

人格の完成度は、(1)相手との共鳴性、(2)愛他性、(3)他人との良好な
人間関係(EQ論)で、知る。

どれも重要な要素だが、認知症になると、人格そのものが崩壊し始める。
が、認知症でなくても、若いころからの積み重ねで、結果的に、そうなる人も
いる。

大切なのは、その人の生き方、あるいは日ごろの生き様ということになる。
その分かれ道を作るのが、(思考力)ということになる。
常日頃から、ものを考えるクセ。
これのあるなしによって、生き方そのものが、大きく変わってくる。

が、それだけでは足りない。
(文化性)の問題がある。
EQ論は、一般には、「人格の完成度」を知る尺度として利用される。
しかし実際には、「EQ」の「E」は、「Emotional」、つまり
「情緒」を意味する。

文化性は、情緒、つまり(心の豊かさ)と、大きくかみあっている。
言いかえると、先の、(1)相手との共鳴性、(2)愛他性、(3)他人との良好な
人間関係に合わせて、(心の豊かさ)こそが重要ということになる。

その心の豊かさは、その人の文化性ということになる。
たとえばく私の知人に、音楽家の人がいる。
有名な人ではないが、頼まれると、小学校や中学校へ出かけていき、そこで
演奏会を開いたりしている。

そういう人と話していると、ほかの人にはない、(深み)を感ずることがある。
その深みこそが、ここでいう(文化性)ということになる。

音楽を聴く、本を読む、映画を見る、絵画を楽しむ……。
そういう活動を通して、その人の文化性が養われる。

●文化性

ためしに小銭の奴隷になって、きゅうきゅうとしている人を観察してみるとよい。
口は達者で、それに口がうまい。
軽妙なことをペラペラとしゃべる。
しかし中身がない。
薄っぺらい。
趣味は、パチンコ。
あとはテレビの野球中継を見ること。
「DVDは見ないの?」と聞くと、「ああいうのは、頭が痛くなる」と。

しかし小銭には、異常なまでに敏感に反応する。
こまかいところで、いつも、こまかい計算をしている。
心に余裕がないから、話していても、心が通じない。
「文化性」がない人というのは、そういう人をさすが、しかしこれはあくまでも
相対的な問題。

高い文化性をもっている人からみれば、文化性の低い人がよくわかる。
が、さらに高い文化性をもっている人からみれば、その高いと思っている人ですら、
低く見える。

さらに同じレベルの人どうしでは、たがいにその文化性を感ずることはない。
また人は、同じレベルの人を求めて、集まる傾向がある。
そのほうが居心地がよいからである。

この文化性は、日ごろは、表に出てくることは、めったにない。
文化性が、文化性として、発揮されるのは、何かのことでその人が、
窮地に立たされたようなときである。

文化性の高い人は、そのつど、しっかりと自分を保つことができる。
そうでない人は、そのときどきの(縁)の影響を受けて、右往左往する。

●友を選ぶ

恩師の田丸謙二先生は、いつもこう言っている。
「高いレベルの人に会いなさい」「会って話をしなさい」と。

高いレベルの人に会うと、その反射的効果として、自分の低さを知ることが
できる。
それを知ることによって、さらに自分を高めるための目標をもつことができる。

一方、低い文化性しかない人とは、できるだけ接触しないほうがよい。
接触したところで、何も得るものはない。
へたをすれば、自分まで、そのレベルにまで落ちてしまう。
そういう意味では、(文化性)というのは、デリケート。
高めることはむずかしいが、落とすのは、簡単。
もともと人間というのは、動物。
何十本もの支えを身の回りに立てて、かろうじて、人間のフリをしているにすぎない。
ほんの少しでも油断したら、そのまま動物に、逆戻り。

年齢にもよるが、40歳とか50歳をすぎたら、相手を選ぶ。
選んで交際する。
よく誤解されるが、友だちの数が多いから、それでよいというのではない。
大切なのは、中身。
深さ。
世界の賢人たちも、みな、口をそろえて、そう書き残している。

●義姉のこと

どうして義姉が、あれほどまでに高い文化性を身につけるようになったか。
またできたのか、私にはよくわからない。

義姉は、介護の会の会長もしている。
仮面としてのボランティア活動ではなく、実際、あちこちで講師までしている。

苦労も多かったにちがいない。
穏やかな口調の中に、他人をそのまま包み込んでしまうような深みを感ずる。
ワイフの姉だが、ワイフたちは、早くして母をなくしている。
ワイフにしても、母代わりになった人である。
ワイフは、いつもそう言っている。

ときに私に、きびしい説教をすることもあるが、どういうわけか、イヤミがない。
ひとつには、ウソがないということ。
ありのままを、ありのままに話してくれる。
そのすがすがしさが、心の風通しをよくする。

明日、X時に会うことになっている。
たいへん楽しみだ。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct・08++++++++++++++はやし浩司

●『深い川は静かに流れる』

 『深い川は静かに流れる』は、イギリスの格言。日本でも、『浅瀬に仇(あだ)波』とい
う。つまり思慮深い人は、静か。反対にそうでない人は、何かにつけてギャーギャーと騒
ぎやすいという意味。

 子どももそうで、その子どもが思慮深いかどうかは、目を見て判断する。思慮深い子ど
もの目は、キラキラと輝き、静かに落ち着いている。会話をしていても、じっと相手を見
据えるような鋭さがある。が、そうでない子どもは、そうでない。

 私は先日、ある女性代議士の目をテレビで見ていて驚いた。その女性は何かのインタビ
ューに答えていたのだが、その視線が空を見たまま、一秒間に数回というようなはやさで、
左右、上下にゆれていたのだ。それはまさに異常な視線だった。

その女性代議士は、毒舌家として有名で、言いたいことをズバズバ言うタイプの人だが、
しかしそれは知性から出る言葉というより、もっと別のところから出る言葉ではないの
か。私はそれを疑った。これ以上のことはここには書けないが、そういうどこかメチャ
メチャな人ほど、マスコミの世界では受けるらしい。

 が、この時期、親というのは、外見的な派手さだけを見て、子どもを判断する傾向が強
い。たとえば本読みにしても、ペラペラと、それこそ立て板に水のうように読む子どもほ
ど、すばらしいと評価する。しかし実際には、読みの深い子どもほど、一ページ読むごと
に、挿絵を見たりして、考え込む様子を見せる。読み方としては、そのほうが好ましいこ
とは言うまでもない。

 これも子どもをみるとき、よく誤解されるが、「情報や知識の量」と、「思考力」は、別。
まったく別。モノ知りだから、頭のよい子どもということにはならない。子どもの頭のよ
さは、どれだけ考える力があるかで判断する。同じように、反応がはやく、ペラペラと軽
いことをしゃべるから、頭のよい子どもということにはならない。むしろこのタイプの子
どもは、思考力が浅く、考えることそのものから逃げてしまう。何か、パズルのような問
題を与えてみると、それがわかる。考える前に、適当な答をつぎからつぎへと口にする。
そして最後は、「わからない」「できない」「もう、いや」とか言い出す。

 その「考える力」は、習慣によって生まれる。子どもが何かを考える様子を見せたら、
できるだけそっとしておく。そして何か新しい考えを口にしたら、「すばらしいわね」「お
もしろいね」と、それを前向きに引き出す。そういう姿勢が、子どもの考える力を伸ばす。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

【教室にて】

++++++++++++++++++++++

私「(ゴシゴシ)(グイグイ)(サッサッ)の組み合わせは、いくつあるかな」
子「……どういうこと?」
私「(ゴシゴシ)(グイグイ)(サッサッ)で、ひとつ、(グイグイ)(ゴシゴシ)(サッサッ)で、2つ…
…」
子「そんなの、6通りだよ」
私「そうだね」
子「先生、ところで、それは、何?」
私「おしりの拭き方だよ」
子「ゲーッ」
私「正しくは、まず(グイグイ)だ。つぎに(ゴシゴシ)。最後に(サッサッ)」
子「そんなのないよ。ぼくは……」
私「君は、どうしているの?」
子「ぼくは……」(ゲラゲラ)と。

++++++++++++++++++

●プロレスごっこ

教室のリズムに乗ってこない子どもというのは、いる。
どこかで仮面をかぶってしまい、自分を外に向かってさらけ出すことができない。
みなが、ワイワイ騒いでいるようなときでも、控え目に、静かにしている。

そういうときは、私はプロレスごっこをすることにしている。
衣装は、一応、頭から足の先まで、用意してある。
ベルトも、マントも用意してある。

そういうのを身につけて、あれこれと口実を作って、そういう子どもを前に出す。
小さいが、マットも用意してある。
その上で、プロレスごっこをする。

一応、戦うフリをしながら、すぐ私は負けたフリをする。
「痛い」「痛い」「ごめん」「ごめん」「参ったア!」と。

一度これをしてやると、その子どもはとたんに自信をもち、表情が明るくなる。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

●性格論

性格は、(加齢)(境遇)(教育)の3つの要素によって決まるという(「心理学」大村政男)。
その前に(気質)も問題になるが、「気質の上層に形成されるのが、性格と名づけられる
ものである」(P118)と。

大村政男氏は、こう説く。

「(性格というのは)、加齢、境遇、家庭や学校における教育などによって形成される層
で、個人の意志や意欲に関連している」(同)と。

ここで注目したいのは、(加齢)という部分である。
そのまま解釈すれば、「加齢によって、性格も変化する」ということになる。
ただその当人には、それはわからないかもしれない。
「気質」は変わらないとしても、「性格」というのは、その人のいわば、
CPU(中央演算装置)のようなもの。
加齢とともに、性格そのものが変化しても、その変化すらわからない。

これは同年齢の人たちを見たときも、同じである。
たとえば学生時代の同窓生たちと話していると、昔のままのような気がする。
が、だからといって、彼らが昔のままということにはならない。
彼らもまた、私と同じように変化していたら、その(変化)は、わからない
ということになる。

で、私自身の性格を振り返ってみる。

私の性格は若いころの私のままなのか、それとも変化したのか、と。
私自身は若いころのままだと思うが、ワイフは、こう言う。
「若いころよりは、穏やかになったわね。若いころは短気で、いつもカッカして
いたわ」と。

私が「フ〜〜ン」と言うと、「若いころは、自分を分析するような時間さえなかったわ」と。

とにかく(気質)というのは変えられないが、(性格)というのは、変わるものであり、
また変えられるものということになる。
たとえば教育がある。

これはとくに幼児教育においては、重要である。
年中児から年長児にかけての時期に、子どもの性格は、大きく変化する。
そのころは、ちょうど乳幼児期と少年、少女期への移行期にあたる。
この時期に、その子ども(=人)の、人格の「核」ができる。
「この子はこういう子だ」という、(つかみどころ)ができてくる。
つまりこの時期の教育をじょうずにすれば、子どもを別人のように、することも
できる。
たとえばグズグズしていた子どもを、ハキハキした子どもにする、など。

大村政男氏の説に当てはめてみると、それがよくわかる。
つまり性格は、境涯は言うにおよばず、教育によって、作られる!

そこで改めて私自身の性格について、考えてみる。

私が曲がりなりにも、(あるいはかろうじて)、性格がゆがまなかった理由は、
いくつかある。(あるいはゆがんでいるのかもしれないが……。)

(1)母の愛情をたっぷりと受けたこと。
(2)祖父母が第二の父親、母親がわりをしてくれたこと。
(3)放任された状態で、自由気ままに幼児期、少年期を過ごしたこと。
(4)学生時代の友人たちがよかったこと。
(5)留学生活が人生の(柱)になったこと。
(6)性格がきわめて安定しているワイフと結婚できたこと。
(7)仕事が、幼児相手のものだったこと。
(8)金持ちにはなれなかったが、生活費で困ったことがなかったこと。
(9)(今のところ)、大きな病気や事故を経験していないこと。

(気質)は変わっていないと思うが、そのため(性格)は、変わった。
若いころの私は、無責任で、ずる賢く、ウソつきだった。
ひょうきん者で、そそっかしかった。
そんな私が、今は、自分でもおかしいと思うほど、くそまじめになってしまった。
バカ正直というか、とくにウソに対しては、過剰なまでに反応するようになってしまった。
自分のウソもいやだが、他人のウソもいやだ。
ウソをつかれたとわかるだけで、言いようのない怒りを感ずる。
実際には、一度でもそういうことがあると、そういう人とは、縁を切る。
いっさいの交際をやめる。
これは若いころの自分に対する、反動形成のようなものかもしれない。
あるいは自己嫌悪?

さて、これから先、私の性格は、どのように変化するのか。
していくのか。

この先、(ボケ)という要素も加わってくる。
脳梗塞になって、まるで別人のようになってしまった老人を、私は、何人か知っている。
それまではキビキビとした人だったが、脳梗塞を境に、いつもニタニタというか、
ニヤニヤと笑ってばかりいる人もいた。
見た目には、たいへん穏やかになったが、しかしそういう人をさして、性格が変わった
と言ってよいのか。

ただ願うことは、老人になればなるほど、他人に好かれる老人になりたいということ。
ときどき老人ケア・センターを訪れるたびに、そう思う。
そのための性格づくりということも、これからは考えていかなくてはならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi educaはやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育
 子育て はやし浩司 性格論 性格 気質)


●長男の会社

+++++++++++++++++++

長男が勤めている会社は、部品の製造会社。
いくつかの工場に分かれているが、その中の
ひとつに、知的障害者の人たちが集まっている棟がある。

最近、長男は、そういう工場の指導もするようになった。
尊い職場である。

隣には、ブラジル人が働いている棟もある。
中国からの研修生も、その中にいる。
長男は仕事から帰ってくるたびに、「言葉がまるで通じない」とこぼす。
私が「いい機会だから、ポルトガル語を覚えたらいい」と言うと、
「うん」と。

20年後、あるいは30年後、日本とブラジルの立場は逆転している
かもしれない。
ブラジルという国は、そういう可能性を秘めた国である。

++++++++++++++++++


●長男の会社(2)

現在、長男が勤めている会社は、「汚い会社」と、長男はいう。
油だらけで、作業服も、数日ごとに洗濯している。
製造会社というのは、どこでもそういうもの。
しかし見た目に、だまされてはいけない。
とくに銀行に対して、恨みがあるわけではないが、ではあのピカピカの銀行が
すばらしい職場かというと、だれもそうは思わない。

このことは、退職したり、リストラされてみるとわかる。
私の年齢になって、振り返ってみると、わかる。
毎日、金、金、金……の仕事に、どういう意味があるというのか(失礼!)。
そういう仕事を、10年、20年とつづけて、どういう意味があるというのか(失礼!)。

私がオーストラリアへ行ったときのこと。
1970年のはじめだったが、銀行の仕事というのは、高卒の仕事と知って、驚いた。
反対にユンボやブルドーザーを現場で操作する仕事は、大卒の仕事と知って、驚いた。
仕事というのは、国によって、またその時代によって、価値観がちがう。

私「お前は、すばらしい仕事をしているんだよ」
長「わかっている」
私「知的障害の人たちは、孤独で、さみしがっている。そういう人たちに親切に
声をかけてあげるだけでも、お前は、すばらしいことをしていることになる」
長「わかっている」と。

少し前だったが、長男がこう言っていたのを思い出す。
「知的障害のある男性に親切にしてやったら、本当に喜んでくれた。あの人たちは、
ふつうの人たちより、何倍も、一生懸命に仕事をする」と。

私はそういう長男を誇らしく思う。

私「あのな、日本には、おかしな職業観があって、見た目でその仕事を判断する。
江戸時代の身分制度意識が、いまだに残っている。
しかし大切なのは、中身だよ。いつか今の仕事をお前が振り返るときがやってくる
と思う。今の仕事は、そのとき、何か暖かいものを残す仕事だよ」と。

現在、その会社は、浜松市の郊外に新工場を移転する予定だという。
長男は、その会社の責任者になってほしいと言われているという。
長男は長男で、やる気を出しているらしい。
そういう姿を見て、私とワイフは、ほっとしている。


Hiroshi Hayashi++++Oct 08++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2849)

【結果主義】

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『我らが目的は成功することではない。
失敗にめげず、前に進むことである』(スティーブンソン)。

++++++++++++++++++++++

●A氏のケース

A氏は、競馬でその日、もっていたお金のほとんどを
すってしまった。

残ったのは、1000円。
食事は、コンビニのパンですまし、おつりで、宝くじを買った。

が、この宝くじがあたった。
X賞で、賞金200万円!

A氏はそのお金で、念願だった、新車を購入した。
が、買ってまもなくのこと、追突事故を起こしてしまった。
幸い、双方ともに軽い損傷程度ですんだ。

が、それが縁で、つまり追突した車を運転していた女性と知りあい、
そのままその女性と結婚してしまった。
電撃結婚だった。

その女性は財産家の1人娘だった。
甘いハネムーンから覚めてみると、その女性は、まったく家事が
できないことがわかった。
食事は、ほとんど外食、あるいは弁当。
洗濯の仕方も知らなかった。

A氏の給料だけでは、生活できなくなってしまった。
その女性は、実家からA氏の給料以上の支援を受けるようになった。
が、そのためA氏と女性の間では、夫婦喧嘩が絶えなかった。

女性が妊娠したところで、女性は「生活ができない」と言って、
実家に帰ってしまった。
そのまま離婚。
A氏は、女性の実家から、かなりの額の慰謝料を受け取った。
女性の実家の両親は、もともと、2人の結婚には、反対していた。

A氏はその慰謝料を元手に、町の中に人材派遣業を開いた。
最初はそれまでの仕事の関係で、けっこう収入があったが、やがてすぐ左前。
半年くらいで、事務所を閉じてしまった。

●大切なのは「今」

A氏の話は、私の作り話である。
(運)と(不運)を交互にまぜてみた。
つまりそのつど(結果)があり、その(結果)が、つぎの(結果)の
始まりであることを、この話を通して理解してもらえれば、うれしい。

このことは、子どもの受験勉強についても言える。

中学受験で合格する。
その喜びも、数か月も過ぎると、消える。
今度は高校受験が始まる。
で、何とか、目的の高校に合格できた。
同じように、その喜びも、数か月も過ぎると、消える。
今度は大学受験が始まる。

このばあいも、(結果)はつぎの、過程への一里塚でしかないことがわかる。
もっと言えば、(結果)は常に、(次の始まり)でしかない。
さらに言えば、(結果)と(始まり)を分けるほうが、おかしい。
またA氏のケースを読んでもわかるように、(もちろん作り話だが)、
結果がよくても、また悪くても、そこで流れが止まるということでもない。

では、どう考えたらよいのか。

結果というのは、「今」のあとに必ず、やってくる。
「結果」という言葉にこだわる必要はない。
「今」のあとには、必ず、「次の今」がやってくる。
私たちがなすべきことがあるとすれば、それは「今」を懸命に生きること。
そのあとのことは、そのあとのこと。
そのときは、また、そのとき懸命に生きればよい。

子どもの受験勉強にしても、そうだ。
子どもがそのとき、生き生きと楽しそうに生活していれば、それでよい。
もちろん懸命に勉強していれば、さらによい。
入学試験という関門はそのつどやってくるが、それはあくまでも関門。
結果がよくても悪くても、一喜一憂しない。
またその価値もない。

この世界でもっとも愚劣な生き方といえば、取り越し苦労に、ヌカ喜び。
結果主義の生き方をしている人は、えてして、そのときどきの結果に、
振り回されてしまう。

……日本の仏教は、結果を重んじ、ともすれば結果主義に走るきらいがある。
『終わりよければ、すべてよし』と。
『死んだ人は、みな仏』というのも、同じように考えてよい。
「死に際の様子を見れば、その人の人生のすべてがわかる」と教える仏教教団も
ある。

こうした仏教的なものの見方は、私たち日本人の骨のズイにまでしみこんでいる。
だからそれを自分の体から抜き出すのは、容易なことではない。
ないが、その努力だけは怠ってはいけない。
怠ったとたん、再び、その流れの中に、体ごと飲みこまれてしまう。

あなたが今、どういう状態であれ、あなたはあなた。
私は私。
そして今は今。
大切なことは、今というこのときを、懸命に生きること。
過去を悔やんでも始まらない。
未来を嘆いても始まらない。
とにかく今を、懸命に生きること。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
結果主義)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

●母の容態

++++++++++++++++++

昨日、午後から、母の血圧が急激に低下した。
センターへかけつけたときには、上が65前後、下が45前後だった。
食事も、水も受けつけない状態だった。
点滴も、医師の判断で停止している。
「熱が出てきたら、覚悟してください」と言われた。

呼吸は速いが、それでも母は穏やかな表情を保っていた。

7時ごろになって、血圧がやや上昇。
一度、家に帰り、9時ごろ、電話で問い合わせると
血圧が、再び、130〜110に上昇したとのこと。

ほっとして、義兄に、届け物を届ける。

帰ってきたのが、午前1時ごろ。
遅い就寝だった。

+++++++++++++++++++

母の横で、声をかける。
「K村へ帰りたいか?」と。
K村というのは、母の生まれ故郷をいう。

返事はなかった。
口をあいたまま、ハーハーとあえいでいた。
脈拍数は、122。
のどに手をあててみると、ドクドクと動脈が波を打っていた。
熱も少しあるようだ。

介護士の方が、途中で氷枕に替えてくれた。
しばらくすると、熱は少し、さがったようだった。

「よくがんっばったね」と何度も声をかける。
返事はなかった。

「私には、よくわからないのですが、今は、母は
どういう状態ですか?」と聞くと、介護士の人が、
「このまま逝く人もいますが、数日、もちこたえる
人もいます」とのこと。

思わず、涙がこぼれ出る。
よくこういうとき、思い出が、走馬灯のように……と
言う人もいる。
が、思い出はほとんど浮かんでこなかった。
そこに横たわっているのは、母というより、小さな小さな
まるで幼児のような女性だった。

「これが私の母だ」と、別の心で何度も自分に言い聞かせなければ
ならなかった。

静かな時が流れた。

部屋の中には、私とワイフだけ。
となりの処置室の電気も消された。
郷里の義兄と電話で何度も連絡をとる。

「今は、安定しています」
「それはよかった」と。

ワイフが手を握ってくれる。
それを私が握り返す。
涙が、またひとつ、こぼれる。

耳のそばで、郷里の盆踊りのCDをかける。
心なしか、母の口が動いたように感ずる。
また声をかける。

「痛いことろはないか?」と。
返事はなかった。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2850)

●10月10日

+++++++++++++++++++

ここ数日、外出は、ほとんどなし。
いつ何どき、センターから電話が入るか
わからない。
携帯電話を、いつも肌身離さず、もちあるく。
が、それでも心配なときは、センターへ足を運ぶ。
自分の目で、母の様子を確かめる。

今のところ状態は安定している。
しかしいつ急変するか、わからない。

こういうときこそ、パソコンに向かって
文章でも書けばよいと、自分ではそう思う。
が、心がザワザワした状態で、何が書けるというのか。

電話のベルが鳴るたびに、そのつど、心臓が
ピンと、凍(こお)りつく。

+++++++++++++++++++

●DVD

そんなこともあって、ワイフが、DVDを3本も借りてきてくれた。
『クリミナル・マインド』、『シューテム・アップ』、『王妃の紋章』。
最近、とくに見たいDVDというのはない。
したいこともない。
が、あえて言うなら、パソコンをいじること。
いじるといっても、ただいじるだけ。
指先で感触を楽しんだり、汚れを拭いたり……。

先週、ハードディスクのコピーをしようとして、(する必要もなかった
のだが……)、失敗した。
もとに戻すのに、12時間もかかった。
そのトラウマがまだ残っている。

『クリミナル・マインド』は、犯罪捜査映画。星は2つの★★。
ちょっとできすぎかな(?)と思えるような映画。
『王妃の紋章』は、一言で言えば、スゴイ! 星は4つの★★★★。
中国も、スゴイ映画を作るようになった。ホント!

●安楽死

ワイフと顔を合わせると、母の話になる。
先ほども、こんな話をした。

私「いくら母が安楽死させてくれと言っても、ぼくにはできないね」
ワ「そうね」と。

こういう極限状態に追いつめられてみると、それまでぼんやりとしていた
(考え)が、はっきりとした輪郭をともなって現れてくる。

私「ほら、よく安楽死が問題になるだろ。家族のだれかが、見るに見かねてと、ね。
で、今、自分がその立場に立たされてみて、はっきりわかったことがある。
どんな状況であるにせよ、ぼくには、母を安楽死させるなんてことはできない」
ワ「そうね。やはりできないわね。いくらあなたのお母さんが望んだとしても、
できないわね」
私「……やはり、できない。できるものじゃ、ない」と。

もちろんその人の状態にもよる。
何か別の大病を患い、苦しんでいるようなばあいには、ひょっとしたら安楽死を
考えるかもしれない。
しかし母のばあい、呼吸は少し荒いが、ふだんは眠ったように穏やかな表情を
している。
「かわいそうだ」とは思うが、そこまで。
そこで思考が停止してしまう。

庭を見ると、鉛色の空気が、動きをとめてそこでじっとしていた。
先ほどまでは小雨がパラついていた。
どこか肌寒い。

●ターミナル・ケア(末期介護)

老人のケア・センターは、学校のように、学年別のようになっている。

1階が軽症者
見た感じ、要介護度3〜4前後の人たちが集まっている。
2階が重症者。
見た感じ、要介護度5〜6前後の人たちが集まっている。
母は、その2階にいる。
南側と北側の2つに分かれているが、南側のほうが、重症といった感じ。
3階へは行ったことがないので、どういう人たちがいるのか知らない。
しかし3階へ通ずる階段などには、太いパイプで柵がしてあるので、
そういうレベルの老人たちがいるにちがいない。

いちばん軽い人たちは、玄関を入ってすぐのところにある広間にいる。
デイサービスでやってくる老人たちである。
音楽に合わせて、遊戯をしたり、体操をしたりしている。

つまり順に見ながら追っていくと、それはそのまま私たちの老後の姿と
いうことになる。
70歳前後でデイサービスを受けるようになり、75歳前後で、1階の奥の
部屋に入り、85歳くらいで、2階の部屋に入る。
が、こういうサービスを受けられる人は、まだラッキーなほうだ。
このあたりでも1年〜1年半程度の順番待ちは、常識。
「重度の老人から入居できる」ということにはなっているが、実際には、
糖尿病などの持病をもっている老人や、性格がよくない老人は、敬遠される(?)。

一方、大病院では、このところ老人ベッドの削減が始まっている。
そのこともあって、このところ病院を追い出される老人がふえているという。
また入院できたとしても、1か月前後をめどに、追い出されているという。
しかし追い出された老人は、どこへ行けばよいというのか。

それにあくまでもこれは、義姉の意見だが、ケア・センターでは、手厚く
介護してもらえるが、病院では、「ほったらかし」(義姉談)という。
県や地域によって、ターミナル・ケア(末期介護)の仕方はちがうらしい。
概して言えば、ここ静岡県は、私の印象では、ほかの県と比べて冷たいのでは?
実兄のケースと比べても、そう感ずる。

私は子どもたちと、よくこんな会話をする。

私「ぼくは、もうすぐヨーシエン(要支援)へ入るよ」
子「ヨーシエンではないよ、幼稚園だよ」
私「そうかア……。それが終わると、今度は、ヨーカイ(要介)学校だよ」
子「ぼくは、小学校だよ」
私「いいなあ、小学校かア」
子「先生の学校は、ヨーカイ(妖怪)がいるの?」
私「いる、いる、いっぱいいる。ヨーカイ学校は、1年から5年まであるんだよ」
子「5年が終わると、どうなるの?」
私「ハハハ、あの世へ行くよ」と。

●自宅介護

自分自身で経験してみて、要介護度が3とか4になったばあい、自宅で
老人介護するのは、不可能と考えてよい。
第一に、食事の問題がある。
「問題」というより、私たちは苦労した。

老人用の介護食というものもあるが、それにしても、そばで口まで運んで
やらねばならない。

が、何よりもこわいのが、「事故」。
老人介護の世界では、よかれと思ってすることが、多くのばあい、裏目、裏目に出る。
私の母にしても、6か月、私の自宅にいたが、その間、3回も、あわやというような
事故を経験している。

さらに要介護度が、4とか5になると、たいてい寝たきりの状態になる人が多い。
ワイフの友人の母親は、床ずれがひどくなり、そこが腐ってしまったという。
その(悪臭)が、たまたま夏場ということもあり、近所の家にまで漂ったという。

が、ではケア・センターでは、幸せなのかというと、それは言えない。
ケア・センターにいれば、たしかに長生きはできる。
「至れり尽くせり」というよりは、「ここまでやってもらえるのか」と感心するほど、
ていねいに介護してくれる。
もちろん年中、室温は一定に保たれている。
24時間、介護士と看護士が交代で、介護してくれる。
食事にしても、老人ごとに調理したものを、一度すべてミキサーにかけて、スプーンで
与えてくれる。
それも難しくなると、ゼリー食にかわり、さらに必要であれば、随時、点滴で栄養を
補給してくれる。

家庭では、そこまではできない。
が、それがその老人にとって最善かといえば、やはりそうとは言えない。

(長生き)そのものに、「?」がつきまとう。

中には、大声で叫んでばかりいる老人もいる。
暴力を振るう老人もいる。
そういった老人が、加齢とともに、不可逆的に、症状を悪化させていく。

で、そういうとき私は、いつも、「私なら……」と考える。
「私なら、そういう形でなら、長生きしたくない」と。
が、実際には、生きるのもたいへんだが、死ぬのは、もっとたいへん(?)。
首をつるといっても、ベッドから起きあがることさえできない私が、
どうやって首をつればよいのか。

……何か怖ろしいことを書いているような気がしてきたので、この話は、
ここまで。

今のところ、センターからの電話はない。
ほっとしながら、夕食の準備にとりかかる。
今夜のおかずは、焼きソバ一品。
私が料理する。

(補記)

ケア・センターのみなさん、本当にありがとうございます。
みなさんは、今ままで、母に、本当によくしてくださいました。
これからもよろしくお願いします。

●生きる

「息(いき)る」、「生きる」、「活(い)きる」

++++++++++++++++++++++

古い日本語には、「いきる」しかなかったのでは?
それに中国から入ってきた、漢字を当てた。
「生きる」「活きる」と書くようになった。

が、もともとは、「息(いき)る」ではなかったのか?
つまり日本語では、息をすることを、「いきる」と言った?

++++++++++++++++++++++

同じような例は多い。
たとえば、「臭い」がある。
もともとは、「草(くさ)い」ではなかったのか?
草のようなにおいがすることを、「くさい」といった。
それにやはり中国から入ってきた、漢字の「臭い」を当てた?

これはあくまでも私の推理によるものなので、まちがっている
と考えてもらったほうがよい。

しかし「息る」→「生きる」→「活る」を並べてみると、
生き様の基本がわかるようで、興味深い。

「人間は、息るだけでは、足りない。生きるだけでも足りない。
活きなければならない」と。
その「活きる」には、「すべきことをする」という意味が含まれる。
つまり私たちは、活きるために生き、そして息をする。

またまた老人の話に戻ってしまうが、ケア・センターにいる老人たちは、
まさに息をしているだけ、ということになる。

ただ誤解してはいけないのは、だからといって、それが無駄であるとか、
老人たちの命には価値がないとか、そんなことを言っているのではない。
私やあなたも、やがてそうなるということも考え合わせるなら、私が
ここに書きたいのは、その逆。

息るためだけの老人にならないようにするには、どうしたらよいかということ。
もちろん肉体や精神の健康も大切だが、それ以上に大切なのは、やはり(生き様)
ということになる。

私もこの年齢になってみて驚いたが、老人は老人になるのではなく、老人に
させられるのだということがわかった。
それはものすごいプレッシャーである。
いくら私が、「私はちがう!」と叫んでも、そのプレッシャーは、怒涛のごとく、
襲いかかってくる。
どこへ行っても、「老人はこうあるべき」式の「形」が、向こうからやってくる。
だからたいはんの老人たちは、それらしい老人になっていく。
自ら、そうなっていく。

そして過去の古い話を大切にし、その思い出にふけるようになる。
自らの思想を磨いたり、前に向かって進むことさえ、やめてしまう。
何か新しいことを提案しても、「私は歳だから」とか、そんな言い方をして、
逃げてしまう。

しかし、どうして老人は、老人らしくならなければならないのか。

ひとつには、そのほうが居心地がよいということもある。
他人とちがった生き方をするというのは、この日本では、なにかにつけて難しい。
あちらでガツン、こちらでガツンと、みなに叩かれる。

話は少しそれるが、ある人(新聞社の記者)は、私にこう言った。

「林さん、あなたのような人に、成功してもらっては困るのです。
あなたのような人が、この世界で成功すると、では私たちはいったい何だったのか
ということになってしまうのです」と。

わかりやすく言えば、私のようなフリーターは、「静かに生きるのがいい」
ということらしい。
「活きてもらっては、困る」と。

しかし私は、活きる。
活きて、活きて、最後まで活きてやる。

老人の話にもどる。

若い人たちは、老人に対して、偏見をもっている。
たとえばこの年齢になっても、性欲というのは、ある。
相手がかがんだようなとき、若い女性の白い胸がボロッと見えたりすると、
ハッと息をのむ。
そういう私を「変態」と若い人たちは思うかもしれない。
しかし基本的には、私たちは、若い人たちとはちがわない。
ちがうと考えるほうが、おかしい。

生活力についても、加齢とともに、劣ってくると考える人もいる。
しかし実際には、劣っていない。
周囲がそういう目で見るから、何となく、それに合わせているだけである。
つまり無意識のうちにも、若いときに見た老人像を、自分の中で作っていく。

言いかえると、今、現在若いと思っている人たちも、勝手に老人像を頭の中に描かないほ
うがよい。
「老人というのは、こういうもの」「こうあるべき」「老人は、こんなことをしない」と。
そういう老人像を勝手に作れば作るほど、いつか、あなた自身も、その老人像に
しばられてしまう。

なぜなら、あなた自身も、まちがいなく、その老人になる。

「老人」といっても、それはただの「数字の問題」。
年齢というただの「数字の問題」。
そんな数字にしばられて、老人になったから、活きるのをやめると考えるのは、
バカげている。
ほんとうにバカげている。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct・08++++++++++++++はやし浩司

●テロ支援国家指定解除?

++++++++++++++++

アメリカ時間で、今日、10日、K国の
テロ支援国家指定が、暫定的であるにせよ、
解除されるという。

どうしてあのC・ヒルは、こうまでおめでたいのか。
テロ支援国家指定解除うんぬんの問題は、
もともとK国にとっては、どうでもよい問題。
時間稼ぎのための、難グセにすぎない。

暴力団の男が、理由にもならない理由をこじつけて、
からんでくるのと同じ。
よい例が、BDA銀行問題。
アメリカはマカオのBDA銀行に凍結された、K国資金について、
その資金を解除した。
が、いまだに、その資金は、BDA銀行に残ったまま。
あれほど大騒ぎしたくせに、「そのまま」というのは、おかしい。

同じように、指定が解除されたからといって、世界がそれに
応じて動き出すわけではない。
(指定されているからといって、今のK国にとっては、たいした
被害はない。
被害が出るような国際取引そのものをしていない。
あるいはどこかで、それを理由に、取引が拒否されたことがあるとでもいうのだろうか。)

つまり難グセ。
どうしてあのC・ヒルには、それがわからないのだろう?

ここでテロ支援国家の指定解除をしたところで、K国は動かない。
動くはずもない。
またつぎの難グセをもちだして、時間稼ぎをする。
あるいは核兵器開発用の関連施設を、こま切れにして、出してくるはず。
既存の核兵器を放棄するのは最後の最後ということになるが、その(最後)は、ない。
K国は、すでに「核保有国」としての自国の立場を表明しつつある。

報道によれば、今回の指定解除について、アメリカ側は、食糧援助のプレゼントまで
つけるという。
中国がプレゼントをつけるというのなら、まだ話がわかる。
しかしどうしてアメリカなのか?
私には、どうしても理解できない。
(2008年10月10日記)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

●親戚関係

++++++++++++++++++

昔から『遠くの親類より、近くの友人』という。
若い時は、それをさほど強く感じなかったが、
最近は、それを強く感ずる。

私自身の精神的行動半径が、狭くなったこともある。
「精神的行動半径」というのは、つまりは、
「遠くの人たちとの人間関係を深めたい」という
意欲そのものが、減退することをいう。
「わざわざ遠くまで行かなくても、近くですまそう」
ということか。

(出かける)ことそのものが、おっくうになる。
(もちろん一族が、その周辺にかたまっている
人は、別の考え方をするだろうが……。)

+++++++++++++++++

「血縁」とは何か。
最近、それをよく考える。
中には、ことさらその血縁を気にする人がいる。
しかし血縁というのは、言いかえると、「依存性」の代名詞ではないのか。
「ひとりでは生きていかれない。その自信もない。だから血縁」
ということになる。

実際、「親戚だから……」という理由だけで、たがいにベタベタと甘えあって
いる人もいる。
それはそれで、居心地のよい世界かもしれない。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

●10月11日

++++++++++++++++++++++

●母

今、私はセンターの中にいる。
母のベッドの横で、この原稿を書いている。
母は、酸素マスクをつけたまま、軽くあえいでいる。
何回か声をかけてみたが、反応はない。
眠ったまま。

足の先のほうがむくみ、青く、血が沈んでいる。
心臓の働きが、足の先まで、届かなくなると、そうなるそうだ。

目の前に、酸素を送るパイプから、こまかい泡が吹き出している。
その前には、血圧計や脈拍計、それに吸引器具が置いてある。

食事がとれなくなって、もう5日になる。
ドクターの判断で、点滴も止められてしまった。
今、母は、静かに、ただ静かに、その時を待っている。

ときどき酸素マスクの中から、ケッケッという喉の音が聞こえる。
そのつど「苦しいか?」と声をかける。
が、反応はない。

+++++++++++++++++++++

●振り子

私は子どものころ、広い部屋で、振り子が大きく揺れる夢をよく見た。
暗い部屋で、その振り子が、大きく、向こう側に揺れ、そしてそのあと
こちらに向かって揺れてきた。
教会にある釣鐘の中の振り子のような形をしていた。

記憶は確かではないが、私はそんな夢を、
かなり早い時期に見ていたような気がする。
5歳とか6歳ではなく、もっと早くだ。
ひょっとしたら、2歳ごろ?
1歳ごろ?

同じような夢は、かなり大きくなるまで、見た。
最近も、たまに見る。

あの夢は何なのだろう。
どんな意味があるのだろう。
ずいぶんと昔だが、あるとき私は、それを、私が胎児であったときに
見た夢ではないかと思ったことがある。

私の体が振り子となって、母の胎内で、揺れていた。

●つい立

つぎに覚えているのは、私がつい立のある部屋で眠っている光景である。
「L型」のつい立てで、それには雑誌の切抜きなどがいっぱい、張ってあった。
私はそのつい立の中で、寝ていた。

ずっとあとになって、そのとき寝ていたふとんが、乳幼児用のものであると
知った。
青色の、おもちゃの絵の描いてあるふとんだった。
だからそのとき、私はまだ歩けない赤ん坊だったということになる。

そのつい立の上に、これもずっとあとになって知ったことだが、『クリスマス・キャロル』
の絵が張ってあった。
壁をすり抜けて、幽霊が、子どもたちのいる部屋へ入ってくる絵だった。

その光景を思い出すと、同時に、そのときの(暑さ)も思い出す。
暑い部屋だった。
多分、夏だったかもしれない。
しかし私は昭和22年の10月生まれ。
ということは、私はその絵を見ていたのは、翌年の夏ごろということになる。
計算してみると、満1歳になる前ということになる。

ときどきだれかがつい立の向こうからのぞいた。
記憶を中をさがしてみるが、黒い影で、姿がわからない。
母だったかもしれない。
あるいは、別の人だったかもしれない。

●銭湯

ここまで書いて、私は、母におばれて銭湯に行く自分を思い出した。
まだおばれることができたのだから、2、3歳くらいのときだった
かもしれない。

銭湯へ行く角のところに八百屋があって、いつもそこでミカンを1個
買ってもらった。
銭湯から出たとき、そのミカンを食べるのが、楽しみになっていた。
私は風呂は好きでもなかったが、嫌いでもなかった。
よく覚えていないが……。
そのとき母の背中で、ゆらゆらと体がゆれていたのは覚えている。

●見回り

たった今、看護士さんが、見回りにきてくれた。
母に声をかけてくれた。
「豊子さ〜ん」「聞こえますか〜」と。
瞬間、目が動いたらしい。
それを見て、看護士さんが、「聞こえているみたいですね」と。
つづいて、足を見て、「暖かいですね」と言ってくれた。
足が冷たくなると、あぶないのだそうだ。

で、私もさわってみたが、私には、冷たく感じた。

血圧は、70−87、脈拍数は、115。
ときどき血圧が60台にさがるという。
昨日もそうだった。
60台にまでさがると、あぶないのだそうだ。

私の知らない世界のことなので、そのつど、看護士さんの話を、
どう理解したらよいのか、迷う。

●母のこと

母の話にもどる。
今の母からは想像もつかないほど、若いころの母は、活発で、行動派だった。
いつもシャキシャキと、あちこちを動き回っていた。
運動神経も、よかった。
自転車が並んでいる店先と、裏のほうにある台所を、いつも飛び回るようにして、
行ったり来たりしていた。

あの軽い足音が、今でもしっかりと耳に残っている。
カラカラ、カンカン、カラカラ、カンカン、と。
音の感じからして、当時は下駄を履いていたようだ。
靴の音ではない。

で、私の印象としては、母は、落ち着きのない人だったように思う。
母が、どこかでじっと座っているような姿は、記憶の中に、あまりない。
ここにも書いたように、いつも動き回っていた。
そのため、息子という私は、いつも母に、引っ張り回されていたような感じがする。
小学生のときも、中学生のときも。

耳の中に残っているのは、母が私に命令する声でしかない。
「ああ、しんせい(=ああ、しなさい)」「こう、しんせい(=こう、しなさい)」と。
そういう点では、私だけではなく、兄や姉にも、そして父に対しても、
口うるさい女性だったようだ。

●思い出

そういう母だったからかもしれないが、私と母の思い出は、あまりない。
もちろんいっしょに遊んだとか、静かに話し合ったということもない。
母は、いつも私に命令していたし、それが私と母の関係の基本になっていた。

ただ母の在所(=郷里)の板取のK村に行くのは、好きだった。
そこは私が住んでいる町の中とはちがい、別天地だった。
ほどよい川が流れ、周囲を小高い山に囲まれていた。
私は、そのあたりに住んでいた従兄弟たちと、毎日、真っ暗になるまで、
山の中で遊んだ。

そんなわけで私にとって(故郷)というと、生まれ育ったM町というよりは、
母の在所の、板取のK村のほうを、先に思い浮かべてしまう。
母は、休みになると、そのK村のほうに、連れていってくれた。
私がせがんだせいかもしれない。

●満92歳

話は前後するが、銭湯へ行くとき、母は私をおぶってくれた。
今、横に眠っている母からは、想像もつかないことだ。
横に眠っている母は、小さく、やせこけている。
今では、手の指1本、自分で動かすことはできない。

ただ幸いなことに、本当に幸いなことに、母はただひたすら安らかな
表情で、そこに眠っている。
ほんの数年前までは、健康診断の結果を見ても、あらゆる数値が
私より健康であることを示していた。
「母ちゃんのほうが、ぼくより健康だぞ」と言って、笑わせたこともある。
大病らしい大病は、していない。
私の記憶にあるかぎり、母が病院のベッドで寝たのは、骨折したときくらい
のものだった。
それもほんの4、5年前のことだった。

もっともそれがきっかけで、体力は急速に落ちた。
その後は、ひとりで歩くのもままならなくなった。
 
92歳という年齢を考えるなら、母ほど、この年齢になるまで、健康だった
人は少ないのでは……?

持病といえば、右の耳が、ほとんど聞こえなかったこと。
「耳鳴りがひどい」と言っていたこと。
歯が弱かったこと。
しかしこの程度の病気なら、だれにでもある。
今の私も、似たようなもの。

そんなことを考えながら、母の背でゆらゆらと揺れていた私を思い出す。
私は寝たフリがうまくて、母の背ではいつも寝たフリをしていた。

●私と母

が、そのあたりから、私と母の思いでは、プツンと切れる。
私の記憶に残っている母というのは、第三者から見たような姿である。
勝手場(台所)で料理をしている母、店先で客と応対している母、
だれかと話している母、などなど。
いくら記憶の中をさぐっても、一対一で、静かに話しあっている光景が
思い浮かんでこない。

私が小学生になるころには、すでに、母は、私を理解できなくなっていたのかも
しれない。
私も、母とは会話をしなくなった。
母は権威主義的なものの考え方をする人だった。
反抗どころか、反対したり、母の意にそわないようなことを言っただけで、
こう言って怒鳴られた。
「親に向かって、何て言う!」と。

そういう点では、親意識、つまり悪玉親意識が人一倍、強かった。
私が会話をしなかったのではなく、会話にならなかった。

……と、こんな夜に、母の悪口を書くのはいやだ。

何か、ないか?
母との思い出で、何か、楽しかったことはないか?

今、酸素マスクをつけた母の横顔を見ながら、そんなことを考える。
懸命に考える。

が、どうしても思い浮かんでこない。
ただ先ほども書いたように、たとえば町内会で、キャンプをしたような
ときは楽しかった。
しかしそういうときでも、母は、第三者でしかない。
飯ごうで米を炊いている母、だれかと立ち話している母。
いつも近くにはいたが、私の心の中にまでは入ってこなかった。

どうしてだろう。
私と母の関係は、すでにそのころ切れていたのだろうか。
それとも母と子というのは、そういう関係なのだろうか。

●母の涙

時刻は、午後10時半を回っていた。
ふと物音に気づいてうしろを見ると、そこにワイフが立っていた。
「ああ、来なくてもよかったのに」と私。
ワイフは、黙ったままだった。
と、そのときワイフが、こうつぶやいた。

「お母さん、目をあいている」と。

窓側に顔を向けていたので私は気がつかなかった。
母は、左目を半開きにし、ゆっくりとまぶたの中で、目を動かしていた。

「母ちゃん、目が見えるか?」
「ぼくだぞ、浩司や」
「ほら、浩司や、水がほしいのか?」と。

たてつづけに何度も呼びかけ、枕もとにあったCDプレーヤーにスイッチを
入れた。
郡上踊りをかけた。

その間も何度も、話しかけた。
母の右目に涙がたまった。
つづいて、酸素マスクの中で、口を動かし、オーオーと泣いた。
左目からは涙が、数筋、流れ落ちた。

「つらいのか?」
「さみしいのか?」
「水だよ」と。

私はスポンジに水を湿らせ、それを口の中に入れた。

「もっと大きく、口をあけや」と。

それに応えて母は、口をもぐもぐと動かした。
私は何度も、スポンジで口を湿らせた。

「見えるのか? ぼくが見えるのか?」
「ぼくだよ、母ちゃん、ぼくだよ、浩司だよ」
「もうすぐK村へ帰れるよ。元気を出せよ」と。

しかし母の力は、つづかなかった。
やがて静かに目を閉じ、口も軽く閉じた。
私は、子どものように、涙を流した。
あふれる涙を、どうしようもなかった。

酸素マスクをつけなおす。
母の静かなあえぎが、そのマスクを曇らす。
再び、静かな夜になった。

●帰宅

私は歩いて家に帰るつもりだった。
が、ワイフが、センターの門のところに立っていた。
「ひとりで帰るからいい」と、2度、3度、ワイフの手を払いのけた。

「寒いから……」と、ワイフは言った。
「寒くない」と私は答えた。
が、遠くから人影が歩いてくるのが見えた。

私は、車に乗った。
しかし家には帰りたくなかった。
本当は、そのままいつまでも、そしてどこまでも歩きつづけたかった。


母は、なぜ泣いたのか……。
あの涙は何だったのか……。
帰るとき、そればかりを、車の中でずっと考えていた。
(10月11日、夜記)


**********************************

母、豊子、2008年10月13日、月曜日、午後5時55分、死去。
静かな、本当に静かな最期だった。
「無呼吸状態が長いな」と思っている最中に、そのまま
亡くなってしまった。
享年、満92歳。

**********************************

Hiroshi Hayashi++++++++Oct 08++++++++++はやし浩司

●北朝鮮は、核兵器保有国(C・ヒルの裏切り)

+++++++++++++++++

C・ヒルは、最後の最後まで、日本を
裏切った。
結局は、北朝鮮を核兵器保有国として認め、
拉致問題については、正式に話しあった
形跡はまったくなし。

むしろ逆に、今の今も、拉致問題を棚上げにし、
北朝鮮の援助に加わるよう、日本に脅しをかけて
いる。

アメリカの国益、つまり核拡散の防止だけを
ねらって、北朝鮮と妥協してしまった。
その上、すべて、事後報告のみ。

日本にとっては、最悪の結末となった。
この先、何が、6か国協議か?

++++++++++++++++++

産経新聞に掲載された記事を、そのまま
紹介させてもらう。

これを読めば、C・ヒルが、何をしてきたか、また
何をどうしようとしてきたかが、よくわかる。

題して、『北朝鮮テロ指定解除 元米国政府・北朝鮮問題担当2氏見解』
(10月13日、産経新聞HPニュースより)

この中で、2人の専門家が、「合意は不適切だった」と指摘している。
とくにデービッド・アッシャー氏は、こう述べている。

「その北朝鮮の指定を解除することは、」日本にとって二重の危険を生むだろう。第1は米
朝間の効果のない「核検証枠組み」により、北朝鮮が日本に照準を合わせて核弾頭装着の
ミサイルの配備を着実に進めることであり、第2は北朝鮮が日本人拉致問題の解決に努め
る動機を失うことだ」と。

これこそまさに北朝鮮のねらいであり、C・ヒルは、まんまとその
策にはまってしまった。

************以下、産経新聞より**************

【ワシントン=古森義久】米国のブッシュ政権が北朝鮮のテロ支援国家指定を解除したこ

に対し、米国政府でかつて北朝鮮問題を担当してきた専門家2人が11日、産経新聞との
インタビューで、いずれもこの解除措置やその根拠とされる米朝間の検証をめぐる合意が
不適切だとして反対する見解を明らかにした。

                 Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 ●「核兵器保有認知に等しい」デービッド・アッシャー氏

 今回のテロ支援国家指定解除は、米側が北朝鮮の申告する核施設を検証できるとする合
意を根拠としているが、まずこの合意がご都合主義であり効果がない。

 北朝鮮の核兵器開発に対し米国や日本が求めるのは、核物質の兵器化や核弾頭ミサイル
の配備、核兵器や関連技術の拡散の阻止のはずだが、今回の合意はそのいずれも阻止でき
ず、北朝鮮を事実上の核兵器保有国として認知してしまうことに等しい。兵器化や核ミサ
イル配備に対する予防や阻止の措置も「検証の枠組み」に含まれていないのだ。

 北朝鮮は現在も間違いなく主要な「テロ支援国家」だといえる。シリアへの核兵器開発
の技術や施設の拡散だけでなく、イランの「イスラム革命防衛隊」への軍事支援一つをと
ってもテロ支援国家に相当する。

 その北朝鮮の指定を解除することは日本にとって二重の危険を生むだろう。第1は米朝
間の効果のない「核検証枠組み」により、北朝鮮が日本に照準を合わせて核弾頭装着のミ
サイルの配備を着実に進めることであり、第2は北朝鮮が日本人拉致問題の解決に努める
動機を失うことだ。

 北朝鮮への対処には確かに(関係国による)関与が必要だが、封じ込めや抑止も欠かせ
ない。今回のブッシュ政権の動きは関与だけを先行させ、しかもその内容が空疎となって
いる。

【プロフィル】デービッド・アッシャー

 2001年から第1次ブッシュ政権で国務省東アジア太平洋局顧問として北朝鮮の核問
題などを担当

                 Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●「日本の拉致解決努力に傷」チャック・ダウンズ氏

 テロ支援国家指定解除はきわめて無謀な措置であり、その根拠とされた検証関連の枠組
みも含めて論理にあまりに反している。

 国務省主導の最近のブッシュ政権はとにかく外交面、とくに北朝鮮核問題に関して何か
を成し遂げたという「成果」を誇りたいあまり、譲歩や妥協を重ね、北朝鮮にいかに最小
限でも、何かを受け入れさせることに腐心してきた。

 今回の合意でもブッシュ政権は北朝鮮の核兵器開発計画の全体像を無視している。

 どこにどのような核物質があり、核ミサイルが配備されているのか、という諸点を把握
しているとは思えない。それなのに北朝鮮に最大限の報奨を与えてしまった。

 北朝鮮はいまも韓国にスパイや刺客を送りこみ、脱北者の暗殺をはからせている。これ
だけでもテロ支援国家の要件は十二分だ。しかも金正日総書記の消息も明確ではない。

 こんな時期に米国政府が貴重な同盟国・日本の拉致事件の解決努力を痛めつける形で、
「北朝鮮はテロ国家ではない」という手続きをとることはあまりに不適切だといえる。

 今回の検証枠組みは、基本的には米側が北朝鮮の言辞に依存することが前提となってい
る。北朝鮮の言葉がいかに現実の行動とはかけ離れているか、これまでの実際の行動や考
察により、あまりに明白だろう。
              
【プロフィル】チャック・ダウンズ

 先代のブッシュ政権や現ブッシュ政権の国防総省、国務省で北朝鮮核開発を含む朝鮮半
島問題を担当

************以上、産経新聞より**************

***************以上、2850作*****************

2008年10月14日、終了




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児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐

阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.

writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ

 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 

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